第10話 クリスマス色の現実

《1》




慎一は固まった体を伸ばしながら遮光カーテンを開けた。差し込んだ光が目に眩しく痛い。時計を見れば、昼の一時を過ぎている。12時間寝ていたことになる。

もう電話は来ただろうか。いや電話が来ていたら、流石に母さんも起こしに来るはず。

こんな時間まで起こされなかったという事は、やっぱり選抜には入らなかったって事。

窓を開ける。冷水のような空気が部屋に流れ込んで来て、慎一は身震いした。一気に部屋の空気は澄み渡る。

人生、そんなに甘くない。

窓を開けたまま、部屋を出る。ゴムが緩くなったジャージのズボンを手で持ち上げながら階段を降りた。この間、ジャージの裾がずれたまま階段降りたら、踏んで階段を踏み外し、危なく下まで落ちるところだった。この手すりがあったから2段落ちで助かったけど。この手擦り、昔はなかった。慎一が中一の2月の後半に鎖骨を骨折した時、ぐるぐる巻きの包帯姿に驚いたりのが、何を思ったのか、突然、慎一の屋から飛び出し階段を駆け降りた時、派手に転げ落ちた。折り返しタイプの階段だったから10段落ちで済み、身体が小さくて柔軟だったから無傷で済んだ。そんな事があって、母さんがすぐに大工を呼んで手すりをつけてもらった。もし、全国大会前に階段から落ちて骨折でもしていたら、自分は寂しく応援席で皆の歓喜を眺めていたと思うと、ぞっとした。よく怪我なしで挑めたものだと思う。

トイレを済ませ、洗面で顔を洗う。鏡に映った自分の顔、変わりない。寝ぐせの髪を水で濡らして押さえつけた。

治らない。すぐに諦める。こういう努力はしない。暖かいであろうリビングへと足早に入る。

「今度は誰?ったく、あたしじゃねーっつうの!」

炬燵に潜り込んでいるえりが、顔だけ出してスマホの画面に文句を言っている。我が家は、冬になったら炬燵が登場する。

父さんが個人経営を始めた店が成功して、そこそこに上流階級の仲間入りをしたとはいえ、基本は団地住まいだった庶民の生活習慣は抜け出せない。母さんは店で接客をするために、毎日化粧して髪を結って、いつどこに出ても恥ずかしくない恰好でいるけれど、定休日は化粧もしないで父さんと二人してジャージ姿で炬燵に潜り込んでいる。「冬はやっぱり炬燵よねぇ」なんて言いながら。今のえりはまさしく二人のDNAを受け継いでいる。そのえりの機嫌が悪い。下手に声かけたらロクなことがない、慎一は無視してキッチンに行く。

「あー腹減ったぁ。」独り言が無意識に出る。きっとキッチンの冷蔵庫の前に来るたびに、慎一はそのフレーズを言っている。

「ちょっと慎にぃ!いい加減にして!」いきなりの喧嘩口調。

「あぁ、悪い。今から昼飯作るから、もうちょっと待て。」

「昼ご飯じゃない!これ見てよ!」

慎一は冷蔵庫横に置かれたバケットの中の、店の残りもんのパンを頬張る。

「んあぁ?」えりは炬燵から腕を伸ばしスマホをこっちに向けている。

見えるわけねーだろっという突込みは辞めておく。

「昨日から、今ので98だよ!」

「何が?」

冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。ついでに、冷蔵庫の中の食材チェック。昼飯のメニューを何にするか、と悩む前に定番のチャーハンに半決まりで、冷ごはんの存在を確認する。

「何がってぇ、優勝おめでとうメールだよ!昨日の試合、終わった時からひっきりなし!あと2件で百だよ。百!。」

「良かったな。チャーハンでいいかぁ。」

「うん。チャーハンでいい。って、良くないわ!」

「えーチャーハンが嫌なら何がいいんだよ?」

「え?いや、チャーハンはいいの!」

「どっちだよ。」

「その前の!良かったなが、うわぁ、また来た!99!。ノイローゼになる!」

なるわけない。えりの気質でノイローゼになってたら、世界中の人がノイローゼだ。

朝から何を騒いでんだか。あっ昼かもう。もう一つパンを口に頬張る。

「慎にぃのせいだからねっ。あたしが優勝したわけでもないのにぃ。」

「はいはい、すみませんね。で、チャーハンで良いんだな。」

「だからっ、さっきからチャーハンで良いって言ってんじゃん!しつこいよ!」

人に飯を作ってもらう態度じゃないよな、どう聞いても。

いつもなら、その口調を注意するところだけど、今日はやめておく。

昨日の全国大会優勝後から、我が家の携帯と家の電話には、おめでとうのメールや電話が沢山かかって来ていて、大変な事になっていた。慎一のスマホにも家で観戦していた同級の友達からのメールが多数送られてきていたけれど、サッカー部以外で携帯番号の交換をしている友達なんて数少ないから、昨日の晩にはそのメールのやり取りも落ち着いた。しかしえりはまだ続いているらしい。その数100人近いと言うから、えりの顔の広さに驚く。

「通信料、高いって、あたしが怒られるじゃん。」とえりは口をとがらせて、手慣れた速さでスマホを操作する。

慎一は腹の虫おさえに3つ目のパンを口にくわえながら、冷蔵庫から取り出した食材を切り始める。

隣でフランス料理を営む我が家は、何かしらの食材が切らすことなく冷蔵庫に揃っている。小3の夏休みに中々店から戻ってこない母さんに、しびれを切らして慎一は自分で野菜炒めを作って食べたのがきっかけとなって、料理に目覚めた。腹を空かせたえりも、おいしいと言って。なんだ料理って簡単にできるじゃん、と思った。いつものごとく「遅くなってごめんねぇ」と帰って来た母さんは慎一が初めて作った野菜炒めを食べて、「おいしい」と顔をほころばせた。その時の母さんの「おいしい」って顔が、100点のテストを見せた時よりも嬉しそうで、とても嬉しかった。しかし、今から思い返せば、よく母さんは怒らなかったと思う。小3で勝手に包丁使い火も使い、冬はどんなに寒くても大人が帰ってくるまでストーブは禁止、炬燵だけって言われていて、火なんて使ったら怒りそうなもんだったのに。ほんと母さんの子育てっていい加減というか、筋が通っていないと言うか、慎一達は放置されてきたのだと思う。

さつきおばさんは以前に「子供をほっとくのも勇気がいるものよ。」と言っていたけど、

(勇気?)母さんのは、ただのいい加減なだけだ。あの母さんが勇気を絞りだすような繊細さを持ち合わせているわけがない。

焼豚が無いので代わりに豚肉に、みじん切りした野菜類を炒めて、一旦、皿に取り出す。中華鍋を更に熱して中華鍋から煙が上がっているのを確認したら、卵を割って投入、中華お玉の背で卵を割り砕いて混ぜ、レンジで温めなおした冷ご飯を投入。

したところで家の電話が鳴った。

チャーハンは、これからが忙しいってのに、タイミングの悪い。

「えり、電話、取って。」

「えー。」舌打ちしてから、えりはだるそうに炬燵から這い出た。

「えり、いい加減にしろよ。その悪態。」慎一の注意も聞かず、えりは炬燵の上にあった子機電を取って出る。だけどその声は低く、不機嫌の声色。

「はい、新田です。・・・・・えっ、なんて?。じぇ?。」

慎一は中華鍋を振りながらえりの電話応対を見守る。

「日本サッカー連盟?」

「ちょっと待て!えり!変われ!」慌てて火を止めて慎一は炬燵まで駆け寄る。

「はぁ?えりにチャーハン作れってかぁ無理じゃん!」

「ちがッ!電話だ!ばかっ貸せ!」。

   

「日本サッカー連盟です。常翔学園三年生、新田慎一君ですね。ユース16の日本代表候補として選ばれました。つきましては冬休みの選抜合宿に参加できるかどうかの確認のお電話です。」







はぁ~、全く集中できない。もう期末テストまで3日しかないというのに。

苦手な社会は学期末範囲の半分も覚えられていない。中間テストは5教科オール満点を取って、皆を驚かせた・・・・らしい。

おぼろげな記憶、皆が『凄い真辺さん』とか言ってくれているのを覚えているけど、ぼやけていて今一つ自分のじゃない感覚。

その中間テストの問題がどんな問題だったか、全く思い出せない。本当にテストが満点だったのかと心配になったから、凱さんにもう一度、同じ問題を用意してもらって解いてみた。総得点976点、英数理は元々得意だから200点満点だったのは普通に納得。ちょっと自信のなかった国語が満点だったのは純粋にうれしくて納得。

問題は社会、176点。それをどう考えるべきか・・・24点のマイナス。全くわからなくて記入出来ない所が3カ所もあった。あと根本的に間違って覚えている所が3か所、誤字が2か所、満点の答案と見比べて、どう納得していいかわからず、唸った。

やっぱり、中間テストで満点を取ったのは私じゃなくてニコなのか?と考えたら、1年からずっと学年トツプの座をキープしてきたのはニコであると言う事になる・・・ではニコはトップの頭脳があるのになぜ、英語が全くわからなくなった?という疑問にぶち当たる。数学と理科は先行しているフィンランドから、授業の教科書やノートを送ってもらって英語脳で勉強しているから、英数理だけはりのが担当していた。とこじつけな設定で納得すれば、そんな短時間でりのとニコが入れ替わって生活していたと思うと、つくづく都合のいい頭をしてるなと、自分がほんと嫌になる。

私が前回のテストと今回のテストを見比べて唸っていると、凱さんが「徹夜で覚えた記憶なんて、すぐ忘れるよぉ~」と緩く笑った。あんたがそれを言うか?辞書を丸ごと覚えて忘れない特殊脳のあんたが、という突込みは、ため息を吐いて捨てた。

さらに凱さんは、「学年2位の906点とは大差だから、そんなに深刻にならなくても。」と言う。それでも唸って解答用紙を見比べていたら、「何だったら3人にもやってみてもらう?点数落ちるから。」と付き添っていた慎一と柴崎と藤木に、凱さんは笑顔を振りまいた。3人は、声を揃えて絶対嫌だと叫んだ。

中間テストで満点を取ったのが、りのとニコどっちであれ、学園中では、真辺りのが次に取る点数に妙な注目している。

「期末テスト、楽しみね。」と私の事を良く思っていない教師陣のその言葉は、嫌みとしか聞こえない。

こそこそ囁かれる同級生の視線は、下世話に迷惑でしかない。

今回の社会の範囲は、近代史~政治経済の仕組みまでで、歴史と比べるとまだわかりやすく憶えやすいのが救いだけど、基本嫌いな科目なので、やっていても面白くないから集中力は続かない。気づけば頭の中は別の事を思い出していて、書き綴っている手は止まっている。

昨日の余韻がまだ残っていた。自分が優勝した時よりも興奮した喜びが胸に、思い返せば自然と顔がほころぶ。

全国中学生サッカー競技大会に優勝した慎一。2対1で、勝ち越しのゴールを決めたのはキャプテンでエースの慎一だった。前半の先制点は2年生の慎一と同じ特待でスタメンに選ばれていたFWの永井君で、勝ち越したゴールと共にアシストをしたのは藤木だった。素人の私でもわかる藤木のアシストのうまさ、慎一はいつも、あいつのアシストは、本当に欲しい所にピンポイントでボールが来るからやりやすいと言っていた。まさしく黄金コンビ。試合終了のホイッスルで、二人駆け寄って抱き合った姿に感動して、柴崎と手を取り合って泣いた。

家に帰って、録画したおいたケーブルテレビの中継を見た。我が家は集合住宅だからネットやケーブルテレビの回線は棟内すべて開通している。貧乏だけど、そういうのはうれしい事に環境が整っていた。

観客席でずっと見ていて、すべての試合運びを覚えているというのに、同点ゴールを入れられた時はどうしようと焦って、さらに後半の慎一のゴールで喜んで、試合終了のホイッスルで藤木と抱き合って喜ぶ慎一の笑顔のアップで大泣きした。

ママが仕事から帰ってきてから、夕飯後に2度目の録画再生で、今度はママの涙につられて泣いた。

観客席では慎一の姿は小さいからどんな顔をしていたのかはわからない。だけど、テレビに映った慎一の凄味ある表情や、ゴールを決めた時の喜びの顔が頭にインプットされて消えない。初めて慎一をかっこいいと思った。

「はぁ~、今日は駄目。」シャーペンをノートの上に投げおいた。

勉強は諦めて部屋を出る。リビングでアイロンがけをしているママに、外に出てくると声をかけた。

「コート着て行きなさいよ。」

また部屋に取りに戻る。

「暗くなるの早いから、早めに戻ってきなさいよ。」

「うん、ちょっと気分転換に散歩するだけだから。」

「車に気を付けるのよ。」

小学生じゃないんだから、という反発が出そうになったけれど、ぐっと我慢した。

玄関を出て寒さ凌ぎにポケットに手を入れる。財布が入れっぱなしになっていた。エレベーターに乗ってから出して財布の中身を確認。1538円の残金、予想以上に残っていた。コンビニ行ってプリンを買おう。朝の情報番組でやっていたコンビニの新商品のプリンがおいしそうだった。我が家から一番近いコンビニは駅へ向かう途中一分足らずの所にあるけれど、そこはテレビでやっていたコンビニとは違う。散歩も兼ねているのだからもう少し長く歩きたい。自然に足は、通学方向の県道167号線沿いのバス停近くのコンビニへと向いていた。昨日の寒波到来の警戒は解除され、今日の寒さは幾分ましになった。それでも柴崎は寒いを連発するだろう。プリンが食べられると思うと寒さなんて吹っ飛ぶ。あの甘くとろける食感を思い出すだけで、体の体温は1・2度上昇している。

子供の頃から大好きなプリンは、毎日の主食替わりになってもいい。という話を、昨日のハーフタイムの時にすると『太るわよ。』とそっけない返事を柴崎にされた。プリンの為なら太ってもいい、誘拐されてもいいと言ったら、『じゃ、プリンを毎食後に食べさせてあげるから、柴崎家の養子になる書類に判子を押すのね。』とにやりと笑う。一瞬、心が揺れた。柴崎家の財だったらシェルダンの店のプリン一体いくつ買えるだろう。いや、店ごと買収も出来るんじゃないか、と考えて、悪魔のささやきに心が折れそうになる自分の頬をビンタした。

♪露「素敵な日はプリンのある朝、素敵な日はプリンのある昼、素敵な日はプリンのある夕方、素敵な日はプリンのある夜」

ロシアのCMの曲。耳に残って、よく口ずさんでいた。本当はプリンのフレーズの所は紅茶の固有名詞だったけれど。

パパの仕事の関係で移り住んだフィンランドは、ロシアの国境近くの街で、昔はロシア領だったという経緯もあり、住民はロシア語を話す人が多く、テレビも一部ロシアの番組の電波が届いていた。

学校では英語が公用語で、フィンランド語はあまり馴染みがない。

♪露「素敵な日はプリンのある朝、素敵な日はプリンのある昼、素敵な日はプリンのある夕方、素敵な日はプリンのある夜」

すれ違った年配の女性が、私の言葉が日本語じゃないのに驚いて、大げさに振り返られ見られる。

ロシア語は日本では中々聞くチャンスがない。英語は映画などいくらでも聞けるけど、ロシア語は国営放送のロシア語を学ぼうの1番組だけ。言語は使わなければ忘れてしまうから、少しでも耳馴染みをつけておこうと、その番組を見るのだけど、基礎過ぎてこれを忘れたら終わりだなってレベル。

枯葉が目の前を通り過ぎて、足元に落ちた。

フィンランドは、もうとっくに雪に閉ざされている。日本はコンビニの窓に偽物のスプレーで書いた雪の結晶の飾り付けと偽物のクリスマスツリー。街は銀色には輝かない。

「帰りたい」フィンランドへ、フランスへ。

県道167を渡る信号が、青で点滅し始めた。走る。渡りきってもそのままコンビニまで走った。自動扉が開くと、リズミカルなクリスマスソングが流れていた。信仰のないクリスマスは滑稽で恥ずかしい。

サンタクロースが住むと言われるフィンランドのクリスマスは、もっと静かで厳粛だ。クリスマスの飾り付けももっと地味で宗教的。

プリンの棚に直行。朝の情報番組でやっていた【釜出し濃厚焼きプリン】には新商品ってシールが貼っている。結構高い。150円ぐらいだと勝手に想像していた。でも高いって事は、やっぱりおいしいって事だ。2個食べたい。二つで496円。うーんと悩む。そろそろ、フィンランドの友達に続きの漫画も送ってあげたい。スターリンで稼いだバイト代は、もうほとんどなくなっていた。キャンプで使って残ったお金は、日本の漫画を中古書店で買ってフィンランドに送ってあげるのに使った。フィンランドの友達は、簡単な漢字なら読める同級生が多くなってきている。漫画は、難しい漢字はルビがついていて、日本語を学ぶには最適なテキストだ。

キャンプのあと、こっちでも人気の忍者系少年漫画を15冊ほど送ってあげた。「最高に面白いよ。」って、同級生の間で回し読みしてスクール中が忍者ブームになっているとのメールが送られてきていた。その漫画の早く続きが読みたいと催促されていた。

ふと、視線に気づき振り向く。レジのアルバイト、学生らしき男の人二人が、私の方を見てひそひそとしゃべっている。

やばいっ、あまりにも長く商品棚の前で思い耽っていたから変な子と思われている?

急いでプリンを一個手に取る。もう一つ取るべきか、取らざるべきか。496円が高いか安いか、また悩んでいると、自動扉が開いて、外の喧騒と共に、女の子たちの大きな話し声が入ってきた。

「そのサッカーの試合に出てた常翔のキャプ、新田って言うんだけどさぁ、小学ん時の同級生なんだよね。」

「へぇー。」

慎一の事だ。思わず聞き耳を立ててしまう。

「それがさぁ~、ものすごいカッコよくなってて、びっくりした~。」

「うそ、イケメン?」

「うんうん、イケメン、それに常翔のキャプだよ。昨日のテレビ、ずっとカメラ追っかけてて、解説でも将来有望って言っててさぁ。」

「常翔って金持ち学校じゃん。」

「だって、この先の信号左、ちょい行ったところにあるフランス料理店、知ってる?テレビも結構、取材来てたりする。」

「知ってる、知ってる。」

「あそこん家の子だもん。」

「うそー、イケメンに金持ち、常翔のキャプって・・・何で捕まえとかないの!」

「そうなんだよ!って言うか、小学ん時は、あんなに格好良くなるとは思ってなかったんだよね。」

「見る目ないなぁ。」

「おとなしいタイプで、女子としゃべらなかったんだよね。顔はまぁ悪くはなかったけど、ほら小学生の時って顔より面白い子、しゃべりがうまい子がモテてたじゃん。」

「あぁ、そうそう、うちの小学でもそうだった。」

「新田はスポ少やってるとかって、学校終わったらさっさと帰ってさ、地域の子供会とかも不参加だったんだよね。同級とは一歩引いた感じあってさ、でも昨日のテレビ見て、ほんと惜しい事したぁって身もだえしたよ!」

私の知らない慎一の小学校時代を話す女の子たちは、店内を一周するように、近づいてくる。

「写真とかないの?」

「小3の時のクラス写真なら家にある。」

「小学時代じゃなくて、今のだよ。」

「今のはないなぁ、ネット探したら誰かアップしてるかも。」

「それより、そのフランス料理店、行ってみたらいいんじゃない。」

「店に居る?それにこんな格好で嫌だよ。行くならちゃんと・・・ま、真辺?」

その女の子たちと視線があった。慎一の話をしていたのは小6の三学期だけ私と同じクラスだった、平山さん。もう一人は、見知らぬ人だけれど、話しの内容からして私達が通っていた小学校とは違う出身の子だろう。二人は地元の公立中学校のジャージを着ていた。

「あっあっ、ひ、ひらっ」驚きで息が詰まる。言葉にならない。

「誰?」

「小六の三学期に転校してきた同級、その常翔を特待で入った子。」

「常翔の特待ぃ!マジ?」

「ごっご、ごめ、ん」

謝らなくちゃいけない事は何もないはずなのに、二人の視線に条件反射の悲しき身体反応、手が震えてくる。

彩都市に引っ越してきて、一言もしゃべらない私に同級生たちは、私のことを幽霊だとささやくようになった。髪の毛も長かったからまさしくのぴったりコメント。東京でされたような、筆箱や上靴をゴミ箱に捨てられたりとか、教科書やノートに悪口を描き込まれるとか、掃除道具入れに閉じ込められたりとかの物損被害はこちらではなかったけれど。私が常翔の特待に合格したことが、どこからか知られて広まると、腰掛で転校してきた奴とささやかれ露骨に避けられた。それもあと一か月半の辛抱と思って、自分では傷ついているつもりはなかったけれど、でもこうして手が震え、吃音が酷くなるという事は、私、傷付いていたんだ。と判明する

「・・・・サッカー部の優勝おめでとう。」平山さんは表情を一変して笑顔で話しかけてくる。

「あっあぁ・・。」

平山さんの連れの子が、不審な目で私を見つめる。

「新田君って元気?昨日の試合、テレビで応援してたんだけど。凄いね。同じクラス?」

「あ、の・・・。」

(ね、何こいつ、さっきから。これでほんとに特待?)平山さんに囁く連れの子。

「わ、わった、い、い急い、いでる、」辛うじて絞り出すように声に出し、私は震える足を無理に動かして、レジに走った。

「なに?あれ?」

「あぁそういえば、転校してきた時、先生が、日本語が苦手だから喋れなくても指摘しては駄目ですよって言ってたの思い出した。」

「はぁ?日本語が苦手って何それ?」

平山さん達の会話が背中に突き刺さる。

「248円です。」

コートのボケットから財布を出そうとしても、手が震えて中々取り出せない。

「長い間、海外に住んでたとかって。」

「マジ?どこの海外よ。」

ポケット縫い口に引っかかって取り出せない財布を強引に引っ張り取り出す。

「そこまで知らないなぁ。」

「じゃ、英語ペラッぺラって事?」

「スプーンはご入り用ですか?」

店員の質問に、うなづいて答える。小銭口のチャックを震える手で開ける。

「まぁ、そう。だから特待に合格したって話。」

「君、常翔学園の生徒?」話を聞いていたのか、店員がそう話しかけてきた。それに答える余裕なんてない。500円玉をトレーに置いて、プリンの入った袋を手に持つ。

「あそこは英語教育バリバリだもんねぇ。」

「さっき、こいつときれいな子だね、どこの学校の子だろうって話してて、あの子達の声が聞こえたから。常翔の中等1年生?」

1年生って、完全に身長で予想したな。

「でもさぁ、海外で住んでて英語ペラペラで特待合格って、なんか、」

「昨日のサッカー見たよ、君は何のクラブしてるの?常翔はクラブ必須なんだよね。」

「卑怯じゃない?」

平山さん達の会話と、店員たちの会話が同時に耳に入って来て、もう頭がパニック。

走って店内から逃げ出した。

「あっ、ちょっと、君、おつり!」





おっしゃーと慎一はガッツポーズをとる。

ユースの日本代表に選ばれ、強化合宿に参加できる。プロサッカー選手になるという夢に一歩近づいた。

強化合宿に参加できますと即答したけれど、良かったのだろうか。と改めて壁に張ったカレンダーを見たが、特にこれと言って重要な予定は書かれていない。詳しくは学園を通じてお知らせしますと言われて電話は切られた。

合宿って費用はいらなんだろうか?日本の代表なんだから要らないだろう。いや、まだ代表じゃないか。合宿後に代表の正式メンバーが決定される、という事は、やっぱりまだ代表じゃない者に費用無料で参加はさせないか。と、変に金銭的な事を心配している自分に苦笑した。今年はずっとお金の心配をしていたりのに感化されてしまっている。

「うっさい!慎にぃ!ぶつくさとキモイ。」

「声、出てかぁ?」ニヤついている自分を自覚する。

「ばっかじゃないの!声が出てるか出てないかもわかんないなんて。っていうかチャーハン!」

「あぁ、悪い。」

中断していたチャーハンを作り上げて、2つの皿に盛り分ける。

「出来たよ。」

「はぁーい。」と炬燵から這い出てくるえりは、携帯電話から目をはなさない。

二人分のチャーハンをダイニングテーブルに運び、慎一は食べようとしてスプーンを置いた。やっぱり、母さんに確認を取った方がいいかもしれない。お金の事じゃなくて、違う事で駄目ということもありうる。と一度座った椅子から立ち上がり玄関に行く。えりは携帯を操作しながらスプーンを持とうとしている。一度叱らないと駄目だなと思いつつも、慎一は代表の合宿の事で頭がいっぱいだ。玄関で草履を履く。うちは店舗と家が別棟で建っている。店の方が先に建って、経営が順調に繁盛してから隣の空き地を購入して家を建てた。店の裏の厨房へ行くには、玄関に出て表通りを周り店舗正面を過ぎて店の駐車場の隅の通路から裏戸に行く外回りか、玄関を出て家の敷地と店の間の細ーい通路?っていえるのかどうか知らないけど、たまに蜘蛛の巣が張ってるのを手で払いのけながら、身体横気味にしてすり抜けていく内回りの2種類がある。せめて、家の裏に勝手口を作ってくれたらよかったのにと言ったら、母さんは「あら、ほんとね気づかなかったわ。」と相変わらずいい加減な返事。父さんに「何故、言わなかったんだよ。」って言ったら、「マイホームは母さんに任せてた、口出ししたら怖いだろ。」と小声で返された。

玄関内の鏡を見て内回りと決める。寝癖が酷い。身なりに無頓着な慎一でも羞恥心はある。表回りでこのヨレヨレなジャージと寝ぐせ姿を誰かに見られるのは恥ずかしい。

玄関扉を開けると、見慣れた我が家のアプローチの向こうに人影。そして奇声。

「きゃ、新田君!」

慌てて、玄関を閉めた。

「マズイ!」

「不味い!」

えりと慎一のハーモニー。

「最悪。何、今の、黄色い声の女子達・・・」

「最悪!何、このチャーハン、最低の味!」   

あっ、調味料を入れるの、忘れてた。 

   

 




「ここよ!後半27分、相手のパスワークを止めてからの、この新田の方向転換、それから立ち上がりドリブル、二人のマーク振り切る時のぉ、これ!なんなの、この技。まるで新田の体に磁石があるみたい!それから、左、フリーになってた、あんたにパスを回して更に上がって。コーナーで詰められて、あんたのフェイントの駆け引きもすごいわ。それからゴール前の誰もいない所に、センタリング、ミス?って思ったところに新田がすっと現れて、ボレーシュート!の勝ち越し点!最高!何度見てもいいわぁ~感動!ケーブルも、よくぞこの角度から撮影していてくれたわ~。もう一回見ようと。」

マジかよ。昨日から何回目だよ。自分の姿をずっと見せられるこっちの身にもなれよ。と亮は心の中で悪態ついた。

昨日、試合が終わった後、学園は保護者会とで祝賀会を学園の講堂で開催してくれた。5時からスタートした祝賀会は歓喜の興奮が冷めずに夜の8時までかかった。寮生の亮は本来なら6時半が門限で帰らなければいけなかったが、凱さんが気遣ってくれて寮には柴崎邸で預かると連絡してくれて、門限関係なしに遅くまで参加することができた。

サッカー部の同期の寮生は入学当初、亮を含めて4人いた。でも最後まで寮にいたのは亮一人。一人はきつい練習後に洗濯やら自分の身の周りをする事に疲れて、まだ一時間半の通学の方がマシと言って早々に脱落。もう一人は元々家族でこの付近に引っ越して来るはずだったのが親の仕事関係で延期になった為の期限つきだった。最後の一人は去年の冬に練習試合で足を骨折、元々疲労があった膝だったからその骨折が決定打となってしまって、サッカーを辞めてしまった。

2年と1年の寮生は昨日だけ特別として7時まで参加して、凱さんがまとめて送り届けていた。

亮だけが外泊を許されて遅くまで祝賀会に残れたのは、祝賀会が引退式も兼ねていたのと、ユースの日本代表選抜に優勝校である常翔学園から数名出るという話があったからだった。その電話が早ければ大会終了後すぐでもあることが多く、その選抜選手が、新田はもちろん、二点共のゴールアシストをしたのが亮だった事で、二人が選抜に選ばれるという憶測で昨日は盛り上がっていた。そういった事を見越しての配慮だったが、電話はまだない。

柴崎邸の住み込みのお手伝いさんである木村さんは、亮の汚れたユニフォームやジャージを洗ってくれて、朝にはホテル並みにビシッとアイロンのかかった状態で揃えてくれていたし、昼ごはんもごちそうになって、もう柴崎邸に滞在する理由はなかったのだけど、何気に選抜決定の電話が来るのではないかという期待に、帰れずにいた。

柴崎の、同じシーンで同じ悲鳴と感嘆の声にイラつきながら、携帯に届くメールの返信をする。サッカー部以外の学園の友人、寮仲間と卒寮していった先輩たち、おまけに昔付き合っていた彼女達まで、昨日の試合終了後から続々とおめでとうメールが来ていて130人を超えた。亮はただ一つ、昨晩から返信を保留にしているメールを開き、内容を読み直す、を5回以上繰り返していた。

1年のバレンタインに告白されて付き合った同級生、2年の春には「ごめんなさい、なんとなく怖いの。」と言って別れた短い交際期間だった彼女からのおめでとうのメール。

『ケーブルテレビで観戦していました。優勝おめでとう。とてもかっこよかった。

サミトリーホールのクリスマスクラッシックコンサートのチケットがあります。

お祝いがしたいです。』

初めての交際だったこともあり、亮は彼女の事を大事に扱い、彼女の話題に合わせられるように、クラッシックの知識を詰め込んだ。彼女は幼少の頃からピアノをしていて、常翔学園では吹奏楽部に入っていた。発表会があると聞けば行って鑑賞した。彼女が何を思い、何をしてほしいのか、人の本心を読み取る能力を最大限に利用した。だけどそれが行き過ぎた。彼女は亮のピンポイント過ぎる干渉を不審に思いはじめ、気味悪がり、耐えられなくなった。興味のなかったクラッシック音楽の良さがわかり始めた頃に切り出された別れ話。そういえば、彼女が別れようと考えている事を、亮は読み取る事が出来なかった。柴崎のお母さんが言ったように、亮自身の経験の範囲でしか読み取れないという法則が、ここに当てはまる。交際している彼女から別れを切り出されるという経験が初めてだったからだ。その法則の証明として、その後に付き合った子の別れたい気持ちを、事前に読み取れるようになっていた。

メールの文面だけでは、彼女の真意はわからない。彼女の恋心が再燃したのか、それとも本当にお祝いだけがしたいのか。または、クリスマスコンサートに行く相手として思いついただけなのか。

誘いに応じた方がいいのか、断るべきなのかを亮は迷っていた。亮自身に彼女に対する恋心はもうない。もしかしたら初めから無かったのかもしれない。ただ告白してくれた事実がうれしくて、女の子には優しくという亮の信条ゆえの、思い込みだったかもしれない。

その信条に基づき、彼女が傷つかないように返信をしたいのだけど、本心を読み取れない現状ではどう返せばいいのかわからず、ただ保留の時間を延ばすだけになっていた。メールありがとうから先の文面が続かない作成ページを閉じる。

小さく息を吐いたら、部屋が静かなのに気づいた。顔を上げると柴崎が、テーブルに肘をついた手のひらに顎をのせて、亮をじっと見つめていた。録画鑑賞は終え、テレビ画面は黒くなっている。

「なんだよ。」

「お返し。」

「何の。」イライラの感情が声に出ていることを自覚する。

大多数のおめでとうメールは、ありがとうと返信をすると、さらに今どうしてるんだ?とか、今度、飯でもおごってやるとかで一人一往復では済まされない。結構、疲れていた。

「いっつも、私のばかり読まれているから、逆に私も読んでやろうと思って。」

「馬鹿馬鹿しい。」亮は木村さんが淹れてくれた紅茶の入ったティーカップに手を伸ばす。

「ムムム」柴崎は眉間に皺をよせ唸り「読めました。」とヘタな予言者の様な演技をする。

紅茶は完全に冷め切って冷たくなっている。

「今、見ているメールは、女子からでしょう。それも元カノ。返信をどうするか迷っている。」得意げに眉を上げる柴崎の表情すらも苛立たしい。柴崎は、何かを思い出すようにして、ななめ上の天井に視線を上げた。読み取っているのではなく、それは推理、もしくは勘。

「相手は、えーと、夏に付き合ってた2年のくるみちゃん!」亮に指をさす。

「はずれ。」

「ちよっと!当たってるのに、はずれって言ってんでしょ!」

「言うかよ。」

「じゃ、見せなさいよ!」柴崎は椅子から腰を上げ、テーブル越しに手を伸ばして携帯を取ろうとする。

「やめろよ。うぜぇなぁ。」

「うぜぇて・・・」

(しまった。)

柴崎とは、クラスも生徒会も一緒で、ここ最近は日曜の練習や試合にも見に来ていて、ほぼ毎日会っている。気遣いのない関係に遠慮もなくなっていた。この屋敷に泊まるのも3度目で、いとこのような感覚だ。

しかも柴崎は、亮が本心を読み取る事に何故が嫌がる事がなく、細心を払う必要がない。

「ごめん。疲れてるんだ。」卑怯な言い訳だなと思う。

柴崎はしゅんとなって椅子に腰を下ろした。

骨董品級の豪奢な柱時計の動作音だけが部屋に響き渡る。

イライラは、柴崎のせいじゃない。

返信のできないメールのせいでもない。

全ては自分の中にある。

連絡のないユース16の日本代表候補の選抜。

馬鹿みたいに期待した自分が苛立たしい。

昨日の祝賀会の時は「俺なんて無理っすよ」とヘタな謙遜をしていた。

新田と優勝旗を手に入れた。その実績が揺るがない自信となって、

俺は、らしくない夢をみてしまった。


 



不味いと叫ぶえりの皿を取り下げて、自分の分のチャーハンと合わせてまた炒めなおす。今度は調味料も入れて。

家の前にいる女子は一体、何が目的なんだろうか?慎一は首をかしげながら中華鍋を振る。

外に出られなくなった。

「ほい。できた。」もう一度えりの前にチャーハンを置く。ありがとうの返事もなく、えりはまだ携帯をいじっている。

「ぎゃー!見て、これで100!ありえん。」

「わかったから、携帯置いて、ちゃんと食べろ。」

えりは大きなため息をついたら、素直に携帯を置いて食べ始めた。

「ねぇ、さっきのサッカー連盟って何?」

「あぁ、ユース16の選抜に選ばれた。」

「ニュース16?」

「ユース、16才以下の日本代表チームの事。冬休みに合宿あるから参加できるか?って電話だったんだ。」

「ふーん。」

サッカーに全く興味のないえりは、それがどれだけ凄いことかをわかってない。2年置きに世界大会がある。尊敬する大久保選手も高等部の時にU-18で選ばれていて、世界大会に行った。

「冬休みって、ずっと?」

「あぁ、多分、正月も関係ないかも。わからないけど。」

「えーじゃ、柴崎邸のクリスマスパーティどうするの?」

「まぁ無理だな。」

「えーそれ、酷いよ!ドタキャンじゃん!」

「まだ、先だろ、ドタキャンじゃない。」

「今年はえりたちも呼んで、盛大にやるって先輩、すっごい気合い入れてたじゃん。しぃーらない!柴崎先輩怒るよ~。こっわー。」

「柴崎も昨日、中等部からユースが出るの、楽しみにしてた。」

「あーそうなの?」

えりは昨日テニス部の練習があったから国立に応援には来ていない。当然、夕方からあった祝賀会も来てなくて、祝賀会の場で持ち切りだったユース16の選抜の噂話も知らない。

藤木のところには電話があっただろうか?

