五手目「19歳の岐路」
「なぜ負けたと思う?」
みのるは勝ち誇りながら訊くが、亘は黙って下を向いたまま。
捨てるように鼻息を吹くみのる。
「まぁ、分かるはずもないか」
香織が横からみのるに抗議する。
「みのる、なんてことするの!」
みのるは首を廻して、ギョロリと香織の顔を見つめる。
香織は怒っているが、少し泣きそうにもなっている。
「何が?」
「ワタル君は今日初めて囲碁を覚えたばかりなのよ!」
「迷惑なナンパ野郎をやっつけたんだから、むしろ感謝して欲しいけど?」
「そんなこと頼んでないでしょ! こんな弱い者いじめみたいな酷い碁を打って!」
「俺はちゃんとルールを守った上で戦った」
「院生の中でなかなか勝てないからって、初めての子に八つ当たりしないでよ!」
「八つ当たりじゃない。ちゃんと合意して対局した」
「初めてでこんな負け方しちゃ囲碁を嫌いになっちゃうじゃない!」
「別にいいだろう」
「はぁ?」
「強くなる可能性の無い奴が、囲碁に興味を持って何の意味がある?」
「強くなることだけが囲碁の道だとでも思っているの?」
「上には上が居ると云う現実を先に知っておいてもらった方が良い」
みのるは改めて白石だけになった六路盤を見ると、屈辱に震える亘も嘲笑う。
「しかし、弱いな、君も」
亘は拳を強く握る。
「六路盤は黒番絶対有利。その程度の力で俺に勝とうなんて」
(ああああ!もう、こいつ嫌い!)
亘は机を両手で叩くと立ち上がって、目の前のみのるを睨むと、大声で怒鳴り散らした。
「うるせぇな! 誰だって最初は弱いだろ!」
みのるの向こうで、仁村や高齢の生徒達が驚いてこちらに振り向いたのが見えた。
香織が隣で顔色を蒼褪めさせて見つめているのが亘にも分かった。
でも亘は無視して、自らの激情に従う。
「お前だって、最初から強かったわけじゃないはずだ!」
しかし、みのるはこの程度で怯まない。
「何?」
「そりゃ、今の今ルールを教えてもらったばかりなんだから弱いに決まっているよ。だけど今はまだ弱いけど、一生懸命頑張れば強くなれるだろうし、プロ棋士にだってなれるかもしれないじゃないか!」
すると、着ている白い服がピンクに見えるほど顔を真っ赤にさせて、みのるの方も物凄い剣幕で声を張り上げる。
「プロ!? プロだと! プロをナメるなああ!!!」
亘の方は、今度は実の剣幕に怯んでしまう。
「院生にもならずに、ダラダラ遊んできた温室育ちが、偉そうな口叩くな!」
みのるは顔を怒りで歪ませながら、足早にサロンを出て行った。
(なんだ、あいつ……)
侮辱した表情でみのるの背中を見つめる亘。
しかし、自分のすぐ近くで下を向いて、悲しい表情になった香織に気付くと、亘はガックリとして気まずくて目を瞑った。
「ごめん、香織ちゃん……」
「……」
香織は亘を無視した。
(あぁあ、今日のデートの全てが台無しだ。あんなバカげた奴のために……)
すると、仁村が立ち上がって、生徒の高齢者達に頭を下げる。
「お見苦しい所を見せてしまい、本当にすみませんでした!」
生徒達は手や首を振って、「別に気にしていませんよ」と言っているような仕草を見せる。
仁村は鬼の形相で亘と香織の前へ足早に歩み寄った。
亘は申し訳なさそうに首を左右に震わせる。
(怒るんだろうなぁ……)
「恋路君」
亘の耳には仁村の声色は意外と優しく聞こえた。
「仁村先生」
「息子の無作法は謝るよ。本当にすまん」
仁村の鋭い目つきを見て納得する。
(だから見覚えがあったのか)
「彼、先生の息子さんだったんですね」
「
「19歳になっても、まだ?」
「院生の年齢制限は延長が認められても19歳の年までだ。みのるは今年最後だから内心穏やかじゃないんだろう」
「そうだったんですか」
「恋路君、今日は終わりにしよう。だけど、他のお客様に迷惑をかけたことは謝ってもらえないか」
「そうですね……」
亘は仁村と香織の傍から歩き出すと、仁村から生徒として指導を受けていた高齢のお客さん達に、亘は大きく頭を下げる。
「お騒がせしてしまって、本当にすみませんでした」
高齢の生徒達は亘を微笑ましく見つめた。
