第20話 還る想いは濡羽色に染まり 前編

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  これ以上に良いと思える相手に、この先に出会う事は無いと思った男は、最低の男になった。


 昨年の誕生日に、お父様に買ってもらったアルファロメオGT500の真っ赤な車を屋敷の玄関前に止めて、後部座席から4つの紙袋を引っ張りだす。扉の開閉が中途半端だったから、紙袋の紐が内側の取手に引っかかり上手く出せない。イラついて、そのまま力任せに引っ張ったら、紙袋は耳障りな音と共に半分まで破れた。

 昨日の参加賞ともいうべき品。誰もが知っている有名ブランドのバッグと靴と服。総額はいくらだろうか?値札を見ずして、この春の新作である事だけを確認して包ませた。どの店でも店長を筆頭に店員総出で馬鹿丁寧に店の外で並んで、いつまでも頭を下げていたから、それなりだったろう。だけど、どれも欲しかった物じゃない。また、使う気のないアイテムが無駄に増えていくだけ。

 車のエンジンもドアも開け放したまま、荷物だけを持ち屋敷の玄関へ向かう。

 大正の戦争好景気に、先祖がヨーロッパの建築様式に憧れて作らせた屋敷は、築後100年を経っても朽ちることなく。さすがは金に糸目をつけないで作らせただけはあり、大きな補修工事をせずとも現存し、重要文化財として認定するかどうかなんて話も出るほどの存在感を呈している。お友達を連れてくれば、「本当にお姫様なのね。」とよく言われた。我が柴崎家に劣らずの階級の友達の家も、もちろん大きなお屋敷だったりするが、このような大正ロマン建築様式ではなく、最新デザインの邸宅が逆に麗香は羨ましかった。

 内装は時代に合わせて生活しやすいようには改築をしているが、一つだけ不便さに我慢がならない所がある。ステンドガラスがはめこまれた大きくて重い玄関扉。麗香は嵩張る紙袋を両手にドアへと手を伸ばすが、ドアノブに手が届かない。押すのではなく外から引くタイプである。

「どうして、お風呂場はすぐに最新のを導入する癖に、こういう所は、昔のまんまなのよ!」

 荷物を一旦下に置けばいいだけの話だけれど、何故か、それは意地でもしたくない。いくらこれらが欲しい物じゃなかったとしても。

 紙袋を体で押しつぶすように手を伸ばし、あと一センチで届きそうなところで扉がそっと10センチほど開く。もちろん超能力でもなく、センサーがあって自動で開くわけでもなく、中から開けてくれただけの事。その、お節介にイラつく。扉が開けられるように後ろに一旦下がった。

「お帰りなさいませ。」

 陰気くさい黒いスーツを着た男は、開けた扉の横に立ち、白々しく頭を下げる。

 無視して中へ。15センチほど高くなっている上がり間口に、これまたお節介にも麗香のルームシューズが揃えて置かれているのを視認し、さらにイライラが増す。

 持っていた紙袋4つを、その場に捨てるようにドサッと落とし、ルームシューズに足を入れた。

「お嬢様、昼食は、いかがなされますか?」

 言わなくてもわかっている癖に、いつもいつも白々しく、執事気取りで聞いてくる。麗香の苛立ちを煽っているとしか思えない。

 とにかく、この顔は見たくないし、見られたくない。その質問にも無視して足を一歩踏み出したら、紙袋の紐が足に絡まって躓いてしまった。

「大丈夫ですか?お嬢様。」

 床に手をつく前に腕を掴まれ、助けられる。

「触らないで!」

 見たくない、見られたくない顔を向けてしまった。昔から変わらない目じりに皺を作った微笑み、と冷たい手。

 変わったのは微笑に感情がなくなったことだ。

「申し訳ございません。」恭しく、また頭を下げる藤木。

 どうしてこいつは、この怒りを読んでいるはずなのに、こうも冷静に、そしてこの屋敷に居られるのか。

 昔から、そう、藤木の考えている事はわからなかった、何一つ。

(私の考えや感情は、全て筒抜けなのに。)

 藤木から顔を背けて、行き場のない苛立ちを、紙袋を踏みつけて吐き出す。洋服を包んでいたセロファンに滑って、破れていた所が更に大きく避けた。お行儀が悪いのは百も承知。

(だけど、私はもう、誰かさんが高い理想を掲げた女とは違う。)

 ロビー内の壁面を、半周回り込む階段を一気に駆け上り、2Fの自室へ入り、ドアを後ろ手に思いきり閉めた。そのままベッドに飛び込むようにうつ伏す。

「はぁ~。」

 治まらない苛立ち、藤木がこの屋敷に居る限り、麗香はこのイライラを無くすことが出来ない。

 それをわかっていて、この屋敷の執事として一年以上も出入りしている藤木は、もう嫌がらせをしているとしか思えない。

 しばらくして隣の部屋のドアが開く音がする。側にあるクッションと枕を二つ、隣の部屋に向けて投げた。一つがドレッサーの鏡に当たって、出したままにしていた化粧水やクリームの瓶類が倒れ、ガシャンと音がなる。

 隣の部屋の扉が閉まる音、藤木が立ち去っていく気配がする。

「どうして・・・」

 このイライラが藤木の存在だけじゃない事はわかっている。

(そう、藤木じゃない。私・・・私自身。)







  これ以上に良いと思える相手と、この先に出会える事は無いだろうと思った女は、最低な女になった。



 文香会長が時計をちらりと見て、小さく溜息をついた。

「麗香は、今日も・・・。」

「はい、もうすぐお帰りになる頃かと思います。」

 時計から視線を亮に移して、目を細める。

「何と言っていいか・・・。」

「申し訳ありません。」

「やめて頂戴、結果的にこうなってしまったけれど、あなたは何も謝る事はしていないのよ。むしろ謝らなければならないのは、私の方。全て、わかっているでしょう。」

「・・・。」

「麗香とあなたが望むのなら、華准に落ちても構わないと言った私の気持ちに嘘はなくても、代々守り続けて来た華族の称号を子の代で落としてもいいのかと、恐れを生じていたのも事実。」

 いつも背筋をまっすぐに凛としている文香会長は、長く側に仕えれば仕えるほどわかってくる。その弱さ、臆病さ。奥を知れば知るほど、この翔柴会会長と言う肩書は、文香会長には重すぎて、相応しくないと思う。

「ごめんなさい。麗香に何も言えなくて。」

「会長、おやめください。私は、会長が思っている事を望み、この屋敷に入ったのではありません。」

「ええ、わかっています。それが半分嘘で半分が本当だと言う事も。」

 文香会長に嘘はつけない。亮と同じ能力の眼を持つ麗香の母。亮は実の両親よりも、この同じ能力を持つ文香会長の側に居る方を選んだ。親よりも、亮の辛辣を共有する事の出来る人だと慕って。

「麗香お嬢様の側に置いてもらえるという、私の我儘な夢を実現させて頂けただけで十分です。」

「本心を知りながら、何も出来ない私を責めてもいいのよ。」

「ご冗談を。同じ力で会長のを知って、それは出来ない事をご存知でしょう。」

 本心の読みあいに嫌悪を抱き、辛いのは亮よりも文香会長の方である事も知っている。

 文香会長が目を細めて辛そうな目を閉じ、何度目かの溜息を出す。心から、この力に嫌気をさして、もううんざりという気持ちがにじむ。この力から解放されるのであれば、死をも選びそうになる本心も読める。

 それを幾度も留めたのは麗香が居たから。麗香の癒しの力も影響しているが、それよりも強いのは母としての責務。

「お嬢様もそろそろ限界に・・・来期の人事をお考えください。」

 文香会長の瞼が開けられる。

「あなたは、誰よりも自分に厳しく、他人に優しすぎる。」

「それもご冗談、私はこの力を自分の為にしか使って来なかった。他人の本心を知り利用する事で、私は自分の為に自分の居場所を作っていただけの事。ご存知でしょう。」

「読み取る物が同じでも、解釈を違えると随分と変わるものね。」

「読み取る物も同じではないのかもしれません。」

「そうね・・・そうかもしれない。」

 そう、文香会長が言ったのだ。

『あなたが読み取る物は、あなたの経験の範囲でしか読めない。』

 亮と文香会長の辿った人生は違う。辿った人生が違えば経験の範囲も種類も違う。だから読み取る内容は実は同じじゃないのかもしれない。いや、もしかしたら、仮に同じ人生を辿る人間が二人いても、生まれついての性格や思考の違いで、読み取る解釈が違ってくるかもしれない。

「この力、一体、何なのかしらね。人生経験で読み取る質が変わってくるのなら、読み取る物は本当に相手の本心なのかしら?」

 それは亮も昔から疑問に思ってきた。

(本当に本心を読んでいるのだろうか?)と、一度、新田で試したことがある。

 今日の晩御飯で何が食べたいか心の中で思い浮かべ、口から出す晩御飯のメニューは思い浮かんだ物と別のメニューを言ってくれと頼んだ。何度やっても、読み取りやすい新田の思い浮かべた晩御飯のメニューは100パーセントで当ててしまった。だから間違いなく本心を読んでいるのだと確信したのだけど、読めない人間がいる事や、読みやすい新田や麗香の本心が、時に読めない時がある事もあり、そのムラのある法則性は、亮もまだわからない。

「神が授けて下さった力なのか、卑しい力と嫌われた卑弥呼の力なのか。」

「どちらにしろ、もう現代では必要のない生きづらくなるだけの力だわ。」

 亮は今、常翔学園の幼稚舎から大学までの一貫する教育機関、学校法人翔柴会の会長、柴崎文香の秘書として就労している。

 亮が高校1年の時に華族の子、当時はまだ弥神皇生が神皇家の双燕新皇と双子の継嗣だとはわからなかったが、その弥神皇生を殴ってしまい、寮生活が出来なくなった。

 人の本心を読む力があるおかけで実家に帰りたくなかった亮を、常翔学園の柴崎文香会長が特別に亮の保護観察者となって、一人暮らしを許してくれた。そんな関係もあって、常翔大学を卒業する年の1月より、そのまま文香会長の秘書として仕事を手伝う傍ら、この特殊な力が華族の血筋由縁であること、藤木家が華族の称号を持つ家である可能性の証拠を探すべく、柴崎家の執事のような立場で屋敷に出入りすることとなった。

 亮と麗香は24歳になった。

「会長、力の本質より、人事の件を。」

「うーん。正直、あなたが居なくなると困るわ。この翔柴会、柴崎一族は人が少ない。」心より困った心情の文香会長。

 明治の鎖国開国時の混乱時に武士より神皇政権を取り戻し、武士に変わり外国との交渉や国の政務を行ったのが、現在華族の称号を持つ家の祖先たち。鎖国開国の混乱を制定し国の安定を施したとして、神皇が華族と名付けた称号を作り与えた。  

 学校法人翔柴会が経営する柴崎家一族は、純粋の華族の称号を持つ高貴な一族。そんな高貴な称号を持つ柴崎家は何故か子供に恵まれない。

「それは、もうすぐ解決する問題です。何をためらわれているのですか?」

 文香会長から、痛いほどの辛辣が沸き起こり、亮を見る目に、どうしようもない憐れみと謝罪が含まれた。

「会長、それでは、また最初の話に戻ってしまいます。ただの民の私に情けは無用です。」

「皮肉な物ね、称号を持たないあなたが一番、華族の気質を高く持ち合わせているなんて。やはり藤木家は、どこかで華族の血が入っているはずだわ。」

「それはわかりません。明確な証明が見つからない限り、藤木家は成り上がりの農民の一族にすぎませんから。」

「証明さえ見つかれば、麗香はあなたへ・・・。」

「やめてください。」文香会長の言葉を強く遮った。

 文香会長は愁いだ表情で亮を見据えた後、俯く。

「・・・ごめんなさい。」

「いえ、私も失礼しました。」

 気まずい空気になったのを、文香会長が溜息と共に入れ替える。

「あなたが、私の側で使えたいと願い出てくれた事をいい事に、うちの馬鹿息子は一体どこをふらついているのかしら。」

 頭に手をやり、今度は怒りに満ちた息を吐く文香会長。

 前任の会長秘書であった凱さんは、今、行方知れず。小学部の理事長の仕事が嫌で逃げたと、洋子理事長はカンカンに怒っている。 それで滞る小学部の理事の仕事を、文香会長と亮が翔柴会と兼務している状況である。

「あなたが居なくなるのなら、凱斗には絶対に戻って来てもらわないと。」

「鷹取家の令状の件もあります。その報告をして以来、最近は私からの電話にも出なくなりまして、申し訳ありません。」

「あなたが謝ることないわ。あれでも凱斗には凱斗なりの考えがあっての事、と思いたいけれど・・・。」

 文香会長から一抹の不安が沸き上がる。凱さんに関しては文香会長も予測不可能、読み取り外の行動を起こして困らせる事、多々あり。

「ですが、これ以上、鷹取家の令状を無視するわけには。」

「鷹取家の令状が問題ではないのよ。問題なのは言付け。」

「はい、令状にしたためられてはいなくても、その令状と共に言付けされたたから、意味を成すのでしょう。」

「そう。だけど言付けはあくまでも言付け。7年間、凱斗に任せきりにしたのは事実。その負い目があるから書状で勅命する事が出来なかった。7年前、介添え金の支払いの話が来た時、我が柴崎家は立場をわきまえ、お断りの書状を送っているもの。それを華印入りの書状をしたためて強引に押し通したのは、あちら。還命新皇存命の問題を先送りして、介添え金を振り込んできたのよ。今更、凱斗に手を引けと言われても、書状じゃない限り、それに応える道義はないわ。」

 僅かに怒り交じりの溜息を吐きだした文香会長。もう、この問題はうんざりと言う本心も見受けられる。

 神皇家の古来からのしきたりにより、神皇家に生まれた双子は、どちらか一方の子を生まれたと同時に棄て置き抹殺される運命。そのしきたりを破ったのは、新皇が幼少時に住まう京宮を守り世話をする華族12頭家の一つ、西の宗の代表であった弥神家の当主弥神道元。

 24年前、新皇誕生時に捨氏の任であった弥神道元は、生まれたばかりの赤子の新皇を非情に棄て置くことが出来ず、しきたりを破り、自分の子として隠し育てた。その情けの末に生き延びた還命新皇こと弥神皇生は、後に道元から左目を移植され、受け継いだ卑弥呼の力と神の力を併せ持ち、その力を曲がった自己愛に向けた。同級生のりのちゃんを気に入り、皇后として迎えようとして口論の末、りのちゃんの胸を包丁で刺した。当時、生きているはずのない還命新皇の存在が発覚して混乱していた中で起きた殺傷事件に、華族会は対応できず、焦れた凱さんは、半ば強引に日本の地から弥神皇生を逃がした。

 砂利をタイヤが踏みつける音が、かすかに聞こえてくる。

「麗香お嬢様が、お帰りになられたようです。」

「ふー。今日も荒れる心を視なくちゃならないのね。」

 時計は午後1時30分、今日の仕事は終了。

「では私は、これで失礼します。」

「ご苦労様。新田君によろしく伝えて頂戴。」

 今晩、久々に新田と合う約束をしていた。

「承知しました。」

 頭を下げて翔柴会の事務所となっている文香さんの書斎を出て、玄関ロビーへ向かう。アルファロメオの独特なエンジン音と振動が屋敷内にまで聞こえてくる。

 月に2回ほど、麗香は現在お付き合いしている男性と金曜日の夜に会い、ショッピングをして食事をし、そして帝国領華ホテルのスイートで一夜を共にして土曜日のこの時間に帰ってくる。朝帰り。

 結婚を前提としたお付き合いは、もうすぐ1年になる。相手の男は、華族会西の宗に属している御田家の次男、克彦氏26歳。

 御田家は兵庫県の造船で財を成してきた財閥、藤木家と同じぐらい歴史も権力もあり、戦時は戦艦を造船して国と密着したその力は今でも健在で、半国営で展開されるエネルギー輸送は全て御田財閥が担う。麗香にとって、これ以上申し分のないお相手だ。

 ステンドガラスの施された職人細工の素晴らしい玄関扉の向うで、紙袋がつぶれるような音がした。手に持ちきれないほどのショッピングバッグが邪魔して開けられないでいるのがわかる。麗香に当たらない様にそっと、10センチほど押し開けて様子をうかがう。

 麗香が扉から離れたのを見計らい、扉を押し開いた。

「お帰りなさいませ。」深々と頭を下げた。

 イラついた心があふれ出ている麗香の手には、4つの大きな紙袋。どれも誰もが知っている高級ブランドの物。

 眉間に皺を作って睨むように亮に視線を向けた後、麗香は無言で中へと入って来て、用意しておいた室内用のルームシューズの横に、どさっとその大きな紙袋を落とすように置いた。そして、ため息をつきながらルームシューズに足を入れる。

「お嬢様、昼食は、いかがなされますか?」

 ホテルで遅い朝食を食べて来ている事はわかっているけれど、執事である為には、お嬢様の意向は聞かなければならない。

 麗香の心にイラついた感情が、さらに増したのを読み取る。

 麗香は亮の質問には応えず、部屋へ向かおうとするが、足元の紙袋に躓いて前に倒れそうになるのを、咄嗟に腕を掴んで防いだ。

「大丈夫ですか?お嬢様。」

「触らないで!」

 荒々しく叫び亮の手を振り払う麗香、心から亮を嫌悪する。その気持ちを隠そうともしないで、本心からも亮を排除する。

 昔から変わらない黒く潤んだ目と、暖かな手。変わったのはその麗しい眼の奥から向けられる、迷い荒れた感情。

 亮の頭にキーンと頭痛が走る。

「申し訳ございません。」

 怒りに歪んだ顔が亮を責める。

(なぜ、ここに居るのか?)と。

 昔からわかりやすい麗香の心。わかり過ぎるからこそ、亮は麗香の側でサポートする事が自分に与えられた使命なのだと思った。

 だが、それも亮の独りよがりな夢でしかない。亮の夢は、いつの時も叶わないのだ。

 麗香は顔を背けて、行き場のない苛立ちを足元の紙袋を踏みつけて吐きだす。洋服の紙袋は破れて大きく避ける。麗香は苛立ちを廊下の絨毯へ、階段へと踏み叩きながら2階の自室へと向かう。

 ドアにもぶつけた感情の振動が、広い屋敷に反響した。

「はぁ~。」

 亮は軽く息を吐き、目頭を揉みほぐした。痛みが治まり和らいだ。

 無造作に散らばった足元の紙袋をかき集めていると、ロビー奥より住み込みのお手伝いさんである木村さんが、用件の有無を伺ってくる。毎度の事、昼食は要らない事を伝えると、木村さんはすぐに作業場へと引っ込んだ。

 放置された紙袋を抱え、二階の麗香の部屋の隣の使っていない部屋の扉を開ける。無数の紙袋の山、開きもしないで放置されるバッグや靴、洋服、アクセサリー、全て御田克彦氏からのプレゼントである。

(この部屋がブランド物の紙袋で埋め尽くされる前に、麗香はこの屋敷から嫁ぐ事が出来るだろうか?)

 麗香の心は、この紙袋の数が増えるように、荒々しさも増して尖っていく。

「麗香自身が見つけ選んだ男、間違いはない。」

 物置と化した部屋の扉を閉めて、麗香の部屋の前を通り過ぎる。中から、ガシャンと言う音が聞こえた。

 結婚するまでの辛抱。方向が決まれば、まっすぐ向かう事が出来るはず。

「それが柴崎麗香の勝利指針。」











 携帯のアラームの音で、まどろんでいた目を開けて体を起こした。気だるい身体を起こし、着ていた服を脱ぎ捨てクローゼットを開けた。今日は佐々木さんと夕食の約束をしていた。大学を卒業して最初はお互いの新しい環境の近況を聞く為に頻繁に会ったり、メールのやり取りもしていたが、それも落ち着くと次第に間隔が開いて、5日程前に佐々木さんから「久々に食事に行かない?」と誘われたのは、間が空いて半年ぐらい経つだろうか。

 佐々木さんは旅行会社の企画部に就職して、キャリアを積んでいる。

 食事の場所は、池袋の佐々木さんが勤める会社の近くに、最近オープンしたイタリア料理店に予約を取ってくれている。

 開けたクローゼットの前で何を着ていくか、少しだけ悩む。かき分けて、小花の刺繍がちりばめられた紺色のベルベット地のワンピースの上に5分丈袖の白のジャケットを組み合わせた。バックはワンピースの小花の中に刺し色で使われているオレンジのクラッチバッグ。靴は白とオレンジのツートンのハイヒールにしよう。

 鏡で後ろ姿を確認してから部屋を出る。二階の階段の踊り場から、玄関ロビー奥のデスクをのぞき込む。藤木の姿がない。藤木はお母様との仕事を終えている場合は、大抵この玄関ロビー奥のデスクで待機している。

 高等部の時の交通事故で一年留年した藤木は、特選から普通科に進路変更をして常翔大学、経済学部に内部入学をした。同じ常翔大学に内部進学しても、学部がそれぞれ違うので、高等部の仲間達とは会えば近況の話をする程度の関係になり、普通のキャンパスライフを楽しんだ麗香だった。それは藤木も同じで、互いに別の恋人を作りもした。あれだけ悩み苦しんだ藤木への恋心は、サッカー部のマネージャーをし続けた中で薄れ、全国大会で優勝した事により、友人として清廉された。社会人になっても、その清廉な友人の関係が続くのだろうと思っていたのに、藤木は大学を卒業後、突然、お母様の秘書としてこの屋敷に出入りするようになり、麗香を「お嬢様」と呼んだ。麗香は戸惑った。

 藤木は毎日、朝の7時に皺一つないスーツ姿で屋敷に現れ、夜の9時に屋敷を出て行く。翔柴会会長であるお母様の秘書業は平日の朝9時から5時までと決まっているはずなのに、それ以上の時間を屋敷に居て、秘書業務以外の屋敷内の細かな雑用までこなす。その為、もう1年以上休みらしい休みを取った事が無く、屋敷の近くの駅前マンション、高1の時に始めた一人暮らしの部屋は、寝に帰るだけとなっている。

 その藤木が、いつも待機している玄関ロビー階段下のデスクに居ない。住み込みのお手伝いさんである木村さんと、何か打ち合わせでもして話し込んでいる可能性があり、一階に降りて厨房横の作業部屋に声を掛けた。

「藤木!」

 その声に出て来たのは、木村さん。

「藤木は?」

「藤木さんなら、お帰りになられましたよ。」

「帰った?もう?珍しいわね。」

「はい、個人的用があるとおっしゃって、何か、ご用命なら私が。」

「あぁ・・・いいわ。車を出してもらおうかと思ったんだけど、電車で行くわ。」

「タクシーをお呼びしましょうか。」

「いいの。久々に電車に乗りたくなったから。」

 免許を取ってからマイカーばかりだったけれど、お酒を飲むので車ではいけない。久々に電車に乗るも悪くないだろう。

 この着る物、持つ物は、誰にも負けない自信がある。麗香が歩けば時として振りかえられ、にじみ出る気品はやはり華族由来の物。それを見せながら東京に行くのもいい。

 土曜日の午後6時、乗換駅の横浜で反対の路線のホームに、常翔学園高等部の制服を着た女の子達数人が、キャッキャとはしゃいで電車待ちをしている姿を見つけた。鞄がエナメルの白色で皆ショートカットだから、バレーボール部の子達だろう。大きなカバンとそのはしゃぎ様が、他の乗客の迷惑になっている事に気が付かない。だけどそれは誰しもが通った若かりし日の特権でもある。

 毎日、どんな時も楽しかった。麗香がおしゃべりの中心で、佐々木さんが話を膨らませて、りのがたまに、おかしな価値観で皆を驚かせる。笑いに満ちて、未来は虹色に光輝いている事を疑う事すら思いつかなかった。

 あれから9年が経つ。疑いのない輝いた未来は、夢うつつにどこにもない現実が当たり前に、押し寄せている。

 それを、そんな事はないとあらがう方法すら探せない。

(これが大人と言うものなのだろうか?)

 そうした思想も気だるい。

 地下鉄の闇に映る自分の顔、へばりついた気怠さが、若き日の記憶を消して、確実に老いへと導いていく。

(このまま一人老いて逝くのだろうか。りのを追い詰めた華族の罪を背負って。)

 『お前はいつだって、気高く俺達の前を突き進み、率いる。俺たちの勝利指針。』と言った男は、ただ、自分の高い理想を押しつけていただけだったと、知った。

 電車がゆっくりと目的の駅に着き、扉が開く。人の流れにあらがうことなく歩く。

 『暴君は、いつか崩壊するのがセオリー。』と言われた通り、崩壊した。

 皆の先頭を歩いた麗香の立ち位置は、全て仲間が後ろから押してくれていた。学園という城の外では、君主たる権威もない。今では、あの頃の自分が、ただのお飾りだったと麗香は理解している。そして、身勝手な欲望が、りの家族を崩壊させてしまったのだという事も。 そして、愚かにも、その責任を直視せずに、成り行きに任せた。

 土曜日とはいえ、帰宅ラッシュ気味の駅構内。誰も麗香を羨望などせず歩いていく。

 麗香の肩をはじくようにして追い越していくサラリーマン。

 やっぱりタクシーで来るんだったと後悔。

 人の流れと共に歩き出たコンコース。壁に大きなモニターテレビから流れるニュース映像に足を止めた。


【次はスポーツコーナーです。来月5日に行われるチャリティゲーム、

『環オーシャンズカップ』の参加を決めた日本サッカー連盟。

 それに伴い日本代表選手が次々と日本に帰国し、

 監督不在のまま練習を始めています。

 昨日アイルランドより帰国した新田選手は、

 その意気込みを空港で語っていただきました。】

 

 モニターテレビに映ったインタビューに答える新田。

 (何あれ・・・あの馬鹿!ありえない!)

 麗香は急いで鞄の中から携帯電話を取り出した。







 【・・・華族の称号廃止に伴い、皇宮典範全開示を要求する野党に対して、

  藤木官房長官は、

  皇宮典範の秘匿権は憲法で定められている事項であり、華族に関する項目は、

  皇宮典範内に記載された、秘匿権項目内の最重要秘儀である。

  これを開示要求すると言う事は、憲法改定を求めるもので、

  憲法改定には神皇の承認を賜らなければならず。

  そもそも、三権の上位統括にある神皇に異見を述べる事は、

  憲法上違法と私は解釈し、この日本国、国民において神皇の存在を

  真底から否定する事になると考えます。

  と述べています。この発言に対し野党の・・・】






 藤木が手元のハンドルボタンを操作し、車内のBGM的役割になっていたFMラジオを消した。ニュースを読み上げていたアナウンサーのよく通る声は途中で切られて、車内は空調とエンジン音の振動する音だけが聞こえる空間となった。

 藤木の父は文部科学省、外務省の大臣を経て、今は官房長官となり、メディアにその顔が出る事が多くなった。いよいよ、次期内閣総理大臣かと推奨されている。昔から父親を嫌っていた藤木は、中等部から福岡の地元を離れ、常翔学園の寮生活をして、高等部で一人暮らしをしたぐらいに、家を嫌っている。

 昔から家の事や自分の生い立ちなどを語りたがらない藤木。誰一人その嫌う本当の理由を知らない。

 慎一にはわからない、何をそんなに家と親を、嫌うのか?

 藤木の顔をちらりと見やった。ハンドルを握る指が渋滞で進まなくなった苛立ちを誤魔化すかのように、トントンと叩いている。

「何時の待ち合わせ?」

「7時、池袋の新しく出来たイタリア料理店に予約を取ってるって。」

「間に合うかな?」

 佐々木さんから、久々に会わないかと誘いがあったらしい、都合が合えば、慎一も誘ってくれないかと言う話で。アイルランドから帰国する前日、藤木からそんな連絡を貰い都合をつけたのだ。

「あー、この渋滞が続くなら遅れるかもなぁって、お前がラーメン食いたいとか言うからだろ。」

「渋滞なんて考えてなかった。ってか、お前こそ、渋滞の予想ぐらいして誘導しろよ!」

「んだよっ!茨城まで迎えに来させておいて、その言い方は!」

「仕方ないだろ!滞在先は茨城なんだから!日本に帰国してからまだラーメン食ってなかったんだ!もうずっと食いたくてさぁー、やっぱラーメンだけは美味しくないんだよな。向うは。」

 今、慎一はアイルランドに住んでいる。世界で活躍するサッカー選手になりたいと言った夢は、とりあえずは叶い、夢のお絵かき帳は最後のページを描いている段階。だけど、何か満ち足りない。

 順調良く描いてきた慎一の夢のお絵かき帳。日本のプロサッカーJ1チーム東京べカルディと契約し高校卒業後4年間在籍した。3年目の年にチームはJリーグ優勝を果たし、VIP選手にも選ばれた。それから1年後、やっと海外からの移籍オファーが来る。アイルランドのノッティンガムACと契約の話は、一つ返事で移籍した。慎一は日本代表選手にも選ばれているし、プロサッカー選手としては大成功した部類に入るだろう。自他共にそう評価している。

 昨日、来月から始まる環オーシャンズカップと称したチャリティ試合に、日本の代表選手として出場するためにアイルランドから帰国したばかり。日本代表選手は茨城のスポーツ施設に集結して、週明けの月曜日から本格的な練習が始まる。日本代表のメンバーには、あの遠藤も当然ながら入っている。

「つうか、今から、イタリアン食べるってのにラーメンって、お前ほんと昔からよく食うよな。」

「俺の職業は、体力勝負の仕事だ。」

 帰国早々、サッカー連盟の事務所に顔を出し、役員の方々にご挨拶の、柴崎信夫理事長を含む連盟会長の面々との昼食会が催され、 その昼食会は上品な和食処で行われた。味は上手いが量が足りない。おまけに会長と役員たちとの面前は、上手いはずもわからなくなるほどに窮屈、夕方、合宿先の茨城につき、久しぶりに会う代表選手達と軽い挨拶とトレーニングルームでの筋トレをして帰国初日が終わった為、ずっと食べたかったラーメンはまだ食べていなかった。

「お前、サッカー辞めたら絶対に太るぞ、そのままの食事量でいったら。」

「お前だって食ったじゃねーか。事務ワークの藤木に言われたかないね。」

 慎一が、ラーメンが食べたいと言ったら、藤木はラーメンなら環八だと言って異を唱えることもなく車をそちらに向けてくれた。その時は渋滞なんて予見していなくて、食べたラーメンは最高に美味しかった。

「連れの横で何も食わずに見てる客って、おかしいだろ!」

「佐々木さんの予約した店って洒落た店だろ、酒のあてのような少量だぜきっと。空腹で飲むと悪酔いする。」

「えっ!お前、酒飲む気かよ!どうすんだよ、この車!」

 完全に停止した道路、前方より視線を外して藤木が慎一に向いて叫ぶ。

「はぁ?知らねーよ。」

「あぁ~。代表の練習が入るから、お前は飲まないだろうと思ったのに~。だから帰りはお前に運転させればいいやって・・・。」溜息を吐きながらハンドルに顔をうずめた藤木。

「渋滞の予測せずして酒の予測。あははは。それも外したな。」

「ちっ!久々に接待外で飲めると思ったのによ。」

 学校法人翔柴会会長秘書と言う肩書で仕事をしている藤木、文部省や教育関係者との付き合いが多いらしく、そして華族の称号を持つ柴崎家に仕え、執事のような立場をもする為、華族会とのつながりも多く、電話をしていても途中で電話が入ったり、今は手が離せないとかでゆっくり話す事がここ1年出来ないでいた。こんなにゆっくりと、しかも会って馬鹿な話が出来るのは久々だった。

「これ、凱さんの車だろ。1日ぐらい放置でも問題ないじゃん。飲もうぜ。」

「これ、凱さん名義の車だけどな、実際に選んで買ったのは、敏夫理事長だ。」

「うそっ、こんなスポーティな車が敏夫理事長の?似合わねぇ。」

「凱さんは車とかに興味ないからな。バイクは自分で買ったらしいけど、それも機動力に優れてるってだけの理由。」

「へぇ~凱さん、昔っからバイク乗り回していたから、乗り物系が好きな人だと思ってた。」

「乗り物系が好きなのは、敏夫理事長だよ。敏夫理事長は、凱さんを出汁に車を購入して、洋子理事長の顔色を誤魔化してるんだ。本当は乗り回したいのだけど、忙しくて時間がない。こんな車で学園や文部に乗り入れる不相応ができないからな。凱さんに時々動かしてくれって頼んでいたらしいんだけど、今、行方不明を楽しんでるだろ、あの人。だから、その役目を俺がしているってわけ。」

「あぁそうだ、この間オランダで会ったよ。ユーロリーグの予選、オランダとの試合直前に、ふら~と控室に凱さん現れてさ、いつもの軽い調子で、よぉっとか言って、驚いたよ。関係者以外、入れない控室に堂々と入ってくるんだぜ。」

 チームオーナーと一緒についてきた年配の女性と凱さんは親しげに話していた。慎一の応援に来たのかと思いきや、オランダのVIP席に入って行って更に驚いた。

「あぁ、まぁ、あの人の伝手は規模が違うから。」

「柴崎家、カンカンだろ。常翔学園小学部の理事長の仕事をほったらかして。」

「んー、表も裏もカンカンなのは洋子理事長だけだな。他は、凱さんの性格をよく知っていて、口では怒っているけど、本心は諦めが入っている。文香会長は、自由にしている凱さんを喜んでいる心も見受けられる。」

 相変わらず、その眼は本心を見抜く。何故か、昔ほどその力に苦しんでいる様子はなくなった様に感じる。柴崎と一緒に居るからだろうか?だけど柴崎は今、別の男性と交際している。

「ふーん。しかし、お前が、翔柴会会長秘書とはねぇ・・・大丈夫かよ。」

「何が?」

 精神病を患い成長が遅れていたりのを、慎一たちは心配して監視気味であったけれど、実は4人の中で一番怖いのは藤木。りのは、何をするにもいろんな制限があって出来ないでいた。だけど、藤木は違う。何をしようにも出来る財と、何をしてももみ消すだけの権力のある家を持っている。

「変わったなと思って。あれだけ派手な振る舞いを、今は一切しなくなって。」

「・・・。」黙り、前を見続けてコメントをしない藤木。

 藤木は、慎一たちより1年遅れて高等部を卒業した。交通事故で入院していた時期の出席日数が足りなくて、1年の留年をして常翔大学に入ると、持ち前の女好き、おまけに湯水のように使える金と一人暮らしの優雅さが相まって、派手な大学生をやっていた。その噂は親友である慎一が実際に見るよりも、 周りに回って元同級のサッカー部仲間から入って来るほどだった。それが今は、派手な振る舞いを一切やめて、驚くぐらいに地味な生活を送っている。

「服もそんな地味なスーツでさ、昔の派手さはどこ行ったよ。」

「時間が無かったんだよ。お前が迎えに来いって言うから。」

「迎えに来いとは言ってない。」

「言ったも同然だ。茨城から電車で行くのしんどいなぁ~なんて、わかりやすい催促しやがって。」

「ははは、やっぱ、わかった?」

「わからいでかっ!」

 藤木とは12年の付き合いになる。干支が1周した付き合い、これから先の付き合いは藤木と出合っていなかった時期よりも長い付き合いとなって行く。それがうれしい。慎一の知らない藤木の生い立ちの時間の方が長いと悔しかった事が、やっと超えられる。親以上に自分以上にわかってくれるのが藤木。今更、読まれて恥ずかしい事などほとんどない。

 藤木からのパスが一番、それは昔も今も変わらない。どこでプレーしていても常に思ってしまう。藤木も一緒にプロになっていたらどうだっただろうか?他チームでライバルとして、または、同じチームの仲間として、どちらも高レベルの楽しさだったに違いないと、無意味な想像をしてしまう。

 突然、慎一の携帯の着信音が鳴る。ジャケットの内ポケットに入れてあった携帯を取り出して確認。

「柴崎からだ。はい。」

「新田!何なのよ!あの服装は!あんなダッサイ恰好で帰ってきて!それに帰国するなら連絡よこしなさいよ!」

 いきなり怒りMaxの柴崎の叫び声が耳を貫く。携帯を耳から離さないと痛くて耐えられない。隣でハンドルを握る藤木にも、そのカナキリ声は聞こえたらしく、首をすぼめて苦笑した。

「急だったからさぁ。」

 去年のワールドカップの成績が振るわなかった事に責任を感じ、突然、辞任表明して辞めてしまったイタリア人のオラル日本代表監督。その為、日本代表の監督は今不在で、来月から始まる環オーシャンズカップの参加をどうするかで日本サッカー連盟は揉めていた。チャリティ興行のようなオーシャンズカップは、特に参加しなくても、世界ランクは変わらず、勝っても負けても問題はない。だけど、日本は災害の多い国、各国からの支援を受けてばかりで、チャリティと名のつく大会に参加しないわけにはいかないと、急遽、参加が決まった。日本サッカー連盟は、監督不在のまま日本代表メンバーを緊急召集することとなった。

「急だからって、ジャージで空港を降り立つなんてありえない!」

「あれは代表のジャージだろう、代表の招集に、支給されたジャージを着て何が悪いんだよ。」

「悪い!とっても悪いわよ!あんたはね、代表であるその上には、国民の憧れのステータスって物を背負ってるのよ。何時なんどきも、あんたの姿が世間の憧れであり、モデルなの。そうしてサッカー界だけじゃなく、ファッション界をもリードしていくのっ。」

 プロサッカー選手、新田慎一のマネジメントは、高2の早い段階で東京べカルディからのスカウト以来、日本サッカー連盟の常任理事でもある柴崎信夫がやってくれている関係で、娘の柴崎が広報的な方面でのマネジメントをやるようになった。日本サッカー連盟のポスターやCM出演などを柴崎が立案してマネージメントしてやるのは、まだ納得のいく仕事だったが、最近ではファッション雑誌のモデルの仕事まで勝手に入れたりと、行き過ぎな動向に慎一は辟易している。

「勘弁してくれよぉ。俺そんなの嫌だって言ってるだろ。」

「うっさい!あんたは嫌でも世間がそれを求めているのよ!」

「世間がじゃなくて、お前が、だろうが。」

「違うわよ!世間が求めて、連盟がそれを認めてバックアップして、それを柴崎家がマネジメントしてるんじゃない。」

「はいはい、ありがたい事です。」

「くくくく。」すべての話の内容が聞こえていた藤木は、前を向いたまま声を殺して笑う。

「何よ!ふざけた返事すんじゃないわよ!今どこにいるの!」

 いつにもまして機嫌が悪い柴崎に、付き合ってられない。

「あー悪い、電池が無いんだぁ。またなー。」

 携帯を電源ごと切った。これで誰からも連絡が取れなくなるけど、これ以上、久々の藤木との時間をつぶされたくない。

「そんな見え透いた嘘、怒るぞー。」

「ってか、お前だろ。」

「俺?何が?」

「柴崎の機嫌が悪いのは、昔から決まって藤木、お前が原因だ。頼むから柴崎の機嫌を悪くするようなことしないでくれよぉ。とばっちり受けんの、俺なんだからさぁ~。」

「麗香お嬢様は、ずっと機嫌がよろしくない。俺だけが原因じゃないよ。」急に執事口調に変わる藤木。

「理由がわかってんなら、何とかしろよ。」

「俺は華族の柴崎家に仕えるただの民。差し出がましく柴崎家唯一の後継者、麗香お嬢様のなされる事や御心に、口をはさむ身分ではごさいません。」

「はぁ~、能力のない俺でもわかるぞ。その言葉が本音じゃない事ぐらい。」

「・・・。」

 慎一の本心は藤木に筒抜けなのに、慎一は藤木の事を何一つわからない。不公平だ。藤木の心が知りたい、話してくれと願った青臭い頃が、今は懐かしい。

「頼むから、柴崎の機嫌だけは、悪くしないでくれ。」

「それはこの世で一番の難題だ。諦めろ。」

 やっと渋滞を抜けた、小刻みに信号待ちで停滞していた車の流れがスムーズになる。藤木がギアチェンジをして、アクセルを踏み込む。背中にGとエンジンの振動が伝わってくる。

「良いね。この重加速。」

 昔から藤木は機械物や車が好きだ。目じりの皺のある笑みも久々に見る。











「ちょっと!新田!もしもし、新田!」

 切れた携帯をもう一度、繋げる。

「おかけになった番号は今・・・」

「もう!」

 下手な嘘ついて、携帯の電源を切られた。

(今度会ったら、ただじゃおかないわ!)

 今、麗香は新田のマネジメントを主にしている。常翔大学を卒業して、世間を知るためにと、お母様の伝手で文部省管轄の学校教材を作っている企業に就職しOLをしたけれど、お茶くみやコピー頼まれた原稿をワープロするだけのつまらない毎日に、すぐに嫌気がさして辞めた。それからは新田のマネジメントだけを仕事のようにやっていて、容姿の良い新田をスポーツ界のトップアイドルに押し上げたのは麗香だ。日本サッカー連盟が広報に使うポスターやCMは今、全て新田がメインで、巷ではポスターを盗まれると言う事態も起きている。テレビや雑誌に新田の特集を組まれ、写真集の企画も入ってきていて順調の人気ぶり。麗香の父が本業のサッカーの方のマネジメントをして、麗香は広報的な方面でのマネジメントをする。今や時の人となり、世界で活躍する新田慎一を柴崎家が総力を上げて支援していた。

 サッカー日本代表新田慎一は、皆がそのフッションを真似したくなるような服を着て、その髪型を真似したくなるようなカッコ良さでなければならない。そうしたステータスを身に纏う事により、新田慎一は世界でも負けない自信をつける。

(そして、届くわ。りのの元へ。新田慎一と言う名が。)

 とっくに違うニュースに切り替わっているモニターテレビの前から立ち去ろうとしたら、後ろから声を掛けられた。

「柴崎さん!」

 人の波から頭が出ている佐々木さんが、手を振り近づいてきた。

「久しぶり!」

「久しぶり!元気だった?」

「うんうん。」

「流石ね、柴崎さん、遠くからでもわかったわよ。その誰よりも気品ある存在感。」

「やめてよ。佐々木さんこそ、もう立派にキャリアウーマンじゃない。バリバリ仕事が出来る感じ。」

 佐々木さんは、紺のパンツスーツに開襟シャツで首に細い上品なネックレスをしている。

 髪はショートカットにして、その高い身長でも気にすることなくヒールのあるパンプスを履いて、颯爽と歩く姿は誰もが振り返る。

「そう?そんな風に見えたなら、うれしいわ。行きましょうか。こっちよ。」

 佐々木さんに促され、駅構内を出て交差点を渡る。

「今日も仕事だったの?」

「うん、うちの会社、特にこの日が定休って無くて、決められた日数の休みを自由に取るシステムだから。今ね、ちょっと面白い企画を手掛けてるから、休むのがもったいなくて。明日は休みにしているけど、今やってるのが終われば、まとめて休暇を取ろうと思ってる。」

「へぇ~。」

「柴崎さんこそ、どうなの?」

「私?私は・・・」

 聞かれて話すような実績なんてない。大学卒業後、暇つぶしに働いた会社はすぐに辞めてしまったし、新田のマネジメントをやっていると言っても、アイルランドに拠点を移した事で、日本でのメティアの仕事は少なくなった。と言うより今は少なくした方がいいとのお父様と新田の方針が続いていた。もうすぐ2年の契約が終了する時期で、アイルランドのノッティンガムACより契約継続の話が来たばかり。

「聞いたわよ。もうすぐ結婚なんじゃないかって。」

「えっ?」

「御田財閥の御曹司と付き合っているんでしょう。やっぱり、規模が違うわね。」

「その話、誰から?」

「白鳥さん。2か月ほど前、帝国領華ホテルに用があって行ったら、フロントに居てね。ちょっと話し込んじゃった。それで柴崎さんの話が出て、聞いたの。」

(美月のおしゃべり!プライバシー漏えいだわ!)

「結婚するの?」

「う、うん、まぁ・・・そんな話も家同士で出てる。」

「そっかぁ・・・学園はどうなるの?柴崎さんが継がなければ、誰が?」

「翔柴会は、別に柴崎家一族のみで経営を守らなければいけないって事もないわ。いざとなれば、翔柴会を解散して、華族会経営にする事も可能だし、その方が全国から優秀な人材は集まって、人事に困ることもない。それに、私が御田家に嫁げば、御田財閥傘下の常翔学園として経営する事も可能だわ。そういった事も少しづつ、親同士でやってるんじゃないかしら。」

 今、結婚を前提に麗香がお付き合いをしているのは、華族の称号を持つ御田家のご子息、御田克彦さん。

 華族の称号は、同じ称号を持つ者と結婚しなければ称号を維持できない。無称号の者と結婚すると、その子供からは華准に落ちる。 一度落ちれば、二度と華族には戻れない。華准に落ちると税制面の優遇が半分に減る。そのデメリットは大きいが、華族の称号を持つ家は、納税に困るような家はほとんどない。華准落ちを懸念し華族間同士の結婚に対して躍起になるのは、単なるプライド固持によるものである。神皇様より賜った称号である事が、この国の歴史そのものを背負い、神皇家に仕えてきたという誇りなのだ。ゆえに、華族の称号を守りたい家は、華族の子供の取り合いとなって、華族間同士で幼いころから婚姻を決めてしまう家もある。それを実行したのが美月の家、白鳥家。幼稚舎の時に、橘家の長男、橘 淳平と許嫁の約束をして、お互い好きでもないのにその現実を受け入れている。麗香は許嫁を決められはしなかったけど、成人した年頃から、華族会のパーティでは結婚の話ばかりが目立って話されるようになった。言い加減うんざりしていた中で出会ったのが、御田克彦さんだった。ご実家は兵庫県の芦屋で、造船で財を成してきた財閥、歴史も権力もあり、戦時は戦艦を造船して国と密着したその力は、今でも健在で、半国営で輸送されるエネルギー輸送は全て、御田財閥が担う。

「すごいわね~申し分ない相手ね。」

「・・・そうね、申し分のない相手。」

 そう、克彦さんと結婚すれば、すべてが丸く収まる。申し分のない相手。麗香がずっと探していた人だ。

「いいわね~。」

「佐々木さんこそどうなのよ。今、彼氏は?」

「いないわよ。今は仕事が恋人みたいなもんね。男に時間を取るぐらいなら、仕事をしてる方が楽しいもの。」

「ほんと、楽しそうね。佐々木さんらしいわ。」

「ここよ。」

 佐々木さんの誘導で連れてこられたイタリア料理店は、最近オープンした商業ビルの1階にある。近代的なモダンな造りの店。イタリア料理の世界大会で2位を取ったというシェフが満を期して店舗を構えた。その腕前に反して、値段はそれほど高くないと話題で、中々予約がとれない店だと聞いていた。

「よく、取れたわね。予約。」

「私が取ったんじゃないのよ。」

「きゃー、うそ。本物?」

 突然、麗香達が歩いてきたとは反対の方角から、歓喜のざわめきが聞こえて来た。

「マジ、キャー私大ファン。」

「サイン貰う。」

「写真、写真、写真撮りたい。」

 麗香達の近くに居た女子達も駆け出していく。誘導されるようにその先に視線を向けると、人だかりが出来ていて、次々とその歓声に人が集まっていた。

「芸能人でも居るのかしら?」

 主に女子に多く囲まれた人だかりが、麗香たちの方に移動して来る。その中心の人物を見て麗香は唖然とした。

「新田!」

「あちゃー、捕まっちゃったか。」佐々木さんが、おでこに手を当てて苦笑した。

「えっ?」

「新田君も呼んでって頼んだの。ちょうど帰国するってニュースを見たから。」

「頼んだ?誰に?」の質問は、佐々木さんから聞かなくても判明する。

「はいはい、ちょっとお嬢様方、ごめんね、危ないから、押さないでね。」

 新田の側で女子達に取り囲まれて、目じりに皺を作った藤木の姿。

(あいつぅ~、柴崎家の執事業をほったらかして、何をしてるかと思えばっ)

「新田選手の横にいる人もサッカー選手?」

「さぁ?あんな格好だからマネージャじゃない?」

「マネージャーもカッコよくない?私、新田選手よりマネージャの方がタイプかも。」

足を止めて新田を囲む人だかりを眺める周囲の人達からの、勝手なコメントが聞こえてくる。

「写真撮ってもらっていいですか?」

「あー、ごめんね、今、新田はプライベートでね。」

 まるで新田のマネージャーのように振る舞っている藤木の存在も腹が立つけど、新田のそのファッションは、もっと腹が立つ!

 「ちょっと、どいて!」

麗香は人だかりをかき分け新田に近寄ろうとしたが、逆に押し返された。

「柴崎さん、大丈夫?」

「どいてって言ってるでしょ!」

「げっ、柴崎!」

 新田と藤木が私の姿を見つけて、驚く。

「どきなさい!」

 新田の前にいた子の腕を掴んで新田から離す。

「あんたね!こんな、ご定番のサングラスなんかしてるからバレるのよ!」

 麗香は新田の顔からサングラスを奪い取った。

「きゃー!」

 取り囲む女子の黄色い声援が一段と声高になり、耳が痛い。

 新田は去年のワールドカップ前に帰国した空港で、着用していたサングラスをしていた。今やアイドル並に時の人となって、変装しているつもりなのだろうけど、サングラスと共に着ている服も全て、その時に麗香がスタイリングした物のまんま。当時このサングラスが評判になり、メガネ店から在庫がなくなった。

 このサングラスと言えば、新田慎一と言う図式が出来上がっているのを、わざわざつけて歩く馬鹿がどこにいる?見つけてくださいと言っているようなもの。それに今はもう日暮れた夜。サングラスなんかするのは、安っぽい勘違いな芸人ぐらいよ。

 怒り任せに麗香は振り返った。

「うるさい!他の人達に迷惑になってるの、わかんないの!」

「なによ、あの女、誰よ。」

 麗香に対して批判の目が向けられる。

「私が新田のマネージャよ!こっちは、ただの使用人!」

「し、使用人って・・・」と藤木のつぶやきは無視。

「新田は今、プライベートだと言ってるでしょう!サインや写真が欲しかったら、来月にある還オーシャンズカップ前日祭のチャリティイベントで、たんまり寄付すれば好きなだけ相手するわよ!道路交通法違反で通報されないうちに、さぁ、離れて、散って。」

「なんなの?偉そうに。」

 一般市民の批判なんて効かない。

 私は柴崎麗香、華族の称号を持つ誰よりも高い位置にいる人間だから。

「さぁ、行くわよ!」

 人の波を押し分けて、新田達を率いて前に進む。

「柴崎さん、変わらないわね~。」










 柴崎の小言に、新田がタジタジになっているのを、佐々木さんと苦笑して肩をすくめる。

「藤木君、久しぶり、1年ぶりかしら。ごめんね、卒業式に行けなくて。」

 亮だけ、1年遅れの大学の卒業に来てくれた元同級は、誰もいない。今野は、卒業と同時に大阪の外資系ホテルでホテルマンとして修行を積んでいるし、新田はアイルランドのチームに入団が決まり移住していたし、佐々木さんも仕事が休めなくてごめんと言われていた。麗香は、もうOLを辞めて暇を持て余していたけれど、もうその頃には、亮が文香会長の秘書として柴崎家に出入りするようになって怒っていたから、当然に来るはずもなく。

「いいよ。それより、よくこの店の予約、取れたね。」

「それ、さっきも柴崎さんに聞かれて言おうと思ったんだけど、あの騒ぎで話が途切れたわ。ここね。私の上司が予約を取っていたの、接待に使おうと思ってね。その上司、多方面で顔が効く人だから。だけど、その接待、先方が東京に来れなくなって中止になっちゃってね。で私が権利を貰ったのよ。」

「そうなんだ。」

「さぁ、まずはワイン何にする?って言っても、柴崎さんや藤木君の方が詳しいかしら。」

 接待に使う席と言うだけあって、周りから半仕切られた奥の席が、予約席だった。さっきのように、街を歩けば女性に取り囲まれるようになった新田が、周りを気にせずくつろげられるのは良い。

 亮は、この商業ビルの地下駐車場に車を停めるつもりだったが満車で、仕方なく少し離れたパーキングに止めて歩いてきた。車を降りた瞬間、敏夫理事長自慢のスポーツカーの派手さも相まって、通りがかりの男に新田の存在を見つけられ、携帯のカメラを向けられた。新田は、素顔はまずいと胸元に下げていたサングラスをかけた。

 新田が今日着ている服は、去年のワールドカップの才に日本に帰国した時のコーディネートのまんま。着る物のセンスはわからないと昔から無頓着で、親が用意した服を文句も言わず着ていた新田。テレビ各局のスポーツコーナーの女性キャスターが新田を物にしたいと憧れてアプローチかけるほどの人気者になったというのに、その実態は寒暖に困らなければ何でもいいと、ほっといたらダサイ恰好で平気で街をうろつくセンスのない男。麗香が奪い取ったサングラスを含めて、男女共に憧れられ、着る物や持ち物をマネされる、今やモデル並みの新田慎一の姿は、全て麗香が作り上げたものだ。

 しかし、参った。佐々木さんが麗香も呼んでいたなんて、知らされていなかった。完全に佐々木さんの策略にはまったな、と亮は小さく溜息を吐いた。電話じゃ本心は読めない。

 麗香がメニューを見て赤ワインの良い物を選んで頼む。料理はその上司が予約していたコース料理が運ばれてくるそうだ。

「あっ、すみません。俺はスパークリングウォーターで。」

 立ち去ろうとした店員を呼び止めて、アルコールのない炭酸水を頼む。

「えっ、お前、飲まないのかよ。車はもう放置するって、さっき言ったじゃないか。」

「そうよ、飲みましょうよ、久々なんだし、車は後日、取りに来ればいいじゃない。仕事で、この辺に来ることもあるんでしょう、その時で良いじゃない。」

 ありがたいお誘いだけど、麗香がいる限りそれは出来ない。仕える柴崎家の後継者を、確実に家に送り届けなければならない。

「麗香お嬢様を屋敷まで送らなければ、なりませんから。」

 突然、白いナフキンが飛んできて顔に当たる。そしてドンとテーブルを叩いて立ち上がる麗香。その眼は怒りに満ちて。

「私、帰るわ!」

「柴崎さん!」

「では、車をご用意致しますから、しばらくお待ちください。」

 お嬢様の我儘を全て聞き通すのが、執事である自分の仕事だ。座ったばかりの椅子を引いて立ち上がり頭を下げた。

「ふざけないでよ!」

「おい、藤木!」

「仲間内で、その立場を振る舞われる私の気持ちを、読みなさいよ!」

「申し訳ありません。」

「その敬語、振る舞い、今後やったら首よ。」麗香の本気の怒りは、ナイフのように亮の頭を締め付ける。

「柴崎、矛盾してるだろ。」と新田。

「二人共、座って。」

 麗香が座るのを見届けてから座る。1年も柴崎家に仕えていれば、主より前に出ない癖が身についてしまっている。

「藤木も、立場に誇示し過ぎだ。せっかく佐々木さんが場を作ってくれたんだ。今日は、もっと気楽にいこうぜ。」

 新田に嗜まれるなんて何年ぶりだろうか。昔もこうして麗香と喧嘩した時、新田が仲裁に入った事があった。

「そうよ。」

「あー俺、こんな気まずい雰囲気で食事したら、絶対、気に病んでぇ、オーシャンズカップに影響出るなぁ。もう絶対スタメンに選ばれないなぁ・・・そしたら契約更新も破棄になるなぁ。」と棒読みで愚痴をはく新田。

「ぷっ、新田君、それいい脅しね。」

「破棄になったら日本でタレント業をやればいいわ。私がマネジメントを継続してやってあげるから。」

 新田の機転で麗香の怒りがすぅーと治まって行く。

「だからっ、サッカーが出来なくなっても、そっち方面だけは勘弁してくれ。」

「どうして?あの大久保選手なんて、今やお笑い芸人じゃない。新田君なら、俳優にも成れるんじゃない?」

「いやいやいやいや、絶対嫌だからな、俳優なんて。柴崎、これ以上、モデルとかの色もの系の仕事、入れんなよ。」

「そんなの無理よ、私が求めてるんじゃなくてね、世間が新田の色ものを求めているのよ。それに、写真集の仕事も、もう入って来たわ。」

「写真集!?」

「えぇ、今お父様とスケジュール調整中。」

 麗香の良い所は立ち直りが早い事。亮に視線を合わせない様にしているが、怒りは静まっている。

「理事長まで、どうして。」

「人気の新田を前面に出して、サッカー界を盛り上げて行こうって連盟理事会で決まったからよ。」

「マジかよぉ~連盟の方向性、絶対に間違っている。」

「新田君の写真集かぁ、楽しみだわ、私、絶対買う。」

「うん、話題になると思うわよ、ヌードもあるから。」

「ヌードぉ!」

 思わず亮も叫び、3人の声が店内に響き渡った。

「しーっ、声大きいわよ。」

「ほんと、やめてくれよ、柴崎。」

「何言ってるのよ。その肉体美を、今の内に歴史に残さずしてどうするのよ。この先はもう老いていくばかりなんだからね。」

「この先・・・もう絶対スタメンは無くなった。」

「ったく!この軟弱者!高々ヌードぐらいで気弱になってんじゃないわよ!」

 バシッと、新田の背中を叩く麗香。

 懐かしい光景に、佐々木さんと顔を見合わせて笑った。

「ははは、新田、諦めるんだな、こうなったら、もう誰にも止められない。」

「はぁ~。帰国するんじゃなかったよ。」









 世界大会で2位を取った腕と言うだけあって、料理の味は最高に上手い。イタリアンの方が、カジュアルにアレンジしやすいから、価格もリーズナブルに気取らずに、かつ洒落た雰囲気も楽しめる。デートには最適の場所だなと店内を見回した。

 慎一の父がやっているフランス料理店も、巷では相場より安いと言われているけれど、庶民にはまだ敷居が高いイメージが根付いていて、気軽さは中々ない。誕生日とかクリスマスとか、特別祭事にしか食べようとは思わない値段だ。店が流行っているのは、店の周辺が、それなりに裕福な家が立ち並ぶ住宅街である事と、4つ向うの駅エリアは、柴崎の家がある超高級住宅街の立地に助けられているのが大きい。

 柴崎は、慎一が現役引退をすれば芸能界に、と今から必死になっているけど、慎一はそんな考えは全くない。父さんみたいに繊細な料理は作った事がないけれど、サッカーが出来なくなったら店の手伝いをするんだろうなぁ、と漠然と思っている。厨房に入らなくても、毎日忙しくしている母さんを、少し休ませるためにフロアの仕事をしてもいい。

 空いた皿が下げられて、飲んでいるワイングラスだけになった時、佐々木さんが改め口調で場を仕切りなおす。

「私ね、見せたいものがあって、今日、皆を誘ったの。」

 そう言って、部屋の隅に設置された荷物置場から、黒い大きめのショルダーバックを取ってきて座りなおす。

「私が所属している部署はね、旅行のプランを考えたりする企画部なんだけと、私はその中の広報チームに配属されてね。企画した旅行プランを、雑誌の特集とタイアップさせたりとか、飛行機会社のキャンペーンと合わせたりとか、企業間での宣伝戦略を組む仕事をしているの。」

「凄いな、メグりん、もう立派にキャリアウーマンだな。」

 入店した時の、ヒヤリとした藤木と柴崎の言い争いはすぐになくなって、藤木も昔のラフな振る舞いに戻った。

「でね、来月発売のリニュオンって言う雑誌にね、私が手掛けた特集の記事が出るの。」

「リニュオン、知ってるわ。ファッションから雑貨、インテリア、そう旅行まで、お洒落な特集を組んでいる雑誌ね。私、時々買うわよ。」

「あぁ、ワンランク上のステータスを紹介する主旨の雑誌だったな。凄いじゃん。メグりんが書いた記事が載るって。」

 慎一は知らない、その雑誌の存在は。

「書いたんじゃなくて、手がけただけよ。ライターは専門にいるから。」

「それでも凄い事じゃない。」

「んー、自慢したいわけじゃなくてね。まぁ見て、これが来月に出る原稿のコピーだから。」

 そう言って鞄からクリアファイルを出し、A3用紙のカラーコピーをテーブルに広げて置いた。

「あっ・・・。」

 慎一も含めた全員が、その原稿の写真に驚きの息を飲む。

「この特集の取材でね、私、2か月前にフィンランドに行って来たの。会って来たわよ、リノに。」

「りの・・・。」

 高校を卒業して6年の月日が流れた。それは慎一が生を受けてから、りのと一番長い離れとなった歳月。

『新田慎一、その名が世界を駆けて届くのを楽しみにしている。』

 慎一だけに囁かれた、りのとの新たな約束。

「リニュオンの来月の特集は、『絵本の世界へ旅をしよう』というテーマでね。日本で大人にも人気のあるフィンランドの絵本、原作の元になった場所を紹介する特集なの。それがね、偶然というか、巡り合わせてくれたというか・・・出版社の担当者が、知り合いにフィンランドにヨーロッパ各国の絵本に詳しい日本人女性がいるからって、現地取材を兼ねて、わが社も代表で行く事になったの。はじめは、行くのは私ではなかったんだけと、いろいろあって、最終的に私が行く事になって、そうして会ったのが、」

「その絵本に詳しい日本人女性が、りのだったって訳ね。」

「そう!フィンランドに行くと決まった時はもちろん、リノの事を思い出したわよ。時間があったら会いたいなと思った。だけど・・・」そこで言葉を詰まらせた佐々木さんは、困った表情で口を噤んだ。

 佐々木さんは7年前の事件を知っている。当初は目撃した慎一と柴崎、そしてまだ入院中だった藤木の3人だけの秘密となっていたが、りのがフィンランドに行って半年ほど経った頃、佐々木さんがリノと連絡を取りたいとなった時、誤魔化しきれなくて柴崎が告白したのだ。

 慎一たちは当時、りのとコンタクトをなるべく取らないと皆で決めた。りのが海外へ移住した理由を踏まえれば、その決まりごとは致し方なかった。日本を思い出す事が、りのの失声症の治療の妨げになると考えたからだ。

「よく、写真の掲載を了承したな、りのちゃん。」藤木が静まってしまった場を、角度を変え話を再開する。

「ええ、りのは当然、雑誌に載るのは嫌だって言ったわ。人の掲載なしでこのページの企画を通すことも可能だったけど、それじゃぁね。この雑誌は旅行プランを売る雑誌じゃないから。生活をファショナブルに、が目的だから、人の掲載は読者にイメージしやすい、しかも、りのの様に見栄えも良くて、フィンランド在住の翻訳家となれば、申し分なく場所と人物に憧れ心を刺激させる。って出版社の担当が説得したのよ。私も懇願してやっと。実はね、りのとの約束では、これぐらいの小さいカットだったの。」

「いっ!」

 佐々木さんが指で描いた四角は、タバコの箱ぐらいの小さい物、それが最終原稿のカットは、学校の集合写真より大きい。佐々木さんは渋い顔をして続ける。

「一応、忠告したんだけどねぇ・・・りのの了解を取らないとまずいんじゃないですか?って。でも、フィンランドで雑誌を売るわけじゃないからバレやしないって、掲載の了承は取ってるから大丈夫だって。」

「ひでぇなぁ。」素直な感情が口から出た。りのが知ったら佐々木さんは絶縁されると思う。といっても、もう慎一たちは、ほぼ絶縁状態だった。

「まぁ、そんなもんだな。だけど、この写真良く取れてるよ。綺麗だ。大人ぽっくなったな。」と藤木。

 別れた頃より長くなった髪が、慎一の記憶にあるりのの姿より、隋分大人な印象だ。カメラ目線ではなくて、誰かと話している最中のような斜めからのアングルは、本業がモデルだと言ってもいい程に綺麗で、何より自然だった。

「りの・・・元気だった?」涙声の柴崎。

「ええ、とても、この写真の通りよ。」

「打ち合わせは、英語で?」

 この質問は、慎一しか無理だろう。二人共、気になっていたはずだ。

「日本語よ。」

 柴崎が息を飲み、膝に掛けていたナフキンを引き上げて、涙を拭いた。

「もう大丈夫って。」

 だけど、それは日本ではないからだ。問題は日本で日本語が話せるかどうかだ。それは佐々木さんも聞きづらかったのだろう。それ以上の情報は出ない。

 藤木がそっと席を立ち、店員のいるレジ付近まで行った後、帰って来た時には新しいナフキンを持って柴崎の側に膝をついた。

「大丈夫か?」と柴崎のナフキンと交換する。相変わらずマメだ。

 同級生だった弥神皇生が、りのの胸を包丁で刺した。その現場に慎一は偶然に居合わせた。りのは命を失いかけたが、元より傷の治りの早いりのの体質が幸いして一命をとりとめた。しかし、りのの心には大きな傷を作り、重度の失声症を再発してしまった。声を取り戻す為に日本を出て行く決断をしたりのだったが、さつきおばさんとの意見の食い違いで大喧嘩をし、今でも絶縁状態だ。その状態になったのは、その事件を隠匿したい華族である柴崎家に対するさつきおばさんの憤懣も絡んで・・・柴崎も心を痛めていた。

 全ては弥神のせいだ。今でも慎一は許せない。やつが神皇家の継嗣であって、法で取り締まれることのない人間でも。

 柴崎が原稿のコピーを手にして、記事を読み始めた。しばらく無言の時間が流れる。順番に用紙を回して記事を読み、りのの微笑む姿を目に焼き付けた。

『新田慎一、その名が世界を駆けて届くのを楽しみにしている。』

 慎一だけに語られた日本語。慎一の、次の人生指針と共に渡された栄治おじさんの形見のキーホルダーは、あれから肌に離さず持っている。

【りのは世界が遊び場。】

【慎ちゃんは世界がフィールド。】

 が口癖だった亡くなった栄治おじさんが、慎一にくれた夢でもある。

 藤木の携帯が急に鳴り、しんみりとした空気を裂いた。

「ごめん。あれ?信夫理事長からだ。」

「お父様?」

 藤木は携帯を取り出すと、周りに迷惑が掛からない様に口元に手を当て、話し始める。

「はい・・・・・いえ、大丈夫です。何か緊急のご用件でごさいますか?・・・・はい、一緒ですが・・・・・あっ・・申し訳ございません、さっき電源を切っていましたから、変わります。」携帯を慎一に差し向ける藤木。「信夫理事長、お前の携帯が繋がらないから、代わってくれって。」

「あっそうだ。さっき切って、そのままだった。」

「そうよ!あんた、さっき、電池が無いとか嘘ついて!」

 泣いたり怒ったりと忙しい奴だ。柴崎の怒りが再燃するのを無視して電話を受け取る。

「はい、代わりました。」

「新田君、良かった連絡が取れて。」

「すみません。理事長、昨日はありがとうございました。」

「いやいや、いいよ。それより朗報だ!」珍しくハイトーンの柴崎信夫理事長。「フランスのマルセイズから新田慎一の契約交渉権を連盟に送るとの連絡が入った。」

 フランスのマルセイズと言えば、今世界ランキング10位、ワールドカップでもフランスは、ここ数年いい選手が出そろってきていて、優勝争いに食い込むチームとなってきている。

 今、慎一が所属しているアイルランドSCは、世界ランク25位、マルセイズと契約となれば、14もランクアップしたチームで、世界での優勝争いを経験できる。まさしく、夢のお絵かき帳を完成させるに十分の、大チャンス。 

「新田君、聞こえてるか?」

「あっ、はい。聞こえています。」

「どうした?うれしくないのか?」

「あ、いえ、あまりにも突然で、びっくりして。」

「ははは、まぁ、契約内容がどんなものかわからないからな、いい話かどうかを判断するには早々だが、アイルランドノッティンガムACの継続更新か、新たなフランスのマルセイズへの移籍か、選択は広がったね。」

「はい、またお手数おかけしますが。」

「何を言ってるんだ、遠慮なんていらない。柴崎家は新田慎一を全面バックアップするのだからな。」

「ありがとうごさいます。」

「あぁ、邪魔したね。藤木君にも悪いねと言っておいてくれ。それと文香から藤木君へ伝言、明日は屋敷に来なくていいと。新田君も明日はoffだろ、久々に二人で息抜きするといい。」

「わかりました。伝えます。失礼します。」

 きっと自分はとんでもなく驚いた顔をしていたのだろう。3人が慎一に注目している中、藤木に携帯を返した。

「藤木、柴崎会長からの伝言、明日は屋敷に来なくていいって、俺に会うの久々だろうから息抜きしろって。」

「何なの?それだけじゃないでしょう。」と柴崎。

「あぁ、フランスのマルセイズから、俺との契約交渉権を連盟に送るという連絡が入ったらしい。」

「マジか!」

「あぁ、まだ書類が届いてないから、いい話か、どうかわからないけどって。」

「凄いじゃない!新田!」

「声大きいよ柴崎、まだ決まったわけじゃないんだから。」

 ここが奥まった場所でよかった。変に誰かに聞かれて、先走りの情報が流れたらとても拙い。

「凄いの?そのチームって。」と、サッカーの事に詳しくない佐々木さんが聞いてくる。

「フランスのマルセイズは世界ランク10位で、ここ数年、力をつけて来たチームだ。ワールドカップのフランス代表選手の5割はマルセイズの選手だし、この間のワールドカップでフランスは優勝こそ逃しているけど、ベスト4の成績。今、新田が所属しているアイルランドのノッティンガムACとは一段上の位置にある。」

 流石は藤木、完璧かつ簡潔に説明をする。

「新田、とうとう、夢が叶うのね。」目を輝かせる柴崎。

「まだ、わかんないって言ってるだろ。契約内容を見るまでは。」

「何言ってるのよ!契約金が0でも行くべきよ。」

「ははは、そうだな。2年前の契約金プラス柴崎が入れた色物仕事で、金は十分に稼いだだろうしな。」

「そうよね、これからヌード写真集だって出るんだし。」

「勘弁してくれよ~」

 佐々木さんは笑うも、すぐに真顔になって、

「あれ?じゃ、新田君は、そのマルセイズってチームと契約したら、フランスに住むって事?」

「まぁ、そういう事になるなぁ。」

「あれれれ?うーん・・・あー何だろなぁ、この偶然。」

「どうしたの?佐々木さん。」

「う、うん、えーと。言わない方がいいのかなぁ・・・でも、別に言わないでって言われてないしなぁ。」

 急にしどろもどろに独り言を言いはじめた佐々木さん、いつもスカッと爽やかな気質はどこへやら。

「何だ、珍しいね、メグりんのそう言うの。」

「えーい、これもいい話かどうかの判断は任せるわ!」そう言って顔を上げた佐々木さん。「リノ、フランスに移住するかもって。」

 藤木と柴崎が驚きの表情を見合わせた後、同時に慎一に向けた。

「えっ、いや・・・」驚きで何のコメントも出ない。

「雑誌ができたら送るわねって言ったら、その頃にはフィンランドに居ないかもって、あまり言いたくなさそうだったのだけど、私もリノとはこれっきりにしたくなかったし、出版社の担当も、今後の仕事の事があるから、あやふやにはしないでくれって強く言ってね。りのは渋々、今フランスに移住する準備をしているって教えてくれたわ。住む所はまだ決まってないって話だったけど。」

「まぁ、フランスは第三の故郷だもんね、りのちゃん。」

 藤木の言葉を慎一は心中で否定する。フランスは第二だ。第一がフィンランド。りのはおそらく、日本を故郷の中に入れていない。

「私も担当者も、ちょっと強引だったからムッとされちゃって・・・雑誌は要らないって拒否されちゃった。」

「あぁ・・・。」3人で落胆のため息を合唱。

「フランスかぁ。」柴崎がつぶやいて、視線を遠くに伸ばす。

「偶然の一致か。」藤木も意味ありげにつぶやく。

「まだ、マルセイズは、決まったわけじゃない。」

 やっと出た慎一の声はかすれていて、慌てて残っていたワインを飲みほした。

 ほんと、こればかりは良い話か悪い話かは、まだ判断できない。










 イタリアンレストランを出た後は、新田の契約前祝いと称して、二次会に繰り出した。カラオケからバーを巡り、散々楽しんだ。

 嬉しさのあまりに羽目を外し、飲み過ぎて酔った麗香が手に負えなくなってきたところで、今日の会合は終了する事になる。足のもつれた麗香を神奈川の屋敷まで送るのは面倒だから、帝国領華ホテルに泊まらせる事にした。

 土曜日の繁盛期だが、華族会専用のフロアの部屋がある。帝国領華ホテルの経営者は華族の称号持つ一族で、亮たちと同級の白鳥美月の親が経営するホテル。東京の本店の隣に別館があって、20階以上の10フロアが華族専用フロアであり、一般人は使用不可能であるから、いつでも、突然宿泊可能だ。

「ほら、ついたぞ。」

「新田ぁ~、私はうれしいいんだよぉ~、あんたのぉ~実力を~ひっくぅ・・・中等部ぅ1年の時にぃひっくぅ・・知ってぇ~ヒックぅ」

「あぁ、もう、わかったから、さっさと降りろ。」絡みつく麗香を新田がうんざり気味に離す。

 そんな様子を苦笑して、亮はタクシーの運賃をカードで支払う。昼間なら、車がこの別館の華族専用ロビー前に着いた時点で、華族の面子を熟知している専従ドアマンが、車の側に立ち対応をしてくれるのだけど、今は時間も遅くいない。力の入らない麗香を新田とで支えながら玄関アプローチへ向かう。と、アプローチ横の道路と植え込みの間のペースに、一列に並んで座り込んでいる者が十数人ほどいた。


 『天は民の上に特権を作らず。民の上に華族を作らず。

 華族は民の税金を使い特権と称して利権をむさぼり、人々を見下す。

 我々は華族制度の廃止を求める!

