第15話  白群色の空4

りのが怠い態度で、とぼとぼとさつきの後ろを歩いてくる。

「りの~、電車来ちゃうから、もう少し早く歩けない?」

「暑い~。」

「だから、電車に乗ってしまえば涼しいじゃない。」

「何故こんな服、Tシャツと短パンでいいじゃん。」りのはぶつぶつと不満を言いながら、やっぱり足はノロノロで。本当に電車一本乗り遅れそうだ。早めの電車に乗る予定で家を出たけれど、この分ではギリギリになってしまいそう。

「りの、せっかく綺麗な服を着てるんだから、もう少しちゃんと出来ない?」

「出来ない、したくない、暑い。」三拍子添った不満は、りのの機嫌を最高に悪くする。

(まずったわね、今日は機嫌よくしてもらわなくちゃいけないのに。)

帝国領華ホテルに行く予定であるが、りのにはそこに行く事をまだ言っていない。秋のアメリカ行きの研修に必要な物を買いそろえたいから、一緒に買い物に出掛けようと連れだしたのだ。ただの買い物なら、りのが言うようにTシャツと短パンでも良かったんだけど、今日の本当の目的はそれじゃない。帝国領華ホテルで、柴崎家の皆さんと待ち合わせをし、華選上籍について説明をりのにして貰う。どうして、帝国領華ホテルなのかと聞いたら、そこが華族会の本部だからだと教えられた。そこには資料が揃っていて、何より華族会代表の人が帝国領華ホテルの経営者であり、りのの顔を見ておきたいとのこと。いよいよ、りのに華選上籍の話をする。

りのは、この話にどう反応するだろうか?

「あれ?りの、さつきおばさん。」やっと駅に到着したら、改札から出て来た慎ちゃんに、ばったりと遭遇。

「あら、慎ちゃん、えーと試合だったの?」

「うん。全国大会の地区予選が始まったんだ。の帰り、どうしたの?どっか行くの?」私達の服装を見て、目をぱちくりする慎ちゃん。

「ええ、ちょっと都内まで。」華選の話は、まだ新田家には言えない。

「へぇ~。」

「たまにはね、りのとショッピングしようかなって。」

「の割には、りの、嬉しそうじゃないけど?」

「暑さで機嫌がわるいのよ。」

「ははは、りのは暑いの苦手だもんな。何だよそのダレた態度。」

「っさい!お前の存在が暑い。」双子の様に育てたゆえの遠慮のない悪態。

「これ、りの!」

「結果は?」それでも慎ちゃんのサッカーの試合結果は気になる様子。

「勝ったよ、もちろん。」

「楽勝って顔ね。」

「まぁね。地区別リーグは問題ないと思うよ、よっぽどの事が無い限り。秋からの県代表決定戦からが厳しくなってくる。」

「そっか・・・あ、柴崎さんも今日、試合に行ってたの?」

「柴崎?もちろんだけど?あーでも、なんか昼から用事あるって先に帰ったな。」

(きっと、私達の為に調整したんだわ。朝から試合に行って、3時に東京に待ち合わせ。申し訳ないなぁ)

「何?もしかして柴崎も一緒に買い物とか?」

「えっ?そうなの?」とりのが顔を向けてくる。

「ううん、違うわよ、あっ、電車に乗り遅れちゃう、ごめんね慎ちゃん、またね。」

「んあ、行ってらっしゃい。」

乗り込む電車で上手く座る事が出来た。にじみ出た額の汗をハンカチで抑える。

今日は蒸し暑い。梅雨の晴れ間の薄曇り。雨の予報がないだけマシな天気だった。

「ママ。」

「何?」

「嘘、下手。」

「・・・・。」

「今日は、何の用事?柴崎と何かあるの?」

「んー、それをね、ママは詳しく説明が出来ないから、柴崎さんにお願いしたの。」

「ん?」りのが首を傾げる。

「着いたらわかるわ。だから、ちゃんとして今日は。」

りのは、襟と袖だけが白い折り返しのある、紺色の総レースのワンピースを着ている。まるでこれからピアノの発表会に参加すると言ってもおかしくない洋装。私もグレイのスーツを着ているから、他人からは、そうみられているかもしれない。すれ違う人達の目線が必ずさつきたち二人に向けて行く。

さつきは、りのの肩まで伸びた髪の毛を耳に掛けて整える。

「随分伸びたわね。何かヘアピンでも、つけて来ればよかったわね。」

「いいよ。柴崎が居るんだろ、どうせ何かしらチェックして、勝手にアレンジするよ。」

「ふふふ、そうか、そうね。」

(あの柴崎さんは、どんな服で来るかしら?まさか部活の帰りだからって制服じゃないわよね?)

話の後に食事の予定となっていた。さつきにとっては、それがかなりのプレッシャーである。






(あー、この分じゃ、3時には家に着くなぁ。それは嫌だ。)

どこかで時間をつぶしたいが、制服にこのエナメル鞄。完全に部活の帰りという姿だ。しかもサッカー部ってまるわかりで恥ずかしい。どこか駅のロッカーにこの荷物を預けて、服を買って着替えるという手を考えるが、汗くさいままで着替えるのは不快だ。そこまでするほどの時間があるわけでもない。

(ちぇっ、新田、さっさと悠希ちゃんと帰りやがって、毎度にカレーを作れって言われるのを警戒したな、あいつ。)

麗香も、今日は朝からそわそわして、昼から用事あると言って、ミーティングの途中で帰ってしまった。

乗っている電車のアナウンスが、終点、帝都駅についたことを知らせる。今日は、横浜市の競技場で、全国大会の神奈川県代表を決めるブロック別地区予選が行われた。全国大会の始まりだから、朝の早い時間に開会式があって、その後、周辺の競技場を合わせて5つの会場に振り分けられ、参加校は、とりあえずリーグ戦の初戦1試合を済ませる。運よく常翔は、開会式後すぐのスケジュールで、試合結果も難なく勝ち、12時の時点で試合を終えた。保護者会が用意した弁当を食べ、ミーティングをして2時になる前には解散となった。これが運悪く開会式後、最後の3時からの試合だったら、ずっと現地で待機となり1日がつぶれていたから、今日のスケジュールはまだましというもの。

人の流れに続いて亮も電車を降りる。肩に掛けていたエナメル鞄を押しつぶすように後ろから追い越す年配の男に睨まれた。

{邪魔、今どきの若いもんは鞄もデカイが態度も体もデカい。んでもって気がきかない。} と不満満載の本心の捨て台詞。

「すみません。」一応謝る言葉を発したけれど、男性は聞こえていない様に足早に去って行く。「はぁ~。」

亮はベンチに座り込んだ。人ごみは辛い。でも実家はもっと辛い。

携帯のメールを開いた。

【今日、帰って来ませんか?舞と唯が会いたがっています。母】

学園のフォームページでも見たのだろう。常翔学園のサッカー部の試合のスケジュールは常々更新されていて、「応援をよろしくお願いします。」と記載されている。

お母さんは、今日の試合が昼には終わる事、東京に帰りやすい場所であることを知って、このメールを送ってきている。妹たちが会いたがっているのは間違いではないにしても、先月、立て続けに家に帰った事が、妹たちの寂寥を増幅させてしまったのかもしれない。

とりあえず亮は、今日の分のメールを送る事にする。実際に帰るかどうかは、まだ保留にしておいた。

【試合結果3対0で勝ち。】

毎日、お母さんには連絡すること、それが、亮が一人暮らしをする父との条件だった。

試合があれば、今の様に試合結果を。何もない時は、ノーコメントで晩飯の写真を撮って送ったりしている。どうも母親ってのは、ちゃんとご飯を食べているかって事に特に心配する。晩飯の写真が一番の親孝行だと亮は判断していた。

バイブ振動が着信メールを告げる。

【おめでとう、今日はカレーにするわね。】

(まだ帰るとは決めてないのに。)

それに今日は、亮は出場していない。いつでも出れるようにしておけと監督には言われて準備はしていたがチャンスがなく終わった。

(仕方ない、舞と唯の為に帰るか。)

横浜から静岡行き方面に乗らずに都内向きの電車に乗った時点で、実家に帰るのはほぼ決まりだったのだけど、やっぱり足は重い。重い腰を立ち上げ鞄を肩にかけなおし、改札方面へと体を向けると、後ろから走ってくる人が亮の右半身にぶつかってくる。不意のことだったから、手に持っていた携帯がその衝撃で弾かれるように落ちた。

「あっ!」

携帯は液晶面が地面に擦れて滑っていく。

誰だよ!と怒り任せに顔を上げたら、髪の長い女の子が慌てふためいていて、きょろきょろと辺りを見渡し、挙句その場で一周を回った。

『どうしよ、そんな・・うそ・・・』

女の子は、今にも泣きそうな表情で、自分の腕を掴み、よろよろとふらついたと思ったら、亮の携帯を踏んだ。

「いっ!?」

ピきっと完全に液晶の割れた音。女の子は足元を確認し足を上げるが、足元の携帯よりも辺りをキョロキョロと気にして顔を強張らせている。

『いや・・怖い・・・。』女の子は口を開けていない。ずっとギュッと口を結んでいて何かに怯えている。

亮には、女の子の心の不安がはっきりと読み取れていた。

「どうしたの?君。」

痴漢にでも追われるのかと、周りを見てもそれらしい人物はいなかった。女の子は亮の掛け声を無視し、首をすぼめて天井を仰ぎ見る。そして、胸の前で両手をギュッと握り、まるで祈りを込めるような仕草をした。

(お願い、許しを・あぁ!・いやー!)絶叫ともいえる叫びを心の中でして、女の子は頭を抱えてその場にしゃがんだ。

「な、何?」亮は反射で上に警戒するけど、何もない。「君?大丈夫?」

女の子に手を伸ばそうとしたら、足元に落ちたままだった亮の携帯が、異常な警告音を発した。亮の携帯だけじゃない、ホーム中に同じ警告音が鳴り響く。

(これは、緊急地震速報!)

そして地面が大きく揺れた。

地鳴り、悲鳴、どよめき、しゃがんだ女の子は目をギュッとつぶっている。

天井から細かい砂埃が落ちてきた。亮は女の子を守るように覆いかぶさり、しゃがみ身構えながら携帯に手を伸ばし拾った。





帝国領華ホテルのフロントで名前を言えばわかる様にしておきますと言われていた。

りのが緊張の面持ちで、あたりを見回す。

「ママ・・・」ギュッと腕を掴んでくるりの。痛い。

「ここでね、お話の後、お食事をするのよ。だから、Tシャツと短パンじゃダメだったのよ。」

「どうして?」

「それはね、柴崎さん達が説明してくれるわ。」

「か、帰る・・・」

「りの、ごめんね、騙したように連れて来て。でも言えばりのは行かないっていいそうだったから。」

そう、だから、凱さんが車でお送りしますって言ってくれたのも断って、柴崎家の皆さんとは別で来る事にした。

「りの、お願い。大丈夫、悪いお話じゃないから。今日だけはママの言う事聞いて。」

ギュッと口を結んで、眉間に皺を寄せるりの。

「お待たせいたしました真辺様。私、白鳥博通と申します。」

フロント奥から黒縁のめがねをかけ、帝国領華ホテルの制服を着た男性が笑顔で現れ、名刺を差し出す。

名刺には、総支配人とある。と言う事は、この人が華族会の代表でもある人。

「今日はよろしくお願い致します。」

「真辺様、そうお固くならずに。りのさんと同じ同級生の保護者でもあるのですから。」

「えっ?」

「娘の白鳥美月は、現在常翔学園高等部一年D組です。」

「あ、すみません。私、懇親会とか、あまり出席していませんで、保護者の方々のお顔とか、お名前を知らなくて。」

「あぁ、そんな、真辺さんはお忙しいのだから無理もありません。りのさん、こんにちは。美月がいつも世話になっていますね。」

さつきの後ろに隠れて固まり、口ごもるりの。

「すみません。不作法で。」

「いいえ、大丈夫ですよ。お話は聞いております。さぁ、ではご案内しましょう。もう、柴崎家の皆様もお揃いです。」

そういって白鳥さんが歩み始めた時、携帯のアラーム音が鳴る。その音は不快に大きく、さつきだけじゃなくて、りのの携帯も鳴っていた。白鳥さんも驚いて上着のポケットから携帯を取り出すと、音は一段と大きくなった。

【緊急地震速報――小笠原諸島沖で地震発生、強い地震に備えてください(気象庁)】

(うそ!)

「ママ!」

「大丈夫です。このホテルは免震システムを導入しております。揺れは、さほど大きくはなりません。」

そう言われても怖い。りのを抱きよせて、じっと揺れを待つ。

白鳥さんがフロントに戻り、従業員に指示を出している。

軽い眩暈のような、ゆっくりとした揺れを感じた。

「真辺様こちらへ。申し訳ございませんが、少し、このソファーでおかけになってお待ちくださいますか?」

白鳥さんは、さつき達をソファーへと誘導すると、にっこりと微笑み、決して走ることなく早歩きで外へと出て行く。そしてドアマンに指図しはじめた。

免震システムと言われたように、まるで軽いめまいのような揺れは、これ以上大きくなるような気配はなく、ホテル内にいる人間は皆、驚いた表情で居るけれど、けっしてパニックになるような事態は見受けられない。しかし、外に目をむけると、大通りの人はしゃがんだり、電信柱に手をついたりして、揺れに身を構えた様子を見ると、地震の規模が大きいのだと知る。

「ママ・・・。」

「大丈夫。大丈夫よ。」

館内放送が入る。

「帝国領華ホテルをご利用の皆様、只今、大きな地震が発生いたしました。このホテルは免震システムを施しており、これ以上揺れが大きくなる事はございません。ご安心ください。ただ、揺れは皆無ではごさいません。揺れが治まるまで、エレベーターは停止いたします。移動の際は階段をご利用ください。また気分を悪くされた方、もしくは怪我をされた方は、お近くの従業員にまでお知らせください。ただいまより、一階西側の医療施設を開放いたします。常駐看護師が待機しておりますので、ご利用ください。なお、非難経路確保の為、及び周辺お客様の避難の為に、扉は全階層、開放致し、一階ロビーから2階層は一般避難者の方に提供させていただきます。帝国領華ホテルをご滞在の皆様には、ご迷惑をおかけ致しますが、ご了承ください。」

続いて、英語のアナウンスが流れる。

(流石、日本随一と定評のある帝国領華ホテル。対応が迅速でスマート。)






(治まった・・・。)

結構揺れた。亮の心臓はまだバクバクとしている。

亮は女の子に声をかけた。

「君、大丈夫?」

しかし、かけた声は無視されて、女の子はまだ目をつぶったまま、身動きしない。

「ねぇ、君、どこか怪我でもした?」

よっぽど怖かったのか、ぎゅっと身を小さくして屈んだまま。

「地震発生!お客様は速やかに駅構外へ避難してください。」駅員さんが大声で叫びながら走ってくる。

それでも一向に頭を抱えたままでしゃがみ込んでいる女の子。この子をほっといて自分だけ避難するわけにもいかない。

「えーとほら、駅の外に出ろって、ねぇ、大丈夫?」

女の子の肩をポンポンと叩いたら、ビクッとしてやっと目を開けて、亮を見上げた。

ストレートの長い黒髪と黒い瞳、肌は白く日本人形みたいで、昔のりのちゃんに少し雰囲気が似ていた。

(可愛い。)

「大丈夫?」うんうんと無言で首を大きく縦に振る女の子。増々可愛い。

女の子は、ゆっくり立ち上がると、また、きょろきょろとあたりを見回し、天を仰ぎ視た。そして広がる安堵の心。

(そうだ、この子、地震が来る前にもうすでにMaxで怯えていた。なんだろ、地震が来るのがわかったのか?緊急地震速報よりも前に?)

女の子は亮が持っている携帯を見ると、困惑の表情をする。そして、右手の人差し指と親指で、眉間をつまむ仕草をした後、指はまっすぐ伸ばし、顔の前で頭を下げた。

「もしかして、君、耳が聞こえないの?」と喋って、自分はなんて馬鹿なんだと心の中で叱咤する。耳が本当に聞こえなかったら、その質問も聞こえない。しかし、女の子は亮の質問に対して、うんうんと大きく首を縦に振る。

「えっ?でも俺の言葉は、理解してるよね。えっ?」混乱する亮。

女の子は、ななめ掛けしていたポシェットから、小さなメモ帳を取り出し、亮に見せた。

【私は、ろうあ者です。聞こえないし、話せません。但し、あなたの口の動きで話す内容を理解できます。】

おそらく、誰かに聞かれたら、これを見せる為用のメモ帳なんだろう。開いたメモのそのベージは、もう端っこが折れてしわくちゃになっていた。

「そうなんだ。へぇー。口の動きでわかるの?凄いね。」

女の子はメモに挟んであった小さなボールぺンを取り、めくった次のページに何かを書き始めた。

「ケイタイ、ごめんなさい。弁ショウします。」

早く書くための工夫なんだろう、画数の多い漢字はカタカナ表記だ。

「あ、いいよ、いいよ。割れただけで、壊れてないから。」

女の子が困った表情のまま、今度は首を横に振る。

「本当にいいよ。気にしないで。」

「お客様は速やかに、構内外へ避難してください。」メガホンを持った駅員が、こちらに向かってくる。

「とりあえず外に出よう。」

女の子は、長い髪を揺らして、うんとうなずくと亮の後ろをついてきた。

(かわいい。いくつだろう。年下だよな、中学生かな?)

亮は女の子と一緒というだけで、地震の恐怖は吹っ飛んだ。






エレベーターの点検が終わると、私とママは白鳥さんの案内で上階18階へと上がる。広いフロアの先の部屋に入ると、

麗香がソファから立ち上がり駆け寄ってきた。

「りの!大丈夫だった?」

「うん。大丈夫。」

「おば様、こんにちは、ようこそ華族会へ。」そう言って麗香はママにお辞儀をする。

「真辺様、良かった、心配しておりました。道中で地震に遭われたんじゃないかと。」

麗香のお母さん、学園の会長もゆっくり立ち上がり近寄ってくる。

部屋の奥の窓際では、凱さんと中等部の理事長が、携帯電話を使い話し中で、頭だけを下げた仕草を送ってくる。

「ちょうどフロントで、白鳥さんとご挨拶した直後でした、白鳥さんが気遣ってくださいましたから、難なく。」

柴崎家が勢ぞろいしている。

(何なんだ、今日は。)

地震の発生時より、ドキドキしてくる。

(また、なんか無理難題、言ってくるんじゃないだろうか。こんな服まで着せられて。)

「りの、可愛いわ、その服、似合ってる。フランスで買った服?」

「うん。」

「やっと着れるようになった服ね。」

「むっ。」事実は、他人から言われるとムカッと来る。

パパの仕事でフィンランドの後にフランスに住み、日本に帰国が決まった時、当時お気に入りだったブランドの服のセールで、ママが、日本に帰国したら買えなくなるからと、大きなサイズも買って帰国した。成長が止まって、先買いした大きいサイズは、長い間タンスに眠ったままだった。

もしかしたらママは何か予感があったのかもしれない。買えなくなるのは、ブランドが日本にまだ進出していないと言う理由じゃなくて、パパが死んで、我が家は服も好きに買えなくなるほどに困窮する事態となる事を。

「りの、その服なら、髪をサイドに止めた方がいいわよ。」

麗香が座ってとソファに私を押しつけ、髪を触りはじめた。もう毎度の事なので抵抗することなく好きにさせる。

「やっぱり、りのは髪までは意識してないと思ってたから、持ってきたわよ。色々と。どれがいいかなぁ~。」と麗香は、自分のバッグからポーチを取り出し沢山のヘアピンを取り出す。

「真辺様、もう少しお待ちくださいね。皆、対応に追われてしまっていまして。」

部屋がノックされて入って来たのは、高等部理事長だ。

「津波警報はなしのとの気象庁からの報告。」誰にともなく、全員に聞こえるような声で話す。

「これなんかいいんじゃない?」

柴崎が白いレースの小ぶりのリボンを私に見せる。ここで嫌だと言っても、麗香は違うのを選び、私がつけるまで繰り返されるだけなので、それでオーケーの頷きをする。

窓際の凱さんが電話を終えて、振り向いた。

「栂島の一部で土砂崩れの被害、そして家屋の損壊が見られるとの航空自衛隊からの一報です。都内は今の所、特段の被害は見受けられないとのことです。」

「そう、では内閣府だけで対応できそうですね。」と柴崎のお母さん。

「どう?いい感じでしょう。」麗香だけが、皆の緊張した緊迫から外れて暢気だった。私のヘアをアレンジして満足げに笑う。

「学園も中高の建物に被害はない模様です。部活で登校していた生徒にも怪我はなく、鉄道の再開状況を見て、帰宅できない生徒は寮に泊まれる緊急対応を取るよう、残っていた職員に指示しました。」

中等部理事長が麗香のお母さんに報告する。

「そう、マニュアル通りね。あとは、幼稚舎と小学部、大学・・・」

「幼稚舎と小学部は、洋子が建物の被害状況を確認中です。今日は行事も何もない日で校舎内は無人でしたから、こちらも大丈夫だと思われます。」高等部理事長が携帯の画面を見ながら話す。

「大学は、ここより内陸の震度3という場所にですから、こちらも問題は無いと思います。ただ、やっぱり鉄道の状況次第では、帰宅できない生徒が出てくる可能性はあります。」と凱さんは、いつものへらへら顔ではなく真剣で、皆忙しそう。

「そう、大学理事長に連絡を取って。館内に残っている職員は、マニュアル通りに生徒の安全優先の行動を。そして教科棟本館の2階の教室を緊急避難場所として開放し、帰宅困難生徒の待機場所にするように。続いて名簿リストの作成及び保護者への連絡。それから、鉄道が明日の7時までに再開しなければ全学園は休校とします。生徒の身心のケアを含めて明日の1日だけは、鉄道が通常運行していても、遅刻、欠席は取らない事にする旨を、全校全世帯に通達を。」

「はい。」中高の理事長が部屋から出て行く。

(麗香のお母さん、凄い。)

いつも優しい微笑みで話しかけてくれて、言ってみれば、翔柴会会長なんて肩書だけで、あまり仕事してないのかと思っていた。そう思って眺めていたら、突然私の方に向いて、にっこりとほほ笑んで、「もう少し待っててね。」とつぶやく。

(びっくりした~。)






「現在、鉄道各路線は、点検の為、全て運航停止をしております。再開のめどは立っておりません。」

駅員が繰り返し、同じ言葉をメガホンで叫ぶ。

「電車、全部止まっているって。君、家はどこ?」

亮をじっと見つめてくる女の子は、亮が言い終えると、手に持っていたメモ帳のページをめくり、すぐに見せてくる。そこには名刺の様に書かれた自己紹介のページ、やっぱり何度もそのページを使った痕跡がある。

【守都 彩音  

東京都 大宮市 精華町1ー1】

亮の実家とは反対方向である。全鉄道が止まって再開のメドが着かない今、反対方向だからと言ってサヨナラするわけにいかない。おまけに耳が聞こえないのだし。

「あぁ、大宮市ね。俺もそっち方面なんだ。一緒に行こうか。」嘘をついた。

彩音ちゃんは右手の平を垂直に左の甲をトンと叩く仕草で頭を軽く下げる。手話は全くわからないけど、なんとなく話の流れで、「ありがとう」を表現していると予測する。

「名前、彩音ちゃんって言うんだね。可愛い名前だね。」

彩音ちゃんは器用に歩きながらメモに書き綴る。

【聞こえないのに音の字 入ってる、キライ】

「ほんとだね、あー聞いてもいいかな?聞こえないのは生まれつき?」

うんと頷く彩音ちゃん。

「そっか、じゃ親御さんは、彩音ちゃんに、いつか色んな音が聞こえますようにって、願ってつけたのかな?」

彩音ちゃんは驚いた顔をして、メモを書いて見せる。

【どうして、わかった?】

「えっ?」

また素早く書いたメモには、

【名の由来、その通り】と書かれてある。

亮は本心の読み取りはしてない。彩音ちゃんは、本心がそのまま伝えたい事で、亮の口元を見ている時は、ほぼ無心で言葉を拾っている。

「あちゃー、ばれちゃったかぁ、実はね、俺は、超能力者なんだよ。内緒だよ。」

冗談を言ったつもりが、彩音ちゃんは、きょとんとしてしまった。ミスった。

「冗談だよ。当てずっぽうが当たっただけ。」

【あなたの名前は?】

自分の名前をまだ言ってなかった。

「藤木亮。」

彩音ちゃんは頷いたものの、書いてとメモを渡してくる。彩音ちゃんは亮の名を見て、にっこり微笑み書き込んだ。

【いい名前】

「ありがとう。」

駅構内は混乱する駅員と乗客であふれている。地上にでるには、一旦階段を上り、また降りなくてはならない。

「彩音ちゃん、はぐれるといけないから。」

手を繋ごうと言う意味で手を差し出した。すると彩音ちゃんは驚いた表情をして、本心に恥じらいと戸惑をわき起こした。

(かわいいい!今どき、こんな子いるんだぁ。男と手を繋ぐ事に恥じらうような子。)

「あーごめん。嫌なら・・・そうだ、ここ持って。」

エナメル鞄を左から右の肩にかけなおし、持ち手を握るように提案した。

彩音ちゃんは、うんうんと頷き、鞄の持ち手をギュッと掴み、亮の後ろをついて来る。

混雑している人をかき分け、やっと駅舎から出ることが出来た。しかし、駅前のロータリーは、タクシーやバスの利用客で長蛇の列になっている。これは何時間待っても順番が来そうにない。それなら歩いて、駅周辺から離れての方がタクシーかバスに乗れるかもしれない。実際に、諦めて歩き始める人も沢山いる。

「彩音ちゃん、歩ける?駅から少し離れてからの方が、タクシーかバスに乗れるかもしれない。」

うんうんと頷く。彩音ちゃんの足元を見ると、ヒールは無いけれどサンダルを履いている。あまり長くは歩けないかもしれないなと、亮は予想し、休み休み行くか、と決断。

「じゃぁ頑張ろう。」

にっこり笑って頷く彩音ちゃんが、また可愛い。

ひょんな事から出会った子だけど、(いい出会いをしたなぁ。)と亮の心は弾んでいた。






(皆さん、お忙しそう。何だか、申し訳ない時にお願いしちゃったな。)

我が家は大丈夫かしらとさつきは、自宅の状況を頭に浮かべて確認する。ガスの元栓は閉めて来た。食器が落ちてなければいいけれど。壊れて惜しむ物は何もない家だけと、生活必需品が壊れたら困る。余計な出費は痛いことだ。

帝国領華ホテルの従業員の制服を着た女の人が、ノックをして入ってくる。左胸には、エレベーターロビーの壁に飾られていた。華族会の大きな紋入りタペストリーと同じ模様のピンバッジが付いている。

華族会選任の事務員さんだろうか?私にホットコーヒーと、りのにオレンジジュースを置いてくださった。

その女性は、私達に一礼すると、前に座る柴崎の奥さまの横に膝をつき話しかける。

「白鳥代理から、本館の方の対応で追われているから、先に進めてくださいと。」

「わかりました。」

(本当に大変そうだわ。そうよね、一般の通行人も避難場所として場所を提供するんだものね。医療施設も開放するって言ってたし・・・はっ!病院!私、行かなければならないんじゃ、緊急時の対応はどうだったっけ?えーと、えーと。可能な限り迅速に全員、緊急出勤!あーどうしよう。)

「凱斗!彩都市の震度は?」奥さまが窓際に立っている凱さんに振り向き叫ぶ。

「彩都市ですか?学園の隣ですから同じ震度4です。」

「真辺様、関東医科大付属病院も、おそらく免震か、耐震システムを施している建物でしょう。彩都市周辺は震度4、学園の事務方は、学園周辺は特に重大な被害は見受けられず、いつもと変わりないとの報告が届いています。病院の状況が気になるのなら、一度連絡を取って聞かれてはどうでしょう。但し、鉄道、高速道路は全て点検の為にストップしておりますから、ここから即時に戻られるのは無理かと思われます。」

「えっ?あっ、そうですね。」

にっこりほほ笑む柴崎の奥さま。今日も素敵なスーツを着てらっしゃる。

私より確か4つ上だとお聞きした。

「では、ちょっと電話を掛けさせて貰います。」

「ええ、どうぞ。」

病院に電話をすると、奥さまが言われた様に被害もなにもない、救急患者も特に増えている様子もないとの事で、安心した。

「凱斗、始めましょうか、理事長達は連絡に追われていますし、元より私達は、ご挨拶だけで席を外させていただく予定でしたから。」

「はい。では、始めさせていただきます。」

凱斗さんは窓際より歩み来られ、柴崎さんも奥さまの横に並び立つ。

奥さまが立ち上がると一礼した。あわてて、私も立ち上がろうとしたら、そのままでと言われ、中腰にまで上がった腰をまた下ろす。

「遠い所までご足労下さりありがとうございます。ここが華族の称号を持つ者で構成する華族会の東日本を取りまとめる華族会東の宗本部でございます。華族会は東と西に分かれており、東は皇宮の神事行事を主に取り仕切り、西は京都の京宮御所内にごさいまして、京宮神事行事を取り仕切り致します。ここ帝国領華ホテル別館18階より上、屋上までの25階までは全て華族会専用フロアでごさいます。」

「はぁ。」

「事務所、応接室、大小の会議室、催し会場、宿泊室を完備し、華族、華准、華選の称号を持つ者しか入れない様、専用エレベーターがあり、そのエレベーターは、この華族会バッチの嵌めこみセキュリティを採用しており、間違っても一般の方は入れない仕組みとなっております。」

(あぁ、それで。)と、さつきは一つの疑問を解消した。白鳥さんはさつき達を案内するとき、エレベーターのボタン操作板の蓋を開けて何かをしていた。地震の為の操作をしているのかと思っていた。

「もしこの後、余震が来たり、鉄道が復旧されなくても、こちらで宿泊していただくことも可能ですので、ご安心を。」

「あっ、はい、それは、ありがとうございます。」

「りのさん、ごめんなさいね。緊張しているでしょう。私は、すぐに退散するから安心して、すべての説明は凱斗と麗香にお願いしているから。リラックスして何でも聞いて頂戴ね。決して悪い話ではないから。」

そう言われても、さっきから、ずっとさつきの上着のすそを握って固まっているりの。

顔も究極に無表情に。柴崎の奥さまは、そんなりのに対して、少し寂しそうな微笑みをすると、一礼してから部屋を出て行った。






大丈夫という手話を覚えた。サンダルで歩き続ける彩音ちゃんに、何度聞いても右の四本指を少し丸めて揃えた手を左胸から右胸へと当てる動作をする。本心に嘘はなく、なかなか辛抱強い。

不意に肩にかかっていた鞄の負荷が軽くなったので振り向くと、彩音ちゃんは立ち止り、ななめ掛けにしている鞄をゴソゴソと何かを探している。取り出したのは携帯、しかも今どき珍しい二つ折れのスマホじゃない物だった。

後ろからぞろぞろと歩いてくる帰宅困難者の人の流れに、邪魔にならないように彩音ちゃんの腕を引っ張ると、それだけで彩音ちゃんの本心は照れている。彩音ちゃんをコンビニの軒下まで誘導して、携帯を操作するのを待つ。コンビニでは緊急時の備蓄飲料水を配り始めていたから、それを二本貰う事にした。店内のトイレも随分と人待ちで並んでいる。

彩音ちゃんが携帯から顔を上げ、亮に向って手話をしてくるが、何を表しているのかわからない。苦笑して首を振ると、彩音ちゃんは、あっそうか、と言う顔をして、携帯を見せて来た。それは母親からの心配のメールだった。【今どこにいるの?怪我はしていない?】と書かれている。さっきの手話は、ここは何処と言う意味だろう。亮の母親からもメールが届いていた。一言、大丈夫と送り返していた。

「ここは、文京区に入ったところ、もうすぐ上野動物園が見えてくるよ。山の手線沿いを歩いて帰宅途中、タクシーを拾えたら乗って帰ると送ってあげたら?」

彩音ちゃんはうんうんとうなづくと、携帯を操作し始めた。

(なんだ、携帯持ってるのか、じゃ、別にメモで筆談しなくったって、今の様に携帯に打ち込んで見せれくれたらいいのに。)

でも中々、携帯の打ち込み終わる気配がない。何だか首を傾げたりしている。

(もしかして・・・・携帯苦手とか?)

やっと送信終わって顔を上げ、ありがとうの手話。これも一番に覚えた。

「いいよ、もしかして携帯の操作、苦手とか?」

はにかんだようにうんうんと頷く。これも可愛い。

「ははは。そっか。」

携帯を鞄に仕舞うと、メモを取り出して書く、確かに、筆記の方が早い。

【家や学校はシュワばかり、ケイタイもつの、サイ近。】

「そうなんだぁ。ねぇ、俺も手話を覚えたいから、教えてくれない?け」

携帯番号を教えてと言おうとしたら、彩音ちゃんは、急に勢いよく顔を空へと向けた。

初めて会った時と同じように、周囲をキョロキョロと見渡すと、また恐怖で心がいっぱいにになった。

(また・・・・くる・・・・・いや)

彩音ちゃんは、亮の腕にしがみついてきた。かなり強く痛いぐらいに。でも顔は空をみあげたまま。

「えっ?ちょっと何が?」

彩音ちゃんが見上げる空を見ても、やっぱり何もない。

しかし、また緊急地震速報の音が鳴り響く。

彩音ちゃんは亮の腕を握ったまましゃがみ込んだ。亮は引っ張られて中腰になる。

まだ揺れは来ていない。

やっぱり彩音ちゃんは・・・

(・・・・るして・・・下さい・・・・お願い!)

押し寄せてくる地鳴りに続いて激しい揺れ、悲鳴。

コンビニの棚の商品が、ガチャガチャと倒れて落ちた。

更なる悲鳴、本震より小さめだけど、彩音ちゃんは揺れが治まっても、恐怖で震えている。

「彩音ちゃん、治まったよ。あっそうか、聞こえないんだ。」

彩音ちゃんが亮の口元を見ない限り、亮の語りはわからない。

彩音ちゃんの肩を叩いて知らせると。つぶっていた目をゆっくり開けて顔を上げる。泣きそうな顔も可愛い。

「もう大丈夫。揺れは治まったよ。」

うんうんとうなずいた後、はっと慌てて手を放す彩音ちゃん。恥じらいながら手話の動き。多分、ごめんなさいの手話だろう。

「いいよ。」

俯く彩音ちゃんの顔の前に、手を振って、こっちの顔を見て、と自分の口を指差した。

「もしかして、地震が来るの、わかるの?」

彩音ちゃんは、はっと、眉間に皺を寄せて、またうつむいた。手に持っていた手帳にささっと書いて、見せてくる。

【わからない】

嘘は、わかる。彩音ちゃんは心に少しの恐怖を宿し亮からの視線を外した。

言いたくない事を無理やり聞く無粋はしない。亮だって要らない力を持っているのだ。

また彩音ちゃんの顔の前に手をかざし、こっち見てと促す。

「また歩くけど、大丈夫?少し休む?」

また大丈夫の手話、そして、ガッツポーズの腕を二回、脇で降ろしてニコリとする。

多分、頑張るって言う意味だろう。

「じゃ、行こうか。」





また緊急地震速報、でもここは、ゆりかごのような揺れをなんとなく感じるだけで、本当の揺れがどれほどか、想像もつかないくらいに静かだ。と言う事は、外は凄いあり様になっていたりして、ビルはこのホテル以外に、崩壊して、車はひっくり返って、電信柱は倒れ電線がスパークして、新聞とかの紙が風で流れて行く荒廃。

(うわーっ、見てみたい。)

英「りのちゃん?気分でも悪い?」と凱さん

英「悪くないよ。外はどうなっているのかなって思っただけ。」

英「大丈夫。鉄道網が点検で混乱してるだけで、酷い被害報告は入ってきてないからね。安心して。」

(ちぇっ、なぁんだ。凄いの見てみたかったのに。)

「さっきも言った通り、有事の際は、ここ、華族会本部は警察、消防、自衛隊からの情報が報道よりも先に入ってくる事になっている。それは、内閣府が手に負えない事態になると、皇制政務会が発動するからなんだ。皇制政務会が発動されたら、華選である僕とか、華族の称号を持つ者はすぐに内閣府に駆け付け、内閣に変わって神皇の指示を受け、すべての知力、能力、権力、財力を惜しみなく使い、有事早期解決に全力を注ぐ事になっている。その時に迅速に動けるように情報は、最優先で、ここ華族会に入ってくる様になっているんだ。」

麗香が持つ華族の称号。その下には華准と華選があり、その華選になれと麗香と凱さんは私に言う。

華族の華やかな世界に興味はないけど、華選になれば、色々優先的にお得な待遇を受けられると言う。それに興味がある。

「帝国航空も華族優先制度を設けているから、華選になれば、フランスにも格安で行く事が出来るよ。」

「ほ、本当?!」

「うん、フランスのみならず、フィンランドだって、帝国航空が就航しているラインなら、世界中どこへでも。」

フランスに行ける。フランスだけじゃなく、フィンランドにも、世界中どこへでも。

『りのは、世界が遊び場だね。』

(パパ、私やっと世界に遊びに出られる。自由に世界へ。)

『世界中の人と友達になるんだ。お化けも宇宙人も皆、友達。』

あの自由帳いっぱいに書いたニコちゃんマーク。

消えてなくなったと思った夢を、もう一度描くことが出来る!

「か、華選になるには、だ大学で、そ、その・・・・」

英「無理しないで英語でいいよ。」

(しかし、こんな日本語ままならない私が、華選でいいのだろうか?)

