第19話 白群色の空7

 凱斗は、久しぶりに自宅マンションに入り、僅かに埃の積もったテーブルにpAB2000のパソコンを置いてから、窓を全開にした。寝室からリビングのすべての窓を開けると、冷たい空気が淀んだ空気を一掃する。

「落ち着かないな。他人の家みたいだ。」そう呟いてキッチンに行く。

 冷蔵庫を開けると、卵が4個と未開封のハムと牛乳があり、当然に消費期限はとっくの昔に切れている。

 思い返せば自宅マンションに帰ってきたのは、七夕まつりの日にジェシファと一夜を過ごしたぶりだった。翌朝まだ眠るジェシファの為に、凱斗はマンション下のコンビニで、これらとパンと牛乳を買ってきて朝食を作ったのだった。ドアポケットにある牛乳は持ち上げると、わずかに固形化した感覚がした。凱斗は卵と共にディスポ―サーへと捨て入れた。ハムも中身をディスポ―サーへと思ったけれど、真空パックをめくるのが面倒なので、そのままゴミ箱へと捨てた。となると、冷蔵庫には本当に何もない空っぽとなる。下のコンビニで買ってきた水とお茶の6本を入れ閉めた。

「若者の食べ物は、本人たちに買ってきてもらうか。」

 状況から考えて、今日も遅くなりそうだ。

 凱斗は革ジャンを脱ぎながら携帯を取り出し、ここ数日の、黒川君とのやり取りのメールを読み返す。

 弥神皇生が、中学時代に起こした数々の問題に、同級生たちがネット上で噂を立てていた過去の情報を黒川君が見つけ、調査を凱斗に推進してきたのである。

 【弥神皇生は危険です。出身中学校では、彼に関わった人間が5人死んでいるとネット上で話題になっていました。

  それ以外にも、多数の生徒が不登校になっていて、内一人は精神病棟で隔離入院中です。 

  弥神皇生には不思議な力があって、それで人を操っていると思います。僕も一度その術をかけられ、

  これらの情報を消してしまったのです。最近になって、たまたま思い出し、また情報を集める事が出来たのですが。

  それから、もっと警戒しないといけないのが、弥神皇生の術によって高等部の生徒会が、

  全員、華族の称号持ちで構成されてしまった事です。 

  弥神皇生は、これから何かする気だと僕たちは思っています。

  何か事が起きる前に、調べて警戒し、阻止をしなければならないと思います。】。 

 凱斗はあえて、黒川君の訴えを丸のみしない様に警戒した。黒川君が集めた情報源は、すべてネットからの情報だからである。ネットでの噂の情報は、フィフティフィフティと思っておかなければならない。いくら黒川君が世界に数人のVID脳を持つハッカーだとしても、集約源の情報が正しいとは限らないからだ。そういった事は、黒川君が一番よく知っているはずである。黒川君が、PAB2000を使いたくて仕方がない依存的傾向になっていて、大げさに騒いでいる可能性がある。だから凱斗は、黒川君からの連絡に即時応答はしなかった。皇華隊の強化演習がとても過酷で忙しく、それどころじゃなかったことも最大の理由ではあったけれど。しかし、防衛省経由で黒川君に連絡せよと命令が来れば、連絡しないわけも行かなくなった。黒川君は藤木君を巻き込み、そして藤木君は、親の権力を使った。藤木君が親の権力を使った事が珍しい事であったが、そこまでして何を真剣になっているのか?と凱斗は不思議に思った。だから、皇華隊の隊員強化演習を途中で中断し、彼らの加熱気味な騒動に水を差すつもりで来たのだった。

 ソファに座る。柔らかすぎるソファに思いのほか体が沈んで、「おわっ」と声を出した。

(うーん、やっぱり、ここは自宅じゃないな。)

 基地の固い椅子やベッドに身体が馴染んでしまった。

 皇華隊の隊員は一か月振りに、嫌な上官から解放されて、さぞ喜んでいる事だろう。

 凱斗は自分の体を嗅いでチェックした。

(臭くないよな・・・。)

 また「臭っ」と敬遠されるのは、流石の凱斗でも心に堪える。

 黒川君が次いで送ってきたのは、常翔学園高等部、来期の生徒会役員の承認結果の表だった。

 黒川君が知らせてきた通り、確かに生徒会役員は、白鳥美月さんを筆頭に華族、華准、そして華選になったばかりの、りのちゃんまでの称号持ちのみで決定されていた。

 これは、白鳥美月さんと麗香が結託して立候補者を誘ったと考えられて、華冠式がきっかけで団結力を強め、この結果となったのだとしたら、これは危惧するよりもいい傾向だ。彼らはこの先、次の神皇と共に、この日本国の先導者となるのだから。そして、その生徒会の中に、西の宗の代表のご子息、弥神皇生も入っているのは更にいい事だ。

 先代たち、東の宗代表の総一郎会長と西の宗代表の弥神道元氏は、どちらも豪腕すぎて意見が合わず、何かと衝突してはいがみあっていたと聞く。学生の内から結束力をつけていれば、先代達のようにいがみあう事もなく、華族会は西も東も一致団結し安泰だ。

 凱斗は時間を確認する。4時を少し過ぎた。

 一時間ほど前に、このPAB2000を学園に取りに行った時、藤木君から電話があった。学園は中高共に芸術鑑賞会で、事務員だけが留守番をしていたから、凱斗は学園に入りやすかった。誰もいない理事長室だったけれど、静まりかえっている時だからこそ、着信の音楽はやけに大きく鳴り響いて、凱斗は慌てふためいた。別に、見つかった所で何もないのだけれど。

 黒川君からのメールに、藤木君も苦しめられているとあったが、電話の藤木君はいつも通り、凱斗の応答に厳しい突っ込みをいれてきて、何も困ったとこは無いように思われた。しかし、詳細な話をする間もなく、藤木君は誰かに呼ばれたのか、掛け直すと言ってすぐに切ってしまってから、まだかかってこない。

(忘れちゃってるかもしれないな。)

 凱斗との電話より、友達同士の付き合いの方が楽しいし大事だろう。

 凱斗は微笑ましく笑った。

 自分ができなかった青春の学園生活。

(十分に楽しんだ方がいいよ。こんな信憑性の薄い噂話になんか気にせず。)

 凱斗は首の後ろを掻きながら、ローテーブルの上にあるテレビのリモコンと携帯電話を交換して取り、スイッチを入れる。

(テレビも、久しぶりだなぁ。)


 【速報です。東京杉立区石黒の路上で、トラックが暴走し、数人のケガ人が出ているとの情報が入りました。

  暴走したト ラックは、ミカコーラドリンク社のトラックで、運転手はこのミカコーラの社員ではなく、

  別の男が盗難し暴走させた模様です。トラックを盗難して暴走させた男は無傷で現行犯逮捕されましたが、

  意味不明の言葉を発しており、薬物使用の疑いが出ております。】


「欧米化してきたな、日本も・・・。」

 独り言多く、凱斗は柔らかすぎるソファーに再び体を沈ませるも、ピンポーンと呼び出し音が鳴り、凱斗はもがきながら柔らかすぎるソファーから立ち上がった。モニターには黒川君の姿があった。一つ返事で解錠ボタンを押す。しばらくして玄関の呼び鈴が鳴り、凱斗は笑顔でマンションの重厚な扉を押し開けた。

「やぁ、黒川君、いらっしゃい。」

 学園のサーバーメンテナンスをやってもらう時は、このマンションに来てもらう事が多かったので、黒川君は、勝手知ったる我が家的に上がって来る。凱斗はすぐに踵を返して部屋へと戻る。鍵は自動的に閉まるから問題ない。

「どうだった?芸術鑑賞会は、クラッシックなんて若者にはつまんないよね。いくら世界的に有名な楽団だと言っても。」と言葉をかけたが、何も応答がないので不審に振り返ると、目前に弥神皇生が居た。

「なっ・・・」

 黒川君は、まだ玄関間口で立ちすくんでいる。

「や、弥神皇生・・・ど」

「気安く呼ぶな。」

 思い出す。以前も同じような光景があったことを。

 片目で睨みつけてくる顔は、凱斗がたじろぐほどに鋭い。

「余計な調査などするな。我に関わるな。」そう言って、弥神皇生は覆っていた左側の前髪を左手で払った。

 露わになった左眼が大きく開かれる。

 (自分の悪い癖だ。すぐに融和な場所に馴染む。素人同然の子の気配を感じ取れなかったなんて・・・)

 弥神皇生の左目が赤く染まる。

「っ・・・」

 凱斗は、その赤さを罪責の色だと思考しながら、意識が遠のいていく中でテレビの情報を聞いた。


 【続報が入って来ました。杉立区石黒のトラック暴走事故の被害者は3名で、

  うち一人が意識不明の重体で病院に運ばれたとの事です。】








 えりが佐々木さんを追って地上に出ると、すぐ先の大沼建設の社屋前に、自販機にジュースを補充するトラックが、社名の掘られた石碑の所まで突っ込んで停まっていた。

 パトカーと野次馬が沢山集まってきていて、警官が人々を押し出して黄色いテープを貼っている。救急車は2台も来ていて、そのうちの一台が大通りへと出ていく。

 押し出された人々の中に、佐々木さんの姿を見つけて駆け寄ると、りのりのが居た。

「りのりのっ。」は、茫然と、えりの声掛けにも反応しない。

「えりちゃん・・・やっぱり藤木君だって・・・」と佐々木さんの泣きそうな声。

「そんなっ。」

「なんでだよっ。」と今野さんは、険しい顔で叫ぶ。

「今の救急車で?」

「うん。柴崎さんが乗っていったみたい。」

「先輩も怪我したの!?」

「柴崎さんは大丈夫みたいよ。でも、藤木君、意識がないみたいで・・・。」と佐々木さんは言葉を詰まらせる。

「うそっ・・・大丈夫だよ、ね。ねぇ、りのりのっ。」

 えりが腕を掴んで振っても、瞬きもしない。けれど、微かに口は動いた。

「どうして・・・」周囲の騒然で、えりには聞き取れない。「・・・かは・・知れた事・・・」

 そして、りのりのはガクンと地面に崩れる。

「りのりのっ。」

「おいっ大丈夫か。」 

 (もしかしたら、りのりのは、藤木さんが轢かれる所を、目撃してしまったのかもしれない。)

 今野さんとえりで、力ないりのりのを立たせ、事故現場から離れた。隣の会社の花壇のヘリに座らせる。

「藤木さん、どこの病院に運ばれたんですか?」

 えりの質問に、佐々木さんは横に首を振る。

「俺、聞いてくる。」そう言って今野さんは、また事故現場へと戻っていく。

「大丈夫ですよ・・・えりも、交通事故にあった時、ちょっとした骨折で済んだもの。藤木さんだって・・・」

 根拠などない。ただ、そう思いたいだけだ。

 今野さんは、中々戻ってこない。

「藤木さんのお家の人に知らせないと。」ふと思いついてつぶやいた。

「そう言うのは、警察が連絡すると思うわ。」

「そうですよね・・・。」

「慎にぃ、に知らせないと・・・。」  

 これには佐々木さんは何も言わなかった。だから、えりは携帯を取り出して電話をする。すると、慎にぃの携帯は【電波の届かない所にいるか、電源が切られているため、繋がりません】となる。

「あのバカにぃ、何してんのっ、こんな時に。」

「新田君・・・耐えられるかしら。」そう呟く佐々木さん。

 慎にぃは、えりの交通事故を目の当たりにしてから、他人の血に弱くなってしまった。そのトラウマもあるけれど、依存的な親友の藤木さんが交通事故にあったとなれば、どうなるか・・・。この繋がらない携帯電話が幸いかもしれない。

 (今日は岡本さんとデートとなのだし。)

 でも、自分だったら後から知るのは絶対に嫌だ。親友が非常事態に陥っている時、自分は浮ついたデートで楽しんでいたなんて耐えられない。

 えりは、もう一度電話をかける。やっぱり繋がらない。メールを作成し送っておいた。同じ物を黒川君へも。

 そうこうしているうちに、今野さんが帰ってくる。

「品橋総合病院だ、行こう。」

「リノ、立てる?」

「・・・よくわかっている・・・私の・・・せい。」

 またりのりのは何かをつぶやいて、膝に顔をうずめて泣きだした。

「リノっ、泣くんじゃねぇ!まだ、藤木がどういう状況かわかってないんだっ。」険しい顔で怒る今野さん。

 えりと同じぐらいしか身長のない今野さんは、その背の低さと童顔で、皆から女の子みたいと茶化されても、いつも明るくあしらう、みんなのムードメーカー的役割。だけど、この時ばかりは怖いくらいにしっかりしていた。

「泣いたら、まるで藤木が・・・」死んだみたいじゃないか・・・との先の言葉を、言わずに口を堅く結んで拳に力を入れた。

「あいつは大丈夫っ。行こう、柴崎だけにしておけない。」

 りのりのは泣くのをやめて、ふらりと立ち上がった。










 麗香は、意識のない亮の温かい手を握って、ずっと「大丈夫、しっかりして。死なせないから。」を繰り返し言葉にした。

 救急車が病院に到着し、その手を離されても、その手の感触を頼りに、握った手を胸に『生きて、亮。』と祈った。

 りの達が病院に駆けつけても、麗香はその呪文のような祈りを止めなかった。

 次いでお父様と叔父様が病院に駆けつけ、遅れてお母様が到着した。

 皆、皆、悲痛な表情で多くを語らない。

 そして、亮の母親と二人の妹がSPと共に病院に駆けつける。

「亮はっ、どうなんですかっ」

 言うのをためらう。でも、麗香しか状況を語れない。

「意識がなくて・・・搬送中に、失血による・・・心配停止状態に・・・」

 声にならない悲鳴をあげたのは、亮の母親だけじゃなく、駆け付けた仲間達もで、麗香は続きの言葉を早める。

「でも救急隊がすぐに蘇生をしてっ。」

「亮・・・」涙をこぼす亮の母親。

「お兄ちゃん、死んじゃいやっ。」わーと大きな声で泣く下の妹さんを、上の妹さんがぎゅっと抱きしめる。泣きたいのをぎゅっと口を結んで我慢する姿が、麗香の胸を締め付けた。

「すみませんっ。」麗香は、頭を下げ、泣くまいと必死に耐えた。

「亮・・君は、私を突き飛ばしてくれたから、逃げられなくて。」

「あなた・・は?」

「柴崎、麗香です。」

「私の娘で、亮君と同級生で、とても仲良くさせていただいています。」とお母様が頭を下げて補足する。

「そう・・・亮は・・・学校の事、何も言ってくれないから・・・。」と消え入るようにうつむく。

 亮は学園では博識の藤木と言われて、とても慕われて頼られている。女の子には優しくて、努力家で、サッカーも新田と共に一年で準レギュラーだと、学校での様子を知れない亮の母親に、沢山の事を教えてあげたかった。だけど今、そんなことを言っていい時じゃない。

「あの子、あなたを守ったのね。」と亮の母親は歯を食いしばって更に涙をこぼす。「よかった、あなたが無事で。」

 その言葉が、麗香の胸にずっしりと重くのしかかる。

 患者の親族だけが集中治療室に呼ばれた。しばらくして悲痛に泣き叫ぶ声が微かに聞こえて来て、麗香は頭を抱えるようにして、その声を塞いだ。

 (死ぬなんて、許さないわよ亮。あんたは、私に、自分の為だけじゃない夢にさせてくれ、と言ったのよ。亮の夢は私の夢、叶えて見せなさい。)

 そうして30分ほど経っても、亮の母親たちは治療室から出て来ない。どんな状況でも動じず治療室の前で立っているSPの一人が、電話を片手に一旦その場を離れたが、すぐに戻って来た。そして、誰ともなしに声をかける。

「まもなく、藤木外務大臣が見えられます。ご家族以外の方は、ご遠慮いただきたい。」

「帰りましょう。」お母様が麗香の身体を支えて立ち上がらせる。

「私、謝らないといけない・・・。」

 二年前、『亮をよろしく』と大臣から挨拶された。それなのに、こんなことになってしまった。

「ご迷惑よ。藤木様は急がれているはずだから。」

「お願い、ここにいさせて。」

「麗香、駄目よ。我儘は。」

 皆が歯を食いしばって、辛辣な表情。

 誰もが、そうしたいのを我慢している。

 (泣かない。泣くもんか。)

 辛いのは自分だけじゃない。

「ごめんなさい。」

 麗香は歯を食いしばり、従った。








 慎一は、悠希の笑う口、喜ぶ目、拗ねる頬、はにかんだ歯など、沢山の表情を思い浮かべながら無料チャットに入力しつつ、バス停からの道のりを歩いていた。

 歩きスマホが駄目なのはわかっている。電話よりも言葉入力の方が面倒なのも、だけど、話すのと文字のやり取りをするのとでは、また違った面白みがあって、声に出しては言えない事も、チャットでは恥ずかしげもなく告げる事ができる。

 ぐっと気温の下がった夜道、空気が澄んで星の明かりが刺々しく美しい。

【月がとっても綺麗だ。】

【待って、ベランダに出てみる。】

【寒いよ。ちゃんと上着を着て。】

【ほんと、すごい綺麗。】

【ごめんな、もっと良いの、買ってあげられなくて。】

【やめてよ。私はこれが気に入ったのよ。】

【嘘はわかるよ。】

【じゃ、明日の誕生日に、もう一つお願いしようかな。】

【えっ、もうお金はないよ。】

【大丈夫。お金のかからないプレゼントだから。】

【何?】

 と打ち込んだところで、後ろから車が慎一を追い抜いて、目前まで来ていた我が家の経営する店の前で止まった。

 高級車ベンツの後部座席が開いて、えりが降りて来る。

「慎にぃっ!馬鹿っ!」といきなり叫ばれる。「何で、ちっともあたしのメール読まないんだよ。」 

 慎一は、柴崎が企画したさくま園と牡丹鍋を楽しむイベントに、ドタキャンした事を、絶対に怒られると、悠希とのデート中はスマホの電源を切っていた。悠希を自宅まで送ってからの帰りの今から10分ほど前に、慎一はバスの中でやっと電源を入れた。その時、えりからのメッセージが入っていたのは気づいていたが、どうせ柴崎と同様に、今日のドタキャンの文句を送ってきているのだろうと、無視していた。

 運転席から柴崎のお母さん、柴崎会長が降りて来る。

「えっ?柴崎会長?」

「藤木さん、大変な事になったんだからっ。」

「藤木?」

 慎一は歩み進んで開いたままの車の後部座席を覗くと、今野が真ん中に座っていて、慎一へ険しい顔を向けてくる。その向こうで柴崎が顔を膝にうずめて座っていた。

「芸術鑑賞会後、最寄りの地下鉄へと向かう道で、藤木君は交通事故にあって、病院に運ばれました。」

「えっ?」

「今まで、病院で付き添って頂いていたえりさんを、ご自宅にお送りしたの。」

「交通事故って・・・藤木が?」

「・・・不運にも。」と柴崎会長も表情を曇らせる。

「よ、容態はっ。」

 その慎一の質問に、柴崎会長は俯き答えない。えりも今野も。

 柴崎は泣いているのか、うずくまったまま身動ぎしない。

「嘘だろ・・・それ、どこの病院ですかっ。」

「今から行くことはできません。病院にもご迷惑が掛かるので、生徒たちは全員帰宅させました。」

「藤木・・・そんな。俺・・・。」

 自分だけが、浮かれて遊んでいた。

 藤木が、親友が、大変な時に。











 【今日一日の出来事をおさらいする、ナイトニュース。

  まず初めに、今日の午後3時半頃に起きました。杉立区のトラック暴走事故のニュースです。

  ミカコーラ販売の会社員が杉立区の都道2号線脇の自動販売機に補充していたところ、

  突然男が運搬用トラックを盗み発進させ、すぐ近くの交差点を強引に右折し、歩道に乗り上げる暴走をし、

  大沼建設株式会社の敷地内の石碑に衝突し停止しました。トラックは歩行者3人に接触、

  内二人は打撲などの軽症ですが、芸術鑑賞会の帰りだった男子高校生が、トラックと石碑に挟まれ、

  意識不明の重体で病院に搬送されました。トラックを盗み暴走させた容疑者は、

  薬物使用の疑いがあり警察による検査が行われています。】



 慎一は次の日、学校を休んで、えりに教えられた品橋総合病院に向かった。

 藤木は、まだ集中治療室に入っていて、親族以外の人間が治療室に入る事は許されなかった。

 既に柴崎は病院に来ていて、廊下の椅子にうずくまっている。

「・・・ごめん。俺・・・昨日・・。」

「謝らないで。」そう言って顔を上げた柴崎は、泣いているのかと思いきや、強い目で集中治療室の扉を睨みつける。「藤木は、大丈夫なんだから。」

「・・・うん。」

 昨晩、えりから事故の詳細を聞いた。柴崎以外のえり達は、直接事故を見たわけじゃない。駆け付けた病院で、柴崎が『私を突き飛ばしてくれたから、逃げられなくて。』と言ったと、えりから聞く。

 頻繁に報道されるニュース映像は、歩道を突っ切り大沼建設のオフィスビルの敷地まで突入して止まっているトラックを、空からと、大通りから映した遠い映像ばかりで、ぶつかった建設会社の石碑は、どのチャンネルも死角になって映っていなかった。どのニュースを見ても、どうして藤木がトラックに轢かれたのか、どういう状況で藤木は石碑と挟まったのか、詳しくはわからなかった。

 『搬送中に、失血による心配停止状態になり、救急隊が蘇生をした。』とも柴崎は言っていて、それを聞いた時、慎一は全身が震えた。

 (自分は、何をしていたんだ。)

 そればかりが頭の中でグルグルと回り、自分を責める。そうした眠れない昨晩を慎一は過ごした。

 外来診療も始まった病院はざわついて、時々、医師や看護師がキビキビと出たり入ったりを繰り返す。

 扉が開いても、中の状況は見られないようになっている。

 一時間ほど無言で座っていると、柴崎会長が現れて、悲痛な表情で首を振る。

「迎えに来たのよ。帰りましょう。」

 慎一は立ち上がったが、柴崎は握った両の拳を額に当てて丸まった姿勢のまま、動こうとしない。

 柴崎会長が困り果てた息を吐く。

「麗香、藤木君の生命力を信じましょう。」

 それでも柴崎は動こうとしない。

「藤木君を信じるなら、私達は、普段と変わらない生活をするべきよ、麗香。藤木君もきっとそれを望んで、頑張るはずだわ。」

「柴崎。」

 慎一が柴崎の肩を触れようとすると、それを阻止するかのように勢いよく立ち上がった。そして集中治療室の扉へと向かう。

「麗香っ!」柴崎会長が慌てて止めようとする。

 柴崎に反応して自動の扉が開いた。強行突破して入って行くのかと思いきや、柴崎は開いた自動扉の前で立ち止まり叫ぶ。

「負けるなっ藤木亮!」

 踵を返し、廊下を進む柴崎の後ろ姿が、涙で潤んだ。

 柴崎を頼もしくも思い、自分を情けなく思う。

 親友に声掛け一つできない。

 弱く、震えるばかり。








 トラック暴走事故はメディアに大きく取り上げられた。トラックを盗み暴走させた容疑者は当時、合法ドラッグと言われる薬物を所持しており、日常的に使用していたと思われ、当時も服用し幻覚症状が出ていて、トラックを盗み暴走させたとの見方が強く、警察は状況を把握するため捜査中である。

 暴走事故の翌日の午前に、あるメディアが意識不明の重体の被害者が、藤木外務省大臣の息子であることを報道したため、

臨時国会中の大臣の所と、常翔学園に取材が殺到する。学園は、生徒のプライバシー保護のため、一切のコメントを差し控え報道陣を排除したが、しかし、一部の保護者から、課外学習の一環である芸術鑑賞会への移動手段においての配慮と、メディアに対するプライバシーの厳守の不備を指摘、問われる。常翔学園は保護者説明会を開いて、事故状況を踏まえて今後の改善と対応を述べると共に、被害者生徒の回復を祈り、事態の静観を保護者にお願いますと頭を下げた。これらによって、藤木守大臣の息子が常翔学園の高等部に在籍し、サッカー部のミッドフィルダーである事も、学園内のみならず世間にも知れ渡ることになってしまった。

 そして、父親である外務省藤木守大臣は、

『幻覚症状の快楽を求めて薬物を服用し、他人を傷つけるに至った事は、まことに遺憾で、法規制の強化を望みます。わが子がその被害になったから動いたと思われても致し方ありませんが、今後、我が息子のような被害者を出さない為にも、厳罰へ向けて法整備に尽力を図りたい。』とコメントし、次いで、

『申し訳ありませんが、報道、メディア関係者の皆様に、息子に関する取材は控えて頂きたく望みます。まだ予断の許さない息子に、私ども家族は面会もままなりません。また、学校にご迷惑がかかっては、元気に通える事を何より望んで頑張っている息子に対し忍びなく、どうか配慮いただきたい。』と、悲痛に訴えた発言が一般市民の心情に響き、節操のないメディアが逆叩きとなり、すぐに取材の混乱は収束する。

 麗香は、学園が混乱していた時も、お母様に言われた通りに休むことなく、学校に通った。授業にも集中して手を上げて発言もする。誰が見ても、いや、亮に見られても恥ずかしくない生活を心がけて。

 芸術鑑賞会の翌日からは、期末試験の一週間前であった為にクラブは無く、授業を終えると毎日、都内の品橋総合病院まで通った。

 学校でも病院でも、ずっと麗香は「頑張れ、亮」と心の中で祈っている。

 事故から6日後、いつも通りに授業の終わりに病院に駆けつけた麗香が、指定席のようになった集中治療室の向かいの長椅子に座り祈っていると、奥の廊下から亮の母親が医師と一緒に歩んでくる。亮の母親は頭を下げて医師とわかれると、麗香に顔を向け「こちらへ来てくれるかしら。」と、来た廊下を戻る。病院に配慮したのか、SPは一人の配備で女性に変更されている。

 廊下の角を曲がってすぐの扉の部屋に通される。麗香は、別室に通される事の不安を必死に抑え込だ。部屋は簡易ベッドが置いてあり、亮の母親の物であろうブランドもののボストンバックが置いてある。親族が寝泊まりする部屋だと麗香は察する。もしかしたら、亮の母親はあれからずっと、ここに泊まっているのかもしれないと思うと、その辛労を申し訳なく思う。

 進められて、部屋にある小さなテーブルの椅子に座る。

「柴崎さん、毎日、ありがとう。」そう言って、やつれた表情を麗香に向ける亮の母親。

「いえ・・・ご迷惑だったでしょうか。」

「ううん、亮は喜んでいます。だから、あの子は頑張れた。ようやく山は越えました。」

 麗香は顔を上げる。

 亮の母親はうんうんと頷いて、微笑む。

「すぐに意識を取り戻すだろうって。」

 麗香は、両手を握って天を仰ぐ。泣きそうになったが、ぐっとこらえた。まだ亮は頑張っている。

(泣かないと決めた。泣いたら、悲しみを肯定する事になる。)

「ただ左足は、意識が戻るまではわからないの。」

 それから、初めて亮の怪我の診断を知る。救急搬送時、亮は左足、脛骨粉砕による脛骨神経損傷及び静動脈切断が主な症状だった。額と口からの傷は、トラックの車体がぶつかったと時による裂傷だったが軽傷で、口に関しては自身の歯が口内を傷つけた物だった。脳に関しては、特に綿密に検査は行われ、全身のMRI投影による見識は、異常は見られないとのことだった。

 たが、左足は最悪に重症だった。医師は初見、ひざ下切断の診断を下していた。それを「息子の足は夢を歩む足だ。どうにかして残してください。」と、大臣が懇願し、帝都医科大から神経縫合の達人と呼ばれる医師を呼び寄せ、手術をしてもらったと聞く。

 涙声になった亮の母親に、麗香も引きずられて泣きそうになっても、強く耐えた。

「大丈夫です。亮、君は。きっとまた、サッカーボールを追ってフィールドを駆けてくれます。」

(だって、約束だもの。)

「ええ、ありがとう。そうね。あの子、頑張りやさんだものね。」

「はい。」

(また、新田と共に、優勝旗を手に入れるって。)

 コンコンと扉がノックされる。亮の母親が返事をしながら扉に向かうと、看護師さんが失礼しますと入ってくる。

「先程、いつもの女の子が、また集中治療室前でウロウロしていまして、今日はこれを渡されました。」と、看護師さんは白い封筒を差し出す。

「あら・・・ありがとう。もう、帰ったのかしら。」

「はい、これを渡してくるとすぐに。」

「そう・・・。」

「失礼します。」と看護師は出ていく。

 封筒には何も書かれていない。麗香の視線に気づいた亮の母親は、その女の子について語る。

「4日前から、髪の長い女の子が来てくれるのだけど、どこの子かわからないの。その子は常翔学園とは違う制服を着ていて、私も一度見かけてね。看護師さんの何人かが声をかけてくれたらしいのだけど、その女の子、首を振るだけで、すぐに帰ってしまうらしいわ。」

 麗香は、その子が誰なのか思い至る。

 守都彩音。

 麗香は忘れていた。彼女である彩音ちゃんに、亮の状況を知らせないといけない事を。

 (4日前から来ていると言う事は、報道から亮の事を知って、自ら様子を見に来たという事かしら?)

 麗香は、毎日の病院通いの間に、自分が誰よりも亮のそばにいるべき人間であると思い込んだ。

 この時、亮の彼女が彩音ちゃんであることを再認識しても、その気持ちは揺るがない。

「亮宛かしら?」と亮の母親は、封筒を開けるのを躊躇っている。

「亮、君宛なら、名前が書かれていると思います。」つい呼び捨てにしてしまいそうになる。「開けてもいいんじゃないでしょうか。」麗香も中が何かを知りたかった。

「そうね。手紙なら亮に読んであげなくてはね。」

 封筒を開けると、1枚の便せんと共にジップのついた小さな透明の袋が出てくる。その袋の中身は、粒上の物が入っていた。

「何かしら、これ?」亮の母親も、それが何かわからず、首を傾げながらテーブルの上に置く。

 何か、種のような物を砕いたような、しいて言うなら、アーモンドの粗挽きのようなものだった。

「あら・・・。」

 苦悶に顰めた亮の母親は、便せんの内容も麗香にみせてくれる。そこには

【亮君に、これを飲ませてください。】と書かれてあった。

「無理なのに・・・ね。」

 麗香も苦笑して相槌をうつ、そして心の中で呆れた。

 聴力障碍者である彩音ちゃんは、やっぱり、どこか一般的ではない。知らせなかった自分の判断は間違いじゃなかったとも思う。












 画面がひび割れたスマートホン、

 それは、事故現場で拾った藤木の物。

 自分が病院に行けないのなら、

 毎日通っている麗香に預ければ、いいだけのこと。

 しかし・・・それをしないのは、何故か?

 自分に問いかけて、

 行きたいのだと思い至る。

 これを藤木の手に返す。

 その理由を自分に作っておきたい。

 そんな小さな理由にすがる自分が、卑しい。

 止められなかったのに・・・

 どうして、行きたいと思うのか?

「罪など思う事はない、と言ったであろう。」

 沸き起こる恐怖を、怒りで抑え。

 沸き起こる快感を、爪を立てた手の平の痛みで抑えた。

「考えることもあるまい。」と目を細めるあの人。

 思考は感情を抑える。

 感情は思考を超える。

「行きやすいように、思考を消してやろうか?」

 そう言いながら、歩み寄ってくる。

「やめてっ、行かないからっ、お願いやめて。」

 後退りした私から、藤木のスマートホンを奪われる。

 そして、

 それを、彩都の街並みへと向かって投げ捨てた。

「行くといい。あいつの報いを見てくるといい。」

 耳元のささやきは、

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

 快感と感応。

 私はそれを振り切って、

 藤木の意識が戻るまで、

 見舞いには行かないと心に誓う。












 肩で息をした柴崎さんに、悠希は心苦しい思いで「大丈夫?」と声をかけた。

「えっ?あぁ、大丈夫よ。」と明らかな作り笑顔を悠希に向け、部活動で使ったお茶用コップを洗い始めた。

 悠希は並んで、泡の付いたコップを濯ぐ。

 大丈夫のはずがない。喧嘩別れをしたわけじゃなく、夢の実現の為にわかれた二人。元恋人の藤木君が、目の前で交通事故にあったのだ。危機的な山は越えて、意識も戻るだろうと医者に一度診断されたけれど、何故か、藤木君は事故から11日が経っても意識を取り戻さない。面会もまだできないのに、毎日、都内の病院に通っている柴崎さんの疲労は相当のもののはず。

 期末試験が昨日で終わり、クラブ活動が再開された。

 藤木君が意識を取り戻すまで、もしくは藤木君が学園に戻って来るまで、柴崎さんはクラブを休むだろうと、誰もが思っていた。けれど、その予想に反して柴崎さんは、クラブ活動が再開された初日の練習に、きっちりと現れた。落ち込んた様子を見せず、いつも通りの覇気で皆に喝を入れる柴崎さん。それがかえって痛々しかった。

「そういえば、この間、誕生日だったんですって。」と話題を振ってくる。

「えぇ。」

「もう、言ってくれたら、プレゼント用意したのに。」

「いいわよ。そんなの。」

「新田も正直に言えばいいのに、芸術鑑賞会の時、親戚の法事って、しょうもない嘘をつくもんだから、怒っちゃたわ。」

「ごめんなさい。」

「岡本さんが謝ることじゃないわよ。」と笑う柴崎さんの目の下にはクマができていた。

 藤木君が交通事故にあって大変な時に、悠希たちは遊んでいた。都内のデパートで、慎君が買ってくれるというプレゼントのアクセサリーを、どれにしようかとあれこれと試着して、包装のリボンを迷い、小さな紙袋を手にして浮かれていた。

 慎君は、柴崎さんからの叱咤の電話を避けるために、ずっと携帯電話の電源を切っていた。

 毎年恒例のイベントを、嘘ついてドタキャンした日、親友が交通事故にあった時、自分が浮かれ遊んでいた事の、二重三重に落ち込んでいる慎君に、悠希は謝る事しかできなかった。

『悠希が謝ることないよ。』

 二人に同じことを言われる。

 確かに、藤木君が交通事故にあうなんて、予測できたことじゃない。しかも、運転手は普通のドライバーじゃない。違法薬物常習者で、幻覚の上にトラックを盗んで、まるで歩行者を狙うかのように暴走させたのだ。そんな異常者が起こす事に気をつけられるはずもない。どうしようもなかった不運な事故だった。あの加害者があの日あそこに居なければ、藤木君は交通事故にあう事もなく、悠希たちは次の日、柴崎さん達に少しの嫌味を言われて、終わりだったはず。

「さぁ、終わり。明日も練習に励んでもらわなくちゃ。」

「私、ポット運ぶわ。」

 全国高等学校選手権大会まであと2週間もない。顧問は「藤木にいい報告ができるように頑張れ。」と言ったけれど、部員の動揺は大きい。特に慎君には無理だ。頑張るなんて。

 二人で、ポットとコップを食堂へと返しに行くと、体育館から降りて来た真辺さんと出会う。

 同じく真辺さんもコップとポットを運んでいた。

「あぁ、りの、お疲れ。」

「・・・お疲れ・・・」バスケのユニホームを着た真辺さんは、柴崎さんの声掛けに、つぶやくような声で暗く顔を背ける。

 正反対。本来なら柴崎さんが、そんな風に暗い表情のはずなのに。

「りの、今から、一緒に行かない?」

「・・・。」

「藤木、りのを待ってると思うわ。」

「会えるの?」と悠希は聞いた。

「うん、まだ集中治療室だけど、昨日から限られた時間と人だけ、面会が許されたの。」

「そうなの。よかったわね。」

「うん。あっ、岡本さんも、次に誘うわね。」

「ありがとう。でも、私はもっと落ち着いてからでいいわよ。」

「うん、わかった。」柴崎さんは真辺さんの方に向き直って「ねぇ、どう?藤木、りのが来ると喜ぶわよ。」と、無駄に明るい声を出す。そんな柴崎さんに対して、真辺さんは苦悶の表情。

「・・・ごめん・・なさい。私・・・行かないって、決めから。」

「えっ?」

「・・・藤木は・・きっと・・・会いたくない。」

「そんなことないわよ。藤木、りのの事が大好きじゃない。」

 真辺さんは、唇を噛んでうつむいた。

「りの・・・。」

「私は・・・行かない事で、藤木の、回復を願う。」そう言って拳を握る真辺さん。

「そう・・・わかった。」

 そう呟いた柴崎さんがあまりにも寂しそうで、悠希は腹が立った。どういう思考回路で友達の見舞いに行かないと決めるのか、悠希には理解できないし理解したくもない。

「柴崎さん、早く着替えに行ったら、藤木君が待ってるわよ。」悠希はわざと、意地悪い言い方をした。

「うん。じゃ、またね。」と駆けていく柴崎さんが見えなくなって、悠希はまだ俯いている真辺さんを睨みつけた。

「酷いわね。それでも友達?」

 動じない彼女に見切りをつけて、悠希は心に誓った。

(私は、沢山お見舞いに行こう、藤木君が元気に退院するまで。)






 麗香はサインをしたバインダーを運転手に返す。11日間、毎日使っているので、もう専属のようになった運転手は、無駄話をしないで「お気をつけて。」とだけ言ってドアを開ける。タクシーを降りて、ため息を吐きそうになったのを止めた。

