三手目「囲碁のルール」

 亘と香織は机にある碁盤を挟んで向かい合って着席した。

 香織は机の19路盤の上に載る「碁笥ごけ」と呼ばれる木で出来た丸い二つの入れ物を一旦横に退かすと、仁村から受け取った四角いボードを置いた。

 ボードは通常の碁盤よりも小さな升目が印字されている。

(これが6路盤か。そう言えばさっき仁村さんが19路盤だと難しいだろうからって言っていたな)

 亘は正面で座る真顔で6路盤を見つめる香織の様子を伺う。

(仕事モードって感じ。でもちょっと緊張しているのかな)

(囲碁のこと何も知らない子に教えるんだから、幼稚園生か小学生に教えるみたいに丁寧に分かり易く教えてあげなくちゃ)

(沈黙が流れちゃまずい)

「やっぱり、囲碁って難しいの?」

「勝つのが難しいの……」

 香織は低い声で答えた。

 腫れ物に触れてしまったことを謝るように亘が言う。

「実際に体験してきた言い方だね」

 ハッとした表情になる香織。

(まずい! つい本音が出てしまった。そうだ、私はレッスン料を貰っているんだ。これから先、何回も色んな人に囲碁のルールを教えていく機会があるのだから、私がなかなか棋戦に勝てなくて悩んでいるなんて悟られてちゃいけないんだ。あくまでも囲碁って面白いなぁ楽しいなぁって思ってもらえるようにしないと、レッスンプロとして失格だ。しっかりしなくちゃ、私!)

(何かまずいことでも言ったかな?)

 香織は意図的に高めの声色に戻し、笑顔を作って答える。

「だけどルール自体は簡単だから、すぐに覚えられるよ!」

(香織ちゃん、元気そうで良かった)

「頑張るよ」

 安心して微笑む亘。

(危ねぇ。素人に心読まれてどうすんの)

 香織は両手を前に出すと、左手の甲に右手の平を乗せるようにして組む。

「じゃあ、まずは挨拶」

「挨拶?」

 目を幼児のようにキラキラ光らせて香織の顔を見る亘。

(こいつ、私のこと可愛いと思ってるんだ)

(香織ちゃん、可愛いなぁ……)

「礼に始まって、礼に終わるのが囲碁」

(香織ちゃん、可愛いだけじゃなくて凛としていてカッコいい……)

「分かった」

 亘と香織はソファの上でお互いに背筋を正す。亘は恥ずかしそうだが、楽しそう。

(こいつ、私と挨拶ごっこ出来るのが、本当に嬉しいんだろうな)

「では、お願いします」

「お願いします」

(香織ちゃんとこうして正面から挨拶出来るなんて嬉しいなぁ)

 亘と香織はお互いに頭を軽く下げた。

 

ルールその❶:黒が先手番、白が後手番

 香織は入れ物の一つを亘の方に寄せる。香織が入れ物の蓋を取ると、亘は入れ物の中を見る。黒一色の碁石達が入れ物いっぱいに詰まっている。

「囲碁は黒と白が交互に打ちます。黒が先番。白が後手番」

 香織は自分側に入れ物を寄せる。入れ物の蓋を取ると、白一色の碁石達が満載に詰まっていた。

「オセロと一緒だね」

「そうだよ」

(あっ、オセロが分かるんだったら、それを基準にすれば教えやすいな)

「じゃあ白だけど先番とか、黒だけど後手番ってことは無いんだね?」

「無いよ」

「やっぱり香織ちゃんは白が好きなの?」

「どうして?」

「自分の方に白を寄せたから」

(なんでそういう風に考えるんだ、この男?)

「いや、指導をする方が白番で、指導を受ける生徒さんが黒番なの」

「そうなんだ」

「先に打つ黒の方が主導権握り易くて、基本的には有利だからね」

「へぇ」

(って言っているけど、この男、絶対に理解してないだろうな)


ルールその❷:線と線の交点に“打つ”(“指す”ではない)

「次に、石の打ち方ね」

 香織は入れ物の蓋をそれぞれの碁笥の前に置いて見せる。入れ物の中に黒一色と白一色の碁石がいっぱいに詰まっている

「石は四角い枠の中じゃなくて、線と線の交点に打ちます」

 香織は亘側の碁笥から黒石を人差し指と薬指で摘まみ取ると、六路盤の碁線の交点に打って見せる。

「あっ、“打つ”って言うんだ?」

「そうだよ。囲碁は“打つ”、将棋は“指す”。間違うと顰蹙を買うから気を付けてね」

「そうなの?」

「だって、野球を投げるとか野球を打つとかって言う?」

(我ながら、見事な例え方)

「言わない」

(香織ちゃん、頭良いなぁ)

「言葉の端々にまで気を遣えるようになると、囲碁だって強くなれるよ」

「そうだよね」

(恋愛も一緒だもんなぁ)

(私のこと、素敵だって思ってるんだろ、ワタル君?)

