第12話 白郡色の空1



自動扉が開いた瞬間、埃っぽい生温かな空気が、街の喧騒と共に体にまとわりついた。

最良最適な空調環境から、最低劣悪な汚染環境へ一瞬にして出された体は、適応できずに気管と皮膚が一気に拒絶反応をして咽た。

「参ったな、こんなに長くかかるとは。」

亮は腕時計を見て、声に出してつぶやいていた。2時を過ぎている。昼ご飯も食べていない。

東京の実家の近くの総合病院に来ていた。どこの診察科に行っていいかわからなかったから、受付横にある診療相談で目の奥の激痛が走って困っていると言ったら、脳神経外科で診察をと言われた。その時、壁にかかっていた時計が9時を少しを過ぎていたから、それから約5時間を超えて、診察、レントゲン、脳波、MRI、亮にはわからない機材等の、この病院が持ち合わせているすべての医療機器をすべて使ったんじゃないかと思うぐらいの施設内を回り、検査をした。そして、その都度の待ち時間の長さにうんざりした。

検査の結果を聞く前に、親の付き添いは?と聞かれたけれど、福岡で寮生活をしているから親の付き添いは居ないと、嘘じゃない嘘をついた。実際、亮の住民票は福岡のままである。亮の両親と妹達も東京に住まいを移しているが、祖父が守っている福岡に住民票は残こしたまま、福岡の選挙区を捨てることのできない卑策なのだ。

『特に、異常は見当たらないねぇ。目の奥から後頭部にかけて激痛が時折走るっていうから、腫瘍でもあるのかと焦ったけどねぇ、綺麗なもんだよ。ほらMRIも、うん、うん。ねっ。綺麗でしょう。』

と、白黒の画像を見せられても亮にわかるはずがない。それで、なるほど綺麗だって言えたら医者を目指せる。と言う突っ込みは、溜息の中に吐き捨てた。とりあえず、この医者は嘘をついていない事だけは読み取り安心した。

医師は再度、亮の頭の輪切り画像を見落としないように隅々まで眺めて、うれしそうに頷き、さらに言葉を続ける。

『思春期のストレスとかから来るやつかもしれないね。そうなると脳外科じゃなくて、心療内科の管轄だからね、何だったらそっちの方でも診て貰う?カルテまわそうか?』

『あっいえ、そっちは・・・』

『生活が変わる時期だからねぇ、上手く心療内科を使うといいと思うよ。中々、学生さんには敷居高くて行けないかな。』

確かに、一般的には心療内科なんて行きにくいだろうが、亮は、りのちゃんの件があるから、心理的な敷居は低い。しかし、実際に受診するとなれば、ここの心療内科じゃなくて、りのちゃんの主治医の村西先生に診てもらいたい。村西先生の方が結構な学歴と経歴を持っているのは間違いないのだから。

『じゃあ、とりあえず、痛み止めを処方するから、ちょっとそれで様子見て、あんまりひどいようなら、また来て頂戴。』

待った時間に対して成果のない診断。それが良い事なのはわかっているのだけど、なんとなく納得がいかない感があるのは、結局、何も施しようがなかった残念感からくるものかもしれない。気休めの痛み止め、クスリの適合を見ないと駄目だからと、二週間分しか貰えなかったのも残念感に剰余される。亮は溜息をついて、駅へと続く幹線道路の交差点を渡った。






縦横無尽に行き交う人々の顔は皆、笑顔だ。たった数個のバリケードを2か所に置いただけで車の往来は止まり、店と人が集うマーケットエリアに変わる。春休み期間限定で行われている歩行者天国に、私は柴崎とメグと一緒に来ていた。クレープを買いに行った柴崎とメグが戻ってくるのを、店から少し離れたイートコーナーの場所取りをしながら周囲を見渡す。彩華やかな沢山の露店が、昆虫を誘う花のようだ。客寄せの声と軽快な音楽は木々の間を飛び交う鳥のさえずりか、小動物の求愛か。

隣のテーブルを使っている家族連れが帰り支度を始めた。小さな女の子は口の周りにチョコレートをつけて汚していて、それをお母さんがティッシュでぬぐう。お父さんは食べ終えた紙コップや紙皿を集めてゴミ箱へ。荷物をまとめた家族は幸せ満載の手を繋いで去っていく。空いた席にすぐに人が寄ってくる。同じ年ぐらいの男子3人組みが座ってスマホ片手に話し始めた。その内の一人と視線が合ってしまい、私は慌てて顔を逸らした。

「はい、お待たせ。りのは、チョコカスタードね。」柴崎がクレーブを渡してくれる。

「うん、ありがとう。柴崎は何にした?」

「私は、アップルカスタード。苺生クリームと迷ったのだけどね。」

「ぁぁ、そっちもおいしそう。」

「一口食べる?」柴崎がアップルカスタードのクレープを向けてきたのを遠慮なくかぶりついた。リンゴのしゃりっとした触感と、甘い味が口いっぱいに広がる。

(おいしい。)

甘い辛いの、極端に強い味の物が好きだ。精神科に通い出してから飲み続けた薬のせいで、味覚障害をも併発した。ずっと微妙な味がわからなくて、何を食べても味がしなかった日々。元々食べる事に興味もなかったから、特にそれが辛いと思う事はなかったけれど、人は食べなければ生きられないと言う事実が苦痛だった。

その味覚障害も徐々に治ってきて、卒業前にしてやっと学園の給食がおいしいと感じられた。

「ははは、リノ、柴崎さんのも奪ってんの?」と太陽の光を背に立つ身長の高い佐々木さん、あだ名はメグ、バスケ部は2文字で呼び合うというその流れで、お互い名前で呼ぶようになった。

「佐々木さんは何にしたの?」と柴崎。

メグとはこうして学園外で遊ぶほどに仲良くなっているのに、未だに苗字で呼びよそよそしいのは、柴崎なりのこだわりの法則があるようだが、ちゃんと聞いたことはない。

「私はね、クリームチーズ、サラダのせ。」

「おぉ、大人ぁ~。」

「どこがぁ。あはは。」

「りの、やっと、柔軟になってきたわね。」

「何が?」

「昔はさ、こういうの、驕るとかってすごく嫌がったじゃない、そんな事してもらう理由がないって、片意地張って、今みたいに一口食べるって事も絶対にしなかったもの。」

「だって・・」

「プライドよね。柴崎さんと同等でありたいって言う、増してリノは、いろんな事で苦しんでいたんだし。」

そう、もう変な意地は捨てた。どんなに頑張っても我が家が貧乏から脱出できるはずもないし、その意地がいつも柴崎や慎一、藤木に変な気を使わせている。皆の困る顔を見たくない。しかも、私の意地なんて柴崎家からしたら蟻より小さい。それぐらいに私と柴崎の生活レベルは違い過ぎる。母が言った言葉にも納得したのもあった。

『きっと私達が支援を断る度に奥さまは、私達親子に負い目が重なっていくんじゃないかしら。ママもずっと、これ以上は学園に迷惑をかけられないと思っていたけど、昨日の奥さまを見ていたら、甘えた方が、奥さまは楽になるじゃないかなって思ったの。』

柴崎のお母さんだけじゃなく、柴崎自身も私の頭の傷の事に関しては、かなりの責任を感じている。私が肩意地張って柴崎家の支援を拒否するより、甘える方が柴崎家の人達の心が軽くなるなら、そうするのも筋道としては有りなのかもしれないと思ったら、何だか私も心が軽くなった。それに、特待に合格したら、プリン食べ放題でおごってあげるって言ったのは柴崎だ。このクレープもその流れで奢ってもらった物。楽しい時間を柴崎と共有したいなら、甘えるのも必要って事を学んだ。

「プライドって言うほどの物は、無きにしも非ずだけど、柴崎について行こうとしても、ついていけないもん。生活レベルが違い過ぎて。柴崎だけじゃない、メグだってそう。」

「うちは、そんなにお金持ちじゃないわよ。」

「佐々木さんのお父様って帝都大の教授をされてるのよね。」

「大学の教授ったら、十分、お金持ち。」

「常翔大学の教授だったら、そりゃ、たっーぶりお給料をもらえるんだろうけど、父は国家公務員よ。それに民俗学が専門だから、日本のあちこちに研究と称して行って、変な物を買ってくんのよ~。母がガラクタにお金使ってって、いつも怒ってるわ。」

「へぇー、面白そう。メグの家、行ってみたい!」

「あぁ、りのは父と話が合いそうで怖いわ。」

「ふふふ、りのの知識欲は半端ないものねぇ。あの藤木すらも、時々、根を上げるからね。」

「え?」私とメグは、同時に声を上げて顔を見合わせた。

「何故、名字に戻ったの?」

「あぁ、だって別れたもの、私達。」

「ええええっ!」

私とメグの大きな声で、行き交う人、隣の席の男子たちが一斉に顔を向ける。

「もう、声大きいわよ!」

「だって!」

「どうして、柴崎さん、何があったの?」

「何って、別に何もないわ。」

「い、何時?この間まで一緒に居て、あんなにラブラブ。」

「ラブラブって、いつの時代の言語よ・・・」と柴崎は苦笑した後、クレープを一口かじってゆっくり味わってから続ける「3日前よ。私達の付き合いは中学生までなのよ。高校生になったら、お終い。」

「どういう事?初めから、そんな期間限定の約束だったの?」

「ううん、違うわ。」

「じゃぁ、どうして。」

「私の気持ちを汲んでくれて、そういう話になったのよ。」

「柴崎の気持ち?」メグと顔を見合わせる。

柴崎の方から告白して付き合う事になったと聞いている。だけど、互いに好き同士だというのは、随分前から気づいていた私。どちらかというと柴崎の方が好きの比重が大きいと図っていた。だから、柴崎の気持ちを汲んで別れるという方向に行ったのが信じられない。

「あっ、わかった。藤木が浮気したんだ。」

「えっ?」

「自分の浮気を棚に上げて、『麗華の為だ。麗華の心が荒んでゆくぐらいなら、別れよう』とか言って、自分の罪を胡麻化して。」

「ええ?」

「気持ちを汲むなんて、藤木に良いように言いくるめられてんだよ。」

「ち、違うって。」

「ひどいな藤木っ。よしメグ、今から藤木の所に抗議に行こう。」

「そうね。」

「ちょっと、やめて、二人ともっ、そうじゃないって。落ち着いて。」






そう、私達は別れた。

3日前、日本で一番空に近い場所で、

お互い合意して納得の別れ。



シンガポールで行われるユース16のアジアカップに出場する新田を国際空港に見送った次の日から、常翔学園の寮は6日間の封鎖期間になる。去年、亮は2日ほど新田の家で泊まり、残りの封鎖期間を都内のホテルで過ごしている。絶対に実家に帰ろうとしない亮。今年もそうだろうと、新田は自分がシンガポールに行っている間、ずっと新田家で過ごしていいぞと声をかけていた。だけど、さすがにそれはできないと亮は断る。「じゃ、うちに来なさいよ。」と言った麗香の誘いも、「付き合ってる彼女の家に泊まれるか!新田家より、ありえない。」と断り、ホテルを予約するのかと思いきや、意外にも実家に帰ると言い出した。

亮もりのと同じで、自分の事を語りたがらない。亮の過去に何があって実家を極端に嫌うのか、誰も知らない。亮の母親ですらわからないと、凱兄さんが亮の母親と面談した時に聞いている。だから今回、実家に帰ると言ったのは、良い兆しだと麗香は喜んだ。そうして、寮の封鎖期間、実家にいるであろう亮から連絡が来ない事も、それは家族円満に過ごしているのだと麗香は我慢して、こちらから連絡する事を遠慮していた。

『久しぶりの実家、何かと忙しいのはわかるのだけど、少しぐらい、彼女の事にも気を回してくれないかなぁ。』と呟いた途端に届く亮からのメール。どこかに盗聴器でも仕掛けてあるのかとでも思えるタイミングでびっくりしたのと、恋心に熱くなった両方のドキドキでメールを開封した内容は、謎解きのような文面が綴られていた。

【絶心の帝都に、神の祈、刃向かい、建つ塔のした、麗しの、華を待つ】

すぐに亮の携帯にコールするも、『おかけになった番号は現在、電波の届かない場所にいるか』になる。何度かけてもお馴染みの携帯電話会社の謝罪。5日ぶりに連絡してきたと思ったら、この訳のわからないメールに麗香は若干怒り交じりのイライラ。

何?イタズラ?新しい遊び?麗華は苦悶しながら、なぞかけの暗号みたいなメールを読み、解読を試みる。

まず、【絶心】って何?【の帝都】って事は東京の事で、【神の祈】、神さまの祈りに【刃向かい 建つ塔】って何の塔よ!

【麗しの 華を待つ】って、麗しの華って私の事だよね。麗香の麗だし、華は、華族の華と掛けてるんだろうから、

えーと、東京のどこかの塔で私を待つって事で・・・

『肝心の場所が分かんないじゃないのよ!これじゃ!』

恋しさ余って憎さ百倍さながら、とりあえず出かける準備をする麗香。

全国大会の優勝旗が常翔の理事長室に飾られた翌日、涙のキスから始まった麗華と亮の恋人関係。学園でもその関係を隠すことなく、堂々と亮の彼女である事に誇った。毎日、許す限りの時を、亮のそばに寄り添いデートを重ねた。幸福な時間、亮の傷を癒すどころか、いつしか麗華自身が癒されていた。

ドレッサーの前で、髪をセットしなおす。

(今日はこの間、亮が買ってくれたワンピースを着て行こう。)

ワンピースに似合うアレンジと、口には薄いピンクのリップを塗り、どこへ行けばいいのかを考える。

(塔、塔、塔------東京で高い建物と言えば、東京都庁?)

でもそこは、このワンピースを買った日、ランチで最上階にあるレストランに行ったばかりの場所だ。亮の性格上、また同じ所に行くとは考えられない。

亮とのデートは、思いつく限りの場所へ行った。ディズニーランド、シーはもちろん、映画、水族館、動物園、博物館、美術館、茨城の宇宙博物館まで、どこへ行っても亮の知識は尽きることなく、おしゃべりを楽しんで、マメにスマートに立ち振る舞う亮に、私は甘えて優越感に浸る事が出来た。

亮とまだデートしていない場所と考えると、もうほとんど残っていない。しかも塔って近代建築に考えたら、ビルと考えていいと考察しても、東京には無数のビルが立ち並ぶ。神の祈りに刃向うって、まるでタロットカードの「塔」のようなイメージ。天に向かってそびえたつ・・・そんなイメージを頭に描いて思いつく。日本で一番高い塔、スカイツリー。

麗華は、亮からの謎のメールがそこを指示していると確信し、完璧に装った自身を鏡に「よしっ」と声をかけて屋敷を出た。

自分では早く身支度を終えて屋敷を出られたと思ったのに、電車の乗り換えが今一つスムーズに行かなかった。スカイツリーの最寄り駅に着いた時にはメールの着信から2時間が過ぎていた。屋敷からタクシーを使えばよかった後悔。どの駅からもちょっとばかし遠いスカイツリーは、今までの麗香なら間違いなくタクシーを使っていただろう。駅前に並んだタクシーに後ろ髪をひかれながら、建物の合間に見える塔を道しるべに歩く選択をした。

亮は、麗華が世間ずれしたお嬢様思考になることを好まない。『なるべく下々の生活を見て経験しろ』と言う亮は、デートで使うお金を全部、プラチナカードで支払ってしまうのだが。割り勘にしようと麗香が言っても、

『藤木家の資産を食いつぶすのに協力しろ、華族の称を持つ麗華に金を使う事は立派な税金還元だ、あいつの政治活動より有意義』と、理があるのかないのか良くわからない指針を掲げる。

確かに、藤木家の資産は柴崎一族以上と凱兄さんから聞いている。尚且つ藤木家は、国のトップを代々担ってきている歴史も権力もあり、一教育機関を築いている柴崎家の足元にも及ばない。柴崎家一族の大人たちはプラチナカードを持っているけど、麗香自身は普通のカードしか持っていない。サイン一つで億単位の買い物ができるプラチナカード、まだ成人していない麗香はゴールドでさえも審査が通らなかった。それを亮はゴールドよりも上のランクのプラチナカードを持っている。そこが柴崎家と藤木家の財力の違い。高々数十万円を麗香に使った所で、資産を食いつぶすほどにもならない、食べ残しのゴミをネズミがかじる程度だろう。そんな桁違いの豪族、藤木家直系長男が亮である。スマートにプラチナカードを使いこなす亮の彼女である事に、優越感に浸る反面、ふと生じる不安。

これまで麗香たちは、りのの事をずっと心配して結束を固めきた。だけど実は亮が一番危なっかしい事を最近になって気づく。

他人の隠された本心を読み取り、傷付き、親を嫌い、湯水のように使える財があって権力もある。何も怖い物がない亮が絶望の果てに生を踏み外せばどうなることか・・・。

幸福に満たされた心の中で突如として生じた小さな不安は、ゆらゆらと揺らめき麗華を惑わし焦らす。

亮の忠告を守って使わずに歩く選択をした事が悔しい。自分が鳴らすパンプスの足音が不快に、早く亮に会わなければと心を急かした。

交差点の信号をフライングで渡り、息を切らせてスカイツリーに隣接するショッピングセンターにやっと到着する。見渡す所に亮の姿はない。

【塔のした】と言ったって、この広く観光客で混雑しているショッピングセンターの、どこに亮は居るっての?まさか、ここじゃなかったりして、と今更ながら、自分の推理が間違っていたのではと青ざめる。

麗華は携帯電を取り出して亮の番号にコールした。

『おかけになった電話番号は・・・・』

「またっ!もう!ありえない。」

店の入り口で一人怒る私に、カップルが不審な顔をして通り過ぎる。

今更、他の場所に移動なんて出来ない。ここしか自分の頭では思いつかなかったのだし、とりあえずこの 【神の祈、刃向かい、建つ塔のした】をくまなく探すしかない。

見上げた。空に突き刺すように聳え立つスカイツリー。それは、人間のどこまでも挑戦し続ける夢の象徴のよう。

高く、もっと高くと。

与えられるのが当たり前じゃなく、私も掴みたい。

だけど、それは、ずっと寄り添うと誓った想いに反する事になる。

麗香は迷っていた。





生暖かい上昇気流が、砂埃と共に桜の花びらを舞散らせて、足元にすり寄って来る。

亮は、聳えるスカイツリーの真下の広場に設けられた花壇の縁に座り、その花びらが渦巻く舞い踊りを、眺めていた。

この国の国花に指定され、咲けば祝杯を上げるほどに愛好される桜も、

散ればゴミとなる。

綺麗なのはひととき、

きれいごともひととき、

それらは、醜いゴミとなり、

そして忌み嫌われる。

足元にすり寄って来た桜の花びらは、また春風に散らされて階段の下へと流れ落ちて往く。

往くはゴミとなるそれらに、歓喜の声を上げて階段を上ってくる観光客ら。

皆、スカイツリーの展望をめざし、期待に嬉々とした表情で高くそびえるその頂を見上げる。

しかし、この陽気に満ちた場所でも、その心に醜悪な心を持っている者が必ず居る。

腕を組んで階段を上がってくるカップル、女の方は、男の金が目当て。こんな場所に来たいのではなくて、ショッピングがしたい。スカイツリーに微塵も興味がなくて、スカイツリーのキグルミキャラと一緒に笑顔で写真を撮っているが、心は笑っていない。不機嫌に不貞腐れた本心が読み取れた。

前を通り過ぎる年配の女性3人組、その言葉の訛りにドキリとする。九州の福岡訛り。嫌な記憶がよみがえる。

『本当の事でも言っちゃ駄目なの、藤木君だけは』『とにかく2度と藤木君に悪口言っちゃダメよ、わかった?』

『あいつ、えらそーに指示しやがって。』『あいつ親のコネで入ってきたんだろう。』

『昔、めちゃくちゃ下手だったのによ、試合に出してもらって、そりゃうまくなるわな。』

『親のコネで、キャプテンの座もな。金を払ったとか。』

この場所にするのは間違いだったかもしれない。思い出したくもない記憶を呼び起こすばかりだ。

福岡訛りの年輩女性3人組の姿を見送った先、展望デッキ入り口から出て来た車椅子を押す年配の親子3人に目が留まる。車いすに座るお婆さんと押す男性は親子関係。「いい天気でよかったわね、景色も凄く綺麗で良かったわね。」と耳が遠いお婆さんに大きめの声で話しかけているのは嫁で、傍からみれば、親孝行のほほえましい光景、だけどその裏は、夫婦共々、このお婆さんの介護に疲れていて、さっさと死んでくれと思っている。

キィーーーーン

「痛たっ!」亮は痛みのある頭を抑えて眼をつぶる。

眼球のずっと奥、後頭部にかけて激痛が走る。病院の薬も効き目なし。

全国大会に優勝した翌日の柴崎邸の滞在時から突然に始まった変頭痛、その時は、寝不足が原因だと思っていたが、日増しに痛みの回数が増えていった。この変な頭痛が走る時は、他人の黒い本心、それも酷い物を読み取った時に起きる。

亮が長年悩んでいる、人の本心が読める要らぬ能力が原因しているとわかっているのだけど、読み取る事を自分の意思で止められないので、どうしようもない。しばらく目をつぶって視ないようにする、ぐらいしか対処のしようがなかった。

「これから、新しい生活が始まると言うのに・・・」

高等部に入学したら高校からの外部入試組も加わり、サッカー部も今まで以上に人数は増える。

新しい人間関係で生じる不愉快な本心を嫌でも読まざるえない。新生活が始まる春は、亮にとって辛い時期だった。

明日、常翔学園高等部の学生寮が開館される。中等部からの内部進学組と新しい入学組が続々と入寮してくる。始業式のギリまで入寮しない者もいるけれど、亮は早々に入寮するつもりでいる。実家暮らしはもう十分だ。母もほっとするだろう。亮が東京の実家に帰った日は母も本当にうれしい本心でいたけれど、亮とあいつとの気まずい空気に耐え切れなくなって、次第に亮が居なかったそれまでの生活が気楽だった事を実感し、疎ましく思い始めていた。母は悪くない。母のその心を作ってしまっているのは亮だ。現にあいつが居ない昼間は、学校はどうか、この間の試合は良かったとか、何か欲しい物はないかと、亮に対する本心は子を愛しむ母そのものである。あいつが帰宅するだけで母は、父と子、母と妻の板挟みで本心が歪むのだ。母のそんな心の葛藤など見たくない。これ以上、母を困らせない為にも、一刻も早く家を出る。それが母への親孝行というもの。

