第9話 虹色の記憶




ママがあの冷たい扉の向こうに行ってしまった。

もう二度と会えない。パパと同じ。私は知っている。

あの白くて冷たい扉の向こうは、死の世界が広がっている。

ほら、あの声が私の名を呼ぶ。


リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガ、ニケタカラ。パパ・・・・ハ  シンダンダヨ。。。

リノ、ドウシテ、ソノテヲ、フリハラウ・・・・・パパト、イッシヨニ、シノウ。 

  

パパごめんなさい、

りのは逃げない、

だからママを返して。

りのと引き換えに。









いつもの朝、慎一たちは朝のホームルームが始まるまでの時間、たわいもない雑談をしていた。

「あれ?ニコ遅いわね。今日、休み?」藤木と柴崎が慎一を見る。

「いやいや、知らん。何も聞いてない。」

いくら新田家が、母子家庭のニコん家のバックアップをしているとはいえ、細かいところまで何かも把握しいるわけじゃない。

しかもニコは、新田家があれこれ世話を焼くのを嫌がっている。

「弓道の試合とかでもないよな?」

「さっき、滝沢さんと会ったわよ。」と柴崎。今日は土曜日、クラブの試合があれば、そちらが優先されて授業といっても自習ばかりの補助授業を休んでも特に影響はない。

「体調悪いのかしら?」

「朝晩、めっきり涼しくなったからなぁ。」

「涼しいと言うより、寒いわよ。」

ホームルーム開始のチャイムがなってもニコが来る気配がない。慎一たちは顔を見合わせて首をかしげ、とりあえず、担任の先生が何か知っているだろうと、自分たちの席に座った。だけど担任の手塚先生は空いたニコの席を見つけて「真辺は休みか?」と言い、慎一の方に顔を向けた。「何か聞いているか?新田。」教師陣も慎一が、幼馴染で家が近所と言うのは周知している。

「いえ、聞いていません。」

「そうか。まぁ、職員室に連絡が入っているかもしれないな。」

一時間目が終わってもニコが登校してこない事に、慎一達3人は心配して情報収集の為に職員室に向かった。職員室の机で書き物をしている手塚先生に歩み寄り、ニコの家から電話があったかどうかを聞いた。

「それが無いんだよ。こっちからも電話をしているんだが、誰も出ない。留守番電話に切り替わるだけで。」

「さつきおばさんの携帯は?」

「あ?お母さんか?の携帯もかけているが、電源が切られているみたいだ。仕事中か?」

「先生、家の留守番電話にメッセージ入れました?」

「あぁ、連絡するように入れたけど。なんだ?」

「あっいえ。別に。それならいいんです。」

ニコの家の電話は呼び出し音がならないようにしてある。栄治おじさんが亡くなった時、警察からの電話をニコが取ってしまい。それがトラウマになって電話の呼び出し音をニコは嫌う。ニコの家に電話する時は、留守電に切り替わった時に、呼びかけなければならない。留守番電話のランプに気付いたら出てくれるか、折り返しかけてくれるのを待つかしかない。担任の手塚先生は、そういった事情を知らないであろうと予測して、慎一は聞いのだった。

「新田、今日の帰りに、様子を見に行ってくれないか?」

「はい、そのつもりです。」

「頼んだぞ。」と、手塚先生に妙な含み笑いをして背中をたたかれた。

職員室を出たところで、柴崎と藤木が心配げに言う。

「あの、きっちりしたおば様が学校に連絡し忘れるなんて。珍しいわね。」

「まさか、ニコちゃん、また発作とか?」

「いや、それだったら、逆に学園に電話してくるだろう、前の時もそうだったし。それに、村西先生からは、もう大丈夫だってお墨付きもらったって。」

悔しいけど、夏にグレンに会ったことで、ニコはフランスに行く(ニコは帰るという表現をしている)目標ができて、キャンプでのクラスとの交流を踏まえて、学校生活は順調に精神的疾患の心配もなくなってきていた。

「母さんに聞いてみる。何か知っているかも。」

さつきおばさんの勤務日程を、慎一の母は把握していて、さつきおばさんが夜勤の時など、ニコのサポートを新田家がする。

携帯を手に、階段の屋上へと向かう踊り場に足を向けた。藤木と柴崎は階段下で先生が往来するのを見張ってくれている。学園ではいかなる場合において、携帯電話の使用は禁止だ。

母さんの携帯に電話する前にさつきおばさんの携帯にかけてみた。手塚先生が言った通り、すぐにおかけになった電話番号は、となる。慎一は操作し直して自分の母親の携帯にコールすると、着信した途端に怒られた。

「慎一!?何よ、こんな時間に、授業は?!」

「あ、いや、母さん、ニコ、学校に来てないんだ、何か知らないかなと思って。」

「え?ニコちゃん?何も聞いてないけど。ニコちゃん調子悪いの?」

「学校にも連絡がないって手塚先生が困ってて。」

「えぇ?連絡ないって、さつきにしては珍しいわね。」

「うん、先生が家に電話しても出ないらしいんだ。」

「今日のさつきの勤務は・・・・休勤日だけとなぁ。家に居ないって?」

「うん、俺も今、さつきおばさんの携帯にかけたけど、繋がらない。」

「えー。どうしたのかしら?学校サボって二人で、どっかに出かけちゃってんのかな?」

考えにくい事だった。さつきおばさんは、いい加減な母さんと違って、きっちりした性格で、何故この二人が学生の頃からの親友なんだろうと不思議に思うぐらいだ。

「母さんじゃ、あるまいし。」そう呟いて、しまったと首をすぼめたけど、母さんはニコ達の方に意識が行っていて、さらっと流されて安堵する。

「そうよね。さつきとニコちゃんは、そんな事しないわよね。」

「手が空いたら、家まで行ってみるわ。」

「うん。何かわかったら連絡して、先生に言わないと駄目だから。」

「わかった。」

携帯をポケットにしまいながら階段を降りる。階下から見上げてくる二人。

「母さんが、ニコん家に行ってみるって。二人で、どっか出かけてるんじゃないかって。」

と母さんが言った言葉を伝えたが、そんな事はありえないのは二人も承知で、逆に不安を増長させてしまったような渋い顔をされた。




【学校には連絡済み、ニコちゃん、我が家にいます。】

という、母さんから短い内容のメールが来たのは、ちょうど4時間目が終わって、食堂に行こうとしている時だった。慎一が折り返し電話をすると、ニコが発作を起こしたというわけでもなく、詳しい話は慎一が帰ってきてからするからと、忙しいそうに一方的に電話を切られた。

先に食堂で待っている藤木と柴崎にとりあえず発作じゃない事だけは告げる。

「そう、安心ね。でも、どうして休んだの?」

「忘れてたんじゃないかな。定期診察で休むって学校に連絡するの。」昔から精神科の定期診察は、学校を休まなくても行ける土曜日の午後にしていると聞いていた。だけど何らかの事情があって今日は午前になってしまったのかもしれない。それで学校に連絡をするのを忘れてしまった。さつきおばさんも、きっちりしている性格だとしても何かと忙しい人だ。

「あぁ私、今日、美容院の予約を入れてなければ、私もニコん家に様子を見に行ったのにぃ。」

柴崎は今日の夜、華族会のパーティがあるらしく、美容院に予約を入れている。学園の経営者、柴崎一族は華族の称号を持つ。

華族は、長らく鎖国をして外国との交流を拒み続けた将軍主権の日本国を開国に導き、皇権復興をしたと日本史の裏ではささやかれている。開国後の混乱する政治の指揮を執り、第一次世界大戦で華々しく勝利を導いたのは、政府ではなく神皇主権の裏で暗躍した華族の称号を持つ者達だったと言われている。

開国を期に突如として合われた華族の称号を持つ面々が、一体どのようにして、その称号を得たのか、どのようにして政府よりも財や権力を貯えたのかは、歴史認識として教科書に記載されていない。教科書には載らないけれど、神皇から承認された華族の称号を持つ者、家があるのは日本人の誰もが知る事実。

常翔学園が経営する柴崎家は、その由緒ある称号を持つ一族。他にも財閥系と言われる商社や大企業の創業者など、この日本経済を支えているとする大企業の祖をたどれば華族の出自であったりする。この日本国は、その華族の力が、世界をリードする経済大国に成したと言っても過言ではない。

華族会のパーティは月に一度あるらしくて、今日の夜がそうだと慎一は数週間前に聞かされていた。柴崎一族は全員がその華族の称号を持っていて、柴崎の父親の信夫理事の家族と弟の敏夫理事の家族(と言っても子供がいなくて凱さんが養子として入っている)と交代で毎回、出席していると言う。少し前に家族3人で華族会パーティに出席するための新しいドレスを購入したとか何とか言っていて、庶民の慎一には、その華やかな規模のデカさの話についていけない。

「今日かぁ、華族会のパーティ。」

「そうよ、ニコも連れていこうと説得していたのだけど、絶対に行かないって言うのよ。」

「お前、それが嫌で休んだんじゃないのか?」

「あぁ、柴崎なら人を雇ってでもニコを誘拐して、連れて行きそうだもんな。」

「その手があったかぁ。」とポンと手を叩く柴崎。

「あほか!」藤木と声が揃った。

「大体、ニコは華族じゃないんだからパーティに参加する資格ないのでは?」

「あぁ、そんなの無くていいの。」

「はぁ?無くていいって、じゃ何の基準であるんだよ、華族って。」

慎一は歴史が好きで、特に幕末~開国に関して興味があって歴史書を読んだりしている。もちろん華族に関することも昔から興味があった。だけと、こと華族に関しては、市の図書館よりも蔵書数が多いとされる学園の図書館で探しても、詳しく書かれている本が不思議なことに少ない。そもそも、常翔学園の経営者が、華族の称号を持つ一族だという事も、柴崎と友達になってから知った。だから何度か柴崎に華族の歴史について聞いたりしているのだけど、「知らないわよ。そんなの。」って、いつもかわされていて、博識の藤木に聞いても、興味がないから知らないと、これまたつっけんどうな態度をされていた。

「基準?知らないわよ、そんなの。ニコは私の友達だし、綺麗だからいいのよ。」

「はぁ?綺麗だからいいって。」

「あぁ、もう、めんどくさいわね新田は、この話になると。ニコは、ドレス着て私のそばに居てたらオッケーよ。」

あきれて慎一はつぶやいた。

「・・・その程度なんだ、華族って。」

「だからっ!華族会の程度の話をしてるんじゃなくて!パーティの参加資格は、華族の人間がすでに証明なのよ。私と一緒にいるのは信用ある者という事!私だってね、無作為に誰でもって誘わないわよ!ニコだから誘うのよ!もう、そんなに気になるんだったら、新田も藤木も正装して私の後について来れば?参加できるわよ。」

「うそ!?」

「おいおい。」

「そんなに華族の事を知りたいなら今日参加して自分で聞いて回りなさいよ。」

「あっいや、いいっす、行かないっす。すんません。」

興味はあるけど、そんな場違いな所に行く度胸はない。

「新田、一つ忠告しとく。華族をその程度と言ったの、聞く人が聞けば、日本国籍を抹消されるぐらいの大失言だからな。」

「えっ?そんなの都市伝説だろ。」

そう、深夜番組なんかでもよく、【華族の実態は?】とか、やっていて、華族の悪口を言ったら翌日には行方不明になっていたとかあって、そんなの面白おかしくした噂話、信ぴょう性のない都市伝説級のバラエティーネタ的に思っていた。

「お前、興味ないって言ってたくせに、詳しいじゃないか。」

「そう、興味本位で失言するのを防ぐ為の防衛術。」藤木は本気かウソか真顔を崩さない。柴崎も眉を上げて首をすぼめる。

「いや・・マジで?」

「よかったなぁ。ここにはエージェントは居なかったみたいだ。」

柴崎が噴き出して笑いだす。

「やめろよ、趣味の悪いジョーク」

(ったく。えーと何故、こんな話になったんだ?おぅ、ニコが休んだ理由だよ。)

「新田、ニコちゃんに会ったら月曜日まで会えないの、寂しいよって伝えてくれよなぁ。」

やっと目じりに皺を寄せた表情に戻った藤木。





部活を終えて足早に家に帰り、聞いたニコが休んだ理由は、驚くべき物だった。

「さつきおばさんが倒れた!?」

「しっ、ニコちゃん、二階の部屋で休んでるの。昨日、寝てないらしくて。」

慎一からの電話の後、母さんは10時頃にニコの家のマンションに行ってみたという。

もちろん、それまでにさつきおばさんの携帯電話に何度もかけたけど、出ない。もしかして、緊急で仕事になったのかと思い、病院にも電話してみたという。だけど、プライバシーの関係上、教えられないと言われたらしい。

マンションのロビーから呼び鈴コールをしたけれど誰も出なくて、仕方なく合鍵で中に入ろうとした時、ニコが表の通りから歩いてきたのを見つけたという。

「ニコちゃん、さつきの着替えとかを取りに家に戻った所でね。それで私も手伝って、すぐに病院に向かって。」

「さつきおばさんの容態は?」

「今週いっぱいは入院して、検査するって。」そう言った母さんは、いつもの母さんではありえないぐらい暗い顔で。

「そんなに悪いの?どこが?」

「あっ違う、違う、検査は念のため、病院に行ったら、元気だったし、先生も疲労だろうって、院長先生がすみませんって謝ってて。」

「良かった。」ほっと溜息をついた。

「それが、ニコちゃんが・・・。」

「ニコが?」

さつきおばさんが倒れたのは、昨日の夜10時頃だったらしい、遅めの夕ご飯を済ませ、食器などを片付けている最中におばさんは倒れて、ニコが救急車を呼んだ。おばさんが働く関東大学医科大付属病院の救命救急センターの処置室に運ばれたおばさんを、ニコは一人であの病院の待合で待っていて、朝を迎え、入院の手続きなどをすべてニコが一人でやったという。

「何で、俺たちを呼ばないんだ!」

「しっ、声が大きいっ。」

「あぁ、ごめん。」

「それは、私も言ったの。そしたら、思いつかなかった、って。」

「思いつかなかったって・・・。」

「気が動転していたんだと思う、けれど、なんかね。」

あの病院の救急待合室を、慎一は一年前の出来ごと共に思い出した。慎一はニコの容態を心配して、夜遅くまであの寒々した場所で落ち着かない時間を過ごした。あの場所にニコは一人で。病室に移動した後も、さつきおばさんが目を覚める朝まで、長い夜を付き添い、朝一番に入院の手続きを一人で済ませたなんて。

「ニコは?大丈夫なのか?その精神の方・・・。」

「私もそれを心配して、昼から村西先生の所に受診させたの。」

「なんて?」

「特に問題はないって。逆にしっかりしなくちゃと強く思っているから、大丈夫だと。」

「そう、良かった。」

さつきおばさんが検査入院している間、ニコは新田家から学校に通う事になった。夕ご飯時になってリビングに降りてきたニコは、特に変わった様子もなく、夕飯は流石に食べられないだろうと予想していたのは意外にも外れて、ちゃんと食べたのを見ると、村西先生の診察が的確だと慎一はほっとした。






ママがあの冷たい扉の向こうに行ってしまった。もう二度と会えない、パパと同じ。私は知っている。

あの白くて冷たい扉の向こうは、死の世界が広がっている・・・・・ほら、あの声が私の名を呼ぶ。


リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガ、ニケタカラ。パパ・・・・ハ  シンダンダヨ。。。

リノ、ドウシテ、ソノテヲ、フリハラウ・・・・・パパト、イッシヨニ、シノウ。 

  

パパごめんなさい、りのは逃げない、だからママを返して。りのと引き換えに。



























テスト1週間前で朝練のない朝、無表情のニコと一緒に新田家を出て、バス停まで歩き、時刻通りに到着したバスに乗り込む。

「学校が終わったら、そのまま、さつきおばさんの所に行くのか?」

「うん。」

「俺も一緒に行くよ。」

外の景色を無表情に見つめるニコ。小さい頃に競っていた身長は、再会した6年生の頃は同じぐらいだったのに、今は慎一が随分と抜かしてしまった。158センチの柴崎と並んで、より小さいから、おそらく152・3センチぐらい?昔はいろんなことが競争だった。決まってニコが少しだけ勝っていて、慎一はいつも悔しい思いして、リベンジする為に練習するのが常だった。身長も数ミリ負けたのを悔しくて、毎日牛乳を飲んだり。縄跳びも、逆上がりもニコが先にできた。

そうやって何でも勝っていたのに、どんどん負けていくのが悔しい、だから、勉強だけは負けたくないと本気交じりの冗談を言うニコ。世界1位の学力を誇るフィンランドで培った頭脳を持っているとはいえ、国語と社会が苦手なニコは、人知れずの努力をして、学年トツプの座をキープしている。特待を受け続ける為の必要な努力は、いくら頭が良くても必要で、並大抵の努力だけでは済まない。

先行しているフィンランドの教科書は昔の恩師を伝手に送ってもらって、授業のノートを現地の友達からメールで送ってもらって勉強している。そうして数学と理科は一旦英語脳で予習をし、そして日本での通常授業を確認と復習にするという、慎一には理解しがたい勉強法だけど、毎回、英語、数学、理科は100点もしくは、些細なミスの減点のみの点数を取っているのだから、ニコにとっては合っている勉強法なのだろう。反対に慎一は、国語と社会、特に歴史が得意で、戦国時代の戦略なんかは、サッカーの戦略に役立つ事があるので面白い。

すぐにバスは学園前の停留所につく。バスを降りて通用門まで約100メートル。ちょうど反対方向の寮から通っている藤木と会う。バスの時刻表を見て合わせたとしか思えないタイミング。藤木ならやりかねない。

「ニコちゃん♪。おっはよ。」

「おはよう。」

いつもより若干テンションを上げた藤木の朝の挨拶。ニコがまだ藤木に心を許していない入学当初からニコへの声掛けはずっと続いている。人と付き合う事を避けていたニコは、藤木のマメさが功を成して心を許す友人の一人になった。慎一は幼馴染という経歴があるから除外とすると、ニコが男子の中で普通に話せる友人になったのは藤木だけだ。ニコも最近は本人なりに努力をしていて、クラブやクラスメートとは少しづづ話すことが出来るようになってきているけれど、でもまだ、慎一、藤木、柴崎以外の人との会話は緊張すると言って、日本語は吃音が出がち。

「一昨日は、寂しかったよ~。やっぱ、ニ・・・」女子の前では、もっぱら顔も態度も軟弱に緩む藤木が、突然口を止めた。

「何?」ニコが首をかしげる。

「あ、ううん。やっぱりニコちゃんが居ないと寂しいから、今日は来ててよかったなぁって。」藤木はまたでれっと締まりなく顔を緩ませて、目を細める。

「ニコちゃん、美術の課題やった?」

「まだ。」

「あー俺も、良かった、お仲間が居て、今日の放課後、一緒にやる?」

「今日は、駄目。早く帰る。」

「あーそうなんだぁ。」

慎一には目もくれずに藤木はニコの側に寄り添い、通用門へと入っていく。

そんな二人の後ろを遅れて歩きながら、慎一は安堵にうなづいた。

心配な事は何もない。いつもと変わらない日常がそこにある。





いつもののごとく4人で給食を取った後は、柴崎とニコを残し運動場に駆け出してサッカーをするのが天気の良い日の日課。

藤木と一緒に食堂を出て、下駄箱でスニーカーに履き替えて駆け出そうとしたとき、藤木に「ちょっと来い」と腕をつかまれ人気のない通用門前の木陰まで引っ張られた。

「なんだよ!」

「なんだと言いたいのは、こっちだ。」

「はぁ?」

「ニコちゃんに何があった?昨日のメールは嘘だろう。」

昨晩、藤木と柴崎から「どうだった?」とニコの様子を聞いてくるメールをもらっていた。慎一は「やっぱり、午前中に診察するのを、学校に連絡するのを忘れていたらしい。」と送っていた。

藤木が睨むように目じりを細めるのを見て、隠しておくのは諦めた。

「はぁ、やっぱ、お前に嘘はつけないかぁ。」溜息を吐く。「隠そうとしているわけじゃない。言っていいのかどうか、まだニコに確認を取ってないだけで」

勝手に言ったらまた、新田家はプライバシーに欠けると言われそうだから躊躇する。だけど、藤木には嘘がつけない事はニコも承知だから大丈夫だろう。

「さつきおばさんが、一昨日の晩、倒れたんだ。」

「え!?」

昨日、慎一が母親の前でしたリアクションを藤木がする。慎一は藤木に、母さんから聞いた話と今朝までのニコの様子を話した。

「安心したよ。普通に朝ご飯も食べてたしな。」

「お前、本気でそれを思って、言ってるのか?」藤木が何故か怒った口調で言う。

(なんだ?怒られるような事、言ったか?)

「嘘、言ってどぉすんだ。」

藤木に突然、胸倉をつかまれた。 

「お前は、ニコちゃんの何を見てる!お前が気づかないでどうする!」藤木は険しい顔をして慎一の身体を揺さぶる。

「あれのどこが普通だよ!何かあったら食欲ないっていうのが、いつものニコちゃんだろ!母親が倒れたんだぞ!食事も喉を通らないはずの事が起きている、いつものニコちゃんなら食べられないはずだ!」

「いや、だから、さつきおばさん、それほど重症じゃないから、疲れが出ただけで、念のための検査入院だし。」

つかんでいた手を離した藤木は、首をふり、ますます渋い表情をしてうつむいた。

「・・・読めない。」

「は?」

「ニコちゃんの本心が。」   

    

 



扉の向こうから呼ぶ声

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、忘却の記憶に楔打つ

    




確かに、藤木の言う通りだった。元々食に興味のないニコは、何か辛い事があると、とたんに食べ物がのどを通らなくなる。

普段から沢山の量を食べない上に、すぐに食欲がないと言っては食事自体を抜こうとするから、慎一が一緒の時は厳しく監視していた。

いくら深刻にならなくていい容態だからとはいえ、ニコが母親の心配をしない筈がない。夜も昼も働く母親の身体を心配して、修学旅行を行かないと言い出したぐらいなのだから。

でも今回は、ちゃんとご飯は食べている。普通に柴崎と笑って雑談している。夜は、眠れているのか?そこまではわからない。一昨日は寝てないと聞いていたけど、昨日はどうだった?リビングで、えりと話をしている姿は普段と変わらない様子だったから、慎一も母さんも安心して、そこまで気にはしなかった。

「何言ってんだよ。ニコの本心は誰よりも読みづらいと言ってたじゃないか。」

「そうだ。俺が出会った人の中で一番読みづらい、どころか最初は全く読めなかった。だけどニコちゃんが俺に慣れてきた頃から、わずかだが読めて来ていた。」

それは初めて聞いた。藤木はずっと、ニコちゃんのは全く読めないと本人を前にしても言っていた。

「最近・・・夏の、グレンに会った頃から読み取れるものが増えて来ていたんだ。」

ニコの調子が良くなってきている時期と一致している。

「このまま、ニコちゃんもお前らと一緒に普通に読み取れるようになると思っていたのに。今日、急に全く読めなくなっていた。」

朝、変に表情を変えた時か。

「お前が読めないだけじゃないのか、調子が悪いのはお前の方で。」

「俺もそう思ったさ。能力が消えたのかと思ってな。でも、柴崎やお前、クラスの奴ら他は全員、読める。」

藤木は一旦目を閉じ、そしてゆっくりと開けた。瞼に力を入れるように、まっすぐ見据えてくる眼力に慎一はたじろぐ。この目で藤木は人の心を見抜くのだと改めて思った。

「お前は、今、俺に脅威を感じた。読み取られる脅威。不安交じりの怒り、嫉妬交じりの悔しさも宿している。」

「!」

「不安がらせるような事を言うなと俺を責めながらも、その能力には敵わないと嫉妬しながら、悔しがっている。」

向き合う覚悟が出来ていない心の本音を、他人から面と向かって言われる事がこんなに気持ち悪いなんて。そう思うことも、藤木は読むんだろうなと思ったら、慎一は目の前に居る親友に、はじめて嫌悪した。

藤木は、その鋭い目をそっと閉じて、うつむく。

「・・・悪い。ちゃんと読めるんだ。ニコちゃん以外は。」

「・・・・・」すぐさま、藤木から背を向けて立ち去りたい気持ちをぐっと我慢する。

「ニコちゃんは、完全に心を閉ざしている。普通じゃない。」

普通じゃないって言葉を使う藤木に、純粋な怒りを覚えた。

「俺に感情を向ける前に、ニコちゃんの心配をしろ、そばに居てやれ。目を離すな。」

そう言うと、藤木は慎一から顔を背けて運動場へ去っていく。

「何言ってんだよ・・・」

慎一は、ささくれだった心をどう宥めていいかわからず、舌打ちをし、教室に戻る。

「あれ、新田、サッカーしないの?」

「ああ、現実を思い出してさ。あいつらみたいにテスト二日前で余裕ぶっこいてらんないよ。」

「やっと気づいたか。サッカー馬鹿。」

ニコは無表情に慎一を貶す。これは普段通り。何も心配なことなんてない。藤木が余計な事を言って攪乱しているだけだ。

「じゃ、また、やんなきゃなんないんじゃない。日本語禁止。」     

「うえーそれだけはやめてくれ。理解できるもんも、できなくなる。」

英「だか、この成果が、前のテストでは補習を受けずに済んだ」

聞き取れないニコの英語を普段なら、藤木が日本語に訳してくれるのだけど、今は居ないから、ニコは自分で訳する。

「そうよ、また受けたいの?」

「柴崎までやめろ~。」

「ふふふ、また始まったのね。新田君の英才教育。」

と近くを通ったクラスメートの佐々木さんが、笑って立ち止る。

「そうだ、私も真辺さんに教えてもらいたい所あったんだ。いい?」

英「いいよ。」

ちょっと貸して、と柴崎の持っていた英語の教科書を奪って、パラパラとページをめくる。

「ここなんだけど。あーえーと英語で話さないとダメ?」

「佐々木さんまで~やめてー」

英「そうね、新田の為に、お願いね。」

「いじめだ、完全に。」

英「別に、どっちでもいいよ。」

佐々木さんは、やっぱり無理と日本語でニコに質問する。

「こっちでは、サンキューの後にsoってなってて、こっちではveryってなってるの、どっちが正解?」

英「うん、どっちも正解だよ。Soの方がより感情的ではあるけれど、別に不正解じゃないし。どっちも女性の言葉だしね。どっちかというと女性の方がsoを使う傾向があるけれど、教科書ではそこまでの俗語的要素を求めてはいないだろうから。」

あまりにも流暢すぎて、佐々木さんも皆、ニコの英語を理解できなくて、きょとんとしてしまった。だからニコは慌てて、日本語に訳す。

「あっぁ、えーと。ど、どっちも、せ、正解。Soはかかんじょうの、まま、違いじゃない。じょ女性が、よよく使うけけ傾向、きょきょかしょは、べ、べつにぞぞごを」

馴染んでいない佐々木さんが一人はいるだけで、こんなに緊張し吃音がでるニコの日本語は、正直、理解不能。

必死にニコの言葉を理解しようと耳を傾けるんだけど、ニコの緊張ぶりが気になって内容把握に意識がいかない。

「あー、そぅ・・・・まぁ、間違いじゃないのね。」

「・・・・ご、ごめん。」

「ううん。ごめんね、ありがとう。覚えておくわ。」

「お?なんだ、真辺さんに教えて貰ってんの?いいな~」

「あー俺も数学、わからない所あんだ。教えて~。」野球部の二人も教室に戻ってきて、加わる。

「ニコに教えてもらうなら、日本語禁止よ。」

「えー、まじかよ。」

「英語と数学同時に勉強できて一石二鳥でしょう。」

野球部の二人は、自分の席から数学のノートを持ってきて、ニコに聞く。

英「ここの次に・・・・どれを解いて、この・・」「うわー、英語に意識したら、何を聞きたいか、わからなくなる!」

「ほら、見ろ、俺だけじゃないだろ。このパニック振り。」

「い、いいよ、に、日本語。」

ニコの許しが出ると、みんな、ほっとして、今度は数学の質問時間にと変わった。

ニコは、クラスメートに囲まれて、吃音しながらも、難しい数学の公式を説明していく。

野球部は夏の県大会で惜しくも優勝を逃し、甲子園に行く事が出来なかった。その時点で三年は引退となっていて、後は高等部への進級や、常翔祭などの行事に意識を集中すればいいだけになっていた。だから、中間テスト目前の今も、やる気満々。

慎一たちサッカー部は全国大会が冬という事もあり、引退はまだまだ先。もし決勝まで進むとなると12月の中頃までにずれ込む。こんなに三年の引退が遅いのはサッカー部だけ。内部進学ができる私立の学校だからこそ、ギリギリまで3年が試合に出られる。公立の中学ならそうはいかない。受験勉強の為、嫌でも夏には引退しなくちゃならない。 それを思うと、この学園に入って良かったと心底思う。とはいえ、クラブを言い訳に勉強をおろそかには出来ない。

三年の二学期ともなれば、流石にどの教科も難しくなってきた。入学したら大学までの進学は約束されているとはいえ、三年間の総まとめの卒業テストはあって、一定の到達点に達しない生徒は、補習を受けなくてはならないし、その卒業テストの成績によっては、高等部の希望するコースに入れないという事態も起こる。慎一はスポーツや芸術などの特別科目をばかりを強化する特選クラスと決まっているのでそれほど焦る必要はないけど、ニコは学力重視の特進クラスを目指す。目指すというか、特待生を続けるにはそのクラス以下はありえない。

苦手な日本語で一生懸命、説明するニコの横顔を眺める。

藤木が心配するような事は何もない。昔のニコだったら、教えてと来られても、いいよとは言わなかった。固まって、柴崎の後ろに隠れるか、教室から逃げるか、と言っても、ニコに教えてと言ってくる奴はいなかったけど。夏のキャンプ依頼、ニコだけじゃなく、クラスメートもニコに対する印象は変わった。

机の脇に追いやられていた社会の参考書が机から落ちた。慎一はそれを拾ってニコに手渡す。

「これじゃ、社会は出来ないな。」

「時間はまだたっぷりある。大丈夫。」

少しずつ、ニコは昔のニコニコのニコを取り戻しつつある。緩めたニコの表情に笑み見つける。

(これのどこが心を閉ざしているんだ?)




扉の向こうから呼ぶ声

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる


 



通学で使っている市バスに乗った慎一とニコは、いつも降りるバス停を越えて、関東医科大学付属病院前で降りる。

倒れてから初めて見るさつきおばさんは、母さんが言うように、いつも通りで、どこも心配なさそうだった。

「慎ちゃん、また身長、伸びたんじゃないの?」そうやって、優しい微笑みを慎一に向ける先おばさんは幼いころと変わらない。

栄治おじさんと、さつきおばさんの良いところを遺伝して、総じて、どちらにもあまり似てないと言われていたニコだけど、こうやって並んでいる所を見ると似てる、親子だなと思う。

「啓子、完全に抜かされちゃたわね。」

「馬鹿の大食いってね。」

母さんも病院に来ていた。慎一たちが来るだろうと予想して、時間を合わせたらしい。

「もうちよっと、栄養を頭に使ってもらわないと割に合わないわ。」

「一応、国語と社会はニコよりいい点数、取ってますけど。」

「2教科10点以内の僅差だ。」とニコ

「りのは国語と社会は、苦手だものね。」

「あっそうだ、これ、貰ったからお礼、言いなさい。」

と母さんが指さしたのは、果物の籠と菓子折りの箱が多数のお見舞いの品が脇のテーブルに置かれてあった。この病院の先生や看護師、さつきおばさんの同僚達と、おまけに患者さんまでが入院したさつきおばさんを心配して、かわるがわる見舞いに来ると言う。大きな果物の籠は、お詫びのしるしと院長からだという。

お礼は母さんが言えばいいじゃんかと、ちょっとした抵抗で無視していたら、

「あんたのお腹に入るのよ」と言う母さんの苦言にさつきおばさんは笑う。

「りのと二人じゃ、食べきれないからね、良かったわ、男の子が居て。」

「お、これ、うまそう。」

「これ、お礼が先!」とパシっと母さんに手を叩かれた。

「痛って。」

「馬鹿の大食い。」とニコの毒舌も追い打ち。

「りの!いいのよ慎ちゃんお礼なんて、お礼を言わなきゃいけないのは、こっちなんだから。いつも、りのの面倒を見てもらって。」

「さつき、慎一を甘やかさないで、それとこれとは別よ。物をもらってお礼一つ言えないなんて情けない。ほんと、体ばっかり大きくなって」と母さんの小言がずっと続きそうだから、制する。

「わーもういいよ母さん。さつきおばさん、ありがたく頂きます。」

「ふふふ、どうぞ。」

「初めから素直に言えばいいのに。」とニコが冷たく言い放つ

「ほんとよね。しょうもない反抗期、使っちゃって。ねぇ」

と母さんはニコを甘やかす。     

ニコが、新田家には帰らないで家に帰ると言い出した。テスト勉強をするのに、参考書などがない新田家ではやりにくいとの理由で。

「車で来てるから、全部、運んであげるわよ。」

「パソコンで調べたいこともある。」

「慎一のがあるじゃない。」

お互いに首を振る。他人にパソコンの中を覗かれるって嫌なもんだ。どこのどんなサイトを覗いていたか履歴をたどられたら恥かし事は無くても嫌だ。

「自分のパソコンじゃないと、使い勝手が悪いとかいろいろあるんだよ。」

「あら、そうなの?」

「ふふふふ、啓子、無理よ。りのは言い出したら聞かないもの。」

「でも、心配だわ。」

「夜勤の時はずっと一人で留守番してた。」

「そうだけど、夜勤は一週間に2、3日程度、しかも朝には帰ってきてたじゃない。終始さつきが居ない状態が一週間は続くのよ。」

「啓子おばさん、大丈夫。」

やっぱり、親でもニコを説き伏せることは出来ない。晩御飯だけは、新田家に食べに来るという約束で事はおさまった。




扉の向こうから呼ぶ声

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる 罪を償えと




母さんが乗って来た車に乗り、ニコは新田家に戻ってきて晩御飯を食べてから、自宅に帰る事になった。久しぶりだった。ニコを家まで歩いて送るのは。えりの家庭教師以来、それも途中から自転車を買ったと一人で帰るようになったから、2年ぶりぐらいになる。

家の門を閉めて振り返ると、ニコが山の方を見上げている。

「きれいな満月・・・」

つぶやく通りに綺麗な満月が空に浮かんでいる。月の光は強く、慎一たちの影をくっきりと道路を照らしていた。

「あの時も満月だった。」突然ニコがフフフと静かに笑う。「思い出した。」

「何を?」

「あの夜のこと。」

「あの夜って?」

「扉が開いて・・・」

ふと、藤木の言葉を思い出した。『読めないんだ、ニコちゃんの心が』

人の心なんて読めなくて当たり前。

小さい頃から双子のように育った自分達ですらお互いの心はわからない。

「死神が迎えに来る。」

「何?」

「フフフ、映画の話。深夜番組でやってたホラー映画。思い出した。」

「え、映画?」

「うん、珍しくフランス映画だったから。ついつい最後まで見ちゃった。」

そう言って微笑むニコ。

「深夜って、また眠れないのか?」

「ううん。その映画を見たのは夏。夏休みの宿題をやりながら。」

「そうか、なら安心だけど。」

「もう、大丈夫、村西先生もそう言ってる。」

「そうだな。」

そうだよな。医者の太鼓判があるんだ。もう心配はない。

映画の話をネタに、坂を下るとあっという間にニコの家のマンションに着く。母さんが持たせた明日の朝食用のサンドイッチを手にもって、学生鞄から鍵を取り出すニコ。

「じゃ、戸締り、ちゃんとするんだぞ。」

「うん」

「なんかあったら、夜中でもいいから家に電話して来いよ。」

「・・・・・・」

「朝、ちゃんとそれ、食べるんだぞ。」

また、しつこいとかとか怒るだろうなぁと思ったけど、言わずにはいられない。

「わかってる、ありがとう、お休み、慎ちゃん。」  

「あぁ、お休み。」

ロビー奥に入っていくニコを見送って、違和感に気づく。

(今、慎ちゃんって言わなかったか?慎一ではなく?)

何故また、慎ちゃんに戻った?

ニコが廊下を歩いていく姿が見える。いつも、まだ見送っている慎一の方を見ようともせず305号室の扉を開けて入っていく。





扉の向こうから呼ぶ声は、昼も夜も聞こえる。死の世界からの誘い

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる。罪を償えと

逃げられない。パパはりのを迎えに来る

ごめんなさい。パパ、りのは、逃げないから、でも待って、もう少し。











藤木とは微妙な距離が出来てしまった。その事にいち早く気づいたのは柴崎だった。

休み時間、日直の当番だった慎一は、黒板を消して窓際にある黒板消しクリーナーを使っていると、柴崎が近寄ってくる。

「何かあったの?あんたと藤木。」

「何が?なんか、おかしいか?」

「うん。なんとなく、ここ数日、微妙に距離があるというか。」

「そうか?別に何にもないけど。」

「ふーん。つまんな。喧嘩でもしたのかと思って期待したんだけど。」溜息交じりに窓際に背もたれた柴崎。

藤木とニコは、二人そろって教室にはいない。

「つまんなって、何の期待だよ。」

「だって最近、何もかも平穏でさ。面白くないんだもの。」

「お前なぁ・・・。」喧嘩を暇つぶしに期待するなんて、どういう神経してるんだ。

「あちゃー降ってきちゃったわね。雨。」

朝から雲行きが怪しかった空、ついにポツポツと大き目の雨粒が降り出した。天気予報でも今日から本降りの雨になると言っていたから、明日まで雨は止まないだろう。

「これじゃ、5時間目の体育、テニスじゃなくなったわ。」

「女子は今、テニスかぁ、いいなぁ。」

「そう、男子は今日、柔道の日でしょ。」

「あぁ、俺、嫌いなんだよな、格闘技系。」

「ははは、ほんと、似合わないわね、あんたと柔道って。」

「無くなんないかなぁ。今日、先生が休みとか。」

「おーい、男子、今日の体育、山野先生、休みだから柔道中止で体操服で体育館に集合だってさ。」

と、クラスメートの田中が教室にいる皆に聞こえるように叫ぶ。

「おょ!願いが叶った!」

「そういうの、つまんないわ。」

「お前、性格悪いぞ。」

「はぁー、なんか、ないかしら、こう、突き進める何か。」口から内臓が出そうなほど大きなため息をつく柴崎。

修学旅行前に、柴崎がニコの為ともいえる、立ち上げたプロジェクト、【常翔学園クラブ活動バックアップ支援基金】は、9月にあった50周年記念行事に正式に公表されて、学園側の承認を得て、生徒会から学園にすべてが移行し正式に組織化された。

全国大会に行く事が決まった弓道部のニコの為にと稼動を急いでいたらしいが、いろんな憶測を心配し、結局、来年の4月からの稼働となった。そのため、合宿も遠征費用も全部個人負担となり、一時は行かないと言い出したニコだったが、稼働前の準備稼働として、50周年記念行事で集まった寄付金や祝儀をすべて、クラブ支援に回すという会計公文書を全世帯に配布し、全クラブは文句なしにこれで対応できることになった。ニコはお金の心配なしに全国大会に行ける事になって、ほっとしていた。

現段階、基金はOBにバックアップサポーターを募集している段階だ。来年からはこのクラブ支援の為に生徒会メンバーを増やす事も検討中だという。柴崎が率いる生徒会は、あの大久保選手の表敬訪問の翌週から50周年記念行事まで、この基金のプロジェクトの考案でものすごく忙しい日々を送って来た。沸き上がったアドレナリンは、それが終わってしまっても治まりきれず、何かを求めるんだろう。自分もサッカーの全国大会が終われば、こんな風になるんだろうかと、わずかに不安が生じる。



5時間目、男子の体育教師が休みで柔道が出来ない上に、雨でテニスが出来なくなった女子と合わせて、担任の手塚先生(女)が男子女子合わせて授業をすることになった。通常は2クラス合同で男女に別れての授業だから、今、体育館は2クラスの男女の生徒がいる。

「こぉらぁー男ども、こっち向いて準備運動するんじゃねー!むこう向け!もっとあっちいけ!お前らの猛獣の目に幼気な女子が怯えるだろ!」

「何が、幼気けな女子だよ。」

「どっちが猛獣だよ。」

「あぁ?なんか言ったか?」体育館の真ん中でメガホンを持った手塚先生。半分半分の使用面積のはずが、手塚先生の巻き舌のおかけで、男子は肩身のせまい思いをして隅っこで準備体操をする。

慎一達のクラスの担任でもある女子の体育教師、手塚先生の容赦ない暴言は、いつもの事で、男子たちは猛獣に睨まれたバンビのように大人しく首をすぼめる。

今年、この学園に就任してきて、いきなり3年の担任を受け持つ手塚先生は、凱さんが群馬県から引き抜いてきた先生である。凱さん曰く、この学園にはないカラーの先生を採用したかったと。陸上の推薦で体育大学に入ったと言うだけあって、めちゃめちゃ足が速い。手塚先生に睨まれたら逃げる事は出来ない。柴崎の差し金で、慎一は100メートル走の競争をする羽目になったことがある。余裕で負けた。そんな豪快で体育会系の手塚先生は、女子ばかり肩を持ち、男子はいつも虫けら扱いだ。

しかし藤木は、あの暴言は、わざとだという。攻撃対象を自分に向けさせる為だという。女性教師は、成長過程において力をつけた男子になめられ、押さえられないで困る女性教師が多い。その力が生徒に向けられた時、いじめや暴力に発展するのを防ぐため、手塚先生は、力の誇示と攻撃対象を自分に向けさせた戦略をとっているという。そして本当に半端なく強い。

さらに手塚先生が敏腕なのは、 普通、ここまで男子を格下げられたら、女子は男子を馬鹿にしてクラスの雰囲気が悪くなる可能性が出てくる。それがこのクラスにはないのは、その言葉は虫けら扱いだが、実際は要所で男子の特性をうまく利用して動かし、女子にその特性を見せる事により、男子の威厳を保させているという。

確かに、うちのクラスは男女わけ隔てなく仲がいい。夏休みにキャンプを企画して、全員参加で結束を固めた。夏休みに全員参加して遊ぶなんて、5組だけだった。

「面倒だから、男子女子共にバスケな!ほら!男子!ボケっとしてないで、ボール取って来い!」 

(これのどこが男子の威厳だ。使い走りもいいとこだ。)

収納庫のある場所は女子の要る方が近い。今野を筆頭にバスケ部のやつらがダッシュで取りに行く姿に、「女子の分もな」と先生は追い打ちをかける。

適当にチーム分けてやってくれと先生は女子の方へ行く。男子全員がため息ついてほっとした。途端メガホンで怒鳴られる。

「適当にやれと言ったのはチームわけだ!ダラダラ手を抜いたバスケやってたら!校庭走らすぞ!」

あの先生ならやりかねない。土砂ぶりの中、熱が出ても走らせそうだ。女子たちの笑いの中、男子たちは心一つに、きびきびと動くしかなかった。恐怖は団結を強固にする。

チームを分けて、先に1ゲーム終えた後、慎一は体育館の壁際に座り、女子のバスケを眺めていた。自然とニコの姿を追ってしまう。フィンランドとフランスで3年ほどバスケをやっていたと言うニコは、きれいなフォームでゴールを決める。ニコは、夏の親睦会キャンプ以降、クラスで浮くことは無くなっている。今もゴールを決めたニコに、皆がハイタッチして楽しそうだ。笑っている。

ずっと待っていたニコニコのニコ。そうだ、もう何も心配はない、あの笑顔がその証明。

折り返して4組の攻撃になったが、こぼれたボールを全員が拾いに行き、ボールの取り合い合戦となってしまった。

「うわー、あれじゃ、バーゲンセールの取り合いだな。」慎一の隣に座っているバレー部の渡辺が笑う。

「あはは、ほんとだ。」

審判をやっている佐々木さんが、その取り合いに笛を鳴らして止める。そしてゲーム再会、相手のパスを素早くカットしてボールを奪い取ったニコがゴールへ走る。その小さい身体を利用して、機敏にゴール下にいたクラスメートにパスを渡す。

「真辺さん、うまいな。」

「あぁ、向うで、やっていたって。」

「へぇー、何でバスケ部入らなかったんだ?」

「さぁー?そこまでは知らない。」

人との付き合いが嫌で一人で出来る弓道を選んだなんて言えない。本当はやりたいんだと思う。柴崎の家に遊びに言った時、連続で何回フリースロー決められるかと、ずっとやっていた。 

「お前、よく気おくれしないで付き合えるよな。」

「はあ?」

「頭脳明晰、語学堪能、運動神経も抜群、おまけに学園一の美人、非の打ちどころのない真辺さんだぜ。いくら幼馴染とはいえ、そんな完璧な子が彼女だったら、俺、ぜってぇ自分に悲観して逃げちまうな。」

「え?彼女って、いやいや、俺らは付き合ってねえーし。」 

「はぁー!?嘘つけ!。」

「ホントだって、一度も付き合ってないから。」

「またまたぁ。今更、照れなくても。」

「マジだって。」

「うそーマジか!お前らっ。」という、渡辺の絶叫が手塚先生の耳に入った。

「うらぁ!待機中に、ふざけていいとは言ってないぞ!雨ん中、走りたいかぁ!」

俺と渡辺は首をすぼめた。

「俺まで、睨まれるじゃんかよ。」

「ごめん。」ひそひそ声に落とす。「でも嘘だろ、お前ら付き合ってるとばっかし、クラスの全員が、そう思ってんぞ。」

「まぁーそう思われても仕方ないけど、実際付き合ってねぇーし。付き合うも何も、あいつは昔っから俺の事、競争相手としか見てないから。」

そう、昔から、ニコは俺を男と意識する前に競う相手だ。

ほらやっぱり、今も・・・・・。    

「あのー真辺さん?足を踏んでます。痛いんですけど。」

「知ってる、わざとだ。」

「反則だろ!」

「まだゲームは始まってない。」

男子も女子も全員が一回ゲームをしたところで、女子が男子と対抗戦をやりたいと言い出した。

手塚先生もそりゃ面白いと、早速その案に乗って挑戦状を叩きつけて来た。の割にはハンデとして、男子はバスケ部以外の者で選抜しろと条件を付けてくる。それに反して女子は、バスケ部の佐々木さんを含む3人と、身長の高いバレー部の山下さんと、バスケ経験者のニコが有無を言わずに選ばれていた。

どう考えてもやりにくい試合だと男子は誰もやりたがらず、中々選抜選手が決まらない。しびれを切らした猛獣使い、訂正、手塚先生が、お前とお前とお前、と適当に指さしされて選ばれたのが慎一だった。

「何、怒ってるんだ。」

「笑った。」

「プ、やっぱりバレてた?」

クラスの声援の中、コート真ん中で並んだ男子の選抜と女子の選抜。背の高いバスケ部の3人とバレー部に取り囲まれて、他のメンバーの肩までしかない小さいニコを見て、思わず吹き出しそうになった。手塚先生に真辺もメンバーに入れと言われた時は、やる気がなさそうに困った顔を柴崎に向けていたのに、慎一の耐えた笑いに、その負けず嫌いな競争心に火をつけてしまった。  

「その笑い、泣きに変えてやる!」

「よく言った真辺!さぁ、気高き女戦士たちよ、猛者どもをやっつけろ!」

ニコの宣言と先生の掛け声でクラスが、いや、女子だけがわぁーと盛り上がり、ゲームが始まった。

(なんだこのノリ、ついていけない。)

ゲームは当然のことながら女子有利に事が運ぶ。当たり前、不可抗力とはいえ女子の身体をむやみに触るわけにもいかない。

接戦になると、男子はどうしても躊躇する。反して女子は遠慮なしに向かってくる。ニコは、その小さい身体を利用して、ちょこまかと隙間をぬって、こぼれ球をうまく拾い素早くパスを回していく。

「くそー、やりにくい。」

「もう泣くか?早すぎて、つまらん。」ニコは挑戦的な顔を慎一に向けた。昔と変わらない、何でも競い合ってきた時の顔だ。慎一はこの顔に悔しくて、いつも必死に練習した。そして再度ニコに挑み。慎一が勝てば今度はニコが悔しがる。そうした競争相手の関係だった。

「手加減してんだ、女相手に本気を出してどうする。」

「さっきのくそーはなんだ?。」

運動量の割に涼しい顔を向けてくるニコに本気で悔しいと思った、子供の頃以来の感情だ。

その悔しいは慎一だけじゃない。最初は女相手にやりにくいと乗気じゃなかった男子選抜も、開く点差に焦りがいつしか本気のやる気に変わっていった。そして時間と共に、女子の体力がなくなっていき、開いていた点数が狭まり、いいゲームの様相になって来る。

応援のクラスメートは、今は男子女子関係なく声援を送っていて、ゲーム終盤、盛り上がりに体育館が沸いていた。

男子も女子も、選手は息を切らし始め、余裕がなくなって来た頃、それは起こった。

バレー部の山下さんがゴールを決め損ね、バウンドしたボールをジャンプで取ろうとしたニコと、同じくそれを取ろうとした4組の男子木村が空中でぶつかった。身体の小さいニコは、木村の勢いに吹っ飛ばされる形で着地したが、汗でぬれた床に足をすべらせ、派手な音をたてて、後頭部を打ち付け倒れた。

倒れたまま、動かないニコに誰もが息をのんだ。

「ニコ!」

近くで観戦していた柴崎が駆け寄る。審判をしていた先生も慌てて駆け付ける。

覆いかぶさるように心配している柴崎を先生が離すと、心臓に耳を当て鼓動の確認と、閉じている口をそっと開けて、呼吸の確保をする。その光景をクラスの連中が取り囲んで心配をする。

あの夜に怪我した傷跡が、乱れた髪の合間から見えてしまっている。

「ニコ・・・・」

「動かすんじゃないぞ!」

「真辺、聞こえるか!」



        

扉の向こうから呼ぶ声、

ニコ、ドウシテ、ニコ、ドウシテ、パパカラ、ニゲタ。ニコガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

ニコ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ。

えっ? どうしてニコ?            





先生はジャージのポケットから携帯を取り出し、救急車を呼ぼうとする。

慎一は頭の傷跡を皆に見られないように、髪の毛を寄せようと手を伸ばした。するとニコの目がパッチリと開き、ニコは身体を起こした。慎一も柴崎もびっくりして、先生は救急車を呼ぶのをやめて、顔を覗く。

「大丈夫か?気分は?頭痛は?吐き気は?」

ニコは、周りの状況を確認して、なぜ、そんな事を聞かれるのかわからない不思議な顔をして、首を横に振る。

「はぁー、ひやっとしたぞ。」と手塚先生が息を吐く。クラスメートもほっと一息つき、緊張をほぐす。

「立てる?」柴崎が手を差出し介添える。

「ごめん、真辺さん、俺、見てなくて。」

自分のせいでニコが倒れたと同様している木村が慎一にまで、謝ってくる。

「本当に、大丈夫?」

「な、何が?よ、良くわからないけど、大丈夫。」

「真辺、念のため行くか?病院」と言う手塚先生の心配も激しく首を振って「行きません。」と拒否する。

「大丈夫そうだな。ゲーム終了だ。ちょっと早いが、ストレッチ後、モップ掛け!念入りにな。」

そう、先生が皆に指示を出す中、ニコが皆とは違う方向に歩き出したから、どこへと声をかけた。

「顔、洗ってくる。」

柴崎がついていこうとするのを、藤木が止める。

「俺が付いていくよ。お前、木村のフォーローしてやれ。」

まだ慎一の横でオロオロしていた木村の方が、ニコよりもショックを受けている。

   




水が冷たい、夏とは違うこの水温の変化に、秋が来るんだなと気づかされる。

どこまでも追ってくる声は終始頭の中を巡っている。だから、眠りたくなかったのに。

さっき、私は眠っていた?何故?しかも私を呼ぶのは、ニコ。どうしてりのじゃない?

「ニコちゃん大丈夫?」

藤木がタオルを持ってきてくれた。顔を洗ってくると言って出てきたのに、タオルを持ってくるのを忘れている。

藤木の気づかいが、自分の無頓着さを気づかされる。

「ありがとう。藤木、私はどれぐらい寝てた?」

「1分もないと思うよ。」

「1分・・・」

「ニコちゃん、約束覚えてる?ちゃんと見てるから、ダメなときは、ちゃんと言うからって。」            

覚えてる。桜の花びらが散る進級式の日、私は藤木に尋ねた。私は皆が、そばに居ないとダメな人間か?と、

去年の秋から、自分の記憶に自信がなくなった。りのとニコが交差する記憶、いつの出来事なのかわからなくなっている。その都度、時系列を必死で正そうとしたのだけど、うまくいかない。

3年のクラス替えで4人とも同じクラスになった。どう考えてもありえない確率で、柴崎が裏から手を回したと考えられた。何故か学園は私を特別扱いする。それも嫌だった。特待だけでも十分の特別なのに、さらに上乗せされている。夏のアルバイトの斡旋はありがたかったけど。その特別扱いに浸れば、私はいつまでも弱いまま。不安が次第に大きくなった。

どんなに強がっても、私は過ぎ行く記憶に自信が持てない。

そんなに私は、4人に守られていないとダメな生活を送っているのだろうかと。

自分の行動を思い起こそうとしても、その記憶があいまい。慎一には聞けなかった。柴崎も。心配をさせてしまうから。

藤木なら、的確に教えてくれる。

『藤木は、私をどう見る?』

『どうって?』

『そうまでして、皆がそばに居ないと、私は駄目か?』

目じりの皺を深くしてしばらく私を見つめる藤木。そうして読まれる事を、普段なら嫌で俯くところだけれど、この時ばかりは私は顔を伏せなかった。束の間私を見つめた藤木は静かに言った。

『大丈夫。駄目じゃないよ。』

藤木はほほ笑む。

『ちゃんと見てる、ニコちゃんの事を。駄目なときは、ちゃんと言うから。安心して。』



「覚えてる。」

「駄目じゃないけど、おかしいよ、最近のニコちゃん。」

藤木が笑わない。

おかしい?私が?

そんなはずはない。

ママと引き換えたりのは、もういない。

だから頭の中は、りのとニコの記憶が交差しないで、こんなにもクリア。

おかしくなんかない。

「ニコちゃんが見えない。」

藤木の言っていることがわからない。

ニコが見えない?

