六手目「盤面の名称」

 学校中にチャイムが鳴り響く。

 教壇に立っていた講師の下に学生の何人かが質問しにやってくる光景も見受けられるが、ほとんどの学生達は足早に教室を出て行く。着席したまま仲の良い友達同士で楽しくお喋りしたり、中にはスマートフォンや携帯ゲーム機を通じて遊び始めたりする学生達も見受けられた。

 二人ともノートとテキストを机に広げたまま、亘は背伸びして凝り固まった身体をほぐし、香織は自分のスマートフォンでLINEのチェックをする。

「ちょっと長かったなぁ」

「そう? 私は面白かったよ」

「例えば?」

「比較優位の話とか」

「リカードか」

「なんか囲碁でも似たようなことがあった気がしたなぁってしみじみ思って」

「対局者って貿易しているわけじゃないでしょ?」

「そうなんだけど、棋士って相手や対局によって、広く空いている場所に打ったり、地に辛く打ったりするんだけど、何となくお互いに得意分野を分担しているようにも感じる気がするなぁって思って」

 亘は香織の話を聞きながら、ノートにメモしたデヴィッド・リカードの比較優位の文言を読む。

 ノートには他にも「A国」「B国」「労働者」「生産量」「食料」「工業製品」と分けて、簡単な図表が書かれている。


A国とB国が得意分野に専念してそれ以外は相手国から輸入した方が、全ての分野を均一に生産していた時より総生産量が増加し、両国にとって利益がある。

  「食料」            「工業製品」

A国:労働者100人:生産量1000/労働者100人:生産量600

B国:労働者100人:生産量1000/労働者100人:生産量200

          総生産量2000/       総生産量800

                  ↓

              得意分野に専念(最適化)

                  ↓

  「食料」            「工業製品」

A国:労働者 20人:生産量 200/労働者180人:生産量1080

B国:労働者200人:生産量2000/労働者  0人:生産量   0

          総生産量2200/       総生産量1080


 亘は「工業製品」の箇所を、「何でも良いです。例えば自動車でも、パソコンでもスマホでも良い」と講師が語っていたのを思い出す。

「ちょっと待って」

 亘は比較優位説を強引に囲碁に当てはめて、ノートに書いてみる。

 香織も亘が書いているノートを覗き込む。


  「左」              「右」

黒番:石の数100子:陣地数100目/石の数100子:陣地数60

白番:石の数100子:陣地数100目/石の数100子:陣地数20

          総陣地数200目        総陣地数80

                  ↓

              得意分野に専念(最適化)

                  ↓

  「左」              「右」

黒番:石の数 20子:陣地数 20目/石の数180子:陣地数108

白番:石の数200子:陣地数200目/石の数  0子:陣地数  0

          総陣地数220目        総陣地数108目                  


 亘は目を見開く。

「本当だ、囲碁も対局者が得意分野に専念した方が地が大きくなるんじゃない?」

 亘が言うと、香織は両手で口元を抑えて笑ってしまう。

「ワタル君、そんなわけないよ!」

「どうして?」

「碁盤は19×19で361目の交点しか無いんだから、いくら黒番と白番が最適化しても陣地の合計が361目を超えることは無いから」

「でも待ってよ。220目+108目は328目だから、361目は超えてないよ」

「じゃあ、その328目を囲う石は盤上の何処にあるの?」

「あっ」

 亘が口を噤むと、香織はやれやれと言った感じで微笑む。

「まぁ、中国式なら石の数も含めて計算するから有り得るかも」

「そっか……リカード理論は囲碁には当てはまらないか」

「まぁ、発想としては面白かったよ」

「いや、リカードの理論自体が僕は間違っているんじゃないかなぁって思うんだ」

「どうして?」

「リカードはA国とB国って2国2財で話を進めているけど、僕はこの比較優位って国単位じゃなくて人単位の理論のような気がするんだ」

「人?」

「例えば、香織ちゃんのような囲碁棋士がお米や野菜を自給自足していたら、囲碁を勉強する時間なんて取れなくて強くなれないでしょ? だから一人の人間が何でもやらされるより、食料を生産する人、工業製品を作る人、流通に携わる人、香織ちゃんみたいに囲碁に携わる棋士の人……って云う具合に、人それぞれが自分の職業に専念した方が総生産量が増すんだよって考えた方が、実はリカード理論って当てはまっているような気するんだ」