携帯は上に置きっぱなし、起きてからメールチェックもしていない。

チャーハンを急いで口に駆け入れる。まだ口に入ったままごちそうさまを言って立ち上がる。

「えり、友達が遊びに来る約束なんてしてないよな。」

「してないよ。何で。」

「いや・・・何でもない。」

チャーハンの皿をキッチンの桶に沈め、玄関に向いているキッチンの窓をそっと開けて外をのぞいて見る。

やっぱり居る。3人。誰だろうかと考えてもわからなかった。常翔の生徒ではなさそうだ。

「なにやってんの?」

えりが不審げに同じように外を見ようとするから、慌てて閉める。

「あーいやなんでもない、ない。」

明らかに馬鹿にした顔をしたえり、持ってきた皿を慎一と同じく桶に沈める。

「ごちそうさま。」

何故だかわからないけど、昔から、いただきますよりごちそうさまは絶対に言わなければ、母さんと父さんに叱られた。えりもどんなに機嫌が悪くてもごちそうさまは言う。双子のように一緒くたに育てられたりのも同じで、食に興味がなくて小食でも、ごちそうさまを言う小さいころの習慣は、海外生活を経験しても抜けてなかったようで、常翔の入学後、初めて食堂で見かけた時、まだ友達のいなかったりのは一人で寂しく給食を取った後、口がごちそうさまと動くのを見て、慎一はうれしかった。

えりは携帯を持ってまた炬燵に潜り込んだ。期末テスト前だと言うのに、勉強をする気は全くない様子。慎一も人の事は言えない。昨日の興奮がまだ抜けきれないで、とても勉強なんてする気になれない。

慎一は使ったフライパンや調理器具を洗ってコンロを拭く。食器は後で母さんが食洗器に入れるから洗わなくていい。母さんは、『調理器具も洗わないでいい、食事を作ってくれるだけでも大助かりなんだから』と言うけれど、父さんが調理場を綺麗にしているのを見たら、やらずにはいられない。汚れを落とした布巾を干して時計を見ると、2時。

昨日、柴崎邸に泊まった藤木は、寮に戻っただろうか?

慎一は二階に駆けあがる。自室のベッドの下に転がっている携帯を拾う。充電コードが繋がったままスマホを操作する。

作りかけのメール作成画面が出てきた。昨晩、グレンに返信メールを送ろうとしていた。ひらがなばかりのメール作成中に力尽きて寝てしまったらしい。これの続きは後にする。フランスはまだ朝の6時だから、もしかしたらまだ寝ているかもしれない。

それよりも藤木だ。着信はなかった。メールもなし。

開けたままのドアから、階下で玄関の扉が開く音が聞こえてくる。

「ごめんね~。えり。昼ご飯食べたぁ?」母さんが帰って来た。慎一はまた階段を駆け下りる。

「食べた。」

「母さん!電話来た!ユース16の日本代表候補!」

「あら~本当。良かったわね~。えーと充電、充電んとぉ、あれ?どこに置いたかしら。」

「でさ、冬休み、合宿に来れるかって聞かれて、行けますって答えたんだけど、良かった?」

「ちょっと慎一、母さんの携帯の線しらない?」

「知らないよ。」

「ちょっと探して!あと少ししか電池、無いのよ!」

「えー炬燵の下とかじゃないの?っていうか、母さん!合宿!行っていいのかって聞いてんだよ!」

「どこでも好きなところ行ったらいいでしょう。小学生じゃないんだから、それより線よ、線。充電の線、どこ行ったかしら?えーと昨日、そうよ、寝る前に切れたから寝室持って行ったんだったわ。」母さんは慎一を押しのけてリビングから出ていく。

慎一はため息を吐いて肩を落とす。母さんも知り合いからのおめでとうメールが多くきていた。祝賀会から戻って来た昨日の夜は、新田家は珍しく静かだった。3人ともメールの返信が忙しくて。父さんだけが、ケーブルの録画を遅れて見ていて、この子は誰だとか、この子がこの間、店に来た保護者会の長谷川さんの息子さんか?とかを母さんに質問して、うるさいと怒られ、しゅんとなっていた。

寝室から携帯の充電器を取ってきた母さんは、リビングのコンセントに差し込みながら言う。

「そうだ慎一、家の前に女の子が来てるけど、えーとあの子、なんて名前の子だったかなぁ。ほら、あんたが小4の時に同じクラスで、ほら、いつも髪の毛2つ括りにしてた。」

「知らん!覚えてない!」

「何言ってんの、合唱コンクールの時、ピアノ伴奏してたじゃないの。ほら、森、山?森田?」

「森島愛里さんだよ。えりと同級の森島陸斗のお姉ちゃん。」えりが答える。

「あーそうそう。森島愛里ちゃん。ほか二人も顔は見たことあるんだけど、名前は知らないわね。」

そんな名前の子がいたなぁと慎一は記憶を辿る。だけど、明確な記憶があるわけじゃない。慎一は、少年サッカーチームに1年生から入部していて、学校が終わったら走って帰宅し、宿題を済ませて、彩都市と隣市を分ける彩流川河川敷のグランドに通い、サッカーの練習を夕方6時までやっていた。慎一の通う小学校では、野球の方が人気で、少年野球チームが彩都市の中でも二つあって、サッカーしている慎一は稀な存在だった。孤立はしていなかったけれど、放課後に同級生と遊んだという経験が乏しく、地味な小学生生活を送っていた。

「あんた、待たしてるんじゃないの?」

「してねーよ!あれのおかげで、さっき外に出れなかったんだよ!んで母さん、そいつら追い返してくれた?」

「しないわよ。出来るわけないでしょう。」

「何でだよ。出れないじゃん。」

「自分で何とかしなさいよ。あんたの友達でしょう。」

「友達じゃない!」

「あーぁ、また、りのりの泣かせちゃう~。」炬燵から顔だけ出したえりが、変な節回しでニヤつく。

「えっあんた、りのちゃん泣かせたの!?」

「泣かせてねーよ。」何故、りのの話になる?

「慎にぃが、あんなテレビに出てモテちゃうから、りのりのも、あたしも迷惑するんだよ。」

あんなテレビって・・・サッカーをまじめにやってるだけなんだけど。

「みてよお母さん、昨日からのメール。お兄さん紹介してって、メアド知らない子からも来んだよ!?いい加減うんざり!」

「あら、ほんと、凄いわね。モテ期ね、モテキ。」えりの携帯を覗いた母さんは、慎一の脇腹を肘で突く。

「面倒だから、そういうメールには、彼女居てますって、送ってやった!」

「はい?」

「そしたらさぁ、もう今度は、それ誰?って返ってくんだよ。あーほらまたぁ。」

えりの携帯の着信音が鳴る。

「真辺りのって、常翔1頭が良くて超美人の彼女ですっ写真付で送って、やっと終わるんだよ。」

「待て!俺たちは付き合ってないし!写真って、何の写真を送ってんだ!」

「えー慎一、まだ、りのちゃんを、ものにしてないの?じれったいわねぇ~。」

母さんとえりの話が、ややこしく交差する。

「何言ってんだ母さん。それより、えり写真ってどれ?」

「これだけどぉ。」

「りのちゃんを、他の男に取られたらどうするのよ!」

えりが向けてきたスマホの写真を見たら、文化祭の仮装していた時の写真。りのは柴崎が用意した白いドレスで、慎一はドラキュラの衣装で、体育館でチークを踊ろうとしている時の、慎一がりのの肩に手をかけて、抱き寄せているアングルだった。

「やめろよ。プライバシーってもんを考えろ!」

「あら~素敵。いいショットね。」

「でしょう。これ永久保存もんだよ。感謝してよね慎にぃ。」

「はぁー楽しみだわぁ。りのちゃんのウェデングドレス姿。あんた早くりのちゃんと結婚しなさいよ。」

「ば、馬鹿言うなよ、付き合ってもないのに、話、すっ飛ばすなよ!」

「そうだよ、慎にぃ、りのりのと結婚すれば、りのりのはこの家にずっと居れるじゃん。そしたら、えり、宿題困らなくて済むーぅ。」

「馬鹿か!俺らは、まだ中学生だ!」

「16で結婚できるんじゃなかったかしら?あと1年じゃない。急がないとぉ。」

「学生結婚してどうすんだ!」

「いやーね、慎一、変にまじめで。そんな、もたもたしてたら、ほんとにりのちゃん取られちゃうわよ。あれだけの美人さんなんだから。」

「そうだよ。急げ急げ。」

駄目だ、新田家の女に口で勝てるわけがない。大体、何故にこんな話になった?

「もう、勘弁してくれよぉ。」

えーと合宿の話・・・行って、いいんだよな? 




 

信号を曲がって、登り坂に差し掛かった所で、全力疾走の足を止めた。口から吐く白い息が風に流され消えていく。

まだドキドキして手が震えている。やっとクラスメートと仲良く出来るようになって、日本語も少しはスムーズに出るようになったから、もう大丈夫だと思っていた。なのに、孤独と惨めが混じった恐怖は、まだ私の中に残っていた。

家に帰るつもりが、つい新田家の方に来てしまっていた。走って喉がカラカラになった。新田家に寄ってお茶をもらう事にする。

(慎一、家に居るかなぁ?) まだ、おめでとうを言ってない。

優勝した慎一は試合の後、ケーブルテレビと雑誌とかの取材を受けていて、とても話の出来る状態じゃなかった。私は啓子おばさんの車に乗せてもらって応援に来ていた。試合終了後に開かれるサッカー部保護者会主催の祝賀会の準備しなくちゃならないおばさんと一緒に、慎一と顔を会わずに早々に帰った。啓子おばさんも柴崎も、祝賀会に私も参加していいと言ってくれていたけど、本来なら関係者以外は参加してはいけないのだから、当然に遠慮した。

昨日の祝賀会は引退式も兼ねていると聞いていた。なんとなく、自分の弓道の引退より寂しい。

フランス料理店の店舗が近づいてくる。駐車場には高そうな車が止まって、窓越しに白いカッターシャツにスカーフタイをした黒いショートエプロンの店員さんが店内を動く姿が見えた。今日も忙しそう。店の角を曲がった店の隣が新田家で、門前に人が並んでいた。

同じ年ぐらいの女子が、私の気配に気づいて振り向く。

「真辺・・・。」驚愕に目を見開いた森嶋さん。

どうして?今日はなんて日だろう・・・森嶋さんは平山さんと同じく同じクラスだった。他の二人は、名前は知らないけれど覚えがある。同じ小学校だった同級生たちばかりだ。

記憶が呼び起こされる。胸がズキリと痛んだ。

『何で、あいつ一言もしゃべらないんだ?』 『幽霊みたい。ずっと下向いて。』 

『幽霊の方が、まだ、しゃべるぜ、うらめしやって。』

『常翔の特待だってよ。』 『特待って何? 』 『タダで行けるらしいぜ、私立の学校に。』

何かを話しかけられる前にダッシュで逃げた。山の方へ。一体、今日は何だって、過去をえぐる人にばかり会うの?

坂道がきつくなった所で線路脇の金網に手をかけ足を止めた。

ここは、ニコの意識でいた時、小さい慎ちゃんと小さい私で蟻の巣を見つけた場所。今は蟻も働いていない。

もう冬だもんね。それともあの時、私が吐いちゃったから引っ越したかな。そりゃ嫌だよね。汚物の雨が降ってきたら。

ごめんねぇ。蟻さん達。

小さい慎ちゃんと小さい私は、現れない。

当たり前か、あれは幻。

展望の光の中に消えていった。

でも、とても鮮明でリアルな記憶。

この手に小さい手の感覚がまだある。

繋いで階段を登った。二人の笑顔が心強かった。

りのでは会えないのかな?

行ってみよう展望に。

会えるかもしれない。





(私では藤木の気持ちに寄り添えないのだろうか?)

人の本心を読み取るその能力、人は良い心ばかりじゃない。誰もがある腹黒い思考、そんな人の薄汚れた心を読み続けることが、どれだけの苦痛だろうか。

麗香は一度、『その能力、どうにかして止める事できないの?』と聞いたことがある。

藤木は、『アニメやヒーロー戦隊じゃあるまいし、スイッチ一つで止められるか。読むって言ってるけど、わかってしまうって言った方が正解だ、視覚で捉えた情報を頭が勝手に分析してしまうんだと思う。だから止めようと思ったら、目を閉じ続けるか、脳を壊すしかないだろうな。』と笑われた。

新田と喧嘩した後ぐらいから 藤木の溜息が多くなったような気がしていた。喧嘩したからだと思っていたけれど、仲直りしてもそれは少なくならなくて、さらに多くなってきていると感じていた。常翔祭やりのの事、おまけに昨日までの全国大会のプレッシャーもあったから、ストレスが溜まっていると思っていたのだけど。全国大会も優勝して、ため息は喜びに消えると思いきや、消える所か今日は特に酷い。

藤木の溜息は大きくない。人目を背けて小さくそっと吐く息は、取り込んだ人の黒い部分を吐き出しているかのように辛そうだった。

だから、麗香は努めて明るく振る舞った。録画の、その最高の藤木の笑顔を何度も見て。

「やめろよ。うぜぇなぁ。」

「うぜぇて・・・」

「ごめん。疲れてるんだ。」

(私では藤木の気持ちに寄り添えない。じゃ、一体誰なら藤木の、この溜息を取り除いてあげることが出来るの?)

藤木を生徒会に引き入れたのは麗香だ。今年の生徒会は60周年記念行事や、大久保選手の表敬訪問などの意義ある年で忙しかった。藤木は通常でも一番忙しい書記に立候補し、その持つ能力を生かして、生徒会の人間関係までにも気を配り、暴君になりがちな麗香の言動もコントロールしてくれていた。

藤木の細やかな気配りに頼り切って、いつしか、それが当たり前のようになっていた?

藤木にとってウザイ存在になるほどに。

藤木は携帯に目を落とし、麗香の方を見ようとしない。

疲れているのはわかる。だけど・・・

「そ、そうだよね。ごめん。」

部屋の柱時計が動く秒針の音が、やけに大きく聞こえる。

「私・・・藤木に頼り過ぎていたわ。」

「悪かった。」低い声でつぶやく藤木。

「私いつしか、それが当たり前になっちゃって、」

「ごめんって。」

「ウザイよね、感謝も出来ない女なんて。」 

「やめてくれ。」

「今まで、あり」

「柴崎!」座っていた椅子を倒して立ち上がった藤木の右手は、グーに震えていた。

唇をかみしめ苦痛の表情。

お礼を言わせてもらえないほど、そんなに私の本心は黒いのだろうか?

『私にはあんたの力が必要なの』と言った私の心は。

藤木は首を振る。

「俺は、うれしかった。この能力を必要だと言ってくれて。礼はそれで十分。」

そんな言葉がお礼になるなんて、想像以上に、その力は藤木を疲弊している。

「悪かった、俺もお前に甘え過ぎた。」

どうして、辛い思いをしている人ほど自分に厳しいのだろう。

りのと藤木は似ている。

携帯の着信音が鳴った。藤木が携帯を確認する。

「新田から。」

りのには、新田が寄り添っていた。じゃ藤木は?

誰なら藤木に寄り添えるのだろう。





亮の言葉に傷つき落ち込む柴崎の、戸惑う感情から視線を外して、電話を出る。

「おっす藤木、今どこだ?寮か?」

新田の陽か陰かわかりやすい第一声。本人は気づいていないが、調子の良い時は第一声が『おっす藤木』、良くない時は『おぉ藤木』

だから、新田は夢をつかんだんだなと、わかった。

「いや、まだ柴崎邸。」

「あのさ、俺、ユースの電話が来た。」

「良かったな。おめでとう。」

「藤木は?」

「無いよ。」

柴崎が勢いよく立ち上がり、部屋から出ていった。理事長のいる書斎へ確認に行ったんだろう。

「寮の方に電話があるんじゃないのか?」

「寮より、ここの方が一報は早いんだぜ。それに、昨日も言ったろう、おれのレベルなんていくらでもいると。」

「俺は、お前が一番だと思ってる。」

「あのなぁ、新田慎一だけのアシストがうまくて日本代表なんか務まるわけないだろう。」

「あぁ、でも、藤木なら他のやつともうまく出来るようになるじゃん。」

「何を長期的にかまえているんだ。連盟が欲しいのは、今スグ使えるやつ、だからお前が選ばれたんだろ。」

「俺、お前と出来ないなら」

「その先、言ったらぶっ飛ばすぞ!」叫んだ瞬間に、目の奥から後頭部にかけてキーンと痛みが走った。

「ごめん。」

新田とサッカーをすると楽しいだろうなと思ったとおり、楽しかった。新田の技術は、誰よりも軍を抜いてうまかった。

面白いようにアシストしたボールがゴールに入った。

とっくに捨てたものが、もしかしたらまだこの手にあるんじゃないかと自分は勘違いをした。

「電池が、そろそろ切れそうなんだ。切るぞ。」嘘をついた。携帯の充電は70%もある。亮自身の電池が切れそうだった。

「あぁ、ごめん悪かったな。じゃまた明日な。」

ごめん新田、今日はお前のフォローが出来るほど、気持ちに余裕がないんだ。

また走る目の奥の痛み、亮は左手で眉間を押さえる。

「痛っう。」

寝不足だろう。体も気怠く重い。

倒した椅子を起こして、足元に置いてあった鞄をかつぎ部屋を出た。

屋敷の奥、理事長の書斎の前で柴崎が部屋に入ろうとせず、立ち尽くしていた。






藤木の所に電話は、まだない。

(どうして?)

チーム全体を見渡し、今、何が必要で、誰が何をしなければならないのかを判断する能力は、誰よりも長けているというのに。

このメダルだって藤木がいなければ絶対に手にする事は出来なかった。慎一が藤木のアシストがなければ、ゴールできなかった事ぐらい、連盟だって見抜いているはずだ。実際に広島戦の時、慎一のマークがきつくてどうにもならなくなったのを打開したD案の戦略で、先陣を切った藤木の戦い方は際立っていた。慎一の贔屓目が過分に入っていると言っても、膠着状態だったのを打破したのは間違いない。あの時の藤木の動きを連盟が見過ごしている筈がない、トーナメントに上がって来た学校の選手をすべて見て、ユースに選抜すると言っていたのだから。

藤木の声が沈んでいた。慎一だけが先に夢をつかんでしまった。明日どんな顔で声を、かけたらいい?

「はぁ~。」慎一は大きく息を吐いた。

夢だった全国優勝を叶えたっていうのに、昨日の歓喜の余韻は一気に萎んだ。

とりあえず、このよれよれジャージを着替えよう。りのに、このメダルを渡しに行かなくてはいけない。約束した一か月遅れの誕生日プレゼント。

クローゼットを開け、適当に一番上の取りやすい位置にあるGパンとパーカーを取り出して着る。これをやると母さんに嫌がられる。同じ服ばかりになるじゃないと。ファッションの事はわからない、母さんがバーゲンで安かったからと買ってくるのを着るだけ、そうやって、クローゼットの上にある同じ服ばかり着ていたら、全く袖の通してない服がいつの間にか小さくなって着れなくなって怒られた。

藤木は着る物にも博識だ。私服を見る機会は少なかったけど、見る度に違う服を着て、ファッションの事は良くわからない慎一でも、おしゃれだと認める。

また携帯に手を伸ばし、真辺家の家に電話をかける。さつきおばさんが出た。

「慎一だけど。りのは?」

「さっき気分転換に散歩するって出かけて、まだ戻ってきていないわ。」

「何時ごろ出た?」

「んー、2時前、一時45分ぐらいだったと思うけど。」    

時計を見たら、もう2時半になっていた。

前回の中間テストが驚異のオール満点だった為に、あらゆる人たちから、次はどうだろうと注目を浴びていた。そのプレッシャーが重くて辛いと言っていたりの、勉強の合間の散歩にしては長い?どこに行ったんだろうか。

「俺、りのに用があるから、その辺、探してみる。もし帰ってきたら携帯に電話頂戴。」

「わかったわ、いつもごめんねぇ慎ちゃん。それから優勝おめでとう。」

「ありがとう。」

「ちゃんと夢つかんだわね。」

「おばさんが、あの時、目を覚ましてくれたからだよ。」

「ふふふ、もう慎ちゃんの呼び名も卒業ね。慎一君。」

「あっいや・・・なんか、慣れないよ。」

複雑な気持ちで電話を切った。

皆、大きな事をやり遂げたなと褒めて認めてくれるのは素直にうれしいのだけど、その度に何故か寂しさが募った。おばさんの卒業ねで、それが何故なのかわかった。自分は昨日も今日も変わらないのに、もう大人ねと繋いでいた手を放される寂しさ。

椅子に掛けてあったダウンベストを羽織って、メダルをポケットに突っ込んだ。

リビングを覗くと母さんは居なかったから、えりに出かけてくると声をかけて玄関に向かう。

音を立てない様に扉を少しだけ開けて外の様子をのぞくと、さっきの女子達は居なかったから、慎一はほっと安心した。諦めたのか、母さんが追い返してくれたのか、どちらかだろう。

店の前の角を左に曲がり、店内で母さんがお盆を手に働いているのを横目に、坂を駆け下り始めて、慎一はふと足を止めた。

振り返り見上げる。

薄曇りの冬空、山も寒そうに鈍くどんよりしている。

体温を奪われていく手をダウンジャケットのポケットに入れて、止めた足をまた踏み出す。数歩進めて再び足を止めた。

どうしても足が前に進まない。振り返り山を見上げた。

気になる、山が。

二度あることは三度ある。

そこに居るとは限らない。だけど、絶対そこにいるという変な確信。

慎一は踵を返し、駆けた。

虹玉とりのを探しに行った、あの展望へ。





助走をつけて右足で踏み込み、左足で木の側面を蹴って柵の上に立った。

少しでも高い所から景色を見たいと思ったけれど、目の高さに太い幹がせり出していて、視界を遮られる。

ちょうど新田家の方角が見えない。柵の向うに飛びおりた。幅1メートルもない先は崖になっている。

ぎりぎりの所まで行って、下をのぞいて見た。

光輝く彩都の街並みに孤を描いて落ちていった虹玉の入ったチャーム。

「ないね・・・」

声に出してみても、小さい慎ちゃんと小さい私は現れなかった。

今日は薄曇り、光の反射がないので逆に街並みの彩がはっきりと見える。

崖から離れ後ろに下がると、スーパーの袋が柵に当たった。そうだ、ここでプリンを食べよう。スプーンももらっているし。

スーパーの袋に入っている財布をポケットの中に入れ直し、はっと気がついた。

おつりを貰っていない。パニックになって飛び出してきちゃった。

(最悪・・・。)

クリスマスカードを送るのに、お金、足りるかな?続きの漫画本も一緒に送ろうと思っていたけど、漫画は次の機会まで待ってもらうしかない。フィンランドとフランスの友達に、毎年クリスマスカードは欠かさず送っている。12月に入ったらカードを用意して、少しづつ書いて送っていたけれど、今年はまだ1通も書けていない。

柵の縁に座った。縁の幅が狭いからちょっと不安定だったけど、足を策に絡めて身体がぐらつかないようにすれば大丈夫。プリンの蓋を開けて一口。なめらかな甘い味が口に広がる。おいしい。

「皆に会いたいなぁ。」

数日前、フィンランドの友達から送られてきていた手紙には、クリスマスカードと一緒に、冬時間に切り替わる前に冬の到来のお祭りをした写真が添付されていた。みんな楽しそうだった。

もう一口、甘い味はすぐになくなる。

「楽しい時間はあっという間だね。」

そう言ってポポ爺が大きな手で頭をなでてくれた記憶がよみがえる。

フィンランドに住んでいた時の隣の家のお爺さん、私にロシア語を教えてくれたポポ爺は、アレクサンドラ・ステファノピッチ・ポポフというのが正式名で、長いから略してポポ爺、元ロシアの軍人さん。左足がひざ下から無くて義足をつけていた。戦争で失ったと。よく庭のベンチで義足を外して膝の傷口をさすっていて、私が隣の庭に猫を追いかけて入ってしまった時に、声をかけてくれたのがきっかけで、仲良くなった。私にロシア語を教えてくれた優しいおじいちゃんだ。

何度か町はずれにあるロシアとの国境の検問所を見に行ったことがある。そこでは車が国境超える為に並んでいて、警備員が一台づつ荷物検査や書類のチェックをしていて、ゲートが開かないと人も車も通る事が出来なかった。

国境のない日本にいた私には不思議な光景だった。向うの空も大地も区切りなく同じなのに、どうして人は自由に行けないんだろうと、ポポ爺に言ったら、『そうだね。国境のない世界はどんなに幸せだろうね。』と膝をさすっていた。当時、戦争って何かを知らなかった。キルギスの町が戦争の度に、ロシアとフィンランドの領土争いで血が流れた歴史がある事も。

ジュニア3年になってバスケのクラブチームに友達と入った。学校終わりにポポ爺に合う事が少なくなり、しまいには合わなくなった。ポポ爺とお話する事よりも友達とバスケをすることの方が楽しくて忙しくなったから。そんな時、ポポ爺が入院したと聞いて、大きな病院にお見舞いに行った。ポポ爺はよく来たねと頭をなでてくれて。「りのに会えて少しは償いが出来たかな。」と寂しそうに笑った。その言葉の意味が分からなかった私は、その場しのぎでただ笑っていた。ポポ爺はそれから1週間後に亡くなった。ポポ爺が死んでから知った。ポポ爺が先の戦争で軍人だった時代、沢山の日本人を殺していたと。りのにロシア語を教えることが、爺の罪滅ぼし。日本人の役に立つことが出来るって、いつもりのを心待ちにしていた。とポポ爺の家のおばさんが教えてくれた。

『りのちゃんが、病院に来てくれた日の後ね、ポポ爺は、ずっとりのは天使だと言っていてね。りのが爺を天国に連れていってくれる。爺は幸せだよと、言っていたの。ありがとね、りのちゃん。』

その時、もっとポポ爺の所に遊びに行けばよかったと後悔した。

露「ポポ爺、りのは天使なんかじゃないよ。」

プリンが無くなった。

露「おいしい時間も、あっという間だね、ポポ爺。ごちそうさま。」

さっきまで勉強していた近代史が、ポポ爺が経験した大戦の歴史、良く知ろうと、図書館で本をいっぱい借りて読んだのに、フィンランド、ロシア、フランス、日本の歴史はすべて違っていて、調べれば調べるほど混乱した。だから仕方なく日本語で日本の歴史を丸覚えしようとしたけれど、全く集中できなかった。

大好きだった慎ちゃんが慎一になって喜ぶ笑顔。それが頭から離れない。

私の顔にサッカーボールをぶつけた慎ちゃんは、私が日本にいなかった5年半の間、ずっと努力し練習して、夢をつかんだ。

薄曇りが所々切れはじめ、晴れ間がのぞく。太陽に照らされた屋根がキラキラと光った。

『思い出して、もっと大事なもの、いっぱいあるから。』慎ちゃんはそう言ってキラキラの光の中に消えていった。

ニコは、りのが捨てようとした虹玉を大切にしていた。

虹玉が光の中に消えた時の、ニコの絶望した感情が私の中にある。

もう、りのはとか、ニコがと考えるのは無意味なのはわかっている。

どっちも私、なのだから。

自分の事なのに、分からないことだらけで、自分じゃないような、であるような、区別された記憶がある事に気持ち悪い。

りのとニコが合わさって、もうすぐ一か月になろうとするのに、まだ時々ニコの記憶が掘り起こされて悲しくなる時がある。

ニコがと他人のように言ってしまうこと自体おかしいのはわかっているのだけど、ニコの記憶と、りのの記憶の境目がくっきりある内は、言い訳のように考えてしまう。村西先生は、「そのうち境目はなくなるよ」なんて言ってるけど、本当だろうか。

「はぁ~。」

大きなため息を吐く。白い息が口から出て消えていく。

溜息と一緒にすべてが消えてなくなればいいのに。何度吐きだしても胸の奥にあるモヤモヤとした物や、悩みはなくならない。

楽しい事ばかりを考えていた昔に戻りたい。

毎日が楽しくて、楽しくない日がある事すら疑う気持ちすらなかったフィンランドとフランスの日々。

りのと合わさった今は、来る未来に恐怖は感じないけど、来る未来が楽しい物ばかりじゃないと知ってしまっている分、明日を心から楽しみに迎える事が出来ない。

これって、いろんな事を知って、いわゆる大人になったって事?

