第14話 白群色の空3
ハングラード大学時代に、やたら日本文化に興味を持ち、話しかけられた事がきっかけで知り合ったマイク・コリンズが、これを見たら叫んで喜ぶだろうと思われる純和風の武家屋敷。東京では寺か料亭かに行くか、テレビの時代劇でしかお目にかかれないような、隅々まで手入れが行き届いた日本庭園が、雨風情で閑にもてなす。
屋敷内に入ったことはないが、この住所を訪れたのは二度目。いずれも、空港で乗ったタクシーの運転手に町名を告げただけで、藤木邸ですか?と聞かれ、それ以上の詳細な住所を聞き返されることなく目的地に到着したのも驚きだったが、今回初めて屋敷内に足を踏み入れて、凱斗は想像を超えた屋敷の規模と風格には、ため息が出るほどに藤木邸は立派過ぎた。風光明媚な庭は、どこまでが敷地かわからないほどに奥まで続いていて、しとしとと雨ふる中、遠くで作業をする庭師がいるのを見つけた。落ち葉の季節は大変そうだな、と凱斗は陳腐な感想を心に抱き見渡す。雨粒が池に作る波紋も幽玄に満ちて、長い回廊は黒く艶やかで、映り込む新緑の陰影すらも芸術作品のようだ。
前を歩く文香さん、さらにその前を歩く案内の女中さんは共に着物を召していて、江戸時代にでもタイムスリップしたのかと錯覚を覚える。スーツ姿の自分だけが、場違いなのではと思えるほどだ。
「こちらで、お待ちください。」
おそらくここが、庭が一番きれいに見えるあろう奥座敷に案内された。きっとトイレに立てば、戻って来ることは困難になるだろう。
女中さんは丁寧に頭を下げて、また静かに廊下を歩み去って行く。
「凄いお屋敷ですね。」凱斗はやっとその言葉を発する事ができた。
「そうね、流石、藤木家ね。」と見渡す文香さんの様子が、凱斗と同じく初めての様だったので、疑問に聞いた。
「もしかして、文香さんも初めてですか?」
「ええ、初めて。」
意外だった。文香さんは27歳で柴崎家に嫁いできて、先代の総一郎会長が72歳で死ぬまでの15年間、秘書として会長のそばで付き添ってきた。先代の総一郎会長は、華族会の東の宗代表をしていた関係で、内閣総理大臣を排出した藤木家及び、各有力議員との交流はあったはずだ。
「秘書時代に、前会長と訪れていると思っていました。」
文香さんは品よく首を横に振りながら、「藤木猛氏とお会いするのも初めてなの。」
「えっ、マジっすか?」
「これっ、言葉。」叱られる。
「はい。」
今日は華族として、しかも無理を言って祖歴書を見せて頂くのだから、振る舞いと礼儀はちゃんとして粗相のない様にと、厳重に言われて来ていた。
「会長秘書に就いた初めの頃は、お義父様は、まだ体も元気でいらっしゃったから、付き添いは要らなかったし、私はあくまでも柴崎家の嫁として、お手伝いをしているようなもので、政府要人と会われる場合は同席できる身じゃなかった。お義父様が身体を悪くされてから常に側に居るようになって、沢山の人と会わせていただいたけれど、その頃には、藤木猛氏はもう政界を退いていらっしゃって、守氏が世襲しておられたから、お会いする事もなく・・・。守氏とは、大学時代のサークルの後輩でもあったし、文部大臣としても就任されたから縁あって親しくさせてもらっているけれど。」
そう言うと、文香さんは一つ息を吐いた。
「会長、もしかして、緊張しています?」
「言葉っ。」キッと睨まれた。図星だったようだ。
「緊張されていらっしゃいますね。」
「していません。」文香さんは整った姿勢を更に伸ばして、澄ました顔をした。
小さな反抗。強引に連れて来て、記憶した祖歴を紙面に起こせって、もう絶対にとんでもない作業になる事は確実。簡単に命令するけれど、古文書の文字なんて読めやしない。読めない字を調べて書き起こす作業が、どんなに大変な事になるか、先の苦労に凱斗は心中でため息を吐いた。のが、合図だったように廊下に人が現れる。
「お待たせして、申し訳ありません。」着物を召した藤木猛氏は、一度、廊下の床に三つ指をついて頭を下げた。文香さんも座椅子の脇に降り手をついて頭を下げた。けれど氏程の低さまでは頭を降ろさなかった。これが民と華族の地位の差だ。自分も文香さんに習い、座椅子から降りるけれども、久々の正座に足がしびれてよろめく。文香さんにしかめた顔で非難された。そんなことをしている間に藤木猛氏はやっと部屋に入って来て、凱斗たちに座を進めながら、自分はまだ座椅子に座らず、凱斗たちが座椅子に鎮座するのを待った。
「初めてお目にかかります。藤木猛でございます。」
「厚かましく押しかけてしまい、申し訳ございません。」文香さんがそう言って、藤木猛氏はやっと自分の座椅子に座った。
「この雨の中、華族の方にご足労頂いて申し訳ありません。」
「いえ、無理をお願いしたのは私どもですから、お気遣いなく。」
藤木猛政界を退いて何年経つだろうか、凱斗が小学生だった頃に日本の総理大臣としてテレビ画面で馴染んだ顔。その記憶より、容姿も動作も衰えて若干の衝撃を覚えるが、こうして対面するとやはり昔の威厳は残っていて、圧倒された。
ほどなく、文香さんと同じ年齢ぐらいの男性と、先ほどこの部屋まで案内してくれた着物姿の女性が、お茶と茶菓子を運んでくる。凱斗たちの前に置かれた器や菓子にまでも、品よく金が施されていて、何もかもが立派だなと感嘆する。
男性の方が、大きな桐の箱を持って入って来ていた。おそらく、その箱に祖歴書が入っていると思われる。予想以上の大きさの箱に凱斗はたじろいだ。あんな大きな箱の中に入っている文書を全て拝見し、書き起こすのかと思うと、ぞっとする。
女中さんだけが用を済ますと出ていき、男性は、箱の守りをするように部屋の隅に座った。猛氏の秘書なのだろう。
「前会長、柴崎様とは親しくさせて頂いていましたが、文香様とは今までに、ご縁が繋がりませんでした。」
「はい、先代の総一郎より、お話はよく拝聴しておりました。これを機に、私、柴崎文香もお見知り下さいましたら幸いです。」
「知るも何も・・・私も、柴崎総一郎様から拝聴いておりました。次期会長は、目利きの良い嫁を就任させるから、よろしくとおっしゃられていておられて。」
「拙くて幻滅されたのでは、ありませんか?」
「いえいえ、息子の守より、孫の亮の事、全て話は聞いております。この度は、本当に亮がご迷惑をおかけして申し訳ございません。」
猛氏が再度頭を下げるのを文香さんは制した。
「藤木様、おやめください。亮君の事は、守氏から重々預かり頂いています。どうかご安心を。」
政界を退いて尚その存在感は強くとも、祖父としての顔は一般家庭と同じのようだ。孫の名前を出すと途端に威厳が弱まったように思う。
「そう言って頂けると、私も安心します。聞けば、亮が殴った相手と言うのは、華族のお子様だとお聞きして・・・本当に謝罪に行かなくて良いものかと、案じて病まず。」
「大丈夫です。あちら様のご要望ですし、藤木様、もう、このお話はやめましょう。今日は、そのことで伺ったのではございません。」
「あぁ、そうでございました。どうぞ、田舎の物、お口に合うかどうわかりませんが、お召ください。」と猛氏は、目じりの皺を深くしてほほ笑む。似ている。藤木君の目じり皺は、お爺さんの代からか。
「ご丁寧に。頂戴いたします。」文香さんが、お茶と菓子に手をつけるのを待って、自分もお茶に手を伸ばした。
屋敷や庭に関する雑談を経て、訪問の目的である話に持っていく。
「紹介がまだでございました。手紙に記しましたように、私のそばで仕事を手伝ってもらっている柴崎凱斗です。」
和菓子の最後の一口を口にしようとしていた所で、名指しされ凱斗は慌てて皿を置く。
「甥にあたりまして、今はまだ学生ですが、ゆくは娘と共に次期翔柴会を担って行く事になりますので、その節はご指導賜りますよう、お願いいたします。」頭を下げるだけにする。今日は名刺を出すなと事前に言われている。名刺から華選の称号項目を調べられたら困るからと。
「柴崎凱斗です。よろしくお願い申し上げます。」
「あぁ、民族学を学んでいると記されていましたね。」
「はい、藤木家の歴史は江戸より続く歴史が長いと拝聴しておりましたので、祖歴の文字はきっと、私には読めない文字だと推測致しまして。大事な祖歴書をこのような若輩者に拝読させるのは嫌疑がおありでしょうけど、身元、素性は私が保証いたします。口外の心配はございませんので。」
嘘八百も良いところ。
「いえ、華族であられる柴崎様の身元を疑うなんて、滅相もございません。その心配は全くしておりませんのですが・・・ただ、藤木家の祖歴を御覧になって、何をお知りたいのか、守もわからないと言っておりましたが・・・。」
「・・・・・。」文香さんは何も答えず、目を細めた。背中をまっすぐ伸ばし凛とした姿勢はそれだけで、相手を圧倒させる華族の品格。
負けていない筈の藤木家当主、元内閣総理大臣藤木猛氏は、耐えかねて溜息ついた。
「華族の守秘規約、ですか・・・。」
「はい。と申し上げるつもりでしたが、はじめてお目にかかり、その心内が私のものと同じ物である事、藤木家の歴史の長さから見ても、氏もご協力していただいて、その歴史を語って頂く方が、お互いの徳が得られると考え至りました。」
作戦変更する文香さんに、凱斗は若干の驚愕の意志を持って顔を窺った。
この事は、華族会にも報告していない。文香さんの仮説による独断調査だから、調べて何もわからなければ、そのまま隠匿と言う形を取ると言っていたのに。
「あの~どういう。」藤木氏も、目じりの皺を濃くし、文香さんの真意を探ろうとしている。
「藤木猛様、お人払いを。」
覇気を込めた文香さんの言葉に、部屋にいる全員が驚いた顔を見合わせた。
五月晴れ、その言葉にふさわしく、学園のある神奈川県の空は、雲一つなく爽快に晴れ渡っていた。校舎内に入ってくる陽光も日に日に力強くなって来て、外にでるだけで汗ばむほどである。「早く夏服が着たいね」と会話する生徒たち、亮もその日を待ち望んでいる。暑さを少しでも軽減しようと生徒たちは上着を脱いでシャツを腕まくりする生徒多数発生。学園は年中、全校舎内空調完備であり、暑さ寒さを凌いでいるはずなのだが、この季節だけは、なぜか窓を開け放す者が多く、適温を保ってくれる空調の力を台無しにしていた。校内を巡回する警備員さんが、その開け放たれた窓や扉を閉めに廻っているのだが、いたちごっこ。
装い軽やかになった女子たちの装いを眺め、亮は(目の保養の良い季節になった。)と心中でほほ笑む。
休憩時間、すれ違う女子たちに、さわやかに愛想を振りながら、そんな卑猥な心中を微塵も顔に出さず、亮は廊下を歩いていた。
(自分は、こんなに女子には受けが良いのに、なぜ毎年、新田よりバレンタインのチョコの数が負けるのか?)
その答えは、女子たちの心中を読み取り続けても解けない謎である。
(結局は顔なのか?)
亮自身、自分の顔が、さほどに悪くないはずだと認識している。確かに新田と並べば見劣りするが、標準よりは上、そして女子を扱う丁寧さがその見劣りをカバーして、総合的に新田を超えてもいいんじゃないかと思うも、現実は意にそぐわない。身長も、新田より5ミリ高い、成績だって新田より上。
(なのに、なぜ?あまりに気安いのも、いけないのか?)
新田のように、少し近寄りがたい雰囲気を出す・・・そんな路線変更はもう無理である。亮は外部入試組の生徒たちにも「女子には優しい藤木君」で周知されてしまっている。このままでは来年のバレンタインのチョコも新田に負けるだろう。外部から入学してきた女子が増えても、亮と新田に好意をよせる女子の比率は変わらないだろうし、逆に差が開くような気がして危機感を持っている。
何故なら、外部入試組の新たな女子たちの中に、昨年の全国大会で活躍する新田を見て、お近づきになりたいと入試に挑み入学してきた女生徒が一定数いるからだ。あの試合中、ボール保持時間が長かったのは、ミッドフィルダーである亮がイレブンの中でトップなのだが、そんなコアな情報など女子は知らないし、興味もない。ただ優勝インタビューをされたのが選手の中で新田だけだった事と、キャプテンという肩書が新田の新たなファンを増やしたのである。
(次こそは、ユースの日本代表になる。)
自分のモテポイントを上げるには、それか、あと整形で目じりの皺をとるか?しか、今のところ思いつかない。
そんな、春天候のような思考で、特選の教室の前まで戻ってくると、今野が教室に体半分を入れてキョロキョロと見渡している。
「何やってんだ?」
「おう、お前を探してんだ。」と亮を見上げる今野。瞬時に困ったことが起きた、相談事だと亮は読み取る。
「あのさ、ちょっと・・・。」と亮を廊下の端へと引っ張っていく今野の後ろ姿を見ながら、憐れむ。
言って悪いが【小さい】。柴崎と同じぐらいしか身長がない。その顔も童顔で時々女に間違われる。身長を伸ばす努力をしているが【かわいい】が自分の良さでもあると自覚していて、髪を女みたいに括っていたりする。今日も括った前髪がトップで跳ねている。
「困ったことが起きて。」
「身長が縮んだか?」
「違うわっ!」亮の茶化しをあっさりと交わして「バスケ部の先輩でな、」と続けようとした所で、
「ハルちんっ。」と、対面から歩いてきた外部入試組で好感度一位の相田さんが、今野の背中を叩いた。
「お、おう。」
「この間言ってた、編み込みクリップとアレンジ集、持って来たから後で教室に持っていくね。」
「あ、あぁ、ありがとう。」
「今日も可愛いよ。」と相田さんは今野の跳ねたヘアーをポンポンと触り、そして、ついでのように亮ににっこり微笑んで去って行った。
「あぁ、今日も可愛いな。小さくてっ。」亮は今野の結んだ髪を掴み引き上げる。
「痛たたた、やめろっ。」今野は頭を抱えてつま先立つ。
「いつの間に相田さんと親しくなったんだ?ハルちん。」
「痛いって、やめろっ禿げる。」
女子と親しくなる速さは、誰にも負けない自信がある亮は、今野が好感度一位の注目女子である相田さんと、自分よりも早く親しくなっている事に我慢がならない。
「向うから話しかけて来たんだよ。俺んとこのクラスに友達がいて、括ってるの可愛いって、それから髪型の話になったんだ。」
「へぇー、でお悩みは、メグりんとの二股をどうやってこなすかってか?」そんな悩みじゃないのはわかっている。だけど腹いせに貶さないと気が済まない。
「違うわっ俺はメグ一筋だっ。」通りすがりの女子がくすくすと笑っていく。「放せっ。」亮は手を離す。「痛えなぁもう。」
「で、先輩が何だって?」
今野は睨みの一瞥を亮にして、次いでため息を吐いてから話し始める
「バスケ部の2年の先輩で、」
「よぉ、今野。何してるんだ?」と新田が教室から出てくる。
「お、おう新田、いや、別に、通りすがりに雑談してただけだよ?」その誤魔化し方で、新田には知られたくない相談と判明。「俺、もう行くわ。じゃな。」と今野は、括った髪をぴょんぴょん跳ねさせて駆けていく。
(あの髪、いつかちょん切ってやる。)
「藤木様は、常々不思議に感じておられましたね。ご自分の言辞力に。」
人払いをして部屋に3人だけになると、そう切り出した文香さんは、まっすぐ藤木猛氏を見据えて目に力を込めた。
藤木猛氏は、文香さんの言葉に険しい顔で驚く。
「古来より、人の発する言語には力が宿り、その言葉通りの結果をもたらすと言われる【言霊】の存在の譬えがあります。科学では証明できない力や戯れ言を否定しながら、あなた様は、人が自分の言葉に影響を及ぼす事実に、喜悦し、恐れてもいた。」
「あ、あなた、は・・・。」驚くも無理ない。初対面の人間に常日頃から心に思っていたことを言い当てられるのだから。
「この日本経済を支える財閥、企業の要人が、主に華族の称号を持つ一族であることは、ご存知でごさいますね?世間では、その財と人脈、力をもって鎖国開国の混乱を制定し、その功績に基づき、神皇より賜った称号位であると認知されています。確かに、それは間違いではございません。ただその真髄に、我々華族が古より血脈している力がある事は、我々華族内でも滅多に口にしない密事です。」
そんな密事を国家要人であるとは言え、称を持たない民に言っていいのか?
話の重要性だけは理解できた猛氏は、目じりの皺と眉間の皺がメモ紙でも挟まるんじゃないかと言うぐらい更に深くした。
「もしかして、華族のお方は卑弥呼の血を引き、不思議な力があるとか。」
文香さんが目を細めたまま、静かに頷く。
「そんなのは、それこそ戯れ言で、華族の称号と秘儀の中で巷に広まった噂話に過ぎないはずじゃぁ。」
「では藤木猛様、あなたのその言霊の力は、どう理解し説明いたしますか?」
「い、いや私は・・・。」
「亮君と私は同じ力を持っています。あなた様も亮君の力を薄々気づいていらっしゃいましたね。」
「亮は、ただ感の鋭いだけの・・・。」
「その強すぎる感の鋭さに、亮君は悩んでいます。藤木様、あなたと同じように、なぜ自分にこんな力があるのだろうか?と。」
凱斗は、帰国したばかりの時に聞かされた華族の成り立ち、在りようを思い返していた。
【華族の血、元を辿れば、卑弥呼の時代に遡る。卑弥呼が混沌不浄の世であった日本に、その強い力で天より神の子を地に降ろし、世の秩序清浄をし、その後も神皇と共にこの日本の現世を守り綴ってきた。時に民からその力を崇められ、求められ、恐れられ、忌み嫌われても、華族の魂抵には、この地が静寂であることを未来永劫の祈りをつづける。】
「私は・・・。」氏は、しばらくぶりに、その見開いていた目を静かに閉じて、話し始める。「己の言葉通りに、人の意思が変わる事が恐ろしかった・・・しかし、この力のおかげで、私は福岡の地盤を固め、ただの農家上がりの藤木家を、内閣総理大臣を輩出した名家と言われるまで押し上げられた事を、純粋に喜びました。が、柴崎様がおっしゃる通り、何故と言う疑問と恐怖は常にこの胸に生じておりました。」
内閣発足以来最長の12年という長きの手腕で、この国の政を担ってきた藤木猛氏。その絶大な威厳は未だ衰えず、各界あらゆるところで名を馳せるはずなのに、目の前の、娘であってもおかしくない年齢の文香さんの前で肩を落とした。その姿は、終焉の陰が落ちるように、言い表せない侘しさが滲む。
「私の発する言葉が、人の意思を変えてしまう事は、政界に身を置く中で気づき、そして、この力は私が政をするにあたり、天命の力なのだと、市政に使う事こそが、この力の授かった意味であり、この国の為なのだと思っていました。この力に奢り、人の上に立っていた時期も、常に恐れはありました。この力、いや、私の意思が暴走すると、どうなるのだと。」
藤木猛内閣総理大臣の功績の中で代表的な物と言えば、消費税導入がある。消費税導入に際して反対姿勢の主要議員に、猛氏は一人一人、直に会い、消費税導入の必要性を訴え反対意志を変えるよう説得した。猛氏に説得された消費税反対姿勢の議員は、次々に姿勢を変え、賛成の意志を宣言するものだから、賄賂を受け取ったのではないかと疑惑を持たれ、藤木氏に捜査の手が及んだという話は、消費税導入の経緯を語るに付随する有名な話である。
「藤木猛様、その胸をお張りください。あなた様が長きにわたり、この日本の政を舵とり成してきた事は、その力が天命の物であろうとも称賛されるものです。その力が人為を超えた物であっても、使うのは人の思考や決意に基づくもの。」
「あぁ柴崎様、流石は先代柴崎総一郎様がお認めになられた方です。」
「いえ・・・私など、先代の足元にも及びません。」
そういえば、藤木氏と先代の総一郎会長、なんとなく雰囲気が似ている。その異を言わせない圧力が。
「私はただ、視知るだけ。先代の総一郎も、あなた様と同じ悩みを抱いておりました。」
凱斗は内心で驚く。総一郎会長もその力があった、それを知れば、当然と言えば当然で、逆に今まで何故それに気づかなかったのかと悔やまれる。
文香さんの解釈によれば、文香さんや藤木君が持つ力は、華族の祖である神巫族の卑弥呼が持っていた力に由来するのではないかと考える。卑弥呼は五感のすべてに人智を超えた特な力を持っていたと言われている。その力は子へと継がれ、やがて華族となった現代では、微力に各器官に宿すだけとなっている。
視覚、人の本質を見知り、真言する力。
聴覚、自然の唸りを聞き、混沌の兆しを悟る力。
嗅覚、脈筋を嗅ぎ分け、開拓を見出す力。
言覚、神の声を響き伝え、支配する力。
触覚、手より発する気で、人々の病を癒す力。
卑弥呼を祖先に持つ華族の者全員が、その力を持っているわけではない。長い時を経て薄れ、忘れ去られ、純粋の華族の血を受け継ぐ者でも消滅しつつある、その力の存在は、今や密め事になり、口にするのも憚れるようになった。と凱斗が聞いたのは、つい三日ほど前である。
高い棚の間をすり抜けて、読む本を探した。ミステリー、サスペンス、アドベンチャー、恋愛、SF、ハードボイルド、哲学、ジャンルは何でもいい。
本は別世界が広がる脳内の映画館。
『荒野の果て』というタイトルが目について手を伸ばす。本の裏に書かれたあらすじを読んだ。
【身よりのないヤマモト リクは、施設で身を寄せ合って生きて来た妹のリカを亡くして、夢と生きる希望を失った。絶望の末に死に場所をもめてたどり着いた場所は、米軍の陸兵養成施設。リクはそこで死よりも過酷な訓練をする事になる。リクが望む理想の死に方とはかけ離れて行く現実、皮肉にも死から遠くなるほどに鍛えられていく身体。そして与えられたミッション。死に願望を抱くリクが与えられたミッションの果てに見た物は・・・2008年新人作家大賞ノミネートの話題作。】
(面白そう・・・)
兵士もののハードボイルド系はまだ読んだことない。これに決定。上下巻になっていた。下の本も手に取りカウンターへ向かう。上下本と一緒にIDカードもカウンターに置いた。学生は一人3冊まで、貸出期間は1週間であるのに対し、一般の人は何故かその倍の一人6冊までで、2週間借りられるのは何故だろう。といつも疑問に思う。一度、麗香に聞こうと思って居るのだけど、いつも忘れる。
図書館司書のおばさんが「5月28日までね。」と言って本とIDカードを手渡してくれた。受け取りカウンターを離れ、近くに空いた席を見つけて座った。図書館内のテーブル席は生徒で埋まっていた。全員が本を読まずに勉強をしている。今日からテスト一週間前でクラブの練習はない。テスト勉強以外の目的で図書館を訪れているは、私ぐらいか?と残念に思う。「本離れ著しい」誰かのコメントじゃないけれど、どうしてみんな、こんな面白い娯楽から離れていくのか?不思議に思う。
そうやって館内を見やっていると、奥の階段を降りてこちらに歩んでくるあの人、の存在に私は硬直した。
完全に私を視認し向かって来るのだと身構えたが、意外にも本棚の手前で横にそれて、カウンター脇へと向かい、手に持っていた本を返却棚に置き、出口へと向った。
(なんだ・・・返却したかっただけか。)
と思ったのも束の間、最接近の距離になった所で、ギロリと睨まれた。
もの言わずの圧力・・・失敗は許さぬ、りのの為に生きよと、命じられたようだった。息をのんで出ていくのを待ち、姿が消えてからやっと息を吐いた。
(わかっているわよ・・・睨まなくたって、うまくやるわ。)
もう一度ニコとして存在できるのだもの。以前より、もっとうまくやる。出来る。
意識の住みわけが以前より広い。それが弥神皇生の施した術なのか、どうかは知らないけれど、私、ニコの意識は以前よりも伸びやかに自由だった。しかし依然、意識の主導権は、りのにある。それだけが不快で悔しい。りのは気まぐれに私に意識を明け渡し、また締め出したりする。英語の授業やバスケ部の時だけは絶対に私に譲らず、他の授業は全部私に任せっきりだが、学び野は両方の意識に開放していて、どちらでも学んだ知識は会得できるようになっていた。都合よすぎる設定に、私は呆れる。りのはしたたかだ。
図書館の閉館を告げる音楽が鳴り始めた。図書館の閉館時間は中等部の最終下校と連動していて、冬期は18時、夏期は18時半。今はまだ冬期の時間帯で6月から夏期時間に変更されるとのお知らせが壁に貼ってある。どうして、もっと長く開けてくれないのかと思いなが席を立った。外はまだ明るい。借りた本をすぐに読みたいのは、ニコもりのも同じ。読書の趣味だけはりのもニコも同じだ。
高等部の下校時間にはまだ余裕がある。図書館周囲のガーデン小径途中にあるベンチに座って読もうと腰を降ろした途端に、どこから現れたのか、知らない生徒に声をかけられて振り向いた。
「リノ、あの、ちょっと話が・・・あるんだけど。」その知らない男子生徒は、向こうへとガーデン奥へと指さした。
(この人は誰だろう?)
りのと私が混ざり合ってからの記憶に、断片的にわからない部分がある。あまり下手な応対をするとバレてしまう。上手く振舞うには相手からの言葉を待ち、適当に相槌をするのが一番だ。だから知らない相手でも、素直について行くしかない。
男子生徒が同じクラスじゃないのは明らか、中等部からの内部進学組でもないのもわかる。外部の入試組?が一体私に何の用だろう。
ガーデンは薔薇の花が咲いていて、洋館の図書館ととてもマッチしていた。
その知らない男子生徒は、ピンクの薔薇が咲いているアーチの前で立ち止まり振り向いた。私に一瞥してから、伏し目に見下ろされる。
「あの~もう、わかっていると思うけど・・・。」
(わかるわけがない。何も言わず、何かをわかったら、それは藤木の能力だ。)
「俺さ、君が入って来た時からずっと・・・その・・・気になって。」
(入って来た?図書館に入った時?)
「リノは特待生で、俺なんか頭の悪い奴、もしかしたら相手にする気もないのかもしれないけど・・・。」
(特待生の話が絡んできた、増々?だ。)
「もっと話がしたいなと思って。」
(りのの知り合いか?)
「もし・・・よかったら、俺と付き合ってもらえないかな?」
(これは告白!しかし、名も知らず面識のない人からの告白を、「はいわかりました」と受けられるはずがない。)
「俺、リノの事、好きで。」と顔を赤くし、照れた顔で苦笑する知らない男子生徒に、腹が立った。
(いきなりの呼び捨てで、馴れ馴れしすぎる!告白の前に自分の名を名乗るのが筋じゃないか?)
「あの~、リノ?」
「誰?」
「え?」驚き固まる知らない男子生徒。
(まずい。やっぱりりのの知ってる人だったか。)
「あ、あー、そうか、ユニフォームやジャージばかりの時しか会わないから、制服じゃわかんないかぁ。」と苦笑して頭をかく。
(だから、誰だ?早く名のれ。)
「加納淳、2年の」
(2年生!そりゃわからないはずだ。男子バスケ部の先輩か。なるほど、だからこの人はりのを呼び捨てに。)
バスケ部は氏名から2文字を選んで呼び合う。
(りの!代わらないのか?バスケの事だぞ。)
頭の中で呼びかけても、りのは反応しない。狡いりのの嫌がらせだ。私を困らせようとしている。と言っても、今まで互いに呼びかけ合って入れ替わっていたわけじゃない。りのの気まぐれの主導で変わっていたのだから、私からの呼びかけで代われるかなんてわからない。
仕方なく、適当に対応することにする。
「あぁ、カノ先輩。」
「え?・・・いや、ジュンだよ。」
(この人だけ3文字!?)
「リノ・・・大丈夫?」不審な顔で覗きこまれた。
「ご、ごめんなさい、き、緊張で、こ混乱。」
(そうそう、りのみたいに吃音もいれないとね。)
「あ、ごめんね、緊張させちゃって、ハルから聞いてる。」
(あいつ何、余計な事を話してくれちゃってるの。)
「日本語が苦手だと。それも気にしないで、そんなリノも、可愛いって言うか、好きだから。」
(うわ~、よくそんな恥ずかしい言葉を。)
「わ、わ私・・・」
「好きな人がいるとも聞いている。それは、やっぱり幼馴染の新田慎一?」
(なんだって、初対面の人に、それを答えなくちゃいけない?)
「付き合っているの?新田慎一と?」
もぅ顔をみるのも嫌だから、うつむいて答えず無視。
「付き合って居ないのなら、俺との事、考えてくれないかなぁ。」
(私には考える義理はない。早く借りた本を読みたいのに。カノだか、カレだか知らないけど、私は、何の興味も何の感情もない。)
「あ、あの・・・無、無理。」
(もう、これ以上りのの演技は無理。逃げるが勝ち。)
「あっ、ちょっと、リノ!」
そう、りのはいつも都合が悪くなったら逃げていた。これも演技だ。
良かった、追いかけてこない。でも、中等部の方に来てしまった。
もう、色々と面倒だな。そうだ、辞めちゃえばいいんだ。バスケなんて。そうすればニコで居られる時間が長くなる。
『駄目っ!』
無音の叫びが頭に響く。
あっ・・・
駄目よ、バスケは、私とメグとの約束、一緒に全国を目指そうって。バスケだけは辞めさせない。ニコに邪魔させない。
だけど驚いた、ジュン先輩が、私に告白してくるなんて。
ジュン先輩は、ハルの事が好きなんだと思っていた。私がハルとしゃべっていたら必ず寄ってきて、ハルにやたら触ってジャレていたから、ジュン先輩は、そっち系の人なんだと、ハルを取られたくないから私が邪魔なんだと思っていた。なぁんだノーマルかぁ。ちょっと残念。ハルは、メグとジュン先輩のどっちを選ぶだろうかと、恋の結末を、すごく楽しみにしていたのに。フランスではゲイもレズも、普通にその恋に堂々としていて、街は愛にあふれていた。
(あぁグレンに会いたい。)
そう思った瞬間、腕にぞわぞわと這う感覚が走った。
「ひっ」蛇が、腕を這いあがってくるあの感覚。
でも蛇なんていない。
「な、何っ。」
怖い・・・あの人が何かした!?
「ここは?」
「別に、何とも・・・」
「うーん、やっぱり、おばさんには、わからないわ。」
「あぁ、おばさんが医者だったら楽だったのに・・・仕方ない、じゃ木曜日、その園田先生の日に受診するから、予約とってくれる?」
「いいわよ。何時なら来れる?」
「クラブはテスト前だからないし、6時間目のHRも早退して・・・3時には行ける。」
どんどん男らしくなっていく慎ちゃんが、制服のポケットから財布を取り出して、その中から私が勤める大学病院の診察券を出す。
「わかった、じゃ3時に園田先生の受診予約しておくわね。」
「うん、お願い。普段は何ともないんだけどなぁ。」めくり上げていた制服のズボンを戻しながら首を傾げる。
「そりゃねぇ、毎日毎日、激しい練習を重ねていたら、どこか疲労してくるわよ。」預かった診察券を仕事の時に持って行く鞄の中にしまい込んだ。
「こうやって触っても痛くないくせに、走って踏み込んだ時、痛いんだよなぁ・・・」立ち上がるとさつきの頭一つ分は伸びた身長、啓子は、「体ばっかり大きくなって情けない。」と愚痴るが、さつきからみれば、どこにも非の打ちどころがなく、いい青年に育ったと思う。
「コーヒー入れようか?」
「あぁ、うん。また、鎖骨骨折のときみたいに、毎週来てくださいって言われるかなぁ。」まだ足の具合と診察時の心配をする慎ちゃんのつぶやきに苦笑して答える。
「まぁ、怪我にしろ、疲労にしろ、地道に通ってリハビリするしか、治療方法はないからね。」
「ヤダなぁ。めんどうだな。」慎ちゃんのしかめっ面を尻目に、さつきはキッチンに向かう。と、玄関でガチャガチャと乱暴にドアノブを回している音がし、開けられる。
「あれ?開いてた・・・。」りのが帰ってくる。
「お帰り、りの。遅かったわね。」
「ただいま。そっか、ママ、今日は朝勤務の日だった・・・何故、家にいる。」慎ちゃんの姿を見るなり、途端に不機嫌な声になるりの。
「お帰り、遅かったな。」と慎ちゃん。
「何故、家にいるって質問、英語じゃない、日本語もわからないのか?」
「これ、りの、そんな言い方しないの、慎ちゃん、整形外科に受診予約したいからって診察券もってきたのよ。」
「整形外科?怪我したの?」
「別に怪我したわけじゃなくて、膝に痛みがあるから念の為。」
「ふーん」
「りのもいる?コーヒー。」
「うん。」
「遅かったんだな。」
「クラスの皆と授業終わりに自習して、帰りに図書館に寄って・・・いいじゃん別に。私がどこ行こうとっ。」
何故か語尾で怒り口調に代わり、りのは自分の部屋へ入ると、引き戸の扉をぴしゃりと勢いよく閉めた。直後、りのの部屋から、ドスンと振動を伴う激しい音がする。中等部とは格段に増えて重くなった教科書がびっしり入ったカバンを落とした音だ。下の居住者から苦情が来そうで、静かに置きなさいと注意してからは、そっと置いていたのに、今日は守れていない。
慎ちゃんと顔を合わした。何に気に障ったのかわからないけど、機嫌が悪いのだけは確か。
去年の催眠療法で閉じられていた心は開けて、笑顔のりのが戻って来たのだけれど、止まっていた成長が進み始めて、ホルモンのバランスがそうさせるのか、時にイライラの感情を周囲にぶつける事が多くなったりの。第二次成長期に見られる遅い反抗期だと、さつきは解釈していた。
「ごめんねぇ慎ちゃん、はい、ブラックでよかった?」
「うんブラックで、ありがと。」
「りのも、コーヒー入ったわよ。」と部屋に向けて声をかける
半そでのパーカーにハーフパンツの私服に着替えたりのは、また勢いよく引き戸を開け放つと、ムスッとした表情でダイニングテーブルの椅子に座る慎ちゃんの真横に立つ。
「どけっ!」
「こら、りの!」
今まで、日本語の発音がおかしいと言われて話せなくなったから、言葉使いに関しては注意をしてこなかった。だけど、これはあまりにもひどい。
「ここは私の場所!」
「あ、ぁぁごめん。」慌てて立ち上がる慎ちゃん。
「これ、りのっ!いいじゃないの、こっちに座れば。」
「嫌だ。」
(こんな子が華選だなんて、絶対に何かの間違いだわ。)
「ごめんねぇ~慎ちゃん。」
「いいよ。」と苦笑する慎ちゃんの優しさには、もう脱帽だ。
「ふんっ、慎一も新田家ではテレビの前のソファー一人占めしてるじゃん。」
「場所の事だけを言ってるんじゃないの、言葉使いも、ママは怒っているのよ。」
仏「おやつ食べなくちゃ」りのは私の注意を無視して、買い置きしてあるプリンを冷蔵庫から出す。都合が悪くなったら私にはわからない言語で誤魔化すりの。慎ちゃんも呆れ顔だ。
「そうだ、りの、木曜日、慎ちゃんと一緒に病院に行ったら?村西先生の受診を慎ちゃんについていってもらえばいいんじゃない?」
「ヤダっ!」即答。
「もしかして、ずっと村西先生の所に行ってないの?」
「そうなのよ、一か月に一度ぐらいは来るようにって言われてるのに、ずっと行かないの。最後に診てもらったの、いつだっかしら?」
「もう、治った。」
「りのが、決める事じゃないでしょ。それに村西先生に安心のお墨付き貰わないと、ママ研修に行けないじゃないの。」
「ママだけずるい。」りのの頬が膨らむ。
「研修?」コーヒーと一緒に出したクッキー菓子を頬張る慎ちゃん。
「7月にね、アメリカのサンフランシスコで、最新の救命救急シンポジウムがあるの。それに行ってくれと副医院長から言われていてね。一昨年にも声はかかったんだけど、まだ勤務して浅かったし、10日間行く事になるから断ったの。」
2年に一度、7月の末にアメリカのサンフランシスコにあるサンフランシスコ医科大学病院と州が共同で行っている救命救急シンポジウムは、医療現場の最新技術レセプションが主なプログラムである。日本の医療技術は、世界に負けないレベルと言われているけれど、それは、研究分野と一部の最先端技術によるもので、現場の救命に関していえば、アメリカの合理的な技術に劣る。
ここ彩都市が最新医療環境を目指して誘致に成功した病院、関東医科大学付属の救命救急看護師として働いて4年半が過ぎた。救命救急看護師の資格は、昔からの夢だった。若いころから取りたいと何度も勉強しかけていたが、結婚が決まったり、りのを妊娠したり、海外移住になったりと、中々タイミングが合わずに取得できなかった。あの人の海外転勤を終え、東京に戻ってきてから、近くの市民病院の外来外科にパート勤務をしながら、猛勉強してやっと取得した。念願の取得だったが、それには大きなリスクが伴っていた。さつきがそうして仕事と家事の合間に寝る間を惜しんで資格取得の勉強をしていた間に、りのがいじめに合っていたことに気づけなかったのである。母親失格のレッテルと引き換えにした資格だったけれども、この資格があったからこそ、この街に戻ってきて、即、仕事に就く事が出来た。
救命救急看護師は、やはりその激務から、なり手も少ない上、就いてもすぐに辞めて行く人が多い。今や、看護チーフの次に、さつきが一番の古株になってしまった。だから今回のアメリカ研修を断わることが出来なかった。研修には毎回、医師と看護師が1名ずつ招待されている。
「アメリカのサンフランシスコで研修って、あぁ、さつきおばさん英語、出来るもんね。凄いな。」
英語の嫌いな慎ちゃんは、苦笑いしながらコーヒーをすする。
「出来ないわよ。私は聞き取りだけで、話せないの。」
「え?マジ?」
「フィンランドで住んでいたキルギスの街は、ロシア語が主流だっだし、りのとパパの会話を聞くだけのことが多くて、りのの通訳に頼りきりだっからね。簡単な挨拶程度しか喋れないのよ。だから、このアメリカ行きも、初めは断ったのよ。」
フィンランドの次に移住したフランスも第二言語は英語で、街の看板や案内板は英語表記が付随していた。しかし、さつきたち一家は、在仏日本人が住む地域に住むことが出来て、日本人の奥さま達といつも一緒に居て、生活はフィンランドより楽で、英語を話さなくても過ごせた。対してりのは、日本人学校の友達より地元のフランスの子供達と遊ぶ方が楽しいようで、学校から帰ってくると宿題もせずに遊びに出かけていた。
「医療専門用語の英語なんて、もっとわからないし、りのと違って、私は話せませんって村西先生に言ったんだけどね。一昨年も救命からじゃなく、内科の看護師さんが行って、最先端が一番に必要な救命が2回も行かないのは問題があるって、説得されて。」
「ふーん・・・ん?村西先生って、精神科医の?どうして村西先生?」
「あぁ、慎ちゃん知らなかった?精神科医の村西先生って大学病院の医院長の息子で、副医院長も兼務されているのよ。」
「へぇ知らなかった。」目を丸くする慎ちゃん。
「そう、だから、あの大学病院、精神科の施設、やたら豪勢でしょう。」
「そう言われてみれば。」
「村西先生ね、そのサンフランシスコで長く勤めてらして、日本の精神医学は遅れていると、精神病への理解を広めることと、通院の敷居を低くすること、そして全科連携の身心共に完治出来る医療システムを構築する為に、日本に帰国されたのよ。」
「へぇー驚いた、あの村西先生が副医院長とは。」
「親の七光りで、やりたい放題やってるだけじゃん。」ボソッと悪口を言うりの。
「もう、りの!」
「診察なんて雑談してるだけ、顔黒、面白くない親父ギャク言うし。あんなの診察じゃない。」
「が、顔黒って・・・」またまた苦笑する慎ちゃん。
「精神科は雑談も診察の内でしょ。それにお世話になった先生を顔黒なんて、なんて事言うの。」
「ホントの事じゃん、嘘は言ってない。あの病院で顔黒い医者、あの先生ぐらいだ。」
「まぁ確かに、他の先生で黒い人はいないわね。」
「お、おばさん・・・。」
(あっ、しまった、ここはりのを叱らなくちゃいけないのに。)さつきは口を手でふさぐ。
「りの、おばさんを安心させる為にも行った方がいいよ。俺もついていってやるから。」
「行かないっ!ママの研修に何故、私の診断書が必要なんだ!関係ないじゃん!勝手に行けばいいじゃん!」
怒ったりのが、空になったプリンの容器をテーブルにたたきつけ、立ちあがった。
「お前も用がすんだら、さっさと帰れ!」
「こら!りのっ。」
りのは、また自分の部屋の引き戸を壊す勢いで閉め、閉じこもってしまった。こうなったら、もう、何を言っても出て来ないし、当然、診察も行くとは言わない。
(はぁ~、この頑固、一体、誰に似たのかしら?)
慎ちゃんも、りのの性格をよくわかっていて、それ以上の説得はあきらめ、残っていたコーヒーを飲み干した。
「帰るよ。ごちそうさま。」
「ごめんねぇ。慎ちゃん。」
慎ちゃんはほほ笑んで肩をすくめると、立ち上がって玄関に向かう。その仕草が妙に大人っぽかった。啓子に似て、はっきりした顔立ちの精悍さがある。生まれた頃から息子同然のように育ててきたさつきでも、カッコいいと思うその容姿、モテて当然。それをりのはどうしてだか、この慎ちゃんを毛嫌いするような態度で、いつも喧嘩腰。フランスに居た頃に仲良くしていたグレンが好きだと、慎ちゃんの昔から変わらない優しさを無視している。
(確かにグレン君は、慎ちゃん以上に男前だが・・・りのってば、超面食い?)
見送りに、慎ちゃんの後について一緒に玄関の外に出る。
「慎ちゃん、村西先生が、私のアメリカ行きの前に、りのの学校での様子を聞きたいって言ってるの。」
催眠療法を施した後も、診察時に語らないりのを見かねて、村西先生は慎ちゃんに助けを求めた。慎ちゃんは、それを快く引き受けてくれて、数回、学校での様子を報告してくれている。
「じゃ、木曜日、ついでに村西先生の所に寄るよ。」
「ごめんね、面倒かけるわね」
「ううん、面倒じゃないよ。俺ができるのはこれぐらいだし。」
「ありがとう」
「んじゃ、どっちも予約、頼んます。」
「うん、任せて。」
手を上げて、大きな鞄を肩に引っ掛けて帰って行く慎ちゃんを見送る。
私と啓子の夢―――
当時は冗談交じりに言った事だったけど、年ころになり、これまでのりのへの献身さもみれば、啓子とさつきは本気でその夢を願い、グレンよりも慎ちゃんとの恋を応援したいと思う。
なのに・・・前途多難。
4時間目を終えた昼休み、食堂へ向かう東棟一階廊下は、各教室から出て来た生徒の列で渋滞になる。
中等部のシステムの、一種類の決められた給食スタイルではなく。高等部では自由に選んで組み合わせられるビュッフェスタイルになった。豊富なメニューに生徒たちは迷い、だから列の進みが遅い。いつもなら慎一たち特選クラスの教室は、この体育館下にある食堂に一番近い東棟の場所にあるから、階段を下りたら良いだけで渋滞もなく、すぐに食堂に入る事ができるのだけど、今日の火曜日4時間目の音楽の後ばかりは、中棟の端っこから駆け付けなければならず、渋滞に巻き込まれる。並びながら何を食べようかなと考えている時、進行方向に逆らって歩いてくる特選クラスの森山の姿を見つける。
「よぉ、森山、お疲れさん。」
「おぅ新田、藤木、お疲れ~。」その掛け声に見合う疲れ方をしている森山。手には分厚い科学の教科書と資料集やらファイルノートと筆記具を持っている。特選とは明かに違う冊数の多さ。
(そりゃ、マンションが振動するほど重くなるはずだよ。)と先日、りのが鞄を降ろした際に大きな音がした事を思い出す。
りのは、凱さんの記憶術が羨ましいと言ったことがある。あの記憶術があれば、重い教科書は持ち歩かなくていい。
「ははは、もう限界か?」藤木が森山の肩に手を置いて苦笑する。
「あぁ、甘かったかなとか思うよ、特進の課題、半端ないし、授業も難しい。」
特進は、国立大、医学薬学部大学を目指す学業優先のクラスだから、その内容と課題はとんでもなくハード。
森山は、高等部でも陸上部に入った。部活をこなしながらの特進の課題は、そりゃ大変だろうと想像する。それはりのも同じで、バスケ部との両立は大変そうで、おまけに特待の課題まである。
「4時間目、実験室だったんか?」
「4時間目だけじゃないぜ。3時間目も合わせた2時間合併。」森山が、首のこりをほぐすように回す。
「うわ、大変。」
「真辺さん、もうすぐ来ると思うよ。」と後ろを指さし、「じゃな。」と自分の教室へと戻っていく森山。
あの荷物の多さなら、そのまま食堂へとは行けない。特進クラスだけは、一年から三年までの6クラスを中棟に集約されている。
外からの騒音が一番少なく、どの特別教室及び教科教室に短距離で移動できるようにとの配慮だそうだ。
階段の前で降りてくる生徒に前を譲って、増々歩みは遅くなり、後ろにも列が長くなった。そして1-Aのクラスの生徒が続いてすれ違い、その都度、知っている顔と軽い声かけをしていく。藤木は慎一の知らない女子達に親しげに声かけていて、呆れる。
「抜かりないな・・・」聞こえない様につぶやいたのに、聞き逃さなかった藤木にジロリと睨まれた。
すれ違うA組の生徒がほぼ全員通り過ぎたと思われた最後に、りのは一人、廊下の端を、うつむき加減でトボトボと歩いてきた。やっぱり重そうな分厚い教科書や参考書などを両手に抱えて、慎一達がいることに気が付かない。
「りっのっちゃん。」
「真辺さんだ。」
藤木の無駄に明るい声と、後ろにいる誰かの声が重なった。
りのは顔を上げると、驚きの顔をして、踵を返して行ってしまう。
「逃げた・・・。」
「逃げられたぜ。お前。」またもや重なる言葉。
藤木と同時に振り返る。
「ん?おっ、お前、新田慎一!」
「えっ?あ、はっはい・・・新田慎一ですが。」
知らない誰かに、フルネームで呼ばれる。慎一は驚愕に助けを求めるように藤木へと顔を向けたが、顔を顰めそっぽを向けられた。
「新田慎一、話がある!ちょっとこいっ。」と名も知らない人に腕を掴まれる。
「えぇ~!昼ご飯食べてからにしません?」
「あぁ?」凄まれ方で、同級生じゃない事だけは分かった。
「いえ・・・。」
(せっかく半分まで進んだ列だったのに・・・。)
「お前は来なくていいぜ、新田慎一だけだ。」名も知らない先輩は、ついてこようとした藤木を制した。
「先輩方二人に対して新田一人って状況を、黙って見送るほど俺は薄情じゃありません。このまま新田だけを連れて行くってなら、俺は、サッカー部の先輩に助けを求めに走りますけど、いいですか?」
名前の知らない先輩たちは、顔を見合わせ、顰め面で舌打ちをした後、藤木の同行を認めた。
(ありがとう、またカレー作ってやるからな。)と慎一は心の中で藤木に恩に切る。
そして、慎一たちは西棟と中塔の間の中庭にまで連れられる事となった。歩きながら「知らないうちに、この先輩達に何か不愉快な事をしてしまったのだろうか?目つきが悪いとか、日本代表だなんて生意気だとか?言われるのだろうか?」と考えながら忍耐の覚悟をした。
「単刀直入に聞く!新田慎一!お前はリノの事をどう思ってんだ!」
「はい?」声が裏返る慎一。「え~と、」質問の意図が分からず、ヘルプ要請で藤木に顔を向けたら、藤木はすました表情で手を上げた。
「俺は口をはさみません。暴力沙汰に及ばないように見張り役に徹します。」
(お前がそれを言うか?この間、人を殴って謹慎食らったのに。カレーは撤回だ。作ってやらん!)
見知らぬ先輩は、藤木の宣誓に満足したように頷いてから一呼吸し、そして。
「俺は、昨日リノに告白した。」と宣言。
昨日、りのの機嫌が悪かった理由が判明し納得した。
「リノは、ずっと好きな人がいると。その好きな人とはお前、新田慎一だろ?なぜリノと付き合わない?」
(かなり勘違いな思い込みをしているこの先輩、誰だ?)
「あのー失礼ですけど、誰ですか?」
「お前もかっ。」
サッカー部以外の先輩なんて慎一は知らない。
「男子バスケ部2年の加納淳先輩。」藤木が溜息交じりに教えてくれるが、それでも慎一はこの先輩を知らない。
「あー初めまして。」
「ちっ、ふざけやがって。」
ふざけてなんかない。いきなりふざけた勘違いしてんのは、そっちだろうがって言葉はぐっと我慢した。
「お前は、リノの気持ちを知って何故付き合わない。幼馴染だから女として見られないとか言うんじゃないだろうな。」
「えーと、あのですね、先輩、凄い勘違いをされていると思うんですね。」
「はぁ?」威嚇に近い表情で慎一を睨む先輩。
「りのが好きな奴ってのは、俺じゃ・・・」
「あっ!」見張り役の藤木が叫ぶ視線の先にりのがいた。先輩たちも振り返る。
慎一達から逃げたりのは、教室に戻り教科書を置いて、おそらくこの加納先輩と食堂で顔を合わすのが嫌で、食事の時間をずらしたく時間つぶしに校舎をぐるりと回ってから行くつもりだったのだろう。しかし、慎一たちも移動してしまったから、またばったりと出会う事になってしまった。
りのは目を見開いてこの状況に驚き、また逃げるのかと思いきや、険しい顔でずんずんと慎一達の所に近づいてくる。
「ジュ、ジュン先輩っ!ど、どうして、し、慎一を!」
「リノがずっと好きなのに、新田お前は。」
「し、慎一は、か関係ない。」
「関係ないって、でも、リノは新田慎一の事がずっと好きなんだろ。」
「違いますって。」慎一の言葉は無視される。
「せ、先輩の、こ告白に、し、慎一は、か、関係ない、のに、どっどうして、ここここんなっ!」りのは怒りに、言葉が吃音Max。
「昨日、好きな人って新田慎一?て聞いたら、頷いたよね。」
そこで勘違いが起こった。りのは視線から逃れる為にうつむいただけだ。慎一を好きなわけがない。今すぐにでもフランスに飛んでいきたいほどにグレンが好きで好きでしょうがないのだから。
「う、う、頷いて、は、ない。」ほらね。
「加納先輩、りのの頷きは、加納先輩の視線から逃れたかっただけの、俯きですよ。それに、りのが好きなのは俺じゃないです。」
「へ?」
「りのが、ずっと好きな人ってのは?」
「や、やめてっ!わ、私は、むむむ無理って、い、言った。し、慎一を、こここ困らせたら、ゆ、許さない。」
りのは加納先輩を睨み、加納先輩は慎一を睨む。変な三角関係。
りのの限界が来たらしい。
英「ジュン先輩、残念過ぎます。ジュン先輩は絶対ハルの事が好きだと思っていたのに、その恋に私は邪魔しちゃいけないと、応援するつもりでいたのに、あーどうして、私なんかを好きになるんですか!私は日本がやっとフランスみたいに愛にあふれた国になると思ってうれしかったのに。残念すぎます!」早口でまくし立てるりのの英語に、慎一は少しもヒアリングできなかった。
加納先輩もりのの豹変ぶりに呆然とする。
「何て言ってる?」と藤木に通訳を頼むと
「早口すぎて俺も半分ぐらいしか、けど・・・・知らない方がいい。」と答える藤木。
英「慎一もだっ!私なんかに構うなっ!暇があったらヒアリングの勉強しろっサッカー選手になってゆくは世界に行くのだろう!英語できなくてどうすんだ。この馬鹿っ。」何だが、慎一も怒られている。最後の馬鹿だけは聞き取れた。
苦笑するしかできない慎一達、誰もりのの怒りを理解できない、そのもどかしさにりのは悔しそうに唇をかみ、踵を返した。走り去っていくその先で、凱さんが登場し、りのとぶつかりそうになった。
「喧嘩?どうしたの?」
りのの叫びが聞こえていたのだろう、心配げな顔を慎一達の方に向ける。
英「盗み聞きか!触るなっ!変態!」
「えーっ。ちょっと、そりゃないよぉ。」
「あちゃー」と天を仰ぐ藤木。
何故か凱さんには強気の対応をするりの。何を言ったのかはわからないけれど、状況からみて、悪態の言葉に違いない。りのは凱さんを突き飛ばし渡り廊下を横断して、向うの中庭へ駆け降りて行く、も、花壇のレンガに躓いて転倒。
「あ、あぁぁぁ。」その場にいた全員の落胆の声が重なる。そこへ柴崎が登場。
(何なんだ、この修羅場。)
「ちょっと、りの!何やってるのよ。」柴崎が慌ててりのに駆け寄るも、倒れたまま起き上がらないりの。「ちょっと、凱兄さん何突っ立ってんのよ!助けなさいよ!」
「いやだって、触るなって言われたし、変態まで・・・。」
「もぅ!どうして、こんなところで寝てるのよ!りの!」
寝てる?
