囲碁の恋
黒羽翔
初手「一目惚れ」
「私、囲碁が強い人と付き合いたいの!」
「……はぁい?」
少年と青年が入り混じる、子供にも大人にもなり切れていない童顔の男子。
亘は、自分の脳髄が訳が分からなくなって完全に活動を停止したように錯覚した。頭脳の毛細血管が収縮蠕動を止め、髄液が全く循環しなくなる。当然、そんな現象は起きているはずもないが、電池を失った人形の如く亘は止まった。
(囲碁って何の話?)
何の脈略も無い断りの返事に、思わず制止した亘の脳髄だが、何かに関連付けると英単語も記憶し易いように、この停止した錯覚のデジャヴーとして関連付けた記憶を大脳新皮質が引き出して、亘の自意識に再生させる。
その時も、
明るい茶色に染めた長い髪の毛を真っ直ぐ垂らし、大きくて丸い目を持ち、色白の肌、可愛らしい丸い鼻、潤いに満ちた桃色の唇。
何よりも亘の心を一瞬で癒す、あの彼女の無垢な笑顔。
亘が初めて香織を見たのは、大学の教室だった。
しかも亘が入学後初めて受ける一限目の授業前。
春の黄色い陽射しが教室の左の窓から入って、生徒達を暖めていた。まだ少し冬の寒さも残っていたが、日光に照らされた花々や木々の葉っぱが光合成を行い、潤いに満ちた酸素を発して一帯を加湿する。
みずみずしい空気は大学の教室にも入り込み、生徒達を春の陽気で温かく包んだ。
香織は、仲間の女子達を左右に座らせて、授業が始まる前に談笑していた。
その時も亘は止まった。
右に首を傾けて、香織達を見つめる亘。
(恋しちゃった……)
一目惚れと云う暴力的なまでに恋を強いる強制力。
一度恋をしてしまえば、香織が着ている、首元にフリルが附いた薄紅色の長袖のニットとか紺色のスカートとかまで凄く魅力的に見えてしまう。
(女の子ってなんて可愛いんだろう……)
他の女の子は全く眼中に無いのに、心底そう思う亘。
顔が熱くなるのが分かる亘。
自分が恋をしているのが分かる亘。
亘は自分から沸き上がる幸せに酔い痴れそうになる。
しかし、それと同時に亘に襲い掛かる堪えようの無い悲しみ。
(あんな可愛い子、絶対に僕なんか相手にしてくれないだろうな。彼氏だって居るに違いない。たぶん、高校時代から異性からモテていたに違いないんだ。僕ではどうせ相手にしてもらえないに決まっている。どうしよ、誰にも相談出来ない。どうすれば彼女とおしゃべり出来るだろう。いきなり話し掛けても気持ち悪がられるだけだし)
亘は諦めたように視線を落とし、机の上に乗るルーズリーフの横線を見つめるしかなかった。
「恋路君に聞いてみたら?」
(えっ?)
自分の名前を言った女の子の声に思わず反応して右に振り向く。
一目惚れした女の子の左隣に座っていた、もう一人の女子が亘の方を見ていた。
(
香織と目が合うと、亘はその黒い瞳に意識を吸い込まれたように制止する。
「ちょっと恋路君、来て」
江繋に呼ばれて彼女の下へ歩く亘。すぐに江繋の左の席に座る。
「何?」
声変りを終えた低い声質だが、香織に良い印象を与えたくて優しく呟く亘。
亘は江繋の顔を右目の右半分で捉えて、残りの視野を全て香織の顔を見つめるのに使う。
(なんて可愛い子なんだろう)
「こちら、稲穂さん」
「いなほさん?」
「稲穂香織です」
「かおり……」
香織が上品な口調で自己紹介すると、下の名前の連想から全く意識していなかった亘の嗅覚が、香織が振りまいていた甘い香水の香りを嗅いで魅惑される。
(なんてイイ香りなんだ……)
「稲穂さん、将来起業したいんだって」
江繋が要件を教えるが、亘は香織を見つめたまま。
「起業?」
「恋路さんって
「跡取りでしょ?」
(ああ、そういうことか)
溜め息を吐くように鼻息を少し大きく吹く亘。
「いや、僕は三男坊だから会社を継ぐことは無いよ。お兄ちゃんが頑張ってるし」
「でも、お父さんの会社に入るんでしょ?」
「たぶんね」
「凄い……」
近くに居るのに香織が遠く感じる亘。
「別に凄くないよ」
「大企業の御曹司、いいなぁ」
さっきは香織と話す切っ掛けを与えてくれて感謝したのに、今度は雑音でしかない戯言ばかり抜かすから、江繋が邪魔に感じてくる亘。
亘は首を前に出して、江繋を完全に視界から消して、香織だけを見つめる。
「そうだ、稲穂さん。起業って何がしたいの?」
「サロン」
「美容室?」
呆れるように鼻で笑う香織。
「違うよ」