華選になるには、大学で、私の脳を調べて、私の語学習得力が、一派人より優れている事を証明しなければならないと言う。

もしかしたら、その大学で、この私の日本語困難病を治してくれるかもしれないな。それに大学の研究室って、どんなところだうと凄く興味がある。

英「大学で私の脳を調べるだけ?私がやらなくてはいけない事は?どんなことをするの?」

「うん、それも大学の研究室からちゃんと聞いてきたよ。えっとね。りのちゃんが、まだ習得してない国の言葉のCDやビデオを一定期間見て貰う。その見ている間は、脳波の測定とかあるけど、痛い事は何もしないから安心して。そして、その内容をりのちゃんから聞く。の繰り返しになると思うと。ビデオだけじゃなく、本当にその国の人ともコミュニケーション取ってもらって、一般の人より、りのちゃんがどれぐらい早いかをデータ化し検証するようだよ。」

英「私がまだ習得していない言葉って?どこの国の言葉?」

「中国がよかったんだけど、この間の修学旅行で、ちょっとかじっちゃったから。まずはお隣の国、韓国語を検討中なんだけど。りのちゃん、韓国語のドラマとか見ていない?」

英「見てない。」

「良かった。じゃ、もしこの華選上籍に同意してもらえるなら、大学の調査が入るまで、韓国ドラマとか、韓国語には耳を傾けないでくれるかな?」

私を華選に推薦しようと言う話になったのは、この語学力がすごいとかで、良くわからないけど、英語、ロシア語、フランス語を覚えたのが人より驚異的に早かったらしい。去年の修学旅行で中国語がなんとなくわかる様になって来たと、つぶやいた事が発端になったらしい。

英「わかった。」

「じゃ、りの。この話に同意するのね。」麗香が、眼をキラキラさせて、体を乗り出して来る。

「うーん。」

「まだ何かある?どんどん質問して、疑問は全て無くしてからじゃないと。この華選の話は、途中での辞退は難しいからね。」

華族全般の話は、一般的に秘守義務で、外に漏らさない様にと最初に念を押されていた。その割には、麗香は、今日は華族のパーティがあるのとかをいつも言っている。そんなのはいいのかな?

ママはどう思っているのだろう。私が華選になると、戸籍を外されると言う。

戸籍は、常翔の中等部特待受験する時に見た。パパとママが離婚して、名前が芹沢から真辺に変わっていて、パパの名前がどこにも記されていない紙に少しだけショックだった。パパの名前が記されていない戸籍なんて、私の大切な物じゃない。だけどママはどうだろうか?

戸籍は別になるけど、別にママと一緒に暮らせないとか、引き離されると言う事もないという、私にデメリットは何もないような気がする。麗香のお母さんが悪い話じゃないからと言っていた通り、これは良い話。

「ママ?」

「ママは決められないわ。これはあなたに来たお話だから。」

ママが笑う。私がこのお話にうんと応えれば、ママも生活が楽になる?

もう、倒れるまで働かなくていい。





運よくタクシーを拾えた。と言うより無理やり拾った。

稼ぎ時のタクシーの運転手からしてみれば、亮達みたいな、近距離の学生を乗せたくないという事で一度断られた。若いんだから歩けと。大丈夫と答える彩音ちゃんは、流石に疲れが出て来ていたし。亮自身も重いエナメル鞄と制服、それに今日は朝早く集合しての試合だったから疲れが出始めていた。彩音ちゃんに見えない様に、プラチナカードを見せて、倍払うと運転手に言った。彩音ちゃんの耳が聞こえなくて良かったと思う。

タクシーの運転手は、最大の嫌悪を心に宿し悪態をつきながらも、いくら取ろうかと、本心はニヤついた卑しさを宿していた。

この卑しいタクシーの運転手と比べたら、彩音ちゃんはなんて可愛い心なんだろう。比べるのもおこがましい。

彩音ちゃんのメモに書かれた住所に到着する。ここでタクシーを帰してしまっては亮の帰りの足がなくなるので、仕方なく、またプラチナカードを見せつけて、しばらく待ってもらうようお願いした。

タクシーを降りた彩音ちゃんは駆け出すと、入ってすぐ横の大きな木に抱き付いた。

「精華神社・・・」

規模の大きさ、神聖なる場所であることの圧倒される何かに、亮は呆然と立ちすくむ。

しばらくして年配の神主さんと巫女さんが駆け付けて、「彩音」と叫んだ。

「彩音ちゃんは、神社の娘だったか。」

ご両親だろう二人は、彩音ちゃんに駆け寄り抱きしめ、そして彩音ちゃんの顔や体を触り、大丈夫の手話をした。そして亮の存在に気づいたご両親は、頭を下げてくる。

彩音ちゃんが、高速の手の動きをご両親に向ける。きっと今までの経緯を説明しているのだろう。あの速さなら、確かに携帯の方が不便だ。

「彩音がご迷惑おかけしました。壊した携帯は弁償いたします。」

「いえ、大丈夫です。完全に壊れたわけじゃなくて、それに買い替えを考えていた頃でしたから、いい機会です。」

「でも、そういうわけには、それにここまでのタクシー代も。」父親の方がそう言って、着物の胸元から財布を取り出すと、一万円札を強引に亮の手に握らせる。

「ここまで、そんなに料金はかかっていません。貰い過ぎです。」

「携帯代は新しい機種に変えたら、教えてください。払いますから。」

「本当にいいんです。」亮は手を振って後ずさり。でも、ご両親は亮に迫り、

「疲れたでしょう。中で休んでいって下さい。」と言う。

それも断わる。彩音ちゃんともう少し一緒にいたかったけど、タクシーを待たせてある、嫌な運転手だけど、このタクシーを逃したらきっともう捕まらない。とりあえず実家に帰らないといけない。地震の後から続いて母親からのどこに居るの?とメールが頻繁に入っていた。

亮は、彩音ちゃんご一家と丁寧にあいさつをして、タクシーに乗り込む。タクシー運転手に東京の白金台の家の住所を言うと、驚いた表情をしていたが、本心は納得の理解を示していた。誰もが知っている高級住宅街。急に運転手は饒舌になった。

「悪いけど、疲れてる。着いたら起こして。」

今日はついている。カモれる。そう本心で喜んだタクシー運転手。寝ている間に遠回りするだろう。でもどうでもいい。金はいくらでもある。腐るほどに。これぐらいの無駄使いでつぶれる藤木家なら、逆に願ったりだ。

(それにしても彩音ちゃん可愛かったなぁ、心も可愛いって、中々いない。)

携帯番号、聞きそびれちゃったけど、神社が実家なら、お参りしに来たと言って、また会いに行くのは不自然じゃない。

握らされた一万札、今度、返しにお賽銭箱に入れよう。






今日は、昨日の地震の事ばかりが、話題の中心だった。

小笠原諸島沖深さ685キロで起きた地震は、発生場所が深かった為に、津波警報は出なかった。小笠原村栂島で震度6強を最大に、東京の23区内で震度5弱~震度4。慎一らの住む神奈川県の彩都市は震度4だった。被害のあったのは震源地に近い栂島ばかり。緊急地震速報の派手な警戒音で不安を煽ったわりには、幸いにして都内周辺は大した被害もなかった。

「俺さぁ。ちょうどシュートしたところだったんよ。そしたらグラッてくるからさ、入らなかった。」

男子バスケ部は昨日、常翔の体育館で他校を呼び寄せた練習試合だったらしい。

「あんた、それ、シュートミスったの地震のせいにしてるでしょ。」

「してない!」

「ハル、それどっちからのシュートだった?右?左?」

「左。」

「ほら、苦手な方じゃない。」

「うっせー、昨日のは入るシュートだった!」

「そんなのわかんないでしょ。」

「わかる!それより、メグとりのは昨日の練習後、二人でどっか行ってたのか?俺はさ、てっきり二人共応援で残ってくれると思って期待してたのにぃ~。」

女子バスケ部は、午後からの男子バスケ部に体育館を明け渡すために。午前中だけの練習だった。

「そうそう、リノにどっか行く?って聞いたんだけど、リノ、お母さんと買い物の約束してるって、早く帰ってくるように言われてるって。だから私も家に帰っておやつを食べている所で地震にあったの。男子の試合、見ないで帰ってきて良かったぁって思ったわ。リノは、ちょうど買い物してる時じゃなかった?大丈夫だった?」

りのとさつきおばさんが買い物に行く途中の駅で、慎一はばったり出会った。地震が起きた時、慎一は自宅でシャワーを浴び終えソファーでくつろいでいるところだった。慎一は、駅ですれ違ったりの達が心配で、すぐに電話を掛けたけれど、回線が込み合っていて繋がらないアナウンスばかりを聞いた。メールも送ったのだけど、当然ながら、中々、返信が来なかった。

「うん、大丈夫。」

「どこまで買い物に行ってたの?」と佐々木さん。

「都内。」

「えー、だいぶ揺れたんじゃないか?」

「免震システムの建物、緩い揺れ。」

「ふぇー、そうなんだ。何処だよ、それ。」と今野

「帝こ・・・」りのが突然黙る。

「ん?」

「てて、てい都、百貨店・・・・」

「あーあそこね。夏物セールやってた?」と佐々木さん

「ぁ~・・うーん・・・や、やってた?かも。」

「何だよ、その歯切れの悪いの。」

「りのは、買い物に行っても、服飾には気に掛けないのよ。本屋さんとかね、変な化石売り場とかにね、足を止めるのよ。」

「そういや、柴崎、用事あるって先帰ったろ、どうしたんだよ。」と慎一が質問する。

「あぁ、私もお母様とお父様のお付き合いで、都内に出てたんだけど。ちょうど移動中の車の中だったから、何ともなかったわよ。」

停止していた鉄道路線は、夜の8時でやっと再開運転となって、混乱は1日中続いたけれど、日曜日の昼間だったから、酷い混乱にはならなかった。今朝には平常に戻っていたけれど、常翔学園は、昨日の早い段階で、明日は自由登校の知らせが来ていたから、それに乗じて、登校して来ないクラスメートも半数近く居る。その為、幾分か空いている食堂だった。

「ふーん、まぁ、皆無事で良かった。」

試合の後は、必ず慎一に晩飯を作りにマンションに寄れと、藤木に言われるから、昨日は逃げるように、悠希と一緒に帰って来ていた。そのことを、今日は絶対に朝一番、藤木から嫌みを言われると覚悟していた慎一だったが、予想外に藤木は何も言わず、いつもの挨拶をしただけだった。もちろん慎一は、藤木にも安否確認の電話とメールをしていたが、ずっと繋がりませんとなって、藤木から連絡が来たのは、夜中12時を超えてからだった。その藤木は今、皆の話に加わらないで、スマホに繋げたイヤホンを耳につけて、画面をずっと眺めている。朝から休み時間中ずっとこうだ。それに、またスマホが新しくなっていた。

藤木の新しい物好きには今に始まったことじゃないから、誰も突っ込まない。

しかし、時々、手を開いたり握ったり、腕をなでたりと変な動きをしていることに、慎一は首を傾げる。

「何やってんだよ。」

「ちょっと勉強。」

「勉強?」

「藤木君、それ手話みたいね。」

「正解、佐々木さん分かった?」

イヤホンを取った藤木が皆に見せるようにスマホを中央に移動させた。

「覚えようと思ってね。」

「手話を?なんでまた?」

「昨日さ、テレビでやってたんだよ、昨日みたいな緊急時の時、耳が聞こえないと、周りの状況がわからないで、私達は困るって。昨日、あれからずっと地震のことばっかだったろ。つまんなくてさ、NHKの教育番組を見てたら、ちょうどそんな特集番組をやってたから、思わず見ちまった。」

「んで感化されたったわけ?」

「そう。」

「そうして、また博識の知識が増えていくわけね、藤木君は。」

「まあね。人脈も。」と目を細めて微笑む。

慎一は、なんとなく柴崎へと顔を向けた。藤木の人脈は老若男女多い。その女の人脈に対して嫉妬する柴崎の機嫌の矛先は、サッカー部の部員へと向ける傾向にある。しかし、今日は、りのと何やらこそこそと話しをしていて、こちらの話は聞いていない。慎一はほっと一息、コップに残っていた水を飲み干し、昼食のトレイを返却に席を立つ。いつもなら藤木も次いで立ち、昼休みのサッカーをするはずが、手話の勉強をそのまま続ける気のようで、付いて来ない。慎一は一人で食堂を出た廊下で、サッカー部の顧問である溝端先生と遭遇し呼び止められる。

「新田、連盟からの手紙が来ているから、後で取りに来い。」

「わかりました。後で職員室に取りに伺います。」慎一は、丁寧過ぎるぐらいに頭を下げる。

溝端先生が、食堂の中へと姿を消してから、慎一は大きなため息を吐く。

ポジションを変えられてから、溝端先生の事が苦手になった。いや、最初から、高等部で入部した時から慎一は、溝端先生の前では緊張していた。高等部で初めて顔を合わせた先生じゃない。溝端先生は時折、中等部に練習を見に来ていて、慎一は何度か、直接アドバイスを受けたりしていた。その時は、苦手とか何とも思わなかった。なのに、高等部に入った途端、慎一は溝端先生の鋭い視線が怖く感じた。どうしても中等部の石田先生と比べてしまう。石田先生は、サッカー部の顧問としてグランドに居る時と、教師として校舎内でいる時の態度に差があり過ぎた。その為、部員の中にはつかみどころがなくて苦手だと言っている仲間がいたりしたけれど、慎一はそんな思いはなく、切り替えがうまくできていた。溝端先生に、そんなギャップはないのだけど、部でも校舎内でも常に厳しくするどい視線で見られると、気が抜けなくてしんどい。

昼休みのサッカーを、皆より少しだけ早く切り上げて、溝端先生の教科教員室へ行く。途中で教室に移動する藤木と出くわし、溝端先生に呼ばれた理由を説明すると、藤木は慎一についてきた。

「失礼します。サッカー部の新田慎一です。溝端先生にお伺いに来ました。」と戸口で叫ぶ。

藤木は職員室の中までは入ってこない。

「入れ。」溝端先生の座るデスクまで歩む。「代表の合宿の正式案内だ。」と渡された封筒は、封が開けられていた。宛名がサッカー部顧問宛てでもあるから、学校側と調整を組めという事なのだろう。

「ありがとうございます。中を拝見します。」

「新田は、夏休みは代表の方で忙しくなりそうだな。」

見れば、代表の合宿は8月1日から14日の二週間の茨城県スポーツ振興会強化施設で行われる国内合宿と、間が空いて、21日から26日は、アメリカのフロリダへの遠征試合を含めた海外合宿となっていた。

「こっちは部の方の日程だ。今日、配る。」

続いて慎一に渡されたのは、常翔学園サッカー部の合宿の詳細。場所と時期は毎年同じで、栃木県の那須高原に8月19日~26日の日程で行われる。代表の年間スケジュールで、海外遠征と日程が被ることが事前にわかっていたから、学園側は、今年の合宿は日程をずらして調整すると言われていた。今年は、8月の11日から18日までに変更されていた。それでも4日間が被っている。

「かなり無理を言って、変えてもらった。」

「ありがとうございます。」と言った慎一に、溝端先生は、眼光鋭い視線を一瞬向けた。慎一はドキッと緊張する。

「これで今年は墓参りにも行けん。」

「あ・・・すみません。」と慎一は声を小さくしてつぶやく。

「理事長も困ったもんだよ。お前ひとりの為に、大多数を犠牲にする必要があるとは思えん。」

「えっ?」

「お前を優先して調整を組んだところで、どうせ代表に戦力を取られる。だったら、新田に合わせるのではなく、他の部員の事を考えて調整を組んだ方がいいに決まっている。それが道理じゃないかと言ったんだがな。」

「は、はい・・・。」

「こんなお盆の真っ最中に変更して、保護者会から文句が出なければいいが。」

慎一は何も言えなかった。溝端先生は大きなため息を吐き、そして、手で払うようなしぐさをして体を慎一から背けた。

「・・・失礼します。」慎一は、やっと、それだけを声に出して下がった。出入り口で、もう一度頭を下げて廊下に出る。

「長かったな。」藤木がそう言って、目を細める。

慎一は黙って貰った二枚の紙を藤木に渡し、教室へと足を向けた。

「うちが11日から18日、半分が被ってるのか。」

「こんなお盆に変更して、墓参りにも行けないって、保護者会から文句が出なければいいがと言われた。」

「確かに。寮生ですら、お盆は実家に帰れと促されるんだからな。」

「俺に合わせて調整するより、他の部員の為に調整を組んだ方が道理だと。どうせ俺は代表に戦力を取られるのだから、だって。」

藤木は合宿の案内状を慎一に返し、そして納得したように頷く。

「溝端顧問の言う事は、ごもっとも。」

慎一は足を止め振り返る。藤木も一歩遅れて慎一に向き合う。

(藤木まで・・・)まぁ、そう落ち込むなよと言ってくれると思っていた。慎一だけが、日本代表のユース16に選ばれた時から、感じる刺々しさを、また藤木から感じる。そして、こんなことを感じている事を、藤木はやっぱり読み取っていて、目尻に皺を作って細めている。

「仲間の意識も大切だけど、一人一人のスキルが高いレベルで必要となってくる。そう言ったのはお前だぜ。」

「あ、あぁ。」

「お前以外の部員のスキル向上は、常翔サッカー部の最大の課題だ。」

「俺は・・・この常翔サッカー部の中で、特質したスキルを持っているとは思ってない。俺以外だなんて、俺だってまだまだなのに・・・。」

「ハっ!それがお前の悪い癖だ!自分の才能に気づかない、いや、認めようとしない。わざと目を背けているんだ。」藤木が突然に叫んだのに慎一は驚いて、一歩退いた。

「何故、自分は才能があると認めない!」

「認めるとか、そんな、だって・・・」

「自分はまだまだだから。だったら、俺達は何なんだよ。お前は、そうやって、自分の才能を認めない事で、言い訳を作ってるんだ。」

「言い訳?」

「夢が叶わなかった時の言い訳さ。皆が勝手に天才と言っていただけ、自分は一度たりともそんな風に思った事もない。だから、夢儚く叶わなかった時は、俺のせいじゃない、てな。」

「・・・・。」何も言えない。肯定も否定もできなかった。慎一の自覚のない本心をも藤木は読み取っているかもしれない。だったらその言い訳は、慎一の本当なのだろう。

藤木はまだ、睨むように目を細めて慎一を見ている。

「そんな海外遠征まで組まれた合宿に呼ばれて、何がまだまだだよっ」

「・・・ごめん。」慎一は口癖のように謝る。

すると藤木は「チッ」と舌をならして踵を返した。






(くそっ)亮は教科書やノートに八つ当たりするように、鞄に投げ入れる。

「あれ、フッキー帰るの?」中山ちゃんが、歯磨きをしながら亮に近寄ってきた。

「うん。もう自習ばっかりで飽きた。部活も今日は自主練だし。」

「ふーん。」

中山ちゃんに洗面所は必要ない。中山ちゃんは歯磨き粉を飲んでしまう。イチゴ味の甘い匂いが漂っていた。

「中山ちゃんは帰らない?」

朝の時点で出席率が半分であることから、各教科の授業は自習ばかりになり、振替は土曜にすると決まっていたから、午前の間にも帰宅する生徒が多数出ていた。

「うん。こういう時こそ、帰りたくない。」

「なにそれ?」

「こういう非常時ってわくわくする。何か普段と違う事が起きるかもしれないよ。」

中山ちゃんは、将来芸能リポーターを目指している。だから、常に学園内の話題にアンテナを張っていて、各クラブに注目選手を見つけてはファンクラブを作っている。

「あはは、中山ちゃんらしい。じゃぁ、先生に藤木は早退したって言っといてくれる?」

「うん、いいよ。」と口の中の歯磨き粉を飲み込んだ。

「美味しそうだね。」

「そう、このサンムーンの苺味が一番美味しいの。食べてみる?」

「いや、いいよ。ありがとう。気持ちだけもらっておくよ。」

中山ちゃんのおかげで怒りが収まるも、廊下に出たところで新田と鉢合わせる。

新田は亮の視線を外して、逃げるように反対側のドアへと向かい、教室に入った。

亮は心の中で舌打ちをした。言い過ぎたのはわかっている。新田が、溝端先生の事が苦手で、ポジション変更を指示された事に落ち込んでいる事も読み取って知っている。だから自分の言葉が、とどめを刺す事もわかっていた。それでも亮は我慢がならなかった。新田が、当たり前のように亮の慰めを待っている事に。そして抑制したはずの嫉妬が沸騰するのを。

溝端先生が言うように、学園からも連盟からも手厚くされているのに、なぜもっと強い自信を持つことができない?代表に選ばれたとして胸を張って前に立てば、亮や他の部員は、新田を目標にできるのに。

「何だよ、あの為体は!」

亮は苛立ちを階段に当たるように駆け降りた。ロビー前で、麗香と佐々木さん、悠希ちゃんの三人と出くわす。

「あれ?帰るの?」

「あぁ。」

「いいなぁ。私も帰ろうかなぁ。」と麗香。

「悪いけど、悠希ちゃん、新田のフォローを頼む。」

「えっ?」

「ちょっと、言い合いになった。」つくづく自分はお節介だと思う。

「え~何よ。」と麗香。

「あら、珍しい、仲つつましいお二人さんが。」と佐々木さん。

「柴崎、溝端顧問、今日、合宿の案内を配るはずだから、俺の分も貰っといて。じゃ。」

「えっ、ちょっと、藤木~。」

ふと気づく、りのちゃんが居ない。

「りのちゃんは?」と振り返った。

「りのね、電話したいからって、食後すぐに食堂を出て行ったわ。グレンよ。」

「あっそう。んじゃ、また。」

「藤木君が帰っちゃうほどの言い争いって、何かしら?」

「ど、どうして、私?」と言いながら、岡本さんの本心は喜んでいる。

新田との言い合いなんて珍しくない。いつも亮が一方的に責めて、新田が落ち込むんだ。

門までの並木道、亮が駆けだすと、ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴る。

今日は梅雨の晴れ間だが、しばらく続いていた雨のおかげで、屋外の設置されているベンチは濡れていて誰も座っていない。天気の良い日は、学園内のベンチは生徒達の人気のスポットであるが。木製のベンチは水分たっぷり含んでいるのがわかるぐらいに変色していた。しかし、図書館へと続く小道の入り口ほどに来た時、ベンチに腰掛ける女性徒がいることに気づき、駆けていた足を止めた。りのちゃんだった。

「また、パンツ濡れるよ。」そう声をかけようと亮は微笑んだが、既にチャイムが鳴っている事を思い出して表情を戻した。

りのちゃんのクラスも、自習になった教科があったと聞いていたけれど、亮のクラスの特選よりは少なく、容赦なしに授業を進めていく先生が多いと聞いていた。なのに、りのちゃんは教室に戻る気配がなく、スマホを手にしてベンチに座っている。亮はゆっくりと歩み寄り、声をかけた。

「りのちゃん、チャイムなったよ。」

顔を上げたりのちゃんは、泣いていた。

(えっ!?)






最近、グレンと電話で話をしていない。電話をかけたくても、かけられないでいた。

なぜか、グレンの事を思うと、腕ににょろにょろと、あの恐怖の気持ち悪さが出てくる。

(ああーほら来たぁ~。)

身をよじる。そして言い聞かせる。

(がまん。我慢。)

そうじゃないと電話ができない。

グレンもまた、忙しいのか電話をかけて来なくなった。もっぱらメールばかりのやり取りになってしまったけれど、そのメールのやり取りも、グレンの事を思って文字を打つと、にょろにょろの恐怖の気持ち悪さが襲って来る。

だから次第に回数も、文字数も少なくなってきて、グレンからも送られてくるメールがなくなってきていた。

せっかく、アルバイトが出来て、お金をもらったらフランスへと会いに行けるというのに。

にょろにょろのぞわぞわが、腕から背中へと移動する。

(がまん、がまん)

その場で駆け足して、意識を一旦外す。

少し前に、グレンとの電話で『びっくりするような事が起きて、それで忙しいんだ』と言われていた。『一体何?』と聞いたのだけど、『りのを驚かせたいから、もう少し待って。』と焦らされていた。

首筋に鳥肌が立つ。

耐えながら無料電話アプリでグレンにコールするとブーと今までに聞いた事のない音がした。

スマホの画面を見ると、【宛名にアカウント登録がありません】と表示されている。

(えっ?どういう事?)

メール発信に変えて、文字を打ち込む。

『グレン、今何してるの?』とフランス語で送った。するとすぐにエラーリプライされる。

(どういう事?どういう事?どういう事?)

携帯が壊れちゃったのか?アプリ内で異常が起きているのか?どうしたらいい?プチパニック。

こういう機械物で困った時は、藤木だ。藤木に見てもらおう。とグランドの方に行きかけて、足を止めた。藤木のあの目は要注意。私の中にニコが存在する事がバレてはいけない。藤木とはなるべく一緒の時間を少なくしておくのがいい。それが、私とニコの共通認識。そして、私はあの人に、見張られている。学園内ではあの人の視線を強く感じる。

何故?どうして?がわかるまで、私とニコは大人しく共存していた方がいい。

他のフランスの友達にメールを送ってみよう。ちゃんと送れたら、携帯の故障じゃないことが判明する。

バスケ仲間だったデヴィットのアドレスを表示。デヴィットは、私達が住んでいたマンションの一番近くに住んでいる二つ年上の男の子。仲間の中ではリーダー的存在だった。デヴィットに聞けば、今グレンがどうして忙しいのかわかるはず。

フランスは今、サマータイムの朝の6時前、デヴィットは、ハイスクールでもバスケを続けていて、日本の学校みたいに朝練はないけれど、自主的に朝早く起きてジョギングをしていると聞いていた。デヴィットは昔から、仲間の中で一番の早起きだった。おそらくもう起きていて、トレーニングウェアに着替えている頃だろうと思う。

(あっそうか、グレンは、朝は遅い。だから、私からの電話を朝はシャットアウトして、こんなエラーになった・・・ひゃぁぁぁ顔に

鳥肌がぁ~。)顔をさすって、(がまん、がまん。)

フランスの他の友達の事を考えてもこうはならない。

(何故?グレンの事を考える時だけ・・・)

足元から這い上がってくる、にょろによろのぞわぞわの悪寒。足踏みをしても治まらず走った。正門まで走ってUターン。それを2回繰り返して、守衛さんに「何かの罰ゲーム?」と聞かれる。

「そ、そう、い、今流行ってる。」と答えて、ベンチそばに戻った。

デヴィットに電話をしよう。念のためにメールで、「起きてる?電話していい?」と送る。

すぐに「起きてるよ。電話オッケー」との返事。

仏「おはよう。デヴィット」

仏「おはよう、りの。久しぶりだね。」

仏「ええ、相変わらず朝早いのね。どんどん早くなってない?」

仏「まぁな、走る距離が伸びてるから。」

仏「もう、ベルサイユ宮殿まで行けるんじゃない?」

仏「どうして知ってる?オルガに聞いたのか?」

仏「えー本当なの?」

仏「朝、宮殿の衛兵に敬礼して帰ってくるんだ。」

仏「すごい。」

仏「なぁ、りの。もうグレンはやめておくんだな。」デヴィットは、私がグレンの話題をする前に警告してくる。

仏「どうして。」

仏「グレンの携帯が繋がらないから俺の所にコールしてきたんだろう。」

仏「何かあったの?グレンに。」

仏「グレンは携帯をもう一つ持って、そっちをメインに使っている。」

仏「なぁんだ。じゃ、そっちの番号を教えて。」

仏「俺も知らないんだ。」

仏「何、冗談を言ってるの?」

仏「りの、あいつは、もう昔のグレンじゃない。」

仏「昔のグレンじゃないって当たり前じゃない、私たちはもう子供じゃないのよ。」腕がぞわぞわしだした。我慢、我慢。

仏「ちがう、そうじゃない。」

仏「デヴィット、私は今、昼休みの時間に電話してるの。時間があまりない、教えて、グレンのもう一つの携帯番号を。」

仏「グレンは今、こっちでは超人気俳優になっているんだよ。」

仏「俳優?」

デヴィットの話では、半年前、グレン達が通うハイスクールでドラマの撮影が行われた。ドラマは学園のものの青春ドラマ。主役の女優ローラ・ハンズが突然、見学していたグレンを指さし、相手役はあの子が良いと指名したという。後でわかった事だけど、ローラ・ハンズと相手役の俳優とは相性が悪く、撮影は思うように進んでなかったらしい。相手役も降板を望んでいて、元より芸能界というものに興味があったグレンは、喜んで出演することになった。そのドラマが大ヒット。女優ローラ・ハンズが見初めた新人俳優として、一気に注目大を浴び、今は、映画の撮影をしているという。

仏「そんな話、嘘・・・。」じゃない、思い当たる節が、私にはあった。

『ちょっとびっくりするような事が起きて、それで忙しいんだ。りのを驚かせたいから、もう少し待って。』

と電話で言っていたのは、確か、4月の半ば。そのドラマは4月のマンスリードラマだったとデヴィットは説明する。

仏「りの、グレンは今、その女優と一緒に住んでいる。」

仏「映画はロングランだから、きっと演技指導とかいろいろあるのね。」

仏「二人は恋人だと宣言していて、フェイスラインにも載せている。」

仏「グレンはそんなこと一言も・・・」

仏「俺達の電話にも、あいつは出ない。メールも返事はなしだ。酷い奴さ。公園のバスケ仲間だった俺達を馬鹿にして。」

公園のバスケ仲間のリーダーだったデヴィットが、仲間のグレンを悪く言う事が信じられなかった。

仏「デヴィット、私信じない。」抗議するように足踏みをした。背中のぞわぞわを収める為に。

仏「りの!」

仏「だって、デヴィットは、仲間をそんな風に言う人じゃない。いつだって、私達の誇れるリーダーだったわ。」

仏「俺に言わせるような事をしたのはグレンだ。」

デヴィットとの通話を切った。

私は、オルガに電話をかけた。オルガは7人仲間の私を含めた女子三人のうちの一人、同じ年だったこともあって、グレンの次に多く話をした友人だ。オルガの家はパン屋さん、たまに朝早く起きて店を手伝っている。コールはするが、中々繋がらない。

もしかして今日は店を手伝わない日で、まだ寝ているのかもしれない。もう切ろうと思った時、電話は繋がった。

仏「どうしたの?こんなに朝早く。」

仏「おはようオルガ。でもこっちは昼の1時を過ぎた頃よ。」

仏「あぁ、そうだったわね。8時間だったけ、日本との時差。」

仏「寝てた?」

仏「ううん、店の手伝いよ。ちょっと手が離せなかったから。」

仏「忙しかったらいいわ。またかけ直す。」

仏「いいわよ。ちょうど客が途切れた所よ。」

仏「そう。」忙しいからまた後にして、と言われるのを期待していた自分に驚く。デヴィットに啖呵を切ったものの、オルガからも同じことを聞くかもしれないと、私は怯えている。

仏「りの、もしかしてグレンの事、聞いた?」

仏「オルガ・・・」もう泣きそうになった。

仏「聞いたの、デヴィットから?」

仏「うん。でも、どうして。デヴィットはあんな風に人の事を悪くは言わない。」

仏「そうよ、だから、グレンがデヴィットにそんな風に言わせたのよ。」

仏「オルガまでどうして? グレンは超人気俳優になっただげ、友達と連絡を取らなくなったのは仕事が忙しいからでしょう。デヴィットは、グレンの成功に嫉妬して。」

仏「りの、デヴィットは嫉妬なんてしないの、知ってるでしょう。」

仏「オルガだって、グレンが酷い奴じゃない事、知ってるでしょう。」

仏「ううん。私はあいつが、ひどい奴の素質を持っている事を知っていたわ。」

仏「ひどい、オルガは、グレンと一番古い友人じゃないっ!」オルガはグレンを5才のときから知っている仲。

仏「だからよ。グレンは昔から、自信家で努力嫌いだったわ。」

仏「私の前では、そんな振る舞いはなかった。」

仏「ええ、そう、りのの前ではね。」

仏「何よ、まるで私がお客さんみたいじゃない。」

仏「そうよ。」

(酷い、あまりにも、もう言葉が出ない。)

仏「私達は、りのの事を客だなんて思っていないわ。でもグレンは違う。グレンはりのを特別として振舞っていた。」

仏「特別?」

仏「そうよ、グレンはずっと、りのに優しかったでしょう。」

仏「そう、私にフランス語を教えてくれて、私を仲間に入れてくれたのもグレン。」身もだえしながら話を続ける。

仏「りのが住んでいたマンションの、206に住んでいる一つ年下の二コラ覚えてる?」

仏「ええ。覚えているわ、何度が部屋に遊びに行ったことがある。」

仏「そう、彼女はりのがパリに来る一年前に引っ越してきたのよ。でも、グレンは二コラを私たちの仲間には誘わなかった。」

仏「二コラは、バスケを好きじゃなかったわ。」

仏「そうね、二コラはスポーツが好きじゃなかった、だけど、同じマンションに住んでいるのよ。学校も同じ、グレンが優しい人と断定するのなら、二コラにも気に掛けるべきじゃない?グレンはね、学校で困っている二コラに見向きもしないような奴だったのよ。」

仏「そんなの、今更何?学校の事なんて、グレンにも色々と立場やその時の状況というのがあって。」

仏「二コラは普通のフラン人だった。りのは、日本人という特別があった。」

仏「グレンも日本とフランスのハーフよ。」

仏「ええ、父親が日本人だったけど、日本には一度も行ったことがないくらいに、グレンはフランス人よ。グレンは、りのを私たちに紹介する前に言ったのよ私に、りのと仲良くなっていれば、俺達のチームは他と違う、特色あるチームになるって。」

仏「嘘・・・」ベンチに尻もちをつくように座った。

仏「りの、私達はグレンから聞いて、りのが日本で心の病気になった事を知っているわ。りのがグレンを懐かしんで縋った事も。日本にサッカーの上手な幼馴染が居る事も。グレンは日本からの帰国後、その幼馴染に取られたくないと言っていた。私はグレンの性格をよく知っていたから、グレンが一時的に躍起になっているだけどわかっていたけれど、りのの病気がそれでよくなるならって、黙っていたの。だけど、ローラ・ハンスと出会って、人気者の俳優になると、グレン、りのからの連絡が面倒だって言い始めたわ。」

仏「もう、やめて・・・」

仏「りの、私達りのから送られてきたハイスクールの写真を見て、りのはもう大丈夫、病気が治ったと喜んだわ。だからよ。こうしてちゃんと警告するの。」

口を開けば、嗚咽に涙がこぼれそうで、何も言えない。

仏「りの、グレンはダメ。もう、縋らない方がいいわ。」

私は黙ってオルガとの通話を切った。

(どうして・・・。)

カトリーヌ、レオ、トミーにメールを送った。【グレンの、新しい携帯番号を教えて】と、すぐに返信が来たのは、カトリーヌ。

【知らないの。教えられていない。グレンはわざとそうしてるの。だから私達、もうグレンとは話したくない。】一つ年上のカトリーヌ、何でも勝たないと気が済まない、スポーツ万能な勝ち気な性格。自分から媚びを売るような事をしないから、グレンに番号を教えてなんて、自分から言わない。だから知らないのは当然だ、きっと。

次いで返事が来たのは、一つ年下のトミー。お菓子が大好きで、いつも何かを食べている。

【りの、僕はグレンに怒っている。グレンなんて、もう友達じゃないね。あいつから先にそう言ったんだ。携帯の番号なんて知りたくもないよ。】

(あぁ、グレン、どうして・・・)

レオからの返信は来ない。私はデヴィットが言っていた、フェイスラインで、ローラ・ハンスを検索した。プライベートページはすぐ見つかる。ローラ・ハンスの肩を抱いているグレンが写っていた。

【映画の撮影クランクインのお祝いを、ホテルで】とある。

グレンの実名で検索して見つけたアカウントにアクセスしたら、同じ写真がアップされていた。

【グレン、私を驚かせたいって、このこと?私、十分驚いたわ。だから、連絡をちょうだい。りの】

グレンのアカウントにメッセージを残した。

しばらく待っても、誰からも、私に連絡をしてくる人はいない。

(どうして・・・)

涙が携帯の画面に落ちる。

「りのちゃん、チャイムなったよ。」

顔を上げたら、藤木が立っていた。






「どうしたの!?」

仏「皆が、もうグレンはダメだって、グレンは、今女優に夢中だからって。」

「あー、りのちゃん、せめて英語にして。」亮が懇願すると、りのちゃんはポロポロと涙をこぼしながらもすぐに英語に変更する。

英「グレン、向こうで、人気俳優になったの。忙しくて、連絡が取れない。新しい携帯番号を、皆が教えてくれないの。」

(グレンが人気俳優になった?まぁ、あの顔立ちならあり得る話。皆と言っているのはフランスにいた頃の仲間だろう。その仲間たちがグレンの携帯番号を教えてくれないとはどういうことか?仲間内で何かトラブルがあった?)

亮はりのちゃんの隣に座る。若干尻が冷たかったが我慢した。

英「皆が、グレンはダメだって。もう友達じゃないんだって。」

りのちゃんの手に持っているスマホの画面を覗き見れば、グレンが綺麗な女性と二人肩寄せ合っている。その雰囲気は、完全に恋人同士だ。そのりのちゃんのスマホがピンと音がなって、フェイスラインの画面に「NEW MESSAGE」の表示。りのちゃんは、ブラウスの袖で涙をひとき拭きしてから画面を操作し、メッセージを読んだ。すると、りのちゃんは、「うあぁぁぁぁ」と膝に顔を伏せて大きく泣き出した。

「りのちゃん・・・」

(失恋か・・・。)

亮はりのちゃんの背中をさする。何も言えない。今のりのちゃんに言葉なんか届かないだろう。ただ落ち着くまで一緒に居てあげる事しかできないなと、亮は付き添う事に覚悟を決めた。

りのちゃんは、うつ伏したその手からスマホを落とした。

こんなにも泣き崩れるという事は、グレンから別れの言葉が綴られていたのだろう。もしかしたら、今すぐにでもフランスに行きたいと、亮に泣きつくかもしれない。

その時は、どうするか?