りのじゃなくて?

      




モップをかけ始めた慎一は、藤木がニコの後を追いかけた事が気になり、近くにいた今野にモップを預け、追って体育館を出た。

藤木の声が聞こえる。下駄箱の影で足を止めた。

(約束?)

ニコと藤木が何かの約束をしているなんて聞いていない。

ダメなときはちゃんと言う?一体なんの約束か見当もつかない。

「駄目じゃないけど、おかしいよ、最近のニコちゃん。」

慎一は怒りが沸き上がった。また言ってる。これじゃ、まるでニコをおかしくさせたいみたいじゃないか。ニコのどこがおかしいと言うんだ。慎一は二人の前に出て行って藤木の腕をつかみ振り返りさせる。そして胸倉をつかんだ。この間の逆だ。

「藤木!お前っ一体何をニコに言ってんだ!」

藤木は細めた目で俺を見る。また俺の心を読んでいる。

「新田!」柴崎もまた様子を見に追いかけてきた、今の状況に驚いて、叫んだ。

「お前が、言ったんだろ、俺たちの心配がニコを阻害するって、お前のそれは何なんだよ。ニコに変な事、言うな!」つかんでいた胸倉を突き放すように押した。

「ちょっと、何なの!」柴崎が慎一と藤木の間に割って入るも、藤木は慎一への視線を外さない。

藤木の本心を読みとる能力に、いつも教えられて助けられて尊敬していた。羨ましいとまで思っていた。

だけど、今はそれが鬱陶しい。こいつのそばに居たくない、はっきり嫌気を認める。

「来い、ニコ!」慎一は立ち尽くしているニコの手を引き、藤木から離すように体育館へと戻る。

「ちょっと、新田!え・・・藤木?」

訳のわからない柴崎だけが、その場でオロオロとする。

つまんないと変な期待をしていたくせに、実際にそうなると何もできないじゃないか。

    

    

扉の向こうから呼ぶ声は、昼も夜も聞こえる。死の世界からの誘い

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる。罪を償えと

逃げられない。パパはりのを迎えに来る

ごめんなさい。

パパ、りのは逃げないから。

でも待って、もう少し。ママが戻ってくるまで。


ママが倒れた日、眠れなかった。

次の日から無理に寝ないでいたら、どんどん頭が冴えて調子が良い。

なんだ、何もかも逆だったんだ。

去年はあんなに、眠りたいと薬に頼った毎日だったのに。

北風に太陽だ。

眠れないのなら、無理して寝ないでいい。

逃げられないなら、無理して逃げなくていい。

呼ぶ声があるなら、その声に耳を塞がず、聞けばいい。

差し伸べられる手があるなら、その手を掴むまで。

明日はテスト初日、眠らない夜は5日目、

苦手な社会の知識を頭に埋めていく、

たっぷり時間はある。朝まで。


 

 

 

テスト初日、社会、英語、理科の3教科のテストを終えて午前中に学校は終わる。テスト日は学園の食堂が休みで、寮生には寮に仕出弁当が用意されていたが、新田との諍いを見た柴崎は、その理由を知ろうと、帰り支度をしている亮を捕まえて「テスト勉強を付き合って、昼ご飯、奢るから」と言ってきた。

柴崎は、駅前で亮を強引にタクシーに乗せて走らせた。告げた行先は、10キロ先の隣市のショッピングモールだった。先日、新しくできた高級ハンバーガー店の話を自身でしていたので、そこに行くつもりだ。平日の昼間と言う事で、ショッピングモール自体もさほど混んではおらず、やはり目当ての高級ハンバーガー店も、オープン当初の混雑は落ち着いたのだろう。数分の待ち時間ですぐに空いた席に座ることができた。柴崎が、バーガーのオーダーをしている間に、亮は寮に電話して、昼ご飯のキャンセルと外出の許可を取る。周囲は子連れの若い主婦やOLさん、サラリーマンといずれにしても若い客層。亮たちのように制服姿の女子のグループやカップル。いずれも知らない学校の制服で、常翔学園の生徒は居ない。

とりあえずの腹ごしらえをしても、亮からは事情を話さない事にしびれを切らした柴崎が、

「私だけ、仲間外れ?」そう言って切り出した。

「なんだよ、仲間外れって、言葉のチョイス、変じゃないか。」

「だって、ニコに聞いても、わからないって、はぐらかされたし。新田はずっと怒っていて聞ける雰囲気じゃないし。」

「一体、何があったの?あんた、ニコに何を言ったの?」

柴崎のまっすぐな目が突き刺さる。

〈ニコを傷つけたら、いくら藤木でも承知しないわよ。〉と読めた。

「何も・・・傷つけるような事は言っていない。」

「だったらなぜ、新田はあんなに怒ってるの?」

「・・・・・」

「ここまで来て、だんまり?」

「ちょっと待ってくれ。何から話していいか整理が、ついていない。」

柴崎は、ニコちゃんのお母さんが倒れたことを、まだ知らない。亮が心を読んで不愉快にさせてしまってから、新田は柴崎に言うのを忘れている。というか、ニコちゃんに言っていいかどうか確認を取る事すら忘れてしまっている。ニコちゃんが柴崎に言わない事を、自分から言って良いものかと迷っていた。前回の事がある。柴崎の心配し過ぎが、今回どう影響するか予想が付かない。

(いや、今回は必要か?柴崎の度を超えた心配が。わからない。)

はじめて、能力が発揮できない事に不便だと思った。

こんな能力など要らないと、出来ることなら使わない方がいいとセーブしていたつもりだったが、いつの間にかこの能力に頼りきっている事を思い知らされる。

読めないと、こんなにもわからないことだらけで、判断もできないなんて。

長く黙っているのを柴崎が、辛抱強く待っている。

「柴崎、最近のニコちゃん、どう思う?」

「はぁ?」長い沈黙の割には予想と反した質問だったんだろう、柴崎は半ば呆れた素っ頓狂な声を発し、「どうって?」と返してくる。「気づかないか?違和感を。」

「違和感?」

「学校を休んだ前と後と、ニコちゃんが変わった感じしないか?」

柴崎が首をかしげて、真意を探ろうとしてくる。

「休んだって、この間の?」

「あぁ、休んだ理由をお前に話す前に、客観的な視点が知りたい。」

「休んだ理由って、定期検診じゃないの?」早く理由を聞きたい気持ちを抑えている柴崎。「休み前と後ねぇ。調子いいなと思ってたけど、給食も最近は残さず食べて・・・良く笑うようになった。この間は、野球部の二人がニコに数学教えてと言ってきて、ニコ、逃げもせず教えていたわ。キャンプ以降、ニコもクラスに目を向けるようになっていて、馴染もうと努力してるんだなって、ニコ自身もこのクラスで良かったと言ってた。」

「・・・・。」

「何んなの?」

柴崎にすべてを言う決心をする。ここまで来て、言えないとは言えない。ニコちゃんに嫌がられるかもしれないが、柴崎に拗ねられて、ややこしい事になるよりはマシだと判断した。

「ニコちゃんのお母さん、今、入院していると知ったら、お前はニコちゃんの今の調子の良さをどう見る?」

「え?うそっ!」            



扉の向こうから呼ぶ声は、昼も夜も聞こえる。死の世界からの誘い

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと、イッシヨニ、シノウ。   

その声は、消せない記憶を楔打ち 眠りを妨げる。罪を償えと

逃げられない。パパはりのを迎えに来る

ごめんなさいパパ、りのは、逃げないから。でも待って、もう少し。

ママが戻ってくるまで。もう振り払わずその手を掴むから。




     


もしかしたら藤木の眼が正しいのかもしれないと不安がよぎる。だけど、そんな事はないとすぐに振り払った。

掲示された常翔学園恒例の、中間テスト成績順位表の前で慎一は立ち尽くして、この状況をどう解釈するべきなのかを考えた。

いや考えるほど頭は動いていない。呆然としていただけ。

ふと、気づくと、ざわざわと真辺さんと囁く声が、あちらこちらから聞こえる。

1、真辺りの 1000/1000点    

2 小林信也 906/1000点   

「頑張ったな。英語。補習なしだな。」ニコは周りのざわめきと注目を気にもせず、慎一の英語の点数の感想を述べ、微笑む。

「いや・・・・ニコ、お前。」

その、微笑みはニコニコのニコ、幼き頃の物と同じ。どうして笑わなくなったんだと悲願したあの頃から、切に望んだ笑顔だ。

やっと、この笑顔を見られるようになったと喜んでいいはずなのに、なんだ、このジワリと沸く不安は。

いつもニコは、掲示板の前に長くはいない。特に、貼り出された直後の生徒数の多い時は避けている。

トツプであり続ける特待生に感嘆の声だけじゃなく、嫉妬の声も入り混じるからだ。

それなのに、今日は朝一番に確認した慎一の側に駆け寄ってきている。そして、珍しく慎一の英語の点数を褒める。ニコは慎一の点数を褒めたことを、これまで一度もない。

5教科すべて満点、驚異の点数をたたき出したニコは、その偉業を褒め称えるどころか、今は、奇異の視線にさらされている。

中には、試験問題を知っていたんじゃないか、そこも特待の特別待遇じゃないかと臆した批判の声もある。

今回のテストは全体的に難しかった。2位の生徒との点数を見ての通り、ニコとの差は100点近くある。平均点も前回よりずっと下がっている。

藤木の、『あれのどこが普通だよ!』の声が頭によみがえる。

いやいや、普通だ。すぐにその声を振り払う。ニコは頑張っていた。新田家では勉強しにくいと一人自宅で。

そんな努力を知らない者が勝手な事を言うんだ。

廊下の奥から、柴崎と藤木が並んで歩いてくるのが見えた。

「ニコ、教室いくぞ。」

「まだ、柴崎と藤木のを見てない。」

「後にしろ。」

ニコの腕を引っ張り、とりあえず奇異の目から離すことにした。




藤木と顔を見合わせた。驚きでお互い声が出ない。普通ならニコに駆け寄って抱き合って喜ぶところ。

でも一昨日、聞いた藤木の話を考えたら、麗華は素直に喜べない。

『ニコが完璧に心を閉ざしているって、どうして?』

『やっぱりな、お前は新田と同じで、ニコちゃんの事になると思考が止まる。だから、俺はお前に言うのをためらったんだ。』

『・・・・・・』

『ちょっと考えたら、わかる。』

残っているオレンジジュースを一口飲み、喉の渇きを潤す。

『おば様が倒れたのは、仕事による過労』

『救命救急の看護師なんて、中々なり手がない上に激務だ。』

『夜勤も多いわね、家庭の事もして、大変だわ。自分のせいでおば様が倒れたとニコは思い込んだ。』

『うん、今年は修学旅行から始まって、親にお金の負担=仕事の負担、をかけているとニコちゃんは自分を責めていた。』

『はぁー。どうして、こうニコばかり、神様は試練を与えるのかしら。』

『ニコちゃんだけの試練じゃないのかもしれないな。俺たちも試されているのかも、お前達は真辺りのをどう助けるか?と。』

珍しく神妙な言葉を持ち出した藤木、人の本質を見抜く藤木は、神や祈りだのと言った目に見えない物を全く信じない。

占いの類も一切信じないので、麗華とニコが雑誌の占いのコーナーを読んでいると、そんなのは占い師が金儲けの為に適当に書いているだけだ、と冷めた事を言う。

『でも、おば様が倒れたのを自分のせいだと思い込んで、どうして私達に心を閉ざす必要があるの?』

『そこだよ。それが読めないから、困っている。』

藤木は、ニコの心が読めない事に焦ったという。その読めない事自体が非常事態なんだと。

麗華は藤木の焦りに、半分ぐらいしか同調できなかった。

『調子がいいわよ、ニコ。』

そこもまた、新田と同じだと言われてしまった。


5教科満点のニコの成績を見つめながら麗華は、藤木の言う通り、非常事態なのかもと思う。

学園の歴史の中で、凱兄さんしか成しえなかった5教科満点偉業を、ニコもやってのけた。いや、凱兄さんが5教科満点を取るのと一緒にしてはいけない。凱兄さんは一瞬で紙面の活字を記憶できる特殊な脳をしている。だからほぼほぼ、カンニング近いと凱兄さん自身も謙遜している。それを考慮すれば、ニコは学園の歴史の中で、初めて実力で5教科満点の成績をとった事になる。

いや、それとも、ニコには私達にはわからない凱兄さんのように特殊な能力があるのだろうか?

常に努力している姿を麗華は見てきた。だからやっぱりそれは実力で、苦手の社会も、頑張ったんだと考える。

だけど、おば様が倒れたこの時期に勉強に力が入るかしら?

いつだって、夜も昼も働く母の身体を心配していたニコが。

自分なら考えられない、お母様が倒れたら、勉強など手も付けられない。

麗華は藤木と並んで、ニコがクラスメートに囲まれて賞賛されている姿を、遠くから眺めた。

   



5教科満点の脅威の成績を収めたニコちゃんは、いつにもまして明るくなった。

相変わらず、心は読めないけど、そんな表むきの変化だけはわかる。

テストが終わり、学園祭の準備が本格化する為、学園全体が浮足立つ。ニコちゃんの明るさは、その雰囲気に押されているとも思えるが、それは悪い事じゃない。新田の言う通り、行き過ぎた危惧なのかもしれない。

辛い記憶を消すほどに、沢山の楽しい記憶をニコちゃんと作ろうと、亮達は誓った。ニコちゃんの微笑は、そんな亮達の達成の証ではずなのに。何故か亮は心から喜べない。素直過ぎる新田よりも、慎重を規する亮は、人の本心を読んでしまう能力のおかげて、素直になれないだけかもしれない。

笑顔が増えたニコちゃんは、皆がその魅力に引き寄せられる。

今も、体育祭の打ち合わせで話し合うクラスの皆と、脱線した楽しい会話の中で笑っている。

亮は、新田と体育館前で言い争った時から、いやそれよりも前、通用門前で新田の心を読んだ日から、まともな会話をしていない。もう一週間になる。この能力を嫌がらない柴崎にさえも、ストレートに言ったことはない。その辺は気を付けている。

読んだ本心を利用するときは、相手が自分で気づくように遠回しな言葉を選ぶ、時間がかかるが、それをしないと、新田のよう傷つき、嫌悪し、人は亮から離れて行く事を、十分すぎるほど経験して知っている。新田との関係がこのまま修復できないでいたら、全国優勝は無理だろう。仕方なかったとはいえ、親友と慕ってくれる大事な友達に、やってはいけない事を、やってしまった。

その後悔が大きく亮の心を痛める。












ママが帰って来た。扉の向こうから、りのと引き換えに。

声も聞こえない。

ニコは笑う。ニコニコのニコだから。







さつきおばさんが退院した。これでとりあえず安心。ニコは長い夜を一人で留守番することはなくなる。

検査の結果も、何も悪い所はなかった。ただの疲労。この先、しばらくは勤務のシフトを昼だけにすると言う。

慎一は、クラブ活動を終えたその足でニコの家に寄り、晩御飯の手伝いをしに来ていた。ニコは今日、クラブに行っていない。

さつきおばさんの様子を見て、しばらく休むつもりでいるらしい。

「さすが、秀治さんの息子ね。手際がいいわ。」さつきおばさんが、慎一の包丁さばきを見て感心する。

「家庭料理だけだよ。俺が作れるのは。フランス料理なんて無理だから。」

「十分よ。啓子はうまく育てたわね。」

「いやいや、育てたというより、ほったらかしだったから、作れるようになったんだって。母さん、いい加減だから。おばさんと母さんがどうして親友なんだろうって、いつも不思議だよ。」

「フフフ、ほったらかすのも、勇気がいるものよ。親としては。」

「そうかな?」

病院食は和食中心の味気のない物だったから、洋食が食べたいと言ったさつきおばさんの希望をかなえるべく、ニコはハンバーグを作ろうとして買い物に行った。食材は揃っているけど、慎一が来た時点で手伝う気持ちは全くなくしたように、ダイニングの椅子に座って本を読み始めた。  

「りの、さっきの意気込みは、どうしたの?りのが作るって、りのが買い物に行ってくれたんでしょう。」

「慎一が奪った。」

「悪かったな。」

「一緒に作ったら良いじゃない。」

「嫌だ。」

「じゃ、代わろうか?俺、帰るから。」

「途中で投げ出すのか?最低だな。」

「これ、りの!ごめんね慎ちゃん、学校でも、こんな口調なの?りのは。」

「まぁ。まだマシなほ・・・」ニコのきつい視線が思いっきり背中に突き刺さってくる。

目を合わさないように、ミンチ肉を冷蔵庫から取り出そうと開けて見つけた。

「プリン・・・ニコぉ。」ちゃっかり買って来てる。振り返ったら、目をそらされた。

「退院祝い。」

「誰を祝ってんだ!」

「なぜ慎一は、いつもプリンを怒るんだ!」

「お前がプリンばっか食べて、ちゃんとご飯を食べないからだろう!」

「食べてる!」

「あんな少量で食べてるとは言わん!」

「お前が食べ過ぎ!」

「ニコは食べなさ過ぎ!だから、身長、伸びないんだろう!」

「うるさい!馬鹿の大食い!」

「辞めなさい!二人共!」さつきおばさんの叱りが入る。でもおばさんは、すぐに笑い始めた。

「懐かしい、昔と変わらないわね、二人共、何かと衝突しては、どっちも引かないの。良く叱ったわね。」

母さんも同じような事を言っていた。

去年のニコの誕生日パーティの時だ。あの時もプリンの話だった。俺たちは5歳の頃も、去年も、今も、ずっと変わらない。

そう、何もおかしい所なんてない。

二人の母親が、「懐かしい、変わらない」と言っているのだから、間違いはない。




ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

ニコは怒る。慎一の言葉に。

りのは、どこへ行った?



「行ってらっしゃい。今日はクラブにちゃんと行きなさい。ママはもう大丈夫だから。」

「うん。行ってきます。」

あまり行く気はないけど、ママがそう言うのだから仕方ない。

弓道は面白い。昨日、当たった的に、今日は何故か当たらない、そういう事がよく起こる。きれいな姿勢を保つために、意外と身体の筋力がいる。腕力、腹筋、背筋、脚力、それらを鍛えても、的に当たらないのは集中力が足りないから。

集中力は、筋トレのように中々鍛えられない。

弓道部の部長である滝沢さんと合宿前に、最後に物を言うのは、集中力と精神力。それを鍛えるには何をどうすれば向上するか、それを合宿での練習テーマにしようと、いろんな案を出し合った。お寺で座禅、掃除、写経、なぜか、出てきた案が、全部お寺に関するものだったから、合宿場所は理事長の知人の京都のお寺でする事になった。弓道場にはマイクロバスを借りて移動した。はじめての京都の街並みを見るだけでも新鮮で楽しかった。

ただ、お寺の食事が精進料理で、全く味のない物ばかりで、美味しくない。食べずにいたら、これも修行のうちだと皆で指摘され、完食するまで席を立たせてもらえなかった。泣きながら食べたら、小学生みたいだと後輩にまで笑われた。

帰ったら食べなくても生きていける方法を探そうと誓った。

グレンと別れて、暇になった時間を利用して、学園の図書館で調べた。図書館の本を調べつくしたが、出て来る物はダイエット物ばかり。あったと思ったら、本当かどうかわからない都市伝説級の情報で、何十年物を食べていないと本人が言っているという公言だけで、方法や検証のない物ばかりだった。こうなったら、ネットで調べようとパソコンルームに行ったら、えりちゃんと、えりちゃんの彼氏、黒川君が居て、ちょうどいい、プロに頼のもうと、事情を説明したら、えりちゃんと黒川君に大笑いされた。笑う事じゃない、私は真剣だった。食べないで生きていけるなら、こんなに楽な事はない。慎一に監視されなくて済む。

しつこく笑いながらも検索して情報を提供してくれた黒川君。

多数の情報の中に、アメリカのNASAの科学研究チームが出した文献があった。

ある人が130日間、水のみと太陽の凝視で生きている実証記事。NASAだから信用もある。

これだと思って次の日から実践したら、えりちゃんから聞きつけた慎一が、弓道場まで駆けつけて来て、馬鹿かとののしられ、

新田家で用意したサンドイッチを、その場で無理やり食べさせられた。

おかけで私は弓道部の皆にいい笑いものにされて、慎一のみならず弓道部の皆からも食事を監視される始末になった。

事あるごとに、今日はちゃんと給食を食べたかと顧問にまで確認される。うんざりだ。

そんな事があって、顧問がいる弓道部にはあまり行きたくない。全国大会に向けて練習をしないといけないのだけど。

(植物のように、人間も光合成出来たらいいのに。)

とバスの窓から空を見上げた。寝てない目には太陽の光は痛い。まぶしさで目をつぶると眩暈もする。

夏とは違って雲との距離が遠くなった秋の空、もう季節は秋だ。

そうだ、今度は人間が光合成出来る方法がないか調べてみよう。今度はえりちゃんに見つからないように、自分でPC検索しなくちゃ。

プライバシーのない新田家はホント、困る。



ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

ニコは怒る。慎一の言葉に、

ニコは困る。新田家に。


扉の向こうから呼ぶ声、

ニコ、ドウシテ、ニコ、ドウシテ、パパカラ、ニゲタ。ニコガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

ニコ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ。

えっ? どうしてニコ? りのは、どこへ行った?


「・・・・・コ・・・・・」

「ニコ・・・・・起きて・・・・」

誰?ニコは起きてる。

「真辺さん!」

「!」

先生の声にびっくりして我にかえると、クラス中の視線が私に向けられていた。

「真辺りのさん!いくら勉強しなくてもわかるとは言え、寝てるとは、どういう事ですか?」

(え?寝てた?私が?寝なくても大丈夫なのに?)

「そんな態度では、特待生として皆に示しがつきません。考え物ですね。」

「す、すみま、せん。」

良くわからないけど。叱られているという事は、私が悪いのだろうと、とりあえず謝っておく。

「では改めて、98ページを真辺さん、皆さんのお手本として、朗読してもらえるかしら。」

「は、はい。」

私は慌てて英語の教科書を手に持ち立つ。昨日の時点で一つの単元が終わったから、今日から新しい物語英文が始まる。

はじめて読む英文を、いつも私にお手本として読ませるこの先生、私を利用する割には、私の存在が嫌いで、授業中は絶対に私の方を見ない。私は、98ページの教科書に書かれてある文頭に目をやる。

(あれ?声が・・・・出ない!)

「98ページですよ。まだ頭は寝てるのですか?」

クラスのざわめきと、くすくすと笑う声。

英語を発音しようとすると、口を開けても声が出ない。

(なぜ?)

手が震えはじめる。

(こういうの、昔もあった・・・・え?いつ?)

「真辺さん?どうしたのですか?」

(早く、読まないと)

「・・・・・・・」

おかしい、私はまだ寝てるのか?

声が出ない。どうなってる?

クラスのざわめきが大きくなる。

怖い。皆が私を見ている。

「す、すみま、せん」

声が出た!今だ、読むんだ。英語で。

「・・・・・っ・・」

(え?英語だと声が出ない?)

「あ、の・・・・き気分が、わ悪いので・・・ほ、保健室、い行き、ます。」

皆の視線が怖い、皆が私の事を囁く声が怖い。

その視線に、その声に逃げるように、教室を飛び出した。

「あっ、ちょっと真辺さん!?。」

「ニコ!先生!心配なので私がついていきます。」




通路挟んだ隣の席の位置からでも、寝ていることがバレバレだったニコ。珍しい。

去年の今の時期、眠れないと目の下にクマを作っていた時期でも、ニコは授業中に寝る事はなかった。休み時間や昼休憩の時に、少しウトウトするぐらいで。特に英語の好きなニコが英語の授業で寝るなんて、どうしたのかしらと思った矢先に、先生はニコを指名してしまった。

この先生は、帰国子女で英語のテストは毎回満点を取るニコの事が嫌いだ。自分の立場を脅かされるとでも思っているのか。ニコに対してあたりがきつい。その割には発音のお手本として、いつもニコを利用する。イケメンの男子にだけには優しかったりして、依怙贔屓が目につくから、生徒の中でも人気のない先生だ。

ニコが先生に嫌味を言われている。ニコは黙ったまま。特待うんぬん言われて、きっと心の中で起こっている。

麗香は様子を見ようと体を乗り出してニコの顔を覗き見る。ニコは怒るどころか、目を見開いて驚いた表情で固まっていた。

(何?教科書に何がある?)

何もないただのハリーポッターの抜粋文。教科書を持っている手が震えていた。

「あ、の・・・き気分が、わ悪いので・・ほ、保健室、い行き、ます。」

やっとのことで声を絞り出し、教室を飛び出していくニコ。

藤木と新田の心配げな顔が見えた。二人はニコの顔を見れない位置に座っている。

「ニコ!先生、心配なので私がついていきます。」

先生の了解を待たずに、私も教室を飛び出した。あいつは私には何も言えない、私は理事長の娘だから。

何を言っても、何をやってもこの学園に居る限り私は許される。藤木の言う大嫌いだった頃の私だ。

でもいいの、今は、ニコが心配だから。

ニコは保健室に行くまでの1階の廊下で壁に左手を壁に支えて、右手は首元に手を当てて俯いている。喉がおかしいのかしら?

駆け寄って、肩を抱き声をかける。

「ニコ、大丈夫?」

「大丈夫・・・・・少し気分が悪くなっただけ。給食、食べ過ぎたかな。」

視線をそらしながら言うニコ、2年も親友をしていたらわかる。それが本当じゃない嘘つくときのしぐさなのを。

ニコは自分の事を語りたがらない。だから、私達も無理には言わせない。ニコから言うのを待つ。

それが私達のニコに対する心遣い。

「トイレ行く?」

「大丈夫。保健室で休む。」

「じゃ行こう。歩ける?」




   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に。



 

ニコちゃんが、また英語の授業に出ない。珍しく授業中に寝ていて先生に怒られた。気分が悪いと教室を飛び出した日から、今日で3回目。常翔学園は英語教育に力を入れている為、毎日英語の授業がある。ヒアリングの時間も設けてあるから、視聴覚教室でのリスニング授業及び外国語教師の英会話の授業を含めると週7時間であり、火曜日と木曜日は英語科目が2時限と重複する。英語の苦手な新田は地獄の火曜日と木曜日と言って、ことある事に愚痴を言うのが恒例だ。

昨日の視聴覚教室でのヒアリング授業では、ニコちゃんは出席していた。だけど、ついさっき、英語教師に会議室に呼び出されて、注意を受けていたと、柴崎から聞いた。経営者の娘という無敵の立場を利用して盗聴した情報は、昨日のリスニング翻訳を白紙で提出したと聞いた。

増して、ニコちゃんの行動がわからなくなってきた。英語の得意なニコちゃんが、何を思って白紙で提出するのか?

この間、先生に特待うんぬんを言われて怒った抵抗か?そう考えたけれど、そんな低レベルの抵抗をするだろうか?

英語教師に嫌われ、特待の査定に×をつけられたら、ニコちゃんはここを去らなくてはいけない。ニコちゃんがそれを望むはずがない。亮は柴崎と共に、ニコちゃんの行動に首をかしげて不安を募らせるだけしか出来なかった。

そして今、3時間目の英語の授業、ニコちゃんは席に居ない。さすがの新田も、このニコちゃんの行動に不安の色を出し始めている。新田は治った、主治医も太鼓判を押していると言うけれど、心の中ではヒヤヒヤしている。あの日がもうすぐ迎える。

ニコちゃんのお父さんの命日。去年も亮達3人は、その日をヒヤヒヤとしながら、ニコちゃんを見守り過ごした。

「真辺さんは?また保健室?具合悪いの?大丈夫かしら。」

ニコちゃんの事が嫌いなこの先生は、言葉では気遣っているが、その心の中では腹黒いものが渦巻く。

(サボってるのね。どうせつまんないんでしょうよ私の授業なんか。やりにくいわ。あの子がいるこのクラスは。どんなに難しくテストを作っても、あの子は満点。まぁいいわ、あの子が居なければ授業はやりやすいし、このままサボりが続くようなら、特待の査定に×をつけて落としてやれば、あの子はこの学園に居られなくなる)そう、読み取って亮は顔をしかめた。

(最低だこいつ。)

しかし、これ以上のさぼりはまずい。しかし、原因がわからないので、手の打ちようがない。

ニコちゃんに直接、訳を聞くことも考えたが、あれ以来、亮がニコちゃんに近づくのを新田は警戒している。

(柴崎に頼むしかないか。)

しかしながら、ニコちゃんが柴崎に心の内を言うとは思えない。頑固なニコちゃんを説得できるかどうか。二人はお互い大切な親友だと思っている。だからこそ、その関係に上下はなく同等ゆえに、相手を困らせないようにと気遣う。

柴崎と同等を保ちたいからこそ、ニコちゃんは柴崎には助けを求めない。だから亮がその繋ぎを担ってきた。4人の中では一番、他人的な関係と言える。亮が本心を読むことで、けして縮まることのない距離だ。





ニコがおかしい、英語の授業に出ない。これで3回目、一応、警戒はしていた。昨日も英語の時間直前になって保健室に行くと言いだした、具合が悪いのかと聞いたら、そうだと、いつもは、どんなに具合が悪くても違うと言うくせに。具合が悪いから保健室で寝ると言った。手で熱を測っても冷たい額。まさか、また夜眠れないのか?と聞いたら、それは大丈夫だと言う。嘘をつく時のしぐさは見せなかったから、安心して信用した。ハンバーグを作りに行った日に、薬の袋は見当たらなかったし、目の下のククマもないし、顔色もいい。心配する要素など何もないはずなのに。だけど、なぜニコは英語の授業を避ける?英語は笑って話せる語学なのよと、フィンランドの先生に言われてから、大好きになった英語。日本の授業が、ニコにとって幼稚な授業だとしても、日本語の社会よりも断然楽しいと言っていた授業なのに。

今日もチャイムがなった直後、そっと出ていってしまった。追いかけようとしたけれど、先生に見つかり、慎一は仕方なく席に着く。

また、藤木の言葉が頭をよぎる。

『あれのどこが普通なんだよ。完全に心を閉ざしている。』

心を閉ざす何がニコにあるっていうんだ?もう、さつきおばさんは退院して、家に居る。

他に何がある?命日か?今年も秋が来る。ニコにとって忘れられない辛い秋が。

でも去年、さつきおばさんと和解して、それも克服した。

精神科の村西先生も、強くなったし笑顔も増えた、もう安心だね。と言っていた。

母さんが、この間受診させた時も、しっかりしなくちゃと思っているぐらいだから大丈夫だと。

本当に?この不安はなんだ?

ニコが笑うたびに不安が掠める違和感。

ずっと待っていた、ニコニコのニコを。

おかしいのは自分?  




常翔祭が迫る忙しい時期なった。給食の時間になると1年や2年の生徒会役員と実行委員達が、次々と麗華の所に質問に来る。生徒会会長の麗華と書記の藤木がいつも一緒であるから捕まえて質問しやすいのだろう。最近では給食のこの時間を待っていましたとばかりに後輩のみならず、同学年の実行委員までもが質問やら承認を得にくる者もいて、藤木もマメな性格が生じて、丁寧に対応をするものだから増る一方だ。

ニコと新田は、いつの間にか私達二人の横には座らなくなった。私達の横のスペースは、質問に来る後輩や実行委員たちのための席と化していた。

一年生の相手は時間がかかる。初めての常翔祭は、体育祭と文化祭の合同である事が未経験で、一からすべてを説明し教えなければならない。常に藤木に注意されている通りに、話し方ひとつも気を使う。あまり強い口調で言うと相手が委縮してしまい、たちどころに生徒会は威張っているとか、権力を自己的に使っていると言われかねない。まして理事長の娘である麗華は特に気をつけた方が良いのは、もう十分に実感していた。

今日も、そうして後輩たちの対応を終えて教室に戻ると、ニコはクラスメート二人と雑談していた。

麗華は出遅れた感もあり、その中へと加わらないで自分の席に座り、その光景を眺めた。

次第にニコの周りに、一人また一人とクラスメートが寄って来て輪ができた。ニコの笑顔と共に増えて大きくなる輪。

幼稚園の頃はクラスの、園全体の人気者だったと新田から聞く。あの姿が本来のニコなのだろう。日本語が出なくて、終始、人を避け、誰かが話しかけてきたら固まって、ともすると私や新田の後ろに隠れてしまうようなニコは、本来のニコじゃなかった。

もうあの怯えたニコはもういない。皆の輪の中で笑って話す姿を遠巻きに見ながら、麗華はニコを皆に取られてしまったような、そんな感覚に陥った。

教室に戻って来た藤木もニコを取り巻く輪を眺め、麗華にまっすぐ歩んでくる。そして無言で「ついて来い」の仕草をし、麗香を教室の外へと促した。黙ったまま廊下を歩き階段を昇る。屋上への扉を開けて、外へ出ると強い風が麗華の髪を逆なでるように乱す。

屋上には何人かの生徒が居て、麗華達の登場にそそくさと屋上から出ていく。こんなことはままある。藤木に注意されてどんなに低姿勢で居ても、学園経営者という権威はけして消えないし、すべてを消す事でもないと麗香は思っている。権威が無ければ、ニコを守る事が出来ないのだから。

夏の激しく白い雲とは違う、くすんだ雲が遠く流れていた。

「覚悟はしておけ。」

藤木は重要な時ほど遠回しな物言をする。

何の覚悟か?その質問を口にしなくても、答えに至る説明を藤木はする。麗香は黙って藤木の語りを待つ。

「俺は、ニコちゃんの今の笑顔を信用していない。読めない限りは信用しない事に決めた。何かあるはずなんだ、ニコちゃんが心を閉ざしている理由が。閉ざした向うでニコちゃんが助けを呼んでいる気がする。」

藤木は目を伏せた。

常に、ニコの心を読もうと試みて、ダメっぽい事を麗華は見ていた。

私よりも、ずっと昔からニコの事を気にかけて、ニコの事が好きでたまらないのに、冷静で取り乱したりすることなくニコのサポートに撤していた。その手法は時として私も気づかないぐらいさりげない。そういう事を平然とやってのける藤木が、今、何をどうしたらいいのか、わからないで戸惑っている。

「ただ、あんなふうに笑えるようになったニコちゃんを見ていたら、新田じゃないけど、俺は見誤っているのかもしれないと自信がなくなる。」

新田と藤木が話さなくなって丸2週間が経つ、サッカー部はうまくいっているのだろうかと心配し聞いてみると、「もう十分に出来上がっているチームだ。俺と新田がどうのこうのなっても何も問題はない。」と藤木は言った。

「元々読み取りづらいかった事を考えたら、最初から見誤っている可能性もある。その場合、あのニコちゃんの笑顔は本物だ。」

麗華はゆっくり頷く。

「見誤っている方が良いのかもしれないと思うほどだよな、あの笑顔は。もう、俺たちの助けは要らない、ニコちゃんは、俺たちの、俺たちだけが特別の仲間ではなくなる。」

それは麗華の特権、優越を加味して繋げた4人だけの特別な関係だった。それがなくなる。

「覚悟、しておけ。俺達のニコちゃんが、皆のニコちゃんになる時を、喜べるように。」

覚悟・・・。涙が出た。

ニコを守る度に結束を強めた私達、麗華は夏の夜、砂浜で4人でつないだ輪を思い出した。

繋いだ輪をニコが狭いと感じた時は、その手を緩めてあげなくてはいけない。

「私、ニコを、皆に・・・。」取られたくない。そう言いたかった。

「言うな。」

涙が次々と出てきて、言うなと言われても、嗚咽で言えない。

「お前のは読める。良くわかる。俺も同じだ。」藤木は、ポケットからブランド物のハンカチを取り出し麗華に差してから麗華の肩を組む。

「あの笑顔が、寂しいな。」

こんな気持ち、自分だけじゃない。藤木も同じく、ニコの笑顔に寂しさを感じていた。

ニコを大好きな藤木は、麗華よりも、もっと寂しいはずだ。

藤木の分まで思い切り泣こう。

そうすれば、ニコの為に、私達はあの輪を緩めてあげることが出来るかもしれない。

皆が好きになるニコを、人気者のニコを、私達も好きになれるように。





仮病だけと、仮病じゃない。本当に具合が悪いんだ。声が出ないという最悪の悪さ。そんな事、保健室の先生に言えない。

だから気分が悪いと言ってベッドに寝かせてもらっていた。この保健の先生は、今年4月に就任した新しい先生、特待の進級許可の通知を頂いた時、凱さんから、『4月から新しく就任する保健の先生は関東医科大付属の村西先生から紹介してもらった先生だから、安心して何でも相談して』と言われた。また学園の特別扱い。ありがたくない。私の学園での行動が、村西先生に筒抜けだと思うと嫌だった。だから、あまり保健室は使いたくないのだけど、授業をさぼって図書館に行くわけにもいかず、校舎をうろうろするわけにもいかず、保健室は生徒特権のさぼり場所だ。ベッドに横になる。眠たくないけど、保健の先生に根掘り葉掘り聞かれたくないから、頭から毛布をかぶって寝たふりをする。

約一時間、何しよう。文庫本でも忍ばせておけばよかった。

次からは持ってこよう。



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に。

   ニコは寝る。いつの間にか。



扉の向こうから呼ぶ声、

ニコ、ドウシテ、ニコ、ドウシテ、パパカラ、ニゲタ。ニコガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

ニコ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ。

どうしてニコの名前?

りのは、どこへ行った?

あの声はりのを呼ぶ声なのに。


バサッと起き上がる。毛布がその勢いで下に落ちた。

(もしかして、私、寝てた?)

時計をみたら、あと数分で英語の授業が終わる時間だった。

ついさっき、文庫本持ってこようって思って、あれから40分?

うそ、信じられない。寝なくても大丈夫なのに。

チャイムがなった。英語の授業が終わる。

なぜ、英語だと声が出ない?

私は英語が好きだったはずだ。英語の方が楽に言葉が出て。

他は?ロシア語は?えーと、なんて言うんだっけ、ロシア語で「こんにちは」は・・・・・え?わからない。・・・・

他に・・・フランス語!フランス語は・・・あれ?何故フランス語だと思った?

藤木の言葉が頭に、こだまする。

『ニコちゃん、おかしいよ。』

りのじゃなくて?

そもそも、私はどっち?

ニコ?りの?


「真辺さん、こっちのもカットしてくれる?ちょっと大きかったわ。」

「わかった。」

もうすぐ常翔祭、午後の学活の時間は、文化祭の準備に当てられる。どこのクラスも同じらしく、あちこちから机を後ろに下げる音や、生徒のはしゃぐ雑音が聞こえてくる。先生は、先に終わりの会を済ませて職員室に引き上げてしまっていた。

先生も体育祭の準備等で忙しいのだろう。学園祭が終われば3者懇談も待ち受けている。この時期は、学園中の人間が忙しい。

中学生最後の常翔祭。柴崎と藤木は生徒会役員として全体を取り仕切る為に、休み時間も二人して忙しく、最近は給食も4人一緒に食べられない。

今年は何も役員をしていない私と慎一は、ここ2週間あまり二人きりの給食だ。全然、楽しくない。

慎一は常に私の食事を監視していて、柴崎が居てくれたら私の味方で、しつこい慎一に「自由にさせてあげなさいよ」と言ってくれるのに、居ないからもっと食べろとうるさい。給食の時間だけじゃない、休み時間も柴崎と藤木は常に一緒にいる。二人は生徒会役員だから、なのは理解できるのだけど、なんとなく、藤木に取られたという気がして寂しい。藤木にはあまり近寄りたくない。あの何でも見通せる目が怖い。またおかしいと言われそうで。

あの能力に私はいつも助けられていた。何かと特待生だからと嫌味を言われて、いろんな重圧に押しつぶれされそうになっているを、藤木はタイミング良くそっと状況を変えてくれていた。それはちゃんと理解して感謝している。でも、今は無理。

ほら、またあの目が私を見ている。いつもの優しい目じりの皺がない。あぁ、それが怖いと感じるのか・・・・

あの目に映る私、そんなに、おかしいのだろうか?

「昨日のミュージックTVみた?」

「見てない、昨日のその時間は、笑タイム見てた。」

「えー、真辺さん、お笑いみるの?」

「みるよ。」

段ボールをカッターで切りながら、近くに居るクラスメートと話が弾む。

最近スムーズに日本語が出る。私の病気は治った。

「意外~。」

「爆死飯のギャグが好き。」

「私もすきすき、面白いよね。」

「へえー真辺さん爆死飯が好きなの?」

少し離れた場所から、あまり話した事のない男子が声をかけてくる。怖くない。

「意外~」

「でしょう。なんか今更だけど、真辺さんって夏のキャンプ以降、変わったよね。」

「変えたつもり、ないけど・・・そんなに変?」吃音もない。

「ううん、変じゃないよ。いい感じ、親しみわく。」

「うん、うん。」

「うーん、今までのイメージが、硬かったみたいだな」・・・硬い。段ボールが二重になっている所でカッターの刃が止まってしまった。こうなると結構面倒だ、引いても押しても動かない。

「えーだってねぇ。」

「特待?」

「あ、うん、特待生に選ばれるほどの頭の良い真辺さんは、私達とはこう、人種が違うんだって思って。ねぇ。」

「あぁ。テレビとかも見なさそうだもん。」

「見る見る、バラエティとか、深夜のアニメも見る。ラジオも聞くよ。」

そう、夜は長い。勉強ばっかりでは飽きる。それに覚える事は全部やってしまった。

最近はママに見つからないよう、こっそりイヤホンでラジオを朝まで聞くのが毎日の楽しみ。

「えーそうなの?あっあれ知ってる?金曜日の、夜0時の帝都テレビの、」

「山ちゃん探偵局?」

「そう、それ!」

「おお、あれ面白いよな。俺も録画してみてるぜ。」

昔ほど、特待に対する嫌味がないこのクラスは、居心地がいい。楽しい。やっとたくさんの友達と話すことが出来るようになった。ん?やっと?

やっとって、何?



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に。

   ニコは楽しい。おしゃべりが。





ニコが笑っている。クラスの皆の前で。人気者だった幼稚園の頃の笑顔と重なるあの笑顔。

その光景を慎一は、ただ、ただ、無感情に見つめていた。

待っていたはずのあの笑顔なのに。うれしいとか、懐かしいとか、感慨深いとか、の感情が出てもおかしくないはずなのに。

その感情を溢れ出ないように、蓋をしているようだった。

違う。あふれ出てきそうになっているのは、不安だ。出てくるものが理想とは違う時の驚愕、恐怖を自分は抑え込んでいるのだ。

「新田、段ボール取りに行くから手伝ってくれ。」今野が慎一を教室の外へと誘い出す。

「あぁいいよ。」

妙な思考に陥ったのを振り払い、慎一は今野と一緒に教室を出る。

自分がそばに居なくても、ニコはちゃんと皆が寄り集る人気者になりつつある。あれが本来のニコだ。友達を作る才能は自分よりも優れていた。

北棟の裏門横にある廃棄物保管倉庫へと向かう。同じように段ボールを運んでいるサッカー部の2年の後輩が慎一の姿を視認すると大きな声で「ちわーすっ」と挨拶をしてきた。

慎一は口に人差し指を立てて「しーっ」と黙らせると、後輩は「あっ」とはにかみ黙って頭を下げる。

慎一は、その後輩をすれ違いざま背中をポンと叩いて「また後でな。」と笑って見送った。

「まだ、慣れない後輩が居るみたいだな。」今野がクスクスと笑いながら段ボールの選別を行う。

「特に二年はな。一年間やって来ただけに、本当にやめちゃっていいのか、挨拶しなくて先輩に怒られないかと戸惑ってるみたいだ。」

「2年にとっては、やめちゃうことの方がストレスかもな。」

「その分のコミュニケーションはちゃんとしている。」

「そのコミュニケーションが新たなストレスになってたりして。」

「えっ!?」今野の指摘に慎一は、ヒヤリと顔が引きつる。その可能性は思いもしなかった。

「あははは、嘘だよ。バスケ部の後輩から、うちも導入しないんですかって聞いてきた奴がいるくらいだ。戸惑いはあっても、悪いようにはならないんだと思うよ。」

「バスケ部もするのか?」

「いや、バスケ部は今のところ現状維持。もともとあだ名で呼びあってるからな。」

「あぁ、いいよな、あだ名。」

「サッカー部だと覚えるの大変そう。一年かかったりして。」

「ははは、そうだな」

サッカー部は、校内での挨拶をなくした。朝練の「おはようございます」と帰りの「お疲れさまでした。」もしくは「さようなら」だけにして、校内の廊下で先輩とすれ違っても挨拶はしない。会釈ぐらいはしてもいいが、声を出さないを、6月から実施した。そのルールを考案したのは慎一で、先輩後輩の隔てをなくし、チーム一丸を目指したものだったが、慎一の深層心理には部長としての自信のなさからくるものだった。その気持ちは誰にも言っていない。藤木は読み取り見抜いているかもしれないが、実施には協力してくれていた。

今野が大きい段ボールを選んで、入り口で待つ慎一に渡してくる。今野は背が低い。柴崎と同じぐらいを、本人は絶対に認めない。段ボールに隠れるほどの小ささに、慎一は吹き出しそうになる。今野は見た目は小さくて女の子みたいだが、人をまとめて仕切るのはうまい。バスケ部の部長でもありクラス代表委員もしているその手腕をみれば、慎一は自分のサッカー部の部長としての不甲斐なさに落胆するばかりだ。

「新田は去年、誰と踊った?やっぱり真辺さんか?」大きな段ボールを持ち直して歩きにくそうにしている今野が慎一に顔を向ける。

「はぁ?」

「はぁ?って、文化祭のダンスパーティだよ。チーク、去年も盛り上がっただろ。」

「あったなぁ、そんなイベントが。忘れてた。」

「忘れてたって!お前のその余裕が、むかつく!」と、今野はその段ボールで慎一を突いてくる。

「やめろ!」

そんなイベントがある事を本当に忘れていた。ニコの海外話からヒントを得た柴崎が企画立案して開催したダンスパーティは、昨年、大成功を収めた。味を占めた柴崎は、学園の定番行事にすると今年も息巻いていた。

「踊ってない、去年は誰とも。」

「へ?まじで?」

「あぁ、去年、ニコ、頭に怪我したからな。付き添ってた。」

「ぁぁ、あったな、そんな事。真辺さんが頭に包帯を巻いてたのは覚えてる。あれって去年の文化祭の時だっけ?」

「うん。」

そう、1年前の文化祭の1日目、ニコは見てはいけない物を見てしまったせいで、頭を殴られて気を失った。夜まで美術倉庫に閉じ込められて、口封じの為に自殺に見せかけて殺されそうになった所を、慎一たちは助けた。あの事件はニコをのぞく慎一たち3人と、理事長、理事長補佐の凱さんだけしか知らない。記憶喪失になったニコ本人ですら事の真相を知らないトップシークレットだ。頭の怪我は、自宅のマンションの階段から落ちて作ったものだという事になっている。

「真辺さんって、顔に似合わず怪我が多いよな。いつもどこかに絆創膏か包帯を巻いているイメージがある。」

今野の指摘に慎一は苦笑して相槌をうつ。

「無茶するからな、あいつ。」

「ほぉー。」

「なんだよ。」

「そこが可愛いんだぁ、そうだろうねぇ。俺が守ってやらないと、みたいなぁ?」

「ばか言うなよ。俺らは付き合ってねぇって、言ってるだろ!」

この間の体育で慎一とニコが付き合ってないと知った渡辺が、クラスの男子に言いふらして、その後クラスの全男子に質問攻めにされた。渡辺が言う通り、クラス全員が、慎一達二人は付き合っていると思っていて、慎一は全力で弁解した。

「はいはい。」

「お前なぁ、人に手伝わしといて、なんだよ、はいはいって。」

「はいはい。」

「たく、やってられん!」

茶化される為に手伝ってるのは割に合わない。慎一は、たどり着いた教室の前の廊下に、半ば捨て気味に段ボールを投げ置いた。

「うわー教室の中まで持って入れ!」今野の叫びを慎一は無視して、開いたままのドアから教室に入ろうとし、そして藤木とばったり出くわし、一瞬たじろぐ。



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない、その傷は。



  

6時間目の学活は、常翔祭の準備に当てられた、どこのクラスも同じ、学園中がガヤガヤと騒然としている。

麗華は、生徒会の持ち分である体育祭の進行及び集計の仕方などの打ち合わせを、教室隅に寄せられたテーブルに担当者を集めて説明していた。本来なら、クラスの打ち合わせ等は、実行委員の佐々木さんと今野の役割であるが、クラスの出し物がお化け屋敷で、室内を迷路に仕切を作る大掛かりな準備が必要な為、麗華は藤木と共に、二人の代役をやっていた。

ニコはそのお化け屋敷の室内装飾の手伝いで、段ボールを切ったり、画用紙を張り付けたりと、クラスメートと雑談をしながら工作を楽しんでいる。

麗華は、体育祭における一通りの説明を終わらせ皆と共に席を立った。やっとニコ達と合流してお化け屋敷の工作を手伝うことができる。身長の三分の二までが隠れるほどの大きな段ボールの切り取りに苦心しているニコの姿に、麗華は笑いそうになってうつむいた。

身長を笑ったことがバレるとニコは激怒する。床に置かれた切り取りを終えた段ボールに赤いシミがついているのに目が入る。

もうペンキで塗り始めたのかと思った。

「あれ?これ?血?ペンキなんてまだ出してないよな。男子生徒が床に散らばった画用紙を指さして、麗香と同じことに指摘する。

「これ、本当の血じゃない?」

「おい、誰か怪我してないか?画用紙を汚してる。」

みんな自分の手を見て首を振る。何気なく麗華はニコを見て驚く。

「ニコ!手っ!」

ニコは、麗華を指摘に首をかしげてから自分の手を見る。

「あっ、私だ。ごめん。気が付かなかった。」

「えっ?」皆が、その言葉に驚く。ニコの左手の指からはポタリと血が落ちた。

気が付かないってレベルの傷じゃない。なのに、あまりにも平然とした姿に、誰もが顔を引きつらせる。

麗華を追い越した藤木が素早くニコに駆け寄り、怪我した指の根元をつかみ、心臓より高く手をあげさせた。

「なに、する!」ニコが叫ぶ。

「輪ゴムないか!」ニコを無視して藤木が叫ぶ、けれど、輪ゴむなど用意していない。

「柴崎、お前の髪のヘアゴムかせ!」

麗華は慌てて頭の後ろに手をやりヘアアレンジを解いて、ヘアゴムを藤木に渡す。指の根元にまいて、応急止血する。

「保健室に行くよ。」

「嫌!」

「駄目だよ、ちゃんと手当しないと。」

「痛くない!はなせ。」藤木の手を振りほどくニコ。

「手を下ろしちゃだめだ。さぁ行くよ。」

藤木に再び手を掴まれて高く手をあげさせられるニコ。「嫌だ、行かない。」と抵抗するのを麗華も宥める。

呆然としているクラスメートに、落ちて汚した血の後始末を頼み、嫌がるニコを半ば引き摺りながら教室を出ようとすると、入ってこようとした新田と鉢合わせになる。

「なんだ、藤木、また、ニコに何して」新田は藤木を見るや否や目を吊り上げて睨む。

「ニコちゃん、怪我をした。」

「え?」

「保健室に連れていく、どけっ」新田は血に染まったニコの手を見ると青ざめる。藤木は立ち尽くしている新田を押しのけ廊下に出た。

「痛くないって!」

「どうした?」廊下にいた今野は、持ち上げた段ボールを捨てるように足元に置いて駆けつけてくる。

「ニコちゃんカッターで指を切った、保健室連れていくから、中の奴らのフォローよろしく。」

「行かないっ!」

「あぁ。」今野も怪我の状況を見て表情を険しくし、頑なに行かないと駄々をこねるニコが理解できず、麗華に顔を向けて首をかしげる。麗華は首を振って気持ちを理解できないを表すしかない。


    

ニコちゃんの指から落ちる血を見て、誰もが凍り付いた。

血で汚れた手を見つめたニコちゃんは平然としていた。しかし、一瞬だけ、閉ざされていた心が開いたのを亮は読み取った。

本当にわずかな、錯覚じゃないだろうかと思うほどの一瞬で、だから、その読み取った本心も、間違いかもしれない。勘違いだと思いたいものだった。

痛くないと言い続けるニコちゃんを引きずって保健室に連れて入ると、誰もいない。テーブルの上には、

【外出中、処置や用のある方は高等部の川島保健師か、事務所に連絡。高等部内線2101、事務所内線1234】

と書かれたプレートが置いてある。保健室に保健の先生がいない事はよくある事だった。少々の怪我は、保健室を勝手に使って生徒たちで処置をする。熱などの緊急を要する容態は、高等部の保健の先生が駆け付ける。事務方もそれなりに、基本処置を学んで対応できる人を配置しているから、保健の先生が常勤していなくても困ることはない。新田が内線をかけようとするのを、亮は止める。高等部から先生を呼んでいたら時間がかかる。

「いいよ、俺が処置するから。」

切り傷の処置ぐらいなら亮は出来る。小学校からサッカークラブに入り、怪我をする下級生の手当てをやっているうちに、応急処置方法は自然と身についたし、寮の生徒長を頼まれたときに、最初にやったのが、病気や怪我の時の緊急時のマニュアルを読み漁る事だった。4月には消防所が無料で開催しているAED講習も受けている。

諦めたのか、保健室に入ってから黙っているニコちゃんは、むすっと不機嫌な表情だ。亮は掴んでいたニコちゃんの手を処置台の上にそっと置いて、椅子に座らせた。

新田は、ニコちゃんの血に染まった手を見て顔をそむけた。新田はえりちゃんが目の前で交通事故にあった時のトラウマがあって、他人の血にめっぽう弱い。こういう時は、女の柴崎の方が肝が据わる。テキパキと薬品や脱脂綿など、必要なものを取り揃えていく。  精製水で濡らしたガーゼでニコちゃんの手の汚れをぬぐっていく。傷は、左手人差し指、第一関節から第二関節にかけて、2センチほど上皮がペロンと裂けた状態になっていた。硬い段ボールをカッターで切るときに、勢い余って指まで切ってしまったのだろう。そっと上皮をピンセットでつまみ傷の深さを見たら、皮下深部に到達してしまっている所が2ミリほど。皮膚が残っているので、このまま蓋をする形で抑えたら、傷は塞がるだろう。病院で縫うほどでもない。けれど、痛いのは間違いない。柴崎のヘアゴムを外すと、深部から血があふれ出てくる。それを見た新田が、青ざめて息をのむ。

その反面、ニコちゃん本人は、ずっと涼しい顔で、亮の処置する手元を眺めている。どっちが怪我人かわからない。

「消毒するから、ちょっとどころか、だいぶ浸みると思うけど。大丈夫?」

「だから、痛くないって。」

相変わらず強がるニコちゃん。痛くないはずない、ヘアゴムで縛っていたから今は痛みが麻痺しているのだろうけれど、消毒液が浸みるのは、誰もが一度は経験したことある激痛。消毒の最中に動かれたら、ピンセットが刺さる危険性がある。亮は新田にニコちゃんの左手を抑えておくように指示する。新田は顔をしかめながら恐る恐るニコちゃんの腕を抑える。だけど、そんな心配は無用だった。

ニコちゃんは、消毒液をしみこませた脱脂綿を傷口に当てても眉一つ動かさない。

「本当に、痛くないの?」

「だから~、さっきから痛くないって言ってる。」

本当に、強がってるとは思えないほど平然としている。

「全く、大げさだ。こんな物。」と言って、裂けた上皮をむしり取ろうとするから、亮は慌てて止める。

「駄目、駄目!それ取ったら!」

柴崎と亮で押さえつける。その動きで血があふれ出す。新田は押さえていた手を離し、退いて表情だけは重症患者だ。

亮は上皮の上にガーゼを巻き、化のう止めを塗る。そして、指に包帯を巻いていく。

「包帯なんて・・・痛くないのに」とむくれるニコちゃん。

もう、疑問だけを胸に秘めている場合じゃない。心が開いた一瞬の時に読み取ったものは、恐怖だった。読み取った亮がつられて怯えそうになるほど強烈な。

「藤木、俺、間違っていた。」青い顔した新田がつぶやく。

「わかっているから、後にしろ。」

新田の本心には、亮に対する嫌悪が消えていた。



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない。その傷は。

   ニコはむくれる。その包帯に。




「ニコちゃん、聞きたいことがあるから、ちゃんと目を見て、大事な事だから。」

怪我をしたニコの左手を両手で握ったまま、ニコの顔を見つめ目を細める藤木。

むくれてそっぽ向いていたニコは、中々藤木へと向こうとしない。藤木は包帯の上からニコの左手をさすり、ニコが顔を向けるまで根気よく待った。

「お前らも座れ。」藤木に指摘されて、慎一は柴崎と共に丸椅子を運んできて座った。やっとニコが嫌そうな表情で藤木の顔を見る。

「ニコちゃん、今、薬飲んでる?」

「・・・・?」ニコは、藤木の質問に訝しげに見つめ、答えない。その顔は、隠そうとしているのではなくて、質問の意味が分からないというような顔だった。柴崎へと視線を変えて更に首をかしげる。

「大丈夫、藤木の質問にちゃんと答えて。」柴崎は、ニコに寄り添うように座り直し、ニコの背中に手を添える。

「飲んでない。」首を軽く振って、答えるニコ。

「病院の薬以外のは?風邪薬とか頭痛薬とか。」

「飲んでない。」慎一はほっとする。

「夜は眠れてる?」

「それは大丈夫。」

「ちゃんと、眠れてるんだね。」藤木もホッとしたように顔を緩めるが、ニコは嘘をつく時の仕草をした。

「ニコ?」

「寝なくても、大丈夫。」

寝なくても大丈夫って、言葉の選択が違和感。藤木も眉間に皺を寄せる。

「寝てないって事?」

「寝なくても平気、眠くない。」

「眠くないって、どういう事?」

「どういう事だ!ニコ!」

柴崎共に口々に詰め寄るのを、藤木は左手を上げて制する。右手はニコの手を握ったまま。

「・・・・無理して、寝ようとしなくてもいいの。」

「いつから?」

「テスト、前。」

「嘘だろ!」慎一は、丸椅子を倒して立ち上がってしまった。テスト前ということは、もう1週間以上になる。「ずっと寝ていないって言うのか!?」

「新田、座れって!」藤木に腕を引っ張られ、座らされる。ニコは、プイッと顔をそむける。

「テスト前って、ニコちゃんのお母さんが倒れた時から、だね?」

ニコは無言でうなずく。

自分は、一体、何をしていたんだ。

藤木に叱られた言葉が頭によみがえる。

『お前が気づかないで、どうする。お前はニコちゃんの何を見ている。あれのどこが普通なんだ。』

教えられていたのに、信じなかった。




   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない。その傷は。

   ニコはむくれる。その包帯に。

   ニコは寝ない。眠くないから。


 

  

「大丈夫なんだ。本当に。眠くない。今まで無理に寝ようとするから駄目だったんだ。」

「そんな無茶な話あるか!」

「無茶じゃない!調子いい、ちゃんとご飯も食べてる。慎一は知ってるじゃないか!」

そうよ、ニコは調子が良い。とても1週間以上、一睡もしていない顔だとは思えない。去年の今頃は目の下にクマを作って、麗華は心配した。調子が良いからこそ、私達はニコの変化に気づけなかった。

血のしたたる傷の痛みに気づかず、消毒液も痛がらない、10日近く一睡もしていなくて大丈夫と平然としているニコは、

やっぱり、おかしい。

麗華は藤木が言った言葉を思い出す。

 『閉ざした向うでニコちゃんが助けを呼んでいる気がするんだ。』

「新田、ちょっと黙れ。ニコちゃんも落ち着いて、なにも責めていないから、確認しているだけだから。」

藤木はごく優しくニコに微笑み、ニコも静かになる。

「他は?寝なくても大丈夫になった以外に、変わった事はある?」

「何も」首を振ってうつむくニコ。

藤木は目を細めてニコを見つめた後、唐突に英語で語り掛けた。

英「ニコちゃん、英語で答えてね。どうして、得意だった英語の授業に出ない?ヒアリグ課題は、なぜ白紙で出した?次、英語の授業をさぼったら上田先生は、特待査定に×をつけると考えているよ。どうする?」

藤木は、2歳の頃から英会話を習わされていたと言っていた。藤木家の跡取りとして、国会議員になる為には英会話は必須だろう。その英才教育のおかけで、英語の成績はいつも上位で、基本に忠実な発音をする。ニコと英語で会話するようになって、増々その英会話力は上達した。

突然の英語に驚いた表情をしたニコ。

麗華は藤木の言葉が半分しかわからなかったが、要所で上田先生という言葉を聞き取れたので、査定の話をしているのだと推測する。

「 何?・・・何を言ってるの?」

流暢な英語で、その理由を返してくると思いきや、ニコは眉間にしわを寄せて、困った顔をする。

英「英語で答えて。」

そう藤木が言っても、ニコは首を振るばかり。






藤木が、突然日本語じゃない言葉を発する。何を言っているのかわからない。

なぜ、急に、わからない言葉を使う?