嫌だな。大人って。あれ?

ついこないだまで、大人になれない自分が不安でたまらなかった。成長が止まって、皆に置いていかれる事が怖くて、慎一や柴崎や藤木に八つ当たりもした。

『大きくなれない私を心配するんだろ』

生理も始まって大人になったら今度は大人が嫌だって、ほんと勝手だよね、私って。

私もつかめるだろうか、慎一のように夢を、

っても、まだ自分の夢が何かを見つけてもいない。

空中に大きな円を描く。目を二つ。笑った口。世界共通のピースフェイス。

露「素敵な日は笑顔のある朝、素敵な日は笑顔のある昼、素敵な日は笑顔のある夕、素敵な日は笑顔のある夜」

最高のフレーズだ。

「りの。」

突然名前を呼ばれ、びっくりした。バランスを崩して、

やばい、落ちる・・・・

「ひゃっ!」





どうして、藤木ばかり、世の薄汚い物を背負わなければならないの。

私はお父様の部屋のドアノブを回せず立ち尽くしてしまった。

中から聞こえてきたお父様と凱兄さんの会話があまりにも理不尽で、怒りに唇を噛んだ。

「私もそれは言ったんだが、まだ週刊誌の記事は記憶に新しい。ここで藤木亮の名前が連盟から出るとまた、マスコミは八百長だ何だと騒ぎかねないと、藤木君はまだ若い、今リスクを負わなくても、次のユース18もあると。」

「そんな!次に期待って、簡単に次の候補にホイホイと挙がれるほど甘くないでしょう、スポーツってのは。」

「それも言ったさ。サッカー連盟のボスは文部科学省だ。あの時、常翔学園は生徒の管理不届きを教育監査から指摘されていた。そこをつかれた。」

「あの週刊誌事件で藤木君の非はどこにもない。そもそもの原因は連盟の不透明な会計が元で派生したガセネタです。非の元の責任を問うなら、藤木君より連盟でしょう!連盟が選手の可能性をつぶして、どうするんですか!」

「これ以上の反駁は、新田君の選抜に影響が出る。」

「なっ!脅迫ではないですか!」

「・・・・・・・・」

「藤木君の戦略とMFとしての技術は、あの全国を勝ち上がって来た選手の中でもトップクラス、そして新田君とのコンビネーションも抜群で、昨日、連盟の理事会の面々も絶賛していたじゃないですか。その技術を連盟は捨てて、本気で世界と戦う意志があるのですか?」

「・・・・・・」

「連盟は一体、誰の為に、何のためにあるんです!」

「凱斗、何もずっと藤木君を選ばないとは言っていない。世間の記憶が薄れれば・・・」

「それは大人の都合です。大人の都合に子供の成長を合わせるなんて出来ない。そんなの無理だ。」

「・・・・・・・」

「文部の官僚に知り合いがいます。僕が・・・・」

「やめるんだ、凱斗、お前はもう連盟に顔が知れている。お前が動けば、動いた事実が藤木君を永遠に沈めてしまう。」

「くっ・・・・」

「いいか、凱斗、お前は絶対に動くな。藤木君の未来を思うなら、今は連盟に屈するしかない。」

部屋の中から、ドンという、振動を伴う大きな音が聞こえてきた。

凱兄さんの言う通り、藤木のアシストは完璧。それが新田だけに特化した技術だとしても、そのパスが出来る技術自体も評価に値する。藤木は新田の才能を埋もれさせない様に、足を引っ張らないように、常に努力をしてきた。それは約二年見続けていた麗香が良く知っている。練習が終わっても、トレーニングルームで筋トレをし、生徒会で練習時間が少なくなった時も、宿題は休み時間に済ませるなどの工夫をして、少しの時間を無駄にすることなく、練習の時間を作っていた。それに加えて、フィールド全体を見渡し瞬時に構成を組み立てる戦略は新田より優れていた。

素人の麗香でもわかる事を、何故、連盟はわからない?

くだらない大人の世間体が、藤木の努力をつぶす。

連盟は一体何を見て、何を目指しているのか。

これだから日本のサッカーレベルはまだまだだと言われるのよ。

麗香は握った拳を震わせ、見えない扉の向こうの大人たちを睨んだ。

玄関ロビーで扉が開く音が反響した。振り向くと藤木が鞄を担いで外へ出ていく。

麗香は走って追いかけた。

(駄目よ、今、藤木を一人にしては。)

ステンドグラスのはめ込んだ重い扉を開けて麗香は外に飛び出した。モコモコのルームシューズのまま。

藤木は大股で、既に門とエントランスの中央にある桜の植え込み花壇を超えた向こうを歩いている。

「待って!」

ルームシューズで砂利道を走るのは足の裏が痛い。でもこんな痛さ、藤木の心の痛さに比べたら・・・

麗香は必死の思いで、藤木に追いつき手を伸ばす。ボストンバッグの紐に手が引っかかり、藤木の肩からバッグがずり落ちた。

「待ってって!」

藤木は落ちたバッグに足を止めて、屈んだ。

「木村さんに、ありがとうって言っといてくれな。」ボストンバッグを手に取り、肩にかけ直す藤木は麗香を見ようともしない。

「藤木!」

「あと、理事長や凱さんに、お世話かけましたって。」

「嫌よ!自分で言いなさいよ!」

麗香の言葉を無視して門の方へ歩き出す藤木。

(駄目、絶対に一人にしては。私達はいつも皆で乗り越えて来たじゃない。辛い事は1/4に楽しい事は4倍に、私達は共有して乗り越えて来た。)

「駄目よ、帰さない。」藤木の前に回り込んで、麗香は両手を広げて進行を防いだ。

「柴崎、悪いな、昨日、興奮してあまり眠れなかったんだ、眠くて・・・、寮に帰って寝るわ。」

目じりに皺を作って笑う藤木、その皺は人の汚れた本心を読み取り、傷ついた傷。

「嘘よ。」

「嘘つく必要がどこに。」

「その笑顔が嘘。」

「・・・・。」

「どうして笑うの?どうして悔しいと、どうして辛いと泣かないのよ!」

「泣く?何、言ってる。泣くことなんて何もないじゃないか。」

「藤木は、私と新田は似ていると言ったわ。私は、藤木とニコは似ていると言うわ。」

藤木は笑みを消し、目を細めて麗香を睨む。

「ニコは、あの無表情の奥に、受けた傷と罪を閉じ込め隠していた。藤木は、その笑顔の奥に、読み取った人の黒い本心によって傷ついた心を隠し覆っている。」

(本心を読まれても構わない。これが私だから、)

「ニコには、ずっと新田が寄り添っていた。」

麗香は、表情を無くした藤木の顔に右手を伸ばし頬に触れる。

冷たい・・・

「私じゃ、駄目?」

(誰がじゃなく、私が藤木に寄り添う。)





柴崎は、廊下の奥で理事長の書斎に入ろうとせず、扉の前で立ち尽くしていた。その横顔で、柴崎が何を聞きとって中に入れなくなっているのか理解する。

亮はユース16の選考から落ちたのだ。

笑いがこみあげてくる、自分が傷付いている事に。

何故傷つく?

手に入れた夢は、幻想だったのだ。

新田の夢に重ねた幻想。新田が向かっていく夢のレールに自分も乗れると思ってしまった。

新田が掴む夢を、自分が掴む夢だと喜んでしまった。

全部、勘違い。言葉通りに夢物語。

そう、全て、あの時、わかっていたはずだ。

影響する藤木家の現実を。

サッカーだけは、冒されない自分の物だと信じていたのも、幻想。

藤木家の血が亮に流れている限り、無影響ではいられない。

そんなの、嫌と言うほどわかっていたはず。

何を今更、自分は絶望しているんだ。

柴崎邸の重厚に装飾された扉を押し開ける。どんよりと曇った低い空。

息がしにくい。

そうだ。この景色が現実、この雲り輝かない景色が。

晴天に恵まれて光り輝いていた表彰式、称賛に笑い絶えなかった祝賀会。あれが幻想だったのだ。

「待って」柴崎の声を無視して歩む。

あぁ、面倒だ。ほっとけばいいのに。

「待ってって!。」

肩にかけて持っているボストンバッグが引っ張られて、足元に落ちた。

身体が重い。この曇り空のように。

あぁ、だから、これが現実。

落ちたバッグを持ち上げ肩にかけ直す。

「木村さんに、ありがとうって言っといてくれな。」

「藤木!」

「あと、理事長や凱さんに、お世話かけましたって。」

「嫌よ!自分で言いなさいよ!」

面倒だ。

りのちゃんが、ずっと心を閉ざしてきた気持ちが良くわかる。

一人になりたくても、ほっといてくれない。

人と関わるのって時にほんと、ウザい。

りのちゃんのように、心を閉ざしたら楽なんだろうな。

門へと歩く。

「駄目よ、帰さない。」亮を回り込んで柴崎は両手を広げて進行を防いだ。

「柴崎、悪いな、昨日、興奮してあまり眠れなかったんだ、眠くて・・・、寮に帰って寝るわ。」

「嘘よ。」

「嘘つく必要がどこに。」

「その笑顔が嘘。」

「・・・・。」

「どうして笑うの?どうして悔しいと、どうして辛いと泣かないのよ!」

「泣く?何、言ってる。泣くことなんて何もないじゃないか。」

そう、泣く事なんて何もない。辛いと泣くのは、予想と反しているから。

自分はもう、すべてを知っている。すべてが幻想だったとわかった。わかっているのに泣くなんて、おかしいだろ。

「藤木は、私と新田は似ていると言ったわ。私は、藤木とニコは似ていると言うわ。」

亮を見つめる柴崎が懐かしい。漆黒に潤う目、健康的な頬、ウエーブのかかった髪、艶やかな唇。

初めて会った時と同じに、その姿は変わらず可愛いのだろう。

だけど、純粋に、もうそう思えなくなったのは、自分の心が汚れているせいだ。

「ニコは、あの無表情の奥に、受けた傷と罪を閉じ込め隠していた。藤木は、その笑顔の奥に、読み取った人の黒い本心によって傷ついた心を隠し覆っている。ニコには、ずっと新田が寄り添っていた。」

柴崎が、亮の左頬を包む。

暖かい・・・

「私じゃ、駄目?」

亮は、現実の本心を読み取る。

やっと認めた自身の想い。

(私が寄り添うわ。)

その思いは

幻想か、現実か、

偽りのない柴崎の愛情がそこにある。






やっぱり、りのは展望にいた。細い柵の上に座っている。また危なっかしい事をして、と慎一は顔をしかめた。

りのは片手を柵から離して空中に泳がした。

(何をやってんだか・・・)慎一にはさっぱりわからない。

ニコであったときも、理解不能な行動や言動に慎一は悩み振り回されてきた。りのに戻っても、それは変わらないというか、増したような気がする。子供の頃は、お互い何も言わなくてもわかっていたのに・・・いや、それは慎一も子供だったからで、りのの成長が遅れているからズレが生じているのかもしれない。

聞きなれない言語で歌っているりのに声をかける。

「りの。」

「ひゃっ!」りのはバランスを崩し、後ろに倒れる。

「わっ!りの!っ」慎一はダッシュで駆け、りのの背中を受け止めた。

「うぁっと、あれ?何で慎一ここに?」膝が柵にかかり、ブリッジのようになったりのが見上げる。

「あのさ、重たいから、そういう質問は起き上がってからにして。」

「あっ、あぁごめん。っていうか、慎一が驚かすからだろ!」起き上がり、柵の向こうに足を降ろすと不貞腐れて慎一を睨む。

「あぁ、はいはい、すみませんね。声かけて。・・・・ほら、危ないからこっちに。」

一か月前と同じシチュエーションに、慎一は鼓動が早くなる。またりのは向こうに行きたいと言うのではないか。

りのに手を差し伸べたら、プイと顔を背けられた。

「りの!」

りのはギリギリまで下がると、数歩駆けてジャンプし、樹の側面を蹴った反動を利用して柵の上に立ち上がった。そしてポンと柵のこちらに降りてくる。こんな危なっかしいやり方で、柵の向こうとこっちを行き来していると思うと、小言を言いたくなる。でも我慢して息を吐いた。

「はぁ~。りのぉ~」

「何?」りのは涼しい顔で手についた木の皮を、パンパンと払う。

「さつきおばさん、心配していたぞ。気分転換にしては帰りが遅いって。」

「んー。だってぇ。」りのは眉間に皺を寄せ、うつむき加減で唇を噛んだ。

りのがここにいるという事は、うちの家の前を通り、もしかして新田家に来ようとして、あいつらが居てたから入れなかった?

森嶋って確か、小6の時、りのと同じクラス。りのは、こっちの小学でも全くしゃべれなかったから、幽霊だと避けられたりいじられたりしていた。慎一は、それを助けてあげる事が出来なくて。思い出して慎一の胸がズキリと痛む。結局、自分は口先だけで最初から何もしてやれてない。

『幽霊が来た!』『憑りつかれるぞ』

『やめろよっ!真辺さんの悪口を言うの。』

『新田は幽霊を庇うのか?』『おっ?!お前もしかして幽霊の事好きなんじゃねーの?』

『えっ?』

『そういやぁーお前も、サッカー推薦で常翔に行くんだよな。』『幽霊も常翔の特待って、お前らやっぱりラブラブじゃん。』

『かっ関係ないだろ。たまたまで。なんで、そういう事、言うんだよ!。』

『赤くなってんぞ。』『おーい皆ぁ、新田が幽霊の事好きだってよ。』

『やめろよっ!そんな事、言ってないだろ!』

慎一は同級生からのからかいが嫌で、それから、りのに近づかない様にした。

きっと、りのは思っていたに違いない。

『慎ちゃん、どうして助けてくれないの?』って。

「ごめん。」

「はぁ?」りのは首をかしげて訝しむ。

「あっ、いや・・・」今頃謝っても仕方のない事だ。「あ、そうだ、これ渡そうと思って。」

ポケットからきんぴかのメダルを取り出して、りのの首にかけてあげる。

「15歳の誕生日おめでとう。」

「えっ!だ、ダメダメ、こ、これは受け取れない、あれは、本当に欲しくて言ったんじゃなくて、頑張れって言う意味で・・・」

りのは慌てて首にかかったメダルを外して、返そうとする。

「うん、それでも、りのが持っていて。約束の一つだから。」

「約束?」

「夢のお絵描き帳、りのの分も描くって、夏のキャンプの時に約束したろ?」

返されたメダルを、もう一度りのの首にかけてあげる。

「夢のお絵かき帳・・・」

りのは遠い記憶を呼び起こすように、メダルを両手に持ち眺めた。

「そう、やっと一つ描けたよ。」

まだお絵かき帳は白いページが沢山残っている。





『何があっても、この手は離さいわ。ニコを置いていったりしない。』

『ニコ、見ろ、この輪はニコの好きな、ニコちゃんマークだ。』

『夢のお絵かき帳・・・・・』

『ニコちゃんマークも描くよ。消えないようにマジックで。』

『私達も、いっぱい描くわ、消えても、消されても、何度でも、』

『ニコちゃんの未来は、ないんじゃない。俺と同じ、思案中だよね。』

『私達はこの手で、つかむわ!。』

霧のかかった記憶はニコとの約束。ニコの記憶は、りのの記憶でもある。

だけどこんなに鮮明に区別できるほどの差があれば嫌でも意識してしまう。

私は皆と約束したニコに嫉妬している。

慎一が、かけてくれたきんぴかのメダルは、子供の頃、慎ちゃんが僕も貰ったもんねと自慢げに見せたメダルと同じ、

キラキラと輝いて・・・重い。

この重さが、慎ちゃんが慎一となるまで努力した結果の証。

「さぁ、おばさんが心配している。帰ろう。」そう言って踵を返した慎一に、妙な焦りが沸き起こる。

皆が繋いでくれる未来に、りのは置いていかれる・・・。

「慎一!」

(待って、私を置いて行かないで。)

振り返る慎一が一段と大きく見えた。

「あ、ありがとう。それから、優勝、おめでとう。」

「うん、ありがとう。」

やさしく微笑んだ慎一の顔に、雲の切れ間からさす、太陽の光が当たった。

風が記憶を運んでくる。

『思い出して、もっと大事なもの、いっぱいあるから。』小さい慎ちゃんの声。

『ごめんな。ニコ。今度は本物の虹玉を探そうな。りのとイッシヨニ。』慎一の声。

「・・・・見つけた。」

こんなに近くに、あったんだ

願いが叶う虹玉。





「わかるでしょう。私の本心。」

読まれても構わない。これが私の本心だから。

麗香の行き着いた想い。

「好き」の心

麗香は藤木の能力を利用したんじゃない。

側に居て欲しかったから、それを口実にした。

確かに、藤木の頭脳、能力、手腕、人脈は生徒会になくてはならない、なるにふさわしい人であった事を評価しての誘いだったけれど、それ以上に麗香は藤木と繋がっていたかった。告白してくる女の子に断らず付き合いはじめる藤木を見る度に、麗香はモヤモヤが募った。

「私がそばにいる。だから・・・素直に泣いて、素直に辛いと言って、亮。」

藤木の目から虹色に輝く玉が落ちた。

麗香は、両の手で藤木の頬を包む。

伝わってくる

藤木の氷のように冷たい心が、

寂しさが、辛さが。

『置いていかない、どんな事があっても。そう誓った。何もつかめなくても、共有するだけでもいい。俺たちは、いつもそうやって乗り越えて来た。』

その言葉は亮が言ったのよ。

「次は亮の番よ。」

傷ついた亮を、このまま置いては行けない。

亮の受ける傷を共有するわ、私が。

「私が寄り添う。」





「わかるでしょう。私の本心。」

わかる。誰よりもわかりやすい柴崎の本心。

嘘のない「好き」が亮に向けられていた。

やっと気づいた心を、ごまかすことなく素直に認めた柴崎は、驚異の速さで亮に告白する。

そのスピード感に、亮の方がついて行けない。

「私がそばにいる。だから・・・素直に泣いて、素直に辛いと言って、亮。」

頬から伝わる柴崎の熱い想いに誘導され、目から涙がこぼれ落ちた。

泣くのは、予想と反しているから。

「次は亮の番よ。」

『置いていかない、どんな事があっても。そう誓った。何もつかめなくても、共有するだけでもいい。俺たちは、いつもそうやって乗り越えて来た。』あの時、そう言った亮は、きっとこの中で置いて行かれるのは結果、自分だと現実を感じていた。

「私が寄り添う」

これが幻想でもいいと、亮は思った。

子供の頃、大人の真似をして踊った煌びやかな思い出のように。

いつか、これは幻想になる。わかっていれば、傷つかない。

わかるだろう、自分の心。

「麗香・・・」

晴れていく光が、微笑む麗香の顔を輝かす。

夢心地に輝くキスは、

涙の味がした。





雲の合間から光が差し込む。投げ捨てた虹玉が解けて、染めたように屋根は輝きだす。

眩しくて慎一は目を細めた。

「・・・・・見つけた。」りのが驚いたように慎一を見つめる。

「りの?」

りのの右手がすっと上がり、慎一の目の下をすがるように添う。

何を、見つけた?りのの細い指が目に入りそうだったから、よけるつもりで手を握った瞬間、りのはこれ以上ないぐらいに目を見開き、声にならない声を上げた。

「っ・・・・」りの目が小刻みに動く。「あぁ・・・・あぁ・・」

その目は慎一を見ていないように。

「発作?!どうして!」焦って肩を揺さぶったら、りのの目からポロポロと涙がこぼれた。

「違う、晴れていく・・・・記憶が。」

晴れていく記憶?

「だ、大丈夫かよ。」

りのがうんうんと無言でうなづく。その拍子に涙が地面にポタポタと落ちる。

「村西先生の所に行った方がいいんじゃないか。」

りのが激しく首を振る。

「い、い、行かない。だ、だい、大丈夫っうっ・・・」

止まらない涙を拭いてあげたくても、ハンカチを持っていない。りのも持っていないのだろう、コートの袖で涙を拭いてびしょびしょにしている。

「霞んでいたニコの記憶が、晴れて、りのと同じに、重なった。感情が、お、ぉいつか、ない。」

苦しそうに息を詰まらせながら話すりの。

大丈夫か本当に、こっちまで震えてきた。

催眠療法を行った直後は慎一も、学校での様子を報告しに村西先生の診察室に通っていた。その時に言われたのが、『りのちゃんの記憶は、ニコの記憶も合わせて時系列に整頓され、不安も解消されているけれど、りのちゃん曰くニコの記憶がおぼろげで、りのの記憶との鮮明度に差があり過ぎて気持ち悪いのだそうだ。どっちも自分の記憶だと認識はあるけれど、ここまではっきり区切りがあるとどうしても意識してしまうと。時間が断てばりのの記憶がニコのようぼやけて行くはずだから慣れるまでの辛抱だね。』と説明されていた。

慎一は、涙でへばりついたりのの髪を手でかき分けつつ、熱を測った。ちょっと火照った感じはするけど、熱はなさそう。りのの背中をさすってあげる。

鮮明度に差があり過ぎた記憶が、晴れて同じになる?

何故、今なのだろう?

風に誘われて顔を上げた。

広がる視界。キラキラと輝く屋根に降り注ぐ光の反射。

慎一は、はっと気づく。

分岐点、ここから始まった。

『ニコ!・・・・・戻って来てたんだ。あの、ごめん、気が付かなくて。氏名が変わっていたから、わからなかった。』

『ごめん。それ効き目なかっただろう?偽物なんだ、駄菓子屋で見つけたビー玉。あの後、探したんだけど見つからなくて。それで、』

『知ってる・・・・・馬鹿だ、私。』

そうだ、りのに、「お帰り」と言っていない。

言ったのはニコへ、だった。

「りの、お帰り。ずっと待っていた。りのが帰ってくるの。」

そう、海外から帰ってくる時を、

罪の意識の奥から帰ってくる時を。

ずっと、ずっと、慎一は待っていた。





風が吹き飛ばしていくように、ニコが綴った霞がかがった記憶が、鮮明に晴れ渡っていく。

それと同時に喜び、怒り、哀しみ、楽しみニコの得た想いは、りのの中の心の隙間を埋め、濃密にしていく。

あまりにも多くの記憶と感情が一気に押し寄せて、処理が追い付かない。

慎一が焦ってオロオロしている。また心配をかけてしまう。

誓ったのに、もう心配はかけないと。

『寂しくないね。怖くないね。・・・・手を繋いでくれるから。』小さい慎ちゃんの声。

うん、怖くない。繋いでくれているから。

慎一の手が私の顔を包む。

新しい記憶から古い方へとフィルムの逆回転のように辿った記憶は、ビタリと止まる。

3年前の12歳の冬、この場所がスタート地点。

「りの、お帰り。ずっと待っていた。りのが帰ってくるの。」

そう、私、楽しみにしていた、大好きな慎ちゃんに会えるのを。

再会はどんな風だろうって、慎ちゃんは、別れた時と同じ笑顔で迎えてくれるかなって、

慎ちゃんに会ったら、きっと笑えて声が出るって、そう思っていた。

ちゃんと涙を拭いて言わなきゃ。

笑顔で。

私はニコニコの、りのだから。

「うん。ただいま。慎ちゃん。」

近くにあったね、願いが叶う虹玉。夢を求め続けたその目に。その手に。

微笑む慎ちゃんが輝かしい。

もっと大事な物がここにある。

待っていてくれた慎ちゃんの想いが。

ニコに追い付け、りのの想い

背伸びをして追いかける。

慎ちゃんとのキスは、

3年前のやり直し。





何がどうなって、こうなっている?

あまりにも突然に、理由のわからないキスをしている自分に驚きながら、それでいてごく自然に受け入れていた。

わからないことだらけの状況の中でも、初めてのキスの味を感じる余裕さえある。

甘いカラメルの味がした。

こういうのって、甘酢っぱいとか言わなかったっけ?

突然、ダウンベストのポケットから鳴る着信音にビクついて、りのを突き放す。

「ご、ごめん・・・」

照れ隠しに、急いで携帯を取り出し確認する。

一体誰だよ。こんな時に、と心の中で悪態をつく。

「ん?グレンだ・・・」

慎一は、家を出る前に作りかけていたひらがなばかりのメールを完成させて送信していた。

グレンからのメールは、ローマ字で綴る日本語で送られてきている。読みづらいことこの上ない。日本語訳ソフトぐらいあるだろうから使ってくれと言っているのに一向に、それを使わずに送ってくるのは嫌がらせとしか思えない。という慎一もフランス語訳のソフトを使わず、ひらがなで作成して送っていて、互いに変なプライドを牽制しあっている。

「グレンから昨日、頑張れってメールを貰ってたんだ。結果報告とお礼のメールを、家を出る前に送っていたから、その返信。読む?」慎一は携帯をりのに見せてあげようと、向きを変えた。

「グレン・・・」りのは頭をわしづかむ。「あーっ」と叫ぶと慎一を押しのけ急に走り出した。

「えっ?何、急に、りの!」慎一は追いかける。

「痛っ!」りのはおでこに手を当て急に立ち止まる。ぶつかりそうになって慎一は、りのの顔をのぞきこむ。

「ど、どうした?」

「馬鹿だ私・・・返す!」りのは突然に怒った表情で、首にかけていたメダルを慎一に突き返してきた。

「えっ?わわわ」慎一がまだしっかり受け取らないうちに手を放すから、メダルを落としそうになった。

りのは、また駆け出して、展望の公園を後にする。

慎一はその後ろ姿を呆然と見送った。

これは同じ、3年前と。

やり直し?

いやいや、こんなことまで再現しなくても。

慎一は返されたメダルを手にため息を吐いた。

「えーと、」

これはどう解釈したらいいんだ?

やっぱり、ちゃんとした誕生日プレゼントを用意してないから、

怒ったって事?





グレン・・・・

仏『りの。りのが、ちゃんと大きくなれたら、大人のキスをしよう。』

「あーっ」

えー!!うそ。私、なに慎一とキスしてるの!

大人になれたからグレンとの約束、待ち望んでいたのにぃ。

うわっニコの感情が合わさって抑えが効かなかった!

しかも、このタイミングでグレンからメールって

どこかで見てた?うそっ、怒ってる?

ちがうのグレン!これは、そう、りのじゃなくてニコの感情で・・

あぁ、そんなの言い訳だけど、でも、言い訳したい~

早く帰ってグレンにメールを送らなきゃ、誤解されたら困る。

「えっ?何、急に、りの!」

駆け出したら首にかけていたメダルが跳ねて、おでこに当たった。

「痛っ!」ここは、グレンが約束のキスをしてくれた場所。

くそーまた邪魔された。

「ど、どうした?」覗き込む慎一の顔がむかつく!

