七手目「石の取り方」

 学生達で賑わう食堂。

 亘と香織はテーブルに載せたポータブル19路盤を挟んで向かい合って座る。亘は朝コンビニで買った焼きそばパンを左手に持ち、香織はこの大学食堂の人気メニュー「チョコバナナワッフル」の載った皿とトレーを碁盤の横に置いた。

 二人はもう片方の手で軽食を取りながら、あいた片方の手でマグネット式の小さな碁石を持った。

「じゃあ、さっきの続きをやろうか」

「そうだね。他にはどんな言葉があるの?」

「碁盤については大体語れたから、石を取るテクニックを教えるね」

「そんなのがあるの?」

「一つ一つ名前が付いているから、覚えると囲碁も楽しくなるよ」

「あっ、そう言えば『囲碁アングル』、ちょっとだけ視た」

「どうだった?」

「いや、香織ちゃん可愛いなぁって」

「私の顔だけ視ててもしょうがないでしょ」

「そんなことないと思うけど」

 亘は軽く笑った。

「ワタル君の家は囲碁将棋チャンネルは視られる?」

「うちのインターネットがJ:COMだから多分視られる」

「じゃあ、NHK杯や囲碁将棋チャンネルで、プロの棋戦を楽しく視ることが出来るようになるから覚えておいて損は無いと思う」

「日本棋院はYoutubeチャンネルとかやってないの?」

「まだやってない」

「でも絶対にやるでしょ」

「だろうね」

「香織ちゃんの対局視たいなぁ。対局の動画とかある?」

「私は、聞き手で中継に参加したことはあるけど」

(あっ、たぶん中継される前に予選で敗退してきたんだろうな。これ以上、この件に触れるのは止そう)

「分かった。では、お願いします」

 亘は総菜パンを一旦机に置いた後、両手を前に組んで畏まり、深々と頭を下げた。

 香織はそんな亘を見て、鼻で笑ってしまう。

「何やってんの?」

「礼に始まって、礼に終わるって、香織ちゃん言ってたじゃん」

(こんなところで、こいつ。可愛いな)

 香織は微笑すると、首を軽く振る程度に小さく頭を下げた。

「じゃあ、お願いします」


※19路盤の座標は、亘(黒番)から見て、左から右へアラビア数字で1~19、上から下は漢数字で一~十九と示す。

※交点座標は黒番から見て、(横の縦{アラビア数字の漢数字})と記す。


石の取り方❶:シチョウ

「まず、シチョウを教えるね」

「シチョウ?」

 香織は黒石を(5の四)の地点に打ち、白石を(4の四)(5の三)(6の四)(6の五)の4点に打った。

「このままだと(5の四)の黒石が白石に囲われて取られちゃうじゃん?」

「そうだね」

「逃げてみてくれる?」

「分かった」

 亘は(5の五)に黒石を打つ。

 すると、香織は(5の六)に白石を打ってきた。

「アタリにされちゃった。じゃあ」

 亘は(5の五)の黒石に繋げるために(4の五)に黒石を打った。

 すると、香織は(3の五)に白石を打ってくる。

「またアタリか」

 亘はさらに逃げようと(4の六)に黒石を打つ。

 しかし、香織は(4の七)に白石を打って、またしてもアタリにする。

「あれ? まさか」

「そう、もう助からないの」

「絶対に無理?」

「無理」

「本当に?」

 亘は試しに黒石を(3の六)に打つと、香織は(2の六)に白石を打って続けた。

 亘は黒石を(3の七)に打つが、香織は白石を(3の八)に打って、またアタリにする。

 亘は(2の七)に黒石を置いて繋げるが、香織は(1の七)に白石を打って、またしてもアタリにしてしまう。

 亘は(2の八)に黒石を置いてさらに逃げるが、香織は(2の九)に白石を打って追い詰める。

 亘は(1の八)に黒石を打つが、香織は(1の九)に白石を打って、黒石の一団を全て囲ってしまうと、亘の黒石を全て盤上から取り上げて見せた。

「あぁあ」

「これがシチョウ」

「凄いな」

「だから、これをされないようにするか、シチョウにされたらもう諦めて他の場所に打つとか、アタリにするために白が置く場所に予め黒石を打っておけば生き残る可能性もワンチャンあるかなぁ? とか」