グレンから別れを言って来ているのなら、行かせてあげて、話をして別れてくる方が、りのちゃんもすっきりするだろう。アルバイト料が手に入ることだし、足りない分は亮がお金を貸してあげてもいい。

落としたりのちゃんのスマホを拾い、亮はまたりのちゃんの小さく丸まる背中に手を添える。

「りのちゃん、大丈夫?」と声をかけるとりのちゃんは急に、すくっとベンチから立ち上がった。

「ふ、ふふふふ。あはははは。」

(えっ?)

「おかしい。フラれるなんて。」さっきまでの涙声はなく、本当に可笑しそうな声。「ずるい事ばかりしていたからだわ。ねぇ。」と振り返ったりのちゃんは、目に涙もなく、本当に笑っていた。

「藤木、帰るの?」

「えっ・・・う、うん。」

「私も帰ろう、そうだ。ねぇこれから一緒にラウンドA行かない?私、スカッシュやりたい。」

(何だこれ?ついさっき、振られて大泣きしていた子が、こんなに早く立ち直る?まるで、これは別人のようだ。)

亮の胸に不安の影が刺さりドキリとする。

「ボーリングもしたいな。行かない?」と首を傾げるりのちゃん。

「うん、行ってもいいけど、でも、りのちゃん、鞄とかいいの?靴も上靴のままだよ。」

「あー、靴だけ履き替えてくる。待ってて。」

「鞄は?」

「鞄はいい、置いて帰る。定期はここに入ってるし。」とスカートのポケットを叩く。「お金は貸して、明日返すから。」

「お金はいいけど・・・授業は出なくていいの?休むと大変なんじゃないの?」

「いいの、いいの。平気。だって、麗香が友達の限り、私、特待外されることないんでしょう。」

それは麗香の専売特許的な言葉。だが、その言葉通りを、りのちゃんが受け止めた事を今までにない。

亮はベンチから立ち上がり、目に力を入れて、りのちゃんの本心を読み取ろうとした。しかし・・・

(痛っ・・・)

目の奥から後頭部へと突き抜ける痛み、そして、強い圧力のある視線に振り返ったのは、亮だけじゃない。りのちゃんも同時に同じ方向に顔を向けていた。

玄関ホールから弥神が歩んでくる。

「りのちゃん、俺・・・。」

「わ、私・・・やっぱり。」

弥神が亮に近づくにつれ、強くなる痛み。

「帰らないと・・・行けないんだ。」

「次の授業、休めない・・・。」

弥神の睨む圧力も強くなり

「ごめん。」亮は痛む頭を抱えて、校門へと逃げた。

「ごめん。」りのちゃんもまた、校舎内へと駆けていく。

正門を抜け学園の外に出ると、嘘のように頭痛は無くなった。

ほっと息を吐いたものの、何か、引っかかるものが頭に残っていて、気持ち悪い。

(何だったけ?)








(やっぱり報告はしないでおこうかなぁ。)

和樹は、5分前に決めた決断を早くも変えたい気持ちになり、手に持つUSBを眺める。

こんな情報を集めろとは、理事補からは言われていない。和樹が気になって勝手に集めた事だ。指示以外の事をPABを使ってやってしまったのを、まず叱られる。そうすると、PABを使うのは禁止だという事になるかもしれない。それは和樹にとって、かなり損失的な痛手だ。

和樹は月に一度、学園のパソコンやネット環境のセキュリティ管理を、PAB2000を使って行えることを楽しみにしている。もう依存的になってしまっているのは否めない。

高等部の岡本悠希さん、不運にも誘拐事件の人質に遭った事で、ネット上に卑劣な噂が広まってしまった。それらを集めて精査し消去することを依頼された和樹は、その過程で、偶然にも異様な情報を得た。その数々の情報をこのUSBに保存していた。しかし、これらは過去の情報で、ネットの特質上、信憑性は確かではない。それこそ岡本さんの時と同じく、嘘ばかりという事もあり得て、これを集めて凱さんに報告するという事は、嘘の噂を広めて岡本さんを陥れた無自覚加害者がやっている事と同じといえる。それでも、ネット世界をVID脳で飛び回り、隅々まで知り尽くしている和樹だからこそ、この集めた情報が嘘ばかりではない事もよく理解していた。それこそ、【火のない所に煙は立たず】である。 

仮にも、この情報が半分の信憑性だったとしても、この人は危険だと和樹は思った。そして、藤木さんとトラブルになった事も、この人だったからこそ起きたと言えるのではないかと。だから、これらを理事補に教えた方がいいと一度は判断したのだけど、

しかし・・・と和樹は迷い、図書館前の小径を行ったり来たりして、考える。

今の所、集めた情報のような実害が、常翔学園にあるわけじゃない。信憑性のない情報の為に、叱られるリスクを負ってまで、人を糾弾していいのか?

情報が嘘だった場合、糾弾の一端を始めてしまった和樹は責任を取らなくてならないだろう。

(でも、集めた情報が本当だった時、実害があってからでは遅い。)

こんなに迷いを抱えるなら、好奇心など出さずに、これらの情報はすぐに破棄して無視しておくべきだった。まさしく<後悔先に立たずである。

理事補は、最近よく図書館に入り浸っている。具体的に何をしているのかは、興味がないので聞いてはいないけれど、見かけた状況は、古い文献などを読みパソコンに何かを入力している。今日も昼休みに、図書館へとノートパソコンを持って入って行く理事補を見かけていたから、まだ図書館に居るはずだ。和樹は美術部に行ってデッサンの準備をしたものの、これの事が気になって出てきていた。

「はぁ~」と和樹はため息を吐いた。

図書館から出てきた生徒がいて、和樹は道を開けた。こんなところでウロウロしても通りの邪魔になるだけだ。出てきた生徒につられるように和樹は図書館から背を向けて歩む。

理事補に報告する前に、誰かに相談してから、と言うより誰かを味方につけて、理事補に叱られPAB2000の使用禁止となるのを防ぐという算段もありだ。その相談相手を誰にするかと考える間もなく、和樹は藤木さんしかいないと即断した。藤木さんなら、この人の危険性をわかってもらえるはずだし、だからこそ、藤木さんは殴る事になったと、この間の暴行の正当性を合わせて報告できそうだと考えた。

和樹はプールの脇を通って、学園の北側へと向かった。高等部のグランドが広がっている。高等部の運動場は中等部より1・5倍広い。サッカー部がグランドの3/2を使って練習していて、野球部が肩身の狭い状況は、中等部のグランドでも同じだ。両部からの掛け声が聞こえてくる。和樹はグランドを見渡しても、どれが藤木さんかわからなかった。中等部の頃は背番号9をつけていた藤木さんだが、高等部では何番か和樹は知らない。9をつけている人が走っているのを見つけたが、髪型が違う。もっと近づけば見つけられるのだろうけれど、中等部の者が高等部敷地内へと侵入するのは気が引けた。よっぽどの事がない限り、互いに侵入しないのが学園の暗黙のルールである。

高等部と中等部の唯一の共通施設であるプール棟の下は、高等部の更衣室になっていて、ここにいれば、クラブ終了後に藤木さんはここに来る。が、その時間までにはまだ2時間近くの時間があり、また、中等部と高等部の最終下校は30分の差があって、和樹は藤木さんを学園で待つことができないという事に気づく。結局、藤木さんに相談しようにも、今すぐにと言うわけにはいかず、メールでアポイントをとらなければならない。和樹は二度目のため息を吐き、仕方なく美術部の部室に帰ろうと、踵を返す。

それまでの迷いが吹っ飛ぶほど和樹は驚いた。

真後ろに和樹を睨み立つ者。

弥神皇生がいた。

(何故、ここに?)と和樹の頭の中はプチパニックに陥るも、手に握り持つUSBは見つからない様にしなければと冷静に考えることは出来た。USBを握っている左手をゆっくりと気づかれない様にズボンのポケットに入れた。

弥神皇生は、和樹とほぼ同じ身長だった。鋭く睨んだまま何も言わない。

「あ、あの~。」と和樹が声を絞りだした瞬間、ボケットに入れた和樹の左手をガシリと掴かまれてしまう。「あっ」

和樹は抵抗した。だけど、身体に力が入らない。睨まれている視線から目も逸らすことが出来ない。

(何?どうして、柔道をやってる僕が、動けない?)

「お前がVID脳と言う物を持つ者か。」

(どうして!何故知っている?!僕がVIDである事は数少ない人しか知らないのに。)

「なるほど、確かに他とは違う毛色だ。」

揺れて割れた前髪から見えた左目が・・・赤い!

クラっとVID脳で電脳世界に入るときの感覚がした。

「ほほぉ、感情の起伏も絵に変わるか・・・・面白いな。」

掴まれていた左手を簡単に引き上げられた。腕はまるで他人の腕のような感覚で動く。

「その力、いずれは利用するに価値ある。だが・・・」

手の平をこじ開けられUSBを取り上げられる。

(どうして握っている手の中に物があるとわかった?)

「今は要らぬ。」

弥神皇生は左手の甲で覆いかぶさった前髪を振り払った。

「柴崎凱斗に報告するな。集めた情報は全て消去しろ。知った我の過去は忘れろ。」

「・・・わかりました。」





「・・・・君、ちょっと、黒川君ってば!」

「えっ?」

名前を呼ばれて振り向いたら、手に持っていた鉛筆の先が白いスケッチブックを横一文字に裂けるように筋描いてしまった。

「私、もう帰りたいんだけど。」

「あっ、うん、お疲れ様。」

「じゃなくてさぁ、私、今週、鍵当番なの。黒川君の片づけを待ってるんだけど。」

「えっ?」

「えっじゃなくてさぁ、もう~。」

大きなため息をつく同級生の村田さんは、鍵を持って帰り支度万全だ。周りを見たら、誰も居なくなっていて、イーゼルなども片付けられていている。時計を見れば、確かにもう下校の知らせのチャイムが鳴る3分前。僕の周りはデッサン用の鉛筆が筆箱から全て出しきって乱雑に置かれて、練り消しも引きちぎって2つになっていた。無造作に置いた鞄の向こうには書きかけのデザインパネルがアクリル絵の具と一緒に置かれている。

「あっ、ごめん。えっと・・・僕が戸締りするから。」

「そう?それなら助かる。ここに鍵を置いておくから。」

「うん。」

「じゃ、お疲れ様、お先に。」

もう、下校時間?横一文字に筋描いてしまったスケッチブックのページを1枚戻しめくって見る。

縦横無尽に画面いっぱいに真っ黒になるまで描いたページ。これは、僕が絵を描く前に必ずやる、手の準備体操的な物、まっすぐな線を描くことによって、均衡感覚の体感体操とでも言おうか。ページ1枚、真っ黒になるまで縦横の線を引いたら、次のページをめくって曲線の準備運動として、美術部内の誰かや、物のデッサンする。だけど、デッサンはまだ描かれていなかった。

和樹の体感以上の時間が経っていた。

何をデッサンしようかなと美術室を見渡した直近の記憶はある。

(その後からの2時間あまり、僕は一体何をしていた?)

アクリル絵の具も使おうと棚から出してきてはいるけど、使かった形跡もない。パネルも昨日から持ち越した状態から何も変わらずにそこにある。

うーんと和樹は唸った。

(何かに迷っていた・・・)

えっ?もしかして、何をデッサンしようかずっと迷っていた?2時間も?)

下校を知らせる音楽が鳴った。和樹は頭に残る違和感を振り払い、急いで片付けをする。

(やばい、やばい、正門閉められちゃう。)









【本日、神奈川県香里市にある、学園前交差点で、常翔学園高等部の嘱託警備員下村悟さん62歳が、西から走って来たダンプカーに轢かれて死亡する事故がありました。警察は、ダンプカーを運転していた丸岡産廃株式会社の職員、町田辰夫42歳を業務上過失致死で現行犯逮捕しております。死亡した下村さんは、勤務を終えた帰りだったと見られていて、事故現場近くで事故を目撃した人の話では、下村さんが信号が赤だったのにも関わらず、フラフラとと交差点内に侵入したと証言、加害者であるダンプカーの運転手も信号は赤だったと証言しており、警察は自殺の可能性も視野に入れて事故原因を調べています。】








「そう、毎年、星見神社の七夕まつりに浴衣を着て行ってるの。今年で3年目になるわね、私達4人は。」と柴崎さんが、手をまわして佐々木さんと今野君以外を指し示す。

「今年は、7人ね。」

佐々木さんと今野くんが頷く。

「私も?」と悠希は自分の顔を指さした。

「もちろんよ。あっ、もしかして先約の別口がある?」

「それって、皆が、皆、七夕まつりに行くって肯定した質問だな。」と慎君。

「あははは、ほんとね。」と佐々木さん

「えっ行かないの?」ときょとんとする柴崎さん。

悠希はじぃーんと胸が熱くなった。

「ありがとう。もちろん行く。」鼻が熱くなって、最後は涙声になってしまった。

「えっ、ヤダ、何?私、何か酷い事言った?」

「ち、違うの。嬉しくて。」

星見まつり、あの事件に巻き込まれた年に地元の友達と行って以来、行ってない。地元の友達は、悠希が学校に行かなくなって、最初の頃は色々と気にかけてくれていたけど、噂が広がるにつれて、誰も連絡をしてくることは無くなった。あの事件は、悠希から友達をも奪っていったのだ。

皆が黙ってしまった。慎君がテーブルの下で手を握ってくれた。慎君はあれ以来、頻繁に私の手を握って励ましてくれる。『この手はきれいなんだ。大丈夫』と言って。そのおかげか、悠希は次第に手を洗う回数が減ってきていた。

「あ、でも私、浴衣がないわ。持っているのは4年も前のものだから。」

「じゃ、買いに行きましょうよ。」

「相変わらず柴崎は、簡単に言うよなぁ。」と今野くん。

「駄目なの?」

「ううん。買い物も、うれしい。」

「【買い物、うれしい】こう?」

「そうそう、流石、早いねぇりのちゃん、覚えるの。」

「もう、横でその、手をひらひらするの、目障りだわ。」と柴崎さん。

「そう言うなよ、手話は聴覚障碍者にとってのコミュニケーション手段、俺らの言葉と同じなんだぜ。」

「今、ここに、聴覚障碍者なんていないじゃないのよ。」

「リノも、すぐに興味を示しちゃうのね。」と佐々木さん。

「【手話、便利、おしゃべり、しないで、いい。】」と真辺さんは手話をしながらカタコトの会話をする。

「何言ってんのよ。頑張って喋れないのを治すって言ったでしょう。」

【レイカ・酷い、鬼】真辺さんは、今度は声に出さないで、藤木君にジェスチャーを送る。

【彼女、嫉妬、してる、仲間、入れない、から】と藤木君も何かを表現。

「それが悪口だって、雰囲気でわかるわよ、不愉快だわ。」

「そんなに言うなら、皆も覚えようよ。そしたら不愉快さもなくなるって。」

「私達には声があるのに、どうして覚えなくちゃいけないのよ。それにね、興味本位でそういう使い方するの、良くないと思うわ。」

「どうして?」と藤木君はムッとする。

「必要性がないのに、ただ便利ってだけで手話を使うのって、何だが障碍者を嘲るみたいだわ。」

藤木君は、柴崎さんの言葉に反論せずにただ目を細めた。それに対してムッとした表情をして、顔を背けた柴崎さん。

変な無言の間があいたのを、悠希は心の中で首を傾げた。

「【私は、言語、障碍、者】」と真辺さんがまた、カタコトの言葉を発しながら手話をする。

「やめなさい。そんなカタコトで喋ってると、治るものも治らなくなるわよ!」

真辺さんは柴崎さんに怒られて、むっとし、それでも何かの手話を続けようとした手が、昼食のトレイにガシャンと当たってしまった。お茶の入ったコップや、残した味噌汁を倒す。

「あー!」全員の声が揃う。

「ほら、そんなことしてるからよ。」

慎君がすかさず立ち上がり、カウンターへ布巾を取りに行く。

真辺さんは、自分がこぼしたのに何もするわけでもなく、ただ汚れた手を見つめて困っているだけ。

「服は、大丈夫?濡れた?」と佐々木さん。

真辺さんは無言で首を横にふる。

「ほら、これで、洗いに行ってこい。」と慎君は持って来た布巾で、真辺さんの手をとりふき取る。真辺さんは、意気消沈したように動かない。

「どうした?」と慎君が顔を覗くも、微動しない真辺さん。

「柴崎がきつく言い過ぎたからだ。」と今野くん。

「何よ・・・」と柴崎さんは口を尖らせけれど、慌てて真辺さんを宥める「ごめん。りの。」

「りのも、悪口に手話を使うのは良くなかったと思うよ。」と慎君はテーブルを回り込んで真辺さんの側に行き、「ほら、手を洗いに行こう。」と真辺さんの腕をとり、立たす。

うつむいていた真辺さんと目が合った。無表情に向けられた目に、トゲがあるのを感じた悠希。

(真辺さんは、私に嫉妬している。慎君が手を握って励ましているのを知ったから?だから何もしないで、待っていた。慎君が手を拭いてくれることを。こうして、洗面所まで連れて行ってくれることを。)

戻って来た真辺さんに柴崎さんがまた謝ってから、話は仕切り直す。

「買い物、いつ行く?っても、今週の土日は私、ちょっと忙しいのよね。」と柴崎さんは小さな手提げバッグから可愛いスケジュール帳を出す。「来週の1日も一日中だめ。」

「今週の日曜日は練習試合なの。まぁ試合が終わってから待ち合わせてもいいけれど。どうせサッカー部も遅くまで練習でしょう。」と佐々木さん

「うん。そう・・・あっ30日の土曜日は?この日学園では全クラブ練習禁止で1時半には全生徒下校指示が出てる日、皆、どう?」と柴崎さんが悠希に顔を向けてくるので、

「大丈夫、その日で」と答える。

佐々木さんも「大丈夫よ。」と答えて、

今野くんも「俺も大丈夫」と答える。

「えっ、お前も行くのかよ。」と慎君。

「もちよ。」

「女子だけで行くのかと思ってた。」

「今野は、佐々木さんについて行きたいだけよ。」

「おう、メグの行く所、どこへでも。」

「はいはい、新田は行かないの?」

「うーん、買い物の付き添いだろう・・・」と渋った慎君。一緒に来て欲しい。そんな思いで慎君の方に顔を向けたら、気持ちを汲み取ってくれたようで、「まぁ、どうせ暇だしな。」と頭をかく。

悠希は嬉しい気持ちを慎君に向けて微笑んだ。

「俺は、パス。その日、用事あるんだ。」と藤木君。柴崎さんは、一瞬だけ顔色を変えたけれど、すぐに戻し、「そう。りのは大丈夫?行ける?」と隣の真辺さんに顔を向けたのにつられるように、悠希も視線を向ける。

瞬間、悠希は胸がドキリと冷たくなる。真辺さんはいつの間にか、悠希を見ていた。冷たい無表情の顔で。

「行く。」と言いながら視線を外す真辺さん。

(嫌なんだ、私の事が。)







日曜日、女子バスケ部は練習試合で横浜の高校に朝早くから来ていた。3時には解散となり、バスケ部の1年生だけで、横浜駅のファストフードでおやつタイム、おしゃべりして楽しむ。皆が「リノ、だいぶ喋れるようになったよね」と言う。当たり前だ、喋れない   りのは今、失恋の傷心でずっと奥に陥ったままだ。

(いい気味。そうしてもう二度と出て来なければいいのに。)

りのは知らない。私がこうして表に出ればでるほど、私は成長している事を。

バスケは、もうりのじゃなくても問題ない。出来なかった英語も少しはできるようになってきた。学力などを習得する脳は一つで、りのとニコとで共有している。コツさえつかめばあらゆる事がりのの代わりにできる。

5時に近い時間になって、やっと皆は重い腰を上げた。メグは帰る路線が違い、同じ帰路の部員達は、やはり私と一緒なのは嫌らしく「私達もう少し買い物して帰るから。」と言って人混みに消えていった。

(まぁ、いい。私も今日は疲れた。)これ以上、微妙にりのを残しつつの演技は無理だ。

東静線の準急に乗りこんだ。香里市まで20分、それから各駅停車の電車に乗り換えて一駅。日曜とはいえ、夕方の帰宅時間は、座る場所などなく混雑していた。人はどんどん押すように入って来て、押されるように車内の奥へと進む。連結の運転席横のスペースが空いたので、人をかき分け、私はその連結のスペースへと入り込んだ。進行方向の反対を向いて立つことになるけれど、ちょうど、斜めになった壁が良い感じで身体を預けられた。

常翔学園バスケ部指定のボストンバックを足元に降ろして、一息つく。

「ふぅ~。」

ポケットに入れていた財布を取り出し中身を確認。さっきのファストフードで、お小遣いの残金は352円になってしまった。でも心配ない。もうすぐアルバイト料が入る。二日前に、完成した翻訳のデータを凱さんに渡していた。りのは最後にもう一度通しで読んでから渡す予定にしていたけれど、失恋でやる気を失ってしまっていた。

凱さんは、「アルバイト料は、もう少し待ってね。トーマス・ヘンリーに沢山払うように交渉するから。」と言ってくれている。楽しみで仕方がない。フランス行くお金にしなくていいんだから、全部プリンに使ってもいい。というのは極端すぎるか。

(何を買おうかなぁ。そうだ、財布を買おう。これはもう子供じみてる。)

さっきのファストフード店で見た皆の財布は、ブランド物の財布ばかりだった。自分のは革が筋切れていてみすぼらしい。いくらのアルバイト料が入るのかわからないけれど、少しはマシな財布を買えるだけの金額は貰えるだろう。楽しみな事を想像して外の景色眺めた。日の落ちた空は昼と夜の合間のわずかな隙間を茜色に染める。

 ビルの陰に入って反射して映し出される車内の景色、自分の顔の真後ろに男のにやけた顔が浮かび上がった。

(えっ?)

異常にぴったりと隣に寄り添い立つ男、の手が私の太ももにある。

耳に男の息が当たった。

(何・・・一体・・・気持ち悪い。)

恐る恐る振り向くその速度と、太ももに置かれた男の手の動きの速度が同じだった。

振り向いた私の顔を見て、男はより一層ににやけ、手は制服のスカートの中へ這い上がった。

「ひっ!」

恐怖が思考を停止する。「逃げる」という行動の指令が、脳から手足へ伝わらない。

男の手は何かの生き物のようにスカートの深部へと這い上がっていく。

息をするのも忘れるほどに体は動かず、男の気持ち悪い顔から視線も外せない。

「何をしている!」

誰かが痴漢の手を掴んで捻り上げた。痴漢は「痛てて、」と悶えながら掴まれた手を振り払い、助けてくれた人を押しのけ、向こうの車両に逃げていく。

「そいつは痴漢だ。取り押さえろ。」

叫ぶ声に、隣の車両の乗客たちが痴漢男を取り囲んで床に押さえつけた。

「愚か者が。」とつぶやく助けてくれた人は、

弥神皇生!

「どうして・・・」驚きでうまく声が発せられない、掠れた声になる。

「どうして?わからないとは、お前も愚かだ。」と冷たい片目で私を見る弥神皇生。

しばらくして、駅につき電車が止まった。扉が空くと痴漢は乗客に引きづられるように車外に出されていく。

次いで駅員が乗り込んで来て、「被害に遭われた方は!」と叫び、車内にいる人々がこちらを向く。誰かが車内の通話ボタンで車掌に伝えていたのだろう。「事情を聞きたいので、一度降りてもらっていいですか。」と駅員は私達へと歩み寄ってくる。

「降りるぞ。」足元に置いた私のポーツバッグを拾い持ち、腕を掴み引かれる。

電車を降りると人の輪が出来、中心で痴漢男が乗客達に取り押さえられていた。

「大丈夫ですか?」と駅員。

痴漢は取り押さえられても尚、ニヤニヤと笑っている。

気持ち悪い恐怖が思い出されて涙があふれこぼれた。

「嫌・・・」

「もう、大丈夫ですよ。ちょっと駅長室まで来ていただけますか?えっと、君は?」

「僕は彼女の同級生です、偶然乗り合わせて、そいつを一度捕まえたのですが逃げられて、皆に捕まえてと頼みました。」

「そうですか、それはご協力ありがとうごいます。では君もついてきてくれるかな?」

「はい。」

停車中の電車が発車するとアナウンスが流れる。見物の人だかりは、駅員の誘導で分散していく。駅員や周囲の乗客が発車する電車に気を取られている間に、弥神皇生は痴漢男の顔を横から覗き込んだ。発車のベルがうるさく、誰も聞こえていない。

恐ろしい呪いの言葉を。

「死ね。」

痴漢は「へ、へへ・・へへへへ」と引きつり笑いを次第に大きくし、狂ったように叫び笑う。その異様な痴漢の様子に驚いた駅員たちは手を離してしまう。

「うぁぁはははぁ、いひひひ女ぁぁ~」

走り出した車両を追いかけるように痴漢も走り出す。

「あっこら!待て!」

痴漢は駅員の制止を無視して線路内に飛び降りた。反対側の線路まで入った所で通過車両のアナウンスが流れる。

「おいっ、そっちへ行くな、ホーム下へ逃げろっ」駅員の怒号。

両ホームから人々のざわめきが、悲鳴に変わる。

特急電車のブレーキ音が耳を貫く。更なる怒号と悲鳴、そしてゴッと嫌な振動。

収拾のつかなくなったホーム内の混乱。

その中で、弥神皇生は、クククと笑う。

「あれは、世のゴミだ。行くぞ。」そう言って、私の腕を掴み引っ張る。

恐怖に思考が停止したままの私は、弥神皇生に連れられ、駅を出た。






今日は朝から、土曜日に学園の講堂を使って行われる「教育者の為の部活動指導環境作り検討会」に使う資料作りに没頭していた。高等部の2時間目の始まりのチャイムが鳴って間もなく、凱斗のデスクの内線がかかり、取ると、信夫理事長から、鉄道警察の人が捜査協力を頼みに来ているから、中等部の理事長室まで来てくれと言われた。素直に応じて中等部まで早歩きして部屋に入ると、既にテーブルの上には冷たいお茶が、凱斗の分まで置かれてある。警察と思われる二人は、凱斗が応接室に入ると訓練のように同時に立ち上がり、敬礼はしなかったものの、これまた同時に同じ角度で頭を下げた。

「どうも、お忙しい所、申し訳ございません。」と二人とも警察手帳を開いて見せる。

白髪が目立つ初老の男と、警察学校を出たばかりというような青年は、二人ともノーネクタイだったが黒いスーツを着ている。若い方の警官は、凱斗と同じ年代で、相手も予想に反した凱斗の年齢風情だったのだろう、驚いた表情をした。

「柴崎凱斗です、高等部の方に席を置いていますが、学園全般の、まぁ、そういったいざこざを担当しておりまして。」

と信夫理事長は、裏的な仕事とは言わず口を濁した。

「お若いですね。」と初老の警察官が微笑む。

「凱斗は、私の甥にあたります。常翔学園は一族経営ですので。」

信夫理事長が「どうぞ」と警察官二人を座らせ、凱斗も理事長の横に座った。

初老の方は座るや否や、昨日、東静線の二田駅で起きた人身事故の経緯を話し出した。

「制服から、その痴漢の被害に遭われた学生が常翔学園の生徒さんではないかと思われまして。事情をお聞きしたく。」

「その場で、駅員はその痴漢被害にあった生徒の聞き取りをしなかったのですか?」

「それが、その犯人が特急車両に轢かれてしまった事で、そちらの対応に全員が向かったようで、気が付いたら被害生徒と、その乗り合わせて助けた男子生徒もいなくなってしまっていたとの事で。すみません。事故報告書を作成する為に、その生徒さんから事情聴取が必要でして、こうして参ったのですが。名前もわからず。写真でどの生徒さんかわかりませんでしょうか?」

「こちらが、ホームの監視カメラからプリントアウトしたものです。」と若い方がビジネスバックから一枚の紙を出す。

A4用紙に拡大された写真は画像が荒く、しかも白黒で、ホーム広域を監視している為、被写体自体が小さい。

「確かに、うちの制服の様です。襟に太いパイピングのデザインは、周囲の学校では採用していないデザインですから。」と理事長。

「ですが、これでは中等部か高等部の生徒かは判別がつきませんね。カラー写真はないのですか?」

「ええ、申し訳ありません。構内の監視カメラはすべて白黒でして、えっと、中等部と高等部では制服の色が違うのですか?」

「そうです。ジャケットはどちらも同じですが、スカートとスラックスの色が違います。中等部女子は臙脂を基調にしたチェックで高等部は緑を基調としたチェックです。」

「どっちの色だったかは、対応した駅員が見ているはずですよね。」と凱斗。

「それが、犯人の奇怪な行動と事故の影響で、駅員は、そこまでの記憶が曖昧でして。ですが、この二人、特に女生徒さんは、とても小さい子だったとの事で、中学生であろうと当たりをつけてきたのですが・・・。」

小さい子と聞いて、凱斗はりのちゃんを思い浮かべる。もう一度写真を見るけれど、写真の女生徒は肩までの髪で、横を向いている。髪型からりのちゃんに似ているような気もするが、同じような髪型の生徒は沢山いる。男子も特別これと言って髪型に特徴はなくカメラに対して後ろ向き。まして男子は私服であり、はたして本当に常翔の生徒かどうかも怪しい。そもそもこんなボヤけた写真で誰かを判別しろと言うのが無理難題だった。

男子は、常翔学園の運動部指定のボストンバックに似た鞄を持っていた。ボストンバッグには部名が刺繍されているはずだが、これも残念なことに反対向きで写っていない。

「この鞄は、運動部の指定バッグに似ていますが、わが校では、試合などで学校外へ行く場合は、必ず制服の着用を指示しています。この男の子は私服のようですから、わが校の生徒ではないかもしれません。」

「いえ、この男子生徒は、この女性徒の同級生だと言ったと駅員は覚えていまして。」

「うーん。」信夫理事長が唸る。「せめてバックの部名が写っていれば、かなり絞り込めたのですが。」

「集会等で、名乗るように呼びかけてもらえないでしょうか?」と若い方の警官。

信夫理事長と顔を見合わせた。

「痴漢に遭った生徒は名乗り出るようにと、呼びかけるんですか?そんなこと出来るわけないでしょう!」と凱斗は思わず叫んでしまった。

「いや、痴漢に遭ったとは言わなくても・・・」

「この子達、その事故現場を見てるのですよね。」

「えぇ、はい。」

「痴漢に遭ったこともショックの上に、さらにその犯人が逃げて線路に飛び込んで電車に轢かれて死んだとなれば、少なからず気に病んで当たり前な状態の生徒を、名指しして呼び出すなんて、何考えてるですか!」

「まぁ、凱斗、落ち着きなさい。」

「落ち着いてます。だからこの人たちの、人でなしを指摘できるんです。」

若い警官はあからさまにムッとした。これぐらいで感情を剥きだしていたら、警察官としては失格だ。

「申し訳ない。捜査を適切に処理したいばかりに、被害生徒の気持ちまで気が回りませんでした。」と初老の方は謝ったが、心が籠っている口調ではない。

「刑事さん、たとえ、この被害生徒が判別したとしても、事情聴取となると、きっと嫌がるでしょう。我々生徒を預かる側としては、そっとしていてあげて欲しい、と思います。いえ、捜査に協力できないといってるのではないですよ。ですが、これはとてもデリケートな事で、あまり大事にして生徒探しは出来かねます。わかって頂けませんか?」と理事長はやんわりと、警官たちの退出を促す。

理事長もうんざりなのだ。警官が学園に事情を聞きに来たのは、先週に引き続き2度目だ。5日前、高等部の警備員が一人、学園前の交差点で大型トラックにはねられて即死した。警備員の仕事は、生徒の最終下校のあと、校内を一通り見回りをして、夜間警備モードに切り替えて帰る。その帰宅時に、しかも学園前の交差点で事故にあった。生徒達が目撃することはなかったから幸いしたが、事故の目撃者や加害者であるトラックの運転手からの証言により、死亡した警備員は、赤信号にも関わらず、ふらふらとトラックの前へと飛び出したというので、うつ病による自殺、もしくは過労による心神喪失を疑われた。警察は常翔学園に労働実態の調査として聞き取りに来た。その対応も凱斗はしたのだった。

大体、学園に警察が来るというだけで、世間体が悪い。品ある常翔学園の名が汚れる。

二人の鉄道警察隊員は大きなため息をついてから、重い腰を上げた。凱斗は理事長室から出て行く警察官ついて行く事にする。女生徒を見つけようと校内を歩き回られたら困る。二人はやはりそれを企んでいたのか、困った顔を見合わせ、僅かに肩をすくめた。

(お前らの考える事なんて、全てお見通しだ。)

二人の足元を見ると、高等部の来客用のスリッパを履いている。高等部は緑色、中等部は臙脂色。そしてこれはよくある事だ。まず常翔学園に初めて訪れる人は、交差点から近くて見つけやすい高等部の方の門へと来る。警備小屋で、中等部は交差点から左の坂道を登った所の門だと案内されるが、荷物の搬入とかじゃない限り厳密に拒んだりせず、高等部の玄関から入って、敷地を横断し中等部まで来てもらう事になる。

凱斗の視線を悟った初老が、「いやー広いですね、この学校は。中学と高校と門も分けられているとは知りませんで、迷いました。」と苦笑する。

「将来は国家を背負う大企業経営のご子息、代議士や警視庁の警視正のご子息までを預かる学園ですから。環境と施設は惜しむことなく、警備も万全です。」

「・・・。」

(お前らの安月給じゃとても子供を通わせられはしないだよ。)

二人の着ているスーツは見るからに安物だった。

(くそっ、今日、スーツを着てくるべきだった。)と悔やむ凱斗。格の違いを見せつけられたのに。今日は一日中、資料作りになるとわかっていたから、コットンシャツに黒のジーンズで来てしまっていた。

中等部の体育館横を添って高等部の校舎へと入る。中高の全建物へは、雨をしのいで上靴で行き来ができるように、屋根付きの廊下にしてある。

高等部のチャイムがなり、生徒達が教室から出てくる。急に校舎は騒めき賑やかになった。

高等部の西棟の廊下を歩いていると、向こうから弥神皇生が歩いてくる。左目を長い髪で覆っているから遠くからでもよくわかる。本来なら風紀上指導対象の髪型だが、子供の頃、目の手術をしたとかで、光に当てられない。本来ならサングラスをするべき所なのだが、それは本人が嫌だという事で、学園側はその髪型を容認した。その弥神皇生は、胡散臭い大人達の一団に驚いたのか、凱斗達とすれ違う時、足を止めて廊下の端に寄りこちらを訝し気に見ている。

生徒達をランク付けをするなら、この弥神皇生は、一番に気を使わないといけない生徒だ。華族会西の宗の代表の息子である。そんな意識もあって、すれ違う時、凱斗は僅かに頭をさげて微笑んだ。すると、「あの、もしかして警察の人ですか?」と弥神皇生から声をかけてくる。大人三人が驚いて振り返る。

「そうだけど、どうして?」

「そういう雰囲気だから。」と無邪気に答える。「もしかして、昨日の東静線の事故の事ですか?」

「どうして、それを?」

「僕が捕まえました、昨日の痴漢。」

「えっじゃあ、君があの男子生徒?」と若い警官。

「ちょっと、ここでは、まずいので、高等部の応接室に案内します。」と凱斗は慌てて周囲を確認してから二人の会話を制止させる。

「あぁ、良かった、見つかって。」

(中等部の生徒じゃなかった。という事は、マジでりのちゃんだったりして?)

「じゃ、弥神君も来てくれるかな。」

応接室はちょうどこの棟の2階にある。凱斗は先立って歩き、応接室へと案内する。幸いな事に応接室は鍵も開いていて、誰も使っていない。引き戸を開けて、電気をつける。刑事に続いて弥神皇生も室内に入ると、扉をきっちりと閉めた。

「君は、弥神、何君?」と若い警官は椅子に座るのも逸り、質問を開始する。

「気安く呼ぶな。」

「えっ?」

その声は、それまでの弥神皇生の声色とは違って、低く、そして睨みつけてくる顔は、大人がたじろぐほどに鋭い。

「余計な捜査など必要ない。我らに関わるな。」

そう言って弥神皇生は覆っていた左側の前髪を左手で払った。

露わになった左眼が大きく開かれる。

「何!?えっ?目が・・・」


――――――――――――――――――――――――――――・・・・・・・・・


「凱斗、なんだ、帰っていたのか」

「え?」

「え、じゃないよ。帰ってきたら理事長室に来いとメモ書きを置いていたんだが?」と敏夫理事長は、若干の苛立ちの含んだ声でパソコンのキーボードの上に張られた付箋を手で示す。

「あっ、はい・・・。」と答えながら、自分の置かれた状況がいまいち把握できない凱斗。

パソコンの画面はスリープモード、キーボードを触ると、パスワードの入力を促す画面。

「え?」

「お前、大丈夫か?資料作りはちゃんと進んでいるんだろうな。」

「はい・・・」それを朝からずっとやっていて、それから・・・

「中等部に呼ばれたって、何だったんだ?」

そうだ、信夫理事長から内線がかかってきた。だから中等部の応接室に・・・何しに行ったんだ?