「別にいいよ」
「若いんだから、あれくらい熱くならなきゃ」
「いいえ」
「君も頑張って、みのる君に囲碁で勝てるくらい強くなりなさいよ」
「ありがとうございます」
亘は再び頭を下げた。
亘は仁村の下へ戻って来る。
仁村は腕組みしながら、首を二回縦に振る。
「よく謝ってくれた」
「当然ですよ、あれくらい」
「あと、もう一つ」
「はい」
「対局を始める時は「行くぞ!」じゃなくて「お願いします」だから」
「あっ、はい……」
「稲穂初段が言ってただろ。囲碁は礼に始まって、礼に終わるって」
「そうですね」
「相手が無礼なのはしょうがない。けど自分まで無礼に合わせちゃいけないよ」
「分かりました」
「じゃあ今日のレッスンは終わりです。ありがとうございました」
仁村は腕組みしていた両腕を下腹部まで下げると、そのまま頭を下げた。
亘も仁村に頭を下げる。
「ありがとうございました」
亘は頭を上げると、サロンの外へ逃げるように出て行った。
仁村が下を向いた香織に振り向く。
「稲穂」
「はい」
「彼を送ってやりなさい」
「先生」
「君が連れてきた客だ」
「……はい」
後悔の念が渦巻かせて、亘は頬を歪に引き攣らせながら、ビルを出て行く。
ビルの外はすっかり日が暮れて、暗くなっていた。
「最悪」
「ワタル君」
亘はビルの方へ振り返る。
香織がパンプスの底で床を叩きながら足早に追い掛けて来た。
「香織ちゃん」
香織の悲しそうな顔を見ると、亘も申し訳なく思えてつらくなる。
「あんな思いさせちゃって、ごめんね」
「うぅぅん、俺も悪かったよ。ごめんなさい」
(本当だよ……)
(せっかくのデートが……)
(何、話したら良いんだろ?)
(香織ちゃんに何を話せば……)
沈黙が流れる二人。
(ああ……こりゃ、もう香織ちゃんとは何も発展しないな)
「香織ちゃん、今日は一日中ありがとう。凄く楽しかったよ」
「こちらこそ」
「だけど、19歳でまだプロになれないって言われる世界なんだね」
「うん」
「そりゃ、みのる君も怒るか」
「みのるの気持ちも分かるけどね。私も女流枠で合格したのは高校生の時で、プロになれたのは遅かったから」
「高校生で“遅い”のか」
「プロになったのは良いけど、プロのレベルって凄く高いから、賞金だけで食べていけるのはほんの一握りだし」
「やっぱり、プロの世界も厳しいんだ」
「高校生の時、ビックリしたもん。こんなに頑張ってプロ棋士になれたのに、一年でこれだけしか貰えないのかって」
「そうなんだ」
「女流タイトルを取るのが夢だったけど、今は……女子アナになるのが目標かな」
「女子アナ? 本気で言ってる?」
「そうだよ。私、テレビにも出てるし」
「そうなの?」
「NHK教育の『囲碁アングル』でアシスタントとして出演しているんだから」
「全然知らなかった」
「囲碁の番組なんて視ないか」
「いや、テレビ自体視てない」
嘲るように口から小さく息を吹き出す香織。
「でも女子アナになった方が囲碁棋士よりずっと給料も良いだろうから、目指す価値あるかなぁって思って」
「テレビの仕事に興味あるの?」
「と言うより、実際に出てみたから興味が出たって言うか」
「じゃあニュースの原稿読んだり、バラエティ番組に出たりしたいんだ」
「全然」
「え?」
「ただ、囲碁棋士の女子アナとか居たら売れそうじゃない?」
「売れたいからやりたいの?」
「いけない? 人気になれるかもしれないじゃん」
「香織ちゃん……」
「囲碁だけで食べていけるんなら良いけどさ、実際はそんなに甘くないし」
「そうだね」
「奨学金だって返済しないといけないし」
(学費を親に全額出してもらっている俺は何も言えない)
「お金持ちの男性が結婚してくれるかもしれないし」
「……」
(香織ちゃんの心の闇、こんなに深かったんだ……)
「ワタル君だってお父さんの会社に入れば安定していて、親のコネで出世も出来て、私よりも若くて可愛い女の子と結婚出来るんじゃない?」
絶句する亘。
香織は下を向く。
「ワタル君には分かんないのよ」
(香織ちゃんに何って言ってあげれば良いんだろう?)
