第18話   白群色の空6

麗香は、クーラーの無い更衣室で汗拭きシートで首筋、腕、膝裏からふくらはぎと全身を丁寧にふき取り、一息ついた。

「私、先に行くわね。」小麦色に日焼けした岡本さんは、綺麗な白い歯を見せた笑顔を麗香に向ける。その笑顔は自信に満ちて、入学当初の頃とは大違い。

「うん。また明日ね。」

「また明日。」救急箱を持って跳ねるように更衣室を出ていった。

その後ろ姿を複雑な気持ちで微笑む麗香。そして、手に持ったままの何枚もの汗拭きシートを丸めてゴミ箱に捨て、姿見で衣服の乱れをチェックしてから、自分の荷物をかき集めて同じく更衣室を出る。

全国高校サッカー選手権大会、神奈川県代表を決める二次予選の一戦目が終わった。夏休み前、新田の失態でシード権を失った常翔学園は、9月の初めから二次予選トーナメント一戦目から戦わなければならず、やっと一つ上ったばかりである。

今日も難なく3-0で勝利したけれど、この先11月まであと5戦を勝たなければ、神奈川県代表にはなれない。

更衣室から出ると畑中先輩が立っていて、麗香を視認すると妙な笑顔を向けてくる。

「先輩。」

「はいっ、何でしょう。」

「気持ち悪いです。」

「え、ええ?」

「その変な笑顔もですけど、もっと向こうで待っておかないと、不審者に間違われますよ。」

「もう、柴崎さんは厳しいなぁ。」

「先輩が緩すぎなんです。だから保野田先輩、ちっとも動作が早くならないんです。」

保野田先輩は、麗香達より先に更衣室に入ったはずなのに、まだ制服に着替えてもいないで洗面所で何かをしていた。ミーティングが終わった時にサヨナラの挨拶もしているので、保野田先輩に声をかけずに更衣室を出てきた麗香。声を掛けたらその分だけ遅くなるので、待っている畑中先輩の為にも挨拶しない方が二人の為と、麗香なりの思いやりだ。

「では、先輩さようなら。」

「あっはい。さようなら。」と言いながら、畑中先輩は更衣室の前から少し離れた。

麗香は大きなため息をついて首を傾ける。何故、畑中先輩が常翔学園サッカー部の部長なのかわからない。確かに全部員から慕われているし、サッカーの技術も悪くない。だけど今一つ覇気というか、闘志がない。畑中先輩より副部長の青木先輩の方がしっかりしていて、厳しい面がある。その関係は、中等部の新田と亮の関係に似ていた。常翔学園のサッカー部は、少し頼りないけれど慕われている者が部長になり、しっかり者が補佐として副部長をすると決まっているのだろうか?そこまでの歴史を麗香は知らない。

部員たちはいつものごとくグランドで着替えて、現地解散である為にもうとっくに帰ってしまって、畑中先輩以外は周囲に姿はない。今日は学園のバスは出されていなかった。畑中先輩と保野田先輩のようにクラブ内で付き合った者同士だけが、待ち合わせて帰ることが出来る。今の時間ならどこか寄り道もできるだろう。日曜祝日関係なしに練習のあるサッカー部にとって、こうした試合の終わった後の少しの時間が、貴重なデートの時間となる。

どこかの企業が寄付して設置したデシタル時計が、16時ちょうどの知らせを童話音楽付きで知らせたのを見ながら、競技場の外に出る。残暑厳しい9月の末、若干の風があるものの、太陽に十分に照り付けられたアスファルトからの熱気が麗香を襲い、うんざり気味に足を止める。日向に出るのに勇気がいる。少しでも日陰を選んで歩きたい。顔を上げると、表通りのバス停へと向かう銀杏並木に、新田と岡本さんが手を繋いで歩く姿があった。

確かに、それは良いことだ。

オウンゴールまでして絶不調だった新田が、岡本さんと付き合い始めて、その絶不調から脱した。

夏休み、新田はユース16全日本代表の合宿と海外遠征を優先していたので、常翔の合宿には遅れて4日間だけの参加だった為、常翔学園のメンバーとの交流がなくなり、一人浮いた状態になりつつあった。しかし、岡本さんが彼女となって新田のメンタル的な弱さをフォローしたおかけで、新田は精神的な悪影響を受ける事なく、そして全日本代表の合宿と遠征で経験した技術は向上し、スタメンに戻ることが出来ていた。新田は、岡本さんと付き合う事により、心の拠り所を得て良い結果を出している。

それは良いことだ。

(だけど、私の理想じゃない。)

ふと、施設の出入り口横へと顔を向けた。鳥がモチーフのキャラクター〔GOのとり君〕人形が設置されてある、その人形の頭に肩肘を乗せた亮が、携帯を操作しながら待っていた。

麗香は、わざと大げさに息を吐く。

「待ってくれなくてもいいのよ。もう彼女でもないんだから。」

「別に待ってたわけじゃない。新田が悠希ちゃんを待っていたから付き合っていただけ。そして、二人の邪魔をしちゃいけないと、遠慮したまで。」

「二人に遠慮できる心配りができるなら、私の心も読まないというデリカシーさも身につけて貰いたいものね。」

「ご要望に添ったんだけど?」と操作の手を止めて亮は麗香に顔を向ける。

「要望?」

「そろそろ、どうしたらいいかと、俺に相談したいと思ってただろう。」

麗香は露骨に顔を歪めて、心に抱いた嫌悪を言いかけたところで、亮は顔を曇らせてうつむいた。

「ごめん。」

自分の本心を読み取られる。本来なら、それをされたら嫌厭する事だけど、麗香はそういった嫌悪の気持ちがあまり起こらない。逆にその能力を持つ亮を頼もしく思い、頼り、そして、献身される事を心地よいと感じて亮を好きになった。恋心が嫌悪の感情を抑えたと言えるかもしれないが、麗香が亮に対する恋心を認識する前から、藤木は人の本心を読み取る事が出来ると知っていたし、亮がその能力を望んで得た物ではなく、その能力で見知った事は慎重に心がけている事も知っているから、能力有りきの藤木亮という人間を認めていた。

「ぷッ、誰に謝ってんのよ。」と麗香は笑った。

「えっ?」

亮の俯くその姿は、等身大キャラクター〔GOのとり君〕に誤っているようで。亮も気づいて、〔GOのとり君〕の頭をポンポンと叩いた。

「こいつと写真、撮ってくれ。今日の連絡にする。」と言いながら麗香に自分のスマホを手渡してくる。

「えー、こんな写真でいいの?」

亮は一人暮らしをする条件の約束で、毎日母親に連絡を取らなければならない。本来ならば電話での会話が望ましいのだけど、亮はもっぱらメールを送って済ませている。その内容は、試合があればその結果報告だったり、晩御飯の写メだったりだそう。

「いいんだ。今日は特別大サービスだ。」と亮は〔GOのとり君〕と肩を組んでピースのポーズをとる。

「これが大サービス?」

シャッターボタンを押し、撮った写真を亮に見せる

「こんなのよ?」

「おう、いいじゃん。」亮は早速、母親に写メを送るようだ。「試合結果、3-0で勝ち」とつぶやきながら操作をする。

亮のお母様は首を傾げるのではないかしら。今日の試合は遊園地が会場だったのかと。だけど、そうか、息子の姿が判るのはうれしいのかもしれない。普段は短いコメントか晩御飯の写メばかりなのだから。母親への連絡の為に、もっと協力してあげたいと思う麗香。

「さて、お待たせ。行こうか。」

並んで歩く。亮に聞かなければ、と思った事を早速、話し始めた。

「ねぇ、いつまで、りのに黙っておくの?」

「りのちゃんに聞かれたか?」

「ううん、聞かれてない。」

「あえて俺たちから話題にしない。それが二人との約束だからな。聞かれるまで言わなくていいよ。」

新田と岡本さんが付き合った事を、亮は二人の本心を読みって即座に知っていたが、誰にも言わず静観していた。常翔学園の夏の合宿で、二人から麗香と亮に報告があり、『りのにはまだ言わないで欲しい。』と懇願された。その理由は、一年前、『すべてを認めて、俺はずっと変わらず心配をする』と誓った事に反している為、りのに対して顔向けができない、と新田は言った。

そんな約束など、互いに状況が変わってきているから気にしなくていいんじゃないかと亮が言うも、新田はその突っぱねる覚悟がまだできない。そして、りのの解離性障害の治療からまだ一年経っていないから心配だと言う。

今年の誕生日及びりののお父様の命日まで、新田は岡本さんと付き合っている事を隠すつもりだろうか。

「ほおっておけ。俺たちがあれこれと世話やく必要もない。」

「でも・・・隠された期間が長い程、傷つくと思うわ、りの。」

「どうかな。りのちゃんの心は特殊だからな。あっさりと、そうなんだ程度で終わるかもよ。」

「それはないわ、新田への恋心がなくても、長く寄り添った幼馴染として、あっさり済むもんですか。」

「お前もか?」と亮は麗香の方へと顔を向ける。

「えっ?」思わず立ち止まった。

「橘淳平や諏訪要に、誰かと付き合っていることを随分長く秘密にされたら傷つくか?」

「えっ?だって、淳平と要は・・。」

「二人とも、幼馴染だろう。」

「そうだけど、私、二人とはそんなに密な幼馴染の関係じゃないもの。」

新田とりのほどに密な幼馴染じゃない。華族の付き合いは、家との結びつきが強く節度がある。

「りのちゃんと新田も、意外に節度ある関係かもしれないぞ。特にりのちゃんは、新田と密になるのを恐れていた。」

「そうだけど・・・。」

「ほおっておけ。どうなろうとも、それも新田の試練だ。」

「う、ん~。」

麗香は、納得のいかない返事をして、遠くバス停で待つ新田と岡本さんの姿を見やった。









夏休みが終わって早一か月半、もう半月ほどで年間最大のイベントである常翔祭が始まる。学園のあちこちに、常翔祭に使う段ボールやまだ作成途中の立て看板などが溢れていくにつれ、生徒の気持ちも浮足立っていく。

そんな周囲の雰囲気が、使い古したタオルで顔を拭いたときのような嫌な肌触りみたいに不愉快だ。ざらついた疎ましさを振りほどくように、私は大きくため息を吐いた。

「いけませんね。そんな堕落ともいえる息の吐き方は。」と飯島孝志が私の前に立ちふさがった。

無視をして踵を返しても、黒メガネは、まるで追跡機能つきのミサイルのように私を追尾してくる。

「我々、特待生は、全生徒の見本であるように、毅然とした態度を常に心がけ、その息のつき方においても」

また始まった。馬鹿の一つ覚え。他の生徒の見本だなんて、特待生制度を設けるにあたり、学園が対外向けに掲げた宣伝文句であるのに。特待生制度の本質目的は、【華選に上籍するに値する人間を発掘するための制度】という事を、私は知っている。

「その真辺さんの堕落した態度が、他の生徒に伝染しまう恐れがあり、」

露「うるさいっ、馬鹿の一つ覚えで私に干渉するな。」思い余ってロシア語が出てしまった。教室にまだ残っているクラスメートが驚愕して、私に注目する。

「また、ロシア語ですか?真辺さんは第二言語で怒る癖があるようですね。」と、飯島孝志は黒い縁のメガネの位置を正す。その癖がイラつく。

韓「グローバルを目指す常翔に置いて、多言語を習得するのは、とても良い心がけです。だから私も第二言語として韓国語を勉強しました。」

何を言ったのかはわからなかったが、その憎たらしい程の得意げな顔で、大体の予想がついた。

「おや、真辺さん、韓国語はわかりませんか?日本語で言いなおしましょうか?」

悔しくも私の嫌がらせが、飯島孝志の闘争心を煽ってスキル向上に向かわせてしまったようだ。

「先ほどの韓国語は、グローバルを」

「飯島、止めとけ。真辺さんは言語自慢したかったわけじゃないだろう。」

「また君ですか。森山裕太郎君。」

「真辺さん、食堂行こうか、皆、待ってるよ。」と言って、森山君は助け船を出してくれる。

「学力順位32位の君に、我々特待生の討論を邪魔しないでもらいたい。」

「なっ!」森山君は顔色を変えて憤慨した。だけど、すぐに息を吐いて、気持ちを落ち着かせる「すべてが学力順位で優遇されていくと思っている飯島孝志君とは、所詮同じ土俵に上がれないだろうから、さっさと退散するよ。」と言って、私に目配せしながら教室を出ていく。

「負け犬の遠吠えですね。」

(こいつは、どこまで糞だ。)

英「お前は、その負け犬の糞でもくらっとけ。」外国ではやってはいけないジェスチャーを飯島にくらわし、私も森山君を追って教室を出た。傍観していたクラスメートは、驚愕に顔を引きつらせている。

「真辺さん!それは特待生としても、人としてもいけない行為で」

 島の叫びをシャットアウトするように教室の扉をピシャリと閉めた。

廊下で、森山君が「くそっ」と掲示板をグーで殴る。そこはいつも成績表が張られる場所で、今は何も張られてない。

「も、森山君・・・ご、ごめんなさい。」

「真辺さんが謝ることなんて何もないよ。」と痛かったのか、苦笑して拳をさする。「みっともなくて、恥ずかしいな。」

「ううん。」

(みっともないのはあいつ、飯島の方だ。)そう言ってあげたいのに、咄嗟に日本語は出てこず、タイミングを逃す。

「あいつに勝つ為には、もっと勉強しなくちゃだめなのかぁ。」

「そ、そんなこと、し、しなくても・・・」

「なかなか、難しいなぁ。」

「も、森山君は、り、陸上も、や、やってるから。」

「それは、真辺さんも同じでしょ。バスケを頑張ってる。」

「わ、私は・・・あ、あまりちゃんと、れ、練習に、さ、参加できていない。」

「そうなの?」

頷きだけで答えた。華選上籍をするための能力検証と証明のために、夏休みは頻繁に帝都大学と常翔大学に行かねばならなかった。顧問や先輩部員には、特待生の特別勉学として、大学で研修を受けなければならないと通達をしていて、私が練習を休んでも皆が不審がらない様にしてくれていた。

「でも、それは飯島孝志も同じだし、もっと頑張らないと。」

飯島孝志は、結局、中学校からの継続で剣道部に入ったようだが、あいつが何部に入ろうが興味ないのに、自分でそう言ってきたのだった。

「も、森山君・・・」掲示板を殴った拳を握った「む、無理、し、しないで・・・」

「えっ、あの・・・えっと~真辺さん、ごめんね。嬉しいけれど、照れるから。」と森山君は顔を赤らめて、そっと手を引っ込めた。その引っ込め方がとてもやさしい。

「急ごう、給食時間が無くなるよ。」と森山君は照れ隠しに、方向転換をして促す。

食堂に入ると、森山君は配膳カウンターには並ばず、麗香達がいるテーブルへと直行した。そして藤木と話す。藤木と麗香が私の方へと視線を這わすので、きっと、さっきの出来事を報告して、あとのフォローをよろしくとか頼んだのだろう。

やさしい森山君、しかし、それは要らぬおせっかいだ。

「お、おばさん、も、もう、す、少し、す、少なく。」

「りのちゃん、また新田君に怒られるよ。」

ここで慎一と頻繁に喧嘩をするから、すっかり名前を知られてしまっている。俯いたら、食堂のおばさんは、「仕方ないね。とりあえず減らしておくから、足りなかったらおかわりにおいで。」と言って、おかずとご飯を減らしてくれた。

「あ、ありがとう。」

今日は豚の生姜焼き定食にした。小鉢に小松菜の胡麻和え、果物の梨。減らしてくれても、今日は食べられそうになかった。そもそも、食堂のこの独特の匂いが私は嫌いだった。お腹の空かない気持ち悪さに息を吐きながら、皆が待っているテーブルへと向かう。

「また飯島の攻撃にあったみたいだね。大丈夫?」と藤木が私の顔を覗くように目を細める。

どうにかして私の本心を読み取りたいみたいだ。だけど、何故か私は、他の人よりうんと読み取り難いという。

「あいつ、韓国語しゃべったって?」と麗香。

「勤勉さに頭が下がる。」

「ただ、りのに対抗してるだけじゃないのよ。」

慎一は私のトレイを視認したけど、何も言わなかった。

「だけど、すごいわね、負けたくないからって、韓国語を勉強して話すなんて。」とメグ。

「りのの真似なんかしても駄目よ。少し韓国語を話せたぐらいで、りのに勝てるはずないわ、りのはもっとすごい能力なのよ。ただのガリ勉とは違うのだから。」

「すごい能力って大げさだなぁ。」とハル。「確かに、リノは沢山の外国語を話すけれど、えーと一体何か国語?」

豚の生姜焼きを口に入れたばかりなので、しゃべられない。麗香がハルの質問に答える。

「日本語、英語、フランス語とロシア語に、そしてドイツ語もよね。」

(あぁあ、言っちゃった。)

「ドイツ語!?」

全員が声を重ねて、麗香はしまったと口を押える。もう遅い。

「え、リノ、ドイツにも住んでいたの?」とメグ。

これは、麗香に責任を取ってもらうしかない。黙秘と言う約束を私は守っている。

メグの質問には答えないで、ご飯を口に入れた。

「そ、そうよね。ドイツにも、少しだけ住んでたことあるのよね。」と麗香の慌てた様子で誰もが嘘だと不審に、私へと真意を求めてくる。それでも、私は言えない。小鉢を手に取る。私が何も話さないのを、焦れた皆が麗香にまた顔を戻す。

「あー、もうっ」頭を抱える麗香。「ごめん。そのドイツ語の事は、今はまだ言えないの。もう少し待って、決まったらちゃんと皆に言うから。」

「決まったらって、何を?」今日初めて声を聞いた、慎一。

「だからっ、それら全部を言えないのっ、いずれちゃんと報告するから。」

「はぁ?」

「もうおしまいよっ、この話は。」と麗香はにらみを利かせて、皆を黙らせた。

「自分の失態を棚に上げて。」と藤木がつぶやく。

同意。ため息を吐いて、進まない食事に一旦箸を置いた。

「リノ、大丈夫?食欲ないみたいだけど。」とメグが覗き込んでくる。

「そんなに、飯島の攻撃が酷かったのか?」とハルが麗香を超えて心配顔を寄こす。

「ううん。」

(そうじゃない。この食欲のなさは、別にある。)

「何か、心配事でも?」と藤木。

皆が、私に注目をする。このまま言わずにいたら、沈んだ雰囲気のままで気まずくなるだろう。私は一つため息をついて、答えた。

「うん・・・ママが心配。」

「さつきおばさんが、どうかしたのか?」

最近、ママが食欲不振で、ほとんど食事を取らない。「胃を悪くしちゃっただけだから、大丈夫。」と言うけれど、どうやら仕事もあまり行っていない様子。

「倒れたのも、ちょうど一年前、だから、また倒れるんじゃないかと。」

「そうか、あれは一年前だったねぇ。」と藤木。

「病院で検査してもらったの?」と麗香。

「うん、してもらったって、それで何でもなかったよって。だから、大丈夫ってばかり言って・・・でもまた、無理してるんじゃないかなって。」

全員が険しい表情になる。そんな中、慎一が急に立ち上がった。食べない給食にまた怒られるのかと、びくついたけれど、慎一は自分のトレーを持って食器返却口へと向かった。

「大丈夫よ。あと少しだから、りのが華選になれば、おば様も楽できるわ。」と麗香が私に耳打ちする。

私は軽いうなづきだけを返した。

「それまで、何かあったら、柴崎家が支援するから。」

心配だけど、去年程に切羽詰まらない。頑固に柴崎家の支援を断わらなくなったのは、私が華選に上籍することを柴崎家が切に願っているからだ。甘える権利が私にはある。

慎一が戻ってきて、私のトレーを取り上げた。

「何するのよ。新田!」私の代わりに抗議の声を上げる麗香。

「とりあえず、喉がとおる物を食べろ。」慎一は私の前にプリンを置いた。高等部では、アイスやプリンなどのデザートも食堂に売っている。買ってきてくれたみたいだ。

「優しいわね。新田君。」

慎一は、残した私の給食を食べはじめた。その横で岡本さんが私に顔を向ける。平然としているが、ムッとして心穏やかじゃないのがまるわかりだ。

「・・・ありがとう。」私は、慎一の優しさに素直に感動する。

「珍しくりのに優しくするから、泣いちゃったじゃない。」とハンカチを取り出して拭いてくれる麗香。

「おばさんを心配して、りのが調子悪くなったら、本末転倒だ。食べられる物だけでも口に入れろ。」

「う、うん。」私は大好きなプリンに手を伸ばした。

「りのの健康が、さつきおばさんの為でもあるんだからな。」

「うん。」

慎一はずっと私の心配をする。

それは未来永劫変わらない慎一の誓いだ。

それに甘えていい権利が、私にはある。

それが、岡本さんと私との違いだ。

口に入れたプリンは難なく喉を通っていく。




そんな会話をした一週間後、家に帰るとママはソファに倒れ込んでいた。

「ママっ」学園カバンを投げ落とすようにして駆け寄った。

「ぁぁ、りの、おかえり・・・」とママは身体を重そうに起こす。

「ママ大丈夫?」

「大丈夫よ。買い物で疲れちゃって、あら、こんな時間、夕飯の仕度をしないと・・・。」

と、ママは放置されたスーパーの袋の中身を取り出し始める。

(本当に、どうしちゃったのだろう。買い物ぐらいで疲れただなんて、普通じゃない。)

「ママ、本当に病院で検査してもらったの?」

「してもらったわよ。」

「本当に、大丈夫って?」

「本当に、大丈夫よ。病気じゃないから。」

「病気じゃなくても、そんなに辛そうなのは・・・」

「大丈夫。」とママは微笑む。

「さぁ、美味しいものを作るわね。」とママは腕まくりをする。

「私も手伝う。」

「そう?」

「今日は何?」

「今日は、チンジャオロースにしようかなと、お肉が安かったの。いい?」

「うん。」

「じゃ、手を洗ってらっしゃい。」

大丈夫?と聞けば、大丈夫と笑顔を向けるママはいつも通りで、でも時に胃を抑えて険しい顔になって顔を背ける。それが、食事の支度や食べている時が多い。最近では先に食べたからと誤魔化される事もあった。

手を洗って、キッチンに立つママの隣へ。ママはピーマンの千切りをし始めていた。

手早く鮮やかな手つきに惚れ惚れと眺める。

「タケノコはりのが切ってみる?」

「うん。」

包丁を渡されて、切り方をレクチャー。太いのや細いのと大きさバラバラになるタケノコ。

「うーん。うまくいかない。」

「最初から、うまくなんかならないわよ。沢山、経験を積むことね。」

ママは、買ってきた牛肉をボールに入れて、調味料で下味をつけ始める。

すると、ママは「うっ」と唸り、つけていた使い捨て手袋を急いで脱ぎ捨てると、トイレへ駆けこんだ。

「ママっ。」

トイレでうずくまり吐くママ、だけど何も吐くものが無いようで、辛そうにえづくだけ。

「ママ、大丈夫じゃないよ。救急車呼ぼう。」

「呼ばなくても大丈夫。すぐ治まるから。」

「でも・・・。」

この状況は数年前の私のようだった。えづく私をいつも介抱してくれたのはママで・・・。

「水、水を汲んでくる。」

急いでキッチンに戻る。慌て過ぎて、ダイニングテーブルの角に身体をぶつける。振動で置いてあったママのカバンが床に落ち、中身がばらまかれた。拾わなければならないけれど、今は水の方が先。コップを手に取り冷蔵庫からペットボトルの水を灌ぐ。勢いあまって入れすぎる。こぼさないように持ったつもりだったけれど、表面張力を超えた水は落下し、カバンから散らばり出た小さな手帳を濡らす。

(あぁ、しまった。)

その小さな手帳の書かれた文字とイラストに焦点があう。

「えっ?・・・母子・・手帳?」

「りの・・・ありがとう。水、貰うわね。」そう言って、ママは私の手からコップをとる。一口飲んだママは、コップをテーブルの上に置いてから母子手帳を拾い、濡れた表面をキッチンに掛けてあるタオルで拭った。

「ごめんね。黙っていて。」

「ママ?」

「病気じゃないの、これは、つわり。」

すぐに理解はできなかった。

「つわり・・・」辛うじて出た声は、かすれていた。









今日は晩御飯を作らなくていい。隣で経営しているフランス料理店が定休日であるから、母さんが晩御飯を作っている。慎一はのんびりとリビングのソファで、機嫌の良い母さんの鼻歌をBGMにして、スマホでサッカーゲームをしていた。

「慎にぃ、勉強しなくていいの?」とえりもまた、スマホを操作しながら言って来る。

「そっくり、そのまま返す。」

中間テストが週明けにあるのは、中等部も高等部も同じだ。

「えりは、今、してるんだよ。」

「はぁ?」

「ほら。」とスマホの画面をこちらに見せてくる。勉強アプリをしているようだ。

「ほぉ~感心、感心。雪降るぞ。」

「一言多い!もう、どうして偉いねって褒められないかなぁ。藤木さんを見習って欲しいもんだよ。」

藤木は女にだけ優しい。軽々しく女を褒めるのは、ただモテたいがための媚だ。そんな芸当をマネできるはずもなく。

慎一は話を変える為に、キッチンへと顔を向けた。

「なぁ、母さん。」

「なぁに。」と答えるも、鍋をかき混ぜながらの鼻歌は続く。

「りのが、さつきおばさんの調子が悪そうだって心配してるんだけど・・・何か知ってる?」

鼻歌が止まった。

「さつきが?」

「うん、食欲ないみたいで、でもさつきおばさん大丈夫だって。食べ過ぎで少し胃を悪くしただけだって言うんだって。」

「・・・・。」黙ったまま鍋をかき混ぜ続ける母さん。

「病院の検査はしたらしいよ。」

えりも心配の表情を慎一に向けてくる。

「倒れたの、ちょうど一年前じゃん、だからまた倒れるんじゃないかって、りのが心配して。」

「大丈夫よ。さつきも、それは心掛けていると思うわ。」

「うん・・・。」慎一は相槌をうったものの、変に声色を変えた母さんの態度に、若干の不審を抱く。

母さんは鍋の味見をして、「おいしくできた。」と明るい声を出す。

それが何だが、白々しく聞こえた。

家の電話が鳴る。

「はいはい、はいっ」と母さんはまだ電話の受話器を手にしていないのに、返事をする。「あぁ、さつき、うん・・・・」

さつきおばさんからの電話だ。電話ができるってことは元気な証拠だろう。と慎一は胸をなでおろし、三人掛けのソファに寝転びサッカーゲームを再開させた。

「うん・・・・あらら、またぁ・・・・うん、わかった。慎一に行かせるわ。」

(えっ?)その言葉が、嫌な予感をさせる。慎一は寝転がったばかりの身体を起こした。

「話すわよ。いい?・・・じゃ、一旦切るわね。うん。」電話を切った母さんと目が合う。

「慎一、また捜索に行ってくれる?」

「はぁ?」

「りのちゃんが、家を飛び出したって。」

「何で!?」

「それがね・・・。」と母さんは、レモンでもかじったような表情をして躊躇ったあと、続けた。「さつきね、妊娠してるの、それをね、りのちゃんにバレて・・・。」

「・・・はぁ?!」慎一は叫んだ。

えりもこれ以上ないぐらいに驚愕の表情で固まっている。

「さつきの食欲のなさは、つわりが原因なのよ。」

「ちょっと、待って・・・。」話が突飛過ぎて、慎一は頭を抱える。

妊娠したら、つわりで食欲がなくなるのは知っている。その辛さがどんなものなのかは流石に知らないけれど。そうじゃなくて、理解できないのは、妊娠するには相手がいると言う事だ。コウノトリが運んでくるなんておとぎ話は、絶対にない事ぐらい慎一は知っている。さつきおばさんは未亡人だ。妊娠をするに至った行為をした相手が誰なのか?

