二手目「囲碁の世界へ」
JR湘南新宿ラインの電車に乗って東京に戻っている香織と亘。混雑していないので、二人は横並びでソファに座る。
電車の窓から明るい陽射しが入って、二人の背中を暖める。
香織は淡々とスマートフォンに文章をタップして、メールの文面を作っていた。
仁村先生、お疲れ様です。
実は大学の友達が囲碁を覚えたいと言ってきたので、ニギリに連れて行きます。
一回だけだと思うので、ビジターの入場料と指導碁の料金は払うと言っています。
ニギリの方の私の指導碁予約に登録しておいてください。
友達の名前は、恋路亘くん。あの恋路道商事の御曹司です。
よろしくお願いします。
そんなこととは知らない亘は、香織の態度が何処か素っ気なく見えて、心配そうに自分の右に座る香織を見つめる。
(電車の中であまり囲碁の会話をしたくないのかな? いや聞きたいことばかりなんだけど。囲碁棋士って何の話? って話だし)
会話出来そうにもないと思った亘は自分もスマートフォンを持って、「稲穂香織 囲碁棋士」で検索してみる。
すると、日本棋院の公式サイト内に、証明写真のようにスーツ姿で正面を向いた香織の簡素な写真が付いたプロフィールが載せられているのを見つける。
稲穂香織
性別:女
棋士段位:初段
出身地:大阪府
所属:日本棋院東京本院
生年月日:平成11年(1999年)2月6日
平成27年4月入段
その下に、棋士成績が載せられていて、通算成績10勝21敗と表示されている。
「香織ちゃん、大阪の子だったんだね」
「そうだよ。何見てんの?」
香織が亘のスマホを覗き込む。
「香織ちゃんのプロフィール」
「ああ」
香織は再び自分のスマホに視線を戻す。
「入段が平成27年ってことは16歳で?」
「そう、高二でプロになったの」
「凄いね」
「そうかな。勝てなきゃ意味無いと思うけど」
「やっぱり、強い人多いんだね」
「うん……」
「強い人って誰?」
「藤沢里菜ちゃん」
「ふじさわりな……」
亘はスマートフォンをタップして、公式サイトを進んでいく。
藤沢里菜のプロフィールを読む。
平成10年(1998年)9月18日生。埼玉県出身。故藤沢秀行名誉棋聖門下。
平成22年入段(11歳6ヶ月で入段。女流棋士特別採用最年少記録)、25年二段、27年三段。
藤澤一就八段は実父
日本棋院東京本院所属
平成26年(2014年)
第1回会津中央病院杯で奥田あや三段を破り初タイトル獲得
☆15歳9ヶ月・女流棋士史上最年少タイトル獲得記録
第33期女流本因坊戦で向井千瑛女流本因坊を3-0で破りタイトル奪取
平成28年(2016年)
第35期女流本因坊戦で謝依旻女流本因坊を3-1で破りタイトル奪取
第2回イベロジャパン杯優勝
亘は顔を歪めながら、目を疑う。
「11歳6か月ってことは小6でプロに?」
香織は自分のスマホを見ながら微笑する。
「そうだよ。同学年なの。尊敬してる」
「すげぇな」
「囲碁界では超有名な子だよ」
「小6でプロって考えられないな」
「林海峰先生とか趙治勲先生とか井山裕太先生とか小学生でプロになった先生は何人か居るよ」
「凄い世界だな」
亘は改めてスマートフォンに表示させた藤沢里菜のプロフィールを見る。
「香織ちゃんは平成27年入段だけど、この藤沢さんは平成26年でもうタイトルを獲得しているんだ」
「女流タイトルだけどね。だから私、すっごく焦ってた」
「焦る?」
亘は香織に振り向く。下を向いて、少し暗い表情の香織。
「だって私と同い年の子がタイトルを獲っているのに、この時の私はプロにもなれてなかったから」
「16歳で焦るなんてすごいね。俺なんて野球ばっかりやってたけど」
「私だって囲碁ばっかりやってたよ」
「だけど俺、プロ野球選手になれるとは思ってなかったからね。なれたら良いけど、ほとんど遊びだったからなぁ」
「遊びかぁ……」
(香織ちゃんと俺、全然違うんだ……)
亘は改めてスマホに表示した藤沢里菜のプロフィールを読み直す。
「藤沢さん、去年も女流本因坊戦で、何て読むんだ、しゃー・いぜ女流本因坊を3-1で破りタイトルを奪取って書かれてる」
呆れた表情で亘に振り向く香織。
「
「いみんって読むんだ。可愛い名前だな」
思わず口から失笑を漏らす香織。
(ワタル君、謝先生のこと何も知らないから、可愛いとか言ってられるんだろうな)
「でも依旻先生もめっちゃ強いよ」
「そうなの?」
亘が香織に振り向く。香織は亘と目を合わせる。