あぁ、私の最高の記憶がぁ~

グレンより先に慎一とキスをするなんて・・・

「馬鹿だ私・・・返す!」

「えっ?わわわ」

首にかけていたメダルを外して慎一に突き返した。

3年前と同じように展望を走り去る。

あの時は、惨めな寂しさに追いつかれないように、逃げるように走った。

やり直しの慎一との再会は、

戸惑いと、悔しさに

うんざりするほど変わらない慎一の

心配から逃げるように走る。

全力で。










《2》







「いらっしゃいませ。チーフ、家の方に行ってるので呼びますね。」

「忙しかったらいいって言ってね。」

「わかりました。コーヒーで良いですか?」

「ええ、お願い。」

啓子の家が経営しているフランス料理店は、昼食とディナータイム以外は喫茶店として、周辺の住宅街の奥さまたちがおしゃべりをする場となっていて、客は終日絶えることなく流行っている。

今、接客してくれたのはフリーアルバイトの泉ちゃん、東京の美術大学に通っていた時からここでアルバイトをしていて、今年卒業しても作品を作り続けたいと就職はせず、ここでアルバイトしながら家で作品作りを続けている。近々、お友達と一緒に個展を開くとかで、レジ横に案内のポストカードが置いてある。長い髪を後ろに束ね、客の様子によく気が付き、さつきと啓子が親友で新田家とは親戚のような付き合いである事も理解していて、さつきが来ると、家に戻っている啓子を内線で呼んでくれる。

店内は落ち着いた白木のテーブルに椅子、緑が各テーブルに置いてあってセンスがいい。この店の内装は啓子がすべて選んで手掛けた。まだ独身の頃、帝国ホテルのフランス料理店のフロアチーフをしていただけはある。啓子は言ってみれば職場結婚、おなじく帝国ホテルのフランス料理店の料理人でいた秀治さんと結婚し、私達がフィンランドに行った3年後に、ここに店を構えた。

さつきも死んだ栄治は職場で出会った。あの人が長野のスキー場で無茶をして骨折し、長野の病院から転院してきた患者さんだった。診察初日、さつきに『早く治りませんかねぇ』と苦笑しながらギブスで固めた足をさすっていたあの人。詳しく聞けば、一か月後にアメリカに出張だから、それまでには松葉杖を取りたいと言った。その流れで商社に勤めていると知り、忙しい人だろうときめつけ、医師が十日後の再診を告げても、きっと来ないだうなぁと思っていた。

そんなさつきの勝手な予想をあの人は裏切って、医師の再診日よりも早く来るぐらいマメに通院するから、よっぽど早く治したいのだと、頻繁に来たところで治りが早くなるわけないのにね、なんて言って看護師仲間で笑っていた。

『アメリカ出張までには松葉杖は取れませんよ。』と言えば

『カルシウムのサプリメントと、牛乳も毎日飲んでいるから、絶対に治る。』と変なガッツポーズを作っていたのを今でもよく覚えている。その努力の成果か、意外にも早く松葉杖が取れたのは片方だけだった。アメリカ出張には薄手の固定ギプス変え、片方だけ大きい革靴と杖で行って、ご丁寧に私達看護師仲間にお土産のチョコレートを買ってきてくれていた。

「お待たせしました。」

泉ちゃんがコーヒーを置いてくれる。

「ありがとう。個展、見に行くわね。ちょうど休みの日があるから。」

「無理なさらなくていいですよ。せっかくの休みなんですから。」

「もう大丈夫よ、体は。りのも行きたいって言ってるから。」

「わーほんとですか。嬉しい。あっ、チーフ来ました。」と店の外へと顔を向ける泉ちゃん。

さつきも外へ確認すると、啓子は店の前を通り過ぎて、駐車場の端を歩き裏の厨房の方へと回った。

家の裏に勝手口を作ればよかったのに、何故、作らなかったのか?と聞いたことがある。

『裏から裏と移動していたら、店の前にゴミが落ちていてもわかんないでしょう。家とは行ったり来たりするのはわかっていたから、わざと遠回りにすることで、その都度、店の顔がどうなっているのか確認することが出来るの。』と啓子は言った。

流石は一流ホテルでフロアチーフになっただけはあると感心した。

「ごめんね、遅くなって。」調理場から店内に現れた啓子。

「いいわよ。」

「えーと、今日は夜勤だから時間あるわよね。」

「えぇ、何か?」

「ちょっと家の方に来て貰える?」

「いいけど、何?」

「先に行って上がってて。」と言ってエプロンから家の鍵を取り出して渡してくる。

(何だろう。)

荷物を持ってレジに向かう。コーヒー代を事前に買ってある10杯分の金額で12杯分飲めるチケットで支払うとしたら、泉ちゃんが顔を寄せてきて、「お代はいいいそうです。」と囁く。

「でも・・・」確かに、一口しか飲んでいないけれど。

「言われてますから。」

仕方なく泉ちゃんにごちそう様を言って店を出る。

「ありがとうございました。」

泉ちゃんの元気のいい声を背に外へ出た。

店を左に曲がるとすぐに新田家の家の門、大きなワンボックスカーが置いてある。いくら親戚づきあいのようにしているとはいえ、新田家の鍵を預かって勝手に入るのは初めてで、悪い事しているみたいでドキドキする。でもうちは啓子にマンションの鍵を預けていて、何度も勝手に入ってもらっている。りのの世話をしてもらう為に。

「お互い様か。」

啓子の口癖、でも私は新田家に何もお返しをする事が出来ない。お返し出来たのは慎ちゃんが鎖骨骨折した時に、包帯を巻きなおしをしてあげたぐらい。

誰もいない家の中へお邪魔しますと声をかける。リビングに入ると炬燵があって、昔、団地に住んでいた頃を思い出した。

りの達が潜って、顔を真っ赤にして遊んでいるから「出なさい!」と怒ったなぁ、と懐かしむ。

壁に10年前、新田家と真辺家の合同で撮った写真が飾ってあるのを見つける。

「この写真、出してきたんだ。」

私達がフィンランドに行く前に、記念にと写真館で撮った写真。若い顔のあの人が、りののそばで笑っている。

前に来た時、この写真は飾っていなかった。りのが、あの人の事で苦しむ事はなくなったから飾ることにしたのだろう。

『良かったですね。先生から完治と言って頂けて。』

『ぁあー僕は良くないんですけど・・・。』

『あれ?早く治って欲しいって言ってましたよね?』

『んーいや、その~もう真辺さんに会えないと思うと。』

『え?』

『あの~、今度、病院外で会ってもらえませんか?』

骨折を完治した患者、芹沢栄治さん。照れた顔で食事を誘ってくれたあの人を、可愛いと思った。

「お待たせ。」

振り返るとコーヒーとプリンを載せたトレイを持って啓子が入ってくる。

「どうしたの?家にって。」

「これね、新作のプリン、試食してもらおうと思って。店の中では他の客の手前、出せないし、私も食べたかったからね。りのちゃんの分もあるから持って帰って、味の審査をお願いって言ってね。」

「わかった。喜ぶわ。」

店で使うケーキやパン類は、余所から仕入れているらしいけれど、プリン系やブリュレ、パイ類は秀治さんの手作りだと聞く。

新作だというプリンを見れば少し色が薄い。

「どう?」

「うーん、さっぱり系ね。おいしいわよ。あれ?これ、黒蜜?」

「そう、あたり。」

「へぇー和風ね。」

「あーやっぱり和風なのは抜けられないかぁ。」

「どうして?和風プリンじゃダメなの?」

「うーん。駄目ってことないんだけど、これね、2店舗目のレシピの一つなのよ。」

「2店舗目って、断ったんじゃなかったの?」

「あーごめん、まだ言ってなかったっけ、そっか、さつき、入院したり、私もバタバタして、てっきり言ったと思ってたわ、ごめんごめん。」

「ううん、謝ることないけど、2店舗目、結局、話にのるんだ。」

「えぇ、春にオープンなのよ。隣町の香里市で。」

夏ごろに、ある商社から2店舗目を出さないかと話が来たらしい。秀治さんは、店舗を増やすと店舗間で味が微妙にずれてしまう事を嫌がって、この店だけで十分と一旦は断ったらしい。だけどこの間、りのに塩分控え目で、味のしっかりしたハンバーグを作った時に、2店舗目は減塩や健康志向の店にすれば、今ある店と格差をつけられて、味がズレる心配もないと思い付き、一旦断った商社にプロデュースをお願いしたという。市場調査の結果、ここより5駅向うの高級住宅街が立ち並ぶ、香里市の古い洋館をリフォームして、店にする予定だという。経営は秀治さんと啓子が管理していくらしいが、料理長は、今、秀治さんの下で働いている塚本さんがするという。

香里市と言えば、柴崎さんのお家があるところ。電車であの辺りを通る時に見ると、急に一軒一軒の幅が大きくなって、とんでもなく長い塀が続くお家もあったりする高級住宅街。りのが言うには、柴崎さんのお家もとんでもなく広くて、敷地内にテニスコートがあって、昔はプールもあったらしいけど管理が面倒と埋めて、今は屋根付きの大きな駐車場になっているのだと聞いた。

あの土地で健康志向のフランス料理、確かに高齢者が多く住んでいそうだから、また流行りそうだと思った。

「あの写真、出してきたのね。」

「ええ、もう、りのちゃんも大丈夫かなって思って。」

「あっそうだ。これ。今月分と、本当にありがとう。今まで、」

「何よ、これ。」

啓子が用意した商品券を見て、顔を顰める。

りのが新田家で晩御飯をごちそうになる為の食事代として、毎月一万円を新田家に渡してある。

最初は頑なに要らないと言って受け取らなかったけれど、さつきのストレスがこれでなくなるのなら、と言って最近では普通に受け取ってくれるようになった。だけど啓子はこのお金を、りの名義の口座を作り毎月貯金して、結婚する時に渡すと言っている。今回はその分とは別に、入院やあの人の墓の事で随分と世話になったから、商品券を用意していた。

「気持ちよ、新田家って何でもあるから変な物を買うより一番使いやすいかなって思って、少ないけど。」

「やめてよ、こんな事してもらうつもりで、私はりのちゃんの世話をしてるんじゃないわよ。」

「それは、わかってる。でも私の気持ちが済まないの。何かしないと。」

啓子がため息をついて、頷く。

「まぁ、さつきがそうしたいのなら、一旦、頂くわ。でもこれは、りのちゃんの為に使うわよ。」

「使い道まで私は何も言えないけど、できれば慎ちゃんに使ってあげなさいよ。慎ちゃんにもずっと迷惑かけっぱなしだし。」

「違うの、さつき。」啓子は首を振る。「慎一に関しては、こっちこそ感謝しなくちゃならないの、りのちゃんに。」

「えぇ?」

「今回の事で、よーくわかったわ。慎一は、りのちゃん絡みで成長するって。」

「りの絡み?」

「えぇ・・・」

啓子がコーヒーに口をつける。

「さつき達がフィンランドに行ってしまった後、慎一ね、ずっと泣いていてね、何も出来なかったの。」


『慎一、学校行く時間よ。』

『行きたくない!』

『何言ってるの!学校は嫌だとか言って簡単に休めるところじゃないのよ。』

『学校に行ったって、ニコは帰ってこないじゃないか!』

『誰がそんな事、言ったのよ!』

『かぁさん!』

『へっ?・・・そんな事、言ったっけ?』

『言った!入学式の次の日、頑張って学校に行ったらニコは帰ってくる。ってかあさんが言った!』

『あー、ほら、まだ、頑張りが足りないのよ、ね。』

『嘘つき!』

って、机の下に潜りこんで出てこなかったのよ。

「かわいい~。」

「可愛くないわよ!その日は風邪だって嘘ついて学校は休ませたけど、次の日から朝は戦争よ。泣く慎一を引きずって学校まで送り届けた事もあったわよ。」

「へぇ~、今では考えられないわね。」

「慎一って幼稚園の時も、りのちゃんに手招きされて、やっと友達の輪に入っていくような子だったじゃない。」

「あの頃のりのは、怖い物知らずだったからね。誰とでもすぐに仲良くなって。」

「そう、慎一、りのちゃんの前では偉そうにライバル心を出すんだけど、人見知りが酷かったのは慎一の方だったわ。」

「ふふふふ、今と逆転してるわね。」

「あの見送りの時の空港で撮った写真を、ランドセルに入れてあげて、『ニコちゃん見てるわよ、ニコちゃんに負けてもいいの?ニコちゃんはもう、フィンランドでお友達いっぱい作ったって言ってたわよ。』って言ったら、やっと渋々だけど泣かずには行くようになったのよ。」

小さいころの慎ちゃんが、りのと手を繋いで空港の展望デッキで飛行機を指さし、嬉々の声をあげていた光景が頭によみがえる。

あの時、りのも慎ちゃんも、離れて暮らすという事がわかっていなかった。ゲートで私とさつきが涙を我慢しながら、サヨナラを言っているのをきょとんとした目で二人は見上げていて、りのは慎ちゃんに、満面の笑みで「バイバイ、慎ちゃん、また明日ね。」って、いつも家に帰る時と同じセリフを言ったのを、さつき達二人は、こらえられなくなって涙をこぼした。

「それでもね、学校で嫌な事があると、直ぐに行かないって言うし、放課後は誰とも遊ばずに部屋でずっと、あの虹の絵本とアルバムを見て、時に泣いてたりするのよ。私ね、この子はこのままじゃダメだなって思って、それでサッカー教室に入れたの。」

「そうだったの・・・」

「それでも嫌だって、ニコが居ないから行かないって言った慎一にね。私、言ったのよ。」

『慎一がサッカーで有名な選手になって、新田慎一って名前がニコちゃんが居るところまで届いたら、ニコちゃん喜ぶと思うよ。』ってもう、帰ってくるとは言わなかったわ。また嘘つきって言われたら困るからね。」

「あはは、それから慎ちゃんはずっと練習して、今や日本代表の候補。うまく育てたわね、啓子。」

「私が育てたんじゃないわ、私はそれだけを言っただけだもの。りのちゃんの存在があの子を育てたのよ。りのちゃんが弓道の全国大会で優勝したから、慎一も優勝できた。いつだってあの子、りのちゃんが先に出来る事を追いかけて、やっと出来るようになってた。」

「慎ちゃん、りのに負けると凄い悔しがって、ずっと練習してたものね、何でも。」

「りのちゃんが海外に行ってしまったから、慎一は成長する事ができた。りのちゃんが帰って来てくれたから、慎一は、りのちゃんを守る力をつけた。りのちゃんが先に全国優勝をしたから、慎一も夢をつかんだ。すべてりのちゃん絡み。ありがとう、さつき。りのちゃんを産んでくれて。」

「りのは・・・・・慎ちゃんが常翔に受かったと聞いて、あの暗い部屋から出る勇気をだした。慎ちゃんともう一度、話したいと思ったから、声を出す訓練に耐えた。慎ちゃんが手を差し伸べてくれたから、りのは精神崩壊の世界から帰ってくる事が出来た。ありがとう啓子。慎ちゃんを産んでくれて。」

「・・・やぁね、なんか湿っぽくなったわね。」

啓子がエプロンで目を拭く。私もそばに置いてある鞄からハンドタオルを取って涙を拭く。

「これから、二人はどうなるのかしらね。私達の夢、叶うのかしら。」

「どうかなぁ、慎ちゃんモテモテでしょう。りのなんて捨てられるわ。」

「そんな事ないわよ!りのちゃんだって、あれだけの美人さんなんだし、もう笑えるようにもなってきてるじゃないの。これからモテるわよ~。ウジウジ慎一なんて捨てられるわね。」

「ダメダメ、知らない人の前では、まだ固まって話せないもの、男の子と付き合いなんて出来ないわよ。」

「あっそうそう、昨日ね、慎一に、りのちゃんと早く結婚しろって言ったらさぁ、あの子・・・・・」

さつき達の夢。

りのと慎ちゃんがまだ幼き頃、仲良く遊んでいるのを眺めて、啓子が言った。

『あの子達が将来、結婚をしたら、私達、親友から親戚になるわね。』

『そうなってくれたらいいわね。慎ちゃんなら主人も許すと思うわ。』

『ははは、栄治さん、りのちゃんが生まれた時、ずっと言ってたものね、嫁にはやらんって。』

『そんな日が来るのかしら?楽しみね、この先の未来が。』






















この長い歴史年表を、一度、全部手書きで写せってかぁ。拷問だ。石田先生、優しい顔して鬼だよ~。

社会科担当の石田先生から預かった、巻物のように長い年表を、自室の床に広げてみたら部屋の長さが足りなくて、隣のリビングまで伸びた。

(はぁ~。冬休みの宿題だって、いつもより増して沢山あるって言うのに。)

私は、皆より余分に、この年表の写しの宿題を課せられた。

これが出来あがったら、石田先生が補習をしてくれる。

それと、2月の11日にある特待入試の為の受験勉強も始めないといけない。厳しすぎる。

やっぱり公立に行こうかな。もう特待生でいる事に疲れた。

仕事に行く準備をしていたママが隣の部屋から出てきて、広げている年表を覗いた。

「これを、写しなさいって?」

「うん。」

「長いわね。」

「あーやっぱり常翔の特待なんかやめて、公立に行こうかなぁ。私の成績なら、都立帝都高校を受かるって、凱さん言ってたし。」

「りの、それでもいいの?慎ちゃんや柴崎さん、藤木君と離ればなれになるのよ。」

「うー、でも、これ、覚えるの無理な気がする。それに、この年表だけじゃないもん、地理と政治も入るし、あと2か月もない。それに、これ覚えたとしても、多分、落ちるよ。」

「どうして?」

「だって、面接、日本語だもん、吃音が出ると思う。面接の先生、新しい先生ばかりになるから。」

「英語でもいいって言ってくださったんでしょう。」

「うん~・・・ママだって、公立に行った方が楽になる。」

「お金の事は考えなくていいって言ってるでしょう。」

ママは一つ呼吸を置くと、手に持っていた鞄をリビングの椅子に置く。

「りの、特待の勉強が辛いなら、柴崎家のご厚意に甘えてもいいんじゃない?」

昨日、2学期の終了式の後、ママと私は柴崎邸に呼ばれていた。私達親子を呼んだのは、理事長でもなく凱さんでもなく、常翔学園の幼稚舎から大学までを取り仕切る翔柴会会長の、柴崎のお母さんだった。

柴崎邸の応接室に私達親子は通されて、ママはお屋敷の大きさに驚いて緊張し慌てていた。

柴崎会長は、私が、公立高校に転学することを考えていると娘から聞いたと話し始めて、特待の受験勉強が辛いなら、皆と同じ一般生になったらどうかと言われた。一般生徒になった時の入学金や授業料は特待制度と同じように、今度は学園じゃなく柴崎家が支援するから、と。もちろん私とママは、それはできませんと断った。だけど柴崎のお母さんは、去年の事件の事を持ち出し、私に償う機会を与えてくださいと逆に頭を下げられた。

「奥さまは学園のせいで、りのが怪我した事、ずっと気にしていらっしゃって、いつもあぁやって、ママと会うたびに頭をさげてくださるの。私達が支援を断る度に、奥さまは私達親子に負い目が重なっていくんじゃないかしら。ママもずっと、これ以上は学園に迷惑をかけられないと思っていたけど、昨日の奥さまを見ていたら、甘えた方が奥さまは楽になるじゃないかなって思いはじめた。」

それは甘えた方が楽だ。だけど私は学園経営者の娘、柴崎麗香と親友。友達の家から支援を受けるって、なんとなく嫌だというか、惨めと言うか、友達じゃなくなってしまう気がする。

頭の左のこめかみの少し上、裂傷を縫って盛り上がっている傷跡が、皮膚の引きつりによって気になる。無意識に触っているらしく、考え事をしている時に触っているらしくて、いつも慎一と柴崎に指摘されて気づく。

この傷を負った事を、学園のせいだと思ったことはない。この傷を負った原因が前の教頭先生に殴られたという記憶は、一年間私の記憶になかったことで、階段で転んだ事になっていた。その転んだ記憶もなく、あらゆる記憶がなくて混乱していたから、皆の言うことを信じていた。すべての記憶が戻っても、教頭先生や学園に対して酷いとか恨みの感情はない。元はと言えば、私が1年の時に校長室から聞こえてきたロシア語に、興味本位の不審を抱いて、慎一と夜の学園に忍び込んだのが事件の始まりだ。柴崎会長が責任を感じるほど、私はこの傷がある事に悲観はしていない。髪の毛で隠れるし、体に傷を作るのは子供のころから多数で、慣れっこだ。

「りの、お金の事とか、特待の勉強とか、日本語が話せないとか、そういう事は抜きで、常翔に居たいか居たくないかで考えてみたら?」

常翔に居たいか?居たくないか?

そりゃ、居たい。

柴崎や藤木、佐々木さんに今野君、他にも弓道部の皆や英会話クラブの人達、やっと日本で友達が出来た。お別れするのは嫌だ。

「居たい。」

「じゃ、公立に行く選択は消えたわね。」

頭を触っていた私の手を降ろしたママは、伸びてきた前髪をかき分けて撫でられる。

「ママ・・」

「さぁ、仕事に行かなくちゃ。りの、ちゃんとお昼ご飯食べるのよ。」

「うん、行ってらっしゃい。」

ママを見送って、広げた年表に目を向けた。

公立に行く選択は消えた。常翔に居るには、特待の受験勉強をしなくちゃいけない。特待の受験勉強をするには、この年表を覚なきゃいけいない。この年表を覚えるには、書き写さなきゃならない。

(あぁ~やるしかないのかぁ。)深くため息をだす。

床に広げた年表を巻き戻して、リビングのテーブルに置き、ルーズリーフに書き写し始めた。自室の机は、この間までやっていた査定のレポート用に図書館で借りて来た本が積みあがっているから狭い。

A4サイズのルーズリーフを横にして、2/3の上に日本の歩み、下を世界の歩み。石器時代から始まって、古墳時代まで順調よく書き写す。ここまでは覚えている。次が飛鳥時代、小野妹子、隋に派遣。これも覚えた。この間まで女だと思っていて、男だと慎一に指摘されてびっくりしたから覚えた。でもって、この先、奈良時代から怪しくなってくる。漢字が難しくて読めない。国語辞典で調べても、人名は載っていない事が多い。

(あーこれ、なんて読むんだっけ。さいのぼりじゃなくて、さいとうでもなくて・・・)

石田先生は、私が読み方で覚えているんじゃなくて、こんな感じの漢字って覚え方してるっての見抜いていた。読み方を調べながら書けよって渡された。それで書き終わったら全部、音読させるからなって言われてもいて。だったら、年表にふりがなをつけといて欲しい。調べるだけでも時間かかる。石田先生、好きな先生だったのに嫌いになりそうだ。

ルーズリーフ3枚目にして挫折・・・ちょっと休憩。

フィンランドを去る時、一番仲良くしていた友達に貰ったマグカップにココアを入れた。コップから立ち上る湯気をフーと拭いてから少しづづ飲む。慎一は期末テストで社会の科目別順位が2位だった。あんなに苦手だった英語も160点を取って、総合順位で柴崎のすぐ後ろ、15位に浮上していた。ずっと30位止まりで英語の補習を受けていた頃と比べて驚異の飛躍。

テーブルの端にマグカップを置き、年表を眺める。

「しかし、こんな難しいの、よく慎一は覚えられるよなぁ。」

(サッカー馬鹿じゃなくて、歴史馬鹿?)

展望での記憶がよみがえって来た。

(あー、しまった。慎一の事、考えたらダメなんだ!あーダメダメ。)

頭に浮かんだキスの記憶を消すよう手を振り回したら、マグカップに手が当たり、倒してしまった。

「熱っ!、ひゃあー年表!」

慌てて年表をテーブルの上から下に落とし、ココアの浸水から守ったつもりだったけど、間に合ってなかった。裏がココアで濡れて、落とした拍子に表にも飛び散っている。

(やっちゃった・・・。)

玄関ロビーの呼び出しチャイムが鳴る。

「誰!こんな忙しい時に!」

ドアフォンのモニターをちゃんと見ずに出たら、タイミングの悪い、慎一の声。

「りの、下まで出て来れない?」

「無理、忙しい。」

「あ、勉強してた?ごめん、少しだけ。」

「緊急事態なんだっ!」

解錠ボタンを押して、ドアホォンから離れた。

脱衣所に駆け込み、雑巾を取ってくる。落ちている借り物の年表を拭くとココア色に染まってしまった。

(やばい・・・)

ドアのピンポンが鳴って、ドアをガチャガチャと回す音が聞こえる。

「りの、緊急事態って、どうした!?ここ開けろ!」

「もう、叫ぶな!近所迷惑!ったく、めんどくさいなぁ。」

立ち上がったら、テーブルの角に頭をぶつけた。

「痛っ!う~。」

「おい、りの、開けろ。」ドアを激しく叩き続ける慎一。

早く開けないと、お隣さんにレスキュー通報されそうだ。痛い頭を抑えながら玄関の鍵を開けに行く。

「りの!どうし」

「うっさい!邪魔すんな!」

「え?」

慎一が部屋に入ってきて、この惨状を見て、固まる。

テーブルの上はココアでまみれたルーズリーフとシャーペンと消しゴム、床にはシミのついた石田先生から借りた年表と雑巾、そして倒れた椅子。

「邪魔して、悪かった。」

「あぁ、忙しい・・・とっても。」

慎一が汚れた年表を濡れた布巾で叩いてシミを落とす。

「3枚目だけやり直して、2枚のルーズリーフはこのまま乾かしたら?目的は覚える事なんだから、綺麗じゃなくても問題ないんじゃないか?」

「うーん。」

生返事をしながら、慎一の提案に乗っかる。せっかくやったのにまた1からなんて嫌だ。

「先生に怒られるかなぁ、それ。」

「大丈夫だろ、石田先生、クラブの時は怖いけど、授業はゆるゆるだもん。心配なら俺がこぼしたって言ってやるよ。」

(ほら、また・・・)当たり前のように自分を犠牲にする慎一。

「りの、もしかして火傷したんじゃないのか?」

無意識に手をさすっていたのを目ざとく見つけて、手をとりチェックする。

「してない!、ココアが、べたべたするだけだ。」

「かかってんじゃん。強がってないで、すぐ冷やす。」

台所の炊事場まで引っ張られて洗わされる。

手の甲を冷やし、念入りに眺める慎一の顔が近い。展望でのキスの状況がまた蘇ってくる。

(駄目だ、思い出したら!)

これが社会を落とした原因なんだ。あれから全く集中できなくて、テスト勉強が出来なかった。

「も、もう、いいよ。」

慎一の手から手を振りほどき、逃げるようにダイニングテーブルの椅子に座る。

(続きしなくちゃ、集中集中。時間がないんだ私には。)

3枚目のルーズリーフをまた最初から書きはじめて、さっきと同じ所で躓く。

「これ、なんて読む?」

「どれ?___さいちょう。」

「なぜ、これで(ちょう)って読む、意味がわからない。」

「ははは、人の名前だから、このまま覚えるしかないよ。」

「うーん。」

「西暦800年頃、中国の唐の国に渡って、仏教を学んで帰って来た最澄が天台宗を開いた。最澄は滋賀県の比叡山を拠点に、その宗教を民衆に広めた。その広まりは貴族達にも広まる。神皇はそれより前の、卑弥呼の時代より神巫(かみ)による祈宗(きしゅう)の政治で本国をまとめていた。神巫って神様の神に、巫女の巫って書いてかみ、神巫ってわかる?」

「・・・・わからない。」

「簡単に言えば、卑弥呼の血を引く一族で、男は神官、女は巫女と呼ばれていたから、それぞれ頭文字を取って神巫。神巫の一族は、不思議な力で民を導いていたとされている。だからほら、卑弥呼が登場したここから、ここまでの間、何にも、戦とか乱とか起きていないだろ。年表に何も書かれていない時代は平和な時代って事だよ。」

慎一が指さす間は長く空欄がある。この空欄の時代は、あまりにも昔だから文献が残っていないか発見されてないのだと私は思っていた。

「その平和を崩したのが貴族達。貴族は、農業や商業で財を作った金持ちとか、役所で働いていた人たちの事で、この貴族集団が新しい宗教、天台宗を手に入れたのをきっかけに、神皇の代わりに政治の実権を取ろうと考えた。そして994年に起こった天台の乱に繋がるんだ。」

慎一の指が移動する。

「貴族たちは、武士となり神皇を朝廷から追い出した。これを、天台の乱と言って、今の言葉で言えばクーデター。その後、武士の中でも一番に力を持っていた藤原氏が神巫族を排除する令を出す。それが神巫狩りに発展する。」

教科書を見ずに、スラスラとよくこれだけの事を説明できるよと、饒舌に説明する慎一に呆れた敬意を送る。

「今の所で、わからない所ある?」

「ううん、ない・・・ある。」

「どっちだよ。」

「えーと。貴族が武装して武士となり、クーデターを起こして神巫の代わりに、政治の実権を取ったってのはわかるけど、なぜ武士はクーデターを起こすほどの力を持ちながら神皇を殺さなかったの?」

「え?恐ろしい事、言うなぁ。」

「だって、政治の実権を取りたかったら、さっさと神皇を殺して、自分たちが頂点に立てばいいじゃん。力も財もあるんだし。」

「うーん。それは日本が神の住まう国であるという祖魂があるからじゃないかな。」

「そこん?」

「魂の先祖の祖と書いて祖魂。神皇はその字の通り、天より降り立ち、この日本を作った神の子だと信じられている。神でありこの国の皇である人を殺すなんて考えは、民衆にも貴族にもなかったんじゃないかな。だからこの後に起こる沢山の戦や乱でも神皇は殺されずに、今でも神皇家の血は絶えることなく続いている。日本の神皇家は世界でも一番長い歴史を持つ皇族だよ。イギリス王室より古いから。」

「ふーん。」

「興味ないだろ、そのふーんは。」

「そんなことないよ。よ~くわかったよ、慎一の説明。」

「褒められてる気がしない・・・ちなみに、この神巫による祈宗の一族が華族の祖だと言われている。都市伝説級の話だけどな。」

「華族って。」

「あぁ、柴崎一族が持つ称号。興味出たか?」

「うん、うん。柴崎の一族って、こんな昔っから続いているんだぁ。ん?あれ?でも、前に柴崎家より藤木家の方が古いって、凱さんが言ってた、のは?」

「だから、都市伝説級だって言っただろ。華族に関する文献や資料って何故か少ないし、教科書の歴史では神巫族は、この神巫狩りで絶滅したとされているから。」

「もう!ややこしいから、噂話を教えないでよ!この教科書だけでいっぱい、いっぱいなんだから!」

「あぁごめん。歴史は面白いって思った方が覚えすいかなって思って。」

(全然、面白くない!あーどこまでが本当の歴史か、わかんなくなっちゃった。)

「もう、説明はいい。聞きながらやってたら、この年表を写すの、進まない。」

とりあえず年表を頭に入れてから、詳しい説明をしてやると石田先生は言っていたから、これが終わらない事には次に進まない。

「はいはい。」

おどけた調子の慎一に本気でむかつく。

大体、慎一がキスなんてするから、私は集中できなくて社会の点数が悪くて、この年表を書かなくてはならなくなったんだ。

全部、慎一のせい!

それに、何故に当たり前のように目の前に座っているんだ?

「慎一、何故、家にいる?」

「え?あっ、忘れてた。りのに渡すものあって来たんだった。」

そう言うと慎一は玄関脇に放置されていた自分のデイバッグを取りに行ってジッパーを開ける。

「クリスマスプレゼント、渡そうと思って・・・・はい。」

赤と緑のチェックのリボンがついた赤い箱の形状にドキリとする。

「柴崎に選んでもらったんだ。」

長い長方形の箱は、パパが死んだ時と同じ。

「結局、誕生日プレゼントも渡せてなかったから、」

誕生日プレゼントの言葉に、思わずパシッと差し出された手を振り払ってしまった。

プレゼントが床に落ちる。

慎一の驚いた顔で、自身の行動に驚く。

「あっ・・・・あ、あ、ご、ごめっ」

パパが自殺じゃなかった事は理解している。

だけど、ずっとパパが死んだのは自分のせいだと思っていた記憶は、消えることなく私の中にある。

あのプレゼントを貰えば、願いは叶わない。

違う、虹玉はもう無い。

それも違う、本物の虹玉を見つけた、慎一の目の奥に。

「りの・・・・」

胸がつかえるように苦しい。

「帰って・・・」

怖い、慎一の気持ちが。

「要らない、帰って!」

プレゼントを拾って慎一の胸に突き返し、自室に入り引き戸を占めた。

「りの!」

数日前の藤木の言葉がよみがえる。

『気づいちゃたか、あぁそうだよ。新田は、りのちゃんが公立に行くなら、自分もと決めている。りのちゃんが自分を追って常翔に入ったように、新田は、りのちゃんを追う覚悟だよ。』

私が選択する道を、それがどんな道であっても慎一は認めついてくる。

それが慎一だと思っている私も怖い。

プレゼントをもらえば、願いは叶わない。

慎一のプロサッカー選手になる夢は、

私の夢、願いでもある。

だから、絶対に壊してはいけない。




















家の隣にあるフランス料理店は、クリスマスムード一色。クリスマス音楽のBGMが流れ、店内の入り口横には大きなクリスマスツリーが飾られ、照明も少し落としてムード満点。今日はクリスマスイブ、店は1年の中で一番忙しい。店の裏戸から厨房に顔を出すと、お父さん達調理人が忙しく無駄のない動き。お母さんに行ってきますと声をかけようと思ったんだけど、お母さんはホールの接客で忙しく、厨房の端っこにある裏口まで来る気配がなかった。

仕方なく、お父さんに「今から柴崎先輩の家に行ってくるから」と声をかけた。お父さんはメイン料理の盛り付け皿から目を話すことなく、一言「わかった」とだけ言って、えりの方を見向きもしない。去年のえりなら、その態度に寂しくイラついて、我儘な文句を言っていただろう。去年のえりは、まだ柴崎先輩とは面識がなくて、慎にぃだけが柴崎邸のクリスマス会に呼ばれていて、当然、お父さんもお母さんも店で忙しく、朝から夜遅くまで一度も家の方に戻らず(毎年のことなんだけど)えりは一人寂しいクリスマスを過ごした。

受験生だったから、勉強しなくちゃならない立派な予定はあったのだけど、なぜ、えりだけが一人寂しく家で引きこもりしなくちゃいけないんだと、ぶつくさ言って、こたつに潜ってはテレビばっかり見て、勉強もしてなかった。

見習いの宮本佑士さんが洗い物の手を休めて、「行ってらっしゃい」と声をかけてくれた。直後、お父さんに「手を止めるな!」と怒られて首をすぼめる佑士さん。侑士さんは、高校を卒業して調理師専門学校に通っていたけど、学校で習うより店で働きながら腕を磨いた方が早いと、うちの店に弟子にしてくださいと直談判に来た。お父さんは見習いの子は雇わない主義で、雇の調理人は皆、元々働いていた帝国ホテルからの繋がりで働きに来てもらっている人ばかり。本来なら門前払い者だった佑士さんの、あまりにも熱心な直談判にお父さんが根負けして雇う事になった。小学校の頃から野球をやっている高校球児だった佑士さんは、神奈川県代表の決勝戦で負け、甲子園を逃した経緯を持つ。お父さんは店では厳しく接しているけど、家では、「佑士は根性あるよ」とうれしそうに褒めた話を良くする。

えりのせいで怒られた佑士さんの、はにかむ笑顔に「ごめんなさい、行ってきます。」とお父さんに聞こえないようにささやきいて、裏戸から厨房を出る。

今日、柴崎先輩の家のクリスマスパーティに参加することは随分前から、お父さんとお母さんに了解をとってある。超、忙しいお父さんとお母さんは、えりの事にかまう暇ないから逆に助かると、泊まりになる事も大歓迎で許してくれていた。柴崎先輩の家なら安心だとも言って。

国道167号線の信号を渡り、りのりのの家のマンションのそばを通り過ぎ東静線の駅へ向かう、2時24分発の普通電車に乗るように黒川君と待ち合わせをしている。黒川君も柴崎邸のクリスマスパーティに呼ばれている。本当ならクリスマス会は1時からスタートで、もう始まっている。えりがテニス部の練習がお昼まであって、一旦家に戻ってシャワーを浴びたいから、黒川君には待っていてもらっていた。

