第11話 七色の架け橋
1
「高等部の特待生は、この二人を合格にという事で決定いたします。会長、よろしいでしょうか。」
「はい、問題はありません。」
常翔学園高等部の理事長室で文香さんが上座で書類に目を通しながら、敏夫理事長の問いに静かに応える。
外はもうすっかり夜の帳が降りて、運動場はその存在がわからないぐらいに闇に包まれている。
当然、生徒は校舎に居なくて、残業をしている教師や事務員がいる部屋だけが、明かりに照らされていた。
「では次に、一般生徒の合格者ですが、特進クラス、先ほどの特待生を覗く78名、普通科クラス、200名、そして特選クラス40名の総数320名の入学者リストがこれでございます。上部、110名が外部入試組の合格者です。」
文香さんが渡された束になった入学者リストを1枚1枚めくっていく。
常翔学園は高い教育水準と整った施設、幼稚舎から大学まで揃った巨大教育機関、通う生徒の質も高く、保護者の家庭は高所得の、おまけに華族の称号を持つ者も預かる。その質に一切の曇りが合ってはならない、それが常翔学園の誇りであり、信頼。ゆえに、受験してくる生徒の家庭の素性を内々で調べる。それを調べるのが凱斗の仕事だ。
幼稚舎から高等部までの新しい外部入試の、実に、320世帯の調査を入試を終えた瞬間から調査を始める。と言っても、入学願書と共に付随している書類はチェックをしていて、要調査世帯をピックアップしているから、すべてと言う訳ではない。面接時にその生徒の素行を見定めてもいるし、勿論その生徒が合格点に達していなければ調査はしなくて済む。そうした世間に表立って公表できない事をして、常翔学園の質は長年に渡り守られて来た。
幼稚舎と小学部と中等部の入学試験は1月末に試験と面接があり、合格通知は2月の中旬で時間的余裕があるが、高等部はそうはいかない。入学試験後一週間で合格通知を出さなければならない。そして要調査世帯は毎年、150世帯に上る。
その調査が今日の昼にやっと終え、今までかかって合格者のリストが出そろった。ギリギリである。明日には入学試験者に結果通知を送らなければならない。
敏夫理事長は、あわただしくギリギリまで出揃わなかった事を、凱斗に責め立てた。凱斗は肩身狭くしてその愚痴を聞き流しながら調査をして、リストを仕上げた。クリスマスの夜にレニー・グラント佐竹に拉致されて日本に帰国できたのが、数日前の事。一か月半の豪華客船の旅だった。高等部の入学試験は終わっていて、開始しなければならないその調査が滞っていた。凱斗はこの素性調査の仕事をやり始めてまだ2年である。自分がいなかった時は、この素性調査は柴崎家全員で手分けをしてやっていたはずなのに、もう何年も凱斗のがやっていた仕事かのように、無責任だと、こっぴどく叱られた。こういう時だけ都合よく柴崎家の一員として認めてる理不尽さ。でも一切の反論はできない。
凱斗は無責任に音信普通にしていたわけじゃない。ちゃんとレニー・パール号から何度も、電話をして状況を説明していたのに信じてもらえなかった。遊んでいると思った戸籍上の母、洋子理事長はカンカンに怒り、今尚、口をきいてもらえず、合うたびにフンと鼻を鳴らし子供みたいにそっぽを向く。その都度、凱斗は頭を下げて謝ってきていた。それもいい加減めんどうになってきている。
「定員数も問題なく合格者は揃ったようですね。素性調査も終わっていますね。」
「はい、済んでおります。が・・・」
「何か問題でも?」
「はい。一人、どうしたものかと考えている生徒がおりまして・・・・。」
文香さんが、険しい顔で書類から顔を上げた。
「会長のご意見を伺いたいと凱斗と共に申していたところです。」うなずいて同意を表した。
「各学部の入学希望者に対する合否判断の権限は、私にはありません。理事長と校長に一任しています。私が今ここに居るのは現状の確認です。この場に及んで、まだ合否を迷われる受験生がいるという事に驚きます。」
「それは、十二分にわかっております。ですが」敏夫理事長は別に仕分けてあったクリアファイルから調査資料を出して文香さんに差し出した。文香さんは眼鏡をかけ直してから手に取る。
「この110479番の受験生は合格基準は問題なく超えているのですが、一年浪人をしておりまして、その浪人の理由が、いじめによる精神疾患が原因であると。」
「5教科共、特に目立って出来ないカ所はなく、優秀な点数を取っていますね。」
「はい、父親は香彩信用金庫の頭取でして、我が常翔学園の取引銀行の一つです。」
文香さんは次のページをめくり確認。
「当座預金の取引額が2番目に多い銀行です。」
「面接では、どうでしたか?」
「はい、担当した英語教科、船橋先生と数学教科小田先生に聞きましたところ、特に何も気になる点はなかったと。この1年の浪人についても、病気療養をして、ここに入る為に自宅で受験勉強をしていたとしっかり答えていて・・・・これが医師の診断書です。」
敏夫理事長がクリアファイルから2枚の紙を取り出し、文香さんに渡した。1枚は病気療養した1年の理由である診断書と、もう1枚は治癒証明書。
「関東医科大付属病院、精神科医、村西・・・」文香さんが顔を上げて険しい表情を向けてくる。
何も言わない、言えない、敏夫理事長の前では。
「この医師の聞き取りは?」
「はい、凱斗に任せました。」と敏夫理事長からの求めを得て、久しぶりの口を開く。
「治癒診断書の通り、日常生活は問題なく過ごせるとおっしゃっていました。」
文香さんは険しい表情で手にしていた女生徒の書類を、テーブルに並べた。履歴書、内申書と推薦状、そして医師の診断書、治癒証明、生徒自身が書いた志望理由などのアピールシートを、再度くまなく黙読していく。
「で、この受験生を合格にするか、不合格にするかを迷っていると。」
「はい。」
「精神疾患がかつてあり、治癒し合格点に達する生徒、身元調査は問題なく、取引銀行の頭取のお子様。合格の判定をするに、何の躊躇がありましょう?」
「ええ、勿論、ですが治癒証明がありましても、こういう精神疾患はまたいつ再発するかわからない。学園生活の中で発病されれは、学園の環境責任を問われかねません。発病による休学ならまだしも、自殺などされた場合は、我が学園の知名度は落ちます。ならば、最初から関わらない方が無難かと。」
文香さんは、眉間に皺を寄せて、まるで有害物質の煙の中で目を開けているように、敏夫理事長を見た。
「ですが、取引銀行の頭取のお子様であることから、今後の融資に影響があるやもしれず、会長にご意見を伺いたく。」
文香さんは、唇を噛んで、もう一度、その受験生のアピールシートを手に取り、読む。
「前会長、総一郎会長であれば、否判定を即答していた事でしょう。取引などに考慮しない厳選なる常翔学園であることが、信頼と誇りでした。」
「はい。それは今も。」
「いいえ、今は、総一郎前会長が存命であった時の頑強さはありません。前会長は真似のできない存在でした。」
それは文香さんが女性だから真似ができないのではない。信夫理事長、そして目の前にいる敏夫理事長も、父親である総一郎会長を超えるどころから追い付くことすらできない。総一郎会長自身は息子たちが自分を超えられないと分かっていたからこそ、だったら女性である文香さんに会長の座を就かせて、一新した常翔学園としての存在を構築させる狙いがあったのかもしれないと、凱斗は密かに思っている。
二人は、黙った。総一郎会長がその場にいるかのように、何かの圧力に抑えられているかのように凱斗も含めて同時に俯いた。しばらくの間の後、文香さんは手に持っていた生徒の書類をテーブルに置き、より一層姿勢を正した。
「私が総一郎会長より、この翔柴会を任された意味が、ここにあるように思われます。変えてはいけない伝統や誇りもありますが、生徒を取り巻く環境は、様変わりしています。学園は、それに怠惰することなく対応していかなければなりません。公立校が対処出来なかった生徒、我が常翔学園が受け入れましょう。公立にできない対応をしていくのが私立校の役目であると私は考えます。」
「会長・・・」
「この生徒に関して、何かあった場合の責任は私が取ります。この生徒の細かい監視とスクールケアの対応、そして私に報告を。」
「かしこまりました。」
「それから、毎年の事ですが、敏夫理事長、華冠式の件、よろしくお願いいたしますよ。」
「はい、今年はより一層の神経をそそぎ対応いたしますので、ご安心を。」
「お願いします。」
【小学校の頃の友人が、全国中学サッカー競技大会の3位決定戦でゴールを決める姿をテレビで見ました。
友人の雄姿は、病気で伏せていた私に生きる希望をくれ、立ち止まっていた私の時が動き出した瞬間でした。
友人がいつも、プロになるんだと夢に向かって誰よりも努力をしていた事を思い出しました。
私も頑張れる。必ず常翔学園に入ろうと、リハビリと、遅れていた勉強を取り戻すための勉強に励みました。
晴れて入学出来た時は、サッカー部のマネージャとして、全国大会で優勝するという夢を、
部員の皆さんと一緒に叶えたいです。】
敏夫理事長が出ていくと、文香さんは大きく息を吐いて、椅子の背もたれに身体を預けた。
「お疲れ様です。会長、お茶を頼みましょうか?」
「いいえ、いいわ。それよりも凱斗。」
「はい、何でしょう。」
「この子のアピールシート、これに書かれているのは、もしかして、新田慎一君の事ではない?」
「お察しの通り、そうです。調査をしましたら、この受験生は小学校2年生の頃より、少年サッカーチーム彩都FCに入部、小学校を卒業するまでの5年間所属していて、新田君と仲が良かったようです。」
「新田君の通っていた学校とは違うわね。」
「はい。」
「何か特定できる原因の苛めだったの?」
「いえ、いじめではありません。」
「え?」
「最終的には苛めにあたりますが、この生徒が精神疾患を患ったそもそも原因は、事件に巻き込まれた事によるものです。」
「事件!?一体何が?」
椅子に置いてあった鞄から封筒を取り出し、康太に頼んで作って貰った、事件の概要を記した紙面を文香さんに渡す。
「何という事・・・こんな事件が隣市で起きていたなんて知らなかったわ。」紙面を読み終えた文香さんは険しく首を振る。
「事件の性質上、公表されず捜査を展開、解決後もご両親の希望により厳重な緘口が敷かれ、新聞やテレビ報道されることはありませんでしたが、捜査布陣が派手で、保護されたのも同市内だった為、この生徒が巻き込まれた事件は、同級生らに知られてしまった。そしてよからぬ噂がたち、それによりこの生徒は学校に行けなくなったようです。」
「よからぬ噂とは?」
「聞くにひどい噂です。」
紙面には書かれていない、凱斗自身が調査した内容を伝えると文香会長は、こめかみを押さえて俯いた。
「おそらく、この生徒は新田君に会いたくて、ここを受けたのだと思います。」
「ええ、良かったわ、不合格にしなくて。」
「会長、私は、この生徒を受け入れるのは反対です。」
「凱斗!」
「今からでも遅くはありません。敏夫理事長に、やはり不合格にするとおっしゃってください。」
文香さんが睨むような厳しい目を向けて、本心かどうかを判別してくる。たじろいで顔を伏せたくなるのをぐっとこらえて、まっすぐ文香さんに向ける。これが自身の意志。
「敏夫理事長が言うように、精神疾患が再発する可能性があります。これ以上、新田君に負担をかけるのはよくありません。」
「新田君は知っているの?この事件を。」
「わかりません。知らない可能性の方が大きいと思います。二人は学年が違いますし、この生徒が彩都FCを卒業した2年後の事件ですから。」
「なら。」
「新田君には、りのちゃんの支援をし続けて欲しい、私はそう願います。」
文香さんは大きく息を吐く。
「あなたが二人に、特別の思い入れがあるのは理解します。だけど特定の子だけを優遇するのは教育者としてはいけない事よ。」
してはいけない贔屓をしているのはわかっている。だけど、言った通り、新田君とりのちゃんには、これから邪魔なく学生生活を満喫してほしい。
凱斗は返事をしなかった。文香さんは険しい表情を凱斗に突きつける。
「りのさんが新田君のサッカー推薦の合格を聞いて、絶望の部屋から外に出る勇気を得た結果、彼女はこの学園に入学する事が出来て、前に進む事が出来た。同じ事がこの生徒に起る事は、悪い事?」
「いいえ。」
「この生徒にとっては合格通知が、生きる意味を掴む為の一歩。それを分かってしまった今、尚更不合格になんかできないわ。」
私情を挟まず感情を押し殺して采配しなければならないのなら、じゃなぜ、常翔学園は外部入試者の身辺調査をする?高所得世帯や、家柄の良い家を選ぶような調査をする事に、特定の生徒を俺が贔屓するのと変わらないのではないか?