(香織ちゃん、素敵だ)

(ガキんちょめ、可愛いな、ワタル君)

「線と線の交点なら、好きな所に打っていいの?」

「そうだよ」

 香織は自分の方に寄せた入れ物の中から白い碁石を人差し指と薬指で摘まみ取り、黒石の隣に置く形で6路盤の碁線の交点に打って見せた。

 亘は香織の手付きに見惚れる。

「綺麗な手付きだね」

(私の手が綺麗? その通り!)

 自分の右手の美しさに惚れ惚れしながら、ほくそ笑みを浮かべる香織。

「ワタル君もすぐ出来るようになるよ」


ルールその❸:陣地を競う

「それで、囲碁は陣地を競います」

「陣地? 石の数じゃなくて?」

「ちょっと見てて」

 香織は二つの碁笥から交互に黒石と白石を右手指で摘んで、6路盤に置いていく。その華麗なる香織の指裁きに亘はただただ見惚れていた。


※6路盤の座標は、亘(黒番)から見て、左から右へアラビア数字で1~6、上から下は漢数字で一~六と示す。

※交点座標は黒番から見て、(横の縦{アラビア数字の漢数字})と記す。


 香織は黒石で縦の4線を埋め尽くし、(3の四)に黒石を一子置いた。

 残りの縦3線を五つの白石で埋めて、(2の三)、(2の四)に白石を置く。

 黒も白も盤上にそれぞれ7子置かれた状態(盤面①)を作った。

「石を点ではなく、線で考えてみて」

「線?」

「そう、境界線を引くイメージで」

 香織は人差し指で4線に載った黒石を上から下になぞって見せると、今度は6路を形作る碁線(横の一線)をなぞっていく。香織側から見たら左に、亘の方から見たら右に、香織は自分の人差し指の先を動かした。端っこ(6の一)まで到達すると、香織は人差し指を縦の6線の上をなぞるように動かし、上端(6の六)まで着くと人差し指を右折させて4線に載る黒石の先に当てた。

「自分の石と碁盤の線で囲った空き地が陣地です」

「はい」

「そして、石を置ける交点の数を競います」

「なるほど」

「例えば、黒番なら?」

 亘は5線と6線の交点を自分の人差し指で一個ずつ数えていく。

「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12」

「だから黒は12点」

「それだけ? じゃあ、白は」

 亘は香織に指示されるまでも無く、勝手に1線と2線の交点を指差して数えた。

「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、10点だ」

「だから黒の勝ち」

「あっ、本当にそれだけなんだ」

(囲碁って簡単じゃん)

「陣地の数え方は点じゃなくて1目、2目、石は1子、2子と数えます」

「じゃあ黒が12目、白が10目だね?」

「そう」

(あれ?)

 首を傾げて見せる亘。

「石ってさぁ、何処に打ってもいいってさっき言ったじゃん」

「うん」

「だけど、何処に打っても良いならさ」

 亘は香織側の碁笥から白石を摘み、5線一~三と(6の三)に計四つの白石を置いた。

「黒の陣地の中に、白が陣地を作れば、白は有利にならないの?」

「ならないんだなぁ」

「どうして?」

「じゃその前に、石を取る話をするね。一旦、黒石を退かしてくれる?」

「分かった」

 亘は黒石、香織は白石を自分の傍に寄せた入れ物の中に戻していく。

 微笑みを見せる亘。

「なんか楽しいなぁ」

(香織ちゃんと共同作業!)