 天は民の上に特権を作らず。民の上に華族を作らず。

 華族は民の税金を使い特権と称して利権をむさぼり・・・・』


「何だ、あれ?」

 新田が足を止めて、その異様な集団に顔を向けた。

「いいから、顔を向けるな。」

 その集団は、全員、灰色の作業着のようなつなぎの服と、やはりどこかの工場作業員のようなキャップを目深に被り、口にはマスクをして一列に並び体育座りをしている。その中央足元に一昔前のラジカセが置かれていて、その言葉がエンドレスで流れている。

「はぁ?何言ってるのよ!華族は神皇様より賜った称号よ!」麗香が唐突に怒りだした。「神皇様は天より降りし、神の子よ。神が華族を認めて、その地位を授けてくださったのよ!」

 麗香は、支えていた亮たちの腕を振り切って、その集団に向かう。こんな時だけは、やたらに早い。

「あっ、こらっ!やめろっ。」

「おい、しばぶっ。」

 柴崎の名前を言いそうになった新田の口を、慌てて塞いだ。

「馬鹿っ名前、出すな!」

 そうしている間に、麗香はその集団の前で、お得意の仁王立ちポーズを取る。体育座りをした集団が一斉に麗香へと顔を向けた。

 亮は異様な集団の表情から、憎しみに近い妬みと不満を読み取った。その不満は完全に八つ当たりだ。

「華族はね、民の為に権力や財、人脈を惜しみなく」

「やめろって!」

 麗香の腕を掴み引っ張ったら、勢いに足を絡ませて、地面に手をついて倒れてしまった。

「っ痛たぁい!何すんのよ!」

「ごめん。手当、手当てしよう。ほら、早く、中へ。」

 異様な集団から逃がすように、麗香をかつぐように引きずって、ホテルの玄関へと駆け入った。

 ロビー内とフロントには誰も居なくて、従業員を呼び出すベルを亮は押した。奥から、ホテルの制服を来たフロント係が出てくる。

「白鳥美月さんに直接、頼みました。藤木です。」

「少々お待ちください。呼びますので。」

「何?あれ。」

 佐々木さんも怯えた表情で外の様子を伺うが、ガラス越しの外の様子は、こちらの方が明るいので見えない。麗香をロビーのソファに座らせた。

「華族制度に反対する集団、今ネット上で話題になっているけど、実態は知らない。」

「そうだよ、昨日、帰国してから、テレビで、華族の事が話題になってたから驚いたんだよ。一体どうなってんだ?華族の事は秘守制約で報道規制があるんじゃないのか?」

 本来なら、報道規制がかかっていると言うこと自体も、一般世間では知らされない事だ。だけど亮たちは、華族である麗香との付き合いから、弥神の起こした一件で、通常では知ることのない華族のそれらを詳しく知る事になった。

「世間は変わりつつある。」

「ふざけんじゃないわよ!」

陽気な酔いが怒りの酔いに変わってしまった麗香。酔っぱらって赤くしていた顔は、怒りで更に増した。

「訴えてやるわ!あいつらっ!傷害の被害よ!」

「いやいや、お前が勝手に足を絡ましただけで、あいつら何にもしてないだろ。」

 新田の突込みに麗香が睨む。

 麗香がさすっている膝を見れば、パンストが破れて血が出ていた。早くあの集団から引き離そうと適当な事を言ったけど、本当に手当てが必要な怪我しているとは確認していなかった。

「ごめん。大丈夫か?」

「ちょっと、何?大きな声を出して。」

 本館に続く廊下の奥から白鳥美月が現れる。白鳥美月は常翔大学を卒業後すぐに、この帝国領華ホテル本館のフロアでコンシェルジュとして働き始めた。今やもう立派な、ホテルの顔となっている。

「美月!何なのよ、あの集団!」

 麗香が表の集団に指をさす。

「あっ、ごめん。さっきの電話の時に言うの、忘れてたわ。」

「白鳥様、申し訳ありませんが、その話より先に、救急箱を貸して頂けませんか?」

「救急箱?」

「藤木ぃ!敬語、使ったら首だって言ったでしょう!」

「柴崎、もうお前、さっさと部屋に行って寝ろよ。」

 呆れた溜息をする新田。

(溜息つきたいのは、こっちだ。)









 新田の夢が叶おうとしている。世界のトツプクラスのチームでプレーをする、もしくはワールドカップで日本代表選手として優勝すると言うのが、新田の中等部の頃からの夢だ。

 生まれた時から、将来は常翔学園の経営者が決まっていた麗香は、潤沢にあるお金で何でも手に入れる事が出来たが、夢だけはお金では手に入れられない。麗香は新田が目指す夢を応援しながら、一つ一つ達成していく歓喜を共有して自分のものとしてきた。そんな新田の夢も、いよいよゴールの域に達する。新田への朗報話に、前祝い的に麗香達は祝い酒が進んだ。

 全員、明日はオフであり、酔いが過ぎて帰るのも面倒になった麗香は、帝国領華ホテルに泊まる事にした。

「本当に私、ここに泊まってもいいの?」

 佐々木さんが、肩身を狭くして部屋を見渡す。

「いいわよ、佐々木さんなら、もうすべてを知っているし、口が堅いのも実績ありだから。」

 佐々木さんは称号を持たない一般人であるけれど、7年前の弥神君の一件を、りのの親友として事情を知ることになった一人で、華族の立場もおおよそ知っている。

 ここは、本来なら華族の称号を持つ者しか利用できない帝国領華ホテル別館25階のツインの部屋だが、麗香が客人招待の手続きを取ったので、佐々木さんは泊まる事が出来る。

「麗香、あんた、まだ藤木を雇っているの?」

 帝国領華ホテルの制服を着た美月が、手に腰を当ててソフアに座った私を見下ろす。髪をアップにして乱れた髪一本ない美月は、まだコンシェルジュとして2年しか働いていないのに、もう立派にベテランの貫禄がある。

「私が雇っているんじゃないわよ。お母様よ。」

「それは会長秘書でしょ。執事業の事、麗香この間、屋敷から追い出すって言ってたじゃないの。」

 言った。そして追いだそうと、屋敷に来ないでと本人にも言った。だけど藤木は、『私の雇用主は文香会長です。解雇の要望は文香会長にご依頼ください。』って言うから、『じゃ、私の世話は辞めて、秘書業だけをすればいいでしょう。何も休みなしで夜遅くまで屋敷に滞在する事はないじゃない。』って言ったら、『私が、華族の称号を持つ柴崎家と関わる事は藤木家当主、藤木守と柴崎家当主柴崎信夫様との誓約が交わされております。その誓約を破棄する為には、両家共の信任印が必要でございます。すべての書類を揃えて頂ければ、そのご意向、承ります。』と頭を下げられた。

「何を言っても、勝てないのよ。」

「はぁ?」美月が呆れた視線を向けてから、ため息をついた。

 溜息つきたいのは麗香の方だ。藤木家の名前を出されたら何もできない。藤木家は、内閣総理大臣を出した名家。称号は無くてもその権力は絶大で、そんな家の長男が、家を継がず柴崎家で使用人のような事をしているのは、何とも言い難い事で、柴崎家からしても藤木家に頭が上がらない。周りがどう言っても藤木自身が柴崎家から立ち去らない限り、強く言えない状態だ。

「麗香らしくないわね。」

(らしくない事はわかっている。だって、こんなにも苦しい。いつだって苦しく辛い時は、私らしくない時。)

 麗香は、藤木が手当てしてくれた膝の絆創膏を手で摩った。

 藤木を屋敷から追いだせない理由はもう一つある。かつての恋人である藤木亮は、麗香のすべてを視通し、献身的なその振る舞いは、誰よりも一流。正直、藤木の献身さが心地よいと感じる。その心地よさを知ると手放せない、麻薬のように。

 美月の責める視線が辛い。

「ほっといてよ、もう。」

「麗香は私と違って割り切れない性格だから、心配しているのよ。」

「・・・。」

「麗香、あなたは純粋なる華族。あなたの軽率な振る舞いが、柴崎家を下籍に導くのよ。」

「やめてよ。佐々木さんがいる前で。」

「佐々木さんがいる前だからよ。それに佐々木さんは全てを知っているからオッケーだと言ったの誰?」

 美月には勝てない。誰よりも気高く華族の称号に誇りを持ち、感情をもコントロールして華族と家を守り抜く姿勢。麗香が学園経営者の娘でなければ、学園で一番にその統率力を発揮していたであろう。麗香の学園での位置づけは美月の後押しがあったからだと言って過言ではない。

「私・・・やっぱり帰った方がいいかな?」

 美月の迫力にたじろいで遠慮気味に言う佐々木さん。

「あぁ、ごめんね、佐々木さん。ここに泊まって。酔っぱらっている麗香を一人にするのは面倒だから。」

(もう酔ってなんか無いわよ。すっかり冷めちゃった。)と心の中だけで反論する。口に出して言えば、また美月に畳みかけられるのがわかっているから。

「では、私は、明日の昼まで就労しておりますので、何かご用命があればご連絡ください。」

(何よ、今更ホテルマンの振る舞いをして。)

 美月は大げさに頭を下げて部屋を出て行く。










 柴崎と佐々木さんを帝国領華ホテルに送ってから、そこから500メートルも離れていない有名商業高層ビルへと足を向けた。

 最上階に近いフロアに、クレジットカード会社がサービスの一環として運営する、プラチナ会員様専用のラウンジがある。24時間年中無休で利用できるこのラウンジは、資産が数十億円を超えないと入会のお誘いが来ないと噂されるプラチナカード所有者だけの特別な空間だ。どのクレジットカード会社も通常ランクのグリーンから始まり、シルバー、ゴールド、ブラックを超えて、最上にプラチナカードが最近設定された。そのカードはこちらから所有したいと申し出ても、一般人には、そんな物は存在しませんと断られるらしい。クレジットを使用しなくても年会費100万円が自動的に引き落とされる暴君ぶり。その一般市民感覚から離れたプラチナカードを藤木は二十歳の頃から持っていた。

 去年、アイルランドのノッティンガムACと契約を結び、移籍契約金10億の金が慎一の口座に振り込まれると、突然プラチナカード入会の案内状が届いた。最初、どうせ怪しいセールか何かのDMだと放置していたら、ふとしたことで藤木がそれを知り、めったにないチャンスだから手続きした方がいいとアドバイスを受けて、その通りにした。プラチナカード1枚で5億円までの商品がサイン一つで買えると言う。怪我一つすれば選手生命が断たれる、と言う不安定なサッカー選手の慎一に、クレジット会社は何を期待してプラチナカードを持つように誘ったのだろうかと不思議がっていたら、藤木は、『お前のその顔に将来性を見込んだんじゃないか?』と笑われた。

 冗談抜きで、慎一は、選手生命が断たれても芸能業界になど身を置くつもりはない。尊敬して憧れた大先輩の大久保選手は、元々関西出身の人だから芸人のようなしゃべりが上手く、今やバラエティで大人気の活躍ぶり。そんな先輩の作った道があるから、柴崎や連盟までもが大久保選手に続けと、連盟の広告として、モデルの仕事やテレビ番組の出演だとかを沢山入れてくるが、はっきり言って迷惑だった。しかし世話になっている手前、慎一は強く嫌だと言えない。

 フロアの真ん中に置かれているグランドピアノが自動演奏しているラウンジ。このプラチナカードを所有してから、藤木と飲むシメは必ず、ここを利用することになった。ここなら、サインや写真攻めの女子達の囲みに困ることは無く、完璧にプライバシーは守られる。

 落ち着いた空間に調度品も質が良い。窓から見える景色も当たり前に良く、すべてがワンランク、いや、3ランクぐらい上だ。ここを利用する人間も上位の成功者ばかりで、客層の大体が慎一達よりも年配の落ち着いた層ばかりだったが、一年前、若くして株投資で成功し、ネット時代の長者として番付に名前が載った最年少者の「カチエモン」こと勝枝孝則氏とここで会った時は、慎一も驚いた。 藤木はまだ大学生で経済学部に身を置いていたから、カチエンモンの名刺をもらって上機嫌だった。その時、藤木は言った、『俺のプラチナカードと違って、お前はすべてを自分で手に入れて来た、真の成功者、カチエモンと同じだと。』

 確かに、努力を怠ることなく積み上げて来た。りのの分も夢描くよと、約束してからもうすぐ10年が経とうとしている。長かったようで短い。その約束を守るためだけに、積み上げてきた努力の末に得られるのが、金銭報酬である事はわかっている。だけど、慎一が本当に欲しいのは、金銭報酬でもなく他者からの賛辞でもなく、こんな世間の特別じゃなく、ただ一人の幼き頃からの特別の笑顔。それは、もうどんなに努力しても、手に入らない。

 慎一たちが陣取った場所は、窓側ではなくてフロア内の奥まった遊戯スペース。ビリヤード台と壁にダーツが備え付けられている。利用客の年配者が多いこともあり、遊戯のあるこの場所は人気がなく、いつも開いている為、慎一達の指定席となりつつあった。

 週末だというのに、いつもと同じく、広さに見合わない贅沢な人数の客しかいない。しかも3人連れ以上の利用者はいなくて、とても静かだった。飲み物を作るカウンターのバーテンと、フロア係の従業員の方が多いんじゃないかと思うほどだ。当然、色物系の女の子が横に座ってお酌なんてサービスはなく、単純に、静かな空間と時を提供する真のプラチナ空間だ。

「フレンチ75でごさいます。」

 そう言って置いていったフロア係の従業員が、優雅な動作でテーブルを離れて行くのを見計らって、慎一は素直な感想を口にする。

「変わった名前の酒だな。」

「フレンチ75は、第一次世界大戦時に戦争の勝利を祝って、パリのアンリ・バーで生まれたカクテル。75はフランス軍の大砲の口径が75ミリだった事からつけられた。これに続いて、95ミリ125ミリのカクテルもあるから、試してみるといい。」

 相変わらずの博識。

 慎一は高2の時にはプロと契約を結んでいて、卒業と同時にプロ入団入りをしていたから、二十歳を超えて酒が飲めるようになっても、羽目を外した遊びが出来なくて、たまに藤木に誘われて遊びに付き合っても、大学生特有のノリについていけない事があった。しかし、いい年になり、海外では大人の付き合いが求められるようになって、ワインやカクテルの知識も時には必要となってくる。

 日本に帰国して藤木と会う時は、酒のオーダーを藤木に任せて、そのカクテルの知識を教えてもらう事にしていた。毎回、今日は何を持ってくるかと楽しみだった。

「へぇー。」

 感心の相槌をうち、早速クラスを口に運ぶ。レモンソーダーのような透き通ったシャンパンベースのカクテル。飲めば、そのイメージ通りのレモン風味の苦味がシャンパンの気泡が口の中で弾け鼻に抜けた。

 藤木は水のボトルをコップに注いだ。

「あれ?お前のは?」

「明日の朝、ホテルに柴崎を迎えに行かなくちゃいけない。アルコール抜けさせないと運転できないだろ。」

「会長が息抜きしろって、言ってたじゃんかよ。」

「はいそうですか、って、ほっとくわけにいかないだろ。あんな連中がウロウロしてるんだ。感情に任せて、トラブられたら敵わない。」

「やりかねないな。柴崎なら。」

 先週末から急に、あの座り込みが始まったという。帝国領華ホテルの別館の前で、ちょうどドアマンが居なくなる夜の11時ごろから朝の5時まで毎晩あそこで座っている。毎日同じメンバーかどうかは目深にかぶった帽子とマスクが邪魔してわからないと白鳥さんは嘆いて教えてくれた。

 何処からか、華族会の事務所がこの帝国領華ホテルにあるという情報が流れたらしい。ホテル側も、彼らを何度も追い払おうとしたらしいけれど、何も言わず、ただ、ラジカセを流して座り込むだけで、完全に無視されるらしい。客や従業員が被害に遭ったわけじゃなく、こちら側から下手に手出しできない。警察に相談したらしいが、昼の営業時間でもない為、営業妨害になるとは言い切れず。また、彼らが座り込んでいる場所は、帝国領華ホテルの土地ではなく、あの下は川が流れていて、都市開発の為に蓋をした場所をホテルが地上使用権を得ている場所だと言う。土地の管理をしている区の河川事業管理課は、彼らから器物損壊されている訳でもなく、危険行為も見受けられないとの事で、彼らと関わる事に及び腰らしい。

「柴崎、かなり酔ってたけど大丈夫かな。怒り再燃して奴らに喧嘩吹っ掛けなきゃいいけど。」

「だから佐々木さんに客人として泊まってもらうようにしたんだ。さすがに柴崎も、客人の前では無茶はしないよ。華族としてのプライドは持ちあわせているからな。」

 帝国領華ホテル20階より上の5階分は、華族専用フロアで、専用エレベーターから華族が持つピンバッチを鍵代わりに型合わせに嵌めないとエレベーターは作動しない仕組みになっていて、柴崎と佐々木さんが泊まる部屋には間違っても一般人が入り込めない仕組みになっている。慎一は、りのの華選上籍パーティに呼ばれて、それらの一連を知った。

「しかし、物騒になったな。しばらくいない間に。」

「これも時代の流れだろうな。」

 水を一口飲んだ後、壁に掛けられているビリヤードのキューを取りに立ち上がる藤木。白いシャツを開襟にして黒いスーツをラフに羽織っている。何を聞いても応えられる知識を持ち、子供の頃から内閣総理大臣を輩出した藤木家の跡取り息子として育てられた振る舞いは、男の慎一から見てもカッコいいと思う。自分が女だったら、藤木に恋するだろうなとキューの先にチョークをつけて構える藤木の姿を目で追う。

 構えたブレイクショットを途中でやめた藤木は、大きなため息をついた。

「あのなぁ・・・やめてくれるか、その感情。」

 狙った球越しに目が合い、本心を読まれたようだ。

「俺は、間違っても、そっちの趣味は無い!」狙っていたブレイクショットを八つ当たり気味に撃ち抜く。

 慎一の知らない所で、中一からビリヤード場に通っていたというだけあって、無造作な打ち方でも2つのボールはホールに落ちる。 知識だけじゃなく、ビリヤード、ダーツ、ゴルフ、乗馬、社交ダンスまでこなして、一流の場で恥を書かない振る舞いが出来る藤木は、大学でモテにモテた。言い寄ってくる女の子を、タイプじゃなくても片っ端から付き合っていき、1日たりとも彼女がいない日は無いと噂されるほどで、時に3人の女の子と同時に付き合っているという話も。本当かどうかは知らない。

「じゃ、ノーマルの趣味はどうしたよ。」

 だから、今の藤木が心配でならない。あれだけ派手に遊び尽くしていた藤木が、今は地味に暗い。

 まだ藤木家当主として継いでいないにもかかわらず、働かなくても人生3回ぐらいを遊んで暮らす事が出来るという藤木亮名義の資産は、慎一の想像を超える莫大な物だろう。だから、なにもそんな地味に自分を追いこめなくても、自由に生きればいいのにと思うし、言ったのだけど。

『金があるからって遊んで暮らしてたらボケるだろう、決めたことだから。』と、藤木は柴崎家に入り、会長秘書をやり始めた。

 派手に振る舞う時も、地味に振る舞う時も、両極端に自分を追い込んでいる時が一番、藤木が危ういと言う事は、長い付き合い中でわかって来た事。

「世界に名が知れる男、新田慎一様に心配されるとはねぇ。光栄です。」

 藤木は、キューをビリヤード台の縁に置き、執事の様に姿勢よく右手を腹の前で左手を後ろの腰にしてお辞儀をする。こうして、フルネームや君などの呼称をつけて語るときは、触れられて欲しくない話題である証拠。今日は最上級の様づけだ。

「これから先も、お前とこうして飲む機会は中々作れないと思うから、今日はあえて口にするし、聞く。」

 藤木は驚いた表情をしてから目を細める。その表情はわざとだ。お前の本心を読んでいるのだぞ、その本心を読まれるのが恥ずかしかったら、余計な事を聞くなという藤木の牽制だ。

「俺はもう、お前の能力に恥じる事などない。」

 そう、そんな感情は、藤木が事故にあって語れない半年の間になくなった。恥よりも友を失う事の方がずっと辛い。

 藤木は渋い表情をしてから背を向け、壁に備え付けてあるダーツの矢が治めてあるケース前まで歩く。開けて三本とも手にすると一本を利き手に持ち直しながらダーツのスローインの距離まで戻ってくる。

 苛立つ感情をぶつけるように、藤木は思いっきりダーツの円に向かって矢を投げた。矢は勢いがあり過ぎて的に刺さらず、バウンドして下に落ちた。

「何だよ。何が聞きたい?」

「柴崎の事だよ。お前さ、何の為に会長秘書という立場で柴崎家に入ったんだ?」

「何の為って、世話になった恩返しも含め、藤木家が華族の血筋が入っている可能性を探すためだと言っただろう。」

「そう、お前は柴崎との釣り合いを考えて、藤木家が華准に上籍する為の証拠を見つける為に柴崎家に入った。」

 振り返り、慎一を細めない目でみる藤木。

「だから何だ。つまらない言葉の駆け引きをするな。」

「俺は、柴崎との釣り合いを考えてって言ったんだ。それを否定しないんだな。」

 藤木は表情を変えずに手に持っていた二つの矢をテーブルの上に置いて、残っているコップの水を飲んだ。

「純粋の華族の称号を持つ柴崎家の会長秘書兼使用人が、一般の民だと様にならないだろう。」

(やっぱりすんなり、本音を言わないか。)

「誤魔化すな。華族の中でも柴崎家は、凱さんを華選に上げるような革新的な一族だと言ったのはお前だぞ、古い考えに固執した考えよりも、能力主義である柴崎家が、社員の採用に階級の有無に拘るもんか。俺が聞きたいのは、そんな体面的な事じゃない。」

 藤木は、テーブルに置いた残りのダーツの矢の一つを手にする。

「お前は、柴崎と離れるのが嫌で翔柴会会長秘書として屋敷に入った。」

 ダーツのスローイン距離が、61ccm以上が規定で、大体231cmぐらいに設置している店が多いと教えてくれたのは藤木。

「あの頃から変わらず藤木は、俺以上に一人の女を手放す事が出来ないでいるんだ。」

 その約2メートルの距離から手に持っていたダーツを投げつけた。ダーツは、左よりの8点のシングルに刺さる。

 慎一と藤木の関係は一方通行。ダーツの様に真ん中に命中させないと、藤木からの本心は帰ってこない。

 それが二人のルール。





「これから先も、お前とこうして飲む機会は中々作れないと思うから、今日はあえて口にするし、聞く。」

 新田が甘い本心を亮にぶつけてくる。前に会った時はワールドカップ前、日本代表の選手に選ばれてアイルランドから帰国した時で、やっぱり翌日に会って飲み交わした。あれから約一年ぶり、あの時亮は、柴崎家に入って半年が過ぎていた頃、麗香はまだ御田氏と出合っていない頃だった。亮が柴崎の母親、翔柴会会長の秘書をやっているんだと報告したら、新田は「フーン」と気のない返事と顔をしていたけれど、心は喜んでいた。『やっぱり柴崎と離れるのが嫌で、上手くやったな。』と応援を含めたニヤつきを読み取り、しょうもない期待をしやがって、って心の中で貶した。

 新田がこんな風に宣言する時は決まって、親友や、恋人などの甘い感情に浸り、青春ごっこをやりたい時。1年ぶりに飲み交わす機会と、マルセイズからの契約話が合わさって新田は心が熱くなっている。

 どんな不利な条件でもフランスに行く事を、もうすでに心決めている新田。これ以上、何を語りたいというのか。

 牽制の為に目を細めた。お前の本心を読んでいるから、嫌ならそれ以上踏み込んでくるなという強い念を込めて。これをすると新田は、主人に叱られた犬の様に、まずいと言う顔をして、引きさがる。

「俺はもう、お前の能力に恥じる事などない。」

 しかし、今日の新田は、向かう敵なしの本心をぶつけて来る。飲み過ぎた酒がそうさせたのか、それとも、夢をその手に掴んだ自信がそうさせるのか。

 ダーツの横に木製のフレームで出来たケースあり、そこから矢を三本とも外し取る。

 新田が見つめる視線が、背中越しにでも伝わり暑苦しい。変わらないその眼の輝きは亮が失ったもの。

 完全に封印したと思っていた妬ましさが、ムクリと起き上がりかける自分の卑しさに、怒りの矢を投げつけた。力み過ぎた矢は的に刺さらず、バウンドして下に落ちる。

「何だよ。何が聞きたい?」

「柴崎の事だよ。お前さ、何の為に会長秘書という立場で柴崎家に入ったんだ?」

 新田は亮からの、くだらない言葉を待っている。

「何の為って、世話になった恩返しも含め、藤木家が華族の血筋が入っている可能性を探すためだと言っただろう。」

「そう、お前は柴崎との釣り合いを考えて、藤木家が華准に上籍する為の証拠を見つける為に柴崎家に入った。」

 振り返ると、新田の純粋な目が亮を見据えてくる。

「だから何だ。つまらない言葉の駆け引きをするな。」

「俺は、柴崎との釣り合いを考えてって言ったんだ。それを否定しないんだな。」

 自分は何故、新田慎一と友になったんだろうかと、考えたことが何度もある。その答えはいつも出ない。時に暑苦しい程に亮を頼ってくる新田の、この能力なしで向き合う関係を願った。

 残りの矢をテーブルの上に置いて、コップの水を飲んだ。

「純粋の華族の称号を持つ柴崎家の会長秘書兼使用人が、一般の民だと様にならないだろう。」

(くだらない答えを導きだそうとするな、あきらめろ。)

「誤魔化すな。華族の中でも柴崎家は、凱さんを華選に上げるような革新的な一族だと言ったのはお前だぞ、古い考えに固執した考えよりも、能力主義である柴崎家が、社員の採用に階級の有無に拘るもんか。俺が聞きたいのは、そんな体面的な事じゃない。」

(それを言わせるのか?久しぶりだから?もうまた次、いつ飲み交わす事が出来ないからか?)

 テーブルに置いたダーツの羽を手にする。

「お前は、柴崎と離れるのが嫌で翔柴会会長秘書として屋敷に入った。」

 ダーツのスローイン距離は61ccm以上と決まっている。だけど大体231cmぐらいに設置している事が多い。

 このラウンジにはスローインラインの線は記されていないけど、ちょうど、このテーブルの角の位置がそれぐらいだろうと、あたりをつける。

「あの頃から変わらず藤木は、俺以上に一人の女を手放す事が出来ないでいるんだ。」

 暑苦しくまとわりつく新田の本心。昔からこのまとわりを振りほどくことができなかった。

 それが新田慎一の持つカリスマ。

『一緒に合格するといいな。』

 そのどこまでも純粋な本心は、亮がはじめて味わった友という関係の嬉しさだった。

 手に持っていたダーツを投げつけた。ダーツは、左よりの8点のシングルに刺さる。

 真ん中に突き刺さらない限り、亮は新田のカリスマから逃れる事は出来ない。

 それが二人のルール。






「柴崎さん、もしかして、まだ藤木君の事・・・。」

「やめてよ。あんな奴!」

 着ていたジャケットを脱ぎ、ベッドに投げつけた。

「あいつは、お母様が雇っている秘書兼、お父様と誓約をした使用人!私が何を言っても出て行かないし、私がどういう態度を取っても、あいつはわざとらしく頭を下げて、私の華族と言う地位を誇示するのよ!」

「それって、藤木君は柴崎さんの事を・・」

「やめてって言ってるでしょ!私がどんな思いで、この華族の称号がある事を自責に思っているか、わかってないのよ、あいつ!」

「柴崎さん、それが矛盾した言葉だってわかってる?」

「・・・。」

 わかっている。藤木は全てを視通す。

 佐々木さんもそれには早い段階で気づいていた。麗香達の仲間内で藤木の読み取り能力を知らないのは、今野と岡本さんだけ。

 藤木はその能力で、麗香の気持ちを視通し、「だったら何故?」の麗香の疑問をも知っているはずなのに、その答えを教えてくれない。いつだって藤木は答えを教えてくれたことはなく、いつも私が答えを導き出すまで待っている。途方もなく長い時間をかけて。

「藤木君は、柴崎さんのそう言う感情もすべて知っているからこそ、側にいてくれているんじゃないの?」

「違うわよ!あいつは、あぁやって、華族へ諂いながら私を責めているのよ。りのを追いやった華族の称号を持つ一族であることを忘れるなって。」

「そんなことするかなぁ、藤木君。」

「するわよ、現に今、しているわ。」

「思い過ごしじゃない?新田君から聞いたわ、藤木君、藤木家が華族の血筋が入っているのかもしれないと、証拠を探してもいるって。仮にリノの事で華族に恨みがあるのなら、どうして自身の家の華族の血筋を探すの?」

 佐々木さんに指摘されて、初めて気づいた麗香だった。

 屋敷に通って執事の真似事をされるのが、あまりにも嫌で怒りばかりが心頭し、その矛盾に気が付かなかった。

 そうだ、あれほどに嫌っていた家の、華族の血筋が入っているかもしれないと探して、どうしようというのか?

「それは・・・わからないわよ。あいつの考えてる事なんて。あいつは何時だって訳のわからない考え方で、人を惑わして楽しんでいるのよ!」

 藤木の本心を視通す世界は、どす黒くて辛い世界。だから少しでも楽しみを見つけて、自分がそのどす黒さに溺れてしまわない様にしている?

 それが、華族の血筋を探す事にどうつながるのかさっぱりわからないけれど。

「ふー。寝る前に、甘いミルクティでも頼む?気を落ち着かせるために。」深く溜息をついて、ソファのテーブルに置いてあるルームサービスのメニューファイルを手にする佐々木さん。

「カフェインで眠れなくなるじゃない。」

「明日は仕事もないし。朝まで聞くわよ、柴崎さんの愚痴。」

「愚痴って、ほどの物は何もないわよ・・・。」

「あれ、もしかして、チェックアウト早い?この部屋。」

「ううん。何時でもオッケーよ。」

「じゃぁ、夜更かしを楽しみましょう!」

 ルームサービスのメニューをめくり、デザートも頼もうかなぁとメニーの写真を順番に見て行く。ここにりのが居たらと思い出さない日はない。三人でよく食べたスウィーツの、りのは決まってプリンだった。

「ここのシフォンケーキ美味しいわよ。」悩んでいる佐々木さんに、メニューの写真を指差して教えてあげた。

「本当?あーでもこんな時間に食べたら太るかなぁ。」

「えー佐々木さん、そんな事、気にするの?」

「するわよ!こんなに大きくても、女なんですからね。」

「佐々木さん縦に大きいけど、横には大きくないじゃない。すらっとしているし、ダイエットなんて話、今まで聞いたことなかったから。」

「昔はね、いくら食べても太らなかった。バスケ辞めたら、さすがにちょっとね、同じ食事量でいたら、一時期ヤバいぐらいに太ってね。ほら大学1年の夏!」

「えーそうだった?そんな太ったなんて気づかなかったけど。」

「ヤバかったわよぉ~。」

 過去の記憶を探っていると、『思案中。』と言った若き頃の藤木の顔が脳裏に浮かんだ。

(そういえば、あの時、何故、藤木は思案中だった?)と疑問に思う。

 藤木はあの頃、新田と一緒にプロを目指して、そんな夢を麗香達の前では語っていたはず。なのに、クラスメイトの前では「思案中」と言ったのは?あの時プロを目指す新田の夢を、面白くもなんともないって貶したから、同じと言えなかったのだろうか?そんな謙遜する心を藤木が持ちあわせていただろうか?まだ麗香が傲慢に学園経営者の娘の立場を振る舞っていたのを、暴君だと指摘したあの策士が?

 そう、策士だから、平然と柴崎家に入り込んで、諂い執事のまね事をする。

 それが麗香には耐えられない。










「柴崎が結婚したら、お前はどうなる?」

「俺?どうもしないよ。おめでとうって・・・ていうか、お前、その話を誰から聞いたんだ。」

「柴崎理事長。」

「信夫理事長?」

「うん、昨日、理事長が連盟から茨城に送ってくれた時、理事長が電話で『麗香を柴崎家代表として参加させます。御田様と一緒に、西の宗の皆様に麗香の事をお披露目するいい機会になりましょうから』って言ってて、西の宗って言葉で、華族の事だとわかって、電話を切った後に聞いたんだよ。柴崎が御田財閥の御曹司と付き合っているのは、柴崎本人から聞いて知っていたしな。お披露目とか言ってるから、結婚するんですか?って。」

 柴崎理事長は、娘の嫁ぎ先が華族の称号を持つ御田家になる事を、とても喜んでいた。

「そうか・・・。」

「いいのか?柴崎が御田氏と結婚しても。」

 疎ましそうに慎一の視線を外す藤木、もう一本残っているダーツを手に取り、その針の先をしきりに指で触って、その尖り具合を見ている。

「良いも、悪いも、両家で決まりつつあることだ、ただの使用人の俺が口出すことじゃない。」

「都合の悪い時だけ使用人って、便利だな。」

 藤木の手が停まる。また藤木の怒りを含んだ目。だけど負けない。

「お前は何の為に」言葉をさえぎられる。

「何を勘違いしてるんだ。言っただろう、くだらない駆け引きはするな。」

「しらを切るな。人の本心を読み通すくせに、知らない風情を演じるな。」

「何を今更、何度も言ってるだろう。この力は本来あってはならないものだ、自分の心が他人に知られているなんて知ったら」

 今度は慎一が言葉を遮る。

「もう知っている。柴崎も俺も。読まれたくない事も藤木は読み取ってしまう事を、俺達は知っている。その力を嫌だと思う時もあったさ、だけど嫌だと思ったのはその力だ、藤木じゃない。」

 藤木は驚いた表情をする。

「藤木自身を嫌だと思っていたら、とっくにお前から離れている。柴崎も同じ・・・」

「馬鹿じゃないのか?能力と俺を切り離して好き嫌いを判断するなんて。この力は無くせる様な物じゃない。能力ありきが俺であり、俺自身が能力無しの俺ではありえない。」

「そう、能力なしの藤木はありえない。けれど、その力を藤木自身が「本来あってはならないもの」と一線を引いて嫌厭している事が、藤木自身の素だと知っている。」

 藤木は唖然とした顔をして、口をつぐんだ。

「藤木、何故、柴崎の心を知っているくせに、知らないふりをするんだ?」

「・・・ぷっ、ははははは。」間を置いて突然、藤木が笑い出す。

「やっぱり勘違いだな。」

「藤木!」

「お前は今日、すべてを話すまで帰してくれなさそうだからな。仕方ない、教えてやるよ、柴崎の本心を。」











  『麗香、その靴を履いていくの?』

  『うん。だって、このドレスにはこの靴が合うもの。』

  『その靴は大きいから、もう少し大きくなったらって言ったでしょう。』

  『今日は、大きなパーティよ、靴も新しいのじゃなきゃ。』

  『転んでも知らないわよ。』

  『大丈夫よ、お母様。ほら、見て、このドレスにぴったり。』

  いつもより大きなパーティがあると、

  お母様とお父様は衣装と靴にバック、アクセサリーまでの全てを、

  贔屓にしている百貨店でオーダー新調していた。

  そんな風にもう数か月も前から準備していたパーティだから、

  いつもよりフロアの広さが広く感じたのは、錯覚だったかもしれない。

  だけど、子供用の低い丸テーブルの数がいつもより多かったのは

  確実に覚えている。

  子供用のテーブルが5つもあった立食パーティは、

  大人の食べる料理と場所が明確に分けられていた。

  『やっぱ、この敵ボスつえーよな。』

  『そうなんだよ、こいつさえ倒せば、姫を助けてエンディングなのに。』

   子供達の丸テーブルが置かれたそばの壁際には、椅子が並べて置かれていた。

  そこで暇つぶしに携帯ゲームを持ってきている子が、食事の後に始めた。

  低学年の男の子が群がって、頭を突き合せ覗き込んでいる。

   悪い敵に捕まったお姫様を王子様が助けに行く。

  最初は一人で向かった冒険の旅も仲間を増やして、皆で悪い敵ボスを倒し、

  姫を助ける、今流行りのロールプレイングゲームだ。

  世間で流行っていたから、麗香も当然に買ってもらっていた。

  だけど、ちっとも面白くない。  

  ⦅だって、あのゲームのお姫様は、敵に連れ去られる時、

  何の抵抗もしないで捕まって、助けてぇーっと泣いているだけなのよ。⦆

  そして監禁されている牢屋で、ずっと誰かの助けが来るのを持ち続けている。

  そんなストーリーがつまらないゲームだった。

  ありきたりな物語のヒロインはみんな、王子様が助けに来るのを

  ただ待っているだけで泣くばかり。

  シンデレラのガラスの靴やドレスは綺麗で素敵だと思うけれど、

  お姫様のそのじれったさが嫌い。

 ⦅何故、継母の言う事を素直に聞いて、耐え忍ぶの?

  何故、捕まった牢屋から出ようとしないの?⦆

  『淳平。そんなの見ないで、こっちに座って。』

  『う、うん・・・』

  美月ちゃんに呼ばれた淳平くんは、覗いていたゲーム画面から

  名残惜しそうに離れて、美月ちゃんの隣に座った。

  『美月ちゃん、どうして、急に淳平くんを呼び捨てにするの?』

  急に淳平くんの事を呼び捨てにした美月、それも、パーティが始まった時から

  二人はずっと一緒にいる。

  『私達、許嫁になったからよ。』

  ⦅いいなづけ?新しいお漬物の名前かしら?⦆

  『いいなづけって何?』

  『結婚の約束をした事よ。』

  『結婚?』

  『そう、淳平と私は結婚するの、大人になったら。』

  そう言って、背筋を伸ばし澄ました顔をして座る美月ちゃんは、

  麗香の視線に思い出したように揃えた足を無理に斜めにして、お姉さんぶる。

  華族の称号を守る為に、白鳥家は橘家の次男である淳平くんと美月ちゃんを

  将来、結婚させる誓約をした事を、後日改めて麗香は両親から聞く。

  その時は、許嫁の意味を理解できないまま、

  大人ぶる美月ちゃんに悔しく嫉妬した。

  美月ちゃんとは、ずっと小さい時から親友と言うよりは競争相手で、

  パーティ開始早々に一つ先を越された気がした。

  『見て、美月ちゃん、この靴、素敵でしょう。』

  『麗香ちゃん、歩き方変よ。』

  麗香の自慢の靴を見ようともせず、すました表情のままの美月ちゃん。

  麗香の方を見ないのが悔しい証拠だと悟った。

  『靴が素敵でも、歩き方が変だと、素敵に見えなくてよ。』

  遠巻きに靴を褒められても、勝った気がしない。

  靴はお母様やお父様と違って、既製品から選ばなければならなかった。

  一度きりの、しかもすぐに大きくなるからと言われ、

  百貨店の店員は麗香の前に沢山のフォーマル靴を並べてくれた。

  だけど、どれもありきたり、今まで履いたのと代わり映えのしない物ばかり。

  ドレスがこんなにも素敵なのに、靴で台無しにはしたくない。

  麗香は店員が並べてくれた靴に全て首を横に振り、

  その日は靴を購入する事が出来なかった。

  パーティが一週間後に迫って、仕方なく既製品でと諦めかけた時、

  この靴を見つけた。あの水色のドレスに絶対に合う、

  シンデレラの硝子の靴の様なヒールのあるパンプスタイプ。

  だけど残念な事に、その靴は、当時の麗香の足には少々大きかった。

  インポートもので麗香の足にピッタリと合うサイズがなかった。

  しかし、一目惚れした靴は足が大きくなってから履くからという約束で

  買ってもらい、パーティには家にある靴で参加する事になっていたのを、

  パーティ当日、麗香は我慢できなくて、脱げそうになりながらも履いて来た。

  このシンデレラの靴があれば、麗香は誰よりも美しく強いお姫様になれる

  と思い、歩き方なんて気にしなかった。

  『美月、こちらへ、鷹取様がお見えになったから、ご挨拶しなさい。』

  美月ちゃんは、大人達に呼ばれて駆けていく。

  美月ちゃんの靴は、前のパーティで履いていたのと同じ

  白いエナメルのローヒール靴だった。今日は自分の方が絶対に素敵。

 ⦅ほら誰もこんな大人みたいなヒールのある靴を、子供は履いていないもの。⦆

  くるっと一周、バレリーナの様に回る。

  ドレスの裾がふわりと回って靴が露わに。美月ちゃんが言わなくても、

  他の子たちは絶対に『わー麗香ちゃん、素敵な靴ね。』って言ってくれる。

  と思っていたのに、誰もこの靴を褒めてくれなかった。

  大人達は皆、ご挨拶で忙しく、子供たちはゲームで忙しい。




  パーティが何時に終わるかも知らない子供たちは、

  ゲームにも飽きて暇を持て余し、廊下と隣の休憩フロアも合わせての

  かくれんぼが始まった。

  大人達に『走らないで大人しくして居なさい』と注意をされたけれど、

  そんなの聞くはずもない。このパーティが、一体何のパーティかも知らないし、 

  一通りの食事もおしゃべりも済み、大人しくするにも限界だ。

  かくれんぼが始まって、この靴を履いてきた事に麗香は後悔した。

  絨毯にヒールが入り込んで走れない。

  美月ちゃんが淳平くんと手を繋いで走り行ってしまったのを

  追いかけようとしたら、麗香は勢いよく転んでしまう。

  絨毯のおかげで怪我はしなかったけれど、ドレスの裾がめくり上がり

  恥ずかしい。慌てて立ち上がったら、右足の靴は脱げてしまっていて、

  数メートル後ろにある。

  その靴を拾ったシルバーのタキシードの男の子と目があった。

  見られた恥ずかしさで俯いて、その場を動けなくなってしまった。

  俯いた足先にそっと置かれたシンデレラの靴。

  『大丈夫?怪我はない?』

  『う、うん。』恥ずかしくて顔を上げられない。

  『素敵な靴だね、ドレスにぴったり。』

  顔を上げた。シルバーのタキシードの子はニコリと笑った。

  今日、初めて会う子だった。子供同士で自己紹介をした時は、

  ニコリともしないで、つまらなさそうに名前を言っていた。

 ⦅なんて名前だったかしら?⦆

  誰とも話すことなく、大人の言う事を守り、

  ずっと会場の隅で大人しくしていた男の子は、

  かくれんぼのじゃんけんにも参加しなかったから、年上かと思っていた。

  誰も褒めてくれなかった靴とドレスを褒められて、恥ずかしさは瞬時に消え、

  嬉しくて頬がほころんだ。

  『ありがとう。』

  『鬼に捕まってしまう、行こう。』

  そう言って男の子は、麗香の手を掴んで駆けだす。

  そして従業員しか入っては行けませんのマークのある物置に入り、隠れた。

  『ここ、入っていいの?』

  『いいんじゃない?ここは駄目ってルールは決めてなかったよ。』

  かくれんぼのルールじゃなく、ホテルの人に怒られないかなとの

  疑問だったけれど、でも何だか、こういうのは楽しい。冒険してるみたい。

  ⦅そう、お姫様も冒険しなくちゃ。⦆

  『冒険の始まり。囚われたお姫様は、鬼から逃げるために、

   鬼の城を抜け出そうと走って、靴が脱げました。』

  『ぷっ、ふふふふ、面白い。』

  『靴を拾ってくれた人が仲間になって、鬼に見つからない様に隠れました。』

   物置の、積まれている椅子の陰に隠れて並んで座った。

   部屋の電気はつけずに入ったから、ドアの隙間から届く細く弱い光と、

   天井近くにある換気扇から漏れる外の明かりがわずかにあるだけで、

   男の子の表情は見えない。

  『最初は一人だったお姫様は、仲間を見つけて増やしていくのね。』

  『うん、沢山の仲間をね。』

   空想の冒険話をして、楽しんだ。その声が外に聞こえて、

   鬼ではなくホテルの従業員に捕まって追い出されたけれど、

  お姫様の冒険の旅は終わらない。

   大人達がダンスをし始めた。これがパーティのエンディングだと言う事は、

   もう何回もパーティに参加してわかっていた。

  明かりが薄暗くなり、静かな曲が流れる。

  曲が変わる度に大人達は相手を変えて踊る。 それが大人の付き合い。

  お母様は今、美月ちゃんのお父様と踊っていて、お父様は、麗香の知らない人と

  踊っている。

  今日のパーティは大きなパーティと言うだけあって、曲数も多かった。

   あと少しで帰れるはずだけど、この待っている時間がつまらない、

  と溜息をついた時、目の前に左手を差し伸べられる。 

 『シンデレラの靴を履いたお姫様、一緒に踊ってくれませんか?』

  一緒に物置に隠れたシルバーのタキシードの男の子が、

  片足一歩後ろに膝を曲げ、右手をお腹に頭を下げる。それは社交界のマナー。

  マナーは両親からきっちり教えられていた。子供と言えども失礼は許されない。

  この仕草で誘われたら、断らず差し伸べられた手に左手を置いて、

  右手でドレスをつまみ上げ、右足を後ろに引いて膝を曲げニコリと会釈する。

  これが、よろしくお願いしますの合図。

  男の子は、麗香を大人達が踊っている場所まで連れて行くと、

  麗香の腰に手を添えて誘導してくれる。大人みたい。

  お父様と何度かダンスの練習はしたけれど、お父様とは身長が合わないから、

  練習にはならなかった。

  だから本格的に踊るのは、はじめてだった。

  緊張して覚えたステップが踏めない。

 『力を抜いて、ついて来れば大丈夫だよ。』と男の子は優しく囁く。

  言う通りにした。

 『ふふふ、可愛い、上手よ。』

 『可愛いカップルの誕生だな。』

  すれ違う大人達が、口々に私達を褒めてくれた。

  この歩きにくい靴だから、男の子の誘導に任せてしまう事が出来て、

  上手く踊れているような気がする。履きなれた靴だったら、

  きっと自分のステップを気にするあまり、

  相手のタイミングが合わず相手の足を踏んでいただろう。

 『お姫様は素敵な靴で王子様とダンスを踊り、末永く幸せに暮らしましたとさ。』

 『そんなの、つまらないわ。』

 『えっ?』

 『もっと、ずっと、ずっと冒険したいわ、私なら。』

 王子様と結婚した後の【末永く幸せに暮らしました】は退屈そうだと、

 麗香は嫌いだった。

『ぷっ・・・そうだね。』と笑う男の子。









「その男の子が御田さん?」

「ええ。」

「素敵じゃない!」佐々木さんは持っていたカップをテーブルに置き、目を輝かせた。

「ずっとね、名前も顔も思い出せなくてね。ただ、一緒に踊って楽しかったって言う記憶だけが頭に残っていて、あんなに大きなパーティだったから、きっと、どこかのご子息だと思ってパーティの度に探していたんだけど、わからなくて。称号の持たない一般の方の子供だったかしら、と思ったりもしてたの。」

 ルームサービスで頼んだミルクティがすっかり冷めてしまっていた。佐々木さんは、麗香が勧めたシフォンケーキをペロッと食べてしまい、くつろいで麗香の話を聞いてくれている。

「1年と少し前にね、克彦さんが、こちらの華族会パーティに顔を出したのよ。ご実家は兵庫県だったから、今まで関西の方の華族会パーティに出席されていたんだけどね、御田財閥の人事移動でこちらに移住してきたの。ご挨拶として関東の華族会に顔を出された時に、シンデレラ靴を履いたお嬢さん、一緒に踊ってくれませんか?とダンスに誘ってくれたのがきっかけで、お付き合いが始まったの。」

「素敵~」うっとりとする佐々木さん。「赤い糸って、あるのねぇ」

「ははは、それは、わからないけど・・・。」

 幼き頃からずっと探していた男の子が、日本有数の財閥の華族だったことは、麗香にとって幸いなことだった。両親と先祖にこれで顔向けできる。何も悩む事などない。だけど、麗香は心から喜べないでいた。

 御田克彦さんとのお付き合いには、足りない物があった。基本的かつ一般的にあって当然のものがない。しかし、それさえ我慢すれば、すべてがうまくいく。

 柴崎家のみならず、御田家も抱えている問題が解決する。










「柴崎は、見つけたんだ。王子様を。」

「・・・。」

 新田は、本心も無心に驚いている。

「一緒に踊ったあの子はどこの誰だったんだろう。とずっと、ずっと探していた。それをやっと、自分で見つけたんだ。それが、華族で御田財閥の御曹司。これ以上に良い縁談はない。」

「じゃ何故、柴崎はあんなに荒れてるんだ?」

「マリッジブルーなんじゃないか?」

 新田が顔を顰める。

「ないか?って、ここまできて誤魔化しか?」

 面倒だ。この眼は全てを読み取るわけじゃない。自分でも基準はわからない。難しい場面でも手に取るように相手の心の叫びがわかる時があるかと思えば、簡単な感情が読めない時もある。だけと麗香も新田も、すべてを読み取っていると勘違いしている。

「結婚前提にお付き合いしている男がいるのに、心のプライバシーも見抜く赤の他人が、屋敷を出入りしているんだ。しかもその男は昔付き合った事のある男、嫌に決まっているだろ。」

「あっ・・・。」

「会長に、そのことを含めて来期の人事を考えてくれと頼んである。屋敷の執事のような仕事をするのも、もうすぐ御役目終了だ。」

 (そう、何時だって俺の願いは叶わない。些細な夢も、潰える。それが運命。)

 手に持っていたダーツの針が指に食い込むと、赤い血がプくりと盛り上がる。この血に華族の血が混じっているのかもしれないと教えられたのは、亮が高等部を卒業する時だった。文香会長は、亮の持つ人の本心を読みとる能力が、自分と同じである事、それが華族由来の物であるなら、亮が同じ能力を持っているのは、どこかで藤木家が華族の血が入っている可能性があるかもしれないと、昔、文香会長は凱さんは福岡の藤木家の実家を訪れて、祖歴を閲覧させてもらい調べようとしたと聞く。しかし、その調べは中々進まずに至ってしまった。大学で時間が余す事があれば、亮自身で調べて見るといいと言われた。けれど、大学時は、それをする暇なくキャンパスライフを謳歌した。

 単純なもので、そんな話を聞いてからは、忌み嫌っていたこの能力が、さほど嫌じゃくなった。大学を卒業し柴崎家に仕える理由の一つとして、その課題を利用させてもらった。亮は翔柴会会長秘書をしながら、それらを調べ始めた。自身の家の祖歴を読み漁り、時に、藤木家に関わった人の家を訪ねて、昔の事を知っている老人に聞いて回ったりもしている。しかし、まだ、藤木家に華族の血が入ったという徹底的な証拠は見つからない。

「仕えた家のお嬢様が、最高の結婚相手を見つけて嫁いでいくんだ。これ以上ない執事冥利に尽きる喜び。」

 刃先に血のついたダーツのまま、的に向かって投げた。

 3投目は、綺麗にど真ん中に刺さる。これでやっと新田から解放される。

 

 かつて、ずっと寄り添うと言ってくれた元恋人は、王子様を見つけて、めでたしのエンディングを迎える。











 返って来たのは藤木の想いじゃなくて、柴崎の想い。柴崎の置かれた立場に、改めて何とも言えない重い気持ちが胸に沈んだ。

 弥神が起こした殺傷事件で、慎一はりの以上に弥神を憎み、それを隠匿する華族会に憤慨した。そんな慎一の負の心が、さつきおばさんのように暴走しなかったのは、柴崎が居たからでもある。 

 柴崎が悪いのではない。華族の地位制度や華族会の守秘性が悪い。柴崎はただ、その制度の中の家に生まれただけだ。柴崎も華族の家の跡取り娘と言う立場と、りのの友と言う立場に挟まれ苦しんだだろう。ただ怒り憎しむだけいい慎一とは違って、難しい立場に立たされ、慎一よりも心痛めていると教えてくれたのは、当然ながら藤木だった。

 弥神は、りのだけじゃなく柴崎も傷つけて、慎一たちをかき乱してどこかに行った。凱さんがどこかに連れて行ったと聞いたが、慎一はそれがどこかも知りたくもない。

 柴崎が、華族の称号持った相手と結婚する事は、若干の失望でもあるが、柴崎家の跡取りとしての使命を全うするなら、至極当然の進む道といえる。柴崎はいつだってまっすぐ、進む道に間違いはないはずだから。

「人の心配をしている暇があったら、自分の心配をしたらどうだ?」

 藤木は、グラスに水を注ぎながら見上げるように慎一を見る。

「俺?」

「どんな条件でもマルセイズに移籍すると決めている事に意見はないが・・。」

 入れた水を飲まずに、ソファに深く座り直して言葉を止める。

「冷静に、夢だけを追えるか?」

 慎一は、藤木から顔をそらした。

 アイルランドのノッティンガムACに入団が決まった時、りのに少し近づいたと喜んだ。だが、初めての海外生活、苦手な英語を使いながらのサッカーは、そんな喜びも吹っ飛ぶほどに苦境の2年間だった。自分の体が思うように動かせない。もうサッカーをやめて日本に帰ろうと思った事が何度もある。そんな挫折へと陥る慎一の心の支えとなったのは、りのとの約束だけだった。

『新田慎一、その名が世界を駆けて届くのを楽しみにしている。』

 その言葉の真意は、「世界が認めるサッカー選手になるまで、私は会わない」と宣言しているに等しい。だからあの時、りのは藤木や柴崎には、まだ日本語が話せないと装っていた。日本語が話せるようになって、帰国を促されるのを避けていたのだ。

 日本を出て行ったりのを、追いかける事ができるのは夢だけ。それも成功した夢でなければならない。それを心に刻んでいるのにも関わらず、慎一は何度、りのに会いに行きたいと思ったことか。その都度、藤木に泣き言を聞いてもらった経緯がある。どんなに会いたくても、どんなに苦しくても、夢を達成しない限り、りのと会う事は許されず、夢に向かう事を止められない。それならばいっそう、りのの存在を忘れようとした。だが、それは絶対的に無理なことだった。サッカーをしている限り、サッカーに没頭すればするほど、りのの存在は色濃くなる。慎一にとってサッカーの原点はりのであり、慎一の存在理由だったのだから。

 佐々木さんから、りのもフランスに移住しようとしていると聞いた瞬間から、会える可能性に期待している。りのと会えば、そこでサッカーに対する情熱は完結してしまう自信がある。そんな慎一の性格を良く知っているから、りのは、全国大会の終わった時、栄治おじさんの形見のキーホルダーと共に、次の目標である夢を慎一に渡した。

「息が詰まる・・・久々にお前の苦しさに流される。」藤木は目頭を摘まんで揉む。

「ごめん・・・。」

「こっちの勝手で読み取ってる。謝んな。」

「あぁ、ごめん。」

 謝まるなと言われてすぐにまた謝ってしまう。毎度の事に二人して苦笑した。

「サッカー界のスーパースター新田慎一が、実は、ただ一人の女との約束に縛られているだけの軟弱者だとは、誰も思わないだろうな。」

 柴崎のマネジメントのおかけで、学園時代よりもはるかに規模の違うファンクラブが出来た。熱狂的なファンやスポーツキャスターからのアプローチが多く、断る言葉、気遣う事が面倒になり、適当に食事に付き合ったりして居たら、熱愛と週刊誌に書かれた。否定するのも面倒で無視していたら、次々と女を変えるサッカー界のプレーボーイとまで書かれる始末。それもまた、りのを忘れる理由にした。りのを忘れさせてくれるような女性が現れたら、それはある意味、運命の女性となりうると期待して。だけど、まだそんな女性に出会えていない。

「今付き合っているのは?スポーツキャスターの西内彩良ちゃんだったか?」

「違う、彩良とは別れた。今は、シーナ。」

 言いながら、慎一は藤木が途中で辞めてしまったビリヤード台へ向かい、縁に置いていたキューを取る。

「マジかよ!CMでも引っ張りだこの、あの9等身足長モデルの?!」

 大げさに驚いて立ち上がる藤木は、慎一の頭から足へと流し見て、変に頷く。

「まぁ、お似合いっちゃ、お似合いか・・・。」

 りのが弥神に刺されてから、慎一は笑えなくなった。りのの為に、沢山の嘘を繕って学園生活を送るのは辛く、口を開けば叫びそうになる。だから口を閉じていたら笑えなくなった。悠希は、りのが突然に海外に転校した不自然さを、躍起になって聞き出そうとして、慎一と喧嘩になりかけもした。それでも高校卒業まで、悠希は慎一の彼女としてサポートしてくれた。全国大会の決勝の翌日、慎一達は別れた。何故か、別れてから笑いあえた。悠希は常翔大学に進学しなかった。都内の女子大に進学し、その後どうしているかは知らない。

 2番の玉を狙い撃つ。だが、勢いがあり過ぎて、ポケットの手前にあった8番にヒットした後、角度を変えて、はじけ飛んでいった。

 藤木も立ち上がり、もう一度棚から新たにキューを出してきて、丹念にチョークを塗る。

「お前はどうなんだよ。」

「また繰り返すのか?柴崎の機嫌を損ねる事はやめてくれと言ったのは誰だ?」

「そうだけど、それが無いのもおかしくて。」

「なんだよ、それ。」

「お前の女好きに、柴崎が苛立って怒る、ってのが、あまりにも長く続いた通常だったから。」

「ふんっ」と鼻をならして球をはじく藤木。綺麗にポケットに入る。

「プレイボーイ振りは、師匠並みの見本だから。」

「馬鹿。」と苦笑して一瞥、そして次の玉を狙う。

 互いに軟弱者だ。いつもでも忘れられない記憶に縛られ振りほどけない。


 かつて夢を語り合った親友は、お姫様の幸せを願い、めでたしのエンディングを迎える。









 愛車のアルファロメオGT500を、屋敷のロビー前に止めた。屋敷から、傘を広げて足早に寄ってくる藤木。

 車のドアを開けたら、車内に雨が入らない様に傘を傾け寄せてくる。自分の肩や頭が濡れようともお構いなしで、その隙のない執事風情がイラつく。

「お帰りなさいませ。」

「その敬語、振る舞い、やったら首と言ったでしょう!」

「申し訳ございませんが、私の雇い主は文香会長でございます。会長からは、華族に恥じぬ言葉使い、振る舞いを言付けられています。お嬢様がお気に召されないのは承知しておりますが、ここでは、そのご要望を賜る事はできません。」

 冷たい雨が藤木の顔を濡らす。

(勝てない。何を言っても。)

 今、麗香が夜までここに立っていてと言えば、藤木はそれをやり遂げるだろう。

(なんだって、こいつは、こんな男になった?)

 車から出る為に差し伸べられた藤木の手を、叩き払った。

「一人で出れるわよ!子供じゃないんだから、馬鹿にしないで!」

 どんなに酷い扱いをしても顔色一つ変えない。最高に出来のいい執事をやり通す藤木。執事選手権大会でもあれば、確実に優勝するだろう。

 2週間前の新田や佐々木さん達と一緒に飲み会をした時とは違う暗い顔。

 (そんな顔をしてまで、この屋敷にいる意味は何?)

 麗香の疑問を知っているくせに、答えを言わない藤木。

「足元、お気をつけ下さい。雨で滑ります。」

「大きな、お世話よ!」

 必要のない世話から逃げるように玄関へ走った。濡れたアプローチのコンクリートは良く滑る、言われた矢先にバランスを崩した。

 ヤバイっ。尻もち覚悟で、その痛みを軽減としようと、出した左手を掴まれ、冷汗は無駄になる。

「大丈夫ですか?お嬢様。」

 中途半端の姿勢で守られた為に、一人で立ち上がれない。藤木は麗香の両脇に手を入れて、まるで子供にするように抱き立たせる。

「触らないで!」こんな私を。

「申し訳ございません。」

 深々と頭を下げる藤木。濡れた髪から雫が流れ落ちた。

 (どうして、こいつは、私のこの汚れた心を知っているくせに何も言わないの?)

「あんたに触られるぐらいなら、怪我をした方がマシよ!」

 昨日の参加賞、手に持っていた銀座のミズモト宝石店の小さな袋を、藤木へと投げつけた。藤木の胸に当たって68万円のブレスレットの箱が転げ落ちる。こんなに、ひどい対応をしても、すました顔は変わらず。落ちた紙袋と箱を拾い、投げ出され雨に打たれる傘も拾って差し向けてくる藤木。

「濡れますので、お屋敷へ。」

 柴崎家より歴史と資産のある藤木家の長男には、高々68万円の攻撃は効き目なし。

 履いていたヒールの靴を脱ぎ、怒り任せにコンクリートにたたきつけた。素足で冷たいコンクリートの上を歩いて屋敷の玄関に向かう。そのヒールの靴も拾って麗香のあと追ってくる。

(何もかも知っているくせに、どうして平然と私の世話が出来るの?)


 申し分のない結婚を前提に、お付き合いしている御田克彦さん。彼の愛する人は麗香ではない。彼は麗香より2つ年若い可愛らしい女性と同棲中で、結婚を約束した麗香とは、仕事の定例会議のように月に二度だけ会う。物を買い、食事をし、ホテルで儀式の様に愛のないセックスをして夜を明かすのは、全て華族の称号の為。

 地位の保持の為に愛は必要ない。

 階段を駆け上り、自室のドアを思いきり閉めた。そのまま、ベッドに飛び込むようにうつ伏す。

 何故か、涙が頬を伝う。

 愛が欲しいと泣いては、それは子供だ。

(私はもう大人。)

 家、地位、跡継ぎ、それら全てを永続し治めてこそ、唯一の後継者である。

 何も泣くことはない。すべてが丸く治まる事の出来る相手が、御田財閥の御田克彦さんなのだから。

 自室の隣の部屋のドアが開く音がする。

(近寄らないで、私に。読み取らないで、私の本心を。)

「どうしたら、私は・・・」

 もっと、強い大人になれるのだろうか?涙を流さない大人に。


 かつて、おとぎ話に不満を抱いた私は、家の為に末永くありきたりなエンディングを選び迎える。











【全国各地で、華族制度に反対する抗議デモが行われています。ご覧いただいているのは、昨日、京都の京宮御所前にあります御所前公園広場に集まった、華族制度に反対する人々の様子を捕えた映像です。京都の北山の麓にあります京宮御所は、神皇家の方が、幼き頃に住まわれる場所でございまして、その世話をするのが華族の称号を持つ一族とのこと。昨日は日曜日ということもあり、抗議デモは一段と人が集まった模様です。ただ、デモと言いましても、ご覧の様に、静かに、ただ人が集っているのみで、集まった人達が声を上げて、何かを訴えるということはなくて、声明は一台のラジカセから発する声が繰り返し流れているだけです。随分と静かなデモです。】

【こんな事をして、大丈夫なんでしょうかね。京宮御所前公園広場は宮内庁が管轄する場所ですよね。】

【今は、新皇も成人を迎えられて、神皇家の方はこの御所には住まわれていません。集まった人たちは、こちらの御所前公園の敷地内から出る事はなく。道路交通法違反の適用にもならないんですね。あくまでも公園に遊びにきている人々と変わらないという事で、警察も止める事も出来ずに、警戒はして監視はしておりますが、特にトラブルもありませんでした。】

【全員同じような恰好で、ちよっと気味悪いですね。】

【そうですね、集まった人の中には、小さいお子様までも、同じような恰好をして、この姿で集まること自体を楽しんでいるような感じも受けられました。】







  2



 常翔学園小学部、恰幅のいい校長が、朝礼の最後に「何かございますか?」と亮に顔を向けてくる。

 にこやかで子供たちには人気の校長だが、今、とても子供達には見せられない感情を亮に向けていた。『何故こんな小僧に敬語を使わなければならんのだ』と。

「会長から伝言があります。世間を賑わせている華族制度に対する反対の風潮に対して、保護者様から学園に問い合わせがありましたら、その用件だけを聞いて、翔柴会からご回答差しあげますと答えてください。保護者様の名前、お子様の学年と組は必ずお聞きしてメモしていただき、理事長室へ届けてください。即時、翔柴会柴崎会長の元へ渡し、会長自らが対応いたします。」

「では、我々、職員は華族に関する事は何も対応しなくてよいと?」

「はい、特に何もして頂く必要はございません。ただ、保護者の皆様には、いつもと同様に、失礼の無い言動を心掛けて頂き、全て翔柴会が承りますとおっしゃってください。」

 校長がほっとした顔をする。

 華族制度に対する批判がネット上を賑わし、それがテレビに取り上げられた。しかし、幼稚舎から高等部までの常翔学園に、何かを問うであるとか、学園側の姿勢がどうであるかなどの問い合わせは、今の所1件もない。事務方や教師が神経質になっていて、保護者や生徒から聞かれた場合はどうしたらいいかと聞いてくる方が多い。

 常翔学園は、経営する柴崎家が華族の称号を持つ事を公表はしていないが、調べられたら簡単に知られる事もあり、知る人ぞ知る的だが、その知る者達は、華族と関係の深い取引先であったりするので、批判など出来かねると言ったところだ。常翔学園は華族の称号により守られ、階級制度の高位高貴性に守られている。それが生徒を守る最大の要塞であるのだが、しかし、こうも連日、華族の話題が報道されてしまうと、どこからかで爆発的な非難を被るかわからない。注意は必要だった。

「では、華族の件は、お頼み致します。校長。」

「わかりました。理事長補佐。」

 ここでの亮の呼び名は、理事長補佐である。

 亮は校長をはじめ、教師、事務の職員一同に丁寧に頭を下げて職員室を退室し、理事長室に入室する。理事長室のデスクに座って、亮はやっと大きく息を吐く。

「俺だってさぁ、難しい立場なんだよ。」

 教職員達は、まだ若い亮に対して、不審ばかりの本心を向ける。それも当たり前だと理解できるのだけど、流石に辛い。

 麗香が大学を卒業した年に、幼稚舎の理事長であった和江理事長が、高齢の為に理事から退いた。その幼稚舎に移動就任したのが、柴崎洋子理事長。それまではこの小学部の理事であった。空いた小学部の理事に就任したのが凱さん。麗香の叔父、敏夫理事長と洋子理事長の戸籍上の養子にあたる。凱さんは児童養護施設育ちで、柴崎家とは縁もゆかりも血の繋がりもなかったが、一瞬で活字を記憶し忘れないという特殊能力を小学生の時に買われ、麗香の補佐役として柴崎家の養子に迎え入れられた。凱さんは、その脅威の記憶力で、16歳でアメリカのハングラード大学に飛び級留学をし、華選に上籍もする、凄い経歴を持つ人なのだが、言動がいい加減過ぎて、これまでに沢山の迷惑を被ってきたおかけで、亮は純粋に尊敬できない。

 その凱さんは、現在、優雅に行方不明中である。

 常翔学園小学部の理事長として大人しく座っていたのは、僅か半年。だから亮が、理事長補佐という正式ではない立場を作って、月、水、金の朝、朝礼に参加した後、午前中までは理事長室にこもって、留守中に溜まった書類の整理を行っていた。

「ったく、いい加減にしてくれよなぁ。」

 一人だと心の声がつい口に出てしまう。

 ある意味、凱さんの、そんないい加減さが羨ましくもある亮だった。凱さんのように何もかも捨てて自由にできたら、と思う。それが裕にできる財を持ち合わせているのに、しないのは。それをした時の他人の本心が怖いからである。亮は、誰よりも自分が臆病だと知っていた。

 机の上に置かれた書類箱に手を伸ばした。亮がこの部屋に居ない間に届けられたファックスや、手紙などが無造作に入っている。手紙の封を開け中身の確認、主に緊急性、締め切りなど注視し書類分けをする。

 小学部の理事は、それほど難しくはなく重要ポストではない。生徒の7割が幼稚舎からの内部進学だからだ。幼稚舎の方が、全生徒が新規入学者であり、保護者の対応が難しく様々な面で厳しい。だから、小学部の理事長が長らく不在でも、亮みたいな一族外の人間が理事長の補佐をしていても問題がなかった。

 文香会長に判子を貰うもの、ファイリング、会計に回す請求書などの仕分けをすること一時間半、亮が凝った首を回していると、ドアをノックする音がして、亮の返事も待たずにドアは開かれた。

「よっ」

 驚きと呆れ、次いで怒りも混じって咄嗟に声が出ない。

「流石は藤木君、朝早くから勤勉だねぇ。」と凱さんはにこやかに入ってくる。

「よっ、じゃありませんよ!帰ってくるなら、帰ってくると連絡ぐらいしてくださいよ!」

「いやー、忙しくてねぇ。色々と。」と首の後ろをかく。

「何が忙しいですか!ゴルフ焼けの顔で説得力ありません!」

 季節に合わない日焼けをしていて、グリップを握る為の皮手袋をする利き手だけが白かった。

「もう、嫌だなぁ、藤木君のその眼は。」

「能力じゃなくてもわかります!そんなの。」

「あー座って、座って、僕は忘れ物を取りに来ただけだから。」といつの間にか立っていた亮の肩を押して、椅子に座らされた。

「忘れ物を取りに来ただけって、また、どこに行くんですか!仕事してくださいよ!仕事!」

「えー、僕よりね、藤木君の方が向いてるしょっ。ほらっ、理事長の椅子、似合ってるよぉ。」と椅子ごと一回転させて横に移動させられる。

「凱さん!」亮の怒りを無視して凱さんは、腰につけている折り畳みのサバイバルツールから細長いピッキングを出した。

「ちょっとごめんよ。」と、デスク中央の引き出しの鍵穴に差し込み、手首を回す。

 そこは、ずっと開かずになっていた引き出しだった。洋子理事長から引き継いで、一度は凱さんが使った理事長室。凱さんが行方不明になって、亮が仕事を補佐するにあたり出入りするようになったと時にはもう、この引き出しはカギが閉められて、その鍵自体も凱さんと同様に行方不明だった。洋子理事長に聞くと、『ちゃんと鍵と共に凱斗に引き渡したわよ、凱斗が鍵を無くしたのね、まったくもうっ、そういったことまで、いい加減なのね。』と怒っていた。その引き出しが開かない事で仕事に困る事はなく、必要な書類はすべて他のキャビネットや金庫にあり、理事の仕事に差し支えは全くなかったので、気にはなりながらも、鍵のありかを凱さんに聞きそびれていたままの引き出しだった。

「鍵はどうしたんです?」

「捨てた。」

「はぁ!?」と亮が叫びに近い声をあげたと同時に、引き出しは大きく開けられる。

「それはっ。」亮は目を見張った。

「学園が一番セキュリティ高いんだよね。何かあればセキュリティ会社が飛んで来てくれるしさ、昼間は人の眼が常にあるし。最高の隠し場所だよねぇ。」と凱さんは黒に近い緑の迷彩柄のノートパソコンを取り出す。

 PAB2000、亮がまだ中学生の時、それを使ってハッキングをして、仲間の危機を救った物だ。

「いや、そんな事が聞きたいんじゃなくて・・・。」

「バッテリィ、大丈夫かな。半年、起動してなかったからなぁ。」

 半年という単語に、亮は顔を顰める。

「凱さん、半年前、ここに来たんですか?」

「んー、来てたかなぁ・・・忘れたなぁ。」

 亮はがっくりと肩を落とす。聞いた自分が間違いだった。凱さんは鼻歌交じりに、取り出したパソコンを起動させる。

「ぁーもう!それも聞きたい事じゃなくて!一体、何しようとしてるですか!」

「あーよかった、動いた。動いた。」

 電源を入れたPC画面の縁にある小さなカメラに顔を近づけている凱さん。ピンと言う音がして、画面に英文が表示される。前はそんな機能はなかった。記憶と比べて、パソコン自体も以前のより一回り小さくなっている気がする。

【持ち主確認が出来ました。パスワードを入力してください。】と表示される。

「えーと、パスワードは・・・。」

 と長いパスワードを打ち込む凱さん。見る限り脈絡もない英数入りの混じった20桁ほどの暗証番号だ。

 頭の中にそれを記した紙面が記憶としてあるのだろう。凱さんは一度見た紙面は写真のように記憶していて忘れない。

「それって、あの時のPCとは、また違う奴ですね。」

「後機種だよ。これはPAB3000。これも、もう古くなりつつあるな、次のPAB3500がすでに前線で導入し始めているから。」

 前線とは戦場の事、これは米軍が採用しているPCで、使い方によっては情報テロでも、遠隔操作で物理テロでも起こせて、更には砂漠の砂嵐でも、海水を被っても動いているというタフさを持つ。立ち上がりのスピードはもちろんのこと、起動音も格段に静かになっている。

「ぉぉ、さすがはPABちゃん。バッテリーも全然大丈夫だな。」

 と目を輝かして喜んでいる割には、凱さんの本心は相変わらず哀しみが満載だ。

 凱さんは哀しみで埋もれ過ぎている為、本心が読みづらい人である。それも当たり前で、亮の想像及び経験をしてきている人でもある。

「おっ、もうこんな時間、急がないと、待たせちゃいけない。」

 凱さんはPCの電源を落とし、パタンと閉じて脇に抱え理事長室から出ていこうとする。

「ちょっ、ちょっと凱さん!」

「あっと、忘れ物、忘れ物、」踵を返すとまたデスクに戻ってきて、引き出しの奥に手を突っ込み、pcのアダプターを掴みとる。

 また出て行こうとする凱さんを亮は全力で止めた。

「凱さん!」

「うん?何?」

「何?じゃありません!会長には会ったんですか?」

「会ってないけど?」

「もう!心配されているんですから、少しだけでも屋敷に寄って、会ってくださいよ。」

「えー僕、忙しんだよね、人と待ち合わせているし。」

 駄々子みたいに不貞腐れる。どっちが年上かわからない、

「いや、だからっ、そのPCの持ち出しだって、怪しさ満載じゃないですか!」

 このPCを持ちだす時はハッキングをしなければならないような事が起こっている時ばかりだ。

 凱さんは、首の後ろをかく。困ったときに良くやる癖だ。

「文香さんには帰国している事、内緒にしててね。」と懇願する。

「時差ボケもいい所ですよ、凱さん。文香会長に内緒が通用しないの忘れるなんて。柴崎家をほったらかして久々に帰って来たと思ったら、何を企んでいるですか!」

「そう怒らないでよ。藤木君。」

「怒らせるような事しないで下さい!黒川君に、また何をさせるつもりなんですか?」

「もう、ヤダなぁ、その眼は。やっぱ、昨日の夜に忍び込むんだったなぁ。」

「凱さん!」

「わかったから、じゃぁ、藤木君も来てよ。おぉ、そうだ、それが良い、藤木君が居れば、黒川君の限界に気づく事ができるしね。」

「え?」

 肩にポンと手を置かれる。凱さんから、にこやかさが消えた。

「長丁場になる。文香さんに悟られず、時間をもらって来い。」









 お母様が34歳の時に、長い不妊治療の末、体外受精でやっとできた子が私、柴崎麗香。

 柴崎家だけじゃなく、神巫族の血筋を継ぐ華族の称号持ちの家が一様に抱える難題、子に恵まれなくなってきているの事象は、華族同士の婚姻でなければ華准に落ちるという厳しい制度の中、世間が目くじらを立てて異を唱えなくても、子に恵まれず称号を維持できなくて消滅していくのを、忍従して行かないといけないというのに。

(それなのに、どうして・・・こんな、いとも簡単に。なんて自分の体は、こうも都合良くできているのか?)

