第16話 白群色の空5


多細胞生物の体を構成する細胞には、個体をよりよい状態に保つために、「死」のプログラムが組み込まれている。

生命と呼ばれるすべての物は、誕生した瞬間から「死」へ向かい時を刻み始める。

人の細胞も例外なく、この血、皮膚、筋肉を成型する細胞には、「死」のプログラムが組み込まれているのだ。

この脳を作っている細胞も「死」のプログラムは刻まれていて、カウントダウンは誕生から始まっている。

「死」への願望は、細胞に組み込まれたプログラムの発動である。


何かのコラムで読んだその知識は、僕の悩みを軽くした。死にたいと思う事が、おかしいのだと思っていた僕は、その知識はお守りのように僕の悩みを肯定した。

【トリカブトを食べると、死ぬ。】

その事を知ったのは、たまたま見た2時間もののサスペンスドラマだった。トリカブトの根っこである「附子」は、精製すれば強心作用、鎮痛作用として用いられるが、そのまま食すると、呼吸困難、臓器不全を起こし死亡する即効性の強い毒である。そんな毒を手に入れるのは簡単だった。

――――蔵に入るだけ。

なぜもっと早くそうしなかったのか?

蔵に入った時、僕はそう思って苦笑した。身近に「死」ねる材料がいっぱいあるというのに。

かび臭い蔵の中は、藤木家が薬の栽培を手掛けた頃からの薬材が、木箱に入って積みあがっている。

墨で「附子」と書かれた木箱を見つけて引っ張り出し、茶色い乾燥した根っこの塊を手にする。

――――これを食べるだけ

『亮坊ちゃん!何をしてるんです!』爺やの絶叫に驚いて、僕はその附子を手から落としてしまった。

『爺や・・・・僕の細胞は死にたがっている。』

『何を言ってるんです。』

『プログラムが発動したんだ。だから、こんな力が・・・見たくもない人の本心なんかがわかるんだ。』

『坊ちゃん!』爺やは渋く眉間に皺を寄せて、僕の肩を掴む。

本心に、に、悔しさと自分に対する怒りと、どうしようもない憐み、悲しみ、困惑の感情が混ざっていた。

そんな爺やから視線を落として、僕は足元に転がった「附子」を拾う・・・

『「死」にたい・・・』そう呟いたら、爺やは

『爺やも、お供します。』と言って涙した。

どうして、もっと早くこうしなかったのか?

そんな疑問を自分に問いかけて、答えられず。

そもそも答えなど必要がない。

生ぬるい風が亮の肌にまとわりついて、問いかけた事すら頭からなくなる。

階下は十数台分の駐車場。

あの車が邪魔だ。車の上に落ちれば衝撃は和らいで「死」ねない。

 その車をよけて横に移動した。

簡単な事だ、ここから落ちるだけ。

何故、その簡単な事を今までやらなかったのか?

地面まで、15、6メートルぐらいか。

手すりの段差に足をかけ顔を上げた。

紫色のグラデーションに染まった雲が、綺麗な景色を作っていた。

藤木家の色だ。

こんな「死」ぬ瞬間まで、家に縛られている。

それも自分らしい。

身体を乗り出した。その時、尻にバイブレーションの振動と着信音。

驚いて、かけていた足がずり落ちた。

亮は気づく。今、「死」のうとしていたと。

そして、またあれが始まったのだと血の気が引く。

「死」のプログラムの発動。

組み込まれた細胞が「死」を求め、「死」に向かへと脳に浸透する。

ベランダから逃げるように部屋に入った。窓を閉め、鍵をかける。カーテンを隙間なく閉じ、うずくまった。

「なぜだ。何故、また俺は・・・。」

いや、何故は必要ない。何故はわかり切っている。人の本心を見続けた絶望のせいだ。

今必要なのは、「どうしたら。」だ。

あの時、俺はどうやって、「死」の発動から逃れられた?

即効性の強い毒のある「附子」を食べるために蔵に入った。

落とした「附子」を拾って・・・食べなかったのか?

思い出せない。

「附子」を食べるだけ、だった、なのに俺は生きている。

まだ俺は生きている。と考えた思考を、頭を振って追い出す。

部屋は真っ暗だった。

亮は急いで部屋中の明かりをつけた。玄関、トイレ、バスルーム、クローゼットも開け放して明かりを常灯させた。

冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。キャップが開けられない。自分の手が震えている事を知る。

「大丈夫、大丈夫だ。あの時も逃れられた、今回もきっと・・・」そう声に出して、力任せにキャップを開ける。

零れるのもお構いなしに水を煽った。良く冷えた水が細胞を浄化していくように感じた。

「大丈夫・・・」亮は大きく息を吐いた。

床に零れた水を、手拭きのタオルで拭こうと屈んだ。顔の横にあるシンクの中には、包丁が収納されてある。

新田が選んで買った調理道具の数々、とりわけ包丁は、かなりの時間をかけて、店員に事情を説明し実際に握らせてもらって選んでいた。

どの包丁でもない、新田が選び使い込んだこの包丁でなら・・・。

亮は初めて包丁を握った。

はじめての調理が食材じゃなく、自分の血肉だなんて・・・。

上手く調理できるだろうか?新田のように鮮やかな手捌きで。

何処を、切ればいい?

心臓か?首か?

手首か?

どう、持てばいいのかわからない。

持ち方を変えようとしたら、落としてしまった。

思いのほか部屋に響いた高い音。

「ひっ!」

自分が今、しようとしていた行動に驚く。

落ちた包丁の側面が、照明の光を反射して怪しく光っている。

「違う・・・違う、今じゃない、死ぬのは。」

誰か・・・この脳に張り付いた「死」の願望の発動を止めてくれ。

「助けて、誰か・・・」

そんな誰かが、この家に居ないのは、わかりきっているのに・・・。

自ら孤独を選んだ。誰の本心を見ない時間を欲したのは自分。

孤独に怯える自分が、ことごとく怖い。

涙が頬を伝う。

力なく後ずさった背中が食器棚に当たり、振動で食器どうしがあたった音が、更に孤独を強調する。

ずり落ちるように床にへたりこんだ。尻に携帯の固さが当たる。

「麗香・・・助けてくれ・・・」

この「死」のプログラムの発動を止めてくれ。

涙で滲んだ視界で、携帯のアドレス画面で麗香の名前を探しあて、コールする指を止めた。

巻き込むわけにはいかない。麗香は躊躇わず、亮に寄り添うだろう。

そんなのは駄目だ。

麗香は、こんな自分に寄り添い落ちて行く人間じゃない。何時だってまっすぐ突き進む。それが柴崎麗香の輝く姿。

メールの着信を知らせるマークがあった。その宛名を見て、また涙があふれ出た。

彩音ちゃん・・・。

『母が昔、使っていた手話辞典を見つけました。我が家ではもう使わないので、藤木さんが手話を覚えるのに、どうぞ使ってください。またお参りに来てくれるのを待ってます。』



 




プログラムが発動した「死」は、容赦なく脳を洗脳していくようだった。気を許すと「死」を考えている自分がいる。どうしたら確実に「死」ねるかをスマホで検索している。亮はスマホの電源を落とし、小銭と一緒にビニール袋に入れて鞄の奥底にしまった。パソコンは、紙袋に入れてガムテープでぐるぐる巻きにしてクローゼットの奥に仕舞った。包丁やハサミ、カッター類も同じく。とにかく、「死」ねる物は、それを取り出すのに時間がかかるようにし、スマホと一緒に入れた小銭は、落ちたら音がして正気に戻れるようにした。

寝ても大丈夫かどうかがわからない。寝ながらベランダから飛び降りたなんて、最悪だ。いや幸福か。

「駄目だっ!」

「死」を肯定しようとしたときは、声に出して、駄目だと言い聞かせる。

テスト前である事が幸いに、亮は、脳に「死」を考えさせないよう隙を与えず、試験勉強をし続けた。いつの間にか寝てしまっていて目覚ましのアラーム音で目を覚ました亮は、ほっとしながらも、まだ「死」んでいない状況に、残念がっている自分に叱咤した。

朝練は基本、自由意志だ。試験一週間前でもそれは同じで、亮も新田も、よほどのことがない限り、今まで休んだことはない。学校自体を休んでしまおうかと考えたけれど、休めばきっと保護観察である柴崎会長から電話がかかってくる。休んだ理由に仮病は使えない。まして「死」のプログラムが発動して怖いなどと言えるはずもなく。重い頭と身体を無理やり動かして、通常の登校時間に間に合うように家を出た。歩いて1分もかからない駅のホームで、壁にもたれて電車を待つ。

何も考えない無の感覚が心地よい。こういうのを座禅や瞑想などで得るトランス状態というのだろう。

「藤木!朝練休んだの?」急に話しかけられて我に返る。わずかに驚いた麗香の顔がある。

「あ、あぁ。」

「どうしたの、調子悪いの?」心配げに顔をしかめる麗香は、亮の左手を取り包み込むように握る。

その時、足元の白線に気付いた。壁際に居たはずだ。

無意識に歩いていた?

線路に飛び込もうとして?

「熱はないみたい。ん?どうしたの?」

「今日は・・・電車は無理みたいだ。」顔を手で覆う。

「えっ・・・わかったわ。」

麗香は、本心を読みとる能力に苦しんでいるのだと思い、それからの行動は早かった。タクシーを呼んで、亮を支えながらホームを出た。タクシーに乗っている間、学校を休むように言われ続けていたけれど、マンションに一人でいる事が怖かったから、「学校は大丈夫だ」と答えて説き伏せた。実際に、沢山の人の目があることの方が安心だと思った。

それに麗香がそばにいると、重い頭や身体が軽くなる。

(麗香に何か特別な能力があるのだろうか?)

麗香がそばにいてくれたら、この「死」の発動もなくなるだろうか?など身勝手な期待をしてしまう。麗香は休み時間の度に様子を見に来てくれていたが、中山ちゃんに揶揄されて言い争い、午後からは来なくなった。

5時間目の日本史でやたら武将の「死」の歴史を教えられる。その度に「死」に脳が支配されそうで、ついに気持ち悪くなった。6時間目は保健室で寝かせてもらうことにした。

保健師の先生が、職員室に行ってくると亮に告げ保健室から出ていく。

寝返りを打った亮、カーテンの隙間から医療器具の入った棚が見えた。

昔、りのちゃんの怪我の処置をやったなぁと懐かしく思い出す。

ガーゼ、綿、ピンセット、オキシドール、ハサミ、さすがにメスはないか・・・でもこのハサミはよく切れそうだ。頸動脈ぐらいなら切れそうか、あの模型を見ながらなら、失敗なく切れそうだ。首の動脈からの大量出血にまみれた「死」姿を想像して、綺麗だと思う。

背後で扉の開く音。

「忘れ物、忘れ物、あれ、どうしたの藤木君、寝てなくて大丈夫?」

亮は持っていたハサミを、先生に見られない様にそっと置いた。

「・・・先生、早退します。家で、ゆっくり休みたいです。」

「そうね。そうする方がいいわ。えーと、お家の人に連絡して迎えに来てもらう?家はどこだっけ?」

「いえ、一人で帰れます。タクシーを呼んでくれれば。」

「そう?」

マンションには帰らず、そのタクシーで東京の精華神社に向かった。もう、その時には、諦めていた。「死」の発動は止められないのだと。昨晩メールをくれた彩音ちゃんへは、返信をしていなかった。そのことがあって、最後にもう一度会っておこうと思ったのは、もしかしたら神にもすがる思いがあるのかもしれない。

タクシーの後部座席で事故にあわないかなと期待する思考を、もう叱咤することもせず、外の景色を見て過ごし、到着した。

大きな石造りの鳥居、そのすぐ横に一抱えできるぐらいの太さの楠木がある。彩音ちゃんと出会った地震の時、タクシーを降りた直後、彩音ちゃんはこの楠木に抱きついていた。今思えば、不思議な行動だ。何かあるのかと、亮はその楠木の幹に手をかざして見上げた。

 高い場所で風が吹き抜けたのか、葉と葉の間から降り注いでいた木漏れ日が揺れている。彩音ちゃんを真似して抱きついてみたけれど、何もない。ばかばかしくなった。

鳥居の前で一礼して内に入る。参拝客はおろか、宮司さんも見かけない。静かな神社だ。近くに交通量の多い道路が走っているのに、車の走る雑音がここまで届かない。空間が、世間から隔離されているような感じがする。

砂利を踏みしめる音が、耳にも足にも心地いい。

名も知らない鳥が一声鳴いて飛び去った。

自分のものとは違う足音が奥から聞こえて来て顔を向けると、彩音ちゃんが髪を振り乱して走ってくる。

今日は私服だった。丸襟のレースが着いた白いブラウスに、ベージュのキュロットスカート、どこから出てきたのか、大きな男性用のサンダルを素足に履いて、走りにくそうに駆けてくる。

走りながらの手話、

(来る・・・・連絡・・・・????でも、分かった。)視力のいい亮でも、走りながらの手話は理解不能だ。

彩音ちゃんは、大きすぎるサンダルが砂利に躓いてつんのめ、亮はこけ倒れる彩音ちゃんの体を受け止めた。彩音ちゃんは、「ごめんなさい」の手話を示し、そしてはにかみながら顔を赤らめた。

人生最後に、彩音ちゃんと知り合い、ふれあうことができたのは、これまでの苦悩のご褒美だ。

風が下りて来て彩音ちゃんのストレートの長い髪をなびかせる。彩音ちゃんは、その風を追うように、顔を横へと向けた途端に微笑みを消し、亮の顔を見る。

驚いた目、本心にも驚愕と、疑問?

何故、そんな目で見られるのか、亮も驚いて見返す。束の間の無言の見つめあい。彩音ちゃんは突然、亮の手を握ると引っ張り、駆け出した。

「ちょっと、彩音ちゃん。」叫んでも当然聞こえない彩音ちゃんは、本殿の脇を進み、亮の手を引いて裏へと回る。

そこには、本殿を覆いかぶさるように枝葉の広がった大樹があった。幹は一人では到底抱えられないほど大きい。樹の周囲をぐるりと杭と鎖で囲い、根元に人が立ち入らない様にしている。木製でできた杭に樹木名「椥」と書かれてあった。その大樹が、この神社の最大の神依り木であるのは、一目瞭然だ。

彩音ちゃんがその立ち入り禁止のロープを跨いで中に入ろうとするのを、亮は手を引いて抵抗し「入っていいの?」と口を読ませた。彩音ちゃんは険しい顔で強く頷く。そして、つないだ手を強くひき、亮に入ってこいと促す。亮は疑問に思いながらも彩音ちゃんの言う通りにロープをまたぎ入った。彩音ちゃんは握る亮の手を放し、額を椥の樹にくっつけて抱きつく。目を瞑るその姿は、妖精のようだと微笑ましく眺める。しばらくの間、彩音ちゃんは身じろぎもせずそうして、亮もただ見つめていた。そうして、しばらくの後、幹から離れた彩音ちゃんは上を指し仰ぎみる。

椥の葉が生い茂る枝、強く揺れるほどに高い位置で風が吹き、カサっと音がして何かが落ちてきた。彩音ちゃんはそれを待ち構えていたかのように手のひらで受けた。

「彩音ちゃん、それ・・?」

緑色の実だった。この樹から落ちてきたのだから、椥の実なのだろう。彩音ちゃんはその実を亮の手のひらに乗せた。そして、自分の手を口に持っていき、食べるしぐさをする。

「これを、食べる?」

彩音ちゃんは真顔でうんうんとうなづく。

まだ青い木の実、椥の実が熟すのかどうか、博識と言われている亮でも、さすがに知らない。

どう見てもおいしそうじゃない。ためらっていると、彩音ちゃんは椥の実を持った亮の手を掴み、強引に口へと持っていく。

「ちょっ、ちょっと、待って、彩音ちゃん。食べるから、自分で。」

男と手を握るのに照れるぐらい純情だった彩音ちゃんが、どうしたのか今日はやたら強引だ。彩音ちゃんは険しい顔で再度ジェスチャーで亮に食べろと要求する。亮は覚悟を決めて、椥の実を口に入れた。飲み込むには少し大きい。奥歯でかじった。

「うっ。」

渋い、苦い、酸っぱい、青臭い、うまみ成分ゼロの果汁が、舌を刺激する。防御反応で吐き出そうとする自身の身体に従って、口に手を添えて出そうとすると、彩音ちゃんは、亮の手を押さえ、首を振る。

「ダメ、飲み込む」と強い表情で訴える。亮は仕方なく、椥の実を飲み込んだ。

後味の悪さは残るが、とりあえず口の中にまずいものがなくなったことで、ほっとする。

「何か、意味あるの?」

険しい顔で亮を見続けている彩音ちゃんに、そう語りかけた時、激しい吐き気に襲われる。

胃の中のすべてが逆上してきて、亮はその場で腰を折り吐き出した。

手を添えるとか、トイレに駆け込むとか、そういった理性が間に合わないぐらい激しく苦しい嘔吐。

これ以上ないぐらいに腹筋の運動をして、胃の中の物すべてが外に出ていく。

「ゲホッゲホッ」

やっとのことで顔を上げると、彩音ちゃんは亮の失態を嘲ように微笑んでいる。

「な・ぜ・・ゲホッ、ごほっ」食べさせた?

