第13話 白群色の空2
1
「畑中先輩!私、言いましたよね。このガラクタを持って帰ってくださいって。」
「それはガラクタじゃなくてねぇ」
「捨てますよ。」
「あ~、ちょっとまって、」
麗香の怒りが3年のサッカー部部長、畑中先輩を追い詰める。
中等部からの内部進学組の生徒は、同じ種目のクラブに入部が決まっているのであれば、入学式翌日から練習に加わってもいい。新田及び同級のサッカー部員は新田の帰国を待って、揃ってクラブに初顔出しをした。
それに伴って麗香もマネージャーとして参加している。麗香は、元はテニス部であり、本来なら始業式から1週間たった16日の月曜日からしかクラブ活動は出来ないはずなのだが、そこはやはり経営者の娘特権を利用した。
「畑中先輩の趣味をガラクタだって。」
「恐ろしい、柴崎。」同級らが呆れて渋い顔。
麗香がサッカー部にマネージャーとして練習に参加し初めの数日は、先輩たちの顔と名前やポジションや、仕事を覚える事に必死で、麗香は懸命にしおらしくしていた。先輩方の「お嬢様」という認識も甘く、麗香の本質を知らず、「柴崎さんがマネージャーとして入部してくれて助かるよ。」なんて事を言っていたのは、すぐにひっくり返される事となる。麗香が大人しかったのは最初の5日間だけ。マネージャーの仕事の流れをつかむと、麗華は先輩もたじろぐ最恐のマネージャーとなった。
入学式から8日が過ぎた土曜日、麗香の声がサッカー部を率いてく。
「これ一体、何なんですか!」
「それは、上腕二頭筋を鍛える為のだなぁ。」
「はぁ?サッカーに腕は関係ないじゃないですか!」
「か、関係なくは・・。」
「やっぱり、これは破棄ですね。」
「あぁ~持って帰るから、捨てるのはやめて~。」
畑中先輩は中等部の時にも部長をしていて、亮達1年を可愛がってくれる先輩。深夜の通販番組が好きで、特に体を鍛えるグッズが新発売されると必ず購入して学校に持ってくる。中等部の部室にも畑中先輩の通販グッズが多数あり、亮たちはそれらを楽しく使わせてもらっていた。高等部に上がってもその趣味は続いていた様で、見覚えのある通販グッズに加えて、新たな通販グッズが部室に乱雑に積みあがっていた。それを見た麗香は悲鳴を上げて怒り、部室の大掃除をすると言い出した。
亮達一年生の部員は掃除道具を持って、麗香と先輩の成り行きを黙って待つ。
部室の掃除は一年生の仕事である。週末に当番制でするのが中等部から変わらないシステム。それほど大変なことではない。部屋はきれいだ。畑中先輩の通販グッズが部屋を埋め尽くし、誰も部室を使えない状態が続いていたから。
「可愛そうに、先輩。」
「あぁ、どっちが先輩かわからないな。」
先輩後輩の上下関係を完全に崩壊させる麗香の存在。
「先輩のグッズが邪魔で片付かないんですよ!こんな汚ったない部室で、本当に全国、目指せると思ってるんですか!」
「いやー柴崎さん、部室の汚さと全国はか」
「関係あります!」
他の3年生が畑中先輩の援護に回るも、畳みかけられる。
「部屋の汚さは心の乱れっ!病は気からっ!こんなガラクタばかりの部屋で、優勝旗に手が届くわけがありませんっ!」
「あぁ、わかったから、柴崎さん、片付けるから、それ、返して、ね。」
「明後日から、外部入試の新入生が入ってくるんです。こんな物置みたいな部室なんて見せられませんよ。」
「わかった、わかったから、今から掃除するから、ねっ。じゃぁ1年、悪いけど、掃」
「先輩っ!」
「は、はいっ、まだ何か?」
「先輩達が2年間使ってきた部室ですよね。自分たちが物置化とした汚い部室を、まだ入部して10日も経たない後輩に掃除させるんですか?」
「えっ?あっ、いや・・・」
「自分の尻拭いを後輩にさせようなんて、その精神がもう汚れています!」
「け、汚れているって、あのね・・・します、します。自分たちで、さぁ3年、今から部室の掃除始めるぞ~。」もうタジタジの3年の先輩方。亮達たち1年は顔を見合わせて同情し、先輩方に掃除道具を渡した。
亮たち1年は、こうした麗香の暴君的なものに免疫が出来ているけれど、先輩たちは免疫がなく心底困惑している。
掃除にやり方にも麗香のダメ出しが叫ばれ、部室の中から、そうめん流しキッドの箱が投げ捨てられてきた。
「あれ~、お掃除してるのぉ~」3年の先輩マネージャー保野田凛子先輩が、ゆるーく登場。
畑中先輩の彼女である。麗香とは反対のおっとり系、名字と名前を組み合わせて、皆から「ほのりん」と呼ばれて、そのあだ名にふさわしく、顔も姿もふんわりとマシュマロのように優しい。亮たちは「ほのりん先輩」と呼んでいるが、本人は「ほのりんでぇいいよぉ~」なんて言ってくれるサッカー部のアイドル的存在。亮はもちろん、サッカー部全員が彼女の事が大好きだ。
「保野田先輩、今まで、よく、こんなガラクタだらけの部室を許していましたね。」
「ガラクタぁ?そうかなぁ~」
「整理整頓は生徒の基本姿勢です。」
「そうねぇ~、お片付けしようとぉ思ってるのね~でもぉ~。」
「時間がたりないんですね。」
「うーん、頑張ってぇ~、掃除しようとぉ~思ってるんだけどぉ~。」
「時間がたりないんですね。」先回りに断言する麗香。何とか冷静を装ってはいるが、本心はイライラがマックスに。
「うーん、足りない、かなぁ~」
「もう、いいです。全部、私がしますから。」
「でも~、柴崎さん~、悪いわぁ~」
「いいえ、全然っ悪くないです。お気になさらずに。」
「でも~」
「保野田先輩のスピードに付き合う方が疲れますから。」
「お前、ほのりん先輩に、なんて事を言うんだ。」
「そうだぞ柴崎、ほのりん先輩が、かわいそうだろ。」
「ほのりん先輩の悪口言ったら、いくら柴崎でも許さないぞ。」
「そうだ、そうだ。」
ほのりん先輩を崇拝している一年は、ここぞとばかりに麗香の態度を責める。
「どこが悪口よ。本当の事じゃない。」
「先輩なんだから、もっと遠慮した物言いがあるだろう。」
「大丈夫よ。保野田先輩、悪口だと気づくのも、遅いわよ。」
「誰がぁ、悪口言ってるのぉ~。」
「ほらね。」
「・・・・・・・」
「皆ぁ~仲良くしようねぇ~」
将来は幼稚園の先生になりたいと特選クラスであるほのりん先輩、完全に亮達を園児扱いだ。
『し、柴崎が、マネージャー!?』
『そうよ。』
『テニス部はどうしたよ。』
『テニスなんて、とっくにやる気がないの、知ってるでしょ新田。』
『だからって、何もマネージャーにならなくても。』
『私がサッカー部のマネージャーだと何か問題があるわけ?』
『ないけど、ほら・・・』とてもその先の本音を言えない。かと言って、このまま柴崎の思いのままに事が運ぶのは少しでも抵抗した意思を示しておきたい。
『柴崎は、中等部と同じクラブじゃないじゃん。』
『だから?』
『だから?って・・・』
『理事長と校長には許可を取ったわよ。』
学園最強のお嬢様特権を当たり前のように使う柴崎。中等部では父親が理事長だったから、それなりに娘を叱って抑えていた事も、高等部の理事長は叔父で、叱りづらいのだろうと推測する。柴崎の暴走に巻き込まれそうな予感がして、慎一は不安になる。
『早くマネージャーの仕事を覚えたいの。スコアの書き方も知らないし。』
『そう、か・・・。』
『よろしくね、皆。いい?3年後は、また絶対に優勝旗を手にするのよ!』柴崎お決まりの手を腰にやったポージング。『じゃ、最初の気合い入れ!円陣!』
何故、お前が仕切るんだと言う仲間の困り顔も、効き目なしで突っ走る柴崎。
『行くわよ!63期、全国優勝に向かって!エイエイオー!』
『・・・・・・・』
『ちょっと!何故、皆、言わないのよ!』
『いやぁ~、今どきエイエイオーはないだろう。』
『恥ずぅ~。』
皆、困り顔でも、本気で嫌がっている仲間は居ない。何だかんだ言って、中等部で誰よりも真剣に応援してくれていたのは柴崎だった。祝賀会で涙を流して喜んでくれたのも柴崎だ。
『じゃ、なんて言うのよ!』
『いやーだからさぁ、気合い入れ自体、恥ずいだろ。』
『駄目よ!最初の気合いれ、大事よ。』
学園最強のお嬢様、常翔学園経営者跡取り娘の柴崎麗香は、俺たちサッカー部の仲間になり、熱い心で夢に向かって突き進む。
『おい、藤木。』
『なんだ。』
『止めなかったのかよ。』
柴崎と付き合っている藤木。藤木も柴崎と引けを取らない福岡の大地主の息子だから、価値観が高いレベルで同じで、その関係はうまく行っていると思っていた。二人が別れた事をまだ知らない慎一。
『俺が言って止まる奴じゃないだろう。』
『まぁそうだけど。マネージャーの仕事、わかってんのかなぁ?家にお手伝いさんがいるお嬢様だぞ、出来んのかよ?」
『さぁ?どうだろうねぇ。やる気は人一倍あるみたいだよ。』藤木は、柴崎の姿を、眼を細めて眺める。
人の本心を読み取る藤木。その能力の事は、慎一たち身近な仲間は知っているが、極力他人には気づかれないようにしている。本心を読まれていい気分の奴はいない。慎一もとてつもなく嫌だった時期が何度もある。そんな慎一の気持ちをも藤木はきっと読み取っていて、それでも変わらず友としてそばに居てくれる。その精神が凄いと慎一は尊敬する。
『まだ、私がマネージャーになる事が不服そうね。新田。』
『そうじゃなくて、出来んのかなって、お嬢様育ちの柴崎に。家の掃除も、したことないだろ。』
『家はないけど、自分の部屋ぐらいは掃除するわよ。木村さんに入られるの嫌だもの。』
『お茶も入れて、運ばなきゃなんないんだぞ。』
『お茶?お茶ぐらい入れるわよ。あぁそうね、皆の好みも覚えなきゃ。皆ぁ、ストレート派?それともミルク派?』
『紅茶じゃねー!』
『何部だよ!ここは。』
そう、マネージャーのまずの大仕事は、お茶の用意、食堂で作られて入れられた麦茶の入った給水ポットをグランドに運ぶ。そして使用後のコップの洗浄と片付け。毎日の仕事で運ぶのは結構な重労働、中等部では1年が当番制でやっていた。試合中のスコア書きやその他もろもろの雑用のすべてがマネージャーに移行して、選手はプレイに集中する事が出来る。
そんな話をした数日後、給水ポットを運んでいる姿を見た沢田がつぶやいた。
『なぁ新田、柴崎さぁ一体、何日続くと思う?』
『何日って・・・』
『おっ、いい事思いついたぁ。お前らジュース賭けねぇ?柴崎がマネージャーを辞めるって言いだすの。俺は、明日には言い出すのに賭ける。』
『俺は、2日後。』
『俺は、今日の終わりには。』
『お前ら~、柴崎が聞いたら怒るぞぉ~。』怖い事を思いつく同級に呆れる。
『だから、居ない今に言ってるんだろう。ほら、新田は何日?』
『えー、賭け事なんて。』
『お前、ノリ悪りぃぞ。そんなんで、どうすんだキャプ。』中等部の名残で、都合のいい時だけキャプテン呼ばわり。
『んーじゃぁ1週間後。』
『そりゃ、ないわ~。1週間も耐えるわけないじゃん。』
『まぁ、いいじゃん、新田は驕る側決定だからな。』
『あはは、そうだな。藤木は?』
『辞めない。』
『はぁ?やめないって・・・あーお前、彼氏だからって、辞めようとした時、止めんなよ!』
『そうだ、そうだ、ズルしちゃダメだぞ。』
『あのなぁ~。そんなくだらないズルをするかよ。それにな、俺と柴崎は、もうそんな関係じゃないから。』
『は?』
『そんな関係じゃないって?』
『別れた。』
『えー!!』驚きの叫びが運動場にこだました。
『マジか?』
『嘘だろう。』
『嘘じゃねーよ。嘘でこんな事言うかよ。』詰め寄る仲間にすまし顔で対応する藤木。
『この間まで仲良かったじゃん。いつの間にだよ。』と慎一も問う。
『3月いっぱいで。』
『やっぱり、あれか・・・藤木でも耐えられなかったかぁ、柴崎の傲慢ぷりは。』沢田が眉間に皺を寄せ首を横に振る。
『可愛そうに藤木・・・強引に彼氏にさせられて、飽きたらポイって酷いよなぁ。』
『わかるぞ、その痛手、俺達が癒してやるからな。』沢田が藤木に抱きつく。
『やめろ!俺は男と抱き合う趣味はない!』沢田を突き放す藤木。
『何かあったのか?』
『別に、高校生活は新規一転って事でさ。』
『ひでぇ、柴崎。何だよそれ。』
『俺が言った。』
『ええっーーー』またもや驚きの叫びが運動場にこだました後、凍り付く皆。
柴崎と付き合いはじめたと聞いた時も驚いたが、別れを聞いた今はそれ以上だ。
『お前、勇気あるな。』
『あぁ、よく高等部に進学できたよな。』
どれだけ、柴崎麗香と言う存在は横暴なんだ。と苦笑も出ないほどに納得してしまう慎一。
そうして一年一同が賭けをしている事を全く知らない柴崎、なんだかんだって今日で8日目。卒業まで辞めないと言った藤木が賭けに勝つかどうかは3年後にしか判らず、賭けの意味を無くした。
「明後日から、外部入試の新入生が入ってくるんです。こんな汚ったない、部室なんて見せられませんよ。」
「わかった、わかったから、今から掃除するから、ねっ。じゃぁ1年、悪いけど、掃」
「畑中先輩っ!」
「は、はいっ、まだ何か・・・」
辞めるどころか、先輩もたじろぐ最強マネージャーとなっている。
「先輩達が2年間、使ってきた部室ですよね。自分たちが汚してきた部屋を、まだ入部して10日も経たない後輩に掃除させるんですか!」
「えっ?あっ、いや・・・」
「自分の尻拭いを後輩にさせようなんて、その精神が、もう汚れています!」
「け、汚れてるって、あのね・・・します、します。自分たちで、さぁ3年、今から部室の掃除、始めるぞ~。」
先輩に容赦なし。柴崎の暴君ぶりは誰も止められない。
「先輩、すみません。」慎一は部室に顔だけを入れ、畑中先輩に小声で謝る。
「新田ぁ~、なんて子、連れてきたんだよぉ。」
「勝手についてきたんです。文句なら、本人か藤木に言ってください。」
「言ったさぁ藤木に。でも藤木は、サッカーに向かう姿勢に間違いなく突き進む奴だからって。」
「まぁ、藤木の言う通りですね。確かに間違いはないです。柴崎には。」
そう、柴崎の情熱は慎一たちよりも熱いかもしれない。
「どこがだっ、俺の愛すべきグッズを捨てるってのは、間違っている。」
「いや~それも間違ってないですね。結構、邪魔でしたもん。これ。」
「おまえまで~。」
3年の先輩達、中等部から慎一たち1年を可愛がってくれてるのはありがたいのだけれど、3年前の全国大会でこの世代がいま一つの成績で終わってしまったのは、2年とは反りが合わなかった事が影響する。また繰り返される先輩後輩の関係。今の所、目立って2年と仲が悪いような感じは見受けられない。藤木が巻き込まれた週刊誌の事は、三島先輩がサッカー部を辞めた事で収束した。サッカー部内に蔓延していた不満は、三島先輩が主格で振りまいていたからだ。三島先輩及び三島先輩に影響された2年の先輩達は、高等部ではサッカー部に入らなかった事に加え、外部入試組の多数が入部してきた事で一新され、昔のような不満が蔓延している事もなくなっている。
しかし、この3年の先輩世代は、いま一つ闘争心がないと感じる。何が何でも、全国優勝するぞっという意気込みが感じられない。プロを目指すという話が先輩たちからあまり聞こえてこないのは、そんなのは無理だと決めつけているのか、サッカーとは別の夢があるのかわからないが。三年の先輩たちに特選クラスがいないのも、その闘争心のなさを表す事象だろう。慎一の世代は、藤木も沢田も中等部からのサッカー推薦組で、将来はプロを目指し特選クラスを選んでいる。推薦じゃない長谷川も、進路希望を出す時「お前らにつられたよ」なんて言って特選を選んだ。特選を選ばなかった他の同級の中にも可能性があるならプロへと考えている者がいるし、プロを目指さなくても、もう一度優勝旗は手に入れると、明確な夢を全員で語っている。それがいま一つ闘争心のない3年生との差だ。
外部入試組で慎一と同じ特選クラスには、サッカー部に入る予定の生徒が4人は居る事が分かっている。普通科からもサッカー部に入ってくる者はいるだろうし、サッカー部はより一層に大所帯になるのは間違いなし。慎一はどんなチームになるだろうかと、楽しみでもあるけど、不安でもある。
まったく、ありえないわ、この何かわからないガラクタの山。そりゃね、男が使う部室、綺麗じゃないってことぐらいわかってるし、覚悟もしてたわよ。だけどそれ以前の問題。
麗香は入部前からシミュレーションをしていた。部室には何時から、ここにあるのかわからないゴミとかペットボトルとか、泥に汚れたままのゼッケンや靴下とかが落ちていて、これ、誰のぉ~なんて鼻をつまんで言う、そんな青春のシーンを思い描いていた。しかし、それを思い描く場所などないほどに、部室にはわけのわからない通販グッズと段ボールが積みあがっていた。誰のと聞くまでもなく、全てが部長の畑中先輩の私物であることも、麗香の思い描きたい青春が破られるという始末。
大体、筋トレグッズなんて持ってこなくとも、学園には立派なトレーニングルームがある。それよりも、筋トレグッズだけじゃなく、おもちゃの類の多数が積まれている事に、麗香の怒りを沸騰させた。
「何なんですか!これ!流しそうめんキッド?はぁ?こっちは?綿あめごっこ?」
「あぁ、柴崎さん、それは、夏にするんだよ皆で。」3年の西田先輩が慌てて、麗香の手から綿あめごっこの箱を奪っていく。
「ここは夏祭り会場じゃないんですからねっ!サッカーに関係のない物は全部、捨てます!」
「あぁ、そんな事、言わないでよぉ~、夏の暑い練習の後の冷たい流しそうめん、美味しいよぉ~。」
「そうそう、格別。去年も大盛り上がりだったんだから。」
「そんな風に遊んでいるから、去年の全国大会は、12位で終わるんですよ!入賞まで行かなくて、何がそうめんですか!」
全国47都道府県の、全国何千何万とある高校の12位と聞けば凄い実績と褒められることかもしれないけど、強豪高と言われる常翔学園では、1年間何をしていた?と詰問したくなる成績だ。
「柴崎さん、厳しいなぁ。」
「そんなに流しそうめんをやりたいなら、夏の関東大会で優勝したら、いっくらでもやってあげます!業者を呼んで、この運動場に竹の長しを張り巡らせて盛大にっ!こんなおもちゃの流しそうめんなんて、要りませんっ。」
部室の外に投げ捨てた。
「ぎゃあぁ~。」
「盛大にって・・・・間違った方向に行ってないか?」部室に顔だけ入れて覗いている新田。
「ふんっ!中途半端が一番、嫌いなのよ!あんなおもちゃのそうめん流しで、なにが夏祭りよ!イベント事は、盛大にやらなくちゃ!」
「いや、だから・・・イベントの話じゃないだろ発端は。」
「あれ~、お掃除してるのぉ~」
二倍速で再生してやっと普通の速さになるんじゃないかと思うほどに、遅い喋り方をする3年のマネージャー保野田凛子先輩。部員から「ほのりん」の愛称で呼ばれている。その愛称の通り、ほのぼのとした癒しの笑顔を振りまいて、部員たちはデレデレに鼻の下を伸ばしている。麗香はその締まりのなさに我慢がならない。決して嫉妬ではない。常翔学園60年の歴史を背負って来たサッカー部はただの仲良しクラブであってはいけないのだ。もっと厳格にそして貪欲に優勝を狙い、その中で仲間との絆を強めていく。それが理想。それなのに今のサッカー部は、今一つビシッとしていない。
麗香は思う、その原因はこの、のんびりマネージャーのせいだと。
「保野田先輩、今まで、よく、こんなガラクタだらけの部室を許していましたね。」
「ガラクタぁ?そうかなぁ~」
「整理整頓は生徒の基本姿勢です。」
「そうねぇ~、お片付けしようとぉ思ってるのね~でもぉ~。」
「時間がたりないんですね。」
「うーん、頑張ってぇ~、掃除しようとぉ~思ってるんだけどぉ~。」
「時間がたりないんですね。」先回りに断言する麗香。何とか冷静を装ってはいるが、心中のイライラを抑え込む。
「うーん、足りない、かなぁ~」
「もう、いいです。全部、私がしますから。」
「でも~、柴崎さん~、悪いわぁ~」
「いいえ、全然っ悪くないです。お気になさらずに」
「でも~」
「保野田先輩のスピードに付き合う方が疲れますから。」
「お前、ほのりん先輩に、なんて事を言うんだ。」
「そうだぞ柴崎、ほのりん先輩が、かわいそうだろ。」
「ほのりん先輩の悪口言ったら、いくら柴崎でも許さないぞ。」
「そうだ、そうだ。」
ほのりん先輩を崇拝している一年は、ここぞとばかりに麗香の態度を責める。
「どこが悪口よ。本当の事じゃない。」
「先輩なんだから、もっと遠慮した物言いがあるだろう。」
「大丈夫よ。保野田先輩、悪口だと気づくのも、遅いわよ。」
入部してから、麗香はこの遅さにどれだけ耐えたか。
1分で済む説明を5分ぐらいかける遅さ。自分が世間知らずだってことぐらい自負しているけれど、保野田先輩は、もしかしたら麗香を超える世間知らずかもしれない。しかも保野田先輩は華族であることで、ある意味納得せざる要因もある。しかし、麗香にサッカー部のあれこれを教授する仕方は、まるで稚園児に対する話し方で、華族や先輩云々の関係を壊したくなるほどにイラつく。
「誰がぁ、悪口言ってるのぉ~。」
「ほらね。」
「・・・・・・・」
「皆ぁ~仲良くしようねぇ~」
「大丈夫よ。保野田先輩、悪口だと気づくのも、遅いわよ。」
「誰がぁ、悪口言ってるのぉ~。」
(だから、ここは幼稚園じゃないんだってばっ!)
「あの~。」
保野田先輩の後方で、女生徒が申し訳なさそうに立っていた。
「あー、ごめんねぇ。忘れてたぁ~。」
こめかみにある血管が切れそうだ。
「マネージャーにぃ、なりたいんだってぇ~そこでぇ~練習をぉ~見ててくれててねぇ~。」
麗香の知らない顔だから、外部入試組に違いない。
「一年F組、岡本悠希です。よろしくお願いします。」話すスピードが普通で、麗香はほっとする。
「二人もぉ~マネージャーがぁ~来てくれてぇ~助かるぅ~」
(そりゃ、そうでしょうね。その遅さで一人で切り盛りしていた、確かにそれは大変だったと思うわよ。だけど、普通の速さで出来ていればすぐに完了するような事が、全然出来てない。部費も全然取り立ててないから、部費の未払いで貯めている先輩が何人いると思ってるのよ!よしっ、もう一人マネージャーが増えたんなら、もう保野田先輩は笑顔を振りまいてもらうだけにして、二人で完璧に取り仕切っちゃうわ!)と心中で宣言する麗香。
2年のマネージャーは居ない。2人ほど入部して来たらしいが、早い段階で辞めてしまったと聞く。きっと保野田先輩のスローペースに耐えられなかったのだろう。サッカー部に限らず、そもそも、この常翔学園でマネージャーをやろうとする生徒は少ない。家にお手伝いさんが居る家庭も多い中、人の世話をするようなマネージャーを、好んでやろうと思う女子がいないのだ。幼稚舎、小学校、中等部からの内部進学組でマネージャーになった子は皆無だった。そんな希なマネージャーは、高等部からの外部入学組が担っていた。から麗香がサッカー部のマネージャーになると言ったら、美月はまだ亮と付き合っていた頃だったから、『どうしたのよ。藤木になれって言われたの?そこまで束縛するの?酷くない?』とまで言った。
「ゆっゆうき?」その新たなマネージャー希望の子の名を呼び捨てにする新田に、一同は注目する。
「慎君、久しぶり」
(し、慎くん!?)
「うそっ?えー?」自分で呼びかけておきながら、しどろもどろに驚く新田。「えーちょっと待て、岡本悠希、だよなぁ。」
「そうよ。3年ぶりね。」
「あぁ、3年ぶり・・・ってか、えーちょっと待て。」頭を抱える新田。どうやら知り合いらしいけれど、変なリアクションに麗香は亮を見やる。亮も驚愕の表情で、首を振ってわからないと無言の返答。
「新田、知り合い?」
「うん、小学の時の、彩都FCで一緒だった・・・えー?」と、また頭抱えて振る。
「やっぱり、慎君、わかっていなかったんだね。」
「いや、その~。」
「私が女だって事。」
「はぁ?」
亮と私はあんぐり口を開けて呆れた。
岡本悠希、
日焼けした顔が笑うと大きな口から見える綺麗な白い歯が印象的の、彩都FC時代唯一の友達。
「やっぱり、慎君、わかっていなかったんだね。」
そう知らなかった。あのゆうきが女の子だった、なんて。短かった髪の毛は、今は風になびくほどに長い。
「いや、その~。」
「私が女だって事。」
「はぁ?」柴崎と藤木は声を揃えて驚きの顔を慎一に向けてくる。慎一の驚きはもっとだ。
「ごめん・・・ずっと男だと思って接していた。」
「ふふふ、だと思った。」変わらない綺麗な歯は健在だ。
「あっきれたぁ!ありえない!」と柴崎が叫ぶ。
「いや~だってさぁ。スポーツ少年クラブのサッカーに女の子が入部してるなんて思わないだろう、普通。」
「うーん、まぁ稀だわなぁ」藤木が援護してくれる。
「だけど、見た目でわかるでしょう、そんなの!」と柴崎。
「いや、わかんないって。」
「失礼でしょう!岡本さんに対して!」ゆうきよりも憤慨する柴崎。
「フフフ、まぁ無理もないかなぁ。あの頃、私、男の子みたいにショートカットにして、日焼けで真っ黒だったし。ずっと、兄のお古のハーフパンツ履いていたりしたからね。サッカーも兄の影響でやりたいって、彩都FCには、無理に入れてもらっていたから。」
「お兄さんもサッカーをやってるの?えーと常翔?」
「ううん、違うわ、川北高校のサッカー部だったけれど、今はもう大学生、ふっ・・みっつ年上だから。」
違う・・・ゆうきのお兄さんは2つ年上だった。そこは勘違いをしていない。そもそも、ゆうきと自分が同じ学年っていうのがおかしいのだ。慎一はゆうきへと問うように視線を送ったが外される。それで、言ってはいけない事なのだと察したが、どうして一年遅れで入学してきたのだろうか?疑問は残る。
「新田く~ん。お知り合い?」ほのりん先輩のかなり遅い反応。
「今までの会話、どう聞いたら、理解の時間差攻撃になるんですかっ!」柴崎のキツイ突っ込み。
「んー、みんなぁ、早口だからぁ~。」
「どこがですかっ!」
新田のスポ少時代の知り合いだという岡本悠希さん。新田に合った瞬間に表れた本心は、完全に恋心に満ちていた。だけどその初々しい感情は、すぐにある感情に打ち消された。それは、怯え。
(何を怯えている?)亮は良く読み取ろうと、眼に力を入れてみたが、わからなかった。
大掃除をしていた先輩たちが、終えて部室からぞろぞろと出てくる。
「マネージャーにねぇ、なりたい~って。えーとぉ1年生のぉ」
「岡本悠希です」
「そうなんだ。良かったなぁ、ほのりん。後輩が出来て。」畑中先輩は可愛くて仕方ないって感情が隠し切れない表情でほほ笑む。まぁほのりん先輩の前では男なら誰でもそうなる。亮も癒されて目尻が下がってしまう。
「うん。頑張ろうねぇ~。」
「よろしくお願いします。」
「よろ~しくぅ。」
ふと、2年の橋本先輩の表情に続く態度が気になった。怪訝に歪んだ本心、橋本先輩は隣にいる田中先輩に耳打ち。耳打ちされた田中先輩は驚いた顔をしてから、岡本さんへと視線を戻すと橋本先輩と同じに、本心を歪ませた。
(何だ?この連鎖。)
その二人の視線に気づいた岡本悠希さんは、顔を逸らし、本心は怯えから恐怖へと変化した。
「げ、月曜日から来させてもらいます。今日は、ちょっと様子を見に来ただけなので。」
「そうだね。月曜日からは他の一年生も入部してくるから、皆と一緒に自己紹介してもらうね。」
「はい。よろしくお願いします。すみません。お忙しい所、今日はこれで失礼します。」
「うん、ありがとうね。また月曜日に。」
「岡本さぁん。ほのりんでいいよぉ~」
「だからっ!もう帰ろうとしてるんだってば!」麗香の鋭い突っ込み。
「あぁ~そうなのぉ~、じゃぁまたねぇ~。」
岡本さんの本心に沸いた恐怖の感情は、ほのりん先輩の緩さに癒されて消えたが、一体何なんのだろう?
新田は、まだ困惑気味に岡本さんの後姿を追いかけている。
「柴崎さぁん。良かったねぇ。お友達が~出来たねぇ~。」
「お友達って!保野田先輩、私を馬鹿にしてるでしょう!」
「馬鹿ぁ?ダメだよぉ。悪口を言っちゃぁ。」
「くぅぅぅ。」頭を抱えて悔しがる麗香。
「落ちつけ。」時に暴走しすぎる麗香を、押さえるにちょうどいい存在になっている保野田先輩。
「このイライラ、どうしたらいいの!」
「イライラはぁ、体にぃ、良くないよぉ。」
「あぁっもう!畑中先輩っ!」
「はいっ!なっなんでしょう!」
「さっさと、ミーティング初めて、今日の活動を終わらせてくださいっ!」
「えっいや、あのね、柴崎さんが、片付けろって言うからね。」
「限界ですよ、私。」睨む麗香にタジタジの畑中先輩は、きっと卒業まで麗香の尻に敷かれる運命。
「は、はい、わかりました。じゃミーティング、始めるぞぉ。集まって。」
「手短に、さっさと済ませてくださいねっ!」
「は、はい。」
入部10日も経っていないのに、すっかり麗香の主導のサッカー部になっている。
新しいバッシュに足を入れ、しっかりと紐を結ぶ。この日を待ち望んでいた。新しいバッシュはママが入学祝いにと買ってくれたもの。踏み出すとキュッキュッと鳴く音が心地いい。
新入生のクラブ活動解禁日の今日が、ちょうどバスケ部の体育館の使用日になっていた。男子と女子で体育館を分けて使用する。中央に張られた網の向こうでハルが柔軟体操をしていた。メグはコートのモップ掛けを始めていて、私もそれをしなければいけないのか悩む。でも、まだ私は入部届も出していない。今月いっぱいまでは自由にクラブを体験、もしくは見学をしていい体験入部員だ。メグとは立場が違う。中等部と同じクラブに入部するのであれば、入学式の日から入部届を出し練習に参加してもいいとなっていて、メグは入学式の翌日から参加し動きに躊躇がない。メグの姿に見とれていたら、話しながら入って来た二人組の女子の一人と肩がぶつかった。不意の事だったので前につんのめる。
「あっごめんなさい。」
「あ、あ、・・・こ、ここちら、こここそ。」
「えっ?・・・ぷっ」二人は驚いた顔を見合わせて吹き出す。
大きな問題がある事を再認識させられる。メグは大丈夫と言ってくれて、私のバスケをやりたいという気持ちを煽り立ててくれたが、やっぱり無理なんじゃないかと、心は空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。
二人の視線から逃げるように背を向けた。
「どこ行くの、リノ。」メグの声。
「あ、え、えっと・・・や、やっぱり・・・」
事を察したメグが困った表情で首をかしげる。
「リノもモップ掛け手伝って。」
「う、うん。」
メグの持っていたモップを手渡される。メグは倉庫へと駆け足でモップを取りに行き、私の横に並んだ。
先ほどの二人組が、「あの子もバスケ部?」「あの身長差、親子みたい。」と笑ってるのが視界の端に入ってくる。
「先輩には説明してるから、大丈夫よ。」とメグは微笑む。
「う、うん、あ、ありがとう。」
メグは、私が慣れない相手とは喋れない事を先輩に説明してくれている。メグは「大丈夫、先輩たち優しいから、事情を知ったら無理に挨拶しろとは言わないわよ。」と言ってくれている。だけど、そうはいかないのを知っている。
弓道部でもそうだった。中等部一年の時、担任の石田先生から顧問の枝島先生に言葉がスムーズに出ない事を伝えてもらっていた。その顧問の枝島先生は弓道部全員に事情を説明してくれていたけれど、それでもいつまでも挨拶のできない私に先輩たちは不満がたまり、頻繁に呼び出されて責められた。どんなに注意を受けても出来ない私は、同級からも責められ無視された。かろうじて同じクラスだった滝沢さんが、藤木からの依頼もあって声をかけてくれたりして世話を焼いてくれたけれど、何かと大変だったと思う。嫌われる事は、我慢すれば何とかなる。大変だったのは、自分が先輩になった時、向うから突然に挨拶されても返せない。頑張って頭だけ下げていたが、とても感じの悪い先輩と印象づいて、近寄ってくる子はいなかった。弓道部は基本個人競技、誰に嫌われようが競技に直接の影響はない。的に集中して練習するのみでよかった。だけどバスケはそうはいかない。普段の挨拶もそうだけど、プレー中黙っているわけにはいかない。
先輩たちが、体育館に勢ぞろいして集まりだした。緊張のボルテージが一気に上がる。
「大丈夫、そんな顔しないの!」
「う。うん・・・・。」
「私がついてるから、安心して。」
あぁ、自分はこうして守ってもらわないと何もできないのだと思うと、情けなくなってくる。これじゃまさしく親子ではないか。しっかりしなければ。と思う瞬間から緊張がマックスに振りきれて吐きそうになる。
「じゃ、全員集まって。」先輩の一人が大きな声で呼びかける。
私とメグはモップを近くの壁に立てかけてから駆け付ける。自然と三年生と二年生、一年生が綺麗に分かれた円陣になる。
「えっと、今日から正式な仮入部期間だから、新しい顔ぶれもいるわね。自己紹介から始めましょうか。ついでに呼び名決めもね。常翔のバスケ部は、呼び名を決めて呼び合っているの。といっても名前から取った簡単な奴ね。えーと私は、寺島郁美です。下の名前がいくみだからイクって呼ばれているの。そうやって下の名前か、名字のどちらか言いやすい方の二文字を取って呼び合うの。それを決めながら自己紹介していきましょう。では私から。女子バスケ部の部長をやらせてもらっています。寺島郁美、イクです。よろしく。」
背の高いショートカットのイク先輩が頭を下げる。皆がパチパチと拍手する。体育館の奥側、男子バスケ部からもパチパチと拍手の音が聞こえてきた。向こうでも自己紹介タイムが始まったようだ。女子バスケ部の先輩は、3年が7名、2年が9名、覚えるのが大変。
「じゃ、1年生、内部進学組は以前のあだ名のままね。」
「じゃ、メグから。」
「はい、1年D組、佐々木恵です。中等部からメグと呼ばれてます。よろしくお願いします。」
流石メグ、はきはきして気持ちいい。内部進学組だという事を外部入学組の子達にもわかるような紹介の仕方だ。
「じゃ、次、隣に順に行こうか。」
メグのを感心している場合ではなかった。予習のイメージトレーニングはしてきていたが、まさかこんなに早く順番が回ってくるとは思わなかった。
「あ、ぁ・・・あ、ま、ま真なな」あー違う、クラスを先に言わなくちゃ。「い、1年、え、Aぐ、ぐみ」あー最悪、自分の名前もしどろもどろ、吃音のない単語は一つもない。
「Aって・・・もしかして特待の?」私の事を知らない2年の先輩達が、互いに顔を寄せて囁く。
「よ、よよ、ろ・・・」
さっきの二人組のほかに、別の外部入試組が、私の話し方に笑いをこらえて視線を外す。私は込みあげて来た吐き気を押し戻し、そして何も言えなくなる。
「先輩、リノはリノのままで良いですよね。」メグが言う。
「えぇ、リノ、バスケ部にようこそ。待ってたわよ。」
待ってた?恐る恐る顔を上げたら、部長が笑顔でこっちを見ている。
「リノの事、メグ全部、話して、この間、教えてくれたこと。」
「はい。リノは帰国子女で、長く海外生活をしていました。そのために帰国後、日本語の発音がおかしいと苛められたトラウマで、日本語がスムーズに出なくなりました。海外では、ずっとバスケやっていて、本当なら中等部からバスケをやりたかったのよね。」
突然、メグに話を振られて横を向かれても、もう首を上下に意思表示するしかできない。
「でも、リノは言葉が出ない自分に、バスケは無理だと諦めて、個人競技の弓道に入っちゃいました。私、中等部3年でリノと同じクラスになって、初めてそういう事情を知ったんですけど、早くに知っていたらバスケに誘ったのにって後悔しました。リノは弓道を極めて全国優勝の成績を残した実力の持ち主だけど、私が高等部で一緒にバスケをしようと誘いました。運動神経もよく、バスケは基礎が既に出来ています。リノは慣れない人の前では緊張して上手くしゃべる事が出来ません。挨拶もままならないです。先輩方、挨拶が出来ないリノを責めないでください。慣れれば必ず出来るようになりますから。」
「リノ、英語なら、スラスラなのよね。」
「は・・・は・・い。」返事も掠れた声でしか出なかった。
「ここは英語教育に力を入れている常翔学園、ちょうどいいじゃない。リノに英会話を教えてもらいながら、バスケをするってのも。」
「リノ、フランス語もロシア語もオッケーですよ。」とメグ。
「えーそうなの?凄いわね。」
皆が驚く顔にうつむく。
「リノ、ごめんなさいね、プライベートな事を話して。でもね、こういうの知っておかないと、変な誤解が亀裂を生むから。バスケはチームプレー。出来ない事は皆でフォローし合わないと、パスは通らない。」
英「リノ、日本語が無理なら英語でどうぞ、あいさつなんて私達に要らない、バスケが好きな気持ちは皆、同じだから。」
部長が英語で話してくれる。綺麗なはっきりした英語、他の先輩たちも皆、頷いて、
英「ありかとうございます。出来るだけ早く馴染んで、日本語がスムーズに出るように努力します。」
「はぁ~やっぱり本場の発音は違うわねぇ~。」
「す、す・・すみ・・・ません。」
「やだ、謝らないでよ、私とユリはね、大学は英文科を希望してるの。教えて頂戴ね。」
「こんなに心強い後輩は、大歓迎よ。」
「先輩、リノの家庭教師ぶりは結構、厳しいですよぉ。」
「えーそうなの?」
優しい先輩だから大丈夫とメグが言ったとおりだ。私のこの病気を理解してくれる。ちゃんと話せば理解してくれる。私は今まで、理解してもらおうと努力をしてこなかった。理解をしてもらえないと初めから諦めていた。理解をしない相手が悪いのだとさえ思っていた。
メグが背中をポンっと叩く。顔を上げるとメグが大きくうなづいた。
今なら言える。ちゃんと言わなくちゃ。
「り、リノです。よ、よろしく、お、お願い・・します。」
「よろしく。」
パチバチと言う拍手が沸き起こる。初めてだ。自己紹介で拍手されたの。
照れてうつむいた。
今日からりのはバスケ部に顔を出している。佐々木さんがいるとはいえ、大丈夫たろうかと慎一は気が気でならない。
まずもって最初に挨拶がある。あれが嫌だと数日前から暗い溜息ばかりついていた。給食もやっぱり食欲がなく、あまり食べていない。昔に比べて食事量は増えているし、とりあえず初日が終われば食欲も戻るだろうと、慎一は無理して食べろとは言わず、我慢していた。しかし、健康は日々の食事からと思っている慎一からしてみれば、食事量の少なさは心配する要素第一の項目だった。
「はぁ~。」
「もうっ!ウザイんだよっ、いい加減にしてくれ、そのため息。」藤木が、煙たげに一喝。
「だってさぁ・・・あぁ、今日バスケ部が外だったら、少しでも様子を見れたのに。」
中等部と同じように、外にもバスケットコートが2面ある。体育館はバスケ部、バレー部、バトミントン部で1週間をローテーションして使う。良いのか悪いのか、外部入試組のクラブ体験解禁日は、バスケ部が体育館使用日だった。バスケ部は外にもコートがある為に体育館を使えるのはバレー部とバドミントン部よりも少なく設定されている。数少ない使用日だから喜びの日なんだろうけど、りのの事が心配の慎一は、今日が何故外じゃないんだと運の悪さを呪う。
「今日バスケ部が外だったら、お前が、練習もままならなくなっているな。」
「うーん、まぁそうだけど。」
「ったく、自分で認めんなよ。あのな、いい加減に諦めろ!りのちゃんの心はグレンにまっしぐらだ。」
「わかってる!」
携帯を持つようになってから、りのは毎日グレンと連絡を取り合っている。その毎日の積み重ねが、慎一には目もくれないほどに気持ちをグレンに向けているりの。遠くて簡単に会えないからこそ、その気持ちは強くなる一方だ。
りのとニコの意識に分かれていた時は、ニコの「慎ちゃん」へ思いが心にあって、しかし二つが合わさり、りの本来の心がグレンに傾倒していくのは、間違いなく純粋な恋であると思う。そんな分析をするたびに慎一は悲しい後悔を感じる。
「新田、お前が決めたんだぞ・・・」藤木が強く目を細めてつぶやく。
「何を?」
本心を読まれている。毎度の事で慣れっこの事とはいえ、どうぞご自由にと言うほど、慎一の心は強靭じゃない。気持ちのいいものでもないからその視線を逸らすように、足元のボールに目を落とした。
「あの展望で、お前が選んだんだ。」
(俺が選んだ?りのか、ニコかを?)