「そう?」

(良かったぁ、囲碁を楽しんでくれて)


ルールその❹:相手の石を囲うと取れる

 亘と香織が片付け終わって、6路盤から碁石がなくなる。

「石は、囲うと取ることが出来ます」

 香織はまず自分側の入れ物から白石を(3の三)の地点に置く。

「オセロなら上下左右斜めのどれかを挟めば裏返せるけど、碁はそうはいきません」

 香織は(3の三)に置いた白石の上下左右の線を指差す。

「碁盤の線は石の逃げ道みたいなモノ」

 香織は亘側にある入れ物から黒石を1子ずつ右手で摘み、(3の三)の白石の上下左右に置いていった。

「逃げ道を全て塞いだ時に取れます」

「面倒臭いから、予め一度に四つ石を摘まんで置けば良いじゃん?」

 亘は気遣って香織に言ったが、香織は眼光を鋭くして、

「私は必ず1子ずつ石を持つように師匠から指導されたの」

「そうなの?」

「自分の着手の一手一手全てに魂を込めないと勝てるはずがない。だから石は絶対にぞんざいに扱うなって」

「そうだったんだね」

(そっか。香織ちゃん、プロなんだな……)

 香織は(3の三)の白石を摘み、恋路側の碁笥の蓋に入れる。

 すると突然、香織は自嘲的に微笑んだ。

「どうしたの?」

(こんな奴にプロ意識見せてもしょうがないか)

 香織は少し肩の力を抜いて、笑顔を作ると、

「楽しくやろう、ワタル君?」

「うっ、うん」

(頑張れ、私。そう、保育士の先生が、幼稚園生に教えるような感覚で)

「取った相手の石は入れ物の蓋の上に置いて、大切に取っておきます」

「蓋も使うんだ」

「そうだよ。だから碁石だけじゃなくて、入れ物も蓋も大事に使ってね」

(香織ちゃん、プロだな)

「だけど、1子取るのに四つも石が必要なのか。ちょっと大変だね」

「でも斜めは関係無いよ。それにね」

 香織は自分側の碁笥から白石を摘むと、(1の一)の隅、端の(4の一)に置く。

「隅や端は逃げ道が少ないでしょ?」

 香織は恋路側の碁笥から黒石を1子ずつ摘み上げていき、隅と端に置かれた白石を囲うように黒石を置いた。

「だから隅なら2子、端は3子で石を取ることが出来ます」

「オセロって隅や端は取られにくいじゃん?」

「囲碁は逆に取られ易いから、初めのうちはあまり打たない方が良いんだよ」

「石は1子ずつしか取れないの?」

「そんなことないよ」

 香織は盤上に載る石達を全て摘まみ上げてそれぞれの色の入れ物に戻すと、3線の二~四段に白石を置いた。

「こんな風に石が複数個並んでても」

 香織は3線の一と五、2線の二~四、4線の二~四に黒石を素早く並べる。

「石の集団の上下左右を囲えば」

 香織は3線の二~四段の白石を取る。

「一度に全部取ることが出来るの」

 すると、亘は盤上の黒石を全て碁笥に入れた。

「だけど、相手も取られたくないじゃん」

 亘は自分の方にある入れ物の蓋から、白石を摘まんで(3の三)に置くと、黒石を(2の三)、(4の三)、(3の二)の地点にそれぞれ並べる。

「囲われたら取られちゃうんだからさ」

 亘は(3の四)に白石を打つ。

「相手もこうやって逃げない?」

(おっ、そうやってくれればこちらも手間が省ける)

「逃げるね」

「やっぱ、逃げるよね?」

 香織は(3の四)の白石を一旦摘まみ上げる。

「あと1子置かれたら取られる状態を“アタリ”って言うんだけど」

「相手も中々取らせてくれないわけか」

 香織は(3の四)に白石を戻す。

「オセロなら何回でも取り返せるけど、囲碁の場合は取られちゃうじゃん。相手も逃げるし、中々取れないんだよね。だけど相手の石を10個も20個も取れたら、中々取れない分、物凄く気持ち良いよ!」

(香織ちゃんの笑顔、子供みたいで可愛い)

「囲碁の話をしてる時の香織ちゃん、凄く楽しそうだね」

(そう! 幼稚園生に教える時みたいに、明るく、元気よく!)

「楽しいよ。だから大好きなの!」

「俺が?」

(ハァ!?)

「囲碁が! ワタル君じゃない!」

(自惚れるな、ワタル君のくせに!)