「どうしたの!」母屋の方から彩音ちゃんのお母さんが、騒ぎに気付いて駆けてくる。「藤木さん、大丈夫!?」

「だ・・大丈・・ゲホッ、ぶ・・」じゃないかも・・・

意識が遠のいた。







亮は、薄暗い和室で目を覚ました。身体を起こすと、水玉模様のタオルケットがはらりとはだける。

山の絵が描かれた色褪せたふすま、染みの浮き出た天井からぶら下がっている照明器具、床の間に鳥の描かれた掛け軸、花の絵付けされた壺、床脇に鮭を銜えた木彫りの熊、ひと昔にタイムスリップしたかのような純和風の部屋の様相に、亮は懐かしさを感じて、落ち着いた息を吐いた。障子は開けられてあって、廊下を挟んだ庭からの、ひんやりとしたそよ風が入ってくる。

咲き遅れの枯れかけたツツジの花が、カサッと音を立てて、落ちた。

しばらくすると、彩音ちゃんがお盆を手にして現れる。彩音ちゃんは落ちたツツジの花を見やってから部屋に入って来た。

起き上がっている亮のそばにお盆を置いてから、手話で語る。

【あなた、大丈夫】

意識を無くす前の表情とは打って変わって、可愛い笑顔でうなづく彩音ちゃん。

状況から見て、その手話が「大丈夫か?」と聞かれたのだと思って

「うん、大丈夫。」と答える。

本当に、身体も頭はすっきりしていた。

彩音ちゃんは、お盆にのせて持ってきた冷水を亮に手渡す。口にはまだ椥の実を食べた青苦い後味が残っていたので、亮はコップ一杯の冷水を一気に飲み干した。

「ありがとう」そう答えながらお盆に空になったコップを返して、亮は【どうして】の手話を作る。

その先の疑問は沢山あって、何から聞こうか迷っていると、彩音ちゃんの方から、心得たようにポケッからいつものメモ帳を取り出して、答えてくる。

【私は、植物たちの声を聞くことができる。】

メモ帳にはそう、書かれてあった。

【人の声は聞こえないけれど、木や花たちがすべて、教えてくれる。】

彩音ちゃんは嘘をついていない。本心から本当の事を言っている。

「だから、いつも俺が来るとわかって、駆け付けて来てくれたんだね。」

うんうんと首をふる彩音ちゃん。

【もしかして、地震も?】

首を縦に振りながらまたメモ帳に書きつづる。

【大きな木たちは、遠くの木たちとレンケイして、イ変を知らせてくれる。だから、ジシンや台風は、来る前にわかる。】

「へぇ、凄いね。」

彩音ちゃんは、目を見開いて亮を見つめた後、庭のツツジへと顔を向けた。

もうわかった。時々見せる、木や花に視線を向けるその仕草は、木や花の言葉を聞いているのだと。

彩音ちゃんは亮に向き直ると、手話を作る。

【皆、あなたは、嘘、言って、ない と言う】

「嘘?」

彩音ちゃんは、またメモに書き綴る。亮はもっと手話の勉強をしようと思いながら待つ。

【植物たちは、人のウソや悩みを知る。この変な力、信じてくれる人は少ない。みんな、スゴイねって言いながら、心ではバカにする。】

「あぁ、そうだね。人は、目に見えない事や自分ができない事を信じるのは、難しいから。」

彩音ちゃんは、亮の語る口を見終わっても、しばらく真顔で見続けた。亮はまた樹々の言葉に耳を傾けているのだろうと、じっと待つ。

【あなたも、何か、持っている。】

亮はその手話にうなづいて答える。

「俺も、人の嘘や悩みを知る。」

【だから、死にたく なった】

亮は黙ってうなづいた。

【木や花たちは、人の悪い言葉、嫌い、浴び続くと、死ぬ】

亮は庭のツツジに目をやった。

落ちたツツジの花は、何を語って死んでいったのだろうか。

【あの子は、あなたが目覚めるのを、教えてくれた。役に立つ事を喜び、落ちた。】

見せられたメモ帳を見て、亮はほっとする。そして、この世はそうした不思議がある事を、理解しあえる相手を見つけられた事に感謝する。

パタパタと足音が聞こえて、彩音ちゃんの母親が現れた。

「もう、彩音、藤木さんが目覚めたのなら、教えなさい。」そう言って叱咤してから、彩音ちゃんを押しのけるように亮のそばに座る。

「ごめんなさいね。彩音が変な物を食べさせて。身体は大丈夫かしら、まだ具合が悪いのなら、救急車を呼んで」

「いえ、大丈夫です。」

「本当に?」とまだ心配な顔で覗き込んでくる。

「はい。すっきりしてます。」

「そう、でも、青い実は毒だから。」

「えっ・・・」

彩音ちゃんは、そんな母親の言葉を知らずか、笑顔で、「大丈夫」の手話を繰り返している。

彩音ちゃんの母親の心配を丁寧に断って、亮は帰り支度をして、建物から出た。寝ていたのは、彩音ちゃん達が住む家だったらしく、一般的な民家だった。守都と書かれた木の表札に、玄関の前には、竹で作られた衝立があるり、神社内からは見えなくしていた。衝立を出ると、ちょうど椥の樹の側面にでる。

亮はどんなふうに運ばれたのか覚えていない。それぐらいに意識はもうろうとしていた。直ぐそばだったとはいえ、女手二人で亮の身体を抱え運んだのは大変だっただろう。

「すみません。吐いた物の掃除はして帰ります。」

「あぁ、いいの。いいの。もう済ませたから。」

「すみません。とんだ粗相を。」亮は平謝る。

「いいのよ。それより本当に大丈夫?」

「はい。ご迷惑をおかけしました。」

彩音ちゃんの母親は手を横に振って、

「彩音が悪いのよ。あれを無理やり食べさせたの、これで二度目だから。」

「いっ!?」

当の本人は、樹々の声を聞いてるかのように、顔を周囲の空間へと向けて微笑んでいる。

「その人も、やっぱり吐いて?」

「ええ、彩音の同級生だったんだけどね、その子はしばらく下痢も続いて、寝込んだから。藤木さんも本当に具合が悪くなったら、病院に行って下さいね。治療費は出しますから。」

「とんでもない。」亮は手を振る。「ご心配なく、大丈夫です。」

嘘無く、本当に体は軽やかだった。あれだけ張り付いていた「死」も、まったく無い。

「では、失礼します。」と亮は頭を下げて神社を立ち去る。

彩音ちゃんが駅まで送ると、手話を母親に向け、亮の後ろをついてきた。

「彩音ちゃん、食べた椥の実は、何か特別な力を持つの?」

【ナギは、神様と人を結ぶ依代、椥の葉は昔から、玉串として神事に使われてきた。】

彩音ちゃんは器用に歩きながらメモ書きしてくれる。

【ナギの実は、人に憑いた悪い物を、吐き出してくれる。】

「そうなんだ。だから、大丈夫なんだね。」亮は手話を交える。彩音ちゃんも「大丈夫」の手話を繰り返す。

「木へんに知ると書いて椥。ナギは、すべて御見通しってことか。」

彩音ちゃんは、亮のつぶやきまでも口の動きを読み取って、大きく深くうなづいた。

駅について、ロータリーの脇に植えられている銀杏の木下で、亮は立ち止まった。改めて彩音ちゃんに身体を向き直る。

そして、ずっと練習していた手話を披露する。

【彩音ちゃん、俺の、恋人に、なってください。】

その手話の後、彩音ちゃんは頬を赤らめて、恥じらう様子を見せると予想していた亮は、裏切られる。

彩音ちゃんは恥じらうことなく、ただ普通に亮を見つめて。

【あなた、私を、好き、知っていた。椥の木が、教えてくれた。】

「あぁ、そうかぁ。」

前回、お参りではなく彩音ちゃんに会いに来たこともすべて、知られていたと思うと、亮の方が恥じて顔を赤らめる。

彩音ちゃんは、そんな亮を見て、くすくすと笑った。

「で、俺はフラれちゃうのかな?」

彩音ちゃんは慌てて首を振って、「よろしくお願いします」の手話をして頭を下げた。


















恐怖よりも怒りの方が先に立った。

こんな奴らに渡してやるものか。

やっと織り上げた反物を売り降ろして手に入れた銭。

寝る間を惜しんで織あげたのは病に伏せる母様の薬を買う為。

こんな奴らに渡すためじゃない。

「大人しく出したら、何にもしないからよ。」

「出せって言われても持ってないわ、銭なんて。」

「誤魔化しても無駄だよ。嬢ちゃんが宮下町の反物屋で銭を手に入れてるのは、見てんだ。」

こいつら、宮下町から私をつけて来たんだ。なんて事。盗賊に狙われる警戒を怠った自分にも怒りが起きる。

「さぁ」

男二人がにじり寄る。

「誰か!助けて!人殺し!」出せる力を出し切って叫んだ。

でも、声は町はずれの山林に吸い込まれて行くだけ。

「人殺しって酷い言いぐさだな。」

「銭を出せば何もしないって言ってんのによ。面倒だな。」

「俺らも馬鹿じゃねーんだ。ちゃんと狙って憚って、こんな所まで追って来てるんだ。諦めな。」

こいつらの言う通り、こんな人里離れた場所で叫んでも、都合よく誰かが助けになんか来ない。

町中ですらも、もしかしたら厄介事に巻き込まれたくないと、見てみぬ聞こえぬふりで素通りされてしまうかもしれないのに。

悔しくて涙が出そうになる。

「あんまり手間取らせると、銭だけじゃ済まなくなるぜ。」

「えっ、お前こんなちんちくりんが好みなわけ?」

「ちんちくりんでも、一応、女だろ。」

「俺は勘弁だな。俺は、もっとこう大人の女の」

ひどい、頭にきた!

「あんた達、最低!絶対に渡すもんですか!」

踵を返して逃げるも、難なく追いつかれ腕を掴み捕えられる。

「いやっ!離して!」

腕を振り回そうとも男の力にはかなうはずなく、更に力をこめて握られて痛みが増すだけ。

男が私の襟元を掴む。

胸の懐にある銭の入った袋は何があっても取られたくない。

力いっぱい、男のごつい腕を噛んだ。

「痛って!」男が痛みで手を離した。押しのけ、振り切りまた走る。

だけど、気持ちの逸りとは裏腹に男の声は遠くにならず周囲の景色もさほど早くない。

やっぱり男に首襟を掴まれ引っ張られ、その反動で、足が砂利に滑り倒れた。

「このやろう!」

「手間とらせやがって。」

仰向けた私の顔に男二人が屈み迫る。

「いや、お願いやめて!これは大事な母様の薬を買う銭なのよ!」

思いっきり蹴り上げた足は偶然にも男の急所にあたった。

男一人は声なき叫びに悶絶しうずくまる。

「おっ、おい大丈夫か・・・」

悶絶している男はもう一人の男に、仕草で早く銭を奪えと促す。私は男に近寄らせまいとさらに足をばたつかせて、阻止。着物はめくられて太ももが露わになるもお構いなしに抵抗した。男は蹴られまいと慎重に私の足の軌道を見極め避ける。

また男の急所にあたる偶然が起きるなんて都合の良い運を願うより、何とか一人が悶絶している間に逃げなくては。

地面に手をついたらちょうど握りやすい石が手に触れた。その石を男に向かって投げる。

当たらない。でも男は石を避けて私との距離が少し開いた。

次々と手元に落ちている石を投げつけた。

「くそっやめろ!」

やめるもんですか!石が無くなり砂も掴み投げる

かわいた砂はいくらも相手に向かわなくて、自分の顔にかかって目に入る。痛い。目が開けられない。

だけど、逃げられる隙を失うわけにはいかない。手探りでとにかく手に触れた物を投げ、立ち上がろうとした時、何かが落ちて手に触れる。それもすかさず相手に投げつけた。

カシャラン、投げたそれは男の額にうまく当たり、盗賊の動きを止める。

動きを止めた私を助ける救いの物、それは、大事な銭の入った巾着だった。

巾着袋から零れ落ちた銭が男の足元に散らばっている。

「さっさとよこしゃいいんだよ。」

「駄目!それは!」

銭が額にあたった男は銭の入った巾着袋を拾い、悶絶が治まった男と駆けていく。

「お願い、返して!」私の訴え虚しく、盗賊はせせら笑いを残して行ってしまった。

そんな・・・

名も知らない鳥が高い鳴き声で頭上を通り過ぎて行く。






心弾み逸いだ行き道とは正反対に、足に漬物石でも括りつけられたように重い帰り道。

目に溜まる涙を拭けば、手の甲に付着していた砂が、水分を含んで汚く泥に変えた。

起きた事が、あまりにも情けなくて、思考は停止して、自分が今どのあたりを歩いているのかもわからなくなった。

気づけば、社の僅かな石段に足を掛けていた。

そこは小さな名もない社。ご神灯の提灯も破けてしまって、人々に忘れられた場所だった。

いつも宮下町に行く時は、このお社に寄り、母様の病の治癒を願い、道中の息災を願ってから向かうようにしていた。

今日は立ち寄らなかった。少しでも早く反物を売りたい、その一心だったのと、正直、賽銭を出し惜しみしたのも事実。

反物が予想以上に高値で売れたら帰り道に寄ればいいと考えた、それがいけなかったかもしれない。

我が家は、父様が死んでから明日の食い扶持に困窮するようになった。父様は大工だった。

西に建立される社の働き手として長く出かけていたけれど、屋根の柱を組み立てている時に、足を踏み外し頭から落ちて死んだと聞く。建場で死者が出ると嫌がられる。地鎮祭からやり直さなければならないからだ。けれど、社の建立現場は別で、社の建立時に死者が出ると、社はその死者の精魂に鎮守され末永い建立を導くと歓迎される。いわば人柱的な宗教観で治められる。父様の死を知らせた時、私はまだ幼くわからなかったが、母様が号泣しているのをおぼろげに覚えている。

父様の死は誇り高い事だとして、それまでの労賃とは別に幾ばくかの積み上げ金を渡されたらしいが、それもすぐになくなる。元々身体の弱い母では、幾ばくも稼ぐことはできずに、すぐに生活は困窮してしまう。

どうしてこんな目に合わなくちゃいけないの?私が何をした?