休みの日に、しかもクリスマスに黒川君と会えるのがうれしい。以前、黒川君の家にテスト勉強をするという話しで約束したのは、あたしと黒川君がやったイタズラ誘拐で慎にぃと柴崎先輩を怒らせてしまって中止になり、その後は、休みの日に黒川君と会う約束も話題にならなくなっていた。

「えり、練習お疲れ。」

東静線の1番ホーム一番前の車両に乗り込むと、黒のパンツに濃紺のダウンジャケットの黒川君が手上げて笑顔で呼ぶ。ダウンジャケットの下から深緑を基調とした赤のラインが入ったチェックのシャツが覗く。それがダウンジャケットの濃紺とよくあっていて、流石、色彩感覚はぴか一。

「ごめんね。待たせて。」

「いいよ。僕一人では、流石に行きにくいから。」

黒川君の私服姿を見るのは久しぶり。彩都市駅前の繁華街で、高校生に取り囲まれて喧嘩した時以来。あれから、あたしは幽霊部員になっている黒川君を美術部に行くよう強引に引っ張り、あたしも美術部に入ろうとしたけど、結局、入部届を出さないまま入らず。

その後、何かと一緒にいるようになっても、いつも話しかけたり、そばに寄っていくのはえりの方からばかりで、黒川君がどう思っているのかわからない。えりが話しかける事に嫌な顔はしないから、嫌われてはいないと思うけど。

他の男子よりは話も合うし、何をしてるのかと気にはなるけれど、今更、「好きだからお付き合いしてください」と宣言するような感情が、自分の中で見受けられない。小4から知っている幼馴染的に大切な関係、それは憧れに近い。自分にできない凄い絵を描く、柔道もできて、パソコンのスキルもぴか一な、尊敬に値する存在。

「お兄さん、もう合宿に行ったの?」

「うん、昨日のお昼に行ったよ。冬休みの宿題をする暇がないって焦ってた。」

慎にぃは、サッカーの世界選手権大会の為の16歳以下のクラスで日本代表の候補として選ばれた。冬休みはずっと茨城県にあるスポーツ振興協会の施設での強化合宿に参加、だから今年は、慎にぃは柴崎先輩のクリスマスパーティに来ることが出来ない。

(クリスマスなのにサッカーの練習ってほんとサッカー馬鹿だ。)

「三年生でも宿題あるんだね。」

「うん、今まで以上に沢山あるみたい。高等部の進学とコース分けを兼ねた確認テストが1月末にあるからって。」

常翔に入学出来たら、大学までは一応の在籍資格がある。だからと言ってそれに胡坐をかいていたら、希望するコースに行く事が出来ないだけじゃなく、その資格は容赦なく剥奪させられる。いつも啓示されるテスト順位の下から50名ぐらいは要注意を受け、2月からびっちり補習を受けさせられ、再度テストを受けて、それでも合格点に達しない生徒は、本当に内部進学をはく奪される事になって、年に一人か二人は進学を断念して辞めていく生徒が居ると聞いた。

「真辺さんは、高等部の特待生入試を受けるんだよね。」

「あー、うーん、それがさぁ。りのりの、この間の期末テストで社会のテストだけ落として、科目別4番だったじゃん。」

「あぁ、でも総合はトップだったよね。」

「うん、でも2位と2点差でギリギリだったから、それが職員室で問題になったらしいの。」

「えー問題って、どういう事?」

りのりのは社会が苦手でいつも苦労していた。あたしの受験勉強の家庭教師をしてくれていた時も、社会だけは教えられないと、言ってたんだけど、でも、テストの点数を聞けば、それほど悪くなく、平均点を下回った事が無い。

その社会のテスト、今回は中でも一番苦手な歴史で、46点も落として、科目別の順位は慎にぃよりも下の4番。一つだけとは言え、特待生として当たり前の1位の成績を取れなかった事と、おまけに、何かと学校を休みがちなのと、保健室を頻繁に利用してる事が、りのりのの病気を知らない教師達から、特待生としての資質を見直すべきとの声が上がったらしい。

「特にごちゃごちゃ言ったのが、英語の上田先生だったらしくて。英語はずっと3年間満点だったから、上田先生は関係ないのにって、柴崎先輩も怒っててさぁ。」

「あーあの先生、僕も嫌いだ。」

「うん、えりも嫌い。でも卒業まであと少しだし、りのりのの元担任の石田先生が、社会の補習をして面倒を見るからって事で、特待剥奪は免れたらしいのだけど。それでも、特待生が補習を受けること自体、全生徒の見本であれという特待生規約に反するって、うるさかったらしいよ。」

「えー最低。」

「高等部の特待入試で、少しでも社会の点数が悪かったら、高校入学は認めないとする事で、問題視する教師たちを納得させたみたい。」

「えー、じゃ、もし社会の点数が取れなかったら、真辺さん常翔にはいられないって事?」

「そう、りのりの、それで結構、落ち込んで、だったら、もう常翔の高等部には行かないで、公立の高校を受験しようかなって言ったんだって。」

「えー、真辺さんがぁ。」

「あたしも知らなかったんだけどさ、先週の土曜日に特待面接の後に、りのりのがそう言って、慎にぃ達、ずっとりのりのに常翔にとどまるよう説得していたんだって。」

「まぁ、公立だったら、査定のレポートもないだろうし、真辺さんの頭だったら、偏差値70越えの帝都高校も行けるだろうしね。」

「駄目だよぉ~。りのりのは常翔に居てくれないとぉ、あたし嫌だもん。」

りのりのが居なくなったら、あたしの宿題はどうしたらいいんだよ~という事もあるけど、何より慎にぃが駄目になっちゃう。メンタルの弱い慎にぃが、りのりのが居なくなるとどうなるか想像がつくから怖い。

常翔の特待生は、あたし達と違って高等部への在籍資格はない。りのりのが高等部でも特待生として常翔に居たければ、2月にある特待入試に全国から受験しに来る人達と一緒に受けて、勝ち取らなければならない。ずっと、査定のレポートとか特待生としてのプレッシャーが辛いと感じていたりのりのが、教師陣にそこまで言われ、しかも一般入試と同じ受験をしなければならない事を耐えてまで常翔に居たいと思えるかどうかが、りのりのを常翔に留まらせるポイントとなると藤木さんは言っていた。

「りのりのは、とりあえず頑張ってみるとは言ったらしいけど、どこまで本気を出す気力があるかどうかと、慎にぃ達、とっても心配している。」

「大変だね、真辺さん。」

「うん、慎にぃは、昨日の合宿に行く直前まで、りのりのに、ご機嫌取ってさぁ。クリスマスプレゼントあげたりして、なんとか受験勉強に力入れてもらう様に仕向けていた。」

「クリスマスプレゼント、何をあげたの?」

「ネックレス、柴崎先輩と一緒に選んだんだって、それもさぁ、りのりの、要らないって受け取らなかったって、慎にぃ落ち込んでた。」

「えーどうして?」

「さぁ~?あたしもわかんない。りのりのの複雑な心は、馬鹿なえりには、わかんないっす。」

そんな話をしていたら柴崎先輩の屋敷がある駅について、プシューと扉が開いた。

黒川君の後ろに続いて電車を降りる。黒川君が黒いリュックを持っている事に気づく。今日は柴崎先輩の家に泊まるけど、手ぶらで良いわよって言われていた。あたし達女子はパジャマや下着は新しいのを用意しとくからって言われていて、あたしは、お財布と携帯ぐらいしか入っていない小さいバッグしか持っていない。男子も、パジャマや部屋着は、凱さんが中学生の頃に来ていた物でよかったら、それがあるからと言っていて、下着だけは、さすがに新しいのを買うにも、わからないから持ってきてと言われていた。それにしても下着と、凱さんのお古が嫌だとしてパジャマが入っている割には大きいような気がする。

「黒川君、リュック大きいね。何もってきたの?」

「パソコンが入っている。」

「えーまた?なにか頼まれたの?」

「ははは違うよ、頼まれてない。なんとなく、条件反射というか・・・・要るかな?って思って。」

「条件反射って!あははは。」

りのりののお父さんが自殺じゃない事を突き止めた日から、約2か月が経つ。黒川君のハッキング技術がりのりのを助けて、そんなお礼も含めて柴崎先輩は、年下であるあたしと黒川君をもクリスマスパーティに呼んでくれる事になった。

「じゃー今度は、何をハッキングする?」

「ははは、凱さんに怒られるよ。」

そんな冗談を言いながら、駅から歩いて10分、高級住宅街の一角、一際大きくて長く続く塀に添って歩き、やっとお屋敷の入り口の門にたどり着いた。

呼び鈴を押したら、お待ちしておりましたとの声と共に、自動で施錠が解錠される。

「やっと来たわね、えり!待ってたわよ!」

迎賓館を思わせる広い玄関ロビー内に、3メートルはあろうかと思う規模のデカいクリスマスツリーと、元気すぎる柴崎先輩が出迎えてくれた。やっぱり、えりは黒川君と共にその迫力にポカンとたじろぐ。





前に来た時と同じ、会合室と呼ばれる屋敷で一番広い部屋に案内された。部屋にはもう今日の参加者全員が集まっていて、それぞれ思い思いの事をしている。前に来た時は部屋の中央に大きなテーブルが縦に2つ並んでいて、正面にはホワイトボードと薄型テレビが置いてあって、豪奢な会議室を呈していたけども、今はテーブルは一つになっていて、空いたスペースに卓球台が置かれ、真辺さんと今野さんが対戦していた。もうすでに何戦かしているみたいで、横に置かれたホワイトボードには点数が記されていた。

「やっと。全員、集まったわよ。」

「えりりん、黒川君、いらっしゃい。」

「遅くなりましたぁ。」

「えりちゃん、お疲れ様、く、黒川君、ひ、久しぶり。」

「お世話になります。」

2つの人格を一つにする催眠療法を行ってから、真辺さんは明るくなった感じがする。まだ、和樹と話す時は緊張で吃音が出るけれど、でも真辺さんから声をかけてくれるのは、特別感があって単純にうれしい。仲間として認めてくれているようで、あの時、和樹は間違いなく真辺さんのお父さんの事故報告書を選んで良かったと思う。

「えりちゃんもやろう、卓球。」

「えー、えり、今さっき部活、終わったばかりだよ。もう体動かしたくない。」

「ははは、りのちゃんは全員に勝つって闘志全力だからね。逃げられないよ~。」と藤木さん。

「まったく、自分のスマホ、ほったらかして、亮に設定を任せっぱなし。来てからずっとよ。」

「りのりの、スマホ買ってもらったの?」

「うん、ママからのクリスマスプレゼント。」

聞けば、午前に機械物が全くわからない真辺さん親子に藤木さんが付き添って、携帯電話ショップに行き、契約してからここに来たらしい。

「りのちゃんのお母さん、これで安心って、ほんと心底ほっとしてたよ。」真辺さんの携帯を操作しながら言う藤木さん。

「りのちゃん、GPSの設定変えないでよ。」

「変えるも何も・・・・動かないんだってば!そりゃっ!やったー!勝ち!」

「くー負けたっ!」スマッシュがきれいに決まり飛び上がって喜ぶ真辺さん、本気の笑った顔を見るのは、初めてだったから、思わず見とれてしまった。

「黒川君、何突っ立ってんの、座れば。」柴崎先輩に指摘される。

「あぁ、はい。」

「りのちゃん、ちょっとこっち来て、操作出来るようになっておかないと。」と藤木さんが真辺さんを呼ぶ。

「なんで、GPSの設定してるの?」えりが和樹も疑問に思っていた質問をする。

「りのちゃんのお母さんから、2度も行方不明になってるりのちゃんが心配で、これだけは設定しておいてって頼まれたんだよ。」

「ほんとは2度じゃないのよねぇ、キャンプでも遭難しかけた事をおば様、知らないものね。」

「あー、あん時にスマホを持ってたら、俺、ヒヤヒヤしなくて済んだのにぃ。」と今野さんが卓球のラケットを置きながら、テーブルに座りにくる。

「ははは、ほんとあの時は、ヒヤヒヤしたわ。」元、女子バスケ部部長の佐々木恵さんも話に加わる。

「あのキャンプの立案者は俺とメグじゃん。しかも俺と一緒の時だったしさぁ。真辺さんに何かあったら、学園に戻れないって焦ったよぉ。それに場所提供したうちのリゾートだっての、責任あるし。」

「ご、ごめん。」

「キャンプで遭難?なになに?」えりが好奇心いっぱいの目を向ける。

「あれ~?新田から聞いてないの?」

「知らな~い。キャンプの話は、テニスしたり海で遊んだり、花火したりして楽しかったって聞いただけだもん。」

和樹達と一緒に部屋に入って来たお手伝いさんの木村さんが紅茶を入れてくれて、和樹の前に運んでくれる。

「もう!その話、しなくていいよ!思い出しただけで、鳥肌が立つぅ。」真辺さんは、腕をさすりながら渋い顔をした。そんな表情も今までにはなかった変化だ。初めて見る。そして綺麗だ。

テーブルの上には好きに食べていいと、ホテルのバイキングかと言うほどのケーキやクッキーが色とりどりで並んでいる。

えりが早速、チョコレートケーキやエクレアやらを山盛りにお皿にとって、幸せな顔をする。

「あたし、この為にお昼ご飯減らしたんだぁ。黒川君どれにする?えりが取ってあげるよ。」

「あぁうん、ありがとう。僕はエクレア一つで。」

「えー一つでいいの?ケーキは?マカロンは?クッキーは?」

「い、いやいいよ。あんまり甘いのは好きじゃないから。」

「あれ~そうだっけ?」

「辛い物の方がよかったら、スナック菓子も用意してるからどうぞ。飲み物もジュースもあるから。」

と柴崎先輩が指さすワゴンに、山盛りのスナック菓子が入った籠があった。

「あっはい、ありがとうございます。」

「男子は甘い物、苦手な子、多いよね。」

「俺も、ケーキ食べようっと。」

「って、言ってるそばから、男のあんたが甘い物!?それにその量はなに!」

とえりの大盛り皿と同じぐらい甘い物ばかり盛る今野さんに、佐々木さんの突っ込みが入る。

「俺、甘い物大好き。それに体動かしたから、腹減った。」

「体を動かしたって、卓球1セットだけじゃない。」

「全力、出さないと真辺さん怒るんだぜ。フル全力、汗かいたよ。」

みたら、ほんとにおでこにじんわり汗がのっている今野さん。

「後で、く、黒川君も、しょ、勝負だからね。」

「えー僕もですか?」

「もっ、もちろん!ぜ全員に勝つ!」と、ガッツポーズで闘志を更に燃やす真辺さん。

今までのイメージからかけ離れていく真辺りの像に、和樹はちょっと戸惑う。

「だからねぇ~りのちゃん、フェイスラインで海外のお友達と早く連絡取りたいんでしょう。ちゃんと出来るようにスマホの操作を見とかないと、明日とかに、どうするのぉ~って、連絡して来ても知らないよ。」

「プリン食べようっと。」

「こら、逃げないっ!」

「まぁ、まぁ、ちょうど良い時間だし、亮も休憩したら?」

藤木さんは小さな溜息をついて、真辺さんのスマホをテーブルの上に置く。

藤木さんが選んだだけあって、一番信頼があると言われている日本製のメーカーで、でも去年のモデルの物だった。おそらく、高い物は買えないと新型機種は買えなかったんだろう。

しかし、GPSにフェイスラインで海外の友達とやり取りするって、まずいなと和樹は思う。

フェイスラインは、今、流行っているスマホアプリの一つ。通話とメールがタダで出来ると世界中でブームが巻き起こっている。が、セキュリティの甘さが指摘されて問題にもなっている。

アメリカの政府要人の個人情報がフェイスラインから盗まれ、それを元に政府の機密情報が中国に漏れたという事件は、一般ニュースでもやっていて。フェイスラインを運営している企業側もセキュリティの強化はやっているとコメントを発したけど、やっていない。というかやる気がないのは、わかっていた。何ってたって、フェイスラインの運営会社の親は、ラインの名がついている通り、世界一の流通企業レニー・ライン・カンパニーなのだから。レニー・ライン・カンパニーは物流だけじゃなく、情報網の世界も網羅して操り始めている。

「藤木さん、GPSにフェイスラインをやるとなると、かなりセキュリティを強化しないと。」

思い余って和樹は苦手な藤木さんに声をかけた。柴崎先輩の入れた紅茶を飲もうとしていた藤木さんは、口をつけずにカップを置く。

「うん、SPガードを入れたよ。」

SPガード、スマホ専用有料のセキュリティソフトである。普通であれば、それで足りるけど、真辺さんは、それだけじゃダメだ。

真辺さんが学園で人気者になればなるほど、他の生徒が、ブログに勝手に掲載したり、ネット上に真辺さんの情報が流れたりする。学園側は、学園の情報をネット上にアップする事を禁止と紙面で通達しているが、守らない生徒はいるもので、学園側は目立って守らない生徒に注意はしているのだけど、すべてを止める事はできない。和樹は、理事長補佐である凱さんからの頼みで、ネット上に流れる学園内情報、特に真辺さんや柴崎先輩、新田さんと藤木さん、レニー・ライン・カンパニーの佐竹に目をつけられてしまった4人の情報は徹底的に保護して、流出した情報は追跡して消去したりをしている。そんなネット上のセキュリティに神経をとがらせて強化しているのに、真辺さん自身がレニー・ラインに飛び込んだら、その努力むなしく、個人情報は向うに筒抜けになってしまう。

「それだけじゃ、ちょっと危ないかもしれません。」

「危ない?」

4人が修学旅行に行く直前、本気でレニーに狙われていた事は内緒で、和樹と理事補の凱さんしか知らない事だ。

藤木さんは、いつもの癖で目を細めて、和樹を見る。

人の顔色を読むのがうますぎる故に、和樹にあれこれと、タイミングが良すぎるほどのお節介な説教をしてくる藤木さんを、和樹は苦手だった。 

このクリスマスパーティも、本当は乗り気じゃなかった。えりのお兄さんは合宿でいないし、今野さんと佐々木さんは、面識がないから、年下の和樹は場違いだと一度は断ったのだけど、柴崎先輩が教室まで訪れて、脅しのように「来るのよ。」と誘ったので、義務的な参加になった。

「GPSかラインのどちらかだけならSPガードで十分ですが、2つ一緒だと危険です。GPSは常に衛星と繋がっていますから。ラインに乗っかって危険度が増します。」

「そうなの?」

「はい。僕PC持ってきてるんで、PCからそのフェイスラインの設定とセキュリティ強化をしましょうか?」

何かをやっていた方が、気がまぎれる。

「PC持ってきてるの!」

「あぁはい、なんとなく要るかなぁと思って。」

「ははは、じゃ、頼むよ。もう、俺、肩凝った。」と首を回して凝りをほぐす藤木さん、不思議と今日は嫌な感じがあまりしない。

「はい、亮、甘い物は、要らないんでしょう。」と柴崎先輩が辛い物中心のお菓子を盛り付けたお皿を藤木さんに渡す。

「あぁ、ありがとう。そうだよ、プロがここにいるじゃないかぁ。俺がセッティングしなくても。んぁあぁ~。よかった黒川君、居てくれて。」と大きく手を上げて伸びをする。その上げた手を隣に座ろうとしている柴崎先輩の後ろ髪をなで触る。

柴崎先輩と藤木さんが付き合いはじめたと、えりから聞いていた。呼び名も変わっている。

「で、りのちゃん、アドレス登録どうするの?誰を入れるの?黒川君、俺のスマホ経由して、りのちゃんが言う奴の番号も入れてやってくれる?」

「わかりました。」

僕は自宅から持ってきたパソコンをリュックから取り出し、真辺さんの新しいスマホにケーブルを繋げた。

「おっ、黒川君のパソコン操作、見られる。」

「え?」

「あっごめん、佐々木さんと今野は、すべてを知っているから。りのちゃんの過去も含めて俺たちがやった事も。」

今野さんと佐々木さんは和樹の後ろに立ち、興味深げに眺めてくる。それにおののきなから、和樹はキーボードを打ち始めた。

「あんまり、注目してやんなよ。大変な集中力が必要なんだから。」と藤木さん。

「これぐらいなら、さほどの事ではありませんから、大丈夫です。」

「だって。」と今野さんが言った言葉に、藤木さんは肩をすくめる。

「先にセキュリティ強化と、フェイスラインのセッティングしていきますね。」

「あぁ、これが海外の友達のアドレスだって、これも入れてもらえる?」

と渡されたのは、小さい水玉のスケジュール帳、アドレスの書かれたページを開いて手渡された。めくれば30名ほどの海外のお友達の名前、住所や携帯電話、メールアドレスの情報がずらっと記されている。英語ではない文字で名前が書かれているから、どう読むのかさっぱりわからない。携帯番号とメールアドレスだけは、世界共通の英数表記だった。これをスマホで一つ一つ登録となると、それは面倒だ。真辺さんは海外のお友達とPCでメールのやり取りしていると聞いていたから、PCから直接スマホに落とし込みをしたら早かったんだろうけど、朝からスマホを買いに行って直接ここに来たと言っていたから、そんな時間もなかったんだなと想像する。

「って、りのちゃん、他人ごとのようにプリンを食べてないで。黒川君に願いしないと。」

「ボタンのない機械は嫌い。」

「どういう意味?」とケーキを頬張りながら聞くえり。

「りのは、どういうわけかタッチパネル系に反応しないのよ。おまけに元々手先が不器用だから。」

「不器用は余計だ!だから、普通の携帯電話が欲しいって言ったのにぃ。フェイスライン出来ないって言われて仕方なくぅ。スマホってイライラする。みんなよく、そんなの使ってるよ。」真辺さんはスプーンを口にいれたまま、頬を膨らます。

「これでも、一番操作のしやすいのを選んだんだけどなぁ。」と藤木さん。

「スマホ内部の感度を変えて見ましょうか?おそらく真辺さんの体が持つ電質量が弱いんだと思います。」

「そんな事できるの?」

「えぇ、僕はやったことないんですけど、真辺さんと同じような悩みを持っている人は多数いるようで、ネット上で解決策が上がっています。」

「へぇ~。」

「あっ、でも、これやっちゃうと多分、違法改造になっちゃって、スマホが壊れた時にアフターサービス受けられなくなります。」

「・・・・・・」

「あんたのスマホの事なのよ!それに3つ目のプリンは駄目。プリン食べ放題は特待、受かってからよ!」

柴崎先輩がプリンを取り上げ、真辺んさんが「えー」と不貞腐れる。

甘い物がさほど好きではない和樹は、それを聞いただけでお腹いっぱいだ。

「どうする?りのちゃん。」

「何でもいい。使えるようにしてくれれば。」

「だって。まぁ壊れた時は、壊れた時だ。それこそ、そんな内部操作できるって事は、壊れた時は黒川君自身が修理できるって事だろ。」

「ええ、まぁ、ソフト面だけの損傷でしたら。」

「頼もしいねぇ。じゃ頼んだよ。」目じりに皺を作った藤木さん。

この間までの嫌な感じはどこへやら、柴崎先輩と恋人同士になったからかだろうかと、和樹は考える。

「では、お借りします。」と和樹は藤木さんのスマホを受け取る。

和樹が文字ばかりの画面を見ながらキーボードを打つ手を、今野さんと佐々木さんが見て、ほぉーと感嘆の声を上げる。

「黒川君の操作スピード、そんなもんじゃないわよ。」と柴崎先輩。

「うんうん、警察へのハッキングの時は凄かったもんね。」とえり。

「あぁ、何で俺も呼んでくれないんだよぉ~。見たかったよ。」と今野さんがうな垂れる。

「佐々木さんが俺たちを助けてくれる為に動いてくれてるのを、お前が変に嫉妬して、ごちゃごちゃ言うからだな、仕方なく話してやったけどな。本来ならトップシークレットだ。お前、絶対に言うなよ。」藤木さんが今野さんに険しい顔で念を押す。

「わかってるって、言わない。」

「はぁ~。お前といい、新田といい、危なっかしいんだよな。ポロっと言いそうで。」

「新田君は元々嘘がつけない性格だものね。」と佐々木さん。

「今野!少しでも漏れたらお前は学園に居られなくなる。だけじゃなく!黒川君もいられなくなるんだからな。」

「わかってるって、もー、俺そんなに信用ない?」

「ない!」

藤木さんと佐々木さんと柴崎先輩のないが重なった。

いつもなら落ちがつくのは新田さんなのに、今日は今野さんが代役をしているようで可笑しかった。

「ぷー・・・・くくくくく、」

「やだぁ、黒川君の笑い上戸、また始まったよ。」

良かった、それほど萎縮しない。

大多数の人は、和樹の見ている文字表示だけの画面を見ても、面白いことなど何もない。今野さんと佐々木さんも同じくで、すぐに、和樹の側から離れて、またおやつタイムに戻っていく。

真辺さんのスマホの感度を変える設定を行い、声をかける。真辺さんに話しかけられる場に居られるのは、このパーティに参加してよかったと思えることだ。

「すみません、真辺さん、スマホを動かしてみてください。」

真辺さんは、和樹からスマホを受け取り、半信半疑で画面をスライドさせる。

「あっ!う、動いた!」

「へぇー出来るもんなのねぇ。」

「さ、さっきと、ぜ全然違う。」

「だけど、スマホの動かない体質って、りのりの、ある意味、凄いわ。」褒めているのか褒めていないのかわからないえり。

嬉しそうにスマホを触る真辺さん。表情豊かになったその横顔はますます綺麗だ。

つぎに、アドレスを登録しなくてはならないのに、真辺さんはスマホを手放さない。

「あのー、すみません、アドレスの登録を・・・」

「あっあ、ごめん。はい。」

「カメラ機能を使わせてもらいますね。」

「う、うん?」

アドレス登録にカメラを使用する事に疑問を抱く真辺さんに、和樹は簡単に説明する。

一字一句キーボードで入力するのは面倒で、入力間違いも起きやすい。カメラで撮ったアドレスを読み取り登録させれば、一瞬で終わる。読み取り不可能だった文字だけをチェックすれば、完璧だ。

そうして説明している間に和樹はアドレスの登録を済ませ、次いでセキュリティの強化とフェイラインの設定を済ませる。

「あとは、日本のお友達の番号とアドレスですけど、誰を藤木さんの携帯からコピーしますか?」

「うーんと、こ、ここに居る、み、皆と・・・・ど、どうしようかなぁ。」

「弓道部の皆もいるんじゃない?」

「弓道部は滝沢さんぐらいかなぁ、結局、吃音なしに話が出来るようになれたのは、滝沢さんだけだったし。」

「りのの友達基準って、吃音なしかありかの判断なの?」

「わかりやすいって言うか、面白いわね。」

「じゃ、俺は、まだ友達じゃないって事じゃないか。」と、今野さんが嘆く。

「そ、そんな、こ事ないよ。と友達だと、お思ってる。」

「思い切り、吃音あんじゃん。」

「に、逃げたい、とは、お思わなく、なった。」

「逃げたかったのかよ!」

「ちょっと、やめなさいよ、それこそ真辺さんに嫌われるわよ。」と佐々木さん。

先輩たちのやり取りがおかしくて、和樹は笑わずには居られない。

「もう、中々、進まないじゃないの!ここに居る皆と、滝沢さんだけでいいのね。」と柴崎先輩

「うん、高校では、もう弓道、やらないし。」

和樹も含めて、全員が驚いて真辺さんに注目する。

「わぁ、な、何、み皆、こ怖いよ。」

「いや、だって、辞めるなんてもったいない。」

「高等部に行ったら、バスケ部に入るのよねー。」と佐々木さんが真辺さんに笑顔の会釈をした。

「う、うん、弓道は、もう、十分き極めた。ばバスケをもっとやりたい。」と力強く言ったわりに、すぐに顔を曇らせた。「でも、こ声が出るかわからないから、で出来るかどうか…。」

「大丈夫だって、言ってるじゃない、私が要るから。」

状況から見て、佐々木さんがバスケ部に入らないかと誘ったのだろう。何故か柴崎先輩が顔を曇らせて、うつむく。そんな柴崎先輩をいたわるように、藤木さんは顔を覗き、背中に手をまわした。

「えーと、じゃ、柴崎さんに、藤木さん、佐々木さんに、今野さん、えりと、滝沢さんですね。」

「く、黒川君も。」真辺さんは意外な名前を口にする。

「えっ、僕もいいんですか?」

「も、もちろん。く黒川君は、おお恩人だし。」

「りのりの、思いっきり、吃音ありだけど。」えりの鋭い突っ込みに皆が笑う。

「こ、これは、ちゃんと、な治す、から。」

義理でもそういってくれたことが、とてもうれしい。

和樹はその好意に甘えて、自分のアドレスを登録した。

「新田を忘れてる。」と今野さん

「あははは、ほんと一番、要る人。」

「要らない!」叫びに近い否定をする真辺さん。

「はぁ~!?」

「そうだっ!み、みんな私が携帯持ったこと、し慎一には絶対に言わないでよ!」

「どうして?」

「わ私が携帯を持ったって、慎一に知られたら~、絶対、毎日、食後にかかってくる!」

「・・・・・・」みんなの無言。

「絶対、嫌だっ!」

「まっ、確かにやりそうね、新田なら。」

「えりちゃんも駄目だよ、慎一に教えたら。」

「うーん、えりが教えなくてもぉ、さつきおばさんから、お母さん経由で、慎にぃに知られると思うよ。」

「あー、啓子おばさんにも言っといてぇ~教えないでって。」

「いやー無理じゃん。うちのお母さん、りのりのと慎にぃをくっつけようと必死なんだから。」

「はぁあ!?」と、どこから出したかわからないような悲鳴を上げ、椅子から立ち上がった真辺さん。

「そうよね、新田ん家にりのの部屋を作ってあるぐらいだもの。親公認よね。」

「えー新田んちに真辺さんの部屋あんの?」色々な事情を知らない今野さんと佐々木さんが驚きの声を上げる。

「あ、あれは・・・・えー、啓子おばさん、どういうつもり?」

「どういうつもりって、お母さんは、慎にぃに早くものにしろって、間違いがあっても、りのりのなら大歓迎って。お父さんも言ってる。」

真辺さんはもう言葉を失って、茫然。

「凄いな、新田家。」藤木さんや今野さんも唖然。

「りのりの、知らなかったの?」

「知らない・・・ど、どうりで、あ、あの部屋で、ね寝むれないわけだ。ぞ、ぞっとするぅ。もうぜったい、に新田家に行くの、ややめる。」真辺さんは、腕をさすって地団駄をした。

「この間も、早く結婚しろって、えりとお母さんとで慎にぃに葉っぱかけた。」

「結婚!?」全員の驚愕の声が揃う。そして、えりの衝撃告白は続く、

「な、な、な、何で、わわ私と慎一が、け結婚し、しなくちゃ、いいいけないんだっ!」

「えりも大歓迎!りのりのが家に来てくれたら、宿題困らなくて済む♪」

「あんたの宿題なんて、どうでもいいわよ。」と柴崎先輩

「だ大体、わ私と慎一は、つ付き合っても、ない!」

「それだよ。ずっと気になってたんだよ、なぁ。」と今野が佐々木さんへと返事を求める。

「えぇ、二人は、どうして付き合わないのかなって。新田君は真辺さんの事をすっごい好きで、最近ではファンクラブの子達にも公言しているじゃない。その気持ちを知っていて、どうしてそこまで嫌がるのかなって。新田君カッコいいし、優しいし、料理も出来て、特に嫌いになる要素ないじゃない?おまけに赤ん坊の頃から双子のように育って、新田君の事、追いかけて特待生になったんでしょう?」と佐々木さん。それは和樹も思っていたことだ。