「起業家がオンラインでやっているような奴?」
「うん」
「凄いね」
「なんで?」
「だって他人に教えられるノウハウがあるってことでしょ?」
「ノウハウって言うか……」
教室の扉を開けて講師が入って来る。
「授業始まるよ」
江繋が追い払おうとするように亘に釘を刺してくる。
「隣で授業聞いて良い?」
亘は隣に居る江繋ではなく、香織に聞いた。
「別にいいよ」
「ありがとう!」
亘は笑顔を見せると、香織の目が亘の笑顔を凝視する。
亘は一旦自分が座っていた座席に戻ると、ノートやバッグを抱えて、江繋の隣に座った。
すると、江繋の頭を躱すように首を前に出して亘を見る。
「恋路君、下の名前は?」
「亘」
「ワタル君……か」
「よろしく」
「うん」
江繋は白けたような微笑ましいような微妙な顔付きで二人を見ると、授業を始めた講師の方に向いた。
(起業したいとは言っていたが、囲碁なんて一言も聞かなかったよな……)
大勢の学生達で賑わう、明るい大学内の食堂。
入り口、スタンドに立てかけられた小さな黒板に「2017年4月のメニュー」の文字とその一覧表がチョークで横書きされている。
亘、香織、江繋の三人は同じテーブルに着いた。亘は香織と向き合うように座り、江繋は香織の左隣に座る。
亘はご飯の上に焼いた豚肉と温泉卵を乗せると格子模様を描くようにマヨネーズを上から添えた豚玉丼で、女子の二人は写真でも撮るために注文したような一枚の皿にご飯、サラダ、肉、玉子焼きなどがオシャレに盛られたランチプレートを二人で注文し、テーブルに並べていた。
亘は香織のことしか見ていない。
「香織ちゃんと江繋はどういう関係なの?」
「小学生の時に一緒だったの」
「そうだよな。俺達、中高一貫だったから、見なかったもんね」
江繋が弄るように微笑む。
「羨ましいでしょ、恋路君?」
亘は自嘲的に笑うが、香織だけを見つめて、
「香織ちゃんも中高一貫だったの?」
「違うよ」
「高校は私立?」
「中学も高校も公立」
亘は江繋の方を見ると、
「凄いよな。俺達、私立で六年間受験勉強やってきたのに結果は同じ大学だもん」
「香織は帰国子女だから」
亘は香織の方を向く。
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ英語ペラペラだ」
「喋れないよ」
「えっ!?」
「私、韓国に行っていたから」
「韓国? じゃあ韓国語は喋れるんだ」
「ちょっとだけね」
「韓国って凄いよね。ドラマも音楽も日本より凄いし」
「韓国は海外に輸出しないと食べていけないからでしょ」
江繋は誰もが知っていることを補足したが、亘は構わずに香織を見て訊く。
「香織ちゃんもやっぱり韓国のアイドルの子が好きなの?」
「うん、可愛い子多いし、歌も踊りもカッコいいし」
「日本のアイドル、レベル低いって思うでしょ?」
江繋が訊くと、香織は失笑を漏らすように小さく吹き出し、右手で口元を覆う。
亘は香織の仕草が上品に見えて、ますます愛おしくなって微笑む。
亘は江繋の方を見る。
「俺達も修学旅行で中国には行ったよね」
「でも一週間くらいだったじゃん」
「私も中国行ったことあるよ」
「本当に?」
「うん、台湾にも行ったし」
「凄い、アジア完全制覇じゃん」
江繋が大袈裟に言うと、香織は吹き出しながら、
「いや、他のアジアの国は行ったこと無いけど」
亘は細目で温かい眼差しを香織に向ける。
(あの時、香織ちゃんが世界を見ている子なんだと思えて尊敬した。起業したいって言っていたのも、日本だけじゃなく、世界に向けた大きなビジネスを展開したいって思ったから、素直に応援したかったんだ。
でも、囲碁って何?)
あの永遠に続いて欲しかった大学の廊下での出来事を思い出す亘。
「ワタル君!」
窓から陽射しがたくさん入って明るい大学の廊下。
少し汗ばむくらいに暖かったので、ジャケットを羽織らず、ワイシャツの裾を外に出して黒のチノパンを履いただけ服装の亘が、自分を呼んだ香織の声を聞いて振り返る。
バッグを左腕に掛けて、ノートや教科書を両腕に抱えて持った香織が歩み寄って来る。
笑みが零れる亘。
香織は膝上までの白いスカート、実はノースリーブの白のトップスに、淡い紫色のカーディガンを羽織って、オシャレなヒールを履いていた。
何よりも膝の下から伸びる香織の黄色い足に、亘は惹き付けられた。
(めっちゃ可愛い!)