「何をしに行ったんですかねぇ。」

「はぁ!?お前、ふざけてるのか!」敏夫理事長の豪快な声が事務室内に響き、職員全員が凱斗に注目する。「とうとう、その頭壊れたか?」

(そうかもしれない。何だが白い風船が頭の中にあるように気持ち悪い。)

「そうかもしれません。気分がすぐれないので、保健室に行ってきます。」

「えっ?ちょっ、おいっ!凱斗!」

(何だ?こんな事初めてだ。)

「教職員って保健室、使えたか?」

「さぁ・・・それは理事長がご判断されたらいいんじゃないですか?」

事務員と敏夫理事長の会話を背に、凱斗は首の後ろを掻きながら、廊下に出る。








東静線学園前駅、東通りを200メートルほど行った所、ここ周辺では一番おいしいと柴崎家も御用達の「シェルダン」と言う名のケーキ屋から、はしゃぎながら店を出てくる麗香と悠希ちゃん。最初の頃こそ、仲間に入れるのを嫌がった本心の麗香だったが、今ではすっかり無くなって、同じサッカー部のマネージャーとして意気投合している。

それを見ている新田も安堵の心。悠希ちゃんは恋心をもって新田を慕っているというのに、新田はそれに気づかないで、まだ同情心に保護者じみた感情で悠希ちゃんに接している。りのちゃんの時の繰り返し。

悠希ちゃんは完全にりのちゃんをライバル視していて、その視線にりのちゃんは気づいている。

微妙な三角関係、先が思いやられると、亮は心の中でため息を吐いていた。

「お待たせ。」

「おっせーな。プリン買うだけだろう。」

「だってね。夏の新作デザートが、おいしそうだったんだもん。」

「買ったのかよ。」

「だって、プリンだけじゃ地味だもの。ねぇ。」麗香が悠希ちゃんに同意を求める。

「一体いくつ買ったんだよ~。」

「プリン入れて6個。」

「あのなぁ~。二人家族で6個もケーキ食えんだろ!」

「じゃー私達も一緒に食べたらいいわ。ちょうど6人でしょ。」

「調子悪いって学校を休んでるりのん家に、ズカズカと上がり込む見舞客って非常識だろ。」

「だって、限定商品なのよ。」

新田と共に亮も肩を竦めたため息をつく。

今日、りのちゃんは学校を休んだ。高等部に入って初めてだ。中等部では精神科に通っていた薬の副作用で、休む事が多かったけれど、催眠療法以来調子がよく、高等部では休むことなく順調に通学が出来ていた。

それなのに突然、調子が悪いから休みますと学園に連絡があり欠席。佐々木さん曰く、昨日の練習試合は問題なく、試合にも普通に出ていたし、帰りもファストフードでおやつを食べて帰ったという。麗香と佐々木さんがメールを送ったら、「頭が少し痛いだけだから心配しないで。」と短い返事が返って来ていたという。

話の流れで、部活の後、麗香と新田がりのちゃん家に様子を見に行く事になり、よせば良いのに新田は悠希ちゃんを誘った。悠希ちゃんは、一瞬戸惑うけれども、新田と一緒に行動できる事を本心で喜び、そしてわずかな好奇心も出して、「行く」と返事する。

そうなったら、亮も行かない訳に行かない。

「買ったもんは仕方ない。おばさんが食べきれないって言ったら、持ち帰ったらいい。とにかく早く行かないと日が暮れる。」

「そうね。タクシーで行きましょう。今日は電車を使いたくないわ。」

「どうして?」と新田。

「昨日ね、この路線で人身事故があったのよ。気持ち悪いわ。」

「昨日の事だろう。しかもそこの駅じゃないだろう。」と亮。

「そう一つ向こうの寺田駅よ。でも嫌なの。」

「まさか、朝もタクシーで登校した?」

「勿論、嫌じゃない、もしかしたら自分の乗った電車が轢いた電車じゃないかって思ったら、しばらく乗りたくないわ。」

また、新田が軽く溜息を出した。理解できない理由ですぐにタクシーを使う麗香の価値観が嫌なのだ。一時はあきらめに近い納得をしていたのに、悠希ちゃんの件でその感情は再燃し、より強く毛嫌うようになった。今は、何とか表に出さない様に努力はしているが、またいつ、この間の様に爆発するかわからない。

「だったら、学園前の交差点も渡れないじゃないか。」

「やめてっ、それは気にしない様にしてるんだからっ。」

ついこの間、学園前の交差点で、常翔学園高等部の校務さんがトラックにはねられて死亡した。全生徒が下校した後の事故だったし、テレビニュースにはならず、新聞に載るだけの小さなニュースで、道路も翌朝には何も痕跡がないように掃除がされていたから、これと言った混乱が生徒に広がったわけでもなかったが、生徒間では一通りの話題にはなった。

「でも、ショックだよなぁ、知った人が死ぬって。」

「もう、やめてって言ってるでしょう!」と麗香は新田の耳を引っ張る。

「痛たたっ。」と悶える新田に、悠希ちゃんがくすくすと笑う。

駅のロータリーに戻り、柴崎家御用達のタクシー会社の車を選んで乗り込む。金がなくても麗香のサイン一つで支払いは月末にまとめて屋敷に集金人が行く。電車だと20分ほどかかるのを半分の時間で、りのちゃんの家のマンション前に着く。近距離でも嫌がらずサービス満点に走ってくれるのは、柴崎家の力。大お得意先の娘にゴマをするように過剰にサービスをする地元経営の会社は、タクシー会社だけじゃない。花屋、菓子屋、酒屋、魚屋、八百屋、クリーニング屋、電器屋などなど。それは福岡の藤木家も同じだった。

麗香がタクシー会社の請求書にサインをして降りてくるのを待つ。亮がりのちゃん家に来るのは久々だった。パソコンの調子を見に来て以来だから、半年以上経つ。

玄関ロビーに入ると、ちょうど中から人が出て来て、りのちゃんの部屋の番号を押さなくてもマンション内に入れた。先を歩く新田がエレベーターを使わず階段を登るのを、麗香が、「何だって文明の力を使わないのよ。」と怒る。

りのちゃんの家は2階、エレベーターを使わずともこれぐらいの階段なら学園で登り降りしているのに、まるで使わないと損のように麗香は、エレベーターに乗りこむ。

新田は階段を使い先に行って、りのちゃんの家の呼鈴でも押しているのかと思いきや、2階エレベーターホールを出た廊下の所で立ち止まっていた。

「何してんのよ。」と麗香は新田の前に出る。悠希ちゃんに続いて最後に亮も、新田の背後から廊下へと顔を出して見ると、ちょうどりのちゃんのお母さんが玄関を開けて出ていて、中から出てくる人を待っていた。

「わざわざ、ありがとうね。お土産まで持って来てもらって。」

「いえ、安心しました。元気そうで。」

「明日からは、ちゃんと学校に行かせるから。」

そんな会話が聞こえてきて、出て来た人物に全員が息をのんだ。

弥神皇生――――「何故?」という疑問は4人共だ。

意識した瞬間から頭痛は始まる。

弥神が亮達に気づいて、りのちゃんのお母さんも気づく。

「あら、慎ちゃんに柴崎さん、藤木君も、あー、えーと皆、同級生ね。」

「仲の良いお友達がお見舞いに来てくれたようですね。では、僕はこれで失礼します。」

「ありがとう。気をつけてね。」

丁寧に頭を下げた弥神は、呆然と佇む亮たちに向かって歩いてくる。

「りのぉ、慎ちゃん達が来てくれたわよ。」とりのちゃんのお母さんは室内に向かって叫ぶ。

【何故、こいつが、りのちゃんの家に?何の用があって?寮生は、もう門限間近だというのに。】

疑問が皆の心の中で伝言ゲームのように繋がっていく。

新田と悠希ちゃん、続いて麗香が、弥神の為にすれ違うスペースを開けながら、亮との関係を心配する3人。

弥神はその片目で亮を睨みつける。

きぃぃぃーーーんと強くなる痛み。そして頭の中で響く声。

【余計な詮索はするな。】

亮は廊下の壁に手をついた。

「お先に、皆。」

「ええ、またね。弥神君。」と麗香

「おばさん、りのの体調は?」と新田。

俺だけ?誰も何ともなく、りのちゃんの家の前へと進んでいる。

何故?

【その疑問も無用だ。】その声はまるで祝詞のようで、何を言っているかわからない。

亮は耐えられなくて腰を折る。激痛が思考の邪魔をする。

(誰か・・・)意識が遠のきかけたその時、ポンと肩を叩かれた。

「またね。藤木君。」微笑んだ弥神。

「あ、あぁ。」

あれ以来、初めて言葉を交わした。弥神がエレベーターに乗り込み姿が見えなくなって、やっと痛みがなくなる。

(また・・・)

何か考えなければいけないような・・・

(何を?)

何だったか?









りの、いつまで、そこにいる?

(構わないで。)

傷ついているはりの だけじゃない。

(知らないわ。)

知らなければならない。

(どうして?)

どうして?どうして知らないままに居られる?

(今はいいの。私は絶望しているから。)

そうだな、絶望はりの原点。

(私の?原点?)

絶望の末に生まれた。

(それは、ニコじゃなくて?)

ニコもそう。

(よくわからないわ。)

わかる為には、そこから出てくる必要がある。

(いやよ。)


「ニコ、りのはまだ時間がかかりそうだ。大丈夫だな。これまで通りに。」

と私の頬をなでる。その手は冷たくまるで蛇が這うよう。

りのはずるい。私に意識を預けて、傷心に浸っている。

私はこんなにも怖い思いをしているのに。

昨日の事を思い出すと涙が勝手に出て来て、身体は震える。

「ニコ、わかっているな。」

「ええ・・・」

返事をすると満足したような微笑みをして、弥神皇生は部屋を出て行く。

「僕はそろそろ帰ります。」

玄関のドアが開けられる音。

「わざわざ、ありがとうね。お土産まで持って来てもらって。」

「いえ、安心しました。元気そうで。」

「明日からは、ちゃんと学校に行かせるから」

明日から、学校・・・ちゃんと行かなきゃ、私が上手くやらないと・・・

「あら、慎ちゃんに柴崎さん、藤木君も、あー、えーと皆、同級生ね。」

「仲の良いお友達がお見舞いに来てくれたようですね。では、僕はこれで失礼します。」

「ありがとう。気をつけてね。」

「りのぉ、慎ちゃん達が来てくれたわよ。」ママの声が一段と大きく部屋に響いた。

慎ちゃん?

慎ちゃん!

慎ちゃんが来てくれた!体を起こして、駆け出す。

部屋に散らばる本に足をぶつけて、転倒しかけた体を引き戸の扉に手をついて、防いだ。

慎ちゃんが来ている!

足の痛いのなんて平気。引き戸を開けて駆け出す。

大好きな慎ちゃん、いつものように、遊びにきてくれた。

靴を履く時間ももどかしい。

「おばさん、りのの体調は?」

玄関を飛び出した。

「まぁ!裸足で!」

そこに慎ちゃんはいない。

「りの!大丈夫?」

「りの、熱は?」

大きな手がおでこを覆う。これは慎ちゃんの手じゃない。男のごつごつとした手。

昨日の男の気持ち悪い息、ニやけた顔を思い出す。生き物のように這った手の感触が思い出され、

「いやぁっ!」振り払った。

「りの!」慎一の驚いた顔。慎ちゃんはこんな顔、しなかった。

「どうして、ママっ!」

(どうして慎一がここに?ママが呼んだ?言わないでって言ったのに。)

「言ってないわ。」

「りの?お見舞いに来たのよ。」麗香が心配そうに私を見つめる。

「最近調子よかったのに、どうしたのかなって。藤木なんか自分の風邪を移しちゃったかと心配して。」

慎一は私が振り払った手の所在に、困った顔をする。

「りのの好きなシェルダンのプリンとケーキを買ってきたわよ。」

そう言うと、麗香が後ろへ振り返る。ケーキの白い箱を持った岡本さんがにっこりとほほ笑んでいた。

(まだ、まともに話した事のない人。なのにどうしてここに居る?)

「さぁ、皆入って、狭いけど。りのも、裸足なんだから早く入りなさい。」

岡本さんの後ろから、遅れたように藤木もゆっくりこちらに向かってくる。

目を細めたあの眼。

慎一がママの誘導に従って、家に入ろうと更に私に近寄る。これは男の人の匂い。

「いや、ダメ、入らないで。」私は玄関に入って扉を閉めた。

(どうして、慎ちゃんはいないの?)






「こら、りの、開けなさい。」

「りの・・・」慎君が険しい顔で心配をする。

「ごめんね。慎ちゃん、皆も、今日は帰ってもらっていいかな。」

「おばさん、りの、様子が・・・発作じゃないよね。」と慎君

「違うわ。ちょっと混乱してるだけよ。大丈夫、明日は学校に行かせるから。」

発作?

『精神科に通う病気の事も人より理解できる。偏見はないんだ。知り合いが、ずっとあそこに通ってて、入院とかもして、村西先生に、その子の様子を教えてくれと頼まれて、定期的に話しをしに行っている。』

初対面の人と話せず、吃音の酷い言葉、そして発作?と聞いて心配する慎君。

(精神科に通う知り合いの子って真辺さん?)

『そうそう、この中で一番岡本さんに近いわ。色んな意味で』と言われた。精神科に通う自分と近い。そういう意味?

「ごめんなさいね。柴崎さんも、藤木君も、えーと。」

「岡本です。柴崎さんと一緒にサッカー部のマネージャーをしています。」

「あら、そう。せっかく来てくれたのに、ごめんなさいね。」真辺さんとはあまり似ていない、また違った雰囲気の持つ美人のお母さんだった。

「いえ。」

「りの、私、帰るけど、いつでも電話して。ね。」柴崎さんが扉の向こうに声をかける。

でも、中からは何も反応はなかった。

「おばさん、中に入れないんじゃぁ。」

「大丈夫よ。」と苦笑する真辺さんのお母さん。

「新田、行こう。」と藤木君が促すも、慎君は名残り惜しそうに中々帰ろうとしない。

「ごめんね、慎ちゃん。」と真辺さんのお母さんが背中を押して、やっと慎君は足を動かす。

「りの、バイバイ、また明日、学校でね。」と柴崎さんはわざと大きな声を出すと、ガチャと扉が開いて、真辺さんが飛び出してきた。そして柴崎さんに抱き着く。

「麗香ぁ、行かないでっ。」

「あぅ、どうしたの。」柴崎さんは、首に巻きつかれた真辺さんの手をほどこうとするのだけれど、真辺さんは小さい子がしがみつくように、離さない。

「りの!」またもや慎君は真辺さんに駆け寄るも、真辺さんは顔を引きつらせて、柴崎さんごと後ずさり。

「ちょっ、ちょっと、りの・・・苦しいから一旦放して。」

悠希は確信した。この怯え方、慎君の異常なまでの心配、間違いない。真辺さんが精神科に通う子だ。

すべてにおいて完璧な子が、何があって、精神科に通うのだろう。それに、精神科に通う子が特待生ってどういうこと?

「じゃ柴崎さんだけ・・・、ごめんなさいね。」

本当に、申し訳なさそうに真辺さんのお母さんは、何度も慎君にごめんなさいを言って、帰らそうとする。

やっと、あきらめのついた慎君は、肩を落として階段を降り、マンションのエントランスに出る。

「ねぇ、慎君、もしかして、前に言ってた精神科に通う子って、真辺さん?」

慎君は足を止めて、ゆっくり顔を上げた。

「ご、ごめんなさい。でも私、だから気持ちを分かってあげられると思うの。」これは嘘でもあり、本当でもある。半分以上が好奇心だ。

「あぁ、そうだな。」と言って慎君は大きく息を吐いた。

「悠希ちゃん、その話は長くなるし、こんなところでは話せない。とりあえず、そのケーキも何とかしないと。」

「あっ。」ケーキの箱を持ったままだったのに気づく。渡すのを忘れてしまった。

「よしっ。新田ん家で食うか。」

「ええっ!」

「晩飯後のデザートにちょうどいい。」

「今日は俺が晩飯担当じゃねぇ。月曜日は、母さんが作る日だ。」

「あーじゃぁ、ちょうどいいじゃん。俺達3人と、えりりんとおばさんとおじさんで、ちょうど6個の割り当て。」

「何がちょうどいいだ。」

「悠希ちゃんは遅くなるとダメかな?」

「ううん。慎君の家なら大丈夫だと思う。お母さんも知ってるお家だし、久しぶりだわ、慎君の家に行くの。」

「あぁ、そうだったな、悠希ちゃんも言ってみれば新田の幼馴染だった。」

えりちゃんが交通事故に遭って入院していた時に、サッカーの練習後に病院に行くという慎君について行ったのがきっけで、その後も何度もお見舞いに行くうちに、慎君のお母さんに誘われて何度かお邪魔した。

慎君のおばさんに合うのも久しぶりだ。えりちゃんはこの間、学園で見かけたけど、向うはお友達とおしゃべりに夢中で、悠希には気づいていなかった。

「んじゃ、行くべ。」

「なぜお前が仕切る。」

「俺が仕切らないで、誰が仕切るんだよ。この中で。」

そうね、柴崎さんの代わりが出来るのは藤木君しかいない。






新田の相変わらずな心配性に、亮は大きなため息を吐いた。朝から「りのの昨日の状態は何だったんだ?柴崎から連絡はあったか?」など、もう朝練の練習どころじゃない。だったら来なければいいのに、新田はその話題がしたいがために朝練に来ている。

仕方ないとは思いつつも、やっぱりうざい。昨日は、悠希ちゃんにりのちゃんが精神科に通うになった理由を軽く説明しただけで、りのちゃんのおかしな言動についての議論はしていない。新田は、したそうにしていたが、新田家にお邪魔した事で出来なくなるのは、亮の計算済みの提案だった。案の定、懐かしの悠希ちゃんの訪問に、テンションの上がった新田のお母さんとえりりんの会話が盛り上がり、晩御飯のメニューも、本当はナポリタンだけの予定だったのを、店に食材を取りに行ってまで新田に手伝わせて、エビフライやら、鶏肉の香草焼きまでごちそうしてくれた。

亮は、りのちゃんのお母さんの言葉と本心から、りのちゃんが休んだ理由をなんとなく悟っていたが、詳しくはわからないので、昨晩のうちに、麗香にメールを送っていた。

【りのちゃん、どうだ?手に負えないなら、何時でもどうぞ】

しかし、麗香からは結局、朝まで連絡はなし。連絡のない事が、大事には至らない証拠だろうと解釈をしていた。

着替えたばかりの制服のポケットの中で、メールの着信を知らせるバイブ振動がする。亮は鞄を担ぎ、更衣室を出ながら、着信相手と内容を読む。少し遅れて着替え終わった新田もついてくる。

【昨晩のメールありがとう。色々あって、返信する暇がなかったの。詳細は後で話すわ。今から、りのと一緒に登校するから】

「柴崎とりのちゃん、一緒に登校してくるって。」

「えっ、それって・・・りのんちに柴崎が泊まった?」

「さぁ~。」知らないの意味を込めて首を振ったが、新田は訝しんで亮の携帯を覗こうとする。

「なんでお前だけ?」

亮は画面を見られないように、新田から携帯を遠ざけた。

「お前、何か隠しているだろう。」

(そう思うのなら、隠されているのは、理由があってのことだと納得すりゃいいのに。)

「隠してないが、いい加減、現状が最良の状態だと納得しろよ。」

「え?」新田は意味が分からないと顔をしかめる。

「知らぬが仏って言うだろう。」

「いや、それって、やっぱり隠してんじゃねーか。」

「俺も昨晩の内に柴崎にメールを送っていたが、返信は来なかった。あの柴崎が返信をしなかった。その意味をちゃんと理解しろ。」

「えー?」新田は顔をしかめて、考え始めたが、頓珍漢な方に思考がいき、眉間にしわを寄せる。

亮は、もう新田を無視して歩く。玄関ロビーの下駄箱ロッカーで靴を履き替えながら、正門の並木通りへの様子を窺うと、ちょうどタクシーが学園前に停まる。警備員さんが、タクシーを覗き込み誘導している。後部座席から降りて来た二人は、正門でIDバスを機械にタッチすると仲良く並んで歩いてくる。

新田が駆け出して二人を迎えに行くのを亮も追いかけた。

「おはよう!」亮達に気づいた麗香が大きく手を振る。その後ろに、隠れるように一歩退いたりのちゃん。

「どうしたんだ、その髪!」

「気分転換よねぇ。」と麗香は、りのちゃんに同意を求めた後、亮に目配せする。

【新田には言えない事がある。】と読み取る。

「気分転換って・・・どうして、グレっおぅ」亮は新田の脇腹を突いた。

麗香が、あえて気分転換と言って目配せをした。グレンの話はきっとタブーだ。麗香から詳細聞くまでは、グレンの名を出さない方が良いのだろう。

「りのちゃん、とっても可愛いよ。似合ってる。」と亮は精いっぱいの柔らかさで微笑んだが、りのちゃんは険しい顔で俯いた。

「そうでしょう。やっぱり、りのは、ショートがいいわ。」

新田は、複雑な表情をしてあたふたするばかり。

「さぁ、行きましょう。」麗香は、りのちゃんの背中に手を添えながら、亮に目で訴えてくる。「話はあとで。」と読めた。

常々思う。何故、麗香だけは、こんなにもよく読み取れるのか?そして、麗香は読み取られる事を嫌がらないのはなぜか?

こんなにも人の本心を読み取れるのに、その答えは読み取る事が出来ない。

2時間目の終わり、麗香が6組の教室の入り口で亮へと合図を送ってきたのに立ち上がり、後をついて行った。新田はよせばいいのに、りのちゃんが心配で1組に様子を見に行って居ない。

西棟と南棟の間の中庭、西棟の化学実験室の壁寄りに、金木犀の葉が茂り影になっている場所まで来て、麗香は振り返り、一つ息を吐いてから話し始めた。

「りの・・・・痴漢にあったのよ。」

(やっぱりか。)

「驚かないのね、わかってた?」

「うん、わかっていたというより、りのちゃんの言動とおばさんの様子から、まぁそんな感じかなと予測してた。その予測もなるべく考えない様にはしてたんだが。勝手な憶測は読み取りのズレを起こす。」

「そうなの?」疲れた様子の麗香。昨日、家に帰れたのは遅かったのだろう。「りのね、痴漢にあったの初めてだったのよ、なのに、ちょっと悪質なやつに。」そう言って顔をしかめて俯いた麗香から、かなり強い嫌悪と怒りを読み取り、程度の悪さを知る。

りのちゃんが痴漢にあったのが初めてなのが、意外であり、納得でもある。あの美人さなら、何度も痴漢に狙われていてもおかしないと思えたからだ。

「髪も伸びて、りのは痴漢にも狙われるぐらい大人の女性になってきたって事よって、励ましたつもりだったんだけど。じゃ髪を切って、子供のままでいいって。」

「だから、髪を切ったのか。」

「ええ、昨日、新田の手を振り払って、異常に新田を押しのけたじゃない。」

「あぁ。」

「男の人が怖いって」

「トラウマになっちゃったか。」

「今すぐ切りに行くって、言い出したら聞かなくて。私の行きつけの美容師に連絡とって、定休日だったのを出張して切って貰ったのよ。」

「大変だったな。」

「まぁ、それでトラウマがなくなるなら、お安い御用だわ。それとね、どうやらグレンに振られちゃったみたいなの。」

「マジかぁ、究極の遠距離だもんな。無理もないか。」

「それがね、驚きよ。グレン、フランスで人気俳優になったのよ。」

「人気俳優!?」

「そう、スカウトされてドラマに出たら、一気に人気が出て、そのスカウトしたのが女優だったみたいで、その女優と今は同棲しているのよ。」

「同棲って、まだ16歳だろ。驚きだな。」と言いながら、すでにその話を聞いたような感覚がして気持ち悪く、亮は顔を顰めた。

(デジャヴ?)

「グレンはフランスの仲間に連絡先を教えないで、その女優の所に行っちゃったらしくてね。皆が怒っているって。」

亮は思い出した。りのちゃんが泣いていた日の事を、あれは地震の翌日、新田に腹が立って午後の授業をサボって帰ろうとしたら、チャイムが鳴ってもベンチに座ったままのりのちゃんを見つけた。りのちゃんは泣いていた。グレンにフラれて大泣きしていたのに、急に立ち直ったりのちゃん。

(そうだ、何故忘れていた?こんな大事なこと・・・。)

「どうしたの?」

「いや・・・あいつ・・・」

「弥神君でしょう。」

「あぁ、あいつは何故、りのちゃんの家に?」

「弥神君、偶然その痴漢現場に居合わせて、その痴漢を追い払ってくれたんだって。」

(偶然居合わせた?追い払った?あいつが?痛っ・・・)

また始まった頭の奥へ貫く痛み。

「痴漢を退治した後、りのを家まで送ってくれたんだって。で次の日、学校を休んだりのを心配して、大好きなプリンをお見舞いにもってきてくれたって。」

(大好きなプリンを持ってきた?何故知って?)

更にきつくなる痛みに思考が続かなくなる。

「だから、助けてくれた弥神君は、近寄っても大丈夫なんだって。良い子じゃない。あんたや、今野から聞かされている話で、あまりいいイメージがなかったけど、誤解だったのね。とても紳士だわ、痴漢を退治して家まで送ってくれて、次の日にお見舞いまで。」

「おい、あまり、あいつを信用するな。」

「えっ?」

「あいつは、何かある。あいつの周りでは理不尽な事が理不尽に変わる。」

「藤木!」麗香が亮を怒りに睨む。「あんたが弥神君を殴った本当の真意を、私は知らない。何も言わないあんたに、私は少しでも理解しようと足掻いたわ。そんな私の全て読み取り知っていたでしょう。それを知っても決して言わないあんたが、私に弥神君に対する気持ちを自分の物と同じにしろと命令するの?」

「命令じゃなく、俺は、あくまで警戒を。」

「警戒?弥神君に対して何の警戒をしなくてはいけないの?」

「いや、そうじゃ・・」麗香の怒りが助長するように頭痛も強まる。亮は歯を食いしばった。

「私は華族よ。弥神君も華族。同じ華族の称号を持つ者よ。わかる?」

(わかる・・・)と言うより、わからせられる。

「あんたのわからない真意より、華族の絆は尊厳するべき心意よ。」黒いまっすぐな目が亮を貫く。

これが華族の力。ただの民である亮はその力、痛みに腰を折るしかない。

「ごめん・・・。」





(言い過ぎたかしら・・・)と麗香は一瞬だけ後悔したものの、すぐに気持ちを取り戻した。

弥神君を殴って以来、亮がなるべく弥神君との接触を避けているのを麗香は知っていた。気に入らないのはわかる。しかし、いつもいつも、作為的にコントロールされていると、大事な真髄を見失いそうだ。麗香には麗香の立場っていうものがある。そんな事も、亮はすべて読み取って配慮してくれると思っていた。なのに、『信用するな。』なんて。華族の内情を知らないにしても、麗香は同意なんてできなかった。

自分は、学園の経営者の娘であり、華族の12頭家でもある柴崎家の跡取り娘。その立場から、この学園内で一番に配慮しなければならないとしたら、同じく華族の12頭家の西の宗代表の弥神家の息子である弥神皇生君だ。

12頭家の中でも弥神家と鷹取家は特に特別である。誰を差し置いても、弥神君がこの学園生活に不満がないように、気を配らなければならない。だからこそ、凱兄さんも高等部に移籍して来たと麗香は考えている。その弥神君が、りのが痴漢に遭っている所に偶然居合わせ助けた。しかも家まで送ってくれるという紳士ぶり、次の日にも、りのが大好きなプリンを買って見舞いに行くという対応。

亮や今野から聞いた話とは違った弥神君の一面を知り、流石だと見る目が変わる。いや、今までが亮や今野からの聞き伝えで、麗香は悪いイメージに流されていた。いけない事だと麗香は反省する。庶民の生活を知れと亮や新田に言われてきた事を素直に、それも自分に必要だと知ろうとしてきた麗香だったが、これはある意味、庶民に慣れ親しんだ弊害とも言えるのではないだろうか。

麗香は華族の称号持つ家の子であり、生まれながらにして華族の称号を持ち、華族12頭家を引き継いで行かなければならないのが真実情だ。どんなに庶民の生活を知り慈悲に目線を降ろしても、称号がある限りは民を土台にして立っている事は変わりない。

美月が以前に言った。『私達は、普通の家庭の子供達とは違う。小さな頃から私達はその志を意識して育てられてきている。俗世に流され、きれいごとを言っても、それはのちに偽りに変わる。』 と。美月は正しかった。華族であるその姿勢が、庶民を見下し蔑むような言動に捉えられたとしても、ゆくは有事の才に、この国を神皇様と共に守る事で還元されるのだ。

その美月が取り巻きを引き連れて、食堂に入ってくる。麗香と目が合い軽く微笑んだ。麗香の変化に異を唱え大喧嘩をして、目も合わさなくなった時期もあったけれど、今ではもう仲直りをしたというか、美月が麗香の事を諦めに近い理解をしてくれたと言った方がいい。美月は幼少の頃から一貫した考えを変えず、外部入試組とは一線を引いて凛としている。知らない人が見れば、美月の方がこの学園の経営者の娘と思ってしまうかもしれない。

「お待たせ。」佐々木さんと岡本さんがテーブルにつく。

「新田君と藤木君は、もう?」

「ええ、さっさと食べて、サッカーしに行ったわ。」

「早いわねぇ」

「早食いは彼らの得意技だもの。」と女三人で笑う。

りのが男性恐怖症になってしまった対策として、とりあえず今日の昼食は男抜きのテーブルにする事にした。様子を見ながら、あまりに恐怖症が改善されないようなら、それこそまた精神科に通う事になるかもしれないけれど、一過性じゃないかと麗香達は思っていて、昼食は、りのの調子を見て、そのうち男子たちを戻そうという考え。

「うぃーす。」今野がいつもの通り、麗香の隣の席に着こうとする。

「ハル、悪いけど、今日は女子だけで食べたいの。別のテーブルに行ってくれる。」と佐々木さん。

「えっ!?何故?」

「女には女の話ってものがあるの。」

「えー。」

佐々木さんと岡本さんには、りのが痴漢に遭った事は話している。新田には藤木が説明した。知らないのは今野だけ。

「俺一人だけ?」

「そう、新田と藤木は、もう食べ終わってグランド行ったわよ。」

毎回、毎回、今野だけが詳しい話をされない。本人もそれを悟っている節がある。ちょっと可哀そうと思うけれど、仕方ない。

りのに関する事が、あまりにもシークレットな事が多い。

今野は不貞腐れて、配膳カウンターへと向かった。

「ちょっと可哀そう。」と岡本さん。

「仕方ないな。後でフォーローしておくわ。」と佐々木さん。

(しかし、こうも次から次へとややこしことが起きるもんだわよ。)と麗香が溜息を吐くと、りのがちょうど食堂に入って来た。

すれ違う男子生徒に慄き、大げさに距離を開けているのに、佐々木さんと顔を見合わせて苦笑した。

りのは、麗香をみつけてテーブルの場所を認識すると、配膳カウンターにそのまま、並んだ。

「私達も取りに行きましょう。」

不運にもりのの後ろに飯島隆が並んで、りのはビクついて少しでも距離を開けようとするも、飯島隆は執拗に迫る。

「真辺さん、その量は、青年女子の理想接種カロリーに満たない。僕たち特待生はすべての学園生活の見本となるべく、昼食の時間も、すべての生徒の見本であるべき。その量では健全なる成長の妨げとなり、特待生規約に反する。すなわち真辺さんの食事量は決して許諾できるものではない。」回りくどい理論武装の飯島隆は、りののトレイに手を伸ばし、ご飯のお椀を取り上げると並に入ったご飯と交換する。その時、飯島の手が、りのの腕に触れた。

「ひゃっ。」声にならない悲鳴を上げたりのは、トレイを足元に落とし、触れられた腕をさする。足元に昼食のおかずが散乱した。

「わっ、ま、真辺さん、何して、これは特待生としては、あるまじき事で」

(あの馬鹿。何、余計ことをしてくれちゃってんのよ。)

「あらら、大変!」

麗香達は、りのへと駆けた。







トーマス・ヘンリーからテンションの高い電話がかかって来た。りのちゃんの翻訳が最高だと、日本の出版社が絶賛していたと。だったら報酬をはずめよと促したら、うーんそれは発売して売れるまで待ってくれと言う。そんなのを待っていたら何年かかるか。仕方なしに凱斗自身が前払いしておくから相場教えろと言えば、大体一ページ50円ぐらいだと言う。トーマス・ヘンリーの言葉を信じて計算すれば、483ページの本であるから、24150円の報酬となる。りのちゃんは、凱斗が翻訳を頼んでから、中間テストもあり、部活や特進の出される宿題をこなして、約一か月で翻訳を完成させた。これを本業としたら、かなり稼げるのではないか?凱斗は、ちょっと色をつけて、3万円を渡す事に決める。そして、なるほど、やっぱり、りのちゃんの文章構成力は、プロの編集者から見ても絶賛する物だったか。と感心する。

「華選に上籍すれば、アルバイトも必要なくなるだろ。」電話を切ると、敏夫理事長が鬱陶しそうに顔を向ける。私的の電話が、それも英語での会話だったことが耳障りだったようだ。

「えぇ、まぁ。でも、りのちゃんの新たな能力が判明する事になります。」

「凱斗、ちゃんづけはやめなさい。」

「あっ、はい。申し訳ございません。」

間近に迫る華冠式にあたり、ピリピリしている敏夫理事長。華冠式を行う生徒は、精進料理を1か月前から食べて身を清めなければいけない。その為、生徒の身心ケアや学園生活におけるサポートをする。今週末の日曜日には、その為の説明会があり、おまけにその前日の今週は、関東の教職員が集まる講演会がある。その準備もあって超多忙だ。そんな精神的な重圧でピリピリした敏夫理事長は、些細な事で凱斗に八つ当たりに等しい指摘をし、さらに、検討会の資料作りを丸投げしていた。

(まったく冗談じゃない。)

記憶力が良いからって何でもかんでも瞬時に出来ると思い過ぎ。それで軍で鍛えたタフさで徹夜でも平気とか思ってるふしもある。まぁ、2日ぐらいは寝なくても平気だけど、流石に3日目はあくびが連発するし、思考力は低下する。しかも徹夜が平気なのはサバイバル的な死活時であって、こんな頭脳を使う事務的作業時ではない。

凱斗は遅い昼食を取りに行きますと断って、逃げるように理事長室を出た。事務方や、先生方は生徒で混み合う昼食時間をさけて、時間をずらし食堂を使うのが通常である。

理事長室から職員室前の廊下は職員と生徒達が行き来して騒がしい。凱斗は安堵のため息を吐いた。こういう、学園の何気ない日常の風景が好きだ。平和を実感する。自分が出来なかった友との青春を投影することもしばしば。

職員室からりのちゃんが出てくるのを見つけるが、驚いたことに、髪を短く切っていてた。大好きなグレンの為に髪を伸ばしていると聞いていたが、何の心境の変化があったのだろうか。そんな話は、こちらから聞かなくても、麗香がまた話してくれるだろう。麗香は一人っ子のせいで、屋敷に帰宅すると話し相手が居なくなる。住み込みのお手伝いさんの林さんは、麗香の生まれた時から世話をしているが、やはり使用人としての一線は引いているし、母である文香さんに対しては、会長として就任した時から、麗香は母としてよりも会長としての立場を優位に意識してしまって、以前のような母と子の親密さは無くなってしまったと文香さんは言う。

「りのちゃん!」凱斗の呼びかけに、顔を向けたりのちゃんに駆け寄り、「あのね、翻訳の事だけどね。」周りに聞こえない様にりのちゃんの耳に囁いた。「アルバイト料3万円で・・・」

「いやー!」突然、りのちゃんは大きな悲鳴を上げた。そして、踵をかえし駆け出していく。

「えっ、ちょっ、りのちゃん!」

「何事だっ!」勢いよく理事長室の戸を開け放ち、敏夫理事長が顔を出す。

英「痴漢、変態、気持ち悪い、おぞましい。○×▲※!」とても翻訳出来ない放送禁止用語がフェードアウトしていく。

(な、なんだ?)