「起きて!昨日徹夜で今日提出日の課題をやったからって、こんなところで寝たらだめでしょう。」
加納先輩は言葉を失い固まっている。
「加納先輩、英語で喧嘩ができて、無茶苦茶な行動に寛容な対処ができるなら、俺は加納先輩の気持ちを応援しますよ。」
「で、出直します。」
村西先生がアメリカ人の奥さまと離婚して日本に帰国後、この関東医科大学付属病院の本館の隣に建設された精神病棟。りのが去年の秋、5歳の意識に後退した時に入院した施設。本館の午前の外来診療が終われば、村西先生は、この精神病棟へ移動して、入院患者の診療やケアを行う。
さつきは、りのが入院した時にお世話になった年上の看護師、野田さんをつかまえて、村西先生が今、診療中かどうかを聞く。
「今、大丈夫よ、休憩中。コーヒー持って、部屋に入って行ったところだから。」
「ありがとう。」
その休憩中を狙って訪れたのだが、休憩中だからこそ、お邪魔するのは申し訳ないなぁとも思う。
副院長及び精神科医局長ともなれば、その肩書きに見合い、想像以上の忙しさがある。村西先生は、「副院長と言っても、その役割は殆どしていないよぉ。」と口癖のように言うが。
確かに、この病院での副院長の存在や権限は薄い。実際に院長の次に権限を持つのは各医局長で構成される局長幹部会で、その幹部長代表の、脳神経外科の医局長である箱崎先生が村西先生よりも年上で実権もある。そもそも精神科の位置づけは、国内どこでも弱く、外科、脳神経外科、内科が、やはり花形の力と権限を持つ。救命救急も医療の先端を担う局ではあるけれど、その特殊性と、国や市からの援助と推進を受けての組織局であることから、救命は院内でも特殊な位置づけとなっている。
『院長の馬鹿息子が道楽の果てに作ったと、周りから何を言われようとも、ここに精神科病棟と診療施設を作れた事が、私の夢であり、立ち遅れている日本の精神医学の牽引となれたらうれしい。』と村西先生が言った言葉がずっと印象に残っている。
「りのちゃん、元気?どう?調子は。」
「今ね。反抗期。月に一回は村西先生に診てもらいなさいって言ってるのに、行かないって、全く言う事、聞かないのよ。」
「あははは、そりゃ、良かったじゃないのよ。反抗できるまでに回復したって事じゃない。」
「言葉も悪くてね~、あんなに日本語、話せないって困っていたのに。悪い言葉ばかり口から出て来るんだから。」
「そんなもんよ。うちの馬鹿息子だってね。出る言葉っていったら、うっせーばばぁ、しか言わなかったわよ。思春期の頃は。」
「野田さんの所は、男の子じゃない、りのは女の子よ。」
「りのちゃんは、かわいいし、優等生なんだから、少々の口の悪さぐらい大目に見てあげなさいよ。常翔の特待生でしょ、中々なれるもんじゃないし、ストレスもあるわよ。」
「うーん、でもねぇ~。」
看護師センターの内線が鳴る。
「あっ、ごめんね、長々と。」野田さんは、手を振りつつ、病室からの内線を取りに向った。さつきも手をふりつつ村西先生がいる局長室へと向かう。
去年の秋、何度ここで先行きの不安の絶望の結果を聞いただろうか。あの5歳児だった状態からみれば、今のりのは本当に何の不安もない、完治と宣言していい回復。野田さんの言う通り、言葉の悪さは遅い反抗期のものと、喜ぶべきなんだと思えばいいのかもしれないけれど、やはり母としては、女の子なのに、もっと、柴崎さんのように上品に出来ないのかしら、と欲が出てしまう。
局長室と書かれたプレートが貼られた、白いドアの前で軽く深呼吸し、ドアをノックする。
「はい、どうぞ。」いつもの明るい声の返事。
ドアを開けると、健康よく日焼けした村西先生が、身体を半分こちらに向けながら顔を上げる。
村西先生は、その肩書きの重さとは反した軽いフットワークで、私達、看護師仲間の中でも人気のある先生。離婚されて独身の村西先生を誰がゲットするかと言う話が、若い看護師の中で冗談まじりに上がるぐらい。そんな話が、冗談止まりで本気に発展しないのは、副院長という肩書のせい。この巨大な大学病院の次期院長の妻ともなれば、その大変さは院内に居る人間だからこそ知り得る。いくらその地位、名声、財産が結婚と同時に手に入ろうとも、好んで心労の道に嫁ぐ気になりたいとは思わないのが女の本音。だから、村西先生とは気さくに食事を連れて行ってもらうのはオッケーでも、結婚を前提におつきあいしたいとは思わないのが、女のしたたかさだ。そんな女のしたたかさも心得ている村西先生は、看護師たちの揶揄も難なく流して、看護師達を不愉快にさせない。さつきは流石だと尊敬していた。
「失礼します。すみません、貴重な休憩中に、お邪魔してしまい。」
「何を言ってるんですか、ささ、どうぞ、座って。」デスクから立ち上がった村西先生は、満面の笑みで、応接セットの方に勧めてくれる。
「今、ちょうどコーヒーを入れて来た所でね、真辺さんもコーヒーをいかがです?頼みましょうか?」
「いえ、お構いなく、先生こそ、私にお気づかいなく、どうぞ、コーヒーを飲みながらで。」
「嬉しいですねぇ、真辺さんに、気づかい頂けると。」
思わずつられてしまう屈託のないこの笑顔。りのの症状に心配がなくなった頃から、村西先生は、さつきにこの笑顔を向けて、何かと声を掛けてくださるようになった。いや、村西先生は、この笑顔をずっと変わらず向けてくれていたのかもしれない、さつきが気づく余裕がなかっただけなのかもしれない。
「先生、新田慎一君が木曜日の3時に整形外科の予約を入れていまして、そのあとに、先生の所にも寄って、面談してくれると言ってくれていまして。」
「整形外科?怪我でもしたの?」
「いえ、怪我と言うほどでもなくて、部活動の練習中に滑って、右足をひねったらしいんです。普段はどうもないけど、走って踏み込むと痛みがあるからと、スポーツ外科の園田先生に見てもらうって事になって。」
「そうかぁ・・・そうだね、プロを目指すなら、少しの痛みも見逃したら駄目だね。うんうん、それは良い事だ。」村西先生は笑顔を崩すことなくコーヒーを飲む。
村西先生は、長くアメリカに住んでいたから、バスケとフットボールの方が好きだと、サッカーには興味がなかった。けれど、慎ちゃんが出場した去年の全国大会の決勝戦では、医局長会議をサボって、ロビーで看護師仲間と一緒に応援してくれていて、優勝をすると誰よりも飛び跳ねて喜んでいた。しかし医院長に会議のさぼりが見つかり、怒られ、さつき達看護師仲間は大笑いしたのだった。
「じゃ、慎一君は、整形外科の診察が終わった後に、ここに寄ってくれるんだね。何時ごろになるかなぁ?」
「おそらくレントゲン、場合によってはCTも撮るかもしれませんから・・・一時間ぐらいはかかるかもしれません。」
「うーん。木曜日、木曜日はっと・・・」村西先生はソファから立ち上がり、デスクの方に戻って、予定表をめくる。
「あー、4時なら調度いいよ。4時から半まで、ちょうどぽっかり開いてるね。」
「先生の休憩時間じゃ、ないのですか?」
「忙しい新田君が来てくれるんだ。休憩時間なんて無くてもいいよ。」
「でも、それじゃ、先生のお体が。」
「本当は、りのちゃんに来てもらいたいんだけどねぇ。」
「すみません。」
「新田君の観察も的確だから、真辺さんのお話と合わせて、完治の診断が出せるといいのだけど。」
「本当に、申し訳ありません。お世話になっておきながら、りの、ちゃんとお礼も言わずに。」
「りのちゃんは、最初から最後まで、精神科は嫌がっていたからね。まぁ、日本はまだ精神科の敷居は高いし、精神科に通っているってだけで、白い目で見られるから。りのちゃんが嫌がるのも無理ないね。そう言うのも無くしたいから、あえて私は精神科を大きく掲げて、ここに作ったんだけど・・・。」
「日本は、まだまだ、ですね。」
村西先生が日本ではじめて、救命救急の診療科目に精神ケア治療を付随した。
救急で運ばれて来た患者は、処置が終わった後に、すかさず患者の精神状態をも診察して、外科、内科、精神科の3人の担当医師がつく事になる。初期の段階から、精神科のフォローが並行して行われるのと、しないのでは治癒速度がかなり違う。そのシステムをアメリカから持ち帰り、この病院で構築し日本独自のシステムモデル化したのが村西先生。今では全国からそのシステム医療を見学にくる医療関係者もめ多い。
「そう、アメリカの最新の医療のシステムを、真辺さんに学んでもらって、ぜひとも、ここの救命看護の改善と看護師負担の改善をお願いしたいんだけど。りのちゃんや、新田家は、10日間アメリカに行く事を承諾してくれましたか?」デスクから戻って来た村西先生は、もう一度ソファーに座ると、コーヒーを手にする。
「それが・・・・りのは・・・。」
「駄目って?」
「ママだけ、ずるいと。私も行きたいと。」
「あはははは。」終始、笑顔の村西先生が、増々目を細めて、お腹を抱えて笑う。
「そうか。そうだねぇ。一緒に行けたら良かったんだけどね。」
「何もない日なら、学園に言えば何とか休めるかもしれませんけど。この研修のある時期は、期末テストがある日です。りのは、ずらして貰うように頼むとか言ってましたけど、りのだけ特別になんて出来ません。特待生って、りの一人だけではなくなりましたし、また特別扱いされているって嫌味を言われるわよって言ったら、りの、不貞腐れて、だから日本は嫌いなんだって・・・ママだけ狡いって、怒って。」
「あははは、りのちゃん可愛いね。」
「可愛くありませんよ。もう、最近、我儘というか、言葉も悪いし、聞きい分け悪いし。」
微笑む村西先生が、私の顔をずっと見つめてくる。自分が愚痴っぽくなっているのに気づいて、恥ずかしくなった。
「あっ、すみません。私ったら。」
「いいえ、そんな風に言えるようになった真辺さんの精神も良くなって、よかったと心から思います。」
「もう・・・親子共々、本当にお世話になりました。先生にはお礼の言葉が追いつかないぐらい感謝しています。」
「・・・・・私は、りのちゃんが、精神科に来てくれた事を感謝しています。」いつもハキハキ話す村西先生が、珍しく聞き取れないような声でつぶやいた。聞こえなかったから、聞き返す意味で「えっ?」と顔を上げると、少し慌てたように顔をそらされる。
「では、サンフランシスコ行きは、りのちゃんの承諾を得られたと思っていいですね。新田家も?」
「あっ、はい。新田家も、りのの面倒を見るのは、いつもの事だから、軽く了解してくれています。」
「良かった、真辺さんと一緒にサンフランシスコに行けますね。楽しみです。」
屈託のない笑みが、照れ気味に変化した表情にドキッとした。
死んだあの人が、私をはじめて食事に誘ってくれた時の、少しはにかんで照れた笑顔と似ていた。
パソコン入力をしていた手を止めた。頭の中で広げた古い書物の文字が、達筆過ぎてわからない。
約20年前、記憶力君ともてはやされた能力は、バラエティ番組で世間を驚かせるぐらいの価値しかないのだと改めて痛感する。
頭の中で、二枚の書面を同時に並べて表示する事は出来ない。だから結局、誰もが訳するのと同じで、わからない文字は文香さんから借りた旧字体一覧や書物を調べてから訳さなければならない。文香さんもそうだが皆、この能力を勘違いしている。パソコンが頭の中にあるみたいに、何でも瞬時にできると思い込んでいる。
手を止めたついでに肩の凝りをほぐす。中等部の生徒が前を横切り、もう下校時間になったかと時計を見る。午後3時12分。中高共に今、中間テスト前のクラブ活動禁止期間に入っていて、図書館は一般客とテスト勉強をする生徒が混在し始めていた。
「あー参ったな・・・」
どうしても、この一文字が何なのかわからない。難しく画数の多い漢字よりも、ひらがなや画数の少ない漢字の方が判別がつきにくい。書いた人の癖もあり、旧字体に見慣れていないと違う文字に見えてくる。長い時間かけて記憶の書物と見比べ、悩んでいた文字が、文香さんに聞くとごく簡単な字であったりとかする。
福岡から帰ってきて即、取りかかった祖歴書の書き起こし作業は、丸一日経っても、まだ10ページぐらいしか進んでいない。
凱斗は大きなため息を吐く。マジでこんな事してる暇はない。もうすぐ華族の成儀があって、敏夫理事の手伝いをしなくてはならないし、大学の卒論だって何一つ進んでいない。本当に、この藤木家の祖歴の解読をどうにか法律に繋げて提出しようかなんて考える。
凱斗は別の書物を探しに行くために立ち上がる。幸いなのは、常翔学園の図書館は市が運営する図書館よりも蔵書数が多く、常翔学園の前身となった翔學館より秘蔵収集してきた古書が沢山ある。翔學館を開設した柴崎善次郎氏は、書物が人の英知を開くと、江戸大火災の時も身の危険を顧みず書物を守ったと聞く。この書物達こそが、常翔学園の基盤を作ったと言っても過言ではない。
しかし、ここにある参考になりそうなものは、昨日で閲覧を終えていた。棚を眺めても、参考になりそうなものはない。もう一度、進みが止まった藤木家の祖歴書を頭に呼び起こす。文の流れからして、どこかの地名を記している事は間違いない。だからこそ間違う事は許されない。間違った町名を起こせば後に混乱する。これを元に藤木家の先祖のルーツを調べなければなないのだ。
町名というキーワードから、地図から当たりをつける事を思いつく。しかし凱斗が、地図の記憶覚えが瞬時にはいかない。瞬時に覚えられるのは活字のみで、地図の記憶は、乱雑に散らばった文字だけの何かわからない紙面が残るだけだった。そんな役に立たない紙面が凱斗の頭の中には沢山あった。
藤木家が江戸時代に商いをしていたのは福岡周辺と出島のあった長崎、そして一部大阪と京都に及んでいた事は、藤木猛氏から聞いていた。
(福岡や長崎の地図なんて、この図書館にあるだろうか?それも古地図。)
地図が保管されている書棚へと回り込んだ。外から、高等部の授業終了のチャイムが聞こえてくる。中等部と高等部ではチャイムの音程、音階を変えていて、どちらのチャイムかは、常翔学園に通う生徒、職員なら聞き分けることが出来る。
地図の並ぶ書棚で古地図を見つける。流石は自慢の図書館、全国の地図が揃っている。しかし目当ての古地図は、貸出禁止になっていた。手に取り、テーブルに戻ると、えりちゃんと黒川君が凱斗を見つけて、弾むように向かってくる。
「凱さんっ。」
「やぁ、久しぶり、えりちゃん。黒川君。」
黒川君は照れたように頭を下げたのは、久しぶりではなくこの間の日曜日に会っていたからだ。黒川君には、学園のサイバーセキュリティのメンテナンスをお願いしている。月に一度、米軍採用の高性能パソコンPBA2800SC でVIDブレインの能力を使ってもらっている。その事は警視庁警視監である黒川君のお父さんも了解を得て、協力してもらっていることである。当然ながらそれらの事はトップシークレッであって、校長、理事長も知らない。自分と文香さん、黒川君だけの秘密で、こんな場面では、久しぶりに会う高等部の理事長補佐と生徒という演技をしなければならない。
「何やってるんですか?」当然ながらの質問をするえりちゃん。
「うーんとね、一応、仕事。」
「一応って・・・どっか行くんですか?大きな地図なんか持って。」
「あーいやね、もう行ってきてね。まとめなくちゃなんないんだよ。」
「はぁ?」首を傾げる二人。
「そんな大きな地図を広げなくったって、ネットでいくらでも調べられるじゃないですかぁ。」と少々呆れ気味に意見する黒川君。
「おぉぉ、その手があったか!と言いたいところだけど、調べたい物は現代地図じゃなくて、グルットアースにも載ってなくて・・・そもそも調べるものは地図じゃなくて文字でさ。」
「地図で文字?・・・凱さん大丈夫?」怪訝に満ちた憐みの顔を向けられる。
(あぁ~ここに調べのエキスパートがいるってのに~。)、VIDブレインを借りられないジレンマに凱斗は悶える。
黒川君に頼めば、ネット上にアップされている莫大な情報から家族に繋がるヒントを掴めるかもしれない。しかしながら華族の事は知られてはいけない上に、内閣総理大臣を輩出した藤木家のプライバシーにも関わる。
「あぁ。大丈夫じゃない。もう余計な仕事ばかり舞い込んで、卒論が全く出来ない。僕はねぇ、まだ大学生なんだよぉ、わかる?」
15も年の離れた生徒に愚痴を言ってしまう凱斗。
「大変そうですねぇ~」全然、心にこもっていない軽ーい口調のえりちゃん。
「二人はテスト勉強かい?」
「そう。凱さんって中等部の3年間、全て500満点だったんでしょう。いいよねぇ、凱さんの能力、えりも欲しいなぁ。」
フロアに声が響いて、周囲にいた一般客が振り向く。
「しっ、えりちゃん、声が大きいよ。」
「でも、当たり前だよね、頭に全て教科書とノートの記憶があるんだもん。」
「だからね、えりちゃん、そういう事はね、大きな声で言わないでね。」
黒川君が声を殺して笑う。
「凱兄さんっ」こちらもよく響き渡る声の主は、その姿を見ずしてもわかる、いとこであるが兄妹同然の麗香。
「あら、えり、黒川君も揃って。」
「おう、麗香もテスト勉強か?」
「ううん。私はサッカーのスコア書きで、判断に難しい所があって、ルールブックも含めて何かいい本がないかなって。」
「ほぉ、勉強以外は熱心だな。」
「先輩余裕~」と言うえりちゃんに、麗香はキッと睨んでから地図を指さす。
「何?その大きな地図。」
「あーこれはね・・・」
「あったか?あっ凱さん、こんちわーす。」と藤木君も登場。
(まずいっ。)今、読み取られて、藤木家の事を調べているのを知られるのはダメだ。これらの事は極秘なのだから。
「あー、えーとね、卒論、卒論の資料集めなんだ。」
「はぁ?さっき、余計な仕事が入って卒論が全くできないって、文句言ってたじゃないですか?」とえりちゃんの鋭い突っ込み。
「そう!だから、暇な時間を見つけて、こうしてね、やってるわけなんだよ。」
藤木君が目を細めて皆の顔を見ていく。それは文香さんもよくやる、読み取るときの癖。
「あーごめんね、皆、そろそろ行かなくちゃ、忙しんだよ。会議、職員会議があるから、じゃっ」嘘だと、藤木君にバレるだろうけれど、藤木家を調べているとバレなければいい。
広げていたパソコンを閉じ、地図と一緒に手に持つ。藤木君の視線から逃れるように、図書館のゲートへと駆けた。
「ちょっと、その本は貸出禁止本ですよ!」学生の頃からずっと図書館司書として働いている古谷さんに叫ばれる。
「ごめん、学園外には持ち出さないから、明日には返すから~。」
「ちょっと、理事補!困ります!」
「図書館は、お静かにだよ~。」古谷さんの怒った顔を尻目に図書館のゲートをくぐった。
「何なのよ。凱兄さん。」
「いい加減~」
生徒達の非難を背中に浴びて、外に出る。
(あぁ、読み取られただろうか?全く、困るよ、あの能力には。)
乱雑に持っていた手から地図が滑り落ちそうになる。膝をあてて持ち直した。
ふぅ~と息を吐き、高等部の校舎へと向かう。中央棟の角を曲がろうとしたところで、穏やかじゃない会話が聞こえてきた。
「お前、あの岡本悠希だよな、同級生だった、どうしてここに入れたよ。」
「な、何を言ってるんですか?私が同級生ってどういう事ですか・・・」
岡本悠希さんの声は、最後は聞き取れないぐらいに、消え入った。
「ごまかしたって、ダメだ。知ってるよ。お前があの岡本悠希だって。」
壁に背をつけて気配を消し、校舎角からそっと様子を窺う。だが二人の男子生徒は背を向けていて誰かはわからなかった。岡本さんは俯いている。
「どうして、素性に厳しい常翔に入ってこれたよ。だまして入ったのか?」
(まずいな。)
「おや?どうした?」わざと足音を鳴らす歩き方して、生徒たちへの方へと歩く。さも、偶然に居合わせた演技をしながら。男子生徒達はびっくりして振り返る。一人は岡本悠希さんと同じ中学だった寺内直人、もう一人はわからなかった。
「恋のいざこざ?青春だね~。」
「そんなんじゃ!」男子生徒達は、動揺した顔を見合わせる。「いえ・・・少し聞きたいことが、あっただけで・・・。」
「もう、済みました。―――行こうぜ。」逃げるように立ち去って行く男子生徒達。
「ありゃ、邪魔しちゃったかなぁ?」わざと聞こえる大きさでつぶやく。
岡本さんはうつむいたまま、左手で右の腕をギュッと掴んだ。
「岡本悠希さん、何か困ってない?」岡本さんも動揺した顔をあげる。でもすぐに俯いて、
「いえ、何も・・・失礼します。」絞り出すようにそう言うと、男子生徒とは反対の方角へと駆けていった。
(さて、どうしたものか・・・)
サッカー部の2年生が、岡本さんの素性に気が付いた。予想はしていた事だけど、こんなに過剰に反応するとは予想外だった。これが昔から蔓延る常翔学園ならではのブランド思考によるものかと、凱斗は溜息を吐く。3人の男子生徒の言いがかりは、世間一般では非常識な責めるべきものでるけれど、常翔学園では、それはあって当然の常識ともいえる。ここは選ばれた生徒だけが通う事の出来る優越の学園であるから。
「文香さんに報告しなくちゃな。」
(ちょうどいい、授業時間も終わったし、早めに退校させてもらって、柴崎邸に行くか。)
とそこで尻のポケットに入っていた携帯がバイブ振動で着信を伝える。荷物を落とさない様に片手だけに持ちかえて、誰からのコールかも見ずに電話に出る。
「はい。」
「凱斗!どこをほっつき歩いている!5時からの職員会議の資料は。」敏夫理事の豪快な声が耳を貫いた。
職員会議?それは適当に嘘ついたーーー記憶の予定表を頭に表示して青ざめる。
本当にあった職員会議を、完全に忘れていた。しかも、敏夫理事長に頼まれていた会議の資料は、まだプリントアウトしていない。変更があるかもしれないから、ギリギリまでプリンとアウトしないでくれと言われていた。
「あ、あの理事長がギリギリまでプリントアウトしないでくれと・・・」
「まだ出来てないのか?あと15分しかないないだろ!何やってる!」
敏夫理事長は、信夫理事長と違って、何もかもが豪快に声も大きい。携帯を離さないと耳が痛い。
「すぐ戻ります!すぐに印刷します!」
「ったく・・・何やってんだっ。」
敏夫理事長のお言葉、そのままそっくり返したい。
(皆、勘違いしすぎ、スーパーマンでも魔法使いでもないんだから、やる仕事は全て一般レベルで時間がかかるんだってば!)
心の叫びをエンジンに、手荷物いっぱいのまま校舎内へ駈け戻る。
手に着いた石鹸を洗い流す。冷たい水が泡と共に汚れを流していく。
でも、まだ汚い。
もう一度、アルボース石鹸を手にたっぷりとつけて手をこすり合わせる。
すぐに手は泡でいっぱいになる。
その白さと、その泡の柔らかさに心が落ち着く。
出しっぱなしにしている水道の水に手の泡を流す。
まだ汚い。
大丈夫。
洗えば綺麗になる。
もう一度。
「鵞足炎だね。」
(なんだ?その怪獣みたいな名前は?)
聞いたこともない名前だからこそ、それって悪い症状か?と不安が生じる。
「オスグットシュラッター病かなとも思ったけど、君は、もうぐっと身長は伸びきった後だからね。それは無いね。レントゲン、MR、見たけど。骨に異常は見られない、綺麗だよ。」
デスクの前のパソコン画面に、レントゲン撮影された慎一の骨や、MRIで撮影された輪切りにされた断面図が表示されている。
スポーツ外科を専門とする医師、園田先生はマウスを手に画像を何度も切り替えて、痛みのない右足の画像写真と比べて異常個所が無いか隈なく見ている。そして、おもむろに椅子ごと慎一の方に向くと、慎一の膝をもう一度膝見せてと、制服のズボンをたくし上げた。先生は、膝の少し上から順に掴み、筋肉の位置を確認していく。
「ここだろ。」の指摘の通り、先生が押さえた皿の側面に痛みが生じた。
「うっ!」
「あー、ごめんね。ここらへんには、筋肉に繋がる腱が集中しててね、このあたり腱一帯を鵞足と言うんだよ。サッカーで捻ったって言ってたよね。軸足だろ?」
「はい。」
「サッカーのような急な方向転換とかストップを繰り返す運動によって、鵞足が骨とか腱にこすれて炎症起こすんだよ。」
「はぁ~。」
「左足だけかな?」
右の足のスボンも託上げ確認していく。右の膝を抑えられても痛みは生じない。
「右は大丈夫そうだけど、油断してると右もなるからね。左を下手に庇ったりすると余計な怪我や炎症に繋がるよ。」
「じゃぁ、これからどうすれば・・・。」
「うん、絶対安静とまでは言わないけど、しばらく無理な運動は控えて・・・と言いたいけど。それも無理なんだろ、常翔学園サッカー部、フォワードのエース、新田君は。」
「え?」
今日初めて会った先生だ。常翔学園の生徒であると言う事は制服で判断されて致しかないとしても、ポジションなどは言ってない。だから何故、知ってるんだ?と不審に驚く。
「君は、ここでは有名だよ。去年の全国大会は病院中で応援していたし、村西副院長が昨日、しっかり見てやってくれと直々にお願いしに来たから。」とにっこり笑う。
「えぇ~。」
「そうそう、村西副院長、『我々医科大学病院は、世界のスーパースターになる新田慎一君を医学的にバックアップする!』なんて言ってねぇ。」と看護師さんも、たくし上げていたスボンを元に戻してくれながら笑った。
(りのじゃないけど、あの顔黒、何を大げさにしてくれちゃってんだ。)
「今からサイン貰っておこうかしら?」
「サインなんて作ってません。それに、プロになれるか、どうかもわかんないのに、世界なんて・・・。」ぶっきらぼうに言ってしまってから、慎一はわずかに後悔して、うつむく。
「とりあえず、今以上に練習量は増やさない様に、練習する時は膝にテーピングでも巻いて固定して、練習前のウォームアップと後のクールダウンは念入りにね。鵞足だけじゃなく、他の場所もだけど、普段から筋肉の柔軟性を上げておくと怪我をしにくくなるから。痛み止めを処方しておくけど、常用すると膝に負担がかかっている事が分からなくて、悪化する可能性があるから、試合の時とか、いざと言う時だけにしておいた方がいいね。」
「はい。」
「あと~、これは診断じゃないんだけどね、一つアドバイス。一度、走り方のフォームを専門の人に見てもらったらどうかな?」
「走り方?」
「うん、サッカーはその運動量と走り込みの割には、走る姿のフォームまではチェックしないだろ。」
言われてみればそうだ。コーチから貰えるアドバイスは、フォーメーションや戦略が主で、注意された記憶がない。ドリブルやキックなどの姿勢は少年サッカー入部当初ぐらいに教えられたぐらいである。
(走り方のフォームのチェック、重要かもしれない。)
陸上部の森山は綺麗な走り方をしている。以前は森山を抜いて学年で一番足が速かった慎一だったが、それも中等部2年ぐらいまでで、陸上部の短距離走者として練習し続けている森山に、今は勝つことができない。
「僕はここの専従医師じゃなくて、東京や埼玉の病院も回っていてね、プロのスポーツ選手も診たりするんだよ。誰とは言えないけど、プロの選手は、特有の慢性の症状が出て嘆く、そして決まって、もっと早い内に、フォームのチェックをして治しておけば良かったって言うんだよ。癖が身体の負担になる事が多いから。」
慎一は頷く。
「僕は医者なんでね。スポーツの練習の在り方までアドバイスをする立場ではないし、普通の診察でもこんな話しはしないんだけど、副院長のお達しもあるし、僕も君を応援したいからね。」柔道かラクビーでもやっていそうな、がっしりした体型の先生が、細い目を増々細くして微笑む。
「専門の人にチェックしてもらうって、どこに行けば・・・」
「あぁ、そんな大層に考えなくて良いよ。陸上部のコーチとか、昔、陸上やってた人とかに走り方を見てもらって、どこか体がゆがんでいる所がないか見てもらう、それで練習の時は指摘された場所を意識して走るぐらいがいいとおもうよ。あまりそっちにばかり意識し過ぎるとボールを追えなくなるだろ、それじゃ本末転倒だからね。癖がなければそれで申し分ないし、意識的に正しい走り方にしておく分には損は無いと思うよ。体にかかる負担の蓄積量が将来に向けて違ってくるはずだから。」
なるほどと納得。
Jリーグで活躍する選手で、急に姿を見なくなったと思ったら、怪我で戦力外になっていて、そのままもう復帰できなくて引退なんて話はざらにある。技術向上よりも難しいのが、怪我や慢性疲労で損傷した身体の回復。
『プロを目指すなら、身体の異変を見逃すな。』と言った藤木の言葉が、改めて重要性を増し慎一の胸に突き刺さった。
自分の体の事、サッカーをしていればどこに負担がかかるとか、どうやって体を保護していけばいいかとか、ちゃんと考えなくちゃいけない。
「ありがとうございました。」
膝のテーピングの巻き方を教えてもらい、診察室を出る。とりあえず重症な症状ではなくてほっとするも、すぐに肩を落としたため息を吐いた。慎一は昨日の放課後からずっと、重苦しい思いを抱えていた。顧問の溝端先生から、スタメンから外すと宣告されたのである。現状の自分を鑑みれば、スタメンを外されるのは仕方なく、中等部から何度となく経験している事なので、ある意味慣れっこだ。スタメンの件は、慎一の気持ちの持ちようですぐに取り戻せる。それよりも、もう一つ、溝端先生から宣告された事が、どうにも納得がいかなくて慎一は沈んでいた。
『フォワードからディフェンダーにポジションを変えて、しばらくやってみろ。』
ポジション替えは、スタメンを外される事よりショックだった。
今まで、FWでずっとやって来た。『どうして』と溝端先生に詰め寄ったが、
『一度、皆の背中を見て、フィールドを走ってみるのもいいもんだぞ。』と溝端先生は失笑するように言った。どこが悪くて何がダメかは一切なく、いつまで、何ができるまでといった先の展望がまったくないポジョン変更の宣告だった。
慎一はすぐに藤木に話して相談した。だけど『何でもかんでも俺に聞くな。』と突っぱねられる。溝端先生が慎一をスタメンから外す決意を、読み取って知っていた藤木が、その理由をも知っているはずなのに話してくれないのは、慎一に有意義な理由じゃない何かがあると慎一は増々訝しんだ。
慎一は、入部当初から溝端先生の自身への対応が他の生徒とは違って、冷たいと感じていた。監督、コーチが一新され、慣れないだけ、気のせいだと思おうとしていたのが、ポジション変更の宣告での失笑、藤木が理由を言わない事実で、それが単なる「馬が合わない」だけではない何かがあるのだと、慎一は確信した。個人的に慎一の事が気に食わないのか、日本代表で世界選手権大会の成績が思わしくなかったのが、サッカー強豪校の監督としての立場を悪くしてしまったのか。
しかし、教育的立場にある人が、個人的感情で生徒内で対応を変えるだろうか?という疑問もあり、慎一の考えすぎだとも思う。
何にしろ、ポジションを元に戻してもらうには、溝端先生の感情を払拭できるような良いプレイをすればいいだけの事だ。しかし、その、だけの事が難しい。しかも、医師から無理しないようにと言われた、一番無理したいときにできないジレンマに慎一は大きくため息を吐き、頭を描きむしった。会計窓口で慎一の番号を呼ばれ、済ませ出口に向かう。
予約診療の時間帯なので会計はすぐに済み、病院本館を出た。ロビーを出て思い出す。
(あっ、しまった。村西先生の所に行かなくちゃいけないんだった。)
踵を返して、閉まりかけた自動扉に肩をぶつけ、また病院内に入った。
「あれ?新田は?」遅れて図書館に来た今野が、いつものメンバーの中に新田がいない事に気づき聞いてくる。
「病院。痛めた左膝、ホームルーム早退。」
「あぁ、そう。っていうか何だよ!その面倒そうな説明は!」
この説明は、麗香と佐々木さんに次いで3度目。面倒そうじゃなくて、本当に面倒だった。
「ちょっと、ハル、静かにしなさいよ。」と佐々木さん。
「はい」佐々木さんの言う事なら、素直に聞く今野。別れてからの方が佐々木さんに頭が上がらないって、それはまるで長年連れ添った夫婦のようだ。佐々木さんもその関係を楽しんでいる気持ちがあって、その辺が女特有のしたたかさだなと亮は思う。佐々木さんは今野が別の女の子に気持ちが移らないのをわかっている。
「あーリノ、教えてほしい所あるんだ、数学。」今野は亮の前に座りガサゴソと鞄から勉強道具を取り出す。
「もう、今野テーブル動かさないでよ!」集中力をかき乱された麗香が怒る。
「わりぃ、えーとここ、これなんだけどな。」
「拒否する!」とりのちゃん。
「へ?」
「ぷっくくくく、」麗香と佐々木さんが声を殺して笑う。
「え?な、なに?どうして、リノ?」と戸惑う今野。
「あんたね、りのに嫌われたわよ。」
「どうして!」
「ジュン先輩の事よ。知っていたのに、ジュン先輩の告白を止めなかったでしょ。」
「止めたよ!俺、無理だって言ったんだってば。」
今野は亮に相談しようとしていた。だけどその相談が間に合わず加納先輩の行動が早かった。
「甘いのよ。詰めが。」
「んだよっ、俺はちゃんと言ったぞ、リノは日本語が苦手だから慣れない人とはしゃべれないし、ずっと好きな人がいるから、告白しても無理だと思いますよって。」
「それが甘いのよ。」
「どこがだよ。」
ヒートアップして声が大きくなった麗香と今野の言い争いを沈めるために亮は顔をあげた。
「柴崎も昔、河村先輩の告白を止められなかったじゃねーか。」
「あ、あれは・・・ダンスパーティがあったからよ、私は3か月間、説得して止めてたわよ。」
「期間の問題かよ!」
「うるさい!」りのちゃんが怒る。
「って、リノ、テスト勉強してないじゃん。」と今野の突っ込みどおり、りのちゃんは皆が勉強している中で一人、物語の本を読んでいた。
「流石はリノ、余裕ね。」
「猶予はない。」
「はぁ?」
「これは本当の話。」そんな皆との会話の中でも読むのを止めずに顔を上げないりのちゃん。
「また、本の世界に入り込んで、何を読んでるの?」と佐々木さん。
「凱さんだ!」りのちゃんは、急に本をパタンと閉じて立ち上がった。
「解散?」
「りの、そこまで怒らなくったって・・・」
「そうだよ。読書に集中出来ないからって、解散宣言することないだろ。」
「絶対に凱さんだ。」
「りの!」
「真実を聞く。ミッション開始!」りのちゃんは警察官のように敬礼をして、本をもったまま駆け出していく。
「ちょっと、どこ行くのよ。」という麗香の言葉はりのちゃんに届かず、図書館から出て行く。
テーブルに置いてあるもう一つの本を亮は手に取る。「荒野の果て 下」と言う題名の本の裏のあらすじに目を通す。
「どうやら、今は、戦争もののハードボイルドにはまっているようだな。」
「えー、没収よ没収!」麗香は亮の手から本を取り上げる。
「りのちゃん、また怒るぞ。」
「だいたい勉強もしないで、特進のテストはとんでもなく難しいのよ。りの自身も、もうフィンランドから送ってもらっていた予習は追いついて役に立たなくなったって言ってるのに。」
「まぁ、大丈夫なんじゃないの?りのちゃん、いつもお尻に火がついてからじゃないとエンジンかからないタイプだから。」
「うーん、まぁ、そうだったけど。」
「それに、さっきのは解散じゃなくて、凱さんの事だよ。」
「凱兄さん?」
「ミッション開始って、何かしら?」
「さぁ~。」
全員が首を傾げ、悩んでも仕方ないと、すぐにテスト勉強に戻る。
診察が思いのほかスムーズに終わり、約束の時間より早めだったけれど、とりあえず精神科病棟に向かう。待たされるかもしれないが仕方ない、テスト前でもあるし教科書でも開いて待っていればすぐだろう。
大学病院の隣に精神科の別館が建てられている。一旦外に出なければならないが、屋根付きの通路で繋がっている。
病院本館は案内表示などは要所に水色のカラーで彩りされているが、精神科病棟はピンク色だ。看護師さんも薄いピンク色のナース着だ。看護師センターの窓口を覗くと、ちょうどりのの担当看護師だった野田さんが、ニコニコで歩んでくる。
「久しぶり、足のケガはどうだった?」
さつきおばさんが慎一の状態を話していたのだろう。
「まぁ、特に心配することもなくて。練習のセーブをしろって。」
「そう、良かったね。ちょっと、そこの待合で待っててくれる?先生今、別の患者さんの診察中だから。」
「あっはい。」
大きな身体を揺さぶり窓口から出て来た野田さんは、慎一を待合の椅子に誘導がてら、カップ式の自販機の前に立つ。
「何がいい?飲み物。」
「えっ、いや、そんな、いいですよ。」
「いいの、いいの、村西先生のおごりだから。新田君を待たすようだったら、ジュースでも買ってあげてって、お金を預かっているから。」そんな余計な事まで。
「じゃー、コーヒーのブラックで。」
「新田君は甘党じゃないんだね。りのちゃんは、飲み物も甘い物ばかり好んでたね。」
「りのは、プリン味のジュースが欲しいって言ってるぐらいだから。」
「はははは、今でもプリンばっかり?」
「そう。ご飯代わりにプリン食べたりしてるんだよ。」
「あははは。」
「でも味覚障害は治ってきて、給食も美味しいって言ってるよ。」
「そっか。そっか、それは良かった。」
今は暇なのか、野田さんは出来上がったコーヒーを運んでくれると、慎一の前によいしょと座った。
「ここはさぁ、特殊でしょう。お世話している時は早く治ってと思って接しているのだけど、いざ治ってこの病院から出て行かれると、その後の様子って聞かれなくて寂しいのよね。それに、また会う時は再発している状態だし。元気になって楽しくやっている様子が聞けるのって稀なのよ。りのちゃんは、お母さんが私達と同じ看護師仲間だから、他の患者さんよりは話を聞くことが出来て嬉しいわ。」
「俺、もう、りのとは同じクラスじゃないけど、毎日楽しんでますよ。バスケ仲間に囲まれて。」
「そっか、そっかぁ。」慎一の報告を嬉しそうに微笑む野田さん。絵にかいたようなお母さん的なやさしさがにじみ出ている。
「野田さーん。」と看護師センターから声がかかる。
「あっ、ごめんね、もう少しだと思うから、もうちょっと待っててね。」野田さんは大きな身体を揺さぶって、気持だけは忙しそうに、でも全然早くないスピードで戻って行く。
ここの病棟に入った時は驚いた。暗証番号を入れないと開けられない部屋の環境に。あの時、こんな風に看護師さんと世間話が出来る日が来るとは思えなかった。死に向かうりのに、ついていく事だけを考えていた慎一。その決意の先にサッカーがなくなろうとも平気だった。りのが居なくなる事の方がずっと怖かった。
(あれから、まだ半年しか経っていないんだよなぁ。)
あの時に全て失っていたかもしれないと考えたら、その後の慎一は、あまりにも贅沢で、かけがえのないものを手に入れている。
藤木と一緒に作ったチームで全国優勝し、りのと同じ学校で高校生活が出来て、友達に囲まれた笑顔のりのを見る事が出来ている。
(ほんと馬鹿だよ、俺。)
ニコの方が良かったなんて、何を馬鹿な事を自分は思ってしまったんだろう。そして言ってしまうなんて。
慎一の宣言が以心伝心したかのように、りのは幻想を求めなくなった。りのも、慎一と同じように駄目だと思いながらも、どうしていいか分からなくなっていたのだろう。慎一と同じように、りのはりので柴崎に相談してすっきりし、何かを心に誓ったのかもしれない。
二口目のコーヒーを口に含んだ時、急に廊下が騒がしくなって、患者さんが看護師さんに付き添われて、待合前を通り過ぎて行く。慎一より10ぐらいは年上だろうか?ボサボサ頭を終始、横に振り、子供のようにイヤイヤをして泣いていた。
看護師さんは優しく「大丈夫、今日は注射しないからね。」などと言って、宥めて腕を引っ張っていく。
りのが5歳児であった時、外に出たいと泣き叫び暴れるのを皆が苦労して宥めた。あの時の絶望感は、きっと一生忘れられないだろう。今でもこうして思い出すと心臓がキュッと痛くなる。
「新田君、お待たせ。向うのB扉から入ってくれる?」
「あっ、はい。」
プライバシーの関係で、前の患者さんと次の患者さんが顔を合わす事ができないように、診察室は東側と西側の両方に扉が設けられてあって、看護師さんは交互に患者を誘導する仕組みになっている。
慎一は、奢ってもらったコーヒーを急いで飲み干して、ゴミ箱に捨てた。鞄を担ぎ、待合を左に回る方の廊下へと急ぎかけたが、テーブルに自分の診察券と処方箋のカードを置き忘れて来てしまった事に気づく。
慌てて、また待合に取りに戻ろうとしたら、廊下の角で左から来る人とぶつかった。
足元に相手の診察券と処方箋の番号札が散らばった。
完全に自分が悪い。
「あっ、すみません。」
相手の診察券をすかさず拾って、渡すべく顔を上げた。
互いに時が止まる。
「そうですか。仕方ありません。いえ、こちらこそ。お気になさらないでください。はい、本来は禁止でありますから、ええ、何とか他を考えてみます。はい、ありがとうございました。失礼いたします。」
電話を切った。理事長室の座り心地のいい椅子に大きく背を預ける。
「駄目か・・・。」
麗香から、りのちゃんにまたアルバイトをさせてあげて欲しいと頼まれていた。りのちゃんは、フランス時代のボーイフレンド、グレンに会いにフランスに行きたいらしい。その旅費を稼ぎたいとのこと。去年の夏にお世話になったスターリン外国語学校に電話したところ、もう新しいスタッフを入れてしまって、特に困っていることはないと言われた。りのちゃんは課題や宿題の多い特進クラスで、本来ならアルバイトをする時間なんてない。部活動も毎日あり、ここから電車で30分はかかる横浜にあるスターリンへ行く時間も作りにくい。しかし一応、問い合わせをしてみたのだったが、スターリン側がスタッフは要らないと言っているのだから、別の仕事を探さなくてはならない。
常翔学園は中高共に、校則でアルバイトを原則禁止としている。特別な事情がある場合は、その旨を学園に相談し、学園が考慮しアルバイト先の審査決定を行う。となっている為、下手な就労先を斡旋できない。
頭脳を活かして塾講師ってのはどうだろか?常翔学園特待生と言う肩書があれば、中学受験を目指している塾側からしてみれば、欲しい人材のはずだ。凱斗は、りのちゃんが教壇で教えている姿を想像してみる。・
・・・駄目だ。受験生以上に子供みたいな容姿では、様にならない。
伸びをしてため息はいた。
今日は、敏夫理事長は終日出張中、豪快な声に邪魔されない優雅な時間が流れている。
藤木家の祖歴書の書き起こしは続いてやっていて、進みは悪いけれど、敏夫理事長が学園にいないってだけで、中々に穏やかに時間は過ぎていた。
「毎日がこんな風だったらいいのになぁ。」一人だとひとり言が多くなる。
敏夫理事長は嫌いじゃないけど、なんせ豪快に少しばかりせっかちだ。自分の思い通りに事が運ばないとイラッとして、凱斗に奴当たりする時がある。戸籍上の実の父親で血は繋がっていない。なんて細かい事を気にするタイプじゃないから、遠慮のない接し方が、良いのか悪いのか。
生徒の前で凱斗を平気で怒ったりするもんだから、最近では生徒から憐みの眼を向けられたりする。この間は、「理事補、お疲れのようだから、差し入れよ。」なんて女生徒からチョコレートを貰った。信夫理事長よりは、仕事に対して細かい所まで神経を使わなくていいのだが、時に、それで良いのかぁ?なんて心配が起きる。しかしながらあれで、毎年、華族の子供の華冠式を、生徒の窓口として取り仕切っているのだから、まぁ流石は、先代の総一郎の子供だと認める。
肩の凝りをほぐしながら立ち上がった。昨日のような事がまたあるかもしれない、トイレに行くついでに校内を巡回する、にいい時間だ。隣の部屋へ寄り、事務方に「校内に居るから」と声を掛けて出て行こうとしたら、荷物が届いていると渡された。荷物は分厚い緩衝材のついた封筒で分厚く、大きさから見積もって本のようだ。宛名を確認すると敏夫理事長宛てじゃなくて凱斗自身でしかも海外からの小包だった。その荷物を持ったまま廊下に出る。裏返しても送り主のあて名はどこにも記されていなかった。
(誰からだ?)
今、海外に何かを頼んでいる仕事なんかない。不審に荷物を耳に近づけた。通りすがりの生徒が不審に首をかしげていく。
(平和だ。)首を傾げられる事が当然に、この日本においては、爆発物を警戒する凱斗の方が異常なのだ。
帰国して3年が経った。すっかり平和が体に馴染み、あれらの記憶は夢のように現実感は喪失している。のにもかかわらず、こうした癖は消えずにやってしまう。そうした凱斗の些細だが不審な行動と、身体中にある戦傷が伴って、付き合う女性からは逃げられてしまう事が多々あった。つい最近も、藤木君を東京の実家へ送り届ける日に立ち寄った温泉ホテル旅館で知り合った樋口加奈さんと、音信普通になってしまった。デートを重ね、満を期して、横浜のマンションに彼女を連れてきたのだが、ベッドインで凱斗の身体に息を飲んで驚き、彼女は顔を逸らした。そして、「酔いで体調を崩してしまったみたい。気分が悪いの。」と言って、帰ってしまった。
身体に刻まれた傷が、責める。
お前が、幸せになるのは許さない、と。
周囲が次第に暗くなり、廊下のコンクリートに無数の弾丸の穴が開く。
外は、燃えて燻る枯れ枝ばかりの樹々、空は灰色の煙がそうとなって立ち込め、火の粉が風に流されていく。
尻のポケットに入れてあった携帯のバイブが凱斗の意識を戻した。
(危ない・・・落ちるところだった。)
凱斗は首の後ろを掻きむしり、まだ振動し続けている携帯を取り出す。
凱斗の精神は今、安穏の中に不穏の泡が浮遊しているような状態だ。悪いタイミングで不穏の泡が浮上し破裂すると、今のようにフラッシュバックが起きてしまう。これもまだ、マシになった方だった。
携帯の番号を確認すると、これまたタイミングがいいのか、悪いのか?予感がしたからフラッシュバックが起きたのか?
懐かしくも思い出してはいけない部類に入る相手から電話だった。
英「ハロー。」
英「ハイ、カイ、元気してるか?」アルベール・テラ掃討作戦でナショナルチームの一員だったイギリス人のトーマス・ヘンリー。
英「久しぶり、トーマス。」
英「そうだよ。久しぶり過ぎて、髭は足まで伸びてしまったぞ。」
軽快なジョークを飛ばすトーマスは、上からの指令を無視した我々独自のミッションに参加しなかった仲間だ。参加しなかったからこそ生き延び、今は悠々自適に故郷で田舎暮らしが出来ている。
英「プレゼント届いたか?」
英「プレゼント?」
英「そうだよ。僕からのスペシャルなプレゼントだよ。」
誕生日でもないし、クリスマスでもない、そもそも兵士間で誕生日を祝いあうようなメルヘンさは現地でもなかった。
英「僕の新しい本。」
届いたこの荷物か。
トーマス・ヘンリー45歳は、軍を退役してから、イギリスの実家、田舎で牧場をやっている両親の稼業を手伝いながら、執筆活動している。軍で経験した事を話しのネタに、フィクションを書いているのはいいのだが・・・その本の主人公が凱斗だったりする
英「よくこれで届いたな。送り主ぐらい書いて送ってこいよ。」
英「驚かそうと思ってね、スペシャルだから。」
英「ちょっと待って、今開けるから。」
携帯を耳に挟んで、届いた荷物を破り開ける。パステルカラーの空と大地の景色が描かれた偉く可愛らしい表紙の本が出て来た。
英「似合わないなぁ。トーマスの風貌に、ファンタジーか?」
英「ファンタジーの要素もあるけど、恋愛もある、軍事サスペンス恋愛ファンタジーだ。」
英「何だ?それ。」
結局は何でもありってとこで、苦し紛れに色んな要素を押し込めた感が満載。
英「カイ、その本を日本で売るにあたって、翻訳してほしいんだ。日本語に。」
英「俺が?」
トーマス・ヘンリーのデビュー作品を、日本の出版社に売り込んだのは凱斗である。ハングラード大学で日本人同士ってことで親しくなった年上の同級、安藤が日本の出版業界に就いていて、トーマスに頼まれて紹介してやった。トーマスの書いた本は、経験に基づくものだったから、描写がリアルだと出版する運びとなった。 最初の本は出版社側が翻訳をしていた。
(出版社側を通さずに翻訳を依頼してくるってどういうことだ?)
英「安藤にはあらすじの段階で売り込んでいた。だが、いい返事をしない。こっちではもう本になったから送ったら、翻訳した物を送って来いと言われた。」
英「この本、売れてないだろ。」
英「いや、そんなことない。まぁ処女作よりは部数は落ちるけどね、この業界はそういうもんさ。」
(面白くなかったんだな、この本。)
だから安藤は、あらすじの段階で日本での発売を見送った。
英「カイ、翻訳してくれな。」
英「そんな暇ないよ。」
英「カイは頭に辞書が入ってるから簡単だろ。」
英「あのなぁ、辞書が入ってるからって、それを文章に起こすのはテクニックがいるだろ。俺の記憶力は重い辞書を持ちあるかなくて済む、って程度のもんだよ。よく知ってるだろ。」
(どいつもこいつも、過大評価し過ぎだよ。)
表紙をめくりたい衝動を抑えた。一目見ただけで、そのページを記憶してしまうから、出来る限り無駄な記憶は増やしたくない。記憶の容量がどれぐらいあるのか、限界があるのかないのか、わからないのだ。その事は、華選に認定される時に調べられた帝都大学の脳科学研究チームでもわからなかった。世界で数人ほど、同じ記憶力を持っている人達がいるけれども、誰も記憶の限界に到達したとは聞いていないし、自分自身でも限界を感じたことはないからその心配はなさそうだが、ただでさえ、普通に生活しているだけで無駄な記憶が増えていくのだ、不必要なものは出来る限り排除していたい。
英「そう言わずに、日本で僕の本を待ってる読者が、待っているんだ。」
(そんな奴いるか?)呆れて首を横に振った所で、後方で人影が隠れるように動いたのを気づく。ここが戦場ならそれが何かを確認する前に、身体は避難と防護体制に動いていたが・・・それをするまでもなく、それが誰かは判明していた。
英「わかった。しばらく待ってくれ、ちょうどいい人材がいるが、確認しないといけないから。」
英「そうかっ、やはりお前は頼りになるよ。」
英「じゃまた連絡する、切るよ。」
英「あぁ、待ってる。」
一体、何の真似か、遊びか、後方の気配のりのちゃんは、廊下の角でしゃがみ、身を隠しているーーーつもりらしい。凱斗は笑いをこらえながら携帯を尻のポケットにしまい、気づいていないフリをしそのまま歩む。身をかがめてついて来るーーー尾行しているつもりのようだ。廊下と教室のガラス窓などに映り込む後方の様子を視認しながら歩くと、りのちゃんは柱のでっぱりに隠れたりトイレの入り口に隠れたりして、消化器に隠れたのは、いくら小さいりのちゃんと言えども無理があって、思わず吹き出しそうになる。階段へと曲がり、すぐに手すりを超えて階下へと降りた。2階廊下の角に背をつけてりのちゃんが追ってくるのを待つ。慌てた足音が階上からし、バタバタと降りてくるりのちゃん。手すりから階下を覗いたが、凱斗が居ないのを確認して、まずは2階の廊下へと向かってくる推理力は流石だ。大体は確認せずに、一階まで降りて行きたくなるものだ。
りのちゃんが2階の廊下へと出た所で、凱斗は立ちふさがった。
「何の遊び?」
「きゃっ!」驚いたりのちゃんは、手に持っていた本を落とした。
「かっかいさん。あ、遊び、じゃ、ない。」凱斗を見上げるりのちゃんとの身長差は40センチ。驚愕に目を見開くその表情は、無表情だった時とは比べ物ならないほど生き生きとして、魅力的になったなと思う。2年の先輩から告白されたと麗香から聞いた。モテるのは当たり前だ。りのちゃんがもっと長身で体も普通に女性らしかったら、凱斗はこんな風に気楽な対応をできなかっただろう。顔だけでみるなら、凱斗の好みど真ん中だ。凱斗が自制心を強く持たなくてもいいのは、この子供のような身体のおかげだ。
露「真実を探るミッション。」
露「真実を探るミッション?」
りのちゃんとスムーズに会話をするには英語かロシア語、フランス語が必要。英語は日本語以上に母国語として身についているりのちゃんは、長らく英語を使わなくても忘れることは無いけれど、日本では中々耳にする事が少ないロシア語とフランス語は、使わないと忘れると、凱斗との会話にはロシア語を使ってと頼まれていた。といっても凱斗のロシア語は、頭にある辞書を引きながらのカタコトだから、りのちゃんに、その発音はおかしいと笑われていた。
露「そう、これ、凱さんがモデルでしょう?」拾った本の表紙を突き出すりのちゃん。
トーマスの処女作『荒野の果て』
露「何のこと?」
露「誤魔化しても駄目。お腹見せて。焼いて止血した傷痕があるはず。」
「えっ、ちよっ、ちょっ、やめて、りのちゃんっ」強引にシャツをつかみ、たくし上げようとする。
生徒が強要したと言っても、校内で女子生徒の前で裸になんかなったりしたら、傷を見られて怯えられる以上に、とんでもない問題になる。
「りのちゃん、ほんとにやめて。」
必死で阻止。今度は凱斗が手に持っていた本が、下に落ちた。
露「本?トーマス・ヘンリー!新しいの?!」りのちゃんはシャツめくりをやめて、その場にしゃがんだ。自分の持っていた本を床に並べて、早速、本をめくり始めた。凱斗はほっとし、乱れたシャツをスボンに入れなおす。
(周りに誰も居なくて良かったよ。突飛な事をするからなぁ。りのちゃんは。)
英「りのちゃん、アルバイトしない?」
英「する!スターリンでしょう!」
英「あー、スターリンじゃないんだ。」
英「スターリンじゃないの?」
英「うん、スターリンは今、世話役の募集はしていなくてね。でも、りのちゃんの好きな事で、絶対に出来る事だよ。」
りのちゃんは首を傾げながら二つの本を持って立ち上がった。
「その本の翻訳をやってみない?」日本語に戻す。
「翻訳?」
「そう、りのちゃん本好きだし、文章を作る構成力は上手だからね。」
そう、りのちゃんの国語の成績が他より少し劣るのは、漢字を覚えるのが苦手な事と記述での誤字脱字で点数を落としている。
翻訳に字のきれいさは必要ない。必要なのは、どれだけ作品の世界観、雰囲気、状況を壊さず、日本語で表現できるかだ。ただ訳せばいいと言う仕事ではない。その点、りのちゃんは現国の文章問題の記述回答は完璧だったし、特待生のレポートで培った構成力もある。
「これの翻訳?」
「家で出来るから、バスケをしながらでも出来ると思うよ。」
「バスケと翻訳。」
英「そう、アルバイト料弾むよ。」
りのちゃんの顔がぱぁと明るくなる。
英「フランス行きの飛行機代ぐらいでどうかな?」
英「うん!する!」
英「よし、決定、その本持って行っていいよ。」
りのちゃんは嬉しそうにトーマス・ヘンリーの本を眺める。
「フランスに行ける。グレンに会え・・・ひっ」突然に叫んでまた本を落とし、どうしたことか、寒そうに腕をさすった。
「えっ?どうしたの?」
「い、いやっ、」首を振って後ずさるりのちゃん。
「えっ?翻訳嫌なの?」
「ち、違う・・・ぅあーーっ」と踵を返して走っていく。
「りのちゃん!」
「本は、後で貰いにいくから!」と振り返りながら叫びこけそうになっている。
「なんだ?」
(やっぱり、りのちゃんは、突飛すぎる・・・。)
「悠希・・・。」
「慎君・・・。」
これが、ドラマの様に、洒落た街での偶然の再会なら、それは今後の展開に胸躍るシチュエーション、素敵なBGMでも流れて次回に続くとなるのだろうけど、今はそうじゃない。この場所は病院、それも精神科の診療室がある少し薄暗い廊下で、BGMはナースセンターから聞こえる忙しそうな看護師の話し声と、病室方面から聞こえてくる微かな奇声。
目を見開いて驚いている和希は、次の瞬間、怯えたように駆け出しいく。
「ゆ・・・・」呼び止めるのをやめた。呼び止めて何を言う?何になる?
知られたくなかっただろう。
りのがそうだった。偶然に知ってしまった時もりのは誤魔化した。そして「絶対に柴崎や藤木には言うな、学園に知れたら、私はここに居られなくなる」と知られる事に怯えていた。
同じように、悠希もきっと誰にも知られたくないはず。
だけと、それは慎一がずっと知りたかった事だ。本当は一つ年上なのに、留年をして慎一と同じ学年で入学してきた理由を。
聞きたくても聞けなかった理由が、ここにあるのだと知ってしまった。
村西先生との面談は、悠希の事ばかり考えて、うまく詳細を話せず、適当に答えて早く終わらせようとしていた。
それを見切ったのか、村西先生は、「悪かったね、疲れもたまっている所で、ありがとう。」と言って面談を早々に終わらせてくれた。
若干の罪悪感を抱きながら、診療室を出る時、悠希の事を聞けば、教えてくれるだろうか?と、立ち止まった。
悠希も友達なんだっと言って。だけど、それを悠希が望んでいるは限らない。
りのの事はたまたまだ。先生も特別だと言っていた。
悠希もまた、特別になるとは限らない。
だけど、悩んでいるなら、困っているなら、悠希を助けたい。
自分に、何が出来るだろうか?