「さつきおばさん、彼氏いたんだ・・・」とつぶやくえり。

「彼氏というより・・・」と母さんは言い淀んで、キッチンから出てきた。

「本当は、命日以降まで黙っていて、ちゃんと正式に話すって予定でいたんだけどね。あんたたちにも。」

「命日・・・。」

「うん、やっぱり解離性の再発が心配だからって。」母さんは大きく息を吐いた。そして・・・「相手はね、村西先生よ。りのちゃんの主治医だった村西先生。」

慎一は、声も出せないぐらいに驚いた。






『アメリカ研修でね・・・そういう関係になって・・・』

とママは消え入りそうな声で語る。

『村西先生が、結婚しましょうって、言ってくれて・・・』

結婚・・・ママと、あの顔黒が。

『でもね、りのが心配だから、話すのは、あの日から一年経ってからにした方がいいかなって。だから黙っていて・・・ごめんね。』

あの日・・・それはパパの命日だ。

『・・・でも・・・ママはパパが結婚相手で。』

『りの・・・』ママは顔を背けた。『あの人は、もうこの世にいないの。』

あの人・・・そういえばママは、もうずっとパパの事をそう呼んでいる。

『あの人とはもう、離婚したのよ。だから芹沢じゃなく真辺になった。』

わかっている、そんなことは。でも理解できない。いや、したくないだけだ。

『ママは、パパの事を・・・』

『もう、随分と経つわ。あの人が死んで・・・ううん、あの人が死ぬ前から、私達はうまくいっていなかった。』

パパが死んで5年、それ以前と言うなら6年、沢山の辛さの中でママはパパへの愛を無くした。それはきっと私のせいでもある。

耐えられなくなって、私はそのまま逃げだすように家を出てきた。

隣市の山間にある霊園。バスを乗り継いで一時間、霊園の入り口で、花も何も持ってきていない事に気付く。昼間なら駐車場を管理している小屋で花や線香などが売られているけれど、もう午後7時の過ぎた今は、管理小屋も閉まっていた。   帳がおりて、完全に闇になりつつある広い霊園の、所々にしかない外灯を頼りに進んだ。

あれから約一年、月に一度は来て、花を添えた真辺家の墓。

ここにパパ「芹沢栄治」の遺骨はない。だだ、墓石に名前を刻んだだけ。

愛がとっくになかったママはどんな想いで、真辺家の墓にパパの名を掘ったのだろうか。

それも、私の為で、私のせいだ。

私の精神安定剤的なものだった。私が、それで心休まるなら、もう二度と5歳児に戻さないように、と念を込めたのだろう。

墓の後ろにまわる。

おばあちゃんの名前の隣に、芹沢栄治と彫られた文字に手を当てた。

「パパ・・・私は、ずっとパパとママの子・・・愛されて生まれてきたんだよね。」















慎一は、混乱したまま家を出る。

(さつきおばさんが、妊娠・・・そして再婚。順番が逆だ。いや、今時そんなことはどうでもいい。相手が村西先生・・・

村西さつきとなるのか・・・りのは、村西りの・・・名前が三度も変わる事になる。そんなことも、どうでもいい。)

慎一は、展望公園のある山へと顔を向けて、大きくため息ついた。

何かと悩むと展望公園に行くりのを、何度、迎えに行く事か、正直うんざりした。

栄治おじさんが死んで、沢山の辛さを母子だけで耐えてきた。親戚以上の付き合いを昔からしてきた新田家が、困っている真辺家を助けるのは仕方のないことだ。だけど、もうさつきおばさんも再婚するほどに状況が変わって来ている。

そして自分も、一年前の心境とは違う。

あの頃は、りのの存在だけが、生きる目的のようだった慎一、それが今の自分にはない。

『ニコが選ぶ物すべてを認めて。俺はずっと変わらずニコの心配をする。』と言った自分の言葉が、呪縛のようになりつつある。

慎一は展望公園へと歩きながら、持って出てきていたスマホを操作する。電話の相手はすぐに出て、明るい声が耳に飛び込んでくる。

「慎君、どうしたの?」

「あのさ、俺、りのを迎えに行かなくちゃならないんだ。」

「真辺さんを?」

「うん、りのが家を飛び出してさ。それで捜索をおばさんから頼まれて。」

「捜索って、どこに行ったか分からないの?」

「あ、いや、いつもの事だから、どこかは分かってるんだ。」

「流石は、仲の良い幼馴染ね。」

「ほら、そうやって拗ねると思ったから、正直に話しておかないと、と思って。」

「あぁ、ごめんなさい。」

「迎えに行くだけだから。お役目が終わったら、また電話するよ。」

「わかったわ。」

「じゃ。」

「うん。」

悠希と話すと心が落ち着く。前向きになれる。だから、スタメンも取り戻せた。それは、りのがすべてと思っていた時とは違う。ずっと石田先生や藤木に周りをよく見ろと言われていた。視野の狭さゆえのりのへの執着だったのだろう。と今では自己分析までできる。「りの離れ」は、確実に自分に良い傾向をもたらしていると確信する。

慎一は、ジョギングするつもりで駆けだし、展望公園の階段を上った。さっさとりのを家に連れ戻して、悠希と電話をしたい。そんな気持ちで展望公園にたどりつくと、そこには誰もいなかった。

「嘘だろ・・・どこに行ったんだ?」

悩むときは、りのはいつだってここだ。ここしかありえないと思ったのに、いない。

(どこへ?)

考えても、りのが行きそうな場所は、他に思いつかなかった。

「まさか、また誘拐?」とつぶやいて、いやいや、と首を振って否定する。りのは誘拐に遭っていない。遭ったのは悠希で、りのは学園で殴られて意識を失って殺されかけただけだ。

だけ、という言葉を、自分が普通に出した事に「ちっ」と舌をならした。

この三年間は、あまりにも普通じゃない事を経験しすぎてきている。

さつきおばさんも、りのが行方知れずになる事に慣れてしまったのか、当たり前のように慎一に探してと頼むのも、どうかと思う。抗議したくても、つわりで辛いさつきおばさんに、できるはずもなく、そして、展望にいないからと捜索を止めるわけにもいかない。途方に暮れている時、スマホの呼び出し音が鳴り、慎一は驚きで身体びくつかせた。

「はい。」

「慎君、真辺さん見つかった?」悠希が心配してかけて来てくれた。

「それが・・・いないんだ。」

「えっ?どこにいるのか分かってるって言わなかった?」

「うん・・・」

「それってどこなの?」

「展望公園、俺の家の近くの。」

「あぁ、あそこね。ねぇ、真辺さん、家を飛び出したって何があったの?お母さんの調子が悪いんじゃなかった?そんなお母さんをほおって家を飛び出すって、ひどいわよ。」

「いや、そうじゃなくて・・・。」

躊躇ったものの、いずれは皆に知れる事であると、事情を悠希に話した。

「りのは、辛いことや悩み事があると、この展望にくるんだ。それなのに、居ない。どこを探したらいいかわからなくて。」

「・・・お墓じゃないかしら。」

「お墓?」

「うん、私なら、お父さんのお墓に行くと思う。」

「なるほど。行ってみる。」

「今から?」

「うん、りののお父さんのお墓は、香里市の奥山にあるんだ。」

「そんなに遠いところ?」

「バスだと3、40分でいける。」

「行かないでって言っても、行くんでしょう。」

「ごめん。」

「仕方ないな。許す。」

「ありがとう。」

「気を付けてね。」

「あぁ、また電話する。」

「うん。」

慎一は展望公園の階段を駆け下りた。ちょうど、電車が来て乗り込む。ここから香里市前の駅まで行って奥山行きのバスに乗った方が早い。

発車した電車の中で、慎一は大きなため息をはいた。







芹沢栄治と彫られたくぼみを、繰り返しなぞる。指先が裂けて血が出てきた。それでも止めなかった。

「パパ、どうして死んだの?」

(それは、電車に轢かれたから。)

何故、線路へ落ちたのかは、判明していない。当初はうつ病による自殺と判断されたけれど、黒川君のハッキングのおかげで、誰かに突き飛ばされた可能性がある事が浮上した。だけど、もう捜査も打ち切られていて、再捜査請求も難しいと、真実は不明のまま。

自殺死、事故死、どちらにしろ、もしママとパパが愛し合っていたら・・・パパが死んでも、ママは他の男の人なんか好きにならなかったはず。顔黒に言い寄られても、ママはパパを愛しているからと突っぱねられたはず。

「パパ、どうしてママと喧嘩なんかしていたの?」

(それは、日本に帰国して、互いの仕事が忙しくなったから。)

パパの仕事の関係で海外移住した約6年、パパは毎週末、私を登山やキャンプなどに連れて行ってくれた。もちろんママも一緒で、喧嘩をしている所なんて見た事がなかった。それなのに、日本に帰国すると、その生活は一変した。パパは週末も仕事で夜も帰りが遅く、顔を合わすのは朝の支度の忙しい数十分間だけとなった。当然、週末に遊びに連れて行ってくれることもなくなった。ママも看護師の仕事に復帰し救命看護師の資格を取ると言って勉強も始めた。その頃からパパとママは喧嘩をすることが多くなった。

私がもっと強ければ、いじめられても、パパが死んでも強く、精神障害なんて起こさなければ、病院に通う事もなく、そしてママは村西先生と出会う事もなかった。

(どうして、こんなことに・・・)涙は枯れることなく出てくる。

(何故・・・)滲んだ視界を拭うと指の傷に染みた。

痛みを感じる自分が憎い。

(どうして私は今、正気なのだ。)

もっと、解離性意識障害が長引いていたら、ママはアメリカ研修に行ってなかったはず。

今、解離性意識障害を発症させて5歳児に戻ったら、ママはお腹の子供を諦めて、ガン黒との結婚をやめてくれる・・・

(私は、なんて酷いことを考える。)

子供を諦めるとは・・・それは、子供を殺すこと。

一瞬でもそう考えた自分が、心底嫌になる。

また最初から、墓石のくぼみに指を入れ、なぞる。

血が墓石についた。

英「痛い・・・痛いよぉパパ・・・助けて・・・」










夜のお墓なんて、お化け屋敷でも嫌なのに、本物の霊園が平気のはずがない。悠希の言葉にそうかと納得した慎一だったけれど、霊園に着いてから心底後悔した。

踵を返して、見つからなかったとさつきおばさんに謝る。それが良いと本気で考える。

(今まで、りのに対して散々世話を焼いてきた。もういいだろう。)

さつきおばさんもきっと許してくれる。そう言い訳をしながら、本当に帰ろうと踵をかえすと、どこかでカラスが一声してガサっと葉ずれた。恐怖のあまり、慎一はビクリと動きを止めた。

(りのも、こんな暗い霊園に墓参りなんて・・・しないだろ?)という希望とは裏腹に、慎一の心や頭に次第に強まってくるあの感覚。

【そこにいるとは限らない、だけど、絶対にりのはそこにいる。】

「また・・・。」

この感覚があって、無視して帰るわけにはいかなかった。慎一は覚悟を決め、深呼吸をしてから霊園へと入っていった。

樹々に囲まれた霊園は、園内の通路だけを外灯が照らしている。しかし十分とは言えないその照らし方は、変に一部の墓だけを浮きあがらせていて、墓石の背後の闇から何かが出てきそうで怖い。

幸いにも真辺家の墓は、入り口から縦に伸びる通りを三筋行って右に曲がって二つ目とわかりやすい場所にある。昨年の刻印式以降、自分の祖先の墓参り以上に、りのに付き合って墓参りに訪れていた慎一だった。

三つの筋を数えて右に、二つ目の墓はもう見えている。だけど墓前には誰も居ない。それでも慎一は歩む。

【墓の後ろに、りのが居る】という確信があるからだ。

真辺家のお墓の前で手を合わせてから慎一は、花も線香も持ってきていない事に気付く。心の中ですみませんと謝りながら、慎一は墓の裏へとまわった。

【やっぱり、りのはいた。】

墓石の下段に顔をうずめるようにうずくまっているりのは、慎一が砂利を踏みしめた音で、ゆっくりと顔をあげた。

すでに泣きはらして虚ろな目だったが、慎一の姿を見ると、唇を震わせて涙をこぼした。

「りの・・・」その先の言葉が見つからない。

今の自分は何を言っても偽善になるような気がした。

りのは、鼻をすすりながら、掠れた声を出す。

「私のパパは・・・このパパだけ。」そう言って、いつものように【芹沢栄治】の彫られたくぼみに指を入れてなぞる。「だけど・・・パパは居ない。」

りのの指先が汚れて見えた。よく見るとそれは、墓のくぼみにもついていて、血だった。

「パパに会いたい・・・私のパパは芹沢栄治だけ。」

「りの、やめよう、指が・・・」尚もたどるりのの手を掴んで止める。

りのは大きく声を上げて泣きだした。その気持ちが痛い程伝わってくる。貰い泣きそうになるのをぐっとこらえ、

慎一は慰める言葉が見つからないまま、ただ、りのの傷ついた手を握るしかできなかった。






誰かの呼ぶ声で、意識が覚醒する。

「りのちゃん・・・」しゃがみ込んで覗く啓子おばさんがいた。

啓子おばさんは悲痛の微笑みで、私の頬に手を入れて涙で張り付いた髪をそっとかき上げた。そして、隣にいる慎一へと顔を向けてうなづく。

りのは泣き疲れて寝てしまい、陥たようだ。

慎一が派手なくしゃみをする。何故か慎一は半そでのTシャツ姿だった。

「迎えに来たのよ・・・立てる?」

どれぐらいの時間、ここに居たのだろう。立ち上がると身体が強張って軋んだ。服が足元に落ち、それを啓子おばさんが拾って慎一に渡した。慎一が自分の服を脱いで、私の身体にかけていてくれたようだ。

昔の優しい慎ちゃんが慎一になっても、変わらずにいるって事を実感する。

「おばさん、いつから知ってたの?」

「さつきの妊娠がわかってすぐ、アメリカ研修の1か月後ぐらいに相談されて。」

ママの妊娠、その相手が村西先生だった事もショックだけど、それを一か月以上も黙っていられた事がショックだ。

「慎一も?」

「俺はついさっき、りのを探しにくる直前。」と言った途端、また大きなくしゃみをする。パーカーのファスナーを首まで閉めて鼻をすする。

(良かった。)と心の中で胸をなでおろす私。慎一にまで黙っていられていたら、ショックはもっと大きかった。

「黙っていて、ごめんね・・・りのちゃんの事を思っての事だったのよ。」と啓子おばさんの謝りに、首だけを振ってこたえる。

「とりあえず、車に。」と啓子おばさんが私の肩を抱き寄せて促すのに、素直に従って歩いた。

霊園の駐車場に置かれた新田家の白いバンの後部座席に、慎一と並んで座った。啓子おばさんは運転席でエンジンをかけたものの、発車はせずにこちらへと振り向いて問う。

「りのちゃん、どうする?今日は家に帰らず、うちに泊まる?」

すこし考えてから、私は首を横に振った。

「家に帰る。ママに、言いたい事あるから。」

私がそう言うと、啓子おばさんは険しい顔で戸惑った後、「・・・そう。じゃ送るわね。」と、ハンドルを握って車を出した。

言いたい事、ちゃんと言えるだろうか。だけど、時間が経てば経つほど言えなくなってしまうだろう。

嫌な事は、全部私に押し付けるりの。

(やっぱり、ずるい。)

慎一は、センターコンソールを開けて、何かを探しはじめた。

「なぁ、母さん、絆創膏持ってない?」

「絆創膏?持ってないわよ。どうしたの?」

「りの、怪我してるんだ。」

「はぁ!?」啓子おばさんは奇声に近い声を上げて急ブレーキを踏み、車を停止させる。「何!どこをっ」

「えっ?あぁ・・・」

両手の人差し指と中指の指先が血まみれで固まっていた。

啓子おばさんも傷を視認すると、増々悲痛な表情で首をふる。

「ドラッグストアに寄るわ。」

「だ、大丈夫、もう血は固まっているから。」

「駄目よ。ちゃんと手当しないと。」と、車を発進させる。「ばい菌が入ったら大変だわ。」

それ以上は抵抗せず、私は窓へと頭を寄せ、暗い闇の景色を見た。

(何時だって、りのが皆を困らせる。私のせいじゃないのに・・・)

また慎一が大きなくしゃみをして鼻をすする。

「何?花粉症?」と啓子おばさん。

「かなぁ。ドラッグストアで鼻炎薬も買って。」

「全くぅ。」

ドッグストアで消毒液と絆創膏と花粉症の薬を買い、その場で処置をされた後、真辺家のマンションへと戻る。

啓子おばさんから連絡を受けたママは、玄関ロビーで待っていて、車が着いた途端に駆け寄ってくる。

「りの・・・」ママはスライドドアから半身乗り込んできて、私を包むように抱きしめる。

何の感情もおこらない。

「ママ、ママが誰と結婚しようとも、私のパパは、芹沢栄治だけ。」

抱きしめられていた腕が解かれ、ママは悲痛な面持ちでうつむく。

「でも・・・妹か弟ができるのは歓迎する。」

「りの。」

「元気に生まれて来て。」そう言って、ママのお腹を擦った。

「ありがとう、りの。」

ママはまた私を抱きしめて、泣いた。








珍しく新田が朝練に来なかった朝、練習を終えて下駄箱ロッカーで、登校してきたりのちゃんの姿を見つける。亮は足取り軽やかにステップで駆け寄り、「おっはよう。りっのちゃん!」と毎日の声掛けをする。

最近、お母さんの身体の具合が悪そうだと心配して落ちこんでいるりのちゃんへの励ましの為、いつもより三割増しのテンションで声をかけながら、うつむいているりのちゃんの顔を覗いたら、「おはよう」の返答なく頭を上げたりのちゃんの顔はひどかった。

「どうしたのっ?」

腫れた瞼。そして、カバンを持つ手の指先は両手共に絆創膏まみれで。

亮の問いかけに、ため息を吐いて視線を外した時、タイミング悪く携帯にメール着信のメロディーが鳴る。亮は相手の親密度によって着信メロディーを変えていて、それが新田からのメールであるとすぐに判明する。りのちゃんのこの状態と、朝練に来なかった新田からのメールである事を踏まえて、即座に何かがあったと亮は悟った。

「ちょっと、こっちへ。」亮は、ひどい顔のりのちゃんの腕をとり、人気のない東棟の階段脇へと誘導した。

歩きながら新田からのメールを読む。

【風邪ひいた。学校休む。りのの事、頼む。今日も昼飯食べられないはずだから、プリンでも買ってやって。】

(風邪ひいた!?)

中等3年間で風邪やらの病気をしたことがない新田が、しかもわざわざ、りのちゃんにプリンを買ってやってくれと依頼してくるとは・・・。

(理由を綴れよ。)と心で突っ込みながら、大人しくついてきたりのちゃんの顔を覗き込み、本心を読み取るも、やはりわからない。

「りのちゃん、何かあった?」そう問うても、りのちゃんが素直に話さないのは、長年の付き合いで亮はわかっていた。

案の定、亮の視線から逃げるように顔を逸らす。

「新田から、こんなメールが来たけど。」

先ほどの新田からのメールを見せると、りのちゃんは眉間に皺を寄せた。

「きのう・・・半袖でずっと外にいたから。」

「え?」

「私に上着をかけてくれたから・・・それで風邪ひいた・・・わたしのせい。」

亮の聞きたいのはそういう事じゃない。新田が風邪をひくまでに外でずっと居る事になった経緯を、知りたいのだ。

「あぁ・・うーん。」

亮が困った唸りをすると、りのちゃんは増々険しい表情になって、そして突然に、手に巻かれた絆創膏をむしり取り始めた。

「ちょっ、りのちゃんっ駄目だよ。怪我してるんじゃないの?」止めた亮の手を振りほどいて唇を噛んだりのちゃんは、涙をこらえていた。その姿があまりにも辛そうで、亮は思わず抱きしめた。

「うっ、うぅ・・ぜ全部、私のせいなの・・・」と遂に泣き出してしまう。

「りのちゃん、何があったのか知らないけど、あまり自分を責めない方がいいよ。この世の中、人間一人だけのせいって、まぁないから。」

りのちゃんのさらさらの髪をなで宥めた。嫌がることなく亮に体を寄せてくるので、よっぽどの事があって、人縋りたいのだと見た。しかし、ずっとこうしているわけにもいかない。亮はいつまでもこうしていたいが。

(とても授業を受けられる状態じゃない。安直だが保健室で休ませるか。)

そう思案していて、人が階段から降りて来る気配に気づくのが遅れた。

降りて来た麗香と目があって、まずいとりのちゃんから腕を離すものの、遅かった。

「あ、あんた・・・朝から、何やってるのっ!」

「ち、違うっ」

「言い訳なんか聞きたくもないわっ。大丈夫?りの。」とりのちゃんに駆け寄る麗香。

(まぁ、百聞は一見に如かずだ。麗香もりのちゃんの顔つきを見れば、どうしたのかと訝しるだろう。)

「そう、違うわ。全部りののせいよ。」そう言って、顔をあげたりのちゃんの顔が、綺麗に戻っていた。

「えっ?」

タイミング悪くチャイムが鳴る。

「ありがとう、藤木。何度も話すのは面倒だから、皆がそろっている給食の時に話すね。」と笑顔で振り向いたりのちゃん。

(な、なんだ?)

似たような状況があったような感覚、デジャブ・・・。

「麗香、おはよう。また後でね。」

「う、うん。またね。」

教室に駆け戻っていくりのちゃん後ろ姿を、何かが引っかかる思いで見送った亮。

「あんたねっ」と怒りを再燃させる麗香の口封じのために、新田からのメールを麗香に見せた。

「風邪!?新田が?」

「りのちゃん、全部自分のせいだって、泣いてたんだ。」

「はぁ!?新田が風邪で学校を休む事を?」

「そう。」

「だからって!どさくさに紛れて、抱きしめてんじゃないわよっ。」と頭を叩かれた。

「痛てっ。」

どさくさ紛れに、朝からいい思いはしたと、亮は素直に認めた。








慎君が学校を休んでいる。昨日、真辺さんを迎えに香里市のお墓まで迎えに行った後、熱が出たらしい。

帰ってきたら、また電話すると言った慎君からの電話は、随分待っても来なかった。しびれを切らして11時頃に、「どうだった?真辺さんはお墓にいた?」とメールを送ったら、「うん。居た。悠希のおかげ、ありがとう。だけど、ごめん、帰ってきたら熱が出てしまって、電話ができなかった。」との返事。それは大変と「ゆっくり休んで。」と短いメールを送り返して、悠希は慎君の回復を祈った。

(慎君が風邪をひいたのは、完全に真辺さんのせいだ。)

推測するに、慎君は部屋着のまま捜索に出たのだろう。夜はめっきり冷え込んできたこの時期に、真辺さんを想ってお墓まで探しに行く慎君の優しさが、尊敬するほど誇らしくも、それが自分に対してではない事が憎らしい。

(私が、慎君の彼女なのよ。)

真辺さんに公言出来ない事が苛立しい。

俯いて何度もため息を吐く真辺さん、箸の進まない給食に見かねた藤木君が、売店でプリンを買って来る。残した給食のトレーを柴崎さんが返却をする。皆が真辺さんに甲斐甲斐しく世話をしてご機嫌を取るのに、真辺さんはずっとうつむいたまま、何一つお礼を言わない。

皆に心配される事で、自分の存在をアピールする。それが真辺さんの手法であると見抜いた悠希は、心から嫌悪する。そんな姑息な真辺さんに、慎君はずっと振り回されてきたのだと思うと、本当に腹が立つ。

やっとプリンを食べ終わった真辺さんは、つぶやくように話し始めた。

「ママが調子悪かったのは、妊娠してたからなの。」

「妊娠っ!」

全員が驚愕に叫ぶ。ひときわ声が大きかったのは柴崎さん。

「ちょっと、声大きいわよ。」いつも冷静な佐々木さんが、回りを見渡して注意する。

周囲の生徒たちが、こちらに注目していた。

「ご、ごめん。えっと・・・あ、相手は誰?」誰もが聞きたい質問を、柴崎さんが代表して聞く。

「精神科医の村西先生。」

「ええええええええっ!」とまた全員がのけぞるほどに叫び驚いて、また周囲の生徒たちがこちららに注目する。

「ちょっと、ちょっと。」佐々木さんがしっと口に指をあてて注意するも、表情は驚愕に引きつっている。

柴崎さんは、「あぁ、もうっ」と苛立ちながら立ち上がり、自分たちの周囲に座る同級生たちに、「あんたたち、向こう行ってっ、ここは使用禁止よっ」と蹴散らす。

「おいおい・・・」と苦言しつつも、柴崎さんの行動を止めはしない藤木君も、驚いた表情を元に戻せなかった。

こういう時は頼もしい学園最強のお嬢様の我儘に、誰も文句は言えずに席を移動する同級生たち。悠希たちのテーブルの周りは人払いで変な空間ができた。

「村西先生って・・・独身?」と席に戻ってきた柴崎さんが聞く。

「うん、アメリカ人と離婚して日本に戻って来たバツイチ。」

「あぁ、良かった。不倫ではないのね。」

肯定の頷きをした真辺さん。

「いつから、そういう関係?」

「ママは、もっと以前から憧れていたって、ちゃんとした関係になったのはアメリカ研修の時だって。」

「うへ~。」と変な声を出す今野君。

「おばさま、産むの?」

「もちろん。」

「でも、りの・・・。」

「降ろせなんて言えないよ・・流石に。」

「お母様、年幾つだっけ。」

「2月で43。」

「あぁ、そうね、皆のお母様は、若かったわね。」

柴崎さんのところは、中々子供ができなくてずっと不妊治療をしてやっと生まれてきた自分だから、兄弟がいない。という話を、理事補との関係を含めて聞いていた。

「まぁでも、高齢出産であるわね。」と佐々木さん。

「妹か、弟ができるのは歓迎するけれど・・・父親は認めない。」

「再婚させないつもり?」

「ううん。した方がいいのはわかっている。私が認めないだけ。」

「そうよね。相手は医科大のお医者様だものね。」と佐々木さん。

「そうだよ、玉の輿じゃんか。」と今野君は、指を鳴らす。

「下品な事言うんじゃないのっ。」今野君の頭をひっぱたいた柴崎さんは、真辺さんへと向き直って「村西先生なら、ある意味心強いわね。」というのに対し、真辺さんは苦悶の表情を向けてうつむいた。

「ご、ごめん、りの。」慌てて、またご機嫌をとる柴崎さん。

これらの話を既に知っている悠希は、衝撃もなく真辺さんをじっくりと観察できた。

うつむく態度、悲痛に歪ませる表情、ため息、それらすべてが憎らしい程に綺麗だ。そして、嘘くさい。

(何を悲劇ぶっているの?もう、子供じゃないのよ、親の再婚に傷ついて家を飛び出すなんて、幼稚だわ。父親を亡くして母子になった境遇も、世界に五万といるわよ。お医者様と再婚だなんて、最高に良いことじゃない?しかも、村西先生は副医院長で、あの優しくて中々にかっこいい村西先生が親になるのに、どうして嫌だと言える?)

そうした不満を言う事で、皆に同情してもらおうとする狡猾さが見え見えで、悠希はもう見るのも聞くのも嫌になってテーブルの下で携帯を操作する。

慎君へのメール。

【大丈夫?学校帰りにお見舞いを持っていくわ。何か欲しい物ある?】

【いいよ、悠希に風邪を移したら駄目だし、熱は下がったから、明日には学校行けると思う。】

【無理しないで。】

【うん、ありがとう。】

【大好き】のコメントがついたうさぎのイラストを送った

【(笑)元気出るよ。】と返ってくる。

(私が、慎君の彼女なのよ。)

と言いたいもどかしさを払拭するように、悠希は皆から同情されて慰められている真辺さんへと、冷たい目で一瞥した。





















週明けから二学期の中間テストが始まる。月曜日から部活動はなくなっていて、授業が終わると帰ってしまう人がほとんど。最終下校時間まで自習室や図書室などが開けられているが、利用するのは一部の馴染みの生徒ばかりで、学園内は閑散としていた。

森山君が自習室で試験勉強しているのをりのが見つけて、一緒に試験勉強をした。森山君との勉強は良い感じではかどったけれど、途中から飯島が登場し、いいがかりをつけて邪魔をしてきて、りのは逃げるように教室を出るハメとなった。そして疲れて引っ込んだりの、今日は、出たり入ったりだった。

ママの再婚が相当のショックだったようで、りのは情緒不安定気味。りのが暗く沈むたびに、入れ替わりに気付かれずにうまく振る舞う私。それが私の存在理由といえども、いい加減にうんざりだ。

(慎一のお見舞いに行こう。)

学園の門を出て思いつく。お見舞いは何がいいか?のど越しの良い物と考えてプリンが思いつくけれど、プリンはおじさんの店にある。欲しければいくらでも食べられるだろう。じゃぁ、何が良いかと考えながらバスに乗りこむも、食べ物は何でもある新田家に、持っていくものを全く思いつかないまま、バスは降車亭についてしまった。

(まっいいか。手ぶらで。見舞ったという事実が、最高の見舞い品だ。慎一は、昨日の事で私の心配している。私の姿を見せる事が何よりの安心になり、特効薬となるだろう。)

私は軽やかな気持ちで交差点を渡る。新田家が経営している店の前、窓の向こうに啓子おばさんの姿は見えなかった。

ディナーの時間にはまだ早い、家で慎一の看病をしているのかもしれないな、と考えながら店の角を曲がる。新田家の白いバンが玄関前の駐車場に止まっていて、その向こうの玄関アプローチに誰かがいるのが見えた。

「お邪魔しました。」

「お構いできなくてごめんなさいね。」啓子おばさんは開いたドアの向こうにいて、姿は見えない。

「いえ、お大事に。」

「またゆっくり遊びにいらっしゃい。」

「はい。」

新田家の門から出てきたのは岡本さんだった。啓子おばさんは私に気付かず家に引っ込んだ。

(何故、岡本さんが新田家に?)

ジュニアサッカークラブで慎一と一緒に練習していた岡本さん。私達の知らない6年間の慎ちゃんを知っている人だ。

マネージャーとして、風邪で休んだ慎一を心配して見舞って家に来た・・・それはありえるシチュエーションなのは理解できる。だけど・・・

(わざわざ、帰宅方向反対なのに来る?)