「女流棋士ってほとんどの子が特別採用で受かるんだけど」
「この藤沢さんも?」
「そう。でも依旻先生は一般の男女混合採用で受かってるから」
「男達をなぎ倒して」
「そう。めっちゃカッコいいよね」
「香織ちゃんは男性棋士とは戦うの?」
「普通に誰でも戦うよ」
「そうなの?」
「他のスポーツと違って、囲碁棋士って大体の棋戦は男女関係なくやり合うから」
「さすがに男性に勝ったことは無い?」
「いや、普通に勝ったことあるけど」
「マジで!? 香織ちゃんも強いじゃん」
照れ笑いを浮かべる香織。
「いや私はだって負け越してるもん。まだまだだよ」
香織の照れ笑いが移るように微笑む亘。
(香織ちゃん、めっちゃ可愛い)
「そっか、でも男女が互角にやり合う競技なんてそうそう無いから凄いよね」
「うん。だから私、囲碁が好きなのかも」
「香織ちゃんはいつから囲碁を始めたの?」
「四歳の時」
「そんなに早く?」
「おもちゃ屋さんで碁盤を見つけて、めっちゃ欲しいってパパにお願いしたの」
「一目惚れだったんだ」
(俺が香織ちゃんに惚れたように)
「一目惚れって言うか」
(そりゃ、あんたの話でしょ)
「でもなんで欲しいと思ったんだろう? 今でも分かんないけど」
「だけど、囲碁のルールなんてすぐに分かった?」
「分かんないよ。パパもママも皆、囲碁のルールなんて知らないから。それでパパが入門書を買ってきてくれて、パパとママも一緒に囲碁を勉強して、子供囲碁教室とか囲碁サロンとかにも連れて行ってくれて、それで私もプロ棋士になりたいなぁって」
「良いご両親だね」
「うん、パパもママも大好き」
「仲良いんだ」
「でも苦労かけちゃったかな。娘に付き合わされて、自分達は全然興味も無い囲碁を勉強させるなんて」
「いや、そんなことないでしょ。俺、お父様の気持ちめっちゃ分かるよ」
「本当に?」
「だって俺だって香織ちゃんのこと知りたくて、囲碁覚えようって思えるんだよ? それがお父さんお母さんってなったら、もう凄く可愛くて何でも許せるんじゃない? 一番上の兄貴も結婚して女の子が生まれてさ、俺にとっては姪っ子が居るんだけど、まぁ可愛いからね。親バカになっちゃったよ」
「親バカか」
「兄貴言ってたもん。親バカになれない奴の方がバカだって」
二人は渋谷駅で降車した。
駅の中も外も、人がうじゃうじゃ居る渋谷駅。
二人は人混みに溢れる渋谷駅前交差点を歩いて行く。
香織はナンパやキャッチの男が嫌いなので、亘の傍に身体を寄せてカップルであるように振る舞った。
そんなこととは知らない亘は、香織が自分に身体を寄せながら一緒に歩いてくれて嬉しかった。
渋谷駅を出た直後は人混みに溢れていたが、次第に人々が目的の場所に分散して、歩き易くなっていく。
そうなると、香織も亘から身体を離して歩くようになった。
亘は香織の足が少し早足に感じて、本当に香織の後を亘が追って行く格好になる。
商業ビルが立ち並ぶ通り。
香織は5階建てほどの小さなビルに入ったので、亘は彼女に随いて行ってそのまま中に入った。
『囲碁サロン ニギリ』と書かれた小さな看板スタンドが、ビルの入り口横に立てられているのが見えた。
ビルの階段を上がり、2階に上がる香織と亘。
『囲碁サロン ニギリ』と印字されたガラス扉を押して、香織が亘を招き入れる。
「どうぞ」
30畳ほどの室内に、背が低い十数台の長机、それを囲うようにソファ椅子が何十脚と置かれている。机の上には碁盤があって、丸い形をした木製の入れ物が碁盤一個につき二つ、碁盤の上に乗せられている。白い壁と天井に、灰や茶色のカーペットを敷いた部屋の雰囲気は清潔に保たれ中々に明るく、女性にも入りやすい雰囲気にするように心掛けられているのを亘は察した。
部屋の中央にある机で、高齢者の男女三人を囲って一度に相手する、灰色のスーツ姿の40代から50代前後の男性がソファに座っている。
男性は亘と香織が入ってくるのを見掛けると、
「ちょっと失礼します」
ソファから立ち上がって、一旦指導している客達から離れて、亘達の下へ向かう。
亘にも男性が近付いてきて容貌が少しずつはっきりしてくる。
中肉中背、頭髪は黒いが少し短めで、顔付きは優しそうに見えた。しかし、目元や広角が上方に引き攣っている名残りが見えて、若い頃は乱暴者であったが年を取って丸くなったような変化を経てきたに違いない、男性の顔を見ただけで亘にはそう感じ取れた。
(この人、ただ者じゃないんじゃないか?)