「凱斗、あなたが反対するのが意外で、残念だわ。」
「意外でも、これが僕の本心です。」
文香さんは、目を細めた眼で凱斗を見た後、何度目かの大きな息を吐いた。
「凱斗、あなたの配属を4月から高等部へ移しましょう。1年早いですが、真辺りのさんのサポートは、まだ必要でしょうし、この生徒の監視も必要です。」
「はい。」やっと返事する。
「それともう一つ、西の宗の事も抜かりなく。」
「もちろんです。」
当初の予定は3年間、中等部で理事長の補佐をして仕事を覚えて、さらに高等部で3年間を理事長の補佐してから後に、高齢である和江さんに代わり、理事に就任するという話であったけれども、1年早めて今年の4月から敏夫理事の下で補佐をする事が、翔柴会で正式に決まった。
2
そばにいるりのが変な声を出して唾をのみ込む。吐き気を胸に押し込んでいるのがわかる。
「大丈夫?りの。」さつきの声掛けに、
「大丈夫じゃない。」即答するりの。
大丈夫、合格してるわよ。と言ってあげたい。だけど、こればっかりは憶測で勝手な事は言えない。
常翔学園高等部特待生入試結果、本来なら封書で合否判定が届く物を、高等部理事長から電話をいただき、直接お話しをしたいから保護者同伴で学園まで来てくださいと言われた。そのイレギュラーの事に、りのは、落ちたんだと、昨日の夜からずっと落ち込んで部屋に籠ってしまっていた。土曜日の今日、もう朝から緊張で吐き気が治まらず、結局、学校は休んでしまったりの。「行きたくない、ママだけ結果を聞いて来て、」と言うりのを説得して、2時にと言われていた約束の時間に15分前には到着していたのだけど、学園に到着するなりトイレに駆け込み閉じこもって出てこなくなった。柴崎さんや佐々木さんに助けられて、やっとりのを引きずりだした所。
「りの、大丈夫よ。合格してるわよ、絶対。あれだけ頑張ったんだから。」
「だったら、なぜ、封書じゃない。」
「送るの、面倒だったんじゃない?」
「・・・・。」
もしかしたら柴崎さんは結果を知っているかもしれない。変に自信に満ちた「大丈夫よ。」を繰り返している。
「柴崎、代わりにママと行って。」
「往生際が悪いわよ、さぁ、行って!」
柴崎さんが、りのの背中を押す。
「帰りたい。」
グスグズしていたら、またりのはトイレに駆け込んで出てこなくなるかもしれない。さっさと理事長室の部屋をノックした。
「はい、どうぞ。」
「失礼します。」
扉を開けた理事長室には当然、柴崎さんのお父さんである柴崎理事長と、凱斗さん、高等部の理事長、それに、この学園の会長である奥様までが勢ぞろい。
「ひぃっ・」
その人数の多さに、りのはかすれた悲鳴をあげて、さつきの腕を掴んで固まる。
「りのさん、ごめんなさいね、怯えさせてしまったわね。」
奥様が静かに微笑み優しい言葉をかけるも、りのは固まって喋れない。
「いつもお世話になります。これ、りの、ご挨拶。」
「・・・・・・」
「構いませんよ。重々承知ですから。」
そう、重々承知して頂いているからこそ申し訳ない。こんなあいさつ一つ出ない子を特待生として受け入れてくださり、高い授業料を免除にしてくださる事が。
「申し訳ございません。」
「どうぞ、おかけになってください。」
凱斗さんが、りのをソファーまで誘導する。
皆さん笑顔だけど。奥様までここに居るって事は、やっぱり、りのは落ちたという事だろう、〔もう特待生として迎え入れる事はできませんが、ご支援は致します。〕って言われそうな気がする。そしたら、りのはまた支援を受ける事を断って、柴崎家の皆さんは、遠慮なさらずにと言って押し問答になる。それが簡単に想像が出来て、ソファに座る動作の中でさつきは軽く溜息を吐いた。
「お忙しい所、わざわざ申し訳ございません。電話では話にくい話がございまして。」
(あぁ、やっぱり、りのは落ちたんだ。)
りのも落胆して、これ以上ないぐらいに俯く。
「理事長、それよりも結果をお知らせして差し上げませんと。」
奥様が中等部理事長の言葉を制止して促す。
「あぁ、そうでしたね。では高等部理事長の柴崎敏夫から。」
「はい、常翔学園高等部は、真辺りのさん、あなたを特待生としてお迎え致します。合格おめでとう。」
「おめでとう、りのさん。」
「おめでとう、りのちゃん。」
拍手と共におめでとうの言葉が口々に飛び交う。りのは、やっぱり固まって身動きできないでいた。
「りの、おめでとう、良かったわね。」丸まったりのの背中をさつきは叩いた。
「頑張りましたね。りのさん。」
奥様の頑張りましたねが、りのの涙を誘う。それにつられて私も涙が出そうになるのをぐっとこらえて、鞄からタオルハンカチを取り出し、りのに手渡す。
「うっ・・・あぁ。」
タオルに顔をうずめて泣いてしまったりの、泣くほど頑張ったのだから、当然。
「すみません。」
「これが、合格証書です。手続きの書類はこの封筒に入っていますが、中等部より継続という形になりますので、変更がなければ、さほどの手間のかかる物はございません。同意書にサインをして頂くぐらいで。特待規約も中等部の物と大差はありませんが一度目を通しておいてください。」
「は、はい。」
「あと、りのさんも聞いて欲しいのですが、大丈夫かな?」
「は、はい。」
りのが慌てて、顔の涙をふき取り、顔を上げる。
「51期生の特待生は、りのさん一人だけではありません。もう一人受け入れることが決まりました。男子生徒なんですが。」
高等部の理事長は中等部理事長の弟で、よく似ているけど、こちらの方が垢抜けた感じがするのは若いからだろうか。
「凱斗、りのさんの成績表を。」
「はい。」
凱斗さんが持っていたファイルから1枚の紙を取りだし目の前に置く。
「点数が気になると思って、特別に用意しました。」
普通は、点数を教えてはもらえない、合否判定だけが記された手紙が届く、3年前の中等部の特待入試もそうだった。
「流石、りのさんですね。英語、数学、理科で、満点、国語が186点、苦手な社会も頑張りましたね。ぎりぎりですが、ちゃんと特待生合格ラインの170を超えて174です。」
「わ、わわ、あぶ、な。」
社会の174点は後2問を間違っていたら、不合格だった本当にぎりぎり。その点数の現実にりのが驚いて焦っている。
1教科200点満点の170点が合格ライン、それを一つでも落とすと特待生になれない。3教科でさらっと満点を取っているりのだけど、入試問題は中学の教科レベルを超えて、高校レベルの問題に達し、先取り学習をしているかをも問われる。りのが中学受験の勉強をしていた3年前だって、私にはわからない問題があって、今年も当然、理解不能。りのの頭の良さは、死んだ主人からの遺伝に違いない。商社マンたったあの人は、帝都大の経済学部の出身で、英語もペラペラだったし、何を聞いても答えが返ってくるような知識人だった。
「合計点数960。受験生徒の平均合計点数が812点ですから、りのさんの成績は断トツで1位です。」
凱斗さんは、理事長達が並び座っている後ろで立ち、終始笑顔で報告してくる。
「もう一人の特待生の成績はお見せできませんが、合計点数958です。りのさんと2点及ばずなんですが、5教科の平均点が、りのさんのようにどれが苦手と言うものがなく、5教科安定して190点以上の点数を取っているので、もちろん合格基準に値します。」
「常翔学園、中高60年の歴史の中で、合計点数がこの高い位置で、二人もいるという事がなかったので我々も驚いているのですが、面接も問題なく彼は通ってきているので、学園史上初めてですが、特待生を二人受け入れる事にしました。」
りのの方に顔を向けると、そのもう一人の特待生の話を聞いているのか聞いていないのか、目の前のテーブルに置かれた自分の点数の表に見入っている。話の続きを中等部の理事長が続ける。
「今まで、りのさんは特待生として一人でその注目を浴びていました。二人を特待生として受け入れることにより、その注目度も分散されることと思います。受験前の査定の面談時に、りのさんの負担を減らす為に、高等部でのレポート提出を無くす案も検討中だと、申し上げましたが、二人を受け入れることになって、無くすわけにはいかなくなりました。りのさんだけなら、内密に処理できるのですが、もう一人の特待生と差をつけるわけにはいきませんので、これは変に期待させた事を言って申し訳ありませんでしたが。」
目の前に居る柴崎一族が頭を一斉に下げる。のを、私も慌てて頭を下げる。
「あ、いえ・・・。」
「またりのさんには、辛い課題をこなしてもらわなくてはなりませんが。」
「いいわよね。りの、頑張れるわよね。」
「な、なに、で、ですか。」
やっぱり、人の話を聞いてなかった。
「レポートは無くならないって、もう一人の特待生がいるから、りのだけ特別にというわけに行かなくなったって。」
「あ、ああ、は、はい、いいです。れれレポートは好きだ、だから。」
「すみません、あの~本当に娘で、よろしいのでしょうか?まだ、こんなに喋れなくて、人の話もまともに聞けない。」
りのが私の言葉に、難しい顔をして口を結ぶ。どんなに繕った事を言ってもそれは真実だ。入りたくても入れない受験者がいっぱいいると言うのに、こんな日本語がまともに話せなくて、挨拶一つ出来ない子の将来に、学園はどこを見出して高い授業料を免除にしてまで、りのに入学してくださいと言うのかがわからない。
「もちろんです。りのさんの語学力と勉学に対する意欲は、特待生として十分にふさわしい。」
「真辺さん、これだけは贔屓で言っているのではありません。先ほどりのさんがレポートは好きだとっしゃいました通り、今まで提出していただいたレポートは、大学の課題にでも通用するレベルです。私は毎回、りのさんのレポートが楽しみでしたよ。」
「そ、そうですか、恥ずかしながら、りのがどのようなレポートを提出しているのか、全く知りませんで。」
「この凱斗も中等部の特待生でしたが、それはそれは雑でしたよ。提出すればいいって感じで、やっつけ仕事も良い所でした。」
凱斗さんが、困った顔で首の後ろを掻く。
「それだけでも、りのさんが特待生としての資格は裕にあります、ご安心を。」
「ありがとうございます。」
「りのさん、麗香と引き続き仲良くしてくださいね。」奥さまが優しい笑顔をりのに向ける。
「は、はい。」
「では・・・・」
目の前にいる高等部の理事長が奥さまに頭を下げて、立ち上がった。
「私はこれで失礼します。入学手続きは3月10日までに高等部の方で受け付けますので。りのさん、高等部でお待ちしていますよ。」
「ありがとうございます。」りのと共に、慌てて立ち、頭を下げる。
「あ・・・あ、ありがとう、ご、ございます。」
「りのちゃん、麗香達が報告を待っているから行こうか。お母さんとは、引き続きお話があるから、ごめんね引き離すようで。」と凱斗さん。
「は、はい。」りのが、退出をするのを見計らって、奥さまがお話しをされる。
「真辺様、お時間を取らせて申し訳ございませんが、もう少しおつきあい下さいませ。」
あれ?急に「さん」から「様」に変わった。
「は、はい、何か。」
「真辺りのさん、常翔学園中等部の特待生として、その高い知力学力、運動能力を維持し、卒業できます事を、まずは、お祝い申しあけます。」
理事長と奥さまが同時に頭を下げる。もう何度、頭を下げるだろうか。
「あ、ありがとうございます。」
「また真辺様にご負担をおかけするやもしれませんが、今から差し上げるお話は、口外しないでいただきたいのですが、お約束していただけますでしょうか。」
何、突然、一体?
「は、はい。」
理事長が奥さまの顔を伺い、うなずく。
「真辺様、私ども柴崎一族が華族の称号を持つ事は、ご存じでしょうか?」
奥さまの口から出た話は、思いもよらぬ方向のもの。口が渇いて、飲みこめない唾液を無理やり押し込む。
「は、はい、りのが前に言っていました。」
凱さんに促されて理事長室を出る。理事長室の前で待っていると思っていた柴崎は居ない。
待ちきれなくなって、どこかに行ってしまったのかもしれない。
「おめでとう、りのちゃん、これでプリン食べ放題だね。」と凱さんが笑う。
そうだ、柴崎が特待に合格したらプリンを毎日でも買ってあげるから頑張れってと言われていた。
合格したから、これから毎日プリンが食べられる。
「うん。へへへ。」つられて私も顔をほころばせる。やっと、凱さんとの日本語会話も吃音なく話せるようになった。
「僕も、高等部に移動するから、嫌わないでくれよ。」
きっとまた、柴崎家が私の事を心配して、凱さんを私と一緒に移動させた。昔はそういうのは嫌だったけど、もうそんなのはどうでも良くなった。
露「またロシア語の発音指導をしてあげられるよ。」
露「お手柔らかにお願いしますよ。」和露辞書をすべて頭に記憶しての辞書引き会話をしている凱さんは、単語の数は私よりも沢山知っているけれど、発音はめちゃくちゃに堅苦しく間違っている事が多い。
「麗香達は、裏門前で待ってるって。行ってごらん。」
「うん。ありがとう。凱さん。」感謝の気持ちは素直に出てきた。
同じ特待生だった凱さんは、レポート作成時も気にかけてくれて、毎回、図書館で調べものをしている時は様子を見に来てくれていた。そして行き詰ったレポートの作成に頭の中の辞書や文献を引っ張りだして手伝ってくれもした。
「廊下は、走っちゃダメだよ。」凱さんの叫びを背に、階段を駆け降りる。エレベータは嫌い。誰が乗ってくるかわからないから、
静まりかえった校舎、自分の足音だけが響く。
今、学園は3者面談週間、クラブはなく、極力、自分の面談時以外は学園に残らないようにと指示されていた。
一階まで一気に駆け降り、廊下を駆け抜ける。外への扉を開けると冷たい空気が吹き込み、とっさに目をつぶる。
冷たい冬が来た。私の大好きな冬に合格のうれしい知らせ。
(最高だ!)