痛みが治まった。目を開けて、亮は深呼吸をする。

少し先の広場で、女の子二人組がカメラを持って、キョロキョロしているのが目に入った。

目が合う。二人でコソコソと話し始める。

遠くでもわかる単純でかわいらしい心。(あの人、頼まれてくれないかな、結構カッコいいし。)本心を読み取り亮は苦笑する。

やっぱり女の子二人は亮の方に歩いて来て、「シャッター押してもらえませんか。」と願い出る。

「いいよ。・・・・んーでもツリーが大きすぎて入りきれないけど、いい?」

「良いです。すみません。」

標準語のトーンが少し違うから、どこか地方から観光に来ている。

服もすこし野暮ったい。だけど、めいっぱいおしゃれをしてきたのだとわかる。そんな努力がかわいらしい。

「はい、行くよ、笑って。」カシャ。

「ありがとうございます。」

預かったコンパクトカメラを渡す時に、指の先が触れた。ポッと照れた本心を読み取り、その純粋さに亮は微笑む。

暇つぶしに、この可愛らしい子たちに付き合ってやるか、彼女らの本心なら頭痛もしないだろう。鎮静剤の替わりだ。

「どこから、来たの?二人は?」

「えっ!あっ、はい静岡です。」

「へぇー、じゃ東静線で来たの?」

「は、はい。」

「僕もなんだよね。僕は神奈川の寮のある学校に通っててさぁ。あっ、君たちいくつ?」

女の子達の心がウキウキと弾む、悪くない。まだまだ純粋な気持ちのある二人。

麗香に、言われたことがある。

『本心を読み取って、人に絶望しているくせに、どうして、自分から女の子に声をかけて助けようとするの。』と。

そう言われてみれば、そうだった。麗香に指摘されるまで気が付かなかった。

亮は人の本心を視て絶望し、世のすべてを馬鹿にして腐った心でいるくせに、女の子が困っている表情を見逃さず、無視ができない。麗香はいつもそんな亮に嫉妬する。

優越感?達成感?自分でも良くわからない。

助けた女の子から言われるれるありがとうは、曇りなく濁っていない綺麗なありがとうだった。ただ純粋な心に触れたいだけなのかもしれない。

「同じ年、へぇ、入学前にいろいろ買い物したくて?ついでにスカイツリー観光も・・・楽しそうだね。―――知ってるの?常翔学園・・・・そう、サッカーで有名。ん?お金持ち学校?そんな事無いよ、普通だよ。」

鎮静剤替わりの暇つぶしを10分ぐらいした時、彼女達の後ろから、【麗しの華】が息をきらせて階段を上ってくる。

「亮ぉ~!」

「あぁ、残念、時間切れ。」

亮の視線に気づいた二人が振り返り、麗香の姿を視認する。

自分たちより明らかに着ている服のレベルと気品の違いに驚いて、亮に向けた本心は、からかわれた怒りと、それにまんまと引っかかった屈辱の恥じらい。亮は自ら純粋を求めておきながら、汚してしまった行為に、自虐に心を痛めつける。

「ごめんねぇ。楽しかったよ。」

「あっ、いえ・・・・写真ありがとうございました。」二人は、怒りの落胆を表して去っていく。

「ちょっと!何なのよ!亮!」麗香は、コツコツと亮に駆け寄り、ジャケットの襟をつかむ。怒りMaxだ。

「早かったな、もう少し遅いかと思ってた。」

「ふざけないでよ!5日ぶりに連絡が来たと思ったら、変なメール!それに何よ!今の!」息の続かない麗華は、そこで大きく吸い込んでからまだ続ける「女の子を軟派する時間かせぎで、こんなくだらないメール送って来たんじゃないでしょうね!」

「へ?」驚いた。

華族会の祖歴にある文面を使ったフレーズだったのに、もしかして麗華は知らないのか。

「そんなんで、良くわかったな、ここだって。」

「わかるわけないでしょう!感よ!まだ一緒に来た事ない所って考えてーー」また息を吸い込む「もし、ここじゃなかったら、って焦ったじゃないのよ!」

「あはははは、お前ほんと面白いな。」あぁ、この楽しいのも今日で終わりだと思ったら、本当に残念。

「面白く無いわよ!いい加減にして!」突き飛ばすように手を離し、お決まりの腰に手を当てた怒りのポージング。その気品と気迫に誰もが振り返りおののく。

「まぁまぁ、怒りをお静め下さい、お嬢様。お待ちしておりました。では、まいりましょう。」麗香の腰に手を回して、手にしていた赤いバッグを預かり誘導するも、怒りが治まらない麗香に、バックを取り返され、回した手も振り払われた。

「そんな事しても、許さないわよ。」頬を膨らまし、先を歩いて行ってしまう麗香。

不思議と麗香と居る時に頭痛は起きない。古より続く卑弥呼の力、これが華族が持つ力かもしれない。

どこまでも気品に満ちた、まっすぐであるその姿に、やっぱり手放さなくてはいけないのだと、亮は覚悟を決める。

自分は麗香と対極の位置にいる人間だ。どんなに心合わせても、いずれは別れなければならない運命。だったら早い方がいい。

それに、麗香は突き進む未来を見つけた。それに賛同しサポートするには、亮が麗香の彼氏であってはいけない。

「だけど、あれでわからないって、わかりやすくしたつもりなんだけどなぁ。」

「どこが!」

「良く見ろよ、文字数、6・3・4で区切ってるだろ。634っつたら、スカイツリーの高さだろうが。」

「回りくどいのよ!」





スカイツリーの展望に登るチケットを購入する時、亮はプラチナカードを提示し麗華の分も支払う。カウンターにいる女性が、そのカードと明らかに身分不相応な亮の年齢に驚いた顔を向けた。亮はすっと顔を背け、わずかに眉を寄せる。いっしょに居れば居るほどわかってくる亮の苦悩、こんな些細な時でも人の心内を読み取り、心に傷を増やす。麗華が寄り添うだけじゃ追いつかない傷の修復。

チケットをゲートのそばに立っている係の人に渡し、少し進んだ先で亮が、「そこで少し待ってて」とまた引き返して行ってしまった。案内係の女性に何かしゃべっている。まさか、また軟派じゃないでしょうね。と半ば呆れて目をそらした。亮の考えている事はわからない。今まで、亮と付き合った女の子はいずれも、自分から告白して自分から別れを言いだしている。その決断する気持ちが最近わかるようになって来た。こんなわけのわからないメールで呼び出して、待ち合わせ場所で軟派。困っている女の子が要れば、彼女そっちのけで助けてしまっては、愛想尽きて当たり前。

麗香は小さく息を吐き、人の流れを遮らないように壁際に寄った。壁の一部分が鏡のような材質になっていて、自分の姿が映し出されている。服装のチェック。亮に買ってもらったワンピース。ショーウィンドウに飾られていたマネキンが着ていたのを「可愛い」とつぶやいたら、「着てみたら?」と亮は繋いだ手を引っ張り店内へと入れた。試着だけで買うつもりなど全くなかったのに、店員はそれに合うパンプスも持ってきて、二人そろって似合っていると絶賛。服と靴合わせて20万円近くだったから、麗香は母を連れてきますと言い試着室に戻り脱いだ。その着替えている最中に、亮はカードで支払ってしまっていて、卒業プレゼントだと笑った。『同じ年で何が卒業プレゼントよ。』と怒ったら、『気にすんな、俺の金じゃない。あいつらが何か言ってきたら柴崎麗香に使ったと言えば、文句は言えまい。』と言うから、『まるで私が買ってと我儘言ったみたいじゃないのよ。』と抗議したのだけど、『華族であるお前の存在は、藤木家も屈するんだ。』とわけのわからない持論を出してくるので、反論するも気も失せた。

買ってもらった靴は、箱から出して何も手入れせずに履いてきたから、靴の皮がまだ固く靴擦れを起こしていた。それに、ここスカイツリーは絨毯敷のフロアで歩きにくい。今晩、お風呂で浸みるのを覚悟した。

「お待たせ、はい。足、痛いんだろ。」

「えっ?」

「靴脱いで」亮が手に絆創膏を数枚持って戻って来た。

「えっえー。」

「ほら早く、足上げて、」

気づかれていた。靴擦れを起こしてるのを。相変わらず、マメでよく気が付く。

麗香は壁に手を付けて片足ずつ脱いでいる間に、亮は手際よく靴に絆創膏を貼って、足の皮膚が直接当たらないようにしてくれた。

通りすがる他人の目に照れる。だけど、こういう気の利く彼の彼女であるのよという優越感が胸に広がる。

「ありがとう。」

「いえいえ、お嬢様にひれ伏すのが、執事の仕事でございますから。」

「執事好きね。」

「あぁ、一番向いてる職業かもしれない。読み取り能力があるしな。」

「ふふふ、じゃ将来、職に困ったら柴崎家で雇ってあげるわよ。」

「おお、光栄でございます。華族の屋敷で雇われるのは。」

「ばか。」

そんな冗談を言いながら先へ進む。静かなエレベーター内、天井に装飾された星空のような照明が揺らめくのを、亮の腕に寄り添い無言で眺めた。

スカイツリーに登るのは今日で2回目、ここが正式にオープンする2日前、報道関係者のプレオープンよりも先に華族会の人々は招待されていた。スカイツリーの構想と建設を担った菱沼商事と大橋建設の財閥企業は華族の称号を持つ一族だからである。華族会の面々が時々に優遇される事は、公には報道されない。させない力を持つのが華族会である。華族の階級自体は世間に知られてはいるが、その力、影響力がどれぐらいなのかは知らせない。微妙に薄いベールを被せておくのが一番であることを、幼少の頃より教授されていた。だから歴史に興味のある新田に、自分が華族の称号を持っていると明かしても問題はないけれど、その階級の特権や仕組みなどを話すのはご法度。と言っても、麗香はまだそんなに詳しくはないから、説明のしようがなかった。

エレベーターは一切の振動なく静かに停止し、スピーカーから最上階に到着したアナウンスが流れる。開いた扉の先に、パノラマの景色、約630メートル上空からの眺めは白ずんで、おもちゃのブロックのように小さいビル群が並ぶ。

「俺さ、3年前の今日、福岡から出て来た時、一人でここに来たんだ。」

「一人で?」

「あぁ、そん時は、まだ東京に家はなかったからな。田舎から上京してきたお登りさんを素でやった。笑えるだろ。」

「笑えるっていうか・・・・尊敬するわ。小学を卒業したばかりの12歳で親元を離れて生活しようって思う精神が。」

「ははは、良く言うよ。俺と初めて寮で会った時、田舎もんって本心丸出しで鼻で笑ってたんじゃん。」

「えー、初めて寮であった?うそっ!会ってないわよ。」

「会った。理事長が寮に様子見に来た時に、お前も付き添って来てた。理事長、同級生だからよろしくって紹介したんだよ。覚えてないのかよ。」

「えー、あー覚え・・・てる・・・」

「うそ、バレバレだ。」横目で笑う亮は、ガラス窓の前に設置された手すりに前かがみで腕をのせ、下方を覗く。

亮はいろんなタイプの服を着こなす。ちゃんとTPOに合せた服をチョイスしてくるし、カジュアル服でもさすがに良い物を着ているから、決して外しはしない。今日は、腕まくりしたベージュのジャケットに細身の紺のパンツ、茶色のショートブーツにインナーは私の春色ワンピースと同じ色のデニムシャツを刺し色に合わせている。『新田と違って顔で勝負できないから、着る物で誤魔化さないと』なんて言う亮だけど、新田とはまた違って、劣ってはいないと麗香は思う。

「まさか、あん時のお嬢様と付き合う事になるとはね。」

「私も、亮と付き合う事になるとは思ってもいなかったわ。」

麗香達の後ろに、4人の女子グループがキャッキャッとハイテンションで通り過ぎ、ほど近い先で景色をバックに写真を撮りはじめた。言葉のイントネーションからして、地方からの卒業旅行だろう。スカイツリーは地元関東圏よりも地方からの観光客の方が多い。

「ねぇ、誰かに撮ってもらおうよ。4人一緒の写真、欲しいもんね。」女子達は、通り過ぎる観光客に上手く頼めないで、困り始めた。

「はぁ~。俺も病気だな、ここまで来たら。」亮は苦笑しながらそう呟くと、女子達に近寄り「撮ってあげるよ」と言って、女の子からカメラを受け取った。

「溜息つきたいのは、こっちよ。」麗華はスカイツリーの支柱である太い柱に持たれて、サービス精神満載の亮の姿を眺める。

あぁやって、助けた女の子から出てくる本心は純粋な「ありがとう」だろう。そこには邪心がなにもない。

亮は、この薄汚れた世の中で救いを求めて純粋な心を探しているのかもしれない。

(私の心は亮が求める純粋であるだろうか?)

胸がチクリと痛む。きっと黒いに違いない。

麗香が亮に寄り添う事が、本当はこの上なく亮を痛めつけている事になっていないか?

りのが新田の優しさを怖いと言ったように。

「上へ、一番高い所に行こう。」戻ってきた亮が手を差し伸べてくる。

握った手は冷たい。傷ついた心を表しているように。




麗香に迷いは似合わない。

何時だってまっすぐ突き進んでいく、それが柴崎麗香。

常翔学園最強のお嬢様であるその立場とプライドに見合った成果を得られず、イライラを募らせていた時期もあった。しかしりのちゃんという特殊な存在が麗香のそれを満たし、更なる自信と誇りを得た。

「その3年前、この景色を見て、白いなぁて思ったんだ。」

「東京は山がないものね、私も初めて上った時、靄がかかっていたからかもしれないけど、色が少ないって思った。」

「福岡に居た頃は、もうすでに何もかもが色塗られたものだったから、うれしかったなぁ。この白い場所に自由に色を塗れるんだって。」

「3年かけたお絵描き帳の出来栄えはどう?」

「どうだろうな。」

「?」

「藤木家にそぐわない色で塗れば、つぶされてきた。結局仕上がったものは、自分で描いた気でいる、幻のお絵かき帳なのかもしれない。」

「亮・・・。」苦悶に眉間に皺を寄せる麗華。

「そんな顔するな、慣れている。」

「亮!」

「違うんだ。お絵かき帳そのものが俺の物じゃなかった。俺は何だかんだ言って、藤木家を捨てる事が出来ない、臆病なんだよ。」

「家を捨てるなんて、簡単に出来るはずないじゃない。」

「新田は簡単に捨てる。りのちゃんの為なら、命までも捨てようとした。」

「あれは、それがいい事とは限らないわ。りのは、その新田の気持ちを怖いと。だからりのは素直に応えられないでいる。」

「そこが俺と新田の違いだ。新田のすべては、りのちゃんの為にある。描く夢も自分の為にあるものじゃないから、新田は妥協をしない努力をし続けるし、りのちゃんの為なら捨てもする。だから俺は新田を超えられない。」

写真を撮ろうと後ろ歩きで下がって来た年配の男性が、麗香にぶつかりそうになる。それを防ぐために繋いでいた手を強く引き寄せ麗香の腰に回した。柔らかな身体が肌に密着する。麗香は恥じらった顔を俯いて亮の肩に寄せる。

「俺も誰かの為の夢にしたい。自分の為だけじゃない夢にさせてくれ、麗香。」

「なに?」腕の中にいる麗香が顔を上げる。

「別れよう。」

「!」

はじめて、自分から分かれを切り出す。別れを言い出す方が辛いのだと思っていた。だけど、結構、何ともない。

眼を見開いて驚く麗香、何かを言おうとして、何も言えないで息をのむ。

「見つけたんだろう。突き進む夢を。」

「やっぱり、読まれてしまったのね。」

「誰よりも良く読める、麗香のは。」

「それ、喜んでいいのか、悪いのかわからないじゃない・・・」亮の眼から逃げるようにまた顔を伏せる麗華。「ごめんなさい。私、約束を。」

「謝るな。これは互いの夢が一致した事だ。」亮は麗香の頬にそっと手を添えて、その瞳を見れるようにする「麗香の夢を、自身の夢と共に描く。麗香が進む道を追える俺は、迷いなくまっすぐに、見失ったりはしない。」

誰かの為に叶える夢。疑似でもそれは強い原動力となるか?

それともただの言い訳になるか。

「亮、ありがとう。」

「変だな、別れを言って礼を言われるって。」

「一緒に夢を描こう。それはとても綺麗に彩られるわ。」

最後の最後まで亮を包み込む麗香の暖かさ、これこそが摩羅が覆漂しい絶心の荒地を変じて、日の国を作って来た祈心の力。

4か月前と同じ、その力に吸い込まれるように心を合わせる。

「あぁ、俺達も新田に負けない夢を描く。」

「ええ。」

「ありがとう。麗香。」

必要だと言ってくれた。その言葉の契りを、亮はけして忘れはしない。

この先、こんなにも前向きに生きられるようにしてくれる彼女は、きっと出会わないだろうと思った。





「別れよう。」

周りの喧騒が無くなる。無声映画のように。

「見つけたんだろう。突き進む夢を。」

やっぱり、亮には隠す事が出来なかった。

「やっぱり、読まれてしまったのね。」

「誰よりも良く読める、麗香のは。」

「それ、喜んでいいのか、悪いのかわからないじゃない・・・」

りのは、高等部でバスケ部に入ると決めた。弓道はもう極めたからと言って次の夢を目指す。

じゃぁ、自分は何をすればいいのだろうか、何を極めただろうかと麗香は考えた。テニス部を中途半端に終えた代わりに、生徒会を極めた。クラブバックアップ支援は60周年記念行事にふさわしいプロジェクトだと絶賛されて、支援会員は予測人数をはるかに超えて、明日から始まる新年度稼動に十分な資金力を持って始動する。高等部で生徒会をする気はない。あれ以上の事は出来ないとわかっていたから。それをわかっていて生徒会に入れば、きっと気力も入らず、もどかしい日々になるに違いないと簡単に予想がついた。

新田と亮が卒業後、早速、高等部のサッカー部へ、挨拶がてら練習にも参加させてもらうのを、りのと一緒に見学に行った。

そこで認識したサッカー部のマネージャーという存在。

マネージャーになれば、あの全国優勝の感動をそばで共有することが出来る。新田と亮が作っていくチームの、今度は一員としてサポートしたい。そう思った。だけど、その夢を純粋に叶えるならば、私は亮の彼女であってはいけない。別にマネージャーと特別な関係になってはいけないなんて部にルールはないけれど、恋心でマネージャーをしていると思われるのは嫌だ、亮も嫌だろう。だから、麗香は悩んでいた。

「ごめんなさい。私、約束を。」

「謝るな。これは互いの夢が一致した事だ。」

本当に一致しているのだろうか。ただ亮は麗香の本心を読み取り、そう手回ししてくれているだけじゃないのか。

冷たい手が、麗香の頬に添えられる。この手を温める事が出来ないまま、麗香は夢を見つけてしまった。亮の彼女であるまま、共に目指してもいい夢であるけれど、元来、中途半端が嫌いな麗香の性格では我慢のならない状況となって、いずれ悩むだろう。そして、いつかは別れる事になるだろうと予想できた。

「麗香の夢を、自身の夢と共に描く。麗香が進む道を追える俺は、迷いなくまっすぐに、見失ったりはしない。」

あぁ、なんて事。亮は麗香に選択をさせずに、夢に向かわせてくれた。

新田の真似なんてできない。好きな人の為に死までついて行くなんて間違った寄り添い方だ。

麗香には、麗香の寄り添い方があるはずだ。それを互いに見つけながら寄り添っていくのも、生き方。

「亮・・・ありがとう。」

「変だな、別れを言って礼を言われるって。」

キスから寄り添った亮との関係は、約4か月間。惜しくもある。

だけど、きっとこれが最善の選択。

「一緒に夢を描こう。それはとても綺麗に彩られるわ。」

「あぁ、俺達も新田に負けない夢を描く。」

「ええ。」

「ありがとう。麗香。」

亮との最後のキスは、未来へ繋ぐ希望の道しるべ。

太陽が地上に降り立ち染まるビル群、オレンジからピンク、やがて青から紺へ変わり描く空を、亮といつまでも眺めた。

麗香は思う。

その策士的な視野。そして特に女性に対する献身的な振る舞い。

きっと亮以上の彼氏は、この先、現れないと。















柴崎は、高等部ではサッカー部のマネージャーをし、藤木達と一緒にまた、全国優勝の夢を目指すという。その為には藤木と特別な関係でいてはダメだと別れた。どこまでもまっすぐな柴崎らしい決断。それを許す藤木の強い優しさ。

夢の為に好きな人と別れる。なんて惚れ惚れするほどかっこいい思考の二人だろう。

私はグレンと別れなくてはならないと知った時、駄々をこねる幼児のように、グレンについて行くと泣きついたのに。

柴崎は、平気な顔をして、3日前の別れ話を淡々とする。

「りのが泣きそうになって、どうすんのよ。」

「だって・・・あぁ、我慢しないで泣くんだ。麗香。」

泣くって大事。それも学んだ。パパが死んだ時、泣けなかった事が私の中で後悔という罪を作った。

一人で泣けないなら、誰かの助けで泣けばいい。柴崎は私を包んで泣くのを手助けしてくれた。

だから今度は、私の番。

「ちょ、ちょっと、何すんのよ。りの!やめて!」

「これで、辛い気持ちは1/2に。」

「もう!りの、公衆の面前で恥ずかしい!」ハグは、押し返されて拒否される。

「それに何なのよ、急に、名前で呼んで、」

「藤木の代わりに、私が麗香の特別になるよ。」

「ふふふふ、ほんと、リノって面白い。」

「はぁ~、なんか、ニコとりのが合わさってから、おかしなキャラになってきてない?」

「普通だけど?」

「あのね、私も、別れたの。」とメグ。

「えー!!!」麗香と驚きの叫びが重なる。

「メグ~。」

「ハグはいらないから!」制止のポーズで拒否られる。

「私から言ったの、だから泣くのもなしよ。」

「喧嘩でもしたの?」

「喧嘩ってほどの事でもないんだけど、まぁ勢いでね。いい加減、キレちゃった。」

夢見る今野陽人君は、シチュエーションにこだわる。メグは、彼氏の方が背が低い事なんて、まったく気にしていないのに、ハルがやたら気にしている事にいい加減めんどくさくなったという。男が背伸びをしてキスをするシチュエーションがどうしても嫌だと、一年半以上も付き合って手を握る以上に進展しない関係に、メグはしびれを切らした。

「ほんと、めんどくさいのよ。クリスマスやら、バレンタインやら、事あるイベントに自分が考えたシチュエーションに付き合わされて、それがうまく行かないと、落ち込むしさ。」

「ぷっ、可愛いじゃない。今野。」

「私も最初はそう思ったわよ、でもね、一年半も付き合ってみなさいよ、うんざりするわよ。」

あぁ、メグとハルもお似合いだったのに。どうして、皆うまく行かないのかなぁ。

「私ね、賭けたのよ。」

「何を?」

「中学生最後の日までに、ハルが私にキスをしようとしてこなかったら、別れるって。」

「してこなかったのね。」

「そう、柴崎さん達と別れた日が同じでびっくりしたけど。」

「麗香、メグ、私がついてる。」

「あのね、新田に寄り添えないりのに、寄り添われても慰めにもなんないわよ。」

「んー。」またそうやって、私が慎一の気持ちに寄り添えない事を責める麗香。

「夢の為に好きな男と合意の上で別れた女と、コンプレックスの塊の男を賭けて別れた女と、余り過ぎる愛情に応えられない女。溜息しか出ないわね。」

女心は複雑。

どんなに本や辞書をめくっても、自分の心を明確にわかる方法なんて見つからない

「そろそろ行きましょうか。」

クレープはとっくになくなっていて、かなり長い時間を居座ってしまっていた。

今日は、特にどこへ行くという計画は立てていない。テレビで歩行者天国の開催を知って話題にしたら、行ってみることになっただけ。既に端から端まで一通り歩き露店を覗いた後のクレープ屋さんだった。帰るのもまだ早い中途半端な時間帯。

「ねぇ君たち、この後、何処かに行く予定しているの?時間あるんなら、俺たちと一緒に遊びに行かない?」

隣に座った男子三人組、最初に目が会った時から、何度か嫌な視線を感じていた。

麗香とメグが顔を見合わせる。まさか乗り気なのでは?と私は不安になる。彼氏と別れたからって、そんな軽々しく誘いに乗るの?