香織は亘の左隣にやって来る。
「江繋さんは?」
「今日アルバイトだって」
「そっか」
(香織ちゃんと二人で廊下を歩けるなんて……! バイトしている江繋に感謝)
ゆっくりと歩き出す二人。
(何を話そうかな)
亘が迷うが、香織の方が切り出してくる。
「人口論読んだ?」
香織は光文社古典新訳文庫の「人口論」の薄い文庫本を手に取って見せる。
(香織ちゃん、真面目だなぁ)
「読んだよ。人口は等差級数的に増加するが、食料は等比級数的にしか増えない」
「逆だよ」
「えっ」
香織が裏表紙に横書きされた文言を読む。
「人口は等比級数的に増加するが、食料は等差級数的にしか増えない」
亘は恥ずかしかったが、言い訳するように、
「なんでそんな回りくどい言い方したんだろうね」
「翻訳の問題じゃない?」
香織は人口論の文庫本を両腕で抱えたノートの上に重ねて抱き締める。
「人口は掛け算で増えるけど、食料は足し算でしか増えないって言えばいいのに」
「なんかそれだと、小学生にも分かってもらえそう」
「難しいって思わせちゃったら、基本的に終わりだからね」
「そうなの?」
「囲碁とか将棋がそうじゃん。難しいって言っている奴は一生覚えられないし」
「ああ、そうだね」
「世の中に人間が創ったもので理解出来ないものなんて無いと思っているんだ」
「ワタル君、囲碁分かるの?」
「分からないけど、教えてもらえれば絶対に覚えられる自信あるよ」
「へぇ」
「人間の脳みそだって皺に名前が付けられるくらい同じ所にしか出来ないんだから、みんな大して変わらないんだよ。違うのは難しいと思ってしまうかどうか」
「難しいって思わなければ、何でも覚えられる?」
「そうだよ。昔の人なんて難しい漢字をいっぱい覚えていたし、携帯電話の無い頃はよく掛ける電話番号を十個くらい皆覚えていたってお父さんが言ってた。難しいって言っている人は自分の可能性に気付けていないだけだって」
「可能性か」
香織がそう呟くと、亘は首を左に傾けて香織の可憐な横顔を見つめる。
「香織ちゃんも囲碁覚えられるよ」
香織は鼻で笑った。この時の亘は香織が笑ってくれて少し嬉しかった。
ただ、下を向いて何処となく悲しそうにも見えていた。
(そう云えば、あの時も囲碁の話ちょっとだけしたっけ)
「漫画かぁ」
如何にも女性ウケを狙って、明るくてオシャレな雰囲気に設計された喫茶店。
亘と香織は四人掛けのテーブル席で相対して座る。
亘は白シャツの上に紺色の長袖シャツをジャケットのように羽織って、ジーンズにスニーカーを履く。
香織は脛を半分隠すほど裾が長い紺色の長袖ワンピースを着ている。靴は黒のブーツ。
亘は左、香織は右の椅子に自分達のバッグを置いた。
他にもカップルや女友達同士がつるんで、店にやってきて楽しそうに会話を交えていた。
人々の話し声で少し騒々しいので、亘も香織も自然と声が大きくなった。
「亘君はアニメとか漫画は見ないの?」
「よく見ていたよ。お兄ちゃんから借りて」
「お兄ちゃんって一番上の?」
「真ん中のお兄ちゃんの方。三人の中で一番頭良いんだけどね。一番勉強出来る癖に漫画も一番読んでいたし。僕はお兄ちゃんにお願いして色々読ませてもらったんだ。ワンピースとかNARUTOとかブリーチとか遊戯王とかヒカルの碁とか」
「私、『ヒカルの碁』大好きだよ」
香織は少しだけ表情と声色を明るくして、やや食い気味に答えた。
「本当に? 僕も好きだったな。読んでも全然囲碁覚えられなかったけど」
「伊角さんが好き」
「中国で修行する人でしょ?」
「カッコいい」
「カッコいいよね。香織ちゃんも韓国や中国に行った時は武者修行って感じ?」
香織は呆れたように笑う。
「武者修行じゃないけど……」
(可愛い、香織ちゃんの笑顔……)
将来世界的ビジネスを始めるため、開発が進んだ中国や韓国のビルの群れを野望と希望に満ちた眼光で見物する中学生時代の香織……を、想像する亘。
「ワタル君は『ヒカルの碁』だと誰が好きだった?」
「筒井先輩」
「どうして?」
「いや俺、野球部で人気競技だったからさ、高校も甲子園に出たことがある強豪校で部員が集まらないってことは無かったのね。それを他の皆が誰もやっていない囲碁の部活を始めようって、その気力がすげぇなって思って」
「囲碁ってなんで流行らないと思う?」
「皆がやってないからじゃないかなぁ。俺なんかだと六時までに部活が終わったら、仲間達と部室のテレビでプロ野球中継見たりさ、土日も基本野球漬けだけど、たまに午前中は練習試合だけやったら、皆で球場へ遊びに行ってデーゲームの試合見たり、そんなことやってるとプロの選手や監督の名前だってどんどん覚えるし、それで皆であの選手は良かったとか、東京ドームは消防法で火が使えないからお弁当になるけど、神宮とか西武ドームとかマリンとか横浜スタジアムは火が使えるから、屋根の無い球場の方が美味しいご飯が食べられるとか、そういうことを先生や先輩に教えてもらったり……楽しかったなぁ」
「そっか」
「ごめん、なんか僕ばっかり喋っちゃって」
「いいよ、別に」
「香織ちゃんも野球観に行かない?」
「ううん……私、野球はちょっと興味無いかなぁ」
「そっか、じゃあ行ってみたいなぁって思う所とかある?」
「何だろう……遊園地とか?」
「いいね」
「でもディズニーって人が多過ぎるし、並ぶのがちょっと大変かなぁ」
「じゃあ横浜行こうよ」
「横浜?」
「うん、平日ならそこまで混んでないし、観覧車やジェットコースターもあるから、楽しいよ」
「でも私、予定がちょっと立て込んでて」
「良いじゃん。午前中だけでも一緒に行けない? ランチ食べて解散でも良いし」
「そうね……」
香織は右隣の椅子に置いていたハンドバッグから白い革表紙の手帳を取り出して、
「明後日は、夕方までなら空いてる」
「夜は?」
「夜はバイトなんだ」
「キャバクラとか?」
香織は微笑みながらも頬を少し膨らませて不貞腐れる。
「そんな風に見える?」
「ごめん、そんなことないけど」
香織は前のめりになって微笑みながら、獲物を捉えた虎のように亘を見つめる。
「どうする? 私がもしも知らないおじさんとパパ活していたら?」
悲しい目になる亘。
「してるの?」
「してないけど」
「ううん……」
(やべぇ……怒ってるのが分かる。本音を言えば香織ちゃんは処女であって欲しい。けどこんなに可愛い子を周りが放っておくわけないし、そんな望みは薄い。そうだ、そういえば高校時代、倫理の宮島先生が時間が余った授業終わりに言っていたよな)
「先生、人は見た目で選ぶべきですか? それとも中身で選ぶべきですか?」
暇だったからクラスの誰かが退屈凌ぎにそんなことを訊いた。
(学校の先生なんだから「中身」と答えるに決まってんだろ。教師の面目や世間体があるから表向きは「中身だ」って答えて、実際には顔の可愛い人と付き合うんだ)
亘は宮島の奥さんが美人であることを知っていた。
亘は嘲笑を浮かべながら、黙々とノートにペンを走らせていた。
「質問が間違っている。どうして人を見た目と中身だけで判断するんだ?」
(はぁっ!?)