柴崎はいない。だけど、慎一がいた。
「おめでとう。」慎一は、私の顔を見るなり、そう言って笑う。やっぱり柴崎は知っていた。で、慎一に知らせていた。
慎一は、私のそばに歩み寄ると制服のポケットから手を出す。
「頑張ったな。はい、約束の。」
かざした手にぶら下がるネックレスは、オープンハートの中にパールが淡く光っていた。
柴崎と一緒に選んだと言っていたクリスマスプレゼント、その箱の包装紙と形状がパパを死なせたと思った記憶とシンクロして、拒絶して要らないと叩き落としてしまった私。だから、包装紙と箱をはなくして、渡してくれたのだ。
「あ、ありがとう。」
両手で受けた。キラキラと輝くチェーンは手に柔らかく、シルバーじゃなくプラチナだ。パールも、もしかして本物だろうか?
「慎一、これ、高かったんじゃ。」
「うん、まぁ、柴崎がこれにしろって言ったから。俺にはこういうの全くわかんないし。」
「ごめん。私、あの時。」
「謝らなくていいよ。俺も迂闊だったから。」
やっぱり私の過ちを責めないで、すべてを許してしまう慎一。
「大事にする。」
ネックレスをつけようとチェーンのリングを外そうとしたら、滑って中々うまく行かない。
「ぷっ、不器用には難易度が高かかったか。」
「笑うな!」
「貸してみ。つけてあげるよ。」
「もう!わざと小さいの買っただろう!」
「そんな選び方するか!」
慎一が器用にリングを外して、後ろに回る。
「はい。」
鏡がないから、どんな感じになっているのかわからない。
慎一が前に戻って、顔を覗き込む。慎一はまるで小さい子に顔を向けるように膝を曲げた。
「なんだよ、その顔、気に入らないのか?」
「違う!それ以上、伸びるな!」
「はぁ?」
「届かないだろ。」
これ以上身長差が開いたら、慎一の目の中にある虹玉が見えなくなる。
「何に?」
慎一がネックレスの位置を正す。
この間ケーブルテレビで見たフランス映画に、こんなシーンがあった。
プレゼントされたネックレスのお返しは、キス。
届かない・・・・
くそっ、無駄にデカく育って。
りのは頑張った。苦手な歴史を、毎日頭を抱えながら覚えて、
もし、りのが特待に受からず、柴崎家や新田家の支援を受けないで、公立の学校に行くとなったら、慎一もついていくと決めていた。プロのサッカー選手になると言う夢は、常翔学園を辞めたら遠回りになるけれど、叶わない夢ではない。
サッカーはどこでも出来るけれど、りのと過ごす空間や時間はどこでも出来ない。
りのに、どんなに嫌われても、そばにいる安心が自分には必要である。
諦めなければならないと誓っても、できない事を思い知って至った結論である。
ネックレスをつけ終えて、りのの顔を覗き込む。
柴崎の言う通りにしてこれを買って良かった。似合っている。なのにりのは急に眉間に皺を寄せしかめっ面。
「なんだよ、その顔、気に入らないのか?」
「違う、それ以上、伸びるな!」
「はぁ?」なぜ、急に身長の話になるんだ?
「届かないだろ。」
「何に?」
わからない、りのの考える事は。ネックレスのハートが少しずれていたから、真ん中に持ってくる。
(いいぞ、いいぞ。)
(いい雰囲気・・・)
(そのまま、行け!)
(キスしろ!)
届かない理由は聞けずに、仲間のいやらしい声が聞こえてくる。
「おまえら~隠れてるのはわかってんだ!出てこい!」
「今野がうるさいからバレちゃったじゃないのよ。」
「柴崎もだろ!」
植木の陰から今野と柴崎、校舎の陰から藤木と佐々木さんが現れ出てくる。
「最初からわかってたんだ。りのが、こんな所に来いなんて、俺を呼び出すかよ。」
「それでも、ちゃんとここで待ってるあたり、何かは期待してたんだろ、新田君。」と藤木が嫌な笑いを向けてくる。
「柴崎!合格した!」りのが、柴崎に駆け寄り抱き付く。
「ちょっと!りの!」
「プリン買って!」
「もう!せっかくいい雰囲気を作ってあげたのに!」
「約束だよ。」
「柴崎さんのお膳立てでも、二人はうまく行かないのねぇ。」佐々木さんの呆れ顔。
「お前ら~、一体、何を期待して嫌らしい計画を立ててんだ!」
「そりゃ、お前、キスシーンでも見れると期待してだなぁ。」
「するか!こんな所で。」
こいつらは、何を考えてんだ。
「惜しかったなぁ~。まんざらでもなかったのに。ねぇりのちゃん。」
「ん?何?プリンだめなの?」キョトンとするりの。
「新田が俺達を呼ばなければねぇ。」と藤木は目を細め、首を振る。
「ほんと?!りの、今からでも遅くないわ。やっちゃいなさい。」
「何言ってんだ、柴崎。」
「プリン買ってくれる?」
「うんうん、好きなだけ買ってあげる。」
「じゃするか?」りのは、すました顔を向けてくる。
「しない!」
ったく、キスの概念が軽すぎる。なぜ簡単にするかなんて言える?
「ははは、お前、グレンだけじゃなく、プリンにも負けるんだな。」
「怖いわ~真辺さんは、プリンの為なら、何でもするわね。」
「あぁ、絶対プリンにつられて誘拐されるタイプだな。」
ほんと、今までよく無事でいるよ。
「常翔学園の特待生は、今ご説明しました華選へ上籍する選定の、入り口でもあります。」
この日本に華族の階級位があるのは知っている。確かイギリスの爵位に沿って明治以降に作られた制度だったはず。イギリス程に歴史はなく、認知度も高くなく、世間でそれを実感することは、一般人の私達にはあまりない。
その華族の下に華准、華選という地位がある事も、初めて聞く。
「真辺りのさんは、中等部と引き続き高等部の特待生入試に合格した実績が、その華選に上籍する素質があると認定するに十分にあります。」
りのが?
「すべての特待生が、華選への上籍となるわけではありません。特待生になった時点で、我々華族が華選としてふさわしいかどうかを見させていただき、華選に推薦するかどうかを決めます。学期末ごとに特待生だけレポートを提出していただき面接をしていたのは、この華選への推薦の為です。」
「真辺様、りのさんを、華選に上籍して頂けないでしょうか?」
突拍子もない話に、気持ちも頭もついていかない。
「まぁ、プリンの話は置いといて。まだ、俺たちは言ってないだろう。」
「そうだったわね。準備はいい?」
「ああ、いいぜ。」
「じゃ、せーの。」
「りの、合格おめでとう!」
パンパン、パパパンと派手な音と共に、クラッカーの紙テープが、りのの頭にかかる。
「ひゃっ。びっくりした!」
「頑張ったわね。」
「うん。ありがとう。皆。」
りのは、照れた笑顔を振りまく。
慎一はじーんと胸が熱くなる。
「華選に上籍致しますと、神皇勅命の有事に参謀して頂かなければなりませんが、そのような事態は、そう頻度があるわけではございませんし、りのさんは、まだ年齢もお若いですから。有事参謀はまだ先の話になります。」
「有事って、戦争とかですか?」
「申し訳ございません。その辺りの事はあまり詳しくは、お話できません。」
「いえ、理事長、真辺様には不安をすべて解消していただかなければ、このお話は先に進みません。大事なお子様の事ですから、ある程度の情報開示は必要です。」と奥様。
「わかりました。実は、りのさんは最年少での上籍推薦となりまして、本来なら推薦話を差し上げるのは本人様のみ、お身内の方にも詳細はお話ししないで頂き、称号取得の結果だけを伝えるようにとの約束を取るのでございますが。りのさんはまだ未成年という事もあり、お母様の承諾を頂いてからにと考えまして、お話ししている次第でございます。」
「りのが、最年少?」
「はい、華選の称号を持つものは、この凱斗以外、いずれも推薦話をご本人様が受託出来る年齢での上籍でごさいまして。我々も初めての事で少々手間取りまして、申し訳ございません。」
「凱斗さんも?」
「はい、凱斗は18の年で華選に上籍致しましたが、元々身寄りがなく11歳の頃より柴崎家が身元保証人として保護下にありましたから、このような話はせずとも上籍することは容易でした。」
「ねぇ、今度、皆でどこかに遊びに行かない?」
「あぁ、いいねぇ、高等部のクラブが始まれば、遊ぶ暇もなくなるからな。」
「中等部卒業の思い出作りってとこね。」
「そう、楽しい思い出を沢山、作らなくちゃ。」
「どこ行くよ。」
「うーん定番のランドか?」
「高い、あそこ。」
「出してあげるわよ。合格祝いよ。」
「うーん。うれしいようで、うれしくない。」
「なによ。それ。」
「有事の事に話を戻します。有事とは、神皇の勅命が下るような非常事態を指します。戦争はもちろん、災害、経済不調なども入ります。華選は、その者が持つ高い能力を、民主体の内閣府とは別に、神皇が承認確保する人材です。神皇専属の精鋭人とでも申しましょうか、この日本に危機が訪れた時、内閣府では対応できないと神皇が判断された事態の才、内閣府に代わり、神皇直々に政治の主導権を担います。神皇の命を受け実際に動くのが、華族と華選の役割です。真の日本の指導者となる者です。神皇の勅命が下りますと、我々華族と共に華選はその高い能力を使い、事に対処しますゆえ、事、戦争に関しましては、戦場に赴くという事はなく、逆に華族、華准、華選の身は一般市民よりも優先して保護されます。」
「指導者なんて、りのはそんな政治を行えるような。」
「りのさんを3年間、見させていただきました。それに加えて、実はフィンランドとフランスでの生活も調べさせていただきました。事後報告で大変失礼な事をして申し訳ありませんが。」
もう言葉が出ない。
「我々は、りのさんの言語習得力を推薦項目として、上げるつもりでございます。」
「言語習得力?」
「はい、りのさんは現在、英語、ロシア語、フランス語、の外国語を会得していますね。その3つの外国語、即時に難なく喋れるようになったとお聞きしています。どの言語も1週間ほどで日常会話は問題なく話せ、1か月も経てばスピーチ大会で賞を得るほどの言語習得が早かったと。」
「それは、りのがまだ子供だったから・・・。」
「確かに。子供の言語習得力というのは、大人の想像を超える力があります。ですが、いくら子供の頃から海外を拠点にした環境であったとは言え、りのさんのは早すぎます。中々いません、ここまでに早い習得は。それに、現地常用語であるロシア語も、同時に話せるようになっていたと、フィンランドの担当教師にお会いしてお聞きしております。」
「ロシア語は、お隣のお爺さんに教えてもらっていて。」
「そのお爺さんに教えてもらっていたのは、どれぐらいの時間でしたか?」
さつきは、フィンランドに住み始めた時の事を思い出す。
「学校から帰ってきた夕方、夕飯までの1時間ぐらいを、りのはお隣にお邪魔して。」
「毎日ですか?」
「はじめは毎日行っていましたが、そのうち、学校のお友達と遊ぶのを優先するようになって、終いには行かなくなっていました。」
「やはり、早いですよね。毎日一時間程度の習いで、日本では耳馴染みのないロシア語を話せるようになるのは。」
指摘されれば、確かにそうだとさつきも思える。現地では、その早い習得がさつきの助けになっていたから、頼りなった。
しばらくぶりに凱さんが口をはさんだ。
「去年の修学旅行で香港に行きました時、りのさんは帰国する直前の空港で、現地の人が何を話しているか、わかったと言いました。
どうやら、ホテルで現地のテレビ番組をずっと見ていたらしいのです。その頃は、睡眠がうまく取れない状態でしたね。聞けば、麗香が先に寝てしまい、時間を持て余し、遅くまでテレビを見ていたようです。約4日間の旅行とテレビだけで、中国語の聞き取りが出来る能力。りのさんの持つ特殊能力と言っていいと思います。」
「りのが、適当な事を言ったのではありませんか?」
「いいえ、確認しました。中国語と英語が話せる現地ガイドに中国語で話してもらい、りのさんに聞いていただきました。何を言っているか当ててみてと。りのさんは、現地の人が話した言葉を間違うことなく理解していました。」
「実は、この時の話を麗香から聞きまして、華選に上籍できる項目を思いついた次第でございます。」と凱斗さん。
「りのさんの脳は、言語を習得する力が秀でていると思われます。おそらく、他の言語も習得しようとすれば、簡単に話せるようになるでしょう。」
「りのさんの秀でた言語力を華選推薦項目として上げれば、必ず神皇の承認をたまわるたことが出来ます。現在、華選の称号を持つ者は凱斗を含めまして全国に13名、正直申し上げまして、神皇勅命の精鋭人としては、まだまだ足りません。常翔学園の特待制度は、華選へ上籍する選定の場として、創設60年以来の歴史を持ちますが、凱斗以外に、その推薦に値する人材を見いだせた者はおらず、そう言った我々の事情もございまして、若くても早い段階で確保いたしたく、この話を真辺様に差し上げた次第でございます。」