「ため息なんて駄目よ。私は柴崎麗香。亮の勝利指針なんだから。」あえて声に出して、心に刻む。

 麗香は、背筋を伸ばして病院の玄関ロビーへと進んだ。

(面会できるようになった亮に、弱弱しい姿なんか見せられない。)

 外来受付ロビーを抜けて左へと曲がる。長い廊下の先の右すぐに、別棟との繋がる境界扉を開けた先が、救急病棟である。の扉を開けたところで、亮の母親とばったり会った。

「あら、柴崎さん、今日もありがとう。」

「こんにちは。おば様。」

 危篤の危機を超え、面会謝絶が取れた亮の母親は、幾分か元気になっている。それが麗香の心をわずかに軽くする。

「一度、家に帰りますね。明日の昼か・・・夕方にはまた来ます。」と言う通り、ボストンバックを持っていた。

「そうですか。妹様にも、お大事になさって下さい。」

「ありがとう。」そう言って、互いに歩みかけたのを「あぁそうそう、」と亮の母親は麗香を止める。

「あの子、髪の長いどこの誰かわからない女の子、さっきまた来てくれてね。その子、耳が聞こえない子だったの。」

(やっぱり、彩音ちゃんだ。)

 確信があったわけじゃなかったから、麗香は亮の母親に守都彩音ちゃんの存在を言わなかった。

「どうりで、声をかけても振り向いてくれなかったはずだわ。」

「そう・・なんですね。」

 麗香は知らないふりをした。亮が知ったら目を細めて呆れたため息を吐くかもしれない。だけど、成り行きなんだから仕方ない。そして、これは元彼女としてのプライドだと言い決めた。

「亮は一体どこで彼女と知り合ったのかしら。」と麗香に質問するようにつぶやくので、

「さぁ。」と相槌をうつ。

 そういえば麗香も、彩音ちゃんとどこで知り合ったのかを、聞いていなかった。

「その子はまた、すぐに帰られたのですか?」

「あー、えーと。」と亮の母親は、後ろに控えていた女性SPに顔を向ける。

「私は、存じ上げません。」

「面会できますかって、メモ書きで伝えてきたから、どうぞって、後は看護師さんに任せて。私、お借りしてた部屋のお片付けがあったものですから。まだいるのかどうかは、ちょっと・・・。」

「藤木様、お時間が。」とSP。

「あぁ、ごめんなさい。」

「すみません。足止めさせてしまいました。」

 互いに頭を下げ合って、先を急いだ。

 亮の母親が言う『さっき』の尺度はどれぐらいだろう。もう、彩音ちゃんは帰ってしまったのか。もし、まだいるのであれば、遠慮しなければならない。それをわかっていて麗香はできない。したくない。二人の時間を少しでも少なくしたかった。

 感染症予防の為の防護服を着て、麗香は治療室に入る。亮は救急処置室から一番遠く、半個室のベッドに居る。

 搬送時に一時心肺停止になったものの、脳や内臓の損傷は全くなかったため、血圧、呼吸機能の回復は早く、手術後の看視が終われば、一般病棟に移される事になると昨日、亮の母親経由で教えてもらっていた。そして、この半個室の部屋は、一般病棟に移る前の、緊急性のなくなった患者さんの一時安静の部屋である事も。だから親族以外の面会が可能になった。

 カーテンの連なる奥へと音をたてないように気を使いながら進む。半個室と言っても、カーテンの一部が薄い壁になっただけのもの。出入りはカーテンの仕切りだけで、開けっ放しになっている事が多い。壁をこえて覗くと、防護服を着た人が亮のそばに立っている。

(彩音ちゃんだ。)

 普通の子なら、麗香の気配に気づいて振り返るのだけど、彩音ちゃんにはそれがない。気配というのは音によるものが大半だという事がこれでわかる。

 麗香はごく近くまで歩み、聞こえないとわかっていても言葉を発する。

「彩音ちゃん。」

 当然に振り返らない。その横顔を覗き込むと、彩音ちゃんは静かに泣いていた。

 そして、亮の手を掴み、指を動かしている。

「何してるの?」

 マッサージかと一瞬思うも、その作られる形が不自然で、麗香は気づいた。

 【手話】である事を。

 亮の指を動かして、自身の声を伝えている。一心に・・・。

 麗香の言葉も、部屋に響く医療機器の電子音も聞こえない彩音ちゃんの世界。 それは、誰にも邪魔されない亮と彩音ちゃんだけの空間。 周囲の環境に関係なく、彩音ちゃんは二人だけの空間を作る事ができる。

【手話】という言語を用いて。

 二人の時間を少なくしたいなんて、麗香には無理ないじわるだったのだ。

 麗香はうつむいて、来たときより一層の静かさを作り、その場を去った。











 全国高等学校サッカー選手権大会、トラック暴走事故によっても注目された常翔学園は、『藤木に負けないで頑張ろう』を胸に、全国から勝ち進んできた相手に挑んだが、事故の動揺大きく、それを糧にすることができなかった。トーナメント2回戦で敗退、ここ10年で最も低迷した結果で終わる。

 元々、勝つことに貪欲でなかった世代が主力メンバーだった、それを埋めるはずの慎一と藤木の戦力だったものを、一人欠けてしまえば、その結果は当然のことだと、専門家、学園関係者や常翔学園を応援する誰もが分析し納得をする。

 慎一は大会が始まる前から、この結果になる事をわかっていた。一つでも勝ったのは奇跡とさえ思っている。

 どうにも、『藤木に負けないで頑張ろう』なんて、できなかった。

 柴崎が、事故当初から一切泣かず凛とした振る舞いでいるのを見て、自分もああしなければならないと、何度も自分を叱咤したが、できなかった。

 2戦目で負けた次の日、慎一は藤木がまだ入院している品橋総合病院へ見舞いに訪れた。

 今日から3日間は一区切りとして、お正月の振替も兼ねて、練習がない。

 品橋総合病院の一般病棟の最上階個室をノックすると、中から聞きなれた「はい」の声。扉を開けて入る。冬の乾いた日差しが差し込む明るい部屋、ベッド側の椅子に座っている柴崎が振り向いて、慎一を視認すると立ち上がる。それまで座っていた丸椅子を慎一に明け渡し、柴崎は無言で部屋を出ていく。

 慎一は、ゆっくりとベッドに歩み寄った。

「藤木・・・」そう呼んでも藤木は目を開けない。

 事故による脳の損傷はなかったと聞いている。医師も山を越えた数日後には、目を覚ますと見解していた。だけど、藤木はどうしてだが目を覚まさない。左足の静脈切断による失血が、一時的に心肺停止となったが、処置が良く、脳へのダメージは全くないと、あらゆる検査の数値が示していて、左足の神経及び各部位の符合手術も成功していているのに、藤木が意識を取り戻さない原因を、医師たちは説明できない。

「藤木・・・」もう一度名前を呼んでから、慎一はリュックから1枚の写真を取り出した。

 全国大会が終了した時に、大会本部が撮ってくれる写真を、大きいサイズにプリントした物である。裏面にはトーナメント票を貼った。

「柴崎から聞いたと思うけど・・・ごめん、散々な結果だよ。」

 自分の内なる中から、藤木の声が聞こえて来るかと思ったけれど、何もない。

「ダメダメだよな。やっぱり、俺、藤木が居ないと駄目なんだよ。」

 言い訳でしかないと思う。ずっと藤木は、慎一の言い訳を聞いてくれていたのだと、改めて気づく。

「なぁ藤木・・・怒れよ。しっかりしろって、怒って、そんなんで代表務まるのかよって、言ってくれよ。」

 慎一は、医療機器のモーター音だけが唸る病室で、無言の親友の顔を見つめ続けた。






 麗香はいつもの通り、サッカー部の練習に参加して終えてから、タクシーで都内に向かった。運転手に「そのまま待ってて」と降りたのは、大手スポーツブランド店の前。麗香は店に駆け入り、目的の物を手に取り、レジでプレゼント包装を頼んだ。

 2月16日(土)、今日は亮の誕生日。

 もう2週間ほど前から、誕生日プレゼントは何にしようかと考えてばかりいた。亮にも何が良いかと聞いて。

 去年は有名ブランドのカシミヤの手袋とマフラーをプレゼントした。亮は、マフラーは気に入ってシーズン中使ってくれていたが、手袋は暖かすぎるしスマホの操作もしにくいと、着用は数回ほどだった。そんな素直な不満に拗ねた麗香の手を握ってポケットに入れ、『こっちの方がちょうどいい暖かさだ。』と言ったあの頃は、とても幸せだった。

 (幸福は後から実感する物、タイムリーでは中々感じにくい。)

 昨日までプレゼントを何にするか考えあぐね、サッカー日本代表ユニホームに決めた。今年から新しいデザインになって発売されていたからだ。ユニホームなら、退院後に試合観戦時に着ていける。

 光沢のあるシルバーの紙パッケージに青いリボンを括ってもらい、麗香は店を出る。路上で待たせていたタクシーに乗り、病院へ。診療時間もとっくに終わった土曜の4時、病院玄関前のロータリーは閑散としていたが、黒塗りの車が二台並んで停まっていて、黒スーツの男が3人、周辺を見渡している。要人警護をする警官、SPである。その人数から、大臣が見舞いに来ていると麗香は覚る。

 事故直後に、すれ違いに合えなかった以来、その後も大臣とは会う事はなかった。きっと忙しい中、時間を作って誕生日に会いに来ている。邪魔するのは駄目だろう。事故直後に謝らなければいけないと思った麗華の心情は、希釈されていた。

 病院内に小さな喫茶店がある、藤木ご一家が帰られるまで、そこで時間をつぶそうかと思ったけれど、お世辞にも美味しいとは言えない質で、椅子も座り心地が悪い。藤木ご一家が、どのぐらい滞在するのかも予想がつかないので、外の方がいいかとまごついていると、急にSPが機敏に動き出した。二人が、それぞれの車の運転席へと乗り込み、残った一人が病院の建物へと足早に移動し、自動扉を開けて中の様子を見渡してから、また外に戻ってくる。

 玄関前で威嚇するように厳しい視線を周囲に這わすSPは、麗香が初めて見る人だった。亮の母親についている女性SPだったら、麗香はもう顔なじみになっていて、気さくに挨拶もしてくれる。だけど流石に大臣付きのSPは、そうはいかない雰囲気で、近づくのもままならない警戒感がある。SPにセンサー反応して開いたままの自動扉の奥から、二人のSPに挟まれて大臣ご一家が出てきた。

 下の妹の唯ちゃんが、麗香に気付いて駆けて出てきたのを、SPが慌てふためいて追いかけてくる。

「麗香お姉ちゃんっ!」もう何度も会っているので、二人の妹は、麗香の事をそう呼ぶ。

「こんにちは唯ちゃん。」

「こんにちは。」と挨拶をしている間に、藤木大臣が歩み寄ってくる。当然にSPも。

「柴崎さん。」

「ご無沙汰しております。」麗香は丁寧に頭を下げる。

「妻から聞いておりました。毎日、亮の為に来てくださって、申し訳ない事です。」

「いえ、差し出がましく。こちらこそ申し訳ありません。」

「あっ、お姉ちゃんも、お兄ちゃんの誕生日プレゼント?」

 麗香は顔を赤らめて、手にしたプレゼントを後ろに隠した。

「これ、唯・・ごめんなさいね。」と亮の母。

「お兄ちゃんモテモテーっ」と唯ちゃんははしゃぐ。「今もね、来てるよ。別のお姉さん。」

 亮の母親に顔を向けると、微笑みながら、

「あの、耳の聞こえない子がね。来てくれてるの。」と答える。

「えっ⁉あのおねーちゃん、耳が聞こえないの?」と驚きの声をあげる唯ちゃん。

 大臣も初めて聞いたのか、若干に驚いた表情をした。

「だからかぁー、ずっと無言でうなづくだけだから、変だなって。」

「唯、変は駄目。」と舞ちゃんが唯ちゃんを叱る。

「ごめんなさい。」

 天真爛漫の唯ちゃんに対して、品行方正の舞ちゃん、それに加えて優しい兄となれば、これ以上ない良い家族だ。

 (それなのに、何故に亮は家をことごとく嫌がっていたのか?)

 藤木ご一家と接する事が多くなると、増々その原因がわからない。

「うれしい限りです。沢山のお友達が見舞ってくれる。亮を早くに福岡から出したのは正解でした。」と大臣が言って、麗香に微笑む。「柴崎さん、本当にありがとう。これからも亮の友達でいてやってください。」

「もちろんです。」

 友達以上の関係を、麗香は今でも望んでいる。

 そうして大臣ご一家が、SPに囲まれた車に乗り込み発進して行くのを、麗香は見送った。

 大臣と会って話せた事が、何かしらの区切りのように、麗香の心は随分と軽くなった。

(いいご家族じゃないの。)

 亮にそう言ってやろうと思いながら、エレベーターに乗り込む。そして彩音ちゃんが来ているんだったと思い出す。今まで彩音ちゃんとバッティングしたのは、まだ亮が集中治療室にいる時一回だけだ。

 彩音ちゃんの家の方が、この病院には近いのに、付き合っている彼女としては、見舞いの回数が少ないと感じる。学業か家業が忙しいのか?それとも麗香と会わない時間帯に来ているのか?

(自分が毎日来ているから、彩音ちゃんは来ることができない?)

ふと、思いついた考えに、麗香はイヤーな感情が胸にエレベーターを降りる。

(いいのよ、私は、事故の当事者としての責任がある。)そう自分に言い聞かせ、麗香は胸を張って廊下を進んだ。

 部屋の扉をノックする。

 彩音ちゃんが聞こえないのはわかっていても、返事を待つ自分に呆れた。

 また、あの時のように二人だけの手話の空間を作って、麗香に気付かなくても、今日は彩音ちゃんの肩を叩く、と決める。

(私だって、今日は亮の誕生日を祝いたい。そして、どこで知り合ったのか聞かなくちゃ。)と扉を開ける。

 部屋の手前半分が応接間兼、付き添いの介助者が寝泊まりできる広い個室である。この個室部屋に移ってからもう2か月が経った。亮の額や口や鼻に取り付けられていたチューブは取られて、点滴と排泄のチューブだけが取り付けられていた。 脳波もずっと変化なしの、眠っている状態。なのに、亮は何日も、朝が来ても目覚めない。 

 亮の顔に、彩音ちゃんは覆いかぶさるようにしていた。キスをしているのかと麗香はドキリとしたが、彩音ちゃんの長い髪の隙間から見えた手に驚いて、麗香は叫ぶ。

「何してるのっ!」

 叫んでも当然に気が付かない彩音ちゃんの、肩と腕を掴んで引き離した。

 彩音ちゃんは、麗香を虚ろな眼で束の間見つめると、また亮の首へと手を伸ばした。

「やめてっ!」

 麗香は彩音ちゃんの手を掴んで引き離そうとするが、すごい力で抑え込んで、止めさせられない。

 機械音のリズムが次第に、遅くなっていく。

(どうして、こんなっ)憎しみに近い怒りが麗香の中で沸き起こる。

「彩音ちゃん!やめてって!」と叫んだ瞬間、パシっと手から衝撃破のようなものが発射されたような感覚があり、彩音ちゃんの体がはじけ飛んだように見えた。

 彩音ちゃんは、点滴のスタンドごと床に転がる。

「いったい何なのっ!あんた亮をっ」

 殺そうとした!?

 体勢を立て直した彩音ちゃんは、激しい手話で何かを訴えてくる。

「何?・・・何かわからないわ。」

 麗香の口を読んだ彩音ちゃんは手話を止めると、険しい顔を横へ逸らした。視線の先は、応接間のテーブルに置かれた観葉植物があるだけ。

「何よ・・・何があるっていうの。」

 まるで、見えない何かを見ているような様子に、麗香は身震いする。

 そんなことよりも、亮の状態だ。麗香は亮へと駆け寄り、顔をさわり、息をしているか手首の脈を確認する。問題はなさそうだった。

「よかった・・・。」

 背後で彩音ちゃんが立ち上がる気配に振り返ると、目から涙をこぼす彩音ちゃんは麗香を見つめ、ゆっくりと、念を押すように手話を作った。

 親指を立てた左手を反対の指で指さした後、手の平を合わせた形を倒し、Lの形の右手を顎から下へ引き伸ばすように、そして自身のこめかみを人差し指で刺して、他の指を広げながら前に出す。

 涙ながら訴える彩音ちゃんの言葉を、麗香は理解できない。

 理解したくもなかった。何を訴えようとも、亮を死なせようとしたのは許せない。

 彩音ちゃんがまた亮へと踏み出すのを麗香は、亮を守るように手を広げ立ちふさいだ。

「駄目よ、させるもんですか。―――絶対に死なせない。亮が望まなくても、私が、亮が生きるこの世を望む。そして、必ず生きててよかったと、言わせてみせる。」

 (この世は、人の裏黒い本心が渦巻く世界。耐えがたく醜いその世界を読み取ってしまう亮が、そんな世を拒絶して目覚めなくても、亮がいない世界など、私は認めない。拒絶する亮のすべてを、私は認めて寄り添うから。)

 彩音ちゃんは、哀し気な表情をまた観葉植物の方に向けた。麗香はもう、つられて顔を向けることはしないで、彩音ちゃんをずっと睨みつけた。

 彩音ちゃんは、観葉植物に頷くと、トボトボと扉へ向かう途中で、観葉植物の葉っぱをサラリとなでるようにしてから、病室を出て行った。

「・・・一体、何なの?」

 彩音ちゃんが触った観葉植物は、クリスマスの日から置かれていた物だった。病院に鉢植えを見舞いに持ってくるのは根付くイメージがあって無礼だ。だから見舞客が持ってくるとは考えにくい。だから唯ちゃんが、家の観葉植物を持ってきたのか、と思っていた。お兄ちゃんの好きな植物だからとか何か無邪気な理由があって。だけど、先ほどの彩音ちゃんの動作を見ていたら、

(もしかして、彩音ちゃんが持ってきた?)と、なんとなく思って、麗香はすべてを否定するように首を振った。

 その2日後、麗香は亮の母親に告げられる。

「病院を転院しようと思うの。」

「えっ・・・。」

「主人が強く望んで。私もそれが良いと思うの。残念ながら私達は忙しくて、毎日面会には来られないから。」

 藤木家の東京の実家近くの病院か、それともおじい様が住まわれる福岡の病院に、亮を移転させるのだろうと思った。どっちにしろ、麗香の家からは更に遠くなる。

「そうですか・・・どちらの病院に?」

「彩都市の関東医科大付属病院に。」

「えっ?」

 亮の母親は、とても柔らかな微笑みを麗香に向けてうなづいた。

「毎日来て下さる柴崎さんの負担を軽くした方がいいと。」

「私の為に?そんなっ。」

「亮の為でもあるのよ。」

「亮君の?」

「そう、彩都なら、学校のお友達が沢山来てくれるでしょう。もっと気兼ねなく、学校の帰りにでも立ち寄ってくれたら・・・きっと亮は、それを望んでいる。私たち家族が来るよりも。」

『はい』と頷きたい。だけど、それはご家族を否定する事になる。

「柴崎さんや、新田君たちが来てくれた方がずっと、亮はうれしいはずだわ。」

「すみません・・・私が毎日通ったばかりに。」

「ううん。あなたが通ってくれていたから、私は、見舞いに来れない日に、安心できたのよ。」

 それが嘘であっても、麗香の心は和らいだ。

「柴崎さん、ありがとう。そして、これからもよろしくお願いできるかしら。」

「もちろんです。」

 一週間後、亮は彩都市の関東医科大付属病院に転院した。その病院でも脳外科、内科、神経外科、精神科の各領域から検査が綿密に行われたけれど、亮の目覚めない原因はわからなかった。

 亮の母親の希望通り、亮の病室には毎日、麗香を含めて誰かが面会に訪れて、個室の部屋は花と物やメッセージで色華やかにあふれた。







 顔に降り注ぐ日差し、

 肌をなでる風に、

 柔らかさが増して、

 首に巻いていたマフラーを取り、

 カバンに押し込む。

 歩く並木道の樹々は

 まだ寒々と冬模様。

 見上げた枝に

 膨らんだつぼみが並んでいる。

 まだ、堅く色づいてもいないつぼみ。

 咲くのは何時か、

 誰もが待ち遠しい日々を過ごす。

 一年前、咲いた桜を見上げて、

 『春に綺麗な桜が見られるのは、冬の寒さがあるおかげ。』

 と教えてくれた博識の友は、未だ目覚めることなく、進級の春を迎えた。

「暖冬の時は、咲が今一つって言うな。」と慎一は手を伸ばして、まだ固いつぼみをつまむ。

「私の事を、桜と一緒だねと。」

「桜と一緒?」

「辛い事を経験したから、綺麗な花を咲かせられるって。」

「・・・言いそうなセリフだ。」

「だから、藤木もきっと・・・。」

 目覚める時が来る。

 その時私は・・・。










「今日は始業式だったのよ。私はG組になったわ。佐々木さんと一緒なの。今野がね、交換してくれって言うのよ。できるわけないのに馬鹿よね。・・・亮、外はね、桜が満開よ。あっそうだ。桜の花を拾って持ってきたんだった。まってね、今出すから。ぐちゃぐちゃにならない様に、手帳に挟んできたの。ほら、綺麗でしょう。そうそう、テレビでね、紅茶に花を浮かべてっていうの、やってたの。紅茶に花の香りを移して季節を楽しむって、だからいいんじゃないかなって。だけど、よく考えたら、汚いわよね。食用の桜があるのかしら?今度、林さんに買ってきてって頼もうかな。」



「これ、トルコ遠征の土産。今回はちゃんと吟味して選んだんだぜ。それなのにさ、皆『定番過ぎて面白くない』って言うんだぜ。ひどくないか?あいつら、お世辞でもいいから素直に『うれしいよ、ありがとう。』って言えないかなぁ。柴崎なんかはさ、『私、石は透き通っている方が好きなの』って、土産に何を求めてんだっつうの。・・・・トルコ石って、友情の石って言われてるんだって。あー、藤木は知ってるよな、それぐらいの知識。遠藤がさ、それを知って、ユースメンバーにトルコ石つきのミサンガを買って配って『友情の証だっ』て言ったんだ。俺・・・いや、これ言ったら、また怒られるよな。・・・これは、俺と藤木だけのお揃いの色なんだ。」



「おうっ藤木、聞いて喜べっ、俺な健康診断で身長一センチ伸びてたんだっ。すげーだろ。ズルはしてないぜ。ちゃんとこう踵をぴったりくっつけてだな。背筋を伸ばして顎を引いて、正式に認められた数値だ。だから・・・メグにもう一度告白しようかと思ってさ。メグどうなんだろう。なんかお前に相談してなかったか?最近メグ、同じクラスの蓮池と仲いいんだよなぁ。よく二人で一緒にいるの見かけるんだ。あーよりによって蓮池がライバルとは・・・生意気にもあいつ、メグより身長高いんだぜ。」



「もう、柴崎さんから聞いてるかもしれないけど、今日からね、外部入試組の仮入部が始まったの。内部進学組と合わせて15人が入って来たわ。マネージャー希望はね、一人、内部進学組の元テニス部の柴崎さんの後輩でね、柴崎さんのことを慕って入って来たみたいなんだけど・・・とってもおとなしい子なのよ。務まるかなぁって心配。サッカー部って男世界じゃない。皆、私達の前で平気でユニホーム脱いで着替えもするし、ほら、話す内容も、ね・・・早速、その子、沢田君の上半身の裸を見て、キャッって手で顔を覆ったの。可愛いけど・・・どうなんだろうって。あぁ、慎君は、藤木君好みだって、鼻の下伸ばして喜ぶんじゃないかって言ってる。」



「あら、これ新田君のお土産ね。皆はね、照れ隠しで貶したんけれど、ちゃんと鞄とかにつけてるのよ。私は携帯ストラップにしてるの。昨日ね、ハルに、もう一度、付き合わないかって言われたの。私ね、ハルの事、嫌いじゃないわ。いずれまた、付き合ってくれって言って来るって思ってたし、彼が気にしてる身長差だって、別にどうってことないのよ。でもね、すぐに、いいわよって返事できなかったの。返事に困っていたら、『蓮池の事が好きなのか』って、聞かれた。うーん、どうかなぁ。蓮池とは私、同じ小学校だったの。5年生の時に同じクラスだったってだけの、普通の同級生。久しぶりだったから声かけて、蓮池は初めての常翔学園だったから色々と聞きたいって、アドレス交換して、降りる駅も一緒だから、登下校が同じになる事も多くて・・・ハルに言われるまで好きかなんて、気にもしてなかった。でも、ハルが言うから、なんか、変に意識しちゃって・・・困るわ。」



「亮!生まれたのよ、りののお母様と村西先生との子が、男の子よ。さっき、新生児室に寄って見てきたの。こーんなに小っちゃくてね。とっても可愛いの。りの、とっても喜んでいたわ。窓越しだけどね、写真撮って、待ち受けにするなんて言ってね、もう姉馬鹿ぶり発揮よ。名前は、りのが決めてって、おば様から言われてるみたいよ。りの、すっごい悩んでるわ。りのに、亮に報告に行こうって誘ったんだけど・・・決めた事だからって、頑固よね、まったく。」



「藤木ぃ、どうしよう。やっぱり、俺のせいで、内部進学組の後輩たちさぁ、先輩たちに叱られてるんだよ。俺たち世代がさ、挨拶を止めちゃっただろ。その癖が抜けきらないで後輩たち、廊下で先輩たちに出会っても挨拶をしないっていうか、忘れるらしいんだ。それが先輩たちには不満で、呼び出しして叱ってたんだ。『新田達がしょうもないルール作ったけれど、俺たちはそんなルール推奨してねーからな。新田がどれほどうまいプレイヤーであっても、俺たちの方が年上なんだ。年上に挨拶をするのは当たり前だろう』って。俺、自分の事しか考えてなかった。後輩たちが、その後に混乱するって事を考えなくて、強引に規則を変えちゃって・・・ダメダメだよな。俺、やっぱりキャプテンなんて向いてなかったんだよ。」



「新田がね、また落ち込んでるの。後輩たちに悪いことしちゃったって。だから私、今日、先輩たちに言ってやったわ。『挨拶しないぐらい、何なのっ、そんな小さなこと気にしてるぐらいなら、新田を超えられるように、練習しなさいよ。そしたら、誰もが自然に頭をたれるわっ』って。そしたらね、沢田が「こうべって古ぅ」って笑うのよ。もう、大事な場面で、台無しよ。」



「柴崎のおかげでさ、先輩たちうるさく言わなくなったんだ。流石だよ柴崎。だけどさ、叱られたって事実はあるんだし、先輩たちも不満は残ってるはずだからさ、俺、互いに申し訳ないなって思うんだ。柴崎は『グチグチ悩んでんじゃないわよっ』て『しっかり胸張って、誰よりもうまいプレーで皆を納得させないっ』って背中を叩くんだけど・・・うーん、まぁ、そうだよな。そうしないと駄目だよな。」



「やっとね、新しい編成のレギュラーメンバーが、軌道に乗ったって感じよ。今日の練習試合、あの川崎高校に2-0で勝ったの。一年の永井君ってすごいわね。慎君の複製と言われてるとおりに大活躍だったのよ。永井君、今年は代表に選ばれるわね、きっと。」






 梅雨入りが発表された。今日はまだ雨は降っていないけれど、空はどんよりと厚い雲に覆われている。湿気が多くて髪がまとまらない。冬の次に嫌いな季節だ。

 壁には同級生たちや先輩たちが訪れた時に、残していったメッセージカードがびっしりと貼られている。週に一、二度しか来ることができない亮の母親が、それらを読んで喜ぶ。

 定期的に買って飾り変える花の水を替えてから、麗香は亮の顔色を見て、点滴の落ちるスピードを確認し、足元の掛布団をめくって手術痕を確認、そして膝から足の先まで摩るようにマッサージしながら、足首も回す。看護師さんに教えてもらったマッサージは毎日のルーティン。いつもは30分以上それを行うのだけど、今日はどうしてだか気怠く、続けられない。

手を止めてしまった。

 膝の手術の傷跡は残っているものの、随分と薄くなってきた。男なら気にするほどのものではない。だけど、亮の足は細くなってしまった。

 (ボールを追ってフィールドを駆けていた逞しい足だったのに。)

 麗香は足を元に戻し、乱れた布団も丁寧に戻す。ベッドの角度を変える操作ボタンを押して、少しだけ起こす。話しをする時は、この方がしやすい。丸椅子を引き寄せて、そばに座った。

「今日ね、りのが、藤木に見せてあげてって、何かを握っているの。何かなって覗いたら、カタツムリよ。もう、そんなの持ってこれるわけないじゃない。でもりのは、大丈夫、これ以上大きくならないからって、育ちの問題じゃなくてね、そもそも生物は駄目でしょうって言ったら、拗ねちゃって。まったく・・・だったらりの、自身で持ってきたらいいのにねぇ・・・一年前かぁ、りのがカタツムリ観察して、おしり濡らしてたの。・・・・いろんなことあったわよね・・・。」

 麗香は動かない亮の左手を握る。

(暖かい・・・)

 あんなに冷たかった亮の手は、事故からずっと温かい。亮は普通の人とは反対なんだと知った。

(いつか、この手が冷たくなるまで、私はずっと寄り添う。)

 そう誓って、半年になる。

「ねぇ、そのいつかって、いつ?待ちくたびれたわ。」










 亮はごく自然に目が覚めた。

 白い天井、

 味気ない窓枠、

 窓の外はどんよりと曇って

 ベージュのカーテンがダサい。

 壁に張られた色とりどりのカードが

 まるで小学校の掲示板のようだ。

 手に乗る重みに、柔らかく温かい頬の感触が手にある。

 亮は、その寝顔を見つめ続け、

 胸の内から言葉が沸き起こる。

(やっと、会えた・・・)

 その想いには違和感が伴う。

 左右履き違えた靴のような

 奇妙な感覚。











 麗香はごく自然に目を覚めす。

(寝てしまった・・・。)

 どれぐらいの時間を寝てしまっていたのだろうと窓へと顔を起こし、外はまだ暗くなく、雨も降っていない事を視認する。 

 そして、正確な時間を知ろうと、ベッドヘッドに埋め込まれているデシタル時計に顔を向けた。

「おはよう。」

「お、はよう。」

 あまりにも普通だから、麗香も普通に答えてしまう。

 微笑む亮に、麗香はキョトンとしてしまう。

「ち、違う・・・そうじゃなくてっ!」

 何度も頭描いた目覚める時のシチュエーションは、こんなんじゃない。

 亮の手が微かに動いて、それに気づいた私が『亮?わかる?私よっ麗香よっ』て・・・

「もう一度やり直そうか?」

「馬鹿っ!」

 麗香はベッドにうつ伏して泣いた。

「・・・ごめん。」

 そう言って麗香の頭をなで、頬に触れた亮の手は、

 冷たい。

 涙が止まらない。半年分の涙を出し切るように。

(嫌だわ、こんなぐちゃぐちゃな顔を、目覚め一番で見せるなんて。

 もっと、素敵な目覚めの時を思い描いていたのに。

 亮のせいよ。おはようなんて、言うから。

 狂っちゃったじゃないのよ。)











 麗香が泣きながら心の中で怒っている。

 変わらず、よくわかる麗香の本心。それが、まだ出来ている事にほっとしながら、あぁ、やっぱり能力は無くなってはいないんだなと、落胆もする。

「ありがとうな。」

(見捨てず、寄り添ってくれて。)

 亮は、すべてを感覚として知っていた。

 自分が何故ここにいるのか、

 麗香が毎日来てくれて、絶対に死なせないと言い続けてくれた事、

 新田がどうしようもなく落ち込んで、試合で戦力にはならなかった事。

 全国大会は2回戦で敗退した事。

 今野の愚痴、恋の苦悩、

 佐々木さんの悩み、

 悠希ちゃんの報告、

 動かない身体の奥で、全てを聞いていた。

 目覚めが遅くなったのは、

 永い夢のせい。

 皆が沢山の話をしてくれたのとは、違う次元で

 亮は長い永い歴史を体験していた。


『継こそは、柵のない世であなた様を支え尽きとうございます。』

『継こそは、柵のない世であなたを愛し守り抜くと誓う。』


 あぁ、だから、『やっと、会えた』なのか・・・

 と理解した瞬間に、夢は記憶の中から消えていく。

「どんな夢だったかなぁ・・」

 亮のつぶやきに、麗香が顔を上げる。

「忘れたの?」と顔を顰める麗香「自分の為だけじゃない夢を、一緒に描こうって、また全国大会の優勝を目指して。」

「忘れてないよ。」

(忘れていない、だけど、この動かない足ではもう・・・。)











 藤木が目覚めた。

 その知らせは、日曜日の夕刻に、柴崎から一斉メールで送られてきた。

 すぐに病院に行くと返事をすると、今から大臣を含む藤木家ご一家が来られるから駄目だと返される。明日は朝から検診で、藤木の体力次第では、家族以外の面会は明後日以降だと注意される。

 月曜日、慎一は逸る気持ちで柴崎に訴える。

「今日は駄目なのかな?」

 柴崎は携帯のメールを確認してから答える。

「まだよ、連絡は。」

 毎日の病院通いで藤木の母親の信頼を得ている柴崎。藤木の母親と妹たちとアドレス交換までしていて、藤木の事に関しては、窓口みたいになっている。

「夕方まで待ちなさい。」

 今日一日検査をして、藤木が慎一達に会いたいと言ったら、来てもいいよの連絡が柴崎宛に送られてくる段取りだ。

 休み時間の度に、柴崎の所に慎一をはじめ昼食メンバーが集まる。連絡はまだか?の問いに、柴崎は「しつこいわね。来たら直ぐに言うわよ」って怒るも、その度に確認してくれるから、柴崎自身も待ちわびている。

 今は、五時間目後の休み時間だった。

 待ちわびていても、机の上に置いていた柴崎の携帯がバイブで動いた時は、皆びっくりして声をあげる。

 柴崎がメールを確認するのを、固唾を飲んで見守る。まるでオーディションか何かの発表待ちみたいだ。

「来ていいって。」

「よっしゃー!」

 G組の生徒達が何事かとこちらに注目する。

 柴崎が口に人差し指をたてて、しっとした後「他の人にはまだ、駄目よ。」と言う。

 サッカー部の仲間とかが大勢で押し寄せたら藤木は疲れるし、病院にも迷惑がかかる。

 藤木の目覚めは、少しづつ報告していこうと言う事になった。

「りのも行くわよね。」とりのに顔を向ける柴崎。

「・・・ごめん。今日は、やめておく。」とうつむく。

「どうしてだよ、ゲン担ぎはもう終わったじゃんか、っていうか、リノの功が奏したおかげじゃね。」と今野。

「う・・ん。」

「気持ち的に切り替えができないのよね。」と佐々木さんが擁護する。

「うん、ごめん・・・。」

「謝ることないわよ。そうね。じらしたらいいわ。りのちゃんに会いたいよーって泣きつくまでね。」と柴崎。

「あはは、そりゃいい。リノは中々遭遇しないレアメタルスライムみたいにな。」

「なによ、それ。」

「知らねーのかよ。トライアルクエストの、」

「黙って、ゲームの話と一緒にしないで。」

 やっと、戻って来た。皆との楽しい日常。

 やっぱり一人でも欠けると日常は狂ってしまう。どんなに柴崎が平静でいても、それが装いだと皆は気遣っていた。

 慎一に対してもそうだろう。悠希は悉く慎一を気遣い、どこかに行こうとかを言わなくなった。

 そして、おねだりされていたもう一つのプレゼントも、ずっとお預けだ。






 今年も綺麗に紫陽花の花が咲き揃った中庭。

 花壇を形成するコンクリートブロックに、

 ヒダリマキマイマイがいる。

 何かを探すように角を左右にさせて、

 ゆっくりと歩きだした。

 今年も会えたね。ヒダリン。

 カタツムリにも詳しかった藤木が

 目を覚ました。

 私の祈りは終わった。

 会いに、行かなければならない。

 藤木は、

 知っている?