亘は思わず教壇の方に首を上げる。
もう、顔に肉も着き出した初老の男性がスーツ姿で教壇に立つ。
「顔が可愛い? イケメン? そりゃ誰だって好きになるだろう。性格が優しい? 頭が良い? 金持ち? 高学歴? そりゃ誰だって好きになるだろう。そんな相手の要素ばかり気にしていたら、君達一生幸せな恋愛なんか出来ないよ」
亘は周りを見た。
他のクラスメイトの男子も女子も何人もが真剣な眼差しで宮島を見つめる。
「中身ってのは性格だけじゃない。本人の過去や能力も含めて全部中身だよな?」
(人の中身は性格だけじゃない……)
「そもそも判断しようって判断も間違っている部分が多い」
(確かに、判断するかしないかを判断したことって無いな)
「これは特に男子に言うけど、男は自分が童貞であることは避けたい癖に、女子には処女でいて欲しいと願う。これは親御さんならしょうがないけど矛盾しているよね。あまりに身勝手だ。いいかい? 本当に好きになると云うのは可愛いとか優しいとかイケメンだとか処女だとかさ、そういうことじゃないんだ。その人の過去に、たとえどんなことがあろうとも受け入れて、愛すると誓う。幸せにするために、一生懸命に自分が頑張ろうとする。それが本当の愛だから」
宮島は右の拳を胸に当てる
「相手ばかりに気を取られるな。自分の心から本当の愛を発することが出来なければ、どんなに素敵な人と恋愛しようが結婚出来ようが、絶対に幸せになれないよ」
(俺が幸せになろうとするんじゃない。俺が香織ちゃんを幸せにしようとしなければいけないんだ。此処で香織ちゃんを失いたくない……!)
「ちょっと悔しいけど、それも含めて香織ちゃんだから、僕は受け入れる」
「へぇ……」
「香織ちゃんにたとえどんな過去があろうとも僕は……」
苦しそうに目を瞑る亘。
(やべっ、今の言葉は重かっただろうなぁ。フラれちゃったかなぁ……)
香織は鼻で笑う。
(うん?)
香織は亘から視線を逸らし、手帳をバッグにしまう。
「いいよ」
「えっ」
瞼を上げる亘。
「遊びに行こう」
「いいの?」
「でも横浜行ったことないから案内してくれる?」
「うん、分かった!」
亘に笑みが零れると、香織は少し皮肉を混じりつつも微笑み、優しそうな目付きで亘を見つめた。
(そして今日、今の今まで、楽しみにしていた横浜デート)
晴れ渡り、澄み切った青空。
皮を剥いた後に小分けして半円形になった蜜柑の房を地面に突き刺したような形のヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルが、国際橋が架けられた川を挟んで向かい側に見える。すぐ右には横浜港の海が広がっている。
香織はスマホを取り出す。
無数のアイコン達が表示されている画面の左上に11:00の現在時刻。
香織はカメラのアイコンをタップして、スマホの裏側を半円形のビルに向けると、間もなく写真に収めた。
「面白い形だね」
香織の左手首に薄紅色で細いベルトの腕時計が巻かれているのが見えた。
香織は白い長袖のニットにベージュのロングスカート、グレーのパンプスを履き、左手にハンドバッグを下げる。
香織の染めた長い茶髪と服の色合いが絶妙に合っているように亘は感じる。
「そうだね」
黒のジーンズに、白シャツ、カーキ色のMA-1ジャケットを羽織る亘も、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルを見つめる。
亘はホテルそのモノではなく、ホテルに香織と一緒に泊まってどんな夜を過ごすかなんて妄想にしょうもなく耽る。
「香織。俺、明日が誕生日なんだ」
「じゃあ、このまま夜を明かせば誕生日になるのね」
「そうだよ」
「私が、ワタル君の誕生日プレゼントだよ!」
亘は妄想の香織を強く抱きしめる。
「香織ちゃん!」
「何考えてんの?」
現実に戻って、頭を震わせる亘。
「何でもない。行こう」
二人は遊園地の方へ戻ると、よこはまコスモワールドの名物、大観覧車に進んだ。動き続けるゴンドラへ足元に気を付けながら乗り込んで、扉が閉められる。
ゴンドラの中で向かい合う亘と香織。回転する観覧車の外側の椅子に香織、内側に亘が座った。
まだ初めだから、鉄柵の鉄パイプに遮られて、外の風景はまだよく見えない。
しかし二人が乗ったのは普通のゴンドラではなく、椅子や床まで全面強化ガラスで出来た「シースルーゴンドラ」であった。
「すごぉい!」
香織は子供のようにはしゃいで、席に座りながら両足をばたつかせ、自分達が昇天していく様子を楽しむ。
一方の亘も香織と同じように下を見るが、気持ち悪くなって少し吐きそうになる。
(俺の身体って高所恐怖症だったのか……)
亘は鳥肌を立たせながら、頭を上げる。
亘は自分達より一個前のゴンドラにカップルが二人同じ椅子に横並びに座っている後ろ姿を見つけて、少し嫉妬を覚えた。
(香織ちゃんも俺の隣に座ってくれたら……)
香織は外の風景に夢中で、みなとみらいのビルにスマホを向けて写真を撮る。
亘も窓の外を見回すと、ジェットコースターのピンクや黄色の骨組みが見えた。
でも、それよりも、亘は香織のことが気になっていた。
香織が自分のスマホを愛らしく見つめて、暴力的なまでに笑顔を光り輝かせる。
(香織の見つめている現在と未来に、僕の姿は本当にあるのかな? 僕の中では良い思い出として一生忘れられなくなって、でも香織は他の男と恋愛して結婚して、僕と一緒に過ごした時間なんて忘れてしまって……)
亘は両手で拳を握る。
(友達関係のままでOKなんて思っちゃダメだ。香織と付き合えなくちゃ意味無い。僕は香織の彼氏にならなくちゃいけないんだ!)