「だって、そうやって柴崎は、何でもかんでもお金を出しそうだもん。」
「いいじゃないの、お祝いなんだから、」
「良くない。」
「どうして、祝いは素直に受け取る物よ。」
「そうやって、甘えたら、そのうち柴崎家の養子になれって言うでしょ。」
「言わないわよ!養子より、もっといい事があるんだから。」
「はぁ?いい事って何。」
「何でもないの!こちゃごちゃ言ってたら、りのだけ置いていくわよ!いいの?」
「え~。」
「華選は特待生制度に似ていまして、すべての税は免除、国営の施設や企業のサービスはすべて優先的に使用ができ、利用料も無料、これは申請後の返金という形になりますが。」
「あと、全国に散らばる華族の称を持つ一族が経営する企業も、華族会専用枠を設けている場合がございます。たとえば、帝国ホテルもそのうちの一つでして、経営者は華族の称号を持つ一族です。施設内には華族会専用フロアがごさいます。そこは自由に使う事ができ、部屋も繁盛期であれ優先的に無料での使用が可能となっております。」
「ただ、一つご了承いただきたいのですが、りのさんは、真辺様の戸籍から外れる事になります。」
「戸籍を外れる?」
「はい。上籍という事は一般市民より上の地位に上がる事になりますので。」
「戸籍を外れると言いましても、行政の紙面上の問題ですので親子関係、住まいも、そのまま何ら変わる事はございません。」
「・・・・。」
「真辺様、どうされましたか?」
「あ、いえ、何だか、突然のお話で驚いてしまって。」
「お気持ちお察しします。ですが、悪い話ではないかと思います。」
「りのさんの生涯は、高い水準で国が保証いたしますし、私共、華族会も責任を持って力添えいたしますゆえ、ご安心ください。」
「行く!」
「じゃ決定ね。」
「強引だな、柴崎。りのだけじゃなく、俺にも聞いてから決定しろよ。」
「何よ、新田、行かないの?」
「金ない。」
「はぁ?」
「お前が買えっつったあれの値段、知ってるだろ!全こずかいを、つぎ込んだんだ!」
「あっ、そうだったわね。」
「麗香、新田にいくらの買わしたんだよぉ。」
「それは~、りのの前でいう事じゃないでしょ。」
「聞きたいようで、聞きたくないわ、それの値段。怖いわ。」
「あーじゃ慎一、これ、質屋に入れよう。」
「お前は、人の気持ちをなんだと思ってるんだっ。」
「りのも怖え~。」
「あーもう!面倒だわ!全部出すわよ!」
「出た!柴崎麗香お嬢様、最強の解決法!」
「あんた達の為に出すんじゃないわよ!私が楽しむ為よ!文句ある?亮。」
「いいえ、ございません。麗香お嬢様。」
「あの・・・このお話は、絶対なのでしょうか?その・・・。」
「真辺様、それもご安心ください。強制ではございません。今は真辺様に、りのさんが華選としての資格があるとお知らせしているだけです。」
「華選の上籍には手続きが長くかかります。その、りのさんの言語取得能力をしかるべき場所で検証確認し、選定能力の証明書を作成して、5名以上の華族の推薦人の書状をお作りいたしまして、それらを神皇に献上いたします。神皇が最終認定をしてやっと上籍となります。それに加えまして、華選の称号は16歳以上でなければ取得できない決まりもありますので、りのさんは今年の誕生日を迎えられてからという事になります。」
「時間はございます。ごゆっくり考えて頂きたく。ただ、能力の検証確認は、学生である今の方が時間を作りやすいかと思いまして、早めにお知らせしたまでです。」
「選定能力の検証確認と言いますと?」
「はい、帝都大学脳科学研究所が、医学的に、りのさんのご協力の元にデータを取り、一般より高水準である事を証明いたします。」
「帝都大学の研究所?ですか・・・。」
「常翔大学は医学部がございませんので、医学的検知は帝都大学の研究者が、そして言語学検知は常翔大学の研究者で行う共同チームによる検証になるでしょう。凱斗の時の実績がありますから、どうぞご安心を。」
「それほどの手間を。」
「はい、民からの上籍は、やはり、厳しい審査と証明を持ちませんと、神皇勅命の指導者として神皇のお傍には居られませんので。」
「りの、さつきおばさんは?」
「なんか、まだお話があるって。」
「ふーん。」
あの話をしてるのよねぇ。あぁ、りのが華選だなんて、やっぱり凄いわぁ。りのが華選になったら私と一緒に社交界デビューできるじゃないのよ。最高よ。楽しみだわぁ。
「なんだよ、麗香、さっきからニヤついて。」
「あぁだって、めでたいんだもの。」そう最高にめでたい。
「さつきおばさん、ほっといて行っていいのか?りの。」
今から、皆でプリンを食べに、カフェに行こうと言う話になった。
「うーん、どうしよう。」
「おば様の携帯にメールを送っておきなさいよ、おば様、もっと遅くなるわよ。」
「えーそうなの?」
「なんの話してんだ。そんなに遅くなるって。」
「色々、手続きがあるのよ。」
「じゃぁそうする。」
麗香達は、校舎を回り運動場を校舎に添って歩く。
校舎の外壁に、弓道部とサッカー部の優勝を祝う垂れ幕が風になびいてパタパタという音を奏でていた。
運動場は寒々と広く、ポツンとサッカーボールが一つ転がっている。
「あー、誰か使いぱなしで、しゃーねーな、片付けてくるわ。」
新田が運動場への段差を駆け降り、サッカーボールへと向かう。
ドサッと鞄を無造作に落とし、急にりのが追いかけた。
「りの?」
「やりたかった!サッカー!」
ちょうど新田がボールを拾おうとした瞬間、りのがボールを蹴飛ばし邪魔をする。
「あー!何すんだっ。」
「サッカー!付き合え!」新田はりのを追いかける。
「しゃーねーなぁ。」亮もニヤついた溜息をついて、運動場へ走っていく。
「ちょっと、亮!」
「おっ、じゃぁ俺もっと。」今野も走り行く。
「ちょっと!プリンを食べに行くのは、どうなったのよ!」
「あはは、真辺さんはプリンより体を動かす方が優先順位は上みたいね。」
「ったく・・・」麗香は呆れて、腰に手をやる。
「では、真辺様、我々華族会はいつでも、りのさんを迎え入れる所存でごさいます故、ご検討下さいまし。」
「は、はい、でもすぐに返答は出来ないかと思います。」
「重々承知しております。」
「ご検討されるにあたり、りのさんに話にくい事がございましたら、私共からりのさんへ説明させていただいてもかまいません。他にも色々と疑問が出て来る事かと存じますので、麗香を含めまして、この凱斗や柴崎家の人間にご連絡いただけましたら、いつでも伺いに上がります。ご遠慮なさらず、お頼りくださいませ。」
「ありがとうございます。」
「真辺様、長らくお引き留めして申し訳ございませんでした。凱斗がご自宅までお送りいたしますので。」
「いえ、そこまでして頂く必要は。」
「ご遠慮なさらずに、と申し上げましたばかりですよ。」
もう、奥様の気品ある微笑みにたじろぐばかり。
「ずるいよ!慎一と藤木ばっかりのパスワーク!」
学園では珍しいりのの叫びが運動場にこだまする。
「完全に遊ばれてるわね。二人に。」
最初のキック以降、りのはボールを取れないで、新田と藤木の間を行ったり来たりしている。
「そりゃそうよ、全国優勝した黄金コンビのパスワークよ。素人のりのに、簡単に取れるわけないわ。」
「でも、あの二人の足の速さについていけてるのはすごいわ。」
「新田も亮も、まだ本気じゃないけどね。笑ってるもの。」
「あぁ、もったいない事したわ。1年の時に真辺さんの事もっとよく知っていたら、絶対にバスケ部に誘ったのに。」
「そうしたら、女子バスケは全国優勝してた?」
「いい所まで、行けたんじゃないかしら。」
「俺たちからボール取ろうなんて無理無理。ほら、今野!」新田から今野へバックパス、りのは足を滑べらしながらUターン。
「もう!イジメだ!」りのの嘆き。
「私も、ずっとそれを思ってたわ。りのと、もっと早くに友達になっておけばよかったって。そしたら、りのは、精神科に通う事もなく、もっと楽しい学園生活を送って、ちゃんと体も成長できていたんじゃないかって。」
「おっ、リノ、サッカー部じゃないからって舐めるなよぉ。ほら、藤木!」今野から亮へパス。
「くっそー。」
「私は話に聞いただけ、でも、想像を超えた事実に言葉を失ったわ、大変だったわね。」
「ほんと、よく戻ってきてくれたと思う。」
「りのちゃん、俺に駆け引きでは勝てないよ。普段のりのちゃんは難しくても、今はお見通しだからね。」
亮のドリブルに追いついたりのは、ボールを取ろうと駆け引きで左右に動く。でも亮は、りのを難なくかわして、ドリブルで一旦りのとの距離を取ってから、りのの頭越えでサイドバックにいた新田へロングパス。
「あぁ~。もう!」りのは立ち止まり、地団駄を踏んで怒る。
「これからよ。リノの成長は。」
「ええ、佐々木さん、バスケ部でのりのを、よろしくね。」
「ごめんね。なんか取っちゃったみたいで。」
「やめてよ。そんな小学生みたいな嫉妬しないわよ。」
嘘のプライド。麗香は最近まで嫉妬していた。りのが、高等部で佐々木さんと一緒にバスケをやる事を素直に受け入れられなかった。
「りの!そのまま、まっすぐゴールへ走れ!」
新田お得意の右サイドから上がる高速ドリブル。りのは新田の声に瞬時に反応して追従の走り。
「私達、5人でりのの親友でしょ。」
「ほら!りの、決めろ!」
「おっ、良いパスが上がったわ!」
コーナーまで上がった新田は、りのへ、タイミングを合わせて右足のセンターパスを上げる。
りのは、偶然そうなったのか、それとも天性の運動神経が見せる技か、それらしく胸でボールをキャッチして落としたボールを綺麗にシュー・・・・・
「あちゃー。」
トは打てなくて、どうなってそうなったのか、吹っ飛んだのはボールじゃなく、りのだった。
「パンツ丸見えじゃないのよ!」
「りの!」
「大丈夫かぁ、りの。」
3人はかけつけ、倒れているりのを起こす。亮が私の方へ手を上げて合図を送ってくる。
「おーい救護班~。」
「誰が、救護班よ!」
「また、絆創膏、増やしたわね。」
廊下に出て、緊張していた体をやっと緩められる。
短縮授業で懇談週間になっている学園は、とても静か。
歩調を合わせてくれている凱斗さんに、周辺に誰も居ない事を確認してから聞く。
「凱斗さん、もしかして柴崎会長は、1年前の事件の、その償いでこのようなお話をりのに頂けているのでしょうか?」
「確かに、柴崎家はあの事件の事をとても申し訳なく思って、会長は特に真辺様方を気にかけております。」
やっぱり・・・・
「ですが、この華選の上籍は柴崎家だけの承認では通りません。理事長は、そのことについては長くなると判断したんでしょう、触れませんでしたが、華選推薦には華族会の審査も通します。そして最終が神皇様の承認です。」
「そ、そうですか」
「贔屓で通せば、まず華族会から拒否され、柴崎家の信用は失われます。華選上籍は贔屓、負い目で通せるような甘い物ではございません。」
怒らせてしまったのだろうか?凱斗さんは、厳しい表情を私に向ける。
突然すぎる規模の大きな話で、もう頭が理解の限界に来ていた。
「す、すみません。私、失礼な事を。」
「いえ、こちらこそ申し訳ございません。僕の言い方もきつくなってしまいました。」
「あ、いえ。」
「駄目ですね。恥ずかしながら、僕には麗香のように熟練された素質がありませんから。どうしても粗がでます。もう、理事長室から離れたから、いいかな。」そう言って、凱斗さんは、きっちり結んでいたネクタイを無造作に緩めた。
「華族関係の仕事をしている時は、きっちりしろとうるさくて、真辺さんも楽にしてください。」そう言って、凱斗さんは背伸びまでする。
「はぁ・・・ははは。あぁでも、それなら尚更、りのなんかは絶対に華選なんて無理です。」
「りのちゃんは良いのです。僕は華族の下で働いている人間ですから、求められて当然なのです。りのちゃんに、そこまでの事は必要ありません。華選に求められるのは能力ですから。」
「凱斗さんは、やっぱり学力が認められてって事ですか?」
「僕は記憶力です。まぁ学力も付随はしていますが、華選承認項目の第一は記憶力です。」
「記憶力?」
「はい、覚えていらっしゃいませんかねぇ、17年ほど前、辞書を丸ごと覚えているという記憶力君なんて言われた子が、テレビに頻繁に出ていたの。」
「あー居ましたね。毎日って言うほどテレビに出ていて、この子、学校はどうしているのかしらって思っていました。けれど、急にテレビから姿を消して、死んだんじゃないかと噂されて。」
(あれ?どうしてこんな話を?)