しかも中間テスト間近の時期に時間を割いて。そんな疑問の視線を察知したのか、岡本さんは私の存在に気付くと、強い表情でこちらに向かって来て、対面する。

「ちょうどいいわ。真辺さん、あなたに話があるの。付き合ってくれるかしら?」

その言葉に従って、いい話をされたことがないのは、去年の白鳥さんで経験積みだ。だからって、嫌だと逃げられない。

店から離れ、坂道を下って、一つ向こうの筋を曲がった月極駐車場の前まで行ったところで、岡本さんは振り返る。

「いい加減にしてくれないかしら。」唐突に責めた口調で私を睨む。

(何時から、こいつはこんな強い視線を向けてくるようになった?入学した当初は怯えた様子ですぐに謝っていたのに。)

「真辺さん、あなたのその、うつむいた態度が皆を巻き込んでいると、どうして気付かないの?」

(どうして、そんなことを、こいつに言われなくてはらないのか、意味不明だ。)

「そうして、今までずっと、私は悲劇のヒロイン的を装って、皆に構ってもらってきたんだろうけれど、もうみんなうんざりしているわ。」

(皆がうんざり?何を言ってるのだ、こいつは。)

「あなたのせいよ。慎君が風邪をひいたの。かわいそうだわ慎君、あなたがいつも困らせるのよ。」

「わ、私は・・・。」困らせようとしているわけじゃない。そう言おうしても、岡本さんが間髪入れず続けてくる。

「たかが、母親の再婚にショックを受けて家を飛び出すなんて馬鹿みたい。もう高校生でしょう。」意地悪く貶した目で見降ろされる。

(おかしい。何故、こんなにも上から目線の態度なんだ?年上だからか?)

「村西先生を父親だと認めないですって、とんでもないわ。あんなに良い先生を。大学病院の副医院長よ、贅沢にも程があるわ。」

(あぁ、こいつもガングロの患者だった。りのと同じ精神を病んだ者、なのに、今はその病のかけらなく、私を罵る。)

「慎君、かわいそうに、お墓にまで迎えに行って、寒かったのね、風邪をひいてしまうなんて。」

「ど、どうして・・・」

(知っている?墓に迎えに来たことを。私は昨日家を飛び出した事なんて言わなかった。)

「知ってるわよ。だって慎君、昨日、今からあなたを探しに行かなくちゃならないんだって、電話をしてきたのよ。」

(りのを探す前に電話した?慎一が岡本さんに、何故?)

「慎君、展望公園まで行って、あなたが居なかったから困っていたわ。お墓じゃないかしらって言ったの、私よ。」

(そんなことは知らない。何故、慎一は言わない?)

「そうやってね、いつも困らせるの、あなたは慎君を。慎君も、うんざりって言ってるわ。」

「そんなことないっ、慎一は・・・」

(そんなこと思うはずがないと、強く言えない。りのが困らせてきたのは事実だ。)

「ただ幼馴染ってだけで、あなたに縛られるのって、あんまりだわ。」

(それは、りのも私も自覚している。だけど、それは慎一が約束してくれたことだ。)

【ニコが選ぶ物すべてを認めて。俺はずっと変わらずニコの心配をする。】

(だから、私はニコとして、存在していられる。)

「寒い中、お墓にまで探しに行く慎君の辛労を、あなたは考えた?」

「どうしてっ、お前にそこまで言われなくちゃならないっ。」叫んだ。

「言われる理由?あるわよ。」岡本さんは、怯まず自信に満ちて私を見下げる。そして、

「私、慎君の彼女だもの。」

「・・・・。」(今、何て言った?)

「私は慎君と付き合っているの。」

「う、うそ・・・。」

「嘘なんてつかないわよ。信じられないなら、柴崎さんと藤木君に聞いてみると良いわ。」

「えっ?」

クスッと笑って見せた岡本さんの白い歯が、憎々しいほどに白くて綺麗だった。

「柴崎さんも、藤木君も知っている事よ。私達が付き合っている事は。」

何よりも、黙っていられることが辛い。

【人の為】は【偽り】だ。

黙る側の言い訳と都合でしかない。

「もう2か月半になるかしら。知らなかったのは、真辺さん、あなただけよ。」

岡本さんは得意げな表情を私に向ける。









とてもきれいな夕焼けを見せてくれる、この世界。

その彩成す茜色の虹の層は、可視光線の散乱によるもの。

七つの色の波長は、太陽が沈めば散乱してしまう。

生き残った色が夕焼けとなり美しくこの世界を彩る。

手にも持つ虹玉を、夕焼けの空にかざした。

不意に、可笑しさが込み上げて来て、吹き出す。

「馬鹿みたい。こんなのを信じたなんて。」

偽物の虹玉。

願いなんて叶うわけがない。

もう必要ない。

茜色の空が、夜の帳に消えていくように、

願いも未練もない。

虹玉を、投げ捨てた。

すぐにそれは崖下へと消えていく。

「満足したか?」

「ええ、もう、十分。」

いつも頼りにしていた大きな樹を背に見上げた。

覆った前髪をかき上げ、左目を露わにする弥神皇生。

「いいわ。自分で逝けるから。」

「それは、手間が省ける。」

この世の景色を見納めた。

ゆっくり目を瞑る。

(バイバイ、慎ちゃん。)

ニコの声が頭に広がって、

そして、私は目を開ける。

いつになく優し気な微笑みをしている弥神皇生。

「どうだ?一人の気分は?」

「寂しいわ。」

「長く、ニコが埋めていたからな。」

「ええ。」

頬に一筋、風が吹くと冷たい。

それはニコが残した遺思、

存在した証。

本当のサヨナラよ。ニコ。

涙を腕で拭いた。

「やっと、わかったみたいだな。」

「ええ、どうして、ここに来るのか。」

夕焼け色の景色を、夜の帳が塗り消していく深見山展望公園。

「無意識に、存在理由を確認しに来ていたのね。」

「とてつもなく長い時期を経てきた存在理由だ。」

「ええ・・・ここは、私が生まれた場所。」

ゆっくりと弥神皇生が頷く。

「そして、私は、あなたの・・・」

続く言葉をキスで塞がれた。

そのキスは、

気持ちがよくて、気持ち悪い。

抗いたくて、抗いたくない。

浸りたくて、

引き寄せられる。

「一つになる事が、我々の存在理由。」













りのの上籍に必要な能力の検証は、順調よく8月中には終わった。それからの手続きが長くかかるはずが、思いのほかの異例の速さで、華選称号授与の日が決まった。

常翔学園の特待生制度の真の目的、華選へ上籍する選定の場として、創設60年以来、凱兄さんしか選出されない乏しい実績を埋めるように、柴崎家一族が一丸となって華族会の審査を早めたのと、りのの誕生日が11月5日だった事が好期とばかりに事が早まった。

奇遇な事に、りのの誕生日11月5日は、神皇継嗣(呼称新皇)の誕生日と同じである。

新皇は16歳の誕生の日に成人を迎え、京宮より東宮へと住まいを変えて神皇様と生活を共にし、皇嗣としての学を積まれる。それまでは、古来より暴挙による神皇家滅亡の企てを防ぐ為、新皇は16歳まで京都の御所に皇后様と隠密な生活をされ、その姿は世間に公表されない。16歳の誕生の日に成冠初謁の儀が行われ、メディアに初めて姿をお映しになられる。

その成冠初謁の儀が行われる前に、りのの華選称号の授与式も行う事になった。

華選は、神皇直属の精鋭人である。先は継ぎの神皇様である新皇様を補佐するのは、凱兄さんやりのの若い世代。これを機に、新皇様と面識を通しておく事も大切と念頭に置いての日時取りとなった、と、麗香は聞いている。

今日、りのの華選称号授与式が行われる日は、秋晴れの天候に恵まれ、誰もが前途祝す良い日だと喜び華やいでいた。

麗香達が行ったように、本来なら神皇様が三種の神器の一つである神玉を、華選授与の者の頭上に当て、とするところを、その神玉が割れて無いゆえに、称号証の手渡しという変更がなされたが、式は滞りなく粛々と進んだ。

滝行も、朝の寒い時に行わなければならない事が懸念されたが、麗香と違い、りのは、平然と何一つ文句なく済ませ、逆に宮内庁づきの世話人に驚かれたくらいである。麗香達の華冠式の為に作られた偽物の滝が、まだ壊わされず撤去されていなかった事も、りのの華選称号の授与日が早まった理由だと、麗香は密かに思っている。民が神皇様の面前でかしづく為には一度、身を清めなければならず、精進して滝行を行う事が決められているからである。その為に、凱兄さんや前任の華選者たちは、わざわざ前日に京宮へ滝行に行くか、華選称号授与式自体を京宮で行うかしていたのである。ちなみに、一度身を清め神玉を頭上に当てられた者は、肉魚を食べても良く、その都度滝行しなくても皇前に出られる。ただ華冠式の時がそうだったように、人の血など汚れた物と神皇様の接触はご法度だそう。その事があるので、祝事であっても親や配偶者の付添いはできない。よってりのの華選称号授与式は、主に麗香を含む柴崎家が付添った。

麗香は見守る式の間中、りのと出会った事、りのと親友になった思い出を反芻しながら、誇らしく自分をも称えた。平然と滝行を済ませたりのだったが、流石に全行程の式を終えた時には疲れの色が出ていた。

麗香は宮内庁の女性世話人よりも率先して、式を終えて疲れてほっとしているりのを気遣い、控室へと戻る。控室は着替える為の部屋でもある為、お父様などは入ることができず、別の部屋があてがわれている。お母様と洋子おば様も控の間に戻ってきて、全員が、袴のまま(華選は、上着は白である。)重厚なソファに座り、フーと一息ついた。

 この後、昼を挟んで成冠初謁の儀が行われる。それまで2時間はあるが、その儀に参列しない者は東宮から退去しなければならない。柴崎家の男性陣や美月のお父様、華族会代表代理は、続いて成冠初謁の儀に参列するが、麗香達女性陣は参列しないで帝国領華ホテルへと帰る。

20分ぐらい、ソファーで儀式の余韻に浸りつつ疲労回復をして、「そろそろ着替えて、帰り支度しましょうか。」と、お母様が重い腰の皆を促した時、控の間の扉がノックされた。宮内庁づきの女性世話人が「はい」と答えて扉を開けに行く。すると、弥神道元様、すなわち弥神君のお父様が扉を大きく開けて、声を発した。

「新皇様の御なりである。本日華選を賜った者に、謁見を所望されておる。」

扉を開けに行った女性世話人が驚いて後ろに下がり、そして床にしゃがんで皇前交手片座姿をする。麗香のそばにいたお母様と洋子おばさまも慌ててソファから立ち上がり、椅子の横で皇前交手片座姿をする。そんな状況を驚愕に見届けてから麗香も遅れて同じようにするも、りのはまごついて立ったまま。麗香はりのの腕を引っ張り座らせようとするも、もう新皇様は弥神道元様を伴って部屋に入ってきていた。

「固苦しくせぬとも良い。」

「許された、座姿を解かれよ。」と弥神道元様が言うやいなや、新皇様は

「その気・・・お主・・・」と言いながら、座りきれずに中途半端な姿勢で戸惑っているりのの前へと歩まれた。

りのは驚いて下がり、麗香にぶつかる。

「お主がいつもの・・・。」謎の言葉を発する新皇様は、驚愕に目を見開きながら更にりのへと迫る。

「いや・・・少し違う。」

りのはのけぞって、ついに尻もちをついた。

「しかし、何故、同じ?」

「・・・・何故、同じ?」

りのと新皇様が、おなじ言葉を重ねたのを不思議に思いながらも、麗香は、成冠初謁の儀の前にお伺いする異例の事態に驚いてドギマギする。

「ああ、すまない。」新皇様が、しりもちついて固まっているりのに手を差し出した。

「慎まれなさいませ。」弥神道元様が、差し伸べられた新皇様の手を阻めた。

神皇様は、わずかに悲哀な表情をしてから手をひっこめる。

「道元、この者は?」

「はい、本日華選に上籍致しました、真辺りのでございます。」

「真辺りの・・・」そう言って、新皇様はりのから視線を外さない。

「この者が、どうかされましたか?」

「いや、何でもない。そうか、華選の任、尽力致せ。」と言って、新皇様は着物を翻して部屋から出ていく。

弥神道元様も追って出ていき扉が閉まると、全員が大きく息をついた。

「りの、大丈夫?」麗香がしゃがんだままのりのの顔を覗くと、りのは一筋の涙をこぼしていた。「あぁ、りの。」と麗香は抱きしめる。

「びっくりしたのね。」とお母様もりのの背をさすり、励ます。

「新皇様に気にかけて頂けるなんて、光栄な事ですよ。」と洋子おばさまは、とても誇らしげに頷いた。












りのちゃんが、今日のこの日、華選の階級に上がる事を亮達に知らされたのは、中間テストが終わった週の金曜日である。その日は中間テストの成績順位発表日でもあった。りのちゃんは中間テスト前に、母親の妊娠および村西先生との結婚を知ったせいで勉強に気が入らなかったようで、順位が2番に落ちた。その結果は学年全生徒をざわつかせ、一位の飯島に鼻もちならないぐらいに有頂天にさせたが、そんなことも吹っ飛ぶぐらいに、亮達仲間は、麗香から知らされた吉報に驚いた。

りのちゃんの誕生日に授与式を行うことがあわただしく決まり、次いで、他の華選達を招いたお披露目会、立食パーティーが新皇の成冠初謁の儀の後に行われる事も決まり、そのパーティーに、亮と新田は友人代表として招かれた。パーティー会場は、帝国領華ホテルの別館、20階より上の階層にある華族会専用のフロアである。別館の一階フロントで招待状を見せると、驚くことにフロント裏から白鳥美月が出てきて、フロアからは見えない脇のエレベーターへと連れていかれる。

白鳥美月は、帝国領華ホテルの制服を着ていて、もうベテラン従業員のようにビシッと決まっていた。エレベーターに乗り込むと制服の胸ポケットから小さな根付のような物を出した。そしてエレベーターの操作盤の下部の何もない場所を押すと蓋が開き、中の小さなくぼみにその根付をはめ込んだ。すると操作盤の階層ボタンが全点灯する。白鳥美月が20階のボタンを押すとそのボタンだけが消えて、扉が閉まった。

白鳥美月は体を翻して、いつもの高飛車な視線を亮達に向ける。

「本来なら、このエレベーターは、あんたたちみたいなただの一般人は乗れないのよ。柴崎家の頼みだから従っているけれど、麗香に感謝することね。上の世界を見られる事を、そして・・・」白鳥美月はそこで、意味ありに間を置く。

「これらの一切を迂闊に広めたりしない事。いいわね。」

新田がおびえた視線を亮へと送ってくる。亮はそれを無視して白鳥美月に微笑んだ。

「十分、承知しております。」

白鳥美月は亮を強く睨みつけ言い放つ。

「麗香が認めようとも、私は認めない。いくら我が帝国領華ホテルの上顧客、藤木家のご子息でもね。」

「それも、承知でございます。」

「ふんっ」と白鳥美月が鼻を鳴らしたと同時に、エレベーターは20階に到着して扉が開く。

正面の壁に、大きな華族会の紋、八角花弁が織り込まれたタペストリーが目に飛び込んでくる。濃い紫に金糸で織り込まれた立派な織物は、一見するとヤクザか新興宗教の団体のマークように見え、新田が顔を引きつらせて亮の腕を掴んでくる。亮はその腕を振り払い、あえて堂々と胸を張った。

華族は、どんなにあがいても越えられない地位だ。藤木家が総理大臣を担った由緒ある家でも、いや、政治のトップを担ったからこそ、藤木家は華族会とは相まみえない対局する位置関係にある。

へりくだらなければならないのも承知だ。だが、ゲストとして招待状を貰った今日は、それは容赦していいと亮は捉えた。それを失礼と言うなら、華族会は一般人の亮達に招待状を出さなければいいことだ。その機会を与えてくれた麗香に心中で感謝する亮。

白鳥美月が先導してエレベーターを降り、タペストリーの前を通り過ぎて左へと折れる。すぐに進路をふさぐようにカウンターがあり、若手従業員のような男性が座っていた。左手には別のエレベーター。白鳥美月が、その男性に亮たちの名前を告げ、すぐに乗って来たエレベーターへと戻っていった。

「新田慎一様、藤木亮様、ようこそお越しくださいました。部屋へご案内します。」

白鳥美月とは違って、とても柔らかく上質に対応される。左手の別のエレベーターに乗り込みながら、りのちゃんのお披露目祝賀パーティーは、21階の大広間で行われる事、開場の時間が来たら呼びに来る事を伝えられる。こちらのエレベーターは特殊なボタンの操作はなかった。しかし、20階から25階までで、22階がない。パーティー会場が21階だから、二階分の高さのあるフロアなのだろうと亮は予測する。

亮たちは、23階のエレベーターすぐ横2301の部屋に案内された。部屋は、帝国領華ホテル本館のデラックスツインと同等クラスだった。窓際に応接セットがあり、左サイドにツインのベッド、右サイドにデスク、の壁に薄型テレビ。閑散期に一室一人7万はする仕様の部屋だ。それが、ここではスタンダートの部屋なのだろう。おそらくある上階のスウィートがどれほどの物か、想像するに感嘆だ。二人で十分すぎるほどにゆったりした部屋を控室として、亮たち二人にあてがわれていた。華族の世界がいかに上質で羽振りが良いか見て知れる。クローゼットが開けられていて、燕尾服が三着かけられていた。事前に届けさせていた亮の自前の燕尾服と、新田が着るレンタルの燕尾服は、黒とシルバーの2着が用意されていた。「お好きな方をどうぞ。」と、言われる。「何かご要望があれば、内線200におかけください。」と若手従業員は柔らかな物腰で退室して行った。

早速、新田が大きなため息をついた。

「来るんじゃなかった・・・。」

(言うと思った。)

本日、11月5日月曜日は、昨日までの常翔学園の文化祭の振り替えで学校は休校、サッカー部の練習はあったが、午前の運動場使用日だったので、午後2時には、亮のマンションでコンビニの弁当を食べ、時間をつぶしてから新田と共にここに来ていた。

友人代表として、亮と新田だけしかこのパーティーに呼ばれなかったのは、白鳥美月が忠告するように、華族に関する事が、ある程度の秘匿義務があるからだ。しかし、それならば、りのちゃんが華選の称号を持つこと自体を、すべて黙っておかなければならない。今野や佐々木さんと悠希ちゃんにも、麗香は話しをした。それは、以前にりのちゃんがドイツ語を習得している事を失言暴露してしまった事に加えて、麗香自身の華族としての地位意識、秘匿意識が薄いことによる。 対して白鳥美月は、高慢過ぎて気持ちが良いぐらいだ。白鳥美月と麗香の意識差は家庭による教えの違いによるものだろうと亮は分析していた。

招待状を受け取った時に読み取った麗香の本音は、特別の仲間意識だった。麗香の中にはまだ、新田とりのちゃん、麗香と亮の4人の特別の仲間意識が根強い。

亮の自前の燕尾服が黒だったので、新田も当たり前に黒の燕尾服を選んだ。着替え終わると新田は落ち着きなく部屋をウロウロしだし、衣服の裾や襟を触って着心地悪そうにする。

「座れよ。鬱陶しいなぁ。」

「座ったら皺にならない?」

「じっとしときゃ、ならねぇよ。」

「うーん。」と生返事しただけで、やっぱり座ろうとせず、スマホの時計を見て、「あと、30分・・・」とつぶやいて、また衣服を触りながら身じろぐ始末。

「常翔祭のコスプレ以外で、着るとは思わなかったなぁ・・・お前、ペンキよく落ちたな。」

「はぁ?」

「去年の常翔祭で、赤ペンキで汚してたじゃん。」

「新しいやつに決まってんだろ。」

「えーっ、わざわざこのために買ったわけ?」

「藤木家では、新年のために毎年年末には、祝祭着を新調するんだ。もう、そんなものも俺は参加してないのに、呉服屋との癒着もあってやめられないんだろう。ご丁寧に毎年、俺の分まで作っておいてある。」

「へぇー」

亮はソファから立ち上がる。新田みたいに着心地悪いわけじゃなく、ヘアースタイルが乱れてないか気になったからだ。クローゼットの前に立ちふさがる新田を退かして、姿見の前に立つ。癖のある髪の分け目を手櫛で整えていると、遠くからヘリコプターが飛んでくる音がした。その音は次第に大きくなって、建物を震わすほどになる。新田がレースのカーテンを開けると、ヘリコプターの下腹とスキッドがゆらいで上昇していくのが見えた。

「うわっすげー、ヘリ、この上に着陸したんじゃねー?」と窓に顔をくっつけるようにして見上げ、興奮した声を上げる新田。「流石、金持ち集団、ヘリでご到着かよ。」

亮も窓際に駆けつけ、そのヘリをよく見ようと見上げたが、もう角度的に見えなくなってしまっていた。

「今の、民間のヘリじゃなかったような・・・民間のヘリなら、スキッドはもっと明るい塗装のはずだから。」

「スキッドって何?」

「ヘリの着陸部分、足の所だよ。」と亮はジェスチャーをつける。「民間、個人で所有するヘリコプターは、日本では明るい色の塗装をして、着陸目測しやすくするようにと、航空法で決められている。」

「へぇー。」と新田は感心しながら苦笑する。本心では若干の呆れた感情。「まさか、藤木家はヘリも自前でお持ちで?」

亮は、その質問には答えずにレースのカーテンを閉めた。

もちろん藤木家というより、藤木家が家督するフジ製薬が、自家用ヘリを所有していた。そのヘリは藤木家本家なら使い放題なのだが、ヘリを乗り回すと世間体に悪印象なので、よほどの事がない限り使った事がない。亮は小学生の時に納品されたばかりのヘリの試運転で一度試乗していた。その時に、スキッドの話をヘリメーカーの整備士から聞いたのだった。

ヘリは、やはりこの別館の屋上に着陸したようで、ヘリコプターのローターと風切り音が止まったのがわかる。それからしばらくして、部屋の呼び鈴が鳴った。パーティー会場に案内される時間が来たのかと、亮が扉を開けに行くと、そこには、柴崎会長と無精ひげをはやした誰かが立っていた。

「ごめんなさいね。藤木君。燕尾服を借りに来たの。いいかしら。」と柴崎会長は、何故かハンカチで鼻と口を覆って話す。

「あっ、はい。どうぞ。」亮は部屋に下がって廊下を開ける。

柴崎会長に促されて入って来た無精ひげの男をよく見ると、凱さんだった。

「よぅ。」と、亮達に手を上げてくる仕草は、とても4か月ぶりとは思えないほどいつも通り。しかし凱さんは何故か迷彩柄の作業着を着ていて、右の頬に大きな絆創膏が貼ってある。そして、猛烈に臭い。

「臭っ!」思わず叫んで退いた。

「何なんですか?凱さんっ。」新田も鼻をつまんで退く。

「そんなに、臭う?」と自分の腕や脇を嗅き、首を傾げる凱さん。

柴崎会長は、新田が選ばなかったシルバーの方の燕尾服をクローゼットから取り、凱さんに宛がう。

「よかった、大きさ、合いそうね。全く、そんな格好のままで来るなんて、何を考えているの。」と柴崎会長は、鼻を摘まんだままの声で怒る。

「えー、皇華隊の設立を急がしたのは、華族会ですよ。」

「だからって、そのままの格好で来る人がありますかっ。」

「隊員の選任サバイバル試験中だったんです。」

「やっぱり、さっきのヘリは自衛隊機だったんですね。」と亮は好奇心に口をはさんだ。

「おお、流石は藤木君、ヘリにも詳しいんだね。」と振り返る、と悪臭も振りまかれる。

「凱斗っ、とにかく、さっさとお風呂に入って来なさいっ。」

「えー、そんなに臭うかなぁ。」とぶつくさ言いながら上着を脱ぎ、ソファに置いた。

「キャー、どこに置くのっ。」と柴崎会長が叫ぶ。「椅子が臭くなるじゃないのっ。」

「じゃぁ、どこに置くんですかぁ。」と、子供の様に不貞腐れる凱さん。

「もう、そんなの捨てなさい!」と柴崎会長は部屋にあった小さなゴミ箱を手にする。

(いやいや、そんな小さなゴミ箱には入らないって。)と亮は心の中で突っ込む。

「えー、防衛省からの支給品ですよ。捨てたら怒られますって。」

「もういやっ、そんな汚い物。」と柴崎会長は顔を背ける。

「ちなみに凱さん、一体、何日風呂に入ってないんですか?」と新田がどうでもいい質問をする。

「えーと、13日になるかなぁ。」

「イヤーっ」と柴崎会長は悲鳴をあげ、「皆、部屋を移りましょう。部屋が汚染されたわ。」と部屋から逃げるように出ていく。

「えー。」と凱さんは首の後ろを掻いて苦笑する。「毎日体は拭いてるよ。」

上げた凱さんの上腕に、ひどい傷があるのを亮は見逃さなかった。怪我したばかりの物ではなく、皮膚がもう変色していて歪に盛り上がっていた。処置もまともにしなかったとわかるような傷痕だ。

そういえば、半そでの衣服を着た凱さんを見るのは初めてのような気がする。夏でも長袖のシャツで腕まくりをしていて、それが凱さんのファッションに対するこだわりかと思っていた。傷を隠すためだったのかと亮は気付く。黒いピッタリとした半そでの下着から見られる身体のラインは、中々に筋肉質で、これまでの話が嘘じゃないと理解した。いつも通りに、へらへらとしたいい加減な態度だが、本心は相変わらず重苦しいほど、哀しみばかりだ。

「さぁ、行きましょう、みんな。」と促され、新田と共に2301の部屋を出て、扉の閉まる直前、

「あー、文香さーん。替えのパンツがなーい。」と叫ぶ凱さんに対して、

「情けない・・・」柴崎会長は、がっくりとうなだれた。

外でヘリコプターのローター音がまた大きくなって、飛び立って行く。












慎一は落ち着かなく周囲を見渡し天井までを見上げる。高い天井から煌びやかなシャンデリア、光沢のあるサテン地のクロスが覆われたテーブルには豪華な食事が並ぶ。正面ステージ両側には大きな花が活けられていて、中央にはスタンドマイクのステージが設置されていた。その横に、何故か衝立で仕切られて空間が作られているも、その衝立すらも花で装飾されている。慎一は会場の煌びやかさに圧倒されつつ観察し続けていた。

藤木はオロオロと戸惑うばかりの慎一とは違って、ウェルカムドリンクを手に、すました表情で立つ。片手をズボンのポケットに入れて飲み物を口にする姿は、完全に場慣れして様になっていた。

誰かに何かを言われたら、何をどう答えたらいいのか、など様々な心配ばかりが出てくる慎一に、軽蔑した視線を向けてため息を吐く藤木。

「お前んちのお父さん、ここのフレンチ出身じゃなかった?」

「そうだけど・・・父さんが料理人だったつうだけで、俺はパーティーなんて招待されたの初めてだし。」

「経験はなくても、知識ぐらいはあるだろう。」

「ないっ。」慎一は即答する。

それが合図のように、白鳥美月のお父さんがステージに立ち、マイクを手に取った。

「お待たせいたしました。それでは今日、ハレの日に華選の称号を神皇様より賜り上籍致しました。真辺りのさんお披露目、祝賀会を開催いたします。それではご登場いただきましょう。真辺りのさん、どうぞ。」

当人登場の為の衝立かと思いきや、普通に宴会場の出入り口の扉から、柴崎や柴崎会長と一緒にりのは入って来た。

「ほぉー、柴崎が気合入れて、御見立てしただけあるねぇ。綺麗なドレスだ。」と藤木が感心するように、りのは、とてもきれいなレモン色のドレスを着ていた。前後で丈が違っていて、前身はひざ下丈で可愛い印象だが、後ろは長いのでエレガントさも合わさっている。まだ髪の短いりのに、とっても似合っていた。柴崎はりのを引き立てるように、紺色の大人しいドレスを着ていた。派手色好きの柴崎が珍しい。

慎一の周囲にいる招待者達がざわめいた。

「まだ、子供じゃないか。」

「小さいなぁ。小学生に見える。」

「あれで、華選上籍か?」

りのが聞いたら憤怒する言葉の数々が聞こえて来る。

「真辺りのさんは、常翔学園中等部より、特待生として認められた優秀な頭脳を持ち、そして帝都大学と常翔大学の共同検証チームによる、言語取得能力の特色性の選定項目によって、神皇様より華選の称号を賜りました。」

「何だ?言語取得能力とは?」と慎一の斜め前にいるおじいさんがつぶやく。

「言語取得能力とは、世界のあらゆる言語を短時間で理解し話せるという素晴らしい能力です。詳しくは、検証チームによる説明をVTRでご用意いたしましたので、こちらをご覧ください。」

部屋が薄暗くなる。ステージ上のりのと白鳥のお父さんが降りると、スクリーンが自動で降りて来る。

テレビのドキュメンタリーのような説明が始まった。

「ギリギリセーフかな。」そう言って、凱さんが慎一たちの後ろに現れた。

「どこがですか、完全に遅刻です。」と言っても、あれから20分で、ビシッと見違えたように燕尾服を着こなしての登場は、早い。無精ひげも剃り、シャンプーの香りがして、もう臭くない。