そんなつもりはない。りのが主体になるのは当たり前のことだ。
「何が言いたいんだよ。」
「現状を見ろ。」
まただ。「周りを見ろ」中一の時、先生にまでそう言われ続けていた。もうそんなアドバイスを受けるほど、慎一は周囲に気を配れなくはない。もう見られるようになったはずだ。
時に回りくどい言い回しをする藤木。すべてを読み取るくせにわざとそうして答えをじらすのは、藤木の悪い性格だと思う。
慎一はボールを内側に回して、膝でバウンドして頭に乗せ数秒停止。ヘディングで、空に向かって高く上げてから胸と足を使い落下速度を吸収させてボールをバウンドさせずに、右足で地面に停止させた。
「慎君、上手くなったね。」悠希がお茶の入ったジャグポットを、重そうに運びながら近づいてくる。
藤木は何かを言いかけた口を噤み、悠希のポットを受け取りに行く。慎一に向けていた顔とは一変して、悠希に満面の微笑みで対応している。相変わらずの女にマメな藤木。
「悠希の方がうまかったじゃん。俺いつも負けて。」
いつも、どっちがボールを長く持っていられるかって競争していた。慎一はいつも悠希に負けて悔しく、だから人一倍練習をした。世間ではボールコントロールの天才だとか言うけれど、天から授かった才能じゃない。最初は出来なかった。悠希に負けるのが悔しいから猛練習したんだ。
「ボールコントロールの天才、新田慎一って、去年の全国大会で紹介されていたの、うれしくてテレビにかじりついて見ていた。」
「天から貰った才能じゃないよ。悠希に負けたくないから、必死で練習した。それだけだよ。」
「そうだったね。慎君は、すっごい負けず嫌いだったもんね。」ニコリと悠希は笑う。その仕草が女の子ぽい。昔は、話し方も男の子みたいだった。日やけた顔に白い歯が輝いて、慎一とグランドを走り回っていた。自称も「僕」と言い、だから女の子だと気づかなかった。あの頃の「ゆうき」と目の前の「悠希」は、同じ子じゃなく、別の存在ではないかと思いたくても、懐かしい話をすると共通の記憶としてよみがえり、戸惑う慎一。
「やってみる?」足元のサッカーボールを悠希の足元に転がした。悠希は反応せず立ち尽くしている。ボールは悠希の靴に当たり、跳ね返って止まる。昔はすぐに反応していた。やっぱりあの頃のゆうきじゃないと少し残念に思う。
「もう4年もやってないから。」
「中学ではやらなかったのか?」
「女子サッカー部は、なかったもの。」
「じゃ、何部だったの?悠希ちゃんは。」ポットを部室の前まで運んで戻って来た藤木が話に加わる。
「お前、早速ちゃん呼ばわりかよ。」
「いいじゃん別に。女の子を男と間違う、お前に言われたくないね。」
「また、その話。悠希も仕方ないって言ってたじゃんかよ。」
「でも失礼だよねぇ、いくらなんでも。俺にしたら絶対ありえない間違いだ。」
「あったりまえだろ。お前のその能力で間違ってたら、逆におかしいだろ。」
「能力?」悠希が首を傾げる。藤木に思いっきり睨まれた。
「あ、いや、こいつ、女好きでさ。いろんな女に手を出す能力があって。」
「お前、何、言ってんだ!」藤木の拳が飛んでくるのを交わした。
「悠希も気を付けろよ。藤木は女に手を出すのが早いけど、捨てるのも早いぞ。」
「捨てるって、人聞き悪い事、言うな。」
「本当だろ。付き合った彼女で、3か月持った子、居ないじゃんかよ。」いつも言い負かされているから、こういう話題でしか藤木に勝てない、貴重な反撃のチャンス。
「そ、そうなの?」若干引き気味の悠希。
「ちがうよ~。悠希ちゃん、誤解だからね。俺から別れ話は言わないし。」
「柴崎には藤木からフッたろ。」
「れっ・・柴崎だけだろ!」
「えっ?藤木君、柴崎さんと付き合っていたの!?」
「あぁ、ついこの間までな。」
「お前、人のプライバシーをベラベラとしゃべんなっ!」
「どうせ、すぐにバレる情報だって。派手なカップルだったんだから。」
「だっさーカップルって今どき言うか?」
照れ隠しに違う話に持って行こうたって、そうはいくか!
「でも、まだお前ら二人が付き合ってるって、思ってる奴いっぱいいるだろ。」
「あぁ、迷惑してんだよね、その思い込み。」
(あっ、ヤバい。)藤木は気づかない、後ろに怒りの大魔神が迫っている事を。
「新しい高校生活、せっかくフリーでさ、新しい女の子と知り合うチャンスだってぇのに。」
「迷惑で悪かったわね。」鬼の形相でいる柴崎は、ここ最近ほのりん先輩の遅さにイライラして、機嫌が悪い。
「あっ、いやその・・・」振り返り慌てる藤木。「何だよ、別に問題ないだろ!お前とは別れたんだから、俺が誰と知り合おうが。」
藤木の言い分はごもっとも。でも聞けば喧嘩別れとかじゃくて、柴崎がサッカー部のマネージャーをやりたいが為の別れ。中途半端な事が嫌いな柴崎は、サッカー部全員と対等のマネージャーでありたいと、公平さを貫いた二人合意の上だと聞く。
「そうよっ。問題ないわよ!あるとしたら、私との経歴を迷惑だという、あんたの冷酷無慈悲的な心よ!」そう叫ぶと柴崎は足元に転がっていたサッカーボールを思いっきり藤木めがけて蹴り、見事に藤木の顔面にボールがヒットする。顔を押さえて痛がる藤木。
「フンっ!私だっていい迷惑よ!見境ない女好きの馬鹿と付き合ったと思われてっ!」もう大地を割る勢いの足取りで、部室に向かう柴崎。
「痛って~。」
「だっ大丈夫?藤木君。」
「あぁ、悠希ちゃんは優しいねぇ。傷が癒されるよ~。」
「畑中先輩っ!、いつまでだらだらしてるんですか!時間もったいないでしょっ!」
「はっ、はいっ、始めます。」八つ当たりされている畑中先輩。
何だか、先が思いやられるこのサッカー部、すべてが柴崎のご機嫌次第で運ばれていく。
外部入試組の1年は12人入ってきて21人になった。
「藤木ぃ、頼むから柴崎の機嫌を損なうような事、やめてくれよな。とばっちり食らう畑中先輩や俺の身にもなってくれよ。」
「俺だって、十分とばっちりを受けている!」
「お前のは、自業自得だろ。」
「あぁ、自得なんてしてないのになぁ。」
「ふふふ、面白い。私、頑張って常翔を目指して良かったわ。無理だって言われてたの。でも受かってほんと良かった。慎君にも会えたし。」悠希は足元のサッカーボールを手を使わずに、前にスピンをかけて足の甲に乗せ、ポンっと上にはね上げ、手で受け取った。この学園の女子で、これを出来る子は居ないだろう。もっと大技を見たかったが、悠希は手にしたボールを慎一に手渡してくる。
「やっぱ、負けるな。」
「やめてよ。もう体も重くなって、昔みたいに走れないのよ。全国優勝した慎君に勝つわけないわ。」、
少し寂しい顔の表情をした悠希は、自分の体をうつむいて見る。
「ずっと視てたよ。慎君が1年の時の、後半15分で交代して全国大会初の出場。2年のスタメン出場した全国大会、慎君は初戦で負けて悔しそうにしてた。そして去年の全国優勝の試合、藤木君と抱き合って喜んでいた姿も。私二人の姿を見て、絶対にここに受かって近くで応援したいって思ったの。」悠希が微笑む。また女の子らしい仕草に、戸惑う慎一。
「褒めてくれてありがとう。でっ、悠希ちゃんは中学の時、何部だったの?」
藤木が目を細めて、目じり皺を作る。笑っているようで、笑っていない藤木のこの顔は本心を見抜こうとしている時の仕草だ。
突然、話を戻されて眼を丸くする悠希。藤木はきっと見抜いている。悠希が何か秘密を抱えている事に。
「・・・帰宅部。何も入っていなかったの。」悠希は慎一達から顔を背けた。
藤木の能力じゃなくてもわかる。あまり触れてほしくない話題だという事を、ずっと、りのがこんな感じだった。
「始めるぞー集まれー」先輩の号令がかかる
「行こう。」慎一は藤木と悠希と共に駆ける。
自分にできることは何か?
悠希が何かを抱えているのなら、助けてあげたい。自分たちはそうやって成長してきた。慎一には三年間で身につけたものがある。
超えられない難題はない。ゴールへの道のりがまっすぐじゃなくても、無駄な道のりなんてない。
長い短い、直進か蛇行か、は関係ない。
全ての道のりが、自分の経験になるのだから。
2
「おーい藤木、いるかぁ。」
ノックもせず、部屋の扉があく。声でサッカー部の先輩、副部長の長谷川先輩だと理解しながら、後ろを振り返る。
ベッドに腰掛けて携帯をいじっていた同室の福島が、緊張した面持ちで慌てて姿勢を正し、頭を下げた。
「はい、何でしょう。」
「お前、外部入試組の一年のアドレス知ってる?全員の分。」
「はい。全員とアドレス交換しましたけど。」
「良かった~。流石、藤木ちゃん、仕事が早いねぇ~。」
「仕事?」
「畑中からさ、新しい連絡網を作ってくれって言われてたんだけどさぁ。いざ作ろうとしたら、新人のアドレス全員のは知らなくてよ。明後日には連絡回さなくちゃいけないかもしれないだろ。焦ってさぁ~」
週間天気予報では明後日から激しい雨に警戒となっていた。少々の雨なら練習はあるが、暴風雨となるとさすがに練習はなし。中止の連絡は顧問から部長に連絡が入り、部長と副部長が部員全員に責任をもって回すのがルール。一斉メールを送ればいいことだけど、部員数が多いから、3年の先輩が3つのチームに分けて、手分けして、回す事になっている。亮たち内部進学組はすでに、その3つのチームに振り分けられて連絡先は登録してあったが、月曜日に入ってきた外部入学組の新入部員はまだ、その連絡網に登録されていなかった。
「もう優秀な後輩をもって俺は幸せもんだよぉ~。」と長谷川先輩は亮を椅子ごと包み込むように抱き、頭をなでて顔まですりすりと寄せてくる。
「うげ~。やっ、やめてくださいっ。」女の子なら大歓迎なハグも、同性は鳥肌級の大嫌厭。
「藤木ちゃん、これやっといてね。」抱きつかれたまま顔の前に、常翔サッカー部とマジックで書かれたUSBメモリーがぶら下がる。
「はぁ?」
「ほらっ、おやつあげるからねっ。」キノコの森というチョコレート菓子を、机の上にポンと置かれ、「明日の朝までに。一覧表は畑中の分と顧問の分が急ぎでいるから2部な。あとメンバーに配る分のコピーもお願い。じゃよろしく!」
「ちょっ先輩っ!俺まだやるって・・・」言ってないと最後まで言う暇も与えず、逃げるように長谷川先輩は部屋を出て行ってしまった。逃げ足が速い。唖然としている福島と目が合った。
「大変だな。」
「先輩、俺が甘いもん嫌いなの、知ってるくせに・・・はぁ~。」と溜息しかでない。
長谷川先輩は、亮を中一の頃から可愛がってくれて、慣れない寮生活を送るに当たって心強かった。だがその反面、何かといいように使われてきたのも事実。長谷川先輩は、わざと亮の嫌いな食べ物を差し入れるような可愛げさがある。仕事の完了後は、本心からの感謝もちゃんとある。
「福島は、甘いもんいける口?」
「うん、好きだよ。」
「んじゃ、やる。」長谷川先輩が置いていった、チョコレート菓子を福島の方へ投げて渡した。
「いいのか?」
「いいよ。嫌いだもん。」
「んじゃ遠慮なく、サンキュー。」
そして、もう一つ置いていったUSBメモリーを早速、ノートパソコンに差し込む。USBの中には名簿のほかに、年間スケジュールや、試合の結果などのデーターが乱雑に入っていた。3年前の名簿まであって、見苦しいったらありゃしない。よくこんなやり方で、今までやって来たなと思うぐらい雑だった。
仕方なく、亮はファイル内の整理にかかる。こういう頼まれてもいない事までやってしまうから、自分は他者から重宝がられる。それをわかっているが、誰かに頼られ、感謝されるのは悪い気分ではない。長く煙たがれた存在だった亮にとって、それらは自尊心を駆り立てられる必要な事であると思っているのに加えて、基本的にこういう雑なのが嫌なだけともいう。
「甘い物が嫌いって、チョコが駄目なのか?」早速キノコの森を開けて食べている福島。
「一番嫌いなのは、あんこ系の甘いの。うち、爺さんが居るから、頂き物の饅頭とかが食いきれないほどあってさ。おやつって言えば、そればっかり食べさせられて、嫌いになった。」
我が家には、藤木家に媚を売る来客者が必ず持ってくる手土産が、いつも食べきれないほどあった。ポテトチップスとか、スナック菓子が食べたくても、「おやつは家にあるでしょ、スナック菓子は体に悪いのよ。」と言われて買ってもらえなかった。
金は腐るほどあるのに、本当に欲しい物は、いつだって手に入らない。
「へぇ~、食いきれないほどあるってすごいな。羨ましい環境だよ。そういえば藤木の実家ってどこ?」
まずい方向に行く話、これこそ業を煮やすって奴だ。
「東京。」福岡の藤木と言えば、素性がバレそうな気がするから東京と言っておく。嘘だけど嘘じゃない。福岡と東京の両方に家がある。
携帯を手に取り、新入生のアドレスの一覧を表示させる。
「東京?近いのに寮なんだ。」
「うん、通学時間が面倒でさっ」
ケーブルを取りに立ちあがる。ベッド脇の引き出しにその手のケーブルは、まとめてしまってある。
「面倒だけで寮生か・・・藤木ん家も金持ちなんだな。」
確かに、常翔の寮は金がかかる。寮と言えば、風呂やトイレなど共同スペースの掃除は寮生が当番でしなくちゃならないのが定番的な所を、人を雇って掃除のおばちゃんが全部やってくれている。寮の食事も学園の給食と同じく、帝国ホテル監修でメニューと栄養管理を徹底して、腕のいい料理人を雇っているし。学園の行事等で給食の提供や、寮での昼食がない時は、仕出し弁当に代わるけれど、それも普通の弁当屋じゃない。ここ周辺では有名の、高級和食料理店から、特別に契約して作ってもらっている。高い学費とプラス寮生活費用となると、平均年収のサラリーマン世帯じゃ無理だと言われていた。
両親が転勤族だという福島だって、この寮に入っているという事は、普通の家庭のレベルよりは上にいる証拠だ。だけどつぶやいた顔を視ると、中々に複雑な気持ちが読める。嫉妬、諦め、悔しさ。寂しさは母親に対するものだ。
人それぞれ、色んな事情があるのは嫌というほど知っている。同情したいが、亮だって安穏と過ごしているわけじゃない。金は腐るほどあるが、それに見合うだけの物を背負っている。
これ以上の実家の話はまずいと危惧した時、3年陸上部の吉田先輩が、またもやノックもせずに入ってくる。
「藤木ぃー。外付けのCDドライブ貸してくれ。」
「あぁ、はい。はい。」助かった。これで話がそれる。亮は、入り口付近にある自分のクローゼットへと方向転換。
「しばらく借りてていいか?」
「あーそれ別に返さなくていいっすよ。今度は内臓のPCを買ったから、それいらなくなったんで。」
「お前、また新しいの買ったんか!どれ?」吉田先輩が、机に置いてあるPCを覗きこむ。春休み、東京の実家に帰宅した時に購入しした物だ。何かと忙しくて箱から出してもいなかった。セットアップや、新しいパソコンへのデーター移動の作業は、結構面倒で時間もかかる。先延ばしにしていたのだけど、日曜日の今日、サッカー部の練習は午前だけだったから、やっと時間が出来て、やりはじめた所だった。
「うわっ、お前、これっ、ついこの間出た新型じゃないか。相変わらず、新しいもん好きだなぁ。ってか、こっちのだって、まだ2年ぐらいしか使ってなかっただろが。」と古い方のパソコンを指さす。
「2年、(も)です。」
「何、(も)を強調してんだ!俺のは4年(しか!)使ってない、だ。」
「あー先輩!それサッカー部のデーターなんですから!むちゃくちゃ動かさないで下さい!」
吉田先輩が、新しいPCを触りまくって、やりかけのサッカー部の住所録ファイルが変な場所に移動される。
新しいPCは画面がタッチパネル式で操作出来るようになっていて、画面だけ取り外しタブレットとしても使用できる。触るのは別にいいけど、サッカー部のデーターが壊されるのは勘弁してほしい。
「いいなぁ新型。こっちの古いのはどうすんだ。」
「ダメですよ。そんな顔しても、あげるのはドライブだけです。こっちは先約が居ますから。」
「えー、誰だよ。」
「野郎には、あげません。」
これは、りのちゃんにあげようと思っている。
前も一度、古いのをあげた。フィンランドの友達と写真のやり取りをしたいけど、どうにもうまく行かないと相談を受けて、りのちゃんの家までパソコンを見に行った。すると恐ろしく古いのを使っていた。亡くなった父親のパソコンだという。入っているオペレーションソフトも古くてサポート期間切れ、メモリーも空き容量がなくて写真を取り込むのもままならない状態。「これはもう無理だよ、新しいのを買わないと」と言ったら、りのちゃんは悲しそうな顔をして落胆した。たまらなく新しいのを買ってプレゼントしたくなったけれど、さすがにそれは友達として過ぎる行為。だから自分が使っているPCを『新しいのを買ったばかりで余っているから』と半分、嘘ついてプレゼントした。それでもりのちゃんは貰えないと断り困った顔をしていたけど、強引に家に置いて帰ったら、翌日、『ありがとう。写真、フィンランドに送れたよ』と喜んでくれた。
今回もまた、貰えないと言って困った顔をするんだろうけど、セキュリティが強化されてるから、こっちの方が安全だよとか言って納得してもらう作戦で貰ってもらおうと考えている。りのちゃんも昔ほど頑なに拒否はしなくなってきていて、麗香に上手くプリンをおごってもらったりしているから、今回は前ほど強引にしなくても受け取りそうだ。
「ちぇっ。それが、お前の女を口説く手段だなぁ~。」
「何、言ってんすか。そんな事、言うならCDドライブあげませんよ。」
「これは頂き!だっ」吉田先輩がドライブを掴んで慌てて部屋を出て行く。
またもや、キノコの森を食べている福島と目が合う。少々呆れ顔。ヤバい、2年(しか)使ってないPCを簡単に人にあげる行為が、福島の本心に不快を与えたようだ。嫌悪の気持ちが宿りはじめた。
「真辺りのさん、知ってる?A組の。」
「あぁ、特待の、綺麗な子だよね。」
「うん、新田とりのちゃん、赤ん坊の頃からの幼馴染でさ、その関係で俺も中等部から友達になったんだけど、りのちゃんは母子家庭でさ。学費はタダでも色々と苦労してるんだよ、約束したんだ。新しいのを買ったら古い方をあげるって。フィンランドの恩師とか友達とのデーターのやり取りもするから、古いと時間がかかって困っているみたい。」
「フィンランドの恩師って?」首をかしげる福島、まだ、真辺りの情報をそれほど得ていないらしい。同じクラスじゃないから無理もない。特進クラスは普通科や特選クラスとは棟も階も違う。
「りのちゃん、フィンランドに4年、フランスに1年半だったかな。住んでいたんだよ。学力世界一位のフィンランドで培った頭脳が、常翔初の女性特待生として中等部から受け入れられたんだけど、帰国後に父親が事故で亡くなってね、それで母子家庭。」
「へぇ~、それは知らなかったなぁ。顔が綺麗で頭もいいし運動神経もいいって聞いていたから、恵まれた子っているんだなぁって羨ましく思ってたけど、母子かぁ。人知れずの苦労ってあるんだね。」
(ごめんね。りのちゃん、話題にして。)でもおかけで福島の亮に対する嫌悪が消えた。福島とはずっと同室でいなくちゃならない。変に嫌がられたりしたら、部屋に居づらくなる。
「りのちゃんの、母子の話は、あまり人に言いふらすなよ。」
「うん。わかってるよ。」
福島なら大丈夫そう。そういう事はベラベラしゃべるタイプじゃない。
何だか、全くパソコン作業が進まない。吉田先輩が触って、あらぬページに飛んでしまっているサッカー部のファイルを元に戻す。変に削除とかされてないだろうなとチェックしていく。大丈夫、ファイルが乱れただけで、データー消去と言う最悪の状態にはなっていない。携帯とPCをケーブルで繋ぎ、PCに取り込む。
「ふじきー、この間頼んた商品って、どうなってんの?」またまたノックせずに開く扉。ノックしろの注意書きを扉に貼ってやると心の中で誓う亮。今度は2年のサッカー部の北野先輩。ネットショッピングをしていたら、自分も欲しいものあるから、一緒に購入しておいてくれと頼まれていた。けれど先輩の分だけ、メーカー取り寄せだと店舗から連絡があり、商品確保待ちの状態。
「あぁ、あれ、先輩の分だけメーカー取り寄せになったんで、もう少し待ってくださいってメール来たの、この間、俺、先輩に言いましたよ。」
「あれ、そうだっけ?」
「もうすぐ届くと思うんですけど・・・ちょっと待ってください。確認します。」
古い方のパソコンを引き寄せメールの確認をする。
「まだ、配送しましたの連絡は来てませんねぇ。」
「そうかぁ・・・しゃーねーな。」
「メール来たら知らせますよ。」
「あぁ、悪いな。」少し落胆した表情をして出ていく先輩とすれ違いに、入ってくる同級生。
「藤木ー。お前さ電子辞書持ってただろ。貸してくれ。」
「いいけど、電子辞書じゃなくたって、スマホでいくらでも調べられるだろ。」
「スマホじゃ、例文は載ってねぇーんだよ!英語の宿題、鬼のように出たんだ。スマホじゃらちあかねぇ。」
引き出しから出して渡す。
(ったく、何なんだ今日の来客の多さは。ちっともパソコン作業が進まない。)
「ふじきーぃ。」今野の声。
「今度は何だ!何の依頼だっ!?」
「別に何も依頼はないけど。コンビニ行くから、一緒に行くかなぁって。」
「いかん!」無視してPCに向かう。
「なっ何?」
「忙しいみたいだよ。」と福島は苦笑して、食べ終わったキノコの森の空き箱をゴミ箱に捨てる。
「何んだよ~。」今野が不貞腐れた声を出す。
もう八つ当たりでしかない。
「あー、今野、コンビニ行くなら。辛い菓子買ってきてくれ。」
「辛い菓子?何でもいいのか?」
「あぁ、何でもいい。飛び切り辛いの買ってきてくれ。」鞄に入っている財布を取り出そうと立ち上がる。
「金は後で良いよ。」
「悪いな。」
「俺は~使いっぱしりぃ~。」今野が変な音程をつけて踵を返す。
「嫌味か!真摯に謝ってんだろ!」今野は振り向きざまに、茶化した顔をよこして去る。「ったく・・・」
またまたまた、福島と目があう。
「人気者だな。」
「羨ましいだろ。」
「ギャラが出るならね。」
ほんと、これでギャラが出たら、亮は高額納税者だ。
「俺、下でやるわ。」ACアダプターをコンセントから抜き丸めて、テーブルの上の二台のノートパソコンと携帯を重ねて、持ち上げる。やっとゆっくりできる時間なのに、来る先輩たちに福島は緊張して気が休まらない。
「いいよ。気を使わなくたって。」
「どうせ、プリンターを使うのに事務所に行かなくちゃなんないからな。」
「あぁまぁ。それなら・・・」
「藤木は外出中って張り紙、貼っとこうか?」
「いいよ、そこまでしなくて。誰か来たら、下にいるってぐらい言うよ。」と福島は笑う
「わりぃな。」
亮は階下の食堂へ向かう。食堂に入った瞬間に来た事を後悔した。あいつ、弥神皇生が食堂の奥、長テーブルの真ん中に居た。入って来た亮に相変わらずの片目で睨むような視線を送ってくる。一瞬引き返そうかと思ったが、福島の事を考えて諦め、入り口付近の端っこに陣取る事を選択する。2台のPCを並べて置く。弥神の視線が亮を追尾しているのがわかった。
あいつの存在を確認した瞬間から、鈍く変頭痛は始まっていた。なぜか、あいつと目が合うと始まる変頭痛。不愉快で仕方がない。
食堂の長テーブルは特に場所が決められているわけじゃない。どこに座ってもいいけれど、学校の食堂と同じ習慣がついていて、奥の窓際が3年、真ん中が2年、手前が1年と暗黙の了解になっているのにもかかわらず、弥神は、堂々と3年の場所を陣取っている。その態度、校則違反の髪型、全てにおいて弥神は逸脱していて、注意しても正す気配がない。寮管理長がその髪型を注意した時、
『昔、左目を手術したんで、あんまり日光に当てられないんです。サングラスするわけにもいかないでしょう。疑うなら医師の証明書を親に請求してください。』と言った。
弥神の視線が執拗に無くならなくて落ち着かない。亮は思い余って席を立つ。ドリンクカウンターへ向かう最中も視線は追ってくる。食器棚から自分のマグカップを取り出し、インスタントの珈琲に手を伸ばす。また珈琲派に戻った亮だった。
サーバーの前のカウンターに、紅茶のティーバッグの出がらしがそのままに置いてあった。使い終わりのミルクのポーションが傾いてこぼれている。どこかを汚したら個人が責任もって掃除するのが、常翔男子寮の長い伝承のルールで、【掃除のおばちゃんを困らすな】がモットー。
(また弥神だ。)
あいつはその暗黙のルールを守らない。食事の後もトレーをそのまま置いて自室に戻るし、あいつが使った水場はびしょびしょで、後の者の事を全く考えない。
何度も先輩が弥神に注意をしているけれど、『俺、そう言うのやったことないから』と言って、全くやろうとしない。
で、おかしなことに、そのことについて誰も怒らない。お前やっといてくれよと、理不尽に仕事を他人に押し付ける。押しつけられた方は怒りを表すも、まるで冷や水を浴びせられたように不思議に怒りが無くなり、そして言うなりにやってしまう。そうした状況が、あまりにも自然で異様だった。亮は何度も何故かと、弥神や寮生たちの本心を読み取ろうと試みた。しかしその都度激しい頭痛に襲われ上手くいかない。最近、寮では読み取る能力が上手く働かない。
亮は仕方なくカウンターのゴミを片付け、汚れたカウンターを布巾でふき取った。こうやって後始末をやってしまうから弥神はいつまで経ってもやろうとしない。わかっているけれど面倒を起こしたくない、それにこのゴミが弥神が残した物である証拠がない。
亮は入れたコーヒーを持ってPCを置いた席に戻り、座る前に弥神の方に顔を向けた。マグカップを口に運び、相変わらず嫌な目を向けてくる。一体、何を考えているのか?部屋も入寮の翌日に、同室の同級生のいびきがうるさいとかで寮官に訴え、一人部屋にしてもらう好き勝手ぶり。寮官や事務職員も、その要望に素直に答えるのは、あいつが華族だからか?
「誰だよ!洗濯場で洗剤こぼしたの。掃除しとけよ。」野球部の3年の先輩が食堂に入ってきつつ、叫ぶ。
食堂で雑談している数人が、弥神の方へ顔を向けた。弥神は飲んでいたマグカップをテーブルに置いて、ゆっくり立ち上がった。
「こぼしてた?」敬語もない。
「弥神、また、お前かよ。」
「洗濯なんて、した事がない。」
何でもやった事がないと言い訳する弥神。いくら常翔が金持ち学校だといえ、こぼした洗剤を拭くとか、食べた後のトレイを洗い場まで持って行くぐらい、あの麗香でも出来る。たとえ何も知らなくても、人の行動を見ていれば数日で出来る事ばかりだ、幼児じゃあるまいし。
「ここでは、汚した所は自分で綺麗にする事って、最初に教えただろ。」
弥神がなぜか先輩の方じゃなく亮の方へと歩み寄って来る。
「藤木、やっといてくれよ。掃除。」
「なっ!」あまりにも理不尽な横暴ぶり、呆れて言葉が出ない。
「やった事ないんだ。幼児の頃から。」右目しか見えない顔を少し傾けて、下から睨むような目つきをする弥神。
偶然か?亮が心で言葉にした、「幼児」の単語を使ったことに、亮は激しい動揺をする。
「弥神、やった事なくても出来るだろう。」先輩が歩み寄ってきてくれて、弥神との間に入る。
長い前髪を左手で振り払い、先輩に対峙した弥神。
「我は藤木に言っている。お前は関係ない。向うへ行け。」同時に亮の頭を貫く偏頭痛。
「あぁ、ごめん。そうだな、二人の問題に首を突っ込んだら駄目だな。」そう言って先輩は食堂から立ち去っていく。
(おかしい。どうして先輩は、こいつの言いなりに動くんだ?)
食堂に居る他の寮生は関わりたくないように遠巻きに見ているだけ。
「お、お前、何を・・・」頭痛のする頭を押さえながら、亮は聞かずにはいられない。
人を操る力が、こいつにあると言うのだろうか。そんな漫画みたいな事があるはずがないと思いつつも、今までの現象がそれで辻褄が合ってしまう事に、どうしても答えとして導きたくなる。
「怒れよ。あまりにも理不尽で横暴なのだろう。」
露わになっている左目が、赤く染まった。
キーーーーン
更に強い頭痛が亮を襲う。
【藤木亮、内なるものを、さらけ出せ】
「うっぁっ!」腰を折る。
【神威に逆らう事は出来ぬ】
キーーーーン
「くっっ!」
【卑しい欲望こそ人である証拠】
頭に響く声
キーーーーン
【それこそが人の存在理由】
押しつぶされそうな圧力により、亮の中の、屈辱、嫉妬、憎悪、殺意が圧縮され沸騰し、自我は崩壊した。
「やれよ。藤木。」
手のひらに爪が食い込む。
食堂の椅子が倒れる。
弥神は倒れ込む。
「藤木!何してんだ!やめろ!」
3
文香さんが、うなだれて立つ藤木君を見つめる。無言の時間がしばらく続いた。
「気が付いたら、殴っていた。」
「・・・はい。」
「食堂にいた他の生徒達は、弥神君が殴られるような事は、何もしていないと言っています。いきなり藤木君が殴ったと。」
「・・・。」
「これまで弥神君と、何かトラブルでもあった?」
「ありません。」
「殴りたくなるほどの感情が、沸き起こった原因は?」
「・・・わかりません。分かっていたら殴りません。」
冷静な判断力と分析力を持つ藤木君が、突然、弥神皇生を殴り怪我をさせたと柴崎邸に連絡が入った。日曜日は学園の事務局は閉められている。事務局が閉まっている間に寮やクラブ活動等で何か緊急の事態が起きた時は、直接柴崎邸に連絡が入るようになっていた。今日は華族会の東の宗の定例会が華族会本部であり、凱斗は柴崎家の人々を伴い参加し、柴崎邸に帰宅したところで入ってきた連絡だった。高等部の敏夫理事長は、華冠式の打ち合わせが居残りであり、まだ自宅に帰ってきていない事から、この件は文香さんと凱斗が対応する事になった。
寮生、生徒同士の殴り合いの喧嘩は、常翔学園では珍しい事態ではあるが、世間的にはそう珍しい事ではないだろう。ただ、今回は相手が問題だった。華族の称号を持つ弥神皇生、西の宗代表の息子が被害者であると聞いて、文香さんは青ざめた。すぐに寮に駆け付けると、事務室の椅子で、うなだれて座る藤木君が居た。殴られた弥神皇生は自室に戻り、殴られた左頬と唇を氷で冷やしていた。唇の端を切って腫れてはいたが、病院に行くほどでもないと凱斗は判断するも、文香さんは大事に労り、しきりに病院へと進めたが、本人が「大丈夫だ、必要ないと」と断固拒否して、大事に至らないと文香さんも安堵した。
「わからない・・・本心のようですね。」
「・・・。」疲弊した様子でまた項垂れる藤木君。文香さんと藤木君は、人の本心を読み取るという特殊な能力を持つ、読まれないように回避しているのかもしれない。
「この時期は、やっぱり辛い?」殴った事とはそれる話に、藤木君はゆっくりと顔を上げた。「休まる時間が無いものね。寮生活は。」
「あなたには、一人になる時間が必要かもしれません。東京の家からだと、学園までは1時間で来れます。」
「退寮しろって事ですか?」
「起きている時間ずっと、他人のを読みとり続けているよりは、いいんじゃないかしら?」
「家には帰りたくありません。」
「あなたの、そのお父様に対する感情、わからなくもないけれど、前にも言いましたね。あなたの読み取る物が、すべてではないと。」
「・・・・。」
「あなたが読み取るものはお父様の一部でしかない、あなたのお父様は、あなたが思うほど」
「一部でしかなくても!それは父の持つ本心であるのは間違いない!」感情的に叫ぶ藤木君。
「・・・・。」
しばらく無言の見つめ合い、それはお互いの本心の読みあいになるのだろうか?