「えぇ。出ましたねぇ死亡説。ですが、あの子、死んでなくてですね。ここに居るんです。」
「へっ?」
「痛くないって言ってるだろう!」
「血だらけで説得力あるか!」
「もう1回やる!」
「あ~あ、また連れ去られる宇宙人になってるわ。」
「治療してからね。りのちゃん。」
「こんなの唾つけたら治る!」
「小学生か。」
「ゴール決めたぁい!」
「あれだけ、良いパス送ってシュート出来ないなら、2度目も無理に決まってるだろ!」
「うっさい!次は決める!離せ!」
「りのちゃん、暴れないでね。結構、足が当たって痛いんだから。」
「痛くない!って言った。」
「俺だよ!痛いのは!」
いつぞやと同じ光景、暴れるりのを亮と新田が引きずるように連れてくる。
「もう!りの、制服、砂だらけじゃないのよ!」
「あー、靴も上靴じゃない。」
「ほんとだ、気が付かなかった。そりゃ、滑るよ。」
「上靴で、あの足の早さ!驚くわ。」
「どうしたら、そんな怪我するのよ!」
「知らない!」
「あの記憶力君は、僕です。」
「すっ、すみませんっ!どうしましょ、私とんでもなく失礼な。」
「ははは、真辺さん、そんなに気を使わないでください。」
「でも、私、華選でいらっしゃる方に、とんでもない失言を。」
「やめてください。僕はたまたま、この記憶力を柴崎家に買われて養子になった人間です。元はどこの馬の骨かもわからない、施設育ちですから。」
そうだった、あの記憶力君は児童養護施設に居て、親探しをテレビでやっていた。柴崎家の養子になったという事は、本当のご両親は見つからなかったんだ。
「はなせ~。行きたくない~。」
「なんだって、そう、いっつも強情を張るんだ!」
廊下の向うから騒がしい生徒の集団が入ってくる。
「あっ凱兄さん。」
「さつきおばさん。」
「ママ!助けて~慎一がイジメるぅ」
りのが、慎ちゃんと藤木君に捕まれて引きずられるように歩いてくる。
「どこがイジメだよ、嘘言うな!」
「おば様、お話は終わりました?」気品ある柴崎さん、りのと大違い。
「ええ。今終わったわ。えっと、りのは何して?」
「人さらいに合ってる。」
「違うだろ!」
「人聞き悪いよ、りのちゃん。」
「おば様、りの、サッカーやって、こけて、血まみれなんです。」
柴崎さんの言う通り、見れば、両膝と手のひらに血がにじんでいる。
「あら~また?」
「ちょうどいいや、さつきおばさん処置してやってよ。」
「んー。大丈夫よ、洗って唾でもつけとけば。」
「ほら~ママもそう言うじゃん。」
「お、おば様、看護師ですよね。」
「そうだけど?あぁ、りのの、これぐらいの怪我で治療していたら、オキシドールとガーゼがもったいないわよ。日常茶飯事なんだから。」
「ぷくくく、流石、りのちゃんのお母様です。肝が据わっていらっしゃる。」と凱斗さんがお腹を押さえて笑う。
「あーりのっ!どうして言わないのよ。」
「何が?」
「凱斗さんがあの記憶力くんだって、失礼な事を言ってしまったじゃないの。」
「記憶力くん?」りのがきょとんとして首を傾げる。
「真辺さん、知らないと思いますよ。まだ生まれていない世代ですから。」
「あっ、そうか、そうでした。」
もう今日は失言ばかり。
りのの友達たちも皆して、きょとんとした目をする。穴があったら入りたいとはこの事。
「僕が言うのもなんですが、やっぱり親子ですね。お二人は、よく似ていらっしゃいます。」
持っていた絆創膏を柴崎さんに渡して、りのが、水道で、砂だらけの傷を洗うのを眺める。
沢山の友達に囲まれて、りのは楽しそう。
本当に良かった、昔のりのに戻って。ご飯も普通に食べる事が出来るようになって、家でも学校での出来事を話してくれるようになった。お友達のおかげ。親の私は何もしてあげられなかった。
凱斗さんが、皆に聞こえないように耳元でささやく。
「真辺さん、華選の話は、正式に上籍するまでは、新田家にもお話しになさらないようにお願いします。」
「は、はい」
戸籍を外れる。生活上は何も変わることはなくても、なんとなく寂しい。もう私の家族はりのしかいない。りのが戸籍を外れれば、私は本当に一人ぼっち。
「ママ、今から皆で駅前のカフェに行く。」
両足に絆創膏を貼り終えたりのが、私に顔を向ける。
「そう、行ってらっしゃい、ママは家に帰るから。」
「うん。」
「お金ある?」
「おば様、私の奢りですから大丈夫です。」
「約束なんだ。合格したらプリン食べ放題って!」満面の笑みのりの。
「そうなの?いいの?柴崎さん。」
「ええ、約束ですから、大丈夫です。」
「ごめんなさいね、いつもいつも。」
「早く行こうよ!皆ぁ。」
「お前がサッカー付き合えって言ったから、遅くなったんじゃないか。」
「そうだよ、リノ。怪我までして。」
ワイワイとまた騒がしく、玄関の方に向かって行くりの達。
「おば様、じゃ、失礼します。」
柴崎さんが丁寧に頭を下げて、先に行ってしまった皆の後を追う。
「流石ですね、柴崎さんは。挨拶や振る舞いに気品があります。」
「そりゃ、もう、生まれながらの華族ですから。」
「りのも、少しは見習って欲しいわ。」
「りのちゃんは、あのままで可愛いと思いますよ。」
(可愛いで務まるのかしら、華選なんて。)
慎ちゃん達より、一際、背の低いりのの姿を目で追う。
成長を止めてしまうほどの苦しみを背負ってきたりの。
皆のおかけで、その成長はやっと、歩み始めることが出来る。
今まで、りのに何もしてやれなかった私。
りのが戸籍を外れて華選に上籍する事は、
私が唯一、りのにしてあげられる事なのかもしれない。
3
「ごちそうさま」
りののごちそうさまの言葉に、食べ終わった食器の中をついつい確認してしまった。癖になってしまっている。
りのも慎一の気配にジロリと睨らんでくる。
「残してないだろ!」
「何も言ってないだろ。」
「チェックすんな!」
「してない!」
「した!」
「してない!」
「見た!」
「見たら悪いのかよ!」
「うるさい!代わり映えのしない喧嘩すんじゃないわよ!」と姿勢のいい柴崎の一喝。
「1週間前も同じセリフの喧嘩をしたわよね。」と佐々木さん。
「慎一が、代わり映えのしないチェックをするからだ!」
「だから、してないって言ってるだろ!」
もう食事に関しては何も言わない。チェックもしない。というか、もうしなくてもちゃんと食べるようになった。味覚も戻ってきていると、食べる亮も増えているが、スピードは、やはりこの中で一番遅い。
「新田も、喧嘩するってわかってんだから、りの前に座るんじゃないわよ!」
「いつもりのの前しか開いてないだろ。」
「まぁーしゃーねーわな。りのちゃんは麗香の隣が定位置だし。今野は佐々木さんの隣がいいんだし、俺は必然的に麗香の隣、結果、そこしか残らないのだから。」
入学当初は一人で食べていたりの。今は慎一を含めて5人の友達に囲まれて食べている。
一人で食べていた1年の一学期、何故、もっと早くにりのの前に座ってやらなかったんだろうと慎一は思う。
どれだけ、りのは辛い毎日を過ごしていたのかと、楽しい今だからこそ、想像の辛さが浮き彫りになり、心がキューと痛む。
「慎一だけ外で食べろ。」
「寒空に外って、鬼か!」
時として、慎一に冷たい言葉を浴びせるりの、それはその昔に助けてあげれなかった時の復讐か?と思うほどで。
「ファンクラブが寄ってくるから、いいじゃん。」
「あれ、りの知らないの?ファンクラブ消滅したわよ。」
「消滅?」
「そうよ。あぁ、りのは特待の勉強で忙しかったから、知らないかぁ。私も邪魔しちゃダメだと、あまり話しかけないでいたもんね。」
「消滅って、何、悪さしたんだ慎一!」
「してねーよ。自然消滅だ!」
「あはははは。」
「くくくくく。」
りの以外の仲間が、みんなお腹を抑えて笑う。
「くそー。お前ら~。」
「何、何?」
「あのね~。うっぷぷぷ。」柴崎が笑いをこらえながら話し始める。「新田、冬休みに、ユースの合宿に行ってたでしょう。帰って来た時、変な関西弁になっていて。あれを聞いたファンクラブの子たちが幻滅してね。」
「新田くん、ださ~い。って。」藤木が、女子の真似をする。
遠藤の目論見は、ばっちりハマった事になった。テレビの取材は受けてないから、遠藤のいる大阪では効果は無くても、神奈川県のここ、常翔学園では効果抜群にあり。
「女子って、結構、覚めるの早いというか、そう言うとこ厳しいよな。」慎一の隣に座っている今野が、全員の食器を一つに重ねながら言う。今野も結構マメ。寮生はこういうところに、そつがない。
「そりゃそうよ、憧れの新田君は、何もかもがカッコよくて、言ってみれば芸能人的なあこがれなのよ。それが変な関西弁をしゃべってたら、幻滅するわよ。」
「あの関西弁、良かったのに。」
「そういえば、りのだけは、新田の関西弁、嫌がってなかったわね。」
「関西弁好き。お笑い番組好きだもん。」
「真辺さんは、テレビっ子だもんね。」
りのは長く、睡眠障害に悩まされていた。眠れない夜の暇つぶしは、勉強をするか、深夜番組をみるか、ラジオを聴くことだったらしい。それも今は無くなって、朝まで眠れていると本人から聞くけれど、テレビの話題になると、結構遅い時間帯の番組の話をするから、やっぱりまだ寝る時間は遅いとわかる。
「慎一、また関西弁、喋ったら、ええのに。」
「おっ、真辺さん上手いじゃん。関西弁。」と今野。
「何でやねん。」
「はははは、新田君より上手よ。」
「ほんまぁ?」
「何故か、物凄く悔しい。」慎一。
「やめてよ、りの!イメージが崩れるじゃない!」
「イメージなんて、どうでもええやん。」
「あーぁ、ハマったな、こりゃ。」藤木が片手の頬杖をついて苦笑する。
「なんかぁ、関西弁の方が、スムーズにしゃべれるねんけど。」
「関西弁は外国語みたいなものだからじゃない?」
「あぁ、そうかもな。りのちゃんの日本語が出なくなった原因は、標準語の発音が、おかしいと苛められた事によるトラウマが原因だから。元々はおしゃべり好きだもんね、イジメられた時の標準語以外はスムーズに出るってのは、納得の新真実かもな。」
「そっかー、吃音もないし、うん。これから関西弁でしやべるわ!」
「やめなさい!」
「えーなんで怒るん?」
「駄目よ関西弁なんて!品がないじゃないのよ!」
りのは、拗ねた顔を柴崎に向けた。
「だけどさぁ。真辺さん、良くしゃべるようになったし、表情も豊かになったよなぁ。」
今野は椅子の背もたれに背中を預けてリラックスモード。
「入学式ん時、はじめてリノに話しかけた時なんかさぁ。無表情の眉ひとつ動かなくて、人形か?と思ったもん。」
「今野、入学式の時、りのに話しかけたの?」
「おう、した。」
「一年時は同じクラスじゃなかったわよね。」
「うん、違う。入学式とか全部終わって寮に帰ろうとしてた時、藤木がな、真辺さん可愛いって、お近づきになりたいって、帰りの下駄箱で待ってたんだよ、真辺さんが来るの。なっ。」
「入学式早々!?亮、あんたの女好き、油断ならないわ。」柴崎の睨みに、藤木が慌てて視線をそらす。
「し、知らんなぁ~。今野の覚え間違いじゃないかぁ。」
「あはは、そうだったわね、藤木君の真辺さん好きは、結構早い段階から学年中の周知だったものね。」
「いや、俺はー。ほら、新田ファンクラブと一緒で、りのちゃんファンの一号だから・・・なっ。」
柴崎が呆れて溜息をつき、藤木に背を向け、りのの方に身体を寄せた。
「で、なんて話しかけられたか、りのは覚えてるの?」
りのは首を振る。
「入学式からしばらくは、吐きそうなの我慢していたことしか覚えてない。」
「あー。そうかぁ。」
「そうだよねぇ。俺だって、毎日おはようって声かけて、りのちゃんと視線があったの、3か月後だもん。」
そう、藤木はマメだった。良く懲りずに声かけてるなぁと思ったんだ。
慎一は人一倍気にしていたくせに、おはようの声かけ一つしなかった。まともにりのと話しができたのは、学級委員に二人で選ばれた2学期からだった。