役所に行って訴えようか?しかし、そんな事をしても、銭は返ってこない。

今頃盗賊達は、私の銭で酒を買い、嬉々鷹揚で飲んだくれている。

お役人が盗賊を捕まえても、使ってしまって無い銭は泣き寝入りだと聞いていた。

「神様の馬鹿!賽銭なんかないわよ!もう金輪際、賽銭なんか入れるもんですか!神様も銭がなくて餓死するといいわ!」

力の限り叫んだ。鈴も慣らさず、礼儀もせず。

「それは少々難儀な願いであるな。」

「きゃっ!」

そこに人が居るなんて気が付かなかった。

その人は、社をぐるりと一周する縁側に座っていた。柱の向こう側で背を預けて座っていたので、ここからは見えづらく気づかなかった。ゆっくりとその人は縁側から降り立つと、こちらに歩んでくる。

社の奥に広がる水面から、西日が反射する光が邪魔してその人の顔は良く見えなかった。ただ、歩く布ずれの音がとても耳心地が良い。

「驚かせて、すまない。困り事にあった様子。我で良ければ聞きいたそう。」

社の影に入ってやっとその姿を見ることができた。

白くとても美しい顔。さっきの盗賊達と同じ男とは思えない。


カキツバタの紫の花弁が風に揺れる。

その度に池の水の匂いと混じって花のいい香りがそよぐ。

私は起きた非道を、名も知らぬ布ずれの心地よい音のする白緑色の着物に身を包んだ男性に事細かく話した。

話し終えるとその男性は、この春の太陽のように優しい顔で笑った。

「ははははは、自分で投げるとは。何とも面白い。」

「そうよ、私は馬鹿だわ。必死だったとは言え、銭の袋を投げるなんて、自分の身がどうなってでも、銭の袋だけは守らなくちゃいけなかったのに。」

「だが、投げたから、汝は助かった。喜ばなくては」

「そうなのだけど・・・母様の薬はもう買えない。今からまた必死に織りあげても7日はかかる。もう薬はないのに。」

「母君はどこが悪いのか?」

「心の臓が昔から弱くて血のめぐりが悪いの。今日は沢山の銭を貰えたから妙仙の冠源丸を買おうと思っていたのに」

「そうか・・・それは心配であるな」

そう言って顔を曇らせる表情に、私は何故か心が安心する。状況は安心など有もしないのに。明日、いや今日の夜にでも母様の具合が悪くなれば、薬を飲ます事が出来ず、具合の悪さを我慢させておけば、次第に身体は弱くなる一方で、終いには死んでしまうのに。

私は何をしているんだろう。母様の薬を買えない状況になったのなら、早く家に帰って、母様の看病をしなければならないのに。

名も知らない男性と話をして、その横顔に見とれているなんて・・・

「もう、帰らなければ・・・」縁から腰を上げた。

「送ろう、また盗賊が出るやもしれぬ。」

「盗賊に襲われる物はもう、何も持っていないわ。」

「話を聞いて、そのまま汝一人で山道を歩かせるわけには行かぬ。」

水面の光が反射してキラキラと輝く目に、思わず見とれてしまった。

「どうされたか?」

「あ、いえ・・・・・」

こんなに暖かに微笑む男の人を見たことがない。

子供の頃から一緒に読み書きを習った男たちも、今はいい青年になってきて、幼馴染の葉月は誰が色男だの恋色話ばかりになっている。そんな村の男とは大違い。

「名前を、聞いてもいないお方に送ってくれるなど・・・」

「おや、これは失礼をした。我は・・・セイと申す。」

「セイ?・・・だけ?」

「だけだ。」

珍しい名前、男の人で二語の表す名前だなんて。

「どういう字を書くのかしら?」

「汝の名は?」

私の質問に答えず、ゆっくりとした動作で私の頭の方に手を出した。

その手が降ろされて見ると、何処からか飛んできたか、小さな黄色い花びらの欠片が手のひらに乗っていた。

その花びらを潰れないようにしている指の白さと綺麗さに見とれた。

「わ、私は、レイ。玉音のレイにコロモで玲衣よ」

「似てるな、我の名と」

「ほんとね。」

「汝にぴったりの愛らしい名だ。」

微笑み見つめられて、顔が、胸が熱くなる。私は初めて会った身の内も知らぬ人に恋をした。










「ふぁ~っぁ。」

「ふぁぁぁぁ~あっ」

欠伸が重なった亮と目があった。まどろむ目じりに涙の雫が一つ浮かぶ。

「はしたないぞっ柴崎!」

「あんたこそ、気合いが足りないわよ!試合前だと言うのに!」

「俺のは、リラックスモードと言うんだ。試合前にガチガチにならない良いコンディション。」

「よくもまぁ、口先の言い訳が出るもんだわよ。」

「お前こそ、お嬢様が欠伸だなんて、珍しいじゃないか。」

「最近、寝ても寝た気がしないというか・・・。」

「お前、気合い入り過ぎだよ。マネージャーが気合い入れてもどうにもなんないだろ。」

全国大会に向けての神奈川県代表を決める予備予選が始まった。神奈川県内の176校を14の地区で分けたブロック別のリーグ戦が、まず1次予選である。1ブロック約12校は、抽選で更に3つのリーグ枠に分けられる。リーグの勝利校3校が2次予選のトーナメントに勝ち進める。よほどの悪天候でない限り、今日から立て続けに試合は毎週行われ、7月末には二次予選トーナメントに進出する高校が出揃う。

全国の強豪校と言われ続けて数十年、決勝トーナメントの常連校の常翔学園高等部が入るEブロック内では当然ながら敵なしで、一位通過は当たり前である。常翔がいる第9ブロックの他11の高校は可哀想だとまで言われているので、亮の言う通り、マネージャーの私が気合い入れなくても、この後1時から始まる試合は難なく勝つのは当然なのだけど。

しかし、スターティングメンバーに入っている亮まで、このだらけた様子でいいのだろうか?

「違うわよ、そうじゃなくて・・・変な夢を見るのよ。ここずっと。」

「変な夢?」

「うーん、変でもないか。やたらリアルで・・・リアルでもないか。現代じゃないものね。」

「何だそれ?あーでも俺も最近、夢、見るなぁ・・・はぁぁぁぁあ。」とまた大きな欠伸をしながら空を仰ぐ亮。

(そう言えば・・・あの夢のセイ、ちょっと亮に似てるかも。)

『叶うなら玲衣を、ずっとこの胸に愛えていたい』

昨晩、見た夢の中では、古びた境内の縁側で、セイはそう言って私の肩を寄せて抱きしめた。

顔を戻した亮と目があう・・・顔が熱くなった。

「な・・なんなんだよ・・・。」目じりの皺を作って細め、驚きの顔。読まれた。

「もう!言い加減、その力をオフにする方法を会得しなさいよね!」

「な、何言って・・・。」

「プライバシーの侵害もいいとこだわ!」逆切れし、視線から逃げるように立ち上がった。

「ふぁああああ~あっ」今度は、麗香の斜め後ろの木陰で2つ目のお弁当を食べている新田が、大あくびをする。

「食べながら欠伸するんじゃないわよ!」頭をひっぱたいた。

「痛てっ!」箸を持ったままの手で頭を抑える新田も、欠伸で出た涙が目じりに光る。

「だらしな過ぎるのよ!だからスタメン落ちするんじゃない!」

「な、何だよぉ~。」

救急箱の整理をしていた岡本さんが苦笑をする。

試合会場の競技場は、体育館も隣接した大きな体育施設だった。常翔学園は、午後からの試合開始だけれど、10時に集合し、メインスタジアムの隣にある小グラウンドで軽くウォーミングアップを取っていた。昼休憩の今、保護者会からの差し入れ弁当を頂き、試合開始までの時間を各々でゆっくりしている。

麗香は、来月にある華冠式のしきたりで、精進料理しか食べられないので、自宅からお弁当を持ってきていて、保護者会が用意してくれた麗香の分のお弁当は新田にあげた。その食欲と反して、サッカーは最近調子が悪い新田。膝を痛めている事もあるけれど、監督にポジション替えを命じられて戸惑っている。ずっとフォワード一筋でやって来た新田にとって、ポジション替えは技術面よりも精神面での戸惑いの方がプレイに影響し、ミスを連発していた。それでスタメン落ちをしてしまった新田。さすがにベンチ落ちはしていないが、中々試合には出られていない。

『俺たちは、神に頼らない夢を描く。』

(と頼もしく言った新田が絶不調って、どういう事?)

逆に亮は調子が良い。と言うか、監督に気に入られている。

(監督の好物でも読み取って差し入れでもしてるのかしら・・・。)

冗談交じりの思い付きだったが、本当にやりそうで青ざめる。しかし、実際にそれをやったとしても、実力が伴わなければ、目に見えて他の部員からおかしいと言われかねないから、得があるとは思えない。サッカー部は総勢60名ほどもいる大所帯なのだ、そんな中で、今の所、亮のレギュラー入りに異を問う者が居ないのだから、亮の実力は誰もが認めている証拠だ。

「柴崎さん、どこへ?」

「トイレよ。ちゃんとミーティングまでには戻ってくるわ。」

{藤木ぃ~、頼むから柴崎の機嫌を損ねるの止めてくれよぉ~。}

{俺、何もしてないだろ!あいつが勝手に・・・}

「聞こえてるわよ!男のくせにコソコソ内緒話すんじゃないわよ!」

八つ当たりも良い所だ。でも、こうでもしなければ、亮に本心を読まれて、またキツく言われてしまう。

『俺、離れしろ。』と。

日差しが目に痛い夏本番。

(ここから始まる。今年の夏は忙しくなりそう。)

日差しを避けて、少しでも木々の影を選んで歩く麗香。夏は嫌いじゃないけど、競技場は影が少なくて日焼けをしてしまうのが困りもの。中等のテニス部の頃から、ハリウッドスターが使っていると言う海外製の日焼け止めを、全身に塗って防御をしているけれど、やっぱり夏場はどうしても日焼けしてしまう。

メインスタジアムの施設内に入るとクーラーが程よく効いて涼しい。試合中もここから観戦したいと思う。室内競技周囲を一周して通路脇にあるトイレに向かおうとしたら、名前を呼ばれた。

「柴ねぇさん!」

ハイテンションの声色とその呼び名、振り向かなくとも誰だがわかる上に、イラッとする。

「あのね、そのねぇさんってのやめてくれる、同い年で。」

「だって柴ねぇさん、私より1年近く年上じゃない。」

「それでも同学年でしょ!あんた他の4月や5月生まれに、ねぇさんと呼んでないでしょ!私だけって何なのよ!」

中山聡子3月生まれ、中等部からの内部進学組。中等部では、新田のファンクラブを作って追っかけまがいの事をしていた。将来は芸能リポーターになりたいとかで、根っからのミーハー女。昔から麗香に躊躇なくイラつくような事を平気で言ってくる。はっきり言って常翔の品格に合わないと麗香は思っていて、何故こんな子を合格にしたのかと、お父様の采配を疑問に思っている。

「いや~ねぇ、高々1年の年の差にムキになって。」

「1年の差に拘ってんの、あんたでしょう!」

中山聡子と向き合うと、いつも喧嘩になる。

「それよりさぁ、柴ねぇさん、フッキー&ニッチはどこに居るの?」

「何なのよ、その漫才師みたいな名前は!」

「今やアイドルでもあだ名なのよ。愛着を込めて私達ファンクラブは、藤木君と新田君をフッキー&ニッチと呼ぶの。」何故か得意げに胸を張る中山聡子に増々イラッと来る。その後ろでアイドルコンサートにでもいくような派手なうちわを手にしている同級生たちにも。

新田がユース16の合宿で関西組のメンバーに関西弁を強要されたとかで、話す言葉が変なイントネーションになったのと、その頃にはサッカー部は引退していたおかげで、かっこいいいサッカー姿の新田像は崩れ、中山聡子が率いるファンクラブは解散したはずだった。しかし高等部に上がると、高校外部入試組の生徒達が新田をカッコイイと言い始め、いつも一緒にいる亮までもが注目を浴び、女子にはマメで優しい物腰が好じてモテ始めた。そして、さらに追い打ちを掛けたのが、あの弥神くんとのトラブル。英雄視され、女子の心をときめきさせた。今、中山聡子の後ろに並ぶ女子達のうちわに書かれた名前は、亮の名前の数の方が多い。

「やだー、柴ねぇさん。嫉妬して私達に居場所を教えないつもりぃ。」

黙ってれば、勝手な事を言う。

「そんな低レベルな事しないわよ。」

「どうだか~、柴ねぇさん去年の全国大会優勝の祝賀会に、私達を追いだしたじゃないの~。」

「あれはっ、保護者会の主催だったし、サッカー連盟理事会の方とかいらっしゃってたから、部外者を入れるわけには行かなかったのよ!」

「柴ねぇーさんだって、部外者でしょう。」

「私はっ」

「常翔学園経営者の娘。って最強の特権よねぇ。」

言葉に詰まる。図星なのはわかっている。麗香の学び過ごす場所が、自分の父母の経営する場所で、ゆくは自分の物になる場所である事に融通を効かし、不都合があれば好き勝手に変えて来たのは事実。

「だけど、その最強特権を持ってしてもフッキーの心を掴む事が出来なかった。」

「なっ!」

完全に喧嘩を吹っかけられている。だけどそんな挑発に乗っては駄目だ。一つ深呼吸をして声を落とす。

「私達はね、別に喧嘩したわけでもなく、嫌いなったわけでもなくて、お互い同意の上で別れたのよ。心を掴めないとかのレベルじゃないの。まぁ、これはミーハーな恋しかできないあんたには、わからない事でしょうけど。」

中山聡子がムッと顔色を変えたのを見逃さない。

「複雑な関係や思考なんて私達にはわからなくていいのよ。って言うか、ミーハーにはそんなの必要じゃない。私達ミーハーは、純粋にフッキー&ニッチの活躍を心から応援しているの。柴ねぇさん見たいな下心満載でマネージャーになるような気持ちはなくてね。」

「何ですって!私のどこに下心があると言うのよ!」

「あるでしょうがぁ。沢っちが愚痴をこぼしてるもの。柴崎は、まずもって藤木に頼るって。」

「・・・。」

「一年のリーダーは沢っちなのに、顧問から受けた連絡一つ、まずは沢っちに連絡しなくちゃならないところを、フッキーに行くあたり、柴ねぇさんはフッキーとまだ繋がっていたいと言う下心満載じゃない。」

中山聡子も特選クラスでH組だ。沢田も中等部のサッカー推薦で入った特選クラス、亮と新田を含めてこの中山聡子と仲が良い。

沢田もフォワードのポジション。新田程、突出した技術はないけれど、フィールドで一番良く声を出して、チームを引っ張って行く役割をする選手。新田のカリスマ性がなければ、沢田がキャプテンを務めて、沢田でも常翔は全国大会の優勝旗を手に入れられていたはずだと亮は以前に言っていた。高等部に入り、学年ごとのまとめ役リーダーには新田じゃなくて、沢田が選ばれた。大体は中等部の部長が高等部一年のリーダーを務めるのが通常なのだけど、新田はユース16の方で学園の練習を開ける事がある。必然的に副キャプテンだった亮がリーダーにという話になったのを、亮は自ら断った。「俺よりも沢田の方が適任だ」と。決して亮が沢田より劣っているわけじゃない。むしろ亮はあの本心を読む力を使って、部員の心理的フォローまでも気に掛けるだろう。しかし、それをしていたら亮は自分の夢に向かう時間も精神力も無くなる。高等部は、自分だけの為に、サッカーに専念したいとい願った。そんな亮に、麗香は全身全霊で応援すると誓った。なのに・・・。