もう、間違いなく、躊躇なく
自分は、支えてやれるだろうか?
部屋を暗くしているカーテンを開け、朝日を部屋に取り入れる。
「りの、起きて、」
「んー」
窓も開けて、空気の入れ替えをする。気持ちの良い朝、
ベッドの頭上に置かれたデシタル時計が、またピピピと起床を催促する。
5月25日㈯7:15
りのは朝日から逃げるように、布団にもぐりこんでしまった。
「遅れても知らないわよ。」
「ん~。」くぐもった声を出すりの。眠れないとさつきよりも遅くまで起きていて、さつきよりも早く目覚めていた一年前とは大違いの姿に、複雑な溜息を吐いた。眠れるのなら存分に寝かせてあげたいけれど、学校に遅れるのを黙認するわけにはいかない。
常翔学園は、土曜日も登校しなければならない。授業ではなく自習で、行かなくても問題はないとは言え、遅刻欠席はちゃんと評定されてしまう。
部屋を見渡す。片付いてない汚い部屋。ベッド下周囲には、バスケで使うエナメルバッグやジャージ、ユニフォーム、私服や下着がクローゼットに仕舞われないで散らばっている。部屋の掃除も何時からしてないのか?精神を患って引き籠った時から、さつきはりのの部屋には入れなくなった。その時の習慣というか、もう高校生でもあるのだから、部屋の掃除は自分でしてもらいたい。本人もすると言ったので、ほっといたらこのありさまだ。とても女の子の部屋とは思えないほどの散らかりよう。あちこちに積み上げられた本が雪崩を起こし、机の上は、藤木君に貰った開きっぱなしのノートパソコンの上にプリントが積み上がり、周囲の隙間にも本やらプリントが乱雑に置かれて、この机では勉強が出来ないと、りのは宿題やテスト勉強は、リビングでやっている。片づけたくなるジレンマを押さえる。ここでやってしまっては、りのの為にならない。
窓から入ってきた風が、カーテンをなびかせ、机の上から折りたたまれた一枚の紙を吹き飛ばした。
さつきの足元に落ちてきたその紙を拾って開き、見る。
「りの!これ何なの!」
「んー?」まぶしさに目を細めたりのが、布団から顔だけを出す。
「視力0・5って!」
「あーママ、部屋の物、触らないでって言った!」
「机の上から落ちて来たのよ。って、こんなに視力落ちてるの、何故言わないの!」
落ちて来たプリントは、学園で視力検査をしてくれた時の結果報告書。こんなに悪いので眼科に行って検査をしてくださいという催促状。しかも、4月中旬の日付で貰ってきている。
「りの!どうして、このお手紙、ママに見せないの!」
りのは、布団をかぶってもぐりこんだ、のを剥ぎ取る。
「こらっ!」
「知らないっ!忘れてた!」
「忘れてたじゃないでしょう。こんな大事な物!0・5なんて、ほとんど見えてないんじゃないの?」
拗ねたりのはベッドから起き上がると、トイレに駆け込んだ。
そういえば、宿題をしている時、やたら顔が机に近いなと思っていた。だけど集中しているのを邪魔しちゃいけないと、なるべく声を掛けない様にして・・・それが、こんなに目を悪くしていたなんて、
(やっぱり私は母親失格。)
「りの、黒板の字、見えてるの?」
トイレから出て来たりのは、さつきの質問に俯いて口を結ぶ。
「怒らないから、正直に答えて。」
「見えないけど、大丈夫。教科書があるから。」
「そういう問題じゃないでしょ。眼科に行って、それからメガネを作らないと。」
「嫌だ。」
「どうして、今は可愛いの、あるじゃない。」
「メガネ高いもん。」
胸が締め付けられる。お金の心配を子供にさせるなんて。
「りの、こういう事、隠さないで。」
「ママ、大丈夫、自分で買うから、今、アルバイトしてるの。」
「アルバイト?」
「うん、凱さんが、翻訳の仕事をくれたの。」りのは部屋に駆け込み、また戻ってくる。一冊の本を持って。
「この本の翻訳。この作者、イギリスに住む凱さんの知り合いなんだって。」
「りの、もしかして、昨日も遅くまで起きてたの、テスト勉強じゃなくて、その翻訳をしていた?」
「うん!面白いよ。これ。本の内容もだけど、翻訳も面白い。」
特進クラスは授業の進みが早く、テスト範囲は多く難易度も高いと、苦悩のつぶやきをしていたはず。
理事補はなんだってこんな時期にアルバイトなんかを紹介するのかしら?
もうちょっと考えて、配慮してくれないと。
「アルバイト料貰ったら、ママにも何か買ってあげるね。」
「りの・・・。」
そのりのの笑顔は、もう何年も前になるフィンランドやフランスに居た頃と同じ笑顔。キラキラと目を輝かせて、楽しくない日がこの世にないと信じた、未来が輝いていた頃と同じ笑顔。
その笑顔を、私の手じゃなくて、りのは自分で作って行く。苦労して、時間も身も削って。
(りのに苦労ばかりをさせる私は、母親失格。)
何もしてやれない。
いや、ある。
りのに一つだけしてあげられることがある。決心がつかなくてずっと躊躇していた。
りのを戸籍から外して、華選に上籍すれば、りのはこんな苦労をしなくて済む。
りのを手放すことが、りのを助ける。
(それが、私が出来る唯一の事。)
いずれは、話さなくてはいけないと思っていた。慎君にだけは。でも、言うのは留年の理由だけ、病気を患ったから1年遅らせたのだと、そう言おうと考えていた。なのに、言う前に、精神科に通っている事を慎君に知られてしまった。
昨日と今日、学校を休んだ。慎君から携帯にメール入る。
【大丈夫か?】
たったそれだけのメールの返信に、1時間を迷って返信した。
【大丈夫】
【ごめんな。誰にも言わないから。】とすぐに返信が来る。
きっと、聞きたい事を我慢して、送って来たのだろう。入学してから何も聞いてこないで、皆の前で普通に接してくれた。慎君の優しさがこのメールでもわかる。
【ごめんな。誰にも言わないから。】
だからこそ、慎君には言わないといけないと思った。
【今から、会ってくれないかな?】そう返した。
【うん。どこに行けばいい?】とリプライがあり、5分悩んだ末に、
【彩都FCのグランド】と送った。
部屋から出て、洗面所へ行く。固形石鹸を手に取り、こすって泡立てる。液体せっけんは家に置いてくれなくなった。私が使い過ぎて直ぐに無くなるから。
水で流す。まだ汚い。もう一度石鹸を手にとり泡立てる。水で流す。
もう一度。
慎君と会うのに汚い手では会えない。
何度洗っても、手は汚れている。
「もう十分でしょ。きれいになってるわよ。」
「うん・・・でも、あと一回、今から出かけるから。」
「どこ行くの?」
「彩都FCのグランド。」
「彩都FCのグランド?」お母さんは首を傾げる。
「慎君と久々に行ってみようかって。」
「そう、気を付けて行ってらっしゃい。」と微笑んで洗面所から出て行く。
私はまた手を洗う。
お母さんは私が、もう一度慎君と会いたいから常翔に入った事を知っている。サッカー部のマネージャーになって、慎君の話をすると、喜んで聞いてくれる。
「今、テスト前じゃないの?慎君に迷惑かけてるんじゃない?」戻って来たお母さん。
「あっ・・・ううん、気分転換だって。」
「そう、あまり遅くならないのよ。」
「うん。」
水で泡を流す。
お母さんは、私がずる休みをすることに何も言わず、学校に「風邪気味で体調不良」と電話してくれていた。
あれ以来、何も私に期待をすることなく、自由にさせてくれている。
もう一度・・・
「本当に、もうやめなさい。手が赤くなっているわ。」
(だからよ、この赤は血の色。まだ赤く汚い。)
「慎君、待ってるんじゃないの?」
「あと一回だけ。」
お母さんは呆れて洗面所から出て行く。
慎君に言うと決めた癖に、私は少しでも先延ばしをしている。すべてを話せば、きっともう終わる。慎君とはもう会えなくなる。
それをわかっていて、私は何故、言わなければならないと思ったのか?
慎君の疑問を解消する為。藤木君が言っていた。「あいつは悩み事があると調子が悪くなる」と。慎君の最近の不調は、私に対する疑問が原因となっているのかもしれない。もしそうなら、その疑問を解消させてあげなくちゃ。
もっと洗っていたいのを、無理やりやめた。携帯とタオルハンカチを財布が入ったままのショルダーバックに入れ、家を出る。空には沢山の雲がゆっくりと流れていた。湿気が含んだ空気、もうすぐ梅雨が来る。
彩都FCの練習場だった市営の運動場へは、自宅から歩いて15分の距離。子供の頃はその距離を自転車に乗って通っていた。
自転車には乗らなかった。ここでも先延ばしにしたいと悪あがきをする。お母さんが言うように、慎君を待たせているかもしれないけれど、何時にと指定しなかった。
慎君は【わかった、今から家を出る】と返信をしてきていた。
慎一はメールの返信をしたものの、すぐには動けなかった。余計なアプローチをしてしまったんじゃないか?と自分の行動に自信が持てないでいた。
この時点での悠希からの「会つてくれないかな」は、慎一が抱いた疑問を予測しての、悠希の気遣いだろう。【ごめんな。誰にも言わないから。】と送った言葉がまずかったのかもしれない。向こうから言わないでと言って来たのならまだしも、こちらから言うべきじゃなかったのではないだろうか?と後悔しても、もう遅い。すでに言葉は文字となって相手の手元にあるのだから。
慎一は大きなため息をついた。
(悠希に会いにこう。)
椅子に掛けてあったチェックのシャツを掴み、腕を通す。
「お邪魔しまーす。」りのの声が階下から聞こえた。えりが、テスト勉強を見て貰うために、りのを呼んだのだ。
「りのりの!待ってたよ!およっ?りのりの、それどうしたの?」
「買ってもらった。」
「へぇ~可愛い。」えりのテンション高い声は家中に響く。階段を下りて、リビングに顔を出す。
「りのりの、目、悪かったの?」
「えり、りのも特進の勉強で忙しんだから、呼ぶなよ・・・えっ?なにそれ?」りのが眼鏡をかけている。
「メガネ。」
「そうじゃなくてっ、目が悪くなったのか?」
「だからっ、あたしが今聞いてたんだっ!慎にいが入り込んでくるから、会話が途切れたんだっ。」
「だから言っただろ、目を悪くするぞって!夜中に暗い部屋で本読んだり、テレビ見たりするから。」
「わぁ~、パパの顔も良く見える!あーパパ笑ってたんだぁ。」壁に飾ってある写真を食い入るように見るりの。昔、芹沢家と新田家合同で撮った写真だ。
「りのっ!メガネかけなきゃんなんないって、視力いくつだよ。」
「あははは、えりちゃん可愛い。ちっさーい。懐かしい。」慎一を無視したりの。
「その写真、りのりのん家にもあるでしょう。」
「あると思うけど、どこかに仕舞って飾ってない。」
「りの!」
「うっさい!プライバシーだっ。」
「ったく、何でも都合が悪くなったら、プライバシーを出してきて、うちに部屋がある時点でプライバシーもないだろう。」
「あの部屋はもう使わない。」
「慎にぃ、視力うんぬんで怒る前にさぁ、似合うとか可愛いとか言えないわけ?」
「えっ?」りのと目が合う。
今は男子も女子もメガネを掛けている人がモテるとか雑誌に取り上げられたり、目が悪くなくても、お洒落でかけたりしていると、これは博識の藤木からの情報。
「えっと・・・。」えりのニヤついた顔が視界に入る。
「ほらっ、早く言ってあげなよ。」茶化すえり。
(そんな恥ずかしい事、言えるか!)
「あっ、ヤバイ、出かけないと。晩飯には戻るから、何が食いたい?りのも食べて帰るだろう。食べたいもん言えよ。」
「慎にい!酷いっ!逃げる気ぃ?」とえり。
「プリン食べたい!」とりの。
「プリンはおやつだ!晩飯のメニューにふさわしい物を考えろ!ったく・・・とにかく決まったらメールでも入れといて、足りない食材を帰りに買ってくるから。」玄関を飛び出した。
(あぶない、あぶない。えりの罠に、はまるところだった。)
自転車に飛び乗り、漕ぎ出す。小学1年から毎日通った道、彩都市が運営する彩流川添いにあるグランドまでの道は、家から自転車で20分。夏の暑い日も、冬の寒い日も、大雨じゃない限り小雨ぐらいなら、練習はあった。そんなに練習しているのに、チームは全国大会に行く事が出来ない弱小チーム。それには原因があった。隣の川延市にある川延SCチームがほぼ毎年、全国大会でベスト4内を維持するとんでもない強いチームがあったから。そのチームは6年生の年、藤木が率いた福岡JSCと順々決勝で対戦したチーム。藤木の福岡JSCは川延に負けて3位、川延SCはその年、全国優勝をしている。そんな強豪の川延SCに所属していて、慎一と同じに常翔のサッカー推薦で入ってきたのが、沢田と岸本だ。
神奈川県はサッカーが盛んな県である。川延市のチームだけじゃなく、他にもそこそこ強いサッカーチームは沢山あった。川延SCが一流とランク付けするなら、彩都FCは3流のチーム。全国大会に行きたいなどの志までは持っていない遊び感覚の子供らが、彩都FCには多かった。と、偉そうな事を慎一は言えない。慎一も最初は遊び感覚というよりも、母さんが、りのが居なくなって何もできなくなった慎一を見かねて、彩都FCに入会させたのだった。
常翔学園が、学園から一番近い地元のサッカーチームという繋がりで彩都FCとの推薦枠を設けてくれていたおかけで、チームは弱小でも、慎一はサッカーの強豪と名高い常翔学園に推薦してもらえた。常翔学園のサッカー推薦を受験するには、所属するサッカーチームの推薦状がいる。常翔学園が地元に目を向けず、ただ強いチームだけとの繋がりを強くしていたら、慎一は今頃、公立の強くないチームで、レベルの低い練習や意識に、じれったい思いをしていたか、それとも夢なんてとっくに捨てて、さっさと堅実な将来に夢に目を向けていたか、だろう。
子供の頃は、この道ノリが長いと思った。早く練習がしたい、1分1秒でも長く練習をして上手くなって、新田慎一と言う名前が世界へ、ニコの所へ届く事を夢見て。
色んなことを考えながら自転車を漕いだからか、昔の体感よりも短く感じて彩都FCの練習場に着く。自転車置き場から、もう子供たちの掛け声が聞こえてくる。周囲を見渡しても悠希の姿は見つけられなかった。彩都FCのグランドの何処という指定はなかった。
とりあえず観客席に上がる階段へと進んだ。小さい施設ながらも、コンクリート製の観客席が10段ほど両サイドに作られてある。メインスタンド側の観客席には、付き添いの大人たちが集まってわが子の見守りをしているのは昔ながらの光景だった。様子からして今日は、他チームとの練習試合が行われているようだ。慎一はバックスタンドのコーナー端へと足を向けた。そこには大きなどんぐりの木がある。秋になると、どんぐりがグランドに落ちてくる。一年生の頃はそれを喜んで集め、家に持って帰ったものだけど、年齢があがるうちに、どんどりはグランド整備の邪魔者になっていった。
どんぐりの木に手を添えて、慎一は見上げる。
湿気た風が重く、わずかに葉を揺らしている。
もうすぐ梅雨の時期がくる。
泥だらけになる洗濯物に、母さんの愚痴が増える季節が。
雲の形を眺めながら、通りを歩く。
じんわりと汗がおでこに浮き出てくる。ハンカチを取り出し拭う。明日は雨だとテレビの天気予報で言っていた。
自転車に乗りながら犬のリードを引っ張っている散歩者に、悠希は立ち止まって道を譲る。
引き返したくなった。だけど、ここで行かなければ、きっと常翔学園にも行けなくなってしまう。
先輩達も気づいた。それも想像していた事、誤魔化す事もシュミレーションしていた。だけど、あそこまで強く執拗に言われるとは思ってなかった。思いたくなかったと言った方がいいか。あれから3年が経っている。忘れている、忘れていてほしい、と考えて、慎君との学園生活を夢見て望んだ。
最悪の状況を予測しなかったわけじゃない。
(こんなに早くその予測が訪れるなんて・・・でも、そう、終わるなら、ちゃんと慎君には話してからサヨナラしよう。)
彩都FCのグラウンド、自転車置き場、入り口、車いす用のスロープに慎君の姿は見当たらない。
トイレの横にある観客席へと上がる階段へと向かう。子供たちの声が聞こえてくる。
「パス、パス!おれんとこ回せ!」
「よしっ!」
「上がれっ!」
階段を登りかけて、やめた。女子トイレに入る。
そして手を洗う。
慎君が、何時まで経っても私の事を女子と気づかない事が、だんだん面白くなってきて、私は慎君と一緒の時はトイレには行かないようにしていた。そんな彩都FC時代の事を思い出す。
皆の輪に入れなくて、パスワークの練習の相手を見つけられないで、しょんぼりしていた慎君。
『一緒にパスワークやろうか。』それが慎君としゃべった最初の言葉。
『うん!』慎君は、満面の笑みを返してくれた。
慎君は誰よりも真面目に、誰よりも沢山練習をして、グランド整備も嫌がらず、ふざけずやっていた。黙々と。
それが時に、チームから浮いていると邪険にされても、慎君の意志は変わらなかった。
『慎君、どうして皆と合わそうとしないの?』
『・・・。』
『グランド整備なんて、サボってもわかんないじゃん。どうせ市のおっちゃんがトラックで一気にやってくれるんだし。慎君がいつまでも整備やってるから帰れないって、皆、怒ってるよ。』
『グランド整備は決まりだよ。練習の後、使った場所は綺麗にする事って監督に言われている。』
『その監督だって、皆やお母さん達としゃべっているし、やらなくても怒らないじゃん。』
『怒られないからサボっていいって訳じゃないと思う。』
『そうだけど、でもチームの輪ってのも大事だと思うよ。サッカーは団体競技だし。』
『だったら、皆でやればいい。皆でやったらすぐ終わる。』
『慎君の言う通りだけどさぁ・・・。』
グランドの整備を一人でやって戻って来た慎君は、水筒のお茶を飲み仰いだ。
その目は青い空をまっすぐ、どこまでも遠く、はるか先の未来を見るように、まっすぐ、まっすぐだった。
『僕はグランド整備も練習のうちだと思っている。グランド整備で歩くと脚や腰が強くなる。皆がやらないなら僕は皆の分をやる。それだけ皆より強くなれる。皆がグランド整備をやって短時間で済むなら、グラウンド使用時間ギリギリまで、ボール使った練習が出来る。僕はどっちでもいい。どっちも強くなれるから。』そう言ったのは慎君が4年生、私が5年生の時だった。
そのあともずっと、皆がさぼりがちなグランド整備を黙々とやっている慎君に、私も時々手伝って、そして聞いた。
『慎君、どうして、そこまで強くなりたいの?』
『プロのサッカー選手になりたいから。』
不思議だった。こんな弱小チームに所属している事が。強くなりたいのなら川延SCに行けばいいのに、と思った。プロのサッカー選手を目指すなら、何度も全国優勝している川延SCに行くのが当たり前だ。川延SC出身のプロサッカー選手は沢山いるし、練習場はここから更に遠くだけど、行けない事はない。親が送り迎えして川崎SCに通う子は、悠希の通う小学校に数人いる。
川崎SCでレギュラーになれなくても、補欠でも、入部して練習するだけの価値が川延にはある。だから本気でプロになりたいという慎君が、それをしない事が不思議だった。
『悠希も一緒に目指そうよ。プロを。悠希のそのボールコントロールがあれば絶対なれるよ。』
太陽に照らされた慎君の顔は、とてもまぶしく輝いていた。
うれしかった。私が女で、どうやっても慎君と同じ夢を一緒には歩めなくても。
『プロになって、世界で戦うんだ。そしたら新田慎一って名前が届くんだ。それが僕の夢。』
また青い空に顔を上げた慎君は、高い空に手を伸ばした。
まだまだ遠く儚い夢に、少しでも届くように。
「下れ、下れ。」
「こっちだ。」
子供達の声高い叫びがグラウンドに響く。懐かしい光景。と言っても、慎一自身が持っている記憶は、フィールド内で動きまわる視線のものであって、こんな上からのアングルは、母さんが時間のある時だけ観戦した試合のビデオ撮影をした数回分のものだけ。懐かしいと感じるのは、都合よく脳が変換して思わせているだけなのだろう。
悠希がゆっくりとこちらに歩いてくる。あえて悠希の方を見ない様にした。視界の隅に悠希のスニーカーの先が見えて、歩みは止まった。しばらく子供たちの試合を眺めた。ここからじゃ、何対何かはわからない。彩都FC側にペナルティがあり、試合が中断する。
「7番の子、パスワークが上手い。よくチーム内を見ている。」
「藤木君タイプね。」
「10番が、一番声が出ている。ムードメーカー。」
「沢田君タイプ」
流石は悠希、まだ入部して1か月しか経っていないのに、もう部員の性質がわかっている。
「慎君タイプは、見当たらないわね」
「俺は、ここではチームの輪を乱す者だったからな。」
そう、慎一だけが本気でプロを目指していた。その夢を言えば「お前本気で言ってんの?」って笑われた。「なんで川延に行かないんだよ。」って、「ここにいるのがおかしいだろ。」って馬鹿にされた。
全国少年サッカー大会で何度も優勝するような強いチームが近くにあること、その川延SCの練習量や内容を噂に聞くたび、羨ましく思った。母さんにお願いもしてみた。川延のチームに移りたいと。でも店があるから送り迎えなんか出来ないと言われて、悔しくて泣いた。彩都FCなんかに居たって、プロになんかなれない、もう夢なんて、と投げ捨てようとした心を止めたのは父さんだった。
『慎一、チームを変われば、夢は確実につかめるのか?』
『うん。彩都FCでは全国に行けない。』
『どうして、慎一にそれがわかるんだ?』
『どうしてって、彩都は・・・練習のやり方が違う、練習試合だって少ない、今まで全国に言ったことない弱いチームだ・・。』
『少ないと思うなら、増やせばいいだけじゃないか?やり方が違うなら変えればいいんじゃないか?弱いと思うなら強くなればいいんじゃないか?』
子供ながらに呆れた。父さんはサッカーをやった事が無いから、頓珍漢な事を言ってる、と思った。
『父さんはな、帝国領華ホテルのシェフとして働き始めた時、最初は洗い物ばっかりでさ、こんな事ばかりして、ちっとも料理を作らせて貰えないで、腕なんて磨けないじゃんと、すぐに辞めたいと思ったね。それこそ、すぐにでも本場フランスへ行った方がフランス料理を学ぶには早いんじゃないかと。一度、辞めますって料理長に言った事あるんだよ。』
始めて聞く父さんの修業時代の話だった。
『料理長は、フランスに行きたいだ?日本で洗い物一つ耐えられないやつが異国の地で出来るはずないだろっ!って怒鳴った。』
『えっでも、父さんフランスに5年行ってたんじゃ・・・』
『あぁ、行ったよ。それはちゃんと日本で寝る間を惜しんで皿洗いから修行を積んでからだよ。』
18歳で帝国領華ホテルのフランス料理の厨房に見習いとして入り、すぐに辞めたいと言った父さんは、その料理長に言われた一言が悔しくて、それから誰よりも早く厨房に入り、朝の支度、掃除、料理とは直接関係のない事も厨房内でやる仕事は率先して、なんでもやったと言う。そして誰よりも遅くまで残って、休みは返上し誰よりも長い時間、厨房に居て、洗う前の客が皿に残したソースを舐めて味を覚え、料理長のやっている事、些細な動作などをこっそりメモをしたりしたと言う。
『なりたい、やりたいと思い、言うだけなら誰でも出来る。出来ないと嘆くことも、出来ない理由を何かのせいにする事も簡単だ。』
父さんはしゃがんで慎一と目を合わせ、肩に手をのせる。
『慎一、ごめんな、父さんと母さんが店をやっているせいで、慎一が移りたいというチームには遠くて、送り迎えが出来ない。』
『・・・。』
『川延のチームに行く方が、慎一の夢の近道だと父さんも母さんも知っているし、出来る事なら、それを叶えてやりたいと思っている。だけど・・・ごめん、無理なんだ。』
こんな風に謝られたら、もう何も言えない、負けじゃんと思った。
『慎一、父さんな、フランスに行く前の12年間は、本場のフランスで学んだ奴らと比べて、遠回りになったと思っているけど、遠回りの道は絶対に無駄じゃなかったと思っている。』
遠回りの道は無駄じゃない・・・・その時、何故かニコと手を繋いで虹玉を探しに行って迷った時の事が頭に浮かんだ。
『彩都FCで追う夢は、遠回りになるかもしれないけど、無駄になるか、ならないかは慎一次第。父さんと母さんは、遠回りの道でも慎一が進む夢を絶対にやめろとは言わないから。』
その時の慎一は、悔しい気持ちしかなくて、不貞腐れて父さんから背を向けた。
彩都FCに所属していた時間は、無駄じゃなかったと今では思える。
そして、これまで常翔学園で過ごしてきた道も、絶対に無駄にはしない。
「ここでは、誰より夢に真剣だった、だけだよ。慎君は。」
悠希だけはわかってくれていた。慎一の夢を笑わずに、馬鹿にせず。
慎君は、一度も私の方を見ることなく、まっすぐ子供達の試合を見ている。
私は、約2メールの距離をあけて、慎君の隣に同じように座った。どんぐりの木の陰になったコンクリートは冷たい。
中断していた子供たちの試合が再開される。
「俺が出来る事は?」
「えっ?」
思いがけない言葉に驚いて、私の方から顔を向けた。だけど慎君はまっすぐ、グラウンドに目を向けたまま。
常翔に入学すると決めてから、慎君と会う事を夢見て、慎君の最初の言葉は何だろうと予測していた。
【どうして、俺と同じ1年生なんだ?】か、【悠希は一つ上だろう?どうして同級なんだ?】
大方そんな感じだろうと、だから答えも用意していたのに。
それが、『俺が出来る事は?』そんな質問の答えは用意していない。
「覚えてる?俺が悠希に誘ったの。プロを目指そう一緒にと。」
「・・・覚えてる。私が5年、慎君が4年生だった。」
「そう、俺が4年で、悠希が5年生。」
「・・・。」
「あの時の返事、まだ貰っていない。」
「返事って・・・。」
慎君が、やっとこちらに顔を向ける。
「俺は、あの時から変わらない夢を目指している。」
手の平を上に向けた慎君の腕が伸びてきて止まる。2メートルの距離では、その手は私に届かない。
「悠希も一緒に目指そうよ。」あの時と同じセリフ、違うのは、向けられた顔に笑顔がない事、あの時の慎君は、夢へと向かう力強い笑顔だった。
「わ、私は・・・もう、無理。」真っ直ぐな慎君の目から伏せた。「わ、私は、あの頃のユウキじゃない。」
「だけど、あの頃のユウキに戻りたいから、通ってるんだろ。精神科に。」
「・・・。」
「そして、サッカー部にも入った。悠希と離れて4年、俺は、悠希が声を掛けてくれないとパスワークの相手も見つけられないようなダメダメさを超えて、成長して来たつもりだ。」
そう、あの誰にも声を掛けられずに俯いていた慎君は、大きく成長した。仲間と一緒に夢を追って、そして全国優勝をした。
「精神科に通う病気の事も、人より理解できる。知識もそれなりにある。」
そう言えば、どうして慎君はあんな場所に居たのか、今思えば何故と思わなければならないことだった。動揺して、そこまで考えが至らなかった。
「知り合いが、ずっとあそこに通ってて、入院とかもして、村西先生に、その子の様子を教えてくれと頼まれていて、定期的に話しをしに行っている。」
(知り合い?)
「無駄じゃなかった。川延じゃなく彩都FCに入った事、悠希に出会った事。悠希が先に卒業して離れた4年間、その子を助けたいともがき苦しんだ事、俺が過ごして来た時間に、何一つ無駄な経験はない。」
私に差し伸ばした慎君の左手は、所在なく空へと方向を変えて伸びる。
あの時より大きくなった慎君の手は、青い空を引きよせるように、空中の何かをつかんだ。
「得たこの経験は、悠希が楽になれるように、使いたい。」
掴んだ何かを、また私の方に伸ばし、握った手を開いた。何かを渡すように。
息苦しかったから目が覚めたんだと思う。目が覚めると同時に頭痛がして気持ちが悪くて、大きく深呼吸をしたいのに出来なくて。声も出せない。寝返りをして体を起こしたいのに、身動きできなくて、口も開かなかった。
その不自由さの原因が、口にガムテープ貼られて、手足も何かで縛られていると気が付くのに、随分とかかった。
頬と右太ももに砂埃の溜まるコンクリートの冷たい感触を自覚して、周囲は暗く、わずかに物の影が認識できるようになって、やっと何故の疑問が、生まれた。何度か、そんな朦朧とした意識を繰り返して、影だった物の色や模様、文字がわかるようになった時、自分に起きた事を思い出した。
陸上部を終えて、クラブの友達3人と帰っていた。帰る方向が違う二人とバイバイをして一人になった。公園のそばの道を歩いて先の交差点で右に向かえば家に着くと言う場所だった。後ろから走って来た車が、私の真横で急停車した事にびっくりして、私、知らない間に、車に鞄でも当てちゃって怒られるのかと思った。降りて来たサングラスの男が、急に私を羽交い絞めして口を塞いだ。強烈な薬品の匂いが鼻と口から入って来て、そこからの記憶はなく、気が付いたらそこに寝転がっていた。
目だけを動かして周囲を見渡すと、ビールやコーヒーの空き缶が転がっている。何が入ってるのかわからない木箱やプラスチックケース、一斗缶もある。積み上げられた段ボールの一番下の箱は重みにつぶれて、今にも上の箱が転がり落ちると思われるような不安定さ。その後ろには何かわからない棒のようなもの数本立てかけられている。倉庫か、作業場のような場所だった。
たばこの匂いがきつく、息もしにくい。どうにかして、この口のテープだけでも取りたい、そうもがいたら、先で火のついたタバコが落ちて靴が踏んだ。誰かがいる。その人はこちらに歩いて来て屈みこんだ。顔は見えない。
『気が付いたか・・・・本当はもっと眠っていて欲しかったけと、中毒死されても困るから薬はもう使えない。そのまま大人しくしてくれるか。俺たちは殺人まではするつもりはない、ただ金が欲しいだけ。』
その時はじめて、本当の恐怖が沸き起こった。
怖い、怖い、怖い。殺される。
殺人という言葉が頭にこだまする。開かない口を必死に動かして取ろうとした。だけど、どんなにも叫んでも、もがいても唸る声にしかならなかった。
『ちっ、大人しくしてろって!』
男の怒声に更に恐怖が増す。パニックになった。全身でもがいた。上や下、左、右、とにかく動かした。腕の結ばれている物が皮膚に食い込んで痛かったけれど、ぎゅっーと引っ張ったら、抜けた。
体を起こし、足のロープを外そうとしたら、男に顔を叩かれた。
『何してんだ!くそっ』
とにかく怖い、這ってでも逃げようとしたら、男が私の肩を押さえつけた。暴れて仰向きで見た犯人の顔は、逆光で良く見えない、だけど凄い形相で怒っているのはわかる。男はどこかからか、ナイフを取り出し、私の顔に向けた。
『殺されたくなかったら、大人しくしろ。』
恐怖で男が何を言っているか理解できない。どこからか差し込む光にナイフが光る。
『イやーっ』と叫んだ口を塞がれた。暴れた。ナイフも男も怖くて。
『くそがっ』
急に右手の腕が熱くなった。
そして頬に水滴がついた。
ナイフから落ちてくる水滴・・・違う、それは血。腕がジンジンと痛くなってくる。
『顔じゃなくて良かったな。次、暴れたら、顔にナイフ入れるぞ。』そう言って、ナイフについた血を私の制服のスカートでふき取った男。もう頷くしかできなかった。もう一度、後ろ手にガムテープを巻かれることに抵抗なく従った。また地面に転がされる。
どれぐらい時間がたったのかわからない。腕の傷もどれぐらい深いのかわからない。痛みが現実からの逃避をさせてくれない。
時間が経つのをひたすら待った。
私は誘拐された。とわかったのはずっと後、誘拐犯は、お父さんが務める銀行からの融資を断られて、莫大な借金を抱えていた人たちによる逆恨みの計画的犯行だった。
次第に、もうどうでも良くなってくる。さっさと殺してくれた方が楽なのにって思った。
『くそ、まだかよ。』誰かの連絡を待っている風の犯人は、情報収集の為か、暇つぶしか、テレビをつけた。古い小さなテレビは、何かの木箱の上に置かれてあって、ほこりにまみれ、それでもちゃんと受信して、リモコンで操作すればカラフルな映像がうす暗い部屋に明かりをともした。
『何もやってねぇーな。』次々に変わるチャンネル。
ずっとうす暗かったから、テレビから発せられる光がまぶしかった。
不意に、携帯の着信音。男がリモコンを捨てて、電話に出た。
『おっせーぞ。あぁ・・・・あぁ。んで?』
【常翔が駆け上がります。早いですね、この交代で入った、1年生の新田慎一君。】
テレビはサッカー中継を放送していた。
【えぇ、常翔学園で一番足が速いと、陸上部の子よりも早く、何故陸上部に入らなかったんだと言われてるらしいですよ。】
【ボールコントロールも際立っていますね。】
【ええ、ボールを持ってもスピードが落ちないのがこの新田君の特徴ですね。】
【あーっと、藤倉中のゴールキーパー弾いた。】
そうだった。全国中学生サッカー選手権大会、慎君が入学した常翔学園と広島県の藤倉中学校の3位決定戦。ケーブルテレビで生放送されるから、楽しみにしていたんだった。と言う事は今日は土曜日、丸1日私はここに居る。
【全国中学生サッカー選手権大会、全国47都道府県から勝ち上がって来た中学校、現在3位決定戦をお送りしております。左から右に責めますのは広島県の藤倉中学校、出場回数は5回、もう強豪校って言ってもいいでしょうね。】
【そうですね、5回のうち3回はここ5年以内の出場ですからね。来年再来年、優勝争いに入ってきそうな予感がしますね。】
【そして、画面右から左に責めますのは、全国大会出場、26回目になりますサッカーの名門校、常翔学園、jリーグ選手を何人も排出している学校で、今季スコットランドのチームと契約し入団した大久保選手も、この学校の出身であります。】
【その大久保選手がいた時代に2年連続優勝を果たしていまして、その後の今日までの9年間は低迷して、ベスト4が最近の最高ですね。苦戦している学校ではありますが、この新田君の才能は大久保選手の再来かと言われているようで、注目ですね。】
【まだ1年生ですよね。】
【ええ、新田君のスピードとボールコントロールの技術も注目ですが、一年生の中には、ミッドフィルダーの藤木亮くんも正確なパス回しが定評で、今日はまだベンチですが、この二人のコンビネーションも抜群で注目したいところです。】
小さい画面だったけど、走り回る10人の選手のどれが慎君かは、すぐに見つけられた。
【現在1対1の攻防が続いています。後半40分、ロスタイムを含めて10分前後、選手たちは3位の表彰台を目指して、最後の力を振り絞りフィールドを駆けています。常翔10番3年畑中君が藤倉のパスワークを阻止、駆け上がります。サイド15番染谷君へ パス】
【早いパス回しが有効ですね、藤倉は遅れて、ついてこれていませんから。】
【藤倉のディフェンダーが阻みます。後ろへ戻すか?おっと、これは、右サイドから中央へ駈け込む、新田君へロングパス、オフサイドはー・・・ナシ!線審の旗は上がりません!】
【手前に藤倉のディフェンダーがいましたからね。新田君もそれをわかっていて責めて来ているでしょう。】
【藤倉ディフェンダー、9番、新田君のスピードに追いつけません。ゴール!2対1、常翔が停滞したゲームに動きをつけました。】
【さぁ・・ここからですよ。藤倉も諦めない攻撃になりふり構わず狙ってくるでしょうから。】
先輩たちにもみくちゃにされてもゴールを喜びあっている慎君、そして慎君の顔のアップが、テレビ画面に映る。
その眼は力強く、どこまでも夢を追いかけるキラキラした目。
死にたくない。ここで死にたくない。
この試合、見たかったの。
1週間前から予約してたの。
だから、死なずにここから帰る事が出来たら、真っ先に見る。
もっと大きいテレビで。
「死を覚悟して呆然としていた意識を変えられたのが、録画ビデオを見る事だったなんて、笑えるでしょ。」と悠希はまるで他人事のように淡々と語る。
慎一は何も言えず、首を振るだけしかできない。
3年前の全国大会、同点の膠着状態だった試合に、2年の先輩と交代して慎一は出場した。体力が満タンにある慎一を先輩達は、信頼してパスを回してくれた。そしてゴールを決めた。先輩たちによくやった、新田、お前はやっぱり違うよ天才だよ、なんて頭をもみくちゃにされて喜んでいた時、悠希は誘拐監禁されて恐怖に震えていたなんて。
「電話を終えた男が、何だよ、くそって、俺どうしたらいいんだよって、私の周りを歩き始めた。ずっとテレビはサッカー中継のまま。試合終了で3位入賞を果たした常翔学園の皆が飛び跳ねて喜ぶ姿も、整列して観客席に頭を下げる姿も、慎君がインタビューを受けていたのも、ずっとそんな場所で見ていた。慎君3位おめでとうって言いたいのに、ガムテ―プが邪魔で言えなかった。それが悔しくて涙が出た時、急に窓ガラスが割れた。男は私を掴んで立ち上がらせ、部屋は煙が充満して目が染みた。大きな破裂音、多数の足音、怒号、振動、引っ張られて、転倒した。腕と頭を少し打って、目を開けたら、男も倒れていた。ヘルメットを被った黒づくめの人たちが入って来て、私の身体を起こして手と口の縛りを解いてくれた。」
テレビドラマか映画のような話、にわかに信じられない思いで聞いていた。見逃したドラマのストーリィを聞いているように。悠希はそんな慎一を見透かしてか、くすっと笑った。慎一は苦悶して顔を伏せた。思い出したくない事を言わせてしまっている。でも、話をやめろとは言えない。もう遅い。聞かないのなら最初から聞かないでいるべきだった。
最後まで聞く事が、今自分にできる事。慎一はぐっと唇を噛んだ。
「泣いて目に水分がたまっていたから、煙が目に染みても開けられた。窓ガラスを割って入って来た黒づくめの人達は、警察の特殊部隊の人だと後からきいたんだけど、その人たちに支えられて立ち上がろうとした時、足がしびれてよろめいて、地面に手をついた。ぬるっとした感触が手について、何だろうと見た時、ちょうどドアが開けられて、外からの光が倉庫の中を明るくした。足元に、私を誘拐して監禁した男が倒れていて、周囲は赤い血溜りになっていた。私の腕の傷、こんなに出ていたのかと思って見たら、腕の傷はもう血が固まり始めている。警察の人が無線で「人質確保、犯人死亡。」と言ったのを聞いて、再び倒れる男をみた。警察官が身元を確認する為に犯人の顔を動かした。その犯人は額に穴が開いていて・・・」
悠希は、そこで言葉を止めた。さっきから、しきりに、手に持っていたタオルで手のひらをこすっている。まるで、手についた何かをこすり落とすように。
「それから、また記憶がなくて、気が付いたら、病院のベッドだった。手も綺麗になっていた。腕の傷には包帯が巻かれていて、突っ張った痛みがずっと続いて。」そう言って、悠希は左腕を掴んだ。
「退院後、すぐに見たの。大きなテレビで、慎君がゴール決めた試合の録画を。何度も何度も見たよ。そして、3位おめでとうって、声に出して言った。」
慎一は言葉が出ない。悠希の身に起きた事は重すぎて、釣り合う言葉を見つけられない。
子供達の試合が終わった。相手チームが飛び跳ねて喜んでいるのをみたら、彩都FCは負けてしまったのだろう。肩を落とした選手たちがベンチに戻っていく。
「もうお終い。こんなに早くゲーム終了が来るとは思わなかったなぁ。」と笑顔を見せる悠希。完全に無理をしている。
「終わりって?」
「最近、2年生の先輩達、雰囲気がよくないの、わかっているでしょう。あれは私が原因。寺内先輩は、私と同じ中学の同級生だった。事件の事も知っていて、私はこの常翔にふさわしくない人間だと思っている。慎君のサッカーをまた、そばで見たいと思って入ったサッカー部のマネージャーだったけど、私のせいで部の雰囲気が悪くなるようじゃ、もうやめなければならない。」
(辞めさせない、絶対に。何が悪いんだ?常翔にふさわしくない?何の基準だよ。それに、もううんざりだ。)
「2年の先輩は、元々一年と折が合わないんだよ。中等の時からそうだった。悠希のせいじゃないよ。」
悠希は首を振る。手のひらを激しくタオルでこすり落とす悠希。もう、甲もひらも赤くなっている。きっと、それが悠希の精神疾患だ。
立ち上がり悠希の側に座ると、慎一から逃げるように手を隠す。それでも擦り落とすのをやめない。
「悠希、手が赤くなっている。やめよう。」慎一は悠希の手を覆った。
「や、やめて。私の手は、汚れてる。」と悠希は慎一の手を振り払う。
やっと感情の入った声だと思った
「汚れてないよ。」
「汚れてる、汚れてるの、ここに、血がべっとりとついて。」
胸が痛んた。苦しい。でも、悠希はもっと苦しかった、辛かった。
慎一は、悠希の手を引き寄せ、両手で包む。
「放して、慎君も汚れてしまう。」ともがくのを、慎一はぎゅっと力を入れて握った。
「汚れてない。大丈夫。汚れてないから。」
汚れた私の手を強く強く握る慎君の手は、昔の頃より大きくて、私の手をすっぽりと包んで、離さない。
「大丈夫、大丈夫、汚れてないよ。」
その言葉が嘘で、我慢をしていて、この後、慎君が手を洗いにトイレに駆け込んだとしても、今、この瞬間だけは信じたい。そう思わせる、まっすぐな慎君の目だった。
「辛かったな。」
誰も今まで、そんな言葉をかけてくれた人はいなかった。お父さんもお母さんも、事件の事は腫物に触るように話さない。
いつも通り、事件前と同じ接し方をしてくださいと。カウンセラーから言われているのだろう、逆にぎこちなかった。
我慢していたのに、溢れてくる涙を押さえられない。
「諦めないで、常翔に入って来てくれてありがとう。マネージャーになってくれて嬉しいよ。」
嘘でしょう。どうして慎君は、こんなにも私の心を乱すような事を言うの。
「わ、私が、ありがとうって・・・言いたいのよ。」
「俺は、まだ何もしてないよ。」
「ううん、慎君がゴールを決めたから、慎君が優勝旗を手に入れたから、私、頑張れた。」
「そっか・・・・遠回りは無駄じゃない。」
そう呟いた慎君は、私の頭を肩に引き寄せた。
私はもう、逃れるのをあきらめて、甘えた。
やっぱり、綺麗だなぁ。眼鏡をかけてさらに美しさが増したりのりのの、横顔を惚れ惚れして眺める。
(あー、早くりのりの、慎にいと結婚しないかなぁ。)
りのりのが家に嫁いで来たらえり、宿題で困らなくて済む。りのりのはいつだってえりの味方だから、慎にぃとの喧嘩も楽勝だ。
少食のりのりのが残したおやつは、えりが食べてあげる。そして洋服も、りのりのと仲間で着れるから、沢山の種類の服が着れる・・・これは厳しいかな。りのりのにはもっと身長伸ばしてもらわないと。
「ん?またわからないところ出て来た?」と読んでいた本から顔を上げたりのりの、読んでいる本はイギリスの本だとかで、英字のもの。
「あっ、う、うん。」
「どこ?」とえりのノートを覗いてくる髪がサラリと流れるようにえりの手に触れる。伸びたなあ髪、だから大人ぽく見える。
「この後は、公式を当てはめて計算していくんだよ。」
「えーどの?」
「習ったばかりだよ。」
「えー・・・うーんと。」
大嫌いな数学、りのりのに教えてもらって、何とか付いていけてる状態。りのりのが教えてくれなかったら、確実に補習行になっている。英語嫌いな慎にいを馬鹿に出来ない。
ぐぅーとお腹がなった。
「あははは、お腹空いて、考えられないね~。」
「へへへ。」二人で笑った。りのりの、ほんとに変わった。能面の様に笑わないでいた頃とは大違い。
「しっかし、慎にい何してんだっ!お腹減ったぞー。」
「本当だよ、可愛そうに、お腹空かせた妹をほったらかして。なんて極悪非道!どうすんだ!えりちゃんが餓死したらっ!」
(いやいや、餓死はしないって。)えりの事となると過剰に怒りが本気モードだから、ちょっと怖い。
「ただいま。」玄関から慎にいの声、やっと帰って来た。もう7時過ぎ、これから晩御飯を作ってとなると、食べられるのは7時半過ぎになるだろう。
「お帰り、おっそいよ、慎にい。」
「ああ、ごめん。」
(およ?なんか元気ない。)
キッチンの炊事場で手を洗う慎にぃ、えりがそこで洗ったら汚いと怒るくせに。
「えーとメニュー決まったか?」
「えー、メール送ったじゃん。」
「メール?あぁ、ごめん着信に気が付かなかった。んで何に決めたんだ。」
(はあ?一体、今まで、どこで何してたんだよ。)携帯メールに気づかないほどに。
りのりのも慎にいの様子がおかしいのに気がついて、えりと顔を合す。
「具たっぷりの八宝菜、野菜と魚介類たっぷりね。」
「八宝菜ね・・・白菜がないなぁ。」冷蔵庫を覗いてつぶやく慎にぃは、中華料理が得意。
「買ってくるから、もう少し待ってて。」
「えー。」
またもやりのりのと顔を合わせた。普段なら、今から買ってくるなんて絶対に言わない。
冷蔵庫にない白菜を別の野菜に変えて、それでも美味しい八宝菜にするか、メニュー自体を変えて、文句言わずに食えっ!と怒るか。
りのりのが立ち上がり、慎にいのそばで見上げるように顔をのぞく。
「慎一、視力、0.5だ。」
「あぁ、そう、頑張って治せ、な。」
(はぁ?)
一度落ちた視力は、2度と回復なんてしない、治るようなもんじゃない。完全におかしい。
慎にぃは、りのりのの頭をポンとすると、また鞄を持ってリビングから出て行く。
「慎一!プリン食べたい!」
「はいはい、プリンね。」そう返事を返し、外へ出て行った。
完全に、心、ここにあらず。りのりのの挑発にも乗らない。どういう事?流石に、りのりのも心配顔。
(おおっ!心配っていい感じじゃん!もしかして、慎にぃは、りのりのの気持ちを向けさせる、手法を変えた?)