「パンツどうしたんですか?」

「なくても大丈夫。」

ノーパンかよっと、思わずそこに視線がいく慎一たち。

「りのちゃん、しばらく見ない間に大人っぽくなったねぇ。」ステージへと顔を向けて微笑む凱さん。

「凱さんもしばらく見ないうちに、どうして自衛隊になんかに?」と藤木が質問をする。

その声が聞こえたのか、慎一の斜め前にいた、さきほど「何だ?言語取得能力とは?」と言ったおじいさんが振り向く。凱さんが会釈をした。

「皇華隊の設立を頼まれてね。」

「どうなんだ?進んでいるかね。」とおじいさんは凱さんの隣に並び、話に加わって来る。

「はい、陸海空の精鋭選出が終わりました。」

「ほぉ、ならば、お披露目も間近じゃな。」

「いやーそれが、皇華隊の隊員を華選に上げる事に、懸念の声があがっていまして。」

「ん?皇華隊は神皇様の直々の指揮下部隊になるのであろう?華選でなくて、何とするというのだね。」

「国家公務員を華選にすると、税の面で色々と問題があるそうです。そもそも自衛隊員は、神皇様及び国家の為に働いて当たり前で、称号など必要ないという意見がありまして。」

何か、すごい話になって来て、慎一は、それらの話を聞いてしまっていいのかと、たじろいで藤木の方へと視線を流した。しかし、藤木は興味津々でそれらの話を聞いている。こうして藤木の博識が増えていくのだと変に納得した。

「華族会の中で意見が分かれておるか。」

「はい。」

「古来より続く祈心の宗も、一枚岩ではないか。」

その言葉に凱さんは何も答えず、苦笑だけを返す。

「まぁ、息災に頑張りたまえ。」

「徳重さんも。」そう呼ばれたおじいさんは、手を上げて凱さんから一歩距離をを取った。凱さんは慎一たちに顔を向け、

「大体分かった?今の話で。」と眉を上げる。頬についていた絆創膏は取っていて、まだ生々しい傷が痛そうだった。

「神皇指揮下の部隊、皇華隊というのを新設する為に、凱さんがそれを任されている。」と藤木が納得した顔で答える。

「そう。」

「だけど、凱さんが何故?凱さんの華選項目は、記憶力でしょう。」

「そう。第一項目は記憶力だけど、後から追加されたんだよね。」

「何を?」と知りたがる事が尽きない藤木。

「追加ってあるんですか?」と慎一。

「うんあるよ。僕ね、友達に誘われて軍に体験入隊した事があってね。その経歴も華選選定項目に入れられちゃったんだよね。」

「軍?どこの?」

「体験入隊?」

との慎一達二人の質問は、スクリーンによるりのの能力の説明が終わって遮られた。

「ご理解いただけましたでしょうか。」白鳥のお父さんがりのを伴って、ステージに上がる。「真辺りのさんは現在、英語、フランス語、ロシア語、ドイツ語の、4か国後を完璧に習得しております。」

おぉと歓声が上がる。

「今後、その数は増えていく事でしょう。そして、どんな難解言語でも短期間で習得する能力により、我々華族会及び神皇様の助力となる事が期待されます。」

パチパチと拍手が起きる。

「では、その流暢なる4か国語をご披露して頂きましょう。」

白鳥のお父さんは、マイクをスタンドに戻して、りのの口元の高さに合わした。マイクの前に立ち深呼吸をしたりは、まずは英語であいさつをする。

英「皆様、こんにちは、真辺りのです。」

仏「この度は、私の為にこのような素晴らしい祝賀会を設けて頂きありがとうございます。」

露「自分が華選の称号位を授かるなど、思いもよらなかった事です。」

独「私にとって、言語は世界の人々と意思伝達ができる最高の手段です。」

英「世界中の人々と友達になる、が幼き頃の夢でした。」

仏「もしかしたら、その夢が私の能力、言語取得能力が高まった原因の一つかもしれません。」

慎一には、何を言ってるのかわからないけれど、英語、フランス語、ロシア語、ドイツ語を順に切り替えて話すのを、周囲の人たちはおぉーと感嘆に唸った。りのは、2年前のスピーチ大会の時の様に手振りを入れて、華麗に語る。

「凄いな。」と藤木。

「相変わらず、外国語だと生き生きしてるね。」と凱さん。

りののスピーチの間に、ウェイターがフロアにいる全員に乾杯用のグラスを配り始めた。凱さんに配られたグラスを見れば、シャンパンのようだ。慎一と藤木には当然に、ジンジャーエール。

ここの何人の人が、りのが話すスビーチを理解しているのだろう。招待されているのは、一部の華族の者と華選の称号を持った、いわゆるりのの先輩たちである。華選の称号を持つという事は、何かしら秀でた能力を神皇が認めて与えた者たちという事だから、秀才ばかりだろうけれど、それが、言語だけに特化しないのは、説明されなくてもわかる。

英「華族会の皆さま、そして同じ称号を持たれている先輩方、よろしくお願いします。」とりのは頭を下げて締めくくった。

白鳥のお父さんが、拍手しながらステージに上がってきて、またマイクを取る。

「素晴らしいスピーチも、私には英語以外はさっぱりで。」とおどけたように首をすぼめた白鳥のお父さんに対して会場はどっと笑いが起きる。「内容は後程、りのさんご自身にお聞ききくださいませ。」

「では、お手元にグラスが行き渡りましたでしょうか。」とステージ上の二人もグラスを受け取る。

「新たに華選に仲間入りした真辺りのさんを祝し、そして神皇様への忠誠と国の繁栄、牽いては華族会の繁栄に祈りを込めて、」グラスを高く上げる。

「乾杯。」

「乾杯。」と

全員が声を揃えた。

慎一は藤木と凱さんとで乾杯をし、一口飲んだ。

「さぁて、僕も皆に挨拶しに行かなくちゃならない。」と言って凱さんは、慎一たちのそばを離れた。

「体験入隊の経歴が追加って本当かなぁ。」と藤木に話しかけながら、早速、テーブルの豪華な食事へと視線を這わす慎一。

「嘘に決まってんだろ、そんなの。」

「じゃぁ何故、凱さん迷彩服着てヘリに乗って来たんだよ。ミリタリーオタク?」

「軍に入隊してたのは本当で、体験ってのが冗談なんだろ。」

「えー、難しいな。そのボケ方。」

「凱さん、いい体してた。」

「いっ!」慎一は藤木から一歩離れる。

「違うわっ。」

「びっくりした、男もオッケーになったかと。」

「あほか。」

慎一はテーブルへと歩み料理に物色する。料理が煌びやかに輝いている。もう芸術作品だ。

「凱さんが入隊したのって、おそらくアメリカ軍だろうな。アメリカ軍が採用しているパソコンを持っていたし。」

「黒川君がハッキングに使っていたやつ?」

「そう。あれは市場に出回らないやつだ。」

慎一が皿を手に取ると、腹の虫がか細く鳴る。

「でもさ、日本人が入隊できるもんなの?」

「アメリカは、他国籍でも入隊はできる。将校以上にはなれないけどな。」

「へぇ~。相変わらず、何でも知ってんなぁ。」

「アメリカの大学に行った人だし、卒業後しばらく行方知れずだったって、柴崎が言ってた。その間、軍隊に入隊していたとしたら・・・アルベールと時期が合う?」

慎一は、もうその話には興味がない。目の前のローストビーフの方が断然興味がある。たっぷりと取り頬張った。めちゃくちゃ美味しい。

「これ、めちゃくちゃうまいぞ。」まだ何か考えている風の藤木を料理に誘う。こんなのを前にして食べないなんて、料理も時間ももったいない。藤木の皿にローストビーフ取り分けてやった。藤木は興味なさそうにローストビーフを口に入れたが、スイッチが入ったように目を輝かせた。

「な、うまいだろう。」

「うん。うまい。さすが帝国領華ホテル。」

やっぱり、美味しい顔は何よりも勝る。

フロアの誰もが豪華絢爛の食べ物を口にして、良い顔をしていた。






「では、小さいころから?その能力は。」と、徳重という名のおじいさんは、続けて聞いてくる。

「私は意識してなかったのですけど、そのようです。」

「なるほど、日本人は英語の取得も中々に簡単ではないからね。君のその能力は、この先のグローバル社会に大いに役立つ。頼もしい限りだ。」そう言って豪快に笑う徳重おじいさんは、第一号華選の称号取得者だそうだ。華選選定項目は、政治経済学、元は帝大の大学教授をしていた博士で、政治が及ぼす社会現象を研究していた権威ある人らしい。

「ありがとうございます。」丁寧に頭を下げた。

「徳重様、お話があります。あちらへ、よろしいでしょうか。」

「あぁ、行こう。」

と白鳥さんのお父さんが、麗香に目配せして徳重のおじいさんを連れて行ってくれた。

「やっと、挨拶が終わったわね。」と麗香が首をすぼめる。

「うん。」

自分のお披露目会なのだから仕方がないのだけど、最年少華選の上籍がよっぽど珍しいのか、乾杯の後、パーティーの出席者たちに取り囲まれ、質問攻めにあった。その能力は、どんな言葉でも可能かとか、何故、ロシア語なのだとか、フィンランドに住んでいたと言えば、フィンランド語は話せないのかとか、質問はどこまでも深堀されて、招待客の華族及び華選の人たちに捕まるたびに、それは繰り返された。

「お腹、空いた。」

「私も。」と麗香と笑う。

朝早くから滝行をして、神皇様から華選の称号を授かり、あげく新皇様まで現れた。麗香はそうは見えないと言うけれど、緊張して息つく時間もなかった。当然に食事は喉が通らず、用意された昼ご飯はほとんど口にしてない。今も、こんなパーティーなんて初めてで緊張は続くのだけど、麗香がそばに居てくれるから、安心して話すことができている。元々、私りのは、お喋り好きだったのを身に染みて実感していた。

「りの、吃音もなくなって、堂々と話せているじゃないの。」と麗香が、豪華賢覧な料理を選び始めた。

「うん、治ったみたい。」私も皿を手に取り眺める。

「流石ね、華選称号授与式に合わせて治してくるなんて。」と私の皿に生ハムを勝手に乗せてくる麗香。

「別に合わせたわけじゃ・・・今日の日に向けて、いろんな人と関わって来たからだよ。いつまでも怯えてたら、話は進まない。」

ニコの意識が私の中から完全消滅したら、何故か吃音もなく話せるようになっていた。

あの人が何をしたのかもしれないけれど、良い現象だから文句の言いようがない。

弥神皇生・・・

ブルっと恐怖に震える。

(何故・・・同じ?)

「美味しい~。あれ?りの、生ハム嫌いだった?」

「ううん。好き。」

疑問を頭から排除して、生ハムを口にする。

「美味しい。」

「サーモンのマリネもいけるわよ。」

麗香は次々とお皿に料理を乗せてくれる。ほぼお腹には何も入っていないから、一度美味しい物を口にするとそれが呼び水になって、空腹が猛烈な勢いで襲ってきた。

「あはは、いっぱい、お食べ。そして、背を伸ばさないとね。」

誰が失礼な事を言ったのか、視認しなくてもわかったので「一言多い!」と振り返り、持っていたフォークを本気で刺す勢いで薙いだ。

「おっと、危ないなぁ。」とよけた凱さんの頬に赤い傷。

「えっ、当たった!?ごめんなさい。」と慌てた。

「凱さんの頬の傷は、今のじゃないよ。」と遅れて近づいてきた藤木が笑って答える。

「あぁ、これかぁ。忘れてた。」と頬をさするも、まだ生々しく、忘れるほどの傷の状態じゃない。

「凱兄さん、一体、4か月もの間、どこに行ってたのよ。」と麗香が詰問する。

「うん、ちょっとね。陸や海や空を巡っていた。」

「はぁ?」と呆れた麗香の横で、慎一と藤木が吹き出す。

「凱兄さんが居ない間、とっても忙しかったんだからね。」

「あぁ、悪いねぇ。でも、もう僕は学園の仕事から外れてるし、麗香も華冠式を終えたんだから、もう立派に華族のことも手伝えるだろう。」

「そうだけど・・・。」

「二人で助け合って、しっかりやっていくんだよ。」と言って麗香と私の頭に手を乗せ軽くなでる。「そして、新田君と藤木君も、二人を頼むね。」と二人には肩をがっしりと掴み叩くと離れて行った。

「何なの?変な凱兄さん。」と大きなため息を吐く麗香。

「変なのは前から、でも、今日はひどいーーー死ぬんじゃない?」と私。

「・・・。」黙ってしまう3人。

「いくら、背の事を言われたからって、それは言い過ぎよ。りの。」

「そうだね。一応、凱さんは、この中で先輩なんだから。」と藤木は目を細めて凱さんの後ろ姿を追う。

凱さんは、華族や華選の人たちと挨拶をかわし、沢山の話題に答えている。

改めて、慎一たちと向き合った。

「りのちゃん、とても素敵だよ。ヒールも慣れたもんだね。」と藤木が抜かりなく私を褒めて微笑む。

「ずっと麗香に特訓されてきたからね。」

「あははは、そうだね。」

昨日の文化祭でのダンスパーティーも、私は麗香にドレスを着せられて、ヒールで歩かされた。私のクラスは進学クラスの為にまじめな生徒が多く、それほど派手な出し物を企画しないで、家から要らない物を持ち寄り、チャリティバザーをした。売り上げは、国際難民救済基金に寄付する。なので品物がなくなれば終わりで、とても楽だった。慎一と藤木のクラスはやっぱり派手に凝っていて、体育館の舞台でミュージカルを午後と午前の二回公演を行っていた。麗香やメグ達の普通科クラスも、それぞれ、定番の食べ物屋さんに、ミニゲームなどで、個々で楽しんだ。

藤木が通りかかったウェイターを呼んで、ジュースを4つ頼んでくれる。その身振りがさりげなく場慣れしていてカッコいい。そんな藤木の姿に、麗香がはにかんでうつむいた。わかりやすく頬を赤くした麗香が可愛い。

ジュースが届いて、「改めて、乾杯しようか。」と藤木が言う。

「りのちゃん、華選の上籍、おめでとう。」

「ありがとう。」

と4人のグラスがカチンと合わさる。このグラスの中身がお酒に変わる日が、あと4年で訪れる。

(それまでこの4人と、ずっと仲間で居られるだろうか?)

居られないから、疑問符となって疑問が生じた。と自分の中で答えを出す。

慎一は、もう私を心配しない。

皆が心配しないから、もう助け合う仲間でいる必要がない。

慎一と目を合わす。

「綺麗だよ。」と微笑む。

「ありがとう。」微笑み返した。

社交辞令が躊躇なく出る慎一、こうして私達は大人になっていく。

もう、言葉を詰まらせて言えなかった、あの頃とは違う。

お互いに。






普通に「綺麗だ」と言えた。その言葉に嘘はない。りのは自信に満ちて、とても綺麗なのは誰が見ても間違いのないことだ。発したその言葉に、想いが入っていないのを慎一は自覚していた。

「本当に、りの離れ出来たみたいだな。」と藤木は顔を向けずにつぶやく。互いの視線はデザートのテーブルに向かったりの達へ。

「あぁ。」

「よいことだ。」

「自分の物にしようとか考えてないだろうな。」

「考えても、お前には関係のないことだろう。」

「まあね。」と冷静に即答もできる。「だけど、柴崎の機嫌が悪くなるのはごめんだ。」

「それも、関係のないことだ。」

「そうだな。」

悠希に告白して付き合っている慎一には、りのに干渉する権利も想いもない。

りのの精神を心配して、というのは、慎一の覚悟が足りなかった言い訳で、悠希と付き合っている事を、できるだけ長く報告したくなかっただけだ。とりあえずの期限として、栄治おじさんの命日が過ぎるまで言わないで欲しいと、藤木と柴崎にまでお願いしていた事だったが、悠希がしびれを切らして、りのに言ってしまった。

さつきおばさんの妊娠と、自身の華選上籍の事もあって、それどころじゃなかった時期だったからか、りのはさらりと、「聞いた、良かったね、フラれなくて。」と慎一に言った。

瞬間、慎一は肩の荷を降ろしたように気持ちで、心が軽くなった。

やっぱりりのは、慎一に特別な想いなどなかった。自分だけが幻想の想いを抱いて、重く考えすぎていたのだと知り、苦笑した。

りの達の所に、白鳥美月が寄ってきて、三人仲良くデザートを食べだした。りのを嫌っていた白鳥美月は、華選の称号を取得したりのに対して、もう邪険にはしない。

「華選の称号の威力は絶大だな。あの白鳥美月に認められるのだから。」とつぶやく藤木の声には嫉妬が含まれているような感じがあった。「華族、華選の称号は、どんなに金を積んでも手に入れる事の出来ないものだ。」

「そんなすごい物を、りのは16歳で手に入れたかぁ。」

「取得最年少記録は、りのちゃんより誕生日が早い奴しか破る事ができない。おそらく、この先、破られることはないじゃないかな。」

「よかったよ。俺、りの離れ出来てて、できてなかったら気後れでおかしくなってたかも。」

「だな。」と藤木が苦笑する。

りのたち三人の所に柴崎会長が寄ってきて何かを話す。そして、りのと白鳥美月の二人がフロアから出ていった。その二人の組み合わせが異例で、慎一は若干の驚きで見続ける。残った柴崎が、周囲の人々に声をかけては頭を下げて、を繰り返しながら慎一たちの所に来た。

「どうした?何かあったのか?」と藤木がすかさず聞く。

「ううん、そろそろ終わりだから挨拶をして回ってるの。」

「終わり?」

「うん、だけど、あんたたちは、まだここに残っていてね。フロアから出ちゃだめよ。」

「何で。」

「いいから、言う事聞いて。」と柴崎は強く言い残して、またフロアに残っている人々に声をかけて回る。

よく見れば、白鳥美月のお父さんも声をかけて挨拶をしている。それから約30分後、フロアにおおよその人が居なくなってしまい、そして、白鳥美月に伴って、我が家の面々が会場に入って来た。

「母さんっ、父さんっ、えりまでっ。」思わず品なく叫んでしまう慎一。

「あらー、慎一、似合ってるじゃないの、燕尾服。」と母さん、までもが黒いドレスを着て正装している。

「どうしてっ。」

「あははは、慎にぃ、まるで仮装みたい。」と笑うえりを藤木へとつき渡した。「あぁん、ひどいっ」と嘆くえりも、ピンクのミニドレスを着ている。

「えりりん。沢山美味しい物あるよ。食べておいで。」

「父さんまでどうして、ここは、そうそう簡単に一般人は入れないって・・・。」

父さんも恰幅よくタキシードを着ている。

「第二部があるのよ。」

「二部?」

「そう、それも麗香に感謝しなさよ。」と白鳥美月は言ってから、母さんたちに向き直る。「もう、しばらくお待ちください。」と丁寧に頭を下げて離れ、早速食べ物を物色しているえりに声をかける。

「えり、食べ残しになんか手を付けるんじゃないの。」

「は、はいっ」とえりは慌てて手をひっこめた。

「新しいのを用意するから待ってなさい。」

「はいっ、ありがとうございます白鳥先輩っ。」

「ここで先輩はやめて。」と白鳥美月はにらみを利かして去っていく。

「す、すみません。」と姿勢よく頭を下げるえり。

えりと白鳥美月はテニス部で先輩後輩の関係。えりの態度から、怖い先輩だったと予想して同情する。

「何だろう。第二部って。」

「新田家の面々を呼んだってことは親しい人間を呼んで、また祝賀会をするとか。という事は・・・さつきおばさんも来るってことかな。」

と言ってる最中に、本当にさつきおばさんが会場に入ってくる。村西先生と一緒だった。

「さつきおばさん、体調は大丈夫?」

「ありがとう、大丈夫よ。」

「慎一君、えーと藤木君だったね。久しぶりだね。」と村西先生。

夏前から面談には呼ばれていなかった。もう、必要のない事なのだろう。

「お久しぶりです。」

「こんばんは。」

「さつきおばさんも呼ばれたって事は、これから身内で祝賀会をしようってこと?」

「ええ、柴崎会長が、娘さんのハレ姿を親御さんが見られないのは残念でしょうからって、気を使ってくださって。」

「私達まで呼んでいただいてね。お断りしたんだけど、是非にって。」と母さん。

「招待されてるなんて言ってなかったじゃん。なんで黙ってたんだよ。」

「だってね。店を休めるか、わからなかったんだもの。ねぇ、お父さん。」と母さんは父さんに顔を向ける。

「え、あぁ、うん。」お父さんは、テーブルの料理のソースをなめていた。

「あーお父さん、白鳥先輩に怒られるぅ。」

元はここの料理人だったお父さんは、料理の出来栄えが気になるようだ。

「休めたんだ。珍しい。」

「上籍なんてとてもすごい事だし、久しぶりにここにも来たかったからね。」

母さんもここの従業員だった。本館のフランス料理店のフロア係で、最終的にはチーフにまでなったとか。

そんな会話をしている間に、会場内の料理が並べられていた長テーブルが片付けられ、何故か丸テーブルと椅子が運ばれ、宴会のセッティングがされていく。そして促されて、それぞれ丸テーブルに着く。

「なるほど、そういう事か。」と藤木がにやりと笑う。

「何だよ。」

「中々、粋な事を考える。」

「はぁ?」

りのと柴崎、凱さんに続いて、柴崎家の面々が入ってきて、次いで白鳥美月とそのお父さんは、帝国領華ホテルの制服に着替えて入って来た。ステージのマイクを取る白鳥美月のお父さん。

「お待たせいたしました。真辺りのさんの希望により、親族及び親しい方々をお招きして、お祝いの場を設けさせていただきました。ご存じの通り、真辺りのさんは本日、華選の称号を賜り、我々華族会の一員になられました事を、心より喜び歓迎致します。」

テーブルのグラスに飲み物が注がれる。

りのがステージに上がり、マイクを変わった。

「私が、華選の称号を頂けるに至ったのは、柴崎家の皆さま、華族会の皆さまの支援のおかげです。感謝いたします。」とりのは、脇に立つ白鳥のお父さんに頭を下げて、柴崎家の面々が座るテーブルの方にも顔を向けて頭を下げた。

「そして、誰よりも感謝をしなければならないのは、ママ。ママには沢山の心配と苦労を掛けて来た。感謝の言葉だけでは足りない、返しきれません。」

感極まったさつきおばさんが涙を流す。

「だけど、言葉にしないと伝わらない。ママ、ありがとう。そして、結婚おめでとう。」りのがそう言った瞬間、フロアが暗くなって、左奥の衝立に何故かスポットライトが当たる。その衝立の後ろから現れたのは、ウェディングケーキ。結婚式の定番曲が流れる。

「今日は私の誕生日であり、上籍日であり、ママの結婚記念日にもなるのよ。」

白鳥美月が、驚いているさつきおばさんと村西先生を促して、ウェディングケーキへと誘導した。

そこで初めて慎一は、さつきおばさんが白いドレスを着ていた意味を知った。

「だから、白いドレスだったのかぁ、なんか、変だなと思ってたんだよな。」

「遅いよ。気付くのが。」と藤木に突っ込まれる。

「えり、知ってたもんね。」

「えぇ、じゃ、母さんも?」

「もちろんよ。知らなかったのは、あんた達と当人達だけよ。」

ため息をつく。

「さつきに白いドレスを着させるの、苦労したわ。」

「柴崎先輩がね、華選を持つ親御様は白い衣装を着るのがしきたりです。なんて言ってね。」

慎一は苦笑する。柴崎は、これらの準備をするのにさぞ、イキイキとしたことだろう。

「では、ケーキ入刀を。」

さつきおばさんは村西先生とケーキカットをして、「ありがとうごさいます。」と頭を下げた。

サプライズ結婚式は、簡素だけど、とても粋な始まり方だ。

食事が運ばれる。

「これから、またコース料理なんて・・・言ってくれてたら、立食は控えたのに~。」と藤木。

「いいなぁ。えりも立食、食べたかったなぁ。」

「えりりん、俺の分も食べていいよ。」

「やったー♪」






亮は下駄箱で、登校してきたりのちゃんを見つけて、いつものようにとびっきりのテンションを作り「おはよう」の声掛けをした。いつものごとく無表情の「おはよう」に加えて今日のりのちゃんは、疲れの色がプラスされていた。

「通学時間倍増は、やっぱりしんどい?」

「うん。もう嫌。」

「あはは、まぁ、すぐ慣れるよ。でも登校時間、早すぎない?」

「様子がわからなかったから・・明日は一本遅くする。」

りのちゃんは、今日から東京からの通学だ。村西先生が元々住んでいた都内の高級マンションに、りのちゃんとお母さんは移り住み、新しい親子生活を始めた。りのちゃんのお母さんが妊娠中という事もあり、大がかりな荷物の移動はせず、都内のマンションに生活に必要な道具を買い揃えて、今まで住んでいた彩都市のメゾットマンションは、賃貸したままになっているという。りのちゃんは、制服と教科書を移動しただけで、その他の家具や私服、パソコンなども買い揃えたようだ。村西先生の高揚ぶりが目に浮かぶ。

「で、どう?新しい家は?」

「広い。から落ち着かない。」

「あはは、りのちゃんは狭い所が好きだもんね。」

「そして、ガングロがうざい。」

「うれしいんだよ、りのちゃんと一緒に生活できることが。」

「私は嬉しくない。」りのちゃんは大きなため息を吐いて「いいなぁ。私も藤木みたいに一人暮らししたいよ。」言ったので、

亮は慌てて周囲の確認をするが、早めに朝練を切り上げていたので他の生徒はいない。

「なかなか面倒だよ。炊事洗濯掃除などを、全てやらなくちゃいけないのは。」

「あぅ~。」唸るりのちゃん。

並んで階段を上ったところで、りのちゃんが首を傾げたのに亮は答える。亮の教室は右でりのちゃんの教室はまっすぐ渡り廊下を突き進むのに、亮がついて行こうとしていたからだ。

「りのちゃんに会えて吉日、数学の宿題できてないんだ。教えてくれない?」

「うん。いいよ。」と苦笑するりのちゃん。

華選の称号を授与される者は、単独の戸籍にならなければならない。配偶者などがいる場合、本人だけの戸籍を作り、抜ける事になる。それは主に税制面において優遇する公的手続きをスムーズにする為の処置である。

りのちゃんの場合、芹沢栄治と死別離婚したお母さんが旧姓に戻り世帯主となっていた為、再婚して戸籍を外れただけで、りのちゃんは単独の戸籍となることが出来た。だから、りのちゃんは親が再婚しても真辺性のままでいることができ、学園生活の対外的な支障がなく、りのちゃんの母親が再婚したという情報も、亮たち一部の仲間だけが知るだけとなる。

 A組の教室にりのちゃんと一緒に入り、りのちゃんの席の隣に座る。早速、数学の宿題に取り掛かる。数学の宿題は、できていないのではなく、わざとしなかった。りのちゃんが今日から、東京からの通学で疲れることは予測できたし、中間テスト順位が一位ではなかった事に対して、クラスがどんな雰囲気になっているか知りたかったからである。 

数学の難題をりのちゃんに聞いている途中で、亮が座っている席の主が登校してくる。中等の頃からの馴染みの生徒だったので、「あと少しだから待って。」と言うと、快く「いいよ」と言って荷物だけ置いて教室から出て行った。そして間もなく、飯島が登校してきた。無駄に「おはようございます」がでかくて耳障りだ。りのちゃんに「いつも、あんな風?」と聞くと、黙って頷く。

飯島は他クラスである亮を視認すると、自分の席に荷物を置いた後、こちらに近づいてきた。どうせまた「他のクラス者が入ってくるのはいただけない。」とか、「宿題は家でするものだ。」とか言われるんだろうと身構えるも、飯島は、亮達の席の横に立ったまま黙っている。しばらく無視をしていたが、存在が鬱陶しく、声をかけざる得ない。

「何だよ。」

「真辺さんに用がありますが、それを終わらせてからでいいです。」

と言われても、ずっと横で待たれたらやり難い。亮は当てつけに、ため息を吐いてノートと問題集を閉じた。

「ありがとう、りのちゃん助かったよ。」

りのちゃんの言葉を待たずして、飯島が「終わりましたか?」と声を挟んでくる。

「ああ、お待たせしました。」と亮は不機嫌の声色で言ってやったが、飯島は鈍感に、満足気に頷いて眼鏡の位置を正す。

「真辺さん、今日が締め切りです。生徒会の立候補用紙を提出しましたか?」

「えっ?りのちゃん立候補するの?」

そんな話は、つゆほどに出ていない。あの麗香ですらも、高等部ではしないと宣言している。

「しない。」りのちゃんは飯島に顔を向けることなく答える。

「前にも言いましたが、生徒会に立候補するのは、特待生として当然の役割であり」亮は続く飯島の言葉を遮った。

「何故、当然なんだよ。」

飯島は亮に顔を向けると、すました顔で続ける。こいつの特待生意識は何の裏もなく純粋に気高いから厄介だ。

「生徒会役員として活動する事は、優秀な見本を皆さんに見せられる良き場となります。」

「あっそ。だから、お前は、」

「そのお前ってのはやめていただきたい、ちゃんと飯島孝志という名前があるのです。真辺さんの事もちゃんではなく、真辺さんと呼ぶべきだと思います。小学生ではないのですから呼称は正しく。」