「だってあなたは所詮、恋路道商事の御曹司じゃない? お金に困った経験ある?」
ぐうの音も出ない亘。
「今日のデート代だって、レッスン料だって、どうせご両親から貰ったお小遣いでしょ?」
(図星……)
「私だって、囲碁でご飯食べていける自信あるなら、大学なんか行かなかったよ? でも大卒の学歴が無いと就職だって難しいじゃん。だからみのるだって院生時代から受験勉強も頑張って大学に入ったんだし」
「みのる君か……19歳で今年最後って言ってたよね」
「院生としてはね。でも22歳までチャンスあるよ」
「そうなの?」
「うん。日本棋院の冬季採用試験なら22歳まで受けられるから」
「俺も受けてみたいなぁ」
「はぁ?」
「香織ちゃんがなれたプロ棋士に、俺もなってみたい」
「プロ、ナメてんの?」
「香織ちゃんも、みのる君と同じこと言う?」
「だって、プロのレベルって物凄く高いんだから。絶対になれるわけないじゃない! 6路盤も真面に打てないくせに」
「自分は女子アナ目指しているのに、他人には夢を追わせないんだね?」
香織は不貞腐れる。
(こいつ、こういう時に限って女の子を論破して!)
「まぁ、応募するだけ応募してみたら? 7月の書類審査で落ちちゃうよ」
「7月か。ならまだ3ケ月もあるじゃん」
「3ヶ月……も?」
「最初から無理って諦めていたら、俺は香織ちゃんとデート出来なかったし、囲碁も教えてもらえなかったよ」
「ワタル君」
「香織ちゃんからもっと囲碁を教わりたいんだ! ねっ! お願い!」
香織は首を横に振る。
「ワタル君は、人生をナメてんのよ」
香織は亘に素早く背を向けて、ビルの中に戻って行った。
亘は香織の背中を追ったが、彼女がビルの中へ消えると、帰り道を歩き出す。
(これで完璧に終わったな、『囲碁の恋』も……)
亘は一人寂しく、渋谷駅を目指して歩いて行く。
大勢の人々が歩いて行く渋谷。
日が暮れて空は暗くなり、逆にビルに張り付くネオンや車道を走り去って行く車のヘッドライトの光が眩しく感じられる。
スーツを着る若者を見掛けると、実際にはとっくに就職し終わっているかもしれないのに、亘には就職活動中の大学生だと思った。
仕事終わりのサラリーマン。
仲間と一緒に楽しく歩く学生。
奇抜なファッションに身を包む老若男女はもはや職業も分からない。
女装している中年の男性を見掛けると、亘は目を背けた。
東南アジア系の女性が立っているのを見掛けると、売春婦と分かった。
(あの、生意気なみのるにバッタリ会ったりして」
しかし、全身真っ白な服に身を包む銀髪の若い男は見掛けないので安心する。
(香織ちゃん……)
亘は、脳内で香織を想像する。
(もう、二度と喋ってくれないだろうな……)
大して寒くもないのに、全身の毛穴が立って震える亘。
亘は歩きながら、考える。
(俺は今まで香織ちゃんを、お花畑に居る小さな妖精のようにただ純真で、無垢で、可憐で、愛らしい女の子なんだと信じて疑っていなかった。でも、そうじゃなかったんだ。本当は泥臭く努力していて、囲碁に一生懸命打ち込んできたのに、囲碁だけで食べていくのが難しい現実を思い知って、心を擦り減らしていたんだね)
誰にも相手にされない、ギターを奏でるストリートミュージシャンの男の前を通り過ぎていく亘。男は歌っているが、誰も彼に興味を持たず、立ち止まって彼の歌声を聴こうとする者は居なかった。
亘は渋谷駅を目指して歩く。
(香織ちゃんも、あのストリートミュージシャンのような気持ちだったんだろうな。一生懸命、囲碁の魅力を伝えようと頑張ってきたのに、誰からも相手にされなくて。だから男達からチヤホヤされる女子アナになりたいなんて思ったのか。
「ワタル君、囲碁分かるの?」
あの時、香織ちゃんが僕にそう質問したのは、自分と同じように囲碁が興味がある友達が一人でも居ないか、そんな孤独から来る不安を少しでも解消したくて訊いたのかな?)