「学園、もしくは寮で人に怪我をさせる喧嘩をした場合、一週間の自宅謹慎の間に、ご両親を伴って相手側に謝罪をするのが通例です。弥神君は自分も悪かったからと、謝罪は要らないと言っています。眼の悪い父親を心配させたくはないから、知らせないようにとも言ってくれています。ただ、この先、あなたと同じ寮に住むのは嫌だと。」
「・・・・。」
「あなた自身で、ご両親を説得できるなら、この屋敷の近くに一人暮らしをする許可を出しましょう。」
「会長!それはっ!」口出した凱斗を手で遮られる。
「規則違反なのは承知です。私の保護観察として特例書を高等部に出します。但し、藤木君、必ずお父様お母様に会い、自分で説得して一人暮らしの許可を貰いなさい。それが出来ない場合は、東京からの自宅通学にする事。」
藤木君が目を見開き、戸惑う顔をする。
「今日は、ここに泊まりなさい。明日からの一週間は謹慎処分として、退寮の手続きと荷物の引き上げ、ご両親の説得と、上手く行けば部屋探しも出来るわね。一週間後、一人暮らしが出来るか自宅通学になるかは、あなたがご両親に向き合う心次第です。」
藤木君が頭を下げて会長室を出で行く。何度かこの屋敷には泊まっているから、勝手知ったる柴崎家だ。案内しなくてもいつもの部屋を使用するだろうから、凱斗は追って部屋を出ていく事はしなかった。
文香さんが椅子に背を預けて、一息吐く。
「会長、藤木君は父親と一体、何があったのですか?」
「分からないわ、そこまでは読めない。藤木大臣とは古くから親しくさせて頂いているけど、大臣もわからないとおっしゃっていた。これと言った何かは無いのかもしれない。」
「一週間でご両親と理解しあえればいいのですけど。」
「それは無いわ。」文香さんが首を振る。
「えっ?じゃ、どうして。」
「何かの行き違いで、親に反抗しているだけの普通の子であれば、両親に向き合い、話し合う良い機会になるでしょう。でも、彼は違う。人の表と裏を読み取るあの眼では、もう、両親に心を開くことはできない。」
「そんな・・・」
「嫌なものよ、身内の本心が手に取るようにわかると言うのは。肉親だからこそ納得できない。人はそういうものだと諦められない。」
文香さんが目をつぶる。
「文香さんも、ですか?」
文香さんは質問に答えることなく、静かに目をあけて、藤木君が出ていった扉を見つめてつぶやく。
「彼には、一人になる時間が必要。誰の本心も読み取らない時間がいるの。実家からの通学にすれば、自室にこもる時間が出来るけれど、毎日のラッシュの人混みは苦痛だわ。人を傷つけた以上、学園の規則を破ってまで、無条件に一人暮らしを許可する事はできない。彼にとって、ご両親と向き合う事は何よりも辛い事。だけど、いつまでも逃げているわけにはいかない。もう子供じゃないのだから。」そう言って文香さんは、もう一度深く息を吐いて目をつぶった。
やっぱり、私の選択は間違っていた。自分の夢を追いかけることなく、亮のそばを離れず、寄り添い続けなくてはならなかった。今更気づいても、もう遅い。事は起きてしまった。
亮が同級生を殴って怪我をさせたと、寮から屋敷に連絡があったのは、もうすぐ4時になろうとしている頃だった。
お母様と凱兄さんが寮に駆け付けて、亮を連れて屋敷に戻って来た。お母様の後ろについて歩く亮は、今までに見たことのない沈んだ様子で、麗香は声をかけられなかった。
何がどうなって、弥神皇生君を殴る事になったのかは、わからない。お母様の執務室、翔柴会会長室の前に行って、聞き耳を立てたかった。だけど流石にそれは出来ない。お母様か凱兄さんが教えてくれるまで待つしかなかった。
それに、何があったか?より、麗香の心にあるのは、(どうして、私は亮を見捨ててしまったのか?)という後悔が心を支配していた。今からでも遅くない。マネージャーをやめて、亮にまた寄り添うと麗香は誓う。そして2度とその手は離さない。
ガチャと会長室の扉が開き、亮が出てくる。ゆっくり、でもしっかりしている足取り。良かった、さっきよりは幾分沈みはマシかと思う。しかし亮は麗香に視線を合わせることなくすれ違う。
「亮。」私の呼びかけに無反応で、階段を上っていく。
「亮!」追いかけ、階段の踊り場で亮の腕を掴んで歩みを止めた。
「私、やめるわ!マネージャーを。そして亮に寄り添うわ、絶対に亮を」
掴んでいた手はバシッと振り払われた。向けられた顔は、感情なく冷淡。
「迷惑だ。」
麗香は息をのむ。
「これは俺の問題だ。お前には関係ない。」
拒絶する言葉が、麗香の胸に突き刺さる。涙が出そうになった。
「頼む・・・一人にさせてくれ。」
その言葉で気づく。亮に必要なのは人の寄り添いじゃない。誰の本心も視ない時間と空間なのだと。
亮が階段をあがり、いつも使っている左側の一番端の部屋へ入って行く。
麗香は悔しくて唇を噛む。
何もできない。
その苦しみを共有することが出来ない。
昨日の夜遅くに柴崎からメールが届いた。
【話があるから明日の朝、常翔学園中等部正門側の道路向かい、北にある公園に来てほしい。】と。
そのメールは慎一だけじゃなく、りの、佐々木さん、今野、えり、黒川君、に一斉に送られていた。藤木以外の仲間に。
藤木と柴崎が、また何かのイベント事を企てたのかもしれないと思った。朝のバス停で、えりもりのも同様に考えて話をした。
どんな楽しい事を考えたのだろうと、えりは目を輝かし、りのはまた変な事に巻き込まれないだろうかと苦笑するも楽しそうだった。
慎一は朝練を休み、柴崎の指示通りに公園に向かう。朝連は自由参加のスタイルだ。参加できない場合の連絡は要らない。柴崎が指定した公園は、3年前の秋、りのと夜に校舎に忍び込んだ時に自転車を置いた場所だ。人に見つかり走って逃げて、フェンスをよじ登り、りのが足をくじいて、それまで我慢していた色んな想いを泣いて溢れ出させた場所。中等部の寮がこの先にあるから、そこに行くときに横を通り過ぎる事は幾度とあれ、入ったのはあの時一回だけ。
「懐かしいな、ここ。」
「うん。」りのが頷く。
公園には柴崎と今野が既に来ていて、滑り台の所で話しをしいた。首謀者であるはずの藤木が居ないのはすぐに判明、遅れているのだろうと思った。
「せんぱーい、おはようございます。」
「おはよう。」
えりの明るい声とは対照的に、振り向いた柴崎と今野は元気がない。その雰囲気に慎一は首をかしげる。
「うっす。」
「ごめんね、早くに呼び出して。」
「一体何だ?」慎一の質問に間を置いてから答える柴崎。
「全員が揃ってから言うわ。」
りのも、柴崎の元気のなさに気づいて、慎一と顔を見合わせた。
5分もしないうちに、佐々木さんと黒川君が到着する。
「全員揃ったわね、ごめんね。こんな所に呼び出して。」
「ちょっと待て、藤木は?」慎一の疑問に、今野と柴崎が顔を合わせる。
「その藤木の事で話があるの。」
「藤木の事?」
「学園内では誰に聞かれるかわからないし、間違った情報を人から聞くよりも前に、ちゃんと真相を知らせておいた方がいいと思って。」
「真相?」
「えりと黒川君にも。下手に回りまわって心配させるよりはと思って・・・」
「何だよ、心配って、偉く神妙に。」
柴崎が、一つ息を吐いてから静かに口を開く。
「藤木、寮で人を殴って怪我をさせたの。今日から1週間、謹慎処分を受けて、東京の実家に戻る事になった。」
「嘘だろ!あいつが、そんな事!」
「新田、本当なんだ。俺が藤木を止めたんだ。」と眉をひそめて唇を噛む今野。
日曜日は午前中だけの練習だった。慎一は「家に遊びに来るか?」と藤木を誘った。でも藤木は、「新しいPCのセットアップをしなくちゃなんないから、今日はやめておく」と断った。
3時過ぎ、今野がコンビニに一緒に行くかと誘った時、イライラしていた風だったと語る。同室の福島に聞けば、先輩方がひっきりなしに藤木を頼って部屋を訪れて、自分のやりたいことが進まなかったらしい。福島に気を使い、PCを持って食堂でやると藤木は階下に降りた。
今野は藤木の部屋から出た後、別の同級にも一緒にコンビニに行かないかと、他の部屋を回っていた。中等部からの寮仲間、水口が一緒に行く事となり階下に降りた。すぐに騒ぎに気付く。食堂を覗くと藤木が弥神皇生という同級生を馬乗りになって殴っていた。
「俺が叫んでもやめなくて、更に殴ろうとするから水口と俺で、藤木を羽交い絞めで弥神から引き離したんだ。」
「そんなっ信じられない、あの優しい藤木さんが・・・。」とえりは手を口に当てて悲痛につぶやく。
「弥神ってやつが何かしたのか?藤木に。」
「それが・・・殴るほどの事をしていないというか・・・」柴崎が口ごもるのを今野が繋ぐ。
「弥神ってやつ、京都から来てるC組のやつなんだけどな。入寮初めから、結構面倒な奴でさ。皆、思う所はあったんだ。」
藤木が殴った相手、弥神皇生、そいつは、寮における共同生活のルールやマナーを一切守らない奴だという。いくら先輩たちが注意しても、それを正そうという姿勢が全くなく、いつも「やったことがないから」と言い訳をする。時に先輩にすら後始末をやらせて、入寮日から今まで、トラブルが無かった方が奇跡だと思えるぐらいだと今野は言う。
その日も、洗濯場で洗剤をこぼして、そのままにしている弥神を3年の先輩が注意をしたという。その弥神は食堂に下りてきていた藤木にやっといてくれと頼んだらしい。あまりにも理不尽な頼みに、食堂に居た数人の寮生の誰もが、唖然としたと言う。
「藤木君らしくないわね。どんな時も、冷静に対処するのに。」佐々木さんも冷静な分析。
「うん。何もかもがおかしかった。弥神の言動もそうだけど、藤木が弥神に殴りかかる力は、すごくて。水口と俺の二人がかりで押さえたんだけど、振りきられるぐらいで、食堂にいた二年の先輩も加勢して藤木を抑えて、それでも殴りに行こうとするから、床に倒し、俺が藤木に馬乗りになって抑えて、やっと止めたんだ。藤木、完全に我を失ったみたいにリミッターが外れた感じで、やっと藤木が正気に戻った時、馬乗りになった俺に何してんだって、自分で驚いていた。」
(何だそれ・・・。)
藤木が起こしたとは思えない、別人が起こした話を聞いているようだった。
今野は続ける。
「弥神を殴って怪我させたことは良くない事だけど、先輩も同級も、藤木を咎める奴が居ないのが幸いだ。弥神の前では言わないけど。スカッとしたとか、よくやったとまでいうやつがいて、皆、1週間の謹慎処分は厳しいんじゃないかって言っている。」
「仕方ないの、学園の規則だから。」と柴崎は唇を噛み、震わせる。
今、一番辛いのは柴崎かもしれない。
「藤木は今・・・」
人に、気持ちを表さない藤木が、今どんな想いでいているのかなんて、わかるはずもないとわかっていながら、聞かずに入られなかった。柴崎は首を振る。
「お母様が一人にさせてあげなさい。って。」柴崎の目が充血している事に慎一は気づく。昨日は眠れなかったのだろう。
学園から朝練終了を知らせるチャイムが聞こえてきた。
「今、話したのが真実だから。みんな、どんな噂や憶測が流れても、動揺はしないで。」
一番動揺しているのは柴崎じゃないかと言う言葉を、心の中だけに留める。誰もが柴崎の辛い気持ちを簡単に想像でき、眉間に皺をよせるばかり。
「先輩、元気出して、えり、藤木さんの事、悪く言うやつが居たら、ちゃんと怒るから。」
「えり・・・ありがとう。でも、いいのよ。私達が必死に藤木を庇うような言動をすれば、余計に反感と変な憶測が生まれる。悪く言う人には言わせておけばいい。私達は動じることなく藤木の友人として、今までと変わりなく一週間後にちゃんと迎えればいい。」
自分に言い聞かせるように柴崎は握った手を胸に置く。全員が同意に頷いた。
寮から登校する中等部の制服を着た男子生徒二人が、公園の横を通り過ぎる。慎一たちの姿に驚いた顔で訝しげに通り過ぎていく。あまりここに長く集団でいるのも目立ちすぎる。
察した佐々木さんが「今日、日直だから先に行くわね」と言って、公園を去る。今野が佐々木さんを追って歩んでいく。えりと黒川君も、「私達も、もう行くから。」と言って中等部の門へ向かう。
「俺達も、行こうか。」
「うん、麗香、行こう。」俯いたまま、動こうとしない柴崎を、りのが背中に手を添えて促す。
「私、間違いだった・・・自分の夢を優先して、亮を見捨てた。ずっと寄り添うと約束したのに・・・亮は、約束を破った私を責めることなく・・・」堰を切ったように柴崎は泣きだした。「あの眼で見る世界に傷付き、誰よりも孤独の亮を私は・・・・」立っていられなくなった柴崎が、しゃがんで泣く。
「麗香・・・」りのは柴崎に寄り添って座り込み、柴崎の背中をさする。
「新田が、りのに、すべてを捨てて寄り添ったように、私もしなければならなかったのに・・・・」
「柴崎・・・それは違う。俺は、それしかできる事がなかったからだ。お前は違う。俺と違って出来る事が沢山あるだろ。」
りのが、慎一を見上げる。
「・・・沢田がな、柴崎がサッカー部のマネージャーをどれだけ続けることが出来るかって言い出して、賭けをしたんだ。内部進学組の奴ら、一日とか、今日中で辞めるって言うやつも居て、でも藤木は、柴崎は卒業まで辞めないって言ったんだ。」
柴崎のすすり泣きが止まる。
「藤木は、柴崎がマネージャーになって、俺たちと一緒に夢に向かう事を誰よりも喜んでいた。」
「亮・・・。」
そう、藤木は、柴崎がマネージャーになった事を誰よりも、その向かう姿勢を認めていた。
『なぁ、藤木、別に柴崎がマネージャーだからって、付き合うの止めなくても良かったんじゃないのか?別にマネージャーと付き合ってはいけませんって規則があるわけじゃないんだし。』
『新田、3年後、また優勝旗を手に入れたいか?』
『もちろん、手に入れたいよ。夢の一つだからな。』
『俺もだ。』目じりに皺を作って、いい笑顔を向けてくる藤木。その笑顔が何よりも心強い。『勝利の女神は俺が一人占めしたら駄目なんだよ。』
『はぁ?勝利の女神って、りのだろ。何でりのの話になるんだよ。』
『俺は、りのちゃんじゃなくて、柴崎だったんじゃないかと思っている。』
『お惚気じゃないか。よく恥ずかしげもなく』
『新田、柴崎が今までやって来た事、思い出してみ。』
『柴崎がやってきた事?』
『あぁ、あいつが全力で突き進んできた物事に、失敗はあったか?』
『うーん。』
『まだ俺たちと友人でなかった時の1年の体育祭、あいつが実行委員で率いた4組は優勝、俺とりのちゃんと一緒のクラスになった2年では体育祭は準優勝だったが、初めて企画したダンスパーティは大成功した。喫茶店も最高売上を上げていたし、そして去年の学園創立60周年で発表したクラブバックアップ支援は、常翔学園の未来に功績を作るプロジェクトだ。10月から募集したOB支援者は順調に会員数を伸ばし、4月からの正式開始時には予定を上回る余裕のある資金で発動、各クラブに問題なく支援が出来ると聞いている。そして卒業式、中には、やり過ぎだと言う教師もいたけれど、中等部から高等部へスライドするだけの、涙も出ない形式的な卒業式なんかよりずっと良いと好評だった。在校生は来年、自分たちもすると言っていて、生徒会ではすでに卒業式用の予算を組んだ。学園の行事だけじゃない、俺たちが乗り越えて来た事もある。』
柴崎がやってきた事、改めて思い返すと、確かに凄い事をやってきている。藤木はその柴崎をずっとサポートしてきて、だから二人はお互いを信頼して、付き合う事になった。
『失敗は、ないな。』
『だろ。柴崎は、常翔学園の伝統になる始まりを2つも作った、あの力をサッカー部に向けるんだ。俺だけじゃなく全メンバーに。』
柴崎が慎一達サッカー部を率いて先導する光景が明瞭に頭に浮かぶ。確かに負ける気がしない。
『なっ、負ける気がしないだろ。』
『確かに、女神と言うより勝利への先導者だな。』
『柴崎が突き進む道は、サッカー部全員の勝利指針。』
先輩たちと喋っている柴崎に目を細めて微笑む藤木は、ここ最近では見られなかった、明るい展望の表情だった。
「藤木は、柴崎が先導して進む道は、サッカー部全員の勝利指針だと、柴崎こそが勝利の女神で、自分が一人占めしたら駄目なんだと言っていた。俺も、そう思う。」
「あぁ・・・亮。」柴崎は更にうずまって大きく泣く。慎一は柴崎の頭に手を乗せた。
「柴崎は、藤木を見捨てたんじゃない。藤木の夢の先導者になったんだよ。」
「麗香は間違ってないよ。」りのは柴崎の肩を引き寄せて抱く。
「本当に?」
「らしくねーぞ柴崎麗香!そんな弱気でどうすんだ!お前がしっかりしないと、藤木は安心して俺たちの所に帰ってこれないだろ!」
「何よ、私だって、進む道に悩む時も、迷う時も、怖くなる時もあるのよ。」
「麗香~。」
「だけど・・・そう、らしくない時は、何時だって、うまく行かない時、亮が教えてくれた。」
柴崎が、涙と共に髪をかき上げて立ち上がる。
「ありがとう新田、もう、選んだ道に後悔はしない。」
慎一は頷く。
「藤木の言葉を受け止める。」
戻って来た、柴崎のまっすぐに突き進む力強いその目、どんな困難にも打ち勝つ、俺たちの指針。
「だけど、立ち直り早いな。」
「私は今野と違うのよ!」
学園中を駆け巡る藤木の暴行と謹慎処分の情報。それに伴い次々に慎一のもとに訪れる同級や先輩、真相を聞こうとする好奇心に、慎一は、すべて「わからない」を突き通した。やっと人が途絶えると、弥神に対する非難が聞こえてくる。
「あの子よ、藤木君が殴ったって子。」
「藤木君が殴ったって、よっぽどよね。どんな酷い事したのかしら。」
「俺も、あいつ、なんとなく嫌な感じだったんだよ。」
「寮で酷い態度だったらしいぜ、入寮以来ずっと、で藤木がキレたって。」
「藤木がキレるって、よっぽどだろ。」
「あのいつも優しい藤木君がぁーショックぅ。でも悪い奴を懲らしめるみたいでカッコよくない?」
「よくやってくれたよ。藤木。」
「あぁ、スカッとしたぜ。」
「一週間の謹慎は重くない?弥神が自分の失態を藤木に押し付けて殴り合いの喧嘩になったんなら、弥神も謹慎にするべきだろう。」
「あぁ、それに何だよ、あの髪、校則違反じゃん。」
加害者である藤木が英雄のようにささやかれ、被害者である弥神が悪者の状況になりつつある。
確かに弥神言動は理不尽だったかもしれない。しかし藤木は暴力を絶対にしてはいけなかった。友として藤木を擁護したい慎一でも、暴力だけは容赦できない、してはいけない。全国を目指す者は特に、時と場合によっては、全国大会の資格を失う事案だ。
そうした毅然と擁護に揺れる慎一の気持ちをよそに、生徒たちは勝手に、噂は悪口へと流れて膨らんでいく。事あれば、部外者は勝手気ままに決めつけて噂する。それらは、りのがずっと苦しめられて来た事だ。ひそひそと見やっては、本人の前では口を噤む。視線だけは執拗に追いかけ心を傷つける。
しかし弥神はりのとは違い、それらの噂や視線に負けない堂々たる態度で周囲を睨み返していた。そんな態度が更なる反感を買って、状況と悪口は増していく。さすがの慎一も、そんな弥神の態度を見ると、藤木が殴りたくなったのも無理はないかなと思い始めてくる。
4時間目前の休憩時間、廊下で弥神とすれ違う。皆にしているのと同じに、弥神は慎一を強く睨みつけてきた。たじろいで一度は顔をそむけたが、気になって過ぎ去った弥神に振り返ると、片手で顔を覆い、壁に手をついて立ち止まっている。そんな姿を見て慎一は、どんなに強がっていても、やっぱり辛いんだと同情をした。かつてのりのが、影口に何も反応することがなく平然と無表情であったのは、実は精神が崩壊した末の防御術だったこと、その辛さをわかってやれなかった後悔を、慎一は繰り返したくない。そんな思いが弥神に対しても湧き起こった。
「大丈夫か?」慎一の声掛けに、弥神は覆った髪の間から睨むように慎一を見る。「皆、勝手な事を言うから」
黙ったまま何も言わない弥神。
「俺、H組の新田慎一、藤木と同じサッカー部で、親友なんだ。」
鋭い視線は、竦んでしまいそうになるほど強い。きっとこれが、弥神の防衛術。
「その・・・ごめん。俺からも謝るよ。」
「何だ。それは。」
「何って、その・・・理由がどうであれ、殴って怪我をさせた藤木が悪いのは事実だし、俺は親友の苦しみを共有して」
「あはははは。」弥神が突然笑う。
「えっとぉ、あの・・・」
「我に同情など何様のつもりだ。」弥神の言葉に驚く。
「えっ?」
「愚かな者ほど、偽善に酔いしれる。」
指摘されたように、自分が全くの偽善なしで弥神に声をかけたのか、わからなくなる。
「同情は、傲慢な人の業。」
慎一は何も言えない。
弥神の奇妙な言い回しは、鋭い視線の圧力が違和感を消し、慎一はただ俯いて、「ごめん」と小さくつぶやいた。その声の小ささは、反論できない自信のなさを表している。
そんな慎一を鼻で笑い、弥神は慎一の耳に囁いた。
「独りよがりの親友かもしれぬな。」
息が止まるほどに慎一の胸がドキリとする。
「それもまた、偽善。」そう言って、弥神は笑いながら去っていく。
しばらく、動けなかった。
あの時から沸き起こった不安、疑問。慎一だけがユース16の日本代表選抜に選ばれた。嫉妬、悔しさが藤木の心に湧き起こらないはずがない。それなのに、翌日から藤木は、慎一を応援する言葉をかけてくれた。嫉妬、悔しさを、どう処理して慎一に向き合ったのだろうか。それが、親友をやめる事で出来た事なのだとしたら・・・いや、最初から親友だと思っていたのは慎一だけだった?弥神が言うように独りよがりだったのかもしれない。そんな独りよがりの慎一の心を読み取り知るはずの藤木は、何も答えない。答えない事が、答えなのではないだろうか。そもそも、答えてくれても、自分はそれを信じきることができるのか?それすらも、藤木の宥めかもしれないと、自分は勘ぐってしまうのではないか。藤木の能力を未だ完全に受け入れられない慎一だから、藤木は何も答えないスタンスを取っているのかもしれない。何も言わず、慎一自身が藤木の言動から答えを出せばいいと。
4時間目の始まるチャイムが鳴る。
授業なんて出たくない。サボってしまおうかと考えて、どこにも行く当てもないまま、教室とは反対の方向へと歩く。中棟の渡り廊下へと曲がった。向こうから凱さんが歩んでくる。
「おや?新田君。」
「凱さん・・・。」
「チャイム、鳴ったよ。」
「・・・・・。」気まずい無言に、顔をそらす。
凱さんは、うーんと唸った後、首の後ろを掻きながら、「仕方ないな・・・」とつぶやく。「行くか?藤木君の所へ」
「はいっ!」慎一は大きくうなづく。
藤木の退寮の手続きなどで学園に来ていた凱さんは、これから寮で荷物をまとめている藤木を迎えに行き、東京の実家へ送り届けるのだという。
凱さんが運転するワゴン車の後部座席に座って、学園の裏門を出た。生徒のサボりを叱咤するどころか、容認をしてくれた凱さん。いつも慎一たちの心に寄り添って、やりたいようにやらせてくれる凱さんを、慎一は一番頼りになる大人として慕っている。ただ、時に抜けたところがあるのが玉に瑕だけど。
「凱さん、藤木はどうして、実家を嫌がっているんですか?実家で何が?」
「僕も知らないんだよ。僕は新田君なら知っていると思っていたけど。」
「俺は・・・・何も知らない。藤木が悩んでいる事も、苦しんでいる事も、何一つ。あいつは俺たちの事はよく視知って、アドバイスしてくれるのに、自分の事は何一つ言わない。いつも一人で抱え込むんだ。」
「悔しい?頼ってくれない事が。」
「はい。」
「大久保も未だに言うねぇ。何で何も言わないんだって。」
「大久保選手が?」
「うん。お前は何でも一人で抱え込み過ぎるってね。」
「・・・・。」
「別にね、大久保に何が何でも相談したくないって思っているわけじゃないんだよ。大久保を信頼していない訳じゃない。遠慮でもない。ちゃんと親友だと思ってる。ただ・・・」そこで凱さんは言葉を止めた。長く黙ったまま、車は寮についてしまった。凱さんは車を止めると、エンジンを切り、前を向いたまま、静かにつぶやいた。
「何だろうな・・・臆病なのかな。」
「臆病?」
「うん・・・僕は施設育ち。他人とは違う脳もある。」頭を指さす「僕は一般的な家庭を知らずに育った。自分の考え、思いが、もしかしたら一般的なものとはズレているのではないか?そんなことをずっと思っている。大久保に限らず、誰かに話す事によって、そのズレを認識するのが怖い。」
(怖い?)凱さんは、超頭が良くて何の悩みもなく、自信だけの人かと思っていた。それが内に秘めた思いに怖いとは・・・。
「藤木君が、僕と同じだと言ってるわけじゃないよ。だけど、人と違うものがあると言う所が共通しているなって。」凱さんは振り向いて、慎一に微笑む。そして、また前を向きハンドルに顎を乗せて、フロントガラス越しに寮の建物を仰ぎ見る。
「藤木君、今回の事で、かなりのショックを受けている。こういう時って、他人の干渉がうるさく感じるものさ。だけどそばに誰かが寄り添っているのといないのとでは、後々に違って来るものがあると思う。今は藤木君の心に響かなくても。」
それはきっと凱さん自身の経験から来るものだと理解した。凱さんと大久保選手が過去にどんな友情物語があって、互いに親友として認め合うことになったのか、聞きたいところだけど、今、聞けば、確実にその話に影響された自分で、藤木と対面することになる。それは自分自身ではない。と言いながらも、さっきの弥神の言葉が心に突き刺さって抜けない、急速にまた不安が沸き起こってくる。
「俺では・・・」
「ん?」凱さんが振り向く。
「役不足だ。」
「そっか。同じなんだね。」
「えっ?」
凱さんは、苦笑してうなづいた。
「今頃、気づくなんてね。」
「な、何がですか?」
「大久保の気持ちさ。」
「大久保選手の?」
「さっ、行こっか。」凱さんは、何やら勝手に理解して車を降りる。「さぁ、降りて、行くよ。」
慎一は慌てて車を降り、何故が足取り軽やかになった凱さんの後を追う。
理解不能。そこが一般とはズレた感覚?と慎一は首をかしげた。
机の引き出しの中の物を段ボールに投げ入れる。中等部から高等部へ引っ越したばかりで、引き出しの中やクローゼットは、まだ整理整頓されたままの綺麗な状態だったのを、崩していかなくてはならない事が亮のイラツキを増幅していた。
手あたりしだいに掴んでは投げ入れるが、イラツキを解消にはならず、ため息を吐いては、手を止める。もう数十回目かのため息たろうか、机の一番下の引き出しを開けて、ファイルをわしづかみして、雑貨とは別の本や雑誌を入れている段ボールに差し込む。ファイルの奥に隠していた小箱が表れた。かつてはクッキーが入っていた金属製の箱を掴み出し、開けた。そこには捨てるに捨てられない物が入っている。付き合っていた彼女から貰った写真や手紙など、そしてそれらの淡い思い出とは気色の違うもの。折り畳み式のサバイバルナイフ。週刊誌問題の時に馴染みの店で買った物だ。取り出し刃を出して見る。刃は曇りなく蛍光灯の光を綺麗に反射させた。角度を変えると刃の美しさとは対照的に、波紋に歪んだ亮の顔が曇って映る。
(何故、こんなことになった?)
自問し、わからないを、昨日から幾度なく繰り返していた。
気づいたら殴っていた。と答えた亮だったが、殴った感覚も記憶も亮にはなかった。
気がついたら、亮が弥神を殴った状況になっていた、と説明するのが正しい。
亮に馬乗りになって両肩を床に押さえつけている今野。水野は左腕。自分を取り囲んで険しい表情の寮生たち。食堂のテーブルと椅子が乱れて倒れていた。コーヒーカップが床に落ち、まき散らして汚している。
駆け付けた寮管理長に支えられて立ち上がった弥神は、口から血を流していた。
(俺が殴った?)
そう疑問に思いながらも、亮の体の隅に、嫌悪と憎悪の残心があるのを自覚した。だから記憶になくても、認めるには十分な状況だった。
手にしたナイフを見つめ、亮は思う。
(もしあの時、このナイフを持っていたら、殺していた?)
自分に対する疑心が新たに生まれる。
部屋がノックされた。亮は慌ててナイフをお菓子の箱にしまい、「はい」と返事をする。
扉を開けて入って来たのは凱さん。と、その後ろに新田の姿がある。
「荷物のまとめは、終わったかな?」
「あと少しで終わります。-----授業は?」新田をねめつけて亮が言うと、答えたのは凱さん。
「荷物運びを手伝いたいって。助かるよ、僕、腰が痛いんだよね。もう年だから。」腰を曲げてグーでトントンと叩いた白々しい演技。嘘バレバレだ。
「じゃ、僕は事務所に用があるから、二人で荷物を駐車場の車に運んで頂戴。」と言って部屋を出て行く。
新田と二人きりになった。寮生以外の生徒が寮を訪問した時は、下の食堂までしか入って来れない。だから新田は、個室に入ったのは始めてで、珍しそうに周囲をぐるりと見渡している。
「おせっかい。」
「いや俺、荷物運びするなんて一言も・・・」とはにかんだ顔を横に向けた新田は、自分の事のように悔やみ、落ち込み、困惑している。戸惑い怯えもある新田の本心、まとわりつく優しさが鬱陶しい。亮は、それらを払拭するように頭を振った。
「藤木・・・あの」
「それらの段ボールを下に運べ。」新田が言わんとすることを止めた。今は何も話したくない。というより、言える事は何もない。
「あ。あぁ。」新田は、口を噤んで入り口に積み上げていた段ボールを一つ持ち上げて部屋を出て行く。
「うざい・・・」新田も、凱さんも。
(何故、こんなことになった?)
一週間の自宅謹慎の間に、両親を伴って弥神の家に謝罪に行けば、退寮などの話にはならない。だが、弥神が謝罪を望まず、亮が寮に居ることを嫌がった。実家が東京にもあって、通学できない距離ではない事が、その処分が適用しやすかった。その処分が不服ではない。ただ、実家に帰るのが限りなく嫌なだけ。亮と同じ力を持つ柴崎会長が、亮の苦しみを理解してくれた上での一人暮らしの提案は、願ってもない対処だ。その前にクリアしなければならない課題があるけれども。それが数十時間後に展開されるのだと考えたら、亮は憂鬱で仕方がない。また大きなため息を吐き、入れ終わった段ボールにガムテープを貼り、持ち上げる。部屋を出ようとしたら戻って来た新田と鉢合わせる。
「これらもだよな。」と新田は常翔サッカー部指定のスポーツバッグを指さす。
「あぁ」当たり前だろって突込みたかったけれど、それも憂鬱に面倒だ。
新田は変に張り切って荷物運びをテキパキと進めていく。何かの仕事を与えていた方が、思いつめなくて良いみたいだ。そんな姿が鬱陶しい。亮は新田に気づかれないようにため息を吐く。
(何故、こんなことになった?)
答えのわからないまま、亮は玄関先で世話になった掃除のおばちゃんや、寮管理長や事務職員に挨拶をする。
「お世話になりました。それから、ご迷惑をおかけしました。」
「いいよ。学校を退学するわけじゃないんだから。また、遊びにおいで。」
「はい。」
「藤木君、ありがとうね。最後まできれいに片づけてくれて。これ、私達から御餞別。」
中等部と高等部の寮の掃除に来ているパートタイムのおばちゃん二人が、亮に小さな紙袋を手渡してくれた。
「ありがとうございます。」
「ありきたりだけどね。スポーツタオルだよ、使ってね。」
「はい。使わせてもらいます。」
やたらと、にこやかな大人たちの表情が疎ましい。寮管理長は、問題を起こした亮をわずかながら貶した本心を宿していた。
「じゃ、行こうか、二人共乗って。」と凱さんは後部座席のスライド扉を開ける。
「えっ?俺も?」新田が面食らう。
「そうだよ。向うに着いたら、また荷物運びをしてくれないと。」
「でも・・・学校が・・・」今更ながらに、授業の心配をする新田。何しに来たんだよ。と亮は心の中で貶す。
「あぁ、大丈夫、さっき体調不良の早退って連絡を入れといたから。」
寮管理長や掃除のおばちゃんたちが、引き攣った驚きで顔を見合わせる。そんな状況もお構いなしに凱さんは、運転席に乗り込み、亮たちも後部座席に乗り込んだ。
高等部に進学してひと月も経たない内に、傷害事件を起こし退寮する事になるなんて。
(何故、こんなことになった?)
もう、答えを思考する気力なく、ただそのフレーズだけが頭の中でリピートする。
走り出した車、手を振る寮管理長や掃除のおばちゃん達に頭を下げて、やっと解放された気分になる。
凱さんは、オーディオに手を伸ばしラジオをつける。Jポップの曲が流れているFM曲を選局すると、機嫌よく鼻歌をし始める。
「この曲、いいよね。好きだなぁ。」
「凱さん、Jポップ聞くんですね。」と新田が運転席側に身体を乗り出すようにコミュニケーションを図る。
「何だが、意外そうな言い方だね。」
「ええ、意外です。凱さんは洋楽系というイメージが。」
「僕は音楽に関しては、好みがないと言うか、その土地で流れている曲を、ラジオで聞くってぐらいしかしない。拘りなく何でも聞くけど、曲名や歌手を知らないのが多いなぁ。この曲も誰が歌ってるの?」
「あはは。これは、斉藤崇の忘れないでですよ。」
「ほぉー流石、若者は最新情報に強いねぇ~。」
「いや、最新って言うほどでもないですよ。この曲ヒットしてもう2年ぐらい経ちますよ。なぁ。」と新田は亮に話を振ってくる。
亮は外に向けていた顔を動かさず、応じなかった。気配で、新田が気まずく落胆するのがわかる。
(うざい。)まとわりつく、他人の干渉が。
この澄み渡る青空も、流れてくる曲も、注がれる光も。すべて。
(何故、こんなことになった?)
答えは、本当は出ているのかもしれない。わからない事にしておきたいだけ。答えを心の奥底から引き揚げてくるのが怖いのだ。
車内は亮が作った気まずい無言がしばらく続いた。
新緑の樹々が織りなす清々しい景色は、亮の泥水のように留まった心を幾分かにろ過していくよう・・・えっ?
「凱さん?東京の、俺の実家に行くんですよね。」
「そうだよ。」
「道が、違うと思うんですけど。」東京へ向かうのに、こんな山道は通らない。
「柴崎会長は、東京で私立学校振興共済事業団の総会があって、そちらに参加されてから、藤木君のご実家に伺う予定になっていてね、会長が藤木君のご実家に伺うのは。5時ぐらいになってしまうんだよ、遅くなって申し訳ないんだけどねぇ。ご実家には了解してもらっているから。」
「はぁ~」そんなことを聞いているのではない。柴崎会長が家に来て両親と話をするが夕方になることは既に聞いて知っている。的外れな応答に亮はイラっとくる。
「今からだと、だいぶと時間があるねぇ・・・・この辺でいいかなぁ。」そう言って、凱さんはハザードランプをつけ、車を左に寄せ停車させた。
「二人共、降りて。」笑顔で振り向いた凱さん。
「はい?」
「さぁ。」運転席で操作されて、スライドドアが軽快に開く。さわやかな新緑の匂いが車の中に入ってきた。
「あの~一体・・・」
「お・り・て。聞こえなかった?」
「こんなところで、何故?」
「僕はねぇ、今、すっごく腰が痛くて機嫌が悪いよ。」と、急に笑みを消して、凱さんは握った拳をポキポキと音を鳴らす。それが冗談だとしても、かつては空手部だったという事だけで、亮たちは素直にびびる。慌てて車を降りた。
凱さんも運転席から降りてくる。とても腰が痛いとは思えない軽快さで。
「二人共、携帯は?」半ば唖然としている二人に向き合って、手のひらを出す。
「あ、はい持ってますけど。」ポケットから出した携帯を凱さんは、ひょいと掴んで自分のスーツのポケットにしまう。
「えっ、ちょっ」
「財布は?」
「鞄の中・・・」亮は車の中にある学生鞄を指さす。
「俺は学校に置いてきたまま。」と新田。
「よしっ。そうだなぁ。上流階級っ子には、ちょっと厳しいかなぁ。軍資金として、千円だけ渡しておこうかな。」
そう言って、スーツの胸のポケットから自分の財布を取り出し、ぴらっと亮の前に差し出す。
「僕は優しいねぇ。」
「軍資金?」新田と顔を見合わす。
「時間はたっぷりある。二人で5時ごろまでに藤木君の実家、東京の白金台まで来て頂戴。」
「えっ?」
「じゃ、頑張ってね。」と片手を上げて、スライドドアから車に乗り込み、すぐさまドアは閉められた。
「ちょっちょっ、凱さん!」亮たちを振り切るように車は乱暴に走り出し、すぐさま車体は見えなくなった。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
新田と再び顔を見合わせる。
「あの人、何がしたいんだ・・・」
「それよりも、ここ、どこだよ。」
「神奈川県の・・・・山ン中。」
「アバウトなナビだな。」
「んな事言ったって・・・お前こそわかんねーのかよ!生まれた時から神奈川県民だろうが!俺は地方出身者だ!」
「俺は、自営業の家業のおかげで、どっこも連れてもらった事なんかないんだ!彩都市周辺しか、知らん!」
「ったく。役たたねぇな。」
「お前こそ、博識の藤木だろうが!ここが、どこかぐらい知っとけよ。」
「それは、勝手にお前らが言ってるだけだっ!俺は公言も自慢も一度だってしてないっ。」
「知ってる知識ひけらかして、女子から藤木君すごーいって言われて鼻の下伸ばしてるのは、十分な自慢だろ。」
「嫉妬か?お前ファンクラブが解散してモテなくなったもんだからって、妬くな、見苦しい。」
「嫉妬なんかするか!俺は元よりファンクラブには迷惑してたんだっ!お前の女好きの価値観と一緒にすんなっ!」
「お前が鼻の下伸ばしてるとか言うからだろっ!」
車が一台、亮たちの横を通り過ぎていく。
「あぁ!ヒッチハイクすりゃよかった!」新田が頭を抱えて、過ぎ去る車を惜しむ。
「そんな簡単に止まるかよ。」
「わかんねーだろ!やって見なくちゃ。ここにずっと立ってるわけに行かないだろうし。」
「歩くしかねぇな。」
「はぁ~、ほんと、あの人、何がしたいんだよぉ。」
二人して、凱さんの奇行に溜息しかでない。
しかし、おかげで亮に向けられていた新田の心配は、自分の心配に変化し、まとわりついていた鬱陶しさが無くなった。
無言で、藤木と道路脇を歩く。ここは、たぶん神奈川県のどこかの山ン中。目指すは東京の白金台、なのだけど、この方角で合っているかもわからない。とりあえず、凱さんが消え去った方向に歩いてはいるが、正解かどうかは分らない。凱さんはわざと反対の方向へと向かったのではないかと、疑う気持ちも沸き起こる。車に乗っている間、道路標識をちゃんと見ておけばよかったと後悔。慎一は、気まずくなった車内から逃げるように外の景色に顔をむけてはいたが、藤木の事を考えていて、それらを意識して眺めてはいなかった。
藤木に言ったように、慎一は彩都市外の土地に疎い。ここが神奈川県のどのあたりに位置しているのかもさっぱりわからない。時折、大型トラックが走り抜けていくナンバープレートが、他県ナンバーばかりで、もしかしたら神奈川県じゃないかもしれない、と慎一は更なる不安にかられる。
慎一は、後ろからの自動車の気配に振り返っては、親指を上げたグーを前に出してヒッチハイクをするが、止まってくれる車はない。藤木は鼻から「そんなもん無理だ」と言って、通り過ぎる車に見向きもしない。とりあえずこのまま歩いていればどこかの街に出るだろうと、楽観的だ。今どきは公衆電話もないだろうが、適当な人家を訪問し電話を借り、タクシーを呼べば良いと藤木は言う。それにしては、千円だけではお金が足りない。と慎一が言うと、「そんなもん、東京の白金台に腐るほどあるんだ、向うに着いてから払えばいい」と言う。
こういう考えが、一般市民の慎一には発想できない感覚であり、若干ついて行けない所である。凱さんは、上流階級っ子に厳しいかなと言っていた。もしかしたら、藤木のこういう何でも金で解決するような価値観を正すために、こんな所から東京まで来いと降ろしたのではないだろうか?と考える。そうだとしたら、慎一はいいとばっちりだ。
「はぁ~」ため息を吐いた。前を歩く藤木は振り向き、貶した視線を送ってくる。
「もうへばってんのかよ。」
「へばるかっ!これぐらい、真夏の練習より楽だ。」
4月の後半、山の中で日影が多いとは言っても、アップダウンの道路をずっと歩いていれば、身体が熱くなってくる。慎一は制服のジャケットを脱いで、ネクタイも外しシャツを腕まくりをした。幸いなのが、靴がスニーカーだったって事。学園は革靴で登校しなければならないけれど、体育の授業や昼休みのサッカー用として、下駄箱ロッカーにはスニーカーを常置してあった。凱さんに寮へ行くのを誘ってくれた時、こういった事を想定したわけもなく、ただ手に取ったのがスニーカーだった。これが革靴だったら藤木が言うように、もうへばっていたかもしれない。
「お前は良いよな、ジャージで。」
「どこがだよっ!制服の方がいいわ!」
「何でだよ。そっちの方が動きやすいじゃねーか。」
「これは、部屋着だ。まさか、昨日からこの服のまんまになるとは思ってもなかった。」
昨日、弥神を殴ってから柴崎家に連れていかれて、そのまま泊まって、退寮が決まり、朝から荷物をまとめて、東京の実家に帰るところだったのが、何故かこんな山ン中を歩く羽目になってしまった藤木。
「町に出たら、服屋を探す、俺、こんな恰好で東京に向かうの嫌だ、恥ずい。」
「だからっ、金ないだろ。」
「くそっ、カードは財布と別に持っておくんだった。」
「この状況で、着る物の心配かよ。」
「お前の迷子の心配よりマシだ。」
「迷子を侮るな!迷子は一歩間違うと遭難だぞ。命に係わるんだぞ。」
「舗装した道路歩いて、命に関わる遭難なんかするかよ!」
「甘いっ!俺とりのは、5歳にして迷子から捜索願いに変わった遭難をした!」
「それ、自慢?」
「んー思い出、話しかな。」
「・・・良かったな。楽しい思い出が沢山あって。」藤木はそっぽを向く。
やっといつもみたいに話せたと思ったのに、また無言になってしまった状況に、もっと違う展開にできなかったのかと反省する。最近よく感じる藤木の拒絶に慎一は戸惑いを覚えていた。
『独りよがりの親友かもしれぬな。』弥神の言葉がよみがえる。それは、ユース16に選抜された電話があった日から、慎一が心に生じていた不安を的中したもの。
夢を語りあう友を、学校そして彩都FCでは作れなかった慎一にとって、それが出来、その為に今何をすべきなのかなどを語り合える藤木の存在が、友人から親友へと信頼を強めてこられたのは必然であり、渇望していたものだった。言葉にしなくても親友という信頼と絆は藤木にもある。と、思うまでもない無意識の状態だった。それが自分と、藤木のとは違うのかもしれないと思った瞬間から、意識せざるえなくなった「親友」という関係性。
万人、思考も性格も違う事は重々わかっている。藤木の生い立ちは標準的な慎一のとは違うことも。だけど、その多様性があったからこそ、慎一達は沢山の危機を乗り越えてこられた。乗り越えて来た分だけ絆は強くなった。それは互いに認識していた。だけど親友としての距離感はどうだろうか。弥神が言うように、そもそも親友として慎一の事を思ってくれていなかったのではないか?
だから藤木は、自分の生い立ちや家の事をずっと慎一に話さなかったし、今もそれらの話を嫌う。
(何故、もっと話してくれない?)
(何故、もっと頼ってくれない?)
「なぁ、藤木・・・」呼び止めたものの、直球に投げかけて、すぐさま答えてくれるとは思えず、藤木が慎一の言いたいことを読み取ってくれることを期待して言いよどむ。
藤木は足を止めて振り返る。そして、目を細める。何時の頃からか、その仕草が人の本心を読み取っている瞬間だと慎一は理解して、待っていた。だけど、藤木は顔を横に向け、何も言わない。
完全なる拒絶。慎一の胸は、ぎゅっと掴まれた様に苦しくなる。
「そうやって、俺のはお見通しだろ。だけど俺は、藤木の気持ちを知る術がない。」
「悪いな、やめようとして、やめられるもんじゃないんだ。」
「責めてるんじゃない。俺は助かっている事の方が多いし、今更、隠さなきゃなんない事もない。だからこそだよ。俺だけがそうやって、藤木にすべてをわかってもらえているのに、俺は何一つ藤木の事、わからない。」
「ずるいとか言うのか?」
「あぁ、ずるい。俺の事ばっかりで一方通行だ。俺は知りたい、藤木の気持ち。」
「ぷっははは、お前、よくも恥ずかしげもなく、そんな事、言えるなぁ。」藤木は、大げさに笑いだす。
「なんだよ。」
「あーあ、これが女の子だったら、この上なくうれしいセリフなんだけどねぇ。藤木君の気持ち知りたぁい。なぁんて。」
おどけて女の声色を出す藤木に、慎一は腹が立った。
「じゃ、女ならその心内、話すのか?柴崎に話したか?」
笑みを消して、また目を細める藤木。
「話さないよな。お前は誰にも。すべて自分で解決しようとするんだ。あの時だって、お前は誰にも相談もなしに退学届を出して。」
「何が悪い。」
「悪いなんて言ってない、俺は悔しいんだよっ!」
「・・・・・・。」
「お前は、抱え込む苦しみを言わない、言うに値しないほど俺は頼りないのかって。」
藤木は首を振り、息を吐いた。
「じゃ、お前は、何もかも俺に話そうとしてきたか?この俺の能力に甘えて、俺なら言わなくてもわかってくれると口を噤んできたんじゃないのか?たまたま俺にこの能力があるから、ずるい一方通行になったように見えるだけで、言いたくないと思う気持ちがあるのは、俺もお前も同じだ。なぜ俺だけが言わない事を咎められ、言えと強要させられる?」
「強要とかじゃなくて・・・」
「お前には、読み取った本心にとやかく言った事はなかったはずだ。お前がりのちゃんに寄り添い、死ぬ事すらも寄り添おうとした時も、りのちゃんが公立に行こうと悩んだ時、夢を捨ててりのちゃんに付いていく決心をした時も。俺はお前のその決心を読み取り知っていた。けれど俺は、お前が心で決めた事を、咎めはしなかった。」
「ああ、だけど・・・」
「俺はこの能力で読み取った他人の本心が、どんなに非道であっても咎めはしない。本来なら、知るはずのない事だからだ。一方通行だと思うのは錯覚だ。たまたま、お前と柴崎、りのちゃんに、この力を知られてしまった。知らなかったら、ずるい一方通行だなんて思わない、言えないはずだ。」
「そんなのは、屁理屈だ。俺は知ってしまったし。知らなくても、俺はきっと藤木に思ったさ!何故、何も言ってくれないんだって。もっと、頼ってくれないのかって。」
「・・・・言えば、親友になれるのか?」
「っ・・・」
「何もかも話して、はい、親友ですって、そんな簡単なものか?」
「・・・・・。」慎一は唇を噛む。
「お前は、知らないから、そんな甘い事が言えるんだ。」
それを言われたら、お終いだ。俺は藤木の視ている世界を知る事が出来ない。だけどそうやって突っぱねる藤木に腹が立つ。
「ああ、知らないよ、知らないから言って欲しいって、思うんだろう!」
藤木の顔がゆがんだ。
「お前に何ができる!人の裏側を知らず、ぬくぬくと夢を追いかける事が出来てきたお前に、俺のを知ったところで、何が出来る!」
今度は慎一が顔を歪ませる。何もできない自分が不甲斐ない。そんな慎一から藤木は、視線を逸らして深呼吸をする。そして落ち着いた声で語る。
「お前とは、視てきた世界が違う。言ったところで理解できない。それはお前が頼りないとかじゃなくて・・・理解できない事が当たり前の事なんだ。」
これが、相違の距離。親友に値しないと烙印されたようなものだ。
凱さんの言葉が頭によみがえる。
『・・・こういう時って、他人の干渉がうざく感じるものさ。だけど側に誰かがいるのと居ないのとは、後々違って来ると思う。今は藤木君の心に響かなくても。』
「・・・当たり前に理解できなくても、それでも・・・やっぱり、言って欲しい。」
悔しい、藤木に認められない自分が。
そう呟いて俯いた新田を見て、後悔した。やっぱり本音なんて言うもんじゃないと。
新田を認めていないわけじゃない。逆だ。亮は新田の真の凄さを知っているから認めている。
亮は新田の本心を読み知る度に、人に対する情の深さに感嘆し屈服していた。それは、亮がどんなに意識して真似しても培うことの出来ないもので、驚異でもあった。
その熱い情が、今、純粋に亮に向かって来る。
耐えられない。
冷めた自分の情、濁りきった心が際立つ事に。
新田の後ろからトラックが走ってくる。気配に気づいた新田が後ろを振り返り、性懲りもなくヒッチハイクの合図を送る。
トラックが通り過ぎる風と共に、亮は顔をそむけた。
ヒッチハイクなんて無理に決まっている。学校に居なければならないはずの時間帯に、学生が山の中でヒッチハイク。面倒に巻き込まれたくないと思うのが普通だ。人の情を信じきる新田、信じられない亮の、根本からの相違がここにある。
「停まってくれたっ!」新田が叫ぶ。
振り返ると通り過ぎたトラックは、100メートルほど先でハザードをつけて片寄停車している。
「助かった、行こうぜ。」新田はさっきの言い争いを無効にするかのように、亮の肩をポンと叩き駆け出した。
「君たち、何してるの!こんな所でっ!」
トラックの運運転席から顔を出した人は、長い髪の半分から下が脱色で金色になっている、どう見てもヤンキーのおねーさんだった。亮たちは駆け出した足を止めて、互いに顔を合わせた。恐怖で後悔した新田の本心を読み取る。
(だから止めときゃ良かったのに。)亮は大きなため息を吐いた。
新田は自分がトラックを止めておきながら、中々乗り込まず、仕方なく亮がヤンキーお姉さんの、すぐ横の真ん中の席に乗り込み、新田が助手席のドア側という並びで車は発進する。亮たちは、このヤンキーのおねーさんの好意で、東京に向かう鉄道駅まで送ってもらう事になった。当然、何故学生が、こんなところ歩いているんだという質問に、亮が簡単に説明をする。
「ふーん。そのセンコー面白い事すんねぇ。」
「先生じゃなくてですね。学園の理事長補佐なんです。」
「理事長って何?」
「えーと。学校の経営者ですね。」
「経営って、私立の学校?」
「はい。」
「へぇーお金持ちなんだね。学校なんてさ、タダで行けるのに、わざわざ金払って行くなんて。」
「えっ、あぁ、まぁ。」
「あたしなんかさぁ、タダでも行かなかったけどさっ!あははは。」豪快に笑うヤンキーおねえーさんは驚くことに、妊婦だった。大きくなったお腹にハンドルが当たっている。シートベルトもソケットに刺さずに、左肩に駆けているだけで完全に違法。いや、妊婦はシートベルトの着用義務が免除されるとか、あったんじゃなかったか?自分の知識もこの程度の物だ。
「おねーさん。運転、大丈夫なんですか?」
「あぁ、これ?大丈夫、大丈夫。まだ予定日まで一週間あるし。」と大きなおなかをポンポンと叩く。
「いっ!一週間?!」
「そっ、あたしは、あんた達みたいにお金持ちじゃないからさ。ギリまで働かなくちゃ生活出来ないんだ。」
「・・・・。」
腐るほどある藤木家の財産は、生涯、無職でいても楽に過ごせる人生が10回以上できるほどある。そんな家に生まれた亮。片や出産間近まで働かないと生活出来ないと言って大きなトラックを運転するおねーさん。この大きな格差があるのが日本の現実。昔、りのちゃんに言われた事を思い出す。『学園の授業料とか親に世話になってるのに、実家を嫌って親を悪く言うのはおかしい』と。その時、亮は『こっちは、それ以上の迷惑を被っている、俺が贅沢して藤木家がつぶれるなら本望だ。世の為人の為に、藤木家はつぶれた方がいいんだよ。俺はそれを手伝ってる。』と言った。本当に一切の財産が無くなってつぶれてしまうと、何もできなくなる不甲斐なさは自覚している。今、困っていないからこそ、そんな強がりを言えていた。亮は、嫌う親の金を使って、口先だけで強い事を言う弱い人間である。
「だけどさぁ、寮を退寮する事になったって、なぁに悪いことしたんだぁ。タバコか?酒か?シンナー?万引か?」
次々と出て来る悪事に、亮たちはたじろいで無言になる。
「それとも・・・女を寮に連れ込んでセックスか?」
「そんな事しませんっ!」
「あははは、冗談だよ。」遊ばれているようだ。「んで、何やったんだ?」
「喧嘩・・・です。同級を殴って。」
「はぁ?喧嘩ぁ?喧嘩だけで追いだされんのぉ?」
「だけって・・・・相手に怪我をさせてしまいましたから。」
「あっははは、やっぱ私立のお金持ち学校はちがうねぇ。あたしが行ってた学校、あーまともに最後まで行かなかったけどさ、喧嘩の殴り合いなんて毎日やってたよ。喧嘩で追いだされてたらさぁ、学校から人が居なくなってたんじゃね。センコーも容赦なしで生徒を殴ってたしな。あははは。懐かしー。」
どんな学校だよ。って、心の中で突っ込む。
「喧嘩は良いね。ストレス解消になったろ。スカッと。」
「そんな、ストレス解消だなんて・・・」
「あー。そうかぁ。世界が違うか。ごめんごめん。」
乗せてもらっている人に謝らせてしまった。変な無言が続く。あまりにも世界観が違う人との会話に、どんな話題をして場を繋げばいいかわからない。学園で博識だと言われていても、結局、一歩外に出ればこんなもんだ。
「二人とも勉強、楽しい?」おねーさんの方から、亮たちに寄せて話題を提供してくれた。
「えぇ、まぁ。楽しいとは言えませけど、勉強はやらないと辛くなってきますから。」
「ほぇ~。そうか。」おねーさんは、お腹をさする。「やらないと辛くなってくる。いいこと言うね。そうだよね。あたし、やらなかったから、わからなくて嫌になって、どんどん辛くなって、そして、このざま。」
「あ、あの、そんな風な意味で言ったんじゃ。」
「あはは、わかっているよ。やっぱさ世の中、学歴社会っていうの?そういうのを最近になってヒシヒシと感じるんだ。ちゃんと勉強していたら、もっと別の人生やってたかなって。年食ってから思うなんてね。遅いよね。」
「年って、おねえーさんいくつですか?」
「女性に年を聞く?」眉をひそめたおねーさん。
「あっすみません。」
「まぁいいよ・・恥じらう柄でもねーしな。29。」
手塚先生と同じ年、この世代って豪快なタイプの人が多いのか?と心の中で思う亮。
「君たち、あたしみたいにさぁ・・・なんない、ように・・・・しっかり勉強・・・・・・くっ。」急に言葉を止めたおねーさん。見ると、顔をゆがませて、睨みつけるように前を見ている。その視線の先を見ても何もない。
「っ・・・。」
「おねーさん?」
おねーさんはトラックを左に寄せて、止めてお腹を抑えてハンドルに顔をうずめた。
「だっ大丈夫ですか?」
「だ、いじょうぶ・・・じゃ、ないかも・・・」苦しそうな声を出すおねーさん。
「えっ!」
「産まれそう・・・・」
「はい?!」亮は裏返った声を出す。
「あれ、慎一はまだ?」テーブルにトレーを置いて首をかしげるりの。
「そうみたい。」
「私より遅いって珍しいな。特選の4時間目は、体育かなにかの実習?」
「さぁ~、他のクラスの時間割なんて知らないわ。」
特進クラスは、国立大学や医学部とかを目指すクラスだけあって、時間をめいっぱい使って授業をする先生が多く、りのはいつも私達より遅れて一番最後に食堂に来る。中等部からの仲間6人は、給食の時間に集まり一緒に食事をするのが定番となった日常。クラスがバラバラになって、個々の出来事を話す共有の時間となる。
今日から1週間、亮とは、給食どころか、学校にも来れないで会えない。麗香の左隣はしばらく空席が続く。
今頃は、実家で食事している頃かしら。ちゃんとご両親と向き合って、一人暮らしの許可が取れるかしら?と麗香は心配が尽きない。
寮の封鎖期間でさえも帰らずホテルで過ごしたことのある亮、そこまでご両親を嫌う何があったかは、麗香は知らない。凱兄さんに聞いても知らなかった。新田でさえも知らないと言う。誰にも何も言わない亮、付き合っている時、もっと心を開いてくれるのではと期待して待っていた麗香だったけれど、深く知ったものは何もなかった。
りのが食事を終えても新田は食堂に来ない。
「本当にどうしたのかしら。」
「藤木が居なくて泣いてんじゃねぇ?」今野が面白がった冗談を言う。
「ほんと二人、仲が良いもんね。」と佐々木さん。
「仲いいって言うか、依存だよ。新田は何か困った事があったら、すぐ、ふじきーぃどうしたらいいって頼るからな。」今野が新田の口真似をする。
「何言ってるの。あんたもそうでしょう。佐々木さんと別れて、俺どうしたらいいんだぁって。」麗香も今野の声真似をした。
「やっ、やめろよっ柴崎!」
「はぁ~。」佐々木さんが深い溜息を吐く。
「新田の携帯にかけてみようっと。」
今野が携帯を取り出す。新田と同じクラスの沢田が食堂から出て行くのを麗香は見つけた。沢田も新田と同じ中等部からのサッカー推薦の合格者である。高等部も同じ進路であるから、特選クラスが特別授業で遅くなっているという事はなさそう。
「あれ?おかけになった番号はってなる。」と今野。
「どうしたのかしら?」
とその時、私の携帯の呼び出し音が鳴る。
「凱兄さんだわ。はい。」
「あぁ麗香、食事中悪いね。」
「ううん、もう食べ終わってるわ。」
「そう。あのね、新田君、僕と一緒だから。」
「はぁ?一緒って?」
「藤木君を実家に送って行くのに、新田君も一緒に付いて来ているから。」
「えーうそっ。授業は?」
「4時間目からサボろうとしてたからねぇ、連れてきた。」
「何やってんのよ、あのバカっ。」
「教師陣には、体調不良の早退って連絡してるから。麗香悪いけど、新田君の鞄、どうにかしといて。今日は学園には戻らないし、帰りも遅くなるから。んじゃ、そういう事で、よろしく。」
「ちょっ、ちょっとっ、凱兄さん!」一方的に電話を切られた。
「どうした?」食後に読み始めていた本から顔を上げるりの。
「新田、藤木の実家について行ってるって。」
「はぁぁああ?」今野と佐々木さんの声が揃う。
「4時間目から、授業サボってんのよ。凱兄さんが早退扱いにして、新田の鞄をどうにかしといてっ頼まれたわ。りの、新田の鞄を家に持って帰ってくれる?」
「えー!ヤダ。」
「今日、新田家に行く日じゃないの?」
「行く日だけど、ヤダ、重たいっ。」
「重たくないわよ。どうせ置き勉して、教科書入ってないでしょう。」
「だったら、もう、学園におきっぱで良いじゃん。」
「そういうわけにはいかないわ。教室に置きっぱなしだったら、不審がられるじゃない、他の生徒に。」
「むぅ・・・」りのは本気で嫌そうな顔をして、また本に視線を落とした。
「ほんと、どこまでも仲いいわね。新田君と藤木君。」
「呆れる、仲良いってレべルじゃねーぜ。実家まで追いかけるか?普通。」
「あぁ…なるほど。藤木と慎一はこういう仲かぁ。」りのがつぶやく
「どういう仲よ。」
「ムフ・・・ムフフフ。」りのは変な笑いをする。
「リノ?何を読んでるの?」
佐々木さんの質問に答えるように、りのは本のカバーを取り、皆に表紙を見せた。
「いっ!」
「何ちゅう本、読んでんだ!」
それは、上半身裸で抱き合うイケメン二人のイラストが描かれたティーンズ文庫。その絵を見るのも恥ずかしいボーイズラブ。
「本の趣味、変わった?」
「えりちゃんに借りたんだ。面白いよって。ほんと面白いよ。」
「馬鹿えりっ!くだらない物、貸してるんじゃないわよっ。」
「そうかぁ慎一と藤木も一線を超えるかぁ。ムフ、フフフ。」とまた変な笑いでニヤつくりの。
「・・・。」
おそらく全員が想像した。亮と新田がこのイラストのように抱き合うシーンを。
「やっ、やめっ!その本、没収!それ以上読まないのっ!」
「うげー想像しちまったぁ・・・」
りのの手から、本を取りあげた。冗談じゃないわ。こんな低俗な知識をりのの頭の中に入れたら、華選の品位に関わる。
「あぁ、今、面白い所だったのにぃ。」ほっぺを膨らますりの。
「駄目よ、こんな低俗な本、読んじゃ。」
「低俗って、単なる恋愛小説じゃん。」
「単なるって、アブノーマルでしょうがっ!」
「アブノーマルで何がいけない。フランスでは普通に居たぞっ、ゲイのカップルも、レズのカップルも、普通に公園でキスしてたし、車ン中でセッ」
「ぎゃー、止めっ!やめっ!すました顔で言うんじゃないのっ!」麗香の方が顔を赤らめる。
「やっぱ、リノは育った環境が違うって思い知らされる価値観だよな。」
「ええ・・・。」
「とにかく、この手の読み物は禁止よっ!」
「何故に麗香に禁止されなくちゃなんないのっ」
「私が禁止しなきゃ、誰が止めるのよ!あんたの無恥心を!」
「意外に麗香ってウブぅ。かわいいっ。」
「かっ、かわいいって。」
「そんな麗香が好きだよっ」りのが私に抱き付いてきた。
「ちょっ!やめてっ!」
「いやー藤木と新田の関係もさることながら、お前らだって大概だよな。」
「ちがうっ、私はノーマルよっ。」
「麗香の体、あったかいんだよぉ~。」
「こらーっ!ちがっ、違うから、りの離れて!」
「柴崎さんとリノは一線を超えたのね。」
「違うって!」
(まさか、本当にりのはレズより?そういえば、やたらえりを可愛いって、クリスマスの時なんか裸で抱き付いていたし。
うそっ、だから余りある新田の愛情に応えられないとか?