「それは、失礼。」亮は頬を引きつらせて怒りを我慢して続ける。「だから、飯島君は、生徒会に立候補したんだ。」

「もちろんです。」

「それは、ご立派な意志だ。」

「立派な意志を作る目的で立候補したのではありません、これは特待生として当然のこと。」

毎日こんな事を言われていたら、そりゃ大変だろう。森山が根を上げて愚痴ってくる気持ちがよくわかる。

りのちゃんは、シャットアウトしたように文庫本を出して読み始めた。本に集中したら周りが騒がしくても何も聞こえなくなる。

「生徒会は、学校生活の向上を目的に、生徒目線で思考行動する奉仕活動。その組織は学校経営及び教職員組織から外れた生徒のみで組織されている物です。」

(知ってるよ。)と亮は心の中で突っ込む。そんなのは去年、嫌と言うほど肝に銘じてやってきたことだ。

「だから真辺さん、生徒会に立候補して、一緒にこの学校をより良くしていきましょう。」

「嫌。」文庫本から顔をあげずに即答するりのちゃん。

「嫌は、我々特待生が使う言葉ではありません。」

屁理屈過ぎてうんざりする。亮も中々に上手くかわせる言葉が見つからない。

仕方なく奥の手を使う事にした。飯島のようなタイプに効くかどうかわからない。一か八かの賭けだが、失敗しても飯島なら特に問題があるわけでもないと判断。

「あぁ、なるほどね。そうやって、嫌がる真辺さんを執拗に誘うのは、真辺さんの事が好きだからだ。」

「えっ!」

「えっ?」

りのちゃんと飯島の驚き声が重なる。

「生徒会に入れば、否応なく一緒に行動する時間は長くなる。いいチャンスだよね。」

登校してきた1組の生徒たちが、亮たちの会話に注目する。

「いいチャンスとは、なんの事でしょう。」

「そりゃ、仲良くなるチャンスだよ。この場合の仲良くってのは、小学生のような仲よしこよしじゃないのはわかるよね。」

と言いながら亮は立ち上がった。飯島に顔を寄せて小声でささやく。

「生徒会室で二人っきりは、キスのチャンスだぜ。」

「なっ、何を、言ってるのですか。君はっ。」

周囲には聞こえないけれど、りのちゃんには聞こえたようで、首が取れるぐらにい横に振るりのちゃん。

「まぁ、頑張ってよ。生徒会がきっかけで恋人同士になった前例もあるから。」と亮は飯島の肩を叩いてから、荷物をまとめてその場から離れた。

「せ、生徒会は、不純異性交遊のきっかけの場ではありません。」と叫ぶ飯島。

扉の前で、手話をりのちゃんに見せる。

【これで、あいつの、嫌がらせ、なくなると、思う。】

りのちゃんが、理解できたかどうかを確認せず、亮は1組の教室から立ち去った。理解できなかったら、昼食の時にでも聞いてくるはずだ。その時に説明すればいい。

亮が手話を勉強し始めたのに興味を示して一緒に覚えようとしたのは、りのちゃんだけだった。手話も言語のひとつだからか、りのちゃんは手話も驚異的な速さで覚えた。

飯島の動揺、読み取った本心から、亮の仕掛けは成功したと断言していいだろう。

塾を経営している両親に育てられた飯島は、今まで勉強一筋だった。母親に言われた通りの生活と勉強をしてきて、目標である常翔学園の特待生に合格した。そんな、母親を絶対的に尊敬する飯島の本心を亮は読み取っていた。マザコンと指摘しても良かったが、それをしても、どうせ母親に対する尊敬の念をつらつらと説明されるだけだ。母親から、賢い女性をお嫁さんにしなさいと言われているのかもしれない。その対象に、りのちゃんが嵌ってしまうのは当然のことで、亮がわざとそんな心の根底をつつくように言ったことで、飯島は、これからそれを意識せざる得なくなる。そうすると、恋愛ど素人の飯島は、冷静を装う事ができなくなる。周囲の目を意識して、そして自分の心に意識しはじめて、りのちゃんに話しかけづらくなるだろう。それは、まるで小学生のように。次に、飯島の本心を読み取る事が楽しみになった。

(面白い動揺の心が読み取れそうだな、痛っ・・・)突然始まった頭痛に、亮は急いで周囲を見渡した。

弥神が近くにいると始まる頭痛。それはもう探知機の様になっていた。

だけど廊下に弥神はいない。弥神は普通科のC組で、亮の教室とは最長で離れていたから、普段はC組に近寄らなければこの頭痛に影響される事は少なかった。たまのニアミスは、こうして頭痛が教えてくれて、弥神から離れる事でそれを回避できていた。

(どこだ?)

周囲を見渡して、窓の外、東棟の壁際、こんもりとした金木犀の木の合間に男女の生徒が二人いるのを視認する。一人は白鳥美月で壁を背にこちらを向いて立っている。その白鳥美月に対峙するように立っている男子は、美月に迫るように壁に手をついて、覆いかぶさるように顔を近づけた。

(なっ、何して・・・朝からキス?)

見てはいけない物を見ているのはわかっている。その相手が、橘淳平じゃないのは背の高さからして明らかだった。橘淳平はもっと背が高い。白鳥美月が橘淳平と許嫁の関係である事は、麗香から教えられて知っていた。そして、二人は結婚するまで、自由に他の人と付き合う事に、互いに文句を言わないと約束しているとも。だから、美月が橘淳平以外の人間と付き合っても問題ないが、あの気高い白鳥美月が、学園内でキスをするという行為が、亮には信じられない。

ズキリと痛みが強くなった。

(この痛み・・・まさか・・)

白鳥美月から離れた男子が振り返る。亮の予想通り、白鳥美月と相対しているのは、弥神皇生だった。

亮は慌てて柱の陰に身を隠し、亮は歯を食いしばり痛みをこらえる。

(何故、こちらが二階から見ているのがわかる?)

と考えると頭痛が増して強まる。亮は、もう何も考えない様にして目を瞑って耐えた。

強くなった痛みは徐々になくなり、やがて治まった。

「何故?」とつぶやいた自分が、どうしてその言葉が口から出たのかわからない。

何か考えなくてはならない事があるはずなのに、それをすることを体と意識が拒否している。

認知症にでもなっているのだろうかと不安になる亮だったが、他人からおかしいと指摘されるわけでもなく、不都合もなかったから、度々こんなふうになっても大丈夫だと、亮は深呼吸をして、通常の生活に意識を戻した。

「おはよう、藤木君。」

「おはよう。相田さん。」

好感度一位の相田さんが素敵な笑みで亮に挨拶をくれる。

(今日は良い日なりそうだ。)










和樹はGPSの履歴を見て、嘆く。

「どうして、東京に戻って来ていたのなら、連絡くれないんだよぉ。」

昨日は常翔祭の振替休日だった。祝日に常翔祭があると、その分だけ休日になる。しかし、次の日には教室を授業ができる状態に戻さないといけないので、この休日は返上して片付けに登校しなければならない事が多い。

和樹のクラスは、教室を使ってお化け屋敷をしたので、後片付けは振替休日に繰り越した。遠方から登校して来ている生徒は片づけに来ない事も多いが、和樹のクラスは、ほぼ全員が片づけに登校してきていたので、午前中の早い段階で終わり、そのまま部活へと行く者、友達同士で遊びに繰り出す者、様々。

ビデオ上映だったえりのクラスは、片付けは当日中に済んでいて、えりに遊びの誘いが来るかと思いきや、午後から出かける用事があると言って、珍しく誘いが無かったので和樹は素直に帰宅していた。

帰宅後、4日間に及ぶ常翔祭の疲れが出たのか、昼食のコンビニ弁当を食べ終えたら寝てしまっていて、気が付いたら夕日が入り込む時間になっていた。また鬱に入って動けないお母さんの為に、和樹はスーパーに行って食材を買い、覚えたばかりのカレーを作った。水加減を間違えたのか、味の薄いカレーになってしまって美味しくなかった。お母さんも少ししか食べなかったけれど、おじいちゃんは、美味しいと言って全部食べたのは、和樹に対する気遣いなのか、本当においしかったのかはわからない。そんな一日を過ごして、一度もパソコンを立ち上げなかった一昨日を、和樹は今になって後悔する。

11月の5日のPM5時から翌日の午前5時まで、理事補は東京の帝国領華ホテルに居た。この帝国領華ホテルにいた時に、和樹が電話をかけていれば繋がっていたはずなのに、悔やまれる。

ダメ元で電話を掛けたが、やっぱり圏外で繋がらない。理事補のGPSの足取りは、11月6日の朝、6時には朝霞駐屯地に入り、移動時間40分ほどで8時には富士駐屯地へ着いている。速度移動軌跡からみてヘリで移動している。そして、富士駐屯地内の電波領域の手前で途切れていた。そこから現在まで動いていない。

富士駐屯地の無電波領域は、富士駐屯地の一部から富士山の樹海に及んでいる国内最大の領域である。履歴によれば、理事補は8月に入ってから、日本全国の自衛隊基地を転々としている。陸上だけじゃなく海上自衛隊、航空自衛隊と様々で、どうして各地の自衛隊基地を転々としているのか、和樹にはさっぱり理解できなかった。

和樹は三か月ほど前から理事補に何度も電話をかけていた。理事補はその自衛隊基地の無電波領域に居る事が多く、和樹の電話は大方繋がなかったが、時々、呼び出しをしてプツリと切れたりした。だから、理事補の携帯には黒川和樹から電話があった事の履歴が残っているはずなのに、理事補は全く電話をかけなおして来てくれない。なので仕方なく、和樹は自宅のパソコンで、携帯電話会社に残っている理事補のGPSの履歴をたどって、どこにいるのかを見てタイミングを計り、連絡するしか方法がないと思ってやっていたのだ。

「あぁ、理事補、富士の樹海で何してんだよ。」とつぶやいたとたん、パソコンはフリーズした。このパソコンでGPSの軌道を辿るのは無理がある。

和樹は学習机の椅子に最大にもたれかかって、呆けた天井を仰ぎ見る。VIDの世界から戻って来た視界は、徐々にクリアになって天井の木目がはっきり見えるようになってくる。

「どうすんだよ。学園のサーバーメンテナンス。」

もう5か月もやってない。システムを組んだばかりの当初は一か月おきに、システム具合を見ていた。順調よく起動しているので、メンテナンスは二か月間隔で良いとなったが、6月のメンテンナンスを最後に理事補と連絡がつかなくなってからできないでいた。

「知らないよぉ~。」と和樹はフリーズしたパソコンの電源を強制的に落としてから、また入れなおす。

こんなことを繰り返していたら、パソコンの寿命を早めてしまう。

「せっかく、バラテンさんがくれたパソコンなのに。」

パソコンを操作し始めると、独り言が多くなる和樹。

「壊れたら、理事補のせいだからね。」とパスワードを入力してエンターキーを押す。「新しいの、買ってもらうよ。」

そんな要求ができるバスもなく、和樹はまた遅いVID脳の世界に入り込む。昔と比べて、随分と入りが早くなった。それが、良いのか悪いのかわからない。脳と目に負担がかかっているのは確実だ。4月の視力検査で視力が随分と落ちていた。まだ眼鏡をかけるほどじゃないにしても、このまま視力が落ち続ければ間違いなく眼鏡がいる。

「眼鏡も、買ってもらうよ。」と言いながら、和樹は暇つぶしに電脳世界を飛び回る。現実世界では、和樹の眼は超高速で上下運動しているらしい。どんな風なのか、自分自身では見られない。一度、カメラを置いて自分がVID脳に入るところを撮影してみようかと思うけれど、見ない方がいいような気がして、やっていない。知らぬが仏ってやつだ。

和樹は世界を、氷の世界に変えた。最近、流行っているファンタジーアニメ映画に似せた世界。音楽に合わせて主人公の雪の女王が歌いながら、氷の魔法を手から放ち凍らせた城を造る。

和樹は、自分の姿をその世界観に合わせた衣装に替えた。そして、音楽をネット世界から拾ってきて流す。

映画の宣伝で見たとおりに、和樹は歌いながら手を振り回す。手から放たれた魔法は世界のあちこちに氷柱の山を造る。

キラキラと輝く氷の世界。ViD脳があれば、こんな映画の世界に入り込むことなど簡単に。

造った氷柱を破壊するとスターダストとなって舞い散った。

「わぁ、綺麗!」

和樹はもう一つ、巨大な氷柱をめがけて、手を振った。

しかし、その軌道は思った所へ行かなくて、世界の一部を壊してしまった。

「もう、これだから、普通のパソコンはぁ。」

PAB2000のパソコンだったら、もっと世界は精密に美しく造れるだろう。

和樹は壊した世界の箇所へと向かう。本当は飛んでいくようなイメージをしているのだけど、処理が追い付いていないので、もどかしくゆっくりしか移動しない。やっとの事で壊れた箇所にたどり着く。氷の世界が壊れた場所は、絵画が破れたように、元の半導体の輝く無数の配線巡るビル群が覗いている。しかも、その一角も壊れて、無数の情報がかけらとなって散らばっていた。

「そんなに激しくやったつもりはないんだけどなぁ。」

和樹は手を振って、氷の世界を消した。壊れたところがまだ自分のパソコン内だったことに、ほっとする。

「どこが壊れたのかなぁ。」

世界がまだ保たれているので、パソコンの起動に関わるシステム及び、ネット関係のシステムではないから、それほど重要なものではないのだろう。

和樹は散らばった情報をかき集め、それらをチェックする。

「あぁ、良かった。これ、消去したファイルの屑箱だ。」

要らない物だった。どのパソコンにもデーターを消去する時には、消去する為の専用のシステムファイルに一度入る。そこで消去の処理が行われてデーターは初めて消えるのだけど、この消去システムファイルにも履歴機能があって、いつ、どんなデーターを消去処理したのかを蓄積している。一見消去されたように見えるパソコン内のデーターは、こうしてパソコンの奥底に残っているのである。パソコン本体を捨てる才に、ハードを粉砕した方がいいと言われるのは、表面上ではわからないシステム内の奥底に、こうしたデーターの残存があるからで、これらを復元して重要な情報を盗む者がいる。または、犯罪に使われたパソコンの押収品を、警察はデーターを復活させて捜査情報とするのである。

和樹はかき集めた屑のデーターを、この際だからきれいさっぱり消去しようと、手を上げた。しかし、何気に目に入った情報に、驚愕に息を止め、消去はせず手を降ろす。

「これは・・・!」

和樹は思い出す。それが重要データーだった事を。

「消しちゃ駄目だったものだ!」

これを集める為に、苦労して作ったプロクラムの壊した残骸もある。

自分がプログラムを壊す作業をしていた時の記憶を思い出す。

「どうして、僕はそんなことをした?」

口に出して和樹は完全に思い出した。

「あの人に言われたからだ。あの赤い目・・・。」

和樹は身震いした。










木曜日のホームルームの時間、亮は大あくびでむかえる。日に日に冷え込んできた外気に対応して、学園内の校舎は暖房が入り始めた。教室内の人の密度によって温度は上昇、良い感じで眠気が襲ってくる。

前から順送りで用紙が届く、亮はまたあくびをしてそれを受け取り、そして最後尾の席の沢田に頭上で渡す。

「ちゃんと渡せよ。」と沢田が文句を言うのに答えるのも眠く面倒。

こんなホームルームなんてさっさと終わらせて、クラブに行きたい。外はサッカーにはもってこいの季節、気温だ。

亮は眠たい目をこすりながら配られた用紙を確認する。しかし、記述された内容に目が覚めるほどに驚愕した。

配られた用紙は、生徒会立候補者一覧で、それぞれの役員欄には既に候補者名が記されている。その候補者を承認するかどうかを決める承認用紙。

高等部の生徒会役員任期は、年明けの一月から12月まで、なので生徒会に入りたいと思っている一年生は、この1月始まりの任期から、やっと生徒会に入れる事となる。立候補者はすべて現一年生ばかりなのが通常である。もちろん2年生が立候補しても構わない。ただ現2年生は活動時には3年となっていて、会計〆及び次の引継ぎの忙しい時期が受験と重なる為、立候補する者は皆無。よって高等部における生徒会役員は、新2年生が主要メンバーとなり活動する事となる。

高校3年間の学園生活において、生徒会役員なるには、今回しかないチャンスと言っていい。

入学してから常翔祭までの行事における生徒会の存在、仕事ぶりを見て、自分もやってみたいと思った人間が奮起して立候補する。それは良い志だ。承認する側も、これまでの、およそ7か月間の学園生活において、立候補者の人なりはもう十分にわかっている。

誰が生徒会役員にふさわしいのか、否か。

生徒会立候補者一覧の、それぞれの名前の左空欄に、承認しない場合にのみ×をつけて、投票箱に入れる。集計は、現生徒会役員が行う。全生徒の三分の一を超える否認のある立候補者及び、役員定数を超えた役職は、否認の数が多い者が落選となる。

「何故・・・。」思わず声に出ていた。

クラスの皆が、次々に立ち上がって、回収に来ている現生徒会役員が持つ投票箱に入れに行く。よほどの事が無い限り、承認に×をつける者はいない。亮は騒がしくなった教室で、その一覧用紙をスマホのカメラ機能でこっそりと撮影した。

そして、すべての承認欄に×をつけて小さく折り畳んだ。

「全員、用紙を入れましたか?」

「待ってください。」亮は小さく折りたたんだ用紙を投票箱に投げるように入れ、教室から運ばれ出ていく投票箱を憎々しく見つめた。

亮がすべてに×をつけても、あのメンバー達は、間違いなく当選する。全生徒の三分の一の否認なんて集まるわけがない。

無駄な抵抗だとわかっていても、心情が承認を許さなかった。

席に戻る途中、新田が呑気に話しかけてくる。

「柴崎、また生徒会やるんだな。そんなこと言ってたか?」

「いや・・・。」

「りのも柴崎に言いくるめられたんだなぁ、かわいそうに。」と苦笑する。

「おーい。座れよ。次の手紙を渡すからな。」と担任の先生が亮を含む数人に注意をする。「秋の芸術鑑賞会の案内だ。」

「12月じゃん、秋じゃないじゃん。」

「しかもクリスマス演奏会だってよ。」

と配られた案内状をみて、口々に突っ込みが入るクラスの雰囲気に、亮は入ることが出来なかった。生徒会立候補者一覧に記るされていたメンバーが、あまりも衝撃的で。

亮はホームルームが終わると急いで教室を出て、E組の教室に直行した。  

E組はホームルームが終わるのが早かったのか、クラスは照明も落とされて誰も居ない。亮は踵を返して食堂へと向かう。自分のクラスから出て来た新田とすれ違って、不審に声を掛けられるのも無視して走った。

予想通り、麗香はもうサッカー部のジャージを着て、食堂からお茶のジャグジーを持って出て来る。

「柴崎っ。」

「ん?遅いわね。ホームルーム長引いた?」

「お前、何故、生徒会に立候補したんだ。もうやらないって言ってたじゃないか。」走って息が上がっていても、それだけは一気にまくし立てた。

「あー、そうなの。美月に誘われてね。ほら、去年、美月と約束していたのに、一緒にできなかったじゃない。だから一緒にやろうって誘われて。断る理由もないし。」

麗香は嘘を言っていない。

「ねぇ、重いんだけど。」

「あぁ・・・」亮は麗香の手からジャグポットを受け取り持つ「じゃ、りのちゃんは?お前が強引に?」

「違うわよ。それも美月よ。」

「白鳥が?」

「えぇ、美月はね、りのが華選になったこと、すごく評価しててね。昔に意地悪したの謝ってたわ。」

「それは知ってる。だけど、りのちゃん、立候補の締め切り日に、しないって即答していた。」

亮はその日に見た事を思い出した。思い出すと同時に頭痛がして顔を顰めたけれど、麗香がいるから耐えられない事はない。

「りの、締め切りの直前、あと5分で締め切られる時に立候補用紙をだしたのよ。やっぱりやるってね。美月に説得されて心変わりしたみたいよ。」

「心変わり・・・。」

そうだ、あいつ・・・

あいつが関わると、皆心変わりして、従う・・・

何故、それを忘れていた?

そうやって思いだそうとすると増していく痛みに、奥歯をかみしめる。

「どうしたの?怖い顔して。」

痛みが思考を支配し、停止しそうになる。

(駄目だ、思考を停止しては、思い出さないといけない事がある・・・いや、まず、確認をしなければならない。)

亮はジャグポットをその場に置いて駆けだした。

「ちょっ、藤木!何なのよっ。」

麗香の咎めを背に、職員室から一番遠いトイレの個室に駆け入る。

便器の蓋に座り深呼吸をする。あいつの事を考えない様にして、目を瞑る。

そうやって、頭痛がなくなるのを待ってから、亮はスマホを取り出した。

電話を掛ける。

着信相手の第一声に、懐かしく元気が出る。

「亮おほっちゃん!」

「やめてよ、谷垣さん、その呼び名は。」

「あぁ、では何とお呼びしましょうか。」

「普通に名前でいいよ。」亮は苦笑する。

「亮さま、お元気そうで、うれしい限りです。」

その「さま」もやめてと言おうとしたが、話が進まなくなるので、それで了解する。

「谷垣さん、お願いしたい事があるんだ。いいかな。」

「もちろん。」谷垣さんの声が浮つく「何なりとお申し付けください。」

「今からメールで6人の名前を送るからさ、華族の称号持っている家の子かどうかを調べてほしいんだ。」

「華族ですか?」

「うん。できる?」

「もちろん。それは簡単に。」

だろうね。政界で生きていこうと思ったら、人の素性、家柄は熟知しておかなければならない。藤木家では当然に華族の称号を持つ家のリストがあって、慶祝葬に挨拶状は欠かせない。それを一手に引き受けているのが谷垣さんだ。

「ただ、今、外に出ておりまして、すぐには・・・。」

「あぁいいよ。帰ってからで。」

「申し訳ございません。」谷垣さんが電話の向こうで深々と頭を下げている様子が想像できて、亮は苦笑する。「事務所に帰りましたら迅速にお調べして、すぐにお返事いたしますので。」

「いいよ、そんなに急がなくて、突然に無理を言ったのはこっちなんだから。」

「無理だなんて、とんでもない。亮さまからのご依頼、爺はうれしく・・・」谷垣さんは涙声で言葉を詰まらせる。

「もう、谷垣さんってばぁ、あっ、もしかして今、父のそばにいるとか?」と亮は声を潜ませる。

「いえ、爺は車で待機中でございます。」

谷垣さんはもう年だ。年齢は・・・若い時からずっと爺やで通ってるからわからない。

「あいつ、まだ谷垣さんを運転手に使ってやがんのか。」つぶやいたつもりが、声は思いのほか大きかったようで谷垣さんの耳に入った。

「亮さま、お言葉が、どうされましたか。」

「どうもないよ、ごめん谷垣さん、この事は内緒にして、僕から電話があったこともお父さんには言わないでよ。」

「承知いたしました。」

谷垣さんの信頼の承知を取り付け、まだ心残りに話をしたそうにしているのがわかったけれど、亮は電話を切る。

そして6人の名前をメールに打ち込み谷垣さんへ送る。

すぐに谷垣さんから、受け取りました。と柴犬が頭を下げているイラスト付きで返信されてくる。

「谷垣さん、まさか、このイラストを常用してるんじゃないだろうなぁ・・・政界も変わった。」



その谷垣さんから返信が来たのは、夜7時になろうとしていた時間だった。亮はマンションに帰宅したばかりで、学校の鞄を置いた時だった。

【室屋大輔様、福武健吾様、前園志穂様の3人様が、華族のお子様でございます。そして、そのお三方は准でごさいます。】

「准ってなんだ?」

その質問を谷垣さんに送る。すぐに返事がくる。

【准とは、ご両親のどちらかが、華族ではない一般の方との間にお生まれになったお子様の事でございます。華族の方は華准とお呼びして区別しているようです。】

知らなかった。華族の中でそんな隔たりがある事を。でも、考えてみれば、その順位はあって当たり前で正しい。華族の地位が家単位で授与されていくなら、子の世帯単位で華族は増え続けていく。増えすぎた地位は価値がなくなる。少数だからこそ価値がある。

華族は血族で受け継がれていた。それを改めて知って、亮は感嘆して理解した。

(だから、白鳥美月は橘淳平と許嫁なのか。)

華准に下がらない為に、家同士の約束をした。華准に下がる事は、よほどの不名誉なのだろう。子の結婚の自由を奪ってでも。華准に下がると何かのデメリットがあるのかもしれない。

亮はそれも谷垣さんに聞いてみる。

【申し訳ございません。勉強不足で、そこまでは存じ上げません。藤木家としましては、ただ順位をしかと把握しておくことが大事でして。お時間をくださいましたら、お調べして、またご連絡差し上げます。】と来たので、亮は、「ありがとう、ちょっとした興味本位に聞いただけだから、調べは要らない。」と綴って谷垣さんとのメールを終わらせた。

「やっぱりか・・・。」亮はつぶやく。

そして、写真を撮った生徒会立候補者一覧を出して、改めて眺める。





生徒会立候補者一覧   ()は役員定数

    ・承認しない場合のみ、名前の左欄に×をつける。

    ・無記名投票である事。

・×以外の印は無効票とする。


会長(1名)   ――白鳥 美月

飯島 孝志

副会長(1名)   ―弥神 皇生

書記(1名)   ――橘  淳平

会計(2名)   ――諏訪 要

真辺 りの

クラブ統括(2名)――柴崎 麗香

福武 健吾

斎藤 友則

催事指揮(2名) ――室屋 大輔

前園 志穂

田中 泉



白鳥美月と麗香、りのちゃんも誘われて仕方なくなら、おかしくない。

(しかし、何故、あいつが立候補を?)そう思考した瞬間に頭に痛みが走る。

亮は薬箱から頭痛薬を取り出し、口に入れてから冷蔵庫のペットボトルの水で飲み下す。

薬の効き目はなく気休めだが、考えなければいけない。また用紙を見つめる。

会長候補に、白鳥美月と飯島孝志がいる。どちらが当選するかと予測を立てたら、当然に白鳥美月だろう。

飯島は特選クラス内では最悪に人気がない。原因は当然のことながら、成績上位主義の言動だ。あの特待連呼は、普通科の生徒の一部まで聞き及び嫌悪されている。白鳥美月も上級意識が強く、一部の生徒達から嫌煙されているが、このような場合において、×をつける勇気のある生徒は、常翔内ではごくわずかだろう。特に女子は白鳥美月に嫌悪があっても×などつけはしない。バレた時が怖いからだ。×をつけるのは白鳥美月を嫌う男子が主だろうが、飯島を否認する数を超えるまでは行かないだろう。

他、定員数を超えているのは、クラブ統括と、催事指揮。

麗香を外して5人と飯島を含めた6人が華族の称号を持っているかどうかがわからなかった。谷垣さんの調べで、飯島家は称号持ちではないと判明。麗香を含めて、それぞれの役職に二人づづの華族、華准の立候補者がいて、称号を持たない二人が落選すれば、生徒会はすべて、〈華族、華准、華選〉で構成される。

こんなことがあるだろうか?

あいつが・・・と考えて痛みが強くなったのを、奥歯をかみしめて耐える。

副会長というのが不気味だった。

(何が目的だ?)