ちゃんと、公平にマネージャーをしているつもりだった。気づかない内に、自分は亮を頼っていた。沢田がそれを愚痴にするほどに、こんなミーハー女から指摘される程に。

「反論できないあたり、図星だったみたいね。」

「そんな事ないわよ。あんた達みたいなチャラチャラした応援なんかより、ずっとマシよ。まだ公平性に傾きがあっても、私は真面目に選手の世話役として応援しているもの。」

「チャラチャラって何よ!」

「チャラチャラ以外にどんな形容詞があるって言うのよ、そんな品のない派手なうちわなんか振りかざして。」

「フィールドから良く見えるようによっ!」

「常翔学園の品位が下がるわ、あんた達が応援に来ると。」

「何ですって!」

麗香のトドメの捨て台詞に、完全に怒った中山聡子。品に関して私に勝てる生徒は常翔には居ない。

「応援に品なんか必要ないわよ!」中山聡子は、麗香の顔にその派手なうちわを押しつけてくる。

「要るわよ、常翔は神奈川県代表を背負い全国へ行くのよ。日本中の人が常翔学園の名を知りテレビで見るのよ。品のない応援がテレビに映り晒されば、常翔学園の恥よ。」

「そんな体裁、学園側の経営権力の押しつけだわ。」尚も派手なうちわを前後に振って力説する中山聡子と、その仲間たちが鬱としい。

「そうよ、それの何が悪いの?あんた達はその経営権力の庇護にあやかりたいから、常翔学園を受験し入学してきたのでしょう。校則にもあるわね。常翔学園の俊英風格の身心を崩さない生活をする事と。」

「むっ・・・。」中山聡子が言葉を詰まらせる。

「常翔学園の名は、どこに出しても恥ずかしくない高品位のブランドよ。それを求めて受験して入学したのを、経営権力の押しつけだと刃向かうのはお角違いだわ。」

「柴崎麗香、あんたの立ち位置はどこ?」

「立ち位置?意味がわからない。」

「経営側に立ち、上から物を言いたいのなら、マネージャーなんて下っ端の仕事、辞める事ね。それこそお角違い。」

「マネージャーは下っ端なんかじゃないわ!皆は、私達マネージャーも仲間として必要としてくれているわ。」

「そう?じゃ、何故、沢っちは柴ねぇさんに不満があるのかしら?」

「話をぶり返さないでよ、仲間内でも不満があるのは当たり前の事よ。それを乗り越えて、同じ目標に向かうからこそ仲間と言えるのよ。」

「そう思ってるのは柴ねぇさん、ただ一人だけかもねぇ~。」嫌な含みをにじませて笑う中山聡子。

「何?何なのよ。」

「さぁ?私達ミーハーは、フッキー&ニッチをただ純粋に応援するだけ。サッカー部の内情なんて知らなくて良い事よ。ねぇ~」

後ろにいる仲間たちに同意を求めた中山聡子は、その鬱としいうちわを、麗香の顔の前でバサバサと振った。

「何よ!こんなうちわっ!」思わず手で叩き落とした。

「あっ、何すんのよ!」

中山聡子は麗香の肩を押し弾く。麗香も同じようにやり返した。

「はいっ、そこまで!」

麗香の腕を掴んで入り、つかみ合いの喧嘩を止めたのは亮。

「フッキー!酷いんだよ、柴ねぇさん。私が心を込めて作った応援うちわを叩き落として。」

間髪入れずに、麗香を悪者にする中山聡子のしたたかさに腹が立つ。

亮はしゃがんで足元のうちわを拾う。

「見てたよ。ちょうど館内に入ったところだったから。はい、中山ちゃん、応援うちわ、ありがとうね。」

亮は振り返り麗香を非難するように険しく睨む。

(どうして?どうして、中山聡子にはありがとうと、目じりを細めた笑顔で居るのに、私には怖い顔。)

そんな麗香のどうして?も読み取っているはずなのに、答えない亮は、中山聡子とその仲間たちに顔を向ける。また笑顔で。

「新田や他のメンバーはあっちの出口から出た向うの小グランドとの間の木陰で休んでる。試合開始15分前にはメイングランドのベンチへ入るから、あと少しの時間だけと・・・今なら新田とも話せるよ。」

新田の名前を書いたミーハー同級がその派手なうちわを小刻みに振ってわーっと顔を輝かせて喜ぶ。

亮の名前を書いたミーハー同級たちは、アイドルを目の前にしているように、やっぱり目を輝かせている。

「フッキーありがとう。もしかして、私達ファンクラブを迎えに来てくれた?」

「ん?いや、違うよ。一人で応援に来てくれた子を迎えに来たんだ。着いたよってメールが届いたから。」

「えっ?」

「えーと、あっ、居た、居た。」施設内を見渡して、玄関先に顔を向けた亮は、取り囲むファンクラブの女子達の隙間をごめんねと言ってすり抜ける。「二人共、それ以上喧嘩しないよ。こんな所で問題を起こしたら、常翔は全国出場権をはく奪されかねないからね。」

「あっ・・う。」中山聡子と目があって、同時に口を噤む。

価値と思考の相異が満載にある中山聡子だが、サッカー部が全国大会に出場してほしいという願いは同じ物。

「彩音ちゃん!」亮はロビーの玄関前の自動扉の方に駆け足で行きながら叫んだ。平和のモニュメントの所に、長いストレートの黒髪が艶やかな後ろ姿の女の子が立っている。

(一人で応援に来ている子を迎えに来たと言うのは、あの子?)

常翔の制服じゃないから、学校の子じゃない事だけは判明する。

「だ、誰あれ?」亮の名前を書いたファンクラブがざわめく。亮は回り込むように、そのストレートロングの女の子の顔をのぞき込む。そこで初めてその女の子は顔を上げた。

(何故、名前を呼んでいるのに振り向かないのかしら?イヤホンで音楽でも聞いて待っていたから?)

そんな麗香の疑問は、亮の次の動作で判明する。

(あれは手話!あの子・・・もしかして。)

亮の顔がほころぶ、中山聡子やファンクラブに向けた笑顔をよりもずっと輝いた温かみのある顔。その顔に麗香達は唖然として静まり返った。

麗香は中山聡子と共に、亮の幅広い女好きに負けた。









【迷わなかった?】の亮の手話に、にっこりして【大丈夫】の手話で返して来る彩音ちゃん。

今日は、白いレースのえりが付いた涼しげなブラウスにサーモンピンクの膝丈スカートを履いている。ななめ掛けしたポーチの持ち方と、今どき珍しいまっすぐに切り揃えた前髪とロングの髪型が中学生に見え、一般的評価は「ダサい」になるだろうが、鞄の持ち方は手話をする為に手をフリーにしておくためであるし。髪型は、巫女の衣装で最高に可愛い姿になるのだから、何も問題はない。そして彩音ちゃんは亮と同い年であった。

「今、常翔学園は、小グラウンドとメインのグラウンドの間の木陰で、昼休み休憩中なんだ。」

難しい会話になると、彩音ちゃんの読話術に頼るしかない亮。そうなると独り言のようになってしまう。一方通行の会話に、時として振り返って不思議な目を向けてくる他人が増える。今もすれ違った他校の生徒が振り返りつつ、手話で会話をする彩音ちゃんに珍種を見たとでもいうような感情を本心に宿して立ち去って行く。

【ここ、良い場所。生きた木、沢山、ある。】

彩音ちゃんが、亮の為にゆっくりの手話をしてくれている。理解で来た喜びは、ひとしおである。亮は暇さえあれば手話の勉強をしていた。

【木に、願う、勝つように】

「ありがとう、木々達の応援があるなら、絶対に勝つね。落ち着いてプレイ出来るよ。」

嬉しそうに、うんうんと頷く彩音ちゃん。その心はここに居る誰よりも清らかに純粋。

脳に張り付いてしまった死のプログラムの発動、それを停止できたのは彩音ちゃんのおかげ。

亮は彩音ちゃんに、身も心も救われた。









亮がこの上ない甘く優しい顔を黒髪の女の子に向け、覚えたての手話で身振り手振りの会話をしている。

(やっぱり、守都彩音さんだ。)

神巫族の祈心信仰に基づく東京にある精華神社の娘。

長くストレートの黒い髪が特徴。さぞかし巫女さんの衣装が似合うだろう。だけど今着ている私服は、はっきり言ってダサイ。サーモンピンクのスカートにレース襟のブラウス、今どきの小学生でももっと洒落た物を着ている。斜め掛けのポーチが更にダサく子供っぽい。

中山聡子とファンクラブの子達は、とても入り込めない雰囲気を悟ったのか、亮に教えられた出口から、部員達がいる小グランドの方に向かって行ってしまった。麗香だけが、二人と対峙する。

「柴崎、紹介しとくよ。この子は。」

「知ってるわ、守都彩音ちゃん、精華神社の娘さん。」

「えっ、知り合い?」

「精華神社も華族会よ。」

「うそ、マジで。」

目を見開いて驚く藤木。

「知らないで、彩音ちゃんと知り合いになったの?博識の藤木の名折れね。」さっきのやり返しのように、麗香はわざと険のある言い方をした。「こんにちわ。」

麗香の挨拶を口の形で読み取った彩音ちゃんが頭を下げる。彩音ちゃんは、人の話す言葉を口の動きで理解する。

華冠式の説明会の時、集まった1996年生まれの子供達を集めて、精華神社の社司さんは、『彩音は耳が聞こえないろうあ者です。言葉も発する事が出来ない、ですが皆さんの言葉は、口の形を読み取り理解できますので、よろしくお願いします。』と紹介された。

麗香は、ろうあ者と初めて接する。そこに居る誰もがそうだったようで、皆、戸惑った。そんな私達を見て社司さんは、『皆さん普通に話してくださっても、彩音は読み取れます。気づかいなく。』と笑った。その気遣いの要らない事が、意外にも戸惑い、困惑する事なのだとその日一日、その場にいた全員が思った。華冠式の顔合せを終え、社司さんが彩音ちゃんと共に帰って行くと。一同は皆、はぁーと要らなかったはずの気の使いを吐いた。

彩音ちゃんは麗香達の言葉を理解できるが、麗香達は彩音ちゃんの言葉の代わりとなる手話を理解できない。必然的に逐一彩音ちゃんの顔色を窺い、話したい意思があるかを確認しなければならなかった。要らないと言われても、そういった気の使いは必要で、彩音ちゃんの意見を聞くたびに、メモ帳に書き綴る間を待たなければならなかった。その度にリズムの狂う会話に、麗香たちは戸惑い、神経を使わなければならなかった。

「この間はお疲れ様。藤木と知り合いだなんて知らなかったわ。この間の華冠式の説明の時、どうして教えてくれなかったの?」

ちょっと責めるような口ぶりで言うも、彩音ちゃんには、この感情の声色までは読み取る事は出来ない。

彩音ちゃんは、にっこりして麗香の質問を理解したとの意思表示でうんうんと頭を振り、何かの手話をしかけたが止めて、亮に顔を向けた。

「ごめん、通訳するほどまでには・・・」

彩音ちゃんは、斜め掛けしたダサいポシェットからメモ帳とペンを取り出すと、ササッと書いて麗香に見せた。

【その時 亮くんと会ったばかり】

亮くんの文字に軽いショックを受ける麗香。

彩音ちゃんは続いてメモ帳に書き綴る。慣れているのか書くスピードが速い。

【サイキン、良く会うようになった】

早く書く工夫だろう、画数の多い漢字はカタカナ文字だ。

「今、彩音ちゃんと付き合っている。」

亮が彩音ちゃんに駆け寄った時から、嫌な予感はしていた。さっきの睨みは、麗香に対する完全なる決別の意思だったのだ。

喧嘩別れしたわけじゃない、夢に向かうための、同意の上での別れ。だから、その夢が叶った暁には、そしてそれまでは、麗香以外の女と付き合う事はない。と思っていた。でもそれは、そう約束したわけじゃない。麗香が勝手に思い込んでいただけだ。

そんな浅はかな考えでいた自分がとても愚かだ。未練がましくダサい。

(私の心は、この彩音ちゃんの服装よりも、ダサい。)


















銀色の眼鏡をかけた、年のころ、さつきより一回り上と思われる男性が頭を下げ、名刺を渡してくる。次いで、同じ年代と思われるこちらは黒色の縁の眼鏡をかけた男性が頭を下げ、名刺を渡された。どちらも白衣を着て、名刺には医学博士の肩書と、それぞれ専門分野が書かれていたが、医療現場に携わるさつきでも、難解の単語が並んでいた。次いで焦げ茶色のフレームの眼鏡をかけた老人は、白衣は着ていなくてベージュのスーツ姿の学者風情で、このチームの主任を務めると紹介された。渡された名刺にも、先の二人よりも沢山の肩書が並び、名誉教授の名称も。そして横に立つ臙脂色のフレームのメガネをかけた女性は年の頃、さつきと同じぐらいで、こちらも絵にかいたような研究所に居そうな、白のブラウスに黒のタイトスカートの上に白衣を羽織っていた。その女性研究医は堅い表情で頭を下げ、さつきに名刺を渡してくる。最後にしまりのない笑顔で頭を下げたのは、30代半ばくらいの若い男性だった。見るからに助手であろう風貌。

「この5名が、りのさんの言語取得能力証明の為の医学検証チームの主メンバーです。あと、検証する言語の専門教授がおります。韓国語の検証をさせて頂く予定でしたが、昨今の韓国ブームにより、りのさんがメディア等から韓国語の影響を得て潜在的に習得している可能性も否定できない事から、ドイツ語に変更させていただき、言語検証チームは後日の紹介にさせていただきます。よろしいでしょうか。」と紺色のスーツに身を包んだ柴崎会長が、満面の笑みでこちらに同意を求めてくる。

「あ、はい。」とさつきは答えたものの、当事者のりのは、テーブルの下でスマホの操作をしている。「りの、止めて、挨拶して。」小声で注意をすると、りのは、むっとした表情をさつきに向けてから、渋々に返事をする。

「よ、よろしく、おお、お願いします。」

「りのさん、車の中でお話したように、ここに居る先生方は全員、英語が話せますので、無理をせず、何かあれば英語でお伝え下さって大丈夫ですよ。」

りのは、顔を横に向ける。初対面の大人が沢山いることが嫌で、5名の先生方が入ってきた時から不機嫌だ。

さつきとりのは、都内の帝国大学の医学部付属病院の建物の会議室に連れて来られていた。常翔大学に医学部はなくて、りのが華選に上籍するにあたり必要な能力の証明は、ここ帝都大学の医学部が行う。今日はチームメンバーの紹介と施設内の案内、そしてりのの身体検査が目的だった。本格的な能力の検証は夏休みに入ってからという説明を事前に受けていた。

「皆さん、お優しい先生方ですからね。安心してね。」と言いながら、柴崎会長は、優雅な手つきで5人の研究者たちに座るように促した。りのは、またスマホの操作を再開する。何をしているのかと覗き込むと、誰かとチャットのやり取りをしていた。さつき達の後ろの部屋の片隅に座って見守ってくれている柴崎さんが、ぷっと笑いを噴き出し、慌てて口を押え「ごめんなさい」と謝る。それで、りのは柴崎さんとチャットで会話をしていると、判明する。