「うんうん、えりもずっと不思議に思ってた。」

「え、え、えぇー。あ、、な、ななんで、そ、そんな、事、み、みんなに、いい言わないと、い、いけない。」動揺激しく吃音で言葉にならない真辺さん。

「気になるからよ。」と柴崎先輩の即答。「新田はずっと純粋に、りのが好きで寄り添って、私達ずっと、そう言うの見て来たから、やっぱりひっついて欲しいと思うの。」

「わ、私は・・・」真辺さんはみんなの注目に後ずさり、うつむいた。そして、「わ、私は、グレンが好きだもん!」と顔をあげた真辺さんは、大会宣誓するように力強く言った。

「グレン?って誰?」と今野さん。

「グレンは、りのがフランスに住んでた時の友達。夏休みにこっちに来てて、りのと良い仲になったのよ。」

「フランス人?」

「フランスと日本のハーフ。」

「わ私は、グレンが好きなのに、慎一がいつも邪魔する。や約束していたのにぃ。キスなんてするから、しゃ、社会のテスト落として、特待だって剥奪とか言われて、あぁどうして・・・慎一のせいだ。」

「・・・・・・」全員が固まる。

「聞き違いかしら・・・なんか、さらっと、衝撃的な事を言ったわよね。」

「いや、聞き違いじゃない、俺も聞いた。」

「りのりの、慎にぃとキスしたの?!やったーやっと新田りのになるんだぁ!」とえりが万歳で立ち上がる。

「ならない!付き合ってない!キスぐらいで誤解されたら困る!」

「キスぐらいって・・・」

「真辺さんの基準って、ほんと、わからないわ。」

「はぁ~、ほんとわからないわ。普通はキスしたらキスした相手の方に気持ち入らない?」

「入らない!き、キスしたのは、私じゃない!ニコだっ!」

「りのぉ、それ都合よく使い過ぎよ。もうニコもりのも合わさったんだから。」

「だって・・・本当だもん。」

「じゃ何?まだ治ってないとか言うわけ?」

「ちがうっそうじゃ、なくて・・・・。」真辺さんは眉間にしわを寄せて唇を噛む。

「麗香、やめとけ、りのちゃんだって戸惑ってるんだよ。合わさったばかりで。」と藤木さん。

新田さんと真辺さんがキス・・・それも衝撃的だけど、恋心は別の人にありながら、キスぐらいと言う真辺さんの価値観に和樹は驚くも、美しい真辺さんなら、それは許される特権だと思える。

「新田君の恋は前途多難だって事は確かね。」

「えーと、番号登録は、どうしたらいいですか?」和樹は若干助け舟のように、進まないアドレス登録の方へと話を戻す。

「ここの皆だけでいい!慎一のは要らない!」と真辺さんは部屋から出ていこうと駆け出し、しかし、ドアノブに手をかける前に扉は勢いよく内側に開けられた。

「痛っ・・・」おでこを扉にぶつけて、うずくまる真辺さん。

「ん?今ガンって・・・あれ~りのちゃん?」と顔を出したのは柴崎凱斗理事長補佐。

今日は見張るような正装をしていた。





「凱兄さん・・・」入って来た凱兄さんは、黒いスーツに胸にゴールドのチーフの正装をしている。

朝からお父様とお母様が参加するクリスマスパーティの送迎の為に、正装して、午後からも個人的な用があると言っていた。

「当たっちゃった?ごめんねぇ、りのちゃん小さくて、わかんなかったよ。」

麗華は、「あぁ、余計な一言を。」と天を仰ぐ。

「僕は出かけるからね、羽目を外し過ぎないように。釘さしておくよ、皆。」と凱兄さん。

りのはまだ立ち上がれない。

「大丈夫でーす。僕たち健全な中学生ですから。」と今野をはじめ、亮も答える。

「ん?黒川君、PC持ってきているの?」

「あっ、はい、これは、真辺さんの携帯のセッティングを。」

「ん?りのちゃん、携帯、持つようになったの?」

「あっそうだ、凱兄さんの番号も入れておいた方がいいんじゃない?」と麗香は提案した。

「要らない!」立ち上がったりのは、凱兄さんを思いっきり押して、部屋から出で行った。

「えっえー?ちょっと、りのちゃん?なんか、あったの?」自分の余計な一言をわかってない凱兄さん。

悪気がないのが、たちが悪い。

「そうよ、携帯番号の登録を拒否するぐらい凱兄さんがしたの。」

「えー?僕、嫌われるような事したかなぁ?」

嫌われる言葉を十分に言った。という突っ込みは、もう呆れすぎて誰も口にしない。

「凱さん、カッコいいですね。これからデートですかぁ?」と亮が冷かした。

「あぁ、そうなんだよ。ブロンド美人に夏から口説いていて、やっと今日のディナーにオッケーもらえたんたよ。」

子供の冷かしにまじめに答えてどうする。と麗華は心の中で突っ込む。

「今日は戻らないからね。」

そして、健全な中学生の前で、何の衝撃的発言をしてるんだ。と、もう苦笑もできない。

「理事長も文香さんも帰りが遅いと思うから、本当に、羽目を外しちゃダメだよ。」

説得力、全くなし。

「かわいい生徒を退学処分なんて僕はしたくないから事前に教えとくけど、この屋敷、あちこちに監視カメラを仕掛けてあるからね。」

「いっ・・・」と今野が驚く。

「僕は優し過ぎるのかなぁ~。じゃーごゆっくり。メリー・クリスマース。」と陽気に鼻歌を交えながら部屋を出で行く凱兄さんに対して、健全な中学生たちは誰も返事をしない。

「ちょっと、すみません。」

黒川君が席を立って部屋を出ていく。しばらくすると会合室の窓から見える車庫で、車に乗り込もうとしている凱兄さんを捕まえて話しをしている。

「何の話かしら。」佐々木さんが首をかしげる。その疑問がでるのは当然。理事長補佐に一生徒が直接に話す事などないのが普通だ。

「黒川君の亡くなったお兄さんと凱兄さんが同い年ぐらいだから、黒川君は慕って結構、仲良いのよ。」

「麗香!」亮に指摘されて、余計な事を話しちゃったと気づく。

「あっ、ごめん、」

「ったく、お前もかよ~。」

「だっ大丈夫よ。重要な事は言わないわよ。新田ほど迂闊じゃないから。」

「それ、言ってるも同然。」

「あっ・・・」

「何だか、まだまだ私達が知らない事がいっぱいありそうね。」

「あぁ、でも、あんまり聞きたくないっていうか・・・聞いちゃダメなような気がしてきたよ。」と今野。

「あぁ、知らないって幸せだぞ。」亮はすまし顔でティーカップを口にした。

怒られるより、すました顔でいられる方が効く。麗香は自分の迂闊さを猛省する。

黒川君が戻ってきた。

「すみません。えーと、じゃ番号登録ってこれだけで、いいですね。」

「あぁ、いいよ。追加があれば後は俺がやるから、ありがとう。」目尻に皺を作って微笑む亮が怒っていないことに、麗香はほっと息をつく。

「あっ、えりのスマホにも、りのりのの番号を入れなくちゃ。」

「あっそうだよ。自分のを忘れてるよ。」それぞれが携帯電話を探し出してくる

「あっじゃ、PCから一斉に送ります。ここに居る皆さんの携帯に。」

そう言うと、数秒のカチャカチャで、部屋にいる全員の携帯の着信が同時に鳴る。

「うわーっ、一斉に鳴ると面白い。」えりが嬉々の声を上げる。

「何でも、出来るんだなぁ。」今野の感嘆に、黒川君は照れたように恥じらう。

黒川君は明るくなった。ここでハッキングした時は、恐ろしいぐらいの目をして、警察組織に挑むような言動に麗香はたじろいだ。それが今はなくて、1年生らしい顔をしている。これなら安心。えりとの関係を反対する理由は、もう何もない。

「さて、りのはどこへ行ったのかしら?」

「裏庭で、フリースローでもやってるだろう。」と亮

「仕方ない、付き合ってやるかぁ。夕食まで、まだ時間あるし。」今野がスマホをテーブルに置き立ち上がる。

「私、この服、汚したくなかったんだけど…仕方ないわね。」とワンピース姿の佐々木さんも立ち上がり、二人で部屋を出ていく。

「えり、卓球しよっかなぁ。りのりのと対戦する前に練習。黒川君やらない?」

「良いけど、僕は球技が苦手で、下手だよ。」

「だったら尚更、練習しないとぉ。りのりのに負けちゃうじゃん。」

「卓球でもゲームでもカラオケでも何でも、お好きにどうぞ。」

麗香は部屋に残るえりたちに声をかけて部屋の外に出た。

玄関ロビーのクリスマスツリーの奥、階段下の小窓から裏庭を覗くと、りのはバスケットゴールの前でフリースローをやっていた。

今野と佐々木さんが加わって、りのの顔が途端に笑顔になる。りのは水を得た魚のように右へ左へと動き、佐々木さんへパス。バスを受けた佐々木さんがゴールを決める。三人の歓声が部屋の中まで聞こえてくる。麗香は心がぎゅっと冷たくなった。

りのは麗華の言葉ではなく、佐々木さんの言葉を聞き入れた。

2学期の期末テストで社会の点数が学年4位だった。前回5教科満点の成績だった期待もあった中での社会の4位の成績は、教師陣たちから非難を浴びる。何かと学校を休みがちになっている事に加えて、保健室の利用の多さもあり、特待の資質にあっていない、剥奪をとの声が英語教師上田先生を筆頭にしてヒステリック的に上がった。父は理事長権限で庇いはしたけれど、上田先生も華族の称号持ちであり強く行使できなかった。石田先生の擁護もあって、とりあえずは即剥奪にはさせなかったけれど、卒業までの状態によっては、剥奪の可能性は残っている。そんな状況であることに、りのは疲労して、高校は公立高校へと言い出した。

当然に麗華はあらゆる励ましの言葉を言い、常翔に残るよう説得したが、麗華が何を言おうとも、りのは常翔学園の生徒であり続ける事に意欲を出さなかった。なまじ捨て台詞的に、「特待入試に合格したら、プリン食べ放題で奢ってあげる。」と言った事に、かろうじてりのは気持ちを動かしたが、それも少しだけだった。そんなりのが、佐々木さんと高校ではバスケ部に入る約束をしているなんて思いも知らず。プリンを食べさせてあげるといった約束より、高校でバスケを一緒にやろうと言った佐々木さんの言葉の方が効果があっただなんて。麗華は、佐々木さんにりのを盗られたような気分になった。

後をついてきた亮が窓の外を視認した後、麗華に並んで肩を引き寄せた。麗香は甘えて亮の肩に頭を寄せた。

私が亮に寄り添うと言っときながら、私が寄り添われている。

「麗香の言葉もちゃんと、届いてるよ。」

「わかっている。でも、私のが一番じゃなかった。」

「それを言うなら、新田はどうなるんだよ。クリスマスプレゼントを渡して、突き返されているんだぜ。」

「それは・・・」

「相変わらず、りのちゃんのは、わからない。」と目頭をもむ。

昔から、りのの本心だけは読み取りしずらいと言っていた。それはりのとニコの二つの意識が混在していたからで、催眠療法で二つの意識が合わさってもりのの本心は読みずらいままだという。

「どうして、りののは読めないのかしらね。」

「単純じゃないからだろう。」亮は寄せた肩とは反対の手で自分の目頭をもむ。

「悪かったわね、単純で。」

麗華のは誰よりもわかりやすいと亮には笑われている。今更読まれて恥ずかしいことなど何もない。逆にわかってくれるからこそ、麗華は亮を生徒会に誘ったのだし、そして彼氏として付き合える仲になった。

「女は単純であればこそ、可愛いのさ。」と麗華の髪を手に巻き付けて微笑む。

「褒めてるの、馬鹿にしてるの、どっちよ。」

「お好きなように。」

「もう!」

本心が読めると、相手がどう思考しようとも丸わかりで、どのような対処もできるから、亮はいつも冷静で余裕があるのた。

麗華は、軽く息を吐いてまた窓の外を見る。

「りの、楽しそうだわ。」

「うん。それが何より。」

「ええ、」わかっている。あぁやって、笑顔になる事を麗華たちは望んで待っていた。

なのに、素直に喜べない自分がいる。そんな心の狭い自分が情けなく腹正しい。

「あの笑顔は、俺たちが引き戻したんだ。その事実を、りのちゃんはちゃんとわかってくれている。だからこそ、もう、俺たちに心配はかけまいと、俺たちの庇護から出ようとしているんだよ。公立に行こうかなって言ったのも、そういう事だろう。」

「そうね。私達の繋ぐ手が、りのにとって窮屈になった時は、放してあげなくていけない。駄目ね私、前にそうやって誓ったのに。まだ未練がましく。」りのの方が前向きだ。

亮が微笑む。麗香の頬に冷たい手で触れて、滑るように長い髪を払う。

「麗華、次は俺の番だと引っ張ってくれるんだろ。」

「えぇ、どんな事があっても、この手は離さないわ。」

髪を払った亮の手を麗香は掴んだ。男子にしては珍しい冷たい手。この手の冷たさが亮の心の傷の深さだ。この冷たさがなくなるまで、麗華は温め続けると、誓った。

求めるように麗華は顔をあげる。亮は優しい微笑で顔を近づける。目を閉じた。

「・・・やめとく。」離された。亮は肩をすくめて、照れたように視線を外す。「どこにカメラあるか、わからん。」

「あっ・・・」

(凱兄さんは余計な事を。)

「俺、受験勉強したくないし。」

「ふふふふ、亮の成績なら、頑張れば、都立帝都高校も行けるんじゃない?」

「頭脳戦で頑張りたくないから常翔のサッカー推薦を受けたんだぜ。今からなんて、絶対嫌だね。」亮は苦笑してジャケットの裾を伸ばす。特に何も言っていなかったのだけど、麗華のベルベットのワンピースの色と、ジャケットの中に着ているシャツの色を合わせてきていた。

「俺も、りのちゃんのバスケに参戦しようっと。」と、亮は麗香から離れ、玄関に向かった。

その離れていく亮との距離が、自分達の状況を表しているようで、麗華は不安になる。

自分の心は、ちゃんと亮の傍に寄り添えているのだろうか。亮と呼び名が変わってもその距離が近づいた感じがしない。

亮は本当に私を好きで付き合ってくれているのだろうか?

いいえ、それは、麗香は求めていない。求めずに寄り添うと誓った。

だけど、こうして、今まで以上に麗華の事を気にかけ、やさしくしてくれれば、どうしても求めずにはいられなくなる。

屋敷の外へと出ていく亮を麗華も追った。開け放した扉から冷気が入り込んでくる。

「寒っ!」

麗華は踵を返して、玄関脇のクローゼットを開ける。皆のコートが揃っているのを見て、こんなに寒いなか、コートなしで遊んでいるタフさに飽きれ、首をすぼめる。麗華は自分のコートを着込んでから、外に出た4人分のコートをひっつかんで外に出る。

「なぜ、こんな寒い中、外で遊ぶ選択をするかなぁ。暖かい屋敷の中で遊ぶ道具は、いっぱいあるっていうのに。」

屋敷の角を左に曲がったら、ぶつかった。

ふわっと腕が背中に回さられて、抱き寄せられる。

冷たい頬、冷たい唇が重なる。

「麗香は暖かいな。」亮の息遣いが耳に。

「亮・・・」自分の心臓の音が無様に大きく、聞かれてしまうと思うと顔が火照った。

そんな麗華の心が、筒抜けで構わない。これが私だから。

亮はすぐに麗華を放して、行ってしまう。

(もっと、ずっとそうしていたいのに・・・)

麗華の心は満たされずに置いてきぼり。

そして、どこまでも策士な亮に振りまわされてばかり。











「神奈川県の常翔学園中等部の新田慎一です。よろしくお願いします!」

「新田は紹介しなくても皆、知ってるっちゅうねん。」

「ははは、俺らの優勝旗をかっさらって行った常翔のキャプだからな。」

「あっ、いや、でも、俺だけ挨拶なしって訳にも・・・・」

「まぁそうやな、昨日の敵は、今日の友、親しき奴にも礼儀ありってやつやな。」

クリスマスイブから始まったユース16の世界大会に向けての合宿所。関西弁でお笑い芸能人のような鋭い突っ込みをするのは、約3週間前に全国大会の決勝戦で戦った大阪府代表の星稜中学のサッカー部キャプの遠藤篤志。

試合終了のホイッスルで、泣きながら握手をした相手。他にも、トーナメント3戦目で戦った広島のディフェンダー、準決勝の相手だった愛知のミッドフィルダーなど、遠藤が言うように、この間まで敵だった奴が、選抜候補として全国から、ここ茨城県にあるスポーツ振興協会の施設である合宿所に集まってきていた。16歳以下の選抜候補者は33人、その内訳は、中学3年生18人、2年生15人だった。それぞれの学校名が入ったジャージを着て候補者は座っている。

昨日が合宿所の到着日で、順次に顔を合わせた候補者に一応の挨拶は済ませていたけど、一番遠い所で鹿児島から来ている者など、到着が夜遅くだったり、タイミング悪く一度もまだ顔を合わせていない者もいる。決起式の今日が、正式な挨拶でもあるので、慎一は礼儀正しく挨拶したのだが、遠藤に妙な指摘をされてしまう。

「この30人で、今日から29日までの6日間と正月明けの4日から8日までの5日間、計11日、寝食を共にし、強化練習の合宿を行う。そして最終日の1月8日に正式に本戦の正式選抜メンバー22名を発表する。選ばれた22名は3月25日より始まるユース16アジアカップ日本代表選手として正式に登録される。選ばれなかった選手は、今回の合宿で終わりと言うわけではなく、アジアカップから始まり、その後のワールドカップが終わるまで、同行はないが、控え選手としてリストに名が挙がっているので、そのつもりでいるように。」

アジアカップはワールドカップの予選みたいなもの。まずこれでグループ上位2位までに入らないと、日本はワールドカップに出場すら出来ない。

日本のサッカーは世界ランク52位、常翔の卒業生である大久保啓介選手や、その他海外で活躍する選手は多数いて、大久保選手の次の世代でも、世界に通用すると言われている選手は沢山いるのに、それらの選手が集まり日本代表チームとなると、アジアカップのグループ2位までに入る事が出来ず、ワールドカップの出場権を手に入れる事も難しいのが、現サッカー界の現状だ。

ワールドカップまでの今後のスケジュール及び、春のアジアカップとその直前に行われる強化合宿についての説明、連盟のお偉いさん、監督、コーチの紹介と挨拶、施設の案内や注意事項などの眠いミーティングが終わり、それに伴った契約書類などを沢山貰って、午前がやっと終わった。

ミーティングルームを出ると、遠藤が話しかけて来る。

「常翔から1名しか選ばれへんかったって、意外やな。」

「え?そうかぁ?」と適当に相槌をした慎一だったけれど、慎一だって納得していない。遠藤の学校、星稜中学からは、フォワードの遠藤とディフェンダーの菊池2名が選ばれていた。

「お前と、あいつ、7番のミッドフィル、えーと藤木って名前やったっけ?」

「うん、藤木亮。」

「お前とのコンビネーション抜群やったやん。だから絶対選ばれるって思っててんけどなぁ。」

「俺もおもっとった。だから俺んとこに電話があった時、びっくりしたわ。」と話に加わって来たのは、兵庫県代表の中学校から来ている藤木と同じポジションの須崎。

「30名の内、20名ぐらいがFWとMDの選手かなぁと考えて、誰が選ばれるかって予想しててん、俺。常翔の新田は確実で、同じく常翔の藤木、星稜の遠藤、愛知の坂井と数えて行ったらな、俺なんか絶対入らんわって思てやぁ。」

「お前、そんな事してたん?暇人かっ!」と遠藤。

「そや、暇人や、俺ら兵庫は11月で試合、終わっとんねん!」

関西人同士のテンポのいい会話に苦笑しながら、慎一たちは食堂へと向かう。

「新田ぁ、その藤木って怪我でもしたんか?」

「え?いや別に・・・」

「それやったら、何で選ばれへんかったんやぁ?」

「さぁー?」それを一番、知りたいのは慎一、いや、藤木自身だろう。

食堂に入り、トレーを手に取り列に並ぶ。食事は3食共にビュッフェタイプ。ここは、オリンピック時の合宿にも使われたりするので、体育館やプールなどあらゆるスポーツの施設が整っている。今、この施設にはユース16のサッカーだけじゃなく、世界ジュニアバレーボール大会に向けて、中学生の選抜バレーボール選手も合宿を行っていた。だから食堂は、結構な混雑。

慎一は、野菜類と肉類とご飯をバランスよく盛って空いている席についた。隣の席に肉系ばかりが山盛りのトレーを置いて席につく遠藤。昨日から何気に、この関西人3人とずっと一緒に居るはめになっている慎一、会話のテンポが速くてついていけない。

「新田ってさぁ。彼女おるん?」

「えっ?いや、いないけど。」突飛な話を向けられて、口に入っていたご飯が気管に入りそうになって、咽ながら答える。

「なんや、その動揺。これは、おるな。」とニヤつく遠藤と菊池。

「いやいや、いないって。」全力否定。

「おらへんわけないやん、こんなええ顔してて、女がほっとかんやろ。」

「えーなぁ、女とっかえひっかえ、ぶいぶいいわしてんちゃん。」

「なに?ぶいぶい?」

「俺らのクラスの女子、決勝戦の時な、敵やちゅうのに、常翔の新田くんって、キャーキャーいってたし。新田は優勝旗のみならず、関西の女まで、かっさらって行ったんや。」と言って、遠藤はふざけて首を絞めてくる。

「わっ!やめっ、あちっ。」ちょうど味噌汁のお椀を手に持ったところだったから、揺らされて中身がこぼれる。幸いにトレーの中だけにこぼれて、服は汚れなかった。

「新田、何してんねん。」

「お前が揺らすからだろ!」と慎一は本気で怒る。

「はぁ~新田さぁ~、そこは、真剣に怒ったらあかんやろ。ボケな。」

「ボケ?」意味が分からない。

「ははは、遠藤は厳しいでぇ、ボケ突っ込みの修行。」

「修行?」

「クラスの女子がな、新田君と友達になって紹介してって言うんや。おかしないか?クラスメートの俺より、敵やった新田の方が、モテるなんて。なんでやって言ったらな、新田君の方がシュッとして格好いいからに決まってるやんとか言うんや。」

シュッ?

「腹立つから、お前をベタな関西人にしたろおもてな。テレビとかで新田が関西弁しゃべるの聞いたら、女子ら、がっくりくるやろ思てな。へへへ。」

「はぁ?」

「遠藤な、さっき、新田と同室の敷島と部屋を変わってもらっとったから、逃げられへんで。」

「はぁ?」

「FWのツートップ、いいコンビになるにはな、夫婦漫才みたいに息がぴったり合わなあかんねん。楽しくなりそうやわ~11日間。なっ、新田。」と肩をがっちりと組まれ、満面の笑みを向けてくる遠藤。

どうして、そうなる?

ここって、サッカーの合宿所だよなぁ。とまだ幾分も食べていないのに、満腹感が増した慎一だった。







ボールがバスケットに入らず脇にこぼれた。

転がるボールに走って追いつき、ドリブルをしてから、反転してジャンプ、シュート。入らない。

「はぁ~。調子悪い。」

『りのぉ、それ都合よく使い過ぎよ。もうニコもりのも合わさったんだから。』

『だって・・・・本当だもん。』

『じゃ何?まだ治ってないとか言うわけ?』

誰もわかってくれない。当たり前か。自分でも良くわからない二重の心、他人がわかるわけがない。

なぜか、二重人格がなくなったら、慎一の事を好きになると皆が期待をする。

でも、私の中にはグレンが好きだと言う気持ちがあって、慎一の気持ちに応えようとする気持ちもあって、

グレンの事を考えると慎一がものすごく嫌になるし、慎一の気持ちに応えようとすると慎一のやさしさに恐怖を感じる。

ニコとりのが合わさってから、良くも悪くも慎一への関心?意識が濃くなった気がする。

考えてみればそれは当たり前の現象で、今までが、薄すぎたという事なのかもしれないけれど。

ボールはベンチの下に入り込んでしまった。昔はきっと優雅な白いベンチだったのだろう、今は塗装も剥げていて、木目の色が見え、苔も生えている。バスケットゴールの真鍮も錆があって、屋敷の表側、庭やアプローチの完璧な美しさとは正反対に、手入れが後回しになっているのが見てわかる。無理もない、これだけ広い屋敷を住み込みのお手伝いさんと料理人の二人で管理しているのだから。ボールを拾う。癖の様にため息が出た。

昨日、慎一がクリスマスプレゼントをくれようとしていたのに、要らないって言ってしまった。

なんてひどい事をしてしまったんだろうと、後悔。謝りたくても、もう合宿に行ってしまった慎一に電話をかけてまで、謝る勇気がでない。

(今、何をしているだろうか?もうサッカーの練習を始めているのだろうか。)

着実に夢に向かって進んでいる慎一。私の分まで描くと言ってくれた慎一の夢は、私の夢でもある。

世界に通用するサッカー選手になると、夢に向かう慎一の目には願いが叶う虹色の光があった。

夢を持った目はとても強く美しい。

あの時、何を思って、どんな気持ちで慎一にキスをしたのか、自分でもわからない。

強く美しい夢に憧れと敬意を持ったのか、純粋な愛だったのか。

本当にあの時の慎一の目は、きらきらと輝いてとても綺麗だった。

そんな慎一の姿を思い出して、胸が熱くなって陶酔している自分に動揺する。

(ダメダメ、思い出してはダメ。)

あれを思い出すと、ろくなことがない。

ドリブルを開始。そうだバスケしながら、年表を覚えたらどうだろ。暗記物は歩きながらやったらいいとか言うし。

昨日書き写したのは、鎌倉時代まで。年表を頭によみがえらせる。

「えーと、645大化の改新、672壬申の乱。」

シュートが入るようになった。

『真辺さん、高等部でバスケ部に入らない?私と一緒にバスケしよう。真辺さんが入れば私達、全国も目指せると思うの。』

佐々木さんが誘ってくれた。

慎一が仲間と共に叶えた感動を、私もあれを夢見る事ができる?

「へい!リノ!パス!」

振り返る。今野君がステップを踏んで屋敷の角から駆け寄ってくる。

『常翔のバスケ部はね、名字じゃなくてね、皆、名前で呼び合ってるの、それも2文字だけで。私はめぐみだからメグ。真辺さんだったらそのまま、リノね。男子は、名字と名前の、呼びやすい方で言ってるわ。今野は陽人だからハル。』

手に持っていたボールをドリブルしてから、今野君の後ろから登場した佐々木さんにパスを渡した。

「おっ!そう来るか。」

佐々木さんがドリブルでゴールを目指すのを、今野君がカットしようとする。佐々木さんの機敏な動きで今野君のカットをかわす。

佐々木さんのシュートはフェイント、追いつかれた今野君のブロックを交わして私の所へパスが来る。受け取ったボールをワンドリブルでシュートと見せかけ、今野くんを交わして再び佐々木さんにパス。佐々木さんはワンバウンドでシュート、入った。

「ナイっシュー!」佐々木さんとハイタッチ。

「やられたぁ~。」

「あたし達を止めるなんて無理よ、ハル。」

「なにぉ~。」

楽しい。

「メグはリノと組んだら駄目だ。」

「どうしてよ。」

「ここは、身長で分けなきゃ、メグはこの3人の中で一番背が高いんだから、一番小さいリノは俺と組む。これで均等。」

「小さい言うな!」

今野君と佐々木さんは身長逆転のカップル。二人はいつだって爽やかに、クラスをまとめていて、人と交わろうとしない私を気にかけてくれていた。

「ハルとは組まない!」

「ほら、完璧に嫌われたわよ。」

「アゲイン!メグ!」

拾ったボールを佐々木さんにパスをする。ゲーム再会。フランスの仲間とやっていた楽しい時間が今、ここにある。

忘れていた感覚。諦めた夢。

私も夢のお絵かき帳に描くこと出来るかな?

もう慎ちゃんに、つまらないと言わせない、楽しい夢のお絵かき帳に。





ラジオはクリスマスソング特集。定番の曲からポップな曲まで、クリスマスと言う単語を今日は何回、聞いただろうか。そして、明日まで何回、聞くだろうか。うんざりするほど繰り返される単語も曲も、今日と明日だけは特別。人々の暮らしに彩を添える。知った曲に口ずさみながら、ウィンカーを左に首都高速を降りる。出口はその先の信号で渋滞中、いつもよりも増している車列も、今日だけはイラつかない。サンバイザーの裏についている鏡で、髪型をチェック。肩にフケやほこりがついていないかもチェック。イタリア製のブラックスーツは、この日の為に新調した。ポケットのチーフはゴールドを選択し、ゴージャス感を出し特別な日をさりげなくアピール。足となる車はBMW・M7クーペ、車両価格2800万の紺色のスポーツカー、完璧だ。しかし車は借り物。戸籍上の父、柴崎敏夫の所有物だ。柴崎敏夫高等部理事長は、車好きで頻繁に車を買い変えている。敏夫理事長は凱斗を養子に迎えると途端に、この車を買って半分押し付ける形で預けた。『ずっと欲しかったんだ、この車。クーペは洋子が使い勝手が悪いと許してくれなくてさぁ。凱斗が欲しがったと言う事にしてるから、な。』と、横浜のマンションの地下駐車場に置いていった。おかげで凱斗は、洋子義理母には、養子縁組早々に柴崎家の金を食いつぶす卑しい施設育ちの人間と嫌われる事になった。敏夫理事長は、時々この車をマンションから出してドライブに出かけているが、今日は華族会の付き合いで、信夫夫妻と一緒に朝から出かけている。だから今日、この車を使っても問題ない。

夏の終わりごろに、エンドレス・シンのバーで知り合ったアメリカ人のクリスティンは、長いブロンドの髪にブルーの瞳の、知的で落ち着いた雰囲気の中にも程よいセクシーさが垣間見れる魅力的な女性。アメリカ大使館の事務をやっていると言っていて、まだ日本語が少ししかわからないと片言で話すたどたどしさがキュートで、一瞬にして虜になった。ただガードは固い。何度もいい雰囲気になりながらベッドインとならなかった。それが、いい感じで欲望を刺激させる。

(今日は必ず!)