ソファに倒れ込んでもがきながら、思い出す。

金木犀の木の陰で、白鳥美月が弥神皇生と対峙していたのを。

あれは、キスではない。

あれは・・・

そう・・・自分も・・・

やられて・・・

いた?・・・

亮は痛みに耐えかねて、気を失った。









1週間後、玄関ロビーの掲示板に、生徒会役員の承認結果が張り出された。

会長は白鳥美月が当選する。

定員数を超えていたクラブ統括と催事指揮のそれぞれから、二人が本人達の申し出により立候補の辞退となり、亮が危惧したとおりに、すべて華族、華准、華選で構成された生徒会メンバーとなる。

亮はもう、何も考えない様にしてその掲示板から離れた。

「藤木っ。」麗香が後ろから亮の肩を叩く。「あのね、今日から早速、生徒会の引継ぎで、クラブに行くのが遅れるの。お茶当番が今日もなんだけど、これからもできなくなる事が多くなるのね。だから、岡本さんを手伝ってあげて。」

「そんなの、新田に頼めよ。」

「頼んだけど、新田って、そういう事、忘れたりするから。あんたは、そういうのマメにやってくれるでしょう。」

亮はため息を吐いて黙った。

「じゃ、頼んだわよ。」と踵を返しかけた麗香を呼び止める。

「なぁ、生徒会は何が目的なんだ?」

「目的?」キョトンとして見返してくる麗香の本心には、何も裏がない。

「いや、何でもない。」今度は亮から踵を返した。

あまり変な事を言って、麗香を混乱させるべきではない。

(麗香はあちら側の人間なんだから。)

華族の称号を持つ柴崎家と、政界に身を置く藤木家とは対局の関係。

まさか、その社会の構図が学園に展開される事にならなければいいが。)

華族、華准、華選で構成される生徒会と、徒党を組んで対抗する一般生徒の抗争をイメージしてしまい。亮は慌てて頭からそれらを消した。

考え過ぎだ。

生徒会メンバーが称号持ちばかりなのは

ただの偶然・・・

そう思うには、あまりにも、

あいつの存在が・・・怖すぎる。

弥神の事を考えると襲ってくる頭痛。

駄目だ・・・考えるのは。

こんな事を気にしていたら、夢の実現が遠くなる。

やっと神奈川代表を掴んだ。

全国高校サッカー選手権大会が始まる。

これから、一戦たりとも負けられないトーナメント戦が始まる。

新田に追いつく為には、全国大会でプロの目にとまるような良いプレイをして、チャンスを得る事。

携帯が無音で振動し、メールの着信を知らせる。

亮は、周囲に教師が居ないか確認してから、廊下の片隅で着信相手を確認する。相手は珍しくも黒川君だった。亮はメールを開いて読んだ。

【どうしても相談したい事があって、どこか、学園外でお話しがしたいです。何時でも構いません、場所もお任せします。すみません、よろしくお願いします。】

えらく神妙なメールに、亮は、えりりんとうまくいってなくて、恋の相談をされると思い、すぐに返信をする。

【どうした?えりりんと喧嘩でもした?いいよ。話しを聞くよ。場所は、家に来いよ。徹夜もできるぜ(笑)】

と送った。すると、すぐにまた返事が来る。

【ありがとうございます。ではお家に行かせてもらいます。いつが良いですか?】

【今日でも、明日でも、いつでもどうぞ。7時には帰宅してるから。】

と送りながら亮は、明日か明後日かに決めてくるだろうなと予測した。今日はまだ木曜日。相談話が長引けば、帰れなくなるかもしれない。泊まってもらう事は構わないが、次の日学校があると、黒川君自身が色々と面倒だろう。

だけど、そんな亮の予測を裏切って、黒川君は

【じゃ、今日の7時に行かせてもらいます。】と返事をしてきた。

(これは、かなり重症な恋の相談かも、どうしたんだ?えりりん達。)












今日一日、和樹はできるだけ教室から出ない様にして過ごした。給食も食べずに我慢した。教室から出なければ、あの人に出会わなくて済む。そう考えたからだ。問題は、帰り際だった。そんなに細心の注意をはらわなくても、あの人とは学園内での生活圏が違うのだから出会う確率は少ない。しかし、前に遭遇した事と、この集めた情報から考えたら、どこからどう察知されてしまうか、わからないだけに恐ろしかった。

和樹は周囲に細心の注意をはらって、教室から出て、下駄箱へと向かう。

下駄箱でテニス部のジャージを着たえりと会った。

「あれ?黒川君、帰るの?美術部は?」

「ちょっと、お腹痛くて。」と誤魔化した。

「えー、大丈夫?」

「うん、大丈夫・・じゃないから、帰るね。」

「えー!あー、気を付けてよ。」とえりの言葉を背に、和樹は下駄箱から中等部の正門までの並木道を足早にかつ、周囲に細心の注意をはらって進んだ。下校時刻を登録する端末にIDカードを接触させるときも、きょろきょろと周囲を見渡していたから、守衛さんが不審に「どうしたんだ」と聞いてくる。悪いけれど、それには無視して和樹は学園から出た。

そうして駅につき、電車に乗り込んでも、注意は怠らなかった。彩都駅に電車が着き、改札を出て、やっと和樹はほっと息をついた。

あの人が何かの用事で彩都まで来ていて、偶然に和樹と出会うなんて可能性は少ないだろう。それでも、彩都駅から自宅までの徒歩10分間は、時々後ろを振り返って確認して家に帰った。

家に帰ると、珍しくお母さんがキッチンにいる。だけど、何かを作ろうとして、まな板の上に乱切りにしたニンジンが途中で、お母さんの手は包丁を持ったまま停止していた。

「ただいま、お母さん。」そう和樹が声をかけても、時が止まったように動かない。「お母さん、包丁、危ないから。」和樹はそっとお母さんの手から包丁を取り上げた。和樹の手がお母さんの手に触れて、やっと、ゆっくりと和樹の方に振り向く。

「和樹・・・おかえり。」

「ただいま。」

お母さんは、虚ろに何かを言おうとして口を開けかけたけれど、ただ苦しそうな息を吐いて、重い足取りでキッチンを出ていく。和樹は包丁を洗って収納し、お母さんの後を追う。

仏壇の前で茫然と座るお母さんに「あと一時間ほどで出かけるから。先輩が晩御飯に誘ってくれたんだ。帰ってくるの遅くなるから。」と言う。それでもお母さんは身動ぎしない。

和樹はしばらくお母さんの背中をみつめながら思う。お母さんはこうして、兄さんと対話している時間が幸せなのだと。無理に正常になってと思う事は、お母さんを苦しめる事になると。自殺とか、危険な行為に及ばないから、和樹はまだ安心して家を空ける事が出来ていた。返事のない丸まったお母さんの背中に、「たまには、僕とも対話して。」と語りかけて、和樹は自室に戻る。部屋で一度大きく背伸びをしてから、パソコンの電源を入れた。

約束の7時までは3時間はある。藤木さんに相談するのに必要な準備はできている。

念の為に、それらが昨日の夜から無くなっていない事を確認する。

「大丈夫。」

今朝、学校に行く途中で一つ保険を作っておいた。情報が入ったUSBを入れた封筒に、でたらめの沖縄の離島の住所を書いて普通郵便でポストに投函した。それは一旦沖縄の離島へと運ばれて、宛名先不明で帰ってくる。黒川家のポストに帰ってくるのに3日ぐらいかかるだろうと踏んでいる。本当はもっと、一か月ぐらいか、せめて一週間とか、そのUSBを和樹自身がどうにもできない時間を稼ぎたかったが、これ以外の方法を思いつかなかった。

その送ったUSBと同じ物がここに3つある。一つ手に取り、和樹は部屋を見渡して、隠し場所を探す。

和樹自身がこの部屋で隠しても駄目なのはわかっている。誰かに託すことが一番だったけれど、今の段階でこれを他人に渡しても意味のないことだった。この集めた情報はまだ、ただの噂話に過ぎない。だけどこれらをまた消してしまわない事が大事だった。

今後、これが消されていたとしたら。それは、自分に何かをされた証拠になる。

和樹は本棚の奥に埋もれた陶器の貯金箱を手に取った。振るとカラカラと数個のコインが転がる音がする。

ひっくり返して底のゴム製の蓋を開けた。小銭を出すと50円玉と一円玉が2つ、合計52円が出てくる。それらと一緒にUSBを中に入れた。

「兄さん、これ、大事な物なんだ。預かっていて。」

12歳はなれた兄さんが、高校生の時の修学旅行で買ってきてくれた沖縄土産の貯金箱だった。シーサーは厄災を追い払う魔除け獣像だ。宛名不明を目的に送ったUSBも沖縄だった事に、和樹は気が付いて苦笑した。






亮が部活を終えて帰宅すると、もう既にマンション下のロビーの片隅で黒川君は待っていた。

その気せわしさと表情で、えりりんとの仲はとても危機的状況なのかと苦悶する。

「待って、開けるから。」

制服のズボンのポケットをまさぐりキー探していると、黒川のお腹がグーと鳴った。黒川君は顔を赤らめて、お腹を押さえる。

「すみません。」

「あー、そうだね。聞く前に腹ごしらえした方がいいか。食べに行こう。何がいい?」

「そんな、すみません。僕が何も考えずに時間を決めてしまいしたから。」

「いいよ。それより何が食べたい?っても・・・この辺、何もないんだよね。」と亮は探し当てたキーをまたポケットに戻して、黒川君を玄関ロビーの外へと促した。

ここで何が食べたいと言ってくれた方が、亮としてはありがたいけれど、後輩がそれをできるはずもないのはわかっているので、亮はマンションからそれほど遠くなく、それでいて男二人で訪れてもおかしくない美味しい店を頭の中で検索する。「よし、がっつりと中華にするか。」と言ってから、中等部の給食が何だったのかを聞くべきだったと思いついて聞く。「あっ、中等部の給食はなんだった?中華?」

「いえ・・・僕、今日は給食を食べませんでしたから、メニューは知りません。」

「えっ!給食も食べられないほどに深刻?」

「はい・・・」と悲痛にうつむく。本心に脅えがある。

「わかった。今日は存分に付き合う。その前に腹ごしらえだ。」と亮は黒川君の肩を掴んで通りの方へと押す。

駅へと向かって、地下道を抜けて駅向こうのロータリーで客待ちしているタクシーに黒川君を押し込んだ。

黒川君は駅前のラーメン屋だと思っていた様で、「どこまで行くんですか?」と慌てていたけれど、かまわず「美味しいもの食べて、まずは元気出そうぜ。」と亮は微笑んだ。

正直、黒川君が亮を頼ってくれた事がうれしい。黒川君は亮の能力を察している節がある。どちらかと言うと新田の方に慕っているのも読み取って知っている。だけど黒川君は、恋愛相談においては新田よりも自分だと評価してくれた。その選択は的確。

亮のマンションのある香里市より川を越えた隣市にある中級ホテル内に高級中華料理店ある。ここは個室もあり、亮みたいな一人客でカード払いをする学生を不審がらない店で、一人暮らしを始めて時々使っていた。

「こ、こんな高級店・・・僕、とても・・・」

「奢るから心配なく。」

「で、でも・・・」と黒川君は自分の身なりを心配する仕草を見せたので、亮は笑う。

「俺なんか、制服だよ。しかも部活バッグ持ったまま。」

黒川君はジーンズに黒いパーカーを着て背中に大き目のリュックを背負っている。中はパソコンが入っているだろう。どこに行くにも、パソコンを持ち歩く癖はVID脳の弊害なのかもしれない。

「さぁ、入ろう。ここの店、美味しいから。」と黒川君の背中を押した。

亮の顔と名前を覚えている支配人が、今日は二人での飲食を心から喜び、個室に案内してくれる。

平日という事もあり、店内は空いていた。

「藤木さん、いつもこんなところで夕食を?」と辺りを見ておどおどする黒川君の態度で、これは亮がメニューを決めないと駄目だなと思う。

「たまに。俺は新田みたく料理はできないから。黒川君、エビとか食べられる?アレルギーはない?」

「ありません。」

「ここね、シーフード系がうまいんだよ。適当に頼んでいい?」

「あ、はい。お任せします。」

店員を呼んで、リーズナブルのコースを頼んで、お茶に手を伸ばすと、黒川君は大きくため息をついた。

「すごいですね。やっぱり藤木さんは。」

「黒川君もすごいじゃないか。代々警察官一家で。」

「僕ではなく、おじいちゃんとお父さんが、警察官ってだけで。」

「俺も、たまたま生まれた家が、凄かったってだけだよ。」

「あぁ・・そうですね。」

「黒川君は、警察官にはならないの?」

「真辺さんのあれ以前は、警察官なんてって、毛嫌いしていたんですけど・・・何だが、気持ちが落ち着いたというか・・・僕、あの時、理事補と警察の科学捜査課へと行ったじゃないですか。」

「うん。行ってくれたね。」

「あの時に対応してくれた副所長が、あの写真をちょっと見ただけで、自殺じゃないって見識したんです。」

「へぇー。」

「それが、かっこいいなって。鑑識の仕事をやってみたいかもって思ったり。」

「そうなんだ。黒川君ならサイバー鑑識もできるしね。」

「そ、そうなんです。」と、黒川君は急に気色ばんで続ける。「実は、今日、相談したい事は、そんな感じでもあって。」

「えっ?えりりんとの恋愛相談じゃないの?」

「違います。」ときっぱりと黒川君は否定する。

「何?」と亮は、目に力を入れて黒川君の本心を読みとる。それをしたところで、何もかわらないのだけど、もう癖のようになっていた。

「信じてもらえるかわからないんですけど・・・あの」

何故か、黒川君の思考から、弥神の気配を感じ、頭痛が始まる。

「痛っ・・・」

亮は頭を抱える。

「どうしたんですかっ。」黒川君が前のめりになって亮を心配する。その心配で黒川君の頭の中から弥神の存在が無くなり、頭痛も薄れるる。

「な、なんでもない。」

でも何故、黒川君の本心にあいつの存在が・・・と考えた途端にまた強くなってくる頭痛。

「藤木さんっ、えっと、誰か・・・」

「大丈夫・・・すぐに・・治まるから。」亮はできる限り平静を装って答える。

「でも・・・調子が悪いなら、相談は別の日に。」

「これは、別の日にして良くなるもんじゃないんだ。」

「えっ?」黒川君が険しく、新たに憐みの心配が加わる。どうやら何かの病気を心配したようだ。

「病気じゃない。えっと・・・その相談は、家に帰るまで禁句にしてもらえる?」

「えっ、・・・ええ。」不審に顔をゆがませた黒川君。

「飯は楽しく食べたい。だろう。」





そう言った藤木さんは、その後、何でもなかったように、主にえりとの関係を聞いてくるから、和樹は今まで行ったデートの話とか、えりが話す新田家で起きた笑い話とかを話して、思考もあの人の事は忘れるぐらいだった。

料理は藤木さんの定評通りに、ものすごくおいしくて、

「お母さんにも食べさせてあげたいなぁ。」とつぶやいたら、藤木さんは帰り際に

「クーポン券を貰ったから、お母さんにどうぞ。」と白い封筒を手渡してくる。

「いいんですか?藤木さん頻繁にくるんだったら、これ使うんじゃ・・・」

「頻繁にくるから、また貰えるよ。それに、これらの支払はすべて、すごい藤木家だからね。」と笑う。

「あぁ。あははは。そうですね。」と和樹も笑った。二人で一万五千円の食事代なんて、総理大臣を輩出した福岡の名家ならなんてこともない金額なのだ。そう思って心置きなく奢りに甘えた。

またタクシーで藤木さんのマンションに戻り、部屋に通される。夏休みに、えりが柴崎先輩と一緒にここに遊びに来ていた。その話で、学生の一人暮らしとしては、贅沢過ぎるぐらいに広くて、ベッドもダブルベッドでやらしいと聞いていた通り・・・ダブルベッドは確かに大きくて贅沢だった。

藤木さんは「部活で汗をかいたから、シャワーだけ浴びさせて」と言って、和樹に自由にくつろいでいていいよ。とバスルームへ入る。そう言われても、取り残されたら落ち着かない。

和樹はリュックからパソコンを取り出して、話せる準備をする。口で説明するより、集めた情報を読んでもらう方が早い。しかも、藤木さんは、何故か和樹の相談事を知っている風だ。それも、なんとなくあの人のせいのような気がする。あの人はそういう事ができると、和樹は確信があった。

ものの5分ほどで、藤木さんはバスルームから出て来て、ドライヤーで髪を乾かし、ジャージ姿で出てくる。

「黒川君も浴びたら?」

恋愛相談なら、泊まりも視野に言われた通りにしただろう。だけど、これはそうじゃない。

「いえ、僕は今日、汗をかくような事はしていませんから。」

「部活も休んだの?」

「はい。」

「そっか・・・ちょっと待ってよ。」そう言って、藤木さんはキッチンで何かの薬を飲んだ。やっぱり何かの病気なのだろうかと、和樹は唾をのみ込む。そんな和樹に藤木さんは、「これは予防だから。っても、あまり効き目はないんだけどね。気休め。」

「予防って?」

「黒川君、俺が痛みに苦しんでも話を続けて。もし、気を失っても救急車は呼ばない。」

「えっ、何?」藤木さんからは笑みが消えて表情険しく、もう頭は痛そうだった。

「弥神の、事だろう。」奥歯をかみしめるようにして、言った藤木さん。

「そ、そうです。どうして。」

藤木さんは、ちょっと待ってと言うように手を上げて、ソファに座り、目を瞑って我慢する。

和樹は、藤木さんに相談するのは間違っているんじゃないかと、罪悪感が沸き起こる。少ししてから藤木さんは和樹に顔を向けて、「ごめん。」とつぶやいた後、続ける。「やつの事を、思考すると・・・何故か頭痛が、起きる。」そう言いながら、再発する痛みに耐えているのか、両の手を握った手は白く、力が入っていた。

「じゃ、相談、止めます。僕、帰ります。」和樹はダイニングテーブルに準備していたパソコンを閉じようとした。

「黒川君!駄目なんだ。これを耐えないと。」

「でも・・・。」

藤木さんはガラステーブルの上に置いてあった自身のスマホ取り出し、操作する。和樹の携帯がメール着信を知らせる。

「今送った写メを見て。」

和樹は言われた通りに見る。それは高等部での生徒会役員立候補者の一覧だった。まず目に飛び込んできたのは、真辺さんの名前だった。そして、柴崎先輩も名を連ねる。

「真辺さん、柴崎先輩に誘われて、立候補したんですね。」真辺さんの嫌々ぶりが目に浮かぶ。

「もっと上の欄を。」そう言われて、和樹は画面をスクロールする。副会長欄に弥神皇生の名前があった。

「副会長に、あの人?」

藤木さんは眉間に皺を寄せてうなづく。

「定員数のオーバーしているクラブ統括と催事指揮から、それぞれ立候補の辞退がでた。会長立候補の飯島は、もう一人の特待生で、普段からりのちゃんを敵対視して人気がないから否承認の数が多く落選。」そこで藤木さんは言葉をきると、手に持っていたスマホをまたガラスのテーブルに置いた。

「立候補者が辞退するって事も異例だが、もっと異例なのは・・・」そう言って、藤木さんはまた両の手を握り合わせた。これから来る痛みに備えるように。

「生徒会メンバーが、すべて、華族、華准、華選の称号持ちの者になった事。」

「称号持ち?」

「知ってる?」

「はい。華族と華選は。」

和樹は、そこで、この日本の地位制度について詳しく教わる。華族という称号がある事は知っていた。だけど、それは昔、明治頃の名残り的なもので、ネット上に流れているそれらの地位、称号の噂も、都市伝説程度だと思っていた。

「華准なんて初めて知りました。ネット上に、そんな単語は上がっていなかったと思います。」

「華准は華族の中で区別されているだけのようだから、華准に下がってどうにかなるのかどうかは、ちょっとわからないけれど。」

真辺さんが華選になったというのも初めて知った。

「だけど、真辺さんが華選・・・すごいですね。理事補の最年少記録を更新ですね。」

「凱さんが華選持ちっての、知ってたんだ。」

「あ、はい。その・・・色々とやっちゃってるんで。」

と和樹が苦笑すると、藤木さんも苦笑して肩をすくめた。言うように、痛みが出るのは、あの人、弥神皇生の事を考えた時だけみたいだ。

「この・・・」その弥神皇生って口に出すのもためらわれる。戸惑っていると藤木さんは「いいよ。」と大きく深呼吸をする。

「あの人」で通す事にした。「を含めて、来期の生徒会はすべて、その華族から華選までの称号持ちばかりで決まった。」

「そう。」

「不気味ですね。」

「黒川君は何を、思って奴・・を?」

和樹は帰る気が失せた。弥神皇生の事を思考すると激しい頭痛に襲われる藤木さんは、どう考えてもおかしい。あの人が何かをしたと、和樹は完全に決定づけた。藤木さんを痛みに苦しませるのは忍びないが、集めた情報を藤木さんに教えて、どうにかするのが、藤木さんの苦痛を無くす方法でもあると思えた。

「藤木さん、ここには、」

和樹は持ってきた自分のノートパソコンをダイニングテーブルからガラスのテーブルへと移した。スリーブになっているパソコンを再表示する前に、和樹は説明する。

「僕が6月頃に集めたあの人の情報の一部なのですが、僕、一度これを消してしまっていたんです。」

「消し・・た?」和樹のあの人という言葉に反応して、もう頭痛がするのか、顔を顰める藤木さん。

「最近になって、それを思い出して、もう一度、集めなおしたので、情報は、その以前に集めた物より少なくなっていますが、これだけでもあの人が、今まで何をしてきたか、わかると思います。」

藤木さんは、こめかみを手で押す。

「大丈夫ですか?」

「だい、じょうぶ。・・・どうなっても、続けて・・・聞くから。」

和樹は覚悟を決めて話を続ける。集めた経緯から、それを理事補に報告しようかどうしようか迷い、一度、藤木さんに報告しようとして、高等部のグランドへと向かった事、そして更衣室前で弥神皇生にばったり会い、自分の手からUSBを奪われたこと。

「目が赤く染まって・・・藤木さんっ」

それまで、ずっと目を瞑って痛みを我慢していた藤木さんは、和樹が赤い目の事を言った途端に、身体を折り曲げてソファのクッションに顔をうずめてもがき、そして、床に倒れ込んだ。

「つ、続け・・て・・・」

和樹の方が苦しくなる。でも、止めたら前に進まない。そして痛みをもう一度経験しなくてはいけなくなる。和樹はなるべく簡潔に話をまとめて、早口で話すよう心掛けた。

「気が付いたときには、美術室に居ました。随分時間が経っていて、僕は報告しようとした事を忘れてしまって、集めた情報も家に帰ってから消した。それをした記憶もなかったのですけど。一週間前、このパソコン内で、その消した履歴を見つけて、全部を思い出しました。だから、あの人が何らかの方法で僕を操って、記憶を忘れるようにしている。そんな信じられない事が起きている、だけどそれは僕だけじゃない、あの人が通っていた中学はもっと酷い・・・。」和樹は死人が出ている事を言うのをためらった。読めば、それは一目瞭然のことだけど、こうして藤木さんが苦しんでいる前では、それは言いづらかった。

「それらをネットに上げた人たちの証言を集めたのが、ここにあります。」

体を丸めてしまい動かなくなった藤木さん、気を失ったのだろうかと和樹は焦る。

「藤木さん。」

背中を触ったら、汗でびっしょりになっている。藤木さんはわずかに手を頭の上で動かして、和樹に気を失っていない事を告げてくる。そうして和樹は黙ったまま、藤木さんの回復を待った。

10分ほどで、藤木さんはゆっくりと身体を起こし、大きく息を吐いた。

「ごめん。」ぐったりとした表情で、よろけるように立ち上がろうとするのを和樹は手伝った。藤木さんはキッチンに行って、冷蔵庫から水を取り出す。

「言ってくれたら、用意しましたのに。」

和樹の言葉に苦笑した藤木さんは、そこにあった病院で処方される薬袋から、痛み止めを取り出す。

「そんな、立て続けに何個も飲んで良いんですかっ。」焦る和樹。

「大丈夫、日本の薬は成分が薄いから。」

「でも・・・」日本の薬が外国の薬より成分が薄く、薬事法が厳しいことは知っている。だけど藤木さんが今、飲もうとしているのは頓服薬だ。頓服薬は内服薬より強いはずだ。数十分で何個も飲んでいいものじゃない。

「藤木家は、薬を売って財を成している家だよ。知ってた?」

「知ってますけど、だからって。」

「もう金も権力も有り余って、うんざりしているってのに、こんな風にして売り上げに貢献しちゃってんの。笑うよね。」

そう言って、藤木さんは追加の痛み止めを飲んだ。

「汗、流してくる。その後であれを読むから、ちょっと待ってて。」

規定量を超える薬を飲んで、シャワーだなんて体にいいはずがない。

「ちょっ、藤木さんっ。」と和樹が止める間もなく、藤木さんはバスルームへと入り鍵を閉めた。

和樹は、後悔する。

藤木さんを巻き込んだ事、そして苦しめている事を。

でも、どうしたらよかった?

頼みの理事補は、全く連絡がつかない。






体が、芯から冷えていた。

亮は、お湯の設定をいつもより2度ほど上げ、水量も上げた。威力を増したシャワーの湯が皮膚を叩きつける。

『あんたの手、凄く冷たいのよ。いつも。----男の人で、ここまで冷たいの珍しいわ。』

麗香の言葉が何故かよみがえって、亮はやっと体の体温が戻ってくるのを感じた。

『麗香・・・』

自然とその名を口にした自分が腹正しい。

(振ったのは自分だというのに・・・)

麗香が癒す力を持っていて、亮が時にそれを頼っている事を寛大に理解してくれている彩音の存在が、何よりも愛おしいというのに。真っ先に彩音の名が出こない自分の卑劣さに、うんざりする。

きっと近々、大きな罰を受ける。そんな気がして、亮は苦笑した。

ボディソープのポンプを押すと、ポシュッと掠れた量しか出ない。

「あぁ、そうだった。買い忘れてた。在庫がないんだった。」

ひとり暮らしはこういうのが面倒だ。次のボディソープの香りは何にしようか、そんな些細な事が楽しみでもある。

いつもより少なめのボディソープを手で泡立てて体に塗り付ける。一人暮らしをしてからボディタオルを使わなくなった。理由はなんてことない、ただ洗濯物を少なくしているだけ。テレビで手洗いの方が肌にはいいとやっていたのもある。

泡を流して脱衣所に出る。バスタオルで水滴をふき取っていると、洗濯機が洗濯終了を音で知らせてくる。

「ん?早いな。時間設定間違った?」亮は学校から帰宅するとすぐに部活で使った練習着や体操服などを洗う。

蓋をあけて取り出し、ちゃんと洗えているかを確認すると、汚れはちゃんと落ちていた。

「洗濯洗剤の威力は凄いな。」とつぶやいて、乾燥機に移す。

一人暮らしは独り言が多くなる。

乾燥機のスイッチを入れると、モーター音がうるさく狭い脱衣所に充満する。

微かに人の声がしたような気がしたけれど、テレビからの声と気にせず、亮はゆっくりと下着を履いて、ジャージを着用する。

「すっきりした。」そう呟きながら脱衣所の扉をあけて、亮は飛び上がるほどびっくりした。

「藤木さん。」

「ど、どうしてっ、黒川君、家に?」

「えっ!?」顔色をみるみる変えていく黒川君。

「えっ?」

「藤木さんっ、弥神です!」

その名前を聞いた瞬間、亮の頭は割れるように痛みが襲う。

「どうして・・・奴の名を。」

「藤木さんっ、思い出して、弥神皇生が藤木さんを苦しめているんですっ」

頭を抱えてうずくまった。黒川君が亮の身体を抱えながら、何かを言っている。

「藤木さんが、家に呼んでくれたんですよっ、中華料理を食べに行ったんです。」

黒川君とえりりんの話で盛り上がった、その光景を思い出した。

「そう・・・そうだった。」






和樹は、青ざめた。

こんなに自然に忘れていく。その現象を目の当たりにして。

あの赤い目が人を操り、その操られている不審さも脳から消す。

おとぎ話?SF?ホラー?サスペンス?ミステリー?

とにかく信じられない現象が、現実としてある。

生徒会のメンバーが全員、華族から華選の称号持ちで決まった事も、弥神皇生が操って立候補させ、華族じゃない人は辞退させたのだ。

何が目的だろうか?

「そう・・・そうだった。」和樹は唸り苦しむ藤木さんを抱えて、ソファーへと座らせた。

和樹の手を掴んだ藤木さんの手は驚くほど冷たい。

(シャワーを浴びたばかりなのに・・・)

「ごめん・・・」

「藤木さん、苦しいでしょうけど、思い出さないと・・・あの人の思うまま。何が目的か、何がこれから起こるのかわからないけど、僕が思い出せたから、藤木さんもきっとあの人の術から逃れる事ができるはずです。」

和樹が泣きそうになっているのをこらえていると、藤木さんは歯を食いしばりながら、頷いて、なんとか笑おうとする。

こんな時でも、藤木さんは和樹に対して気遣いをしている。

(この人は、本当は優しい。)

一時でも、苦手だと思った自分が馬鹿だったと思う。

「中華を食べに行った事は思い出したんですね。その後は?」

藤木さんは眉間に皺を寄せる。

「僕が、弥神皇生の情報を集めた経緯は?」

途端に頭を押さえて、身体を折る藤木さん。

「耐えてください。そうして痛みを起こして考えない様にするのが、弥神皇生の仕業ですよ。」

和樹はまた一から、集めた経緯を説明する。藤木さんは、和樹が話を途中で辞めたくなるほどに頭痛に苦しむ。しかし、和樹は藤木さんの為だと心を鬼にする。藤木さんは一回目の時より、苦しみ方が和らいでいるように見えた。気休めだと言っていたけど、薬がそれなりに効いているのかもしれない。そうして説明し終え、一息ついた後、藤木さんは覚悟を決めて、パソコンを指さす。

「見せて。」

「はい。」和樹はスリープになったパソコンを起動させて、集めた情報を表示させた。

藤木さんは手を握り締めて、時にこめかみを抑えながら、それらを読む。最後のページまで来ると、藤木さんは耐えられなくなったのか、立ち上がってトイレに駆け込んだ。

嘔吐する藤木さん。

「大丈夫ですかっ」

和樹は便器にうずくまる藤木さんの背中をさすった。また汗でびっしょりになっている。

(どうして、藤木さんだけ?)

和樹はこんなにはならない。集めたネットの情報にも、激しい頭痛などの事は一切ない。

(殴った腹いせに?わざと苦しむような術を仕掛けた?)