辻褄あっちゃうところが怖いっ!)
怖い・・・この状況に。
人の本心を読み取る事で、ある程度の先が予測し対処をしてきた亮、だけど、こんな状況は今までに経験がない。おねーさんはハンドルに顔をうずめて痛みに耐えている。
「うっまれるって・・・な、何が?」と頓珍漢な事をつぶやく新田。
「子供に決まってんだろっ!新田、救急車呼べっ!」
「・・・・・。」青い顔をした新田はシートベルトを握り、動こうとしない。
「何してるっ、早くしろっ!」
「け、携帯、ないだろぉ~。」
(あぁ、そうだった。凱さんに取り上げられたんだった。くそっ。)
「あ、あたしの・・・・使って・・・」
歯を食いしばりながらおねーさんは、ダッシュボードの上に置かれてあった、時代錯誤と思われる2つ折りタイプの携帯に手を伸ばす。塗装も剥げてボロボロの携帯は、襲って来た痛みに唸ったおねーさんの手から落ちて運転席の足元に転がる。亮の場所からは届かない。
「新田、外から回って、拾って。」
「う、うん」
新田が慌ててトラックを降り、回り込んで運転席のドアを開けると、ドアポケットに差し込んでいたドリンクホルダーからプラスチックの水筒が跳ねるように落ちた。
「あぁ・・・携帯がっ!」水筒の蓋がきっちり閉められていなかったようだ。お茶でびしょびしょに濡れた携帯を拾い、電源を入れようとする新田を亮は止めた。
「やめろっ新田、電源入れたらデーター吹っ飛ぶ。」
携帯には赤ちゃんの写真のプリクラが貼ってあった。きっと一人目の子供の写真。おそらく携帯の中には写真のデーターが沢山入っていることだろう。水浸しの携帯に電源を入れるのはご法度だ。まして時代錯誤的な二つ折りの携帯は、防水仕様も今ほど完璧ではないはず。
「どっ、どうすんだよ・・・」
「んあっ・・・」おねえーさんは苦痛の叫びで亮の腕をつかんだ。凄い力。
「ひぃっ・・・」変な悲鳴を上げる新田の、凝視する下を見れば、ピンクのシートカバーに赤い物が滲んで広がっていく。
「くっ・・・・」おねーさんは更なる凄い力で亮の腕を握ぎり、震え出した。
広がっていく赤いもの、それは血である事に、新田じゃなくても、亮は青ざめる。
怖い・・・・この状況が。
生まれる、赤ちゃんが、
こんなところで!?
ダメだ。
どうにかして救急車を呼ばないと。
携帯は使えない。
どうすればいい。
亮は周りを見渡す。トラックは山を抜けて、田んぼや畑が見え始めた本当に何もない場所。車もこういう時にかぎって一台も通らない。畑の向こうに屋根が見えた。
「新田!向うに民家があるっ!そこで電話を借りて救急車を呼べっ!」
「あぁ・・・わっわわ。」昔のトラウマで他人の血にめっぽう弱い新田は、もうこの世の終わりのような青い顔をして、ドアに縋りついている。おねーさんに腕を掴まれている亮は動けない。
「新田!しっかりしろっ!お前の方が足が速いっ!」
「なっ何・・・」完全に思考停止状態に陥っている新田は、腰を抜かし立っているのがやっと。
「走るんだっ!新田!あそこの民家までっ!電話を借りて救急車を呼べ!」
「うっぅう・・・・」お姉さんが苦しそうなうめき声をあげる。
「新田、行けっ!」何かの景品か、手元に親指大のソフビ人形が無造作に置かれてあったのを掴んで投げた。ソフビ人形は新田の額に当たり新田はスイッチが入ったように叫び声をあげ、駆けだした。亮は、逃げるように走り行く新田に、センターリングのパスを上げるような気持ちで、「頼むぞ」と祈る。
「ごっ・・・・ごめん、ね。めっ迷惑、かけっちまって。」
「おねえーさん!」
「あっ・・・ありがと、けっ、携帯、これには、大事な…写真入ってんだっ。だから、まだ買い変えられなく・・・て。」
「おねーさん、無理してしゃべらなくていいよ。」おねえーさんは眉間に皺を濃くしながら首をふる。
「痛みを、紛らさないと・・・マジで今、産みそう・・・・」
(怖いぃぃ。)
「も、もう少し、が頑張って、我慢して。」亮の声は裏返り、かすれる。
「あ。ぁぁ、ありがとう。ぐっ・・・・。」腕に食い込むおねーさんの爪、亮は刃を食いしばり耐える。おねーさんの方が痛いはずだ。おねーさんの顔は見る見るうちに青く、白くなっていく。
(しっかりしろ藤木亮。金も権力も、人脈もある国家を動かす力を持つ藤木家の長男だろ。)そう心で言い聞かせて、それがこんな場面では何の役にも立たないことに気づき、情けなくなる。
「携帯の・・・中の写真・・・一人目の子の写真が入ってんだ・・・・あたしは、さぁ・・・・中学んとき粋がって・・・色んな悪さをしてきた。・・・快楽だけでやりまくって・・・妊娠してるってわかったら、ゴミのように胎してさ・・・・うぅっ・・・・」
またお姉さんの爪が腕に食い込む。痛みに波があるようだ。って事は、完全に陣痛だ。
(早くしろ~新田ぁ~)祈る事しかできない。
「あぁ・・・あたしは馬鹿だなぁ、やっぱり・・・その中絶の子が一人目なのになぁ・・・・はぁはぁ。」
「おねーさんっ。」
「携帯の写真の子は、二人目・・・・、死んだんだ。・・・・・生まれて3か月もしないう・・・・ちに、原因不明、突然死って奴。・・・・あたし思った。胎した子が怒ってるんだって・・・・・あたしが、まともに生きてこなかったから・・・、神様が罰を与えてるんだって。」おねぇさんから強烈な、哀しみを読み取る。悲痛な心の痛み、それはりのちゃんのお母さんに読み取れていたものと似ていた。
「あれから・・・・欲しくても・・・・ずっと出来なかった・・・・やっと出来た・・・・3人目・・・・・うぅっ。死なす…訳に・・・いかないっ・・・・」
亮は掴まれたおねーさんの手を、左手で上から覆った。冷たかった。貧血で体温が奪われているのか、医学の知識なんて無い。
必要な知識がない自分の不甲斐なさを呪った。掴まれている腕だけ残して上着のジャージを脱ぎ、裏返しでおねーさんの腕と肩の方に被せた。亮は後ろの荷物席に何かないか、身体をひねって見渡す。亮の座席の真後ろに毛布があるが、腕を掴まれたままだと届かない。
「おねーさん、ごめん。毛布取りたいから。」おねーさんの手を掴むと、初めて自分が亮の腕を掴んでいた事に気づいた風に「ごめん」と苦しそうに手を離した。亮は急いで毛布を取り出し、おねーさんの体に包ませた。
「おねえーさん、座席を倒した方がいい?」
「いや・・・このままの方がいい・・・動くと・・・ほんとにヤバそう・・・」
シートに抑えつけて、生まれそうなのを止めてるって事?!
「がっ頑張って・・・・まだ産まないでよぉ・・・救急車を今呼びに行ってるから。」
「あぁ・・・・」
(早くしろぉ新田ぁ。まさか、あいつパニックって、自分がしなきゃなんない事を忘れたりしてないだろうなぁ。)
「あ、あいつ・・・学園で一番足が速いから、すぐ民家のとこまで行って電話をかけてくれるから。」
その言葉は、おねーさんだけじゃなく、自分に対してでもある。何もできない亮は、新田を信じるしかない。
毛布の下にあるおねーさんの手を握った。
「あぁ・・・ありがと。」おねーさんは、うつろな顔を亮に向けた。
「この子、男の子、なんだ・・・・無事に生まれたら・・・・君みたいに、賢くて・・・・優しい子に・・・・育って欲しいな・・・・」
「俺、優しくなんか・・・」
「・・・名前は?・・・・聞いてなかった。君の・・・・」
「藤木亮。」
「亮君かぁ・・・良い名前じゃん・・・・も、貰おうっかなぁ・・・」
もう声もかすれてしまってきているおねーさん。
「えっ、いやっ・・・」
「あぁ、そうだよね・・・・・嫌・・・だよね・・・・・こ、こんな馬鹿女の・・・・子供と一緒の・・・名前だなんて・・・・」
「違いますっ!」思わず叫んでいた亮は、一度唾を飲み込んで息を吐いた。「俺は、優しくない・・・。」
おねーさんは大きく息を吐いて目をつぶった。
「俺は・・・人の本心を読み取って、悩みとか知ってるくせに、自分に関係のない事だったら平気で見捨ててほっとくし。こんな能力は要らないと言いながら、この力がなければ困るぐらい、もう依存していて、都合よく使って、とやかく言わないと言いながら、心では貶して笑ったり・・・本当は世間に絶望してるくせに、まだ夢を捨てられないで、他人の成功を妬んで、心からおめでとうと言わない最低な人間なんです。」
何だか、思いの言葉が口から次いで出で来る。止まらない。おねーさんは、目をつぶったまま黙っている。
「俺は、金の苦労もした事が無いし、そんな家に生まれた事を一度だって、感謝したことなくて、逆に嫌って、壊れてしまえばいいと願ってるくせに、自分からはそれらを捨てる勇気もない。」
もう自分が何を言っているのか、何を言いたいのかわからない。
「俺は・・・檻の中で吠えてるだけの、番犬にもならない小さい人間なんだ。俺の名前なんか使ったら、赤ちゃんがかわいそう。」
そっと目を開けて、亮の握った手とは反対の左手を伸ばしたおねーさんは、亮の頭に手をのせた。
「やっぱり・・・・優しいじゃん・・・・いろんなことに悩やむ気持ちが・・あるって・・・・優しい、証拠だよ・・・・」
無理な体制で亮の頭に手を伸ばしたおねーさんは、亮の膝に倒れ込んだ。
「おねーさんっ!しっかりしてっ!」
「はぁぁ~いい子、見つけたなぁ~。」独り言が風に飛ばされていく。
全開にした窓から入ってくる風に火照った体を晒しながら、さっきまでの楽しかった余韻に浸る。
藤木君と新田君を降ろしてから30分ほど走ったところで、温泉ホテル旅館の看板を見つけた。日帰り温泉歓迎と書かれてある。このまま東京に戻ってもやる事がない。凱斗は生まれてから温泉というものに入った事がなく、露天風呂に入ってみたいが、身体中にある傷では断られるのでないかと危惧して、今まで嫌厭して来た。大衆風呂はダメでも、内風呂ならいけるかもしれないと、ダメもとでその温泉ホテルへと車を向けた。体に大きな傷があるとフロントカウンターで申告すると、「入れ墨でなければ入って頂けますが、お客様がお気になさられるのであれば、内露天風呂のあるお部屋をご用意します。」と言ってくれた。中々配慮あるホテルだった。凱斗自身は傷を見られる事に気にしないが、他人が嫌がるだろうと、言われた通り内露天風呂のある部屋を借りて、生まれて初めての露天風呂を経験する。「いい湯だな~」と一般的なセリフを言ってみたが、心から満喫している気分にならない。ジャングルの川で水浴びしているのとなんら変わらない。水がお湯に変わり、泥水が白くなったという違いを見出しただけ。未知の領域に期待を高めていた分、がっかり感が強まった。30分ぐらいでその部屋を出て、チェックアウトを済ませ、施設内にあるレストランに入った。平日、ちょうど昼食時間が過ぎ、客がまばらになる頃、頼んだ天ぷら定食もすぐに出てくる。露天風呂とは違い、こちらは申し分なく美味しい。意識してゆっくりと食したつもりだったが、戦場で培った早食いの癖は中々抜けない。ものの10分もしない内に食べ終わり、レストランを出る羽目になる。ロビーで腕時計を見る。夕方の4時ごろに文香さんが参加している会議場へ迎えに行けばいい。移動時間を差し引いても3時間近くがまだある。どうしたものかと思っていると、カウンターからフロント係の女性がこちらに近づいてくる。受付時、隣で別の客を対応していた女性フロント係だ。
「お風呂はお気に召されませんでしたでしょうか?」そう言って、申し訳なさそうに眉を寄せる。
「いえ、いいお湯でしたよ。」
「お急ぎでしたか?」
「いいえ、時間があまりに余ってしまっていて、どうしようかと思っていた所です。」
「・・・」胸に樋口と書かれたネームプレートの彼女は口を軽く結んで、困った表情をする。凱斗は、何か悪い事でも言っただろうかと焦る。
「あの~。」同じ言葉が重なった。彼女は「すみません」と謝り「どうぞ、おっしゃってください」と促す。
「えっと、僕、何か不適切な事を言いましたか?」
「えっ?いいえ、とんでもない。こちらこそ、何か不都合がございましたでしょうか。」
「いえいえ。何も。」
「でも、とても早いチェックアウトでしたから、ご満足いただけない事がおありかと。」
「えっ?あぁ。」なるほど、風呂の利用時間があまりにも早すぎるから、客室に何か不満があって早く出てきたと、彼女は心配したのだ。中々に好姿勢な対応だ。
「カラスの行水にも程があったかな。僕は風呂も食事も遅くはできないみたいで。」と言うと彼女は、驚いた顔に続いてケラケラと笑う。堅苦しく敬語の対応をしていた姿勢が一気に崩れた。何とも可愛い。こんな二流の温泉旅館にはもったいない存在だ。話の流れで3時間近く暇をつぶさなければならない事を告げると、ホテル内にある読書ルームを紹介される。漫画が何千冊と置いてあると言われるが、文字だけを記憶してしまう脳に、それは酷というもの。やんわり断わると、またまた困った顔をされる。
「あなたが、僕との会話に付き合ってくれたら、至上に満足のいく時間を過ごせるのですけれど。」中々、良い言い回しをしたと心中でガッツポーズをした。仕事中の彼女が一個人に三時間もつきあえるわけがない。凱斗の冗談の言葉に、樋口さんは少し考える仕草をして、「お待ちください」とフロントカウンターの奥へと消えた。ホテル外の別の施設でも案内する為、誰かを呼んでくるのかと思いきや、しばらく経って出て来た彼女は、制服の上着を、薄いピンクのカーデガンに変えて出てきた。
「長めの休憩時間を貰いました。私でよろしければ、お付き合いいたします。」
「えっ!」びっくりだ。こんなに上手くいったことが今までにあっただろうか?まさか、この子もハニートラップじゃないかと警戒する。
「でも。あなたの休憩時間を奪ってしまっては、申し訳ない。」
「私は、食事や会話も早くはできませんから、」そう言ってにっこりと笑う。
(あーもう、ハニートラップでも構わない。)
とても、有意義な3時間を過ごした。そこを離れるのが惜しいぐらい。
また必ず、その温泉ホテルを訪れようと誓う。
(さて、藤木君と新田君はどうしたかな。ちゃんと東京の白金台に着いただろうか。)
自分の時とは違って、季節も時間も悪くない。少し頑張って道を歩けばそれなりの町に出る。町まで出れば、万事屋的な店でパンでも買えるだろう。飢えることもない。藤木君ならどこかで電話でも借りてタクシーを呼び、東京まで向かうだろう。与えた課題は彼らにとって大したものではない。与えたのはきっかけだ。普通じゃない状況下で、語り合うきっかけになれば良い。それでも藤木君は、新田君に心を開かないかもしれない。それでもいい、長い時間、携帯もない、金もない、時間だけがあるという条件が、彼らには必要なのだ。そばに新田君がいたという思い出が、今後の人生に温もりを抱くだろうから。
文香さんが出席している私立学校振興共済事業団の総会が行われている、都内の商業ビルの地下駐車場に車を入れた。時刻は4時05分。総会の終了予定時刻より15分前。階段で一階のロビーへと駆けあがり、そこでエレベーターを使い会場の12階まで上がろうとしたら、ロビーで文香さんの姿を見つける。文香さんは、初老の男性と立ち話をしていた。
「会長、早く終わりましたか。すみません、お待たせしました。」
「そう、思いのほか早く終わったの。こちら、埼玉県の高徳学園の理事長、徳原様よ。色々とお話を聞かせて頂いていましたの。私の甥で、今は私の秘書として手伝ってくれています。」
「柴崎凱斗と申します。」姿勢を正して丁寧に頭を下げた。
「ほほぉ。中々の好青年で、常翔学園も安泰ですな。」
髪を黒く戻したからか、初見で顔をしかめられることは無くなった。
「では、これで失礼しよう。」初老に握手を求められて応じる。
「さて、行きましょうか。」
「藤木家にお邪魔するには少し早いです。喫茶店で時間をつぶしますか?」ここから白金台へは、どんなに道が混んでいても20分もかからない。5時の約束時間には少々早い
「大丈夫よ、藤木君のお母様には、もしかしたら早くなるかもしれませんって言ってあるから。」もし、二人が時間までに到着していなかったら・・・という不安が今更ながらに湧き起こる。そんな考えを読み取った文香さんが、怪訝に凱斗の顔を覗き込んだ。
「凱斗?藤木家に行ったんじゃないの?亮君を送り届けて、お母様にご挨拶してきたんじゃ・・・・何したの、凱斗!」
「えーとですね。新田君がですね。とっても悩んでいて、それで彼らにも・・・」
文香さんに嘘はつけない。すべての事情を話すと、文香さんは大きなため息をついた。
「預かっている大事なお子様に、なんて事をするの。」
「すみません。」
「亮君は、外務大臣、藤木守氏のご子息ですよ。何かあったらどうするのっ!」
「いやー大丈夫ですって、今は気候も良いですし、ちゃんと昼ご飯を食べるぐらいは渡してきました。」
「そう言う問題ではありません!大体、あなたは仮にも教育者の立場としての」
プルルルルルと携帯の呼び出し音。渡りに船のタイミングで、文香さんの説教が止まる。
「すみません、敏夫理事長からです。はいっ」携帯を耳に当てた途端、敏夫理事長の怒声が飛び込んでくる。
「凱斗!どうなってるっ!警察から電話がきて、藤木亮と新田慎一を保護しているとっ!」
「は?警察?」口に出してしまった。文香さんがその言葉にびっくりして目を真ん丸にする。
「お前どういう事だっ!車で送って行ったんじゃないのかっ!」
「えっ、はいっ送り、いや・・・その・・・。」
「それに、何だっ新田慎一まで、どうなっている、訳がわからんぞっ!あぁ?なんだぁ。取材?新聞記者?」
向うで、事務員と会話する声が混じって聞こえてくる。
「ちょっと待て、わけがわからん!」
「あの~理事長ぉ、落ち着いてください。」の言葉は聞こえてないみたいで、電話を繋いだまま受話器をテーブルに置いたゴトッという音がする。
「はい?えっー・・・・はい。はい。で子供は・・・無事に生まれた。はぁ~。でもですね。取材はちょっと、プライバシーの関係上、容認できません。」
「どうしたの凱斗、警察って、もしかして、藤木君達に何かあったんじゃ。」文香さんが心配顔で詰め寄る。
「えーとですね、学園でも何だかわからない状態みたいでして、敏夫理事長もパニックになっていらっしゃって・・・・」
「パニックって、どういう事?!」
「そのぉ・・・子供が生まれたと、聞こえたんですが・・・。」
「ひっ。」
「会長!」
卒倒しそうになった文香さんを、凱斗は慌てて支える。
なぜ、陸上部に入らなかったと陸上部の森山に嘆かれた事のある足の速さを活かして、慎一は全力で民家まで走った。道路が下り坂だった事で転びそうになりながらも、思いのほか早く民家に到着する。田舎のありがちな平屋の家屋、古びた引き戸を叩いた。のんびりと出てくる老婆に事情を説明し、電話を借りて、救急車に来てもらうように要請した。老婆の家の電話に張ってある住所を見たら、驚いた事に、ここは神奈川県じゃなくて東京で、慎一達が置いてかれた場所は学園から北の東京と神奈川の県境を跨る山だった。慎一たちが凱さんの車を追う形で道を進んだのは正解で、この先に鉄道が走っている。目的地、藤木の実家のある白金台の5駅手前までなら、軍資金の1000円で行ける計算だし、ヒッチハイクをしなくても駅まで歩き、白金台5駅手前までの切符を買い残りの5駅を歩いても、5時には着ける。そんな緻密な計算を凱さんがして慎一たちを降ろしたのかどうかは知らないが、その凱さんの謎の行動のおかけで、慎一達はとんでもない目にあう。
トラック運転手のおねーさんは、到着した救急車の中で男の子を産んだ。
「大丈夫かよ。」
「大丈夫じゃない。見るんじゃなかった。」
「ひどいな。生命の誕生だぞ。」
「ごめん・・・血はどうしても・・・んぐっ。」吐き気、再び。
藤木が呆れて溜息をつく。藤木はずっと平然としていて、おねーさんが救急車に移される時も、手を握って付き添うほど。すぐに病院に向けて救急車は発進すると思っていたら、間に合わない、ここで産むしかないと、救急隊の人は大慌てで準備をした。流石に出産に付き添うわけにいかない藤木は降りて来るも、頑張ってと窓越しに声をかけていた。おねーさんの絶叫に次いで聞こえた赤ちゃんの産声。藤木が言うようにそれは生命の誕生の神聖なる瞬間であるはずが、現実はそうじゃなく、救急隊員さんの計らいで見せてくれた赤ちゃんは、十分に血が拭いきれてなく、包まれたタオルにも血が沢山ついていた。慎一は卒倒しそうになった。
ダメだっ。もう一度、トイレに向かう。
「また吐きに行くのか?ったく、情けない。」藤木はあきれて首を横に振る。
警察官募集やら、ピーポ君がシートベルト着用を促しているポスターの貼られた狭い廊下を、壁伝いに添って歩く。パトロールから戻って来たと思われるヘルメットを持った警察官が、慎一を見て怪訝な顔をする。悪い事はしていなくても、警察官に見つめられると委縮してしまうのはどうしてだろう。
子供が生まれた後、慎一達は、救急車に一緒に乗り込む訳にもいかず、事情を知った救急隊員が警察に連絡して、警察の人が来るまで、その場でトラックの番をしていた。すぐにパトカーは到着して、再び事の起こりからを説明し、学園にも連絡を入れてもらう。 そして、慎一達はまるで補導された学生のように、パトカーの後ろに乗せられて近くの警察署に連行。今、交通課の応接スペースで迎えがくるのを待っている。
この警察署は、まるで一昔前の刑事ドラマのように古びていた。鏡の上にある蛍光灯はチカカカと変な音を鳴らして時々消えては点くを繰り返している。夜間はちょっと恐怖ものだと思う。早く迎えが来る事を願い、こみあげてくる胸の気持ち悪さをどうにかして吐き出そうとするも、昼飯を食べていないから吐くものは何もない。洗面で手を洗う。
警察の人が好意で、近くのコンビニで菓子パンを買って来てくれた。だけど、その中に、ウィンナードッグがあり、赤いケチャップが血に見え、慎一は食べる事が出来なかった。そんな情けない慎一とは違って、藤木は平然とそのウィンナードッグを食べて、警察の報告書の作成にもきちんと答えていた。
慎一は、ついでに顔を洗う。幾分、気持ちがすっきりする。と思ったものも束の間、後悔する。普段からスポーツタオルが鞄に入っているので、ハンカチをポケットに常備する習慣が慎一にはない。当然、そのスポーツタオルは学校に置いてきている。
仕方なくトイレットペーパーで濡れた顔を拭く。顔中にボロボロになったトイレットペーパーが貼りつく。鏡を見ながらそれをつまみ取る。
『情けない。』
藤木の言葉が胸に刺さる。
(そうさ、だから藤木は認めてくれない。俺を親友として。)
親友としての価値がない。
今日の出来事できっと、更にそう烙印しただろう。
ふらつきながら何度もトイレに吐きに行く新田の姿に、亮は呆れた。昔のトラウマで血にめっぽう弱い新田の、その理由を知っていても、新しい生命を神聖なものとして見られない新田の弱点に軽蔑をしながら、自分の方が勝った優越感に浸る。
しかし、亮は唇をかみしめて沸き起こったその感情に叱咤する。
(くそっ最低だ。)
強弱、優劣、勝敗を意識する者が、親友であるのだろうか?
新田だけがユース16に選ばれたあの時から亮は、新田を憧憬のように慕う事が出来なくなっていた。
サッカー推薦で、ドリブルの天才と称賛された新田の友である事が、誇りであったはずなのに、
(何故、こんなことになった?)
その答えは、わかっている。
新田を知ったから。新田の凄さも、新田の弱さも、新田の堅実さも、新田の醜悪さも、全て。
知り過ぎた事で憧憬の気持ちを超えてしまったのだ。
新田と共に沢山の事を乗り越えて来た。同じラインに立ったと思えたのに、亮は実力とは関係ない事で阻まれ、新田だけが先を行く。悔しい。絶望もした。しかし、亮自身の実力が挫かれたわけじゃない。ただ阻まれているだけだと知った。
まだ追い付く事が出来る。追い付くどころか超えられるかもしれないのだ。かつては憧れの対象であった、あの新田に。
近づいてくる足音に、新田がトイレから戻って来たのかと顔を向けると、パンを買って来てくれた警察官が亮を手招きする。
「君、えーと藤木君、病院から電話だよ。牧原さんが代わって欲しいって。」
おねーさんの名前が牧原千賀子だということを、救急隊が質問している時に聞いて知っていた。
亮は立ち上がり、呼ばれた警察官へと向かう。誰も座っていない手近のデスクの上の電話の受話器を上げて、亮に手渡ししてくれた。
「藤木です。」
「あぁ、亮君?ごめんね、迷惑かけたね。」おねーさんの声が、もう懐かしい。元気そうな声だ。
「いえ・・・体、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。ありがとね。ずっと手を握ってくれて、嫌だったろ、こんなおばはんの手なんか。」
「そんな事ないです。」
「ふふふ、やっぱり優しいね。君と出会えて良かったよ。子供にさぁ、亮君みたいな優しい子になれって言うよ。」
「赤ちゃんも大丈夫?」
「元気だよ。さっきミルクを飲ましたんだ。あー退院したら、これまで以上に頑張って働かなきゃなぁ~ミルク代、稼がなきゃ。」
「無理しないで下さいよ。」
「うん。ありがとう。」
『優しいじゃん・・・・いろんなことに悩やむ気持ちが・・あるって・・・・優しい、証拠だよ・・・』数時間前に聞いた言葉が亮の胸をじーんと熱くする。
「千賀子さん。」
「ん?」
「亮って名前の人、ノーベル科学賞の受賞者にもいるし、俳優にもいるし、野球選手にもいます。俺なんかより、ずっとずっと凄い人が沢山いる名前だから、千賀子さんがいいと思ったら、つけてあげて。」
「わかった。牧原亮、すっごく良い名前だ。」
「うん。」
「名前の由来は、命の恩人から貰ったって言うよ。きっと優しくて賢い子になるな。」
亮はうれしい気持ちになるのを素直に認めた。
「俺も会えてよかったです。赤ちゃんにも会えて。」何だか、涙が目に溜まる。
「もう、赤ちゃんじゃねー、亮ちゃんだっ!」
「はい。あははは。」
落ち着いたらお礼に行くと言う千賀子さんに、亮は携帯の番号を教え、電話を切る。
廊下の向うの方が急に騒がしくなって顔を向けた。トイレから出て来た新田も廊下の方を気にしながら、こちらに戻ってくる。
「申し訳ございません。本当にお世話をおかけしました。」
「いやいや、こちらこそ、お世話になったんですよ。生徒さん達が居なければ、妊婦さんも子供もどうなっていたかわかりませんからね。」
「その方の容態は?」
「先ほど元気だと連絡がありました。赤ちゃんも元気な男の子で。母子共に異常なしとのことですよ。」
「それは、それは、何よりです。」
凱さんと柴崎会長が、亮達に事情聴取をした警察官と一緒に廊下を進んでくる。いち早く亮たちの姿を見つけた凱さんは、満面の笑み。
「よっ!凄いねぇ。流石、黄金コンビは違うねぇ。」
思わず、新田と顔を見合わせる。
「よっ!じゃありませんっ!」
「何がっしたかったんですか!」
「凱さんっ!携帯、返してくださいっ!」
新田と二人で、凱さんのスーツのポケットを漁る。
「うわっ、ちょっ、ちょっと!・・・・もう現代っ子だなぁ、携帯に依存し過ぎだよぉ。」
「凱さんのせいで俺たち、どんな思いしたと思ってんですかっ!」新田が叫ぶ。
「凱さんのせいですよっ!おねーさんが危険な状態になったの!携帯があったらすぐに救急車呼べたのに!」
「俺のせい?」とぼけた顔をする凱さんに、怒りのメーターが振り切れる。
「そうですよっ!」
「俺、すっごい走って民家まで電話借りに行ってっ!戻ったら、ここで産むとかになって・・・うっ」
新田がまた、トイレに駆け込む。
「凱斗!あなたも謝りなさいっ!」
「えー・・・申し訳ございませんでした。」不貞腐れたように謝る凱さん。
(たくっ、本当に何がしたかったんだ?)