と強く決意したものの、童貞かつ高所恐怖症の身体が弱弱しく震えて、肝心の頭も香織に話し掛ける話題すら浮かんでこない始末。
(観覧車に居た15分間、香織とほとんど喋れなかった……)
ゴンドラから降りて、通路を歩いて行く亘と香織。
スマホばかり見ている香織。
亘は歩きながら、右横から申し訳なさそうに香織に訊く。
「どうだった?」
「楽しかったよ」
何処か素っ気ない香織。
(まずい。香織が何を考えているんだか全然分からない)
亘は横を向いて、青く広がった横浜の海を見る。
(横浜の海よ、「女心は海より深い」とはまさにこのことですか?)
「次は何処行こうか?」
亘は探りを入れると、香織は自分のスマホ画面を亘にも見せて、
「ご飯食べに行こう」
香織のスマホはレストランの紹介サイトを表示している。
「まだ12時じゃないけど、大丈夫?」
「一番混んでいる時間に行っちゃダメだよ」
「そうだね」
(僕が案内する予定が、案内されているじゃないか)
亘と香織の二人は遊園地隣にある商業施設「横浜ワールドポーターズ」へ歩くと、1階のフードコートにやってくる。香織の考え通り、フードコートには空席が残っていて余裕をもって入れる状況。
フードコートには六つほどテナントが入っていて、さて、亘は香織が何を頼むのか見計らっていると、香織は迷うことなく「コリアン料理チョンジュ食堂」に向かう。亘も香織に随いて行くしかない。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに店員が香織に話し掛ける。
「スンドゥブ定食、キムチも付けてください」
(すんでゅぅぶ?)
香織が呪文のような名前を唱えたので、亘は何かと思って、掲げられていたメニュー表を見ると、真っ赤なチゲスープに浸かった豆腐鍋のことだと分かり、戦慄を覚える。
(俺、辛いの苦手なんだよなぁ……)
「お客様は?」
店員が亘に訊ねる。
(いや、香織ちゃんに趣味が合わないと思われたらダメだ!)
「チーズスンドゥブ定食でお願いします」
(チーズなら辛みも少しは円やかになるはず)
「キムチの方は?」
「頂きます」
亘が注文し終えると、香織が亘に訊いてくる。
「あれ、ワタル君。辛いの苦手って言ってなかった?」
まだ何も食べていないのに、辛い物を食べた時のように頭皮の毛穴から汗水が噴き出す亘。
(香織ちゃん、俺が辛いの苦手なの知ってて注文してきたのか? まずい、さっきの観覧車デートが全然ダメだったに違いない。香織ちゃんは俺に見切りを付けようとしているんだ。このままだとフラれちゃう……何か、何って言えば良いんだ?)
平静を装いながら、微笑を浮かべる亘。
「香織ちゃんの好みを知りたいんだ」
「好み?」
「うん……どんなものが好きなのかなとか」
「私、辛いのが好きなの」
「だから僕もチャレンジしようかなぁって」
「へぇ……」
料理が出来るのを横並びに立って待つ香織と亘。
香織は右手のスマホを見る。
亘も左で立つ香織に倣って自分のスマホを右手に取る。
でも亘はスマホの画面より香織の横顔が気になって見つめる。
少し微笑んでいる香織。
(もっと香織ちゃんとお話ししたい。でもスマホには敵わない。せっかくデートしているのに全然会話出来ない。スマホで何をしているんだろう? LINEで女友達に、今同じ大学の男子と一緒に横浜にデートしに来たんだけど、全然女心が分かってないダメ男でマジでつまんないとか愚痴っているのかな? 神様、来世は可愛い女の子のスマートフォンに転生させてください。彼女の笑顔をカメラで捉えて独り占め出来るスマホが羨ましいです。人間の目は二つしかないのに、最近はカメラが二つも三つも附いている機種が増えてスマホはズルいです。AIに仕事を取られるなんて騒がれるけど、AIに恋愛まで取られてしまうのでしょうか? 僕にも年を取って老いていく現実の女性ではなくて、永遠に若いバーチャルの女性に恋をしろって言うのですか? 神様、僕には無理です。僕は香織ちゃんに恋をしているんです。一緒に年を取って、同じ時代を生きていく女性と恋愛したいんです。いや待て。昨日の哲学史の授業で、ショーペンハウアーは世の中の全てが意志の現れで、万物の本質は意志だとか何とかそんなことを先生が言っていたよな。ならば居るのか居ないのかも定かではない神様なんかにお願いしても仕方が無い。意志よ! 香織ちゃんの関心をほんのちょっとだけで良いから、スマホではなくて僕に向けさせてくれ! 此処に居るんだよ。感情の無いスマホじゃなくて、ちゃんと君のことが好きな男が此処に!)