「私達の理想は高いの。私は最高クラスの献身的な紳士じゃないと男として認めない。」

「私は、私より身長が高くて、束縛をしない可愛い男。」

麗香とメグが、次は私の番とばかりに振り向く。

私は・・・。

英「私は、英語かフランス語、もしくはロシア語が堪能で、世界に夢を求め挑む男」

「え、英語?!」

「なっ、何だよ・・・」男の子達はムッとし、何か言いたけだったけど、麗香の迫力にタジタジ。

「私達はその名に恥じない常に羽ばたく常翔学園の生徒よ。付き合う男も更なる上の男でなきゃね。」

「えぇ、それが別れた男に対する礼儀。」

麗香とメグは、男3人を突っぱねて歩き出す。

強い、二人とも。

「行くわよ!」

「う、うん。」慌てて二人を追いかける私。

きっと、藤木、ハル、グレン、に勝てる男は現れないと思う。

そして慎一も。

夢を追いかけ掴んだ慎一、全国1位になったサッカー部のキャプテンは全国でただ一人なのだから。

私達は明日、新しい制服を着て、誇り高き伝統の常翔学園高等部の門をくぐる。

3年前とは違う、皆でくぐる未来の門。

もう怖くないね、皆と一緒だから。


















「シャワーなら24時間使えるけど、湯船に湯が入っているのは夜の6時から10時までだから。」

「やっぱり先輩が入った後に、とかある?」

「無いよ、ここは。クラブで忙しい学校だからね。そんなルールを作ってたら、時間が足りなくなるから。風呂でも、洗濯機でも何でも、共同で使うものは使いたい奴からさっさと使って、順番を開けろって感じで通ってるから。遠慮してもたもたしてたら逆に怒られる。」

「へぇーそうなんだ。」

「それと、共同スペースの掃除は掃除のおばちゃんが居るから当番とかないけど、自分が使った後は使った以上に綺麗にするぐらいの意識つけとかないと、怖いぞ。」

「えー、掃除のおばちゃんって、そんなに怖いの?」

「ううん、掃除のおばちゃんじゃなくて、そこは先輩。俺ら同級もな。掃除のおばちゃんを困らすなっていう暗黙のルールがある。」

亮は、外部入試組で寮に新しく入って来た同級の福島に、寮生活におけるルールを教えていた。

高等部の寮は、中等部の寮に併設されている。施設内の配置がすべて左右逆に配置され、二階建てが三階建てに部屋数が多くなっただけで、基本的な生活の仕様は変わらない。門限と消灯時間が中等部より少し伸びたぐらいだ。だから亮や今野などの内部進学組が、高等部から入ってくる同級生に施設内の基本説明をするという仕事を、寮管理長から仰せつかっていた。

亮と同室になった福島は、公立の中学校を経て常翔に入学してきた。親が転勤族でずっと各地の公立の学校の転入転出を繰り返していたらしい。しかし高校は一つの学校で過ごしたいとの希望で、寮のある常翔を受験し合格した。亮は福島の観察をして、ほっと安心する。本心に癖がない。問題はなさそうだ。転校を何度となくしている影響か、他人に対する依存心や期待感などがない。他人に深入りしない癖がついている模様、それが悪い傾向に性格形成されていない。表裏の差が少ないのは助かる。

「俺、下の食堂にいるから、荷物整理終わったら来るといいよ。今日の夜、寮生全員の自己紹介をするけど、その前に挨拶をしてた方がいいからな。」

「あぁ、ありがとう。」

福島を部屋に残して亮は廊下に出る。

部屋割りは基本、同じクラブに属している者同士が同室になるように設定される。朝練や帰宅時間など行動時間が極端に違う生徒同士を同室にすると、朝がうるさいとかの問題が起こりやすい。福島のように入試の面接時点でサッカー部に入部するとわかっている生徒は、既に部屋が確定していた。まだどこに入部するか決めていない生徒は、クラブを決めた後に、部屋移動をする事もある。これは近年できた仕組みらしく、凱さんが居た頃はなかったと聞いた。だから凱さんは、今や海外のクラブチームで活躍する大久保選手と同室になり、朝は早い時間から起こされ、部屋で泥だらけのジャージを脱いで汚されたりと、迷惑していたと言っていた。でもそうやって同室になったからこそ、空手部だった凱さんとサッカー部の大久保選手は、大人になった今でも仲がいい親友であり続けている。

亮が中等部で同室だった生徒は、2年の終わりに膝を故障して練習にも参加できなくなり、自宅通学に切り替えてしまった。だから約一年、一人部屋のよう使えてラッキーだった。

福島が亮と、凱さんのように大人になっても友として認め会える仲になれるかどうかは・・・・おそらく無い。福島のあの性格と自分、どう考えても熱く青春を語るような気質じゃない。

「おぉい、藤木ぃ。」廊下の奥からサッカー部の一つ上の先輩に声をかけられて振り返る。

「伊坂先輩・・・・。」

「新田から連絡きたかぁ。」

「まだですね。」と答えながら、ポケットから携帯を取り出し、念の為メールが来ていないかチェックをする。

「そうか。気になるなぁ。どうなんだろうな北朝鮮戦は。」と、心配そうな声で言っているが、本心は、負けてしまえと、新田が活躍する事を願っていない。一つ上の2年の先輩達は亮たちの世代の事をあまり良く思っていない。3年生の先輩たちが、新田の才能を頼り、亮とのコンビネーションも評価し、頻繁に2年生を飛び越えてレギュラー入りをさせる事が、2年の先輩達は気に食わない。

常翔には、先輩後輩関係なく、実力のあるものがレギュラーに起用される実力主義を徹底して意識教育されているのだけど、やっぱり後輩がレギュラー入りするのは気持ちのいいものではない。それが部を強くする必要不可欠な要素である事がわかっていても、簡単に納得できるほど人間は単純じゃない。亮達が先輩たちを差し置いてベンチ入りする度、嫉妬に渦巻く本心を、亮はうんざりするほど読み取ってきていた。

この伊坂先輩もその一人、新田と同じFWのポジション、新田が天才の実力があるおかけで、なかなかレギュラーに入れない。

「どうですかね。強いですからねぇ。北朝鮮は。」

「どっか衛星中継してくれたらいいのにな、応援出来んのによ。」

新田は3月の20日からシンガポールで開催されているアジアカップユース16選手権大会に日本代表選手として、世界に挑んでいる。くじ運が良かったのか、予選のグループステージは難なく突破して、本トーナメント進出を果たしている。今日の試合に勝てば、夏にあるワールドカップへの出場権が得られるが、対戦相手がアジアでも強豪の北朝鮮だった。

ユース16選手権の試合は、テレビ中継はなく、日本サッカー連盟から学園に届く情報や、日本サッカー連盟のホームページの更新でしか知ることが出来ないが、その更新がものすごく遅い。結果は新田からの報告待ちとなっていた。

「そう(痛っ)・・・ですね。」目の奥から後頭部に痛みが走る。

「まぁ、新田の報告が来たら教えてくれ。」

「はい。」

伊坂先輩が自室へと戻って行くのを待って頭を抑えた。4月1日に寮に到着してから、もう数えきれないぐらい、この頭痛に悩まされている。病院の薬もたいして効き目がなかった。

(やっぱり、精神科に行くべきか?)

この頭痛が、人の本心を読み取る能力に関係して発症している事はわかっていた。今まであらゆる人の腹黒い裏側を読み取ってきたのに、なぜに今、頭痛を伴う事になったのかわからない。麗香のお母さんが言うように亮自身の経験内でしか、人の本心を読み取れないと言うなら、亮の経験が未熟で、キャパオーバーで対応できなくなって痛みが生じているという事になっているのではないか?

そんな自己分析をしても、痛みは治まらない。

やっと痛みが治まる。こうして少しの間、眼をつぶりやり過ごせば残痛もなく治まるから、問題はないと言えば無い。

りのちゃんみたいに夜も眠れないって事もなく、逆に目を閉じる睡眠時は能力停止の時間帯で、唯一の休まる時間である事は救いだった。

亮は大きく深呼吸をしてから1階の食堂に向かう。

中等部より広くなった食堂。1・2年ぶりの先輩達に交じり、中等部の時には居なかった先輩達などが数名、テレビを見ていたり、新聞を読んでいたりしている。食堂のテーブルはどこに座ってもいいはずが、自然的に奥のテレビに近い方が3年生、真ん中が2年生、廊下側が1年生となっているのは、学園の食堂の決まりに馴染む癖だ。廊下側のテーブルの一角に、この世の終わりのようなオーラに包まれている生徒がいた。亮の姿を視認して、これ見よがしに頭を抱えて唸る。

「あぁ・・・もう、どうしたらいいんだぁ~。」

「どうしたらって、もう、どうしようもないだろう。今更。」

「うあぁぁ~、何だって、メグはぁ~。」

「おまえなぁ~。いい加減にしろよ。」

気持ちは、わからないでもないけど、もう今日で3日目だ。いい加減に、この世で一番の不幸を背負いましたっていうシチュエーションに浸るのはやめて欲しい。ウザイったらありゃしない!

「だから俺、忠告しただろ、お前がべたなマニュアルに拘って聞かないから。」

バスケ部の今野陽人、長らく付き合った女子バスケ部の佐々木恵さんから、3月31日に別れを宣言されて、只今、失恋傷心3日目に突入。4月1日の入寮時に、亮の顔を見るなり今野は泣きだした。その日は亮も同じ傷心でいたから、心痛わかち合うべく慰め合ったのだけど、いつまでも分かちあえるほど、亮は暇じゃない。

「よし、もう一度メグが、やっぱりハルじゃないとダメなのっ、てなるシチュエーションを考える。」

「だから、そのシチュエーションのこだわりが駄目なんだってば。お前、全然分かってないだろう。」

今野は女の子との関係に夢を見過ぎ。自分より背の高い佐々木さんに、背伸びをしてキスする状況が絶対に嫌だと、ずっと手を繋ぐ以上の進展のない関係を続けていた。その事に、佐々木さんはシビレを切らして、別れる決断をしてしまった。

『佐々木さんは身長差なんて全く気にしていなくて、今野のキスを待っているぞ』と、亮はアドバイスをしてやったのに、『いやメグだって嫌なはずだ』と。身長を伸ばすべく牛乳をひたすら飲むという方向違いの努力をした今野。憎めなくて、一緒にいて楽な人間の一人だが。

「今野、最後の一人ぐらい、お前がやれよ。」

「あぁ・・・」

去年まで亮が寮生徒長で、今野が副寮生徒長であった為に、何かと雑用を頼まれる事が多い。寮管理長から新しく入ってくる生徒の世話役を頼まれていた。それなのに今野は失恋が尾を引いて全く世話役を出来ていない。で亮ばかりが忙しくしていた。亮は食堂にあるドリンクカウンターで紅茶の紙パックに手を伸ばす。

麗香と付き合い始めて屋敷に行く頻度が増え、麗香が紅茶派だった事から紅茶を飲むようになった。麗香は砂糖もミルクも入れた甘い物を好んでいたけれど、亮は何も入れない。甘い物は苦手だった。柴崎邸で出される紅茶は、高級茶葉ばかりで、最初の頃はインスタントとの味も香りも違いのわからなかった亮だったけれど、3か月あまり柴崎邸の高級茶葉を飲み続けていたら、次第にその違いがわかるようになってきた。寮のドリンクカウンターにある安物の紙パック入りの紅茶が、柴崎邸の物とは違って不味いとわかっていながら、元の珈琲派に戻さない自分に、未練がましい弱さを覚える。柴崎邸の質の高さは、まるで麻薬のようだと苦笑する。

紅茶の入ったカップを手に今野の前に座った。

繰り返される今野の失恋の泣き言を適当にあしらいながら、時間を潰す事20分。

「しかし、遅いな。この弥神皇生って奴。」預かっていた入寮リストと時計を見る。

どんなに遅くても入学式の一日前、今日の昼頃までには入寮を済ませる生徒がほとんどなのに、その一人だけがまだ来ない。もう3時を過ぎていた。

「どっから来るんだ?」今野が問う。

「えーと、京都って書いてるな。」

「京都からなら、さして遠くないのにな。あーあ、俺、スポーツ用品店に行こうと思ってたのに。時間無くなっちまったな。」

「あっ、そうだ、俺もテーピング補充しときたいんだった。明日、一緒に行こうぜ。」

そんな雑談をしても尚、最後の一人は来ない。そしてまたもや失恋の泣き言に戻ってしまう。の繰り返し、更に時間が経って4時を少し回ってからやっと、最後の一人が寮に来る。

「藤木くん、弥神君が到着したから頼むよ。」寮管理長が廊下から亮を名指してくる。

「今野が担当しまーす。」廊下へと振り返りもせず答えた。

最後の一人ぐらいは今野にやってもらわないと割に合わない。

今野は、失恋の落ち込みに浸るのを諦めたように、一呼吸、溜息をついて席を立った。

亮と同室の福島は、まだ下に降りてこない。何か困った事でも起きたか?様子を見に行った方がいいかと、自分も立ち上がる。

「俺、中学からの内部進学組は、寮内の事を教えるよう言われてるんだ。今野陽人、よろしく。」

「ふーん。」今野の人なつっこい挨拶を遮断するような、素っ気ない言葉が聞こえた。

入寮は4時までとなっていて、少し遅れて来たくせに、えらく横柄な態度だ。亮はどんな奴か見てやろうと廊下に出て階段を登る前に玄関ロビーへと振り向いた。

〈漆黒〉それがそいつの第一印象だった。特に指定されているわけではないけれど、新入生は仕立て上がっている制服を着て入寮するのが普通。だけどそいつ、弥神皇生は、黒いシャツに黒のスラックスの私服で、用意されたスリッパに履き替えている所だった。

「とりあえず、先にその荷物を部屋に運ぼうか。宅配の荷物はもう部屋に運んであるから。」

「・・・。」

受け答えがない。普通、自分の宅配された荷物が誰かに運ばれたと知れば、建前でもありがとうぐらい言うだろう。

「君の靴箱の場所はここ。」今野が指さした下の方の下駄箱に弥神は、けだるそうな態度で靴を入れる。サラサラの髪が顔全体を覆ってどんな顔をしている奴なのかわからなかった。顔がわからなくても、遅刻してのその態度と服装であることから、亮は感覚的に「要注意」の相手だと分類する。本心を読み取ってちゃんと対応を考えておかないといけないタイプの人間だと分析した亮は、弥神がこちらに顔を向けるのを待った。

弥神が身体を起こし、こちらら顔を向ける。

眼が合った瞬間、キイーーーーーンと眼の奥から脳へと貫く激痛が走った。

「うっあっ痛っ!」頭を抱える。耐えられない激痛、腰を折り、後ずさりする踵が階段に躓いて、尻もちをついた。

「藤木?どうした?」

(お前は誰だ?。)

キイーーーーーーン痛みを増して響く高音

(なぜ、お前がその眼を持つ?)屈するように響く低音

キイーーーーーーン

高音、低音の合わさる強烈なそれらが、亮の脳をかき乱し、痛い。

冷汗が額から流れ落ちる。

「藤木くん、どうした?」

寮は這うように階段を駆け上がる。逃げるように。

3日前に病院でもらった薬を鞄から取り出し、水なしで飲み込む。

喉に苦い味が引っかかったまま唾を飲みこみ、息を整える。

そんな亮の様子に福島は、不安の色を隠すことができない顔を向けてきた。

「大丈夫?」

「ごめん。今、ちょっと編頭痛があって・・・・」

「あぁ、季節の変わり目だもんね。俺もあるよ・・・・」

福島の優しい同意。それ以上は何も詮索をしない、どこまでも他人に興味がない。

何だったんだ?激痛に響いた声。

声?

声なんかしていたか?

頭痛も、もうない。

「藤木、偏頭痛の時に悪いんだけど、この、空になった段ボールはどこに持っていたらいいのかな?」

「あぁ、裏のゴミ集積倉庫、案内するよ。」

宅配便で送られてきていた福島の荷物は、部屋のクローゼットや棚に綺麗に収まっている。

その荷物の収め具合でわかる。良かった、きちんとしている。

前、同室だった奴は、整理整頓が全く出来ないやつで、亮ばっかりが部屋の掃除をしていた。その心配はなさそうだ。

福島に段ボールの捨て場所を案内して、一緒に食堂に入る。

テーブルにさっきまで自分が座っていた場所に、飲んでいたカップが今野の分と一緒に置きっぱなしになっていた。それらのカップを手に持ち、ドリンクドリンクカウンターの使い方を福島にしながら、頭の片隅に残痛が妙に気持ち悪く残っているのを自覚する。

最後の寮生、到着したよな?

食道で一緒に待っていた今野が居ないという事は、いま案内しているのだろう。

えーと、最後まで来ない寮生の名前、

なんて名前だった?












常翔学園高等部の制服は、ブレザーは男女ともに中等部からの共通で、黒地に襟に深緑のパイピングラインが入り、胸にエンブレムが付く三つボタンのジャケット。中等部からの内部進学組は、新たに買う必要はなくて、そのまま着用する事が出来るという金持ち学校にしては珍しく合理的にできている。けれど男女共にスラックスとスカートのチェックの色は違うので、結果ジャケットも購入する家庭がほとんどだ。女子のスカートは中等部では臙色を基調としたチェックだったのが、高等部では深緑を基調としたチェック。男子は深緑を基調としたグレンチェックだったのが、紺色のグレンチェック。胸に女子はスカートと同じチェック柄のリボンがついて、男子は何もなかったのが、高等部では、女子と同じ柄のネクタイの着用が決められている。

中等部からずっと来ていたブレザーは成長を見込んで大きめのを買っていたから、まだサイズ的には着れたのだけど、柴崎家から、全部、新しいものを支給してくれていた。もう変に遠慮するのはやめて、柴崎家のご厚意には素直に応じるとママと決めた。

新しい制服に腕を通す。深緑のチェックのスカートは大人感が出ていて、鏡の前でにんまりする。

弓道を引退してから伸ばした髪の毛も、やっと肩まで伸びた。グレンとの約束、昔みたいにロングするは中々に時間がかかる。

髪の伸びるのは、1か月1センチと言うから、背中まで伸ばすとなると、後1年もかかる見通し。それまで我慢して伸ばせられるどうか。この伸ばす途中の、結びたくても結べない時期が一番面倒で、夏は特に首周辺が暑い。今年の夏、それを超えて切りたい衝動に我慢できるかが勝負とみた。サイドの髪をヘアピンでとめる。うん、こっちの方がすっきりして、高校生らしい?