 わからない。

 だからこそ

「怖い。」

 照明の消された技術教室の窓が鏡のようにして、キオウの顔を映し出している。

「恐怖に耐えてまで、行く価値などない」

 キオウは、ゆっくりと横に並んだ。

 そして、同じ物を見る。

「報いを見に行けと言ったのは、キオウ、あなた。」

「行かないと言ったのは、りの、おまえ。」

 やっと15センチ進んだヒダリマキマイマイ。

「行けば、報いを認識させられるだけだ。」

「報いを与えたのは、キオウ、あなたよ。あなたがその認識から逃げるの?」

「逃げる?」

「私はあなた、あなたは私。怖がっているのは私であり、キオウ、あなた。」

 キオウの感情が変化する。

 恐ろしい怒りと快感が、私の身体を駆け巡る。

「我は、統べる者だ。怖さありて、何を統べようと言うのだ。」

 そういって、ヒダリマキマイマイに足をのせる。

「やめてっ。」

 キオウを押して、ヒダリンを守った。

「私は、行く。」

 藤木の受けた報いを見て、私は受け止めなくてはならない。

 強く睨み返した。

「勝手にしろ。」

 立ち去るキオウから、怒りが、

 カタツムリの粘液の跡のように、続いている。













 一番に入ってきたくせに、何も言わないで信じられないような面持ちで亮を見る新田。

 今野が背中を叩いて、やっと口を開いた言葉は

「ごめん、俺・・・。」だった。

「何、謝ってんだよ。うっとおしいなぁ。」

「だって・・・。」と言葉を詰まらせて腕で目を隠した。

「梅雨時に目覚めるんじゃなかったぜ。」

「ったくよ。おせーっつんだよっ。」と突っ込む今野は、髪を短く切っていた。

「あぁ、寝だめし過ぎた。」

「寝過ぎよ。」と麗香。

 昨日、散々泣きつくしたからか、今日はすっきりしている。

 悠希ちゃんが新田につられて涙ぐみながら笑う。

「あれ?りのちゃんは?」

「あーりのは・・・今日はちょっと風邪気味でね、藤木に移したら駄目だからって。」と麗香の嘘はバレバレ。

 そういえば、りのちゃんが来てくれた体感がない。

「で、体は?大丈夫なの?」流石、佐々木さん、タイミングを逃すと聞きづらくなる事を、ちゃんと聞いてくる。

「うん。どこも、何ともないよ。左足以外は。」

 皆が黙った。

「動かない。」亮はあえて新田に向けて言った。現実をわかってもらうためだ。

「いや・・・そりゃ半年も動かしてないんだ。筋肉がやせ細ってるから。」

「やせ細っているのは筋肉だけじゃない、神経伝達の電位圧もだ。」

「難しい医学単語はわかんないよ。」

「感覚がほぼない。正座をしてしびれを切らしたみたいな状態。」

「・・・。」

「悪いな、もう・・」

「諦めんのかよっ。」新田が叫んだ。「もう一度、優勝旗をって、そしてプロになるって、」

「だから、こんな足じゃ無理だろ。」

 こうなるってわかっていた。だから、さっさと、こんな恥ずかしい青春劇を終わらせたかったから、検診ばかりで疲れているのに、来ていいって連絡をしてもらった。そして、まだ滞在したそうにしている母親を帰らせたのだ。

「手術は成功したんだろ、リハビリをすれば。サッカーもできるようになるだろ。」

「簡単に言うなよ。」

「藤木ならできる。」

 やっぱり怒号の演技をしなきゃなんないのかと、亮は心の中でため息をつく。面倒だ。

「勝手にほざいてろっ、この現実を受け止めるのは俺だ。これから一生、杖の生活だと宣告されたんだぞ。」

「・・・・。」皆が険しい顔でうつむいた。

「リハビリするのも俺。できるか、できないか、いや、したいか、したくないかだ。」

 雨が降り始めて、窓ガラスに水滴がついたのを見つける。

「もう、うんざりなんだよ・・・そう言うの。」

 やっと終わった茶番劇。











「りの、悪いけれど、たいちゃんを見てて。ちよっと向かいのコンビニに行ってくるから。」

「うん。」

 村西大輝。一応は私が名づけ親だ。

 ママから、りのが名前を付けてと妊娠中から言われていた。

 男の子だと早いうちからわかっていたので、男の子の名前を考えても、あまりいいのが浮かんでこなかった。女の子なら沢山思いついたのに。悩みまくって疲れ、こういうのは、ちゃんと生まれた赤ちゃんの顔を見てから、見ればインスピレーションがあるはずだと、まだ生まれないうちは、考えるのを止めていた。

 5月5日、子供の日の早朝、予定日より若干早かったけれど、2750グラムで問題なく健康で生まれた弟。

 立ち合いはしなかったけれど、生まれた直後に抱かせてもらった。インスピレーションなんて湧き起らなかった。

 5日考えても思いつかない名前、ママが困って、候補のリストを出してきた。

 私に決めてと言いながらも、ママも先生も考えていた。

 5つの名前から、私が選んだ名前。それが、大きな輝―――大輝。

 あぁ、なんて立派な名前。

 先生にとっては、40歳にして初の子供だ。大学病院の院長先生は、十数年ぶりの孫になる。

 先生には姉がいて、とっくの昔に嫁いで子供も成人している。

 誰からも溺愛される条件と環境が揃っている大輝。

 私とは大違い。

 この気持ちは、嫉妬。

 小さな赤ちゃんに嫉妬する自分は、なんて幼稚。

 大輝が泣き始めた。

 うるさい。

 24時間春夏秋冬、快適温度クリーン空調のこのマンションで、

 柔らかな、高級産着を着て、ミルクも飲み、おむつも変えたばかり、で

 何の不満がある?

 次第に大きくなる鳴き声

 うるさい。

 携帯のメール着信音と重なる。

 麗香から、

【藤木、やっぱり、りのちゃんは?って、会いたがっていたわよ。あした、いける?】

 行かなければならない。

 行くと啖呵を切ったくせに、

 やっぱり、怖い。

 藤木は、知っているのか?

 誰に殺されそうになったのかを。

 誰に・・・

 うるさい。

 あの男、トラックを盗んだ。

 違う。

 盗ませた。

 うるさい。

 盗ませたのは、

 うるさい。

 トラックを暴走させたのは

 うるさい。

 うるさい

 うるさいっ

「黙って!」

 それでも泣く大輝、

 「静かにしてっ。」

 大輝の首は、ムチムチしていて、でも片手で握れるぐらい小さい。

 顔を真っ赤にして喘ぐ・・・

「ただいまー。あら、あら、たいちゃん、泣いちゃった?ごめんねぇりの。どうしていいかわかんないよね。あーよしよし。どうしたのー。」

(私・・・今、なにを・・・)

 手に赤ちゃん特有のモチモチ肌の感触が残っている。

(私・・・首を絞めて、殺そうと・・・)

「りの?」

 ママに抱かれて泣き止んだ大輝。

 私は、もう、ここには居られない。

(居てはいけない。)












 【昨年12月に起きたトラック暴走事故によってクローズアップされた薬事法改正案が、本日可決された。昨年起きたトラック暴走事故の被疑者が、合法ドラッグと言われる薬効のあるハーブ、または強壮剤、興奮剤などの薬事法違反の取り締まり対象外の薬物を日常的に服用していた事により、薬事法の見直しと改正の動きに至ったもので、本日可決された薬事法改正案では、指定薬物の包括指定の運用が新たに加えられる。類似構造の薬物も規制対象とされる。また、道路交通法の改正も可決される見通し。

 自身の長男が昨年12月のトラック暴走事故の被害者である藤木外務大臣は、この薬事法改正案可決に対して、『改正案が迅速に改定されたことは、喜ばしいことでありますが、法を厳罰化しなければならない社会、状況は悲憤であります。今回の改正案はいずれも、法の厳罰化をしたものであり、裁く基準を強めたものでありますが、その前に、犯罪行為の抑止力となる事を望みます。』と述べた。】




 母親に持ってきてもらったタブレットで、意識のなかった半年間の情勢を読み漁った亮。

 自分が負った事故は、事故当日から連日大きく報道されていて、藤木大臣の長男が被害者である事も報道されていた。

 常翔学園にも報道陣がつめかけていた様子で、随分と迷惑をかけたみたいだ。

 藤木大臣の息子という経歴をひたすら隠していたのに、完全に水の泡になってしまった。退院後の生活を想像すると憂鬱になるが、仕方ない。

(しかし、くそ親父は、良いようにこの事故を利用したな。)

 事故により、意識不明の重体になった息子の親は、国民にこの上ない悲哀の同情をひいた。藤木守の名は飛躍的に浸透し、支持率はアップ。法改正の大立者となったことで、国民から次の総理大臣への声も上がっている。

 そうやって、人の悲劇を踏み台にしてのし上がっていく、それが父親のいつものやり口だ。お手の物だっただろう。息子を轢いた加害者が薬物依存者だったと知って、さぞ喜んだに違いない。これを利用して、更にのし上がれる。と。 

 一昨日、父親は、SPを引き連れて目覚めた亮の所に面会に来た。あいつは目に涙を浮かべて、「よく頑張った。」など言っていたが、こんな風に利用されていたのだったら、その言葉も嘘くさい。ただ・・・その時の父親の心に嘘はなかった。

「くそっ」とタブレットを足元にほおり投げた。

 左足に当たったはずが、なんの感覚もない。

「ちっ。」

(しかし、あの男、ドラッグ常習者だったとは。)

 事故の前に、薬物依存男と亮がトラブルになっていたというような記事は、どこにもない。事故は、男が常用していたドラッグによる幻覚症状で、トラックを盗み暴走させたとしかなく、被害者は亮の他に2人が怪我を負っていたが、いずれも軽症で、亮だけが重体だった。亮の記憶にあるのは、事故の直前、歩道に乗り上げたトラックが歩行者に接触、そして自転車に乗っていた人はかろうじて逃げられたが、自転車はひしゃげて・・・轢かれる寸前に見たあの男の目は、確かに異様だった。しかし、亮と言い争った時は、そこまで異常な目や態度ではなかったような気がする。亮が一万円札を投げつけたから、激怒して直後にドラックを飲んだのだろうか?そして幻覚を起こした?そんな即効性のある薬なら、本当にやばい。男は取り調べて、亮とのトラブルを供述しなかったのだろうか?

 麗香に捜査が行っていないのが良かった。亮を轢いたトラックの運転手が、自分とぶつかった男だと、麗香は知っている様子がなかった。もし知っていたら、罪悪感が心の中に刻まれていたはずだ。

 亮は体を起こし、しびれて膨張したような感覚の左足を、手で持って下におろした。細くなった太もも。

(自分の足じゃないみたいだ。)

 右足は普通に動く。床の質感が右と左で違う。そのちぐはぐな感じが気持ち悪い。体重を乗せて立ってみる。ベッドサイドから手を放しても立てる。だが今は右足に重心を乗せている。左足に体重をかけて、踏み出せるだろうか?

 ゆっくり前に踏み出せと意識しても、左足は動かない。仕方なしに右足を先に出してみたが、左足は支える事が出来なくて、ガクンと砕けるように曲がり、体は傾倒した。サイドテーブルに手をついて免れようとしたら、置いてあった鉢植えに手を突っ込んで倒し、ストッパーがかけられてなかったサイドテーブルは逃げるように動いて、亮は結局、床に倒れ込んだ。鉢植えの土がバラバラと床にまき散る。

「くそっ、くそっ、くそっ。なんで俺だけが。なんで俺ばかりがっ。」

 夢を望めない。

(新田は、難なく夢に向かっていると言うのに。俺はどうして・・・)

 亮は立ち上がろうとしたが、右足も力なく起き上がれない。無様にもがいていると、部屋がノックと同時にスライドドアは開けられる。

「藤木亮くーん、副医院長がー大丈夫!?どうしたの!」

 担当看護師が駆け寄ってくる。

「大丈夫です。ちょっと、歩いてみたくて。」

「勝手には駄目よ。」

「すみません。」

 看護師に支えられて立ち上がり、顔を上げたら、村西先生とりのちゃんのお母さんが心配そうな面持ちで居た。そして、りのちゃんのお母さんは、赤ちゃんを抱いていた。

 担当看護師が散らばった土を掃除して、村西先生たちに頭を下げて部屋を出ていく。

 りのちゃんのお母さんは、赤ちゃんの1か月検診のついでに、先生に促されて亮の所に見舞いに訪れたと説明した。

「可愛いなぁ。村西先生似ですね。」亮は車いすの上で赤ちゃんを抱かせてもらった。

「そうなのよ。目と鼻がそっくりでしょう。」

「色白なのは、りのに似てよかったよ。」

 わざわざりのちゃんの名前を出す村西先生は、とても気を使っている。

「たいちゃんは男の子よ、そのうち真っ黒になって外で遊びますよ。」

「えーと名前は、たい?」

「大輝よ。大きな輝と書いて、りのが名づけてくれたの。」

「へぇー。」

「上手ね、抱っこが。」

「下の妹が生まれた時小学2年でしたから。」

「この人ね、怖くてまだ抱っこできないのよ。」

「あっ、すみません。先に抱っこしてしまって。」

「いいよ。いいよ。」

 たいちゃんは、くしゅんと可愛いくしゃみをして皆を微笑ます。亮はりのちゃんのお母さんに赤ちゃんを返した。

「どう?一昨日、皆が見舞いに来てくれて。」

 質問が曖昧だ。何を答えてほしいのか、亮は目に力を入れて村西先生の本心を読む、だけど、よくわからなかった。だから状況を説明するだけにとどめた。

「現実を教えました。新田は俺以上に落ち込んでいましたよ。」

 柔らかな微笑みでうんうんと頷く村西先生。

「現実を受け止められないのは、意外に患者本人ではなく周囲の人間だからね。」

「そうですね。」

「君は十分にわかって、受け止めている。早いね、もっと長くかかるものなんだけど。」

「きっと・・・長い眠りの中で、受け止めたんだと思います。」

「うん。いい眠りだった。数値的にも。」そう言って、微笑んだまま黙り、外の景色を見つめたまま動かず、部屋から出ていこうともしない村西先生。

 『精神科医は、聞き出すのが仕事』そんなことを、昔に聞いた。村西先生は、亮から話すのを待っているのだろう。

 りのちゃんのお母さんは、遠慮してソファに移動し、話に加わらないようにしている。

「先生・・・フジ製薬が、アメリカのカイザーと共同出資しているファインケミカルの、人工筋繊維ってどう思います?」

 先生はゆっくりと亮に向いて、そして語る。

「ファインケミカルは、最先端医療開発の研究所、多くの開発された医療資材は、まだ治験もされていない物や、途中の段階の物ばかり、人工筋繊維も同じく。」

「精神科医にしては、よくご存じですね。」皮肉を込めてカマをかけたつもりだった。

「まぁ、これでも副がつく医院長だしね、沢山の事を知っておかないとね。」と微笑む村西先生。

「例えば、この足にその人工筋線維を入れて、神経電位圧の補強にあてる事は可能?」

「外科の渡辺先生を呼んでこようか?」

「先生にお聞きしたいんです。帝都大学外科学を卒業の村西先生に。」

 りのちゃんのお母さんが驚いて顔を上げた。

「・・・どこでそれを?」と人差し指でこめかみを掻く先生。

「興味本位で、ネットから知りました。」

 去年の4月に、偏頭痛の原因が精神からくるものじゃないかと言われて、精神科の受診を進められた。結局受診はしなかったけれど、診察するなら馴染みの村西先生の方がいいと思って経歴を検索した。帝都大学を卒業後、海外の大学に編入ではなく一から入学しなおしている。それが不思議に思って調べると、元の専攻は外科だった事を知った。医院長のコネで副医院長に就任している馬鹿息子というのは、能ある鷹は爪を隠す的な事ではないかと亮は思った。

「あなた、本当なの?」

「まぁ・・ここのスタッフには内緒にしてよ。」と二人へ口止めをする。

(好都合だ、その秘密を交換条件に出来る。)

「で、先生、この人工筋線維の見解は?」

「中々詳しいことまで調べたようだね。ファインケミカルの人工筋線維は、元々電子制御系神経線維の開発過程で創られた物を、副産物的に人工筋線維として申請し治験を始めたものだ。だからファインケミカルの人工筋線維は、電気を通すことができる。理論的には可能だよ。」

 亮は大きくうなづいた。

「ただし、その理論での神経電圧位の補強としての治験は行われていない。筋線維自体の非臨床実験は治験フェーズ1の最中、普通に使用可能として承認が下りるのはずっと先、10年以上はかかるよ。」

「治験に時間がかかるのは知っています。だから、渡辺先生じゃなくて、村西先生にお話ししているんです。副医院長としての権限をもって、内密に手術ができるでしょう。」

「藤木君っ。」とりのちゃんのお母さんが立ち上がった拍子に、たいちゃんがぐずり始めた。

「人工筋線維は、フジ製薬が用意します。先生は執刀医と数名のスタッフと場所を提供してくれれば、もちろん金も払います。なんだったらスタッフへの口止め料も。」

「君は・・・僕に医師法に反せと?」

「はい。」

「・・・・。」

「言いふらしますよ。病院中に、先生が元は外科の専攻だったことを。」

 先生は、苦悶の顔をりのちゃんのお母さんに向けた。りのちゃんのお母さんは、険しい顔を横に振る。

「バレませんよ。俺はフジ製薬の経営株主でもあり、政治家の息子でもあるんですから、先生を医師免許剥奪なんてさせませんから。」

 結局、何だかかんだと不満を言っても、藤木家の力は便利だ。

「んー。頼まれる事が大きすぎる。交換条件が釣り合ってないねぇ。もう一つぐらい付随しようかな。」

「あなたっ。」

「何ですか?」

「りのが、急に一人暮らしをしたいと言い出したんだ。」

「えっ?」

「通学が辛くなったと。だから前の家に戻りたいと。だったら、彩都市周辺で皆で住める家を探そうと言ったんだけど。首を振ってね。自立がしたいと、懇願するんだ。」

 亮は二人に視線をはわす。りのちゃんのお母さんは、心に罪悪感を作って顔を顰めた。

「僕と一緒に住むようになって7か月が経った。弟もできて一か月が経ち、可愛いがってくれてもいる。心配な事もなくなってきたと思った矢先だった。」

「元々、子供相手は好きな子だったから、妊娠したからこそ、りのは結婚を許してくれたのもあって、安心していたのだけど、もしかしたらりのは今、居場所を無くしているのかもしれない。気をつけてはいるのだけど・・・」と赤ちゃんをあやしながら、語るりのちゃんのお母さん。

 亮の無謀な提案を止めるのは諦めたようだ。

「で、俺に一人暮らしを止めるように説得しろって事ですか?」

「いいや、説得して我慢させても精神に無理がくるだけ。ただ、聞いてあげてほしい。りのが何を思い、何に困っているか。」

「それって、先生の専門分野ですよね。」

「あぁーそうだね。僕はヤブ医者だから。」と笑う。

 家族と患者とでは向き合い方が違うのだろう。親子になって増々やり難くなったのかもしれない。

「いいですよ。それぐらいで俺の希望を叶えてくれるのなら。」

「完全なる約束はできないよ。執刀医も医師法に反する事になる。君の親御さんの説得を始め、関わるスタッフを確保できるかどうかはわからない。動いては見るけどね。」

「それで、お願いします。」






 チャイムが鳴って麗香は顔を上げて時計を見る。何時何分に6時間目が終わるのかは、もう十分に覚えている事なのに、

こうして時計を見るのは癖なんだろうなぁと思いながら、読んでいた分厚い本を閉じる。三冊の本を抱えて、医学書関連の棚に戻しに行く。読んでいたとはいえない、文字を追っていただけだった。何一つ理解できなかった。そもそも、麗香は化学、生物が苦手だ。そちら方面の勉強が得意なりのを尊敬するばかり。

 麗香は、その生物の6時間目をさぼって図書館に来ていた。亮の足をどうにかできないかと調べたかったからである。でも何も収穫もなしに図書館を出る始末。既に、帰る準備はして教室を出て来ていたので、このまま門へと突っ切って病院に向おうと足を速めるも、岡本さんに今日はクラブを休むと言うのを忘れていた事を思い出す。携帯にメッセージを残せばいいのだけど、校内では携帯の使用は禁止の上、電源を落とすこと、となっているのを厳格に守っている事が多い岡本さんは、麗香からのメールに気付かない。岡本さんの下駄箱にメモを残すのが一番確実で、そうするために下駄箱に寄った。すると、うまい具合に岡本さんに出会う。

「岡本さん、ごめん。今日、クラブ休むね。」

「そう、わかった。藤木君によろしくね。」岡本さんは、麗香が説明をしなくても察して手を振ってくれた。

 亮が事故に遭い入院してから、クラブを休むのは初めてだった。亮がそれを知ると叱られるかもしれない。しかし、目が覚めた亮と、一分一秒でも長く会いたいし話がしたかった。

 亮の足の複合手術は成功している。だから、リハビリをすれば亮の足は治るのだと思っていた。時間はかかっても。そして、まだあと2回の全国大会がある。今年は駄目でも来年、最終年度には、亮は奇跡の復活を遂げて、新田と共にまた優勝旗を、なんて麗香は思い描いた。だけど、亮は『うんざり』だと言った。

(亮に、これ以上に頑張れなんていえない。)

 あのまま目を覚めないって事もありえた。それを考えたら、話ができる今は最高に幸せな事。これ以上、欲深く望むのは酷な事と思いながら、麗香はあきらめきれない。何か方法がないかと、図書館で医学書をめくっていたのだ。

 あまり強いることなく諦めない方向に持っていけないか、と考えながら、何も思いつかないまま病院につく。もちろん移動手段はタクシーだ。

 正面入り口から奥の駐車場側にあるエレベーターが、亮の個室へ近い。前まで来ると、見覚えのある人がエレベーターの到着を待っていた。

「彩音ちゃん・・・。」

 亮の首を絞めた日以来だった。

 当然に、彩音ちゃんは聞こえない。麗香はその事にイラつきながら、気づかせるために手を伸ばした。彩音ちゃんは麗香が腕に触れる前に気付いて振り向く。

「あんたっ、何しに来たのよっ。」

 彩音ちゃんは麗華に驚いて、たじろぐように下がり、うつむく。そこでエレベーターの扉が開いて、中から人が降りて来る。麗香は彩音ちゃんをねめつけながら、先にエレベーターに乗り込んだ。彩音ちゃんは、そんな麗香に気後れしてエレベーターに乗ってこない。意地悪く、麗香は閉めるボタンを押した。すると乗ろうと駆けて来たおばさんが開けるボタンを押し、閉まりかけた扉を開けてしまう。

「ごめんなさいね。あら、あなたは乗らないの?」と彩音ちゃんに問いかける。彩音ちゃんはうつむきながらも、乗ってくる。

(亮が、来てくれと呼んだ?)

 亮のスマホは、事故の時に失くしていたようだ。目が覚めた時、病院に駆け付けた亮の母親に、亮は早速、「携帯電話は?」と聞いていた。亮の母親は知らないわよと答えて、麗香にも顔を向けるから「知らない」と答えた。警察に聞いておくと亮の母親は言って、結局、見つからなかった様で、家からタブレットを持ってきてもらっていた。タブレットから、彩音ちゃんに、来て欲しいと連絡したのだと考えが至って、麗香は自分の置かれた立場を再認識する。

(自分は亮の彼女ではない。)

 一緒に乗り込んだおばさんが三階で降りて、二人きりになった。彩音ちゃんがこちらに顔を向けたタイミングで麗香は強い口調で言った。

「一緒に行くわよ。亮を殺そうとしたあんたと、二人っきりになんかさせない。」

 彩音ちゃんは、小さくうなずく。

 麗香は、二人がどんな顔で亮と向き合うのか、意地悪く興味がある。

 白々しく「良かった目が覚めて」なんて言ったら承知しない。全部、亮に暴露してやる、と考え、二人は麗香の理解できない手話を使うんだった、とうなだれる。

 しかし、また変な事しないか、監視はしなければならない。

 エレベーターを降りて、麗香の2メートルの間をあけてついてくる彩音ちゃん。彩音ちゃんは、この病院は初めてのはずで、奇しくも麗香が部屋を案内する形になってしまっている。亮の病室にたどり着き、大きくため息をついてから、部屋をノックした。

「はい」と亮の声。

 返事がある事が、この上なくうれしい。スライドドアを開けると、亮はベッドの上でタブレットの操作。麗香を視認してから時計を見る。

「悠希ちゃんに、迷惑かけていいのか?」

 早速クラブを休んだ事を叱られる麗香。

 マネージャーの後輩が一人入って来た。大人しいけれど保野田先輩よりは断然できる、元テニス部の後輩だ。麗香が休んでも岡本さんの負担が大きくかかるという事はない。麗香はそれには答えず、亮に見えるように入り口を開けた。

「お客さんよ。」

 彩音ちゃんがおずおずと入り口に姿を見せた。亮はさほど驚きもせずに、手にしていたタブレットをベッドに備え付けのテーブルに置いて、足元へ遠ざけた。そして、何かの手話をする。それに答えるように頷く彩音ちゃん。

 もう、二人の世界だ。麗香は、沢山のメッセージが貼られた壁へと移動し、彩音ちゃんを監視することにする。彩音ちゃんは入り口に立ったまま、中へ入ってこようとしない。

 陣形も三角関係だ。

「柴崎、悪いけど、二人だけにして。」

「えっ、でも・・・」

 二人きりは危険なのよって言いたかった。亮がじっと麗香を見つめて来る。

 それを言われる私は、とても無様だ。

「・・・わかった。」

 仕方なく、麗香は彩音ちゃんに睨みを利かせて部屋を出た。











 亮は【この木、ちゃんと、伝えてくれた。よかった】と手話で形作る。

 彩音は入り口にたったまま、一つ「うん」とうなづく。

 麗香が病室の中ほどにまで入って来て、皆が残したメッセージが貼られた壁際で腕を組んで立った。彩音に敵対するように強い視線を向けている。亮の意識がなかった間に、二人に何かがあったようだ。

「柴崎、悪いけど、二人だけにして。」

「えっ、でも・・・」と顔を顰める麗香。

 本心に嫉妬と憎しみが強くある。彩音も強い後悔に溺れている。そこまでにさせてしまった原因は亮にある。

「・・・わかった。」麗香は彩音を睨むようにして出ていく。

 目覚めてすぐに、病院の個室に鉢植えの観葉植物がある事が不思議に思った。見舞の品としては、根付くと意味嫌われ不適切で、病院の備品にも見えなかった。迷信的な事にうるさい母親が持ってくるはずがなく、排除もしないで置いてあるという事は、誰かの見舞いの品で捨てられないと考えたら、彩音しかいない。彩音は切り花が嫌いだった。スマホを事故の時に無くして彩音と連絡する方法がない。だから、亮は試しに彩音が持ってきたであろう観葉植物に語り、伝言を念じたのだ。

【彩音に伝えて、俺が目覚めたことを。】と。

 彩音は植物の声を聞くことができる。植物たちは連携して異変を伝達する。

 俯いてしまっている彩音。声をかけても気付かない。

 亮はサイドテーブルの上の観葉植物の葉っぱを摘まむ。

【彩音に、顔を上げてと伝えて。】

 ゆっくりと顔を上げた彩音。

【そばに、おいで】を手話で伝える。

 彩音は首を横に振る。そして

【できない、そばに、いるべき人は、彼女。】

 彼女は麗香を指す。

【麗香に、何か、言われた?】と聞くも、彩音は首を振る。

 彩音は、麗香の存在を理解してくれていた。理解の上での付き合いだったのに、どうしてこんな風になった?

【何か、あった?半年の、間に】

 途端に恐怖が混じる罪悪感が本心を支配し、うつむいてしまう彩音。

 亮が、また観葉植物を触って気づいてもらおうとすると、彩音は、うつむいたまま手話を作りはじめた。

【今日は、別れ、伝えに、来た。】

 ゆっくり、はっきりと手は動く。

【もう、会わない。】の手話は、【会えない】のどちらでも解釈できる。

 彩音が顔をあげた。本心は「会えない」だ。

【どうして】の手話を作ったが、彩音はきゅっと口を噤み、目に溜めつつ亮を見つめる。

 その目は、悲痛な決心で揺るがない。どんな言葉で引き止めても覆らない。

「俺のせいだね。」の口を読んだ彩音は首を振る。

【私が、わるい】

 罪悪感いっぱいに、ついに涙をこぼした。

【どうして?】

 と手話を作って問うたが、彩音は微かに首を横に振って心に恐怖を抱く。知られたくない、知られる恐怖でいっぱいになった。

「女の子を泣かしてまで、引き止められないな。彩音が俺と別れたいと言うなら、そうしよう。」

 亮の口を読んだ彩音は、問い詰められない事にほっとしたけど、寂しさも混じる複雑な心で、立ったまま泣いた。

 手が届かない距離がもどかしい。

 亮はサイドテーブルの上の観葉植物の葉っぱを摘まみ、「沢山の助けを、ありがとう。」と心で語った。

 植物から、その気持ちは彩音に伝わったようで、彩音は涙を拭いた後、顔を上げる。

【私は、あなたの、声を、植物達から、聞いた、だけ。助け、できなかった。】

【あなたを、助けるのは、彼女だけ。】

 そう、手話を残して、彩音は病室を出て行く。

「彩音!」叫んだけれど、聞こえない彩音は振り向かずに立ち去る。

 彩音が残したパキラの観葉植物を見つめ、亮は落ち込む。

(自分は、彩音に何もしてやれなかった。求めるばかりで。)







 麗香は病室を出てから、閉めた扉をそっと開けて中を覗き見たい衝動にかられる。しかし、流石にそれはやってはいけない事と、ぐっと堪えた。扉に耳を当て聞き耳を立ててみたが、何も聞こえない。手話は音のない会話なのだから当たり前かとがっくりと肩を落とす。看護師さんが通りかかって、どうしたのとでも言うように顔を向けて来るので、麗香は慌てて扉を背にしてニッコリと微笑み会釈した。

 誰が見舞いに来ても、麗香は、他人の面会の同席はしないと、一旦、病室を出るようにしていた。その時に時間をつぶしていたのは、エレベーター裏の自販機のある休憩場や、下の売店などで、追い出された形になった麗香は、いつも通りに暇をつぶすのが普通であるが、どうにも気になる。彩音ちゃんは、亮の首を絞めて殺そうとしたのだから。

 麗香は、その時の事を思い出す。

『絶対に、死なせない。亮が望まなくても、私が、亮が生きるこの世を望む。』と麗香は言った。

 なぜ、「殺させない」じゃなく、「死なせない」と言ったのかが自分でもわからない。あの時、「殺させない」という気持ちが強くあったはずなのに。その後、涙ながらに形作った彩音ちゃんの手話が、頭に焼き付いて離れなかった。

「こうやって、こう・・・」その手話を真似る。

 当時、りのに聞こうと思っていて、ずっと聞くのを忘れていた。

 彩音ちゃんは何を言いたかったのか?

 部屋の中で、「彩音!」と叫ぶ亮の声が聞こえた。直後、扉が開いたのを、麗香は慌てて廊下の反対側へと移動し、彩音ちゃんと対峙する。彩音ちゃんは悲痛な面持ちで、鼻を真っ赤にして、麗香と一瞬だけ目を合わした後、廊下を走って行ってしまった。

(この状況は・・・完全に別れ話だ!)

 それも、亮が名前を呼んで部屋を飛び出す彩音ちゃんを止めようとしていたと言う事はーーー彩音ちゃんから別れを言った?

 リバウンドして閉まったスライドドア、入っていいのか迷ったのは一瞬だけ。そっと扉を開けて、様子を伺いながら、我慢が出来なくて入室する。

 亮は、サイドテーブルの観葉植物を見つめている。前の病院で、クリスマスの日からあった観葉植物。こちらの病院に転院してくるとき、麗香は、亮の母親に「縁起が悪いですから、お家に持って帰られたらどうですか?」と言った。亮の母親は「そうしたいけれど、亮のお友達が持ってきてくれた物だから。亮の事を思って持ってきてくれたのだから、それをすれば亮はきっと怒るわ。」と言って、この彩都市の病院にも持ってきた。亮の母親は、腐るもの以外の見舞い品を、一切捨てずにここに置いている。

 半年で大きく成長した観葉植物に手を伸ばし、一つ葉を引っ張って千切り取った亮。

「だけど・・・無理なんだよ・・・」

 彩音ちゃんに、リハビリを頑張れとか言われたのだと想像する。昨日から引き続いて、本人の辛さをわからず、他人は簡単に頑張れと言う。

「亮・・・。」

「ごめん、今日は帰ってくれ。」麗香に見向きもしないで、亮は葉っぱを指でくるくると回している。

 失恋した亮を抱きしめたい。

(私が居る。)

 それを、体全部を使って伝えたかった。だけど、その一個の葉っぱが邪魔をしてできない。

(自分は亮の恋人じゃない。)それが現実。

 看護師さんや亮のご両親、妹さんたちまでが、麗香の事を亮の彼女だと思っているのに。

 麗香は、無言で病室を出る。







 藤木から、連日メールが来る。

【りのちゃんに会いたいよ~。遊びに来てよ。】

【暇だよ~、とっておきの知識を仕入れたから、聞きにおいで~】と。

 木曜日はメールに気が付かなかった事にして、金曜日は宿題が沢山ある、とメールを送って断った。

 土曜日は、クラブの練習と家の用事があって行けないと断った。

 土曜の用事は嘘じゃなく、引っ越しという用事があったのだ。先生の家を出て、前のマンションに戻る。荷物は学校で使うものだけを移動すればよかった。前の家の中は、処分せずにそのままにしてあったのは、こうなる事が予測されていたみたいだ。ママと先生は、何かあった時の為にと、また新田家に挨拶にいく。でも夕飯などの食事は、新田家に頼らないで、ママが作りに来る。

 そして、一週間に一度は先生と一緒に晩御飯を食べる日を作る、それが一人暮らしの条件だった。

 日曜日の昼の今、クラブ練習に行く前にメールが入る。

【はろー。りのちゃん、美味しいプリンがあるよ。食べにおいで。】

 返事はせずに、行かなければならない覚悟をして、学校に到着する。

「りのー」

 体育館前、麗香が運動場側から手を振って駆け寄ってくる。サッカー部は今日、まる一日の練習で、今は昼食休憩のようだ。

「今日から元の家?」

「うん。」

「何かあったら、言って来るのよ。いくらでも泊まりに来ていいんだからね。」

「うん、ありがとう。」

学園にも元の家から通う事は報告して許可をもらっている。本来なら一人暮らしは駄目だけど、私は華選に上籍してママは村西姓になった為、戸籍上は独り身だ。だからと言うのもあって、私の我儘は許された。

「麗香、今日、藤木の所に行く?」

「あー今日は行かない。」と顔を曇らせる。「今日も、なのだけどね。」

「どうしたの?」

 聞けば、どうやら藤木は耳の聞こえない彼女と別れたという。様子からして藤木がフラれた側で、その場に居合わせた麗香に、「帰ってくれ」と言われた。麗香はそれ以来行きづらいという。自分の所に来るメールからは落ち込んでいる様子などなく、いつも通りだったので、にわか信じられない。

「もしかして、りの、行く決心がついた?」

「う、うん。連日会いたいってメールくれているし・・・。」と言ったら、麗香は少し驚いた表情をした。

「そう、喜ぶわ。行ってあげて。」

(本当に喜ぶだろうか?執拗な催促は、私に聞きたい事があるからじゃないだろうか?)

 断罪の時を迎える。

「あっ、そうそう、りのに聞きたいことあったんだ。」と麗香は運動場に戻りかけた体を戻す。

「何?」

「あのね、手話なんだけど、意味を教えて。こうやってね、こう、それから、こうするの。」

「えっ・・・。」

「りのは亮と一緒に勉強していたから、わかるでしょう。」

「それ、だれがやってたの?」

「彩音ちゃん、藤木の別れた彼女がね、前の病院に見舞いに来た時に、やってたんだけど、私わからなくて。」

【彼】は、藤木の事を指すだろう。

 手話が示した直訳単語は【彼】【死ぬ】【~したい】【思う】【希望】であり、言葉として紡ぐと【彼は、死にたいと思い、願っている。】となる。前の病院でと言う事は、藤木はまだ意識がない。その意識のない藤木を差して、【彼は死にたいと思い、願っている。】と、彼女が言うのはどういう状況か?

