十五手目「囲碁を打つ理由」

 亘が傘を右手に持ちながら、左肩にバッグを下げ、日本棋院から出て来る。

 外は真っ暗になっているが、雨は止んでいた。

 下を向き、足取りも重く、年寄りよりも老衰し切った足取りである。

(最悪だ……)

「ワタル君!」

 亘は止まって、棋院の方へ振り返る。

 香織が亘の横に歩み寄る。今日は雨が降って寒かったので、青いジーンズを履き、灰色のパーカーを着た姿である。

「どうだった?」

「ボコボコにされた」

「だろうね」

「分かる?」

「見るからに疲れてるもん」

「ごめん、せっかくお弁当作ってもらったのに」

「しょうがないよ」

「でも救われた」

「なんで」

「香織ちゃんの顔が見られて」

 寂しそうに笑う亘、彼を気遣って微笑む香織。

 亘と香織はゆっくりと市ヶ谷駅へ歩く。

「香織ちゃんに惚れて囲碁を始めたナンパ野郎が、命を賭けて碁を打ってきた院生に勝てるわけがないって言われた」

「みのるか」

「命を賭ける……ねぇ」

「賭けちゃいけないでしょ」

「はい?」

「格闘技の選手でもないのに、“命を賭ける”なんて言葉を使うなって話よ」

「香織ちゃんは囲碁に命を賭けてないの?」

「ううぅん、そういう心掛けは大事かもしれないけど」

「けど?」

「もし碁を打って本当に死傷者が出たら、日本棋院は業務上過失致死傷罪で警視庁と東京地検特捜部にガサ入れされてる」

 亘は笑う。

「その通りだ」

「囲碁に命を賭けちゃいけないよ」

「なんかスッキリした」

「命賭けたことが無い奴に限って、命賭けてるって言うの。気にしなくていいから」

「そうだね」

 言葉が中々出てこない亘。

(なんて言えばいいんだろう……)

「香織ちゃんは?」

「何が」

「今日勝った?」

「負けた」

「ごめん」

「なんでワタル君が謝るの?」

「僕がお弁当なんか作らせちゃったからさ」

「私が自分で作りたくて作ったんだから、ワタル君は気にしなくて良いよ」

「ありがとう」

 亘は目を瞑る。

「勝ちたかった……」

「だろうね」

「どうしたら、みのる君に勝てるんだろう?」

 亘は目を開ける。

「みのる君、香織ちゃんのことバカにしてきてさ」

「どんな風に?」

「プロになって2年も経っているのに、未だに初段なんて本物の棋士じゃないって」

「あいつなら言うだろうね」

「女流棋士に対する恨みが凄いね。女流枠で受かった棋士なんて偽物だとか言って」

「あいつのお母さんも女流棋士だから」

「そうだったんだ。離婚したって言ってたけど」

「何があったかは知らないけどね」

「お父さんは立派な棋士だ! って怒鳴られた」

「確かに、あいつがちょっとおかしくなったのは親の離婚もあるのかな」

「俺達って幸せなんだな」

「なんで?」

「親が離婚しないってだけで」

「家庭って子供の最後の居場所だから」

「みのる君はどうして囲碁を打っているんだろう?」

 香織も下を向いて考えるが、何も出てこない。

「みのる君は碁盤をつぶし合いの場所だって言ってた。なんでそう思う場所に留まるんだろう」

「其処しか無いからじゃない?」

「自分の場所が?」

「囲碁って、自分の居場所を探すゲームだから」

「そっか」

「それよりもワタル君だよ」

「え?」

「どうしてワタル君は碁を打っているの?」

「僕は、香織ちゃんと付き合いたくて」

「もう付き合っているじゃん」

 思わず黙ってしまう亘。

「ただのお友達が対局に向けてお弁当なんて作ると思う?」

「香織ちゃん」

「私も、今ならワタル君を彼氏だって紹介するよ?」

「俺が囲碁を打つ理由か」

 市ヶ谷駅に辿り着くと、亘と香織は足を止めた。

「ワタル君の中に、きっと答えがある」

「俺の中に」

「それさえ分かれば、みのるにも必ず勝てるよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る