渋谷駅前のスクランブル交差点前に辿り着く亘。
赤信号なので、亘は足を止めた。
「香織ちゃんも囲碁覚えられるよ」
香織は鼻で笑った。この時の亘は香織が笑ってくれて少し嬉しかった。
ただ、下を向いて何処となく悲しそうにも見えていた。
(俺、囲碁棋士の女の子に「囲碁覚えられるよ」なんて言っちゃってたんだ。知らなかったとはいえ、ダサいなぁ。全然女の子の気持ち分かってないじゃん)
信号が青に変わる。
亘は歩き出し、真っ直ぐ渋谷駅へと進んで行く。
「私、『ヒカルの碁』大好きだよ」
「ワタル君は『ヒカルの碁』だと誰が好きだった?」
「囲碁ってなんで流行らないと思う?」
(囲碁で食べていこうと何とか必死で頑張っていて、どうすれば囲碁が普及するかも真剣に考えてきているのに)
「夜はバイトなんだ」
「キャバクラとか?」
香織は微笑みながらも頬を少し膨らませて不貞腐れる。
「そんな風に見える?」
「ごめん、そんなことないけど」
香織は前のめりになって微笑みながら、獲物を捉えた虎のように亘を見つめる。
「どうする? 私がもしも知らないおじさんとパパ活していたら?」
(キャバクラ嬢とかパパ活とかやってるの? だなんて、トンデモなく下品で失礼なこと訊いちゃうなんてさ……考えてみたら、俺はバカだ。俺なんかに、香織ちゃんに好きになってもらう資格なんて無かったんだ)
亘は渋谷駅構内に入る。
JR線には目もくれず、東京メトロ銀座線を目指して、構内を歩く。
「囲碁が強くないと私、尊敬出来ないの。だから、ごめんなさい」
(そうだよな。女の子は尊敬出来る人を好きになるんだ。考えてみたら男とは随分と対照的だよな。女の子がマジで尊敬出来る人だったら、男の場合、僕なんかじゃ無理って諦めちゃう奴が多そうだけど)
東京メトロ銀座線の改札に辿り着くと、亘はスマートフォンを改札機にかざして、通過する。エスカレーターを下って、2番線のホームに辿り着き、六両編成の電車が止まるホームドアの前まで来ると、丁度列車がやってきて、亘は難なく「浅草行」の列車に乗り込むことが出来た。
多くの人々が渋谷駅で降りたので、電車内は空席が目立ち、亘も椅子に座ることが出来た。
扉が閉まり、列車が発進する。
亘は真ん中の席に座ったが、左右には誰も居ない。
冷たい地下鉄線路内。窓の外は駅に入ると明るくなるが、走っている時は基本的に真っ暗。
電波が届かないのでスマホもいじれない亘は、JR湘南新宿ラインで自分の右側に座った香織のことを考える。
「香織ちゃんは平成27年入段だけど、この藤沢さんは平成26年でもうタイトルを獲得しているんだ」
「女流タイトルだけどね。だから私、すっごく焦ってた」
「焦る?」
亘は香織に振り向く。下を向いて、少し暗い表情の香織。
「だって私と同い年の子がタイトルを獲っているのに、この時の私はプロにもなれてなかったから」
「16歳で焦るなんてすごいね。俺なんて野球ばっかりやってたけど」
「私だって囲碁ばっかりやってたよ」
「だけど俺、プロ野球選手になれるとは思ってなかったからね。なれたら良いけど、ほとんど遊びだったからなぁ」
「遊びかぁ……」
(最初から生きている世界が違ったんだ、僕と香織ちゃんでは……)
亘は溜池山王駅で一旦降りる。ホームを歩いて、階段を降りる途中にエスカレーターがあって、それに乗り込むとあっと言う間に南北線のホームに辿り着く。
4番線のホームドアの前で列車を待っている間も、亘は考え事に勤しむ。
(俺が学生時代遊び呆けている間、香織ちゃんはプロ棋士として頑張ってきたんだよなぁ)
「ワタル君は、人生をナメてんのよ」
(こう言われて、好きな女の子にフラれましたって笑い話にするんだろうな)
電車がやって来て、亘は車両に乗り込む。
人は少し混んでいて、亘はソファに座れなかった。
うじうじ悩んでいるのにも飽きると、自分の持ち物なのにその存在も忘れていた、肩に掛けていた鞄からスマートフォンとイヤホンを取り出し、亘は耳を塞いだ。
左手でスマホを操作し、音楽を掛ける。
何を聴いたら良いのか思いつかないので、ストレージに保存した楽曲をランダムに再生させることにした。