「じゃぁ、りのは、私も入学式に話しかけた事は覚えてない?」
「柴崎が話しかけて来た?」首をかしげるりの。
「うん。っても、話しかけたんじゃなくて、嫌味を言ったと言った方がいいかな。」
「えー、何言ったんだよ。お前こそ、入学式早々。」
柴崎は全員の顔色を伺ってから、溜息をついた。
「りの、ごめんね。今更だけど謝るわ。」
「な、何?」
「私ね、りのの祝辞に腹を立てて、式が終わった後、トイレに入ったりのを見つけて、出てくるのを待って、『あの祝辞は何?あんなみっともない祝辞ありえないわ。常翔学園60期生の恥よ。あんたそれでも特待生なの!』って言っちゃったの。」
みんなあんぐり口を開けたまま言葉を失う。
「キッつう~。」
「覚えてない。」
「でしょうね。りのはあの時、無反応で通り過ぎて行ったもの。」
「それも覚えてない。」
「ごめんね。りの。知らなかったから。」
「いいよ、本当の事だもん。」
「まぁ確かにねぇ、私も思ったもの。マイクが拾えないぐらい小さい声だったし。校長がマイクを近づけて聞こえたと思ったら、しどろもどろで何を言ってるかわかんなかったし。」
「女子はきついよなぁそういう時。俺はそんな事、思わなかったからねぇ。りのちゃん、緊張してるんだな可愛いなぁ。って思ってたよ。」相変わらず調子の良い事を言う藤木。
「あっ!」
「なっ何だよぉ~」柴崎の叫びに、藤木が一瞬ビクッとする。柴崎に、また怒られるとでも思ったよう。
「りの!卒業式どうするの!」
「どうするって?」
「りのが答辞を読むのよ。」
「えー!」
「あぁ、そうだよ。進学確認テストのトップが読むって伝統があるんだった。」
りのは、高等部の特待生を受ける為に、受験をしなければならないから進学テストは意味をなさないんだけど、在学生としてのカリキュラムに含まれているから2月の初めにあったテストを受けている。当然トップの成績。
「そんなの聞いてないよ。」
「もうすぐ手塚先生から言われると思うわよ、答辞の文面を作りなさい、って。」
そう、もう卒業式まであと10日ほどしかない。
「えー。作るのは作るけどさぁ、柴崎代わりに読んでよぉ~。」
「駄目でしょう。」
「あーん。」りのがテーブルにうつ伏せる。
「練習するしか、ないわね。」
「嫌だぁ~。うっ、がんがえだだげで、はぎそう。」
「おぉい大丈夫かよ。どうにかなんないのか、柴崎。」
「そんな事、言われたって。」
「あっそうだ!」りのが急に顔を上げる。「関西弁でしゃべったら良いねん。」
「おぉ、そりゃスムーズにしゃべれる、って!んな答辞あるか!」
「はぁ~。ほんと、真辺さんは苦労人よねぇ。次から次へと難題ばかり。」
「あぁ~嫌だぁ。」
「そうよ。それいい案だわ!」
「えっ?」全員で、柴崎の突飛な言葉に驚く。
「お前、さっき関西弁は品がないって、怒ったばっかじゃないか。」
「関西弁じゃなくて、英語で答辞すればいいのよ。」
「はぁ?」
「りの、英語なら、いくらでもしゃべれるでしょ。」
「うん。原稿なくても大丈夫。」
柴崎がニヤリと笑う。
この柴崎の顔は、めんどくさい事が起こる前触れ。藤木と目が合い、無言で同意見だと頷き返した。
「どういう事?柴崎さん。」
「私、ありきたりの卒業式じゃなくて、何かこう、出来ないかなって思ってたのよね~。りのが英語で答辞してくれたら派手に出来るわ!」
「は、派手?」
「うんうん。よし!」
柴崎が、ちょうど食堂から出で行こうとしていた森山を、大声で呼び捕まえる。
「あー森山!3年の生徒会を全員召集して!」
「え?な、何、突然!?」
森山も可愛そうに、また何か始まると察知して、顔が引きつっている。
「生徒会って、もう引継ぎをして次期メンバーに移したばっかじゃないか。」
「引継ぎしても、卒業まで任期はあるのよ!行くわよ!藤木!」
「いや、そうだけど、一体、何するんだよ。」
流石に生徒会の時は名前で呼ばない、公私は分けている二人。
「今からそれを説明するんでしょ!さっさと紙とペン用意して、私の話をメモりなさいよ。」
「そんなもん、持ってきてるか!」
柴崎はもう既に席を離れ、森山が食堂で生徒会メンバーを見つけて集めている所へ向かうも、直ぐにUターンして戻ってくる。
「りの、答辞の文面、考えておいて、英語で。日本語訳も用意してね。」
「あっ、う、うん。」
「それから、この話、先生には内緒よ。バレたら、また、みっともない答辞を読む事になるからね。皆も、いいわね。」
柴崎は、再び森山の方へと向かう。それを藤木が追う。
「みっともないって・・・あいつ全然、反省してないな。」今野が首を振って呆れるのを、同意のため息。
生徒会メンバーを集めて、張り切った柴崎の声がここまで聞こえてくる。
「藤木、生徒会のお金、いくら残ってたか覚えてる?」
「えー金も使うのかよ。会計監査も終えただろ。」
「会計監査の修正ぐらい、私が、どうとでもするわよ!いくら残ってた?」
「覚えてねぇーよ。」
「あーもう!森山!三浦さんは?」
「ここには居なくて。」
「ダッシュで呼んできて、何だったら、校内放送かけて呼び出して!」
「えー?」
「時間ないのよ!早く!」
「凄いわね。柴崎さん。」
「何を思いついたか知らないけど、ああなったら誰も止められない。」
「柴崎、楽しそう。」りのは人ごとのように微笑み、柴崎の姿を眺める。
たとえ、面倒くさい事になりそうでも、りのの負担がなくなるなら、あの強引な柴崎の勢いについていくしかない。
「でもさぁ、藤木は良く、あの柴崎の彼氏になったよなぁ~。」
「今までの彼女とは正反対のタイプよね、柴崎さんは。」
「あぁ、大人しいタイプが多かったからな。」
「藤木、楽しそう、最近。」
「確かに、柴崎と付き合いはじめてから、刺々しさが無くなったな。」
「刺々しさ?」
「ああ、あいつさぁ、いつも目じりに皺作って笑ってるような顔、崩さないだろ。まぁ寮でも基本はそうなんだけど。一人で居る時とかは流石にないんだよ。で俺とか他人が居るとわかった瞬間に、戻る。皺を作った笑ってる顔に。」
今野が自分の目じりを指で押し、藤木の顔まねをする。
「その目じりの皺がない顔、結構、刺々しくてさぁ。最初見た時、驚いて見間違いかと思ったよ。」
「うーん、想像つかないわ。」佐々木さんが藤木の方に顔を向ける。
「寮でさ、そういうの何度か見てると、藤木は俺らに素を見せない人種なんだなって思った。」
藤木の目じり皺がない顔を、慎一も幾度か見ている。生徒会やらなんかで、超多忙だった時とか、練習がきつい時。だけど、それは普通の厳しさや疲労感がある時で、刺々しいとはまた違う。あの週刊誌事件の時、親である大臣と向き合った時も、目じりの皺がなかったけれど、あれには睨みがあった。親を憎んでいる、そんな感じだった。
「その時々見せる刺々しさが、柴崎と付き合ってから見なくなったな。無理がないと言うか。」
慎一はわずかに今野に嫉妬した。いくら慎一が藤木を親友だと言っていても、毎日、寝食を共にしている今野には敵わない。
「藤木君は柴崎さんと、馬があったのね。」
「二人はずっと相思相愛だった。」とりの。
「え?知ってたの?」
「柴崎は、藤木が彼女を作る度に、イライラしてた。藤木は2年の時から忙しい柴崎を、さりげなく手伝っていた。」
「藤木君、女子には誰にでも優しいし、さりげなく手伝うのも誰にでもするわよね、いつも。」
「ううん。柴崎のは特別、後ろから支えてた。」
今一つ、りのが言いたいことがわからない。
「私とか他の女子は、正面に向き合った時しか助けてくれない。柴崎は後ろから、絶対に柴崎の前に出ることはない。」
なんとなくわかるような気がした。今野も佐々木さんも納得のうなづき。
目の前で困っている子を助けるのは簡単。
だけど、後ろから支えて絶対に前に出ないような助け方をするのは、常に柴崎の行動と性格を把握していないと出来ない。
「意外にちゃんと見てるわね。真辺さん。」
「柴崎と藤木だけだったから。そばに居てくれたの。」
「・・・・・俺は?」
合った視線をこれ見よがしに外して呟くりの。
「記憶喪失やねん。」
「何でやねん。」
突っ込み担当の方が向いてるかも・・・
次の合宿は、突っ込みさせてもらうおうかな。ってサッカーの目的忘れてる慎一。
遠藤の目論みにまんまとはまっている。
4
校内のスピーカーから卒業ソングが、邪魔にならない程度の音量で流れている。
お涙ちょうだいを狙っているのか?と言っても、ほほ全員が隣に併設されている高等部へ内部進学をするのだから、悲しくなる要素がない。1組に父親の海外転勤だとかでインドネシアへと行ってしまう者が一人いるぐらいで、りのちゃんも特待入試に受かり、亮たちと一緒に高等部へ進学する。だからいつもの春休みを迎える終業式と特に変わりない。
春休みはどこに行くのか?とか、高等部では何のクラブに入る?とかの話も、もう既に出尽くしていて、暇を持て余し気味の生徒達。
ただ、いつもと違うのは、この後のイベントに皆が内心わくわくして、表に出ないようにしている。そんな皆の心の中が、わかりやすく読み取れて、亮は笑えた。
教室の前方の黒板は、各々が卒業のコメントを書き埋め尽くされている。残り少なくなってきた空きスペースに、亮は羽根の絵を描いた。特に意味はない。羽根の下に自分の名前を書き終えた時、麗香とりのちゃんが教室に戻ってくる。
「調子、どう?」亮は二人に声をかける。
「うん、いい感じよ。流石、スピーチ大会で特別賞を貰うだけあるからね。」
「スピーチ大会の再来か。」
「あれより難しいよぉ」りのちゃんは眉間に皺を寄せる。
二人は答辞のスピーチ練習を更衣室でして帰ってきたところだ。
「どうして。」
「あれは、原稿なしだったもん。」
「だからだろ。」佐々木さんに頼まれて、後ろの黒板に優勝旗を描き終えた新田も話しに加わる。見れば、なかなかの出来栄え。りのちゃんが悔しがるだけあって、手先は器用だ。
「違うよ、原稿なしは、時間配分を考えて、途中で話を加えたり減らしたりできる。これは、柴崎の翻訳があるから、それが出来ない。絶対に間違う事はできないし、ゆっくりしゃべるって、とても難しい。」
「もしかして、あのスピーチ大会の時、途中で話し加えたの?」と亮は聞く。
「うん、やっぱり早口になっちゃったから、時間余るなぁって、だから途中、パパは事故で死にましたって話を入れた。あの話を入れたから、お涙ちょうだいで特別賞をくれたんだよ。」
「えっ?そんな話、入ってた?」と言った新田に、りのちゃんは呆れて顔をしかめた。
「流石ね、りの。そりゃ、上籍の話が出るはずだわ。」
「じょうせき?」
「あっ、違う違う。上々の話、出来栄えがね。」麗香は慌てて亮の視線から逃げるように、壁の時計を見て誤魔化す。
何かある。最近、麗華は無意味に心が弾んでいる。それは今日の卒業式にやるイベントに向いたものだと思っていたが、どうやら違うようだ。目に力を入れて本心を読みとろうとしたけれど、上手くいかなかった。
「そろそろね。」
「だけどさぁ、柴崎、ほんとに大丈夫なのかよ。一番初めに注目されんのは、りのだぞ。もし、止められたり責められたりしたら。」とまた新田は心配をする。
「大丈夫よ。何かあったら、私が何とかするから。見てよ。これ。」と柴崎はジャケットの襟を翻して内側を亮たちに見せる。内襟に小さな機械が取り付けられていた。それはテレビとかでよく見るピンマイクだった。
「そんなもんどっから!」
「凱兄さんに用意してもらったの。」
りのちゃんが英語で答辞をする。それは先生に内緒で勝手にプログラムを変える事だ。英語では保護者や来賓の方が何を言っているか内容がわからない。だから麗香が日本語訳をつけていく。予定ではりのちゃんが檀上に向かって歩いている間に、凱さんがマイクを麗香の元に届けてくれる手筈にしていたのだけど、凱さんは、間に合わなかったら台無しになるからと、ピンマイクを用意してくれたらしい。