先は、正式に理事長を務めて、常翔学園経営跡取り娘の麗香の補佐人になる人。
可愛そうに、麗香、苦労するたろうなぁ。と亮は眉間に皺を寄せた。
学園の理事長室は大変な騒ぎになっているらしい。警察署に、なにか事件がないかと張り付いていた新聞記者が、学生が産気づいた妊婦を助けたと知り、記事にしたいと常翔学園に申し出が行く。しかし、凱さんしか状況がわからないうえに、体調不良の早退をしているはずの慎一が、なぜか藤木と一緒に保護されている。完全にサボりがバレてしまった。学園側は記事なんて書かれたら困るという事で、新聞記者の人と押し問答が繰り広げられた。【人命救助をした高校生、お手柄】なんていう記事を掲載したい新聞記者に対して、どうして平日の昼間からヒッチハイクする事になったのかと言う質問に、学園は答えられない。藤木の喧嘩をはじめ、学園側である凱さんが生徒を山ン中に捨て置いてきた奇行も、もっと話せない。
東京の藤木家に向かう道中、その当の凱さんは運転をしながらやっと長い電話を終えて、ようやくはぁ~と息を吐く。
「抑え込みました。康汰から一つ情報を貰い、記者に提供して、人助けの記事は書かないように確約させました。」
「凱斗、あなたの軽率な行動が、康汰さんにまで迷惑をかけることになったのですよ。あなたはもういい大人なんです。自重しなさい。」
「はい・・・すみません。」
助手席に座る柴崎会長に叱られる凱さんに、慎一は藤木と顔を見合わせて、肩で笑った。
車は、ほどなくして東京の白金台につく。マンションの豪華さに慎一は唖然とする。
入り口にはガードマンが二人も居てロビーフロントにはコンシェルジュが居る。そしてエレベーター前にもガードマンが居て、フロントで顔認証の機械に映し署名しないと、エレベーターには乗り込めないと説明される。絨毯はスニーカー越しでもわかる上質な踏み心地、天井にはシャンデリア、壁は当然大理石。装飾は金、高級ホテル以上に高級で上質だ。
「藤木様から承っております。荷物はこちらへお運びください。」
その荷物も空港で見かけるような機械に乗せ、レントゲン投影している。フロント奥から男のコンシェルジュが出て来て、荷物を台車に乗せていく。荷物は別のエレベーターで運ぶらしい。荷物運び役の慎一は要らないって事だ。凱さんの陰謀にまんまとハマった慎一だった。
「お帰りなさいませ。」藤木の存在を認識したガードマンとコンシェルジュが一斉に深々と頭を下げた。
藤木は眉間に皺をよせ、そっぽを向いて小さく、「ただいま」とつぶやく。
慎一は驚愕して、挙動不審にあちこちを見渡してしまう。
『お前とは、視てきた世界が違う』
住んできた格も違う、ガードマンに囲まれて育ってきたような環境を慎一は知らない。それを目の当たりにする。柴崎家も凄いと驚いた慎一だったが、柴崎は出会った時からお嬢様のイメージが確定していての訪問だったから、まぁそうだろうなと納得も出来た。だけど藤木は周囲に家の事を隠していて、微塵にも資産家並びに大臣の息子である風体を出さなかった。今でもそれは禁句的に出さず、この豪華すぎる場所が藤木の実家だと実感が持てないでいる。
エレベーターで最上階に到着。出たところに門があって、中から開けてもらえない事には入れない。何重にも設置されているセキュリティと監視カメラも何台あることやら。
心休まらない、藤木が実家を嫌がるのがわかるような気がする。
門の横に設置されているインターホォンを凱さんが押そうとするのを藤木が止める。
「俺が開けます。」そう言って、凱さんと入れ替わる。
藤木はセキュリティボックスにカードを差し込み、暗証番号を入れた。指紋認証までする厳重ぶり。おそらく現在のテクノロジーの最高峰のセキュリティシステムだろう。外務大臣が住まう場所なのだから、それは当然と思うも、驚きを隠せない慎一。ピーと電子音と共にカチリと門が開く。
「どうぞ。」
柴崎会長と、凱さんが門の先に歩んで続くのを慎一は躊躇した。
「何だよ。入れよ。」
「いいのか?」
「荷物運びするんだろ、最後までちゃんと仕事しろ。」
いいタイミングで、後ろの荷物用のエレベーターを使って上がってきたコンシェルジュが、荷物の台車を押してくる。どうやら、荷物は門の外までらしい。コンシェルジュは荷物に触れる事なくそのまま台車を置いて立ち去る。
奥の玄関の扉が開き、藤木のお母さんが姿を現した。
「申し訳ございません。亮がご迷惑をおかけして。」
「藤木様、こちらこそ、遅い時間になってしまい申し訳ございません。」
「いいえ、どうぞ、お入りください。――――亮!」きつい口調の藤木のお母さん「あなたっどうしてっ」
「お母様、亮君を叱るのは、私どもの話を聞いてからにしてくださいまし。」柴崎会長が藤木の前に立ちふさがり止める。「私どもが同行した意味がなくなります。」
「す、すみません。」
慎一は、自分の勝手な思い上がりでここまで来てしまった事に激しく後悔した。こういう場面を藤木は見られたくないはずだ。でも、もう遅い。大人たちに促されて慎一は家の中に入る。
バリアフリーになっている広いエントラスホール、正面と左側に色ガラスで装飾された扉がある。藤木のお母さんはその正面の扉を開けて、こちらへどうぞと案内する。柴崎会長と凱さんに続いて行こうとする慎一を、藤木はもう一つの左の扉を開けて、「こっちだ。」と顎で示す。
「あ、うん。」
長い廊下の先にもエントランスフォールと同じようなきれいなガラス扉があって、外からの光が差し込んでいるようだ。廊下はそのガラス扉の前で左に曲がって続いている。どれだけ広いマンションなんだ、とまた驚愕。奥まで案内されると絶対に迷子になるぞと慎一はたじろぐ。そんな心配は無用に、藤木は中ほどの一つの扉をあけ、「ここが俺の部屋。」と慎一に教える。
奥から走ってくるような振動があり、曲がり角から女の子が二人、顔を出す。
「お兄ちゃん!お帰りぃ。」藤木の妹たち、慎一は初めて顔を見る。小さい方の妹は、駆けて来て藤木に抱きついた。
「ただいま。」藤木は学園で女子に向けるにこやかさで、妹の頭をなでた。
小学校6年生であろう上の妹のほうは、行儀よく慎一に「こんにちは」と頭を下げ、慎一もそれに答える。
「お兄ちゃん、しばらくここに居るって!」
「うん、一週間だけ。」
「えぇーどうして、ずっと居てよ。」
「唯、挨拶は、ちゃんとして。」
唯ちゃんと言う下の妹は慎一へと振り向き、早い挨拶を交わして、また藤木にすがるように抱き着く。
「唯、今日お手伝いしたんだよ!」
「そうか。」
「何したと思う?当てて。」
「唯、荷を物運ばなくちゃなんないから、そのクイズは後で。」
「唯も運ぶ!」
妹たちとは仲がいいみたいだ。兄の帰りがうれしくて仕方ない様子の唯ちゃんは、藤木に抱き着いたまま離れない。そんな妹に優しく接している藤木を見て、慎一はほっと胸をなでおろす。
(藤木が嫌う実家、悪くないじゃないか。)
妹たちと母親だけの家族ならまだ、長く一緒に住んでいられる。しかし、父親が在宅すると、途端にそれが不可能となる。
父親は忙しく帰って来ない日も多い。だから、父親が自宅に居る少ない時間だけを我慢すればいいはずなのだが、亮は割り切る事が出来ない。その数時間が限りなく嫌だった。
荷物を運び終えると新田は、所在なく部屋に立ち尽くし部屋を見渡している。まだ引っ越して二年半しか経ってないマンション、しかも亮の部屋は、2週間前の寮の封鎖期間の6日間だけを使用しただけで、何もかもがまだ新しく馴染まない。ホテルに泊まっているようだった。だからこの部屋は落ち着かないのも、亮がこの東京の実家に住みたくない理由の一つだ。
数分前、父親が帰宅した。亮にじゃれ合う唯に、「客が来てるから大人しくしなさい。」と叱った。亮はこれ以上ない強い睨みで父親を非難したが、父は亮を一瞥しただけで、そのまま客間へと入って行った。
今頃、弥神を殴った経緯を聞いている事だろう。さぞかし不甲斐ない息子を持って悔しい想いをしているにちがいない。いい気味だ。思わぬ喧嘩をしてしまったが、それはそれで、父親を困らせる良い事案になったと思う。
「俺・・・」その先を言わず、まごつく新田。亮に読ませようとしている。そんな風にしてしまったのは亮だ。
新田は迷っている。帰ったらいいのか、でも話しがしたい。しなくちゃならない。そして究極に腹が減っている。
「待ってろ。」亮は新田を部屋に残しキッチンに向かう。
リビングのソファーで、叱られた唯が可愛そうにしょげている。
「唯、夕食後にトランプしようか。」
顔を上げた唯が破顔して「うん」と答える。向かいで本を読んでいる舞も顔を上げた。
「舞も。」
舞はにっこりと頷き、また続きの本を読み始める。天真爛漫の唯に対して、品行方正な舞は、誰から見ても優等生な子供だ。舞もまた亮と同じく大人の顔色を読んで行動する節があるが、亮のように、より深くは読み取れているものではないから、亮は安心する。
こんな能力、自分だけで十分だ。舞はただ、普通に周囲の空気を読み、立ち振る舞えているだけ。それは藤木家に生まれたからには、必要なことだ。亮のように悩んではいないし、舞は亮よりも真が強い。
リビングを抜けてキッチンへと入る。カレーの匂いがした。コンロに鍋が置いてある。
「何も褒められることは、してないけどな。」
これは母親からの戒めか、それとも励ましか、母親は柴崎会長と凱さんとの対応ですぐに客間に入ったきり、出てこないからわからない。キッチンに入って来たのは家事代行業の女性、二週間前に家に居た人とは違う人だ。亮の姿を見て驚き、慌てて挨拶をしてくる。
「あ、あの私、家事代行サービスクローバーから来ております、野上と申します。」
「あぁ、はい。」
「何かお探しでしょうか、お坊ちゃま。」
(うげっ、何、その呼び名、)亮は不躾に不機嫌な態度で彼女見た。年齢は30半ばという所。
「いいよ、自分でやるから。」
「そんな、お坊ちゃまにさせてはいけない事になっていますから。」
(何そのマニュアル。)
「じゃ、飲み物と軽く食べられる物を部屋へ、友人の分だけでいいから。」
「かしこまりました。ショートケーキとチョコレートケーキどちらがよろしいでしょうか。」
(こいつ、使えない。軽く食べられる物って言ってるのに、ケーキなんてくそ甘い物、聞いただけで吐きそうだ。流石の新田も嫌だろう。)
「ケーキはいらない。他にないの?」
「えっと・・・」本心に面倒がる気持ちが表れたのを読み取って、わざと面倒なメニューを頼んだ。
「サンドイッチを作って、それとお坊ちゃまなんて呼び方やめてくれ。」
「えっ、あっ、はい、申し訳ございません。」
だから、この家は嫌なんだ。福岡の家も家事手伝いは何人も居たけれど、みんな昔から藤木家に使える人たちばかりで、出入り口で知らない警備員に挨拶しなくてもよかった。それを思い出したら福岡が懐かしい。
そうか、福岡では「男子厨房に入らず」の教えが強い。実際に亮は、母親を追って台所に入りはしたことがあるが、コップにお茶を入れたこともなかった。
キッチンを出て、大きなため息を吐く。
(あぁ、この家の何もかもが嫌だ。)
部屋に戻ると、新田はまだ突っ立ったまま携帯を操作していた。
「今、サンドイッチを作ってもらっているから。」
「あぁ、ごめん。ありがとう。」
「座れよ。」
「あぁ、うん。」
ベッドを背にしてラグに直座りをすると、新田も横に並んで座る。
対面に置かれたテレビ画面に自分と新田の姿が映っている。新田がこっちを見る。亮はあえてポケットから携帯を取り出し、話かけられるタイミングずらした。軽いため息をはく新田の気配。
見知らぬ番号のショートメールが届いていた。開くと千賀子さんから。
【命名 牧原亮 3250g 49㎝】
千賀子さんに抱かれて眠っている赤ちゃんの写真も添付されていた。言い表せない気持ちが沸き起こる。
真っ新な無垢さに、亮は叶わないなと屈する。
「聞いてたんだろ。」話す事を諦めかけていた新田は、亮に顔を向けて驚く。「あれが、俺の本心だ。」
新田は思いのほか早くトラックまで戻ってきていた。どこから聞いていたのかはわからないが、事が落ち着くと、新田の本心にはいつの間にか、亮に対する気まずさの中に、亮の内なるものを知った喜びも含まれていた。
新田は何も言わない。一定時間の無操作状態で電源がオフになる機能が作動し、亮ちゃんの写真は黒くシャットアウトされてしまった。
「俺は、悩みを言う度胸もない、ちいせー人間なんだ。人に知られて宿る俺への本心を読むのが怖い、自分の弱さを知るのも怖い。親と向き合うのも怖い、ただ単に逃げているだけ。笑えるだろ、博識の藤木だとか言われて、高飛車に人の本心を読み取り、何でも知っているような顔でいて、それはただ、臆病な自分を隠す為の面だ。幻滅だろ。親友になりたいと思ってる奴が、こんな奴でよ。」
「・・・流石だな。」
テレビ越しに新田へと顔を向けた亮。
「やっぱ、藤木はスゲーよ。俺は自分の事を、そんな風に分析できないもんなぁ。自分の事すらわからないのに、藤木の事を理解したいなんて、青臭い事を言ってさ、本当に自分が情けないよ。」
確認せずにはいられない、新田の本心。自分は見切られてしまったのか。
「わかっていただろ。俺が何度も藤木には敵わないな、と思っていた事。今日もさ、俺は何にも出来なかった。ただ震えてただけでさ、こんな頼りない奴に誰が悩みなんて打ち明けたいかよな。藤木と友達になれた事だけでも、俺には有り余る贅沢なことなのにさ。悪かったよ、無理に言えなんて強要して。」
新田の嘘のない言葉。亮に向けてくる新田の心には、いつも嘘なんてなかった。喜怒哀楽に素直で、言い淀んでいただけ。
おせっかいに心を読み取りしてアドバイスをしたのは、自分の自尊心を上げるためだった。
「もう・・・友達じゃないだろう。」そう言った瞬間に、新田は顔をしかめて落胆する。「言えば、親友になるんだろう。」含んだ意味を理解した新田は一転、破顔して本心から喜ぶ。
「俺も、敵わないと思っていた。お前のカリスマ。出会った時からずっと。」
安堵も加わり、薄っすらと涙まで潤ませる新田。
それでも、そんな新田の素直さと、熱い情を受け止めるのに、わずかな抵抗を覚える。そして、やっぱり自分はどこまでも腐ってんだなと実感する。
「困るんだよ、お前のそのカリスマ、俺のパスが一番だとか、誰が認めなくても俺だけは認めるとか、裏もなく言うもんだからさ。俺、勘違いしちまいそうになるんだよ。」
「勘違いなんかじゃない。あの優勝旗が証明だ。藤木が居なければ、あれは手に入れる事が出来なかった。この先も、藤木が居ないと俺は何もできないし、藤木のその本心を読み取る能力が、俺には必要なんだ。」
「・・・・二人目だ。」
「えっ?」
「何でもない。」
麗香に次いで二人目、この忌み嫌われるばすの能力を、必要だと言ったのは。
やっと出来た友人の新田が、いつか、この力に嫌悪を抱いて離れていく事に、怯えもしていた。
親密になればなるほど、嫌悪されて去って行かれる事が恐ろしい。
亮は戸惑う。
いつか来る傷つく時の防御しながら、親友としての距離感を保つのは、難しいな、と。
「亮君は感が鋭いと言いますか・・・」
「感が鋭い・・・。」
「はい、お母様、育てにくいとお感じになっておられますね。」
「・・・はい。」
「それはいつ頃から?」
「・・・・小学、上がったぐらいでしょうか・・・」藤木君のお母さんが眉間に皺を寄せて、うつむく。
「お母様を責めているわけではありません。育て方などの論議をしているのではありませんので。亮君に対する今後のケアを含めまして、参考にお聞きしたかっただけです。失礼いたしました。お母様のそのお気持ち、誰でもある事です。ただ、亮君は人より少し強い傾向があるだけ。心は優しいお子様です。今回の事は、亮君の優しい正義感が招いたことです。本人も十分に反省しております。」
「いえ・・・本当に申し訳ございません。」
「では、先方には、先ほど申し上げました通り、何もなさらず、我々にお任せください。そして、亮君には決して叱らず、お話しを聞いてあげてくださいまし。」
「はい。それはもう・・・本当にご迷惑をおかけして申し訳ございません。」
「申し訳ありませんが、お母様、お父様に別件のお話がごさいますので。」
亮は千賀子さんに握られた、まだ痛む右腕の状態を確認するために、ジャージの袖をまくってみた。青あざになっていた。これは亮への叱咤の刻印だ。母親はこんなに苦しんで子を産むんだぞ、と知らしめる。
ジャージの袖を戻した時、客間から戻ってきた母親と出くわす。
「亮、ご飯は?」母親は意識して笑顔を作る。
「食べる。今日は、何?」知らないふりをした。
「あなたが帰ってくるから、カレーにしたわよ。」
母親の作るカレー、子供の頃から大好きだった。どこの高級レストランの料理より、仕える料理人が作る料理より、母親が作るカレーが一番好きだった。サッカーの試合で勝った時は、必ず作ってくれていた。
「お母さん・・・・」
柴崎会長の言う通り、読み取るものが成長と共に変わっていくのなら、亮が変われは、読み取る内容も変わるのだろうか?
人の本心も変わる。常に同じ状態じゃないのだから、その理論はあっているだろう。今まで力の存在を否定ばかりして、そんな風に肯定的に分析したことがなかった。
「ごめん・・・」心配かけて。
「亮・・・。」抱きしめられた。気恥しくて、すぐに抵抗して身じろいだ。「お腹空いたでしょう。すぐに用意しましょうね。お友達は?」亮を見上げる母親の本心に、寂しさを見つける。
「まだ居る。カレー食べさせてやって、腹ペコで死にそうになっているから。」
「あら、大変。呼んでらっしゃい。」
(あんなに小さかったっけ?)と亮も寂しい気持ちで母親の背を見続けた。
藤木君のお母さんが応接室を退出した後、藤木氏は再度、頭を下げる。
「柴崎様、本当に申し訳ない。」
「いえ、亮君の事は私にお任せください。」
国家を動かす人とは言え、人の親、テレビで見るのとは、また違った印象だ。
「藤木様、つかぬ事をお伺いします。」
「はい。」
「藤木家は、今までに、華族とご縁がごさいましたでしょうか?」文香さんは突然、驚くような事を聞く。
「華族?」藤木氏は面食らった顔で聞き返す。
「はい。」
「縁と言いますと?」
「藤木家のご先祖様に華族と血縁関係になった歴史がございましたか?」
「柴崎様、なぜそのような事を?」
「その何故には、お答えできませんが、お教え下さいませんか?」
「私は、そのような話は聞いたことがございません。ですが、我が藤木家は歴史だけは長いですから、分かりません。」
「そうですか・・・藤木家に祖歴書はございますか?」
「もちろん、ありますが?」
「私に、それを閲覧させてくださいませんか。」
「なっ・・・」
「会長!」
藤木氏も、凱斗も目を見開いて驚いた。
祖歴書、それは一族の家系図や、何をして財を成し、繁栄してきたかを記す、その一族の歴史書。
歴史が古く、また栄を成した家ほど書には詳細に記され、厳密に保管されていく。一族が成しえた秘儀ともいうべきものが記されているのが祖歴書であり、それは家の存続と共に受け継がれていく物である。柴崎家もそれは当然のごとくある。柴崎家の養子である凱斗は、大正以降の家系図のページしか見せてもらえていない。記憶されることを警戒してのことだろう。祖歴書というのは、簡単に他人に見せるようなの物ではないのは、世間的に当然の在り方である。
そんな厳密な扱いをしなければならない祖歴書を、見せろと要求するのは、道理に反している。
「閲覧して、どうしようと言うのですか?」
「知り得た藤木家の祖歴を、他言や公開するような事は致しません、そこはご安心を。」
どうしてそこまで執拗に?凱斗は信じられない思いで文香さんを見つめた。
「分かりませんな。お答えになられていない。」
「藤木様、私、柴崎文香は、華族の称号を持つ者だという事はご存知ですね。華族の守秘特権に基づき、その質問にお答えはできません。」
「何も聞かずに祖歴を見せろと?」もう藤木氏は不愉快を隠さず、顔をしかめた。
「はい。」
「華族階級からの命令、ですか。」
「そのように、捉えなければ見せられないとおっしゃるのであれば、致し方ありません。お望みなら、華族会から正式に命令書を発行いたします。」
「会長!それは!」
文香さんのその言いは、嘘だ。個人的な要求で、華族会の命令書など出せるはずがない。そうまでしてなぜ?藤木家の何が知りたい?
凱斗の制止は無視されて、文香さんはまっすぐ藤木氏を見据える。
しばしの無言、藤木氏も文香さんの真意を図っている。
「祖歴書は、福岡にあります。父が管理しております。華族会の命令書までは要りませんが、華族の称号を持つあなた様の書状があれば、父も納得して祖歴書の閲覧に同意するでしょう。」
「分かりました。書状を作成いたします。無理を申し上げました。」文香さんは頭を下げる。
「華族様の要望でございますから。」藤木氏は、そうつぶやいて、怪訝に首を振った。
「会長、何故、あのような強引な事を?」
「調べる必要があるの。藤木亮君が何故、私と同じ力を持っているかを。」
「じゃ、藤木君のあの視る目は、華族の血族に由来すると?」
「わからない、だから知る必要がある。藤木君の為にも。彼はずっと疑問に思っているわ。何故、自分にこんな力があるのかと。その何故を知ったところで、彼の抱える悩みが無くなるわけではないけれど、何故を一つ無くせば、その分の重荷は軽くなる。」
助手席に座る文香さんは、夕暮れの帰宅ラッシュに、流れが滞りがちなった高速道路を真っ直ぐ見据える。
新田君は夕飯を食べてから電車で帰る事になり、まだ藤木家に滞在している。
「凱斗、この事は、他言しないように。」
「はい、承知しております。」
亮の謹慎処分の一週間が過ぎたけれど、ちょうど5月のゴールデンウィークに入ってしまい、合計8日間の休みとなった。
今日と明日の二日を過ごせば、また4日間の休みになる。世間は気候の良さも相乗し、浮足立った感で勉強、仕事どころじゃない様相が強い。常翔学園では、このゴールデンウィークの合間にある平日を、学園に許可を取り長期休暇にして、海外旅行や国内旅行をする生徒が多くいる。今年はカレンダー的にも長期休暇にしやすく、例年より三割増しの休暇届け率だと聞く。
麗香の祖父が体を悪くしてから、国内旅行すらも行けなくなった麗香は、毎年、同級生のゴールデンウィークの予定を聞くたび「いいなぁ」と羨ましがっていたが、今年はそれも無く、この日を心待ちにしていた。
朝の7時、マネージャーは朝練には参加しない。自由参加で練習メニューも個々で好きにしていい朝練では、世話をする仕事がないのである。でも、今日は誰よりも早く登校して、麗香は校舎玄関前で待っていた。宝物となったメッセージを手に握り。
待ち望んだ姿を見つける。
いつもと同じ足取りで歩んでくる亮、麗香は目頭が熱くなって、慌てて拭い、頬を軽くパッティング。
「よっ!久しぶり。」
「久しぶりじゃないわよ。」微笑して肩をすくめる亮の顔は、とてもすっきりしていた。
ご両親から、一人暮らしの許可は取れて、早速、住むマンションも決まったと聞いていた。場所は麗香の屋敷から、徒歩5分の位置にある駅前のマンション。まだ引っ越しはできていないから、今日は東京からの登校だ。
「やっぱ、通学1時間はしんどいな。」
「2時間かけてる子もいるのよ。」
「眠いや。」と言ってあくびをする亮。
「おかえり。」見つめる麗香の視線をしっかりと見つめた後、亮は
「ただいま。」としっかりと答え、そして「さぁて、鈍った体を気合い入れなおさないとなぁ。」と伸びをした手をポンと麗香の頭に置いてから、下駄箱ロビーへと入って行く。
麗香は、亮に置かれた頭を押さえ、思いを噛みしめる。
そして手に握っていた、小さく畳んだ紙をひろげる。
亮が実家に帰った日の夕方、学校から帰宅した麗香は、自室の部屋の隙間に紙が挟まれているのに気づく。
それは、亮からの手紙。
【迷うことなく突き進め、それが柴崎麗香。俺の勝利指針】
短いメッセージは、麗香の勝利指針となった。
追って運動場へと向かう。部室の方から、部員の声が聞こえる。
「藤木!やっと来たか!」
「待ってたぞ!」
「お前、ハクついたんじゃね。」
「それ言うなら前科だろ。」
「いやいや、正義のヒーローじゃね。」
「何だよそれ。」
「好き放題にやる弥神を懲らしめたんだからさ。」
「もうやめようよ、その話は。時間がもったいないぞ。」
亮、私ひとりだけじゃない、あなたに寄り添い手を引くのは。
気づいて、黒い本心の中にも、きっと白い気持ちは誰にもでもあるはずだから。
4
一人暮らしを始めた藤木のマンションを訪れた。麗香の住む屋敷から徒歩5分。駅のすぐそばという好立地のマンション。麗香の住む香里市のこの辺りは、昔から高級住宅街として有名な場所で、そもそもにマンション自体の数が少ない。ましてよくある学生の一人暮らし用マンションやアパートの類なんてのは皆無の地域。だけど、柴崎会長が出した特例書の条件には、柴崎邸の近くでとの事があり、条件に見合う物件はこの部屋しかなかったと聞くけれど・・・ありえない!うちのマンションより広い1LDK。
(ここに一人暮らしだと?贅沢過ぎるにもほどがある!)
「ここの家賃いくら?」と聞かずにはいられない。
「家賃?家賃換算するのは難しいなぁ。とりあえず高校卒業までの3年として割ると、いくらになるのかなぁ。」
「え、何?どういう事?」
「ここ賃貸じゃないのよ。」と麗香。
「えっ?」
「売れ残りの物件さ。もっとじっくり選びたかったけれど、仕方ない。空き物件を見つけられただけでも幸いだった。しかも築後誰も住んでない物件を。」
「購入したって事?」
「そうだね。」
「マンションを?」
「マンションだね、ここ。」藤木は目を細めてクスっと笑った。
いくらで購入したかは、もう絶対に聞いてはダメだ。高校生の分際でマイホーム持ち、ありえない。通学一時間圏内に実家があるのに一人暮らしをするって事自体が贅沢な話だってのに、まるでおもちゃを買うようにマンションを購入ってどういうこと?二人暮らしのうちでも叶わない事なのに。
何もかも真っ新なテレビやソファ、男の子の部屋らしく黒と紺でコーディネートされている。慎一と麗香はここ数日、サッカー部の練習後に、家具や家電の購入に付き添って行っていた。私も誘われたけれど、バスケ部の練習と時間が合わなくて一緒に行けなかった。
「りのちゃん、ついでにパソコンも新しくしたから、古い方あげるよ。前の奴、もう古いでしょう。」
(ついでに買っただぁ。ついで買うようなものか?パソコンって。)
「特進の宿題や、レポートとかするのに処理早い方が良いでしょう。あれより、こっちの方が処理速度が早いから、便利だと思うよ。」
2年前に貰ったやつを古いと言う藤木。好意はありがたいけど価値観に腹が立つ。私がスーパーでプリンを買うぐらいの感覚で、マンション購入、そりゃ何十万もするパソコンだってポイ捨て感覚で譲渡できるはずだ。
寝室を覗くと、ベッドはシングルじゃなくて大きい・・・政治家の息子がこんな贅沢な生活をしているから、日本は格差が広がっていくのだ!貧乏人がどんなに苦労しているか、議員たちは知らないんだろうね。
フィンランドでは、ここまでの格差は無い。税金は高いけど、福祉は厚く保証されている。ロシア国境の小さな町だったけど、生活が苦しい家庭なんて無かった・・・と思う、そこまで詳しく知らない。
(くそーこんなモフモフのクッションなんか、いるか?
枕一つありゃ寝れるだろっ。
けっ!経済格差広がる日本なんて、大っきらいだ!)
「ちょっと、りのちゃん、わーやめてっ!」
クッションを蹴り上げた。ベッドヘッドに置いてある東京スカイツリーの模型が倒れる。
「あーあ、スイッチ入っちゃったよ。」と慎一。
「もう!やっと綺麗になったのに、やめてよ。」と麗香。
「ふんっ!」
「りの、もういい加減に、こいつらの上流階級意識に慣れろ。」
慎一の家業だって順調。2つ目の店舗がオープンし人気と聞く。
うちは、頑張る人はママしかいなくて、頑張ったらママの体は削られるように限界がくる。ママに無理なんてさせられない。
寝室の奥に引き戸の扉を見つける。まだ部屋があるのか?容赦なく開けたら、部屋のように広いクローゼット。しかも沢山の服がかけられている。よく見れば、まだ値札のついている服が多数。
(まさか、これらもついでに買ったとか言うんじゃないだろうなぁ。)
「あー、もうね、実家には戻る気ないから、買い置きしてあった服を全部こっちに持ってきたんだよ。」
どんな理由を聞いても格差は縮まらず、腹立しいだけ。こんな息子を野放しにする大臣の気が知れない。
こんな私の嫉妬の怒りは藤木には読まれていることだろう。だけど藤木はいつものごとく目じりに皺を作って、微笑んでいる。
嫌な私、こんな私を見ないで欲しい。だからクローゼットの扉を閉めた。
「あー、りのちゃん!何してるの!」
足元にあった重たい段ボールで開けられない様につっかえた。
扉を開けたと同時に点いた電灯は、しばらくして消える。暗くて、囲まれた空間が落ち着く。
「なんだ、開かないっ。こらーりのちゃん、何してるの。」
身じろぐと電灯が灯った。センサー感知、なんて至れり尽せりの物件。
「りのちゃん、開けて。」
「ほっとけよ。そのうち出て来るよ。」
「りの、狭いところ好きなのよね。私の部屋でも、ベッドとクローゼットの狭い隙間がりのの定位置だし。」
「猫か!」
昔を思い出す。部屋に閉じこもっていたあの日々。パパが死んだあと、部屋の広さまでもが、私を責めている気がして、クローゼットの中に入り込んだ。それでも広いと感じて、毛布を引っ張り込んで頭からかぶっていた。
「ふじきー。」
「何?」
「ここ、落ち着く。住みたい。」
「いいよぉ、りのちゃんなら、オッケー♪」
「馬鹿っ!ペット飼うみたいに簡単に言わないのよっ!」
「この段ボール、何?」
「雑誌だよ。PC関係の、バックナンバーは置いてるんだ、結構見返したりするから。」
「見ていい?」
「いいよ。」
開けてみると、PCマニアと書かれた雑誌が入っている。一つ出してめくるとパソコンだけじゃなく、最新のカメラやスマホの写真とかが満載。スマホのアプリの紹介記事まである。へぇ~藤木はこういうのを読んで博識を得ているのかぁ。中々に面白そう。また照明が消える。そして身じろぎして点灯させる。面倒だな、このセンサー感知。
「あー、そうだな。猫を飼うのもいいかもなぁ。」
まだ、スマホを使いこなせていない私、CDの音楽データーを移行したいのだけど、どうやるのかわからない。ずっと藤木に聞こうと思っていたのだけれど、クラスが違ってからは中々チャンスがない。この雑誌、貸してもらおうかなぁ。
「藤木って猫派?」
「そうだな、猫の方が好きだな。」
他にも面白そうな特集を組んだ雑誌がないか探す。
「らしいわね。新田は?」
「俺は、断然犬派。従順な所がいい。」
「ふふ、猫みたいなのはりので十分って事でしょう。」
「あぁ、十分。」
「あははは。」
(ん?これは・・・・おぉ~。これはこれは。面白い物、見ぃつけたぁ。)
「・・・・。」
(へぇ~、なるほどねぇ~。だから藤木は、麗香の事が好きなんだぁ~ムフフ。)
「あれ?静かね」
「りのちゃーん、そろそろ出でおいで~。」
(うんうん。麗香グラマーだもんねぇ。)
クリスマスの時に抱きしめてもらった麗香の体は暖かくて、柔らかくて、ほっとした。
「たこ焼きパーティ、はじめるぞぉ。」
「返事もしないわよ。寝てんじゃないの?」
「りの、出で来い・・・・あっ開いた。」
段ボールを引き寄せて漁ったから、扉のつっかえが取れていた。扉が開いて、電気のまぶしい光に目が細くなる。
「ん?りの!何、見てんだ!」
「見ていいって言った。」
「見て良くないっ!だっ駄目だ!こんなもん。」慎一は顔を赤くし、私の手からエロ本を取り上げる。
「あぁ~、面白いのにぃ!。」
「何?」クローゼットの中に入ってくる麗香。
「柴崎、お前も見るな。」
「はぁ?」慎一は顔を赤くして雑誌を麗香に見せないように後ろに隠す。
「何やってんの?」藤木も顔をのぞかせる。私は本を取り返した。
「あっ!こらっ!」
「私が見つけたんだもん。」ペラペラと雑誌を広げた。
「いっ!。」
「げっ!」
「藤木ぃ~、お前な、なんちゅうもん大事に持ってんだよ~。」
「ち、違うっ!それは今野のだ!いたずらで入れやがった、あいつ!」
「最低・・・」麗香の軽蔑。
「だから、俺のじゃねぇーって。」
「誰のでもっ!寮にそれがあったこと自体が問題でしょうがっ!」
(えーと、どこまで見たかなぁ~。)
「りの!見るんじゃないわよ!没収よ。」
「ヤダっ!」
「ヤダじゃねー!」と慎一が頭ごなしに叫ぶ。
この間も、えりちゃんが貸してくれた本を取り上げられたし。面白い所で取り上げらられるって、すっごいストレスだ。
「りのちゃん、お願い返して。それ。」藤木が懇願する。
「猫好きだもんね~、藤木。」広げたページは、裸の女性が、猫耳をつけて色気あるにゃんこポーズ。
「違うんだ、りのちゃん。」
「・・・・。」無言になる皆、説得力無し。
「・・・うん、猫、大好きなんだ。だから返して。」
「仕方ないなぁ~。」残念、もっと見たかったのに。
「ありがと。」
「ほんと最低っ。」
亮が下品な雑誌を紙袋に入れてゴミ箱に捨てる。麗香は呆れつつも安心もした。
一週間の謹慎処分あけ、亮と新田は増々仲良くなっていて、もしかして本当にりのが読んでいた本のような、ボーイズラブがあるのかと、心配した麗香だった。今野が、藤木の実家にいった日に、いけない何かがあったんじゃないかと冗談を言ったが、真実味がある冗談だけに笑えなかった。下品な雑誌を持っているという事は、亮は正常の感覚があるって証拠だと、ほっとする。
ゴールデンウィークも明日一日で終わり、学校は休みでも、サッカー部の練習はある。5月に入ってから、亮の一人暮らし用の生活用品を買いそろえるのに、麗香と新田は付き合った。新田は調理グッズや食器類を担当し、麗香はインテリアや家具を見繕い、亮はデジタル家電等にこだわって、3人でのショッピングはとても楽しかった。残念なことにりのは、バスケ部のスケジュールが全く合わなくて、今日初めてこの部屋を訪れる。
マイホーム完成祝い(?)的に、たこ焼きパーティをしようという事になった。炊事の準備は当然、新田。
「私もやりたい。」器用にたこ焼きをひっくり返すのを、りのがやりたがる。
「ほいよ。」手先不器用なりのは、やっぱり上手くできなくて、ぐちゃぐちゃにする。「あ~あ。まぁ…予想はしたけど。」
「りのちゃーん、それ、責任もって食べてね。」
「えーいっ、全部やってやる!」
「あー!」
「もう、やめてよ、おいしさ半減するじゃない!」
「口の中に入れば一緒。」
「一緒じゃないわよっ!、食事は見た目も大事よっ!」
「あーもう、千枚通し返せっ!」
4人だけのたこ焼きパーティになった。佐々木さんも今野も長期休みにして、佐々木さんは家族で海外旅行、今野は実家へ帰省。えりと黒川君も誘ったけれど、黒川君は今日、柔道の試合があるとかで、えりはそっちに応援に行き、兄の作るたこ焼きなんて興味なし。
中等部2年から始まった私達4人グループは、変わらず楽しい気の使わない仲間。変わったのは、りのが良く笑って話すようになった事。そして色々な経験をして、少しづつ大人になっている事。
りのがぐちゃぐちゃにしたたこ焼きを、新田が上手く手直しして、見た目もおいしそうなたこ焼きが完成する。
「ほい出来た。熱いから気をつけて。」
「あ、つぅ~。」
「だから気を付けてって言ったろ。」
「ふまい。ほとは、カリカリ、なかは、トロトロ。」
「ほんと、熱いわね。」
「おいひい。」皆で食べると、美味しいも4倍。
「遠藤に教えてもらったんだ。チーズ入れたらおいしいって。」
「遠藤って、ユースのキャプテンに選ばれた子よね。去年決勝で争った星稜中学の。」
「あぁ、今は星稜高校。あいつも内部進学組だ。」
「星稜高校かぁ。長年のライバルよね。国立で何度も、うちと戦っている。」
「おっ、よく調べたな。」全員のコップにお茶をつぎ足してくれる亮。
「そりゃね。知識は入れておかないと。」
「じゃ、慎一は、ユースで仲間だった人と、この先、敵同士で戦うって事?」
「んーまぁ、その可能性はある、って言うか、敵だった奴と、仲間になったって事だよ。」
「ふーん。」
「そのふーんは、興味ないな。」
「遠藤かぁ・・・あいつも関西のカリフマだな。」たこ焼きの熱さに負けている亮。
「関西のカリスマ?」
「あぁ、あの決勝戦、俺らが負けてもおかしくはなかった。」と新田は、また次のたこ焼きを焼いて行く。
「どうしてよ。」
「遠藤が作ったチーム、良くまとまったチームだったよ。ユースで一緒の部屋になってよく分かった。あいつは、そう、柴崎に似てるな。」
「私?」
「真っ直ぐ、自分が目指す道に迷いなく突き進む、そんなタイプ。」
「あぁ、その勢いが周りを引きつける。仲間を率いる才能は新田以上にあった。」
「うん。ユースでもその才能はすごいよ。」
「そんなに凄い関西のカリスマは、なぜ負けた?常翔に。」
「りの、凄い所を突いてくるわね。」
「仲間を率いる力は、慎一より上なんだろ?その遠藤って人が率いた星稜中は、なぜその人より劣る慎一が率いる常翔に負けたの?」
「なぜだと思う?柴崎もわかるか?」亮は眉を上げて、質問を返す。
「うーん。」
「難しいわね。あんた達はわかっているのよね」
「まぁ、一応はな。本当にそれが正解かどうかはわかんないけど、あの優勝旗を手に入れたって事は、答えを出したと俺たちは思っている。」と新田
「うーん、運?」りのの答えに、ガクッと3人で落ちた。
「ははは、まぁ、それもあるねぇ。確かに、運も大事な勝利要素だ。カリスマは運も引き寄せるからこそカリスマと呼ばれる。だけど、それは遠藤も新田も同じに持っていたと考えて。さて、他の理由は?」
「うーん、わからないわ。」
「ギブアップ。」
「じゃ、答えは、キャプからどうぞ。」
「俺に振るなよ。」新田は、軽快にたこ焼きをまわしながら苦笑する。「挨拶だよ。」
「挨拶?」
「あぁ、俺がサッカー部の部長になって、校舎内での挨拶を無くしただろ。無くして、廊下で会った時はハイタッチを挨拶代りにして、後輩たちに頭を下げさせないようにした。」
「サッカー部の大変革と呼ばれたやつね。」
「うん、嫌だったんだ。たった1年2年、生まれた時期が違うだけなのに頭を下げられることが。俺は部長として不甲斐ないのに、深々と頭を下げてくる後輩に申し訳なくてさ。って言うか、逃げもあったかもしれないな。頭を下げられるって事は、それに見合うだけの責任をお願いしてきてるって事だと思ってさ。俺には、そんなもん無理だって、お前ら頭を下げてお願いしてくるなよって。」
麗香は驚く。新田にそんな思いがあって変革をしたとは知らなかった。変革を起こした三年の4月の後半、あの時、新田と亮は、「サッカー部は人数、多いだろ、もうキリがないんだよ。」って言っていた。
「確かに、あの時は逃げの気持ちもあったな。だけど新田は、俺ら3年の意識を変えた。後輩たちを後輩の枠を取り払って、仲間という意識を浸透させたんだ。それが、遠藤に勝った理由、新田のカリスマだ。」
「ったくぅ。カリスマカリスマって、俺はそんなもん持ってないって。」
「結果、全員が従っただろう。お前の言葉だからこそ、皆は納得して実行できた。俺が同じ言葉で語っても、皆の意識は変えられなかったさ。」
「そんなの、わかんねーじゃん。」
「なんて言ったの?皆に。」
『気持ちの入っていない頭を下げることに、何の意味がある?俺達は同じフィールドを駆ける仲間だ。仲間の生活の場に踏み込んで強制して頭を下げさす事を、規律と言うのはおかしいと思う。規律は校舎や廊下で作るもんじゃなくて、クラブ内で作るんじゃないのか?俺はサッカー部を先輩後輩の枠を超えた仲間として、全員で全国大会に挑みたいんだ。』
「名言。」とりのが一言。
「遠藤の作った星稜中も良くまとまったチームだったけど、後輩の1年までには仲間としての意識は及んでいなかった。それが優勝旗を手に出来るか出来ないかの、少しの差を生んだ。その少しの差を埋めたのが、常翔学園サッカー部のキャプ、新田慎一だ。」
「もう、やめろよ。」新田は照れを隠すように、自分で作ったたこ焼きにかぶりつく。
「そうだな、高校サッカーじゃ、もう、それも通用しないしな。」
「どうして?」
「中学生はまだ体が出来上がっていない、技術的にも精神的にもまだまだ未熟な俺たちは、仲間を意識し合って全員で勝ち進んできた。高校生にもなれば、プロの一歩手前、まだ学生なんです的な甘い意識では、優勝旗には届かない。プロを見据えて技術も体も精神も完成している奴が、全国から勝ち上がってくるんだ。チーム全員でなんて甘い意識では、優勝旗もプロからのお誘いも手にする事は出来ない。」
「仲間の意識も大切だけど、一人一人のスキルが高いレベルで必要となってくる。」
「高校サッカーは、部員は仲間でありライバルとしてどこまで向上できるかが、勝敗を決めるはずだ。」
高1の段階でここまで考えている二人。麗香は尊敬の気持ちで二人を見つめる。そして三年後、きっとまた優勝旗を手に入れると確信する。
「厳しいな。」りのは、お茶を飲み干して置く。
「そうだな、でもそれを超えたら、夢はグッと近くなる。」二人は力強くうなづきあった。
「さぁて、食後のデサートぉ。」柴崎が、自分の家から持ってきた、ジュースとチョコ菓子を冷蔵庫から出して、リビングへと戻っていく。
「私もー、プリン、プリン。引っ越し祝いのプリン♪」とりのも上機嫌で、冷蔵庫から自分が持ってきたプリンを出す。
「引っ越し祝いと言うなら藤木にあげろよ。」
「藤木、甘い物、嫌いってぇ。」
「だから、知ってて嫌いなものを引越し祝いに持ってくる、その考えがおかしいだろっ!」
「いいよ、いいよ。その、りのちゃんの甘~い気持ちだけ、貰っておくよ。」と笑みで返す藤木、りのにはいつも甘い。
「甘い物が嫌いな藤木の分も、食べてあげるからね。」
「うん、ありがとねぇ。」
「はぁ~、まったくぅ。」
「りのちゃんの脳は、きっとプリンで出来てるな。」柴崎の隣に座り、たこ焼きより良い顔で頬ばるりの。一体いつからプリンばっかりになったのか、昔の記憶をだどっても、幼き頃、慎一のプリンを奪っている記憶しかない。
「って言うか・・・何故、女どもは当たり前のように、片付けをしない!」
「お前が、最後まで食ってるからだろ。」
「こういうのは、普通、甲斐甲斐しく女がやらないかなぁ。」
「誰かが聞いたら、男尊女卑って訴えられそうなだな。」
今どきじゃないのは、わかっている。だけど、柴崎はキッチングッズを買い揃えた時、まるで新婚のように楽しみ、なんて言っていたから、こういうのも張り切ってやるんだろうなぁと思っていた。
「期待する方が間違ってる。特にお嬢様には。」と藤木は笑う。
「あぁ、そうでした。」
食洗器には入れられないたこ焼き機の鉄板やまな板などの大物調理器具を、慎一は洗う。藤木は何もしないで、ただ慎一のすることを横で見ているだけ。
「やっぱり、ポップコーンメーカー買えばよかったなぁ。」
「買わなくていい!」
「だってあれ、キャラメルコーティングできるんだぜ。」
「お前、甘いもの嫌いだろ。」
「あっ・・・。」
ポップコーンメーカーを見つけて欲しいって言った藤木に、コンビニで100円で買える菓子に何だって、50倍の金を出して買わなくちゃなんないと慎一は止めた。藤木にとっては5000円なんて大した金額ではないだろうけれど、絶対に一回使ったきりになるのは目に見えている。
「いやー、楽しくてさぁ、これだけ同時にいろんな物を買うと、物欲が止まらなくなる。」
完全に金銭感覚が麻痺してしまっている藤木。学生の一人暮らしとしては、ありえない広さのマンション。条件に見合った賃貸物件がなかったからと言って、分譲マンションを購入してしまうと言う豪快さ。購入額も豪華で、その金額を聞いて慎一はもうため息しか出なかった。ここ数日、生活用品を買い揃えるのに付き合った慎一だったが、藤木と柴崎の暴走するショッピングに歯止めをかけるのは大変だった。
「さっき、りのが暴れたの、その止まらなくなった金銭感覚の違いが原因だって、わかってたか?」
「そりゃ、わかってたさ。だけど、りのちゃんに遠慮して、ここを見せないなんて出来ないし、聞かれた事に変に黙るのもおかしいだろ。」
「まぁ、そうだけど。」
「大丈夫さ、りのちゃんは知識欲の方が強いから、そこを満足させてあげたら、金銭感覚のズレなんてすぐ吹っ飛ぶ。」
藤木は、りのたちの方に顔を向け、眼を細める。
「知識欲ねぇ。」
「もう、舌を巻くね。りのちゃんの知識欲の要求は。さっきのエロ本にしても、エロさは全くなかっただろ。普通は柴崎みたいに気持ち悪がる。」
「まぁ、それ幸い。だけど、知識欲で女が見るようなものじゃないだろ、あれは。ったく・・」
「そこが、りのちゃんの普通じゃない所だ。」
栄治おじさんが、慎一達二人に、沢山のことを教えてくれた。りのはいつも、おじさんの説明に目をキラキラと輝かせて、聞いていた。そして次々になぜ?どうして?これは?を繰り返して、慎一は、りのと栄治おじさんの会話をへえーと相槌するのが精いっぱいだった。栄治おじさんが死んだ後、その代わりをしたのが博識の知識があった藤木。自分は、りのが求めるものに、何も答える事が出来ない。
「悔しがらずとも、りのちゃんは、お前にその役割を求めてはいないと思うぜ。」読まれた。
「それ、喜んでいいのか、悪いのか、わからないじゃん。」そう、りのは慎一に何も求めない。差し出した手を振り払って逃げていく。
「りのちゃん自身も、新田に何を求めたらいいのか、わからないんだろうな。相変わらず、りのちゃんのは読み取りが難しいよ。」
「わからない方が普通なんだろう。いいよ、そのアドバイスだけでも、俺は随分と助かっている。」
キッチンの周りを布巾で拭いて片付けは終わり。
「礼は晩飯で良いぞ。」
「はい?」
「明日からの晩飯、俺はどうしたらいいんだ。」
「どうしたらって・・・それ見込んで一人暮らしするって決めたんだろう。」
「コンビニ弁当はおいしくないし、これからプロを目指す体を作ってかなきゃなんないんだぞ。」
(なに威張ってんだ。)
「頑張れよ。」
「あぁ~新田君~。お願いだぁ~。飯作りに来てくれ、な。」
「家でも作んなきゃなんない日があるっちゅうのに、お前の事なんか知るかっ!」
「そんなぁ~見捨てないで~新田君の手料理が食べたいのぉ~。」女のような声色と仕草をして腕にすがりついてくる藤木。
「やめっ!キショイっ」腕をすり抜けて阻止。
「やだーキショーい。見た?あの顔、おっかしい。きやははは。」
「あはははは、面白い、この芸人。」
テレビを指さし爆笑しているりのと柴崎。ガラス製のローテーブルの上は、デザートが食い散らかっている。
「人ん家だと思ってないな、あいつら。」几帳面な藤木は顔が引き攣っている。
慎一もリビングに戻る。
(ん?この匂いは、えっ?)