押しの一手ばかりじゃなく、急に気のないふりをして、りのりのの心を動かす作戦。
「うーん。今なら、何でも言う事を聞きそうな感じ、よしっ。」りのりのは追いかけて、玄関から顔を出して叫ぶ。
「慎一!プリンは10個だよ!10個買ってきて!」
(あ~、りのりの、そうじゃなくて・・・。)
亮は、わずかな好奇心に顔を突っ込んでしまった事に心底、後悔した。
亮は、半日かけて集めたネットの情報を前にして、唸る。
早い段階から、悠希ちゃんが特に2年の先輩達を避けて怯えているのを、本心を読み取って亮は知っていた。ずっと気にはなっていたけれど、色々あって後回しというか、自分もサッカー一筋で行きたい、もうあまり他人の何かに首を突っ込まないようにしたかった。
だけど最近、サッカー部2年の寺内先輩が岡本さんに対して、酷い不審をもち、それが他の2年生に広がった。岡本さんの怯えは大きくなって、金曜日と土曜日、彼女は学校を休んだ。新田は過剰に心配していて、落ち込んでいた。
亮は寺内先輩と世間話をしながら、読み取りを試みた。寺内先輩は本心で、岡本さんの事を「汚れた奴」と罵っていた。
そして日曜日、テスト勉強に飽きた亮は、何気にネットで検索をしてみた。【日向市 岡本悠希 汚れた】をキーワードに。ヒットして集まった噂に亮は目を疑った。こんな酷い話が本当だとしたら・・・どうしようもない。嘘であっても、ネット上で書かれている事が既に大問題だ。きっと、近々大事になる。そう予感し、そして知ってしまった事に後悔する。
「やめときゃよかった。」
新田がこれを知ったら、きっと自分に相談してくる。
正直、もう面倒はごめんだと思った。
とりあえず、新田が相談してくるまで、この件は先送りしようと心に誓った。どうせ今の段階で、亮は何もできない。
事はあまりにも、なのだから。なのに・・・月曜日の朝、教室に入って来た新田の顔を見たとたん、新田がすべてを知って、怒っている事を読み取った。
「ちっ、抱え込んだか。」そう呟いたら、新田の動揺大きくなって、亮に突っかかてくる。
「お前っ知ってた!どうして教えてくれなかった。悠希の・・・痛ぅ。」毎度のことながらイラっと来て、新田の腹にパンチを食らわせた。
「見境なく、叫ぶな。」
新田は腹を押さえて唸る。
「ニッシー、フッキーおはよっ、ん?お腹痛いの?朝から食べ過ぎ?」同じクラスの中山ちゃんが新田の顔を覗く。
「お、おはよう。」
「中山ちゃん、おはよ。今日も元気だねぇ。」
「もっちよ。フッキーに借りてたDVD持ってきたよ。ごめんね長く。」
「あぁいいのに、プレゼントって言ったのに。」
「そうはいかないよ。フッキーからプレゼント貰ったなんて柴崎姉さんに知れたら、どんな顔をして睨まれるか。オー怖。」
と中山ちゃんは腕をさすって、怯えた演技をして自分の席へと歩む。
「机の上に置いておくね。」と中山ちゃんはカバンから出したDVDを振って亮の机に置く。
「うん。」
新田は、悔しさを滲ませて亮をねめつけてくる。
「テスト終わるまで待て。」亮はため息を吐いて、席に戻った。
新田は、苦悶に手を握りしめていた。内容が内容だけに、学園では話せない。亮は、新田を自分のマンションへと来るように誘い、そして晩御飯も作らせようと算段をする。新田の作る料理はマジでうまい。なんだかんだ言っても、新田は亮のマンションを頻繁に訪れ作ってくれるので、一人暮らしを始めてから、晩御飯に困った事がない。しみじみと良い奴と友達になったなぁと思う亮だった。
流石に昼飯までは作れと言えないので、マンション下のコンビニで弁当を買ってからマンションへと帰る。早く話したい新田は買って来た弁当をダイニングテーブルに置くや否や、話し始めようとするから亮は、「飯を食ってからだ。」と制した。
新田の様子からして、事件の事は知っていても、亮が仕入れた情報は知らなさそうだ。だから話をしたくない。焦らして食後の珈琲も入れようとしたのに、新田は、そんな亮にお構いなく、話し始めた。
木曜日の病院で、悠希ちゃんに精神科でばったり会ったこと、そして土曜日に会って聞いた話。やっぱり話はそこまでだった。新田が話し終わるまで、亮は一切の言葉を入れず相槌もしなかった。部屋に静寂の間がしばらく続く。仕方なく、亮は軽い息を吐いてから、口を開いた。
「その事件の事はおおむね、調べて知っている。」
亮は、早い段階から悠希ちゃんが何かに怯えているのを読み取って知っていた事。そして最近になって2年の先輩が、悠希ちゃんを不審に嫌がっていて、他に伝染してしまっている事、その真相を突き止めようと、ネットで検索して拾った事も、ついに話した。
「誘拐された時に、性的暴行されていたという噂が流れて、悠希ちゃん、学校に行けなくなったみたいだ。」至極、冷静に亮は言い放った。
「何だってっ!?」案の定、新田は叫ぶ。
「悲惨な事件を、不謹慎にネット上で発言する奴がいる。それを、ネットだから本気にする奴もいれば、ネットだから嘘だと思う奴がいて、無神経に噂は広まっていく。常翔学園の2年で、悠希ちゃんと元同じ同級生だったのは、全部で3人。サッカー部では寺内先輩だけなのが、まだよかった。」
「何だよっ!よかったって、そんな馬鹿な噂が流れているのをっ。」
怒りの感情をコントロールできない新田、正直うざい。
「お前は俺を、自分と同じ感情に引き込ませたいのか?」
感情まかせになると話が前に進まない。
「えっ?」
「俺はお前の望み通りに、俺しかできない視点と考えを言っている。こっちも努力して冷静になっているんだ。それを・・・見境なく俺に感情をぶつけんなっ!」と怒りの沸騰と同時に頭痛も起きて、眉間を押さえる。
「ご、ごめん。」
「俺も辛い。正直、調べて後悔している。事件だけならまだしも、こんな噂を拾うとは思ってもなかった。」
「俺は絶対にそんな噂、信じない。」
熱い思い、それは確かに正義だ。だけど正義が人を救えるのは子供頃に見た、アニメや特撮ヒーローの世界だけ。現実はそうそう単純じゃない。新田の望む同意はせず、話を続けた。
「後の二人の内、一人は女子、もう一人の2年生は寺内先輩とは親しくなかったようだから、学園内でこれらの事が広まるのが幾分か遅かった。三人共に仲が良かったりしていたら、悠希ちゃんがサッカー部に入部して来た早々に爆発的に情報は広まって、大変なことになっていた。」悠希ちゃんがサッカー部に入って来て一か月半、今まで爆発的に噂が広まらずによく保った方だと思う。逆に何故今になって急に?と言う気もする。
「あと、3年前の事件だったことも幸いだ。その酷い噂は事件直後の物ばかり、今はもう事件を話題にする奴もいない。」
「だけど、これでまた、再燃する可能性もある。」
「あぁ、そうだな。でも、その再燃をする奴って、確実に常翔学園の生徒って事だ。うちはネット発信に関しては厳しい指導があるし、ある程度の抑止力は期待できる。けれど、ネット発信されるのが一番厄介だな。広まると収集つかなくなるし、何より常翔のブランド力が落ちる。」
新田の本心に、うんざりと、学園を貶す思いが沸き起こる。
目を細めた亮に気づき、新田は顔をそむけた。
「どうすれば・・・」
「凱さんに話して、どうにかしてもらうしかないだろうな。今、常翔の情報管理がどうなってるか知らないけど。」
「ちょっと待って、凱さんに話すって・・・学園はそもそも悠希の事件の事を知ってるのか?もし悠希、学園に内緒で入学してきているとしたら・・・」
「あっ・・・」そうだった。りのちゃんの時もそうだった。りのちゃんは精神科に通っている事を学園には黙っていて、入学してきていた。亮は記憶を辿る。悠希ちゃんの本心がどうだったか、そして周りの状況は?柴崎や凱さんの言動。だけど、当然にそれはわからない。「わからない。でも、柴崎は知らない。知ってたら悠希ちゃんと接する時に動揺が起きて、それを俺は読み取れる。今まで一度もそれはない。」
「柴崎は、教えられていないだけかもしれない。」
「うん・・・、凱さんが4月から高等部へと移動したのは、もしかしたら悠希ちゃんの事をフォローする為か・・・」独り言に近いつぶやきをして、亮は腕を組んだ。
「それは、確かな事?」
「いや、まったくの俺の推測。悠希ちゃんはそのことを?」
「何も・・・あっ、(もうお終い。こんなに早くゲーム終了が来るとは思わなかった。私のせいで部の雰囲気が悪くなるようじゃ、もうやめなければならない)って言ったの、マネージャの事を言っていると思っていた、もしかして学園そのものを辞めなくちゃって言っているとしたら。」
「学園は知らない事になるな。」
「まだ2か月も経ってないのに。」と新田が辛いつぶやきをする。
「藤木、頼む。力を貸してくれ。」
そう言って新田は、両手をついて頭を下げる。
(あぁ、こんな劇的な演出はウザい。)
亮は、淹れたものの、もう飲む気のなくなった珈琲を捨てようと立ち上がる。
「もう、貸してる。」
「これからも。」
新田は珈琲に全く口をつけていない。
「悠希が事件の事を内緒にして入学してきているかどうか、読み取って欲しい。」
(こうして面倒なことにどっぷりハマっていく。)
「そんなの、悠希ちゃんに直接聞けばいいだろう。」
「これ以上は、事件の話は出来ないよ。まして、そんな噂があったと知ったら。」
「優しいな・・・」
「藤木!」
「お前に会いたいと願って常翔に入って来た悠希ちゃん。りのちゃんの時と同じ。」
「俺は・・・」
「死ぬほど苦しんでる女が、お前に最後の希みを寄せて、立ち上がる。それに手を差し伸べるなら、まず自分で何とかするべきなんじゃないか?と、突っぱねたくなるほどの事なんだよ。これは。」
新田は、微かに頷く。
「悪いが、りのちゃんの時ほど力は貸せない。俺も自分の夢を優先したいし・・・」
最近頻繁に起きている片頭痛は、何かを読み取ろうとして起きている。時に、何を読み取ろうとしていたのかも痛みが邪魔してわからなくなってしまう。そんな調子の悪さがあるから、協力できないとは言えなかった。くだらないプライド。これだけが、新田を超えられる能力だ。
「それでいいのなら。」
「わかった。それで、十分だよ。ありがとう。」
(俺も優しいな。)と亮は自分にあきれた。
中間テストの順位が発表された。普通科の教室が並ぶ廊下の掲示板には、人だかりが出来ている。周囲では喜び、叫び、泣いて、恥ずかしがっていたりする。自分の順位を見つける前に柴崎さんの名前を見つけた。23位である事に驚いて、でもすぐに納得する。常翔学園の経営者跡が取りだもの。下方だと恥だろう、きっと他人にはわからないプレッシャーがあるのだろうと考える。自分の名前をやっと見つける、220人中88番。自然とサッカー部のメンバーの名前が目につく。意外にも、福島君が27位だったりして感心する。廊下の両端にも人だかりが出来ていて、奇声が上がっている。特進クラスと特選クラスも同時に成績順位表が貼りだされていた。
特進クラスにいる。特待生の真辺りのさんの順位が気になる。真辺りのさんは、私が慎君と会うずっと前の、赤ちゃんの頃からの幼馴染だと聞いた。慎君が彩都FCに入ってくる少し前に真辺りのさんは、お父さん海外勤務によって海外に移住して、小学6年になる頃に日本に帰国した、教えてくれたのは柴崎さんだ。慎君にそんな幼馴染が居たなんて、初めて知った。彩都FCに居た頃、そのような話は一切なかった。
特進の方から走ってくる男子生徒が「真辺さんが一位だぜ」と誰ともなしに言って、周囲がどよめく。学園では、もう一人の男子特待生と真辺さんのどちらが一番か?という話が、試験前から話題になっていた。
(真辺さんが一番・・・)綺麗な顔をして頭脳明晰、全てが揃っている人って要るんだなと、羨ましいため息をはく。
特選クラスの成績表へと足を向けた。慎君の名前を見つける前に、一番の所に、藤木君の名前を見つけて驚く。特選の5教科は、普通科より授業内容もテストも簡単だとは聞いていたけれど、それにしても県内有数の進学校である常翔学園は平均的な公立高校よりはレベルが高い。特選は44人しかいないにしても、これはすごい。慎君は・・・と探している時に、教室から出て来た慎君に声を掛けられる。
「よぉ、悠希。すごいじゃん順位見たよ。」
「ど、とこがぁ?」
あの日から、気まずくなるかもしれないと懸念したけれど、慎君は今まで通り、普通に私と接してくれている。
「上位にいるじゃん。」
「どこが上位よ。上位ってのは4分の一以上の事言うと思うけど。」
「そう?」
「慎君は?」
「俺は22位・・・」
「慎君も上位・・かな?」
「慰めはいいよ。」と首を竦めて笑う。
「藤木君の一位って凄いね。頭いいんだろうなぁと思っていたけど。」
「あぁ、あいつは中等時から、女子に気を引くために、必死だから。」
慎君が4月の初めに忠告してくれたように、藤木君の女の子好きは、わかりやすい程に校内で見かける。見かけるたびに、ニコニコ顔で女子と話しているし、部内でも、私がお茶の入ったジャグポットを持っていると、必ず藤木君は代わって持ち運んでくれる。女子にマメで優しい。
「なんか言ったか?」噂の藤木君が、教室から出てきた。
「なーんにも。」
「藤木君の1位、凄いねって言ってたのよ。」
「特選でトップ取ったって、全然自慢になんないよ。普通科よりレベル低いんだから。」
「嫌味なやつぅ~。」
「お前は気を抜き過ぎだ。英語もりのちゃんの特訓のおかけで成績上がってきたのに、また補習ラインスレスレって、馬鹿だろ。」
「うっせー。」慎君の蹴りを、藤木君は身軽に交わし、おどけた舌を出す。ほんと、この二人はいつも一緒で仲がいい。
彩都FCでパスワークの相手を見つけられなくて、しょんぼりしていた慎君が、今はサッカー部の仲間達に囲まれている。私は心の中で「良かったね」と声をかけた。
「りのちゃんの成績、見てこよっと。」と、藤木君は廊下の奥へと歩み行く。
「慎君はいかないの?」
「あー、さっき見たから・・・」
(そうだよね、一番、気になるよね。)
「そっか、私、まだなんだ、私も見たいから行くね。」一位と知っても、点数や二位との差がどれくらいかが気になる。
「一緒に行くよ。」とぴったりと私に並ぶ慎君。この肩に顔を埋めて泣いた事を思い出した。胸が熱くなる。「悠希、あのさ、今日から、一緒に昼食を食べないか?」
「えっ?」足を止めた。
慎君は、柴崎さんと藤木さん、そして真辺さんも含めた6人でいつも昼食を食べている。
「でも・・・」
「皆と一緒の方が楽しいだろう。」
(そ、そう・・・皆とね。私、何、期待してるのよ。)
話を聞いてもらったからって、特別な関係になったわけじゃない。
「柴崎と藤木も居るし、りのと佐々木さんと今野も嫌だとは言わないよ。」
真辺さんと佐々木さん、今野君とは、まだしゃべったことが無い。
「今日からいいよね。悠希の席も用意しておくから。」そうやって爽やかに笑う慎君。
また胸が熱くなる。
「うん。」
(私、学校、辞めたくない。ずっと慎君と一緒に居たい。)
そう、強く思った。
【俺は、その存在を絶つように、ロシアとエストニアの国境の、ナルヴァという田舎街に流れ着いた。いや、隠れたと言った方がいい。こんな田舎町では、日本人の俺は目立つ存在ではあるが、逆に追手の存在も目立つ。村人は外国人の俺に親切で、情報に飢えている。だから得た情報は、すぐに俺の所まで入ってくる。それにすぐ隣はロシア。この脳にある機密文書を土産に、ロシアに亡命を求めれば、命だけは保証してくれるだろう。
米軍から逃げた俺、ヤマモトリクは、今や世界中に指名手配されている逃亡兵。米軍はこの脳に残る記憶を消そうと、躍起になって俺を探している。死に場所を求めて入隊した米軍で、俺の記憶力を知った上官は、特殊部隊に配置した。皮肉なことに死にたい願いから遠くなり願う事なく。特殊任務の最中に出会った少女との約束の為に、死ねない命運を背負う事になった。】
んー【背負う事になった。】がいいか、【背負う事になってしまった。】がいいか・・・直訳は、【なった】だけど、ヤマモトリクの今までの心情や経験を思ったら、【なってしまった】の方がしっくりくるんだけど、文章的にはくどいかなぁ。
本の翻訳はただ単に直訳すればいいってもんじゃない。作者の癖や性格によって、文章の構成の違いがある。物語の雰囲気を壊さず、登場人物のキャラも壊さない様に、一貫した言葉遣いにも気にかけなくちゃいけない。難しいを実感するけれど、それが逆に面白くなってくる。
英語の単語は日本語より少なく、一つの動詞や形容詞の中に色んな動作が含まれる。それに見合った日本語を探すのは大変だけど、ぴったりな言葉を見つけた時は、ピースをはめたパズルのように達成感がある。あんなに日本語が嫌いだと思っていたけど、辞書をめくるたびに日本語の奥深さに感嘆する。
凱さんから貰った翻訳のアルバイトが、すごく面白くて夢中になった。まだ発売されていない本を真っ先読めると言うのが、一番の喜びだ。
(あー、この単語、何だったかなぁ日本語で・・・)
いくら私が帰国子女で、英語のテストが毎回200点満点を取り続けているといっても、イギリス人作家の書いた軍事ハードボイルドは専門用語が多く出て来て、中々に難しい。それをまずイギリスの出版社が出している英語の、こっちで言う広辞苑をめくってその単語が何を示しているか調べ、それに似合った日本語を日本の辞書や、専門書から選ぶ。だから今、私の机の上には、イギリスの英語広辞苑と、日本語の広辞苑と、アメリカの軍事組織の事が詳しく書かれた専門書と、そして凱さんから預かった翻訳の原本「夜明けの果てに」が積み上がっている。クラスメートは、何してるの?と最初は興味津々に聞いてきた。アルバイトの事は禁句だから、特待のレポートをしている。と言ったら、ふーんと興味なさそうに去って行ってくれた。
本当に、凱さんの特殊能力を切望する。あの記憶力があれば、こんなに沢山の本を机に広げることなく頭の中だけで辞書をめくる事が出来るのに。
(いいなぁ、凱さん。)
この本の作家トーマス・ヘンリーとは、ハングラード時代の友達だったと言うけれど、違う。トーマス・ヘンリーは凱さんが飛び級で入学し卒業したハングラード大学の出身じゃない。イギリスのフィリップス大学を卒業後、英国軍に入っている。前作に続くこの本の主人公、ヤマモトリクが、凱さんの記憶力と同じ。これは、絶対に凱さんの経験談だ。英国軍の兵士だったトーマ・ヘンリーとは、アルベール・テラ掃討作戦を敢行する為に集められ構成された、ナショナルチームの一員として凱さんと出会ったんだ。そして、軍を退役後に凱さんをモデルに本を書いた。麗香からは、ハングラード大学を19歳で卒業した後、4年間、世界をフラフラと旅をしていたと聞いていたけれど、それは嘘だろう。米軍に所属していた経歴を知れたら、このヤマモト・リクのように命を狙われるから皆には黙っているんだ。凱さんのお腹には、止血の為に焼いて塞いだ火傷の後があるはず。見せてくれないのも証拠だ。
「りの。」
(見たいなぁ。止血で焼いた火傷の痕。)
どうにか、見せてもらえるようなミッションを考えなくては。
「りの?」
凱さんが裸になる時・・・・柴崎邸でお風呂に入る時がチャンスか。でも柴崎邸にはあまり泊まらないって聞いた。
「りのってば!」顔を上げたら、麗香と藤木が私の席の前に立っていた。
「あっ、麗香、藤木、何?」
「何じゃないわよ。何回も呼んでるのに。」
「あぁ、ごめん。」
「相変わらず、りのちゃんの集中力はすごいねぇ。これが例のか。見ていい?」
頷いて答える。私のアルバイトは周りには内諸。本当なら学校でする事も良くないのだろうけれど、面白いから、休み時間も利用してやっていた。早く完成させて、アルバイト料も早く貰いたい。
「りの、やっぱり凄いわ、あいつに勝ったじゃない。」
「勝った?何が?」
「あぁ。まだ見てないのね。中間テストの成績順位、張りだされてるわよ。」
「ふーん。」
「相変わらず興味ないのね。」
「特待を剥奪されなければ、どうでもいい。」
「そんな事しないわよ。点数が0点でもあたしが居る限り剥奪なんてさせるもんですか。」
「柴崎、声大きいよ。りのちゃんの立場ってもんがあるだろ。―――りのちゃん、どうする?見に行く?」と相変わらず、藤木は気遣いがマメ。
「じゃぁ、行こうかな。」
藤木は、中等のころからこうして成績発表の時はついてきてくれる。成績による注目や妬みの視線やひそひそ話から、うまくそらせてくれていた。だから、今日もわざわざA組まで来てくれたのだ。廊下に出ると、B組の廊下の壁にある掲示板に人だかりが出来ていた。
「真辺さん、おめでとう。もう一人の特待の子に勝ったわね。」内部進学組の同級生が、すれ違いにそう言ってくる。
「あ、ありが・・・とう。」
(ありがとう?変だ。)
私は勝ち負けなんて意識してない。嬉しくもなんともないし、掲示板を見に行くのは、日本史と古典の点数が知りたいから。
「飯島の方が入試点数高かったんだろ?俺、飯島が1位になると思ったのによぉ。」
「中学からのスライドだと、テストの傾向とかもわかってるから、飯島の方が不利じゃね?」
「飯島との点数差が4点だけって・・・それ考えたら、飯島の方が上って事か?」
皆が勝手な分析をして、勝手な感想を言う。
前を行く嬉しそうに足取り軽やかの麗香には悪いけど、やっぱり見に行くのを止めようという気になる。
「見に行くの止める?」藤木が躊躇った私に気づく。
「うん・・・・ごめん。」
「いいよ。柴崎は、ほっとこう。りのちゃんの1番が嬉しくて仕方ないみたいだから。」落胆する私の肩をポンポンと叩いて励ましてくれる。踵を返した。
「僕の方が、5教科平均は上だからね。真辺さんの日本史は4番じゃないか。いくら理数英が満点でも、ここまで教科の点数にばらつきがあっては、特待生としてはどうかな。僕以外の他の生徒に1教科でも負けている科目があっては、特待生の資質に問題があるんじゃないかな。」黒メガネの声が廊下に響いた。
「何言ってるのよ、飯島!」麗香が怒る。
「りのちゃん、大丈夫、無視して行こう。」藤木が肩を押してくれるも、立ち止まった私の足は動けない。
「4点で負けては要るけれど、僕の点数は実力だからね。」
「はぁ?何言ってるのよ。りのだって実力じゃない。」
「違うよ、真辺さんの英語、特にヒアリングは海外生活をしていた時の成果、いわゆる単なる身についた母国語の確認みたいなもんだ。満点は当たり前だよね。だけど僕は違う、僕の英語の193点は、努力をした成果。他の数学、理科もそうだよ。あの世界1の学力を誇るフィンランドで教育を受けて来たのなら、高得点は当たり前、僕はそんな環境に恵まれなくての総合958だからね。」
「そんなの屁理屈だわ!環境が何だってのよ!あんたはただ負けた言い訳をしてるだけよ!」
「言い訳じゃないよ、分析だよ。真辺さんの上位は狡い環境での成績なんだ。」
狡い・・・
「りのちゃん、行こう。あんな奴の言う事、気にするな。」
真辺りのの成績は、狡い・・・
フィンランドの学校に通っていたりのは、ずるい。
「りのは狡くて・・・最低。」
意識を停止させた。
悠希と一緒に中棟の特進クラスへと歩く。途中の普通科の掲示板の前が、先に進めないほどに人だかりが出来ているのは、普通科の人数が多いから当たり前である。サッカー部の仲間の成績を、悠希と一緒に確認してから中棟への渡り廊下を進んだ。渡り切った所で、柴崎の叫びが響く。
「そんなの屁理屈だわ!環境が何だってのよ!あんたはただ負けた言い訳をしてるわけだわ。」
「言い訳じゃないよ分析だよ。真辺さんの上位は、狡い環境での成績なんだ。」
柴崎と、もう一人の特待生、飯島隆が言い争っている。
「狡いって!あんたね。りのが努力なしで、この1番の成績を中等部からキープしているとでも思ってんの?りのはね、誰よりもっ」
「そう、りのは狡くて最低。」
「ちょっ、りのちゃん!」藤木の制止を払って、柴崎の後ろから歩み出るりの。その顔は、笑っていた。
「狡いりのは、狡い手法で、あの1番の場所にいるんだ。」りのは掲示板を指す。
(りの、何故笑っている?)
「必死で勉強なんてしてない。テスト前日、遅くまでファンタジーの本を読みふけっていた。ママに早く寝なさいって怒られて、やっと眠りについた。朝もその本が面白くてやめられなくて朝食のパンをかじりながら読んでいたら、遅刻するわよとまたママに怒られて。遅刻はしなかったけれど、やっぱりテストが始まる直前まで読んでいた。」
テストの日の朝、登校のバスで、りのは分厚い英語の本を読んでいた。慎一は、特進の英語の教科書だと思い、英語の得意なりのにしては珍しく英語の勉強をしているなとは思ったが、りのでも英語の勉強しないと特進の授業は難しいのだと思って、話しかけなかった。
「りのは狡い。あの成績は、運よくフィンランドに住む事になった結果の成績。りのは努力なんてしてない。ただフィンランドの学校に通っただけ。」
しーんと静まり返った廊下、皆がりのに注目している。
「ちょっ、りのちゃん、行こう、戻ろう。教室!」慌てて、藤木がりのの腕を引き、特進の教室へと連れて行く。追いかけようとして、悠希がそばに居る事を思い出した。
「ごめん。俺、ちょっと、心配だから。」
唖然としていた悠希がうなづいたのを、了解の意味だと取り、人をかき分け追いかけた。
「あんたね!くだらない事ばかり言ってたら、私が承知しないわよ!」柴崎の追撃戦が始まる。
「柴崎さんは関係な」
「関係あるわよ!私はりのの親友で、この学園の経営者の娘よ!」柴崎の必殺技がさく裂、飯島に効き目があるかどうかはわからない。りのと藤木がA組の教室に入って行くのに追いついた。
「痛い、離して!」藤木の腕を怒ったように振りほどく。こんなに強気のりのは珍しい。慎一自身に対してならいくらでもあるが、それが藤木、そして他人に対しては、今までになかったことだ。それだけ、昔に戻ってきているという事だろうか。
「あぁごめん。でも、りのちゃん、どうしたの?急にあんな事、言って。」
藤木の問いに、顔をプイっと背けるりの。
「別に、本当の事、言っただけ。」
藤木が目を細める。
「本当の事だけど、あの場でそれを言ったら、余計に・・・」
「そう、だから、りのは嫌われる。」
違和感に慎一は眉間を寄せた。
(りのは、自身の事を名前で言っていたか?)
「りのちゃん?」
「ったく!あの飯島ぁ、むかつくわ!」怒り心頭の柴崎が入ってくる。「何言っても屁理屈ばかり!何だってあんな奴が特」
「柴崎!」藤木が柴崎の先の言葉を制する。いくら腹が立つからって、学園経営者の娘が言っていい言葉じゃない。柴崎は藤木の止めに理解するも、怒りは沈められないようで顔を歪ませる。
「だけど、凄いじゃない、りの、あいつを黙らせたわよ。スカッとしたわ。テスト勉強していないりのと、必至で勉強しての飯島じゃ、どんな屁理屈を言っても、りのの方が完全勝利よねぇ。」
怒りから上機嫌に変わった柴崎の笑顔に、慎一は藤木と顔見合わせて苦笑した。
亮は、小さくため息をついた。
(自分で何とかしようとは、してるみたいだけど・・・まぁ、丸投げされるよりはマシか。努力は認めよう。)
「岡本さんも?」
「あぁ、いいだろ?」
「あ、うん、別にいいけど・・・」と言う言葉とは反対に、嫌だという感情が麗香の本心に宿ったのを読む。麗香はそんな亮の視線に少しの怒りを滲ませて外した。
「岡本さんって、新田君がスポ少の頃に一緒で、男の子だとずっと思ってた子よね、今はサッカー部マネージャの。」佐々木さんが可笑しそうに解説をする。
「もういいよ、その話は。」
「んで、新田がそのお誕生席に座るってか?」新田が別の席から椅子だけ持ってきて置いたのを、今野が指さす。
6人掛けの食堂のテーブル。岡本さんが入れば、一人は必然的にお誕生席になる。
「狭いけど、仕方ないだろ。テーブル持ってきてひっつけるのも大層だし。」
「リノとそのおかもっちゃん、女子に挟まれて、モテる男は違うねぇ。」と今野が茶化す。
「そんなんじゃねぇ!」本気で怒る新田。
今まで、昼食を一人で食べていた悠希ちゃんに一緒に食べようと誘った新田。悠希ちゃんへの気遣いは適切だが、従来の仲間内には、あまり良い対応ではない。周りを見ずに行動を起こすと、更なる難題にぶつかるというのに。
「じゃ、この機会に、席替えするか。」亮から提案をする。
「そうね、それがいいわね。どうする?」とメグりん。
「えぇ~。」今野だけが、佐々木さんと離れるのが嫌で不満の声を出す。
「悠希ちゃんは、まだ今野と佐々木さん、りのちゃんとあんまり話したことが無いだろうから、慣れるまで、柴崎か新田、俺の横にしてあげて、このお誕生席の3つは狭いから、いつも最後に来るりのちゃんと、早くに来れる特選の俺か新田がここに座ったら、先に食べてトレイを寄せる事が出来るだろう。」
「新田とりのをくっつけないで、代わり映えのしない喧嘩をするから、うるさいわ。」
「あははは、そうね。」
「かといって、悠希ちゃんがこのお誕生席だとちょっとかわいそうだから、俺がここでいいよ。んでりのちゃんが今までと変わらずここで。」
「私もこのまま、りのの隣でいい?で今、新田が座っている席に岡本さんが座ってもらって、新田がその隣に座れば、岡本さん、気を使わなくて済むでしょう。」嫌だと思いながらも、こういう時の仕切はちゃんと考えてやって行く麗香。
「じゃ、残ったこっちの端が私と今野のどちらかね。あえて変える必要もないから、私もこの場所のままにするわ。」
「えー、俺、柴崎の隣かよ!」
「何よ!その不服そうな言い方は!」
「その威圧が、飯を不味くする。」
「何ですって!」
「あっ、来た来た、悠希!こっち!」新田が、食堂に現れた岡本さんに手を振る。
無造作にテーブルに置いてあった麗香の携帯が、バイブで振動する。
「ん?あれ?凱兄さんだわ。」
「悠希ちゃん、ここの席だけどいい?」
「あっ、うん。皆さん、ごめんなさい。割り込んじゃったみたいで。」
「何言ってんだよ。誰も嫌がる奴なんて居ないよ。」新田の純粋さは、むずかゆい。嫌がる本心を隠し持っている人間が約1名、今は電話中で居るというのに。りのちゃんも嫌がるだろう・・・その本心読めるかどうか、挑戦的に待ち遠しかったりする亮。
「まだよ。・・・・・・うん・・・わかった、急いで食べて、行くわ。はい。」
柴崎の電話が終わる。呼び出しがかかったようだ。
「ごめんね、柴崎さん。」
「ううん。よろしく。」
「こちらこそ。」、
岡本さんの恐怖の混じるドキドキが、嫌と言う程に読めて、こっちが辛くなってくる。
「私、凱兄さんに呼ばれたの、急いで食べなくちゃなんないから。」
そう言うと麗香は、いつも食堂に持って来ている小さなトートバッグに携帯を突っ込むと、慌ただしく配膳列に並びに行く。
「佐々木さんと今野、二人共バスケ部だ。」
「よろしくね、岡本さん。」
「よろしく、岡もっちゃん。」
少しほっとした岡本さん。今までりのちゃんと同様に辛い日々を送って来たんだと思うと、その心を読んでしまう自分が、この先、冷静に対処できるかと不安だ。
「で、まだ来てないけど、向かいに、りのが座るから。特進のりのは、いつも遅いんだ。」
「そうなんだ。」
不思議と新田は、岡本悠希さんに向き合う時、心は陽に向く。
りのちゃんの時とは正反対だ。
最近、りのは英語ばかりをして、私に意識を明け渡さない。やっと明け渡したと思ったら、成績発表の掲示板の前。誰かが狡いと言って、りのは皆の悪口に怯えて意識の奥に引き込んだ。聞きたくない事を避けて私に聞かせたりの。あんな場所で入れ替わるなんて、やっぱり、りのは狡くて最低。でも言ってやったわ。皆の前でりのへの不満を、すっきり。それから幸いに英語の授業はなかったから、ずっと私が表に出られてうれしい。今日は、クラブも行かないでおこう。バスケは出来ない事はないけど、真剣になり過ぎると、りのの意識が回復して入れ替わられてしまう。りのが心傷付いて引きこもっている間の今が、ニコニコの生活を楽しめる時間。
大きく伸びをした。お昼休みの時間だけど、食堂には藤木がいる。あの目は要注意だ。どこまで藤木は本心を読むのだろう?私が表にいる時に困るのは藤木の存在。私がニコだと見破るのは、きっと藤木だろう。だからなるべく藤木と距離を置くようにしているのだけど、その距離を開け過ぎても、藤木には悟られそうだから、絶妙な距離と演技が必要。もう少し経ってから食堂に行こう。なるべく藤木と一緒に居る時間を少なくする、私が遅いのはいつもの事だから問題ない。
今日は、朝から雨が降ったりやんだりで、今は止んでいるけれど、またいつ雨が降ってくるかわからない空模様。明日もこんな天気が続く予報で、梅雨入り間近のような事をテレビが知らせていた。雨に濡れた中庭に降りてみた。流線型の花壇が小道を作っている。年中何かしらの花が咲いている学園、今はこの時期定番の紫陽花が、やっと咲き始めたところ。学園中の花壇や庭園の花木は専属の庭師さんが手入れしている。校務さんではない、ちゃんとした専属の庭師だ。学業から程遠い所にもお金をかけている所が、お金持ちの象徴の学校だなぁと思う。環境が贅沢過ぎると思うけど、特待生として無償で入れてもらっている私に言う資格はない。
ここにある紫陽花は青色をしている。中等部の中庭の紫陽花はピンク色をしていた。紫陽花の色は土のPhの度合いで変わる。中等と高等で花壇の土質を変えていると言う事になる。
(凄いな、庭師さん。)
しゃがんで土を触ってみた。昔の記憶がよみがえる。雨の日に外で蟻の巣を掘り起こした記憶は、ついこの間の事のように鮮明。
(こんな作られた花壇の土じゃ、蟻の巣なんてないかぁ・・・・ん?わぁ、かわいいっ!)
花壇の濡れたレンガにカタツムリがひっついているのを見つけた。
茶色いヒタリマキマイマイ。
『パパ、見て!カタツムリ!』
『あぁ、本当だね。これはヒダリマキマイマイだね。』
『ヒダリマキマイマイ?』
『カタツムリにはね、この殻のぐるぐるが、左に巻いてるのと右に巻いてるのがあるんだよ。』
『へぇー。じゃ、右にグルグルはミギマキマイマイ?』
『ははは、不正解。右に巻いてるのは、ミスジマイマイ、コヘゾマイマイとか。ミギマキとは言わないねぇ。』
『えー、どうして?』
『さぁ、どうしてだろうねぇ。右巻きの方が沢山種類があるからじゃないかな?』
『右にグルグルは、ミギマキマイマイにしたらわかりやすくていいのに~。でもどうして右巻きの方が種類多いのかな?』
『ふふふ、りのは次から次へと疑問が出てくるねぇ。家に帰ってから調べてみようか?』
『うん!あー帰るの待って!ミギマキの子も見つけてから!』
パパとの思い出も鮮明。
よくありがちな紫陽花の葉にカタツムリがくっついている梅雨のイメージが強いけど、それを見たことが無い。いつも見かけるのは、こうした花壇のコンクリートにへばりついているか、木の根本にくっ付いているか。
カタツムリはカルシウムを摂取しにコンクリートを好む、だからこのヒダリマキマイマイは今お食事中、殻を大きくしようとしてるんだね。
(可愛いなぁ。持って帰ったら、ママに起こられるかな?他にもいないかなぁ。ミギマキの子。)
「左だ。左腕を見たらわかる。」
(あぁ、左ね、左のほうを探したらいいんだね。)
「傷があるから。それが証拠さ。」
(傷がある?あぁ、あるある、レンガにひび割れた傷がある。)
「でもさ、長袖着用オッケーになったから、見られないじゃん。」
(そうだね。こんなレンガの裏だと、見にくいよね。アジサイの葉が大きくて邪魔だし、見られない。)
「んーでも絶対にあいつだよ。」
(うん、絶対にあいつ、居そうだよね。木の幹の隙間によく挟まってたもん、カタツムリ。)
「じゃ、留年して、ここに入って来たって事?」
(そう、移動して、こんな狭いとこに、よく入ってる。)
「でも良く、入れたよな。ここに」
(ほんと、こんな狭い所に、よく入れたね。)
「あれだよ、絶対っ」
(絶対にいる。ほらっ居た!)
「裏口入学。」
「裏口入学!?」
(ウラグチマイマイ!・・・えっ?)
「あいつの親、信用金庫の役員だって、だから金を狙われて誘拐されたんだよ。」
(誘拐?)
「信用金庫役員の娘!?」
「あぁ、いくらでも金あるじゃん。だから、誘拐されても、金を積んで命拾いはしたし、常翔の入学だって金積んで頼み込んだんだぜ。そうじゃないと、ここには入学出来ないだろ。いくらなんでも誘拐されて犯されたと噂のある奴が。」
(誰の話?誰が話してる?)
「ヤダな、そんな奴がマネージャーなんて。」
(マネージャー?何部の?)
「あぁ辞めてくんないかなぁ岡本悠希。サッカー部を。」
(!・・・私、もしかして、とんでもない事を聞いてしまったんじゃ・・・)
雨のしずくが紫陽花の葉から落ちて来て、首筋にあたった。
「ひゃっ!」思わず声が出てしまった。
「うわっ!」
「誰?!」花壇を回って駆けつけてくる驚いた顔の二人の男子。
(見つかってしまった。)知らない顔、同級生か先輩かもわからない。
「ま、真辺さん・・・」私の事を知っている。「何してるの?」二人の男子は、動揺した慌てぶり。
(完全に、居てはいけない場所にいて、絶対に聞いては行けない事を聞いちゃった私、のシーンだ。)
「真辺さん、い、今の話・・・。」
「わ、わ私、あ、あの・・・・う、ウラグチマイマイ、見つけて。」あー違う!「じゃない、ミギマキマイマイ見つけ」
捉えたカタツムリを二人に見せた。これで正統証言だ。「違う!こいつ、ヒダリ・・・」
「か、カタツムリ?」
「ま、真辺さん・・・」顔を見合わせる二人。
(誰だよ、こいつら。)
こういうの多いんだよな。私は大体の人を知らないのに、相手は私の事を知っている。
「だ、大丈夫?」
(大丈夫って何だよ。)私はミギマキマイマイ探してただけだ。邪魔したのはお前らだ。
「あの~真辺さん、今の話、聞いてたよね。」
「新田には、言わないでくれる?」
(はぁ?どうして慎一が出てくる?もう、わけがわからない。お腹もすいてきた。)
「わ私、い忙しい、かカタツムリ・・・・食べなきゃ。」
「えっ?」
(あー日本語間違った!)二人が更に驚いた顔をする。(もうどうでもいいや。逃げよ。)
「あっ、ちょっと!真辺さんっ!」
「流石、フランスからの帰国子女、カタツムリ食べるってよ。」
(食べるか!こんなに、かわいい子。あっ誘拐してきちゃった。)
柴崎さんが急いで昼食を食べ終え、食堂を出て行った後、やっと真辺さんが食堂に現れた。
間近でちゃんと真辺さんを見たのは始めてだった。小顔で、透き通るような白い肌。常翔一の美人と言われている通り、惚れ惚れする。だけど、そのきれいな顔と身長がアンバランスだった。
「遅かったなぁ。今日は特に。」と慎君が待ちくたびれたようにつぶやく。もう皆、食べ終わっていた。
「探してたから。」
「何を?」
「ミギマキマイマイ。」そう言って真辺さんは、握っていた手の平を開いた。
「カタツムリ!?」
「げっ、んなもん持ってくんなよ!食堂に!」慎君が怒る。
「あはは、リノそれ食べるのか?エスカルゴじゃねーぞ。」
「食べない!ハルもか!」
「はぁ?もって何?」
「りのちゃん、それ、ヒダリマキマイマイだよ。」と、やっぱり優しい表情で対応する藤木君。
「そうだよ。だからミギマキ探してたんだけど・・・・」顔をあげた真辺さんと目が合った。驚いた顔で固まる真辺さん。
「あぁ、りの、今日から悠希も一緒に昼食を食べる事になったから。」
「よろしく。」と私はとびきりの笑顔であいさつをした。
「あっ・・・う、うら・・・」真辺さんは、驚愕に言葉が詰まる。
「うら?りのちゃん?」
「・・ちゅ昼食、も貰って・・く・・」真辺さんは、私のよろしくを無視したように顔を背けて、行ってしまった。
「あっ、りの!カタツムリ持ったままで!」慎君が立ち上がって、真辺さんを追いかける。
「りのちゃんは、慣れない人の前だと話せなくて、最初は誰に対しても、あんな風だから気にしないで。」
藤木君がそう言って目じりの皺を作って笑う。
(この笑顔で数々の女子と知り合いになっていくのかぁ。)
「そうそう、慣れるまで時間がかかるかもしれないけど、慣れたら普通に話せるようになるし。」と佐々木さんが真辺さんの方へと振り返るのに誘導されて、私も顔を向ける。真辺さんは慎君にカタツムリを渡すように説得されていた。
(慎君、真辺さんの事をずっと気に掛けている。もしかして、この間言っていた精神科に通っている知り合いの子って、真辺さん?まさかねぇ、あんなに頭のいい人が。)
「リノは吃音がなくなったら、友達の証拠。」
「あはは、そうね、そんな事、言ってたわね。昔。」
「あぁ、リノは慣れたら面白いぜ。」
(高校生になってカタツムリを探すのは、慣れなくても十分に面白いと思うけど。)
渋々カタツムリを慎君に手渡した真辺さんは、そのままトレイを取ろうとして、手を洗えと慎君に怒られた。
(小さい子供みたい・・・・慎君の肩までしか身長は無いし。)
「あーそれから、りのちゃんの前では、身長の話は禁句ね。」と藤木君。
(偶然かしら?)私が心の中で思った事と重なる話題。
「ハルの前でもよ。」と佐々木さん
「うるせー!」
今野君と佐々木さん、昔付き合っていたと聞いた。別れても仲が良いんだなぁ。柴崎さんと藤木君も仲が良い。
ずっとずっと、中等部からこんな楽しい昼食時間を、慎君達は過ごしてきたんだ。
私は・・・。胸がぎゅっと痛くなる。
「悠希ちゃんが入ったら、楽しいは7倍だね。」
藤木君が、やっぱり優しく微笑んだ。
高等部の理事長室をノックする。
「はい、どうぞ。」敏夫叔父様の声。
「失礼します。」扉を開けて一礼する。
中等部では、一礼なんかしなくて入っていたりした。優しいお父様は、麗華を溺愛して、無礼も許してくれていた。でも高等部ではそうはいかない。身内とはいえ、叔父にあたる敏夫理事に甘えられない。それに私はもう16歳になる。今年の夏、一般で言う成人の儀があって、この儀をもって華族会の大人として認知され、あらゆる行事は大人扱いになる。
顔をあげたら、お父様まで居て、自分を呼び出した凱兄さんも当然に控えている。
「麗香、悪いね、急に呼び出して。」
凱兄さんからの電話は「華族関係の事で話があるから、昼食を食べ終わったら、理事長室まで来てくれ」だった。
「いえ、えっと、お父様まで居て、一体・・・。」
「まぁ、座りなさい。」応接セットのソファーを進められて、麗華は行基良く座った。
「麗香、りのさんの最近の様子は、どんな感じかね。」
質問の意図が読めないけれど、麗華は素直に答える。
「調子いい。というか、本来のりのに戻って来ていると言った方がいいのかな。私は分裂したニコであった時からの友達だから、りのの本来だった過去の様子を知らないから。」
「麗香から見て、今、りのさんはその過去に対して、悩んでいるような様子は見受けられるかな?」
「いいえ、昔は、父親の話は一切出なかったけれど、今は思い出話も出るようになったわ。話している時もパパはと、生きている時を懐かしんで嬉しそうに話すから、もう自分のせいで死んだと言う罪の意識はないと思う。精神科医の村西先生も、そこはもうお墨付きなんじゃないの?ちゃんと催眠療法で治したんだから。」
どうして、今更、こんな確認をするのだろうと麗香は訝しむ。りのの病状は、麗香よりも凱兄さんの方が知っているはずだ。りのの主治医、精神科医の村西先生と凱兄さんは密に連絡を取っていると聞いていた。だから、二人の理事長が座る後ろに立つ、凱兄さんに麗香は顔を向けた。
「治したと言うより、正しい知識を意識下に置いたという方が正解だと村西先生はおっしゃっています。りのちゃんの過去において、長年、父親は自分のせいで死んだと思って悩んでいた時期がある、という記憶は失くせませんから。」
「うん。では、りのさんは今、その正しい知識が意識下にあり、もう何も精神的な虚弱は無くなってきていると思っていいのかな?」
「ええ、ただ、まだ、あの催眠療法から一年たっていません。今年の父親の命日がどうなるかは、村西先生も注意しておかないといけないとおっしゃっています。」
「うーん。まぁ、それは先の話だしな。特進クラスでの様子は、麗香にはわからないか?」
「クラスでの様子は、元生徒会の仲間、森山君と三浦さんから時々様子を聞いているわ。もう一人の特待生、飯島君が、何かと特待生としてりのをライバル視するから、どうしても周りが特別視せざる得ない状況になって。注目を浴びるのを避けたいりのは、それがストレスになっているわ、時々不満をこぼしているし、私もその現場を頻繁にみる。でも昔はその不満すらも私には話さなかったし、不満を口に出せる事が出来るようになったのは、いい傾向だと私は思うの。」
「そうか。飯島君ねぇ・・・悪い子ではないんだけどねぇ。成績も優秀だし。」
(どこがよ。)麗香は今日の事を話そうかと思ったけれど、凱兄さんが話し始めたのでタイミングを外す。
「ちょっと、目論見が外れましたね、理事長。」
「うーん。特待生規約に準じているだけに、釘を刺すわけにもいかんからなぁ。」
「りのは、昔ほど、自分の殻に閉じこもる意識はなくて、本人も頑張って周りと向き合う努力をしているわ。」
「そうか、なら、大丈夫そうだな。」
「えっと、どうして、こんな話を?」
「うん。実は、真辺りのさんのお母様から、私の所に連絡があってね。華選推薦の事をりのさんに話したいのだけれど、どう切り出していいかわからないと、正しくりのさんに伝えられる自信もないという事でね、こちらからりのさんに説明をして欲しいと言われたんだ。」
「じゃぁ、いよいよ。」
「あぁ、だけど、りのさんに話をするだけだよ。華選に上籍するかしないかは、りのさん本人の意思で決めてもらうことだから。」
「華族に関係する事だからね、りのさんの状態が良い時でないと・・・・慎重にと思ってね。それで、今のりのさんの様子を聞いたんだ。我々も、教師陣から聞いて、様子は把握しているつもりでも、やっぱりね、教師の前にいる時と友人の前では違うと思うからね。」
りのが華選に上籍を推薦する話が翔柴会に持ち上がったのは、もうずいぶん前の事だ。きっかけは、中等部3年の一学期に行った修学旅行。3泊4日の香港へは、凱兄さんも同行した。その香港の修学旅行からの帰国直前に、りのが「北京語が分かるようになってきた。でも話すのはまだ無理。」と言った。実際に空港の土産物売り場で店員の要望に応じているりのを見て、凱兄さんは、もしかしたら語学習得能力が極端に高いのではないかと思った。その後、凱兄さんは、りのが移住していたフィンランドとフランスに行き、りのが通っていた学校の教師達に話を聞いて回った。りのが習得している英語、ロシア語、フランス語、どの言語も1週間ほどでヒアリングは完璧に出来て、話す方も2週間ほどで、現地の子供達と変わらないレベルで話すことが出来たと知る。1か月も経てば、英語はもちろんロシア語も、大人と専門的な話も出来て、フィンランドでは、移住3か月後のスピーチ大会で賞を取り、討論会でも意見を言い合っていたという。それらの事実を調べ得て帰ってきた凱兄さんは、りのには、驚異的な速さで言語習得できる能力があると結論し、翔柴会理事長会議で、華選として推薦してはどうかと話をあげた。だけど、まだ年齢が若すぎる上に、精神的な病気が問題となって、話はそれから先に進まなくなった。
しかし、その後、りのがオール満点の成績をとり、更に精神的な病気は、催眠療法で治療を施し、さらに高等部の特待受験を突破した事で、華選に上籍する資質に十分にあると、柴崎一族は認め、一気に話は進んだ。
りののお母様には、高等部の特待試験合格を伝えた2月末には、話を差し上げていたのだけど、その後、何も進展がないから、どうなったのかと麗香はやきもきしていた。華選の話をりのに直接聞くわけにもいかず。
りののお母様は、やっと、りのに華選の話をする気持ちになったようだ。
「それで、真辺りのさんのお母様のご意向に基づき、柴崎家の人間が、りのさんに説明するという事になったはいいのだけど、誰が行くのがいいかと言う話になってね。」
「私だと、りのさんが固まってしまって、話の理解ができなくなると凱斗が言うんだよ。」お父様が残念そうな表情をしたのに麗香は笑えた。
「りのさんの事、華族の事を理解するのに、とことんまで追求されるのが予測できるからね。華族特有の単語を、英語では説明しにくいし。敏夫では尚更、りのさんは緊張して固まってしまう。」
「会長にお願いしようかと思ったんだが・・・。」
「会長でも、信夫理事長と同じレベルで固まるでしょう。それに、りのさんのお母様が気を使われます。真辺さんに華選推薦の話をしました時もしきりに、いつもいつも申し訳ないと気にしていらっしゃいましたから。」
「じゃ誰が説明するの?」
「僕と麗香がいいんじゃないかと。」
「私!?私は、華選の規約を詳しく知らないわよ。華族の事だって、まだそんなに詳しくは。」
「そういう規約や仕来りの事は、僕の頭に全部入っているからね。そう言うのは僕一人で説明は出来る。」凱兄さんは自分の頭を指さす。「ただ、紙面上の説明は出来ても、実際の経験としては、僕はまだ浅いし男だからね。同じ女性と言う立場で華族会パーティの事とか、儀式とかとなると難しい。麗香なら、生まれた頃からそう言うのは身についているだろう。」
「まぁ、そうだけど。」
「りのさんが華選上籍に対して、疑問や心配事があるとすれば、私達大人目線ではなく、麗香と同じ目線だと思うんだ。我々が大丈夫だ援護するからと言っても、説得力ないだろう。それに、あまり私達が仰々しくりのさんを煽っても、逆効果かなと、そういう怖さもあってね。」
(あぁ、ありうる。)
「せっかく満場一致で真辺りのさんの華選推薦が決まったんだ。あの翔柴会メンバーで珍しい意向をつぶすなんて、もったいない事できないからなぁ、ははは。」と豪快に笑う敏夫叔父様。
「こらっ、敏夫。」お父様が窘める。
「満場一致だったの?りのの華選推薦って。洋子おば様も?」
「これ、麗香まで。」と麗香も窘められる。
「だろう。洋子は最後の最後まで迷っていたけどね、若すぎるって。だけど、凱斗がフィンランドとフランスで聞き取りしてきた情報と成績を食い入るよう見て、りのさんの学力にも感心していたよ。洋子は基本、優等生が好きだからね。オール満点の成績も賛成する決め手となったようだ。凱斗と違って、本当の実力だからね。りのさんの場合は。」
「すみませんね。卑怯な特殊能力で。」凱兄さんが皮肉を言っておどける。
「若いと言っても、言語習得能力の証明が、どれぐらいで完了するかわからないからな。上籍の年齢は凱斗と同じになるかもしれん。それに、調べて良いデーターが得られない可能性もある。その場合は、華選推薦の話は見送ることになる。」
「見送るって、じゃ大学で調べて証明が出なかったら、りのは華選に一生上籍出来ないって事?」
「一生ではないよ。外務省職員と同じレベルで最低でも、日本語を合わせて5か国語以上を話せれば、なんとか華選申請の話に持っていける。女性という点でも欲しい人材だからね。それにりのさんの強みは何と言ってもロシア語だ。外務省の中でもロシア語を話せる人材は少ない。」
「一応、僕もすべての言語の辞書さえ記憶すれば、話せるようにはなるんですけどね。」
「凱斗のは、発音がおかしいだろ。」
「音は記憶できませんから。辞書を記憶してから特訓をしなくてはなりません。」
「それでは話にならん。それにお前の記憶力の限界がどこにあるかわからん。記憶の限界が来たら終わりだ。」
(凱兄さんの記憶力って限界があるの?始めて聞いた。)
凱兄さんは苦笑いで肩をすぼめる。
「華族会の中にも、ロシア語が話せる方というのはいないなぁ。やっぱり英語が多くて、あとはフランス語かイタリア語、韓国ぐらいか・・・ロシアとは、ガスパイプラインの建設に向けて、これからの外交は密になるだろうし、ロシア語が通訳出来る華選を神皇様は望まれている事だろう。だからりのさんを推薦すれば、きっと称号は下さると思うのだけど。」
この日本が、情勢的、気候災害、外交災害(いわゆる戦争)などによる危機的状況に陥り、神皇様が民による対応では手に負えないと判断した才、国家の政務は民主から神皇主権へと移る。皇政政務の発動である。これは国内外共に内密に発動されるもので、神皇様が主導となって有事に対応される。その神皇様のそばに仕え、直接、市政に指示を出すのが、華族の称号を持つ者及び、有事専門に対処する優れた頭脳や能力を有する者として地位を与えた華選である。といった詳しい話を麗香は最近になって、やっと学んだ。
「ちょっと待って、りのは、日本語が、ままならないわよ。」
「あっ・・・」全員が固まる。
「神皇様は、英語がお出来になる。」
「露英通訳?ややこしそう。」
「まぁ、あくまでも、りのさんの目指す推薦項目は、言語習得能力だ。習得能力に対する秀でた証明が出れば、問題はない。」
「習得ねぇ。」
「話を戻そう。ちょっと余計な話に時間が過ぎてしまった。」お父様が腕時計に目をやる。
「りのさんに華選上籍の話しをする時は、凱斗が華族華選の説明をし、凱斗の説明出来ない補足を麗香がする。麗香、出来るかな?」
「はい。」
「いいかい、麗香個人の感情は抑える事、あくまでも華族の代表として振る舞う事、りのさんに華選上籍を無理強いはしない。守れるか?」
「はい。守れます。」
「では、日にちと場所を決めなくてはいけない。えーとこれが、真辺様のお仕事が、お休みの日なんだが・・・」
りのが華選になれば、もうお金の心配とか、アルバイトもしなくていい。私達、柴崎家が支援をしなくても、神皇様が、国が、りのを支援してくださる。そんな最高位の称号を、りのは自力で手に入れる。
(あぁ、なんて、素晴らしいの。なんて誇らしい。)
麗香は指を組んだ手を胸に、天を仰いだ。
新田は、やっぱり保護者気取りを辞められないで、りのちゃんの世話を焼く。それを見た悠希ちゃんに、嫉妬の心が内に沸き起こる。
絶対にこの先、平穏では済まない。明確に予測できる。そして、新田はまた相談しに来る。
亮は、皆に気づかれないよう、小さくため息をはいた。
「藤木君、さっきヒダリマキとか、ミギマキとか言ってたの何?」とメグりん。
「カタツムリの渦には、左巻きのやつと右巻きの奴があるんだ。」
「本当?みんな同じじゃないの?」
「同じじゃない、りのちゃんが持ってたのは左巻きの奴で、その名もヒダリマキマイマイって学術名。右巻きのやつは多数種類があって、ミギマキマイマイと名前のついている奴はいなんだけど、りのちゃん、ミギマキマイマイ探してたって言ってたなぁ。」
「んだよ。また藤木のうんちく講義か?」ヒダリマキマイマイを外に逃がして戻って来た新田が、呆れた口調で悠希ちゃんの隣に座る。
「聞かれたから話してるだけだ!」
「藤木君は、どうしてそんなに詳しいの?」と悠希ちゃんの質問に新田が答える。
「女子に、凄ーい藤木君、何でも知ってるのねって褒められたいからだよ。」
「違うわ!カタツムリは、小4の夏休みの自由研究の課題にしたんだ!」
「へぇ~、でも藤木君、家は東京の白金台でしょう?カタツムリなんて居た?」と悠希ちゃん、中々鋭い。
「あぁ小学の時は、東京じゃなかったから・・・」
「へぇ~東京じゃなかったの、どこ?」
(まずい、これ以上の家の話は。)
「えっ、どうして?ちょっと!リノ!」メグりんが立ち上がり、向こうを見る。誘導されるように皆がその方向へ顔を向ける。
昼食を取って戻ってきたりのちゃんは、亮達のいるテーブルには戻らず、別のテーブルに背を向けて座った。
話が逸れて、亮は内心で助かったと安堵する。
「何やってんだ!」新田も怒ったように立ち上がると、りのちゃんの所へ行こうとする。
悠希ちゃんの表情が曇った。心に息詰まるような寂しさと孤独の恐怖が沸き起こるのを読む。
亮も立ち上がり、新田の肩を掴んで止めた。
「お前が行ったら喧嘩になる。」
「でもっ。」
「私が割り込んだから・・・」とつぶやく悠希ちゃん。
亮が目で、悠希ちゃんのケアをしろと訴えたのを、新田は理解して座り直す。
「リノ、どうしたのよ。どうしてこっちに来ないの?」先にりのちゃんへと駆け寄った佐々木さんが聞く。
りのちゃんはそれには答えず、無言で小鉢の小松菜の煮びたしを口に入れる。
亮はりのちゃんの前に回り込み、椅子には座らないでしゃがんだ。りのちゃんの目が良く見えるように。
りのちゃんは、眉間にしわを寄せて、視線を外す。
「りのちゃん?」
「・・・。」
麗香なら、何を思って行動しているのか良くわかるのに、やっぱり、りのちゃんのはわからない。
「ねぇリノ、嫌なの?岡本さんが?」佐々木さんが、声を落として聞くも、無言で首を横に振って答えない。
カタツムリを見せてくれた時とは、まったく違う顔つき。りのちゃんは、箸をトレイに戻して立ち上がった。
俯いたまま、トレイをスライドさせて、席を横移動しテーブルの端に座る。
佐々木さんと顔を見合わせた。
「ちょっと、リノっ!」佐々木さんは追いかけて、りのちゃんの肩に手を置く。亮も追いかけて、また正面にから覗き込む。
すると、りのちゃんはギュッと口を結び、また立ち上がって、更に向うの席のテーブルまで移動する。
「リノ!」
亮は理解する。
(りのちゃんが嫌なのは、悠希ちゃんじゃなく、俺だ。)
亮の目から逃げている、何故?
読まれたくない、何かがある。
りのはまだ奥で落ち込み中。
りのが受けたアルバイトの本と辞書も机の中に置いてきた。締切はないから別に焦ってやる必要もないのに、りのはフランスに行きたいから必死。私はフランスなんて行きたくない。知らないよ、グレンなんて。
私は、日本でニコニコの生活が出来れば、それでいい。
「真辺さん、今からクラブ?」下駄箱で袴姿の滝沢さんに声を掛けられた。
「ううん、今日は休み。滝沢さんこそ今から?」
「うん。真辺さん居なくなって張り合いが無くなったわ。今からでも遅くないよ、戻っておいでよ。」
私はバスケより弓道の方がいい。でもりのが、弓道に興味を無くしてバスケ部に入部した。
「そうしたいけど、りのが・・・」
「ん?」
「あ、ううん、りの的には、やりつくした感があるから。」
「そっか・・・・じゃ、またね。」
「うん、頑張って。」
せっかく、弓道部の滝沢さんと仲良くなったのに、りのが余計な事をするから友達を失ったじゃないか。
ほんと、りのは、狡くて最低。
革靴に履き替えてロビーから出る。
外は変わらず曇り空。何もかもが湿っぽい。
嫌な季節・・・でもカタツムリにとっては、いい季節なんだよね。
そういえば、慎一はどこにヒダリマキマイマイを逃がしたのかなぁ。可愛かったのに。やっぱり持って帰って家で飼いたい。
うちはペット禁止のマンションだけど、カタツムリならバレないよね。
きっと食堂横の植木に慎一は逃がした。食堂の方に足を向けた。
♪マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、かたーツムりだぁよ~。
マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、雨降りの下の~、
マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、ミギぃマキの名の
マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、カタツムリはいないぃ~
「真辺さんだ・・・・歌ってるよ・・・・」
「あの真辺さんが・・・・・意外~」
すれ違う知らない生徒が、ヒソヒソと私の話。
なんだよ。歌ったら駄目のか?ったく、りのが作った真辺りの像は、つまらない。
暗くて、話せなくて、歌わなくて、笑わない。うんざり。
どうして慎一は、あの時、りのを選んだ?こんな、つまらないりのの、どこがいいんだ。
食堂の横、アベリアの木々が植わっている花壇でカタツムリの姿を探す。
(どこかなぁ・・・あの可愛いいヒダリマキマイマイ。)
「ヒダりん、出ておいで~一緒に帰ろう。」
(いないなぁ。)
「りの!」慎一の声に振り返る。ちょうど良かった、どこに逃がしたか聞ける。
「慎一!さっきの」
「さっきのは何だよっ」言葉を遮られた。「あんなに、あからさまに嫌がる事ないだろう!」
(皆と一緒に昼食を食べなかった事を怒っているのか。)
「だって・・・」
(だって、慎一には言わないでって頼まれた。)岡本さんが裏口入学で入って来たなんて他の人にバレたら、大問題。
藤木に読まれると、すべてがバレるのを警戒したから、私、別の席に移動したのに。)
「りの、どうして、悠希を嫌がるんだ?」
(岡本さんは、悪い事をしてる。りのと同じ。狡い事をして入学して来た。それは言っちゃいけない事。)
「りの、りのは誰よりも、どういう事したら人は傷つくか知っているだろう。なのに何故っ」慎一が私を責める。
「知らない!私が悪いんじゃない!」
(そう、ニコが悪いんじゃない。いつだって狡いりのがニコのせいにする。)
「りの!」
「私は最善を考えた!」
(どうして、慎一はわかってくれない?慎ちゃんはニコを一番に、わかってくれていたのに。)
「それより慎一、ヒダりん、どこに逃がした?」怒った慎一の顔なんか見たくない。背を向けた。
「りの!話を変えるな!」
「連れて帰ろうと思ったのに、居ない。」
「りの!」肩を掴まれて振り向かされた。その力が強くて痛い。
「りのじゃない!」
慎一の非難を、何か言おうとしたのを先手を打って制止する。
「どうして、岡本さんを仲間に入れるの?慎一はニコが居れば良かったんじゃないの?」
「それは、昔の事だ。」
「昔?」
「ごめん、りの。ニコを追い求めるなんて間違っていた。」まっすぐ、私を見て謝る慎一。「悪かったよ。」
(どうして?・・・やっとまた、私だけの意識になったのに・・・)
「やっと、慎一の求める・・・」
「リノ!何してるの!練習、始めるわよ!」女子バスケ部の部長が、渡り廊下から手を振って呼んだ瞬間、私の意識は落ちた。
「練習行かなくちゃ・・・」
慎一の視線から逃れるように顔を伏せ、私はイク先輩の後を追った。
昼食を食べるメンバーはバラバラになってしまった。
りのが岡本さんと食べるのを嫌がったから。岡本さんは、「私、一人でも平気だから」と一緒に食べるのを辞めようとしたけれど、新田が強く庇って、結果、一緒に食べる事にはなったけれど、新田と岡本さんは、りのが食堂に到着するまでに早々に食べ終え、食堂を出て行く。
りのはりので、食堂に来るのを随分と遅らせ、新田と岡本さんが居なくなった頃にテーブルにつく。そんな気持ちを読まれたくないりのの態度を考慮した亮もまた、りのが食堂に到着すると席を立ち、出て行く。残った麗香は、佐々木さんと今野と共に、遅い食事を取るりのに付き合うという図式になって、今日はもう木曜日、麗香はクラブに行こうと下駄箱ロッカーで下靴を履き替えながら、ため息を吐いた。
(なんだがなぁ・・・。)
新田が思いのほか岡本さんを擁護する。少年サッカークラブ時代からの幼馴染だから当たり前だとはいえ、麗香の中では、新田の幼馴染はりの一人で良く、どんな事があっても一途にりのだけを想い続けるのが新田であると定義している。その麗香の明確な定義を邪魔する存在が岡本さんなのだけれど、サッカー部のマネーシャーとしては頼りになることは間違いなく、独りよがりな感情で邪険にするわけにもいかず、麗香は困惑したストレスをためるばかりだった。
(りののように、素直に嫌悪の気持ちを態度を出せたら、こんなため息をつかなくて済むのに。)
そこで、はたと気づく、りのが岡本さんを嫌がると言う事は、新田の行動に嫉妬していると言う事ではないか?