「シチョウをやられちゃいけないってわけね」

「だけど、これが決まったら勝ったも同然だから、盤面を見てシチョウが出来ないか見極められると良いよ」

 香織は碁盤の上にあった白石を全て退かすと、チョコワッフルの皿に載る丸いバニラアイスをスプーンで掬って食べる。

「美味しい」

「融けちゃうから、先にアイスだけ食べたら?」

「そうだね」

 香織はアイスを食べ、亘も焼きそばパンを頬張る。すると香織は、アイスを掬ったスプーンをワッフルの格子模様の交点に置いて、白石を形作って見せた。

「碁盤みたい」

「確かに」

 微笑み合う亘と香織。

(女の子の笑顔って、本当に宝物だぁ……)


石の取り方❷:ゲタ

 香織は丸いバニラアイスだけ平らげて、紙ナプキンで口元を綺麗に拭い、皿の上にスプーンを置いた。

 亘も焼きそばパンを食べ終わって、ビニール包装を鞄の中に仕舞った。

「いい、ワタル君?」

「大丈夫だよ」

「じゃあ、次はゲタを教えるね」

「ゲタ? 履き物の?」

「そうだよ」

 香織は石を並べる。

「本当にそんなのがあるんだ」

 香織は黒石を(2の四)(5の四)(5の七)(6の三)(7の三)に打った後、白石を(4の三)(5の三)(6の四)(6の五)(7の四)に打った。

「ワタル君、(5の四)にある黒石に注目してみて」

「うん」

 香織は白石を(4の五)に打つ。

 亘の方から見ると(5の四)の黒石の丁度左下に白石がくっ付き、上に白石が二つ横に並び、右には白石が二つ縦に並んだ。

(5の四)の黒石にとって逃げ道は左と下にある。

「今の白の手がゲタ」

「えっ、たった一手だけ?」

「でも、もう(5の四)の黒石は取られてしまったの」

「嘘だぁ」

 亘はとりあえず(4の四)に黒石を打ってみる。

 すると、香織は(3の四)に割り込んで、(2の四)の黒石に繋げさせない。

「まさか」

 亘は(5の五)に打って逃げようとするが、香織はまたしても(5の六)に打って(5の七)にある黒石に繋げさせず、そのまま3子の黒石を取り上げてしまった。

「あっ、もう無理なんだ」

「そう。横から逃げてダメ、縦に逃げてもダメ」

「一発じゃん」

「今は分かり易く黒石を1子だけでやったけど、2子あってもゲタで取られることもあるから」

「2子あっても、1子でトドメを刺せるなんて凄いね」


石の取り方❸:打手返しウッテガエシ

 香織は19路盤の碁石達を片付けながら語る。

「“シチョウ”や“ゲタ”は言ってしまえば必殺技」

「必殺技かぁ」

「ワタル君も対局を見ると分かるよ。全部じゃないけど、例えば相手に“シチョウ”を決められたと分かった時点で、プロの先生でも投了することがあるくらいだから」

「へぇ。香織ちゃんの好きな必殺技は?」

「ウッテガエシ」

「佐々木小次郎みたい」

「ウッテガエシは、相手に石を取らせた後、打ち返して何倍も石を取り返すの」

「カウンターって感じ」

「そう、まさにウッテガエシは格闘技で言う“カウンター”だね」

「教えて」

「いいよ」

 香織は黒石を(4の五)(5の五)、(2の六)(3の六)とそれぞれ横に並べ、さらに(4の七)に黒石を置く。その後、(4の五)(5の五)の黒石を囲うように(3の五)、(4の四)(5の四)と横に並べ、(6の五)(6の六)と縦に並べ、さらに(5の七)に白石を置いた。