慎一が、柴崎が、私に驚きの顔を向ける。

どうして?私が何をした?    



   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない、その傷は。

   ニコはむくれる、その包帯に。

   ニコは寝ない。眠くないから。

   ニコはわからない。英語が。




「何を言っているの? わからない・・・・日本語で話して。」

藤木も目を見張る。

(何?どうして驚いた顔をするの?)

責めないと言うから私は正直に話した。

藤木の冷たい手の体温が、包帯の巻かれていない皮膚から伝わってくる。

「新田、ニコちゃんを病院に連れていけ。」

「なっ!何故!嫌だ!行かない!大丈夫だと先生も言ってた!離せ!」私は逃れようと立ち上がる。だけど、藤木が力強く手を握って離さないから動けない。

「ニコ!落ち着いて。」

私はいつだって落ち着いている。こうして血が出ても大丈夫だし、寝なくても大丈夫。    

「離せ!」

慎一ならわかるはず、ご飯もちゃんと食べてる。テストも全部、満点だった。おかしくない。

「慎一はわかるだろう!」

慎一は、首を振りながら、私を椅子に座らせようとする。

(どうして?慎一も、わかってくれない。)

「嫌だ!行かない!行きたくない!藤木!ちゃんと見て! 約束した!離して!」

女にマメで優しい藤木が私の言う事を聞いてくれない。

「ニコちゃん、視たんだよ。」

「ちゃんと見て、私は、おかしくない!駄目じゃない!」

「やっと読めたんだ。」そう言ってやっと手を離した藤木。反動で後ろに倒れそうになるのを慎一が受け止める。

藤木の目から涙がこぼれた。

いつも冷静で、どんな時も状況に動揺しない強い藤木が、泣いている。

「駄目なときは、ちゃんと言う。今がその約束の時だよ。ニコちゃん。」




   ニコは笑う。ニコニコのニコだから。

   ニコは怒る。慎一の言葉に。

   ニコは困る。新田家に。

   ニコは戸惑う。声が出ない事に

   ニコは楽しい。おしゃべりが。  

   ニコは痛くない、その傷は。

   ニコはむくれる、その包帯に。

   ニコは寝ない。眠くないから。

   ニコはわからない、英語が。

   ニコはおかしくない!

多分・・・




柴崎が凱さんを呼んだ。事情を説明して、タクシーで病院に連れていく事になった。

あれほど暴れて病院には行かないと拒否していたニコは、藤木の涙がよほどのショックだったのか、おとなしく従った。

藤木を学園に残して、タクシーで関東医科大学付属病院に向かう。

慎一は、凱さんにニコの家に連絡するのは少し待って欲しいと頼んだ。

さつきおばさんにまた倒れられたら事だ。心配かけたくない。まだ、ニコがおかしいと決まったわけじゃない。

自分たちの心配が、間違っている可能性もある。

事前に凱さんから村西先生に連絡を取っていたので、病院につくとすぐ診察室での聴き取りとなった。ニコと共に慎一も診察室に入って、今までの経緯を説明した。

ニコは終始うつむいて無表情に黙ったままだった。怒っているのか拗ねているのか、わからない。

一通りの経緯を話すと、村西先生は眉間に皺を寄せて「悪いけど、りのちゃんだけにしてもらえるかな?」と慎一を退室させた。

素直に従う。診察室前の廊下で、柴崎と凱さんが心配顔で待っていた。

「ニコは?」

「まだ。とりあえず、説明をしただけ。」

「そう・・・。」

「凱さん、すみません、いつも・・・。」

「そんな事、気にするんじゃないの。大丈夫、俺と麗香がいる限り、学園はりのちゃんを見捨てたりしない、何があってもね。」と凱さんは慎一の背中をたたく。柴崎も同意してうなづく。

「藤木が、今からこっちに来るって。」

「うん。」

藤木に謝らなくてはいけない。ニコの異変に気づいた藤木を、慎一は嫌悪して避けた。

(許してくれるだろうか?)

全員は乗れないタクシーに、女子が付いていた方が良いだろうと、自ら身を引いて柴崎に乗れと譲った藤木。生徒会の打ち合わせも自身がやっておくと引き受けて。いつもそうやって、藤木は一歩引いて全体を見渡す。どうすれば物事がスムーズに行くかを考えて采配し、時に自分が損な役周りをする。藤木はいつだってそうだったのに、慎一は信じなかった。

ずっと一緒に同じ夢を追いかけている親友を信じなかった自分は、最低だ。




    慎一が、ニコと呼ぶ。

    ママが、りのと呼ぶ。

    柴崎が、ニコと呼ぶ。

    凱さん、りの呼ぶ。

    藤木が、ニコと呼ぶ。

    村西先生が、りのと呼ぶ。

    私はどっち?




ニコちゃんは、病院の軽食コーナーのテーブルで、無表情にプリンを食べていた。ではなく、眺めていたと言う方がいい。大好きなプリンなのに一口食べただけで、そのあとぴたりと口が進んでいないという。

プリンを手にしたまま、ぼぉーと動かなくなったニコちゃんに付き添っている柴崎を手招きで呼び寄せた。ニコちゃんに近づくのを避けた。ニコちゃんとの約束を亮は守った形にはなるが、直におかしいと言われて、傷つかないはずがない。誰でも駄目なことをダイレクトに指摘るのは嫌なものだ。

「どうだった?」

「うん・・・・新田がニコと一緒に診察室に入って、事の経緯を説明したみたいだわ。ニコの診断には新田は追い出されていたけれど、さっき、ニコのお母様が来て先生と話してる。私は何もわからない。ただ、ニコは診察室から出てきてから、ずっとあの調子で。」と柴崎はニコちゃんの方に顔を向ける。

「そっか・・・・」

ニコちゃんの心はまた、閉ざされたままだ。読めたのはほんのわずかな一瞬だったのだ。

「柴崎、こんな時に悪いけど、生徒会の連絡事項が、あるんだ。」

「あぁ、ごめんね、ありがとう。」

10日後に迫る常翔祭で生徒会は今が一番忙しい時期、今日も会長の柴崎がいない事で、いろんなことが滞ったままだった。とりあえず急ぎの連絡事項を伝える。柴崎は、手元に資料がないながらも、記憶を頼りに、携帯で各生徒会メンバーに連絡を取り指示を出し始めた。そうやって15分ほど生徒会の仕事を二人でこなして、ニコちゃんの様子を思い出したように気にする。

「おい、柴崎。あれ・・・」

ニコちゃんは、テーブルにうつ伏していた。プリンの容器を倒している。柴崎と共にニコちゃんに駆け寄り声をかけるも、ニコちゃんは起きない。

亮は引きつる柴崎と顔を見合わせ、診察室に駆けた。







ニコが眠りについて、24時間が経った。まだ起きない。

「もう行くわね。慎ちゃんも、遅くならないうちに帰りなさいよ。」

「うん。」  

「ベッドの角度はそのままにして帰っていいから。」

「うん。」

ナース姿のさつきおばさんが、りのの腕に刺さっている点滴を点検し、額の髪をなでてから、部屋を出る。

慎一は今日は学校を休み、朝から病院に来ていた。昨日、村西先生に告知されたりのの病状が衝撃的で一晩中眠れなかった。

睡眠不足による頭痛、倦怠感が本当に慎一の身体を悪くしていたのもあるが、精神的な気力の低下が学校に行こうという気か起きなかった。慎一は朝から、りのの病室に着て、眠り続けているりのの側にいた。

寝息もなく動かないりの。本当に生きているのか心配になって手の脈を確認する。

細い手首に脈打つ微動を確認して、慎一はほっと息をつく。今日は何度もそれを繰り返していた。



【解離性意識障害】 

解離性障害は本人にとって堪えられない状況を、離人症のように、それは自分のことではないと感じたり、あるいは解離性健忘などのようにその時期の感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくすることで心のダメージを回避しようとすることから引き起こされる障害であるが、解離性意識障害は、その中でもっとも重く、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものである。

『いわゆる二重人格。彼女の中には、りのちゃんと、ニコちゃんの意識が混在している。』

『りのとニコ?』

村西先生は軽く息を整えるとカルテから顔を上げ、慎一と隣に座るさつきおばさんの顔を見る。

『彼女の辿って来た人生は、名前によって区切る事が出来る。そこに気づけば、もう少し早めに対処できたかもしれない。彼女自身も、それが心の仕切りというか、逃げ道になっていたと理解はしてはいない。僕も気づけなかった。』

『先生、あの、りのとニコの二人ってどういう。』

先生は、机の引き出しからレポート用紙を一枚取り出し、図を描いて説明する。

『君と生まれた時から双子のように過ごした5歳までは、ニコちゃんと呼ばれていた。フィンランドに移住したのは?6才でしたね。』

『ええ、りのがあと2か月で6才になる9月でした。』と、さつきおばさんが答える。

村西先生は横に長く引いた線を、左から5センチぐらいの場所を縦線で区切って5と記入し、間に【ニコ】と記し、さらに幅を執った場所に、また短い縦線を弾き11才と記入する。この図はニコの人生経図。

『フィンランドで約4年、フランスで1年半の約5年半の期間は、芹沢りの、日本に帰国後、父親を亡くして真辺姓になるまでの辛い時期も芹沢りの。そして、この彩都市に戻って来て、僕に日本語を話せるようにしてくださいと、日本語の特訓をした時は、真辺りの。僕も、りのちゃんと呼んでいた。常翔学園に入学して君と一緒に居るようになって、また、ニコと呼ばれるようになる。彼女が東京でいじめを受け、笑えなくなったのが、ここ、そして声を失うきっかけとなったのが父親の死のここ。』

先生は、11歳の場所を丸で囲った。

『彼女の人生で一番辛い時期はすべてりのと呼ばれていたこの時期に集中する。ここをポイントとして、りのとニコの人格が分かれ始める。』

そして先生は、枝分かれした線をすーと長く引く。

その始点は、慎一がニコと再会した12歳の冬。 






『ママ、私が聞いてきてあげる。』

そう言ってわからない事は、早々と覚えたりのが、現地の人とにこやかに会話をして教えてくれた。りのはいつも笑顔で、優秀な通訳者だった。あの笑顔を、日本では見られなくなった。やっと落ち着けると思った日本の生活が、あの人もりのも何故か合わない。そして、あの人の死に私は責められた。

『さつきさん、あなた一体何をしていたの、栄治が自殺だなんて。栄治はうつ病になんてなるような子じゃなかったわ。あなたと結婚したからよ。さつきさん、あなたのせいよ。貴方が、栄治を殺したのよ!』

英『違う。違うの!おじいちゃん、おばあちゃん、ママじゃない!私なの。ママを責めないで。私がパパを、ごめんなさい。』

英語で義両親に許しを請うりのの言葉に、私は愕然とした。

あの人が死ぬ直前の朝、りのの部屋に入るのを私は冷めた気持ちで眺めていた。

(りのの誕生日はもう過ぎたのに、今更、何をしているの?私は好まなかった海外生活を5年半も我慢してきたのよ、それなのに、何故あなたは、生まれ育った日本の生活が合わない?家庭に暴力を持ち込むほど荒れる理由が、どこにあるの?)と。

離婚の意思を固めたあの朝、あの人とりのの間に何があったのかは知らない。すべてを自分のせいだと思い精神を患ってしまったりのに、違うのよと言う私の言葉は、届かなかった。届かなくしてしまったのは私だ。私の言葉がりのを追い詰めてしまった。母としても妻としても失格。そのレッテルから逃げるように東京を離れ、啓子達と過ごしたこの街に戻って来た。

それも今では、間違いだったのかもしれない、と思う。

りのが笑顔を失い、日本語を失ってから、初めてやりたいことを口にした常翔学園の特待制度の受験は、暗い部屋に閉じこもり、眠るためだけに飲む薬漬けの毎日に、わずかに希望の光が差したと喜んだ。

とてつもなく難しい常翔の特待受験、受からなくても、この生活を続けているよりはマシだと心から応援した。目標を見つけたりのの集中力は脅威だった。眠れない夜の時間を利用しての途切れない勉強。そして発声練習、医師と共に、りのの体の心配をして止めようとしても、りのは聞き入れない。そしてりのは、すべて自分の力だけで、常翔の特待を手に入れた。我が子ながら誇りに思うりのの努力。その反面、母としての私は、りのには必要ないのだと寂しく思った。そんな風に思う私は、やっぱり母親失格。

そして、私はまた、りのの精神崩壊の原因を作ってしまった。

『常翔学園での生活は彼女にとって、思いのほか精神的にきつい物だった様だね。でも自分が選んだ道だからと、その愚痴を吐くことなく、胸に押しこんだ。そしてりのとニコの2つの人格を作り上げる事で精神のバランスをとった。君に貰った名前の通りニコニコのニコであろうと。りのちゃんの本来の人格、りのは・・・・さつきさん、もういいかな?慎一君に言っても。』

村西先生の問いにハイと返事をすることが出来ない。もう、黙っている段階ではない事は十分にわかっている。だけど、優しい慎ちゃんに、これ以上の負担をかけるのはどうかと思う。

『りのちゃんにとって、慎一君は幼馴染を超えた、父親の代わりになりつつある。慎一君の協力は増々必要だと、私は思いますよ。』

『慎ちゃん・・・』

『おばさん?』慎ちゃんは首をかしげる。

『ごめんね、慎一君、君には協力してもらっていたのに、隠している事があるんだ。』

『何を?』

村西先生がもういいねというように、目で訴えてくる。私は目を伏せてうなづいた。

『りのちゃんは、父親が自殺したのは自分のせいだと思っている。』

『自分のせいって・・・え?栄治おじさんは事故で、え?何が?』

親の私が出来ない事を15歳の子供に課せなければならない、なんて不甲斐ない親。

ごめんね慎ちゃん、ごめんね啓子。

『あの日の朝、りのとあの人との間に何があったのか、私は知らない。だから、そうじゃないのよと言ってあげても、りのを追い詰めてしまった私では、りのを癒すことが出来ない。りのは、あの人が死んでからずっと、自分がパパを自殺に追い込んだと、殺したんだと思っていて、そのせいでママは怒っていると、ずっと苦しんで・・・・違うのよ、怒っていないわと、何度言っても駄目だった。私の言葉はりのに効き目はない。私が追い詰めたから、私がりのの声を失わせたから。』

『えっ⁉』目を丸くして驚く慎ちゃん。

『さつきさん、それは違うと、言いましたね。りのちゃんは去年、それからは解放されています。』

『えぇ・・・』

『りのちゃんは、昨年の催眠療法で、ママは怒っていないと理解することができて、その精神障害因子からは解放された。だけどパパを殺したのは自分だという罪の意識は消えなかった。それも合わせて父親とのやり取りがどうだったか、聞きだして取り除こうとしたのだけどね、強く拒否されて、催眠術も解かれてしまった。強い意志のある彼女だから無理にはできなくて、今まで来てしまったのだけど。りのちゃんが自分で納得しない限り、その思う罪の意識は消えない。』

『慎ちゃん、ごめんなさい、私の口からは絶対に言えなかった。私が言えば、またあの子は、私が責めていると思ってしまう。だから・・・』

『さつきおばさん・・・』驚愕に固まった表情でいる慎ちゃん。あぁ私は慎ちゃんの心まで傷つけてしまう。

『父親を死なせてしまったと罪の意識のあるりのちゃんは、皆の前で笑えるようにニコニコのニコの人格を作った。2つの人格は、少しづつ、それぞれが役割を担うようになった。』




去年体育館裏の階段で座って膝に顔をうずめて言ったニコの言葉を、慎一は思い出す。

『俺、去年、ニコが・・・いや、どっちの人格だったかはわからないけれど、りのか、ニコかどっちなんだろうって、言ってたのを聞いていたのに。俺は理解できなくて、気づいてあげる事が出来なかった。』

『無理もないよ。私でも見抜けなかった。』そう言って、眉間のしわを作り首を左右に振る。『言い訳に聞こえるかもしれないが、解離性意識障害 というのは、普通は本人とは大きく異なった性格の、別の人間を作り出すものなんだ。女の子が男の子の人格を作ったり、大人が子供の人格を作ったり、今の自分が嫌だから全くの別の人になってしまおうとするのが、解離性意識障害の特徴 。だけど、りのちゃんは驚くことに、自分の中に自分を作り上げた。罪の意識なく笑えるニコニコのニコを、だから本人さえも、人格が入れ替わっていることに気づくことなく、入れ替わりはとてもスムーズだった。英語が必要な時は、りのの意識が主導権を握り、皆とコミュニケーションを取るときはニコが主導して笑う。ここまで細部に2つの人格が入れ替わる症例は珍しいというか、初めてでね。』

珍しい症例ということは、治療の方法が確立されていない事を意味するのでは?と慎一は不安になる。村西先生は、書かれたニコの人生経路図にペンを置き話を続ける。

『さつきさんが倒れたことを自分のせいだと思ったりのちゃんの人格は、ショックで引きこもり、ニコが主導権を握った。ニコと呼ばれていたのは日本で住んでいた時だけ、だからニコの人格では英語が理解できない。痛みを感じられなくなった症状に関しては、脳内物質のバランスが崩れている可能性が考えられる。後で血液検査をして詳しく見てみるけれど、アドレナリンの分泌が過剰によるものであるならば、それを抑える薬を投与することですぐに正常に戻ることができる。』

『私が倒れてしまったから・・・』さつきおばさんは消え入るような声でつぶやく。

『さつきさん、自分を責めてはいけませんよ。あなたはりのちゃんに不自由な生活をさせないようにと頑張っていました。りのちゃんもママに負担をかけたくないと、お互い同じことを想い気遣っていた。ただ、りのちゃんは、その心が子供だけに強く体に影響が出てしまった。』

『りの・・・私はまた、あの子を追い詰めて。』身を小さくして膝の上の手をぎゅっと握るさつきおばさん。

『今後の事を考えましょう。』村西先生は、慎一に軽く微笑み頷き続ける。『日常生活に問題がなければ、このまま様子を見て、ニコの人格を通じて会話をし、りのちゃんの意識が答えてくれるのを待つしかない。』

『待つ・・・どれぐらい?』

『それは、りのちゃん次第。すぐに答えてくれるかもしれないし、一週間後、一か月後かもしれないし、もしかしたら一生答えてくれないかもしれない。』

『そんなっ、それじゃ、ずっと偽物のニコと付き合っていかなくてはいけないってこと?』

『偽物っのは語弊があるね。どちらも、真辺りのであることには変わりない。ニコの人格で何か問題でもあるかな?』

『ニコじゃ、英語ができない。』

『日本語ができないより、ずっとマシじゃないかな。』村西先生はクスッと笑って、椅子の背もたれに背をあずけた。

『英語ができないと、特待を外される。』

『事情が事情だし、説明をして、病状酌量してもらおう。去年の強打事件の事あるから、学園は考慮してくれるのではないかな。』

『あ、はい・・・確かに、柴崎と凱さんはニコを見捨てたりはしないって、さっきも言ってくれました。』

『じゃ、問題ないね。』先生は、カルテを引き寄せて、何かを書いた。

様子を見るだけの治療って、慎一は納得がいかない。ずっと偽物のニコと付き合っていかなくてはならないのは自分や、さつきおばさんだ。隣に座るさつきおばさんを見れは、うなだれて唇を噛んでいる。

『慎一君は、納得がいかないようだね。』覗き込むように慎一の目を見る村西先生。

慎一は何も答えない事で意思を示した。

『精神科医はね。患者の意識を認める事から治療を始めるんだよ。二重の意識があるなら、どちらの意識も認めてあげる。別の人格を否定する事は、作った本人を責める事になる。誰も好んで病気になったりしないよね。インフルエンザにかかって病院を訪れた患者さんに対して、内科医は「どうしてウィルスなんかを取り入れたんだ」って責めるかな?』

『いえ。』

『私の見解だけどね、うつ病などの精神疾患よりは、解離性意識障害の方が見通しが良いと思っている。』

『ずっといいって、人格が二つあることが?』

『あぁ、うつ病で自死されるよりずっといい。』

死・・・

『解離性意識障害は、患者独自が現状からの回避という処置をした結果、言ってみれば治療が終わっている状態。』

この先生、本気でニコを治療しようとしている?慎一は疑い感情を隠さず睨みつけた。

『君も、死にたがっているりのの人格よりは、笑っていられるニコの人格の方がいいんじゃないかい?』

『俺は・・・』

突然扉を激しく叩かれる。

『すみません、先生、りのがっ』柴崎の声だった。『いくら呼びかけても起きないんです。』



これまでの眠むれなかった一週間分を取り戻すように、りのは眠り続ける。

扉がノックされて、村西先生が病室に入って来た。

ベッドに歩み寄り、点滴のスピードをチェックした後、りののこめかみに張り付けた睡眠の質を計測する機械のモニターを覗き、難しい顔をして鼻をつまむ。

「先生、このまま起きないって事ないですよね」

「うーん。それもりのちゃん次第だね。」昨日からそればかり。「脳波の検査では異常は見られなかったけれど、この睡眠の質の波形が、ちょっと不思議でね。」そう言うと、村西先生は慎一に聞こえない音量でブツブツと何かをつぶやく。「まぁ、焦らず、しばらくゆっくり眠らせてあげよう。」そう言って慎一へと笑顔で振り向いた。「それより慎一君、医師的に見れば、りのちゃんより君の方が心配なんだか。昨日は寝てないでしょう。」

「・・・大丈夫です。」

「そうかい?続くようなら、薬を処方するよ。眠るきっかけを作る為に、常用しなければ大丈夫だから。」

薬は昔から苦手だ。子供のころ、慎一は泣きながら飲んでいた。それをニコは、『慎ちゃん頑張れ。ごっくんして。』と笑って応援してくれていた。だけど、薬を飲まなければならない病気は、いつもニコからの経由でうつされていて、慎一が病状に苦しんでいる時には、すでにニコは治っている状態だった。子供の頃のように、ニコの苦しみを俺に移すことが出来たなら、俺は喜んで苦い薬も我慢して飲む。 

村西先生が部屋を出ていくのを、ドアの開け閉めの音だけで認識する。 

目を覚ますか覚まさないかは、りのの意思。

おとぎ話の眠り姫は王子様のキスで100年の眠りから目を覚めるけど、自分は当然に王子様なんかじゃない。

このまま眠っている方が、りのは幸せなんだろうと思う。特待生の圧力も、嫌な記憶に悩ませる事もない。

りのは今、どんな夢を見ているのだろうか?

夕焼けのオレンジの光が部屋を包む。青白い顔だった眠り姫の顔にも、ほんのりオレンジが差し込み、陰影度が増した。

慎一は、そのきれいな顔に手を伸ばし、頬に触れる。

王子のいない眠り姫は、夢の中で夢を見る。

楽しい夢でありますように。





 『またニコちゃんマークばっか書いてるぅ。』

 『だって好きだもんニコちゃん。へへへ簡単だよ。ほら、○とこれ3つで、顔になるんだよ。』

 『りのに似てるこれ。わかった。りのはニコだ。』

 『?』

『りのは、いつも笑ってるからニコニコのニコ!これからニコって呼ぶ!』

『あら、可愛いあだ名ね。』

 『うん、ニコニコのニコ!慎ちゃんが、つけてくれたぁ。』



 『ゴール!少しの差でニコちゃんが一番ね。』

 『やったー!』

 『くっそーっ』

 『もう一度っ!』

 『えーまだやるの?あなたたち?』




リノ、タクサンアソンダネ。

「うん。沢山、遊んだ。」

モウ、オワリダヨ

「うん、もう、終わり。見誤ると、楽しいが辛いになる。」

オイデ、ソノテヲ

「うん、パパと一緒に行く。やっとソノテヲ繋げたね。」




王子のいない眠り姫は、強い意思で目を覚ます。

ゆっくりと瞼を開けたりのは、夕闇の迫る薄暗い病室をゆっくりと見渡す。

「ママ、どこ?」

「りの、良かった、気分は?」慎一はほっとして椅子から立ち上がった。するとりのは険しい表情で慎一を見て、身体をこわばらせたようにする。ベッドの頭上にナースコールのボタンがある。それを取ろうと慎一は手を伸ばした。

「いやー!イヤイヤ、ママ、パパどこっ!」急に叫ぶりの。

「すぐ呼ぶから、待って。」

りのは慎一を避けるようにベッドの端へと移動し、こめかみにつけていた睡眠の質を計測するソケットが外れて、機械のエラー音が鳴った。その警告音にも驚いたりのは、ベッドから落ちるように床へとずり落ち、点滴の針が腕から引き抜かれ、白いシーツに点々と染みを作った。

「ニコ!」もう、ニコとは呼ばないで、りのと呼びかけよう。と皆で誓い合ったのに、早速、破ってしまう。

「イヤ、イヤ!ママ、パパ、どこ!!怖い、」

パパ?異常に怖がり叫ぶりの。近寄れば、後ずさりされて怯えられる。

「誰?ここどこ?」

「えっ?」慎一は、その言葉に動きを止めた。

「ママぁ!パパぁ!怖いよ、知らない人が・・・」

薄闇の迫る病室の片隅で怯えるりのを前に、

世界が急速に狭くなっていくのを感じた。










麗華は、クラブを終える藤木を待って、一緒にニコ・・・じゃなくりのの病院に駆け付けた。学校を休んだ新田からは何も連絡はない。関東医科大学付属病院、精神科医病棟は本館の隣に別棟がある。総合病院内で精神科として設けている施設としては、国内最大の規模だと聞く。ニ、じゃなくりののお母様が、東京からこっちに戻ってくる決心をしたのは、この精神科の設備が整っている病院があったからというのも大きな理由の一つになったに違いない。

昨日、倒れこむように眠って起きなかったりのは、そのまま入院となった。

エレベーターで3階に上がり病室へ向かう。病室から子供の笑う声が聞こえて、麗華は部屋を間違えたのかと思いプレートを確認する。名前はちゃんと真辺りのと記されたプレートがある。藤木と顔を見合わせた。

藤木が部屋をノックすると、子供の笑い声は止まり「誰か来た!ママ!誰か来たよ。」という声。

扉が開けられ、りののお母様が顔を出す。

「柴崎さん、藤木君・・・」麗華たちの顔を見たとたんに渋い顔をしてうつむいてしまっわれるお母様。

「おば様、ニじゃなくて、りのは?」

「誰?誰が来たの?」大きすぎる青い病衣を着たりのが、はだしで駆けて来て、きょとんとした目で麗華たちを見る。

「今日は、お客さんがいっぱい。」そう言うとりのは踵を返して、ベッドへと駆け戻り飛び乗った。そしてびょんぴょんとトランポリンのようにしてはねる。

(これは何?)

麗華はあぜんとした。

「りの・・・今はニコの人格のあの子は、5歳にまで意識が退行してしまったの。」

「退行?」藤木もあぜんとして目を見張る。

「えりのことわからないんだ、ニコちゃん。」とソファに座っていたえりが首をふり、うなだれた。

「キャハハ!ママ、見て、ほら、かえるさん。」

「駄目よニコちゃん、危ないからぴょんぴょんしないのよ。」新田のお母様がりのの動きを止める。

「ニ・・コ・・・」麗華は恐る恐る子供のようなニコに近寄った。

「お姉さん、誰?」首をかしげてまっすぐ麗華を見つめるニコ。

胸が締め付けられる。

「慎にぃの事もわからないの、みんな忘れてしまった。」とえりがつぶやく。

「違うでしょ、5歳のニコちゃんでは、えりや柴崎さんたちとは、まだ出会ってないからわからないだけでしょう。さっき先生がそう説明していたじゃないの。」と新田のお母様が説明をする。

麗華は、そこでやっと窓際の隅でうつむいて身動ぎしない新田の姿を視認する。

「柴崎さん、ごめんなさい。こんな状態じゃ学校にはもう・・・考慮してもらっても行けない。」消え入りそうな声で最後には涙越えになったりののお母様。

「おば様・・・」

(あぁ、なんてこと。どうして、こんなことに。)

私は今まで何をしてきたのだろう。

真辺りのの為に使うべき、常翔学園経営者の娘である特権が、使えない。

さすがに5歳児に精神退行してしまった生徒を、特待性として受け入れることは不可能だ。





解離性意識障害を発症していた真辺りのは、ニコという人格を作り出し、これまでの日常を細部に入れ替わり役割を担って生活していた。母親が倒れた事をきっかけに、本体であるりのの人格は引きこもってしまい、作られたニコの人格が主導権を握った。

ニコの人格では海外生活の経験がない、ゆえに英語ができない。だからニコは、英語の授業をさぼるようになった。

痛みのなさは、脳内物質のバランスが崩れている事によるもので、それは薬を投与することで改善される。

昨晩、亮は柴崎と共に、そのような病状の診察結果を新田から聞かされた。

そして新田は言った。

『俺たちは、間違っていたんだ。ニコと呼んで楽しい記憶をたくさん作っても、イジメられて、父親が死んだ辛い過去に上書きはされない。辛い過去を経験したのはニコじゃなく、りのだったから。逆にニコと呼ぶ事によって、俺はニコに・・・・違う、りのに笑えと強要していた。りのはいつも言っていた。ニコって呼ぶなと、あれは、りのからのSOSだったんだ。俺は気づいてやれなかった。村西先生は、りのもニコもどちらも真辺りのであり、ニコの人格のままでも問題がない。彼女の中では、二重の人格を作ることで精神的治療は終わっているって言うけれど、それではあまりにも、リノ本体の方がかわいそうだ。俺はもうニコとは呼ばない。ちゃんと本当の名前である「りの」と呼び、りのとの楽しい生活の記憶を作り直したい。』

亮も柴崎と共に、同意して頷いた。

なのに・・・

「駄目よ、ニコちゃん危ないからね。ほら、こっちでお絵かきをしましょう。」新田のお母さんがニコちゃんをベッドから下ろし、テーブルへと促す。

テーブルにはクレヨンとスケッチブックが置かれている。えりりんは普段では考えられないぐらいに暗い表情で立ち上がり、自分の母親に椅子を譲った。

「何を書こうかなぁ」この中では、新田のお母さんがいち早くこの状況を受け入れて対応している。心に悲観的な思いはなくはないが、コンロールしてそれを表に出さないようにしている。

「あかっ」クレヨンを掴み上げてポイッと投げるニコちゃん、「あおっ」「きいろっ」次々に投げ捨てる。

「あらら、投げちゃだめよ。ほら、これ、なーんだ。」新田のお母さんが画用紙にオレンジ色のクレヨンでニコちゃんマークを描いた。

「ニコちゃん!ニコもかくうっ」その口調、仕草は5才児その物。当然、ニコちゃんの本心は読めない。

ニコちゃんは楽しそうにニコちゃんマークを描いて笑う。

「上手ね、ニコちゃん。」微笑む新田のお母さんに対して、心身共に絶望の色を濃くして俯いているニコちゃんのお母さんと新田。

「これはぁママ、これはぁパパ。ねぇ、パパはぁ?パパに見せる。」

「パパは・・・」ニコちゃんのお母さんは言いよどんで、顔をそむける。

「ニコちゃんのパパね、お仕事に行ってるのよ。」と新田のお母さん

「おしごと。」

「そうよ。お仕事が忙しいのね。」

「おしごと、おしごと。ニコもおしごと。」ニコちゃんはスケッチブックをめくり、新たなページにニコちゃんを描いていく。

「ニコちゃんも絵を描くお仕事が忙しいね。」

5歳児のニコちゃんは今、幸せなのだ。特待生としての重圧も、日本語のコミュニケーションができない苦しみもない。

そして、父親の死を知らない。だから、亮達は、「思い出して、もとに戻って」とは言えない。

新田が耐えかねて病室から出ていった。その姿を追う柴崎が手を胸にして唇をかんだ。今まで何をしてきたのか、何をしなかったのかと、心の中で自分を責めている。

それは亮も同じだった。約束したのに、こんなになるまで、自分は何をしていたのか。気付いていたのに、何を遠慮して躊躇していたのか。

居たたまれない。亮は息苦しくなって、柴崎を促して病室を出る。

えりりんも亮たちの後を追ってついてきた。

廊下のドアのすぐ横で座り込んだ新田が、頭を抱えて泣いた。

その姿を見た柴崎が鼻と口を押えて涙ぐむ。

このままだと新田の精神の方が壊れる。ニコちゃんのお母さんもだ。

柴崎もえりりんも新田に引きずられるように涙ぐむ。

自分だけが、まだ冷静でいられている状況に、やっぱり藤木家の卑しい血を継いでいるのだなと、こんな時にも思う。

亮は大きく息を吸い込んだ。そして長く長く吐き出す。

「えりりん。黒川君は今日、柔道の練習かな?」

「黒川君?ううん、じゃないと思うけど。」えりりんは潤んだ目で、不思議がる。

「じゃ、もう、家に帰っているかな?悪いけど電話してくれない?」

「えっ?う、うん。いいけど、でも、どうして?」

「ちょっと頼みたいことがある。」





いつも通り、藤木さんは優しい微笑みをえりに向ける。

こんな時に、黒川君に頼みごと、っていったい何だろう。えりには全く想像がつかない。

とりあえず、言われたとおりにポケットから携帯を出して黒川君に電話をした。すぐに電話は繋がる。

「あっ、黒川君、ごめん、今家?柔道の練習は今日はないよね。」

「うん、ないよ。どうして?」

「えっとね。藤木さんが頼みたいことがあるって。」

「藤木さん?」不思議そうな声で返答してくる黒川君。あのいたずら誘拐の時に接点があっただけで、黒川君はクラブも違う3年の藤木さんと話が出来るほどに仲良くなっているわけではない。

「うん、代わるね。」藤木さんに携帯を渡した。

「突然、ごめん、黒川君、君の力を借りたい。」そう言うと藤木さんは、私達から背を向けて少し離れ、口元に手を添えて小声になった。「ハッカーとしての君の力を。」

何をするつもりなのだろう。ニコちゃんが大変な時にハッキング?一体、ますます想像がつかないで、こみあげてきていた涙は止まった。

「理事補?凱さんの事?-----うん‐---うん-----じゃ、凱さんの了解があれば出来るんだね。---------パソコン?ぁぁ、わかった、それを含めて凱さんの了解は取るから、えーと今から外出はできる?うん、そう。じゃぁ、ちょっとこのまま切らずにちょっと待って。」藤木さんは自分の携帯を制服のポケットから取り出すと操作をし反対の耳にあてる。

「藤木、一体何?」柴崎先輩も訳が分からず聞くも藤木さんは謎の行動を続ける。

「凱さん、お忙しい所すみません。頼みがあるのですが・・・黒川君の技術を俺に貸してもらえませんか?・・・ はい、黒川君が凱さんの持っているパソコンじゃないとと言っているので。りのちゃんの為に調べたいのです。ええ、詳しくは会ってからお話します。これから柴崎邸でやろうと思っているのですが、凱さん、今から可能ですか?ええ、、すみません。よろしくお願いします。」

えりは柴崎先輩と目が合い、互いに首をすぼめて首を横に振った。

藤木さんは自分の携帯をポケットに仕舞うと、まだ繋がっていたえりの携帯でまた黒川君と話し始める。

「お待たせ、聞こえてた?了解は取ったから。えーと君の家は・・・・うん、じゃ駅前のタクシー乗り場で待ってるから。突然で悪いけど。」そうして、携帯を切ると、ありがとうと笑顔で返された。

「ちよっと何?一体・・・」柴崎先輩が詰め寄る。

「行くぞ、詳しい事は、柴崎邸で話す。」

そう言って、藤木さんはエレベーターのある方へ大股で歩き始めた。えりは慌ててあとを追う。

「待って藤木、新田は?どうすんのよ。あれ・・・・」

慎にぃは座り込んだまま泣いていて、えりたちが動いても身動き一つしない。生まれて初めて慎にぃのあんな姿をみた。ニコちゃんが、何度か入院した時も落ち込んでいたことはあったけれど、泣いた事はなかった。

「どうせ人数オーバーでタクシーに乗れない。ほっとけ。」藤木さん目を細めて慎にぃを一瞥すると吐き捨てるように言った。

「えっと、えりも行っていい?」えりは恐る恐る聞く。

えりにはにっこりとほほ笑んでうなづいてくれる藤木さん。

「遅くなるかもしれないから、後でちゃんとお母さんの了解もらうんだよ。」

「うん。」

ニコちゃんの為に何かをしようとしている藤木さん。

馬鹿なえりには、何をするかは想像もつかないけれど、参加を許されたことがうれしい。

あぁ、あたしはなんて単純なんだ。






和樹は携帯を切ると、机の上のノートパソコンを起動したまま閉じて、机の脇にぶら下げていたリュックを手に取りパソコンを押し込み部屋を飛び出した。軋む階段を駆け下りる。

仏間にいるお母さんに「出かけてくるね」と声をかける。当たり前のように何も反応はしない。

おじいちゃんは柔道の指導に行っている。後で電話をすればいい。きっと今日は遅くなる。あのPABを使うのだから。

玄関を出て、スニーカーにかかと入れながら、和樹は見上げた。民家の屋根越しに大学病院の高い建物が、夕日を受けて光っている。そこを目指して和樹は駆けだした。和樹の家は、大学病院から徒歩12分の場所にある。走れば半分とまでは行かないにしても10分以内には着く。住宅街の細い道を右に左に走り抜けながら、和樹はPABを使える嬉しさに顔がにやけた。

しかし、何をするのかは不明で予測もつかない。

藤木さんは理事補との会話で、「りのちゃんの為に」と言っていた。りのちゃんとは真辺さんの事。そういえば、今日えりが、もうニコちゃんと呼んだら駄目なんだって言っていた。詳しい話はしてくれなかったけれど、真辺さんの病気が悪化して、今入院中ということだとは聞いていた。えりのお兄さんたちは、ニコというあだ名はもう使わずに、ちゃんとした名前で呼ぶと、えりにも念押しされて約束させられたと、だから、何か真辺さんの為になるような事をするのだろう。PABを使える事に加えて、頼られることのうれしさ、しかもあの美しい真辺さんの事で、だ。和樹は高揚して息巻いた。

大学病院裏の駐車場のフェンスに沿って、表側へと出るロータリーの歩道でバス待ちをしている人の並びを分断するように抜ける。

駅の正面、タクシー乗り場の所に藤木さんたちが待っているのを見つける。えりが和樹の姿を見つけて手を大きく振った。

「すみません、お待たせしました。」

「ごめんね、急に呼び出したりして。はい、とりあえず息を整えようか。」とペットボトルの水を和樹に差し出してくる。

走ってくることを見込んで買ってくれていたみたいだ。

素直に受け取り、和樹は水を一口飲む。和樹が一息ついたのを見計らって、藤木さんは止まっていたタクシーに「乗る」意思を告げて扉を開けてもらう。柴崎先輩がどうぞと言って、和樹を先に乗るよう促してくれた。言われるがままに和樹はタクシーの後部座席の奥へと座った。えりに続いて柴崎先輩が乗り、助手席に藤木さんが乗り込んだ。柴崎先輩が隣の町の香里市の住所を告げて支払いは柴崎家のツケでと言うと、運転手が途端に身体をひねり、後ろの柴崎先輩に大きく頭を下げた。「いつもご贔屓にありがとうございます。」と愛想を振りまいた運転手に、柴崎先輩は「さっさと出して」とぴしゃりと言い放った。

タクシーはロータリーをほぼ一周して東静線の高架下を抜けて県道167に出る。

何をするのか、タクシーの中で話してくれるのかと和樹は待ったけれど、誰も何も言わない。和樹はえりに「今から何をするの?」と耳打ちをしたけれど、えりは首を振ってうつむいた。えりも柴崎先輩も元気がない。

茜色の空に、藍色の夜が迫りつつある。すれ違う車にヘッドライトが付つきはじめた。

とりあえず、和樹は両手の指を組んで関節の柔軟をしておくことにした。





藤木君からの電話を切ると、凱斗は事務机の引き出しから小さな鍵を取り出し、理事長室へと向かった。理事長室の廊下側の端の一角に理事長と凱斗のロッカーがある。理事長はつい先ほどサッカー連盟へと出かけたばかりで不在だ。

カーテンの開けられた理事長室は、暮れていく夕日が斜めに差し込み分断している。

電気をつけずに凱斗は廊下側の隅にあるロッカーへと進み、鍵穴にカギを差し込んだ。

スチール製の軽い扉を開ける。ロッカーの中には、いざというときの万能な黒いスーツが一揃えでかけられているから、真っ暗闇だ。凱斗は底にある布製の黒いリュック型のビジネスバッグを掴んで取り出す。

ジッパーを開けて中身を確認する。深い色合いの迷彩柄のノートパソコンはビジネスバックとミスマッチだけど、この見た目、おもちゃのようなノートパソコンは、3メートルの高さから落としても壊れない、砂漠の砂嵐の中でも使用できるという代物で、アメリカ軍が今年採用した特注品である。米軍時代の知り合いを伝手に手に入れた。頑丈さだけが売りじゃないこのパソコンはその性能も化け物だと専門家は言う。この一台で、サイバー攻撃を防ぐ力と逆に攻撃する機能があり、使う人間次第で、アメリカの軍事機密を盗んでくることも可能。原子力発電所のシステムサーバーを占拠して爆発させることなどルービックキューブを揃えるぐらいに簡単にできる性能がある。凱斗は、そんな化け物のPAB2000のパソコンをこの常翔学園に通う生徒に使わせるために用意した。

黒川和樹13歳は、12歳はなれた警察官だった兄の死因を知りたい一身で、ハッカーの腕を磨いていた。

警察のデーターベースにハッキングできる高性能のPCを手に入れる資金を稼ぐべく、常翔学園の名簿をハッキングして手に入れて売った。そして一年前に不祥事を起こした社会科の教師と供託して、常翔学園から慰謝料を手に入れようと偽装誘拐事件を起こす最中に、凱斗達に見つかった。普通なら即刻退学処分にしている所だ。それをしなかったのは、黒川和樹が警察庁警視監の息子であることの、彼の正義感を信頼したと言えば聞こえはいい。実際の所、忖度をした。退学にしなかった事を後に活かせるようにできれば、と考えた。その判断が正解だった。黒川和樹自身のハッキング能力が特異的であることが発覚した。

VID脳持つハッカーは、世界で数人、三次元の電脳世界をイメージして、ハッキングする。VID脳を持つハッカーはアメリカCIAからもお誘いが来るほどに貴重で最強。そんな能力を黒川和樹が持っていた。

その能力を持ってしてレニー・グランド・佐竹から狙われた子供たちを助けるために、凱斗はこのPAB2000のパソコンを用意したのだった。結果的に凱斗自身が救われた形になったけれど。

まだ13歳の子供に、ハッキングという犯罪行為をさせる。その罪は自分がすべて背負う。なんて言葉だけは立派な決意を心に刻んで挑んだ事だったが、それは単なる自分が無能である責任転換でしかない。何を理由に掲げても子供にハッキング犯罪をさせる事には変わりなく、言い訳にしかならないのだ。

理事長室の廊下側の扉の戸締りを確認してから、窓際の事務室へと通じるドアから中に入った。近くにいた事務局長に帰る旨を伝えて廊下へ出る。最終下校を過ぎた校舎は照を落とされ、ひっそりとしていた。いつか見た風景と似ていて、血生臭い記憶がよみがえりそうになり、凱斗は記憶の本棚から適当な辞書を数冊呼び起こし、開いて、片っ端からめくっていく。たくさんの文字、単語が脳内に埋め尽くされ、脳はフル回転でそれを読解しようと処理に忙しく熱を発する。そうした脳の状態のまま外に出た。裏門の職員用の駐車場は裏山の影に入り空気も冷たく頭が冷却されて心地いい。大きく息を吸い込み、そして吐きながら脳内の数冊の辞書を同時に閉じた。たくさんの文字は一瞬で消える。自分が正常で居られている安堵と無念さを胸に、ビジネスバッグを背中に背負った。

バイクにキーを差し込んでエンジンをかけ押して門を出る。

柴崎邸までは10分もかからない。帰宅ラッシュの車の渋滞の合間を縫うようにしてあっという間に柴崎邸に着いた。

柴崎邸のセキュリティロックを解除し、広い敷地内へとバイクを押し進める。

迎賓館を思わせる洋館の脇にバイクを止め、屋敷に入る。住み込みのお手伝いである林さんが玄関ロビーに出て来て、凱斗に一礼をする。いつも通り「お邪魔します。」と言って返礼し、一階一番奥の部屋へ向かい、翔柴会会長の部屋をノックした。返事を待って、「凱斗です」と声をかけてから中に入る。

「あら、今日は早いわね。」手に持っていた書類から顔を上げて、壁際の時計に視線を這わせてから凱斗に顔を向けた文香さん。

学園から帰宅するときは、必ず柴崎邸に寄って一日の報告をしてから横浜のマンションに帰る。最近、ここに来る時間は遅くなりつつあった。

「はい、藤木君に頼まれまして。」

「藤木君に頼まれた?」

「はい、会合室と来客用の部屋を、お借りします。」

「凱斗、そんな事いちいち了解取らなくてもいいと言っているでしょう。この屋敷は好きに使っていいのよ。いずれあなたが継ぐ物なのだから。」

「はい。」

「逆に、そのよそよそしさは、私達を傷つけていると思わなくちゃね。」

「そんなつもりは。」

「ふふふ、これぐらい言わないと、治りそうにないからね。凱斗は。」

「気を付けます。」

「で、何をするの?」

「分かりませんが、藤木君がりのちゃんの為に、黒川君のハッキング能力を貸してほしいと。」

文香さんは一瞬で険しい表情になる。

「何をするかはこちらに到着してから話すと、病院から電話してきているようでした。」

「りのさんの具合は?」

「真辺さんから今朝、学園に電話がありました時には、容態についてはおっしゃることなく、ただ今日はお休みさせていただきますとだけ、それ以上は踏み込んで聞けませんから、ただわかりましたとだけ申し上げて電話を切りました。麗華と見舞いに行ったのでしょう。今からこちら戻ってくると言っていましたから、すぐに詳しい事は聞けます。」

「そう・・・」文香さんは眼鏡をはずして目頭をもむ。「黒川君のハッキング能力を使って何をするつもりかしら。」

「まったく、想像もつきません。藤木君から電話があった時には、すでに黒川君に力を借りたいと打診していて、黒川君が僕の了解を取らないとと言ったので、こちらに連絡が来ました。」

「うーん。黒川和樹君、この間、学園であの子の内面を視たけれど、ずっとレニーウォールのハッキングが中途半端に終わってしまって、悔しい気持ちが拭いきれないでいるわね。お兄さんの事もまだ納得しきれていない。すべてが中途半端で、あのままだと、また、あなたに内緒で、とんでもない事をやってしまいかねない危うさを持っているわ。」

「やっぱりですか。僕もそれは気になっていました。康汰も和樹は、兄の弘樹と違って何をするかわからない目をしていると言っていましたから。」

「えぇ・・・あの子には、何かを達成させてあげる必要があるわね。お兄さんの事が明らかに出来ればいいのだけど。」

「それは無理です。康汰もあれ以上は無理だと、僕にも内容を明かしませんし、黒川君のお父さん黒川察監が、家庭を捨てでも妻や黒川君に公表しない事件ですから。」文香さんは大きなため息を吐き、頭を抱えてデスクに肘をつく。

「仕方ありません、りのさんの為に使いたいと言う藤木君の頼みを黒川君にさせてあげて、それを一つの達成感にしましょうか。但し、危険な場合は、中途半端でもすぐに止める事、そして、私にすべての報告をして頂戴。」

「わかりました。」

一礼して部屋を出る。ちょうど麗香たちが到着した。





何度来ても、ここが個人の自宅という気がしない玄関。いや、ロビーと言った方がふさわしい。を入ると凱さんが笑顔で廊下の奥から現れた。相変わらず、その本心は哀しみと罪悪感でいっぱいだ。

えりりんと黒川君が目を丸くして玄関ロビー内を見渡す。柴崎は、そんなリアクションにうんざりという顔をして、用意されているルームシューズに履き替えながら、出迎えた林さんに飲み物とおやつを頼んだ。

凱さんの誘導で亮達はロビー左手の会合室と書かれたこの屋敷で一番広い部屋に通される。会合室というだけあって、中央に大きなテーブルが置かれている。部屋の周囲にアンティークのキャビネットが設置されていて、その中と上には骨とう品が置かれている。壁には西洋風景の油絵。そして部屋の後方で大きな柱時計が重そうに振り子が動いている。

えりりんと黒川君が唸り交じりのため息を吐いた。

カーテンやシャンデリアなどの調度品のすべてが重厚で豪華。なのに、上座の片隅にテレビとホワイトボードが置かれている。以前遊びに来た時に、ここで常翔学園経営者会議が行われると聞いていた。テレビとホワイトボードはその為に必要なものらしい。

凱さんが、黒いビジネスバッグから一台のノートパソコンを出した。

亮はその特徴ある形状および柄を見て、目を見張った。

「それって、アメリカ軍用の・・・」

凱さんは亮に微笑みを向けて、一本指を口に立てた。

言うな、もしくは、それ以上は聞くなってことの意味に捕らえた。

そのパソコンが一般には流通しないはずの代物であるから、入手経路などは間違いなく違法だろう。

「さて、これを使用する前に、説明してくれるかな?藤木君。」

「はい、その前に、りのちゃんの状況をお話しした方がいいかもしれません。まだ、ご存じないですよね?」

「あぁ、りのちゃん、どう?」柴崎とえりりんが顔を曇らせたのを凱さんはいち早く悟った。「悪いのか?」

「俺たちにとっては最悪です。でもりのちゃんにとっては、幸せなのかもしれません。」

亮は、病室で見てきた光景を話す。柴崎とえりりんは思い出し、涙ぐむ。

黒川君は初めて知ったりのちゃんの様子に愕然としている。凱さんもショックを隠し切れないで、眉間に皺寄せてテーブルを睨み、白くなるほど拳を握った。

「くそっ、あの時の事がなければ、りのちゃんは。」いつも穏やかな凱さんの口調が崩れる。

「凱さん、精神科医の村西先生は、それだけが原因ではないと言っています。いろんなことが複合的に合わさって、りのちゃんが生きようとした結果だと。解離性意識障害は、患者独自が現状からの回避という処置をした結果、言ってみれば治療が終わっている状態。先生は、うつ病で死なれるよりはマシだと言っていますが、確かにそうとも思いますが、それでは、あまりにも俺たちは・・・辛い。」

亮の言葉に凱さんが無言でうなづく。そしてより一層に本心に哀しみが染まる。

「凱さんだけじゃない。新田も俺も、皆が少しづづ、りのちゃんの助けになれなかった事を悔いています。今からしたいのは、りのちゃんに何かをしてあげたいんじゃない。自分たちが納得したい。何もできないで終わりたくない。自己満足なのかもしれません。」

潤んだ強い目の柴崎と目が合う。同意にうなづいてくる。

そこで、部屋がノックされる。林さんが茶器とクッキーを乗せたカートを運んでくる。

一つずつカップに注ぎ淹れようとする林さんを、凱さんが「自分たちでするからいい。」と制して林さんの退出を促した。

「りのちゃんが精神障害を患ったのは、1年前の事件が始まりではなくて、始まりはもっと先、俺たちの知らない過去にあります。」

「ん?1年前の事件って何?ニコちゃんが頭に怪我した事?あれは階段から落ちたって、え?違うの?」

「えり、後でちゃんと話すから、今は・・・・ごめんね。」

機転を利かせた柴崎がえりりんを黙らす。えりりんが残念そうに黙るのを見てから亮は話を続けた。

「りのちゃんは、自分が父親を死なせたと思い込んでいます。この思い込みがある限り、どんな治療も誰の言葉も、りのちゃんは受け入れない。こちらがどんなに手を差し出しても、その手は拒否されます。罪の意識が強くて。だから、その罪の意識の始まりを調べようと思います。」

「罪の意識の始まり?」

「はい、りのちゃんのお父さんが本当に自殺だったのかどうか。」

「!」 ここに居る全員が目を見開いて亮に注目する。

「りののお父様は、電車に飛び込んで、賠償責任で財産を全部持って行かれたって、前にりの自身が言ってたわ。自殺じゃなければそんな賠償も要らなかったって事?そんなの、鉄道警察も調べて決定したから請求したんでしょう。」

「警察という名の組織に完璧の正義はありません。調べる価値はあると思います。」

柴崎の話を塞ぐように口を開いたのは意外にも黒川君だった。黒川君の本心に哀しみの混じった怒りが沸騰したやかんのように急に噴き出した。だけど皆からの注目に、恥じらいうつむくのと同時に、それらも治まる。

「調べて、本当に自殺に間違いはないとわかっても、何か、りのちゃんの意識を変えられるヒントがつかめるかもしれない。」

「そうね、何もしないよりは、いいわね。」

「あぁ、俺たちはりのちゃんを置いていかない、どんな事があっても。そう誓った。何もつかめなくても、りのちゃんの罪を共有するだけでもいい。俺たちは、いつもそうやって乗り越えて来た。辛い事は1/4に楽しい事は4倍に。」

「うーん。」凱さんは、腕くみをして考え事をする。視線の先がPC。このパソコンを使う事にすごく躊躇している風だ。眉間に皺を寄せて黒川君の方にチラッと目線を移した。

「理事補、お願いします。もう一度、これを使わせてください。真辺さんを救う為に。」

もう一度?亮は黒川君の言葉に疑問を抱く。前にも、黒川君はこれ使ったことがある、何のために?電話の時に、このPCの存在を言ったのは黒川君だった。世に出回るはずのないパソコンを凱さんが持っている事も含めて、黒川君と凱さんは何をした?