「凱斗、お前は・・・」敏夫理事長の怒りの顔と震える拳。

「えっ?いやいや僕は何も・・・」

「教職員にあるまじき行為!お前は!人間として最低の・・・」

「誤解ですって!指一本触れてませんよっ。」

もう頭に血が上っている理事長に凱斗の言葉は届かない。

「謹慎だ!クビだ!」

(誤解は不服だけど、それで仕事しなくていいなら別に、それでいいけどねぇ。)







汚れなき空気にほっと息を吐くも、その何か大きく目に見えない力に見下ろされている感覚に襲われ、亮は立ち止まり仰ぎ見る。朱色の鳥居よりもはるかに高く立派なご神木の杉が対に立ち、結界を作っているようだった。しかし、しめ縄で〆られていない所をみると、境内にはもっと凄い神依木が祀られていると、想像できる。亮は改めて、この神社の規模に感嘆する。

6月の最終日である土曜日の今日は、本来なら午後からびっしり部活動があるはずが、中高共に全クラブ練習禁止で1時半には全生徒下校の指示が出ていた。学園の講堂を使って検討会が行われるとかで、中高両方の運動場が全て外部から来る客人の駐車場として使用されるからである。

麗香達女性陣が、七夕まつりに着る浴衣を買いに行く話に、亮が参加しなかったのは、ここ精華神社に来たかったからである。亮は都内にこんなに大きな神社があるなんて知らなかった。福岡と違って、東京の建物はすべてが狭く、高層化することで、人口増加に対応していると思っていたのだけど、そうじゃないところもあるようだ。

福岡に居た頃は、月に一度、月初めの日曜日の朝に地元の神社にお参りをさせられていた。「させられていた」という言葉自体が神を冒涜しているようだが、正直、毎月、朝早く起こされ、畏まったスーツを着せられて、境内の中で正座をして祝詞を聞かなくちゃならないのは、苦痛でしかなかった。早く終われ、早く家に帰りたい、ばかりを心で願っていた。だから自分は罰があたり、こんな要らない力を入れられたのかもしれない。ってのは、おとぎ話的でくだらない。亮の本心を読み取る力は、ただ子供の頃から虚偽策略の大人世界をずっと見て来たからだ。そう言えば、柴崎会長は亮と同じ力を持っている。どんな世界を過ごして、その力を開花させてしまったのだろうか?一度聞いて見るのもいいかもしれない。と思っても、会長と向き合うのは、勇気がいる。自分が他人の本心を読み取るくせに、読まれる事は逃げ出したくなるほどに嫌だ。

溜息一つ、足を踏み出した。砂利の音が耳に心地いい。一礼してから鳥居をくぐる。右手にある手水舎に向かい、酌をとる。冷たい水が手を伝わり、火照った体の体温を冷やしていく。酌に口をつけない様に水を含み吐きだす。体の内部から澄み渡るようだ。

あの、苦痛で仕方がなかった月一度の神社への参拝のおかげで、作法に困らない。時として、実家で育ち教えられてきた物事に助かる事が多々ある。この参拝の作法だとか、去年、麗香と踊った社交ダンスの作法、英会話などなど。その時ばかりは、藤木家に対してほんの少しだけ感謝をしてしまうのだけど、すぐにまた藤木家の悪行に嫌気がさす。

さて、彩音ちゃんは、この大きな神社のどこに住んでいるのか。周囲を見渡し・・・駄目だ、自分はお参りをしに来たのだ。と言い聞かせる。受け取った一万円をお賽銭として返すのが真の目的、決して彩音ちゃんに会いたい為ではない。たとえ彩音ちゃんに会えなくても、この神聖なる空気を吸い、心清らかに帰る。それだけでも十分意義ある日となるだろう。

(さぁ、真っ直ぐ本殿へ参ろう。)

心清らかに、歩き始めたら、本殿横にある神依木を表すしめ縄のある立派なナギの木から、回り込むように巫女さんが駆けてくる。長い黒い髪を振り乱して、手には落ち葉掻きの長い箒を手に、走りにくそうに向かってくるのは、彩音ちゃんだった。

「彩音ちゃん!」

つい叫んで、聞こえない事実に改まる。そして、覚えた手話で【こんにちは】をすると、彩音ちゃんは箒に足を絡めて躓き、地面に四つん這いになって手をついてしまった。亮は慌てて駆け寄り。彩音ちゃんの腕を取り体を起こしてあげてから思い出す。

(彩音ちゃんは、手を繋ぐのも恥じらうウブな子だった。)

「あ、ごめん。」慌てて手を放すと、彩音ちゃんは見上げるように亮の顔をのぞき込む。

(か、かわいい!可愛すぎる。)

巫女さんの衣装が神懸り的に似合っていた。神社の子なのだから本職的に当たり前のだが。

手話で【大丈夫?】と聞く。彩音ちゃんはにっこりとうなづき、【大丈夫】の手話を返してくる。立ち上がって赤い袴の汚れを落とす彩音ちゃんに、亮は足元に転がっている箒を拾って渡してあげた。

「掃除中だったの?」亮の口を読んだ彩音ちゃんはこくり、こくりと頷く。

(あーたまらない、この可愛さ。)

「凄い走って来たけど、何かあったの?」

後ろ一つ結んだ髪が乱れてしまっている。

彩音ちゃんの手が言葉を伝えてくる。手話動画で沢山の単語を覚えたつもりだったが、全くわからない。亮が困っていたら、彩音ちゃんは【ごめんなさい】の手話をしてから、胸元に手を入れて、あのメモ帳を取り出した。

{あなた来る わかった だから急いで走ったら、コケた。}

(亮がくるのがわかって走ってこけた!?あぁ、もう、今すぐ抱きしめちゃいたいぐらい可愛い。)

続いて、さらさらと書き、見せてくる。

{ケイタイのお金、払う。母、呼んでくる。}踵をかえして走りだそうとするのを、腕を掴んで止めた。

「あぁ、いいんだ、彩音ちゃん!」

驚いた顔で振り返る彩音ちゃん。また手をすぐに手を離した。

「あっ、ごめん。」

(怖がらせちゃっただろうか。)

りのちゃんの事例があるように、男に免疫がない子の腕を突然掴んでしまって、恐れられやしないかと焦るが、彩音ちゃんの顔を見ると、驚きと少しの恥じらいだけで、恐怖はなかった。

「携帯は本当にもう、いいんだよ。今日、ここに来たのは、き・・・」君に合う為だと言いそうになって止めた。「お参りをしに来たんだよ。」

風が吹いた。彩音ちゃんの乱れた黒い髪をふわりとさらっていく。神依木のナギの木の葉がサラララと音を奏で、含んでいた雨の水滴がパラパラと落ちて来てキラキラと輝く。その輝きを顔で受け止めるように、彩音ちゃんは空を仰ぐ。

そして、驚いた顔を亮に向けた。

亮は彩音ちゃんの本心に照れた感情を読み取る。

(何故?ここで照れが?)と不思議に思い首を傾げていると、彩音ちゃんは頬を赤らめて脇に抱えていた箒を指さし、左の方にある建物を指差す。片付けてくると言う意味らしい。

「うん」

彩音ちゃんは小走りに建物の裏へと行く。建物には社務所と書かれていて、窓口には誰も居ない。

正月や七五三でもない限り、神社と言う場所は静かで厳かだ。亮は、彩音ちゃんが仰ぎ見た樹々の合間の空を見上げる。まだ梅雨明けしない雲間に青空が少しだけ覗く。湿気が含む樹々の匂いが、神の重みのように厳かしい。

緑鮮やかなナギの神依木の幹は直径1メートル以上はある。樹木がこの立派さであったから祀られる場所として神社になったのか、それともこの場所で人々が信仰の場として守り抜いてきたから、この樹木は神依木として立派になったのかは、わからない。

彩音ちゃんが戻って来る。

『お参り、どうぞ、案内します。』というメモ帳を亮に見せる。

向うでゆっくり書いてきたんだろう、漢字はカタカナ表記じゃなくてちゃんと漢字で書かれてあった。

「ありがとう」

手話を交えて伝えたら、また照れの残った笑顔。

(もう、この笑顔を見られるなら、毎日通ってもいい・・・いやいや、参拝だ、参拝。気を引き締めないと。神様の前だ。)







ただいまの声がかき消されるほどのテンションの高いえりの声がリビングからした。男物とわかるスニーカーが玄関に揃えられている事も含め、黒川君が来ていると慎一は判断した。

「わー可愛い。まるでおむつのCMに出てくる赤ちゃんみたいだね。」

「そうそう、りのりのは、赤ちゃんの時から別格だよね。」

「お兄さんも負けじ劣らずに可愛いよ。」

「んー、そうなんだよ、子供の頃はよく女の子に間違われてたって、だけど今や残念な事に、負抜け面のサッカー馬鹿。」

「誰が負抜け面のサッカー馬鹿だよ。」

「お邪魔しています。」と丁寧にお辞儀をする黒川君。

「もう帰って来てくるのぉ。」と不貞腐れるえり。

「帰ってきちゃ悪いのか。」

「柴崎先輩の事だから夕食も食べようってなって、だから帰ってこないと思っていたのに、ねぇ。」えりは黒川君に同意を求めて、黒川君は戸惑い気味で姿勢を正した。

今日は、全生徒1時半で完全下校の指示が出ていた。学園で関東の教職員達が集まる検討会があるとか何とか。常翔学園ではそんな日が年に数回ある。そういう時は、サッカー部は他校での練習試合を入れてあったりするのだけど、今回は何故か、試合もなく部活動も完全になかった。柴崎の提案で、来週の七夕祭りに来ていく悠希の浴衣を買いに行くというものに、付き合わされた慎一は、えりの予想通り、晩御飯を食べようって話になったが、慎一はそれには乗らずに帰って来た。今日は慎一が晩御飯を作る日だったからだ。ちなみに今野も寮の門限があるので慎一と一緒に帰った為に、ディナーは女子だけで、どこへ行ったのかは知らない。

「二人で、何か悪い事を企んでんじゃないだろうな?」

「悪い事って何だよ!」えりが口を咎らす。

忙しい両親は、慎一達子供を放置だ。えりは二人目の子供と言う事もあり、その我儘ぶりに何言っても聞かないと諦めに近い奔放された子育てで、中2で男子と付き合う事に何も言わない事を大目に見ても、遅くまで出歩いている事を注意もしない母さんに慎一の方が、その代わりと言っていいほどに心配し、注意しなければならない。

黒川君を信じていないわけじゃない。警察一家の息子である黒川君は、どの男子より素性も確かであるし、栄治おじさんの自殺じゃなかった証拠を見つけてくれた事から、慎一達の仲間としての認識がある。しかし、彼氏として付き合うとなったら、また別の意味で沢山の心配が生じる。黒川君が信頼できても、えりの奔放すぎる性格が、行き過ぎた行動に黒川君が流されてしまう可能性は十分にある。

「アルバムを見せてもらって居ました。小さい頃の新田さんと真辺さん、赤ちゃんモデルのように可愛いですね。」

喧嘩になりそうな空気を仲裁するように、話題を挟む黒川君。リビングのテーブルには、4冊のアルバムが乱雑に広げられていた。

「ふーん、それよか晩御飯、何食べたい?」

「黒川君の試合の帰りにファストフード店でバーガー食べたの4時半過ぎだったから、あまりお腹空いてないなぁ。」

「また、そんなのばっか食べて。」

えりも今日の買い物に誘われていた。しかし、黒川君の柔道の試合があるからとえりは断り、応援に行っていた。

少し前、二人にきつく怒った為に、今日は試合終了後、家にまっすぐ帰ってきた様子だ。遅くまで外をうろついている事も含めて、何より晩御飯をファストフードのバーガーで済ませて帰って来る事が、慎一はどうにも許されない。一日だけならまだしも、二日連続でファストフードの晩御飯だった事に、『そんなもん食うぐらいなら家に帰って来い、黒川君のお母さんも晩御飯作って待ってるんじゃないのか?』と言えば、『待っていません。』と少し拗ねた感じで目を逸らした黒川君。慎一は黒川君の抱える家庭の事情を知らなかった。後でえりから聞いて、言葉に反省し、慎一は黒川君にすぐに謝った。

『すみません、えりに付き合わせてしまって、次からはちゃんと晩御飯に間に合うように帰宅させますから。』

そう言った黒川君に、慎一は、やっぱりごめんとしか言えなかった。

「お前は減ってないかもしれないけど、黒川君はお腹減ってるだろう。」

「僕もそれほど減っては、それに、もう帰りますから。」

「えー、もう帰っちゃうの?まだいいじゃん。」

「あーそうだ、黒川君、試合結果は?」

「あっ、はい、優勝しました。」

「黒川君、凄かったんだよ~、一本勝ち連発してさ。」

「凄くないよ、地方予選の、しかも相手は素人同然の経験の浅い選手ばかりだったから。」とはにかんで報告する。柔道家としては小柄な方だろう。小さいころから警察の柔道場に通ってお爺ちゃんに叩き込まれたと聞いている。今野が柴崎邸のクリスマスパーティーで投げられたとの話を聞き、見たいから、もう一度投げられろと冗談まじりで言ったら、2度とごめんだと引き攣っていた。

「じゃ、僕はこれで帰ります。」立ち上がる黒川君に、

「一人分増えてもどうってことない、晩飯食べて行けよ。」と言うと、遠慮がちに、

「母が待ってますから。」とうつむき玄関に向かう。

「ちぇ、慎にいが帰ってくるから、黒川君、居たたまれなくなって帰っちゃうじゃん。」えりがまた口をとがらせて慎一を責める。

そして店から戻って来た母さんと鉢合わせ。

「ただいまー、ごめんね。遅くなっちゃった。あれ、皆してどこ行くの?」

「行くんじゃないよ、黒川君が帰ろうとしているの。」

「黒川君!いらっしゃい!」

「あ、はい、お邪魔してます。あ、いえ、お邪魔しました。」えりよりテンションの高い母さんに混乱する黒川君。

「何言ってるの、まだこんな時間じゃない、晩御飯、食べて行きなさいね。」

「あ、いえ、僕は帰ります。」

「さー、こんな狭くるしい場所に立ってたら、暑いじゃないの。入った入った。」押し返される黒川君。「そうだ、柔道の試合はどうだった?」

「あ、はい優勝しました。」

「ほんと!凄いじゃないのよ。今日はお祝いね、お祝い。」

「黒川君、凄いんだよ~、一本勝ち連発してさ。」

母さんの強引な押しと、繰り返される会話に黒川君もタジタジ。

「あら、懐かしい物を出してるのね。」母さんは、リビングのテーブルに広げたままのアルバムをのぞき込む。

「黒川君がね、昔の笑ってるりのりのの写真が見たいって言うから、出してきたんだ。」

「りのちゃんね、そりゃ、ぴか一に可愛かったわよ。」母さんは、アルバムを一冊取りめくる「これなんか最高のベストスマイルよね。」それは、公園の砂場でプラスチック製のおもちゃのスコップを持ち笑うりの、2歳の頃合い。

「ヘタレの泣き虫が横に映っているのが悔やまれるわ。」

皆が笑う。ベストスマイルのりの横で、なぜか泣き顔の慎一。

「本当に、二人は双子の様にいつも一緒だったんですね。」帰るのを諦めた黒川君が、もう一つのアルバムを手に取りめくる。

「そうよ、二人共、どっちが自分の家かわからなかったぐらいだもの。」

家だけじゃなく、親もどっちが自分の親かもわからなかった時期もある。

母さんがアルバムをめくった拍子に一枚の写真が足元に落ちた。いい加減な性格の母さんは、アルバム整理がまだ終わらないで挟んでいるだけの物とかが沢山ある。えりのアルバムは一冊目がまだ未完成で、写真は束になったまま。慎一のアルバムが3冊半までちゃんと仕上がっているのは奇跡といえる。

足元の写真を慎一が拾って眺める。それは、やっぱりりのと一緒で、風呂場で撮った写真だった。

満面の笑みのりのが、湯船から乗り出して万歳している横で慎一は、りののあげた飛沫に顔をしかめている。この約4冊のアルバムの中で慎一だけのワンショット写真を見つける方が難しいほどに、慎一とりのはいつも一緒だった。慎一は、りのが居ないと何もできない本当にヘタレの泣き虫だった。アルバムはその証拠の数々。

その風呂場で撮った写真を眺めて、慎一は首を傾げる。りのの胸の所にうす黒い汚れが付いていた。もう10年も前の写真、保存状態が悪かったのだろうか、手でこすっても汚れは取れない。

「ん?やだっ!慎にい、りのりのの裸の写真マジマジと見て!」

「えっ?」

「欲求不満か!」

「違う!」

「りのりのに相手されないもんだからって、一緒にお風呂入ってた時代にタイムトリップしてさぁ、この頃は良かった、だなんて。」

「ばかっ、変な事言うな。この写真、汚れてるから何の汚れかな?って。」

「ん?どれ?」母さんが慎一の手元を覗く。

「ほら、ここ、りのの胸の所。」

「ほら、欲求不満じゃん。胸の所だって。」

「お前は黙ってろ!」

「あぁ、これ痣よ。」

「痣?」

「あれ?あんた知らないの?」

「知るも何も、いやいや、知らん知らん。」

「りのちゃん、胸のちょうど心臓のある場所にひし形をした痣があるのよ。」

写真をもう一度よく見た。確かにトランプのひし形をしている。

「生まれた時ね、場所も場所だし、さつきが心配してね、精密検査したぐらいよ。だけど心配することは何もなくて、ただの皮膚の色素沈着。赤ちゃんには蒙古斑ってあるでしょう。」

「うん。」

「あれと同じようなもんだって。大きくなったら体の成長に伴って皮膚も伸びて薄くなるだろうから心配ないって事でね。」

「へぇ~、そんな痣、あったんだぁ。」

「お風呂に入ると血行が良くなってね、痣が濃くなっていたわね。だからこの写真では、はっきり写ってしまったのね。」

「えー慎にぃ知らなかったの~。えり知ってたよ。りのりのと柴崎邸で一緒にお風呂入ったもん。」

「だから、知るはずもないだろ。」

えりが慎一の手から写真を奪う。

「えりがこの間見た時も、これぐらいの濃さだったよ。」

「あら、本当?じゃ、薄くなり切れなかったのかしら。」

「皆でタトゥみたいでカッコイイって言ったんだ。」

「りのちゃん、その痣、気にしてた?」

「どうだったかなぁ」えりは首を斜め上にして、思い出そうとする。もう、半年も前の事だ。慎一はユース16の日本代表の合宿があって、柴崎邸のクリスマス会には参加できなかった。

「年頃になって気にするようなら、取る手術も考えるって昔、さつきが言ってたわ。今はレーザーで簡単に取れるらしいけど、場所が場所だけにね、心臓の真上だから。」

「気にして、と言うより、時々ピリピリするって言ってた。」

「ふーん。」

「ふーんって、どうして、慎一は知らないのよ!」

「どうしてって」

「りのちゃんはあんたの結婚相手でしょう、愛する女性の体の事を知らずしてどうするのよ。」

「いっ!」黒川君が驚く顔を上げる。

「いやいや、違う違う。母さんが勝手な妄想を抱いてるだけだから。」慎一は慌てて黒川君に説明するも、黒川君は「あぁ・・」と腑に落ちない返事。

「はぁー、なんて不甲斐ない息子。」

「不甲斐ないってなんだよ。」

「だからいつも言ってるでしょ。男は少々強引ぐらいがちょうどいいの、あんたは昔からヘタレすぎて押しが弱い!」

(何の説教だよ。)

「遠いフランスに居る子に負けてどうするのよ。あんたはすぐ近くにいるのよ。完全に有利じゃない。」

「だから、有利とかの問題じゃなくて、りのの気持ちが優先だろ。」

「そんなの、どうとでもなるでしょ、生まれた時からずっと一緒なんだから。」

この頃と今とは違う。りのは、この頃のような無邪気な笑顔をする事が無くなった。沢山の思いと夢を見た経験は、複雑に絡まる。

慎一もこの頃のように、自分優先の気持ちをりのにぶつける事もなくなった。それが大人と言うもの。

「あー、心配。りのちゃんが他の男に取られたらどうしましょ。」

「何の心配だよ。」

「りのちゃんが、他に嫁ぐなんて断固反対よ。」

「母さんが決めることじゃないだろ。いくら赤ん坊の頃から一緒でも、真辺家と新田家は親戚でも何でもないんだから。母さんでしゃばり過ぎだよ。」

「いいのよ。さつきも私も、あんたとりのちゃんとの結婚は、りのちゃんが生まれた時からの夢なんだから。」

もう黒川君は、驚いた表情のまま固まっていた。

「だから、他の男に取られないうちに、さっさとやっちゃいなさい!」

「いっ!」黒川君は咳き込み咽る。

「馬鹿っ!親が言う言葉か!言葉も状況も選べ!」

(ったく何考えてんだ、黒川君のいる前で。)




日ノ国、神創、希心ノ静地。

風流レ、雲生ミ、雨落ル、地潤ウ、命育ム、

節ハ巡ル、淀ミ無キ、静地。


希ノ国、静地、幾年月流レニ、尽キヌ想イ、

風遮ギ、雲消シ、雨奪イ、地変ジ、命枯レ、

節ハ止ル、淀ミ有リ、絶心ノ荒地。


絶ノ国、荒地、幾年月流レニ、瀕スル想イ、

風求メ、雲求メ、雨求メ、地を求メ、命求メ、

摩羅ヲ求メ、呼ビ願ウ力、祈心ノ現世。


祈ノ国、現世、幾年月流レニ、超ル想イ、

風使イ、雲使イ、雨使イ、地使イ、命使イ、

摩羅ヲ使イ、卑弥ノ祈呼、降臨セシ天ノ皇。


天の皇、来世、幾年月流レニ、尽キヌ想い、

風流レ、雲生ミ、雨落ル、地潤ウ、命育ム、

節ハ巡ル、卑弥交えの身霊、希信の世静へ。

来世に飛翔セシ光、卑弥ノ祈呼ト、神皇ト

永久ニ。


人の祈心は神の存元、神の受心は人の存元。



日の国、幾年月の流れに神皇が創生しい希心の静地。

希の国、静地、幾年月の流れに摩羅が覆漂しい絶心の荒地に変じ。

絶の国、荒地、幾年月の流れに卑弥を現存しい祈心の現世。

祈の国、現世、卑弥の祈呼の流れに神皇の御心承り降臨せし天の皇。

天の皇、卑弥と交え88の身霊を、来世に飛翔せし光、希信の世静へ。





幼少の頃から幾度となく聞いた唄。現代で耳にするどんな音とも違う、魂の根底に響くような祈りの音色。

染みついた汚れを清浄するようであり、清浄される汚れの絶望の叫びのようであり。過去から沸き起こる血潮の恨みのよう。

いつもこの唄を耳にすると、心落ち着くけれど、眼と神経はピリピリと研ぎ澄まされて、血がざわめく感じがする。

唄がフェードアウトするのとは逆に、正面スクリーンは華族会のマークが次第にはっきりと映し出される。完全に唄の音がなくなると、薄暗かった部屋に明かり戻り、紫の色の祭礼服を着た精華神社の社司(しゃじ)さんが一礼をして、前に立った。

華族が信仰する祈宗の精華神社を守っている人を、神主、宮司とは言わない。「神」「宮」の字は、別の意味を持ち崇高の意味があるからだ。数々の些細なこだわりが、一般の広まっている宗教、神寺の行いとは異なってある。

社司さんは、紫色の紋付の袴と胸に紋の着物を着ている為、いつも精華神社で見る時とは雰囲気が違い、今日は特別で重要な集まりなのだと、嫌でも意識させられる。

「1996年生まれの皆さま、こんにちは。精華神社の社司でございます守都賢氏です。皆さまとは、今までにご拝殿下さいました折りに、一度はお会いしていますね。」華族会の称号を持つ家の一つであり、精華神社を代々守って来ている守都家の当主は、フロアに集まる面々にぐるりと見回してから「大きくなられました。」とにっこり笑った。

ここは、日本を代表する帝都領華ホテルにある別館18階より上の華族専用フロアの一室、小宴会場。

全国から集まった華族の称号を持つ子供、それも麗香と同じ1996年生まれの16歳になる子供12人は、スクリーンの前に並べられた椅子に学校の授業でも受けているかのように座らされていた。

「ねぇ、あの左の端っこにいる子、誰?」隣に座る美月は、(ここの帝国領華ホテルを経営する一族の娘だ)が麗香の耳にささやく。

美月の声に促されて顔を横にして覗き見た子は、黒く長い髪で顔を隠すようにうつむいていた。

「知らないわよ。美月が知らない子、私が知ってるわけないでしょう。」

「それもそうね。」

華族の称号を持つ一族は、華族会に属して宮中儀式に参加したり、華族間同士の結束を固めるべく、頻繁にパーティなどを開いて、家同士の交流を深めている。パーティはこの帝国領華ホテルで行われる事が多いので、麗香と美月は幼いころからずっと、それらのパーティに参加してきているので、自分と同じ年の華族の子、もしくは華准の子の顔ぶれは知り尽くしている、と思っていた。だけと、今日集まった12人中、4人は全く知らない子、西の宗に属する子を知らないのは当然であるので、その黒髪の長い女の子も、西の宗に属する子だと、その時麗香は思った。

「今日は、8月8日に行われる華冠の儀に向けての説明を致します。華冠の儀は世間一般で言う成人式に当たる大切な神儀です。我々華族は、古よりこの神儀を持って、正式な神巫として神皇より命を承ります。8歳の謝感の儀でも華族の称号の意味や簡単な歴史は習って頂いていますけれども、今日は、それより詳しく、学校では教えられない真の歴史を知っていただきます。」

にこやかだった社司さんの顔が引き締まったように見えた。

真の歴史・・・・世間一般に知れ渡っている日本の歴史の裏に、違う物がある事は、その8歳の謝感の儀や、私達、華族会が厳粛に秘儀されている雰囲気から、あると知っていたけれど、こうして改めて宣言されると、何だか、それは知らない方が良いような感覚に、麗香は心がざわついた。美月も同じような気持だったようで、見合わせた目はいつもの自信にあふれたものではなく、動揺が見て取れた。








「申し訳ありません。」敏夫理事長が文香会長に深々と頭を下げる。

「理事長、そこまで頭を下げないでください。私は前会長より任命されたから会長の座に居るだけです。柴崎家からすれば次男である敏夫さんの方が継位は上です。」

「いや、それでも、翔柴会会長である事には変わりなく・・・それに凱斗が放棄した事に対処できなかった事は事実です。」

(放棄した?理事長がそれを言うか?全然、反省してないじゃねーか。)

文香さんが一つ溜息をついて、困った顔を凱斗に向けてくる。

(そんな顔を向けられても、知るもんか。勝手な誤解をして、勝手に怒っているは敏夫理事長で、怒り任せで首だと宣告したのも敏夫理事長だ。)凱斗は自分の感情を隠さず、これ見よがしな態度で顔を横に向けた。

「凱斗・・・あなたも、子供じみた態度は辞めなさい。」

りのちゃんに破廉恥な行為をしたと、勝手に勘違いをした敏夫理事長の「クビだ!」の宣言通りに、凱斗は次の日から理事長補佐の仕事を放棄した。

先日の土曜日、教育者の為の部活動指導環境作り講演会というのが、我が常翔学園の講堂で行われた。関東の主だった学校の教職員が集まり、クラブ活動時の指導について、体罰と指導の境界線はどこであるか?を検討したり、生徒の安全を考慮しつつ部活動の強化を図るにはなどを専門家を招いた講演をしたり。文部科学省の官僚も参加する中々の大きい開催行事だった。検討会の資料作りや当日のスケジュールに伴う客人の導線なども、全て凱斗任せにしていた為、敏夫理事長は困りに困って、それでも意地でクビ宣言の撤回をせず、講演会は実施された。だから講演会の資料は抜けている所があったり、客人の案内を間違ったりと、ドタバタとした会となってしまったようだ。

今日、文香さんは文部科学省に赴き、その講演会の報告と足運びのお礼をしたのだが、常翔らしからぬ不手際を指摘されて帰って来た。

凱斗はこの1週間、本来の大学生という生活を満喫していた。といっても卒論の作成に取り掛かっていて、一般的に華やかで楽しい大学生とはかけ離れた生活だったが、それでも滞りがちだった卒業論文が進むことに満足していた。のだったが、文香さんからの緊急呼び出しを受けて、凱斗は渋々常翔学園に来ることになった。

「僕は、上司である理事長の宣告に従ったまでです。上司の命令に従った事を子供じみた態度と言われるのは心外です。」

「くっ・・」敏夫理事長が歯を食いしばり嫌な顔をする。

「凱斗、言葉が正式の辞任命令として通用しないのは、わかっているでしょう。」

そう、ただ感情任せのクビ宣告は、正式な辞任命令にならない。それを真に受けて職務を放棄したのは、文香さんが言うように子供じみた行為だ。だけど釈明の言葉に聞く耳持たずで、勝手な思い込みでクビ宣告をした理事長も子供じみている。自分はりのちゃんに指一本触れていない。それが事実で嘘をついていない事は、文香さんは読み取ってわかっていたはずだ。だから、どちらの言い分が正当か、判断を下すのは簡単だったのだけれど、文香さんの人の本心を読み取る能力を知らない敏夫理事長の前では、両断はできなかった。

そして敏夫理事長も、ここぞとばかりに養子の凱斗を昔日の私怨のごとく信用しないで、全ての間違いを押し付けたのだ。潔白を証明するために、りのちゃんの証言と、おまけに痴漢に遭った時に現場に居合わせていた弥神皇生まで呼び出して説明してもらい、鉄道駅職員にも確認を取るまでに至っても、敏夫理事長は誤解した非を認めないで謝罪の言葉なく、ただ講演会がお粗末な有様になった事だけを、文香さんに謝罪する。

文香さんが大きなため息をついた。

「まだ帝大の学生の身でありながら会長秘書の肩書きの下、高等部理事長補佐という二重三重の辞令を与えた私の責任ですね。これは。」

「そんな、会長のせいでは・・・。」

「凱斗、敏夫理事長の宣告通り、今日付けで高等部理事長補佐を解任します。」

「会長!」

奇しくも敏夫理事長と声が重なった。

「元より、あなたの高等部理事長補佐の移動辞令は、岡本悠希さんに対する監視と校内対応が主な目的の物でした。岡本さんの生活が安定し、この先の不安材料がなくなった今、解任しても問題は無いはずです。」

「そうですけど・・・。」でもりのちゃんの事がある。

「翔柴会秘書の任は継続、とは言え帝都大の卒業論文の方が忙しいのでしょう。それが終わるまではそちらを優先する休職処置としましょう。」

「休職?」

「私も理事長も凱斗に過度の仕事を命じてしまった。それは反省しなければなりません。謝りましょう、理事長。」

「え、えぇ。・・・こき使って悪かった。申し訳ない。」敏夫理事長が俯き加減でつぶやく。

「私からも、ごめんなさい。」文香さんは深々と頭を下げる。「では、解任と休職の書類を発行し、理事長たちの承認印を貰います。」

(文香さんまで、何だよ・・・解任されるほどの事を俺がしたとでも言うのか?会長秘書までも休職なんて、ほぼ謹慎処分も同然じゃないか。)

まるで他人行儀謝罪に凱斗は大きく動揺し、そして、やはり自分は、柴崎家一族の人間にはなりきれない、と実感する。











もう、うんざりするほどウェットコンディションの練習をした。言い加減、梅雨明けしてくれないかなぁと毎朝、慎一は天気予報をみるのに、テレビに表示される週間天気の表示は変わらず、ずっと先まで曇りのち雨か、雨のち曇りのどちらか。降水確率も50パーセントなんて、当たっても外れても文句を言わせない魂胆がみえみえの数値。

そして、今日も分厚い雲り空、昼過ぎまで降っていた雨は、願い叶って止みはしたけど、分厚い雲は居座り、織姫と彦星は天の川を超えて逢う事が出来ない。 

7月7日七夕、学園の隣町にあるここ周辺では大きい部類に入る神社は、地名をそのまま使った星見神社という名称で、毎年盛大に七夕祭りを行っている。しかし、この星見神社に七夕伝説の由来があるわけじゃない。七夕祭りをこの神社でやるようになったのは10年ほど前からだと聞く話は、慎一の家が営むフランス料理店の常連さんからの母さん経由で聞いた事だ。

神社も新たなイベントでも催さないと儲からない時代のようだ。

「それが、皆とお揃いの花飾り?」藤木がりのの胸元の帯を指さす。

「うん。」

「髪につければいいのに。」

「無理。短いから。」

「えりもだよ。ほら。」と結んだ後ろ髪を見せるようにくるっと回る。

「ほんとだ。可愛いよ。えりりん。」

「あーん。可愛いじゃなくて、綺麗だよって言ってぇ。」

「その言葉は、別の誰かさんに頼みなさいね。」と藤木。

先週のショッピングで女性陣は、全員お揃いの髪飾りを買っていた。バラか何の花か知らないけど、白い大きな花を基調に、オレンジ系の小花のアレンジしているのが、えり。水色系がりの。赤系が柴崎、グリーン系が佐々木さん、ピンク系が悠希で、色違いでお揃いにしようと、散々騒いで買っていた。

りのは、結ぶ髪がないと買う事に躊躇っていたけど、店の人に帯どめの代わりにしても可愛いよとアドバイスを受け、翻訳のアルバイト料も貰った事で懐大きく、ショッピングに参加できなかったえりの分まで買っていた。どこまでもえりには甘いりの。

りのの男性恐怖症は、藤木が言うように、一過性で終わった。今はもう知らない男が横を通り過ぎても嫌がりはしない。

「しかし、お前まで浴衣着てくるなんてなぁ。それ、どうしたよ。」

藤木は、深い紫色地に着物なんかでよく見る日本の伝統的な幾何学模様の(なんという名前かは知らない)柄の浴衣を粋に着こなしている。

「親が持ってきたんだ。」

藤木の親と言う時は母親を差す。世の中で一番嫌いだと言う父親はあいつ呼ばわり。

「今日来るとか言うから、友達と七夕祭りに出かけるから来ても居ないって言ってんのに。昼に来て浴衣を置いて行った。」

「置いて行ったって、自分で着たわけ?浴衣。」

「そうだけど?」

「危うく俺に着せられる所だった。」と今野が不貞腐れ気味に言う。

寮生の今野は、門限を気にしなくてもいいように、藤木のアパートに泊まる。寮には実家に帰ると嘘の外出届を出して、準備万端。

「今野に着させようとしたんだけどな。サイズが合わなかった。丈が長すぎた。」

「あぁ・・・」えりの横で大人しく話を聞いていた黒川君までも、声を合わせての納得のつぶやき。

「くそーお前らっ!」

「それにしてもすごいな、自分で着られるなんて。」

「日本男子たるもの、浴衣ぐらい独りで着れなくてどうする!」

「女にモテるためなら、藤木は何でもする。」慎一と同意の今野がつぶやく。

「今野、お前は今日、野宿な。」

「あー勘弁。」

「お待たせ。」残りの女性陣達が待ち合わせの鳥居前に、やっと到着。

柴崎と佐々木さんと悠希は、柴崎邸で浴衣の気付けをして、えりとりのは新田家で母さんが気付けをした。

照れくさそうに、はにかんだ顔の悠希と目があった。いつも後ろ一つに束ねている髪を今日はふんわりとカールをして、皆で買ったお揃いの髪飾りをつけている。男の子のように駆けていた昔の姿は、もう想像もできないぐらい女性らしい姿。

「柴崎さんが、ヘアーセットしてくれたの、へ、変だよね。」

「あっいや、見違えたと思って、ごめんじろじろ見て。」

「昔の悠希からしたら、こんな恰好、コスプレに近いもんね。」

「そんな事ないよ。」

藤木なら綺麗だよとか、可愛いよって言葉が照れもなくすんなり出てくるのだろうけど。心で思ってはいても、簡単に口からは出ない。

「さぁ、行くわよ!」

当たり前に仕切って先導する柴崎の後を藤木とりのが歩く。続いて今野と佐々木さん、黒川君とえりが続く。

「置いて行かれる。行こう。俺たちも。」

「うん。」そして続く慎一と悠希。

両サイドに縁日が立ち並ぶ狭い参道。9人の大所帯になった仲間、団体さまの疎ましさからか、それとも柴崎の迫力に負けてか、道を開けてくれる人多数。

「凄いわね。柴崎さん。」と悠希が苦笑する。

「あの迫力は、誰もがおののく。」





「もう!屋台はお参りをしてからよっ!」麗香がたたらを踏んで怒るも、もうすでに個々で好き勝手に店をのぞき始めている仲間たち。

「仕方ないよ、9人も居るんだ、まとまれって言う方が無理がある。」

「でもっ、お参りをしてからじゃないとっ神様に失礼じゃないのよ。」

「いいじゃないか。今日はお祭りなんだし。神様も大目に見てくれるさ。」

「もう!」

「そうそう、プリプリ怒りなさんな。わざわざ特注で仕立てた浴衣が台無しだぞ。」

麗香が怒ると頭痛が酷くなる。こういう不特定多数が集まる人混みは、無作為に脳が勝手に本心を読み取り続けて、疲労困憊に頭痛もする。本来、来たくない所だったが、不思議と麗華が側に居ると辛くない。

「特注だっての、わかった?」麗香は機嫌を良くして、急におしとやかに姿勢を正す。

「梅雨入り前に、浴衣を京都で作らせているって言ってたじゃないか。」

「話したっけ?」

「金糸入りの生地に手染めで作ってもらうって。流石お嬢様は素材負けしないで着こなして、お似合いでございます。」

「ふふ、そうでしょう。」麗香は、着物の袖を指で挟み広げると、くるっと回る。アップにした髪には皆とお揃いで買った髪飾り。浴衣の豪華さの割に髪飾りが貧弱だ。皆の水準に合わせるには仕方のない事だったのだろう。麗香本人もそれはわかっていて、でも水準を下げてでも皆と仲間である証が欲しいと思うのは、女子特有の感情だ。

「あんたも似合ってるじゃない。」

「俺のはただの市販品だよ。」嘘をついた。この紫紺色は藤木家の持色だ。名前にちなんだ紫色の何色かは藤木家の持ち色として、市販しないようになってある。

「ちゃんと着れてるわ。着られてる感がない。」

「子供の頃から季節の行事や仕来たりに、それに応じた衣装を着せられていたからな。着物に比べたら浴衣なんて楽なもんだよ。」

「流石は、藤木家ね。」

日本の行事が、ぞろ目の日に何かしらの季節行事があるのを、福岡にいる頃は当然に、藤木家は立派に祝い行事を施していた。

家が古い武家屋敷なら、仕来たりに基づく行事や挨拶も古く、着物で対応する事が多かった。長男である亮は、妹達よりも作法服装にはうるさく躾られていた。時に学校を休んでまで、その行事に参加しなければならない事もあった程の、今ではうんざりするほどの窮屈さだった。

「藤木家はただの平民、成り上がりが貴族階級に憧れ真似しても、滑稽なだけなのにな。」

「そんな事ないでしょう。藤木家はもうなり上がりって言うには、おこがましいほどの歴史と地位、財があるじゃないの。」

「華族には負けるさ。」

「柴崎家なんて藤木家より歴史は浅いわよ。」

「それでも称号あるのとないのでは、格が違う。」

「ねぇ、前から思っていたんだけど、どうして、藤木は、私よりも階級意識が高いわけ?」

(答えなくちゃならないのか・・・)