「なんかそう考えると、比較優位って経済学と云うより、ただの一般論のような気がしてきた」

「囲碁だったら碁石の役割は皆一緒じゃない? でも人間は「うちの国は食料を生産するより工業製品を作る方が生産性が高いから、お前ら全員工場で働け」と言っても農家の人だったら「いや、俺は先祖代々受け継いだ土地でイチゴを作るんだべ」って反論して、国の方針に従うことなんて無いと思うんだよ」

 香織は亘の農家の喋り方に笑う。

「国同士ってなったら、リカードの言う通りにはならないんじゃないかなぁ。例えば今は中国に食料でも電化製品でも何でも作らせた方が安いから皆そうしているけど、日本の安全保障どうなるんだろうって不安になる人の気持ちも凄く分かるよ」

「なるほどねぇ……」

 香織は今日の講義でメモした自分のノートを見つめる。

「なんか経済学って不思議な言葉多いよね。“見えざる手”とか」

「香織ちゃんは“神の見えざる手”ってあると思う?」

 香織はスマホを持つ右手を机に置いて、少しだけ上を向く。

「どうかな。アダム・スミスは“神”って言葉は使っていないって、先生言ってたし」

「囲碁には“神の一手”があるじゃん」

「あんなもん打たない方が良いんだよ」

「そうなの?」

「本当は技なんかあんまり使わないで、地道に地を稼いで、逆転は無理だと思わせて中押しで勝つって方が手堅いんだから」

「でも面白くなくない?」

「勝ち方じゃなくて勝つことに拘らなくちゃ。“神の一手”なんてカッコいい手を打たなきゃいけないってことは、それだけ追い詰められているってことだから」

「そうならないようにしなきゃいけないってわけか」

「うん。まぁ、口では簡単にそう言えるんだけど、実際には中々ね……」

(あっ、香織ちゃん、やっぱり中々勝てなくて、気持ちがすさんでいるんだ……)

 亘は自分の書いたノートを見下ろして“見えざる手”と書かれたワードを探し、見つけると音読する。

「生産物が最大の価値を持つように産業を運営するのは自分自身の利得のためなのである。そうすることによって彼は他の多くの場合と同じく、見えざる手に導かれ、自分では意図しなかった一目的を促進することになる」

「囲碁でも同じことがよくあるよ」

「そうなの?」

 見つめ合う亘と香織。

「自分で良いと思った手が悪手になったり、失敗だったかなぁと思った着手が意外と良かったり」

(香織ちゃん、可愛いなぁ)

 それを聴いた亘は、自分のノートに書かれた文言を見ながら、

「石が最大の価値を持つように囲碁を運営するのは対局者の利益のためなのである。そうすることによって彼は他の多くの場合と同じく、見えざる手に導かれ、自分では意図しなかった一目的を促進することになる」

 香織は微笑む。

「上手いね、ワタル君」

「囲碁と経済って似ているね」

「確かに」

「リカードやアダム・スミスも囲碁をやっていたのかな?」

「まさか。イギリスだったらチェッカーじゃない?」

「チェッカー?」

「西洋の囲碁」

「ヨーロッパにも囲碁があるんだ?」

「うん、でも日本とはだいぶルールが違うけど」

「香織ちゃん、囲碁のことなら何でも知ってるんだね」

「そんなことないけど」

「ヨーロッパには普及しないの?」

「いや、イギリスにもヨーロッパにも囲碁協会はあるよ」

「そうなんだ、凄いなぁ」

「うん、囲碁って言葉なんだよね」

 無垢な笑顔を見せて、楽しそうに優しく語る香織。

「私が尊敬する棋士の先生が「囲碁の“”は言語の“”でもある」と言ってたんだ」

「つまり、囲語いご?」

「そう。言葉が通じない外国人なのに、碁を打つと相手の性格が分かったような気がして凄く親近感が湧いたり、物凄く年が離れた人でも友達みたいに思えたりするの。囲碁はどんな人とでも話が通じ合える、魔法の言葉なんだって」