「今日は検証チームとのお目通しが目的ですので、皆さま、お気楽にどうぞ。真辺様も何か先生方にご質問等はございませんか?」

「いえ、私は何も、難しい事は何もわかりませんので。」

「真辺さんは、神奈川医科大学付属で看護師をされているとか。」と主任の名誉教授がにこやかに話しかけてくる。

「はい。拙いながらも。」

「あそこの院長は、わしの後輩でな、あの病院建設にあたり、色々と各方面に顔を利かせてやったのは儂じゃ。」

「はぁ・・・。」

「あいつもな、あそこでは大きな顔しとるがの、儂らの下ではまたまだひよっこじゃ。」

さつきは、自分が働く大学病院の医院長と会ったことがない。さすがに顔がわからないと言う事はなく、ホームページやパンフレットに写真が載っているから知ってはいるが、自慢げに院長の旧知を聞かされてもピンと来ない。そして、そんな名誉教授の自慢話は続くが、さつきは、りのがテーブルの下でチャット通信をしている事が、ついにバレて叱られないかと、気が気でならなかった。一通りの学者自慢が終わって、りのは別室で検査服に着替えに行く。この後、大学施設内を案内していただくのだけど、りのの身体検査の為に施設と機器をほぼ全部使うので、検査をしながら施設内を案内すると言う事になっていた。

「では、お母様、りのさんの着替えが終わりましたので、ついてきてください。」

バインダーを持った女性研究医が会議室に呼びに来る。廊下に出ると、りのが究極の不機嫌さで立っている。その不機嫌の原因が検査服であることにさつきはピンとくる。りのは子供用のピンクの検査服を着ていた。

「なかったのね。ssサイズ。」と苦笑。

「すみません。こちらの不手際でМサイズしかご用意していなくて、一度着ていただいたのですが、どうしても肩がずり落ちて、はだけてしまい。子供用の一番大きな物に変更してきていただきました。」

「侮辱この上ない。」憮然とつぶやくりの。

「ピッタリじゃない。」と柴崎さんが笑ったのに対して、睨みつけるりの。柴崎さんは「ごめん、ごめん。ミニのワンピースだと思えばいいじゃない。」とフォローになっていない。

「では、真辺様、私は検査が終わるまで、こちらでお待ちしております。りのさん、麗香はどうしましょう?付き添った方がいいかしら?」

「いい、いらない。」と柴崎さんを無下に突っぱねるりの。柴崎さんは、今日のサッカー部の練習を途中で抜け出して、ここに付き添って来てくれていた。

「せっかく来てくれているのに。」

「よろしいのですよ。麗香はただのお節介でついてきたのですから。麗香と共にこちらでお待ちしておりますので、では、先生方よろしくお願いしますね。くれぐれも不備のないように。」と柴崎会長は研究医の二人に念を押すように顔を向けた。

研究医二人が、微妙に顔をひきつらせたように見えた。りのの華選上籍の話が来るまで、さつきは地位というものに疎く、意識などした事もなかった。さつきが人の優位を意識するのは、トリアージの時だけである。トリアージとは、救急の現場で行われる多数の患者に対して医療従事者のキャパシティを超えた時、病院の内外において、患者の選別をし、助かる見込みのある患者を優先する救命方法である。大きな災害時においての院外トリアージは、まだ未経験のさつきだったが、院内トリアージは何度も経験している。そこには、助かる可能性という優先順位があるだけで、世間的地位は関係ない。どんなに偉い肩書を持った人でも、お金持ちでも、貧乏な人でも、助かる可能性が高い順に救命処置は行われる。その後に送られる病室の優劣はあったとしても、初期救命の現場では命に対する優位は無情に平等だった。

それが、りのの華選上籍の話を頂いてから意識し始めると、周囲に、特に柴崎家の周りでは、それが当たり前のようにある事に気付く。柴崎会長の振る舞いや周囲の対応を、地位というフィルターを通して見てみると、納得の空気感が見て取れた。

「では、こちらの処置室で、まず身長体重などの基礎検査と、血液の採取を致します。」そう言って女性研究医は、りのに体重と同時に身長も図れるスケールにどうぞと促す。りのは、最大の嫌悪で顔をゆがませ、拳を握る。

「どうしました?」一緒についてきている男性助手が、中々スケールに乗らないりのに不審に首を傾げた。

英「ぶっ殺す。」

「えっ?」

「まだ、緊張しているみたいで、その、お友達の柴崎さんが居ないから、ね。」さつきは慌てて取り繕うも、りのはブツブツととても翻訳してはいけない悪い俗語をつぶやく。

「ほら、りの、乗って、さっさと終わらせて柴崎さんのもとに帰りましょう。」

りのを若い男性研究医から引き離すように、スケールへと向かわせた。りのは、壊れる勢いでスケールに立つ。そして、脈拍から、視力、聴力までを図り、最後に女性研究医は「では、採血をさせていただきます。」と用具をテーブルに取りそろえた。

りのはずっと機嫌が悪く、研究医の二人に顔も向けない。用意した採血用の上腕枕の上にさっさとしろというように、荒く腕をのせる。昔からりのは注射を怖がらない子だった。予防接種で泣き暴れてさつきを困らせたのは慎ちゃんで、りのは針を刺しても、じっとその行為を見ているような子だ。

研究医の採血を準備する手つきがおぼつかない事に、りのと顔を見合わせた。

「す、すみません。こういうのは久しくやっていなくて、いつもは看護師に任せて・・・今日は休日で居ないものですから。」

英「嫌だっ!」

英「ごめんね。注射は誰でも嫌いだよね。痛いのは少しの間だけだから、我慢してね。」慌てる女性研究医は言い訳を英語に変えて話す。りのが英語を使ったら英語を使うように指導されているのだろう。

英「違う!」後ろを振り返り、「ママ、ママが採血してっ」と日本語で要望してくる。

確かに、採血の下手な人がすれば、内出血痕はひどく痛みを伴う。さつきはもちろんのこと、採血には慣れて痕など皆無にできるが、この二人を差し置いて手を出していいのかどうかわからない。

「そんな、でも・・・」

露「痛いの我慢しろだぁ!自分から下手だと宣言するようなど素人同然の奴に、採血なんかさせるかっ」

「ロ、ロシア語!?」突然にロシア語で怒りまくるりのに戸惑う研究医二人。

りのは、怒ると言語が混ざる。特にロシア語が混ざるのは怒りがマックスの時、何故かフランス語は出ない。

英「痛いのは平気だ、私が嫌なのは、下手な奴に採血されて内出血の青あざになるのが嫌なんだ。」

露「もう、腕に青あざを作るのは嫌っ、薬物中毒患者のように白い目で見られるんだぞっ」

何を言ってるかはわからないけれど、もう、こうなったら、りのの機嫌を直すのは至難の業。この検証自体を嫌がって、もう上籍なんてやめると言いかねないか、不安になるさつきだった。

結局、さつきが採血を行い、りのはとりあえずは大人しくなったが、研究医の二人が何を言っても返事をしなくなった。さつきは申し訳なく、検査終了まで謝罪しっぱなしだ。終了後に会議室に戻ると、柴崎会長はりのの為にプリンアラモードと甘いミルクティーを用意してくれていて、柴崎さんとティータイムをしている内に、りのの機嫌の悪さはやっとなくなる。

そして今、二人は柴崎会長が運転するベンツの後部座席で頭を寄せ合って寝てしまっていた。

「真辺様もお疲れでしょう。どうぞ遠慮なさらず寝ていただいても構いませんよ。」

「いえ、そんな。柴崎会長こそ、運転までしていただいて。」

家に迎えに来ていただいた時にはびっくりした。てっきり凱斗さんが運転手として同行するものだと思っていた。

「本来なら、ハイヤーを用意すべきなのですが、申し訳ありません。同行すると言ってきかない麗香を学園に迎えに行ってからの、お迎えでしたし、それにハイヤーはりのさんが嫌がるだろうと麗香が言うものですから。」

「そんな、こちらこそ、すみません。何から何まで、りのに気を使っていただいて。」

「遠慮なさらずに、と申し上げましたでしょう。」とまた同じことを繰り返すことになるので、さつきは慌てて話題を変える。

「あのー今日は、凱斗さんは?」

「凱斗は今、大学生に戻っていましてね。りのさんの華選上籍にサポートすると言いながら、随行できなくて申し訳ありません。」

「いえいえ、凱斗さんもお忙しいのですね。」

「忙しいと言うより、凱斗は計画的行動が苦手でしてね。」と軽くため息を吐いた柴崎会長。「普通、人の記憶は完ぺきではございませんでしょう。」

「ええ、はい。」

「完全記憶ができないから、予定をスケジュール帳に書き込んで何度も見直す。事前に計画を立てて準備をする。ですが凱斗には完ぺきな記憶力がある。いつでもどこでも、一度記憶した書面は完ぺきに頭の中に表示できるのです。いつでもできる事って、なかなかしようとしませんでしょう、私達も。」

「ええ、そうですね。」さつきは、ベランダの掃除の事を思い出した。マンションの裏に桜の木が一本植えられていた。春になると、ベランダで花見ができるが、散ると桜の花びらはベランダに入り込んできて、終いには茶色く汚す。毎年、掃除しなくちゃと思いながらも中々せずに、今年ももう3か月が過ぎている。

「凱斗はその傾向が強くて、確認を怠る事が多い。そして、全般的に先を見越して、計画に沿った行動をすることが苦手でしてね。まだ先だと言うのに、大学の卒業論文ができないと嘆くものですから、しばらく学園の手伝いはやめさせて、学生に戻させましたの。」

「そうでしたか。」

完璧だと思っていた凱斗さんに苦手なことがあって、そして何より、柴崎会長がそれに対してわが子のようによく理解している事が驚きだった。柴崎会長が凱斗さんや麗香さんの事を話す時、会長としての張りつめた雰囲気が崩れ、出すため息が、親としての苦悩の、自分のと同じであることに親しみをおぼえる。

「車の運転をなさるとは思っていませんでした。」

柴崎会長は、こちらに顔を向けて、くすりと微笑む。

「私、運転は好きですの。」とご自分で言うとおりに、柴崎会長の運転はとても安定している。「柴崎家に嫁いですぐに前の会長、義父ですが、私は、凱斗のように会長秘書として随行していましてね。運転手も兼ねてやっていましたのよ。あの屋敷、昔は学生寮も兼ねた塾でして、以前は学生が運転などの雑用もしながら柴崎家を支えてくれていたらしいのですけど、学校法人となってからは、仕えてくれる学生らが居なくなってしまいまして、すべては一族だけで賄うことになった。雇えばいいのだろうけれど、そういう事に慣れていない柴崎家は、中々に、少なくなった身内だけで、やってしまう性分になってしまったようで。」

「麗香お嬢様は、常翔学園を継いでいかれる唯一のお子様ですのね。」

「そうですね。残念ながら、弟夫妻も子供ができませんでしたから。」

「りのなんかが、お嬢様とお友達になって、悪影響ではと、いつも申し訳なく。」

「滅相もございませんよ。真辺様、私は逆に感謝しています。」

「感謝?」

「りのさんと友達になって、あの子は視野を広げられたのです。今まで与えられるのが当たり前の狭い視野しか持たなかった麗香が、そんな風に育ててしまったのは私なのですが、今では大きな視野を得て、与える事の重要さも知りました。本当にありがとうございます。」

「いえ、そんな・・・」

以前、啓子にも似たようなことを言われて感謝された。だけどさつきは、自分が感謝されるような子供を育てあげたという自覚はない。子育てに関しては、自分は失敗している。精神科に通うまでにわが子を追い詰めた。そんな精神疾患がある子と友達になって、感謝されることが、さつきには理解不能だった。

「子育てに関しては、誰もが初心者で、正解などありません。自信がないのは私とて同じなのですよ。」

さつきは、後部座席を見やる。

生まれも育ちも違う二人、縁とは不思議な物だと改めて思う。

そして、さつきは啓子との縁に思いを馳せた。








英「日々殻を大きくしていくカタツムリを見ていると、その成長の比率が人間の成長率とは明らかに違うと感じましたので、その違いは何かと疑問が生じて、それを調べようと思ったのがきっかけですが、結果的には、その答えを得る事はできませんでした。」

英「答えを得る事ができなかった事は、査定には影響しません。その疑問を調査しようと考えつく着眼点、そして調査する勤勉さが素晴らしい。」理事長はそう言って微笑みをよこす。

英「良くできたレポートでした。」と学年主任は事務的に感想を述べる。

英「ありがとうございます。」

英「そして、英会話も。」

英「配慮いただいて、英会話で受けさせて下さった事を感謝します。」

英「噂は聞いていたのでね。無理を言って、特待生の査定面接に参加させてもらってよかったよ。」と英語教諭は大げさな身振りでうなづく。

英「卒業までには、日本語で完璧な面接ができるように努力します。」

英「楽しみにしていますよ。では、このまま引き続き、特待生として、常翔学園の全生徒の見本として、頑張ってください。」

英「はい。ありがとうございます。」

立ち上がり、理事長をはじめ、教師達5人に一礼をして、私は教室を出た。

やっと終わった。凝った肩をほぐすために伸びをすると、驚いた表情でこちらに注目する男子生徒が眼鏡の位置を正しながら、私に近寄ってくる。

「真辺さん、その恰好で面接を受けたのですか?」

もう一人の特待生である飯島孝志。特待生は学期毎にレポートの提出と面接を受けなければならず、この黒メガネは順番を待っていたようだ。私は無視して歩むのだけど、追うようにして豪語する。

「ありえませんね。面接をジャージで受けるなど。特待生に取ってこの面接は、特待生としての資質を審査される重要な瞬間で、我々は厳格にそれに対応しなければならず、服装の正しさは、特待生もしくは常翔学園の生徒としての自覚を示す基本的な」

廊下の時計を見ると3時近い。今日はせっかくの体育館使用日だったのに、査定の面接が長引いて、部活の時間がもう終わってしまう。

「姿であり、特待生の我々は生徒たちの見本として常にそれを意識して。」

露「うるさい。特待生連呼馬鹿。」たまらなく、後をついて来る飯島に牽制の言葉を叫んだ。

「えっ、なっ何語?」

露「何語もわからない馬鹿は、家に帰って×××でも舐めていろ。」

「どうしました?」会議室から担任の先生が出て来て、不審な顔を私達に向ける。

「真辺さんが、推奨されていない英語以外の言語を見せびらかすような、特待生としてあるまじき行為を。」

「飯島君、人の事はいいから、入りなさい。」

(ざまーみろ。)心の中で捨てセリフを吐いて、私は足早に体育館へと向かった。

二日前に期末テストを終え、成績表も発表された。当然に私があの眼鏡よりも6点を上回りトップ。それが悔しい黒眼鏡は、ことある事に私の行動にケチをつけてきていた。本当にどうしてあんな奴をもう一人の特待生にしたのだと訴えたい。

東棟の体育館に抜ける扉を開けた。刺さるような日差しが眩しい。冷房で引き締まっていた皮膚の毛穴が一気に緩み、汗を分泌する。

英「暑い・・・嫌いな夏だ。」

グレンにフラれてから一か月半が経っていた。ショックでニコに意識を任せていたら、いつの間にか季節は変わり、夏になっている。後3日で7月も終わり夏休みに入る土曜日。

ママはどうしているだろう。研修先のサンフランシスコへ私もついて行きたかった。

憎らしい程に太陽は紫外線を降り注いでいた。逃げるように渡り廊下を進み体育館の中に飛び込む。常翔学園の体育館は贅沢にもクーラー完備、しかし教室ほどには涼しくない。けれど、この環境はありがたい。試合などで他校や古びた施設の体育館を訪れるとクーラーなどないのが当たり前で、夏場は地獄だった。

履いていた上靴とバッシュを交換して2階へと裸足で駆けあがる。ドアの前でバッシュに足を入れながら、扉を開けると、やっぱりもう練習は終わっていて、一年生達がモップ掛けをしていた。