 検査キッドに記された赤い線は、嬉しい事実であるはずなのに、麗香はそれが結審の定めのように感じた。

 手に持っていた妊娠検査薬のキッドを、茶色い紙袋に戻して口をギュッと絞り、ゴミ箱へ捨てる。

 新田が帰国して佐々木さんと飲み会をした次の日ぐらいから、ずっと体調が良くなかった。新田のフランスのマルセイズとの交渉権が来た前祝いとして、かなり羽目を外した飲み方をしたから、二日酔いが酷いのだとぐらいしか思っていなかった。それから、新田の広報担当マネージャーとして麗香は、サッカー連盟と各メディア関係の取材などの打ち合わせや写真撮影やらで、ここ一か月、多忙の日々を過ごしていた。やっと一昨日、オーシャンズカップの前日祭を終え、代表メンバーの面々と共に新田をオーストラリアへ送り出した所である。それまでの忙しさの疲れが一気に出て、食欲低下と体のだるさを引き起こしていると思っていた。昨日スケジュール帳の整理をしていて気づく、生理が2回ほど来ていない事に。前回の生理から数えて、もうすぐ3回目の生理が来てもおかしくない時期。

(まさか、こんな簡単に?私は子が出来にくい華族の血筋では無かったのか?)

と言う思いが、喜びより前に沸き起こった。

 お腹をそっと触ってみた。いつもと変わらない。

(ここに別の命が入っているなんて信じられない。このお腹にあるのは間違いなく両家が望む、華族の地位を保証する証なのに・・・。)

 トイレから出ると、お母様が携帯で誰かと話しながら廊下を歩いてくる。

「あら、そう・・・ええ構わないわよ。・・・もう、そんなに謝らなくてもいいわよ、こっちは大丈夫だから、ご両親様によろしく伝えて。いつもお世話になって申し訳ありませんと。」

 今日は、お爺様の月命日。東京にある精華神社にお墓参りをして、それから贔屓にしている百貨店に行き、仕上がったドレスの試着をし、2週間後の京都に行く為の必要な物を買い揃えようというスケジュール。

「麗香、支度は出来て?行き・・・」お母様は麗香の顔をみて、言葉を止めた。

「お母様?」麗香は首を傾げる。

「麗香、体調が・・・良くないみたいだけど、何だったら別に日にしてもかまわないのよ。」

 お母様は、いつも麗香の体調の悪さを視抜く。昔から、強がって無理する麗香の嘘を見つけられてしまい、母の偉大さには敵わないと思っていた。自分も出来るだろうか?愛のない関係で出来た子に、無償の愛を注ぐことが。

「大丈夫よ、お母様。お爺様に報告しなくちゃ、ちゃんと華族の称号を継続し、柴崎家は安泰だって。」

「麗香・・・そうね。安泰ね。」麗香の背中をさするお母様は、何故か表情が寂しげだった。

 うれしくないのだろうか?娘が嫁いで家を出ていく事が寂しいのだろうか。

「あれ?運転手は?」

 玄関ロビー階段下のデスクに、藤木の姿がない。

「藤木君、何だか、ご実家の方から呼び出しがあって、これから行かなくちゃならないからって。今連絡があったの。」

「実家?珍しい。」

「そうね、だけど本来なら藤木君は、うちで執事のような事をするような身分ではないのよ。藤木君の強い希望だったから、手伝ってもらっているけれど、普通なら藤木内閣官房長官の手助けをするのが筋なのよ。これを期に、そちらの仕事へ移行してくれてもいいわ。」

 麗香は不満のため息を吐いた。

 藤木の我儘が、お母様の苦悩も増やしている。いくら藤木官房長官とお母様が文部省の頃からの長い付き合いで心知れた間柄とは言っても、藤木家の長男を使用人の様に雇っている事に、負い目を感じないはずはない。こちらが華族の称号を持ち、地位が上であろうとも。藤木はそういう事も全て読み取れるはずなのに、嫌がらせの様に、柴崎家に付きまとうのは何故だろうか?

 屋敷に執事風情で居られると憂鬱に嫌だが、こうして肝心の時に居ないのも不満だ。

 もう、何をやっても嫌なのである。

 しかし、今日は居なくて良かった。と麗香は胸をなでおろす。今だけは、絶対的に、本心を読み取られたくなかった。

「じゃ、行きましょう。お爺様が麗香の報告を心待ちにしていらっしゃるわ。」

「はい。」

 忙しかったのは、新田が日本に滞在していたからの理由だけじゃない。

 もうすぐ双燕新皇様の降臨祭が京都で行われる。華族の本来の仕事ともいうべき神皇様に仕える華族として、降臨祭の手伝いと御田家との結婚へ向けて話が進んでいるので忙しい。

 東京にある精華神社は、神巫族由来の特別な神社である。華族の家紋でもあるトウキシミをあしらった印の入った神社が全国に多数点在している。その神社を取りまとめるのが精華神社である。全国に点在する神社は、かつて神巫族の隠れ家だった。約千年前、神皇より政権を奪いたい武士たちは、民を巻き込んで神巫族を迫害に追い込んだ。それが教科書にも出てくる神巫狩りである。教科書では神巫族はその神巫狩りによって絶滅したとされるが、実際は民に紛れ約千年間、神皇の無事を隠れ祈り繋いできた。いつかまた、神皇による政権が戻るその時まで、我々神巫女族は耐え忍び、財と力を蓄え続けてきたのだ。その隠れ家となったのが、主に神社や援助の手を差し出してくれた商家だった。そして、外国船の到来によって、長きに続いた武士による政権は終わり、皇政奉還へ、開国と富国に尽力したのは、千年余り財と力を蓄え続けてきた、かつての神巫族達だった。

 この国の歴史は、嘘偽りで色塗られている。真の歴史は、華族の者しか知らない。知らなくていい。知ればまた繰り返される非道の神巫狩りが。でも、隠匿すれば必ず暴く者が出てくる。暴かれた時の民の反発を防ぐために、華族が神巫族の末裔であるとか、神巫族は卑弥呼の力により不死でずっと生きているとか、都市伝説的な噂を意図的に流し、不明瞭な情報で反発の力を少しずつ融和していた。

「ようこそ、お参り下さいました。」

「社守ありがとうございます。」

 水色の袴を着た社司さんが、笑顔で出迎えてくれた。神殿へと上がる。神殿には「降神の光玉」が正式名の水晶玉が祀られている。

その光玉が祀られている祭壇に、麗香達は一礼をして、祈りを捧げる。

 一般の神社でば、主に心神対象は具現化された神であるのに対して、精華神社で祀り祈る対象は、手の平大の水晶玉である。この水晶は神皇家からの預かり物で、我々の祈りはこの水晶を通じて神の子神皇様に届くとされている。

 我々神巫族は、神皇様が唯一の信仰対象である。

 小さな社の中に白い布のカーテンの隙間から、どこまでも透明な光玉がほんの少し合間見える。

 ここに来ればいつも感じる。研ぎ澄まされた空気が刺すほどに澄み渡っているのを。









 成人式を随分と過ぎた頃に、やっぱり今日みたいにふらっと亮の前に新田を引き連れて現れた凱さんは、『教え子と飲むのが、ささやかな夢だった。』と言って、亮達二人を都内に連れ出した。亮は新田と共に、『凱さんを先生に持った覚えはない。』と突っ込んだけど、高等部卒業以来、凱さんとはまったく会う事も話す事もなく久しぶりで、そうやって亮たちが大人になるのを待って誘ってくれた事が、単純に嬉しかった。その時に連れて貰った店は2件で、一件目はアメリカ大使館近くの商業ビルの地下にある、スキンヘッドの黒人マスターのいる店で、従業員も客もアメリカ人で、飛び交う言語は英語のみ。まだ海外進出していなかった新田は頭を抱えていた。

 二件目は歌舞伎町のオカマバーで、国籍も性別も不明の癖の強いママのやっている店で、のちにどちらも凱さんがオーナーの店だと知る。

 そんな成人祝いの飲み会の帰りに、酔った勢いで押しかけたのが、ここ横浜駅ベイサイド側にそびえ建つ高層マンション25階の、凱さんの住まうマンションだった。あれから4年、内装のインテリアは何も変わらず、モデルハウスのように無駄な物が一切ない部屋。

「空気が淀んでるなぁ。」

 そうつぶやくと凱さんは、部屋のベランダ側の窓を全て開け放していく。 冷たい風が吹き抜けて、一気に部屋の温度が下がる。

「凱さん、この間はロシアに居るって言ってましたけど、今でも?」

「あぁ。ロシアに、香港、台湾に・・・」言いながら部屋を横断し、対面キッチンへ行くと冷蔵庫を開けた凱さん「何もないなぁ。」

 実は今、凱さんと連絡が取れるのは亮だけである。と言っても数回に一回程度の確率でしか、凱さんは電話に出てくれない。メールは下手をすれば10日のタイムラグを生じる時もあり、こうして会っている今が信じられない。

 柴崎家の人達に対しては、携帯の番号を文香会長にすら教えず、凱さんは行方をくらましている。その理由は、理事長の仕事を嫌がってと言うのは対面的に本当であるが、他にも様々な理由があると、凱さんと文香会長は言う。成り行き上、凱さんの連絡窓口になってしまった亮だった。

「うわっ、何か得体のしれない物が、干物になってる!」と摘まんで亮に見せる。

「何時から、ここは無人になってたんですか?もしかして、やっぱり半年ぶりですか。」

「きっと康汰だな、こんなもの入れたまんまにしておくのは、たっく!」と亮の質問をことごとく無視する凱さん。

 得体のしれない干物をゴミ箱に捨て、「あー下で何か買ってくるんだったなぁ。」とこぼす。

「黒川君に頼んだらどうですか?」

「おお、そうだ、それがいい。さっすが、戦略家の藤木君は違うねぇ、思いつくことが。」

「・・・。」

 戦略って言葉がかわいそうだ、と亮は突っ込む気にもなれない。

 凱さんのいい加減さは、年々ひどくなっていっているような気がする。

 早速、携帯を取り出し黒川君に電話する凱さん。

「あー、黒川君、悪いけど、来る時に適当に飲み物とか食べ物を買って来てくれる?うん、お金は後で。」

(黒川君も、よくこの凱さんに付き合っているよなぁ。)と、黒川君の忍耐力を称賛する。

 ハッカー界では最強と言われるVIDブレインを持つ黒川君に、凱さんはその力を借りて常翔学園のコンピューターセキュリティを任せている。その黒川君は、この春で常翔大学の法学部を卒業予定で、春からは警察学校に入校することが決まっている。

 黒川君と出会ったばかりの頃は、お兄さんの殉死について警察及び警察官の父親に疑惑と憎しみを抱いていたのが、奇しくも犯罪であるハッキングをする度に、その負の感情を薄れさせていった。

 その黒川君に会うのも久しぶりである。

「黒川君が来るまで暇だな、掃除でもしとくか。」

「手伝います。」

「おっ助かるねぇ。」

 凱さんは、何日も風呂も入らずサバイバル的な事は平気だけど、食べ残しなどの散らかりは許されない、変わった綺麗好きだ。4年前に泊まった時、飲み散らかした部屋は、朝には綺麗に片付けられていた。今も掃除するほど部屋は汚くない。ずっと使っていなかったのだから当たり前だけど。

「それから、こっちの掃除もやっとくかなぁ。念のため。」

 埃とりのモップを亮に手渡すと、現れた時から担いでいた黒いリュックから小さなマイク付の機械を取り出す。それは何かと聞く前に、人差し指を口へ「静かに」の仕草をされた。

 テレビで見たことがある。盗聴器を発見する機械。耳にイヤホンを差し込み、マイクのような棒を片手に、部屋の隅々に向けて振る。

「よし、大丈夫、綺麗だ。」が合図だったかのように、呼び出し音が鳴った。インターフォンのカメラに黒川君の姿。凱さんが、「いらっしゃい。今、開けるよ~」と声を掛けて、玄関ロビーの開旋のボタンを押す。

「しっかし、高層マンションに男3人、花が無いなぁ~。」

「嘆くなら、そろそろ腰を落ち着かせて、結婚でもしたらどうですか?会長も心配されてますよ。」

「結婚ねぇ~。」

「凱さんなら、選り取り見取りで女性から寄ってくるでしょう。」

 亮より11歳年上の凱さん、一度だけ凱さんが女の人をエスコートしている姿を見たことがある。あれはまだ亮が高等部1年の七夕祭りの時だった。連れて歩いていた女性はブロンド髪の外国人。まだ子供だった亮達には刺激的な、露出度満点のナイスバディ美人だった。その時のエスコートの仕方を見れば、この容姿と頭脳、おまけに称号持ちとなれば、寄る女性は多様に、もてない筈はないと思う。

「まぁ~性欲に不自由はしないけど・・・駄目なんだよねぇ結婚となると。」

 これまたダイレクトな言葉。

「何がです?束縛されるのが嫌だとか?」

「んー、そうじゃなくて。ほら、女の子って結婚に安定を求めるでしょ。」

「永久就職って言うぐらいですからね。」

「この体を見て、堅気じゃないかもと不安になるようなんだよね。」自らの体を指さす凱さん。

 瞬時に理解できずに首を傾げた。

「軍の体験入隊時代に作った数々の傷跡が体にあるから。ベッドインで怯えて逃げられる事がしばしば。」

 あくまでも、まだ体験入隊だと言い続ける凱さん、そんなのは嘘だと亮はとっくに知っている。

「凱さん、もう下手な嘘つかなくても良いです。凱さんが米軍所属だったのは知っています。エンドレス・シンのマスターとオカマバーのママがその軍時代の仲間だったって事も。」

「あー、そうなの?誰から?」

「文香会長から、凱さんの資産管理を手伝っているのも、俺ですよ。」

「あぁ、そうだったね。ありがとう、ありがとう。」

 感謝の重みが無い。

「そうか。知ってるなら隠すこと無いね。」と凱さんは革ジャンを脱いだ。

 半そでTシャツの腕に、昔見つけた傷跡を見る。

「逃げられるほど、そんなに沢山あるんですか、傷。」

「うん。脇腹が一番酷くて、あと太ももと、首の後ろ。」

「見てみる?」

 亮がうなづくと、Tシャツを脱ぎ捨て上半身裸になった。

 見るも無残な傷が現れる。

「うわぁ、それ、火傷じゃないですか?」

 一番酷いと言った脇腹はケロイド状に皮膚が引きつって、背中にまで続いていた。

「弾が貫通したんだ。運び込まれた場所に治療設備が無かったからね、止血の為にガスバーナーで焼いた。」

 聞けば嘘のような話も、無数にある傷が生々しく本当だと物語っていた。そして鍛えられた体の締まり具合に感心した。着やせするタイプだ。

「ほら、藤木君でも、そんな顔するんだもん、女の子なら尚更だろ。」

「すみません。」

「ついでだから、シャワーあびようかなぁ。」と凱さんはスボンも脱ぎ始めた。

「何のついでですかっ、もうすぐ黒川君が来るんでしょう。」

「脱いだついで、3分で済むから待ってて貰って。」

 とピンポンと玄関前の呼び出しコール。亮が玄関へ扉を開けに行く。

「遅くなりました~、えっ藤木さん?えっええ・・・」と黒川君は急に表情も体も固まった。

「黒川君、いらっしゃーい。」とバスルームへ向かう凱さんは、全裸だった。

「お、お邪魔ま、しましたぁ~。」と後退りして出ていこうとする黒川君。

「ちっ、違う!黒川君!」

「黒川君、ちょっと、待っててねぇ。直ぐ済むから。」

「いえ、ごゆっくり、僕の事は気になさらず・・・お楽しみください。」と外に出ていってしまう。

「違うって!変な想像しないのっ」と黒川君を呼び戻す。

「ひゃあっ、ふっー」風呂場から変な声が漏れてくる。

 黒川君の想像力が恐ろしい程に良く読み取れ、亮は頭を抱えた。




 精華神社が神巫族由来の特別な神社であることが一般的に知られていなくても、誰でもお参りは出来る。しかし、神殿の裏に信仰者達の墓がある事は知られず、見られないようなっていて、間違っても入って来られないよう関係者以外立ち入り禁止区域として、木々と塀で囲まれている、とても静かな場所だ。

「文香様、ご実家の如月家の皆様は、お元気にされていらっしゃいますか?」

「えぇ、変わりなく。」

「それは何よりです。同じ宗派の社守をしている者同士、縁を大切にしたいのですが、中々、ここを離れられず。」

「そうですね。あの時は、本当にお世話になりまして。守都様には、大変心強いお力を頂き感謝しております。」

「いえいえ、如月家が華族として上籍成された事は、華族会全体の喜びの、希望になりましたから。」

「そう言って頂けると、私も残心の懸念を軽くする事が出来ます。」

「文香様、あなたはよく頑張ってこられました。総一郎様も天より喜んでいらっしゃると思いますよ。」

「ありがとうございます。」

「ごゆっくりお参り下さい。」と社司さんは、竹でできた通り門の錠前を開けてくださってから、来た道を戻っていく。

 帰りは、錠前の掛け金を差し込むだけでいい。神殿の裏手にあたる墓の横には大きな倉がある。この蔵も墓を隠すために一役買っている。舗装されていない数段の階段を降り、柴崎家先祖代々の墓のある場所へと向かいながら麗香は聞いた。

「お母様、社司の守都様は如月家とお知り合い?」

「ええ、如月家が上籍する時に、秋田から出て来た父と母に、何かと便宜を図ってくれたの。その時からのご縁。」

「へぇ~。如月家が上籍する時はそんなに大変だったの?」

「そりゃぁね。すべての祖歴をひも解いて、同じ宗派の守都家の皆様にも協力いただいて、守都家の祖歴と見比べたりしてね。守都家の皆様は嫌な顔一つせず、この大きな蔵から沢山の、資料を出してきてくれたりして。」とお母様は見上げる。

 外装は塗り変えられて白さは綺麗だが、創りは古く土倉で歴史ある重厚さ。

「本当にあの時は、守都家の皆様にはお世話になったわ。もう、あれから30年以上が経つのねぇ。」

 秋田県の山間にある小さな神社、如月神社。そこがお母様のご実家、如月家。

 如月家は、華族の血を保ちながら、神皇より華族の称号を頂いていなかった。いわゆる取りこぼしの華族だった。

 お母様が常翔大学に通うために東京に上京してきて、同じく常翔大学で勉学中だったお父様と出会ったのは、古の縁があっての事かもしれない。お母様曰く、お父様が一目ぼれして猛烈なアプローチして付き合う事になったが、しかし、華族の称号を持たない人とのお付き合いは反対されると思い、常翔学園の経営者の息子と言う立場を、ずっと隠していたお父様。その隠し事はすぐにバレ、大反対され二人は一度、別れた。

 お父様は、お母様と結婚出来ないのなら、戸籍を含めて柴崎家の後継者としての相続をすべて放棄する、と宣言したと言う。そんな時、如月家の家紋が華族由来の一宝八星の紋様である事が発覚して、如月家は華族制定の際に取りこぼされている一族なのではという別の問題が生じた。それから長い年月をかけて、如月家が華族である証明を引き出し、華族制度発足から遅れること125年が経って、如月家は華族に上籍をした。それにより、柴崎家との婚姻も問題なく結ばれたというお父様とお母様のラブストーリー。

 麗香はそんな両親達のラブストーリーを羨ましく思う。すべてを放棄してお母様への愛を貫き通したお父様。お母様が翔柴会会長に就任し、立場は逆転しようとも、お父様はお母様を愛し尊敬し、お母様もお父様を愛し尊敬して、今でも仲慎ましい。

 ただ運命を受け入れて諦めていては、心打つ物語にはならない。

「麗香、お花を。」

 数々の名立たる華族の名前が刻まれている大きなお墓が並ぶ一角、柴崎家の名前が彫られたお墓の前で、持ってきた花を添える。

 元は常翔大学の経営だけだったのを幼稚舎から高等部までを次々と開校して、華族会代表も務めていたお爺様。お爺様を知る誰もが言う。「あなたのお爺様は、それはそれは威厳に満ちた人であった。」と。恐れていた人もいると聞くが、麗香には優しいお爺様だった。深みのある低い声で「おいで」と車いすの膝の上に乗せてくれ、頭をなでられる大きな手が暖かだった。

 お爺様が亡くなった日をよく覚えている。麗香は8歳だった。病院のベッドで苦しそうな息をされていたお爺様。死の意味がよく分からない年齢だったが、部屋は哀しみに包まれ、空気が重かったのを覚えている。

 小刻みに震えていたおじい様の手が、麗香の頭を撫でる。いつもとは違う重い撫で方だった。

 『麗香、その名に恥じない麗しい華であれ。』と言った声も掠れていた。そのいつもと違う状況が怖くて涙した。

 麗香は墓前で手を合わせ、心の中で話しかける。

(お爺様、私、その遺言通りで居られているか、わからない。だけど、これだけは、守る事を約束するわ。華族の称号を落とさない。

お爺様、私ね、兵庫県の御田家、御田克彦さんとご縁が出来たのよ。すでにお腹には揺るがない証、子が宿っている。これで柴崎家は安泰よ。)

「麗香、その子が、希望と力と癒しを与えてくれるわ。この先に何が有ろうとも。」

「お母様、どうして知って?」

「私はあなたの母よ。あなたの事は何でもよくわかるわ。」と微笑む。

「お母様。」

 ふと、脳裏に子供の頃、克彦さんと空想して語ったフレーズがよみがえる。

【お姫様は素敵な靴で、王子様とダンスを踊り、末永く幸せに暮らしましたとさ。】

 早いものだ。人生と言う名の冒険は、もうエンディングを迎える。

 お母様は包み込むように麗香を抱いてくれた。変わらない懐かしい匂い、何時からこの匂いを体感してなかったのだろうか、麗香は深く息を吸いこむ。

「あなたが、私に希望と力と癒しをくれていた。ありがとう麗香、生まれてきてくれて。」

(あぁ、そうだ。)と麗香は納得する。

 王子様と末永く退屈の人生を過ごす人生は、次の世代へ繋げる最強の武器。どんなに冒険が平凡でも、子の為ならそれを受け入れる。

 それが母の成すべきこと。










「びっくりしました~、藤木さんも来ているとは知りませんでしたから。あっお久しぶりです。」と頭を下げる黒川君に苦笑して亮も応対する。

「あれ?言わなかった?」

 カラスの行水のように、高速でシャワーを浴びて出て来た凱さんは、短いタオルを腰に巻いて、髪からはまだ雫が滴れている。

「朝、急に理事長室に、このPCを取りに来たんだよ。・・・ってか!パンツぐらい履いてくださいっ!」

「あー、気持ちいい。」とベランダに出て腰のタオルを外し、大きく手を広げる。

 ここが高層階じゃなかったら、公然わいせつ罪で摑まる光景だ。亮は首を振って、黒川君と呆れた顔を合わせた。

「もう空気の入れ替えを終わったでしょう!閉めますよ!」

「もう~現代子は寒さ暑さに弱いんだからぁ~。」と振り向く。

「見せないでくださいっ。」

 今日の最高気温は6度だ。しかもここは25階の高層、体感気温は1度ぐらいのはず。現代っ子とかの問題じゃなく、水滴たれる全裸で気温1度が平気の凱さんの体感がおかしい。このままベランダに閉め出したい衝動にかられる。

 凱さんが結婚できないのは、絶対にその体の傷だけが原因じゃない、と亮は確信した。

「だけど、初めて見ましたけど、凄いですね、凱さんの傷。」

「この傷が素敵って言う女の子、居ないかなぁ。」

「それはまた、キワモノですね。」

「さっさと服を来てください!」

「もう、藤木君はぁ、どうして、いつも僕に、つれないかなぁ。」と亮の後ろから冷たい体で抱き付いてくる。

 怒りと鳥肌を払拭する為に、亮は肘鉄を腹に食らわせた。

「ぐっ!」

「男は嫌いです!」

「ぷっははは、凱さん、だいぶラストさんに汚染されてきてるんじゃないですか?」

 大げさに腹を抑えて痛がる凱さん。その腹筋をして痛いわけがない。

「大して効いてないのに大げさですよ。」

「痛いのは痛いよ。不意打ちだし。」

「男に全裸で抱き付かれて嫌がらない俺だと、無防備である思考回路がおかしい!」

「あははは。いいですね、お二方。ひーひひひひっ。」

 相変わらず、笑い出すと止まらない黒川君がお腹を抱える。

「で、一体黒川君に何をしてもらおうとしているんですか?」

 黒川君が来たら説明すると言われていた。

「んーとね。ハッキングと言うほどのものではないんだけどねぇ。僕だけでも集めようと思ったら出来ない事は無いんだけど、ただ、範囲が広いかなぁとか思ったり。時間もかかるだろうなぁって、僕では見つけられない所に潜んでいるのかなぁとか思ったりね。」

「よくわからないんですけどっ。」

「僕も良くわからないんだよ。」

 黒川君と二人でがっくりと項垂れる。

 常翔学園中等部時代の3年間、取りこぼすことなく満点の成績を残した凱さん。寮生でも伝説の人として語り継がれて、亮も学生時代は尊敬していた。けれど実態は、超がつくいい加減の、それが年々酷くなってきている風来坊。

「良くわからないと思わないか?最近の華族に対する風当たりが。」

 やっと服を着終えた凱さんが、えりを正した。

「風元、風向き、風力、何一つわからない。気持ち悪くてね。」

「帝国領華ホテルの前で、デモが起きているのを見ました。」と亮。

「うん。華族の話題はさ、今までも何度か、メディアで話題になったりした事があるよね。でもその話題も一過性で引いていた。まぁ、華族会の企業がスポンサー権威をふるって各局に牽制し、治めていたのもあるんだけどね。そんなに強制的にしなくても世間の話題は別の話題に自然に移っていった。だけど今回は、やたらダラダラと長い。」

「華族会系のスポンサー企業の権威がメディア側に効かないって事ですか?」

と黒川君が買って来た飲み物を手に取り、開けながら、何気に黒川君がこの話に入っていることに、亮は慌てた。

「ちょっと、待って、凱さん!」

「あぁ?何?」亮は凱さんの腕を掴み、隣の部屋に連れて行き扉を閉めた。

「黒川君に華族の事、話していいんですか!」と声を潜めた。

「あぁ、黒川君なら、もう大丈夫だよ。」

「もぅ?もうって何?」

「彼は警察官になる人間だしね、華族に関する守秘は知っている。」

「それでも、詳細に知られる人間は増やさない方がいいんじゃないんですか?そうやって、華族は今まで地位を守って来たんだし。」

「まぁそうだけどね、今回のデモの発生のように、もうすべてを隠せる時代じゃ無くなって来ていると、僕は思うんだよ。」

「そうですけど・・・また、こんな勝手な事をして、文香さんに知れたら。」

「だから、文香さんには内緒で来いって言ったんだよ。」

「いや、そうじゃなくて・・・。」

「あーそれと、黒川君には、近々、華選に推薦しようと考えているからね。」

「華選!」

「うん、あの貴重なVIDブレインは華選推薦に十分な能力だからね。能力の証明が出せれば、すぐにでも華選の称号が貰えると思う。だけど、VIDブレインを証明する方法が難しくてね。それで滞っている。」

 驚いた。世界でも十数人程度と言われているVIDブレインを持つハッカー、その能力が凄い物だとはわかるけど、その能力が華選に上籍できる能力の部類に入るとは意外だ。華選ってこういうハイテクの物からは外れた物だと、亮は勝手に枠を作っていた。

「それならまぁ・・・納得ですけど。」

「良かった。藤木君のその慎重さ、やっぱり僕より理事長に向いてるよぉ。」

 笑顔で肩をポンとたたかれ、イラッと来る。

 リビングに戻ると黒川君の姿がない。玄関の方で、かすかな人の気配。黒川君が腰を低くしてスローモードで靴を履いている。

「どこ行くの?」

「えっ!いやぁ、やっぱ邪魔しちゃしけないなぁって。」と本心に恥ずかしさを溜めて言う。

「えっ?」

「どうぞ、どうぞ、僕に気を使わず、楽しんでください。」と黒川君が手の平を送った後ろを振り返れば、ベッドルーム!

「だからっ!変な想像すんなって!」

「もうやだなぁ黒川君、嫉妬?男の嫉妬は見苦しいよ。」と凱さん。

「違います!」

 叫びが重なる。

「どうして、そっちの話になるんだっ!普通の思考力でいられないのか!」

「だから、花がないなぁって言ったんだよ。」

 凱さんのズレた感覚は、いつも人を巻き込み脱力させる。

 黒川君も、VIDで電子世界を潜り過ぎて、普通の感覚じゃなくなってきているのだと亮は頭を抱える。

(えりりん、黒川君と別れて正解だったよ。)










 冬特有の鈍色の雲が覆っている今日は、陽の威力も遮られて地上は少しも暖かくならない。まるで氷の上を歩いているように麗香の足先はボアのブーツを履いているにも関わらず、痛いぐらいに冷たい。

「大丈夫?寒くない?」

 麗香が寒さに苦手なのを知っているお母様は、麗香を引き寄せ腕をさすった。

「大丈夫と、強がれないわ。」

「ははは、じゃ、車に急ぎましょう。冷えはお腹にもよくないわ。」

 先祖のお墓に報告を済ませて、麗香達は肩を寄せ合い、元来た道を急ぐ。

「京都へ行けそう?無理なら別にいかなくてもいいのよ。」

「それは大丈夫だと思うわ。それに、このタイミングで京都へ行くのは良い事じゃなくて?」

「そうね、御田様方も、この知らせはお喜びになるでしょう。」

 世間では、婚姻前に子供が授かる事に対して、節操がないなどと白い目で見られる風潮があるけれど、華族の中では、もうそんな風潮は無く、むしろ華族間の子供は早く作れ、的になっている。華族間で出来た子供は華族の称号の継続の証であり、まさしく子は宝となる。

「病院に行って、母子手帳を貰わないとね。それから・・・克彦さんも降臨祭にご出席されるのよね。」

「ええ、そう聞いているわ。」

「一度、克彦さんを屋敷にお呼びして、打ち合わせしておいた方がいいかしら。」

「もう、その辺の事はわからないわ。お母様とお父様にお任せするしか。」

「そうね。まさかこんなに順調良く授かると思ってなかったから、悠長に構えていたわ。おそらく今度の降臨祭の後の御田家とのお食事会で授かりましたって言えば、結籍の日取りはってなると思うから。」

 2週間後に京都で行う皇宮行事、降臨祭は、8年に一度の大神事である。神皇を一度天に戻し、そしてまたこの地上に降りて頂く、いわば神皇の里帰りみたいな行事で、全国から華族が大勢集まり、祝詞を上げて神への感謝と降り立つ喜びを詠う。

 その神事には、柴崎家からは両親を含め、麗香が参加する予定で、そのついでにというか、良い日よりであるからと、御田家と正式な挨拶の席を設けてある。一般にいう結納に近いものだ。

「あら、結籍の手続きは、どちらでお願いしたらいいのかしら、西の宗?東?」

「もう、お母様、そこまでの話は、今度のお食事会で御田様に聞いてからでいいのでは?」

「そうね、そうよね。」

「ふふふ、お母様らしくないわ、あたふたして。」

「そりゃそうよ。初めての事だもの。自分の時は人ごとに物事が進んで、お義父様の言う通りに頷いていただけだったのよ。娘の事なるとね、母として失敗は許されないのよ。」

 華族の戸籍は一般の民とは別に扱われていて、名称も微妙に違っている。「結婚」は「結籍」と言い。まさしく戸籍を結びつける意味合いが強い。そして、その結籍も神皇様に承認していただく必要があり、神皇様のご予定を伺ってからの決め事となるので、好き勝手な日を決められない。だから、華族間の結婚は、披露宴はしても結籍は、随分後になったりはよくある上に、子供は早く作れとせかされるので、一般では考えられないような順序まちまちな状態が常態化している。

「お母様、克彦さんに子供の事は、まだ言わないで。降臨祭の良い日に言いたいわ。」

「そうね、お父様にも内緒にしておきましょうか。」

「ええ、それがいいわ。お父様の驚く顔、見たいもの。」

「お父様、泣いて喜ぶわね。きっと。」

 麗香が御田克彦さんと、結婚を前提にお付き合いしている事を一番に喜んだのは、お父様だった。『家の事は気にせず、麗香の好きにすればいい』と言っていたお父様だけど、やっぱり華族の称号継続に関しては、誰よりも気にしていた。子を授かったと聞けば、不妊治療の末にやっと体外受精で子を持った両親にしてみれば、奇跡に近い喜びだろう。

 両親の様な素敵なラブストーリーが無くても、子の存在が奇跡のストーリーとなる。と麗香はお腹にそって触れて頷いた。











 今、世間では、それに参加する事が一種のステータスのようになっている華族制度に反対するデモは、いつの間にか人が集まり、決まった文句がラジカセから流れ、そして一定の時間が経てば集まった人々は帰って行く。声を荒げる事はなく行進などもない。ただ、そこに人が集まり抗議音が流れる、新時代の静かな抗議デモと言われていた。

「それで、デモの首謀者が誰なのか、調べた。」

「誰ですか?」

「わからなかった。」

「わからない?凱さんの諜報力でわからないんですか?」

「うん、わからなかった。」顰めた表情で腕くみをする凱さん。

「中々、警戒心が高い奴ですね。」

「違うんだ。首謀者らしいと思われる容疑者のあたりがつかなかった。」

「え?」亮は懸念の声を上げてから続ける。「いやいや、誰かが呼びかけなければ、デモは発生しない。ツールはおそらくインターネットでしょう。最初に、この場所この時間にって書き込んだ奴が居るはずで、そいつが首謀者ないしは、デモを呼びかけた集団で、特定は簡単。」

「ではありませんね。」と黒川君がやっと口をはさむ。

「どうして?時系列を辿れば簡単なんじゃ。」

「だと思うだろ。僕もそう思って、まずバラテンに頼んだんだ。黒川君は忙しいだろうって思ってね。」

 黒川君は、否定肯定のどっちでも取れる表情で肩を竦めてから意見を述べる。

「それも、新時代の静かなデモと言われる所以なんだと思います。」

 デモに参加している人間は、ほとんどがネット上の掲示板や、友達からのメールやラインを使った誘いから参加していると言う事が、このデモの特徴だった。それで、マスコミが新世代が起こす新たな抗議デモと言いはじめ、新時代の・・と言葉が変化した。

 テレビの報道番組に出演したある論者は、見えない世界で人が繋がり、仲間を作り、そうして集まる現象は、まるで言葉を持たずテレパシーで会話をしている宇宙人のようだ。とコメントした。その論者はもう70歳を超えた老人で、インターネットのない時代を年齢の半分以上を過ごした世代からしてみれば、今の若者の姿自体がそんな風に見えているのだろう。

「時間を変えて投稿するなんて、簡単ですよ。」としたり顔の黒川君。

「そりゃ黒川君は簡単でも、俺たち一般人は・・・」

「そう、普通はそれが出来ない。」

「という事は、そちらに詳しい人間が首謀者だと言えますね。」

「とも言い切れないけどね。そっち方面に詳しい人間にデモの日時を投稿してもらっているかもしれないし。」

「まぁでも、手がかりにはなりますよね。」

「そう。バラテンとの調査は、そこまででお手上げ状態になった。だからVID脳の黒川君の登場となった訳だ。忙しいのに悪いね。」

「いえ、PABを使えるなら、僕は何を優先してでも飛んできますよ。」

「ほら、それだから、まずはバラテンに頼んだんだ。」

「えへっ」と肩をすくめる黒川君は、もう嬉しそうに、PAB3000のノートパソコンをなでた。

「じゃ、調べてもらおうかなぁ。」

「はい。でも、首謀者探しについては、期待はしないでくださいよ。」

「VIDでも難しいか?」

「簡単な書き換えほど、見つけるのは難しいです。時間を書きかえるなんて、数個の数字を変えるだけですからね。痕跡なんてのこりません。」

「そうかぁ。」と凱さんは落胆に天を仰ぐ。

「でも、頑張ります。潜っている間に、何か別の角度の手がかりが見つかるかもしれませんし。」

「うーん。その頑張りが、良くないんだけど。」

 パソコンの性能が高くなればなるほど処理スビードが早くなって、出来る事は増えるらしいが、そうすると、黒川君の脳が追い付かなくなるらしい。凱さんも黒川君も、脳とコンピューターの性能のバランスがわからず、コンピューターの性能が高ければ高いほど黒川君の脳負担が減るだろうと思って前のPAB2000からPAB3000へと交換した。しかし、使ってみると黒川君はPAB3000の性能について行けず、ものの5分で意識を飛ばしたという。前のPAB2000はすでにブローカーに手渡した後で、PAB2000に戻す事は出来なかった。

 凱さんは仕方なく、黒川君は喜んで、PAB3000を使う訓練をしてきたらしいが、最近は、黒川君は警察学校の受験で忙しく、しばらくその訓練は中断していた、という。

「あー、会いたかったよぉ。」と黒川君はノートパソコンに頬ずりをする。

 亮は苦い顔で、凱さんと見合わせた。












 高い垣根に囲まれた墓地を出て、本殿裏の道へと戻る。麗香の右側にそびえる大きな蔵が、常に地を陰にしてしまっていて、土の表面はわずかにぬかるんでいて苔が生えている。夏は涼しく快適であるけれど、冬は耐えがたい。神社敷地が大きな樹々によって囲まれ、ちょっとした森にもなっている為、少し先に4車線の大通りがあるにも関わらず、とても静かだった。そんな静けさも、足元の空気を停滞させ、凍てつかせる原因だと、麗香にしては珍しく理系的な思考になっていた時、何かの気配に顔を後ろへと振り向かせたのは、お母様と同時だった。

 人が居た。灰色の毛糸のニット帽に、帽子と同じ色の作業服を着て、顔にはマスクとサングラス。

 (デモの人達だ。)と瞬時に麗香は思った。

 帝国領華ホテル前で座り込みをして居た人たちを見かけたあの日から、最近では全国のあちこちで同じような服装をした人々が表れているのをテレビでも報道されて、話題になっている。

 その二人は、麗香達を視認すると動きを止めた。

「はっ・・・」横でお母様が、声にならない息を吸いこみ、「あ、あなた達っ!」とその二人に声掛けた。

 その発声が合図のように、その二人は互いに顔を見合わせてから走り出す。こちらに向かって。

 麗香は何かをされると思って怖くなり、倉庫の壁に身を寄せ、目を瞑った。麗香の横を二人が猛然と走り去っていく気配。何もされなかった事にほっとして目を開けると、お母様が地面に倒れている。

「えっ・・・お母様!どうして・・・お母様!しっかりしてっ、だれかっ。」











 【世界は現実の空想であり、非現実の実像に向かっている。】

 何かの書物で読んだフレーズが頭にある。

 人間は利便性と快楽を追及して社会を築いてきた。そうして築き上げられると、古くなった不便性と苦難は都合よく忘却し、更なる利便性と快楽を求めて、すぐ馴染む。

 インターネットが生活の身近になって、まだ数十年しか経っていない。

 亮が福岡に居た小学生の頃、教室にネットが出来るパソコンが導入され、授業の仕様も様変わった。社会科の授業で調べる課題も、ネットで調べる事を前提に進められていく。最初こそ、操作が難しいと困っていた子も、利便性に慣れるのは早く、それが通常のツールとなった。それまで通常だったアナログ手法は都合よく忘れ、パソコンが壊れて使えなくなると、アナログ手法の基本であった図書館で本を探し、疑問の答えを探し当てるまで読み漁る、なんて方法には戻れなくなっていた。

 黒川君は、手だけじゃなく首、腕、腰、そしてアキレス腱までを伸ばして、これから何かのスポーツでもするように全身のストレッチをする。

「えらく、念入りだね。」

「この子とのリンクは脳だけではダメなんです。全身の筋力も使うんで。」

「そこまでして・・・いいんですか?」と亮は凱さんへと顔を向けた。

「この場に及んで辞めるなんて、言わないでくださいよ。」と慌て縋る黒川君。

「うん、言わないけど、確かに、黒川君の体を壊してまでする事じゃないからね。ほどほどに。」

「僕にとってPABは恋人です。恋人には全力でしてあげるのが男じゃないですか。」

「いやー、まぁ、女の子を喜ばせてあげるのは男の性だけど。」

「まるでセックスみたいだな。」と思った事を口にすると、黒川君は目を輝かせて、

「そう、そうなんですよっ、この子とのリンクはもう最高のエクスタシーなんですっ」と陶酔する黒川君。

「えっ、ええ?」

 本当にいいのか?と、亮は再び凱さんへと顔を向ける。

「この調査に関しては、白鳥代表から直々に頼まれているから、やらないわけにはいかない。しかし、今のところ緊急性はないから、無理せず、程々で、ね。」

「そうでしょう。そうですよ。調査しないと、ね。」と、どうしてもPAB3000を使いたい黒川君は強く同意する。

「さっきは、期待しないでくださいって言わなかった?」

「頑張りますと言いました。」と黒川君は、パソコンを取り上げられないように抱いて亮を睨む。

「はいはい、じゃ立ち上げるよ。」と凱さんがPAB3000電源を入れて、顔認証を行う。

「僕の顔も登録していいでしょう。」

「ダメ。勝手な事したら、二度と使わせないからね。」

「あぁ、凱さんの顔でしか動かないなんて、この子がかわいそう。」と黒川君は肩を落として椅子に座るが、瞬時に別人のように眼孔見開いた顔を画面に向ける。

 トン、トンと二つボタンを押し文字だけの画面にして、「では。」と深呼吸をしたと思うと、すごいスピードで打ち始めた。











 雲は、雲のそば、あるいは雲の中では、その形をはっきりと見極める事は出来ない。遠くから観察して初めて雲の形をはっきりと見定められる。

 麗香は、柴崎家の中で、同世代が他に居「ない」を実感した事がなかった。潤沢にすべてが「ある」のが当然の世界で、「ない」不便さ、寂しさを感じる事がなかった。それは雲のように遠くから、外から観察して、やっと形を見定められる雲のように。

 今、麗香は、居「ない」事の存在を見定めている。柴崎家の血脈は自分ただ一人で、誰も助けてもらえ「ない」と言う事を。

 室内にピッピッと機械音が一定のリズムを刻んで流れる。それは、孤独へのカウントダウンのよう。

 お母様の意識が戻らない。身体のすべての機能レベルが低下しているとお医者様は言った。

 お爺様が死んで16年間、忙しくその身を費やしてきたお母様。本来お父様が継ぐべきだった学校法人翔柴会グループの会長の座は、お爺様の遺言でお母様が就く事になった。批判的で非情な声も少なからずあったであろうと想像するに簡単。計り知れない心労が、お母様には寝ても覚めてもずっとあった。それでも、どんな時も、どんな事にも、どんな声にも、静かに、いつも凛とし背筋を伸ばすお母様を、麗香は誇らしく尊敬していた。59歳になった顔に皺は増えたけれど美しく、こうして寝ている時も、やっぱり静かに凛として品がある。

 年齢を重ねて皺が増えたお母様の手を、麗香は握る。軽くて冷たかった。

 麗香は幼き頃の事を思い出す。熱を出して寝込んでいた時、額や頬をなでてくれるお母様の手が冷たくて気持ちがよかった事、『大丈夫、大丈夫。』と優しい声をかけてくれた。

「大丈夫、大丈夫よ。お母様。」と麗香は声を出す。

(死なないで、お母様。お願い、私を置いて逝かないで。お母様がいないと、私、どうしていいかわからない。)

 麗香はお母様の手を胸に引き寄せて祈る。

「大丈夫。」それは回復呪文。










 凱斗には、ただのピンストライプの模様にしか見えない。

 前のPAB2000の時は、辛うじて文字が流れているのは視認出来たが、この3000では文字という形すらも視認できず、ストライプの模様の壁紙のようだった。それこそが、このPAB3000の高性能さだ。黒川君は、この速度で脳内の想像したバーチャル世界を泳いでいる。2000を操作していた時も驚くほど速いキーボード操作だったけれど、更に早くなったのを、藤木君が驚愕の表情で見張る。

 まるで蜘蛛が獲物を捕食する時のように速く恫喝に動いていた指が、黒川君の呻きと共に突然止まった。

「あっ・・チッ。」

「どうした?」

「いえ、どうもしません。僕の手が追い付かなかっただけです。」と手を振ってから、またぐ―パーと運動。

 ストライプ柄だった画面は、文字と数字が並び制止している。

「一回り小さくなった分、ボタンも小さくなって打ちにくいんです。」

「使い慣れたサイズのキーボードを後付けしたら?」と藤木君の提案を拒否する黒川君。

「それはこの子に対して失礼です。この子の体を使ってこそ、愛撫なのですから。」

「あ、愛撫ね・・・。」

「あぁ、ごめんね。次はちゃんとうまくするからね。」と黒川君は再開する。

 しばらく見守って、藤木君がつぶやいた。

「どんな世界なんでしょうね。VIDの想像する世界は。」

「想像もつかないな。」

「見たいですか?」と黒川君が手を止めて顔を上げた。

 その黒目は小刻みで揺れている。「僕、今日、面白い物を持ってきました。凱さん、すみませんが、僕のリュックからバーチャルアイランドを取り出して貰えますか?」

「バーチャルアイランド?」

 黒川君のリュックを開けると、中にアイマスクのような機器が入っている。

「そう、それです。」

「これって、この間、ガゼルから出た新型ゲーム機だよね?」

「さっすが、藤木さん。新しい物の情報は早いですね。」黒川君はその新型ゲーム機をPABに繋げ、藤木君に差し出した。

「いや・・・俺はいい。」と、何故か藤木君は、それを押し戻して遠慮する。

「じゃ、凱さんどうぞ。」

「僕は、ゲームをした事ないって、前に言わなかったっけ?」

「だからです。一度、僕の見ている世界を見てほしくて、これ、良くできた機器でVIDの世界を疑似体験できるんで、高かったけれど思い切って買っちゃいました。つけてください。」

 言われた通りに目に覆うようにセット。まだ視界は黒いまま。

「セックスの覗き見ですよ。」と藤木君が耳元でささやいてくる。

「えっ⁉」

「スタート」と黒川君の声掛けと同時に、視界がひろがった。

 そこは、高層ビルが無機質にそびえ立つ近未来の世界。昔見たSF映画の世界に似ていた。だけど下を見れば、足元に地面はなく、はるかに続くビルの谷間の空中に立っていた。

「うわっ!」

 実際は自室のフローリングに足つけて立っているのだとわかっていても、脳が錯覚を起こし、足をすくませる。

「あはははは、やっぱり凱さんでもそうなりますか。その見ている世界が、僕がVID脳で作り出している時の景色に近いです。」

「へぇ~。」と純粋に感心した。

 どこを見ても、ビル群は続いている。頭を下に向けると、人の体と足が再現されていて、前後左右の動きに対して、ちゃんと踏み出した景色が動くが、腕はどんなに振っても、動きに反映はしない。

「手の動きをつけるには、モーションキャプチャが要ります。足の動きも、ただそのモニターのセンサーによって仮の動きを再現しているだけですから、縦横以外の動きは再現されません。」

 試しに片足だけで立って、ブラブラと振ってみたら、足の映像は何も動かなかった。それでも、世界は揺れて見えて、このバーチャル世界は、そこにいるのが自分だと錯覚を起こすほどに、よくできていた。

「はいっ、凱さん、後ろを向いてください。」

 言われた通りに後ろを向くと、10メートルほど先の空中に黒川君が立って手を振っている。

「おおおっ。」思わず手をふった。

「え、えっ何してるの?」と藤木君。

「凱さんが見ているバーチャルアイランドのソフト内に、僕が入ったんです。凱さんが見ている僕は、事前に作ったアバターを動かしているのですけれど。」

 手を振っていた黒川君は、急に上空へと飛んで、目の前のビルを一周すると、凱斗へと向かって飛んできて、真ん前に降り立った。

「うわっ!」その勢いに、思わずのけぞる。

「あはははは、大丈夫ですよ。ここに在るものは全て、空想の、本来は無いものなんですから、ほらっ。」

 そう言うと黒川君は、凱斗の腹に手を刺し入れた。にこやかに笑いながら、凱斗の腹をぐりぐりと回す。これが現実だったら貫かれた腹は血まみれだ。そう思ったとたんに、気持ち悪さが腹からこみあげてくる。

「気持ち悪いでしょう。その感覚は脳が混乱している証拠です。実際に僕の手は、凱さんのお腹を貫通しているわけじゃないから肉体は何の損傷もしていないけれど、脳が視覚の状況を判断して痛いはずだと、痛みの信号を発生させています。人の痛みを感じるメカニズムは幹部と脳の神経伝達のやり取りです。脳で痛みを理解できなければ痛みは生じない。脳が痛みを判断する材料は患部からの神経伝達だけではありません。視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚、すべての感覚器官から送られて来た情報を総じて、怪我や痛みの程度を脳で判断します。このバーチャル世界では、視覚の器官が主となる世界。聴覚器官も働いていますが、視覚に比べれば少なく、他の嗅覚、触覚、味覚は無い世界。他の感覚がない分、視覚の力が増強され、脳の大半を支配するまでになります。だから今、この状況を現実世界よりも何倍にも増強された視覚器官が、怪我をしていると言う情報を脳に強く働きかける。怪我を認識し痛みを生じさせる信号を患部に送り返すはずの場所は、現実世界では怪我はしていないし、この世界では肉体も仮想です。痛みの信号は、凱さんの脳内で迷走してしまうのです。」

 脳科学の専門家ばりの説明をする黒川君は、その精通した内容とは裏腹に、現実よりも幼い表情で笑っている。

 そして凱斗の架空人体の腹から腕を抜いた。瞬間、気持ち悪さが増幅した。過去に経験したどれでもない感覚。痛い、痒い、熱い、冷たい、ピリピリ、ぞくぞく、等々の感覚がマックスレベルで同時発生したような感じ。CMDとDSPDプログラムを同時に受け、感覚の麻痺している自分に、まだこんな感覚が残っていたのだと驚きながら、腹を抑えて腰を折った。

「えっ、ちょっと、大丈夫ですか!」と慌てた藤木君の声。

「あぁ、すみません。ちょっとやり過ぎちゃいました。凱さん、それは空想です、意識をお腹ではなくて別に向けて下さい。」

 そう言われても、中々この気持ち悪さは取れない。

「凱さん、大丈夫なのか?苦しんでるぞ。」

「慣れてないと非現実を現実から切り離すのが難しいみたいですね。凱さん、僕を見てください。」

 顔を上げたら、黒川君が少し先の空間に立ち、両手を上げて、顔を空へと向けている。大きく広げた手を、オーケストラの指揮者のように回すと、周りの世界の光が流れるように色を変えていく。それはまるで、神のように・・・・いや、神なんだ。

 この世界での黒川君は、世界で10数人しかいない特殊能力を持つ者。国家がサイバー防衛の為に、どんな手を使ってでも欲しいと躍起になり、国家間で引き抜き合戦となるほどの貴重なVIDブレインを持っている黒川君は、まさしくバーチャル界の神。

 世界はリズムよく七色に変化していく。

「すごい・・・」

「気持ち悪さ、無くなったでしょう。」

「ああ。」

 意識が周りの景色に向いたおかげで、気持ち悪さは嘘のように無くなった。

 どこかで聞いたことのある迫力のあるクラッシックオーケストラの音楽が聞こえて、この世界に聴覚の芸術も加える。

 レニー・グランド佐竹がこの世界を見たら、美しいと絶賛するに違いない。

「僕が出来るのはここでは、これぐらい。僕が潜って見ている世界は、もっと素晴らしく美しい。」

 こんなに綺麗な世界を、黒川君は泳いでいたのか。レニーウォールを破ったあの時、途中で緊急停止をした凱斗達に黒川君は、異常な目をして怒った。

『何故、止めた、命を賭けた世界、だからあの世界は、美しい。』と。

 まるで背中に羽根が生えた妖精のように、ビル群のあちらこちらを飛び回って光を操り、この世界に動きを作り出す黒川君は、生き生きとして、楽しそうだった。

「そりゃ、怒るよな、途中で止めたら、こんな綺麗な世界を自由に飛び回れるんだ。」

「ええ、でも綺麗すぎて寂しい。」と悲しそうに微笑む。

「寂しい?」

「現実の世界は、バーチャルの世界より美しくて暖かい。生の世界の厳しさがあるから、暖かさを感じる事が出来る。醜い景色があるから美しさが際立つ。心地よい世界だけしかない世界では、その差は感じられない。ラストさんが言った言葉が、今になってよくわかります。」

「オカマが言った言葉がか?」

「ええ、両性の気持ちがある人の言葉、ある意味、人類万全の言葉です。」

「ははは、それラストに言ってやれ、泣いて喜んで、朝までただ酒を飲ましてくれるぞ。」

「嫌ですよ。ラストさんの店に行ったら、何をされるか。」

 本当に嫌そうな顔して、振り上げていた手を降ろすと、七色の光輝く波は、すーと消えてなくなり、元の無機質なビル群に戻る。

「ご観覧、ありがとうございました。」そう言って、指揮者のように丁寧に頭を下げた黒川君は、次の瞬間バッと消えていなくなった。

「終了しますね。」

 すべてが闇に閉じられる。黒い画面にバーチャルアイランドのロゴが表示され、それが後退して小さくなって、終いに見えなくなる。

「バーチャルアイランドを頭から外す前に、目をつぶって、それからゆっくり目をあけて下さい。目を開けたまま、いきなり現実世界に戻ると、感覚が混乱して、ふらつきが起こり危険ですから。」

 言われた通りにしても足はふらついた。三半規管がおかしいのがわかる。

「このゲーム機って、そうなるから、販売停止になったんだよね。」

「えっ?販売停止?」

「流石、藤木さん、そう言う情報も抜かりなく知ってますね。」

「ふらついて転倒、テーブルに頭をぶつける、などの怪我人が続出して、経済産業省から販売停止命令になった問題のゲーム機。」

「黒川君、買ったって言わなかった?」

「バラテンさんに拝み頼んで、手に入れてもらいました。へへへ。」

「へへへじゃないっ!バラテンに電話だっ!あいつ、何、違法商品を学生に売ってるんだ!」

「バラテンさんも楽しんでましたよ。」

「いっ・・・」

「凱さんも今、すっごく楽しんでいましたよね。」藤木君は横目に冷たい表情。

「僕は、販売停止とか知らないからだな。」

「凱さん、ゲームって楽しいでしょう。今度一緒にバーチャウォーズやりましょうよ、凱さん実体験ありなんだから、絶対、最高チームでミッションクリアできると思うんですよね。」

「なに?バーチャウォーズ?」

「ゲームのタイトルです。戦争もののRPGアクションゲーム。今世界規模で人気のネットワーク型PCゲームです。世界中の人間と、仮想空間で戦争をして領土を広げていき、ミッションクリアをすれば仮想通貨を稼げます。武器や戦車、戦闘機を買いそろえて、軍事力を強化する事が出来ます。仮想空間の通貨が現実世界で価値を持ち、その通貨、もしくは武器や戦闘力、人材までもが取引される。従来のゲーム概念を覆した、今、何かと話題と問題を巻き起こしているネットワークゲームです。」すました顔で説明をする藤木君。

 学生の頃、博識と言われていただけあって、説明は簡素且つ的確で、無駄や不足がない。

「さっすがっ藤木さん。そう言う説明もぴか一ですね。」

 凱斗は二人から一歩離れて、気付かれないようにため息を吐いた。

 現実世界の戦場で死にかけた凱斗に、戦争もののゲームをして、ミッションをクリアしようよ、と誘われる。

 これが平和と言う物、凱斗の腹にある傷を見ても、軽い感想が出るだけで、あの血なまぐさい匂いや爆音の音を想像はできまい。

 誰が、彼らの未経験を罪深いと責められようか。知って何かを感じろなんて、本当に戦場を経験した人間は言わない。あの悲惨な現実は、未知である方が絶対にいい。知らなきゃならないと言うなら、バーチャルで十分だ。













 部屋がノックされて看護師さんが入ってくる。

「こちらです。」

「麗ちゃんっ!」

 看護師さんの後ろから入って来たのは敏夫叔父様。一瞬、どうして叔父様は、ここに麗香達が居る事を知っているのだろうと疑問に思った。でもすぐに精華神社の守都様だと気づく。麗香が救急車に乗り込んだ時、お屋敷に連絡しておくと叫ばれていた。

「文香さん、一体どうして?」

「わからない・・・。」

 敏夫叔父様が来てくれた事で、張りつめていた感情があふれて、涙がこぼれ落ちた。

「すべての意識レベルが低下していると担当医から先ほど、お嬢様に説明さし上げましたが、ご主人さまでしょうか?」と看護師が淡々と話す。

「いえ、私は義弟です。兄は今、海外に出張中で、帰国は明後日になるかと思います。」

 そうだった、お父様は昨日から、出張でハワイの提携学校に視察に行かれている。早く帰ってきてと麗香は祈る。

「そうですか、担当医からの説明は、今、予約外来の診察に入っておりまして、終わり次第となります。」

「ええ、それでもかまいません。」

「あと、入院手続きを下の事務局でお願いいたします。」

「わかりました。ありがとうございます。」

 看護師が出ていく。

「藤木君は?一緒じゃなかったのか?」

 麗香は声を出して答えられない。口を開けば涙がこぼれ落ちる。それに喉の奥に何かが詰まって声が息苦しい、無言で首を振った。

「連絡は?他に、洋子と和江さんには連絡をしたか?」

 それも首を振ってこたえる。

 いつも声の大きい敏夫叔父様が、静かにしゃべる。それが一層の深刻を強調する。

「そうか・・・凱斗は?」

 凱兄さんまで呼ばなくちゃいけない事が、まるで危篤で親族を集めるような様相を帯びて増々、息苦しくなった。身をよじってその息苦しさに抵抗する。

「って、麗ちゃんも知らないんだったけ?」

 頷いた。

「藤木君に連絡を取ってもらうか・・・。」

 何故か藤木にだけ連絡先を教えている凱兄さん、お母様が番号を教えてと言っても、約束だからと絶対に教えてくれなかったらしい。腹立だしいあいつ。

 そうだ、藤木が今日、運転しないから、お母様が運転しなくちゃいけなくなって、それが心労でお母様は倒れた。

 そう、すべて藤木が悪い・・・











 まずは、ネット上に投稿されたデモに関する呼びかけを黒川君は集め、投稿時系列に並べた。通常ならば、日時を指定した最初の投稿が首謀者と単純に考えられるわけだが、その最初の投稿が200を超えていた。コンマ000まで同時刻に217件の投稿は、投稿後に完全に書き換えられたか、あるいはそういうプログラムを組んで投稿されているかのどちらかだと黒川君は言う。黒川君は、その217件の投稿にどこか異変がないか見つけようとしたが、駄目だった。先に言った通り、投稿後の日付の書き換えは簡単で、痕跡など残らない。そしてVIDがプログラムした物であるなら、尚更痕跡などないに等しい。投稿自体は違法ではないのだから。

 視線を変えて情報集めに入った。華族制度に批判している投稿内容を拾い集め、その投稿者のアカウント精査にあたる事にした。しかしながら過激な批判などあまりない。誰もが似たり寄ったりのコメントばかりで、アカウントの怪しい者も見当たらない。

 流石はPAB3000の性能は驚異的で、黒川君の作業待ちが少ない。コメントの精査が終わると、次に【華族制度】と言うキーワードのみで、情報収集を行う事になった。亮たちもスマホと凱さんのマンションに放置してあったタブレットで検索しては、三人で話し合う、を繰り返すが、次第にVID脳で探してくる物の方が、やはりより深堀できる事が判明して、亮たちはお手上げになった。しかし、黒川君は、何が必要で何が不必要かの法則が分からなくて集めにくいと終始困り顔で、それでも続ける。

 亮達も、華族制度だけでは漠然過ぎて、次第に何を探しているのかわからなくなってくる。

 デモ隊の誰かがトラブルでも起こしてくれたら、なんて不謹慎な事まで思い至ってしまう。

「あー、もう、この文字だらけの景色も見飽きましたぁ。」今回は、砂漠の景色を作っているという黒川君。砂漠の一粒一粒が文字の粒子だというが、亮は、その世界から、どうやって沢山の情報を検索して拾ってくるのか、まったく想像がつかない。

 黒川君は凝りをほぐすように首を左右に動かしはしたものの、眼はパソコンの画面から外さないで、高速に送られていく英数字を小刻みに追っている。黒川君がネットの世界に潜って、そろそろ4時間が経つ。

「じゃ、休憩、一旦やめよう。」

 テーブルには、黒川君が拾ってきてくれた情報をプリントした紙面が散らばっている。どこの誰かは知らないメールの送信記録やら、掲示板の書き込み、講演会の誰かの発言記録。静かなデモが行われている時の、警察が警備に出動した時の警備記録まで黒川君は拾って来ていた。亮は、散乱したプリント用紙をかき集めてテーブルの上を綺麗にすると、黒川君が買ってきたおにぎりや菓子パン、サンドイッチなどの食べ物を、凱さんが広げる。

 黒川君は凱さんの為に缶ビールも買って来ていて、亮にも勧められたが、車で来ていたので断る。代わりに、お湯を沸かしインスタントコーヒーを淹れた。メロンパンを頬張りながら、ロング缶のビールを飲み干している凱さんの味覚に呆れながら、亮はサンドイッチを食べた。黒川君はツナマヨのおにぎりをかじりながら、凱さんに話しかける。

「凱さん、卒業式は、来賓として来るんですよね。」

「うーん、行きたくない。」

「えー来てくれないんですか?」

「行きたくないって!通用すると思ってるんですかっ。」怒り任せに叫んだ亮。

「一人ぐらい居なくても大丈夫でしょう。」

「大丈夫じゃないです!」

 常翔大学は小中高の経営体系から若干外れているとは言え、学校法人翔柴会を名乗っている限り、小中高の理事長が卒業式に出席しないわけにはいかない。

「藤木君の方が、校長とか職員に受けがいいでしょ。もう、藤木君が理事長で構わないよ。僕は。」

「構わなくないです!それに受けなんてよくありませんよ!」

「えーそんなことないよ、藤木君の方がちゃんと仕事してくれるから助かるって、洋子理事長も言ってるよ。」

「誰のせいで、小学部の理事の仕事をやらなくちゃ、ならなくなったと思ってるのですか!」

 亮の怒りは沸点に達した。1年溜った愚痴を全部吐き出してやろうと、息を吸い込み睨むと、凱さんは、苦笑いをしながら後ずさる。そんな態度も腹が立つ。

「いや、ほら、僕は還命新皇の付き人としての大事なぁ。」

「もうその言い訳は通用しないって言いましたよね。鷹取家からの令状が届いた時に。」

「うぅ・・。」凱さんは唸りながら首の後ろをかいた。

「宮内神皇仕えの鷹取家が華族会を通さず、皇印入りの封書を直に柴崎凱斗宛で届けて来られたんですよ。その真の意味がわからない凱さんじゃないでしょ。」

 10か月ほど前、鷹取家の使いが、直々に令状を持ち柴崎家を訪れた。その内容は、還命新皇こと弥神皇生の世話を丸7年任せた事に対する労いと礼を至極丁寧にしたためられていたが、付随して記されていたのは、介添え金の打ち切りの知らせだった。

 凱さんが還命新皇こと弥神皇生を、海外に逃がしてからの7年間、還命新皇がどこの国に居て何をしているのかは、凱さん以外誰も知らないのだが、その海外生活をするための資金と、凱さんへの報奨金が、神皇家の資産から拠出されていた。それが7年経ち、成人である事を踏まえ、本来学生である期間を超えていると言う理由も含め、介添え金の打ち切りを決定する知らせであった。

 柴崎家を訪れた鷹取家の使いは、紙面に記されない意思をも言付けして帰った。それは、今後の還命新皇の身の預かりは、鷹取家の者が担うと言う事だった。それは凱さんに還命新皇の側から離れろという命令に等しい。還命新皇の居場所を執拗に聞いてきたという。

「本来なら還命新皇の世話や身元の保護は、神皇家側仕えの鷹取家、もしくは弥神家がすべき事です。成り行きで7年もそのままになってしまったのは致しかない事かもしれませんが、それでも、鷹取家、弥神家を差し置いて、柴崎家がその重責を担い続ける必要はなかったはずです。それも華選の凱さんが。」

 凱さんは、何か言いたげに口を開いたが、言葉を発することなく口を噤んだ。相変わらず哀しみ満載の本心は薄れることなく、亮は何を心に思っているのか読めない。

 凱さんが弥神を海外に逃がしたと知った7年前の当初、新田は罪を隠匿するための逃亡だと激怒した。怒り任せの抗議の叫びで、新田は聞こえていなかったようだが、凱さんのつぶやきを、亮は聞いた。「俺も許しはしないよ。ちゃんと償いはしてもらう。」と。

 その時亮は、「やっぱり凱さんは、こちら側の人だ。」と安心した。なのに、凱さんはあれから7年も弥神に付き添い、まるで華族会の追及から守っているかのよう。

「凱さん、あなたは麗香の補佐役となる人として、柴崎家の養子になったのでしょう。翔柴会の仕事を放棄してまで、弥神に肩入れするのは何故です?弥神のあの力に操られてですか。」

「操られていないよ。」

「操られるとも思わせない。それがあいつの能力だ。」

「違う。棄・・・弥神皇生と僕はもう、そういう関係じゃないんだ。」

「どういう関係なんです。奴は今、どこで何をしているんです。」

「言えない。」

「どうして、これ以上、鷹取家の言付けを無視すれば、柴崎家の立場も悪くなりますよ。」

「だったら、僕を、柴崎家の戸籍から抜けばいい。」

「凱さん!」

 亮は、猛烈に怒りが沸き起こり、引っ叩きたい衝動を抑えなければならなかった。

「簡単だろ、こういう時の為の僕という立場なんだから。」

「あいつ・・・そこまでに凱さんを取り込んで。」

「違うよ。本当に彼は僕に能力を使っていない。日本を出てから一度も。仮に、知らずに洗脳されていたとしても、それはそれでいい。今とてもいい関係なのだから。」

「いい関係ですってぇ。」嫉妬がむき出しになったのを隠せない。

「お二人、止めてください。僕の卒業式はまだ先ですし、ね。その話はまた後で。」と間に割って入る黒川君。

「兎にも角にもっ、これ以上、文香会長の心労を増やさず、柴崎家の一員である事にもっと・・・」

 言いたいことを完結できないタイミングで、携帯の呼び出し音に邪魔された。

「ほらっ、藤木君、電話に出て。」とほっとした顔の凱さんに腹が立つ!