 香織は黒石達を右の人差し指で示す。

「白の手番として、私はこの黒石達を繋げたくないと思うのね」

「黒に逃げられちゃうからね」

「だから此処に打つの」

 香織は(4の六)に白石を打った。

「でもアタリじゃん」

 亘は(5の六)に黒石を打ち(4の六)の白石の四方を取り囲うと、(4の六)の白石を取り上げる。

「これで取れるよね」

「必殺、ウッテガエシ!」

 香織は(4の六)に再び白石を打ち込むと、(4の五)(5の五)(5の六)の三つの黒石を取り上げてしまった。

「あっ!」

「そう、実は3子の黒石もアタリだったの」

「囮だったのか」

「そう、これが必殺ウッテガエシ」

「必殺技だね」


石の取り方❹:追い落とし

 香織は盤上の白石を片付ける。

「“手筋”って言うんだけどね。囲碁の世界だと必殺技とは言わないから」

「手筋ね。他には無いの?」

「いっぱいあるよ」

「例えば?」

「追い落としとか」

「相撲の決まり手みたい」

「トントン、バタバタ、ツギオトシとも言うかな」

「サイン、コサイン、タンジェントみたいな?」

「違うよ! ちょっと見てて」

 香織は碁盤に石を並べる。

 黒石を(3の十六)(3の十七)(3の十八)と縦一列に並べて、(4の十九)に一子置き、さらに(5の十八)(6の十八)と横一列に二子を並べる。

 白石を(4の十八)(4の十七)(5の十七)(6の十七)と並べて、かぎ括弧を形作ると、さらに(7の十八)に白石を置いて、(5の十八)(6の十八)の黒2子の上と左右を囲った陣形にする。

「黒が6子で、白がまだ5子だから、次は白番じゃない?」

「そうだね」

「それで」

 香織は(6の十九)に白石を打つ。

「次、黒はどうする?」

「2子がアタリにされちゃったから、繋ぐよね」

 亘は(5の十九)に黒石を打って、横並びの(5の十八)(6の十八)の2子と(4の十九)の1子を繋いだ。

「でも4子もアタリ」

 香織は(3の十九)に白石を打つと、(5の十九)(5の十八)(6の十八)(4の十九)の黒4子を全て取り上げてしまう。

「あっ」

「そう、もう取られているんだよね」

「これが追い落としか」

「そう、アタリをかけて逃げたところを取っちゃう。敵を追い掛けて、その先の落とし穴にハメるような手筋」

「まさに“追い落とし”だね。黒はどうすれば良かったの?」

「そうね」

 香織は(4の十九)(5の十八)(6の十八)の黒3子を盤上に戻し、(3の十九)と(6の十九)の白2子を盤上から離すと、改めて(6の十九)に白石を打つ。

「もう、この黒二子を助けるのは無理だから、他の場所に打つとか」

 香織は(3の十九)に黒石を打ち、縦一列に並んだ(3の十六)(3の十七)(3の十八)と(4の十九)を繋げて黒をL字に形作る。

「さっきは下手に逃げようとしたから4子も取られちゃったけど、これなら白に石を取られても2子で済むでしょ?」

「被害を最小限に抑える必要があるんだね」

「そう、企業が不採算事業から撤退するような感じ」

(頭良いなぁ、香織ちゃん)


石の取り方❺:鶴の巣ごもり

「他には何か無い?」

「何だろう、鶴の巣ごもりとか?」

「教えて」

「いいよ」

 香織は碁盤の石を一旦全て片付けると、再び石を並べる。

 黒石を(4の四)(5の四)(6の四)と三つ横に並べ、(5の六)に一つ黒石を置き、さらに(4の八)(5の八)(6の八)と三つ横に並べる。

 次に、(4の八)(5の八)(6の八)の黒石三つを包囲するように、(3の七)(3の八)に白石を縦に二つ並ると、(4の九)(5の九)(6の九)と黒石三つの下側に白石を三つ付けて、(7の七)(7の八)に白石を縦に二つ並べる。

「黒番ならこの状態でも助かるけど、白番だと囲われた黒石3子はもう助からない」

「そうなの?」

「見てて」

 香織は(5の七)に、(5の六)と(5の八)の黒石の間に割り込むように白石を打ち込む。

「どうする?」

「そうだな」

 亘は(6の七)に黒石を打ち、先程入り込んだ(5の七)の白石をアタリにする。

 香織は(6の六)に白石を打つ。

 亘は(4の七)に黒石を打ち、アタリにしていた(5の七)の白石を取り上げる。

 香織は(4の六)に白石を打つ。

 亘の手が止まる。

「あれ?」

「気付いた」

「もうダメじゃん」

「そうだよ」

 香織が黒石と白石の両方を打って、亘に見せてあげる。

「(5の五)に黒石を繋げても(5の七)に白石を放り込んでとつの字になった黒石を取り上げられる。だからと言って(5の七)に黒石を打ったら、(5の五)に白石を打って、今度はでこの字になった黒石を取り上げられる」