「リノ、お疲れ様、ミーティングも終わらせたの。」と部長のイク先輩が、日誌を書きながら私に応対してくれる。

「す、すみません。」

「長くかかったわね。」

「な、中々、お、終わらせてくれなくて。」

イク先輩は肩をすくめて笑う。その笑いは私の吃音を笑ったのではなくて、同情してくれた笑いだ。

「モ、モップ、は入ります。」

特待生の面接は、何故か中途半端な2時15分からだった。クラブの練習は12時半から始まっていたので、私は練習を途中で抜け出し、クラブのジャージのまま面接を受けた。いつもなら長くても20分ほどで終わる査定だったが、理事長をはじめ私の英会話を見定めたいという担当外の英語教諭も面接に加わったおかげで、途中余計な雑談になり長引いた。

道具室からモップを持ってメグの横に並び歩く。

「お疲れ、どうだった?」

「どうってことない。これからも全生徒の見本になるように精進しろって念押しされただけ。」

メグも同情の笑いをする。

掃除もすぐに終わってしまった。次に体育館を使用するバレー部が入り口に集まりだしてくる。備品を片付けて帰り支度をした。バスケ部の先輩や同級生たちは、もう私の身長も話し方も笑わない。普通に接してくれていて、思い切って入部してよかったと心から思う。更衣室での雑談、下駄箱でふざけあい、何気ない日常がたまらなく楽しい。

「今日から柴崎邸なんでしょう。」とメグが玄関ロビーを出た所で話題にする。

「うん。」

「じゃ、毎日料亭のご飯ね。」

「そうだね。」笑いながら答える。「メグも来たらいいのに。」

「源さんのお料理は捨てがたいけれど、あのお屋敷は落ち着かないわ。広すぎて。」

「同感。」

ママが先週の日曜日からサンフランシスコに10日間の日程で研修に行って家にいない間、夕ご飯は、親戚のような付き合いになっている新田家に通って食べる事になっていたのだけど、その話を聞いた柴崎家が心配して、柴崎邸で預からせてもらえないかと提案してきた。しかし、10日間うちの前半は期末テストで、期末テストが終わればすぐに特待のレポート提出と面接がある。メグが言うように、テスト勉強は他人の家では中々にやり難いものがあって、集中できないと言うよりは、私の場合は、レポートの作成の為に借りてきた本や資料を部屋中からかき集めて運ぶと言う事が面倒で、テスト終了後の今日から4日間だけ柴崎邸に泊まる事で、話は落ち着いた。テストが終わったあとの一週間は午前中授業で、ほとんどの科目がテスト問題の答え合わせと自習だけになる。生徒も教師も気持ちは夏休みモード。麗香は調子に乗って、給食を食べるメンバー全員に泊まりに来ない?って誘っていて、男子陣に呆れられていた。

クリスマスパーティの時のように一日だけの、しかも誰もが同じ生活行動をとれる日々なら、それも楽しみな宿泊となるだろうが、大人数がそれぞれに生活時間の違う行動をする日々の対応は、住み込みのお手伝いさん一人では大変だろう。と言う事で、私一人だけとなった。

今日、麗香はサッカー部の試合で郊外の施設へと行っている。私は一度家に帰り、4日間に必要な身支度をしてから麗香が迎えに来るのを待つ予定となっている。

バスケ部の皆と何気ない会話をしながら正門を出る。メグや他のバスケ部の一年生は電車通学なので、正門前の交差点を渡ったらすぐに道を別れなければならない。バイバイを言い合い、若干の名残惜しさと、一人になった安堵感が混じったため息を吐くと、携帯電話の振動が制服のポケット内でした。バス停まで歩きながら携帯を取り出し出る。

「りの、今どこ?」麗香からだった。

「ちょうど学園を出たところ。」

「そう。あのね、今日、うちじゃなくて、新田家に行って。」

「どうして?」

麗香は、何故かすぐに答えず、息を詰まらせたような息遣いが聞こえてきた。

「どうしたの?麗香、具合でも悪いの?」

「違うの、私じゃない・・・。」

「ん?」

「悪いのは・・・新田。」

「どう言う事?怪我でもした?」

「怪我じゃない、怪我の方がまだマシ。」

「何、一体。」

「新田、出た試合でオウンゴールしたの。」

「えっ?」

「とても落ち込んでる。りの、寄り添ってあげて。」

私は信じらえない思いで首を傾げる。

味方のゴールに点を入れてしまうオウンゴールを、ドリブルの天才と言われる慎一が、した?






「でも・・・」と電話の向こうで躊躇うりの。きっとまた幻想に寄り添ってしまう事を恐れているのかもしれない。だけど、そんなことで躊躇している場合ではない。幻想でも何でも、新田には今、誰かが寄り添った方がいい。

「新田、学園のバスに乗らずに、帰っちゃったの。」

「皆が責めたの?」

「ううん、部員はそんなことしない。だけど監督にはこっぴどく怒られたわ。」

「あぁ・・・」

「お願いりの、新田に寄り添って、励ましてあげて。」

「う、うーん・・・」自信のない返事が返ってくる。

「柴崎―バス出るぞー」沢田が乗り込むバスのドアの前で麗香を呼ぶ。

集められていた部員たちの荷物が全部、荷室に入ったようだ。

「ごめん、りの、行かなくちゃ。だから、今日はうちに来ないで新田家に行って、喧嘩しないで、励ましてあげてよ。」早口で言って、りのの返事を待たずに電話を切った。バスへと駆け戻る。

「余計な事を・・・。」乗り込む順番を待っていた亮が目を細めて見てから呟いた。

「どうしてよっ、一人で勝手に帰っちゃうほどに新田は落ち込んでるのよ。誰かがそばにいてあげないと。」

「子供じゃないんだ。」

「子供じゃないって、あんたたち、何もしなかったじゃない。」

試合終了後、当然に、監督は新田に激怒した。麗香が生きてきた中で、人がそこまで激しく声を荒げて怒鳴り責める姿を見た事も聞いたこともない程に。藤木をはじめ先輩たちや他の部員は、落ち込む新田に対して、何もしなかった。新田の失態に対して気にしてないを装った配慮だったかもしれないが、麗香には、その対応はとても冷ややかに感じた。言葉がなくてもいい、肩や背中をポンと一つ叩くだけでいい。それが60人もの部員が居て、誰も新田にそれをしない。こんなチームでいいのだろうかと麗香は、苦悶を心に抱いたが、麗香自身も、あまりにもの監督の怒号で怯んで、何もできなかった。

「何ができる?」

「何がって、励ましの言葉一つ、ううん言葉じゃなくてもいい、背中を叩くだけでも。」

「監督の指摘は間違っていない。」

「間違ってなくても・・・」

「あいつは全日本代表メンバーに選ばれた奴だ。俺たちとはランクが違う。そんなあいつがありえないミスをした。俺たちがどんな励ましをできるっていうんだ。」

「ランクなんて関係ないでしょ。同じチーム、同じ全国を目指す部員じゃない。」

「同じ全国を目指す部員が、その全国への切符を汚した。」

麗香は信じられない思いで息を飲んだ。それぐらい亮の言葉は厳しかった。でも亮は淡々と続ける。

「高みにいる新田が、一番してはいけない事だ。」

(厳しすぎる。ミス一つできないなんて。)

「そう、そんな厳しさを求められるのが、全日本代表メンバーだ。」そう呟いて、亮はバスへと乗り込んだ。

亮の姿を追いながら麗香は思う。全日本代表としての意識、メンタルの強さは新田よりも亮の方が上だ。改めて思う、何故、亮が選ばれなかったのかと、悔しさに麗香は唇を噛む。もし亮も選ばれていたら、きっとこんなことにはならなかった。きっと二人でこのサッカー部を先導していたはず。






家には帰らず、麗香からの電話の言う通りに、私は新田家へと直行した。合鍵を渡されていて、家に誰も居なくても勝手に上がる事が出来る。もう本当に親戚以上の付き合いである。暗いリビングの照明をつける。カバンをソファの脇に置いて、窓際の壁に飾っている幼少のころの二家族合わせて撮った写真に向かう。パパの笑顔に「ただいま」と心の中で呼びかけて、ため息を吐いた。

啓子おばさんは朝から店の方ばかりのようで、リビングはムッとした暑さが籠っている。クーラーのリモコンをオンにして、ついでに冷蔵庫へと向かい、冷たい麦茶を取り出して、私用にと買って置いてくれているニコちゃんマークの描かれたマグカップに注いで飲んだ。

「ニコニコのニコ」慎ちゃんがつけてくれたあだ名、を裏切らないようにと解離性意識障害を起こした私に、その障害を二度と起こさせてはならないと、皆は「ニコ」という呼び名を封印した。だけど、また私はニコの意識を宿している。そのニコは、あの人に首を絞められ脅された以来、沈みがちだ。

まだ半分残っている麦茶の入ったマグカップを手にして、リビングのソファに座りに行く。いつも座っている窓を背にする側の一人掛けのソファに座る。やっとクーラーが効き始めてリビングが涼しくなって来ると、大きなあくびがでた。

眠たい。だけど眠るとあの夢を見る。グレンへの想いが薄れて始まったあの夢。

それはおそらく、私という魂の存在理由、始まり。

だから私はあの人が怖い。

そして惹かれあう。

だから慎一を・・・

ガチャリと玄関の扉が開いて、「ただいま」と慎一の声。靴を脱いだ慎一は、廊下に姿を表したものの、こちらに見向きもしないで素通りし、脱衣所の洗濯場へと直行する。いつもと同じ。慎一は帰宅後すぐに汚れたユニフォームなどを洗濯機に落とす。その作業が終わるとリビングに入ってきて、キッチンへ。

「お帰り。」

「ただいま。」冷蔵庫から麦茶を取り出し、サッカーのゲームソフトの購入特典でもらったマグカップに注ぐ。

「試合どうだった?」至って普通に聞いた。

麦茶を一気に飲み干してから「勝った。」と答える慎一。

「そう。一次予選突破だね。」

「ああ。」慎一はいつも通りの返事をしてリビングから出て行き、階段下に置いた荷物を持って二階へ上がっていく。

いつも通り。特に落ち込んでいる様子などない。

ただ、一度も目は合わなかった。そして、今日から柴崎邸に泊まりに行くことになっている私が、ここにいる事に異を問わない。

それが、いつも通りじゃない。

パタンと慎一の部屋の扉が閉まる音。

外から聞こえて来る蝉の鳴き声が、ピタリと止まった。

静まり返った家。

(どう、励ましたらいい?いつも通りなのに・・・。)。

啓子おばさんが店から戻ってきたら説明しよう。どうしたらいいかアドバイスしてくれるか、もしくは啓子おばさん自ら動いてくれるかもしれない。子育てに関しては放置的であっても、我が息子の夢には協力的で保護者会の世話役もしているのだから。そう自分なりの解決方法に納得して、またソファーに身を沈めた。クーラーと冷蔵庫のモーター音だけしかしない静かなリビング、すぐにまた眠気が襲ってきて朦朧とする。

夢か現実かわからない想いを繰り返す古の夢。

突然、電話のコール音にびっくりして目が覚めた。携帯ではなく新田家の電話が鳴っていた。二階の様子に耳を澄ませても、慎一が部屋から出てくる様子がない。家中にこだまして電話のコール音が鳴り続く。新田家は三か所に家の電話が設置されている。一階のリビングと啓子おばさん達の寝室、そして二階の階段を上った廊下に一つ。電話は留守番電話に切り替わった。お決まりの案内メッセージの後にピーという音で録音開始。

「あー誰もいないの~誰も携帯にもでないんだから~」とえりちゃんの声。

私はキッチンのカウンターに置かれている電話の受話器を取った。

「もしもし、えりちゃん。」

「あれ?りのりの?」

「うん。」

「およ?今日から柴崎先輩ん家じゃなかったっけ?」

「うん。中止になって。」

「えー、何で?」

「都合が悪くなったって。」とりあえず、ごまかした。

オウンゴールをして落ち込む慎一を励ます為に新田家に戻って来たなどいえない。慎一だってプライドがある。妹に知られたくないはずだ。

「へぇーそうなんだぁ。」

「誰に?っても誰もいないけど。」

「慎にぃもまだ帰ってきてない?」

「さっき帰って来たけれど、部屋に籠ったきり。」

「えー、りのりのが来てるってのに、何それっ」若干怒色のえりちゃんの声、どんな表情をしているか想像できて笑いそうになる。

「疲れて寝てるんじゃないかな。」

「あぁ、だからか、さっき電話したら呼び出し音もならずに繋がらなかった。電源切ってるな。お母さんの携帯も繋がらなかったんだよね。」

「さっき前通ったら、店、大繁盛だったよ。」

「だろうね。土曜日だもん。」

「啓子おばさんに用?伝えようか?」

「うん。慎にぃでいいんだけど、今日は慎にぃの当番だから。晩御飯要らないって伝えて。」

「わかった。遅くなるの?」

「うーん。どうかなぁ・・・」としばらく無言になった後、何やら笑いが含まれた声色で続く。

「なるべく遅く帰るようにするよ。」

「え?」

「慎にぃと二人きり、頑張ってねぇムヒヒヒ。」

「えっちょっと、えりちゃ・・・」

私の言葉半ばで電話を切ってしまったえりちゃん。

(頑張るって・・・何を?)ため息ついて受話器を置いた。窓から入って来る日差しが夕方の兆しを見せていた。時計を見ると6時に近い、思った以上に時間が経っていた。リビングから出て、階段の下から二階の様子を伺う。慎一の気配がまったくない。本当に寝てしまっているのかもしれない。

(自分が落ち込んだときはどうだったか?)

眠れなかった。脳や身体が疲れていても、意識だけが刺々しく神経に触るように敏感で、そればかりを考えている。だけど脳は疲弊しているから、答えの出ない疑問ばかりがグルグルと回り続けていた。

一つ階段を上る。

きっと慎一も、何故オウンゴールなどしてしまったのか?が、グルグルと頭の中で回っていて、だから電話のコール音も聞こえない。

二つ、三つ、階段をゆっくり上がった。

(私にできる事は何か?=慎一が私にしてくれた事は何だったか?)

いつも心配して、私のそばに寄り添ってくれた。どんな時も、どこへ落ち込もうとも、それが死へ向かう事だったとしても。

捨て身で私の選択についてきてくれる。だから、同じことをすれば、私達は駄目になる。

(どうすればいい?)

不調でミスをして落ち込んでいる慎一を、全日本選抜の代表選手としての自信を取り戻す為には?