「ごめん。わからない。その場の状況も合わせないと手話の解釈は難しいの。会話の流れも含めないといけないから。」

 それは本当だ。一つの動きでいくつものの単語を共有する手話は、読み取る側も文脈を組み立てないといけない。

「そっか、ありがとう。じゃね。」と麗香は今度こそ部室前へと戻っていく。

【死にたい】と願った藤木、

 報いを受けての想いだとしたら・・・。











 亮は、どうせ看護師が様子をみにきたのだろうと、ノックされた扉に見向きもせず「はい」と答えて、腕の筋トレを続けていた。しかし、いつもなら返事を待たずして入ってくる看護師は、入ってくる様子がなく、顔を向けるとそろりと開いたスライドドアからりのちゃんが顔を覗かした。

「やぁ、りのちゃん、やっと来てくれた。」亮は無駄にハイテンションの声を出し、「入って、入って。」と躊躇しているりのちゃんを促しながら、ダンベルを脇に置いた。りのちゃんは部屋の中に入ってきたものの、数歩だけで立ち止まり、亮のそばまで来ようとしない。

「どうしたの?」

「・・・花を。」とうつむくりのちゃんは、可愛らしい花束を持ってきてくれていた。

「あぁ、ありがとう。えーとね。今、空いている花瓶が無いんだ。後で、誰かに活けてもらうから、そこにでも置いてて。」と応接セットのテーブルを指さした。りのちゃんは至極ゆっくりとした動作で花束を置くと、その場所で立ち尽くす。

 元気がないのは明らかだ。

「手ぶらで良かったんだよ。りのちゃんが花なんだから。花より団子ならぬ、花よりりのちゃんだからね。」

 無言の間、待ってもりのちゃんは亮の方に向かないし、何も話さない。

「あ、そうそう、ブリンだね。そこの冷蔵庫から出してくれる?一緒に食べよう。」

 りのちゃんは、一瞬ためらう動作をしたが、意を決したように冷蔵庫へと歩み、中からプリンを出して、うつむいたまま亮の所まで運んでくる。

 昨日、谷垣さんが明日、病院に見舞いに行ってもよろしいでしょうかと連絡があったので、了解してついでにプリンを買ってきてと頼んだ。谷垣さんは今朝、プリンを手に病室に入った途端に大泣きをして、また馬鹿丁寧なあいさつをして帰って行った。

「ありがとう。よかったよ。今日来てくれて、プリンの賞味期限過ぎちゃう所だった。」

 丸椅子に座ったりのちゃんを眺める亮。ショートだった髪は長くなって肩までに、片側だけをピンで留めて、大人ぽくなった。

 ケーキ箱からプリンを取り出して、プラスチックスプーンと共にりのちゃんに手渡す。伏せ気味に、亮に顔を向けようとしないで、大好きなプリンも開けようとしない。思い詰めている風のりのちゃんの本心は、当然に読めないので無駄な事はせず、りのちゃんの動作を見逃さないように注視しながら、自分の分のプリンを取り出し、封を開けて口に頬張った。すると、りのちゃんはやっと顔をあげて亮を見る。

「・・・甘いもの・・・」

「食べ物自体が久しぶりだしね、体重が減ってしまっているから、今は何でも食べて筋肉にしないといけないんだ。」と微笑んだ。

「筋肉・・・サッカーできるように?」

「サッカーは無理だよ。日常生活の為に。これから杖が必須の生活になるからね。」

 人口筋繊維の事はまだ言えない。理論的に可能であっても、実質的な無理が多々ある。

 りのちゃんは、手に持つプリンへ視線をおとし、唇をかんだ。

「どうしたの?プリン、嫌いになった?」

 首を振る。

 亮は自分のプリンを食べ終わるまで何も言わず、りのちゃんからの言葉を待ったが、変わらずプリンを眺めているだけだった。

 家での孤独。あの夫婦との暮らしは辛いだろう。ひとり暮らしは正解だ。

「りのちゃん、何か困ってない?」

 と言えば、ぴくりと身体を震わせてから、顔を上げるりのちゃん。何かを言おうとしたが止めて、口を結んだ。

 亮は最上の微笑みで言葉を促したが、りのちゃんは語ることなく、その話題をそらした。

「・・・困っているのは・・・藤木。」

「あはは、そうだね。」

「私は・・・止められなかった。」

「何を?」

「あの人の・・・」

「・・・。」

「暴走を・・・私は、そばに居たのに・・・。」

 りのちゃんは、トラックを盗む所でも目撃したのかもしれない。暴走も目のあたりにして、すぐ近くに居たのに何もできなかったと自分を責めているのだろう。

「りのちゃんのせいでは、ないよ。」

「・・・。」じっと亮の目を見つめるその顔が、あまりにも綺麗すぎて、まるで神の御前で裁きを受けるような気がしてくる。

「俺は、今置かれた状況を誰かのせいして生きていくつもりはないよ。しいて、誰かのせいとするなら・・・神かな。」

「か、み?」

「うん・・神様のせい。神様が俺に試練か、罰を与えた。」

 りのちゃんは、唇を震わせ始めた。

「りのちゃん?」

 みるみる目から涙があふれて、遂には、プリン持ったままの腕で顔を覆ってしまう。

 亮はりのちゃんの手からプリンを預かり、頭を引き寄せた。

 りのちゃんはベッドの縁で体を震わせて泣く。

 皆が、目覚めた亮のそばで泣く。

「辛い想いをさせてしまったんだね。」

 りのちゃんが首を振る。

「ごめんね。」











「だから、言ったであろう。行く価値などないと。」

「あったわ。」

「報いを見届け、何になった?」

「人の強さを知って、やさしさを受けてきた。」

「あははは。面白いな。」

「ええ、だから、この世は面白いの。」

「よく言ったもんだ。その世から目を背けて長く沈んでいたお前が。」

「皆がいたから、その沈みから抜け出せた。」

「愚の者たちが、慣れあっているだけ。」

「ええ、だけどあなたが一番欲しいもの。」

「我は愚弄な者など要らぬ。欲しいのは。」

 逃げられないように、木に押し付けるようにして迫る。

「賢従なる者と、お前の魂。」

 無理に押し付けられたキスは、

 しびれるように、

 苦しく。

 しびれるように

 官能。

「捧げるわ。だから、もう誰も裁かないで。」

「くくく。」

 笑う。

 その声までもが、

 しびれるように

 神呪。











 麗香は、亮から連絡が来るまで病院には行かないと、半ば拗ね気味で我慢しているのに、一向に連絡がこない。5日目で我慢できなくなって病院に足を向けた。病室をノックしても何の返事もない。開けてみると部屋に亮は居なくて、電気も消されていた。身体的にはどこも悪い所などない、左足だけが動かないだけだから、車いすに乗ればどこにでも行ける。暇つぶしに病院内を散歩しているのだろうかと、麗香は部屋を出て、エレベーター前を越えて休憩所を覗いてみる。いない。ナースステーションの前で声をかけられた。

「亮君ね、今、渡辺先生の診察を受けてるわ。下の診察室よ。」

「そうですか。長くかかりそうですか?」

「どうかなぁ。行ったの何時だっけ。」と奥にいる看護師さんに聞いてくれる。

「40分ぐらい前かしら。」

「わかりました。下に行ってみます。」

「ご苦労様。」

 40分前とは偉く長い。何か体の不調が出たのかと思ったが、看護師の言いように深刻さが無かったから、そうじゃないだろう。診察の後、売店でも寄っているのかもしれないと考えながら、麗香は1階に降りる。

 この広い病院は、外科の診察室は5室もある。どの部屋かと部屋の壁につけられている担当診療医の名前を一つ一つ確認していると、最後の5番目の部屋の扉が開いた。

「では、そのように。」

「ありがとうございました。」と驚いたことに、村西先生に車いすを押されて亮が出てくる。向きを変えて麗香を視認すると、亮は「おうっ」と普通に声をかけて来る。

「どうしたの・・・こんにちは、村西先生。」

「こんにちは、柴崎さん。」

「えっとー。」と状況に戸惑っていると、村西先生から麗香に話しかけてくる。

「柴崎さん、りのをよろしくお願いしますね。本当は一人暮らしなんてさせたくない。女の子だから心配で、心配で。」

「ええ、お気持ちわかります。りのには、何かあったら遠慮なく言ってと言いましたから。」

「ありがとう。頼みます。」と村西先生は麗香の手を持ち両手で握手する。

「もちろんです。」

 亮達の後から、もう一人スーツの男性が診療室から出てくる。その男性は、村西先生に「あちらに着きましたら、連絡します。」と言って深く頭を下げ、そして驚いたことに亮にまで「失礼します。」と深々と挨拶をして去っていく。

「あーじゃ、藤木君の事は柴崎さんに任せて、僕は精神科病棟に帰ろうかな。」

「すみません、お時間取らせて、ありがとうございました。」と亮

「うん。じゃ、また後程。」

 麗香は、車いすの操作を村西先生から代わり、後ろから押す。

「なんなの?」

「この間は、」と亮と言葉が重なって、口も歩みも止まる。

 亮が苦笑して「部屋に戻ってからにしよう」と焦らして、麗香はまた車いすを押した。

 個室のスライドドアを麗香が開けると、亮は自分で車輪を回し、部屋の奥まで進んでいく。壁際に置かれた見舞いの数々を置いた棚の前で、くるりと回転して、斜めに麗香の方に向いた。

「この間は悪かったな。」

「ううん。」

「また、すぐに来るだろうって思ってたんだけど。」と意味深に眉を上げる。 

 そう思われるのは何だか悔しい。

「そんなに、不躾じゃないわ。」

 拗ねた麗香に対して、肩をすくめて笑う亮。失恋の痛手は解消しているように見える。

「だな、気を使ってくれてありがとう。」

 皮肉なのか素直なのかわからない。

「ここ数日、来客が多くて、来いよとは連絡できなかったんだ。」

「来客?さっきの人も?」

「うん。」

 誰かと聞くのも不躾だろう。名家、藤木家の長男なのだから、目が覚めたとなったら親戚や知り合いがこぞって来るだろう。

 亮は棚に手を伸ばし、サッカー部皆で回復を願ってメッセージを書いたサッカーボールに手を伸ばす。亮は一つ一つ読むようにボールを回す。

「夢をあきらめない方法が一つだけある。」

「えっ?」

「だけど、その方法には大小沢山の問題がある。でもまぁ、小さいのは言っても始まらない。大きく分けて三つある。聞きたい?」と亮は挑発的に麗香を見上げる。

「焦らさないでよ。」

「大きな問題は、違法である事。」

「違法?」

「医師法に反する。承認が下りていない医療素材を動かない左足の膝に埋め込む手術を行う。その為に手術後の副作用の予見ができない。それが二つ目、三つ目は、留年が確定する。」

「留年!?」

 三つめが、前の二つとあまりにも次元が違うので、ずっこけそうになる麗香。

「このままだったら6月中には退院ができて、車いすか松葉づえで学園に通える。でも手術すれば、退院は伸びて必要出席日数が足りなくなって留年確定だ。」

「そんなの、私がなんとかするわよ。」

「と言う事は、お前は、手術する方に賛成ってことだな。」

「ち、違う、そうじゃなくて、留年に関してのみよ。」

「一年の出席日数も、本当は足りなかったんじゃないのか?」

「3日ほどよ。」

「誤魔化してくれた。」

「それぐらい、どうってことないわ。」

「流石に今年は誤魔化し切れないさ。」

 麗香は唇を噛んだ。学園経営者側は、何かと制約に縛られて無力だ。

「大きなリスクを負う覚悟で夢を取るか、夢を捨てて平凡な日常を取るか、」

 亮はそこで言葉を切り、腕を伸ばして麗香にボールを向ける。

「わ、私に、選べっていうの?」

 亮は何も言わず、ただ微笑む。

 ボールには沢山のメッセージ

【また一緒にフィールドを駆けようぜ。】

【お前からのパスを待ってるぜ】

【レギュラーの座、取られる前に帰ってこい】

 麗香は【負けるな!夢を掴むまで!】と書いた。可能性があるなら何をしてでも、と思う。だけど、副作用の危険を伴う手術をしてまで求めていいのだろうか。求める資格が自分にあるのだろうか。亮が失恋した日に一人にしてくれと拒否された日から麗香は自信がない。

 亮はボールを胸に引き寄せる。

「俺たちは、生まれた時から金も権力もある環境で生きて来た。求めれば何でも手に入る潤った世界。だけど、求めても金も権力も及ばず手に入らない物がある事に気付いた。それが夢。努力しないと手に入らない夢を追い求める事は、俺たちが人らしく生きる為に必要な事。」

「亮・・・。」

「約束だもんな。」

「でも・・・うんざりなら、もう、いいのよ。」

「あぁ、うんざりだ。女の子ばかり泣かす自分が。」

 麗香は、泣きそうになっていたのを、ぐっとこらえた。

「麗香。」

 名前で呼ばれるのは一年以上ぶり。

 亮は手でちょいちょいと近寄るように求める。

「夢に向かう勇気をくれ。」

 そう言って麗香に腕を回す。ハグだと思い麗香は難しい姿勢で屈むと、亮は麗華の頬に手を添えてキスを求めて来る。

 唇が触れる寸前で麗香は亮の肩を押した。ボールが亮の膝から転げ落ちる。

「あんたね、彩音ちゃんにフラれたからって、都合よく鞍替えするじゃないわよっ。」

 亮は苦い顔をして肩を竦めた。

「その見境のなさも手術で治してもらいなさい。」

「えー。」

 麗香はボールを拾い亮に渡す。

「キスは夢を手に入れるまでお預けよ。」

「厳しいなぁ。」

「厳しさを求めたのは亮でしょっ。」

(私は亮の勝利指針。どんなことになっても、私が寄り添う。)







 りのが昼食のトレーを持ってきて向いに座り、最近ではめずらしく、藤木以外の全員が揃った。

 りのと柴崎が生徒会に入ってからというもの、二人は食堂に来たり来なかったりが多く、特にりのは、弥神との交際もあって、慎一たちと食事をすることがほぼ皆無になった。りのと弥神の交際は、最初こそ大きな話題となって学園中を騒がしたが、今は話題にする者も居ないほどに定着した事実となっていた。というのも、二人が学園で一緒にいる場所が、ごく限られた場所でしかなく、慎一と悠希のような一般的な付き合いの行動が、二人には全くないからだ。休憩時間、渡り廊下でおしゃべりしたり、放課後、帰宅を惜しんでベンチで並び座り、日暮れる景色を共有したり、雨の帰路、一つの傘の中で体を寄せ合うなどの学生ならではの姿を、りのと弥神の二人にはなく、誰も見たことがない。一時、中山さんのスクープが誤報か?とも疑われた。しかし、中山さんの裏付けによる情報は昔から信憑性が高い。中山さん自身も、「私のスクープに間違いはない」と自信があり、誤報説も消えていくのに反比例するように、「静寂の恋人」とか、「読書の偏愛」などと囁かれるようになった。

 二人が一緒の所を見られるのは、図書館と生徒会室内だけ、それも昼休みと放課後の限定した時間のみというごく限られている事から先の変な代名詞となって、事実確認をしに図書館の2階席へと見に行く事が一時期流行する。

 慎一もこっそりと見に行った。りのと弥神は並んでソファ席に座り、互いに別々の本を読んでいるだけだった。普通に見れば、ただ隣合わせただけの生徒としか見えなかった。そうした不思議な二人で、りのに本当に好きで付き合っているのかと聞きたい気持ちがあるのだが、流石にそれは出来ない。そもそも慎一は、自分からりの離れした身であるのだから、りのが誰と付き合うが反対する筋合いはない。

 昼食を食べている慎一たちのテーブルに、沢田が歩み寄って来る。そして、サッカー部3人に用紙を渡してくれた。合宿の知らせだ。

「今年は、例年通りね。」と柴崎。

「去年は、俺の為に日程を変えてもらったからな。」

 日本代表の合宿と遠征試合が、ほぼ夏休みの日程を埋めていて、お盆休みぐらいしか慎一は日程が空いていなかった。 

 常翔学園サッカー部の合宿は、20日前後から一週間が毎年お決まりの日程だったのを、慎一の為に、お盆にずらしてくれたのだ。顧問の溝端先生から嫌味を言われたのは、もう一年も前の事。あの時、藤木から、「代表に選ばれた才能を認めないのは、言い訳を自分に作っている。」と指摘された。その通りだった。藤木が代表に選ばれなかったから、藤木が居ないからと言い訳をして、自分はユース16で活躍出来なかった。結局、日本代表選抜ユース16は、大した成績を残せず解散した。

 慎一は今年ユース18には選抜されていない。正直、サッカーに対する情熱が萎えているのは自覚していた。理由は沢山あった。まずもって藤木とサッカーができない事。藤木の足は二度とサッカーはできない。杖が必要の生活が一生続くとの診断だそうだ。二つ目は、りのが身近にいる事。幼き頃の夢である『サッカーで有名な選手になって、新田慎一の名を世界へ。りのの所まで』は、りのが側にいる事と、中等での全国大会優勝で、その夢は達成されたも等しい。将来の夢がないりのの分までといった約束も、りのの精神病が完治していることにより、いずれ自身で夢を見つけるだろう。

「あら?凱兄さんだわ。」

 食堂に現れた凱さんを、目ざとく見つけた柴崎。

 凱さんは広い食堂を見渡すと、慎一たちを視認して歩んでくる。

 6月からまた、常翔学園高等部の理事長補佐に就いた凱さん。帝都大学法学部は中退したと聞いた。

「やぁ。」

「こんちわーす。」と仲間達。

「りのちゃん、これ、頼まれていた書類ね。」と大きな封筒を手渡す。「揃っているか確認してね。」

「はい。ありがとうごさいます。」といつになく丁寧に応対するりの。

「美味しそうだね。僕も食べよう。」と凱さんは配膳カウンターへと昼食を取りに行った。

「何?」と柴崎。

 誰もが興味津々。りのは封筒の中をのぞきながら答える。

「カルフォルニア大学のサマースクールに参加するの。」

「うえー!」と全員。

「アメリカの?」と慎一がした質問は無視される。

「推薦状とか必要書類を凱さんに取りそろえて貰った。」と書類を封筒から引き出して、嬉しそうな表情をする。

「そんな話、ちっとも。いつ決めたの!?」と柴崎。

「4月末には、藤木の事があったから、言い出せなかった。」

 藤木の事故以来、慎一たちは楽しい事をするのを躊躇う傾向にあった。だからりのも言い出しにくかったのだろう。

「いつから行くの?」

「7月25日から、終業式までの一週間は学校を休ませてもらう事にした。」

「そうなんだ。」

「授業は8月1日から20日までなんだけど、夏休みいっぱいまで、向こうに居ようと思う。」

「あら、じゃ今年の夏はりの、バスケは一緒に出来ないのね。」と佐々木さん。

「うん・・ごめん。」

「いいわよ。そっちの方が断然たのしそうじゃない。」

「うん。楽しみ。ずっと、行ってみたいと思ってたんだ。」

「はぁー規模が違うな。」と今野。

「もしかして、りの、大学は海外とか?」と柴崎。

 りのは、皆の顔を順次見てから、ゆっくりと頷く。

「以前なら、望んでも無駄と諦めていたけど、この費用も進学も何でも、先生が出してくれるって言うし。」

「費用は、華選の維持研究費として落とせるよ。」とトレーを持って来た凱さんは、藤木の席に座る。

「あー!」と柴崎が睨んで責める。

「何!?」と凱さん。

「いいわ、もう!」柴崎は口をとがらせた。柴崎は、学校に来れない藤木の席を、事故以来ずっと用意している。

「りのちゃん、書類は、それだけでいいのかな?」

「はい。これで揃いました。」英語で書かれた書類を封筒に仕舞うりの。さつきおばさんが再婚して、りの達は、大幅に余裕のある暮らしになった。おまけに、華選に上籍したりのは、毎月、維持費および研究費として、華族会からお金が振り込まれていると聞く。その金額を慎一は知らないけれど、りのの言うニュアンスではかなりの額らしい。りのは、もうお金の心配はなく、世界中どこへでも行ける。

「カルフォルニア大のサマースクールは、現地の高校生にも大人気でね。中々参加許可が出ないんだよ。さすがはりのちゃん。」

 サマースクールの申し込みには、研究レポートの提出と学校の推薦状、そして成績表が必要で、りのは去年特待で提出したレポートを送ったらしい。それが認められてサマースクールの参加許可が出た。

「その、研究レポートって、カタツムリの?」

「そう。」

「あれは中々の出来だったよ。認められて当然。」と凱さんは、食べて体内燃焼があがったのか、スーツの上着を脱ぎだした。

「ヒダリンさまさま、今年も沢山いるよ。」

「そういえば、去年、雨に濡れながら観察してたわね。」と佐々木さん。

「そうそう、パンツまで濡らして、理事補に替えのパンツ買って来てもらっていた。」

「あはは、そうだったわね。」

「あれは恥ずかしかったよぉー、流石に。どんなの買っていいかわからないし。」と凱さん。

「グンゼ、グンゼっすよ。」と言った今野に、りのの怒りのバロメーター、ロシア語の暴言がさく裂する。

「ご馳走様。」慎一に負けず劣らずの大盛りの食事を、誰よりも早く食べ終わる凱さん。

「早っ」

「そういえば、明後日だってね。藤木君の手術。」

「手術?」

「もう!凱兄さんっ、それ秘密なのにっ。」と怒る柴崎。

「そうなの?知らなかった。」

「はぁ~。」と項垂れる柴崎。

「えっ?どういう事?」

 そこで、初めて藤木の再手術の事を聞く。なかなか難しい手術で成功するとは限らないから、変に期待させないようにと、藤木は皆に、特に慎一には隠しておいてくれと言ったらしい。慎一は、藤木が目覚めた時以来、見舞いには行っていない。

『もう、うんざりだって・・・』と言って顔を逸らした親友に、行けばどうしても過度の努力を求めてしまいそうだったからだ。そんな慎一の心を、藤木は読み取るはずだし、その読み取りが藤木を傷つけると思うと、会いに行くことはできなかった。

「諦めてなんかいなかったのよ。」

 慎一は、うれしくて涙があふれてくるのを腕で隠した。

「でも、もしかしたら手術はうまくいかないかもしれないし、手術をすることによって、退院は遅れるから留年が確定するの。」

「留年か・・・。」と今野。

 それでも、藤木がサッカーを諦めてなかったという事実がうれしい。

「俺・・・。」

「やめてよ、俺も留年するなんて言わないでよ。」

「うわー、そこまで藤木依存?」

「イケナイ関係。」

「あはは。そんなこと言ってたな。」

 藤木とサッカーができる。

 たったそれだけの事が、慎一の心は高揚して、夢へと駆ける目標となる。











 他の先生よりも馴染みがあって外科の知識があるから、ダメ元で聞いた案だった。外科から転進したのは、日本外科会の中で落ちこぼれ的になったから、渡米して外科よりも簡単な精神科医となった、と想像していた。ぐらいに、亮は村西先生の経歴をさほど評価していなかった。亮が提案した手術案も、村西先生が請負うのは無理だろうと踏んでいた。経過として、フジ製薬からどこか別の病院の手回しをする繋ぎになればいいと思っていたが、そんな亮の考えを裏切る形で、村西先生は、能ある鷹で爪を隠していた。

 亮が話をした二日後には、執刀医や手術スタッフの名前を提示して両親に説明し説得、さらに二日後にファインケミカルとの連絡係の藤木家一族のフジ製薬幹部と調整を組んだ。

「こんなに早く整うなんて思ってもみませんでした。まして実現するのも。」

「それはやっぱり、フジ製薬の創業株主でもあり、厚生労働省に顔が利く藤木家だから、だね。」

「違いますよ。医師たちスタッフの確保ですよ。」

「それも、君のご両親が潤沢なお金を用意してくれたからだね。」

「両親に話をする前には、スタッフの名前がもう提示されていましたよね。」

 村西先生は、苦笑しながら窓の外へと視線を外す。嘘が下手な人だ。

「君がこちらに転院して来て、脳外科から外科、内科、精神科に及んだ検査を再度綿密に行った。脳外科は遷延性植物症状になっている原因は、脳にあらずと見解、内科も同じ、外科は覚醒後の歩行は可能だが、不全麻痺は生涯に及んで残ると見解。本来なら複合手術後に開始されるリハビリが神経電位の低下を抑えて、筋力が底上げをする連携網が構築されるのだけど、それが遷延性植物症状によって構築できなかった。」と村西先生は、まるで、その診断を受けた患者が目の前にいるとは思えないような独り言で続ける。

「そして精神科医は、脳波、睡眠波形から、いずれ覚醒すると見解。患者が目覚めた時、絶望しないように沢山の可能性を提示するのも、精神科医の仕事だと僕は思っていてね。もう一度、君がサッカーをできるようになる方法を模索した。」

「ずっと早い段階から、考えていてくれていたんですね。」

 村西先生は亮へと視線を落として笑う。

「びっくりしたよ、君が人工筋線維の話をした時は。」

「宣告されましたから、このままリハビリをしても、サッカーはできないって。じゃ、このままじゃない方法がないか、探して見つけたんです。ファインケミカルが、藤木家が監督するフジ製薬と全く関係のない会社だったら、諦めていましたけど。」

「うん。僕もね、藤木君だったから、未承認の人工筋線維を可能性として捨てきれずに考査していたんだ。」

「先生、なかなかに策士ですよね。」

「君には劣るよ。16歳にして、権力と財力を振りかざし、脅迫するんだから。」

「それは、策士じゃなく、普通に悪人です。」

「あはは。そうだね。将来が楽しみだ。」

 部屋がノックされる。

「藤木―」

「おや、皆勢ぞろいで。」

「凱兄さんが、皆にバラしちゃったのよ。」

 亮は苦笑して、新田へと視線を移す。新田は暑苦しいぐらいに本心から喜んでいる。

「頑張れよ、手術。」

「俺は寝てるだけ、頑張るのは先生方。」

「あはは、そうよね。」

「藤木君は、手術後のリハビリを頑張ってもらわないとね。」と村西先生。

「そうだ。俺も頑張るから。」

「何を。」

「もうね、新田はうれしすぎて、馬鹿になってるのよ。」

「待ってるからな。」そう言って、新田はグーの手を出してくる。

(仕方ない。青春茶番劇にまた付き合ってやるか。)

 亮はグーを突き出して合わせた。

 梅雨も終わる6月末の日曜日に、その違法手術は密かに行われる。

 執刀医は、口留めや脱法釈明の確保の観点から、村西先生がアメリカから呼び寄せた医師が担当。助手に村西先生。麻酔担当医はフジ製薬から呼び寄せる。オペ看護師にりのちゃんのお母さんと、村西先生が用意した口の堅い看護師2名、人口筋線維と膝に埋め込む超小型医療用の電池の調整技師はファインケミカルから、術後の機器調整とリハビリも担当する。

 全7名での手術は、その内容にしては異例の少なさであり、そして藤木家は、人工筋線維の治験被験者を藤木亮として書類の作成と迅速な承認を裏から手廻し中である。

 対外的には膝の靭帯炎症を治す手術としてある。










 凱斗は久しぶりのスーツを着て、都内のネオン街を歩く。

 色鮮やかな看板がLEDや液晶看板に変わっているのに、ネオン街と言うのはおかしい。死語だ。では、何といおうか。 LED街?液晶街?どれもしっくりこない。そんな、どうでもいいことを考えながら、全国チェーン展開している居酒屋の暖簾をくぐる。

「いらっしゃいっ」と活きのいい掛け声を横目に店内を見渡す。

 目当ての奴らをみつけて、店員にビールを頼みながら席へ向かう。

「おせーぞ。」と汐里ちゃん。

「珍しい、康太がこんな時間からいるなんて。」

「昨日からゴールデンウィークだ。」

「遅っ。」

 検察庁の刑事課勤務の康太には、国民の祝日は関係ない。だけど労働法は守らなければならないから、課内で順番に取得していく。子供のいる世帯持ち優先で取得日を選んでいくから、独身で天涯孤独の康太は、一番最後に回される。

 汐里ちゃんは、まだジョッキの半分も残っているビールを飲み干すと、凱斗のビールを届けた店員に、もう一杯と頼む。

「俺の復帰祝いじゃなかった?」

「んぁ?誰が、んなことを。」

「汐里ちゃん。」と昔の癖が抜けきれず「ちゃん」をつけたのを嫌がって腹にグーパンチが来る。腹に力入れて防いだら、思いっきり嫌な顔を返される。

「祝うほどの事か、馬鹿。人手不足で元のポストに戻されただけだろ。」

「何杯目?」康太に聞く。

「次で4杯目だ。」

「康太が連れて帰れよ。」

「雇用主はお前だ。」

 汐里ちゃんは届いたビールを早速グビグヒと飲む。乾杯もなし。

(いつもの事だからいいけれど。)

「しかしなぁ、お前、ちゃんとしとかないと、学園の信用失うぜ。」

「ん?」

 凱斗もビールを飲む。康太は冷酒だ。

「生徒に手を出すような不埒者でも、一族に守られて解雇にならない。いいよな、って教職員から愚痴が出てる。」

「誤解だよ。りのちゃんには一切触れてない。」

「ロリコン理事って陰では言われてるぞ。」

「えぇ~。」吹き出しそうになる。

「うははは。そりゃぁいい。」と康太も珍しく大笑いをする。

「まいったな。」

 誤解で高等部理事長補佐を解任、文香会長の秘書の休職は解かれて4月から再就任するはずだったのが、皇華隊の仕上がりが予想外に遅れた。全国の陸海空からの精鋭を選んだとは言え、訓練しか経験していない隊員たちは、凱斗の理想を大きく下回った。3月末で一旦退く予定でいたのを5月末まで延長して、皇華隊の特務訓練の強化を図った。それでも凱斗からしてみれば、まだ隊は稚拙で実戦で使うにはほど遠い。前島将官補の提案により、凱斗は実戦指導から一旦外れ、後は前島将官補に任せることになった。凱斗は10か月振りに柴崎家に戻った。柴崎家と学園を留守にしていた間、藤木君の身に起きた事故は、ニュースで知って、詳細を文香さんから聞いてはいたが、皇華隊の仕上がりを急がされていたし、そもそも学園経営から外されている身でもあり、医師でもない凱斗はどうしようもなく、回復を祈るばかりだった。凱斗は、訓練の合間に、藤木君がまだ品橋総合病院で意識がなかった時に一度、見舞いに行っただけ。目覚めてからは、まだ行っていない。  もう一度サッカーのできる足にする為、再手術を明後日する予定だと聞いていた。

 汐里ちゃんが6杯目のビールを飲み干して、やっと酎ハイに移行した時、別の話題を始める。

「そういや、この間、妙な話を聞いた。」

「妙な話?」

「あぁ。」

 汐里ちゃんは現在、中、高両方の陸上部の指導を行っている。

 全国高校体育連盟の陸上競技運営委員に登録していて、常翔学園がインターハイに出場しなくても、毎年、実働運営役員として汐里ちゃん個人は、運営に参加しなければならない。   

 一週間前、8月に行われるインターハイ事前運営会議が、開催地の名古屋で行われた。そのメンバーに体育大学時代の友人(男)がいて、夜、食事(もちろん居酒屋である)をする事になった。その友人は、昨年から京都の私立高校の体育教師として赴任、現在も就任している。高校1年の副担任を受け持つことになって、生徒の情報を把握している時に、一人不登校になっている生徒がいる事に気付いた。聞けば昨年の半ば、つまり中学3年の半ばから、ある生徒とトラブルになって以来、学校に来れなくなっていると言う。その高校は常翔学園と同じく、中高併営の私立学校である。

 その不登校の生徒は、トラブルまで成績も悪くはなかったので、高校への進級は可能だったが、このまま欠席が続くようじゃ留年になってしまうと心配した友人は、当然ながらその子へのアプローチを開始する。まずはトラブルの詳細について担任に聞くと、何故か言いたがらない。その不登校生徒の事はそっとしておけと言う。次に学年主任にも相談する。しかし学年主任も担任と同じ姿勢。在任教師全員に聞いたが、全員同じそのような思考と態度を示す。校長は友人と同じく赴任して来たばかりで何もわからない。不思議に思いながらも、ほっとけない性質の友人は、下調べなく不登校生徒の家へと向かった。

「初めは門前払いだった、親も、そっとしておいてくださいと顔も見せない。」

「苛めか?」と凱斗は学校生活ではありがちな原因を口にする。

「ああ、そいつも初めはそう思ったらしい。しかし、教職員全員が口裏合わせたように、その話題を避けている様子はおかしいと思ったそうだ。」

「苛めの撲滅って面倒だからな。」

「いや、それがな、その学園では苛めに対する監視、被害者、加害者のフォーロアップなどのシステムは、他の学校より厳しく綿密にやってるそうなんだ。」

「うん?」

「なのに、その生徒に関してだけ、そっとしておけと言うし、みな口を噤んで何故なのか教えてくれない。そいつは調べようがなくなって、ほとほと困ったと。」

 康太は話に興味がないらしく、テーブルに肩肘をついた手に頬を乗せ、目を瞑っている。

「それで、そいつは、当人か家族に聞くしかないと、何度もその生徒の家に通い続けて、やっと応接間に通されるまでになった。」

「おっ、中々骨のある先生だね。」

「あぁ、あいつは昔から熱血だったからな。」と汐里ちゃんは酎ハイを飲み干す。「で、その不登校の母親が、やっと学校の事を語りだした。あの学校は呪われていると。」

「うわー、そっち系?」

「友人も、そっち系かぁ、と心中で苦虫を噛み潰したそうだ。その母親、うちの子はまだ不登校になっただけでマシだ。あの子のせいで何人も死んでいると言ったそうだ。」

「妄想が凄いな。」

「友人は、教師たち皆、口を噤ぶはずだと思った。そしてもうアプローチはやめようと思ったらしい。」

「賢明だな。」

「だが、その母親、そっち系の妄想でもなかったんだ。」

「ん?」

「本当に死んでいたんだ。3人。」

「死因は?」

「自殺が2人、交通事故が一人。」

 凱斗は内心で、どこが変な話なんだよと思う。自殺者が二人続いた、のは連鎖が起こってしまっただけ。思春期にはありがちなことだ。もしかしたら同級生の交通事故の死が引き金となってしまったのかもしれない。

「友人が調べられたのは三人だけだったが、実際は教職員も含めて5人が死んでいて、うちの子と同じように不登校の子になって転校した子も沢山いる。ひどい子は今、精神がおかしくなって入院していると、母親は言ったそうだ。」

 凱斗は、不思議な感覚を覚える。この話、初めて聞くのに、初めてじゃないような感覚が沸き起こる。

 (デジャブ・・・は単なる偶然の錯覚だ。)

 凱斗は心の中で、そう自分に言い聞かせる。

「我が子が通っている学校で、二人も自殺者が出たとなると、不安に被害妄想がでかくなっても仕方ないな。」

「あたしもそう思ったさ。」

「先生が調べられないのは、学園とその加害者の親がマスコミ等に口止めをしているからだと。」

 凱斗は苦笑して、首の後ろを掻く。どこの学校も世間体を気にして名声を守るのに必死。

「加害者って、教職員含めた総勢5名を死亡させ、その他たくさんの生徒の不登校になったのも、一人の生徒がさせたって?」

「その母親が言うにはな。」

 汐里ちゃんは康太の前から、飲み残している冷酒の瓶とコップを奪う。

「ありえない。」と言った自分の言葉も、デジャブの感覚がして気持ち悪く、凱斗は頭を振った。

「だろう。だけど、友人はその母親を信じざる得なくなったって言うんだ。」

 凱斗は、3杯目のビールを飲む。

「中学の過去3年の生徒名簿を閲覧する機会があって、そいつは驚いた。母親の言うとおりに3人の生徒と2人の教師が死亡退学、退職となっていたらしい。」

 まさかと汐里ちゃんの顔を伺う。酒は進んでいるが、この量はいつもの事で酔っぱらうのはもっと先。冷酒を継いでチビリと飲む。

「その友人、酔っぱらって話を誇大にしたんじゃないのか?」

「酒は弱いが、嘘の話を長々とする奴じゃない。」

 確かに嘘の話にしては長すぎて詳細だ。そして、凱斗の脳内は、デジャブが色濃くなるばかりで消えない。

「なぜそんな話を、その友人がし始めたんだ?自分の赴任先の学校の不祥事だろ。」

「あぁ、そうだよ。いくら友人だからって、酒の席で話していいわけない。迷ったようだ。だけど、あたしの赴任先が心配だし、様子を聞きたかったから食事に誘ったって。」

「ん?」

「その母親が言う加害者は、その中学を卒業後、神奈川の常翔学園へ入学した、と。」

 急に頭の中の雲が晴れたように記憶がよみがえる、と同時に気持ち悪かったデシャブが無くなった。

「や、弥神だ・・」凱斗は勢いよく立ち上がった。テーブルに太ももをぶつけて、コップを揺らす。康太が目を開ける。

「な、なに!?」

「そうだ・・・その話、知ってる。」

「はあ!?」汐里ちゃんが怪訝な顔で睨んでくる。

「思い出した・・・そう、奴は・・」

「弥神って、去年、藤木亮が殴った相手か?」

「そう・・・いやいや、違う、違う。」

「凱斗、とうとう頭、パンクしたか?」と康太が貶す。

(だめだ。汐里ちゃんが知ったら、また、あいつに消される。)

「汐里ちゃんっ。」

「うりゃ、ちゃん呼ばわりすんじゃねぇ。」と横っ腹にパンチが来る。

「おゔ・・・」動揺して防御が遅れ、まともら食らう。痛みを我慢して通りかかった店員に冷酒とワインも頼む。

(これは飲ませて、汐里ちゃんの記憶を飛ばさないと。)

「汐里さん、今日はとことん飲もう。」

「あぁ?」

「お前、責任持てよ。」と康太は呆れて腕を組んで壁に背もたれた。

「もちろん。さあ、さぁ。」

 と届いた冷酒を汐里ちゃんの口に運んだ。

 黒川君が言っていた事は本当だった。

 12月のあの日、凱斗のマンションに黒川君と共に現れて、赤く染まる目で凱斗に命令した。

 【余計な詮索はするな。知り得た我の情報は忘れろ。】

 黒川君とやり取りしていた携帯のメール履歴を、凱斗自身が消した。そして、自分はその日弥神皇生と会ったことも忘れ、自衛隊基地に戻った。

 催眠、洗脳などが効かない訓練をされた身である自分が、あの赤い目で命令されると何故か効いてしまう。

 12月の時の事だけじゃない。それ以前の、痴漢の事で鉄道警察が事情を聞きに来た時も、警官共ども、忘れるように命令された事を思い出す。

(一体、何なのか?調べる必要がある。)

 凱斗は、その次の日から学園の仕事と会長秘書の仕事を休み、調査に向かった。文香会長には皇華隊の詰めがまだあって、前島指令補から呼ばれたと嘘をついた。誰も知らない方がいい。