それって、とても喜ばしい事なのでは?
新田を誰にも取られたくない、りのの深層心理の表れ、りのもそんな自分の心に気づけば、新田の愛情に応えられる。
自分の思考落着に確信を抱いた麗香は、誰かにそれを言いたくて、ロッカーの扉を勢いよく閉め駆けだした。
誰かに話したい相手は、まず亮より他に居ない。着替えてグランドに出ているだろうと当たりをつけて更衣室へと向かうと、
予想通りにユニフォームに着替えて更衣室から出ていく亮の後ろ姿を見つけた。
「藤木!」麗華の呼びかけに振り返った亮は、麗香がそばにたどり着くまでに目を細め、そして、ため息を吐きながら肩を落とした。「な、なによ~。」息を整えながら問いかける。
「予想通りに、到達する思考が短絡過ぎて・・・。」
「それ、馬鹿にしてるの!?」
「いや、羨望している。」
「馬鹿にしてるんじゃないっ。」慣れているとは言え、やっぱり気持ちの良いもんじゃない、心や思考を読み取られるのは。抗議の為に振り下ろした手を易々と避けた亮は、表情を引き締めてハンドサインで麗香を促す。
「協力しろ、柴崎。」
「何を?」グランドとは違う方向へ歩き出した亮を追いかける。
「りのちゃんは、悠希ちゃんを嫌がっているんじゃない、俺の眼から逃げている。この眼に読まれたくない事があるんだ。」
「あんたに読まれたくない事?」
「悠希ちゃんに絡んではいるのだろうけど、それが何かを探る。」
「それは、りのは、嫉妬した感情を読まれたくないのよ。」
「そんな単純ではないと思うぜ。」
亮の提案で、クラブに行く前のりのを捕まえ、玄関前アプローチ横の桜の木の下まで連れて来た。
桜の木を背にしたりのに、麗香は聞く。麗香の背後の低い生垣には、隠れてりのの顔を見る亮がいる。
「ねぇ、りの、何かあるの?岡本さんに対して。」りのは眉間に皺を寄せて、麗香から視線を外した。
「そんなに嫌?新田が岡本さんと親しくするの?」
黙って首を振るりの。
「嫌じゃなかったら、どうして?おとといにも言ったけど、岡本さんはサッカーに詳しくて、新田の夢を実質的にサポートできる人よ。りのの気持ちもわかるけど、サッカー部にとって、岡本さんのサポート力は必要なの。私はりのと一緒になって、岡本さんを排除するわけにはいかないの。」
りのは、目を所在なく動かして困っている。後ろを振り返りたい気持ちを麗香は抑え込んだ。
「わかってる。岡本さんは慎一の夢に必要・・・だけど、ずるい。」
「狡い?」
黙って俯いてしまったりの。これじゃ、りのの顔を亮が読み取れない。
「何か、岡本さんに言われたの?」
りのはまた首を振る。
「何かされた?」
やっぱり無言で首を振るだけ。りのから何かを聞き出すのは本当に難しい。
「りの、顔を上げて・・・」
りのの伸びた前髪を横に寄せるように撫でた。促されるように顔を上げたりの。肩まで伸びた髪が少し大人っぽく見せる。
「黙っていたらわからないわ。」
「・・・・・。」
「言ったわよね、私がやっつけるって、りのが困る事、辛い事、全部私が蹴散らせるって。」
「麗香・・・」縋るような眼でつぶやく。
「大丈夫、話して。」
「でも・・・言えない。」
「どうして?」
「頼まれたから。」
「頼まれた?誰に何を?」
りのが口をギュッと結んで、視線をまた外す。
「知らない人。だけど、言わないでって頼まれたから言えない。」
知らない人に頼まれた?
私に亮のように読み取る力があれば・・・亮は、今のでわかっただろうか?
「麗香に言えば、藤木に読み取られて、慎一に知られてしまう。」
「一体、何を?」
「言えない。」
「りの・・・」
「クラブに行かなくちゃ。」と言って体育館に向かうりの。
やっと心を開いてくれたと喜んでも、またすぐに閉じてしまうりのの心。
何を悩み、何に困り、どうして誰にも頼らず一人で抱え込むの?
そして私は、いつも何もできない。
りのの姿が校舎の角を曲がってから、亮が生垣の陰から立ち上がる。
「何か、わかった?」
亮は黙って首を横に振った。
誰に、言わないでと頼まれた?麗香に言えなくてこの眼にも読まれてはいけない事で、最終には新田に知られては行けない事・・・
悠希ちゃんの過去の事か?にしては、狡いと言う感情の言葉が出るのは、おかしい。
事件の事を知ったなら、可愛そう、だろう。
狡いは、どう考えても当てはまらない。
麗香の考え通りに、新田の気持ちを受けられるようになって、嫉妬した?
悠希ちゃんが、悲劇の過去をネタにして新田の同情を誘い近寄ったと思い、狡いと思った・・・
それも無理があるような。似たような境遇を経験してきているりのちゃんが、それを思うだろうか?
いや、りのちゃんは意外にしたたか、新田は私だけの物と思っての言動だったとしたら、狡いはしっくりくる。
だけど、それなら、もっと新田の事を好きだという言動があってもいいはずだけど。亮の観察では、あの幻想の寄り添いの時より薄れたと見受けられる。
(あぁ、本当にりのちゃんは難しい。)
お茶の準備をする麗香と別れて部室に向かうと、部室前に揃う部員がいつもより少ない。亮は校舎の壁にある時計を確認する。
亮の到着は、りのちゃんの事でいつもより遅い。亮はざっと見渡し、2年の先輩の姿が極端に少ない事に気づく。あまりない事だが、部室内に居るのかと確認のために部室を覗くと、やはり3年の先輩たちばかりである。基本、部室内は3年生が優先の風潮が出来上がっている。麗華の激怒で部屋として機能した部室内で、話し込んでいた3年の先輩たちが顔をのぞかせた亮に気づいて、一斉に困惑の表情を濃くした。
「どうかしましたか?」
「あぁ、う、うーん。」部長の畑中先輩は、副部長の青木先輩の顔を見やって、口を濁す。
「新田は?」と聞いてきたのは青木先輩。
「新田は、今日は病院でマッサージがあって、練習は休みです。」
「あぁ、そうだったな。昨日そんな事、言ってたな。」と表情とは裏腹に本心がホッとするのを読み取った。
青木先輩が皆と亮を促し、部室から外へ出す。
三年の先輩たちの顔を見て、亮はまずいなと思うのも束の間、
「こんにちは~」と悠希ちゃんが救急箱や練習日誌などの備品を持って到着する。
畑中先輩をはじめ、三年の先輩たち本心に嫌悪が沸き起こり、それは、数人しかまだ集まっていない2年の先輩達にも、その嫌悪は波のように伝染していく。
「あー、岡本さん・・・」
畑中先輩に呼ばれた悠希ちゃんは、備品を定位置に置くと爽やかな笑顔で畑中先輩に振り向く。
「はい、何でしょう。」
「あ、いや、その。」畑中先輩が言いにくそうに口ごもる。
先輩たち全員が悠希ちゃんに険しい表情を向けるのを見て、亮は確信する。先輩達は知った、悠ちゃんの過去を。
悠希ちゃんも先輩たちの態度を察すると、強烈な恐怖に支配され、表情を硬くする。
「君は、どうして常翔に入って来たのかな?」
「ど、どうしてって・・・」
1年は、部室から出したボールカゴのそばで、先輩たちの話を待っている。まだ悠希ちゃんの過去を知る1年はいなさそうだ。
「サッカーの名門校・・・しょ、小学生の頃から憧れていて・・・」
「そうじゃなくて、ほら、君は・・・。」
(これ以上は本当にまずい、どうにかして話を変えないと。)
「先輩、練習、始めないんですか?」亮は努めて明るい声色で言う。
「あ、あぁ・・・」
「早く始めないと柴崎がまた、何を時間のもったいない事してるんですかって、怒りますよ。」
「あ、うん。そう、始めたいんだけど・・・2年が・・・」
(麗香の名前を出しても、駄目か・・。)
「2年の先輩達、どうかしたんですか?」
「う~ん・・・」
心底、困っている畑中先輩の代わりに口を開いたのは、副部長の青木先輩。
「ボイコットだ。疑惑が晴れない限りは、一緒に居たくないだとよ。」
「疑惑?」亮はとぼけた。
「うーん。」
2年と3年の先輩達は、一斉に悠希ちゃんの方に注目する。
「わ、私・・・」俯いた悠希ちゃん。
「こんな事、俺たちも言いたくない。知らなければそれでよかった。だけど2年生達は岡本さんを疑って、俺たちも知ってしまった。事件の事。」
(今日、新田が休みで良かった、あいつが居たらどうなっていたか。)
「先輩、それは、究極のプライバシーです。それは俺達がとやかく言う」
「流石、博識の藤木だな。やっぱりお前は知っていたか。」亮の言葉を遮るように言った青木先輩は一筋縄では行かない。
「いえ、俺は・・・」
「部内で疑惑を持ったままでは、全国なんて狙えない。それはお前が一番良く知って、経験した事だろ。」非情に亮を見据える青木先輩は、2年前の三島先輩との確執の事を示した。
亮が総理大臣を輩出した福岡の藤木家の息子である事を知った三島先が、亮達一年が二年先輩たちを差し置いて頻繁にレギュラー入りする事に嫉妬し、行き過ぎた嫌がらせをした。週刊誌に亮が八百長試合に加担をしたと売り込んだのだ。学校名も名前も匿名で書かれてはいたが、学園が調査に乗り出す事になった。亮は学園と三島先輩の立場を考え黙秘を決めていたが、三島先輩は亮に金を積んで入学したのじゃないのかとまで言って亮を陥れようとした。調査により週刊誌の記事、もちろん金を積んで入学などの事実はなく、亮への疑惑は晴れたが、三島先輩が退部した事で、当時のサッカー部全員が、事の真相を知ることになった。
悠希ちゃんは、顔を白くし、固まっている。
一年の部員は、何のことかわからず神妙な面持ち、だが、本心では何事かと好奇心でいっぱい。
「全国を狙えなくなる程の事ですか?サッカーとは関係のない事です。」
悠希ちゃんは震える手で、左手の腕を長袖のジャージの上からギュっと握る。
可愛そうに、もうこの場から消えてしまいたいほどに怯えている。だけど足は恐怖で固まって動けない。
「何言ってんだ、十分に関係あるだろ。」青木先輩が、苛立ちの声を荒げる。「裏口入学なんて疑惑が広まったら、いくらいい成績を残しても、全国大会出場権は剥奪される。」
(は?裏口入学?)
先輩達は冗談なんて言っていない、本気だ。
「2年達は、岡本さんが裏口入学でこの常翔に入って来たんだじゃないかと疑っている。」
1年は、驚いてざわめいた。
「君は、2年の寺内と」
「先輩!」亮は叫んで止めた。
それ以上は、本当に究極のプライバシー。もう知ってしまった先輩達は仕方がないにしても、まだ知らない1年にわざわざ教えなくても良い事だ。
「畑中先輩!練習もまだ始めないで、何やってるんですか!」麗香の叫び声。
振り返ると、重いジャグポットを両手に、走りたいのに、走られないおぼつかない足取りで向かってくる。そのイライラも合わさった怒りマックスの麗香。
(助かった。)
「ほら、先輩、柴崎が、すごい怒ってますよ!」
「え、あ・・・」
「私、もう始まってるとばかり思ってたのに!何を時間のもったいない事してるんですか!もう全国への戦いは始まってるんですよ!」
「あ、いや・・2年が・・」
「畑中先輩、2年の先輩達は、学年行事で今日は来れない人が多いんですよね。人数少ないですけど、ほら、練習始めましょう。」亮は適当な事を言ってごまかす。
「あれ?本当、2年の先輩3人だけ?」と麗香。
亮は麗香のジャグポットを受け取りに行き、部室へと運ぶ。
「畑中先輩、部長の口から真実かどうかわからない噂を言えば、取り返しのつかない事になります。それこそ全国は・・・」
「あぁ・・・うん。」引き攣る畑中先輩。
「この件、俺と柴崎に任せて、もらえませんか?」
「お前と柴崎さん?」と青木先輩は眼鏡を上げる。
「経営者の娘の立場に頼るしか、もう疑惑を晴らすことはできません。こうなった以上。」
畑中先輩が怯えた本心に、唾を飲みこむ。亮の言った意味がやっと分かったようだ。
常翔学園の宣伝部、サッカー部の名門と全国に名高いこの学園の部長に就任して間もなく、こんな根も葉もない噂が流れ、2年が練習をボイコットするという前代未聞の事が起きてしまった。畑中先輩が原因ではないにしろ、部員をまとめ切れなかった責任は重い。
青木先輩は、顔色一つ変えずに亮を見つめているが、本心には亮に対する嫌悪がある。自分と青木先輩は、ポジションが違うも、チームを戦力的に部長をサポートできるという点では、亮と似ていた。だから互いに一筋縄ではいかないと思っている。
「大丈夫です。俺が上手く柴崎を誘導しますから。」
解決するには凱さんに頼るしかもう道はない。麗香にはサッカー部の今後のあり方を誘導する立場になって貰う。それこそ、サッカー部を導く先導者として。
「先輩達は他の部員達に、噂の段階で事を大きくしないように緘口令を敷いてください。」
効き目があればいいけれど、今は仕方ない。亮が裏口入学なんて嘘だと言っても、事件は本当なだけに、信じてもらえはしない。
「畑中先輩!青木先輩!藤木!まだ、何やってるんですか!」
麗香の怒りの声が背中に刺さる。
「あ、はい、始めます!じゃ…今日は少ないけど、柔軟から始めるぞぉ。」
岡本さんは、呆然と、今にも泣きそうな顔を俯いて、耐えている。
「悠希ちゃん。」亮の声に怯えが増す。亮が事件の事を知っていたのが、ショックだったようだ。
「っわ、私・・・。」
「今日は、お帰り、大丈夫、何とかするから。」最高の微笑みを作り、恐怖で動かない悠希ちゃんの背中を優しく押した。「新田に頼まれてたんだ。どうしたら2年の先輩達の不審を無くすことが出来るかと、まさかこんなに早く事が大きくなるとは思わなかった。」
「藤木君・・・」
「ごめんね。もっと早くに手を打っていれば、こんなに辛い想いはしなくて良かったのに。」
「いいの、ありがとう。もう私は・・・・」消え入る声。悠希ちゃんはサッカー部を辞める決心を今、してしまった。
「新田が許さないよ、俺も柴崎も、1年は全員、悠希ちゃんが必要だと思っているから。」
涙を抑えきれないで頬に伝う涙を、拭ってあげたい衝動をグッとこらえた。
「ふぅじぃきぃ~!!」後ろからヒシヒシと刺さる、麗香の嫉妬。
「じゃ、また明日。」
「あんたね!こんな時に軟派って!しっかもマネージャーに手を出すって!」
振り返れば、麗香の怒りのポージング。その姿にサッカー部全員が肩をすくめて、憐みの本心。
(なんだって、いつもこんな損な役割・・・)
「どういう事よ!」
「どういうって・・・あーもう何でもいいよ。」
「何でもいい?最低!あんたの欲望は、どこまで汚れてんのよ!」
(あのなぁ、流石に怒るぞ、そこまで言われたら。)
ふと見れば、柔軟を始めているサッカー部全員、顔をうずめて肩で笑いをこらえていた。
悠希ちゃんに対する不審が、麗香の登場で若干薄れている。まぁ良しとしないでもないけど、だけど・・・
(新田ぁ、恨むぞ。結局、俺に丸投げになった状況を!)
「わかりました!この汚れた欲望を無くすために、外周を走ってきます。」
「えっ!ちょっと!えー私、走れだなんて言ってないわよ!」
(ちょうどいいや、一刻を争う、このまま凱さんの所へ行って、助けを求めよう。)
亮は踵を返して駆けだした。
更衣室の洗面台で手を洗う。もう終わり。慎君と一緒に居たいと願った私の夢は、潰える。
この泡と一緒に消えてなくなる私の希望。
ここに入りたいと頑張った努力さえも、嘘の噂に汚れる
どうして、
なぜ、私が、
あの時、あんな事件に巻き込まれてしまったの?
犯人が憎い。
もうこの世に居ない犯人を、死ぬほど憎い。
あれが私の人生を狂わせた。
こんな辛い思いをするなら、
あの時、一層の事、死んでしまえば良かった。
あの時どうして、私は恐怖に犯人の言いなりに、大人しくした?
あの時どうして、特殊部隊は、私を撃ってくれなかった?
死ぬなんて一瞬のことなのに、
迫る暗闇に押しつぶされて生きる恐怖の方が、
長く苦しいのに。
藤木家の祖先に、外から嫁いできた者の中に、神巫族の者が居るかどうかを調べる。
藤木家は、薬の元になる材料を主とした商いをして成功した家、その関係から、嫁いできた女性は取引のあった大阪、長崎、勿論福岡の出身である娘が多かった。その娘の出自を調べる。祖歴に詳しく書かれている者もいれば、中にはどこから嫁いできているかわからない娘もいる。その出自のわからない娘こそ、怪しい。そして、それだけではない。使用人、妾の出自も文香さんは調べろという。
家の存続の為に妾を家にいれ、子供を産ます。あるいは若い娘の使用人と関係を持ち、出来た子供を正妻の子とする。などの事が昔の家では普通にあったからだ。
頭の中の記憶には、藤木家の祖先、女性に関する記述が沢山蓄積された。
戸籍が制定された明治以降は、華族との縁はないだろうという事で省いても、戸籍のない時代だったからこそ、それら女性達の出自はあやふやで、彼女らの家がもう衰退しているなどがあり、調べるのは困難である。
藤木家の家系図を元に、明治初期までの正妻は8人、うち祖歴が作られたばかりの頃の2人の正妻の出自がわからない。そして、祖歴に登場する使用人、妾となると、200人を超える。文香さんは更に恐ろしい事を言う、祖歴に登場しない娘がいるのではないかと。もうそうなったらお手上げだ。どこかで、華族(神巫族)の血脈が藤木家に入った。だから藤木君の本心を読み取る力が受け継がれたのではないか?という仮説の証明などできやしない。もう、どっからでも血脈は入り込む余地あるという事なる。
文香さんの見解は、藤木猛氏の持つ言覚の力、藤木君の持つ視覚の力は古来神巫族の持つものと同じで、藤木家はその血脈をどこかで入ったからではないか、と言う。
凱斗の携帯の呼び出しバイフが震える。表示された番号を記憶の電話番号一覧表から探し出し、相手が誰かを確認する。
繋げず、携帯を持って、図書館から外に出る。こちらからかけ直した。
「届いたか?ぁぁ、その中で今まだ現代に続く家を当たって欲しい。どの家が現代に続いているかを。住所と連絡先を。すべての経費はこちら持ちで請求してくれ。じゃ、早急に頼んだよ。」
雇いの探偵に抜粋したリストを送り、依頼した。これに関しては、文香さんの個人資産から出すと言う。別に金が惜しいとかじゃないが、そこまでして藤木家を調べて、藤木君の抱える疑問を無くそうと言う気持ちに、正直ついていけない。
文香さんが、自分と同じ力を持つ藤木君を気に掛けたくなる気持ちはわからなくはないけれど。
教育者の優等生的な事を言うなら、特定の生徒に肩入れするなかれ、生徒全員、平等に手を掛けろ、の精神はどこへやら。
といっても常翔の特待生制度がもう、平等とはいえない。
今日も曇り空、降るのか降らないのか、よくわからない天気。肌にまとわりつく湿気と匂いがジャングルを思い出す。そして、首筋がかゆい。余計なことを思い出しそうとする脳。凱斗は脳内に国語辞典を開いて高速でめくっていく。文字が頭の中でいっぱいになる。
よし、大丈夫。図書館に戻ろうとしたとき、名前を呼ばれて振り向く。
サッカー部のユニフォーム姿の藤木君が駆け寄ってくる。明らかに練習を抜け出してきたという感じ。
「どうした?藤木君、練習は?」
「大変なんです。」
「大変?」
「下手したら、常翔学園の信頼が失墜します!早く手を撃たないと!」と珍しく焦っている藤木君。
「何?」
「岡本悠希ちゃんの事です。」
「藤木君、君は、もしかして・・・」文香さんと同じ眼を持つ藤木君が、知らないままのはずがない。
「事件の事は知ってます。ちょっと、ここじゃまずいんで。」他の生徒が図書館から出てくるのを気にして、藤木君は言い淀んだ。
「わかった。こっちへ。」
東棟の校舎へ入り非常階段で一階分上がる。校舎内はほぼ全員が何らかのクラブ活動をしていて、教室周辺に人は居ないとしても、ちらほらとまだ生徒は出入りをしている。このまま廊下で話すのはまずい、多目的教室の前へと進んだ。教室は鍵がかかっている。凱斗は腰につけていたキーケースから、折りたたまれたピックを伸ばし、鍵穴に差し込む。それを見た藤木君が驚愕にたじろぐ。
「職員室まで鍵を取りに行くのが面倒だからねぇ。」
軍時代では、サバイバルツールとして、ナイフやピッグなどを持ち歩いていた。銃を落としても、ナイフだけは落とすなと叩きこまれていて、平和な日本に帰国しても、その癖は抜けきらない。流石に軍時代のごついナイフを持ち歩くのは銃刀法違反になるので、こんな小さな、ヤンキーの飾りみたいな物しか携帯できないが、身に付いたサバイバル意識を落ち着かせるのに、多少は役に立っている。
「内緒だよ。」
「凱さんって・・・」不信感満載の藤木君。
「グレた時期が長くあってねぇ。と言うのは、冗談。さぁ、ここなら、話し声が外に漏れる事はない。」
この記憶力があったおかけで、他の兵士より特殊な訓練を強いられる事になった。
兵士というよりスパイ活動が主な任務となった。どんな扉でも開けて逃げられるように訓練させられたピッキング技術は、鍵を無くして帰ってきても大丈夫で便利だ。だからこそ、自宅のマンションが、コンピューターロック式の鍵穴のない部屋だった事も、購入する決め手となった。
「凱さん、知ってたんですね。というか学園は知っていて、岡本悠希さんを入学させた?」
「もちろん。藤木君も、やっぱりその目で読み取って?」
「はい・・・というか、最近になっておかしな雰囲気になったから、調べて知ったんですが。」
藤木君は、自分が知った経緯を詳しく教えてくれる。そして、
「2年の先輩によって、その事件が三年の先輩に伝わり、そして、岡本さんがここに入学出来たのは、裏口入学だったんじゃないかと噂が流れ始めています。」
「はぁ?裏口入学?」
「入学に素性審査をする常翔学園が、事件に巻き込まれて・・・その・・・」藤木君は言い淀んだ。
言いたい事はわかっている。凱斗は頷いて言わなくてもわかっているを示した。
藤木君は辛そうに一息吐くと続けた。
「常翔学園が、嘘でもひどい噂のある人間を入学させるわけがない。だけど留年して入って来ているという事は、学園側と岡本さんの家の間で取引があったんじゃないかと。」
「裏口入学ねぇ。面白い発想するねぇ」
「凱さん!」キツイ口調で睨まれる。「軽く考えていたら、柴崎家の信頼は失墜しますよ。噂によって。いいんですか!」
「そうだな。だけど、どうしたもんかなぁ。」
「凱さん、常翔学園は、本当に、裏口入学なんかしてませんよね。」
藤木君はまっすぐ、俺を見据えて、目に力を入れる。
この気・・・文香さんや、総一郎会長から感じられる物と同じ。やっぱり藤木家はどこかで、神巫族の血脈が入っている。
「してないよ。する意味がない。」
藤木君は、ゆっくりと頷いた。
なんなのよ!もう!この真剣みのなさ!もうすぐ全国大会の予選が始まるというのに!
2年先輩がほとんど居なくて、新田も病院にマッサージに行っているとかで休み、亮は怒って外周走ってくると言って駆け出してから、帰ってこない。
皆、やる気がなくて全く声も出ていない。ただ時間をやり過ごす為に練習メニューをこなしている風だ。そんな部員達に麗香はイライラし、声を張り上げて叱咤するのだけど、今日はまったく効き目かなく、増してダラけて行く。いつもなら、麗香の叱咤はわずかでも効き目があるのに、流石に何かがおかしいと感じ始めていた。
「今日はぁ~、みんなぁ~元気ないねぇ~。」イライラの沸点があがったのを、かろうじて耐える。「岡本さんもぉ、帰っちゃったしぃ、皆ぁお疲れが溜まってるのかなぁ~」
一度クラブに顔を出していた岡本さんが帰ってしまった。すれ違った保野田先輩に体調が悪いのでと言ったを聞いて、麗香はまた、変な思い込みで亮を疑ってしまったのを反省する。亮は、体調不慮の岡本さんを気遣っていたのだ。謝らなくちゃいけないのに、中々帰ってこない。どこまで走りに行ってるのかしら、もうすぐ練習が終わるじゃない。
(まさか、体調不良の岡本さんを家まで送って行ってたりして・・・ぎゃーあいつなら、やりそうだから、怖い!)
「柴崎さんもぉ、お疲れえぇ?入学してから休まず頑張って来たもんね、偉いねぇ」
麗華の頭を撫でてくる保野田先輩。褒め方が幼稚園児扱いで、撫でられる手を払いのけたいのをぐっとがまんする。
「5月病って言うもんね、皆、疲れてくるの当たり前だよねぇ」
「もう6月に入ったんですけどっ」
「あれ~そうだっけ?」
「保野田先輩はカレンダーの進みも遅いんですか!」
「6月かぁ~梅雨の季節だねぇ、あぁだから最近、雨が多いのねぇ」梅雨入りを今更に気づく様子の保野田先輩
(これ以上、話しているとおかしくなりそう!)
本当に、この先輩達で大丈夫なのかしら、と麗香は不安になる。
畑中部長は、皆に慕われているが今一つ覇気が足りなくて頼りない。副部長の青木先輩がその頼りなさをカバーした頭脳派であるが、青木先輩は膝の調子が悪い時が多く、肝心な試合の時に戦力外になったりする。自分の力が出しきれない青木先輩は他の部員に強く言えない負い目があったりして、畑中先輩を出し抜いてまで部員に強い指示を出せない。2年の先輩は、亮を陥れようとした三島先輩が居なくなって、昔ほどの癖のある固執はなくなったけれど、それでも年功序列にこだわる気質はまだ残っていて、麗香達63期生の実力を認めたくない感情が垣間見える。
亮は、三島先輩を取り巻く先輩が居なくなり、更に外部入学組の先輩達が入って来ているから、随分とマシになっていると言うけど、じゃぁ昔、三島先輩達が居た頃は、どんなに辛辣だっただろうかと麗香は思う。
新田や亮がいる麗華達の年代は、サッカー育成豊富世代と、サッカー連盟内でも評価されているのをお父様から聞いた。常翔だけじゃなく、関西の遠藤君をはじめ全国に有望な選手が多く、ユース16のメンバーを決めるのも、大変だったと聞く。だからこそ、油断がならない。新田と亮が主となって率いるまではまだ2年があると言っても、その豊富な有望選手たちが、努力を惜しまず力をつけて駆け上がってくる。中学時代の屈辱を果たしに、常翔は全国から最敵視されるに違いない。
それなのに・・・・
「太陽さん、いつ見られるかなぁ~」保野田先輩の緩い言葉が、この雲空と同じにうっとおしい。
やる気がない部員たちが練習を終えて、お茶を飲みに部室前に集まる。部員たちの集中が欠けているのが目に見えてわかる。雨がポツポツと顔にかかり始めたから、練習は終わりにしようなんて話になった。
(これで本気で全国大会、優勝を目指しているの?そりゃね、常翔は周囲地域では敵なし、県内でも常翔に勝てる学校は数えるほどしかなくて、ユース16に選ばれた新田が居る常翔学園高等部は、今年も確実に県代表を勝ち取ると前評判されている。
だけど、そんな太鼓判にあぐらをかいていて良いとおもっているわけ?その油断が命取りになる可能性だってあるのに。)
麗香の思考が怒りの沸点を超える。
(何なの?2年の先輩は揃って練習に来ないって、学年行事で忙しい?何の学年行事か知らないけど、そんなのクラブ休んでやる事じゃないわ!どっちが大事だと思ってんのよ!誰よ、こんな大事な時に学年行事なんて入れたの!後で誰かを突き止めて、今後、練習に支障が出る行事なんて、全て取っ払ってやる!大会前は授業なんて無くして、朝から夜までびっちり練習でもいいぐらいだわ!帰る時間ももったいないから、学校で寝泊まりよ!うん、それがいい。今から企画書を作って敏夫叔父様に提案すれは、秋の全国大会前には実施できるかも!)
「皆ぁ、テルテル坊主、作ろう。」
「ぁぁ、そうだな、来週の試合、雨降ったら嫌だもんなぁ。」
怒りに握った麗華の手は震え、堪忍袋の緒が切れた。
「テルテル坊主作って天に祈る時間を作るぐらいなら!雨の日も惜しみなく練習して、濡れたグランドに囚われる事のない足腰を鍛えやがれ!」
そばにあったボールカゴを押し倒した。転がって出て来たボールを片っ端から蹴り飛ばす。
「あぁ、何するの!柴崎さんっ。」
「うわー柴崎さんがご乱心だ。」
「天候を理由に練習に手を抜くなんて、私が許さないわよ!」
「誰か、柴崎さんを止めろっ!」
「やめてー柴崎さーん。」
「私じゃなくて、転がるボールを追いかけ止めに行くのよ!」
(ったくふざけんじゃないわよ!これぐらいの雨で練習切り上げるなんて、ありえない、練習再開よ!)
「藤木はっ、藤木はどおしたよ。」
「藤木は関係ないでしょ!」
(なんなのよ!まるで私のお守は亮みたいな言い方して!)
「し、柴崎さぁん、お疲れさんなんだねぇ~。」
「疲れるわけないでしょ!これぐらいの仕事量でっ!」と啖呵きった割に、肩で息をする麗香。
片っ端から蹴ったボールはグランドの端まで行く勢いのはずだったのだけど、その半分も行かないで、予想よりも近い場所に散らばっている。
「ほら~、柴崎さんもぉ、お茶飲もう。」
保野田先輩が麗香の肩に手を置き、また幼稚園児でもあやすように言うもんだから、心底嫌気がさした。
「要りません!」
「あっ!」
ただ肩に置かれ促されただけと思っていた。保野田先輩はお茶の入ったコップを持っていて、麗香が振り払った勢いで、コップ内のお茶は保野田先輩の手とジャージを濡らしてしまう。
「ごめんなさい。すみません。」麗華は慌てて、自身のジャージのポケットから、タオルハンカチを取り出して、保野田先輩の手を拭く。
「柴崎さん、君の熱意は十分わかるんだけど・・・・今日のこの部員の士気の低下は、俺達部員のせいじゃない。」畑中先輩が、麗香に歩み寄る。
「士気低下を自分達のせいじゃないって・・・何なんですか!」
(あったまに来る!責任転嫁?気分が乗らないのは天気のせいだとでもいうの。)
彼女だから保野田先輩に畑中先輩は甘い。いつも擁護をしてマネージャーの仕事が滞っても何も言わない。
「柴崎さん、この士気低下を招いているの、俺達のせいと言うより、君の方が関係しているんじゃないかな。」しっかり者の青木先輩までも麗香に詰め寄る。騒いでいた部員たちが静まり、麗香に注目した。
「私?私が士気低下の原因って、何ですか?」
「柴崎さんと言うより、常翔学園の経営者である柴崎家だと言う方がいいかな。」
(柴崎家?増々わからない。)
「常翔学園は、施設等の学園における生活水準は高く、それはブランドと言っても過言ではない。ここに入る為には、高い水準の学歴もさることながら、素性調査も入試時にきっちり行われている。」
「そうよ、それが何だって、サッカー部の士気低下に関係があると言うの。」
「柴崎さん、俺達は、そんな名高い常翔学園に入学出来た事を誇りに思っている。それも強豪サッカー部の一員である事も。俺達は全国にも強豪校と名を馳せる強さを保つため、恥じない様、毎日厳しい練習を怠らず努力してきた。」
話の行く先が全く見えない。(だから何なのよ。)と言いたいのを麗香はぐっと我慢した。
「だけど、ずっとその士気が高いまま維持できる奴なんて居ない。日々の練習に疲れてもくるし、怪我の悩みに心が折れそうになる時もある。それでも毎日、暑い日も寒い日も、雨の日も練習するのは、サッカー自体が好きなのもあるけれど、それ以上に、この常翔でサッカーが出来る喜びと誇りがあるからだ。世間に名の知られない学校とは違う。沢山のプロ選手を輩出した常翔学園と名高いここでサッカーが出来る事は、俺達の大事なプライドなんだ。」
青木先輩の言葉に他の部員たちが頷いた。
「そうよ。常翔のサッカー部は、練習プログラム、施設環境、監督やコーチの指導者をはじめ、保護者会やOBのバックアップも高水準で、ここに在籍する事こそがプライド、ワンランク上のブランドなのよ!何なの!今更そんな事!確認しないと、士気は上がらないとでも言うの!」
「そうだよ。確認しなければいけないのは、柴崎さん、君だよ。」
「だから、何なんですか!私は、ここに居る誰よりもプライド高く常翔のブランドを背負っている!経営者の娘として!」言い加減に腹が立ってきて、声を張り上げた麗香。
(訳がわからない事をごちゃごちゃと、士気があげられない理由を私に押しつけようっての?ふざけんじゃないわよ!)
「本当に?そのブランド偽物であったりしない?」
「はぁ?」もう呆れて、麗香は眉を寄せる。「いい加減にしてください、言いたいことがあるなら、はっきり言ってください。」
畑中先輩と青木先輩が苦い顔を見合わす。そして意を決したように青木先輩が口を開く。やっぱり、重要な事を発言するのは青木先輩だ。何故、青木先輩が部長にならなかったんだろうと、こんな時に思ってしまう。
「常翔学園は、入試時に裏で」
「先輩!すみません。遅くなりました!」亮が息を切らせて駈け込んでくる。
「外周走ろうとしたら、担任に捕まって、課題レポート出してなかったの指摘されて、それが出来てなかったもんだから、今やれって言われて、やらされてーーー偉い目にあいましたぁ。」そう言って、切らす息を整えるべく、お茶のコップを手にとりジャグポットから注いでグビグビと一飲みする。
「あれ?もしかしてもう練習終わりました?」
「あぁ・・・雨がポツポツしてきたから、今日はやめようかと、2年も居ないし・・」と畑中先輩。
「そうですか、あれ?ボールカゴが倒れて、ボールも酷い散らばり様・・・何かあったんですか?」
「あっ、いや・・・何でもないよ、ふざけて倒しちゃったんだ。」
畑中先輩が、麗香の方をちらりと見て視線を逸らす。それを見逃さないように、亮は目尻を細めて、全てを見渡す。
読み取られて困る事は何もない。私は何も悪い事はして居ない、それこそ、この常翔学園生徒である事、強豪サッカー部のマネージャーである事にプライドを持って高い士気を持ち立ち続けている、こその行為だ。
「俺、何もしてないんで片付けますよ。」
麗香のすぐ横を通り、周りに気づかれないようにささやく亮。
「そのまま、何を言われても毅然としていろ。」
(もう、何なの!皆して回りくどい!)
二人の先輩は、藤木の登場で意気消沈したように、部室に入り着替え始めた。
援護をしていたような他の先輩達も、お茶を飲んだり、荷物の整理をしたりして帰り支度を始める。
1年は藤木の後を追って、ボールを集め、グランド整備に入った。
(言われなくても、毅然としてるわよ!これ以上ないくらいにねっ。)
麗香は怒りのエネルギーを大地にたたきつけ、仁王立ちをした。
(私は柴崎麗華よ!)
部屋は、雲が厚く薄暗い外と同じだった。仏壇の前に座る無反応のお母さんに、もう一度、ただいまと和樹は声をかけた。やっぱり無反応のお母さんは、重い空気に固められて止まったように身動きしない。
この部屋は、あの時から時が止まっている。仏壇の前には、兄さんの好物だった食べ物や飲み物が所せましと置かれていて、そこだけがにぎやかな彩どり。仏壇の右わきに兄さんのアルバムが無造作に積まれている。お母さんは、時々アルバムを広げて、まるでそこに兄さんが存在しているかのように、話しかけている時がある。本当は、精神科へ連れて行った方がいいのだろうけれど、お父さんとおじいちゃんは、お母さんの自由にさせてあげなさいと、今まで一度も病院に連れて行くような話にならない。精神科に通っているなんて近所に知れ渡ったら、黒川家の恥と言う意識が、お父さんとお爺ちゃんにあるようだ。和樹も少し前まではあった。完全とはいかないまでも精神科に対する意識が低くなったのは、真辺さんのおかげだ。和樹自身がお父さんとお爺ちゃんを説得して、お母さんを病院に連れて行こうと、言い出すべきなんだと思う。だけど、どうせ駄目だと言われると予想がつくので、何も言いだせなかった。
2階の自室に鞄を置きに行ってから、1階のリビングに入る。隣の和室に取り入れた洗濯物が半分、畳み途中でまだ広がっていた。
今日のお母さんは、洗濯ものを取り入れて畳んでいる途中で、鬱に入っちゃたんだとわかる。続きの洗濯物の畳みを和樹がする。
(あの調子だと、今日も晩御飯は無いな。)
お父さんは、家に晩御飯がない事を見越して外で食べて帰ってくる、のも1週間に3日もあれば多い方で、それも夜遅くだから、1週間以上、お父さんの顔を見た事がない状態が、黒川家の常識だった。お爺ちゃんは、今日は道場で教える日で、昼には家を出ている。和樹も今から道場に向かうつもりだった。だから今日は美術部に行かずに早く帰って来た。
稽古の帰りにスーパーで惣菜を買って帰った方がいいだろう。お爺ちゃんに言って帰りにスーパーへ寄ってもらおう。と考える。
和樹は今年の3月に14歳になる。やっと初段認定試験を受けられる。5段まで行けば柔道を辞められる。柔道の認定試験は、大会で良い成績を残しているかどうかも判断されるから、今から大会に出て条件を取得しておくのが柔道を辞める早道。なのだけど、この間、県大会で準優勝してから、柔道が面白くなってきた。今までお爺ちゃんに大会に出ろと言われても、嫌だと出る事は一度もなかった和樹だった。1級までは特に試合の成績なんて考慮は無くても昇級出来るから、嫌いな柔道の大会になんて出る気もなかったし、兄さんが死んでから、練習に来いとうるさく言わなくなったから、そのうち、辞めるなら5段を取ってからという約束も消滅してしまうだろうと、淡い期待をしていたのだけど、真辺さんやサッカー部が全国大会で優勝した事を見聞きしている内に、和樹も挑戦したくなった。
初めて出場した大きな大会で準優勝して、表彰式で皆から拍手と共に盾を貰えた時の高揚感が最高に心地よかった。皆この高揚感を欲しくて、大会や試合に出るんだとわかった。和樹が準優勝の盾を持って帰りお母さんに報告をすると、お母さんは、その時は、喜んでおめでとうと笑ってくれた。その日の夕飯は、和樹と兄さんが大好きなから揚げを久々に作ってくれて、このままお母さんの病気は治るんじゃないだろうかと思った。だけど、翌日からはやっぱり駄目で、それでも一時でもお母さんが笑った顔を見られた事が、嬉しかった。お母さんが笑ってから揚げを作れるようになるなら、嫌いな柔道の試合も何度でも出ようと思った。
畳み終わった洗濯物を皆の部屋に配りまわる。
道場に行くためにジャージに着替えている時、携帯の着信音が鳴った。着信相手を見ると、理事補だった。
「何だろう?」
定期的なネット監視のチェックはこの間やったばかり。それの不具合でもあったのだろうか?と言っても、凱さんは和樹がやっているシステムを全くわからないはず。
「はい。」
「黒川君、悪いね、えーと、もう家かな?」
「はい。少し前に帰って来たところですけど、何かありました?もしかしてこの間の監視チェックで不備があったとか?」
「いやそうじゃないんだ。」
ますます?だ。
「また、ちょっと助けてくれないかなぁ。」
「ん?」
「とにかく、今から、柴崎邸に来れるか?」
柴崎邸に?この緊急性は真辺さんの時のようだ。
「あー無理ならいいんだ。また夜遅くなりそうだし。」
「行きます!大丈夫です。」
我が家は、和樹にかまう人間は居ない。和樹が一晩帰ってこなくても、誰も何も言わない。
電話を終えた和樹は、着たばかりのジャージを脱ぎ捨て、ジーンズと半そでのパーカーに着替える。
そして、机の上にある充電中のノートパソコンからアダプターを引っこ抜き、リュックの中へ、必要になりそうなプログラムの入ったUSBを選び同じくリュックのポケットに入れる。階段を駆け降りて玄関へ、その前に一応お母さんに声かけてから行こうと踵を返した。仏間に戻ると、さっきと変わらず時が止まったままのお母さんの姿。
「お母さん、僕、出かけるから、先輩の家に呼ばれたんだ。」
「・・・・・・。」
お母さんは、ゆっくりこちらに顔を向けた。
「遅くなるかもしれない。でも大丈夫、学園の経営者、柴崎さんのお家だから。」
「・・・・お帰り、和樹。」気怠そうなお母さんの、遅いお帰りの返事。
「・・・・ただいま。お母さん。」
兄さんが生きていた頃のお母さんの面影は、どこにもない。
時々、ここに居るのは他人で、本当のお母さんは別に居るのかもしれないと願う。そしていつか「遅くなったね、すぐにご飯作るから待っててね。」なんて言いながら玄関から笑って帰ってくる。
もう和樹に関心がなくなったように、また仏壇の写真に顔を向けた背中に、声を掛けた。
「お母さん、いってきます。」
行ってらっしゃいは、あれから一度もない。
畑中先輩の早めに練習を終わらせるという判断が、悔しくも良かったのか、ポツポツと降り出した雨はすぐに本降りになり、お茶のコップを洗い終えて制服に着替えた頃には、傘を指して歩くのも嫌な降り方になっていた。
「柴崎、傘入れてくれ。」
「まだ、居てたの?」
「あぁ。」
岡本さんが帰り、マネージャーの仕事であるコップ洗浄や救急箱の整理など、全て麗香がやらなくちゃならなくなった。保野田先輩が手伝うよと言ってくれたが、手伝ってくれた方が手間がかかり、麗香のストレスとなるのはわかっていたし、手にお茶をかけてしまったお詫びも兼ねて、全部を引き受けた。急いで仕事を終わらせたつもりだったが、やはり二人分の仕事は時間がかかって、部員はもう全員帰った後だと思っていた。亮も当然にそうだと思っていたから、正門を出た麗香の後から駆けてくる亮に驚き、まさか待っていてくれていたのかと淡い期待もしながら、亮が傘に入りやすいように上にあげた。亮は濡れた髪をかき上げて麗香の右横に入ってきて、麗香の手から傘を取り上げて歩み始める。
「まだ、傘買ってないの?」
「あぁ、忘れてた。」
「あんたって変なところで、無頓着よね。」
「んあ?そうか?」
入れてくれと言うわりには、傘の面積は私の方が広く傾けてくれている。そんな紳士的な頓着は抜かりない。
寮生は、常翔学園の名前が入った傘が学園と寮に常備してあるので、今まで傘を購入する必要がなかった。一人暮らしをはじめた今も、学園から駅までは500メートルの距離、歩いて5分、走れば2分かからず、自宅マンションも駅そばなので傘をさすことなく帰宅できる。そんな事情から亮は傘の購入のタイミングを常に逃していた。
「傘、買ってあげようか?」
「どういう名目で?」
「どういうって・・・。」
「恋人でもない相手から買ってもらう理由がない。」
麗香は大きくため息を吐いた。
「そういうところは頑なに頓着なのね。」
「必要な事と必要じゃない事を明確にしてるだけだ。」
「恋人でも何でもない相手の傘に入れてもらうのは、必要な事なのね。」
「そう、女の子から声をかけやすくしとくのは必要な事さ。今日はたまたま柴崎しかいなかった。」
麗華は呆れて首を振る。どうして、こんな女たらしの男を好きになったんだろうと自分の恋心に呆れてしまう。
すぐに駅に着く。傘を折り畳んで改札を通り、ホームまでの階段を上る。
中高の最終下校よりも30分早い中途半端な時間だった。ホームに常翔の生徒はいなかった。それを確認するように亮は周囲を見渡してから、話し始める。
「これから、柴崎邸に行くから。」
「はぁ?」
「今日、おかしかっただろ、クラブ。」
「そうよ。何なの!あんたも、なっかなか帰ってこないし!」怒りが再燃する。
「凱さんに相談に行ってたんだ。」
「凱兄さん?」
「2年の先輩達が今日、練習に来ていなかったのは学年行事が理由じゃない。抱いた疑惑に対するボイコットだ。」
「ボイコット?」
「2年の先輩達は疑惑が晴れない限り練習には来れないと、畑中先輩達に言ったようだ。」
「疑惑って何?」
亮は何故か、麗香から顔をそむけた。
「畑中先輩と青木先輩、3年の先輩達も困ってしまった。部員が練習をボイコットするという事態もそうだけど、その理由も前代未聞の大事で。」
「大事?何なの?」
いつもなら会話の都度、本心を確認するように麗香の目を見て話す亮だが、今はまるでワザと読まないように、体も横を向いてしまっている。
「畑中先輩には俺と柴崎に任せてくれと言ったんだけどな。お前だろ、ボールカゴ倒して散らかしたの。あまりにもの事で、先輩、動揺を抑えきれなかったんだな。追いうちをかけるような、お前の態度に耐え切れなくなった。」
「追いうちって、私・・・」
やっと麗香の顔を見る亮は、目を細める。
「だって、もうすぐ予選も始まるのに、雨が降って来そうだから早めに切り上げるなんて・・・。」
「予選どころの話じゃない。下手すれば学園の信頼が危ぶまれる事態に発展する。」
「えっ?」
列車の到着に注意を呼び掛ける案内がホームに響き渡る。
「時間が惜しいから、電車の中で説明するけど、絶対に激高するなよ。」と亮は真顔で麗香に訴える。
「な、何なのよ。」
「柴崎麗香、今から話すこと、何を聞いても冷静に、毅然としろ。」
(また・・・何か、大変な事が起きた?)
亮の冷静さが逆に不安を増す。
到着した電車に乗り込んだ麗香達は、周囲に人の居ない4人掛けのスペースに座る事が出来き、亮から事情を聞く。岡本さんの遭遇した悲惨な事件、悲痛な噂、先輩達がそれらを知ってしまった事、までは、冷静に聞くことが出来ていた。だけど、柴崎家が裏口入学をしていたんじゃないかという疑惑に発展している事を知って、麗香は怒りに叫びそうになった。ちょうど降車駅についてかろうじて叫びはしなかったが、改札までの階段に、その怒りを踏み下ろしながらじゃないと抑え込む事は出来なかった。
「冗談にも程があるわ!裏口入学なんてっ。」
「ほらっ、濡れるから。」
吐き捨てる苛立ちは、亮が持ってくれていたままだった麗香の傘から、はみ出る程大きい。
「常翔学園が裏口入学なんてするわけないじゃないのよ!」
「だから、噂だって。」
「噂の質が低俗過ぎるわ!誰よ!そんなくだらない噂を流したの!」
「もう、ここまで来たら、誰が流したかは重要じゃないんだ。」
「常翔学園を経営する柴崎家は、華族の称号を持つ由緒ある家よ!」握った手は震え、食い込む爪が痛いけれど、怒りは抑えられない。「お金より大事な物を、神皇様より賜っているのよ!」
「だから、毅然としてろって、言ったんだ。」
「屈辱だわ!」
「わかったから。そうわめくな。」亮は苦悶に顔を背ける。
「そんなくだらない方法で稼がなくても、お金なんてね!捨てる程あるのよ!」
「はぁ~それ、りのちゃんの前で絶対に言うなよ。」
「あっ、りの・・・・もしかして、岡本さんの事を知ってたんじゃ。」
「あぁ。おそらく、岡本さんは狡いって言ってたからな、それにお前に言えないってのも納得だ。」
(りのまで巻き込んでしまって、なんなの、この事態って。)
「だけど、りのは、何処でこの噂話を知ったのかしら?」
「んー時期的には、あの時かなぁ。」亮は少し遠くを見つめ何かを思い出し、「お前が凱さんに呼ばれて、昼食を先に食べて出て行った時、あの日は初めて悠希ちゃんが俺達と一緒に昼食を食べる事になった日で、あん時、りのちゃんは悠希ちゃんの存在に驚いて、ウラ何とかと・・・いつものごとく、初対面の人間の前で吃音が酷くなっているだけかと思っていたけど、裏口入学って言いたかったんだ。」
「頼まれたって、誰だったのかしら。」
「わからない。」
「はぁ~、何だってこんな時期に・・・。」
りのに華選上籍の話をする大事な時だ。こんな屈辱的な噂で、りのが柴崎家に不審を抱いてしまったら、大変だ。
「こんな時期って?」
「あっ、ううん何でもない。だけど、それなら、最初っから言っといてよ。私あんたに酷い事、言っちゃったじゃないのよ。」
傷付いた岡本さんに対応している亮を、軟派してるなんて言ってしまった。
「あぁ?軟派のことか?言えるヒマなんかなかったろ。お前が所構わずイライラをぶつけるの、誰が止められるんだよ。」
「ごめん・・・・。」
(反省、どうしても亮の行動に反応してしまう。もっとちゃんとしなくちゃ。)
「だけど今日は流石だったな。あの青木先輩に詰め寄られても、毅然とした態度は崩れなかった。」
「褒められる事でもないわ。ただ何も知らなかったから、訳がわからない事態に怒っていただけよ。」
「それでも、3年の先輩全員の視線に負けずに毅然と立ち向かえるのは、さすがは柴崎麗香。」
「褒められてる気がしない。」
「なんだよ。これ以上ない賛辞だろ。」
亮の理想は高い。亮の求める柴崎麗香像は、強く、美しく、品よく、真っ直ぐに、何にも屈しない姿勢であり続けなくてはいけない。
そんな私で居る時は、確かに楽で辛くないけれど、私だって、か弱く甘えたくなる時もある。それを亮はわかっていない・・・いや?わかっているはず、すべてを読み取るのだから。と言う事は、やっぱりそう言う甘えを許しはしないという事。
急に亮が私の腰に手を回し強く引きよせる。突然迫った亮の顔にドキリと胸が高鳴った。
スピードを出し過ぎた車が横切り、麗香の髪を乱して視界が遮られる。
「危ないなぁ・・・お前もちゃんと見とけよ。」
「・・・。」別れた男は、惜しい程に気づかい配慮は最高クラス。
「ん?何赤くなってんだ?」ニヤついた亮が目を細めて顔をのぞき込んでくる。
「別にっ。」
「お前も、もっと修業しろ。」
「なっ何よ!」
「いちいち俺の言動に嫉妬しない、気高い柴崎麗香になるようにな。」
(その気高い柴崎麗香像は、一体誰の為?)