「お前ら!何飲んでんだっ!」
「あーおっかしいぃ~、見てよあれ、あはははは、いひひひひひ。」何一つ面白くないテレビ番組に大爆笑で笑い転げる柴崎。
「ワインなんか飲んで!未成年だろっ!」
「ブドウジュースよ、ブドウジュース。」
「うん、このジュースおいしい。」りのは更に飲もうとして、ワインをコップに注ごうとした。取り上げる。
「こらっ飲むんじゃないっ!」
「柴崎~、飲酒バレたら、一人暮らしも出来なくなるだろ。」
「きゃははは、これはブドウジュースよ。ヒッくぅ」
「あーまだ飲む~。」
「ダメだっ!・・・完全に酔っぱらってるし。」
柴崎の横に空になった瓶が転がっていた。
「うわっ、既に一本空にしてる。」
「あ~あ、年代もんの奴、開けて~もったいない。これは、もうちょっと寝かしてた方が良いのに。」突っ込みどころがズレてる藤木。
「返せっ!ジュース!」立ち上がって取りあげたワインの瓶を取り返しに来るりのに、取られないように天に上げる。
「駄目だ、これはジュースじゃない。」
「んーあっ!どうして慎一は、いつも邪魔ばっかするんだっ!」目はうるんで、顔も赤い。完全に酔っぱらい。
「邪魔じゃなくて・・。」
「プリンも駄目、ジュースも駄目、りのの好きなものばっか駄目って言う!」
「そうだ、そうだ、新田は邪魔ばっかりぃいっヒッくぅう。あはははは、」柴崎は、酔うと笑い上戸か・・・
「返せぇ~。」背伸びをするが、届かないりの。
「そう言う問題じゃなくて、法律上駄目なんだって!」
「うわあっ。」テーブルの上を片付け始めていた藤木の上に、ふらついたりのが落ちるように倒れ込んだ。
「ほら~りのちゃん、危ないでしょう。」
「むあっ!ふじきぃ~。お前もだっ!」
「えっ?ちょっと、りのちゃん!」
「お前は、いっつも・・・女ぁにぃ。」りのは、藤木に馬乗りになって襟首を掴む。りのは絡み酒かよ。
「あはははは、やだ、何してるの。りの。」
「んで、麗香をぉ泣かすんだっ!」
「きゃははは、りの何、面白い事言ってるの~私、泣いてないわよ。うくっ、あははは。」
(はぁ~、何だよこの修羅場・・・。)
「新田ぁどうにかしろぉ~。」藤木はりのに乗っかられて、身動きが出来ない。
「りの、ほら、藤木が困ってるから。」
「麗香を・・・・泣かすぁ・・許さな・・・いっ~・・・きらぁい」言いたいことだけ言って、こてっと、りのは藤木に抱き付くように寝てしまった。
「ったく~。」
「あーりのちゃん・・・可愛いねぇ。」藤木はりのの頭をなで、陶酔しきった顔でいる。
「馬鹿っ!離れろっ!」
「・・パパ・・・」寝ぼけてさらに藤木に抱き着くりの。
「おははは、おっかしいぃりの。パパだってぇあっはははは。」
柴崎が陽気に酔っぱらっててよかったと胸をなでおろす慎一。これがシラフだったらどうなってたか・・・
「そうだねぇ・・・寂しいねぇ・・・」
ずっと自分が死なせたと責めてきたりの、その罪が晴れても、栄治おじさんは生き返らない。罪を背負ってきた時の方がまだ父親の死に納得していたのではないか?栄治おじさんの思い出を語れるようになってから、会いたいという言葉が時々出て来るようになった。その寂しさを、慎一は癒す事も、共有することも出来ない。
「おっ、新田、安心しろ、ちゃんと成長してるぞ。」
「はぁ?」
「これは、Cカップぐらいだな。」
りのの背中を触りまくるやらしい藤木に怒り爆発!
「ぶっ殺すっ!」慌ててりのを引き離すも、グニャグニャに力が抜けているりのは起きない。
「おーやれ、やれっ~きゃははは。」柴崎は残っていたコップのワインを飲み干した。
露「んー、次はどこ行くの~。」
(あぁ~あ。もう、面倒見切れない。)
「こいつら、ここが男の部屋だと思ってないな。」
「思ってたら、男の部屋で無防備に寝ないだろ。」
麗香も最後の一杯を陽気に飲み干したら、そのまま寝てしまった。
「今なら、やりたい放題だぞ。やっちまうか?」
「ばっばかっ!倫理上問題ありだっ!」冗談を真に受ける新田。こいつはモテるが女と付き合った事がない。おそらく童貞で、男同士の下ネタ系の話にもあまり乗ってこない。
「やっちまって、りのちゃんに嫌われて、さっさと次に切り替えた方が早いんじゃねーの?」りのちゃん一筋も、いい加減に見切りをつけた方が互いのためかもしれない。幼馴染の恋は成熟しないと言うし。
「ふざけたこと言うな!」
「新田君はマジめだねぇ~。」
「お前なぁ~、最近ちょっとおかしいぞ。」
新田の言う通り、おかしいのかもしれない。弥神を殴る前、突然沸騰した屈辱、嫉妬、憎悪、殺意の感情。これまでに失意に自死を求めた事はあっても、理性を失って誰かを攻撃するなんてなかった。その上、殴った時の記憶がないのは不安要素しか残らない。何が自分の中でどうなったのか、まったくわからない。脳の異常はないと医師は言うけれど、だからこそ怖い。精神が壊れてしまったのだろうか。
新田が、本心から心配をして亮を見つめてくる。逃げるように顔をそむけた。きっとまた、「頼ってもらえない」と嘆くだろうけれど。
「二人共、気持ちよさそうだけど、そろそろ起こさないと。」
時計は9時半、柴崎邸に麗香を送って行かなければならない。あまり遅くなると柴崎会長が心配するだろう。柴崎会長は、亮のあいつに対する強い嫌悪を読み取っている。だから一人暮らしをと進めてくれた。根深い嫌悪が殺意に変わらないように。
「りの、起きろ。帰るぞ。」
「柴崎も、そろそろ帰らないと。」
「うっ、うーん。あー、今、何時?」
「9時半」
「まだ良いじゃない。それに、面倒だわ、歩いて帰るの。」
「りの、ほら、ちゃんと目を開けて。」新田はりのちゃんの身体を起こすも、力なくだらんと寝転がってしまう。本当に猫みたいだ。
「面倒っていわれてもなぁ。」ここから5分の柴崎邸へ帰すのに、タクシーを呼ぶのも大概だ。
「眠い・・・泊まるわ、ここに。」
「いっ!」新田が驚く顔をする。
亮は大きく息を吸い込んだ。
「お前らっ!いい加減にしろっ!俺の理性がまだあるうちに帰れっ!いつまでも紳士でいると思うなよっ!」
「おいおい。」新田が苦い顔をする
「なっ、何よ、びっくりするじゃない、大声出さないでよ。」
「あー・・・・くらくらするぅ。」
やっと起き上がった二人をマンションから追い出した、玄関ロビーで新田とりのちゃんが駅へと歩いて行くのを見送る。サッカー部は明日も午後から練習がある。バスケ部は明日の練習はないと言っていたから、少々ワインの影響が出ても大丈夫だ。それよりも問題なのは麗香だ。
「大丈夫か?」
「う、うん・・・・おかしいなぁ家で飲んでる時は、こんなにならないんだけとなぁ・・・」
「お前、家でも飲んでるの?」
「だって、もうすぐ成人だもの。ワインぐらい飲めるようになっとかないと、社交界でサマにならないじゃない。」
「華族は法律をも、規定外かよ。」
「んーそうじゃないけど、あーフラフラする。」ふらつく麗香を肩を抱いて支える。こんなところ、誰かに見つかったらマジでやばい。
「あっ!」麗香の突然の声にビクッとして肩に置いた手を離す。
「なっ何。」
「携帯がないっ!・・・・忘れた。」
「部屋を出る時、テーブルの上を見たけどなかったぞ。」
「ほら、ないっ」麗香は小さいハンドバックを広げて見せてくる。
仕方ない、踵を返して取りに帰る。マンションは、こういう忘れ物をした時が面倒だ。このマンションは7階建て、亮の部屋は6階の北側。市の条例で、柴崎邸のある周辺は集合住宅が建てられない地域だが、購入したマンションは鉄道会社の空き地を転売して建てられた為、条例からはギリギリ外れて建てられている。1階はコンビニと美容室の店舗があり、建物自体は一階層3世帯しかない若ファミリー向けの2LDKが主なマンションだ。5階層から階段式に狭く削られているのは建築法によるもので、だから亮の購入した物件は変に広い1LDKの間取りしか取れず、しかも北側だった為に、売れ残ってしまっていた。
亮が一人暮らしをしたいと願ったら、父親は、
『お母さんにだけは、毎日連絡をする事、それが条件だ』と言った。
柴崎会長が、一人暮らしの件も話していてくれていたのだろう、詰問なくあいつはそう言って部屋を出ていった。弥神を殴った事のお咎めも、両親共になかった。
戻った家のリビングに携帯はない。
「どこに置いたんだよ。」
麗香はクッションやラグの下までめくるが、ない。
「トイレか?」覗いてみてもない。
「えーと。ここに置いてて。飲んでる時にメールの着信でブルブル震えていたのが、やたらおかしくて・・・」麗香はこめかみを指で押さえて考える。「メールを確認して、、DMメールだったから、なぁーんだって、あっ!投げたんだった。」
「どこへっ!」
麗香はソファーのクッションをどかして探す。
「あれ、ないわ・・・こう、仰向けで投げたんだけどなぁ。」
「後ろだ。きっと。」
麗香はソファをよじ登っていく。壁との隙間を覗く姿勢でスカートが短くなって、下着が見えそうになった。亮は慌てて目線を外す。
「あった!けど・・・取れない。」
「ちょとどいて、取ってやる。」
湯水のように使える金を、ここぞとばかりに使って買ったソファー、座り心地というより、寝心地を優先して選んだ重厚感あるもの。だから動かすのも大概の力がいる。新田はその値段に贅沢過ぎると呆れていたけど。店員は売れて本心から喜んでいた。
金の心配はしないでいい家に生まれた亮の境遇は、臨月ギリギリまで働きゃなんない千賀子さんとか、突然母子家庭になったりのちゃんからしてみれば、飽きられるほどの贅沢だろう。だけどこの贅沢が、日本の経済を回し景気が良くなれば、千賀子さんの仕事は増え、母子家庭に対する保護制度も税金で手厚く保証されたりする。そうすれば、りのちゃんや千賀子さんの生活は楽になるはずだ。というのは単なる言い訳かもしれないけど。あれ以来、亮はお金を使う時の意識が変わった。経済の為と思って使うと、なんだか良い事をしているように思える。
腕を強引にソファと壁の間に突っ込み、途中で止まっている携帯を引っ張り上げる。
「はい。たくぅ調子に乗り過ぎだ。」
「ありがとう・・・。」麗香の潤んだ目。まだ酒が抜けきれないのか、頬はほんのりピンク。
「亮・・・。」
麗香の辛い気持ちを読み取る。麗香が俺の首に腕を回し、抱き付いてくる。
変な体制でいたから、抱き付かれた勢いが支えられず後ろに倒れた。
まだまだ子供のようなりのちゃんの軽さとは違う、しっかりした女のやわらかい重み、麗香の髪が亮の顔へと落ちてくる。
「亮、わかるでしょう。私の気持ち。」
わかる。求めている物が・・・そして辛さが、それは亮が作った耐心の道。
「柴崎・・・駄目だ。」
「消せないの・・・どんなに頑張っても。」
亮への気持ちを募らせている事は、わかりやすいほどわかっていた。麗香はその想いを必死に消してマネージャーの使命を貫こうとしていた。
「どうして・・・こんなにも好きなのに。」
麗香のその溢れる感情は、切なく魅力的だ。
麗香の腰に手を回して体制を入れ替えた。
「麗香・・・」その艶やかな唇に理性が吹っ飛ぶ、のを自分の唇を噛んで抑えた。
「亮・・・」首に回される麗香の手を止めて握る。
「駄目だ、柴崎。」その手を引っ張って麗香の体を起こす。
「お前は、俺だけのものじゃない。」亮の言葉に傷ついて、泣きそうになる麗香。乱れて頬に張り付いている髪に手をすべり込ませ、整える。
「ごめん。お前の気持ちより、夢を優先する俺は、麗香の男として失格だ。」
「私は!」頬にキスをする。「私は・・・亮の理想には・・・なれない・・・・なりたくないの。」
その耳元にささやく、呪文。
「まっすぐ突き進め、それが俺の勝利指針。」
麗香の目から涙が零れ落ちる。
(ごめん、麗香。俺では無理なんだ。)
隣に座るりのは、携帯でメールを打ち込むのに忙しい。お相手はもちろん、遠く離れたフランスにいるグレン。
「プっ・・くくく。」りのが肩で笑いを我慢する。
各駅停車の電車の中、もう10時になって混雑はしていないけど、大きな声は出せない。
「何?」
「トニーが講義中に寝てるから、皆で落書きしたって。」トニ―という名の人物をりのの口から初めてきいたけれど、フランス時代の男友達だと想像がつくから黙ってうなづくだけにした。
「見て・・・こんな顔に・・・ぷっくくく。」
「わー凄いな・・・」日本でもおなじみのいたずらは、フランスでもあるらしい。去年の夏、今野の実家のリゾートキャンフの最終日、疲れて先に寝てしまった今野に皆で落書きをした。朝、顔を洗う時、今野が怒り狂った。その時は、定番の泥棒顔だったけど、流石はフランス、トニ―の顔は、ピカソの顔見たく、色鮮やかで、落書きすらもおしゃれに見える。
「あーおかしい。」
「芸術作品だなここまでくると。」
仏「こんなにされても、起きないトニーが悪いよ。」
フランス語でつぶやいたりのを、隣に座っているサラリーマンのおじさんがびっくりして、向く。
仏「ルーブル美術館からお誘いが来るかもよっと。」
慎一もりののフランス語は全くわからない。りのはひとり言を口にしながら、フランス語キーボード画面で手慣れた速さで打ち込んでいく。
仏「プっ、トニー先生の作品は、後世に残る世界芸術遺産に登録されました。だってぇ~。おっかしい。」興奮したりのの声が、車内に響いた。隣のサラリーマンのおじさんのみならず、向かいの年配のおばさんや、ドア付近で立っている大学生風の人も、聞きなれない言語を発するりのに怪訝の顔を向ける。
「りの、声大きいよ。」慎一は囁いて注意をした。
「あっ、あぁ。」楽しそうだったりのが、周りの気配に気づいて表情を硬くする。
残念ながら、これが日本の現実。長く鎖国をしていた島国日本は、日本語以外の言葉に耳慣れないし、それを発する者を奇異の目で見る。りのの語学力や頭脳が優秀でも、世間の大多数から外れる者は異質で嫌われる。
りのは、携帯の画面を終了させて鞄の中に仕舞い、そのまま俯いてしまった。少し長くなった髪がその横顔を隠す。
バスケの練習の後、制服のまま藤木の家に来ていたりのは、膝の上で手をグーにして周りからの視線に耐え忍ぶ。慎一はりのの拳を上から握り、ちょうど彩都南駅に着いたので、そのまま引っ張って、逃げるように電車から降りた。
駅から出ても、その手は離さないで繋いで歩いた。
慎一は思う、この先、大人になっても昔と変わらず、手を繋いで歩けるだろうか?と。
りのの住むマンションまでにある公園前に来る。この公園を突っ切ると近道だが、夜は、あまりよろしくない場所で、痴漢も出るし、たまに不良が溜っている。迂回しようとしたら、りのは慎一の手を振り切り公園へと駆け入ってしまった。
「あっ、こらっ!」幸いに今日は、不良たちは居ない。
りのは滑り台を逆行して駆け上がると、立ったままスケボーでもしているように降りてくる。
「またぁ・・・危険な事して、怪我するぞっ。」
「しないっ!」
りのは鞄を慎一に向かって投げ渡してくる。仕方なく慎一はカバン持ちで、りのが遊び終わるのを待つことになる。
りのは3回ほど滑り台で同じ遊びをした後、ブランコへと移動。とてもCカップの胸があるような女子高生の姿じゃない。栄治おじさんが死んでから3年間、止まっていた成長がやっと動き出したばかりと考えたら、今はまだ中学1年生?と考えるも、知識欲で培った頭脳は、学園一の秀才だと認められるギャップに時々ついていけない。
ブランコをこいでいたりのは、勢いをつけてそのままジャンプの着地、ブランコはガシャンと派手な音を周囲に反響させる。
「あーもう、危ないだろっ!」
「おかしいなぁ・・・・昔はこの柵まで飛べてたような気がするんだけど、この柵の位置、変わった?」そんな事を聞かれても、慎一は知らない。
「立ちこぎか?」
「わーこらこら、やめろっ!」
慎一の制止はやっぱり無視されて、ブランコに飛び乗り勢いよく漕ぎ始める。
もう絶対に怪我をする。慎一は持っていた荷物をその場に置いて、その瞬間に備える。
ガシャンジャと、より一層の音をたてて、立ったままジャンプするりのは、目標の柵を飛び越えられず、手前でつんのめたのを慎一は受け止めた。怪我をするような事にならなくて安心する慎一。
「おっかしいな・・・・。」
「あったりまえだろ、体も大きくなったんだ、振り子の原理として、重心が外にないだろ。」
「振り子の原理かぁ、重心という事はぁ・・」
「やめっやめっ!体張った実験なんかすんなよっ!」
「むっ!また慎一は邪魔をする。」
「邪魔しないと、とんでもない事するだろっ!」
「楽しくない奴!」
「あぁ楽しくなくて結構だよっ!」ったく、人の気も知らないで。「俺はもう嫌なんだよっ!りのが怪我をしたり、命の危険にさらされたりするのがっ!」
りのが面食らった顔をする。
「りのが怪我をすると・・不甲斐なさに自分が嫌になる。また守れなかったって。」
「私は・・・。」りのは唇を噛んで目を伏せ「私は、慎一に守ってもらう価値のない人間。」
「そんな、価値とかなんて思った事ない。」
りのは首を振る。
「私は、慎一が来るのが当たり前だと待っていた。グレンじゃなく慎一を。」
「何の話?」
「死へと、一緒に連れて行こうとしていたのは、大好きなグレンじゃなくて、慎一。」
大好きなグレンは一緒に連れて行けなかったって事か・・・捨て駒的だったと言われたのも等しい。それでも、りのが行きたいところへついていく事を決めていた慎一にとって、それは望む事であり、唯一出来る事だった。
これはうれしいようで悲しい告白。
「私の気持ちは、今すぐにでも、フランスに飛んで行きたいほど、グレンに向いている。だけと、慎ちゃんが大好きだったニコの気持ちも私の中にある。私は、ニコの気持ちを利用し、埋められない想いを投影している。」
「投影?」
りのは、ゆっくりと頷いて胸に手を当てる。
「グレンに会いたい、でも会えない。だけどニコが大好きだった慎一がそばに居る。グレンの鼓動をこの耳で感じたい、でもできない。すぐそばで、慎一の鼓動が聞こえている。この手でグレンに触れたい、でも触れられない。手を伸ばせば慎一に触れられる。」
「グレンの代わりか・・・」
「ひどいでしょう。軽蔑に値する。守る価値なんてない。」
今度は慎一がゆっくりと首を振る番。
「俺も、投影している。りのにニコを。」
「えっ?」
藤木の言った意味がやっと分かった。「お前が選んだ」の意味を。
「俺は、あの時、ニコに消えてくれとお願いした。それなのに、俺は、グレンが好きなりのを認めたくなくて、嫉妬して、消えたニコの方が良かったと後悔している。りのにニコを投影し、してはいけない後悔をしている。酷いよな、軽蔑する。自分でも。」
互いに黙った時間が長く続く。
どこかで犬の鳴き声がして、りのが慎一の胸へと抱き着いてくる。
「ニコの代わり・・・」
「りの?」慎一は何をどうしていいかわからず、手は空を彷徨う。
りのは慎一を見上げ、潤んだ目で見つめる。
「キスして・・・」
(あぁ、そう言う事か。)
互いに、会えない相手を投影し合う。そして埋まらない気持ちを癒す。
慎一は、ニコの頬に手を添える。この目は慎一を見ていない、遠くフランスにいるグレンに想いを馳せて。
「ニコ・・・」
「・・・グレン。」
幻想のキス。
それは、ワインのアルコール漂う幼馴染から脱却した大人の味。
だけど、それは長く浸れば抜け出られなくなる。
麻薬のように危険な世界。
二コを消してしまった慎一の後悔は、りのの罪を中和する。
新田が、りのちゃんと待ち合わせて、帰って行く。こんな事は、今までになかった。偶然帰る時間が同じになるという事はままある。だけど、わざわざ互いの終り時間を待つなんて事はなかった。
「あれ?新田とりの、もう帰っちゃたの?」
「あぁ・・・・」
麗香はまだ知らない。新田とりのちゃんが、おかしなことになっている事を。
「なんか、最近あの二人、喧嘩しなくなったっていうか・・・いい雰囲気よね。」
「・・・・・・」
「何かあったのかしら?」
麗香は意味深な顔を向けてくる。当然のことながら読み取って知っているんでしょうと、見知っている事を教えろと、要求している。「知らん。・・・りのちゃんが、心変わりでもしたんじゃないのか?」
「嘘・・・何か知ってるわね。」
「知らねーよ。」
「じゃないのかって確定していないもの。いつもなら、心変わりしたんだって確定した言葉を使うもの。」
(ちっ、こういう事だけは聡いな。)
「柴崎、勘違いすんな。」
「えっ・・・」
「俺のこの能力は、お前の好奇心の為にあるんじゃない。」
麗香は息を飲み、驚愕に目を見開く。恥じらい半分怒り半分の感情を読み取る。
「読み取った本心は、本来なら知らない事、知ってはいけない事だ。この力は世の中に要らない力なんだ。」
眉間に皺を寄せて、亮の言葉に反論しようとして・・・口を一旦噤む。息を吐いてから気持ちを落ち着かせるように静かに問うた。
「じゃぁ、なぜあの時、私の誘いを断わらなかったの?」
「えっ?」
「私は、あんたの能力が必要なのと言って、生徒会に誘った。本来は知らない事、知ってはいけない事、それは正しいしわかるわ。だけどあんたは、その能力を使って私のサポートをする事に拒否はしなかったし、あらゆる場面でその力を使ってメンバーの関係を円滑に回していたわ。」
『藤木、私と一緒に生徒会やらない?』
『生徒会?』
『そう、私は会長に立候補する。あんたの能力が私には必要なの!藤木、私と一緒に生徒会をやって。』
「あの時、どうして、この力は使えないと言わなかったのよ!どうして私のサポートなんかしたのよ!・・・そしたら私は・・・亮を好きにはならなかった。」
漆黒の目が亮を責める。いい機会だ。ここで突き放せば、麗香は拘ることなく夢に突き進む事が出来る。上手く言葉を選べば。
「・・・俺の性格を知ってるだろ。」
「何?」
「困ってる女を見捨てられない。」
麗香が驚愕に息を吸う。
「お前が、俺を好きになる事は読み取り外だ。」
「嘘よ!亮は随分早い段階から、私の気持ちを読み取っていたはずだわ。本人も気付けない事を気づいてしまうって!その様子だと、まだまだ時間が、かかりそうだな。って言ったわ。私が、亮を好きだと気づくまで待っていたんでしょ!」
(くそっ、思うように行かない・・・・仕方ない、傷付ける言葉を使うしかない。)
「お前は、自分の恋心を俺に責めるのか?」
「なっ・・・」
「俺は、人の本心を読み取りはするが、その沸き起こる心までは責任を持てない。持つ必要はない。」
麗香が、唇を噛み震える。
(ごめん、麗香・・・傷はまだ浅い。この先の未来で負うよりも、絶対に浅いから、今だけ我慢してくれ。)
「女の頼み事は断らない、お前と生徒会をやったのは、単なる俺の悪い癖が出たまでの事。」
「・・・分かったわ・・・・良くわかった。全部、私の独りよがりだったって事・・・・」
麗香に自分と同じ読み取りの能力がなくて良かったと、こんな時に思うのは、やっぱり臆病なだけの小さい人間。
泣いてしまうかもしれないと覚悟はしていたが、麗香の漆黒の目が潤っただけで、涙は溺れ落ちなかった。
その気高いプライドは気品にあふれて、鋭い刃となって亮の胸に刺さる。
(本当にごめん麗香・・・・唯一その気持ちを大事に待っていたのに。)
『女の頼み事は断らない、お前と生徒会をやったのは、単なる俺の悪い癖が出たまでの事。』
『俺は、人の本心を読み取りはするが、その沸き起こる心までは責任を持てない。持つ必要はない』
『お前は、自分の恋心を俺に責めるのか?』
『お前が俺を好きになる事は読み取り外だ。』
『俺のこの能力は、お前の好奇心の為にあるんじゃない。』
どうして。どうして?どうして?
私は、こんな事を言われる為に、サッカー部のマネージャーになったの?
亮を見捨てた罰がこれ?
亮は、私を好きではなかった?
それさえも、独りよがり?
じゃ・・・気持ちを寄り添ったあの日々は何だったの?
悔しい、自分が、亮を好きになった自分が、
好きの気持ち消せずに中途半端に夢に向かう自分が。
どうして私は、ちゃんと好きを消してから、マネージャーにならなかったのか?亮はずっと言っていたはずだ。俺離れしろと。
簡単だと思った。気持ちを消せはしなくても、ううん、消す必要はなく、亮への気持ちは奥底に大事に仕舞っておき、演じればいいと、すべての部員に公平に目を配る理想のマネージャー像を。だけど、思ったほど簡単じゃなかった。どうしても亮の姿を探して、追って、亮に頼っていた。こんなに難しいなら、こんなに辛いなら、マネージャーなんてやめたい。もう・・・無理。
「柴崎さん?」
呼ばれて顔を上げたら、前髪で片目を隠した弥神君が、麗華の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?気分でも悪いの?」
「あっ・・・ううん、大丈夫。」
校舎に6か所ある給湯室の一つ、南校舎の一番奥の扉のない狭い炊事場の前で、麗香は亮の言葉に苦悶してうずくまってしまっていた。見られた恥ずかしさに慌てて立ち上がる麗香を、弥神君はじっと見つめ目を離さない。
「・・・顔色、悪いよ。」
「そ、そう?で、電気ついてないから、そう見えるだけじゃないかな。」
「保健室行った方がいいんじゃない?」
「大丈夫・・・・体は何ともないの、ただ、自分の失態に落ち込んでいただけだから。」
そう、身体は何ともない、辛いのは心。
「柴崎さんほどのお人が、失態なんかするんだ。」
「えっ?」
「中等部の功績、色々聞いたよ。流石は東の祈宗を取りまとめた柴崎総一郎様のお孫さんだと感嘆したよ。」
「あ・・・ありがとう。」
まさかお爺様の名前が出で来るとは思わなかった。流石は常翔学園の経営者の娘さんね、と言われる事があっても、お爺様のお孫さんだから流石だなんて、お爺様が生きていた頃だって、言われた事がなかった。
「でも私、お爺様に足元に及ばない、失態ばかりよ。」
「総一郎前代表は凄い人だと聞いている。西にもその噂はよく聞いていた。」
華族会、西の宗を取りまとめる弥神道元様からお爺様の話を聞いてこちら東へ来たのだろう。麗香と同じく、弥神君も失礼のないようになんて言われてこちらに来たに違いない。西の宗に属する生徒はこの弥神くんだけだ。
亮が殴った場所に目がいく。口の端にうっすらとかさぶたが残っていた。
「あ、あの~弥神君、傷、大丈夫?」
「あぁ、これね、ご覧のとおり、全然もう大丈夫。最初は食べ物が浸みたけどね。」
「そ、そう、良かった。ごめんね。藤木が・・・・どんな理由があるにせよ手を出したのは、いけない事だから。」
「・・・お前もか。」
(えっ?聞き間違いかしら、「お前もか」って聞こえたけれど?)あまりにも小さいつぶやき声だったから、もう空耳だったと思える。
「ありがとう、東の人達は優しいね。藤木君とのことは、僕が悪かったんだ。」麗華に向けられる微笑に、ふと誰かに似ている気がしたけれど、それが誰かを思い出せない。
「僕が至らないから、皆、不満を抱いていて、藤木君は皆を代表して僕に教えてくれただけだよ。」
「そ、そう・・・。」
(なんだ。とても謙虚じゃない。)
今野から聞かされていた弥神君の態度は理不尽極まりなく、何も被害に遭っていない麗香でも怒りを覚えるほど。亮が殴るのも無理ないなと思っていた。しかし、実際に話してみると今野から聞かされ麗香が作り上げたイメージとはかけ離れている。
「あぁ、そうか、柴崎さんは藤木君と付き合っているんだってね。」
「ううん。付き合っていたけど・・・別れたの。」
「あぁ、そうだったの・・・それは、辛いね
麗香は肩をすくめて、苦笑いで答える。
「その辛さ、取ってあげよう。」弥神くんの声が突然低くなる。
「え?」
左手で左目を覆う髪を払った。一度目をつぶってから見開いた目は、
赤い!?
「あれ?柴崎さん、まだ着替えてなかったの?」
(・・・・。)
「柴崎さん?」
(私を呼んでいる?)
「・・・えっ?あっ岡本さん。」
「大丈夫?」
「あれ?もう着替えたの?早いわね。」
「えー早いっても・・・・もう6時半過ぎてるわよ。」
「えっ嘘!」
腕時計を見たら、6時40分。高等部の門は7時には閉められる。私はまだジャージのままだった。
「何だか、藤木君が遅いって、探してたけど。」
「あぁ藤木ね。ん?別に一緒に帰るとか約束してないけどなぁ。」
「もしかして、まだ洗ってないとか?これ?」
岡本さんがジャーポットとコップを指さす。指摘された通り洗った記憶が無い・・・慌てて、中身を見みると、余ったお茶がまだ捨てられずに残っていた。
「あ、ぁぁ、まだ洗ってなかったわ。」
「大丈夫?どうしたの?テキパキ仕事の早い柴崎さんが・・・・あー柴崎さん、私洗っとくから着替えてきたら?門が閉められたら面倒でしょう。」
「あぁそうね、ごめんね岡本さん、お願い。明日のお茶当番も私がやるから。」
「ふふふ、いいわよ。さっ早く。」岡本さんの言葉に甘えて、更衣室に走った。
(おかしい・・・私、何してたんだろ?)
部活動が6時に終わり、ミーティングの終了後にコップとジャーポットを給湯室で洗うのがマネージャーとしての毎日の仕事の流れ。お茶の当番は一年の麗華と岡本さんとで一日交替でやることに決めた。
今日は麗華が当番で、ミーティング終了後にポットとコップの入ったカゴをもって亮と校舎に入るところで、立ち話して、それから・・・・・何していたんだ私?そもそも亮と何の話しをしたかを思い出せない。一緒に帰る約束でもしたのだろうか?
頭に靄がかかったように思い出せなくて気持ち悪い。部活動終了から換算して約40分間も、私は何をしていたのかしら?
と考えている場合じゃない。急いで着替えて、岡本さんの所に戻らなくては。
閉門に間に合わなければ、図書館の出入り口から出なければならない。遠回りという面倒だけじゃなく、図書館職員に遅れた理由とIDをチェックされ、あまり続くようなら教師からの指導が入る。
麗香は急いで着替え、鏡をチェックし、鞄をひっつかみ更衣室を出た。
さっきの給湯室まで走り戻ると、岡本さんはコップを洗い終わったところだった。
「ごめんね~。」
「ううん。」給湯室から出で、玄関脇にある下駄箱ロッカーへ向かう。
「藤木君、東京まで帰る事になって通学、大変ね。」
「うーん、でもまぁ・・・あいつん家、白金台だから、通学1時間圏内、今までの寮生活が贅沢だったのよ。」
亮の一人暮らしは、他の生徒には内緒、今は東京から通っている事になっている。
「白金台!?凄いわね~、やっぱり常翔はお金持ちの子が多いわね。」
白金台は、東京の高級住宅街で全国的に有名な場所。そこに住んでいると聞けば、もうとんでもないお金持ちだという事は誰が聞いてもわかる。そりゃそう、なんてったって亮は、あの藤木守大臣の息子なんだから。それは禁句事項だけど。
「岡本さんだって、ここに通ってきてるって事は、普通よりは上って事でしょ。」
「私は・・・無理して受験したから、母がヒーヒー言ってるわよ。何もかもが高いって。」
「それは、それは、どうも、ご入学ありがとうございます。」
「やだっあはははは。」
新田がずっと男の子だと思って接していた岡本悠希さん、彩都FCの少年サッカークラブで5年間男の子と混じってやっていただけあって、サッカーの知識は完璧で、練習の構成とかも頭に入っている。もうコーチの傍についてボールの受け渡しをやっていて、ボール拾いで一年生から受け取るときは、手じゃなく足を使って、さばいていたりもする。性格も悪くなく、佐々木さんと似ていてさわやか系だ。新田を追って入学入部してきたと知って、あのファンクラブのような、黄色い声でキャピキャピされて仕事も出来ない子だったら、どうしようかと危惧していた麗香。でも岡本さんはそんなことなく、サッカー自体が好きなようで、部員たちのサッカー話にも入れている。しかし、気になる事が一つあった。先輩にあまり近づかない。先輩に用があるときは、「ごめん、ちょっとまだ苦手だから。」と麗香に代役を頼んでくる。中学で先輩に苛められたとかあるのかしら?と麗香は想像し、あえて詳細を聞き出さないようにして、代役を快く引き受けていた。りのの時に学んでいた。苛めによる精神的障害は無理させない方がいいと。岡本さんが出来ないなら、麗華がやればいいし、互いに出来る事をフォローし合えばいい。
「はぁ~。まずいな、本気でマネージャーをやめる決心をしないだろうな。」とため息をはいた亮。
やりすぎたと後悔しても遅い。
「あー藤木、新田って・・・もう帰った?」沢田が、下駄箱ロッカーで話しかけてくる。そうだ、新田の事も問題だった。
「あぁ、とっくに。」
「しまったなぁ。」
「なんかあるのか?」
「社会の課題、新田がもう出来たって言ってたからさ、参考までに見せてくれって言ってたんだ。今日、借りて帰るつもりだったのにぃ。―――藤木はもう出来た?」
「いや、まだ半分。」
ゴールデンウィーク前に、各教科から宿題がたんまり出ている。特選は、普段あまり宿題は出ないけれど、休み前で中間テストが間近だからという事で、各教科の先生が有難迷惑な配慮をしてくれた。その中の一つ、社会のレポートが一番厄介なもので、好きな武将を選び行政改革をテーマにレポート5枚の論文を書けと言うもの。提出日が、ゴールデンウィーク明けの今日と言われたのを、そんなの絶対無理とブーイングして、土曜日に伸ばしてもらったぐらいの難題課題。
「うおー半分もできてんのか?いいなぁ、俺、全くできてないんだ。誰を選んでいいかわかんないし、そもそもレポートってどう構成していいかわかんない。新田のを参考にしながらやろうと思ってたのにぃ。」
「あいつ、歴史は超得意だからな。取りに行ったら?こっから30分もあれば行けるだろバスで。」
この時間なら、もうバスに乗っている頃だろう。りのちゃんと一緒に。
「えー、面倒。反対方向だし、それにそこまでして、やりたくないっ!」
「あははは、まぁ、そりゃそうだ。」
土曜日の提出日まであと3日しかないが、先送りしたいのはやまやまだ。亮自身も3枚目までは順調に出来たが、あと2枚をどう構成して完成させたらいいか困っていた。
「明日、朝一番に借りよう、新田にメール送っとこ。忘れんなよって・・・」
沢田が、ロッカーのカギを閉め、ズボンのポケットから携帯を取り出し玄関から出ていこうとして、足を止める。
「あれ?帰んないの?」
「あぁちょっと・・・柴崎に用があって、待ってんだ。」
「あっそ、って言うかぁ、お前ら本当に別れてんの?まだ仲良いよなぁ。」とニヤついた顔で嗾けてくる沢田。
「また、その話かよ。」
その手の事は頻繁に言われる。給食も一緒に食べているし、柴崎自身も、わからない事は他の奴らより亮と新田に聞いてくるから、どうしても一緒にいる姿が目につくのだろう。亮もまた、麗華と別れたという話をあまり言わないから、まだ亮たち二人が付き合っていると思っている生徒が沢山いる。
「またって、俺、今初めてだけど?」
「岸本や先輩たちまでも言われた。」
「はははは、まぁそりゃ、しゃーねーわな。お前ら超有名カップルだったし、今でも一緒に給食を食べてるじゃん。」
「まぁ、あの6人は中等部からずっと一緒だからな。別れたから別でってなったら、俺一人、寂しいじゃん。」
「そうだな、あの真辺さんもいるしな。羨ましいよ。」
亮は苦笑して相槌をうつ。
「俺も何度か、中等部の頃、真辺さんに話しかけたんだけどなぁ。新田に用があるふりして。」
「駄目だったろ。」
「あぁ、撃沈。」
「あははは、お前、一回や二回ぐらいじゃ駄目だよ。」
「いやーだって、今でこそ、よく笑う所見かけるようになったけどさ・・・昔は、そうじゃなかったじゃん。声かけたら、無表情の顔が更に固まって、あんな顔されたら、うわー迷惑だったんだって思うじゃんよ。誰でも。」
「まぁそうだな、普通は。」
「お前、根気よくやってるよと、思ったよ。」
「それが俺の手腕ってやつ?」
「あっそ、あーもう、帰えろっと。んじゃまたな。」
「おう。お疲れ。」
沢田が後手を上げて、校舎から出ていく。
そうだ、もう一つ懸念する事案がある。新田とりのちゃん、あれは・・・・ありえない、あの関係は。
新田は、りのを選んだことに後悔し、消したニコを求め、りのちゃんに重ね合わせ、ニコへの想いを募らせている。それに応じているりのちゃん、嫌がる素振りを見せていないという事は・・・りのちゃんは、りのちゃんで会えないグレンを新田に重ね合わせている?それは、決して合わさることのない疑似の恋愛。りのちゃんはともかく、新田は現実にいない幻の存在を愛し続ける事になる。
りのちゃんはそのうち、グレンの代わりとして新田を利用した事に、また罪の意識を背負うだろう。
そうすれば、もう二度と新田の気持ちに、いや、グレンにさえも慕う事が出来なくなる。
「どうしたものか・・・。」
たこ焼きパーティの翌日から、新田は亮の目を避けるようになっていた。たこ焼きパーティの帰りに何かあったのだろう。
亮も思い出す。
(あのワイン、何か変なもの入ってたんじゃないだろうな?)
麗香もあの日、理性を失って抱き付いてきた。よく考えたら物凄い大チャンスだった・・・・
(ぬあぁ!紳士すぎるだろ俺!逃したチャンスは、大き過ぎるぅ!)頭を抱えて、その後悔に身もだえる。
「藤木君・・・・何やってるの?」後ろから声を掛けられ、姿勢を正す。
「あぁ。悠希ちゃんお疲れ。・・・・えーと、柴崎はまだ更衣室?」岡本祐樹ちゃんは、もう制服に着替えていた。
「ん?更衣室には居なかったけど?」
「えっ。だって、もうマネージャーの仕事は、もう何もないよね。」
「ええ、柴崎さん、いつものごとく先輩たちに、さっさと飲んでって、私より手早く片付けていたから、もう帰ってるんじゃないの?」
言い争いの後、亮は言いすぎたと反省し、急いで着替えた後、ずっとここで麗香を待っている。コップ洗いもあって、着替えが男よりも早いはずがない。
(まさか、あいつ、どっかで泣いてるんじゃ・・・まずいな。どこ行った?)
「藤木君?」
「給湯室って、いつも、どこのを使っている?」
給湯室は3棟ある校舎のそれぞれ2か所の合計6カ所ある。
「別に決まってないわ、空いてる場所を探して、まちまちよ。どうかしたの?」
「いや・・・ちょっと話があって待ってたんだけど、遅いから。」
「柴崎さんの荷物があるかどうか気にしてなかったから、更衣室を、もう一度、見て来てあげるわ。」
「あぁ、ごめん。お願い。」
更衣室の方へ足を戻す悠希ちゃんの後ろ姿を見送りながら、彼女の事にも思考が移る。
岡本祐樹ちゃん、普段は普通の健康的な笑顔をする子、だけど、時折その笑顔の裏で恐怖が宿る。それが何なのかは、まだわからない。新田に好意を寄せてサッカー部に入って来たのは間違いない。だけど、その感情を剥き出すことなく、マネージャーの仕事をしている時は、サッカーその物に集中するのは、とても好感がもてる。流石、男の子に混じってでもサッカーをやりたいと少年サッカーチームに入っていただけあって、サッカー自体が本当に好きなのだとわかる。
亮も下駄箱から離れ、一番近い給湯室を見に行く。いない。
悠希ちゃんが戻ってくるかもしれないので、また下駄箱ロビーに駆け戻ると、ロッカーの間から出て来た存在に、足は急停止する。
――――弥神皇生。
あれ以来、一対一で遭遇しないようにしていた。単独であいつとすれ違いになりそうな時は、方向を変えたりして避けてきた。亮は視力が良かったから、かなり遠くでも視認でき、合わせて起こる片頭痛が警告となりうまく回避できていた。しかし、こんな風に突然現れると、その回避もままならない。途端に痛み出す頭痛。
立ちふさがり、亮を睨む弥神。
「うまくやったもんだな。」
きぃーーーん。強まる痛み。
「だか、所詮お前は、我には勝てぬ。」
(何?)その疑問に答えるように、あるいは拒否するように更に強まる痛みに、亮は頭を抱え、腰を折る。
「うっ!」
「くくくく、辛そうだな。もっと苦しめ。それは神に楯突く罪だ。」
きぃーーーーん。
笑い声の合わさった超音波が、亮の耳と頭を痛めつける。
意識が・・・。
「あっ、藤木ごめん、私に話があるって、待ってた?」
肩に触れられる。そこから広がる癒し、安心に、心がほっとしている。
「藤木?」柴崎が覗きこんでいた。
「柴崎・・・。」
「どうしたの?具合でも悪いの?」眉間に皺をよせ、心配する麗香に、慌てて平然を装った。
「あ、いや。別に。」
「何か話があるって?」
「あぁ、さっきの言い過ぎたから謝ろうと思って・・・」
「さっき?」首を傾げる麗香。
(えっ?消えている?!どういう事だ?)
亮の言葉に傷ついて、もうマネージャーを辞める気持ちがあふれ、怒りと哀しみと寂しさでくぢゃぐちゃになっていたはずだ。それがきれいさっぱり無くなっている。
「謝る?」本当に何の事かわからない顔できょとんとする麗香。
「えっ?いや、さっき・・・・」
閉門を知らせる放送が流れた。
「ヤダ。早く出なきゃ。閉められちゃう。」
二人は慌てて自分たちのロッカーへと散り、下靴を履きかえる。
「何やってるの?藤木!帰るわよ!」
「あ、あぁ・・・」
立直りが早い・・・・と考えていいのか?