「そんな全否定しないでよ……」

(よし、ちゃんと釘は刺せたな)

「話を戻そう」

 香織は石を動かし、以前の盤面①の状態(黒石で縦の4線を埋め、(3の四)に黒石を1子置き、残りの縦3線を五つの白石で埋めて、(2の三)、(2の四)に白石を置いて、黒も白も盤上にそれぞれ7子置かれた状態)に戻して見せる。

「さっきこの状態でさぁ」

 香織は自分側の入れ物から白石を摘み、5線一~三、(6の三)に白石を計4子置く。

「白が陣地を作れないか訊いたよね?」

(そう言えば)

「訊いた。こっちの方が得じゃない?」

「でも囲碁は交互に打つから」

 香織は亘側にある入れ物から黒石を摘まみ、(5の四)、(6の四)、(6の一)と打つ(盤面②)。

「白が四つ置けるなら黒も四つ置ける」

 香織は(6の二)に黒石を打って見せた。

「白石が囲われちゃった」

「だから全部取られちゃう」

 香織は5線一~三、(6の三)の白四つを取り、恋路側の碁笥の蓋に入れる。

「黒の陣地の数が8目。白は10目だ。やっぱり相手の陣地に入った方が点数を減らせるから良いんじゃないの?」

「でも今、白石を4子取ったでしょ?」

 香織は恋路側の碁笥の蓋から白石を1子ずつ摘まみ上げていき、

「囲碁はお互いがパスを選択したら、対局が終わるんだけど」

 蓋にあった白石4子を白の陣地に置いて見せた。

「取った“アゲハマ”は、対局が終わった後で、相手の陣地を埋める時に使います」

「白の陣地が4つ減ったから6目だ」

「最初は黒が12目、白が10目で黒の2目勝ち(盤面①)。でも今度は黒が8目、白が6目、やっぱり黒の2目勝ち」

「結局一緒だから意味無いのか」

「そういうこと」

 うんうんと頷く亘を見ながら、香織は碁石を入れ物の中に片付けながら考える。

(ワタル君は大学生だから、まぁ、今のような説明で通用したんだろうなぁ。だけど相手が幼稚園生や小学生ならちょっと難しいかもしれない。終わったら、仁村先生や棋院の先生達、仲間達にも相談してみよ)


ルールその❺:打ってはいけない“着手禁止点”

「分かった。他にはルールある?」

 まっさらになった6路盤を挟んで、笑顔で尋ねてくる亘。香織は安堵する。

(良かった。ちゃんと分かってくれている)

「うん。囲碁は基本的に交点の何処に打っても良いんだけど、打ってはいけない『着手禁止点』があります」

「そんなのあるんだ」

「そう」

 香織は亘側の入れ物から黒石を摘まみ上げて、(3の三)の上下左右に黒石を置いた。

 香織は石が置かれていない(3の三)の地点を右手で指差す。

「この場所って白は打てると思う?」

「此処に打つと、逃げ道が無いからどっちにしろ白は取られちゃうね」

「だから打てないって決まりなの」

「取られる場所には打てないんだね」

「こういう形もあるよ」

 香織は(3の四)の黒石を(3の五)の位置に下げ、さらに(2の四)、(4の四)にも黒石を打つ。(3の三)に白石を置き、何も置かれていない(3の四)を指差す。

「ここって白は打てると思う?」

「いや、黒に取られるから打てないな」

「そういうこと。でも例外もあるよ。さっき、ちょっとやったんだけどね」

「本当に?」

 香織は盤面②の状態(黒石で縦の4線を埋めて、(3の四)に黒石を1子置き、残りの縦3線を五つの白石で埋めて、(2の三)、(2の四)に白石を置いて、黒も白も盤上にそれぞれ7子置かれた盤面①から、5線一~三、(6の三)に白石を計4子置き、(5の四)、(6の四)、(6の一)に黒石を置いた状態)に石を並べた。

「私、この後(6の二)に黒を打ったけど」

「あっ! 本来はアタリだから白に取られるじゃん」

「だけど、白の四つもアタリでしょ?」

「本当だ!」

 香織は(6の二)に黒石を打つ。

「相手の石を取れる時は、打つことが出来るんだ」

 香織は、囲った白石4子を摘まみ上げて、恋路側の碁笥の蓋に入れた。

「なるほど。囲碁って面白いね」

「でしょ?」

 亘と香織は微笑み合った。 

(香織ちゃん、教え方上手だね。さすがプロ棋士だね。本当に凄いなぁ)

(良かった。ズブのド素人のワタル君にも通用したから、まぁ、これから先の将来も囲碁で食べていけるだろう)

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