この新しい制服姿を、グレンに見せたい。あとで、麗香に写真をとってもらって送ろう。

「りの、そろそろ行くわよ、啓子達も今から出るって。」

「はーい。」

ママもスーツ姿のおめかし。胸にコサージュをつけている。ママと一緒に167号線のバス停に歩いて向かう。10時から入学式にはあと一時間以上はある。バスで15分もかからないから、学園で一時間は待つ事になるけど、写真を撮ったりするからちょうどいい感じになるだろう。

「りのりの!おっはよう!」通り向うのバスに既に到着しているえりちゃんが手を振る。えりちゃんは中等部の2年生になった。今日はまだ春休みで学園に行く必要はないのだけど、私の入学式に参列すると言って制服を着用している。華やかなスーツ姿の啓子おばさんと秀治おじさんも後ろから現れた。

「りのりの、制服似合ってるよ。」

「りのちゃん、またお姉さんらしくなったね。」

「あ、ありがとう・・・・えーとぉ、お、おじさんも行くの?」

「そう。中等部の時は店が忙しくて行けなかったからねぇ。」

「お父さん、ずっと楽しみにしてて、スーツまで新調したのよ。これ。」

「た、楽しみって・・・」

「違うよ、ホントはぁ、スーツ小さくなってズボンが入らなくて、大慌てで買いに行ったんだよ。」

「こら、言うんじゃない!」

「ほら見て、りのりの、ウエスト、アジャスターだよ。」と言っておじさんのスーツの上着をめくるえりちゃん。

「やめなさい。えり。」

どこまでも明るい新田家の面々にちょっと呆れて、ママと顔を見合わせた。ママも苦笑する。

自分の家の息子が入学式に出られないのに、このハイテンション。

慎一は、まだシンガポールに居る。日本代表選抜チームの一員として昨日、北朝鮮と戦った。試合は負けたとのメールが昨日の夕方に届いて、明日には帰ると書いてあったけど、帝都国際空港につくのは夕方で、学園の入学式には間に合わない。啓子おばさんは、娘の入学式に出ないでどうするのと、私の為に、ママと一緒に参列することは知っていたけど、まさか、おじさんまで来るとは聞いてなかったから驚いた。入学する息子が欠席なのに、うちより参列人数の多い新田家。

「お、おじさん、み店、いいの?オープン・・・・」

「あぁ、今更、焦ったところでねぇ。りのちゃんの入学式の方が大事だよ。」

店のオープンの方が大事だと思う。

「りのりの、明後日のプレオープンは時間を開けといてよ。ランチメニューは、あたし達にごちそうしてくれるって、柴崎先輩にも声かけてるんだから。」

「あの柴崎さんが来てくれるなら、ものすごい参考になるわね、お父さん。」

「あぁ。」

新田家がやっているフランス料理店は、昔トレンディドラマに使われて一気に予約の取れない人気のお店となった。開業約8年を経て今度は麗香の家の近くで2店目をオープンする事になった。そっちは、カロリーと塩分を抑えたヘルシー志向のお店。麗香の家のご近所さんは高齢者が多くなってきて、周辺に洒落た店がないから流行ると思うわよと麗香は言っていた。新店舗の運営は啓子おばさんが取り仕切り、料理の監修は秀治おじさんだけど、実際に調理場を仕切るのは、秀治おじさんと長く一緒にやってきた、吉岡さんがやると言う、どっちにしろ、おじさんとおばさんは、二つの店舗の切り盛りで、とんでもなく忙しくなりそうなのは予想がつく。

「ひ秀おじさん、プリン出してね。」

「ははは、プリンでもブリュレでも何でも沢山食べて、大きくならないとな。りのちゃんは。」

「の伸びたよ、に2センチ!」

「ほんとかぁ、そりゃ、めでたいなぁ!」

味覚が戻ってくると食べる量が増えた。そうすると身長が伸び始め、ママとの食事も楽しく、今は、昔のようにおしゃべりしながら楽しむ事が出来ている。169センチのメグのようには身長を伸ばすのは無理でも、せめて、160センチの柴崎は追い越したい!柴崎はもう身長止まっちゃったかもって言っていた。私はこれからだから、絶対に追い越してやるんだ!それが高校生活の目標の一つ。

来たバスに乗り、えりちゃんの隣に座る。えりちゃんにはとっくに身長は抜かされていた。啓子おばさんも高い方だし、秀おじさんは横にも大きい。昔は細くて恰好が良かったのに~と啓子おばさんは嘆くけど、どんなに昔の記憶をたどっても、もう縦にも横にも大きい秀おじさんしか私は思い出せない。そんなだから、えりちゃんもやっぱり慎一のように、もっと伸びていくんだろうなぁと想像できる。

「えりちゃん、今、身長何センチ?」

「えーと、3月の1年生最後の身体測定で、159センチだった。」

「むっ」むむむむ、2歳も違うのに、7センチも負けている!

「りのりの、自分から聞いといて、機嫌悪くならないでよぉ。」

「あぁ、ごめん、怒ってないよ。そうじゃなくて・・・」

「りのりのは、これから伸びるよ。バスケもするんだし。」

「う、うん・・・・」

(あぁぁ妹に慰められる私って・・・)

あの、ちっちゃくてかわいかったえりちゃん。今も可愛いけど、あのちっちゃい手とか、ほっぺとかを思い出すだけでほっこりする。もっと一緒に傍に居て触っていたかった。海外に移住して残念に思うのは、えりちゃんと離れていた時間が惜しい事。

「あにすんの~りのぉりのぉ。」

思わず、昔みたいに、柔らかい頬をフニフニとつまんでしまっていた。

「あぁぁ、ごめん、つい、昔を思い出して・・・」

「だっ、大丈夫?もしかして緊張してる?」

「うん?ううん、全然。なぜ?」

「あれ?祝辞を読むんでしょう」

「私じゃなくなったんだ。」

「えー、りのちゃんじゃないの?」近くに立っていた、啓子おばさんと秀おじさんが話に加わる。

「どうして?常翔は入試成績トップが祝辞を読むって栄光は?」

「理事長が考慮してくれて、もう一人の特待生に読んでもらうって。一昨日、連絡くれたんだ。」

「もう一人の特待生って、男子で、りのりのより低い点数だったんだよね。」

「うん、でも2点差だよ。向うは私みたいに、社会が苦手とかなくて、全教科でいい成績の2点差。あっちの方が、特待生らしいと言えばいいの。だから、あっちが成績トップという事にして。内緒だよ。」

「えー、りのりのが一番なのに~。」

「りのちゃんの祝辞を楽しみにしてえたのになぁ、ビデオを撮ろうと、ほら、準備してきたのに。」

「ビデオまで!?し、慎一が居ないのに?」

「だからだよ。慎一にも頼まれてたし。」

「えー慎一がぁ」

あいつ、私のみっともない祝辞を読むのを見て、笑う気なのかも!

「もう、りのりの、何でそんなに全力で嫌そうにすんだよぉ、慎にぃの名前だしたら。」

「だって・・・」

携帯を買ってもらってから、毎日、グレンとメールか電話で連絡を取り合っていた。話せば話すほど、グレンに会いたい気持ちが日々募り、今すぐにでも飛行機に乗って会いに行きたい衝動に駆られる反面、簡単に会える慎一の存在が、何故グレンじゃないんだと、腹が立つ。

ママが大きなため息をついた。ママは私が、グレンの事が好きなことを知っている。そのことを責めはしないけど、一言、『すべてを捨てでも、りのを助けてくれた慎ちゃんには、感謝の気持ちだけは忘れないようにしなさいよ。』と言われ続けている。

感謝はしている。だって、慎一が引き上げてくれなかったら、私は5歳時のままで、グレンの記憶も失くしたままだったんだから。

「えりちゃんは大好きだよ。」

「もう!誤魔化さないの!」

あぁ、どうして慎一は男なんだよ。慎一が女の子で、双子のように育てられていたら、すごく仲のいい3人姉妹になっていたのに。

いや、私が男なら良かったのか?そうしたら、可愛いえりちゃんを私は全力で守って、助けて・・・

(あれ?慎一と私の関係みたいだ。)

んーあー、そうだな、感謝している・・・。

うん。そういう事だ。





今日は文香さんの秘書として、また麗香のいとことして、入学式に参列するべく、ベンツを学園の裏門から乗り入れた。

本来なら、高等部の敏夫理事長の補佐として体育館の会場に居なければならないのだけれど、まだ帝都大の学生である身分で、理事長の補佐は見習い程度のものだから、職員席に座らなくてもいいと言われた。凱斗は体育館の後ろの一般保護者席に今日は座る。

文香さんは卒業式と同様、今日も翔柴会の会長として来賓席に座る。卒業式から何回目になるだろうか、翔柴会会長として式に列席するのは。常翔学園の幼稚舎、小学部、中等部、高等部、大学の、各卒業式と入学式を合わせて10回、すべてに列席して祝辞の言葉を述べていた。文香さんはその都度、違う着物を召して髪を結い、来賓の方々に頭を下げて、学校法人翔柴会の代表として凛とこなしてきている。今日の高等部の入学式で過密していた式は一段落し、あとは大学の入学式のみとなる。さすがに疲労がたまっているのだう、昨日の中等部の入学式を終えた時に、「後1日ね」とつぶやいて大きなため息をついていた。しかし、今日はわが娘の入学式である。新調した着物を着て、背筋を伸ばす文香さんは、その疲労を微塵も見せないで車の後部座席に座わって微笑んでいる。

式が開始される一時間以上も前なのに、常翔学園の裏門側の細道は、もうすでに高級車の渋滞を作っていて、駐車場代わりとなっている高等部側の運動場へと入る順番待ちになっていた。それらの車を誘導しているのは、事務方の職員だ。凱斗の運転するベンツにも

「おはようございます。広瀬さん。」

「柴崎理事長補佐、おはようございます。会長のお車でしたか。おはようございます。」

「おはよう。朝早くからご苦労様。」と文香さんも口添えし、隣に座る麗香も倣う。

「広瀬さん、会長は帰りが遅くなりますから、運動場側じゃなくて、職員駐車場に止めさせてもらいます。」

「分かりました。どうぞ。」広瀬さんは門の入り口にいる職員に無線で連絡をし、凱斗はいつも信夫理事が置いている場所へと車を停める事ができた。

「お母様、凱兄さん、私、先いくわね。りのたちと写真を撮りたいから。」

麗香は、車が止まると同時に飛び降りて、新しい制服を翻し、学園の正面玄関の方へ駆けていく。

「あら、まぁ、あれだけ、髪のセットに時間をかけていたのに、走ったら元も子もないのにねぇ。」

「うれしいんでしょう。りのちゃんと高等部に入学する事が出来て。」

運転席から降り、後部座席の文香さん側の扉を開けて、手を差し出す。

「頭にお気を付けください。」

「ありがとう。」藤色の上質の着物姿の文香さんが、手を掴みゆっくり車から降りてくる。

「上手くなったものね。」

「流石に、慣れました。」

「ふふふ、最初はイヤイヤだったのにねぇ。」文香さんは、凱斗のポケットチーフの形を手直しし、行きましょうかと促す。

女性の為に扉を開けてあげたり、エレベーター扉を手で押さえて乗り降りを待つなどの、外国では当たり前のレディーファーストは、アメリカ留学をしていた時に身にはつけたが、日本に帰国すると途端に恥ずかしさ勝ってできなくなった。日本では誰もしていないからだ。しかし、華族会の会合やパーティでは、それが、それ以上に要求された。恥ずかしさにイヤイヤでしていた事を、文香さんにはお見通しで、呆れられていたものだ。

文香さんの足運びの速度に合わせて、ゆっくり歩き、中等部の校舎に添って中庭を辿り、高等部の敷地へと向かう。途中、運動場側に車を停めた白鳥家御一行様と出合う。白鳥家はご夫婦そろってのご列席で、麗香の幼友達、美月さんも新しい制服姿で並び歩んでくる。

「お日柄よろしゅうございます。ご入学おめでとうごさいます。」

「おめでとうございます。文香様、これからもまた、美月をよろしくお願いいたします。」

「おはようございます。」

「美月さん、おめでとう。」

白鳥家は華族の中でも親しい間柄だ。先代の柴崎総一郎会長が、華族会の東の宗を取りまとめていた頃、一緒に華族会を取り仕切っていたのが美月さんのおじい様の白鳥泰造様である。総一郎会長が亡くなった後、次いで華族会の東の宗を取りまとめているのが、その白鳥泰造様であるが、もう高齢である為、その息子、美月さんのお父様の白鳥博通様が今、東の宗代表代理としてまとめている。近々博通様が代表に就任する手筈である。

「おば様、麗香は?別で?」

「いいえ、一緒に来たんだけと、車を降りた途端に走って行ってしまったのよ。」

「そうですか。」

「美月さんはお淑やかになられましたね。また麗香の事よろしくお願いしますね。」

「はい。ありがとうごさいます。」

麗華と美月さんは一時期、喧嘩をして敬遠していた二人だったけど、どんなに喧嘩しても、華族会のパーティで顔を合わせたりするし、小さい頃から同じ華族の称号もちとして馴染む関係は簡単には壊れない。すぐに元に戻ったようだ。それに、文香さんと美月さんの母親、白鳥頼子さんも、二人は華族会の中でも仲の良い関係である。

「いよいよ、今年でございますわね。」

「ええ、皆さま健やかに迎えられる事を喜び、感謝しなければなりません。」

「文香様、また時期間近になりましたら、ご相談いたす事ありますゆえ、その時はどうぞよろしくお願いします。」

「博通様、こちらこそよろしくお願いいたしますわ。」

こんな所で挨拶が長引いていては、中々会場の体育館にたどり着かない。

「皆様、募るお話、もっと華やかな場所されてはいかがでしょう。校舎正面は桜が満開でございます。ハレの日にふさわしい場へどうぞ、足をお運びください。」

「凱斗さん、あなたも、よくお育ちになりましたわね。」

「あっいえ、そんな勿体のうごさいます。」

「ははは、あの凱斗君が、そんな言葉を使うようになったかぁ。そりゃ私どもも年を取るさ。」

白鳥博通さんは、文香さんと一緒におぼつかない凱斗のマナーを手取り足取り教えてくれた人である。そんな稚拙な過去を知っている人に指摘されると、ごまかしが効かなくて恥ずかしい。

「そうですわね。凱斗の言う通り、行きましょう。ハレの場へ。」





桜の花びらが風に渦巻くように、そこに居る本心も渦巻いていた。やっぱり3年前よりきつい。

生徒の本心よりも、保護者たちの本心がひどく醜い。

同級生の笑顔の下に隠された不安の本心なんて、またまだかわいらしい。

大人の保護者たちの本心の醜さに反応して、亮の頭痛は起きていた。

(あの奥さま、苦手だわ。いつも偉そうにして。)

(あの人のスーツ、安物ね、この常翔であの服はないわ。)

(あの旦那様、あれはないわ、うちの旦那の方がまだマシね。)

綺麗に咲いた桜が腐り枯れそうになるではと思うほどである。それを亮の眼が勝手に捉えて解析している。

目頭を押さえた。目の奥が重苦しく痛い。

今日は亮の母親も参列する予定であるが、まだ到着していないようだ。寮生の大半の親が寮に迎えに来てから一緒に学園へと登校して行く。けれど亮の母親はそれが出来ない。母親にはいつどこに行くにもSPが少なからず1名は付くからだ。亮も本来はspが付く身分であるが、警護対象から外してもらっている。父親が大臣になる前に家を出ていて外してもらう希望はすんなり通ったのだ。

 高等部への校舎へと向かう。玄関脇の壁際に、臨時の掲示板が設置されて、その前に生徒の人だかりが出来ていた。

クラス発表の掲示である。佐々木さんと一緒のクラスになりたい今野は、亮と一緒に高等部の門をくぐったものの、逸る気持ちを抑えきれずに亮を置いて、クラス発表の掲示板へと先に走り行っていた。

高等部は、大学進学を見据えてクラスごとに授業カリキュラムが違う。亮のクラスは特別選考クラス、通称「とくせん」のH組。将来、亮や新田のようにサッカーのプロを目指すとか、体育や音楽、美術など、普通科目以外の進路を目指す生徒が集まり、授業カリキュラムは個別に細かく設定されている。体育会系に進む生徒は体育の時間が多かったりと、音楽や、美術もしかり、実用実習が多いのが特徴。クラブ活動が優先されて、サッカー推薦で入った亮や新田は、他への希望がない限り、大方このクラスに入る事になっている。そして、りのちゃんは特別進学クラス、通称「とくしん」は、国立大と医学系などの超難関大学を目指す生徒が入るクラス。AとBの2クラスある内訳は成績順で決まり、もちろんAクラスは成績上位が集まり、まれに海外の大学を受けるという生徒もいるほどの超頭脳派クラス。特待生であるりのちゃんは、そのAクラス以外は選択がない。

そして、あとの5クラスは、常翔大学への内部進学が主な普通科のC~G組、2年になると文系、理数系と進路が更に細かく分けられるけれど、1年の間は皆同じカリキュラムで進む。

亮は新田と同じクラスでH組だとわかっていてクラス発表に興味はなく、生徒の思い渦巻く掲示板に近寄りたくなかったが、麗香や今野、佐々木さんが誰と一緒になったかは興味ある。そして、りのちゃんもA組と決まっているが、誰がA組になったかも気になり、覚悟して人だかりに挑もうとすると「藤木さーン」と、えりりんの底なしの明るい声がして振り返った。新田家御一行様とりのちゃん親子が揃って歩いて来る。

「えりりん、りのちゃん、おはよう。」

「おはようございマーす。藤木さん、カッコいいよ、似合ってる。新しい制服!」

朝からテンションの高いえりりんと対照的に無表情のりのちゃん。

「ありがとね、えりりん。えっと、りのちゃんどうしたの?何か・・・嫌な事でもあった?」

「・・・・・・」眉間を寄せて頬を膨らませただけで、りのちゃんは何も言わない。

「あッもしかして、祝辞を読むの、緊張してる?」

首を振って違うの意思表示。微かにりのちゃんから怒りの感情を読み取るも、何故に今、「怒り」なのかがわからない

「えりりん、りのちゃんどうしたの?早速、誰かに悪口言われたとか?」

「え?知らないよ。さっきまでご機嫌だったよ。祝辞読まなくていいんだって。」

「祝辞を読まなくていい?なにそれ。」

「藤木君、入学おめでとう。」追い付いた新田の両親とりのちゃんお母さんに口々に挨拶される。

「おめでとう、藤木君いつもありがとうね。りのの事。」

「ありがとうございます。新田、残念でしたね。試合に負けてしまった事もですけど、入学式に間に合わなくて。」

「あははは、いいのよ慎一なんて。りのちゃんの晴れ姿を見られたら、それでいいの。」

相変わらず、新田家の男は肩身が狭い。今も新田のお父さんは、おばさんの後ろで、所在なくオドオドしている。それが新田家の和みだ。

「新田さん、おめでとうございます。」

「あら、沢田さん、おめでとうございます。晴れて良かったですわね。」

新田の両親はサッカー部の保護者会の人に声をかけられて、忙しく亮たちのそばを離れて行った。

「祝辞、読まなくていいってどういう事?」亮の質問にプイと顔を背けるりのちゃん。代わりにえりりんが答える。

「理事長が配慮して、もう一人の特待生の方が点数が高いって事にして、祝辞はあっちが読むようにしてくれたんだって。」

「へ~、もしかして、それで怒ってる?」

「ううん、それはすっごい喜んでるよ。」

「りの、何してるの、藤木君、困ってるでしょ。」りのちゃんのお母さんが、そんなりのちゃんの態度に苦言する。

「麗香をふった藤木、嫌い。」

「あーそのこと。」

「えーうそ、藤木さん柴崎先輩と別れたの!」

「ちょっと、えりりん、声大きいよ!」

「そ、麗香を泣かした。」

「えー、どうして!何でぇ。」

「泣かしたって、俺は何も泣かすようなことは・・・。」

「柴崎先輩のどこが嫌でって、いっぱいあるかぁ、藤木さんでも耐えられなかったんだね。先輩の傲慢ぶり。」

「いや、俺達は・・・」どんな話になっているのやら。

「えり!聞き捨てならない事、言ったわね。」背後から登場、手は腰の麗香定番のポージング。

「ぎゃー柴崎先輩!」

「あのね、えり、入学式早々大げさのリアクション、やめてくれる。」

「柴崎先輩、ご入学おめでとうございます。」えりりんはしおらしく頭を下げる

「今頃、遅いわよ!」麗香は視線を変えて「りの、おはよう。うん可愛い。似合ってる,新しい制服。」

「うん、麗香も。」

この学園最強のお嬢様、麗香に合せてこの制服をデザインされたのかというほど、ばっちり似合っていた。

「よっ、さすがに似合ってんな。制服。」

「あんたもね。」

別れて、初めて交わす言葉。麗香は清々しく微笑み、本心は安堵に満ちていた。

「麗香、一緒に写真撮ろう。グレンに送るから。」亮から麗香を離すように、りのちゃんは柴崎の手を引っ張り、入学式と書かれた看板まで戻ろうとする。りのちゃんは後ろ歩きで麗香を引っ張っていくから、向うから来た男子とぶつかってしまう。

「あっ、ご、ご・・・」りのちゃんは慌てて頭を下げるも、吃音で言葉にはならない。

「おや、真辺りのさん。」フルネームでりのちゃんを呼ぶ男子生徒は、亮の知らない顔だった。だから、外部入試組だろうその男子は、眼鏡の縁をあげつつ姿勢を正す。漫画に出てきそうながり勉タイプだ。

「え?、あっ、う、・・・だっだ誰?」

すでに麗香の後ろに隠れ気味で怯えるりのちゃん、すっかり麗香は護身に扱われている。

「誰って、入試の時、一緒だったじゃないですか。」

「にゅ、入?」

「りのと同じ、もう一人の特待生、飯島孝志よ。」と麗香が答える。

こいつが、りのちゃんより2点差下の点数だったもう一人の特待生。見た目そのもので笑いそうになる。

「そ、残念だったね真辺さん、祝辞を読む栄光に、点数が届かなくて。」

感じ悪い。というか、りのちゃんの方が入試の点数が良かったのを知らないのは、幸か不幸か。

「ざっ、ざんねん?」

「もう、真辺さんの時代は終わったって事かな、高等部では僕がトップになるからねぇ。」

ライバル心むき出し。それに対するりのちゃんは、頭をかしげて困り顔。

「あのねぇ、飯島孝志、あんたはりのより、」

「柴崎!」亮は慌てて、その先の言葉を止めた。

嘘の公表で祝辞を読まなくてよくした学園の配慮を、麗香は台無しするところだった。麗香はしまったと肩を竦める。

「ん?何か?君は?」飯島孝志は麗香に鼻持ちならない顔を向ける。

「私は、りのの親友、柴崎麗香!この学園の経営者の娘よ!」と再び最強のポージングで啖呵を切る麗香。水戸黄門の印籠を出すシーンばりだ。

「なるほど、学園経営者の娘さんが同級生ですか。」何を納得したのか、飯島孝志は「うんうん」と一人ごこちに納得してから言葉を続ける。「柴崎さん、よくぞ僕を特待生として認めてくれました。流石は常翔学園だとお父様にお伝えください。」

「・・・。」

亮と麗香はこの勘違いの恥ずかしい特待生に何も言えず、唖然とした。





良かった、亮と普通に話す事が出来て。変に無視されたりしたらどうしようかと麗香は心配していた。

喧嘩して別れたわけじゃない。互いの夢が一致した合意の上での別れであった。

亮の夢は麗香の夢でもある。

その夢に向かってまっすぐ叶える為の別れはきっと、叶えた後に強い絆となって再び寄り添えるはず。そう思う事で麗香は自分の選択が間違いじゃないと言い聞かせている。

「じゃ、行きますよ。はいチーズ。」えりがりのとのツーショット写真を撮ってくれる。

「えりりん、入りなよ。俺が撮ってあげるから。」と亮がえりの手からカメラを取り上げる。

「うん!」

「行くよ~、笑ってぇチー」

「ふじきーぃ。あぁ俺、メグと一緒のクラスじゃなかったぁ」今野が藤木に縋り付いた。

「お前、揺らすなよ。ブレたじゃねーか!」

「もう!今野!邪魔しないでよ!」

「あぁ、最悪だぁ、」

「こんなハレの日に、うっとしい顔するんじゃないわよ!」

「今野さんどうしたんですか?」

「ハルもメグと別れた。」冷酷に暴露するりの。

「えー今野さんの所も!?どしたんですか、皆さん!」

「もって何?えーまさか、えりちゃんと黒川君も別れた?」と今野が驚く

「違いますよ!あたしたちは順調ですよ!」

「リノー柴崎さーん。おめでとう。」今野の求める相手、佐々木さんが登場!今日も定番のポニーテールが颯爽。

「メグ・・・」今野が慌てふためく。

「えりちゃん、おはよ。藤木君も、さっすがぁ、背が高いとやっぱり似合うわね、ネクタイは。」

「どうせ、俺は背が低くて、似合わないさ。」完全に腐りきっている今野。

「あー、もう、そういうところがめんどくさいのよ!ハレの日なんだから、シャキっとしなさいよ!」

「はっはい。」佐々木さんの一喝が今野の姿勢を正す。

「皆で撮ろう、写真。」

りのは、写真をグレンに送りたくて必死。グレンと毎日連絡を取っていると聞く。二人は地球規模の超遠距離恋愛中。

りのがどんなにグレンの話題を楽しそうにしてくれても、麗香はやっぱり新田と付き合ってほしいと思う。だけど、麗香の思惑とは逆に、無料で通話できる手段を持ったりのは、新田との距離を増々離していく。

今日も、入学式に間に合わない新田は、皆との記念写真に姿なく残せない。

「僕が撮ってあげよう。」麗華から遅れて到着した凱兄さん。お母様は、りのと新田のお母様達に挨拶しに向かう。

「じゃーね、行くよぉ、1たす1は?」

「にぃー!」

桜舞う常翔学園の今日は、天気も最高にハレの日にふさわしい青空が広がる。

「ねぇ、今野、私、何組だった?」

「柴崎のはまだ見てねぇー。」

「じゃ、皆で見に行きましょう。」

「あーメグはD組だったぜ。俺F組。」

「ちょっと言わないでよ!今から見に行こうって言ってるのに、楽しみ減るじゃないの。」

「あぁ、ご、ごめん。」また、今野がシュンと肩を竦める。惚れた者の弱み。佐々木さんは別れてからの方が今野に対して手厳しくなったような気がする。校舎へと足を向けかけると。凱兄さんが麗香の傍に寄ってきて耳打ちをする。

「麗香、先に華族会の方々に挨拶しておいた方がいいよ。ちょうど、向うに華族会の方々が集まりだしているから。」

凱兄さんが指す方へ視線を向けると、確かに幼稚舎から一緒の白鳥家、橘家と諏訪家のご一家が、春満載の花が咲いた花壇の前に集まっていた。

「わかったわ。」麗香の頷きに、凱兄さんは手を上げて先にそちらへ向かった。

「大変だな。華族の付き合いも。」凱兄さんの耳打ちが聞こえたのだろう、亮は麗香に同情の顔を向けてくる。

「まぁ、仕方ないわ。今年は特にね。」

「あぁそうか。まぁ頑張れよ。」

(あれ?今年の夏にある大きな儀式、華冠式の話を自分は亮に話したっけ?)