頭に何か残痛がある。何かの警告のように・・・しかし、これ以上、その何かを思い出そうとすると、絶対にあの頭痛が襲ってくると確信して、亮は思考を停止する。痛みを言い訳に、考えなければいけない事を先送りしているのはわかっている。だけど、どうしても頭痛の苦しみに立ち向かう勇気が出ない。
もう校舎から出て走って行く麗香が、亮を早くと急かし、亮は追いかける。
麗香のそばに居れば、頭痛の痛みも和らぐ。それが病院の薬よりも効く特効薬だ。
柴崎邸の屋敷、1階奥の翔柴会の事務所をノックする。中からの返事を待ってからドアを開ける。
「お疲れ様です、会長。」
「お疲れ様、凱斗。早速だけど、来週の月曜日、何か予定はあって?」
記憶したスケジュール表を頭の中で呼びだす。月曜日は何もないから、出席日数を稼ぐために朝から大学講義を受ける為に開けていた日だ。
「理事の方は何もないので、帝大に行く予定にしていましたが。」
「あぁ・・・そう。」文香さんが少し残念そうに手帳をめくる。
「何かありますか?別に受けなくてもいい講義ですから、あける事は可能ですが。」
「うーん。藤木猛氏から早速、書状が届いたの。いつでも、福岡にお越し下さいましたらご照覧さしあげます。と。」
文香さんが藤色の封筒を凱斗に差し出す。
上品な藤色の和紙で、藤木家の家紋が透かしで入った封筒。毛筆の達筆な字が記されて、最後に藤木家の家印まで押されている。
「祖歴の閲覧の件ですね。」
「ええ。あまり日を伸ばすのも失礼だし、私も月曜日は何もないので、帝大の講義は別の日にして貰っても構わないかしら?」
「良いんですか?僕が同行しても。」
「あれ?行かないつもりだったの?」文香さんが顔を上げて、メガネを取る。
「もしかして、僕に記憶させようとしています?」
「そうよ。」
「良いんですか?祖歴ですよ。」
「古文を読む為に、民俗学を学んでいる人間を同行させると了解は取ってあるから。」
「民俗学って、それ、文香さんの事じゃないですか。」
「黙ってればわからないわよ。経歴なんて。」
「いえ、そう言う事ではなくて・・・僕の記憶は消えないんですよ。一度記憶したものは。」
「わかっているわよ。だから、あなたを同行させるんじゃない。」
凱斗は大きくため息を吐いた。
「はぁ~。会長、わかっていませんよ。僕の記憶を利用されてしまう事を警戒して、柴崎家の祖歴を僕に見せないようにしているのでしょう。藤木家なら尚更です。他家の祖歴を僕が見ていいわけありませんよ。」
「ぷっ、ふふふふ。凱斗が、そこまで祖歴を重要視しているとは思わなかったわ。」
吹き出して笑う文香さん。
「へぇ?」
「柴崎家の祖歴、見たいなら見てもいいわよ。」
「いや、だって、僕が帰国後に柴崎家の養子になった時、これ以上はあなたには見せられないのって、言ったじゃありませんか。」
「だって、あなた、柴崎家から逃げたいと思っていたじゃないの。」
「・・・。」文香さんの心眼には敵わない。
「確かに、祖歴は他人に簡単に見せる物じゃない。家によれば、祖歴の公によって相伝の秘技が知れ渡り、存亡も危ぶまれる家もあるわね。でも柴崎家は別にそう言う事もないわ。柴崎家の祖歴は常翔大学創設に至る歴史とほぼ変わりないのだし。別に他人に見せて存亡危ぶまれる事が書かれているわけじゃない。あの時、凱斗に見せなかったのは、あの頃のあなたが、柴崎家に縛られる事に反発していたからよ。」
確かに、あの頃は、文香さんに一生ついていこうと決めた癖に、その立場からどうにかして逃げられないかと考えていた。
「あなたに、柴崎家のすべてを託すのはあまりにも重いかしらと思って、だけど、まだ麗香は小さい。私達が何かあった時、すぐに対応できるように、一族の系図だけは、あなたの脳に入れてもらっていた方が、いざという時に慌てないかなと思っただけよ。何だったら、今持って来て見せましょうか?」
「いえ、いいです。」
文香さんが少し眼を細める。
「ふふふ、あの頃より、随分変わったわね。」
首の後ろを掻く。もう、柴崎家からは逃げたいとは思っていない。どちらかとうと、総一郎会長が望んだとおり、柴崎家につかえて、ゆくは直系継承者の麗香の補佐をしてあげたいと思っている。そう思わせてくれたのは、目の前にいる母の存在。
「しかし、柴崎家は良いとしても、藤木家は問題あるのではないですか?いくら華族の書状で了解を得たからと言って。」
「別に、すべてを記憶しろと言ってはないわ。私が目を通して、華族に繋がりそうな場所だけをあなたに見せるから、それを記憶してくれたらいいのよ。」
「はぁ~。」
「嫌なの?」
「嫌ですよ。重要文書を持ってしまうって。記憶とは言え、結構、気を使うんです。公言しない意識管理も必要ですし。」
「自白剤を投与されても言わない耐性があるんじゃなかったかしら?」
「そうですけど・・・。」
凱斗の頭の中には米軍に所属していた時代のミッション時に得た機密文書の記憶が多数ある。この記憶の文書が、現時点で国家間の重要機密に当たる物かどうかは不明だが、この記憶があるおかげで、当時、凱斗が生きて米軍を脱退できない要因だったのは間違いない。脳を破壊するか、一生米軍の監視下で身を置くかのどちらかしか、凱斗の未来選択はなかった。それが今、自由に日本で生活出来ているのは、華族会のおかげである。文香さんが華族会に頼み、華族会から外交官僚を動かし、米軍に登録されていたオオノカイという人物と柴崎凱斗が別人であると偽装をし、他にも沢山の偽装を作り、凱斗は生きたまま帰国することが出来た。感謝しきれない恩義が文香さんと華族会にある。
「たとえ、何か間違いが起きて、藤木家の祖歴が公になったとしても、潰れるような家じゃないわ、藤木家は。」
「まぁ、そうでしょうけど。咎められますよね。藤木家にも迷惑が掛かりますし。」
「そうね。その時は、一緒に怒られて。」とほほ笑む文香さん。
凱斗はまたため息をついた。何故かこの件に関しては、文香さんは強引だ。
「じゃ、決まりね。月曜日、朝一番の福岡行の飛行機を取って頂戴。」
「・・・わかりました。」
「まだ不服そうね。」
「僕は一応帝大の4年なんです。卒業論文を作成しなければならない年なんですっ。」
「あら、ちょうどいいじゃないの。福岡の藤木家、出て来る祖歴は鎖国時に唯一出島で外交していた貿易商と、薬の原材料を取引して財を成した歴史よ。鎖国時における外交ルートから見る、商いと民族の暮らしの移り代わりなんて論文が仕上がるじゃない。」
「文香さんが卒業した民俗学なら、それで卒業できると思いますけどね。僕は法学部なんです。そんなテーマで卒業できるはずないでしょう。」
「いいじゃないの。弁護士になったんだから、法学部はもう必要ないでしょう。民俗学に移籍して卒業したら?」文香さんは楽しそうに笑う。
(んな馬鹿な。法学から民俗学なんて、どんな移動だよ。)
「面白いわよ民俗学も。」
「全く興味ありませんっ。」
「とにかく、記憶した物は後日、すべて紙面に起こして頂戴。」
5
神奈川県の郊外にあるスポーツ施設の体育館で、女子バスケの関東大会の予選試合が始まった。これに勝ち進めたら、神奈川県代表の全国大会に出られる重要な試合だ。クジで組み合わされた神奈川県の南部にある学校が8校集まり、2面あるコートでシードの総当たり戦。朝一番に立て続けに2試合した後、昼休憩をはさみ1試合をして、常翔学園はシード2位で県大会に駒を進めた。
偶然にも同じ日の同じスポーツ施設のグランドでは、私立学校連盟主催の関東高校サッカー大会が行われていて、常翔学園のサッカー部も、試合に来ていた。
女子バスケ部員は、自分たちの試合が終わった3時にはグランドに駆け付け、サッカー部の応援をすることになった。
「流石、新田君ね。スタメンで出ているじゃない。」
「今回は、スタメンに入るかどうかわからないと言っていたのに。」
「1対1の後半30分・・・あと15分とロスタイムはどれぐらいかしら?」
「さぁ~5分もあれば良いって感じじゃない、いつも・・・」
慎一がボールばかり見ている。調子の良い時は足元なんて見なくても、慎一の体がまるで磁石のようにボールがついてくる。タックルされても、巧みなボールコントロールで下手に取られたりしない。
「どうしたの?」
「慎一、調子悪い・・」
「わかるの?」
「いつもはあんな取られ方しない。」
「2試合目よね、疲れが出てるのかしら?」
「2試合なんて普段の練習試合に比べたら楽な方だって言ってた。」
常翔の監督が交代のサインを出した。やっぱり慎一がベンチに戻され、交代の選手がフィールド内にかけていく。
「新田君くーん!」メグがベンチに戻る慎一に声をかける。
ベンチにいる柴崎がその声に気づいて、私たちに手を上げて合図をしてくれ。慎一も渡された水筒のスポーツドリンクを飲みながら、こちらに顔を向けが、リーリアクションですぐに顔をそらされる。
胸に、何とも言えない不快感が重く貯まった。
監督がウオーミングアップをしていた藤木を呼んだ。10番の選手と交代するようだ。藤木は監督からの指示を仰ぎうなずいている。そして、ベンチにいる選手たちとハイタッチでサイドラインまで駆ける。高等部でもハイタッチの習慣は採用したみたいだ。
10番の選手が戻ってきて、互いに背中を叩きあい、藤木はフィールドへと入って行く。迎える選手たちも藤木とハイタッチや背中を叩き仲間の戦力に期待をかける。藤木は大きな声を出し、監督からの指示を指差しで伝え、常翔選手達の活気は若干戻った。
藤木は私情をサッカーに持ち込まない。冷静に自分の役割を把握し、きっちり仕事をこなす。慎一は、の冷静さを羨ましいと、そして尊敬すると言っていた。
「亮君!頑張れ!」
大きな声援が背後から聞こえた。私とメグだけじゃなく、バスケ部の先輩たちも、その声援の声に振り向く。観覧席の後ろの通路に、サッカーの応援としては似つかわしくない姿の女性が立っていた。いわゆるヤンキー、いや暴走族かもしれない。ロングの髪の下半分が金髪で薄汚れたピンクのつなぎを着ている。
「誰?」
「知らない。」
「藤木君の知り合いかしら?」
「さ、さぁ?」
藤木は顔が広い。藤木の携帯には200人ぐらいのアドレスが入っているらしいが、本当かどうかは知らない。でも、顔が広いにしてはあまりにも、そのヤンキーの女性は異質すぎる。
観客席が突然ワーと歓喜の声援が上がる。
「ヤッター!入った!」メグが横で万歳をして叫ぶ。
膠着状態だった流れを変え、常翔にゴールが入ったが、ヤンキーおねーさんに注目をしていて、ゴールシーンを見逃してしまった。
「あー、見逃したぁ。」
「ははは、よそ見をしてるから。」
サッカーは、急に流れが変わる。藤木が入った事によって、パスワークのリズムが変わったようだ。
藤木は、ドリブルが苦手だと聞いた。中盤を守り、時にフォワードと一緒に攻め込んでいかなければならないポジションで、ドリブルが上手くないのは致命的だけど、藤木はそれをパスワークで補う。誰がどこに居て、どの場所にバスが欲しいのかを判断する能力は、あの本心を読み取る能力が十分に発揮してのことだけど、それを刻々と状況が変わる走りながらでやっているのだから、すごい。その全体をコントロールする才は、プロに通用すると麗香は絶賛している。ただ、その技量は、慎一のカリスマ的なボールコントロールと高速ドリブルで霞んで、今一つ藤木の才は注目されないと麗香が嘆いていた。
藤木はちゃんとやっているのに、慎一はいまひとつな活躍。
私が関わると慎一のサッカーは調子が悪くなる。
今回も私のせい。私がニコの投影でもいいと言ったから。
中等部1年の頃からいつもそうだ。慎一は、私に関わる悩みを抱えると、スランプに陥る。
そのスランプの原因を作っているのは私なのに、絶対に私を責めない。
もう、りの存在を全否定してくれたらいいのに。りのにニコを投影するのではなく、ただ純粋なニコが必要なんだと。
それでも、それを言わない、否定をしないのが慎一だと、それが慎一の当たり前のやさしさなんだと思っているりのは、やっぱりズルくて最低。
ニコの代わりでもいい。慎一の求めに応えられるのなら、そう思った事が裏目にでる。
このままじゃ、慎一は夢を追いかけられない。
どこまで、私は慎一の足かせになるのだ。
「どこ行くの?」
「疲れたから、待ち合わせのロビーで待ってる。トイレも行きたいし。」
「大丈夫?」メグは心配して私について来よう立ち上がる。
「いいよ。最後まで試合見てて。楽しみにしてたじゃん。」
「そうぉ?じゃ、終わったらすぐにロビーに行くわ。」
「うん。」
そう、疲れた。これでは駄目だとわかっていながら、慎一をグレンの代わりに寄り添う事が。
それでもグレンと会話をすれば、千切れるような切なさに耐えられなくて、助けを求めるように慎一に手を伸ばしてしまう。
そして、慎一は、りのじゃなく、ニコを求める。
私はどうしたらいい?
もう一度、ニコを呼び戻すなんて出来るのだろうか?
高等部サッカー部顧問、溝端監督のきつい指摘が入る。
「何やってんだ、ドリブルの練習してるんじゃないんだぞ、お前だけがフィールドに居るんじゃないんだ。」
「はい。」
また、やってしまった。頭や胸に溜まるごちゃごちゃした重い物に目を向けないようにとすると集中し過ぎて、周りが見えなくなる。
中等部で幾度となく、指摘されて、レギュラー入りできなかった原因。
こんなんでプロになりたいなんて、儚い夢なんじゃないかと揺らぐ気持ちに不安になる。
「はい。キープし過ぎちゃったわね。」スポーツドリンクの入った水筒とタオルを慎一に差し出して、笑う悠希。
「悪い癖が出た。」慎一はわずかな苦笑のつぶやきで答え、悠希からスポーツドリンクを受け取り、タオルで汗を拭いた。
今日は悠希がベンチ内で、選手の世話役をやっている。
マネージャーが試合時に入れるのは2人だけ、スコアの書けるほのりん先輩と悠希が交代でスコア記入を担当し、選手の怪我の対応や、世話係を3人でやるのが今のマネージャーのローテーション。柴崎がスコア書きを出来るようになったら、3人で均等に仕事を割り振る予定だ。柴崎は今、少し離れた場所でスコア書きの練習の為、ベンチに入れない先輩方に教えてもらいながら、誰よりも熱い応援をしている。
「新田くーん。」頭上の観客席から佐々木さんの声が聞こえた。
慎一は、スポーツドリンクを飲みながらその声の方に顔を向け、まばらの観客の中に常翔学園の制服姿の一団を見つける。女子バスケの試合は終わったらしい。佐々木さんの隣にいる無表情のりのと目が合うも、すぐに逸らした。
(最低だ・・・)ニコの為に夢を描くと言いながら、程遠くなっている。
慎一は、空いているベンチには座らずに、離れた場所で、まだ続行中の試合運びに注視した。
監督が藤木の名を呼び、何時でも出れるように体をほぐしていた藤木は、慎一と入れ違いで監督の側へと駆けていく。すれ違いざま、目を細めて慎一の肩を叩き掛けていく。
藤木はきっと御見通しだ。慎一の今の状態に、溜息をついているだろう。そして思っているはずだ。
『そんなんで本気でプロになろうと考えているのか?しっかりしろ新田。メンタルのコントロールも出来ずに、何がプロを目指すだ。』と。それは中学の時から何度も言われてきた言葉だ。
藤木が、先輩と交代をして中に入って行く。
監督から受けた指示を藤木は手振り大きく、チームに伝えていく。
藤木は積極的に声を出して、チームの流れを変えていく。
「亮君!頑張れ!」聞き覚えのある声援に驚いて、慎一は観客席の方を見やる。
「まじか~嘘だろう~」思わず声をだして、苦虫を噛み潰した慎一。
恐ろしい事に、柴崎が牧原さんの存在に気づいた。後の修羅場が予想され、慎一は頭を抱えた。
牧原さんの声援の成果か、藤木のアシストで畑中先輩のゴールが決まった。藤木は、どんなことがあっても、きっちり仕事をこなす。
あの眼で視る世界は、慎一の知らない辛辣で、想像しがたい悩みがあるだろう、なのに、藤木は絶対にサッカーにはそれを持ち込まない。どれほどの強い精神なんだと尊敬する。自分に藤木の強い精神力があればと切に思う。そうして良い手本が目の前にあって、自分の欠点もわかってもいるのに、慎一は毎回スランプに陥り、中々抜け出せない。
長く息を吐いた。
「慎君、左膝、マッサージしといた方がいいわよ。」コールドスプレーを救急箱から取り出して、渡してくれる悠希。
「あぁ。ありがとう。」
りのが酔っぱらった勢いで胸の内を露わした翌日の練習で、慎一はドリブル中に足を滑らせた。大した滑りではなかったのに、膝に予想以上のひねりが入ったみたいで痛みが走った。一時的なもの、すぐに痛みは消えると思って大した処置はしなかった。だけど、次の日もその次の日も痛みは続いて、皆に病院に行けと言われていたけれど、病院よりも、りのと一緒の時間を優先した。
それが駄目なんだとわかっている。互いに会えない相手を投影しての疑似関係は、慎一がずっと求めてきた欲望そのものだ。満たされた本能に、理性が『本当にこれでいいのか?』と問いかける。『言い訳がない。』答えは簡単でわかっているのに、その理性の問いに答えず、声に耳を塞ぎ本能のまま続けてしまう。続けるほどに自分の弱さを認識さられ、また疑似の幻想に逃げ込む悪循環。
握る手、触れる髪、寄り添う肌、見つめる目、潤う唇は、今までのどの時よりも近いはずなのに、心だけが遠い。
りのが、観客席を立ち、一人、体育館のある建物の方に戻っていく。
ベンチに返された慎一に失望して見ていられなくなったのだ。
このままじゃ、ニコとの約束も守れない。夢のお絵かき帳は完成しない。
情けない。
新田が、膝を痛めた。病院に行けと言っているのに中々行こうとしない。りのちゃんとの関係を亮に読み取られたくない態度がありありとわかる為、亮もあえて距離を開けていた。怪我もさることながら、りのちゃん絡みのスランプに陥った新田は、こうなると中々這い上がれない。
どうしたらいいか?流石の亮でも、解決策など簡単に思いつかなかった。
試合が終わり、監督が試合結果の承認手続きや、大会主催の打ち合わせに行っている間、亮たち部員はベンチの片づけをする。更衣室に行って制服に着替えなければならないのだが、他の学校の生徒達で混みあっているから、皆、観客席下で着替えていた。
出場が常翔学園の宣伝的な効果をもたらすような大きな試合となると、マイクロバスも用意されて、部員の行動も厳重注意され、人前で着替えなど禁止されるが、今日のは、部員の行動までは厳重注意されていない。それでもジャージのまま帰宅するのは禁止されている。制服着用の現地集合、現地解散、応援の吹奏楽部はなし。バスケ部の応援は偶然の合致という状況である。
「まだまだ終わらないよ。」
「うん、いいよ、ロビーで待ってるから。あっ藤木くーん、良かったよ、お疲れ様。」観客席から身体を乗り出すように、柴崎としゃべっていた佐々木さんが、亮の姿を見つけて手を振ってくる。
「ありがとう。」
同じ日に同じ場所でバスケ部も試合があるとわかった時点で、当然に帰りは一緒に帰ろうと言う約束になったいつもの仲間達。
「そっちの結果は?」
「2位で本戦通過!」
「おお、おめでとう!」
「ありがとう。ロビーで待ってるね。」
「うん、後で。」観客席の階段を登って行く佐々木さんの周りに、りのちゃんの姿がない。
「りのちゃんは?」ベンチの片づけをはじめた柴崎に聞いた。
「新田が降ろされた後、トイレ行きたいし、疲れたから、先にロビーに行って、座ってるって。」
「りのちゃん、今日、試合に出てたのか?」
「さぁ、そこまでは聞かなかったけど、疲れたって言ってるぐらいだから、出たんじゃない?あ、そうだっ!さっき、凄い人があんたの応援をしてたわよ。あれ誰?」
「凄い人?」
「うん、凄い人・・・・髪の毛が長くて半分から下が金髪で、ヤンキーぽい人。」
千賀子さんは、この会場の近くに自宅がある。今日ここで試合があるって事をメールで知らせていたのだが、仕事があるから見にに来れるかどうかは約束できないけど、どうにかして行きたいと言ってくれていた。
「どこに来てた?」
「佐々木さんが居た場所の上の方から、「亮君頑張ってって」大きな声出してたのよ。」
観客席を見渡しても、どこにもあの派手な姿はいない。柴崎が怪訝な顔を亮に向けてくる。
そういえば千賀子さんとの出会いのあの出来事を、柴崎達に話しをしていない。
凱さんが新聞記者に別のネタを渡して記事にしないようにしていたから、亮たちは、なんとなく言ってはいけないのだと感じて、黙っていた。今までに柴崎も何も聞いてこない事から、凱さんや会長たちは麗華には黙っていたと思われる。
「いないなぁ。帰ったのかな・・・・何だよ。」
柴崎が、妙な表情で亮を見つめている。
「別に、あんたの顔の広さに、そ・ん・け・い、してるだけ。」軽蔑の混じる本心。
柴崎には理解できないだろう、千賀子さんが生まれ育った環境や通った学校の話など。亮も最初はびっくりすることだらけで、でもそこには、亮たちにはない自由と誰にもつぶされない自己の世界がある。そんな話が聞きたくて、亮はあれから千賀子さんと連絡を取り合っていた。電話の向こうでは、亮ちゃんの泣き声が時折聞こえたりしていて、泣き声が日増しに大きくなっている事に気づいたり、メールの写真がどんどん丸みを帯て大きくなっているのを見ると、何だか、自分の子のような感覚が沸き起こり、自然と笑っている自分に気づく。
柴崎の「け・い・べ・つ」の視線から逃れるように、自分の荷物のある場所に戻る。
新田がユニフォームを脱ぎながら、亮に話しかけて来る。
「藤木、千賀子さん見に来てたぞ。お前呼んだのかよ。」
「あぁ、千賀子さん、ここの隣町に住んでるんだ。今日ここで試合あるって知らせたら、仕事の合間に時間が作れたら来るって言ってた。」
「お前~、」迷惑そうな本心を出す新田。
「んだよ。」
「頼むから、柴崎の機嫌を損ねることやめてくれよぉ~。」
「柴崎はかんけーねーだろ。」
「かんけーねーことないだろ。柴崎は、お前の女癖の悪さに、必ず不機嫌になるんだから。とばっちり受けるこっちはいい迷惑なんだよ。」
「柴崎の不機嫌ぐらい耐えられなくてどうすんだよ。」
「私の不機嫌がなんですって!」仁王立ちの麗香が救急箱もって新田の後ろに立つ。
「あっいや、何でもないよ。」
新田と共に首を横に振る。
「ふんっ!沢田!今日、この後、家に直行?」亮の後ろで荷物の整理をしている沢田に声をかける麗香。
「んあ、帰るだけ、だけど?」
「じゃ、これ持って帰って。私達バスケ部と待ち合わせて一緒に帰る事にしてるから、こんな嵩張るの持ち歩きたくないの。」
「えっ・・・えええ!」
あぁあ、可愛そうに、完全にとばっちりだ。沢田の家もここの近くで、今日は来るのに30分もかからなかったと朝喜んでいた。
「勘弁してくれよぉ。明後日の通学ラッシュの中、こんなの持って登校したくないよ。」
「たまには良いでしょ。私達は毎回なのよ!」
「お前は、学園に近いだろうが。」という沢田のつぶやきは無視されて、麗香は強引に救急箱を押しつける。「藤木~。」
「だからな、俺は柴崎のお守じゃねぇーんだっ!皆、自分で身を守れっ!」
「はぁ~。だから、柴崎の機嫌のよし悪しは、お前にかかってんだって。」
新田と沢田はがっくりと肩を落としため息。
まだマシになった方だ。何故か、麗香の亮に対する気持ちが薄らいでいた。完全になくなったわけじゃないけれど、あの酔っぱらって抱き付いてきた時ほどはない。亮の言葉に傷つき、吹っ切れたと考えられなくもないけれど、それなら、傷付いた気持ちがあるはずなのだが、それも薄い。こうやって嫉妬するのも、半分呆れた諦めが入っていて、女にうつつを抜かしている暇があるなら、ドリブルの練習でもしろという気持ちの方が大きい。麗華は、いい具合にマネージャー業に力を入れられている。
良かったと安心する反面、どうして、あんなにぐちゃぐちゃになっていた心が短時間で簡単に立ち直る事が出来た?
と何かが引っかかって気持ち悪い。
「全員集まれ、ミーティングはじめるぞぉ。」
顧問とコーチと共に戻ってきて、今日一日の反省会が始まる。
溝端先生の険しい表情から、亮の脳は勝手に本心を読み取ってしまった。
溝端先生は、新田を完全にレギュラーから外そうと決めてしまっている。いつそれを宣告するのかは分からないが、こういう視知った事をまだ言えない時期が亮には辛い。
「そうなの!?へぇ女子バスケもここの体育館で試合だったの?」
「そう、偶然にも、関東大会の予選リーグだって。」
「で、結果は?」
「2位通過で予選突破。」
「本当!それは良かったわね。」
部員たちはミーティング前にグランドで着替えてしまっていて、男は楽でいいなぁと麗香は思う。流石に麗華たちはグランドで着替えるわけにもいかず、岡本さんと更衣室で着替えながら話をしていた。
ジャージを脱いで半そで姿になった岡本さんの腕を見て、麗華は息を飲んだ。右腕の内側に縫合手術の跡があった。それも結構な長さで、見てはいけないと思いつつ目が離せられなくなる。
「驚かせちゃた?ごめんね。」
「あっううん。」
「昔、自転車で派手に転んでね、切っちゃったのよ。」
「やだー、痛そう・・・跡が残っちゃったんだね。」
「うん、まぁ、顔じゃなくてよかったって思うしかないわ。長袖を着ていたら隠れるから。」
明るくそう言うけれど、岡本さんの表情は暗く沈んでしまった。
「ごめんなさい、私、不躾に。」
「ううん、いいの、どうせ衣替えで夏の制服に変わったら皆にバレる事だし。」
「長袖のブラウス着用の許可してもらったら?私、言うわよ。」
「ありがとう、でもいいわ。人と違う事すれば余計に目立つもの。」
あぁ、そうだった。りのはそれでずっと苦しんできた。
またやってしまった。常翔学園経営者という立場のお節介。麗華は、その肩書きの持つ力を、最初は自分の為だけに使っていた。しかし、りのに出会って人の為に使う事を覚えた。それが時に暴走し過ぎる。
「岡本さん、私と藤木と新田、そのバスケ部のりのとD組の佐々木さんと一緒に帰ろうって約束をしているの。新田の事だから、この後、絶対お腹減ったってファストフード店に行く事になると思うわ。岡本さんも一緒にどう?」
「えっ、あ、ありがとう。でも・・・私、今日は早く帰らなくちゃいけないの。」
「そう。じゃ仕方ないわね。また次の機会に。」
「うん、ありがとう誘ってくれて。」
(嫌な私・・・岡本さんが行かないと言う事にほっとしている。)
この子は新田の事が好きで、新田の事を追いかけて常翔を受験してきたのは明らか。
りのはグレンの事が好きで、新田の愛情を受けられなくても、麗香は新田を応援したい。自分達4人はいろんなことを乗り越えて来た仲間だから。そうして時間をかけて強めた絆の輪に、新しい人を入れたくないくせに、良い子ぶって一緒に帰ろうと誘っている。かつて麗華は、佐々木さんや今野も仲間に入って来て欲しくなかった気持ちがある。だから佐々木さんとは一線をひいて、あだ名では呼ばない。それは一種の抵抗、嫌な線引き。
「あ、だから、沢田君に救急箱を頼んでいたのね。」
「うん。たまにはいいでしょう。」
「流石、柴崎さん、強いわねぇ。」
「男社会で、生きていくなら、男を顎で使うぐらいじゃないと。岡本さんだって、男の子に混じって少年サッカーやってたんだから、同じ気持ちでしょう。」
「えっ・・う、うん・・・。」
また、岡本さんの顔が曇った。何かかまずい事言ったかしら?と麗香は内心ヒヤリとする。
「あぁ、急がないと!皆が待っているわ。」
急いで荷物をまとめ、麗香達は更衣室を足早に出る。ロビーに置かれたベンチソファの一角に仲間が集まっている。佐々木さんを含め亮と新田が水筒のお茶を飲みながら、お互いの試合の話で盛り上がっていた。りのは3人の話には加わらないでソファーに座り、静かに文庫本を読んでいた。長身の三人に囲まれ、まるで砦のようだと麗香は苦笑する。
「お待たせ~。」
「遅せーな。」
「仕方ないでしょう。あんた達はどこでも着替えられるかもしれないけど、私達はそうはいかないんだから。」
「あれ?悠希は荷物を誰にも預けなかったのか?」
岡本さんはスコアブックやバインダーなど、少々嵩張る荷物を持つ当番で、自分の荷物と合わせて抱えていた。
「あぁ、岡本さんね、今日は早く帰らないといけないって、誘ったんだけど、残念。」麗華は、岡本さんが答えるより先に答えた。簡単に輪の中に入れなくする先制防御だ。
そんな麗香を亮が目を細めて見据えてくる。麗華の腹黒い心を読んでいる事だろう。でもいい。もう私は亮の彼女じゃないし、生徒会仲間でもない。亮のサポート期限は切れた。亮の理想とする女から少しぐらい外れても、それを指摘される筋合いはない。
そう、そうやって麗香を突き放したのは亮なのだから。麗華は堂々と亮からの視線を外した。
「そ、そうなの。今日は早く帰らなくちゃ。じゃ私はこれで、皆お疲れ様。」
「あぁ、気をつけて帰れよ。」
「うん、ありがとう。じゃ、また来週ね。」
踵を返す岡本さんに声をかける新田。「気をつけて帰れよ。」なんて珍しい。そういう気づかいのある言葉をかけるのは、亮の専売特許だ。りのもそのちょっとした珍事に気づいて、文庫本から顔を上げ、新田へと顔を向けた。
最近りのは新田と喧嘩をしなくなった。いい感じで寄り添っている。そうか、やっと新田の愛情を受け入れる事が出来るようになったのね。だからりののその気づきは、嫉妬で・・・うんうん、いい感じ。やっぱり岡本さんを簡単に私たちの輪に入れてはいけない。
「腹減ったー。どこか寄ろうぜ。」
「やっぱりね。あんたの行きたいとこでいいわよ。」
「とりあえず、駅まで行きましょう。」
そんなやり取りをしている最中でもりのは文庫本に夢中なのはいつもの事、物語は佳境に入っていて止められないのだろう、残りのページが僅かだ。
「亮君!」その濁声は派手にロビーに響き渡る。
正面玄関から入ってきたその「凄い人」に、誰もが関わりあいたくないように避けて、でも、どうしてもその異質な派手さに注目してしまう。ロングの髪の半分が金髪であるその「凄い人」は驚くことに赤ちゃんを抱っこしていた。
「千賀子さん!」亮は手に持っていた水筒を足元のバッグの上に投げ落とすようしてその「凄い人」に駆け寄った。
「来てくれたんだ。」
「うん。社長に言ったら行って来いって。見てたよ。凄いじゃん。カッコよかったよ。あー新田君も久しぶり!」こちらを向いて手をふる「凄い人」。
「あ、あんたも、知り合いなの!?あの人と、誰よ。」
「ち、千賀子さん、牧原・・・。」新田は、顔を顰めてそっぽを向く。
「名前聞いてんじゃないのよ。どういう関係かって聞いてんのよ。」
「亮君、どうしてシュートしないんだ?他にパスなんかせずに亮君がシュートすればいいのにねぇ。」
「いや、俺はミッドフィルダーだから、アシストするのが役割なんで。」
「ミット?何だそりゃ、亮君のシュートみたいのにねぇ。」
その「凄い人」は抱っこした赤ちゃんに逐一話しかけるようにしてしゃべっている。
「藤木君の顔の広さには、ほんと、驚くわねぇ。」と佐々木さんも唖然として。
「どういう繋がりよ。新田。」
「えっ、あ、えーと。それは・・・。」新田は歯切れ悪く口ごもり、麗華から離れようとする。
「新田?」
「フーンなるほどねぇ。そう言う繋がりかぁ・・・。」麗華たちの会話に興味なく本に夢中になっていると思いきや、りのは広げていた文庫本をパタンと閉じて、うんうんと頷く。
「りの、知ってるの?」
「亮ちゃん、日に日に大きくなるなぁ。」
「えっ!」
亮の放つ言葉に一同驚き振り返る。
「やっぱり。」したり顔のりのが、頷く。
「何よ、りの、一人で納得してないで、教えてよ。」
「藤木は旅に出る。」
「はい?」
「千賀子さん、抱っこさせてもらっていい?」
「もちろん。いいよ。」
亮は満面の笑みで、千賀子さんという「凄い人」から赤ん坊を大事そうに受け取り抱っこする。
「ちょっと、りの!藤木が旅に出るってどういう事?」
「あっ、リノ、また本の世界に入ってるでしょ。その本、何?」と佐々木さん。
りのは本のカバーを取って表紙を見せてくれた。それは、4、5年ほど前に映画化された原作本。人妻美人塾講師が高校生と恋に落ちるが、当然に周囲の反対があり、それを逃げるように駆け落ちの旅にでた二人は、向かった先で心中をするという悲恋の大ヒット映画。その映画の題名が、駆け落ちを意味するまでになって社会現象化した「失楽旅情」という誰もが知っている題名が、文庫本の表紙に記載されていた。
「・・・・。」
「え、偉くまた・・・渋い本を選んだわね。」
「啓子おばさんが面白いって教えてくれた。」
「げっ、母さん、りのに変な本、教えるなよ!」
その映画の人妻美人塾講師は主人公の高校生との間に子供ができて・・・
「りょうちゃん、良かったねぇ、やっと亮パパに合えたねぇ。」
「いっ!」
麗香は驚きのあまり、息を忘れる。
「やるなぁ藤木、「失楽旅情」を超えたな。」
「可愛い、目元は千賀子さんにそっくりだね。」
「おい、大丈夫か、柴崎!」
麗香の意識が遠く、旅に出る。
えらい目にあった・・・。
千賀子さんの登場で柴崎の怒りは最高潮に達した。慎一は必死に説明したが、そんな漫画みたいな話があるはずがないと信じてもらえず。そりゃ、そうだ。慎一だってあの出来事は未だに・・・うっ、思い出したら気持ちが悪くなってくる。
「お前、ほんと、メンタルを鍛えろよ。」藤木は、慎一が千切りにしたキャベツをサラダボールに盛り付けながら、呆れた顔をする。
今日の晩御飯はカレー。藤木が食べたいと言ったから。
柴崎の怒り治まらず、りのと佐々木さんを引き連れて、慎一達とは別で帰ってしまい、藤木と二人で寂しく帰る事になってしまった。慎一が、そのまま家に帰ろうとしたら、「晩御飯を作ってくれたら、お前のその悩み、相談に付き合ってもいいぞ。」と藤木に言われる。
やっぱり藤木には隠せない。慎一が悩みを抱えている事を読み取られている。もう自分ではどうしようもなく限界だと相談したくても中々言い出せなかった。藤木はその絶妙なタイミングでさえも読み取る。
「そんなんで、世界を目指すって無理だろ。」
「わかってるよそんな事は。俺だって気にしてる。だけどメンタル鍛えろって簡単に言うけど、どうやって鍛えるんだよ。」
「そうだなぁ・・・まずは、その血に弱いのを何とかするか。」
「何とかするって。」慎一はカレーを焦げ付かないように、鍋をゆっくりかき混ぜる。
「お前、自分が怪我した時は平気だろう。」
「うん、自分のは別になんともない。他人のだけ、えりが交通事故にあった時に出来たトラウマだから。」
「えりりんが目の前で血まみれになって死ぬかもしれないと思った恐怖心のトラウマなのだから、血が出ても生きている大丈夫だという実績をいっぱい脳に入れ込む。」
「はぁ?」
「ホラー映画だ、スプラッター物の映画をいっぱい見るんだ。」
藤木はそう言うと、リビングに行き、テレビのリモコンを操作してチャンネルを変える。
「ケーブルテレビに、そういう専門チャンネルあったよな。」
藤木の住むこのマンションは、光ファイバーや衛星チャンネルなどの情報系の環境はすべて整っている。
「えー、カレー食いながらはやめようぜ。不味くなるだろ。」
「甘い!そんなんじゃ修行になんないだろっ!」
「何の修行だよ!大体、ホラー映画は人がいっぱい死ぬだろ!」
「それは死ぬ役と言うだけで、実際は死んでない。」
「画面上はリアル死人の映像だろうが、って言うか、フィクションと現実の違いぐらい判断できるわ!」
「ちっ、良い案だと思ったのによ。」
炊飯器がピーと炊き上がりのお知らせをする。
「ほら、カレーも出来たぞ。自分でご飯盛れ。」
「おうっ!」
慎一もご飯を盛り、具沢山の大きめに切ったカレーをよそう。野菜を大きめに切ると言うのも藤木の要望、実家のカレーがそうらしい。新田家は、具は小さ目、りのが家に来るようになってから、母さんは食べやすいようにと、どんなメニーでも具は小さくなって、慎一が作る時もついそうなってしまっていた。
カレーは多めに作った。明日の晩御飯も食べると言うし、小分けにして冷凍しておけば、また後日に食べられる。ご飯もしかり、慎一が藤木のマンションで作る時は、ご飯もおかずも大目に作って冷凍して置く・・・って、まるで慎一は母親のようだ。
時々、藤木のお母さんが平日の昼間に来て、おかずなどを置いていくらしいけれど、外務大臣の妻という事で外出時にはSPがつく身分であることから、その行動は目立ち過ぎて藤木自身が嫌がって断っていると聞いた。それ以前に大臣の妻は忙しく、中々来る時間を作れない現状でもある。そんな藤木家の現状を話してくれるようになったのは最近で、千賀子さんのトラックで産気づいたあの出来事以来である。
「うまいっ!」藤木は満面の笑みでカレーを頬張る。やっぱり美味しい顔は良い。それを見られるのは嬉しいし楽しい。
「新田、ここで住み込みのバイトしろよ。時給1000円出す!」
「馬鹿か!お前、自分が一人暮らしするに至った理由を忘れてるだろ。」
「お前なら大丈夫だ。もう、わかり過ぎてるし、家族より楽な本心だからな。」
「はぁ~、お前は良いかもしれんが、俺が耐えられん。」
「おっ、ちょうどいいじゃん。修行だ、メンタル強化の修行。」
「何だよ、それ、本心読まれ続ける事に耐える修行なんて、お前にしか通用しないだろ。何の役に立つんだよ。」
「もしかしたら俺以外に居るかもよ。」
「お前以外に、本心読む奴が他にもいてたまるか!そんなの、ぞっとするよ。」
「・・・・・。」
「あっ、ごめん。」
「いいよ。まぁ、そうだよな、俺以外に居たら、本心の探り合いで、きっと会話は成り立たなくて諍い・・・。」藤木は口に持って行こうとしていたスプーンを中途半端な位置でとめ、険しい顔をしたまま固まった。
「藤木?えっ、ごめん、俺、酷い事言って。」
「あっ、いや違う。違う、ちよっと思い出したことあって・・・・お前の言葉じゃない」
「そう?」
(とか言うけど、本当は傷ついているんじゃないのかな。しまったなぁ。迂闊だった。)慎一は猛省する。
「もう~、違うって言ってんだろ。ウジウジすんな!」厳しく固まった藤木の表情が戻る。「あのな、俺はお前の事、家族以上にわかり過ぎるって言ったろ、それしきの失言ぐらいで傷付かないし、嫌な奴に住み込めとは言わん。」
「それなら・・・それで、ほっとするけど。」
「ほんと、その心の弱さ、何とかしないといけないな。」
自分でもそう思う。心を強化するサプリメントでもあれば、喜んで飲むね。
藤木が謹慎処分を受けて実家に帰る事になった日のでき事、千賀子さんという人と出会った衝撃の経緯は、小説か漫画のような話で、麗華はまったくもって信じようとはせず、藤木の女関係に目をむいて呆れた。麗華はいつまでも本当だと言い張る二人に怒り、私達女だけを引き連れて帰って来た。せっかく、久しぶりに皆で一緒に帰る約束をしていたのに、ちょっと残念だ。乗換駅の横浜のアイスクリーム屋さんで、甘い物を食べておしゃべりをし、夕方になって帰る路線が違うメグと別れて電車に乗った。麗香も私も明日はクラブ練習が休みで、麗華が泊まりに来ないかって提案をしてくれる。今日ママは夜勤ではないけれど、遅くなる日だったから、麗華の提案に素直に頷いて受け入れた。ママの携帯に柴崎邸に泊まる事をメールし、香里市駅で降りる。
何度来ても圧巻の屋敷にため息が出る。住み込みの料理人やお手伝いさん、麗華の両親が屋敷には居るが、屋敷が広いと互いに干渉することなく麗香と二人だけで過ごせて快適だ。屋敷の人たちは、私の他人恐怖症をわかってくれていて誰も挨拶を強要したりしないし、部屋に来ることもない。夕ご飯は源田さんが作ってくれた天ぷら御膳を頂く。和食職人の源田さんが最も得意とする料理で、高級料亭で食べている気分を味わった。お風呂を麗香と一緒に入った後、麗香の部屋でくつろぐ。麗香がドレッサーの前で肌の手入れや髪の手入れを入念にしている後ろ姿を、ベッドの上で座って眺めながら、そばにあったクッションを手に取り抱え込んだ。
ふと気づく、手に取ったクッションの柄が、藤木の家にあったのと同じ色違いだ。藤木のは紺で白と黄色のラインが入っていた。お揃いのを買ったようだ。麗華のはワイン色に白と紺のラインが入っている。
「ねぇ、麗香ぁ。」
「うん?」
「藤木と寄りを戻そうとは思わないの?」
顔にクリームを塗りこんでいた手を止めて、鏡越しに私の方に目を向けてくる麗香。
「藤木とは喧嘩別れしたわけじゃないじゃん。別にマネージャーと選手が付き合っちゃいけないって規則があるわけでもないんだし。」
「・・・。」
「麗香、そうやって藤木の女関係に、いちいち機嫌が悪くなるぐらいだったら、もう一度付き合おうって言えば?」
「・・・駄目なのよ。」麗華はため息をついてつぶやく。
「言ったの?」
「はっきりとは言ってないけど、それに近い事は言った・・・んー言ったとは言わないかぁ、あれは。」
「ん?」
麗香はクリームの蓋を閉め、化粧品を片付けるとスツールから立ち上がり、ベッド上の私の隣に寄り添う。
「たこ焼きパーティをした日、りの達と別れた後ね、私、携帯を部屋に忘れてたのに気がついて、部屋に取りに戻ったの。その時にね、私、どうしても好きな気持ちを消せないって藤木に抱き付いた。あのワイン、結構酔いが来たじゃない。酔いがまだ残っていて勢いで押し倒して。」
「いっ!」と麗香の大胆な行動に驚いている私も、慎一に抱き付いたのを思い出す。
(お酒って怖―っ)
「ええっ!まっ、まさか麗香、藤木と・・・」
「えっ?いやいや、やってない、やってない!やってたら、こんな事話さないわよ!」顔の前で手をぶんぶんと振る麗香。「でも、そうねぇ、あの時、そうなってもいいって言うか、成りたいって思っていたようなぁ。」