想像の域を超えない。

「水、汲んできますね。」

キッチンに行って冷蔵庫からペットボトルを取り出し、コップに水を入れていると、ふらつく足取りでたどり着く藤木さん。

「ありがとう。」渡した水を一気飲みして、「せっかくのごちそうが、全部台無しだ。」と苦笑する。

「また、食べに行ったらいいじゃないですか。すごい藤木家なら、大した事ないんでしょう。」

「あぁそう・・・そのときは、また黒川君を誘うよ。」と笑う。

「喜んで、お付き合いします。」

「コーヒーでも入れようか。」とごく自然に、忘れている。

「藤木さんっこれから、どうしたらいいか考えないと。」

「えっ?」

「弥神ですっ。」

「痛っ・・・」

「そう・・・そう・・だ。なんとか・・しないと。」

そうして何度も藤木さんを苦しめる事で、和樹は苦しみを共有した。





目が覚める。カーテンが閉まっているのに部屋が明るい。電気をつけたままで寝てしまったみたいだ。

目覚ましはまだ鳴っていない。亮はカーテンを開けようと体を起こして、びっくりする。

「なっ!?なんで・・・。」

ダブルベッドの端で黒川君が寝ている。

うつぶせでこちらに顔を向けてスヤスヤと眠っている黒川君。とても気持ちよさそうな顔は、まだあどけなさの残る女の子みたいだ・・・亮は顔を赤らめて、ガバッと布団をめくる。

「よかった・・・ちゃんと着てる。」

「あっ・・・すみません・・・寝てしまいました。」黒川君が目をこすりながら起きる。「どうしました?」

「俺ら・・・その・・秘密を、持っちゃった?」

「はい。」真剣な顔で即答する黒川君。

「いっ!?」

「これからどうしようかという話になって、考えている間に、藤木さんは力尽きて眠ってしまいました。」

(あぁ・・・どうして・・・)

亮は額に手を当てて、天を仰ぐ。

「すみません。僕、帰ろかと思ったんですが、藤木さんが心配だったし、起きたら、また続きの相談をしなくちゃと思って・・・。今、何時ですかね。」

時計を見る。5時32分だった。

「学校までまだ時間がありますね。」と黒川君はベッドから降りる。

(あぁ、本当に自分はどうしたというのか。まだ中2の後輩に、しかもえりりんの恋人に手を出すなんて。)

「く、黒川君、俺・・その・・・。」間違いだったなんて言えるか?と亮は頭を抱えた。

「藤木さん、大丈夫ですかっ。」と、黒川君は再びベッドに駆け上って、亮の顔を覗き込む。

意識すれば、その縋るような顔が可愛い。

「いや、駄目だ。ごめん。」亮は後退りして、黒川君を押し返す。「どうかしてたんだ。一回だけの過ちと、してくれないかな?」

「はっ?」

「傷つけるのは百も承知、でも今後こんな関係が続けば、もっと・・・。」

「藤木さんっ覚えてないんですかっ。」表情険しく詰問してくる黒川君。

「ごめん・・・。」

「寝ても忘れる・・・そうか、それもそうか。」と黒川君はぶつくさと考える仕草をした後、ベッドから飛び降りて、リビングからノートパソコンを手に戻ってくる。それは亮のものではなく、黒川君の私物。

「これを読んで下さい。」と怒ったように突き出してくる。スリープ状態だったのか、黒川君がキーボードの適当なところを押すと、すぐにそれは現れる。

「弥神の仕業ですよ。そうやって忘れるのっ。」

痛いっ・・・奴を意識すると頭痛がする。

その痛みで思い出す。昨晩、黒川君が何度も口にしていた事を。

「思い出してください。」

こうやって、何度も、痛みに強張る身体を、黒川君が支えてくれたことを。

「藤木さんが、どうなっても、続けてって言ったんですよ。」

(そうだ。そう。)

「あいつ、や、弥神は・・・危険・だ。」








Aちゃんねるグループ掲示板より

2009年9月15日

1・2学期から就任してきた生徒指導の島セン、厳しい。

2・なんで2学期からなんだよ。

3・前任の井上が退職したからだよ。

4・井上、精神病んで退職させられたって、本当?

5・鬱?

6・一学期の終わりの方、やばかった。

7・目がうつろ。

8・島センハリキリ過ぎ。

9・島センウザい。

10・うちのクラスの弥神、島センに捕まってた。

11・弥神ってあの変な髪型の奴?

12・前髪片方ロン毛。

13・あいつ、暗いよな。

14・ネクラマエガミロンゲー

15・ゲームに出てきそうだな(笑)




2009年9月17日

1・今日もまた、島センが弥神を捕まえて激怒。

2・ネクラマエガミロンゲー?

3・俺も見た。

4・前髪ロン毛は完全に校則違反。

5・片方だけが長いの、カッコイイと思っている系。

6・弥神、前髪は左目を保護するためとか、言ってた。

7・保護?

8・2年前、目の手術をしたから光にあてられないとか。

9・光に弱い→吸血鬼?

10・島セン、医者の診断書持ってこいって。

11・信じてないな。

12・嘘っぽいよな。手術が本当なら眼帯するっしょ。

13・そこまで言って前髪切りたくないって、すごいな。

14・そりゃ、ネクラマエガミロンゲ―ですから。

15・前髪の長さがHP。





2009年9月18日

1・島セン、完全に弥神をターゲット絞ったって感じな。

2・おかげで、俺らにはスルーだから、ラッキー。

3・俺らはマジメ。校則守り隊。

4・医者の診断書はどうした?

5・あるわけない。

6・明日までに切って来なかったら、切るぞって。

7・マジか。

8・ピンチ!ネクラマエガミロンゲ―。

9・そういや、弥神が4時間目の途中で図書室に入って行くの見たぞ。

10・あぁ、体育だったからな。あいつ体育はいつも見学。最近は図書室で自習。

11・なんで?

12・いいのか?

13・体育の山下先生が何も言わないから、了解の上なんだろう。

14・なんであいつだけ特別扱い?

15・そりゃ、ネクラマエガミロンゲ―ですから。




2009年9月19日

1・弥神、前髪切って来たか?

2・切ってない。切ったのは島セン。

3・意味不明。

4・朝の風紀チェックで、切ってない弥神を見た島センが、俺が切るからいいなって弥神の髪をつかんだ瞬間、手に持っていたはさみを落として、足に刺さった。

5・うそっ、マジっ?

6・マジ。グッさりと。

7・うげっ。

8・島セン、保健室行き。

9・鈍くさー。

10・それでか、うちのクラス風紀チェックに島セン来なかったの。

11・ネクラマエガミロンゲ―の反撃。

12・島セン1200ポイントのダメージ。





三京新聞2009年11月26朝刊

【京都府中央区のマンションで男性首つり】

11月25日午後6時過ぎ、京都府中央区にあるマンションで、島本晋也(36)さんが自宅のベランダで首をつって死んでいるのが発見された。島本さんは2日前から勤務先である桐栄学園を無断欠勤しており、不審に思った同僚の教師が島本さんのマンションを訪れ発見した。死後2日経っていて、現場の状況から自殺と思われる。警察は桐栄学園での勤務状況などを聴き取り、過労就労がなかったかを調べています。





2010年2月08日 

ラインチャットより

『聞いたか?3組のYの交通事故、自殺じゃないかって噂。』

《聞いてない。マジ!?》

『事故現場前の金物屋の親父が、見てたんだって。歩道の際でずっと立ち尽くしている学生がいるから、変な奴だなって。待ち合わせ場所にするような所でもないし。ダンプが走ってきら急に道路へと飛び出したって。』

《うわー金物屋の親父、現場見ちゃったってやつ。》

『そう。』

《でもさ。近道しようとして、交差点のない道路渡ったから事故ったって説明あったぜ。》

『状況からそう処理するしかないんじゃない?確かにあの道、交差点までの距離長いもん。』

《自殺だとしたら、超やばい、Yで3人。》

『島センも入れりゃ4人だぜ。』

《どうなってんだよ。うちの学校。》

「呪われてんじゃね。」





関西新聞記事 2011年10月24日 夕刊

【桐栄学園男子校の生徒、屋上から転落】

昨日、京都市城南市の桐栄学園で同学園の生徒が、北棟校舎裏で血を流して倒れているのを同校教師が発見し、救急車で病院に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。屋上で遊んでいて落ちたと思われる。同校では、屋上への立ち入りは禁止しており、普段は施錠され鍵は職員室で管理していたが、生徒が落ちたとされる屋上の場所近くに、鍵が落ちているのが発見された。誰かが職員室から持ち出したと考えられ、警察は転落した生徒の他に一緒に居た生徒が居たか、どういった経緯で転落したのかを慎重に調査している。学校は、今後このような事故がないよう、鍵の保管は厳重に改め、屋上には柵を設けるなどの対策をしていくとの事。






桐栄学園生徒、個人ブログより

2011年10月26日

一昨日、2年の時同じクラスだったHが、屋上から転落して死んだ。

救急車や警察が沢山来て、クラブ活動は途中で中止になって、帰らされた。

新聞やテレビでは遊んでいて転落した事故とか言ってるけど、僕ら生徒は、呪いだって言ってる。

悪神の祟り。

先生たちに訴えたけど、先生たちは僕らを集めて絶対に外部に話すなと言った。

学校の評判が落ちる。そして、僕たちの将来に関わる。と。

これは僕たちを守る為だとも言われた。

せっかく、苦しい中学受験を勝ちとって、大学まであるこの学園に入れたのに、

こんな呪われた学園、もう嫌、転校したい。







桐栄学園生徒、一年生個人smsより

2011年11月2日

学校が7日までの5日間の臨時休校となった。

3日が祝日だから実質2日間だけの休校だけど。

外出するなって言われてる臨時休校なんて、面白くないぜ。

各教科、いっぱい課題出されてるし、

7日はその確認テストをするとかっていうし、

くそっ、

何なんだよ。

昨日の三年の先輩たちの騒ぎが原因だろうけど、

絶対、他言するなって、

漏れたら、漏らした生徒を特定して退学させるって・・・

何なんだよ。




2012年1月10日 個人smsより

3ヶ月ぶりに学校に行った。

僕が教室に入ると、皆顔背けて離れて行く。

誰も僕に話しかけてこようとしない。

中澤君達にパンを取られたりして苛められていた時の方が

まだマシだったんだ。

寂しい。

弥神君も学校に来ていない。

弥神君のお弁当、また食べたいな。








和樹は、学校を休んだ。藤木さんも。

今、弥神皇生に合えば、何をしているか知られてしまう。知られたら、きっとまた記憶を消されてしまう。それを危惧したのもあるけれど、どうしたらいいかを考えなくてはいけない。

互いに、熱があると適当に嘘の理由を学校に電話をした。電話をした5分後に、藤木さんの携帯に柴崎会長から電話があって、様子を見に来るようなことを言われたみたいだ。だけど藤木さんは、母親が来るから大丈夫ですと断っていた。

電話を切った後、焦る和樹に、「嘘だよ、金曜日は絶対に来ないよ。大臣夫人は何かと忙しいからね。」と苦笑した。その表情がとても寂し気で、お金が有り余っても、寂しさは一般家庭と同じなんだ。と思った。

そして和樹の気持ちを一番理解してくれるのは、藤木さんだとも思った。

油断をすると、すぐに忘れてしまう藤木さんに、根気よく何度も説明し、パソコンを見せる。痛みにもだえるのは変わらないけれど、次第に、痛みが緩和されている様子で、忘れている時間も短くなってきて、今後どうするかと、先の事も話せるようになった。

「柴崎先輩に、これらの情報を見てもらってはどうでしょう。」

「駄目だ・・柴崎はあちら側の人間だ。」と首を振る。「一度、俺は柴崎に注意している。弥神を信じるなと・・・」

と苦痛に目を瞑って耐える藤木さん。

「同じ華族の称号を持つ者同士、絆は尊厳すべきと言われた。」

「それも、あの人に洗脳されたんじゃ。」

「かもしれない・・・だけど、華族同士の絆と言われれば、それは確かに尊厳すべきもので、俺たち一般人が否定できるものじゃない。」

「他の誰にも相談できませんね。」

「うん・・・まだ何も起きていないうちは。」

「だけど、起きてからだと遅いです。」

「うーん・・・」藤木さんは苦痛も交えて唸る。

「僕、怖いです。この桐栄学園みたいに、次々と生徒が死ぬような事があったりしたら。」

和樹が消去ファイルを復元させたのはごく一部。和樹が消す前は、もっと沢山の桐栄学園の生徒が事故や自殺で死んだ情報を取得していた。

約3年間で自殺事故の両面で5人の生徒を含む関係者が死んで、5人が不登校、内の一人は入院中である。5人の生徒が死んでいるのに、マスコミが騒がなかったのは、学校側が多額の資金を嗅ぎつけた記者に渡している事、そして、弥神皇生の父親も、マスコミに対して強い圧力をかけたんじゃないかと、藤木さんは言う。

「華族会は、政府よりも権力がある。」

「やっぱり、理事補と、どうにかして連絡をとるしかありませんね。」

「うん、凱さんが今、学園の仕事から退いているのは、幸運なのかもな。」

「あの人に気付かれずに、もっとちゃんと調べて、どうにかしてくれますよね。」

「多分・・・信じてもらうのに、苦心しそうだけど。」

「あぁ、もう!理事補、こんな一大事の時にっ、一体、自衛隊基地で何してるんですかっ、」と和樹は苛立ちを発散させた。

「あれ?黒川君知らないの?」

「何がです?」

「凱さん、今、皇華隊の新設を担っている。」

「皇華隊って何ですか?」

「神皇直属の部隊、華族会から作れって、急がされてるようだよ。」

「えー、どうして藤木さんがそれを知ってるんですか?」

「会って、聞いたから。」

「えーっ!」

そこで和樹は、この間の振替休日の時に、真辺さんの華選の称号授与式と共に祝賀会が行われていた事を知る。その祝賀会に友人代表で藤木さん達は出席していて、理事補は自衛隊のヘリで遅れて駆け付けた。そして皇華隊の新設で忙しい事などを話した。ちなみに、その祝賀会の二部では真辺さんのお母さんの再婚の簡単な結婚式みたいなのがサプライズで行われて、えりが参加していた事を知る。

「あぁ、僕がもっと早く、思い出せていたら。」和樹はがっくりとうなだれる。

「そんなに、凱さんと連絡とれない?」

「全くですよ。自衛隊基地の無電場領域に入ってしまえば、民間の携帯電波なんて完全遮断ですから。」

「基地内同士では、流石に連絡とれるよね。」

「多分、よくは知りませんけど。」

「基地に直接電話して呼び出してもらったら?」

「しました。そんな人、居ないって言われました。」

「最近はプライバシー保護が厳しいからか・・・身内だって言ったらよかったのに。」

「弟だって言ったんですよ。おじいちゃんが危篤だとも、でも、他の基地と間違っているんじゃないのかって、本当にそんな人は、富士駐屯地には配属されていないって言われました。」

「でも凱さんの携帯電話のGPSはそこにあるんだよね。」

「はい。間違いなく。」

「携帯だけそこにあって、体は別の場所?」

「わかりません。」和樹は首を振る。

「うーん。凱さん、まだ正式の自衛隊員じゃないのかも、隊員の選出が終わったばかりって言ってたから。」

「そうなんですか?」返事をしたものの、自衛隊のことはよくわからない。

藤木さんは腕を組んで、うーんと唸った後、

「仕方ない、すごい藤木家の力を使うか。」とつぶやいた。

「薬を売って財を成した藤木家の力ですか?」

「いーや、政界の方の力。」と藤木さんは携帯に手に立ち上がり、ベランダに出て後ろ手で窓をピッチリ閉めた。

どうやら、和樹には聞かれたくないみたいだ。

やっぱり、藤木さんは凄いなと、後ろ姿を見ながら思う。着替えたジーンズの尻ポケットに余している片手を入れながら携帯で話す姿は、二つしか年が上とは思えなくて、えりが自分の兄よりずっと優しくてかっこいいと憧れる通りに、和樹もそう思う。

しばらくして、藤木さんは部屋の中に戻ってくる。

「数日かかるかもしれないけど、防衛省から凱さんへ、黒川君に連絡してもらうように伝言を頼んだから。」

「ぼっ防衛省!?」

「防衛省が知らないはずないだろうからね。陸海空をまたいで新設される皇華隊なんだから。」

(凄すぎる・・・。)

「ず、随分と大掛かりですね・・・。」

「全く・・・。」

藤木さんとため息が重なった。

全くの別の意味で。










月が変わって、世間はハロウィンからクリスマスへと様変わった。

常翔学園サッカー部は、約半年間の県代表予選を勝ち進み、全国大会の出場権を手に入れた。

学園の東棟校舎の正面玄関横に、ほぼ毎年恒例となっている【祝 サッカー部 全国大会出場神奈川県代表】の垂れ幕が降ろされて、保護者会による軽い祝賀会も終えた週明け、慎一は昼食後、いつもの通り体育館脇のガーデンに設置されているベンチに腰掛けて、悠希と他愛もない話をしていた。今日は天気が良く、陽だまりはぽかぽかと温かいけれど、そろそろこうして外で話をするのも、終わりだろう。日に日に寒さは増して、冬の季節になっていく。

「明日、どうするの?」悠希が問う。

「どうしよう。」

「断って欲しい。」

「うーん、でも・・・断ったら、怖ぇ―からな。」

「もう。どうしてオッケーなんて即答しちゃうのよ。」と悠希が頬を膨らせて怒る。

「ごめんって・・・。」

明日は、秋の芸術鑑賞会である。12月に入ったのに、秋と名がついているのは、本来なら、その鑑賞会は11月の中頃に行われるものだからで、それが12月にズレ込んだのは、この行事を担当した先生がどうしても、と拘ったからである。

芸術鑑賞会は、生徒の文化教養を養う目的で、年に一回、何らかの芸術系の鑑賞を行うことが学校教育カリキュラムとして定められている、らしい。それらは柴崎から聞いた知識だ。

芸術の種類は何でもいいらしい。能、狂言、歌舞伎、バレエ、ミュージカル、クラッシック音楽など。

質の高い教育を目指す常翔学園は、こういう時とばかりに、その鑑賞会の規模も半端ない。一般市民では躊躇するような高額の公演を貸し切りで生徒達に鑑賞の場を与えてくれる。今年は、音楽の先生達が芸術鑑賞会の企画担当だった。世界的に有名なクラッシック管弦楽団が、12月の初めに来日予定と聞いた担当の先生たちは、その予定されている一公演を今年の芸術鑑賞会にしたいと、楽団側と交渉したらしい。それが成功して「秋の」が冬になった。

そんな有難い芸術鑑賞会を、慎一は中等部の頃から一度たりとも、鑑賞全うし終えた事がない。午後から実施される芸術鑑賞会は、いいお昼寝タイムになるのである。明日も公演は昼の1時から、東京のブリリアントクラシカルホールで行われる。会場も一流でドレスコードがあるぐらいのすごいホールなのだそうだけど、明日の昼公演は常翔学園が貸し切っている為に、そこは制服で。授業が3時間目までになり、それから早め昼食をとり、高等部は各々で現地に向かう。中等部はバスが用意されているのに高等部には用意されていないのは、公演の貸し切りに、例年より1.5倍の金額がかかっているから、と柴崎は暴露した。

その柴崎が、公演後、せっかく都内に出て現地解散となるのだから、皆でどこかに遊びに行こうと言った。部活はなく、その提案も毎年の事なので、OKと即答した慎一だったが、後に、その鑑賞会の次の日が悠希の誕生日だと聞かされた。

悠希は、二人だけで、どこかに行きたかったとむくれている。ちなみに悠希は、「行けるかどうかまだわからない」と保留にしていた。

「断るなら早い方がいいわよ。直前だと、きっと柴崎さん、」

「おーい新田ぁ。」体育館の方から藤木が歩んでくる。

県代表の予選後半あたりから、サッカー部は昼休みに外での遊びを自主的にやめていた。怪我を防ぐ為である。

「ごめんね、悠希ちゃん、邪魔して。」と相変わらず女子にはふやけた顔を向ける藤木。

「いいわよ。」

「新田、大阪代表予選決勝の星稜高校のスコア、貸してくれ。」

「ん?俺、持ってないけど。」

「あれ?んじゃぁ、今、誰が持ってるんだ?」

「今、池島君が持ってるんじゃないかな。」と悠希。

「あーそうかもな。青木先輩が寮生組に渡したのかも。」

「池島、持ってきてるかなぁ、寮に置いたままかな、ちょっと確認したかったのに。」

「何を?」と慎一が聞いた時、藤木が来た方とは反対から、手を振り回しながら中山さんが叫び駆けてくる。

「フッキ―、ニッチぃ、スクープスクープ!」

中山さんは慎一たちにまでたどり着くと、息を整えてから、目をランランと輝かせてスマホの画面を見せてくる。

「スクープよ。真辺さんの熱愛発覚!」

「えっ?」

中山さんのスマホ画面には、図書館の2階にある音楽ライブラリィコーナーのソファで、りのが男子生徒に寄り添って座っている写真。男子生徒は、りのの肩に手をまわして、その密着した距離は確かに友達とは言い難い。

「なかなか証拠写真が取れなくて、苦労したわ。」

信じられない思いで凝視する慎一。

「こいつは・・・。」

「やっぱり、ニッチは知らなかったみたいね。」

「熱愛ってことは・・・。」

「そう、学園一の堅実美人を落としたのが、3組の弥神皇生。」慎一は藤木へと顔を向けた。

藤木も、慎一と同様に険しい顔でその写真を見つめていた。

「あっ、フッキーにとっては超ショックだよね。真辺さんファン第一号で、おまけに弥神皇生とは因縁の相手だものね。」

「これ、本当か?」

「合成じゃないわよ。今、撮ってきたフレッシュ写真よ。」

最近、りのと柴崎は、生徒会の引継ぎがあるからと言って、昼食を取るとすぐに食堂から立ち去る。

「写真じゃなくて、弥神とりのの関係。」

「ええ、本当よ。裏もとってあるもの。」

「裏?」

「生徒会メンバーが、二人は付き合っていると証言したわ。柴ねぇーさんも知っての事じゃない?裏を取ったのは柴ねぇーさんじゃないけど。」

「・・・。」

りのが弥神と付き合っているというニュースは、午後の授業が終わるまでには学年中には知れ渡る。中山さんにかかればこういった情報が広まるのは驚異的に早い。本人が言うように、情報はちゃんと裏付けをとって正確な物しか流さないので信憑性はあり。敵視する柴崎も、中山さんの行動を抑えられない。

慎一は、そのスクープが衝撃過ぎて、明日の芸術鑑賞会後の遊びの誘いを、キャンセルし忘れた。





亮は、麗香が練習で使った赤と青のゼッケンを畳んでいるのを見ながら、考えていた。

(なぜ、りのちゃんが、あいつと付き合う事になったのか?)

あいつは、りのちゃんが痴漢に遭った時に助けて、家まで見舞いに行っていた。りのちゃんが、男性恐怖症になってもあいつだけは、大丈夫だと・・・その勇敢さに惚れた?

中山ちゃんは、とてもお似合いの二人だと言う。弥神も読書好きで、昼休みや放課後、図書館で一人、本を読んでいる姿をよく見かけていたという。

読書が趣味で意気投合した?

亮は知らなかった。あいつの嗜好を。そういえば食堂で昼食を取っているあいつを見かけた事がない。

時間差で昼食を取っていたという事か?

クラブも何部に入っているか知らない。あいつがどの位置にいる成績なのかも知らない。

因縁の、気になっておかしくない相手だというのに、何も知らない自分が不思議だった。

「ちょっと、さっきから、何なのよ!私の後ばかりつけて来てっ」麗華が、畳み終わったゼッケンを部室に片づけようとして、振り返り怒る。

「ん、あぁ、ちょっと考えごと。」

「離れて考えなさいよっ。」

「お前のそばは、考えごとしやすい。」痛みが和らぐ。

「はぁ!?」

「なぁ、りのちゃんは、本当にあいつの事、好きだと思うか?」

「えっ?」作業の手を休めない麗香は聞こえづらかったのか、聞き返してくる。

「いや、いい。何でもない。」

「何?」

麗香は、弥神に対して不審や不満など何もない。どちらかというと傾倒した感情がみられる。

華族である弥神の不審を、麗香にするのは酷だ。

それに、そもそも、りのちゃんが誰と付き合うとも自由だ。亮とあいつが嫌厭の仲であることが、りのちゃんの恋人選びに左右されていいわけない。

読書好きの趣味が意気投合したというなら、それはとても好感の理由だ。りのちゃんの知識欲が存分に埋められるだろう。

亮自身は、読書の趣味はさほどない。博識と言われる知識はすべて、ネットから得ているものだった。

「ねぇ、明日、本当にさくま園でいい?」

「あぁ。」

「なんか毎年そこだけど、別に他の所にしてもいいのよ。」

「ぁぁ、いいんじゃないか?」

「どっちのいいなの?」

「どっちでも。」

考え事をしていて生返事した亮に対して、不機嫌な表情に変えていく麗香。

考え事だと宣言しているのに、話しかけてくるという思慮のなさで勝手に機嫌を悪くする。女子にありがちなその傾向に対して、亮も宥めるのが面倒で身体ごと麗香から逸らした。するといい具合にメールの着信。確認すると、谷垣さんからだった。

【亮さま、ご勉学中の所、メールを差し上げまして、申し訳ございません。先日、ご依頼頂きました件、うまくいきましたでしょうか。爺の力及ばず、連絡が滞っていましたらと心配になり、ご連絡差し上げた次第であります。こちらから、黒川様に直接確認の連絡を差し上げるのも忍びなく、亮さまに確認した所存でございます。お手数ですが、現状を爺にお教え下さいましたら幸いです。】

馬鹿丁寧過ぎて、本質の内容が何かわからなくなりそうなメールに、亮は苦笑した。

「どうしたの?」とスマホの画面を覗こうとする麗香。

「ちょっと・・・家から。悪い、先帰るわ。」と半分嘘をついて麗香から離れた。

家からと言うと、麗香は素直に遠慮する。

部室から校舎下駄箱までの道のりで、もう一度爺やからのメールを読み直す。

何の依頼をしたか、思い出せない。

黒川君?