 怒りのまま、最高の不機嫌声で電話に出ると、敏夫理事長からだった。間違いじゃないかと、耳から携帯を離して着信相手の表示を確認した亮。

「今、どこだ?」

「今、横浜に居ます。」

「あぁ、小学部か。」

「いえ・・・小学部からはもう出て・・・。」

 車を返せと言う事だろうと予測した。月に一度は敏夫理事長のスポーツカーのエンジンを回転させるために、キーを預かっていて、今日もその車を使って来ていた。

「今日はどうして、会長と一緒じゃなかった?」

 いつも豪快に声も大きい敏夫理事長の様子が、おとなしい。亮は不審に思いながら答える。

「今日は、緊急で藤木家の方に用が出来ましたから、会長にその旨を伝えて、時間を貰いました。えっと・・・何か?」

「そうか・・・それは邪魔して申し訳なかったな。」

「いえ・・・」

「忙しいところ悪いが、一つだけ頼まれてくれないか?」

「あ、はい。何でしょう。」

「凱斗と連絡を取って欲しい。」

「えっ?」

 凱さんは空になったビール缶やゴミを集めてキッチンへと入っていったところだった。黒川君もトイレに行っている。

「何か、ありましたか?」

 常翔学園の入学受験は終えた。次年度の入学者の選定、素性調査も終わったばかり、一番忙しい時期は終えて、卒業までの少しの間、ほっとできる時期だった。文香会長が連絡を取って欲しいと言うならまだわかるが、戸籍上の父とはいえ、敏夫理事長から凱さんに緊急で連絡を取ってくれなど珍しい事だった。

「・・・文香さんが、倒れた。」

「え・・・。」

「すべての機能が低下して、意識がない。」

 (意識がない?嘘だ・・・)

「藤木君しか、凱斗と連絡が取れない。凱斗に知らせて、すぐに帰って来いと言ってくれないか?」

「わかりました。私もすぐに向かいます。病院は?」

「東京の大宮市の・・・」

 敏夫理事長から教えられた病院は、大宮市の精華神社から近い総合病院だった。

 亮は思い出す。今日は前会長の月命日、亮が運転して墓参りに行く予定だった。電話を切ってから亮は叫んだ。

「凱さん!文香会長が、倒れた!」






 私は、今まで何を見て、何を学び、何を積んできたのだろう。

『どんな敵が来ようとも、どんな壁が立ちふさがろうとも、私がその苦悩を取り除く、私は柴崎麗香だから。』と言ったあの時も、

結局は、震えてしがみついてくるりのを、本質的に助ける事は出来なかった。

 私は、何度そうやって口から出まかせを言っては、愛する人を騙し、助けられないと嘆いては誰かのせいにして、自分は精いっぱいやったのだと言い訳をするのか。どんな努力も、結果を出せなくては誰も認めてはくれない。

 入院手続きや詳しい検査を聞くのも、一族に知らせるのも全て、敏夫叔父様がやってくれた。

 私はただ、お母様がその眼をもう一度開けてくれることを祈るだけしかできなくて、あふれ出てくる涙を必死にこぼれない様にしていただけ。

 洋子おば様も病院に駆け付けて、お母様の様子を伺うと、すぐに部屋から出て行く。叔父様も部屋を出たり入ったりと忙しない。本来なら学園の仕事をしている時間だから、忙しいのは当たり前。一族皆がそうやって忙しくしているのに、私だけがいつも暇を持て余して、時折、新田のマネージャー業をするだけ。翔柴会を継ぐ人間が、何にも出来ないこんな私が、翔柴会の唯一の跡取りだなんて・・・誰もが、行く末を案じていても、何も言わない。










 今日も、いつも通りに朝8時に屋敷に入り、1階の厨房横の朝日が満載に降り注ぐ食堂の入り口で『おはようございます』と柴崎家の人々に頭を下げた。それが朝一番の仕事始め。頭を上げ見渡せば、月曜日から海外へ向かわれた信夫理事長の席が空席である事だけが違う、いつも通りの景色だった。文香会長はいつも通りに目を細めて、笑顔で「おはよう」と声を掛けてくる。体調が悪ければ、その時点で亮にはわかる。亮が立つ位置からは、右頬しか見えない麗香も、いつも通りに亮の登場を無視して、不機嫌に味噌汁を口にするのが、ここ1年続いている日常だった。

(元気だった。特に深刻な持病はなかったはず。すべての機能が低下して、意識がないとはどういうことだ?そして俺は今日、どうして一緒についていかなかった?)

 文香会長は、精華神社で倒れて救急車で運ばれた。精華神社の社司さんから屋敷に連絡があり、お手伝いさんの木村さんが一族に連絡をし、帝国領華ホテルの華族会事務所に居た敏夫理事長が、いち早く病院に駆け付けられたと聞く。

「俺が、運転しようか?」

 亮の肩に手を置き、顔をのぞき込んでくる凱さん。

 言葉を聞き逃して聞き返すと、黙って亮の右手を指さす。

「俺は酔えない体質だから、ばれなければ、普通に運転は出来る。」

 手に持っていたのは家の鍵、車に向かって解除センサーのボタンを必死に押していた。自宅マンションのロビーは、車と同じようにセンサーボタンが付いていて、解除ボタンを押せばガラス製の自動扉が開くようになっていた。慌てて、ポケットの中の車の鍵と取り換える。

「大丈夫です。」息を吐き、胸に冷たい空気を取り入れる。「酔えなくても、飲酒運転をさせたなんて知られたら怒られます。文香会長に。」

「わかった。頼んだよ。」肩に置かれていた手で背中をポンとはじいて、凱さんは助手席に乗り込んだ。

 デモの首謀者探しは中止となって、黒川君は電車で帰って行った。 

 高速道路を使って大宮市の総合病院へ、救急患者が処置された後に移される集中管理室へと駆け急いだ。病室の前では、敏夫理事長と洋子理事長が立って話をしていて、亮達を視認して叫ぶ。

「凱斗!日本に居てたのか!」

「たまたま、一昨日、帰国したばかりです。」

「あなたは、いつも、どこで何をしてっ!」

「すみません。文香さんの容態は?」

 洋子理事長の不満をさらりと流し、洋子理事長は本心に怒りを宿した。

「まだ、意識は戻らない。」

「倒れた時に頭を打ったとか?」

「医者もそれを気にして、頭は念入りに検査したらしいが、外傷はないらしい。」

「入っていいんですよね。」

「あぁ、入ろう。藤木君、済まないね。忙しい時に。」

「いえ、申し訳ございません。本来なら私は今日、お二人の付き添いをする予定でした。」と深々と頭を下げた。

「それは仕方ない、君を責めてるわけじゃない。」

「そうよ、藤木君のせいじゃないわ、たまたまよ、あなたは、いつも良くしてくれているわ。」

 凱さんが、一族の中で一番苦手だという洋子理事長。亮には裏表なく好意的で話しかけてくれる。藤木家の息子が何故柴崎家に出入りしているのだと不思議がってはいるが、華族としてのプライドが満悦して、藤木家のような名家の者を使える事に喜び感じている、明快にわかりやすい人だった。

 病室に入って行く柴崎家たちの最後に続いて亮は入室する。ベッドの脇に居座っていた麗香が振り向いて、凱さんの存在を認識すると、驚いた声を上げて泣き出した。

 ピッピッと遅いリズムをうつ機械音、モニターに走る波形が弱いのは見てすぐにわかった。自分が交通事故にあい、長い期間、病院の世話になっていたから、機材の何を示しているか、何のために必要な物か、病院内の機械類は、暇つぶしに看護師さんに聞いたりして知っていた。

「すべての機能が低下しているって、心臓も?」

「わぁぁぁぁ。」麗香がすがるように凱さんに泣きついた。

「麗香・・・何があった?」麗香の頭を撫で、あやし乍ら聞く凱さん。

「わからない、わからないの。気が付いたらお母様、倒れていて、私、誰か助けてって叫んで、でも誰も来てくれなくて私・・・。」

「大丈夫、大丈夫だ。文香さんは大丈夫。」より一層強く抱きしめ、麗香の髪を撫でる凱さんから目を逸らした。

 自分は、麗香にあれをしてやれない。

 本来なら、朝から付き添って、こういう時にこそ、亮が麗香の不安を取り除かなければならなかったのに・・・。











(こいつは、何故ここに居る?そして何故、ここに居なかった?)

 居なくていい時にいて、居なくてはならない時に居ない。

「申し訳ございません。」と姿勢正しく頭を下げる藤木。

(どうしてこいつは、こんなにも冷静に、乱れぬ姿と精神で居られる?)

「藤木君、もういいよ。そんなに頭を下げなくても、文香さんの容体は、監視は怠るわけにはいかないけど、すぐにどうのこうのってわけじゃない。すべての体内機能が低レベルの状態だけど、弱いながらも命は繋いでいる状態から。」

「私が今日、付き添いを怠たらずについていれば、こんな事にはならなかったかもしれません。」

「そうよっ!あんたが今日、ちゃんと運転していれば、こんな事にはっ!それに何よ、こんな事って!」

「麗香っ!」責め向かおうとした麗香の腕を、凱兄さんが掴んで引き戻し、頭を強く胸に押しつけられる。

 トレードマークの黒いライダーズジャケットが顔に引っ付き、皮臭い。

「申し訳ございません。」

 また冷静な声の藤木に、怒りに頭が熱くなるのがわかる。責めの言葉を言いたいのに凱兄さんの腕から逃れらない。

「僕が誘ったんだ。そこまで頭を下げられたら、僕はどうしたらいい?」

(凱兄さんが誘った?)

 行方知れずの凱兄さん、おそらく海外にいるだろうと聞いていた。それが日本に居て、藤木と一緒に現れたと言う事は、藤木の実家の方で用があると言ったのは嘘だ。

「あんたっ嘘ついて・・」上げた頭をまた抑えられ言葉を封じられる。叩いて抗議するも、手も掴まえられる。

「申し訳ございません。」

 録音再生のように繰り返す言葉、何の感情も入っていないのはありありとわかる。そんな藤木が許せない。

「どういう状況になったにしろ、私が今日付き添わなかったのは事実でございますから。」

「藤木君、君は、どうして、そこまでっ痛ったっ。」凱兄さんの足を踵で思いきり踏みつけた。

「そうよっあんたのせいよっ!あんたのせいでっお母様はっ!」

「麗香、やめるんだ。文香さんが倒れたのは藤木君のせいじゃない、わかるだろ。おかしな事を言っているのは。」

 藤木はうつむいて、唇をぎゅっと結び辛そうにする。それが演技である事、麗香の無茶苦茶な八つ当たりをやり過ごすだけの、何もかもが作為的で腹が立つ。

「一度、屋敷に戻ろう。しばらくは僕が会長代行をする。仕事の説明をしてくれ。」

「はい。」

「麗香、行くよ。」

「いやよ。」

(こんな奴と一緒に帰りたくない。こんな奴と一緒の車に乗りたくない。)

「麗香っ。」

「私はここに残る。お母様を一人にしておけない。」

「今日は、洋子さんが残ってくれると言ってくれている。麗香も屋敷に戻って休んで、明日また来ればいい。」

「嫌。ここに残る。お母様の側にいるわ。」

 踵を返して病室に戻った。麗香はお母様の手を取り両手で握る。

 私には癒しの力があると言う。かつて、そうして、恋する人と友人を癒した。

 それが今、自分のできる事。

「お母様、大丈夫。ずっと私がそばについているわ。」










 人はいつか死ぬ。遅いか早いかは神の采配にゆだねられている。そこには平等なんてものはない。生まれて1年足らずで死ぬ者もいれば、100まで生きて十二分の寿命を全うして死んでいく者もいる。

 どちらが幸せか、なんて比較は無意味だ。命の重みは平等であるが、価値は不平等である。

 人の本心がわかってしまう文香さんの能力、人よりも多くの醜い世界を覗いてきた事だろう。それでも強く、美しく、静かに、いつも凛としていた文香さんは、世の醜さに溺れることなく、愁いた時を過ごしてきた。

 他人の本心を視る現象に疲れ、絶望した人生になっても、文香さんはきっと、自分の死に際には「幸せだった」と自分の人生に感謝を述べるだろう。

 素性のわからない凱斗を抱きしめ、危険な場所まで迎えに来た文香さん。不足した血を惜しみなく凱斗に注ぎくれ、『これで本当に血を分けた息子になったわね。』と微笑んだ。

 凱斗は血を与えてくれた文香さんに恩を返すと誓った。なのに、自分は困らせてばかり。

「これが、小学部の新入学者と3枚目以降が幼稚舎からのスライド組、スライド組の名簿の前に星の記しがついているのが、華族の称号を持つお子様、三角が華准でいらっしゃいます。中等部と高等部の名簿はすでに理事長に返されて、今ここにはありませんが、会長はすべてに目を通されていました。」

「小学部だけでいい。僕は見ただけで、すべてを記憶してしまうから余計な物は要らない。小学部は僕に責任があるから、これには目を通しておくよ。」

 藤木君から渡された名簿をめくって、眼を通して脳に忘れない記憶を焼き付ける。

「あと、こちらは、4月からの職員配置です。それに伴い、給与、待遇等の変更の一覧と、社会保険等の」

「これも必要ない。職員配置だけでいい。給与なんて個人情報を記憶しても何の役にもたたない。」

「・・・すみません。」うなだれる藤木君。昼間、凱斗に叱咤した勢いは消失してしまっている。

「文香さんがやった仕事を僕に見せるんじゃなくて、明日からしなくてはいけない仕事の、必要な書類を出して。」

「はい。」

 文香さんが倒れて一番こたえているのは藤木君かもしれない。

 1年半前、引退する和江理事長の後継に洋子理事長が就き、空いた小学部の理事長に凱斗が就くことになった。半年ほど真面目にやっていたつもりだったけど、何かと洋子理事長にうるさく口出しされて、嫌気がさした。それ以前の約5年間、レニー・グランド・佐竹のそばで世界を手に入れていく手腕を見ていれば、私立小学校の理事長など、ちっぽけで幼稚で退屈な仕事だった。

『凱斗・・・迷うことなく出なさい、檻から。あなたは血を分けた私の息子。』

 理事長をはじめ一族全員と、校長達の評価がすこぶる良かった藤木君の存在に安心し、凱斗は柴崎家から離れた。

(その結果がこれ?)

 親不孝と言えば、まだ聞こえはいい。文香さんとは戸籍上は伯母に当たる。

 血の繋がらない他人の子の心配で倒れる。そんな理不尽がこの世にあるか?

「悪かった。すべては僕のせいだ。藤木君が責任を感じる事はないよ。」

「・・・・・。」

「昼間、これ以上、文香会長の心労を増やすなって、怒ってくれていたじゃないか。」

 文香さんと同じ眼を持つ藤木君、読み取りたくもない人の本心や裏側を知り、人の汚い腹黒い世界を子供の頃より見て来た彼は、誰よりも耐え強く、誰よりも自分に厳しく、そして、誰よりも心優しい。

 凱斗の冷酷な心を見知っているだろう。命を軽視した絶望を知っているだろう。そして、ぽっかり空いていつまでも埋まることない寂しさも見知っているだろう。こんな自分が何をしても何を言っても、藤木君はそれが偽善だと見知り、嫌悪するだろう。

 だけど、そうせずにはいられなかった。

 負わないでいい責任を抱え、今にも倒れそうな藤木君を、抱き支える事しか。

 また、男は嫌いだと、腹に怒りの肘鉄が入るかもしれない。それを、今はやって欲しい。

「今まで、任せっきりにして悪かった。もう逃げはしないから、藤木君は少し休もう。」

「俺は、休みなんて要りません。ただ・・・ただ会長が元気になって戻ってきてくれる事を願います。」

 肩を震わせて、最後は言葉にならない声を詰まらせた。

 その肩を抱き、背中をさすっても、凱斗の腹に肘鉄は入ってこなかった。










『そうよっ!あんたがっ今日、ちゃんと運転していればこんな事にはっ!あんたのせいよっ!あんたのせいでっお母様はっ!』

 麗香の怒りが頭に響いて離れない。

 麗香の怒りに伴って発生した頭痛が、亮に眠りの休息をさせないで、責務をその身に刻めと命じている。

 目覚まし時計にセットしていたアラーム音が鳴るのを、ベッドサイドで立ち尽くし見つめていた。

 am5:30

 寮生で居た頃の習慣で、どんなに飲み崩れて寝てしまってもアラーム音が鳴る1分前には目覚めて止める為、この時計のアラーム音を聞いたことが無かった。なのに、今日はこの時計すらも亮を責めたてる。

―――お前のせいだと。

 きっちり一分間、耳障りに責め立てるアラーム聞いてからストップさせ、カーテンを開けた。外はまだ暗い。窓を開けると冷たい空気が肺に入り込み、吐く息を白くする。

 凱さんがパンツ姿で寒い冬の空気にさらしていた気持ちが、なんとなくわかった気がした。

 辛い時に暖かさは要らない。暖かさが無くなった時が辛いから、辛い時こそ冷たい冬の寒さの方が心には優しい。

―――辛さを、冬の寒さのせいと誤魔化せるから。

『そうよっ!あんたがっ今日、ちゃんと運転していればこんな事にはっ!あんたのせいよっ!あんたのせいでっお母様はっ!』

 クローゼットの中からジャージを取り出して着替えた。それもいつも通り。ここから柴崎邸とは反対の方向の彩流川の河川敷を5キロほど軽いジョギングをするのが毎日の日課だった。

 冬は朝日を迎えに、夏は朝日を見送りに、早出のサラリーマンや、犬の散歩の老人、人は皆無ではないけれど、この眼が読み取ることの少ない夜と朝の狭間の時間が、亮は好きだった。

『そうよっ!あんたがっ今日、ちゃんと運転していればこんな事にはっ!あんたのせいよっ!あんたのせいでっお母様はっ!』

 どんなに別の事を考えても、どんなに無心で走っても。麗香の怒りの叫びが頭に響いてループする。

 隣町にわたるバイパスの橋の下。

 シミだらけのコンクリートに下手なペインティングの落書き。

 湿った壁に手をついて詰まる息を吐きだした。

 力の限りに叫けぶ。

 言葉にならない唸りが壁に跳ね返りこだまする。

 助けてくれ!

 誰を?

 文香さんを、

 麗香を、

 俺を、

 俺は・・・・

 誰に頼んでいるんだ?

 神か?悪魔か?












 遠くから近づいてくる救急車のサイレン。不愉快な音は人を不安にさせる。

 音が大きくなるにつれ、胸に宿る不安も大きくなる。

(人の命を救う救急車が、あんな不安な音色でいいのかしら。)

 一際に大きくなったサイレンが急に鳴りやんだ。

 ご近所で何かあったのかしら、と麗香は不安の疑問を思う。

 廊下の外で、パタパタと誰かが走る複数の足音、慌ただしく飛び交う声、

(ああ、そうか、ここは病院だった。)

 誰かが救急車で運ばれて来た。

「24歳女性、左頬から肩峰にかけて、浅達性Ⅱ度熱性!」

(火傷?可愛そうに、どこかで火事があったのね。)

「意識レベル1、心拍75・・・・」

「病院についたからね、名前、言えるかな。」

 ガチャガチャと金属が当たる音に混じって、沢山の人の言葉が飛び交う。

「えっ手話?」

「娘は耳が聞こえませんっ!話せません!」

「お母様ですか?」

「はいっ!」

「娘さんのお名前は?」

「守都彩音です。」

 知った人物の名を聴き取り、麗香は握っていたお母様の手を離して、廊下に出る。廊下には精華神社の社司さんの奥様がいらした。

「守都様!」

「あっ、柴崎家の麗香さん。そう、そうだったわね、文香様がお参りで倒れたと・・・私、その時は彩音と出かけていて、ごめんなさい。」

「いいえ、それよりも守都様、彩音さんどうして?火傷って?」

「ええ、本殿裏の蔵が燃えて。」

「えっ?」

(蔵が燃えた?あの大きな蔵が?)

「彩音が燃える蔵に飛び込んで行って・・」

 もう、涙をにじませて訴えている守都の奥さま。

(彩音ちゃんが燃える蔵に飛び込んだ?なぜそんな無謀な事を?)

「蔵にあった書物が燃えて、それが崩れ落ちて来て当たったらしいの・・・消防士の方に助けられて・・・」

(なんて事・・・)

 彩音ちゃんが処置されている方を覗く。パーテーションの横から少しだけ彩音ちゃんの虚ろな顔が見れた。彩音ちゃんの綺麗だった艶やかなストレートの黒髪が、無残にも左だけ焼け落ち、毛先がばらついてしまっている。

「彩音ちゃん、ちょっとごめんね、服めくるよ・・・・あっそうか、聞こえないんだった。」

 声かけに反応しない彩音ちゃんに、看護師さんはどうしていいかわからず困っている。

「ごめんなさい、行かないと。」

「すみません、呼び止めて。」

 守都の奥さまが、彩音ちゃんの前に座り、目線を合わせ手話をする。

「彩音、治療する、から、これ、お母さんに、渡して。」

 彩音ちゃんは、何か本のようなものを胸にぎゅっと抱いていた。首を横に振って、片手で手話表示をする彩音ちゃん。

「大事な物ね、わかった、無くさない、お母さんが、ちゃんと持ってるから。」

 生まれつき耳が聞こえない障碍をもって生まれてきたからか、体が小さい彩音ちゃんは、麗香と同じ24歳のはずだが、その仕草や振る舞いが、ずっと幼く見える。

「彩音は、口の形で、言葉を読み取る事が出来ますから、少しはっきりと開ける話し方をして頂ければ。」

「ああ、そうですか、わかりました。」

 大事に抱えていた本というより古い文献のような書物を、渋々母親に渡した彩音ちゃん。就寝中に飛び出したのだろう、赤いチェック柄のパジャマは、髪の毛と一緒に焦げて、はだけた肩が赤く火傷を負っていた。

 麗香は見ていられなくなって踵を返し、お母様の病室へと戻る。

(どうして?蔵が焼けた?自分たちが居た時には火の気なんてなかった。そして、どうして、彩音ちゃんは燃える蔵に飛び込んで行った?)

 わからない事だらけ、『何故?』ばかりが胸に重く溜る。

 開け放たれている救急搬送口から、冷たい空気が這い背中をなぞっていく。

 麗香はぞくりとと震えを起こし、腕をさすった。



『今日未明、東京都、文京区の精華神社の敷地内で建物が全焼する火事がありました。

燃えたのは、精華神社裏にあります宝物庫と言われる木造造りの蔵で、現場は神社敷地内の消火活動のしにくい場所であった為に、消防が駆け付けた時には、すでに手の付けられないほどに火が建物を覆っていたことで、消火活動は難航しました。出火より約4時間後に鎮火。この火事により、この神社の社司である守都安泰さんの長女彩音さん24歳が火傷を負い病院に運ばれています。

蔵を管理する精華神社の社司は、蔵には火元になるような物は何もなかったと証言しており、警察は放火の可能性を視野に消防と共に現場検証を現在も行っています。また、この火事により、蔵にあった約5万点の所蔵物が全て消失しました。精華神社は、鎌倉時代の新梛神皇の命により建てられた神社で、歴史も古く、蔵の中には貴重な資料も多く残存していたと言う事で、社司は、歴史的価値があり、貴重な資料が焼失してしまった事は、来世にその痕跡を繋ぐべきものが途絶えてしまった大きな損失であり、非常に残念でなりませんと、コメントしています。』










「昨日、黒川君に潜ってもらったが、やっぱり無理だった。--------ん、それが昨日はちょっと途中で用が出来たんで、4時間ほどで終えたんだ。続きは日を改めたい、だが俺自身に時間が作れない。悪いが、PABを黒川君に預けるから、黒川君と二人で探ってみてくれないか?」

 凱さんの人称が、「僕」ではなく「俺」であることに気付いて、亮は運転の合間に助手席へ顔を向け確認する。凱さんは苛立った表情で首の後ろをかきながら、ぶっきらぼうな態度。

 人称を変える人ほど、本心が読み取りにくい。相手によって対応を変える事で、本心も変わるからだ。亮が出会った中で、凱さんが一番、人称をコロコロと変える人だった。

「ニュース見てないのか?精華神社の火事のニュース。-------そうか、バラテンは知らないかぁ。精華神社は華族専従の神社だ。-----あぁ、そう、だから、そいつら、華族制度に反対する者達の仕業かもしれないが、先入観はよくない。」

 バラテンという名は昨日、黒川君との会話でも出てきた。凱さんが使っているハッカー系の情報屋で、常翔学園のネットセキュリティを無報酬で引き受けてくれている人。文香会長も会ったことがなく無報酬である事から、凱さんがどんな弱みを握ってやらせているのか、想像するに恐ろしい。

 今朝、亮がいつも通りに屋敷に行くと、凱さんは既に朝食を済ませコーヒーを飲んでいた。亮にも勧められたが断ると、ため息をついて昨晩、再度病院に麗香を迎えに行った時の様子を語った。麗香は病院に残ると言って聞き入れず、結局、病院泊まりになった。

 麗香の性格と癒しの力を考えれば、それをしたい麗香の気持ちは当然で、きっと麗香は文香会長が目覚めるまで続けるだろう。

 そうして凱さんがカップのコーヒーを飲み干したとき、精華神社の火事のニュースが飛び込んできた。凱さんはテーブルに置いてあった携帯をわしづかみ、電話をしまくって情報収集にかかった。誰かに掛けては掛かってくるを繰り返し、合間にPCを立ち上げてネットでも情報を探り、新聞もめくって記憶する。そして、今日の分と明日以降の翔柴会の仕事をこなしながら、頭の中に記憶した今日の新聞記事をすべて読み終えるという離れ業をこなした。昨日までのいい加減さとうって変わった凱さんの仕事ぶりに、亮は格の違いを見せつけられた気がした。

 麗香の祖父、総一郎前会長がその能力を惚れ込んで柴崎家の養子にし、飛び級で世界でもトップクラスに名を馳せるハングラード大学に15歳で入学した経歴は飾りじゃない。

「急いでんだっ!店なんか閉めろっ!-----金ぐらい、いくらでも払う!頼んだからな!」急に怒鳴った凱さん、やっぱりそうして脅してバラテンと言う人をこき使っていると想像したら、会ったこともないバラテンと言う人に同情する。

「ちっ、ごちゃごちゃと、文句を言いやがって・・」舌打ちをして、また違う誰かに電話を掛け始める凱さん。

「わりぃ、頼んでたの手に入った?・・・・・まだ?そんなに時間かかるもんなのか?」

 口調が穏やかになった。

「じゃ、前に頼んでいた、公安の方は?」

 相手は凱さんの児童養護施設時代からの知人の刑事さんだ。名前はなんだったか忘れた。

「やっぱり、警察でも首謀者はわからないか・・・・・・・・あぁ、VIDでも駄目だった。拾った情報が、どれが必要でどれが不必要かさえわからなくて、漠然とした状態から抜けきれなかった。・・・今日はバラテンと一緒に探ってもらう。・・・あぁわかっているよ。バラテンが居るから安心だろ。うん・・・まぁそう思いたいが、今回ばかりは嫌な感じがするんだ・・・そんなもんはねぇーよ。」

 嫌な感じがするのは亮も同じ。

 なぜ、今になって、世間は華族に注目をするようになった?

 なぜ、今になって世間はデモを起こすようになった?

 なぜ、文香さんが倒れて間もない同じ日に、同じ場所の華族専従の精華神社の蔵が燃えた?

 なぜ、彩音は火傷を負った?

「とにかく、康汰も、昨日、黒川君が拾ってくれた情報を見て欲しいんだ。・・・・・忙しいのはわかってる。張り込みの間にでも読んでくれよ。・・・・・・ははは、たまには部下に手柄を譲ってやれよ。自分ばかり検挙率を上げてないでさぁ。・・・・・・はいはい、頼もしい限りです篠原警部、お疲れ様です。」

(あぁ、そうだ、篠原康汰って名前だった。)

 警察庁の広域捜査を扱う警部。児童養護施設で一緒だったと聞くから、凱さんとそんなに年齢は違わないはず。凱さんが亮より11年上の35歳だから30代後半ぐらいと見積もり、その年齢で警部はすごい躍進だ。

「じゃ、受付に封筒を預けておくから頼むよ。引き続き、何か情報が入ったら連絡をくれ。あっ、それと精華神社の現場検証記録も急いで頼むよ。よろしく。」

 電話を切ると、ふぅ~と息を吐き、また首の後ろを掻きむしり始めた。

「警察も何もつかめていないですか?」

「あぁ、全く。と言ってもデモに関しては事件になっていないからな。本気で公安がマークしているかどうかってのも怪しい。」

「テロ対策として、ああいう集団的な物はマークしておかないといけなんじゃないんですか?」

「まぁな。だが、日本はテロに対して警戒が薄い。10年前だよ、国家がテロ対策法案を作って施行されたのは。アメリカがサーラダ・アルベールテラを巡る紛争に国連の忠告を無視して独自介入をして、現地の派党の恨みを買ってターゲットにされた。あのアメリカ全土多発テロが起きてからだ。それも国民の不安が大きく声高に言われたから慌てて作ったお粗末な物だよ。あのテロ対策法案の全文、ここにあるけどさ、笑えるぜ。」と自身の頭を指差す凱さん。

 記憶力の限界はないのだろうか?と常々思う疑問。小学1年から大学院の教科書とノートの全て、国語辞典、英語辞典の全ページ。六法全書に至る辞書類。そして新聞記事も過去からずっと記憶して頭に入っていると聞く。

「内閣府が机上の想像だけで作ったとまるわかり、穴だらけでさ、これで国を守れていると安心しきっているから恐ろしいと言うか、能天気と言うか・・・・あっ、ごめん。藤木大臣は、ちゃんとやってるよ。レニーとのガスパイプラインに関しては世話になったし、迅速に対応してくれてね。」

「いいですよ。気を使わなくても。」

 かつて、殺したいほどに沸き起こっていた父親に対する嫌悪が、事故後の長い眠りから目覚めた時には薄れていた。

 嫌悪して逃げたくとも、何も変わらないどころか、逃げたら損だと実感した。だったら、賢く利用する方がいい。諦めに近い悟りを開いたのかもしれない。それが亮の苦しみを和らげた。

 また、凱さんの携帯の着信音が鳴った。

英「はい。」

 英語で答えた事に驚いて顔を向けると、凱さんはマズイなという表情をした。亮に聞かれたくない話なのだろう。車を止めろと言われるかもしれないなと思っていると、凱さんは言語を変えた。

露「すみません。連絡する暇がなくて。」

 ロシア語と言う事は、レニー関係の人かと当たりをつける。凱さんはあの世界流通企業レニー・ライン・カンパニーの重鎮と知り合いのようで、茨城の原子力事故後、政府が新たなエネルギー供給の構築を進めるロシアからのガスパイプラインの実用化に向けて、間を取り持った。ガスパイプラインは、当時外務大臣だった亮の親、藤木守が担当していた事もあって、そんな内密な話を文香会長から聞いていた。

露「甘えるどころか・・・柴崎家の会長が倒れたんです。それで俺が会長代理をする事になり、しばらくそちらには帰れなくなりました。」

露「すみません、大事な時期に。」

露「わかりました。李剥の事、日本で探っておきます。」溜息を吐いて電話を切る。

また首の後ろをかいて。

「全く、あの人は、いい加減にしてほしいよ。」

 いい加減なのはあなた。という突込みはやめておく。

 目的地、病院についた。未明に運ばれている彩音の容態が心配だ。






 お母様はまだ意識が戻らない。藤木の時のように、また長くかかるのだろうかと恐ろしい。

 胸に溜っていく不安。ふくらみ過ぎて息も苦しい。「大丈夫。」と言う言葉すら、朦朧として念じられなくなってきた。

 ドアがコンコンとノックされた。「はい」と返事をするも、辛うじて出した声は掠れていて相手に聞こえたかどうかわからない。

 扉を開けたのは白いナース服を来た年配の看護師さん、さっきまでお母様の点滴やら機材のチェックをしていた人とは違う。その後ろに見慣れない紺色のスーツを着た男の人が2人居た。何だか不潔そうで、入ってきて欲しくはなかったのに、無礼にもズカズカと病室に入ってくる。

「柴崎麗香さんでいらっしゃいますね。」

 麗香はその男の人達を全く知らないのに、何故か、麗香の名前を知っている。

「警視庁、捜査1課の吉田と言います。こちらは西村です。」

(刑事がどうして?)

「お母様が大変な時に申し訳ありません。」

(そうよ、お母様の大変な時に何なの、一体。)

「精華神社の火事のニュースはご存知でしょうか?」

「刑事さん、申し訳ありませんが、ここではなく、外でお願いできますでしょうか。」

 この看護師さん、伊達に年いってない優秀だ。

「柴崎麗香さん、すみませんが少し聞きたいことがありまして、外の待合までお付き合い下さいますか?」

 お母様のそばを離れるなんて嫌だと言ったら、執行妨害で捕まるのかしら、そんなことを考えたが、

「お母様は私が側についておきますよ。」と看護師の優秀さが仇となって、麗香の思うようにならない。仕方なく麗香は立ち上がった。玄関ロビーを超えて、検尿採取用のトイレがある奥まった廊下へ、麗香を連れていく二人。

「すみませんね。」

「何ですか。」これ以上ない不機嫌声で対応した。もう歩くのも辛い。

「今日、未明に起きた精華神社の火事は放火の疑いがありまして、我々が捜査の担当を受け持っています。」

 二人の刑事は警察手帳と年配の方が名刺を差し出す。刑事が名刺を持っている事に驚く。

「社司さんから昨日の参拝者を聞きましたら、社殿の裏に昨日訪れたのは柴崎文香さんと麗香さんだけだとお聞きしましね。」

(もしかして、疑われている?)

「その時、何か変わった様子はなかったか、何か気づいた事はありませんでしたか?」

「私達が何かしたとでも言うんですか!」

 診察や会計を待つロビーの人達が、麗香の叫びに振り向いた。

「そんな事は言ってませんよ、ただ、あの蔵の横の道でお母様がそこで倒れられ、救急車で運ばれたとお聞きしたものですから。何かあったのかと。」

「ふざけないでよ!私達が何かするわけないじゃないですか!私達は、」

「麗香っ!」

 駆け付けた凱兄さんに、その先の言葉を遮られた

「どうした?」

「凱兄さん!」

 凱兄さんの後ろから藤木も駆け付けて、麗香から刑事たちと順に視線を配せ、目を細める。

「えーと、あなたは?」

「聞く前に自分から名のるのが礼儀じゃないか?どう見ても良いシチュエーションじゃない。まぁ、その風貌、予測はつくが。」と凱兄さんは間に入り刑事と対峙する。

 そうよ、凱兄さんは警察庁捜査1課の篠原さんと知り合いなのよ。こんな無礼な人から事情を聞かれるなんて、冗談じゃないわ。

「私達は警視庁の捜査1課の吉田と西村です。精華神社の火事の捜査担当をしておりまして。」

 麗香は貰った名刺を凱兄さんに渡した。

「柴崎麗香さんとお母様の柴崎文香さんが、昨日の昼間、精華神社を訪れていたと聞きましてね、何か変わったことはなかったか聞いていたのですが、麗香さんがちょっと興奮なされたようで。」

 刑事さんは凱兄さんとその後ろにいる藤木を、胡散臭そうに上から下まで視線を這わす。

 どこまでも無礼な態度が、麗香の苛立ちを増幅させた。

「刑事でも、私達を疑うなんて失礼にも程があるわ!」

「麗香!」

 また凱兄さんに頭を引き寄せられた。

(もう昨日から何度目?)

「麗香のいとこにあたります。柴崎凱斗です。ちょうどよかった。康汰は仕事が遅いからねぇ~。直接頼んじゃうかなぁ。」

「は?」

 凱兄さんは、にやりとあごに手を添えて笑った。

 刑事さんも麗香も意味が解らず、首を傾げる。







 一人は50を超えたぐらい、もう一人は凱さんと変わらない年齢、おそらく刑事課の中では若手なのだろう、テレビドラマでもありがちな設定のコンビで、着ている服装も安物感たっぷり、これまた定番すぎて亮は笑えない。

 病院の向かいにある喫茶店に、麗香に聞き込みをしていた刑事二人を引き連れ入店した。喫茶店の奥まったテーブル二つを陣取り、亮の前に麗香、隣の4人掛けのテーブルに凱さんと刑事さんが対峙して座る。

 麗香は昨日の昼から何も食べていない様子で、本人は何も要らないと言ったが、亮は勝手にサンドイッチとコーヒーをオーダーしたが、やっぱり一口をかじっただけで、それ以上は食が進まず、ずっと俯き加減で虚ろな表情をしている。出された食事は残さず食べるマナーが身についている麗香が、こんな風なのは見ていて耐えがたい。

 その麗香の塞ぎようと反して、さっきからニヤついた顔で、もう完全にこの状況を楽しんでいる凱さんは、長い足を組みぶらつかせていた。

 刑事を前にしたテーブルの上には、弁護士バッチと弁護士身分証明書、華族会の皇印入りの華選称号証、常翔学園小学部理事長の肩書の入った名刺とIDカード、ついでに運転免許書に、篠原刑事の名刺までも並べられ、これ以上ない豪華賢覧の武装。特に金箔の神皇家皇印入り華選称号証を出された時は、亮も刑事も驚きで目を見張った。

 はじめて見た称号証。刑事もおそらく初めてだろう、刑事が凱さんの顔と称号証を見比べて面喰っている表情は見ものだった。

「はい・・・じゃ、ご要望の通り・・・・はい・・・いえお忙しい所、申し訳ありませんでした。失礼します。」

 年上の方の吉田と言う刑事が、携帯をスーツのポケットにしまって、凱さんの方に向き直る。

「警察庁の篠原警部に確認しました。柴崎凱斗さん、あなた様のその要望に応えるよう指示をされましたので、この後、現場にお連れしますが・・・我々も捜査は続けなくてはいけませんので、麗香さんにお話を聞く時間をいただきたい。」

「あぁ。構わないよ。最初っから、それぐらいの丁寧さがあればねぇ~。嫌だなぁ。まるで僕が脅したみたいでさぁ。」と凱さんはテーブルに並べた武装アイテムをかき集めてしまい込む。それらは完全に脅しだ。無駄に華選の称号証まで出して、知れば文香会長は怒るだろう。

「で、何だって、麗香を疑う?」

「いえ、疑っているわけでは・・・・精華神社の蔵が燃えた、その前にあの蔵付近を最後に近づいたのは柴崎さん親子だった。昨日は、神社関係者の誰も蔵には入ってないと言う事でしたので、何か不審な物を見たとか、誰かを見かけたとかあれば聞きたいと思いまして・・・。」

「と、刑事さんが言っているけど、麗香、昨日、何か変わった事あった?」

「・・・あったに決まってるじゃない。」麗香が小さな声でつぶやく。「お母様が倒れて・・・」もう、涙声になっている麗香。

「・・・そのお母様、柴崎文香さんが突然、倒れられた。何か持病をお持ちだったのですか?」

「そんなのないわよ!元気だったのよ、お爺様のお墓参りをして、そのあと銀座に買い物に行こうとしていた。病気なんて・・・」

「じゃ、何かに躓いて転倒されたとか?」

「違う!ちがう・・・・あの人達が向かってきて、気が付いたら、お母様が倒れていて。」

「えっ?」

 刑事を含めた全員が、驚きで麗香に注視する。

「麗香、あの人達って誰?」

「あの人達よ。作業着を着た。帝国領華ホテルの前にも居たわ。」

「新時代のデモの・・」亮がつぶやいた。

「最近の華族制度に反対している人達ですか?人相は?彼らがお母様に何かをしたのですか?」若手の方が矢次早に質問をする。

「わからないわよ!・・・・わからない。私、怖くて目を瞑ったから、でも何もされなかった、私には。ただ走ってすれ違っただけと思った・・・でも目を開けたら、お母様が倒れてて、私・・・」そうして涙を流して首を振った麗香は、髪が乱れて顔にへばりついてしまっている。亮はスーツのポケットからハンカチを取り出して、俯く麗香へ黙って差し出した。

 しかし、今、最高に亮を嫌悪している麗香は、その手を振り払い拒否をする。振り払われた手が、テーブルに置いてあった水の入ったコップにあたり倒した。水はテーブルを這い麗香の膝に零れ落ち、スカートを濡らす。

「申し訳ございません。」

 亮は慌てて、立ち上がり、濡れたスカートを拭くために跪いた。

「お嬢様、お膝、失礼します。」

「触らないでっ!」

 さらに手を振り払われた。強く批判の睨みと同時にキーンと激しい耳鳴りと共に痛み。

「麗香、言い加減に。」

「いいんです。私は席を外します。」

 亮は歯を食いしばり痛みを我慢しながら、立ち上がり、頭を下げてテーブルから離れた。









 丁寧に頭を下げてテーブルから離れた藤木君。抜かりなく、喫茶店の店員にこぼして濡れたテーブルを拭いてもらうよう頼んでから喫茶店を出て行く。凱斗は溜息をついた。

「麗香、藤木君を困らせたらダメだろ。」

 麗香は、無言で横を向く。

(何時から、こんな風な二人になったのだろう?学生の頃、付き合い始めたと聞いたときは、微笑ましくあんなに楽しそうだったのに。)

「えーと。あの青年は?」

 話が中断した場に、刑事は所在なく困り顔で質問してくる。

「彼は麗香の母親、柴崎文香会長の秘書をしている藤木亮君。縁あって今、柴崎家が預かり受けている。彼も中々の身分だよ。照合したい?」

「いえ、そこまでは。」

(面白い。刑事たちを困らせるの。)

 凱斗は、濡れたスカートをギュっと握りしめて俯いている麗香の側に移動して肩を抱く。

「麗香、その作業着を着た人の人相、思い出せる?」

 首を横に振る麗香。

「サングラスとマスクをしていたから、二人とも。」

「二人なのですね。」と若い方が念を押し、手帳に記入する。

 麗香はうなづく。

「他に特徴は?髪型とか、身長は?男か女かわかります?」

 この若手は質問が性急過ぎる。これでは麗香が委縮して答えられない。凱斗は前のめりになっている若手刑事を手で制し睨んだ。

「麗香、ゆっくりでいいから。男か女かわかる?」

 麗香は横に首をふる。

「毛糸の帽子をかぶっていたから、わからない。」

「身長は高かった?」

「・・・わからない。」と麗香は深く息を吐いた。

 昨日から何も食べず、きっと一睡も寝ていない。目が赤い。いつもきれいにセットしている髪も乱れて、とても資産数十億を跡取るお嬢様に見えない風貌になっている。

 入れなおしてくれた水を飲むよう促して、刑事の前へと戻った。

「刑事さん、麗香は昨日から、母親の看病で疲れている。これぐらいで十分だろ。」

「あ、はい。申し訳ございません。お時間を取らせました。」と年配の方が立ち上がる。若手の方は不服そうに戸惑っている。

 年配の刑事が伝票に手を伸ばしたのを横取りした。

「脅してお茶まで奢らされたなんて噂を立てられたら困るからねぇ。華族は神皇に仕え民に施す一族。遠慮は要らないよ。古から続く役目だから。」

 二人が困った顔を見合わせた。

(楽しすぎる。たまにはいいだろ、一般市民に権力を振りかざしているその逆の立場を知るのも。)










 病院の周辺というのはどこも同じで、薬局はもちろん喫茶店、花屋、果物屋が立ち並んでいて、病院に集まる人々を利用して利益を得ようという思惑がみえみえ。藤木家も同じ、米やイモを作るよりも、薬の材料を作り売る方が儲かると気づいた先祖は、人々の苦しみを利用して利益を得てきた。

 喫茶店の二軒隣に小さな花屋があった。彩音の見舞いに行くのに、手ぶらでは行けない。花屋の店先に並ぶ花を眺めていたら、早速、中から中年の女性が「お見舞いのお花ですか?」と声を掛けて来た。

「そう。」

「お好きな色目とか、お好きなお花を言って頂きましたら、アレンジしてお包みしますよ。ご予算は?」

(彩音は何色が好きだっただろう?何の花が好きだったか?)

 会わなくなって7年が経つ。どんな色の服を好んで着ていたかも覚えていない。

 ただ、最後の、手話の動きに合わせて揺れた長い黒髪だけは、よく覚えている。白く細い手が【あなたを、助けるのは、彼女だけ。】

と伝え残した。あの時、病室にあった観葉植物は、今、柴崎家にある。退院時、麗香に持って帰らせた。植物は麗香の癒しの力によってよく育つ。

「えーと、24歳の女性なんだ、任せていいかな。予算は適度に、それも任せるよ。」

 沢山の切り花が並ぶ店内を見渡した。色とりどりの花、奥のショーケースには、格別に値段の高い蘭の華が並ぶ。その別格の扱いはまるで、この国の階級制度を表しているようだ。

 彩音も華族、華族が信仰する祈宗の神社、神皇家の神事には精華神社の社司さんが祝詞の指揮を担う。その由緒ある神社の娘が、彩音。亮の心中の悲痛を、樹々が教えてくれると言った聴覚障碍者。

 彩音は、人の話す言葉は聞こえなかったが、木々や草花、植物の声を聞き取れた。

『聞こえる、木々のささやきが、花の歌声が、木々に木霊してあなたの悲鳴が聞こえる。』それが、彩音の口癖だった。

「あっ、しまったな。」

 水の入ったバケツからセンス良く花を取り束ねていた店員が「何か?」と顔を向けてくる。

 彩音は切花が嫌いだった。切られた花の悲鳴が聞こえると言って。

 もう、それらしく集められた花を、今更、要らないから戻してなんて言えない。仕方なく、今作って貰っているのは文香会長に持って行く事にして、鉢植えが並ぶ店先に戻った。

 水色の小さな花が鉢いっぱいに咲いているバイオレット・レナと書かれたプレートが刺さっている花に目が留まった。

「すみません、この鉢植えも包んでもらえるかな。」

 根のある花を見舞いに持って行くのは嫌がられる。病気に根がついて長引くと言われる。だけど、きっと彩音は切花よりこっちの方が、喜び元気が出るはずだ。

 両手に花を持って病院へと向かう。50メートルほど歩いた先のロビー内は、さっきと変わらず患者であふれていた。受付右手の奥へ、救急搬送されてくる棟に足を向けた。集中治療室に花を持って入ろうとすると看護師さんに止められる。

「集中治療室への花の持ち込みは困ります。雑菌が入りますから。」

「すみません。知らなくて。」

「柴崎文香さんのお見舞いですか?」

「はい。」

「柴崎文香さんは、上の個室へ移動となりますから、その部屋に運んでおきますね。」

「お願いします。」

 大きな花束を看護師に手渡した。

「こちらは?」

 手にした鉢植えの花を訝しげに指さす看護師。

「こっちは、守都彩音さんの見舞いに。彼女、切花は嫌いだから。」

「彩音さんも柴崎さんの個室の隣になります。もう移動されて508号室です。」

 看護師が丁寧に案内してくれる。最上階の個室を使う患者は病院側にとっては上顧客という本心が丸見え。

 病院は本心が渦巻く場所だ。死を恐れ、死を抗い、死を望み、死を願う、どろどろの黒い渦が漂う場所。出来る事ならあまり近寄りたくない場所だった。看護師と一緒に5階までエレベーターで上がる。5階は全室個室の様で下の階より狭い感覚でドアが並んでいた。

「お嬢様がお戻りになられてから、こちらの部屋に移動しますので、お花を飾っておきますね。」

「お願いします。」

 文香会長が移動されるという部屋には、まだ名前が記されていなかった。これから準備をするつもりだったのだろう、看護師が入って行く際に中をのぞき見したら、まだベッドメイキングも出来ていなかった。しかしベッドは病院にありがちな白いパイプベッドではなく、木製(そういうプリントしているだけの偽物かもしれないが)の、備え付けのロッカーや応接セットなどもあって、亮が長く入院していた彩都の病院設備と変わらなかった。若干の懐かしさを覚える。

 507を通り過ぎ、508の守都彩音と書かれたプレートのある部屋の扉をノックする。しばらく待っても応答はなく、人の動く気配すらない。

 耳の聞こえない彩音が、ノックの音に気づくはずがないのは百も承知で、世話をする誰かが居るだろうと踏んだのだけど、今は誰も居ないらしい。それに、もしかしたら彩音は眠っているのかもしれない。どうしたものかと少し悩んで、そっと引き戸を少しだけ開けて、中の様子を伺う。やっぱり彩音以外に誰も居なかった。彩音は起したベッドを背にして、何かの本を読んでいた。

 困ったな。入っていくのに躊躇う。突然の事だし、近寄ったら驚くかもしれない、持っていた鉢植えに頼んでみた。

【伝えて、彩音に、俺が来た事を。】

 ファンタジーのような力、そういった空想、非現実的な事は信じない自分が、素直に信じ、信じたほうが気持ち的に楽だと思えるようになったのは、彩音のおかげだった。宗教の必要性という物だろうか?正式に研究すれば、一つ論文が仕上がるかもしれない。

 俯いていた彩音が、不意に驚いた顔を上げてこちらに向けた。

 7年ぶりの再会。

「入って、いい?」手話を使う。

【いい。】

 手話で返してくる彩音。変わらない日本人形のような顔は、24歳の大人になってもあどけなさがある。

 ベッド側までゆっくり歩みながら、亮は目を細めて、彩音の本心を注意深く読み取る。少しでも嫌がる本心が出たら、帰る。

 しかし、彩音は亮が持っている鉢植えの花に気付くと、心から喜んだ。

【この子たち、喜んでいる、使命、貰った事】

 差し出した鉢植えを愛おしそうにそっと花弁にふれて、微笑む彩音。

 懐かしいこの笑顔。若かった自分はこの純粋な心にときめいた。

 丸椅子を引きよせて、彩音と目線を同じにして座る。

「大丈夫?」

 彩音と別れてから使う事のなかった手話、だけど指や手は覚えていた。

【大丈夫、治る、すぐ】

 と手話を作る彩音の手にも包帯が巻かれている。顔と首に貼られた脱脂綿が痛々しい。きれいなストーレートの長い髪は、左だけ、無残にも焦げ落ちていた。

「こんなになって・・・。」

 頬と髪の間にそっと入れて、頬に手のひらを添えた。肩にまで巻かれた包帯に、火傷の範囲の広さを知り驚く。

【髪も、のびる】

 火事は深夜に起きている。どうして、彩音はそんな深夜に蔵に居た?

「どうして?夜、蔵にいたの?」

 彩音が俯く。本心に怯えと迷いが宿る。彩音の前で手を振りこっちを見てと促す。

「ごめん。言いたくなかったら言わなくていいよ。怖い思いしたね。」

 口の形を読んだ彩音は、首を振る。

【これ、あなたへ。】

 彩音は手にしていた本を亮に差し出しす。所々カビでシミのある古文書だった。

「何の本?」

【蔵にあった、本】

「まさか、これを蔵に取りに行ったの?燃えている蔵に?」

 口をギュっと結んだ顔を俯く。彩音の怯えが一層強くなる。亮に怒られると思っているようだ。

「どうして、そんな危険な事をした?」手話を交え聞く。

【紙、挟んだ、場所、見て。】

 彩音から渡された本をめくり、紙が挟んであるページを開いた。

 細かい旧字体が並ぶ、

 華族の血が藤木家の先祖に入っているかもしれないと聞いてから、藤木家の家系図、祖歴を調べ始めてから、簡単な旧字体は読めるようになった。けれど、これはかなりの達筆で、しかも漢字だらけ、何が書かれているのか、さっぱりわからない。

 彩音の手が、亮の腕を引っ張り、視線の移動を要望される。

【そこ、あなたの家の事、書いてる】

「えっ?」

【私、ずっと、調べていた、あなたの家が、華族と繋がる証拠】

「どうして、それを、知っている?」

 彩音と別れたのは7年も前。亮が、藤木家が華族に由来する何かを探している事なんて、彩音は知らないはず。亮すらも、この可能性の話を教えてもらったのは大学に入ってからだ。

【父と、柴崎さんのお母様、話している口、読んだ。】

 文香会長は、精華神社の社司さんである彩音の父親に、藤木家が華族の血が入っているかもしれない可能性の話をして、何か知っている事、もしくはそれにまつわる文献はないかと聞いてくれている。

 精華神社は古来より、華族の称号を持つ家々の生誕や結婚、葬儀に関わってきていて、それにまつわる資料も多く残されていると言う。

【私、あなたの、役に立ちたい、思って、父に、蔵の本、読む、許してもらった】

 亮の役に立ちたいと思うその気持ちに嘘はなかった。彩音の本心は、この本を火事から守れた事にとても満足している。

 亮が交通事故に遭い意識のなかった半年、彩音と麗香の間に、言い争いがあった事はわかっていた。自分が原因なのは簡単に予測がついたけれど、あえて、その原因を探る読み取りをしないよう避けた。それが原因で彩音は麗香に遠慮し、別れを言ってきたのだと思っていた。自分の都合のいいように解釈し甘えていたのは否めない。付き合っていた頃から彩音は、あなたを助けられるのは麗香だけだと、亮が癒しを求めて麗香を縋り寄ってしまう事は容認してくれていたから。

 当時、思いつめた彩音の本心を読もうとせず、亮は何もせず、別れたいと言った彩音の気持ちに同意しただけだった。自分の置かれた状況で手一杯だった当時の亮は、麗香の癒しが何よりも必要だった。そんな身勝手をした亮に、彩音が再び好意を寄せるとは思えない。そして今、彩音の本心には、恋心ではなく罪悪感。

(彩音は何に後悔して、罪深く思っているのか?)

 そこまでは読み取れなかった。

「彩音、どうして、そこまでして、俺の役に立ちたいと思った?」

 彩音は唇を噛み、決心をして手を動かした。

【私、あなた、殺そうと、した。】

 手話の読み間違いか、そう思ったのも、この眼が否定する。

 辛い後悔の中の恐怖と押しつぶされそうな謝罪、彩音が苦しんできた7年間の想いが、この眼を通して脳に入り込んでくる。











「今日の文部省主催の教職員育成フォーラムへは、柴崎凱斗会長代理が出席をし、明後日の翔柴会理事会議にて、各学部理事長へ報告していただきます。その翔柴会理事会議では、卒業式、入学式の打ち合わせ、及び来期に向けて常翔学園の経営管理確認など最終決議決定を行います。出席は、各学部の理事長、信夫様、敏夫様、凱斗様、橋爪様、麗香様と和江様もご主席されます。よろしいですね。麗香お嬢様。」

 大学のつまらない講義のように聞き流していた麗香は、突然名指しされて、あわてて返事だけをした。

「え、ええ。」

 お母様が倒れて4日が経った。部屋は個室に移されて、消毒くさい救急集中治療室にいるよりは断然いい環境にはなったけれど、お母様の容態はずっと変わらず、意識のないまま、静かに僅かに弱い命が続く。

 凱兄さんが会長代理として、お母様が出来なくなった仕事をこなし、藤木は凱兄さんの手伝いをしながら、こうして毎日、お母様の病室に来ては、今日の仕事内容、予定、決定した事などを意識のないお母様と麗香に報告していく。

 その声、態度は機械のように事務的で完璧。

 優秀の会長秘書兼執事である姿に、麗香はもうイラつく感情すらも起きなくなった。

「私、藤木は翔柴会議事録をまとめる為に、事務書記として側聴させて頂きます。」

 大学を卒業して、麗香も翔柴会理事会議に参加するようになった。その理事会議の中でのお母様は口数少なく、各学部からの報告に静かに聞いている事が多かったけれど、ここぞと言う時の発言力、決定力は絶大で、その物言いは静かでも、皆が納得する方向にいつも導いていた。そのお母様が居ない翔柴会理事会議はどんな事になるのだろうかと、少しの不安がわく。

「今日は以上でございます。」

 意識のないお母様に深々と頭を下げて、一歩下がる藤木、

「それでは、私はこれで、失礼いたします。」

 どこまでも冷静で感情のない表情。見慣れた顔だけど、見慣れない顔。

(あんな顔、何時から?)

 昔は女の子の前ではニコニコして目じりに皺を作っては、鼻の下を伸ばす女好きだったのに。

 留年した藤木とは学部も違って親しくする事もなくなった大学時代。それでも藤木のプレイボーイぶりは頻繁に麗香の耳に届いて、見かけたりもしていた。

『常翔学園の経営を手伝わせていただきます。』と挨拶に来た時からだ。藤木が感情のない表情をするようになったのは。

(何故、そこまでして、働かなくてはならない?)

 柴崎家で働かなくても、フジ製薬グループ内や関連事業の会社に働く場所は沢山あるだろう。嫌う家や政治に色濃くかかわらない場所は沢山あるはず。 なのに何故?

 藤木が部屋を出て行ったあと、お母様の点滴、脳波計など一通りをチェックする麗香。変わらず異常がない事に、安心の絶望に溜息を吐きだした。デジャブのように昔、同じような溜息を吐いた記憶がよみがえる。藤木が交通事故で意識不明の寝たきりで居た時と同じ。今の藤木のように、麗香は毎日、藤木の入院する病院に通い、今日の出来事、学校で起った事、サッカー部の練習内容、試合結果、テストの内容や結果、どんな授業をしたかまで、返事のしない藤木に話して聞かせた。それを真似ているのか?確かに、それを欠かさずしたから藤木は目覚めた。麗香のおかげだと医師や看護師には称賛されたが。

 麗香はもう一度息を吐いて、静かに廊下に出た。個室階とは言え、やっぱりここは病院、らしいアナウンスや喧騒さが五月蠅い。外の空気を吸おうと一階まで降りる事にした。といっても、彩都の病院とは違い、都心のここは庭などない。裏の立体駐車場隣に周辺住民用の小さな公園があるだけ。遊具も滑り台一個と鉄棒、ベンチだけ。

 街並み自体が狭苦しく息苦しい。縦に細いマンションや店が建ち並ぶ。公園のベンチの横に桜の木が一本だけ植えられていた。その桜の木へと車いすを押して向かう人が居て、麗香は足を止めた。

 彩音ちゃんと藤木。二人は桜の木の下で歩みを止め、藤木が屈みこむ。そして手を動かす。無音の会話、手話。何を表しているかは私にはわからない。

『みんなも覚えたら?将来、何かの役に立つかもしんないぜ。』と言った藤木に興味を持って覚えたのは、りのだけだった。

 りのが失声症になって意思疎通が出来たのは、手話の出来た藤木だけだった。麗香や新田、沢山の仲間が手話を覚えていたら、りのは学園に残ってくれていたかもしれない。と考えるも、手話を覚えなかった自分に後悔していない。昔も今も、麗香は障碍者に対する偏見や見下しがあると自覚している。

 彩音ちゃんは、私達とは違う。

 今でも、7年前に彩音ちゃんがしたことは、理解できないし、したくもない。

 そんな麗香の本心を知っているはずの藤木も、一切の咎めはなかった。呆れられていたのだろうか、馬鹿な女だと。それともあの頃は、藤木は彩音ちゃん一心の恋心で、麗香の事などどうでも良くなっていたか。

 彩音ちゃんは、桜の枝に届かない手を伸ばす。まだ何も芽吹いて居ない桜、まだまだ寒く、あと一か月ほどで満開の桜を見せてくれるであろう片鱗はどこにもない、枝ばかりの桜。その手に誘導されて見上げた藤木のその表情に、驚いた。

 目じりに皺を作ったその顔は、以前は見慣れた、最近では見慣れなくなった笑顔。

 手話で何かを話し終えた手は、彩音ちゃんの切り揃えおかっぱになった髪をかき分けて頬へ、二人は見つめ合う。微笑む顔で。










【感じる、春、芽吹く命、尊い力。】

「あぁ、そうだね、この桜はもうすぐ綺麗な色を見せてくれるね。」

【新しい命、息吹き、聞こえる。】

 彩音が桜の木に手を伸ばす。樹木から、癒しの力を貰うように

【夏、育つ、強い力。秋、実る、続く力。冬、眠る、耐える力。】

 久しぶりに見る、手話で奏でる唄。

【聞こえる、樹々、木霊して、あなたの悲鳴が。】

【私は、助け、出来ない。】

【出来るのは、彼女だけ。】

「そんなことないよ、彩音だって、助けてくれた。死のプログラムから。」

 彩音は首を振る。

「あの人、言った。あなた、望まなくても、私が、あなたのいる世界、望む。そして、必ず、生きて、良かった 言わせる。と。」

「ごめん、彩音。死ぬ勇気もない俺の叫びを、ずっと浴びせてしまっていたんだね、俺は彩音を枯らせてしまう存在だった。」

 彩音は微かに首をふって一筋の涙をこぼした。

「私とあなた、春、呼べない。私達は冬。あの人のみ、春を呼ぶ事できる。」

 人々の黒い本心を見続けて苦しんでいた亮に、もういいよと死なせてくれようとした彩音。

 どんなに辛くても、最後は生きてよかったと言わせて見せると、生きる指針を示した麗香。

 あの時、彩音の選択で亮の人生が終わっていたとしても、亮はありがたく受け入れていた。

 世を拒絶した半年だったのだから。

「俺達が春を呼べない冬だとしても、寄り添えば、耐え忍ぶ温かさは生まれる。」

 亮は車いすに座る彩音の後ろに回り、涙する彩音の頭ごと包みこんだ。

 彩音は音のない言葉を表す。包帯に包まれた手で。

【ごめんなさい。許してくれて、ありがとう。】

 やっと、分かり合えた7年越しの罪責と失恋の理解。










 酷く黒い物が渦巻いている自分の心。

 怒り、憎しみ、哀しみ、嫉妬、この世にあるすべての悪い物が、塊となってこのお腹に巣食う。

 藤木が彩音ちゃんを包むように抱く。その光景が、自分の孤独を楔打つ。

 お前には、あの愛がないのだと。

 病院内へと駆け戻った。白い息が口から出て行く。

 黒い物を吐きださないといけないのに、出てくる物は白ばかり。

 まるで黒く醜い心に嫌気がさして逃げていくように。

 目から涙さえも、麗香の中から逃げて行く。

 温もりも体外へと逃げて行く。

 お腹が冷たい。

「ごめんね。私は、あなたを愛せない。」










3 



「こっちが京宮御所華族会宛、こっちが大阪の帝国領華ホテル宛だ。」

「かしこまりました。送る荷物はこれで全てでございますか?」

「あぁ、それだけだ。後は手荷物で持って行くよ。」

「わかりました。では運送手配しておきます。」

 明日の午後から信夫理事長は京都に向かわれる。明後日、京都の御所で行われる皇宮神儀に着る華族の紋入り袴が入っており、先だって送る手配を依頼されていた。

 神儀は、今上神皇である閑成神皇の継嗣、双燕新皇の3回目の降臨祭。

 降臨祭は、神皇と新皇が8年に一度、天に帰り、溜まりし摩羅の浄化と神力を蓄えて、またこの地上に降りるという、いわば天への里帰りともいうべき儀式。卑弥呼が天より神皇を降ろしてから1800年近く続く伝統ある神儀。

「それから麗香の分もあるんだが、君からも無理しないよう言ってくれないか。」

「京都へは行くな、とですか?」

「あぁ、私が言っても聞かなくてね。お母様が行けないなら尚更、柴崎家の跡取りとして顔を出さないといけないと、聞かないんだ。」

「理事長が無理なら、私はもっと無理だと思います。」

「あぁ、まぁ、人数による説得だ。凱斗にも、木村さんに頼んだが・・・・」

「お嬢様に人数での対抗は効きません。理論武装しないと。」

「その理論で説得できるなら、やってくれ。」

「申し訳ありません。今の私は、麗香お嬢様に理論武装する立場にございません。」

「藤木君・・・」

 理事長に憐みと亮に対する苦い思いがにじみ出た。亮は視線を外し告げる。

「では、荷物の手配がありますので。これで失礼します。」

 別に嫌味を言ったわけじゃない、事実を述べたまで。

 亮が、柴崎家に出入りする事になって気をつけたのは、でしゃばり過ぎない事。自分は凱さんと違い、一族ではなく、赤の他人で麗香の恋人でもない。友人という立場も捨て、他人である事を胸に刻んだ。

 理事長室から預かった衣装鞄を持って、玄関ロビーへと足を向けた。玄関ロビーで、贔屓にしている百貨店の外商営業マンを見送っている木村さんを待った。外商の営業マンは、麗香のパーティ用のドレスを届けに来ていた。

 文香会長が倒れた日、本当は、こちらから出向き衣装のサイズ合わせをして、問題がなければそのまま持ち帰る予定だった。だが文香会長が倒れてしまい、その後、麗香は母親の心配ばかりでドレスの事など忘れ、百貨店側から連絡を受け、屋敷まで届けに来させたのだ。

「ドレスのサイズは問題なく?」

 サイズが合わなくても、今日には送らないと間に合わないのだからどうしようもないのだが。

「それが、お嬢様は心労でお痩せになられたからウエストが少し・・・でもまぁ、コルセットの中にタオルでも入れて調節するとおっしゃって、そのまま送る事になりました。」

 文香会長が倒れて約10日あまり、麗香はほとんど食事を口にしないで、喉越しの良い粥や茶わん蒸し、果物のゼリーを食べる程度で、まるで麗香が病人のような食事になってしまっている。屋敷に住み込みの料理人、源田さんが、どうしたら食べてもらえるだろうかと毎日頭を悩ませている。自分が事故にあった時も、そんな風だったのだろうかと聞くと、源田さんも林さんも首を振って、こんなのは始めてだと苦悶する。

「本当は、京都に行くのは中止にしてほしいのですけど・・・」

「旦那様に説得してくれと言われましたが、私には無理です。」と林さん

「私も言われました。私も無理ですね。」

 互いに苦笑して肩をすくめた。

「でもお嬢様、ドレスの出来栄えを喜んでいましたから、少し元気になられたんじゃないかしら。」

「それは良かったです。じゃ、麗香お嬢様の荷物も送付手配して、京都行を辞めるなら、そのまま送り返してもらうようにすればいいですね。」

「はい、お嬢様の荷物もすぐに用意します。」

「お願いします。」

 木村さんが奥へと引っ込んでいく。時計を見ると2時半、外商との対応で麗香は疲れているかもしれない。少し早いけれどお茶の時間にして、今日は早めに休んでもらおうと考えた時、応接室から麗香が出て来た。

「届いたドレスと靴も、京都に送って。」

「かしこまりました。ですが、信夫理事長は、お嬢様の体調をご心配されています。京都へ行くのはおやめになられた方が良いかと。」

「あんたに言われる筋合いはないわ。」

 麗香の向けられる荒々しい視線は、亮にキーンと頭痛を生じさせる。

 卑弥呼の五感に宿す力は、心穏やかに接すれば、その力は癒しの力となり幸せの導きを、心荒々しく接すれば伐する力となり、病みへと導く。これは華族の祖歴書に書かれてあった神巫族からの伝えの文面だ。

「失礼いたしました。少し早いですが、お茶をお持ちします。お部屋でよろしいですか?」

「要らないわ、車を用意して、お母様の所へ行くから。」

 今からなんて無茶だ。明日から京都へ行くと強情を言うわりには、顔色も悪く肩で息をするほどなのに。

「お嬢様、明日から京都に行かれるのであれば、今日はお見舞いをおやめになられて、ゆっくりお休みになられた方が。」

「それも、あんたに言われる筋合いではないわ。」

 頭痛が強くなった。

「ですが、そのお体では、車の運転も危険です。会長のご容態は私が夕方にでも。」

「やめて!」

 麗香の怒りに呼応する痛み、それは伐する力だ。奥歯をかみしめて痛みを顔に出さないよう耐える。

「あんたが行って何になるのよ。あんたはお母様が心配じゃなくて、彩音ちゃんでしょう!」

 麗香の勘違い。彩音と寄りを戻したと思っている。

「では、私が運転しますので、少しお待ちください。」

「どうして、あんたと一緒に行かなくちゃならないのよ!私は車を用意してと言ったのよ!」

「お嬢様のお体を心配し・・・」

「余計なお世話よ!」

 絶えられない痛みが亮を襲う。

(痛っう・・・・)

「何なのよ!何が心配よ!」

 麗香の怒りは治まらない。

「あんたは、私のすべてを知っているくせに、どうして!」

 まるで孫悟空の頭につけられた緊箍児を締め上げるかのように、この痛みは麗香の怒りが治まらないと無くならない。

「どうして!平然と居られるのよ!」

 顎がきしむほど奥歯を噛みしめなければならないほどの痛みになった。

「お嬢様、怒りを・・・静めて」思わず、麗香の腕を掴んでいた。

「な、何よ、触らないでっ、離して!」

 ゴムで弾かれたような衝撃が頭の中でし、視界が一瞬白くなった。

 顔をあげれば驚いた表情の麗香が、時が止まったように心も無に立ち尽くしている。

 耳から何かが這い出てくるような気持ち悪さがあり、手で触れてみる。指に赤い血がついていた。

 それを見た麗香は驚愕に、恐怖に染まる。

「ひっ・・・・わ、私。」

 亮は急ぎポケットからハンカチを取り出し、手についた血とまだ耳に残る血もふき取る。

 麗香は震えて後退り、恐怖の中に罪悪感ばかりが心に埋まっていく。

「違います!お嬢様。」

「わ、私、また・・・。」

(また?何のことだ?)

 傷つけた相手以上に自分の心を傷つけ壊していく麗香。

「違う!これはお嬢様のせいではありません!」

(頼む、これ以上、傷付かないでくれ。)そう願い言っても、もう亮の声は聞こえていない。

「いや・・・」麗香は逃げるように、階段を駆け上がっていく。

「麗香お嬢様!」

 自室の扉をバタンと閉じる振動が屋敷を震わせた。











『麗香は暖かいな。』

『麗香の手、暖かい。』

 冷たい手をしていたあの頃は、そう言って麗香の手を求めた。

 自分達はまだ稚拙だと、もがいていたあの頃の方が求める愛はすぐそこに、近い場所にあった気がする。

 麗香は自分の手の平を見つめる。

 この手は、あの頃より大きくなったはずだ。あの頃より沢山、いろんな物を掴めるはず。そして掴んできたはずの未来もこの手にあるはずなのに、なぜ、こんなにも何もなく、つかめない?

 病を治す力があると双燕新皇様に言われた手、なのにこの手は人を傷つけた。2度も・・・。

 あの時と同じ。彩音ちゃんのする事を防いだ麗香に対して、驚き、そして悲しそうな顔をして俯いたのと同じ顔をしていた藤木。

 怒り反論し、睨まれた方がどんなにマシか、なぜ二人は悲しそうな顔を麗香に向けるのか?