何もかも御見通しの亮は、その答えを絶対に教えてくれない。
「返して!誰様の傘を使ってんのよ!」
「あっ、そんなぁ~慈悲を御恵み下さい~お嬢様。」
「近寄らないでっ。そんなびしょ濡れのまま屋敷に入らないでちょうだい。」
「そんな~これは、お嬢様が濡れないようにと。」
「家に戻って、着替えてから来たらいいでしょう!」
「えー面倒。」
「屋敷と5分もかからない距離で何が面倒よ!」
「6階まで上がるのが面倒。」
「馬鹿じゃないの!サッカー部の足腰にプライド持ちなさいよ!」
「俺はただの平民なんでね。プライドなんて高い気位は持ち合わせておりません。」
(私に高い理想を要求する癖に自分は・・・・。)
「何言ってるのよ、福岡の藤木家と言えば、内閣総理大臣を輩出した名門、どこが平民よ!」
「いやいや、藤木家は元は農民の、ただの成り上がりですから。称号持ちの柴崎様とは身分が違います。」
「もう、いつも自分勝手に、そうやって私を、論う。」
「さぁ、参りましょう、お嬢様、お屋敷へ。」
そう言ってまた傘を奪われ、傘を差し出し。まるで執事のように腰を曲げて頭まで下げる。
(別れた男にこれをされてもねぇ。)
麗香は大きなため息を吐く。
「・・・と言う事でして、裏口入学に対する潔白を証明するには、学園の昨年度の会計報告及び会計監査書類と柴崎家の資産開示も必要になると思うのです。」
「うーん、学園の財務表などは開示しても特に問題ないわ。それは法人としてホームページでも載せてあるから、原本の開示が必要なら持って行って貰っても構わないわよ。」
「はい。そうします。今週の土曜日には、疑惑を感じている生徒を集めて、視聴覚室で説明をしようと考えております。会長にも立ちあって頂いた方がよろしいかと。」
「ええ、勿論、中、高理事長も揃った方がいいわね。」
「はい。」
サッカー部の2年生が、練習をボイコットすると言う前代未聞の事態が起こった。幸いな事に、今日は顧問が、職員会議で練習を監督していなかった上、雇いのコーチも今日は来ない日であったために、その疑惑は生徒内だけに止まっている。そして藤木君の機転で、噂を広めるなと一応の緘口令を敷いてくれていた。しかし、裏口入学の疑惑が嘘であっても、噂になる事自体が常翔の品位が下がる危険を孕む。
「問題は、柴崎家の資産ね。」
「はい。それが一番重要でして、いくら学園は潔白だと証明しても、その裏口で得た金が学園を経営する個人資産に入ったのではないかと疑うのは当たり前に簡単な事ですから。」
「ふー、今どきの生徒は賢いと言うか、変に情報ばかりが簡単に得る事が出来るから、短絡的思考というか。」
「全くです。情報だけで実体験が少ない。」
「資産財務表は確定申告用に会計事務所に頼んである物で良いでしょう。ただそれを開示するか否かが問題。個人資産を開示するのは確かに究極のプライバシーではあるけれど、開示すること自体はさほど問題はないわ。学園で預かる生徒の家は柴崎家に劣らない富豪ばかりなのだし、ただ、詳しく見られると、華族の特権を知られる事になる。」
「はい。華族の称号を持つ家は有事の際に、その資産や権力を惜しみなく使う事を責務とされている代償に、税金は無課税待遇であり、確定申告で還付金として戻ってきます。」
「ええ、これは華族の秘守として皇帝典範内に記載された、秘匿権項目内の最重要秘儀に入っている。」
「では、そこは改ざんした財務表を開示するとかすれば。」
「うーん。」文香さんが肘をテーブルにつき、顔を覆うように支え、唸る。
「疑惑を嘘で消す。一時しのぎにはなるかもしれないけれど、疑惑は更なる疑惑を乗せて打ち寄せる事になりかねない。」
「それは、そうですが・・・じゃどうしたら。」
「財務表を生徒が見て、無課税である事、わかるかしら?」
「どうでしょうねぇ。還付金項目に注視しなければわからないと思いますが、それこそ柴崎家に劣らない富豪ばかりの常翔の生徒は、既に財務表の見方を勉強させられている子が居てもおかしくはありません。まぁ、まだ高校生ですから居ても少ないと思いますが。」
しばらく思考の後、文香さんは決意して顔を上げる。
「わかりました。正式の財務表の開示をしましょう。」
「いいのですか?」
「仕方ありません。裏口入学なんて疑惑が残る方が柴崎家としては一大事。信夫理事長、敏夫理事長、洋子理事長、和江理事長には私が話をして許可をもらいましょう。」
「わかりました。では会計事務所に昨年度の資産財務表と、ちょうど半期が終わったところですから急がせて、今期の半期財務表作成を依頼します。」と早速動こうとした凱斗を止める文香さん。
「あー、凱斗、華族の秘匿権項目に触れるから、念のために華族会、白鳥代表代理に相談するわ。その視聴覚室に集める予定の生徒の名簿を作ってもらえるかしら、保護者の素性項目入りで。それを白鳥様にお見せして確認していただくから。」
「わかりました。今の所サッカー部のみで広がっている疑惑だそうで、約60名ほどです。」
「藤木君の能力に頼る事になりそうね。」
「はい、疑惑がどこまで学園に広がっているか、本心を読み取って生徒を集めなければなりませんから。」
「藤木君に伝えて頂戴、無理しないようにと。いざとなれば、私が視るからと。」
「わかりました。伝えます。」
屋敷の会長室から出る時には、文香さんは大きなため息をついて、電話に手を伸ばしていた。常翔学園小学部と幼稚舎へ、洋子理事長と和江理事長へ連絡を取り、今から話をしに行く為のアポイント取りだろう。果たして洋子義母と和江義伯母は、柴崎家一族の資産開示に良しと言うだろうか?・・・・言わないだろう。
一応の会長と言う立場を尊重して、文香さんの言動に大きく反発はしないだろうけど、きっと洋子義母と和江義伯母は心中で、ほら見たことかと、文香さんを責めるに違いない。文香さん個人で責任を持つと言って岡本悠希さんの入学を許可した事を、説明抜きでは説得できないだろうし。そうした二人の文香さんに対する嫌悪を文香さんは読み取って、また耐えがたい辛辣をかみしめるに違いない。
(近々、晩酌に付き合うかぁ。)
飲むと笑い上戸になる文香さんとの酒は、酔えない体でも楽しいほろ甘いひと時。
和樹は、手を一振り回した。手先から煌く光のくずが先へ、新体操のリボンの様に舞うと、それは人方に変化する。見渡す限りの草原揺れる大地の中、兄さんが警察官の制服を着て満面の笑みで立つ。
『和樹、どうだ?似合っているか?』
警察学校に入所する朝、そう言って家族全員で家の前で写真を撮った時の姿だ。和樹のパソコンの中に兄さんの写真が多数入っているので、VID内で兄さんを登場させるのは簡単だったが、いつも警察の制服姿になってしまう。きっと、この時の兄さんの姿が和樹にとって誇らしく、頼もしく、うれしく、そして今では後悔しているからだろう。
『これで和樹は、絵描きさんになれるな。』
お爺ちゃんの代から続いて警察官の黒川家の長男として、和樹以上に小さいころから柔道場に通い、一時期は剣道もやっていた。警察官に成りたいとか、成りたくないとか、そう言った事を兄さんから聞いたことがなくて、当たり前に警察官になった兄さん。
和樹が警察官に成りたくないと言ったから、兄さんは警察官になる事から逃げる事が出来なかったんだろうか?
『和樹の好きにすればいいよ。』
それは兄さんの口癖、兄さんは和樹に好きな事をさせる為に、何かを我慢をして何かを犠牲にしたんじゃないだろうか?
その疑問に、目の前に立つ兄さんはただ微笑んで敬礼をしているだけで、答えてはくれない。
「で、黒川君には岡本悠希さんの誘拐事件に関する情報精査をして欲しいんだーーーー黒川君?」
「あっ、はい、すみません。」慌てて目の前の兄さんを消して、草原の大地も元の電脳ビル街に戻す。
「どうした?調子悪いのか?」心配顔の理事補と藤木さんがのぞき込んでくる。
視界が揺れる。煌びやかな電脳の景色と柴崎邸の重厚な家具が並ぶ会議室が重なって、距離感がつかめない。
「あ、いえ、大丈夫です。岡本悠希さんの誘拐事件ですね。」
「事件を含む悪質なうわさ話も。誘拐事件自体は、親子さんの強い希望で世間に公表はせず、警察もその要望に応えて強い報道規制をかけた。一部のマスコミが事件解決後に匿名で報道してしまったから、岡本悠希さんの通っていた中学や近隣では、岡本悠希さんがその事件の被害者だという事は知れてしまったけど、隣市で起きた大きな事件の割に、他市までには広まらなかった。」
「こんな事件が隣市で起きていたなんて、ほんと知らなかったわ。警視庁の特殊部隊も出動したんでしょう。えーと岡本さんが中一の時って言うと・・・。」
「約3年ちょっと前、麗香達は小学6年の時だね。」
「俺はまだ福岡に居たから当然知らない。」と藤木さん。
和樹は小4、えりと初めて会った頃だ。
「僕は小学4年の時ですけど、小6でハッキングするようになってから、ネットから拾って知りましたけれど、その岡本さんがその時の被害者だと言う事は今日、初めて知りました。」
兄さんの死んだ事件を知りたくて、警察の情報を探っていた時に知り、世の中には報道規制がされている事件が沢山ある事を和樹は実感した。そんな中で自分の住んでいる近くで、特殊部隊も出動するほどの誘拐事件が起きていた事を知り、こうやって世間が知らないうちに、兄さんの存在も消されていくんだと、悔しく警察に怒りを覚えたのだ。
和樹は早速、電脳の世界で架空のパソコンを表し、「日向市 岡本悠希」のキーワードを打ち込みエンターを叩く。架空のパソコンから無数に繋がり広がっている蜘蛛の糸が七色の光を放ち、世界へと飛んでいく。そして世界のあちこちでフラッシュして光の玉が和樹の元に飛んでくる。光の玉は和樹の前で紙の束となって積み上がる。和樹はそれらに目を通す。
「ネット界で流れている情報は、日向第3中学のO・Yは誘拐された、というのが大多数・・・こっちは実名・・がちらほらありますね。これは名前に消し後が・・・理事補、バラテンさんに頼んで、一度、清掃作業していますね?」
「さすが、わかった?」
「はい、消し跡がバラテンさん特有のプログラミングですから。」
「彼女を常翔に受け入れる事になって、バラテンに頼んで、岡本悠希さんに関係する情報を消してもらったんだ。だが、限りあるんでね、実名のものを重点に消してもらって、凌いだんだが。」
「でも俺、この間検索した時、実名のものがヒットして、知ったんだけど。」と藤木さん。
「藤木さん、検索ワードは何を入力しました?」
「日向市、岡本悠希、汚れた。」
「汚れたって何!」と柴崎先輩が叫ぶ。
和樹は、瞬時にそれを打ち込む。新たな情報が集まってくる。
「検索ワードによって、拾えるものは違ってきます。バラテンさんが一度清掃しても、完璧には消せません。こうやってこぼれた物は多数あります。バラテンさんの消去プログラムの検索ワードには、どうやら「汚い」というワードは入ってなかった。例えば藤木さんが「日向市・岡本悠希」だけで検索していたら、実名のものは拾えなかった。汚れたというワードが深堀ワードとなって拾えましたね。」
「だから、その汚れたって何よ!」。
「黒川君、事件そのものの情報はどうなっている?」柴崎先輩の怒りは無視される。
「ちょっと待ってください。」和樹は新たに【岡本悠希・誘拐事件】と入力した。新たに集まる情報の束は、流石に報道規制がかかっただけあって、断片的なものしかない。だけど、情報があやふやだからこそ、まだ拾えていないものが無数に世界に眠っていると言える。それらをすべて消すとなると、かなり高度なプログラミングを要する。
「断片的な概要ばかりですね。あぁ、でも僕が事件の詳細を知らないから、集めきれていないってのはあります。」
「黒川君自身が、その事件の詳細を知れば、ネットに広がった事件の情報をすべて、かき集めて消去できる?」
「今でもできない事はないです。大雑把に消すぐらいなら簡単です。でもやっぱり精度をあげて完璧を目指すなら、事件の詳細を元に、あらゆる検索ワードに対応するプログラミングを作る事が必要です。」
「うーん。事件の詳細は康太に頼もう。それまでに、岡本悠希さんに対する噂の一掃と拡散防止をしてくれるか?」
「はい。」和樹は束になる情報から、岡本悠希さんに関する噂の詳細を手に取る。「これですね。誘拐事件の被害者yは拉致監禁された時、性的暴力を受けた、と言うもの。」
「酷過ぎるわっそんな噂!」柴崎先輩は怒りを抑えきれないで、これ以上ない怖い顔で和樹を睨む。
「実名もまだ、残っているか?」
「そうですね。まだありますね。」
「実名じゃなくても、そんな酷い噂、消して頂戴!」
「完全に消すには、情報をある程度分析してから、構築しないと。検索の漏れが出来てしまいますから・・・ちょっと待ってください。」和樹は集まってくる情報の紙をかき混ぜるようにして、手を回す。噂の流れた時期と実名、匿名によって、5つに大まかに分かれる。
「これは・・・最近になってアップされているのもありますね。」
「最近?」
「はい、匿名ですけど、【うちの学園に昔、誘拐されて暴行された奴が、留年して入って来た。嫌だな】って。」
誘拐・暴行・留年というキーワードで、このコメントが岡本悠希さんであると判断したようだ。
「そんなくだらない噂をアップするの、誰よっ!」
和樹は、その最近になってネット上で話題にした【テンプラ】という名がどこから発信したかを追い、そして誰かを瞬時に突き止める。常翔学園サッカー部2年、寺内直人。判明した人物名を発言するのをやめておく。柴崎先輩に知れたら、この人は糾弾されて、退学させらるかもしれない。確かにこの人は、安易に噂をネット上に流す良くない行為をした人だ。だけど、それは世間一般でよくあること。今回のコメントは、学園名も実名も記されてはいない。
「許さないわ!男の、女を性的対象として卑下するの。」
「わかったから、柴崎、落ちつけ。」と藤木さんが宥める。
「落ち着いているわよ!怒りを半分に抑え込む事が出来るほどにねっ!」
(こわ~っ。柴崎先輩。)
「それを、流した奴、誰?黒川君わかんないの!」
「えーと、そうですねぇ」どうしよう。
「さっきも言っただろ、ここまで来たら、誰が流したかなんて、個別に糾弾しても意味がない。それにまだ実名、学園名も記されていない。」
(藤木さん助かる~。)
「じゃ黒川君、岡本悠希さんのこの事件を含めて、噂が実名でネット上にアップされたら、すぐに消去をできるようなシステムを構築してくれないかな。」
「はい。任せてください。」
「あと、裏口入学の噂は?」
和樹は新たに検索して情報を集める。今の所、常翔学園が裏口入学をしていると書き込んだ者はいないようだ。それもそうだろう、自分が通う学園の悪口を書けば、自分の首を絞めかねない。自分が常翔を受けて落ちたと言うなら、裏口入学をしていた奴のおかげで自分は落ちたと愚痴られるけれど。もう既に入学しているのだから、ヘタなことをネットに流せば、自分だけが処罰の対象になってしまう。
「今の所はありません。」
「当然よっ。そんなことネット上に流したりしたら、この私が許さないわっ。」
「それもネツトに上がってくるようだったら、消去の対象に。」
「はい」
「沢山の情報を精査しなければならないけど、大丈夫?」
「すぐに、パパっとは行きませんけれど、頑張ります。」
「無理のないように、休み休みでいいからね。」
「はい。」
「じゃネット界は黒川君にがんばってもらうとして、後は、疑惑を抱いた生徒達をどうやって誤解を解くかだな。」
「やり方を間違えれば、疑惑は大きくなりかねません。」
「あぁ。」
その話は、自分には無理そうだ。自分は、自分が出来る事に集中しようと電脳世界にどっぷりと入る。目の前に積みあがっている情報の書類の束を一振りして散らかした。元あった場所に戻すために。半透明に鈍く光る紙は、和樹の前から一斉に飛んで行き、それはまるで公園の白いハトが一斉に飛び立った時のように、爽快だった。
「わぁ~なんて綺麗な・・・」思わず声に出していた。
理事補と藤木さんと柴崎先輩が会話を止め、「えっ?」と振り返る気配。
「すみません。VIDの世界では独り言が多くなりますから、気が散るようなら、別の部屋に移動します。」
「いや、いいよ。こっちこそ邪魔してごめん。」
皆も、この世界が見れたらいいのになぁと和樹は思う。
この世界は孤独、和樹が創造しない限り、人は現れない。その創造した人間は、ネット上の蔓延した情報で作られた偽物の偶像でしかないが。
もし和樹のように意思を持つ者が現れたら、それは自分と同じVID脳を持つ者だ。相手はプライドを賭けた交戦をしてくるだろう。そうなったら、また命を賭けて戦わなくてはいけない。
柴崎邸に住み込みの料理人である源田さんは、生徒達が屋敷に来ると連絡を受け、予定していた晩御飯のメニューに加えて、男性だけビフカツを用意してくれた。食べ終えた頃、珍しく食堂に現れた源さんは、ビワが沢山入ったボールを無言でテーブルに置いた。
「ごちそうさまでした。」と亮が源田さんに向かって言うと、
「夜食も遠慮なく言え。」と部屋を出て行く。
何度か柴崎邸に泊まった事のある亮、勿論、源田さんには顔を合わす度に挨拶はしていたが、応答があった事は一度もなかった。
いつも、住み込みのお手伝い木村さんが、「すみません、不愛想で」と源田さんのフォローをするのが毎度のこと。
そして今も木村さんが慌てて食堂に入って来て、
「もう、源田さんったら、皮を剥いてない物をお出しして・・・・すみません、皮を剥いてきますので。」とフルーツボールを下げようとする。
「俺はこのままで構いません。お手拭きだけ頂ければ。」
「私は剥いて頂戴。」と麗香。
木村さんがボールを下げる前に、亮は一つだけ枇杷を手に取った。
枇杷―――その身は果実として、大きな葉はアミグダリとの鎮静作用により漢方薬として、樹は乾燥させると非常に強く粘りもあるために昔から杖の材料に、今では剣道や剣術の高級な木刀に使われたりする。
「枇杷なんて久しぶりだな。」
「好きなら持って帰れば?」
「いや・・・好きでも嫌いでもない。」
「ん?」
『枇杷は捨てる所がない万能の宝樹、藤木家が他の農家よりも抜きん出て財を成せたのは、この枇杷の木のおかげ。』
そう言って藤木家の始まりを語るのは、爺さんだったか、父だったか、幼過ぎておぼろげになってしまった記憶。見上げたビワの茂る緑、その合間に白い小さな花が咲いていた景色だけが鮮明だ。そして肩車をされて広がった景色は、どこまでも同じ背丈の枇杷の木が整然と並んでいた。何かのアニメで見た王の権力にひれ伏す兵士のように。
枇杷のへそをつまみ、そのまま皮を向いて一口かじる。
懐かしい味。
藤木家は、元は農家。多くの小作人を使い、開拓した山のすそ野の土地にビワを沢山植えた。その身は果実として売り、大きな葉は漢方薬として卸問屋に売り、樹は杖の材料として材木問屋に売り、一儲けした祖先は、米よりも薬草の原材料を栽培し売る方が儲かると気づいた。その後、枇杷だけじゃなくあらゆる薬草や木々、漢方や薬の原材料になる植物を調べ、植え、売った。それまで野生の自然環境に左右され、手に入りにくかった薬材料が藤木家によって安定入手が可能になり、薬問屋から重宝される。
「一人暮らしじゃ、フルーツまで考え及ばないでしょ。他にも家にあるフルーツ持って帰ったら?木村さんに言って包んでもらうわよ。」
「いや・・・いいよ。そこまでしてくれなくても。」
「プロを目指す体作りしなくちゃいけないって、口癖のように言ってるのあんたでしょう。」
毎年この時期になると、畑を管理する分家から枇杷の実が届く。もう枇杷を原材料とした製薬材を栽培販売しているわけではないが、藤木家の財を作る源になった枇杷や、その他の薬の原材料となる植物は、歴史資料として畑に残して育てられていた。毎年、実った果実を収穫して分家が訪問してくる。今年の枇杷の出来具合と事業成果を本家の当主に報告する為に。
『へぇー、まさ君、サッカーやってるの?』
『うん、今日も本当は練習だったんだ。それなのにさぁ、お父さんとお母さん、今日は本家に行く日だから休みなさいって。』
従兄の藤木正則君は、足元の庭の小石をサッカーでもするように蹴った。小石はワンバウンドで池にポチャンと入り、エサと間違えたのか、錦鯉がバシャバシャと激しく水面を波起たせた。
『これ、正則っ!お行儀悪い事するんじゃありません!』
縁側の奥から、正則君のお母さんがまさ君を叱る。
『はい。』
素直に返事をした君は、大人しくうなだれたけれど、本心はこんな所に来たくて来たんじゃないと怒っていた。
『まさ君あっち行こう!』僕は屋敷の裏庭の方へと誘った。こっちなら大人達の目は届かないから、まさくんも怒られなくて済む。
まさ君が、僕が倉庫から出したドッチボール用のボールを、器用に足だけでポーンと蹴り上げて手でキャッチする。まるでプロのサッカー選手みたいだと、2つ年上のまさ君が凄くカッコよく見えた。
『いいなぁ僕もやってみたいなぁ。』
『亮君は習い事、お勉強ばっかり?』
『ううん、そうでもないよ。英会話教室と学習塾はお勉強だけど、ピアノと茶道と社交ダンスは体を動かす系だよ。』
『うわー凄いなぁ。流石、本家の長男は違うなぁ。』と羨ましげな言葉とは裏腹に、本心は本家に生まれなくて良かったと安堵していた。
枇杷で財を蓄えた祖先の名が、たまたま一文字であった事から、縁起担ぎで藤木家の本家筋は、一文字の名前をつける習わしになっていた。本家を継ぐ可能性のある子供は、一文字の名前を付ける事が江戸時代から続いている。現在、藤木家の当主は、僕のお爺さん藤木猛で、内閣総理大臣として東京にいる為、僕のお父さん、藤木守がここ福岡の本家の屋敷と事業を取りまとめながら、お父さんもまた政治家として忙しく活動している。お爺さんの父、僕から見てひいお爺さんの弟筋である分家の長男が正則君で、名前が二文字である事から、藤木家本家相続から外れている事を意味している。藤木家本家は、今は上場企業となったフジ製薬株式会社の事業全般を、5つの分家に分業貸与し、利益を搾取する。そして武士の衰退を機に手に入れた土地建物及び人脈を駆使て、政界に権力を置く事が、今や本家の成すべき姿になっている。
『あー、亮君どこへ蹴ってんだよ!』
『ごめーん。』
『あーあ、あんなところへ。』
季節ごとに分家から一族が挨拶に来る日は、本家の長男として、行儀よく迎え入れなければならなかったけれど、一通りの挨拶が済めば、従兄たちと遊べる時間に切り替わる。
お父さんお母さん達が、本心にいろんな思惑で気遣い、堅苦しい話をしているのとは違い、僕は従兄たちと遊べるこの日を、結構楽しみにしていた。
武家から奪い取った屋敷は、子供の遊び場としては十分すぎる程に広く。奥山の方へは迷子になるから行ってはいけませんとまで言われるほど。ブランコや滑り台の遊具は、妹たちがまさくんの妹と一緒に遊んで使っていた。
昨日まで降り続いていた雨が、地面をもうこれ以上水は吸い込めないと言う程に濡らしていたけど、この時期の雨の降らない少しの間は、子供達に取って貴重な時間だった。サッカーボール代わりにしたドッチボール用のボールは、思いのほかよく飛んで、奥のアジサイが咲く山の斜面にボスっと埋れた。
『僕が取りに行くよ。』駆けだしながら、サッカーボールを買ってもらおうと思案する。ドッチのボールじゃサッカーにならない。この間テレビで見た、オレンジ色のカラフルな奴がいいな。と僕は、アジサイの枝をかき分けボールを探す。しかし、当たりをつけた場所にボールはなくて、雨粒を含んだアジサイの葉が僕の服を濡らした。
『あれ~、無いなぁ、どこに行ったかなぁ。』
『亮君、何やっての、早く~』
『無いんだよ~、おかしなぁ。』
『もっと右上の方だったよ。』
『そう?』
草の匂いとアジサイの匂い、土の匂いが濃厚にたちこめる斜面をよじ登る。足元は庭師が剪定して切った茎の枯れ木が邪魔して登りにくい。亮の侵入を意地悪して入ってこないようにしているようだ。行方不明になったボールはあきらめて、サッカーボールを買いに連れて行ってと、頼んだ方が早そうだと思った時、力を入れた左足が滑った。僕の身体は下まで滑り落ちていく。
『うわーっ!』
『亮君!』まさ君が駆け付けて来て、立ち上がるのを手伝ってくれた。
『痛ったぁー』
『大丈夫?』
ただ単に数メートル滑り落ちただけの割には左足が痛かった。見ると足首の上、脛の左脇がぱっくりと切れて血が出ていた。
剪定後の枯れ木の尖った枝が刺さって、皮膚を裂いたらしい。
『亮君、血がっ。』
『大丈夫。こんなの絆創膏を貼れば治るよ。』
亮の見立て通り、傷の長さの割には深くはなくて、消毒して軟膏でも塗っておけばすぐに治るようなものだった。
だけど・・・
『申し訳ございません!正則も謝りなさい!』
まさ君のお父さんは、まさ君を隣に正座させ、頭を畳に勢いよく押しつけた。
『孝弘さん、お気になさらずに、大した傷ではありません。』
『傷の大きさの問題ではございません。本家の亮君に怪我をさせてしまった事が大変な事で。』
『叔父さん違うよ、僕が勝手に滑っただけだよ。』
そう言ったのに、まさ君のお父さん達は、また申し訳ございませんと頭を下げた。
『正則がボールを取りに行かなかったのが悪かったのです。躾が不十分で申し訳ございません。』
僕は何度も「違うよ、サッカーを教えてと言ったのは僕だし、ボールを山の斜面へ飛ばしたのも僕だから、まさ君は何も悪くないよ」と言っても、本心に怯えと悔しさ、惨めさに埋め尽くされているまさ君のお父さんには聞き届かなかった。
何回も畳におでこを押しつけられているまさ君は、僕に怒りの憎しみを心に蓄えて、一度も目をあわすことなく帰って行った。
亮は、自分が存在するだけで、意思とは関係なしに本家直系長男としての影響力が、一族に及ぶことを初めて実感した。
「嫌な事、思い出したな。」
「ん?」亮のつぶやきに麗香がのぞき込んでくる。
「枇杷は、藤木家始まりの宝樹・・・。」
「藤木家始まりの宝樹?」
まさ君は、それから二度と本家に来る事が無かった。一年後、亮がサッカーをやりたいと父に懇願し、九州地方で一番強く何度も全国大会に出場して優勝もしている福岡JSCに入団した。入団初日、まさ君の姿を見つけて歓喜の声を掛けた。『僕もサッカーやるんだ、また教えて。』亮は忘れていた、畳に頭を押しつけられていた時のまさ君が、怒りと憎しみに耐えていたのを。次の練習日にまさ君は来なくて、福岡JSCを退団した事を聞いた。
甘い枇杷の果汁を飲みこみ、種を口から出した。
「やっぱり、嫌いかも・・・。」
藤木家本家の力に初めて嫌悪した時が、枇杷実るこの時期。
どんなにもがいても、梅雨時期の湿気が身体にまとわりついて離れないように、
藤木家の権力と財は亮にまとわりついて離れない。
藤木さんがPCをのぞき込んでくる。
「今回はどんなイメージ?」
「今回は、どこかにハッキングするわけじゃなく、電脳世界の監視ですから、普通にいつもの、近未来のビル群に似た沢山の基盤
って言ったらいいですかね。基盤のビルの合間に高速ハイウェイ見たいな配管が縦横無尽に走っているって感じです。」
「へぇ~、面白そうだね、見てみたいよ、黒川君の見ている世界を。」
「孤独ですよ、この世界は。生き物の気配がありませんから。こうして僕がイメージすれば何でも作りだせるんですけどね。」
一振り手を回して、目の前にキナコを出現させた。でもこれは本当のキナコじゃない。キナコを拾った時、写真なんて取らなかったから、PCの中にキナコのデーターは無い、これはキナコによく似た別の柴犬のデーターを元に、和樹が立体化して作り出したものだ。
「この世界は匂いがなくて、生き物の気配が感じられないんです。」
「へぇ~、音は?」
「音はあります。それこそ、どんな音でも聞き放題ですよ。」
真横にあるビルの壁をピアノに見立てて、さらーと手で撫でた。jポップや洋楽、クラッシック、ジャズ、などあらゆるジャンルのCDのジャケットの映像が浮かび上がる。
その一つ、CM曲にもなっているヒット曲を選び、ポンと手で押す。
世界に軽快な音楽が流れる。
「ミュージック配信元は、違法合法共に無数にありますから。」
現実世界でも聞けるように、キーボードを操作した。PABは軍事使用のパソコンだからスピーカーは良くない。まるでヘッドホンから漏れたような音が現実世界に流れる。和樹の耳には現実の聴覚からと頭の中で音源化された二つの音がステレオのように流れる。うるさくて頭がクラクラとする。
「おっ、エクストームのgo on everyじゃん。タタでダウンロードかぁ、そうかぁ、そうか、なるほど。」
「あー私、その曲好き!」柴崎先輩も食いついてくる。「ただでダウンロード出来るの?えー私も欲しい!」
いやいや、お金持ちなんだから、タダに反応しなくても、と言う突込みは辞めておく。学園最強の先輩を怒らせたら怖い。
「資産家のお嬢様が一曲300円のダウンロード代ケチってどうすんだよ。」
あれ?僕が思った事と同じ。
「ケチってるわけじゃないけど、ダウンロードの仕方がわかんないから。これにも入れられるんでしょう?」と柴崎先輩は自分のスマホを指差す。
「はい、簡単に、送りましょうか?」
頭の中と外に流れている曲を一旦停止して、柴崎先輩の携帯へダウンロード開始設定をする。
「送りましたよ。再生できるはずです。」
「えっ、もう?」
「おいおい、それ完全に犯罪だよ。」と藤木さんが苦笑する。
(いやいや、僕がVIDでこの世界を潜る事態がもう犯罪です。)
「えーと、どうすんの?」
「前に教えただろ。」
「どのアプリだっけ?」
「音符のマーク。」
「音符、音符・・・・あれ?ない・・・」
さて、どういう方法で自動監視するのがいいか。
この広い世界、漏れなく、岡本悠希さんに対する誘拐事件の詳細や噂などがアップされたら、それを見つけて、自動消去できるようにしなければならない。
一年前に理事補から頼まれた、常翔学園のPCセキュリティの構築とはちょっと趣が違う。和樹はビル群の狭い空を見上げる。一台の監視飛行艇がサーチライトを照らしてゆっくり通り過ぎる。僕が作った常翔学園専用の監視システムプログラミングを具現化したものだ。
「あった、あった。これね。」
柴崎先輩は、自分のスマホを操作し違法ダウンロードしたエクストームのgo on everyを鳴らす。そのリズムの良い曲をバックに和樹は空へと向かって飛び、ビル群を抜けた。足元に広がる灰色のビル。縦横無人に駆け巡る七色の光の玉や筋。
監視飛行艇のサーチライトが何かを捕えたらしい。浮かび上がったのは真辺さんの写真。
「あーまたか。」
「ん?」
「すみません。独り言です。」
真辺さんは、特待生という頭脳と美貌が常翔学園内の注目する存在で、その存在を誰かがネット上に流そうとする奴がいる。それらを全て削除するプログラミングを和樹が作った。それが今、削除対象にヒットした。浮かび上がった真辺さんの写真は、監視飛行艇によって削除されていく。
静かなこの世界とは反対に現実世界では、柴崎先輩が携帯のスピーカーの音量を上げてノリノリで、歌いはじめた。
(さっきの怒りはどこへやら。まぁ満足していただけたならいいのだけど・・・。)
和樹は、ハッキングする時は静かな方がいい。VIDとしてまだまだ未熟だから、無駄な情報は頭にない方がいい。
(ダウンロードしたのは失敗だったなぁ。)静かにしてなんて言えない。
「うるさいぞ柴崎!黒川君を邪魔している!」
「何よ、黒川君が入れてくれたんじゃない!」
(あれ?また僕が思っている事・・・)
「す、すみません・・・」
柴崎先輩は口を尖らせて、スピーカー音を小さくした。
学園最強のお嬢様は、藤木さんの言う事なら素直に聞くと、えりが言っていた通りだ。
『だから、あたしは、柴崎先輩の傲慢攻撃にあったら、藤木さんにヘルプするんだぁ。そしたら柴崎先輩いっつも、怒られた犬みたいに大人しくなって。へへへ。えりは、もう柴崎先輩なんか、こわくないもんねぇ』
『でもさぁ、柴崎先輩と藤木さん、いつも一緒にいるとは限らないじゃん。そばに藤木さんがいなかったらどうするの?』
『ニコちゃんがいるもんねぇ。ニコちゃんは絶対にあたしの味方だもん。』
『真辺さんも居なかったら?』
『絶対どっちかは、先輩と一緒にいる。』
『えり!ちょうど良かったわ!これ、あんたのクラスの分の生徒会新聞ね。配っといて。それと、常翔祭の教室使用申請書、今週中に提出してと実行委員に言っといて。』
えりは、柴崎先輩の横暴ぶりに顔をピクピクさせて『なぜ、あたしが?』とつぶやいたのを、和樹は可笑しくて笑いを必死にこらえていた。
『何?どうしたの?変な顔して。』
『藤木さんは?』
『藤木?教室に居たけど、何か用?』
『ニコちゃんは?』
『ニコ?ニコも教室で、本読んでるわよ。何なのよ?』
『・・・。』
あの時のえりの顔は、今思い出してもおかしい。
さて、思い出にふけっている場合じゃない。集中しなければ。
和樹はビルの一角に無数に並んだCDジャケットの情報とキナコを、一振りで消す。
背後の窓のカーテンの隙間から、光が一瞬だけ部屋の中に入ってくる。条件反射で窓の方に顔を向けたけど、外は当然見えない。
車が旋回してバックする警告音が微かに聞こえる。車のドアが閉まる音に続いて、人の話し声。何を言ってるかまでは聞こえないけど、それが誰であるかは見えなくてもわかる。お母様が帰って来た。
食事の後、かかってくる電話に出る為に部屋から退室していた凱兄さんが、駐車場まで出向いた模様。二人の気配は玄関の方に移り、会議室を超えて奥の翔柴会会長室へ向かうと思ったが、麗香達がいる会議室の扉がノックされ、すぐに押し開けられた。凱兄さんは、扉に手をかけたまま入ってこようとはぜず、廊下に顔を向けて、話しながらお母様をエスコート。
幼き頃、月に何度か屋敷に泊まりに来て、麗香と遊んでくれては帰って行く凱兄さんの立場を、麗華は今一つわからなかった。凱兄さんを「お兄様」と呼んでお爺様に怒られた事は、今でも記憶に残っている。
『凱斗は麗香の兄ではない。』
だから凱兄さんを様をつけて呼ばない。
お母様の声が姿よりも先に部屋に入ってくる。
「・・さんを入学させたミスの責任をどうとるのかって、責められたわ。判断は間違いじゃなく、起きた疑惑が間違いで、元より公立が対処しなかった結末の上に重ね起った事だからと説明したのだけど、公立の尻拭いを何故、常翔が受けなくてはならないかって、カンカンでね。」
洋子おば様の事だと予測がつく。洋子おば様がどんな顔で怒っていたか、麗香は簡単に思い描く事が出来て、苦悶する。
「その経緯でよく、了解を得られましたね。」
「ええ、とっておきの切り札を使ったわ。」
「切り札?」
凱兄さんは、お母様が通りやすいように扉の入り口を入ったところで一歩下がると、お母様がグレイのスーツ姿で部屋に入ってくる。すぐに後ろで扉を閉めた後、頭を軽く下げて、お母様の後ろに就く姿は、藤木が面白半分でよくやる、執事の振る舞いのようだ。
『凱斗は麗香の兄ではない。凱斗は将来、この翔柴会を継ぐ麗香の補佐をする人間だ。』
毎月、凱兄さんが屋敷に泊まりに来る日を、麗華は心待ちにしていた。凱兄さんは、麗香が何をしても怒らず、常に側に居てくれた。だけど、11歳離れた子供の相手などつまらなかったのだろう、微笑を向けてくれてはいたけれど、会話は最低限だった。
凱兄さんの屋敷訪問は、麗香が5歳の時までで、そのあとはアメリカの大学に行く事になって、凱兄さんに会えるのは半年に一度になった。日本に戻ってくれば屋敷に滞在していた凱兄さんだったけれど、やはり麗香との会話は必要最低限だった。そして、大学を卒業した後、凱兄さんは行方不明になった。その半年前にお爺様が亡くなっていた。葬式の時、黒いスーツ姿でスボンのポケットに手を入れ、火葬場の煙を見上げている凱兄さんが、8歳の子供ながらにかっこいいと思った。喪の時に、そんな事を思ってしまったのを恥じて俯いていたら、凱兄さんは麗華のそばに来て、見上げた麗香に寂しげに微笑んだ。そして麗華の顔に伸ばしたその手は、頬に触れるか触れないかの所で止まり、結局触らず、何も言わずに立ち去った。それが最後に約4年間、凱兄さんは柴崎家とは縁を切ったように誰とも連絡が付かなくなった。お父様やお母様は心配して、凱兄さんの消息を探した。けれどお父様とお母様は、すぐに凱兄さんを探すのを辞めてしまった。理由は、聞いても口を濁されて、聞いてはいけない事だと悟った。そして、凱兄さんの存在が記憶に薄れてきた頃、大使館から柴崎家に、凱兄さんが海外で事故に遭い病院に運ばれているとの連絡が入った。お母様が現地の病院に駆け付けた。何があったのか、何に巻き込まれて大けがを負ったのか、またも口を濁され誰も教えてくれなくて「ただ、世界を旅して回っていた。」と帰国した凱兄さん本人から聞いただけ。帰国した凱兄さんは、変わっていた。麗華をまるで貴重品のように扱っていたあの頃が嘘のように。今では、麗香を叱りもするし、触れもする。そして大きく笑いもする。
どちらが本当の凱兄さんなのかはわからない。だけど、麗華は今の凱兄さんの方が、ずっと親しみがあって好きだ。
「皆さんお疲れ様、夕ご飯は済ませて?」部屋を見渡したお母様は、誰となく答えを求める。
「あ、はい。ごちそうさまでした。いつもすみません。」答えたのは亮。
「いいのよ、藤木君こそ、今回の事では、気苦労をかけたわね。」
「いえ・・・。」亮は照れたように顔を伏せる。
「お母様、洋子おば様達の了解は得られたのね。」
「ええ。何とか。」
良かった、これで疑惑を晴らすことが出来る。
「黒川君も、少しいいかしら?一旦中断して。」
「あ、はい。」
お母様が前に立ち、座るように私達に手で促した後、説明を始める。
「常翔学園が岡本悠希さんを入学させる才、裏口入学と言う違法なやり方で、入学させたと言う疑惑を生徒から払拭する為に、
常翔学園、中等部、高等部の昨年度の会計報告と会計監査書類、と今季期に入ってからのもの、4月1日~6月30日までの物を開示します。昨年度の3月末日までのは、すでに仕上がりホームページ掲載分と変わりありませんが、ホームページ用に作成したものではなく、原本をその場で開示して、嘘が無い事を見てもらい。それで学園自体の潔白を証明します。そして、問題なのが私達柴崎家の個人資産。いくら学園が潔白であっても、個人の資産に入っているのではないかと疑惑を持たれる事は予想がつきます。よって柴崎家一族の資産も潔白である事を証明する為に、全てを開示する旨を、一族全員の了解を得て来ました。」
お母様が少し疲れた溜息を吐きながら、手に持っていたひも付きの封筒を凱兄さんに手渡す。
「柴崎家一族、翔柴会会長の私を筆頭に、私の夫、中等部理事長、信夫。高等部理事長、敏夫。小学部理事長、洋子。幼稚舎理事長、一之瀬和江、の資産開示同意書がここにあります。」
凱兄さんは紐をくるくると回し、封を開けて、中に入っていた4枚の書類をすべてに目を通して、うなずく。
「凱斗、あなたも、すべての資産開示に同意すること。」
「はい。」
「それから、麗香、あなたもです。」
「えっ!私も?」
「そうです。人ごとのように聞いていたでしょう。」
図星。
「資産開示って、どこまで?」
「全部です。お爺様の遺産相続として受け継いだ長野の別荘から、あなた名義の預貯金、あなたの財布の中身まで。」
「えー!財布の中まで?」
「凱斗あなたもですよ。横浜のマンションはもちろん、あなた名義で貸している都内の店舗、あれの資産も漏れなくよ。」
「げっ、あれもですか?」
「もちろんよ。」
「えーなに?凱兄さん都内に店を持っているの?」
知らなかった、凱兄さんが都内に店を持っているなんて。店ってどんなのかしら?行ってみたい。
「いや、店を持っていると言うか・・・名義を貸してるだけで、別に利益を貰ってるわけじゃないし・・・」
「利益を得てなくても、あなたの名義になっているなら、あなたの資産でしょう。」
「えーだってあれは・・・」凱兄さんが頭を掻いて渋い顔。
「とにかく、すべてを曇りなく、誤魔化すことなく、真実を公開証明します。一回ですっきり綺麗に疑惑を取り除く。こんな事2度とごめんだわ。」
(いや、一度だってごめんだわよ。預貯金、財布の中身までを開示って、そんなプライバシーの侵害ってある?泣きそうだわ。)
「凱斗、会計事務所からは何日までに今期の財務表出来上がるって?」
「3日と言われましたが、急がせました。柴崎家の資産の方も合わせて。土曜日の午前までに届くように約束をつけました。」
「わかったわ、敏夫夫妻と和江さんにも、すでに緊急で要るからと伝えて来たから、すぐに用意できるでしょう。私の方も朝までには出せるように頑張るわ。」
「あの~、大学の方は?」亮が心配な面持ちで疑問をぶつける。
「大学の設立は柴崎家だけど、国の予算を受け始めた頃から、大学の財務は国家に提出することになっています。そもそも隠しようがないし、その旨はホームページでも掲載し開示している事だし。それさえ説明すれば大丈夫なんじゃないかと思うわ。」
「そうですか。」
「ありがとうね、隅々まで心配してくれて。」
「いえ・・・。」
「では、会計資料はこれで問題なく出せると言う事で、裏口入学の疑惑の解消は、これで出来るかしら。」
「そうですね。とりあえず柴崎家は潔白だと言う事は証明できますが、生じた疑惑を振り払う為には、何か弱い気もしますね。特に岡本さんの件に関しては、どう説明するかが問題ですし。デリケートな事ですから。」
「そうね。岡本さんの入学は、敏夫理事長が迷っていたのを、私がOKを出して後押ししたの、学力の合格ラインは十分に超えている生徒だったし、もう一度学校に通いたい。その気持ちを受け止め、公立が出来なかったサポートを我々常翔がしましょうという事で・・・これは私が説明しましょう。」
お母様が、学園に出向く程の事態なのだと、麗香は事の大きさを実感する。
「ネット上の情報は全て、黒川君が消してくれるのね。」
「あっ、はい。」
「では、ネットに流れる嘘の情報を新たに信じてしまう子は居なくなるわけだから。後は、口伝えで噂を知ってしまう子が増えない事を祈りながら、信じた子の洗い出しね。」
「藤木君の機転で緘口令を強いてくれましたから、爆発的には広がらないとは思いますが。」
「ええ、それも、ありがとうね。」
「いえ、お礼を言われる事は何も・・・。噂を知っている奴の洗い出しは俺がやります。」
お母様が、無言でうなづく。
割り出しは確かに亮じゃなければ出来ない。岡本さんを卑下た気持ちでいる人間の心を読み取る、あの能力で。
主にサッカー部で広がっているのだけど、サッカー部の人間が、クラスメートとかに話していたら、そのクラスメートがまた誰かに言っていたら・・・・となると、どこまで広がっているかわからない。それってとんでもない作業。
「割り出しをして、集めて、説明説得。うーん、すべての疑惑を取り除くには、こう、何か弱いなぁ。」
「何よ、凱兄さん、さっきから、弱いって。」
「うーん、人の心に生じた疑惑とかって、そうそう簡単に消せないと言うか・・・正当性を武器にすると逆効果になる可能性があるからね。」
「そうですね。特に岡本さんに関しては、誘拐された事は事実としてあるのですから、その噂だけが違うと説明されても、信用に欠けるというか。暴行された事だけが違うと明白に証明できる物が何もない。」
亮と凱兄さん、遠回し言っているけど、内容は酷だ。
「証明できる物って!性的暴行されていない物的証拠を出せとでもいうの!その事自体が、岡本さんを苦しめるとわからないの!」
「俺が信用しないと言ってるんじゃない。一般論を話している。」
「わかってるわよ!証拠がないと信用してもらえない、この噂のタチの悪さって何なのよ!」
「麗香、落ち着いて。凱斗と藤木君が言う事は、残念ながら世間の有体よ。」
お母様が座れと手を私に向けて下へ振る。いつの間にか立っていた。
「岡本さんの噂を忘れてしまうぐらいの何かで、別の方へ意識を向ける事が出来たらいいんですけどね。」
ほんと、タチが悪い。再燃の怒りはちっとも弱まらない。
隣に座る亮が眉間をつまんで頭を振った。
「麗香、木村さんに紅茶の用意を頼んできて頂戴。」
「えっ?・・・は、はい。」もしかして、私、場を乱している?
それでも怒りは収まらない。どうして皆そんなに冷静でいられるの?
男だから?
お母様は大人だから?
麗香はふて腐れて部屋を出た。
柴崎先輩が部屋から出て行くと、和樹を含めて、藤木さん、理事補までもが、同時に溜息をついた。
和樹たち男は、一様に女性の柴崎先輩に気使っていて、無意識に肩に力が入っていたみたいだ。
「ごめんなさいね。麗香には厳しいようだから席を外させるわ。私も夕食がまだだし、凱斗、ここは任せるわね。」
「わかりました。」
柴崎会長はそう言って、会議室から出て行く。
二度目の溜息は和樹だけ。見かけは綺麗なお母さんだけど、学園の総監督ともいうべき人だと思うと緊張する。
「さて、黒川君は続きをやってくれるかな。」
柴崎会長を見送って扉を閉めた理事補が、和樹の肩に手を乗せて、肩もみをしてくれる。
和樹は、座る位置を正して画面に注目する。
画面の上部へ高速に送られていく文字はVID脳へ入る魔法の呪文。目から入った情報が脳内の細胞を刺激し、VIDの神経細胞を目覚めさせる。現実の世界と電脳の世界へと切り替わるこの瞬間がーーー気持ち悪い。急降下する遊園地のアトラクションに乗った時のような体感が襲ってくる。自身の性能の劣るパソコンだと、こうはならない。その代わりVIDで作るこの電脳世界に入るのが遅く、長い時間が必要となる。理事補が用意したこのPAB2000は、性能が良すぎるからこそ起こる現象なのだろう。電脳世界に入るのも高速なら、要請がかかるのも、いつも緊急事態で高速だ。
続き、と言っても、まだ何もしていないに等しかった。食事前に、目についた岡本悠希さんに対する悪い噂を手動で消しただけだ。一つ一つ消しているだけじゃ追い付かない。手動での消去をしながら、どうプログラムすればいいかを思索している途中で夕食となったのだ。自動で岡本さんに関した情報をピックアップし、精査判別、そして消去を自動で行うプログラムを構築しなければならない。言葉で言うなら簡単だけれど、ピックアップ方法及び精査のプログラミングは、かなり綿密にしなければならない上に、効率よく迅速にもする必要がある。綿密には沢山の検索項目を組み込めばいいだけだが、それをすれば迅速が損なわれる。相反する綿密と迅速の条件をどう効率よくプログラムするかが、今回の難点であった。真辺さんの情報をプライバシー保護的に闇雲に消去するという方法は使えなかった。岡本さんの悪い噂が、刑事事件絡みである事から、根こそぎ消去を行うと、和樹の違法行為が見つかるおそれがあるからだ。
「どうするかなぁ。」
「ん?」藤木さんが顔をのぞき込んでくる。
「あ、すみません。また独り言です。」
「僕らはVID内がどうなってかわからないけど、何か手伝える事があったら言って。」
「ありがとうごさいます。でも~、今の所はないです。」
「そう。」と少し残念そうな表情をした藤木さんに、まだ何にも手を付けられていない状態が申し訳なく
「どうプログラムしていいか悩んでいて。」
「難しい?」
「はい・・・一網打尽にすればすっきりするんですけど。そうすると別の問題で世間を賑わせそうですから。」
「そうか・・・VIDあれども苦悩するんだ。万能たる能力、羨ましいのは概要しか知らぬ者ゆえ、って事か。」
まるで一つの研究テーマが完結して得た結論のように、目を細めて腕組をする藤木さん。
その言葉は和樹も同意することだ。
確かにこの能力があれば、何でもできる。他者のクレジットカードの番号および暗証番号を盗む事は難しい事でなく、やりようによっては、和樹は瞬時に約万長者になり得ることもできる。それをしないのは、和樹の良心が止める事であり、VID脳を持つプライドともいえ、他のVID脳を持つ者達への敬意と牽制でもあった。なり下がった行為をすれば、他のVID脳を持つ者が黙っていない。レニーのウォールに挑んで、初めて他のVID脳を持つ者と出会い戦って和樹が実感したことだ。もし、他のVID脳を持つ誰かが、そんな陳腐な個人的利益の為にハッキングをしたと和樹が知ったら、黙っていない、すぐさま潰しに行くだろう。現実の脳に電脳世界を同調して作っている世界で、VID同士が戦い、敗れたら現実世界と同調した脳は破壊されるとしても。
いつの間にか、藤木さんが目を細めてじっと和樹を見つめていた。また、見透かされたようで、和樹は視線を画面に戻しプログラムの思案に集中しようとした。が、電脳の近未来のビルに張り巡らされている光の玉が走る配管の一つが、西の彼方からまっすぐこちらに向かって光飛んでくる。まるで光る矢が突き刺さるように、その光は和樹の隣のビルのガラスに当たり、光瞬いた。
と現実世界の理事補の携帯電話が鳴る。ガラスには発信者の顔写真が浮かび上がる。
プロサッカーの大久保選手からの電話だった。
「もしもし。何だよ。」
つっけんどんな受け答えをする理事補、大久保選手と親友の二人がどんな会話をするか興味があって、その電話回線を覗き見ることにした。和樹は大久保選手の映ったガラスを触る。会話の内容が、漫画の吹き出しのように自動表示される。
「なんだよ、その不機嫌な声色は!」
「忙しんだよ。馬鹿の相手してるほど暇じゃねえーんだ。」
「ははん。お前、羨ましいんやろ。俺がちょー幸せで。」
「切るぞ。」
「ちょっと待て!」
(面白い。二人の会話ってこんな感じなんだ。)
「要件をまだ言ってへんやろ。何の為にかけてんねん。」
「んだよ、早く言え。」
「お前、二次会欠席になってたけど、ほんまにこーへんのか?」
「二次会?何の?」
「俺の結婚式!お前、忘れてるんとちゃうやろな!」
「あっ・・・。」理事補の顔が固まる。
(へぇー大久保選手って結婚するんだぁ。お相手は誰だろう。後で芸能ニュース検索だな。)
「あって、なんやねん!完全に忘れてたやろ!」
「俺が忘れるはずないだろ。ちゃんと記憶のスケジュール帳に書いてある。」
「お前の悪い癖は、その記憶力に過信して、スケジュールを見直すと言う基本的な事をせん事や!いっつもお前は昔から」
「あー忘れてないって、ちゃんとその日は開けてる。だから式は出席って方に○しただろ。」
「んだら、何で二次会にこーへんねん。」
「だから忙しいって言っただろう。それに別に俺が行かなくても問題ないだろうが。」
「あのなー。お前今、常翔の理事長補佐やってるんだろ。結婚式に来るメンバーには常翔の」
「あっ、大久保、今どこにいる?」
大久保と言う名前に反応して驚く藤木さん。藤木さんと新田さんは、大久保選手のファンだと言っていた。
「どこって、今は東京の彼女の家で、その結婚式の打ち合わせを」
「結婚式まで東京に居るんだな。」
「いてるけど、何やねん。急に話を逸らすな!」
凱さんが電話を耳から離し、藤木さんへと声をかける。
「良い事を思いついたよ。岡本さんの卑劣な噂を吹き飛ばせる。」
「あれ?おおーい、聞いてるかぁ。大野?もしもし?」
理事補は、藤木さんにニヤリと笑って頷くと、また電話の会話に戻る。
「大久保、明後日の土曜日、常翔学園高等部に来い。お忍びで。」
「はぁ?」
「いいか、絶対にマスコミには知られるな、常翔に入る姿も見られるな。」
「何やねん!一体!」
「俺に二次会に来て欲しいんだろう。土曜日のお忍び表敬訪問が成功したら行ってやる、二次会でも三次会でもいくらでも。」
「はぁ?!そんな事、急に言われても俺だって忙しいわ、土曜日は式場の最終打ち合わせと、連盟に挨拶」
「そんなもん、全部キャンセル、キャンセル。」
「簡単に言うなや。もう随分前から決まってんねん。」
「常翔の危機なんだ。頼むよ。」
「なんやねん常翔の危機って、ゴジラでも襲ってくるんか?」
「おお、ゴジラよりもエイリアンよりも、恐ろしい物が襲ってきてるんだ。」
「お前さぁ、頭良すぎて馬鹿になったんちゃうか?」
「わかってないねぇー大久保君。」
「何の説明も受けてへん、それで、わかる方がおかしいやろ!」
「面倒だなぁ。1から説明すんの。」
「お前!人に頼むのに、面倒ってあるか!」
「ぷっくくくく。」大久保選手の突込みが漫才のようで面白く、思わず笑ってしまった。
理事補がそんな和樹の笑いに気づき、困った顔をする。
「とにかく、来いよ、土曜日。説明は電話では言えないなぁ。そうだっ、今から俺のマンションに来い。」
「はぁ?!今から横浜まで行けってか?」
「30分もありゃ来れるだろう。」
「時間の問題ちゃうねん。俺、今、彼女と結婚式の打ち合わせをしてるって言ったよな。」
「説明してほしくないのかなぁ。」
「してほしい・・いやいや、ちゃうちゃう。そうやなくて、そもそも土曜日に行くとは言ってへん。」
「友思いでの大久保君、どんなに忙しくても来てくれるよねぇ。」
「もうお前、二次会に来ていらんわ!結婚式も来んな!」
「あっそう、そうする。」
「あーっもうっ!行きゃーいいんやろ、行きゃー」
「飛び切りの酒、用意するから。」
と、理事補と大久保選手の電話は切れた。
「ぷっふふふふふふ、」
「黒川君~。」
「すみません。盗聴してました。」
「だと思ったよ。」
「着信が大久保選手だったから、どんな会話なのかなって、すみません、他のは盗聴してませんから。」
「頼むよ。」とポンポンと軽く頭を叩かれた。
「大久保選手に表敬訪問してもらって、岡本さんの噂や柴崎家への疑惑を逸らそうって事ですか?」と藤木さん。
「ああ、強いインパクトだろ。」
「ええ、まぁ疑惑を持っている者は今の所、ほぼサッカー部ですから、大久保選手に来ていただいたら、また歓喜に沸くと思いますけど、でも大久保選手、来週、結婚式ですよね。大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。あいつ、暑苦しい程のおせっかいだから。さて、ちょっと、横浜のマンションに大久保を迎い入れてくる。黒川君、つかの間、僕、居なくても大丈夫?」
「大丈夫です。」
「無理しない様に、休み休みね。」
「はい。」
「藤木君、黒川君の事、頼むね。大久保に説明したら、またすぐに戻ってくるから。」
「はい。」
理事補は足早に会議室を出て行く、も、すぐに戻ってきて、キャビネットの中を漁る。
「酒、酒っと。これでいいか。」とブランデーのボトルを掴み出して行く。
「凱さん、飲酒運転はやめてくださいね。」と藤木さん。
「あー大丈夫、大丈夫、酔えない体だから。」
「えっ?そういう問題では・・・」
藤木さんと顔を合わせた。
リビングの時計を見たら、午後8時13分を表示していた。
(やっぱり今日は来ないか・・・。)
携帯のメールを確認しても着信なし。慎一は、作った今日の夕ご飯、天津飯を前にして、唸った。
今日は、さつきおばさんが夜勤の日で、りのは新田家で晩御飯を食べる日だ。しかし、悠希を避けるりのに対して、慎一はきつく責めてしまったため、りのは拗ねて来ない。と予測出来ても、もしも来た時の為にと、慎一はりのの分の夕飯を作り、「晩飯、できてる。」とメールも送ったけれど、返信はなし。
「りのりの、遅いねぇ。今日、来る日だよね。」とえりが、後ろにあるカレンダーを仰ぎ見てしゃべりかけてくる。我が家のカレンダーには、さつきおばさんの夜勤日に緑色のマジックで○がついている。
天津飯にラップを覆った。
「えり、りのん家に、この晩飯、持って行ってやれよ。」
「はぁ?」
「りの、隙あらば、飯抜きにするから。」
「慎にぃ・・・また、りのりのと喧嘩したんでしょう。」と顔を歪ませるえり。「どうせ、慎にぃがまた余計な事を言って、りのりの怒らせたんだ。」
(余計なことではない。あれは正論だ。)
「もう、何だって、喧嘩するんだよぉ~。」
(とか言われても、そうなるのだから仕方がない。)
「もう、いつになったら、りのりのとラブラブになるわけぇ?」
「なるかぁ!」
「あーぁ、私とお母さんの夢が遠のくぅ。」
「勝手な夢、絵描くな。」
えりと母さんは、慎一がりのと結婚する事を望んでいる。そのとんでもない夢は、半ば本気だから、怖い。
「だいたい、お前の宿題をやってもらうためだけに、何で俺とりのが結婚しなくちゃなんねーんだ。」
「あーそうだよ、今日も数学の宿題、難しくて困っているのに、りのりの来ないじゃないか!どうすんだよ。慎にいのせいだからね!」
「知るか!宿題は自力でやれ!」
「出来ないから困ってんじゃん!馬鹿じゃないの!」
(馬鹿はお前だ。)
「りのん家に、この飯を持って行ったら、ついでに宿題を見て貰えるだろ。」
「慎にぃ、最低!か弱い女をこんな夜遅くに、お使いに出す?信じられない!」
(どこがか弱い女だよ。黒川君と一緒の時は、9時過ぎまで帰って来ない事があるくせに。)
「もう、いいよ、ったく。」
難しくて困っている宿題があるわりには、それをやろうともしないで、テレビの前から動こうとしないえり。バラエティ番組を見て大爆笑。慎一は携帯を持って、リビングから出て、二階の自分の部屋へ駆け上がった。
今日は、膝のマッサージで病院に行ったので、クラブは休んでいる。顧問とコーチが休みの日で、グランド使用も野球部がメインで使う日だったから、筋トレ中心の大した練習はしていないはずだが、どんな事をやったか、何か連絡事項がなかったかなど気になるので藤木の携帯に電話をする。が、「おかけになった電話は、電源の入らない場所にあるか。電源を切っているか、繋がりません。」となった。
(飯でも食べに外に出てるのか?)にしても、携帯が繋がらないのは珍しい。
藤木は食べる物がなければ、すぐに外食にする。一人分の飯ぐらい簡単だから自分で作れと、慎一は言っているのだけど、九州男子だからと頓珍漢な言い訳をした。意味を聞けば、九州では「男子厨房に入らず」という諺のような言われがあって、男子は台所に入ることなく、飯が出来上がるのを、どんと座って待っていろという意味らしい。だったら、台所にあるキッチン道具は何の為に買ったのやら。最初から慎一にさせるつもりだったのだと判明した。
(藤木に繋がらないなら、悠希に聞くか。)
悠希の携帯番号を表示して発信すると、悠希も繋がらない。
(んー??じゃー沢田に電話するか・・・)こっちは話し中だった。
岸本に電話、も話し中。
(何なんだ?)