階段を登りきり、解決の思考及ばない自分に悔しく唇をかむ。慎一は、いつもこんな気持ちで、どうすればいいかと悩んでいてくれていたのだと今更ながらに判って、長く迷惑かけてしまっていたのだなと辛く思う。

慎一の部屋の前で、静かに深呼吸をし、ノックをした。

何時まで待っても返事はなく、静かだった。

もう一度ノックをする。やっぱり返答はない。

(寝ているのなら、それでいい。眠れているのなら・・・大丈夫。)

確認の為、ドアをそっと開ける。部屋の電気は消されていて、閉められたカーテンが中途半端で10㎝ほど隙間が出来ている。その隙間からの光源が部屋を薄明かりの状態にしていた。

慎一は、ベッドの上で壁を背に片足を投げ出した体育座りをして、耳にヘッドホンをつけて目をつぶっていた。何の曲かわかるほどシャカシャカと音がこぼれているから、寝てはいない。

「慎一。」声をかけたが、身動ぎしない慎一。

薄暗い部屋で丸まる慎一の姿を見つめて、私にできる事が何かを理解する。

歩み寄る私に気づいていないのか、やっぱり身動ぎしない。ベッドに膝をついて乗った。重みでベッドが揺れても慎一は目を開けない。手を伸ばしヘッドホンをそっと外した。

「慎一。」

やっと、ゆっくりと目をあけた。

「何?」慎一は、私へと視線を合わさずに足元へ向けたまま。

言わなくちゃならない言葉までは、理解していなかった。焦る。

「え、えりちゃんが、晩御飯要らないって。」

(こんな事を言うのではなく。もっと・・・)

「わかった。」いつもと変わらない返事をして、私の手から、ヘッドホンを取り、また耳にかけようとする慎一。

「駄目・・・」ヘッドホンを取り返した。「耳が悪くなる。」

(違う、違う、こんな事を言うのではない。)

慎一は消えそうな息を吐いて、なお、私の方を向かない。きっと、それが慎一のプライドだ。

「慎一。」

言葉など要らない。私達は双子のように育った幼馴染だから。

慎一を抱きしめた。強く。

私達が血のつながった兄妹ではなく、他人として生まれた意味があるとしたら―――。

慎一の頬に手を添える。うつむく慎一の顔をやさしく上げた。

―――それはキスができる事だ。

落ち込んだ時に切に渇望するのは、人の寄り添いと温もり。

ゆっくり、重ねた唇を離す。

私達が男と女の異性で生まれてきた意味があるとしたら―――

慎一の首へと腕を回した。

―――身も心も抱き合える事だ。

言葉など要らない。ただ体を寄せ合い、本能のままに求め合えば。

慎一は、私の手を振りほどき立ち上がる。私はバランスを崩しベッドに転がり倒れた。

「慎一・・・」

「・・・ごめん。」息を吐きだすように掠れた声を残し、慎一は部屋から出ていく。

ヘッドホンから漏れてくる軽い音。

玄関の扉が開閉する音。

外から聞こえて来る蝉の鳴き声。

「ごめんって・・・何?」

ポタリと涙がシーツに落ちる音。

聞こえて来る音が異様に大きく、神経を逆なでた。





お正月の風物詩となった全国高校サッカー選手権大会。東京を始め、大阪などの高等学校の多い都道府県は、夏前の7月から予備予選が始まる。サッカー部がある神奈川県の高等学校は、公立私立を合わせて現在179校が日本サッカー連盟に登録されていて、全国高校サッカー選手権大会に出場申請をした学校は176校、その数字は東京、大阪に次いで三位の多さである。

150を超える都道府県は二次の予選を行うことが全国高校サッカー選手権の大会競技規定で決められている。

第一次予選は地区別にブロック割されたリーグ戦。一ブロック12、もしくは16校を抽選で3ないしは4つに分け、4校の総当たり戦を行う。各リーグの勝利校が9月に行う二次予選のトーナメントへ勝ち進める。

7月の末、リーグの最終戦が各地の競技場で行われた。第9ブロック内のA-1の場所を抽選で引いた常翔は、リーグ内の他3校のみならず、第9ブロック内でも群を抜いて得点を取り2勝し、既に二次予選のトーナメントに勝ち進めるのはほぼ決定していた。よほどのことがない限り、その日の試合は消化試合に等しく、選手も監督も心身ともに余裕の様相でいた。そんな試合だからこそ、主要メンバー以外の選手を起用して、経験値の向上を図る。

最近、ポジション替えを課された、全日本ユース16の代表メンバーである新田慎一の仕上がり具合の確認を行う。少年クラブからずっとフォワードのポジションできた新田慎一にとって、ディフェンスに替えられたことは、大きなショックであり、戸惑いであった。慣れないポジションでのプレイは、どのスポーツでも同じ、やり難いのは致しかたない。しかし、新田慎一はユース16の全日本代表メンバーに選ばれた選手で、ポジション替え、どんな悪条件、過重課題であっても、熟す事は当然に求められる事で、できるのが全日本代表メンバーと言うもの。ポジション替えぐらいで不調に陥っていては日本代表メンバーの資質に欠ける。スキルアップのチャンスぐらいに勇み立つ心意気でなければならない。監督は、新田慎一の不調を放置せず、早々に新田慎一のディフェンス力を見極め、新田慎一の特色を活かしたディフェンサーに育てる筋道を考えたのだろう。

勝ちの見込めるリーグ最終戦、後半3対0残り20分で新田慎一を投入する。10分後、ゴールラインで競りあい相手のコーナーキックのチャンスを与えてしまう。相手のフォワード10番にマークして防衛する新田慎一は、コーナーキックの試合再開と共に、センターに走り込む10番と共に駆け出した。綺麗に上がったセンターリング、ヘディングの競り合い、相手10番が着地にバランスを崩して手を突く。落ちたボールは、新田慎一の足元に。新田慎一は身体をひねり、攻撃側、中央でフリーのミッドフィルダーの青木稔先輩へとパスをすれば良いだけだった。それが、新田慎一は身体をひねらず、味方のゴールへキックをした。ゴールキーパーは、新田慎一のシュート並みのスピードに反応できず、茫然と立ちすくむだけだった。皮肉を込めて言うならば、それは完璧できれいなゴールだった。オウンでなければ。

それでも試合は2対1で常翔学園が勝つ。リーグ3勝0敗、得点数10点は第9ブロックの一次予選通過他2校の得点数を大きく引き離しての一位通過、二次予選へと進める。しかし、失点が1となったおかけで、今まで当たり前だったシード権を失う。

二次予選に進出できるのは全部で56校、内8校は得点の高い順でシード権を得られ、4戦目からのトーナメント参加となる。毎年およそ合計8点以上、二桁を取っていればシード権は確実と言われていた。だが、それは失点0が条件。どんなに点数を稼いでいても、失点があればシード権は得られない。常翔学園はそのシード権をここ十数年は毎年獲得して二次予選へ進んでいた。そんな中での

【全国大会常連校の強豪常翔学園が、シード権を得られなかった。】

と言うニュースは、神奈川県のみならず全国を駆け巡り、驚愕にざわつかせた。







石鹸が流れていくのを、ため息を吐いて見送る。

「どうして・・・」

その先の言葉は二つある。

(どうして、慎君はあんなミスをしたのか?)

(どうして、私は慎君に声をかけなかったのか?)

唇を噛んで、その後悔をぐっと胸に押し込むも、今日の出来事を繰り返し思い出す。

監督の激しい叱咤に驚いて、全員が硬直し固唾を飲んだ。

試合に勝ち、一次予選に進んだというのに、ミーティングは最悪の雰囲気で終わり、皆は沈んだ顔で後片付けを始めた。誰も慎君に声をかけられなかった。かけようものなら、監督の怒りが飛び火してきそうで恐ろしかった。慎君は、みんなが片づけをしている間に、学園のバスには乗らずに帰ってしまった。柴崎さんの携帯に「一人で帰る」とメールを残して。

もう一度、手を洗おうとして石鹸に手を伸ばしかけた時、悠希の携帯にメール着信の知らせが鳴る。慎君からの着信は音を変えていた。悠希は急いで濡れた手をタオルで拭き、制服のポケットから携帯を取り出して読む。

【今、彩都FCのグランドにいる。来れない?】

すぐに、【行く、待ってて。】と返信をする。そして、靴を履きながら外に飛び出した。玄関の扉が閉まる寸前、お母さんがリビングから顔を出して何かを叫んでいたけれど、無視して駆けだした。

(慎君・・・ありがとう。私を呼んでくれて。)

そう心の中で思いながら、悠希は全力で走る。

(待ってて、すぐ行くから。)

太陽がやっと傾き、日差しが和らいで風が出てきた模様。でも十分に照らされたアスファルトから上がってくる熱気は、悠希の身体を焦がした。グランドに着いたときには、額から滝のように汗が噴き出し、制服のブラウスが肌に張り付いた。息を整えて、ポケットに入っているハンカチで汗を拭きながら、スタンドへの階段を上る。常に日陰になっている階段はひんやりとしていて気持ちが良い。汗を止める為に、ゆっくりと歩んだ。

グランドでは、整備用のトラックが周回している。今日の彩都FCの練習は終わってしまっている。もう子供たちも、保護者の姿も見えない。誰も居ないグランド、スタンド脇のどんぐりの樹の下に慎君は座っていた。

約2メートルの距離に近づいても、慎君は膝を抱えたままうずくまり、こちらを見ようともしない。

「慎」

「駄目だよな・・・」

声をかける言葉が重なって、口を噤んで慎君の先の言葉を待つ。

苦しそうな息を吐いた慎君は小さく、初めて会ったとき、パスワークの相手が見つからずに俯いていた姿と重なった。

「こんなんじゃ、プロどころか、全国だって行けない。」

「一次予選は突破したでしょう。ただ、シード権がなくなっただけ。」

慎君は首を振る。

「監督の言う通りだよ。俺は代表の資格なんてないんだ。何が一緒にプロを目指そうだよな。馬鹿みたいにできない夢を見て悠希に」

「慎君はプロになれるっ」想い余って叫んだ。「できない夢なんかじゃない。それは、誰よりも慎君が一番、信じていたじゃない。」

慎君はわずかに頭を上げて、グランドを見る。

グランド整備をしていたトラックが、金網製の出口から出ていく。

「私は、シード権がなくなってよかったと思っている。」

慎君はやっと悠希の顔を見てくれる、しかし、その目は弱弱しく不安げだ。

「あのサッカー部は未熟。せっかく全日本代表に選ばれた選手がいるのに、全日本の練習内容、試合構成を聞いて取り入れようともしない。貪欲に、強くなろうとしてないわ。だから、シード権がなくなった事は、チャンスなのよ。」

わずかに首を傾げる慎君。

「シード権がなければ、3試合分余計に試合ができる。3試合分の経験が得られるわ。」

慎君は驚いたように目を見開いた。

「無駄な事なんて何一つない。慎君がそう言って、私を助けてくれた言葉だよ。」

やっと、目に生気がもどってくる慎君は、再びグランドに顔を向けた。同じく悠希も静かなグランドを見やる。

『僕はグランド整備も練習のうちだと思っている。グランド整備で歩くと脚や腰が強くなる。皆がやらないなら僕は皆の分をやる。それだけ皆より強くなれる。皆がグランド整備をやって短時間で済むなら、グラウンド使用時間ギリギリまで、ボール使った練習が出来る。僕はどっちでもいい。どっちも強くなれるから。』

小さい体で、整備用トンボを引いて歩く慎君の残像がよみがえってくる。

「俺は・・・あの頃から変わらない。いつだってチームの輪を乱す。」

「誰よりも夢に真剣なだけだよ、慎君は。」

「だから・・・」唇を噛んで、息を詰まらせる。

「だから、パスワークの相手を見つけられなかった。」その先の言葉を悠希が言うと、慎君は肩を震わせて一筋の涙をこぼす。

「大丈夫、私がずっと相手になるから。」慎君のそばへと歩み、その震える肩を抱きしめると、慎君は声を出して泣いた。「大丈夫。私はずっと、慎君の夢を認めているから。」

プロとして一緒には目指せなくても、慎君に寄り添い手伝う事ができる。二人三脚、夢に向かって一緒に寄り添い走れる。

空が完全に夕焼け色に染まるまで、慎君の背中をさすった。

慎君の心に溜まっていた孤独が涙で流れていく。悠希が渡したハンカチで目をひと拭いした後、慎君はゆっくりと立ち上がり、はにかんだ表情を見せた。

「ごめん、これ洗って返すから。」

「あぁー、い、いいのそれっ」慌てて、慎君の手からハンカチを取り返す。「私の汗・・・拭いたやつだから、ごめん。汗臭かった?」

「あっ、俺もシャワーも浴びずに来たから・・臭かったろ。」と自分の脇の下を嗅く。

「私もよ、ここまで走って来たから。汗だくで。」

「ぷっあはははは。」

二人で笑った。

「来てくれて、ありがとう、元気出たよ。」

「どういたしまして、お役に立てて、良かったわ。」

「うん・・・」

慎君は満足げに頷く。

風がさわさわと樹の葉を揺らす。

遠くでカラスが鳴いたのに誘われるように顔を向け、そのまま歩きだした。幾分も歩かないうちに慎君は立ち止まる。

「悠希・・・」

「うん?」

「俺と・・・付き合ってくれないか?」

「えっ?」

「俺、悠希と一緒に居ると、前向きになれるというか・・・自信がつく。」

こんな日が来る事を、想像しなかったわけじゃない。でも、それは儚い夢だと入学早々に思い知らされた。自分は汚れて忌み嫌われる存在で、そして慎君には真辺さんがいる。マネージャーとなって、慎君のそばで夢を追いかけられるだけでいい。そう胸に誓った。

「藤木は、自分だけマネージャーを独り占めしたら駄目だと柴崎と別れたけれど、俺は・・・悠希を独り占めしたい。しなければダメみたいだ。」

涙があふれてくる。うれしくて。

(こんな私を必要だと言ってくれる日が来るなんて。)

「えっ、あっ、ごめん。ごめん。こんなダメダメな俺なんかが彼氏だなんて、嫌だよな。今の無かった事に。」慌てて取り繕う慎君。

「違う、違うよ。うれしいの。とても。」慎君の胸に飛び込んだ。「私、ずっと想っていたんだよ。だから、留年してでも常翔学園に入りたいと。ずっと好きだった。彩都FCの頃から。慎君気付いてなかったでしょ。」

「えっ・・・あ、うん、ごめん、気付かなかった、今まで。」

「だと思った。」

また二人で笑った。

「不甲斐ない彼氏だけど、よろしく。」

「こちらこそ、彼女として、精一杯マネジメントします。」

(うれしい、最高に。まさか、こんな現実が待っていようとは。私は真辺さんに勝ったのね。)と、顔がほころんだ。























麗香は歯を食いしばり、凶器のように容赦なく顔や腕にたたきつけてくる雨粒に耐える。

最悪な事に華冠式の今日は、台風が東京を直撃していて、大雨、暴風、洪水、雷の警報が出ていた。

ピカリと空がフラッシュし、数秒後にドーンと空気を震わす雷に、麗香は悲鳴を上げて身を縮める。

「もう、止めようよぉ~、中止にしようよ。死ぬわ、絶対に。」

「麗香、止めて、引っ張らないでっ。」

前を歩く美月の袖を握り縋るも、振りほどかれる。

「静かに、厳粛に。」

宮内庁づきの華族の世話役が、険しい顔で麗香達を叱咤する。麗香は不満を露骨に表情に出して睨んだが、ずぶ濡れの顔ではうまく伝えられず、世話役らも雨風にさらされた雨具下の顔はびっしょりに濡れている。

水を含んだ白袴は、身体に張り付いて重く歩きにくい。芝が敷かれているとはいえ、所々に石がありそれを踏めば痛い。社から斎場まで数十メートル足らずというのに、果てしなく遠く感じられた。

本来、華冠式は京都の京宮御所で行われる。だが、京宮御所は現在、改装工事が行われていて、華冠式を行う神政殿が使えない。それに例年、華冠式にあたる子供はせいぜい多くても5ないしは6人ぐらいの人数なのが、この年の子供は全部で12人。そのうち8人が東の宗に属し、東日本よりに在住している子が多くいたこともあり、今年だけは東宮御所で行われることとなった。

神皇様に成人神巫として認めてもらう華冠式は、事前にその身を清めなければならない。1か月前から精進料理を食して体内を浄化し、さらに滝行によって身を清める。京宮ではその滝行をする本物の滝が裏山にあるのだけど、ここ東宮はその滝がない。よって、今年の華冠式は、作り物の滝で行われる事になった。外政園と呼ばれる広大な芝だけの平場の片隅、松の木が群集する間に、まるで遊園地のアトラクションのような滝が急ごしらえで造られ、京宮の「斎の滝」から酌み運ばれた水を給水車で上から流すという、お粗末なのか贅沢なのかわからないあり様。

「京宮でしていたら、こんな目に合わなかったのに・・・」と文句を言わずにはいられない。

麗香に注意してきた宮内庁づきの世話役が、また険しい顔を向ける。もう京都は台風一過で晴れていると朝の天気予報は知らせていた。暴風と雷が荒ぶる中、松の木の合間を縫ってやっと滝までたどり着く。