如何にも業務的な笑顔を浮かべる男性が、亘を右後ろに連れる香織に話し掛ける。
「香織ちゃん、この方が?」
男性の声が顔の印象より少し高く感じる亘。
頷く香織。
「はい、こちら同じ大学の恋路亘さん」
「初めまして」
少し緊張しながら男性に頭を下げる亘。
香織が亘に振り向き、左手の平を出して男性を紹介する。
「ワタル君、この方はサロン経営者で、囲碁棋士の仁村博久先生」
「こんにちは」
「香織ちゃんのバイト先って」
「そう。ここで働かせてもらっているの」
「香織ちゃん。この子、彼氏?」
「いいえ」
(いいえ、なのか……)
「さっき告白されて囲碁強くないと無理って断ったんですけど、じゃあ囲碁を教えてって言って諦めないんです」
仁村は微笑むと、亘の方に向いた。
「ワタル君、囲碁の経験は?」
「ありません」
「囲碁のルールは?」
「知りません」
亘の返事を聴くと、仁村は堪え切れず鼻息を吹いて笑った。
「ワタル君、トンデモない女の子に恋をしてしまったね? 男の子でも素人じゃ女流棋士には勝てないよ」
「そうなんですか」
笑顔を浮かべる仁村。
「だけどせっかくの機会だ、ぜひ囲碁を覚えて帰って欲しい。この世界で囲碁より面白いモノなんて無いんだ」
「本当ですか?」
「本当さ。囲碁を覚えれば素敵な毎日が君を待っているよ」
「それは楽しみです」
「香織ちゃん、六路盤を使いなさい。十九路盤だと難しいだろうから」
「はい。ワタル君、先にお会計良い?」
「うん」
「こちらへ」
仁村が左手を伸ばして場所を指し示しながら、入り口横に在るレジスターの置かれた机へ亘を誘導した。
仁村とレジスターを挟んで、向かい合うように立つ亘。
「まず入場料だけど」
「はい」
「会員入会すると、1000円。一般だと1500円になるけど?」
「会員になるのは幾らですか?」
「入会金は10000円だ」
(高っ)
「じゃあ、一般料金で良いです」
「うん。次に指導碁の料金だけど」
「はい」
「香織ちゃんはプロ棋士だから、プロ棋士指導碁で5000円。さらに、今さっき私がやっていたようなグループレッスンじゃなくて個人レッスンだから、少し高くなってさらに10000円掛かるけどいいかな?」
(囲碁って金が掛かるんだな……)
「はい、分かりました」
「じゃあ、合計で16500円になります」
財布を取り出す亘。
2枚の壱万円札しか入っておらず、亘はこれをそのまま仁村に払った。
(家に帰ったら、事情を伝えて小遣いせびらないとな……)
仁村は頭を下げながら壱万円札を受け取ると、
「ありがとうございます」
亘は年下相手にちょっとどうなのかと思う程の丁重ぶりを仁村の態度から感じた。
(この人、プロなんだな)
レジスターから千円札三枚を取り出し500円玉を乗せて、亘に返す仁村。
「3500円のおつりです」
「はい」
亘は仁村からおつりを受け取り、財布の中に入れる。
「ずっとこの店やっているんですか」
「まあね。香織ちゃん」
仁村はレジスター下の机の棚から、碁盤より一回りぐらい小さい、茶色くて四角いボードを取り出す。
香織が近付いて、亘の左に立つと、右手で仁村からボードを受け取った。
「はい」
香織が亘に振り向く。
「ワタル君、ありがとう」
他人行儀に礼を言う香織。
(ああ、香織ちゃん、もう仕事モードに入ったんだな)
「ワタル君、行こう?」
香織は歩き出し、すぐ近くの空いている席に亘を誘導した。
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