長谷川に電話をしたら繋がったけれど、「忙しんだ。」とすぐに切られてしまった。
(なんだろ、この疎外感。)
もう他の誰かに電話する気が無くなった。もしまた、繋がらなかったり、忙しいと切られたりしたらへこみそうだ。表示していた連絡先リストを閉じようとしたら柴崎の名前が目に飛び込んでくる。リストの中でも目立って威厳が強い。
(柴崎に電話は・・・)躊躇う慎一。
柴崎へ電話を掛けると、何故か仕舞いには説教に変化するのが常だ。
しかし、今日のりのの事もあるし、かけなければかけないで、後で怒られそうだ。
仕方なしに「繋がりませんように。」と祈って発信ボタンを押す。コール音が鳴った。
(げっ、おかけになった電話番号はってならないのかよ。)
「はい、何?」
(うわっ、出た。)
「あ、俺、新田。」
「着信名で新田慎一からって事ぐらいわかってるわよ!」
(なんか、めちゃめちゃ期限が悪い。)
電話をかけた事を早速後悔。
「わりぃ。」
(何で謝らなくちゃなんねーんだ。)
「んで、何?」
「今日さ、クラブどうだった?何したかなぁと。」
「どうもっこうもっ!ったく!ふざけんじゃないわよ!」
「えっ?」
「あったまくる!」
「なにか、あったのか?」
「あ・・・・・何でもないわ。」
(いやいや、大ありだろ。)
「何だよ、」
「何でもないって言ってるでしょう!あんたねーくだらない事言ってないで、自分の膝、ちゃんと治しなさいよ!」
(逆切れかよ!)
「ったく、もうすぐ予選が始まるってのに、膝なんか痛めて!気合いが足りないわ!ぼやぼやして練習するから、怪我なんかするのよ!」
「ぼやぼやしてるつもりはないんだけど。」
「怪我するって事は、してる証拠でしょう!」
(どんな理論だよ。)
「わかった。わかったよ。」
我が家の教訓、「女に刃向かうな。」を時々忘れて刃向かうから、こうして柴崎に反撃されるし、えりとりのとも喧嘩になる。
「あっ、私、忙しいのよ。切るわ!」無造作に電話を切られる。
(何なんだ!言いたいことだけ言って、勝手すぎる!)
呆れ交じりの怒りの後悔しか残らない。
和樹は、構築した巨大なシャンパンタワーをぐるりと一周をし、隈なく眺めた。虹色に輝くシャンパンタワーは、現実世界では物理的に絶対に不可能な大きさである。
(よし、何も違和感はないな。)
このシャンパンタワーは、岡本さんに関する情報を精査判別するプログラミングをイメージ化した物だ。情報はまずシャンパンタワーの上から注がれる。まず警察関係のセキュリティにかかった情報は二段目のシャンパングラスに留まり、そのまま何もせずに返される。警察関係の情報以外のものは二段目のシャンパングラスからあふれ出て、三段目のグラスに注がれる。三段目のグラスは「岡本悠希」の個人特定の精査による選別である。常翔学園高等部に通う1年の岡本悠希ではない情報はグラスに留まり、何もせずに情報は返される。当人に関する情報は、下のグラスへと注がれ。次に悪意のあるもの、無いものの選別が行われる。情報は、沢山の篩に掛けられ、下へ下へと送られ、消去対象の情報として決定された物だけが、完全消去となる。
このシャンパンタワーを数千万台ほど作り、大手ネットサーバーと繋ぐ中継地点にこっそりと侵入設置しておく事で、日本全域を監視できるだろう。
試しに、和樹が手動で拾ってきていた岡本さんの誘拐事件に関する悪意ある情報と、柴崎先輩と岡本さんとのただのメール内容をごちゃまぜにしてシャンパンタワーの上から注いだ。
「よし、いい感じ」
「出来たの?」待ちくたびれて椅子でこっくりこっくりと、うたたねをしていた藤木さんを起こしてしまった。
「あ、すみません。起こしてしまいました。」
「あぁ、こっちこそ、ごめん。寝てしまった。」
理事補はまだ帰って来ない。柴崎会長も、あれから部屋には来ないし、柴崎先輩も会長に言われているのか、食後は会議室に顔も出さなかった。
「すみません、時間がかかってしまって。」
「いいよ、いいよ、で、どう?」
「はい、一応プログラミングは完成しました。この後は、このプログラミングの複製を沢山作ってネットサーバーの中継地点に設置するのですが、それぞれ、ちゃんと不具合が起きないか見なければなりませんから、もう少し時間がかかります。藤木さん、お疲れでしょう。先に部屋で休んでください。」
「んん、あぁ大丈夫。明日の一限目は古典だから、寝れる。」
「ははは、それ、駄目でしょう。」
今日は柴崎邸で泊まり、明日はここから学校に通う事になっていた。遅くなるとは思っていたけど、泊まりがけになると、和樹は思ってもいなかったので、制服も学校の鞄も柴崎邸には持ってきていなかったが、朝、学園に行く前に、家まで理事補が送ってくれるとなった。
「黒川君こそ、疲れただろ。コーヒーでも入れる?」
「いえ、大丈夫です。」
飲み物はもう十分だ。2時間前に、お手伝いの木村さんがワゴンにコーヒーやお茶、それこそファミレスのドリンクバーのように充実した取り揃えで置かれていた。飲み物だけじゃなくパウンドケーキや、クッキー、チョコレートなど、こんなの夜中に食べたら、胃がどうにかなりそうな感じで用意されていて、甘い物が苦手な藤木さんは顔を顰めていた。
大丈夫と言ったものの、一旦VID脳から出ると、眩暈がして目の奥が痛かった。目の表面も乾いているのか、瞬きがし辛い。慌てて家を飛び出してきたから、目薬を持って出てくるのを忘れた。
「休憩した方がいいよ。」目を細めて和樹を見る藤木さん。この眼を細めるのは癖だろう。だから目じりに皺が出来るんだ。藤木さんは立ち上がり、ワゴンの傍のテーブルに置いてあった置き薬の箱をゴソゴソと漁り、何かを取り出すとパソコンの横に目薬を置いた。
和樹は目をつぶりはしたが、触ってはいない。何故、目薬が欲しい事が判った?一瞬驚いたが、目の瞬き方で疲れていることを察してくれのかも。とその疑問を排除する。
「でもこれは・・・」置き薬って、ドラックストアで売ってる物より高価なのを知っている。
「いいよ。これぐらい、俺が言うのもなんだけど、金額なんて気にすんなよ。」
「え?」不審に驚いた声を出してしまった和樹。
藤木さんは、しまったという顔をする。
今までにも、こうした違和感は何度もあった。まるで心を見透かされているような、和樹が退学を決意した時も、藤木さんは知った風だった。
「あの・・・藤木さんって、もしかして。」
藤木さんは、答えから逃げるように顔をそむけた。
コンコン。と扉がノックされるも、返事を待たずに開けられ、顔だけのぞかせたのは柴崎先輩。
「どう?進み具合。」
「とりあえずプログラミングは完成しました。あとは試運転をして、調整です。」
「そう、飲み物とか夜食とか大丈夫?」と柴崎先輩は部屋の中に入ってくる。
(うわおっ!)
「お、お前!」
「全然食べてないじゃない。要らないの?脳を働かすには甘い物の方がいいんじゃないの。」
飲食を乗せたワゴンをチェックした後、パソコンを覗きに和樹に近寄る柴崎先輩。
「その恰好は、何だ!」藤木さんが叫ぶ。
「何って、ルームウエアじゃないの、ナイトウエア、あーパジャマって言わなきゃわかんない?」
「言い方の問題じゃない!」
「何よ。」大胆に露出度の高いナイトウエアを着ている柴崎先輩。
袖や裾にフリルとレースがあしらう小さな花柄のデザイン。透けてはないけれど、首回りが大きく開いていて、下は、ふんわりとしたAラインのテニスのスコート並に短いフレアパンツ。和樹の真横に立つと、お風呂上がりの良い匂いがした。その匂いに誘われるように横を向くと、屈んだ胸が真横にあり・・・・和樹は慌てて、見ないように俯いたら、白くつややかな太ももも視界に入ってくる。
「先に寝ようと思ったから、寝る前に様子を見に来たんじゃない。」
「ガウン来て来い!」
「あっついじゃないのよ!」
「お前のその体が暑苦しいわ!」
「どこがよ!」
「とにかく、黒川君の邪魔をするな!」そう言って藤木さんは、柴崎先輩を和樹の側から引き離す。
(あーびっくりした。)
柴崎先輩って、とてもグラマーだ。
「邪魔なんかしてないわ、見に来ただけ、あっそうだ。さっきね。新田から電話あったの。」
「はいはい、外で聞くから、部屋を出て。」
「新田に話してよいものかどうか、ちょっと迷ってね・・・・言いそうになったんだけど。」
二人が部屋から出て行くと、急に部屋が静かになった。
疲れが出たのか、吹っ飛んだのかわかない。とにかくある意味、目が覚めた。
(えーと、何をしようとしてたっけ?あぁ、そうだ目薬を使おう。)
新しい目薬を開けて、目にさした。浸みる。目の奥まで浸透していく感触が気持ちいい。
黒川君に気づかれた?いつかは、知られてしまうとは思っていた。黒川君は早い段階で、亮の言動に不審を抱いていた。
『どうして、わかるの?何だか怖い。』
『何だ?俺、言ったか?何でこいつは俺の・・・・わかるんだ?おかしい。』
『もしかして、こいつ、俺の考えがわかる?うそだろう、気持ち悪い』
また、あの容赦のない感情を読まなくてはいけない。
「とりあえず、適当に誤魔化したんだけど、どうするの?明日、新田に言うの?」
黒川君には、誤魔化しは効かないだろう。VID脳という特殊な脳は、きっと想像力が普通より豊だろうから、理解不能な能力に対して、受け入れられる柔軟さは持ち合わせていてくれたらいいのだが、だからと言って、読まれる事に嫌悪感をわき起こさないでいられるかと言ったら、そんな人間は、皆無だ。頼ってくる新田でさえも、時に嫌悪に避ける時がある。
「どうしたの?」
ひとりだけ、不思議と本心を読まれても嫌がらない者がいた。
「ねぇ、聞いてる?」
「あ、あぁ、」
麗香だけは、この能力を知られる前からずっと、嫌がらず、羨望の念を持っている。
「新田には今日の出来事と計画を、ギリギリまで知らせるな。あいつに知れたら、色々と面倒だ。」
「そうね。」
「柴崎、新田と悠希ちゃんの事、頼むな。」
「いいけど。新田は何とかなっても、岡本さんは、どう接したらいいのよ。岡本さんは、私がまだ何も知らないと思っているんでしょう?このまま何も知らないで通した方がいいのかしら。」
「あぁ・・まぁ、そうだな。いや、大丈夫だ。」
(あの感じでは悠希ちゃんは、明日は学校を休むだろう。)
「ちょっと・・・さっきから、なんかおかしいわよ。」
「おかしいって何だよ・・・」
「いつものキレがないわ。いつもなら、こういう時、もっと自信に満ちて。」
「買被りすぎだ。俺は・・・」
(何だろう、何だが、頭がぼおっとする。)
「藤木?」麗香が心配げに見上げて目を覗きに来る。大きく開いたナイトウエアの胸元から中が見え・・・ノーブラだった。
「だからっ!その恰好で近寄んな!」麗香の額を手の平で押し返した。下手に体には触れられない。
「なっ、何すんの、やめてっ・・・えっ?」
「目のやり場に困るんだっ!」
「ちょっと、あんたっ!」麗香が亮の手を握ってくる。「うそ、熱い・・・」そして、踵を返して食堂まで駆け出していく。短いフレアパンツが跳ね上がり尻も見えそうになっている。
(だから、その恰好で走んなよ・・・。)亮は呆れて首をふり視線を外した。
「あれ?救急箱どこ行ったのよ!」麗華の叫びが廊下まで響く
「救急箱ならこっち!会議室。凱さんが持ってきてくれていた。」
「えー、もう!」
「んだよ。一体。」
「何だよ、じゃないわよ!」全速力で戻ってきた麗香は乱雑に会議室のドアを開け飛び込んでいく。
会議室の中から、黒川君の「うわっ」と叫びが聞こえてくる。
「もう~黒川君の邪魔すんなよ~。」
柴崎の相手をするのが面倒になって来た。時刻は日付が変わろうとしている。
(さっさと寝ろよ。)
会議室の薬箱をひっくり返す勢いで、何かを探している柴崎。黒川は困り顔。
「あった!」何かを手にして戻って来た麗香は、まだ制服のカッターシャツを着ていた亮の首元から引き開けようとする。
「ちょっと、何、やめっ、ぐるし・・・」無理やり、脇に挟まれた物は体温計。30秒ほどでピピピと電子音が鳴ると、無造作に麗香は体温計を引っこ抜いて驚きの顔をした。
「やっぱり!熱あるじゃないのよ!」
「えっ?」
「どうして黙ってるの!どうして我慢してるのよ!」
「熱?」
「39度超えよ!」と見せられた通り、デジタル表示は39度3分。
「いや・・・別に、我慢してるわけじゃ・・・しんどくは・・・」
食後やたら眠かった。しかし、脳に負担がかかるというVID脳を駆使している黒川君の様子を見ておかないと、と必死で眠気を我慢していた亮だったが、いつの間にか椅子でうたた寝してしまっていた。変な体制でうたたねしてしまったから体がだるいのだろうと、火照っているのは、部屋の空調の温度が高めに設定されているのだろうと思っていた。
「そう言えば、あんた、雨で濡れたままの制服で着替えもせず!」
体温計の数値見たら、途端に体の不調を実感する。ふらついて体の力が入らなくなってくる。後ろの壁に体を預けると、体は重力に負けて下へと、しゃがんだ。
「藤木!」
麗香の太ももが目の前にある。
「大丈夫・・・じゃない・・・・その恰好は。」
(その艶めかしい姿で、近寄るなって。)
(目薬って他人と共有できないよな。じゃ藤木さんの言う通り遠慮なく貰っておこう。)
目薬の浸透が、目の酷使による疲労を少しだけ改善した。
深呼吸をして、指の凝りをほぐす。
よし、プログラミング再開!と気合入れと同時に勢い良く開かれたのは、現実のドア。また柴崎先輩が飛び込んでくる。
「うわっ!」
「救急箱!貸して!」
「どうしたんです?」柴崎先輩は和樹の質問には答えず、薬箱をガサガサと漁って探している。
「あった。」何を探し当てたのかは分からないけれどけど、慌てた様子の柴崎先輩はテーブルに体をぶつけながら踵を返して部屋を出ていく。
静かになった。部屋の外で何が起きているのか気になるけれど、柴崎先輩のあの姿は、直視できない。だから好奇心に部屋を出るのは辞めた。何かあれば後で教えてくれるだろう。それに、早くこのプログラミングを終わらせないと、藤木さんも寝るのが遅くなる。
仕切り直し。VID世界に入りたての急降下するひゅるっとした気持ち悪い感覚に耐え、世界は電脳光るビル群に変わる。
ビル群の一角の少し広い場所、和樹が作ったシャンパンタワーの周囲を水平に空を切っていく。和樹の手の振る度にシャンパンタワーを覆う事の出来る面が出来上がり、それは大きな白い箱となってシャンパンタワーがすっぽりと包まれた。
白い大きなキューブにサーバーと繋がるコードをサイド2か所に作った。すると無機質なただの物体にしか見えなかった物が、有機質な存在に見えてくる。ちょっとした遊び心が出て、その巨大なキューブにニコちゃんマークのような眼と口を描いた。
「なかなかいいじゃん。よしちゃんとした手にしよう。」配線の先を五本指の手にしてあげた。
キューブ君の出来上がり。
和樹はキューブ君の手を握り、虹色に明滅する配管の通っている場所に移動し、配管を踏み待つ。遠くからひときわ激しく輝く光の塊が近づいてきて、和樹の左足から入ってくる。莫大なエネルギーは和樹の身体を包み、握るキューブ君の身体へ移動すると、和樹の反対の手にキューブ君のコピーが出来上がる。和樹の右足から出て行った光の塊。
二体のキューブ君に挟まれて手をつなぐ和樹。キューブ君は少々驚いた顔で互いに見つめあっている。本体の方のキューブ君の手を放し、コピーの方キューブ君の握る手に力を入れた。
「よし、キューブ君、小さくなってね。圧縮!」
みるみる縮んでいき5センチ四方の大きさに圧縮されたキューブ君は、和樹の掌で、犬がうれしい時にしっぽを振るように、手をパタパタと動かしている。
「あはは、可愛い、可愛い。じゃぁ次は、沢山の仲間を作るよ。」
また、高エネルギーの塊が近づいて来るのを待つ。左足から入ったエネルギーを利用して、キューブ君の複製を作る。小さなキューブ君は、一瞬で1個が2個となり、2個が4個となり。4個が8個と二乗で増えていき、最後列が見えないほどの数のキューブ君が出来あがった。光の塊が和樹の右足から出ていく。
「さて、このキューブ君たちを世界各地点へと飛ばし、配置させよう。」
和樹は自分の背後のガラス張りのビルの壁に、大手ネットサーバーの中継地点が設置されているアドレスの一覧を表示させた。それらの情報を小さなキューブ君たちに一か所ずつあてがう。アドレスを貰ったキ小さなキューブ君は、ピョコンとジャンプして敬礼をして鎮座する。キューブ君達全部にアドレスの設定を済ませ、和樹は軍隊のように整列して待っている小さなキューブ君達に向って、「GO!」と合図を送る。
キューブ君達は一斉に方々へ、飛び散っていく。親である大きなキューブ君も敬礼で見送る。
次に和樹は、そばに残してある大きなキューブ君(親キューブと呼ぶ)を、高エネルギーが流れる配管とは違う配線を、両手で握らせ鎮座させた。親キューブ君の背中からプログラミングの設定を少し変え、全国に散らばる子キューブ君の仕事の監視を親キューブ君が集約できるように設定した。そしてそれらの情報を見られるように背中に画面も作った。
「じゃ、キューブ君、全国の子キューブ君達に開始しの指示を送って頂戴。」
親キューブ君は、返事の代わりに一瞬だけ光ると、両手から子キューブへのプロクラム開始の指示を送る。
しかし、すぐにエラー情報が親キューブ君に返されてくる。
「そうそう、うまくいかないかぁ。何が原因かなぁ。」
返されたエラー情報を見つめる和樹は、その情報の出所が、ある一定の地域に集中して多数発生している事に気づく。エラー情報を送ってきているのは、京都の各地に配備した子キューブ君が多く、次いで隣接の大阪が多く、兵庫と滋賀、奈良に僅かの情報数だった。
「何だろう?」和樹はそれらエラーの情報の一つを開いてみる。それは、岡本さんと同姓同名の人物が自殺した事に関するネットワーク上の書き込みだった。自殺した人が岡本さんが誘拐事件にあった日と同じである為に削除対象として引っかかったようだが、出身校の所在が違う為に、判断決定ができなかったようだ。出身校の住所まで精査項目を入れてなかった。
「こういう些細な事も設定しなければならないのか・・・。」
和樹はため息をついて、エラー情報のすべてに目を通す。そして、その名前を目にし「あれ?」と首を傾げた。
「この名前の人って、確か藤木さんが殴った人と同じ?」
朝早く呼び出されて、変な勘ぐりを抱かないようにと、柴崎先輩と今野さんから聞かされた、藤木さんが同級生を殴った経緯の中で聞いた、殴った相手の名前。
「この書き込み・・・・・これ?本当の事?」
和樹はキューブ君から背を向け、別口であらゆる情報を集めにかかった。
熱い。吐く息が熱いのがわかる。喉が渇いた。
政党の地方支援する講演先で熱を出した。
新幹線に乗っている時から、ちょっとしんどいなと思っていたんだけど、僕は黙っていた。
お父さんもお母さんも谷崎さんと難しい話で忙しそうだったから。
『どうだ?熱は下がったか?』
『そんなに、すぐには下がりませんよ。』
『うむ~』
『この様子じゃ、明日は無理です。本間様にはお断りして下さいませんか?』
『無理だ、ここは次の選挙の激戦区、本間氏様が満を持して、この講演会を企画されたんだ。次の選挙の交戦題材は少子化問題や子育て支援に関するもの。ぜひとも家族で参加とお前や亮の席を設けて下さったのだ。亮は仕方ないにしろ、お前は絶対に出席しなければ。』
『それはわかっていますけれど、じゃ亮はどうするのです。高熱の亮をこのまま置いては行けません。』
『・・・・。』
僕のお父さんは、日本を代表する民生党の議員、お爺ちゃんはついこの間まで、内閣総理大臣を務めた。そんな由緒ある藤木家の長男だから、僕は良い子にして居なくてはならない。大丈夫、僕はお母さんが居なくても大丈夫、辛くない。
『あぁ、亮、大丈夫?喉乾いた?はい、水飲んで。』
『僕は、だ、大丈夫、一人でも。』
『亮、大丈夫よ。亮は何も心配しなくて、お薬飲んだから、明日には熱も下がるわ。』
そう言って、お母さんが一晩中看病してくれたのに、僕の熱は次の日にも下らなくて、お父さんはどこかの病院から、看護師を一人手配してきた。
『ごめんね、亮、終わったらすぐに戻ってくるから、ちゃんと寝てるのよ。』
『うん。』
おでこから目に塞がるようにずり落ちて来ていたタオルをお母さんが取ると、のぞき見ているお父さんと目と合う。
【こんな大事な日に、熱なんか出して。】お父さんの本心だった。
選挙前の大事な交戦時期に熱を出した僕は、藤木家の役立たずで悪い子だ。
『お父さん、ご、ごめんなさい。』
無言でベッドから離れるお父さん。その後に続いて部屋から出て行くお母さんも、寝ずの看病で疲れ切って、もううんざりと言う本心が溜まっていた。
体が燃えるように熱い、吐く息が熱いのがわかる。喉が渇いた。水が飲みたい。
体を起こそうとしても、ロープで縛られているように全く動かない。
少しだけ頭を動かせた。暗闇に浮かぶ水差しは、水滴が流線型のガラスに添って無数についている。
雫が一つ、流れ落ちた。
良く冷えた水、乾ききって痛い喉が、求めて無い唾を飲みこもうとする。
欲しいか?
(欲しい。)
まだ欲しがるか?
(まだ?)
財、金、権を生まれ乍らに持ち、そして忌み嫌われる力を持つ欲深き者。
(欲深き者・・・)
他に何を欲する?
(他に欲しい物・・・)
目の前の水が、今一番欲しい物。だけど何時だって一番欲しい物は手に入らない。
涙があふれた。
(ごめんなさい、こんな力を持ってしまって。)
「大丈夫、大丈夫よ。」
誰かが亮の手をぎゅっと握った。
「さぁ、水を。」
乾いた喉に染み入る水。
みぞおちまで、その冷たさを体感する。
「ごめんなさい。」
「謝らなくていいのよ。」
(俺は役立たずで、悪い子だから・・・)
「あなたは優しい子よ。」
(優しい?)
「そうよ、優しくて、誰よりも強い。」
(強くなんかない。いつだって、この力に恐れる、弱い人間だ。)
「そうね、この力は恐ろしいわね。でも、その力を持っていられている事が、強い事の証明。その力に恐れている事が優しさの証明だと思うわ」
(証明・・・)
「さぁ、ゆっくり休みなさい。大丈夫だから。」
(大丈夫・・・)
「そうよ、大丈夫。」
ギュッと握られていた手が、おでこから頬に移動する。冷たくて気持ちがいい。
「大丈夫、あなたは優しくて強い、明日には熱も下がるわ。」
吐く息に熱さがなくなって、少し楽になった。
「大丈夫、大丈夫よ、あなたは一人じゃない。」
【大丈夫、僕は一人でも、僕は役立たずの悪い子だから。】
(大丈夫、俺一人じゃない。)
欲深き者は、この世に無数にいるのだから。
(俺は、忌み嫌われる力をもつ欲深き者。)
(大丈夫かメール送っとくかな。)
教室を出た廊下でメールを送ろうとしたら、その携帯を不意に取り上げられる。慎一が顔を上げると目の前には、いつもの腰に手をやったポージングの柴崎。
「あ、んだよ、返せよ。」
「やっぱり、藤木にメールを送ろうとしてたわね。」遠慮なく慎一の携帯を見て声を上げる柴崎。
「藤木だけじゃなくて、悠希にもだよ。」
「どっちも!メール着信の音で、せっかくの睡眠を妨げちゃったらどうすんのよ!熱出して寝込んでるのよ。」
「あぁ、そうか。」
珍しく何の連絡もなく朝練に来なかった藤木。一時間目が始まっても来なくて、授業終了後、慎一は教室を出て行く先生を捕まえて聞くと、熱を出して休むと連絡が入っていると教えてくれた。昨晩、何度か掛けても携帯はずっと切られていたから、その時から具合が悪くて寝込んでいたんだと心配をする慎一。
「藤木は、うちで預かってるし、木村さんが看病してくれてるから大丈夫よ。」
「えっ!お前んちに居るの?藤木。」
「しっ、声が大きい。」
「あぁ、ごめん。」
「お母様が藤木の保護観察者ですもの。」
(あぁ、そうだった。)一人暮らしの許可の条件の一つに、柴崎のお母さんが保護観察となっている事を思い出す。
携帯を柴崎から返されて、一緒に食堂へと向かう。
「悠希も熱があるって休んでる。昨日の雨、急に降りだしもんな。結構ちゃんと練習やったんだ。」
「・・・え、ええ。」
「グランドメイン使用の日じゃなかったから、大した練習はしないと思ってたけど。練習内容は?」
「いつもと一緒よ。」
「いつもって?」
「こんにちは。」食堂に入ったところで、柴崎が急に頭を下げる。
「えっ?」
食堂の入り口の脇、今月の献立の目玉が写真付きで紹介されている立て看板の横で、柴崎のお母さん、柴崎会長が凱さんと一緒に並んで立っていた。
柴崎は、自分の母親に近づき、周りに聞こえない様な小さな声で聞く。
「あの、藤木君の容態は?」
「大丈夫ですよ。熱も下がっています。」慎一にも顔を向けてうなずき、にっこりほほ笑む。
後から食堂に入って来た生徒が、慎一と同じように、学園の会長が居る事に驚いている。柴崎のお母さんは、その生徒にも笑顔で声をかけ、入ってくる生徒一人一人に挨拶をしていく。
「失礼します。」柴崎が丁寧に頭を下げて、慎一を促し、食堂の中へと進む。
「何なんだ?」
「視察よ。生徒の生活態度を見に来ていらっしゃるの。」
「何で、そんな急に?」
「さぁ、知らないわ。」
「そんな知らせあったか?」
「無いわよ。無告知だからいいんじゃない。素の生徒を見られて。」
「あーまぁ、そうだけど。」
振り返ると、柴崎のお母さんは、凱さんに何か耳打ちをしている。
いつも、学園で会うと、よぉっ、なんて気さくに声を掛けてくれる凱さんは、今日は別人のように、まじめだ。
慎一は、なんとなく胸騒ぎがした。
汗を掻いた気持ち悪さで目が覚めた。
いつもの景色じゃない事に戸惑うも一瞬だけで、覚えのある天井の景色に安心する。
柴崎邸、いつもの2Fの階段横の、ツインベッドの部屋。麗香の部屋の前だ。
部屋にある時計を見た。2時43分。
夜の2時じゃないよな。重厚なカーテンの隙間から細く、明るい光が差し込んでいる。
昨日の夜、麗香に熱があると指摘されて、39度越えの体温計の表示を見た途端に辛さを覚えた。その後、柴崎は、会長と木村さんを呼んで、医者まで呼び寄せた。夏風邪と診断された。
医者が持って来ていた薬を飲むと、すぐに眠気が襲ってきて、その後の覚えがない。ずっと身体を縛られた様な感覚に苦しんでいた。その名残か、まだ体は気怠く痛い。無理に体を起こす。髪の毛はべたついて、体もパジャマ代りのTシャツが、しっとりしていた。
顔を洗いたい。シャワーを浴びたい。とりあえずベッドから降りようとベッドに手をついて、ふと気づく。
―――誰かが、ずっと手を握ってくれていた感覚。
部屋をノックされる。
「はい。」扉を開けて入って来たのは、木村さんと柴崎会長。
「起こしたかしら?」
「いいえ、大丈夫です。」
「ほんと、大丈夫みたいね。」にっこりほほ笑む柴崎会長は、今日もきっちりスーツを着ている。
「すみません。ご迷惑をおかけしました。」
「謝るのはこちらよ。気づくのが遅れたわ。」
本心から詫びた後悔を読み取る。実の子供でもないのに、ここまで心配してくれるのは、同じ力を持つ者同士だからか。
「お腹の具合はどう?源田さんが食べたい物があれば、何でも作ると言ってるわ。ただお医者様からは消化の良い物をと言われているけど。」
「ありがとうございます。食事より先にシャワーをお借りしたいです。」
「もちろんよ。」
「食事は、源田さんにお任せします。」
「わかったわ。じゃ木村さん、そのように。」
「はい、着替えはこちらに、置いておきますね。」木村さんは、使っていないベッドの上に新しいパジャマや下着、私服まで置いてくれた。どうやら、新しい物を買ってきてくれたみたいだ。
その横の木製のハンガーラック棚には制服のカッターシャツとスボンが、ビシッとアイロンをかけられた状態で掛けられているし、更には体操服、クラブで使ったジャージや靴下などが綺麗に畳まれて置かれていた。
「百貨店の外商に、大体のサイズを言って持って来てもらったの。趣味が合わないかもしれないけれど、またいつでも泊まれるように、ここに置いておくといいわ。」
「すみません。」
「気を使わないのよ。私はあなたの保護者代わりなのだから。」
保護者代りにさせてしまったのは自分のせい。自分が弥神を殴ってしまったから。
「ごめんなさい。悪い癖ね。」
踏み込み過ぎたと、伏せて顔を背ける柴崎会長は、その心にわずかに後悔の悲しさが沸き起こる。
本心の読み取り合い。
「あっ、会長。」木村さんに続いて出て行こうとする会長を呼び止めた。「疑惑を持っている生徒の洗い出し・・・」
「大丈夫です。それは、私が、今日1日、視察と称して学園に赴きやっておきました。」
(はぁー俺は役立たず。)
「そんな事はありません。念のため、抜けがないかチェックはしてもらわないといけないわ。」
「あっ、はい。それはちゃんとします。」
「そうじゃないの。私と藤木君では、視方が違っているかもしれない。力量も、何もわからないのよ、この力は。」
そう、小さく呟いた柴崎会長は、痛い程に苦しい、うんざりする程の気怠さのような感情が、心に埋め尽くす。
「そうですね。」
亮は、自身しかできない共感なのに、その言葉を言うのが精いっぱいの自分の力量のなさに、うんざりした。
昨晩、部屋の外では、藤木さんが熱を出して、ちょっとした大騒動となっていた。そのうち凱さんも帰ってきて、黒川君も倒れられたら困るからと言って、強制終了させられた。
「黒川君、今日はどっちに行くの?」
「うーん」
(キューブ君達、大丈夫かなぁ。)
「迷ってるの?」
「うん。」
「えりとしてわぁ、美術部に行ってほしいなぁ。」
「うーん。」
ひょんなことから見つけた藤木さんが殴った相手に関する情報収集に夢中になってしまい、キューブ君達のプログラム訂正もおろそかになったままだ。
「柔道の練習、行かないとダメなの?お爺ちゃんに怒られる?」
「うーん。」
各地でエラーを起こし、親キューブ君がパンクして壊れていないか心配だ。
「そうかぁ。あたしも、筋トレ休んじゃおうかなぁ。」
「んー。」
(うわーそうなったら、厄介だ。)
「昨日さぁ、慎にぃ酷いんだよ。りのりのんちに晩御飯を持って行けって、言うんだよ。酷くない?」
「うーん。」
(壊れていたら、親キューブ君共々、子キューブもきれいさっぱり削除して、一から創作したほうが簡単だ。)
「昨日は、りのりのがうちで晩御飯食べる日だったからさ、数学の宿題やってもらおうと思ってたのにさ、りのりの来ないんだよ。」
「ふーん。」
(でも、あのキューブ君達を削除するは気が引ける。)
「慎にぃ、りのりのと喧嘩してさ、気まずいからってあたしに持っていけって言うんだよ」
「ふーん。」
(可愛いのが出来た。もう、愛着がわいている。)
「んで、りのりのに電話したらさ、もう食べたから持ってこなくていいよって。だからさ、えり、まだ数学の宿題提出、出来てないんだよね。明日締切なのにぃ~。」
「うーん。」
(どうか、壊れていませんように。)
「ねぇ、明日は美術部に行く?」
「うん」
(そして、別口で集めた藤木さんが殴った相手に関する情報、あれをどうにかしないと。)
「じゃさ、明日、えりはテニス部3時までなんだぁ。見に行っていい?」
「うーん。」
「駄目なの?」
「駄目よ!」
急に和樹の意識に登場した、この誰にも負けない高圧的な声は
「ぎゃっ、柴崎先輩!」
「黒川君は先約があるの。私と。」と突然、和樹の腕を組んでくる柴崎先輩。「今日も私とデートよ。」
「えっ!?」えりが叫ぶ。
(あぁーそうか。)柴崎邸でやっている事は、えりには内緒の事で、えりは連れていけない。
「うそっ、えぇー柴崎先輩が黒川君と?」
「そ、ねー」と紫崎先輩は、満面の笑みで首を傾げ、和樹に同意を求めてくる。
「えっと、まぁ・・・」とあいまいな返事をした。
「そんな、うそっ」とえりは驚愕に狼狽えている。
「あーいや、そうじゃ。」
柴崎先輩が組んでいる腕をグッと引っ張る。余計な事言うなという意味なんだろうけど、グラマーな胸の感触が腕に当たって、昨日の艶やかな姿を思い出して、和樹は顔を赤らめた。
「黒川君は、えりの子供じみた我儘に、もううんざりしてるのよ。」
「こ、子供って・・・」
「付き合う女は、やっぱり私みたいな清楚なレディじゃなくちゃねぇ。」
(んー、昨日のナイトウェアで男子の前をうろつくのは「清楚」と言わないんじゃないだろうか?)
「じゃね、えり。子供は早く帰って宿題した方がいいわよ。」
柴崎先輩に引っ張られ、学園前の交差点を渡らされる。いつの間にか学園を出て来ている自分にもびっくりし、振り返ると、えりが交差点で呆然としている。
「ご、ごめん。えり。」
「謝んなくていいわよ。」
「でも、本当に信じちゃったらどうするんですか。」
「柴崎先輩のばかぁー」えりが叫ぶ。
「いいのよ、えりにはあれぐらい言っておかないと、どんどん我儘がエスカレートするからね。」
「あばずれー。盗人ぉー、助こマシぃー」
「新田が、黒川君も苦労してるんじゃないかって、心配してるわよ。」
「僕は別に、我儘って思った事は・・・」
「ハイエナぁー。」
「・・・。」急に立ち止った柴崎先輩の手は握られて、プルプルと震えている。
「お仕置きよ。」そう言うと、変わりかけの信号を駆け戻り、えりに対峙する。
「誰がハイエナよ!」
「痛っ!」柴崎先輩にグーで殴られるえり。
「人の彼氏を取るのは、ハイエナと一緒じゃないですか!」
「取ったなんて言ってないでしょ!」
「取ったも一緒じゃないですか!デートするって。」
「高々デートじゃない。」
「た、高々デート?!ほら、そうやって人の彼氏を軽く誘って。」
「あー、もう、あんた、うるさい!」
「先輩、いつもそうやって都合悪くなったら、うるさいって、先輩こそ我儘じゃないですか!」
「私はあんたと違って、色々言えない事が沢山あるわけ。あんたのくだらない我儘と一緒にしないでちょうだい。」
「くだらなくないもん!」
(あーあ、えりは何も悪くないんだけどなぁ。)
続々と、常翔の生徒が信号待ちの交差点に集まってくるも、皆、言い争いをしている二人を遠巻きにして避けて待つ。
(他人の振りをしよう。)
和樹は早歩きで駅に向かった。
源田さんは、まるで京都の高級旅館の湯豆腐御膳のような食事を用意してくれた。
透き通った出汁が上品に効いた湯豆腐の鍋は、具を食べてしまった後、ご飯を入れて雑炊に。小鉢にはほうれん草のお浸し、飾り花びらの黄色が上品にのっていて、たかが一学生にも手を抜かない、源田さんのプロ意識に脱帽し、感謝した。亮は食事を終えて部屋に戻り、携帯の電源を入れる。昨日は、新田から「練習はどうだった?」なんて連絡が来そうだったから、携帯の電源を切っていた。数十件のメールが届いている。今野に佐々木さん、クラスメートの中山ちゃんを筆頭に、皆、「大丈夫?」と同じ内容。
畑中先輩からは、昨日の事から、今日の練習は顧問からの判断で自主練になったとの報告。顧問の耳に入ったようだ。それは当たり前に仕方ない事で予想はついていた。これ以上、疑惑を広めないためには、ボイコットしている2年の行動を露呈させない方がいい。ちょうど、昨日の酷い雨でグランドコンティションの悪さも、自主練の理由にしやすかっただろう。
新田からのメールがないのに気が付く。心配性の新田にしては珍しいことだ。代わりといっては変だが、逆の意味で珍しく、りのちゃんからメールが来ていた。メールを開けてみると写真が添付されていた。
【見つけた。ミギマキの可愛い子。】の一言コメント付きカタツムリの写真。
「ぷっ・・・」亮は吹き出して顔をほころばせる。
(ずっとカタツムリ探してたんだ、りのちゃん。)
多分、りのちゃんなりの励ましなんだろう。見せたいから早く来いって意味が込められた・・・
(んー、何の気持ちも入ってなかったりして?)
りのちゃん宛の返信のメールを作る。
【これはミスジマイマイだね。関東地方が生息域で一般的。】
りのちゃんが亮に求めているのは、知識。亡くなった父親が何でも知っていて、父親から色んな知識を聞くのが大好きだったと言う。それを求めて、りのちゃんは亮を、父親の代りに知識を要求してくる。
コンコンと扉のノックに、はいと返事する。そうっと開けて顔だけ出したのは麗香。
「どう?大丈夫?」
『大丈夫、あなたは一人じゃない。』
手の平の感覚によみがえる言葉。
(あぁ、確かに、独りじゃない。こんなにも沢山の友達がメールをくれている。)
「うん、大丈夫。」
「良かった。」麗香は、ほっとした顔をして体全部を部屋にすべ入り、後ろ手に扉を閉める。
「騒がせて悪かったな。」
「いいわよ、そんなの。」制服姿の麗香は、ベッドに腰かけていた亮に歩み寄り、携帯を持っていない空いた手を拾って両手で包みこむ。いつも暖かい麗香の手。
「ほんと、熱はもう下がってるわね。」
「昨日も思ったけど、何で手なんだよ。普通、額じゃない?」
「あれ?自分で気づいてなかったの?」
「ん?」
「あんたの手、凄く冷たいのよ。いつも。」
「冷たい?」
「そう、男の人で、ここまで冷たいの、珍しいわ。」
「何人もの男と、手を握ってきたみたいな言い方だな。」
「ええ、握ったわよ。年齢問わず沢山の男の人とね。」ニヤリと笑う麗香は嘘をついていない。亮の知らない男と沢山付き合ってきたんだろうかと、少し不安になった。
「手を握らないとダンスは踊れないわ。」
「ははは、そうだな。」パーティでの事か。
「昨日は、いつも冷たいこの手が熱かった。だから気づいたの。」
「サンキューな。」
「どういたしまして。」亮の手をパンパンと叩いてから離す。
「昨日、あんまり寝てないんじゃないのか?」
「ん?どうして?」きょとんとする麗香。
「昨日遅くまで、看病してくれたんじゃないかと思って。」
「ああ、したかったけどね。お父様に怒られたわ、早く寝なさい。って。」
(そりゃそうだな、年頃の女の子を男の部屋に入れたくはないだろう。しかもあんな恰好の娘を。)
「あーじゃ誰だろ?夜中に水を飲ませてくれたような気がするんだ。意識はあんまりなかったから気のせいかな。」
「お母様と木村さんのどちらかだと思うわ。交代で看病するって言ってたから。」
【大丈夫、あなたは一人じゃない。】冷たい手がおでこに気持ちが良かった。
「今日も泊まって行くでしょう。」
「いや、一旦マンションに帰るつもりでいるけど、黒川君の方はどうなってる?」
「昨日作ったキューブクンが壊れてないか心配だとかなんとか言ってたけど、私にはさっぱりよ。」と肩を竦める麗香。
「そっか、後で見に行くよ。」
「まだ寝てた方がいいんじゃない?」
「もう死ぬほど寝たよ。」
「あんたは、りのと一緒で、変に我慢するの、迷惑な癖よ。」
「我慢じゃねーよ。昨日は、体温計の表示を見るまでは辛くなかったって。」
「はいはい。さぁ、私、着替えておやつにしようっと。おやつはどうする?食べられる?」
「さっき、昼食を貰ったばかりだから要らないよ。」
「そう。」部屋から出て行く麗香。
ずっとその本心に亮に対して好きの気持ちが消えない。
(駄目だな・・・)
亮も、その心に甘えている。居心地が良すぎて。
(まだ欲しがるか?)
(財、金、権を生まれ乍らに持ち、そして忌み嫌われる力も手に入れた欲深き者。)
(他に何を欲する?)
「ふざけんなよ!」
「ふざけてないわ。皆、真剣だからこそ、ううん、ある意味、この学園に居る事を、誇りに思っているからこそよ。」
「だからって!くだらない噂を広めるのは、楽しんでいるとしか思えない!俺は、そんなの大嫌いだ!」
新田が、亮の座っているベンチを足で蹴る。ベンチは地面に埋め込まれているタイプだから、びくともしないけど、蹴った場所の縁が、泥で汚れた。
「やめてよ。物にあたるの。私はそう言うのが大嫌いよ。」
新田はギュっと拳を握り白くする。気持ちはわからなくない。同じ気持ちを麗香は一昨日抱いたばかり。
30分後に、サッカー部生徒は全員、視聴覚教室に集合するよう号令がかかっている。その前に、新田にこれまでの経緯とこれから麗香達がやろうとしている事を話した。
「昔から思っていた。この学園の奴らとは価値観が違うと。」
「新田、それは今、わざわざ呼び起こす必要のない事だ。」
ベンチに一人だけ座って新田を見上げるように見つめている亮。目を細めて目じりに皺を作った。
「俺は!」
「怒り任せで今、迂闊な事を言われたら困る。」
「藤木!お前のそれも、同じだ!」新田が、亮の胸倉を掴む。
「ちょっと!新田やめてよ。何して。」麗香の制止は聞かない。新田は怒りに満ちて、麗香にも睨む。
「学園の奴らも、お前らもっ!ずっと思っていた。だからっ!りのも悠希もっ」
「勘違いするな!」亮が新田の手を振りほどき立ち上がる。「今お前がそれを言ったら」
「何だよっ、読めてんなら言わせろよ。俺がどんな思いで怒りを抑えられないか!何なんだよ、ここは!」
「だからって、それを責めるか?俺を、柴崎を。」
話がいまいち見えない。亮は新田の本心を読んで、新田は読まれた本心をわかって言い争いをしている。
「お前は、その思いを自分の夢の為に、飲みこんだはずだ。」
「お前・・・」新田が藤木を凝視し、唾を飲み込む。
「悪い。お前のは、わかりやす過ぎて、つい・・・・どっちかわからなくなる。」
亮は、目頭に手を当てて、新田からの強い視線を外した。
「今回の事、お前が怒り爆発するのは簡単に予想できた。だから、ギリギリまでお前には言うなと柴崎に言ったのは俺だ。今の様に、俺にあたるのは構わない。だけど先輩達に向けられて、捨て身になられたら、それこそ夢は遠のく。」
「こんな時に、夢とか関係ねーだろ!」
「だから、怖いんだよお前は。誰もが必死になっても掴めない夢を手に入れても、それがお前の人生に置いて一番の価値じゃない。」
「友達の危機と夢を同列に比べて、どっちが一番かなんて考えがおかしいだろ!それも、俺がずっと思っていた事だ。」
私達は、そんなにおかしい?
亮も麗香も、桁外れにお金がある。生まれた時から死ぬまで、働かなくても困る事はなく、柴崎家の一族は困らずに、人生2回ぐらいは繰り返すことが出来るだけの資産がある。しかし、そんなに沢山のお金があっても、手にいれられない物がある。それは、夢だ。例えば、私がテニスのウィンブルドンで優勝したいと願う夢があるとしても、お金を払えば優勝できるというものじゃない。
「冷静になれ!新田!」
「なれるかよ!悠希は、お前らの、そのおかしな価値観につぶされるんだぞ!」
今度は、亮が新田の胸を掴み押し、柔道の足払いで新田を倒した。
「そんなに、お前の価値感が正しいか!俺や柴崎の持つ階級は、世間の媒体から見れば数少ない一部だ。多数じゃない俺達が、一般レベルのお前から見て、おかしいと言うなら、この常翔学園という世界では、お前こそおかしい。数少ない一部だ。それが常翔学園の正常だ!」
「やめて、二人共っ」
「お前は、知らないんだよ!俺や柴崎が、生まれながらに世間の上位にいる事の苦労を!」
「やめてって!」
(どうして、こんな話になった?)
それがわからない私は、やっぱり世間一般の常識を持っていないから?
何かが悲しい。―――のは、生きて来た世界が違うと、繋いだ手を振り払われた事。埋まらない溝が足元に確実にあって、埋める努力をしても、痕跡は無くならない。
何かが嬉しい。―――のは、生きて来た世界が同じだと、手を取り合える事。どんなに離れていても価値は同じわかってくれる。
亮が掴んでいた新田を離す。亮の顔がどんな表情をしているのかは見えない。
「捨て台詞なのもわかっている。どっちが正しいか、ここで議論しても、悠希ちゃんは救えない。」
亮が、新田に手の平を差し出す。躊躇う新田。
「悠希ちゃんだけじゃなく、柴崎もくだらない噂の被害者だと、気遣ってやれよ。」
新田と目があった。
「いいのよ。私は・・。」
新田が亮の手を掴み立ち、亮が大きなため息をついた。
「お前の夢はお前の物だから、お前がどうしようと勝手だけど、捨てたら、悲しむ人間が確実に4人は居るって事、忘れるな。」
「・・・・・。」まだ、割り切れないでいる新田。握った拳がまだ白いのがその証拠。「柴崎・・・ごめん。でも俺・・・。」
「異見があるのは当たり前の事だわ。だからこそ、私達は一緒に乗り越えられてきたのよ。色んなことに。大丈夫、岡本さんを辞めさせたりしない。」
亮が麗香へと顔を向けた。わずかに微笑んで優しい表情に、麗香は褒められたような気がして、うれしい。
新田は、岡本さんを迎える為に正門へと向かう。背中には亮に倒された時の土が払われずに付いていた。
「大丈夫かしら。」
「予想はしてたけど、あれほどの溜めた思いをぶつけてくるとは思わなかった。お前こそ大丈夫か?」亮に顔をのぞき込まれる。
「え、ええ・・・。」大丈夫だと言えば大丈夫だけど。大丈夫じゃないと言えば大丈夫じゃない。
新田が、学園に対して、不満をため込んでいたなんて。ショック。
「出来るなら、忘れしまった方がいい、さっきの新田は、怒り過ぎて理性を失っていたから。」
だからこそ、それは本音の中の本音なんじゃないかと麗香は思う。
「お前がしっかりしてくれなきゃ、前に進めない。何時だってお前が俺たちの勝利指針なんだから。」亮は麗華の肩を組み、肩をポンポンと叩いた。
(こんな私が、皆の勝利指針でいいのだろうか。)
麗香は息をゆっくり吐きだした。そして頭を亮の肩に預けた。
(ちょっとだけ甘えよう。これからする事は、失敗の許されない柴崎家の命運をかける物だから。)
「三角関係?いやいや黒川君にまで手を出してるから4角!ありえないっ!」
(・・・あの馬鹿っ)
「ぷっくくくく。」
亮は笑いを押し殺して、寄せた麗香の頭を引き離す。
(あの馬鹿のおかけで、良い時間が終わっちゃたじゃないのよ!)
「慎にぃまで手を出すなんて、柴崎先輩って、どんなに見境のないスケコマシ。」
怒りに震える手を振り上げて、声のする方に駆けだす。
「誰がスケコマシですって!」
えりは木陰から、麗香の怒りに抵抗するように立ち上がった。
「誰かって先輩に決まってるじゃないですか!どう考えても、これは先輩が慎にぃにまで色目使って、無理やりつき合わされた慎にぃは、問い詰められた藤木さんと喧嘩になってぇ~。あー可哀想な慎にぃ。先輩の毒牙にやられて、りのりの一途だった慎にぃの思いもめちゃめちゃに。」
「くだらない妄想すんじゃないわよ!」えりの頭をグーで殴った。
「痛ぁい!グーで殴るなんてっ!馬鹿になったら、先輩のせいですからねっ!」
「自分の馬鹿さまで人のせいにするの?呆れたっ、だから我儘だって新田が怒るのよ!」
「この間もいいましたけど、それ先輩に、そっくり返しますっ!」
もう一発殴ってやろうと手を振り上げたら、亮に止められた。
「えりりん。黒川君なら、心配ないから。」
「心配ないって。黒川君、柴崎先輩の毒牙にやられちゃったんですよぉ。」
「ぷっくくくく。」笑う亮。
「笑い事じゃないですよ!黒川君、今日も上の空で、おまけに美術部に行くの、えりと約束してたのにぃ、えりから逃げるように行方をくらませちゃって。」えりが泣きそうに顔をゆがませる。
(あーちょっとやり過ぎちゃったかなぁ・・・)
「えりりん。黒川君は、俺の頼みで今日は付き合ってもらうことになっているんだ。」
「えっ?」
「ごめんね。えりりんの約束を取っちゃって。詳しくは言えないけど、何も聞かずに黒川君を貸してくれるかな?」
「詳しくは言えない仲?藤木さんと・・・」
「えっ?いや・・・そうじゃなくて。」
「うわーん。藤木さんもライバルに?もう何角関係?複雑怪奇過ぎて、えりついていけない!」
「そうじゃないよ。」
「先輩達、最低!不潔!」えりが踵を返して駆け出していく。
「あっ、ちょっと、えりりん!」
(あんたの妄想が、複雑怪奇で最低だわ。)と叫びたい。
「面白すぎる、奇想天外な思考回路。」
「ねっ、殴りたくなるでしょ。」
「何だよ、その面白い恰好は。」
「お前が言ったんやろ。変装して来いって。」
「変装とは言ってない。絶対にマスコミには知られるな、見られるな。と言ったんだ。」
「そう言われたら、こうなるやろ!」
応接間のソファーに座る大久保は、短い髪の毛を無理やり頭皮に押しつけて七三分けにし、黒縁のめがねをかけ、サイズが合わな
い窮屈な紺色のダサいスーツを着ている。
「馬鹿は考えが浅はかで嫌だねぇ。」
「誰の無理を聞いて、ここに来た思もてんねん!」
「取引だよ。立派なビジネス。昨日も言っただろ。」
「ビジネス相手の客人に茶も出ぇへん。流石は常翔やの、殿さま商売しとる。」
「それはそれは、失礼を致しましたね。」信夫理事長が奥の職員用扉から登場。
「げっ!」大久保は座ったばかりのソファーから、飛び上がる勢いで立ち上がる。
「今、美味しいお茶をご用意致しますので、お待ちください。」
「あ、いえ、お構いなく。」大久保は面白い姿のまま、ペコペコと頭を下げた。
「ぷっくくくく。」
「んだよ。お前~。」大久保は小声で責めて睨らみながら、メガネを取り七三分けの頭を掻き乱した。
「申し訳ないねぇ。結婚式前の忙しい時に、急に呼び立てして。」
「いいえ、全然大丈夫です。独身最後に愛する母校に、また貢献が出来てうれしいです。」
「私にも結婚式に招待していただいていたのに、欠席で申し訳ないね。その日はどうしても抜けられない用があってね。」
「いいえ、いいえ、お忙しいのは十分、承知ですから。どうぞどうぞ、欠席してください。」敬ってるのか、敬ってないのかわからない。
大久保は、学生の頃から信夫理事長が、超苦手だ。卒業しても苦手な理事長に結婚式の招待状を送るのは、信夫理事長がサッカー連盟の常人理事会の役員だからである。学生をプロの世界に送り出す時は、常翔学園が責任を持って、契約チームとの架け橋をする。その強いパイプが常翔にあるからこそ、常翔学園のサッカー部は、プロになれる最短で安心のルートだと定評されている。
「大久保君、今日は、本当に申し訳ない。この通りだ。」敏夫理事長は改まって、大久保の前で大きく頭を下げた。
「えっ?ちょっと。や、やめてくださいよ。俺は、いや僕は・・・。」助けを求めるように、大久保が凱斗へと顔を向ける。
しかし、自分もどうする事も出来ない。理事長のその想いは良くわかるし、今の状況を打開するには大久保の力が必要で、凱斗も馬鹿を言い合っていても、本当は理事長の様に頭を下げたい気持ちは、少しだけ、ちょっぴり、微塵も・・・凱斗にはない。
大久保に助けてもらう代わりに、凱斗は行きたくもない結婚式の二次会に出席しなくちゃなんないのだ。大久保の結婚式の来賓者には、常翔学園の出身者が多い。凱斗自身は、常翔学園関係者でありながら、大久保以外とは友と言える者は皆無で、正直いえば、同級生の顔も名前も覚えていない。どういう顔をして二次会に参加すればいいのか、憂鬱だ。
「今日はよろしく頼むよ。祝儀はたっぷり弾ませてもらうから。」
「あ、はい。あ、いえいえ、祝儀だなんて・・・」
「じゃ、凱斗、時間通り、始められそうだから、よろしくな。」
「はい。」
信夫理事長が、応接室から出て行くと、大久保が全身を脱力した激しいため息を吐いた。
「良かったじゃないか、祝儀を弾んでもらえて。」
「要らんわ!・・・だけど驚いたな。あの理事長が頭を下げるなんて、雨、いや雪が降るぞ。」
「それだけ、大久保の事、認めてるって事だよ。」
「俺、理事長に認められたくて、サッカーやってるんとちゃうねんけどなぁ。」
『俺の夢、お前が作ったんや。俺も絶対有名になって、テレビに出るって、そん時、決めたんや。俺な、寮でお前とはじめて会った時、びっくりしたっていうか、うれしかったんや。夢、決めて誓った相手がそばにおる。絶対、俺の夢は叶うってな。』
あの大久保が結婚をする。自分たちは27歳になった。大久保は夢を一途に追いかけ、叶え、確実の成功者の人生を歩んで行く。
自分はどうだろうか?ずっと逃げてばかり、それも逃げ切れたことが一度たりともない。
「さてと、ちょっくら準備していくかぁ。」
大久保は入り口付近に置いてあった段ボールを応接セットのテーブルに置きなおし、箱を開けた。
「何、持ってきたんだよ。」
「まぁ色々と。」
納品業者を装ったダミーの段ボールは空っぽと思っていたが、開けてみるとサッカーボールはもちろんの事、色んなおもちゃが入っている。
「子供には、おもちゃが一番。見えないくだらない噂より、現実に手に取る事のできる物で、すべての意識をこちらに引きつける。」
「子供って・・・・生徒達、高校生なんだけど。こんなの貰って喜ぶか?」
ボールやユニフォームは良くても、けん玉?だるま落とし?シャボン玉?