「お粗末すぎる・・・地方の寂れた遊園地の方がまだマシ。」不満の台詞が止めどなく出る麗香。

「一人ずつ、滝へと入水し向こうへ歩み行くように。」

子供たちは華族、華准関係なくあいうえお順で並んでいて、麗香は美月の次で4番目だった。後ろに諏訪要、橘淳平と、子供のころから華族会のパーティで顔を合わせている幼馴染4人組が続くのは、何の因果か。

最初に滝に入る子は、西の宗の子で五十嵐沙良という名の女の子、はおそるおそる滝の周りに置かれた四角いプラスチックのプール、大きさは保育園にあるぐらいの、に足を入れた。バシャバシャと情趣もなく落ちてくる水へと見上げた五十嵐さんは、戸惑い躊躇する。

「雷も近づいている、早くするように。」宮内庁づきの世話役が険しい顔でせかす。

「だったら、延期にしようよぉ~明日に。」という麗香の愚痴に、宮内庁づき世話役は声を張り上げた。

「華冠式は、八月の八の日という吉日は、華族叙位大綱によって決められている。荒天により日を変えることは不可能。」

「もう、麗香、黙って。」見かねた美月が振り返りねめつける。

五十嵐さんは、決心したように一つ頭を下げて落ちてくる水の下へと入った。こちらを向き、

「汚れは流れ、心身清霊の身を得し、謝にたたむ。」と言う声は、落ちてくる水の音と吹き荒ぶ風や雨の音で消される。

五十嵐さんは滝から飛び出すように外に出て、麗香たちの後ろを回って、そのまま社へと戻っていくのが順路。

美月の番が来て、目を瞑って滝行に耐えるのを見て、もう既にこんなにずぶ濡れで、する必要があるのだろうかと麗香は心の中で不貞腐れる。

「次。」

何もかもが、この宮内庁づき世話役のせいであるかのように睨みつけて、麗香はプールに入水する。そして、息を飲んで滝の下へと入った。が意外にも大した事がない。もっと痛いのだと思っていた。きっと水量と高さが足りないのだろう。

「汚れは流れ、心身清魂を得し、謝にたたむ。」

言い終えて、すぐにプールから出て足早に来た道を戻るも、濡れた芝で足を滑らせ、態勢が崩れるのを松の木に手をついて転倒を防いだ。

(危なかったぁ。)松の木がそばになかったら、完全に転倒していた。ありがとうの気持ちを込めて、松の幹をさすってから社へと急ぎ戻る。社に駆け込んで女性の世話役からバスタオルを受け取り、顔を拭いた。身体を拭き終わった美月と視線が合って、互いに肩をすくめて無言の合図をした。

滝行で身を清めた後からは、神皇様に額に神玉をあてられるまでは、口を開いてはいけない。口から邪気が入り込むのを防ぐのだそうだ。

麗香は幼少の頃から祖父から華族、元は神巫としての役割、心意を教授され、こうした祭祀などの大切さは理解している、けれども、時代と共に、その様相は変えるべきだと思う。ため息をつきかけて、慌てて口を結んだ。

社の中に、試着室のような小さな個室が四つ並ぶ、これも簡易で作られていた。女性の世話役が、私の名前の書かれた桐製の衣装箱を無言で渡してくる。世話役もここからは口を開いてはいけない。麗香は衣装箱を受け取り空いている個室に入る。そこで濡れた白衣白袴と下着の全部を脱ぎ、次は薄紫衣紫袴に着替える。薄紫色の上着の両胸には華族会の紋が入り、濃い紫色の袴も紋の織り模様が入っている。これは神事祭祀の最高衣装で、この先、神事祭祀の際に着用するものである。ある程度バスタオルで拭ったとはいえ、濡れた白衣白袴は絞れるほどに重く、結び目は締まって固くなってしまっていた。苦労して結び目を解き、胸に巻いたさらしをほどき全裸になる。袴の着方はお母様から教えられ、何度も練習して一人で着られるようになっていた。髪は後ろに一つ括りして糊でがちがちに固められているのでタオルで押さえるように拭き、形を整えれば式をこのままで行う事ができる。身支度を整え、麗香は個室の扉を開けて外に出る。そして、神政殿へと向かう。神政殿には既に着替えの終わった五十嵐さんともう一人の西の宗の男子と美月が座って待っている。また、顔の表情だけで合図をしあい、名前の記された札が括りつけられている榊が乗る三宝の場所に座る。全員が揃うまではどんな格好で座っていて良い。全員が揃って合図がされると皇前交手片座姿という決まった座り方をしなければならない。麗香の後から正殿に入室した諏訪要は、胡坐をかいて座った。男子は着替えが早い。麗香は正座を横に崩して座った。

口を開いてはいけないという制約はあるけれど、束の間の休息である。麗香はあたりを見回した。

神政殿の正面は、八段の土台の上につややかな縁の高欄、向拝柱の上に幕板が張られ、黒地に八角一星の皇紋が金刺繍された神前幕が垂らされている。その一連を御帳台と言い、まさしく神棚のような造りになっている。神前幕の向こうには錦帳が床まで下ろされていて、上質な絹の薄布からは高御座が透けて見えていた。御帳台の前と麗香達が並び待つ間に、二つの白木の台が置いてある。その台には今はまだ何も置かれていない。

天窓がフラッシュのように光り、時間を置かずに雷鳴した。雷は確実に近づいてきている。美月と顔を見合わせて首をすくめた。

諏訪要、橘淳平が神政殿に入ってきて、あまり時間もかからず最後の弥神君までが神正殿に揃った。

次いで世話役と私達の親が入ってきて、麗香たちの後方に並び座る。親は子供一人に対して一人が立ち合う事が決められていて、柴崎家からはお母様が来ていた。

太鼓が一つ鳴らされる。胡坐から片膝を立て、胸を手の平で隠すようにクロスした皇前交手片座姿で待つ。しばらくしてもう一度太鼓が鳴らされるも、雷と重なった。雨も風もひどくなる一方だ。

本来なら静かな正殿に衣擦れの音までもが聞こえるはずが、台風で荒れる今日、それらは全く聞こえず、麗香たちは天が割れんばかりの雷鳴にその都度、身体をびくつかせるばかり。

錦帳の向こうに人影が表れ、高御座に座るのが見えた。御帳台の両サイドから、紫衣紫袴を着た宮内庁づきの世話役が歩み、錦帳をあげた。

初めて対面する神皇様。その姿はテレビでお見受けして馴染みはあるけれど、直にお会いするのは初めてで、麗香はその威厳に自然と頭が下がる。不思議な事に何の合図もなくこのフロアにいる全員が、同時に叩頭していた。そういえば、神皇様が登場されたら叩頭せよとは教えられていない。

(そうか、必要がないからか。)と麗香は納得する。神皇様の前では自然に頭が下がる。その威厳を持っているのが神皇様なのだと。

そのまま頭を下げた姿勢で待つ。事前に説明されていた話では、この後、神玉が部屋に運ばれ、神皇様が神玉を手に、成冠する子たちの頭にかざす。ただそれだけのことであるが、神皇様の前へと歩み傅く一連の動作が、普段の動作と違うので、中々に覚えるのは大変だった。

正式名「降神の光玉」、神玉とも呼ばれる水晶(直径15センチの無色透明)の玉が、宮内庁づきの世話役によりゆっくり慎重に運ばれ、向かって左の白木の台の上に置かれた。神皇様が高御座から降りて来られ、二つの白木の台の間に立つ。神玉が神皇様の右手となる。

カンと鐘が鳴らされた。一番に滝行を受けた五十嵐さんが、自分の名札のついた榊を両手で持ち、立ち上がり、頭より上にかざしながら神皇様の左手にある白木の台まで進む。榊を向こう向きで置いた後2歩下がり、神皇様の正面にて皇前交手片座姿で叩頭して待つ。

神皇様は右手に神玉を持ち、置かれた榊を左手に持ち、五十嵐さんへと一歩近づき、頭に神玉をかざしながら名を読まれる。

「五十嵐彩良、巫氏として奉仕の命を与える。」

「心身に努めます。」五十嵐さんは緊張して声が震えていた。

神皇様が神玉と榊を高台に戻し、五十嵐さんは、皇前交手片座姿の叩頭したまま、元の位置へと下がる。これが一連の儀式である。

今年は、12人の成冠を待つ者がいるので、12回繰り返される。中央を開けた左右に3人づつ、前列と後列で12人が並んでいる。

次の者に鐘の合図はない。前の者が元の位置に戻ったら、次いで前に進んでいく。

雷鳴がなければ、とても静かで厳粛な儀式である。

美月が元の位置に戻って来て、麗香の番がくる。皇前交手片座姿座位から榊を両手に持ち立ち上がる。この皇前交手片座姿は、古来から変わらない神皇様と対峙するときの姿勢だと聞いていた。片膝を立てるという姿が神皇様に対して無礼なのでは?と思われるが、古より、神巫族は神皇様をお守りするため一族、異変時には即時に動いて身を盾にして守れるようにと、このような姿勢になったと聞く。

「柴崎麗香、巫氏として奉仕の命を与える。」

「心身に努めます。」麗華は堂々と言えた自分に満足する。

そうして、華冠式は粛々と進み、最後の弥神君の番になった。

緊張の儀式がやっと終わる。麗香はそっと息を吐いた。自分の番が終われば口を開けてもいい。

榊を頭上にしてゆっくりと歩む弥神君。ここ一ヵ月ほど体調不良で学校を休学し京都の実家に帰っていて、今日はこの日の為に上京してきていた。まだ体は本調子ではなく風邪気味だとマスクをしていた。本来なら身に着ける物や持ち込む物は、用意された物以外は駄目である。しかし、風邪を神皇様にうつしてはいけないと、マスクは特別に許可されたらしい。

(体調悪いのに滝行だなんて、かわいそうに。だから延期にすればいいのに。)と麗香は心の中でまたもや不満を募らせる。

弥神君は、風邪の辛さを微塵にも見せずに、一連の動作をしなやかに行う。

神皇様が右手に神玉を持ち、置かれた榊を左手に持つ。叩頭する弥神君の頭上へとかざす。

「弥神皇生、巫氏として」

ピカッと派手に天窓の外が光り、時間を置かずにバシャーンと建物が揺れるほどの雷が鳴った。神政殿のすぐそばの樹に雷が落ちたのではないかと思えるほどの衝撃で、麗香は心臓がバクバクするほどにびっくりして、頭を上げた。それはフロアにいた全員が同じだったみたいで、静寂が破られてざわついた。

「なっ・・・」神皇様が、驚愕の言葉を発すると同時に目を見開いた。

麗香は、神皇様も落雷に驚いたのだと思ったけれど、それにしては目線が不自然だった。神玉を凝視して佇みつぶやく。

「玉が・・・あっ!」声にならない呻きを上げ、後退りした神皇様の手から神玉が落ちた。

神玉は、弥神君の目前に落ちて割れる。

粉々に散った神玉の破片が麗香のすぐ前にも飛んできた。

悲鳴が上がる。

もう一度、大きな雷鳴が轟いた。

「神皇様っ、御身大丈夫ですかっ」世話役が周囲から駆け付け、後ろによろめく神皇様の身体を支える。

「君っ!血がっ」弥神君の袴の裾から見えている右足首が、横に筋切れていて血がにじんでいた。

「神皇様、御下がりください。汚れます。」

「玉が・・・」

「駄目です、神皇様、どうか御下がりください。」

「君も下がってっ」と世話役は、無下に弥神君の身体を後ろへと押した。弥神君は皇前交手片座姿を崩して尻もちをつき、手ついた。

「そんな、ひどいっ」麗香は思わず叫んでいた。それぐらい世話役の態度がひどかった。

弥神君は神玉のかけらが散らばる床に左手をついてしまい、顔を歪ませる。

世話役たちは神皇様の御身ばかりを心配し、御帳台へと上がらせて錦帳を下した。神皇様はそのまま神政殿から出ていく。

立ち合いの親たちが弥神君の周囲に駆け付けて来た。

「どうされたのだ?神皇様は?」

「落雷に驚かれて、手を滑らせてしまわれた。」と答えたのは、ただ一人残っていた宮内庁づきの世話役。

(違う、落雷に驚いたんじゃない。落雷に驚かれたなら、天を見上げるはずだ。神皇様はずっと神玉を見ていた。)

麗香はその事実を言いたかったけれど、確信が持てるほど確かな事ではない。

「だけど、神玉が割れるだなんて・・・。」

「なんてこと・・・。」

「不吉な・・・。」

「三種の神器の一つだというのに。」

立ち合いの親たちもまた、神玉の事ばかりを心配している。

(どうして?弥神君、怪我してるのに。)

「弥神君、大丈夫?」

「大丈夫。かすっただけだよ。」と弥神君は足を確認するが、麗香は足よりも手の方が心配だったから、ちょうど近くにいたお母様に訴える事にした。

「お母様、弥神君、手も怪我しているわ。世話役に押されてかけらの上に手をついたから。」

「そうなの?」

「大丈夫です。」そう言って弥神君は、右手をお母様に見せる。「ほら、何ともありません。」

「よかったわ。」

「えっ、違っ、手は」

弥神君は右手で前髪をかき上げて、麗香を睨んだ。

(あっ・・・)

「これにて華冠の儀は終えよう。割れた神玉は集めて台へ。」

全員が、その言葉に皇前手交立姿で叩頭した。

また大きな雷鳴が轟いた。
























まだ強い日差しを遮るように、

沢山の樹々が悠然と枝を伸ばして、

大地に涼し気な影を作る。

ツクツクボウシが鳴き始めた夏の終わり。

周囲よりひと周り太い椥の樹の葉が、

高い場所からさらさらと音を落として、

耳にも心地よい涼感を届けてくれる。

白いワンピースを着た彩音は、

椥の樹から身体を離すと、

手を大きく上に伸ばす。

届かない枝葉に、

少しでも近づこうとするように

白く細い腕、

なびく長い髪、

背伸びした細い足、

奏でる事のない喉、

すべらかな頬、

全てが愛おしく、神妙だ。

亮の方へと顔を向け、手話で告げてくる。

【恥ずかしい】

亮の心の声を樹々が伝えたようだ。

【嘘、じゃない】亮も手話で答える。

【わかっている。私も、樹々たちも】

彩音は、亮のそばに駆け戻ってきて、顔を曇らせる。

【でも、あなたは、彼女が、大切】

亮は頷いて肯定の意をする。

【大切と、好き、は、違う。】言葉も重ねる。

彩音はうんうんと頷いてから、手話で語る。

【彼女は、とても珍しい、触る、力、持つ】

【触る、力?】

【触る力、癒し、元気】と続いて、彩音は東宮御所の敷地内の方へと体を向ける。

【彼女が触った、松の木、他より、葉、青く、よく育つ。雷、落ちた、木、割れて、傷ついた。でも、彼女、触った、から、再生した。】

亮は、若干信じられない気持ちで彩音の手話と、本心を読みとる。

嘘はついていない。

【樹々たち、彼女が、大好き、また、ここに、来るの、待っている】

「彩音だって、樹々に愛されているでしょう。」

彩音は、悲し気な笑顔で首を振る。

【私、聞く、だけ。】

「それのおかげで、俺は死から免れた。」

彩音は眉間に皺を寄せて、苦悶の表情をする。

【全て、じゃない。根がある。】

【知っている】

人の本心を読みとる能力がなくならない限り、「死」にたいは、また蓄積されていく。

亮は樹々を見上げた。

葉の間から、澄み渡る空が広がっている。

また、いつか「死」が発動する時が来る。

その時、運よく助かるとは限らない。

【聞こえる、木々のささやきが、花の歌声が】

【樹々に木霊して、あなたの悲鳴が聞こえる。】

【私は、助けられない。】

【出来るのは、彼女だけ。】


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