 亘は香織の話すのを愛おしく見つめながら、何処か香織に神聖さを感じる。


(素敵だなぁ、香織ちゃん)

 香織の口は絶えず動き続けているのに、何故か時間が止まったように思える亘。

(香織ちゃんの貴重な人生の時間を、僕は一緒に過ごせているんだ……)


「だから、ワタル君にも囲碁の言葉をちゃんと覚えて欲しいなぁと思って」

「囲碁の言葉? 昨日の“アタリ”とか“コウ”みたいな奴?」

「そう。碁盤を出してくれる?」

「分かった」

 亘と香織は机からノートやテキストを片付けて、自分のバッグにしまう。

 亘は香織からプレゼントされたポータブル囲碁盤の箱から本体を取り出していく。亘が意図せずに箱の中から、碁盤本体だけでなく小さな碁石がいっぱい詰まった白と黒の二つのビニール包装や折りたたまれた取扱説明書の紙が出てくる。

 亘と香織はそれらを整理しながら、机の上にポータブル19路盤を広げた。

「碁盤の上にもそれぞれ呼び方があるんだ」

「例えば?」


囲碁の言葉❶:「中央」

 香織は右手で碁盤の中央を指差す。

「まず、真ん中ら辺は普通に“中央”ね」

「中央」


囲碁の言葉❷:「天元」

 香織は右手の人差し指で黒い点が印字された碁盤の中心を示す。

「中央の中でも本当に真ん中の真ん中は“天元”って言うから」

「天元?」

「中国語で万物成育の根本って意味だよ」

「万物生育の根本?」

「そう」

「そんなこと、よく覚えているね、香織ちゃん」

「だって習うから」

「院生になってから?」

「師匠に教えてもらった」

「仁村先生?」

「違うよ」

「えっ、仁村先生って香織ちゃんの師匠じゃないの?」

「仁村先生のサロンって渋谷に在るじゃない? 家からも大学からも行き易いから、仁村先生の弟子じゃないんだけど、お願いして働かせてもらっているんだ」

「そうだったんだ」

「話、続けて良い?」

「うん」


囲碁の言葉❸:「星」

 香織が人差し指を碁盤全体で一周させながら、

「天元以外にも、黒い点が書かれているでしょ?」

 亘が碁盤全体を見て、黒い点が3点3列ずつ書かれているのを確認する。

「そうだね。九つあるね」

「この黒い点を星って言うの」

「星か」

「よく使うから、覚えてね」

「うん」


囲碁の言葉❹:「隅」

 香織は碁盤の四隅の上を、人差し指の先で丸を描いて指し示す。

「碁盤のそれぞれの端っこを“隅”」

「すみ」

「ワタル君から見た場合」

 香織はポータブル碁盤を亘の正面で真っ直ぐ平行に見えるように位置を整えると、碁盤の右上から時計回りに、人差し指の先で丸を描いていく。

右上隅みぎうわすみ右下隅みぎしたすみ左下隅ひだりしたすみ左上隅ひだりうわすみって呼んでいくの」

「なるほど」

 香織が隅の黒い星達に人差し指を置ていく。

「例えば右上なら、右上隅星みぎうわすみほし、左上なら、左上隅星ひだりうわすみほし、左下隅星、右下隅星って呼んでいくの」

「組み合わせて、言葉を創っていくんだね」


囲碁の言葉❺:「辺」

 香織は「中央」とした真ん中と、碁盤の「四隅」以外の、上下左右を指し示す。

「そして、中央と隅以外の上下左右を“辺”って言います」

 亘が、上、下、左、右の順に右手の人差し指を伸ばして確認する。

「上辺、下辺、左辺、右辺ね」

「まぁ、隅と辺の境界線とか、辺と中央はここまでとか、明確に決められているわけじゃないから、大体で良いよ」


「なんか算数の図形の授業を思い出すな」

 亘がしみじみぼやくと、そうそうと頷く香織。

「あっ、そういう考え方あるよ」

「やっぱり?」

 目を輝かせながら、碁盤の上で指を動かす香織。

「囲碁ってまだ確定していない地を何目か計算しながらやるんだけど、盤上で図形の面積を求めるみたいに、此処は何十目かな、この辺は何目かなって計算出来るようになると、地の計算が速くなるんだ」