麗香が華族の称号持ちで、華族会のパーティに出ることは時に話題にしてきたけれど、華族会が主となる儀式や仕来りの話は今までした記憶はない。というか、それを話すのはご法度である。それなのに、亮は、『あぁそうか』とまるで知っている風に納得した。

(本心を読まれて知ったのかしら?って、そんなに詳しく読めるものなの?)

亮は周囲を見渡して目を細めている。

その仕草をする時は本心を読み取っている時。そして顔を背けてそっと息を吐く。まるで取り込んだ悪いものを吐き出すように。

「りょ」じゃなくて「藤木、大丈夫?」

「何が?」

「その・・・こんな日でも、その眼が辛そうだから。」

「お前こそ、大丈夫かよ、そんなんで。」

「私?」

「俺だけの心配をしてるようじゃ、常翔サッカー部のマネージャーは務まんないぜ。」

「う・・・ん。」

「ほっとくんだな、俺の事は。」

麗香は唇を噛む。亮の辛さを共有して半減させたいのに、出来ない。

「早く行った方がいいよ、華族会の方へ。」

「ええ。」

麗香は、まだどう割り切っていいかわからない。

気持ちと思考と決意はチグハク。





華族会・・・華族の称号を持つ者の集まり。

華族の称号を持つ一族の祖先は神巫族と言われた卑弥呼が台頭した神官巫女であると、都市伝説的に言われていたことが真実だと、亮は知った。知ったのはクリスマスの日、柴崎邸に泊まった夜、妙に神経が高ぶって眠れなかった。深夜、亮は部屋を出て、暇つぶしにテレビのある部屋に行く。大きな屋敷は、住人に気遣い無用で行動できるのがいい。テレビをつけようとテーブルの上に置いてあるリモコンを取ろうとしたとき、壁を埋め尽くしている書棚の一つの開き扉が、わずかに浮いて閉まりきっていない事に気づく。寝る前にボードゲームで遊んでいた部屋だ。そのゲーム類を片付けた時に誰かが雑に仕舞ったのかもしれない。仕舞い直す為、亮はその扉を開けて中を見る。やっぱり亮たちが遊んでいたゲーム類の箱が雑に押し込まれた状態になっていた。その棚はどうやら箱ばかりが仕舞われている場所らしい。ゲームの他にも、数個の箱が大きさもまちまちで入っていた。性格的にちゃんと並べて収納したい亮は、それらを全部一旦外に出し、大きい箱から順番に入れていく。それらの箱の一つ、黒い漆塗りの箱を手に取り、亮はその表に記された文字を見て、仕舞う手を止めた。

【華族会発足130周年記念 華族会祖歴概要】

祖歴・・・その名のごとく会社や家、組織などの歴史を書き綴り、後世に残していく書物。

それを他人が見る事は基本的にタブーだ。しかし亮はその好奇心を抑えきれなかった。

箱を開ける。臙脂色の表装された本が収まっていた。

トウシキミの実を意匠した華族会の家紋が金で箔押しされた豪華な本。それを手に取り亮は表紙をめくった。書かれていた内容は、将来は政界に進むことが当然で教授されてきた亮が、既に知っているものばかりだったが、言葉伝えに聞き及んできたのと、書物として現存したものを目にするのとでは、実感が違った。今まで華族の階級制度や組織に関して亮が何かしなければならない経験がなく、一般市民と同じ感覚程度にしかなかったものが、切実に胸に刻まれた。

亮は麗香が華族会の集まりの場に歩み寄り、頭を下げる姿を眺める。

麗華の側に帝国領華ホテル経営の白鳥家、白鳥美月、向かいに諏訪要の両親。諏訪家は、藤木家と同じく歴史の古い米問屋庄屋で、今は全農組合をも統括する米商社の財閥一家。藤木家も元は農家上がりだから諏訪家が華族の称号持ちなのは知っていた。

そして橘純平とその両親がその集団に加わっていた。橘淳平が華族の称号持ちとは知らなかった。橘淳平とは今まで同じクラスになった事がなく、吹奏楽部で何の楽器を担当しているかも覚えがないくらい目立たないタイプだった。

一体、この常翔学園には華族の称号を持つ家が、どれぐらいの数、通ってきているのだろうか?

華族の称号と、華族の次の称号の華准の称号を持つ家は、全国でおよそ120の世帯があるとは知っている。その世帯がいずれも、名だたる企業の創業者であったり、開業医であったりする。

「どけ。」

突然の声に振り返る。弥神皇生が右目だけで亮を睨むように立っていた。この場は狭い小径でもない。亮が通路を塞いでいるわけでもなく、広さは十分にある場所で、「どけ」と睨みつけられる理不尽さに、亮は驚きに続いて怒り転じそうになると、弥神は後ろを振り返る。着物を着た年配の夫妻がゆっくりと歩んでくる。弥神の両親だと推測できるも、僅かに痛みが増す片頭痛。

亮は、後ずさりしながら道を開けた。

弥神の父親であろう男性は、片方だけが黒いサングラスという変なメガネをつけていた。黒いガラスに反射して移る桜を、亮は不思議に見続ける中、弥神は横目で亮を睨みつけながら歩んでいく。

父親の後ろで婦人はわずかに頭を下げて、弥神の後をゆっくりと追う。視線がどうしても父親の変なメガネに目が行き、注目してしまった。サングラスの隙間から見えた事実に亮は驚愕に目を見張り、そしてすぐさま罪悪感で顔を下に落とした。左目を覆っているサングラスの下は、くぼんで眼球がなかった。

 一行が通り過ぎて、亮は顔を戻す。

弥神とその夫妻は、麗香たちがいる華族会の集まりへと近づき、存在に気付いた麗香のお母さんが自ら歩みより、頭を下げた。

「弥神様、遠い所ようこそ足をお運びくださいまして、本日はお日柄よく、おめでとうございます。」柴崎会長はにこやかに接しているが、極度に緊張しているのがわかる。

「東の宗の皆、そろいで、これから息子が世話になる。宜しくたのもう。」

東のしゅう?聞いたことのない単語だった。盗み読みした華族会祖歴概要にもそんな単語はなかった。

「こちらこそ。弥神様ご子息が常翔学園にお越し頂けるのは、光栄にございます。これを機に弥神様のご指導賜り頂きとう存じます。」

集まっている華族の大人達が一同に弥神の父親に頭を下げた。凱さんまでも。

その光景に慌てて麗香と白鳥美月、そばにいた橘淳平が戸惑いながらも続けて頭を下げている。

弥神家も華族の称号持ちだった。その事実に驚愕する亮だったが、同時に納得もする。しかし、同族であるはずの華族会の大人たちの面々が、極度の緊張した心持であるのはどういったことだろうか?亮は首をかしげる。

(弥神家って、一体何だ?華族会でも力のある家なのだろうか?)教授されてきた知識にない。

「指導など必要ないではないか。先代から十分に受けておるだろう。西の意向など聞く耳持たぬようにと。」

「そんなことは・・・」

「逆にこちらがされてしまわないか心配だ。ここは西の宗にとっては敵地だからな。」

「そんな敵だなんて、私どもは・・・・」白鳥美月の父親が困惑して言いよどむ。

「心配はご無用。面白い学園生活になりそうです。」

弥神はそう言うと、髪をかき上げて周囲に顔を巡らせる。そして

キーーーーーーーーーん

「あっ!くっ」亮の頭を貫く強烈な激痛。頭を抱え込む。

(余計な詮索はするな)

頭に響く言葉は痛みを伴って亮を苦しめる。

キーーーーン

「お母様!」

「会長!」

麗香と凱さんの叫ぶ声に、亮は痛みをこらえながら状況を見渡す。

柴崎会長は、持っていたバッグを地面に落とし、亮と同じように両手で頭を抑え、腰を折っていた。

弥神がこちらを見ている、いや睨んでいる。それ以上の状況把握は無理だった。激痛に耐えられなくなり、目を瞑り、腰を折りかけた時、嘘のように激痛は止む。

「お母様、どうしたの?」

「急に・・・いえ、もう何も。」

「会長、大丈夫ですか?」凱さんはバッグを拾い、柴崎会長の腕と肩を取り支える。

「大丈夫です。・・・・帯を締め過ぎたのかもしれません。」

柴崎会長はそう言うと、胸元からハンカチを取り出し、額を拭う。

「大丈夫?お母様.」心配そうにのぞき込んだ麗香に、柴崎会長は笑みで返す。

「そろそろ会場へ向かいましょう。凱斗、弥神様を応接室へお連れして差し上げて。」

「はい。」凱さんが、弥神の両親を先導して校舎へと向かう。それを機に他の家族たちも体育館の方へ足を向けた。

「あなたたちは、まずクラスの教室へ行くのでしょう。遅れるといけない、行きなさい。」

「麗香、行こう!」白鳥美月が麗香を誘いその場を去る。

「うん・・・」

柴崎会長が亮へと体を向けるのを、誘われるように亮は近寄った。

「柴崎会長・・・」

「藤木君・・・」

互いに何かを言おうとしたものの、消失したように言葉が出てこない。開けた口をぎこちなく閉じて生じた奇妙な間。それを無理に埋めるように柴崎会長は引き攣った表情で言葉を発する。

「こ、これからも、麗香をよろしくね。」

「あ、あの・・・」

会長は、亮と麗香が付き合い、別れた事、その理由も全て知っているはず。その経緯を含めてよろしくと言われた事に亮は慌てる。

「あの子は喜んでいるわ、あなたと向かう夢を持てて。」

「すみません。麗香の想いを俺は・・・・」

「いいのよ。それも麗香には必要の事。」

違和感が亮の心に湧き起こる。必要なのはもっと何か、大事な・・・

「・・・・。」

また変な無言の間があく。目を細める柴崎会長と亮。

会長の本心も何か、とても不審な思いに戸惑っていた。

何かが・・・おかしい。

「行かなければ。」

「あ、はい。」

麗香のお母さんは、手に持っていたハンカチで、口を押え校舎へと足を向ける。

喜びに満ちた声と共に、桜の花びらが一片、亮の顔の前をかすめ落ちていく。

亮は、校舎玄関ロビーへと足を運んだ。





クラスメートが次々に席を立ち教室から出ていくのを尻目に、椅子から立ちあがれないで肩で息を吐いた。

(やっと、終わった。)

もう一度深く息を吐く。やっと肺の隅々まで酸素を送り込めた気がする。

体育館での入学式、途中までは何事もなく進んだ。祝辞を読む時になって、司会が名前を呼んだ瞬間、会場はどよめいた。

周囲のささやく声が否応なく聞こえてくる。

『祝辞を読むの、真辺さんじゃないの?』『うそ、一位じゃないのに、まだ特待生なの?』

『ほら、柴崎さんと友達だから・・』『中等部の時から、何かと依怙贔屓されて・・・』

注目されたのは、祝辞を読む「飯島孝志」よりも、私「真辺りの」だった。吐き気を我慢して無様な祝辞を読むのと、皆の刺々しい不満を受けるのと、どっちが楽だっただろうか。

3年前の中等部の入学式での祝辞は、「常翔の歴史史上最もみっともない」と麗香が言うぐらい伝説級の無様な祝辞だった。今年、理事長たちが配慮してくれなかったら、またあの無様な祝辞を再現する事になったと思うと、ぞっとする。

更に外部入試組が増えて一学年の生徒数は360人。常翔学園は中等部よりも高等部の方が全国的に知名度は高い。毎年行われる全国高校サッカー選手権大会の常連校の優勝候補として、国営テレビで生中継される。その他にも、常翔学園高等部は、何かと名前が挙がる学校である。テレビのクイズ番組などで、常翔学園の入試問題として例題が出されたり、サッカー部だけじゃなく、男子バレーボール部やテニス部、最近では書道部の注目も高く、テレビの取材が入ったりしている。そんな輝かしい常翔学園の入学式を、私が壊すことはできない。嘘をついてでも、特待生不適合と非難されても、祝辞を読まない方が正解だったと思うしかない。

 机の上には配布された新しい教科書。一番上にある数学の教科書を手に取り開く。この公式はフィンランドではジュニア2年の後半で習う進度。先取勉強をしているので、これぐらいなら今すぐにテストを実施されても問題なく解ける。英語も理科も手に取り確認。大丈夫。問題は、こいつだ。歴史の本がこんなにも分厚い!もうこの厚さを見ただけで頭が痛い。

やっと入試の為の補習勉強が終わったってのに、まだ続くのか・・・特進Aクラスは、国立や医大系を目指す理数系クラスなのに、もう歴史なんて要らないのではと思う。怖い物見たさで少し開いて見る。資料の写真の中にも、難しい漢字が並ぶ。

ありえない、何だこの中国語みたいな漢字ばかり。鳥肌が立つ。この症状はニョロニョロに匹敵する。

「真辺さん」

「はっ、は・・い。」

呼ばれて顔を上げると、飯島隆が立っている。

特進クラスは成績順でAクラスとBクラスを分けるから、当然にもう一人の特待生である飯島孝志も同じクラス。

「真辺さん、弓道はやっぱり集中力がつくかな。僕も検討しよかと思って、弓道ってどこで活動しているのかな?」

飯島孝志は、式を終えて教室に戻ってきてから、ひっきりなしに私に話しかけてくる。特待生仲間的な意識があるのかと思いきや、そうじゃない。やたらライバル心を剥き出しして、私の事を根ほり葉ほり聞いてくる。私が黙っていると、内部進学組を捕まえて聞き出す始末。どうやら私が中等部では弓道部に入っていた事を誰かに聞いてきた模様。

「わ、わわた、し、きゅ弓ど、しししない。」

「え?弓道しない?」大げさに首をかしげて黒色のフレームの眼鏡を正す飯島孝志。

その仕草が癇に障る。とっても嫌。もう早くどっか行って欲しい。

こんな時、いつもなら藤木が助けてくれていた。麗香も慎一も、話せない私の代わりに答えてくれて、こんなにも困ることはなかった。一年前、麗香が学園経営者の娘である特権を使い、4人一緒のクラスにした事を、私はとても嫌厭したけれど、あの配慮がどんなに助けになっていたのか、今になってわかる。今更に3人の存在のありがたさを実感するなんて、私は馬鹿だ。

助けがない今の状況が本来の学園生活であり。何もかも自分で対処していかなくてはならないのが普通なのだ。とわかっていても、吃音は改善しないし、逃げたくなる気持ちも増すばかり。

「じゃ、何に入るの?クラブ。」

このままではいけないとわかっている。本気でこの話せない病気を治す。それが高等部における目標の一つにした。だから、誰かに話しかけられたら逃げずにちゃんと向き合う。麗華や藤木たちとは吃音なく話せるようになったのだ。治療法は慣れしかない。

「ば、ばバスケ。」

「へ?バスケ?・・・ぷっ」黒メガネは、目をぱちくりして吹き出した。殺したいぐらいの怒りが沸き起こる。

「あっいや、そうなんだね。弓道はしない。そうか、じゃ、僕が全国大会に優勝しても真辺さんは傷つかないね。」

「き、傷?」

「流石に、何もかもじゃ、ちょっとかわいそうかなとかも思ったりして、ね。」

またメガネを指でクイッと上げると、胸を張って続ける。着ている制服が全く似合ってない。どちらかというと学ランの方がしつくりくる。まるで首から下を合成写真で変えたみたいだ。

「成績も、クラブも、すべて僕が真辺さんを抜かしちゃったらね。」

「ちょっと飯島君、さっきから、真辺さんに失礼でしょう。」後ろの席から、三浦さんが助け船を出してくれた。

「さっきから、真辺さんが困ってるの、わからない?」

「あぁ、そうだね。困るよねぇ僕が全部抜かしちゃったらねぇ。やっぱり弓道はやめておくかなぁ。」

「そうじゃなくて・・・」三浦さんも困惑。

「飯島、それぐらいにしとくんだな。クラブは真辺さんの動向を気にせず、好きな所に入ったらいいだろ。」

帰り支度を終えた森山君が鞄を持ちつつ、前列の席から歩み寄り参戦してくれる

「君は関係ないでしょう。僕と真辺さんは特待生で、常翔学園、前代未聞の頂上決戦をしなくちゃならないんだ。」

頂上決戦?何を言ってるんだろう、この黒メガネは。

「確かに、俺たち一般生は、特待生の足元に及ばないし、特待の制度すら知らずだ。お二人には俺達には知れない事情ってもんがあるんだろうと思うけどね。でも、真辺さんは、中等部から一緒に上がって来た仲間、特待生の競争だとか以前に、困ってる真辺さんを、ほっとくわけに行かないよ。悪いけど。」

森山君とは今まで一緒のクラスになった事はなくて、話しをした事もほとんどない。麗香に会うために生徒会室に行くと、副会長だった森山君は「柴崎さんは、今職員室に行ってるよ」って私から聞かなくても教えてくれていた程度。私は、その受け答えも満足にできずにうなずくだけで済ませていた。そんな私を仲間と言ってくれた事に、自分の愚かさと同時に嬉しさもこみあげてくる。

「飯島君、真辺さんの帰り支度を邪魔しないでくれる。ほら、もう皆、帰ってしまったのに、真辺さんはまだ、鞄に教科書も入れてないから。」

「あぁ、どうぞ帰り支度を進めて、じゃ、また明日。」やっと、黒メガネが私の席から離れて教室を出ていく。

「大丈夫?真辺さん。」

「う、う、う・・ん」

「いいいよ。俺たち、わかっているから。無理してしゃべらなくても。」森山君が優しい笑顔を向けてくれる。

「ごめんね、ちゃんと、助けられなくて。」と三浦さん

「あ、う、・・ん。あ、あり・・・」言葉が出ないから、全力で首を振って意思表示。

(あぁ、ほんと、この症状、自分でもいい加減にうんざりする。)

森山君と三浦さんに、吃音のない綺麗なありがとうも言えないなんて。

「難しいわね。藤木君がさりげなくやっていたから、簡単だと思ってたけど、実際にはそうそう出来るもんじゃないわね。」

「俺達、柴崎さんと藤木に頼まれているんだ。クラス内で真辺さんが困まっていたら、声かけてやってって言われてる。藤木みたいに、タイミング良く出来ないかもしれないけど、困った事があったら頼ってよ。俺たち、あの柴崎さんにこき使われた60期の生徒会メンバーだから。」

「ふふふ、そうよ、もう、どんなことにも対処できる精神力だけは鍛えられた、わよね。」

「あぁ。」

「あ、あり、が、と」

「えっ!?ちょっ、ちょっと。わわわわ。」

柴崎と藤木の配慮、三浦さんと森山君のやさしさに、ずっと押し込めていた不安が安堵に変わって、涙があふれ出した。

「あららら、せっかくの新しい教科書が濡れちゃうわ。」

「ご、ご、ごめ。」

(泣いちゃ駄目、森山君が困っている。)

「もう、森山、どんなことにも対処できるって言ったばっかじゃないの。」

「女の子が泣いた時の対処法なんて、鍛えられてないよぉ。」

「も、もう、な泣か、ない、ご、ごめ。」

そう、泣いちゃダメ。

逃げちゃダメ。

もう一つ目標ができた。

泣かない。

皆に心配かけないで、仲間だと言ってくれる人に、ちゃんと向き合い感謝をする。






(あーそろそろ、りのが祝辞を読む頃かなぁ・・・)

シンガポール国際空港、あちこちから英語と中国が飛び交う。場内アナウンスも英語に続き、中国語が必ず続くのは、中華系が人口の半分は占めているから。

時計を見ると9時30分。慎一が乗る飛行機は10時05発の日本国際空港行だった。

(大丈夫かな?流石に卒業式みたいに、英語でって訳に行かないだろうし。)

生徒の1/3が高校入試組で入ってくる。その1/3は、りのが日本語が苦手っていうのを知らない。また変な悪口とか言われてないだろうかと、慎一は心配で昨晩、入学式に参列するという父さんにビデオ撮影を頼んだ。だけど、父さんがちゃんとビデオ撮影をこなせるか?と言う心配も後になって思い出す。今まで慎一の入学式や卒業式、運動会に至るまでの学校行事というものに、店が忙しくて観覧した事がない父さんだった。そういった行事は母さんだけが参加してビデオ撮影も行い、夜に鑑賞会を開くのが新田家の通例である。今回、父さんが入学式に参列すると聞いて、慎一は何とも言えない複雑な気持ちに陥った。昔と違って雇いの料理人が増え、ある程度は任せられるようになったことも含め、りのの晴れ姿を見たいとの父さんの気持ちは理解できるが・・・自分も入学式に参加したかった。

クリスマス会といい、入学式といい、ユース16の日本代表になってから、何かと皆からはみっている状況。

日本代表に選ばれた事は純粋にうれしい。描いた夢のステップを一つ上がった。だけどそこは思いのほか孤独だった。それが夢の為に必要な犠牲だと割り切れるほど慎一の心は、まだ覚悟が甘い。りのの分も描くと約束した夢、まさか自分一人だけで叶えていくものだとは思っていなかった。藤木と一緒にユースに選ばれるのが当たり前で、藤木が居ないサッカーが、こんなにもやりにくくて、こんなにも孤独だとは想像しなかった。

藤木は言う。「俺離れしろ」と。

ジュニアの頃は一人でも平気だった。どうしてだろう。少年サッカーチーム彩都FC時代では、遊び半分のチームメンバーの事を無視できて、一人黙々と練習していたのに。

母さんが駄目な慎一に、その場しのぎで言った言葉。

『慎一がサッカーで有名な選手になって、新田慎一って名前がニコちゃんが居るところまで届いたら、ニコちゃん喜ぶと思うよ。』

深い意味を幼い慎一には必要なかった。ただ、唯一ニコより出来たサッカーをすれば、ニコが戻ってくる。また二人で一緒に生活できる的に思い込んでいた。それが慎一の孤独な少年時代を過ごす時間潰しだったといえる。そんな風だったのに、慎一は藤木と出会って、友と仲間とサッカーをすることの楽しさと大切さを知った。親友の存在、語る言葉を聞かない日はないほどに、慎一は藤木と共に過ごし、高校へ行っても変わらず続くと思っていたのに。

何故、藤木は選ばれなかった?