 弥神皇生に気付かれないように。








 選ばれし巫女はひと月間、

 祈心を反物に織り込み、

 着物に仕立て、

 そして、7月7日七夕、

 着物と共にその清らかな心身を

 神にささげる。

 神は慈悲なく、厳粛だからこそ、神々しい。

「おいで」

 逆らうことなく、

 その言葉は、

 しびれるように

 甘く、やさしい。

 頬をすべる感覚は

 冷たく、やわらかい

 接吻

 解かれた帯と着物が

 衣擦れ音しなやかに、

 はだけ落ちる

 露わになった

 互いの胸の痣、

 同じ、

 それは

 魂の絆、証、

 刻印

 合わさる鼓動、

 同じ律動

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

 しびれるように

 官能。

 あえぐ呼吸、

 交わる体、

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

 しびれるような

 感応による、

 官能。

 神応。

 そして、

 神呪。









 凱斗の報告を聞き、文香さんは眉間に皺を寄せる。

「嘘をついていないのはわかるけれど、その話は、信じがたいわ。」

「信じられなくても、この被害者たちが、弥神皇生とトラブルに遭ったと言うのは本当です。弥神皇生には、何か人を操るような力を持っていて、気に入らない者を排除したとしか考えられません。」

「集団催眠が起こったと考えられない?この年頃の子はそれが起きやすく、稀ではあるけれど可能性は高いわ。」

「僕も操られたのです。この事については、黒川君が一番に気付いて、僕に知らせようとしてくれました。だけど、弥神皇生に気付かれて、記憶を消された。」

「記憶を消すなんて事・・・。」

「文香さんだって、人の考えている事を読みとる能力があるじゃないですか。不思議な力が他にもあっておかしくないと考えられませんか?」

「私の能力は、ただ人の顔色を読みとる能力が他の人より高いだけよ。」

「藤木君の事故だって、もしかしたら、弥神の仕業かもしれないんです。」

「凱斗、あなた、皇華隊の創設で疲れているんじゃなくて?」

「文香さんっ。」

「やっぱり、学園の仕事に復帰するのは、まだ早かったのかもしれないわ。」

「皇華隊ぐらいどうってことないです!あの戦場に比べたら疲れなどありません。信じてください。文香さんも懸念していたじゃないですか、西の宗の子がわざわざ東に来る事を。」凱斗は文香さんのデスクにドンと手を置いて迫る。

「凱斗・・・」と文香さんは凱斗の迫りから逃げるように椅子に背もたれる。「藤木君の事故は、薬物依存だった男が車を暴走して起こした事故よ。」

「僕たちが、弥神皇生の事を調べようと集まる日だった。黒川君が相談して来たメールのやり取りを全部、消されたんです。」

 文香さんは首を振る。

「だからと言って、弥神君に聞ける?何一つ証拠がない。あなたが調べて得た情報は過去の事、過去が疑わしいからって問いただして追い出したりはできない。そんな事をすれば、弥神道元様は猛烈に怒るでしょうね。」

「道元も共犯です。トラブルに遭った生徒家族と、記事にしようとした新聞社に多額の金を渡していた。それが証拠です。」

 文香さんはため息を吐く。

「私達も、似たような事をしてきている。道元様が世間体を気にして口止めする、気持ちはとても分かるわ。」

「もういいですっ。」

 凱斗は荒々しい身振りで踵をかえした。その拍子に、手がテーブルに置かれていた飲みかけの冷茶のコップに当たり、床に落ちてしまった。派手な音をたてて、コップは割れてしまう。

「すみません。」

 凱斗はしゃがみ破片を拾う。

 文香さんも椅子から立ち上がり破片を拾おうとしたので、凱斗は「僕が片づけます。危ないですから、下がっていてください。」と言うと、文香さんはその手をひっこめた。

「割れた、光玉・・・」

「えっ?」見上げると、文香さんは、驚愕に目を見開いている。

「同じ・・・どうして、気付かなかった!?」

「どうしたんです?」

 文香さんは椅子に戻り、テーブルに置かれたノートパソコンを開いて、キーボードを打ち込む。

 様子が変化した文香さんを心配して、凱斗は割れたコップの片付けを途中でやめた。

「あなたの懸念以上よ、これは。」

「は?」

「これを見て。」

 指さされたパソコンの画面は、常翔学園高等部の生徒名簿、弥神皇生の写真付き履歴書のページ、それを一旦小さくして、検索して出した写真を横に並べる。新たに並べた写真は、双燕新皇様の成冠初謁の儀の時の写真。

 凱斗も驚く。

「同じ!」

 並べた二人の顔は全く同じ。

「これは、どういう事です?」

 文香さんは怖いぐらいに険しい顔で首を振る。

「わからないわ。」

 凱斗は思い出す。

「文香さん、生まれる新皇の名前は、その時の状況を色濃く反映した名がつけられるのですよね。」

「ええ、そうよ。」

「新皇様は双燕、新皇様が生まれた時、二羽の燕が飛んで行ったことから、双燕と名付けられた。その双が、燕の事だけじゃなく、双子を意味することだったら・・・。」

驚愕に、見開いた目で互いに息をのむ。

「これは、私達だけでは・・・白鳥代表に相談しなければ。」



 華族会12頭家の内の、東の主要4家が集い密談された。しかし、弥神道元の子息が、双燕新皇と瓜二つに似ている事は、密談しても真実がわかるはずもなく、京都から弥神道元を呼び、話を聞くことになった。

 帝国領華ホテル別館、華族会本部事務所の会議室で、東の宗4家、柴崎家、白鳥家、諏訪家、橘家の当主を前にして、弥神道元は、威厳なく項垂れ語り始めた。

「皇后様がご懐妊されると直ちに、京宮では【名詞(なし)】4名と【捨司(しゃし)】1名が決められる。名詞は新皇のご生誕時、京宮内外に居て、名に反映できる自然変化の情景を見つける役目、そして捨司は、過誤に生まれた時の為の、天に返す役目を担う者、それは代々弥神家が担ってきた。過誤に生まれなければ、捨司の役目など、ご生誕時は何もない。しかし、閑成神皇のご嗣は、およそ250年ぶりの双子であった。神皇となる者は一嗣でなければならない。これは神皇家1700年の歴史の中で、およそ1000年前に制定された決まり事。双子によって継嗣決めが荒れた事によると、神皇家の祖歴に記されてある。双子であるとわかった時から、私は、神皇家及び弥神家の祖歴を読み漁った。過誤に生まれた子を天に返す儀式の方法、そして、どちらのご嗣を天に還せばいいのか?いずれも祖歴には、簡素に記されてあった。

【天に返す嗣は迷わずともわかる容姿であり、嗣は東山麓の窟へ置く。】

たった、それだけ。

 しかし、それだけの事が、私にはできなかった。

11月5日午後2時13分

名詞が、次期遅い二羽の燕が京宮の空を飛び去って行くのを見、双燕と名付けられた新皇は、見るに美しいお子であった。

反してもう一人の御子は、生まれる前から名が決められている、還す命と書いて還命新皇は、祖歴に記されていた通りに、迷わずしてわかるお子だった。左よりの胸、心臓の所にひし形の痣、そして、左眼が白濁していた。私は、還命新皇様を抱き、京宮御所敷地内の東山へと向かった。その道は、双子であるとわかった時から、何度か足を運び覚えた道であり、一般人が入れないその山は、静かな神域で空気が澄みきっていた。京宮御所から40分ほど歩くと、人二人ほどが入れるほどの洞窟が見えてくる。中には古びた小さな祠があるだけ、岩から染み出た水が時折ポタリと音を作る冷たく寂しい場所だった。

 捨司とは、余分な子を捨てる役目の事だと、ひしと胸に重くのしかかる。私は、還命新皇様をごつごつとした地に置いた。すると、還命新皇様は火が付いたように泣かれた。私は耳を塞いで立ち去った。恐ろしくて、振り返ることなく逃げるように。その夜は眠れなかった。耳に泣き声がこだまする。還命新皇様が呼んでいる、生きたいと願って。気が狂いそうな三日を過ごし、私は洞窟に足を向けた。朝日も入らず暗い洞窟に、そこだけが白く輝いて見えた。泣き声はしない、三日も経っている。やはり天に還られたかと、せめてその御身を埋葬して差し上げたいと断腸の思いで近づくと、指をくわえた口が動いていた。私は驚いて、しかし心が救われる思いで、還命新皇様を抱き上げた。すると還命新皇様は、目を開けて笑うお顔をみせてくれたのだ。とても、もう一度、そこに置くことなどできなかった。そのまま隠すように京宮を出て、家に帰った。家内に世話をさせて、我々の子として育てる決心をして。」



 同じく隣に座る弥神道元の妻、節子夫人はか細い声で語る。

「そのお子が、どこの子か、主人は一切言いませんでしたが、私にはわかっておりました。一目見た時から、とても恐ろしかったのです。いいえ、白濁の目がと言う事ではありません。そのお子の存在が・・・言いようのない感じがしたのです。しかし、育ててみると、普通の赤子のように、手がかかるような事はありませんでした。主人が家に連れてきた時から、とても静かでぐずることなく、泣くこともあまりありませんでした。だからこそ、赤子らしくない。時々じっと私を見据える、そんな様子が、とても人の子と思えない感覚があって、震えたこともあります。・・・・・いいえ、育て自体も難しいものではありませんでした。静かすぎるほどで、そして、とても賢明でした。私が教えたのはひらがなだけ、後はすべてご自身で、与えた絵本から、カタカナ、漢字を覚え、計算、知識もすべて本から、家にある本を一日中読んでいました。買っても買っても追い付かず、私は毎日図書館へ通い、あらゆる本をジャンル問わず借りてくる、そんな日々でした。」



「小学校は、行かせることができなかった。双燕新皇様が、16歳の成冠初謁の儀まで、公にお姿をお見せされないとわかっていても、いつ発覚するやしれず、また行きたがらなかったのも幸いした。」



「それは・・・わかりません。新皇様の事、神皇家の話や質問が出た事はありませんでした。私達が華族であり、主人が神皇家づきの世話役の仕事をしている事を、教えた記憶はありません。」

 


「家内には、普通に母親らしくしろと言っていたのですが・・・やはり産んでもない子でしたから、難しかったようです。」

 


「無理でした。ご本人様が知らぬとはいえ、新皇様をわが子のように接するなど、子を産んだ経験すらもないのに。畏れ多い事・・・必要最低限のお世話しか、私にはできませんでした。」



「妻には申し訳ない事をした。大変な役目を与えてしまい。」



「いいえ、小さい頃は、そのような力はありませんでした。おかしいと気づいたのは、目の手術をして退院した後です。

思えば、その時から、言動が新皇様らしくなられたような気がします。・・・・わかりません。」



「手術は10歳になる年に。白濁した左眼は、生まれつき全く見えていなかった。片目による長時間の読書で、右目の視力も衰えが見られ、医者に診せると、このままでは右目も視力を失うと診断された。何より書物が読めなくなるのは苦痛だと言われ、私の左目を移植する手術を・・・難しい手術だった。拒絶反応と合併症による感染症が酷く、体が弱ってしまい。体力の回復と移植した眼球が馴染むのに一年がかかった。視力が安定して生活を戻すと、妻が増々恐ろしいと言い始め、これ以上、隠して育てるのは限界と感じた。中学へ行く事を望まれ、私の知り合いが経営している私立の学校に入学を頼んだ。戸籍等は華族命令でどうとでも、たが、その中学で沢山のトラブルを起こした。それまで人、外と関わりのない生活を送ってきたのだから仕方ない事だと思っていた。」



「沢山のトラブルを抑え込むのにも苦労しました。公にならないように、華族命令を酷使して、高校は常翔学園へ行くと言った時は、ホッとしました。」



「いずれ・・・東の宗に気付かれる。そう覚悟して送り出した進学だった。だが、『心配など無用、その時にはすべてが事決まっている。』と言われ・・・」



「事決まっている?」と橘様がつぶやいた時、会議室の扉がノックもなしに開く。

 姿を現したのは弥神皇生。

「告知は済んだか?」と歩み来る。そして冷ややかに周囲を見渡すと、「頭が高いな。」と言い放った。

 一同は慌てて椅子を降り、その場で皇前交手片座姿をする。

 まだ立ち尽くしていた凱斗に、弥神皇生は睨むように見据えた。

「これまでの無礼は許す、だが、これからは、そうはいかぬ。」

「凱斗っ」文香さんが縋るように凱斗をしゃがむようにと下へ引っ張る。仕方なく皇前交手片座姿をした。

 弥神皇生は、くすくすと笑い「上げよ。」と言う。

 一同は、座姿のままその場で顔を上げた。弥神皇生は近くの椅子を引き寄せ、横柄に座る。

「道元は、我を生かせてくれた者だ。道元への糾弾は許さず。良いな。」

「は、はい。」と白鳥様が戸惑いの返事をする。

 しばらく無言に部屋が鎮まる。皆、どうしていいかわからない。存在するはずのない新皇がもう一人存在した事に、思考も気持ちも把握できない。

「何を目論んでいる。」皆が聞けないから、凱斗がその疑問を言葉にする。

「凱斗、お言葉。」文香さんの叱咤を無視して、凱斗は立ち上がった。

「目論む、とは腹に据えた企ての事、我に腹に据えた企てなどあらず。」

「そんなはずはない。わざわざ常翔学園を選んで来た、その真意がある。生徒会役員をすべて称号持ちばかりで揃えて、何かをするつもりだっただろう。」

「道元が告知したであろう。すべてが事決まっていると。」

「どういうことだ。」

「神依女(かしめ)を選び交接の儀を終えた。」

「かしめ?こうせつのぎ?」意味が分からずにいると、片目色違いの眼鏡をした弥神道元が、驚いて目を見張る。

「かしめとは、神の依代となる女の事、交接の儀は、7月7日の宵、その神依女が機織りして仕上げた着物を身にまとい神皇に身を捧げる儀式のこと。」

「それって・・・」

「解釈せねばならぬか?」と馬鹿にしたように弥神皇生は首を傾げ笑う。「しきたり通りに、七夕の宵の日、皇后となる者と性交を済ませた。」

「だ、誰だ・・・その相手は・・・」

「真辺りの。皇后にふさわしい相手であろう。」

「お前っ、まさか、その力で無理やり。」

「凱斗っ。」文香さん達に取り押さえられる。

「彼女は望んで、身を捧げている。」

「うそだ・・・」

「衝撃が大きいか?気にいった女を取られて、ロリコン理事補。」

「お前っ。」

「凱斗っ。」更に体を押さえられて、凱斗は唇を噛んで、気持ちを静めるしかない。

「か、還命新皇様・・・」

「皇生でよい。」

「皇生新皇様、これより、どう致しましたら。」

「正しい位場所に戻る事が自然であろう。」

「正しい、位場所?」

「京宮で皇后と、嗣が生まれるまで静かに暮らす。」

(なんてことだ。)

「何も問題はなかろう。」と微笑む姿は、憎らしいが神々しい。

 継嗣が生まれたら、必然的にこいつが神皇になる。

 麗香達は次の神皇に仕えていく世代。

 生徒会は、それを見越した使役だったんだ。











 古代、性交は人が神と交信の為の手段として用いられることもあった。

 絶頂の瞬間、無の刹那に、神域に触れる事ができる。

 経験は知識を超えた。

 思考は無になり、言葉に表現できない体感を得た。

 あの快感の極地が、神との交流と言われたら、

 その通り。

 神に触れた後、生命が誕生する。

 なんて崇高な営みだろう。

 そうした絶頂をママもして、私を生み、大輝を生んだ・・・。

「何?」とママは、ベランダから部屋に入る姿勢を止めて、険しい顔で首を傾げた。

「ううん、何でもない。」

「びっくりするわ。じっと見てるから。」

「考えごとしてただけ。」

「ねぇ、りの、あなたは英語が堪能だから、海外生活に困る事がなくて、その点は心配ないけれど、だけど、だからこそ、無茶な事はやめてね。」

「無茶な事?」

「そう、日本と違って、アメリカは銃社会だし、犯罪も派手だわ。」

「大丈夫。心得てる。」

 ママは苦笑しながら頷いて、洗濯カゴを脱衣所に置きに行って戻ってくる。そして、「さぁて。」と腕まくりをして食事を作りにかかる。

 自立がしたい、などと言いながら、結局何もしていない私。ママが毎日、私のマンションに来て、洗濯をしてくれて、夕飯を作りに来てくれる。こちらに来ている間の東京のマンションには、雇ったベビーシッターが居て、大輝の面倒を見てくれているし、食事を作りに来る家政婦も雇っている。村西先生と結婚して、ママはそういう身分になった。それが性交の果てに得た裕福だとしたら、私は何を得られるだろうか。

(今日も、キオウは来るのだろうか?)

 ママの携帯電話が鳴った。ママは「はいはい」と返事をしながら、手を洗って不十分にふき取られていない手で電話に出る。

「はいーーーそうです。あぁ、これは、いつもお世話になっております。」と頭を下げる。

 私は、残っていたアイスミルクティーを飲み干した。

「はい、はぁ、おりますがーーーはい、1時間後・・・はい。大丈夫です・・・はい。お待ちしております。」

 電話を切ったママは首を傾げる。

「柴崎会長が、話があるからここに来るって。」

「柴崎会長が?」

「そう。」

「何の話し?」

「さぁ?家に電話したみたい。こっちにいると家政婦さんから携帯の番号を聞いたと。」

「ふーん。なんだろう。」

「サマースクールの話じゃない?ほら、費用を華選維持費として落とすとかなんとか。」

「あぁ、かも。もういいのになぁ、先生が出してくれるんだし、手続き面倒そう。」

「ふふふ、面倒でも、今後の為にも、その手続きは覚えておいたほうがいいんじゃない?」

「うーん。」

 華選の称号持ちなって、華族会から毎月100万近いお金が、維持研究費として専用口座に振り込まれている。しかし、そのお金を使ったら、領収書と使途明細を華族会に月に一度、まとめて提出しなければならない。

 時計を見れば、4時03分、木曜日の今日は体育館の使用日ではなかったので、今日はバスケ部を休んで帰ってきていた。

 正直、バスケの楽しさを見いだせなくなっていた。藤木の事故からこっち、戒めのように楽しさを封印した中の一つだった。先生が、私の御機嫌取りにサマースクールの提案をして実現化すれば、増々バスケはどうでもよくなった。ママと先生が結婚してよかったことは、こういう事に、寛大にお金を出してくれることだ。と言っても、私は華選の維持研究費があるから、村西先生に頼らなくても何でもできるし、どこへでも行ける。

 とても自由だ。最高に。

『世界が遊び場』

 これからパパの口癖を思う存分満喫できる。

 こんな狭い日本に居続ける意味がない。

 サマースクールで教授との人脈を作り、いい成績を残しておけば、今年は無理にしても、来年9月の入学に半年飛び級で大学に入れるかもしれない。凱さんが3年の飛び級をしたんだから、半年の飛び級なんて簡単な事だろう。

 スーツケースを押し入れから取り出して、渡航の準備をし始めた。買わないといけない物をリストアップしていく。そうして一時間が経って、エントランスの呼び出し音が鳴った。

 ママが対応して迎え入れたのは、柴崎会長だけじゃなかった。華族会の白鳥代表も一緒だった。白鳥代表は、前代表だった父親の体調が芳しくないのが理由で、この4月に代理から正式に代表として就任している。

 戸惑うママの、「どうぞ、今、お茶をお入れします。」のおもてなし対応を、

「急ぎ、確認したい事があります。」と険しい顔で断った柴崎会長は、スーツケースに衣服を詰めていた私に顔を向ける。

 立って、対面する私。

「りのさん、あなたは弥神皇生君と親しい関係にあるのは本当?」

 何を聞かれると思いきや、

「はい。」

 柴崎会長は、険しい顔を崩さず、唇を噛んだ。

「その・・」次いで白鳥代表も、いつも柔らかい物腰とは違って、険しく言いよどむ。「りのさんは、その弥神君と7月7日に・・・。」

(えっ?)

「性交を・・・。」

「何を!」ママが叫ぶ。

「失礼を承知です。とても大事な事なのです。」と柴崎会長は訴えるように首をふる。

「真辺りのさん、正直にお答えください。あなたは、皇生様と七夕の日に性交に至りましたか?」

 皆が注目する。

 不純異性交遊と、学園の校則違反に問われるのだろうか?

 にしては、白鳥代表が来るのはおかしい。

 華選資格などに、成人まではセックス禁止なんて記載されていただろうか?―――無かったと思う。

 日を指定して問われると言う事は、あの人から聞いて確認をしに来ている。「いいえ」と、言えない状況じゃないか。

(どうでもいいや。)

 華選を取り消される、もしくは学園を退学させられても、困りはしない。別の学校に転校すればいいだけだ。そうだ、国内に拘る必要はない、これを機に海外の大学を目指せばいい。飛び級を早める理由ができた。

「しました。七夕の宵にセックスを。」

「りの!」

 柴崎会長と白鳥代表は、息を飲んで顔を見合わせた。

 そして、急にその場にしゃがみこむ。

「真辺りの様、我々は、あなた様を還命新皇様の皇后としてお迎えしなければなりません。」

 と言った柴崎会長と白鳥代表は、皇前交手片座姿で私に頭を下げた。

「な、何?」

(皇后?)









「どうだった?初歩行。」

「うん、軋む感覚はあるけど、前よりは断然いい。感覚があるってことが。」

「派手な傷跡になっちゃったわね。」

「女じゃないんだから、気にもならないよ。」

「この辺り?機械が入っているのって。」

「そう。わかんないだろ。500円玉サイズだから。」

「でも、4年起きに電池を交換しなくちゃならないのね。」

「そう、オリンピックみたいだろ。」

「その度に手術・・・。」

「交換手術は、そんなに手間のかかるもんじゃない。」

「でも、痛いでしょう、術後は。」

「そりゃ、切って複合するわけだからな。―――そうやって、毎回さすってくれたらいいさ。」

「え?」

「癒しの効果、絶大。」

「いやらしいっ。」

「痛て。」






「りのちゃん、今日は学校を休んでいますよ。」

「でしょうね。かなりのショックを受けていたから。」と肩を落とす文香さん。

「サマースクールぐらい、行かせてあげたらどうですか?この先、ずっと京宮に監禁するのなら、最後に。」

「言葉悪いわよ。凱斗。」

「どう言い繕っても、そうでしょう、その状況は。」

 文香さんは大きくため息をついて、デスクに肘をついて顔を手で覆った。

 古来、神皇の皇后(古来は神依女と呼ばれていた)となる者は、反物を半年から数か月をかけて機織りをし、着物に仕上げる。そして7月7日(古来は旧暦)の宵、その着物を着て神皇と交接、いわゆるセックスをして神からの授かりを受ける。その営みは新皇を解任するまで毎夜行われる。

「交接の儀は、現代においては、厳格に守られたしきたり、儀式の類ではないにしても、婚儀の後、新皇が生まれるまで皇后が公に姿を現したことが今までにありません。弥神皇生の望みは、りのちゃんの望みとは相反しています。」

「凱斗、還命新皇とお呼びしなさい。りのさんも。」

「弥神皇生は、曖昧になりつつある古来のしきたり儀式を厳格にして、自身の存在を双燕新皇よりも明確にして先を越そうとしている。」

「凱斗、呼称を。」

「あいつは、りのちゃんを始め、麗香達を生徒会という枠で固める事によって、確実に神皇の座を狙っているのです。」

「凱斗!」

「俺は認めません。いくら神皇家の血を引いているとは言え、人を洗脳するような力で、意に叶わない者を排除したような奴が新皇だなんて。」

「あなたの認識なんてどうでもいいの。私達華族は、すべて神皇様のご意向のままにあるだけ。新皇様もしかり。」

 凱斗は、悔しく奥歯をかみしめる。

 昨日、りのちゃんに会って、本当に七夕に弥神皇生とセックスをしたのかどうかを確認した文香さん。りのちゃんは、突然の不躾な質問に驚いていたものの、あっさりと認めた。だが、弥神皇生の正体、そして七夕の日にセックスする事の意味、更に、今後の事を説明すると、りのちゃんは驚愕に硬直してしまったという。そして、弥神皇生が神皇家の継嗣である事を知っていたのかと聞くと、頭を横に振った。

「おそらく、あいつは、あの洗脳する力で、りのちゃんを言うとおりにさせて、セックスをしたんだ。」

「凱斗!」

「それは強姦に等しい!認められる事じゃない!」

「何であっても!認めなければならないの!」文香さんが顔を上げてテーブルを叩く。

 睨み合った束の間、文香さんは息を吐くようにつぶやく。

「新皇の寵愛を受けた者は誰であれ、宮に匿することは決まりごと。そうして我々は神皇家の継続を守って来た。」

「しきたり、儀式、決まり事、くそくらえだっ。」凱斗は文香さんから背を向けた。

「その糞みたいなしきたりを守ってきたからこそ、神皇家は卑弥呼の時代から継続してこの国の平穏を、神威に満たしてくれている。」





「やぁ、悠希ちゃん、いらっしゃい。」

「頼まれてたの、買って来たぞ。」

「おう、サンキュー新田。」

「どうだ?歩行訓練。サッカーできそうか?」

「もう、新田はせっかちなんだから。今日始まったばかりなのよ。」

「だから、聞いてんだろう。」

「慎君ったら、昨日からそればかり気にして、そわそわしてるのよ。」

「医者じゃないんだから、わからないって、もう鬱陶しいったらないわよ。」

「あはは。まぁ・・・しびれたまんまよりは増しって感じかな。サッカーできるかどうかは、リハビリをうんとして、筋力をどれだけつけるかによる。」

「うん、どれぐらいで?」

「わかんねーよっ、まだ始まったばっかだ。」

「全く・・・新田の馬鹿さく裂。」

「待ちきれないのよねぇ、慎君。」

「うん。早く藤木とサッカーやりたい。」

「はいはい。ところで今日は、りのちゃんは?」

「もう、毎日聞くのよね。」

「藤木君、真辺さんのファン第一号だものね。」

「りの、今日、学校休んでいる。」

「体調悪いのか?」

「うん、学校には体調不良と連絡が入ってて、メールしたけど返事が来ないのよね。」

「昨日は元気だったわよね。」

「うん、絶好調だったわよ。」

「大事取ってるんじゃないのか?もうすぐカルフォルニアへ行くから。」

「あぁ、りのちゃん、すごく楽しみにしてるだろう。」

「とってもよ。」

「よかったなぁ、りのちゃんがそうして、好きな事が出来るようになって。」

「大学は海外を目指すってさ、飛躍しすぎてついて行けない。」

「ほんと、すごいわ。真辺さん。あ、でも藤木君は寂しいんじゃない?」

「いいや、かわいい子には旅をさせろって、言うだろう。」

「何か意味が違うくない?」

「いい顔が見られたら、それでいい。」

「全く。」

「あははは。」




 今日もママは、私の食事を作りに来た。学校を休んでいると連絡を受けたママは、午前中には彩都のマンションに来て、食べない私の昼ご飯も作って様子を伺う。

 昨日、あの人は来なかった。来たのは真実を告げに来た柴崎会長と華族会代表の白鳥さん。

『我々は、あなた様を還命新皇様の皇后としてお迎えしなければなりません。』

 皇前交手片座姿をする光景が、頭に貼りついて消えない。

 あの人が神皇家の還命新皇だった。

 知らない、知らなかった。

 本当に?

 本当に・・・恐ろしく引き寄せられる存在。

 恐怖を越して、魂が惹かれあう。

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

 初めて出会った時から、

 そうなる事は予感した。

 そう、本当は知っていたの、

 普通の人ではない、事を。

 でも、新皇だなんて、知らない。

 私が皇后?

 知らないわ。





「ねぇ、これからりのの家に様子見に行かない?」

「これから?」

「そう、一人暮らしだから心配でしょう。ちゃんとご飯食べてるか。」

「さつきおばさんが毎日来てるんだぜ。心配ないよ。」

「私、行くって担任の先生から手紙預かってきちゃったの。」

「慎君、行ってあげたら?」

「岡本さんは?」

「私は遠慮するわ、真辺さんにお大事にって伝えて。」

「わかったわ。じゃ、また明日ね。」

「うん。また明日。」

「あっ、ちょうどお抱えタクシーが居るわ。早く新田!」

「ええ、あぁ。」





「どうするのです?京宮に監禁となれぱ、学校は退学ですか?どんな理由をつけて有能な特待生を辞めさせるのです?」

「学園なんて、どうとでもできるわ。退学させなくても、海外提携学校へ留学という名目にすればいい。」

 凱斗はわざと大きくため息をはいた。

「嫌味な名目ですね。りのちゃんが知ったら激怒しますよ。」

「この際に置いて、もうりのさんの気持ちなど汲んでいられないわ。」

「人道に劣りますね。」

「人を越えた存在、神の子が国の皇であるから神皇なのよ。」

 文香さんの講義が始まる

「我々日本国の民は、神皇無しでは生きて来られなかった。世界的に見て脅威に自然災害の多い地で、民が生きながらえてここまで経済発展してきたのは、神皇の祈り、多々なる儀式があるほかにならない。卑弥呼の時代から約千七百年余り継続している神皇の存在は、この国の歴史そのもの。」






 呼び出し音がなる。モニターが黒いままなので、玄関前で誰かが来ている。エントランスの施錠は、マンションの住人が出入りするタイミングで自由に出入り可能。セキュリティの完璧さは全くない。

 私の為に作ってくれている夕飯の作業を止めて、ママが玄関へと向かう。

 扉を開けずに「どなたですか」と声をかけるも、返事がない。

 ママが解錠をして、そっとドアを押し開けた。

「あなた・・・」驚いた声を上げたまま、しばらく身動きしない。

「ママ?」

 ママは何かブツブツと独り言を言ってから、外に出て行った。

 開けられたままのドアから、あの人がするりと入ってくる。

「ママに、何したのっ。」

 問いには答えず、キオウは微笑み、靴も脱がずに部屋内に入ってくる。

「我にふさわしい皇后よ。」

「知らない、私は皇后なんてっ。」

「知識は無用、その身を捧げるだけでよい。」

「嫌よ、身だけが欲しいのなら、他の人を当たれば良いのよ!」

 棄皇は笑い続ける。

 もう恐ろしくない。

 私達は呼吸が合わさったから。

「他の者では意味がない事を、知っているであろう。」

「えぇ、知っている。だから、意味なんて、私にはどうでもいい。」

「意思も無用、我らが異性で生まれた神意が、ここにあるだけだ。」

 そう言って、私の胸元の痣を指さす。

 呼吸が合い。

 死滅再生を繰り返す細胞のリズム

 私達は同じリズムを刻む

 惹かれあう魂。

 求めあう体。

 唇が触れる間際、

 拒んで押した。

「神意に背くわ、私は私。」

「出来ぬ事だ。お前の魂は我の魂。半分だ。」

 迫り来るのを後退して逃げるも、キッチンに突き当たる。

 調理途中のまな板の上に、包丁もそのまま置いてあった。

 包丁を手に取る。

 ついこの間、砥ぎ屋さんが近所のスーパーに来ていたから研いでもらったと言っていた。

 よく切れる。から注意しなさいよってママが言うものの、一人暮らしをし始めて、包丁を握った事がない。

 今が初めて。

 向けた包丁を見て、また笑うキオウ。

「神器としては、質素だな。」

「飾りじゃない、よく切れるわ。」

「知らぬか?神の子は中々死なぬ。」

「もっと、早くこうするべきだった。」

「だから神の名がつく。」

「もう、うんざりっ、縛られるぐらいなら、」

「だから解放を目指して、我々は、」

「死んで・・・。」

「生まれた・・・。」







「さつきおばさん!」

「今から、お家にお伺いしようと、どうですか、りのの具合は?」

「あっと、閉まる。自動扉の前に立っておかないと・・・」

「おば様?」

「買い物・・・行かなくちゃ・・・」

「夕飯の買い出しですか?」

「おばさん、上のカギ開いてる?勝手に入るよ。」

「買い物・・・行かなくちゃ・・・」と小走りでマンションから離れていく。

「どうしたのかしら、様子が変じゃなかった?」

「喧嘩でもしたんじゃないか?自立したいって言いながら、りのは何もしないし、さつきおばさんも毎日くるから、来なくていい、なんて言いあって。」

「ありそうね。」

「行こうぜ。」







「こうして、私達の魂は別れた。」

 引き寄せられ、

 惹かれあい

 合わさり

 縛られる事を。

 抗えない

 事を予感していた。

「やめろ、りの。」

 怒り見据えられ、その眼が蛇の眼のように赤くなる。

 しかし、それも無に。

「何故、効かぬ。」

「絶頂の先に無を知ったから。」

「無・・・」

 合わさる呼吸、身体

 快感、絶頂、

 その先に見たものは・・・

 その先に触れたものは・・・

 その先に得たものは・・・

 ―――――無

「神意は無慈悲に単純。」

 そう、確かに知った。

 『無』は神意の総意。

 無から命は産まれ、命は無へと還る。

「やめよ・・・りの!」

 強く抱きしめキスをする。

 しびれるように

 苦しく、心地いい。

 抗いたくて、浸りたい。

 官能。

 感応。

 神呪。

 神呪。

「還すわ。あなたに魂を・・・。」






 新田が呼び鈴を押した。

 中から声はしない。けれど新田は遠慮なくドアノブに手をかける。

 開いていた。

「不用心だなぁ、おばさん。」

「あんた勝手に入るよって言ったじゃない。」

 新田が開けてくれた隙間から覗いて、麗香は「りのー」と声をかける。

 と、何かが倒れるような大きな音と振動がした。

 顔を見あわせ、新田は扉を大きく開け、靴を後ろに蹴り上げんばかりに脱いで、中へと入っていく。

 麗華も急ぎ靴を脱いで上がった。

 リビングで立ち止まっている新田の足元に、常備野菜や、スーパーの袋などをストックした木製のワゴンが倒れ、その向こうにりのが横向きに倒れている。

 その光景を見て、麗香は息を飲んだ。

「や、弥神・・・お前っ!」

 弥神君は、血まみれた手から包丁を落とした。

 カランと床に落ちた包丁も、血にまみれている。

 麗香は震える。

「りのに、何したっ!」叫び向かっていく新田に、弥神君は青ざめて後退りし、当たったダイニングの椅子に落ちるように座った。

「し・・・ん、い、ち。」苦しそうなりのの声に、新田はしゃがみ込む。

「りのっ」

 新田に抱えられて仰向けにされたりのの胸は、白い夏服のブラウスが、血でべっとりと重そうに染まっている。

「い、いいの・・・。」

「りの、しゃべるなっ、いま救急車を。柴崎っ救急車!」

 麗香はカバンから慌てて携帯を取り出すも、震えた手は言う事を利かない。

 119の番号を押して通話ボタンを押したつもりが、どうしてか、凱兄さんに繋がってしまった。






 文香さんの携帯が鳴る。最近ではここ翔柴会の事務所(柴崎家屋敷の一室)の電話にかかってくる事が少なくなった。 皆、文香さんの携帯番号に直接かけて来るからだ。

 難題を抱えて気怠そうにしながらも、優雅に携帯電話を手に取り応答する文香さん。

「はい。白鳥様、昨日はお疲れ様でございました・・・えっ?いいえ、聞いておりませんし、こちらに連絡は・・・はいっ、すぐに問い合わせて折り返しお電話差し上げます。」急に険しく、姿勢を正した文香さん。

「どうしました?」

「還命新皇様がどこかへ行かれてしまったと。学校か寮に戻られたのではないかと。」

 答えながら、携帯ではなく設置電話の短縮ボタンを操作する文香さん。

「翔柴会の柴崎です。お疲れ様です。えっと、昨日から柴崎家で預かっている弥神皇生君ですが、そちらに戻っておりますでしょうか?・・・・戻ってない。」

 凱斗は先回りして学園へ電話する。事務方の生徒のID情報管理などを担っている上田さんに、変わってもらうよう頼む。

「いえ、今日もこちらでお預かり致しますが、彼が勘違いでそちらに帰ってしまっているかもと危惧した物ですから。・・・ええ、そうしてください。私の携帯電話に直接。はい、お願いします。」

「柴崎凱斗です。」

「柴崎理事長補佐、お疲れ様です。」

「上田さん、ちょっと端末を叩いて調べてもらえます?2年C組弥神皇生、今日の登校退出の時間を。」

「お待ちください。―――C組の弥神皇生ですね。今日は登校して来ていません、記録がありませんよ。」

「わかりました。ありがとう。」

 どうしたのかと聞かれる前にあっさりと電話を切った。こういうのは余計な事を言わずに切ってしまう方が先入観を持たれず済む。

「学園にも・・・。」凱斗は首を振って伝えた。文香さんは立ち上がり、携帯電話を操作する。

「白鳥様、柴崎文香です。還命新皇様は、寮にも学園にもお越しになった記録はございません。もしかしたら、真辺さんの所かもしれません。ええ、今から見に伺います。・・・はい、ではまたご連絡差し上げます。」と文香さんはカバンを手にして仕草で凱斗に行動を促す。と、そこで凱斗自身の携帯が鳴る。表示を見ると麗香からだった。