「まぁ、それならいいけどさぁ。怒られないかな、後で。」
「もう!新田は心配性ね。」
新田は、この話が企画されてからずっと心配している。りのちゃんが当事者になるからだ。
「いや、だけどよぉ、りのがさぁ。」
「もう!私を誰だと思ってるのよ!ここの経営者跡取り柴崎麗香よ!この学園で私に刃向かえる人間なんていないのよ!教師も校長も、理事長も皆!つべこべ言わず従いなさい!」と麗華は手を腰に当てて、仁王立ち。それは麗香定番のポージング、教壇で言い放った声は教室中に響き渡り、クラスメートのおしゃべりを止めた。
クラスメートは、その言葉に一瞬たじろぐが、これほど力強い先導者はいない。麗香の言葉に、クラスメートは高揚の笑顔を向けた。
ガラッと教室の扉が開けられ、担任の手塚先生が入ってくる。
「最後の出席、取るぞ~柴崎も座れ~。」
「はい。」素直に従った柴崎に、クラス全員がガクッとズッコケる。
せっかくの卒業式、天候は雨だった。中等部最後のハレの舞台となるのに、と麗香は窓を伝うしずくを睨んだ。体育館へ続く廊下で入場待ちをしている麗香達。2組がやっと体育館へと入って行った所だ。微かに拍手の音が聞こえてくる。並びは名簿順であるけれど、麗香と亮は、卒業生代表として在校生から花束を受け取る役目があるため、前列に座らなければならない。よってクラスの最前列に並んでいた。
担任の手塚汐里先生が、その可愛い氏名とは正反対に、生徒に眼光鋭く睨みを利かせている。ちょっとでも列からはみ出たり、私語でもしようものなら、「おらっ!最後ぐらいビシッとせんか!」と巻き舌張りの怒声が飛んでくる。前の4組や後ろの6組はおしゃべりをし放題なのに、5組だけ皆、軍隊のように緊張感で硬直していた。
手塚先生は、凱兄さんが引き抜いてきた先生。凱兄さんとどういう縁があるのか知らないけれど、親密度が高く、頻繁に飲みに行っている事を麗華は知っていた。常翔にくる前は群馬の中学校で教えていて、学級崩壊寸前のクラスを立て直したという実績があるらしい。この口の悪さなら納得の実績。教科は体育で大学の時の専攻は陸上の短距離走者。悪さをして逃げる生徒を捕まえるのもお手の物。3年の9月に、そんな先生の経歴を知った新田が100メートル走の勝負を挑んだ、というか、麗香が焚きつけたのだけど。
『手塚先生、新田が100メートル走を先生と勝負したいって言ってます。』
『言ってないだだろ!』
『あぁ?新田と?勝つに決まってんだろ、そんなもん。』
やる気のなかった新田が、先生のこの言葉にムッとした。新田は負けず嫌いの傾向がある。何かで負けたり、出来なかった事は、そのあとずっと練習して出来るまでやる。テストも、毎回間違い直しをちゃんとやるのは新田だけ。その積み重ねが天才と言われるサッカーの才能だったり、英語以外の教科は学年で15位に入る頭脳だったりする隠れた努力家。なのに、何故か英語だけは、それが出来ない。間違い直しすら英文字を見たら10秒で眠気が襲ってくると、訳の分からない言い訳をする。
『わかんないですよ?先生。』
『新田ぁ、私に挑戦状をたたきつけるって事は、それなりの報酬を用意してるんだろうな。』
『報酬?』
『私は、お前達を教育指導する為にここに居る。競うためにここに居るんじゃない。契約外で私を動かそうってなら、それなりの報酬があって当然だろ。』
『子供から、巻き上げようってんですか。先生。』
『新田、挑戦状たたきつけた相手に、師弟関係持ち出して、都合の良い時だけ子供か?走らなくても勝負あったな。』
新田の顔つきが変わった、完全に怒った。
『わかりました先生。報酬は、うちのフランス料理店の最上級コースをタダにします。』
『よし、乗った!今日の放課後に勝負だ。準備運動をしっかりやって備えるんだな。』
放課後、噂を聞きつけた学園中の生徒が見学する一大イベントとなった。
りのは、幼稚園の時、かけっこでは新田に負けた事がないのに、今では負けているから悔しいと先生の方を応援。
いつも先生にしてやられている生徒達は、新田ファンクラブをはじめ、新田を応援。
凱兄さんも噂を聞きつけて観戦に駆け付ける。
『あーあ、無茶するよ。手塚先生は、現役の時、日本新記録保持者だったのに。』
『えー!?うそっ、何故それをもっと早くに言ってくれないのよ!』
『あれ?言わなかった?あぁそう、忘れてたかなぁ。教師の経歴に必要ないからねぇ。』
相変わらず、ツメが甘く抜けたところのある凱兄さん。麗香が溜息をついたと同時に、スタートガンのパンと言う音が鳴った。
結果は約30センチの差で、新田が負ける。
『あぁ、やっぱ普通の運動靴は走りにくいなぁ。』と息一つ乱れのない手塚先生は、スニーカーの底を見ながらつぶやいた。
新田は息を切らせて、膝をつく。
『新田ぁ。何だったら卒業まで、何度でも受けてやるぞ。フランス料理のフルコース付きでな。』手塚先生は誇らしげに笑った。
対して新田はうなだれ、麗香の横ではニヤニヤして喜ぶりの。
『汐里ちゃん。そりゃ可哀想だよ。』
『学園では下の名前で呼ぶなと言っとるだろうが!』手塚先生の蹴りが凱兄さんの顔にめがけて入る。凱兄さんが、それを左手で阻止。しばしの沈黙の睨みあい。
『組手の勝負だっ!報酬は、新田家のフランス料理フルコース無料券!』
『受けましょう!』
『えっ?ちょっ、えぇ?何故にうちのコース料理?』と戸惑う新田。
聞けば大学の時、空手サークルに所属していたという。アスリートだけじゃなく格闘技までこなす手塚先生、中学の頃から空手をやっていた凱兄さんと、一度手合わせをしたかったと、闘志満々でイベント会場は道場の方に移った。新田との勝負に物足りなかった手塚先生がたたきつけた挑戦状は、凱兄さんの勝利。新田家のフランス料理フルコース無料券は、凱兄さんが得る事になったけれども、二人共、お父様にこっぴどく叱られて新田家のフランス料理フルコースの無料券は消滅してしまった。
手塚先生の足の速さと、格闘技の実績を見た生徒は、先生に口答えする者はいなくなった。
そんな、時に横暴な手塚先生は、女生徒相手は普通で、アイドルの話も気さくにのってくる。そして麗香の肩書に気後れしない数少ない先生だった。麗華は、言葉使い以外は、手塚先生が好きだ。
今日の手塚先生は、いつものジャージではなく、入学式以来2度目のスーツ姿。いつも後ろで一つ括りにしている長い髪を、今日はアップにして、この、「おらー」がなければ、美人教師である。三十路直前の29才、凱兄さんより3つ年上。現在恋人募集中。
先生のアップにした髪型を見て、麗香は自分もアップにすればよかったかなと少し後悔する。朝、髪型をどうしようかと散々悩んだ。雨のせいでジメッとした空気が、アレンジの出来栄えを邪魔した。セットが今一つ思い通りにいかない、結局いつものサイドの髪を後ろに持って行くが、少しでも違ったアレンジをしたくて、時間をかけて横は網込みをして、後ろと裾をカールしてふんわりヘアーを完成させた。朝一番、苦労したアレンジを、りのに「どう?」と見せたら、「いつもと同じだけど。」と言う。「どこが同じよ。いつもとアレンジ変えてるじゃないのよ!」と言ったら、「そう?」と気のない返事、りのは一体、毎日何を見て生活をしていたのかしらと思う。
待ちくたびれ気味に一つ溜息をついたら、後ろに並んでいる亮が、麗香の耳元でささやく。
「今日は、卒業式仕様か?ヘアースタイル。」
「あっ、うん。」前を向いたまま返事をする。
手塚先生は、今4組の先生とお話しをされていて、こちらを見ていないけど、少しでも動こうものなら「こらー」が来るはず、振り向くことはできない。
「いいじゃん。似合ってる。」
(くぅ~。こういう所が憎いのよねぇ。)
亮は女心を心得ている。女の変化をちゃんと気づいて褒めてくれるあたり、流石だ。そして耳元で囁くなど・・・顔が熱くなった。日々亮の事を好きになっていく。
「なんだ柴崎、ニヤついて。緊張し過ぎで、おかしくなったか?」手塚先生がお話を終えて5組に顔を向けていた。
「いえ、何でもありません。」
「よしっ、5組、胸を張れ!どの組より一番きれいな入場をするんだ!進めっ!」
亮が、後ろで笑いをこらえている気配がする。
最後まで藤木亮の策士ぶりに振り回されている麗香。
惚れた者の弱み、仕方ない事実に胸を張るしかない。
「来賓のご紹介をいたします。学校法人、翔柴会会長、柴崎文香様。」
「皆さん、ご卒業、おめでとうございます。」
「常翔学園幼稚舎、理事、一之瀬和江様。」
「おめでとう。」
「常翔学園小学部理事、柴崎洋子様。」
「卒業おめでとう。」
来賓の席には、柴崎家一族が勢ぞろい。
麗香の母親、この学園の幼稚舎から大学部まで取り仕切る翔柴会の会長、文香さんは藤色の着物を着て、正面舞台の右手、来賓席の一番前の上座に座っている。その隣に麗香の祖父であった、前翔柴会の会長の妹も鶯色の着物を着て座る。その隣が高等部の理事の妻、洋子理事、グレイのスーツに華やかなコサージュを胸に赤いメガネが、これぞ教育者の手本のような出で立ちだ。
正面舞台に向い左手は、教師陣が並ぶ。列の最初に、麗香の父親、中等部理事長は校長と同じく燕尾服で終始、笑顔で座っている。高等部の理事は、今日は出席しない。来月の入学式での顔見せとなる為、高等部の事務所で電話の留守番。
凱斗は体育館入り口で案内係兼雑用係をしていた。
ビデオ撮影の為、契約している写真店から撮影スタッフを呼び寄せているから、その打ち合わせやら放送機材のチェックなどで朝から走り回りっていた。卒業式の開式あいさつが終わって、保護者席も落ち着いた今、やっと麗香達、卒業生が並ぶフロアを見渡す事ができた。
会場の雰囲気が懐かしい。自身も12年前、ここで卒業式に参加した時の事を思い出す。
自分以外の生徒は全員高等部へ内部進学をするから、いくらBGMで盛り上げようったって、悲しくもなんともない。
なのに、一人だけ号泣している者がいた。自分を含めて、周りの奴全員がそれを見てくすくすと笑っていた。
『なんだよ。お前~。うっとしいな。』小声で大久保を責めた。
『うっ・・・・うっ。』
『お前だけじゃん、泣いてんの。』
『っせぇ、お前の代わりに泣いてやってねん。』
『はぁ?』最後まで暑苦しい奴だ。
『お前、アメリカに行っても、変な気、起こすなよ。』
『お前、高等部に行ったら、その関西弁、治せよ。』
凱斗は高等部への内部進学はせず、飛び級でアメリカのハングラード大学に行く事が決まっていた。
総一郎会長は、凱斗に過大な学力を課し、華選にあげる項目を増やすことに必死だった。
『俺の物やからな、お前のその命、勝手な事すんなよ。』
『俺の夢でもあるからな、お前のその夢、必ず叶えろよ。』
涙でぐちゃぐちゃになった顔を、驚いた表情で凱斗に向けた大久保。
プロのサッカー選手になるという大久保の夢、全国大会で優勝し着実に一歩一歩掴んで行く大久保の実績に、凱斗は今まで一度も、それを認める言葉をかけた事はなかった。おめでとうもまだ言っていない。
死のうとしていた凱斗を止めた大久保の暑苦しいお節介に観念した後でも、自分は素直になれなかった。
『大野、おまえ・・・』
『大久保啓介の活躍を楽しみにしている。』
大久保の夢と暑苦しい親友ごっこも今日で最後だ。
大久保が、また嗚咽を鳴らして涙する。やっぱり、いつも誰かが先に泣いてしまう。だから自分は泣くことが出来ない。
『まがぜろ。』
そんな暑苦しいお節介魔の大久保も、6月に結婚すると言うのだから、時の流れは感慨深い。
ここで顔をグチャグチャして泣いていたのが、ついこの間のように思えて、凱斗は微笑んだ。
式は粛々と進んでいく。
「香里市市議会議員、田中勉様・・・・・常翔学園PTA会長、吉田浩二様・・・・・・
卒業式のプログラムが進むにつれ、隣に座るりのは緊張で唾をのみ込む回数が増える。
答辞を英語で読むという柴崎のアイデア。それは問題なく出来るのだろうけど。名前を呼ばれ返事をしてから前に行くことが、緊張で歩けないかもしれないと、りのは懸念している。