すると、香織はスマホから目を離すと亘の立つ右に首を傾けて、
「何?」
「振り向いた!」
(意志の力か!)
「だってジロジロ見てくるんだもん」
「ごめん。でも悔しくて」
「何が?」
「iPhoneに香織ちゃんを独り占めされるのが」
香織は上品に笑う。
「スマホにやきもち焼いてどうすんの?」
「香織ちゃん」
「お待たせしました」
店員が二人が注文した定食のトレーを二つ並べて出した。
二人は自分達のトレーを両手に持つと、フードコート内の空いているテーブル席に移動した。
トレーをテーブルに置いて向かい合って座る二人。
香織は両手を合わせる。
「頂きます」
香織は割り箸を割って、鍋に箸を伸ばす。
(へぇ、香織ちゃんってこんな時でも「頂きます」って言うんだ)
亘も素早く両手を合わせて、軽く頭を下げる。
「頂きます……」
亘も香織と同じように、スンドゥブ定食に箸を伸ばす。器用に鍋の豆腐を箸で掴み口元に持ってくると、豆腐とチーズの円やかさがチゲスープの辛みを優しく包んで、亘の舌に濃厚な酸味と辛みを堪能させる。
(意外と美味いなぁ)
香織が付け合わせのキムチに箸を伸ばして口に入れると、ご飯も一緒に食す。
亘は香織を真似して、まずキムチに箸を伸ばして口に入れる。慣れない辛みと酸っぱさに咽そうになるが、香織のように白米を食べると、苦手だった酸味と辛みが米のでんぷん質と見事に調和して、なるほどこれは美味いと舌が満足する。
(これだけでご飯イケる)
亘は思わず笑顔が零れると、食べ物を飲み込んだ香織が亘に話し掛ける。
「美味しい?」
亘は頷く。
「うん、韓国料理ってこんなに美味しかったんだね」
「良かった」
そう言った後に一瞬だけ見せた香織の微笑みを亘は見逃さなかった。
「香織ちゃんと一緒ならどんなことでもやれそう……」
「本当に?」
「辛いの苦手だったけど、美味しかったし」
「じゃあジェットコースター乗ろうよ」
「うん」
(とは言ったものの、ジェットコースターも苦手なんだよなぁ……)
「いやあぁっぁぁぁぁぁほおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉい!」
楽しそうに絶叫する亘。
亘と香織を乗せた貨車はレール上を高速で駆け巡ると、真っ逆さまにプールに突入した。プールの噴水装置が水しぶきを上げる。
ダイビングコースターが終わって、出入口から歩いて出て来る二人。
「楽しかったぁ」
すっかりテンションが上がって、興奮気味に呟く亘。
「そう?」
亘には香織の表情が少し青ざめて、やつれているように見えた。
(自分から誘ってみたものの、思っていたより怖かったって感じかな)
「怖かった?」
香織は右手で口元を抑える。
「ちょっと戻しそうになっちゃった」
(しまった、食べたばかりだったもんな……)
「少し休む?」
「大丈夫だよ」
(ちょっと疲れてそうだな……)
亘は素早く自分のバッグから「よこはまコスモワールド」の小さな案内の紙を取り出して広げる。
「じゃあゲームセンター行こうか?」
「いいね」
(良かった……香織ちゃんに「いいね」って言ってもらえた)
二人は「よこはまコスモワールド」の「カーニバルストリート」と呼ばれる筐体が多く並んでいるエリアに進んだ。
魅力的な商品が入っているUFOキャッチャー、見慣れない大型の最新ゲーム機、「あった、あった」と懐かしめる子供向けの小さな筐体まで、さまざまなゲーム機が所狭しと並んでいる。
(香織ちゃん、そんなにゲームとかしないだろうから、何をやろうか迷うだろうな)
「私、これやりたい!」
「えっ?」
香織は「ワニワニパニック」の前で止まった。
「懐かしいなぁ」
香織はまだ金も入れていないのに、もうワニの人形を叩くための先端がやわらかいハンマーを両手に握っている。
「早く!」
「よし」
亘は「ワニワニパニック」の筐体に百円玉を入れる。
「ワニワニパニック」が稼働を開始し、ワニの人形が手前に這い出て来る。香織は、握ったハンマーを左右に振り回し、ワニの人形を叩いていく。
「えい! えい! にゃん! にゃっ!」
無邪気な幼稚園児のような笑顔を浮かべて、ワニをやっつけるのに没頭する香織。猫の鳴き声のような擬音を発しながら、ひたすら飛び出して来るワニ達にハンマーを振り下ろす。
(やべぇ、超可愛い……)
点数は大したこと無かったが、楽しそうに遊んだ香織を愛しく見つめているだけで亘は幸せだった。
「一緒にやろう」
次に二人が来たのは、少し奥行きの広い筐体の前で、籠の中にボールを投げ入れるゲーム機。