「はい。麗香、何だ?」文香さんにわかるように、わざと麗香の名を声にした。

「えっ、あっ、凱兄さん・・・」声の様子がいつもと違う。

「どうした?」

「ど、どうして、わ、私、救急車を呼ばなくちゃいけないのに。」

「えっ?落ち着け麗香、救急車ってどういう事だ。」救急車の単語に反応した文香さんが、険しい顔で覗き込んでくる。

部屋から出て、歩きながら聞くも、麗香はとてつもなく動揺して言葉にならない。

「りのが・・・りのが。」

「今、どこに居る?」

「りのの家、前の、どうしよう。どうしたらいいのっ」麗香は泣き叫んだ。

「麗香、ちゃんと説明して、りのちゃんがどうした?」文香さんと共に玄関ロビーで立ち止まった。

「りのが・・・刺された。」

「誰にっ!」

「弥神君に・・・。」

「りのちゃんが刺された・・弥神皇生に・・」復唱した凱斗に、目をむいて驚く文香さん。

 携帯電話の向こうから、新田君の叫びが聞こえる。

「柴崎っ救急車まだかっ」

「麗香、救急車は俺が呼んでおく、すぐに行くから。」

「今、呼んでくれるって」と麗香が新田君に涙声で答えているのを聞きながら、文香さんに救急車の手配を頼み、通話の音声を文香さにも聞こえるようにボタンを押す。

「りのちゃんは、どんな状態?」

「りの、胸から血を流して・・・」

「意識は?」

「しゃべらなくなった・・・」

 凱斗は心の中で舌打ちする。文香さんが救急要請に状況を説明する。

「今、救急車が向かっているからな。りのちゃんの胸にタオルでも何でもいいから当てて、強く押して止血しろ。」

「うん、新田がやってる。」

 玄関に設置されたキーボックスから、文香さんの車ベンツのキーと門の自動開閉リモコンを掴み取り、駆けだした。

 麗香の嗚咽が生々しい。

「麗香、弥神は今どうしてる?」

「や、弥神君?」

「そう、弥神皇生は、何か、まだナイフを持ってたりするのか?」

「ううん、ナイフじゃない、包丁。もう持ってない。床に落ちてるの。弥神君は椅子に座っていて。」

運転席に乗り込み、助手席に乗りこんで来た文香さんへ、繋げたままの携帯電話を渡した。

「麗香っしっかりしなさい。直ぐ行くから。」







「・・もぅ・・・いぃ・の・・」握った手が冷たい。みるみる唇が青くなっていく。

 いつかの、ペンキで汚した花嫁衣裳の時よりも、その赤さは色濃く、手の感触はサラリとしていた。

 恐怖よりも、怒りの方が勝る。

 視界の端にその凶器が照明に反射して光っていた。

(許さない。りのをこんな目に合わせた・・・)

「弥神っ。」

 包丁に伸ばした手の袖を、りのが掴んだ。

「だっ・・めっ・・・」息も絶え絶えに、りのは這うように慎一の腕にすがる。

「りのっ」

「お、ねがい・・・ゆ、めを・・けさ・な・いで・・・」

 こんな状態で、夢なんてあるものか、もう後悔なんてしたくない。誰かが傷ついている時に、自分だけが優雅に夢を追いかけるなんて。

「何故だ・・・」弥神は自分の手を見つめて、何かをつぶやいた。

「弥神っ!俺は許さないからなっ。」慎一は、左手を伸ばして弥神の胸倉をつかんだ。それでも弥神は驚愕の表情を変えずにつぶやき続けている。

「無は・・無慈悲に・・・単・・純」

「柴崎っ救急車まだかっ」

 柴崎は、スマホを耳にしながら、泣いている。

「今、呼んでくれる。って」今一つ噛み合わない返事をした柴崎。

 流石の柴崎でも、こんな時は駄目かと、慎一は冷静に分析をしている。

 恐怖を超えた怒りは、冷静をもたらす。流し台に掛けられたタオルをひっつかみ、りのの胸にあてる。

「りの、しっかりしろっ。」

「ひゅっ」と変に息の詰まった声を出したりのは、その虚ろな目をして、震える口を開ける。

「しゃべるな。今すぐ救急車くるから。」

 それでもりのは何かを言おうとする。りのの頭を抱えて自分の膝に乗せた。

「お願いだから、何も言わずに、じっとして。」顔をうずめた。

 耳にりのの吐息とかすれた声。

「・・わ・すれ・・ないで・・パパの・ことば。」

(どうして、こんな事に・・・)

「嫌だーーーーーっ。りのっ」





 凱斗達が、真辺家のマンションに着くのと、救急車の到着はほぼ同時だった。見上げると救急隊がちょうど廊下を走って三つ目の玄関前で立ち止まっていた。凱斗はエレベーターを待たず、脇にある階段を駆けあがった。

 真辺家の玄関を開けると、麗香がリビングの端で口に手を当てて泣いている。凱斗の到着を視認すると、崩れるようにその場に座りこんた。

 麗香を励ます為に頭を撫でてから、左手キッチンの救急隊員が集まっている所へ向かう。新田君が、救急隊に場所を開け、青い顔を険しくりのちゃんを心配している。凱斗が新田君の肩に手を置くと、はじめて凱斗の存在に気が付いた様子を見せたが、すぐにりのちゃんへと顔を戻す。救急隊員は、りのちゃんの胸の止血をし、搬送の準備をてきぱきと行う。  凱斗は見守りながら、情報を伝えた。

「彼女は彩都市の医科大の村西副医院長の娘さんです。名前は真辺りの16歳、血液型AB、カルテがあります、3年前に頭部裂傷の緊急搬送、外科処置、および数年間にわたり精神科の通院歴あり、薬物によるアレルギーはなし。」詳細に伝えたことで驚かれるも、第一に医科大病院に受け入れ要請をしようと思っていたらしい救急隊員は、凱斗の情報をそのまま医科大へと伝え受け入れ要請をし、すぐさま許可された。ぐったりと意識のないりのちゃん、まだ命がある事に、凱斗は少しだけ安堵し、マンションから運び出されるのを見送る。

 弥神皇生は、椅子に項垂れ座っていた。りのちゃんが外へ運ばれて行っても、床に落ちた血のついた包丁をずっと見続けている。麗香は、新田君と共に救急車に乗り込んで行ったようだ。しばらくして、文香さんだけが部屋に戻ってくる。

 凱斗は言葉もかけずにただ、憎らしく弥神皇生を睨みつけて、そんな凱斗を除けるように文香さんは、血で汚れた床を踏まない様に、弥神皇生の前に片座でしゃがみこむ。

「還命新皇様、部屋を出ましょう。」

 自分にはできない。そんな優しい声かけなど。叫んで、殴り飛ばしたい衝動が沸いてくるのを必死で抑えた。

「・・・我は・・・」と言って、血まみれた手の平を広げる。

「怪我はございませんか?」文香さんはポケットから出したハンカチで、弥神の手を拭く。

 直ぐにハンカチは真っ赤に染まって、文香さんはキッチンで洗い、もう一度弥神の手を丁寧にふき取る。

「凱斗、綺麗なタオルを探して持ってきて。」

「嫌です。こんな奴の為に。」

「凱斗っ。」振り向いて睨まれる。

「人を刺した新皇など、今までに居ましたか?」

「やめなさいっ凱斗!」

「こいつは、神皇家千七百年の歴史の神聖を犯した異端だっ。」

 凱斗の言葉に反応して顔をあげた弥神皇生。

「あぁ、そうだ。我は千七百年来の存在。聖と邪の力を併せ持つ唯一無二の、異存の皇だ。」

 弥神皇生は意気揚揚と立ち上がったが、途端に、ふらついて、文香さんに覆いかぶさるように倒れ込む。

「新皇様っ」

「くっ・・どうしてだ。」

「人の血に汚れて体調を崩すのです。部屋を出ましょう。凱斗、手伝って、新皇様を外へ、屋敷に来ていただきましょう。」

 反する凱斗に、文香さんが怒る。仕方なく、凱斗は弥神皇生に肩を貸す。力なくしがみついた弥神皇生は女の子のように軽い。色が白く鼻筋の通った横顔は、どことなくりのちゃんに似ている。

「きもい、ロリコン理事。」と減らず口をしながら、肩で息をするほどに、弥神皇生は本当に具合が悪そうだった。

 弥神皇生を、自分たちが乗って来たベンツの後部座席に乗せて、凱斗は見送る。そして、凱斗は真辺家の部屋に戻った。血のふき取りと凶器の処分をする為だ。

 弥神皇生のやった事は許せないが、事は絶対に公にはできない。文香さんが機転を利かして、救急車の要請時に到着時にはサイレンを消すよう頼んでいたので、マンションの他の住民、近隣の野次馬が居なかったのが幸いだ。

 搬送先の病院が警察に通報するおそれは、被害者がりのちゃんだった事で回避される。義父である村西副医院長は何もかも含み得てくれるはずだが、りのちゃんが助かなければどうなるかわからない。

 凱斗は床の血をふき取りながら、首を横に振った。

「大丈夫だ。りのちゃんは助かる。」わざと声に出して言う。

 りのちゃんは、いつだって、危機を乗り越えて来た。今回もまた、りのちゃんは、元気に戻ってくる。

 そう心の中で、祈りのような誓いをたてたところで、玄関が開いた。

 りのちゃんのお母さん、村西さつきさんが、何か言いながら入ってくる。

(あぁ、告知しなくちゃいけないのか・・・)

 凱斗を視認して、当然に驚くりのちゃんのお母さん。

「凱斗さん、どうしたのです?」

 凱斗は血まみれのタオルをゴミ袋に入れてから、体の後ろに隠した。

「りのさんが、救急搬送されました。」

「えっ?」

「搬送先の病院へ、ご一緒致します。」

 至極事務的に言った為か、りのちゃんのお母さんは、キョトンとして首を傾けた。







 入院患者の早い夕食が運ばれてくる頃に、村西先生はいつも亮の病室を訪れて、術後の経過観察及び精神的ケアを医師らしくしてくれていたが、リハビリも順調に進んでいる最近では、世間話ももっぱら、村西先生ののろけ話を聞くのが日課となっていた。今日も2か月になる大輝くんの成長から始まって、りのちゃんの話になる。

「藤木君、どこかいい店、知らない?」

「いい店ですか?」

「そう、りのともっと楽しく食事が出来る場所、毎回、帝国領華ホテルのレストランもねぇ。」

「りのちゃんが、違うところが良いと言ったんですか?」

「いいや、りのはどこでもって、気のない返事。もっとあれが食べたい、ここに行きたいって言ってくれたらねぇ。」

 亮は苦笑する。りのちゃんの一人暮らしを許可する条件に、一週間に一度、週末は家族揃って食事をする。のが約束と聞いていた。りのちゃんは面倒くさいと週末が来るのを嫌がっている。

「まぁ、元々りのちゃんは、食事に興味がない子だから。」

「うーん。」

「外食じゃなくて、家でゆっくり過ごすってのはどうですか?」

「そうも言ったんだけどね。りの自身が、ママの負担が大きいと。」

「家政婦さんが居てるのでしょう。」

「その家政婦が居るのも、りのは嫌がるのだよ。」

「大輝君の手がかからなくなるまでは、仕方ないですね。」

「外でだと、やっぱり口数が少なくなるからねぇ。踏み込んだ話ができないし。」

「踏み込むんですか?」

「もちろん、父親だもん。」

「いやいや、それは実の父でもやめた方がいいやつですよ。」

「僕はりのの父親として、16年も損している。少なく見積もっても12年だ。」

「そういう考え方?」

 村西先生は大きくうなづく。

「パパ、お父さんって呼ばれなくても良い。呼称を超えて親密になれたら。」

「なんだが、危ない関係に聞こえます。」

「死んだパパより、先生の方がって言ってくれる日がきっとくる。りのは良い子だから。」と村西先生は陶酔するように胸に手を当てて天を仰いだ時、首にぶら下げていた院内携帯の呼び出しが鳴る。

「はい。精神科村西です。」

 亮は苦笑して思う。りのちゃんに限っては、パパより先生ってなるのは、ないなぁと。

「えっ!すぐ行く!」村西先生の表情と声色が一変した。

「どうしたんです?」

「りのが、緊急搬送されてきた。」

「えっ!」

 村西先生は駆けて部屋から出ていく。車いすで村西先生と話していた亮も、急いで車いすを回転させて部屋を出たが、既に廊下には村西先生の姿はない。

(緊急搬送ってどういうことだ?発作?)

 精神病による発作は、2年前の催眠療法以来起きていない。完全に完治していると言っていいと、村西先生は心配ないと断言していた。

(何があった?)

 亮は、車いすを力強く回して廊下を走り、エレベーターで一階に降りた。

 受付ロビー前を通り、出口側の角を回る。廊下の先に自動扉があって、その先が、救急のエリアである。

 少し広くなったスペースの角を曲がると、救急処置室の前に新田と麗香が立っていた。

 麗香は泣いていた。

「おい、何があった?」

 亮の問いに、新田は処置室の方に向いたまま、拳を握る。

「あいつが、りのを刺した。」

「刺した?」事故や発作ではなく、刺したという耳馴染みのない単語に、聞き返す。

「弥神が、りのを、包丁で刺したんだ!」ともう一度叫ぶように答える新田。

 弥神・・・その存在を認識するだけで、亮の頭は頭痛が始まる。この症状は事故後も無くなってはいない。

麗香に顔を向けると、ポロポロと涙をこぼして、うつむいた。

「どうして?」

「知るもんかっ!許さねぇ、あいつっ」と唇を噛んだ新田の手の平は、乾いた血で汚れていた。

 麗香がストンと床に崩れ座った。もう何も考えられずに、ただ悲痛が心に充満してはち切れそうになっている。

 亮は右足だけで車いすを降り、なんとか麗香のそばにしゃがむ。手術した左足はまだ曲げにくい。

 麗香の腕を取り、なんとか立たせて抱き寄せる。亮の胸に顔をうずめて泣く麗香、こうして自分の時も麗香は心を痛めて心配し、泣いたのだと思うと、辛い。

 右足だけで、自分と麗香の体重を支えるのは無理があるので、麗香を壁際に寄せた長椅子に誘導して座らせた。

「どこで?」の質問に、やっと亮へと顔を向ける新田。

 怒りをぶつけてくる。

「りののマンション。」

「見舞いに行ったの、二人で。」と鼻をすすりながら補足する麗香。

「もっと、早く到着していたら、止められたのに、くそっ。」

「扉を開けたら、ガシャンって倒れる音がして・・・」

「あいつ、血まみれのの包丁を持って立っていたんだ。」

「・・・今、弥神は?」

「凱兄さんとお母様が来てくれたから・・・。」

 そうしてまた、事件は封印される。亮はそう確信して安心した。マスコミに騒がれる事ほど、ろくなことはない。あいつらはかき混ぜるだけ混ぜて、泡立つ物やこぼして汚した後始末をしない。

 新田の心に憎しみと怒りが埋まっていく。弥神へはもちろん、もみ消しを行うであろう学園に対しても。

 今、声をかけるのは逆効果だ。と言っても、どんな言葉も亮は思いつかなかった。

 怒りを憎しみに変えていく新田、茫然と心を弱らせていく麗香と共に、救急処置室から聞こえて来る雑多な音を聞き漏らさないようにして待つこと15分ほどして、りのちゃんのお母さんが凱さんと共に駆け付ける。

「一体、何があったの!」

 りのちゃんのお母さんの後ろで凱さんが、厳しい顔を大きく横に振った。言うなと念押しだ。それを見た新田が怒りを爆発させた。

「りのは、刺されたんですよ。弥神に!」

「刺された!?どういう事!?弥神君ってっ。」りのちゃんのお母さんが凱さんへ問い詰めるように振り返る。凱さんは顔を繕って口を噤む。

「りのの胸を弥神皇生が包丁で刺した。これは殺人だっ。」

「りのっ!」りのちゃんのお母さんは叫びながら、救急処置室へ入っていく。

 中から、スタッフの注意する声と、りのちゃんのお母さんが叫ぶ声が騒然となって聞こえて来る。

 麗香が耳を塞いで震える。

「俺は、弥神を許さない。警察に言いますよ。」と凱さんに睨みつける新田。

「・・・・。」凱さんの心も悲痛に哀しみがこれ以上なく膨らむ。

「もう、黙っている事なんてできない。」

「そうだね。だけど、それをりのちゃんが求めているかな。」

 それは禁断の印籠だ。新田は歯ぎしりをして凱さんに向かった。

「りのが求めなくても、俺が求めるっ。弥神を逮捕してもらう事を。」

「法律とは、人間の社会生活の秩序を維持する為に強制される規範。」凱さんは冷めた口調で語る。

「なんだよっ。」更に凱さんに詰め寄る新田。

「君の求める裁きは、人の行いに対して執行される物だ。」

「あぁそうだよっ、だから弥神は、その法律によって裁かれるべきでっ。」

「この国では、その法律の規範から外れる者がいる。」

「そうやって、また俺たちに黙秘を要求するんですかっ、もううんざりだっ、俺はもう黙ってなんかいない。」

「唯一、神皇家の者は、法の適応外。」

「えっ?」と声に出したのは亮。

「神皇及びその継嗣は、人であって人でならず、神の子として崇められる存在。」

「だから何だよっ、神皇家の事なんか今関係ないだろうっ。」

「弥神皇生は、神皇家の継嗣だ。」

 驚きに亮は言葉を失う。麗香も顔を上げた。

「継嗣って・・」と亮がその先の説明を求めた。

「現神皇の後を継ぐ者の事を、継嗣、または新皇と言う。」

「弥神がどうして・・・次の神皇は双燕新皇で、この間16歳の初謁の儀をした。」亮が問うと麗香が、息を詰まらせた驚きの口に手を当てる。

「同じ・・・双燕新皇様と同じだわ。弥神君、顔が新皇さまと・・・。」

「弥神皇生は、双燕新皇と双子である事が発覚した。」

 神皇家の者の名は、生まれた時の情景を反映する。16年前、新たな神皇継嗣が生まれた時、二羽の燕が京宮御所内を飛んだ事から、双燕と名付けられたと発表されていた。その名の「双」が二羽の燕の事じゃなく。双子で生まれた事を反映しての物だったとしても、辻褄が合う。

「どうして、神皇家の者が、常翔学園に通っているのですか?」亮は立ち上がった。自分は神皇家の子を殴ってしまったのだ。その事実を改めて思い返し、震撼する。

「それは・・・。」凱さんが言いよどんでいると、救急処置室からりのちゃんのお母さんが、村西先生に抱えられて、出で来る。りのちゃんのお母さんは、泣き崩れるように村西先生の胸に顔をうずめて泣く。

「容態は?」と聞いた凱さんに対して、村西先生は、険しい表情で小さく首を横に振る。

「右心の下部に傷が達している。今から符合手術を行う。」

「りの・・・」

「ここに居ると迷惑がかかるので、我々は退去します。」

「俺は残るっ。」と言った新田の腕を取り後ろ手にして拘束した凱さん。

 新田は苦痛に呻き身体を折る。

「処置が終わりましたら、連絡をください。話は後日に。」凱さんは深々と頭を下げて、新田を拘束したまま踵を返す。

「痛い、放せっ・・俺は残っるうっ・・」もがくも、捕虜のように容赦なく強く縛めあげられ、苦痛にうめき声上げる新田。

「麗香も行くよ。」と声をかけられた麗香は、苦しい息を吐きながら立ち上がり、村西夫妻に頭を下げて凱さんの後に続く。

 村西先生が、悲しい表情で亮に相槌をうった。亮は車いすに乗り三人を追いかけた。

 病院の建物を出た裏の駐車場で、新田の拘束は解かれる。

「誰であろうと、俺は許さないからなっ。」

「誰がどう叫ぼうとも、この国のすべては、神皇家からの借り物だ。土地、社会の仕組み、法も制度も。」

「くそくらえだっこんな国っ、りのはずっと嫌がってた。」

「そのりのちゃんは、神皇の承認を得た華選の称号を持つ者。」

「その称号をチラつかせて、りのを黙らせたんだろうっ。」

「そうだ。」凱さんは冷たい表情であっさりと認める。

 新田は睨みを強くして、握った手とかみしめる唇に力を入れる。

「りのちゃんだけじゃなく、病院も、警察も、政界も黙らせる事が出来るのが、神皇家と共にある華族だ。」

「くっ・・・そぉぉぉぉ!」

 新田は空に向かって吠えた。

 その怒りを、天の神まで届けるように。





 許せないのは、新田君以上だ。

 この国の在り方、神皇の存在と共にある華族、それらの助けで生きながらえた自分の存在。

 そして、言い繕う自分が一番許せない。

 弥神皇生は、何故に真辺りのを刺したのか。

 それを問いたくて、屋敷に戻った凱斗は、弥神皇生の休む部屋に行こうとして、止められる。

「今、やっとお休みされた、入る事は許しませんよ。」厳しい表情で凱斗の腕を掴む文香さん。

 仕方なく、文香さんと共に翔柴会会長室に戻った。文香さんがデスクに座るのを待って、凱斗は病院での状況を説明する。

「新田君に、許さないと責められました。誰であろうとも、と。」

「そう・・・でも、また我慢してもらわなくてはならないわね。」

「新田君にこれ以上は・・・、学園を辞めると言いかねませんよ。」

「華族の称号を持っている企業スポンサーから働きかけてもらって、プロサッカーチームからの勧誘を促してもらいましょう。」

「口止めの報酬ってことですか?そんな事、新田君が知ったら。」

「新田君の実力なら、いずれ、どこかから誘いがあるのは間違いない。それが少し早まっただけ。バレはしないわ。」

 そうやって、華族の名の下で何もかも抑えこんでいく事に、平然となりつつある自分が許せない。

「新皇様の為、並びにこの国の為なのよ。」

「・・・。」

 この国の為に生かされた自分は、また、子を助けられない無力を思い知る。

 帳が下りた夕刻、文香さんから連絡を受けた白鳥様が屋敷に駆けつけた。新皇が人を刺した事に対して、今後どうすればいいかを話し合う為、帰宅した信夫理事と共に会議室に籠った。

(今しかない。)

 凱斗は弥神皇生の休む部屋の前に立つ。

 この世に存在するはずのない新皇、16年前に出来なかった事を、今、することに、何の躊躇もいらない。

 音もなくすべり入った二階のツインベッドの客室。

 弥神皇生は起きていて、ベッドに腰掛けていた。

 特務兵として訓練を受けた凱斗の気配を消した侵入に、身動きせずつぶやく。

「無礼であろう。」

「承知でなければ、来ない。」

「それもそうだな。」と笑おうとして、苦しそうに胸を押さえる。

 (何故、こいつが苦しんでいる?刺されたのは、りのちゃんだ。)

 神皇家の者が汚れを嫌うと言う事は、教えられ知っている。しかしそれは周囲の人間が、神皇の神格を強めたいがための、演出的な物だと凱斗は思っていた。だが、こうした演技とは思えない青い顔の姿を見れば、本当だと思えて、凱斗は戸惑う。

「何故、りのちゃんを刺した。」

 ゆっくりと凱斗へ、片目で見据える弥神皇生。

「お前は、何故生きている。」

 その質問は、凱斗にとって胸に十字架を打ち込まれるのと同じ。ドキリと痛む胸に、沢山の哀しみが埋まる。

「答えられないであろう。我も同じだ。」

「同じなわけないっ。」

「何を言っても、言い訳にしか捉えないであろう。お前が今、生きている理由と同じに。」

「ちっ・・・。」

「欲しい言葉を作ってやろうか?」

「そうだな。それを遺言として残してやる。」

 凱斗は弥神皇生の首を掴んだ。洗脳を阻止する対策は考えてある。効き目があるかどうかわからないけれど、痛みは洗脳防止の基本だ。反対の手で尻のポケットから小型のナイフを出し、太ももに向けて降ろした。

 ジーンズに穴をあける寸前で、弥神皇生は、凱斗のナイフを持つ手を掴んだ。

「案ずるな、今、力は使えない。」

 疑問を解消する方が、殺したい気持ちよりも上回る。凱斗は掴んだ首の手を離した。

「その力は、一体何なんだ。神皇もそのような力を持っておられるのか?」

「これは我のみ、道元の目を移植して得た物。」

「移植して、得るような物なのか?」

「他の者の事は知らぬ。我は得た。道元が元より持っていた視知の力を。」

「視知の力?」

「視覚に宿り知る力、卑弥呼が残した力だ。」

「卑弥呼・・・」

「卑弥呼が何故ヒミコと呼ばれたか、知っているか?」

「いや・・。」

 弥神は肩で息をする。

「西暦230年、五感に秘めた力を宿す一族がいた。のちに神巫族と呼ばれ、現代で華族と呼ばれる弥神家や柴崎家たちちの祖先だ。神巫族の者は、五感のうちの一つに秀でた力を持っていた。目、耳、鼻、手、口に、視る力、聴く力、嗅ぐ力、触る力、言う力、それぞれに秀でた秘力で、小国をまとめていた。当時、日本各地で小国の争いが多発する。欲望の争いに世は荒れる。そんな中、五感に秘めた力を持つ神巫族の中に、五感すべてに秘力を宿す者が現れた。その者は、絶大なる秘力で近隣小国を治め、日本全土をまとめた。国土を手に入れたにもかかわらず、欲望は尽きることなく、力に自惚れ、更なる力を求め、神の力を手に入れようとした。その者が卑弥呼だ。

 極めて卑しく天より力を呼び落とした者と名を遺し、卑弥呼と呼ばれるに至った。その卑弥呼の力によって、地に降ろされたのが、我々、神皇家の祖だ。初代の皇は、天の人と呼ばれた天人神皇、その継嗣から神皇家は神の子と崇められ、現代まで続く。」

 そこで、肩で大きく息をした弥神皇生、は話を続ける。

「本来、神の力と卑弥呼由縁の力は交わる事はない。及ぶ力の素質が神の力と卑弥呼由縁の力とでは質も目的もが、天地ほどに違うからだ。神皇が神巫族の者を神依女に選び性交したところで、生まれる継嗣は神の子であって人ならず。だから、現代に至るまで神皇家は途絶えることなく神の力を宿す嗣が生まれてきた。」

「お前は・・・。」

「我は、移植により卑弥呼の力の一つである目に宿る力を得て、神卑、両の力を持った。天地征夷する唯一の存在だ。」

「・・・の割には、弱弱しいな。」

 弥神皇生は、目だけは強くこちらに向けたが、身体は今にも倒れそうなほどに辛そうだった。

「力が使えないのなら好都合、16年前に捨司の役目を放棄した弥神道元の代わりを、俺がしてやる。」

 再び、凱斗は弥神皇生の首へと手を伸ばす。絞めるだけなら細い首は片手で十分だったが、せめてもの慈悲に、両手を使い絞め折る方法を選択する。

 弥神皇生は逃げもせず、凱斗を見上げたまま身動ぎしない。

 そして微笑んだ。

「りの、捧げよう我の魂を、そして、無に返そう神意を。」

(な、何・・・)

 その微笑みに、凱斗は言い表せない圧を感じ・・・いや、圧と言うよりそれは神々しさだ。

 それもまた、違うと自分に言い聞かせる。神皇と卑弥呼の話を聞いたから、影響をうけているだけだ。目の前の子は、  許されない罪を犯した若者と思いたかった。だが、凱斗は、手に力を入れる事が出来ない。弥神皇生の微笑と自分の躊躇いに戸惑っていると、急に部屋の外が騒がしくなった。完全に殺意を失った凱斗は、舌打ちをして部屋の外へ様子を見に行く。廊下の端、吹き抜けの手すりに身を乗り出して階下見下ろした。

「どういうことだ、誰が鷹取様に知らせたのだ。」

「わかりません。でも、ここにお越しになったと言う事は、事を知って。」

 白鳥様と文香さんと信夫理事が慌てた様子で屋敷の玄関フロアに出てきて、扉を開け放つ。

 凱斗は、鷹取という名を聞いて、文香さん達が慌てる意味を理解する。

 鷹取家は、神皇付きの華族。華族会の12頭家の中の一つであるが、神皇家の世話役として一番神皇に近しい一族であることから、華族会の中でも一線を引いた存在だ。今回の還命新皇が生きていた事は、まだ鷹取家には知らせていない。  その対処を議論している最中に、りのちゃんが刺される事が起きた。

「何?こんな時間に、お客様?」麗香が泣き疲れた表情で部屋から出て来て、凱斗と同じように手すりに手をかけ覗き込む。

 外に出て行った文香さん達が、開け放した扉から後退りして戻ってくる。そして、上り間口で何故か皇前交手片座姿をした。

「せずとも良い、夜更けに忍ぶ迷惑をかけているのは我だ。」と現れたのは驚くことに双燕新皇だった。

「えっ!どうしてっ。」と驚きの声を上げる麗香。

 双燕新皇は辺りを見渡した後、見上げて凱斗達を視認すると「あちらか。」と言って階段を上って来る。

「麗香、凱斗、座姿をっ」文香さんの悲鳴に近い咎めに、麗香と供に慌てて、その場にしゃがみ皇前交手片座姿をする。

 黒のゆったりした衣服を着た双燕新皇は、二階に上がってくると、凱斗の前で足を止めた。

「居るであろう。もう一人の我が。案内せよ。」

「はい。こちらへ。」

 凱斗は顔を上げられずに、俯いたまま立ち上がった。今しがた、凱斗は全く同じ顔の新皇を殺そうとしていた。非を咎められた思いで、弥神皇生の休む部屋へと足を運ぶ。

 屋敷二階の左側の中ほどの部屋で、今度は無礼を働かず、ノックして扉を開けた。

 変わらずベッドに腰掛けている弥神皇生は、こちらに顔を向けた。

 対面する二人の継嗣。

 全く同じ顔、違うのは髪型と衣服だけ。

 白の部屋着を着た還命新皇と黒の衣服を着た双燕新皇。

 無言のまま二人は見つめ合って、何も話さない。

「同じ・・・」と驚きの声を上げたのは、双燕新皇に付いて来た凱斗の知らない女性。年は凱斗より少し上ぐらいと見積もって鷹取当主の娘かもしれないと予測する。

「鷹取千尋様、どうして双燕新皇様をこちらにお連れに。」と白鳥様が問いたのを、双燕新皇が振り返って答える。

「我が無理を言って宮を出て来た。」双燕新皇は、また弥神皇生に向き直る。「ずっと、感じてはいた。薄く微かな陽炎のような気配、対なる存在を確信したのは、5日前の宵。」

 5日前とは七夕の日だ。りのちゃんと弥神皇生が性交した日。

「その頃から、双燕新皇様は外に出たいと申されて、御止めしていましたのですが、今日は聞き入れてもらえず。」

「強くなっていた対なる存在が、夕刻突然、消えそうに弱くなった。何故だ?」そう言って双燕新皇は弥神皇生へと近づく。

 拒むように弥神皇生は双燕新皇を睨みつける。

「理由など必要あるまい。我が死ねば、お前は神皇たる力が完全になるのだ。」

「神皇たる力・・・」

「神の子神皇は、民の祈心を受け、厄災を沈める祈祷を大地に送る。それら民と神皇の祈りの力を受け送る力を持って、神皇として崇められる。神皇家に生まれる双子は、その送受の力が別れる。ゆえに捨て殺さなければならない。」

「あなた様は・・・」と鷹取千尋のつぶやきに、弥神皇生は大きくため息をついて疲れたように顔を背けた。

「還命新皇様です。16年前、弥神道元が、捨司の役目を完結できずに、お育ちになられました双燕新皇様の双子の新皇様です。」

「還命、よくぞ生きて・・・」と双燕新皇は両腕を広げて歓迎するようにする。

「戯言をっ、我の存在に気付いたのなら、死を望んで当然。分かれた神の力は、どちらかの死をもって移行し合わさる。」

「やっと会えた兄弟の死など望まぬ。」

「やめよっ」弥神は立ち上がって、ハグをしたいように広げた双燕新皇の手を振り払うも、力なくその場に倒れ込む

「還命新皇様っ。」

「皆、望む所であろう。我は存在してはならない過ちの嗣だ。」

「・・・。」誰もが黙り込み動きを止めた。

「過ちは、お主の存在ではない。」そう言って、弥神の手を掴み握る。「死なせはせぬ。」振り返る双燕新皇。「そなた、麗香さんと申したか。」

「は、はい。」麗香が驚いて姿勢を正す。

「こちらへ。」

 麗香は戸惑いながら歩み、二人の新皇のそばに行き皇前交手片座姿でしゃがむ。

「そなたには触の力がある。」

「触の力・・ですか?」

「そう、神巫族が五感に宿した力の内の一つ、触の力は、病を治癒する癒しの力。この手を握ってもらえるか。」と還命新皇の手を麗香へと移そうとした。

「やめよっ。」と拒んだ弥神皇生の額に指二本を当てる。護身術の技の一つで、それだけで身動きが取れなくなる。

「今日、何があったか申せ。」

 文香さん達は顔を見合わせた。白鳥様が口を開く。

「還命新皇様は、神依女に選ばれた者を刃物で刺し、その者の血の汚れにより弱られております。」

「汚れ?」と首を傾げ弥神皇生の顔を窺う。

 弥神皇生は、もがきながら視線だけは横を向いて外す。

「その神巫女はどこの者だ?」

「双燕新皇様も一度とお目通しされています。昨年華選に上籍しました真辺りのでございます。」と文香さん。

「あぁ、あの者・・・なるほど。」

「その、真辺りのさんの所へ、参ろう。」

「双燕新皇様、もう宮へ帰りましょう。」と鷹取女史。

「還命のこれは、汚れによるものではない。あの者は還命と共魂する者。真辺りのを良くせねば、還命は良くならず。であろう。」とまた弥神皇生に顔を向ける。

「余計な事を・・・。」と睨みながら体を起こした。

「真辺りのは、今、病院か?」

「は、はい。」

「夜更けに申し訳ないが、麗香さんも来てもらえるか?そなたの触の力が必要である。」

「はい。」

「絶好の機会を失せるのか?」

「車の用意をせよ。」と弥神皇生の問いかけを無視して指示を出す双燕新皇。

 文香さん達が急いで部屋を出ていく。

「我は、卑弥呼の力をも得た、送の力でもってしてお前の死を求めるかもしれぬぞ。」

「かまわぬ。」即答した双燕新皇は、改めて弥神皇生の前に立ち見下ろす。「それが神意ならば受け入れよう。」

 白と黒の衣装を纏った同じ顔をした二人の新皇。

 凱斗はその光景を見て、

(あぁ、だから、過誤に生まれた神皇家の子は、捨て殺さなければならないのか)と納得した。

 継嗣の問題が始まる。






 さつきは、一年前まで働いていた場所だった所に入れないもどかしさに、イライラを募らせていた。

(私なら、死なせはしない。いや、私だから、死なせてしまうかもしれない。)

 そんな葛藤を胸に、どうしてりのが刺されることになったのか、思い返してもわからなかった。いつものように夕刻になる前、元の家を訪れ、部屋の片づけや洗濯をして食事を作りにかかった。落ち込むりのに、どう声をかけていいかわからなかった。たかが、セックスと言ってしまうには横暴だけれど、でも今どきは珍しくもない。校則違反であったとしても、カルフォルニア大学のサマースクールを中止にするほどの事ではないはずだった。相手が悪かったとしか言いようがない。りのが、今お付き合いしている子が、神皇家の新皇だったなんて。

 りのが痴漢に遭った時、家まで送ってくれたあの子、とても礼儀正しく好印象だった。

(あぁ確かに品格がある。しかし、どうして、新皇の子がりのを刺したのか?何故その時、私は外に出かけていたのだろう。)

 さつきは、気付けば駅前のスーパーの前に居た。救急車のサイレンで目が覚めたように気づいた。財布を持っていない。そして何も買う物などない。食材はマンションに来る前に買って来てある。今日は、具材たっぷりのオムレツを作るつもりだった。りのが好きなメニューだった。

「りの・・・」

「大丈夫、大丈夫さ。」と言って肩を強く引き寄せる村西。

 何度もそれを繰り返して、入れない処置室の扉が開くのを待つ。

 開いて出てくるのは看護師ばかりで、次々と運ばれてくる救急患者の迎えをしている。

 今、りのの符合手術をしてくれているのは、広田先生だ。救命のトップで腕は確かだ。だからこそ、その広田先生が、その扉から出て来て、「これ以上は無理です」と言うのが怖い。広田先生が言えば、本当にそれまでだと言う事を、さつきは知っているから。