 怖くて、苦しくて、悲しくて、許せなくて、麗香は一晩中、布団の中で震えていた。

 朝、藤木は屋敷に来なかった。

 空港まで送ってくれたのは凱兄さんで、藤木は朝から小学部理事の仕事のために学校へ行ってもらっていると言われた。藤木の顔を見なくて済んだ事にほっとした。

 眠れなかった麗香の酷い顔を見て、増々、皆に京都行きは止められたけれど、固くなに拒否をして車に乗り込んだ。腫れた瞼はサングラスで隠し、空港で待ち合わせていた克彦さんと一緒に、大阪行きの飛行機に乗り込む。隣に座る克彦さんは仕事が忙しいのか、座席に座るとすぐにノートパソコンを取り出し、何かを打ち込んでいる。

「お忙しそうね。」

「あぁ、それなのに2日間は降臨祭で山に引きこもり。正直、困るよ。ビジネスは宮中行事だからって待ってくれないしな。」

 華族は、神巫狩りにあいながらも、この国及び神皇を守るために、その力を蓄えつつ、いずれ皇政が戻った時の為にと耐え忍んだ。  そうして耐え忍んで蓄えた力は、各方面の日本を支えるトップ企業となる。

 窓の外に目をやる。微かにシートに押しつけられる重力を感じて、飛行機は空へと舞い上がる。

 シートベルト解除OKのサインが鳴り、客室乗務員が笑顔で、飲み物の注文を取りに来る。

 克彦さんはノートパソコンから目を離さずに、コーヒーを頼んた。待ち合わせの搭乗口前でおざなりな挨拶をしてから、麗香と一度も目を合わさない。客室乗務員が回って麗香側に来て、やっと麗香にも飲み物の注文を取りに来る。

「何もいらないわ。それより毛布を頂けるかしら。」

「かしこまりました。」

 こんな時、藤木なら、自分の注文より先に麗香に飲み物を聞いて頼んでくれる。そして何も聞かずとも、欲しい物を読み取り毛布を注文してくれるのに・・・なんて自分勝手、存在を嫌だと排除した癖に、それを失って不憫さを感じている。

 麗香は、藤木との関係を、断ち切って傷つけた。

 自分の中に潜んでいた狂気な力に、麗香はまた震える。

 客室乗務員が膝に掛けてくれた毛布を頭からすっぽりと被り潜った。

 克彦さんがキーボードを打つ音が、耳障りに麗香の罪を責めたて続ける。











 埼玉県のベッドタウン、幹線道路から入り組んだ細い道を何筋も入った先にある同じ形、同じデザインの外構が並ぶ住宅の一角で、タクシーは止まった。

「言われた住所に到着しました。」

 運転手が釣銭の用意をしている間に、30坪もない敷地に目いっぱいに建てられた家に目を向けた。家と家の間は人も通れないほどに窮屈で、必要性があるとは思えない門柱の、掲げる表札に目を見やる。タクシーが止まった目前の家は、目的の家とは違った。

「ご利用ありがとうございました。」

 運転手の陽気な声が亮に向けられ、無駄にホーンを鳴らしタクシーは去っていった。

 今日は自宅から直接、常翔学園小学部に向かい、理事長室に溜まっている書類の整理と校長との短いやり取りをして、乗って来た自身の車はそのまま小学部に置いてタクシーを呼びつけ乗った。常翔学園小学部と併設されている幼稚舎は、中等部、高等部のある香里市から10キロ離れた横浜市の隣市にある。そこから東京の文香さんが入院する病院に行き、いつもの報告をし、そして凱さんから教えてもらった住所のこの場所まで、ずっと同じタクシーを乗り続けて来ている。乗り込んだ時には、どうせ近隣駅までの短距離乗車だろうと、亮の若さに貶した本心の運転手だったが、文香さんの入院する病院の場所を告げた途端に、顔は綻び心も浮かれて陽気になった。さらには病院の次に埼玉の住所まで行くと言うと、やたら陽気に話しかけて来る。余計な過剰サービスに、黙って運転してくれと少々キツメに言えば黙りはしたが、目的地到着と同時に無賃乗車を懸念した本心で不安を生じた運転手。それも財布から出した万札4枚で、素直に晴れやかになり、またもや過剰な笑顔でホーンまで鳴らす始末。

 亮は隣の表札を確認、原田と言う名を確認して、その家の全体を見る。赤茶の瓦屋根、かつてはクリーム色だったであろう外壁は、汚れて雨筋が出来ている。玄関前の駐車スペースに国産の小型車が埃をかぶって窮屈そうに停まり、門柱の下には枯れた植物が植わっている鉢とプランター。

 インターフォンを押す。インターフォン越しの応答は無く、乱暴に玄関扉が開いて出て来たのは、凱さんだった。

「お疲れさん。入ってくれ。」と我が家のような振る舞い。

 自転車も埃を被り、短くて狭い玄関アプローチを占領している。亮はそれらに触れないように身をよじって玄関までたどり着き、今日一番に心配な事を真っ先に聞いた。

「凱さん、麗香お嬢様は体調良く、飛行機に乗れましたか?」

「あぁ、少し疲れている風だけど、やっぱり行くなと言っても聞かなかったよ。まぁ信夫理事も克彦君も居るから心配はないだろ。」

「そうですか・・・。」呟くと、凱さんは励ましの様相で亮の肩をポンポンと叩いた。

 亮が信夫理事長と麗香を空港まで送る手筈だったのを、代わってもらったのだ。凱さんは理由を聞かず、快く引き受けてくれたけれど、何かを察したはずだ。

「さぁ、俺の家じゃないけど上がってくれ、もう始めているから。」

 狭い玄関に黒川君のスニーカー、凱さんのブーツ、家主の物であろうと思われる原型を保てなくなったデッキシューズ、そしておじさんが履くようなサンダルが方向も無造作に散らばり、足を踏み入れる場所が無い。溜息一つ、亮はそれらの靴を綺麗に並べてから靴を脱ぐと、凱さんが肩をすぼめて苦笑する。

「まぁ・・・中も想像通りに期待できるから、そう神経質だと、ここには居られないよ。」

 それはこの家の全体を確認した時から想像は出来ていたので、あきらめてはいたが、ただ、自分の靴の脱ぎ場に困ったのだ。

 ここは、凱さん達がバラテンと呼んでいる人の家、元は警視庁のサイバー犯罪防止課に所属していて、もっと先の前の経歴は、高校生で、銀行をハッキングして世間を騒がせた少年Aであるとか、ないとか。

 ハッカーがその腕を買われて、あらゆる組織から引き抜きされる話は知っている。それを日本の警察がしているのかは知らないが、ハッカーは犯罪だ。犯罪者を雇う勇気が日本にあるとは思えない。

 狭く暗い廊下を進みリビングに入ると、想像通りの、掃除の行き渡らない狭い部屋。

「藤木さん、いらっしゃい。」少々焦点の合っていない顔を向けて笑う黒川君。

 黒川君が座るダイニングテーブルの前にはPAB3000と向かいに2台の国産ノートパソコンが繋いである。その前に亮の知らない小太りの中年男性が座って、ガチャガチャとキーボードを叩いていた。この人がバラテンと言う人。

「おう、よく来たな。迷わなかったか。」

「あっ、はい。タクシーで来ましたから大丈夫です。」

 バラテンと言う人は、ガチャガチャと動かしていた手を止めると、やっと亮に顔を向ける。

「あぁ・・・そうだったな。あの藤木大臣の息子さんだったな、電車なんて不便なもん乗らんか。」

「バラテン!」凱さんがバラテンの皮肉を制する。

「何だよ。」

 やっぱり亮の素性を知っている。気を引き締めた。

「いいですよ。慣れていますから。初めまして、藤木亮です。」

 握手の手を差し出した。しかし、バラテンさんは驚いて、椅子ごと後ろにさがった。

「うえっ、ちょっと止めてくれ。そう言うの、苦手なんだ。」と両手で頭を掻きむしる。嘘はついていない。

「申し訳ありません。」

「いや・・うん。流石は大臣の息子さん、育ちがいい。俺は、原田照良だ。」

「えっ!バラテンさん、照良って言うんですか?はじめて知った。」と驚く黒川君に

「俺も。」と凱さん。

「なんだよ、俺が照良で何か不都合でもあるのかよ。」

「無いけど、イメージ崩れ。」

「はぁ?」

「普通の名前だな。」

「うん、バラテンさんはバラテンで、本名を知らなかった方が師匠として尊敬できると言うか・・・」

「馬鹿か!ったく・・・」ボサボサ頭を掻きむしったバラテンは、付き合ってられないという顔をして、キーボードに向き直った。

 黒川君も凱さんも、何も臆することなく接している。でも亮はまだ信用できない。

「原田さん。お会いすることが出来たら、お礼を言おうと思っていました。」

「はぁ?何だ?」

「常翔学園のネットセキュリティの一切を一手に引き受けてくれているとお聞きしております。しかも無報酬で。」

「はぁ!?」とバラテンは目をひん剥いて叫んだ。

「違うのですか?」

「俺は、金が振り込まれるのを何時か何時かとずっと待っているんだけどなぁ。」とバラテンは立ち上がって凱さんに詰め寄る。

「バラテンが言ったんじゃないか、PABを拝ませてくれただけで儲けもんだって。」

「何年前の話してるんだ!それも一回きりの話を。」

「あれ~、ずっと継続じゃないの?」

「ふ、ざ、け、ん、なっ。」

「バラテンさん可哀想。」黒川君の冷たい視線が凱さんを責める。

「いやー、だってねぇ。」と首の後ろをかいて惚けた顔をする凱さん。

 亮はため息を吐いた。警戒することは何もない。

「バラテンさん、申し訳ございません。報酬の件は翔柴会に持ち帰り、調べてからご連絡致します。」

「いや、まぁ、俺も曖昧にしていたから・・・まぁ、貰えるなら。」バラテンは凱さんへと睨み向け「お前、こんな若者に尻ぬぐいされて、恥ずかしくないのかっ。」

「優秀な後輩が居て、僕は安心、常翔は安泰。」

「あのね。」

「あのなぁ。」バラテンさんと言葉が重なって、顔を見合わせ、そして肩も落とす。

「お前だけは、昔からいけ好かねぇ。」と眉間に皺を寄せてどかっと椅子に座り直した。

 悪い人じゃない。ハッカー=犯罪者ゆえに凱さんに弱みを握られ無報酬にされ、常翔学園に恨みを持つような危険人物かどうかを視たかったから、だから亮はわざとこの話題をあげたし、華族制度反対のデモの首謀者探しの続きをする今日、参加させてくれと頼んだのだった。

「あはは、ちなみに、僕もずっと無報酬でしたけどね。」

「黒川君は本当に、PABを使えればよかったんでしょ。」

「ええ、僕は逆にお金を払って、この子を買い取りたいですよ。」

「駄目。」

「あぁーぁ、完全に沼にはまってやがる。」

「僕はこの子と一緒なら、溺れ死んでも。」

「おいっ、カズ坊を帰らせろ。」

「冗談ですよ。冗談。」

 バラテンさんの言動は、凱さんよりも黒川くんよりも節度がある。と判断して亮は安心して部屋内を見渡した。

 ソファには、これから洗う洗濯物なのか、洗濯終わりの服なのかわからないのが積み上がり、キッチンのシンクには何時からそこにあるのかわからない鍋や皿が積みこまれていて、床にはビールの空き缶や、コンビニ弁当の空きトレイが詰め込まれたゴミ袋が5つほどある。

 【節度】の意味を調べなおしたくなった。











 文香さんが倒れた翌日から、黒川君にPABを預け、続けて華族に対するデモの首謀者が誰なのか、何かの思惑があるのかを探ってもらっていた。最初は、バラテンが経営するパソコンショップの奥で、バラテンは店を開けながらやっていたらしいけど、やはり時間もかかる上に、黒川君が自宅から秋葉原まで通うのが面倒と言って、店の奥にあるソファで一夜を明かした。それで仕方なくバラテンは自宅に黒川君を呼び入れて、2日前から黒川君はバラテンの家で寝泊まりしながらVIDでネット世界を潜っている。

 良くも悪くも変わらない文香さん容態。冷静を取り戻しつつあった藤木君が今朝、麗香と信夫理事長を空港まで送っていくのを代わってくれと凱斗に頼んできた。

『お嬢様は、私がいるとストレスが溜まるようです。京都へは心地よく行っていただきたいので。』と言っていたが、麗香との間で何かがあったと察するも、何も聞かず引き受けた。

(昔は、仲の良い恋人同士だったのに・・・)

 藤木君がどういう思考と思いで、柴崎家に仕える事にしたのか、麗香がそれに対してどういう心境で、御田家の御曹司克彦君と結婚を前提に付き合いだしたのか、など、血のつながらない自分は、麗香の個人的な感情によるものには、あえて興味も口出しもしないよう気を付けてきたが、二人の関係は悪化するばかり。成り行きを見守る事しかできないのが歯がゆい。

 藤木君は、この家に来た時から一度たりとも椅子には座らず、黒川君とバラテンが拾って来る情報を印刷した物に目を通し、思考して意見を述べ、そしてまた思考する。皺ひとつないスーツで姿勢よく佇む姿を眺めていると視線を感じたのだろう、凱斗に顔を向けた。しかしすぐに視線を逸らせた。彼は、いい加減で放浪癖のある柴崎凱斗という人間の言葉を必要としていない。

 そんな状況にしたのは自分だ。沢山の言えない事を誤魔化す為には、言動いい加減な人物と相手に諦めさせるのが一番いい。追及されても辻褄合わせに苦労しない。

「おい、これ以上、漠然と潜っても一緒なんじゃないか?」

 康汰に紹介されて初めて会った時から、凱斗の名前を一度たりとも呼んだ事のないバラテンが、猫背の背中を伸ばして向けていたPCから顔を上げて背伸びをする。

 確かに、無駄に似たような情報ばかりが集まっている。集会に参加しようぜという集団のメールのやり取り、華族に対する愚痴の掲示板のツリー。華族の事を華族以上に知りつくしたマニア的なブログや掲示板の主。そう言うマニア的な奴らや、やたら過激に華族の事となる攻撃する奴らは、黒川君に出元を辿って、そいつの素性を康汰経由で公安に調べて貰ったり、探偵を使って調べてもいるが、ネットで強く攻撃批判する奴らに限って、デモには参加はしてなかったり。だから安心と言うわけではないが、今一つ引っかかる何かがあるわけではなく、お手上げ状態と言っていい。

「お前が華族に関わる人間で、身内を守りたい気持ちはわかるけどよ。もう1週間、VIDを使った潜りを入れているんだぜ。それで得られた情報がこれらだ。量的にはもう十分な数だ。お前さんは決定的な何かを求めているようだが、これだけ拾って決定的な何かがないとなると、それは初めから存在しないと思っていいんじゃないか?」

 そうかもしれない。それは、調べは始めた時から可能性の一つに考えていた事だ。

「初めから存在しない物を、いくらVIDといえども拾う事は出来ない。なぁ。カズ坊。」

「ええ・・・まぁ。」

 黒川君もキーボードから手を離し手首のマッサージをする。

 誰も見ていなかったテレビの音が急に気になった。昼のワイドショーは華族制度の在り方について、意見のやり取り、政治評論家、大学准教授、法律家などから話を聞いたりして机上の討論会を行っている。

 探る物があまりにもうやむや過ぎているのだろう。そろそろ情報収集も限界かもしれない。

 華族に対する風当たり、それは、自然発生した世の流れの膿の様な物だった。

 と、しかし結論しても良いのか?

 それをするには、何かが足りない気がする。その何かもわからない。

 肌に感じる、辞めるなと言う感覚があるような、無いような。

 死に場所を求めて兵士になって、それとは反する生きる術を特訓された時も、逃げれば簡単に死が待っていたはずなのに、やめなかった。いつもそうだ、辞めなければならない決定的な何かがないとやめられない。その決定的な何かは、凱斗の罪過となって後悔するのがオチなのに。

「そうだな、バラテンの言う通り、何もない自然発生した世の膿みたいなものか。」

「膿は・・・自然発生したりしません。炎症した傷が化膿して膿となるんです。」

「例えだから、実際に傷の膿とは違うからね。」凱斗は困って首の後ろをかいた。

「膿・・・。」

 藤木君は情報をプリントした用紙の束を見つめてつぶやく。

「考えのまとまらない話をしていいですか?」

「もちろん。」

「デモに参加してる人々は、いたって普通です。まるでオフ会かフェスに参加者しているような感じ。」

「デモの大多数はそうだよね。主張を掲げて本気で変えようと思っている者は少ない。特に日本は。」

「ええ、人々はツールを持て余して、話題に飢えているのです。楽しそうかも、皆が参加しているから、話題に乗り遅れないように、など、主張とはズレた感情で参加している。」

「ダイエットと一緒だな。」とバラテンがテレビを指さす。ダイエット食品のCM が流れている。「これを食べれば痩せるとテレビでやると、次の日にはその食品がスーパーで売り切れる。今回の華族に関するデモも、テレビでデモの報道をしてから、急激に人数も開催場所も増えた。きっと、もう1か月もすれば人々も飽きて、デモも華族制度反対も言わなくなるんじゃないか?」

「ええ、私も、ついさっきまで群衆心理が原因で長引いているのだと思っていました。でも、凱さんが膿だと言った時、ぞっとして・・・」と藤木君は一度、口を噤んだ。「原因のない膿など発生しない。傷がどこかに隠されているのだとしたら・・・」と凱斗の方に顔を向けた。傷を隠してきた凱斗に、真意を求めるように。

「デモが何かを隠す為だというのか?」凱斗は唸る。

「こんなにもわからないことばかりなのは、そういう意図で騒ぎ立てたカモフラージュ的な物だとしたら。」

「じゃ、調べても無駄って事ですか?」と黒川君。

 藤木君は首を振る。

「無駄というより、視点を変えないと隠された傷を発見できないのかもしれない。」

「視点を変えるって、どこへ?」

「わかりません。」

「おいおい。」

「すみません。」

 皆で唸るしかできなかった。










 全国から集まる華族の為に、帝都領華ホテル大阪が用意していた部屋に麗香は入る。流石に華族専用部屋だけでは事足りず、柴崎家は一般のダブルの部屋に回された。同じ地位である華族であっても派閥もあり、力の優劣もある。白鳥のおじ様が、一週間前から大阪入りし部屋の振り分けなどの準備をしていて、馴染みの柴崎家は、事前に一般の部屋で我慢してほしいとお願いされていた。一般の部屋と言ってもグレードの高い部屋なので快く引き受けていた。

 ロビーでは、何人かの華族の方と挨拶を交わした。お母様が倒れ入院した為、麗香達はギリギリの大阪入りとなったけれど、もっと早くから大阪に来て、京宮へ通って準備をしている人などもいる。京都に帝都領華ホテルはなく、明日の降臨祭には京都の北山の麓にある京宮御所まで、貸し切りバスでの移動となる。

 どうして帝都領華ホテルは、京都にもホテルを作らないのかしらと、麗香は疑問に思うも。追及する気はなくすぐに気はそれる。

「白鳥のおじ様、大変そうね。」

「あぁ、前回の神皇様の降臨祭は、先代が元気でいらしたからな。博通君も先代の下で動いていればよかっただけ、今回は一人で取り仕切る初めての降臨祭だからね。随分と前から気を張り詰めていたよ。終われば倒れ込むかもしれないね。ははは。」

 宅配で届いている荷物の開封をしながら答える。

「麗香、私はこの後、博通君と明日の打ち合わせと、西の宗に挨拶に行くけど、麗香はどうするね。疲れたなら挨拶は明日にすればいいよ。」

「いいえ、お父様、私はお母様の代理でもあるの、お父様にと一緒にご挨拶に行くわ。」

「そうか・・・まぁ無理はせずに。」

「大丈夫よ。お父様。」

 どんな場面でも、誰が相手でも、恥じのない振る舞いをする。それが大人ってもんよ。

 そして、私は柴崎麗香。東の宗元代表のお爺様の孫としても、しっかりしなければならない。個人的な理由でふさいでいてはだめ。

 麗香は自分に言い聞かせ、気を引き締めた。











 華族制度に反対するデモの参加者と思しき二人の人間に押し倒され、まだ意識の戻らない文香会長。現場は華族由縁の神社が管理する蔵の裏の道。そしてその夜、神社の蔵は放火と思われる火事で焼失した。華族制度を批判する一環の嫌がらせによる放火、文香さんを押し倒したと思われる二人組は、下見であったと考えられるが、あからさまに特定されやすい服装で下見をするだろうかと考えたら、そちらの犯行と見せかける目くらましである可能性もあり、結局、何一つわからない、となる。

(膿となる原因の傷はどこだ。)

 亮の思考がテレビの音に邪魔されて停止する。お昼のワイドショーはどのチャンネルも華族制度に関する事と、それに対する政治家のコメント、評論家と名乗るゲストコメンテーターがこぞって息巻いている。

 各地で行われた過去のデモの映像に切り替わり、帝国領華ホテル前で座っていた人達と同じグレイのつなぎを着た人の群れが映る。あの中に、文香会長を押し倒した奴がいるのか、亮は憎々し気に目に力を入れる。しかし、そんなことしても映像からは本心は読み取れない。

 アナウンサーがデモに参加して座り込んでいる人たちにインタビューをしようとした。しかし、誰も答えようとはせず、キャップを目深にうつむく。

 ふと、自分は、なぜこうもこの件に肩入れして、こんなにも必死に考えているのかと疑問に思う。藤木家は曾祖父の代から政治に関わり、華族の存在は間違うことなく認識して来ている。

 『神皇家はこの国の歴史そのものである。華族は神皇が承認し与えた地位であり、民が望んで得られるものではない。』

 神皇家と神皇家の使役する華族は、歴史と共に不可侵たるもの。この国の開国時から法に制定されている事。と亮は早い時期から教授されてきた。

 だから、この華族制度に反対する民意が許せない?

 いや、違う。大多数の民意に、そこまでの神皇崇敬はない。だから、あのフェスのようなデモになっているのだ。

 民意に華族崇敬がないのに許せないなど、独りよがりだ。

 そうだ、独りよがりだ。

 文香会長の秘書として柴崎家に入り込んだのは、すべて、亮の独りよがりの理由。

「藤木君、大丈夫?」凱さんが亮を覗き込んでいた。

「えっ、あ、はい。」

「そんなに根詰めたら、体に悪いよ。」と凱さんは無駄に微笑む。「座ったら?」とダイニングテーブルの椅子をすすめられるが、ほこりの積もった椅子に座る気になれず。

「凱さん、もしデモの主張が通り、華族制度が崩壊したらどうします?」

「どうって?」

「華選の称号を失ったら、悔しいですか?」

「別に」と首を振る。「欲しくて貰ったもんじゃないからね。」

「そうですね、欲しくて貰えるものじゃない。」

「逆に失ったら失ったで、清々するかも。」

「・・・。」黒川君もバラテンさんも呆れた頬を引きらせる。

「まさか、お前が首謀者とかってオチじゃないだろうな。」

「いやいや、違うよ。僕じゃないよぉ。」

「もしかしたら、そんな風に、もう嫌だって思っている人が華選の中に居るかもしれませんね。」と黒川君。

「えー?居ない思うなぁ。皆、僕以上に華選に誇りを持っている人達ばかりだから。」

 亮は7年前にりのちゃんの上籍パーティで出会った華選の人達を思い出した。確かに皆、誇りを持って華族と共に国の安寧に尽力を注ぐような人達ばかりだった。

「凱さん、これらの疑惑って本当の所どうなんですか?華族は神巫族の生き残りの子孫とか。」と黒川君。

 亮は感情が出ない様に注意しながら、凱さんへと顔を向ける。

「出るね、都市伝説的に。」と凱さんは微笑み、続ける。「教科書は嘘を教えないよ。1022年、時の政権者北条長道氏は『神巫族滅敗令』の令を出し、神巫族の征伐をより強化した。隠匿すれば民たちも罰せられるという厳しい令だったため、神巫族はつぶさにあぶりだされ翌年滅亡した。」

 と教えられているが実際は、神巫族は滅亡しておらず隠れ凌いだ一族が38家程いた。人数でおよそ108人。その一族たちは700年余り、身を潜めて血を途絶えないよう生きた。そして明治の改革、神皇に政権が返された時、華族としてその地位を復権した。その復権においては、神巫狩りが再び起こる事を恐れ、公にされていない。

「どうして、北条氏の暴政を止められなかったのだろう。」亮は無意識につぶやいていた。

「止められないほどに北条氏が強い力を持っていたから、時の権力者となったから。」との凱さんの答えに亮は首を振った。

「神巫族は不思議な力を持つ卑弥呼の血を引く一族ですよ。その力がありながら、どうして神巫狩りにまで発展していく流れを止められなかったんですか?」

 凱さんも気づいて驚いた表情をした。しかしゆっくり首を横に振る。

「いや・・・わからない。僕の記憶の書庫にも・・・それらしい記述はない。」

 読み取りづらい人だが、嘘はついていないのだけはわかる。


 卑弥呼の力は、人の五感に宿る。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、言覚に宿り人に及ぼす。

 視覚は、人の本質を見知り、心奥に溜まる闇を見据える力。

 聴覚は、自然の唸りを聞き、世の混沌の兆しを悟る力。

 嗅覚は、生命の脈筋を嗅ぎ分け、開拓を見出す力。

 触覚は、その手で触れる者を癒し、病を取り払う力

 言覚は、その発する声紋で、人を導く力。

 それらの力は、今でこそ薄れ一部の者にしか宿っていないが、文香さんのように千年経った今でも微かに宿る。その力、昔はもっと強力だったに違いない。そんな強い視覚の力を持ちながら、

 なぜ、北条氏の思惑に気付かなかった?

 民を導き、北条氏に立ち向かう言覚が何故、働かなかった?

 卑弥呼の力が弱まったのか?

 歴史は繰り返される。

 華族はまた、民によって迫害され、地位を失う時が来た?

「そんな都市伝説級の話題までかき集めていたら、らちが明かないぞ。本質を見失う。俺らは一体何を調べたらいいんだ?」

「うん、そうだな。絞り込んだ方がいいか。」











 結局、バラテンの家での情報収集は何ら進展なく、ダラダラとVIDで潜り続ける事に疲れを訴えた黒川君の体の安全を考慮して、8時ごろには早々にやめて晩飯を食べる為に外に出た。

 年齢も服装もまちまちの、端から見れば奇妙な集まりの男4人衆。バラテンの家からもっとも近い駅前の、この界隈では高い部類に入る中華料理店に入ったけれど、店員にも他の客にも思いっきり不審な注目をされる。そんな店中で問題の華族の話が出来るはずもなく、ハッキングの話が出来るはずもなく、男嫌いの藤木君は終始無言で、期待の博識で話題提供をしてくれる事もなく。凱斗も話題なく、バラテンは飯を食うのに必死で、場を持て余した黒川君が時折、ワイドショーネタや芸能話の提供をしてくれるのも長続きはせず。と言った具合から、奇妙な男4人衆は30分もすれば飯を平らげて店を出て来た。その後、黒川君とバラテンは無理しない程度に続けて潜り探っておくと、バラテンの家に帰って行き、藤木君も明日は屋敷には行きませんと告げて去っていく。

 そして凱斗は今、マスターの店で携帯を耳にジェシファーの作る酒待ち。

「凱斗、俺はなぁ、お前のお抱え探偵じゃねぇんだ。次々と頼まれ事を依頼されても、そんなすぐに出来るはずないだろう。俺は今、民事事件の捜査3つ抱えてんだ。」

「高々、殺人事件だろ。そんなもん金のトラブルか、くだらない恋沙汰のトラブルが原因だよどうせ。俺が頼んでる方は」

「馬鹿!」康汰の怒鳴り声が耳に突き刺さる。耳がツーンとなった。「今度会ったら、お前のその思い上がり叩きのめしてやる。」

 携帯を耳から離しても康汰の怒りの叫びは聞こえてくる。

「傲慢になり過ぎだ、よくも高々などと言えたもんだ。何様のつもりだ!」

(あーめんどくさい。康汰の説教。)

 ふーと鼻から息を吐きだしたら携帯のマイクにその音を拾わせてしまった。

「凱斗、確かにお前は傲慢になってもいい能力を生まれ持ち。その力を柴崎家が欲し。米軍さえも欲し、世界のレニーも欲した。凄い事さ。だか、忘れるな、俺達は、世の底辺で泣いていた子供だったって事を。」

『あぁ、大人の都合に反撃が出来る日を楽しみに生きていくんだ。』

 大人になれば反撃できる何かが起きる気がしていた。だけど、そんな物はなくて、やっぱりこの記憶力に勝手な価値をつけて利用しようとする人ばかりが、凱斗の生きる道を決めていった。そんな道から逃れる事が反撃なのだと思っていた時期もあった。しかし、そんな反撃も一つたりとも成功はしなかった。

「俺達と同じ底辺で泣く民を馬鹿にするな。」

 今はもう無い児童養護施設の片隅で、泣いていた里香の姿が脳裏に浮かぶ。

「・・・康汰はもう反撃した?」

「・・・。」

 しばらくの無言。携帯の向こうからは人の雑音が聞こえてくる。

(答えはしないか。)

「言葉が過ぎたよ。ごめん。」

 康汰には、華族に関するデモの首謀者関係、公安が何か情報を掴んだら教えてくれるようにと、精華神社の蔵の火事現場で麗香が目撃した二人の不審者の捜査、そして、レニー・グランド・佐竹の甥にあたる李剥の来日記録の照合と行方の、3つの依頼を立て続けて頼んでいた。三つ目の依頼の、李剥はその名で日本に来ているはずがなく、国際手配されている人物でもないので、照合や行方を調べるのは簡単ではなかった。

「凱斗、今までの数々の貸し、たまには返してくれるか?」

「何?」

「レニー・ライン・カンパニー・アジアの物流リストをくれ。お前なら手に入れられるだろう。」

「物流リスト?なんだってそんなもん。」

「レニーは公安の要望に一切応じない、政府外交筋からの要望でも駄目だったらしい。」

「まぁ、それが売りのレニーだからな。なんだよ、その抱えている民事事件にレニーの物流リストが必要なのか?」

「いや、俺じゃないんだ。」

 電話の向こうで、康汰が誰かに声を掛けられて一旦会話が途切れる。会話の内容は流石に聞こえない、ガサガサと言う音がして何事もなかったように会話が復活する。

「半年前に東京湾で男の死体が上がった、遺体はすべての指の指紋を削り取られ、顔もつぶされ歯も全て抜かれた酷い有様で、当然身元はわからず。」

 聞いただけで、気分が悪くなる酷い殺され方だ。

「その徹底した状況が遺体の価値を上げる、つまり隠された身元が判明すれば、大きな事件の手がかりになる事は必然だ。遺体は念入りに司法解剖された。」

 確かに、その徹底した身元削除の殺り方は、普通の人間がやる事じゃない。

「遺体は右足の骨折をボルトで繋ぎ合わされていた証跡があった。殺した奴も、流石にそこに身元が判明する代物が埋まってるとは知らなかったんだろう。そのボルトが中国製である事から、男が日本人じゃなく中国人であると推測して顔の骨格を元にモンタージュを作り、中国当局に身元の割り出しを頼んだ。その結果、身元不明だった遺体は、中国国籍で香港を界隈していた周恩来であると2か月前にやっと判明。だか、周恩来の来日データーがない。」

「密入国か。」

「密入国自体は珍しくもない。周恩来が武器の密輸に関わる組織の人間だったと知れば、それは当前の事だ。」

「香港の武器屋かぁ・・・・ならその徹底した殺り方は納得だ。」

「流石は、レニーの犬として、アジアを飛び回るお前だな。」

 褒められているのか、貶されているのかわからない皮肉。

「で、その周恩来が関わったであろう、武器の輸送リストが欲しいと?康汰、その依頼は間違っている。いくらレニー・ライン・カンパニーが、何が起きても顧客のプライバシーを徹底して守る企業であっても、周恩来が周恩来の名前で武器を輸送ラインに乗せるはずないだろう。リストを手に入れたって、周恩来が武器の密輸をしていた証拠なんてわかるはずないさ。周恩来は、武器密輸の際に起きたトラブルで殺された。で十分捜査終了できるじゃないか。」

「違うんだ。目的はそれじゃない。周恩来の案件は終わっている。」

「はぁ?じゃ、何?」

「公安から頼まれたんだ。」

「あー周恩来の線から大がかりに密輸ルートを辿ろうって事か?だとしても、さっきも言ったように、リストを手に入れても判るはずがないって。」

「公安はその周恩来の件で香港に赴いた時、何か重要な情報をつかんだらしい。それがどんな情報かは流石に俺も知らない。輸送リストを何の捜査に必要で、どう使うのかまでは知らないが、頼んできた奴は公安国際部所属の警察学校時代の同期だ。9年前に俺の方が先に、レニー・グランド・佐竹の情報をくれと頼んだ。その直後だった、華族会が政府と警察庁を動かし、レニー・ライン・カンパニー・ジャパンの一斉家宅捜査を行ったのは。俺が華族会と繋がりがある事を奴は察して、忘れてなかったってわけだ。」

 そこで一つ溜息を吐いた康汰。その息遣いが携帯のスピーカーから聞こえてくる。

「公安は、世界の治外法権化しているレニー・ライン・カンパニーのアジア統括本部代表に、レニー・グランド・佐竹が就いた事で、警戒をしている。」

「おっ、公安、やるねぇ。アジア統括本部代表がレニー・グランド・佐竹だって事、ちゃんと把握してるんだ。」

 世界をくまなく網羅するレニー・ライン・カンパニーは大きく大陸ごとに事業区域を分ける。それぞれの大陸で統括本部の代表がその任に就く時、それまで名乗っていた名前は棄て、大陸ごとに決められた名前を継いでいく。それと伴い経歴などの素性もすべて公から消し、現在の大陸支部代表が過去にどのような功績を成して就いたのかは、簡単に調べはつかないようになっているのだが、実質は、顔の整形まではしないから、知れた人間は知っている曖昧な状態だ。そして日本は、レニー・ライン・カンパニーとは縁遠く、公安もあまりマークをしていない状態が長く続いてきていたが、9年前の事件が発端でマークをやっとし始めたという状況だ。

「馬鹿にすんなよ。ってか、佐竹ほど世界から見ても素性が知られてる人間はいないだろう。9年前にあれだけ表に出たんだから。」

「まぁね、」

 凱斗がそう、し向けた。

 レニーのアジア大陸統括本部は香港にある。アジア大陸の中でも流通量と流通額はダントツ一位。二番手であるジャパン支部の支部代表でしかなかった佐竹が、表舞台に出なくてはならなくなった事は、佐竹自身も思いもよらずな世界戦略の失策だと、9年経った今でも責められる。凱斗が子供達を守る為に、佐竹を陥れた。というのは大げさだが、取引をした。

「レニーの代表に日本国籍を持つ人間が就いたことで、公安はピリピリだ。9年前の盗品流通の関与疑惑もさる事ながら、この世に運べない物はないと高言し、実際に世界では戦地へ武器を届けている実績あり、核兵器を運んだという物騒な情報もあるレニーだからな。」

 反論はできない。レニー・ライン・カンパニーという会社は、依頼される中身について、それが国際的に非人道的な兵器であっても一切の関与はせず、すべてを運ぶことを誇りとしている。

「日本国籍を持っている人間が、レニーの代表に就いたのは佐竹がはじめてだ。神経質になって当然、レニー・ライン・カンパニーがもたらす処々の責任が、日本に降りかかってくるかもしれないからな。」、

 9年前の盗美術品の騒動で世界から非難を受けたレニーコート綜王は、失脚した力を取り戻す気力なく退き、事件の約10か月後に患っていた心臓病の悪化で他界した。次のレニー・ライン・カンパニー・アジア統括本部代表を継いだのは、事件の1年前に謎の死を遂げた楊 喬狼の子、李寛孟であったが、寛孟は年も若く自身が代表の器ではない事を知り得ていた。寛孟の後ろ盾で実際にアジアを指揮していたのは佐竹だった。名ばかりでも寛孟が代表に就いたのも佐竹の戦略の内だった。まだ根強く残っている大連系の幹部の顔を立てる意味があった。

「仕方なねーな。用意するよ。」

「悪いな、欲しいリストの詳細は、追って連絡する。」

 康汰の電話が切れる。してやられた。頼んだ仕事の催促をして逆に仕事を頼まれてしまった。

 電話中に置かれた、ジェシファーの作った酒に手を伸ばして飲もうとすると、カウンターの向こうから黒くてごつい腕が伸びて来て、グラスをかっさらって行く。

英「あ、何すんだよ。」

英「お前が、この店で日本語を話す時はロクな事がない。さっさと帰るんだな。」

英「はぁ?迷信めいたこと言って。似合わなねーな、そのガタイで。」

英「カイ、母国に帰れなくなった俺達に、この店を用立てしてくれたのはお前で、俺らの住み場所を作ってくれたことには感謝している。最上級にな。」

英「何だよ、改まって。」

英「この店はお前の物で、お前が好き勝手に使う事に、俺は文句を言えない立場である事は、よく理解している。だがな。」

(康汰に続いてマスターまでも説教かよ。)

英「この店は、スーパーマンの電話ボックスじゃねーんだ!」

英「はぁ?んだよ、スーパーマンの電話ボックスって!」

英「お、お前まさかスーパーマンを知らないとか?」

英「知らないけど、何だよ、名前からしてヒーローの名前だと想像はつくけど、なんか陳腐な名前だな。」

英「じ、辞書があるだろ!頭の中の辞書を引けっ」

英「はぁ?何だよ面倒だなぁ。」

英「マスター、スーパーマンは辞書には載って居ないんじゃ・・・それにマスターのジョーク面白くないわよ。」

ジェシファーが呆れた顔でマスターからグラスを取り上げる。

 戻って来たジェシファーの作った酒、今日はスクリュードライバー。一口飲んで溜息をついたらマスターの溜息と重なった。

英「スーパーマンは電話ボックスで変身するんだ。市民の平和を守る為、素性を明かさずにこっそりと、ヒーローになる為に。」

英「日本のヒーローは変身する時がかっこいいんだぞ、それをコソコソと電話ボックスでなんて、つまんねーヒーローだな。」

英「もう何も言わん!」

英「何だよ!」

 話す内容を他人に聞かたくない時にこの店をよく使う。ここはアメリカ大使館近くにあり、従業員も来る客も使う言語は英語のみ。マスターの言う通り、ここを意図的に使う時は確かに、ロクな事が起らない。

 なれるもんならなりたいヒーロー。にいつもなれなくて、大きく巻き込まれていく。

(また、何か起きるのか?)

 凱斗は酔えない体に酒を流し込んだ。











 

 福岡の、家という檻から逃げるように上京してきた日、初めてこの634メートルの高さを体験した。あらゆる物が褪せて小さく砂粒のように見えた景色に、自由だと感じた場所。その自由は偽物かもしれないと感じた場所でもあり、麗香に進むべき方向を貰った場所でもある。進んだ方向で壁にぶち当たり、夢跡絶え絶望した時もあのタワーに登った。

 あの頃はあの頃なりに苦しんでいたが、今思えば些細な悩みだった。

 それが人生の積み重ね、超えてこそスキルアップと言える。―――とまるで自己啓発セミナーのようだ。と自分の思考に突っ込む。

 青白く幻想的にライトアップされたタワーを見上げ、亮は、たばこに火をつけた。

 一筋、道を挟めば、周りは古く狭い木造の家々が立ち並ぶ下町だ。外套の明かりも弱弱しく、タワーは、まるで地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように、そこだけが白く輝いてまぶしい。

 鉄骨がねじれるように地から絡み合いそり上がっていく様は、神を求め崇める巫女の姿のようにも見える。

 天から垂らされた神からの救いか。

 地から崇められた巫女の請いか。

 どちらにしろ、この構図は、神皇と華族、下民の日本国の構図そのものではないか。

 タワーの明かりが届かない場所から見上げている亮は、蚊帳の外だ。麗香が自分をあの場所へと押し上げてくれると勘違いした時もあった。しかし、纏わりつく闇を知る亮は、どんなにあがいてもあの明るい場所には行けないと知った。何を叫ぼうとも亮の望みは、天へと届かない。

 【継こそは、しがらみのない愛であなた様を支え尽きとうございます。】

【継こそは、しがらみのない世であなたを愛し守り抜くと誓う。】

 何故だか忘れない夢のワンシーンが頭に浮かぶ。

 繰り返される歴史。

 しがらみのない世が来るなら、麗香は称号の為に、わざわざ愛されない人に嫁ぐ必要もない。

 しがらみのない世が来るなら、俺はこんな理由をつけて、華族の称号にひれ伏すこともない。

 何故、自分がこの場所に何度も来るのか、やっとわかった。

「ふふふふふ、あはははは。」

(そうか、俺は・・・欲しかったのだ。)

 落書きだらけの高架トンネル、点滅する蛍光灯。主のいない蜘蛛の巣の残骸が垂れ下がる。

 流れ着いて側溝にたまる枯れ葉の塊、

 つぶれた空き缶、

 雨を吸い込み過ぎて乾いて朽ちた雑誌、

 錆びた自転車はフレームが曲がってもう誰も乗れない。

 そんな自転車を、自分の物のように前輪に肩を寄せる浮浪者は、景色に張り付いて動かない。

 ここが世の底辺だ。振り返り仰ぐ、そびえるあそこは世の頂点。

 人の英知は、天を貫き、神を地に落とすことが出来るのか?

 亮はまた地に視線を戻し、スーツの内ポケットに手を入れ膨れた長財布を取り出した。札を全て引き抜く、

 気配に気づいた浮浪者が見上げて、亮の存在に怯える。

 札を浮浪者めがけて高くばら撒いた。鳥の羽ばたくような音がした札は、浮浪者の周りに舞い落ちる。

「あぁぁ・・・・わわわ。」

(そうだ、俺は登りたかったのだ、あの位置に。)

「か、金、金!わわわ、金・・・」命を拭き込まれた様に動きが活発になった浮浪者。

 いくら金と権力を使っても、自分はあの位置には登れない、それが神皇に認められし華族の称号。

(そうさ、俺は立ちたかったのだ、あの位置に。)

 藤木家の財を尽くしても、藤木家の持つ国家権力を尽くしても、麗香と同じ位置には立てない。

 だから好んで、どこよりも高い位置のこのスカイツリーに登っていたのだ。少しでも近づく為に。

「あ、あんた、この金!」

 世の底辺にいる男は、かき集めた金をおずおずと差し出す。

「やるよ。通行料だ。」

 亮は、薄汚い高架下を歩み進んだ。

(もしこの世から、称号位がなくなったら?)

内閣総理大臣を輩出した藤木家は、この国の頂点だ。

「ふふふふふ、ははははは。」声が高架トンネルに響く。「驚いたな。あれだけ嫌った家の存在が、実は亮の望みに一番近かったなんて。」

 底辺の男は、あの金でどこまで登れるだろうか?暇つぶしにずっと観察してみたい気もする。

 スボンのポケットに手を突っ込み、入っていた紙の存在に気が付く。彩音が火傷を負ってまで守ってくれた書物のコピーだ。いつでも調べられるように、その記されたページだけをコピーし持ち歩いていた。

「これも必要ないか。」

 小さく破りちぎって、札と同じように振り捨てた。

 やっぱり自分は、藤木家の血がより濃く流れていると知る。

 爺さんや親父よりもずっとずっとあさましい。

「国政の上を行く、華族の位が欲しいだなんて。」

 ただ、欲しい物は何時だって手に入らない。

 手に入らない欲望を抑え込むには、その欲望自体を壊せばいい。

 欲しい物は初めから無かったように。

 スマホを操作し通話ボタンを押す。

「谷垣さん、今一人?」

「亮さま!」

「側に親父はいる?」

「いえ、先生は今政党会議に出席されて、何か急ぎで?お呼び致しましょうか?」

 谷垣さんは曾祖父の時代から藤木家に仕える一族の一人であり、議員秘書でもある。

「ううん、親父に内緒で、谷垣さんに頼み事をしたい。」

「内緒で、承知しました。何でございましょう。」

「谷垣さんのネットワークで共和の代議士一人を用立てて欲しい。」

「用立て?」

「そう、あいつがいいな。この間、国会審議で華族制度批判していたやつ、華族は税金を払わず特権を悪用して、とか吠えてたやつ。 あの趣味の悪いネクタイをしていた共和の若い代議士。なんて名前だったかな。」

「山中議員ですか?」

「そうそう。山中ってやつ、そいつと密会したい。」

「何をなさるんです?」と警戒した声を出す谷垣さん。

「頂点に立つチャンスの秘策がある。ただ、政党は少しダメージを食らうかもしれない。だけど上手く立ち回れば藤木家は誰よりも高い位に君臨出来る。」

「な、何を、亮さま!」

「やだなぁー谷垣さん、もっと喜ばないといけないんじゃない?やっと亮お坊ちゃまが政界に興味を持たれたって。」

「お坊ちゃん・・・」

「いい?親父には絶対に内緒にしてよ。」

 谷垣さんが唸るような声を出す。迷っているのだろう。だけど谷垣さんは亮の言う事を絶対に聞いてくれる。

「大丈夫だって、恩返しさ、親不孝の息子から親父に。頂点に立てる起爆剤をプレゼントさ。」


 欲しい物が手に入らない世界は、

 その世界自体を壊せばいい。

 欲しい世界をこの手で作ればいい。

 華族制度がない世界を。

【継こそは、しがらみのない愛であなた様を支え尽きとうございます。】

【継こそは、しがらみのない世であなたを愛し守り抜くと誓う。】

 何故だか忘れない夢のワンシーンが、また頭に浮かぶ。




「麗香、もうすぐ着くよ。」

 まどろむ意識にお父様の顔が霞む。

「大丈夫かね。」

「ごめんなさい。朝が早かったから。駄目ね、しっかりしなくちゃ。」

 慌てて目を瞬かせて、両の手で頬を軽く叩く。

(また、あの夢か・・・。)

 大阪から京都までは約1時間。帝国領華ホテルが用意したバスは、朝の8時には出発となっていて、麗香は6時半に目覚ましを設定していた。こんなに早い時間に目覚ましをセットして起きたのは久々だったから、バスに乗り込んだら、一仕事終えたみたいにほっとして、すぐに眠気が襲ってきた。

夢を見ていた。夢の中では夢だと気づかず、起きてから「あぁあの夢か・・・。」と思うも、すぐに内容は薄れ、あまり記憶に残らない。一部を除いて。

 バス内は静かに耳障りにならない程度の音楽が流されている。和楽。神儀によく使われる祝詞の一種だ。もう、この移動の時間から神儀は始まっている、としたいのだろう。

 バスの外へと顔を向ける。大阪の景色とはまた違う、空が広くて派手な看板がない。古都と呼ばれるにふさわしい雰囲気の建物が多く見られてきた。麗香はお父様へと顔を戻し質問する。

「えーと、着いたら、まず自分の荷物整理ね。」

「ああ、届いている荷物は開けずにそのままだろうから、開封して、まずは袴のチェックだね。明日着る紫袴は皺が無いように、もし皺になっているならアイロンをお借りして、伸ばして置くように。出来るか?」

「出来るわよ。それぐらい。」

「ははは、いつも木村さんがやってくれているから、麗香はそう言う事は何もできないかと。」

 神皇のそばには基本、華族の称号を持つ者しか仕える事ができない決まりである。しかし、そう言って守っていてはままならないので、昔ほど厳格ではなく、宮内庁の一般職員も多く出入りしている。しかし、降臨祭のような神儀は華族が主体となって行うので、宮内庁の人間はできる限り排除される。数ある神儀の中でも、降臨祭は華族が取り仕切る大きな儀式の内の一つで、100人近い華族の者が全国から終結するので、京宮内に入れば、自分の事は自分で何もかもしなくてはならない。

「今日の午後に着る白袴は、どうせ水に浸かるから、少々皺があっても問題ない。」

「あっ・・。」と麗香は声をあげた。

「うん?」とお父様が顔を向ける「麗香、その顔は、忘れてたね。清めの儀式を。」

「わ、忘れてなんか、いないわよ・・・」としどろもどろに答えて、笑われる。

「おかしいと思ったよ、寒いのが苦手な麗香が行くってきかないから、偉く気合いが入っているなと思ってたんだ。」

「だ、大丈夫よ。寒いのも忘れてしまえば・・・」

 完全に忘れていた。清め滝業がある事を。妊婦の体で滝業って・・・大丈夫かな、赤ちゃん、と心配になる。

「ははは、仕方ないね、神官、巫女の血筋である私達は、身を清めて祈力を高め神皇の降臨を迎えるのがお役目だからね。」

「辛い血筋だわ。」

(大丈夫よ。大丈夫。あなたはその神官、巫女の血を純粋に受け継ぐ神巫族の子、こんなに良い胎教はないと思うしかないわ。)

 麗香はそっとお腹をさすった。

「さぁ、京宮御所が見えて来た。」

 バスは緑映える北山の麓、碁盤の目に添った道の突き当りに、白い壁の塀が続く、南の大門と呼ばれる門扉が見えて来た。京宮の周囲は水路で囲われて、それに沿って北側以外は道も囲っている。南の大門は閉ざされていて、門前で二人の警ら隊が交通整備で、右折しろと赤い棒を振り回して誘導していた。したがってバスは、東の通用門へと回される。

「修業の始まりだ。」とお父様がつぶやく。

 バス内に静かに流れる祈心の歌、幼少の頃から幾度となく聞いた歌は、現代で耳にする、どんな音とも違う。魂の根底に響くような祈りの音色。染みついた汚れを清浄するようであり、清浄される汚れの絶望の叫びのようであり。

 学園にあるようなスライド式の門が警備員によって開けられ、バスはゆっくりと白い壁の内側へ入って行く。壁と壁に挟まれた袖に入ったようなもので、大型バスや納品する業者の車はここまでしか入れない。バスは停車し扉が開かれた。前から順に降りて行く。麗香はお父様に続いてバスを降り、踏んだ玉砂利が耳に心地よい。

 奥の左側に白壁が途切れた木製の門があって、バスから降ろされた荷物を手にし、麗香達はそちらに歩んでいく。さながら、修学旅行のよう。

 真鍮製の神皇家の家紋が埋め込まれている和風門に、不釣り合いな最新型のセキュリティシステムがはめ込まれていた。しかし次々と訪れる華族の認証の為に門は開け放たれていて、その前に置かれた長テーブルの上にノートパソコンが2台置かれ、門のセキュリティシステムとケーブルで繋げ、職員が入館の手続きをしている。

 麗香が16歳の華冠式で東宮御所を訪れた時は、事前に指紋を登録し、門をくぐる時には左指の3本の指の指紋を認証しないと入れない仕組みになっていた。今は顔認証が最新鋭で、降臨祭に参加すると決まった半年前に、東の華族会の本部で顔認証の登録を行った。

 パソコンのカメラに顔を写して認証を行う。と同時に手荷物の検査も行われる。まるで空港の様。当然にOKの表示が出て門を潜り抜けると、広がる庭園と池の広さに麗香は目を見張った。

 山が近い。森林の匂いに深呼吸を促され、吸い込んだ空気の冷たさに身震いする。大阪より寒い。迫る山から、澄んだ純度の高い空気が流れてくるのを全身で体感する。

 東宮御所とはまた違う、これぞ日本と趣のある素晴らしい庭園に足を止めて見入る。冬の今、木々の葉は無く閑散とした印象が強いが、これが秋や初夏の頃は、その美しさにさぞかし感嘆するだろう。かつて弥神君が、京宮でりのと静かな暮らしを望んだ気持ちが分かったような気がした。

「ちょっと、立ち止らないで、進んでくれるかしら?」

「あぁ、ごめんなさい。」

 振り向くと、不機嫌に怒った表情をした女性が、麗香の予想以上の間近に居た。同じ年じゃないのは明らか、麗香は、華冠式の時に同じ年の華族、華准の子の全員と会っている。

「続々とバスが到着しているのよ。あなたがそんなところで立ち止っていたら、邪魔でしょうがないじゃない。迷惑よ。」

「ごめんなさい、あまりの美しさに、見とれて。」

 御所の駐車場のスペースに限りがあるため、近隣の華族会の方も、京都駅や大阪駅、神戸、または私達と同じ帝国領華ホテル前からの送迎バスに乗り込んできている。

「あなた、西じゃないわね。見かけない顔。」

「あ、私、東の柴崎麗香です。前の東の宗代表柴崎総一郎の孫です。」

 昨日から何度この挨拶を交わしただろうか。普通に「柴崎麗香です。」と名乗れば、「柴崎と言うと、あの前の東の宗代表の柴崎家の?」と尋ねられるので、もう初めから、お爺様の名前を出すようにした。お爺様の存在は、華族会の中では絶大だったと今更ながら慄くほどに。そして、その華族会の代表を、息子であるお父様が継がなかった事実が、お父様を薄い存在に対比させられて、笑顔でいるけれども辛いのではないかと心配をする。

『修行の始まりだ。』とつぶやいたお父様、別の意味での修行の日々なのかもしれない。

「東の柴崎家・・・・あなたが、そう。」と頭から足先までを眺められた。「っていうか、進んでちょうだい。あなた、邪魔なのよ。荷物が多いってのに。」

「あぁ、ごめんなさい。」

 髪をハイトーンの茶色に染め、今年流行りの白いミンクのショートコート(って言っても巷で流行っているのは動物愛護の観点からフェィクフアーのミンク)を着た女性は、この寒い中ショートのパンツにカラースパッツ。麗香よりも数年若そうだとあたりをつけるが、流行りとはいえ、その身なりで京宮に来る事が、麗香には信じられない。と思うのは麗香だけじゃないようで、年配者達が怪訝な視線を向けては追いこしていく。

 このミンクのショートコートを着た女性は、名のならず麗香を追い越して進み、追う形で麗香も進んだ。

 京宮内の建物の配置は、東宮とさほど変わらない。一番広い大屋根の建物が神政殿で、そこから南の大門までを外政園と呼ばれる、ただ芝だけが広がる。昔は大勢の民がひれ伏して、神皇様の御言葉を待っていた場所で、外で政治を行う園ということから名づけられている。

 神政殿の北東と北西の角に二階建ての建物が並行して建っている。外政園に向かって左が華族会の事務所の建物、右が神皇家の方の住う御座所。二つの建物の間には大きな池を含んだ日本庭園が広がって、北山へと繋がる。

 麗香は華族会の建物へと入った。段差なく、大きく開かれた間口、コンクリートだった所からフローリングの床へと変わる境目で先に入った人達が一様に靴を脱いで、渡されたおしぼりで足を拭いてから中へ入って行く。麗香もそれに習い靴も靴下も脱ぐ。御所内のフローリングの場所では裸足もしくは白足袋で居なければならない。足袋は先に送っていた荷物の中に入れてあったから、今ここで履くことが出来ない。さぞかし床は冷たいのだろうなとそっと足を出すと、ありがたい事に床は床暖房になっていて、冷えた足にじんわりと温かく、ほっとする。

「床暖房はありがたい。昔は床暖房なんて無かったからなぁ。冬は寒くて辛かった。」などと言う会話が聞こえて来て、現代人で良かったと微笑む。

 まずは入ってすぐの階段で2階へ上がる。事前に知らされていた、216号室の部屋を探す。長い廊下の奥へ数字が増えていくので、216号室は一番奥まった場所だと顔を向けると、さっきの白いミンクコートの女性が、その部屋のドアを開けようとするところだった。近づいた麗香を見て、怪訝な顔をする。

「もしかして、あなたも216?」

「ええ。」

 ミンクの女性は軽い息を吐くと、ドアを開けようとしていた手を放して握手を求められた。

「御影和葉。」

 麗香は驚いた顔を隠せずに、慌てて握手に応じた。そんな麗香を睨み、乱暴に握手の手を離す。

「私、そういうの嫌いだから。称号だとか家だとか。出来る事ならここにも来たくなかったのよ。」

 本当に嫌そうに溜息を吐く御影家のお嬢様。

「柴崎家のお嬢様って、もっと奥ゆかしい人かと思っていたわ。」

(その言葉、そっくりそのまま返したい。御影家のお嬢様がこんなに派手な人だとは。)

 御影家は大正神皇様のお后に選ばれた、華族の中でも特殊な立場にある家。元は称号を持たないただの民であった家、と言っても、御田財閥が懇意にしていた元海軍将校上がりの貿易商で立派な家だったからこそ、大正神皇様の我儘は認められた。当時、華族の称号を持たない家からお后が選ばれる事に大議論となった。大正神皇様が御影家のお嬢様を后として受け入れなければ、神皇位を捨てるとまで言い出し、御影家に称号を与える事によってそれを実現した。だから、華族会の中でも特殊で微妙な位置にある御影家だった。

「あぁ~あ、これから滝業だなんて嫌だわ。」

 それは麗香も同じ。そして、同じ部屋である事も心曇らせる。










 趣味の悪いネクタイの柄、そのネクタイを引きはがし捨てたい衝動に亮は駆られる。

 頭をぶつけないように、リムジンのシートにたじろぎながら座った男は、よくこれで選挙に当選したなと思う程、議員としての落ち着きがない。

「えっと・・・あなたは?」

 あえて答えない。主導権はこちらにある。

 先生と呼ばれて良い気になっているくそ野郎を、痛めつける絶好のチャンス。

 あらゆる疑問が次いで出て泳ぐ目と落ち着かない態度の山中議員。

 面白い。このまま、こいつは何分耐えられるか試そうか。

「わ、私は忙しいんだ。な、何もないのなら、降りる。」

 無能な奴ほど自分は忙しいのだとアピールする。忙しいのは、人類共通で与えられた時間という枠内で仕事を完結出来ないからだ。来る奴は、自分の能力に見合った時間配分で仕事を組み完結するし、何が起きても時間を無駄にはしない。

 それでも黙っている亮に対して、男は怒りを露わにし扉から出ようとするも、車がタイミングよく発進した。

「どこへ行く!」と窓に張り付いて叫ぶが、勢いある声とは反対に恐怖に変わる本心。

「11時の新幹線には間に合うように、ちゃんとお送りしますよ。山中議員。」

「君は誰だ。何なんだ?」

 畏怖傾げに、亮をよく見ようとする山中の視線を外して、横にあるワインセラーから一本取り出した。赤の上物。ワインの知識がなくてもその名前は聞いたことがあるだろう、ワインの中で最高級の、ロマネコンティ。その銘柄を見た山中が目を見張る。無能でもラベルの銘柄はわかったようだ。そしてナンバーも。昨日、路上にばらまいた札と同じ額はする。

「この車とこのワインを用意出来る人間。それだけわかれば、あなたは、私に付き合う価値はあると値踏みするのではないのかな?」

 視え視えの卑しい本心を読み取る。わかりやすい男。政治家としては致命的。グラスに入れたワインの一つを趣味の悪いネクタイの前に出す。卑しい気持ちはあっても、警戒はそう簡単に取ることをしないのはまぁ、褒めよう。

 亮はワイングラスを持ちあげて、香りを嗜む。高いからと言って、美味しいとは限らない。現に亮は、ロマネは今一つ好きじゃない。ワインは白の方が好きだ。

「私は、仙台に行く前に赤城政調会長に呼ばれているんだ。」

 谷垣さんは、上手くこいつの上司ともいうべき共和党の赤城党代表とコンタクトをとり、赤城党代表から話があると山中を呼び出してくれた。自宅マンションを出たこいつを、赤城党代表からの迎えだと嘘をついて車に乗せた。

「赤城党代表があなたに話があるんじゃない。私があなたに話がある。赤城党代表を通じて、あなたを呼ばせた。」

 赤城党代表を使える事に、驚きの疑いを更に強くした山中。気持ちに素直さがあるのは笑える。

 さて、本題に入ろう。こんなくそ野郎に、貴重な時間を取られるわけにはいかない。

「この間の国会答弁、なかなかの物だった。」

「あ、いやまぁ。あれは、国民の声を代弁したまで。あの代弁が良かったという評判は、良く言われる。」

(本当に馬鹿だ、こいつ。)

 亮は良いも悪いも言ってない。ただ自己満足に褒められていると勘違いをしている。比例代表でギリギリ当選を果たした頭数要員の山中は、身内の共和からも煙たがれている。だから、敵対する民生党藤木外務大臣の、付き人の谷垣さんからのアプローチに、赤城党代表は喜んで差し出した。何かあれば、赤城党代表はこの密会を切り札に、山名を捨てることが出来る。そして民生党の当て駒にする事も算段にしているだろう。だから、こんなにも早く密会を実現できた。

「あなたの、その民の代弁者としての能力を見込んで、とっておきの情報を渡したくてね。」

「とっておきの情報?」

 食いついた。政界では情報が重要の武器だと言う事を知らない馬鹿じゃないようだ。しかし、まだ警戒は完全には解いていない。

「まだ私の素性に疑いがある様子、その心は当然、こんな車やワインなんて、金さえあれば用意出来る。」

 亮はシートの横にある車の壁に取り付けられている車内電話を取り、助手席に乗っている谷垣さんに通話。

「やっぱり信用して頂けないみたいだ。手間だけど繋いでくれ。」

『当たり前だろ、すべてが怪しすぎる妙な人間を信用できるか』と心で叫ぶ山中の本心を読み取る。

 電話を切って二口目のワインを嗜んだ後に、やっと車内電話の内線音が鳴る。谷垣さんの声に続いて繋がったのは、共和党の赤城代議士の皺がれた声。

「お忙しい所、申し訳ございません。少しお待ちください。」

 そのまま何も言わず山中に渡した。

「あっ、もしもし、あ、あの、私は赤城代表に呼ばれていたのでは?・・・・・あぁ、はい。・・・・・はい。・・・・・わかりました。ではこの方の話を聞けばよろしいのですね。」

 赤城党代表は、山中が会っている人物が、敵対する藤木外務大臣の息子だとは知らない。谷垣さんは資産家としても有名の藤木家と付き合いがある知り合いの息子が、政治に興味を持ちだして話を聞きたいと適当な事を言って共和党の赤城党代表にとり次いだ。藤木外務大臣に息子がいる事は、政党内外でも知れ渡っているが、あの交通事故で長らく意識不明と報道されて、いまだにその印象を持つ者がほとんどで、逆に藤木家はその印象のまま、回復したと公表していない。藤木家の一族に向けても、亮が大学卒業後、政界に進出しないのを、交通事故の怪我の悪化を理由に、精神を含めた病状が良くないと説明していた。

 山中が受話器を返して来る。

「人を動かす力に、見た目や年齢は関係ない。私はただ、その力を生まれながらにして持っているだけ。」

 山中に悔しさがにじみ出るも、亮の力に屈し繋がりに期待する本心。

「どうぞ、せっかくの香りが逃げてしまう。」

 山中はやっと高級ワインを口にする。

「さて、本題に入りましょう。くだらない事に時間を潰すほど私も暇じゃない。」

 気まずく俯く山中、面白い。もっと嫌味を言いたくなる。

「あなたは、華族制度に反対する意思を持っている。華族制度の事項をどこまで知っている?」

「どこまでって、何もわからないからこそ我々は、その制度のあり方、華族だけの優遇に疑問を抱いている。」

 どこから漏れたのか、ずっと秘密裏になっていた華族の称号を持つ家が、無課税であった事が発覚し、それをマスコミが大きく取り上げた。いつもならマスコミにも圧力をかけて話題の鎮静化をしてきた華族会であったけれど、そうした圧力をかけられていたマスコミも我慢の限界に来たのか、それとも華族会の力が弱まっているのか、どうにも各方面への圧力は効き目なく、すっきり収束がつかなくて、デモにまで発展しているのが今の現状。

 山中は本当に何も知らないようだ。こいつは、ただこれだけの題材で、国会で吠えた。ある意味褒める能力なのかもしれない。

「華族の称号は明治の改革を期に、神皇の承認を得た家に与えられた階級。」

「えぇ、それは知っている。その明治の改革の混乱に生じて、上手く神皇に取り入った者だけが、得をしたような、そんなバカげた称号なんて不平等だ。民主主義に反する。」

「では、華族制度を作った明治神皇の判断が偏向した物だったと?」

「あっ、いやそこまで、私は・・・」

 神皇が華族制度を作り、称号を与えたのは誰もが知っている事実。デモまで起こしても、誰もその制度を作った神皇に対して不満を言わないのは、神皇を神の子と崇める日本人の不思議な気質。古、武士が神皇から政権を奪っても、神皇家を滅ばさなかったのは、心奥に根付いた信仰心があるからか。

「誰も問責しない。何故か、神皇家に対して誰もその批判を問う者はいない。」

 まずいなと、眉間に皺を寄せる山中。華族に対して声高にすれば、おのずと神皇に触れないわけにはいかなくなる事を予測できずに、目先だけの話題に飛びついて目立ったこいつは、だから馬鹿だと亮は連呼する。先を見越し、政治家としての道を断たれないよう保持一身の政治家は、この華族制度の話題に絶対に乗っからない。父親であるあいつも、そのスタンスは絶対に守り、間違えない。

「民はいつも華族に対してだけに問責追及する。それは何故か?」

「・・・。」

 余計な事は言わないでおこうと決めたらしい。やっぱり目先の話題にしか飛びつかない。まぁだから、亮はこいつを利用することが出来る。

「それが華族の役割だから。」

「役割?」

「古より、華族は皇を守る為に側仕えてきた。民が独自の政権を欲した時も、神皇に向けられた鉾の盾となり、神巫狩りをする民の矛先を自ら血を流して受け、皇に向かう意識を逸らせて来た。」

 卑弥呼から受け継いだ強い力を持っていながら、民の暴騰の神巫狩りを防ぐことが出来なかった。防げなかったのではなく、あえて防ごうとしなかったのでは?と亮は考えた。民の暴騰を神巫族へ向かわせ、神皇存続だけを守り抜いた。歴史の覇者、北条家と何らかの取引をしたのかもしれない、その方がしっくりくる。

「華族は、あの卑弥呼の血を受け継ぐ、神巫族の末裔で、神巫狩りの生き残りなどと、言うんじゃないだろうな。そんな巷の戯言を聞かせる為に私を呼んだのか。馬鹿馬鹿しい。あなたがいくら金や権力を持っていたとしても、これはあまりにも。」

「まだ話はさわり、人の話は最後まで聞けと学校で習わなかったか?」

「なっ。」

 馬鹿ほど先を急ぎ、話をじっくり聞くことが出来ない。無能なこいつを利用しなければならない自分にもイラつく。

「立場を勘違いする奴は、政界で生き残れない。さっきも言った通り、生まれながらにして人を動かす力と金を持っている私は、あなたを政界から消す事も出来る。」

 亮は胸の内で舌打ちをする。こんなに早く脅しの札を出してしまった自分の忍耐力のなさに、握った手の爪を立てなければならなかった。

「脅しか、そんな事が許されると思うのか?私は!」

「そう捕えなければ黙って聞けないのならそれでもいい。どう正当に振る舞っても、私の生まれながらにして持つ権力は人を怯えさせ続けて来たのは事実。」

 24年間、藤木家の権力を振りかざざない様に、注意を払って来た。だけど、どうあがいても、藤木家と言う権力色が装飾された刃物は、そこにあるだけで周囲に畏怖の感情をわき起こさせる。

 やっと静かになった山中。しかし静かになったのは口だけでイラつく感情は本心に残ったまま。それを流すようにワインを飲みほした。

「華族の祖が、卑弥呼の末裔であるかどうかと言うのは、今は重要なことではなく、華族の役割を話したまで。身を盾にしてまで神皇を守り通してきた華族。その華族の心髄も時代と共に薄くなってきている。」

「華族の心髄?」

「神皇に陶酔できなくなってきている者が随分いる。華族の特権を捨てがたいだけで称号を持ち続けている者、ただ華族の血筋にだけに拘りプライドを持ち続けている者。純粋に神皇に仕える志を持つ者、その意志はさまざまだ。華族の称号の下に、華准と華選の称号を戦後に作ったのも、内部分裂の始まりだった。」

 亮の話の行き先がわからなくて困っている山中。あまりに遠回りをし過ぎると馬鹿は、違う思惑に走りそうだ。前置きはこれぐらいにして、真題に入って行くとしよう。山中の華族に対する思想もある程度分かった。

「あなたがただ闇雲に、華族を特権の不当性を訴えるだけでは弱い。あなたは褒められたと喜んでいるが、あなたの淡河や市民のデモだけでは世の中は変わらない。現に、皇宮典範全開示を要求する野党に対して与党は、秘匿権を理由に動きもしない。赤城党代表も、その他の政党重鎮たちは、この問題に対して今一つ歯切れが悪い。」

「それは・・・」

「本気で世の中を変えようとするならば、もっと側面からも責めるべき。」

「側面から?」

「華族の脇腹をつく。重鎮達が腰を上げなければいけないような事を起爆剤として投げ込む。」

「もしかして、それを私にやれと?」

「そう、私が持つ情報を起爆剤として投げ込めば、あなたは華族制度の憲法異権を証明したとして、民からの絶大なる支持を得られる。」

「民からの絶大なる指示・・・」

 夢のような話に、ふと疑惑が生じる山中。どん底の馬鹿じゃない様だ。

「あなただけが得するわけじゃない。華族制度の崩壊を望んで得するのは私も同じ。」

「あなたは、まだ名前も聞いていない。」

「あなたに必要なのは、その起爆剤の情報であって、私の名前じゃない。」

 また亮に対する警戒心が膨らむ。亮は脇に置いてあった封筒から、1枚の写真をテーブルに置いた。

「この顔を知らないか?」

 出した写真を手に取り、んーと唸る。山中は記憶力も悪い馬鹿らしい。

「では、もう1枚。こちらと見比べたら流石に思い出すはずだ。」

「これは双燕新皇様。」

 後から出した物は、国民誰もが知っている双燕新皇の16の時の成冠初謁の儀の写真である。16歳で初めて公の場に出て、民は初めてこの国の継嗣の姿を知る。その理由は暗殺防止の為の仕来りが、太古より守られて変えられていないからだ。神皇家には時代錯誤の仕来りが数多くあり守られてきているおかげで、7年前のような事件が起きたのだ。

「こんな服の双燕新皇様を始めてみた。」

「こっちは双燕新皇ではない。」

「えっ?」

「双燕新皇の双子のもう一人、神名は還命新皇。」

「双子?」







 事がうまく運ばない時は、必要な情報の取得に遅れる事から始まる。厄介な事に、大体はその遅れている事に気が付かない。自分がどれだけ遅れているかを知った時には、もう手遅れで対処行動で足掻くみっともない姿をさらす事になる。それでも生き残る事が出来れば儲けものだ。自分はみっともなく生き残って来た。それが自分の運命だとしても、別にどうも思わず受け入れるのだが、人間という物はどうもカッコよく振舞う行動へ向かう生き物みたいだ。

 小学部の階段、変に自分の歩幅と高さに合わずに2段飛ばしで上っていると、尻に入れてあった携帯がメール着信のバイブを震わせる。携帯を取りながら右足を次の段に掛けようとしたら、伸ばす距離に謝りが出た。弁慶の泣き所をしこたま打つ。

「きゃははは、滑ってやんの。」

「あーはははは、だっさー。」

 目ざとく見つけた小学一年生の児童二人からの、遠慮のない冷やかしの笑い。

 メールを開くと、びっしり書かれた英数字の羅列。それは、電話を寄こせとのとの暗号連絡だった。

「携帯だぁ。先生、学校に携帯持ってきちゃダメなんだよ。」

「いや、あのね、僕は先生じゃなくてね。あーこらこら駄目だよ。」

 携帯をのぞこうとして、凱斗の手にしがみついてくるのを避ける為に腕を上げたら、そのまま、子供一人がぶら下がる。

「きゃははは。」

「僕も僕も!」

「あーいや、あのねぇ、僕は遊んでいるわけじゃ・・・」

 何故か、昔から子供に好かれる。文香さんから聞いた話では、凱斗が初めて麗香と会った時、麗香は人見知り激しい時期で、母親とお手伝いさんの木村さん以外は顔を見れば泣く状態で、溺愛した総一郎会長も父親の信夫理事長も駄目で、もちろん料理人の源田さんなんかは30メートル離れた場所に居ても泣かれていたという。それなのに、凱斗には笑顔で甘え縋った事に、皆で驚いたと聞いていた。

「はい、じゃ一回だけだよ。」

 僕もとお強請りする男の子に、腕を差し出す。小さい手がしがみついてくる。軽い。普通に結婚していたら、これぐらいの子供が居てもおかしくない。現に大久保の子供は、この子と同じ年の子を筆頭に、この間3人目が生まれたと連絡があったばかり。

「せんせい、もう一度!」

「えー、だからね、僕は先生じゃなくてねぇ。理事長って名前で仕事してるんだけどー。」

「僕も!」

「せんせい、私も!」

 遠くからも子供たちが駆け寄ってきて、たちまち子供に取り囲まれた。

「チャイムがもうすぐ鳴るよ、教室に戻った方がいいよ。」

 皆して凱斗の腕にすがってくる。両腕に子供がぶら下がり、キャッキャとより一層の高い声が廊下に響いた。

 米軍のキャンプではよく力比べをやった。指令がおりなければ他にする事がない上に、筋肉自慢をしたがる奴らばかりだった。

「先生がここに居るから大丈夫。」

 小学低学年は理事長なんて立場を知らない。学校にいる大人は全員先生だと思っている。産みの親に捨てられた自分が、子供達には好かれるって一体何だろうと思うけれど、理由はどんな辞書をめくってもわからない。世の中には活字で表せない事象の方が多い。

「理事長・・・。」

「あっ・・・・。」

 職員室から出て来た校長と目が合う。

「人気者なのは良い事かと思いますが、生徒を体力測定の様に扱われるのはちょっと。」

「すみません。」

 子供に好かれる分、大人、特に真面目な人ほど凱斗を毛嫌いする傾向。

 ちょうどチャイムが鳴る。

「せんせい、またねー。」

 子供達が蜘蛛の子散らしたように走り去る。

「廊下は走っちゃ駄目だよー。」

「理事長、今日は朝礼がある日だったんですがね。」

「あーすみません。ちょっと会長代理の仕事が立て込んでいて。」

 この校長は、長らく理事長の椅子を開けていた凱斗の事が大嫌いだ。会長代理の名を出しても、言葉一つ信用しない顔で呆れた顔を横に振る。

「今日も1日、学園にはいらっしゃらないですね。」

「あーはい。昼からと言うより、書類整理が済みましたらすぐに出かけます。」

 溜息をつく校長。

「藤木理事長補佐は?」

「今日は来ないと思います。」

「思います?」

「あ、いや・・・・来ません。私が居るので、藤木君は元より会長秘書が本職ですから。」

 もう、その鼻息で校長は空を飛べるんじゃないかと言うぐらいに、身体中の空気を鼻から吐ききった校長。

「そうですか、それなら理事長、ちゃんと朝礼と会議に出席していただかないと、職員に、出入りの業者と間違えられますよ。」

(嫌味~。)

 捨て台詞的に校長室へと戻って行く後ろ姿に、放映禁止ポーズをお見舞い、職員室から出て来た若い事務方の女性に見られる。初見の女性だった。理事長を就任した時にはいなかった、こんな可愛い子が居てたら、もう少し長く理事をやっていた。

「あ、いや、えーと。僕は理事長で・・・知ってる?」

「・・・知ってます。これ、理事長宛てのファックスと郵便物です。」

「ああ、ありがとう。」

 事務方の可愛い子は、手に持っていた茶色い箱を凱斗に手渡しに近寄る。手に携帯を握りしめていた事に気づく、画面は英数字の羅列。その画面をちらりと見た可愛い事務員ちゃんは、引きつった顔で気持ち悪がられる。一体自分は、ここでどんな風に語られているのだろう。

「失礼します。」

 頭を下げる勢いのまま立ち去って行く後ろ姿の可愛い事務員さんに、声を掛ける。

「あー君、名前は?」

「すみません、仕事がありますので。」

(いやいや、俺は、その仕事の上司だよ?一応。)

 子供には好かれて、真面目な大人には嫌われて、可愛い女性には気持ち悪がられる―――切ない。

 溜息一つ。理事長室の鍵を開けながら、英数字の羅列メールと、頭の中にある暗号解読表と、今日の日付から電話回線と内線番号を導き出した。その番号へ理事長室の固定電話から繋げる。暗号指定通りの7回のコールで相手が出る。