生涯、友と共に夢の目的地へなんて行けないのはわかっている。プロの入団テストや契約時には、友を牽制して勝ち取らなければならない事も。だけど、こんなに早くに藤木離れをしなければならない日がくるとは思いもよらなかった。

「はぁ~。」

「なんや、新田、しけた溜息ついて。」

「あぁ、ちょっと人生を振り返って落ち込んでた。」

「はぁ?お前あほちゃうか?」慎一の隣に座る遠藤が、身振りを大きく馬鹿にした顔を向けてくる。

「あほって・・・」

「お前、人生振り返るほど、まだ何もしてないやん。」

「え?いや、その・・・」

「お前、どっから振り返ってんの?赤ちゃんの時そんな人生語るような事してきたか?幼稚園の頃の記憶なんて、ただ遊んでただけや。それで数えたら、まだ10年も経ってへんやん。俺、小学1年から少年サッカーチームに入ってたけどな。低学年の時なんて、ただただ、ボール蹴るの楽しいなぁぐらいしか思ってなかったわ。小4ぐらいか、日本のサッカー選手が海外で活躍するのを見たりして、俺もあんな風になれたらいいなって思うようなったの。」

「うん俺も、小4ぐらいかなぁ。俺はブラジルのマウジーニョみてカッコいいなって。」

前に座る菊池が、昔活躍していた懐かしい選手の名前を出す。

「おお、居たな、マウジーニョ。両足でこう、クイックいって駆け引き上手かったなぁ。あいつ今どうしてるん?引退したっけ?」

「そりゃしてるやろ。俺らが小2~4の頃全盛期やで。6年前で確か、30ぐらいちゃうかった?」

「そしたら今36かぁ。あー厳しいなぁ。」

「まぁ、新田の気持ちもわかるよ。スポーツ選手ってどんな競技も寿命、短いやん。サッカーは特に短いしな、長くて40までぐらいか、高校卒業後から数えて22年あるか、ないか、怪我したらもっと短かなるしな。下手したら、そのプロにも成られへん可能性だってある。新田のようにさぁ。今まで自分がやって来た事を振り返るって時間も必要かもな。ちゃんと目標に向かって真っ直ぐ進んでるかどうかって。」

「まっすぐ来てるに決まってるやん!俺ら日本代表やで!振り返るも何も、俺らがいるこの道は、まっすぐや。振り返る暇なんかあるか!選手寿命短いんやったら尚更や!そんな暇は作らへん!そんな暇あるんやったらとりあえず進む!曲がってようが、間違ってようが、後ろの事は知るか!俺が前を向いた方向は常にまっすぐ、目標にしか向いてへんのや!。誰が何と言おうとな!」

思いのほか熱い人生論に発展した。

遠藤の宣言は、慎一の心に突き刺さる。

「らしいなぁ。そう言いきれる遠藤が羨ましいわぁ。」

「あぁ、確かに。」

「お前らなんやねん、そんな中途半端な気持ちで代表やってんのか!だから北に負けんねん!新田お前のせいや!お前がそんなしけた面して、未だに関西弁を会得できひんからやなぁ!」

「やめっぐるじーか関西弁は関係ないぃぃ。」

「うっさい!関西人の気質はブラジルの気質と同じなんや。サッカーの本場、ブラジルの気質と同じに心も体も合わせなな、世界には勝たれへんのや!」

良くわからない遠藤の信条。芸人張りの突っ込みで慎一の首を絞めてくる。通りががりの外国人や後ろのベンチの外国人に怪訝な顔を向けられ、遠藤はようやく慎一への首絞めをやめる。

「何で、俺だけなんやぁ。」

「うわーちゃうって!音程が違うって言ってるやろ!」

また関西弁講座が始まる。

遠藤の気質なら、世界に通用できるだろう。

遠藤は後ろを振り返る暇もなく、どんな道を進んでも結果、来た道は最短でまっすぐだろう。

英「搭乗待ちの皆さまにご案内申し上げます。365便シンガポール航空、9時50分発関西国際空港行のお客様、6番搭乗口より速やかにご搭乗いただきますようご案内申し上げます。」

アナウンスが流れてるのに一向に動かない遠藤と菊池。

「おい、関西国際空港行きの搭乗開始って言ってるぜ。」

「えっ?嘘・・」

「今アナウンス流れてた。」

「ほんまぁ?お前よう聞き取れたなぁ。」

慎一は自分でも驚く。自然と聞き取れていた英語。

「あっほんまや、案内表示、変わってるわ。」

「んじゃ、俺ら行くわな。」

「うん」

「また、夏にな。」

「あぁ、夏に。」

どこまでも明るい関西人達と、しばしの別れ。先に搭乗する関西空港行の仲間とハイタッチをして見送る。

北朝鮮戦で負けてワールドカップの出場権は、手に入れる事ができなかった。この日本代表選抜チームは、公式戦で肩を組む事はなくなったけれど、この先、遠征試合や親善試合などの小さな試合は、今年いっぱいまで数回ある。次は夏休みに実施されるアメリカ遠征で集まることになっていた。

あの大久保啓介選手すらもユース16じゃなくて18だった。大久保選手が中学時代に連覇した全国大会の試合のビデオを見せてもらった事がある。大久保選手は特に目立ってどこかが上手いという印象はなかったけれど、よく声が出て、キャプテンとしてムードメーカーの役割を十分に発揮していた。今の遠藤と似た存在で、それが優勝に導いた印象を受けた。さらに高等部に進んだ大久保選手は、2年生でキャプテンを務めて全国高校サッカー大会で優勝し、中等部、高等部共に優勝に導くという快挙を達成している。

常翔学園中等部は大久保選手が卒業した後の9年は、良い所まで行くのだけど3位止まりが2回ほどで、毎回優勝候補と言われながら、盾や優勝旗に手が届かない事を繰り返していた。

去年、慎一達がその低迷期を打ち破った。大久保選手のいた黄金時代の再来と言われて、内部進学した高等部でもその期待の声は大きい。大久保選手よりも早い段階のユース16に慎一が選ばれた事でその期待値は増々高まった。大久保選手以上の才能とまで言われ、その期待の声を聞けば聞くほど、慎一は自信がなくなってくるのは、今ここに藤木が居ないから。

遠藤の言う通り、中途半端な心で挑んでいたのだろう。藤木がいたら北朝鮮戦は負けなかった。と、昨日からずっと自分に言い訳をしている。

1対0で負けた試合。試合終了間際、ゴール前でシュートチャンスが来た。左サイドに上がった菊池がマークを交わしてあげたセンターリング。だけどそれは、ここに来い!と願った場所じゃなくて、中途半端に低い位置の、ヘディングには無理の高さ、駆け上がった慎一とのスビードも合わなくて、仕方なく、右サイドにいた遠藤へ無理やりコースを変えてパスを渡した。その遠藤もガチでマークされていたのは知っていた。だけど仕方がない。決して間違った判断ではない。監督からも後のミーテイングで、それを指摘されていない。遠藤のシュートは当然相手に阻まれる。こぼれたボールを相手が外に出した所で試合終了のホイッスル。

同点にするチャンスが慎一にあったのに、それを逃したことが悔しくてたまらない。もし、あのセンターリングが藤木からのだったら・・・慎一は確実にシュートを打っていただろう。それが決まったか決まっていないかはわからないけれど、攻められず終わった事が悔しい。菊池を責めているわけじゃない。決定的なパスミスでもなかった。慎一の合わせられる技術が不足していた。今まで、藤木からのパスがどれだけ正確で楽だったかを実感した。あの特殊能力がそれを助けているとは言っても、刻々と変わる状況の中、状況を見極め、判断して、慎一との距離やスピートを計算してパスをくれていた事の、その凄さに離れてから気づく。

藤木は言う、『新田慎一だけのアシストがうまくて日本代表なんか勤まるわけない。連盟が欲しいのは、今スグ使えるやつ、だからお前が選ばれた』と。

アシストが変わると、こうも合わせられなくなる自分の未熟さを痛感した。いくらボールコントロールとドリブルの天才だと、もてはやされても、ゴールを決められなかったらフォワードとして意味がない。

どうして、藤木は選ばれなかった?そればかりが胸にうずく思いを募らせて、慎一は彼らとの練習に心を入れ込む事が出来なかった。もしかしたら、合わせたくないと言う連盟に対する抵抗かもしれない。

『まっすぐ来てるに決まってるやん!俺ら日本代表やで!振り返るも何も、俺らがいるこの道は、まっすぐや。振り返る暇なんかあるか!選手寿命短いんやったら尚更や!そんな暇は作らへん!そんな暇あるんやったら、とりあえず進む!曲がってようが、間違ってようが、後ろの事は知るか!俺が前を向いた方向は常にまっすぐ、目標にしか向いてへんのや!。誰が何と言おうとな!』

遠藤の叱咤が増々慎一の心に刺さる。

もし、遠藤が常翔に居たら、どうだっただろうか?

過去に囚われていたりのを、遠藤は一喝で引き上げそうだ。「前向け!前を」とか言って。後ろに振りかえる隙も与えないだろう。

慎一はりのが遠藤に引っ張りまわされて、困惑している状況を想像して、くすっと笑う。

英「搭乗待ちの皆さまにご案内申し上げます。366便日本エアーライン航空、10時05分発帝都国際空港行のお客様、4番搭乗口より速やかに起こし下さいますようご案内申し上げます。」

ヒヤリングは上々。慎一のシンガポール行が決まると、英語だけでしか会話させてもらえないと言う過酷な特訓を受け続けた。その成果は確実に実っていた。ホテルやサッカー場施設内の職員などとも、簡単な会話ができた。

通じると英語って楽しい。

それに、遠藤と菊池が、「おぉ流石、常翔学園やな、英語ペラッぺラやん。」って褒めちぎるから、ちょっとした優越感もあった。学園で補修受けるほどの苦手だった自分が、遠藤と菊池からすればペラッぺラになる常翔のレベルが、高いのだと驚いた。

手荷物のリュックを背負い、日本国際空港行の仲間と4番搭乗口へと足を向ける。

この仲間とも東京についたら、しばらくのお別れ。全国に散っていく仲間、3年連れ添った親友とは違う、よそよそしさはあったけれど、異国の地の食べ物に一喜一憂し、試合に負けて泣いた。

全部、楽しかった。

やっと帰れる日本で待つ仲間に、「楽しかった。」だけは自信を持って報告する事ができる。

そして、「英会話の特訓ありがとう」ってのも。
















「・・・・このようなスケジュールで、学園側もサポートしてまいりますので、どうぞ皆様ご協力賜りますようお願い申し上げます。もう、重々おわかり頂けているとはございますが、もしこの儀に関しました事、または華族会に関しました事で、ご質問、ご相談事がごさいましたら、学園の事務方ではなく、柴崎家の者にお話くださいますよう、お願い致します。高等部理事、柴崎敏夫もしくは私、中等部の柴崎信夫の方でもかまいません。二人共、学園を外出する場合は、この柴崎凱斗が必ず学園には居ます故、凱斗もお話を受け賜ります。事務方、教師陣には決してお話しなさらないようにお願い申し上げます。」

高等部の視聴覚室、壇上には信夫理事がマイクの前で、その隣に弟の高等部理事柴崎敏夫、奥の檀上、下に設けた椅子に座る文香さんが華族会の面々を前に深々と頭を下げた。凱斗は、華族会の人が一通り自分の顔を視認したのを待ってから、頭を深々と下げる。

「その、柴崎凱斗は、華選であろうが。華族の血を引かん者が代役として務まるのかね。」

低く、鋭い言葉を発したのは弥神家当主、弥神道元。

参加されている華族の面々は、明らかに棘のある道元の言葉に眉を顰め、無言のざわめきが起きる。

「はい、柴崎凱斗は華選でございます。凱斗の能力は華選の条件を十二分に超えておりますことは、常翔大学で証明致し、神皇様より称を賜りましたことでございます。ご希望でございましたら、凱斗の華選条件の選定能力証明書と、神皇様より賜りました称号をご照会いたしましょうか?」

「そんなものは要らん。そういう事を言っているのではない。華選を代役にするほど柴崎家は落ちたのかと言っているのだ。」

信夫理事、敏夫理事、文香さん、そして、後ろの席にいる洋子理事が息をのんで、その表情を硬くする。明らかに馬鹿にされている。わざと貶しているのだ、奴は。

「弥神様、凱斗は、東の宗代表でありました柴崎総一郎が、世界でも珍しい記憶力を持つ凱斗を見出し、華選に上籍いたしました子でございます。決して華族の品位を落とすような者ではありません。」文香さんは立ち上がり、静かに落ち着いて弥神道元の言葉に異を呈する。

「文香さん、あなたに言われたくは、ないな。」文香さんが目を見開き、唇を震わす。こいつが華族会の西の宗トップじゃなかったら、とっくに殴っている。理性から離れた握った拳を振り上げそうになるのを、強く意識して抑え込まなければならなかった。

「ふん、先代の柴崎総一郎は、その権力を強引に使う男だった。あなたの生家、如月家を華族に上籍する時、どれだけ強引だったか、本当に華族の血を引いている家か疑わしいもんだよ。」

いや、殺す、歩み出しそうになる足を、ぐっと力を入れて耐えるのに汗をかく。

「如月家は・・・」と言いよどむ文香さんを、見ているこっちが辛い。

「弥神様、柴崎総一郎様と、ご意向が合わなかった事は重々存じています。如月家、そして柴崎凱斗君の事も、神皇様よりその称号を賜った以上、それを疑うお言葉は慎んだ方がよろしいのではないでしょうか。我々華族は、神皇様の希信の元に称を賜り添って来た事は、弥神様が一番誇りにしている事ではございませんか?」

白鳥家の直系長男、白鳥博通、現華族会東の宗の代表代理の言葉が、一方的に攻められている柴崎家の盾になる。

「ふん。やはり、ここは敵地みたいだな。」チグハクな片目だけがサングラスを装着した弥神道元は、白鳥家の方を見据えてから、顔を背けた。

「誰もそのような事は・・・・」

「説明は以上だな、帰るぞ。」

立ち上がった弥神道元の隣にいた夫人が慌てて立ちあがり、伏せがちに後を追う。壇上にいた信夫理事が慌てて降りてきて、弥神道元に声をかけた

「弥神様、この後のお食事会は?」

「要らぬ、京の宮を長く留守にはできぬ。帰る予定を元からしておる。」

「そうでございましたか、凱斗、タクシーを。」

「はい。」

部屋にある内線で門の守衛に連絡をとり、門の前に空車のタクシーがいるかどうかを確認する。ちょうど一台、着たところだと言うタクシーの確保を指示して、弥神の後を追う。殺したいほど嫌だけど、ここに案内したのは自身だったから、最後まで付き合わなくてはいけない。後ろから凱斗の肩を掴まれて振り返る。

「俺が行く、お前は文香さんの傍にいて、華族会のフォローをしろ。丁寧すぎるほどの対応を慎重にやれ、今ここで、お前の品位を上げなければ、あいつの思う壺だ。」敏夫理事が追い抜きざま耳打ちする。

「はい・・・」

(くそっ!殺すチャンスだったのに・・・)って言うのは冗談だけど、足でもひっかけて転ばせようと本気で考えていた。

敏夫理事もいい加減に見えて、そうではない。華選を嫌う弥神道元の案内を無理にさせるより、ここに残って東の宗の華族会の面々にゴマを擦っておいた方が得策だと判断したようだ。

弥神家二人が視聴覚室を出て行くのを待って、文香さんは口を開く。

「申し訳ございませんでした。個人的なお話で少々お時間を取らせてしまいました。このような個人的なお話しでも構いません。柴崎家、もしくは常翔学園に関して何か不徳の致すところがございましたら、ご遠慮なくお申し付けくださいまし、私どもは来世を繋ぐ新たな神巫の子を第一に考え、サポートしていきます故、なにとぞご指導賜りたく存じます。」

再度、柴崎家一同と共に、深々と頭を下げる。

今年度、常翔学園高等部に入学した華族会の一族は、柴崎家を含み華族の称号持ちの家が5つ、華准の家が3つ、これは例年比べて多い。皆、麗香の同級生であり、5つの家が東の宗12頭家からなるという事が、柴崎家唯一の跡取りとなってしまった麗香にとって、良い事なのか、悪い事なのかはわからない。

弥神の威厳に屈するような状況を目の当たりにすると、総一郎会長の存在が如何に、驚異豪腕だったかを実感する。そして、悔しくも弥神道元の言う通り、総一郎会長の死後は柴崎家の力が落ちているのは事実である。華族会の東の宗を取りまとめる総一郎会長が健在だったころの勢いが柴崎家にはもう無い。強引と思われてもしかないほどの力が総一郎会長にはあった。その遺伝子を継いでいるはずの実子である信夫理事、敏夫理事は総一郎会長の人をひきつける力や導く力、抑え込む力の半分もない。それを総一郎会長はよく把握していて、だから、東の宗代表及び、翔柴会会長を息子たちに継がせなかった。総一郎会長は、翔柴会会長に文香さんを指名してこの世を去った。長く車いす生活だった総一郎会長の秘書兼世話役をしていた文香さんの、人となりを気に入り大抜擢したと本人は遺言を残しているが、あの人の心を読み取る力に翔柴会を託したのは間違いないだろう。

「この後、1時より、帝国領華ホテル別館32階の桐の間で、お食事会をご用意しております。ハレの日を祝し、華族会、96年生まれのご子息様を持つ親として、ご縁を深める為に、ぜひともご参加くださいませ。」

文香さんは、壇上を静かに降り、華族に遠慮して視聴覚室の後方に座っている華准の3家族に歩み寄り、「是非お食事会に参加してください」と丁寧に頭を下げて回る。凱斗も文香さんの後を追って、いつもより増して丁寧に言葉を選び、頭を下げた。

華族ではない者の血が混じると華准の地位に下がる。そして二度と華族に上がる事は出来ない。それを華准落ちと言う。

どうして、そんな厳しい制度にしたのか?親近間の結婚を許さない現代において、そんな制度を作ればいずれ、純粋な華族の称号を持つ者は居なくなることなど簡単に予想がついたであろうに。現に、華准落ちした家は、近年加速して多くなって来ている。その割合はまだ3割強だが、5割を超えるのは間近だろう。そして華准の方が多くなる日も近い。そうした華族の在り方に危機を抱き、華族位制度を見直そうと力を入れたのが、東の宗を取りまとめていた先代の総一郎会長で、その考えに真っ向から対立したのが、西の宗の代表でもあり、京都の宮を守る弥神家当主、弥神道元だった。

華准落ちと言われる事が追い打ち、華准の称号を持つ人達は、華族会の催す社交場に出て来ない事がほとんどだ。今声をかけた華准の3つの家は、謙遜して食事会を辞退の気持ちを示していたが、文香さんの柔和な誘いに萎縮した心をほぐし、食事会に参加すると告げてくれた。

凱斗は華准の3家も参加される事を、帝国領華ホテル経営の白鳥博通さんに報告してから、先ほどの弥神道元の暴言を止めた礼を述べた。

「ありがとうございました。先ほどは。」

「済まなかったね、東の代表代理が頼りなくて。凱斗君に嫌な気持ちをさせてしまった。」

「そんな、滅相もございません。私は何とも。」

「文香さんも、大丈夫ですか?」

華准の方々を廊下まで見送って戻って来た文香さんに博通様が気遣ってくださる。

「申し訳ございません。皆さま、私、個人の事で不愉快な空気にさせてしまいました。」

「そんな事、気になさらないで、文香様、あの方は特別ですわ、私達は、あなたの事を、あの方が思うようなふうには思ってはいません。」

「ええ、そうですとも、華族の称号は、地位誇示の為にあらず、神皇様をお守りする意思の誇示である事。それは幾度となく、先代の柴崎総一郎代表が強く志していた事です。私たちは同意に推考してきました。」