 村西が身体をよじって、壁の時計を確認する。三時間が経とうとしていた。

 自動扉が開く。広田先生がマスクを取りながら歩んでくる。

「遅くなって申し訳ありません。」

 頭を下げた広田先生は、険しい表情で口を開く。耳を覆いたくなるのをこらえ、さつきは村西の腕に縋りつく。

「りのは・・・。」

「はい、刺創による右心下部の符合は終えました。ただ血圧が戻らずSI値が高いまま。」と言って首を振った。

「そんな・・・。」さつきは、尊敬していた広田先生を食い入るように見る。

(でも大丈夫です。手はあります)と言ってくれる。それが無いことを十分に解っているさつきでも、それでもその先の言葉を期待した。

 広田先生は、そんなさつきの視線から逃れるように顔を背け、つぶやく。

「今夜中に下がらなければ・・・。」

「りのっ。」

 さつきは扉へと駆けた。自動扉の開くスピードが遅く、ねじ込むよう体を入れる。

 防護服を着なければならないは百も承知、だけど着ている時間が惜しい。少しぐらい大丈夫だ。

「駄目ですよ。防護服を。」元後輩の佐藤さんに咎められるのを無視して、りのへと駆け付けた。

 人工呼吸をつけたりの、機器の数値を確認して、広田先生の言葉がまぎれもない事実であることに、胸が締め付けられる。

「りの・・・ダメよ。生きるのよ、生きて、カルフォルニアに行くのでしょう。サマースクール、楽しみにしてたじゃない。」

 りのの頬に触れる。冷たい。血の気がなく青白い顔色のりの。幾度となく、こうした患者を救えなくて看取ったさつき。それが我が子に対してすることになろうとは。

「りの・・・」

 人の声で処置室が騒がしくなったのを背中で聞く。

「何です、あなたたちは。」さつきの後ろで作業をしていた佐藤さんが叫ぶ。

「いいのです。私が許可しました。佐藤さん、申し訳ないが、我々だけにしてもらえるかな。」村西の声に振り返ると、弥神君と同じ顔の子がもう一人。

「どうして・・・」涙で潤んで二重に見えているのかと、さつきは手で涙をぬぐった。目を見開いても、二人の弥神君がいる。

「双燕新皇様が、りのを助けて下さると。」

「な、何?」

「母君、申し訳ない、急がねばならぬ。」

 茫然とするさつきを、村西が腕を引っ張り引き寄せる。

「麗香さん、こちらへ。」

 と促されて一緒に来ていた柴崎さんが、りのの側に立つ。双燕新皇がりのの身体にかけていた毛布をめくった。

「何するのっ!」

「さつき、大丈夫。」と村西がさつきの動きを抑える。

「傷に手を置いて。」双燕新皇の言う通りに柴崎さんが、手術を終えた胸のガーゼにそっと両手を置く。

 双燕新皇がベッドを回り込んで反対側に立ち、りのの手を握った。

「還命も、りのさんの手を握り、祈りを。」

 弥神君は、ベッドに近寄ろうとして、ふらついて。側にいた柴崎会長に支えられる。よく見れば顔色が、りのと同じように青白い。

「還命、手を。」と言って弥神君の手を引き寄せるように、握る。

同じ顔の新皇二人に、手を繋がれるりの。

「祈ろう。真辺りのさんの治癒を。」

 何をするかと思いきや、りのを取り囲んだ三人は、目を瞑って本当に祈るだけ。

「こんな事して・・、何になるの。」

「お静かに。」と柴崎会長が、さつきを咎める。

「冗談はやめて・・・」

「村西様、どうかしばらくご辛抱を。」

「あなたが、りのを傷つけたのでしょうっ。」

「村西様どうか・・・」と柴崎会長が遮るようにさつきの前に出で、頭を下げる。

「祈ろうって、何?謝罪のつもり?」

「還命、集中を。」

「村西先生、奥様を外へ。」

「嫌よ。」

「さつき、出よう。」

 村西の抑えから逃れようとして、身をよじったら、機器の数値が変化しているのが見えた。

「えっ?」さつきの視線を追った村西も気付く。

「数値が・・・。」

「りの、大丈夫。私がついている。治るわ。」麗香さんが呪文のようにその言葉を繰り返す。

「うそ・・・。」

 りのの胸が大きくうねった。呼吸器の中で口が開き、息で曇る。こもった息がして、りのの瞼がゆっくりと開いた。

「りのっ。」

「どうであるかな。」と双燕新皇が村西に問う。機器の数値を確認して、りのの首筋に手を当てる。

「信じられませんが、もう心配のない値です。」

「良かった。」と微笑む双燕新皇。

 りのが咳込み、再び目を瞑った。それでも数値は下がらず。本当に心配はない。

「では、我らは退去いたそう。麗香さんは、時間の許す限り癒しを施してあげよ。」

「はい。」

 処置室を出ていく双燕新皇に次いで、弥神君がさつきの前で無言に頭を下げた。顔色が戻っていて、立ち去る足取りもさっきよりしっかりしていた。

「お話は明日に。ご連絡致します。」そう言って柴崎会長も立ち去る。

「一体、何が起きたの?」

 残った柴崎さんに問うたが、柴崎さんは困った表情で微笑み、りのに視線を向けた。

「りのを助けて下さったのは、確かです。」












「今更、生きておりましたなど、申し上げられるわけなかろう。」

「では、どうされる。還命新皇様をこのまま常翔学園の寮に住まわせるわけにもいかない。」

「還命新皇様は、お決めになられた皇后と京宮での静かな生活を望まれています。」

「だとしても、双燕新皇様の皇后も、後に住まわれる場所。その時はどうする。」

「京宮内に別棟を今から建てて・・・」

「のちに、還命新皇様の御子、双燕新皇様の御子も皇座を求められたら、どうするのだ。我々は永遠に継嗣に悩まされるぞ。」

「先の問題は後で、今は、神皇様に、どう申上するかを考えましょう。」

「申上など出来ない。」

「何故です。」

「神皇様には、16年前、もう一人の嗣は死産であったと申し上げている。」

「何故、そのような事を。」

「それもまた、我が、弥神家の祖歴に記されている決まり事であった。」

「道元、このような大事をよくも16年も隠匿してくれたな。」

「・・・・申し訳ありません。」

「これは、申し開きで済む事ではないぞ。」

「還命新皇様は、道元様の糾弾は許さずとおっしゃいました。」

「それは庇うであろうな。だが、本来なら存在しない新皇の言うなりになるのはどうか。」

「鷹取様は還命新皇様を、お認めにならないのですか。」

「神皇は一嗣継皇である事が鉄則。天に返す嗣が迷わずともわかる容姿で生まれると言う事からも、天も新皇と認めないと言っているも同然。」

「そんな・・・では還命新皇様を一般人として扱うのですか?」

「今までも、そうして来たのであろう。何が問題か?のう道元。」

「・・・神皇家のご嗣であるとご本人も公言した今、もう弥神家でお預かりするのは、恐れ多い事です。」

「全く・・何故隠し通さなかった。」

「それは・・・」

「あれほどの瓜二つのお姿で、隠し通すことなど無理ですわ。」

「私は御教えしてはいません。還命新皇様は、ご自身で気付かれて。だから京宮での生活を望まれて。」

 皆、弥神皇生の扱いをどうするかばかりを議論し、りのちゃんを刺した罪に対して、何も問わない。

 確かに、神皇家の人間は法の適応外だが、だからこそ、何かしらの咎めを、親代わりとして育てて来た弥神道元がしなければならないのではないかと、凱斗は思う。その道元は今、すっかり威厳なくして項垂れるばかり。 

 神皇皇宮宰司である事から、華族会の中でも権威は随一の鷹取靖前は、弥神道元の16年前の情けの行為を、全否定で批難し、還命新皇の存在を絶対的に認めず、神皇に申上して、事のお伺いすらもできないと言い張る。

 16年前に死産であったと報告している事を、今更生きていたなど言えるはずない。との心情はわからなくもないが、このまま神皇に知らせずに華族会だけで解決するには、もう無理のある事案である。

 鷹取靖前対華族会東の主要4家プラス西の宗代表の弥神家の様相であるが、鷹取家には敵わない。

 鷹取靖前は娘の千尋と共に双燕新皇に、神皇にはまだ言わないで欲しいと口止めをしている。新皇に口止めなど華族の誰もできないはずの事が出来るのが、古来より神皇側近の鷹取家の力だった。

 凱斗は、そっと会議室を出た。

 鷹取が立場に執着する限り、堂々巡りに議論が繰り返されるだけで、事は進まない。話し合いはすでに3日に及んでいた。

 凱斗はそんな状況を見続けて、あれで、この国を影ながら政って来たとは、と呆れ、そして、あのような事だから、総一郎代表は華選の地位を新たに作ったのかと思う。先見、華族会の先鋭さが失われていく事をわかっていた。口先で警告するだけは簡単。言うだけにとどまらず、対策を講じ仕組み作った行動力、改めて、柴崎総一郎の偉大さを実感する凱斗。そして、どうして自分はもっと素直にそばに仕えて、学ばなかったのかと悔やむ。

 今、柴崎総一郎会長が生きていたら、これらをどう解決しただろうか?

 想像は及ばない。一息吐いて、凱斗は部屋をノックする。中から返事はなく、間をおいてから無言で扉を開けた。

 帝国領華ホテルの別館、華族会の事務所があるフロア内で、一番豪華な応接間の、ゆったりした大きなソファで、弥神皇生は足を組み座り、本を読んでいた。凱斗が近づいても顔も上げずに、本に視線を落としたまま。

 事務所の誰かが用意したのか、テーブルには紅茶のカップから湯気が立っていた。

「還命新皇を認めない鷹取家の独裁で、お前のささやかな望みもままならない。鷹取を洗脳して、望みを叶えたらどうだ?もう使えるのだろう、その左目の力。」

 あれだけ悪かった顔色も元に戻って、調子の悪さは見当たらない。双燕新皇が言った「共魂」がどういったことなのかよくは知らないけれど、信じられない事が起きたのは本当だ。

 弥神皇生は、凱斗の嫌味交じりの言葉に本を閉じた。読んでいたのは、華選第一号の徳重さんが書いた本。「国家と神格」だった。

「国際化の進展は、国家の品位と神格の衰退をもたらす。らしい。」

 弥神皇生は立ち上がると、その本を凱斗に差し向けた。

 嘆いているのか、喜んでいるのか、わからない表情で凱斗をじっと見つめてくる。

「その変容を外から見届けるか?」

 いつの間にか、徳重さんの本を弥神皇生から受け取っていた。凱斗は本をテーブルに置いて、部屋を出ていく弥神皇生の後を追う。

 エレベーター前にいる受付担当の事務職員が、慌てた様子で立ち上がるのを、弥神皇生が指二本で額を押し付け座らせた。 覆われていた前髪を首一振りで退かせ、事務員に顔を寄せる。事務職員は驚愕していた表情をゆっくりと戻し、通常業務に戻る。

 弥神皇生に続いて、凱斗も何事もなかったようにエレベーターに乗り込んだ。

 カウントダウンしていく数字を見上げながら、凱斗はスーツの内ポケットから赤い表装に国紋の入った手帳を取り出した。

 何かが気持ち悪い。

「俺も力を使われていたのか?」

 弥神皇生は微笑して、凱斗からそれをつかみ取る。そして中を検めると、顔を渋くゆがませ、凱斗に責めるような表情を向けた。

「もっとマシな名を考えられなかったのか?」

「贅沢言うな。」

 弥神皇生は、大きなため息をついて、作らせたばかりのパスポートを尻のポケットにねじ込んだ。

「まぁよい。」

 その呟きをエレベーターに残して、共に外に出る。












 今でも慎一は怒りを治められない。目の前に弥神が居て、この手にナイフを持っていれば、躊躇なく刺せる。

そんな殺意交じる憎しみを抑えられているのは、

『夢を消さないで。』

『忘れないでパパの言葉。』

と言ったりのの手の感触だ。

 全国大会のリーグ予選なんて、慎一が出場しなくても突破できるのが常翔学園だから、放棄して病院に駆け付けても良かった。だが、りのが苦しさの中で慎一を咎めた事が、慎一の理性を正常に留めていた。

 二日後のリーグ2戦目に出場した慎一、その日は、周囲からどうしたんだと言われるぐらいに鬼気迫るプレイだったのを、去年の二の舞を踏まない心意気なのだろうと囁かれる。

 慎一が見舞いに行けない代わりに、柴崎が学校とクラブを休み、藤木の時と同様に毎日通っていて状況を知らせてくれていた。りのは、刺されたその日、命の危険がありながらも、奇跡的な回復をして、医者が驚くぐらいに治癒しているらしい。

 クラブを終えて、慎一は病院に駆けつける。外来受付のロビーを抜けた奥のエレベーター前で売店から出て来た柴崎と藤木にばったりと会う。藤木は松葉杖だ。

「買い出しに来てたの。」と柴崎はレジ袋を掲げる。

「りのが食べたいって?」

「ううん。言わないけど、先生に聞いたらもう、何でも食べられるっておっしゃったから。」

「ふーん。」と慎一は軽い息を吐いて、開いたエレベーターに乗り込む。

 りのは、あれ以来、何も話さない。あの日弥神と何があったのかを聞いても、首を微かに横に振るだけで、無表情の顔を落とした。村西先生は、ショックが大きいだろうから、事件の事は聞かないで欲しいと言う。

 慎一は納得がいかない。りのから聞けないにしても、弥神を庇う華族会から釈明があってもいいはずだ。と思うも、その釈明は、おそらく慎一が納得できるものではないのは確実だ。だから、あってもなくても、慎一は弥神に対して怒りを治まられないし許せない。

 柴崎が先頭に立ち、りのの病室のドアをノックする。病室は最上階の藤木の部屋の隣。藤木は部屋に戻らずついてくる。

 待っても返事はなく、柴崎は引き戸を少しだけ開け、顔だけを入れ中の様子を確認してから大きく開けた。

「新田が来たわよ。下でばったり会ったの。」

 りのは、一昨日からずっと同じに、起こしたベッドに背を預けて、窓に顔を向けていた。

 空しか見えない窓は、やっと夕方らしく紫色が差し込んで来ている。

「りの、どう?どこも痛くないか?」と慎一はりのが向いている窓の方へと回り込んで、置いてある丸椅子に腰かける。

 りのは、慎一の視線から逃れるように、ゆっくりと正面に向く。

「もう、新田、夕空鑑賞を邪魔したら駄目でしょう。」と柴崎が笑いながら言う。

「え、あぁ、ごめん。」

「気が利かない奴。」と藤木が笑う。

 そんな慎一たちの会話に、りのは無表情に前を向いたまま。

 また、昔のりのに戻ってしまった無表情のりのに、慎一たちもまた、ショックが大きい。

「プリン買って来たわよ。皆で食べよう。」

「良かったな、プリン食べられるようになって。」と話しかけても、りのは微動しない。

 柴崎がベッドのテーブルを引き寄せて、プリンとプラスチックスプーンを並べ置くも、大好きのはずのプリンを目の前にして、りのは取ろうとしない。

 柴崎が甲斐甲斐しく蓋を開けたプリンとスプーンを、りのに手に渡す。りのは、ゆっくりとした動作でプリンを口に入れた。

 どんな状態でも、りのがまだプリンを食べられる事が幸せなんだと心に刻む。

 一口のプリンが喉の通った後、りのは容器とスプーンをテーブルに置いた。

「どうしたの?食べられない?」と柴崎が心配そうにりのの顔を伺う。

 りのは首を横に振る。そして、ベッドの足元に座っている藤木に顔を向けると、顎を撫でるように手の平を横にスライドさせた。藤木は一瞬の間をおいて、「あぁ」と頷き、同じ仕草をする。

「美味しい。手話だね。」と微笑む。

 りのはうなづく。そして、その手話らしき動作を続けた。

「えっ・・・。」藤木が一転して、険しい表情になる。

「どうしたんだよ。」と慎一が言うと藤木は

「言っていいの?」とりのに確認する。

 りのは浅くうなづく。

「何?」柴崎も藤木へと顔をむける。

「声が出ない、って。」

「え?」

「会話したくてもできない、と。」

「声が出ないって・・・耳は聞こえてるのよね。」と慌てた様子でりのに縋りつく柴崎に対して、りは硬い表情でうなづいた。

「精神的ストレスで、声が出なくなる症状がある。」と藤木が険しい表情のまま解説「村西先生の診断は?」

 りのは横に首を振る。

「まだ言ってないの?」柴崎の問いにうなづくりの。「言わなきゃダメじゃない。」

 りのはうつむいて、重い息を吐いた。

「今からでも遅くないよ。りのから言えないなら、俺たちから言ってあげるよ。」と慎一はなるべく優しい声色で語りかけた。りのは微かにほほ笑む。そして、藤木に手話で何かを伝える。

「自分から言うって。」

「そうか・・・大丈夫だよ。すぐに声も出るようになるよ。なぁ、藤木。」

 何が大丈夫なのかわからない、不確定な言葉が、その後りのを苦しめるのではないか、そんな不安を抱きながら、藤木に同意を求めた。

「ああ、声帯は壊れてないんだしね。落ち着いたら出るようになるよ。」と藤木も同意してくれたので安心する。

「うん。そしたら、またいっぱいおしゃべりしましょう。」









(これは罰か、それとも施しか。)

 二度目の失声症は、5年前より酷い。英語もロシア語もフランス語もドイツ語も出ない。パパが死んだ時のショック時は、日本語以外は話せたのに。でも結果的に、語らなくて済んだ。

 それほど、あの人は酷いことをしたのだと、皆は思い込んでいる。

(そして、私は皇后などならなくて済んだ。)

 麗香から聞いた、双燕新皇と共に、あの人と麗香が、死にそうになっていた私を救ったと。

 麗香には癒しの力があるらしいのは、ずっと以前から気付いていたから、そんな不思議な話を聞いてもさほど驚きもせず受け入れた。

 それよりも、大輝と共に病院に来るママが鬱陶しい。担当看護師を差し置いて、手術痕のガーゼの取り換えや世話をし、口を開けば、あの人と共に柴崎家の悪口を発する。この間、麗香が居るところで、そんな悪口を言うものだから、麗香は悲痛に顔色を変えて、気まずく終には帰って行った。

 麗香は何も悪くない。柴崎家だって何も悪くない。

 悪いのは、私?

 あの人?

 どちらも。

 私はあの人と魂が半分。

 それが古から続く、引き合った罪。

 傷は驚異的に治癒していく。もう体は大丈夫なのに、退院させてくれない。先生陣は、ありえない現象に、逆に慎重になっているようだ。

 歩けるのに歩かせてもらえなくて、演技的に車椅子に乗って部屋を出る。暇つぶしに隣の藤木の部屋に行き、ノックすると返事がない。通りかかった看護師が「藤木君ならリハビリに行ってますよ。」と教えてくれて、「見に行きますか?」と私の車いすを手動に変えて押し始める。先生とママが過剰な看護を施すから、看護師までが、馬鹿丁寧に私に対応する。車いすも電動だ。

 いいです。の言葉が声にならない。

 車いすを押されながら、スマホのメモ帳に【一人で行けます】と入力して後ろに掲げた。

「でも、村西副医院長から、無理させないようにと言われてますから。」の言葉に、もう一度入力しなおす。

「無理じゃない。一人にさせろ。」

 こうなったら印象が悪くなっても、強く出るしかない。というより、もう副医院長の娘ってだけで、すこぶる印象は悪い。

「あ、ごめんなさいね。じゃ、無理しないで、困ったことがあったら近くの職員に声をかけてくださいね。」

(だから、無理じゃないんだって、この馬鹿。)

 車いすを電動に変えて進める。エレベーターに正面衝突、ボタンが届かない。さっきの看護師が慌てて追いかけて来てボタンを押す。睨みつけると、看護師は困った表情で、肩をすくめナースステーションに戻って行った。

 告げ口するならすればいい。村西副医院長の義娘は、酷い我儘娘だと。村西夫妻の評判なんて落ちればいい。

 エレベーターに乗り込み、苦労して車いすを回転させる。ナースステーションから心配そうに伺っている看護師に威嚇的に、睨みつけながらボタンを叩いた。

 リハビリ室は2階で、ここからは反対の位置にある。

(藤木が入院していてよかった。手話を一緒に覚えていてよかった。)

 スマホの入力は面倒で相手に入力待ちをさせてしまう。その点、手話は言語代わりであるからその待ち時間がない。ただ手話ができる人しか、会話ができないと限定されるのがネックだ。

 エレベーターの扉が開いて、外に出ると一階だった。ボタンを見ずに叩いたから、間違ったのだ。

また苦労して車いすを回転させるのも面倒なので、リハビリ室の近くのエレベーターまで行って2階に上がろうと進ませる。

 一階ロビーは会計待ちの所に沢山の人が居て、今日は平日だったと気づく。ずっと病室にいると日付も曜日感覚も無くなる。もう何日、学校を休んでいるかもわからない。

 見舞いに来るのは慎一と麗香だけだから、メグとかにはうまいことを言って内緒にしているのだろう。

 次は衝突させないでボタンの所に横付けして押せた。待っている間に、外国人夫婦が小さな男の子の手を引いて、私の後ろで待つ。ママさんの方は妊婦さんだった。日本で就労している外国人家族だろう。男の子はママに似てカールした金髪ヘアーが可愛い。

英「今日も赤ちゃん見れる?」

英「見れるよ。元気にショーンに手を振ってくれるかもしれないね。」

英「そしたら、僕も手を振るよ。」とアメリカ的な微笑ましい会話が耳に心地いい。

 妊婦の定期検診に家族揃って来ている様子だ。

 エレベーターが到着して、出てくる人の為に車いすを横に移動させた。その流れで、後ろのショーン君家族に先にどうぞと手で仕草をしたら、逆に扉を抑えられて

英「どうぞ」と促される。

 フィンランド、フランスと居た時の当たり前だった紳士マナーが懐かしい。

 遠慮なく先に入る。電動の車いすが大きく邪魔で、三人家族は入れるかなと心配したが、パパさんがショーン君を抱き上げて乗ったので大丈夫だった。家族連れも同じ2階で降りらしくて、私が押したボタン以外に押す気配はなく、扉が閉まる。 パパさんは抱き上げたショーン君の頬にキスをすると、くすぐったさに喜々の声を上げるショーン君。その光景に微笑みながらお腹をさするママさん。2階にはすぐに到着する。

 ショーン君家族が先に出ないと出られないから、エレベーター内の鏡を見て待っていると、出たところでママさんがボタンを押して私が出てくるのを待ってくれている。慌てて、バックしようとしたら間違って前進し壁に激突。

英「オウっ」と驚愕時の英語と共に、パパさんはショーン君を床に降ろすと、入ってきてくれて。

英「大丈夫ですか?出るのを手伝いましょう。」と私の電動車いすの手すりを握った。

英「ごめんなさい。操作が難しくて。」と答え、私は手動に切り替えた。

 ハタと気付く。

 声が出た。とても自然に。

 パパさんに引っ張ってもらいエレベーターから出ると、脇で看護師が立っていて、パパさんに「変わりますね。」と日本語で話しかけて、車いすを回転させた。

 産婦人科の方に行ってしまうショーン君家族に、「ありがとう」と英語で言おうとしたら、

声が出ない。

(どうして・・・さっきはちゃんと声が出たはずなのに。)

 やっぱり大好きな英語は、真っ先に出るようになったんだ、と喜んだのに・・・。

 自身に、英語だ、フランス語だ、ロシア語だ。ドイツ語だ。と言い聞かせて言葉を出そうとしても、全く声は出なかった。

 当然に日本語も出ない。

(どうして、その一回だけ?)










 りのちゃんから凱斗の携帯番号にメールが来たのは、弥神皇生が事件を起こして9日が経った金曜日、凱斗が日本に帰国したその日の夕方だった。

【お願いがあります。】と始まった要望に、凱斗はすぐに応えて準備し、次の日には病院の業者搬入口の端に車を止めて待った。

 予定の時間どおりに、りのちゃんは3階の非常階段の踊り場から顔を出した。見えるかどうかわからないけれど、凱斗は運転席から手あげて合図を送り、周囲を見渡した。幸い誰もいない。バンの後部スライドドアを開けておいた。りのちゃんは階段を足早に降りて来て、駆け込むように乗り込む。

 すぐに扉を閉めて車を出した。りのちゃんは、凱斗が買って置いていた紙袋を早速開けて、服を取り出す。

「それでよかったかな?」

 りのちゃんはうなづく。でもすぐに凱斗の肩を叩いて呼ぶ。運転の合間に振り向くと、りのちゃんは険しい顔で服を指さす。見れば値札がついて、取れないと怒っている様子。

「あーごめん。さっき買ってきたばかりだから、ちょっと待ってね。」

 凱斗は普段から持ち歩いているツールを腰から取って、肩越しにりのちゃんに渡した。

 りのちゃんはそれを使って値札を切り取り、着ている医療服を脱いだ。

「あわわ。」凱斗は慌ててバックミラー越しの視線を逸らす。着替えの終わったりのちゃんが、スマホの画面を見せて来る。

【サービスショットだよ。】

「サービスショットにしては、物足りないなぁ。」とつぶやいた凱斗のシートを後ろからドカドカと蹴ってくるりのちゃん。

 もう完全に元気だ。

「ごめん、ごめん。あー危ないから、止めて。」

 信号で止まって、凱斗は後ろを振り返る。

「りのちゃん、その携帯のメモ帳を、読み取り音声に変えられない?」

 りのちゃんは【そんな機能、わからない。】と見せて来る。

「アプリがあるはずだよ。」

 とりのちゃんの携帯電話を預かり、アプリを選んでインストール中に携帯を返した。

 信号が青になり車を走らせていると。後ろから機械的な音声が聞こえて来る。

〔凱さん、ありがとう。お願い聞いてくれて。〕

「いいえ、どういたしまして。でも、本当に大丈夫なの?」

〔大丈夫、いつもこの時間から4半ごろまでは看護師も来ないから。〕

「病院もだけど、りのちゃんの身体もだよ。」

〔全然、治りが早いの知ってるでしょ。〕

「知ってるけど・・危なかったんだよ。あれからまだ2週間だよ。」

〔2週間もだよ。それよりも深刻なのは声。話せない言語取得能力の華選っておかしいでしょう。〕

「まぁ、そうだけど・・・そんなのは気にしなくていいと思うよ。上籍したらこっちのもんで。剥奪なんて今まで誰もないし。」

〔良いように言っただけ、華選の使命感があるわけじゃない。英語すらも話せなくなったのが嫌なの。〕

「そうだね。それはりのちゃんにとっては大きなショックだよね。」

〔英語だけでも取り戻したい。で、どこで試させてくれるの?〕

「外国人ばかりで、そこが海外だと勘違いできるような場所だろう。」

〔そう。本当は日帰りでもいいから、海外に行きたかったんだけど。〕

「あはは、日帰りでは無理だね。」

 バックミラーのりのちゃんは、大きなため息をついて項垂れた。

「うってつけの場所を用意したから。楽しみにしてて。」

〔楽しみだけど、取り戻せなかったら・・・怖い。〕









 近くの駐車場に空きがなくて、少し歩くよと言って、都内の大通りから脇に入ったコインパーキングに車を止めた凱さん。 外に出ると殺人的な強い日差しが肌を焼き付ける。

「暑いねぇ。」と言った凱さんは、少しも汗をかいていない。

 そしてこんなに暑い日なのに、長袖のダンガリーシャツを着ている。軽く腕まくりはしているけれど。あの小説が本当に凱さんをモデルに書かれたものであるならば、身体中の無数の傷を隠す為に長袖を着ている。そして、汗も訓練で制御できる体だ。

「ん?どうした?」と凱さんが屈んで覗き込んでくる。

 首を振って何もないを意思表示。

「あの交差点の先だから。」と指し示す。

 ビルの影を選んで歩いていると、凱さんが笑う。

「フィンランドの夏は涼しいんだろうね。」

 そうフィンランドの夏は過ごしやすい、いい気候。冬は極寒で、それもいい気候だ。

 左右の大きなビルに挟まれた縦に細長い商業ビル。そのビルの地下へと、細い階段を降りた先にアメリカンティストの扉の前で、先導していた凱さんは、扉の取っ手を持ちながら、私が到着するのを待つ。

 扉には『Bar endless sin』 とある。

 スマホに入力するほどでもなく、つい手話で「ここ?」と示す。手話の動作はジェスチャーに近いので、理解した凱さんは大きくうなづいて

英「どうぞ。」と扉を開けた。

 少し暗めの店内から、冷えた空気が首筋をさらっていく。凱さんに促されて中に入る。汗が引いて気持ちが良い。ポップな曲と共に、沢山の英会話が耳に入ってくる。

 昼間なのに店内は沢山の客がいて、それぞれのテーブルでお酒を飲み、会話をしていた。

フロアにスタンドテーブルが5つ、壁際に座れるテーブルが4つに、ジュークボックスとダーツのある、映画でよく見るようなバーだった。

 テーブルで肘をついてピーナッツを摘まんでいた若者が軽く手を振って微笑んでくる。

 そう、この感じ。

 知らずの人とも、軽いジェスチャーの交わしあい。

 日本では無いこの空気感。

英「ハイ、カイ!」

英「ジェシファ、今日も良い感じかい。」

 と密着してお尻を触った凱さんの手を叩いた、金髪女の名前をどこかで聞きおぼえがある。

英「今日は、何があるか知ってる?こんなに早くから店を開けて、マスター教えてくれないのよ。」

英「うん。今日は特別ゲストを招待しているんだ。」

英「特別ゲスト?」

 体を離してこちらに体を向ける凱さん。

英「あっ!あんたっ。」

 そう、思い出した。去年の七夕祭りの縁日で、射的の勝負をした淫乱女。

英「あの時のチビ!」

英「ジェシファ、駄目だよ。その単語はぁ。」

 と咎めた凱さんを無視して私に屈む淫乱女。

英「あのね、おチビちゃん、ここは、大人が来る場所なの。子供が来る場所じゃないの。いい子だから帰って、ママの」

英「人を見かけで判断するな。私は大人だ。」

 言っている途中から目に涙がたまった。

英「どこが、大人なのよ、まぁ子供は、背伸びしたくなるのも仕方な・・・ちょっと何よ。」

英「喋れる。英語が・・・話せる。」

英「え?私?私が泣かしたの?」

英「ジェニファ、後よろしく。」そう言って、凱さんは店を出ていく。

英「ちょっ、ちょっとカイ!」

 私の考えは正解だった。

 私は、事件のショックで失声症になったんじゃない。

 私は、この国が心底嫌になって、失声症になったのだ。

 日本を出れば、言葉は話せる。

 あのショーン君家族に出会った時、あの狭いエレベーター内で交わされる会話を聞き、私の脳は、そこが日本ではなく外国だと錯覚した。だから英語を発することができた。エレベーターを出ると、日本語の書かれた案内板と日本人看護師の存在が、すぐに私の錯覚を元に戻してしまった。だから私はショーン君家族にお礼を言えなかった。

英「ここ、とても良い店ね。」

英「ちょっと、何、大人ぶってるのよ。お酒は飲めないわよ。」

英「ええ、もちろん。お酒なんか必要ないの。いい女は。」

英「はぁ?」

英「知性あるお喋りが、皆を魅了するのよ。」

英「ようこそ、ミスりの。飲み物は何にしますか?」

 とカウンターから出て来たスキンヘッドの黒人マスターが微笑む。

英「オレンジジュースを。」

英「かしこまりました。皆、ミスりのと、楽しいひとときを。」

 とマスターは店内に声をかけた。

 一斉にコップが掲げられ、英「ようこそ」の声掛け。

 ジェニファは渋い顔をして、肩をすくめた。











 りのちゃんは満足した表情で、でも名残惜しそうに振り返って手を振った。

 マスターが通りまで出て手を振っている。ジェシファとは最後まで仲良くなれなかったようだ。いや、仲がいいのか。喧嘩するほど仲がいいというも言うし。 

〔とても、楽しかった。〕と、またスマホの電子音声を使って話しかけてくる。

 りのちゃんの推測通りに、声が出ないのは、ここが日本であるという認識が阻害しての事だと証明された。となれば、海外でなら、りのちゃんは自由に話ができると言う事だ。

「良かったよ。成功して。」

〔ありがとう。店に居た人たち、皆、凱さんの友達?〕

「いいや、知り合いなのは店のマスターとジェニファ、そしてデリックぐらい。」

〔マスターは、私の為にお客さんを呼んでくれたのね。〕

「マスターはお節介だからね。」

〔十分なお礼を言って。〕

「それは、りのちゃんの口から、成人してからでも遅くないよ。」

 そんな凱斗の言葉に、いくら待っても、りのちゃんからの電子音声は聞こえてこなかった。疲れて具合が悪くなったのかと心配になり信号待ちで後ろを振り返ると、りのちゃんは窓の外を眺めている。

 信号が青になり、進める。時刻は4時を過ぎていた。りのちゃんは4時半まで大丈夫だと言ったが、本当は3時にはもう病院にバレていた。見舞いに来たりのちゃんのお母さんが、居なくなったりのちゃんを探して、病院の監視カメラで車を運転する凱斗の姿を見つけて、抗議の電話をしてきていた。

 凱斗は、りのちゃんが指定した業者搬入口の所に、監視カメラがあったことは知っていた。知っていてワザと顔が見えるように手を上げて合図を送ったのだ。バレた時、皆に心配させないために。りのちゃんのお母さんは凱斗の携帯番号を知らない。当然、柴崎家へと電話が行く。抗議の電話を受け取った文香さんから電話があった時、はじめてりのちゃんを外へ連れ出した理由を説明していた。当然に怒られる。それも覚悟の内だった。こうした誰もできない事をやるのが自分の役割だと思っている。だからりのちゃんも、凱斗を選んでお願いしてきたのだ。

 文香さんが病院に駆けつけて、今頃、平謝りをしているだろう。

 高速に乗る。30分ほどで病院に着く予測。

〔あの人は、日本を出て、何処に行ったの?〕と聞いてくる。

「えっ?誰?」

 バックミラーでりのちゃんを確認すると、首を横に振る。そして、入力する。

〔また、お願いがある。〕

「何だい?」

 しばらく待って、機械がしゃべりだす。

〔海外の学校に転校の手配をしてほしい。〕

「そう言うと思っていたよ。」

 凱斗は、りのちゃんからメールで【どこか外国だと見間違うほどの場所に連れてって欲しい。日本語の表示も言葉もない場所、そういう場所なら、英語を話せるかもしれない。それを試してみたい。】とお願いされたときに、その試行が成功して、りのちゃんの失声症が場所によるものだと証明されたら、海外留学しかないと思っていた。

「今、クラスや、佐々木さん達には、りのちゃんは急遽、短期留学に行っているとしている。」

 りのちゃんは、凱斗の話をより詳しく聞こうと、運転席と助手席の間に身体を乗り出しくる。

「そんなのは無いんだけどね、英語スピーチ大会の優勝副賞として、アメリカに語学研修に行けるのだけど、それに行こうとしていた他校の学生が、家の事情で行けなくなった。アメリカ側の学校としてもキャンセルは困る、誰か他の人を来させろとなって、急遽の話にビザが用意できず、誰も行く人が見つからない。そして話が常翔学園に回って来た。りのちゃんなら、すでにカルフォルニア行きでビザの準備ができている。カルフォルニアのサマースクールの前に、サンフランシスコの高校へ短期留学を頼んで行ってもらっている。とね。」

 破顔して声なく笑うりのちゃん。

〔それで、メグから変なメールが来てたのね。適当に相槌の返信しておいた。〕

「りのちゃんなら、察すると思っていたよ。」

〔じゃ、対外的には問題ない。〕

「そうだね。」

〔手配をお願いしてもいい?〕

「もちろん、かまわないよ。だけど、ご両親がどう言うかだね。」

〔駄目とは言わせない。〕

 凱斗は苦笑する。

「ちなみに、どこに行きたい?」

 りのちゃんは嬉しそうな笑顔で、考える仕草をする。そして

〔凱さんのおすすめは?〕

「そうだなぁ・・・。」

 それからの道中は、どこが良いかと海外の話で盛り上がって病院についた。

 病院の玄関ロータリーで、りのちゃんの両親と文香会長が待っていて、車を止めるなり、詰めかけて怒鳴られる。

「一体、どういう事なんですかっ、入院中のりのを勝手に連れだすなんてっ。」

「申し訳ありません。」

「謝って済む事ではありませんよっ。誘拐じゃないですかっ。」

 激怒するりのちゃんのお母さんの腕を、りのちゃんが引っ張る。

「あぁ、りの、具合は?傷は痛む?」

 りのちゃんは手話で示すが、誰もわからない。

「りのさん、ごめんなさいね。凱斗が無理をさせて。」と文香さんの言葉に、りのちゃんは激しく首を横に振る。

「本当に、そうですよっ。」とりのちゃんのお母さんは文香さんへ睨んだ後、りのちゃんに向き直り「あぁ、りの、無理しないで、さぁ、車いすに乗って、広田先生に診てもらいましょう。」とりのちゃんを車から降ろさせる。

 りのちゃんは困った顔を凱斗に向けて来る。しかし、助け船を出せない。

「凱斗さん、本当に、困りますよ。」村西先生も険しく凱斗を責める。

「はい、申し訳ありません。」

「大事がなかったからよかったものの。」

 もう、凱斗は黙ってうつむくだけにした。

 りのちゃんのスマホが機械音声で発する。

〔凱さんは、悪くない。全部、私がお願いしたの。叱らないで。〕

「庇うことないのよ、りの。」

 りのちゃんのお母さんはそう言いながらりのちゃんを電動車いすに乗せ、病院内へ入っていく。

 村西先生も追いかけて、凱斗は顔を上げた。

 文香さんが苦悶の表情でうなづく。

「車を置いてきます。」

「ええ・・。」

 文香さんが、大きなため息をつきながら、スライドドアを閉めた。覚悟したため息だった。










 CTスキャンも取り、広田先生が検査の数値を見て「大丈夫。明日にでも退院できる数値ですよ。」との言葉で、さつきは、やっと、息をついた。

〔だから、大丈夫って言った。〕とりののスマホが機械的な音声を発する。

 誘拐されている間に、凱斗さんが音声変換の設定をしたみたいだ。

(もう、何もかも、勝手な事をする。)

 それがとても役に立つことでも、もう柴崎家の人は信用がならない。柴崎会長は、事件から9日が経っても謝罪には来ず、今日、凱斗さんがりのを誘拐したと、さつきが抗議の電話をして、やっと病院に駆けつけて謝罪した。

 あの弥神君のそっくりな人を、双燕新皇だと言うけれど、それも本当かどうかなんてわからない。

 毎日見舞いに来てくれる柴崎さんも、癒しの力があるとか言うけれど、確かに、りのは驚異的な速さで傷は治癒したけれど、りの自身は元々傷の治りが早い。りの自身の持つ治癒力を、柴崎さん達の手柄にして、恩恵を与えているとでも言いたげだ。