どんなアーティストの歌が始まっても、気に入らず、何度かスマホをタップしていると、何かのBGMが流れてきた。
最初に僅かにノイズが混じり、オルゴールの音かと思ったら、それにしては鼓膜に突き刺さるような喧しさがあって、かなり古臭い電子音で奏でられている。
しかしメロディーはとても優しくて、懐かしさも感じさせる。
何の曲だか分からず、亘はスマホの画面を確認する。
『マサラタウンのテーマ』(ポケットモンスター 赤・緑 サウンドトラック)
(ポケモンか。だけど遊んだことがない昔の奴だ。「赤・緑」って云うと、一番上のお兄ちゃんがやっていた奴だ。確かにゲームのサウンドトラックは良い曲が多いからついつい何でも良いと思ってスマホに保存したっけ。音楽ファイルって意外と容量が少ないから、自分でもやったことない楽曲が何十曲も入っていたりするよな)
一分経つと、楽曲がフェードアウトしていく。ゲームのBGMはゲーム中は何回もループする仕様になっていて、サウンドトラックとしてCDに収録される際は1回か2回ループすると、音がだんだん小さくなって終わっていくことが多い。
亘はスマホを操作して、もう一度『マサラタウンのテーマ』を再生させる。
涙腺が緩む亘。
明るい茶色に染めた長い髪の毛を真っ直ぐ垂らし、大きくて丸い目を持ち、色白の肌、可愛らしい丸い鼻、潤いに満ちた桃色の唇。
何よりも亘の心を一瞬で癒す、あの彼女の無垢な笑顔。
(なんでだろう……。大学の教室で香織ちゃんに一目惚れした時のことを思い出す。あの時も何故かこの曲が流れていたような気がする)
電車が白金台駅に到着すると、亘は下車した。
(もう、僕の中でも香織ちゃんが思い出になりつつあるのかな……)
亘は白金台駅を出ると、10分ほど駅から歩いた。
「都会」のイメージと程遠い、緑豊かで背が低い建物が並ぶ街並みを歩いて行く亘。
やがて、中々に大きな一軒家が何戸か並ぶ住宅街に入ると、亘は「恋路」の表札が掲げられている一軒家の門を開けて中に入った。
一軒家は100坪はありそうな、日本では、特に地価が高い東京では非常に大きな部類に入る豪邸と云えた。
玄関で靴を脱ぐと、亘は振り返って手に持ち、下駄箱の中に入れる。
スリッパを履き、廊下を歩いて、亘は洗面所に入る。
大きな鏡と化粧台を備えた洗面台を前にして、亘は手を洗い、備え付けのタオルで手を拭くと、再び廊下を歩いた。
亘が扉を開けると、20畳以上はありそうなリビングが広がる。
高級な家具やソファが並んでいる。部屋の大部分を占有している灰色のソファは、背の低いガラステーブルをコの字で囲うように置かれている。リビングはオープンキッチン構造で、奥に大きな冷蔵庫が在るのが見える。コの字のソファの向かい側に大型の液晶テレビが置かれているが、スイッチは入れられていない。
コの字の並ぶソファに真ん中に座り、新聞を両手に広げて読んでいる男性が居る。赤いネクタイを締めて、紺のスラックスと同じ色のベストをワイシャツの上に着込んでいる。
(夜は大抵、仕事で着ていたスーツのジャケットを脱いだだけだ)
「ただいま」
「お帰り」
亘の声より少ししゃがれて低くなった声で呟く男性。
新聞を畳むと、亘をそのまま50代から60代にまで老けさせて、鼻の上にフチなしの眼鏡を掛けただけの顔が露わになる。
(自分でも認めざるを得ないほど、恋路
亘は拓郎の右横のソファに座る。
拓郎は微笑して、新聞をテーブルに置く。
亘は拓郎の顔を見ず、テーブルを見つめた。
「デートはどうだった?」
「最悪」
「どうして?」
「変な奴に絡まれちゃってさ」
「彼女に嫌われたか?」
「かもね」
「ああ……しょうがない。まぁ、他にも女の子は居るさ。気楽に恋愛すると良い」
亘がソファに凭れながら、拓郎に振り向く。
「お父さん」
「何だ?」
「なんで俺達って仲が良いの?」
同調するように同じ苦笑いを浮かべて、似た声質で笑い声を漏らす亘と拓郎。
「おかしいか?」
「なんか……女の子が自分のお母さんと恋愛の相談とかするのは分かるんだよ」
「ありがちだもんな」
「俺みたいに、お父さんに恋愛のこととか相談するのって変じゃないかと思って」
「三男坊だからさ」