そう、今日は特別な日なのだから、クリスティンだって、この日にディナーに誘う意味を分かっているだろう。

クリスティンの住むマンションに着く、ロビー前の道路に車を停める。携帯で到着した事を伝える。

ラジオの曲が終わって、DJのMCが邪魔にならない落ち着いた声色で語る。

『昨日から横浜港に入港している豪華客船レニー・パール号、世界最大級の大きさは、全長360メートル、幅64メートル、約22万5千トンで、6千人以上の客を乗せての航海が可能です。もうここまで来たら、どれぐらい大きいのか想像できませんね。

船内にはショッピングモール、カジノ、バスケットボール、テニスコート、パフォーマンスシアターなど、多くのレジャー施設、エンターテイメント施設があり、その豪華さも注目です。夢ですね、こんな船で世界一周の旅が出来たら。今日はクリスマスイブですから、この船内で過ごすって言うのもロマンチックです。夜はライトアップされて、その名の通りパールのような輝きを見るのも素敵でしょう。船内入場チケットはもう売り切れですが、港からこの豪華客船を見るというのも、いいデートコースではないでしょうか。では次の曲もしっとりと、クリスマスの曲・・・』

あぁ、クルーズ船でディナーも良かったなぁ。よし、次のデートは、それで行こう。

レニー・ライン・カンパニー・アジアが所有運行している世界最大級の豪華客船の一つ、レニーパール号。その名の通り、贅沢を尽くした豪華客船が横浜港に着港したと、昨晩のテレビニュースでも紹介していた。自宅の横浜のマンションから見えるかとベランダに出てみたが、方角が悪くその船が着いた波止場は見えなかった。レニーはパール号のほかに、ヨーロッパ大陸支部で持つ、レニー・エメラルド号とアメリカ大陸支部で持つレニー・クリスタル号の3つの豪華客船を持ち、世界を周遊している。世界企業の代名詞にふさわしいレニーの巨大さが、こういったところで見て取れる。

その世界企業レニー・ライン・カンパニー・アジアの影の実権者ともいうべきレニー・グランド・佐竹に目をつけられてしまった凱斗。よく普通に生活しているものだと、改めて、命があったのが不思議に思う。

『柴崎凱斗、礼はいずれ、させてもらう。』

そう一言だけ残して電話を切ったレニー・グランド・佐竹。その礼がいつ来るのか?警戒して二か月を過ごし、一向に来ない気配で夏が終り、冬が来て7ヶ月も起つと、その警戒も薄れた。さっきも黒川君が、りのちゃんの携帯電話の遠隔監視の設定をどうすればいいかと相談に来たが、もうそこまでする必要があるだろうかと思っている。理由がどうであれ、それは究極のプライバシーの侵害であって、本来ならやってはいけない事だ。あの時は焦って、4人の携帯の監視設定を行ったが、これまで、何も起きていない。あの時は、凱斗を仲間に入れたいが為の脅し的な物で、凱斗との取引で解消されたのだった。佐竹は自身の素性である真の名の下に、子供達には一切手出しはしないと誓った。口約束など効力なしだと知っているが、こよなく美を求めるあの佐竹が、約束を破るような無様なことをするとも思えないし、侮れないことも確かだ。もしもの時を考え、りのちゃんの携帯は、遠隔操作の監視システムを設定してもらっておくことにした。

マンションエントランスの自動扉か開く。クリスティンは優雅な仕草で左右を見やる。

レディの身支度にしては早い方。急いで運転席から降りて、クリスティンに駆け寄る。

クリスティンはにっこりと微笑む。

とても綺麗だ。

黒のベルベットのマキシドレスは、膝上10センチほどまでスリッドが入っていて、セクシー。白いミンクのボレロが清楚に肩を隠している。そして何といっても、アップしたうなじが最高に、いい香りがする。

英「クリスティン、今日は一段と綺麗だよ。」

英「ありがとう。カイも素敵よ。」

クリスティンの手を取りエスコート。

英「頭をぶつけないように気をつけて。」

車のドアを開けて、クリスティンを助手席に座らせる。スリッドから覗いた脚が、暮れかかる夕日に輝いた。

運転席に戻り、スマートに車を出す。エスコートの仕方は、日本に戻って来てから身に着けた。文香さん夫妻が華族会のパーティに同行する度に教えられ、ダメだしされた。その頃は嫌で仕方がなかったけれど、今になって思えば良かったと思える。

車は夕暮れの街を帝国ホテルのある新宿へ車を向ける。

英「今日は素敵な夜になりそうね。」クリスティンが心躍るような言葉を発する。

凱斗はガッツポーズをしたい気分だが、ここはスマートに、紳士に顔を引き締める。

英「最高のね。」

先代の総一郎会長は、何を考えて凱斗を柴崎家の養子に入れたのかわからない。この記憶力を買ってくれていたのはわかるけれど、それでも、どこの馬の骨ともわからない子を養子に入れる事に、ためらいがなかったはずがない。

そういう事は遺書にかかれていなかった為に、この世を去った今となっては総一郎会長の真意は、誰もわからない。

長らく行方をくらましていた凱斗が、生きていると知れた時、記憶力のほかに軍事的特務技術をも会得していると知った華族会は、凱斗の帰還を強く求め、あらゆる手を尽くした。死ねなかった絶望の渦で帰国したあの頃の自分が、こんなに煌びやかな時を楽しむことができるなんて思いもしなかった。

渋滞を抜け、街路樹のイルミネーションが落ちる戸張に明滅の輝きが増す。あれを見る度に、樹はどんな気持ちでいるのだろうと思う。拷問のように体に巻き付けられたコード、それが夜間ずっと明滅するのだ。寝れやしない。

くだらない思考は辞めておこう。これから、最高の夜が待っている。ハンドルを左に切り、帝国ホテルの敷地に車を入れる。

並んでいるタクシーを追い越し、別館側に車を停車させた。顔馴染みの華族専用のドアマンが、足早に寄ってくる。このドアマンは華族会の人間と車のナンバーを完璧に覚えていて、その対応は一流だ。車を降りると、姿勢の良い礼をして、にっこりと微笑み、眩しいほどの白い手袋のひらを向けて、車のカギを求めてくる。今日、二度目の対応であることを微塵も出さず、彼は「行ってらっしゃいませ」の言葉を送ってくれる。この別館の最上階にある大広間、華の間では、今日、華族会のクリスマスパーティが開かれている。文香さんも今頃は濃紺のパーティドレスに身を包み、フロアを忙しく挨拶周りをしているだろう。華選でもあり柴崎家の者の立場として凱斗も参加しなければなないパーティだったが、クリスティンとの約束が取れたので不参加を願い出た。

クリスティンの手を取り、腕に組ませ、並んで歩く。いつもより高いヒールを履いたクリスティンは凱斗と同じ身長になり、キスのしやすい位置となる。

クリスティンと結婚すれば、こうして並んで歩く毎日が迎えられる。そのうち子供が出来て、クリスティンに似た子供は、それはそれはとても可憐な女の子だろう。想像するに楽しいファミリーだ。クリスティンと子供は、凱斗と結婚したとしても華族も華選の称号もなくて一般人。洋子理事長はきっと顔を顰めて、華族の血を絶やす気ですか!とか何とか文句を言いそうだけど、そもそも華選は血筋で授与される地位じゃなく、個人の能力で授与される一代限りのもの。凱斗の子供が称号を得るためには、純粋な華族か、華准の称号を持つ人間と結婚しなければならない。それでも純粋な華族ではない。華准しか得られないのだ。

洋子さんに罵倒されようが虐げられようが、クリスティンと結婚ができるのなら、どんなことでも耐え忍ぼう。クリスティンへの愛は、称号より高貴で美しいはずだから。

帝国ホテルのロビーも大きなクリスマスツリーが、品よく飾られている。

すれ違う人々がクリスティンの姿に振り返る。足を止める者もいる。その視線は、美貌への賞賛と憧れに潤んでいる。凱斗は誇らしげに胸を張る。

ロビーを突き抜けたエレベーターへと足を向ける。ディナーは高層階にあるフランス料理店だ。ボタンを押す直前、クリスティンはその手を優しくつつむ。とてもなめらかな肌質。

英「ねぇ、カイ、ディナーの前に、あなたに合ってほしい人がいるの。」

英「合って欲しい人?」

英「ええ。」見つめる瞳が宝石のよう。

英「誰?」

英「こっちよ。」

クリスティンが腕を引っ張る。エレベーターの横の通路へと進んでいく。

べ―ジュの大理石に囲まれた通路、トイレの入口が男女に並んだ奥の階段を降りていく。駐車場へと続く階段だ。

その会って欲しい人というのは、車の中で待っているのだろうか?何故に?

階段の踊り場で、わずかに沸き起こった不審に、降りる足が戸惑った。クリスティンは、首をかしげて微笑むと、頬に軽くキスをしてくる。そしてイタズラっ子のように舌を出す。

(なんて、チャーミング!)

一抹の不審は吹っ飛ぶ。もう、どこまでもついて行く、この下が地の果てでも。

クリスティンのヒールが奏でる足音は、祝福の鐘の音。

素晴らしき未来への扉を開ける。

向かってくる車のライトに目がくらんだ。

目の前で止まる車、それは長い胴体の車両、リムジン。後部座席の窓ガラスが静かに降りた。

露「クリスは、いい女だろう。」

レニー・グランド・佐竹!

は、軽快に笑う。

露「愚か者なのか、頭が切れるのか、どっちだ?くくく。」

クリスティンがリムジンに乗り込み、佐竹の横に座る。スリッドからのぞかせた白い足を佐竹の足に絡ませ、なまめかしいキスを佐竹の頬にする。それまでの清楚さとは一変して、妖艶に小悪魔のような視線を向けてくるクリスティン。

ハニートラップ。

これこそが本物の最高級の蘭の華、格が違う。

流石は世界のレニー・ライン・カンパニー、アジア大陸支部の次期代表を、そして世界を手に入れようと狙うだけはある。

露「柴崎凱斗、約束の礼をしよう。レニー・パール号は、世界一流の夜をもてなすだろう。」


運転席から男が降りて来て、リムジンの後部のドアを開け、凱斗に乗車を促す。

乗り込んだ車内は、嗅いだことのない良い香りに満ちていた。

圧倒される佐竹の美の気迫に

露「それは、最高の夜になりそうだ。」それを言うのが精いっぱい。

リムジンは一切のGをかけずに動き出す。

クリスティンが最高の微笑みでワイングラスを差し出してくれるのを受け取った。

車は、レニーパール号、アジアを周航する豪華客船が停泊している横浜へ。

日本に戻ってこられるのは、いつになるだろうか・・・。























もう最高!

柴崎先輩の屋敷の住み込み料理人の源田さんは、クリスマス会の今日、腕に寄りをかけて調理してくれた食事は、最高に美味しい。元は日本料理が専門だったというが、中華でもイタリアンでも何でも来いの腕前だと聞く。しかし、やっぱり基本は日本料理がお得意とあって、お刺身が出てきのだけど、それがツリーのように盛り付けられていたのが可愛かった。そして、ローストチキンのガーリック和風ソース掛けが、超美味しかった。うちのお父さんが作る本場フランス仕込みの料理とは違って、やっぱり日本人は、和テイストが合う。と言ったらお父さんの立つ瀬がないけど。デザートは苺の練乳掛け。手仕込みの要らないものだけど、シンプルが一番おいしい。よく、わかってるぅ、源さん。

しかし、この練乳、嫌な防腐剤の刺激が全くない。

(え?手作り?凄い、練乳って家庭で作れるんだ。)

「どうやって作るんだろう・・・」

「どうやってって、苺のヘタ取って練乳をかけただけじゃない。」と柴崎先輩がえりのつぶやきに答える。

「違います。この練乳・・・」

「すみません。」と何故かお手伝いさんの木村さんが謝る。えりの言葉はかき消されて柴崎先輩が口添えをする。

「源さんは、デザートは作れないの。食後のデザートと言ったら、いつも果物を剥いただけのものでね。」

「十分だよ。」と藤木さん。そう、十分に満足においしい料理。

「やっぱり、本格的なフランス料理の方が良かったかしら、ケータリングも考えたんだけど。」

(ダメダメ、そんなの源さんの立つ瀬がない。酷いよ柴崎先輩。)

「源田さんのお料理、すごくおいしかったわよ。毎日こんな料理を食べている柴崎さんが羨ましいわ。」

「そう?」

(あー柴崎先輩、麻痺してる。なんて贅沢な可哀そうさ。)

「えり、エクレア残っているわよ。」

「もう、無理です。お腹パンパン。」

ここに来てから、ずっと食べ続けている。クリスマスケーキも早々に、蝋燭をともして歌を歌ってクラッカーを飛ばした。ベタな気恥しいクリスマス会だけど、それが楽しい。誕生日が一月に来るという藤木さんがケーキの蝋燭消しをやれと皆に言われて、嫌がりながらやったクリスマスケーキは、ここ周辺で一番おいしいと値段も張るシェルダンの特注ケーキだった。他にもシュークリームやエクレア、クッキーやマカロンも。もうこんな幸せなクリスマスはない。去年も慎にぃ達はこれを経験していたのかと思うと、悔しい!一回分を損した。えりも早く柴崎先輩と友達になりたかった。いや、もっと早く生まれていればと考え、はっと気づく、柴崎先輩は今年で卒業する。まさか、クリスマス会に呼んで貰えるのって、えりは、今年限りなのでは?

(えーそんなのやだぁ~。)

「ぷっ、くくく。」突然、えりの向いに座っている藤木先輩が、お腹を抱えて笑いだす。

「何よ、亮、急に。」

「えりりんの顔が、面白くて。」

「えりの顔がおかしいのは元々よ。」

「ひどーい柴崎先輩。あーでも先輩、もう、えりたちは最後とか言わないですよねぇ。」

「はぁ?何を最後って言うのよ。」

「このクリスマス会ですよぉ。先輩もう卒業じゃないですかぁ。先輩たち高等部に行っちゃうし、えりたちの事忘れたりしません?」

「そんな事を気にして、顔芸やってたわけ?」

「あーん、だってえり、まだ一回しか呼ばれてない!」

「あははは。」藤木さんが更にお腹を抱えて笑う。そして、柴崎先輩に耳打ちをする。

「呆れたぁ!ほんと馬鹿ね、えりって。」

「なっ何ですかぁ?」

「食事やおやつぐらいね、いつでも、いくらでも食べさせてあげるわよ!全く、あんたの家、うちの源田さんよりプロでしょう。まるで食べさせてもらってない子供みたいに。」

「えー本当に食べさせてもらってないんですよ。子供は店に出入り禁止で、お父さんの本格的なフランス料理を食べたの、2年前のりのりのの誕生日会をやった時の一度だけですよ。」

「そういうところ、新田家は厳しいな。」と今野さん。

「でも、食べさせてもらえてないのに、えりりんの味覚は鋭いよね。そういうところは一流料理人の血筋かなって思うよ。」

やっと笑いが治まった藤木さん。黒川君だったらもと長く続いている。

「味覚が鋭い?」

「昼間マカロンがシェルダンの店の物じゃないって当ててたし、この練乳が市販のものじゃないってわかったから、どうやって作ったんだろうって言ったんだよね。」

「えっ?この練乳、買って来たものじゃないの?」と柴崎先輩は木村さんに顔を向ける。

「はい。源さんの手作りです。いつも。」

「知らなかった。」

「へぇー凄いわねぇ、えりちゃん。どうしてわかったの?」と佐々木さん。

「この練乳、防腐剤入ってないから。」

「防腐剤って、味あるの?」りのりのも興味深々で聞いてくる。

「ううん、味じゃなくて、舌に残る感覚があるんだ。」

「えーそう?わからないけどなぁ。」と佐々木さん。

「昔さぁ、俺が新田ん家に泊まりに行った時、新田が作った昼飯をえりりんが文句を言って喧嘩したの覚えてる?」と藤木さん

「昼ご飯で喧嘩ぁ?そんなの、いっつもの事だから覚えてないよぉ。」

「えりとも、ご飯の事で喧嘩してるの?」

「そん時、ミートスパゲッティを新田が作ったんだけど、えりりん一口食べて、合挽肉使ったでしょう!ミートじゃないじゃん!って怒って、新田は合挽しか冷蔵庫になかったんだから仕方ないだろうって応戦して、酷い言い合いになった。」

「あーあったねぇ。ミートスパゲッティつったら牛肉だよ。豚肉入ってるのはダメだよ。」

「俺はわかんなかった。後で聞いたら、合挽肉っても30パーセントしか豚肉入っていない挽肉だって聞いて驚いた。えりは家族の中で一番、味にうるさいくせに、作ろうとしないって新田がブヅフツ怒ってたよ。」

「えり、凄いじゃん。」黒川君も驚きの顔で褒めてくれる。

「で、そのミートスパゲッティって不味かったの?」と柴崎先輩。

「いいやぁ。そん所そこらのレストランよりうまかった。隣の店で余ったものが家の冷蔵庫に入ってるって言うだけあって、ブイヨンは本格的だろ、生のトマトを湯むきして作ってたし。」

「うわー美味しそう。えりちゃん、そりゃ贅沢だわ。それで怒るのは。」佐々木さんまでに嗜められる。でも美味しいものに妥協は許さない。

「えー、だって、牛肉100%の方がおいしいもん。」

「えりりんも料理すればいいのに、それだけの味覚があれば、きっと新田より上手になると思うよ。」

「そうですかぁ。」

「えり、出来る事あったじゃん。」

いつも私が何もできない、黒川君はいろんなこと出来ていいなぁと羨ましがるから、そう言ってえりを励ます。

「そうよねぇ。一流のシェフになるには腕じゃなく舌って言うものね。」

「うん。良い料理人は、タバコは絶対に吸わないし、飲酒も極力しないって言うしなぁ。俺ん所でも料理人を雇う時は、料理長が指の匂いを嗅いで確認するって言ってた。嘘を言っても喫煙してる奴は手に匂いがしみつくんだって。」と今野さん。

今野さんの実家は、箱根沖にあるリゾート施設のホテルを経営している。

「今野ね、その料理長に、たばこ吸ったのすぐにバレて、親に怒られたのよねぇ。」

「いや、あれは・・・若気の至りってやつ、一度だけだ。なっ、藤木。」

「ば、馬鹿、俺に振るなっ!」

女子達の軽蔑の目が藤木さんに集中した。

「吸ってない!吸ってない!俺は止めたんだ。今野が馬鹿みたいに、やってみようぜって言うから。」

「俺のせいにすんな!お前が買ったんだろうが!」

「お前が小銭ないって脅すから~。」

「被害者みたいな演技すんな!」

「二人共、勇気あるね、カメラある屋敷なのに。」無表情に話すりのりの。

「ぎゃー終わりだぁ、俺たち卒業間近にして退学~」

「お、お前が煙草の話にシフトするからだろ!」

「俺じゃねぇーよ。メグだっ!お前がしなくていい話をするから。」

「私のせいにするの?自分のしたことを?彼氏としての関係、考えるわぁ。」落ち着いた口調の佐々木さんが怖~い。

「あっいや、メグのせいにしてるわけじゃなくて。」

「お前、最低だな。女の子のせいにして」首を振って、わざとらしい呆れた仕草をする藤木さん。

「うっせー、んで何故人事のような演技をするんだ!」

「もう!どうでもいいわ!あんたら男子の馬鹿話につきあってらんない。」と柴崎先輩

「良いじゃん、退学。私と一緒に公立目指す?」とりのりの。

「いや、すみません。それだけはご勘弁を。」

藤木さんと今野さんが二人して頭を下げて、しゅんとなるのをえり達は大笑いしてディナーは終わった。

(そっかぁ~。私にも出来る事あったんだぁ。)

確かに、ご飯の事は、ずっと慎にぃにばかり作らせて、手伝おうともせず、文句ばかり言ってきた。

冬休み、慎にぃ居ないし、ちょっと自分で作ってみようかなぁ。





久しぶりの手料理、と言っても和樹にしてみれば高級割烹に来たみたいな夕食をごちそうになった。食後、お手伝いさんが会合室の片づけをする間、負担テレビを見てくつろぐという部屋(と言ってもこの部屋も一般家庭のリビングとはかけ離れた応接室にしか見えない)に移動して、テレビゲームや、昔ながらのボードゲーム、カラオケなどもして、時間はあっと言う間に過ぎていった。和樹は夕食後には帰ろうと思っていのに、思いのほか、今野さんが和樹に対して気安く接してくれていて、真辺さんの驚くほどの明るい表情についつい見とれて、帰りそびれた。結局、皆と同じに柴崎邸に泊まる事になり、夜も更けた11時過ぎ、騒ぎ疲れた今野さんは声がかすれている。

「流石に疲れた。」

「私も限界・・・の一歩手前。」真辺さんが、持っていたトランプを置き、肩で息を吐く。

「じゃ、そろそろ休みましょうか。えーと今野と亮は同じ部屋で良いでしょう?204のツインの部屋を使って。」

「あいよ。」

「黒川君は、離れてるけれど205のシングルを使って。」

「はい。ありがとうございます。」

「お風呂はどうする?1階の浴室、先に使う?」

「いや、いいよ。俺は2階のシャワー室で。」

「俺もシャワーだけでいい。」と今野さんも、だから和樹も頷いて同意を示す。

各部屋にホテルのようなナンバープレートがつけられてある事も驚きだけど、2階のシャワー室が和樹の家の風呂場より広くて豪華だった事を、前回の時に知っているだけに、1階の浴室ってどれぐらい広いのだろうかと興味を持ち入ってみたかったけれど、先輩たちに倣うに限る。

「あっ、よからぬことを考えてんじゃないでしょうね。」佐々木さんがその高い身長で、和樹たち男子を圧倒する。

「しねーよ。覗きなんてなぁ!」今野さんが和樹の肩を組み、胸をはる。

「えっ、えー!僕はっ。」

「考えてんじゃない!」

「今野さん!黒川君を、不良の道に誘わないでくださいっ!」えりがほっぺ膨らまして怒る。

「冗談だよ。」

「タバコも冗談?」真辺さんがいけない話を蒸し返す。

「だから、ああいうのは、ほら、中学生男子なら誰でも経験する興味本位の、中1の時の話だ、時効だ。」

「まぁいいじゃない、凱兄さんが言うように、ここにはたくさんの監視カメラがあるから、羽目を外した代償は大きいわよ。」

柴崎先輩が長い髪を後ろに振り払いながら、にっこりほほ笑む。常翔学園最強のお嬢様は気品と迫力が違う。

「じゃ、みんなお休み。」

「あぁ、お休み」

二階への階段を上がり、右手の階段に一番近い柴崎先輩の部屋に、えりたち女子4人組は入っていく。これから、女子達だけのおしゃべりをするのだと言う。

屋敷の奥に向かって右側が奇数ナンバーの部屋で主にシングルベッドの部屋、左が偶数ナンバーでダブルベッドの部屋である。柴崎先輩が使っている部屋は、元は201とナンバーが記されていたのだろうけれど、今はその場所に「REIKA」と記されたプレートがつけられていた。その隣が203で前回はそこを使わせてもらった。その隣がトイレとシャワー室が並んでいて、そして205,207と続く。

204の部屋の前で歩みを止めた藤木さんと今野さんに「おやすみなさい」を言って先を進もうとしたら、今野さんに肩を組まれた。

「何言ってんだぁ~。黒川君。」と呼び止められる。

「まだまだ、夜は長いよぉ。」藤木さんが、目尻を細めて笑う。

「えっ?なっなんですかぁ。」

「常翔学園男子寮の儀礼から逃れられると思うなよぉ~。」

「寮生長と副が揃って直々にしてやろうってんだ。中々ないよ~。こんなチャンス。」

(してやろうって、何?儀礼?)

雰囲気からして良いものじゃないのは明らか、

「え?あの、僕は寮生じゃありません。」

「甘い!」

迫る藤木さんの不敵な顔、今野さんのニヤつく顔に、僕は軸足に力を入れる。





「もう、男子ってほんと馬鹿。」あきれ顔で溜息をつく柴崎。

「柴崎さん、本当にこの屋敷のあちこちに、カメラあるの?」と佐々木さん。

「ないわよ。あるのは門の周囲、防犯用のみよ。あったら私、ずっと監視モードじゃない。いくらなんでも血のつながらない兄さんに、プライバシー筒抜けの家なんて、住んでられないわ。」

「えー柴崎さんと理事補って血のつながりないの?」

と佐々木さんが驚いた表情で言った直後、廊下でズシンと、振動と共に床が揺れた。

私達は、びっくりして全員で顔を合わした後、部屋から慌てて出る。

廊下で、今野君が黒川君の足元で、寝転がっている。

「なっ、何やってるの!。」

「うわっ!、す、すみません!」今野くんから離れた黒川君が慌てて、頭を下げる。「つっつい、条件反射で。」

「忘れてた、黒川君は初段待ちしている柔道家だって事。」立ち上がれない今野くんに藤木は手を貸す。

「お前~それを早く言えよ!」

「だからっ!忘れてたって言ったろ!」

「ちよっと、一体、何んなの。」

いつもの腰に手を当てたポージングで厳しい視線を男子に向ける柴崎。

「あ~いや、その~黒川君と、もっと親睦を図ろうと・・・」詰め寄る柴崎から目線を外して、頭を掻きながら取り繕う藤木。

柴崎は大きなため息をついて「ほんと男子って馬鹿。」とつぶやく。

「もう!今野さん!黒川君をイジメないで下さい!」

「いや、あのね、えりちゃん、倒されたの、俺だよ?」

「すっ、すみません。」黒川君は、また深く頭を下げる

「黒川君、謝んなくていいよ!」えりちゃんが、ほっぺを膨らまして怒る。

昔から変わらないあの柔らかいほっぺが可愛い。

そんなことで、また廊下に集まった私達、藤木の携帯の着信音が鳴った。

「おっ、新田だ。」

(げっ!)

「だっ、駄目だよ。慎一に私の番号、教えちゃ!」

慌てて、藤木に念押しをする。啓子おばさんから知られるかもしれないけど、1日でも、一時間でも知られるのは遅い方がいい。

「わかったって。はい。・・・・・その声は、あまり調子よくないみたいだな。」

「えっ。新田君、調子悪いって、どうしたの?」佐々木さんは、私へ質問するように視線を向けてくる。

首を振って知らないをアピール。だけど、私には心当たりがある。昨日のプレゼントの拒否が、慎一の調子を悪くしているのだ。

「珍しいな、お前が疲れたって言うの。やっぱ、選抜の練習はきついか?・・・・・・・ん?なんだよ。・・・・・・はぁ?あははは、そうなんだ。」藤木は笑う。何だろう。

「あぁ、今ちょうど、もう休もうかとしてたところ。うん、今年は卓球台が登場してるし、外でもバスケやったからな、昼からずっと体育会系だったから、皆くたくたなんだ。あぁ。皆側にいる。誰かと変わるか?」

絶対嫌!と全力で首を振り、手でも×を作って拒否をアピール。

「柴崎、変わってくれって。」

私じゃなかった事に腹が立つ。

「その前に、音声、皆に聞こえるように通話してもいいか?」

藤木が画面を操作してから柴崎に手渡す。

「新田!お疲れさま。どう練習。」

「あぁ、まぁ、学園でやってる事とたいして変わんない。」

慎一の声がスマホのスピーカーから聞こえてくる。へぇーこんな機能もあるんだぁ。どうするか後で教えてもらおう。

「調子悪いって?」

「あぁ、違うんだ、同室の奴が面倒なやつで困ってるだけ。それより悪いな、パーティ行けなくて。」

「良いわよ、そんなの。選抜の方が大事でしょう。中等部からの選抜なんて大久保選手だって出来てないのよ。」

「やめてくれよ。変なプレッシャーかけるの。」

「ったく、ほんとメンタル弱いわね、しっかりしなさい!」

「ははは、元気出るよ柴崎の喝は。えりは我儘を言ってないか?」

「なんだよ~慎にぃ!」

「聞こえた?怒ってるわよ。」

「あぁ、聞こえた。まぁ柴崎に任せてたら安心だ、ちゃんと叱ってくれるからな。」

(どうせ、私はえりちゃんに怒れないよーだ。)

「今野と佐々木さん、りのにバスケ付き合わされただろ。」

携帯を今野くんにリレーパス。

「あぁ、全力だ。しかし、柴崎ん家には、びっくりだよ、バスケは出来るしテニスも卓球も出来るし、」

「ははは、その屋敷に驚くのは定番だな。俺らも去年、同じ驚きをしてるから。」

「真辺さん柴崎邸で遭難するんじゃないか?」

「もう!またその話、うんざりっ」

「ははは、そうだな、庭の奥の方に蛇ぐらい居そうだもんな。」

(えっ、うそっ!考えなかった。)

「いっいるの?あ、あれが・・・」柴崎の腕にすがる。

「さぁ~。私、裏の奥まで行かないから。居てもおかしくはないと思うけど。」

(ぎゃー、鳥肌立ってきたぁ~。)腕をさすったら、ツブツブの皮膚の感触が手にざらつく。

「りの!聞こえてるんだろ。」

慎一があれの話なんかするから。

「プリンばっかり食べて、ご飯、残したんじゃないだろうな?失礼だぞ、源田さんに。」

(信じらんない!ご飯より蛇の心配だろ!)

藤木が、私の顔を見て、お腹を抑えて笑う。

「うっさい!ご飯馬鹿!」慎一なんか、ご飯を喉に詰まらせて死んでしまえ!

「ご飯馬鹿?」

皆が笑う。慎一の声なんか、これ以上効きたくない

柴崎の部屋に戻る。怒りの八つ当たりを扉にして閉めると、屋敷が振動して音がこだました。

(ほんと、最低・・・)


『俺はニコが選ぶ物すべてを認めて、ずっと変わらずお前だけの心配をする。』

慎一が真剣な眼差しで言った言葉・・・

あれを慎一は、ずっと守ってる。

胸がズキリと熱くなる。

慎一の心配が、成長できない私を責めたプレッシャーになっていた。だけど止まった成長が動き出したら、慎一の心配をどうとらえたらいいかわからない。

藤木は言った『ただ、あいつは、りのちゃんの事が大切過ぎて、躊躇しすぎた。今回で新田は反省もしたし、成長した。』

そもそも大切って何?私だって慎一の事は大切だよ。お互いに大切に思っている仲、それだけじゃダメなの?

第一、皆が求めているような進展を、慎一の口から発せられた事がない。

ただ心配をすると誓われただけ。聞くのは、慎一以外の人から伝えられる、私の事を好きな新田慎一像。

グレンのように、もっと、はっきり「好きだ」と言ってくれたら、もしかしたら私の心は、何か劇的な衝動が起きる?

グレンと過ごしたあの時みたいに、ドキドキとした衝撃を・・・

あぁグレンに会いたい。声が聞きたい。あの腕に触れたい。フランスは、遠い。

悲しくなる。

そうだ、電話。フェイスラインはタダで電話がかけられる。もう使えるって黒川君が設定してくれた。

鞄の中からスマホを取り出し、柴崎の部屋から飛びだした。

まだ廊下にいた皆と視線目を合さないように、うつむいて1階まで駆け降りる。

「りの!どこ行くの!」そうは言っても、柴崎は追っては来ない。

階段わきのロビーの商業施設にあるような大きなクリスマスツリーの奥に回り込んで、座り込んだ。

フランスは今、夕方5時。グレンは何をしているだろう。

ホームパーティの準備かな?





(ご飯馬鹿ってなんだ?)

やっぱり、りのの事はわからない。藤木が今まで出会った中で一番、本心を読むのが難しいと言うはずだ。

藤木でもわからない事を、慎一がわかるはずがない。

昨日はクリスマスプレゼントを拒否された。それは迂闊だったと後から気づいて猛省している。死んだ栄治おじさんがりのに渡そうとした誕生日プレゼントと同じ色の包装紙と形状だった。帰ったら謝らなくちゃいけない。

「真辺さん、怒って部屋に入っちゃたわ。」佐々木さんの声。

「佐々木さん、お疲れだったね、クリスマスなのにバスケ付き合わされて。」

「いいわよ。楽しかったし。」

「そっか・・・」

「真辺さんの声を聞きたかったんじゃないの?」

「あ、いや、俺、嫌われてるから。」

「クリスマスプレゼントを受け取ってもらえなかったって?」

「あぁ、うん。俺が悪いんだ、忘れていたから。」

「忘れていた?」

「まぁ、その話は、また今度。」

「どうする?えりちゃんに変わる?」

遠くのほうから、えりの「変わらない」という声。妹と改まって話す事なんかお互いにない。黒川君ともお互いに話す事はなく、しばらくの間があって、「オンフック切るよ。」と藤木の声。ここからは皆には聞こえない通話。

「新田、いい加減さ、ご飯の心配はやめとけな。」

藤木の声が元気そうでホッとした。慎一だけが選抜に選ばれてしまった。皆だけじゃなく、本人も期待していたはずだ。選ばれなかった事に傷付いているはず。だけど藤木はそんな素振りを一切見せず、頑張れよと慎一の背中を叩いて送り出してくれた。

「んー、わかってんだけどさぁ、つい。」

「まぁ、不器用なお前にしては、よくやったと褒めてやるよ、キスの事は。」

「えっ、お前、何でそれ。」

「りのちゃんが暴露した。」

「うそっ!」

電話の向こうで、ガチャと扉が開く音が聞こえた。

「・・・・・」

「りの!どこ行くの!」柴崎の声。

「どうした?」藤木は慎一の言葉に答えず黙ったまま。

向うの様子がわからない長い沈黙が続いて、藤木のため息。

「お前、心配ばかりじゃ、グレンには勝てないぞ。」

「グレン?」

「今、りのちゃんは、グレンと電話中。切ないな、泣いている。会いたいって。」

「ちょっと、亮!」柴崎の怒った口調

クリスマスイブだ、そりゃ会いたいだろうさ。慎一だって、りのの声が聞きたいと思って、かけているのだから

(ん?電話?誰の携帯を使ってる?家電?柴崎家の支払いだからって遠慮もなく?)