「遅い!」

「すみません。ちょっと子供に取り囲まれて居たもんで。」

「はぁ?」

「それより流石です、電話しようと思っていた所に。」

「なんだ?デモの事か?華族会はうるさいハエを追い払えと、華選に召集かけたか?」

「いえ、華族会はまだ何も動いて居ません。華族会は今、それどころじゃないです。」

「なんだ?それどころじゃないって。」

「8年に一度の皇宮神儀があるんです。テレビ見てないですか?」

「見てないな。ここ数日、資料室に缶詰でPCとにらめっこだった。」

「現場堅気の前島さんが、資料室とは珍しいですね。」

「あぁ、そのことでお前に連絡したんだ。」

「何です?」

「見て欲しい物がある。基地に来い。」

「俺がどこにいるか、知ってる口ぶりですね。」

「馬鹿にするな、お前に負けない諜報力はあるんだと言いたいところだか、昨日たまたま、有楽町で見かけた。」

「何故、声かけてくれなかったんですか?」

 昨日は、マスターの店で飲んだ後、ジェシファーのマンションに泊まった。久しぶりの帰国でジェシファーの要望に応えるべく。

「お前、女性と一緒だったろ。邪魔しちゃ悪いと思ってな。」

 凱斗は吹き出し笑いをこらえる。

 陸上自衛隊の一等陸佐である前島武人50歳は、そのいかつい身体と顔からは想像もつかない程の、女性に対しては潔癖で神聖化の意識を持っている。中学高校とずっと男子校で防衛大からお決まりの陸上自衛官になった為に、女性とどう接していいかわからないと、異常なまでに女性に近づきもしない。女性嫌いと言うわけじゃなく、ちゃんと結婚はしていて二人の男児の子持ちだけど、奥さんには敬語で話すと言う夫婦仲は有名。

「すぐに来い!」凱斗の笑いを察知したのか、怒ったように電話を切られた。

「まだ行くとは言ってないのに。」

(仕方ない。久々に奴らに顔を見せるか。)











「世に明かされない真実、古より神皇家に生まれた双子は不吉とされ、生誕後、すぐに捨てられて来た。」

「捨てられるって?」

「捨てるというのは世間一般の状況での意味で、華族にとっては天に返すと言う。で、その天に返す場所が、京宮にある北山の奥地にあるそうだ、捨て置きされる場所が。」

 山中は、何とも気持ちの悪い感情をわき起こした。人として当然の感情。亮も聞いた時は吐き気がした。

「神の子として、降臨された神皇の赤子を捨てる、その非人道な事を行って来たのが神皇の側使えを許され、神皇護身を担ってきた華族。」

「そんな事・・・。」

 亮は残っていたワインを飲み乾し、さらにグラスに注ぐ。山中は亮が飲む動作を見て思い出したようにワインを飲み干した。空になった山中のグラスにも注ぐ。

「華族は神皇に心身帰依していると見せかけて、実はコントロールし、この世を強かに牛耳って来た。神皇典範を作ったのも華族だ。」

「そ、そんな話・・・。」

「信じられない、か?」

「あ、当たり前だ。仮に信じられる情報だとしても、何故あなたが知っている?」

「3度も言わなければならないか?ただの馬鹿な議員を接待するだけなら、こんなシチュエーションを用意はしない。その辺の喫茶店で十分だ。ここまでお膳立てする意味を理解できず信用しないとは。仕方ない、この話は無き物として、そしてあなたも覚悟をしてもらわなければならないな。」

 声に怒りを含ませた。山中は亮の眼の色に怯え、逸らす事が出来ない。

「あ、いや。それは・・・。」

「まぁ、脅しを掛けなくても、この話を信じるに値する証拠はもう一つある。」

「信じる証拠?」

「神皇家に誕生する継嗣は、どういう謂れで名づけられるか、あなたはご存知か?」

「知っています。生まれた日、時の状況を色濃く反映すると。」得意げに答える山中。

「そう、明治神皇は生誕時、曇天の空が割れ、光の筋が赤子の新皇を明るく照らした状況から「光明」と名づけられた。というのは有名だ。現在の平成神皇は生誕時、京宮御所内に吹き込んでいた山風が止み、池の水面が時を止めたように波間なく平らに成った事から成閑と名付けられた。上皇された際の和暦名も、名を元に反映され決められる。では、この新皇の名は?」亮は写真を指さした。

「双燕新皇・・・」山中は答えながら驚きの表情をした。

「何故、双子を表す双が使われているか?民への告示は、生誕時、二羽の燕が京宮御所上空を飛来し、新皇誕生を祝い鳴いたことから、「双燕」と名付けられたと言われているが、この双は燕の事だけではなく、赤子は双子であった事を明示する。そして捨てられる運命にあたるもう一人の赤子は、新たな名前を付ける事無く代々「還命」と決まっていて、仕来りにより北山の洞窟の奥に捨てられた。だが、この捨てられ死ぬ運命だったはずの赤子は、一人の華族の情けによって拾われ、命を拾い匿われて生きながらえた。それが、こちらの還命新皇だ。」

「捨てられ、死ぬ運命だった皇・・・」

「こちらの還命新皇は現在、華族がその存在を隠す為、海外へと追い出している。」

「・・・・。」

「華族は、神皇を利用した隠れた独裁政権だ。有事の際に皇制政務会が発足されるのは、民の為ではない。内閣を台頭させないための抑制だ。華族は神の命までも傲慢に左右し、卑しくこの世を統べる。この事実を公表すれば、民はどうするか?」

 苦い表情の山中は、唾を飲みこむ。

「昨今のデモは優しい、あれに参加している者は本気で華族制度の撤廃をと考えていない。ただ面白そうだからの集団イベントの一貫だ。だがこの情報は、それらのナマ優しいデモを本格的に撤廃へと導く起爆剤となる。あなたは、それの中心的存在となる。」

 完全に亮の策に落ちた山中。亮の事を怪しくまだ警戒をしているが、この資金力と権力、そして情報力をみすみす捨てるのはもったいない、利用価値ありと踏んだ。

「具体的に、私は何をすれば。」

 と言いながら、弥神の写真を取ろうとした寸前で取り上げた。

「人も物も試用期間と言う物がある。この話を聞いたあなたがどう動くか、しばらく見させて貰う。」

 弥神の写真を細かく破り、残っていたワイングラスに入れた。

「この話の真実性を調べ直すのも良し、馬鹿正直に信じて行動に移すのも良し。はたまた、やはり信用がならないと、私を調べるのも良し。」

「いえ、私は・・・。」

「何もしないで、私の指示を持つのも良し、試用期間で動いたあなたの行動が、あなたの価値だと私は判断し、今後の戦略を組む。」

ひ唾をのみ込む山中、軽い覚悟をしたのは読めたが、何をどうしようかまでは読めない。カラーコンタクトをつけているのも限界に来た。気分が悪くなってくる。タイミング良く、谷垣さんから、もうすぐ東京駅に到着との車内連絡が入る。

「今日は、朝早くからご足労頂き、申し訳ありません。お気をつけて仙台へ。」

 リムジンの扉を運転手が開ける。車を覗く人々、豪華さに驚愕の絶賛が車内まで飛び込んでくる。その群集へ降りて行く山中は、そのシチュエーションに、まるで、この資金力は自分の物だと威張るように、スーツの裾を正した。その姿に失笑した亮。山中は車内の亮に軽く会釈をして駅へと向かった。その後に谷垣さんが乗り込んで来て、扉を閉めた。

「亮さま・・・・」不安の色を濃くする谷垣さん。

「谷垣さん、しばらく親父の側を離れた方がいいかもしれないね。そんな顔をしていたらばれちゃうよ。能力なしの親父でも。」

 谷垣さんは、亮の能力に初めて気づいた唯一の身内。

「今日は体調を崩して病院に行かせてもらうと、守様にはお休みを頂きました。」

「谷垣さんの事だから、正月休みも取らずに親父に仕えていたんだろ。しばらくリフレッシュ休暇を取るといいよ。」

「ええ、そうします。久しぶりに亮おぼっちゃまのお世話が出来るのは嬉しいですから。」

「それじゃ、休暇になんないでしょ。」

 目に入れていた藤色のカラーコンタクトを外し、谷垣さんが亮に向ける手の平にそれを乗せた。

「こんなコンタクトの変装だけで、大丈夫だったでしょうか?」谷垣さんは藤色のコンタクトを眺めてから上着のポケットに入れた。

「大丈夫さ、人間って違和感がある場所にばかり目が行く。あいつは、眼の色ばかり気にして全体像を見ていなかった。あいつに、今、会って来た男の似顔絵を描けと言ったら、この眼の色しか書けないさ。」

 サングラスやマスクで顔を隠せば逆に警戒されて、全体像を見ようとする。だけど、目の色を変えただけの亮は、全体を観察して覚えたと思い込むが、実は眼の色の印象が強すぎで記憶に残っていない。

「色々と用意したんですがねぇ。」

 谷垣さんがリムジンの後方から紙袋を取り出した。サングラスや、海賊のような眼帯、これからパーティでも始めるような面白アイテムまである。その中の一つ、黒いサングラスを谷垣さんはかけた。

「似合うよ。そのまま外に出てごらんよ。どこかのマフィアのドンに見えるよ。」

「そうですか?」

 谷垣さんは、Lの字にした右手を顎下に運びポーズを決めている。

「やめてよ、爺や、あはははは。」

「殿、次はどこへ行きなさるか?」

 生まれながらにして藤木家に仕えて来た谷垣洋三69歳、幼き頃から亮が常翔の寮に入る11才まで、いつも側に居てくれて、この力に辛く落ち込む亮を、いつも笑わそうとしてくれた心より優しい爺や。

「その口調は武士だよ。あはははは。」

(久しぶりだ、笑ったの。さあて、次はどういう手を打つか。)












 華族会の建物は京華院と言い、一階は広く玄関フロアがあり、奥右手が事務所と今日からは食堂となる多目的室、左手には応接室と倉庫と神政殿に続く廊下への扉がある。神政殿とは屋根付きの廊下で繋がっているが、今はまだ扉を閉められていて、清めの儀式をしなければ足を踏み入れられない。二階は宿舎となっている部屋が並んでいる。廊下を挟んで左右に8部屋づつ、一部屋8名、二段ベッドが4台があるだけ、風呂はなく洗面台が一つあるだけの簡易的な物だった。麗香はサッカー部で合宿に行った時の事を懐かしく思い出した。儀式の為に一泊するだけ、トイレは共同で、風呂はこの建物内にない。と言うのも、ここに宿泊するのは清めの儀式、いわゆる滝業をしなければならない神儀だけなので、風呂は必要ない見解らしい。

 麗香が最後の入室だった。知らない人ばかりで年配の人は居ない。おおおよその年齢で部屋を分けられているのだろう。麗香を含む4人が同じ世代ぐらいで若く、あとの二人はいずれも御影さんと知り合いなのか、3人ではしゃいでいる。その他4人は、若いと言っても30台半ばぐらいまで、と麗香は挨拶をしながら見積もった。扉に近いベッドの下側しか開いていない。というか、事前に送った荷物がそこに置かれていた。藤木に送ってと頼んだドレスケースを開けると、丸めたタオルを折り目に挟んで皺にならないように丁寧に不織布で包まれてあった。その効果ありでドレスに皺は一つもない。気遣い最高の執事。それなのに、麗香はいつも邪険な態度と心で、出て行けと叫んでいた。

 藤木の事ばかり思い出している自分に嫌気がさし、馬鹿と自分を叱咤。もう結婚する身、いくら克彦さんとの間に愛がなくても、これではいけない。

 靴も出して、ベッド下に置いておく。

(この靴、克彦さんは気づくかしら、あの時の靴と同じデザインである事。)

『素敵な靴だね、似合っているよ。』

 それが、克彦さんとの出会いの言葉。子供の頃と同じ。当時の写真を出して来て、特注で作らせたハイヒール。

 写真には、克彦さんは写っていなかった。どれも美月や橘淳平、諏訪要の幼馴染4人とばかりの写真しか残っていなかった。

 明日は、降臨祭の儀式が終わるとパーティが開かれる。愛がなくても、最初の相手は夫婦、もしくは最も親しい人と踊るのが社交界の決まり。

 荷物の整理を終えて麗香は一階に降りてみる。お父様の姿は見当たらない。部屋でまだ荷物の整理をしているか、事務所か応接室で打ち合わせでもしているか、なのだろう。柴崎家は華族会の中でも主要12頭家に入る。儀式も他の華族へ指示を出して執り行う側である。 

 用もないのに事務所や応接室に様子を見に行く事は憚れるので、麗香は所在なく多目的室を覗いた。ひしめく華族の人々、あちこちで挨拶の光景に、知った顔がいない孤独感を味わう。

 新皇様の降臨祭は京宮、神皇様の降臨祭は東宮で行うと決まっている。京宮での神儀は、その立地的な事も含めて、西の宗の華族の参加が多く、東宮は東の宗の華族の参加が多くなるのは当然で、儀式は、各家一人か二人の参加が通例で親世代が主流で、若い麗香達世代の参加は少ない、よって知り合いが居ないのは無理もなかった。

 列にして並べられたテーブルの中ほどに、誰かと話をしてお茶を飲んでいる克彦さんを見つけた。克彦さんは昨日、伊丹空港からご自分の実家へ帰り、今朝はご実家から京宮御所に来ている。愛はなくとも知った人がいるのは安心と麗香はほっと息をつき、歩を進めた。

「和葉!」

「克彦!」

 克彦さんは反対側の扉から入って来た御影和葉さんをいち早く見つけて、立ち上がり手を上げ呼んだ。御影和葉さんは駆け寄り、克彦さんと抱き合う。

「久しぶり!」

「おう、ってか1年ぶりだけだろ。」

「そうだけど、やっぱ克彦いないと面白くないってか・・・。そうだ、私あの子と一緒の部屋なのよ!」

「あぁ?」

「柴崎麗香。あんたの婚約者!」

 麗香は足を止めた。

「そうなんだ。和葉、余計な事すんなよ。」

「しないわよ。それより、真由美は元気?」

「変わりないよ。」

「良かった。真由美が東京に追いかけて行った時は驚いたわ。克彦は必ず戻ってくるんだからって説得したのに。」

「信じて待っていろって、言ったんだけどな。」

 粘つく何かが心に沈む。

「だけど私達華族って、ほんと面倒。称号の為に好きな人と結婚も出来ないだなんて。時代錯誤もいいとこよ。」

「お前さぁ、まだ紙切れ一枚の結婚っていう届けに、夢描いてるわけ?」

「そうじゃなくて!好きな人とは別に、称号維持する為の相手も見つけなければいけない事を言ってんの。」

「和葉は重く考え過ぎだよ。家と家との戸籍だけ引っ付ければ、何にも問題ない。神皇の承認さえもらえれば、華族の特権を継続し得られるんだぜ。俺達はただそれだけで民の上に立てる、選ばれた人間なんだよ。ある意味、多重婚も許されているのと一緒だぜ。」

「はぁ~、克彦は軽く考えすぎ。」

「そうかぁ?」

「昼から滝業でしょ。それも面倒、こんな寒い日になんだって・・・」

 それ以上二人の会話を聞いていられず、麗香は気付かれないように踵を返し、部屋に戻った。

 ベッドに腰掛けて大きくため息を吐く。

 喜んだ自分が情けない。あの時の思い出の子が克彦さんだった事、それも同じ華族である事を。

(馬鹿みたい・・・。)

 克彦さんは、称号維持の為の結婚相手を見つけに東京へ来ただけ。誰でもよかった。麗香じゃなくても。

 御影和葉さんが言う通り、私達、華族は面倒、この称号があるが故に。












『天は人の上に人を作らず。我々の上に華族を作らず。

華族は我々の税金を使い特権と称して利権をむさぼり、我々を見下す。

天は人の上に人を作らず。我々の上に華族を作らず。

華族は我々の税金を使い特権と称して利権をむさぼり、我々を見下す。』


 誰が用意したのか、量販店やディスカウントショップで安く売られているラジカセから、機械処理された中性的な声で、その文言を繰り返し流されている。ラジカセはこれ一つではない。参加者が持ってきた物があちこちに置かれていた。音声はネット上に拡散されているものを録音し流している為、文言はすべて同じだった。

 目の前で行われているデモは、京都で行われる降臨祭に当てられたものだった。今日の正午に急速に【明日の降臨祭終了まで、30時間耐久デモをしよう】と呼びかける情報がネット内を駆け巡った。場所は京宮の外苑公園から始まり、瞬く間に全国の公園、広場など12か所の呼びかけになった。もちろん、黒川君とバラテンさんは調べたけれど、あまりにも早い拡散と数に、お手上げ状態だった。

 時間が経つにつれ人は集まる一方。しかし誰もしゃべらず、スマホの画面を見ているという異様な光景が広がる。デモ参加の呼びかけ時に、参加者同士の会話は禁止、メールかチャットで会話をし、通話も禁止して一切の発声をしないのが条件と流布されていた。また、迷惑行為を禁止しゴミは持って帰ろう、なども付随して呼び掛けられていたので、とても行儀のよいデモになっている。がそれがかえって異様に不気味だ。

 皆グレーの作業着を着て、同じようなキャップもしくはニット帽をかぶった集団が、スマホの操作に夢中だ。

(まるで鳩の群れのようだ。)

 平和を象徴する鳩は、誰かが公園にエサを撒くのを待っている。誰かが自分の平和を与えてくれる。自分の手を汚して餌を探さない。何の犠牲の上に平和があるかを考えもしない。綺麗な手のまま、だから平和の象徴なのだ。

 スーツでいる亮が異様の存在になりつつある。ここに来れば、デモの首謀者を見つけるヒントが得られるかと思ったが、それらしい人間は見当たらない。場当たり的に参加者の本心の読み取りを試みているけれど、皆、特殊なイベントに参加する優越、満足、楽しさ、期待などが読み取れるだけで、心から華族を敵対視はしていないものばかりだった。

 ラジカセから流れてくる声が、抑揚なく単調に繰り返すので、頭に貼りついて気持ち悪くなってくる。

(もし、あの音声にサブミリナル的な何かが仕組まれていたとしたら?)

 深層心理に華族を敵対視する意識を植え付けさせ、華族を排除するよう群衆を仕向けたら・・・

 時代は繰り返される。神巫狩りならぬ、華族狩り。

 亮は残虐な光景を想像してしまい、頭を振って消した。

 壊したいのは制度だ。人ではない。

 亮は群衆から離れ、人気のない場所で、黒川君に電話をする。

「どうです?生デモは?」

「うん、不気味だよ。皆、無言でスマホを操作している群衆ってのは。」

「ですね。」

「あのさ、ここで流されている音源も、ネットに拡散されているよね。」

「はい。」

「それ、調べた?」

「はい。調べました。」

「あぁ、やっぱり?何も得られず?」

「ええ、声はボイスロボって言うアプリで作られているってのは判明しましたけど、誰が作ったなんて情報は音声内にはないですからね。無料ソフトですから、ダウロードして持っている人は五万といて、足取りなんて掴めようがありません。」

「そうか。えーとね。その音源に異常はなかった?」

「異常?ですか。」

「そう、サブリミナル的な物が入っていないかって気になったんだ。」

「サブミリナル!」

「そう、なんだが皆を洗脳しているみたいだなって思ったから。」

「調べて見ます。」と黒川君は早々に電話を切った。

 亮は通りに出て、集まりつつある群衆を再び見やった。

 黒川君と会話の中で、自分が言った「洗脳」という単語で、嫌な記憶を呼び起こしていた。

 弥神皇生の人を操る力に亮は苦しめられてきた。もう、あいつのことを考えても頭痛は起きない。

 奴の目的は何だったのか?達成されたのか、半ばに終わったのか?ただの民である亮達には詳細を知らされていない。知らされたのは、奴が神皇家の継嗣である事だけ。りのちゃんを刺した事件の後、奴の行方は凱さんしか知らず、凱さんの誤魔化す口ぶりから、日本国内には居ないだろうと予測が立っているだけ。

 ふと、このデモが弥神の仕業ではないか?と思いついて、亮は首をふる。

 やつはこんな周りくどいやり方はしない。直接、人を洗脳する。できるのだ。それに奴が華族制度に反対するはずがない。誰よりも称号に拘ったのは奴だ。それに弥神の世話人となった凱さんが、このデモを調べている。矛盾している。

 手に持っていた携帯が、バイブで着信を知らせる。表示を見れば柴崎邸の固定電話からだった。

 今日と明日、降臨祭が終わる日曜日まで、柴崎邸には行かないと伝えてあった。麗香と信夫理事長、文香会長が屋敷に居ない柴崎邸に亮が待機する理由がない。更に、凱さんが帰って来た今では、亮はもう必要ない存在だ。麗香をあんなふうに傷つけてしまったからには、もう居続けられない。亮は翔柴会を辞める気でいた。

 コールを無視しようかと一瞬考えるも、思考のスピードより速く、感性で通話ボタンを押していた。











 高い塀に囲まれた練馬区の朝霞自衛隊基地、日本の自衛隊を統括する本部と言ってもいい、すべての情報が集約する場所の、蟻一匹入る隙がないと言えばちょっと大げさだが、それぐらいにセキュリティ強固な場所は、日本でもそうそう無いと思われるゲートで、凱斗は兵士に止められる。バイクを降りヘルメットを取る。

「前島彰久一等陸佐に呼ばれている。柴崎凱斗だ。」

 凱斗とさほど年齢の変わらない兵士は2等陸曹、そこそこの階級だ。こういった出入り口の警備は、下っ端の兵士の仕事と思われがちだが、実は、ここは重要ポスト。ここをテロリストにでも突破されたら一巻の終わりだ。

「訪問リストに名はない。」

(やっぱりか。)

『すぐ来い』なんて言ったから、ゲートはすぐに通れるように連絡しておいてくれていると思っていたのだけど、前島さんは面倒だったか、忙しかったか、その手間をしなかったようだ。

 凱斗は訪問客ではなく自衛隊にちゃんと所属している。が、皇華隊は7年前に新設されたばかりの部隊であり、しかも実質活動はまだなく特質な部隊である事から、知らない自衛隊員も多い。この2等陸曹がそれを知らないと、説明から始まって面倒だ。

 凱斗は皮ジャンの胸ポケットから華選の証明パスを開いて見せる。黒い革で出来たパスは左に皇印入りの華族会マーク、左には顔写真と名前、その下には華選項目が3つほど書かれてある。凱斗の華選項目は、一に、瞬時覚え忘れる事のない記憶力、二に、飛び級で卒業した世界トップの大学を卒業した学力、そして三に、米軍で培った特殊兵士戦術能力。パスの顔写真の横に、自衛隊のシンボル鷲と神皇家の家紋五芒星を組み合わせた皇華特務隊のマークが刻印されていて、そのマークを見れば凱斗が皇華隊の隊員である事が判るはずなのだが、幸いにも、この2等陸曹は知っていたようだ。驚きの表情と共に姿勢よく敬礼をくれる。そして、「お借りします。」とパスを恭しく持ち、ボックスへと戻って行った。

 パスはスキャンすれば、柴崎凱斗のすべての情報がわかる様になっていて、出入りの時刻が登録される。しばらくして、2等陸曹は愛想よくパスを返却してから、門内へと誘導してくれる。

「申し訳ありませんが、バイクをチェックさせてもらいます。」

「もちろん、どうぞ。」

 この2等陸曹は優秀だ。これもまた、偶に身分に動揺した者が、そのまま、どうぞとセキュリティチェックをおろそかに通してしまう隊員がいる。

「確認できました。どうぞ。お入りください。」

「悪いけど、前島将補に俺が到着した事を伝えておいてくれる?」

 2等陸曹の姿勢の良い敬礼と「了解しました」の返答を背に、凱斗はバイクにまたがり徐行で進んだ。

 総隊指令本部のある建物の脇にバイクを止めて中に入る。4階へ階段を駆け上がり、前島さんのデスクのある司令官部部屋をノックしようとしたら、「おい、こっちだ。」と、コーヒーのカップを両手にした前島さんが廊下の奥へと消えていく。駆け足で後を追う。軍人は歩くスピードが速い。廊下を曲がれば、もうすでに部屋へと姿を消す寸前だった。

 ドアのプレートに資料室と書かれた部屋。

「前島さん、何時からここを寝床にしたんです?」

「一週間まえからだ。ほらっ。」

 基地名物、煮詰まったマズイコーヒーを渡される。熱さだけは最高に、火傷必須だ。

「何してるんです?」

「ここで、サバイバル訓練の構想ならまだマシだがな。ただの探しものだ。」

 前島さんは、壁際のパソコンの置かれたデスクに座り、コーヒーをズズッと下品な音を立てて飲んだ。

 ここは、言ってみれば自衛隊の図書館の様なところ。武器武装のカタログや資料、爆弾の創り方や、戦闘機の整備書など、自衛隊の活動に必要な物のすべての書物が収納されている部屋だ。巷の図書館のように、読むのに最適なソファなどはない。ただ、調べものをするのに便利なテーブルが、空いたスペースに設置されているだけで、椅子は今前島さんが座っている古びたパイプ椅子だけ。

「これを見てくれ。」

 とキーボードの適当なボタンを押し、スクリーンセイバーの画面を消す前島さん。一枚の写真の画像が表れる。島の写真だった。

「これは福井県沖500キロに位置する、雌島と呼ばれる島だ。」

 知らない名前の島だった。

「ここ。これを見ろ。」マウスを操作し、カーソルで示した島の木々が生い茂る場所がズームアップされる。画面がぼやけ、木々のアップの奥に黒い物体が見えた。

「ん?これは・・・ヘリ?」

「そうだ。」

 ぼやけた画面の木々の間にあるヘリと思しき物。何故こんな場所にあるのか?個人所有のヘリなのかもしれないが、にしては、地味な色あいだ。

「これは、俺の防衛大時代の同期、海自から送られて来た写真なんだが。巡回中に見つけたそうだ。この島は私有財産地で、これ以上近寄る事が出来ないから、こんなぼやけた写真しか撮れなかったそうなんだが。巡回船は3日に一度同じ場所を通る。3日前にはこんなヘリは無かったそうだ。」

「個人所有のヘリが何か問題でも?」

「海自の奴は、突然現れたヘリに違和感を覚えた。ただそれだけなんだが、奴の感は昔から当たる。」

 何かを鋭敏にきわめた人間は、物理的な限界を超えた身体機能を発揮する。それが巷では第六感なんて言われたりするのだが、不思議な力などではなく、ただ脅威に研ぎ澄まされた身体機能に過ぎない。その前島さんの同期は、この島の風景から視力を超えた何らの矛盾を見たのだろう。

「写真を撮り、俺にこのヘリの型を聞いてきた。」

「それで、前島さんは、このヘリの型を調べる為に、ずっとこの資料室に缶詰だったって訳ですか。」

「そうだ。俺も暇じゃないんだがな、奴の感は当たるんで気になった。ただこのぼやけ具合と、うまい具合に重要な場所が木々に隠れて見えん、資料と見比べてもわからん。」

「んで、俺に助け船を出したと言うわけですか?」

「フラフラと足付かずのお前を、昨日偶然シャバで見かけた。俺の感も働いたのさ、お前に知らせろってな。」

「ただ、匙を投げただけじゃないですか。」

「お前がそれを言うか?皇華隊を俺に任せっきりにした奴が。」

「前島さんのチームですから。」

「ちっ、都合のいい時だけ【俺の】にしやがって。」

「まぁ、久しぶりに、可愛がってあげましょうかね。」

「おまえ、ほんと嫌な奴だな。」

「それが仕事ですから。」

 神皇勅命華選特殊任務部隊、略して、皇華特務隊もしくは皇華隊と言われる隊は、7年前、陸海空の自衛隊から尖鋭の人間を11名、凱斗自身が選抜して結成した。凱斗が隊長として訓練を重ね、3年前にやっと隊として形を成した。

「それより、これだ。わからないか?」

「島にヘリがあると言う事は、どこかから飛んできた事になる。近隣空港のフライトデーターから持ち主を辿って機体の正体を探れば?」

「やったんだ。それが、この島周辺を飛んだ機体などないんだ。」

「フライトデーターがない?」

「あぁ、ない。こいつはまさしく、突然沸いて現れたヘリ。」

「そんなことある?データーを故意的に消されているかもしれない。」

「航空管制局だぞ。」

「どんなに分厚いセキュリティでも、破れる奴はいるもんだよ。ちょっと待って、専門家に調べて貰う。」

 前島さんは飽きれた顔でつぶやく。

「お前は、どれだけの隠し玉を持ってんだよ。」

 黒川君に電話した。

「ちょっと調べて欲しい事があるんだけど、今、大丈夫?」

「えーと、今、藤木さんに頼まれて、デモの音声解析をやってるのですが・・・急ぎなら、中断しますが。」

「デモの音声解析?」

「藤木さんが、デモに流れてる音声に、サブリミナル的な物が入ってないかって考えられて。」

「ほぉー。で、どうなの?」

「音声解析をするプロセスがわからないので、そこの勉強からしないといけないので、時間がかかってます。」

「あーそうなんだ。」

「凱さんの調べてほしいってのは、何ですか?」

「航空管制局のフライトデーターにハッキングの跡がないかどうかなんだ。」

「跡がないかだけでいいんですか?」

「跡があれば、どこの誰が侵入してきているか、軽くでいい、追跡を頼む。」

「了解です。そっちの方が簡単にできそうなんで、先にやっちゃいます。」

 ハッキングの方が簡単にできるとは・・・凱斗は苦笑する。

「では、しばらくお待ちください。切ります。」と黒川君は電話を切ってからものの10分ほどで連絡を返してきた。

「ハッキングの後も改ざんの後もなく、綺麗な物だと。」

「この場所は大型船の接岸は?」

「このヘリが乗せられるような大型船の接岸は無理な場所だそうだ。岩礁が多い。20年ほど前までは島民がいた。漁師で生計を立てて、生活物資はその漁船の往来で何とかやっていたような島だそうだ。」

「島の持ち主は?」

「だめだ。届の電話番号に電話してみたが、繋がらない。」

「うーん。」

 凱斗には、そこまでして調べる何かがあるとは思えなかった。 もう一度、写真をよく見る。マウスを使い拡大などしてみたが、ヘリらしい影がぼんやりとわかるだけで、機体の特定は絶対に無理だった。

「フライトデーターがなく突然姿を表したヘリ・・・ここで組み立てたとか?」と言いながら、馬鹿馬鹿しくなった。

「偉く壮大な趣味だな。」と前島さんも鼻で笑う。

 しかしながら、それは不可能なことじゃない。戦場では大型の武器を分解して運び、現地で組み立てるは当たり前にやっている。

 その武器輸送の特定加担することなく各国から引き受けて運搬しているのが、レニー・ライン・カンパニーだ。

 ふと思いだした。

「物流リスト・・・」

「あぁ?」

 前島さんが、怪訝な顔を向けてくる。のを無視して頭の中で記憶のリストを広げた。

 康太から依頼された公安が欲しがったレニーの物流リストは、約2か月前から1週間前の物、香港ー舞鶴港の貨物ラインを指定していた。えらくローカルな航路の物流リストを欲しがるなぁと凱斗は思い、用意した。

 レニーの船舶輸送、香港ー日本ラインの稼ぎラインは、横浜、博多、大阪南港、愛知栄港の4ライン。これだけで香港ー日本船輸送の75パーセントを占める。後の25パーセントで鹿児島、広島、福井、と小さな漁港に中型の貨物船に分散され、輸送量も極小だ。 しかしながら、世界随一の物運び屋レニーの輸送量を金銭に変えると、この小さな港町の市財政を超えるほどはある。レニーが日本の輸送に台頭してきたのは、ここ数年、それまでは国営輸送に頼っていたものが、佐竹がアジア支部代表に就いてから、規制緩和を政府に働きかけ、日本の輸送形態を変えた。だから、凱斗が用意したレニーの物流リストは、小さな港の物とは言え、実に1000ページを超えた。康汰には、全てをプリントアウトして渡した。メールで圧縮したデーターを送った方が容易だったが、データーの中に、レニーのデーターベースに関するセキュリティアカウントが入っている可能性がある。そんなのを公安に渡してハッキングされたら最悪だ。と警戒と抵抗をした。康汰に借りは沢山あっても、公安には何の借りもない。リストは佐竹に許可をもらい、日本支店の事務所で女子社員に頼んでプリントアウトしてもらった。その時に、確認の為に見たリスト数枚ほどが凱斗の頭の中に記憶としてある。

 物流品の項目を見ていくが、何も気になる品はない。それも当然、そんなジャストミートでこの謎のヘリと繋がりがある何かが見つかれば、それは奇跡だ。

 前島さんは、凱斗が記憶を呼び起こす時、無言になる事を知っているので、しばらく待つ間にコーヒーを飲み干した。

「いえ、何でもないです。」

「何だよ。期待させんな。」

 互いに苦笑して、凱斗も煮詰まったコーヒーを飲み乾した。

 携帯が鳴る。藤木君からだった。

「はい。」

「凱斗さん!今どこにっ」

「朝霞駐屯地だよ。呼び出されてね。」

「今、病院から柴崎邸に電話があったようで、文香会長がっ」と声を詰まらせる。ひやりとした胸を突き刺す。「意識を戻されたと連絡がありました。」

 凱斗は止めた息を吐いた。びっくりさせるなよ。は言わずに、「すぐに病院に向かう。」と告げた。

(良かった。文香さん。)












 216号室には誰も居ない。誰も、こんな物置みたいな部屋に居たくないのだろう。しかし今は、この一人の空間が麗香にはありがたかった。荷物が足元の通路を塞ぐように散らばって、ベッドが品なくこの部屋を圧迫していても、今の麗香の心には広すぎる空間だった。りのが昔、麗香の部屋や藤木のマンションでは、ベッドの隅やクローゼットの中などの狭い空間を見つけては、小さく丸まっていた気持ちが、今やっとわかる。寂しい時に広すぎる空間は、より孤独を強調させる。

 麗香は溜息一つ吐いて自分のベッドに腰掛けると、貴重品を入れていたバッグの中からくぐもった音が鳴った。そう言えば、朝からメールもチェックしていなかった。慌てて取り出すと、新田からだった。

「あー柴崎!明日は、どうしたらいいんだ?俺。」

「明日って、帰国日でしょう。」

「服だよ。」

「服って、皆と一緒に代表のスーツを着るって、言ってたじゃないの。」

「違うよ。帰国後の、帝都テレビのクイズバラエティに、俺と遠藤と菊池に出演オファーが来てるとか言う話。」

「テレビ?私、知らないわ。あっ待って、お父様の所には入ってるかも、聞いてみるわ。お父様と私、今、京都なんだけと、お父様は打ち合わせで忙しくて。」

「あー、そう言えばそうだった。ごめん。今電話して大丈夫だったか?」

「ええ、今は大丈夫よ。」

 新田がオーストラリアへと出国する時、帰国時には、柴崎家からは誰も迎えには行けないと新田には言ってあった。

「悪いな。んで、その時の服はどうしたらいいのかって思って、電話したんだけど。」

 麗香は呆れて首をふる。新田は、その顔に似合わず、服の事になると全くもってわからないらしくて、寒暖を凌げば良いと言う無頓着さだった。学生の頃、藤木が「顔の良さはダサさを隠す。」などと褒めてるのか貶してるのかわからない格言を言って、失笑したものだ。

 前回の帰国時、連盟から支給されたダサいジャージ姿で帰国したのを、麗香がきつく叱ってからというもの、どこに行くにも、何着ていったらいいかと、逐一聞いて来るようになった。

「そのテレビ、代表メンバーの遠藤君と菊池君と一緒にオファーが来ているって事は、オーシャンズカップ本戦に向けての宣伝目的でしょ。だったら、その代表のスーツでいいんじゃない?あんただけ別の衣装だと逆におかしいわ。」

「遠藤と菊池は、代表スーツは着ずに、自前で行くとか何とか言ってんだよ。」

「そうなの?でも、そう言うのって、局からの要望があるはずよ。もし別の衣装でって言われたら局も用意しているはずだし、スタイリストさんも常駐してるから、決めてもらうといいわ。」

「それで良いのかよ。」

「いいのかよって、私、火曜日まで東京に帰れないもの、しかたないでしょ。」

 何故か、新田はしばらくの沈黙をして、麗香は電話回線がおかしいのかと画面を確認しようとした矢先、声がする。

「柴崎?」

「何?」

「何かあったのか?」

「え?」

「なんか元気ないなって思って・・・大丈夫か?」

 新田はお母様が倒れたことを知らない。

(マネージャが選手に心配されたら、失格だわ。)でも、麗香の目に涙があふれてくる。

「今日は朝が早かったし、今から冷たい滝業をしなくちゃなんないから憂鬱なのよ。」

「うわーそっか、そうだったな。大変だな。頑張れよ。」

「ありがとう。」

 なんてタイミングいい。新田の頑張れが麗香の心をほっとさせる。

 7年前、りのが弥神君に刺された時、新田は学園と華族の対応に猛烈に怒った。

『その称号をチラつかせて、りのを黙らせたんだろうっ。誰であろうと、俺は許さないからなっ。』

 りののお母様と同様、新田も柴崎家を憎んだはず。しかし、りのが事件を公にしたくない気持ちでいると知ると、その怒りを抑え我慢した。そして、自分がりのの為にしてあげられる事を考え、異例に早い時期のプロチームから来た契約の話に、新田は素直に応じた。麗香も新田も知っていた。プロ契約は華族会が用意した口止めであることを。

『俺はお前に怒ってるんじゃない。世の理不尽に怒っている。お前もどうしようもないんだろ。』

 刺されたりのよりも、新田が一番割を括ったに違いない。怒りを抑え、国を出て行ったりのを一番に想い、なるべくこちらから連絡をしないようにしよう。と麗香達に提案したのも新田だ。

 麗香は、涙を拭いて頬をたたく。

(しっかりしろ、柴崎麗香。)













 予想外の喜びで、何も考えなしに扉を開けてしまってから、亮は大きく後悔した。

 文香会長の眼は今の自分をどう読み取るだろうか。

 ベッドを起こして医師の質問に答えていた文香会長は、病室に入った亮に顔を向けると、微笑んだ。

 本心を読み取る事に罪を感じた悲痛が混じる微笑み。

 医師と看護師が亮に、生命の機能は正常に戻っていると文香会長の容態を説明し、出て行く。

「心配かけたわね。」

 近づくことが出来ない。【目は口ほどに物を言う】のが、この人の本心を読みとる視覚の力の本質、目を見る距離が近い程、良く読める。

「申し訳ございませんでした。」亮は扉のそばで深く頭を下げた。

「その謝罪は無用よ。私が倒れたのはあなたのせいじゃない。」

「いえ、あの日、私がお供をすれば、こんな事にはなりませんでした。」

「いいえ、あなたが居たら、もしかしたら、あなたも倒れていたかもしれないわ。」

「えっ?」

「よかったわ、あなたが居なくて。」

 心より安堵する文香会長。そして目を細めた。

「麗香から聞いて?私が倒れた時の状況。」

「はい。」

「すれ違った男達は、華族を強く憎む心のある者だった。私はあの強い憎しみに当てられたの。」

(華族を強く憎む者?)

 文香会長が倒れるぐらい華族に対して強い憎しみを持つ者が居る。そいつを、どうにか見つけられないかと考え、しまったと顔を伏せた。

「藤木君、そんなところに立ってないで、こちらに座って。」

 覚悟を決め、言われた通りにそばへと歩み、立ったままでいる。

「ごめんなさいね。」文香会長は亮の右腕へ手を伸ばし、手の平を両手で包みこむ。一筋の涙が会長から零れ落ちた。

「私も麗香も、あなたを追い詰め傷つけたのね。」

 冷たい手だった。この冷たさは、人の心奥を読み取り続け、凍てついた心の表れ。

『あんたの手、凄く冷たいのよ。いつも。』

 自分の手が冷たいと知らなかった。教えてくれたのは麗香。

「すみません。私は・・・。」

「謝らないのよ。あなたのその決意を責めはしない。」

 やっぱり読まれてしまっている。

 華族の称号を持つ柴崎家にひれ伏しながら、華族制度をぶっ壊そうとしている自分は、卑劣極まりない。

「私は裏切り者です。」

「そうね、今のあなたの想いは、裏切りと言う言葉が一番合う言葉だわ。だけどその想いは、今までで一番純粋に自分に素直ね。」

 自分で自分の本心を読む事は出来ない。裏切りが純粋に自分に素直だなんて、最高に悪人だ。

「誰でもない。あなただから許される。あなたには、その権利がある。民の頂点に立つことの出来る藤木家の長男だからこそ。」

 亮は顔を上げ、文香会長の目を見る。文香会長の心の奥に、自分と同じ心を読み取った。

「会長・・・」文香会長の手の握りが、より一層強くなった。

「民の為に築いた華族の地位を、民が要としないなら壊せばいい。それが民の権利、あなたの欲望。私の微かな望み。」

 亮の思惑を許され、託される事に息が詰まった。そして文香会長を憎んた。託し、手を汚さない平和の象徴、鳩のようだと。

「文香さん!」

 ノックせず勢いよく開けられたドアから、凱さんが駈け込んで来た。

「良かったぁ・・。」

「凱斗!あなた、帰国していたの?」

 亮が場所を開けると、凱さんはベッドに縋り、幼い子供のような素直な心をさらけ出した。

「文香さんに、もしもの事があったら、どうしたらと・・・。」

「ええ、ごめんなさい。凱斗、心配かけたわね。」会長は微笑み凱さんの頭を撫でる。愛おしさが満ちた心。「大丈夫。大丈夫よ、もう。」

 戸籍上も遺伝子的にも他人の二人だが、真の親子以上の絆を読みとる。

 それに亮は嫉妬した。

 同じ力を持ち、自身の親よりも内なる気持ちをわかるはずなのに、力による恐れが阻んで踏み込めない。人に絶望し傷付いても、癒し合う事など出来ない。それが、この一年、文香会長の下で仕えて得た理解。

 亮はそっと病室を出た。












 生まれてから知らずにいた母親の愛、それをくれた文香さん。その心意に常翔学園と麗香を守る為の偽った物であったとしても、無いよりはマシであって、それを求めては、逃げるを繰り返していた凱斗は、文香さんが倒れ、死んでしまうかもしれないと思うと、馴れきっていたはずの死に初めて恐怖を感じた。年齢的に言えば文香さんが先に逝くのは当然の事だったが、幾人のもの犠牲のおかげで生きながらえた自分は、真っ当に生きて来た文香さんよりは早く、死神が迎えに来るだろろうと暗示に似た未来を強く胸に描いていた。

 残されてしまう恐怖、それは死ぬ恐怖よりも孤独に冷たく恐ろしい。母の愛という温もりを知った後では、強烈に震え凍りつかせた。

「大丈夫。大丈夫よ、もう。」文香さんのやわらかな手が頭に触れる。

「怖かった・・・」素直な感情が口から出る。

「ええ、そうね。ごめんなさい。もう大丈夫。大丈夫よ、凱斗。」

 母の大丈夫は、どんな薬よりも効き目のある魔法の言葉だ。35歳にもなって、涙を止めることは出来なかった。

「いくつになっても我が子は、小さいままね。」

 文香さんの微笑みが癒しとなる。

 京都で行われる降臨祭の為に、庶務的な対応を担い、華族会の事務所に在していた敏夫理事長と洋子理事長も病院に掛けつけた。

 降臨祭と常翔学園の状況を文香さんに一通りの報告をした後、敏夫理事長と洋子理事長を病室に残し、凱斗は部屋を出た。京都に居る信夫理事長と麗香に、文香さんが目覚めた事を報告するため、信夫理事長の電話にコールをした。が、出ない事で、やっと記憶のスケジュール表を呼び起こし、今は滝業に入った所だと知る。メールを入れておいた。

【文香さんが目を覚まされました。生命維持のレベルも元に戻り、今の所、心配する様子は見受けられません。明日から精密検査に入ります。時間の空いた時にでも連絡ください。】

 二人は泣いて喜ぶだろう。そう言えば、藤木君がいつの間にかいなくなっている。もう帰ってしまっただろうか。凱斗は一階のロビーまで階段を使い降りた。診察時間の過ぎた土曜日の午後、まだちらほらと残る患者や付き添いの人が居る。外へと出てみると数十メートル先に屋外喫煙場所となっている灰皿の置かれた場所に藤木君が居た。

 たばこを吸っているとは知らなかったので、若干の驚きだ。

(何時から吸い始めたのだろう?)

 学生の頃に煙草を吸って停学になるような事はもちろんなく、新田君とプロのサッカー選手になると真面目に夢を追い続けていた。 しかし、藤木君だけがその夢を掴めない波乱の運命を辿った。それでも、麗香達4人の絆は強く、どんな困難にも立ち向かってちゃんとした人生を送っていると思っていた。タバコが非行の脚掛けとして軽蔑をしているのではない。藤木君はもう24になる大人で、喫煙は自由意志だ。慣れた仕草でタバコの灰を落とす藤木君が、何時から吸い始めたのかを知らなかった事に、自分は寂しさを覚えたのだ。凱斗は、麗香を含めて藤木君達に、一生徒としては超えた兄妹に近い特別な感情を早くから持っていた。兄的な役割が自分の立ち位置として最適であると認識し、振舞っても来ていた。

  藤木君が喫煙している事を知らなかったのが、思いのほかショックを受けている自分が不思議に思いながらも、凱斗は歩み寄る。











 タバコ、お酒を控えましょうとアドバイスされる病院に喫煙所がある矛盾。

 健康保険財源赤字の現状に、健康志向に民を向かわせながら、その財源は、たばこ税、酒税に頼る政策しか見いだせない矛盾。

 長寿大国に歓喜しながら、年金財源の危機に苦しむ矛盾。

 少子化を問題視しながら、高齢有権者を取り込む政策しか出せない矛盾。

 世は矛盾に満ちて、民は矛盾を正す者ほど責め叩かれ、忌み嫌われる矛盾。

 タクシー運転手が一本吸い終えて、車へと戻って行く。車のボディには禁煙車のステッカー。あれだけタバコの匂いが染みついた制服で、禁煙車だと訴う矛盾に、亮は笑った。

 新田達が卒業した日から吸い始めたタバコ。民法を作る仕事に従事ている議員の息子が、18歳から喫煙している矛盾。

 世は矛盾に満ちて、視界は矛盾の煙に濁って本質を隠す。

 誰かと一緒の時や、仕事をしている時は吸いたいと思わなくて、一人で居る時、特にマンションに帰宅すると無性に吸いたくなる。なので、亮が煙草を吸っている事は新田も麗香も文香会長ですらも知らない。

 軍隊仕込みの独特の歩き方をする凱さんが、珍しく神妙な顔でこちらに向かって来る。

 喫煙を知られてしまった事は別にどうでもいい。見つかって怯える年でもない。ただ、ウザイなと思う。どうせ、何時から吸ってるんだとか、兄貴風を吹かすに決まっている。あえて顔を向けずに無視した。

「一本もらえる?」

 予想とは違った言葉に、亮は顔を向けてしまった。

 文香会長が元気になったというのに、相変わらず心の中は哀しみで詰まっている。

 スーツのポケットから煙草の箱を取り出し、開けて差し出す。銜えたタバコにジッボの火も差し出した。

 馴染みの革ジャンにジーンズスタイルの凱さん。昔、金髪だった時もあったなと、どうでもいい記憶がよみがえる。その経歴を知らなくても雰囲気のある魅力に、通りすがりの若い女性が好気の眼を向けて行く。見ようによってはミュージシャンで通るだろう。吸い込んだタバコを良く味わうように胸に吸い込んだ凱さんは――――無様に咳き込んだ。

(はぁ!?)

「あー、可笑しいよな。」

「何が!」

(吸えないくせに格好つけて吸ったあんたが、おかしいだろ。)

「酒もドラッグも、自白剤も、多少の毒も効き目なしの体、神経系の麻痺にはめっぽう強いのに。何故かタバコだけはこうなる。」

 もう一度タバコを吸いこむと、また咳き込んだ。

「だったら、無理に吸う事ないじゃないですか。」

「・ゲホッ・・あぁ・・こいつで寿命が縮まるなら、咳に涙してでも喜んで吸う。」

「はぁ?」

 凱さんは、亮の背後の壁に貼られているポスターを指さす。

【タバコは控えましょう】の啓発ポスター。喫煙場所に貼られた矛盾。

 肺がんの喫煙者発症率や、死亡率の数値が大きく書かれ、タバコ一本で14分寿命が縮まるとまで大げさに書かれている。

「文香さんより先に死にたい。」

 文香会長が、実の子の麗香よりも凱さんを常に心配し、実に愛おしく、実に好きにさせてあげていると言うのに、この人は、文香会長がどんなに愛情を注いでも、わからないのだ。生まれた時からそれを知らないから。

「何、言ってるんですか。親不孝もいいとこですよ。それは。」

「そうかなぁ、僕は、・・」

 そこで言葉を止めた凱さんは、またタバコを吸い込み咳き込む。涙目になって苦しむ凱さんを通りがかりの人も怪訝に見ていく。

「あぁ・・・親不孝の道は苦しいな。」

(何がしたい?同情を誘っているのか?それとも何か話のきっかけを作っているとか?)

 目に力を入れても、染みついた哀しみがより濃く読めただけ。

 凱さんの携帯が鳴った。タバコを灰皿にこすりつけて、尻のポケットから取り出した携帯を見て、眉を上げてにっこりとする。

「黒川君からだ。はい。・・・・・・うん一緒だよ。」

 黒川君は携帯のGPSから二人が一緒に居る事を知って電話してきている。

「何?オープン?・・・うん・・・えーと良くわからないんだけど・・・・・いや、持ってない。ちょっと待って。藤木君、タブレット持ってる?」

「いいえ、持ってません。」

「持ってないって。・・・・うん。ちょっと待ってね。」凱さんはまた亮に向かって話す。「黒川君が藤木君の携帯に動画サイトを繋げるから、見て欲しいって。」

「何の動画ですか。」

「京宮御所内のリアルタイム映像だとか。」

「えっ?」

 亮も短くなったタバコを灰皿に押しつけ、スーツのポケットから携帯を取り出す。黒くスリープモードになっていた画面は、亮が操作する前に勝手に起動し、続けてネット画面が立ち上がり、動画サイトに繋がった。あまり有名じゃない動画サイトで、亮は使った事がなくアプリも入れていないのに、黒川君のVID脳による遠隔操作で亮のスマホにアプリがインストールされて、勝手に再生される。

 映し出されたのは、広い体育館のような場所、そこが体育館ではないとわかるのは、白木の床の美しさと奥の正面に、御帳台と呼ばれる神棚のような木製の宮建の造り物がある事。そして、その御帳台に神皇家のマークの入った幕が垂らされている。

 亮は京宮御所内部を初めて見たが、東宮とさほど変わらない。フロアには誰も居なかった。

「間違いない、京宮神政殿の映像だね。」と凱さん。

「降臨祭をライブ中継する事にしたんですかね。」と黒川君の声。スピーカー機能を使った。

「いや、ありえないし、聞いてないよ。華族会が許可するはずがない。誰だ?こんなの配信しようとしてるのは。黒川君、この動画をソース先の突き止めは?」

「まだです。先に報告した方がいいと思って。」

「じゃ、この動画流しの元を突き止めてくれる?」

「はい、すぐに。あっと、藤木さんに伝えてもらえますか?」

「スピーカーで聞いてるよ。」

「あっそうですか、藤木さん、音声内にサブリミナル的な物は見つかりませんでした。」

「わかった。ありがとう。」

「じゃ、動画の方頼んだよ。」

「はい。藤木さんの携帯どうします?そのまま繋げたままでいいですか?」

「いいよ。」

「後でそっちに行くから。無理しない様にね。」

「はーい。」と聞く気のない軽い返事をした黒川君に、肩をすくめた凱さん。

「凱さん、俺も黒川君の所に行っていいですか?」

「ん?もちろん。」

 華族制度に反対する奴らがいて、デモ集会を行う。

 華族を憎む奴がいて、華族の信仰神社所有の蔵を燃やす。

 柵を無くしたいと願う俺がいて、仕えた家と愛した人を裏切る。

 何かの思惑に動く奴がいて、秘儀である神皇家の儀式を公開する。

 この流れを企む奴がどこかにいる。

 そいつを見つけ出し、利用すれば自分の望みは叶う。

 その為には、凱さんの側に居た方が、情報が早く手に入る。黒川君のVID脳も必要だ。














 凱兄さんからメールがあって、お母様が無事に目を覚ましたとの事。折り返し電話をして、麗香は一週間ぶりにお母様の声を聞いた。

『大丈夫よ、もう。心配かけたわね。麗香こそ、身体は大丈夫なの?』の声にほっとする。

 お母様の回復こそが、麗香の力の原動力となり、滝業で冷え切った体が一気に高揚し温まった。

 滝行終えた華族の者たちは、白衣白袴を着用し、やっと神政殿に入る事が許される。入った神政殿内も、東宮と変わりない。変わりあるのは、外の日本庭園の様相だ。京宮ほど大きくなく、山へとは続いていない。

 正面に、八段の土台の上に御帳台がある。その脇でお父様を見つけ喜びあっていると、克彦さんが訝し気に寄ってくる。

「どうしたのですか?」

「あぁ克彦君、文香の体調が良くなったと連絡が入ってね。」

「あぁ、それは良かったです。」

 克彦さんには、ただの風邪を引いて京都には行けないとだけ言っていた。御田家に余計な心配をさせない配慮であった。この儀式が終わった明後日に、麗香達は御田家にご挨拶に伺う。麗香は克彦さんのご両親とは一度もあった事がなく、写真も見たことがない。

「この滝業、何とかならないもんですかね。儀式って言っても、形式だけの物でしょう。神皇の天帰りと言っても、実際に空へ飛んで帰るわけでもないし。」

「まぁ、そうだけどね。こればかりは古より続く儀式だからねぇ。」

 大胆に憚らない心の内を吐きだす克彦さんに、苦笑するお父様が、やんわりとその言葉を窘める。

 御田家は克彦さんだけが参加である。華族の中でも神皇家に仕える意識の濃密さに差がある。地方の華族は特に、神儀の参加率は低く、華准への下籍率も高い。華族12頭家以外の家が、神皇に仕える意識が薄いのは当然ではあるが、御田家はその規模から考えれば12頭家に入っておかしくないのだけど、華族制度が制定され、華族会が発足された時、御田家は頭家としての役割を辞退したと、麗香は聞いていた。どういう考えで辞退したのかは知らないけれど、華族の称号だけは未だ維持しているという事は、神皇家に仕える意識が薄いが、階級意識には執着がある家なのかもしれない。

「流石は、12頭家の柴崎家です。いやはや、僕としては意外でしたが。」

 お父様は首を傾げて、克彦さんの言葉促す。

「東の宗の代表を降りたのは、先代が亡くなられて、そういった意識が薄まったからだと思っていました。ですが、お義母様が体調を崩されなかったら一族からは3人の参加だったわけで、神皇家への忠誠はまだまだ厚いなぁと。」

 お父様は苦笑する。

「確かに、私の父総一郎は、絶大なる力をもって東を束ね、戦後の混乱をも静定した人。しかし元より東の宗派は、一族独裁の思想は持ってはいない。父は体が動かなくなる前に、東の宗代表を白鳥家へと継ぎ、時代に相応する華族会の運営を望んでいた。」

 おじい様と比較される話に、いつも平静な態度で対応するお父様だけど、きっと心穏やかじゃ無いはず。

「あぁ、そうなんですか?僕はよくわからなくて。」克彦さんは演技か本気かわからないような、惚け方をする。

 御帳台の神前幕と向こう錦帳は開かれていて、その奥に見える引き戸が開いた。その先は神皇家が住まわれる御常殿で、華族でも皇家付きの、東では鷹取家と、西は弥神家しか入れない。そこから歩みでできた弥神家当主、弥神道元様は、7年ぶりにお会いする。今日は普通の眼鏡をかけていて、左目は義眼にされていた。

 場が静まり、御帳台から降りて来た弥神道元様に皆、注目する。

「皆さん、時の集まりに感謝します。新皇様のハレやかなる降臨祭を華族揃って祈り捧げられる事は、この地と民に安泰をもたらす繁栄となりましょう。では、明日の降臨祭の準備をお願いします。」

 そう言って、弥神道元様は一礼すると、麗香達の方に歩み寄って来た。

「柴崎様、遠い所を申し訳ない。」

「いえ、道元様、それが務めでごさいますから。」

「うむ、柴崎家のその至心は先代から受け継ぐ財産ですな。総一郎代表とは折りが合わなかったが、今ではその違えた意思の根源は同じだったと今更に後悔してやまぬ。」

 どうしても動かない義眼が気になって見てしまう。麗香へと顔を向けられて慌てて頭を下げた。

「お久しぶりでございます。」

「健やかでしたか?何よりです。」と微笑まれるも、動かない義眼が異様で少々怖い。

「冬の滝業はお辛かったでしょう。」

「ええ、でも心清まりました。」

「ははは、柴崎家は滝業せずとも、心清らかであるとは思いますが・・・」

 弥神道元様は変わられた。柴崎家と東の宗を敵対する勢いがなくなった。7年前、仕来りを守らず天に還すはずだった双子の継嗣である還命新皇を、自分の子として生かせた事を咎められただけなら、ここまで柔和にはならなかったはず。その還命新皇様こと麗香の同級生の弥神君が、りのを刺し、その育ち方も、より深刻に鷹取家から責められた。奇しくもその鷹取家の豪腕な責任追及に対して、東の宗は、弥神家を庇う事になったのは、還命新皇である弥神君の指示があったからである。

 現新皇様が双子であった事、もう一人の継嗣である還命新皇様が生きている事は、東の宗の主要4頭家と神皇付きの鷹取家と弥神家しか知らない、秘匿である。

「皇生は・・・。」弥神道元様は、口を噤み、首を振って続ける「いや、凱斗君によろしく伝えてくださるか。世話を掛けて申し訳ないと。」

「その言葉、凱斗も喜びの賛辞として受ける事でしょう。確かに預かり伝えます。」

 少し寂し気にうなづいた弥神道元様の姿は、唯一名に「神」をつける事を許されたかつての威厳はなく、ただ子の身を心配する父親の姿である様子に、麗香は思う。この人はただ人道に素直に従ったまで。赤子を捨てられない優しい人だったのだ。と。











 病院を出て、亮は凱さんと共にタクシーに乗り込む。亮が埼玉のバラテンの家の住所を告げようとすると、凱さんは遮って帝国領華ホテルへと告げる。

「華族会事務所に報告しに行く。藤木君も調査に関わっている事も含めて、挨拶しておいた方がいいだろう。事後報告だと報酬を出してもらえないからね。」

「報酬なんていりませんよ。」

「有り余ってるかもしんないけどさ。こういう事はちゃんとしとかないとね。」

「って、バラテンさんにはちゃんとしてませんでしたよね。」と嫌味を言ってやった。

「いわれた通りに、ちゃんとしたよ。」

 亮は呆れたため息を吐いた。

「金というより、華族会に今のうちに顔を売っておいた方が、今後に価値ある報酬になるだろう。」

 確かにそうだ。壊す組織の内部を知っておくのは、これ以上ない価値ある情報だ。

 20分ほどで帝国領華ホテルにつく。凱さんはフロントにいる男性職員に軽く手を上げて、そのまま奥へ華族会専用のエレベーターへと進んだ。華族会のピンバッチをキーケースから取り出し、操作盤の下の窪みにはめる。操作盤の階層ボタンが全部点灯し、20階のボタンを押すとそのボタンだけ消えて、扉が閉まる。亮がこのエレベーターに乗って華族会の事務所のある20階へと足を運んだのは2度目だ。りのちゃんが華選に上籍した時の事を懐かしく思い出す。

 エレベーターを降りた正面の所にあるカウンターには誰も居ない。皆、京都へと出払っていて人手が足りていないのかもしれない。

「誰か、いるかなぁ~。」と凱さんは声を掛けながら廊下を進んでいく。

 りのちゃんの華選上籍パーティの時は、カウンターより向こうには立ち入りさせて貰えなくて、すぐに上の客室へと案内された。遠慮なく入っていいのかと躊躇していると、事務所の扉を開けて半身入室している凱さんが、亮に手を振ってこっちにこいと呼んだ。軽く駆けて入った事務所には、人が二人しか居なかった。年配の女性とそれより若い男性。

「あら、久しぶりじゃない。凱斗君。」と年配の女性が言って、つられるように顔を上げた若い男性は、亮を視認すると、若干驚いた顔をした。いい加減な凱さんの言う通りに入ってきて、やっぱり駄目だったか、と緊張する。

「ご無沙汰です。刈谷さん。晋也さんも。えーとね。今、柴崎家の手伝いをしてくれている藤木亮君。今、一緒にこの華族制度を批判する風潮の調べを手伝ってもらってるんで、連れて来ました。」

 亮は頭を下げる。

「もしかして、常翔学園サッカー部だった?」と晋也さんと呼ばれた男性が聞いてくる。

「はい。」

「あぁ、やっぱり、僕もそうだったんだよ。」

 亮の記憶に晋也と言う名の先輩はいない。

「僕もサッカー部だったんだ。高等部56期生。」

 7つ年上だ。

「えっと、お名前は・・・」

「ごめんごめん、高松晋也だよ。」と立ち上がって握手の手を伸べて来る。

「藤木亮です。」握手をして頭を下げた。

「うん。知ってる。」と高松さんは年の割に幼顔で笑う。

「そっか、晋也さんもサッカー部でしたか。」

「そうですよ。あまり成果を上げられなかった世代ですけどね。」

「飲み物入れようか?何が良い?」と刈谷さんという年配女性が立ち上がる。

「いえ。」

「いや。」と断る言葉が凱さんと重なった。「今日は報告に来ただけ。すぐに出なくちゃなんないから。」

「そう?」

「パソコン借りますね。白鳥代表と通信したいので。」と言って、高松さんの前のデスクに亮も呼んで座った。映像通信をするようだ。

「えーと5年?6年前か、今アイルランドノッティンガムの新田慎一にパス上げて優勝したの。」と高松さんは懐かしい話を持ち出してくる。

「あ、はい。」

「見てたよ~。後輩ながら尊敬したもんね。」

 何とも言えない苦い思いがした。

 壊そうと思っている制度の中枢に、昔の自分を高評価してくれる先輩がいる。もし華族制度が崩壊したら、この人たちはどう思うだろうか。凱さんは別に何とも思わないと言っていたが、華選と華族とでは、称号に対する価値や誇りが違うだろう。

「白鳥代表、お忙しいところ申し訳ありません。緊急の報告がありまして。」

「緊急、何かな。」

「とその前に、頼まれていましたデモの調査ですが、藤木君にも手伝ってもらっています。処々の待遇をよろしくお願いします。」

 亮はパソコンのカメラに向かって頭を下げた。

「やぁ、藤木君、悪いね手間を取らせて。」

「いえ、出しゃばってしまい逆に恐縮です。」

「いやいや。」

「すみません重要な事があるんで、」と凱さんは割り込む。「京宮の神政殿内がライブ配信されているんです。」

「はぁ!?」

 高松さんも、刈谷さんも驚いた顔を向けて来る。

「降臨祭をライブ配信するとか、そちらで決まったとかじゃないですよね。」

「いやいや、そんなの決まっていない。そんな話も出ていない。」

「やっぱり。」

「なんだ、どういうことだ。」

 凱さんは説明して、亮は黒川君が繋げたライブ配信のURLを入力して向こうに伝えた。白鳥代表はその映像を確認して顔を顰めた。

「誰だ。こんな所にカメラを仕掛けたのは。すぐに京宮に知らせて取り外すよう言う。」

「待ってください。西の管轄の神儀です。東の宗が出しゃばって事を大きくするのはやめた方が、それに、もしかしたら西の宗がやっていることかもしれませんし。」

「西の宗がライブ配信を?」

「まだ何もわかりません。今ソース元を探ってもらっている最中です。」

「確かに、これ以上、西の宗と軋轢は生みたくない。」

「ええ、さほど利用者の多くない動画配信サイトですし、今のところ映されて困る事は何もありませんから、このまま放置して逆に監視したいのですが。」

「うーん。」と白鳥代表は唸ったあと、凱さんの要望に同意した。

 白鳥代表との通信を終え、早々に帝国領華ホテル別館、華族会事務所を出て、埼玉のバラテンの家にタクシーで向かう。到着間近になって凱さんが「あっバイク!」と叫んだ。

 病院に置き忘れてきているという。

 その最強の記憶力と世界一位の大学を卒業した学力があるのに、何故にそういうことを忘れる?と亮は呆れた溜息を出して無視した。











 バラテンの家に到着する前に、ファストフード店に寄り、まだ昼食を取っていない黒川君とバラテンのバーガーセットを買っていく。凱斗達が到着して、調査は一旦中止し、男4人で食べる。その合間に、藤木君が見て来た東宮外苑での様子、黒川君に依頼したサブリミナルの事、動画配信元の探索の進行状況などを報告し合う。食べ終わった後、黒川君は早速、また探索の続きを始める。ソース元は、世界のサーバーを経由して巧に隠されている。沢山のセキュリティを突破し、一つ一つ辿って行く作業を2時間ほどして、予想通りのサーバーを使っている事が判明。

「やっぱり・・・北朝鮮がらみですね。」

「やっぱりか。」

「ここを突破すれば、誰が配信したかわか・・・えっ!嘘っ」と叫んだ黒川君は、それまで以上に早くキーボードをたたきつける。

「わわわわ。」バラテンもあわてた調子でキーボード操作。

「何だ?」凱斗と藤木君だけが訳が分からず、顔を見合わせるばかり。

「VIDが・・・」とそれ以上の説明もできる余裕なく、黒川君は歯を食いしばる。

「やばい、やばい・・・うわっ!くそっ」とバラテンは隣のパソコンへと移動するも同じに叫んで項垂れた。画面が真っ黒に何も表示されていない。

「手が・・・追いつかない。」と黒川君は唸った後、激しくエンターキーを叩くと弾かれるようにのけぞり、椅子から崩れ落ちた。

「黒川君!」近くにいた藤木君が抱き上げようとすると

「急激に動かすな」とバラテンが叫ぶ。

「ゆっくり。」と凱斗も手を添えた。

「VIDが・・・二人・・・」とぐったりと力のない黒川君は、「ううっ」と黒川君が腹の筋肉を隆起させ「吐く・・・」と呟く。

「ここで吐くな!」とバラテン。

 藤木君がそばにあったゴミ箱を黒川君の胸元へともっていくと、黒川君は、2時間ほど前に食したチキンバーガーセットを全て吐き、また崩れた。

「最高出力で動いていた脳神経を、強制的にシャットダウンすると、繋ぐ先なく出力放出したままの状態になる。治まるまで感覚のずれが起きる。」と凱斗は、顰めた表情で心配する藤木君に説明をした。

「大丈夫か?」とバラテン。

「はぁ、はぁ・・くそっ、一人なら負けはしないのに・・・奴らを引き離して一人づつ対峙する方法を考えて、もう一度・・・」

「もういいよ、これ以上は。」

 藤木君がペットボトルの水を黒川君へ渡そうとするが、黒川君の手はすれ違いにペットボトルを掴めず。

「まだ、電脳世界が残ってて、世界がダブってる。」と小刻みに揺れた黒目で苦しそうに唸る。

 黒川君の手を掴んでペットボトルを握らせ、口に持っていくまでを介助して、やっと水を飲ませる事が出来た。しかし、水もゴミ箱に吐き出し、何度も大きく深呼吸をして、やっと落ち着いてくる。

「向うで寝かせてやれ。」とバラテンは、まだパソコンに向かって何かカチャカチャと操作しながら、リビング横の和室へと顎で指図する。

 今や、黒川君の寝室となっているリビング横の和室には、畳んで積まれた和布団があり、藤木君がそれを敷きにいく。

 凱斗は黒川君を抱き上げようとしたが、昔のようには軽々とはいかなかった。大きくなった。そんな変な感慨を覚えながら、黒川君の体を半ば引き摺って布団へと寝かす。

「駄目だ、サポートにした2台共にぶっ壊れた。」

「すみません。自分を守るのが精いっぱいで 。」

「バラテン、パソコンの心配より、黒川君の心配しろよ。」

「吐けるのは脳神経が元の世界に戻そうとしている証拠さ。昔のように気絶されたら心配もするが、カズ坊は昔の無茶坊とは違う。自分の力量と限界をわかって戻ってきた。しばらく休めば大丈夫さ。」

「あれは戻って来たとは言いません。逃げてきただけです。それが限界だった。完敗だ。くそっ。」

 仰向けになった黒川君は、光を遮るように目の上に腕を覆って悔しがる。

「vid脳二人相手に、逃げられただけでも勝ちだ。捕まってたら、それこそ気絶どころじゃ済まなかった。逃げるのもひとつの技さ。」

 藤木君が吐しゃ物にまみれたゴミ箱ごとゴミ袋に入れて封をし、どこに捨てていいかわからずに困っていると、バラテンが引き取って勝手口の外に投げ捨てた。戻って来たバラテンは冷凍庫からアイス枕を取り出すと、「頭を冷やしてやれ。」と手渡される。

 そのアイス枕が子供用だった事で、凱斗はバラテンがかつて世帯持ちだった事を思い出す。聞いた話では、バラテンは離婚して養育費を払っている子供が一人いるバツイチだ。

「大体な、お前の依頼はいつも無茶な物ばかりなんだよ。」とバラテンは凱斗へ睨み悪態をつく。

「いつもって何だよ、知らねーだろ。辿った先にVIDの人間が二人も居るなんてさ。」

「あーあ、これ、うちの店で扱っている中でも最高性能の奴だぞ。」

「弁償すれば良いんだろ。ったく、みみっちい奴。」

 北朝鮮は謎の多い国、平民は貧しく国土は水害や干ばつなどの自然災害に襲われる悲運の貧しい国でもある。アジア圏唯一の国連支援国として周辺国、もちろん日本も経済援助をしなければならない国でもあるが、その経済援助の金は、独裁政治のカン第一書記の個人采配に偏った意向で行われ、国民に行き渡ることなく、不平等に軍事力の強化と一部の富裕層に潤いを与えるだけで、いつまで経っても国が立ち直る兆しを見せない。時に街は大規模停電まで起きるほどの貧しさであるというのに、軍事力に伴う諜報力は侮れないと言われていた。そんな国が、vid脳を持つ者を二人も抱え込んでいる事が発覚した。

「ってか、北朝鮮側に、こちらが日本からだとバレたか?」

 下手な事をすると国際問題に発展する。

「それは大丈夫だ。それがこの新型PABの持ち味だろ、情報産業最強のアメリカが創ったダイヤモンドウオールが守りとしてついているんだから、闇ルートで手に入れたPABでも内部に埋め込まれたシリアルコードが生きている限り、こいつの国籍はアメリカ止まりさ。」

「それなら安心だけど。相手はVID二人。ダイヤモンドウォールすらも。」

「北朝鮮がVID二人囲っているのは驚いたけどな。アメリカは二人どころじゃないぜ、VID脳養成機関まで作った。国の威信の塊だぜ、ダイヤモンドウォールは。壊せないウォールだから最強硬度のダイヤモンドと名付けられだ。」

「わかった、その手のうんちくは程々にして、それより、そっちの壊れたバラテンの方から逆侵入されていないか?」

「この2台は、カズ坊の操るPABの連動スピードについていけなかっただけだ、相手のVID脳二人が登場して2分も持たないでフリーズした。」

「良かった。」と安心のため息を吐いた。

「お前もカズ坊の心配より、国際問題の心配かよ。偉いもんだな。華族のお人はよ。」

「うっせー。」

 バラテンは高校生にして、銀行の情報システムをハッキングし自身の銀行口座に架空入金をして世間を騒がせた少年ハッカーAである。黒川君と同じように中学の頃に初めて手に入れたパソコンにのめり込み、当時まだネットセキュリティが完璧に整備されていなかったとは言え、高校生がその職業を専門にしている技術者以上のプログラム技術とセンスを極めた事に、世間は驚いた。当時まだ警察はIT犯罪を専門に扱う部署の設立案すらなく、バラテンの存在は遅れているIT犯罪への警鐘となった。ここからは世間に公表されない話として、バラテンは少年院送りにはならず、警察に半ば拘束気味に雇われ、そのハッキング技術で、現在の情報通信局IT部門の設立に尽力した。若くしてゲーム感覚でIT犯罪をし、ITと言う特殊な世界を飛び回る人間は、国際問題がどんなに厄介な物であるかを知らない。