ずっと麗香が疑問に思っていたのはわかっていた。麗香よりも階級に拘り始めたのは、華族会の祖歴を読んでしまってから。

祖歴には、華族が担って来た歴史とその役割が事細かく、教科書に乗らない隠れた歴史と共に記されていた。この国と神皇を、命を掛けて守って来た神巫族は、家という枠以前に卑弥呼から続く血族の歴史がある。称号は階級じゃなくその血の証明なのだと、あれを読んで思い知らされた。

有事の際には皇制政務会が発動し、内閣府よりも上で神皇の指揮の下、有事解決にあたる。いくら内閣総理大臣になったとしても、華族の称号を持つ神巫族達には敵わない。それが卑弥呼の時代より続いているこの日本の在り方なのだ。

そのことを知った事も、亮が麗香との交際に別れを言った理由でもある。どんなに麗香を好きでいても、いずれは、地位の違いで別れなければならなくなる。

「ただ単に、ない物ねだりの、くだらない妬みの表れさ。藤木家がどんなにあがいても、金を積んでも手に入れる事の出来ない唯一の物が華族の称号だからな。」

麗香が困った顔で見つめてくる。黒く潤んだその眼で。

「凱さんっ!凄いっ!」

突然、えりりんの声高い歓声が聞こえて来た。振り返ると、後方の屋台の一角で、人の輪ができていた。

「聞き捨てならない名前が聞こえたわ。」

凱さんは、高等部の理事長補佐を解任されている。その理由は、りのちゃんの男性恐怖症から起きた誤解からなる物だけれど、帝大の卒業論文が忙しいと、今は麗香の母親の会長秘書も休職していると聞いていた。

亮と麗香は顔を見合わせて駆けだし、その人の輪を押し分けてのぞいた店は、射的のお店。おもちゃの銃で高得点を上げて、得意げな顔をしている凱さん。その凱さんのそばに、グラマーな胸がミニのTシャツに窮屈そうで、超ミニのデニムの短パンから長く白い足が大胆に露わになっている異国の女性が、これまたハイテンションで凱さんの腕に絡みついていた。

英「カイ、凄いわ9点よ。」

英「おもちゃだからね。当たって当たり前だよ。」と得意げに銃を回す。

こんな時にも凱さんの本心は哀しみに満ちていて、亮は若干の驚きで目を細めた。

「凱兄さん!」

「あぁ、麗香。」

「あぁ、じゃないわよ!何してんのよ。」

「何って射的だよ。」

「そうじゃなくてっ」

「俺もやろうっと。」今野が、佐々木さんに良い所見せたくて射的に挑戦する。

射的はコルク玉の先に吸盤が付いた物を3つ、弓道の的のような点数を書いた板に向かって打ち、引っ付いた枠の点数の合計点が多ければ、良い景品がもらえると言う物。500円で三回打てる。三回ともに真ん中の10点の小さな的に当てたら、携帯ゲーム機が貰える。のだが・・・どう考えても、この吸盤が三つ共引っ付く面積がない中心の赤い円。屋台の親父の汚い根性がみえみえだ。

今野の1回目は的にあたったものの、吸盤が付かずにバウントして落ちる0点。2回目は辛うじて3点の外枠に引っ付いた。

「結構ムズイなぁ。」そう呟いて最後のもち玉を慎重に狙うも、2回目と対して変わらない場所に引っ付く。

合計点10点以下なら、参加賞的な、50円もしない駄菓子一個だけ。

「銃には癖があるからね。それを見越して狙わないとダメだよ。親父、もう1回ね。」

凱さんは屋台の店主から手渡された銃をくるっと回すと銃口を覗く、そして片手でまたバトンの様に回すとレバーを引き、弾を籠めずに空撃ちをする。それを見た屋台の店主があからさまに嫌な顔する。

英「カイ、次は真ん中にね。」

英「オッケー。」

凱さんはその軽いノリを崩すことなく片手で3回連続で撃った。弾込めもどうやったのか良くわからない自然さで。

的の8点、7点、6点、の所に弾はひっついている。

英「残念、カイ、真ん中じゃなかったわ。」

英「安心して、今夜は君の体の真ん中を貫くよ。」

グラマラスな女性の腰を引きよせて囁く英語は、高校生の亮達には聞き余る物。

「わー凄いっ、凱さんっ。25点!タレクマのバルーン貰えるよっ」

色気たっぷりの異国の女性とは正反対の、無邪気なえりりんが店先にぶら下がっている大きなビニール製の今女子中高生の間で流行っている癒しキャラのバルーン人形を指差す。

「えりちゃん、欲しいならあげるよ。」

「本当っ!やったー。」

黒川君は、えりりんが手を上げて喜んでいるのを笑いながら、本心は悔しがっていた。空気を読めず、美味しい所を奪ってしまような事をしてしまうのが、凱さんの残念な気質だったりする。えりりんの喜びは本来なら黒川君に向けられるものだった。点数が低くて目的の物が取れなくても、縁日で景品を取ってあげる、それが彼氏として彼女にやってあげたい事ってもんだ。

「黒川君っ、見て、貰ったよ。」えりりんは満面の笑みで、上半身が隠れるぐらいのタレクマのバルーン人形を抱えて駆け戻って来る。

「気持ち、察する。」そう言って亮は、黒川君の肩を叩いて励ました。






駄菓子1個だけしか佐々木さんにプレゼントできなかった今野が、リベンジだと言って屋台の親父にお金を払っている。

(よくもまぁ、こんなくだらない遊びに夢中になるもんだわよ)と麗香は呆れる。(凱兄さんも凱兄さんで、いい年をして、遊びに鼻高々に自慢。それに何?あの女!外人に知り合いが多いのは、長くアメリカに居たから納得しても、あまりにも品がなさすぎ。ここは神様が住まう場所よ。あの淫らな服装は神への冒涜だわ。)

「凱兄さん、お母様が心配していたわよ。連絡が取れないって。」

「僕に用は無いはずだよ。僕はもう、理事長補佐でもないし、会長秘書も休職中の、ただの学生だからねぇ。」

完全に拗ねている。

敏夫叔父様の誤解から始まった意地の張り合いは、まだ続いているようで、お母様にまで拗ねた態度に出た凱兄さん。

英「カイ、この子達は誰?」

英「この子は僕のいとこ、とその友達だよ。」

日本語が出来ないのか、凱兄さんは絡みつく外国人女に英語で通訳しながらの会話となる。

「学園職に関わらなくなっても、凱兄さんは柴崎家の人間でしょ。何なのよっ、その品のない女は!」

「麗香ぁそれは失礼だろう。僕のフレンドに対して。」

英「凱さんの彼女?」りのが、異国の女性に歩み寄り、見上げるように話しかける。

英「あら可愛らしいわね。このおチビちゃんもカイの知り合い?」

英「初対面でチビ呼ばわり、失礼にも程がある!淫乱女!」突然りのが目を吊り上げて怒りだした。りのの英語も外国人の英語も、全くヒアリングできない麗香。

英「子供とは言え、初対面で淫乱女とは、そっちこそ失礼でしょう。」

英「その恰好は、どう見ても男を誘っているとしか思えない。」

「ちょっと、りのっ何言ってるの」私の静止も無視して立ち向かっていくりの。英語だと人が変わったように突き進んでいく勢いは止められない。

英「悔しいのね。私の色気が。まだガキだから。」

英「悔しいんだ、私の若さが、もうおばさんだから。」

英「何ですって!あんたなんかね○×▲」

英「うるさい○×▲」

英「ちょっ、ちょっと二人共、喧嘩しないよ。」

「何を言ってるの?二人は。」麗香は亮に通訳を求める。

「俺も少ししか・・・でも知らない方がいい。」

英語の得意な亮でも聞き取れない早口の言葉は、この状況からして、とんでもない俗語が飛び交っているのは察するけれど、どうして、世界中の人間と友達になりたいが子供の頃の夢だったりのが、外国人と喧嘩しているのか。

「りのちゃんの地雷を踏んだんだ、小さいって俗語は聞き取れた。」

「あぁ、なるほど。って止めなさいよ!二人を!」

「無茶を言うな。」と亮

英「ほら、二人共、そう言うハシタナイ言葉は謹んで。」

英「カイはどっちの味方なのよっ!」

英「ジェシファ、どっちの味方って言われてもねぇ。りのちゃんは従兄の親友で妹みたいなもんだし。」

露「ふざけんなっ、淫乱女の腰に手を回して鼻の下伸ばしてる奴を、兄にした覚えはない。」

ロシア語まで飛び出した。ロシア語が飛び出した時は怒りがMaxの時。

露「りのちゃん、そりゃないよぉ。」

露「麗香が可哀想だっ!」

ロシア語の中に私の名前が含まれていたように聞こえたのは、空耳よね。

英「何なのよ、この子、ロシア語?」

英「セックスしか頭にないおばさんにはわからないだろ。へんっ」

「り、りのちゃーん。」

何だか挑発的な顔のりの、新田も異国の言葉飛び交う状況にタジタジで、りのを止められるはずもなく。

英「アメリカ人の私にロシア語でって、戦争吹っ掛けようっての!」

英「ジェシファ、りのちゃんは、そんなつもり全くないから。」

英「ほらっ、それだ。他国を馬鹿にしたアメリカ人の傲慢が、異言語や異文化を理解する努力を怠った。それが誤解を生んで戦争が勃発したんだ!」

英「何なのよっ、ロシアが最初に社会主義国家と手を組んで侵略を始めたんじゃないのよ。始めた罪を責任転嫁するんじゃないわよ。」

英「どうして、そんな話になるんだ。りのちゃんもジェシファも、やめて。」

凱兄さんが二人を引き離すように間に割って入る。異国の言葉の喧嘩は、周りの人達の注目を浴び、周りは人だかりの輪が出来ている。

英「うるさい!黙ってて!」

突然、何故かりのとジェシファと呼ばれる女性の言葉が重なり、凱兄さんが責められる。

英「これは、私とこの子との戦いよ。」

英「私は日本人だが、ロシア語を教えてくれたポポ爺のプライドに掛けて、その宣戦布告、受けて立つ!」激化したりのとジェシファ異国語飛び交う喧嘩、リベンジ途中で呆然としていた今野の手から、りのは銃を奪う。

英「負けはしないわよ。私も元米軍特務チームのリーダーだったマスターのレクチャーを受けたのよ。こんなおもちゃじゃなくてね。本物の銃で。」

英「的に当てる競技なら、私は負けはしないっ!」

「えっ、ちょっと。どうしてそうなるんだよ。」と凱兄さんは首の後ろを掻いて、へらへらしているだけ、本気で止める気はないみたい。




(何故こうなる?) 凱斗は首の後ろの傷痕をかきむしる。(これが自分の取り合いなら、男としてちょっと誇らしいシチュエーションなのだが。)

元米軍特務チームのリーダーだったマスターの店で、来日後すぐに働くことになって3年が経つジェシファ。何の目的で来日したのかは知らないけど、店がアメリカ大使館の傍にあって、店に来る客が使う言葉がほぼ英語のみで、日本語を覚えなくても困る事がなく。今まで日本の文化に触れる機会がなかった。そんなジェシファがテレビで知った七夕祭りに行きたいと言い出した。帝大の肩書だけになって身軽になった凱斗は、今やセックスフレンドになっているジェシファの望みを叶えるべく、連れて来たのはいいけど、まさかこんな戦争が勃発するとは予想外の展開だ。

怒り任せで、りのちゃんの発したロシア語が、アメリカ人ジェシファの冷戦意識に火をつけてしまった。ジェシファに世界大戦経験はなくても、日本人が隣国、韓国や中国と今一つ仲良くなれないのと同様に、ロシア人と仲良くなれないのは、アメリカ人の国民的意識だったりする。

日本語で悪口言われたら俯いてオドオドするだけのりのちゃんは、英語だと別人で戦闘態勢モード。

「ちょっと凱兄さん、何がどうなって、こんな事になったのよ。」麗香がすがるように詰め寄る。

「何故だろうねぇ。」

「もう!どうして凱兄さんは、いっつも人ごとの様に!」

「民族争いに他国民が口出ししたら、ややこしくなるんだよ。りのちゃんが言うように、それが世界戦争勃発の原因でもある。」

「はぁ?」

おもちゃの銃での戦いは、滑稽なほどに平和だ。

最終手段として掃討作戦を強いたのち、アルベール・テラでは表向き紛争は終結した。しかし、現地民たちは残された荒野を前にし、新たな戦いが待っている。死に場所を求めた自分は、紛争地の生きたい願いとは裏腹に、逃げられない市民の命の上面に砂をかけたようなもんだ。行くべきじゃなかったのだ。死に場所に戦地を選んだ事は間違いだった。

ジェシファの構えは、脇を閉めたマスター譲りの本格派、女コマンダーの様に素敵だ。

対するりのちゃんは、長い銃身を持て余し気味で可愛らしいが、目は真剣だ。

ほぼ同時にトリガーを引いた二人の点数は、ジェシファが4点、りのちゃんが3点。

りのちゃんが、貰ったコルク玉をじっと見つめる。そして銃口を覗く。凱斗のやった事を見て、理解したようだ。

(流石はりのちゃん。)

英「銃が壊れてるとかの言い訳は無しよ。」

りのちゃんはジェシファの言葉を無視して、しきりに何かを思考しながら銃を観察している。無視されたジェシファはムッとして、先に2個目を撃った。点数は6点。流石はマスター仕込み、銃の癖を体感で修正している。

りのちゃんが構え、撃つ。こっちも6点。

「りのりの、頑張れっ!」えりちゃんの声援。

屋台の周りは沢山の人々が何事かと集まり、その勝負の行くえを勝手に予測する人も出できた。

同じ点数の場所に撃たれムッとするジェシファは、その怒りを弾に込めて、すぐさま的を狙う。おしいっ、9点に近いが、吸盤の中心は8点。店主が首を振り、8点だとジェシファに念を押す。これでりのちゃんは10点を出さないとジェシファには勝てなくなった。10点なんて絶対的に無理だろう、凱斗でさえも無理だったのだから。負けたらりのちゃんは、ジェニファの悪口をずっとロシア語で言いそうだ。奇跡で9点を出して同得点で、仲良く停戦協定を結んでくれないだろうか。と淡い希望を抱く凱斗。

もう一度、銃口を覗いたりのちゃんは、凱斗に顔を向けてくる。

「何かな?」の凱斗の言葉もむなしく、すっと顔を背けられて、的に顔を向けたりのちゃん。何かを考えては、また凱斗に顔を向ける。そして銃にやっと弾を込めた。銃を構えると同時に後ろに下がった。1歩2歩3歩、4歩。

「ちょっと、りの、下がったら余計に当たらないじゃないのよ。」麗香の言葉もりのちゃんは無視。

銃の軌道が的と水平になるように距離修正をした模様。これはひょっとすると9点は淡い希望にはならず、当たるかもしれない。りのちゃんは、銃の構え方まで変えてくる。足を肩幅に背筋を伸ばして、身体は的に対して横に、そして腕をまっすぐに伸ばしたその姿は、弓道の所作だった。トリガーを引く手も左に替えた。そして添えていた右手は、弓を引くときのようにゆっくりと銃身からグリップにかけて撫でるように引き、狙う視線に銃身を合わせ修正、そのまま弓を放つように、左手だけでトリガーを引いた。バシュッと軽い音の結果は、10点!

周りからどっと歓声が上がる。

「凄い、りのりの!」

「りの、凄いわっ」

英「弓道なめんなよっ」

(御見それしました。)

英「もうっ一体何なのよ、カイっ、行きましょう。こんな子供の遊びに付き合ってらんないわ。」

英「子供の遊びに真剣勝負して、負けた台詞がそれか。大人げないな。」

英「な、何ですって!」

(あぁ、もう、これじゃ、終戦協定どころの話じゃない。)

英「ジェシファ行くよ。」また交戦しそうなジェシファの腰を無理やり引っ張り引き寄せる。

英「あの子っむかつくわ。」

「凱兄さんっ!お母様に連絡してよっ!」

「はいはい、わかったよ。皆ぁ、あまり遅くならない内に帰るんだよー」

世の中どんな成り行きで、未来は荒々しい戦争になるかわからない。

七夕の笹飾りに、世界平和の願いを書いて帰るとしよう。

今夜は、機嫌を損ねたジェシファに、たっぷりサービスをしなければならないからね。





(くっそーあの乳デカ淫乱女、謝りもせず去りやがった。)

「何だか、勝った気がしない。」

「何がどうなって勝負になったのかわからないけど、もう、いいじゃん。凱さんをも超える10点に当てたんだから。」

慎一の慰めは、慰めにならなくてイラつくだけ。慎一は、あの淫乱女が言った言葉を聞き取れていない。

初対面でチビと言われるなんて、屈辱だ。

(くっそー。どいつもこいつも無駄にデカくなりやがって。今や世界はエコリズムに向かっているんだぞ。デカイ、太い、重いは、それだけで不燃費だ。小さい、細い、軽いは、世界から推奨されるエコだっ!)

何だか、自分にイラっと来る。

「ほらっ、りのっ、タレクマの癒しで、怒りを鎮めるんだ。」

「要らない!」

(私が欲しいのは謝罪だ。チビと言った暴言に対する謝罪。こんなバルーンが欲しくて勝負を挑んだのではない。)

「もうっ。こんなデカイのどうするんだよ。俺に持てってかぁ。」

「うふふふ、似合ってるわよ、慎君。」

メグほどじゃないけど、麗香よりも身長の高い岡本さん。健康的な肌に白い歯が綺麗。オレンジとピンクの大きな花柄の浴衣が似合っている。先週のショッピングで、皆で色違いのお揃いで買った髪飾りをサイドアップした髪につけて、いつもは後ろで一つ括りしてくるのに、今日はその髪をウェーブ。髪が短くて付けられなくて、無理やり帯どめの様にしている私とは大違い。

「欲しくないなら射的するなよぉ。」

「空気を抜いて折りたたむといいわ。」

「そうだな。」

タレクマから押し出す空気ではしゃぐ二人。岡本さんの浴衣の袖がめくれて、左腕の傷が露わになった。

学園は、夏服は半そでのブラウスが規定で、長袖は校則違反だった。だけど、今年の6月の衣替えの時期に突然、長袖でも良いとの校則改定の通達が来た。おそらく岡本さんに対する学園側の配慮。麗香も肩入れしての校則改定となったと簡単に予想がつく。私の時もそうだった。何かと特別配慮をしてくれるのを、私は全てを断っていた。自分のせいで、規則、規約が変わる事が許せない。自分のせいで何かが変わる事が、単純に怖かっただけかもしれないが。

「柴崎先輩、クラスメートを見つけたから、私と黒川君はあっちと合流しますね。」

「そんなぁ、勝手に。」麗香の止めも、満面の笑みでかわしていくえりちゃん。

「好きにさせてやれよ。えりりんも黒川君も、年上の中では気を使って楽しめないよ。」と藤木。

「えりの、あれのどこが、気を使っているっつうのよ。」

「えりっ、遅くならないうちに家に帰るんだぞ!」

「慎にぃもねぇ~」えりちゃんは、あっかんべーをして駆けていく。

可愛いえりちゃん、私の妹。

「ふふふ、可愛いわね。あの明るさ、全然、変わらない。」

「うるさいだけだよ。」

「ねぇ、覚えてる?横浜であったサッカーフェスティバルに彩都FCチーム皆で言った時の事。えりちゃんがプロサッカー選手の・・・・」

岡本さんは、私の知らない慎一とえりちゃんの5年間を知っている。フィンランドやフランスの生活は明日が来るのが待ち遠しいぐらいに楽しくて、嫌な事は何一つなかったけど、日本に帰ってきて思う事は、えりちゃんと離れていた時間が惜しい事。

「覚えてるよ。」

「私、おかしくてお腹抱えて笑った。」

「俺は血の毛が引いたよ。」

岡本さんはずるい。幼き頃のえりちゃんとの一緒の時間を私より沢山持っている。

「私、えりちゃんみたいな妹が欲しなぁって思ったわ。」

「欲しいなら、熨斗つけてやるよ。」

「駄目っ!」

「えっ?」慎一と岡本さんが同時に驚きの声を上げる。

「え、えりちゃんは、あ、あげない。」

「冗談だろ。」

「ご、ごめんね。変な事言っちゃって。」

「りのは、昔っからえりの事、溺愛しててさぁ。親以上に甘いんだよ。だからえりも調子に乗って。」

岡本さんはずるい。校則改定も断わることなく受け入れて。今はもう、その傷が浴衣の袖から見えても気にならないほど、笑顔も取り戻しているくせに。

「さぁ、行くわよー。いつまで経っても、お参りが出来ないじゃないのよ。」

釈然としない。何かとすぐに私に謝る岡本さんの、その態度がとても嫌だ。

『りの、りのは誰よりも、どういう事したら人は傷つくか知っているだろう。なのに何故』

知っている。誰よりも。だけど、だからといって、私が岡本さんと仲良くしなければならない理由は、どこにある?

傷付いた人間が、人を傷つけてはいけないと誰が決めた?

「やっと、萎んだよ。さぁ、行こう。」

「真辺さん、行きましょう。柴崎さんに置いて行かれるわ。」

同じイジメの経験をしたから?

同じ精神科に通っているから?

慎一が同じ幼馴染だから?

笑顔で待ってくれている岡本さんを無視して、私は横をすり抜けた。

「麗香ぁ、金魚すくい行こう!」

「あのねぇ、さっきから、私の叫び、聞いてないでしょ。」

「じゃー綿菓子。」

「だからっ!お参りが先なのよ!」

傷付いた者同士、同じに心を合わせなくちゃいけないと言うなら、

何故、岡本さんは笑えて、話せるの?

私の吃音は未だ治らず、慣れない人の前では笑う事も出来ないというのに。

(だから、岡本さんはずるい。)










夜空にきらめく天の川。

その川のほとりでは天の神様の娘「おり姫」が世にも美しいはたを織っていました。

おり姫の織る布は7色に光り輝いて、それはそれは美しいものでした。

天の神様は、娘をとても自慢でした。が、おり姫ははたを織るのに一生懸命で、自分の容姿をかまおうともしません。

そんな姿をかわいそうに思った天の神様は言いました。

「おり姫もそろそろ年頃なのに、人のはたを織ってばかりで不憫じゃ、おり姫にふさわしい婿を探してやろう」

天の神様は、あちこちを探しまわりました。

「どこかにおり姫に似合う婿はいないかのぅ。」

天の神様が、天の川の岸辺をずっと歩いていると、そこで牛の世話をしている若者と出会いました。

若者は「ひこ星」といい、牛に水をやったり、えさの用意をしたり畑仕事に精を出したりと、休む間もなく真面目に仕事をしています。

「この働き者の青年であれば、おり姫と幸せに暮らしていけるじゃろう」

天の神様は、おり姫の結婚相手にひこ星を選び、二人を合わせました。

おりひめとひこぼしは、お互いに一目で好きになり、とても中の良い夫婦になりました。

しかし、それからというもの、二人は遊んでばかりで、仕事をしなくなりました。

織り機には埃がかぶり、ひこぼしの飼っていた牛も、えさをやらなくなったのでやせ細っていきます。

「おまえたち、そろそろ仕事をしてはどうだ」

心配した天の神様が注意をしても、二人はまったく仕事をしようとしません。

おり姫がはたを織らなくなったので、空の神様たちの服はもちろん、天の神様の服もボロボロになってしまいました。

ひこ星も仕事をしなくなったので、畑の作物は枯れ、草が生えて荒れ、牛は病気になってしまいました。

「このまま放っておくわけにはなるまい」

怒った天の神様は

「もうお前たち二人を一緒にはさせておけぬ」

とおり姫を天の川の西へ、ひこ星を天の川の東へと引き離しました。

そうして二人は、広い天の川をはさんで別れ離れになり、お互いの姿をみることもできなくなりました。

それから、おり姫は毎日泣き暮らすばかりで、まだ、はたを織ろうとしません。ひこ星も家に閉じこもってしまい畑の仕事も牛の世話もしません。困った天の神様は二人に言いました。

「おまえたちが、以前のように毎日まじめに働くのなら、一年に一度だけ二人が会うのを許そう」

その言葉に、おり姫とひこ星は、改心し、まじめに働き始めました。

一年に一度、7月7日の夜がその一年に一度の日。

おり姫は再び美しいはたを織るようなり、神様たちの服は美しいものとなり、ひこ星も牛を世話を再開し、畑仕事も手抜かりなくしたので、牛はすっかり元気になり、畑には沢山の作物が実りました。





厚く覆う曇り空が遅い夜を迎え、屋台に設置された照明がやっと雰囲気を作り出し、色とりどりのテントが色鮮やかに客を引き付ける。立ち寄りたくなる衝動を押さえて、参道を本殿に向かって麗香達は歩く。呼び込みの雑踏の中に、七夕の童謡がスピーカーから流れていた。

♪お星さま キラキラ 金銀砂子♪

「今年も、彦星と織姫は会えないわね。」と麗香は天を仰いだ。

空に星どころか、月も見えやしない曇り空。彦星と織姫は天の川の流れすら見る事が出来ないのではないか。1年に一度しか会えないのに。

「去年も一昨年も雲空だったし、その前の年なんかは台風で中止になったのよ。」

「よく覚えてるなぁ。」と亮。

「だって一昨年は、その前に買った浴衣を持ちこしたのよ。」

「ははは、柴崎は浴衣事情か。」

「神様はどうして年に一度のデートを、この季節に設定したのかしら?梅雨時期じゃ、絶対的に雨や曇りの確立が高いじゃない?」

「昔は旧暦だった。旧暦の太陰暦は新月を月初めとして29日、30日周期の、だいたい1か月から1か月半ぐらい向うにズレるから、七夕行事は8月も中ごろ、梅雨もとっくに開けてるよ。」

「相変わらず、藤木君の博識の広さには賛嘆たるものね。」と佐々木さん。

渋い藤色の浴衣を着ている亮は、佐々木さんの賛辞に、悦に入ったように微笑む。その姿が、もう16歳とは思えないぐらいに貫録があったので、麗香は思わず吹き出しそうになった。

「皆は、雨や曇り空だと彦星と織姫は会えないと思っているようだね。」

「そうでしょ。雨が降れば天の川の水が増えて、川を渡る事が出来ない。曇りでも、視界が悪くて、お互いの姿を探す事が出来ない。じゃないの?」

「七夕伝説には続きがあるよ。」と人差し指を立てて、鼻高々に亮のうんちくは続く。


7月7日に雨が降ると川の水かさが増して川を渡ることができません。おり姫とひこ星は、待ちに待ったその日、雨に肩を落として嘆いていると、天の神様は虹をかけ、橋を作りました。二人は虹の橋を渡り、めでたく1年に一度、会う事ができました。めでたし めでたし。


「虹!そ、それ本当の話!?」とりのが目を輝かせて亮を見上げる。

「ははは、やっぱりりのちゃんは、食いつくと思ったよ。本当かどうかって以前に、お伽話だからね~。」

「藤木が勝手に作ったんじゃないのか?リノを喜ばそうと思って。」今野が亮の言葉を茶化す。

「そんな事するかっ。ちゃんと続きは続きとして伝承されているお伽話だ。この最後までが一般的に伝わっていないのは何故だか知らないけどな。」

晴れたら星が煌く天の川を船で渡り、曇りや雨なら虹の橋を渡る。想像するに、なんて素敵な光景。

「いいなぁ~虹の橋。それがあれば・・・」

グレンから、他人行儀なメール突きつけられ、実質失恋をしてしまったりの。髪を切って吹っ切れた風を装ってはいるが、当然にまだ未練はあるだろう。りのからその事実を告げられた時、また、今すぐにでもフランスに行きたいと言われるかと危惧した麗香だったけれど、その心配はなく、ただただすがるように麗香に傷ついた心を癒し求めて来ただけだった。

「ほら見て、笹につけられた短冊が虹の様だわ。」

屋台の参道はあと数メートルで抜けきる。屋台のテントと人の合間から、設置された笹が垣間見えた。

「お参りしてから、短冊を書こう。」

「うん。」

りのと仲良くなったきっかけでもある虹の描かれた絵本。麗香も子供の頃、その絵本を見ながら虹の橋を渡る空想に耽った。七夕伝説の続きが虹によって願いが成就する事と、リンクする虹というキーワードは、りのや麗香にすれば希望の導きだ。

やっと屋台に群がる人の混雑を抜けて、社前に麗香達は出る。社の前は広く、人の混雑さは緩和されていた。広場の両サイドから、社の周囲に笹が立てて設置されていて、無数の短冊と飾りがつけられている。わずかな風に揺れる様は、虹色の天の川の煌めきのようで幻想的だった。

りのや今野が笹の方へと行きかけるのを強く止めて、手水舎に引っ張る。この場においてお参りを後回しになんて絶対にありえない。手水舎の水で手を洗い、やっとお参りが出来る。本殿のかけ段を上がり、りのと並んで二礼二拍手一礼をする。りのはこの参拝の仕方を知らない。去年も教えたのだけど、忘れていたようで、麗香の見様見真似のたどたどしい礼をする。

次いで亮が今野と佐々木さんと並んで参拝する。季節ごとの祝い行事をさせられていたというだけあって、堂に入った綺麗な参拝の姿に麗香は見とれた。こういう所で、別れた事を惜しく思う。亮の事を知れば知るほど、「申し分ない最高の男」を思い知らされ、もう一度、恋人になれないだろうかと、未練がましく思う心を抑え込まなければならなかった。

遅れて、新田と岡本さんが本殿のかけ段を上がる。岡本さんの騒動が収まってまだ浅く、寄り添う新田のそれは仕方ないと麗香は思うのだけど、仲つつましく並んで歩く姿が、こうもしっくり恋人関係のように見えてしまうと、麗香は複雑気持ちになる。そして、りのはグレンに失恋したのだと、新田に言ってしまいたくなる。りのから、グレンに失恋した事を新田には言わないで、と言われていた。何故、知られたくないのか?麗華には今一つ同意できないが、りのにはりののプライドがあるのだろう。その約束を破って新田に言えば、新田はもっと積極的に、りのへ思いをぶつけるのではないか?と思うのだけど。

「言うなよ。」亮が目を細めて麗香に念を押す。心を読まれた。読まれた事と自分の策略を止められた事に、麗香は不貞腐れて僅かに頬を膨らませてそっぽを向いた。

「俺は、難易度の高いりのちゃんより、あの通りに悠希ちゃんと一緒になる方が、新田にとって良いと思う。」

「でもっ」

「幼馴染の恋は実らないって言うだろう。」

亮の言う通り、二人は幼馴染という絆に縛られ過ぎて、その想いは恋なのか、兄妹なのかもわからなくなっているように思える。

りのは、グレンに失恋したからと言って、すぐに新田に鞍替えできるような心ではないだろうし。

新田は、岡本さんの登場で、りのへ気持ちが薄れている風に見受けられた。

「俺達がどうこうしても、なるようになる。」と亮は片方の眉を上げて麗香に同意を求める。

(そうだけど・・・)それは納得しがたい。と言うより、それでは麗香の理想に成就しない不満が残る。

当人たちが「お待たせ」と麗香たちの待っている所に来る。

「じゃ、短冊の願いを書こうか。」

本殿脇のスペースに、学園にあるような茶色い長テーブルが設置され、短冊が沢山入っている箱が置かれている。

麗香が色とりどりの短冊をどれにしようかと悩んでいると、亮が緑色の短冊を一つ取り、またもや知識を披露する。

「古来、七夕は、女性が着物を織って棚に備えて神様に豊穣を祈り、人々の汚れを追い払う行事だったんだ。着物を織る女性を【棚機女たなばたつめ】と呼び、清らかな水辺の近くに建つ、はたやに籠って神様の為に心を込めて着物を織った。この時、着物を織るのに使われていた道具を【棚機たなばた】と呼んでいて、この行事を7月7日に行われていた事から、現在の七夕となったと言われている。さっき話した七夕伝説のお伽話は、旧暦の7月7日に天の川を挟んで強く輝く夜空を見た人々が、想像を膨らませて作った話で、七夕行事の由来とすれば、こっちの方が由緒正しい起源だな。」

りのが、亮の話を好奇の目をして相槌をうつ。

「短冊に願いを書いて笹につるす風習は、中国の【乞巧でん】という風習から来ている。本来は、機織りや縫製の上達を願っていた物だったが、現代では先のお伽話と相まって、縁結び的な願いとか、何でも書けば叶う的な物になってしまっているけれど。」

「笹は神聖な物って去年、言ってたわよね。」と麗香は聞いた。

「うん。笹は根強く繁殖力も強い。風雪寒暖にも強く、竹の中が空洞になっている事から、そこに神様が宿るとされて、神聖視されている。かぐや姫は竹の中から生まれた事からでも、古来の人は、竹の中の空間は神秘の世界と思った表れだよね。」

「藤木君といると、勉強になるわ。」と岡本さんも目を輝かせて尊敬のまなざし。

「褒めるなよ。どこまでも調子に乗って止まらなくなるぞ。」と新田が牽制。

「男の嫉妬はみっともないねぇ。」と亮。

「どこが嫉妬だっ。」

「それが。」

「やめなさいよ。もう!」

「そうね、笹は神聖な物って言ったばかりよ、静かに願いを書きましょうよ。」と佐々木さんが喧騒な雰囲気を宥め、麗香達は笹の葉が風に擦れる音を意識する。耳心地よく涼しい体感。

麗香は赤色の短冊を手にする。神様に願う事など、今までになかった。すべての欲しい物は、言えば手に入ったし、神様に願わなければならないほどの危機に陥った事は・・・一度だけあるも、吉崎に連れ去られて殺されそうになった時、神様に祈り助かろうなんて思いつかなかった。人は、本当の危機的状況の時には、神様になど祈る余裕などない。神様に願えるという状況が、気持ちに余裕のある証拠だと知るも、今、麗香が切に願っている事は、亮との関係だった。

『亮ともう一度、恋人同士になれますように。』を、皆の前で書けるはずもなく、麗香はペンを持ったまま、苦悶に悩む。

向いで書き始めた亮の手元を見た。

(なるほど、私もそれでいこう。)

「麗香は何て書いた?」とやっと短冊の色を決めたりのが聞いて来る。

「私のお願いは、これよ。」書き上げた短冊を掲げる。

⦅常翔高サッカー部が全国優勝しますように。⦆

「なーんだ。」と、りのは肩をすくめる。

「なーんだとは何よ。」

「七夕伝説の流れから、恋の願いだと思うじゃん。」

「今は、恋の願いより、こっちの方が重要なのよ。」と麗香は鼻をならしてそっぽを向くと、亮が目を細めて微笑している。完全に本心を読まれている、読まれて恥ずかしい事など、とっくに超えている。喧嘩別れをしたわけじゃないのだから未練があるのは当たり前で、逆に未練がある苦労をわかってほしい、と思う。

「俺も出来た。俺はとりあえず目先の願い」と亮は、りのに藤色の短冊を掲げて見せる。

⦅常翔高サッカー部、予選突破願う⦆

「私も」

「俺も」

岡本さんと慎一が並んで短冊を手にかざす。

⦅常翔高サッカー部が

   神奈川県代表トーナメント優勝しますように。⦆

⦅常翔高サッカー部が

    国立競技場に行けますように。⦆

「何それ!こんな時までサッカー部のフォーメーションかよ!」と今野が叫ぶ。

「当然よ。フォーメーションは完璧。」

「リノ、私達も書くわよ!」と佐々木さん。

「うん!」

「俺も入れろっ!」

⦅常翔高女子バスケ部、

    全国大会に出場出来ますように⦆

⦅常翔高男子バスケ部、全国大会出場願う⦆

バスケ部のフォーメーションも揃う。サッカー部に負けない願い。

私達はこうして、競ってスキルアップを目指す。

辛い事は7分の1に、楽しいは7倍に、競えば7倍早く成長する。

笹に結びつける位置も、りのは競って高い場所へと踵を伸ばす。届かない姿がおかしい。

「メグ、慎一の場所より上につけて。」と佐々木さんに白い短冊を手渡すりの。

「自分でつけないと願いかなわないんだぞ。」と新田は意地悪く対抗。

「本当?藤木。」

「さぁ、それは聞いた事ないけど、やっぱりこういうのは自分でつけないと、楽しくないでしょ。」

「神様は天に居るんだから、より近い方から叶えてくれるはず。」とりの。

「じゃ俺、もっと高い所につけよーと。」と新田は一度結びつけた青い短冊を解きにかかる。

その挑発的な行為に、りのは怒り地団駄を踏む。

「りのちゃん、高い場所とかに拘るより、ちゃんと心込めてつけた方が叶いそうだよ。」と言う亮の言葉を完全に無視し、りのは短冊を付け替えている新田の後ろへと歩み、足の膝裏を突き蹴った。カクンとなった新田は悲鳴を上げる。

「ぎゃっ。何すんだよ。」

「嫌がらせに決まってる。」

「威張って言うな。」

「もう、本当にやめなさい。どうして皆、厳かに出来ないの。」

麗香は、怒る元気もなくなり、ため息をつく。






七夕の短冊を笹につけ終えた亮たちは、また屋台が連なる参道を歩き戻る。日が落ち、屋台の提灯が夏らしい雰囲気を醸し出してくると、参拝客は増える一方だった。参道へ向かう人との交差と、屋台前で立ち止まる人とで、歩む速度は亀ほどに遅い。

亮に対する麗香の想いを断ち切らせなければならないのに、亮は自分勝手に、麗香と一緒にいると頭痛が治まる癒し効果に頼って、常にそばに居てしまっている。駄目だと思いながら、でもこんな人混みでは仕方がない。