疑問を少しでも知ろうと、亮は目に力を入れ黒川君を視る。

さっき沸き起こった哀しみの含んだ怒りは薄れていて、今は強い正義感、そして歓喜は、そのパソコンに対する物だった。挑戦的な意識も読み取れる。

「何もハッキングしなくても・・・」凱さんは、亮に視線を移動して話す「僕で何とかできる。警察庁に知り合いが居てね。鉄道警察の事故調査書ぐらいなら、頼めば出してきてくれると思うよ。」

「今すぐに可能ですか?」

「今すぐにってのは無理だけど、うーんそうだな、なんとか一週間ぐらいで」

「それじゃ、遅すぎます。」

「えっ?」

「りのちゃんをあのまま、5歳児の精神のままで、一週間もほっとけません。新田もです。あいつは、りのちゃん以上に限界です。それにりのちゃんのお母さんも。」

あーもどかしい。えりりんと黒川君が居るから、亮が読み取った事を言えない。亮は凱さんをまっすぐ見つめ、心で叫んだ。

(わかってくれ、凱さん。)

凱さんは、亮と黒川君へ視線を交互に移動してから、軽くため息を吐いた。

「わかった、これの使用を許可する。但し、無茶はするな、いいね、黒川君。」

「はいっ!」歓喜の返事をして目を輝かせる黒川君、とは対照に哀しみの罪の意識を色濃くする凱さん。

(一体、この二人は何をしたのだろう。)

そういえば、えりりんと二人で新田をだました嘘の誘拐事件の頃は、黒川君の心の底に憎しみと世の中に対する疎ましさが濁って沈んでいた。ありがちな思春期の抑えきれない感情が、お兄さんを亡くしたことで重く沈み溜まったのだと思っていた。だから、嘘の誘拐事件を起こした、と。だけど、今は沈んだ汚泥は薄れている。

事情を知った凱さんが、黒川君の為にこのパソコンを用意して、二人で何かをした。きっと、そうだろう。常翔学園に関わる悪い噂を精査し払拭するのが、凱さんの本当の仕事なのだから。

凱さんは、その珍しいパソコンの起動ボタンを押す。亮は好奇心が抑えきれず、画面の見える位置に移動した。

PCから高音の回転音がして、画面が深い緑に変化する。英語の文字が小さく表示される。

凱さんが左手の親指以外の4本を載せると、すぐに認証OKの次にパスワード入力を求められる。凱さんは、とても長い暗証番号を打ち込んだ。30桁英数のランダム、亮が呆れて思わず唸ると、黒川君も首をすぼめて苦笑する。

世に出回らない高性能すぎるパソコンは、亮が使っているOSのスタート画面と同じレイアウトが表れるが、画面の色相がすべて迷彩色で派手さがないのは、戦場で使うものだから仕方ないのだろう。でもある意味これが格好いいと亮は、今度は感嘆の唸りを上げる。

「じゃ、本当に、無理しないように。」と言って凱さんは会議テーブルの上座を黒川君に譲る。

「大丈夫です。」そう言って指を柔軟しながら本心から子供のように喜んでいる黒川君に、凱さんが窘める。

「大丈夫じゃないんだよ、そもそも、ハッキングは犯罪だからね。」

亮はそこで初めて、自分がとんでもないことを後輩に頼んでいる事を実感する。

「ごめん。俺、そういう意識なく、とんでもないことを頼んだ。」

「藤木さん、やめてください。僕は藤木さん達と出会う前からすでにハッカーですから。逆にうれしいです。この腕を皆さんの為に使えることが。」

凱さんが口をゆがませて唸る。


「心配はありません。皆さんに迷惑のかかる失敗はしません。もし足がついたとしても、僕には完璧の正義はない組織が後ろにありますし、それに、理事補も何とかしてくれますよ、ねっ」と無邪気に見上げる黒川君。随分と親し気なやり取り、そうなるまでの何か秘密めいた事をした、と亮は確信した。

「まぁね。僕は、学園の生徒を守るのが仕事だからね。」凱さんは、大きなため息をつき、首の後ろを掻く。

「えりには全く話が見えないんだけど。」

「えりは、そっちで、おやつでも食べてなさい。」と柴崎が窘める。

「えー!」

皆が笑って始めるハッキング

「じゃ、何から調べますか?」

「まずは、4年前の11月6日東京で起きた人身事故の詳細を。鉄道会社はわからない。被害者の名前は芹沢・・・」

「芹沢栄治」凱さんが補足する。

「まずはこれだけで行けるかな?」

「十分です。」

ピアノでも弾くように黒川君はキーボードを動かす。





事故の詳細をセキュリティのかかってないところから集めて、そして警察のデーターベースに侵入すると言う。

「新聞記事の情報なら、凱兄さんの頭に入ってるんじゃないの?」と麗華が言うと「4年前は日本に戻ってきていない、新聞記事を記憶し始めたのは、理事長補佐になってから、バックナンバーの新聞記事は記憶していない。」と言われてしまった。

何分もかからないうちに、黒川君は、4年前の人身事故の詳細をあらゆる新聞社の記事や、ネットニュースを拾い集め、記事を読み上げる。

「この日は東京で人身事故件数は一件ですから、この記事で間違いないですね。鉄道会社は帝都電鉄。2010年11月6日午前8時12分長瀬駅2番ホーム、東京発浜松行き特急スカイライナーが人身事故を起こし緊急停車したとあります。」

「長瀬駅って、都営環状に乗り換えの出来る大きな駅だ。」と藤木

「はい。通勤ラッシュの客5万人に影響が出たと書いてあります。」

「5万人!」と全員が上ずった声を出す。

「都営環状の方も遅れが出たと。当時のネット速報は、2時間後の段階で、まだ復旧のめどが立っていないとなっていて・・・・復旧したのはそれからさらに1時間後ですね。」

賠償金が凄くて、ほぼ全財産を鉄道会社に持って行かれて、無一文でって、りのが言ってたのを思い出す。

5万人に影響がでる事故の、それらのかかった費用の一切を遺族に請求されたら、そりゃ無一文になるわ。と大きなため息をついた。

「じゃ、このデーターを元に・・・」

そう言って黒川君は凱兄さんに顔を向けた。凱兄さんも無言で、うなづいて了解した旨を告げる。

一旦、新聞記事をすべて画面からなくすと。黒川君は柔軟でもするように、手をグーとパーを何度か繰り返してから「行きます。」と宣言してキーボードを叩き始めた。さっきとは全然違う、その指の速さと、麗華にはただの縦じまにしか見えない画面にポカンと見つめていたら、黒川君は画面から目を離さず、指のスピードも落とさず言う。

「少し時間がかかりますから、お茶でも飲んで待っていてください。」と。

藤木や新田がサッカーボールを追いかけている時のように、この子はハッキングを楽しんでいると、麗華は思った。

ハッキングは犯罪。

凱兄さんが躊躇して中々パソコンを使わせなかった意味を、麗華は今になってやっと理解する。

犯罪をする現場に自分は居る。

いつもいい加減にへらへらしている凱兄さんが、険しい顔で黒川君のすることをから目をそらさない。

普段とは違う状況を眺めて、麗華はじわりと不安が胸に生じた。

警察のデーターベースにハッキングする事になるなんて、思ってもみなかった。

犯罪をする人は特別の、そういう人種で、自分がその人種であるはずがない。考えるのも馬鹿馬鹿しいほどに、自分がその一端に関わるはずがないと思っていた事が、こんなに簡単に、自分が犯罪に踏み入れた。

「お茶、入れてくれるか?」藤木が麗華の背を押して部屋の隅に置かれたカートへと促す。

林さんが淹れてくれた紅茶は、ちょうどいい飲み頃の温度になっている。

「悪いな、巻き込んでしまって。」細めた目のまま麗華を見る藤木。不安を読まれた。

「巻き込んだって、おかしい日本語よ。すべて了解済みで、私はこの場に居るのだから。」強がっているのを自覚。それすらもきっと藤木は読み取るだろう。

「もしもの時は、俺がすべての責任を持つ。」

「もしもの時?責任って何よ?」4つ目のカップに紅茶を注ぐ手を止めた。

「言い出したのは俺。お前は何も知らないを通せばいい。」

犯罪をすると事前に言われていたら強く反対し、ほかの方法を探そうとしただろうか?答えはいいえだ。

りのが元に戻るのなら、何でもする。今まで、それが麗華の役割だった。そしてやるべきことだ。

りのに起きている事があまりにも衝撃的だったから、今からやることがあまりにも大事だから、頭と気持ちが置いてきぼりなだけ。

そんな麗華に対して、藤木は冷静に何をするべきかを考え、そしてすぐに行動を起こしている。覚悟も流石だ。

「そんなこと、できるわけないでしょう。」

「できないんじゃない。しなければならない。それが柴崎麗華の役割だ。」藤木はまっすぐ麗華を見つめる。

何時になく神妙で、それが余計に不安を助長する。藤木に役割と言われたら、きっとそれが最善なのだろう。納得いかなくてもそれは間違いのない実績だ。麗香は一つ呼吸を整えてから、4つ目のカップに紅茶を注ぐ。

心に溜まる不安とは裏腹に、紅茶の香りが部屋を包み、僅かながら心は癒される。がしかし、

「うわっ!嘘!?まずい!」黒川君の叫び。麗華はその声に驚いて、持っていたディーポッドをカップにぶつけてガチャンと音を鳴らしてしまった。

振り返ると、黒川君は一段と早くキーボードを打ち込み、エンターキーを壊れる勢いで叩いた。

「どうした?」藤木が駆け戻る。

「監視員が常勤しています。相手は、ビッドではなさそうですが、人数が半端ない数で、自動監視の陰に隠れて、分散して監視されています。見たことのないセキュリティプログラムでした。侵入後すぐだったんで、攻撃する間もブロックする間もなく、強制終了で逃げましたが。ギリギリで。」

凱兄さんが、ちっと口を鳴らす。

「あれか、この間の、中国からのハッキング事件で、警察は新しい防御システムを開発したか。」

「おそらく。それから防御ではなくて、防御が攻撃を兼ねているって言った方が適切です。」

「防御が攻撃を兼ねる?どういう事だ?」

「今回は、入った途端に竜巻のような嵐に遭遇しました。来る者をその凄い回転で防御して守って、攻撃にもなる、竜巻のように渦巻いているプログラム、その渦巻く力の陰に人による監視が、かなりの人数、隠れていたんです。」

「やるな、日本の警察も。」

「自動監視も一つだけの癖ではありませんでした、数えきれない、きっと、警察の情報処理課、全員の頭脳を結集してプログラミングしたんだと思われます。凄い数のタイプが複雑に絡み合っていましたから。僕自身は逃げ切れましたが、軌跡消しプログラミングを置いてきちゃいました。多分、竜巻に弾かれて、粉々になっていると思いますけど、あれだけの人数が居たら、欠片を拾われて、解析されてしまいます。多分、そのための多人数配置でもあると思われます。」

黒川君の言っている意味が全く分からない。竜巻?何なの?

「解析されたら、こちらの場所、IDもバレてしまうか。」

「はい。」

「どれぐらいの猶予があるかわかるか?」

「そうですね、あの人数とプログラムの規模からみて・・・早くて24時間ぐらいで解析されそうですね。」

「一日・・・。」

「でも、もう一度潜って、壊れた軌跡消しプログラミングを少しでも回収して消去すれば、時間延ばしは出来ます。」

「それで潜って捕まれば、24時間の猶予はパァとなって、こちらの身元はバレてしまう。」

「そうですけど・・・でもっもう相手のプログラム傾向はわかっているんです。別の侵入方法を考えれば大丈夫ですっ。」

凱兄さんは首を横に振る。

「無茶は出来ない。今ならちょっとした手違いだと、まだ誤魔化せる。」

「そんなっ、でも真辺さん達は限界なんでしょう。」

「あ、ぁぁ。」黒川君の必死の訴えに藤木が唸る。

「だから、僕が呼ばれた。」

「別の侵入方法の考えは思いついているのか?」

「お・・・もいついて、いま・・す。」俯く黒川君。嘘ついているのはバレバレだった。

「ねえ、お茶、休憩入れない?」話の腰を折るえり。麗香もそれには賛成だ。

「お茶と言うより、晩御飯食べてからの方がいいかも。」と藤木が大きな柱時計を指さす。7時になろうとしていた。

「よし、戦略を練る時間が必要そうだから、先に腹ごしらえするか。出前とるよ。何がいい?寿司か?うな重か?ピザか?あっ、忘れてた。麗香、文香さんに、りのちゃんの様子を伝えてくれるか?心配していたから。」

「わかったわ。」

麗華がりのと友達になったことを知ったお母様は目を細めて、良い子と友達になったわね、大事にしなさいと言った。お母様が麗華の友達関係に口を出した事も初めてなら、特定の子を良い子と褒めることも初めてだった。

去年、教頭が起こした事件のせいで、りのは身体も心も傷つけられた事を、お母様はとても悔いている。

同じ年のお子さんを持つ親として、真辺さんの気持ちを考えたら当然の事だと。

しかも女手一つで育てている大事な娘さんを、預かっておいて、学園の落ち度で傷つけさせたとなったら土下座じゃすまされない。訴えられても仕方のない事なのに、真辺さんのお母様は、特待制度を受けられた事だけでもありがたい事ですから、と逆に頭を下げられたという。それ以来、お母様は真辺家の事を何かと気にかけていて、頻繁に麗華に様子を聞いてくる。

りのの病状を話せば、お母様もショックを受けるだろう。それが安易に想像できるから、気が重い。

麗華は大きな深呼吸をしてから部屋をノックした。






相手はVIDブレインじゃない。警察のデーターベースを保護しているシステムは一つ一つのプログラム構成は弱いけれど、数が多くなれば、とんでもない強固となっている。最初つむじ風程度だった渦巻は、数、力を増して竜巻になった。それは和樹がVID脳を通して作られている三次元イメージ。特別な世界らしいけれど、その特別の意味することがわからない。初めて、ネットの画面をターミナルコマンド表示にした時から、和樹は頭の中では、きらめく電飾の近未来な世界があったからだ。その世界はとても美しくて、自分の思い通りになる。和樹は夢中になった。

ネット世界を泳ぐ、和樹独自の表現だが、それが一番しっくりきた。

最近では、皆が見ている普通のインターネット画面では、面白くなくなってきている。自由にイメージを作れないからだ。

あぁ、やっぱり、あのPAB2000はすごい。

イメージの創作が早い、泳ぎのスピードもとてつもなく速い。

和樹は、早くPAB2000を使いたくて仕方がない。もう、それは麻薬のようだと思う。麻薬の特性がそうであるように、VIDブレインにもリスクがある。身体の消耗が激しい。指の動きだけじゃなく、目から入る情報を処理する脳に影響する。

前にレニーウォールに挑戦した時は、2枚目の壁で登場したVID脳を持つ相手と戦ってぶっ倒れた。ハッキングとしては失敗し、敵前逃亡してあのざまだ。あれから、和樹は体力をつける為に柔道の練習を再開した。

(あっそうだ。おじいちゃんに出かけている事を言わなくちゃ。)

和樹が携帯電話でおじいちゃんにメールを送り終えると、藤木さんがすぐそばに立っていてびっくりした。

「黒川君、ちょっといいかな。」

「あっ、はい。」

「さっき、相手はビッドじゃないとか言ってたけど、もしかして、ビッドブレインの事?」

「あぁ、はい、そうです。」

流石、藤木さん、何でも知っている。和樹は、自分がそのVIDのハッカーなのに、ついこの間までその用語を知らなかった。教えてくれたのはバラテンさんだ。

「もしかして、黒川君自身がその、VIDブレイン?」藤木さんは、目を細めて和樹の逃さず捕まえるように、じっと見つめてくる。

「あっ・・・えーと。」ごまかす言葉をうまく見つけられない。そもそも既にVIDという単語に、はいと答えているうえに、竜巻やらそれらしい話もしてしまっている。「その~、そう、らしいです。僕、この間まで知らなかったんです。その名称も。」

「マジ?驚いたなぁ。」藤木さんは驚いて、感嘆の息を吐いた。

「あのー、あまり他には言わないで貰えますか。」

バラテンさんや篠原さん、マスターにあの後、自分がVIDブレインである事を言いふらすな、気づかれるな。ネット上でも発するな、と注意されていた。めったに開花しないVIDブレインを欲しがる組織が出てくる。この先、普通の生活がしたければ、絶対に気づかれるな、と念押しされていた。

「あぁ、大丈夫、言わない。そうだよね、バレたらその筋からお呼びがかかって大変な事になるよね。」博識の藤木の異名があるだけある。そこまで知っている事に和樹は感嘆の感情を抱くと同時に、若干の萎縮。

「すみません。」

「謝らなくていいよ、こっちこそ、危険な事を頼んじゃったんだから。」

部屋には藤木さんしか残っていない。柴崎先輩は、翔柴会の会長である自分のお母さんの所へ報告に行って、凱さんもさっき電話が鳴って部屋から出ていったきり戻ってこない。えりは、お屋敷探索に行っている。

あのいたずら誘拐事件で、和樹がハッカーだと知った藤木さんが、力を貸してくれと言ってくれたのはうれしい限りだけど、部活の先輩でもない先輩と二人きりになるのは、緊張する。

「やっぱり、このパソコンだと、違う?」藤木さんはPAB2000をなでるように触ってから和樹の方に顔を向けた。

「そりゃ、もう、全然ですよ。CPUの処理速度が違いますから、思い通りの世界を作れますし、何よりもそんな世界を自由自在に泳ぐのはとても気持ちがいいです。」このパソコンの良さ聞いてもらえる事に、和樹は嬉しくなった。

「へぇー、面白そう。凱さん、黒川君がVIDと知って、このパソコンを用意したんだ。」

「いいえ、このPABを使った時に判ったんです。僕のハッキング速度が速すぎるって。」

「凱さんに頼まれて?」

「えっ、あっ・・・」

「前のいたずらの時には、このパソコンは使ってなかったよね。その後、何かハッキングをしなければならない事があったから、このパソコンを凱さんが用意した。」藤木さんは、微笑むように目じりに皺を作って和樹を見据える。けれど、どこか冷たく、尋問されている感覚を覚える。和樹が言い淀んでいると藤木さんは続ける。

「もう一度、使わせて下さいって言ってたから、何をしたのかなって。」

「それは・・・」言えない事だ。常翔学園の名誉と理事補との約束で。

藤木さんを含めた常翔の生徒4人と理事補だけが、何故常翔学園のデーターから個人情報を盗まれたのか、レニーのウオールをハッキングして、レニー・グランド・佐竹という人の情報をかき集めなければならなかったのかを、和樹は絶対に誰にも言わない約束で教えてもらっていた。

「言えない事だったみたいだね。」

「えっ・・・」

「興味本位に聞いて悪かったよ。」

何だろう。この違和感。確かに言い淀んだ和樹ではあったが、心の声を見透かされているみたいに言葉が重なる。

扉が開いて理事補が携帯を片手に戻ってくる。和樹はほっとする。

「理事補・・・藤木さんに知られてしまいました。僕がVID脳である事。」

「あぁ、まぁそうだろね。藤木君なら。」と理事補は軽く受け流す。

(まぁ、そうだろうね、藤木君ならってどういう意味?)

「藤木君、悪いけど、VIDの事は他言なしで。」

「はい、わかっています。口外する事のリスクを知っていますから。大丈夫、言いません。」

「悪いね、で、何かいい方法、思いついた?」理事補は二人に目配せをする。

警察のデーターベースのセキュリティを突破する方法を考えないといけない。

「まだ、何も。」

「さっきは、どういう手法でハッキングしようとしていたの?」

「手法・・・」

「ほら、侵入型とか破壊型とかあるじゃん。」

和樹は自分がハッカーのくせに、そういった専門的用語に乏しい。兄さんが死んだ事件の捜査資料を警察のデーターベースから盗もうとハッキングをし始めた時から、感覚だけで突き進んできたからだ。

「えっと、特に具体的にどうしようか考えてハッキングはしてないので、何型とかはちょっと。」

「そうなんだ。」藤木さんは若干呆れたような表情をして、うなづいた。

「すみません。」和樹はますます恐縮して、うつむく。

「いや、謝ることないよ。そうだね。それがVIDだよね。」

「今の何型とかで言うと、黒川君のは、どっちもって事なるかな。」と理事補。

「そうですね。相手と対峙して攻撃するのが破壊で、鍵を作って情報を盗んでくるのを侵入と言うなら。」

「できる事なら、攻撃、破壊はしないで盗んで来てほしい。」

「うーん。それはちょっと無理かもしれません。あれだけの監視員が待機していると。」

「攻撃は身体に負担がかかるだろう。今日はバラテンも居ないし。」理事補は眉間を寄せて腕を組む。

「身体に負担って?」藤木さんが聞いてくる。

「VIDブレインってのは、視覚から得た二次元の情報を、三次元の世界に変えてプログラムする能力。高度なハッキングほど脳内で莫大な量のプログラムの創作、処理をしていかなくてはいけない。脳内の神経伝達も電気信号によるもので。」

「シナプスと呼ばれるものですね。」

「そうそう、そのシナプスは、こっちの」理事補はPAB2000を指さして「ネット空間と同調して、身体に影響を及ぼす。攻撃プログラムは普通にネットサーフィンするより身体への負担が大きい。」

「大丈夫です。あれから身体を鍛えていますし。」和樹は即答したが、「あれから」という言葉が、既に暴露したようなものだという事を、藤木さんが目を細めて和樹を見据えた動作で気づくも後の祭りだ。

「でも、その攻撃すら出来る間もなかったんだろう。」

「あぁ、そうなんですよねぇ。」肩を落とした和樹。

部屋の扉が開いて、柴崎先輩が入ってくる。

「えりーどこ行くのぉ、そっちじゃないわよ。」

「えー!もう、広すぎて、どこだかわかんないっす!」

「別の部屋に運んで、どうすんのよ~」

頼んだ寿司が届いた様子。

「別の部屋・・・」というキーワードで和樹は思いつく。「そうだっ!別の部屋で僕のダミーをいっぱい作って、送り込めば、常駐のハッカーを惑わせられる!」

「へい、お待ちー!特上寿司でーす♪」

えりの明るい声が、部屋に響いた。





慎にぃから柴崎先輩の家はデカイと聞いていたけど、想像を超えた大きさに驚いてあんぐりしてしまった。

届いた特上寿司の器の名前を見ても驚く。高級も高級、有名なガイドブックの二つ星を取っている、神奈川では数少ない超有名なお店。芸能人も利用したりする。当然、新田家では行ったことないし、まかり間違って食べたこともない。

(あぁ、柴崎先輩と知り合いでよかったぁ。)

えりは、誰よりもり味わってお寿司を堪能した。

こんな幸せな事ってあるだろうか、満足感に浸っていると、藤木さんに声を掛けられる。

「えりりん、お家に電話した?」

「うん、したよ。柴崎先輩の家だから、遅くなってもオッケー。」

「そう、新田は家に帰ってるって?」

「うん。お母さんと一緒に帰って来たみたい。でも、部屋にこもったきり、ご飯だよって言っても降りて来ないって。」と先ほどお母さんへの電話で聞いた状況を伝える。

「そっか・・・」藤木さんは顔を曇らせ、えりから離れていく。いつも優しく微笑んで、えりりんと呼んでくれる藤木さんのそんな姿をはじめてみる。今日は、いろんな初めてが沢山だ。ニコちゃんの5歳児の姿、柴崎先輩のお屋敷、二つ星のお寿司、そしてとんでもない秘密。

お屋敷探索をしているときに、1年前のニコちゃんの頭の傷が事故じゃなく事件だった話を柴崎先輩から聞いた。その殴ったのが前の教頭だったとの詳細を聞いて、えりはショックを受けた。絶対に誰にも言うなと柴崎先輩から念を押され、えりは知ったことを後悔する。口が軽いとは言われたことはないけれど、何かの拍子にポロっと言ってしまわないだろうかと思う。

秘密を知るというのは、その特別感との代償に、言わないリスクを負うもの。

言わない制約に縛られる負担を強いられるぐらいなら、知らない方が良かった。

えりは、軽くため息をつきながら、部屋を見渡す。

黒川君はパソコンの前に座り、藤木さんも加わって凱さんとハッキングの戦略をして、柴崎先輩は、一つ向こう隣の席で姿勢よく食後の紅茶を飲んでいる。けれどいつもの元気がない。食欲がないとお寿司も半分を残し、それも貰って食べたえりだった。

口うるさい姉以上母未満のような存在の柴崎先輩が静かだと、何だが調子が狂う。

人の背丈以上に大きな柱時計が、重厚な音を8回鳴らせた。何もかもが重厚でゴージャス。まるで2時間ドラマに出て来る超お金持ちのお屋敷みたいだ。

柱時計がボーンと12時を知らせ終えたと同時に女性の悲鳴が響き渡る。声のした方へと屋敷の住民が駆け付けると、お屋敷の主が頭から血を流して倒れている。息をしていない。そばには血の付いた真鍮の置物。そう、これなんかまさしく凶器の設定、と、えりは後ろのキャビネットの上に飾られている馬の置物に触れる。本当に重くて簡単には持ち上げられない。

こんなに重いんじゃ、犯人は男じゃないと振り上げられないよね。と妄想は続く。

犯人は女性の方がミステリアスでいい、となれば重すぎる凶器は駄目だ。えりは馬の置物の横に飾られている首の長い壺へと手を移した。高さのわりに底の小さい壺は不安定で、えりの手からすり抜けるように隣の壺へと倒れ込み、ドミノ倒しのようにそれも倒れそうになるのを慌てて抱え込み、かろうじて下に落ちるのを防いだ。

「ひゃーあ、わわわわ。」

「何やってるの!」

「あーん、ごめんなさぁーい。っていうか、誰か早く助けて~、持ちきれない~落ちる~。」

「もう!」柴崎先輩が駆けつけ、壺を引き取ってくれて落下破壊は免れる。

「危なかったー。えり一生お小遣いなしになる所だった。」

「あははは、大丈夫だよ。そんなの大した、もんじゃないよ。」と、凱さんは笑うけれど、そんなことない、この屋敷にあるすべての物が絶対に高価だ。ボールペン一本でも。

「っていうか、えり、一生お小遣い貰うつもりなの?」

「えー、そこ突っ込みます?それだけは、柴崎先輩に言われたくないんですけど。」

「なに?」

「言えてる。」

皆が、笑う。

(あたし、何やってるんだろ・・・)

黒川君と一緒に居たい為についてきたけれど、何の役にも立たないし、若干の場違いで迷惑を振りまいている気がする。

えりは、軽いため息をついて皆から離れた椅子に大人しく座った。





特上のお寿司を食べた後、また、藤木さんと凱さんとで、戦略を考える。

和樹のダミーを作って惑わす案は、凱さんに待ったをかけられた。それは和樹個人のパソコンを使う案だからだ。

和樹が家から持ってきたノートパソコンをPAB2000のパソコンに繋げ、竜巻の部屋に入る事前で、別世界で和樹のダミーを作り、ドア・ツー・ドアで竜巻の部屋に入ると言うもの。ダミーを作るのは簡単だけど、常駐して監視している目とあれだけの自動監視の数の目をごまかそうとしたら、かなりの数のダミーが居る、そのかなりの数のダミーがドアを通り抜けるのに時間がかかり、長い時間ドアを開けはなしていたら、逆侵入されて和樹のパソコンは破壊されてしまうだろう。破壊されること自体は特に問題がないけれど、警察のデーターベースに侵入したのが和樹であることがバレてしまう。一応のバレないセキュリティはしてあるが、相手もその筋のプロだ。突き止められれば解明されてしまう。ハッキングをし始めた時から、ある程度の覚悟をしている和樹だったが、自分は良くても、常翔学園に通っている生徒がハッキング犯罪をしたとなれば、大問題だ。

「俺のPCを使って、今から寮に取りに行けば。」と藤木さん。「俺が言い出したことですから、俺が罪を背負うのは当たり前です。」

「いや、この件に関して藤木君が責任を感じる必要は」理事補の言葉をかぶるように藤木さんは強い口調で続ける。

「俺ならバレても、藤木家の力であいつがなんとかするでしょう。何とかできなくても、それで藤木家が失墜するなら願ってもない。」

和樹は耳を疑う。藤木家が失墜するのを願ってもない、とはどういう事だろう。藤木さんの家は、内閣総理大臣を務めた由緒ある家なのに。

「藤木君、そんな事、言うもんじゃないよ。」

「でも!警察官一家の黒川君がバレてしまうと、世間の衝撃は大きい。」

「藤木君、家の問題じゃないんだ。このパソコンは藤木君の物より、世間で売っている物より、格段に性能を高くしてある。このPABとの連動に付いていけるのは今の所、この黒川君のパソコンだけだね。」と理事補は和樹に顔を向けた。

「はい。」

「そうですか。すみません稚拙な事を言って。」

「いや、いいよ。それと、藤木君、君が背負う事はないから。何かあればすべて僕が責任を取るからね。」

「・・・・・・。」

「あれ、信用ならない?藤木君や黒川君のバックもすごいけど、僕も負けない伝手があるんでね。それに僕は、柴崎家の血統じゃない。いざとなれば柴崎家と無縁に切り捨てごめんできるからね。一番の大役だろ。」そう言って、理事補はニッコリ笑う。

この間のレニーのハッキング時に、和樹が見つけた宝箱に入っていた情報が何であったか、それをどう使ったのか、和樹は詳しくは知らない。理事補からは、『とても役にたったよ、ありがとう』とお礼を言われただけだった。あの頃、世間ではレニー・ライン・カンパニー台湾が盗品売買と密輸ルートを秘密裏に行っていた事が発覚して、世界的に非難をされていた。日本支部もそのルートに関係あるんじゃないかと疑われて、日本全国にある事務所や倉庫が一斉家宅捜査が行われる、それをテレビで生中継されて話題になっていた。和樹がハッキングして来た情報が、それらに関係した物で、理事補は、レニー・ラインの日本支部代表であったレニー・グランド・佐竹と言う人と何らかの取引をし、真辺さんをはじめ藤木さんも加えた4人の生徒と自分を守った、ということは簡単に予測できた。和樹がハッキングしてきた情報の価値が、まだまだ有効であれば、あの世界のレニーの日本支部を受け持つレニー・グランド・佐竹という大きなバックを使える。それに理事補には軍時代のマスターやラストさん達の伝手もあれば、警察庁捜査一課の篠原さんの伝手もある。

改めて、理事補の交友関係の大きさに驚く。

突然、ガチャ,ガチャンという音に顔を向けると、えりが変な体制で壺2つを抱えこんでいた。

「ひゃーあ、わわわわ・・・」

「何やってるの!」と柴崎先輩が立ち上がる

「あーん、ごめんなさぁーい。っていうか、誰か早く助けて~、持ちきれない~落ちる~。」

「もう!」

「危なかったー。えり一生お小遣いなしになる所だった。」

「あははは、大丈夫だよ。そんなの大した、もんじゃないよ。」

「っていうか、えり、一生お小遣い貰うつもりなの?」

「えー、そこ突っ込みます?柴崎先輩に言われたくないんですけど。」

「なに?」

「言えてる。」

重苦しくなった空気をえりが払しょくする。えりはいつも和樹に、いろんなことが出来ていいなぁと羨ましがる。

和樹だけじゃなく、真辺さんの頭脳をはじめ、クラスメイトの突出した才能を見るたびに羨ましがり、自分は何一つ自慢できるものがないと嘆く。

でも和樹は思う、えりは、空気を和ませる力がある。それは努力して何とかなるもんじゃない、生まれ持った気質か、育った環境がそうするのか、えりは新田家でのびのびと育ったんだなぁと思う。





寿司が届く間に、文香さんが真辺さんに電話をした。真辺さんは沈んだ声で、もう特待を返上しなければならないかもしれませんとおっしゃったと聞く。文香さんは心を痛め、警察のデーターベースにハッキングする事に反対をしていたのを、苦渋に許可を出した。  文香さんにも一年前の教頭が起こした不祥事には、責務と悔いがある。それは自分も同じだった。一年前、もうすでにこの学園で理事の手伝いをしていたのに、学園を利用された盗品売買の悪事に気づくことが出来なかった。あの事件がなければ、りのちゃんは頭に傷を作る事もなくて、二度目の辛い過去をなぞる事もなくて、父親の死にもう一度向き合う事もなく、病状はよくなりつつあったのに。りのちゃんの精神障害を悪化させてしまった。真辺親子は、そういう事を学園に責めはせず黙秘してくれている。

罪責が募っていく。

償うべき子らは、既にいない。

生徒を守る事が自分に与えられた任務。それは転嫁的に罪滅ぼしでもある。有難かった。それができる環境を与えられた事に。強くその任務を果たそうと意気込んで、ふと気づく。自己満足にすぎないのだと。

与えられた平穏の生活は、罪責の重さを薄れさせて、身も心も鈍化していった。

俺は何をしていたのか?

守らなければならない生徒に迫る危険を見逃し、傷を負わせ、精神的苦痛も気付いてやることもできず。

何が『何かあればすべて僕が責任を取るからね。』だ。

それをしても、自分に募った罪は消えないだろう。藤木君がやらなければと思った時点で手遅れなのだ。

誰よりも先立ち、生徒たちの手を煩わすことなく、凱斗自身でやらなければならなかったことだ

人より秀でた能力を持ち合わせても、どれだけ訓練を重ねスキルを得ても、それらを使い熟せなければ意味がない。

いつも、子らの方が早く行動的だ。

紛争地で、町と信念を守っていたリーダーも自分より年下だった。

自身のパソコンの性能を説明している黒川君。

興味を示して説明を聞いている藤木君。

どんな時も凛とした気品を失わない麗華は、椅子に戻りため息一つも乱れることなく、またティーカップを手にする。

どこまでも明るいえりちゃんは首をすぼめて、居心地悪そうに椅子に座り、そして麗華に耳打ちする。

「ねぇ、先輩、この家、何LDKなんですか?」

「知らないわよ。部屋数なんて数えたことないわ。」

「えー先輩、自分の家なのに?迷ったりしないんですか?」

「自分の家で迷って、どうするのよ。」

「これだけ沢山の部屋あったら、知らない人が住んでいてもわかんないじゃないですか?怖わー、開かずの扉あったり?あーもしかして、地下室とかあります?で、使用人に成りすました犯人が、財産を狙って、殺人事件が起きて、ご主人様が殺されて、その地下室に隠すんですよ。」

えりちゃんの想像力豊かな空想に、笑いが込みあげるのを必死で抑える。

「馬鹿っ!気持ち悪い空想しないでよ。テレビの視すぎ。」

「成りすまし・・・」藤木君がつぶやく。「黒川君、警察の監視員に成りすまして、侵入するってのはどう?」

「えーと、やったことはありませんが、そうですね、やってみます。」






藤木さんが思いついた案は、和樹がネット空間と同調できたら、わざと常勤の監視員を一人だけ、こちらに引き寄せて、そいつのIDを乗っ取り、その監視員に成りすましてから、ドアツードアで竜巻に向かうと言うもの。そんな器用な事をやったことがない。だけど、攻撃よりは楽にできそうな気がする。っていうのはもう予測、予感でしかない。理事補も、緊急の時は停止するという約束で、この案にはオッケーを出した。

常勤の監視員に成りすました後は、沢山のダミーを作り竜巻の中へ突入、防御システムを攪乱させている間に、和樹は入り口を探す。その先は戦略では対応できない。ぶっつけ本番で対応していくしかない。

理事補が強制終了の電源ボタンを、いつでも押せる位置で待機する。仕方ないとは思うけれど、皆の注目がやりにくい。

レニーの時、和樹は気を失ってしまった。バラテンさんが言うには、あれ以上、ネット空間と同調していたら、戻ってこれなくなっていたと言った。あの美しい世界をずっと泳いでいられるなら、それはそれでよかったと思う。

えりが、おずおずと近寄って来て、遠慮がちに声をかけてくる。柴崎先輩に、叱られるのを警戒しているようだ。

「えり、帰った方がいいかな?」

「どうして?」

「だって、ここに居ても何もできないし、壺、割るところだったし・・・」えりは、しょんぼりとする。

「ぷっふふふふ」和樹は、変な体制で抑えていたえりの姿を思い出して、吹き出した。

「もう!また思い出し笑いして!」

「くくく、ごめん、ごめん。うっぷぷ。何も出来ない事はないじゃん。皆に笑いを提供している。」

「えーお笑い担当?そんなの要らないじゃん!」

「そんな事ないよ、大事だよ。リラックスできる。」

そうだ、集中も大事だけど、リラックスは最も必要だ。和樹の意識が海流と同調した時、身を任せた状態がとても気持ち良くて、この上ないリラックスをしていた。集中力だけでは、このvid脳や手は動かない。

「それに、えりの言葉が作戦のアイデアになったよ。ありがとう。」

「ん?えり、作戦会議に参加してないよ?」

何が何だかわからない顔で、きょとんとするえりが可愛いと思った。

えりの為にも成功させなければ。えりがお姉ちゃんと慕う真辺さんを救うために。

ここに居る皆の心に沈む後悔を取り除くために。

和樹は念入りに指をほぐして、もう一度、椅子とPCの位置を微調整する。袖のボタンがカチャカチャと邪魔になる。和樹は両の袖のボタンをはずして腕をまくった。何だが、とても気合を入れているみたいで、小恥ずかしい

「そろそろ、始めます。」

全員が和樹に顔を向ける。誰もが成功を信じている目、それが妙にうれしかったりする。

両方の画面にハッキング専用の画面を立ち上げる。この画面がVIDブレインに入る入り口。相手の監視員に成りすますなら、軌跡消しの作業は要らない。その分、PCの動きに余裕が出る。そのことを考えても藤木さんが考えた方法は最高最適の案だと思う。

そういう戦略を考えられるのは、流石、サッカー部の参謀と言われて、主将の新田さんを支えているだけはある。

「では、行きます。」

見えている文字が脳で映像変換される。

世界は、蛍光色豊かに、光り輝く近未来のビル群、空を覆いつくすほどの高い高層ビルが際限なくそびえたつ。

無機質のビルの壁を無数の細い光線が虹色の輝きをして走り抜けていく。そのスピードはまちまちだ。駅の電光掲示板のように遅い物もあれば、新幹線のように速いものもある。たまに光が集積されて球のようになったものが走っていく。それは自転車ぐらいの速さものから、車のスピードぐらいのものが最速だった。和樹はこの世界に来ると、いつもその早い方の玉を追いかけて、ウォーミングアップをする。でも今日はそんな遊びをやっている暇はない。まずは、僕のダミーをいっぱい作らなければならない。

分身を作る事も初めてだけど、なんとなくこうすればという感覚は思い描いていた。

和樹はビルの合間を空に向かいながら飛び、そして広い空間がないか探す。

沢山のダミーを作れる場所、広い場所で、球の軌道が来ている場所がいる。

低いビルの屋上を見つけた。低いと言っても現実世界に置き換えるとゆうに二キロはあるたろう。この世界は日に日に高く深く広がっている。

和樹はその低いビルの屋上に降り立ち、周囲を見渡す。残念ながら光の玉の軌道は屋上までは来ていなかった。ここより300メートルほど下の階層を光は走っていく。これ以上に広い場所が見つかりそうにない。玉の軌道を変えるしかない。

和樹はビルを落ちるように降下し停まる。身体をくるりと起き上がり、球が走り抜けていった壁の軌道を触る。横に走っていた軌道を上へと変える。普通に光る光線が次に来て、思った通りに目の前で上昇に転じて走っていく。和樹は追って追い越し、また屋上へと降り立つ。光の玉を待つ。虹色に光る無数の細い光線は、このネット世界を構成するデーターの入出力による高エルネギー磁場である。光の球は磁場の集積あるいは帯電。和樹は、初めてこの世界に入り込んだ時、その美しさに走る光の玉に触れた。和樹は一瞬で現実世界にはじき出されて、身体と脳は痺れて、数時間ほど茫然としていた。それ以来、光の玉には触れないようにして、この世界を泳いでいたのだが、あれからもう何年も経った。自分のスキルは格段に上がった。レニーウォールの二つを突破した実績。体力もつけた。

これしか思いつかない。

和樹は足元からビルの側面を上がってくる光る球の速度を観察して、手すりを走り抜けようとしている球を掴んだ。

球は和樹の左手を虹色に光らせて、腕を昇ってくる。光の玉は和樹の右脳をめぐり左脳へ、視野が発光で真っ白になった。眩み、身体が揺れ、右手で手すりを掴んだ。心臓をめぐった光は右半身から左半身を駆け抜けまた心臓に戻り左腕へと流れていく。和樹の身体は全身が虹色に輝き、左手から光は手すりへと出ていく。と同時に和樹の分身が、ずらりと形を成して創られていった。

何千、何万体と和樹と同じ姿をしたコピーが並び、和樹と同じように両手を前に出し、手すりを握り後ろを向いている。

和樹が左を向けば、同じく左に、右手で頭を掻けば、同じように右手で頭を掻いた。

あぁ、皆、同じ行動しちゃ駄目だ。ダミーは一人一人意思をもって違う行動ができなくてはならない。もう一度、巡ってくる光の玉を待った。下を覗き込む仕草すらもダミーたちは一斉に同じ動作をする。

和樹は苦笑した。その笑いすらも同じ、すぐに笑えなくて、気持ち悪くなる。

ダミーたちを見ないようにして、光の玉が駆け上ってくるのに集中してタイミングを計る。

光の玉を再びつかんだ。左手から入った光は、和樹の全身を駆け巡り、和樹の思考を拾って出力していく。

光は手すりから同じ格好をしている何千体のダミーたちに入力されると、瞬時にそれぞれが自由に違う動きを始めた。

「よし、ダミーが出来た。」

「えっ、もう?」藤木さんの驚いた声を聞く。

「はい、これからが、時間がかかります。」

相手の監視員をおびき寄せて、そいつと成りすますには、監視員が僕の姿を見つけられない様に、この世界と同調しなければならない。集中の中のリラックス・・・・・あぁ、数万体の自分が、限られたビルの屋上で思い思いに動いて、視界に五月蠅い。集中なんてできない。

「あぁ、もう!君達、ちょっと、じっとしてて。後で嫌と言うほど動いてもらうんだから。」

「えっ?」

実際に声に出ていたようで、実世界の皆が驚いて、和樹を見た。

「あ、すみません、皆さんの事じゃなくて、こっちの電脳世界のダミーに言ったんです。」

「本当に、ネット空間を創造しているんだ・・・」藤木さんが僕を凝視してつぶやく。

「すみません。あの~多分、これから、もっと独り言が多くなると思います。時間もかかると思いますし・・・」

PCに向かってブツブツと言っている姿を、えりには見せたくないなと思った。世界と同調した時、自分がどんな感じになっているのかもわからない、特に目は。

(もしかして寄り目になっていたりして?わーヤダな、そんな顔を見られるのは)

と、こんな事を思っている時点で、まだまだこの世界との同調は無理だ。

「あぁ、そうだね。柴崎、えりりん、集中に邪魔しちゃ悪いから、向うの部屋で待とう。」

えっ?またもや、和樹の考える事とリンクする。もしかして藤木さんは、人の考えている事がわかるのだろうか。あまりにも頻度の多い符合点。和樹は言い知れない気持ち悪さを感じる。だけど、えり達を別の部屋に連れていってくれたのは助かる。

「じゃ、これから、しばらく漂いますから。」

「ん。無理しないように。」

「はい。」

理事補の頷きを確認して、画面に集中する。現実世界の景色がほぼ消失して、和樹はビルの谷間にある屋上で、無数の自分のダミーと向かい合う。ダミー達は、和樹が大人しくしてと言ったから、体育座りでおとなしく座っていた。ずらっと何万体ものの体育座りをしている自分。滑稽で気持ち悪い。

これらが居る限りこの世界との同調は無理に思われた。もっと静かな、視覚にも心地よい場所。和樹は思いついた場所を頭の中で想像した。瞬時に無機質なビル群は消えて、淡くどこまでも続く青緑の草原が広がった。それは和樹がはじめて抽象画を描いた、えりが一番好きと言ってくれた絵の世界。ひざ丈の、草か水かわからないさらさらとした物が風になびいて、やさしい光を放っている。

あの頃、なぜ、こんな抽象画が頭に浮かび描こうと思ったのか、もう思い出せないけれど、この絵を描いた時は、まだ兄さんは生きていて、いつもの通りに和樹の絵を褒めた。お母さんも、和樹が絵の具や画用紙を部屋いっぱいに広げ、部屋を汚すのを怒らず、微笑んで画用紙を覗き込んでいた。

おじいちゃんは、ワシには絵はわからんと言いながらも、和樹は絵を描いている時が一番、集中しているなと、柔道もそれぐらい集中てくれたらいいのにと笑っていた。

お父さんは、相変わらず家にいないことが多かったけど、和樹の絵が展覧会に出展した時は、必ず時間を作って見に行っていたらしい。絵を携帯のカメラで撮り、待ち受けにして息子の絵だと同僚に見せていると、それはお母さんから聞いていた。

黒川家がまだ幸せだった頃を表したのが、この世界。

和樹は涙が出そうになってこらえる。

風が強くなり和樹の髪を乱していく。

駄目だ。こんなに荒れた世界ではだめだ。

和樹は大きく胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくり長く息を吐いた。風はそよ風のようにやさしくなり、足元の波紋をなびかせていく。

あぁ世界は美しい。優しい。

何時までも眺めていたい。

和樹は両手を大きく広げ、この世界の広さを全身で感じる。

ふわっと身体が浮いた感覚がした。しかし、足元を見ても高さは変わっていない。感覚だけがふわふわと浮上降下を繰り返す。ゆりかごのように心地よいのと、荒波を航海する船のように心地悪いを、相反する感覚に身を任せているうちに何も考えられなくなった。

何をしようとしていたっけ。それを思い出そうとするのも億劫だ。

どうでもいいや。時間の感覚もない。どれぐらいそうしてただそこに居たのだうか。

ふいに、何かが聞こえたような気がした。和樹は気怠い意識で辺りを見回す。

それは微かな気配のような。

『・・・・・キ・・』

風のなびかせが、その音を運んでいる。

おかしい。この世界に音は設定していない。ハッキングに必要のない機能はすべて停止していた。

だから、どこまでも静か。なのに。

『・・ ・ズキ・・』これは幻聴だ。

幻聴?

幻覚か?