「れ、麗香ぁ・・・・どうしちゃったんだよぉ~。」
いつも気高く気品に満ちている麗香像が崩れていく。
「あのワイン、何か特殊な成分でも入ってたのかしら?あの種のワインは要注意だわ。」
「いやいや、違うよ、お酒自体がおかしくするんだってば。」
「そうね、冷静になって考えてみたら、私、凄い大胆な事しちゃってるわね・・・・。きゃー私、次の日、普通に藤木と顔合わせてるじゃない。」
顔を赤くして、ほっぺを手で隠して慌てる麗香。今更のリアクションに、苦笑するしかない。
「藤木は駄目って?」
「うん、藤木は私が中途半端な立場でマネージャーをする事に絶対に許してはくれない。」
「厳しいな、藤木。」
「藤木には、理想の柴崎麗香像が存在するのよ。それからはみだす私は、私らしくないって。」
「うーん。まぁ確かに、藤木の言う事は、もっともかも。」
「ふぅ~。りのまで・・・・」麗香は大きなため息をついて項垂れる。「藤木が持つ理想の柴崎麗香像は、確かに自分でも私らしいと思うわよ。私らしい時を突き進む時は楽しいし、何も怖い物はないし、何より辛くなくて楽だわ。」
麗香が、枕に手を伸ばし、引き寄せて膝の上に乗せる。
「だけどね、いくら怖い物がない道を突き進んで楽でも、ふと、大丈夫かなこの道でって立ち止って後ろ振りかえりたくなる気持ちが起こる。そう言う事、私にだってあるのよ。」
麗香はいつだって前にしか向いていないと思っていた。私みたいに後ろばかり気にして前に進めなくなっているのとは違う。だから私は麗香が羨ましくて、憧れて好きになった。
その言葉は意外な感じがするが、でも、麗香の本音でもあるだろう。
「もう、藤木のサポートはないし、余計に不安なのに。そう言う私の心、すべてあの目で視知っているのに、藤木は私を拒否する。」
麗香が枕に顔をうずめる、その仕草が女の子らしくて可愛い。
「きっと藤木は、ずっと寄り添うと誓った約束を破った私を、許せないで、傷付いているんだわ。」
「麗香・・・」
「だから藤木は私を辛い道へと突き放すのよ・・・。」
「違うと思うよ、麗香。」
「え?」
「藤木は、本当に麗香の事が大事なんだよ。」その根拠を知りたいと先を要求するように私に顔を向けてくる麗香へ私は続ける。「ほら、かわいい子には旅をさせろって言うじゃん。」
「・・・あんたに恋愛の相談をしたのが間違いだったわ。」とがっくりと肩を落とす麗香。
「あれ?日本語、間違った?」
「もう!」
「えーと、言いたいのは、藤木は誰にも、女に見境なく優しいけどさ。それって全員同じに、大事には思っていないって…わかる?」
「同じ?・・・う、う~ん」今一つわかってない顔。
「藤木は、麗香以外の女の子に絶対に怒ったり注意したりしないし、どんな要求にも笑顔で応じる。それって相手の為に献身的に尽くしているように見えるけど、実は相手の為になっていなくて・・・藤木自身の為のような。」
「藤木自身の為?」
「うん、藤木の満足の為っていうか・・・私もその他大勢と同じ、藤木は私の事を中一の時から助けてくれていた。確かに私は、藤木のそれにすごく助かっていてありがたいと感謝している。だけど最近になって思うんだ。藤木の助けに甘えて人を避けて逃げて来たから、この、人としゃべれないの、中々治らないっていうか・・・藤木のせいにしてるわけじゃなくて、治すチャンスを私は逃しちゃってたんだなって思うんだ。」
「りの・・・。」
「あの藤木が、私の事を本当に好きで大事だと思っているなら、助けてばかりじゃなくて、少しずつ治そうと何か手を打っていたと思わない?戦略的思考の藤木には、それが出来たはず。」
「そうねぇ、精神医学を独学で学んで、どうにかしようとしても、おかしくないかも・・・。」
「でしょう。でも藤木は、私にそこまではしていない。」
「でも・・・藤木はりのの事を好きだとずっと言っていて、約束もしたじゃない。駄目な時は言うって。」
「約束は、私が頼んだからやってくれただけで、それ以上の事はしていないし。私の事を好きだとずっと言っていたのは、私を学園で孤立させないためだけの戦略だったと思うよ。藤木は、あの本心を読み取る能力を活かして、クラス内を上手く潤滑にしていた。それはクラスの為でもなく、自分の居場所を作るためだったんじゃないかと思うんだ。黒い本心が渦巻くクラスだと、藤木は辛いでしょ。少しでも黒い本心が少ないクラスにして、藤木自身、居心地が良くなるように。実際に、藤木が居たクラス、どのクラスもすごく皆、仲良くて良いクラスになっていた。」
「私は1年の時だけ違うクラスだったわ、藤木は2組だったわよね。」
「うん。麗香の4組には負けてたけど体育祭は2位だったし、文化祭の劇も大盛況だったし、それ以前の早い段階から2組は男女共に仲良くて楽しそうなクラスだったよ。」
麗香は、過去を思い出すように天井へと顔を向けてから、小さく溜息をついた。
「私を助けてくれていたのは、私に向けられる黒い本心を自分の周りで見たくなかったから。」
「じゃ、私の黒い本心も視たくないんだわ。だから藤木は私を突き放して。」
「麗香ぁ、だから、違うって言ったじゃん。」
麗香は私や慎一の事だったら、ズバッと本質をついて来たりするのに、自分の事となるとわからないって、もう普通の女の子だ。
「藤木は、麗香にだけは、ちゃんと叱ってるよ。もう、どうして、麗香は自分の事だとわかんないんだよ。」
「り、りのっ」
「藤木、絶対に麗香の前に出て助けたりしていないよ。必ず後ろからだよ。それって麗香の行きたい道を塞がないって事だよ。」
「私の行きたい道を塞がない・・・」
「うん。私を助けていたのとは違う。後ろから助けるのは、麗香の事、大事に思っていないと出来ない事だよ。」
「あぁぁぁ。」麗華はまた枕に顔をうずめた。「増々、辛くなるじゃない!」
「あぁ・・・ごめん。麗香。」
麗香が泣く。麗香が泣くのを見るのは2度目。藤木が寮で人を殴って怪我をさせた事件の事を教えてくれた公園以来。
あの時、私はびっくりして、どうしていいかわからなかった。ただ、ただ、背中をさするしかできなくて、今日もやっぱり、私は背中をさするしかできない。と言うか、私が泣かせちゃったようなもんだ。
「あー私、どうして、あんな複雑な男、好きになっちゃんたんだろ。」
確かに、藤木は複雑。あの能力を持って人の腹黒さを知っているから、誰よりも理想が高い。
だからこそ、藤木は柴崎麗香を選び、大事に育てている。
「柴崎麗香だから・・・」
「何よそれ。」枕元にあるティッシュを勢いよく取り出すと麗香は涙と鼻を噛んだ。泣き止むのも早いし立ち直りが早いのも柴崎麗香。
「はぁ~。もっと遅くに藤木と出会いたかったなぁ~。」
「遅くに?」
「うん。あのマメさ、やさしさ、気配り、紳士の振る舞い、教養、財力、権力、家柄、すべてが最高クラスなのよ、藤木亮と言う男は。最初に付き合った男がレベル高いと、次の男は霞むじゃない。」
「納得。」確かに藤木のような男は、そうそういない。「あっ、でも、ほら、藤木だって欠点はあるから、次はそこも完璧で最高の人を探せばいいじゃん。」
「欠点?」
「うん。無類の女好き!」
「りの・・・やっぱり、りのには、恋愛相談は向いてないわ。」
「どうしてぇ~あれ?また日本語、間違った?」
「ぷっふふふふ、りのって、面白いっていうか、可愛いというか、憎めないわね。」
「もう、真剣に答えてるのに。」
「そう、りのって変に大人な所があったり、でもすっごく子供だったり、コロコロと変わるのよね。女の私でも、りののそういう所が可愛いと思うのだから、そりゃ新田はりのを惚れ込んで離れられないはずだわ。」
私は何も言えなくて黙る。人の恋愛相談をしている場合じゃなかった。自分が招いた事なのに、どうしていいかわからない複雑な私と慎一の関係。麗香に話せば軽蔑するだろう。それが怖い。でも、もう自分ではどうしていいかわらない状況が、慎一をむしばみ始めている。
「そうよっ、りの!新田と最近いい感じじゃない?やっと新田の想いを受けられるようになったのね。」
「・・・・・。」
違う。違うの。慎一の想いはりのじゃない。
私の想いも慎一じゃない。
近くて遠い、究極のすれ違い。
新田が丁寧にキッチンを拭き掃除して、残ったカレーをタッパーに入れ冷凍までしてくれる。流石、料理人の息子。
もしサッカーの夢が潰えてもきっと実家のフランス料理店を継いで、それも難なく出来るんだろうなぁと、その姿を亮は想像をする。
新田が膝を痛めていることを思い出し、母が買いそろえて置いていった薬箱からシップを取り出し、ソファーに座る新田に渡してやる。
「ほら、膝に。」
「あぁ?今は痛くねーぞ。」
「痛くなくても、貼っとけ!ったく。何、りのちゃんみたいに意地を張ってんだ。さっさと病院に行けよ。」
「・・・行く暇ねーし。」ふてくされたように言う新田。
「授業休め!クラブ休め!いくらでも時間作れるだろ!ったく、お前、川原と同じ運命辿りたいか!」
川原は、亮達と同じサッカー部員だった同級生だ。中等2年の春、膝を痛め手術をし、長くリハビリをして復帰を目指していたが、どうにも良くならず、結局、高等部ではサッカー部に戻って来なかった。新田は病院に行って手術しなけれならないと宣告されるのが怖いのだろう。川原は小学生の時も同じ所を怪我していた経緯があり、新田とは症状は違う。今後の事を考えたら、痛みが生じた時点で病院には早く行くべきだ。
「・・・分かったよ。行くよ。」暗い顔をして俯く。亮たちは川原の悔しさを痛いほど知っている。高等部で川原も一緒に顔出し行こうぜと誘った時、『この膝じゃもう無理なんだ、皆を応援している。』と泣いてサッカー部を去った。今は軽音部に入っている。
「新田、本気でプロを目指すなら、身体の違和感を見過ごすな、甘く見るな。」
「わかってるよ。」亮の説教を疎ましく顔を背ける新田。
「それから、りのちゃん絡みがサッカーに影響するんだったら、もう寄り添うな。」
新田は目をむき、眉間に皺をよせた顔を上げるも、すぐに伏せる。
「何度目だ?りのちゃん絡みの悩みが影響したミスをして、途中降板させられるの。」
「・・・数えてねーよ。」
「そう、中等部から数えきれないぐらいあるな。短期間で終わるのもあるけど、1年の秋、2年の夏は長かったな、スタメンからも外された。」
「・・・。」
「溝端先生は石田先生ほど気長に、お前のメンタルの成長を待ってくれないぞ。」
「何だよ・・・。」
「溝端顧問は次、お前をスタメンから外す事を心に決めた。」
新田の動揺が大きくなった。悔しそうに手をグーに握りしめる。だけどその悔しさの元である自分に対しての怒りを、どこに吐き出せばいいかわからないで、唇をかんだ。
「自分でもわかってるんだろ。このままじゃいけない事は。今の状況が、ありえない関係だって事は。」
「あぁ・・・わかってる。わかってるんだ。だけど、どうしたらいいかわかんないんだよ!」握った拳でカーペットの床を殴る。「俺は、りのに、ニコを消したことを後悔していると言ってしまった。」
「馬鹿か!お前が一番知ってるだろっ!その言葉がどれだけ危険か!」
新田のニコを消した後悔を知っていたのに、まさかその禁句をりのちゃんに言うとは。
「りのちゃんは、お前の求めるニコニコのニコになれない事を苦しんで解離性二重人格を発症させたんだぞ。お前がりのちゃんの存在を否定したら!りのちゃんはまたっ」
新田が頭を抱える。
「りのから言って来たんだ。慎一はニコがりのと合わせればよかったと思っていると。」
「何?わからない、詳しく初めから話せ。」
新田はうつむいて、たこ焼きパーティの帰り道、公園での出来事を語る。
「ニコの投影でもいい、りのが出来るお返しはこれぐらいしかないからと。りのは俺に抱き付いてきた。」
「りのちゃんから?」
「あぁ・・・・」
りのちゃんに限界が来ている。グレンに会えないもどかしい気持ちが、理性を抑えきれなくなっている。
「毎日、グレンと電話が出来るようになったことが、りのちゃんの欲望を増幅させたな。なまじお前にニコへの心残りがあったもんだから、りのちゃんに悟られ利用されちゃったか・・・中々にりのちゃんも策士だからな。」
「・・・・俺だって、こんな関係は駄目だとわかっている。だけど、りのがそれを求めているのなら俺はそれに応じる。俺はりのの選ぶすべてを認めると誓ったから。」
「そんな誓い、破棄しろよっ。」
「駄目だよっ、りのに誓ったんだ。」
亮は大きくため息をはく。
「いいか、新田、その誓いは偽善だ。誤魔化しだ。」新田は、睨むように強い視線で亮に非難をする。「愛する人間のすべてを、包み込められる人間なんていない。お前はその誓いをりのちゃんに言う事で、りのちゃんの心に障害物を作って、グレンに向かう勢いを緩めようとしているだけだ。」亮の読み取り事に 新田は非難悲痛を含めた嫌悪を本心に宿す。それを読み取る亮もまた、それに耐える修行だという事を新田は知らない。
「その誓いは、自分の心をも誤魔化し正統化しようとした。ただの嫉妬なのに、美しい愛であるかのように。」
「もう・・・いいよ。」
「駄目だ!新田、ちゃんと向き合え、自分の心に。」
「・・・・・。」
「りのちゃんのすべてを認めて完璧に包みこもうなんて出来はしない。想いはサッカーとは違う。どんなに努力しても成し遂げられはしない。ニコじゃなくりのを選んだ後悔の償いに、グレンの代わりをお前がしても、それはりのちゃんの心に更に罪の意識を宿すだけだ。下手にニコを惜しむな。投影するな。大事にしなければならないのは、誓いじゃないだろう。今のりのちゃんだ。今のりのちゃんの為に、もうニコの事は忘れろ。」
「・・・無理だよ。」新田は消え入りそうな情けない声を出す。
「どうして。そんなに難しい事か?幼いころに別れたままニコは居なくなった、そう思えばいいだろう。まさしくりのとニコは別人格だったのだから。」
新田は首を横にふり・・・
「ニコは・・今の俺を作った根源なんだ。」
「お前を作った根源?」
「俺は・・・ニコが居なければ何もできない子供だった。」新田は俯いて片手で顔を覆った。重苦しい物を吐き出すように語りだす「ニコがフィンランドに行ってしまって、すべてが一変した。母さんはニコが居ないから学校に行かないと泣いて愚図る俺を、あらゆる手段や説得で行かそうとした。学校に行ったらニコが帰ってくるとか、そんなだからニコちゃんは帰ってこないのよとか言って。その言葉は励ましにもならなくて、どんなに頑張ってもニコは帰ってこないと決定づけるだけだった。誰もが、ニコが居ない生活を当たり前の事にしろと言うんだ。俺は当たり前にはできなかった。ニコの存在は、誰にも代えられない存在だったから。俺は、ニコ以外の奴らの前では何もできない、遊んでいる輪の中にも入って行く事の出来ない、とんでもなく気弱い子供だったんだ。」
今のメンタルの弱さを考えれば、その幼少の新田は当然の状態だったのかもしれない。しかし、いつも新田から聞くニコちゃんとの思い出話は、どれも楽しく競っている物ばかりだったから、そこまで新田の幼少期が頼りないものだとは思いもしなかった。
「呆れた母さんが、何か一つだけでも自信をつけさせようとしたのか、それともただニコを忘れさせようとしたか、ボール遊びが好きだった俺を、少年サッカーチームに入れた。それでも嫌だったんだ、ニコが居ない所では何もやりたくないと拒否した。でもある時、母さんは言ったんだ。」
『慎一がサッカーで有名な選手になって、新田慎一って名前がニコちゃんの居るところまで届いたら、ニコちゃん喜ぶと思うよ。』
「ニコニコのニコの笑い顔が鮮明にインプットされた。俺にとっては具体的な説得だったんだろうな。それまでただ頑張れ、しっかりしろと言われてただけで、何をどう頑張ったらいいのかわからなかったから。」
新田が向かう道は麗香と同じく輝かし物、だからその始まりも輝かしいと信じていた。だけどそうじゃなかった。その事実に、新田にも、輝いていない無様のものを見つけたことに、僅かに喜びの感情が亮自身の中に沸き起こる。
「だから、俺がサッカーをやる限り、ニコを忘れることなんてできない。」
新田を作り上げた根源が、新田自身の中にない。だから越えられない、と思う反面、だから超えられる、とも考える。
(これは、チャンスだ。)
二人の中で、ニコの存在は過去になりきれていない。新田がニコの存在を過去のものと定義付けられる前に、ニコを消してしまえば、夢に向かう根拠を失い・・・つぶせる?
亮は大げさにため息をはいた。新田はその亮の息から逃げるかのように、顔を背けて苦悶に顔を歪ます。
「まったく・・・お前はどこまで依存体質なんだよ。俺依存、りの依存、ニコ依存。おまけに幼少の頃の自分にまで依存してしまっている。」
新田は肯定した意思で、微かに頷く。
「ニコの存在が根源となってサッカー始めたってのは、発起の理由としてはいいよ。だけどさ、いつまでもそれに拘って言い訳にされたら、イヤイヤやってんのかって思う。」
新田に「違う」と言う間を与えず、亮は畳みかける。
「お前さ、本当にサッカーが好きなの?」
「えっ・・・」面食らって固まる新田。
「サッカーやってて楽しい好きだって、お前、心から思ったことないんじゃない?」
そんなことはない。新田が本当に楽しいって思っているのを、何度も読み取って知っている。だけど亮に依存している新田は、亮がそう言う事で、自分の知らない心の奥底を読まれたのだと納得する。
案の定、新田は動揺して、みるみるうちに目に涙をためていく。
(最低だ、俺。)
「そ、そんな事ないよ。」
りのは布団を引っ張り頭から被って潜り込んでしまった。
「なぁにぃ~、何かあったんでしょう?教えなさいよ!」
布団をはがそうとしても、りのがギュッと掴んで出てこようとしない。
「私のだけ聞き出しておいて、ずるいわよ!」
「何もないっ!」
その声は、予想に反して涙声で麗香は驚く。
「りの!ちょっと、どうしたのよ。」
布団の外にほおり出されていた携帯が、メールの着信を知らせる音が鳴る。そのメロディはグレンからであることを麗香は知っていた。りのはグレンからの電話やメール音を他の誰とも違う音に設定している。りのが布団の中から手だけを伸ばし、携帯を掴み布団の中に引き入れた。
別に隠さなくてもと麗香は苦笑する。二人がやり取りするフランス語を麗香はわからない。地球を半周する遠距離恋愛。それがどれだけ切なく寂しいのか、麗華にはわからない。別れたとはいえ麗香は亮と普通に話し、毎日会えている。それと比べれば、麗華は自分の恋がまだ幸せで、まだ可能性がある事なのだと実感する。
仏「会いたい・・・」りのが布団の中よりつぶやく。
「何?」
仏「会いたい、グレンに会いたい。ちゃんと顔を見たい。肌に触れたい。温度を感じたい。」
フランス語で泣き叫ぶりの。グレンからのメールに、何か辛い言葉でも書かれていたのかと訝しむ。もしかして別れようとかなんとか言ってきたとか?だから、新田に心を寄り添えるようになった?
仏「こんな機械の向こうからじゃなくて、ちゃんと聞きたいの。その言葉を、そばで!」
りのは携帯を布団の中から投げつけた。携帯は床のラグにバウンドして、チェストに当たり、転がる。
「ちょっと、りの!」
「ぁあああ、麗香ぁ!」りのが布団にくるまったまま麗香に抱き付いてきて、
「わぁ~ちょっと!痛っ」その勢いで壁に後頭部を打ちつけた。
「麗香、お金貸して。」
「はぁ?」
「フランス行きの飛行機代、貸して。」
「ちょっと、りの!何があったのよ。グレンと喧嘩でもしたの?」
「ううん。喧嘩しない。会いたいの!」
「りの・・・」
「会いたいの・・・フランスに行きたい・・・。」
被った布団をりのの身体が剥がし、りのの顔を覗き込む。りのは、その美しい顔をゆがまして涙する。
「日本に居たら、おかしくなる。慎一も、私も。」
(それほどまでに・・・え?じゃ、新田とのいい雰囲気は何?)麗華は混乱する。
りのと新田、グレンとの間でどうなっているのか、まったくもって理解不能。
「おかしくなるってどういう事?」
「お願い、お金貸して、大人になって働いたら、返すから。」
「りの!」
お金を貸してだなんて、りのらしくない。柴崎家からの支援を頑なに拒み続けていたりのが。
「りの、どうしたのよ。」
「・・・・・。」
「あのね、りの、フランス行きの飛行機代ぐらい、いくらでも貸せるけど、今、りのらしくないの、わかってる?」
唇を噛んで麗香の視線から逃れるように背くりの。
「何があったの?ちゃんと話して。」
「・・・・私のせい。」ぽつりとつぶやく。
「何が?」
「いつも私が足かせになる・・・だから、慎一はミスをして降ろされた。」
今日の試合は確かに新田は調子が悪かった。足元ばかりを見てパスを回さない事が多くて、ワンマンミスが多かった。ミーティングの時、悪い癖が出ましたと、自分で反省の言葉を述べていたけれど、それがりのとどういう関係が?
「私が日本に居れば、慎一は夢を叶えられない。だからお願い、麗香、私にお金貸して、この日本から出られるように。」
「りの、本当に、それだけの理由?」
「・・・ニコにりのが合わさればよかった。」
「ニコにりのがにって・・・何言ってるの!まさか、新田が言ったの?それ!」
「私が言った。」
「りの!」
「慎一もそうだと認めた。」
(なんて事!あいつほんと、馬鹿!何でもりのの言う事を認め過ぎよ。)
「私は、りのを選んで引き戻してくれた慎一に感謝している。だけど何も返せない。慎一の気持ちにも答えられない。だから、慎一が求めるニコの代わりで良いと言った。そして私はグレンの代わりとして温もりを得た。」
「それって・・・」
「幻の寄り添い。」
「・・・どうして・・・そうなるの~。」
りのはまた、大粒の涙をこぼして泣く。
「りのはずるくて最低、自分でも思うよ、ニコの方が良かったと。もう一度ニコを呼び戻して。」
思わず、りののほっぺたを叩いていた。
「馬鹿な事言うんじゃないわよ!」
りのの白い頬に手の形に赤く色づいた。
「りのは、もう逃げないって言ったでしょう。さっきも、喋れないのを治すチャンスを失っていたって言ってたじゃない。それこそ、どうして、りのは自分の事や新田の事になったら、すぐに逃げようとするのよ!」
「・・・・・。」
りのは頬を抑えて、麗華の視線から逃れようと顔を横に向けようとする。そうして何事にも逃げようとする姿勢が麗香には耐えられなかった。「もう逃げずに向き合う、それが高校生活の目標だ。」って言っていたのに。
「イジメられた事だってそうよ。日本語がおかしいと指摘されても、堂々としていればよかったのよ。イジメる奴なんてりのの才能を羨ましかっだけ、りのの才能に勝てないから、そうやって揶揄して足を引っ張っていただけよ。それをりのが逃げるから、ニコの人格が出て来たんじゃない。りのがどんないじめにも負けずに前を向いていたら。ニコなんて現れる事もなかったのよ。」
りのは、背けかけた顔を戻し、大きく目を見開いた。
「麗香に何がわかる!今まで自分の親が経営する学園でお嬢様とお姫様のように崇められて続けて来た世界しか知らない麗香に、私の何がわかる!」
「!。」
「喋る度に笑われ、廊下を歩けば外国かぶれが来たと避けられ、筆箱は異国の物だと捨てられ、ちゃんと話せるようになってから日本に来いだとか、喋られるようになるまで出で来るなと掃除道具入れに閉じ込められたり、給食は日本の食べ物は合わないんだろうと配ってもらえなかったり、ぐちゃぐちゃに混ぜられたり、ノートや教科書にでたらめな英語を落書きされて、クラス全員、ううん学年中が私を無視して、罵った。それに負けずに前を向いていたらだって?一対100の戦いにどう戦えというの!麗香だって、立ち止って後ろ振りかえりたくなる時があるって言った。私は立ち止る暇もなく逃げたくても、あのいじめが追いかけて来た。どこまでもっ。ニコは私が作ったんじゃない。私のせいじゃない!誰のせいで誰がニコの人格を作ったのだと責めるのなら、それは、りのを受け入れなかった日本が作ったんたんた!」
麗香は激しく自分の言った言葉を後悔した。りの口から初めて聞くイジメの体験。しかし、いじめを経験した事のない麗香には、どんなにりのを慰めようとも、その心を共感し慰めることなどできはしないのだと実感する。
英「日本は嫌い・・・フランスに帰りたい。」涙あふれ訴えるりのに、涙だけが共感して、麗華の頬を伝う。
「ごめん。りの・・・・ごめん。」
りのとニコが合わさり、笑う顔を見られるようになって、麗華は忘れてしまっていた。りのが酷いいじめを受けてその笑顔と、声を失った事を。もうその傷は癒されて無くなったのだと勘違いしていた。
そんなにも壮絶なイジメだったと知らなかった。なんて言い訳は許されない。
りのがニコを作ったのは、そう、りののせいじゃない、異質の文化を受け入れない日本がりのを追い詰めた、私達のせい。
「りの、りのを傷つけた日本を許して。もう誰もりのを罵ったりさせない。私がやっつけるから。」
小さく嗚咽を鳴らして泣くりのに手を伸ばし、麗華は抱き寄せた。
「ね、安心して、これからは101対100よ。」
「・・・・どうして101?」
「柴崎麗香だからよ。」
「・・・。」
「柴崎麗香は100人の敵なんて蹴散らせるわ。相手が200人でも500人でも1000人でも私は負けない。」
「ぷっうううう。」りのが泣きながら吹き出した。
「りの、お願い、私を、嫌いにならないで。」
「麗香・・・・」子供みたいに麗香に抱き付いてくるりのを、全身で受け止める。
「ずっと一緒に居るから。」
「・・・麗香と、もっと早くに会いたかった。」
「そうね。私もずっとそう思ってた。神様に会ったら、絶対、文句言ってやるわ。」
叩いて赤くなったりのの頬をそっとなでる。包みこむ事が出来そうな小さい顔と小さい体。
(本当に神様は一体、何を考え、こんなにか弱いりのに、試練ばかりを与えるの?)
麗香はりのが落ち着くまで背中をさすった。そして思う、りのは寂しい。私やえりにやたらと抱き着くのはその証拠。大好きな父親を亡くして、ずっとずっとひと肌を感じる事が出来なかった。3か国語を操り、誰もが羨む才色兼備。そしてもうすぐ華選の称号をも手に入れるりのは、一番欲しい愛だけが、手に入られる事が出来ない。父の愛、恋の愛も遠くに、手を伸ばしても届かない。
新田の過ぎる愛も、それは幻想にすれ違い。
だから友である自分の愛だけは、ちゃんと抱きしめて伝えあげなくてはいけない。
「りの・・・二人でフランス旅行に行くのもいいかもね。」
「・・・って言ったんだけど、いつの間にか寝ていたから、それは聞こえていなかったんだけどね。」
「はぁ~。」藤木が頭を抱える。
家業のフランス料理店の2店舗目の個室で、慎一たちは賄い料理が運ばれてくるまで、対面に座る柴崎の話を長く聞いていた。
慎一は昨晩、藤木のアパートに泊まった。りのとの幻想の寄り添いを相談したのが、思わぬ方向に行ってしまって、泣いた慎一はそのまま寝てしまったのだった。練習のない日曜日の朝をダラダラと過ごし、昼近くになって帰宅のついでに、昼食を外で食べようとなった。その時、タイミングよく慎一の携帯に母さんから電話が入る。「昼ご飯を食べに店においで」と。それで2店舗目の店に藤木と一緒に足を向けると、ちょうど店の前の通りで、りのと柴崎にばったりと出会った。しかしりのは、慎一の姿を認識するや否や、「やっぱり家に帰る」と言って踵を返し、大通りのほうへと駆け出して行ってしまった。残った三人で店に入り、りのも柴崎の家に泊まった事を知る。
「何、地雷踏んでんだよ。」
「ごめん、反省してる。」
りのが苛められていたという事実を慎一は、さつきおばさんから聞いて知っていたけど、りの自身からは聞いた事はなかった。藤木も小学生の時は、藤木家の力が絶大過ぎて友人には恵まれなかったと昔、凱さんから聞いた。そんな話を、藤木は慎一達にはしない。
藤木もりのの様なイジメを受けていたのだろか?と隣に座る藤木に顔を向けると、慎一の視線に気づいた藤木は、鬱陶しいそうに眉間の皺を強くした。
「まぁ、地雷を踏んだのはまずかったけれど、柴崎の育った環境と違うのは、りのちゃんも承知の上だろう、そのうえで異見があるのは理解していると思うし、本当に柴崎の言葉に傷付いていたら、昨晩の内に屋敷を飛び出してるだろうよ。」
「うん、まぁ朝にはりの、言いたい事を言って少しすっきりしたって言ってくれたわ。」
「互いに、このままでは駄目だと、想い至ったってわけだ。」二人が同時に慎一に向く。
「新田は、何でもりの言動を認め過ぎよ。よりによってニコが良かっただなんて、一番認めちゃいけない事でしょう。」
「・・・・。」慎一は何も言い返せない。
「柴崎、それな、昨日散々、俺が言ったからもう許してやってくれ。」
「許せるわけないでしょう!」
「なぁ~に、喧嘩?」母さんが賄いのピラフを運んでくる。「駄目よ。藤木君、柴崎さん、喧嘩しちゃ。おばさん、二人の結婚式も楽しみにしてるんだから。」
「えっ?」3人の声が重なった。
「はい、二人はスープもサラダも1.5倍にしておいたわよ。柴崎さんは一人前で足りる?」
「は、はい。」
「足りなかったら後でケーキを選ぶといいわ。じゃ、ごゆっくり。」母さんが出ていく。
「新田ぁ~。」二人の非難の目が向けられる。
「ちゃんと言っておきなさいよ!おば様、変な夢を抱いているじゃないの!」
「知るかよ!お前らが付き合った事や、別れたことなんて、俺は一切しゃべってない。全部えりだ!文句ならえりに言え!」
「はぁ~。」3人の溜息が重なった。
「まぁ、それより、りのちゃんの事だ。」藤木は改めて柴崎に向き直ると力強く説得する「柴崎、りのちゃんに絶対に金を貸すなよ。旅行も駄目だ。」
「どうしてよ、りのはもう限界よ。フランスの学校へ、視察の特待カリキュラムだって偽装したら、りのも気を使わずに行けるわよ。実際に2年や3年になったら留学の希望者を募るんだし。りのは特待遇で早くすれば、誰にも気づかれないって。」
「駄目だ。今のままでフランスに行ったら、りのちゃん2度と日本に戻ってこなくなるぞ。いいのか?」
「帰ってこなくなる?2度と?」
「あぁ、それでもいいのなら、りのちゃんの望む通りに好きにしろよ。俺は別にそれでもいい、けどお前らが、耐えられるか?」、
慎一は柴崎と顔を合わせた。
「日本が嫌いなままフランスに行けば、りのちゃんは2度と日本に帰国したいとも思わず、帰ってこなくなるぞ。」
「じゃ。どうしたら・・・。」
「うーん。」腕を組み、見えない空を仰ぐ藤木。「りのちゃん自身が、フランスに行くためのお金を稼げれば良いんだが。」
「アルバイト?」
「あぁ、去年キャンプの為に自分で稼いで参加しただろ。あの時、りのちゃんはグレンと別れても立ち直りは早かった。お金を稼いだら、自分の思い通りの事が出来ると知った。自分も出来るんだと、この日本から出る術を知った。」
「アルバイトで金を稼いでしまったら、それこそ、りのは、フランスに行ったまま帰って来なくなるじゃないか。」
「知識欲のりのちゃんなら、アルバイトした経験、知識を、全否定するような事はせずにちゃんとと帰ってくる。だけど、今、何の苦労もなしで柴崎がフランス行きの旅費を与えてしまったら、柴崎の財力に頼り逃げるように日本を出てきてしまった事に後悔する。そして揚句、自分のせいじゃない、日本が私を追いだしたんだと。りのちゃんは自分を正統化し、二度と戻って来なくなるだろうな。」
「そんな・・・」
「りのはずるくて最低、りのちゃんが謙遜に言ってるだけだと、お前らは思ってるだろうけど、その言葉どおりだよ。りのちゃんが特別じゃない。普通に人並みだよ。逆にお前ら二人が、裏表が極端に少ないんだ。」短くため息を吐く藤木、それに対して慎一は責められるようにズキリと胸が痛む。後悔していた。幼少の頃のことなど言うんじゃなかったと。サッカーを始めた根源が、あまりにも情けない。それに縋らないと生きてこれなかった自分は、サッカーを心から好きだ楽しいと思えていなかった。
「りのがアルバイトして、フランス行きの旅費を稼げれば、今の状態から抜け出せるって事ね。」
「あぁ。確証はないけど、いい方向になるんじゃないかな。」
「また、スターリンか?」
「スターリンはもうアルバイトを募集していないわ。新しい職員を雇ったって聞いた。」
「スターリンは遠いな。りのちゃん、ただでさえ、特進の課題や宿題で追われているし、弓道部と違ってバスケ部の練習はハードだし、スターリンまで通う時間がもったいない。もっと近くで出来たらいいけど。」
「っていうか・・・りの本人がアルバイトをしたいって言ってもないのに、先の話を俺たちがしても仕方ない。」
「それもそうだ。」
しばらく無言でピラフを食べる。だけど慎一は、りのがちゃんと昼ご飯を食べているのか気になってしかたがない。今日はさつきおばさんが在宅であるのかどうかを覚えていない。母さんなら知っているかだろうか。帰りにりのの家へ様子を見に行こうかなど考えながら食べ終えるも、「りの、ちゃんと飯食ってるかな。」とつぶやいて、
「また、ご飯の心配?」と柴崎に呆れられる。
藤木も食べ終わっていて、スマホを手に取り操作をし「昼ごはん食べるどころか、家にも帰ってないな。」と答える。
「え?」
「りのちゃん、あそこに向かっている。」スマホのGPS画面を慎一達に見せながら、「国定公園の展望。」と告げる藤木。
「なっ!」慎一は立ち上がった。今の状況でりのがあの場所に行くという事は、思いつめた状況である証拠であり、不安しかない。カバンを鷲掴み個室から出ていこうとすると、藤木がそのカバンを抑えて阻止する。
「おいおい、ちょっと待て!そんなまだ、あやふやな気持ちで追いかけるなっ。」
言葉だけの制止なら慎一は振り切って部屋を出て行っていた。しかし指摘どおりに、慎一はまだ、りのを追いかけられるほど安定した考えに至っていない。
「自分でちゃんと、堅い意志でもって決めないと、また流される。座れ。」
慎一は素直に言う事を聞いた。
「どうするんだ?」
「・・・もう、りのにニコを求めない。」
「それから?」
「それから、もうニコの事は忘れる。」
「・・・できるの?」
「肝に銘じる・・・努力はするよ。」
藤木が目を細めて頷く。
(ニコの存在を忘れ、俺は心からサッカーが好きだ、楽しいと迷いなく断言したい。)
バスを降りて、無意識に足が展望公園へと向いていた。慎一の実家のフランス料理店の前を通らず、遠回りだけど裏を回って展望公園駅へと向かう。しかし、そんなことをしなくても、啓子おばさんは店に居ないことを思い出した。麗華の家の近くの新しい店の切り盛りで忙しい。麗華が新田家の新しい店でお昼ご飯を食べようと言い向かったら、店の前でばったり慎一と藤木に出会うなんて。
二人は、感嘆の声も上げず無言で、私を見つめた。無言は非難の証。幻想でもグレンを求め、慎一を陥れた私に対する、どうしようもない失望。
逃げてきた。
線路を渡り、展望へと上がる長い階段の上り口で、降りてくるハイキング姿の年配二人連れとすれ違う。制服姿の私を振り返り、不審な目を向けられた。誰もが私を非難する。日本は嫌い。生きにくい世界だ。
フランスに帰りたい。グレンの所へ。
どこにも向けられない怒りを、踏みしめるエネルギーに変え、一気に階段を登る。まとわりつく湿気が体温を逃がさないで不快に汗ばんだ。顔に髪の毛がへばりつく。髪の先端が触れる頬がかゆい。かき上げても頬から離れない髪、切りたくなってきた。でも切ればグレンとの約束が遠のく。グレンは短くなった私の髪を残念そうにしていた。どんな髪型でもグレンは「りのは、いつも可愛いよ」と言ってくれるはずだけど。自分から伸ばすと言った約束を自分で破るのは嫌だ。
展望へと続く小道をゆっくり歩く。競うように茂る葉の切れ間から覗く空は、どんよりと雲が重い。緑の匂いが鼻を圧迫するように立ち込め、雨の匂いが強まった。傘を持ってきていない。早く帰らないとやばいかも。と思っても、足は彩都市を一望できる展望の広場まで行かないと気が済まない。思い出深い特別の場所であるけれど、わざわざ来て思い出すほどの良いものでもないはずなのに、
何故か、足が向いてしまう。
徐々に密集度が薄くなる木々、そして開けて一望できる彩都市の街並み。必ず、探してしまう新田家の家と併設する店、そして自分の家。
奥止まりに一本だけ植わっている大きな樹に手をかけると、決まって奇妙な感情が体の奥底から沸いて出てくる。
懐かしさ、怖さ、安ど、相対する感情が混ぜ合わさった気持ち悪さ。そうなるとわかっているのに、手をかけて確認してしまう。
(何故だろう。)
「それは、魂が覚えているから。」
不意の声に振り向く。
黒い髪が左目を覆い、右目だけで私を見つめる。
藤木が殴って怪我をさせた相手。
弥神皇生。
は、ゆっくりと冷たい微笑で歩み寄る。
(蛇のようだ)そう思った途端に、ぞわぞわと蛇が腕を這う気持ち悪さに震える。
「蛇とは、中々に的を射た感想だ。」
「!」どうして、私は言葉を話していない。
「疑問など必要なかろう。」
迫る恐怖に後ずさりするも、逃げる余地などない。木に背中をぶつける。
「我らは・・・」弥神皇生は怖いぐらいに私の顔に迫り、見据える。「なるほど、そこまでも古の性を引き継ぐか・・・」
(なに?何がなるほど?)
弥神皇生は突然、天を仰ぎ笑いだす。
「あははは、そうだな、その強い宿命が表れているからこそ、我々は成し遂げなければならない運命。」
弥神皇生の言っている意味が解らない。
怖い・・・と思う感情と同時に、何故か懐かしさと安堵が混ぜ合わさった奇妙な感情が沸騰し、身震う。
「一度、分離させよう。この力を我が得たのも、この為の必然とすれば納得だ。」
弥神皇生は、もう一度私に顔を戻すと、覆っていた髪をかき上げた。
一度閉じて開けられた左眼が赤く染まった。
「ひっ!」
血の気が引くというのはこういう事だと知る。
全身の体温が一気に下がり、すべての感覚が痺れた。
重く湿気を含んだ空の視覚、
髪を揺らしていた生暖かい風の触覚、
聞こえていた鳥の音の聴覚、
雨の匂いに満ちた大地の嗅覚、
すべての感覚がなくなり、私の意識は奥底に落ちた。
「どういう事?もう一度私をりのから乖離させるなんて。」
「嫌ではなかろう?」そう言って左目を押さえていた手を下げる弥神皇生を、りのはやたらと恐れ怯えている。理由もわからないまま。
「嫌じゃない。だけど・・・」この人一体何者?
りのと同化し馴染んでいた私を、無理やり引きはがす、その尋常ではない力は何?
「それらの疑問、お前が存在するから、わからないのだ。」
「なっ・・私が邪魔って事?」
「そうだ。」あっさりと断言をする弥神に対抗するように、私は睨んだ。だけど弥神皇生は横柄なすまし顔であしらう。それが、結局どう抗っても、私が本体には成れはしない事を思い知らされた。
「りのと分離させて、私だけを消そうって事?」
「嫌だろう。」弥神皇生は、ふと、表情を緩めて微笑む。「案ずるな、我は慈悲深い。すぐにはせぬ。」
「何その言い方、時代劇みたい。」同情されたことが悔しくて、少しの抵抗のつもりだった私の貶しに、笑みを消した弥神皇生は、次の瞬間、私の身体を押し樹に押さえつけた。
「ギャッ!」
「調子に乗るな!今ここで消し去っても良いのだぞ。」左だけを長く伸ばした前髪の隙間から、目が赤く揺らいだ。
その圧倒的な力というより、存在感に、りのが恐れる理由が今わかる。
「それをしないのは、りのの為だ。」
「・・・。」
すべてがりのの為にーーー
自分が生み出されて、消される運命なのだと理解して存在しても、悔しくて割り切れない。
だったら、りのとうまく同化していた方がマシだった。
「そう、悲観するな。これをやろう。」
と弥神皇生がスボンのポケット取り出したのは、七色に彩る虹玉だった。
「虹玉!」
私と慎ちゃんを繋ぐ、願いを叶える希望の玉。
「少しは、存在できる望みが得られたであろう。」
手に渡された虹玉を胸に、私は願う。
(慎ちゃんといつまでも一緒に、虹玉を探せるように。)
「ニコ、以前と同じようにりのと共存せよ。誰にも気づかれないよう、うまく。いいな。」
返事の代わりに、私ニコは、偽物の虹玉を手にうなづいた。
「じゃ新田、食後のコーヒーを頼んでくれ。」
「はぁ!?」
「柴崎、ケーキ食べるだろ。」と言ってデザートのメニューを手渡す藤木。
「えっ、ええ。」面喰いながらも受け取る柴崎。
「行くんじゃないのかよ。りのを追いかけ、展望公園へ。」
「お前、寄り添わないって宣言したばっかから、もう破くのか?」
「いや・・そうだけども。でも・・・この場合は、追いかけるシチュエーションだろ?」
「行って、りのちゃんに面と向かってきっぱり、もう寄り添わない、ニコの事も忘れる。って言うか?」
「え、いやぁ・・・。」
「言えないだろう。ていうか、りのちゃんに、きっぱり言う事が得策でもない。」
「いやいや、今宣言させられたじゃん。」
「お前に意志付けをさせる為であって、実際には、徐々に離れていけば良い。りのちゃんも急に宣言されてこれ見よがしに離れられたら、嫌だろうが。」
「う・・ん。まぁ。そうだな・・・。でもっ、りのは昼飯も食わずでっ」慎一は立ち上がった。
「一食ぐらい食べなくったって、死にはせん。で、柴崎ケーキ何にする?」
「イチゴショートケーキ。」
「ほら新田、おばさん呼んで。」
「死にはしないけど・・・腹は減るだろ。」
「お前の胃袋と一緒にするな。」
藤木は大きくため息をついて、従業員呼び出しのボタンを押した。
りの離れの道は難しい・・・。
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