麗香が、跳ね上げた小石を下駄と足の間に挟んで、悲鳴をあげて亮の腕を掴み立ち止まった。足元へと視線を落とした瞬間、ズキリと強くあの頭痛がした。そして、いつも学園で感じている、あの圧力に近い視線に苦悶する。弥神が近くにいる時に決まって生じるそれの根源を探すべく、亮は痛みに耐えながら顔を上げた。すると、りのちゃんもまた、胸に手をやり亮と同じ方向、本殿へと顔を向けていた。

デジャブ。

同じ光景を体感した覚えがある。だけど、それがいつだったか思い出せない。

「取れたわ、ごめんね。」柴崎が姿勢を戻すと、頭痛は治った。「どうしたの?」

「いや、何でも。」

「ううん、何でも。」

りのちゃんと言葉が重なった。麗香は目をぱちくりさせて、交互に見やる。

一瞬だけりのちゃんと目が合うも。りのちゃんは亮の視線から逃げるように麗香の腕を引っ張っていく。

「金魚すくいの店に行こう、麗香。」

「あっ、うん。」

二人の後をついて歩きながら考えようとしたけれど、何を考えなくてはならなかったのか、わからなくなり、気持ち悪い感覚だけが残る。無意識に頭を振れば、その気持ち悪さもなくなった。

「金魚すくいって、来る道中では見かけなかったわよ、りの。」

「うーん。」と首を傾け、残念そうにうつむくりのちゃん。

「今は動物愛護なんとかでうるさいからね。持って帰るのに邪魔だし、スーパーボールすくいに変わっているよ。」

「じゃ、それでいい。」

「早速、あるわよ。スーパーボールすくい。」と数軒先の屋台のテントを指さす麗香。

その数軒先へと歩むのも時間がかかる。メグりんと今野のペアは射的をリベンジすると言って先に行っているし、新田と悠希ちゃんのペアは遅れて、参道入り口のたい焼き店で並んでいる。はぐれても、鳥居のある参道入り口に誰もが戻ってくるので、あえて何時に集合とかは言ってなかった。

やっとの事でスーパーボールすくいの店にたどり着くと、ちょうど家族連れが立ち去ろうとしたスペースに、麗香とりのちゃんはしゃがみ込む。亮は浴衣の袂から財布を取り出し、三人分の代金を店主に払った。

「後で払うね。」とりのちゃん。

「いいよ。奢り。」

「粋だね、お兄さん。」と店主が囃し立てる。

誰にでも言っている口先だけとわかるが、誉め言葉は嫌な気持ちならない。身勝手なものだ。

「あ~。」早速、大きな穴をあけて残念がるりのちゃん。

「馬鹿ね、そんな大きな物を取ろうとするからよ。」と慎重に小さいスーパーボールを一つすくい得意げの麗香。

「だって~これが欲しいもん。」とりのちゃんが指し示すのは、直径五センチ超えの大玉で、乳白色の虹色のマーブル模様をしたスーパーボールだった。

「りのちゃん、取れた物がもらえるわけじゃないよ。」

「えっ?」

「取れた数によって貰えるものが違うんだよ。ほら。」

屋台屋根を支える柱に張り付けられたルール表を亮は指し示す。5個で一番小さなノーマルのカラーボール、10個で金粉が入った物か、ツートンカラーの物、15個で少し大きいノーマルと段階的になっているが、りのちゃんが欲しがっている大玉のマーブル模様を貰おうと思ったら、40個以上をすくわなければならない。薄い紙で水の中のボールを40個もすくうなんて絶対に無理。

「ムムム。」顔を顰めて唸るりのちゃんに、亮は自分のポイを渡した。

「あー私も破れたわ。」慎重に小さいのばかりを狙っていた麗香も、5個目を救おうとしたところで破れてしまう。

「惜しいね、お嬢さん。」店主が笑う。しめしめといやらしい本心。

「もう一回よ、もう一個頂戴。」と麗香が巾着から財布を取り出そうとするのを亮は止め、袖の袂から財布を取り出し札を一枚、周りからは見えないように店主に握らせた。

「おじさん、二人に思う存分遊ばせてあげて。」

店主は驚いた顔で訝し気に亮の顔を見たが、全身を見て納得したように頷くと、ポイを鷲づかみ、麗香達に渡す。浴衣がいい効果になったようだ。

「ちょっと、亮!」戸惑った麗香が名前で呼んだのを嗜める。麗香は「しまった。」と口に手を当てる。

「今日はお祭り、ご祝儀だよ。ね、おじさん。」

「おうよっ」

「その代わり、一回一回リセットしないで、トータルで40個以上取れたら、好きな物を一個貰ってもいいかな。」

「かまわないよ。」上機嫌の店主。麗香とりのちゃんが顔を見合わせる。

スーパーボールすくいは一回400円、一万円で25回はできる。二人で半分すると12回、麗香のように一個のポイで4個を取る事が出来たら、最低でも10個のポイで好きなスーパーボールを手にすることができる。

「全くぅ、いつも私の事を世間知らずと言うくせに、あんたのそれは何?」

「俺は世間を知って、金を使っている。」

「無駄な使い方だわ。」

「無駄にするかしないかは、二人の楽しみ方次第。」

麗香とりのちゃんはまた顔を合わせて、

「じゃ、競争よ、どっちが早く40個を取れるか。」

「うん。」

「いくわよ、スタートっ」

二人がスーパーボールすくいの競争をやっている最中に、新田と悠希ちゃんが追い付いて。二人もやり始める。

二つ程で破れた悠希ちゃんのポイを見て笑いあう二人、それを見たりのちゃんがムッとする。

「私はまだあるもんねぇ。」

「藤木の無駄遣いの恩恵だろう、威張るな。」

「あげないよ。」とりのちゃんは新田に言うも、意識は悠希ちゃんの方を気にしている。

「要らねーわ。こういうのは少しだけやるのが楽しいんだ。見ろ柴崎を、飽きてきてる。」

「ええ、もういいわ。私、別にスーパーボール持って帰りたいわけじゃないし。」

「競争って言ったじゃん。」

「負けでいいわよ。私の分のもあげる。」と麗香は立ち上がり、伸ばした腰に手を当てて、浴衣の着崩れを治す。

「そんなの面白くない。」と子供のように頬を膨らませるりのちゃん。

麗香の残した数枚のポイと30個以上ボールのお椀を引き寄せると、新田と悠希ちゃんに顔を向けた。

「勝負、麗香の続きをしろ。」

「俺の話、聞いてた?」とあきれた表情をしながらも、りのちゃんからポイを受け取る新田。

「違う、お岡本さん。」

「私!?」

りのちゃんから嫉妬の感情が読み取れる。岡本さんを負かしたい攻撃的な感情。そこで亮は気が付く。行きの参道とは感情の読み取り具合が違う。

「悠希、悪いけど、りのに付き合ってやって。」

「う、うん。」

りのとニコが合わさった昨年の催眠療法以来、随分と読み取れるようになりはしたが、まだ難しいりのちゃんの本心。それでもこんなムラのある読み取り具合ではなかった。いや、自分の調子が悪いだけで、そう感じるだけか?

頭痛に悩ませられてから、亮はこの本心を読み取る能力に自信が持てない。






真辺さんは冷たい表情で私にポイを突きつける。どんな時も見惚れるほどに綺麗な顔の真辺さんが羨ましい。これ程に綺麗な顔で生まれてきたら、生涯において沢山の人から恩恵をあずかるだろう。現にこうして、藤木君がこのスーパーボールすくいの代金を払ったというのだから。

悠希は、真辺さんからポイとお椀を受け取った。

「そ、それには、34個入っている。わ、私のは28個。」

「負けてんじゃん。」と慎君のつぶやきに、睨みつける真辺さん。

真辺さんは、悠希に渡したお椀から3つをつかみ自分の方にいれて、再度、私に寄こした。

「ポイも、あ、あと3個ずつ、し勝負、スタート!」

「よくやるわ。」と柴崎さんは呆れて首をふる。

「お前がやり始めた事だろう。」と苦笑する藤木君。

私は慎君と顔を見合わせ、戸惑いながら水槽の中にポイを沈めた。

ここで勝ったら、間違いなく真辺さんは不機嫌になって、更に私を嫌うだろう。真辺さんは、私が慎君を好きなことを悟っている。慎君への気持ちが自分に無くならない限り、真辺さんに好かれるなんて無理な話で、諦めてはいるけれど、学園で一緒に給食を食べている仲でもあるわけだから、諍いにはならない程度の関係を保っておいた方がいい。悠希は水槽の中でポイを左右に動かして紙の強度を落とし、一つボールをすくいあげた。思うとおりにポイは派手に破れる。

「なんだ、これすぐに、破れるなぁ。」と慎君。

「ポイとはそういうもの。」と、一つボールをすくってお椀に入れた真辺さんが、新たなポイを握る私を見やってから、次のボールに目を落とす。集中した真辺さんの横顔は、特に綺麗だ。ボールに集中してこちらを見ていない今の内に、私はまた水中でポイを左右に動かす。

「もう一つゲット!」

「この勝負、勝った方は何の特典があるんだ?」と慎君。

「特典は、この大きな虹色スーパーボール。」

「それは店の景品、りのと悠希が勝負することの報酬は?」

「元は競争だったのよ。ただ楽しんでただけ、りのが勝負に変えちゃったのよ。」と柴崎さん。

「そうか、勝負と言ったからには、何か報酬はいるな。」ともう一つボールをすくってお椀に入れようとしてポイが破れた真辺さん。

同時に私も一つお椀に入れようとして、ポイを破く。

真辺さんが、じっと私を見つめてくる。綺麗すぎる視線に私はたじろいだ。

「私、こういうの苦手なの。」

(真辺さん、あなた自身にも。)

「何だよ、りの。変な報酬を考えなよ。」

真辺さんは、次のポイを持ったままじっと私を見据え、続きをしようとしない。

(気づかれたのだろうか?それとも私の最後のポイの手技を見届けようとしているのか。)

仕方なく、私は最後のポイを手にして、水槽に入れる。

「どれにしようかなぁ。」迷っているふりをして、水中でポイを左右に動かした。

「面白くないっ!」真辺さんは立ち上がると、手に持っていたポイを水槽の中に投げつけた。水しぶきが私の顔にかかる。

「きゃっ」

「おいっりの!」慎君は驚愕に立ち上がる。

真辺さんはプイと顔を背けると、そのまま屋台から立ち去ってしまう。

「りの!」。柴崎さんが追いかけて行く。

「まずいよ。悠希ちゃん。一番やっちゃいけない事だよ。特にりのちゃんに対しては。」と藤木君が浴衣の袖からハンカチを取り出して悠希に差し出してくれた。それを受け取ることなく、悠希は俯いた。

「やっちゃいけない事って何だよ。」慎君が悠希の背中に手を添えてくれる。

「わざと負けようとしたんだよ。ね?」

「ごめんなさい。」

「あぁ~、それは怒るはずだよ。」慎君は首をふって肩を落とす。

「勝負なんてしたくなかったの、仲間内で。」

「無理にさせてしまった俺が悪かった。ごめん。」

「ううん。慎君は悪くない。私が嫌だとちゃんと言えなかったから。」

(勝負を挑んできた真辺さんが悪いのよ。)

「しかし、何でもかんでも勝負したがるりのもりのだ。」

「りのちゃんの、その性格をよく知っていて、コントロールできないお前のせいだな。」

「何だよぉ。」

「りのちゃんのフォローは、俺達がしておく。お前では火に油を注ぐようなもんだ。」と藤木君は眉間をつまみ頭を振る。

「う、うん・・・」慎君も渋い顔をしてため息はく。

「残ったポイで、りのちゃんが欲しがったあの大きな虹色のスーパーボールをゲットしてあげたら、機嫌もよくなるだろ。がんばれ。」藤木君は慎君の肩を叩くと、真辺さんと柴崎さんの後を追って行った。

その後、残ったポイ一つで、慎君は何とか40個に達して、真辺さんが欲しがっているという大きなマーブル模様のスーパーボールを手に入れた。皆との待ち合わせ場所である出口の鳥居へと歩む。

「まったく、こんな物が欲しいって。小学生じゃあるまいし。」とスーパーボールをつまんでかかげる慎君の歩き方が、微妙におかしい事に気づく。左右に揺さぶられる肩。

「慎君、もしかして、膝、また痛むの?」

「えっ?いいや、どうして?」誤魔化す慎君。嘘が下手。

「肩の揺れ方が違うわ。」

人の流れが滞って立ち止まる。慎君は苦笑しながら頭をかく、

「さっきの膝カックンから?」

真辺さんが不意打ちで慎君の膝裏を突き曲げた。かなりの衝撃が来たはずだ。頻繁に病院でマッサージを受けて、やっと痛みも無くなって来たと喜んでいたのに。

(何てこと・・・酷いわ真辺さん。)

「大丈夫、大したことないよ。」

「無理しないで、救護室ないかしら。」

「大げさだよ。」

「お店の人に聞いてみる。」

「大丈夫だって、それに怪我じゃないんだから、救護室があっても門前払いされるだけだよ。」

「でも・・・。」

「ありがとう、悠希。その気遣いはこの先心強いよ。」と微笑む慎君。

褒められてうれしい。照れた頬が赤くなるのを見られないように俯いた。

(あぁ、真辺さんを怒らせて正解だったかも。こうして慎君と二人きりになれた。)







(痛たたっ。)

また小石が足の裏に入り込んで踏む。慣れない下駄は歩きにくい。麗香は参道から外れて立ち止まり、鼻緒をずらして下駄をプラプラさせて小石を落とした。

りのを追いかけたものの、この人混みの中、りのを見失うのは早かった。りのの背の低さと、向かって来る人を機微に避けるバスケ部による技が、本人にそのつもりがなくても、追手を巻く忍者のように素早い。

麗香が顔を上げると、ちょうど亮が辺りを見渡しながら通り過ぎようとしていていた。

「藤木!」

「あぁ、柴崎、りのちゃんは?」

「見失ったの。この人混みで。」

「まぁ、遭難って事もないだろう。今野達のいる所にでも行ってるだろうよ。メグりんは目立つし。」

と亮は背の高さを手で表す。

「そうね。携帯も持ってるものね。」

「あぁ。」と亮は、歩き出しを手と顔のふりで促す。

「でも、りのはどうして急に怒ったのかしら?」

「悠希ちゃんがわざと負けようとしたんだよ。それに気づいたんだ。」

「えっ?」

「悠希ちゃんは色々考えて、負けた方が良いと判断したみたいだけど、りのちゃんは、勝負に手を抜かれる事が一番嫌いだから。」

「あぁそうよ、一番やっちゃいけない事だわ。」

「悠希ちゃんはまだ、りのちゃんとの付き合いが浅いから。」と話しながらも亮は左右に首をふり、りのの姿を探しながら歩く。

麗香は既に探す気は無くなっていた。二人っきりで歩くこの状況。他人から見れば確実に恋人同士にみえるだろう。男子が浴衣を着ている珍しさもあり、すれ違う誰もが二人に注目して行く。そんな他人の注目が心地よい、優越感。

人の流れが滞り、歩みが止まってしまった。亮は軽いため息を吐いて、浴衣の袖に左右の手を入れて腕を組んだ。

(あぁ、その腕を絡めてぴったりと寄り添えば、完璧なのに。今日だけは許してくれるだろうか?今日はお祭り、ご祝儀よ。)

麗香は恐る恐る亮の腕に伸ばす。

「あっ、メグりん発見!ほら、たこ焼き屋の所。」

(あぁ、神様は無情だわ。)

「ん、どうした?」

「なんでもないわ。」麗香は読まれない様にそっぽを向く。

亮のクスっと笑う気配。

「もう一度、下駄に小石を跳ね上げたら、エスコートしますよ、お嬢様。」

読まれない様にするなんてできないのはわかっているけれど、それでも顔は恥ずかしさで熱くなる。

「もうっ!」麗香は拗ねて、進み始めた人の流れに歩み始める。

小石がまた足裏に入り込むことを期待するも、そんなにうまく事は運ばない。すぐに佐々木さんと今野がたこ焼きを買って食べている所に行き着く。

「おう、ここのたこ焼きうめーぞ。」

「りの、来なかった?」

「いいえ。」佐々木さんは首を振る。「どうしたの?」

「ちょっとしたトラブルで、はぐれた。」

「こんな時にも遭難かぁ。あははは。」と今野は大笑いをする。

「また新田君と喧嘩でもしたの?」と敏い佐々木さん。

「喧嘩ってほどじゃないけど、悠希ちゃんがりのちゃんの取り扱いを間違った。」

「あら~。」

「電話した?」

「まだ。佐々木さんの所かなと思ったから。今してみるわ。」

麗香は巾着鞄から携帯を取り出し、りのに電話してみる。案の定、りのは出ない。この人混みと騒音では、コール音も聞えないのだろう。次いで、メールを送っておくことにした。

〈鳥居の所で集合だからね。〉






(面白くない。)

私との勝負に真っ向から挑まないで、負けようとするなんて、負けて慎一の同情を受けようとした?

(やっぱり岡本さんはずるい。)

ハルとメグがリベンジすると言っていた射的の店に来たけれど、二人はいない。もう終えてしまって別の店に移動したみたいだ。

店のおじさんが、私を見つけて声をかけてくる。

「やぁ、お嬢ちゃん、もう一度かい?」

「い、いいえ。」

足早にその店から遠ざかる。人の流れに任せて歩いていると、リンゴ飴を売っている店の脇で、えりちゃんの後ろ姿を見つけた。声をかけようとしたら、えりちゃんは黒川君を含めて数人の友達と輪になって談笑している。とても割り込んでいける雰囲気ではない。諦めて、また人の流れのまま通り過ぎた。

(面白くない。)

りのは、あの人がここに居ると知って、怯えて引っ込んだ。

射的をしている時は、十分に楽しんでいたのに。

(やっぱり、りのはずるい。)

自分の不都合な時になったら私と変わる。

(あぁ、あの虹色のスーパーボール欲しかったなぁ。)

天を仰ぎ見る。一面の曇り空の向こうでは、神様が架けた虹の橋がある。

そう想像すると、なんてロマンチック。

【なんと稚拙、戯けた願い・・・】

えっ?

声が頭の中で響いた。

恐怖が全身を駆け抜ける。

【いつから、こんな馬鹿げた季節祭を。】

あの人が激高している。

それは神の怒り。

雷鳴落とす神のごとく。

「わ、私、何もしてないわ・・・うまく、ちゃんとしてる。」

身を抱え、震えを抑える

【おいで】

人の騒めき、

繰り返される七夕のメロディとは別の次元で

それは届いて来る、私の中に。

【教えよう。七夕の神髄を】

呼んでいる。

【おいで】

あの人の強い力が

魂を引き寄せる

抗えない。





多くの屋台が並ぶ神社の参道は、真ん中で縦に割ったように人の流れは本殿へと向かう流れと、出口へと向かう人の流れとでわかれている。

日本の交通ルールに則って、自然と左側通行になっていた。慎一の右を歩いていた悠希が、すれ違う人と肩がぶつかって、後ろによろめいた。

「大丈夫?」

「えぇ、大丈夫。」

小幅でしか歩けない浴衣、履きなれない下駄では、歩きづらそうだ。

「こっち側へ。」慎一は悠希の右側へと移動し、手を握った。

悠希が驚いた顔をしたのを見て、自然とそうした自分に気づく。

「あっ、えっとぉ。ごめん、最初からこっちにエスコートしていればよかったんだよな。」

藤木だったら、最初から安全な方へと女子を誘導していただろう。慎一は、はにかんだように笑い、悠希と歩み始めた。膝の痛みは照れで忘れられていた。

ノロノロと人の流れのまま無言で歩いた。やっと出口まで半分の所に来た時、りのとすれ違う。りのは慎一達が進む方向とは反対の本殿へと一人で向かっていた。

「りの!」慎一は呼びかけるが、りのは聞こえなかったのか、無反応で通り過ぎようとするから、慎一はもう一度叫んで、りのの腕を掴む。悠希と握っていた手が離れた。

「おい、りの!」

りのは振り返り、ただ無表情に慎一を認識し、慎一達は人の流れが割れる中央で立ち止まった。

「柴崎達は?りのを追いかけて行っただろ。」問いかけに、りのは僅かに首を動かしただけで、体を本殿へと向ける。

(まだ、怒っているのか?)慎一はため息を吐いた。

「真辺さん、ごめんなさい。私・・・」悠希が謝っているのに、見向きもしないりの。

人々が通りの真ん中で立ち止まる慎一達を、迷惑そうに迂回していく。両方向で慎一達が原因で渋滞が出来てしまっていた。

「端へ寄ろう、こっちへ。」とりのの腕から手へと握り直し、屋台と屋台の間のスペースに引き込む。りのの足取りに抵抗があったが、お構いなしに引っ張った。

「りの、ほら、欲しがっていた虹色のスーパーボール。貰ったよ。」これで機嫌が直ることを期待しつつ、慎一はりのの手に握らせた。しかし、りのは喜ぶこともなく、すぐにそっぽを向く。

「りの・・・いい加減に。」機嫌を直せよと言いかけた時、慎一の携帯が、ジーンズの尻ポケットでバイブ振動する。マナーモードにしているわけではなかったが、この雑踏では着信音は聞えない。藤木からだった。

「新田、りのちゃんを見失って、捕まえられなかった。」

「りのなら、ここに居る。本殿へ戻る向きで歩いてたから、捕まえた。」

「あぁ、それならよかった。」

「お前、今どこだよ。」

「今、たこ焼き屋の前、射的の店よりそっち側よりの・・・」

「あぁ、じゃ、そっちに向かうから、待ってて。」

「わかった。りのちゃんに余計な事言って、喧嘩するなよ。」と念を押されて電話は切られる。

相変わらずりのは、慎一達には見向きもせず、ずっとそっぽを向いたまま、お手上げ状態だ。

「藤木達、この先のたこ焼き屋の所にいるから、行こう。」

こういう時は、さっさと藤木と合流して、りのの対応は任せた方がいい。

慎一は機嫌の悪いりのの手を引き歩き出す。人の混雑ぶりはピークに達しているようだ。今年の七夕は土曜日であることから、参拝客が例年より多いのだろう。相変わらずりのの足取りは重かった。引っ張る手に抵抗がある。慎一が振り返るとりのは後ろを向いて、まるで駄々っ子の手を引いている気分になる。

(勝負ができなかったぐらいで、ここまで怒ることないのに。責任を感じている悠希がかわいそうだ。)

十メートルほど牛歩のように歩いて、たこやき屋の屋台が見えてくる。その手前で藤木が慎一の姿を見つけて手を上げた。

「居た、居た。」慎一がほっとした時、後方本殿の方から、異様な騒めきが波のように伝わってくる。

慎一は振り返った。りのも悠希も振り返り、周囲の人々も立ち止まって振り返っている。何かわからないけれど、伝わってくる騒めきがお祭りの特有の喜々ではない事だけはわかる。異常事態の危機たる怒号。何が起きたか踵を返して見に行こうとする人と、進行方向のまま出口に向かおうとする人とがぶつかって、慎一達の周囲は、混乱した状態になる。りのは弥次馬の流れに誘導されるように、本殿へと向かおうと歩み出す。慎一は握っていた手に力を入れて止める。すると、りのは反対の手に持っていた虹色のスーパーボールを慎一に向けて投げ寄こした。慎一は慌ててそれを受け取ろうとして、握っていたりのとの手を離してしまった。

「わっ、えっ?・・りの!」

落ちたスーパーボールは跳ね上がり、悠希の方へと飛んでいく。悠希もまた掴もうとしたけれど失敗して、スーパーボールはまた地面へと落下、跳躍を失ったスーパーボールを拾おうしゃがんだ悠希に、前をよく見ず歩いてきた年配の女の人が悠希に躓き覆いかぶさる。

「きゃっ」手と膝を地面についてしまった悠希。

「悠希!」

ドミノ倒しにならない様に、慎一はまず、年配の女の人を介添えして立ち上がらせた。

「大丈夫か?」藤木達も駆け寄ってきて、悠希を助ける。

「スーパーボールが・・・」砂のついた手を払いながら辺りを探す悠希。

「そんなのはどうでも良い!」

慎一達は屋台と屋台の隙間に非難して、悠希の怪我がないかを確認する。

「大丈夫、怪我はないわ。」

「新田、りのは?」遅れて駆け付けた柴崎が慎一に問う。

「それが、騒ぎの方に・・」と振り返った慎一達は、本殿の方の空に黒煙が立ち上がっているのを見つける。

「何あれ。」

「・・・火事?」

「えっ、じゃぁ、りのは、火事の方へ行ったの?」

気になる事を見つけたら、とことこん調べないと気が済まないりの、騒ぎが火事であれ、何であれ、騒ぎの原因を見に行く事はあり得る。

「あの、馬鹿っ。」慎一はりのを追いかけようと歩み出した。

「ちょっと待て、新田。俺も行く。」藤木が振り返り、「今野、女性陣を出口まで誘導して、鳥居の所で待っていてくれ。柴崎、再度りのちゃんに電話のコール、はたぶん聞こえないだろうけど、メールも送ってくれ。」

「わかったわ。」

「ゆっくり気をつけて行けよ。今野、頼んだぞ。」

「あぁ。」

「そっちもね。」柴崎の声を背に、慎一は藤木と共に本殿に向かう人の流れに乗って足を速める。

「まったく、人騒がせな。」

「お前、りのちゃんに余計な事言って喧嘩してないだろうな。」

「してねぇよ。」

「りのちゃんを見つけても、きつく言うなよ。」

「・・・。」それは約束できない。

藤木のように甘やかしてばかりいるから、こうやって団体行動の場で身勝手な行動をとり、皆に迷惑をかける。藤木の基準で、女だから、美人だから、特待生だから、病気だったから、なんて理由で擁護ばかりしていたら、りのの為にならない。ちゃんと叱る人間が居ないとダメだ。それが自分の役目であると慎一は思っていた。

人の流れはすぐに停まり、まったく前に進まなくなった。遠くから消防車のサイレンが聞こえて来る。サイレンの音が大きくなるにつれ、周囲の騒乱と怒号も大きくなっていく。慎一達は何とか前に行こうとするも、終に身動きできなくなるほど、人の詰り具合にどうしようもなくなく、消防車は神社の横の裏の駐車場に回る道を走り過ぎていく。

藤木は、前の人に足を踏まれて、「うっ」と苦悶に顔を歪ませる。足袋を履いているとはいえ素足に近い。痛みに同情する。

慎一はつま先立ちをして周囲を見渡すが、りのの姿は見つけられない。いくら慎一の背が高いとはいえ、りの自身が小さく人混みにのまれていれば発見は難しい。舌打ちも騒ぎにかき消され、人の混乱が、前方から後ずさりに下がってくる。

「現在、本殿への参拝は中止をしております。皆様、出口の方へとお下がりください。」

白い法被姿の祭りの関係者らしき人が、メガホンを持って叫んでいる。参道の数メートル置きに設置されたスピーカーからも、七夕の音楽が消され、同じ事をアナウンスされる。

人々の話から、七夕の笹が燃えているという事を聞く。

慎一達も、混乱する人々の流れに身を任せて、出口へと後戻りするしかなかった。





『七夕の神髄、それは、

選ばれし巫女が、神に身をささげる日だ。』

ヒシヒシと伝わってくる怒り。

『この社は、稲作の豊穣をもたらす田の神、豊受媛神を祀るものであるものを、棚機祭には関係のない七夕祭を行うなど、神への冒涜も著しい。馬鹿な民どももまた、恥ずかしげもなく稚拙な欲望を書き記すなど。』

あの人は、誰かが書いた短冊を引きちぎり握りつぶす。

『これは願いではなく、欲望だ。』

振り返り、私を見つめる片目。

冷たく怒りに満ちて、

『神は、欲望など聞き入れはせぬ。』

あの人は手のひらを向けて、おいでと私を呼ぶ。

抵抗できない。

怖いのに、その目をそらすことができない。

魂が引き寄せられるように、私は歩みそばに立つ。

『選ばれし巫女はひと月間、祈心を反物に織り込み着物に仕立て、そして、着物と共にその清らかな心身をも神にささげるのだ。』

「それが、本当の七夕・・・。」

『そうだ。こんな邪心に満ちた欲望など、要らぬ。』そう言って踵を返すあの人は、燃えている本殿横の笹を消そうと、消火器を持ってノズルを向けている白い法被を着た男の人の肩を掴んだ。

「何だね。君は!危ないから下がってっ!」

あの人に睨まれた白い法被の人は、急に意気消沈し、消火器を地面に落とす。そして燃えている笹の方へと歩むと、燃えている笹を一本引き抜き、隣のまだ燃えてない笹へと火を移し、次々とそれを繰り返して歩む。

『燃やしてしまえ。俗物、欲望の願いなど神は聞き入れぬ。』

乾いた笹はパチパチと音をならして燃えていく。

色とりどりの短冊が燃えて、火の粉が空に舞い上がる。

あの人は空に両手を上げ、

笑う。

『そうだ、神に慈悲などありはせぬ。』

舞い上がる火の粉がとても綺麗だ。

『神は慈悲なく、厳粛だからこそ、神々しい。』

消防車の音が間近に聞こえて、裏手の方で停まった。

『神に欲望を願うなど、烏滸がましい。』

空に上げた手をこちらに向けて、あの人は私へと向き直る。

『神の思し召しは我らが・・・に・・・た事』

神社の奥から、白い法被を着た人々が走り来て叫び、声はかき消される。

「こっちにも火が移っているぞ!」

「何故だっ!こんな広範囲に。」

炎はパチパチと乾いた音を奏でで、火の粉を飛ばす。

『すべて燃してしまえ。』

あの人はオーケストラの指揮者のように手を振るう。白い短冊が炎へと飛んでいく。それは私が願い書いた短冊、は炎に巻かれて、燃え落ちた。

神に慈悲などない、厳粛だからこそ、神々しい。

なんて単純で明白な理。

神の慈悲なく、人々が書き結んだ短冊は、次々と燃え落ちる。

青い短冊が、熱風に煽られてくるくると回る。まるで燃やされないように抵抗しているようだ。

(抵抗しても無駄だわ、すぐ燃えてしまう。)

その瞬間を待ち遠しく、見続けた。青い短冊はあきらめたように回転は止まり制止した。

『常翔高サッカー部が

   国立競技場に行けますように。』

私は、はっと我に返る。

駄目っ!

燃える笹に向かって飛びついた。届かない。

『やめろっ』

燃える笹を掴んで引き寄せる。火の粉が怒ったように舞い降りてくる。

伸ばした浴衣の袖に炎が移る。嫌な臭いが下から上がってくる。

(駄目、あれだけは。あの願いだけは。お願い、燃えないで。)

「やめろ!ニコ!」

精いっぱいに、つま先も手も伸ばす。あと少しで慎一の短冊に手が届きそうなのに、逃げるようにふわりと煽られる。

(熱い・・・だけど、あれだけは消させない。欲望でも何でも。あれは私達の夢だから。)

慎一の短冊は下部から火がついてしまい燃え上がっていく。

『やめろっ、ニコ!りの、止めさせろ。』

あの人が怒っている。私は精一杯背伸びをして慎一の短冊が結ばれている笹枝をつかみ引っ張る。燃える笹の台座ごと倒れてきた。

「君!大丈夫か!」

「女の子が巻き込まれたぞ!」

「早く、消防士、こっちだ!」






何度も真辺さんの携帯にかけては、繋がらない事に首を振り、ため息をつく柴崎さん。

佐々木さんは身長を活かして、少しでも見通し良く真辺さんを見つけようと縁石に上ってつま先立ちをして探す。

メガホンを持った祭りの関係者が「本日の七夕祭りは中止にします。」と叫んでいる。

既に参道に入って行った人々は、私達を含めて外に出てきていた。参拝に来た人と出てくる人とがぶつかり、混乱した状態に一時はなったけれど、パトカーが到着し警察官が誘導を始めると混乱はすぐに治まった。

私達は、藤木君の言う通りに鳥居の下で待っていたが、警察官に邪魔だと言われて神社前の交差点の角まで移動し、真辺さんもしくは慎君達が戻ってくるのを探した。神社の入り口である鳥居の前には、工事現場にあるようなオレンジのバリケードが置かれて、警備員が立つ。神社の敷地北側は参拝者用の駐車場へ行く道が沿っていて、そこからも、人々が流れ出てきているから、私はそちらを凝視して慎君を探した。

(慎君、足を痛めているのに。子供じゃないんだから、一人でも帰れるでしょうに。探しに行かなくてもいいのに。せっかくいい感じだったのに。)

悠希は大きなため息を吐いた。

(何故、いつも慎君を困らせる?どうして慎君は、困らせる事ばかりする真辺さんの事を気に掛けるの?)

悠希の心は、真辺さんへの不満ばかりが継いで出てくる。

(もう見切りをつければいいのに。もしかして、これも計算で?慎君が探しに来てくれる事を見込んで、わざと行方をくらました?

私と慎君を引き離す為に?それが当たりなら、私は真辺さんに勝てるわけがない。)


「あっ、新田君と藤木君、帰って来たわ。」と佐々木さんがバリケードの向こうの参道を指さす。

「りのは?いる?」

「あーまだ見えないけれど・・・。」

二人は真辺さんを見つけられずに帰って来た。警察官と警備員が、参拝者の神社からの追い出しに躍起になっていて、はぐれた友達を探していると言っても、取り合ってくれず、追い返されたという。

「りのちゃんと連絡は取れたか?柴崎。」

「駄目、ずっとかけているけど、出ないし、メールも既読にならないの。」

「先に帰っちゃったんじゃねーの?怒って。」

「そうだと良いけれど。」

そんな会話をしている最中も、慎君は真辺さんを探して周りを見渡すのを怠らない。

参道から出てくる参拝客は、慎君達の一団が最後だったらしく、祭りの関係者と警官達は、事件があった時に張るキープアウトの黄色いテープを鳥居に渡り張り、バリケードも増やして人の通れる隙間をなくした。

参道奥の空はまだ黒煙が上がっている。悠希たちが出口に到着した時、小さめの消防車が立て続けに2台裏へと行くのを見届けた。遅れて救急車も一台走って行った。

誰も、帰ろうと言い出す者がおらず、辺りを見渡す時間が続く。

一人の女性警察官が、肩にかけた無線を聞きながら、悠希達の前を通り過ぎた。

『火事現場でケガ人あり。緊急車両の通行あり、星見神社北側道路の通行人の誘導を要する。』

警察官は、悠希達の一団に、「車が通るからね、向こうへ」とその場からの退去を促す。女性警察官の無線がまた鳴った。

『追加、参拝客誘導、警備において、行方不明者の問い合わせがあれば報告せよ。』

『ケガ人の女の子の身元不明。同行者の行方の有無を確認中』

慎君は、無線から聞こえてきた女の子という単語に反応し、振り返った。

「ケガした女の子って、何歳ぐらいのっ!」女性警察官に掴みかかる勢いの慎君を、藤木君が肩を掴んで抑える。

「俺達、はぐれた友人を探しているんです。」

「ちょっと、待って。」女性警察官は無線で問い合わせる。「はぐれた友人を探しているという・・・君たち高校生?」

「はい。」

「高校生がいる。けが人の女の子の名前は?」

『名前を名乗らない。救急隊が困っている』

聞こえた?というように女性警察官は慎君に片眉を上げて顔を向ける。

「その女の子、浴衣を来ていますか?紺色に花火の柄で。」藤木君の説明に柴崎さんが追加する。

「帯は黄色で、これの色違いの花飾りを帯につけているわ。髪はショートカット。」

「ちょ、ちょっと、待ちなさい。」

取り囲まれて慄く女性警察官は、取り囲みから逃げるように離れて無線でやり取りをする。

「ケガ人の女の子は、君たちが言った浴衣と花飾りを帯に着けているようよ。」

「りのっ!」

慎君は、神社の裏手へと駆け出す。

「ちょっと、待ちなさい、君!」

「お巡りさん、そのけが人ってどういう状態ですかっ。」

再度、無線のやり取りをしてくれて、真辺さんは軽傷だと教えられ、みんなは安堵した。真辺さんが救護されている神社の裏手へと悠希たちが行くことを許され、向かう。

パトカーが止まっている駐車場は、接近して消防車が三台と救急車が停車していた。笹が燃えたと聞いていたけれど、炎は見えなくて、煙と鼻につく刺激臭が周囲に漂っていた。

駐車場に入った所で、別の警官に止められたけれど、人数と顔を確認した後、すぐに通された。鳥居のところの女性警察官が無線で話をつけてくれた様子だ。救急車へと駆け寄り、後部の方に回り込む。慎君は先に駆けて行って既に到着し、椅子のようにしたストレッチャーの前に立ちはだかっていた。

「りのっ!どうしてお前は!」叫び怒る慎君、「何故、本殿に戻ったりしたっ!」

「ちょっと、君」慎君の怒りをなだめようとしている救急隊。

遅れて到着した悠希たちは、真辺さんの姿に息をのむ。

「り、りのっ!な、何、どうして。」柴崎さんは、声にならない悲鳴を上げて、ストレッチゃーに座る真辺さんの膝に縋る。

「君は、この子のお兄さん?」救急隊がバインダーを手に慎君へと問う。

「いえ・・・でもそれに近いです。」と慎君。

「困ってたんだよ。名前を聞いても無反応だから、えっと、まさか耳が聞こえないとか?」

「違います。」

「そっか、じゃ、一時的なショックかな。燃えた笹の下敷きになったらしくてね。」

真辺さんの浴衣は、燃えて茶色く焦げている。右の袖口と袂の燃え方が酷く破れて短くなっている。露わになった腕に冷却シートが貼られていた。

「すぐに病院に運んでください。」と柴崎さんが涙声交じりに叫ぶ。

「行かない。」とかすれた声を発した真辺さん。

「あぁ、やっとしゃべってくれた。お兄さんと会えた事でほっとしたんだね。」慎君をお兄さんだと思い込んだままの救急隊員。「大丈夫、見た目より、火傷の経度は軽いよ。水泡にもなっていない。綿素材の浴衣が皮膚を守ってくれたようだね。綿は化繊より燃えにくいから。処置は済んでいる、病院に行きたくないのなら、行かなくても大丈夫だけど、その右手を診せてくれないとだめだよ。」

「嫌。」握った右手を左手で覆って、うつむいたままつぶやく真辺さん。

「りの!」

「新田、怒るな、やさしく。」と藤木君。

「えっと、先にこの子の名前と住所を教えてくれる?」

救急隊の問いに藤木君が答える中、柴崎さんが煤汚れた真辺さんの頬をハンカチで拭きはじめた。それでも無表情のまま虚ろな目をした真辺さんは、身動き一つしない。焦げて着崩れた浴衣、乱れた髪、汚れた頬をしているのに、その顔は卑怯なぐらいに綺麗だ。

慎君は、息を無理やり吐ききると、息を吸え、真辺さんと目線を合わせるようにしゃがんだ。

「りの、手を見せて。」慎君がその握った真辺さんの手に触れようとした瞬間、真辺さんは子供がおもちゃを取られないようにするかのように手を引いた。

「りのっ!」慎君は眉間に皺を寄せて困る。

(もういい加減にしてほしい。なぜ、この場に及んで駄々をこねる?)