「お二人共、少し声を落として。」

 藤木君が口に人差し指を立て静かにと凱斗達を諫める。黒川君はアイス枕を目に乗せたまま、軽い寝息を立てていた。











「北朝鮮か~また厄介な国にたどりついたもんだ。」と凱さんが首の後ろをかく。

 亮は黒川君が繋げた京宮の神政殿内を映した映像を見ていた。今は、白い袴姿の人が出入りして、何もなかったフロア中央に八角形の何かが組み立てられていく。スマホの小さい画面では誰がとかは判明しない。

 この映像を見るかぎり、華族会が昨今の制度反対に対して、理解を促す為に動画配信をしているとしか思えない。

「本当に北朝鮮のサーバーが元か?そこもダミーにされた経由地って事は?」

「ダミーって可能性は低いな。あの封鎖的社会主義国家が、手を広げてどうぞ通過媒体にしてくださいなんてするはずがない。情報流出のリスクが高すぎる。それに二人のVID脳を持ったハッカーが待ったなしに攻撃してきた。その状況はもう単純に考えていいだろう。」

 亮の知らない情報を凱さんが持っているかもしれない。それをうまく聞き出せないかと考えた。

「手に入れた情報を、最初から整理しませんか?黒川君が寝ている間は、何もできませんし。」と亮は提案する。

「あぁ、そうだな。」凱さんとバラテンさんが大きくうなづいて、亮の提案に乗ってきた。

 壊れたパソコンをバラテンさんは片づけて、広くなったダイニングテーブルに集めた情報のプリントの束を置いた。

「まず、事の起りを明確にしよう。この華族会制度に反対する声が、世間で声高に言われ始めたのは、ネットの掲示板。黒川君が膨大なデーターから精査し突き止めた、今の所最初であろうと思われる華族に対する異見コメントがこれ、だが確定ではない。」

 国内最大の掲示板サイト、Aちゃんねるから抜き出しコピーした掲示板ツリー一覧の部分をプリントアウトされた束をテーブルのど真ん中に置く。これはバラテンさんの家に来た日に見せてもらって、何度も読み返した物。もう誰も手に取り読み返そうともしない。   凱さんがその用紙の上に1月17日とマジックで大きく書く。

中身は『華族階級の人は無課税。』と言うコメントが、華族の話題でもない掲示板のツリーに突然現れた。それも同時刻に同じコメントが2つ別々のツリーに現れている。一つは当日の夕方6時枠のテレビニュース番組内容を意見交換する掲示板のツリーで、もう一つは、アイドルグループを応援する掲示板のツリー内に、前後話題の関連なく突然現れている。2つのツリー及びアイドル達の関連性は何もない。

 当然、黒川君はこの2つのコメントを書き込んだ先を辿るが、この二つのツリーが繋がっていてループを起こし、軌跡を辿ることは無理だった。この時点で、そんな高度な仕掛けができるのはVID脳の仕業だと考えるべきだったのかもしれないとバラテンさんは悔しがる。その時は、時系列を変えた中でよく起こるエラーだとぐらいしか考えていなかった。

 そして、同日の日付が変わる頃、「華族制度について考えてみる」というツリーがAちゃんねるだけではなく他の掲示板サイトでもツリーが続々と立ち上がる。それらの掲示板に意見を書き込んだ人は、全国でその日だけでも約3000人を超えた。黒川君はAチャンネルのサーバーにハッキングをし、この3000人超えの個人情報を手に入れたが、だからって、どうしようもない。掲示板に書き込む内容が極端に悪意に満ちていても、それが法に触れているわけでもなく、また住所名前等の個人情報が正確でないなんて当たり前で、何の役にも立たない個人情報の束になった。

「そして、このネット界の話題に目をつけた、TTNテレビが朝の情報番組で話題にすると、他の放送局で華族制度のあり方を否定する番組が流され、そのうちデモにまで発展した。このTNNテレビの放送が1月22日これは確定している。デモの発生は最初、銀座の中央大通りの歩行者天国に現れた。例のグレイの作業服とキャップを被りマスクをした約10人の集団が、カセットデッキから華族階級制度反対の音声を流して歩いたのが最初。これが1月29日。」

 その10人の姿を写真に撮り、フェイスラインに載せた物をプリンとアウトした用紙に凱さんがまた日付を書く。

 この10人が誰かであるかは判明していない。

「この後、デモは日本各地で発生。規模も大小様々、幸か不幸か警察の機動隊との衝突は今までに皆無。」

「警察が唯一動いたのは、精華神社の火事。焼け跡の実況検分から、ガソリンを撒いて火を放った放火と断定された。」

 火事のニュースをプリンとアウトした用紙を引っ張りだしてきて、凱さんは日付の所に大きく〇をする。

「火事が起きる前に、文香会長と麗香がデモの参加者らしき服装を来た人間二人とすれ違い、文香会長が倒れた。」

「会長さん、突き飛ばされたのか?」とバラテン。

「いや、違う。文香会長は心筋梗塞的なものだった、たまたま偶然、そんな変な服装の奴らと出くわして驚いたんだろう、それもさっき意識が戻って、もう大丈夫だ。」

「そりゃ良かった。しかし、そいつらは何が目的で、精華神社に居て、夜になって放火したのか?わからんな。」

「そいつらが放火犯だとはまだ警察も断定はしていない。しかし黒に近いと警察は捜査を進めている。精華神社が華族由来の神社だというのは公表していないにしても、家紋からわかる事だからな。」

「静かな新時代のデモと言われる割には、その件だけが突出してえらく過激な行動だな。」

「うん。文香さんと麗香に見られたから、焦って放火したってのはあるかもしれないな。」

「見られたから放火しちゃ、余計に犯人は自分達ですって言ってるようなもんじゃないか。」

「放火ってのは愉快犯もいるが、大体は隠匿目的だ。犯人たちは二人に目撃されて、何かをしていた事を隠したくて燃やした。と考えると。」

「蔵にあるものを盗んだのかもしれませんね。」と亮が発言する。

「守都さんが憔悴していた。華族会の歴史そのものと言っていい財産が失われたと。」

「そんな大事な物を放火するってことは、やっぱり華族制度を反対するやつらの仕業だな。」とバラテンさんの言葉に亮は、はっとする。

 そんな大事な物が、あの蔵に収められていると知っている人物、そして、文香会長が読み取った『華族を強く憎む者』が犯人。

 彩音が火傷を負ってまで守った書物は、精華神社の信家の出来事を記した江戸末期の頃の書物だった。他にももっと重要な事が書かれた書物が保管されていたに違いない。

 亮はまた京宮のライブ映像を見る。いやな感じがするが具体的には何も形作られず、気持ち悪さだけがジワリと佇む。

 亮が見ているスマホを指さして凱さんは続ける。

「このライブ映像は北朝鮮のサーバーを利用していると断定していいんだな。」

「9割方。」

「このライブ配信は、西の華族が始めたのかどうかは、まだ確認が取れていない。」

「いつ確認が取れる?」とバラテンさん。

「うーん。確認は取れるかどうか、取れたとしても時間はかかる。」

「はぁ?何故だ、身内の事だろう?」華族会内部事情を知らないバラテンさんは、責めるように凱さんに詰め寄る。

「色々とあってね。調べにくいんだ。」

 呆れた心情の顔をしてバラテンさんは首を横に振り、苦言する。

「しかし、北朝鮮のサーバー使うって完全に訳アリだぜ、普通にライブ配信するだけでは、こんなにも経由したりしない。」

 動画の視聴者数は200人足らずだった。 コメント欄には「華族って神皇家を世話する人達?」「無課税だから神皇の世話をするのは当たり前。」「巫女さん萌え~。」などと他愛もない文面が表示されては消えて行く。

 特に注目すべき楽しい事があるわけでもない、ただ儀式の準備をする人達が、神政殿フロアをウロウロしているだけ。作られていく祭壇らしきものも地味で、感嘆する物は何もない。

 それらの祭壇を設置しているのは、麗香を含めて華族の称号を持つ一族か神皇家の世話で京宮に従事している宮内庁職員のみ。

「華族会の中で、制度反対派の人が居るのではないですか?」と亮が言うと、

「俺もそれ、思った。」とバラテンさん。

「華族会の制度反対の人が、デモの首謀者達に華族の内部事情を流している。そしてカメラも設置した。と考えた方が、デモから始まる一連の騒ぎが押さえ込められないのも、しっくりいきます。心当たりはないですか?」

 それがわかれば、亮はその者に接触して加担すれば願いは叶う。

「華族会の中で?」凱さんは首を傾げて、首の後ろをかく。「制度が無くなれば、利潤が無くなるよ。称号にしがみつく者は居ても、称号が無くなる事を望んでいる者はいないと思うけどね。」

 バラテンさんとため息が重なった。

 亮は、年明けから今日に到る約1か月半内に、京宮御所内で行われた催事の一覧表を手に取る。年末に大掃除をしているはずだから、カメラが設置されていれば発見されて大問題になっていたはず。と言う事は、このカメラは年始からこちらの時期に設置されたと考えていいだろう。

 亮は見計らって、タバコを吸う仕草で意思表示をする。

「ちょっと外に出ます。」バラテンさんの家には灰皿が見当たらなかった。「ついでに、飲み物とか買ってきましょうか?」

「あぁ、頼む。ビール。」と凱さん。

「俺、コーラー。」とバラテンさんの予想通りの好みに、亮は内心で笑う。「悪いな、灰皿なくて。」の声掛けに軽い会釈をして狭い玄関から外に出た。

 もうすっかり日が落ちていた。住宅街独特の生活音に交じり、焼き魚の匂いが漂って来る。

 普通のランクが、周囲には大多数に漂っているっていうのに、自分は何故にそこに入れなかったのかと思う。確率論で言えば、亮の生まれた家の地位は一握りの頂点に近く、それに憧れ羨む底辺はごまんといる。そのひと握りという枠は、優越だが狭くて苦しい。

 大通りの歩道を歩く。車のライトが目に刺さり顔を背け手にした携帯で、宮内庁ホームページを閲覧する。新年の挨拶をスキップして京宮御所の催事予定の欄を探った。ご丁寧に、終わった催事は紹介と報告を兼ねて、別頁にリンクされている。神儀的な儀式は見るからに、一般人は入れないであろうと飛ばす。確実に民間人が出入りしてする行事は2つあった。一つは新春園遊会。去年、功績を残した著名人を神皇が招いて称える新年会の様な物。そして、もう一つは歌会。新春に和歌を詠む、新しい年を祝い平穏を和歌に願う式典。2つとも主催は宮内庁ではなく、内閣府主催で行われている。遠い記憶に、亮の祖父が参加している姿を、福岡の自宅で母と正座して見たのを思い出した。

 頂点に近いが頂点ではないジレンマ、それは底辺にいる者たちの、のし上がれないジレンマとは違って、悔しさは強く諦めがたい。 頂点が目に見えているのに届かないからだ。

 亮は電話のコールボタンを押す。

「谷垣さん、新たに調べて欲しい。」

⦅何でしょう、亮お坊ちゃん。⦆

「今年の京宮御所で行われた園遊会と歌会に参加した議員の中で、何かしら北朝鮮と関係のある奴を割り出してほしい。」

⦅・・・・北朝鮮ですか?⦆

「うん。北朝鮮国籍の親戚知人が居るとか、北朝鮮組織と何らかの関係があるとか、何でもいい、園遊会と歌会に参加した者の中で北朝鮮に少なからず関係を持っている議員を調べ出してほしい。」

 亮との会話は、無駄に明るい口調である谷垣さんが、声を落としている。今、あまり大きな声を話せない場所に居るのかもしれない。

「お坊ちゃん、あの国に関わるのはやめた方が。」

「関わるんじゃないよ、あの国と関わっている人間を知りたいんだ。」

「それを知ってどうするのですか。」

 谷垣さんも躊躇するか、だろうな、北朝鮮と関わる人間がいかに危険かつ、曇欲か。

「言っただろう、藤木家がトツプに君臨出来る起爆剤をプレゼントだと。」

「お坊ちゃん・・・。」

「嫌ならいいよ。谷垣さんに頼まなくても、金さえ払えばいくらでも調べてくれる奴は用意出来る。」

「わかりました。」

 有事が起きれば、皇制政務会が発足されて神皇の指揮下、華族会が内政を取り仕切る。内閣府は、国の指導をかっさらっていくような華族会が心底大嫌いである。

 制度を無くしたいと心底思っているのは、頂点が見えて届かないジレンマにもがく頂点に近い奴ら、に違いない。





 御帳台が無ければ、洒落た学校の体育館といった感じの大広間、床は白木のワックスで磨かれたフローリング、その板貼りは幾何学的に美しい模様で敷かれている。一つ一つの仕立てが美しいが邪魔しない調和と洗礼が織りなす。その大広間の中央に腰の高さの台が向い合せで八つ設置された。上から見れば八角形に並べられた会議机と言った所。その内側に、神皇家の家紋、天円一星が刺繍された絹布の衝立が置かれる。そして白衣紫袴を着た精華神社の守都様も含めた4人が、宝台を手に広間に現れ、八角に並べた各台に置いた。宝台の上には紫の布に包まれた何かが乗っている。その包みが解かれると「降神の光玉」が正式名の水晶玉が現れる。麗香は光玉に惹かれるように見つめた。

「4つも・・・綺麗。」と無意識に出た感情を拾った守都様が、麗香に微笑みを向ける。

「麗香さんは初めてでしたね。このような大きな儀式に参加するのは。」

「あ、はい。」

「八つの光玉が一堂に集まるのは、降臨祭だけです。」

「八つも?」

 8は華族の祖、神巫族の祈宗が拘る数字。

「八つの光玉は神皇家からの預かり物です。八つ揃って神器の一つとなります。」

 守都様は、光玉を左右から眺めてから手に取り回して置き、また左右と上から覗き込んで置きなおす。見つめていた麗香に顔を向けてにっこりとする。

「向きがあるんですよ。光玉には。」

「向き、ですか?」

「八つの光玉それぞれに違う特徴があります。さぁ、それは何でしよう。」と突然クイズを出してくる。

「えーと・・・。」麗香は向こうのテーブルに置かれた光玉とも見比べるが、わからない。「同じに見えるけれども、微妙に色が違うとかですか?」

「あー惜しいですね。正解は、宝玉のそれぞれに違う文字が1文字、刻まれているのですね。」

「え、文字?どこに?」麗香は驚いて目の前の水晶を覗き込む。

「普通に見ればわからない、水晶の真中心部に本当に小さな米粒のような文字が刻み入れられています。」

「うそ、本当?」

 左右角度を変えて見ても見つけられない。そんな麗香の動きを見て守都様が笑う。

「神器の一つである宝玉を、すべて神皇家が管理しないのは、揃っていればあまりにも光玉の力が強く、人に影響を及ぼすからと伝えられています。あまり長く見つめていると光玉の力にあてられてしまいます。」

「そうなんですか?」

「精華神社の社殿内は暗くして、神棚にはカーテンをして光玉を隠しているでしょう。」

「ええ、暗いなとは思っていました。」

「光玉の力を無駄に放出しない様にする為の目的もあるのですが、第一はお参りくださる方に影響が出ない様にしているのです。4つも揃っていると力が共鳴して増幅しますから、お披露目はこれぐらいにしておきましょうか。」と守都様は紫の布で光玉を包む。

 他の3つも布に包まれた。もっと眺めていたいと苛立つ感情が沸き起こる。これが光玉にあてられるということなのかと思っていると、守都様が心を見据えたかのように、苦笑する。

「どうしても見たいのなら、東京に戻って、また精華神社にお参りして下さった折に、お見せ致しましょう。」

「ええ、ぜひ。次のお参りが楽しみになりました。」

「さあて、麗香さん、申し訳ないですが、華族会の方の食事の用意が大変そうなので、お手伝いいただけますか?」

「はい。すみませんサボりがちで。」

「いえいえ、麗香さんは文香様の看病に次いで京都に来たのです。お疲れでしょう。」

「大丈夫です。体力は人一倍ありますから、あ、彩音ちゃんも、本当なら来る予定でしたか?」

「いいえ、あの子は耳が聞こえませんから ここに来ても、皆の足手まといになるだけです、元よりお留守番と決まっていました。」

「そうですか。」

(なんて勝手な、私。)

 彩音ちゃんと藤木が寄り添うのを見て、嫉妬して、みっともない八つ当たりをして、藤木をこの手で血を流すほどに傷つけたと言うのに、孤独に陥って、誰でもいいから仲間を欲しがるなんて。











 柱を背に、暗闇に慣らしていた目を閉じる。

 空を振るわす振動、くすぶる火薬と血の匂い、

 狂気に迫る死の音、銃弾まみれの壁。

 瓦礫に砕けた埃。

 五感の緩みが命を落とす、ここは、あの魂も乾ききった戦場。

『逝け、俺を見捨て、自分を見捨てるな』

 忘れられない仲間の遺言。

 助けられなかった人々の呻きが、ノイズとなり聴覚の感覚を邪魔する。

 無風の空気が手足の体温を奪う、気温2度。

 呼吸の間隔と量を徐々に減らし、自分の周りにある空気に振動をさせないように抑え込む。

「相変わらずぞっとする。その気配の消し方。」

 後ろ手に拘束された体をひねりにくそうに凱斗に向けた前島さんが囁く。

 目を開ける。後ろ手に手錠をかけた前島さんが凱斗の盾として立つ。人質となっても、その佇まいは30年あまり自衛隊に身を置いてきた存在感は色濃く。

「そうして俺の気配を乱して、助けを求めようたって無駄ですよ。」

「褒め言葉を素直に受け止められない捻くれ者。」

「人質は人質らしく言葉も出ないほどに怯えてもらわないと。」

「人質になったぐらいで怯えるような政府要人なら、大した仕事も出来ん無能の税金泥棒だ。民の為に命捨てる方が価値ある駒になる。」

 凱斗は苦笑する。

「そう言う事を平気で言うから、幕僚長になれないんですよ。」

「幕僚長などなりたくもないな。将官補ですら嫌だったのに。」

「やっぱり、それらしく、その口に猿轡を噛ませるべきでした。」

「その無駄な慈悲がお前の足元をすくうのだ。ふははは。」

 前島さんの笑い声が廃墟となった商業施設1Fのフロアに木霊する。これで完全に場所を特定された。

 これが部屋の一室であれば、奴らは窓から催涙弾を投入して、可能な侵入経路から一気に攻め込んで来る戦法を使うだろう。そのありきたりなシチュエーションは飽きるほどにやった。だからわざと戦略を組みにくい場所を選んだ。

 ここは無駄に空間の広いフロア。元は何かのイベント会場にでも使おうと計画していたのか、それともここが商業施設のメイン玄関ロビーとして予定していたのか、廃墟となってしまった今ではわからない。

 馬鹿な議員が地方活性化を掲げ、知名度と地元有権者の声を吸い上げ、高速道路建設を誘致した。それと同時に癒着のあった地元建設業者が複合ショッピング施設の建設を推し進めた。道が出来れば人は集まる、ノウハウもない安易な計画は、原発事故の影響で日本経済鈍化のあおりをまともに受け、資金繰りに失敗した地元建設業者はあっけなく倒産した。おまけに復興事業優先の制令により高速道路計画の大幅な見直しと変更も行われ、後を引き継ぐ企業誘致もなく建設途中のまま放置される事となったこの場所。外構基礎工事だけが完成された中途半端な建造物と駐車場を含む敷地だけは馬鹿広いここを、防衛省が都心部の各機関の演習場にすべく買い取った。

 群馬県の山中、都心から高速道路で直通の利便性はある。周辺に住宅街や学校などもなく騒音苦情の心配もない。だからこんな真夜中での訓練も遠慮なしに出来る。

「もう、訓練にならないじゃないですか。」

「皇華隊が出動する時は、事がすでに手に負えなくなった時だ。捜索段階なんて終えてる。」

「まぁ、そうですけどね。」

「それに、おしゃべりな人質ってのも時には居るかもしれん。」ニヤリと日焼けた皺で破顔した前島さん。どこまで真面目か、不真面目な人なんだかわからない。

 京都御所のリアルタイム動画の追跡が失敗して眠ってしまった黒川君は、2時間ほどで目覚めたが、脳の安静の為に明日の朝まではVID脳を使うなとPCを触る事も禁止した。前回と同じように、4人で駅前の中華料理店で晩飯を食い、藤木君はまた言葉少なくどこともなく消えていき、黒川君も家に帰ると彩都市に帰って行った。

 凱斗は昼間、前島さんとの話を途中で投げ出し病院に駆け行った為に、皇華隊に顔を出すことができなかった。

 昨今のデモ、華族制度に批判的な世間、不測の事態を懸念した前島さんが、この訓練を計画立て、凱斗は戻り参加することになった。

 想定は、『内閣府庁舎を襲う大規模テロが発生、警察による警備応戦はテロリストの過激さから太刀打ちできず、即時皇制政務会が発令されると同時に、皇華隊の出動要請が入る。警察との連携応戦は混乱を極め、チーム隊長の凱斗は先陣を切っての応戦で負傷し、早々に現場を離脱、政府要人を人質に取ったテロリストは、ショッピングセンターに逃げ立てこもる。テロリストによるジャミング行為により、神皇指揮下の前島司令官とは連絡が取れない。政府要人の保護とテロリストを拘束せよと言う神皇勅命は継続中。』

 凱斗はテロリスト役、前島さんは政府要人の人質役である。

 さて11名の皇華隊のメンバーは指揮官なしで、どこまでやれるか?今日の訓練は夜間を利用した機動力をも見極める。











 まどろむ夜景、ビルの屋上で赤く光る航空障害灯の点滅を38まで数えて、馬鹿馬鹿しくなってやめた。何も考えない、無を意識する為に数え始めたのに、必死に数を意識して無から遠く離れていく状態に疲れ、目を瞑る。

 程よく沈むこのソファは、体は休まるも、反対に神経が尖っている自分の意識を自覚させられる。

 柴崎家に出入りするようになってから、まともに眠れない。麗香の責めた怒りが亮に休むという癒しを許さなかった。

 藤木家がどこかで神巫族の血が入った事を証明するために、翔柴会を手伝いながら柴崎家に仕える事にした事が、思いのほか麗香に不快感を与えた。麗香の恋心がまだ自分に向いていると自惚れ過ぎた誤算である。

 麗香は純粋な気持ちよりも、柴崎家の未来を優先した。それは間違いじゃない。だから、文香会長も何も言えない。間違いのない柴崎家安泰への道を、麗香は進みゆく。

 スーツ内側で、バイブ振動をするスマホを取り出した。目を瞑ったまま着信。

「はい。」

「亮ちゃん、いつもありがとう。」銀座のクラブのママからだった。その声だけで性欲を刺激させられる。

「いいえ。」

「亮ちゃんの言う通り、あの子駄目ね、出勤して来なかったわ。」

「やっぱり、だから、ずっと言ってただろう。」亮は忍び笑いをする。

「そうね。」

 昨日、店のルールを破って、指名じゃないホステスを一人お持ち帰りした。それを許されるのは、亮がその店に出資しているからである。眠れない夜に、性欲だけを満たすのに選んだ瑠奈は、都内のホテルへと連れ込むと、「もうこれで藤木さんは私の物」と勘違いした。身体を売り物に出来ると考えているホステスは、知的な話術がなく一流にはなれない。

 ホステスの本心が手に取るようにわかる亮は、ホステスとの会話の相槌が上辺だけなのか、それとも中身を伴う知性の間合いなのか、判別する事が出来る。会員制の高級クラブの客は、経済を担う要人が多く訪れる為、ホステスはただ横に座り、お飾りに色気を出していればいいってもんじゃない。客の話を理解し、口をはさんで良い時、悪い時、相槌の間合いを判断できる頭脳が必要。もちろん酒を出すタイミングと、タバコの火をつけるタイミングなども最適でなければいけない。一流のホステスは容姿が綺麗だけではだめなのだ。亮がその店に出資して出入りし、ホステスの思考を読み取りアドバイスをすると売り上げは格段に上がった。ママから「夜の街のプロデュース業をすればいいのに」と言われた。確かに自分にはピッタリな職業かもしれない。

「これで、無断欠勤を理由に、首にするきっかけになったろ。」

「ええ、ありがとう。でも、また一人雇わなくちゃいけないわ。」とママは色艶のあるため息を吐いた。「最近、器量よしの子、なかなか居ないのよねぇ、亮ちゃん、誰か良い子知らない?」

 ふと、麗香の顔が浮かんだ。麗香なら物怖じしない技量と、社交界で磨いた話術、間合い。DNAに刻まれた気品と美貌を持っている・・・・亮は首を振ってその妄想を消した。

「居たら、とっくに俺が物にしてるよ。」

「あらやだ。そうよね。」

「まぁ、見つけたら連絡するよ。」

「ええ、ありがとう。」

 切った携帯電話をテーブルの上に置き、頼んだレミー・マルタン25年物のロックを手に取り口に含む。スパイシーな香りが鼻に抜け、酸味の力強いコクが舌を潤す。

 ママは、亮が童貞を卒業した相手だ。13の時、寮の封鎖期間中にホテルで滞在していた時、早朝ジョギングに出た才、酔いつぶれていたまだ22歳だったママを介抱したのがきっかけで、最終的にそうなった。あの頃の淡い思い出がよみがえる。何故かママとはあれ一回キリでセックスする関係にはなっていない。完全にビジネスだけの関係だ。

 ふと、人の気配を感じて顔を上げる。ガラス張りの夜景を遮る影。亮はその影を睨みつける。この店の売りの夜景ビューを壊すその影は、亮の後ろから前へと回り込んで、ソファに腰かけた。

 谷垣さんが一礼をして亮の後ろに控える。

「亮さま、申し訳ありません。守先生に全て知られてしまいました。」

「谷垣さんが責任を感じることはない。」と言ってから亮を真っ直ぐ見据えてくる。「私に秘密裏に赤城代表とコンタクトを取る事など不可能。お前もわからなかったハズはない。私を試したか?亮。」

 亮もまっすぐ見据えた。何年ぶりだろうか、父とまともに目を合わせたのは。

「安心したよ。日本の官房長官が脳なしの盆暗じゃなくて。」

「亮さま!」

 亮の嫌味に、憎しみに近い感情が沸き起こってくるのを読みとる。だが谷垣さんが声を上げると、その憎しみは沈静する。

「今更何を企んでいる?政界を嫌い、藤木家から逃げたお前が。」

「谷垣さんに聞いたんじゃないのか?不甲斐ない息子から親孝行の恩返しだと。」

「華族制度否定派と北朝鮮に関わる人間を探し出す事が、か?」

「あんたも疎ましく思っている。事があれば華族会が政界にしゃしゃり出て来て、内閣府より上に立つ。どんなに藤木家が財に物を言わせ権力を得たとしても、華族の称号を持つ一族より上に立つ事は出来ない。」

「何を言う、それが私の本心であっても、華族の称号を持つ一族がこの日本を支えて来たのは事実だ。それがなければこの日本は、アジアトップの経済先進国にはならなかった。」

「そうかな、この日本を牽引するステータス企業、帝証一部に上場する時価総額ランキング100位の中で、華族の称号を有する企業は、製鉄の帝鉄工業株式会社と土木建設の大橋組の2社だけ、造船の御田財閥でさえも、126位だ。ランキング500位まで広げると確かに称号持ち創業者企業の数は増えるが、それでも割合は全体の約5パーセント。それでこの日本を支えていると言うのは、ちと称号の上の傲慢じゃないのか?」

「称号の上の傲慢だと言うお前は何をしている。華族の称号を持つ柴崎家に入り、執事の様に仕えて、」

「頭を下げている。だからわかったんだよ。華族はもう時代に合わず、弱体化している。」

 相変わらず、『わからない、どうしてこんな子が、我が子なんだ』と悲観する父の心中。

「1768年枇杷の薬種製造売りから始まった藤薬堂、創業250年を超えた今は時価総額ランキング85位のフジ製薬株式会社となった。製薬事業の実動権を親族に分配し、監督管理資金と称し財を巻き上げ、武家から奪った不動産資産と人脈を元に、更に飛躍した藤木家本家は、内閣総理大臣を輩出し福岡の博多ではその名を知らず者は居ない名家と呼ばれる。華族の称号を有する68位の帝鉄工業に時価総額は負けてはいるが、政界に物を言わせられるステータス企業は、わが藤木家が監督するフジ製薬株式会社だけだ。」

「藤木家は、政界で企業権力を振りかざしたりはしていない。逆もしかり、フジ製薬株式会社と政界の威厳は別物だ。祖父の代からな。それをして生き残れるほど政界は甘くはない。」

「ははは、綺麗ごとだな。」

 亮は乾いた笑い声をわざと出した。

 半信半疑だった亮の能力を、改めて身に覚えて嫌悪した心に動揺する父。その保守的な器の小ささが鼻につく。

「フジ製薬からの政治献金がまったくないと?フジ製薬の労働組合の組織票が全くないとでも?フジ製薬の新薬承認に厚生労働省との癒着がないとでも?」

「亮さま。」

 谷垣さんが亮の後ろで慌てた様子におろおろとする。観葉植物の植え込みで仕切られたスペースだが、あまり大きな声を出すと他者に聞こえてしまう。閉店間近のホテルのラウンジには、数組の客が亮たちと同じく窓際のスペースに居た。

「毛嫌いして逃げた割には詳しいじゃないか。」

 腐った国会で投げられる野次罵倒を跳ね返してきただけはある。亮の諫言を何事もなくかわす。

「内情は、吐き気を及ぼすほど、この眼で読み取って来たんだよ。藤木家、本家の長男としてな。」

「・・・ただの臆病物だな。」

「何!」

 父の嘲け貶す本心が、亮の心にズシリと沈む。

「人の本心を読み取る力、そんな力がなくても、人の裏表など生きていれば誰でも味わう。お前のその力は、それを事前に知り得る

能力だ。傷付く前に回避できる能力を持ちながら、立ち向かう勇気もなく逃げ、知った風を豪語する。」

 反論できない。父の嘲ける本心が黒い妬みに変わった。

「臆病で結構だ。あんたが柵に縛られて出来ない事を、俺がやってやろうってんだ。あんたは羨ましいんだろ。俺のこの能力を。何故自分には能力が宿らなかった、と。」心中を読まれる不快感と驚愕に、恐怖すらも湧き起るのを読み逃さない。「利用しろよ。頭を下げて願い出りゃ、いつでも読み取ってやるぜ、全議員の内なる邪悪なしたたかさを。」

 軽く唾をのみ込んで動揺した心を落ち着かせた父。

 流石に取り乱したりはしないか。

「必要ないな。能力がなくても、私は逃げずに藤木家が築いた物を継いできた。逃げたお前の力など必要ない。」

 必要ないと言う言葉が思いのほか亮の胸に突き刺さる。

「お前は百様を知って一様を知らない。安易に世間の風潮に乗る事がどれだけ危険かを。」

「どっちが臆病者だよ。名前の通りいつまでも守り続けるだけか?だからあんたは、爺さんを超えられない温室育ちの二世議員だと言われるんだ。」

「亮さま、言い過ぎです。守る事も立派な成果です。守先生はどれだけ」

「父を超える事が必ずしも良い政略になりはしない、藤木家の行く末もしかりだ。」

 柴崎家と同じだ。文香会長も信夫理事長も、敏夫理事長もあの凱さんでさえも、前会長の柴崎総一郎の力を超えられないで、築いた歴史に傷がつく事を恐れ、抱え込んでいる。

「成功者は、世の流れを読み取り掴む事に長けている。嘆くのは時代の変化に取り残された者。今がチャンスだ。」

「・・・。」

迷いが生じたのを確実に読み取った。しかし、臆病にも怖さの方が勝っている。やっと官房長官にまで上り詰めた。父はそれで充分だと思っている。名はその者を表すとは良くいったものだ。

「まぁ、いいさ。あんたは黙って守っていりゃいい。それも大事な役目だ。俺がやってやるよ。次なる藤木家の躍進を。」

「何をする気だ。」

「民の求めに応じるのが政治家の仕事だろ。」

「華族制度は、明治の改革時に神皇が作った制度だ。それを批判するのは神皇に楯突く事と同じ、お前はお爺さんの教えを忘れたのか?」

「突くのではなく、盾になるんだよ。」

「盾?何を言っている。」

「民の不満は、まだ華族にしか向けられていない。このまま行き過ぎれば神皇にまで及ぶ。神皇に及ぶ前に華族はやり玉となって崩壊してもらう。すれば華族会になど横取りされない政務が出来るんだ。」

「何を馬鹿な事を。」

「馬鹿な事じゃない。歴史が繰り返されるだけさ。」

 動揺も高揚もなく、眉間に皺を作って亮を見据える父は、静かに立ち上がった。

「柴崎家で何を知り得たか知らないが、私を動かしたいなら、まず、逃げた本意に誇りを持ったらどうだ。お前が嫌う藤木家の権力、財力、人脈を使わずに政略を語れたら、思慮する。」

 立ち去っていく父の背中を、亮は刺すほどに憎々しく睨みつける。

「亮さま・・・・守先生は、亮さまの事を思って、」谷垣さんが宥めるように亮の肩に手を置いた。「跡を継がない亮さまを悪く言う一族からの責問を、いつも庇っておいでです。守先生は何時だって、あなたの」

「もういいよ、谷垣さん。」

(逃げた本意の誇りだと?)

「亮お坊ちゃん、また、いつでも御用命下さい。爺はお坊ちゃんの世話を何よりの喜びとしています故。」

 静かに頭を下げて、父の後を追う谷垣さん。谷垣さんは、父が成人した時から相談役として就いた議員秘書だ。亮が生まれて、忙しい両親の代わりに面倒を見てくれたのは、成り行きであって、谷垣さんの善意によるもの。爺やなんて呼ぶのは失礼なことだった。それでも谷垣さんは「爺やとお呼びください」といつも笑っていた。

 握った拳をテーブルにぶつけ椥払う。飲み欠けのレミー・マルタンが派手な音を立てて倒れ、手を濡らして飛び散り、床に転がり落ちる。完全に八つ当たりだ。

「お客様、大丈夫でございますか?」

 明らかに亮の破天行為であるはずなのに、流石は一流ホテルのボーイは客を責めたりせず、客の身や衣服の心配をし、お手拭きを差し出してくる。その生ぬるいやさしさが神経を逆なでした。

「構うな!」

 何が残る?藤木家の権力を脱ぎ捨てた自分は。

 このくだらない能力だけか?

 これも、どこかからの古の血筋から由縁だとしたら、自分だけで会得した物は、何一つない。












 一時の方位2階の壁向うに、射撃の名手である落合が隠れた。その右、両サイドを専門店の店舗に挟まれた通路の暗闇に3人の隊員が潜む。対の左の専門店街通路の暗闇9時の方向も、3人の隊員がこちらの様子を伺う気配を感じ取る。そしてその左の2階に一番厄介な射撃手、久瀬が配置している。久瀬はロングライフルの名手、800メートル先のビール缶を正確に打ち落とす事が出来る。最高は1200ヤード約一キロメートルの記録を出したことがあるが精度を欠き、何度も出来るわけじゃない。どんな条件下でも的確に狙えるのは800メートルが限界だ。その久瀬のいる方位からの防御盾として、凱斗は前島さんを立たせていた。

 隊員たちは射撃手二人をワンマン配置にし、残りをスリーマンセルにした模様、残りの3人は屋上にでも待機しているだろう。優等生な配置に、今、隊を指揮しているのは二階堂だと察する。

 ガラスがない吹き曝しの玄関から、冷たい空気が忍び込んでくる。その寒さに前島さんが身震いしたのが合図のように、それは始まった。右、暗闇の奥からゴォーという耳障りの音が闇の静けさを破る。久瀬からの狙いからずれない様に、音のする方へ銃を向ける。暗闇から現れた音の正体は、荷物を運ぶ台車。何が入っているかわからない段ボールを2つ載せた物が、無人でこちらに押し出されてくる。

 凱斗はにやりと笑った。教えた事をきっちり会得している。支給配備された物資だけが武器じゃない。周りの状況化にある物を利用する事を常に考えろと半年前に言った。それは物だけじゃなく気象、自然、動物、昆虫など、周囲にある物すべてを含む。その思考がミッション成功、もしくは生存の一運を上げる、と。

 段ボールの影に誰も居ない事を確認した目の端で、1時の方向の落合が、壁から身を這い出しライフルを構えるのをとらえた。 

 元々、ピストル射撃を得意とし、オリンピックにも出場する腕前を評価しての皇華隊抜擢の落合は、ライフルは苦手で、だから、こういう実践では銃身の長いライフルを持て余し動作が大きくなる。容赦なく凱斗は落合に銃を発砲した。

 落合は頭を大きくのけ反り、反動で壁に背をぶつけた。凱斗が使用しているのはゴム弾だ。隊員たちが装填している弾はペイント弾。凱斗だけ卑怯か?とんでもない。防弾チョッキに当たるゴム弾の衝撃に耐える事も訓練の内だ。今は11対1の演習だが、本当に対テロリストとなると、多くのテロリストの対峙も想定しなければならない。今日はテロリスト役が凱斗一人だから、すぐに銃撃を受け死ぬ設定にすると練習にならない。しかも今日の命令は、テロリストの拘束で殺傷ではない。

「へたくそ。」人質の前島さんが凱斗を叱咤する。

「自分は狙撃手ではありませんでしたから。」

 防弾チョッキのある腹を狙ったつもりが、落合の頭のヘルメットに当たってしまった。落合はこれで戦闘不能。隊員たちは、頭と心臓部に一発あたれば、その時点で戦闘不能で訓練停止のルールだった。その他の場所に当り、衝撃の痛みに耐えて動けるようなら戦闘続行してもオッケーだが、すぐには戦闘復活できる程の防御力が、チョッキにはない。ゴム弾と言え当たれば息が止まるぐらいの衝撃だ。ライフル銃の貫通を防ぐ防弾チョッキも存在はするが、重量が重く機敏な動きが出来ない。皇華隊に採用されているのは、今凱斗が使っているマグナムがロング距離で当っても貫通しない程度で、至近距離で当たれば貫通して死ぬ程度の弱い防弾装備だった。

 正面、ガラスのない窓からロープ落下の隊員が3人勢いよく突入してくる。息をつかせない連携の連続攻撃。これも前に指摘した課題をちゃんと改善してきている。一番先に飛び込んで屈んだ体制で足を踏ん張り、凱斗に向かって来ようとしている小沢にすかさず銃をぶっ放した。弾はやっぱり狙った肩には当たらず、足のすねの防御当てにあたり、小沢は足を抱えて悶える。

 無理に体をひねって銃口標準を変えた為、盾代りになっている前島さんから少し体がずれてしまった。握っていた前島さんの後ろ手の手錠を引き戻し、頭をひっこめる。と同時にバシュッと言う音が凱斗の後ろの壁に音がして、黄緑色の蛍光ペイントが光る。

2階の久瀬が舌を鳴らして悔しがる気配がする。

「ったく、損な役回りだぜ。」

 前島さんの無駄口に答えている余裕がない。久瀬が狙う弾道を気にしながら、正面から飛び込んできた残り二人にもすかさず銃を撃ち込む。狙わずに撃てば、今度は綺麗に胸と肩に入り、二階堂と田島はその衝撃に悶えうずくまる。田島が戦闘不能。

 シュポンと負抜けた音と共に、黒い物体が足元に転がり込んでくる。

 催涙弾。

「おいおい、勘弁してくれよ。俺の事も考えろ!」と口先だけの悲願する前島さんは、長年過酷な訓練を重ねて来た自衛隊幹部、催涙弾の薬液に鼻と目は慣れて、少々の刺激には耐えられる体だ。

 自白剤や麻薬、毒が効かない体の凱斗は、煙塵には弱い、だからタバコを吸うと咳き込む。催涙弾にも耐える訓練を施されたが、何故かこればかりはE2兵レベル並にしか鍛えられなかった。一度吸い込むと咳が止まらなくなる。そんな凱斗の体質を知ってか知らぬかの攻撃だが、こういうシチュエーション時の催涙弾は、珍しい戦略でもなんでもない。催涙弾の構造を知っていれば簡単に攻略できる。催涙弾の薬液発火にはタイムラグがある。催涙ガスが噴き出すまでに少しの猶予があるから、すぐに蹴るなり拾うなりして返せば、反撃の武器になる。転がって来た催涙弾に蹴り入れたが、力が入り過ぎて大きく上空に上げてしまった。上がった上空で催涙弾が破裂した。瞬間、当たりが白く視界を遮った。催涙弾と見せかけた閃光弾だった。完全に目をやられた。久瀬が銃口を構えなおす音の気配に、凱斗は前島さんを押し、感覚だけで柱の陰に隠れた。

「あーあ、人質死亡。第一ミッション失敗。」

 前島さんの胸に光る蛍光塗料。久瀬は確実に心臓を狙い撃ち落とせたが、人を間違っているようじゃ話にならない。しいて擁護するなら、隊員たちの被っているヘルメットは光が遮断するサンバイザーになってはいるが、閃光弾の光をシャットするほどの効果はない。だから、凱斗と前島さんを間違えたのも無理はない。それに、閃光弾なんて物は夜間に空高く打ち上げ、テロリストの配置を確認する為のもので、テロリストを一時的に戦力ダウンさせるには催涙弾で十分。敵も味方もダメージを食らう閃光弾を低空で使う戦略は無意味だ。あえて、この戦法を使ったと言う事は、これは随分前から凱斗に報いる為に考察した戦略なのだろう。

 憎まれ役が居ると、仲間は必然的に団結力を高める。学校内でのいじめ現象と同じだ。わざと、その憎まれ役を凱斗が担い、隊員たちを鍛え上げてきた。こうして卑怯な戦略を考察するまでになるほど、それは凱斗が望む形だ。

 人質役が死んでもテロリストの拘束命令はまだ継続中である。人質が死んだ事で凱斗は逆に自由に動けるようになった。

 まだ黒点が目の中に広がっている視界で凱斗は、ロープ落下してきた隊員たちの位置を確認する。3人は柱に隠れる凱斗に銃口を向け、間合いを詰めて来ていた。台車へと走り飛び乗り、通路の方の暗闇に移動する。暗闇に目をさらして黒点を消す目的もあり、久瀬の狙いからは外れる為でもある。しかし、こちらには待機配備している3人の隊員がいる。当然に撃って来たが、実践を積んだ凱斗は、難なく交わし、台車に乗せてあった段ボールに蛍光のアートを作っただけだ。撃ち込まれた銃の軌道予測で残り1発を撃った。左の店舗入り口になっているくぼ地にいた隊員の呻く声が聞こえた。

 残る二人、一人はかなり奥に待機している。医療特務の臼井さんだろう。医療特務はなるべく後方援護に徹し、誰よりも怪我は許されない。一応の格闘訓練をしているが、防衛術を主に訓練して攻撃に回ってこないので、数のうちに入れなくて大丈夫。それより一番厄介な相手がいる。右前方先で構えていた銃を持ちなおし、椥倒すように振った男は、格闘技が専門の藤浪、段ボールが横に吹っ飛んでいく。後ろに飛び、台車から降りた。藤浪は台車を凱斗へと蹴り戻す。だが、勢いがあり過ぎて、台車は跳ねて斜めに倒れスライドしていく。手に持っていた弾が空になった銃を藤波に投げつけた。銃はもう一本ある。藤浪は銃をガンと銃身ではねつけ避けると、すかさず凱斗にとびかかって来た。

 学生の頃、柔道選手権で優勝経験ある藤波、接近戦に成らした体は軍隊格闘をすぐにマスターし、陸自の中では敵なしと言われるまでになった。重量級の格闘戦術に対して、自分は空手で鳴らした軽量級の格闘戦術、微妙にスタンスの違いがあり、お互いに組手がやりにくい。と言うより、組まない方が得策だ。藤波が銃を剣道の竹刀のように打ち付けてくるのを、咄嗟に右の腕で受けた。プロテクターがあるとはいえ、重い衝撃に唸る。暇なく、次の一撃、辛うじて避けたが、体勢を崩した。崩した態勢を利用して、這うように藤浪の脇をすり抜けて駆け出した。藤浪は、突進してくると身構えていた。その勘違いが一瞬の遅れをとる。逃げるのも作戦の内だ。玄関フロアから、復活した戦闘できる二人が追ってききていた。

 走りながら腰にさしているもう一本の銃を取り出し、左の階段へ向かう通路へ飛び込み迎撃。流石に無謀に追銃してくることはしない隊員たち。フロアから追いかけて来た小沢と二階堂と藤波とで新たなスリーマンセルの配置へと動いている。

 中々優秀な動きだが、型通り過ぎる。凱斗は3Fまで駆け上った。内装工事途中のフロアには沢山の資材が点在している。不織布がまかれた反物をみつけ、凱斗はにやりとした。それを持ちあげると藤波の銃を受けた腕に激痛が走った。痛みがあるのは生きている証拠だ。凱斗は自分にそう言い聞かせ、痛みを我慢し、その反物を持って階段へと戻った。まだ一階中腹で周囲を気にしながら慎重に上がってくる三人。確かに階段は逃げ場がない上に、上部からの狙撃に注意しなければならない要警戒な場所だが、用心過ぎるのもいかがな物か。相手は凱斗一人だとわかっているのだ。この場合躊躇せずに追いかけ間合いを詰めた方が、相手にこうした作戦の隙を与えない。

 凱斗は三階の上り口に不織布の反物を置いて伏せて待った。そして三人が二階の踊り場に来たタイミングを見計らって、反物を転がした。驚いた三人は銃口を反物と凱斗へ向け発砲。しかし角度的に凱斗には当たらない。凱斗は匍匐後退してから立ち上がり、壁を背に下の様子を覗く。三人は階段に敷かれた不織布に滑り、登れない。

「くそっ何だよ」と悪態ついている藤波の胸を狙って撃った。流石にこの至近距離では外さない。藤波は唸りうずくまった。

 小沢と二階堂が伏せて銃口をこちらに向けるが遅い。凱斗は立て続けに二人へと発砲。小沢は頭に当たり、二階堂は腕に当たって銃を落としている。

 凱斗は翻して三階へと昇り切った。

 この建造物は3階までで、このまま階段を上がれば屋上に、フロアを突っ切れば隣の立体駐車場に繋がる。駐車場と屋上に抜ける扉はもう破壊されてなく、風が吹き抜け、より一層の寒さが身に染みる。足元に風に乗って流れ着いた枯れ葉が、狂ったように舞い廻っていた。凱斗は駐車場へと向かう事に決める。駐車場には、訓練の一つで、何台もの車が散在されて放置されている。

 11人のうちまだ4人しか戦闘不能にしていない。スリーマンセル主体で配備しているのなら、まだ一つ潜んでいる組がいる。凱斗は駐車場へとつながる連絡通路前の柱を背に、銃をすぐに構えられる姿勢でしゃがんだ。気配を消して目を瞑る。

 状況は自然が教えてくれる。自然を味方につけろと教えてくれたのはマスターだ。風に乗ってくる音が、気配を消し切れていない久瀬たちの行動をあからさまにする。二手に分かれて追いかけてきている。二階堂が階下から階段を上がってくる。久瀬は三階のフロアで赤外線スコープで凱斗を探している。久瀬の後ろには臼井さんもいる。と言う事はこの先の駐車場に3人が潜んでいるが、風向きが駐車場へ向いて吹いているので図れない。凱斗は気配を消したまま目を開け、静かに立ち上がった。20メートル程の通路。ここが一番待ち伏せしやすい最警戒場所だ。ここを通るのは命取り、だから二人はここに追い込むように向かってきている。凱斗は背を柱につけたまま、横移動して通路へと踏み込んだ。先の暗闇から銃声、凱斗の脇を掠める。銃を口にはさみ窓のない通路のへりを飛び越え、2階の連絡通路に降り立った。上階で慌てる気配多数。言葉を発せずにいることは評価できるが、気配を消す訓練をしないとダメだなと思うが、こればかりは中々訓練で身に着けられるものじゃない。実戦で、本当に命の危機が迫る状況を経験しないと無理だ。

 凱斗は堂々と2階の通路を歩いた。3階に集中配備しすぎだ。

  遠くで獣が鳴いた。足を止める。

  風に揺れた枝がスローに見え始めた。

  空気の振動がびりぴりと肌を刺す。

  聞こえる。くすぶる木々がはぜる音。

  臭う。鼻をつく硝煙の焦げた空気。

  苦る。ざらつく砂混じりの舌。

  それは生死を決める研ぎ澄まされた感度。

  そうだ、ここは戦場。

  瓦礫の下敷きに動かなくなった腕、

  吹き飛ばされて、あるべき場所にない足、

  ありえない方向に向いた首、

  煙が上がる炭と化した黒こげの胴。

  折り重なる無数の死。

  死、死、死、死、死。

  見開いた眼は真黒な空洞の地獄への入り口。

  開いた口は声なき無念の叫び。

  唸る声。

  足元に這いずり迫る白髪の男。

  腰から下がない。内臓を引きずっている。

  しがみつく男から逃れようと後ずさりしたが、

  しかし、白髪の男はがっしりと凱斗を掴んで離さない。

 【騙したな・・・・我々を犠牲にして。】

  白髪の男が顔を上げ訴え続く。

 【・・・何故お前が生きている。】

  ここは、アフリカのサーラダ・アルベールテラだ。

 【死にたいと願っていたお前が。】

 【僕たちは聖なる犠牲。】

  凱斗の後ろでしがみついている子供が笑う。頭は半分吹き飛ばされてない。

 【僕たちは聖なる犠牲。】

  子供の高い声が反響し繰り返す。

  息ができない。

 【凱ちゃん。】

  新たな気配に顔を上げた。

 【凱ちゃん、どうして、迎えに来てくれなかったの?】

  にっこりと笑う里香。

 【ずっと待っていたのに。】

「里香・・・。」

 【凱ちゃんが迎えに来るのを、】

  里香の口からは血があふれ出て、咳き込む。

 【里香は、待って・・いたの。】

  血にまみれた里香の顔が見る間に痩せ、骨だけになる。

「里香。」

  白くて小さな頭蓋骨。

  手を伸ばしたが、里香は海に沈んでいく。

 バシュッと胸にあたる衝撃。

 触れるとねっとりと赤い物が、止め処なく流れ出る。

  血、血、血、血。

 あぁ・・・やっと死ねる。

 里香、やっと迎えに行ける。

 待っていて。













「これも可愛いな。どや?」

「あのさ、さっきから、着たり被ったりして見せるけどさ、どうコメントしろってんだ。」

「さらたんはな、俺似のめちくちゃ可愛い娘やねん。俺が似合う物は全部似合うんや。」

「あっそ。」

 遠藤はコアラの帽子、いや、もう帽子と言うよりぬいぐるみと言っていいほどの、遠藤が可愛く見えるかどうかは置いといて、子供用の帽子をにやけた顔で被っては鏡で確認し、悦に入っている。

「遠藤さん、まだ買うんですか?さらたんのお土産はもう十分じゃないですか?昨日もカンガルーの衣服をいっぱい買ってましたよね。」

「子供の服は何着あっても良いねん。」

「あれは服と言うより着ぐるみだろ。それに、それを被れるって何年後だよ。」

「子供はすぐに大きくなるねん、見ろ!昨日と今日、もうこんなに大きくなって。」

 遠藤は売り物の帽子をかぶったまま、尻ポケットの携帯取り出し、待ち受け画面にしている娘の写真を印籠の様に見せる。

「それ、アングルの違いで、大きく見えてるだけですから。」

「あぁ、さらたん、パパはあと少しで帰りまちゅからねぇ。」

「キモっ。」永井と顔を見合わせて肩をすくめた。

 遠藤は2か月前に子供が生まれたばかり。その遠藤は、日本代表選抜のエースキャプテンとして高校時代から日本のサッカー界を牽引している。高校1年の冬にサッカーの本場ブラジルのリオ・サントスFCに留学入門し、そのまま海外のチームでプロ契約するのかと思いきや、三年の全国大会には一時帰国して慎一とリベンジの戦いをしている。帰国後、大阪のFCガンツと言うチームに入り、慎一が所属していた帝都ベガルティとは東西対決の最大のライバルとなった。遠藤が所属するFCガンツ大阪が先にチャンピオンシップを取り、次の年は帝都べカルディが取る。チームとしても互角の勝敗の後、慎一がアイルランドのチームと契約をした事で、勝負の行方はお預けとなる。遠藤にも海外チームとの契約の話が来ていると聞くが、海外移籍をするとは一度も聞かない。

「お前ら、子供はいいでー、試合で疲れた体も、子供の顔を見るだけで吹っ飛ぶ。、な、早く子供作れ。」

「まだ結婚もしてねーし。」

 中学時代から付き合っていた同級生と22歳で結婚した遠藤。サッカー選手はその選手生命も短いからか、結婚も早いのが多い気がする。食事や体調管理に気にかけて生活しなければならない面倒を、妻に任せてしまいたいのが男側の本音だろう。

「じゃー、さっさと結婚せぇ。お前、何やねん、熱愛とか、話題になる女の名前、毎回違うやんけ。」

「あんなの嘘が半分だ。」

「半分は、ほんまやんけ。」

 また始まった。この手の話になると遠藤はウザイ。「サッカーに顔の良さは要らん。」と余計なひがみから始まって、「お前の人気にサッカーファンの女子が増えるのは良い事だ。」とか支離滅裂に続いて、最近では結婚しろが口癖。

「買うなら、さっさとレジに持って行けよ、それ。」

「おう、忘れてわ。」

 頭に被ったままのコアラの帽子をレジに持って行く遠藤。

「僕、遠藤さんと初めて一緒に遠征しまたけど、凄いですよね、あのバイタリティ。」

「バイタリティって言うのか?あれ。単なる馬鹿だろ。」

「おちゃらけた事ばかりしてますけど、代表チーム全員の部屋を毎日回って、先輩後輩所属チーム関係なく話をしている。あの気遣い、凄いですよ。」

 それは認める。技術的に互角であっても、慎一が超えられない物を遠藤は確実に持っている。

 永井が遠藤に陶酔した視線を送る。永井は常翔学園中等部のサッカー推薦組の一つ年下の後輩である。慎一に続いて、ユース16に選ばれて、順調にプロサッカー人生を歩んできている。何かと波乱に巻き込まれてはスランプに陥ることを繰り返すようなメンタルの弱い慎一とは違って、堅実に実力を伸ばして来た選手だ。

「その言葉、あいつに直接言ってやれよ。遠藤、熱く可愛がってくれるぜ。」

「あー、それは遠慮しておきます。」

 遠藤の様子を見ると、大きな身振り手振りで「ベイビー」とか言っているのがここまで聞こえてくる。適当な英語で我が子自慢をしているのだろう、店員も困り顔で、国際的な日本の恥だと呆れていたら、ポケットの中で携帯が着信を知らせる。えりからだった。どうせ土産買ってきてだとか言うのだろう。

「はい。」

「慎にぃ、明日帰ってくんの?」

「そうだけど。」

「お母さん、慎にぃ、やっぱり明日帰ってくるって。」

 電話の向こうで、母さんと会話をしながらの電話だ。

「慎にぃ、しばらく家にいるって本当?」

「あぁ、そのつもりだけど。」

「えー、どうしよ。」

「うん?」

「どれくらい?どれくらい居るの?」

「どれくらいって・・・・来期のチーム契約の手続きとかあるから1か月、二か月ぐらいかなぁ。」

「えーそんなに!母さん、慎にぃ1か月以上も家に居るって、どうしよ。」

「何なんだよ、帰ったら悪いみたいだな。」

「悪いよ!」

「はぁ?」

「慎にいの部屋ないんだよ。」

「はぁ?」

「寝る場所ないよ。帰ってきても。」えりの話が全く見えない。

「母さんに変わって。」

 母さん曰く、慎一の部屋は今、宮本さんが使って居るという。

 慎一が15の時、19才だった宮本さんは、父さんが経営するフランス料理店に修業させてくださいと直談判に来た。それ以来、雇のシェフとして父さんの店で働いている。現在えりと交際中。

「何故、俺の部屋を宮本さんが使ってんだよ。」

「あんた、ずっと使ってないし、佑士君、ほぼ寝に帰るだけのアパートに何万も家賃払って、もったいないでしょう。」

「だからって俺の部屋にする事ないじゃんかよ。もう一つ部屋があるだろう。」

「どこに?うちは、5LDKの狭い家よ。あんた海外に行って自分の家の間取りも忘れたの?」

「2Fの奥の部屋。空いてるだろ。」

「あの部屋はりのちゃんの部屋でしょう!」

「もういいだろ、帰って来ないんだから!」

「馬鹿っ!」

 母さんの怒りが耳を貫く。

「見損なったわよ!りのちゃんは、うちにとって我が子も同然よ。帰ってくる帰って来ないの問題じゃないの。あの部屋はりのちゃんの部屋なのっ」

「わかったよ。ごめんって。」

 もう、真辺姓でいるのはりの一人だけ、栄治おじさんと死別離婚したさつきおばさんは、再婚して村西になった。華選上籍の際、一般戸籍とは別にしなければならない行政上の問題で、りのだけが真辺姓のまま残った。

 母さんは軽いため息をついてから続ける。

「とにかく、帰ってきても寝る所ないの。連盟の合宿所にでも泊まらせてもらえば?」

「出来るかよ、そんなの。ってか、嫌だよ。」

「あー、じゃーさつきの所に泊まらせてもらう?」

「はぁ?それは一番おかしいだろ!もういいよ、ホテルにでも泊まるから。」

 関西医科大学付属病院の副院長の村西先生と再婚したさつきおばさんの家は、東京の超高級マンションのペントハウス、空き部屋があるから慎一が泊る事は可能だが、帰ってこないりのの部屋を潰さずそのまま置いといて、2年ぶりの息子の帰宅に部屋を使わせず、他人の村西家に泊まるって、無茶苦茶だ。

「ごめんねー慎一。」全然気持ちが入っていない軽い謝罪の母さん。

「慎にぃ、お土産買ってきてねー。」こちらも能天気で軽い口調のえり。

「はいはい。ってか、ちょっと待て!同じ屋根の下、お前ら、まだ結婚もしてないのに、半同棲も同然じゃねーか。」

「やだ、慎にい、今どき同棲だって。」

 母さんの笑い声も混じって聞こえる。

「シェアって言うんだよ、シェアハウス。」

(いや、それも違うだろう。)

「お前、佑士さんと・・・。」

「慎にぃがそれ言う?中学の頃からりのりのとシェアしてた人間が。」

「慎一は変にそういう所固いからね~。」と母さん。

(いやいや母さんがあまりにもそういう所、緩すぎるんだ。)

 普通、こういうのって母親が固くガードしなくちゃいけないと思う。しかし、我が家は両親が店をやっているせいか、子育てに関しては昔からゆるゆるだ。

 溜息を吐きだして電話を切ったら、苦笑をする永井と目が合う。

「ご実家からですか?」

「うん、帰っても寝る場所がないだとよ。」

「何ですか、それ?」

「新田家は女王主権の家だから、逆らえないんだよ。」

「お前ら、土産買わないのか?」

 遠藤が上機嫌で戻ってくる。

「僕は昨日買った分で十分です。」

「新田は?」

「そう言えば、柴崎に頼まれてたんだった。」

「姉さんに頼まれてんのは、忘れたらあかんやろ。何頼まれたんや?」

「オパールとか言ってな。」

「オパールって宝石の?」

「あぁ、オパールってオーストラリアが原産地で、良く取れるらしい。」

「流石、最強のお嬢様、買ってきてと頼む土産も半端ないですね。宝石って高いんじゃ?」

「原産地だから安く手に入るとか、何とか言ってたぞ。」

「オパールならあっちで売ってたで。」

「あー駄目だ。ちゃんとした宝石店で鑑定書付の物をって、言ってたから。」

「やっぱ、金持ち学校のお坊ちゃんお嬢ちゃんの付き合いは違うなぁ。」

「お前も大阪の私立学校出身じゃないか。」

「星稜は常翔程お金持ち学校じゃありまへん。」

 宝石店と言っても、どこにあるかわからないので、近くの百貨店に向かう事にした。誰もが知っている日本の百貨店の海外店舗、ここなら日本語も通用するし、柴崎も文句言わないだろう。

 百貨店に入ると日本人スタッフや客が沢山いて、声のデカい遠藤の大阪弁が響き渡り、すぐに囲まれてしまった。

 絶対にワザとだ。調子よくサインしてスター気取り。面倒なのに、慎一までずっとサインを書き続けなくてはならなくなった。

「だから、あいつと行動するの、嫌なんだよ。」

「僕の、さっきの褒め言葉を撤回させて下さい。」と永井。

 取り囲みの握手とサイン攻めを適当にあしらい、まだ調子よくファンの相手をしている遠藤をほっといて、宝石店に駆け込んだ。流石に宝石店のスタッフは、店内にファンを入れない様に阻止してくれて、やっと一息つく。

「どういった物をお探しですか?」

「うーん、オーストラリアはオパールが原産だからと土産を頼まれたんですけど。」

「ネックレスですか?指輪ですか?」

「いや、石だけでいいんだって、加工は日本でするからとか、大きさがどうとか指示があったな、ちょっと待って。」

 日本を出国する時に、ごちゃごちゃ言ってたが、慎一にはさっぱりわからない事だから、携帯にメールしといてと言った。目的のメールを探し当てて、読み上げる。

「オーバル型のウォーターオパールで、4カラット以上、品質がF以上で、色相がSの遊色?もう俺にはさっぱりなんで、適当にお勧めを。」

 店員は笑う。

「流石、一流サッカー選手は違いますね。」

「は?」

「どうぞ、あちらへお座りになってお待ちください。何点かご用意しますので。」

 店内奥のソファを勧められる。少しすると、出されたのはオパールではなくて、コーヒー。

 永井と顔を合わせた。












「久瀬、実弾を入れたんじゃないだろうな。」

「するかよ、そんな事。」

「この人が倒れるって・・・・秋山、レベル上げ過ぎたんじゃないのか?」

「いや・・・そんな事は、・・・・大丈夫、やっぱり、皆さんに試したレベルと同じセッティングですよ。」

「何が大丈夫だよ。」

「お前ら、うるさい!静かにしろ!」

 臼井さんの怒鳴る声・・・あぁ、確かにうるさい。やっと眠れていたのに。

「気づいたか?身体は起こすな、良いと言うまでそのままにして。」

 眼にペンライトの光を当てられる、まぶしくて目を瞑りたいのに、臼井さんが指で無理やりこじ開けているので、瞬きも出来ない。 光彩が狭く縮まる感覚がわかる。首筋、こめかみ、色んな所を触られる。臼井さんの横に点滴パックがあるのを見て、自分の腕に注射針が刺さっているのに気づく。

「いいぞ、身体起こしても。ああ、ゆっくりだ。ゆっくり。」

 凱斗は信じられない思いで周囲を見渡す。前島さんを筆頭に12人の隊員が凱斗をぐるりと巻いて凱斗の様子を伺っている。

(気を失った?この俺が?まさか。)

「気分は?」

 腕に刺さっている注射針を引っこ抜いた。

「あ、こらっ!勝手な事するな。」

「大丈夫です。安定剤なんて自分には効きませんから。」

「いや、だけどな。」

「すみません!やり過ぎました。」

 秋山と藤浪が背筋の伸びた頭を勢いよく下げた。

「あぁ、いや・・・っていうか何を?」

「秋山が秘密兵器を開発したんだ。お前に一泡食わせたくてな。」

「違います!隊長用に開発したんじゃなくて・・・」と言葉はフェードアウトをして俯く秋山。

 秋山の秘密兵器と言うのは、耳には聞こえない高周波音をスピーカーから流し、脳内の神経に直接働きかけるという物。その装置は、2階の連絡通路の天井に設置されていた。樹々の枝がスローに見え始めた、あの場所だ。

 秋山は、水族館のイルカショウの様に、超音波の笛で命令に従い行動する事を、人の脳でも出来ないかと考えた。脳科学が専門ではない秋山だが、新しい武器の開発となれば、あらゆる文献を片っ端から読み漁り、独自の理論の元、大学の博士クラスも舌を巻くほどの知識を蓄えるオタクとなる。そうして怪しげな装置を一組作った。その新しい装置、彼の名づけによると「超高周波内特定周波数域脳神経制御装置」長いから「高周波装置」は、パソコンに打ち込んだ命令を超高周波の音と共に脳の神経に直接命令を送り、テロリストたちの動き止める、理論上はそのはずだった。しかしそうは上手くいかないのは当然で、高周波を照射された人間は、何故か、ただ過去の淡い記憶を呼び起こすだけの装置になったらしい。出来上がった装置を試しに皇華隊全員と他の自衛隊員が食事をしている最中に試した所、「食事をやめろ」の命令は効き目なく、甘い記憶が呼び起こされただけ。大半の隊員が、食べている食事が子供の頃に食べた母親の味だと、懐かしい思い出を呼び起こし、妻子ある者は妻の味だと、長らく家に帰っていない者は涙を流した者もいたと言う。

 突然、呼び起こされる記憶と共に、その時の映像も浮かび上がってくる奇妙な体験は、ある意味、脳が自分の意思外で働いた証拠であることに間違いないと秋山は言うのだが、制御命令とは違う脳内の働き及び、微妙な動作制御にしかならない装置に、兵器といえるかどうか。しかし、開発者の秋山はめげずに、もっと様々な行動時の実験、実証を重ねて、パソコンの命令連結を簡素且つ簡潔に、パターンを絞れは可能じゃないかと、まだこの兵器開発に意欲を出している。

「例えばですね、立てこもり事件が起きたとします。これを外から流せば、犯人は過去の記憶を呼び起こされて、今起こしている馬鹿な犯行に反省をすると言うわけです。」

 秋山は自分の作った装置を愛おしそうに撫でながら説明する。

「あれだな、ドラマなんかで良くある、おふくろさんが心配しているぞって、スピーカーで呼びかけるのと同じ効果。」

「そうです、そうです。」

「だけど、呼び起こされる記憶が毎回、反省を促す淡い記憶ではなければ意味がないよな。」

「えっ?」

 皆が凱斗に不審の目を向けた。

「柴崎隊長は一体、何の記憶を呼び起こされたんですか?」

(何って・・・、まとわりつく人の死・・・・・死、死、死。)

「気絶するほどの・・・」

 人の残忍すぎる犠牲の死、背負い続けなければならない罪の記憶。

 凱斗はその質問には口を閉ざし、答えられなかった。


 空がうっすらと明るくなり始めると、足元から冷たい空気が刺すように身を襲う。

 動く隊員たちの口から白い息が吐きだされて流れて行く。

 ペイント弾で汚した壁の清掃や、使ったフロアの原状回復にフロアを動き回っている隊員達を、凱斗は眺めていた。

 久瀬が狙い撃ちした胸は正確に凱斗の心臓の位置を貫いている。本当に実弾を籠められていたら、確実に即死だ。それでもよかったと思う反面、簡単に死ぬ事は許されないのだとも思う。

 死ぬことよりも生きる事の方が辛く難しい、この世の果て。

 胸に着いたペイント弾を除光液で拭きとっていると、ジープの中から前島さんが降りて来て、凱斗にバインダーを差し出す。受け取る為に上げた左腕にズキッと痛みが走った。藤浪の銃剣を受けた時の打撲の痛みだ。

 バインダーに挟まれた用紙には、今日の演習内容、使用した武器と銃弾数、怪我人の有無などが事細かく書かれてある。7枚の書類を読むことなく一瞥でめくり、最後のページ、皇華隊司令将官の名前で前島さんの自筆のサインが記されているのを確認した。消えることのない記憶の書類がまた増えた。

「基地に帰ったら、臼井さんの検査を受けろよ、腕。」

「検査を受けるほどのものじゃないですよ。憎らしい程、身体は丈夫に出来てますから。」

「その過信が、いつか仇となるんだ。」

 その仇をずっと待っているのに、死神は中々裁きに来ない。死神も欲しがらない陳腐な命だ。

「柴崎、あの装置に、お前は何を呼び起こされた?」

「・・・・。」

【皇華隊一等左官 柴崎凱斗】と、前島さんの横にフルネームでサインをする。日本語は字画数が多くて面倒だ。

「秋山は、お前に言われた言葉に必死さ。」

 秋山は、凱斗より5つ下の29歳。皇華隊12人のメンバーの中でも一番の年下で、身体も一番小さく体力もあまりない。自衛隊に入ったのは、武器マニアだった趣味が影響している事はもちろんだが、自動車部品を製作する小さな工場を営んでいた父親が、彼が中学生の時、機械に挟まれ利き腕を失う重傷を負った事にもよる。夫婦二人で自転車操業の様に営んでいた工場は、たちどころに操業できなくなり倒産し、生活も頻拍する状況になった。秋山には妹が一人いる。両親は秋山の分の教育資金だけはどんなに生活が苦しくても手を付けず、秋山を大学へ行かせ、普通のサラリーマンになる事を望んでいたが、秋山は両親の望みから外れて自衛隊に入隊する道を選んだ。秋山は妹の為に自衛隊に身を売ったのも同然だ。子供の頃より部品や工具がおもちゃだった秋山は、分解された銃器の欠片だけで、何の武器で型番まで言いあてるほどの知識を持っているのを買って凱斗が選抜した。

 しかし、秋山が優秀なのは座学だけで、訓練となると皆の足を引っ張るほどの落ちこぼれで、自信の塊である久瀬は、あからさまに秋山を貶した。

『秋山、お前は忘れている。自分の皇華隊の抜擢項目が何であったか。』

 皆の足手まといになっている自分に悩み、ついに皇華隊の除隊を進言してきた時、凱斗はそう言って除隊嘆願書をつき返した。

「お前の言葉の意味を理解し、あれ以来、自分の出来る事に自信を持った。

「大した事は言ってません。誰でも言える言葉です。」

「お前を初めから敬っていたのは秋山だけだった。誰でも言える言葉でも、あいつにとっては尊敬する上官の言葉だ。」

 皇華隊11名はそれぞれが特質したスキルをもつ。久瀬は天才的な遠距離狙撃の能力、落合は近距離での狙撃の能力、藤浪は格闘技と人並み外れた体力、戦車や重車両、機械の操縦に精通している福田、通信機器に精通する高村。航空から変入隊してきた戦闘機とヘリの操縦に精通している田島と志方。最初は、個々が自身の専門的なスキルに自信と誇りがあり過ぎて、身勝手な意識と判断で行動をし、チームワークというにはほど遠かった。

 自衛隊所属経歴がなく、突然現れた華選の称号を持つ凱斗を(米軍特務兵士Esp7の経歴は前島さんしか教えていない)皇華隊の隊長だと面通しされた彼らは、当たり前に凱斗を認めず、反発の態度を示した。自分が彼らの立場だとしても同じ心情で、従えないのは当たり前だ。しかし、11名の隊員達の中で、秋山と藤浪だけは辛うじて凱斗を上官として敬う姿勢を見せていた。

「あの装置、食事の最中だけじゃなく色んなところで試した。89パーセントの者が、必ずと言っていいほど、子供の頃の淡い記憶を呼び起こされている。主に母親を呼び起こす事が多く。まさにお前が言ったようにドラマのスピーカー効果と同じ。」

「秋山の過ぎた趣味、おもちゃに過ぎない物に、偉く前島さんは肩入れしてるんですね。」

「ああ、するさ。皆、お前をぶちのめすと、必死に考え、訓練して来たからな。」

 反発の態度と身勝手な自信で、チーム行動から程遠かった彼らは、当初の演習ではテロリスト扮する凱斗一人に、10分で戦闘不能に陥るほどのお粗末さだった。

「お前の思惑通りになった。彼らは倒したい上官という目標をエサに、団結する大切さを意識した。その中で秋山が皆に必死について行こうと足掻き、作った装置だ。親心に肩入れもするさ。」

 サインを書き終えたバインダーを前島さんに返す。

「話したくないのは百も承知だ。あの装置の、どの何が今後の武器や装置として活用するに値するかしれない。その時の為に、実証データーはきっちり残しておく必要がある。例外の事象は、貴重な必要検証だ。」

 例外の事象・・・自分は出生時も育った過去も、翻弄された運命も、生かされている陳腐な命も、すべてが例外。

「まして、皇華隊の出動となる事件やテロともなれば、犯人側も常人ではない思考を持ち合わせている。あっ、いや、お前がそうだと言っているのではなくて。」

 自分の言った言葉に焦る前島さん。

「良いですよ、自分なんかに気を遣う必要は。実際に自分は出生時から常人ではありませんし。」

「そう言う意味ではなくて。」

「あらゆる死が呼び起こされました。」前島さんの言葉を遮って言い放つ。「彼らは血にまみれながら、何故だと。未だに命ある自分に、何故お前が生きていると問う。」

 検査を受けなくてはならないのは腕の痛みではなくて、それでも生きていられる憎らしい程の鈍感な心かもしれない。

「自分は、その問いに答えられず・・・。」いつも逃げるばかり。

「アルベール・テラか。」

 前島さんは、凱斗の米軍経歴を知る数少ない人間の一人。

 日本の防衛省は、アルベール・テラ掃討作戦の戦況は、紙面上の結果と米軍が提供したテレビ向けの綺麗な映像のみしか知らない。 この国の人間で、当時の戦場を実際に経験しているのは、良くも悪くも凱斗だけだ。

「俺はあの時、テレビの映像に指を加えて見ていただけだ。アメリカからの援護要請も、政府は法を盾に、前線に自衛隊を派遣する事を拒否し続けた。現場の隊は前線への士気が、世界に負けず劣らずにあったと言うのに。」

 皇華隊の最終選抜時に面接を行った。必ず聞いたのが、アルベールテラの掃討作戦時、己はどういう思いで待機の命令を受け、あの映像を見ていたのか?だった。アメリカ軍からの日本の自衛隊を前線に派遣せよとの援護要請に、政府が承認の決断を下していたら、異国の地で命を捨てる覚悟があったかどうかの真意を問う質問だった。

 皇華隊は、神皇直属の部隊である故、神皇の為ならその命を捨てでも守り抜くことが第一の使命となる。

 戦後60年が経ち、この前島さんですらも世界大戦の実戦を知らない。自衛隊はその名の通り、自国の防衛のみで活躍する要員だけにあると言う心が根付いて居ては、実戦で神皇を捨て身で守ることが出来ない。

「お前がその理由を答えられないのなら、俺がその死者たちに答えてやる。この国の甘い法で守られた自衛隊の弱体化を防ぐ為に、前線の厳しさを唯一知るお前が、この日本には必要だからだと。」

 どこからともなく、鳥の鳴き声が聞こえてくる。平和のさえずり。

「俺もあいつらも、誰一人お前を超えられない。実践に勝る訓練が無いからだ。それを知るお前は、この国の貴重な存在だ。」

 そうやって、他人が勝手に凱斗の存在価値を上げる、いつも。

 前島さんは受け取ったバインダーをジープの屋根に無造作に置くと、一歩、凱斗に歩み寄る。不意に左腕を握られた。藤浪にやられた場所で、強がる我慢ができなくて唸る声と共に顔を歪ませてしまった。

「大事にしろ。俺の方が早くお迎えが来る。その死者たちに、俺が罪を半分背負ってやって来たと乞いておいてやるから、だからお前は、この国の前線であり続けろ。一日でも長く。」

 誰よりも愛国に満ちた心意気の前島さんが、凱斗の胸を軽くグーで打ち付ける。

 なんとなく、前島さんより自分の方が早く死ぬような気がした。

 それはただの希望かもしれないけれど。











 オパールがオーストラリア原産で、その石が虹色の光を閉じ込めたような石である事を知ったのは、中等部2年の時。

 凱さんが彼女にチャームの中に入れたいからと強請られて買ったのに、空港で喧嘩別れして突き返されたと言う話を聞いた。あの時、りのは落ちた石を拾って「本物の虹玉?」と興味深く見つめていた。

 慎一達が大好きだった絵本の中に出てくる虹玉。虹がかかる場所で生まれ七色に輝く石は、空を駆け、遠い国まで幸せの光を届ける。その虹玉には奇跡の力があり、願い事が叶うとあって、幼かった慎一達は、空に虹がかかった日、虹玉はあると信じて探しに行った。そして、親が捜索願を出す迷い子になった、懐かしい記憶。

 出されたコーヒーを飲んで溜息を吐きだしたら、永井に苦笑された。遠藤との付き合いに疲れ切っていると思ったのだろう。確かに遠藤のボケにずっと付き合わされると疲れるけれど、日本語だからまだマシ。英語が公用語のアイルランドに住んで約2年、生活に困らなくなった英会話力をつけたとは言え、関西弁でも日本語である事の方がほっとする。

 英語の補習を受け続ける程、英語が苦手だった慎一が、海外生活をするのは自殺行為に近かった。しかし、りのが負った傷と乗り越えなければならなかった数々の事からすれば、慎一が英語に苦しむ生活など全然マシだ、と思えば頑張れた。そして何よりも、少しでもりのに近づきたかったのもある。

「お待たせしました。現在、ルースでご指定の品質の物となりますと、この12種類がございます。」

「ルース?」

「ルースとは、まだ指輪の台座やネックレスに加工されていない石のままの事でして、いわゆる裸石と言われるものです。」

 説明も丁寧だ。

「お土産と言う事でしたので、値段も手頃な物をご用意させていただきました。これ以上の物は、出国のさいに手続きが複雑になりますので。」とか言われても、12個も並べられたオパール。正直どれがいいかなんてわからない。

「ありがとう、助かります。」苦笑して形式的な礼を述べた。

 いつも柴崎にあれ買ってきて、これ買ってきてと頼まれ、言われた通りの土産を買って帰国するのだけど、素直にありがとうと言われた事がない。必ず、一言二言の文句が出る。えりや母さんも同じ態度で、柴崎と同じ土産だと言うと何故か文句が少ない。

「こちらがこの中では最高の品でございまして、87万円でございます。」

「はっ?」

 ソファに座らされて、コーヒーを出された意味をはじめて知る。

(87万もする石ころなんて、買えるか!)