「藤木、グレンと電話って、まさか柴崎の家電から国際電話をしてるんじゃ。」

「違うよ。りのちゃん、携帯電話を持ったんだ。フェイスラインの無料通話だ。」

「亮!約束が!」電話の向こうの二人の気配が険悪で、慎一は首をかしげる。

「マジ?買ったんだ。」

「りのちゃんのお母さんからのクリスマスプレゼント。頼まれて今日一緒に買いに行ったのさ。」

「へぇーそうなんだ。」

「だけどりのちゃんは、お前に番号教えるの絶対にダメだって、皆に口止めしたからな。」

「わざわざ言わなくていいでしょう!」柴崎が怒っている。

「・・・・・何でだよ。」

「食事の後に電話かかってくるのが、嫌だって。」

「・・・・・・」

「だから言ったろ。心配ばかりじゃ、グレンに負けるって。」そう言って、藤木は笑った。

やっぱり、藤木は怒っている。

慎一だけが選ばれたことに嫉妬している?






やっぱり亮は、自分が選ばれなかった事に傷ついている。そして新田に嫉妬している。

麗華のキスで流した涙では、そのささくれる心を完全に浄化する事はできなかった。

麗華の寄り添いでは癒されない深い傷。

「だけどりのちゃんは、お前に番号教えるの絶対にダメだって、皆に口止めしたからな。」

「わざわざ言わなくていいでしょう!」

「・・・・・何でだよ。」

「食事の後に電話かかってくるのが、嫌だって。」

「・・・・・・」

「だから言ったろ。心配ばかりじゃ、グレンに負けるって。」

麗華の制する言葉を聞き入れない亮。

笑う亮が、昼間に見せた亮とは別人のように見えた。

意地悪く、狂気を感じる。こちらが本当の亮の本心だ。そう、麗華は隠さないでと言ったから。

もし麗香自身が藤木の立場なら、嫉妬を隠さず罵倒している。亮だけが特別にお人よしじゃない。誰だって人を憎む醜い心を持っている。

「じゃ、またな。」

新田との通話を終えて、階下にいるりのへと身体を乗り出して見た亮は、不気味に口角を上げて笑う。

麗華はぎゅっと縮まって苦しい自分の胸に手を当てた。

私が寄り添うと誓いながら、その距離を縮められない。

「さっ、りのちゃんの邪魔しないで、部屋に戻ろう。」振り返った亮は、そんな醜い心に仮面をつけたように、いつもの微笑みで皆に声をかける。えりと佐々木さんが麗華の部屋へと戻り、今野も「俺たちも男子会だからなっ」と黒川君を捕まえて204の部屋へ入って行く。

「お休み、麗華。」亮は仮面をつけたまま、見つめる麗華の側を通り過ぎようとする。

「亮!」

「お休みのキスがお望みかな、お嬢様。」

「やめて、そんなんじゃない事、わかっているくせに。」

亮は、軽い溜息を吐、麗華から視線を外した。

「お願い亮、その尖った心、私だけにして。」

新田やりのへ、その嫉妬や憎しみを向ければ、麗香達の友情は崩れてしまう。

「楽しい記憶を、りのと一緒に作っていこうと言ったわ。」

「誰かの楽しいは、誰かの苦しみの上に成り立つ。世の中の摂理だ。」

「亮!」

「冗談だよ。気をつける。お休み麗華。」そう言って、麗華の頬に軽くキスをして部屋へと戻っていく。

「亮・・・」

情けない。

本心を見れば恐ろしくて踏み込めず、

仮面をつけられたら、それを外させない自分の無力さが悔しい。





部屋の外、廊下で女性陣のはしゃぐ声が聞こえる。

僕たち男3人は会話を止め、なんとなく耳を澄ませてしまい、顔を見合わせて吹き出す。

「皆で風呂に入るみたいだな。」

「4人で入るほど、大きいんですか?1階のお風呂って。」

「うん、女4人なら余裕で入れる、ちょっとした温泉宿の風呂並み。浴槽がこれぐらいある。」と藤木さんが手をぐるっと回して大きさを示す。

「あー俺、シャワーじゃなく、入るって言えばよかった。」と今野さん

「同感です。」

「後から入れば?一時間もすれば、上がってくるだろう。」

「女子が入った残り湯・・・ブハァッ」今野さんが鼻をつまんで上を向く。

「性欲を刺激させるような事をいうなよ~眠れなくなるだろ。」

性欲ってまた・・・すました顔でダイレクトに言う藤木さん。

「おっそうだ、カメラあるって言ってたじゃん、風呂場にないのかなぁ。」身長の低さと下手すれば女の子の様に見える顔の今野さんは、その見た目と言葉とのギャップがあり過ぎて、違和感がある。

「風呂場にあるわけねーだろう。」

「分かんねーぞ、理事補、こっそり覗いてるかもしんないぜ。」ニヤついた今野さんの言葉に、思わず藤木さんと顔を見合わせた。

「俺らの前で、平気で今夜は戻らないとか言う人だぜ、あの人が、成熟していない女子の裸を見て喜ぶかよ。」

「意外にって事がある、」

「理事補は、ロリコン趣味ではないですね。もっと別の・・・」ラストさんの姿を思い出し、気持ち悪くなりかける。

「もっと別のって何!?」

「あっ、いえ、すみません、よく知りません。」

「なんだよ~、怪しいなぁ。隠すなよぉ」和樹の横腹をつつく今野さん。

嫌がって反る和樹に、執拗に絡んでエスカレートして、こそばしまでいれてくる。

(これが常翔学園男子寮の儀礼!?)

「や、辞めてください・・ヒィ」

藤木さんは清ました顔で、部屋に用意されていた茶器でお茶を入れ始めた。

「今野、それぐらいにしとかないと、絞め技食らうぞ。」

「うわっ!そうだった。あぶねー」とホールドアップのポーズ。

「もう、しませんから。すみません。」

「いや、こっちこそ、すみません。」

変な頭の下げ合いなった状況を、藤木さんが鼻で笑う。

「そうだ、それで面白い事できないの?」と今野さんは和樹のリュックを指さす。中のパソコンの事を言ってるみたいだ。

「面白い事ですか?例えばどんな?」

「例えば・・・ラブホの監視カメラを覗くとか。」

「お前、まだ覗きを諦めきれてないのか。」

「あったりまえだ!覗きは男のロマンだ!」

「あほだな。」

「清々しいですね。ガッツポーズで宣誓されると。」

面白い、寮の生活って、ずっとこんな感じなのだろうかと、思いめぐらす。

「ふん、お前らだって興味ある癖に、俺は明るく健全にやらしい。お前らみたいに隠してむっつりしてる方が、駄目だろ。」

「お前らって俺も入ってるのかよ!」

「僕もですか?」

「当たり前だ。特に藤木っお前はなっ」と立ち上がってビシッと藤木さんに指さす「いつも、しれっとして紳士ぶってるけどな、結局は俺らと同じ中学生男子、頭ン中は同じだ!」

今野さんは藤木さんの髪を掻きまぜて、くぢやぐちゃにする。

「やめんか!俺はお前と同じじゃねーとっくに童貞なんて卒業してる!」

「おっ、お前っいつの間にっ!うわっ柴崎と、か?」

「麗香じゃねぇ!」

「えっ・・・」

時計の音が聞こえるぐらいに静まりかえる部屋。

「・・・冗談だよ。」お茶をズズッと啜る藤木さん。

どれが?

確かに僕たちと同じじゃない

掴みどころのない藤木さん。・・・やっぱり苦手だ。






女子4人で、柴崎邸自慢のお風呂へ向かう。

りのりのは渋ったけれど、この屋敷の主、麗香お嬢様に逆らえるはずもなく。柴崎先輩は、新しい下着と、モコフワのかわいいルームウェアを出してきてくれた。色違いで4人分、おそろいの可愛いデザインにえりはテンションが上る。

もう、何から何まで柴崎先輩の後輩で良かったぁと幸せになる。そのルームウェアは柴崎邸に常備しておいてくれて、またいつでも泊まりに来てという。うれしい。えりは一生、柴崎先輩について行こうと心の中で誓った。

「うわー、本当に広い」ちょっとした旅館並のお風呂、小さい子だったらプールになる。

柴崎邸の規模のデカさに慣れっこになってきてはいるものの、飽きもせず何度も驚く。そして柴崎先輩のグラマーな胸にも驚く。テニスウェアのスタイルがばっちりだったから、そうかなとは想像していたけど、生で見たら、うん凄い。佐々木さんは筋肉質でカッコいい。佐々木さんぐらいの筋肉があったら、スパイクもバシっと決まるだろう。りのりのは・・・細すぎる。がりがりじゃん。そりゃ慎にぃが心配するはずだ。ん?まさか慎にぃ、りのりのの裸を見た事があるから、あんなにご飯の心配ばかりして・・・えっ?うそっ、うちって間違いも大歓迎するほどの親公認で・・・うわー親公認の裸の付き合い!?それって、マジで赤面もの。

「えり、そこで何やってるの。」

みんなはもう湯船に入って、くつろいでる。えりは慌てて湯船にお邪魔させてもらう。

「りの、虫にでも刺されたの?掻き過ぎて、赤くなってるじゃない。」柴崎先輩の指摘に皆がりのりの胸に注目する。りのりのは、胸の左よりを仕切りに掻いている。

「虫さされじゃない、痣」

「痣?」

「生まれつきの。」りのりのは掻くのをやめて、皆にその痣を見せる

白い肌に綺麗なひし形がはっきりと赤茶色に浮き上がっていた。

「ひし形だ。へぇ~綺麗な形の痣ね。」

「ほんと、珍しいわね、こんなにはっきりした形の痣って。」

「時々、ピリピリして、痛痒い。」と、またりのりのは爪で掻き始めた。

「やめなさいよ。酷くなるわよ。」と柴崎先輩

「何だか、タトゥみたいでカッコイイ。」

「何言ってるのよ。」

「えりちゃんって、面白いわね。」佐々木先輩が、さわやか笑顔を向けてくるので、えりは照れる。

「なんかさぁ、えりといい、りのといい、小さい子、相手してるみたいなのよねぇ。老け込んだ気になるじゃない。」

「小さい言うな。」

「体の事言ってんじゃないのよ、精神的な事。りのは木に登ったり、虫を平気で捕まえたりするし、拗ねるでしょう。」

「ははは、だけど真辺さんのそういうところが、新田君はほっとけなくて、大好きなんでしょう。」

「なっ、なんで、また慎一の話になる。」

「そりゃ、気になるからよ。私、グレンって子を知らないし。新田君を応援したいわ。」

りのりのがムッとむくれる。

「キャンプの時の肝試し、私、新田君とペアだったじゃない。あの時はまだ、真辺さんの事情ってものを知らなくて、でも気になっていたのよね。真辺さんは休みがちで、学園最強のお嬢様の柴崎さんと、あの藤木君までもが真辺さんを守るようにしていたから、何かあるのかなって。だからいい機会だと思って私、新田君に聞いたのよ。」

「そうだったの、佐々木さんに問い詰められたら、黙っているのは無理ね。」

「まぁ、ちょっと強引だったかもしれないけど、でも肝心の病気の事は、さすがに新田君も言わなかったわよ。ちょっと目が離せないんだ、ぐらいしか。」

「そこで言ってたら、殴ってる。」

りのりのが手をグーにして、眉間に皺を寄せる。その細さで殴られても、たいして痛くなさそう。

「まぁそれだけじゃなくて、気持ちもね、その時聞いたんだけとね。」

「気持ち?珍しいわね。あいつが言うなんて。」

「あー私が言葉を誘導したのかもしれないわ。『無茶する、あいつをほっとけなくて』って、優しい心配をしてるから、ほんとに真辺さんの事、大事なんだなぁって思って、私、こう言ったの。『真辺さんの見る目が違う理由が分かったわ。・・・・好きとか愛してるを超えて、【愛おしい】が近いかしらっ』て。」

「愛おしい・・・」

あぁ確かに、慎にぃの気持ちは好きをとっくに超えている。かといって、愛しているは、中学生が使っても深みのない、ただ大人の真似事しているぐらいにしか聞こえない。

「新田君ね、『愛おしい・・・・どうだろう、確かに言葉が見つからないと思っていたんだ。』って言ったのよ。」

りのりのは困った顔を伏せた。

「私も同じような事、新田から聞いたわ。」

柴崎先輩は湯船の縁に頭を乗せて天井を仰ぐ。天井には神殿のような円形の模様がモザイクタイルで施されていた。えりはその模様が何様式というのか知らない。

「私はキャンプ前、りのが夏にグレンと仲良くしはじめた時、新田に言ったのよ。あんたも、ちゃんと自分の好きな気持ちを伝えなさいって。新田は、『俺はこれ以上、そんな言葉でニコを縛りたくない。』って、新田は好きと言う言葉以上の物を探してたのね。あの時、私は好きと言う言葉以外何があるって言うのよ!って怒ったんだけど。」

全員がりのりのの顔を見つめる。

「そっそんなの、知らない。慎一が言うのは、ご飯食べたか、とか、熱はないかとか、私の要らない心配ばかり。」

「はぁ~」大きなため息を吐く柴崎先輩「新田らしいと言っていいのか、不器用って言うのか、新田はまだ、はっきりと言えてないのね。」

「えりは、そのグレンって人、知らないけど、慎にぃの、りのりのに対する思いは、そのグレンよりも大きいと思う。」

「えり、あんた意外にちゃんと見てるわね。」

「あったりまえですよ。あたしは二人の妹ですよ。身近でもどかしい思いをしてるのは、あたしが一番です!」

「え、えりちゃーん。」りのりのが、あたしの腕をつかんで縋り付く。えりはその手をほどいて逃げる。ここはビシッと一回言っとかないといけない。

「りのりの!慎にぃの、ご飯の心配とか病気の心配とかを要らないって言うけど!逆に考えてみてよ!りのりのが好きだって叫んだグレンとか言う人?がぁ、ご飯を食べないで病気がちだったら、りのりのどうする?慎にぃと同じ心配するんじゃないの?えりなんか、病気の心配もされたことないよ!双子のように育った兄妹っていうけど、えりに対するのと、りのりのに対するのとは全然違うって、りのりのだって、とっくにわかってるくせに。」

「ちよっと、えり!」

あぁ、なんか止まんない。

「慎にぃの想いはいつだって、りのりのの全部を受け入れるぐらい広くて深いんだっ。5才児のニコだって、記憶を失った14歳のニコだって、どっかに行こうとしてたりのだって。全部、全部、受け入れようとしてたっ」

「えり、やめなさい!」柴崎先輩の制止も、頭に熱がこもって止められない。

「言葉なんて、どうでもいいじゃん!慎にぃは言葉以上の事をしてきたよ!りのりの・・・すこしぐらい、慎にぃの・・・・」

あれ?視界が暗ーくなって来た。

「慎にぃの・・・気持ち・・・を」

「えり!」

・・・・・・・・・

気が付いたら脱衣所で寝かされていた。裸で。

「もう、焦るじゃないのよ!」

あーのぼせたぁ。まだちょっとクラクラする

「え、えりちゃーん、良かったぁ~。」りのりのが半泣きで私に抱き付いてくる。

えーと。あたし、りのりのに結構きつく言っちゃったよね。

「りのりの、えり・・・」

「ごめん、えりちゃん。」

あぁまた、えりよりも早く、りのりのが謝る。誘拐イタズラの時と同じ。

「私が早く気づいていれば、ごめんね。」

「ううん、わかってくれたらそれで」

「うん、次はちゃんと見るからね、のぼせない様に。」

そっちの謝り?!

体はって訴えた慎にぃの気持ち、伝わってない?

「あーでもよかった。死んだらどうしようかと思った。」

「のぼせたぐらいで死なないわよ!ったく、りのって、どうしてえりには甘いのよ。」

「えりちゃん、大好き。」りのりのは私をギュッとハグして、頬を摺り寄せてくる。

あぁ。とえりは落胆の思いで天井を見上げる。

「だからねぇ、その気持ちは慎にぃに向けてあげて。」

全員が溜息をついた。








「たくぅ、お前って奴は~わからん奴だよ。」今野は椅子に戻り亮が淹れたお茶をすする。

「お前に、わかられたら世の終わりだ。」

「けっ、そのうち友達なくすぞ。」

それは面白い、一人になればこのウザイ能力で嫌な物を見せられる事もなくなる。

「今野さん、佐々木さんと付き合っているんですよね。そう言うやらしい事ばっかり言って嫌われませんか?」黒川君が純粋な質問をぶつけてくる。

「えっいやまぁ~こういうのはぁ。」

「こいつさぁ、佐々木さんの前では顔に似合わず、紳士ぶってるんだぜ。」

「顔に似合わずってなんだよっ。」

「シチュエーションに夢見て、なーにもできない。」

「あ、こら、言うんじゃねぇ。」

亮の口を塞ごうとしてくる今野の手を叩き払った。痛がって睨む今野。

「黒川君に面白い事を頼むのなら、それなりの報酬を出さないとなぁ。」

「そうですねぇ、ハッキングはリスクがありますからねぇ。面白い話の一つでも聞かないとぉ。」

黒川君もなかなか、ノリが良くなって来た。

「なんだよぉ~俺だけから報酬をとるかぁ。」

「嫌なんだとよ、自分が背伸びしながらのキスは。」

「あぁ。」黒川君は同情の視線を今野に向ける。黒川君は柔道をやっているとは思えないほど体が細く、一見今野よりも身長が小さく思えるけれど、実際に並んだら今野より数センチ高い。まだこれから伸びるだろう。

「なんだよ!その憐みの顔は!」

「だから未だに大好きなメグちゃんと、キスが出来ずにいる。」

「大事にしてんだよ!悪いか!」

「なるほどぉ~それで、やらしい事に飢えているってわけですか。」

「あぁ・・・そうだよっ悪いかっ。」頭を掻きむしり開き直った今野。

今野は素直で面白い。寮生の中で一番裏表のない奴だ。

「そういうお前らは、どうなんだよ!」

「俺は飢えてない。」

「僕も別に、そういうのは、あまり。」

「んなわけないだろ!一番興味ある年齢だろ中一っていやぁ。やらしいが内に秘めまくっているのが普通だろうがぁ。」

力説する今野に黒川君も困り顔。

「黒川君、こいつうるさいから、やらしい動画でも見せてやれ。」

「そうですね、一晩このパソコンをお貸ししますから、ご自由にどうぞ。」

「こういうのはノリだろっ!藤木~、てめえ~」

今野がまた立ち上がりグーで殴る仕草。

「悪ぃ、わりぃ」仕方ない、合わせるか。「後で、とってもやらしい動画サイトを教えてやるから。」

「えー、藤木さん、飢えてなかったんじゃないんですか?」

「飢えては無いが、健全に興味はある。」

「ほらなっ、皆同じ。」

今野は紳士でいる方が演技をしている亮だと思っているが、基本的にはノリの良い方が疲れる。周りに合わせて、はしゃいだり下ネタにも乗っかる事は、寮生活を円満にする術である。

「あははは。」黒川君が苦笑する。今野のおかげで、亮への苦手意識が薄れてきていた。

「それよか、黒川君、えりりんと、どうなってるの?」

「えっ?」

「そうだ、そうだ、好きなんだろ。ちゃんと言ったかぁ。」

「あーえー?すっ、好きって、僕・・・。」顔を真っ赤にして俯いた黒川君。その純粋な心が、ほほえましい。

「ちゃんと、言っておかないと、新田みたいになるぞ。」

「うんうん。あの二人は、見ててじれったい。真辺さんに色々な事情があったとはいえ、いや、あったからこそ引っ付きやすいんじゃないのかなぁとか思うんだけど。」

「りのちゃんは、単純な女の子じゃないからね。そうそう上手く行かないのは仕方ないにしても、それ以上に新田が不器用過ぎんだよ。」亮はお手上げのオーバーアクションをする。「不器用なくせに、グレンを好きなりのちゃんをも、受け入れようとすんだからなぁ、もう俺、無理、あいつのお守り。」

「男はもっと強くグッと好きなら好きっと。」

「ってお前も全然できてなかっただろう。メグに告白したら迷惑だろうかとか、ウジウジ悩んでたくせに。」

「それは、告白する前だっ、告白する時はちゃんとはっきり好きだって言った。」

「それも何か月かかった事か。」

「あははは」と笑う黒川君。

「んで、黒川君は、えりちゃんの事が好きなんだろ。」今野は自分の話になるのを阻止すべく、黒川君の方にシフトする。「明日、告白しろ!クリスマスだ、ちょうどいいじゃん。」

「えっ、あ、明日!?」

「新田みたいに、なりたくなかったら早い方がいい。」

えりりんの気持ちはまだ「憧れ」の方が強い。でもそんなのは、黒川君が告白すれば、すぐに好きに変わる。えりりんは素直で女の子らしい子だ。だけどそういう事はこの場では教えない。恋愛は悩んでいる時も楽しいひと時。

「で、でも、もし断られたら。」

「そん時は、盛大に祝ってやるよ!常翔学園男子寮の寮生長と副寮生長、直々の儀礼つきでなっ!」

「あぁ、失恋の痛手なんて吹っ飛ぶぜ。」

「そ、その寮に伝わる儀礼って何ですか!」

「それは、明日のお楽しみ。」

「良かったな、黒川君、結果がどっちでも、楽しみがあって。」

残念だ、明日は、常翔学園寮の歴代伝わる儀礼は、無い。





藤木との電話を切る。

皆、何しているのかなと、楽しい様子を知りたかっただけなのに

『・・・・・切ないな、心が泣いてるよ。会いたいって。』

慎一は、りのの切ない心を知る事になった。

『俺はニコが選ぶ物すべてに認めて、ずっと変わらずお前だけの心配をする。』

そう誓ったのに、グレンに嫉妬してしまう自分が情けない。嫉妬する資格もないのに。

約一か月程しか、りののそばに居ることの出来なかったグレンが、りのの心を掴んだ。

携帯番号も教えたくないほど、りのは慎一を嫌う。

完敗だ。

グレンとりのを巡って何かを挑んだわけじゃない。

だけど慎一は、去るグレンを縋って泣くりのを見て、負けたと思った。

りのを思い続けてきた15年の長さだけが、誰にも負けない慎一の自信のはずだった。

だけど、その長さがネックとなって、グレンのように明確に自分の気持ちを言い表せなくなっていた。

ぴったりな言葉が見つからない、慎一の気持ちは、負けを認めた後でも見つけられていない。

いくら探しても虹玉が見つからなかったあの時の様に、そして、偽物の「しいて言うなら愛おしいが近い」の言葉を、渡してしまう。

もう、りのは、何も必要としていない。言葉も心配も、理解も、携帯番号も。

諦めなくてはならない。

そう。わかっているのに、捨てきれない想いだけが自分の中で取り残されている。

空を見上げた。高い位置に小さくある月の周りに、虹の輪が出来ていた。あれを何という現象なのか、慎一は知らない。

「ニコ・・・」何か月ぶりかにその名を呼ぶ。

『ニコの分の夢も描くよ。』

あれは、りのとニコ、どちらと約束した事だったか?

どちらでもいい、りのはニコだ。

それさえも、もうりのは必要としていないのかもしれない。

それでも、その約束は慎一にとっては、大切な約束。慎一が前に進むための唯一の拠り所だ。

深く吐いた息は、白い雲となって霧散して消えた。

ブルっと震える。薄手のジャージだけで外に出てきてしまっていた。寒い。風を引いたら、せっかくの選抜候補もダメになる。

宿舎の玄関ロビーに入る。照明は暗く落とされ、非常口の示す緑色のライトが寒さを増すように廊下に灯っている。

とっくに消灯時間は過ぎていたのだけど、部屋に戻る気になれなかった。部屋には関西弁のボケ突っ込みにうるさい遠藤がいる。今、あの修行に付き合う気力はない。

ロビー脇に置かれたクリスマスツリーに近寄った。ぶら下がっている金の玉を一つ取る。

子供の頃のクリスマスイブの夜は、必ず芹沢家で過ごしていた。帝国ホテルで働いていた父さんと母さんは、クリスマスの数日前から絶対に休むことが出来なくて、帰って来ない日もあった。4歳のクリスマスに、りのに送られたプレゼントがあの虹の絵本だった。慎一はサッカーボール。サンタさんに願いを書いてお願いしたプレゼントだったかどうかは覚えていない。

階段の上の方から話し声が聞こえてきて、次第に大きくなる。関西弁、遠藤の声。

現れた遠藤は右手で携帯を持ち耳へ、左手はジャージのポケットに手を入れて、裸足にスリッパの姿で通話しながら降りてくる。

「そんなん言われてもなぁ。・・・・あぁ、泣くなよ、真奈美。正月は帰れるし会えるやろ、あぁ・・・・」

慎一がクリスマスツリーのそばに居ることに気がつかず、遠藤はそのままロビーをつっきり、肩でガラスの扉を押し開けて、外へ出ていく。

慎一は大きなため息をついた。

「彼女は居ないみたいなこと言って、ちゃんと居るじゃないか。」

サンタの存在も、虹玉の奇跡も信じなくなった。

これを成長と言うのだろうか。

慎一は、仲間と夢見る未来のすれ違いに覚悟を決め、

クリスマスツリーの鉢に、手にしていた金色の玉を置いた。





柴崎邸の大きなクリスマスツリーの下、四角いレンガ模様の鉢に背を預けうずくまった。見上げると枝の合間から暖かい色の照明がキラキラと降り注ぐ。フィンランドの教会にあったクリスマスツリーを思い出す。私達、子供は11月のはじめ、教会に行って飾りつけを手伝う。飾りつけが終われば、皆でツリーの下で座ってクリスマスを待つ歌を歌うのが定番。座って見上げたツリーは、私達を包み込むように枝葉が広がって、歌声に答えるように幸せの光を降り注いだ。

手の届くところに、祈りの仕草をする白い天使の飾りがぶら下がっていた。それを手で叩く。飾りは枝から外れ、足先に落ちた。

『言葉なんて、どうでもいいじゃん!慎にぃは、言葉以上の事をしてきたじゃん。・・・りのりの、すこしぐらい慎にぃの気持ちを・・・・』

えりちゃんの言葉が胸に突き刺さる。

言葉以上の事を慎一はしてきた。

言葉よりも伝わる気持ちで私を引きもどしてくれた。

「慎ちゃん・・・」久しぶりにその名を呼んだ。

どうして、私は、慎ちゃんと同じ年に生まれたんだろう。

どうして、私達は、双子のように育てられたんだろう。

どうして、私達は、素直な気持ちを合わせられなくなったんだろう。

いつから、私達は、すれ違う言葉に探りを入れるようになったんだろう。

天使の飾りは無表情に祈り続ける。

「りの、こんなところに居てたら風邪ひくわよ。」

毛布にくるまった柴崎が、クリスマスツリーの枝葉を避けて屈む。

先に落ちた天使の飾りを拾ってから私の横に座った。毛布を私の反対側の肩へと渡し、一緒にくるまる。柴崎の体のぬくもりが伝わる。暖かい。

「なんか、落ち着くわね。ここ。」

「うん。」

「これ、りのに似てるわ。白い感じとか。」拾った天使の飾りを手で触りながら柴崎はつぶやく。

「私は・・・天使なんかじゃない」

「ん?」

英「私は、きっと悪魔。」声がかすれて上手く発せられなかった。聞こえなかった柴崎が首をかしげて私の顔を覗きこんでくる。柴崎のつやのある黒い瞳、まっすぐなその目が純粋過ぎて、溺れそうだ。

「怖い・・・」

「何が?」

『・・・・酷いねぇ。でも、そう、それが真辺りのの本質。・・・・俺もついて行く。地獄の果てまで。』

藤木は見抜いていた、私の中に住まう悪魔のような心を。

「私は、ニコの意識の奥で、慎一が来るのを待っていた。死にたいと願いながら、一人で行く覚悟がなくて。」

「りの・・・・」

「自分が怖い。怖いよ、慎一の想いが。」

『慎にぃの想いは、いつだって、りのりのの全部を受け入れるぐらい広くて深いんだっ。5才児のニコだって、記憶を失った14歳のニコだって、消えようとしてたりのだって。全部、全部受け入れようとしてた』

ごめんね、ごめん、えりちゃん、えりちゃんの大事な家族を壊すところだった。

「慎一は、間違う私すらも受け入れる。」

「りのっ」柴崎は私をギュッとより一層に引き寄せる。毛布の中から、天使の飾りが転がり落ちた。

信じない子にはサンタは来ない。サンタの存在を疑った瞬間から、サンタは見切りをつける。

濁ってしまった水は元のきれいな水に戻らないように、心が汚れてしまった子は、どんなに祈っても心は綺麗にはならない。

いつから、私はサンタを信じなくなったのだろう。

いつから、私は慎一の心を汚す人間になってしまったのだろう。

クリスマスツリーの下、サンタの存在を信じなくなった私は、

汚れた心で、慎一の夢の成功を祈る。





怖いよと泣くりのに、つられて麗香も涙が出る。

「大丈夫。大丈夫よ。私達がいる。約束したじゃない。私達はずっと一緒、何があってもこの手は離さない。って」

「・・・うん。」

「新田が、間違いそうになったら私達が止めるわ。そうやって私達、乗り越えて来たじゃない。」

「・・・うん。」

「それに、繋いだ輪は大きくなったでしょう。えりや黒川君、佐々木さんや今野、楽しい事は4倍じゃなく、8倍になったのよ。」

「・・・うん。」

「辛い事は1/8に、ずっと小さくなったわ。」

「・・・うん。」

そうよ亮、亮に寄り添っているのは私だけじゃない、仲間がいるわ、気づいて亮、一人じゃない事。

サンタの存在をとっくに信じなくなった私は、

クリスマスツリーの下、

仲間の存在にぬくもりを感じて身を寄せ合う。





柴崎邸の大きなクリスマスツリーの下、麗香とりのちゃんは身を寄せ合って毛布にうずくまる。

それでいいと頷いた自分。

策略的な思考で自身に言い聞かせている自分に

限りなく孤独を感じた。

これでいい。

これでいいんだ。

唇を噛んで、誓う。

慣れている。こんなのは。

大丈夫。

本当に欲しいプレゼントを願う事すらできなかったクリスマス。

毎年、大人が期待する理想のプレゼントを書いたカードを、亮は靴下に入れていた。

それが藤木家の長男としての円満だと思っていた。

これも、円満の孤独だ。

今夜も願ったものは届かない。

欲しい物は、一生この手にする事がないだろう。

大丈夫、もう慣れた。

サンタの存在を信じない俺は、

願わず、華やかなクリスマスツリーに、背を向ける。







遠藤が部屋に戻ってこないうちに寝ちまおう。あいつが戻ってきたら、また修行だとかって関西弁がうるさい。

部屋の左右対称に設置されているベッドにもぐりこみ布団をかぶった。

明日は朝早くからジョギングに始まり、朝食後から本格的な練習が始まる。

今日は午後からしか体を動かしていなかったけれど、妙に疲れた。関西弁がいけない。

大きな欠伸を一つして、すぐにまどろむ。

頭に置いてあるスマホが、メールの着信を知らせる音がしたけれど、確認する意識がもうなかった。

「ごめん、明日にして・・・」



【メリークリスマス 慎一。

一昨日はごめんなさい。

クリスマスプレゼントは、

特待入試に受かったら貰う。

それまで持っていて。

練習、頑張れ。りの。】

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