 りのを広田先生の診察室から病室に移動させる。村西が精神科へ戻ろうとすると、りのが腕を掴んで止める。

〔話がある。病室に来て。〕

「今?」

 りのは大きくうなづく。

「わかった。行こう。」

「あなた、仕事はいいの?」

「いいさ、今井先生にもう少し頑張ってもらおう。」と村西は、笑顔をりのに向けて一緒に歩き始めた。

 村西は、りのが居なくなってから、仕事を他の先生に交代してもらっている。柴崎家のせいで病院にも迷惑が掛かっている。その柴崎家の二人が、りのの病室の前で立っていた。診察が終わるのを待っていたようだ。揃って頭を下げるのを、さつきは無視した。病室に車いすを入れる。

〔二人も入れて。〕とりの。

「どうして、あの人達は、りのに迷惑ばかりかけるのよ。」

〔柴崎会長、凱さん、お入りください。〕スマホの音声を最大にして、りのは後ろへと掲げた。

「りのっ。」

 村西が閉まる扉を止めて、柴崎家の二人の入室を促す。りのは自分で車いすを操作してベッドのそばで回転させた。

 柴崎家の二人が頭を下げて入ってくる。村西が扉を閉めてやっと、柴崎会長が口をひらく。

「この度は、本当に申し訳なく・・・」

「それは、殺傷事件の事を言ってるのですか、それとも誘拐の事?」

 わざと犯罪らしい言葉を使った。柴崎会長はうなだれて、

「両方でごさいます。」と答える。

「申し訳ないで済まない事ですよね。」

〔ママ〕とりの。

「一命をとりとめたと言っても、りのの胸には大きな傷が、体だけじゃない精神もこうして傷ついて。」

〔ママ、もう事件の事はいいの。〕

 りのの言葉を無視して、さつきは責める。

 柴崎会長は今までに見せた事のないほど恐縮して小さくなっている。その姿が腹立たしくも、優越感が沸き起こってくる。

「りのは、どうして刺されなくちゃならなかったの?警察は、あの子を逮捕したんでしょうね。」

「それは・・・。」と言葉を濁して、うつむく二人。

〔ママ、もう事件の事はいいの。〕とリピート。

「警察には言ってないのね。いつもそう。常翔はいつも、そうやって隠して。」

 りのが立って、私の腕を取る。

「りのは座って。」座らせても、りのは立ち上がってくる。「もう、黙ってなんかいなくていいのよ。ちゃんと、悪事は公にして。」

 口を大きく、「やめて。」と形作り、首を振るりの。

「常翔が今までしてきたことを、言わなくちゃ。」

 さつきの胸を叩いてくる。

「痛い、何するの、りのっ。」

「さつき、りのの言葉を聞こう。」と村西が間に入る。

 りのは怒った表情で、スマホに入力する。

〔柴崎会長、凱さん、ごめんなさい。私は公にする気はありません。〕

「りの!」

 村西がさつきの体を引き寄せて、首を振る。

〔あれは、誰の責任もない。私達二人の問題。黙っている事が最善なのはわかっています。〕

 柴崎会長が頭を上下にして掠れた声で、「ありがとう。」と言う。

「納得いかないわっ。」と叫んださつきを、りのが怖い顔で睨む。

〔車の中で凱さんにお願いした。海外の学校に転校の手続きを。〕

「えっ?どういう事?」

「凱斗から聞きしました。りのさんの希望であるなら、私どもは異議なく、手続きとサポートをさせていただきます。」

「ちょっと待って。何よ、海外の学校に転校って。」

「どういう事ですか。」と村西も。

 凱斗さんの口から、今日の、りのを外に連れ出した理由と状況を聞かされ、結果、海外なら声が出ると立証されたと言う。

「なるほど、それは考えられる症例だ。」と村西は医者の顔に戻ってうなづく。

「あなたっ。」

「それで、海外の学校に転校と言う話になったんだね。」

 りのは、満足そうにうんうんと首をふり肯定する。

「そんな簡単に言うけれど、海外なんて。」

〔ママは日本に居て。〕

「何を言って・・・」

〔私だけで行く。〕

「駄目よ。」

〔ママは先生と大輝、一緒に日本に居て。〕

「そんな、駄目よ、私達も一緒に。ね。」

〔ママが、海外の生活はもう嫌なのは知っている。先生も病院を離れられない。〕

「りの・・・海外になんか転校しなくても、失声症は治せるわ。そうでしょう。あなた。」

 村西は腕を組んで唸る。

「前も、あなたが治してくれたわ。あなたなら、またりのを治してくれる。だって、あなたは精神科医としてこの国の第一人者。」

〔行きたいの、私が海外に。〕

「駄目よ。一人でなんか行かせられない。ねえ、あなた、りのだけ海外なんて、無理よね。」

〔ママ、わかって。〕

「わからない。どうして、りのが海外に行かなくちゃならないのっ。」

 柴崎家の二人は、眉間に皺を寄せて口を噤んでいる。

「あなたたちが、りのをそそのかしたのね。許せない。そうやってりのを海外へ追い出して、事の真相を隠すつもりだわ。」

 ちがう、の口を形作ったりのが、大きく首を振る。

「りの、あなたは、この人たちに良いようにされているのよ。」

「村西様・・・」と柴崎会長が悲痛な面持ちで口を開きかけたのを、さつきはきつく睨みつけて黙らした。

「どちらにしろ、りのさんの失声症が良くなる方向に、してあげるのが良いのではないでしょうか。」と凱斗さんは、まるでさつきを責めるように意見する。

「黙って、そうであっても、あなたたちの手は借りないわ。」

〔ママこそ、黙って。〕

「黙らない。りの、もう特待生だからって肩身の狭い思いしなくていいのよ。」

 柴崎家の二人が驚いた顔を上げる。

「都内にはもっと良い学校があるわ。りのの頭ならどこにでも、」

「村西様・・・」

「常翔学園を辞めさせます。」

 りのがさつきの腕を掴んで引っ張るのを振り払ったら、りののスマホが弾け床に落ちた。

「こんな、犯罪を隠匿するような人たちの経営する学校に行かせられないわ。」

(あぁ、なんて気持ちがいい。そうよ。そうやって項垂れるといいわ。私達が耐え忍んできた事を身に染みてわかるといい。)

「もう、りのに関わらないでください。華選の称号も取り消してっ。」

 突然、りのはさつきに体当たりして来て、よろけたさつきは後ろにあった丸椅子に足を取られ、椅子ごと床に倒れた。

「さつき!」

「村西様っ。」

 馬乗りになってさつきの胸ぐらを掴み、揺さぶってくるりの。

「やめてっ!な、何するの。りの!」

「りの、やめなさい。」村西がりのの腕を引き離した。すごい形相でさつきを睨むりの。

 そして、村西の手を振り払うと、激しい身振りで訴えて来る。

「しゅ、手話はわからないわ。」

 りのは落ちているスマホを拾い、叩くように入力するりの。

 凱斗さんが、さつきの腕を取り立ち上がらせてくれた。

〔勝手に決めるな、私の事は私が決める。〕

「だけど、りの。」

〔黙れ。お前はもう、戸籍の外れた他人だ。〕

 さつきは、言葉を失う。

「り、の・・・。」

(どうして、こんなことに・・・)

 あふれてくる涙で、りのの姿が滲む。

 これは、誰のせい?

 華選を促してきた柴崎家のせい?

 それに賛同した、私のせい?









 りのちゃんの治癒は、院内でも変な噂になるぐらいに早く、あれほどの重篤な状態だったのにもかかわらず、4日後には自由に病室から出て院内をうろついていた。その脅威的な回復力が、麗香とお忍びで訪れた双燕新皇と弥神の祈りおかげである事を、亮は麗香から話を聞いていた。

 そんなりのちゃんの噂が蔓延しているリハビリ室に、りのちゃんの担当看護師が慌てた様子で、りのちゃんを見かけなかったかと、亮の所に来たのは歩行訓練開始早々の2時半過ぎだった。

 暇を持て余しているりのちゃんは、よく亮のリハビリを見学に来ているが、今日はまだ朝からりのちゃんの姿を見かけていなかった。行方不明だと心配されたりのちゃんの居所は、凱さんが連れ出したとすぐに判明した。誘拐だとりのちゃんのお母さんは騒いでいたが、亮は、きっと、りのちゃんが頼んだのだろうと予測していた。

 亮が歩行訓練を終えて病室に戻ると、りのちゃんの病室の前で、柴崎会長と凱さんが神妙な面持ちで立っていた。もうりのちゃんは病院に戻って来ていて、今、診察を受けて、その終了待ちであると聞く。

 亮も一緒にりのちゃんを待っていたかったが、雰囲気的にそれはまずい事だと、病室に戻って、扉のすぐそばで廊下の様子を伺っていた。しばらくして、廊下が騒がしくなり、また静かになった時を見計らって亮は松葉づえで廊下に出た。りのちゃんの病室の扉を数センチだけ開け、間に松葉杖の先を挟んだ。聞こえて来るのはもっぱら、りのちゃんのお母さんの声ばかり。

 凱さんがりのちゃんを病院から連れ出した理由、そして、海外の学校に転校を望んでいる事を聞いて、亮はそれが最良な対処であると納得した。   

 納得できないのはりのちゃんのお母さんだけで、奇声に近い声で柴崎家の二人を責めていた。

 何かが倒れる大きな音がした時、麗香が新田を伴って廊下を歩いてくる。

「何してるのよ。」

 亮は人差し指を口に当てて、「しっ」と咎めたが、中から外に出て来る気配に、慌てて扉から離れ、二人を松葉づえで押しながら自分の病室前へと下がった。

 りのちゃんのお母さんが、村西先生に支えられながら出て来る。もう心も憔悴しきったりのちゃんのお母さんに、止めるのが間に合わなかった麗香が挨拶をする。

「こんにちは、おば様。」

 りのちゃんのお母さんは麗香を視認すると、みるみる憎しみを心に湧き起らせる。

「あなた・・一体、りのに何をしたのっ!」

「えっ?」

「りのの声が出なくなったのは、あなたのせいじゃないの!」

「さつき、止めなさい。」村西先生がりのちゃんのお母さんの肩を抑える。

「私・・・」麗香はおののいて、声を詰まらせる。

「あの時、変な人達と一緒になって、りのの声をつぶしたんだわ。」

「さつき!」

 新田は驚愕して、亮に「どういうことか」と目で訴えて来る。

「もう、いい加減にして、りのを誑かせないでっ!」

 りのちゃんの部屋から騒ぎを聞きつけて、会長、凱さん、りのちゃんが出てくる。

「りのを返してっ!」

「お、おば・・さま・・・」

「元の、りのを返してっ」

 りのちゃんのお母さんが、村西先生の手を振りほどいて麗香に掴みかかろうとするのを、りのちゃんが掴みかかる。

「さつきっ、やめなさいっ。」

 騒ぎを聞きつけて、ナースステーションからも看護師達が駆け付けて来る。

「りのもやめなさいっ」と村西先生。

「もう、りのと会わないでっ。」

「麗香、行きましょう。村西様、失礼いたします。」

 柴崎会長は悲痛に頭をさげ、ショックを受けている麗香を凱さんが庇うようにして退散していく。

「あの子が、りのを誑かせたのよっ、私からりのを奪って、りのを・・・」泣き出したりのちゃんのお母さん。

 看護師たちに離されたりのちゃんは怒り、振りほどいて、手話で物言う。

【許さない、ママは、ここに来ないで、私は、ママと会わない。】

「藤木君、りのをしばらく、君の部屋に、良いかな。」

「はい。」

 村西先生はりのちゃんのお母さんを抱き寄せて、りのちゃんの病室に戻っていく。

 それを見るりのちゃんは、とても親を見送るような表情ではない。亮は、駆け付けてくれた看護師に、「大丈夫です。」と答えて病室に新田と共にりのちゃんを迎え入れる。

 扉が閉まると、大きく息を吐いたりのちゃん。

「さつきおばさん、どうしちゃったんだ・・・。」とつぶやくように疑問を口にする新田に、

 りのちゃんは、【うんざり】という手話をして、顔を顰めた。

「まぁ・・・りのちゃんのお母さんが、あぁなるのも、わからなくもないけど・・・。」と言った亮に対して、首を傾げて手話を作る。

【意外、あなた(藤木)が、母の気持ちに、寄り添う、事。】

「他人の事は静観できるから。」と苦笑した。

 亮の言葉に、肩をすくめて微笑んたりのちゃん。

 親戚のおばさん以上に親密度が高いりのちゃんのお母さんの状態に、新田は驚いてショックを受けている。その為、手話で語られる亮たちの会話に通訳を求めるタイミングを逃し、遠慮もして黙っている。

【私、海外の学校に、転校する。】

「うん、盗み聞きしてたんだ。海外で喋れるなら、それが最良の対処だよね。」

 りのちゃんは大きくうなづいてから手話を続ける。

【麗香と慎一の、サポート、お願い。】

「うん。任せて」と亮も手話を合わせて答えた。


 そうして、麗香は病院に来れなくなった。亮はメールで【大丈夫か】【大丈夫】の短いやり取りをしただけで、それ以上の言葉は中々に難しく送れなかった。柴崎家が事件を隠匿する方向であるのは本当だし、双燕新皇に双子の兄弟が居た事も、公にするのは難しいだろう。公にするには、神皇家の仕来り、華族会のこれまでの在り方や、対応なども公にしなければならなくなるからだ。

 りのちゃんのお母さんが不満を爆発させ、柴崎家を責めるのも無理はない。新田も病院に来なくなったのは、りのちゃんのお母さん同様、事件に対して納得できないもどかしさからと、もう一つ、悠希ちゃんに気遣っての事もある。

 そんな中、悠希ちゃんが珍しく一人で病院に来る。

 麗香からリハビリ終了のおおよその時間帯を聞いていたのだろう。亮がリハビリを終えて病室に帰る際、売店に寄った一階ロビーで悠希ちゃんと出会った。表情と本心の読み取りで、悩みを聞いて欲しいのだとわかり、亮は外へと行こうと促した。夕刻のこの時間、病室では早い夕食が運ばれたりと、人の出入りが多い。それに悠希ちゃんは、りのちゃんが刺された事件を知らない。病室から出てきたりのちゃんとばったり出会うのを避けた。一階で悠希ちゃんを捕まえられたのは幸いだったと、亮は安堵する。

 病院の裏は、平場の駐車場と三階建ての立体駐車場がある。病院建物と平場の駐車場の間は、少しの樹々と花壇で遮られていて、ベンチも建物に添って何台が置かれてある。精神科の別館の方へと歩き、空が広く見えるベンチに座った。空は茜色に染まる手前、昼間の暑さの和らいだ風がさわさわと樹の根元の雑草を揺らしていた。

「飲む?」

 亮は自分用に買ったばかりのペットボトルのスポーツ飲料をレジ袋から取り出し、悠希ちゃんに差し出す。悠希ちゃんは、首を横に振り、地面に視線を落とす。

 しばらく間をおいて、悠希ちゃんは視線を落としたまま話し始める。

「・・・慎君、笑わなくなったの。」

「緊張してるんじゃないか?去年の事を思い出して。」

 悠希ちゃんは首を横に振る。

「普通じゃない・・・何かあったんでしょう。真辺さんに。」と悠希ちゃんは亮の方に顔を向ける。

「何が?りのちゃんに?」

 知らないフリをして、ペットボトルの蓋を開ける。

「先々週、柴崎さんは試合を休んだわ。ベンチ入りだったのに突然。それからしばらくクラブを休んで。同じ頃から真辺さんもずっと学校を休んでいる。」

「あれ?知らないの?りのちゃん、アメリカの学校に留学してるの。」

「聞いたわ。でも、嘘でしょう。」

「どうして、嘘だと?」

「真辺さんがいつも、慎君を困らせる。」

「新田、困ってるの?」

 悠希ちゃんは苦悶の表情のまま、唇を一度噛んでから続ける。

「柴崎さんも笑わない。東京ベガルディからプロ契約の話が来たのに。」

「えっ!?」

「一昨日、ベガルディのスカウトマンが学校に来て、慎君とA契約をしたいと言ってきたの。それなのに、慎君も柴崎さんも喜ばない。」

 東京べカルディの筆頭スポンサーは太平建設、華族の称号持ち一族が経営する企業であることを、亮は頭の中で思い浮かべ、なるほどと納得する。

「おかしいじゃない。あれほど、プロになりたいと、夢にまっすぐだった慎君が、願ってもない話に喜ばないなんて。」

「新田は、そのスカウトを断ったの?」

「ううん。受けるって。」

「じゃ、何も問題はないんじゃない?」

「だけど・・・。」

「きっと、新田は、気持ちが追い付いていないんだよ。信じられなくて。」

 亮はとびきりの笑顔をつくり、悠希ちゃんに顔を向けた。そして演技かかった言葉を口にした。

「そうかぁ。べガルディとA契約かぁ。遅れを取ったなぁ。」

 足を延ばして夕空を仰ぐ。

「時期もおかしい・・・。」 

 とつぶやく悠希ちゃんの言う通りで、普通は全国大会の本戦を見てから、もしくは早い選手は、その全国大会の県大会予選を見てから契約の話がくる。今まだ県大会の予備予選。ここ神奈川は在校数が多いので予備予選も始まっているが、在校の少ない県の予選はまだ始まっていない。

 柴崎家もしくは華族会からの指示で、スポンサー経由のスカウトになったと予想がつく。

 いわば、口止めだ。

 新田が、その図式に考え及ぶかどうかが心配所だ。契約を受けると言ったと言う事は、知らないのだろう。知ってしまった時に、契約辞退とならなければいいが。

「慎君が普通じゃなくなるのは、決まって真辺さんのせい。」

 悠希ちゃんの本心には、悔しさと憎しみ、怒りが、夕焼け空のように層になっている。

「慎君から、真辺さんの存在が消えない限り、私は真辺さんには勝てない。」

 そう言って、悠希ちゃんは肩を震わせて泣いた。

 もう、新田から、りのちゃんの存在を消すなんて出来はしない。

 りのちゃんは、命をかけて新田の心に存在を刻みこんだのだから。

(命をかけて?

 あぁそうか、りのちゃんは命をかけて、世界へ羽ばたく自由を手に入れたんだ。)










 りのは、事件から二週間後に退院した。

 東京の村西夫妻の家に一旦は帰ったようだが、さつきおばさんと大喧嘩をし、彩都のマンションに戻るも、追いかけて来たさつきおばさんとまた大いに揉めて、りのは荷物をまとめて帝国領華ホテルの華族会フロアに逃げた。それでも追いかけたさつきおばさんは、帝国領華ホテルの一階ロビーで「返せ」「誘拐した」とわめく一騒動を起こした。

 村西先生は、さつきおばさんを病院に一時入院をさせたが、精神的な症状は落ち着くことなく、りのとさつきおばさん、そして柴崎家とも対立状態になってしまっている。   

 そして慎一は、東京ベガルティからの時期早々なスカウトが何を意味するのか、悟るに簡単だった。

 A契約とは、初年以降の年俸の上限がない契約で、チーム内の契約人数が決められている。契約の種類の中では一番良い待遇である。高校2年の夏にそのスカウトが来るのは、ありえない事である。サッカー業界に驚愕のニュースとして大きな話題となり、常翔学園もまた大きな注目となった。華族会が絡んだスカウトである事を、慎一は十分に理解して、納得しがたいわだかまりが胸にあっても、受けますと即答したのは、りのが命を懸けてもたらせたものだと、慎一は考えたからだ。

 スカウトを受けてから、サッカー専門誌からのインタビュー取材が多数入った。

【注目のルーキー、東京ベガルディとA契約!】

 そうした取材を受けながら、ふと、ここで常翔の隠蔽を暴露したらどうなるだろう。

(実は神皇家の継嗣は双子だ。双燕新皇の双子の兄弟は、人を刺した犯罪者だ。)と叫びたくなる気持ちを、抑えなければいけない事が何度かあった。

 そうした危うい慎一の心を静めたのは、あの時の、りのの言葉だった。

『夢を消さないで。』

『忘れないでパパの言葉。』

 そのりのは、誰にもその日を告げないで、黙って日本を出国した。

 フィンランドの首都ヘルシンキの学校へ編入。

 英語は笑って話せる言語だと教えてくれたフィンランドの恩師の所に下宿して、生活の面倒を見てくれている。と聞く。


 常翔学園は、特待生真辺りのが、カルフォルニア大学のサマースクールに参加した際、海外の高度な教育に感化され、より高い教育を求め、学力世界一位のフィンランドのカレリア高校に編入試験を受けたところ合格し、編入するに至ったとしていて、世界一位の学力のフィンランドとの教育交流の先駆者として、真辺りのを常翔学園在籍のまま、カレリア高校への留学編入を認める、とした。


 また・・・ 

 遠くへと行ってしまった、りの。

 慎一は、2学期の始まった始業式後、常翔学園高等部のグランドで良く晴れた空を見上げる。

 辛うじて飛行機とわかるほどの彼方に、白い飛行機雲が空を分断していく。

 藤木が左隣に立ち、慎一の背中を叩く。

 目じりのしわを濃くして目を細め、微笑んだ。

 柴崎が慎一の右隣に立ち、元気のない溜息を吐いた。

 慎一は、その柴崎の背中を叩く。

「しっかりしろっ柴崎!お前がしっかりしてくれなきゃ、俺たちは動けない、だろ。」

「そうだ、俺たちの勝利指針だろ。」

「俺たちは、神に頼らない夢を掴む。」

「約束通り、必ず。」

「夢を。」

「ええ。りのの分まで。」
















「さぁ、全国高校サッカー選手権大会決勝、後半残り15分となりました。全国約4000校の頂点に立つのは、二連覇を狙う大阪の星稜高校か、それとも10年ぶりの優勝を狙う神奈川の常翔学園か。現在1対1の同点、どちらも全国大会常連校、応援にも力が入ります。」

「三年前の中学の全国大会と同じ図式ですね」

「そうです、星稜の遠藤君は当時もキャプテンで、二連覇を狙っていました。ですが、常翔学園に敗れ二連覇を逃しまた。」「常翔の新田君と星稜の遠藤君は、全日本ユース16の選抜メンバーでしたね。」

「常翔の新田君は昨年東京ベガルディとA契約をして話題になりました。まだ二年生での契約という事で注目された新田君にパス!星稜ディフェンス2枚!ブロックされます。やはり、中々突破できません。」

「星稜もよく研究してきていますからね。難しいでしょう。」

「星稜の遠藤君もつい先日、大阪ガッツとA契約したとの報道がありました。」

「遠藤君はユース16から次いで18にも選抜されていますからね。ユース16ではキャプテンも務めていましたから、実力は新田君と引けを取りません。プロ契約は遅いと感じましたね。」

「常翔攻めます。7番キャプテン沢田。シュート!キーパー弾いたぁ。」

「いいですよ。積極的に攻めて、揺さぶりをかけ続ける。後半もあと14分ですから、疲れと集中力がなくなってきますからね。逆に攻め続ける事で、集中力を無くさない。」

「えーと星稜に・・ケガでしょうか?中断しております。全国高校サッカー選手権大会、決勝、1対1のひっ迫した戦いが繰り広げられています。」

「大丈夫そうですね。」

「試合再開されます。」

「常翔学園選手交代ですね。」

「あぁ!これはっ、2年の藤木亮君です。」

「出してきましたね。」

「ええ、藤木亮君は、一年の時に交通事故にあい、足に大けがを負い長く入院していました。一時はサッカー生命も危ぶまれていましたが、手術とリハビリで復活、3年岸本君と交代します。」

「同級生ですね、本来は。」

「そうです。事故のせいで藤木君は一年留年をしています。おや、その藤木君がコーナーキックをするようですね。」

「まだ、長くは走れないようですが、新田君とのコンビプレーは中学の時も、素晴らしいものがありました。」

「さぁ、その新田君へのパスは届くのか?」

「星稜もわかっていますからね。マークするでしょう。」

「やはり新田君、中へ入れませんね。藤木君、指示を出します。」

「新田君じゃなく、沢田君か・・・永井君がフリーですよ。」

「新田君大きく外へ逃げる。おとりになるようです。」

「藤木君、大きく中へ!永井君・・・じゃない!新田君だぁ頭!ゴール!」

「驚きましたね。あの位置から、合わせてくるなんて。」

「新田君と藤木君のコンビプレー復活!常翔が2点目!新田君が藤木君へ駆けつけ抱き合います。」

「まだまだですよ。星稜もまだチャンスはあります。」

「すぐに星稜上がります。」





英「インタビュー、見ないのかい?」

英「ええ。見たいのなら、どうぞごゆっくり。」

英「いや、お送りしますよ。」

 まだ歓声と歓喜にわく国立競技場、吹奏楽部による校歌を背に出口へと向かう。

 テレビ局の中継車の横をすり抜けた。

 涙ながらにインタビューに答えるコメントと拍手が、競技場と中継車の中から合わさって聞こえて来た。

 振り返りもせず歩む度、伸びた髪が弾むように綺麗に揺れていた。

 競技場の近くは満車だった。10分ほど、その弾む髪を見ながら歩いた。

 何ができただろうか、

 何もできなかった。

 何もしなくても、

 何かしても。

 結局、

 結果は同じだった。

 と、今では思う。

 言い訳ではなく。

 それが、二人の運命。

 BMWの助手席の扉を開ける。脱いだコートを丸めて乗るのを待つ。

 助手席の扉を閉めて、運転席へとまわり、空を見上げた。

 雲間に青空が見える。この分じゃ、問題なく飛べそうだ。

 ポケットから携帯を取り出し、短いメールを一つ送信する。

 運転席の扉を開けて乗り込む間に「了解」の返信が届く。

英「出発していいのかな?」

英「ダメな理由がどこにあるの?」

英「ここに。」

 首を傾げた一番綺麗に見える角度で、間をあけてから、

露「気のせいよ。」と言語を変える。

露「そうかな。」

露「そうよ。」

 エンジンをスタートさせ、車を走らせた。

 一時間ほどのドライブ。

 勝手にカーラジオをつけ操作し、全米ヒットチャートを選曲して軽く口ずさみ始める。

 機嫌がいいなら、それでいい。

 聞きたい事、話したい事が沢山あったが、その話題をすればきっと機嫌を損ねるか、もう口を開かなくなるだろう。

 道は空いていて、一時間もかからずに国際空港に到着してしまった。

 トランクから機内持ち込みサイズのスーツケースを取り出す。

英「もう少しゆっくりして行けばいいのに。」

英「明日、大事な講義があるって言ったでしょう。」

英「うん、聞いた。だけど講義ぐらい。久しぶりなのだし、み、あ痛っ!」

英「ごめんなさい。そんなところに大きな足があるなんて思わなかったわ。」

英「あぁ、僕もまさか、スーツケースを落とされると思わなかったよ。しかし・・そのスーツケース、大きさの割に重いね。何のお土産買ったの?」

英「土産じゃないわ、半分が教科書よ。」

英「教科書?」

英「だから、時間がないって言ったでしょう。それなのに、どうしてもって言うから。機内でもやらなくちゃダメなの。」

英「あぁ、それは、それは、申し訳ないことをした。」

英「でも、まぁ、良かったわ、来て。」

 国際線ロビーへ向かう。チェックインカウンターが混雑していた。

 職員が詰め寄る客に頭を下げている。

英「どうしたのかしら?」

英「聞いてこようか?」

英「いいわ、自分で聞きにいく。」

 予定通りの展開。また一つメールを送っておく。こちらは、返事はすぐに帰って来ない。

 手間取っているカウンターへ足を向け、並んだ。

英「チェックインシステムがダウンですって。」

英「申し訳ございません。今しばらくお待ちくださいませ。」と空港職員のお姉さん。

「日の丸航空だけだよね。トラブってるの。」と聞く。

「はい。申し訳ございません。」

「回復の見込みは?」

「目途は、ちょっとまだ・・・申し訳ございません。」

英「フライトが遅れるかもしれないって事?」

英「可能性はあります。今、手作業による照会とチェックインの準備をしておりますので、お待ちください。」

英「明日の朝までにはヘルシンキに着きたいの。遅れるなら、他社に乗り換える事も考えるわ。エコノミーでもいいから。」

英「チケットを拝見させて下さい。」

 ちゃんと言語を変えて対応する優秀な空港職員のお姉さんは、チケットを見せると顔色を変えた。

英「これは・・・少々お待ちください。係りの者をお呼び致します。」

「あっいいよ。」の止めが間に合わず、急ぎカウンターへと戻っていった。

英「だから、普通でいいって言ったのに。」と不満の表情で見上げられる。

英「まぁ・・特権だからね。」

 待っている間にメールが着信し、内容を確認。

 今から一時間、日の丸航空には多大なる迷惑をかけておこう。

 顔見知りの華族対応職員の吉田さんが小走りで駆けてくる。

「お待たせしました。どうぞラウンジへご案内します。」

英「いいえ、特別待遇を望んでいるのではないわ。明日の朝までにヘルシンキに着きたいの。できないのなら他社に乗り換えるわ。」

英「これは、失礼いたしました。ではチケットをお預かりいたしまして。ええ、それでもラウンジでお待ちください。お望みどおりに間違いなく手配致しますので。」と、流石は華族対応職員。

 互いに視線を合わせ、違った意味のため息を吐いた。

 職員の後についていく。チェックインカウンターの並ぶ奥へと歩み、日の丸航空ラウンジへと案内される。

 部屋の入口で新たな職員が荷物を預かると言われ、「待って」とスーツケースを開け始めた。

 本当に中には沢山の教科書が入っている。その中から一冊の厚めの本を取り出し、閉めて荷物を預けた。

英「お飲み物をご用意いたします。何にいたしましょう。」

英「甘いホットミルクティ」

英「かしこまりました。」

英「僕はブラックコーヒー」

英「かしこまりました。お席にご案内します。」

英「いいわ、勝手に座るから。」

英「失礼いたしました。では、ごゆっくりお寛ぎ下さいませ。」

 ラウンジは空いて、客はまばら。窓際の飛行機の発着が見えるソファ席に座る。早速本を広げて読み始めようとするのに苦笑しながら、声をかけた。

英「ちょっと失礼。」トイレの方角に指さした。

 返事代わりの浅い頷きをし、直ぐに本に集中するのは、さすが変わってない。

 トイレに向かうフリをして、まだカウンターに居る吉田さんを捕まえて、ソファから見えない位置まで移動する。

「ちょっと頼みたい事がある。」

「なんなりとお申し付けください。」











「早く開けて!」

 タイヤが止まる前にそう叫んで急かした。運転手は、「えっ?あぁ?」と呑気な相づちをして、ゆっくりと車を止める。

「だから、早く!」

「はいはい。」

 手でも開くのを手伝って、飛び出し駆けた。

「待てよ!お前だけじゃ通してくれないだろう!」の声を無視して走った。

 スーツケースを持って歩く人たちが邪魔で中々、思い通りに前へ進まない。

 ぶつかっては、「すみません」を繰り返す。

 エスカレーターでは、並んで乗っている家族連れに阻まれて、じれったく待つ。降りた瞬間にその家族連れに「ごめんなさい」と言って脇をすり抜けた。

 3階国際線、日の丸航空のチェックインカウンターの前だけが、長い列を作っていた。

 紺色の制服の職員が大きな声を出して謝っている。

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。ただいま、手作業によりチェックイン手続きをしております。フライト時刻間近のお客様を優先にさせていただいております。フインランドヘルシンキ行きのお客様いらっしゃいませんか?」

「はいっ。」と手を上げた。

「お客様、チケットをお見せ下さい。」

「いや、俺じゃなくて、その・・えっと。」

「新田!こっちだっ!」










英「フライトは?どうなってるの?」

英「申し訳ございません。今しばらくお待ちを。」

英「日の丸航空に拘ってるわけじゃないわ。明日の朝に着くかどうかに拘ってるの。飛べないのなら、他の飛行機でも構わないと言ったわよね。エコノミーで十分だとも。」

「まぁ、まぁ、そう焦らずに、飛行機に問題があるわけじゃない。空港内のシステムだけなんだから。ねっ」

「はい。そうでございます。申し訳ございません。確認してまいりますので、お待ちください。」

 馬鹿丁寧に頭を下げて戻っていく華族対応職員の吉田さん。

 もうカップは空に近いのに、わざとらしく口に持っていく動作を睨みつけた。

露「何かしたでしょう。」

露「何が?」

露「それも華族特権?」

露「システムダウンが?」と惚けた顔。

 本を手荷物のバッグに入れて立ち上がった。

露「どこ行くの?」

英「その手には乗らないわ。----ミスター吉田、チケットを返して。」

英「えっと・・・」

 まごついて交互に顔を見比べるその態度が、何かした証拠だ。

英「今日は私が客なのよ。この人はただの付き添い。どっちを優先して対応しなければならないのか、言わなきゃわからない?」

英「申し訳ございません。」

 と預けたチケットを恭しく差し出す吉田さん。

英「謝らせた吉田さんに、謝る事ね。」

 と睨むと、苦笑して首の後ろをかく。その仕草が昔から苛立たしい。












 カウンターの並んだ先の狭い通路へと曲がった。何度も使用している空港内の、来たことのない場所。スタッフオンリーと思われるところだ。日の丸航空VIPラウンジと書かれた豪華な扉を、柴崎は躊躇なく開ける。

 すぐにカウンターがあって、男女の職員がこちらに顔を向けた。

 男の方が笑顔で寄ってくる。

「お待ちしておりました。柴崎麗香様、新田様、藤木様。」

「凱兄さんたちは、どこ?」

「こちらへ、ご案内いたします。」

 飛行機の発着が見えるラウンジの、窓際のソファの一つに、まだ下げられていないカップが置かれてあった。

 観葉植物が並んで仕切られた通路を通り、搭乗口と書かれた扉をその職員が開けてくれる。

「つい先ほど、出ていかれまして。」

「もう飛行機に乗ってしまったの?」

「いえ、それはまだ。焦らしてと頼まれていましたから。」とにっこりと笑う。

「ありがとう。」






 入って来た方向とは反対の、出国手続きと書かれた扉を開け、細く白い廊下を突き進む。

英「もう少しだけ待って。」

英「嫌、言ったでしょう。私は会うつもりはないと。」

 目線が外される。

 騒がしい複数の足音が後ろから追って来る。

 そして、静かになった廊下に響く声。

「りの!」

 ため息を吐いた。やっぱりこうなるように、されていた。

 このまま振り返らずに走り逃げたいのに、先を塞いで立つ凱さんの微笑みが邪魔をする。

「りの・・・」

 麗香のもう泣きそうな声。

 それが私の心を抉る。

(だから、会いたくなかったのに・・・)

「りのちゃん。」

 変わらない藤木の優しい声。

 誘われるようにゆっくりと振り返った。

 懐かしい制服を着た三人。

 麗香と藤木。そして慎一。

 言わなくてはいけない言葉がある。

 深呼吸をしたら、慎一の胸も膨らんで、

「りの、これを・・・」と言って、制服のスボンのポケットから取り出した。

 差し出したのは、リボのついた金色のメダル。

「要らないかもしれないけど・・・約束の証だから。」

 約束の証、

 それを簡単に受け取る事などできもしないし、

 拒むこともできない。

 約一年半、それを手に入れる為に慎一は、

 どれだけの努力と、割り切りをしたか、知っているから。

 躊躇っていると慎一は歩み寄り、金色のメダルを私の首にかけた。

 第92回全国高校サッカー選手権大会「優勝」と彫られたメダルは、

 ずっしりと重い。

 これは、

 慎一と

 りのとニコの

 忘れられない

 約束の重さ。

 私達は

 どんなに逃げても

 どんなに努力しても

 忘れられない

 時間を

 手を繋いで

 逝くのだろう。









 黙って見つめあった。

 慎一がかけた金ぴかのメダルを手にするりの。

 その表情は、慎一の記憶の中で一番多い無表情。

 りのは、コートのポケットから何かを取り出した。

 それを慎一の手をとって、掌に乗せる。

 地球に羽根の生えたキーホルダー。

 それは栄治おじさんの形見。

 りのは、背伸びをして慎一の首に手を回した。

 耳に囁くその声は、慎一だけに交わされる、

「新田慎一、その名が世界を駆けて届くのを楽しみにしている。」

「りの・・・。」

 慎一から離れたりのは、唇を噛んで、手話で何かを表す。

 すぐに藤木が通訳をする。

「ありがとう、沢山の楽しい日々と、夢を。」

 そしてりのは、踵を返して、

 出国手続きへと廊下を歩み進んでいく。



 りのの乗った飛行機が、空へと飛び去っていく。

 手に、次の目標がある。

【りのは、世界が遊び場】

【慎ちゃんは世界がフィールド】

 死んだ栄治おじさんが、幼き頃から世界に羽ばたく意識を植え付けてくれた形。

 慎一の夢はまだ始まったばかり。

「りの、やっぱり、日本では日本語を話せないのね。」と柴崎

「向こうではアルバイトで日本語を教えているのだけどね。日本に到着したとたんに話せなくなって。」と凱さん。

「トラウマは、まだ解消されないかぁ。」と藤木。

「でも、元気そうでよかった。」とまた涙ぐむ柴崎。






これは、

りのと慎一の

忘れてはいけない

約束の証。

俺たちは

遠く離れていても

いつまでも

競って

手を繋いで

探し歩く。

虹の記憶を

追って。

                       終

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