どこからか吹いてくる風、交じって聞こえてくる幻覚。

『カズキ』

この声は、兄さん

『凄いなぁ』とても懐かしい。『カズキは、お母さんに似たんだなぁ。その絵の才能は。』

和樹の身体を取り巻くように風がすり抜けていく。

『いいんじゃん別に、警察官になるのが嫌だったら、ならなくても。』

すぐそこに兄さんが要るようだった。

『どっちか一人が警察官になってたら、お爺ちゃんやお父さんは、文句を言わないだろ。』

「兄さん!」

『カズキ、ほら見ろ!警察官採用試験に合格したよ。これでカズキは、絵描きさんになれるよな。』







藤木に促されて、会合室を出る。

「えり、黒川君のハッキング見たいなぁ。」名残おしそうにつぶやくえり。

「見ても、わかんないでしょ。」

「そうそう、どれだけ時間が、かかるか予想もつかないし、黒川君には難しい作業をしてもらうんだから、邪魔しないようにね。」

と藤木もえりを諭す。

会合室の向かいにあるテレビのある部屋、我が家ではリビングとして使っている部屋に移動した。

外窓が濡れていた。雨が降り始めたようだ。麗華はカーテンを閉めて、ガラスを滴る雨の雫を視界から消した。

えりが、テレビの大きさに喜々の声を上げる。ソファに座り、弾力にまた声を上げる。

まるで小学生のようだ。麗華は呆れて、首をすぼめた。えりだけが、今やっている事の重要性をわかっていない。

えりの興奮を鎮める為にテレビをつけた。麗華から受け取ったテレビのリモコンで番組を変えて、えりはおとなしくなる。

部屋にはテレビを見るために配置されたソファと、わずかに離してもう一セットのソファが置いてある。

藤木は、テレビとは離れたソファの一人掛けに座り、足を組んだ。ひじ掛けに置いた手で顔を覆い、目を瞑った。

藤木の涙。一瞬でもそれは麗華にとって衝撃だった。

冷静で策士、それが麗華の最初から変わらない藤木の評価。女にマメで優しいのも、策士的であることに含まれる。

感情的に状況判断などしない。そう思っていた。

だけど、暴れるニコ、いやりのか?この際どっちでもいい。に涙を流して諭したとき、「約束」という言葉がりのを大人しくさせる決定打となった。その約束がとても気になる。そして、昨日の帰り際、麗華はたまらなくなって藤木に聞いた。

『ニコとの約束って何?』藤木は小さく息を吐くと麗華に顔を向けることなく話し始めた。

『話しただろ、ニコちゃんが俺達4人が一緒になったクラスを喜べないで、お前が裏から手を回した事を「私のせいかな」って言ったの。』

『えぇ、進級式の時の事ね』

『あの時、あの後、ニコちゃんは俺に「そうまでして、皆がそばに居ないと私は駄目か?藤木の目にはどう映っている?」と聞いてきたんだ。無表情の裏には不安が詰まっていたんだろうな。度重なる発作、そのたびにわからなくなる記憶に怯えて。だから、約束したんだ。ちゃんと見てるから、駄目な時はちゃんと教えるから。と。』

『ニコ、そんなに思い詰めていたんだ。私、そばに居ながら、何も気づいてあげられなかった。』

『いいんだ柴崎は。あの時にも言っただろ。ニコちゃんは柴崎に対等の親友で居てほしいと思っているって、だからニコちゃんは、お前にじゃなく俺に頼った。俺のこの能力を使って、私を監視していて欲しい。と。』

あの時も指摘された。私が心配しすぎると、親友でなくなってしまうと。だけど、麗香は寂しい。悩みを打ち明けてくれる事こそが親友というものではないか。それをしてくれないのは、麗華が親友として役不足だと言われている気がする。

『ニコちゃんは、俺達4人に求める役割を明確に変えていた。柴崎には、特待の肩書に気後れしない、普通の女の子と同じ、おしゃべりしたり、買い物をしたりを楽しめる友達関係を求めて。お前もそうだろ、幼稚舎から作られた柴崎麗華像を意識しないニコちゃんだったから、一緒に居て楽だった、楽しかった。違うか?』

そうだ、そうだった。ニコと一緒の部屋になったグアム旅行、小学部からの馴染みある友達より楽だと思ったのが、ニコと友達になれるきっかけだった。

『違わない。そう。私は内部進学組の友達といるよりニコと居る方が楽だった。』

藤木が、頷いて話を続ける

『新田には、傍に居てくれる安心を求めて。新田の過剰な心配が時に本気でウザイと思っていても、赤ん坊の頃から双子のように育てられた二人には、俺らには想像を超える繋がりある。そして俺には、父親が死んで埋まらなくなった知識欲を求めた。その知りたい、教えてほしいことの延長で、あの約束をも求めた。俺なら的確に視たことを教えてくれる。と、なのに、俺は視れなかった。視れない事に危機を感じながらも、踏み込む事に躊躇したんだ。それをするのは新田やお前の仕事だと。いつもそうだったから。ニコちゃんが助けてほしいと求めていたのに、俺は・・・俺のせい。ずっと早くに気づいていたのに。』

藤木は歩道に転がっていた空き缶を、憎憎しげに足で踏んで押しつぶした。

『藤木だけのせいじゃないわ。・・・大丈夫よ。ニコは疲れているだけよ。1週間も寝てなかったんだから、ぐっすり眠ったら良くなるわ。』

昨日まではまだ、痛みを感じない、英語が話せない、ただそれだけの異変で、それらはただ睡眠不足でそうなっていると思っていた。だから、眠れるようになったのなら、すべて元に戻ると安心した麗華だった。

なのに。

えりがリモコンを操作し、サスペンスドラマに変えた。ドラマは始まって20分が経過していて、被害者はもう殺されている模様。どういう関係かわからないけれど、刑事と女子高生が聞き込みをしている。えりは他のチャンネルに変える気なく、それを食い入るように見ている。

(どういう殺され方をしたのかを見逃しているのに、よく見る気になるわ。)

こんなテレビ番組を好んで見ているから、さっきのような気持ち悪い妄想をするのだと、麗華は呆れたため息を吐いた。

後ろの棚からひざ掛けを取り出す。一つをえりに渡し、もう一つを手にして藤木へ、近寄ると、顔を覆っている手とは反対の左手の人さし指が、しきりにトントントンとひじ掛けを叩いている。

待っているだけの時間が心苦しいのだろう。何かしていた方がマシだ。何もできない自分に苛立っている。

麗華はひざ掛けを、苛立ちを表す手ごと覆った。麗華は藤木の隣のソファに座る。藤木の人差し指は布の下で止まらない。

麗華は腕を伸ばしてひざ掛けの上から藤木の左手をギュっと握った。

力が抜けたように動きを止めた指。

胸に詰まっていたものが少しだけ、晴れた気がする。

いつ、誰から言い始めたのかは忘れた言葉がある。

楽しいことは4倍に、

苦しいことは1/4に

不安も二人で分かち合えば、楽になる。





『これで、カズキは絵描きさんになれるよな。』

涙が頬を伝い落ちた。落ちた波紋が和樹を中心に広がって行き、そして、声と共にまた戻ってきた。

『・・・カズキ・・・凄いなぁ』

波紋の風波は和樹に向かって足元から這い上がってくる。そして兄さんの声と共に和樹の身体を空へと舞い上げた。

身を任せた。

『これで、カズキは絵描きさんになれるよな。』

そうだ、僕はこの世界の絵描きだ。

手の先、髪の先に無限の広さを感じた。

いつの間にか和樹は風になって飛んでいた。意識が世界の隅々にまで行き渡っているのを感じる。

そう、僕はこの世界の創造主。

「黒川君!駄目か?停止か?」理事補の慌てた様子が草原の世界と重なって見える。

涙が頬を伝う感覚がある、どうやら現実世界でも和樹は涙を流してようだ。

「大丈夫です。兄さんが同調を手伝ってくれました。」

「兄さんって・・・」理事補は顔を顰め和樹の顔を覗き込む。和樹の言葉を疑い、その手はすぐにでもパソコンの電源を落とせるように指を置いたままだ。

「今、電源を切ったら、意識が飛びます。やめてください。」

もうわかる。前回は強制的にこの同調の状態を断ち切ったから意識を失った。

意識を失わずに現実世界に戻るには、ちゃんと段階を踏んで脳を戻さなければならない。

「大丈夫です。これで行けます。」

草原をすれすれに駆け抜け、元の蛍光電色が走る近未来のビル群の世界に戻した。

体育座りしている何千、何万もの和樹のダミーが、おとなしく待っていた。

「さぁ、皆行くよ。」

和樹の姿はこの世界に同調していて、ダミー達には見えていない。声が世界のその物として響き渡る。

ダミー達が一斉に立ち上がる。

「警察のデーターベースへ、扉を開けます。」

「わかった。この先、変調があればすぐに落とすよ。」

「はい。できるなら、ちゃんと段階を踏んで戻ってきたいですけどね。」

言いながら、ネット世界の和樹は手を一振りして、屋上の手すりを無数の扉に変えた。

心地いいぐらいに何でもできる。

「さぁ、皆、行け!自動監視を欺いて。」

扉を開けた。何万体のダミー達が我先にと扉から出ていく。全員が出ていくのに一分の時間がかかった。

一つだけ扉を残して閉じ、扉自体も消滅させる。あいた扉から向こうの様子を覗き見た。ダミー達が竜巻の中を泳いで、監視員をかき乱している。激しく動いている者や、だるそうに逃げている者、異常に怯えている者、怒っている者、ふざけながら鬼ごっこを楽しんでいる者。和樹のコピー体であっても、それぞれ違う個性が突出している。目の前を横切ったダミーは、監視員に追いかけられ、先で捕まり消滅してしまった。それを見てお腹を抱えて笑っている者がいる。そいつも攻撃されて消滅してしまった。

和樹は苦笑する。自分を客観的に見つめる、いい機会なのだろうけれど、それをする必要を感じられるほど和樹は年を重ねていない。

渦巻いていた竜巻の勢いが弱くなった。ダミー達の登場に警察のプログラミングが混乱して、防御プログラミングが追いついていないのだろう。しかし竜巻が停止するほどにはなりそうにないが、あちこちで、ダミー達が攻撃されて消滅している。

さっさと、なりすましの対象者を見つけて、こっちにおびき寄せないと。

和樹は自分の姿を表示させてから、一歩、扉の外へと出てみる。

弱まったとは言え、竜巻の風はまだ強い。表示した和樹の姿をはぎ取って行きそうだ。

数十メートル先にいる常勤の監視員が、和樹の存在に気付いて振り向いた。まっすぐこちらに向かって来る。

よしよしそのまま、和樹は元の部屋に戻り、また姿を消し監視員が入ってくるのを待った。

「入って来た。」独り言に現実世界の理事補が、いぶかし気に和樹の顔を覗き込む。

扉を閉じた。入って来た監視員は、不安げな様子でキョロキョロとあたりを見回している。どうしたら、そいつに成り代われるのか、明確なやり方は知らない、けれど、感性のまま、監視員に正面から体当たりしてみた。衝撃はなく、ただ通り過ぎただけ、瞬間に監視員と同じ、警察官の服装をした姿格好をした自分が実体化していた。振り返った元の監視員は、対面した自分自身の姿に驚愕しおののく。和樹はその一瞬を見逃さず、衿を掴んで背負い投げをした。模範のように技が決まった。背中から落ちた監視員は虹色の光を発行し消滅した。

「成り代わり成功。」

「ほんとか?早いな。」と理事補

「そうですか?スタートから、どれぐらい経ってますか?」

「一時間ちょっとだよ。」

以前は世界を2時間漂ってやっとレニーウォール一番目の壁を破った。そのあと更に2時間をかけて宝箱一つを見つけた事を思えば早くなっている。

「スキルの向上を喜んでいいのか、どうか。」理事補はそう言って、渋い表情のため息をはくた。「僕は君にとんでもない事を頼んでしまっているのかもしれない。」

「理事補、やめてください。僕は僕の意思でハッキングをしているんです。僕は理事補に感謝していますよ。このPCを用意してくれたこと。」

「黒川君?」

「やっと、行ける!」和樹は体の向きを変えて、PAB2000のパソコンの操作を開始した。「やめてくださいよ、今、電源を落としたら、僕の現実の脳は吹っ飛びます。」

「黒川君、君は!」

「この間は相手もVIDで強敵だったけど、世界はこの上なく洗練されていた。無駄のない洗練された世界。ビッドブレインだけが創造し居られる特別の世界。だからこそバラテンさんが強制終了しても、僕は一瞬の気絶だけで済んだ。でもここは違う。雑に無駄な物が多すぎる。その無駄な物も渦巻いて防御が攻撃になって飛んでいる。」

吹き荒れる風に乗って数多くのゴミが飛んでくる。中には僕のダミーだった欠片までが、目の前をかすめていく。

「やっと兄さんが死んだ真実を知ることができる!」

和樹は竜巻の中で手を広げ、叫んだ

「やっとだ!」

生き残っているダミー達が、和樹の叫びに呼応するように活発になった。

「やめろっ!黒川君!」理事補は椅子を倒して立ち上がる。苦悶の表情の理事補。やっぱり理事補もそうやって和樹を真実から遠ざけようとする。何故だ。「やめるんだ、黒川君。」

騒ぎを聞きつけて、藤木さんが部屋に飛び込んでくる。

「どうして?僕は真実を知りたいだけ。」

「知っても、何も得られるものなんてない。知らないままの方がいい。」

「何?どうしたの?」と柴崎先輩とえりも遅れて部屋に入ってくる。

「得られるものなんてない?知らないままの方がいい?やっぱり理事補は知っているんですね。」

「いや、俺は、知らない。康太が言わないから、それが最善だと。」

「矛盾していますね。真辺さんのお父さんの事は、何もつかめなくても、共有するだけでもいいと、ハッキングを許可する。なのに僕の兄さんの事は駄目って。あんまりじゃないですか?」

「種類が違うんだ。りのちゃんのお父さんと、君のお兄さんの事件とは。」

「知りたい気持ちは違わない。」

「黒川君!やめよう。なっ」理事補が和樹の身体に触れようとしたのを、肩で振りほどいた。

「ここまで来て、やめるんですか?真辺さんのも?」

今、和樹の視界は、ネット上の吹き荒れる竜巻の世界と、現実である柴崎邸の豪華な会合室の世界が二重に重なって見えていた。唇を噛んで苦悶する理事補の顔が竜巻によって歪む。

「凱兄さん一体何?」

最初の軌跡消しプログラミングの欠片が和樹の顔をめがけて飛んできた、それを右手でキャッチする。そして握りつぶした。

手の指の隙間から、七色の光が発光し、こぼれ消えた。

藤木さんは目じりのしわを濃くして睨むように和樹を見据える。

次第に竜巻の世界が薄れて、現実世界の方が色濃く鮮明になって来た。長い時間を現実世界で意識していると同調が解かれてしまいそうだ。

「時間の無駄です。僕は、行きます。」

和樹はネット世界に意識を集中して、現実世界の景色を完全に消した。






柴崎が握った事で、はじめて自分が苛立っていると気づく。苛立つ自分に苛立っている。無様だ。

病院で、泣く新田の姿に目を背けた。新田のあの決心を「やっぱりな」と納得しながらも、そんな新田を貶した亮。貶しながら敗北を感じて、目を背けたのだ。

こんな時すらも、新田には勝てない。このままでは、新田の想うがままだ。そうはさせない。

それは同情からくる是正なのか、ただ負けたくないだけの闘争心なのかはわからない。

だから亮は考えた。どうすれば、新田の決心を変えさせる事ができるのか。それは簡単だ

りのちゃんが元に戻ればいいだけ。じゃ、りのちゃんが元に戻るには?

そもそも、りのちゃんは、何をあそこまで自分を追いつめてしまっているのか?

そんな思慮から講じた策だったが、不甲斐なく、いま亮は何もできないで、ただ待つのみ。

黒川君頼みになっている事がもどかしい。

亮はテレビの音だけを聞いて目を瞑っていた。

「先輩、トイレって、どこでしたっけ。」

「出て、右、さっき、お風呂場を見せたでしょ、あれの隣の扉。」

えりりんが亮の前を通りすぎて部屋を出ていくのを感じ取る。えりりんは閉めたドアを再び開けて声を発する。

「帰ってくる時、わかんなくなるから、このドア開けたままにして行っていいですか?」

「あぁ、もう、わかったから、早く行ってきなさい。ったく・・・えりって方向音痴?」

えりりんの明るさが、柴崎の沈み行く気持ちを繋ぎ止めている。

ほんと、かわいいな、えりりんは。妹たちとは全く違うタイプ。えりりんのような底なしに明るい性格の妹が居たら藤木家はどうなっただろうか?斬新に一族をかき混ぜて、良い利かせ味になってくれそうな気がする。そして俺は、あぁ、底なしに甘やかせてしまいそうだ。

えりりんが開け放した扉の向こう、静かだった会合室から叫び声が聞こえた。亮は跳ね起き立ち上がる。何を言っているかまではわからないが何か起きた事は確かだ。そしてバーンと何かが弾ける音。亮は部屋から駆け出て、会合室に飛び込んだ。

「やめるんだ、黒川君!」

椅子を倒して立ち上がっている凱さん。弾ける音は椅子が倒れた音だと判明。凱さんの慌てた様子とは裏腹に黒川君はすました表情で

米軍採用のPAB2000のキーボードを操作している。

「どうして、僕は真実を知りたいだけ。」

「知っても、何も得られるものなんてない。知らないままの方がいい。」

「何?どうしたの?」と亮より遅れて柴崎とえりりんが入ってくる。

「得られるものなんてない?知らないままの方がいい?やっぱり理事補は知っているんですね。」

とパソコンの画面から顔を上げた黒川君の眼球は小刻みに揺れていた。

「いや、俺は、知らない。康太が言わないから、それが最善だと。」

「矛盾していますね。真辺さんのお父さんの事は、何もつかめなくても、共有するだけでもいいと、ハッキングを許可する。なのに僕の兄さんの事は駄目って。あんまりじゃないですか?」イラつきと怒りを黒川君から読み取る。

「種類が違うんだ。りのちゃんのお父さんと、君のお兄さんの事件とは。」

「知りたい気持ちは違わない。」

「黒川君!やめよう。なっ」黒川君に触れようとした凱さんを黒川君は肩で振りほどく。

「ここまで来て、やめるんですか?真辺さんのも?」と、全員に意見を求めるように顔を向ける。その目は小刻みに揺れ、誰とも商店の合っていない異様な表情だった。

これがビッドブレイン。

「凱兄さん一体何?」柴崎の問いに唇を噛んだだけで答えない凱さん。そんな凱さんを憎々しげな気持ちで睨む黒川君。

「時間の無駄です。僕は、行きます。」瞬き一つしないで画面に集中した黒川君は、これまでのとは違うとんでもない速さでキーボードを打ち込んだ。その動きは、一流ピアニストのように。目は画面を見ているようで見ていない、これもまたピアニストが奏でる曲に心を浸透しているような風情だった。

「凄い!この間のいたずらの時と全然違う。」えりりんがはしゃぐ。

「くそっ!」凱さんは足元の倒れた椅子を蹴りいれて、派手な音を立てる。

「きゃっ!ちょっと!何なんのよ、凱兄さん!」

「もう、止められない・・・」

「大丈夫です。ちゃんと真辺さんのお父さんの調査書も拾ってきますから。」

(一体なんだ?黒川君は何をするつもりだ?)

亮は目に力を込めて黒川君の本心を読みとろうとした。だけど何一つ読めなかった。





吹き荒れる風がゴミを飛ばしていく。混沌とした世界。レニーの美しい世界とは正反対だ。あれが静の美しさを表現しているのなら、こっちは動の力強さを表している。どこにも停止している物がない。

「凱さん、黒川君は何をしようとしているんですか?」現実世界での藤木さんの声。

ゴミの陰に隠れている監視員に近づいた。監視員に成りすましている和樹を侵入者だとは気づかず、視線はダミー達を追っている。

あれだけ数多くいたダミーは半分ぐらいに減っていた。竜巻の威力が戻りつつある。

「黒川君は、お兄さんの死因を知りたがっている。」

さて、どうやってあの中心に行くか。とりあえず、左から吹き込む風を横切り前に進む。中心に行くほど風は強くなり、横切って行くゴミのスピードも早くなる。それらをよけつつ、より一層に風が強くなっている前方を観察する。

風の向きが向うとこっちでは違っていた。左から右へ吹いている風は、その先で右から左へ流れている。そんな風の層が幾重にも巻いている。

「お兄さんの死因って!?亡くなったの?」

このまま風向きの違う層へと進めるだろうか、そう考えた時、身体がひき千切れるイメージが沸き上がった。中々良くできたプログラムだ。雑で汚いけれど難易度は高い。

「黒川君のお兄さんも警察官でね。殉職された。その事は公私ともに公表されていない。」

こうして警察は、兄さんの死を誰にも知らされないように隠している。

この竜巻を作ったのは誰だ?

お父さんの指示か?

「公私共に公表されないって・・・」

「だから言ったでしょう。警察という名の組織に完璧の正義はないと。」和樹の突然の会話の参入に、皆が驚いて振り返る。「この竜巻は、警察の不祥事を隠すための物、中国のハッカーを恐れて創ったんじゃない。自分たちの失態を知られないために、自分たちの権力を保持する為に。だからこの竜巻は内から外へ渦巻いているんだ。誰も入らせないように、弾く為に。」

怒り任せに、そばに居た監視員を捕まえ、背負い投げでその境目に投げ入れた。監視員は、さっきの思い浮かんだイメージ通りに、引き千切れる。層の乱れを視認した。和樹はにやりと笑って、もう一人監視員を呼んで、その体を押さえつけて竜巻の層へと押し進んだ。背中から削れるように千切れ飛んでいく監視員を盾に和樹は、難なく次の層へと侵入した。

「よしっ!第2の層に行けた。」

「早い、早すぎる。」理事補のつぶやき

流石はPAB2000だ。このパソコンはハッカーの能力を上げてくれる。PAB自体がハッカーの能力を要求してくるようだ。もっと、もっとと。

もっと、和樹は足を踏ん張る。さっきとは強い風力が和樹の身体を飛ばそうとしている世界。

飛んでくるゴミのスピードも格段に速い。そんなゴミたちが視界を悪くしている。

何かの欠片が和樹の頬をかすめていく。

「痛った・・・」

「黒川君!」えりが叫んでいる。

向かい風になるように体の向きを変えて、飛んでくるゴミを凝視する。次々に飛んでくるゴミは、さっきの場所の物より小さい。小さいから避けにくい。当たっても大きな致命傷にはならないが、掠めるスピードがそれらを鋭利な凶器となり和樹の衣服を割いていく。体のあちこちがゴミの凶器で切られていく、すぐに警察官の服装はぼろぼろにはぎ取られてしまった。

「くそっ」

露わになった皮膚を次々に切りつけていく、まるでかまいたちにでも遭遇しているようだ。

「きゃっ黒川君っ!」誰かの悲鳴。

「何?どうしてっ」誰かの叫び。

「どうなっているんですか!」

「わからない。」誰かの動揺。

「呪いなんじゃ!」

「多分、これがネット世界と同調による負担、影響。」

現実世界の異変なんて気にしていられない。

「黒川君!体に影響が出ている。もうやめて、中止しよう。」

「嫌です。」

裂かれた皮膚から七色に光る粘液のようなものが出てきていた。とてもきれいだ。

あぁ見とれている場合じゃないな。どうしようか。このままじゃ、和樹の身体は成りすまし自体も裂かれてはぎ取られていく。

「やめた方がいいわ。」

「うるさい!やめない。」何故、皆、僕を止めようとするんだ。自分勝手だよ。

「黒川君!本当にもういいよ。りのちゃんのお父さんの事は別の方法を考えよう!」

「黒川君、戻ってくるんだ。」

「今更、遅い!引き返すなんて無理!」皆邪魔だ。

「本当に、もうやめて、黒川君。」涙声のえりが、一番邪魔だ。

「邪魔だ!」

「柴崎、えりりんと部屋から出ろ!早く!」

流石、藤木さん、指示が的確、覚悟も的確。

「他に手伝える事は?」

「ありません。静かにしていてください。」

そう集中しなければ、集中のリラックス。そうだリラックスだ。

和樹は踏ん張っていた体の力を抜いた。すぐに体は流されて竜巻の渦と同化した。





テレビの部屋に戻された。えりは震える足取りでさっきまで座っていたソフアに座る。テレビはさっきまで見ていた2時間ドラマの続きをやっている。柴崎先輩が膝に毛布を掛けてくれる。えりはそれを引き寄せて頭から覆った。

(あれはいったい何?)

何もしていないのに、急に黒川君の左の頬に赤くひっかいたような傷が表れた。右頬にも表れると、それは両の腕に、無数に走る。

黒川君は苦しそうに唸った。

一体なに?

なんの現象?

黒川君にだけ、その現象は起きている。

何かの呪い?このお屋敷、お化け屋敷!?

『うるさいよ。邪魔するな。』

『うるさいっ!今更、遅い!引き返すなんて無理!』

瞬きをせずにパソコンの画面を睨みつける黒川君は、悪魔が乗り移ったようだった。

ハッキングって悪魔も呼び出せるの!?

嘘・・・恐ろしい。突然に表れたみみず腫れは、呪いの印だ。

あれ?悪魔の印は666じゃなかったっけ。

ネット界の悪魔は6じゃなくて1なんだ。111が呪いの印。

あぁ黒川君が悪魔に呪われてしまった。どうしよう。

えり、逃げるようにして部屋を出てきたけれど、助けなきゃ。

「先輩!」被っていた毛布を払い外す。「聖水ないですか?」

「はっ?せいすい?」

「そうです。悪魔祓いに使う聖水です。」

「・・・。」

「黒川君を悪魔から救わなくちゃ。」えりはソファから立ち上がる。

「あのね、えり。」

「聖水がなければ、十字架でもいいです。」

「えり!」柴崎先輩がえりの肩を抑えてソファへと引き戻した。「座りなさい。」

「でも黒川君がっ」

「落ち着いて、あれは呪いなんかじゃないわ。」柴崎先輩は足元に落ちた毛布を拾い、えりの肩から覆いつくすようにして掛けて、隣に座った。

「ごめんなさい・・・」馬鹿な事を言っていると自覚している。だけど馬鹿な想像をしなければ辻褄が合わない。

それぐらい、えりには納得ができない怪現象だった。

柴崎先輩は小さなため息をつくと、えりの肩を引き寄せ抱きしめた。親以上に干渉してくる柴崎先輩が、時にうざいと思うけれど、困ったと時の先輩の存在は、親以上に頼もしい。えりは柴崎先輩の肩に頭を預けた。ほっと息を吐いて、自分が息を詰まらせているぐらいに強張っていたのだと気づく。

「先輩・・・」

「ん?」

「えりは、いつも足手まとい。さっきも黒川君の邪魔をして・・・」

「そうね。だけど、他人に手間取らせないで生きていく事なんて無理だと思うわ。人、それぞれ出来る事は違うし、できない事をフォローしあう関係が理想じゃない?」

「うん・・・だけどえりは、その出来る事が何もない。」

「そんな事ないわよ。えりは・・・」長い沈黙「面白いわよ。」

「先輩もっ!?何なんですかっ、皆して面白いってお笑い担当みたいにっ」

「人の家をサスペンスドラマの現場にしてみたり、悪魔祓いを本気でしようとするあんたの、どこが面白くないと言えるの。」

「あたしはいつだって真剣なんですよ。それを面白いって茶化して。」

「茶化してないわ、真剣に心配してるのよ。」と真顔の柴崎先輩。

「うわーん。」えりは反対側へと身体を倒した。





仰向けでゴミと一緒に漂う。中心に行けない。こんな事を続けていれば、体力がなくなって、しまいには消滅してしまう。

どうしたものか。体を起こせば、風は抵抗となり、ゴミが凶器と成す。困った・・・策が思いつかない。

困った事があればいつも兄さんに相談していた。12才離れた兄さんは優しくて、何でも知っていて、色んなアドバイスをくれるんだけど、最後は、いつも「和樹が思ったとおりにすればいいんじゃない。」だった。

その言葉どおり、思ったことを実行すれば、不思議と何でも解決出来た。だけど、今は、何一つうまく行かない。

兄さんがいないから。

「兄さん、助けてよ。声を聞かせてよ。」

そう呟いても、何も聞こえない。さっきのように兄さんの声は風に運ばれてこない。成りすましているから、兄さんにはわからないのかもしれない。警察官のなりすましを辞めてしまおうかなとか考える。なりすましを辞めたら、どうなるか想像がつかない。あらゆる防御システムが警告を発して、新たな攻撃に転じるかもしれない。

(はぁ~)和樹は大きなため息を吐いた。

風に身を任せて力を温存しているとはいえ、その風力は竜巻並みの強風だから、徐々に体力がそぎ落とされていく。和樹は脱力と共に上を仰ぎ見た。洗濯機の中に放り込まれたように渦は足元へと細くなりつつその遠心力は集約されている。徐々に和樹の身体は下へと高度を下げ、身体を取り巻く力も強くなっていっている。そうやってしまいには和樹の身体は逃げ場のない遠心力につぶされてしまうのだ。下へ行くほど力が集約しているのなら・・・上だ。上は渦巻く円周も広く力も散漫されているだろう。

そして、もしこの竜巻が気象と同じような構造をしているのであれば、上空には限りがあるはず。和樹は根拠もなくそう思った。良くニュースでやっているような映像でしか、和樹は竜巻を見たことがない。だから実際にはどうなのかは知らないけれど、何事にも無限はないものだ。この防御システムのプログラムにも限界はあるはず、実際に和樹の体は下へと流されている。その流れに逆らう事は侵入経路と考える。和樹は身体を回転させてうつむき、頭を風向きに変えた。手を前に出して、風をかぎ分けてるようにして前に進む。やっぱりゴミが和樹の頭や肩、腕をかすり傷つけていく。和樹は意識的に自分の身体を細く細く、竹の笹のようなイメージを頭の中で作った。実際にそうして和樹の身体は細く細い体に変容する。そうして竜巻の渦巻きを少しづつ昇っていく。

ある程度高度の高いところまで来ると竜巻の力は弱まっていて、細くならなくても前に進めるようになった。それでも風をかき分ける手を休むと体は下へと降下してしまうので止める事は出来ない。腕が重く、もうひとかきもできないと思った時、やっと風のない空間に出た。和樹は上半身を起こして周りを見る。今度は、まるで海流が合わさる灘の渦潮に吞まれこんでいくように、和樹の身体は中心へと向かう。さっきまでは内から外へと回転していたのに、今度は内へ、和樹は全体の構造が把握しきれないまま、考えも思いつかないまま、中央へと身体をゆだねた。中心になるほど回転は速くなり目が回る。目を瞑ってその渦に吸い込まれるように巻き込まれる。和樹の身体はもみくちゃにされる。上も下も右も下もわからない、そして、体感したことない重力が和樹の体を押しつぶしながら、手や足や首を四方に引き千切って持って行こうとする力も加わる。

「ぐっ・・・。」息が出来ない。

「黒川君!」

身体がしびれて、キーボードを押す指が鈍化する。

せっかくここまで来たのに。現実世界の景色とネット世界が入り乱れて視界か歪む。

これが、どす黒い警察の本質。汚くて黒くて、権力に驕ったヘドロが渦巻く。

「強制終了か!」

・・・・・・ズキ・・・・・・・

「やめて・・・下さい。」

「でも、このままじゃ・・・」

カズキ・・・・・・・

声・・・・兄さん?

カズキ、こっちだ

兄さんの声!

「今の状態を続けるよりは、強制終了して、気絶してでも病院に連れて行く方が適切か!」

和樹の体から透明な何かがはがれるように手から出ていく。透明なそれは和樹の手を繋いだまま形になり向き合う。

完全に人型になったそれは、次第に色を付けて、新たな分身のようになり・・・違う、それは兄さんだった。

「切るぞ!黒川君!気を失ったら、すぐに病院に連れて行くからなっ!」

「切るな!」

懐かしい兄さんの姿、その顔が笑った。

カズキ、さぁ行こう!

「行ける!」

兄さんと一緒なら。思いどおりに。





黒川君が苦しむ姿に、自分はとんでもない間違いを犯したと後悔する。りのちゃんや麗香を守る為に、黒川君を聖なる犠牲にさせてしまった。VIDの世界におぼれる黒川君は、体中にミミズ腫れを増やしていき、顔と手は赤く腫れて、額から汗を流して、苦痛に顔をゆがませている。このままじゃ、身体が持たない。

藤木君も限界だと決断をしろと訴えてくる。

だけど、今、強制終了をすれば現実の脳が壊れる。今回は、前回みたいに一瞬の気の失いでは済まないと、凱斗自身も感じていた。画面を力強く睨みつけていた黒川君の黒目が一瞬、白目に変わり、頭が大きく揺らいだ。後頭部に手を添えて支えると、すぐに意識は取り戻したが

「今の状態を続けるよりは、強制終了して、気絶してでも病院に連れて行く方が適切か!切るぞ!黒川君!気を失ったすぐに病院に連れて行くからなっ!」

「切るな!」

「行ける!」

何が起きている?わからない。藤木君ならわかるか?そう思って視線を送ると、藤木君は眉間に皺を寄せて、首を横に振った。

「ありがとう、兄さん。」そう呟く黒川君。

VID内で兄と会っている?

さっきも同調を兄さんに手伝ってもらいましたと言っていた。

父親の警察監が、家が崩壊してでも明かさない黒川広樹が殉職した事件の真実を、知りたいと切に願っている事を知りながら、それをやってしまう可能性を知りながら、自分は目の前の事を解決する事にしか目を向けられないで、黒川君にこのPCを与えてしまった。

「着いた・・・・ライブラリに。ここは警察のデーターがびっしり詰まっています。」

そう言って目を輝かせた黒川君。凱斗は唇を噛んで見守る。

「鉄道警察、2010年11月6日 帝都電鉄スカイライナー人身接触事故報告書と、そして、2013年9月15日察庁刑事局、特殊事件捜査班、黒川弘樹巡査殉職に関わるすべての事件捜査報告書を。」

「黒川君・・・」藤木君も黒川君の顔を凝視して動かない。

「さぁ、閲覧は後でゆっくり、帰ろう兄さん。--------えっ?どうして?何故!」

「どうした?」凱斗は気遣いながら聞く。

「そんなぁ・・・」急に落胆の表情をする黒川君。

「どっちか一つだなんて。」

「どっちか一つ?」

「出口が小さい。どっちか一つしか運べない。真辺さんの事故報告書か、兄さんの捜査報告書か。」

藤木君とまたも目を合わせた。





兄さんが指さす出口は、飛び込んだ竜巻の円錐の尖がった方で、ドラム缶ほどの幅しかない。最後の最後まで壁は渦巻く竜巻の流れがあり、少しでも触れれば削り吹き飛ばされる。

和樹の目の前に大きさの違う二つの箱が並んで、空中に浮いて停止している。右に、兄さんが死ぬこととなった事件の捜査報告書は、抱えきれないほど大きくて、錠前のついた鎖が巻き付けられている。左にお弁当箱のように小さいだけの真辺さんのお父さんの事故報告書。兄さんの捜査報告書は出口より二回りも大きくて、無理に出れば、データーは両サイドの風の力に削り吹き飛ばされて、半分は損傷する恐れがある。このPAB2000を用いても運べないほどの資料、その事実が兄さんが死ぬ原因となった事件の大きさと重要性、厳密にされている理由である事を思い知らされる。鍵の付いた鎖も解除するのに時間を要するだろう。それでも、これは和樹がずっと手に入れたかったものだ。持ち出せばデーターの半分は壊れてしまうかもしれないけど、まったくわからないよりは、半分わかる方が断然いい。

2つ同時には無理だと兄さんは首をふる。だったら迷いなく選ぶのは兄さんの事件の報告書だ。

「それでいいのか?」と兄さんか、和樹自身かわからない声が内から聞こえる。

「そうだよ。ずっと欲しかった物。この為に僕はハッキングと言う犯罪に手を染めた。」

目の前にいる兄さんが悲しそうな表情で頭を傾けた。

「兄さんはいつも僕の思い通りにすればいいって、言ってたじゃないか。」和樹は兄さんの報告書に手を伸ばす。

「そう、思い通りにすればいい・・・カズキが本当にそれでいいのなら。」

その声は冷たく、和樹の胸にズキリと刺すようだった。

「本当に・・・いい。」

これは、2年間ずっと知りたいと求めていた物。真辺さんに会う前から追い求めていた物だ。

先にこれを持って出たら、皆はがっかりするだろう。だけど、もう一度潜れば、真辺さんのお父さんの事故報告書はあんなに小さいのだから、すぐに持って出れる。

「もう一度、最初から、潜りなおさなければならなくても?」

「最初から・・・」

自分の疲労を意識したら、もう一度、最初から竜巻に入り、風向きに向かって泳ぐのは、うんざりするほど辛い。

『それじゃ、遅すぎます。』

『りのちゃんをあのまま、5歳児の精神のままで、一週間もほっとけません。新田もです。あいつは、りのちゃん以上に限界です。それにりのちゃんのお母さんも。』

そう言って訴えていた現実世界を和樹は思い出す。

和樹がここに呼ばれて頼まれたのは、真辺さんのお父さんの報告書を警察からハッキングする為だ。そもそも、和樹がハッキングをしなくても、理事補が篠原さんに頼めば鉄道警察の事故報告書なんて簡単に手に入る。しかしながら、それでは遅いからという理由があったからこそ、理事補はPAB2000を和樹に使わせてくれたのだ。

依頼通りに真辺さんのお父さんの事故報告書を持って帰ってから次に、兄さんが死んだ事件の報告書を取りに行くのが筋だろう。だけど、和樹の中では、兄さんが死んだ事件の報告書の方が欲しい要求が上だ。

自己の欲求か、他人の要求か。

迷う。

思考が気持ちを邪魔している。

歪んだ景色の中で、理事補と藤木さんが和樹へ固唾をのんで凝視している。

「僕は、ずっとこれを求めて。」言い訳のように和樹はつぶやいた。

その言葉にこたえるように理事補と藤木さんは、黙ってうなづく。

「ごめんなさい。」






出したばかりの黒い絵の具のようなつややかな黒い真円に、追われ、そして行く手を阻まれて、僕は困っていた。

『和樹、何やってんだぁ?そんなところで。お母さんが遅いって心配してるぞ。』

『兄さん!助けてよぉ。』

『はぁ?』

友達の家に遊びに行った帰り、いつも通りに、落葉して寒々となってしまった公園を近道に歩いていた。

ふと、何かの気配に後ろを振り返ると、目が合った。

犬・・・・尻尾は千切れそうな勢いで左右に振り、笑っているように口を開けて腹式呼吸をしている。見た目で良いとわかるほど毛並みも肉付きも良くコロンとしていた。可愛いと思わず手を出しそうになるのを、和樹はぐっとこらえ、周りを見渡した。公園内は誰もいない。公園外の道は、スーパー帰りのおばさんが自転車で通り過ぎて行くだけで、この犬の飼い主らしき人は、どこにも見当たらなかった。

『お前、もしかして、迷子?』

そう呟いたら、返事をするかのように犬はキャンと吠えた。

下手に触ったら、拾得物として交番に届けなくちゃいけない。交番はここ周辺にはなくて、一駅向うまで行かないと無い。そこまで行くには面倒だし、もう日も暮れる。

犬は好きだけれど、半年前、家で飼っていたクロマメと言う名の犬が老衰で死んだ。僕が生まれる前から飼っていた雑種の番犬で、兄さんが5歳の頃に拾ってきて飼いはじめたという。それから13年間、黒川家の番犬として庭を守っていたクロマメ。クロマメが死んだ日、僕と兄さんとお母さんは大泣きして、庭に墓を作って埋めた。お母さんは、もう生き物を飼うのはしばらくいいわ。見送るのが辛いと言った。そして、自分より寿命の短い生き物は拾ってきたら駄目よと言われていた。

『お前、本能で帰れるだろ、さぁ、お家に帰りな。』

そう言ったら、犬は更なる喜びの尻尾を振って僕に向かってきた。

『うわーっ!駄目なんだって。』

触ってしまったら最後、拾得物として、こいつの飼い主探しや世話をしなければならない義務が生じる。まだ宿題をやっていない。今日は沢山宿題が出たのに、友達の高橋が新しいゲームを買ってもらったから遊びに来いよと誘われて、学校から戻ったらランドセルを玄関に置いたまま飛び出してきた。きっとお母さんは、宿題もせずにどこ遊びにに行っていたの!って怒る。その上に犬なんか拾って帰ったら、どんな怖い顔で怒るか・・・。

喜び満載の表現で突進してくる犬を寸前で交わして逃げた。犬は、それが遊んでくれていると勘違いして、飛び跳ねるように僕の後ろを追いかけて来る。

『あはははは、んで、困って滑り台の上に逃げて、降りれなくて困っていたわけだぁ。あははははは。』

『だって、触ったら最後まで責任持たなくちゃいけないって、お父さん言ってたじゃん。』

『ぷっふふふふふ。でもほんと、こいつ和樹の方ばかり見てるな。』

兄さんがお腹を抱えて笑う。

『逃げても逃げても追いかけてくるから、さっき高橋ん家でもらったクッキー投げたんだ。その隙に逃げようと思って。でも追いつかれちゃって。』

『ぶはははは、そんな事するからだろ。どれ。』

『あっ、兄さん触ったら・・・』

兄さんは、滑り台の麓でしっぽを振っているうす茶色い子犬を抱き上げた。

『おっ、こいつ女の子だな。首輪に名前は・・・・ナシかぁ。』

僕は滑り台を立ったまま滑り降りた。

『あ~あ、お母さんに怒られる。亀以外拾ったら駄目だって言われてるのに。』

『そんな事言っても、和樹、ずっと、ここでキナコと睨めっこしとくのか?』

『キナコ?』

『いくら迷子でも名前ないと不便だろ、それに、エサあげた時点で、和樹はキナコの面倒見る責任が生じた。ほらっ。』

と言って兄さんは、キナコと勝手に名前を付けた子犬を僕の胸に押しつけて来た。

名前つけた兄さんの責任はどうなるんだよっ、てのは口にしなかった、あまりにも名前がダサイから。

『ねえ、兄さん、もしかして、クロマメって兄さんがつけたの?』

『そうだよ。俺が拾ってきたんだから、何か?』

『ネーミングセンス悪う。』

『何言ってんだ、和樹は知らないかもしれないけどな、クロマメは拾った時、黒くて、ちっちゃくて、こんな最適な名前はないって爺ちゃんに褒められたんだぜ。』

『それ、きっと呆れていたんだと思うよ。』

『キナコだって、見ろ、まさしく黄粉色の毛。』

『そう、だけどさぁ・・・何で食べ物ばっかなんだよ。』

『ぴったりだよなぁ、キナコ!』

キナコは兄さんの名づけに満足したかのようにキャンと吠えた。

家に帰りながら、通りすがりの人達、特に犬の散歩をしている人達に、この犬の飼い主を知りませんかと聞きながら帰ったけど、結局キナコの飼い主は見つからず。抱いたキナコは暖かくて、毛がふさふさとして、もう手放すのが嫌になった。

『兄さん、キナコの飼い主、見つからなかったらどうする?』

『家で飼うしかないだろ。』

『でも、お母さんが、もう生き物はいいって。死ぬのを見たくないって。』

『お母さん、和樹がやりたいって言った事、今まで反対したことないだろ。絵だってどんなに部屋を汚してもやらせてくれてるじゃん。』

『うーんそうだけど、お母さん、クロマメ死んだ時、凄い泣いていたから・・・・』

『和樹の好きにしたら?お母さんの事を考えて別の飼い主を探して手放すか、お母さんに頭を下げて飼う事を許してもらうか、和樹のキナコなんだから、和樹の思い通りにしたらいいよ。』



見知らぬ部屋の景色に一瞬だけ戸惑う。

枕元にある携帯で時間を確認する。10時47分。約一時間ぐらい寝てしまっていたみたいだ。

体を起こすと、やっぱりフワフワと自分の体重が感じられない感覚がする。

「何故、キナコの夢?」

キナコは3日後に飼い主が見つかった。和樹がキナコと出会った公園の近くのスーパーで、お母さんが掲示板に探していますのチラシを見つけ連絡を取った。公園より一キロ離れた家で飼われていた血統書付の柴犬だった。本名は、もう思い出せないけど、洋風の名前で、柴犬に合わない名前だったから、兄さんよりネーミングセンス悪いって笑ったのを覚えている。

「この部屋も凄いな。」

この部屋を使ってと連れてこられた2階の部屋、柴崎先輩が何部屋あるかわからないと言うだけあって2Fは下の部屋よりドアの数が多い。明からに高いと思われるヨーロッパ調の家具、豪奢に装飾されたテーブルの脚とか、和風建築の和樹の家には絶対にないものばかりだ。

腕をまくって手の甲から腕の方まで皮膚の状態を確認する。ネット内で負った切り傷は、現実世界のこちらでは赤くミミズ腫れになっていたのは、もう跡形もなくなって、寝ている間に元に戻ったようだ。

ベッドから足を降ろして、ドアへと向かう。歩くとフワフワの感覚はレニーウォールに挑んで失敗した時より軽め、ちゃんと段階を踏んで出口から出てきたのがよかったんだろう。

すべてにおいて重厚で芸術的な装飾のドアを開けて部屋の外に出たら、足元にフワフワの感触が当たった。見上げてくる黒い目と合う。

キナコ・・・じゃなくて、えりは、毛布を頭からかぶってドアの横で座り込んでいた。和樹はすぐに視線を外して奥のトイレへと向かった。後ろからついてくる気配に立ち止って振り返ると、えりはまるで、だるまさんが転んだをしているみたいに、ピタリと立ち止まる。和樹はまた無言で歩きだし、トイレに入る。流石に中まではついてこなかったけど、和樹がトイレから出るとまた後ろからついてくる。

階段の前で振り返った。えりは、和樹が立ち止まるとは思っていなかったようで、慌てた様子で立ち止るのが遅くれた。

「ぷっぅーーー可笑しいっあはははは。』

「なっ、何?」

そうだ、えりと最初に出会った市の展覧会の時、夏の日焼けが残っている健康的なえりの肌の色を見て、キナコみたいと和樹は思った。その人懐っこさも合わせて、そっくりだ。

「ううん、何でもない。くっくくく。」

「えーまた思い出し笑い?」不貞腐れるえり。

「ずっと待ってたの?廊下で?」

「うん・・・」

「調べは?」

えりは首を振る。

「えり、邪魔者だから・・・。」

そういえば、言ってしまったのを思い出す。ハッキングの途中で、集中しなくちゃいけないのに、ごちゃごちゃ横でうるさかった。藤木さんや柴崎先輩たちに酷い言葉使いをしている。ヤバイ。

「ごめん・・・僕、必死だったから。」

「ううん、よかった。もう消えてるね。」えりは破顔して顔を覗きこんでくる。

本物の傷じゃない、言ってみれば思い込みによるものだ。だから治りが早いのだろうと勝手に分析する。

「ありがとう、心配してくれて。」

えりは、はにかんだように首を振る。

和樹の好きなようにすればいいよって言った兄さん。だけど兄さんの調査資料に手を伸ばすと悲しそうな顔をした。

だから、僕は思い通りじゃない方を選んだ。

「僕たちも調べに協力しに行こう。」

「うん。」えりの高い声が、キナコの「キャン」に聞こえた。

会合室に戻ると藤木さんと柴崎先輩と理事補が口々に声を掛けてくる。

「黒川君!もういいの?」

「大丈夫か?」

「あっ、はい。大丈夫です。あのー皆さん、すみませんでした。」

「何、謝ってるの?」

「あ、あのハッキングしてるとき、言葉使いが・・・僕、先輩に対して酷い事言って・・・」

「そんな事、気にしなくていいよ、部活でもないんだし。」

「そうよ。そんなの気にしてたら、えりはどうなるのよ。」

「えー、えり、ちゃんと敬語、使ってますよ。」

(兄さん、良かったよ、兄さんの思う方を選んで。)

「使ってるけど、ぎゃーとか、げーとか、私に対するリアクションは、とても先輩に対する敬いとは思えないわ。」

「柴崎先輩~、そんな事、気にするんですかぁ~。心、小さいですよ。」

もしあの時、兄さんの調査書を選んでいたら、僕は今、ここには居られなかった。

皆、大丈夫?なんて優しい言葉もかけてくれなかっただろう。

「あ、あのねぇ~」

「えりりんの勝ちだな。」

キナコの勝ち。

その黒い瞳とせわしなく振る尻尾と愛嬌で、一瞬で手放したくないと思わせたキナコは、3日後の別れの時、

僕と兄さんを泣かせたんだ。











夜に雨が降ったせいで、しっとりとした空気が顔にまとわりつく。まだ薄曇りの朝、亮は柴崎邸の裏にあるテニスコートの脇に置かれたバスケットゴールに向かってボールを投げた。ボールはボードに当たりもせず、ゴール淵の輪にあたり、派手に跳ね返ってくる。

進級式の後、りのちゃんは、ここで何度もフリースローをやって、連続で何回出来るかと新田と競争をしていた。小さい身体を身軽にポンとジャンプして、最高、何回入れてたっけ?新田に勝ったと笑って喜んでいた記憶はある。

足元に戻ってきたバスケットボールを拾い、もう一度、フリースローをする。ボールはやっぱり入らない。

黒川君はハッキングを成功させた。スタートから2時間ちょっと、彼はバーチャルのネット世界と同調し、警察のデーターベースに侵入し目的のファイルを見つけた。

黒川君のお兄さんの死因に関するデーターと、りのちゃんのお父さんの事故の報告書、どちらか一つしか持って出られない苦渋の選択を強いられ、選んだのは、りのちゃんのお父さんの事故報告書だった。

黒川君はすぐに、警察のデーターベースに再侵入した。がしかし、警察側も侵入者に対する対抗プログラムを構築してきて、黒川君自身の体力が尽き、警察のデーターベースを取り巻くシステムからはじき出されてしまった

黒川君は落胆し、PAB2000のパソコンの電源を落とすと、『疲れたので休ませてください』と、部屋を出ていく。ふらつく足取りに凱さんが介添えするのを見て亮は、彼の心情に辛労を痛切に読み取った。

一人、会合室に残こされた亮、黒川君の私物であるノートパソコンを前に、読み取った黒川君の思いに言い訳をしながら、皆が部屋に戻ってくるのを待った。

(知らなかったんだ。)

黒川君が何かを抱えて悩んでいる事は、能力で知っていた。だけど、事件の事は何も、彼のお兄さんが殉職して、その事件は公私において伏せられているなんて、そして、その事件の詳細を知るためにハッカーになっただなんて、知らなかった。

警察のデーターベースへの侵入は、彼が長年切望してきた事だった。それなのに、りのちゃんのお父さんの方を優先してくれた。

落胆して部屋を出ていく黒川君の本心は、哀しみと悔しさが重く沈殿していた。

そんな心を見知って、言葉一つかけられない自分がことごとく冷酷だと思った。

(知らないんだ。肉親を失う悲しみを。)

いくら嫌悪のある親でもまだ健在、爺さんもまだ元気だ。婆さんは亮が6歳の頃に死んだ。口を開けば、藤木家の恥じない様にと周囲に厳しい人だったから、亡くなってほっとしたのは、亮だけじゃなかった。お母さんや家内の使用人も皆、ほっとしていた。

だから、人の死の哀しみがわからない。ニコちゃんが身内の死に、心が壊れるほどになってしまった事、黒川君がお兄さんの死を受け止められず、犯罪をしてでも追い求めた情熱が。

身内の死に哀しみをわき起こせない自分。人々の死を利用して議員になった父、藤木守と変わらない。嫌悪を隠さず嫌って避けても、遺伝子細胞に父の遺伝子が確実にコピーされている。どうあがいても、無視しても、背けたくても、自身に、それら嫌悪が刻まれている。

『どうした?開けてないのか』会合室に戻って来た凱さんが、思考に耽っていた亮に声かけた。

『あ、はい・・・黒川君は?』

『大丈夫。心配ない。』そう言って凱さんは亮の気持ちを察してか、励ますように肩をたたく。

次いで麗華も部屋に戻って来て、凱さんはパソコンの前の椅子を引いて座り、キーボードの一つを押してスクリーンセイバーを解除した。


【帝都電鉄、スカイライナー人身事故調査資料    2011年11月6日    鉄道警察事故調査班】

と書かれた表紙が画面に表示される。

凱さんは次のページをめくろうとして、亮と柴崎へと顔を向けた。

『あー、えーとね。見せられる情報だけ取りだして、プリンとアウトしてあげるから。ちょっと画面の見えない位置に移動してくれる。』

『?』

凱さんの言っている意味が、今一わからずキョトンとする亮と柴崎。

『写真もあるからね、麗香は特に、藤木君も見ない方が、いいと思うよ。』

そこで初めて死体の写真がその報告書にはあるのだと理解した。

『いえ、大丈夫です。写真から何か読み取れる物があるかもしれませんし。』

霊能力者じゃあるまいし、写真からは何も読み取れない。ただ、自分が調べようと言ったのに何もできず、黒川君に任せきりの自分の無能さが嫌だった。小さなプライド、強がり。柴崎の前だったから、死体の写真が怖いなんてことも言いたくなかった。だけど、そんな子供じみた強がりを出したことに、亮はすぐに後悔した。

事故調査書は5ページ目から写真の書類が掲載されていて、緊急停車した特急スカイライナーの車両の写真が掲載されている。ライナー正面の下部で血で汚れている個所、そのアップ。はまだ良かった。ページが進んで、被害者の身元の詳細と遺体検分の写真が掲載されていた。りのちゃんのお父さんの遺体写真・・・それは惨いものだった。腰から下はありえない方向に曲がり、右腕はちぎれて、別に置かれている。頭部は右半分が削りつぶれていた。もう、それはホラー映画に出て来そうな無残な状態。顔全体がつぶれていれば、さながら特殊メイクとでも思い、亮は平気だったかもしれない。なまじ右半分は損傷なく、英会話のスピーチ大会のバックで、スライド映写された家族写真の中で笑っていた男性と同じ顔だったのがいけなかった。りのちゃんのお父さんだと判別が途端に、亮の強がりは瓦解した。夕飯にごちそうになった寿司が込み上げてきて、トイレに駆け込んだ。

写真でしか見たことのない友人の父親の遺体、男の自分ですら吐いてしまう。

りのちゃんは、大好きな父親のそれを見たのかもしれない。心が壊れて当然、声を失って当然。

大理石の洗面台をグーで殴っていた。ニコちゃんの過去を共有するだけでもいい、なんて言ってこの様。

何もかも、すべての自分が嫌になった。自分の覚悟の小ささに、大きすぎた過去の共有は入りきれない。

『藤木、大丈夫?』柴崎が扉の向こうから声をかけてくる。『入るわよ。』

普通の家庭にあるようなトイレじゃなくて、洗面と個室が別になっているから、柴崎は亮の返事を待たずに遠慮なしに入ってくる。

後ろの棚からタオルを取り出してくれた柴崎を抱きしめていた。自分だけでは抱えきれない共有、柴崎に少しだけ預かってもらおう。

『藤木・・・』

『・・・ごめん、少し、我慢してくれ・・・』

柴崎の手が背中に回ってさすってくれる。柴崎のやわらかなぬくもりが、背中から、腕から、胸から伝わるのを共有しながら、思った。

りのちゃんは4年前、こうして、誰かと辛さを共有する事も出来なかったんだと。

はじめて人の死の寂しさを知ったような気になった。



バスケットボールを、手を使わず足先で手前に回転させ、足の甲に乗せてからポンと蹴り上げ、手で受け止める。

バスケ部の今野に見られたら怒るだろうなと思った時、人の気配に気づき振り向く。

「おはよう、藤木君。」柴崎のお母さん、つまり学園の会長が歩いて来ていた。

「おっ、おはようございます。」亮は若干の驚きと戸惑いで、姿勢を正す。

「早いわね。もしかして眠れなかった?」

「あっ、いえ、いつもと同じように起きてしまって・・・」嘘をつく。本当は指摘通り、朝まで眠れなかった

亮が吐いた一時間後に、黒川君はえりりんと一緒に会合室戻ってきて、交えて、りのちゃんのお父さんが自殺じゃない何かを事故報告書から探した。驚いた事に、黒川君はその事故報告書の写真を見ても、顔色一つ変えることなく、拡大して写真を見たりしていた。亮はその精神の強さに驚いた。

しかし、あらゆる可能性、議論をしても、自殺じゃない何かを見つける、もしくは推測も何も行き当らなかった。

えりりんの大あくびをきっかけに、「続きは明日にしよう」と言ってやめたのが夜中の12時を過ぎていた。それから個々がシャワーなどを使って就寝したのは、おそらく2時を過ぎていただろう。朝の6時の今、誰もまだ起きてこない。

「あっボールの音、うるさかったですか?もしかして起こしてしまいましたか?」

「いいえ、大丈夫よ。ふふふふ、流石、藤木君ね。麗香の言う通り気配りが抜群ね。」

「えっ?あっいや・・・」まさかこんな事ぐらいで褒められるとは思っていないので、あたふたとする。

「ふふふふ、ごめんなさいね。私、一度あなたとお話しがしたいと思っていたの。」

「僕とですか?」かしこまって僕だなんて普段使わない人称を使ってしまう。柴崎のお母さんは、貴婦人と言う表現がぴったりな、ショールを肩に羽織っていて、この洋館にふさわしい気品に満ちている。

「そう、藤木亮君、あなたと。」

フルネームで呼ばれ、何かまずいことでもしただろうかと亮は頭の中で記憶を探りまわす。もしかして昨日のあれ?柴崎に抱き付いたの、どこかから見られていていたとか?この洋館なら防犯カメラが、あちこちにあってもおかしくない。マズイ。

こんな場合は、さっさと謝るに限る。

「すみま」 

「大きくなったわね。」

え?予想外の言葉。

「まだ小さいころ2度ほど、あなたとお会いしてますよ。」

柴崎のお母さんとあったことある?子供の頃?いつだ?亮には思い当たる節がない。

「覚えてないかしら?あなたたちが5才の頃、帝都ホテル50周年パーティで大人のまねして麗香と社交ダンスを踊った事。そして7才の頃の文部科学省主催の教育改革推進フォーラムでの場で。」

「あっ・・・はい。いや、あの、それに出席していたのは覚えています。でも、その・・・・。」

「ふふふ、私の事は覚えてない。」

「すみません。」

「謝ることないわよ。出席した事を覚えているだけでも凄いわよ。麗香なんて全く覚えてないからね。」

「はぁ。」

柴崎のお母さんは穏やかに笑んで亮に一歩近づいた。そして掻き合わせたショールから手が伸びて、

「辛かったわね。」亮の頬にそっと触れた。

「え?」

「あのフォーラムで、あなたのお父様とご挨拶した時、そばに居たあなたが、私と同じ能力を持っているとわかって。まだこんな小さな子供が、人の本心を見知っていると心が痛んだ。----その後は、お父様とは何度かお会いしているけれど、あなたは見かけなかったから、どうしているかとずっと気になっていたの。」

同じ能力・・・・柴崎のお母さんが同じ、人の本心を見抜く目を持っている?