「そうなの?」
「
「責任が無い、か」
「香織ちゃんって一人っ子?」
「分からないけど」
「一人っ子なら、お婿さんは大歓迎だろう。日本はまだ夫婦別姓じゃないし」
「まだ結婚すると決まったわけじゃ」
「亘、楽しんでおけ」
拓郎が微笑むと、亘にも微笑が伝染する。
「何を?」
「末っ子を、だよ」
「末っ子、三男を楽しむ、か」
「長男はモテないぞ」
「はっはっはっはっはっ……そうなの?」
「そうだよ、巧の奴に嫁さん探すの結構苦労したんだからな」
「会社の政略結婚でしょ?」
「結果的にはな。でも自分で嫁さん見つけられるんなら、別に良かったんだ。それをあいつは仕事しか出来ないから、こっちが色々手を廻して結婚させてもらったんだ」
「そうだったんだ」
「亘、お前の嫁さんまで探すのはごめんだ。何とか恋愛だけはちゃんとしてくれ」
「恋愛だけはって、普通の親なら勉強だけはとか言わない?」
「恋路って苗字なのに、恋愛が苦手って話にならないだろ」
「そうだけど、なんかお小遣いだけたくさん貰っちゃって悪いなぁって思ってさ」
「気にするな」
「今日のデートはどうだった?」
「残り3500円」
「そんなに使ったの?」
「うん、香織ちゃん、囲碁棋士だったんだ」
「囲碁棋士?」
「そう、デートお開きにされそうで粘ったら、囲碁サロンで囲碁を教えているから、レッスン料払えって言われて」
「まんまと営業されたな」
「ごめん、余計な出費だった」
「気にするな」
拓郎もソファに背凭れると、天井を見つめる。
「俺は会社を起こす前は貧乏だったから、恋愛なんて出来なかった」
「前も聞いた」
「金が無いとダメだ。金が無かったら、母さんが俺と結婚してくれたと思うか?」
「どうかな……」
亘も拓郎と同じように天井を見つめる。
「お父さん、幸せ?」
「何が?」
「金で結び付いて」
「お母さんと、か?」
「虚しくない?」
「どうして?」
「なんか売買春みたいでさ」
「じゃあ、男に何が出来るんだよ」
「えっ」
亘は天井から視線を父親の顔に戻す。
将来の自分と喋っている気がした。
「女を楽しませる? そんなこと中卒のお笑い芸人でも出来る。この前、パーティーで結婚相談所を運営している社長さんと会った。話してたよ、女性を楽しませられるノウハウなんて、後から幾らでも訓練して得られるって」
「そうなんだ」
「池袋とか渋谷とかで活躍したナンパ師を雇うんだってさ。社長言ってたもん。年収さえあれば、どんな男でも結婚させられるって」
「凄いなぁ」
「でも金が無い奴は、どんなに訓練しようが無理だって」
「そうなの?」
「使ったこと無いけど、何か女性も収入額で検索出来るから、年収300万円以下の男性は成婚率0%だって」
「ゼロ?」
「そう、0.1%とかじゃない。0って。それが現実だって」
「そっか……」
「俺も言ってしまえば成金だからよく分かる。金が無い時は誰も俺の事なんか相手にしなかった。だけど事業が上手く行った途端、モテモテだ」
「それでお母さんに騙されたと」
「騙されたわけじゃないよ!」
拓郎は亘に振り向くと、二人で揃って大声で笑った。
笑い飽きると、拓郎は問い掛ける。
「亘?」
「何?」
「別に、女は金に惹かれてくるから金を稼げって言っているわけじゃない」
「お父さん」
「男が女性に何をしてあげられる? 金を稼いでやることぐらいしか出来ないだろ。女の子は、楽しいものぐらい自分で幾らでも見つけられるよ」
亘は頷くが、テーブルの上に置かれたテレビとブルーレイレコーダーの二つのリモコンを見て、
「そうだ、テレビ点けて良い?」
「どうして?」
「香織ちゃんがテレビに出ているんだって」
「へぇ」
亘はリモコンに左手を伸ばして掴むと、スイッチを押してテレビを点け、次に下にあるレコーダーのリモコンに左手を持ち替えて、こちらにも電源を入れる。
レコーダーは過去一週間に放送された番組を録画しておける仕様の高級モデルで、亘はリモコンを操作して番組を検索する。香織が言っていた『囲碁アングル』の文字を見つけると、亘はリモコンのボタンを押して番組を再生させる。