入学式の祝辞を思い出された。
名簿順の、慎一と一人挟んだ向うにりのは座っていた。「祝辞、入学生代表、真辺りの」と呼ばれて、消え入るようなかすれた「はい」の返事は誰も聞こえなかった。歩くのもおぼつかなく、やっと、檀上に上がったのは平均よりも低い生徒だった事、おまけに、いくら経ってもその声は聞こえないから「マイクの故障?」と周囲は次第にざわついて、見かねた校長が、手元のマイクをりのの口元に近づけ、やっと聞こえてきた声は、たどたどしく吃音の酷さに皆が驚いた。
今になって、入学当初のりのの現状が過酷なものであったとわかると、慎一は、何をしている、と過去の自分を叱りたくなる。
手塚先生が教師陣席から、常に慎一たちの方に睨みを利かせている為、あからさまにりのの顔をのぞき込む事は出来ない。最後まで怖い手塚先生のおかけで、5組だけ兵士のように姿勢がいい。その事に満足している手塚先生の変な満足げな微笑みが、また怖かったりする。でもその怖い手塚先生ともお別れだと思うとちょっと寂しい。柴崎が勝手に挑戦状を叩きつけた100メートル徒競走は、懐かしい思い出。慎一はあれ以来、体育の時間やホームルームを利用して、何度か先生に挑んだ。100メートルがダメなら、半分の50メートルなら、もしくは400メートルならと、距離を替えて挑んだけど全敗。先生は現役の時、日本記録保持者だったと聞いて、挑むのはやめた。
「大丈夫か?」
大丈夫じゃないのはわかっているけど、これしか言えない。慎一は相変わらず、何もできない、助けてやりたくても助けてやれないジレンマに悶える。
「・・・他にも多数の方々の電報が届いております。お名前のみご紹介させていただきます。文部省科学大臣、四方忠信様。神奈川県知事、谷川昇様・・・・」
藤木のお父さんが、もしまだ文部省科学大臣だったら今頃、藤木は慌てていただろうな。藤木のお父さんは、この間の選挙で外務大臣になっていた。私立の学校は、こういう来賓者とか電報の紹介とかが多くて長い、ちゃんと端折らず紹介するから、待っている時間がとんでもなく長い。この、いつ終わるかわからない電報の紹介の次が、いよいよ、りのの答辞だ。
りのは膝の上に乗せていた手をギュっと、スカートを握った。
吐きそうなのをこらえてるとわかるから、慎一まで吐きそうな気分になる。
りのの手を上から握ってやる。こういう事しかできない、昔から。
「ふぅ~。」りのが長く息を吐いた。
「大丈夫。柴崎が付いている。一人じゃない。」
「うん。」
「以上の多数の祝電を頂いております。この祝電は、正面玄関ロビーにて啓示しております。御覧くださいませ。」
終わった、りのの番だ。りのの手に力が入る。
「卒業生、答辞、卒業生代表、真辺りの。」
「・・・・・」
返事もできず、動けないりのの手を握り、前に引っ張って立つのを介助した。
「は、はいっ」
覚悟を決めたりのは立ち上がる。何とか声は出た。だけど歩き方がぎこちない。背が小さくて幸いだ。そのぎこちない歩き方は、座る生徒の体に隠れて目立たない。
校長の前まで行って、英語で話し始めたら、人が変わったように堂々とするだろう。それまでの辛抱だ。
だけど、りのは階段を登るのに一段踏み外し、躓く。階段に手をついたりの。
会場がざわめく。一番最前列にいる柴崎と藤木が慌てて、腰を浮かす様子が見て取れた。
もう嫌だ、怖い。いくら英語でしゃべっていいって言ったって、先生に許可は貰ってない。柴崎が勝手に言って、勝手にサプライズ演出を考えたもの。ほんとにいいのかなって躊躇するも今更、絶対に日本語でなんか、答辞を述べる事はできない。だから、やるしかないのだけど。もう何度、込み上げてくる吐き気を無理やり下に押し込んだだろうか、隣に座る慎一が、心配してオドオドしているのがわかる。それもプレッシャー。もう心配かけないと誓ったのに、全然出来てないし。
「・・・・・・・他にも多数の方々の電報が届いております。お名前のみご紹介させていただきます。文部省科学大臣、四方忠信様。神奈川県知事、島本昇様・・・・」
もうすぐだ。ど、どどうしよ。えーと、名前呼ばれたら、はいって返事をして、それから、立ち上がって、右から出ていって、あの階段まで行って、登って、校長先生の前に立つ。いや違った。階段上る前に、右の来賓席に頭を下げて、左に頭を下げて、それから登るんだった。それで、校長先生に頭を下げて、英語でスピーチ。
ふと、握りしめていた手の上に慎一の手があるのに気づく。
「大丈夫。柴崎が付いている。一人じゃない。」私の中のニコが安堵する。この手がいつも私を救ってきてくれた。ふーと息を吐いた。
「うん。」
そう、大丈夫、柴崎が付いている。私達はプラチナコンビだから。
柴崎と練習する為に、今日は少しだけ早く登校し、更衣室で柴崎と練習をした。
私が英語を話すフレーズの後に、柴崎が日本語訳を入れる。
どこまでワンフレーズにするかが重要。私の英語の終わりが柴崎にわかりやすいようにしなければならないから、発音にも注意しなければならない。絶対に間違う事が出来ない。
『もう少し遅くね。在校生にもヒアリング出来るように。』
『もっと遅くぅ?うーん、簡単に言うけど、難しんだよ。』
『私からしてみれば、早口の方が難しいわよ。』
『遅くなればなるほど、発音のごまかしが効かないじゃないかぁ。』
『ごまかしって、りのは英語の発音は完璧でしょうが。』
『そうでもないよ、結構適当に、誤魔化してるよ。』
『りののレベルなんて誰もわかんないから、とにかくもう少し遅くね。』
『むぅ~柴崎、完璧を求めすぎだよ。』
『りの、負けてもいいの?』
『誰に?』
『新田と藤木に。』
『はぁ?』
『あいつらはサッカーでゴールデンコンビだと言われて、全国優勝した。』
『私達二人は、それを超えるのよ。』
『超える?』
『そう、私達はゴールドより価値のあるプラチナコンビよ。』
『絶対にうまく行くわ。』
柴崎のまっすぐの眼とその言葉は揺らぎなく、私達をいつも引っ張る。
『うん、うまく行く。プラチナコンビ。』
「卒業生、答辞、卒業生代表、真辺りの。」
来た!えーと、まずどうしたら・・・
握っていた慎一の手がグイっと引っ張られる。そうだ、返事しなくちゃ。
「は、はいっ」何とか声が出た。これが一番の心配だった。
それから、右に出て歩く。
(皆が見ている。怖い。)
震える、なんて長いこの道のり。
最前列にいる柴崎と藤木と目が合う。
(大丈夫、ゴールドを超える私達はプラチナコンビ。)
やっと階段の所に到着。登ろうと足を一段目にかけた時、思い出した。
(左に挨拶、右に挨拶を忘れた。ヤバいっ)
と、どうしていいかわからなくなった足が彷徨い、階段を踏み外した。
(痛いっ。)弁慶をしこたま打つ。
背後で柴崎と藤木が「あっ、」と声を出すのが聞こえる。
(ぁぁ、プラチナの価値は下落。)
起き上がり右に挨拶、左に挨拶をして階段を登って、校長先生の所まで歩いていく。頭を下げる。
校長先生は、さっそくマイクを私の方へ近づけた。きっと三年前の事を思い出しての事だろう。
校長先生の顔を見えないようにして答辞の紙を広げる。だけど持つ手が震え、紙を下に落とした。
(ああ、入学式と同じ、どうしよ。)
皆が注目して、とても紙を拾えない。
校長先生が、困り顔で台の向こうから答辞の紙を拾いに回り込んできた。
(ああ、柴崎に怒られる。)
目の端で柴崎の顔が見えた。唇が「頑張れ」と動く。藤木も横でうなづいている。
メグも、ハルも。そして慎一も。
『大丈夫、私達はプラチナコンビ、うまく行く。』
答辞の紙なんかいらない。英文は全部覚えている。英語ならいくらでも喋れる。
英「答辞」
「答辞」
英「本日は私達、第60期卒業生のために、このような心のこもった式典を挙げていただき、まことに有難うございます。」
「本日は私達、第60期卒業生のために、このような心のこもった式典を挙げていただき、まことに有難うございます。」
柴崎が私の英語の後にすかさず、日本語訳を入れる。会場がざわついた。
「何、真辺さん、どうして。」校長先生が、屈んだまま驚きの表情を向けてくる。だけど無視して進めた。
英「またご多忙の中をご出席下さいました御来賓の皆様、校長先生はじめ諸先生方、並びに関係者の皆様に、」
「またご多忙の中をご出席下さいました御来賓の皆様、校長先生はじめ諸先生がた、並びに関係者の皆様に、
英「卒業生一同、心から御礼申し上げます。 」
「卒業生一同心から御礼申し上げます。 」
来賓と教師陣も顔を見合わせて驚いている。
英「思い起こせば、3年前、新しい制服を身に着け、期待と不安を胸に歩いた桜咲く道の記憶は、まだ新しく、」
「思い起こせば、3年前、新しい制服を身に着け、期待と不安を胸に歩いた桜咲く道の記憶は、まだ新しく、」
英「短い期間でしたが、私達は学問のみならず、多くの貴重なことを身につけることが出来ました。」
「短い期間でしたが、私達は学問のみならず、多くの貴重なことを身につけることが出来ました。」
柴崎とのタイミングはばっちり。練習どおり。
遠くの保護者席でママと啓子おばさんの姿が見えた。
「・・・・時に喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、それらは、決して無駄ではなく。私達が歩んできた数多くの事は、経験としてこの身に蓄積され、必ず未来につながります。それは人間として生きて行く上で非常に大切かつ、重要なことであり、この常翔学園でなければ得られなかったものです。本校にはユニークな先生、ファイトある先生が多数おられ、そんな先生方の個性を重視したご指導の賜物であり、それも今では楽しい思い出となっております。 諸先生方、そして、今まで育ててくれた両親に、心より感謝いたします。
成長した私達の姿を見せる事が、何よりの孝行となると胸に抱き、この常翔学園の名に恥じない、常に未来に羽ばたき、挑み続けます。 英語教育に力を入れている常翔学園の趣旨に基づき、勝手ながら、英語でのスピーチに代えさせて頂きました事、お詫びいたします。本日は、本当に有難うございました。」
「英語スピーチ、卒業生代表、真辺りの。日本語訳スピーチ、卒業生代表、柴崎麗香。」
(りの、成功よ。うまく行ったわ。)
亮と顔を合わせてうなづいた。さぁ、ここからはプログラムにないサプライズ演出。
「卒業生、起立!」
麗香の声で、同級生たちがすばやく立ち上がる。何も知らされていなかった教師陣達が慌てる。
(さぁ皆、私が居る、この60期生じゃなければ出来ない事よ。皆、胸を張れ!)
「会場の皆様に、回れ。」
左サイド側にいる6組は教師陣の方に体を向け、右サイドに居る1組は来賓席に体を向けた。
後方と真ん中は体育館の後ろへ体を向ける。
「今まで、育てていただき、ありがとうごさいました。」
「ありがとうございました。」
全員の声が、体育館に轟く。
「我々60期生は、常翔の名に恥じない、常に羽ばたく努力を惜しまない人間である事を胸に、今日、卒業し、更なる未来へ駆け行きます。どんなに雨が降ろうとも、どんなに嵐が来ようとも、やまない雨はないと信じた強い心はきっと、空に綺麗な虹を描くでしょう。さぁーこの雨を吹きとばせ!行く未来は私達自身の手でつかむ!」
ちょっと言葉を変えた。亮がそれに気づいて、飽きれた顔を向けてくる。
(いいのよ、これで。これが最良、最高の今の気持ちなんだから。)
「見ていてください。私達が描く虹の架け橋を!」
全員で声を揃える。
「行け!常翔人、未来に向かへ!」
手に持っていた紙テープを天井めがけて投げる。
卒業生全員で投げた紙テープは、色とりどりの孤を描き、
体育館に虹を作った。
外は雨、
会場は晴れ、
未来は
虹の架け橋の向うに。
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