柴崎のお母さんは、嘘を言っていない。

「麗香から、あなたの名前が出るようになって、すぐにあの時の藤木大臣の息子さんだとわかった。」 

「・・・・・・」あまりのことで、亮は言葉が出ない。

「幼きながらも同じ能力持つあなたが、どうなるかと心配だったけど。安心したわ。」裏のない本音の言葉。そして微笑み「今まで、よく頑張ってきましたね。」

その言葉は、この能力に対しての、初めて他人に言われた労いだった。

人の本心がわかってしまう事の苦悩、苦痛を、今までだれ一人として、真に理解してくれる人なんていなかった。それが頑張ってきた来ましたねと労ってくれた。胸と目が熱くなる。

瞬きをすれば、涙が落ちるとわかっていたから、耐えていたけれど、ついにあふれる涙を止められなくなり頬を伝った。

「それから、麗香を変えてくれてありがとう。」

「いえ、俺は何も・・・。俺は言っただけ、変わろうと努力したのは柴崎だから。」涙声の自分の声に恥じる。

「そうね。みんな頑張ったわね。」

親の前でも、もう10年以上、泣いていない。

「恥じることはありません、何歳になっても泣くことは必要よ。」

はじめて、人に心を読まれる、逆のパターンを味わう。

そしてわかった、自分は誰かに認めてほしかったのだ。

この力を、この努力を、この孤独を。

「ごめんなさいね、ショールで。」柴崎のお母さんは、止まらない涙をショールで拭いてくれる。







ホテル朝食のような食事を食べた後、えりたちは昨晩の続き、ニコちゃんのお父さんが自殺ではない何かを探して、会合室に集まっていた。昨晩から降り始めた雨は、えりが目覚めのカーテンを開けた時、細く霧のような小雨になっていたから、このまま止むかと思われたが、雲は途切れることなく重く垂れ込めて、また庭木の葉を揺らす雨となった。日差しの入らない会合室、えりたちは進展のない事故報告書を前にして雨雲と同じような重いため息をつくばかりだった。

自殺に間違いのない事実ばかり。もう、何度も繰り返し読んだ事故報告書、独特な用語を使って書かれている文面に、最初は戸惑って意味が分からなかった物も、覚えてしまうぐらいに何度も読み、飽きた。

(だいたい、自殺じゃない何かって、何?)

何か不審な点があったとかって言うならまだしも、自殺と処理されて確定している事故報告書は、何の落ち度もなく綺麗に結審されている。

(もう自殺でいいんじゃない?ニコちゃんのお父さんが自殺した詳細を皆で共有するだけで、昨日、藤木さんそう言ったじゃん。)

えりは大きなため息をついて報告書をテーブルに置くと、柴崎先輩がちらりとえりをねめつけてから発言した。

「遺留品のリストに、贈答品ってあるんだけと、これって何かしら。」

「それ、おそらく、この右手の手に持っているものだと思います。握ったまま亡くなっているので、おそらく飛び込む前から持っていて、線路内に入ったんだと思われます。飛び込んでから、鞄とかスーツのポケットから出すという時間は、ありませんから。」

藤木さんが顔をしかめる。黒川君はプリントアウトしたものじゃなくて、ハッキングしてきたデーターを直接、PCの画面を見ながら話している。昨日から黒川君には驚き。えりが慎にぃを騙したイタズラの時もすごいとは思ったけど、昨日のは、もっとすごかった。どうしたらあんなに早く指が動かせるのだろうかと思うほど早く、キーボードをたたく。そして、血まみれの遺体の写真を平気で見ている事も驚愕だ。優しい絵を描く黒川君とは別人のようで、若干の怖さを覚える。

「握ったまま?」

「はい、白とピンクの水玉の包装紙に赤いリボンがついていますから、これに間違いはないと思います。他に贈答品に当たるものは、遺留品の写真に見当たりませんから。」

「赤いリボン・・・・プレゼント・・・・」藤木さんが驚いたようにつぶやいたのを、柴崎先輩が、ハッと両の手を口に当てて同意する。

「ニコの誕生日・・・」

そうだ!おじさんが亡くなったのは、ニコちゃんの誕生日の翌日の朝。

「誕生日?」凱さんと黒川君だけが何のことかわからない顔をして、あたしたち3人の顔を不思議そうに見比べる。

「ニコちゃんの誕生日、11月5日なの。」えりが答えた。

「じゃ、これは・・・・」凱さんも、黒川君も、やっとその事実に驚いて、もう一度pc画面の写真へと視線を向ける。

「ニコへの誕生日プレゼント・・・」

柴崎先輩は最後まで言えずに、涙を落とすのを耐える事が出来なかった。えりも涙が出てくる。

ニコちゃん、こんな辛い現実を一人で抱えていたんだ。

えりがニコちゃんへあげた誕生日プレゼントを、一昨年と去年の2回ともニコちゃんは無表情に受け取るから、うれしくないのかなと少しムッとした。誕生日が来るたびに思い出す辛い過去に、そりゃうれしいはずがない。

それに、えりは酷い事を言ってしまった。慎にぃが、あたしをひっぱたいたのも無理はない。

「ちょっと待ってください。どうして前の日の誕生日プレゼントを握っているんですか?」

黒川君の疑問を、藤木さんは手をグーしてつぶやくように答える。

「りのちゃんは、自分がお父さんを死なせたと思っている。誕生日会は父親の帰りが遅くて、それが原因で夫婦喧嘩になり、できなかったと、りのちゃんのお母さんが以前、言っていて・・・・。ここからは予測だけど、ニコちゃんのお父さんは朝、出勤前に渡そうとしたんじゃないかな。それが何らかの事情で、渡せなかった。だからそのまま持って出て・・・・。」

いつも穏やかに笑っている凱さんが、苦悶に事故報告書を握りしめた。

「あるいは、ニコに拒否されたか・・・。」と柴崎先輩は鼻をすすりながら語る。

「それはないだろ、りのちゃんは、お父さんの事が大好きで。」と藤木さん。

「大好きだから許せないのよ。自分の誕生日は、どんなに仕事が忙しくても、この日だけは早く帰ってくる。ニコは楽しみに、そう思っていたに違いないわ。それが帰ってこなくて、誕生日会も出来ない上に、夫婦喧嘩が始まった。その頃は学校でいじめに合っていた時期でしょう。大好きな父親と家で祝う誕生日を心待ちにしていたのは簡単に想像できる。どんなに大好きだった父親に謝られても、誕生日会が出来なかった事を簡単には許せない。1日遅れのプレゼントなんて要らない、朝、そう言って拒否した・・・私がニコの立場だったら、そうするわ。」と柴崎先輩が力説するのを、えりも強く、うなづいた。それを男性陣は微妙な顔をして俯く。

「だから、その数時間後に自殺したお父さんを、死なせたのは、誕生日プレゼントを拒否した自分だと思いこんだ。」

「・・・・・・」

「じゃ、やっぱり、りのちゃんのお父さんは自殺に間違いないって事になるね。娘にプレゼントを拒否されて、ショックで投身した。うつ病も発症していたから尚更って事になる。」

全員が黙った。

確実に自殺で確定の要素しかない。

重苦しい空気、お笑い担当のえりでも払しょくできない。  





「慎一・・・」

「ん?」

「学校は?」

「ないよ、今日は日曜日。」

「・・・・そう、日曜・・・・」

りのは、カレンダーを探しているように、うつろな目で部屋を見回したけれど、カレンダーはここにはない。代わりに時計を見て、またゆっくりと慎一に顔を向ける。

「サッカーは?」

「雨で中止。」

「・・・・雨・・・・」

「うん、雨、降っているよ。外、見てみる?」

昨日の夜からしとしと降り出した細い雨は、朝方に一旦やんだけど、8時ごろに今度は本降りの雨に変わった。昨日の土曜日は熱が出たと嘘をついて学校を休んだ、もし雨が降っていなかったら、その続きで今日の練習は体調がまだ良くないと言ってクラブは休もうと思っていた。だけど顧問の石田先生から、今日の練習は雨で中止と連絡があって、慎一は、サッカー部全員に連絡網の携帯メールを送った。それをしてから家を出て、病院に向かい、朝からずっとりののそばに居る。

りのは、5歳児の意識と15歳の意識を繰り返していた。5歳児の時は昔のニコと変わらず元気いっぱいで、目を離すと病室を抜けだし、廊下を走って外で遊ぶと言い出す。だからりのは、別館となっている精神科病棟の施錠のできる病室に移されてしまった。

元気いっぱいの5歳児のニコに体力を奪われるのか、14歳のりのである時はぐったりとしていてうつろな顔で、話す言葉も少ない。

慎一は椅子から立ち上がり、レースのカーテンを開けて、りのに外の様子を良く見えるようにしてあげた。

カーテンの空ける音に、ゆっくりと窓の方に向けたりのは、窓際のテーブルに置いてあった折り紙の手裏剣に気づく。

「それ・・・」

午前中、5歳児のニコに作ってあげた折り紙の手裏剣、ニコは喜んで何度も投げて遊んでいた。

慎一はその一つを取って、りのの手にのせてあげた。

「折り紙の手裏剣。昔よく遊んだな。」

「あぁ、遊んだ・・・・スターリン・・・・」

スターリンは覚えているんだ!あれは約2か月前の事。

「りの!そうだよ。スターリンでも遊んだ。子供たちと。夏の事だよ。子供たちと夏祭りのお店を回った。」記憶を呼び戻そうと、慎一は矢継ぎ早に話す。「グレン!グレンは、覚えてるだろう。りのが好きなグレンを。」

「グ、レン?」りのは首を振り、わからないとつぶやく。

慎一はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、そのころに撮影した写真を見せようと急いで操作する。

「りのは、フランスでグレンと友達だった。フランス語でいっぱい話していたたろ。」

「・・・・違う。私はニコ・・・りのじゃない。」

「りの!ほら、これ見て!フランスの友達がいっぱい。りのと一緒に写ってる」慎一は以前、グレンから送信されてきた写真をりのに見せた。

「違う。りのは、もう・・・いない。」そう小さくつぶやきながら、りのはまた眠りについてしまった。

慎一は、起こしていたベッドの角度を平らにして、枕の位置を正す。

手にやわらかな髪が触れた。こんな時にしか触れない乱れたりのの髪を、やさしく正した。

次に目を覚めすのは、5歳のニコか?14歳のニコか?

それともこのまま目を覚まさないのか?

りの自身もわからない。





和樹は迷っていた。この情報を皆に開示するかどうか。

昨日の遅く、えりの大あくびをきっかけに事故報告書の調査を終え、各々があてがわれた自室に向かった。和樹は仮眠をとった部屋へ、ロビーの回廊階段の外窓に雨粒が垂れ落ちているのを見て、初めて雨が降っているのに気づいた。そのことを口にすると、藤木さんは『8時ごろから降り始めていたよ』と教えてくれた。仮眠から目覚めた時も全く気付かなかった。

先輩たちにお休みの挨拶をして和樹は、自分のノートパソコンを抱えて2階の個室に入る。

ベッドとは反対側にデスクが置かれてある。そこにノートパソコンを置いて和樹は座った。

いくらもせずに部屋がノックされて、和樹は若干の鬱陶しさを胸に抱きながら、扉を開けに行く。

『ごめん、黒川君、いいかな。』

『あ、はい。』

声のトーンを落とした藤木さんを部屋に招きいれた。

『その・・・お兄さんの事、なんて言っていいか・・・』伏し目がちに首を振る。和樹が長年求めていた物を捨てて真辺さんのお父さんの方を選んだ事に対して、気にしているようだ。

『ごめん。辛い選択をさせてしまった。』

『いえ、気にしないでください。また潜ればいいだけの事ですから。』と軽く言っておいて、その言葉よりも、ずっとそれが難しいことだと和樹は体感していた。次は、きっと今日より攻略は難しくなる。ハッキングすればするほど、相手は更なる強固の物を創ってくるのがセキュリティシステムの常識。またのチャンスがあるかどうかもわからない上に、和樹のスキルがこのまま向上しているかどうかも分からないのだ。

『それなんだけど、りのちゃんのお父さんの事を知らべようと言った俺が言うのも、おかしいのだけど・・。』

藤木さんは一旦そこで、言いにくそうに言葉を切った。親しくしてくれているとはいえ、先輩は先輩で気遣いしなければならない状態から、やっと解放されたと思った所の訪問。間を持たせ、要らない同情をくれる藤木さんにイラついた。

『世の中には、知らない方が幸せな事ってあるから、その・・・無理に知ろうとしない方が、いいんじゃないかな。』

何を言うかと思えば・・・

世の中には知らなくてもいい事がある事ぐらいわかっている。だけど、知らなければ前に進めない事がある事も事実。その判断は誰がするのか?大人だけが、その権利があるとは思いたくない。知りたいのは大人も子供も同じ。大人の言いつけを守れる素直さは、兄さんがいなくなって捨てた。

『大人の行動の理不尽さに、堪らなく嫌気がさすこと、わかるよ。特にそれが身内であれば、最悪に反吐が出るぐらいにね。』

と言って苦笑交じりに眉尻を上げる藤木さん。和樹は思い出した。ハッキング前に藤木さん自身が、家の事を「失墜するなら願ってもない。」と言っていた事を。

『藤木さんのお父さんって、藤木文部大臣で、お爺さんも内閣総理大臣だった・・・』

藤木さんはゆっくりうなづいて

『政治家の理不尽さは折り紙付きだよ。』と言って肩をすくめる。

『だったら、どうして知らない方が幸せだと言うんですかっ』和樹は語尾を荒げた。『それは藤木さんも僕を子ども扱いしているのと同じ』世の中の摂理のように説き伏せるのは、守秘義務だと一言で寡黙に貫きとおす父よりも質が悪いように思われた。

藤木さんは目を細めて和樹を見る。

『警察官よりも質の悪い政治家の、沢山の理不尽さを見知って来たからこそ、言いたかったんだ。』

『・・・・』

『世の不条理さを知れば前に進めなくなる、そして後悔する。幸福は未来にはなく過去にあったと。』

哲学めいた言葉で和樹を説き伏せる藤木さんがとても大人に、理事補よりも大人びで見えた。(あぁ、だからこの人には自分の気持ちを分かってもらえない。)と思った。その瞬間、藤木さんは、顔を顰めてうつむき、つぶやいた。

『余計な助言だった。』

この人は・・・人の顔色を読むのがうますぎる。そう和樹は感じて、同時に怖くなる。心の声をそっくりを読まれているようだ。

『本当に、ごめん、今回は、黒川君に頼りっぱなしで、借りも作ったから、先輩風を吹かせちゃったよ。』

そう言って顔を上げた藤木さんは、大げさに破顔して後頭部を掻く。

『部屋にまで押しかけて悪かったよ。あっそうだ。風呂、先に使っていいかな。』

『あっ、はい、どうぞ。』

戸惑う和樹を尻目に、藤木さんは入って来た時とは正反対の様相を装って出て行った。

やっと一人になった和樹は、大きなため息をつく。

本当に余計な助言だ。なんの慰めにもならない。むしろ、余計に反発心が生まれる。

『世の不条理さを知れば前に進めなくなる、そして後悔する。幸福は未来にはなく過去にあったと。』

幸福は未来にない?現在にもない自分には、何の後悔もすることなくちょうどいいじゃないか。

隠されている事件がどんなに悲壮なものだったとしても、知った喜びを得られる方がまだ断然いい。知らない段階で、それを危惧していては、時は止まったままだ。お母さんのように。

和樹はテーブルに戻りパソコンを立ち上げた。このパソコンでもう一度、侵入できないだろうか?

腕を組んで考える。PAB2000で再侵入を試みて、はじき出されている。警察の情報処理課は、和樹が侵入したことで、破られたセキュリティの修復と防御システムの重層化を構築している。もう同じ手法での侵入は不可能だろう。ましてPABよりも処理能力の劣るこのパソコンじゃ絶対的に無理だ。

何か別の方法を考える。

PABよりも劣るけれど、バラテンさんが和樹にくれたパソコンは、一般的に量販されている最高グレードのパソコンよりは2倍ほどの処理能力がある。

レニーウォールや、警察のデーターベースのような重要ライブラリィのハッキングは無理でも、脆弱なセキュリティの所なら、簡単にハッキングできる。

兄さんが死んだ事件の捜査報告書そのものじゃなくてもいい。兄さんの事が書かれているものだったら、何でも。

和樹は、目の前にして手に入れられなかった枯渇を、潤す水を求めるように、もう、何もしないではいられなかった。

ハッキング専用のプログラム画面に切り替える。

すぐに和樹の脳はネット世界に入り込んでバーチャルの世界を創る。が、しかし、何をどう調べ集めるか、思いつかない。そもそも兄、黒川広樹巡査部長に関するサーチはやりつくしていた。同じワードでサーチしても意味がない。

ふいに理事補が、言っていた言葉を思い出した。

『黒川広樹、君のお兄さんも常翔学園の生徒だった。僕の一つ下の学年。学生だった頃の君のお兄さんとの面識は、僕はない。学園に訃報が届いて、一緒の時期を学園で過ごしていたのだと知っただけ。』

そういえば、兄さんの死の理由を知りたいが為に、警察官である兄さんの事ばかりをサーチしていた。学生だった兄さんの事は全くサーチしていない。

和樹は黒川広樹―常翔学園というキーワードで情報を集める。

近未来の世界、和樹がたたずむ場所からすぐ近くの場所が集中して沢山の情報がある。当然のことながら、そこは常翔学園。和樹はひと飛びでそこに向かい、集まった兄さんに関する情報の束を手にとり、眺めていく。

中等部から入学した兄さんの成績表、兄さんは概ね80位から120位の間に位置している。体育祭、文化祭における兄さんの担当役割、学園では剣道部に入部していた時の練習日誌、大会成績等々。今、和樹自身が日々紡いでいる生活感と同じものが見て取れる。感慨深いとか特別の感情は起きない。黒川広樹という名前が記されただけのそれらは、ただの資料でしかなかった。篠原さんがバディを組んだ時の様子を語ってくれた時の方が、もっと感動したというか、うれしかった。

和樹は手にした資料を振り投げるようにその場から飛ばし、消していく。

最後に、日直当番の日報を投げ消そうとして、ふと手に止めた。

日報・・・

真辺さんのお父さんが事故死した日の日報があるはず。鉄道警察警備課ではなく、帝都電鉄駅長瀬駅の事故当時の日報があるはず。鉄道警察の事故報告書と変わりない内容だとは思うが、おそらく鉄道会社の日報の方が、時系列的に詳しく、鉄道会社としてどう対処したかなど生々しく書かれているだろう。事故調査書は事故車両と被害者だけにおける事由を集約されてものであって、当時の駅校内の状況は書かれていない。

鉄道会社のデーターなら警察ほどのセキュリティを施しているとは思えない。このパソコンでもハッキングは可能かもしれない

そう思ったと同時に、身体は動いていた。

目の前に、東京駅のような横に長い建物がそびえている。すべての扉、窓は固く閉じられていて、その左右に駅員さんが笛を口にくわえて仁王立ちしている。駅員がセキュリティシステムの具現化だと考えていい。すべての窓に二人の配置だからまあまあの数、セキュリティ対策をしている。

さて、どうやってあれらを交わして侵入するか、和樹が腕を組んだ拳を顎に乗せた時、足元で「キャン」と鳴いた声を聞く。出したばかりのつややかな黒い絵の具ような目、フワフワのきな粉色した毛、

『キナコ・・・』は和樹の視線を捕らえると千切れそうな勢いでしっぽを振る。

答えるように『キャン』と吠え、嬉しそうに舌を出し腹式呼吸をする。

『しっ!吠えちゃ駄目。』和樹がしゃがんでキナコの頭をなでてやると、キナコは和樹の手のひらをクンクンと嗅いで、東京駅のような建物に飛び跳ねるようにかけていく。正面の入り口に立っている駅員を前にして一旦足を止めたキナコは、腰を落として、「うー」と威嚇をしてから駅員の顔にとびかかった。駅員はキナコを払いのけて「ピー」と笛を鳴らす。すると周りにいた駅員も次々に笛を鳴らして、駅舎全体が赤く点滅する。警戒態勢に入ったと思われる。

『あぁ、何してるのキナコ!』和樹は呆れて顔を覆い、天を仰いだ。

キナコは和樹の危惧をよそに別の駅員にとびかかり、払いのけられては、体制を整えてまた次の駅員へと飛びかかっていく。そして小さい体は元気よく走り回り、駅員はそんなキナコを捕まえようとして、後を追う。持ち場を離れた駅員達。

キナコはチャンスを作ってくれているのか。

和樹は駅員の混乱で空いた扉の前に進んだ。扉に設置されているカード差し込み口に、一振りで表せた黒いカードを差し込む。目の前に半透明な画面が表れ、真ん中に15の四角い枠の中の文字が、英数の文字が順に変わっていく。パスワードの総当たり解錠は何億通りだろうか、和樹にもわからない。スピードが遅い。PABじゃないのだから仕方がない。和樹はキナコの様子をかえり見る。キナコは沢山の駅員に追いかけられ、遂に取り囲まれた。果敢にも取り囲む駅員達を威嚇して牙をむく。助けに行ってやりたくても行けない。

『キナコ、がんばれっ』

和樹の声援にこたえるように、にじり寄った駅員の手にキナコは噛みついた。振り解こうとする駅員にも負けず、キナコは噛みついたまま離さない。身体は空中で上下に振られる。

周囲の駅員が、キナコの身体を掴み引き離した。そして床にたたきつけられる。

『ギャン』キナコは叫びをあげてぐったりと動かない。

『キナコ!』和樹が叫んだと同時に扉の暗証番号が判明し、解錠に成功する。

取り囲んだ数十人の駅員が警棒のようなものでキナコを一斉に叩いた。キナコは七色の光を放ち消滅する。

『あぁ、キナコ!』

和樹の嘆きに駅員が振り向き、こちらに来ようと動き出した。

和樹は慌てて扉を開け中に入る。即、暗証番号を変更し施錠。

駅舎の中は広く無数のスチール書棚が並んでいる。


帝都電鉄、長瀬駅2010年11月6日と念じる(現実世界ではキーボードで実際に入力している)と、一つのファイルが書棚から飛来して和樹の前で止まった。




キナコの協力によって得た長瀬駅の運行日報のファイルにカーソルを当てて、迷っていた。これを開示すれば、和樹が理事補に許しなくハッキングしたことがバレてしまう。理事補とは、今回のような特別の依頼や学園のセキュリティにメンテナンスをするとき以外では、個人的にハッキングする事を禁止されている。特にPAB以外のパソコンで行う事は和樹個人の保護と脳の負担を考えて、絶対にするなと言われていた。

自殺に違いないと確定してしまった沈んだ空気、えりや柴崎先輩は涙ぐんいる。

和樹は耐えられなくなって声を発した。

「気になる証言があります。」

「気になる証言?」藤木さんが目を細めて和樹の顔を覗く。

「帝都電鉄、長瀬駅舎運行日報の中に、事故の翌日、事故現場の人だかりから飛び出てきた青年に突き飛ばされて、それを咎めると「違う、俺じゃない、俺のせいじゃない。」と、つぶやく青年が居たと証言した女性の存在を記す記述が。」

「運行日報!?もしかして、君は自分のPCで!」理事補が声を荒げた、の方に和樹は顔を向けずにうつむいた。

「・・・すみません。」

「約束したよね。いや、それより、それが、どんなに危険な事か、君が一番わかっているはずだ!」

「わかってます。覚悟はしています。学園に迷惑はかけません。」

「迷惑とかの問題じゃないんだ、君の体の事も含めて」

「凱兄さん!それは後にして!」柴崎先輩が、鋭く制した。「違う、俺じゃない、俺のせいじゃない。」って、どういう事?」

柴崎先輩の迫力に理事補は口を噤み後ろに下がった。

和樹は自室に戻ってから、ふと、鉄道警察の事故報告書だけじゃなく、事故のあった駅のその日の日報ってのもあるかもしれないと思いついて、個人のパソコンからハッキングして、取得した事を語った。事故当日の長瀬駅の日報は、当然のことながら通常時より書かれていた内容が多く、駅構内の混乱状況が詳細に書かれていた。和樹はそれに一通り目を通したが、特に何か引っかかるものはなかった。若干の落胆の思いで何気に次の日の分にまで目を通した。それで見つけたのだ。

「これです。事故の翌日、11月7日の運行日報、駅乗務員室、顧客の問い合わせに対しての対応。」

事故の翌日に、前日の事故について、問い合わせをした女性とのやり取りが書かれてあった。




    

黒川君が凱兄さんとの約束を破って、自分のPCでハッキングしたデーターが、絶望を希望に変えた。

事故の翌日に、前日の事故のあった被害者の葬式に行きたいからと住所を聞きに来た女性がいた。被害者の個人情報は当然ながら規定により教えられない旨を告げて断りを入れたが、女性は次いで事故のあった日、現場に居て、事故現場から飛び出してきた20代ぐらいの青年が「違う、俺じゃない、俺のせいじゃない。」と言いながら走って来て女性を突き飛ばした。その行為を見ていた隣人の男性と共に咎めると、「お前も、落ちて死ね」と暴言し階段を下りて行った。と証言をしていた。

日報には、その女性の住所と電話番号が記されており、早速、麗華たちはその番号に電話をかけた。しかし、【現在、使われておりません】となって、また、黒川君のハッキングの手腕に頼ることとなった。書かれていた住所のある市役所のデーターベースへとハッキングをする。それは完璧な犯罪行為だったが、もう麗華たちは意識が麻痺していた。市役所のセキュリティを突破するのに、また夕べのように時間かかるのかしらと思っていたら、黒川君は、5分ほどのカチャカチャで、あっさりとやってのける。

「日本の役所なんてゆるゆるですよ。」と言う通りに、ゆるゆるのセキュリティの役所が駄目なのか、いや、そう言って微笑む黒川君が凄いというより、もう末恐ろしい。やっぱり、この子と付き合うの、やめさせた方がいいかしら、とえりの方を見やったら、すごーい、なんて言って、キラキラの目で黒川君を褒めている。

えりのゆるゆるの警戒心がすこぶる駄目だ。

証言の女性は、事故の直後、引っ越しをしていた。

「ねぇ、どうして、この証言は事故調査書に書いていないの?」

「うーん、どうして、だろうね。」

麗華の疑問に凱兄さんも藤木も唸る。それに対して答えたのは黒川君だった。

「警察に完璧の正義は、ないからです。」

昨日も同じこと言っていた。お兄さんが殉職された事、詳しい事は何も知らないけど、警察に対して何らかの不服をふくんだ言葉と顔色に、麗華は詮索をしないではいられない。

「昨日も、同じ事を言ってたわね。黒川君あなた」

「麗香。」凱兄さんが首を振って、麗華の口を制する。

麗華は不服ながらも口を噤み、気持ちを切り替えた。今は黒川君に対する疑問よりも、ニコのお父様の事が優先を要する。黒川君には、まだまだやってもらわなくてはいけない事があるだろう。ここで、うかつな事を言って、黒川君に嫌らわれて抜けられたら困る。変に、止まってしまった会話を藤木が繋げる。

「黒川君、何か思う所があれば言ってくれないかな?君が警察に関して、普通じゃない感情を持っているのはわかる。何を背負っているのかは聞かない。だけど、こと警察内部の事は君が一番よく知っているのも事実、俺たちは君に頼るしか無い。」

「すみません・・・・。僕の推測を言っていいですか?」黒川君は、軽い深呼吸してから凱兄さんに顔を向けて確認する。凱兄さんも無言でうなずく。

「あくまでも予測ですが、事故調査書に、この証言が書いていないのは、真辺さんのお父さんの所持品に精神科の診察券があったからど思います。それで、うつ病による自殺と判断されたんでしょう。」

「ちょっと待って、じゃぁ警察は、ちゃんと捜査しないで診察券があるからってだけで、自殺と判断したって事?」

「あ、いえ、全く捜査していないって、わけじゃなくて、病院の通院確認は取っていると思います。事故調査書の中にも、その記述がありますから。えーと、真辺さんのお父さんがうつ病で通院していても、この時点に本当に自殺しようと思うほどの症状だったかどうかまでは、警察も捜査はしなかっただろうなと、いうか・・・・死者の当日の深層心理まで普通は捜査しません。」

警察の内部事情を麗香は知る由もなく、黒川君が言う事に疑問に思いながらも、そうなのかと納得するしかない。麗香達が黙っていると、黒川君はより詳しく説明しようと続ける。

「えーとですね。これが、誰かに刺されたとか、刑事事件だったら、些細な証言もすべて裏を取って確認します。だけど、これは事故です。しかも鉄道事故。車同士であれば、車両保険の賠償割合の兼ね合いがありますから、互いの証言を取ります。当事者の証言が食い違っていれば他人の証言も取ります。でも鉄道事故に関しては、自殺であれ事故であれ、電車を止めること自体が罪です。鉄道会社にとっては被害者が加害者でもあるんです。電車を止めた人間が、本気で自殺しようとして身を投げたか?それとも、酔っぱらって線路に落ちたのか、個人的理由は重要ではありません。理由がなんであれ、電車を止めた罪自体は変わりませんから。この女性の証言を見つけた時に僕は思ったんです。鉄道警察は病院で通院歴の裏が取れた時点で自殺と決定し捜査を終えたんじゃないかと。真辺さんのお父さんが、この時、どういう症状であったか、カルテ確認まではしていない。そもそもそこまでする必要は無いですからね。遺族に通勤前の自殺者の状況見聞があっても良さそうですが・・・・その記述はありませんから。おそらく、かなり早い段階で自殺を断定して、この事故は処理されたんだと思います。この女性の証言は事故の翌日ですから、なおさら、それほど重要視されず事故調査書に記載されるまではいかなかった。と僕は思いました。」

全員が唸る。

「その、俺のせいじゃないって言った青年、りののお父さんと何かあったのかしら。」

「他に何か手掛かりがないか次いで調べましたが、それらしい物は何も、もちろん真辺さんのお父さんが、誰かに恨まれていたとかを示唆するものはありませんでした。」

黒川君の言葉使いが捜査官のようだと麗華は思った。

「その青年、違う事でつぶやいていただけかもしれない。」と凱兄さん。

「でも、見物人の人だかりから出てきたんでしょう。」

「はい、記載はそう書かれています。」

「その青年と接触して、線路に落ちたかもしれないわ。そこへ特急スカイライナーが通過した。その青年は驚いて、違う、俺のせいじゃないって言って足早に逃げるところだったのよ。」

「えりもそう思った!」

「そうですね、自殺じゃなくて不慮の事故の可能性はあるかと、それに・・・」黒川君は麗華に向けていた顔を画面に落として、眉間にしわを寄せた。

「それに・・・何?」

「夕べからずっと、この写真に違和感があって、それが何かわからなくて、気持ちが悪るかったんですけど、今、話しながら見ていて、やっとその違和感がわかりました。」

「違和感?」

「はい、真辺さんのお父さん、身体の右側の損傷が激しい。左半身に傷はなく綺麗です。」

そう言って、黒川君はキーボードから手を離した手の両の指を組んで、目を細める。

麗華はその画面の写真を見たくても見れない、藤木が吐いたぐらいだから、そこには悲惨な遺体写真が写っているのは簡単に想像できる。それを冷静に見つめる事ができる黒川君の神経に驚きを隠せない。

凱兄さんが黒川君の後ろへと回り、画面を覗いてうなづく。

「それのどこがおかしいと?」

「構内図面と合わせて・・・長瀬駅は上下線分離式ホームの左右に線路があるタイプ。東京、静岡を結ぶ特急スカイライナーは、長瀬駅では停車せず通過する。長瀬駅の上り特急通過線はホーム左側であり、実際、真辺さんのお父さんもホーム左側の線路上で接触している。真辺さんお父さんの損傷が右側にあるということは、仰向けで電車に轢かれたと思われます。」

「ふむ。そうだね。」と凱兄さんが相槌。

「それが?」藤木が先を促す。

黒川君が、まだわからないのかとでも言うように、顔を顰めて麗華たちへと視線を一周する。そして

「死のうと考えている人が、仰向きで電車に飛び込むでしょうか?」

「あ!」即座に凱兄さんが声を上げた。少し遅れて藤木も驚きの声を上げて、顔を顰める。

麗華とえりはまだわからない。藤木に説明されて、やっと理解した。

そして、何とも言えない思いを抱いて、まだ少年といえる体格の後輩の姿を眺めた。

なんて子・・・着眼点が麗華たちとは違う。祖父の代からの警察一家の息子、家系に備わる素質がある能力というのだろうか。臆することなく、無残な遺体の写真を見ても平気なその態度は、その体格とは正反対だからこそ末恐ろしい。







新田からメールが届いていた。【今日の練習は、雨のため中止、トレーニングルームは9時~3時まで使用可能。】

サッカー部の連絡網メール、本来なら雨でも練習はある。試合に雨は関係ないから、雨の日は絶好の雨コンディション練習日だ。

だか、体育祭が間近に迫ったこの時期、練習を行えばグランドのコンディションは最悪に凸凹になる。そのことを考慮して、昨日の土曜の時点で、顧問の石田先生は、明日は雨が降ったら練習は中止にすることを亮に伝えていて、全部員にもそのことを伝えていた。土曜日に学校を休んだ新田はそれを知らない。亮も新田に連絡をするのを忘れていた。石田先生は、おそらく新田の様子を伺いがてら、今朝、新田家に電話をしたのだろう。そして新田は全部員に一斉送信をした。

新田は、ちゃんと部長としての仕事をこなしている。いつもと変わらない文面。グランドが使えない日は、筋トレ機材があるトレーニングルームを好きな時間に行って好きに使っていい。だけど家が遠い者は、わざわざ雨の日に学園には来ない、休日の雨の日にトレーニングルームを使うのは、暇な寮生か家が近くて暇を持て余している新田を含む数人ぐらいだった。

柴崎のお母さんが運転する後部座席で、亮は7時56分に着信していた新田からの連絡メールをもう一度、開いて眺める。

新田に、自分たちがやっている事を教えて、少し元気を出させてやった方がいいのかどうかを迷って、やめた。

まだ正式に自殺じゃないと確定したわけじゃない。糠喜びは落胆を倍増させる。それに、自殺じゃないと確定できても、りのちゃんが元に戻るとは限らない。亮たちがやっている事は、究極の自己満足だ。りのちゃんのSOSに気付くのが遅れた、何もできなかったと後悔を持つ者が勝手に集まって、りのちゃんがそうであって欲しいと願う情報をプレゼントしようと必死になっているだけ。しかもりのちゃんが、そのプレゼントを本当に欲しいと思っているかどうか、わからないのだ。

新田に報告するのは、今から会う日報にあった女性の話を聞いてからでも遅くはない。

「新田に教えないの?」亮の迷いを察した柴崎が首をかしげる。  

「確定してからにする。」

「そう・・・新田、大丈夫かしら。」

その質問には答えられない。新田のメンタルの弱さを考えたら、時間が経つほどに大丈夫じゃなくなるに決まっている。

柴崎も自分の携帯を取り出しメールをチェックする。

「えりから何も来ないわ。」

「連絡はない方がいい。」

えりりんは今朝、亮たちが出かけると決まった時に、一旦家に帰ることになった。りのちゃんの病院にも行くと言って、おそらく新田も居るだろう、の様子やりのちゃんの変化があれば知らせてと頼んであった。

「そうね。」

「柴崎、ごめん。 先に謝っておく。約束は守れないかもしれない。」

「何?約束?」何の約束だったか、思い出せず首をかしげる柴崎にかまわず、そのまま話を続けた。

「新田がいなければ、優勝旗は無理だ。」

「新田がいなければって・・・・・新田は・・・・・何?あいつの何を読んだの!」

白い壁にずり落ちるように静かに泣き崩れた新田。どこまで落ちていく新田の心は、裏も表も絶望と後悔の海に沈んでいた。

この新田からの定期連絡メールが、新田の心を表している。いつもなら、顧問から受けた連絡事項は、亮に直接電話もしくはメールで伝えてくる。各部員への連絡は、同級の三年へは新田が、後輩へは亮がと分担して連絡を送る手筈で、今日はさぞかし後輩たちはびっくりしたことだろう。そして新田が亮に電話をかけてくるのは、トレーニングルームへと行く時間を合わせる為でもある。それが今日はない事に対して、亮は新田の心情をわかりすぎるほどに判っていたし、最悪の決意をしてしまっていることを、読み取っていた。絶望の海の中に沈んだ新田の心は、サッカーなど一ミリもない。あるのは、りのちゃんの罪に意識に寄り添い「死」にまで付き添う覚悟だった。

「新田の為でもあったんだ。りのちゃんのお父さんの事を調べようと言ったのは。あいつ、俺に頼ることなくクラブの連絡メールを全員に送っている。あいつはもう、りのちゃんに寄り添うこと以外には、すべてシャットアウトしたんだ。」

「そんな事・・・いつもあんたに頼ってばかりじゃ駄目だって思ったのかもしれないじゃない。」

「丸3年、新田慎一のアシストをしてきた。お前よりわかるんだ、あいつの事は。あいつは、りのちゃんゃんの罪にどこまでも付き添うつもりでいる。」

「罪って・・・まさか!」 柴崎はりのちゃんの罪の意識がどういう状態かをやっと思い出し、目を見張った。「そんな・・・。」

新田なら、当たり前の覚悟、そしてそれが新田の良さであり弱さ。りのちゃんの無茶な行動を、どんな時も許して認め寄り添う。それは危険なやさしさだ。柴崎もそれを知っているから、その先、そんな事はないと否定できずに息をのむ。

「藤木君。」

突然、運転席の柴崎のお母さんがバックミラー越しに口をはさむ、

「読み取ったものが、すべてだと思わない方がいいわ。今朝、そのことに触れようと思っていたのだけど、言える状況にならなかったから。」

「今朝?」柴崎が首を傾げ、自分の母親と亮を交互に見比べる。

「あなたが読み取る物は、あなたの経験の範囲でしか読めない。意味がわかるかしら? 年令を重ねるごとにあなたの知識や経験は増え、それに比例して読み取る量も質も変化したはず。それには気づいているかしら?」

確かに、年々読み取る物が詳細になっていく事は気づいていた。この力を何となく自覚した幼き頃は、「この人、笑っているけれど悲しそうだな」とか、「泣いているけれど嬉しそう」とかぐらいしかわからなかった。今は、わかりやすい人間なら、どんな言葉で悲痛を隠しているか、心の中で、どんな言葉で人を罵っているかまで、読める時がある。

「はい。」亮は小さく返事をする。

「あなたの辿った経験は、他人と同じではありません。他人の経験とシンクロ出来る事はわずか。新田君も同じ、あなたと出会う前の新田君が、何を考え何を思って生きて来たか、藤木君でも知らない経験が沢山あるはずです。読み取る本心は相手のわずかな一部分。今まで、読み取れなかった事を発見して驚いた事はなかった?」

はっとした。新田が、後輩から廊下であいさつされるたび、微妙な顔をしていた。亮は、それは単なる照れだと解釈していた。だけど、実は違っていた。改めて相談されて亮の見解とは違う想い、考え方で苦悩していた事を知り、驚いたことがある。読み取りやすい柴崎についても、夏のキャンプで将来について語った時、亮の知らない気持ちがある事に驚いた。あの時、なぜか妙にイラついて、柴崎に執拗に突っかかった。

「わずかな他人とのシンクロで読み取り、相手の事をすべて知ったと思うのは、能力の驕り、次いでは自身の驕りでもあるわね。」

「・・・はい。」

亮は初めて自分の、この能力に対して叱咤を受けた。亮と同じ目を持つと知ったばかりの柴崎のお母さんに、恥ずかしい気持ちと同時にわずかな怒りが沸き起こるも、的確な指摘に亮は、項垂れてその感情は押し鎮める。

柴崎のお母さんは、亮より長い期間、能力に悩まされてきたはずだ。その説得力は重く重要だ。

「お母様?」柴崎が、会話の意味を理解できずに、キョトンとしてまた母親と亮を見比べる。

覗き込む柴崎の目から逃げるように、亮は車の外へと顔を向けた。

「新田君の気持ちに、諦めがない事を、私達は信じましょう。」

柴崎のお母さんの落ち着いた声には、安定した希望が満ちていた。






「すみません。昨日付で退学の手続きをして頂ければ、学園に迷惑は掛かりません。」

大人に怒られて項垂れる子供の様相で、黒川君はそう小さくつぶやいた。

「すみません。だけど・・・」黒川君はもう一度謝る。

「その事は、後にしよう。ほら乗って。」

車のキーをワンボックスカーの側面に向け、ボタンを押した。ピーと音を発してドアはスライド開く。黒川君が後部座席に乗り込むのを見届け、ドアを閉めた。

約束を守らず、個人のパソコンでハッキングをしてしまった黒川君。詳しく聞けば、鉄道会社のデーターバンクのセキュリティを壊して侵入したという。警察データーベースのセキュリティシステムを混乱させて侵入した直後であることを含めて、警察は同一人物の犯行だと考えるだろう。PAB2000のパソコンなら、そこそこに軌跡をたどりにくいプログラムを施していて、身元がバレるのは、短く見積もって24時間の猶予があったが、黒川君個人のパソコンからハッキングをしてしまっては、簡単に身元がバレてしまう。そのパソコンがバラテンの組み立てによるセキュリティ強化したものであっても。

それを自覚して捕まる事を覚悟した黒川君は、学園に迷惑がかかる前に退学する意思を告げて、ハッキングする前日を退学日にとまで指定する。その覚悟と無謀さは大人以上だ。だが、それこそが子供ならではともいえる。

「出発するよ。シートベルトしてね。」指摘に黒川君は、慌てて身体をひねりシートベルトへと手を伸ばす。

黒川君が新たに鉄道会社のデーターバンクからハッキングしてきた事故翌日の日報には、りのちゃんのお父さんが自殺ではないかもしれない証言が載っていた。

その証言をしてくれた女性に電話をして、運よくすぐに話を聞ける運びとなった。その女性宅には、麗香と藤木君が話を聞きに行く事となったが、中学生だけで訪れては、悪戯的に不審に思われないだろうかと危惧していると、様子を見に来た文香さんが事情を知って二人に同行することになった。文香さんは自身が所持するベンツに乗り込んで出発したために、屋敷に残ったワンボックスカーを使用することになる。

昨晩から降り続いている雨は、冷たい空気を含みしっかりと降り続いている。

こちらは、黒川君の指摘通りに、真辺さんのお父さんが仰向けで轢かれたのかどうか、鑑識の詳細を聞きに行こうということになり、凱斗は康太に電話を入れた。こちらも運よく康太を捕まえる事ができ、今日は署にいるというので、あまり詳しくは語らず、半ば強引に署まで行くからと面会の約束を取り付けた。

「こんな目立つ場所でいいんですか?」

「目立つ場所だから、いいんだよ。明らかに隠れているって場所で、こそこそやってたら、誰でも何してるんだろうって気になるだろう。」

警察庁のロビー、数年前に耐震工事の補強を兼ねたリノベーションされたフロア、透明性を市民にアプローチしているのか、無駄に広く明るくなったロビーには、中央に大きなエスカレーターがあり、その後ろにエレベーターが設置されている。エスカレーターとエレベーターとの間の隙間の三角スペースに今では見つけるのも苦労する公衆電話が置かれてある。そのそばで康太を待った。ここに立ってもう15分は経つ、忙しいのだろう、康太は中々現れない。と言っても康汰との待ち合わせはいつもとても遅いか、とても速いかのどちらかしかないから自分は慣れているが、黒川君は落ち着かない様子で公衆電話の受話器を上げたりして暇を持て余していた。

携帯電話の普及率が98%を超えた今、公衆電話機を設置する意義などない。それでもこれがここにあるのは、すべての人に平等にこの施設を利用する権利がある国家機関であるからであろう。携帯電話を持たない人が0にならない限り、この「時代の遺物」は、ここに居座り続ける。

『俺たちは時代の遺物だ』そんなフレーズを残して自殺した仲間、そいつの生前の姿がフィードバックされた血なまぐさい戦地が目の前に広がる。銃口を向けた敵が、50メートル先の樹の影に潜んでいるのを確認。目前の敵に捕らわれ、背後に廻られていた敵の存在を察知するのに遅れた。銃口と共にサイドを見張っていた仲間が太ももを打たれてうずくまった。その銃声をきっかけに前方の敵も一斉射撃で前進。背後の保護移送の民間人を半ば押し倒すように伏せさせたが、パニックに陥った一人が奇声を上げて走り出した。ハチの巣にされ、血しぶきが女子供に付着した。

泣き叫ぶ子供------

「ほら、ピーポ君だよ。」先ほど対応した受付カウンターの女性警察官が、母親の足元で縋りなく2歳ぐらいの幼児をあやしている。

じんわりと首筋に汗が流れ落ちる。

黒川君が不審に見上げてくるのを、慌てて、悟られないように凱斗は顔の筋肉を緩めた。

「そうだ、こうしよう。君は、僕の弟で、一緒に田舎から東京観光にきたけど、どこを回っていいかわからない。だから東京の警察庁で働く康汰おじさんを尋ねて来た、って事に。」電話の横に置いてあるフリーペーパーの冊子を広げて、持っている調査書のコピーなどの資料をそれに挟んだ。

「康汰おじさんって・・・。そういえば篠原さんって、何歳ですか?」

「30だ。もう、おっさんだろ。」

「おっさんって。」

「お前な!いっつも突然、過ぎるぞ。」

「お、康汰おじさんが、やっと来たぞ。」

「なに?」エレベーター奥の階段から駆け下りてきた康汰に黒川君がぷーと吹き出してお腹を抱えて笑う。「ん?和樹も一緒?なんだぁ?」

りのちゃんのお父さんが仰向けで車輪に挟まっている可能性に加えて、それが自殺じゃない要素に結びつく可能性を決定的にしたい。それは素人がいくら議論しても推測にしかならず解決には至らない。だからその道のプロに見てもらいたい為に、訪れた事を康太に説明した。相変わらず、地味なグレイのスーツにノーネクタイ。警察庁刑事局特殊捜査課と言えば、それなりのエリートなのだが・・・これじゃ地方巡査にしか見えないが、眼光だけは本来の肩書以上に厳しい。

「お前、これ!」  

見せた事故調査書の写真のコピーを 見るなり、黒川君と並び睨みつける。黒川君は肩をすくめて怯えて一歩後ろに下がる。

「凱斗!お前、また和樹に!あれが最後、二度とやらせないと言ったはずじゃ」声を潜めて胸倉をつかむような勢いで顔を近づける。

子供のころから変わらない、強くて鋭い康太の眼力。この怒りこそが康太の生命力だ。

「康汰、それは後にしてくれ。」

「ぷーーーくくくくく。」

「なっ、何だ?」

朝、麗香に制止された言葉を、そっくりそのまま康汰に使ったもんだから、黒川君が吹き出した。彼の笑い上戸はもう止められない。

康汰の怒りが横にそれた。

「それで、鑑識にこれを見せて、自殺じゃないとの確定を得たいわけか。」

「そうだ。」

「んー。って言ってもなぁ。」康汰は頭をかく。

「知り合い、いないのか?」

「そうじゃなくて、写真だけで見極められる人となると限られる。しかも今すぐだろ?んー。」頭の中で、誰に頼めば一番いいかを検索しているのだろう。眉間に皺を寄せて、斜め上の空間に視線を向けると、急に頭を掻いていた手をピタっと止めて、驚愕に顔を強張らせ、そして姿勢を正し敬礼をする。

何事かと仰ぎ見れば、恰幅のいい制服警官が3人ほどエレベーターを降りてくる。

先頭に立つその人は肩や胸に沢山の階級ピンが付帯して、袖のラインが後ろの二人よりも2本多い。

「和樹!?」

「お、父さん・・・。」呟く黒川君。

全国の警察署を取りまとめる警察庁の上層部に君臨する、黒川勝之察監は、まっすぐ凱斗の前に歩み来た。




    

この街に戻って来てから、啓子に随分と迷惑をかけた。啓子だけじゃない、新田家の皆、特に慎ちゃんには精神的な苦痛までさせてしまっている。昔から変わらない優しい慎ちゃん、こんな私を変わらず本当の母親だと思ってくれて、診察室で泣き崩れた私を支えてくれた。もう、これ以上は慎ちゃんに迷惑をかけてはいけない。りのも、それだけはずっと言っていた。『言わないで、薬の事、通院の事、パパの事。慎一のその目と心はサッカーに向けないといけないから。』と。

りのの為にも、優しい慎ちゃんを壊してはいけない。りのと、この街を離れよう。慎ちゃんの為にも。りのも同じ思いのはず。

さつきは、精神科病棟のナースステーションに顔を出し、挨拶をしてから、りのの病室へ向かう。

扉は暗証番号を入れないと開けられない仕組みになっている。その現実に絶望が押し寄せる。

りのを精神科に連れていった時もショックだったけれど、まさかこの病棟に入る事になるなんて思いもしなかった。

発作を起こして入院した時も、この病棟にいる患者さんよりは、りのは全然普通、だから大丈夫だと思っていた。

だけど・・・とうとうこの病棟に入ってしまった。暗証番号を押すのを一瞬ためらう。

扉の向こうは5歳のニコか、14歳のニコか。どちらでも、それは本来のりのではない現実。

暗証番号認識完了のピーという音の次にガチャっと施錠解除の音を待って扉を開ける。

中からママ!と言う嬉々の声で、今は5才のニコだと判別する。

「遅くなって、ごめんね。」

りのが手にフォークを持ったまま駆け寄って来て抱き付く。

「あらら、ニコちゃん、危ないからフォークは置きなさい。」      

啓子が沢山の食事の差し入れを持って来ていた。味覚障害も併発しているりのにとって、病院の味付けは無味に等しい。それを考慮して秀治さんが塩分控え目でも、しっかり味がわかるおいしい食事を作ってくれた。りのの持っているフォークを取り上げて、椅子に座るようりのの背中を押す。身体は大きいのに・・・。

「啓子、ありがとう。秀治さんも忙しいのに申し訳ないわ。」

「いいの、いいの、あの人もね、これがうまくいけば、塩分控えめのメニューを取りそろえて店で出すって言ってるから、自分の為でもあるのよ。ニコちゃんは味の審査員よねぇ。おいしい?」

「うん♪、おいひぃい。」

口の周りとパジャマをいっぱい汚して、口いっぱいに食べ物を入れてほっぺを膨らましているりの。食事を楽しむりのを、久しぶりに見た。元々食には興味が薄い子だったけど、東京に戻ってから食べている時の笑顔を見ることは無くなった。その笑顔を、この病棟で見ることになるなんて。


『今後の治療方法なんですが・・・・。』

精神科医の村西先生。この筋では有名な先生ですら、りのの心は見抜けず、対処療法も追いつかなかった。

りのが元に戻る事なんてあるのだろうか。

催眠療法で2つの人格を元に戻す方法を村西先生から説明を受けても、それはうまくいかないだろうと、根拠なく思った。

それに、2つの人格を元に戻すことが本当にりのの幸せなんだろうかと考える。

りのが自分で求めた場所が今の状態だと考えたら、無理に元に戻すのは、りのをまた苦しめる事になる。

村西先生は、それも視野に入れて決断してくださいと言う。元に戻したいのなら、なるべく早く、まだりのの意識が取り出しやすい位置にある内に催眠療法を、そして、このまま自然にりのちゃんとニコの意思を認めて、生活するならそれなりの施設へ。

「ママ、はい、あーん。」屈託のないりのが、ハンバーグをさつきの口元に向ける。要望に応えて食べると、本当にうれしそうに笑うりの。昔のりのがここにいる。笑顔いっぱいで幸せだったあの頃のりのが。