亘と香織は一緒に籠の中に次々とボールを投げ入れて遊んだ。
(香織ちゃんとこうして永遠に遊べたらなぁ)
二人はその後も太鼓の達人で一緒に太鼓を叩いたり、二人でプリクラを撮ったり、UFOキャッチャーで景品を掴んだり、一二時間ほど遊んだ。
ゲームセンターから出た二人は外に出ると、陽が当たるベンチに座って休憩する。
亘は香織のために売店でソフトクリームを買ってあげた。
香織はUFOキャッチャーで手に入れた大きなぬいぐるみを膝に乗せて、ベンチに座りながら、亘からソフトクリームを受け取る。
亘は香織の右に座る。
ソフトクリームは逆三角形のコーンの上にバニラとチョコのミックスアイスが覆い被さり、頂上にくまの形をした茶色の小さなカステラが乗っていた。
「可愛い」
香織はソフトクリームの上に乗ったくまのカステラを右手で摘み、一口でパクリと食べた。
亘は手に持った自分のソフトクリームを香織の前に差し出して、
「もう一個食べる?」
「大丈夫」
亘は腕を引くと、香織と同じようにくまのカステラを食べると、ソフトクリームを口に含んだ。
ぼうっと前を向く亘と香織。
二人の前を親子連れが何組も歩いて行く。
香織はキャラクターの乗り物に乗り込む幼い男の子の姿を追った。
「なんで子供ってキャラクターが好きなんだろう?」
香織が呟くように訊くと、亘は少し考えて、
「可愛いからじゃない?」
「男の子も?」
「男の子は可愛い女の子大好きだからね」
「恋愛もキャラクターを好きになるのと同じなの?」
(ちょっとイラついたかな?)
亘は香織の機嫌を崩さぬように注意深く、
「そういうわけじゃないと思うけど、キャラクターも好きになってもらえるように、漫画家さんやデザイナーさんも創るじゃない?」
「そうだね」
亘は香織の着ている白い長袖のニット、ベージュのロングスカート、足元に見えるグレーのパンプス、左手に掛けているハンドバッグなどをチラチラ見つめながら、
「今日の香織ちゃん、物凄く可愛くて、俺しあわせだった。」
香織は少し照れ笑いを浮かべながら、亘の方に首を傾ける。
「僕のためってことでもないと思うけど、可愛い服着て、オシャレして、綺麗にしてきてくれて、それが凄く嬉しい」
「なんで?」
「分かんないけど、可愛いって思われたいって子が一番可愛いから……じゃない?」
「ふうぅん……」
「だから子供達もキャラクターを好きになるのかなって」
香織は無言のまま、何やら自信げな微笑を浮かべて、ソフトクリームをなめた。
亘は香織から視線を逸らして、遊園地に来ている親子連れを見る。
亘が注目したのは、夫婦と娘息子の四人で遊びに来ている家族連れ。子供達はまだ幼く幼稚園生程度の身体の大きさしかない。女の子の方が少し体が大きく、男の子の姉であることが見受けられる。元気いっぱい遊び回る二人の幼児を、夫婦が愛らしく見つめている。
「香織ちゃん、子供好き?」
「うん、好きだよ」
「良かった……」
香織は亘の横顔を見る。亘の視線を香織も追う。亘が親子連れを見つめているのを察する。
(こいつ、私と結婚したいんだ)
(そうだ。香織といつか結婚して、あんな風に子供達を遊園地に連れて、幸せそうに遊びたい。だから絶対、香織にフラれちゃいけない)
香織はソフトクリームのアイスを全て舐め終わり、ワッフルを焼いたコーンまでも全て平らげると、
「ワタル君」
「何?」
亘は香織に振り向く。
「メリーゴーランド乗りたい」
「うん、いいよ」
二人はベンチから立ち上がる。香織は亘の左の手首を強く掴んだ。
「香織ちゃん?」
香織は亘の視線を親子連れから逸らすために、メリーゴーランドへ引っ張る。
「行こ!」
亘は香織の手が自分の身体に触れてきてくれて、嬉しくて興奮を覚える。
(香織ちゃんがこんな積極的にリードしてくれるなんて)
香織は亘を引っ張りながら、笑顔の化粧で、自分の心から無性に溢れ出てくる悲しみを抑えようとする。
(ワタル君、私と結婚したいって願うのは嬉しいよ? 私のこと、こんなにも好きになってくれるなんて、それはとっても嬉しいんだよ? でもね! 私を子供を産んで育てるお母さんにしようとするのは少し待ってくれないかな? だって、私だって、楽しい女の子時代をもっともっと満喫したいんだから!)
亘と香織が向かった二階建てのメリーゴーランドは、間近で見ると意外と小さい。
亘はそんなメリーゴーランドを見て、マイホームを建てる夢を抱いた。
(都内に二階建てか三階建ての家を建てようとしたら、このメリーゴーランドと同じくらいの敷地の広さになるのかな?)