「これが鶴の巣ごもりか」

「プロ相手に決められた記憶無いけど」

「そうなの?」

「プロの先生達は皆、読めて回避するからね」

「ああ、さすがに」

「だけどワタル君が例えば碁会所に行ったり、大学の囲碁サークルなんかに入ったりして、アマチュアの人と打つ分には出来ることがあると思うよ」

「そう言えば、うちの大学にも囲碁部があるのに香織ちゃんは入らないんだ?」

「私はプロ棋士でアマチュアの大会には参加出来ないし」

「そういうルールがあるんだ」

「それに、最近はみのるも大学の囲碁部に出入りしているらしいし」

「みのるって昨日の仁村先生の?」

「そう」

「俺正直、昨日初めて見た時、香織ちゃんの彼氏かと思った」

「付き合ったことはないけど」

(良かった)

「私、昔は好きだったの。みのるのこと」

「えっ」

みのる、カッコいいし、背も高いし、頭も良いし、囲碁も強いし、足も速かったし、昔は年下の子の面倒見も良くて誰にでも優しかった」

 嫉妬に苦悩して、頭を抱えて下を向く亘。

 そんな無様を晒す亘をあしらうように見つめながら、香織は続ける。

「院生時代、対局が終わった後、二人で一緒に帰ったことがあったの。二人とも囲碁棋士になったら、私、将来この人と結婚するんだろうなぁ……って」

(聞かなきゃ良かった)

「冗談よ!」

 小悪魔のように邪悪に微笑する香織。

 安堵の表情で苦笑いを浮かべながら、頭を抱えていた両手を離す亘。

「香織ちゃん、嫉妬させないでよ」

「私にどんな過去があっても受け入れるって言ってなかった?」

「そうだけどさぁ」

 香織は微笑すると、そそくさとポータブル碁盤を片付け始める。

みのる、高校時代まではずっと院生でもAクラスに居たのに、なかなか勝ち上がれなくて、私が先に女流特別採用で棋士になると凄く態度悪くなって、17歳で院生資格を失うところを仁村先生の息子さんだからってことで2年延長してもらったのに、去年Bクラスに落ちちゃって」

「あぁらら」

 香織はポータブル碁盤を折り畳み終えると、亘に手渡した。

「もう行こう」

「どうして? まだ食べ終わってないじゃん」

「来ちゃったの」

「誰が?」

「よう、稲穂先生」

 亘が振り返ると、みのるが定食のトレーを抱えて歩いて来るのが見えた。

 みのるは昨日と服装は違うが、ボトムズもトップスのシャツも白で、昨日着ていた丈の長いカーディガンの代わりに、ワイシャツをジャケット代わりに羽織っていた。

 みのるが亘と香織の横までやってくると、みのるは亘を見下ろした。

「6路盤も打てない彼氏も一緒か」

「別に良いでしょ。囲碁が弱くたって」

「俺が告白した時、囲碁が弱いから無理って言ってフッたくせに?」

「えっ」

「ワタル君は優しいもん」

「勝負師じゃないからだろ」

「勝負師にもなれていないあなたに言われたくない」

 香織はバッグとトレーを抱えながら立ち上がる。

「ワタル君、行こう?」

「あっ、ああ……」

 香織はさっさとトレーを返すために歩き出し、亘もポータブル碁盤をバッグにしまうと、逃げるように席から離れる。

「ワタルさん!」

 みのるに呼び止められて、亘はみのるに振り向く。

「すぐに取るから」

(香織ちゃんを、ってことか!?)

 亘は喉を締めて、声を努めて低くして言い返す。

「取らせはしない」

「かかって来い」とでも言うような、みのるの不敵な笑顔。

 亘はぷいっと振り返って、香織の下へ駆けて行った。

 誰にでも怒っているのが分かる亘の背中や震えて堅い歩きっぷりを見て、みのるはニタニタと微笑する。

 みのるは先程まで香織が座っていた席に着いた。

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