「美味しい?」

「うん、おいしいね。」

秀治さんの塩分控えめのハンバーグは、店でいつも出しているランチメニューの味付けよりは、後味がさっぱりして女性や高齢者に好まれそうだと感心する。

慎ちゃんは腰窓に背を預け、うつむき加減でも、りのから目をそらさず見守ってくれている。私が出来ない事を新田家がすべてやってくれている。いつまでもこのやさしさに甘えてはいけない。

このまま、5歳のりのを連れて、田舎の静かな療養施設で看護師をしながら細々と二人で暮らすのがいい。

それぐらいなら、りのと二人、無理なくやっていける。この先、新田家も学園にも迷惑をかけずに済む。

さつきは、施錠の出来る病室を見渡して、行きついた絶望の証を見、決心を固めた。

(りの、ごめんね、ママは疲れた。もう、頑張らなくていいね。)


 




理事補が緊張している。というか、委縮していると言った方がいいかもしれない。

部屋に漂う空気感に押しつぶされそうな和樹は、見下ろされる視線と合いそうになって慌てて顔を伏せた。

ロビーで篠原さんを待っていると、唐突にお父さんがエスカレーターで降りてきた。両者が互いを認識したのは同時で、その名をつぶやいて驚いた顔をしたのも同時だった。

見知らぬ大人と一緒に、しかも子供が立ち寄る場所ではない所で息子を見つけたお父さんは、威嚇するように睨みながら理事補の前まで歩み来た。和樹はその場の誰よりも真っ先に言葉を発した。「学園の理事長だよ。」と言うと、お父さんはますます眉間の皺を濃くして、今度は和樹に、「何をした?」と尋問。和樹は反発心を含めて「お父さんがやったことよりはマシな事だよ。」と吐き捨てた。理事補が「申し訳ありません。」と深々とお辞儀をすると、お父さんは満足したのか、一呼吸してやっと睨む目を緩めた。

お父さんは連れて歩いていた二人の警察官に何やらこそこそと話をしてから下がらせて、和樹たちをエレベーターへと促した。そして、この建物の最上階へ。数室並ぶ内の一つ、父の名前の書かれたプレートの部屋に引き入れた。

先導するお父さんの背後で理事補は、「ごめん」と和樹に突然謝ってきて、「誤魔化しは聞かないお人だ。すべてを話すから。」と耳打ちされる。仕方ない、いつかはというより、本来なら和樹が学園名簿をハッキングして売った時点で、両親に話が行くはずだった。それを理事補が止めておいてくれていた。退学処分だけならまだぬるい、本来なら被害届を警察に提出して和樹は逮捕されるはずの事柄だった。その事実が伸びて今になっただけ。おまけに、昨晩のハッキングなる罪を重ね、こんなところで父親にばったり会うのも、運が尽きようというもの。

さて、息子がハッカーだった。昨日の警察庁のデーターベースへのハッキングが息子の仕業と知ったら、お父さんはどんな顔をするだろう。そこが見ものだ。

ロビーの明るすぎるモダン的なデザインとは違って、入った部屋は、古めかしい様相の個室、茶色い板張りの壁に、古いキャビネットの上にはレトロなガラス製の振り子の時計。窓を背に大きなデスク。ドラマにあるような名前の入った三角プレート、観葉植物もなくとても殺風景だったけれど、座るように促された黒い革張りの応接セットのソファは、身体が沈み込むように柔らかかった。デスクの椅子も仰々しくでかい、さぞかしこのソファと同じく柔らかすぎる座り心地なんだろう。その雄雄しい椅子でふんぞり返ったお父さんが、兄さんを見捨てて殺したんだと思うと、和樹は憎たらしい気持ちで胸がいっぱいになる。

そんな和樹の心をよそに理事補は、和樹がハッキングをはじめた理由から説明をしだした。

それは長い話になった。和樹は理事補の語りをまるで他人の事のように聞いていた。

「私の仕事は、理事長の補佐というより、常翔学園全学部の諜報活動的な事を主に担っています。わが学園の高い質を守る為に一つの噂も見逃さず、入ってくるあらゆる情報を精査し、必要あらば排除する。そうして学園の質と生徒の安全を守ることが、私の役目です。」いつもは(僕)を使う理事補が(私)を使って語る言葉は臨場感がない。

「黒川様のご家庭にご不幸がありました小学部5年生の三学期から、不登校になってしまわれたご子息の事は、当時、学園もカウンセラーを伴い担任も訪問致して対応いたしましたが、残念ながら配慮が行き渡らず、そのまま中等部に内部進学することになり。」

「いや、それは、こちらも適切に対応できる者が居なくて申し訳ない。」

「いえ、中等部では欠席することなく登校いただいていますし、成績も不足があるというわけでもなかったのですが、ただ、校則に違反するような場所への立ち入り及び、常翔学園の生徒としての規律違反の目撃情報がありましたので、ご子息の生活調査を行っていた最中に、ある事情から学園の生徒名簿をハッキングして盗み、それを売り金銭を得ていたことが発覚いたしました。」

和樹は父が腰を浮かしたのをうつむいたまま感じ、身体をこわばらせた。

「黒川様、どうか、続きを・・・」理事補が父を宥め浮かせた腰を座らせてから、また語る。「ご子息のハッカーとしての能力、技術は極めて高度な物です。和樹君が類まれな才能を開花させた理由に、お兄様の事を調べたいと渇望されていましたことにあり。」

和樹は、ゆっくり顔を上げて父親の表情を見る。父は、顔を上げた和樹に変わらない睨みで一瞥してから、理事補へと顔を向ける。

「黒川広樹さんの事を調べたい一心で。自宅にあるPCでは満足のハッキングが出来ない、高性能のPCを手に入れる為の資金稼ぎでした。」

「広樹は殉職です。その内容は法に基づき公表できません。それは家内にも和樹にも説明してあり、警察に服す家としての」

「存じています。黒川広樹さんはわが学園の誇り高き生徒でした。訃報が学園にも届いて、とても残念にお悔やみ申し上げました。だからこそ、私はご子息の納得できない不満に同調し、学園の名簿を売った行為に関しては不問にし、今後のハッキング犯罪の阻止を図ったのです。」

「常翔学園が?」

「幸いにも名簿は回収できましたし、名簿流出に対した被害、損害は程度の知れたものでして、二次被害も防ぐ処置を施せましたので。」

父親のため息を和樹は頭の上で聞く。

「それよりも、ご子息の心情を正す方が私には重要だと思いました。これから話すことは、私が単独で暴圧にさせたことです。」

「暴圧?何を?」

理事補は父の質問に答えようとせず、一つ息を吐いて口を引き締めた。

和樹が不審にその横顔を覗き込むほどに、無言の時間が流れる。

「私と篠原康太刑事は、児童養護施設で育った兄弟のようなものです。私は常翔学園経営者一族の柴崎家の養子であり、彼もまた柴崎家の援助を受けて警察官になった者。当時黒川広樹さんと組んでいた篠原刑事に私が頼み、話せる範囲で和樹君にお兄様の事を話してもらいました。しかし篠原刑事は事件の詳細をご子息には語っておりません。和樹君には不満だったことでしょうけど、身近にあこがれた兄の警察官としての姿を聞き、喜んでくれました。そして、ハッギングは2度としないと約束して頂いたのですが・・・類まれなご子息のハッキング能力を、どうしてもお借りしたい事態が起きまして。」そう言って、理事補は先ほどフリー雑誌の間に挟んだ調査書のコピーを父の前に差し出した。「これは、わが学園の女生徒の父親の事故調査書です。」

父親はそれを手にすると、目を大きくして理事補を睨みつけ、和樹にも向ける。

「彼女は父親の死を自分のせいだと思い、苦しんでいます。彼女の父親は鉄道投身自殺とされていますが、もし自殺ではなかったら、彼女は苦しまなくて済む、そう考え、これの入手に黒川君のハッキング能力を貸していただきました。」

理事補は一旦そこで言葉を切ると、急にソファーから立ち上がり、脇にそれて、床に頭をつけて土下座をした。

「大事なお子様を預かっておきながら、このような犯罪に加担させてしまい、誠に申し訳ございません。」

和樹は驚愕に心の中で叫ぶ。

(嘘だろ!こんなやつに土下座することないんだよ。こいつは兄さんを見捨てたんだ。)

(僕のハッキングなんて大した罪じゃない、お父さんの罪に比べれば。)

和樹も立ち上がった。

「理事補に頼まれたからじゃないんだ!僕はっ僕が真辺さんを助けたいから、僕からやると言った!理事補は悪くない!」

和樹の叫びに言葉を発しないお父さん、それはいつものことだ。いつも、この無言の制圧に自分は負けてきた。でも、今回は負けない!負けたくない。自分からは絶対に目をはずさない、と決めた。

「大体、警察がいい加減な調査をするから、真辺さんは苦しんでいるんだ。真辺さんをおかしくさせたのは警察だ。何が正義だ!僕は、お父さんみたいに見捨てない。何より誰より美しく優秀な真辺さんを、絶対に。」

お父さんが立ち上がる。殴られる。そう思って身構えた。

「柴崎さん、頭をお上げください。謝まらなければならないのは、こちらの方です・・・・息子が、ご迷惑をおかけしました。」

えっ?

お父さんが凱さんの前で正座をして、膝に手をやり頭を下げている。

嘘・・・。





柴崎先輩のお屋敷で一泊して家に戻ったのは、10時を過ぎていた。慎にぃはもう家にいなくて、病院に行ったという。

お母さんは家の片づけと、店の準備で忙しく、えりが一泊して帰って来た事に特に何の関心もなく、どうだったも聞かれない。またないがしろにされている孤独感がえりの胸に沸き起こる。だけどまぁ、昨日の晩に、柴崎先輩に電話を変わってもらって、責任もってお預かりしますと言ってくれていたのだから、何も心配はなかったのだろう。                                                                                                                                                                            

お父さんがニコちゃんの為に、お昼のお弁当を作った。それを持って行くというお母さんの運転する車に、えりも乗り込んだ。

ニコちゃんは、昨日の病室とは違う鍵がかけられる病室に移っていて、実質、監禁状態だった。窓にも鉄の格子が外についていて色は白いけれど、えりはまるで牢屋のようだと思った。部屋には無数の折り紙が散らばっていて、えりは見舞い一番に足元に落ちていた緑の手裏剣を拾った。様子を伺うようにえりを見つめる5歳児のニコちゃんは、ふいにえりへと近づき、手に持っていたピンクのクレヨンを差し出してくる。昨日は、えりの事がわからず怯えられた。また今日もそんな風にえりのことをわからず警戒されてしまうのだろうと予想していただけに、意外な事に面食らって言葉が出ずに、首をかしげてクレヨンを受け取った。

「かくの。」

「えっ?えーとニコちゃん?」昨日のようにまた沢山のニコちゃんの絵を描きたいのかと思って聞き返すと5歳児のニコちゃんは首を振る。

「名前を書くんだよ、手裏剣に。」慎にぃがテーブルで折り紙を折りながらそう補足をする。「どっちが遠くに飛んだかを競うんだよ。」

「そ、そうなんだ。」

「できたよ。ほら、黄色とオレンジの手裏剣。」

5歳児のニコちゃんは、慎にぃの側に駆け寄り、手にした黄色とオレンジの手裏剣を掲げて笑う。

「ニコの!ニコちゃんいろしゅりけんっ。」そうして、ニコちゃんは赤いクレヨンを手にして、そこに点を二つ、にっこりした口を書き、裏に「りの」と殴り書く。筆跡も完全に5歳児に戻ってしまった。

そんなニコちゃんを、目を細めて微笑んだ慎にぃの姿が、えりの胸に痛い。

「上手ね、ニコちゃん、だけどお昼ご飯食べなくちゃね。」お母さんの声掛けを無視して、ニコちゃんはベッドに飛び乗り、そこから手裏剣を投げて、手をたたく。

「お片付け、誰が一番に出来るかなぁ。沢山折り紙を拾った人が勝ち、よぉーいスタート。」

「あー、ニコがひろうっ。」ベッドから飛び降りて散らばった折り紙や手裏剣を拾い始めるニコちゃん。

そういえば、そんな風に競走した記憶がうっすらとよみがえる。ニコちゃんが手にいっぱいの手裏剣と紙くずを持って、お母さんに差し出す。お母さんは「すごい、いっぱい拾ったねぇ。ニコちゃんが一番ね。」と頭をなでる。ニコちゃんは嬉しそうに肩をすくめて、その場に集めた折り紙や手裏剣をバラバラと落とした。

「あらあら、ここに入れようか。」お母さんは取り出して空になった紙袋に、テーブルにも散らばったていた折り鶴を入れる。ニコちゃんは床に散らばった折り紙をぐしゃりと両手でかき集めると、お母さんが手にしている紙袋にバラバラと入れるも、何個も入らないでまた床に落ち散らばる。

5歳児に戻ったニコちゃんに対して、動揺することなく接し、いつも通りに笑っているお母さんがすごいと思った。

部屋が片付いた後、さつきおばさんも加わって早めの昼食を皆で食する。ニコちゃんは5歳児でも食事の量は少量で、皆がまだ食べている内に食べ物には興味を無くし、また折り紙を広げ散らばせ始める。そして食事中の慎にぃの頭に折り紙の紙吹雪を振り注いだりする。

誰も怒らない。

そうして傍若無人に動き回った後、電池の切れたおもちゃのようにふいに床にうつ伏して寝てしまった。

慎にぃは手慣れた手つきで、さつきおばさんと一緒に眠り込んだニコちゃんを抱えてベッドに寝かせる。

お母さんはタッパーなどを片付けて、また晩御飯に用意が出来たら持ってくるからと、さつきおばさんに声をかける。

今日は日曜日、店はそれなりに忙しい。お母さんはえりに『あんた女の子なんだから、慎一に出来ない事を手伝うのよ。』と言いつけを残してあわただしく帰って行った。ニコちゃんが眠り込み、お母さんが居ない病室はとても静かだ。

「おばさん、仕事は?」沈黙に耐えられなくて、聞いてどうもしないことを、えりは囁くように聞く。

「夜勤にしてもらったの。夜だけは薬を投与して眠らせるから。」

「じゃ、今、寝ないと駄目なんじゃ。」えりは自分が占領している椅子から立ち上がった。

「いいのよ。大丈夫よ。えりちゃんこそ、ごめんね。無理にりのに付き合う必要ないわよ。ボーイフレンドと約束してるんじゃないの?」

えりは首を振る。そして、そのまま窓際へと移動した。

柴崎先輩たちはもう女性の家に着いただろうか。黒川君と凱さんはうまく鑑識の人を紹介してもらえただろうか。

外はまだ細い雨が降り続いている。病院の裏側にある駐車場の車が、窓に付着した水滴で歪んで見える。

洗面台やテーブルを布巾で拭き掃除をはじめたさつきおばさん。

ニコちゃんの枕元で窓に背を預けて、寝顔を見つめ視線を外さない慎にぃ。

二人とも何を思い、何を考えているのか。

ニコちゃんが元に戻ってと願い祈っている事に違いはないのだろうけれど、えりにはその深さを知ることができない。

藤木さんからは、自分たちがやってる事を、まだ慎にぃには言わないようにと言われていた。期待はまださせるなと、やっぱり自殺だと断定されてしまったら、期待からの落胆は二人には酷だ。

えりは携帯を取り出し、柴崎先輩からか、黒川君からかのメールが届いていないか確認する。両者からメールも着信もない。

軽くため息をついて、えりは暇つぶしにそのまま、携帯にダウンロードしたオセロゲームをして暇をつぶす。

黒と白、

表と裏、

どっちが裏で、

どっちが表だろうか?

まるでニコちゃんだ。

白がニコちゃん?

黒がりの本体?

そもそもオセロの表はどっちだ?

白が表?

黒が表?

相撲は黒星と言って色塗られた方が勝ちを表す。

いい方が黒だから、黒が表?

そもそも勝ったのは誰?

急に現れたニコちゃん?

それとも心の奥に逃げ引きこもった、りの本体?

そんな事を考えていると、もそもそと掛け布団が動く。ものの20分ほどでニコちゃんは起きてしまった。

「ママ!」そのテンションの高い声で、また5歳児のニコちゃんだとえりは肩を落とす。

もう、りの本人であっても、どんな言葉をかけていいか、えりはわからない。だからどっちでも肩を落とす事になるのだと漠然と感じていた。

「ママ、パパはぁ?」

昨日から頻繁に栄治おじさんを呼ぶニコちゃん。お父さんがまだ生きていると思っている。その現実に、そう思っていた方が幸せなんだなぁと実感する。

「パパは、お仕事が忙しいの。」

「お仕事?」

「そうよ。お仕事。」

「ふーん。」ベッドから降りた5歳児のニコちゃんは、はだしで窓へと走り寄り、えりの横に並ぶ。鼻をくっつけて外を見つめるニコちゃん。乱れたパジャマの襟元から見える身体の細さに、精神だけじゃなく身体もまだ子供だと変な納得をしてしまう。骨太のあたしとは完全に体つきが違う。ニコちゃんの身長を抜かしてしまった。ニコちゃんの食べる量を見て、よくあれで朝までもつよなぁと不思議に思っていた。それでも新田家では食べている方だとお母さんから聞いてびっくりした事がある。だけど、今回の事で、ニコちゃんの頭の中や胸の中がおじさんの死の罪の意識でいっぱい詰まっていたら、そりゃ食べられないよなぁと理解した。

5歳児の精神のニコちゃんは、窓についた水滴が流れおちて行くのを手でなぞる。

水滴が思うように動かない事にイラついたのか、ニコちゃんは窓ガラスを叩き始めた。この病室の窓は開けられない構造になっている。叩いた振動で、水滴同士がくっついて大きな雫となり下へ落ちていく。それが面白かったのか、何度も叩いては落ちて行く雫をじっと目で追うニコちゃんに、慎にぃが「叩いちゃ駄目だよ。」と気力のない注意をする。

見にくかった窓の向こうの景色は、叩いて水滴が落ちたおかけで、見えやすくなった。ニコちゃんがまた、おでこと鼻を窓にくっつけて外をじっと見つめる。

「雨やんだ!外で遊ぶ!」そう叫ぶと、ニコちゃんは窓とは反対のドアへと走っていった。雨はまだ止んでいない。細く静かな雨をニコちゃんには見えていないだけた。

「外いく!ママ開けて!」

「りの、駄目よ、外では遊べないの。」

「いや、外で遊びたい!」

この病室の扉は、内からも外からも簡単には開けられない構造になっている。扉についた機械に暗証番号を入れないと扉は開けられない。ニコちゃんはガチャガチャとドアノブを回し、扉をガンガンと叩き始め暗証番号のボタンもでたらめに押す。その度にエラー音が鳴る。慎にぃがニコちゃんの手をつかんで、やめさせる。

「ニコ、ほら、あっちで折り紙をしよう。」

「ほ、ほら、ニコちゃん、風船もあるよ。」紙袋から取り出した紙風船を手に乗せて見せた。

「いや、外に行く、慎ちゃんと外で遊ぶんだ!」

ここにいる慎にぃは、幼馴染の慎ちゃんじゃない。ニコちゃんは5才の慎にぃに会いたがっている。

意識は5才児でも力は14才、ドアノブをガチャガやって、機械も叩くから壊れそう。

さつきおばさんと慎にいがどうにかやめさせようとニコちゃんの手を抑えるのだけど、増々暴れて手に負えなくなった。

「りの、ジュース飲もう。」

「いや、いや、慎ちゃんの所に行く!」

「ニコ!」

「慎ちゃんと遊ぶ!」慎にぃのつかんでいた手が振りほどかれた。ニコちゃんは外に行けない苛立ちを、扉を叩いて泣き叫ぶ。

「ママ、ここ開けて。慎ちゃんのおうち行く。」

慎にぃも、さつきおばさんも、うな垂れて諦めてしまった。顔を背ける二人。

「ママ・・・開けて。お外いくの・・・・パパ・・・・慎ちゃん・・・」

「開けてママ。・・・・会いたい・・・・・慎ちゃん・・・・パパ・・・・」

えりは、胸の詰まる思いで立ち尽くす。

そのうち、ニコちゃんの泣き声小さくなり、崩れるようにまた眠りにおちた。   






父親の黒川警視監が頭を下げた事に動揺し取り乱した黒川君を、人を呼んで部屋から出させた。黒川警視監はついでにお茶ではなくコーヒーを淹れるように頼み、それが届く間、終始無言に互いに目線を合わせず、テーブルの上の事故報告書のコピーの束を、威厳ある表情を崩さず見つめているだけだった。

年増の制服女性警官が運んだコーヒーは、メーカー名が印刷された紙コップのコーヒーだった。香りだけは一人前だ。

手の仕草だけで、どうぞと勧められ、凱斗が口に含んだところで、黒川警視監は口を開く。

「あなたは柴崎家の養子だと・・・」

「はい。」

「柴崎家はたしか華族の・・・」

「はい。私は華選の称号を得て迎えて頂きました。」黒川警視監は納得ができたと言うようにわずかに頭を縦に振る。

「篠原刑事も称号を?」

「いえ、康太は、失礼、篠原刑事は持っておりませんが、ある事情でしばらく柴崎家の屋敷で下宿をしていた時期があり、常翔学園の生徒だったわけでもありません。」

「ふむ。」黒川警視監は重い息を吐いてから続ける。「昨日遅くに、情報部から警察本部データーサーバーを攻撃、ハッキングされていると報告があった。昨今それらのサイバー攻撃は主にとある外国からの仕業で、すぐにセキュリティの強化対策を講じたのですが、その犯人が息子だったとは。」

「申し訳ございません。何分急ぎでしたので。」黒川警視監は手をあげ制する。

「息子が、ハッキングをしているのは知っていました。」

なんとなくそうじゃないかと思った。凱斗が語った際に、ハッキングをしていたという言葉には反応せず。売って金銭を得たと言ったときに、警視監はやっと腰を浮かして怒ったのだ。

「情報部からの要注意アカウントの出所が我が家のipコードの物でありましたから。ただ、まさか金銭を得ていたとは思いもよりませんでしたが。常翔学園には本当にご迷惑をおかけしました。」膝に手を当てて姿勢よく頭を下げる警視監。

「いえ、そのことは、もう本当に解決済みでして、というのも、これも事後報告で申し訳ないのですが、名簿の回収、および常翔学園のサーバーセキュリティの構築を息子さんに施して頂いたのです。」

黒川警視監は険しかった顔をわずかに緩めて驚いた風の様子。

「それぐらいに息子さんのハッキング能力は、とてつもない、世界的にもトップレベルなのです。いえ、すみません。だからって生徒に犯罪をさせてしまう理由には当たりません。」

「そのこと、はっきりさせておきましょう。柴崎さん、私は和樹の親権者として、あなた及び常翔学園を問責するつもりはありません。」

「ありがとうございます。」

「権位を出されては、いくらこれらを持ってしても敵いませんし」と警視監は胸の階級章を指し、目を細めまっすぐ凱斗を見つめる。それが警視監の精一杯の抵抗だろう。黒川和樹の保護者としては頭を下げられるけれど、警視監としての立場では頭を下げられない。

「このことは内密に処理しておきます。」

「助かります。」

そこでやっと黒川警視監は紙コップのコーヒーを手に取った。一気に飲み干すと、カップを音もなくテーブルに置き、つぶやいた。

「しかし・・・そうですか、息子が、ハッカーとしてトップレベル・・・」

警視監は事故調査書を手に取りパラバとめくる。警視監の表情が先ほどまでの厳しいものがなっているのに気付いた。凱斗の視線に気づいたのか、顔を上げ、口を開く。

「我が国のサイバー犯罪に対する防御は弱い。専門的な技術を要する為に、技術者が育ちにくい。ですが、ハッカーたちはあの手この手と高度な技術を開発し行動を起こす。サイバー犯罪に対する最高の防御は現役のハッカー自身。和樹のハッキングを黙認したのは、私が何を言っても止めはしないと、諦めの気持ちもありましたが・・・・あの子がハッカーとして育てば、その技術を防御に変えることが出来る。一縷の期待を抱いたのも事実。まさか世界トップレベルと言われるまでになるとは思いもよりませんでしたが。」と言って苦笑しながら報告書をテーブルに置いた。

その表情に凱斗は確信した。この人は、自分の息子がハッカーに育つのをわざと黙認していたのだと。その行為が社会的に違法であり犯罪であることを承知の上で、わが子を技術者として育つことを持していた。

凱斗は、急速に喉の渇きを覚える。黒川警視監、この国の正義に対する姿勢は、家族を犠牲にしてまで強い。息子の黒川君が警察嫌いになる事や、父親に反発したくなる気持ちがわかる。

「ビッド脳というものをご存じでしょうか。」

「いや…私は、そこまでは詳しくはありません。」

「世界に一桁しかまだ認証されていない貴重な能力をご子息はお持ちです。実は私もそっち方面は詳しくはありません。情報部にはそれに詳しい方もいるでしょう。お聞きなさってください。」

「そうしよう。」

凱斗は紙コップの中身を飲みほした。それを待っていたかのように黒川警視監はわずかに身体を前にして、表情も声のトーンを下げた。

「広樹の事件をあなたはどこまで?」

「何も、ご子息と同じレベルでしか存じ上げません。」

沈黙。視線は互いに刺さったまま逸らさない。

黒川広樹巡査が殉職に至った事件を康太は、これ以上は出せないと言って、詳細を隠した。子供を庇い死亡したとだけしかあの資料に書かれておらず、関係者の名前の大半が黒塗りで埋め尽くされていた。その異常なほどの隠匿が、在る権威、もしくは権位を含んだものであることの証左であると凱斗は感づいていた。

興味を覚えないわけではない。ここで権位を出し警視監に語らせることも可能だ。だが、それはきっとしてはならない。人道的にではなく、自身の保持の為。知れば、凱斗自身の今を捨てたくなるに違いない。きっと・・・

何を図ったのか、何に納得したのか、何を信じたのか。体感一分の経過後、黒川警視監は姿勢を元に戻し、表情も空気も変えた。

「さっきの息子の態度には驚きました。和樹は人を助ける意義を得たようです。で、この報告書を元にどうしようと?」

りのちゃんのお父さんの自殺に関わる疑問について、それを調べるに至った過程を含めて説明をした。

黒川警視監はもう一度、報告書を手に取り、今度は丁寧に読み入り凱斗の説明に相槌をうつ。

「なるほど、その疑問は尤もだ。協力しましょう。」そう言って黒川警視監はソファーから立ち上がりデスクに向かうと電話を取る。

「黒川だ、頼みたいことがある。鉄道事故の写真を見て鑑識してほしい。・・・・ああ、写真だけだ、自殺か転落事故かを見極めてほしい。・・・・そう言うな、私の客だ。お前なら大した時間はかからないだろう。今から、そちらへ行ってもらう。・・・それをするとお前は依頼を後回しにして忘れるだろう。今から行ってもらう。名前は、柴崎凱斗さんだ。無礼のないようにな。頼んだぞ。」

電話を切った黒川警視監は、何かをデスクにあったメモに記し、凱斗に向き直る

「風貌は無礼ですが、目は確かです。ここを訪ねて、その写真を見せてください。」

立ち上がり、差し出されたメモを見ると、科学捜査研究所の住所と電話番号、そして剣持と記されていた。     





都内で昼食をしてから証言女性の家へと訪問する予定だったけれど、渋滞にはまり予想以上に移動に時間がかかってしまった。約束の30分前に証言女性の家の近く到着し、近くのチェーン系喫茶店で軽く食事をとり時間きっかりに女性のマンションに足を運ぶ。中層階のマンションの玄関先で麗華達を見た女性は少し戸惑った微笑で家に招き入れてくれる。家の中は子供のおもちゃがあちこちに置いてあって、夏にりのと一緒に行ったスターリンを思い出させた。

「突然、申し訳ございません。」

「いえ、こちらこそ、散らかっていて、すみません。」

「お電話を頂いたのは・・こちらの方?」と首をかしげて藤木に顔を向けた。

凱兄さんが、この女性に電話をして訪問する約束をしてくれていた。唯一の男である藤木が電話の主であるにしては、若すぎると思ったのかもしれない。

「いえ、電話を差し上げましたのは別の者です。申し訳ありません。その者は所用が出来ましたので、私が代わりに伺いました。この子はうちの学園の生徒で藤木亮君、そして私の娘で柴崎麗香、申し遅れました、私、学校法人翔柴会、会長をさせていただいています。柴崎文香と申します。」

お母様から受け取った名刺を見た女性は、驚きの表情をお母様に向けた。

「もしかして、サッカーで有名な神奈川県の常翔学園ですか?」

そう誰もが驚く、常翔学園のすべてを取りまとめているのが女性であるという事に。私は、そんなお母様を誇らしく思う反面、こんな風に私はなれるのだろうかとも不安にもなる。

「恐縮です、お知り頂いて。」

「えぇ、主人が学生の頃サッカーをやっていまして、子供が生まれたらサッカーをやらせて、常翔のサッカー推薦を受けさせるんだと今から息巻いているもんですから。」

「そうでしたか、今日は、ご主人様は?」

「主人は仕事です。遅くにならないと帰ってきませんので、どうぞごゆっくり。」

「ありがとうございます。突然のお伺いにご主人様のご了解がないまま上がり込んで、大丈夫でしたでしょうか?」

「いいえ、主人はきっとこの名刺を見たら驚いて喜ぶと思います。もうスカウトに来たのかって。」

女性には2才の子供がいた。人見知りのしない女性によく似たかわいらしい女の子。女性に促されてダイニングテーブルに座ろうとすると、麗華の腕を掴んで「こっち」と女の子は隣の和室へ引っ張った。和室にはおもちゃの小さなキッチンがあって、コンロの上にはフライパンの中に輪切りミカンが入ってある。

「ナナ駄目よ。お姉さんは遊びに来たんじゃないのよ。」女性はキッチンで給仕をしながら女の子に窘める。

「かまいません。私で良ければお相手していますので、話は母たちにしていただければ。」

「ごめんなさい。じゃ、お言葉に甘えて。」

ナナちゃんは、小さなお玉を「どうぞ」と渡される。まだ少ない髪を両サイドに括った束がぴょんぴょんと弾むのが、なんともかわいらしい。

「ジュウジュウ、これは何ができるのかなぁ」フライバンの中に入っているミカンの輪切りを揺らしてお料理。

「はんばーぐ!」

「は、ハンバーグ?」

クスクスとお母様と藤木が笑う。

みかんを煮詰めたハンバーグソースという設定なのかもしれない。

「どうぞっ」ナナちゃんはおもちゃのフライ返しでミカンの輪切りをフライパンから取り出し麗華の口元持ってくる。

「あ、ありがとう。もぐもぐ。」

「だめっ、いたき、ますして」

「あぁ。ごめんなさい。頂きますね。」

もう、お腹を押さえて笑うお母様と藤木に、麗華は頬を膨らませて抗議する

「こらっ、ナナ、お姉さんを困らせたら駄目でしょう。すみません。」

「いえ・・・」

もう少し大きい5歳児ぐらいなら、スターリンで相手にした経験があるけれど、まだ、たどたどしい言葉しか話せない幼すぎる子供の相手は、ほぼ初めてだ。簡単にできると思った自分に若干の後悔をする。

女性はダイニングテーブルにお茶の用意をして、お母様は事の経緯を丁寧に説明した。

その説明の間に、ナナちゃんの遊びはままごとからお絵かきへと移行した。

クレヨンを掴み、お絵かき帳に殴り書きしていく様は、病院でのニコを嫌でも思い出させる。

麗華は、黄色のクレヨンを手にして、ニコちゃんマークを描いた。

「これ、なぁに」指さす手が人形のように小さい。

「ニコちゃんだよ」

「ニィコたん?」

「そう、ニコちゃん、ニコニコのニコちゃん。」

「ニィコニィコ?」

麗華は水色のクレヨンに変えてもう一つニコちゃんマークを描いた。

するとナナちゃんは真似してピンクのクレヨンでぎこちなく円を描き、その中に二つの小さな丸を描く、笑う口は輪郭の円よりはみ出てしまっているけれど、それは紛れもなくニコちゃんマーク。おそらくナナちゃんが人生初めて描いたニコちゃんマーク。

お母様の話が終わると、女性は、一度ナナちゃんへと顔を向けてから、大きなお腹を支えて椅子に座り直した。

「私が見た事が役に立つかどうかわかりませんが・・・・真辺さんの役に立つなら・・・」と言いながらも、黙ってしまった。次に口を開くには、大きく息を吐き出さなければいけなかった。

「何から、お話しをすればいいでしょうか・・・。」






(ごめん。りの・・・)

慎一は、無表情に眠る白いりのの顔に、そう心の中で祈りのように何度も語った。

『俺の為に生きてと言った。』それは、りのの心に逃げ道を塞いだ重石、辛かっただろう。どんなに謝っても、慎一の後悔はぬぐえない。

慎一は絶望の果てに決心をすることで、その後悔を拭おうとしていた。

りのの望みどおりに、どこまでも一緒に行こう。

俺たちはいつも一緒だった手を繋いで。

りのが寝ている間の定位置にとなった枕元の丸椅子に座り、窓に視線を動かした。窓は雨が水滴となって張り付き、外の景色を見づらくしている。雨は止んだのか、まだ降っているのか、慎一にはどうでもよかった。

どうせ、りのは、この鍵付きの部屋からは出られはしない。

えりは、さっきのニコの姿にショックを受けたのか、「何か手伝う事あったら、病院内にはいるから携帯で呼んで」と言い残し、病室から出て行ったきり、帰ってこない。

眠ってしまったりの、病室は静かだ。

疲れた様子のさつきおばさん、後ろで束ねている髪が乱れて、顔の前に垂れている。おばさんは自分の髪ではなく、眠るりのの髪を整えて、静かなため息を吐く。

そして慎一へと身体を向けると、落とした声で話しかける。

「慎ちゃん、明日は、学校に行きなさいよ。」

もう、学校なんてどうでも良い。学校に行くという状況が頭になかった。明日も明後日もここに来て、りのの側にいる。それが当たり前で、慎一の責務。

「慎ちゃん!」返事のしない慎一を、さつきおばさんは腕を掴んで揺さぶった。

「もういいんだ。学校なんて。」

「慎ちゃん、あなたが学校に行かなくなったら・・・りのは何を希望に生きればいいの?」

「でも、俺は・・・俺がニコと呼んだから、俺のせいで。」

「りのは、あなたが常翔学園に受かったと聞いて、やっとあの暗い部屋から差し込む光に目を向けられたの。慎ちゃんに会いたい一心で、声を出す練習をして、どんなに辛くても決して音を上げなかった。慎ちゃん、あなたのせいじゃない。あの子は昔と変わらずニコと呼んでくれるって喜んでいた。」

そう言われたら、余計に責任を感じ、辛い。堪らなく顔を背けた。

「慎ちゃん、ちゃんと目を見て。」と、さつきおばさんは両の手で慎一の頬を挟み、顔の向きをおばさんの方に向けさせる。

昔懐かしい、さつきおばさんの躾方法だった。大切な事を言う時、さつきおばさんはこうして両の手で頬を挟んで、まっすぐ目を逸らさないようにしてようにして慎一たち子供に諭した。昔は、さつきおばさんはしゃがんで、慎一たち子供の目線に合わせていたけど、今は慎一の方が目線が上だ。

「慎ちゃんは、りのの目標なのよ。あなたが学校で過ごす生活が、サッカーをする姿が、あの子の希望になるの。あなたたちはいつも、そうやって競ってきた。りのの為にも、学校に行って、ちゃんとサッカーもするの。」

「おばさん・・・」

「お願い、慎ちゃん。おばさんに、これ以上、後悔を増やさせないで。」

その言葉で、はっとする。

おばさんは、慎一よりも沢山の何故?ドウシテ?を背負って来た。慎一が学校に行かなければ、さらにそれは増える。

沢山のどうして何故を抱えておばさんは潰れそうにうな垂れた。

慎一は、両の頬を挟む手を握り外す。

「俺・・・逝くよ。」

それは、親に対する嘘で反抗。そしてりのとの約束。

りのが望む所へなら、どこへでも、

手を繋いで

一緒に逝こう。






渡されたメモの場所へは、黒川警視監の配慮で、康太が付添人として送ってくれることとなった。

凱斗達が乗って来た柴崎家のバンを、康太が運転をする。しかし走り出して15分もしないうちに、康太はファミレスの駐車場へ車を入れた。昼ご飯がまだだった。康太は4人掛けのテーブル席のソファ側の真ん中にふんぞり返る。

究極に機嫌が悪く、仁王像のような顔をしている。

「康太ぁ、黒川君が怯えるだろう。」

「誰のせいだと思ってんだ。」

「すみません。僕のせいで・・・」

「和樹に謝らせるのか、お前は。」

「まさか、警視監と出くわすなんて思いもしないだろう。そもそも康太がすぐに降りて来ないから悪いんだろうが。」

「あぁ?」康太は最大限に眉を吊り上げ、店員を呼ぶボタンを叩き押した。すぐに若い女性アルバイト店員が注文を取りに来る。

「極上うな重三つに生ビール一つ。」

「勝手に決めんなよ。黒川君、好きなの選びなよ。」

「こいつの言う事など聞くなっ。」

店員までもが康太の不機嫌さにたじろぐ。

「ぼ、僕、それでいいです。」黒川君は委縮して、メニューで顔を隠す。

仕方なく店員にそれでいいと言ってオーダーを済ませた。すぐに届いた生ビールを康太は一気飲みして、すぐにもう一つ注文する。

「職務中にいいのか。」

「いいわけあるかっ!ったく・・・」康太はソファに背に天井を仰ぎため息をつく。

康太の機嫌が悪いのは、警察の内部資料のコピーを外部の人間に渡すといった職務規定違反をしたことが、黒川警視監にバレたことではない。そんなのは、凱斗が華族の称号を持つ柴崎家の名を出した事で、警視監も不問にせざる得ない。

その不問にせざる得ないバッググラウンドが、康太にはあるということが、知られてしまったことの方が面倒なのだ。

「黒川警視監は、権力にも権位にも理解あるお人だったよ。」

警察上層になればなるほど、権位に苦い思いをした人間が多くなる。康太が柴崎家と繋がっている事は、最強の武器であり防御であると同時に、急所でもある。

「ふんっ、理解あって一理なしだ。」

そんなことわざはない。康太が何を言いたいのかわからず、それ以上、機嫌を宥めるのをあきらめた。

康太は届いた極上うな重と生ビールを物凄い速さで食べると、不機嫌な態度を改めることなく席を立ち去ろうとする。

「おい、連れてってくれるんじゃなかったのかよ。」

「ナビついてんだろうがっ、勝手に行け!」

当然、極上うな重と生ビール代は払う気なしでファミレスを出ていく。

黒川君と苦笑に首をすぼめた。

 ナビの案内で車を走らせ着いた場所は、都内から車で一時間半がかかった隣県の倉庫街の一角だった。敷地を囲うフェンス、ゲート、建物は、周囲の物流施設と変わりなく、とてもそこが警察施設だとは思えない。ただよく見れば、隠れた場所に監視カメラが必要以上にある。正面の奥まった所だけがすりガラスで、一瞬どこが入り口かわからない。横幅のわりに狭い規模の自動扉をみつけ進むと、天井近くに警察庁、科学捜査研究所と小さく記名されていた。

開いた自動扉に誘われるように入ると、もう一つ自動扉があって、それは開かなかった。扉の横にタッチパネル式のモニターがあり、画面に「御用の方は、身分証明書のご提示をお願いします。」と表示されている。「警察関係の方」と「その他の方」のボタンがある。

その他の方を押すと画面が変わり、自分の顔が映る。画面右下に矢印が表れ、右に付属しているカード置き場に身分証明書を置くようにとの指示がある。これで訪問者の顔と身元が登録管理される仕組みのようだ。中々のハイテク、おそらく警察庁管内でも最新のシステムなのだろう。指示された通りにすれば扉は開くのだと思ったが、まだ開かない。画面に、「連れの方全員の提示をお願いします。」と出ている。

「僕、何も持っていません。」

「学生証も?」

「はい。学校のカバンに入れっぱなしだから。」

仕方なく係員呼び出し、というボタンを押して、警察庁黒川警視監の紹介で剣持という方に会いに来た事、連れはまだ学生で、身分証明書がないことを説明すると、しばらく待たされてから「どうぞ中へ、1Nの応接室1へとお入りください」と案内される。そしてやっともう一つの自動扉が開いた。中は20平方メートルほどの白い壁に囲まれた空間、右手にエレベーターがあり、1S、1Nと記された扉がある。数値は一階を示し、英字は方角を示しているのを凱斗は瞬時に理解する。

1N、つまり一階西の扉を開けると、薄いグレーの色の廊下が建物端まで続いていて、先には非常階段のマークが付いた扉が見える。両サイドの壁は薄いクリーム色で、間近にその応接室はあった。

これまでのシンプルな雰囲気を裏切らない、応接室というより打ち合わせ室と言った方がいい、4人掛けのテーブルと椅子が並んで2セットと壁にはスチール製のキャビネットが設置されているが、中は何も入っていない。

黒川君と並んで椅子に座って待っていたが、誰かが来る気配が全くなく、部屋の外、廊下にも人の気配がしない。黒川君は前夜の疲れもあり、うとうとと頭を揺らして寝てしまい20分が経った。ふいに部屋の外にバタバタと足音がする。

ノックもなしにドアが開けられた音で、黒川君はびくついて目を覚ました。

入って来たのは、しわくちゃの白衣を着た年配の痩せた男、白髪の混じった髪は手入れされずにぼさぼさで、その頭を掻きながらズカズカと入って来る。この人がメモに書かれた剣持という人だろう。白衣の胸についた名札は垂れ下がって名前が見えない。

凱斗が挨拶をしようと立ち上がると、反対にその年配の痩せた男は、凱斗の前の椅子にドカッと座った。

「どれだ?」

「えっ!?」

「写真だよ。」

凱斗は慌てて座り、事故報告書のコピーの束を渡す。無造作にそれを掴み写真のページを探し当て、顔を顰めた後、白衣のポケットからルーペを取り出し見る事、数秒。

「自殺じゃない。事故死だ。」

あまりの即答で、凱斗達は唖然と言葉が出ない。そんな凱斗達に見切りをつけるように剣持という人は、事故報告書をテーブルに投げ置くと立ち上がり、部屋を出ていこうとする。

「ちょっちょっと、その根拠を説明してください。」

「あぁ?」振り返った剣持という人は、不機嫌に凱斗の顔を見る。「俺が見た。十分だろ。」

「あなたがどういう人かも知らずに、言われただけじゃ。信用できるものを提示していただかないと。」

「俺にとっちゃ、あんたも突然来訪してきた知らない人だ。」

「ご挨拶する暇も与えてくれなかったじゃないですか。」

剣持という人は頭を掻きむしり、身体を向き直ろうともしない。

「柴崎凱斗です。」常翔学園の名刺とついでに弁護士バッチを見せた。

スーツを着て来てよかったと胸をなでおろす。

剣持という人は、苦虫をつぶしたような表情をすると、より一層頭をかきむしり、やっと椅子に戻り座った。

「名刺は上に置いてきた、俺は剣持だ。一応、ここの副所長をやっている。」そういって曲がった名札を凱斗に良く見えるように引っ張った。名乗るときにそうやって見せるのがこの人の常なのだろう。白衣のポケットが破れてしまっている。

黒川警視監の言った通り、風貌おまけに対応も失礼な剣持副所長は、もう一度事故調査書を開き、こちら向きに写真を押し出した。

「ここ、見えるか?」

特急スカイライナーの正面車体の下部がアップにされた写真、その車輪との際の上部を指さす。黒川君と共に写真を良く見ようと体を前のめりに。剣持副所長は先ほどのルーペをあてる。

「上の所に髪の毛がついている。」

「ほんとだ。」つぶやく黒川君に対して、

「子供じゃないかっ」と驚いた剣持副所長「こんなもの、見せていいのかっ」

心の中で、今、気づいたのかよ!と突っ込む凱斗。

「彼は黒川警視監のご子息です。」

「なっぬ!?」増々驚愕の表情をした剣持副所長、そして「あの馬鹿!何やらせてんだ。」と首を左右に振る。

「黒川警視監がご子息にやらせているわけじゃなく、たまたま、このような経緯に至っただけで、彼は苦しむ仲間を救うべく調査することになりまして。」

剣持副所長は、黒川君を苦悶の面持ちでしばらく見つめた後、「はぁー」と大きなため息をついた。

「続きを、ここに髪の毛がついていて、事故死と断定できる根拠を。」

「この仏さんの検死結果とホーム、車両の走行方向から見て、仰向けの状態でホームから落下し、静岡からの上り電車により轢かれている。ここ」先ほど指さした場所にもう一度ルーペをあてて、「に、髪の毛がついていることから、落下後に頭をもたげて逃げようとしている、が間に合わなかった。この車両の台枠までの高さを見て、頭をもたげなければこの部分に接触し皮膚片及び髪の毛は付着しない。」

「うつぶせで飛び込んで、車両との接触時の衝撃で転がって、仰向けになり右側ばかりが損傷したという可能性は?」

この疑問は、朝、藤木君が出したものだ。そうした疑問が、自分達では何一つ解析できないからこそ、専門家に見てもらおうとなったのだ。

「ない。この固い車輪がぶつかって転がるほど人間は固くない。この頭部がまず最初に接触して弾かれた。すぐに右脇胴部、右手が車輪に絡んで切断された。」

写真だけでそこまでわかるのかと、凱斗はこの風貌粗い剣持副所長を見つめた。

「よく胴が繋がっていたもんだよ。この特急は・・・」とページを戻して車両の構造項目を読みとっていく。「あぁ、やっぱり最新のアンチブロックシステムブレーキがついている、それが幸いして、このスピードで止まれた。古い車両だったら、遺体はまっぷたつだったな。」

子供にこんなもの見せていいのかと怒っておきながら、その物言いはないだろう。そのまだ子供の黒川君は平気な顔をして説明を聞きているが。

「じゃ、自殺じゃないんですね。」黒川君が念押しで聞く。

「あぁ、まず、車両への飛び込み自殺をしようとする奴が、仰向けに飛び込むという難しい姿勢を取ることが考えにくい。ビルなどの高所からの飛び降り自殺ではままあるが、電車に飛び込んで死のうとする奴は、首をつる奴より肝が据わってるんだ。どんな状態で飛び込むにしろ、線路に横たわったら頭をもたげたりしない。」

黒川君と顔を見合わせ、うなづきあって喜んだ。確実で信頼の「自殺じゃない」証拠を得た。

「しかし、この仏さん、よっぽどこのプレゼントが大事だったんだな。この衝撃で最後まで、しっかり握ってるなんてな。」





「慎にぃ・・・」

病室に戻って来たえりは、自動でロックのかかる扉を背にして立ち尽くし、俯いたまま動かない。

ニコは、ドアの前で泣き崩れ眠りに入った後、15歳のニコと5歳のニコを短時間で繰り返し、そしてまた眠りについている。今回は少し長い眠りだ。さつきおばさんは、りのが眠っている間に村西先生と話をしたいと少し前に出たきり帰ってこない。

えりは売店にでも行って来たのだろう、レジ袋を手に持っていた。

「どうした?」

「おばさんが・・・このままでって。」うつむいて言葉を詰まらせるえり。

「このままって?」

「ニコちゃんをこのままで、催眠療法も受けないって。おばさんと先生が立ち話しているの、えり聞いて、それで・・・それで、ここを離れて遠くに行くって。」

特に驚きもしなかった。なんとなくそうじゃないかと、慎一は感じ取っていた。

えりは、ニコの為に売店でプリンを買ってここに戻る時、手に持っていたレシートを自販機の隣のゴミ箱に捨てようとした。本館の売店近くの休憩兼談話室、自販機が数台並んでいて、テーブルと椅子、テレビが置かれていて、誰でも利用できる。

テレビから離れた一角の観葉植物のそばでさつきおばさんと村西先生が立ち話しをしていた。自販機の陰にもなっていたから、さつきおばさん達はえりの存在に気が付かず、話を続けたという。盗み聞きするつもりはなかったけれど、聞いてしまった話にえりは愕然として、病室に戻ってきたという。

「どこか静かなところで、二人だけで療養生活を送りたいって。慎にぃ!いいの?それで。ニコちゃんとまた、離ればなれになるんだよ。」

「・・・・。」

ニコの為を思うなら、無理に元に戻すより栄治おじさんが生きていると思っている5歳児のままの方がいい。さつきおばさんも、そう思って決断した。さつきおばさん自身だって、もう疲れている。

新田家と芹沢家が昔から家族ぐるみの付き合いをして、助け合って子育てをしてきて、何も遠慮は要らないと言っても、さつきおばさんの性格なら、ずっと気にしていただろう。もう助けられてばかりだと。合うと、いつも「りのの面倒を見てもらってありがとね。」の言葉を繰り返し慎一に言っていた。

「いいんだ。ニコは、自分で見つけたんだ。楽に生きられる方法を。」

「慎にぃ!」

「そう、ニコは、いつも自分でみつける。俺の助けは要らない。」

「そんな事ない!ニコちゃんには慎にぃがいないと!」えりが、泣きだした。

何年ぶりだろう、えりが泣くのを見るのは。この前の喧嘩の時、頬を平手打ちした時も、えりは怒りに震えはしていたけれど、慎一の前では泣かなかった。小さい頃は転んだや苛められたとかでよく泣いて帰ってきて、我儘言って泣くことが多かったえりが、いつしか母さんを追従するように底なしの明るさを、新田家にもたらしていた。

ベッドの手すりにかけてあったタオルを取り、えりのそばへ向かう。顔をタオルで拭ってあげると籠った声で訴える。

「慎にぃがいないとニコちゃんは、突っ走ってしまう。慎にぃだって、ニコちゃんが居ないと駄目なんじゃないの!」

「俺は・・・俺の事はいいんだ。りのが選んだものはすべて認めると誓った。」

りのが選ぶものを認める事が、唯一自分にできる事だ。

りのが生き辛いと、ここを離れたいのなら

りのが死にたいと、この世から消えたいのなら

認め、そして一緒について逝こう。

「慎にぃが良くても、えりは嫌だ!えりだって、ニコちゃんは大事なお姉ちゃんなんだ。」

「えり・・・。」

えりは慎一の手からタオルを奪い取り鼻水をふき取りると、一呼吸して真剣な眼差しを向ける。

「えりだけじゃなく、皆だって!皆、ニコちゃんを助ける為に探してるの今!だから慎にぃ、おばさんを止めて説得して!遠くに行かないでって!」

「何?皆って?探している?」

えりの携帯が鳴った。首にぶら下げていたストラップを手繰り寄せて、えりは涙声のまま電話に出た。

「はい、えりです。」

(えり、確定したわよ。自殺じゃないって。)

「あーん。せんぱーい。」

えりが電話を耳に当てたたまま、突然、その場に座り込んで、さらに泣き崩れた。先輩と呼称しているから相手は柴崎か。

(なに?どうしたの?何かあったの?)

「ニコちゃんが、遠くに行ってしまう。先輩止めて、早く戻って来て~」

(何?遠くに行ってしまうって、何?ちょっとえり!泣いてないで、ちゃんと説明しなさい!)

えりはしゃがんだまま、慎一に携帯を差し向ける。受け取った携帯の画面をみたら、やっぱり柴崎だ。

「電話、変わった。」

「えりは、何を言ってるの?」

「さつきおばさんが決断したんだ、もう治療はせず、ここを離れて静かな所で療養生活をすると。」

「そんなぁ。待って、私達、見つけたの!ニコのお父様が自殺じゃない証拠を。」

「えっ?」

「ニコのお父様、自殺じゃなかったのよ!」

栄治おじさんが、自殺じゃない?見つけた?