でも誰も真辺さんを咎めない。慎君は、真辺さんの頭にそっと、手の平を置く。

「りの、りのが大丈夫でも、俺が大丈夫じゃないよ。」

それが目覚めの呪文だったように、ゆっくりと真辺さんは顔を慎君に向けた。

「慎・・・ちゃん。」

微笑んで頷く慎君は、まるで小さい子を宥めるように。

「ちゃんと見せて。りの。」

真辺さんの手を触っても今度は嫌がらず、それでも手のひらだけは開けようとしない手を、慎君は少し強引にこじ開けた。

開けた手の平には、焦げた青い紙。マジックで書き記した文字が見え、それが慎君の短冊だった事に皆が気づく。

「りの、まさか、これを取りに?」

「これだけしか、守れなかった・・・」

「馬鹿っ!」慎君は叫び立ち上がる。「こんなもんの為に、お前は何考えてんだ!」

真辺さんは、大きな声にびっくりしたように身体を強張らせる。

「新田!やめろ!」

「皆、心配したんだぞっ 」

今野君と佐々木さんが、慎君の腕と肩を抑えて怒りを静めようとする。

「・・・・じゃない・・・・」

「りの?」

「こんなもんじゃない!」今度は真辺さんが立ち上がる。

真辺さんの初めて人間味ある表情をみた悠希。

「これは大事な夢、願い。」

「火傷までして、取りに行くような物じゃないだろ!」

「やめろって。」

「火傷なんかどうでもいい。」

「どうでも良くないだろ!いつも、いつも。」

「新田!」藤木君が二人の間に立ちふさがるように割って入った。「状況を見極めろ。責めるより宥めろよ。」

「りのもやめて、座って。」

柴崎さんが、真辺さんを抱きしめるようにストレッチャーに座らせる

慎君は大きなため息と共に首を振った。

「どうして・・・」かすれた声でつぶやく真辺さん。「私の分まで夢を描くと約束してくれたのに、慎一は大事じゃないんだ・・・これは私達の夢でもある大事な願い。こんなもんじゃない、大切なもの。」

「りの・・・」慎君は眉間にしわを寄せて唇をかむ。そして「間違いだったよ。」と真辺さんの手から青い短冊の紙を奪った。

「こんなもんに祈った俺が。」そう言うと慎君は短冊を小さく破り始めた。

真辺さんが声にならない悲鳴を上げて、止めようと慎君に縋りつく。

「や、やめてっ」

「何するのよ。新田、りのが火傷してまで守ったものを。」柴崎さんも真辺さんの肩を持ち抗議。

慎君の手からサラサラと青い紙が舞い落ちる。真辺さんがそれを拾おうとしゃがみ込む。

「拾うな!」

見上げた真辺さんは、怒り過ぎて唇をかみ、頬が震えている

「神に祈らなければ手に入れられないと思っている時点で、負けだ!違うか、藤木。」

「違わない。」

「俺たちは、神に頼らない夢を掴む、約束通り必ず。」慎君の手が強く握られた。

(あぁ、なんて・・・)言葉にならない。

あの時と変わらず、夢に向かう慎君の力強い目が、藤木君、柴崎さんと順に向けられて、二人はうなづいた。

そして最後に悠希にも向けられた。好きを超えて尊敬の気持ちが胸の中に広がる。悠希も強く頷いた。

「りの、大切にしなければならないのは、願い祈った証じゃない。誓い進む気持ち、強い心だ。」

慎君が真辺さんに手を差し伸べる。

「この手で未来を掴む。必ず。りのの分まで。」

一緒に国立を目指そう。そう言って伸ばされたあの手が、今は真辺さんの目前にある。

(その手を掴んでほしくない。)私は神に祈った。

「そうよ。忘れてないわ。私達は、りのの分の夢も描くのよ。」

私の醜い願いは叶うことなく、真辺さんは躊躇いがちに慎君の手に小さな手を添えた。

慎君は、真辺さんを立ち上がらせて、乱れた前髪を直して頭に手を置いた。

そして、やさしい表情に戻り頷く。

嫉妬。

『プロのサッカー選手になりたい。』

『悠希も一緒に目指そうよ。プロを。悠希のそのボールコントロールがあれば絶対なれるよ。』

『プロになって、世界で戦うんだ。そしたら新田慎一って名前が世界を巡って届く。それが僕の夢。』

慎君の夢は、私と一緒には進まない。慎君にとって、国立競技場は通過点に過ぎない。その先の最終目標は、私と共に歩むものではない。真辺さんと共に描く夢。

今更ながらに、あの時の慎君の言葉の真実に気づいてしまった。

悠希は二人の姿から目をそらした。





『今日のニュースをお伝えします。

神奈川県香里市にある星見神社で行われていた七夕祭りで火事があり、消防と警察が駆け付ける騒ぎとなりました。この火事により祭りに来ていた女子高校生が燃えた笹飾りの下敷きになりましたが、消火に当たっていた地元青年団と消防員により助け出されました。下敷きになった女子高校生は軽い火傷の軽傷を負いました。星見神社では今月4日から七夕祭りが催されており、境内に多数の七夕飾りの笹が設置されていて、その七夕飾りが何らかの原因で火が付き、広範囲に燃え広がり、七夕祭りに訪れる大勢の参拝客は一時騒然となりましたが、消防による消火活動で20分後には鎮火しました。出火の原因について、消防と警察は、放火の疑いがあるとのことで、捜査を進めています。』










亮は、固めのソファーに座り、音の出ていないヘッドフォンを耳にし、端末を手に音楽鑑賞のフリをして、前方のテーブル席に座る仲間の様子を観察していた。

(何時からか?)

亮は時々、目を細めて読み取りを試みながら、記憶を辿り続けていた。そうして一時間が経つ。

図書館の6人掛けのテーブルに、亮に背中を向けて座っているのは、左から悠希ちゃん、麗華、今野で、向かいは新田、りのちゃん、佐々木さんと並んで座り、期末試験のテスト勉強に励んでいた。

ちょうど麗華と今野の間から、りのちゃんの顔がよく見えるソファーを選んで亮は座っていた。りのちゃんはテスト勉強ではなく、特待査定のレポートの為に医学関連本と昆虫のカタツムリに関する本を多数積み上げて、それをめくっては、何かを書き綴っている。今回の特待生査定のレポートのテーマは、「カタツムリの成長から考案する人間の伸長促進研究課題の提案について。」で、タイトルからして凡人には良くわからないテーマである。りのちゃんは中庭でみつけたカタツムリを家に持って帰り、毎日大きさを測定して、このテーマを思いついたらしい。

りのちゃんのテーブルのスペースには、本棚からかき集めてきた本が積み重り、新田の方にまで領土を占領していた。新田は肩見狭く古典の問題にとりかかっている。

りのちゃんが、積み上げた本を下から引っ張り出して崩した。本は新田の方へと崩れる。

「りの~。要らなくなった本、戻して来いよ。」

「要らないものなんてない。全部いる。」

「はぁ~」新田が大きなため息をつく。その溜息にムッとした感情を露わにしたりのちゃん。いや、今はニコちゃんだ。

亮は疑惑を確証に変えつつあった。

りのちゃんは、また解離性精神障害を起こし、またニコちゃんの意識を戻しているのではないか?

りのちゃんの本心がよく読み取れる時と読みりずらい時のギャップが激しい事に気づいた亮。その現象の考察として、もしやニコちゃんでいる意識の方が、読みやすいのでないかという考えに至り、どんな状況下において読み取りやすかったかを、亮は思い出して検証していた。

「リノ、本当にテスト勉強しなくていいの?」

背の高い佐々木さんが頭を上げた事でニコちゃんの姿が見えなくなったので、亮は組んでいた足をほどいて座り直し位置を移動。

「いいの。こっちの方が面白い。」

「いやいや、面白いとかじゃなくて、レポート提出はテスト日より後だろう。順番が違うくね?」今野も会話に参戦。顔を上げた拍子にトレードマークのちょい括りが跳ねる。

「そうだよ、社会の勉強しなくていいのか?」

「うん、しないでいい。」

「完全に逃げだな。」

「逃げてない。中間テストに引き続いて、地理と世界史がテスト範囲だから大丈夫、日本史より得意だ。」

「その油断が、飯島に負けてしまう事になるのよ!」麗香も会話に参戦。

皆、そろそろ集中力が途切れて来た模様。

「だからっ!勝負してないって、もう。」ニコちゃんは、拗ねて立ち上がり、手元の一冊を手に取り本棚へと向かう。

「それにしても凄いわね真辺さん。こんな難しいレポートを毎回?」悠希ちゃんが、積み上がった本を指差す。

「日頃、疑問に思う思考理論の追及なんだそうだぜ。」

「これでわかるだろう。俺たちには理解しがたい突飛な行動するのが。」

「え、えぇ・・・まぁ。」首をかしげ微妙な返事をした悠希ちゃん。

「りのの頭は、私達とは違う構造なのよ。理解の一致は不可能なのよ。」

「その違う構造の頭脳のおかけで、こっちは振り回されてばかりだよ。」と新田がまたもやため息を吐く。

「それが、リノの魅力、新田君がリノを離せない想いでしょ。」と佐々木さん。

女特有の牽制心が佐々木さんにも働く。悠希ちゃんが新田に好意を寄せていることは、佐々木さんも気付いている。後釜の悠希ちゃんよりは、新田とりのちゃんがくっついて欲しいという気持ちがあるため、こうして遠回しに悠希ちゃんに牽制した言葉を発する。

だが・・・

新田は、昔ほど、りのちゃんに対する恋心はない。七夕祭りのりのちゃんの行動が、新田の心に、うんざりと言う気持ちを膨らませた。亮は、悠希ちゃんが登場した時から、少なからずこうなる結果を予想して、期待もしていた。

(新田にりのちゃんは、難しすぎる。)

亮は、本棚の前で探し物をしているりのちゃんの(今はニコちゃんの意識)姿を目で追った。持っていた本を元の場所に戻して、違う本を探している。欲しい資料が見つからない様子が手に取るようにわかる。迷って、あちこちの本棚を行ったり来たり。そして、背の高い本棚の上部を見上げ。心の中で悪態ついている。背の高い本棚に対しての怒り、亮は笑いそうになった。亮は、ダミーのイヤホンを外し、ソファーから立ち上がった。そして、この場所を他の人に取られない様に端末ごと置き、諦めて手の届く範囲の棚を探しているニコちゃんのそばへと行く。

英「気になる本どれ?取ってあげるよ。」

亮が突然、英語で話しかけた事で、ニコちゃんは驚きの顔をし、焦る気持ちを本心に沸き上がらせた。うろたえた目は一度深く瞑り、開けた瞬間、その焦りは消え、表情はいつものクールな面持ちに。

英「あれ、2段目の黄色い表紙の本の隣、『細胞骨格の形と動き』って書いてある本』

りのちゃんの意識と変わった。変わりがスムーズだ。

英「これね。はい。」

英「ありがとう。」

早速、取ってあげた本をペラペラとめくるりのちゃんをしばらく観察。

英「何?」

英「難しい本を読んでるから、やっぱりすごいなと思って。」

亮は目を細めて、りのちゃんが今何を思っているか読み取りを試みる。が何も分からない。やっぱりりのでいる時は読みづらいという結論を確証する。

英「全部、理解して読んでいるわけじゃない。レポートの資料としてなんとなく必要そうだと思う所を探しているだけ。」

英「そもそものレポートのテーマが高レベル過ぎるよ。」

英「そう?フィンランドでは小学から、自問自答研究課題ってのを毎月やっていたから。」

英「そっか・・・」

英「・・・・・・」

本から顔を上げた無表情のりのちゃん。頬が少し赤いのは七夕祭りのときに負った火傷の痕だ。それがチークのようにきれいな顔を彩るが、顔の動きはまったくない。

(こっちが本体・・・本当だろうか?)

英「他にも届かなくて困ってる本があったら、取るよ。」

英「いい。この本だけで。」りのちゃんは本に目を落とし、テーブル席へと戻っていく。

(もしかして、本体の意識はニコだったのではないか?催眠療法時に間違ったから、今また解離性を起こして分裂した?そんな間違いを精神科医はするだろうか?)

見た目はあれでも、その分野では一目置かれている先生だと聞く。

ニコの方が、感情が豊かで人間味がある。新田が以前にニコの方がよかったと後悔した気持ちがわかる。だが残念ながら、感情を失ったりのは、失ったからこそ、本体である証明だ。いじめられて精神障害を起こした人格。

亮もソファーに戻る。

(何時からだ?)

また、ニコの人格が現れるきっかけとなった事があったはずだ。

最近の出来ごとといえば、痴漢にあった事。一時、男性恐怖症になるほどにりのちゃんはショックを受けた。

(それがきっかけだったとか?)

それ以前にも、感情も良く読めた時がなかったか、亮はもっと前の出来事を思い出そうとして、りのちゃんを凝視する。亮の視線に気づいたりのちゃんが、顔を上げた動作に、麗香がつられて凝りをほぐしながら、こちらに問いかけてくる。

「藤木も、勉強しなくていいの?」

「いいんだよ。特選クラスのテストなんて、ちゃんと授業受けてりゃ点数取れる。」

「いいなぁ~やっぱ俺も特選にすればよかったなぁ。」

今野が持っていたシャーペンを投げ捨て伸びをする。

「じゃ、どうして新田は焦ってるのよ。」

「毎日毎日、飽きもせず寝てるからだ。」

「うっせー。嫌味な奴。」

りのちゃんが、広げていた本をパタンと閉じて急に立ち上がる。みんながビクリとおののく。その無表情さが怒っているように見えたからだ。

「カタツムリの写真を撮ってくる。」積み上げていた所に更に本を乗せるもんだから、バランスが崩れて、本は新田の方へと雪崩る。

「もう、りの~、この本、どうするんだよ。」

「返しといて。」

「気安く頼むな。」そんな抗議の新田を無視し、りのちゃんは携帯を持って図書館から出て行った。

「いいように使われてんなぁ。新田。」冷やかす今野。

「ったく、返したら返したで、また調べたい事あったのにと怒りそうだから返却するの止めとこ。」

「流石は、りの専属の家政婦ね。よーくわかってるじゃない」と柴崎。

「誰が家政婦だよ。」

「りのの晩御飯を作ってるでしょ。りのの具合が悪いのを見抜くのも新田が一番でしょ。」

「なんだかんだ言って、喧嘩しながらも、リノは新田くんの言う事、聞くものね。」

悠希ちゃんの嫉妬の心が沸騰するのを尻目に、亮は立ち上がった。

「俺、トイレ。この場所、別に取っておかなくていいから。」

「わかったわ。」

亮は、カウンターに端末を返却して、そのまま図書館を出る。図書館内にもトイレはあるけれど、そこは一般客専用で生徒は使用禁止のルールがある。これを守らなければ図書館職員にこっぴどく怒られる。




図書館を出ると、熱風が襲って来る。

(暑い・・・しまったな。図書館に居るんだった。でも、みんながうるさくて、やってらんない。)

気分転換も兼ねて外に出たのはいいけれど、この暑さは殺人的だ、後悔。

中棟と西棟の間の庭に向かう。校舎の影に入ると、幾分暑さは和らぐけれど、それでも肌中の毛穴は開ききって喘でいる。

本当は、もっとニコに任せているつもりだった。藤木が英語で話しかけてくるから、ニコは仕方なく私に意識を譲った。

(何なの?藤木は疑っている?)ニコの意識がまた分裂してあることを。

あの人は、バレない様にと言ったけれど、バレて困るのは私じゃない、ニコだ。

そもそも、どうしてバレてはいけないのか?生活に支障がなければ問題ないのではないか?

今回は、ニコの意識では、特に問題なく生活できている。

(駄目だ。この暑さは・・・もう息苦しい。ニコに明け渡そう。)


うーんと伸びをした。

(いい気持ち。)

やっとりのは引っ込んだ。夏空にりのは似合わないよね。

(やっぱり私、ニコニコのニコじゃないと。)

駆け出した。

歌を口ずさみ、体は跳ねる


♪丘を越え いこうよ 口笛吹きつつ、

空はすみ 青空 牧場をさして♪

 

こんなにも、自然に感情が出てくるのに、私が作られた人格だって?

おかしい。間違っている。

本体はりのじゃない。

私、ニコよ。


カタツムリの写真を撮ると言って出てきたのだから、撮って帰らないとまずいよね。

さっさと撮ってしまおう。

中庭の花壇の中をのぞく。


♪マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、かたーツムりだぁよ~。

 マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、雨降りの下の~、

 マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、ミギぃマキの名の

 マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、カタツムリはいないぃ~


「ヒダりん1号、2号、3号、出ておいでぇ~」

アベリアの枝をかき分け、根本を覗いてもカタツムリはどこにもいない。

「どこ行った~」

足音と共に誰かが近寄ってくる気配。体を花壇に突っ込んだまま後ろに視線を送る。

「ニコちゃん、カタツムリの写真、撮れた?」

(やっぱり藤木か。)

試験勉強をしない藤木は暇そうにしていて、さっきも何かと私に世話を焼く。火傷をした私に気遣っているのか、やたらと私の様子をうかがっている。

「居ない。」

「今日は暑いからねぇ、夏眠するための場所を探して、どこか別の場所に引っ越ししたかもしれないねぇ。」

カタツムリは暑さ寒さに弱い生き物、夏の暑い時期は殻の入り口にエピラムの膜を張り閉じこもる。

「エピラム、破って、見たいなぁ。」

「それはかわいそうだよ。」と藤木は苦笑する。「だけど、相変わらずニコちゃんの知識欲は旺盛だね。」

そう、私の知識欲は本を読むだけじゃ治まらない。触って、見て、体験する。それらの楽しさを教えてくれたのはパパだ。

りののせいでパパは死んだ。藤木は死んだパパのように何でも知っていて、私の知識欲を満たしてくれる存在。ありがたいけれど、藤木の本心を読む能力は要注意だ。そして、気付く。『ニコちゃん』と呼ばれた事を。

「ニコちゃんだね。」

「な、何言って?に、ニコは、もう、いない。」

藤木は目じりに皺を作って目を細める。

(駄目だ。読まれては。)顔をそむける。

「何時から?」

「ちがう・・・」

「大丈夫、前みたいに、無理に病院へ行けとは言わないから。」

「ニコじゃない!」

(しまった、こんなに感情むき出しに叫んだら駄目だ。)

「どうして、また、りのとニコがまた別れちゃったの?」

「わ、別れて、ない・・・」

(やっぱり、藤木にバレた。あの時も、藤木の能力さえなければ、バレなかったのに。)

「見たところ、生活には支障が出てない様だけど、何かあったから別れちゃったんだよね。」

「な、何も・・・ない」

「まだ誰にも言ってないよ。新田や柴崎には言わないから。」

「やめて、私はりの、ニコじゃない。」

あの人が来る。あの人が怒っている。逃げなくちゃ、だけど足はすくんで動けない。

「ニコちゃん?」

中庭を分断する渡り廊下の、校舎の入り口の扉が、勢いよく開かれた。





「やめて、私はりの、ニコじゃない。」

憎しみ近い怒りを亮に向けていたニコちゃんの心が、急に恐怖でいっぱいになった。

何におびえているのか?病院に送られる事か?

「ニコちゃん?」うつむいているニコちゃんの本心を良く読み取ろうと、顔を覗き込みかけた時、中庭を分断する渡り廊下の、校舎の入り口の扉が勢いよく開かれた。

同時に亮の頭に、強い痛みが脳を貫く。

「あっうっ」腰を折ってもだえる。目も歯も食いしばらないと耐えられないほどの・・・。

腹に強い衝撃が来て、息が止まる。

「かっ・・・はっ。」苦しくて目と口が開く。それで初めて自分は、腹を殴られたのだと理解する。

「この間のお返しだ。顔はやめておいてやる。何かと面倒だからな。だから、もう一発。」

弥神の右足が腹に食い込んで、亮は後ろに吹っ飛んだ。アベリアの枝葉に体が埋れて背中や腕に刺さる。その痛さよりも、続く頭の痛みの方が何倍も強烈だった。痛みを我慢するために目をつぶりそうになになるも、防衛のために次に起こる警戒として、無理に目をこじ開けた。鬼神のような冷たい視線で睨みつけてくてくる弥神。

亮の背中にぞくりと冷や汗が流れる。迫って来るような圧。

(何故、弥神は、こんなにも尊大?)

と問いながら、この状況下を、どこか納得をしていた。

「ふ、藤木っ」悲鳴をあげたニコちゃんへと振り返る弥神。

「ニコっ!バレずに上手く演じろと言ったはずだ。」

弥神は手を突き出し、ニコちゃんの首を掴んだ。首を絞められたニコちゃんの顔はみるみる赤くなり、喘ぎ苦しむ。

「りのちゃんっ」体を起こそうとした亮を振り返り睨む弥神、途端に割れんばかりの頭痛が襲う。

「昨日も、我の言うことを聞かなかったな。」更に弥神の手に力が入る。「我の言うことが聞けぬのなら、ここで消す。」

ニコちゃんは口をパクパクさせ、首を振る。

(何故?何故こいつがニコと呼ぶ?バレずに演じろ?約束通り消える?昨日って何だ?)

「あっくっ・・・」割れんばかりの苦痛の中で、それでもニコちゃんを助けたい一心で、亮はわずかな抵抗をする。「や、止めろ・・・。」

弥神はやっとニコちゃんの首から手を放す。

「かっはっ・・ケホッ・・・ケッホっ」ニコちゃんは腰を折って、苦しそうに咳き込む。

亮はいたたまれない思いで胸が痛む。男として、女の子を守れない自分が不甲斐ない。そして、

(容赦なく女の子をこんな目に合わせる、こいつは一体何なんだ。)

弥神が、亮の疑問に答えるように、ゆっくりと覗き込む。

「知りたいか?我が何かを。」

(なっ、何故、思っている事を・・・同じ!?)

「違うな、お前は、卑しい卑弥呼が残した視知の力があるだけだ。神巫族の末裔でもないお前が何故、その力を宿しているかはわからぬがな。」

咳の止まったニコちゃんが、後ずさりをして逃げて行く。弥神は逃げ行くニコちゃんの姿を目で追いはしたが、焦る事もなく、大きく手を広げて天を仰ぐ。左目を覆っていた長い髪が横にそれて、目が露わになった。

「我は、神と卑弥の両の力を持つ、万全なる皇!」後光に包まれたように見えた弥神。

(あぁだからか。)と亮は、自分でもわからないまま納得し、項垂れる。

「高々、卑しき視知の力があるだけで、識者きどりでいたお前とは、違うのだ。」

頭痛が更にひどくなり、吐き気も出てくる。それ以上、目を開けていられず、目を閉じた。目を閉じた方が弥神の大きな存在を感じた。

「最初からお前は目障りだった。」

髪を掴んで顔をあげさせられた。目が開く。

「我に楯突いた罰だ。」弥神は亮の顔にぐっと近づけ、一度閉じた目をカッと見開く。その眼は渦巻いて赤く染まる。

(あぁ、また、この赤い眼だ)と思い出したのも束の間、もっと、もっと強烈な痛みが襲い、亮の全身は硬直した。

意識がなくなる寸前、弥神の舌打ちが聞こえた。

「ちっ、半ばで気絶か。」






「遅いわね。りの。」麗華は図書館内にある時計を見る。時間は5時30分、図書館は6時に閉まる。ちゃんと時計を見ていたわけじゃないけれど、りのと藤木が図書館を出て行って30分ぐらいが経つ。

「藤木君も帰ってこないわね。」と佐々木さん。

「長げーウンコだな。」

「やめてよ!汚いっ!」今野の冗談を睨みつけた。

「どうせ、廊下で女子を捕まえて、喋ってんだろ。」と新田。同じく睨みつけると、慌てて問題を解きだす。

「リノは、カタツムリの写真撮るのに手間取っているのかしら?」

「写真そっちのけで、カタツムリと遊んでるんだよ。りのは。」

「あぁーあ、カタツムリ可哀想。落書きされるわ。水溜りに沈められるわ。リノに見つかった生き物は悲劇だよな。」と今野。

「えっええ、真辺さんって、そんな事するの?」と岡本さんが驚く。

「そうさ、常翔一の頭脳明晰美少女の実態は、カブトムシ捕まえようと木登りするお転婆娘だからな。」

「えーそうなの!?」確認するように麗華に視線を移されて、うなづいて肯定をする。

閉館まであと少しということもあり、皆の集中力は欠いて、試験勉強は終了のような雰囲気になり雑談に発展する。りののお転婆話から、去年の夏キャンプの思い出話しになり、りののお父様がアウトドア派の知識人だったという話になり、さらにりののお母さまが女優に似ているという話から、今日のドラマの話に変化していった。そうして20分があっという間に過ぎて、あと10分で閉館しますと言うアナウンスが流れた。

「やだ、二人、本当に帰ってこないわよ。」

テーブルに広げた勉強道具を皆が片づけ始める。りのの場所だけが乱雑に、本棚から出してきた本が5冊以上積み上がっている。

「新田、そこも片付けてよ。」

「なんで俺が。」

「片付けておいてって頼まれたでしょう。」

「言ってねぇ。この本だけ、返してってりのは言ったんだ。」

「女に逆らうなは、新田家の教訓じゃなかったかしら。」

「・・・」新田は嫌な顔をしたけれど、ため息一つ教訓を守り、りののノートや筆記具を片付け始める。

片付け終わった岡本さんが「手伝うわ」と言って、図書館の本を数冊持って返しに行く。

図書館は6時で閉館してしまうけれど、学園の閉門は、夏場は7時。まだ時間はある。校舎の多目的室が自習室として下校時間まで開いているから、試験勉強の続きをしようと思ったら移動してできるのだけど、そんな提案は誰の口からも出ないので、このまま帰る事となる。

「ねぇ、私もトイレに行きたいから、先に出るわ。下駄箱で落ち合いましょう。」と麗華はテーブルを離れる。

「わかったわ。」

{あれ、絶対に藤木の事が心配で、見に行くんだぜ。} 今野のささやきは丸聞こえ。

「聞こえてるわよ!佐々木さんの耳に、ちゃんと届くように身長伸ばしなさいよね、内緒話が筒抜けよ!」

「なっ、なにぉー!」

「やめなさいよ。ハルが余計な事を言うからじゃない。」

今野の良い所は、揶揄されても落ち込まない明るい性格だけど、大好きな佐々木さんの言葉には一喜一憂するのが悪いところ。

図書館から出るとムッとした空気が顔にまとわりついた。もう梅雨は開けてしまったのか、今日は朝からいい天気で夏本番のような暑さ、そして夕方の時刻なのに、まだまだ昼間のような明るさが眩しい。高等部の校舎に向かう小道を辿る。流石にこの暑さでは、外のガーデンベンチにいる生徒はいない。花壇のアジサイも萎びていた。

今野の言う通り、麗香はトイレに行く気はなく、多少の心配で二人を探そうと出てきた。トイレと言って出ていった亮だけど、きっと、りのの後を追ったに違いないと麗華は思っていた。亮は今日一日、りのの本心を読み取ろうと目を細めてばかりいた。

図書館の小道には、りのも亮もいなかった。りのがカタツムリの観察をする場所は、この図書館の小道付近か、中棟と西棟の間の中庭が多い。麗華は中庭の方へと足を向けた。東棟の出入り口を前にして左に曲がり、東棟と中棟の間の中庭を覗く。ここはバラが主に植えられていて、少し前に満開の最盛期を迎えたばかり、みんなで写真を撮った。今は開花の出遅れた薔薇の花がちらほら、誰もいないと視認して通り過ぎようとした。が、視界の端で、校舎側面の耐震工事の柱のくぼみに、誰かがいるのが見えて、麗華は振り戻る。うずくまっている生徒、よく見ると、りのだった。

「りの!どうしたの!?」

駆け寄るとりのは頭をあげて、強張った顔で麗華を見あげる。

「ど、どうしたのよ、具合でも悪くなった?」目線を同じに麗華もしゃがみ込む。

「麗香!」りのは飛びつくように抱き付いてきて、

「わっ!」麗華は尻もちをついた。

何度もこうして飛びつかれては、頭を打ったり、尻もちついたり。

(またぁ?今度は何があったって言うのよ。)ちょっとばかり、うんざりする麗香。

「りの、毎度のこと、苦しいから離して。で、こんな地べたで座ってられないから、あっちのベンチにね。」

首に回されているりのの手を振りほどいても尚、首から手を離さないで縋りつくりのを、引きずるようにベンチに連れて行って座らせた。

「具合悪い?」

まずは体調を聞いて、具合が悪いのなら保健室に連れて行かなければならない。

首を振るりの。それは良かったと安堵するけど、何かが起きたからこの状態なのだから、ただの安心はできない。

「何かあったの?」

それでも首を振るりの。この首振りがまずもって嘘で、りのの感情が落ち着かないと、中々何があったのかを言い出さないのは、今までの経験から。

「誰かに何かを言われた?」

首振り。私に寄りかかるようにうずくまるりのの表情は見えない。

頭を撫でた。

(やっぱり時間がかかるか。皆に知らせないと。下駄箱で待たせちゃうかもしれない。)

麗香は鞄から携帯を取り出そうと身もだえした時、誰かが近寄ってくるのに顔を上げた。

「あぁ、良かった。柴崎さんと一緒だったんだね。」弥神君。

その声にりのの体がびくりと強張った気がした。

「えっ?えーと。何か・・・あったの?」

「うん、さっきね。真辺さん、廊下の角で先生とぶつかったんだよ。出合い頭に、南田先生と。」

「転倒して、怪我でもしたの?」

「じゃなくて、ほら、あの先生ごつくて、ちょっとばかし・・・キモイだろ。」

「え、ええ。まぁ・・・」麗華は苦笑して頷く。

南田先生は鹿児島県の出身で、眉毛が太く、腕の毛も濃ゆくて体も大きい。生徒内では西郷どんと言うあだ名。

「真辺さん、ほら前の、電車での出来事を思い出しちゃったみたいで。」

痴漢にあったことだ。あの時しばらく男性恐怖症になって大変だったけれど、それは10日ほどで治った。しかし南田先生とぶつかって、そのトラウマを思い起こさせる要因になってしまったのは、まぁ仕方ない現象かと変な納得をする。

「そうだったの。何を聞いても答えないから、どうしちゃったのかと。」

弥神君は目を細めてほほ笑む。

りのに配慮して、「痴漢」の言葉を使わなかった事が好印象で感心した。流石は華族会、西の宗代表の息子さん、紳士的な教育をされてきたのだろう。

「真辺さんが、パニックになって逃げて行くの、たまたま目撃してね。追いかけたんだけど、真辺さん足が速いから見失って、心配して探してたんだ。」

(わざわざ心配して探してくれていたんだ。)更に好印象ポイントが上がる

弥神君は、りのの前に片膝を立ててしゃがみ込む。その動作に、麗華は何故か焦りが沸き起こり、自分も椅子から降りたくなった。でもなぜそうしたいのかわからず、居心地の悪さに苦悶する。

「大丈夫。恐れることはないよ。僕がまた助けてあげるから、ね、りのさん。」りのの手をとり握った弥神君の横顔を、何故か見てはいけないと麗香は思い、顔を伏せた。

「じゃ、柴崎さん、後はよろしく。りのさんは柴崎さんのそばが一番安心するみたいだから。」

「あっ、ありがとう。」呼ばれて慌てて顔を上げる麗香。にこりと微笑んで立ち去る弥神君の姿を見ながら、

(何故、亮は弥神君を殴ったりしたのかしら?)と疑問に思う。寮での生活態度が良くなかったからと、今野から聞きはしたけれど、今思えば、華族の称号を持つ家の子、しかも西の弥神家と言えば、古より神皇に仕える一族として、唯一、名に神をつける事を許された特別の一族。慣れない寮生活の雑用が、出来なくて当たり前だと思えた。

りのが立ち上がる。

「りの、大丈夫?」

「大丈夫。・・・から。」呟いた言葉が聞こえなかった。

「えっ?」

りのは図書館の方へと向かう。

「あっ、皆、下駄箱で待ち合わせてるわ。りのの荷物も持ってくれてるわよ。」頷きだけを返してくるりの。「私、トイレに行ってから下駄箱に行くから。」

(何はともあれ、何でもなくて良かった。)と麗香は軽い息を吐いた。










 なぜもっと早くそうしなかったのか?

 蔵に入った時、そう思って僕は苦笑した。身近に「死」ねる材料がいっぱいあるというのに。

 かび臭い蔵の中は、藤木家が薬の栽培を手掛けた頃からの薬材が、木箱に入って積みあがっている。

 墨で「附子」と書かれた木箱を見つけて引っ張り出し、茶色い乾燥した根っこの塊を手にする。

 ――――これを食べるだけ。

『亮坊ちゃん!何をしてるんです!』爺やの絶叫に驚いて、僕はその附子を手から落としてしまった。

『爺や・・・・僕の細胞は死にたがっている。』

『何を言ってるんです。』

『プログラムが発動したんだ。だから、こんな力が・・・・・見たくもない人の本心なんかがわかるんだ。』

『坊ちゃん!』 爺やは渋く眉間に皺を寄せて、僕の肩を掴む。本心に、悔しさと自分に対する怒りと、どうしようもない憐み、悲しみ、困惑の感情が混ざっていた。

そんな爺やから視線を落として、僕は足元に転がった「附子」を拾う・・・



「・・・・・キー・・・・、フッキー!ねぇ、フッキーってば!」

「えっ・・・・あぁ中山ちゃん・・・・いつも元気だね。」

「元気だね、じゃないよ。どうして、こんな所で寝てるの。」

「えっ?」いつも元気いっぱいの中山ちゃんの呆れ顔で、初めて自分がこんな所で、埋もれている事を知る。

「んーと。・・・・日陰ぼっこ、かな。」

「日陰ぼっこ?何それ?」

アベリアの枝葉の緑臭さが鼻につく。体を起こそうとしても、身体が強張って動けない。僅かに腹に痛みがある。

(何故こんな所に、埋もれて居るんだ?)

中々立ち上がれない無様さをごまかすために、笑った。

「涼しいよ、ここ。」

「こんな所で涼しまなくたって、校舎内はクーラー完備で涼しいじゃん。」

「ずっとクーラーばかりの所に居てたら、身体を悪くする。」

「もう、フッキー、お爺さんみたいなこと言わないでよ。あははは。」

中山ちゃんが手を差し出して来る。

「悪いねぇ、爺さんは足腰が弱くてねぇ。」

「あははは。」

演技でもなんでもない。中山ちゃんに引っ張って貰って、亮はやっと立ち上がる事が出来た。

(何だ、この疲労感。身体だけじゃなく、頭も重い。何をしていたかと考える事も億劫だ。)

「フッキー、夏休みの試合のスケジュール出た?」

「あぁ、出たよ。」

中山ちゃんの後に付いて一歩、歩き出したとたんに視界が迫るように暗くなった。

「教えて、今度ファンクラブ皆で応援に・・・・ちょっ!ちょっと、フッキー!」

中山ちゃんの声が遠い。

「・・・ごめん、立ちくらみ・・・」

「え~、大丈夫?」

「びっくりするジャン。突然、抱きつかれたら。」

「ごめん・・・・もう少し、視界が戻るまで・・・。」

「大丈夫?保健室に行く?」

「いや、大丈夫・・・日陰ぼっこしすぎたな。」

「こんな所、柴崎ねえさんに見られたらどうすんのよ。」

「柴崎とは、もう関係ないよ。」

「フッキーは関係なくても、柴崎ねぇさんが関係あるでしょ。怖いんだから。」

やっと視界が戻ってくる。

「中山ちゃん、怖がってないでしょうが。ありがとう、もう大丈夫。」

「本当?大丈夫?」

「あぁ、ありがとう。」

「もう、大事にしてよね、身体。」

「そうだね、元気の塊、中山ちゃんに言われたら、元気になるよ。」

「もぉ~、そう言うのは私じゃなくて、ファンの子に言ってよね。」

(それにしても、俺は何故、ここに居る?いや、ここに居てはいけない存在・・・。)

中山ちゃんの元気とは正反対に、頭は、鈍く、何かがが張り付いていた。

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