「今どき、こんなの幼稚園児でも喜ばない、しかもここは金持ち学校と言われる常翔学園だぜ。」
「だからや。金を出せば何でも手に入る子供達。だからこそ、常翔の価値が下がるような噂に怯えて敏感に反応するんやろ。ここに通ってる生徒は高いレベルの物しか興味を示さへん。」
「こんな安物のけん玉が、高いレベルの物?ここの生徒は小遣いでケース買いをするぞ。」
「お前は、俺を呼んだ意味を分かってへんなぁ。」
大久保は段ボールの奥底からマジックを取り出すと、けん玉にサインを書き始めた。
「世界の大久保サイン入りけん玉!」腰に手を当てて、まるでセミを捕まえた子供の様にビシッと突き出す。
(馬鹿は何年経っても治らないらしい。)
凱斗はがっくりと肩を落とした。
「俺、やっぱ医者になるべきだったよ。」
「はぁ?お前、成りたくないって言ってたやんけ。」
「馬鹿を治す治療薬を開発しないと、新妻がかわいそうだ。」
「お前はわかってないねぇ。これらは俺がサインをする事によって、世界に一つだけの、どんなに大金を払っても手に入れられへん価値あるものとなるんや。」
大久保はサイン入りけん玉をテーブルに置くと、変装していた伊達メガネを手に取り、「これも景品に使おう」と言って、レンズ面にサインをした。「まぁ見てろって。俺がここで蔓延する疑惑を綺麗さっぱり流してやるからよ。人を注目させんのは、世界の大久保啓介の得意技や。」サインつきの伊達メガネをもう一度かけて、ゴールを決めた時にするいつもの決めポーズをする大久保。
「お笑い専門のな。」
「お笑いを馬鹿にすんな!笑いは世界を救うねん。」
「はいはい。」
確かに大久保の言う通り、一人が笑えば、周りも笑う。そうして笑いが世界中に広まれば、戦争は起きない気がする。
ただ、そんなに単純に笑えないのが、この世の中。
一人の哀しみが、周りを巻き込む事は、嫌と言う程わかっている。
ここにいるやつらが、全て敵に見える。
自分とは違う価値を持ったやつら。こいつらのおかしな価値観が、りのを壊し、今度は悠希を壊す。
ここに夢を求めて入ったのは間違いだったんじゃないかと慎一は思った。自分が常翔のサッカー推薦に合格しなければ、りのは追って、苦しい特訓をしてまで特待生にならずに済んだだろうし。そして悠希も、こんなありえない価値観で傷つけられる事もなかっただろうに。
視聴覚教室にサッカー部員が集まる。サッカー部じゃない2年生も何人かいた。慎一は握っていた手に力を込めた。
隣でこれ以上ないぐらいに俯いて固まっている悠希が、つまる息を微かに吐く。
「大丈夫・・・・大丈夫だから。」
その言葉は悠希に向けたものでありながら、自分自身にも向けて誓う決意のように。
握った悠希の手を引き寄せ、両手で包みこんだ。
『私の手は、汚れてる。』
こんなに綺麗な手が汚れているはずかない。汚れているのは奴らの心だ。
『そんなに、お前の価値感が正しいか!俺や柴崎の持つ階級は世間の媒体から見れば数少ない一部だ。多数じゃない俺達が、一般レベルのお前から見て、おかしいと言うなら、この常翔学園という世界では、お前こそおかしい、数少ない一部だ。それが常翔学園の正常だ!』
柴崎と藤木に個人的に責めているつもりはなかったが、慎一が責めた価値観の階級に二人は確実に入る。友として一緒に居る時は、強くそれを意識しなければやっていけない何かがあるわけじゃなかった。時々柴崎のお嬢様ぷりを指摘して笑う程度で、慎一でも、常翔学園というブランドに、優越感を感じる時もあった。常翔学園に通っていると言えば、どんな場面でも恥ずかしくなく、「それは良い所に通って。優秀でいるのですね。」と言われる事も頻繁に経験した。しかし、学園内ではその優越は他を排除する理由となった。りのが受けてきた数々の孤立は、慎一自身の納得のいかない不満となって心に蓄積されていった。それらを爆発させて立ち向かえるほど慎一は強くはなかった。夢の為にそれらは心の奥底に押し込んでおくものだと、飲み込み続けてきた。
りのに続いて悠希もまた、そんな価値観によって迫害され壊される。もう奥底に押し込んでいられるほど、慎一は弱くはない。三年間、りのと共に苦しみ学び強くなってきたつもりだ。もし、これがきっかけで夢が遠のいたとしても、慎一は後悔などしない。
【遠回りは無駄じゃない。】事を知っているから。
視聴覚室に入って来た生徒は、一様に教室を見渡して、そして必ず慎一の隣にいる悠希を見つけて顔をしかめる。そうして席につくと隣の生徒とコソコソと話しだす。藤木の能力じゃなくてもわかりやすい程に、おかしな価値観を見せつける奴ら。
真実じゃない噂を信じて、自分のステータスが落ちる事を極端に恐れ、その原因元である者は、それが真実でなくても排除する。これが常翔の常識。
(こんな奴らと一緒にサッカーは出来ない。)
前方教壇、奥の窓際、柴崎と並んで立っている藤木と目があった。
その眼が怒っている事で、読まれていると理解する。
(自分が悪いのか?)
世間一般レベルの価値観が、ここでは少数派の異端。
藤木がこちらへ向かってくる。きっと、また叱りに来る。うんざりだと藤木から顔をそむけた。
ガラッと視聴覚室前方の扉が開く。
悠希が、ビクッとより一層に体を固くした。
入って来たのは、黒のスーツ姿の凱さん。凱さんは扉の前で全体を見渡すと、慎一の方に顔を向け頷いた。そして一歩横に移動し、腰を曲げて頭を下げる。それが合図の様に、扉から姿を表したのは。柴崎の母である柴崎会長。
視聴覚室全体が一瞬静まり緊張感に包まれる。藤木が慎一の後ろに座った。
柴崎会長もまた、慎一に顔を向け眼を細め微笑み、頷いてから正面へと歩む。今日は、白いスーツに黒の太いパイピングが効いたメリハリのあるスーツだった。ファッションに疎い慎一でもわかる、今日は潔白を意識しての着用だと。
続いて入って来たのは中等部の理事長、柴崎のお父さんは紺色のスーツに緑のチェックのネクタイ。制服のネクタイに似ている。
濃緑のスーツの小学部の女性理事長が入ってきて、最後にグレーのスーツに、紺色のネクタイをしている高等部理事長が入ると、凱さんは下げていた頭をやっと上げて、視聴覚室の扉を閉めた。
教団の真ん中に柴崎会長が立ち、それぞれ左右に分かれた柴崎一族。窓際の端には柴崎本人も立ち並ぶ。
凱さんが慎一の前付近に立ち揃うと、6人全員が揃って一礼をした。
柴崎会長が教壇のマイクを取る。
「常翔学園高等部の生徒の皆さん、今日も健やかな日を過ごし、我々経営者一同、その成長を見守る事が出来ますことは、最良の喜びです。今日は主に、サッカー部の皆さんに、ここにお集まりいただいたのですが、サッカー部じゃない生徒さんもいますね。何故集められたかとの疑問がおありでしょう。それを今から説明し、皆さんの疑問を一掃しようという思いで、我々柴崎一族は揃い立っています。」
柴崎会長は、そこで一度言葉を切り、全体を見回した。
「ご存知でしょうけれども、中には高等部からの入学の生徒さんもいらっしゃいますからね、改めて紹介して座らせていただきますね。まず私から、この常翔学園、幼稚舎から常翔大学の一連の経営をまとめる、学校法人翔柴会の会長を務めています、柴崎文香と申します。」頭を下げてから続ける。「私の夫、中等部理事長、柴崎信夫。そして信夫の弟、高等部理事長、柴崎敏夫。」
会長から紹介されたら頭を下げて、用意されたパイプ椅子に座って行く理事長達。
「敏夫の妻、小学部理事長、柴崎洋子。それから、敏夫、洋子夫妻の養子、柴崎凱斗。凱斗は、中等部学園の特待生として迎え入れたここの卒業生です。現在は帝都大学法学部の4年生で、高等部理事長の補佐をしています。そして私と信夫の実子、現在高等部1年として皆さんと一緒に学んでいる、柴崎麗香。」
柴崎はムスッとした表情で頭を下げる。慎一のように心中怒りを押し留めている事だろう。
「あと、幼稚舎の理事長は、翔柴会の先代の会長、柴崎総一郎の妹でありますが、今日は都合が付かなくてここには揃っておりません。以上7名が、常翔学園創業者一族、そして経営者の面々です。」
柴崎会長はにっこりとうなづいた後、続ける。
「おかしな紹介の仕方でしたね。私の夫とか、養子の事まで、本来なら言わなくても良い事です。それをあえて言う紹介の仕方。そろそろ、なぜ自分たちは呼ばれて集められて、こんな所に閉じ込められているのか?わかってきたでしょうか?常翔学園経営の柴崎家一族の関係を明確にする事も、あなた達が疑問に思っている事を払拭するのに必要だからです。」
(自分のこの気持ちも全て払拭できるのだろうか?)
慎一は険しい表情で唾を飲み込んだ。
(全く、何だって、凱兄さんの養子の事まで、声高に紹介しなくちゃなんないのよ。一片の曇りがない様にっても、これは、あんまりだわ。これから資産まで公開しちゃうのよ。裸になる以上に屈辱だわ。ほんと、これで、岡本さんや私達に対する疑惑が取り除かれなかったら、こいつら全員、即、退学処分よ。そうよ、初めからそうすればいいのに。だって学園の入学規約には、常翔学園の生徒として、気品ある行動を最善に考え、学園の名誉脅かす言動は慎む事とあるもの。学園の経営者が裏口入学なんて不正を行っているなんて馬鹿な噂を、信じてしまう行動が、品のない行動よ。)
とめどなくあふれる考えを心中で吐露する麗香。尊敬する母の説明は続く。
「まず、我々が経営する常翔学園の理念と言う物をご存知かしら?では、サッカー部の部長、畑中君、言えるかしら?」
サッカー部3年は後ろの方で固まって座っている。総勢61名のサッカー部員と、顧問の溝端先生、そしてサッカー部では無いけれど、噂を伝え聞いて信じてしまった生徒達を含めて、視聴覚室には73名が座っていた。
畑中先輩は、姿勢を正してから答える。
「常に羽ばたく努力を惜しまず、未来に向かう心を育てる。ですか?」
「ありがとう。入学案内のパフレットに書いてあるわね。それは生徒側に寄り添った理念。経営者側にはもう一つ別の理念があります。理事長室に入った事のある子は居るかしら?幼稚舎から高等部まで、すべての理事長室に書が飾られているのですが。まぁ理事長室なんて入る機会は中々ないでしょうから、知らないのも当然ですが。
【質高い教育と環境は、羽ばたく生徒の揺るがない真髄を育てる。】
これは、常翔学園が創立した時から変わらない基本姿勢です。普通に生徒を育てるだけなら、別にここでなくても、公立校にも優秀な学校は沢山あります。国は未来ある子供達に貧困の理由など関係なしで通える学校を運営してくれています。わざわざ高額なお金を出してまで、私立の常翔学園に入る事はありません。だけど、あなた方はこの学園に入学したいと選んでくれました。そして親御様方は高額な金銭を払って頂き、大事なお子様を預けて下さった。経営者側の理念は、それだけの価値を常翔学園に見出していただいた事に、私達経営者は決して裏切ってはいけないという誓いの証しなのです。」
凱兄さんだけが椅子に座らず、入って来たドアの前で立ったままだった。その凱兄さんが、そっとお母様の斜め後ろまで歩み寄り、教壇の脇に用意してあった水差しから水を注いだコップを、マイクの脇に邪魔にならない様に置いた。その水をお母様が一口、飲み、口を潤すと。また話し始める。
「前置きが長くなりました。本題に入りましょう。その前に、ちょっとごめんなさいね。」とお母様は教壇を降りると、入り口近くに座る岡本さんの前まで歩いて、しゃがみ込む。
「岡本悠希さん。大丈夫かしら?」
岡本さんが新田の隣でビクッと体を固める。もうその存在が消えてしまうんじゃないかと言うぐらいに小さくなってしまっている。ついこの間まで、グランドを顧問やコーチの傍で走り回り、ボールを渡していた元気な岡本さんとは別人の様。
「もし、気分が悪くなったら、いつでも止めて頂戴。大丈夫、私はあなたを守るために、この学園に迎え入れたのよ。」
マイクを使わなくても一番端に居る麗香の所まで聞こえたのは、ワザとじゃないかなと思う。
金曜日と、土曜日の今日も学校を休んだ岡本さん。「みんなの、あなたへの疑惑を晴らすために、午後から登校してきて。」と麗香は電話をしていた。本当に来るか来ないか心配だったけど、藤木も電話をして、新田に駅まで迎えに行ってもらうからと励ました。これが始まる前に、登校してきてくれた岡本さんに、お母さまが事件の事を話すと説明をした。岡本さんは、ずっと何も答えないでギュッと口をつむったままだった。麗香は、昔のりのを思い出した。新田はずっと変わらず寄り添い。今度は岡本さんを救う。
お母様が岡本さんの腕をさすり、新田に「頼むわね。」と声を掛けて教壇に戻る。
「皆さんが疑問を抱く発端になった4年前の誘拐事件、岡本悠希さんが遭われた悲痛の事件は、実際に起った事です。」
視聴覚室はざわついた。麗香はそんな面々を強く睨んだが、誰も麗香になど注目していない。
「岡本さんは、クラブ活動を終えた帰宅途中で、事件に遭われた。お父様が信用金庫の取締役員だった。ただそれだけで狙われたのです。心無い犯人は、お金を強奪する目的で、当時中学1年生だった岡本悠希さんを誘拐し、人質にした。犯人の目的は、ただお金を得る事だけです。岡本さんの体が目的じゃない。怖い思いをしましたね。岡本さん。よく頑張りました。逃げようとしたときに犯人に傷付けられた腕の傷は、今も残っています。警察の捜査資料をお願いします。」
お母様が教壇からマイクを取って、一旦降りる。黒板が自動で左右に開けられ、プロジェクターのスクリーンが降りてくる。視聴覚室の隣に音響設備室があり、黒川君が待機していて、機材の操作をやってくれている。照明も少し落とされた。
映し出されたのは、岡本さんの事件の警察資料。表紙には「神奈川県日向市岡本悠希誘拐脅迫事件」と書かれている。この資料は、凱兄さんと黒川君が用意したもの。警視庁警視正である黒川君のお父さんに頼み、本物を借りてきている。
「この事件は、当時岡本さんのご両親の強い要望で、一般には公表されませんでした。犯人逮捕後も一切の報道をしないような処置が取られています。岡本さんのご自宅がここより隣の日向市であるにもかかわらず、詳細をあまり知らない方がほとんどです。だからこそ真実ではない噂が噂を呼び、蔓延してしまった。この警察資料は本物です。良く見えるように事前に撮影し用意しました。原本は私の手元に。」
お母様は持っていた警察資料原本を大きく掲げて、そのままゆっくり、階段状に設置された机の脇を登って、皆が座る方へと歩む。
「この刻印、皆さんよくご存じですね。交番や警察官が持っている警察手帳にも刻印されていますね。この資料は間違いなく捜査資料の原本です。皆さんは本物を見たことが無いと思いますが。」
お母様は、寺内先輩が座る所まで歩んでいき、その原本を寺内先輩の前に置いた。
寺内先輩は驚き、たじろいだが、恐る恐る原本を手に取り、めくった。
「中を見て行きましょう。」
生徒達がのざわめき、またすぐに静かになる。
「事件の捜査内容は、色々見せられない所があるので割愛します、重要なのはここ。岡本さんの保護された時の健康状態、医師の診断。右腕、前腕手首より130ミリ裂傷、長さ70ミリ最大深部12ミリの7針裂傷縫合。岡本さんは逃げようとした才、犯人にナイフで脅され、振り払った時に傷を負ってしまいました。被害にあえば、特にこのような大きな事件の場合、保護された被害者はしかるべき機関で医師の診断を受け、このように証明が作られます。さて、この医師の診断書内に腕の傷以外に、特別な記載はあるかしら?」
スクリーン画面は岡本悠希と書かれた氏名欄からずっと下へスクロール。
性犯罪被害を受けているかの欄、性器の項目に異常なしとの記載。
麗香は注意深く、サッカー部の面々を観察していた。二年生の何人かの生徒が俯いた。
「どうかしら?寺内君、腕の傷のほかに、何か気になる事、書かれている?」
「い、いえ、何も・・・」指摘された寺内先輩は、渋い表情で隣の生徒と顔を合わせ、原本を閉じた。
お母様はその原本を手に取り、教壇へと戻っていく。
「岡本さんの救出には、警察の特殊部隊SWATが動員されました。SWATは犯人確保よりも被害者最優先で事件の早期収束を行うスペシャリストです。swatが導入された事で、事件発生17時間と言う速さで、岡本さんは無事保護されました。以上が岡本さんに起きた事件の概要と、身の潔白。岡本さんは心無い噂で中学を休みがちになり、1年留年しなければならないまでになりましたけれど、この常翔に入りたい。そう思ってくれて、猛勉強しました。今年の常翔高等部の特待生を覗く外部入学志願者は498名、入学許可人数114名。倍率は4.3倍。今年は特に倍率の高い年になりました。それは中等部サッカー部が全国優勝を果たし、常翔の名前が注目された事が寄与さたにほかなりません。サッカー部の皆さんの努力、本当に嬉しくありがたく思っています。無粋な言い方ですが、我々経営陣からすれば、そうした皆さんの努力が常翔の名声を上げ、利益に繋がる。そして、この利益は更なる常翔の教育の質の高さに変わって皆さんに還元されていきます。」
お母様が、正面にたどり着き、手で合図を送る。画面が切り替わって、岡本さんの入学試験データー一覧表が表れる。
「ごめんなさいね。岡本さん、試験の点数まで公表しちゃって。でも、とても優秀よ。御覧の通り、平均点を十分に上回っての合格。内部進学組の皆さんは、中等部三学期に行われた進学確認テスト、自分のテストの点数と比べてどうかしら?この平均点のギリギリって子、いるんじゃなくて?」
騒ぎ始めた生徒達。今までで一番大きい騒ぎとなっていく。確かに高い点数は麗華の点数と似たり寄ったりだった。高等部の外部入試組は普通科の中でも、学力が高いなと思う子が多かった。4.3倍の競争率を抜けてこなければならないのだから当然だ。
「常翔は、入試点数だけが合格判断にならない。面接、そして、家庭調査と言うのも行っている。いくら入試点数が高くても、生徒の面接時での素行が悪ければ落とします。そして家庭調査。身辺調査ともいいます。世間からしてみれば常翔のこの家庭調査は差別と非難されるかもしれません。ですが、世の中には格差階級と言う物が存在するのは、隠す事の出来ない真実。これに目を背ければ、前頭で述べた『質高い教育と環境は、羽ばたく生徒の揺るがない真髄を育てる。』の経営理念が壊れる事になる。この身辺調査の実施は、入学試験願書と共に同意書を頂き実施している物です。常翔を受験するには、身辺調査をされても構わないとの同意書です。それが嫌なら、常翔は受験すらできない仕組みになっています。厳しい受験基準も常翔の特質です。」
お母様は教団に上り、また合図を送ってスライドの画像を消させた。
「岡本さんの家庭調査は、もちろん合格です。書類は流石に見せる事は出来ませんが、先ほども言った通り、神奈川信用金庫の役員をされているお父様でいらっしゃる事で十分、皆さんと同様の高い水準のご家庭だと言う事がお判りでしょう。だからこそ、誘拐事件の被害者になってしまったと言う事になるのだけれど。」
お母様は、水を飲む。
「これで、岡本さんの入学に関する疑問は無くなった。」
目を細めて、視聴覚室全体を見渡すお母様は、表情を引き締めた。
「警察資料の原本の用意が出来て、究極の個人情報まで公表する。これが出来るのは高い水準を揺るがなく維持する常翔学園だからこそです。わかりますね?岡本悠希さんがここに入学している。それこそが確たる潔白の証し。」
良く通る声に怒りが含んでいる。
「これ以降、この事件に触れた言動は、考えて行動してください。」
岡本さんは、肩を震わせて俯いて泣いていた。新田は岡本さんの背中をさすり、寄り添う。
「勘違いしないで欲しいのは、こんな疑惑を沸き起こしたあなた達を責めているのではありません。湧き起こった疑惑は、常翔学園の生徒の資質故と理解します。私達は、皆さんの高きプライドを誇りに思います。その気高い意識は、大事にして頂きたいと思います。続いて、あなた達には、もう一つ疑惑がありますね。岡本さんが入学した際、その身辺調査の審査を通すために、柴崎家は裏契約をなしたのではないかと言う。それも一言で言えば事実無根です。疑えば尽きることなく出てくる物は承知で、それもちゃんとした証拠を出しましょう。岡本さんだけが辛い想いするは不公平ですからね。」
お母様は一つ咳払いをして、息を吸い込む。
「常翔学園経営者、柴崎家一族の資産を全て開示致します。これで、不正により得た資金は一切ない事をここに証明します。」
お母様の迫力に、唾を飲みこむだけの生徒達。確実に反省の色は見えているけれど、一欠片の疑惑を叩き潰すのが、常翔のやり方。それが華族の子をも預かるトツプクラスの学園のプライド。
肩を振るわせて、静かに泣く悠希。こんな究極のプライバシーを公開しないと、皆の疑惑は晴れないで、悠希は学園にすら登校できないなんて。【常翔学園の生徒の資質】それは、慎一が持ち合わせていない資質だ。
「気高い意識は、大事にして頂きたいと思います。」
高いプライドを大事にする事が、この学園で求められる物。
(わかる、言いたい事は。だけど、それは人が一番に大事にする事じゃない。)
「常翔学園経営者、柴崎家一族の資産を全て開示致します。これで、不正により得た資金は一切ない事をここに証明します。」
悠希ばかりに向けていた顔を正面に向けると、姿勢をまっすぐに、怖いくらいの真剣な面持ちの柴崎会長を筆頭に、並ぶ理事長たち、凱さん、柴崎本人までもが攻撃するように強い気迫を発している。
こんな形でしか解決できなかったんだろうか?藤木に助けてくれと頼んだが、慎一達が手を打つ前に、サッカー部で情報が蔓延し、2年の先輩達が練習をボイコットするまでに事が大きくなってしまった。いつも自分は何もできずに、苦しむ子の手を握るだけ。
「それでいいんだよ。」藤木が慎一の肩越しにつぶやく。「悠希ちゃん、このすべてを開示する事を柴崎家に提案したのは俺だ。責めるのなら俺に。これ以上の策を思いつかなかった。」
悠希が首を横に振る。涙がポタポタと悠希の膝に落ちた。
「ううん、責めない。ありがとう。こんなに私の事を考えて行動してくれることなんて今までになかった。親ですら腫物触るように。すっきりした。だがら、もういいの。どんな事になっても・・・」
「まだ終結はしてないよ。」
「いいの、十分・・・ありがとう。」
悠希が責めなくても、責めている慎一を藤木は読んでいるだろう。だけど、これは消せない、隠せない。
視聴覚教室内はまた薄暗くなった。画面は学園の会計試算表、たくさんの数字、万単位で表示されている。桁数が多すぎて、もう何が何だかわからない。マイクは柴崎信夫理事長が持ち、説明をしている。
柴崎会長が、屈みながらそばまで寄ってきて、悠希の後ろに座った。
「大丈夫?」
「はい。」
「辛かったわね。本当にごめんなさい。」
「いえ・・・。」
「これからも、常翔学園に居て頂戴。あなたを受け入れるよう指示したのは私、同情じゃないわ。あなたのその這い上がってきた精神力を私は評価したのよ。」柴崎会長は悠希の肩を掴む。「「誰よりも強い精神力で、この学園に入りたいと願い動いた行動は、必ず未来を明るくするわ。ねっ。新田君、藤木君。」
「はい。」慎一は素直に返事をした。
慎一達はりのの事でそれを経験済み。
「安心して、私達が確実にあなたを守るから、だから辞めないでね。」
慎一は、振り返った。悠希は、退学を意思表示したのか!?
(そんな!)柴崎会長と目があうと、優しく微笑みを頷き返される。
室内のざわめきが次第に大きくなっていく。画面は個人の試算表に入り、凱さんの個人資産の金額が表示されている。
凱さんの住むマンションの価値が億を超えていた。預貯金も億越えで、慎一には場違いの桁である。
「意外に少ないな。もっと持ってると思ってた。」と慎一の後ろでつぶやいた藤木。
(あれで意外に少ない?嘘だろ・・・)
「凱斗はまだ学生だからね、理事長補佐は見習だし、養子として柴崎の籍に入ったのも、凱斗が二十歳になってからだから。」
困り顔で、首の後ろを掻いている凱さん。
「では、最後に娘の柴崎麗香の資産です。」
「おおー。」とどよめきが上がる。
柴崎は完全に怒っている。グーの手を膝に、肩が震えていた。
「最後まで耐えられたら、ご褒美もんなんだけどなぁ~無理っぽいな。」とつぶやく藤木。
柴崎の資産は、不動産やら国債まであって、凱さんの総資産より超えている。流石、常翔学園の後継者、現金は・・・・
「一億9千万!?」思わず声に出してしまった慎一。
俯いていた悠希も顔を上げて、画面を見る。
「普通だよ。」しれっと、答える藤木。「月に100万円までなら、相続税が掛からない。子供が生まれたら毎月100万円をこずかいとして移し替えていく、節税対策の常識。」
「よく知ってるわね。藤木君、流石ね。」と柴崎会長。
「俺だけじゃないですよ。この中にも知っている奴、柴崎家の資産に驚かないで同じぐらい持っている奴は1/4程いる。」
(と言う事は、藤木もこれぐらい持ってるって事。子供の小遣いが月100万・・・・ありえん。)
「新田、これが常翔の常識だ。納得いかなくてもな。」
まさしく桁外れの価値観が、常翔の常識。
「すげーな柴崎、長野に別荘持ってるのかよ。今度、そこで合宿しようぜ。」と沢田。
「耐えろよー、柴崎。」藤木の小声の応援もむなしく、柴崎は勢いよく立ち上がった。「駄目かぁ。」
「ふざけんじゃないわよ!あんたらに野次られる為に、提示してるんじゃないのよ!」
「これ、麗香!」柴崎信夫理事長が窘める。も、当然に止まるはずもなく。
「究極のプライバシーよ!わかる?!私のこの気持ち!財布の中身まで写真取れて!大体ね、私達が裏口入学のお金を隠し持っているわけないじゃないのよ!汚らわしい!」
「駄目だわ。もう止められない。」と柴崎会長。
「こらこら、麗香やめなさい。」と柴崎理事長が止めに近寄ったのをチャンスとばかりにマイクを奪う柴崎。
「貸して!」教壇の前に仁王立ちする柴崎、顔に数字が重ね映る。「まぶしっ、消して!」
柴崎の叫びに応じて、スクリーンの電源が落とされて、一瞬暗くなるも、すぐに室内は明るくなる。
「いい!よーく聞きなさいよ!裏口入学の相場がいくらか知らないけど、仮に一億手に入るとしてもね、私達にしてみれは、嬉しくもなんともないの、これでわかったでしょう!十分にあり余る柴崎家の資産を 。」
「こ、こら、麗香、やめなさい。」
「あっ、ヤバイ、これ以上は、」
「無理よ、間に合わない」
柴崎は誰の静止も聞くことなく、息を吸ったと思ったら、一段と大きな声で叫ぶ。
「お金なんてね、吐いて捨てるほどあるのよ!お金より大事な物を私達は大事にしてきているのよ!」
「あーあ、言っちゃった・・・」と藤木は手で顔を覆う。
「ま、ごもっともな麗香の正義だわね。言ったからには、麗香に責任取ってもらいましょう。」と柴崎会長。
「良く言った!」と後方からパチパチと手を叩く音、振り返れば大久保選手が立っていた。
「あーあ、もう予定はめちゃめちゃだな。」と藤木。
「そう、常翔学園経営者一族は、お金に媚を売ったりしない。それ以上の物を大事にしているから。その大事な物とは何か!」
階段状の教卓中段より駆け出した大久保選手は降りきると、前の教壇に飛び乗ると、振り向きざま指さす。
「それは、君たちだ!」
「・・・・・・。」
静まり返る視聴覚室――――突然思い出したように、ワールドカップのテーマ曲が流れる。
「ちょ待ち!ストップ、音楽ストップ!」
音楽が止まる。
「あのさーここはもっと感動して、うわーとか、きやーとか、スタンディングオベーションもんじゃない?」
「仕方ないわね。閉めなければね。」柴崎会長は椅子から立ち上がると、正面教壇へ向い娘の持つマイクを取る。
「皆様、長らく閉じ込めてしまって、ごめんなさい。これで誤解は解けて頂けたかしら?」
見渡すと、全員が頭を上下に、うなずいていた。
「娘の怒りの失言は、まぁ大目に見てやってください。ともあれ、我々常翔学園経営者一同は、大久保選手が豪言するように、生徒第一に考えた教育、環境はどこにも負けない高い水準で施す事を誓い、皆さんが安心、そして曇りのない心で生活できる事を確実に実現してまいります。」
柴崎一族皆が椅子から立ち上がり、頭を下げる。
「では、これより先は、わが常翔学園卒業生、現在ドイツのルクセンブルクACで活躍する大久保啓介選手が、独身最後の記念にと極秘訪問していただきましたから、どうぞ皆さん、大先輩のアドバイスを貰って、未来に向かう鋭気を頂きましょう。では私達はこれで失礼いたします。」
そう締めくくった経営者一族の面々は、来た時と同じ順番で視聴覚教室から出て行く。扉が閉まるのを待って大久保選手は、こめかみをかく。
「あー、なんか鋭気なくなったちゃったなぁ。俺、苦手なんだよ、理事長達・・・」
取り残された大久保選手を、皆が注目する中、再びワールドカップの音楽が始まった。
「ちょい待ち!ちょい待ち!」
どっと笑いが起きる。
「なんや、天の人と全然、気持ち合えへんやん。あのさっ、もう一度、登場からやり直していい?みんなさ、うわー、きゃーとか言ってや、頼むで。俺さ一週間後、結婚式やねん。ここで落ち込んだら立ち直られへんやろ。」
「ひゅーヒュー」誰かが口笛を放つ、さっきまでの重苦しい空気はもうどこにもなくて、皆、突然現れたスーパースターに目がキラキラと輝いていた。
「おめでとうごさいます!」
「おーありがとう。ありがとう!」
「プロポーズの言葉は?」
「プロポーズの言葉はぁ~、って、それは後や、まだ入場がちゃんと出来てへんねん。俺さ、今日の為に、入場はこうやってって、それからMCはこの内容でって徹夜で考えて、びっしり虎の巻作ってきてねん。」お尻のポケットから紙を出す大久保選手。
その時、プロボースの状況のふさわしいムード満点の音楽が流れ始める。
「だからっ!ちょっと待てぃ!音楽ストッープ!」
(確か、裏で機械操作してるの黒川君だよな。これもネタか?)と思われるような笑える状況。
隣で悠希がくすっと笑った。
「天の人ーちょっと入場からやり直すから、準備してもらえるかなぁー。オッケーなら合図してぇー」
ピンポンと音が鳴り、笑いが起きる。
「おおっ、なんや、クイズ番組みたいやな、もしかして、ノーなら?」
ブブーっと音が鳴る。
「やっぱりか!、オッケーオッケー。それじゃもう一度仕切り直しで行くで、皆もわーっきゃーって頼むで、特に女の子!俺さ女の子のきゃーって声、最高に嬉しいねん。あれが欲しくてな、今まで頑張って来たようなもんや。んじゃ柴崎さん、さっきのような大きい声頼むで、悠希ちゃんも!」
大久保選手は悠希に駆け寄り、笑顔で握手の手を出す。
悠希は面食らって一瞬固まるも。大久保選手の強引さに、おずおずと手を出した。
「あかんあかん、そんな沈んだ顔じゃ。笑顔でキャー言うてや、男ってな単純でさ、女の子の笑顔のキャーがあればそれだけで力が出るねん、なぁ、新田君。」
「えっ、俺?」急に振られてまごつく慎一
「あーごめん。新田君は、わからへんかぁ。」
「えっ、え?何ですか?」
「モテへん男の気持ちはわからんよなぁ~。この顔は。」
どっとまた笑いが起きる視聴覚室。
「そうや、そうや、新田は俺達の気持ち、わからへんのや。」誰かの、下手くそな大阪弁のヤジ。
「えー?」
(なぜこんな話になる?憧れの大久保選手にいじられて、嬉しいような、悲しいような。)
「ぷくくく。修業だと思え。」藤木が後ろから囁く。
(修業・・・)
代表の合宿で、遠藤からの辛い関西弁修行を思い出した。
「でね大久保選手、皆の要望に応えてね、岡本さんとリフティングの対決をして、張り切り過ぎて、視聴覚室の機械室の窓ガラス割っちゃったのよ。」
「えー本当?」佐々木さんが相槌をうつ。
「そう、今、視聴覚室使用禁止になっちゃってる。」
「あははは、じゃ、対決は岡本さんが勝利って事ね。」
「う、うーん。私一蹴りしただけよ。あれで勝利って・・」苦笑する岡本さん。
「あそこのガラス、ミラーガラスだから高いのよ。父は調子に乗り過ぎだって怒って、祝儀から差し引いておくって。」
「あははは。面白い。」
「私も払わなくちゃいけない?」
「岡本さんは大久保選手に無理やり引っ張りだされたんだから、いいのよ。」
大久保選手の極秘表敬訪問は、あれから4時間の独壇場となった。もうお笑い芸人のライブを見ているように、次から次と面白話になって。サッカーの話なんて僅か。おまけに集めた人数以上のサイン入りのグッズを用意していて。それがまた、くだらない子供のおもちゃだったりするから、面白くて。大うけ。
「長かったわー大久保選手のワンマンライブ。」
「良くしゃべるもんね。去年の表敬訪問もそうだったじゃない。柴崎さんが時間を気にする程。」
「えっ?去年も来たの?大久保選手。」
「ええ、えーと、修学旅行前だったから、そうそう、ちょうど1年ね。テレビのニュースにもなったのよ。知らない?」
「知らないわ。その頃は、受験勉強を必死にやってた頃だから、テレビは見てなかった。そうだったのへぇー。」
「ワールドカップ前に帰国した時を見計らって、凱兄さんが呼んだのよ。」
二人をはさんで並んで歩く麗香達は、昼食を食べに、食堂へと向かっている。
「いいわねぇー、サッカー部は。」
「バスケ部も呼べは?誰かいないの?憧れの選手。」
「俺か?」
「うーん。憧れの選手ねぇ。」
「俺だろ。」
「常翔を卒業してバスケのプロ選手になった人なんていないなぁ。」
「俺がなる。」
「そこは、サッカー部と違う所よね。常翔はプロサッカー選手になる近道って有名だもの。」
「俺。」
「うっとおしい!今野!」無視をしていた麗香だったけれど、ちょこまかと麗香達の前をうろつく今野に、耐えられなくなった。
「痛った!頭殴んなよ。縮むだろ!」
「ちょこまかと、まとわりつくからよ。」
「だってメグが憧れとか言うからよぉ。俺の事呼んだか?って。」
「全く呼んでない。」
「今野君って、すっごい一途よね。別れても佐々木さんの事、大好きで。」
「いやいや、俺なんか、まだ序の口だぜ。もっと凄いのいるからよ。岡本さん知ってる?にっわっ!何すんだょ!」
前を歩く今野を思いっきり押した。今野は前につんのめり床に手をつく。
(もう馬鹿だわ、こいつ。)
「あんたが早く歩かないからよ。」
「だからって暴力すぎるだろ!」
「あーうるさい。早く行きなさいよ。食堂の席、確保できなくなるじゃないのよ。」
「柴崎さんの言う通り、ちょこまかと、うるさいわ。」
「えーメグぅ~。」
「あはは、面白い。」岡本さんが笑う。綺麗に並ぶ白い歯が素敵に。
(良かった。)
大久保選手のワンマンライブが終わった後、サッカー部の部員は全員で、岡本さんを取り囲み謝った。
そして「絶対にやめないで、サッカー部のマネージャーを続けてくれ」と懇願した。
岡本さんは戸惑っていたけど、新田の「一緒に国立を目指そう。」の言葉に、涙ながらにうなづいた。
(私達は、同じ夢に向かう仲間。4人から始まった数は7人に増えた。)
食堂に入ると、新田と亮が麗香達を見つけて手を振る。
「おーい、こっち。席、取ってるぜ。」
「やっぱり、特選クラスは早いわねぇ。」
「勉強してないもの。あのクラスは。」
「あーぁ、俺も特選にすればよかったかなぁ。」と今野
「そしたら、佐々木さんとは絶対に同じクラスにはなれないわよ。」
「あぁ、それは嫌だ。」
「はぁ~。面倒だわ。」
「今野君って、照れ隠すとかってしないの?」
楽しい事は7倍に、辛い事は1/7に。
やっぱり、皆で食べる食事は楽しいし、美味しい。今野の話題提供、佐々木さんの冷静な指摘。藤木のうんちくと、女へのお愛想、柴崎の怒りの突込み。悠希の笑顔。
(あれ?一人足りない。無表情の聞き役が。)
「遅いわね、りの。」
「また、カタツムリ観察してるんだろ。」
「あれ?そう言えば、カタツムリ観察し始めたのって・・・」
「あっ!」声を揃えてあげる柴崎と藤木。
「しまったぁ~。りのちゃんを、忘れてたよぉ~。」藤木は頭を抱え込む。
「何を?」
「新田、とりあえず、りのちゃんを呼びにいってこい。」
「えー。観察終わったら来るだろ。」
「いいから、行って来てあげて。」と柴崎まで。
「まだ食事中。」
「それだけ食べれば、とりあえずの腹ごしらえは出来たでしょ。」
女に刃向かうなは、新田家の教訓。だけどそれをずっと守っていたら、女ってやつはどこまでも傲慢になっていくから、少しの抵抗をするのだけど、結局は負けてしまう。
「わかったよ、」
藤木は、携帯を取り出し、何やらメールを打ち込みはじめた。
(何だよ。人に命令しといて。)と慎一はムッとしながら席を立つ。
呼びに行けと言われても、どこでりのがカタツムリ観察をしているかわからない。とりあえず、食堂のある体育館棟から門へと続く周辺の花壇を見渡したが居ない。
スボンのポケットに入れていた携帯が、ブルブルと振動する。取り出して確認すると、藤木からのメールだった。
【悪いな、皆が居る前では、言えなかった。りのちゃん、悠希ちゃんの裏口入学疑惑を、誰よりも早く知っていたんだ。悠希ちゃんと一緒に食事をするのが嫌だったんじゃなく、そういった疑惑を俺に読み取られるのを避けて、席を外れていた。どこで誰に聞いたのかは知らないけど、りのちゃんはりのちゃんなりに考えて、あの行動になったみたいだ。りのちゃんの心のフォローもよろしく。】
(そうだったのか・・・)
りのは、最善を考えたと言っていた。なのに慎一は、ちゃんと聞きもせず一方的に怒ってしまった。
(謝らないといけない。)
慎一は、携帯をポケットに仕舞い、顔をあげた。霧雨が顔にかかる。
足は自然に中棟と西棟の間の中庭に向かう。りのの姿が見える前に、歌声が聞こえてきた。
♪マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、かたーツムりだぁよ~。
マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、雨降りの下の~、
マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、ミギぃマキの名の
マイマイ、マイマイ、マイマイ、マイマイ、カタツムリはいないぃ~
(なんだ、変な替え歌は・・・)
原曲は「アイアイ」お猿さんの歌だ。幼稚園の頃、馬鹿みたいに良く歌った。
りのは、レンガの花壇の前に座り込んでいて、何やらレポート用紙に書き物をしている。慎一が名前を呼ぶと、こちらをちらりと見ただけで、アジサイの木の下へと頭を突っ込んだ。
「りの、あのさ、悠希の事、誤解なんだ。悠希が裏口入学だったんじゃないかって、りのは誰かに聞いたんだよな。責めてるわけじゃないよ。りのは誰にも言わないで、藤木にも読まれいようにしてくれてたんだろ。ありがとうな。んで、ごめん。俺、りのがそうやって、色んなこと考えて、気遣ってくれてたと知らなくて、怒って・・・。」
「・・・・。」
りのの傘が開いたままで放置されているのを慎一は拾った。傘を差すほどの雨ではないけれど、差さなければしっとりと濡れてくる。傘の周囲には、定規や黒赤青のマジックがあたりに散らばっていた。
(一体どんな観察をしているんだ?)
「りの、本当にごめん。もう、全部解決したんだ。皆と一緒に昼食を食べられるよ。」
「要らない。」
「りの!」
「ごめんなさいは。ずっとそうだった。」
「ああ、そうだ。だけど、もうあの頃とは違う。」
りのは、紫陽花の木の下から出て来て、慎一に顔を向ける。
「俺達は大きくなった。ごめんなさいがなくても仲直り出来るような単純な心ではなくなった。だからごめんなさいは、ちゃんと言わなければ。」
傘をりのの方に傾け雨をしのぐ。だけど、もう無意味なほどに、りのの髪は濡れて、額に張り付いていた。
「・・・カタツムリは、コンクリートのカルシウムを食べて殻を大きくする。この子は1週間前、直径18ミリのまだ小さい子供だった。今は25ミリに大きくなった。」
「ん?」
りのの手元にあるレポート用紙をのぞいた。
カタツムリの絵と何やら日付やら数字がびっしり。
(まさか、このマジックって、次に見つけやすいように殻に印付けてる?)
「大きくなった殻に、単純な心は要らないって事?」
「要らなくはないけど、大きくなった殻には沢山の思いや夢を入れられる。だからどんどんいれて・・・入れてしまうと単純だった心は複雑になっていくって事かな。」
「・・・ニコはりのと複雑に絡み合った。沢山の思いと夢を入れたから。慎ちゃんもそう?」
「ああ・・・俺もそう。」
慎ちゃんと呼ばれていた単純な心であった自分は、慎一となり複雑な心へと成長した。
「それが大人って事?」
「多分。」
「面倒。」
「うん、面倒。」
単純じゃない心だからこそ、悩んで苦しむ事が増える。面倒だけど、それを超えて行かなければならない。
「りのは、カタツムリ・・・・」
「ん?」
りのは、手にカタツムリを持ち撫でている。
「殻から出てこない。」
「りのが触ってるから、出てこないんだよ。ほら、放してあげて、そして食堂に行こう。みんな待ってるよ。」
「ヒダリン3号も閉じこもったまま。」
「名前つけてるのかよ。」
りのが手放したカタツムリの殻には3とマジックで書かれていた。
「あぁあ、可愛そうに。落書きされて。」
「落書きじゃない。学術研究色別番号だ。」
りのの考えている事はわからない。
もう、双子の様に育った兄妹と、ひとくくりに出来るほど単純じゃなくなったから。
(やっぱり受け取らなかったなぁ・・・流石は、国家公務員の鏡、黒川警視正。)
貸していただいた岡本悠希ちゃんの誘拐事件捜査調書の原本を返すのに、そのままだと失礼だからと、百貨店で、京漬物の惣菜詰め合わせを買って持って行った。昼ご飯のお供に口添えできるだろうと文香さんの提案で。しかし、黒川君のお父さん黒川警視正は、市民からの贈答は国家公務員法に違反しますので頂くことは出来ません。と丁寧にお断りされた。予測はしていたが。手土産は持って帰る事になって、帰る途中で良い事を思いついた。漬物を買った百貨店にまた寄って、酒売り場で、このつまみに合う酒を見繕ってくださいとソムリエに頼んだ。今日はこれで文香さんを晩酌に誘おうかと思っている。
勧められたのは、予想外にワインだった。日本酒とか想像していたから一瞬戸惑ったけど、酒造メーカーが作ったワインで、しかも文香さんの出身と同じ秋田県だったこともあり、女性にも飲みやすいですよと、ソムリエの横でニツコリ笑った女性従業員が、これまた、和美人の子だったから即決した。
(あーあの子、どうにかデートに誘えないかなぁ。)
「この間勧められたワイン、美味しかったよ。また君の見たてで用意してくれないかな?」
「またプレゼントですか?」
「そう、君に。」
(なあーんてね。よし。これで行こう!明日の夕方ぐらい、彼女出勤してるかなぁ、聞けばよかったな。)
車内に、携帯の着信音が鳴り響く。ハンドルのボタンを押して繋げた。
「おう、大野、俺や。」
「大久保、一昨日は悪かったな。助かったよ。」
「あぁ、あの後、大丈夫やったか?悠希ちゃん。」おせっかいもここまでくると見事だ。事情を知った大久保は、岡本さんの事が心配でならないらしい。一昨日の大久保のワンマンライブは、岡本悠希さんを積極的に引っ張り出し、麗香と合わせて、それはそれは大いに盛り上がった。
「ああ、大丈夫、昨日の練習もいつもと変わりない様子だったよ。」
「そうか、良かった。」
「マネージャーも仲間、大事なチームやからな。絶対に必要な存在。」
「お前は、女子にきゃー言われたいだけだろ。」
「一昨日も言ったやろ、女子のキャーは監督のアドバイスより効果ありや、俺のサッカー人生20年が得た絶対理論!」
(なに力説してんだ、しかも20年もかけて得た理論がそれかよ。)
「はいはい、あっ、そうだ、割ったガラスの金額が出たぞ。」
「あー、いくらやねん。」
「58万円。」
「高っ!」
「常翔は高い質を目指す学校だからねぇ。」
「ちっ、変なとこに金かけやがって。」
大久保とガラスは相性が悪い、一昨日、よせばいいのに、視聴覚室でリフティング対決なんてやり始めるのを、嫌な予感しながらも止めなかった凱斗。大久保が常翔を訪問している事は、公式じゃないから、グランドには出られない。視聴覚教室だけで、楽しんでくれと頼んでいたから大目に見ていた。
「理事長が、通算8枚目の割ったガラスの代金は、めでたい結婚ご祝儀と相殺させて頂きます。だって。」
「数えてんのか!」
「8って数字も縁起がいいって。流石は大久保啓介君だねぇ~だって。」
「これ以上ない嫌味!祝儀なんかいらん!ガラス代も耳揃えて払ったるわ!」
「ははは、6年間の学園生活で7枚割った奴って、常翔60年の歴史の中でお前ぐらいしか居ないって、理事長は呆れてたぞ。おまけに卒業後にまで割るって、ほんと、お前とガラスって相性悪いな。」
「うるさいわ!ったく、あの理事長~、なんだってあの人が連盟の役員なんだよぉ~。」
別の着信を知らせる音が鳴った。
「あっ、ごめん別の電話が入った。」
「ああ、んじゃ、お前、今週末の結婚式の二次会、絶対参加しろよな。」
「わかったから。きるぞ。」
「ああ。」
同窓会のような二次会になるのは予想できる。大久保以外に心を開かなかった自分が今更、常翔学園関係者として媚びへつらうのもどうかと思う。母校である常翔の経営者一族に養子に入った事を、上手く取り入ったなとささやかれるのを、黙って耐えるしかない。
柴崎の名である以上は、大久保のように自由に羽ばたくことは許されない。
慎君が、真辺さんを連れて戻って来た。テーブルには戻らず、配膳カウンターへと一緒に並ぶ。慎君はトレイにお茶のコップを置いてあげたりと甲斐甲斐しく世話をする。そして、真辺さんと慎君が言い争う声が聞こえてくる。
「おばさん、ちゃんと一人前を入れて。甘やかしちゃ駄目だよ。」真辺さんのご飯茶碗を配膳係のおばさんに戻す。
「触るな!」それを怒って取り上げる真辺さん。
「そうは言ってもねぇ。」
「お前は食べ過ぎ!」
(真辺さんって慎君の前ではちゃんと喋れるんだ。吃音なく普通に。)
「おばさん大盛りにして。」
「あれ?新田君、さっきも大盛りって並んでたよね。」
「食事途中で捜索隊に出向いたから、食べなおし。」
「馬鹿の大食い。」
「真辺さんって、あんな風な言い方するんだ。」
「岡もっちゃんは、リノと新田の喧嘩を見るの、初めてか。」前髪をゴムでくくり、一見すると女の子に見える今野君が、食べ終えた食器を佐々木さんの分まで自分のと重ねながら話す。
「え、ええ・・・」
「代わり映えのしない、低レベルの喧嘩ばかりよ。」
姿勢よく背筋を伸ばした柴崎さん、ナフキンをちゃんと使っていて口を拭く。そういう所がお嬢様だなと思う。
「真辺さんに謝らないと・・・。」
私の為に、ずっと皆と一緒に食事を取らずに、時間をわざと遅らせていた真辺さん、その無表情から冷たい人なのかなと思ったけど、
実は不器用なりに気づかいをしてくれていたのだと、柴崎さんと藤木君に教えられた。
「んあ?岡もっちゃん、リノになんかしたのか?」
「あんた、うるさい、黙って。」
この中で、私の誘拐事件や、裏口入学の噂などの詳細を知らないのは今野くんだけ。佐々木さんは味方が沢山いた方が助けになるからと柴崎さんが教えて、土曜日の出来事も知っている。今野君だけが仲間はずれに近い対応だけど、私の噂の性質上、男である今野君には、教える必要はないと、藤木君の判断。
「悠希ちゃん、それはもういいよ。りのちゃんは、悠希ちゃんの気持ちを良くわかっているはずだから。」
「そうそう、この中で一番岡本さんに近いわ。色んな意味で。」
「えっ?」
どういう意味かわからない。私と真辺さんが近い?
藤木君が目を細めて頷く。
「あー腹減った。」
「あんたもう一食分、食べるの?」
「食事途中で探しに行けと命令したの誰だよ。仕切り直しだ。」
慎君が隣に座る。
「よく食うなぁ~。」
「ほんと、それで太らないの、羨ましいわ。」
真辺さんもトレイをテーブルに置いて、一瞬だけ私と目が合う。でもどんな感情もない無表情。初めての時の驚いた顔の方が、感情があった感じだ。椅子に座った真辺さんは、すぐに立ち上がる
「何してんのよ。りの。」真辺さんに見上げる柴崎さん。
「冷たい・・・」椅子の方を振り返る真辺さん。
「何?水でもこぼれてた?」柴崎さんが真辺さんの椅子を手で触る。「何にもないわよ。」
「ち違う・・・パンツ。」
「はぁ?」皆の驚きの声が揃う。
「あーそう言えば、りの、中庭で地べたに座ってた。カタツムリ観察に夢中で。」食事を頬張りながら言う慎君。
「もう、何してんのよ。」
「小学生か!」
「それ、ハルにだけは言われたくない!」
「なんだよ!」
「気持ち悪い・・・」
真辺さんがお尻のスカートをめくって見ようとするのを、藤木君と柴崎さんが慌ててスカートを抑える。
「わぁー、りのちゃん!頼むから羞恥心を。」
(驚いた。特待生の真辺さんがこんな事をするなんて・・・本当に子供みたい。もしかして、私が真辺さんに勝てる唯一の事かもしれない。)
「だって・・・・麗香、パンツ貸して。」
「あーはいはい、パンツねって、持ってるわけないでしょ!ハンカチみたいに。」
「保健室行って来いよ。替えのパンツあるんじゃねーか?」と今野君。
「幼稚舎じゃないんだから、あるわけないでしょ。」柴崎さん。
「その首に掛けているタオルをお尻に引いたら?」と佐々木さん。
「あ、それ俺のタオル!」と慎君。
外は、サラサラと霧雨がふる。真辺さんの髪はしっとりと濡れていた。
(カタツムリ観察の間、傘もさしていなかったのかしら?)
「そうする。」
「遠慮しろ!」
怒り口調でも、タオルを取り戻そうとはしない慎君。遠慮のない会話、遠慮のない対応が二人の親密さを表し、羨ましく思う。
「全く・・・」柴崎さんが小さな鞄から携帯を取り出し誰かにコールした。「あー凱兄さん、今どこ?」
「えーとね、学園に向かっている所、あと、10分ぐらいでつくけど、何かあった?」
時計を見れば、12時58分、学園は昼食の時間だ。りのちゃんに何かあったら、すぐに知らせるようにと言ってある。一昨日からは悠希ちゃんも加わった。こんな時間に麗香からの電話である事に案じる凱斗。
『ううん、何もないの、ただちょっと買ってきて欲しい物があって。』
「買ってきて欲しい物?」
(何だ?ケーキとか言うんじゃないだろうなぁ・・・・サッカー部の仲直り出来た祝いだとか何とか言って・・・・麗香は時々おかしな価値観を出す時があるからなぁ。)
『ええ、パンツを買ってきて。』
「は?」
(パンツって聞こえたような。パンと聞き間違えたか?)
『sサイズでいい?』
『うん。』
『理事補にパンツ買ってきてて頼むって・・・』
電話の向こうは楽しそうな子供達の世界が広がっている。聞き間違いじゃない。やっぱりパンツ。
「どうした?お漏らしか?」
『あはははは!お漏らしか?だって!』
『違う!』
『そりゃ、そう言うだろ。あはははは!』
英『酷い!セクハラだ!』りのちゃんの怒りの叫びが聞こえる。
(だけど一体何をして、パンツが必要なんだ?)
「あのね、凱兄さん、りのね、カタツムリ観察に夢中になって、濡れた地面に座り込んでいたのよ。」
笑いをこらえきらない麗香の明るい声が、心をほっとさせる。
「なるほど、りのちゃんらしい。」
『じゃ、悪いけど、パンツ買ってきてね。』
「グンゼを買ってくるよ。」
『あはははは。グンセを買ってくるって。』
『ぎゃはは。それ最高!』
露「ぶっ殺す!」とても日本語に訳してはいけない単語と、子供たちの笑い声が重なり合う。
自分が出来なかった楽しい学園生活が広がっている事に、凱斗は微笑ましく顔をほころばせ、電話を切った。
「若いって、いいな。」と心からの思いを口にした凱斗だったが、ふと気づく。
待てよ。快く依頼を受けたけれど・・・買うのは当然女物のパンツ・・・
(完全に変態じゃないか!)
人の心は単純じゃない。コロコロと変わって行く。
新田は、溜め続けていた不満を、麗香達の身を削った対応で譲歩し、また、心の奥底にしまい込んだ。
麗香は、恋心に迷い見失いかけていた道を、やっと軌道修正。悠希ちゃんを守り、サッカー部の危機を正した事によって、より強く、この頼りないサッカー部は、私が責任もって先導すると使命感に燃える。
悠希ちゃんは、普通の学園生活を送れる事に感謝と喜びを胸に、増々新田を好きになる。
りのちゃんは、やっぱり難しい。読める時と、読めないときの差が激しい。読めるのは、怒りの感情である事が多い。
そして自分はどうだろう。人の本心ばかりを読むわりには、自分の本心はわからない。いや、わからない様にワザと目をつぶっているだけかもしれない。
自分のは、きっと誰よりも、最低に黒くてドロドロのはずだから。
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