「あーいや・・・もう少し、かなり手頃な物でいいんですけど・・・」

「ですよね。お土産ですものね。噂されている恋人様のお土産かと思いまして。」

 ニコニコ顔の店員の思惑が怖い。横で永井が肩をすくめて笑いをこらえる。

「失礼しました。参考までにと思いまして。こちら段階に、52万円、46万円、39万円、32万円、27万円、25万円、18万円、宝石は色クオリティ、特にオパールは表面に出るカラーの質によって値段が左右されます。」

(一番安くても、20万円近く、あいつ調子に乗って・・・)

 買えないわけじゃない。柴崎に買ってあげるのも嫌なわけじゃない。ずっと仲間として、今はマネージャとして、遠い親戚より世話になっている唯一異性の友だ。ただ、20万近くする物を、平然と買えてしまう価値観になった自分の変化に驚いて、戒めているだけだ。常翔学園に入学したての頃、周りの上流階級の価値観に驚いた。学生の身分で平然とタクシーを使い、持ち物はブランドものが当たり前、旅行は海外を近所感覚で行き来する同級生たち。まだ庶民だった慎一は、理解できない価値の相違に悩み、藤木と言い争った事もあった。

 若かったのだと簡単に結論付け、親友と真剣にやり合ったあの時の苦悩を思い出にしたくない。多額の金を手に入れただけで、生まれてから築いてきた価値観を壊したくない。金が欲しくて、帝都べカルディと契約したわけじゃない。どんな思惑が背景にあろうとも、その契約が、実質りのがもたらせたスカウトと、慎一は腹を据えたからだ。

 『新田慎一、その名が世界を駆けて届くのを楽しみにしている。』

 りのとの約束が築けるのなら、理不尽な思惑も利用する。それがあの時、慎一の正常な正義を押し殺した誓いだ。

 溜息を吐いたら、店員が焦った感じで「申し訳ございません、過ぎた対応してしまいました」と頭を下げて来た。

「いや、違うんだ。正直、説明されても、さっぱりわからないんで、予算を言うから、あなたが見繕ってもらえますか?」

「かしこまりました。」

「25万円までの物を3つ、貰えるかな。」

「3つも買うんですか?」

「柴崎だろ、妹のえりと、母さんのと。」

「帰ってきても寝る場所ないと、言われてるのに?」

「寝る場所がなくても、土産なしで帰るとどんな目に会うか、恐ろしい。」

「今や、新田さんのポスターは盗まれるほどの人気の日本代表エースストライカーが、家に寝る場所がないだなんて。」 と永井がまたくすくすと笑う。

 人気があるのと新田家での立場とは違う。女に逆らうなは、父さん伝授の家訓だ。

 店員がオパールの並んだトレイを持ちあげ、奥へと下がろうとするのを呼び止めた。

「あーすみません。その、一番丸いオパール。」

「これでございますか?」

「そう、それもお願いします。」

「こちらは、46万円でございますが。」

「構わない。それだけは他のとは別で、わかる様にしておいて。」

「かしこまりました。今しばらくお待ちください。」

 永井が、ヒューと口笛を鳴らす。

「シーナちゃんへのプレゼントですか?」

 答えるのが面倒で、無言で出されたコーヒーを飲み乾した。

 丸い虹色の宝石。一番渡したい相手は今、この地球の裏側、実質的な距離も心の距離も、一番遠い所にいる。

 あの虹玉は、慎一の願いを叶えてくれるだろうか?












 東京の朝霧駐屯地に戻り、備品の片づけや車両整備などを終え、前島さんが解散命令を出してやっと、今日のテロ対策特別演習は終わる。8時26分。敬礼を解いた隊員達はやっと厳しい顔つきを緩め、宿舎へと帰って行く後ろ姿を見届けると、凱斗も気のゆるみが出て欠伸が出る。

(さて、この後どうするか。横浜に帰るのは面倒だ。)

「さぁ、行くぞ。」メガネの奥で険しい目の臼井さんが、凱斗の肩を組んで宿舎へと押す。

「えっ、臼井さん。大丈夫ですって。」

「前島将官補から診ろと言われている。」

「えー、じゃ、僕は左官命令で、臼井さんの診察を拒否します。」

「くだらない肩書出すんじゃない!」臼井さんは凱斗の右腕を掴むとひねりあげた。

「ぅあぁぁぁぁ」一気に冷汗が額に浮き上がる。

「官の指示に従わなければ、死に目に合すぞ。」

何よりも誰よりも怖いのは臼井さんだ。診察室のベッドを借りて寝るのも手かもしれないと、素直に応じて進む。

「ついでに検体データーも取らせてもらおう。」

「いっ!?」

「CMDプログラムの耐性数値が変わっていないか、当初のデーターから5年たってしまっている。どうせ、お前、自分の屈強さに胡坐かいて、ロクにドックも受けてないんだろ。」

「どこも悪くないですよ。」

「悪いか悪くないかは、お前が判断することじゃないっ!」

 臼井人志45歳 防衛医科大学を卒業したおざなりの出世コースを歩んで来たが、おざなりじゃないのは、マッドサイエンティスト的な独自研究である。凱斗と出会う前から、他国の耐性プログラムを引用した日本人向けのプログラムを構築していた。凱斗が米軍のCMDとDSPDプログラムを受けた事があると知ると、大いに喜んで皇華隊に志願した。臼井さんにとっては、凱斗は耐性を持つ貴重な検体らしい。

 朝霧駐屯地内の防衛研究棟内の医療施設へと押し入れられると、鼻歌交じりに凱斗の腕に注射をブッ刺し、血を抜く。そして半全裸にして、レントゲンや、CTスキャン、脳波の測定など、あらゆる数値データーを取って行く。

「腕の処置、そっちのけ・・・」診察台に寝転がされた凱斗が呟くと、

「あぁ?なんか言ったか?」鼻歌まで出ていた臼井さんは、医療機器の画面からやっと顔を上げる。

「いいえ。何も。」

「右腕尺骨、近位端から16センチの場所、8ミリの亀裂骨折、並びに打撲に伴う皮下出血。1か月もすりゃ治る。」

「やっぱり、ただデーター取りたいだけで、腕の心配なんかしてないじゃないですか。」

「亀裂骨折ぐらいで心配なんかしてたら、自衛隊医官なんて務まらん。」

 そりゃそうだ、前線に居れば、次々に運び込まれる隊員の怪我の処置に対応しなければならない、裂傷の具合、戦況の悲壮さに一々、動揺していたら医官は務まらない。

「効き目のない鎮痛剤でも打ってやろうか?」

「要りませんよ、そんな建前の優しさ。」

「ん?・・・・・お前、タバコ吸っただろ。」

「えっ・・・いえ・・・」

 吸ったと言っても、あれは今から20時間も前の事であって、血中のニコチンはすでに無くなっているはず。

「誤魔化しても駄目だ、全部数値に出てる。」

「でも20時間も前で、しかも半分の量も吸ってないし、まずもって咳込んで大して肺には・・・」

 喫煙を見つかった中学生のように、言い訳をしてる自分に首を傾げた。自分はタバコを吸っても法に触れない35歳の大人だ。

「お前の体はCMDならびにDSPDプログラムで強化された血中の許容融和が増幅されている分、気管支もそれに伴い過分に機能を増幅させている。血中ニコチン濃度が除去されても、肺胞の酵素の比率が高いままだ。」

 とか、専門的な事を言われて、だから吸うなとか医者らしい言葉をかけられるのだろろうか?

「しっかし、まぁ、この数値で、よくマトモに生きてるもんだよ。」

 医者らしい優しさはどこにもない。他の医官を知らないが、自衛隊所属の医師はみんな、こんな口調が荒っぽいのだろうか。

「お前の体は検体データーとしては驚異に面白いんだが、基準になるようで成らないんだよなぁ。」

「何ですか、それは。」

「すべてに置いて数値が化け物じみて、お前の数値を限界設定として構築すると、どんなに基礎数値の高い奴でも死亡のシミュレート結果が出るんだよ。この4年間どんなに頭をひねり数値を変えた事か。」

「じゃ、まだ日本独自のDSPDプログラムの構築はできていないんですか?」

「適度なDSPDプログラムなら、とっくに出来ている。だけど適度な物じゃ意味ないだろ。」

「そもそもに、プログラムの構築が意味無いんですけどね。」

 日本では自白剤や、覚せい剤、麻薬などの耐性プログラムの実施は容認されていない。この研究は臼井さん独自のマッドサイエンシス研究なのである。

「いいぞ、外しても。」

「せめてもの慈悲で、可愛い看護師さんをつけてくださいよ。」

「あぁ?お前のそんな汚ったねー体を、女隊員に見せられるか。」

「医官の看護師なら、裂傷の傷跡ぐらい見慣れてるでしょ。」

「官内の貴重な花が、化け物の手に落ちる脅威に手は貸せない。」

「それ、褒められてるのか、貶されてるのか、どっちですか。」

「どっちもだ。お前の肩書とその顔なら、ここではアイドル並にモテて、お前の口説きにすぐ落ちるだろうさ。だが、この数値が語るお前の身体がマトモじゃないのは明らか、親心に女性隊員の幸せを願うなら、お前との付き合いは絶対に勧めない。」

 腕と足に挟んだクリップをはずし、胸に張り付いていたパットも外して、半ば八つ当たり気味に診察台へと投げ置いた。

「化け物に貴重な女隊員は渡せない、か。」

「子はかすがいと言うからな。今更、死語になりつつあり、子の居ない家庭でもそれなりに幸せな家庭を築く・・」

 凱斗は、臼井さんの小言を聞き流しながら、特殊部隊用の黒を基調にした迷彩柄の軍服を手に取る。私服は本館ロッカールームの中に入ったままだ。

「お前、まさか知らされて・・・ない?」

「何がです?」

 臼井さんは眉間に皺を寄せて、凱斗の名前が記されたファイルをめくった。

「これも俺の役目か・・・。」そして、目を瞑り長く溜息を吐くと語り始めた。「造精機能障害、精細管精子不形成、CMDはお前の生殖機能を崩壊させた。」

 随分昔に記憶した家庭の医学の分厚い辞書が、脳内で勝手に開く。

「CMDプログラムに使われたフェミノアルペニン、米軍が開発した覚醒剤耐性プログラム用の注射薬は、依存性が0の利点があり、世に出回っている多種の自白剤に対応できる万能の耐性強化剤として重宝されているが、精巣内の精細管にあるセルトリ細胞を壊してしまい、精子形成が出来なくなるという欠点がある。」

 脳内の辞書には、 造精機能障害ーーー精子を作る能力自体が低いか、全くない物。男性不妊全体の90パーセント以上を占め、原因が不明な物が多く、先天的、後天的原因による欠損、異常の場合に機能せず、精子が作れない状態。

 とだけ書かれてあって、 精細管精子不形成やセルトリ細胞などの語彙は見つけられない。

「知らされていなかったか。」

「え、いえ・・・・まぁ。」

「5年前、お前の身体を虱潰しに検体検査した時にはわかっていたんだが、米軍からは、それは知らされているとばかり思って閉口していたんだ。」

「嫌だなぁ・・・知ってましたよ。忘れてただけですよ。告知が昔過ぎて。」

 誤魔化しているのを知られないために、止まってしまっていた服を着る動作を、慌てて再開する。

「プログラム施行前の精子凍結保存は?」

「ありませんよ、あったとしても戦死退役と同時に捨てられていますよ。」

「俺がWHOで受けた軍人メディカルガイダンスでは、プログラム実施前に、本人の同意と精子凍結保存を実施するとあったが。」

「自分が居た所は、そんな設備が完備された所ではありませんでしたから。」

「・・・そうか。」臼井さんが神妙にうつむく。

「やめてくださいよ。何を今更、同情なんておかしいでしょ。化け物と鼻歌交じりに貶すマッドサイエンシスト臼井さんが。」

 そう明るく言い放っても、臼井さんの眉間から皺は無くならない。

 今日は、人生の先輩方に気を使わせる事ばかりだ。

 向けられた悲痛な同情に比べて、自分自身は結構何とも思っていない。そのギャップを埋めるのに、どういう言葉を発していいかわからない。どんなに明るい言葉を使っても、相手は凱斗が無理をしていると思い、更に悲痛の度合いを上げてしまう。

 もう何十年も、こういった時の返し方を試しているのに、上手くいったためしがない。

 やっぱり、今日も上手く行かない。












日ノ国、神創、希心ノ静地。

風流レ、雲生ミ、雨落リ、地潤ウ、命育ム、

季節ハ巡ル、淀ミ無キ、静地。


希ノ国、静地、幾年月流レニ、尽キヌ想イ、

風遮ギ、雲消シ、雨奪イ、地変ジ、命枯レ、

季節ハ止ル、淀ミ有リ、絶心ノ荒地。


絶ノ国、荒地、幾年月流レニ、瀕スル想イ、

風求メ、雲求メ、雨求メ、地を求メ、命求メ、

摩羅ヲ求メ、呼ビ願ウ力、祈心ノ現世。


祈ノ国、現世、幾年月流レニ、或ク想イ、

風使イ、雲使イ、雨使イ、地使イ、命使イ、

摩羅ヲ使イ、卑弥ノ祈呼、降臨セシ天ノ皇。


天の皇、来世、幾年月流レニ、尽キヌ想い、

風流レ、雲生ミ、雨落ル、地潤ウ、命育ム、

季節ハ巡ル、卑弥交えの身霊、希信の世静へ。


来世に飛翔セシ光、卑弥ノ祈呼ト、神皇の応呼ト

永久ニ。


人の希心は神の存元、神の祈心は人の存元。



 いよいよ始まる。新皇双燕様の降臨祭。古より受け継がれる祈りの唄、笙と笛の独特の音色に、華族の者達の祈声が会場を包む。

中央に設置された八角形の台座に置かれた光玉の周りを、薄紫衣紫袴を着た8名の祈舞者は、神楽鈴を手に持ち、しなやかにすり足で歩く。その輪の両側で、太鼓と横笛、笙の拍子楽団が鎮座する。舞い歩いている祈舞者は、西の宗に属する神社の華族であったり、京宮御所内で新皇の側に仕える方達である。後ろに長く束ねた髪に熨斗と奉書を巻きつけ、独特のすり足の舞いは、見るに地味な動きの割には至極辛い足運びである。始まったばかりは平然としていた祈舞者の表情も、次第に平静を保てなくなってきているのが遠目でもわかる。麗香は、華冠式以降の特訓の日々を、辛くも懐かしく思い出していた。

 そう、この太鼓の音で急に後ろに引いてくるっと回る。その時に右手に持った神楽鈴と左手に持った三輪棒を額の上の方でクロスさせて、すぐに鈴と三輪を震わせながら腕を横に広げて回らなければならない。震わせる手首は早く動かなさないといけないのに、回る時は、袴の袖が皺にならない様にゆっくりと、そして袂が決して床に落ちてはならない。

 華族の称号を持つ者は、華冠式で晴れて成人の神巫として神皇より命職を授かる。それまでは華族の称号を持つ親の子供としておまけのように扱われていたものが、一個人の華族として華族会に登録され、神皇家の数ある神儀の参事者となる。その基本であり重要な覚え事の一つがこの舞踊だった。女はこの舞いを完璧に踊れるようにならなければならない。男は、笙、笛、太鼓の三つの楽器を完璧に奏でるようになる事と、祈哀、降臨、弩哀、静楽からなる4章の楽譜を見なくても唄えなければならない。麗香は16歳の華冠式以降、正月までの5か月間、週に一度は舞踊の先生に指導を受けた。それでも完璧に舞い踊れるようになったのは、一番簡単で基礎中の基礎の型と教えられた「静の舞」だけ。この舞いを基本に3章節目から複雑且つ激しい舞いが加わる。

 一章の演舞が約15~30分、4章すべてを演舞するとちょうど88分に構成されている。神皇、華族に関わる数は、未来永劫を意味する8に由来するとは言え、一時間超えの祈祷舞曲を作った昔の人を、麗香は半ば恨みを込めて尊敬する。

 もう左膝の感覚がない。踊りで続けている祈舞者に比べたら、麗香達は皇前交手片座姿で唄っているだけだから楽と言えば楽だけど。それでも、もう身体はまっすぐに止まって居られない。無意識に体はどちらかに傾きかけて、それは駄目だと脳が均衡の指令を送り修正しようすれば、今度は反対にふらつき、光玉を取り巻く祈祷者達の円は揺れて、怪しい宗教の集まりのよう。

 同じ円並び列の先に、もう皇全交手座姿も解いてへた座り、コックリと首が揺れている御影和葉さんの姿が見て取れた。完全に寝ている。金髪の髪だから目立つ。あの自由奔放さが羨ましい。誰も注意が出来ない。皇后を出した御影家の者には。

 フロア正面の御帳台の御簾が上げられた。双燕様は、ゆっくりと立ち上がる。白い袴の上に黒い色の法衣を纏っておられ。足まである身頃の太い襟には金刺繍が施されている。御帳台の両脇に控えていた弥神道元様が神剣を、もう一人は麗香の知らない女性が鏡を捧げる。右の手で神鏡、左の手で神剣を手にした双燕新皇様は、ゆっくり、ゆっくり一足一足すり足で歩まれる。八角の形に並べられている光玉の台は、一つずらして開けられていて、白い布がぐるりと囲われた布の端を持ち開けられた囲いの中へ入られると、布は閉じられ、ずらされていた光玉の台も元の位置に戻される。神皇家の3種の神器、剣、鏡、玉、が揃った。

布に囲まれた中で、新皇様がどうしていらっしゃるかはわからない。

 建物自体が振動した。周りの人たちが八角のある中央の天井に顔を向けている。つられて麗香も天井を注視すると、板張りの天井が切れるように開いて、眩しい光が割れ入ってくる。清々しい青空に、大きな月が白く輝いていた。冷たい空気が降り注がれてくる。

 お父様が言っていた。昔は、新皇様がお生まれになった日から8の数字を元に計算し、厳密に守って執り行われていた神宮行事は、現代では華族の人間が集まりやすい日と天候を考慮し、祭事の日程を決めると。それを聞いた時、何をするにも雨は嫌だからと思った麗香だったが、こんな仕掛けがあるのなら、雨が降れば、新皇様はずぶ濡れになってしまう。

 祈祷舞曲がより一層の盛り上がりの音を奏でると、合わせた祈祷者の声も大きくなる。踊り舞う祈舞者達はクライマックスへと、舞振る手や足の動きが激しくなる。

 天から降り注ぐ光が光玉に反射して、虹の光彩があたりに乱反射する。のを目で追っている内に、祈祷舞曲が最終章に入り、あっという間に終わってしまった。祈舞者は、曲が終わると同時にその場にしゃがみ、手に持っていた三輪棒と神楽鈴を床に置き、皇全交手片座姿で待つ。皆、肩で息をしているから、とてつもない運動量だったのだとわかる。

 開いていた天井が閉じられ、双燕様が包まれた白い布が開けられ出て来られる。8年に一度の天に里帰りをして神の力を蓄えて地に降臨されるといわれる降臨祭。出て来た新皇双燕様に変化がある様子もなく、祈舞者たちのそばを時計回りで歩いて、御帳台へと戻られた。

 御帳台の上で、こちらに向きを変えられた双燕新皇様。麗香達も神皇様へと向きを変える。

「人の祈心は神の尊厳、神の受心は人の尊厳。永劫に神皇の光が我らの元にあらせますように。」

 弥神道元様が声を張り上げた。

 皇全交手片座を解き、手は重ねて床につき、頭を乗せる程に傅く。

 この動作とタイミングを事前に教えられていた麗香だったけれど、初めての事だから戸惑って、遅れてしまった。

「人の祈心は神の尊厳、神の受心は人の尊厳。永劫に世が静地である事を祈り願う。」

 双燕神皇様の声がフロアに響き渡る。












 気まずい空気を裂くように、飾り気のない携帯の着信音が鳴った。軽く会釈をしてから携帯を手にすると、臼井さんは少しホッとした顔をした。

 康汰からだった。

「凱斗、華族会は公安に圧力をかけたか?」

「圧力?」

「何も聞いてないか?」

 康汰からくる電話はいつも単刀直入過ぎて、何の話がどこから始まっているのかわからない事が多い。

「昨日貰った物流リストを奴に渡した。だか、そのリストを精査する間もなく、上に取り上げられ捜査打ち切りの命令が出たそうだ。」

「何故?」

「それがわからないから、お前に聞いてんだろ!」

「俺だって知らねーよ。大体、どっからどう繋がってかっ・・・ちょっと待って。」

 いくら皇華隊のメンバーである臼井さんだからと言っても、ベラベラと華族会の名前を出していい話じゃない。

 保留のボタンを押すと、察した臼井さんは満面の笑みで、さっさと部屋を出て行けと手の甲を振る。凱斗は会釈をして部屋を出て、建物外に隣接する自転車置き場の裏側へまで入り込み、保留解除ボタンを押した。

「わりぃ、で、何が、どういう状況?」

「この間、話した香港の武器密輸をしていた周恩来の件で、中国当局から掴んだ情報では、周恩来は組織外から殺されたんじゃなく、組織内によって殺されたとの線が強まった。」

「ありがちな話だよ。どうせ金の分配に不満があるとかで揉めて殺されたんだろ?」

「金じゃない、周恩来は、組織が売買するブツを横流ししようとして殺された。」

「それも、ありがちだよ。」

 それがどう、華族会に繋がって行くのだろうか?

「ありがちじゃない話になるのが、その横流し先と品種と量。」

「多いのか?」

「あぁ、結局、密輸予定の1/5の量の段階で、バレて身内に殺されたんだか、流し先は日本である事は間違いないそうだ。」

「だろうな。周恩来は日本で殺されてんだから。」

「周恩来が横流し予定であった品目と量を、中国当局は掴んでいた。その情報から1/5で済んだとは言え、手に入れた側が誰であるかは見過ごす事は出来ない。だから公安はレニーの物流リストを欲しがった。」

「だけどわからなかっただろう。それがレニーと言う企業のあり方、理念だからな。」

「わからない所か、そのレニーの物流リストがやっと手に入れ、わかる可能性に手をかけた瞬間、取り上げられ捜査打ち切り命令が出たと言うわけだ。」

「だから、それがなんで華族会に繋がるんだよ。」

「理不尽な命令に、奴は悔しまぎれに言ったんだ。こんな理不尽な命令に即時対応するのは、華族会が絡んでいるからじゃないのか?って。」

「その康汰の知り合いは、何だって華族会が絡んでいると思ったんだ?」

「そこまでは知らん。鎌賭けしているようではあったから、何かあるんだろうよ。」

 凱斗は、渋く奥歯をかみしめて首の後ろをかいた。

「康汰ぁ、絶対にこの電話、そいつに盗聴されてんぞ。」

「かもな、でも構わないだろう。お前が知らないのなら、それはそれでそれまでさ。例えお前が知ってて、捜査打ち切りが華族会の圧力によるものだとわかっても、これを聞いて居る奴は、やっぱりかって納得できるってもんさ。俺は奴にリストを渡した事で借りは一つ返せている。」

「んー今の所、華族会が公安に圧力かけたって話は、俺は聞いてないし、そもそも公安に何か圧力かけなきゃいけない案件が、今あるって事もない。今、華族会は、京宮で行われている新皇の降臨祭で忙しいんだ。」

「あー、そうだな、デモも全国的に広がって、警備部の奴らが頭かかえていたぜ。」

「しっかし、康汰もあれだな、お人よしと言うか、人の案件にまで首を突っ込んで。根っからの事件絡み人。」

「馬鹿言うな、お前がちょこまかと、くだらない依・・・」康汰はその先を咳で誤魔化し、口をつぐんだ。

 盗聴されているかもしれない電話口で、部外者の依頼を個人的に請け負っているなんて言えるはずもない。

「あぁそうだ、康汰、汐里ちゃんが、今度、私の注いだ酒を飲まずして帰ったら、ぶっとばすって言ってたよ。」

「タチわりぃな。悪酒食らってる暇があったら、婚活しろって言っとけ。」

「いえる訳ねーだろ。恐ろしいなぁ。」

 凱斗の一つ年上の児童養護施設時代の姉。手塚汐里、36歳独身。

 施設が封鎖された時、預けられていた子供たちはバラバラに転移して行った。汐里ちゃんは、覚醒剤に溺れた母親の非嫡出子で、母親は重度の中毒患者が入る病院に入っていたため、静岡の祖母の家に引き取られて行った。その後、足の速さを生かして、静岡にある体育大学の推薦を受け進学し、体育教師になった。教師も華族の称号持ちが居るような常翔学園の内向的な学風に、異質の存在を入れたくて、凱斗が常翔学園中等部の体育教師として引き抜いてきた。麗香達のクラス担任を受け持ったのが常翔学園での教師初年度、あれから約10年が経つ。汐里ちゃんは、女生徒からは慕われ、男子生徒からは恐れられる学年主任になっている。

「凱斗は汐里の雇用主だろうが。」

「汐里ちゃんが、そんな肩書にを気にするわけないだろ。」

 汐里ちゃんも康汰も凱斗も、生きている身内はもう居ない孤独の身。やっと誰の世話にもならず生きて行ける大人になった喜びや愚痴を、度々会っては酒を酌み交わしていた。

「そうだよな。雇用主に組手の勝負を挑むような部下なんて、ありえない。」

「まぁ、それは俺も気が抜けないで、良い体力維持になっているからいいんだけどさぁ、どんどん強くなっていくから、困るよ。」

「萎らしい女やって、普通に男を見つけて結婚すりゃいいのによ。」

「ははは、汐里ちゃんに婚活しろなんては言えないけど、康汰兄ちゃんは心配してるってだけ言っとくよ。」

「あぁ、お前もだ。文香さんも、お前の結婚を願ってるだろ。」

「うーん。」

 文香さんから、結婚しろと言われたことは一度もない。柴崎家が子に恵まれない実情を考えれば、養子であっても凱斗に結婚を進言してもおかしくないはずだけど、それを一度も言わないのは、結婚には向いてないと見知っているからなのかもしれない。

「康汰もだろ。事件ばかり追ってないで、女を追いかけろよ。」

「うっせー。」

 会話の〆なしに電話は切られる。それもいつもの事。

 自転車置き場の隙間から防衛研究棟を回り込むように表の通りに出ると、自衛隊駐屯地らしからぬ人々が、そこかしらに歩いていた。

「あっ、そうか、今日は朝霧駐屯地見学ツアーが開催される日か。」

 一般市民に少しでも自衛隊の活動を知ってもらう為、そして若き自衛隊員を勧誘する為、自衛隊組織は色んなイベントを企画しては、基地を公開している。この平和ボケした日本では、隊員になりたがる人間が少ないのが現状。

 世界のどこかの紛争地では、人員が一番安上がりで確保しやすい使い捨ての戦機であるのに。

 過去の世界大戦で敗戦国となった日本は、法律で他国に侵略をする戦争は行わないを宣言した。平和主義を貫く法で守られた日本は、いつしかそれが最高の言い訳となって、対岸の火事のごとく、世界からの軍隊派遣要請にも赴かない。法で守られた血を流すことない自衛隊員であるにもかかわらず、隊員不足を危惧しなければならない現状に、ただ自己の平和だけを喜び合う国。

 展示見学用として、輸送ヘリCH45Jと、90式戦車が格納庫から出されていてお披露目されていた。そこに家族づれが群がり写真を取ったりしている。広場の向うに本館があるから嫌でも、その場所を横切らないと行けない。仕方なく一般人たちとすれ違いに歩む凱斗。誘導警備をしていた若い隊員二人が、凱斗の特殊部隊用の黒い軍服を見て、慌てて最敬礼の姿勢を向けて来た。それを見た5歳位の子供が真似て、凱斗に敬礼をしてくる。サイズの合わない迷彩服の袖が小さな手を隠して可愛い。凱斗は若い隊員二人よりも、小さな戦士の方に優先して返礼した。子供の母親が一緒に写真を取らせてくださいと言ってくる。仕方なく笑顔で応じる。つぶらな瞳でまだ敬礼を続けている子供を抱き上げた。若い隊員の一人が母親からカメラを預かり、レンズを向ける。名も知らぬ母親と父親に挟まれ並ぶ。子供の被っていた帽子の位置を正して、カメラの方に向くように指さす。子供のピースポーズはやっぱり長い袖に隠れて指の半分しか見えていない。隊員の掛け声と共にシャッター音。疑似家族写真が出来上がった。子供を降ろすと、名も知らない家族は頭を下げ、子供は手を振り、ヘリの方へと向かった。

(そうか、俺はあれが出来ないんだ。わが子を挟んで手を繋なぐ、あれが。)

【造精機能障害、精細管精子不形成】

 柴崎家が身元保証人となってから、実親がどこに居るのだろうかとか、どんな人だろうかと想いふける事をしなくなった。

 しなくなった理由に何かがあるわけじゃない。それをする暇がなくなっただけでもあるし、それをすれば総一郎会長に認めてくれないような気がしたのかもしれないし。それまで施設と言う名の住処が、ちゃんとした家となった事がうれしかったのかもしれない。

 実親にされるはずの当たり前の事が自分にはなくても、いつかは血の繋がった子にそれを与えられる。そう思っていた。

 語るほど事でもない当たり前の幸せ、それが断たれた。

英「そうだよな。出来ると思っていた自分がどうかしているよな。」

 髪が抜け落ちる程の強制プログラムを課せられていたのだから。

英「逃げた罪は、俺を当たり前の幸せを与えない。実に神は厳しい。」

 やっとにぎやかな人の集まりを抜けて、本館の扉の前まで来る。

「痛いなぁ・・・・」

 ヒビの入った腕以上に、空虚の心が。

 無性に文香さんの所へ行きたくなった。

 子供の頃の様に抱きしめてくれたら、この空虚に何かが埋まるだろうか?













 とりあえずは緊張の神事は終わった。

 麗香は、脱いだ袴を畳む気になれなくて、襦袢のままベッドに座り込んで中々立ち上がれないでいた。

 御簾の向こうの新皇様が、神剣と神鏡と共に、弥神道元様を連れ立って神政殿を出ていかれると、フロアの人々はほっと一息一様に顔をほころばせて、滞りなく終えた喜びを静かに頷き合ったのだった。そこで誰もが同じ気持ちをもっていたのだと知る。

 麗香は、貴重品の入る鞄を手繰り寄せ携帯を取り出す。メールが一件、美月から入っていた。

【降臨祭は終わった?寝ないで耐えられた?】と書いてある。

 美月は3年前に閑成神皇様の降臨祭、東宮御所で行われた神事に参加しているから、辛さを知っている。

【大丈夫、寝ずに耐えられたけど、体は左右に揺れたわ】

と返信して、大きく息を吸って吐いた。重い腰を上げて立ち上がる。

 同室の人達は、煌びやかなドレスを身にまとい、すでにフロアへと戻って行っている。

 これから宴が始まる。学園祭の打ち上げみたいなものである。何か事の終わりは打ち上げをすると言う風習は、日本人に根付いているらしい。

 麗香はこの日のために新調したドレスに着替える。マーメイドスタイルの水色のグラデーション生地に、身体の線に合わせて流れるように刺繍を施して貰った特注品。足首のフリルは前が少し短めで後ろのフリルのボリュームを強調しつつ、靴も見せるというデザインを麗香が考えてデザイナーに指示をした。あの時の靴に似せて作らせたシンデレラのガラスの靴をイメーシしたパンプスも、昔の写真をもとに作らせていた。

『素敵な靴だね、似合っているよ。』

『一緒に踊ってくれませんか。』

 懐かしく微笑ましい記憶。かくれんぼなんて単純な遊びでも、鬼に見つかる事に本気で恐れ、ドキドキしながら隠れていた。

 空想の冒険を想像して語り合い、そんなワクワクドキドキした未来がある事を、本気で信じていたあの頃は、ただ純粋だったのか、無知だったのか。

『お姫様は王子様と末永く幸せに暮らしましたとさ。』のつまらないエンディングはもう目前。

 末永く幸せに暮らす事がつまらないと思うなんて。

「贅沢な悩みよね。」

 化粧を直し、髪をアップに上げて髪飾りをつけた。仕度を終え、部屋を出ると普段着の人がカバンを持ってエレベーターへと向かって歩いている。儀式だけ参加して、ある程度の手伝いが終われば、宴には参加せずに帰る人もいる。エレベーター内で、その人に「素敵なドレスですね。楽しんで下さい。」と声をかけられて、会釈した。一階は、そうして帰る人達がバス待ちをしていた。

 神政殿へとつながる廊下へと向かうと。ちょうど克彦さんが入ってくるところだった。

「克彦さん。」

「遅いよ。」

「ごめんなさい。」

(もしかして、迎えに来てくれたのだろうか?)

「お義父様が心配されて、見て来てほしいと頼まれたから。」

(お父様が・・・ね。)

 克彦さんは踵を返して神政殿へと廊下を歩んでいく。麗香は閉まった重いガラスの扉を、自分で開けて後を追った。

(藤木なら開けてくれるのに。)

 当たり前になったエスコートが、どんなに麗香の負担にならないように考えられていた事だったのかを実感する。

 神政殿に繋がる廊下の先には前室がある。そこにお父様が華族会西の頭家の人達と集まって立ち話をしていた。男性は皆、モーニングを着用している。麗香の到着を気付いたお父様が笑顔の顔を向けた。

「麗香、大丈夫か?遅いから心配したよ。」

「ごめんなさい。袴を畳むのに手間取っちゃって。」適当な嘘をついておく。

「麗香、私はこれから頭家会議に出るから、フロアにはあまり顔を出せないと思う。克彦君がエスコートしてくれるから大丈夫だな、私が居なくても。」

「えぇ、大丈夫よ。子供じゃないんだから。」

「はははは、柴崎様は心配で仕方ないらしい。こんなにお綺麗なお嬢様なら致し方ない事か。御田様さんも良いご縁に恵まれましたな。」

「ええ、有難いことです。」と克彦さんは繕った笑みで頭を下げる。

 ここは仲慎ましいを演じなければ不味いと思ったのか、克彦さんがエスコートの手を向けて来た。その手を握る。レースの手袋の上からでも、体温が高いことが分かった。

 手の冷たい人は心が温かいと言うけれど、逆に手の温かい人は心が冷たいのかしら。と、くだらない事を考えながら、フロアへと入る。

 光玉も八角形に並べた台も儀式に使ったものは全部片付けられて、フロアの両端には長テーブルが設置され、軽食と飲み物が並べられていた。既に飲食を始めている者もいる。

 フロア内でひときわ目を引く人が居た。御影和葉さん。黄色が基調の花柄に長いチュール。だけど中のスカートはミニで足は太ももから丸見えだった。東の華族会パーティで、足をあれほどまでに見えるドレスを着た人を見たことが無い。第一印象を裏切らない派手さに麗香は苦笑したが、見渡せば全体的に東よりも派手さがあるように見えたのは、今日が特別のパーティだからかもしれない。

 今日は新皇様もパーティにご参加される。新皇様がまだ独身である場合、宮で行われるパーティに時々参加される。それは、お后選定の場であり、明治神皇と昭和神皇は、このパーティで華族から皇后を召し上げられた。

「新皇様が誰を召し上げるかなんて、僕には興味ないな。やっぱり、帰宅希望にすればよかったなぁ。」と克彦さんが愚痴る。

「神儀の内よ、これも。宴も新皇様に捧げる大事な行い。」

「柴崎家の信仰心には、頭が下がりますねぇ。」と克彦さんは首をすくめ、麗香から離れた。

 克彦さんの冷たい態度や言葉に、一々傷ついていられない。



    【華族会、華冠式用祖歴概略より】


 五感に秘めた力を宿す一族がいた。のちに神巫族と呼ばれる者たちである。

 一族の者は、五感のうちの一つに秀でた力を持っている。

 目、耳、鼻、手、口に、視る力、聴く力、嗅ぐ力、触る力、言う力、

 それぞれに秀でた秘力は村人を導き、

 村を豊かに大きく発展させ、小国にまで導く。

 小国が大きくなればなるほど、数が増えるほど、

 神巫族の秘力による人々への助言は及ばず、

 各地で小国同士の争いが多発するようになり、世は荒れるばかりとなった。

 そんな中、神巫族の中に五感すべてに秘力を宿す者が現れる。

 その者は後に卑弥呼と呼ばれる。

 卑弥呼は絶大なる秘力で近隣小国を治め、

 大国とすることで荒れる世地を静めることに成功した。

 だが、それは一時しのぎである事を知り得ていた。

 絶大なる力の象徴、皇の存在がこの国には必要である事を。

 しかし、どんな優れた皇でも寿命が尽きれば死ぬ。

 皇の死をめぐって争いは繰り返されだろう。

 人々が、未来永劫安寧した世を望むには、神的な皇が必要である。

 卑弥呼は、力ある者を結集させ、

 自身の身体に天より神の子を降ろす事に成功する。

 処女だった卑弥呼の腹に宿った神の子は、8日8ときで育ち誕生する。

 初代の神皇、天の人と呼ばれた天人神皇である。

 天人神皇を産んだ直後、卑弥呼は死に神皇誕生の事実を秘匿されたことにより、

 間違った噂となり歴史に名を遺す。

 卑弥呼は力に自惚れ、更なる力を求め、神の力を手に入れようとした。

 極めて卑しく天に力を求めた者と名を遺す者。

 との意味含め、後に卑弥呼と呼ばれるに至る。

 天人神皇の神格化を世に極める為、神皇降臨の地や卑弥呼の墓の在り処を残さず、

 この国の統治に全力を注いだ。



  【今年度常翔学園中等部採用 栄文社社会科教科書より抜粋。】


  キリストの誕生の翌年を西暦元年とした世界では、ローマ帝国が最盛期を迎え、

  大陸の東、中国では秦の始皇帝から続いて支配した漢が領土を広げ、

  ローマ帝国とシルクロードを通じて貿易を栄えて国を強固にしていた

  西暦300年、農耕を中心とした小さな集落生活であった古来の日本人は、

  農耕の効率性と貯蓄性が村単位へと拡大し、そして村が小国へと発展しました。

  この頃を弥生時代といいます。

  小国が各地で増えると小国間の衝突が戦乱を起こし、

  国は人の欲望と共に荒れた世となりました。

  そうした争いを静める為に現れたのが卑弥呼という女性の祈祷師でした。

  人々の祈りが卑弥呼を通じて天に届き、

  神はそれに答えるべく天より降臨したのが

  現在の神皇家の祖先であると言われています。

  降臨した神が神皇として日本を統治すると、

  戦乱に満ちていた世は平和な国となりました。

  卑弥呼は生涯独身を貫き、神皇の元で国の統治を手助けしました。

  その卑弥呼が死ぬと大きな墓が作られたと、

  中国の魏志倭人伝にも記されています。

  平和になった国は中国との交流を始め、

  大陸からの優れた技術や読み書きの文化が日本に伝えられようになりました。

  伝えられる物の中には儒教や仏教など、

  古来日本の思想や信仰とは違う物もあり、

  後に民に大きな影響力を与える事になります。

  神皇崩御の度に作られた墓は、その権力を誇示するように大きくなり、

  数も増していきました。

  この頃を古墳時代といいます。

  大陸、中国との交易はますます盛んになり、

  日本からも使いを送るなどをして、文化や品が民にも流通し、

  信仰や政治制度なども取り入れる時代となりました。

  16代の聖徳新皇は奈良の飛鳥を中心に

  律令制度の政治づくりを進めて行きます。

  この頃を政治の中心であった地名の名前をとり飛鳥時代といいます。

  聖徳神皇は冠位十二階の制度を定め神巫族以外の、

  能力や功績のある人間を役人に取り立てる道を開けましたが、

  政治の仕組みに対する意見の食い違いが起き、

  神巫族と役人との諍いが起るようになりました。

  聖徳神皇は17条の憲法をつくり、

  神巫族と役人との争いをやめ、神皇中心とする政治に励むように、

  役人としての心構えを説きました。

  さらに中国、隋との国交を開き607年小野妹子を遣隋使として送るなどして、

  積極的に中国の進んだ文化を取り入れて行きます。

  律令制度の政治を進めていた聖徳神皇の死後から約100年あまり経ち、

  701年、大宝律令と呼ばれる法律が作られ

  国家の新しい仕組みがようやく定まります。

  年号の和暦が始まったのもこの大宝元年からで、

  神皇家による律令国家へと確立していきました。

  その後、神皇政権は710年、律令国家の新たな都として、

  奈良に平城京を作りました。

  唐の長安にならった平城京は広い道路によって碁盤の目ように区切られ、

  神皇の住まいや役所のある平城宮を中心に

  とても美しい整備された街並みでありました。

  また戸籍の制定による税の徴収や仕組み、貨幣の使用など街並みだけではなく、

  制度も秩序と階級に万全なる統制を量り進んだ時代となりました。

  この都を中心に政治を行われた80年あまりを奈良時代と言います。

  8世紀の後半になると、階級により、役人は権力と財力を蓄え、

  古来から祈宗の信仰で神皇政権を支え続けて来た神巫族との間に

  勢力争いが起き、また民は増える税や労役の負担により、

  戸籍を捨てて逃げる者が現れ、税の徴収が滞り、

  国の財政も苦しくなって行きます。


  25代の桓武神皇は794年京都の長岡京に都を移し

  政治の立て直しを図りました。この頃より平安時代と言います。

  中国の唐に渡って仏教を学んで帰国した最澄が帰国後に天台宗を開きました。

  最澄による天台宗は神皇族による祈宗信仰の対抗するように、

  神巫族以外の役人貴族達に瞬く間に広まっていきました。

  神巫族より権力も財力もより高く持った貴族たちが各地で武装し、

  関東では平将門が、京では藤原純友が、周辺の武士を率いて支団を作り、

  反乱を起こしました。これを天台の乱と言います。

  藤原氏は娘を神皇の皇后にさせ、政権を握ります。

  こうして政権は武士が支配する時代となり、

  武力の優劣が政治の言及力に繋がっていきます。

  次第に各地で権力争いが増え、それに伴い領地争いも起りました。

  そんな乱世な時代に力を持った源頼朝が関東の武士たちを支配下におき、

  勢力を伸ばし鎌倉を拠点とする武士政治を行いはじめした。

  鎌倉幕府の成立です。国は二分されてしまいます。

  政権から後退した神巫族でしたが、神皇家との結びつきは依然として強く、

  神皇政権の復権を望んだ神巫族は、

  祈宗信仰を民に広める教えを広げようとしました。

  ですがその行為が武士たちによって糾弾されることになってしまいます。


  ローマ帝国の国教であったキリスト教は、

  ローマ帝国崩壊後も教会や修道院を通じてヨーロッパ各地に広まって行き、

  ローマ教皇を首長とする力の文化圏が作られていくなか、

  聖地であるエルサレムがイスラム教の国であるセルジューク朝の支配下に入ると

  ローマ教皇はエルサレムからイスラム勢力を追い払う為に十字軍を派遣します。

  聖地からイスラム教徒を弾圧し、ヨーロッパでは異端審問が行われ、

  徹底した異教の信仰を排除する世界の流れと同じくして、

  日本でも同じような動きが見られます。

  【神巫狩り】

  藤原から変わり実権を握っていた北条時政は、

  神巫族の信仰普及の行為に危機を抱き、神巫族征伐に乗り出します。

  同時に41代の鳥羽神皇は北条氏により隠岐島に移送されてしまいます。

  そして1222年北条氏は『神巫族滅敗令』を全国に出し、

  神巫族を見つけた者は直ちに地頭や守護に報告をする事を義務づけ、

  見つけ捕え次第、処罰するような強行に出ます。

  この神巫族滅敗令は、神巫族を匿う者も処罰される厳しい令でした。

  この討伐により神巫族は滅亡してしまいます。

  その後、国内は様々な仏教が民衆の間に広まりました。



 


  【華族会、華冠式用祖歴概略より】


  41代鳥羽神皇は北条氏の隠岐島移送の条件として、

  側に仕えていた神巫族の弥神家を同行する事を確約させた。

  神皇は隠岐島への移送の直前、涙を流し生き残りの神巫族すべてに祈り伝える。 

  「我の力及ばぬ悲愴の魂に、心より詫びる。

     神巫も民も、日ノ本に住まう我の存現である。

      神巫は民の非道に恨心を生むことのない御霊で天の神に抱かれよ。」

  神皇の痛心の祈伝に、神巫族は祈心を持ってこれを決断。

  「人の祈心は神の存現、神の受心は人の存元。

     我々神巫族は神皇を守り神皇の存現にこそ存在理由とする一族。

      一族の滅亡が、神皇の現存を確約するのであれば、

            世から消える運命も受け入れよう。」

  我々華族の祖である神巫族は、こうして歴史から消える運命を受け入れた。

  鳥羽神皇が隠岐島に移送された時、

  全国各地で生き残っていた神巫族の祖先は38家、約108人足らず。

  全盛期より約1/10になった。

  残忍な民の仕打ちに、我々華族の祖先である神巫族は、聖心に耐心であった。

  神皇の言霊を守り、歴史から消える運命を受け入れ、

  未来、神皇と共にこの国が、神巫の力を要する時に備える事を。

  僅かでも、命を途がれることなく血を繋ぎ耐え忍ぶ道を決身する。




 教科書に記されない真の歴史は、残酷極まる。神巫狩りにより殺された神巫族達は、どんなに無念の思いだっただろうか。

 亮は「華族会、華冠式用祖歴概略」を一旦閉じた。濃臙脂色のベルベッド素材で出来た表紙が、重厚な空気を浮きあげ、香木に似た匂いが顔に届いた。

 初めてこれを読んだ時は、華族の祖先である神巫族の悲運な状況に同情したが、卑弥呼から受け継いだ力の存在が明確になった今では、何故、民の傲慢を正さなかった?その力がありながら。と疑問が大きく思考を支配し、同情は薄れている。

 華族の祖歴原本なら、その理由が記載されているのかもしれない。読みたいが、それはきっと華族の称号を持つ文香会長達ですらも閲覧は難しいのだろうと予測する。

 ドアがノックされた。亮は祖歴書をデスクの引き出しにしまい返事をすると、遠慮気味に柴崎家の住み込みのお手伝いさんである木村さんが顔をのぞかせる。

「藤木さん、今日は奥様の所へは行かれますか?」

「ええ、昼から行こうと思っています。」

「じゃ、申し訳ないのですが、奥さまのお着替えを、お持ちいただくのを頼んでもよろしいでしょうか?」

「ええ、もちろん、かまいませんよ。」

 木村さんはほっとして苦笑する。

「凱斗さんに頼もうと思っていたのですが、一昨日からこちらにはお見えにならなかったものですから。」

「一昨日から一度も?」

「はい、昨日は直接小学部の方へ来ているから、会長室に届いているファックスは小学部の方に転送してくれとの連絡があって、そのようにしましたが、私は凱斗様の携帯番号を知りませんから。」

(まだ、誰にも携帯番号を教えてないのか・・・)亮はため息を吐く。

 昨日は小学部に顔を出しているだけ、まぁ真面目に仕事する気持ちはあるようだけども、文香会長の意識が戻られた途端に、さぼるのはやめて欲しい。今日は日曜だけども、翔柴会会長秘書という仕事は、休みがないような物。中等部より上は日曜日でもクラブ活動があって学園は開校しているし、学園方からの書類だけでなく、文部からの重要書類も曜日関係なくファックスが送られてきたりする。1日その書類整理を怠ると、次の日が大変な目に合うのは、会長秘書に着任して2週間も経たない内に実感した事だ。

「わかりました。あとで、会長室の書類整理をしておきます。」

「日曜日なのに申し訳ございません。」

「会長が戻られた時に仕事が山積みでは、文香会長の心労を増やすことになりかねません。」

「藤木さんも無理をなさらずに。」

「ありがとうございます。」心よりの優しい気遣いに、亮は微笑んで返した。

 木村さんには学生の頃から世話になりっぱなしだ。熱を出して倒れた時、付きっ切りで看病してくれた事もあった。

 木村さんと料理人の源田さんは、共に文香会長と同年代。先代の総一郎会長に恩があって柴崎家に仕える事になったと視知るが、詳しい過去まではわからない。

「コーヒーでもお持ちしましょうか?」

「いえ、家で飲んできたばかりですから。」嘘をついた。

 亮も金曜日から自分のマンションには戻っていない。昨日はそのままホテルに泊まり、朝はホテルのモーニングサービスで済ませ、チェックアウト後はタクシーで柴崎邸に来たのだった。身辺整理をするために屋敷に寄った。この祖歴書も文香会長に返さなければならない。

「そうですか、では、奥さまの着替えは玄関ロビーのテーブルにご用意しておきますので、よろしくお願いします。」

「わかりました。」

 木村さんが部屋から出て行き、亮は「華族祖歴書 概略」をもう一度出して、適当なページを開いた。開いたページはもう、何度も見て、開き癖が付いてしまった、神皇家の系図が書かれている場所である。

 初代天人神皇から123代昭和神皇まで、降臨日、いわゆる生誕日と崩御日が記載され、卑弥呼が神皇を天より降ろした日からの脈絡の全てが、この系図からわかる。

 この祖歴は、おそらく先代の総一郎会長が華冠式の時に華族会から渡された物だろう。様相は色あせることなく綺麗だが、即位の神皇が昭和神皇止まりの記載である。麗香が16歳の華冠式に配布された概略の祖歴書は、今の平成神皇の名前がしっかり記載されて、そして、継嗣の名前も記されているに違いない。

 双燕新皇と還命新皇。

 同じ顔、同じ声、同じ姿。左目にかかる長い髪だけが違ったあの顔。

 双燕新皇の姿をテレビで見かける度に亮は思い出す。荷が重すぎる秘密。












 テーブルの飲み物と食べ物がある程度減り、会場が和やかなにほぐれた頃、静かに流れていた曲調が変わり、照明も少し落とされた。ダンスタイムが始まる。華族会のパーティでは、最初の一曲はパートナーと踊る事がルールである。次の曲からは自由に相手を変えて良い。

 それまで御影和葉さん達と楽しそうに雑談をしていた克彦さんが、足取り重く明らかに嫌そうな表情をして麗香へと歩んでくる。しかし、一応のマナーは守る気でいるらしい。無言で差し出される右手に麗香も無言で答える。ドレスの裾を右手でつまみ上げて、膝を曲げて、「よろしくお願いします。」の合図。やっぱり暖かい手が気持ち悪かった。

 踊りながら、初めて踊ったあの時も、この手の温かさを気にしただろうかと記憶を馳せる。

 大人達に「上手よ、可愛い」と褒められた事がとてもうれしくて楽しかった。それだけが鮮明に覚えている。

 今は早く終われと願うほどに楽しくない。お互い気持ちの入らないステップを踏んでいたから、克彦さんの足が私の靴のつま先に当たり、よろめいてしまった。

「ごめんなさい。」その言葉をきっかけに、暇つぶしの話を進めた。「ねぇ、この靴、覚えてる?」

「ん?靴?」ダンスのステップをしながら、足元に目をやる克彦さん。

「そう、初めてあなたと踊った時の、靴のデザインに似せて作らせたの。」

「初めてって、東の華族会パーティに顔を出した時?」

「違うわよ。子供の頃の。」

「子供の頃?」顔をしかめて首をひねる。

「私が5歳だったから、克彦さんが7歳ね。帝国領華ホテル本店の大きなパーティで私達、踊ったじゃない。」

「僕が7歳?誰かと間違ってるよ、それ。」

「えっ?」

「僕は10才までシンガポールに住んでいた。」

(うそ、そんな筈は・・・)

「でも、克彦さん、『シンデレラの靴を履いたお嬢さん、一緒に踊ってくれませんか?』って子供の頃と同じフレーズを、東の宗のパーティで言ったでしょう。」

「あぁ、今だから言うけれど ドレスを褒めるより、靴を褒めた方が効果ありなんだよ女性は。ドレスは誰もが気合いを入れているし、どの男も使う常套句。だけど足先までは中々褒めないよね。女性は、靴までちゃんと見てくれていると喜ぶ。」

(口説きの常套句だった!?)

「君もそれで僕に気が向いただろ。」

「わ、私は・・・・でも、克彦さん、あの時のダンスで、前にも一度踊った事ない?って私に聞いてきたじゃない?」

「聞いた?僕が?」

「えぇ、私、それで5歳の時の事だと。」

「んー、覚えてないなぁそこまでは。東の宗に顔を出したのは、さっさと称号ありのお嬢様を見つけるのが目的だったから。」

(思い違い?)

「何?まさか今更、現実を知って傷付いているとかじゃないよね。」

「えっ、いえ、違うわ、ただ・・・。」

「君も称号維持の為に、称号持ちの相手を探さなくてはならなくて焦っていただろ。」

(傷付きはしない、ただ・・。)

「まぁ僕も、最初にアプローチした相手が、まさか東の宗を代表する頭家の柴崎家のお嬢様とは知らなくて、後で知った時は驚いたけど。」

(じゃ、あれは誰だったの?)と、また振り出しに戻った忘れられない思い出。

 そして、称号の為に結婚する相手の、唯一の結び目だった物が、今解れる。

(私は、克彦さんのどこに、何を拠り所にして、この先、夫婦を演じて行けばいいの?)

「まさか12頭家の一つ、柴崎家のお嬢様が結籍の約束をどこともせず、23歳までフリーで居るとは驚いたよね。おかけで僕は、結籍の相手を見つける事が出来たし、柴崎家との結籍なら誰も反対はしないどころか、西での御田家の格も上がるって、両親も大喜びさ。」

 格を気にする割には、御田家はこういう神儀に熱心じゃない。

 麗香が無言になったのを、克彦さんが小さな溜息で話の終止符をつけた時、周りの空気が変わった。

ざわめきの男性陣の声と、ときめきの女性陣の声が会場を包み、周りの視線につられて正面に向けると、御帳台の左脇に、双燕新皇様が立たれていた。後ろには弥神道元様と降臨祭の時に神鏡を捧げた女性が付いている。

「新皇様も嫁探しに、必死と見える。」と克彦さんが鼻を鳴らす。

 克彦さんのご両親もこんな風に、神皇家の事を軽率に言うのだろうか?

 私達の間に愛がなくて、家と称号の為に結婚する事を耐えられても、この意識の違いには耐えられないかもしれない。と麗香は重い気持ちになる。

 新皇様は、降臨祭の時に御召しになっていた厳格な法衣とは違って、洋装を取り入れたシルバー基調の大礼服をお召しになられていた。足首まであるロングの燕尾は、位の高い人ほど長く、見るからに重厚で手の織り込んだ生地だとわかる。

 フロアの中心で踊る者以外、両サイドに居る女性はまだ伴侶がいない証しでもあるから、このタイミングで新皇様が現れるのは、克彦さんが言うように、皇后探しになるのは間違いない。

 双燕新皇様は穏やかな笑みを会場の者へと向けると、まだ伴侶のいないフロア両サイドにいる女性陣達の方ではなく、何故かまっすぐ、舞い広がるドレスが大きな大輪の花の中へと歩まれる。

 そして、一曲目が終わって、動きを止めた麗香達の真横で、新皇様は歩みを止められた。

「代わって頂けるかな。」

「えっ!?」克彦さんが声を出して驚愕する。

 声こそ出なかったけれど、麗香も同時に驚愕していた。

 新皇様だけが穏やかに微笑むフロア、全員が麗香へと驚愕の注目をした。

 静かに、2曲目が流れ始める。

「パートナーを取るような形になってしまい、申し訳ないが。」

「あ、いえ・・・ど、どうぞ。」

 さっきまでの軽率な態度はどこへ行ったのか、克彦さんはしどろもどろに、大慌てで頭を下げ、握っていた私の左手を、まるで物を謙譲するように、下げた頭の上まで持って行き、新皇様に捧げる。

「改めて、我と踊ってくださるか?柴崎麗香さん。」

 麗香に腰を曲げてくださる新皇様に、驚きで固まった麗香は、その畏れ多い行為に、息を吸うのも忘れてしまい、慌てて、「はい」返事をし掴んだドレスを引き上げたが、上げ過ぎるし声は上ずって、もう人生の中で最悪で無様な「よろしくお願いします」の挨拶マナーになった。

 新皇様はしなやかに麗香の手を取り、麗香の腰に添え踊り始める。

 周囲のざわめき、何故あの子が?という驚愕と妬みの視線が突き刺さってくる。

 自分でも驚愕に震える。何故、私なのか?

「柴崎麗香さん。あれから、皆、変わりなくお過ごしか?」

 新皇様が耳元で囁く。

 その声は、一時を過ごした同級と同じ声。











 神皇家は、現在124代目の、世界で一番古い王室としてギネスにも載る。

 日本は、外国から見れば不思議な宗教観を持った民族だと言われる。八百万の神がそこかしこに存在し、自然の恩恵や脅威に神の存在を崇め恐れて来た。キリスト教やイスラム教などの人単一特定神教に対し、日本は複数交替神教である。クリスマスを祝った後に正月に神社へ初詣に行くような国民性は、入って来た宗教に対して排除するまでの固執した意識がなく、宗教間の衝突がない。神巫狩りの発端となった天台宗の広まりも、神巫族が崇拝していた祈宗と激しく衝突したとの記述がなく、起こりの発端が不明だ。神皇と共に神巫族が追われたとだけ言い伝えられている。

 そもそも国民の神皇の存在意識も不思議かつ曖昧である。神皇は天より降臨した神の子であると教科書に記載しておきながら、国民は神皇を絶対神としての固執が定着していない。神皇にふれ伏せ崇める服従さがありながら、手を合わせ祈り願うのは神皇ではなく、八百万の神々だったりする。

 アフリカのアルベール・テラで人類が発祥し、古来、新天地を求めた人類は、アフリカ大陸を出て中東、アジア大陸を超えて海を渡り、日の本の島にたどり着いた最終地の移民族が日本人だ。長い移住を繰り返して得た、忍耐力と受容力がDNAに刻みこまれた気質が、日本人の本質だと言われれば、それ以外の結論は無くなるが、神皇の存在に対して、日本国民は不思議なほど、神格化しつつ現実的存在として扱われているのに、秘儀にされている事が多く、それに対して疑問視することが、今までにない。

 最近になってやっと、国会で神皇典範開示要求をされ始めたけれど、それは神皇に対してではなく、華族に向けられた不満要素が歪曲していったものだ。神皇家に対しては誰も疑問を投げかけない。ただ神を恐れる臆病な国民性なのか、それをさせないのが、神皇の神の子たる力なのか。

 神の子たる力、それは確実にある。亮はその脅威なる力に屈し恐懼した一人である。

 この「華族祖歴 概要」歴書に虚偽や記載漏れがなければ、この事実は、まさに神がかった力としか言いようがない。

 ――――神皇家の第一子には必ず男児が生まれている。

 通常の確率論から考えてもあり得ない。そして第二子以上は生まれる事が無いか、あっても稀で、この124代続く1700年の間で、11人しかいない。その稀な第二子の中には女児も生まれているが、男児女児も必ず何らかの障害をもって生まれ、短命である事が、別頁で補足されている。そんな事例が、神皇家の非情なしきたりに結びついた。

 《神皇家に生まれる子が双子であった場合、過誤の子は、天へ還さなければならない。》

 天に還すと言う事が、実際にどう行われるのかわからないが、本来はそうして返すべきだった子を、弥神道元がそれをしなかった。そうして天に還されることなく弥神道元の子として育てられたのが、弥神皇生だった。

 約1800年の歴史の中で最初に生まれた双子は、888年の双晴新皇と双雲新皇。このときはまだその仕来りは制定されていない。双晴神皇の即位日と双雲新皇の崩御日が同じ904年11月5日と記されている。この日がりのちゃんと双燕新皇、並びに弥神皇生と同じ誕生日である事実を見つけた亮は、素直に驚いた。偶然とは思えない。これもまた、神かかる力なのかと驚愕したのだった。

 その後6回、神皇家では双子が生まれている。いずれもが、双子の一人は還命新皇と記され、生誕日と崩御日が同じ日付が記されている事から、双晴、双雲新皇の一件から、天に還すしきたりが制定されたと考えられる。この後、天台の乱と共に神皇家はどちらが神皇に着くかで混乱を極めたのだろうと予想する。

 この世に存在しない皇、還命新皇。仕来りに逆らい生きてしまった弥神皇生は、歴史上、存在しない神の子である。

 その非運に同情はするが、弥神のした事は許されないものだ。亮が新田程に怒らないのは、その現場をみていない、すべて聞いた話だったのと、幼き頃から華族と神皇家に対する尊厳は教授されていた為に、華族の理不尽さに刃向っても、何もならない事を十分に知っていたからだ。りのちゃんが一命をとりとめ、驚異の速さで回復を見せたことも、怒る沸点を越えなかった要因でもあるだろう。そして、知らされていなかったとはいえ、亮は神皇家継嗣である弥神皇生を殴ってしまっていた。どうして新田のように素直に怒る事などできようか。

 弥神皇生があの事件の後、遠くへ行ったと聞かされた時には、亮は心底ほっとしたものだ。弥神皇生が何を考えりのちゃんを刺すに至ったのかなどの真相は、どうでもよく、多少の理不尽はいくらでも飲み込めた。

 「華族祖歴書 概要」をまた閉じた。本来の目的から反れて、随分と長い時間を耽ってしまっていた。

 亮は引き出しから、柴崎家の家紋入り封筒と便箋を取り出して、揺るがない決心の書状を書き始める。











 双燕新皇様は優しい微笑みで麗香を見つめる。

「は、はい。おかげ様で元気です。」

「それは何より。あれより心配をしていた。その後の状況を知ることが出来ず。」

 双燕新皇様は、りのや、弥神君の事を知りたくて、麗香の所へ来たのだ。

「真辺りのは、今、海外に住んでいます。元々帰国子女だったので、海外への関心が強く、あの後、フィンランドに留学をして、そのまま向うで翻訳家として活躍しています。」

「そうであったか、それは良き事。我の毎の祈りも精が成したと思うと、嬉心に満ちる。」

 弥神君と同じ顔で頷く双燕新皇様を、麗香は複雑な思いで過去の出来事を思い出す。

 親友を失うのと引き換えのように知った神皇家の真実は、麗香には重すぎた。

 麗香と同じ華族の称号を持つ家のご子息だと思っていた同級生が、実は新皇のもう一人の双子だったなんて。新皇でありながら、民と同じように扱われる気持ちはどんなだっただろうか。

「新皇様、友の為に祈り頂いた事、りのに変わって感謝いたします。」

「麗香さん、そう、畏まることはない。あれは私にも責がある。還命の存在を感じていながら閉口し、力不足であった事が悲を生んだ。」

「新皇様があの時、お越し下さなければ、りのは助かりませんでした。」

「我は、皆の祈りを受けただけだ。あの時、皆の祈りをりのさんに送り命を救ったのは、還命の送心の力と、あなたの触の力だ。」

 りのを生かせたのが弥神君なら、殺そうとしたのも弥神君。麗香はその事実をどう理解していいか未だにわからない。

「還命の過ちを許せとは言わぬ。ただ、弥神皇生として生きた存在が、記憶としてそなたらにあるだけ良い。それが憎悪の気持ちであろうとも。」

 弥神君の発覚した生い立ちは、りのを刺すと言う奇行を有耶無耶にさせるほどに混迷した。現在、その存在は、偽装した戸籍ごと抹消された為、常翔学園も入学当初から居なかったようになっている。ネットに流れた弥神皇生という名前も、黒川君のVID脳で作ったシステムで全消去のフィルタリングが現在も続いて仕掛けられている。そうして人の記憶からも消えていく弥神君。それを双燕新皇様は、愁いておられる。

「還命の非運は我であったかもしれぬ。教えてくれぬか、還命の息災を。」

 そこで麗香は気づいた。双燕新皇様は、あの当時、お忍びで御所を抜けられた事を話せないのだと。話せばお付きが罰せられる。だから、弥神君やりののその後を誰にも聞けずにいた。

「還命新皇様も、その後、国外を出られたと聞いています。行き先は当初より知らされておりません。しかし私の従兄、柴崎凱斗が世話人として仕えていますので、ご心労されるような事はないはずでございます。柴崎凱斗は華選の称号持ちでございます故。」

「麗香さん、あなたの気遣いありがたく受け頂く。」

「申し訳ございません。詳しい話を献上できずに。」

「この話は終えよう。気苦労をかけるが、曲の終わりまで、今しばらく我と付き合いくださるか?」とまた優しい微笑みを向けてくださる。

「はい。新皇様、私にはもったいない至福でございます。」

 無様な挨拶から始まったダンスは、思わぬ過去の話題になり、動揺してもつれたステップを新皇様がさりげなくフォローして下さる。きっとこの時は一生忘れない。最悪の思い出とならない様に、麗香はダンスに集中した。やっと緊張もほぐれて踊る事が楽しいと感じられた時、新皇様の足が急に止まった。まだ曲は終わっていない。 新皇様のお顔を窺うと、さっきまでの微笑みは無くなっていて、何処を見るでもなく空を彷徨った目は、閉じられた。

「新皇様?大丈夫ですか?」

「すまない。」

 目を開けられて、再開したダンスと麗香に向けて下さる微笑みは、どこか無理があった。

 曲の途中でダンスを辞めてしまうのは失礼に当たる。どんなに相手とリズムが合わなくて、これ以上踊り続けることが困難でも、握った手を合わせた身体は離れることなく、曲の終わりまで寄り添っておくのがマナー。

「休まれた方が良いのではありませんか?私の事はお気になさらず。」

 しかし、新皇様ならタブーも許されるだろう。

「いや・・・・むしろ、あなたのその心よりの案じ、願う想いの触の力に助けられる。すまぬが、そのまま願い続けてくれぬか。」

 独特の言葉使いに、麗香は所々理解できない。何を願い続けたらいいのか?

 お疲れの様子の新皇様の疲労を取り除き、大事なくお元気になられように?

 新皇様の幸せが、私達民の希心?

「ありがとう。我は未熟故、受心の力にまだ翻弄されてしまう。」

(じゅしん?何のことだろう?神皇様は、計り知れない力をお持ちだとは聞いたことがあるけれど、それの呼び名だろうか?)

「還命の方がよほど神皇にふさわしい継嗣であろうに。」

「そんなことはありません。」

 正反対だと麗香は思った。双燕新皇様は優しすぎて、弥神君は冷淡すぎる。どちらが神皇に相応しいのかは麗香にはわからない。

 曲がクライマックスを迎える。会場に舞うドレスの裾が大輪の花が咲いたように広がり揺れた、その時、天井から一筋の光が注がれた。星が降ってきたように煌き、スポットライトを浴びたように自分が周りより一段と明るくなっていた。

 麗香は、新皇様と共にステップ止め天井を仰ぎ見た。降臨祭の時に開けられた天窓が開いている。何かの演出だろうかと首を傾げた 瞬間、黒い大きな塊が視界を断ち切るようにドンと落ちた。

 その黒い塊が物ではなく人だと理解するのに、ダンスの舞いに陶酔した人たちは、少しの時間がかかった。

 もう一つ、黒い塊が落ちて来て、麗香もやっとそれを理解する。

 悲鳴が貫く。

 この場に似つかわしくない黒い服の人達は、次々と開いた天井から降ってきて、悲鳴も次々に沸き起こる。

 麗香は、何が起きて、何をすれば良いのか理解が出来ないで、体を強張らせた。

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