チケットを買い、通路を歩いてメリーゴーランドに進入していく亘と香織。
香織が歩きながら、メリーゴーランド内にある白い木馬を右手で指差す。
「ワタル君はあれに乗って」
「白馬の王子様に憧れてるの?」
「そう、王子様になって」
「王子様か……」
笑顔を浮かべる二人。
「香織ちゃんがお姫様で、俺が白馬の王子様」
「うん」
(可愛いなぁ、香織ちゃん)
(ワタル君、私達まだ若いんだから、白馬の王子様の夢くらい好きな女の子に見せてあげようって、それくらいの器の大きさは持っていてよね)
亘は香織の指示通り、白い木馬に跨り、香織は亘と向かい合うように馬車のような椅子に座って背中を凭れた。
メリーゴーランドが回り出す。
上下する木馬に跨りながら、亘はふざけて香織の右手を差し出す。
メリーゴーランドの中にあるスピーカーが音楽を奏でている。
音がうるさいので、ワタルは大声で叫ぶ。
「香織姫! 私は王子様です! あなたを迎えに参りました!」
香織はそんな亘を見て、笑いを禁じ得なかった。
香織も叫び返す。
「あら、これはこれはバカ王子様。ご機嫌如何ですか?」
「香織姫! 私と結婚してください!」
香織は思わず吹き出して笑う。
(付き合う前にプロポーズかよ)
香織は右手で口元を覆って一旦笑顔を隠すと、台詞を思い付いて亘に返す。
香織は左手を胸に当てて、右手を亘の方に伸ばす
「ああ、ワタル。あなたはどうしてワタルなの!?」
すぐに何の掛け合いだか察した亘は、
「ああ、香織。あなたはどうして香織なんだ!」
「パパとママが名付けたからよ!」
「素晴らしいセンスのお父様とお母様だ!」
「パパが持田香織さんのファンだったの!」
「でも香織姫の方が持田さんの500倍可愛いよ!」
「そんなことないよ」
「そんなことあるさ! 香織姫がこの世界で一番可愛い!」
香織は口元を右手で覆って笑うと、大声で訊き返す。
「ワタル君はなんで亘って名前なの?」
「世界を駆け巡って欲しいからだって」
「何処へ行くの?」
「何処へでも!」
「何処でも?」
「ああ、香織ちゃんとどんな場所へでも行ってみたいな!」
すると、香織は左手首に巻く腕時計がたまたま見えて、改めて左手首を自分の顔に向き直して、時刻が四時を回ろうとしているのを確認する。
(そろそろだな)
香織は両手を口元に近付けて叫ぶ。
「ワタルくーーん!」
「何?」
「そろそろ時間なの」
「何が?」
「魔法が解ける」
「えっ……?」
香織の言葉通り、メリーゴーランドは回転を緩めていき、やがて完全に止まった。
楽しそうにメリーゴーランドから出て来て、並んで歩く亘と香織。
「楽しかったぁ」
香織の笑顔を見て、救われた感覚を得る亘。
「良かった」
「ワタル君」
「何?」
「今日のデートはこれでお終いにしよう?」
不意打ちされたように戸惑い出す亘。
「えっ、なんで?」
「私、この後バイトだから」
「まだ四時じゃん」
「今はね。でも横浜まで来ちゃったから、バイト先まで電車で結構掛かるし、今から出発しないと間に合わないんだ」
「そっか……」
(ううん、今日のデートの何がダメだったんだろう……)
「じゃあね」
香織は早足で亘から離れようとする。
(ダメだ! ここで香織ちゃんを行かせるわけにはいかない!)
亘は立ち止まって叫ぶ。
「香織ちゃん!」
香織は足を止めて、亘に振り返る。
「何?」
この世界で何者よりも可愛い顔の香織。
明るい茶色に染めた長い髪の毛を真っ直ぐ垂らし、大きくて丸い目を持ち、色白の肌、可愛らしい丸い鼻、潤いに満ちた桃色の唇。
この世界で誰よりも真剣な表情の亘。
「すっ……好きです!」
「ワタル君」
「僕と、付き合ってください!」
亘は右手を差し出し、頭を深く下げて、目を瞑った。
香織は気まずい表情を浮かべる。
(言うしかないな……)
「ごめんなさい」
亘は苦悶の表情で首を上げた。
「そうか……」
申し訳無さそうな表情の香織。
亘は泣きそうなのを堪えて、微笑を浮かべ、香織に訊く。
「なんでダメなの?」
香織は姿勢を正して、思い詰めた厳粛な雰囲気で打ち明ける。
「私、囲碁が強い人と付き合いたいの!」
「……はぁい?」
(囲碁って何の話?)
「ワタル君には言ってなかったけど、私、囲碁棋士なんだ」
(囲碁棋士?)
「全然知らなかった」
「囲碁が強くないと私、尊敬出来ないの。だから、ごめんなさい」
香織は恋路から離れて行く。
(そんな理由? デートがダメだったからとかじゃないの!?)
「まっ、待って!」
亘は香織の前にナンパでもするように慌てて立ち塞がった。
「じゃっ、じゃあ! 僕、囲碁強くなる!」
どう考えても出まかせを言っているのが察せられて、呆れた表情を見せる香織。
「囲碁、分かるの?」
亘は香織の視線が明らかに冷たいの分かって、つらいがこれを堪えながら、
「分かんないけど、僕に囲碁を教えて! 囲碁を覚えて強くなるから! お願い!」
「ほう……」
すると、香織は自分の顎を持って、考える仕草を見せると訊いてくる。
「今、いくら残ってる?」
「いくらって?」
「お金」
「えっ? どうして?」
「私に払う、個人レッスン料」
「レッスン料?」
「他のお客様は私にお金を払って囲碁を教えてもらっている。だからタダってわけにはいかない」
香織は真顔で亘を見つめている。
(ここでケチったら、もう一生香織ちゃんに相手してもらえない)
「分かった、払うよ」
「じゃあ、一緒に行こう」
香織の後ろに随いて歩く亘。
(これは、『普通の恋』じゃないな……)
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