「文香さん、私達、東の宗は皆、総一郎氏の亡き後も、その遺志を忘れず受け継いでいますよ。」

「ありがとうございます。白鳥様、橘様、諏訪様。」文香さんが大きくうなづき、微笑む。

文香さんのその微笑みが、華族会の面々が、嘘なく本心でその言葉を語った事の証明。

総一郎会長の残した偉業は、こうした華族の心髄を間違うことなく、浸透させたこと。

死んでも、それらが霧散しない強い心髄を刻んだのだ。

 ただ居るだけで、息が詰まるほどの強い威厳を放っていた柴崎総一郎会長、

想いを馳せるだけで、その威厳が再現されるようで、凱斗は委縮して頭を下げてしまう。






教室を出た後、何も考えずに歩いて来たら、中等部との境界、図書館の方に出て来てしまっていた。下駄箱とは反対の方向である。

(あー図書館、久々に行きたい。私一人ぐらい空港に行かなくってもいいんじゃないかなぁ)と思う。

慎一が、シンガポールから帰ってくる。麗香が皆で迎えに行こうと言い出した。

空港は大好きな場所だ。世界の様々な国の飛行機が滑走路に降り立ち、そして飛び立っていく。世界の国々の景色を思い浮かべて、それらを見るのは至福のひと時。だけど、東京国際空港へ行くには、ここから往復2800円がかかる。

麗香達にとって端金でも、私にとっては、1か月のお小遣いの半分以上になる金額だ。慎一の迎えに行くぐらいなら、2800円分のプリンを買った方が有意義だ。はっ、と思い出す。東京国際空港には空プリンってのがある。この間、テレビで隠れたご当地スゥイーツと紹介していた。今度、空港に行ったら絶対買うと決めていたんだった。よし行こう!空プリンを求めて。麗香に驕ってもらおう。プリン食べ放題の約束があるからね。

図書館に向いていた足を翻し、校舎沿いに外を歩く。桜の花びらが舞い、学園を華やかに彩っている。この風景だけは、日本が良いと思えるところだ。咲き、満ちて、散る、全てにおいて綺麗なままでいる花は、世界にそうないと思う。ただその下で宴会する大人は、見るに堪えがたい醜くさだが。学園の桜はちょうど散り始めたところ。今週いっぱいはまだ鑑賞できるだろう。

(そうだ、グレンに桜の花のアップも送ってあげよう。グレンは喜ぶはず。)

校舎のそばを離れ、並木へと土に足を踏み入れた。上履きのままだったのを一瞬躊躇しつつも、写真を撮るだけ、土は払い落とすからと自分に言い訳をして、それほど大きくない小ぶりの桜の樹に向かう。スカートのポケットからスマホを取り出してカメラ機能を呼び出す。桜の花にピントを合わせ、

カシャリ。良い感じ。

校舎を入れて撮ろう。グレンは懐かしく思うだろう。

校舎は大きく画面に入りきらない。後ろに下がる、と誰かの足を踏んでしまった。

「あっ、あっ・・・」振り返る。

片側の眼を覆るほどの長い前髪が、

桜の花びらを舞い上げる風に吹き上げられ、

露わになった左眼。

その眼がぐりんと回るように赤く染まった。

まるで蛇の目のような、その眼・・・

「ひっ!」

恐怖を越して、

心臓が、

ぎゅーと捕まえられる。

そして、引っ張られる

引っ張られるのは、

私の中の

ずっと奥の・・・

赤く染まった左目を押さえて、

その人の右目は驚愕に見開いた。

「魂・・・」

そう、これは魂が引っ張られる感覚。

苦しく、心地いい。

抗いたくて、浸りたい。

「そうか、これが理由・・・」

何の?

「我らの・・・」

立っている感覚がなくなった。






(やっぱり私、華族会のお食事会の方に参加した方が良かったかしら。)

麗香は自分の身勝手さを、少し後悔する。

入学式の後、常翔学園高等部に入学する華族会の顔合わせ兼親睦を深める為の昼食会が開かれる。主に保護者の為の昼食会であり、特に両親から参加の要望があったわけじゃない。幼馴染で同じく華族である美月も、彼氏(許嫁じゃない彼)と遊びに行く約束があるから行かないと言っていた。麗香は、学園の後継者という立場を自身なりに重んじて、参加する意向を伝えていた。しかし、シンガポールで開催されているユース16のワールドカップアジア予選に参加していた新田が、北朝鮮戦に負けて入学式の日に帰国する事を知ると、麗香は華族会の食事会をキャンセルして、皆で迎えに行くという計画を立てた。夕方の到着時間までの時間つぶしに、屋敷で入学のお祝いお食事会も兼ねて開催するというのも強硬的に組み入れて。

(もう、皆さま、お食事会に向かわれたかしら。)

今更、華族会の方に参加するなんて事は出来ないけれど、夏にある華冠式に向けての説明会が開催されているのを、柴崎家の者として、自分も顔出しをして挨拶をしておいた方が良かったかもしれない。と考え思い付く。

それも、両親からは何も指示をされてはいなかったが、もう子供じゃない、自分で考え、成人華族としての自覚をもって行動しなければならないと、最近になって意識するようになった。

麗華は教室の中にある時計を覗いて確認する。微妙な時間だ。今から視聴覚室に行っても、もう終わっている可能性の方が高い。麗華は階段を降りて、踊り場の窓から身体を乗り出して外を見る。今日だけ駐車場代わりになっている運動場には、もう車の数もまばらだった。そんな中で白鳥家のおじ様とおば様が二人そろって自車のベンツへと向かわれる姿を見つける。

(やっぱり、遅かったか。)

間に合わないのなら、仕方ない。麗華は気持ちを切り替えて、りの達との待ち合わせ場所に向かう。そのまま階段を下りた。すぐ近くにはエレベーターがあったが、よっぽどのことがない限り階段を使う事を意識していた。テニス部をやめてから運動不足が気になる。食事制限なんて事は屋敷ではできない。出された食事を残すだけで、お手伝いの林さんや料理人の源さんは一大事のように大騒ぎをするからだ。階段を降り切り、中庭を横目に中棟に入り、左に曲がる。もう皆、待ち合わせ場所で待っているかもしれない。麗香のEクラスの担任の手際の悪さで、入学式後の各教室で行われる沢山の説明の進行が遅かった。他の教室はどこも閉まって電気も消されている。廊下もひっそりとして、反対に外の方が騒がしい。

麗華は、足早に西棟から中棟を抜け、東棟玄関へ向かう。

渡り廊下の角で、誰かとぶつかりそうになった。その相手は片手で顔を覆って、俯いていた。

「ご、ごめんなさい。」

弥神君は、麗華の謝りに反応せず、うつむいたまま。

麗香は焦る。(注意されていたのに、さっそく無礼をしてしまった。)と。

弥神皇生。華族会十二頭家の内の一つでもある弥神家のご子息が、この常翔学園高等部に入学してくる故、失礼のないようにと両親から事前に示唆されていた。十二頭家であるならば柴崎家も同じである。白鳥家、諏訪家、橘家も十二頭家に入る。しかし、お母様を筆頭に東の宗十二頭家に入る四家の大人達が、あれほどまでに緊張し頭を下げて対応した朝の出来事が象徴するように、弥神家は、西を取りまとめる西の宗代表であり、京宮御所の祭司でもあった。華族の中でも宮に仕える家は格別である事を、注意と共に教授されていた麗香だったが、今日はそれを真摯に実感した朝だった。その弥神家の当主が片方だけが色の濃いサングラスというチグハグナ眼鏡をかけている事にも、不自然に驚愕した。

「えっと、弥神君?具合でも悪いの?保健室に案内しましょうか?」

やっと顔をあげた弥神君は、まだ手で顔の半分を隠している。

「いや、具合など悪くない。むしろ魂の高揚を抑えきれないぐらいだ。」と大きく胸で息をする。

変わった言い回しに、麗華はどうこたえていいかわからず、戸惑う。

「あのぅ私、柴崎麗香、この学園の」

「知っている」

「そ、そうよね。朝、ちゃんとご挨拶できなかったものだから、ごめんなさい。よろしくね。」と最上の微笑みで会釈するも、弥神君は、まだ顔を覆った手を放そうとしない。

「東の柴崎家か・・・」そう呟いて、細めた片方の目で麗華を見る。

「えっあぁ、そう。あの私、西の宗の方とは初めてで、東と西とは思想が少し違うと、ついこの間知ったの。その、何か変わったことあるかしら?」

弥神君はくすっと鼻で笑って、そこで麗香は、自分の声が上ずっている事に気づく。

「あ、えっと。」

(まさか緊張?どんなシチュエーションも緊張した事がない自分が?)

「我もこっちの華族会の事も、関東に来たのも初めてだ。」

(我?まるで昔の人みたい。)

まるで麗香の心の声を聞いたように、睨んだ弥神君。

「ちょうどいい、少し教えてもらおうか。」そう言って、覆い隠していた左手で前髪をかき上げた。

「!」

露わになった目、その目が赤く染まっている事に、麗香は息をのむ。





入学式後、各クラスで担任の顔合わせや、教科書などの配布が終わり、生徒と保護者達で賑やかだった学園は、いつも静けさを取り戻す。下駄箱で革靴に履き替えて、玄関ロビーから外に出る。

中等部とはわずかに違う景色、玄関ロビーから高等部の正門へと続く並木道は中等部のより短く、すぐに県道167を走る車の様子が見て取れる。亮は大きく深呼吸をし、目頭をマッサージする。

新生活、新しい出会いの季節、その言葉の新鮮さに反比例して、この時期が亮にとっては一番つらい。亮の意識や要求に関係なく、眼が捕らえた状況を脳が勝手に解析していく。読み取ったもの、それらは大抵、醜いものであることが多い。

それは当然に、表に出せないからこそ、本心なのだから。

玄関ロビーを出て右手、図書館へと続く小径の手前にあるベンチが集合場所である。シンガポールから帰国する新田を空港まで迎えに行こうと、麗香が言い出した。帰国は夕方の5時50分着の便、それまでの時間は、柴崎邸で入学祝いの昼食会をする。今日は流石にサッカー部の練習はない。これからいつものメンバーと待ち合わせて、皆で柴崎邸に向かう。

亮は、その待ち合わせ場所の方へと見やった。まだ誰も来ていない様子。

ほっとする。気心知れた仲間とは言え、やはり人の本心がわかってしまうというのは辛くしんどいものである。人というものはそんなものである、と読み取ったものに対して無感情に対処する癖をつけてきたつもりでも、醜さに募っていく不信感。気心知れた仲間にそれを認めると、今度は仲間との付き合い方を演技しなくてはならなくなる。それらを自分の心の中だけで処理しなくてはならないのだ。

だから、こうして誰も居ない一人の時間は、能力の小休止ができる貴重な時間。

見上げれば、春晴れの青空に満開の桜、普通にきれいだ。校舎と図書館への小径の間の、まだ植えられて年数の浅いであろう桜の樹の下に、見慣れた姿を見つける。りのちゃんは、桜の樹を背にして立ち、正門の方を向いていた。

何を、もしくは誰を見ているのか?亮はその方向を見ながら近寄る。だけど、知った誰かが居るわけでもなく、見続けるような何かがあるわけでもなく。そしてりのちゃんは、亮が歩み寄ってるのに見向きもしない。

「りのちゃん、どうしたの?」まだ見続けているその先、再度見ても気になるものは、やっぱりない。

足元にりのちゃんの携帯が落ちていた。亮は首をかしげながら携帯を拾う。

「りのちゃん、携帯・・・」表情にドキリとする。無感情に無反応のこれは、また解離性の症状か?

ゆっくりと、瞬きしない顔が亮に向けられた。

「大丈夫?」と問う亮にりのちゃんは、

我に返ったようにきょとんと「何が?」と首をかしげた。

「携帯落としてるよ。」

「あっ、うん。落としちゃった、壊れてないかな。」

「これぐらいの落下は、大丈夫だよ。」

「うん。」りのちゃんは、ついた砂を払いのけて電源ボタンを押し、動作確認。「うん。大丈夫」と顔をほころばせた。

「何かあった?」亮は努めて優しく、言葉をかける。

「何か・・・」つぶやいた言葉を詰まらせた後、りのちゃんは左右に首を振る。それが嘘であり強がりだと言うことぐらいは、本心を読み取らずしてもわかる。入学式の時もりのちゃんが祝辞を読まない事に、驚きと怪訝の攻撃を浴びていた。あれが教室に戻っても続いていたのだとしたら。

「早速。辛いことあったんだね。」

亮の言葉に唇を噛んで俯いたりのちゃんの頭上に、桜の花びらが一片、髪にからまっている。それをつまんで取り、りのちゃんに見せた。りのちゃんは微笑む。その微笑みは桜のように繊細で美しい。

「人の干渉も、桜のようにすぐ散ればいいのにね。」指を放し、花びらを開放する。少しだけ舞い上がり地面に落ちた花びら、もうどれが亮の掴んでいたものかわからなくなる。

「でも、なくならない。散ってもまた集まる。」

りのちゃんの言う通り、散った桜の花びらは、集まれば醜いゴミとなる。

「ありがとう。」消え入るようにつぶやく言葉。

「ん?」

「三浦さんと森山君に・・・」

りのちゃんが、クラス内で困っていたら声をかけてやってくれと亮は頼んでいた。麗香も新田も亮も、更には佐々木さんや今野もりのちゃんとは同じクラスにはなれない。中等部の時のような守りをしてあげられない。だから、特進クラスを選択した森山と三浦さんに、生徒会メンバーだったよしみで、頼んだのだった。

「森山と三浦さんの頭なら、3年間A組をキープできるだろうし、二人は柴崎と共に生徒会をやっていたからね、頼もしいだろ。」

「うん・・・でも、なるべく頼らない。ちゃんと向き合って、皆と話せるようになるって決めたから。」

そう言って顔を上げたりのちゃんの目は、決意に満ちていた。

「そっか・・・」わずかに寂しく思う。亮たちは、りのちゃんを守る事で絆を強めて来た。

「うん。」りのちゃんのこの強い決心は、亮たちが築いてきた成果と言える。

自分たちは望んだ、りのちゃんも望んだ、守り守られる関係ではない普通の友であることを。

それを麗香に、新田に、亮はずっと忠告して来た。忠告する立場だった。

(そうか、自分も酔いしれていたんだ。)と気づく。「秘密」を持つ「特別」な関係に。そして、この本心を読み取る力の正当化に、りのちゃんを当てていたのだ。だから寂しい。

りのちゃんの為に使えなくなる事を?

浅はかな思慮、幼稚な優越。だけど、それが亮にとっては必要だった。友を得るには。

思考にふけて黙ってしまった亮に、りのちゃんは首をかしげて、わずかに眉間を寄せる。

「桜は、冬に一定の期間、低温にさらされないと、開花の準備を始めない。春に綺麗な桜が見られるのは、冬の寒さがあるおかげ。」

そうして始まった亮のうんちくに、りのちゃんは好奇の目で亮を見つめてくる。りのちゃんの知識欲を満足させる事も、りのちゃんとの関係を特別にさせる優越だ。

「へぇ~」

「りのちゃんと一緒だね。」

「桜が、私と?」

「そう、辛い事を経験したから、綺麗な花を咲かせる。」

「私、綺麗じゃない。藤木は知っているでしょう。」

「そう、知っている。きれいな桜の樹の下には屍体が埋まっている事をね」

「・・・・」

「この淡いピンクは死者の血が吸い上げられて染まった色。だから桜は妖艶に美しく人々を魅了する・・・なぁんてね。」

「作り話?」

「俺のじゃないよ。古い小説の題名、冒頭文がそれで、都市伝説的に流行って語られているんだ。」

「へぇー、面白そう。読んでみようかな。作家の名前は?」

「あー、そこまで覚えてないなぁ。」

「そっか、残念。」

「また、調べておくよ。」

「うん。ありがとう。いつも私の知識欲を満たせてくれて。」

「どういたしまして。」

「お礼よ。」りのちゃんは、急に可愛いい微笑みを亮に向け、亮に一歩踏み込む。そして亮の胸にすがるように手を添えて顔を上げた。

「えっ?」

「ダンスパーティの続き。ちゃんと、抱きしめてくれないとできないよ。」

「り、りのちゃん?」亮は戸惑いながらも、言われたとおりに両手を腰に手をまわす。

近づく唇。

高鳴る鼓動。





「柴崎?」

「えっ?」

今野が訝し気に麗香を覗き込んでいた。

「何してんだよ。こんな所でぼーとして。」そんな自覚は麗香にない。

「何って・・・」弥神君と挨拶をしていたはず・・・その弥神君は居ない。

「あれ?」麗香は振り返り、南北に長い校舎と渡り廊下の先を見渡して探す。

「弥神君と話をしていたんだけど・・・」関東は初めてという弥神君と、それ以外にどんな話をしたのか、何故か麗香は思い出せない。

「弥神?寮生の?」

「そう、すれ違わなかった?」

「いいや。なんか用でも?」

「いいえ、ただ・・・」何を話していたっけ?去り際の記憶がない事も気持ち悪い。だからって、それを確認するほどの事でもない。「何でもない。それより、急がなくちゃ。皆、待ってるんじゃない?」

「ああ、そうだな。」

気持ち早歩きで東棟の下駄箱へ向かう。靴を履き替えて外に出た。まっすぐ正門までの並木道、春めいた温かさが体を包んで気持ちいい。待ち合わせ場所は校舎玄関ロビーを出て図書館へ向かう小径脇のベンチ。桜の花びら舞う学園は、今まさに一年中で一番良い景色となって麗華たち新入生を歓迎している。今野と並んで待ち合わせ場所へと歩み、桜の樹の下に亮の姿を見つけ、その状況に驚愕して足を止めた。

亮が、りのを抱きしめている。

「あ、あいつ・・・」今野も絶句する。

りのは、麗香の姿を見つけると、亮を押しのけて麗香へと駆け寄り背に回った。

「麗香!」怯えるように麗香の背中にすがるりの。

「りょ、りょ~ぉ!」怒りが沸騰して、名字で呼ばなければならないのを忘れる。「りのに何をしたの!」

「えっ?いやいや、俺は何も・・・」亮はわざとらしく手と首を振る。

「藤木が、私を桜と一緒で魅了するからって・・・」

「亮!」

「ちがっ、そう言う意味で言ったんじゃなくてっ!」

「どういう意味よっ、こんなにりのは怯えてるじゃない!」

「そうだ。見損なったぞ。よりによってリノに手ぇ出すなんてっ」

「うっせー!お前は、ややこしいから入ってくんな!りのちゃ~ん、ひどいイタズラはやめてよぉ。」

「私・・・下靴に変えてこなくちゃ。」そう言って踵を返すりのの足元を見ると、上靴のまま外に出てきている。麗香は亮に憎しみをこめて睨んだ。

「強引に引っ張りだしてきたのね。」

「そんなことしてねぇよっりのちゃんの悪戯だっ!」

「そんなことリノがするわけねぇだろっ。」

「あぁ、もう・・・」亮は言い訳を諦めたようにため息をついてそっぽを向いた。

「お前、最低だぜ、柴崎とリノと二股掛けるなんて。」

「え?」亮と同時に驚きの声が重なった。

今野って、私達が別れた事を、まだ知らない?