低俗な民放のバラエティ番組ではないため、上品で穏やかな雰囲気のBGMを流しながら、『囲碁アングル』の番組ロゴが表示される。
畳の上に碁盤が置かれた簡素なセットの前で、右隣にスーツを着た初老の男性を立たせ、ラベンダー色の長袖のロングスカートのワンピースを着た香織が左に立って、正面に向かって挨拶する。
「皆様、こんにちは」
男性と一緒に頭を下げる。
「囲碁アングルです。今日の講師は林山八段です。よろしくお願いします」
「お願いします」
「この子が香織ちゃん?」
「そう」
「可愛いじゃん」
「可愛いよね……」
亘はレコーダーのリモコンのボタンを押し、レコーダーのスイッチを切る。テレビ画面が真っ暗になり、右上に白字で「HDMI1」と表示されただけになる。
「もう、いいのか?」
「うん。俺、全然彼女のこと知らなかったんだ」
亘は左手に持ったリモコンをテーブルに置いた。
「立派な子じゃないか」
「女子アナになりたいって言ってた」
鼻で笑う拓郎。
「レベルの低い女子大生みたいだな」
「香織ちゃんに同じこと言ったら、囲碁で食べていく方がよっぽど大変だって」
「まぁ……そうだろうな。囲碁のことはよく知らないが」
「俺とは生きている世界が違うのかな?」
「どうしてそう思う?」
「亘君は、お父さんの会社に入って、親のコネで出世して、私より若くて可愛い女の子と結婚でもすれば? って言われた」
「その言い方じゃ完全にフラれたな」
「うん、亘君は人生をナメてるって」
「図星か」
「まぁね……」
「だったら亘、お前だってプロ棋士になれば良いじゃん」
亘は可笑しくなって、呆れながら拓郎に向く。
「お父さん、それ香織ちゃんに言ったら、プロをナメてんの? って言われたよ」
「そうなの?」
「19歳でもまだプロになれないのかって言われる世界なんだって」
「何だ、それは」
「囲碁の世界って早いと小学生でプロになって、高校生でも遅いくらいなんだって」
「それは知らなかった」
「僕も知らなくて、一生懸命頑張ればプロになれるかもしれないじゃんって言ったら、実際にプロを目指している同い年の男の子にブチギレられてさ」
「それがさっき言ってた、変な奴に絡まれたって話だな?」
「そう。でも香織ちゃんは、その怒った男の子の気持ちの方が分かるって言ってた」
「そりゃ、同い年で一緒に頑張っていた子なんだろうからな」
「みのる君の方が、香織ちゃんのこといっぱい知っているんだろうなぁ」
「その男は“みのる”って云うのか」
「うん……、僕なんかよりもよっぽど早く大人になったんだろうな、香織ちゃんも、あの“みのる”って奴も」
「大人だよ、亘も」
「どうして?」
「自分が未熟だって気付いている」
同じように揃って微笑する亘と拓郎。
拓郎はテーブルに置いた新聞を畳み始める。
「俺はそろそろ寝る」
「うん」
「そうだ、明日は誕生日だろう。おめでとう」
「ありがとう」
「19歳か」
「そう」
「早いな」
「4月生まれだからね」
「そういうことじゃない」
拓郎は立ち上がった。
「仕事で明日の誕生日パーティには行けそうもない」
「だから今夜、待ってたの?」
「そういうわけじゃないが」
「おやすみ、お父さん」
「おやすみ」
拓郎がリビングを出て行くと、亘もすぐにリビングを出て風呂場へ行った。入浴を済ますと、自分の部屋に戻り、ベッドの中で眠りに就いた。
明るい朝日が入る畳部屋で碁盤を挟み、香織と向かい合い、座布団に正座している亘。
碁盤は升目が大きくなったり小さくなったり、四角い升目が上に飛び出したり、下に沈んだりしている。
(夢だな)
ルール無用で香織と碁石を打ち合う亘。
亘は黒い着物を着ていて、香織は成人式で女の子達が着るような赤い振袖姿。
亘が黒番で、香織が白番。
碁を打つと云うより、交点に石を置いていくだけの二人。
「香織ちゃん」
「何?」
「僕の何がダメだったのかな?」
「ワタル君は、幸せなんだよ」
「幸せかなぁ、僕」
「ハッピーエンド」
「エンド?」
「つまり、あなたの人生は終わっている」
「香織ちゃん?」
「それが、ワタル君の19歳の誕生日」
香織は白石を強く打ち込むと、碁盤にある亘の黒石を全て取り上げて見せた。
「なっ何ぃぃ!?」