思い出そうとすると軽い頭痛がする。

「何故・・・。」

頭痛はあいつが関係するサイン。亮はあたりを見回した。あいつの姿はどこにもない。

何かを忘れている・・・。

微かに蘇ってくる記憶の中で、黒川君が「思い出して下さい。」と叫んでいる。

思い出せば激痛に苦しむ。それを体が覚えていて、亮は怯えている。

こうした葛藤も、もう何度も、という自覚もある。

そして、怖くても苦しくても、思い出さないといけないのだ。という使命感も次いでわいてくる。

今、送られてきたメールよりも前に、自分がどんなやり取りをしているのか、履歴をたどる。

生徒会メンバーの華族かどうかを調べた結果を送られてきている。それは覚えている。

黒川君に立候補者名簿の用紙を写メで送っている。

『気味が悪いですね。』と、黒川君は言った。

ここ数日、夜の11時に黒川君から、メールが送られてきていた。

そのメールの内容を確認して、亮は頭痛に身体を二つに折った。

そうだった。あいつの異様さを俺たちはどうにかしようと、それには、凱さんと連絡を取らないとどうにもならない。

凱さんは、今、無電波領域の自衛隊基地にいて、連絡がつかない。

でも、こんなことを学園内で考えるのは危険。だから、黒川君は夜の11時にメールを送ってきているのだ。忘れないように、あいつに気付かれないように配慮して。

亮はメールを閉じて、無心になるように目を瞑った。

「藤木?」りのちゃんが、バスケ部のユニフォーム姿で亮を覗き込んでいる。

「あぁ、りのちゃん。久しぶりだね。」

「久しぶり?」

「そうだよ。最近一緒に昼食を食べてないから。」

「そうかな?」

「そうだよ。ファン一号の俺としては寂しいなぁ。」亮が微笑むと、りのちゃんは、無表情に首を傾げる。

「あいつと・・一緒に食べてるの?」

あいつの事を思考すれば痛みが襲ってくるのがわかっているのに、何故そんな質問を自分がしたのか、わからない。

りのちゃんは、その質問に対して、言葉を発することなくただ、口角を上げて首をわずかに動かしただけ。

「YES」か「NO」か判断できなかった。

「りのちゃん、何か、困ってない?」

その言葉は、亮が度々りのちゃんに問いかける挨拶的な物。

りのちゃんは、ゆっくりと頭を横に振る。

「そっか、それなら、安心。」

その受け答えも、もう入学して何度言ったことだろうか。

りのちゃんは、もう亮たちの擁護を必要としない。






麗香は怒りで、さっきまで聞いていた素晴らしい演奏の余韻も吹っ飛んだ。

音響を重視して設計されたブリリアントクラシカルホールの出入り口は狭く、常翔学園の中等と高等の生徒が一斉に出口に向かえば、その移動速度はカメの様に遅く、肩がぶつかり合って、「ごめんなさい」と謝ってくるのも、同級生、先輩、後輩と入り乱れていた。

完全に、誘導不備である。中、高合同で芸術鑑賞会をするのは、ここ十数年ぶりの事であるから・・・こそ、世界的有名なクラッシック楽団のクリスマスコンサートを鑑賞できたのは良いにしても、中等部の往路のみしかバスが手配できないとか、こうした大人数の生徒の移動を考えずに席で解散とした無計画さに、麗香は憤慨していた。

こういう時は、後ろの列から順に、自分の番が来るまで立つなと放送で誘導するべきである。些細な事だが、こういった無様さが、常翔学園のイメージ損失となる。麗香は今晩にでも、お父様に意見を述べようと心に誓う。

やっと狭い扉を抜けた廊下の合流で、りのの姿を見つける。生徒に埋もれていても、りのが放つオーラは誰よりも強く、見つけるのは簡単だ。

「りの!」振り返るりのに、麗香は数人の生徒を押しやりながら、そばまで突き進む。「ねぇ、聞いてよっ、新田ね。今になって、こんなメール送ってくるのよ。」麗香は手に持っていたスマホの画面を、りのに見せつけた。

【ごめん、今日、行けない。急で悪い。言うの忘れてた。】

「岡本さんが行かないから?」

「知らないわっ、忘れてたってありえない!食事のキャンセル、昨日までなのよ。」

芸術鑑賞後は自由解散である。クラブもないのが毎年の事なので、麗香達は一昨年からさくま園という都内にある古い遊園地で遊んで、夜はレストランで食事をして帰るというのを、麗香が提案して実施して来た。さくま園は、小さい子向けの遊園地で、絶叫系の乗り物がない遊園地だけれど、意外に面白い。同心に還りはしゃげられる。

早い閉園後に、少々贅沢なレストランで食事をするのも定番で、制服で来店する事になるので、柴崎家の顔の効く店で個室がある場所に限定される。今年は牡丹鍋にした。今野をはじめ数人が、牡丹鍋を食べた事がないと言ったからである。

「慎一からキャンセル料を取ったら?」とりの。

「お金なんて、どうでもいいの。こんな直前に言ってくることが、私は嫌なのっ。」

この飲食代は毎回、麗香の父親の支払いである。麗香に甘いお父様は、娘の友人へ感謝の気持ちを込めて『食事も芸術鑑賞会の続き』と称して出している。

「予約した人数より少なくて来店したら、私、ううん柴崎家の信用を無くすじゃない。」

りのは困った顔で首をすくめる。こんな表情をする時は、同意ができない時の表れだ。

(そんなにおかしかったかしら?)と麗香は心の中で思うも、それでも新田へり怒りは治まらない。

「りのも牡丹鍋、初めてだったわよね。」

「イノシシの肉は食べた事あるよ。」

「味は?」

「味?肉の味だよ。」

「そうじゃなくて、料理方法。」

「焼いただけ。」

「・・・。」麗華は丸焼きを連想する。

「日本は、色々と手を加え過ぎだよ。」

そんな他愛もない話で、麗香の怒りは治まってきて、やっと出口も見えて来る。

半円状にホールを囲んでいる廊下の向いから、亮が新田と一緒に歩いてくるのを見つける。

新田は麗香の姿を確認すると「ヤバイ」という顔をして、逃げるように近くのトイレへと駆け込んだ。

「あいつぅ。」また怒りが再燃する麗香。

追いかけて問い詰めたいぐらいだけど、この人の流れではどうする事も出来ない。こちらに向かって来る亮へと寄せていくのが精いっぱいだった。

「藤木、聞いた?」

「あ、あぁ・・。」険しい顔でスマホから顔をあげずに生返事をする亮。昨日からずっとこんな風だ。

「新田が今日、行かないって言うの。」

「あぁ・・・。」

「もう、直前になって、ないわよね。」

「まぁ・・・あいつも色々とあるんだろ。」

麗香はため息をはく。最近、亮の表情が険しい。自分が美月と一緒に生徒会をやった事を良いように思ってないのかもしれない。

亮に答えたとおりに、美月から誘われた生徒会を、麗香は断る理由がなかった。りのも誘うつもりだと言われたら、なおさら麗香にとって嬉しいお誘いだった。あんなに貶して嫌っていた美月が、りのを完全に認めた証拠なのだから。

りのの華選上籍は、あの気位の高い美月が認める、完璧な理由となったのだ。生徒会の会長となった美月は、一年前に出来なかったもどかしさを取り戻すように張り切っている。だから麗香は、今回はあまり出しゃばらない様に、美月の好きにすればいいと思っている。

ガラス製の扉を二枚超えて、やっと外の空気が吸えた。

りのが後ろを振り返りつつ歩いてくるものだから、人に押されて前につんのめる。

「大丈夫?」

「う、うん・・・。」

こういう時、いの一番に手を出して助けそうな亮は、まだスマホを操作していて、りのの危険に気づかなかった。そして突然、亮は麗香に顔向けて、謝る。

「柴崎、悪い、俺も今日キャンセル。」

「えっ?」

「急の様ができた。」と亮は、辺りを見渡す。

「なっ、何なのよ、緊急の様ってっ。」

「悪いな、キャンセル料は払うから。」そう言って、麗香達から離れようとする。

「お金の問題じゃないのっ、さっきも言ったけど。」と言ってから、言ったのは亮じゃなく、りのだったと気づいたけれど、そのまま続ける。「キャンセルは昨日まで、予定より少ない人数は、信用問題にかかわるのっ。」

それでも亮は、「ごめんっ」と手の平を縦に顔の真ん中に持ってきて頭を下げる。そして、ブリリアントクラシカルホール前の歩道を、人をかき分け足早に歩んでいく。とはいえ、亮が向かう方向と麗香達が行こうとしている方向も同じである。さくま園に行く仲間達との待ち合わせは、ホール前だと混雑が予想されたので、駅前と決めていた。

「ちょっと待ちなさいよっ、藤木っ。」と言いながら、りのが付いて来ないのに気が付く。りのは、麗香より4・5メートル遅れた場所で後ろを向いて佇んでいる。

「りの?」

どっちに行けばいいのか一瞬迷って、りのへと駆け戻る。

「麗香、先に行ってて。」

「えっ?」

「遅れていくから。」といって、りのはブリリアントクラシカルホールへと駆け戻っていく。

「ちょっ、ちょっと!りの?」

トイレかしらと麗香は思い、藤木へと顔を向けた。藤木は先の大きな交差点で信号待ちをしている。

「もう、何なの?今年は。皆、勝手なんだから。」

ため息で顔を顰める麗香だった。








あの人が、怒っている。

その怒りを辿って、走った。

引き寄せられるように。

ブリリアントクラシカルホールから、

まだ常翔学園の生徒たちが続々と出てくる。

向かって来る人の隙間を縫って進むのは得意だ。

それでも扉の所では、来る人と私の行く体が詰まって、

「何だよっ」と非難を浴びる。

強引に身体をねじいれる。

あの人の怒りが強くなった。

耐えられなくて、立ち止まる。

恐ろしく、

体内の血が泡立つ感覚。

でもそれは、快感でもある。

「リノっ?」三年のイク先輩とユリ先輩。

「こ、こん・・に、ちは・・・」辛うじて声を出す。

笑顔で「こんにちは」と返してくる先輩たち。

あの人の怒りは治まらない。

やめてと心の中で叫びながら、

体感は、やめないでと要求している。

「どうしたの?メグ達とはぐれた?」

「いえ・・・あの、と、トイレに。」

「あらっ、トイレならあっちよ。」と先輩が指さす方は、

まさしくあの人が居る場所。「また、来週ね。」との先輩たちの声を背に、歩む。

恐怖と快感が同時に身体を襲う。

それがピタリとなくなった。

観客席の周囲を半円に廊下がとりまく、赤い絨毯。

トイレから、黒川君が出てくる。

感情のない表情で、こちらに顔を向けることもなく私のそばを通り過ぎた。

「く、黒川君!」私の掛け声は聞こえなかったように振り返りもせず、去っていく。

続いて、ゆっくりと姿を現したあの人は、左手で顔半分を覆っている。

「引き寄せられたか。」

「な、何をしたの?」

「わかっているはずだ。」

私は、わかっている・・・。

「わかりたくない、だけ。」

声が重なった。

「あなたは私、私はあなただから。」

「よくわかっているじゃないか。」

そう言って微笑んだ。

それが畏れ多くて、

怖いのに、

逸らすことができない。

左手で顔を覆ったまま出口へと向かう。

引き寄せられるように、私はその後を追う。








【覚えてますか?昨日の僕からのメールを見てください。】

送られてきた黒川君からのメール。指示通りに、亮は黒川君のメールを確認する。

毎日、夜の11時に同じ文面が送られてきている。その内容は弥神を噂するネットの情報だった。

その名前を意識した途端、頭痛に襲われるも、麗香がそばにいる事で、今は我慢できるほどに治まっている。

昨日は、夜の9時と12時にもメールが来ていた。そのメールを確認すると

【つい先ほど、凱さんから連絡が来ました。弥神皇生の事、簡単に説明しましたが、あまり信じて貰えていない感じでしたけど、僕が必死に訴えると、常翔のサーバーメンテナンスの事もあるので、なんとか会って貰える事になりました。日時はまだわかりません。藤木さんが言ってたように、皇華隊の訓練が忙しいそうです。決まり次第連絡します。】

【遅い時間にすみません。ついさっき、また理事補から連絡がありました。明日、時間を作って、こちらに戻ってきてくれます。明日は、芸術鑑賞会の後、柴崎先輩からさくま園行のお誘いを受けていましたが、それをキャンセルしようと思います。直前のキャンセルは、柴崎先輩に怒られそうで怖いですが、理事補が時間を作ってくれた貴重なチャンスなので仕方がありません。藤木さんはどうされますか?藤木さんも柴崎先輩からお誘いを受けていますよね。理事補と会うのは、僕だけでもかまいませんよ。場所は、横浜の理事補のマンションにて、PAB2000のパソコンを用意してくれるそうです。】

亮は思い出す。何とかしなければならない事が起きている事を。

(さくま園なんて行ってる場合じゃない。)

「柴崎、悪い、俺も今日キャンセル。」

「えっ?!」

「急の様ができた。」と亮は、辺りを見渡す。あいつが近くにいないかどうかを警戒しなければならない。

「なっ、何なのよ、緊急の様って。」

「悪いな、キャンセル料は払うから。」あいつは、先にホールから出たのか、それともまだホールに居るのかわからないけれど、亮の周囲には居なさそうだった。麗香がそばにいれば、痛みも和らいで思考できるのだけど、そうしていると、あいつがそばに来た時を察知できない。亮は麗香から離れた。

「お金の問題じゃないのっ、さっきも言ったけど。」と言って麗香は怒る。「キャンセルは昨日まで、予定より少ない人数は、信用問題にかかわるのっ。」

それでも亮は、「ごめんっ。」と手の平を縦に顔の真ん中にして頭を下げて後退した。その場から離れるも、麗香はついてくる。待ち合わせは駅前であるため、方向は同じである。

「ちょっと待ちなさいよっ、藤木っ」と言いながら、麗香は遅れたりのちゃんの方を気にして戻った。

亮は大きな通りの交差点まで行き、信号待ちで止まる。周囲の歩道は常翔の生徒達であふれていた。

【ありがとう、思い出した。行くよ。凱さんのマンションって横浜のどこ?】

と送ったメッセージに、いくら待っても返信が来ない。

(黒川君も、えりりんとの説得に手こずってるのかもしれないな。)

凱さんが、自衛隊基地からこちらに帰ってくるというなら、もう無電波領域から出ているだろう。今、電話をかけたら繋がるかもしれない。亮は凱さんの携帯電話にかけてみる。

操作をしている内に交差点が青に変わり、歩きながら耳にスマホを当てる。コール5回を数えて、凱さんのいつもの軽い口調の応答が聞こえてくる。

「やぁ、藤木君、久しぶりだね。」

「全然っ、一か月しかあいてません。」この人としゃべると脱力感に襲われる。

「そうだっけ?」

「りのちゃんの華選の授与パーティーは、一か月前ですよ。」

「あははは、そうか。」何がおかしいのか、イラっと来る亮。「あれから一年ぐらい経ってるかと思っちゃった。」

(何故に!)と心の中で突っ込む亮。

「世間と隔離した生活を送っているとね、時間経過が麻痺してくるんだよね~。」

「藤木―っ」と麗香が背後に追って来るも、無視して進んだ。

「黒川君から説明されたでしょう。」

「うん、何だが、とっても危険だと言ってたね。」

「ええ、奴は・・・」と痛みが襲って来るのに歯を食いしばった時、

「キャッ!」麗香の悲鳴と

「おいっどこ向いて歩いてんだよっ」男の怒声が背後でした。

「ごめんなさいっ。」

携帯を耳にあてたまま振り返ったら、品のない男が麗香に因縁をつけている。

「どうしてくれんだよっ。」と男が指差す場所は、自分の服。そして足元にくすぶったタバコが落ちている。

「焦げたじゃねーかっ。」

「ごめんなさい。」と麗香は首をすくめて怯える。

「すみません、かけなおします。」と凱さんの返事を待たずに電話を切って、麗香の方に駆け戻った。

「ごめんなさいばかりで済むかよっ。」と汚い顔を麗香の近づけて脅している男の腕を掴んで、引き離した。「何だよっ。」その汚い顔を亮に向けてすごんでくる。「お前、女の前だからって、かつこつけてんじゃねーぞっ。」

「この辺は、歩きタバコを禁止されている地域です。条例違反しているあなたと、ただ、ぶつかっただけの女子高生、どちらが悪いか、よく考えてみてください。」亮は至って冷静に言った。

「あぁ!」と顔をゆがませて、まだ凄む品のない男。歩行者信号が点滅するのを視認しながら、尻ポケットから財布を取り出した。最近は、どこでもカード払いで現金はあまり持ち合わせていない亮だったが、さくま園に遊びにいく用に、今朝、登校前にコンビニATMで現金を降ろしていた事が幸いした。万札を一枚抜き取って相手に投げつけた。

「走れっ!」麗香にそう叫んで、点滅が終わりかけの横断歩道を駆けた。

「なっ!おまえっ。」舞う金を掴みながら、中央分離帯の歩行者道路に取り残される男。

遅れる麗香の手を引っ張り、青で走り始めた車の走行すれすれに、渡り切った。男は万札の金を受け取っておいてもまだ、こちらに罵声で地団駄している。

麗香が息を切らして、「ありがとう。」と身体を折り曲げる。

「気をつけろよ。」と言いながら、こうなったのも、自分のせいだったな。と苦い思いを胸にする亮。

「お金、返すわ。」と麗香が、まだ息を切らせながら肩にかけている常翔学園指定の学生カバンに手をかける。

「いいよ。っていうか、行こう、あいつ追ってきたら厄介だ。」

麗香は怯えた表情で後ろを確認してから、歩き出した亮の後をついてくる。






再びホールを出た。

常翔の生徒たちは、大方、駅へと向かって、ロビー前は、若干の生徒が記念に写真を撮っているばかりとなった。

足早に前を歩くあの人は、再び怒りに染まっていく。

また、恐怖と快感の相反するものが、もぞもぞと身体を襲う。

あの人は、ピタリと足を止めて、前から向かって来る男を凝視する。

ブツブツと、何かとても機嫌の悪そうな感じの男は、あの人の凝視に気付いて、

「何だっお前っ、何見てんだ?お前もあいつと同じ学校かっ、くそ生意気なっ。」と、あの人の胸倉をつかんだ。

「ゃ、止めて・・・」

(その人を怒らせないで!)と悲鳴に声を上げてしまった。

男の人は私へと気にかけて、「あぁ!?」と威嚇の声を上げる。

あの人の怒りは最大に、その男をすぐ横のビルの壁に押し付けた。

「お前っ、何っすんだっ。」

頭をひと振りして、左目を露わにする。

あぁ・・・見なくてもわかる。

その眼が赤いことを。

身もだえするほどに、

それが恐ろしい事。

蛇の目の様に、

誰も逆らえない。

威勢よく反抗していた男は、力なく両手を下にだらける。

そしてブツブツと何かを言い始め、目は虚ろにして、ふらつく足取りで来た道を戻る。

そして、自動販売機の缶ジュースの補充為に路駐してあった赤いトラックに乗り込み、発進させた。

ドサドサと缶ジュースが入っていた段ボールがトラックから落ちて、カラカラと缶ジュースが辺りに転がる。

「お、おいっ!」

自販機の設備調節をしていたトラックの運転手は、慌てて追いかけるも、走り出したトラックには追い付けず、頭を抱える。

トラックは、交差点で対向車が来るのもお構いなく、スピードを上げて右折していった。






亮は歩みながら振り返り、男が追って来ていない事を確認した。ほっと安心して、クズがと心の中で罵る。タバコが当って焦げたと言った服には焦げ目もついていなかったし、落ちたたばこ代に一万円はぼろ儲けだ。腐るほど金のある亮でも、あんなくず野郎に与えるのは癪にさわる。

亮はスマホ取り出して待ち受けの時計を確認する。3時12分、ここから横浜へは40分ほどかかる。うまくいって、4時に凱さんのマンションに着くという感じだろう。横浜駅から凱さんのマンションまでどれぐらいの距離があるのかは知らないけど、どう考えても、凱さんが駅から遠いマンションに住んでいるとは思えなかった。

黒川君からの返信はまだない。

ブリリアントクラシカルホール前の大通りを超えたこちら側は、大手建設会社ばかりが集中するオフィス街である。一筋目の信号を渡った所に地下鉄へと降りる階段がある。その地下鉄の駅の改札前が待ち合わせ場所である。階段を降りる前に、もう一度凱さんに電話をしようと考えながら歩む。

「もう、みんな、今年はどうしちゃったのよ・・・」後ろをついてきている麗香が呟く「朝早くに、黒川君も行けなくなりましたってメールが来たの。新田もだし、あんたまで。」と寂しげにうつむく。こうしたイベントを企画しては仕切る事を楽しみにする麗香、人が集まらない事が寂しい。特に当日のキャンセルは、麗華が何よりも嫌う事だ。

向かって来る自転車を避けたきっかけで、麗香と共に足を止めた。

「ごめん。どうしても、今日じゃないと駄目な用ができたんだ。」

「彩音ちゃん?」

予想外の質問に亮は困惑する。そうだと言えば、麗香は嫉妬する。そして彩音の事を嫌うだろう。彩音と麗香は同じ華族の称号を持つ者同士である。亮のせいで、麗香に彩音に対する嫌悪の気持ちを育ててしまうのは忍びない。

「違うよ。母親が、どうしても帰ってこいって。」

麗香の本心は、亮の言葉が嘘だとわかっていた。だけど、亮が家の事を言えば、麗香は何も言えなくなるのは、わかっていた。

亮に嘘をつかれて傷つく麗香の本心を読み取り、亮も心を痛める。

「ごめん・・・。」

その謝罪は、背後からの車の激しいクラクションにかき消された。

亮と麗香は反応して振り返った。赤いドリンクメーカーのロゴが入ったトラックが、大通りを右折してこちらに向かってくる。青信号で横断していた人が慌てて駆け出し、辛うじて轢かれるのを免れる。

トラックは蛇行して、亮たちのいる歩道に車体を乗り上げた。悲鳴がどこからともなく上がる。

スーツを着たサラリーマンが横飛びするように避けるも、体半分が接触して吹っ飛ぶ。

つい先ほど亮達とすれ違った自転車に乗っていた若いお兄さんは、飛び降りるようにして、逃げる事ができたが、自転車は巻き込まれてひしゃげ曲がる。

それでもトラックのスピードは落ちないで、こちらに向かって来る。

驚愕に動けない麗香の腕を掴んで、ビル側へと引っ張った。

が、トラックは、跳ねるようにして亮達が逃げた方へと向かって来る。

その運転手の顔を見て、亮は目を見張る。

麗香に因縁をつけてきた品のない男、血走る目は狂気に満ちて・・・亮を捕らえていた。

よろけ、亮の胸にすがる麗香を強く押し離した。

麗香は、しりもちついて転ぶ。

亮は、麗香から少しでも離れようと駆けた。

そして、思う。

(あぁ、これは罰だ。)と。






悲鳴、

金属がひしゃげる嫌な音、

迫ってくるトラックが恐ろしく危険なのに、

麗香の足は動かなかった。

亮が麗香を引っ張り、ビル側へと引き込む。

麗香の足はもつれて、勢い余って亮の身体にぶつかるも、

次の瞬間には、つき飛ばされた。

麗香はしりもちをつく。

目前を猛スピードで通り過ぎるトラック、

風が麗香の髪を乱した。

ドンっと空気が揺れる振動音とガシャンと高音の音が、麗香の耳を苛めた。

赤い車体は、ビルの前に設置されていた大理石の社名に激突して止まった。

「大丈夫かっ。」

集まってくる人々、周囲の店からも人が駆け出てくる。

悲鳴。

「救急車をよべっ!」

「男の子が巻き込まれているぞ!」

そばにいたはずの亮が居ない。

事故を起こしたのは、自動販売機用のジュースを運ぶトラック、

開いている荷室から一つ、カンと音を立てて缶コーヒーが落ち、転がっていく。

コロコロと転がる缶コーヒーを止めたのは、

車体の下から広がってくる赤い液体。

「トラックをバックさせろ。」

「運転手っ。」

「こいつ、なんだっ。」

麗香は思う、

(缶のトマトジュースなんて、きっとおいしくないわ。)

そんな思考が今、必要ではない事はわかっている。

立ち上がった。

「君も、大丈夫か?トラックに当たったんじゃないのか?」

そんな声掛けを振り切って、麗香はトラックの正面へと駆けた。

「どいてっ。」

「君、駄目だ。」

大理石にストレッチでもするように仰いでいる亮は、

額と口から血が流れていた。

「嘘・・・は、早く・・救急車を!」

「今、呼んだから、すぐ来る。」

亮の下半身は、車体と大理石に挟まっている。

「早く、どけてっこのトラックっ。」

覗くと、亮の足はタイヤとトラックの間に巻き込まれて、

ありえない方向にねじ曲がっていた。

「嫌よ、こんなの・・・。」

できない事はわかっていても、麗香はトラックを押す。

「早く、どけて・・・」

震える手で、亮の頬に触れた。

「いやーーーりょーうっ!」





麗香の悲鳴が、ビルの合間に響き渡る。

狂ったように泣き叫ぶ麗香に、

私は駆け寄る事ができない。

恐怖ではなく、

罪科による

足枷。

それが、私を、その場に留める。

あの人の腕が、私の背後から絡めて縛る。

「罪など、思う事はない。」

囁く声は、

「あれは報いだ。」

震えるほど恐ろしい。

震えるほど快感。

「どうして・・・」

「どうしてか、など、知れたことであろう。」

絡めた腕は、蛇のように這って、

頬から首へとなぞる。

知れた事・・・

それは、定め、宿命、宿運、規則、おきて、

不変に繰り返される

生と死

「よくわかっているじゃないか。」

そう言って、笑う。

あの人の、

長い髪の隙間から除く目は、

血の様に

赤い。








「よかったね、えりちゃん、黒川君と一緒で。」

「うん!」えりは佐々木さんに向けて、笑顔の返事をした。

佐々木さんは、さわやかな笑みを返してから、また地上への階段の方へと顔を向ける。

「皆、遅いわね。」

「どうせ、柴崎だろ。遅いの。身支度に手間かけてんだよ。」と今野さん。

毎年、恒例となった秋の芸術鑑賞会後のさくま園+お食事会。今年は柴崎先輩たちが高等部へと進学してしまって、日程が違うから、えりたちは参加できないと思いきや、中高合同の鑑賞会となって、えりたちも誘ってくれたことに、大いに喜んだのだったが、今朝、黒川君が急に行けなくなったと言い出した。

理由を聞くと、お母さんの具合が悪いとかなんとか・・・芸術鑑賞会後は、おじいちゃんと交代して家に居なくてはならないから、キャンセルすると言われた。えりは残念だけど仕方ないと諦めて、待ち合わせ場所の地下鉄の改札前に来たのだったけれど、黒川君は、えりから遅れること10分後、急に待ち合わせ場所に現れた。

『黒川君!どうしたの?』とえりが問いかけると、

『待ち合わせ。』と答えた。

『行ける事になったの!?』

『うん・・・。』

『お母さんの具合が良くなったんだね。よかったね。』

と言ったものの、黒川君はずっと携帯電話のメール画面を操作していて、表情も暗い。

具合が改善されたとしても、心配は継続されるものだ。しかもそのお母さんの具合を見ているのは、高齢のおじいちゃんなのだから。

「ねぇ、黒川君、お母さんが心配なら、無理しなくていいよ。」

「うん・・・。」えりの方に顔を向けることなく、生返事をする黒川君。

「お母さん、良くなったと言っても、心配だよね。」

「うん・・・。」

「それなら、帰った方がいいよ。柴崎先輩も、事情を知ったら怒らないから。」

お食事会は今年、牡丹鍋だ。初めて食べる牡丹鍋、えりの期待値はマックスである。その牡丹鍋は、前日までが予約の締め切りだ。朝になって行けないと言い出した黒川君の分は、もうキャンセルができないから、行くも行かないも同じで食材も用意されるので問題ない。

「キャンセル代なんて心配しなくてもいいし、あぁ、そうだ。黒川君の分のお肉は包んでもらうよ。で、えりが届けてあげる。そしたらさ、お母さんも食べられるじゃない。」

「うん・・・。」

時々、黒川君はこうしてえりの話を全て「うん・・・」で済ませる時がある。この時の黒川君は考えごとをしているのか、えりの話の内容を全く理解していない。えりは黒川君に話しかけるのは諦めた。黒川家の事情にあまり踏み込んでもいけない。さくま園に行くか行かないかは、黒川君本人が決める事だ。えりは周囲を見渡す。

一番に待ち合わせ場所で待っていそうな柴崎先輩が遅い。りのりのも。藤木さんは二人と一緒だろう。慎にぃは、今朝、「キャンセルし忘れていた。」と焦っていた。聞けば、岡本さんの誕生日が明日で、デートをする約束だったからとか・・・。

二人きりになりたい気持ちは、分からなくはないけれど、ドタキャンをして柴崎先輩を怒らせるよりは、二人のデートを違う日にした方が絶対に平和だとえりは思う。えりは馬鹿兄の事なんてほっといて、今日の牡丹鍋を楽しみにして家を出て来た。

常翔学園の生徒たちがこの地下鉄を使うピークも過ぎて、改札前にいるのはえり達4人だけになった。この辺りはビジネス街で、えりたち以外の利用客は、ほぼスーツ姿のサラリーマンが多い。だから学生がこんなところで待っているのが珍しいのか、すれ違う人たちが、えり達を凝視して振り返りつつ改札を通っていく。

一人の男子学生が、階段から降りて来る。グレイ色ズボンだから高等部の生徒であり、えりの見覚えのある生徒だった。

「おぅ、弥神・・・」今野さんから声をかけるも、その人はすました顔のまま、進んでくる。えりはその名前に思い出す。藤木さんが入学早々に、殴ったという寮生。

「お、俺、今日、外泊許可を取って、親と一緒だから。」

嘘である。こういう柴崎先輩の誘いで、寮の門限を破らなければならない時は、柴崎家が寮と話をつけているし、泊まるのは柴崎邸であるのが定番だったけれど、藤木さんが一人暮らしをしてからは、今野さんは藤木さんのマンションを利用しているのを聞いて知っていた。

その弥神という人は、今野さんを一瞥しただけで、何も言わずえり達のそばを過ぎていく。

改札にチャージ式カードをタッチすると同時に、すぐそばにいた黒川君に何かを囁いたような気がした。でもその内容は改札の反応する音や雑音に紛れて、何を言っているのかえりにはわからなかった。黒川君は携帯の操作していた手をピタリと止め、不自然に固まった。何か、嫌な事でも言われたのだろうか。

弥神という人は、横浜方面へのホームへと向かう。愛想のない人、それがえりの印象だった。

「君たち、もしかして、友達を待っているのか?」

突然、このあたりの会社の社長が会長かというようなスーツを着た恰幅の良い年配の人が、佐々木さんと今野さんに話しかけてくる。

「えっ、はい。そうですけど。」

「もしかしたら、君たちの友達じゃないのか?君たちと同じ制服の子が上で事故にあって、救急車が来てるよ。」

「えっ!」

恰幅の良い年配の人は、えりと佐々木さんを見比べてから、佐々木さんに顔を向けて、

「君と同じスカートを履いた髪の長い女の子が、泣き叫んでいてね。」

えり達は、嫌な予感に顔を険しくする。

「運ばれていく男の子の名前を呼んでいたよ。」

「なんという名前をっ!」今野さんが叫ぶ。

「りょおって叫んでいたね。」

えりは血の気が引く。

今野さんが駆けだした。

佐々木さんがその年配の人に「ありがとうございます」と頭を下げて今野さんの後を追う。

「藤木さんが・・・どうしよう・・・。」えりは怖くなって振り返った。「あれ?・・・黒川君?」

黒川君が居なくなっていた。

(えっ?)

えりはその場で一周する。

地上へ行く階段は、今、今野さん達が向かった階段しかない。改札の中の方へ、身体を乗り出して見渡したが、どこにも黒川君の姿はない。

「えー、どこ行っちゃったの?黒川くーん。」

えりはすぐに携帯を取り出してかけてみたが、繋がらなかった。





【速報です。東京杉立区石黒の路上で、トラックが暴走し、数人のケガ人が出ているとの情報が入りました。暴走したトラックは、ミカコーラドリンク社のトラックで、運転手はこのミカコーラの社員ではなく、別の男が盗難し暴走させた模様です。トラックを盗難して暴走させた男は、軽症を負い、現行犯逮捕されましたが、意味不明の言葉を発しており、薬物使用の疑いが出ております。】


【続報が入って来ました。杉立区石黒のトラック暴走事故の被害者は3名で、うち一人は意識がなく病院に運ばれたとの事です。】




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る