「会長、本当に大丈夫ですか?欠席された方が・・・・」

「大丈夫よ。入学のお祝いをしましょうと、声かけた私が行かなくてどうするの。」

「ですが・・・」

朝、華族会が集まっている場で急にバッグを落とし、顔を覆われた文香さん、冷汗まで流して苦しそうだった。帯を締めすぎたと言ったが、着物を着慣れている文香さんがそんな失態をするとは思えず、凱斗は心配した。

どこの企業でもそうで、この新年度が始まる前後は忙しい時期だ。文香さんは翔柴会会長という肩書の元、連日の式の出席や年度始まりの打ち合わせ、文部省の呼び出しやらに大忙し。屋敷いる時は手続き関連の書類やら幼稚舎から大学までの各部署から上がってくる書類を一手に引き受け、年度末決算も手掛けていた。文香さんは52歳。連日の忙しさが体に堪えてくる年でもある。

「病院で一度、見てもらったらどうでしょう。去年も人間ドッグは、忙しくて行かれなかったのですから。」

「凱斗、今、私を高齢扱いしたわね。」と睨まれる。

「いえ、そんなつもりではなく、ただ・・・」

「嘘は、わかります。」

「すみません」

「ふふふ、ありがとう、心配してくれたのね。」気品ある優しい微笑みに、凱斗は照れて俯いた。こうした濁りのない優しさは昔から苦手だ。

ベンツの後部座席を開けてエスコートする。入学式が終わってもう1時間半以上が経つ、沢山の高級車は殆どがもう学園を出ていってしまっていて、ちらほらと数台が残っているだけ。ベンツの運転席に乗り込み、裏門から学園を出る。ほどなくして、後部座席に居る文香さんが話しかけてくる。

「凱斗、弥神家の事は、どこまで調べがついたの?」

「やはり、わかってしまいましたか。」

「読まずとも、あなたの事、西の宗の子が入学して来ると知った時点で、情報を集めようとする事は想像するに簡単です。」

「ですね。それが、中々が動けなくて、ほとんど得られていません。」

「そう。」

「ビットブレインに頼めば簡単に集められるのでしょうけど、さすがに華族の事を彼に話すわけにはいきませんから。」

ビットブレインとは黒川君の事、学園内と外のネット上に流れる学園のプライバシーのセキュリティを構築し、黒川君にはその手の仕事を引き受けてもらっている。黒川君自身には内緒だけど、父親の黒川警視監にも了解は得ていて、警視監は、「息子にはそのような使命を与えた方が、あの子の為にもなり、逆に息子の行動を監視する事にもなる。」と歓迎されていた。そういった一連の事を当然ながら文香さんも知っていて、渋々ながら了解している。

「あなたのその動き、弥神家にだけじゃなく、他の華族にも絶対に知られることなく慎重にしなさい。西の宗だけではありませんよ。東もです。」

「分かっております。抜かりなく慎重にしているからこそ、手に入らないのです。」

西の宗、東の宗と言っているが、明確な組織が存在するわけではない。華族会は、神皇から賜った称号持ちの集まりのそれは、皇を守りし国を支える為に存在する一つの会である。住みどころや、思考の違い等で分けられてはいけない。本来なら華准の次籍もあってはならないと、ずっと総一郎会長は、いや東の宗の皆は言ってきていた。だけど血筋に拘る弥神家が、総一郎会長の意思に反発した意見を持ち、自らの意志に賛同する華族を集めて西の祈宗と名のり始めた。それに伴い自然と総一郎に賛同する華族が東の祈宗と名乗らなければいけなくなり、奇しくも総一郎会長の意思に反した事態が常態化した。今では「祈」を省いて西の宗、東の宗と言うぐらい、もうその枠は定着してしまっている。

「もう、止めた方が良いかもしれないわ。」文香さんはため息をつきながら首をふる。

「そうですね。儀の時期も迫りつつありますから、止めておきます。」

もうすぐ、神巫の儀、またの名を華冠式という大きな儀式がある。古より卑弥呼の流れを引き継ぐ神巫族の子、いわゆる華族の称号を持つ子は16歳で成人神巫として認められる。一般で言う成人式と同じ。神巫族という名を伏せなければならなくなり、華族と称してから、華冠式と名称を変えてはいるが、古よりその儀式の内容は変わっていないと聞く。そんな古来より続く大事な儀式が、毎年8月に行われる。柴崎家は、その16歳になる華族の子供たちを学園で預かる流れで、昔からその儀式の案内窓口として担ってきている。そんな重要なことを担っている柴崎家が、西の宗代表の弥神家を調べているなんて事が、知られたら大変な事になる。

「あの弥神道元様の眼は、昔からですか?」

「そうね~、私が最初にお会いしたのは、信夫さんと結婚する前の、如月家の上籍話しで揉めていた時だから、もう20年も前ね。そのころは、メガネはかけていらっしゃったけれど、特に何もなかった・・・いつだったかしら?上籍してからは、あまりお目にかかる事もなくて・・・」

文香さんは、必死に記憶を探るも、なかなか弥神道元が片目を失った時期を思い出せないようだ。

「会長が初めてお会いした20年前と言うと、道元様が西の宗の代表を先代より引き継いだ頃ですね。」

「ええ、そう。その当時、私は、まだ一般の民であったから、よくは知らなかったけど、京宮祭司の先代、弥神宇道様が心筋梗塞で突然亡くなられたと後から聞いたわね。あぁ、そう、思い出したわ。私がまだ常翔大学の学生をしていた頃よ、食堂でお昼ご飯を信夫さんとご一緒していた時、当時の大学の理事長が、信夫さんの所に慌てた様子で駆け付けて耳打ちした後、信夫さんは「ごめんなさい、京都へ行かなければならなくなったから、しばらく会えない」って慌てた様子で駆け去って行ったの。それから本当に10日ほど連絡が取れなくて、私は捨てられたのかしらって思ったのよ。」

「ははは、捨てられたって・・・・」

バックミラーで文香さんの様子をうかがう。昔の記憶を懐かしむように穏やかに微笑む文香さん。

「あの時に信夫さんが京都へ行かれたのが、弥神宇道様の葬儀だった。という話は結婚してから聞いた事。あの頃は携帯もなかったし、信夫さんはご両親に、私との交際を内緒にしていて、私にも柴崎家の長男だって事を隠していたの。私は信夫さんの家の電話番号も知らなくて、大学で信夫さんを待つばかり。」

「でも、文香さんは信夫理事の内緒事なんて見抜いていたでしょう?」

「いいえ、その頃は、まだ、それほど沢山の本心を読み取る事もなかった。信夫さんには、私には言えない何かがある、程度ぐらいの一般的な皆が持っている第六感的な物だと思えるぐらいで。私のこの力が強くなり苦しんだのは、そのあとの如月家を上籍するって話になった頃、総一郎会長や、華族会の方々と頻繁に会って・・・」

文香さんが突然話を止めてしまった。慌てて、バックミラーで確認すると、文香さんは一点を見つめて、驚愕に眉を歪ませている。

「会長?どうしました?」

「・・・・あ、いえ、・・・・何でもないわ。」何でもなくはない。何かある、意味深な態度である。

「えーと何の話からこんな話になったのかしら?」

「道元様の眼のご病気の話から、西の宗を引きついだ話になって、ですね。」

「そう・・・だったわね。駄目ね。年をとると、物忘れが多くなるわ。」

「さっき、高齢扱いしたと、僕に怒ったばかりでは、ありませんか。」

「えぇ・・・そうね。」耳に入っていないような生返事をした文香さんは、何かを考える顔を外に向けた。


























「もう、遅いわねぇ。」

「そんなもんだろ、香港の時だって荷物出てくるのに散々待たされじゃないか。」

「あぁ、俺らカナダ組も、スゲー待たされたよな。」

「えぇ、荷物だけ、どっか違うところに飛ばされてるのかと不安に思ったわ。」

新田が乗っていた飛行機は、とっくに日本国際空港に到着しているのに、本人は一向にゲートから出て来ない。

自分たちが旅行している才は、さほど気にならないのだけど、迎える側であると途方もなく長く感じる。

亮は表面ではどうってことのない様相を演じながら、憂鬱に皆以上に待ちくたびれていた。

新田は日本代表として、更なる成長をした顔で帰ってくるだろうか。

「あ、こら、りの!こんな所で、駄目よ!」

「えーどうして?」ベンチに移動して、麗香に買ってもらっていた空プリンの箱を開けようしているのを見つかるりのちゃん。

「どうして、じゃないわよ、はしたないでしょ、こんなところで。」

「どこが・・・」

「どこがって!ここは食べる場所じゃないでしょう。テーブルもないのに。」

「えー。」頬を膨らますと小さい子に見える。昼間とは大違いだ。りのちゃんのトラップに引っ掛かった亮、あの後、りのちゃんが下靴に履き替えて戻ってくるまで、麗香の喧々たるをなだめるのに苦労した。

「プリンは家に帰ってからにしなさい。」まるでお母さんのようにりのちゃんを扱う麗香。

「空プリンなのに、空港で食べなきゃ意味ない!」

「意味なくない!駄目な物は駄目、ほら新田、もうすぐ帰ってくるから。」

「帰ってこなくていいのに。」

「りの!」

りのちゃんは、プイとプリンを手に、亮達から離れた後方のガラス窓の方へ行ってしまった。

「あーぁ、すねちゃった。プリンぐらい、いいじゃないっすか、先輩。」とえりりん。

「あんまり厳しく言ったら、新田のように嫌われるぞ。」と亮も注意喚起。

「嫌われるとか以前の問題よ。行儀悪いじゃない。」

「先輩、テニス部の試合の帰りとかで、あたしがコンビニの前でシュークリーム食べても怒らないじゃないですか、どうしてりのりのだけ?」

「えりは、いいのよ。」

「えー、なんだか、あたしはどうでも良い的な?」

「そうじゃなくて・・・もう、とにかく!えりも行儀悪い事しないの!」

「えーえりは、いいって言ったそばから?」

「うっさい!口答えしないの!」

麗香の本心から言いたくても言えないストレスを感じる。言えない物が何であるかまでは、まだわからない。りのちゃんに再度視線を移すと、新田に対する嫌悪が激しい本心。こればかりは、はっきりと読めちゃうところが、なんともおかしい。

「お前、何を企んでるか知らないけどさ。今日ぐらい許してやれよ。りのちゃん、新田に本気で帰ってくるなって言いそうな勢いで嫌い度が増しているぞ。」

「私、何も企んでなんかいないわよ、それにりのが新田の事を嫌いなのは、今に始まった事じゃないじゃない。」

「わかりやす。」企んでないなんて、嘘。

「もう!ちよっと。」麗香は亮の腕を引っ張り、皆から引き離して背を向ける。

「私のを読むのは良いけど、あまり周囲に漏らさないで、華族の事が含まれるのだから。」声を落として囁く麗香。

「あぁ、悪い、だけど、りのちゃんに何かあるのか?」

「うーん、ちょっとね、今は、まだ言えない。言える時期になったら、藤木には言うから。」

「偉く慎重だな。」

「うん、今年は華族関係の行事が多いの。その力で読み取られて知られるのは仕方ないと諦めているけど、口外するのだけはやめてちょうだい。」

「わかった、気を付けるよ。」

「お前ら~。本当に別れたのかぁ~。」

振り向くと、今野とえりりんが、亮達に訝しげな表情を向けている。

「別れたわよ。ねぇ。」麗香は掴んでいた手を慌てて離す。

「あぁ、きれいさっぱり。」

「怪しい。」

「んだよ!今野、3日もウジウジ未練ひきずって、泣いていたお前とは違うんだ!」

「えー今野さん、3日も泣いていたんですか?」と驚くえりりん。

「言うな!」

「はぁ~、女々しい男って、めんどくさい。」大きなため息をつく佐々木さん。

「メグぅ~。」半泣き状態になる今野。

ちょっとかわいそうな事したと反省する亮。だが、佐々木さんは今野を完全に嫌いにはなっていない。今野を手放してちょっと成長させよう的な事が読み取れる。今野が今までのこだわりや甘えた心を改善できれば、佐々木さんは再度、今野と付き合う気持ちはある。

「あっ、もうすぐ出てくるわよ、新田君。」

ゲートの方に顔を向けると、日本サッカー連盟のマーク、八咫烏の絵のエンブレムのついたスーツを来た大人が出てくる。続いてユース16のメンバーも続く。

「慎にぃと一緒のジャケットを着てる。」

プロの日本代表チームと同じ鮮やかなブルーの色のジャケット。胸に八咫烏の絵のエンブレムとU-16のデザイン文字。背中は今年サッカー連盟が掲げる「世界に羽ばたく翼を手に入れろ!」のキャッチコピーをデザインした躍動感ある羽のデザイン。日本代表に選ばれた者だけが着ることのできる栄光のジャケットだ。

先頭集団のサッカー連盟のお偉いさん達が亮の前を通り過ぎる。誰もが亮に一瞥して顔をそむけた。

一斉に色濃く表れる本心、憐れみ、恐れ、同情、疑惑、優越、惜敗、保持のそれらが亮に真実を告げると同時に、キイーーーーーンと痛みが後頭部を貫いた。

(やっぱり、夢は藤木家に潰された。)

「亮・・・」眉をゆがめた麗香が亮の顔を覗き込んでいる。

「悪い。」いつ握ったのかわからない、麗香の腕を掴んで支えにしているのを、放した。

「大丈夫?」

「新田君来たわよ。」佐々木さんがりのちゃんに声をかけ呼んだ。

「おーい、新田ぁ。」今野が手を振る。

新田は大きなスーツケースを引き、笑顔でゲートから出て来た。

「ほら、新田が帰って来た。笑顔で迎えろよ、マネージャー。」麗香の体を回転させ新田に向けさせた。

「で、でも亮・・・」

「大丈夫。」

(俺は藤木家につぶされただけ。いつものことだ。サッカーの実力で選ばれなかったわけじゃない。)

新田と一緒に出てくる、日本代表選抜チームの面々、また繰り返される

憐れみ、恐れ、同情、疑惑、優越、惜敗、保持のそれらが亮をせせら笑う。

キイーーーーーンと痛みが強まる。

(大丈夫だ、大丈夫。)

(俺は負けてはいない。いつか、必ずその座を奪う、その時をみてろよ。)

日本代表の集団から離れて迎える亮達の所まで来た新田は、亮へとハイタッチの手を上げた。答える亮。

「お疲れ、新田。」

「すまん。ワールド逃した。」

「やっぱ、俺が居ないと駄目だとか言うんだろ。」

「あぁ、お前のパスが一番。」嘘のない新田の本心。それはあの、議員会館の時から変わらずに亮を救う言葉。

あれから亮たちは全国を目指し、日本一の優勝旗を手に入れた。

また始まる亮たちの、夢への長い道のり。

「いい加減、俺離れしろよな。」

「出来たら、苦労はしない。」亮の顔を見て、ほっとした新田。

どんなに突き放しても亮への依存心を、やめるつもりはないらしい。

亮を信頼しきる新田を、時に鬱陶しいと思った。だけど今ほど、それが嬉しく誇りに思う。

あの鮮やかな青色のジャケットを着た選抜チームの奴らに向けず亮に向けられる新田の信頼に、亮は恍惚とする。

日本代表のチームは、この空港で解散をする。その前に集合するらしく、フロア先の広場で全員が揃うのを待っていた。

「もう少し待ってて。」と新田はそちらに足早に向かう

新田の背中の羽根が輝かしく眩しい。





「あれ、そういえば、リノどこに行ったのよ。」

「ありゃ、ほんとだ、一番に迎えなきゃいけない愛しのリノなのに。」

「あぁ、いたいた、向こうで飛行機を見てるわ。」

迂闊だった。日本代表の選抜に外れた亮。本来なら、あの鮮やかな青のジャケットを着てあのゲートから新田と一緒に出てくるはずなのに。選考委員会は、一年以上の前の週刊誌の騒ぎを持ち出して、マスコミにまた注目されるのを懸念し藤木を選考から外した。

その理由を亮に伝えはしなかったけれど、能力で、麗華や凱兄さんから読み取ったかもしれず。新田が選考された日以降、麗香はずっと気をもむ日々を過ごした。だが亮は、麗香の心配をよそに平然としていて新田を応援する。麗香は安心しきっていた。亮の傷は癒えたのだと思い込んだ。それは間違いだった?亮に捕まれた腕が痛い。

「ごめんなさい。私が新田を迎えに行こうって言ったばかりに。」

「何、謝ってんだよ。」

「だって亮、苦しそうに。」

「名前で呼ぶな。」

「ごめんなさい、来るべきじゃなかった。」

「いや、来るべきだった。誘ってくれて感謝だよ。」微笑む亮、それが自然の微笑みなのか、無理しているのか麗香には判断できない。

「俺は、実力であいつらに負けたんじゃない。」亮は顎で日本選抜チームが集まる場所を指し示す。「次は必ず。」

亮は目を細める。日本代表選抜チームが、掛け声と共に一斉に頭を下げて解散する。

悔しいはずだ。その悔しさを共有したい。そして亮が言うように、次は必ず、一緒に夢を叶えたい。

「しっかりしろよ、柴崎麗香。ちゃんとサッカー部を導け。そのために俺たちは別れたのだから。」

「ええ。」そのつもり、だけど亮の求める理想の柴崎麗香像と、私の思いはきっと微妙に違う。それが時に麗香の心を苦しめる。

新田が選抜チームから離れ、私たちの所にやってくる。

「お待たせ。悪いな、わさわさ迎えに来てくれて。」

麗香は亮の望む理想のマネージャーとして振舞えるように、気持ちを入れ替える

「当然よ、私達、常翔学園サッカー部エースのご帰還だもの。」

「慎にぃ!お土産は!」兄の荷物を漁るえり。

「早速?そっちじゃなくて、こっちのリュックに入ってる。」

えりは、新田の肩からリュックを奪って開ける。

「ははは、えりりんは、兄より土産のご帰還が目的だな。」

「ったく。」

「慎にぃ、これ?」

「そう、みんな一緒の携帯ストラップ。」

「何これ、趣味悪るぅ~。」

「時間が無かった。空港で買ったんだ。」

「だからって何で、これなんだよ~。」えりが嘆く通り、そのストラップは確かに、ありえない。

「確かに、これはないわ。」

「えー、店員が、現地で流行ってるって言ってたぜ、願いが叶うとか言って、」

「お前~英語、ちゃんと聞き取れてたのかよ。」

「おう!凄いぞ、あのメンバーで俺が一番、英会話が出来てた。ホテルでも困らなかったからな、りのの特訓のおかげだ。あれ?りのは?」

「あっちよ、ずっと飛行機を見てる。」佐々木さんが指さす方を見れば、りのは硝子窓に頭をくっつけて眺めてる。まるで子供のように。

「土産って確かに難しいけどなぁ、これはないわ新田ぁ。」今野も渡されたキーホルダーを見てダメダし。

「皆さん、せっかくのお土産、そこまで言っては・・・・あまりにも新田さんが、かわいそうじゃありませんか。」大人しくしていた黒川君が口をはさむ。

「じゃぁ黒川君は、これを携帯につける勇気ある?」と今野。

「あー、すみません。携帯はちょっと、人に見られる頻度が高すぎます。」

「黒川君が一番、手厳しい一言だな。」と亮

「ああ、すみません。そんなつもりは。」慌てる黒川君。

「んだよ~皆して、りのが喜びそうな物って考えて選んだんだけどなぁ。」

「え~!!」と全員。

「一個くれ。」えりの手からストラップをもって、りのの方へ向かう新田。

「いや~、リノだって、これはありえないって言うだろう。」

「ただでさえ、プリン食べられなくて怒ってるのに。」

「あぁ、間違いなく200%で嫌われるな。」

麗香はため息をつく。

(新田の恋まで導いてらんないわよ。)





「ごちそうさま。」

おっいしー、空プリン♪この味は、デリシャスランキング5位に入るな。流石4つで1200円するだけある。あと3つ、明日の分が一つ、ママの分が一つ。あと一つは、やっぱり飛行機を見ながら食べるのがいいよねぇ。麗香が慎一の方に向いている間に。

スイスエアラインの飛行機が滑走路に入ってくる。フィンランドに居た頃にスイスに遊びに言ったことがある。牧場でヤギの背中に乗ろうとして、ヤギの怒りを買って追いかけられて、突き飛ばされた。懐かしく痛い思い出。

目の前ではフランス航空の飛行機が止まっていて、貨物のハッチが大きく開けられている。先ほどから沢山の荷物が機体に入れられている。空港内のアナウンスが、フランス航空の搭乗手続き開始の案内を知らせた。

「いいなぁ。みんな、これからフランスに帰るんだぁ。」

フランス機に接続しているタラップの窓に、人々が流れていく姿が見えた。

私も帰りたい!誰か、私をこの日本から連れ出して!

空港に来ると、箱の中に閉じ込められている感が強くなる。

   【りのは世界が遊び場】

仏「パパ・・・りのは、いつになったら箱から出してもらえる?世界の遊び場は、遠いよ。」

(疲れたなぁ。)

今日は祝辞を読まなくて良かったけど、教室で黒メガネがやたら話しかけてきて、意味不明な事を言うもんだから、あたふたした。これからずっとあんな感じで、メガネに話しかけられたら嫌だ。

特待生の合格者がもう一人いるって教えられた時、『もう一人いれば、りのちゃんの特待生という肩書が特別な物じゃなくなって、皆からの注目が薄れると思うよ。』と凱さんが言った。だけどあれだけ黒メガネが特待を強調していたら、薄れるどころか注目度が増す。

(もう!なんだって、あんな奴が特待なんだ。)どうせなら、女の子を合格にしてくれたら良かったのに。そしたら二人で助け合って、査定のレポートとかするのに。

(はっ!まさか黒メガネが一緒にしようなんて言ってこないよね。うわーありえない。絶対に嫌だ!)

フランスの航空の機体のそばに停車していたカーゴが離れて行く。

仏「グレン、私はいつになったらグレンとの約束を受けられるの?」

(空プリン食べて、元気出そう!)

空になった容器と交換で新しいプリンを白い箱から出す。一般的なプリンより白い色が特徴の「空プリン」。味もさっぱり系。この間、試食を頼まれた秀おじさんの新作プリンに似ている。それよりも空プリンの方が甘い。作られた甘さがある。秀おじさんのはカロリーと糖分を抑える指向で作られているから、あのあっさりさが最適なんだよね。

「いただきまーす。」

「りの!」

「はム?」

振り返れば、日焼けした慎一の姿。お土産にシンガポールのプリンを買ってきてって頼んでいたのを思い出した。

「お帰り。シンガポールプリンは?」

「食ってるそばから要求かよ!それに、そんな土産はない。」

「えー楽しみにしてたのにぃ!」

「りのぉ!食べたわねぇ!」麗香が腰に手をやり怒る。

「慎一がこっち来るから、見つかったじゃない!」

「何だよ。」

「食べたらダメって言ったでしょう!」

「だから、日本、嫌い。」

フランス航空機の機体がゆっくり動き出す。

「日本だけのマナーじゃないのよ!」

「プリンじゃないけどお土産。皆とお揃いだから。」

食べかけのプリンを仕方なく箱に戻し、慎一からお土産を受け取る。

「かわいい。」

「えー!」皆が一斉に驚いた。

「なっ、りのは気に入るだろ。」何かわからないけれど、慎一はしたり顔だ。

「何?」

「それ、願いが叶うってシンガポールで流行ってるんだって。」

「へぇ~。願いかなうの?」虹玉みたいだ。何を願いしよう。「ありがとう。」

「どういたしまして。携帯かしてみ、つけてやるから。」

「うん。」鞄から携帯を取り出して慎一に渡した。

「新田君、リノにだけは優しいわねぇ、やっぱり。」

「つけてやらないと、不器用でつけられないとか言って、投げ捨てそうだからな。」

「自分で言わない!不器用は!」

(なんだよ~。くそー。帰ってきて早々。お願い、決定!

【この狭い日本から、出してください。】だ!

慎一に負けるもんか!

私だって、いつか必ず世界へ戻るんだ!あの飛行機に乗って、飛び立つ!。)

「えー、りのりの、マジでつけるの?それ。」

「うん、虹色好き。」

願いが叶うシンガポールのお土産、マーラインオン。口から虹色の水が出ている。

虹が駆け行く先に、願いが叶う虹玉がある。

探しに行こう。

手を繋いで、二人じゃなく。

楽しいは8倍の皆で。





「新田君も揃ったし皆で写真を撮りましょうよ。」

「俺だけ、制服じゃないから浮くじゃないか。」

「いいのよ。それも楽しい思い出になるのよ。新田が入学式に間に合わなかったって、後で笑えるじゃない。」

「未来で笑い者かよ。」

「僕が撮りますよ。」

「駄目よ、黒川君も入らないと。」

「誰かに頼もう。」

「新田、真ん中ね、りの、隣に来て。」

「ヤダ。」

「りのりの、どうして、そう全力で嫌がるの?」

「身長差、強調される!」

「じゃ、しゃがんでやるよ。」

「イジメだ!ハル、慎一を殴れ。」

「シャッターお願いしていいですか?」

「何で俺に振るんだよ。」

「ここ押すだけですから。お願いします。」

「気持ち一緒だろ。」

「もう!ちゃんと並びなさい!小さい事、気にしてんじゃないわよ。」

「小さいと言うな!」

「さぁ、皆、前向くのよ!」

「皆、笑って、いくよ。せーの。」

「楽しいは八倍、にぃ!」

私達は、その名に恥じない常に未来へ羽ばたく、誇り高き常翔学園の生徒。

前を向き、夢をこの手に掴むまで、突き進む!

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