香織が自分の碁笥の蓋に亘の黒石を入れながら、狂気の笑みを浮かべる。
「ワタル君、これが囲碁だよ!」
香織の狂気の笑みは、みのるの顔へと変化する。
「お前は!」
「恋路亘! これが囲碁だぜ! 分かったか! お前には無理なんだよ! うわっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」
亘は頭を抱えて絶叫する。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
瞼を上げる亘。
窓から朝日が入る洋室。
「夢でも囲碁で負けるとは……」
亘はそう呟くと、ベッドから出て、トイレに入る。階段を降りて、一階の洗面所へ行き、歯磨きや洗顔を済ませると、再び自室に戻る。
寝間着を脱いで、私服に着替える。黒の靴下と青のデニムを履き、青い七分袖の襟シャツを着て、その上にベージュのコーチジャケットを羽織る。
部屋を出て、リビングに行くと、昨日拓郎と語り合ったテーブルの上に一万円札が5枚載っている。
亘は一万円札を取り、その下にある一枚の紙にマジックで書かれた文言を読む。
「誕生日おめでとう 素敵な一日でありますように 父より」
亘はリュックを右肩に抱えて家を出る。
外は明るいが、灰色の雲に覆われて曇っている。
白金台駅前のコンビニでテキトーにパンやドリンクを買うと、亘は食べ歩きして、素早く食事を済ませた。
白金台駅から地下鉄の電車に乗って、一度だけ乗り換えを行い、駅に降車する。
亘は大学に辿り着いた。
キャンパスに入っても誰とも言葉や挨拶を交えることも無く、亘はさっさと授業を受ける教室に入った。
教室の左の窓から入ってくるはずの春の黄色い陽射しは、灰色の雲に阻まれて力を失い、生徒達を暖める能力を欠いている。春の陽気より冬の寒さの方が残っていて、日光が足りない花々や木々の葉っぱも光合成が出来ずに、潤いに満ちた酸素を発することもないまま、露が虚しい湿気として漂った。
みずみずしいと云うより、じめじめとした空気が大学の教室にも入り込む。
亘は教室の椅子に着くと、机にリュックから取り出したノートやテキストを置く。
(あんまり良い誕生日じゃなさそうだな……)
亘が暗い顔でぼうっとしていると、亘の右の椅子を誰かが引っ張っていく。
「おはよう!」
(えっ!?)
愛しい女性の声が聴こえて亘が振り向くと、ピンク色の長袖のニットに、白いスカートとミュールサンダルを履いた香織が隣の席に着いた。
「香織ちゃん……」
香織もバッグからノートとテキストを机に置いていく。
「どうしたの、ワタル君?」
微笑みかける香織。
「いや、だって……」
「昨日はありがとう」
「嫌われたかと思った」
「済んだことはしょうがないでしょ」
「ありがとう、香織ちゃん」
「そうだ!」
香織はバックを両手で探ると、ラッピングされた小さな縦長の箱を取り出した。
微笑みかける香織。
「誕生日おめでとう!」
「香織ちゃん……」
「受け取って」
「うん」
亘が香織からプレゼントを受け取る。
「開けてみて」
「ああ」
亘はラッピングを綺麗に剥がすと、中から箱の中身が露わになる。
箱には『ポータブル囲碁十九路盤』と印字されている。
「香織ちゃん」
「囲碁教えてあげる」
嬉しくて笑みが零れる亘。
「ありがとう」
「その前に授業ね」
「うん」
亘はラッピングの紙と箱を自分のリュックの中に仕舞って、香織と一緒に教壇へと振り向く。
教壇を眺めながら、亘が香織に話し掛ける。
「箱に19路盤って書かれてた」
「だって19歳じゃん」
「俺、まだ6路盤も真面に打てないけど」
「すぐに出来るようになるよ」
「本当に?」
「だって19歳じゃん、ワタル君」
「そうだね」
「まぁ、だけど私、まだ18歳なんだけどね」
「早生まれだもんね、香織ちゃん」
「うん」
「香織ちゃんは19歳の誕生日には何が欲しい?」
「そうだなぁ、囲碁が強い彼氏かな」
「そっか」
「だから囲碁も頑張ってね、ワタル君?」
亘は微笑する。
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