「やっぱり算数得意だった?」

「三角関数とか確率と統計とかは得意だったよ」

「凄いなぁ」

「だって囲碁で使うもん」

「そうなの?」

「最近だとAIの開発が進んでいて、囲碁でもAIの勝率予測を中継映像に載せようじゃないかって議論が進んでる。例えば黒の勝率が70%で、白の勝率が30%ですみたいに表示して、一般の人にも分かり易く伝えようじゃないかって。あれだって、確率だしね」

「囲碁の世界にもAIが入ってきているの?」

「そうだよ。去年、Googleが開発したAlphaGoが世界最強の世乭セドル九段に勝って、AIが人間を超えたって話題になったんだ」

「ああ、もう囲碁でも機械の方が強くなったんだ」

「そう。世乭セドル九段、凄いショック受けて、引退するんじゃないかって言われている」

「そんなに?」

「うん、私もガッカリしちゃったもん。もう機械の方が人間が考えるよりも強いって現実を見せられちゃうと、人間が囲碁を打つ意味って一体何処にあるんだろうって」

(そういう出来事もあって、香織ちゃんは囲碁棋士を辞めて女子アナになろうかな? なんて考えたのか)

「あるよ!」

 亘は香織の言葉の後、一秒の間も置かずに言った。

「え?」

 香織が亘を見る。

 亘の笑顔がとても純粋無垢で幼児のように輝いて見える香織。

「人間だから囲碁を打つ意味があるんじゃん」

「ワタル君」

「おかしいと思わない? AIなんて多額の開発費を掛けて世界中の天才を集めて、最新鋭の科学技術をふんだんに使って造ったのに、実際やらされるのは、パソコンやスマホも使えないおじいちゃんやおばあちゃんでも出来る、囲碁なんだよ?」

 亘の皮肉に小さく笑いを吹き出す香織。

「香織ちゃん、AIが自分から囲碁を打ちたいなんてプログラマーに言ったの?」

 笑みが零れる香織。

「AIはプログラムされたことをやらされているだけ。でも香織ちゃんは自分から、囲碁を打ちたい、って思ったんでしょ?」

「うん」

「尊敬する棋士の先生だって言ってたじゃない「囲碁の“”は言語の“”だ」って」

「そうだね」

「人と交われるから、人は囲碁を打つんだよ」

 亘は首をくいっと上向きに振って、香織が握っていたスマートフォンを指し示す。

「機械なんて使う奴のために作られているんだから、仲良く振る舞うに決まってる。僕達は別にこうやって友達になるためにお互いに生まれてきたわけじゃない。なのにいつの間にかこうして友達になっている。だから価値があるんじゃん、友情だって、愛情だって、人と人との絆だってさ」

 香織が自分に見惚れているのが分かる亘。

こちらが口説き落とそうって思っていない時ほど、女の子が男の話を聞いてときめいているように見えるのは一体何故だろう?)

「せっかく好きで始めてプロになったんだからさぁ、香織ちゃんには囲碁棋士としてずっと頑張って欲しいなぁ」

「ワタル君……」


「君達!」

 野太い男性の声がして、亘と香織は振り向く。

 ツナギ姿の男性が清掃道具を抱えながら、出入口の前に立つ。

「青春しているところ悪いが、清掃に入るんだ」

 亘と香織は、教室には自分達以外生徒が一人も居なくなっていることに気付くと、慌ててポータブル碁盤を片付けたり、鞄を持って立ち上がったりした。

「あっ、すみません!」

「ワタル君、行こう!」

 二人はせっせと自分達の荷物を抱えて、席から歩き出す。

「香織ちゃん、何処へ行こうか?」

「じゃあ食堂」

「分かった」

 焦りながらも、笑顔を見せる二人。

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