今一つ柴崎の言っている事が理解できない。

「新田!聞いてる?」

「あぁ・・・。」

「ニコのせいじゃないの。ニコのお父様は自殺じゃなくて事故なのよ。」

自殺じゃない・・・・事故・・・

ふと、見ると、足元でうずくまって泣いているえりのそばに、ニコが同じように座り込み、えりの顔を下からのぞき込んでいる。

慎一たちの声で起きてしまったようだ。

「お姉ちゃん、泣いてるの?お腹いたいの?」

もう何度目か・・・また5歳児のニコ。

「ニコちゃん・・・。」

「大丈夫?」泣き顔のえりの頭を、ニコはなでた。

ニコのせいじゃない・・・

おじさんは自殺じゃなかった。













「当時、私は芹沢さんと通勤時間帯が同じで、朝、よくお見かけしていました。名前は知らないけど、毎日乗る電車の同じ顔触れ、同じ長瀬駅で降りる、通勤電車仲間とでも言いましょうか・・・・芹沢さんは帝都電鉄のどこから乗ってきているのかわかりませんでしたけれど、だいたい、いつも同じ場所付近に座っていらっしゃいました。時々、英字新聞や、英語で書かれた書類なんかを読んでいらっしゃって、英語が堪能なんだと感心して印象が深かったんです。

事故の起きる1か月前ぐらいに、私、その電車で気分が悪くなりまして、立っていられるかと冷や汗でした。そんな時、どうぞと言って席を譲ってくださったのが芹沢さんでした。

その日から芹沢さんは、私を見るなり、私の為に席を取って置いてくれているかのように、何も言わずに席を変わってくれたのです。ある日、そのことを不思議に思って、お聞きしたんです。すると芹沢さんは

『失礼かなと思いましたが、妻の時と同じ様子だったもので・・・つわりですよね。』と声を潜めて問われました。

当時、私は妊娠していまして、つわりがひどくても仕事を辞めるわけにいかず、通勤していました。私が『そうです』と言うと、

『妻もつわりがひどくて、よく介抱しました。辛そうにしている仕草が同じだったものでしたから。おめでとうございます。』

と素敵な笑顔でおっしゃって頂きました。

それがきっかけで互いの名前を知って、帝都電鉄の区間、芹沢さんは毎日、席を譲ってくださり、お話をする間柄となりました。』

芹沢さんは毎日、体調はどうですか?と気遣ってくださいました。

あの日・・・事故のあった日、リボンのついたかわいらしい包装紙につつままれた細長い箱が、鞄のポケットからのぞいていることに気づいて、私は、娘さんへのプレゼントですか?と聞いたんです。その時にはもう、芹沢さんには娘さんが一人いらっしゃる事を知っていましたから。芹沢さんはそれを手に取り、娘に嫌われちゃいましたと、はにかみながら話されました。

『昨日、娘の誕生日だったんてすが、仕事が忙しくて、早く帰れなかったんです。妻には娘の誕生日ぐらい、どうにかならなかったのかと責められまして・・・私のせいで娘が楽しみにしていた誕生日会ができませんでした。で、さっき家を出る前に、娘にこれを渡そうとしましたら、要らないと言われまして。』

『あらら。』

『そのまま持って、出て来ました。』

『それは・・・・私は何とも言えませんね、娘さんの気持ちが、わかりますから。』

『ははは、そうですよね。』

『お嬢さん、5年生でしたか?』

『はい。難しい年になってきました。』

『ふふふ、今日は早く帰って一日遅れのお誕生日会をしなければなりませんね。』

『ええ、会社を首になってでも、今日は早く帰らなければ。』と、苦笑いして・・・・

娘さんに嫌われて寂しそうではありましたが、とても自殺を考えているようなお顔ではありませんでした。私の記憶では。まさか、自殺で処理されているなんて、私、知っていたら・・・・私が、もっとちゃんと警察に言っていれば・・・・。

すみません。はい、大丈夫です。

私と芹沢さんは長瀬で降りると都営環状に乗り換えますが、お互い内回りと外回りで別れる為、お話するのは長瀬駅到着まで。

芹沢さんは長瀬で降りた後、駅ホームを北上する形で、人の流れと共に歩いてA階段に向かわれます。私は、長瀬を降りたら、すぐそばにあるB階段を降りるのですが、妊娠してからは人の流れが落ち着いてから降りるようにしていました。

あの日も、いつものように人の流れが落ち着くのを階段付近で待っていた時、長瀬を通過する特急スカイライナーがキキーと凄い音がして、急停車したんです。悲鳴と共に見る間に芹沢さんが歩いて行った先のホームに人の塊が出来ました。何だろうと見ていると、人だかりを割って逃げて来るように、一人の男性・・・青年と言った方がいいような、若い子でした。あまり品が良いとは言えない、その青年は、血相を変えてこちらに向かって走って来ました。そして、階段の降り口付近にいる私を突き飛ばすように進路を開けせて駆け下りていきました。その時、その青年がつぶやくのを聞いたんです。「違う、俺じゃない、俺のせいじゃない。」と。私は突き飛ばされた時によろけて、側にいた年配の男性にぶつかってしまい、その年配の男性も青年の危険な行為を見ていましたから、青年に向かって『君、危ないじゃないかっ』と叫んでくれました。青年は振り返り見上げましたが、何も言わずまた駆け下りていきました。

それから・・・どうしてそうしたのか、自分でもわからないのですが、私は人だかりへと足を向けていました。何も見に行く必要はなかった。つわりがひどく赤ちゃんに悪影響するかもしれないのに・・・もしかしたら嫌な予感がしたのかもしれません。急停車した特急スカイライナーの先頭には人だかりが凄くて間近には行けなかったのですが、駆け付けた沢山の駅員さんが人だかりを整理しだして・・・そして見えたんです。車両の下隙間に、線路の上にある・・・・プレゼントを握っている左手が・・・

見間違いかと・・・だけどさっき、芹沢さんが娘さんに渡しそびれたプレゼントだと私に見せてくれた物と同じ物だったから・・・

私、怖くなって・・・胸に気持ち悪さが込みあげて、吐きそうになって・・・

そこから離れました。・・・・・・

す、すみません。今でも思い出すと。ごめんなさい。・・・・・・はい、大丈夫です。いいえ、ちゃんとお話します。

次の日の朝の朝刊で、事故にあった方が亡くなったと知りました。私は、信じたくありませんでした。何かの間違いであって欲しいそう思って、次の日の朝もいつもと同じ時刻の電車に乗ったのですが、芹沢さんは乗っていなくて・・・。たまたま出張か何かで載っていないのかもしれない。そんな事を考えながら、長瀬駅で降りたのですが、とても会社に行く気はなれず、その足で長瀬駅の駅員詰め所に行って昨日の事故に遭われた方の名前を聞きに行ったのです。ですが、プライバシーの関係で教えていただけなくて。その時に、階段で突き飛ばされた青年の事をお話しました。駅員さんは、私の証言を書類に書いて、鉄道警察の方に連絡しておくと言ってくださいました。そして何かあれば、もう一度お話を伺いするかもしれないと言われていたのですが・・・結局、何も連絡は来ませんでした。その日から私はつわりがひどくなり、電車に乗れなくなってしまいまして、仕事も辞めました。

私が話せるのは、これだけです。

はい、あの時お腹にいた子です。今は2才になりました。・・・・・・ありがとうございます。あの・・・芹沢さんの娘さんは、今・・・あっ、今は真辺さんでしたね・・・・・・・・・・・・・・・そうですか。

あの芹沢さんのお子様なら、素敵なお嬢様でしょうね。」






5歳児のニコは、さつきおばさんの膝に頭をのせて、じっとレコーダーから聞こえる女性の声を聞き入っている。

黙って動かないでいれば、15歳のりのだけど、精神は子供だ。

さつきおばさんは、女性の証言に涙を流しながら聞いている。その涙がニコの顔に落ちると、ニコは顔をあげた。

「ママ?・・・ママ、泣かないで。ママ、笑って。」

「りの・・・・そうね、うれしい時は、笑うのね。」さつきおばさんは手に握っていたハンカチで涙を拭うと、ニコの顔を両の手で支えて、自分の方にまっすぐ顔を向ける。

さつきおばさんの大事な事を言う時の、昔からの躾方法。

「りの、ちゃんとママの目を見て。パパは、自殺じゃない。あなたに罪はないのよ。だから、りの、帰ってきて。」

「ママ?」5歳児のニコには理解できない。きょとんとしている。

「皆が、見つけてくれたのよ。りのを助ける為に、皆が待っているわ、帰ってきなさい。りの。」

そう言うとおばさんは、頬から背中に手を回して、強くニコを抱きしめる。

「帰ってくるのよ、りの、皆が待っている。」

「ママ?苦しいよ、ママ。」

さつきおばさんは、胸の中で苦しむニコを、それでも離さず、ずっと

「パパは自殺じゃない、りののせいじゃない。帰ってきて。」

の言葉を呪文のように繰り返した。   

 


 



「正式文書では、ありませんが、警察庁科学捜査研究所の副所長から、芹沢栄治さんは自殺ではないという見識をいただけました。当時、芹沢栄治さんが持っていました診察券の診療所に、カルテ開示請求を明日にでも行います。今日は日曜日で連絡が取れませんでした。事故の調査書にも記載されている通り、栄治さんは、8月28日に一度だけ受診しています。おそらく、この日にうつ病の診断が正式に降りている訳ではないと思われます。それは明日以降にわかります。その事と、女性の証言も含めまして、警察庁鉄道事故捜査課に再捜査の依頼と、捜査不備を訴え、この青年を重要参考人として探させる事も可能です。仮にこの青年が芹沢英治さんと何らかのトラブルがあり、加害者となれば、芹沢英治さんへかけられた賠償金は、加害者側へと移行し、鉄道会社に返還を請求する事が出来ます。」

りのちゃんのお父さんが自殺じゃないという確かな見識を元に、今後のあり方を提示すると、りのちゃんのお母さんは、少し疲れた様相で呆然とし、凱斗を見つめて、小さく口を開く。

「あの・・・理事長補佐さんは・・・。」

「凱斗は、弁護士免許を取得しています。弁護にかかる費用は必要ありませんので、ご安心して再捜査の依頼をなさってください。私も凱斗と共に協力をいたしますので。」隣に姿勢よく座る文香さんが、そう言ってりのちゃんのお母さんに微笑む。

「そ、そうですか・・・・あの、いえ弁護は・・・再捜査や返還要求など・・・するつもりはありません。すみません。学園にはご迷惑ばかりおかけして、お世話になってばかりで、これ以上は。」

「真辺さん、遠慮なさらないでください。1年前も申し上げました通り、私どもは大事なお子様を預かっておきながら、職員の不祥事でりのさんに重傷な怪我を負わせました。本来なら、真辺さんから訴えられても仕方のない事です。公にすれば学園存亡も危ぶまれるほどの事を、それを黙っていただいている。それだけでも、私どもは真辺さんに感謝しきれないぐらいです。りのさんが苦しむ原因を作ったのは我々ですから、りのさんの生活を保障するのは当たり前の事です。迷惑だなんて、とんでもございません。我々に、償う機会をどうぞ与えてくださいまし。」

文香さんが、立ち上がって、土下座をしようとするのを、真辺さんが、悲鳴に近いを声を上げて「辞めてください。」と制した。

「弁護を要らないと言ったのは、りのの為、いえ、私自身の為です。再捜査をすれば、また、あの人の死に向き合わなくてはならなくなります。りのも私も、それに耐えられる自信がありません。この女性のお話だけで十分、私は救われました。・・・・・りのを妊娠した時、つわりがひどかった私を、おろおろしながら介抱してくれたあの人の経験が、この方の役に立っていたと思うと、あの人らしいと。あの人の優しさを思い出す事が出来ました。・・・・・・・すみません。」

真辺さんは、今日、何度目かの涙を流して、もう目の周りが真っ赤だった。

「私、あの人が死んだ後、心の奥で恨んでいたんです。なぜ自殺なんかしたの?いくら私に不満があっても自殺なんて卑怯だと、残されて苦しむりのと私を、あの人は望んで死んでいったと思って・・・・・りのが、精神障害を患ったのは、あの人のせい。と許せなくて。」

文香さんは、静かに真辺さん横に移動して、泣き崩れる真辺さんの肩を抱きしめる。

「あの人が自殺じゃなかった。それがわかっただけで、もう、もう十分です。ありがとうございます。」

りのちゃんだけじゃなく、真辺さんのお母さんも、ずっとずっと苦しんでいた。その苦しみは、俺が里香を失った時より、アフリカで仲間を失った時より、ずっと深いんじゃないだろうかと思う。よく耐えてきたな。

そしてふと、あぁ、りのちゃんが居たからかと納得した。

児童養護施設の前に捨てられて、そのまま、そこで育った自分は、母親の顔もぬくもりも知らない。だけど、知らないからこそ、真辺親子の絆を理想の親子像として美しいと思える。

康汰は、そんな俺を、お前は甘いと笑う。

康汰は親から虐待されて捨てられて施設に来た。康汰の妹、里香は実の親に虐待されて死んだ。人の残忍しか知らない康汰は、親子の絆を見て鼻で笑う。

康汰に真辺親子を見せてあげたい。

泣き崩れても、りのちゃんに劣らず綺麗な真辺さんの顔を見て、凱斗はそう思った。






関東医科大学付属病院別館の1階ロビー、待合所の長椅子に、和樹達は無言で座っていた。

診察のない日曜日、電気は消されていて薄暗い。唯一の光源であるガラス張りの出入り口からも、曇り空でほとんど望めていない。朝から降り続いていた雨がやっと止んだ。空模様が和樹たちの心を表しているようだった。

和樹達が得た確実なる見識と柴崎先輩たちが得てきた女性の証言によって、真辺さんのお父さんが自殺ではなかったという真実に一度は喜びはしたが、重い現実の前に、すぐに脱力した。

自殺じゃない証拠を手に入れたら、真辺さんはすぐに元に戻る。

和樹たちは、証拠を手に入れることに夢中になって、いつしか、そんな風に思い込んでしまっていた。

だけど、女性の証言が入ったレコーダーを聞かせても、事故調査の見識の説明をしても、真辺さんは5歳児のまま。

それもそのはず、5歳児の真辺さんでは理解できない。5才児の真辺さんの世界では、お父さんはまだ死んでいないのだから。

和樹の隣で、えりは手持ち無沙汰に携帯のストラップをいじっている。

何故か、お父さんが理事補の前で膝をついて頭を下げる姿が、ずっと頭から離れない。

あんなことしても、許さない。だけど・・・お父さんが剣持副所長を紹介してくれたから、このミッションは成功したのだ。そこに感謝などしなくていい。お父さんがしたのは、自身の保持の為だ。警察庁警視監の息子が犯罪をして学校を退学させられた、なんて世間に知られたら最悪だ。出世に響くどころか、きっと警察の信頼が揺らぐ。だからお父さんは理事補に頭を下げた。科学捜査研究所の偉い人を紹介することなんて簡単な事だ。頭を下げることだって雑作もない。そうして、お父さんはまた、沢山の真実を隠した。

また、お父さんが頭を下げる光景が右脳に浮かんできた。

はぁ~嫌いなのに、頭から離れないって最悪だ。

この薄暗い場所が、良くない。あたりを見回し、壁に埋め込まれているデジタル時計を見つけると、もうすぐ5時だった。和樹は待合の椅子から立ち上がった

「すみません。僕はそろそろ、失礼しようと思います。」

「あぁ、そうね。ごめんね。長くつき合わせちゃって。」

少し疲れた表情の柴崎先輩が立ち上がって微笑む。

「いえ。」

「あの、柴崎先輩、理事補に・・・」約束を破った処分は受けますと伝えてください。と言おうとして、口を噤んだ。えりが和樹を見上げている。

『君がこの学園からいなくなれば、えりちゃんはどうするだろうね。美術部に君を追いかけて入部したえりちゃん・・・同じく君を追いかけて学園をやめると言うかもしれないね。』以前に理事補がそう言って、和樹の退学する意思を止めた。

確かに、えりならやりかねない。ここで下手な事を言えば、えりは取り乱すだろう。新たな混乱は避けた方がいい。

「ん?何?」

「いえ、時間が出来たら連絡をくださいとだけ伝えて下さい。」

「わかったわ。伝える。」

「黒川君。」柴崎先輩を押しのけるように和樹の前に進み出る藤木さん。昨晩の言い合いと反発から、和樹は気まずい思いでうつむく。

藤木さんは和樹の耳に顔を寄せ、ささやいた。

「早まるなよ。どうにかするから。」

「!。」

まただ・・・この人は、人の顔色を読みとるのがうますぎる。

藤木さんはすぐに和樹から離れ、目じりに皺を作りにっこりと微笑んだ。

「ありがとう。君のおかげで、見つけることが出来た。」

つかみどころがない。言葉通りに信頼できない。反発心が和樹の中でまた出る。その顔色もまた読み取られるのではないか、そう思ったら、警戒と戸惑いで顔をまともに向けられない。

「いえ。」居たたまれず、和樹は踵を返す。

「ありがとうね。」学園最強の柴崎先輩の謝辞を背に、出入り口へと向かうと、静まり返ったロビーに足音が響いた。

新田さんが階段を駆け降りて和樹とすれ違う。

「新田、りのは?」

「まだ、寝てる。おばさん、病室に戻って来たから。」

「そう。」

「明日の午後、催眠療法を行うって。あのレコーダーが、りのの意識を戻しやすくするだろうって。」

全員がうなづく。

「皆、ありがとう。」

「礼は、黒川君に。」と藤木さんが和樹へと促す。

「黒川君が、ほとんど見つけてくれたようなものよ。」

「いえ、僕は・・・。」

お礼を貰う資格なんてない。自分は真辺さんの事よりも、兄さんの事を優先した。したかったのだ。あの時、兄さんが悲しそうな顔をしなければ、確実に兄さんの事件の報告書を選んで盗んで来ていた。

「黒川君、ありがとう。」そう言って、えりのお兄さんは和樹に歩み戻り、両手を取り握った。「本当に、ありがとう。」と深々と和樹に頭を下げるえりのお兄さん。

常翔学園の宣伝部と言われるサッカー部の部長が、藤木さんでなくてえりのお兄さんであることが、わかったような気がした。

この人にありがとうを言ってもらえるなら頑張れる、何でもやろうと思える。そんな厚みのある心からのありがとうだ。

あの時、兄さんの悲しそうな顔を見逃さず無視せず、事故調査書の方に手を伸ばして良かったと和樹は心から思った。






えりが、黒川君を追って病院を出ていく。

終わった。

何かを成し遂げた割には、手応えない結果。麗華は沈んだままの気持ちをどこに置けばいいのかわからない。

誰も居ない薄暗いロビー、新田は麗華へと一瞥してうつむいた。

藤木は、そんな新田を細めた眼で視認してから、軽く息を吐いた。

りのの様子をめぐって言い争いをした二人、新田は藤木の本心を読みとる能力に嫌悪を抱いて、関係はぎくしゃくしていた。二人の認識の違いによる誤解、嫌厭は、りの解離性障害の発覚によって解消されたはずなのに、素直になれない二人。

麗華は我慢できずに、声をあげた。

「あーもう!じれったい!」麗華は、二人を向き合いさせた。所在なくうつむき続ける二人。

「あの~藤木・・・」

「えーと新田・・・」

同時に口を開いたものの、それでも二人は目を合わそうとしない。その先を続けられないで、また沈黙。

「もう!言葉なんか要らないでしょ!黄金コンビなんだから!」麗華は二人の手を掴んで、無理やり繋げた。

麗華の言葉でやっと目を合わす。

「ごめん。」

「ごめん。」

それも同時。二人はうなづきあう。

男同士の友情に沢山の言葉はいらない。男は女と違って言葉に含みを持たないから。

「全く、世話、焼かせるんじゃないわよ!」と麗華は二人の頭を小突いた。

「痛った。」

「お前が居るから、語れるもんも語れなくなるんだろ。」

「あら~、女に歯向かうなは、新田家の教訓じゃなかったの?」

「あぅ・・・。」

「あははは。」藤木が笑う。

ほっとした。二人が仲互いになって昼休みにサッカーをする姿を見なくなって、崩れていく4人の関係に危惧を抱き、寂しい不安を心にためていた。そんな麗華の心の曇りもやっと晴れていく。

ほっとしたら、涙があふれてくる。麗華は二人から背を向けた。

「世話、焼かせて悪かったな。」

「ありがとな、柴崎。」

肩に重く組まれる絆。黄金コンビに挟まれて、麗華は強く仲間を感じる。

あふれる涙に麗華は誓う。

「私達は、りのを置いていかない。」


 





















ここは・・・病院?

また?

私、何した?

あれは・・・折り紙で作った手裏剣。

頭に、おぼろげな記憶。

誰かが『はい、できたよ』と渡してくれた。

『ニコちゃんいろのしゅりけん』と喜んだのは誰?

これはいつの記憶?

誰もいない白い部屋。

ベッドから降りる。

冷たいリノニウムの床。

いつもの病室とは少し様子が違う。

窓へ。

格子の張りがある。

開けられない窓。

『雨やんだ!外へ行く!』

おぼろげな記憶が月々と展開されていく。

私の脇から、ドアへと走る誰か。

『ママ開けて、慎ちゃんと遊ぶ!』

振り返り叫ぶあれは・・・私⁉

気持ち悪くなって、部屋の隅にある洗面台へと駆けた。

『りの!大丈夫?救急車呼ぶ?』

『やめて、もう私をほっといて』

――――ママのテヲフリハラウ、私。

景色の違う記憶が重なる。

これは何?

じゃない何時?

鏡に映っている顔、

これは誰?

ニコ?

りの?

私は・・・

どっち?





慎一は、さつきおばさんとの約束通りに学校に通う。木曜日の放課後に保健室に行ったきり、翌日から欠席しているりのの事を、クラスメートは心配して、どうなっているのかを慎一に聞いてくる。慎一自身も土曜日を欠席しているから、りのは風邪をこじらせて調子が悪く長引いていると言えば、「今年の風邪は質が悪いな」だとか、「移るほど仲がよろしいことで」と冷かされた。

幸か不幸か、慎一の土曜日の欠席が、りのの病欠に真実性を増していた。

一時限の終わりに職員室へと向かった。土曜日に練習を休んだ事の謝りと報告を石田先生にする為だ。石田先生は教職員の中でニコが精神科に通っている事を知っている数少ない先生。石田先生に促されたこともあり、慎一は先生の机に隠れるようにしゃがんで話す。先生には、また発作が起きて入院となっていると、日曜日の電話で言ってあったが、流石に5歳児に退行しているとは言えなかった。今回もそれは言わずに、今回は長引きそうです。とだけ伝えた。先生は眉間にしわを寄せて、「そうか。」と一言。そして、慎一の背をバシッと叩き「報告ありがとな。」と言ってうなづく。先生なりの励ましの気合い入れだ。

沈んだ気持ちはもうなかったが、決意は変わっていない。

どこまでも、りのについて逝く。

そうなれば、ずっと気にかけてくれた石田先生の期待を裏切る事になる。それらの決断が、石田先生を裏切る形になるのは心苦しいが、何よりも、もうりのと離れることは考えられない。それが自分にできる唯一の事であり、責任だ。

職員室を出ると、佐々木さんが出入口から少し離れた場所で立っている。慎一を視認すると、駆け寄り腕を取り引っ張っていく。非常階段へと慎一連れだし向き直った。

「真辺さんに何かあったの?」

聞かれる事は予測していたから、平静に嘘をつける。

「ちょっと体調を崩しているだけ。ほら、急に寒くなってきただろう、この時期はいつも崩すんだ。心配ないよ。」

そう、毎年この時期、りのは辛い日を送って来た。その毎年に自分は何もできなかった事が悔やまれる。

「そうなの?なら、安心だけど・・・」と言いながらも、まだ不審な表情を残している佐々木さん。「今野がね、木曜日の怪我が酷くなったんじゃないかって心配しているの。」

そうだった、あの怪我の痛みが全くない事に驚いて、りのが普通じゃないと判明した。

「違う、違う。あれは治ってきているよ。」

「そう。安心した。今野に言っとくわ。」

「あぁ、悪いな。心配かけて。」

「ねぇ・・・」そう言うと、佐々木さんは、苦悶の表情で口を閉じた。

佐々木さんは、夏の肝試しの時、慎一とペアを組んで、りのが病気持ちである事を知っている。その時、何の病気かは伏せる事ができたけれど、何の病気か?病状はどうなのか?まだ休まなくちゃいけないのか?など沢山の事を聞きたいだろう佐々木さんは、グッと我慢した。その表情が、慎一には心苦しい。

「できる事があったら、何でも言って。協力するから。」力強い目でうなづいた佐々木さんに対して、慎一も答えるように頷くしかない。

「ありがとう。」。

昨日と違って今日は青い空が広がる。

慎一は、ズボンのポケットから虹玉の入ったチャームを取り出した。

ずっと預かったまま、りのに返せないでいた虹玉。

チャームの中で転がる玉の感触が手に。

これには、りのの願いが、詰まっている。

パパを生き返らせて、

ママの悲しみをなくして。

私の声を戻して。

あるいは・・・もう、私を楽にさせて

と死を願ったのかもしれない。

透かし細工されたチャームの隙間から太陽の光を反射する虹色の光。

りの、もう背負う罪はなくなっただろう。

りの、帰ってこい!

俺だけじゃなく、皆が、りのを待っている。

帰ってこい、りの。





顔を浸した水の冷たさに反応して、また違う記憶がよみがえる。

『私は、どれぐらい寝てた?』

『・・・・1、2分かな。』

『ニコちゃん、約束覚えてる?ちゃんと見てるから、ダメなときはちゃんと言うからって。』            

『覚えてる。』

『駄目じゃないけど、おかしいよ、最近のニコちゃん、』

おかしい?

私が?

だから、病院なのか・・・。

タオルが見当たらない。後ろのクローゼットを開けてみる。

そこには制服が、かけられてあった。

『・・・りの、皆が待っている。』

そうだ、学校・・・・

行かなくちゃ。

皆が、待ってる。






「藤木、木曜日に、真辺さんが手に怪我した時、ちゃんと処置したんだろうな。」金魚の糞みたいにトイレにまで亮のあとをついてきた今野。聞きたい気持ちは、朝からわかっていたけれど、わざと無視していた。

「したよ。なんで?」そしてとぼけた。

「だって、あれからずっと休みだから。」

「あの傷とは関係ないぜ、風邪だって。勉強を頑張りすぎて夜更かししすぎたんだよ。最近夜は冬並みの寒さだし、文化祭の準備とかも忙しかったし、疲れが出たんだよ、もうすぐ弓道の全国試合だから、大事を取ってるって。メールくれた。」

「えっ、お前、真辺さんのメル友なの?」

「もちろん。」

「えー、いいな。俺にも教えてくれよ。」

「駄目に決まってるだろ。」

嘘をついた。この嘘がいつまでも持つか、わからない。

亮達が得た女性の証言を入れたレコーダーも使い催眠療法を行い、りの意識を呼び戻し、ニコと合わせる、精神の解離を治す施術をすると聞いているが、うまくいくかもわからず、りのちゃんが学校に通えるようになるのも、何時だと断言できない。内科や外科と違って、完治の診断が難しくできないのが精神科だという。ただ、女性の証言を入れたレコーダーは大いに役に立ち、成功率を上げると聞いた。りのちゃんお母さんは、彩都市を離れて療養生活をするとした決断を一旦保留にはしたけれど、催眠療法を行うのは一度だけにして、駄目ならやっぱり彩都市を離れる気持ちは持っている。

今野を含めたクラスメートの多数が心配して、亮達に状況を聞いてくるけれど、今は風邪をひいて休んでいるとしか言えない。

「なんかさ、真辺さんいないと、花がないっていうかさ、真辺さんって静かだけど存在感はぴか一じゃん。お前らも元気ないからさ、こっちまで調子狂うよ。」

亮はいつもと変りなくしているつもりだったが、今野は意外にも周囲の雰囲気に敏感だ。

「悪いな、伝染させちまって、気を付けるよ。」

手を洗って濡れた手で今野の肩を叩いた。

「うわっ、お前、何してっ、びしょびしょじゃねーかっ」

今野の訴えを背に、亮は廊下に出る。

学園は今日もいつも通り、稚拙な思惑が渦巻いて、にぎやかだ。

りのちゃん、皆は、りのちゃんの存在を認めているよ。

もう誰も、りのちゃんを阻害しない。

だから、帰っておいで、

俺たちの為だけじゃなく、

皆の為に。





すがすがしいほどの青い空が、目に突き刺さる。

景色が作り物のようだ。

コンピューターグラフィックスで書かれたような違和感。

違う、自分自身が違和感。

借りものの服を着ているような。

車のクラクション、

音が遠い。

バスの排気ガスが、生暖かい塊となって顔に当たる。匂いも遠い。

乗降ステップを踏みこんだ足音も遠い。

空いている二人掛けの席に座る。

『壊れたんだ。』

『見せて。』

『何して、こんなになったんだ。』

『・・・・・・ひっかけた。』

『ペンチで曲げて、治すしかないな。』

『治るの?』

『まぁ・・・・完璧に元通りとまでは行かないけど、』

近いのは記憶だけ。

何が、壊れた?

何か、大事なもの。

私が、壊した?





「柴崎、真辺さんはどうしたんだよ?日曜日も合わせたら4日目だ。」

三次元の女に興味のない中島が、珍しく自ら麗華に話しかけてくる。

「風邪が長引いているのよ。」

「ひどいのか。」

「ううん、大丈夫よ。もうすぐ学園祭だし、弓道の全国大会もあるから、大事とって休んでるだけよ。」

「そっか、良かった。学園祭には絶対に来てもらわないと困るからね。」

「困るって、あんた、また盗撮しようとしてんでしょう!」

「人を犯罪者みたいに言うなよ、学園のアイドルを普通に追っかけしてるだけだろ。」

「それこそ、ストーカー犯罪じゃない。」

「今回の文化祭は、真辺さんは何を着るんだい?」と麗華の詰問を無視する。中島は他人の話をいつもぶった切って自身の話に帰る。

「えっ。あっ、そうね。忘れてたわ。」

「えー用意してなのか?じゃ、俺が決めてあげるよ。いいのあるんだ。」 

去年は喫茶店だったから、メイドさんの服を私がサイズ直しをして準備した。

今年は生徒会や、新田達のいざこざで忙しく何も考えていない。クラスの催しはお化け屋敷で、役割に関わらずクラス全員がそれらしい衣装を各自で用意することになっている。男子は捨ててもいい私服を切り裂いてゾンビのペイントをするのが多い、女子は何故かドレスが多く集まっていて、中にはどこで調達したのか、ナース服もある。それらに赤いペンキを塗りつけてお化けにするのだとか、完全にハロウィンだ。

「これなんかどう?」と、中島は携帯の画像を麗華に見せてくる。

「え?馬鹿!こんなの駄目に決まってんでしょ!」

一体何のアニメか知らないけど、ほぼ下着?っていうぐらい露出度の高いSF風の衣装。

「だいたい、お化け屋敷なのよ。テーマ違ってきてるじゃないのよ!」

「そうか・・・」

「何?また中島のオタク談議?」近くの席に居た、野球部の田中と家庭科部の仁科さんが話に加わって来る。

「今年の真辺さんの衣装を考え中なんだ。」

「あははは、中島君、必死ね。」

「また、応募するとか考えてんだろう。新田に怒られるぞー。」

「んじゃ、これなんかどうかな。」オタクは、専門話になると人との会話を平気で無視する。

「思い切って、男装してもらうってのどう?かっこよくなると思うんだ。」

と見せられたのは、軍服見たいなもの。

「だから!、お化けの恰好しないといけないんでしょう!うちは!」

「だからさ、これに血糊とかつけて、戦死したお化けって、すればいいじゃん。」

「ほほー。」

「真辺さんなら、カッコよさそうね。」

「だっ、駄目よ、そんなの。」

「今、流行ってんだぜ。軍キャラ。」

(アニオタ仲間で流行ってるからって、こんな地味なのは駄)目よ。りのはもっと気品のある衣装を着なくちゃ。)

「ニコの身長で、男装は無理よ。」

皆が黙る。身長の話題になるとりのの機嫌が悪くなるのは周知のことだ。

「ひどいな、お前、親友だろ。」と田中

「つい・・・。」

「そうだなー、じゃ、やっぱりあの身長を生かして、これにすっか!」

やっぱり、中島は麗華たちの話を聞いてない。

「真辺さんが居てたら、怒りそう。」と仁科さん。

ニコ、じゃなくて、りの、帰ってきて。

また学園祭が始まる。

学園のアイドルを皆が待っている。

楽しい記憶を、今度はりのとして、一緒に沢山作ろう。

りのがいない学園祭なんて、つまらないわ。





『ニコ、いくぞ!』

声に顔をあげると、手のひらを差し出して笑っている子供。

「慎ちゃん・・・」  

『早く!』

そう言うと、小さな慎ちゃんは、私の手を握り、バスの扉まで引っ張る。

慌てて、ポケットから定期を出して運転手に見せ、バスを降りた。

『俺、一番!』

小さい慎ちゃんはバスのステップから飛び下りると振り返って自慢げに笑う。

そこは、いつも学校に行く時に乗るバス停。

『見て、慎ちゃん、すごい、きれい!』ふいに、女の子の声。

そばには誰もいない。私と小さな慎ちゃんだけ。

小さい慎ちゃんは、丘へと続く道の方を見上げた。

つられて私も見る。

何もない。

緩やかな坂道が線路沿いに続くだけ。

『いこう!』小さい慎ちゃんは、丘へと続く道を指さし、踵を返して走っていく。

私の脇から、スカートを履いた小さな女の子が小さい慎ちゃんを追って走り出し並んだ。

手を繋ぐ二人は駆けて行く。

「待って!」二人を止めた。振り返った慎ちゃん、そしてスカートを履いたおかっぱの女の子、それは・・・私!?

二人は手を繋いだまま、私に手を差し伸べる。

『いこう!虹玉を探しに!あの虹の下にある!』

にっこり笑った小さな慎ちゃんと、小さな私。

じゃ、私は誰?





出張中で居ない柴崎理事長の代わりに、届いた郵便物を開封し内容を視認して仕分けていた。

目に入った書類は忘れない記憶となる。表題から重要度を目算し、締め切りのある物は早いものから重ねて未処理の箱に入れておく。そうした作業をしながら凱斗は別の事を考えていた。

今日、催眠療法を行うりのちゃんの事。成功するかどうかは、わからない。

身体的病症とは違って、精神的病症は即効性のある治療はない。

凱斗も、いつ起こるかわからないPTSDを持っている。戦地からの敗傷だ。皮肉なことに、劣悪な戦地ではその病は発症せず、平穏な暮らしになってから、それは発症した。病院に通いはせず、凱斗なりの対処法を会得していた。

完全なる完治が難しいのが精神病、それを見込めないのなら、凱斗のように自分なりの対処法を見つけてうまくコントロールしていくしかない。

りのちゃんと初めて出会ったのは、いや、見たというのが正しいだろうか、は、約2年前、この学園の図書館でだ。帰国してやっと1年が経ち、対外的にも凱斗の心身が「普通」と判断され、やっと柴崎家の一員として、理事長補佐の役職を与えられ、中等部に就任する事になった。正式な就任は来期の4月からだったが、準備の為に凱斗は年が明けた1月の終わり、常翔学園の敷地に足を踏み入れた。10年ぶりの学園だった。凱斗が通っていた頃から比べると要所に改築がされていたが、さほどの変化はない。特に学園自慢の図書館は変わらず重厚に佇む。建物自体は100年を超える歴史的価値ある建築物、常翔学園中高開設10周年を記念して、手狭になった小学部の講堂を移築して補強したものだ。凱斗が学園の特待生として通い出した年に、地域の人にも開放された図書館は、市営図書館より蔵書数をしのぎ、専門スタッフを常勤させる、わが常翔学園のパンフレットの表紙を飾る自慢の施設だ。

自然に、校舎内よりも先にその図書館に足が向いた。吐く息が白くなった外とは一転した快適温度の館内。ほっと一息、IDをゲートの機械に接触させて入る。変わらない景色に自然と目を細めた。学生の頃、凱斗はここに入り浸っていた。本が好きだったわけじゃない。目的は休むことにあった。凱斗にとって本は、読むものじゃなく記憶するもの。見た活字を写真のように覚えてしまう凱斗の特殊な脳は、どんなに面白いストーリーもそれは紙と文字が並ぶ記憶でしかない。ストーリーよりも先に活字の羅列が頭に刻まれる。この記憶力をツールとして使い熟すには、情報の取りやすさが必要で、無駄な情報はなるべく排除しておきたかった。この記憶力に限界があるのかどうかはわからないが、もしあるとしたら、容量の節約は必須だろう。記憶の消去はできないのだから。

この図書館の2階に、音楽のライブラリースペースがあった。そこで適当に選んだCDをヘッドホンから耳に流して目を瞑る。それが凱斗の周囲から遮断した真の休息だった。音楽は記憶されない。

高い書棚が連なる一階の最奥に、左右へ別れて2階へと続く階段がある。その左側の階段を上るのが凱斗の常だった。馴染んだ景色と匂いを感じながら奥へと進んだ。今、凱斗に音楽を聴く暇などなく、2階に上がる必要もなかったのだが、無意識に向かっている自分の足に苦笑しながら、凱斗は階段を静かに上った。2階は、音楽のライブラリィと学習スペース、そして海外の原本が並ぶ。音楽もほぼクラッシックばかり、外国語の原本を手にする生徒は滅多にいない。学習スペースは1階にもあるため、わざわざ2階に上がる必要もない。一般人もしかり、寒空の土曜日に図書館に足を運ぶ人は少なく、館内は全体的に閑散としていた。なのに、2階の学習スペースに一人の女生徒が座っていた。机の上は分厚い沢山の本が積み重なり、何かを一心に書き綴っている。

フロアにただ一人、だから目立つのだと考えた自分の分析が、すぐに覆される。整った横顔、放つ雰囲気が大衆の生徒と違っている。

ただ座っているだけなのに、注目させられる。視線を外すことが難しい。

学期末試験はまだ先、試験勉強をするにはまだ早い。何をしているのかも興味を覚える。

凱斗は静かに近寄った。

そして驚く。積みあがった沢山の本は、どれも外国語の原本。

ここ2階は外国語の原本が並ぶ図書空間がゆえに、それで当然の状況に驚いた自分が情けない。

女生徒は英語表記とフランス語表記の資料集を広げてノートに書き綴る。その筆記が英語であることで、やっと凱斗は理事長の言葉を思い出す。

『今年の、3年ぶりの特待生は学園初の女生徒で、英語とフランス語が出来る帰国子女だ。凱斗とはまた毛色の違う賢明さだよ。一度、話して見ると良い。但し英語で。彼女は日本語より英語の方が流暢だから。』

ずいぶん長い時間を見つめた凱斗の視線に気づいた女生徒、真辺りのは、動かしていたシャープペンを止めて顔を上げた。

整ったその顔は、特待生の名にさわしい聡明な無表情だった。

はたと気付く。

あの時、りのちゃんが読み広げていた原本は美術に関する物だった。学期末テストにはまだ早いが、特待生が年度末に向けてしなければならない事がある。特待生のとして学習レポートの提出。提出は学期毎ごと年3回の提出を求められる。学期末試験と同様、提出期限はまだ先だが、学期末のレポートは1年の総まとめとしての完成度の高さを求められるために、早い段階から取りかからなければならないのは必至だ。それは、かつての凱斗も同じだった。特にこのレポートが凱斗は苦手で大嫌いだった。

顔を上げた真辺りのの整った雰囲気に圧倒されて、凱斗は何も言わず、ただ見つめた。真辺りのはすぐに顔を伏せて、続きを書き綴る。

その書き綴っていたのは、特待生の査定用学習レポートの作成だったのではないか?

今更ながらに気付いた、その内容。凱斗は理事長室の壁に並ぶキャビネットの一つ、下層の扉を開け、りのちゃんが査定の度に提出してきたレポートを保存したファイルを取り出し、めくる。凱斗は、正式に理事長補佐として就任した年の、りのちゃんが2年生の時のものしか、その完成度の高いレポートを拝見していない。

やはり、りのちゃんが1年時の提出した学習レポートのテーマは「フランスの美術史における日本文化」だった。

りのちゃんが学習レポートのテーマに美術を選んだのは、盗品売買を目撃した影響だろう。レポートの中には、あの盗まれたミューズ・ハリスの名画、受胎告知の事も記されている。

りのちゃんは、この時からsosを出していたんだ。学園の裏で大変な事が起きていると。この時点で気づけていれば、りのちゃんは次の年の文化祭で教頭に殴られることなく、レニー・グランド佐竹に殺されそうになることなく、もう一度父親の死をなぞるような眠りに落ちることなく、そして、解離性同一障害 を引き起こす事はなかった。連なる後悔。

常翔の特待生で居続ける事が、並大抵の努力では続けられない事、強い精神力を伴うと共感できるはずの自分が、りのちゃんの苦しみを共有し取り除くことが出来なかった。

自分の無力さが悔やまれる。

何時だって、自分は無力なのだ。守る力なんてない。

だから、罪責を積む。

その重みを感じる事で、自分は本来の罪から目を背けている。

帰って来てはならなかった・・・

あぁ・・また守れなかった。

手のひらに広がっていく血。

尽きる命を振り絞って何かを叫んでいる仲間。

聞こえない。

苦渋の選択を・・・、

それは、仲間の願いだと、無理やり心に刻む・・・罪

内線電話の音に、凱斗は息をのむ。

あぁ、やばかった・・・

落ちるところだった。

深呼吸をして、受話器を取る。

「はい、理事長室。」

「理事長補佐、3年5組、真辺りのさんのお母様からお電話です。」

(真辺さんからの電話?やっぱり再捜査をする方に気持ちを変えたのだろうか?)

「ありがとう。繋げて。・・・・お待たせいたしました。凱斗です。昨日は遅くまで申し訳」

「理事補さん、そちらに、りの、行ってませんか?」いつも丁寧な電話対応とは違って、凱斗の言葉を途中で遮り慌てた口ぶり。「は?」

「りのが学校に登校していないか、すぐに確認して頂けませんか?」

「あの~真辺さん?」

「りのが居なくなったんです。あの子、制服を着て・・・」







慎一は落ち着かない授業を受けていた。いや、受けてなんかいない。時間が過ぎるのを、ひたすら耐え過ごしていたと言った方がいい。

りのが催眠療法を行う今日、本当なら、朝から病院に行ってそばに居たかった。だけど昨日、おばさんと約束した。りのの為に学校に行ってサッカーすると。それがりのの目標になる。りのの為と言われたら、それを認めないわけにはいかない。

慎一の決意は何があっても変わらない。

やっと、二時間目が終わる。

何をするともなく藤木と柴崎が慎一の席に集まってくる。

「まだ、10時半・・・」慎一の前の席に陣取って座る柴崎が、大きなため息とともにつぶやく。

「今日は時間が経つのが遅いな。」通路挟んで隣りの席の机に体重をかけ立つ藤木は、ポケットに手を入れポーズをとる。

「ニコの治療は何時ごろ終わるのかしら?」

「ニコじゃないだろ。」

もうニコと呼ばないと決めた。りのはりのとして、慎一たちと楽しい記憶を綴って行けるように。

「あぁ、ごめん。りのね。りの。慣れないわ。」

呪文のように、りの、りのと繰り返す柴崎。

「1時からやるって言ってたから、夕方には、終わるんじゃないかな。」

「うまくいくかしら。」

それには、誰も答えられない。

「うまくいくことを願うしかない。」

「ねえ、虹玉は?今、どっちが持ってるの?」

「俺。」慎一はポケットから取り出し机の上に置いた。

「これに、お願いするわ。」と柴崎が掴もうとするのを慎一は手で覆って防いだ。

「これに、奇跡の力なんてない。」

りのの苦しみが詰まり過ぎるほど入っている。そんな虹玉に祈ってりのが元に戻るとは思えなかった。

不審に頭を傾げた柴崎が、何かを言おうとしたのを、藤木が首を振って止める。

かつて、この虹玉が柴崎の危機を救った、だからあの絵本のように願いが叶う玉だと認識があって致し方ないことだが、これは慎一が駄菓子屋で100円で買ったビー玉だ。これを絵本に登場する虹玉だと思い込む幼き意識は、とっくにない。

それは慎一にもりのにも、もう必要のない夢だ。

チャイムが鳴る。

三時間目は社会、サッカー部の顧問石田先生の歴史だ。藤木が柴崎の肩を叩いて促し、自分の席に戻っていく。

慎一は机の中から教科書とノートを出して揃える。

歴史の苦手なりのの為に、ノートをちゃんととっておかなくては。りのが帰ってくることを信じて。

石田先生は、サッカー部の顧問である時とは正反対で授業は緩く、チャイムが鳴ってから職員室を出る。だから、授業の始まりが遅いし、先生が教室に到着してから席についても怒られない事は周知で、皆はまだ廊下に居たりしている。しかし、サッカー部の生徒たちは、その緩さに甘えられない。先生が、本当はめちゃくちゃ礼儀に厳しく怖いのを身に染みてわかっているからだ。チャイムが鳴って5分も過ぎてから、石田先生の「入れよぉ」と気の抜けた声かけが廊下から聞こえて来る。

気持ちの引き締めに、慎一は大きく深呼吸し先生が教室に入ってくるのを待つ。

ガラッと扉が開かれる。

「石田先生!」

教室に入ろうとした石田先生を、廊下から走ってくる足音と共に止め、半身入りかけていた石田先生は、廊下へと身を戻した。声の主は馴染みある凱さん。

「新田!藤木!」険しい顔の石田先生が再び顔を出して慎一たちの名を呼ぶ。

「麗香!」続いて、凱さんも体を押し入れ柴崎の名を呼ぶ。

慎一たちは同時に立ち上がって、顔を見合わせる。

生徒の前で、柴崎の事を名前で呼んでしまう凱さんの慌てぶりが、慎一を不安にさせた。










『見て、慎ちゃん、こっちまで続いてる!』

『うわぁすげー。これ、蝶の羽を運んでる 』

小さい慎ちゃんと小さい私は、道の脇のアスファルトと砂地の境目にある蟻の巣を見つけて、観察している

『あっ。あの蝶の羽を持った蟻、あっち行った・・・』

『わー地面の穴に入って行ったよ。』

私も座り込んで観察。一匹また一匹、アスファルトと砂地の境目にある小さな穴に入っていく蟻、出ていく蟻も限りなく続く。頭の中でまた記憶がよみがえる。

『りの!どうしたの!そんなずぶ濡れで、まさかこんな雨の中、外に行ったの?やだ、おしり泥だらけじゃない。何してたの!』

私は、りのじゃない。どうしてりのの記憶があるの?

りのは、あの扉の向こうに行った。もう二度と出てこない、出てきたら駄目なの。

「私は、りのじゃない。」

そう声に出してつぶやいたら、小さい慎ちゃんと小さい私は振り返り、不思議そうな表情で見つめる。

『蟻さん探してたんだよね。』と小さい慎ちゃんはにっこりと笑う。

『蟻さん、雨の日どうしてるのかなぁって思ったんだよね。』小さい私もにっこり笑う。

そう、蟻さんは働き者、雨の日も。家の中でお仕事をしていて・・・・・パパのように忙しい。

『りの、最後よ。パパの顔見てあげて・・・・』

違う、私はりのじゃない、ニコ。

ニコニコのニコ。





「やっぱ、今日、休めば良かったかなぁ。」

二時限目の音楽が終わって和樹達は教室に帰る途中、えりが大きなため息とともに、渡り廊下の真ん中で立ち止まった。

えりは持っていたアルトレコーダーを両手に持ち伸びをする。その拍子に脇に抱えてた、音楽の教科書が下に落ちる。

和樹は苦笑した。

えりは朝から全く授業に集中できないでいて、さっきの音楽の授業では一人、音程が外れて、先生に注意を受けていた。

「何時に終わるって?」

「1時から始めるってのは聞いたけど、終わるのは聞いてないなぁ。」えりはだるそうに落ちた教科書を拾って、渡り廊下の窓へと肘をついた。和樹も並んで外の景色を見やる。裏山ばかりが圧迫される景色、いい景色とはいえない。

「長くかかるの?」

「さぁー?今日はクラブ休んで、学校終わったらニコちゃんとこに行くつもり。一緒に行く?」

真辺さんの催眠療法は、まだ始まりもしない午前であるのに、終わったことばかりを考えている和樹達。

「え?うーん、どうしようかな。僕は、それほど真辺さんと親しくないから、迷惑じゃないかな?」

「そんなことないよ。黒川君が、ほぼ全部を見つけたんだし、ニコちゃんだってお礼、言いたいと思うよ。」

「お礼なんていらないんだけど、っていうかえり、ニコちゃんと呼んだら駄目なんじゃないの?」

「あぁそうだったぁ。りのちゃん・・・・なんか言いにくいなぁ。他に言い方ないかなぁ。」

真辺さんは、呼称される名前によって意識が分裂されてしまった。本名のりのは、日本語の発音がおかしいと苛められて、父親を亡くした辛い経験で笑えなくなってしまった名前。

その、りのの代わりに笑ったのが、えりのお兄さんが付けたあだ名のニコと呼ばれる人格。

えりのお兄さん達は、もうニコとは呼ばないと誓い、えりにも念を押してニコって呼ぶなよと、昨日散々注意を受けていた。

だけど、えりはすっかり忘れている。

「慎にぃみたいに、りのねぇ・・・なんか違うなぁ。りのりん、りのたん。りのっぺ。」

次々と真辺さんへの呼称を変えていく。

「何、笑ってんのよぉ。」

「プくくくく、だって~、りのっぺって、それはないよ。」

あの頭脳明晰、容姿端麗の真辺さんに、そんな田舎くさい、呼び名は似合わない。

「そうかなぁ。ニコちゃん、ああ見えて、結構、どんくさいし、やる事めちゃくちゃだよ。」

「だから、ニコちゃんって呼んだら駄目だって。」

「あぁ、うーん。りのちゃんね。りのちゃん。」

姿勢を変えると、渡り廊下の窓の向う、北棟の理事長室から、理事補が出てくるのが見えた。

理事補は慌てた様子で、理事長室のドアは開けはなしたまま走ってくる。

渡り廊下を滑るように曲がり、和樹たちの前を険しい表情で走り過ぎていくかと思ったら急に立ち止まり、振り返る。

「黒川君!いい所に、ちょっと来て!」

「なっ何ですか?」

「あっ・・・いや、やっぱりいい。」

「えっ?」

理事補は踵を返して走りかけて、また止まる。そして首の後ろを大きく掻きむしると、「あぁ・・くそっ。」とよくわからない独り言を吐き捨てると、和樹の元に戻ってくる。

「やっぱり来て!」と和樹の腕を掴み引き連れていく。

「えっ?えええ!?」

昨日、「落ち着いたら、連絡を下さい」と柴崎先輩に伝言をお願いして帰った後、結局、理事補から連絡は来なかった。何かと忙しいのはわかっていたから、和樹から電話を掛けはしないで、今日、普通に学園に登校してきてしまった。

退学の覚悟があるのに、通常通りに登校している自分の心理に呆れながら、庇護も期待していた。

お父さんは昨日も家に帰ってこなかった。自分の子供が犯罪をしているとわかっても、帰ってこないんだ。と思った。

誰も、和樹に関心を示さない。

もう、寂しいとか、悲しいとか、腹が立つとかの感情もない。

ただ、やっぱり。と納得しただけ。

理事補の慌てぶり、それは、おとといの警察のデーターベースのハッキングの犯人が和樹だと断定され警察から連絡があったからかもしれない。

和樹は退学届を用意していた。

理事補は和樹を理事長室に押し込む。当然ながらえりもついてきていた。

「理事補、僕、用意してます。あと日付を書けばいいだけにしていますから。」

「何を?」と言いながら、理事補は理事長室の片隅にあるロッカーのカギを開けて、黒いビジネスバックを取り出す。

それはPAB2000のパソコンが入ったカバン。

理事補はカバンからPAB2000を取り出すと、指紋認証を行い、長い暗証番号も間違うことなく入力して、立ち上げる。

そして、和樹に押しやり、

「これも持って、PCルームへ行って!」

「え、え?何ですか?」

「りのちゃんが居なくなった!病院の防犯カメラと周囲のカメラをハッキングして、探してくれ!」






『どんなお仕事かな?見てみたいなぁ・・・・』

『りの、最後よ。パパの顔見てあげて・・・・』

『パパ、寝てるの?起きてパパ、お仕事行かなくちゃ。蟻さん達はもう働いているよ。この花、邪魔・・・・こんなんじゃお仕事いけない。取ってあげよう。』

『りの、ダメ!そこは!』

    

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ


嫌だ、どうしてあの声が聞こえる?

違う。私はりのじゃない。

りのはパパの所へ行った。

だからもう、

私は笑えるんだ。


  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ


逃げた?

りのは逃げてない。

りのはちゃんとパパの手をつかんで、

あの扉の向こうに。

『帰ってくるのよ、りの、皆が待っている。』

駄目!帰ってきたら駄目。ママと引き換えたの。りのが帰ってきたら、ママが居なくなってしまう。

小さい慎ちゃんと小さい私は、蟻の巣の入り口を手で掘り起こし大きくして、中をのぞき込んでいる。

蟻の巣は壊れて、蟻も巣の奥に引っ込んでしまったのか、一匹も出て来なくなった。

「駄目よ。帰ってきたら・・・・りのは帰ってきたら駄目。」






「居なくなったっていつ?」

「気づいたのは9時過ぎ頃だそうだ。病院を病院職員と真辺さんで探したらしい。だけど、どこにもいなくて、病室のクローゼットの中に制服がない事に気づいて、ついさっき学園に電話をしてきた。学校に来ているか確認してくれと。」

慎一たちはパソコンルームに駈け込んだ。部屋には既に黒川君がいて、パソコンの並ぶテーブルの端で見慣れないPCを操作していた。黒川君は慎一たちを視認するや否や、叫ぶ。

「見つけました、8時52分です!病室階のエレベーターに乗り込む映像があります。」

慎一たちは駆けつけ、パソコンの画面を白黒に映っている画面を凝視する。映像はりのの病室がある階層のエレベーター前。

そのエレベーターの斜め前にはナースステーションがあるも、わずかに映っているその場所に職員の姿はなかった。タイミング悪くすべてのスタッフが出払っていた時間帯だったのだろう。

制服姿のりのの足取りはしっかりしていた。ふるまいから見て5歳児のニコではなさそうだった。

「どうして?病室は鍵がかかっていたはず」

「5歳児ならパスワードの入力はできなかったけど、14才なら、俺たちが入力している手元を見て覚えたのかもしれない。」

「じゃ、今は14才のニコ?」

慎一は黙ってうなづく。

「この時間に病院を出発したのなら、学園にとっくに着いていているはず。門のIDは?」と藤木。

「それは電話があった直後に確認した。来てない。守衛には、りのちゃんが来たら保護して連絡するように言ってある。」と凱さん

「りのちゃんはこの後どこへ?」

「病院前のコンビニの防犯カメラに真辺さんと思われる姿があるのですが・・・」とその映像に切り替える。コンビニの映像は店内から外に向けて、店内に入ってくる客を映している物だから、店外の歩道を歩く人の姿に焦点を合わせていない。常翔の制服を着たショートカットの生徒が歩いている程度にしか判明できないが、慎一たちはそれがりのだと断定できる。

だが・・・

「この後どこに行ったか分からないのです。駅の防犯カメラの録画を盗ってきて見ていたのですが・・・改札、ホームにも居なくて。」

「りのが、病院から学園に来るとしたら、電車じゃなくバスを使うはずだ。学生定期を持っているから。」

慎一たちが利用している学生定期は、乗り降りする区間だけじゃなく、その路線全区間を自由に乗り降りできる。

「じゃ、バス停の防犯カメラを。」と言った藤木に、黒川君は躊躇った表情を向けた。

「この辺のバス停の防犯カメラは、JRTモコスなんです。」

「あぁ・・・」と、凱さんは手を額に天を仰ぐ。

わからないのは慎一と女子二人。

「何?」との柴崎の問いに答えたのは藤木。

「日本道路交通監視制御システムの事で、頭文字をとってJRTモコスという。全国主要都市の道路を監視して、交通整備を行うシステム。監視による情報を元に信号の切り替え時間を変えたりして渋滞の緩和を行うのが主な目的のシステムだけど、時に犯罪者の追跡にも使われる。」

相変わらずの博識ぶりだ。

「国土交通省と警察庁の合同機関によって設立された最新システムだ。」

「最新システムと言う事は・・・。」

「ハッキングも難しい。」

「彩都市は、こいうところが妙にハイテクなんですよね~。」

彩都市は、元は何もない田舎だった所を、近年、鉄道会社を誘致しても急行停車駅を造り開発、発展成功した市だ。その為、歴史ある隣市の香里市よりも駅周辺及び行政はハイテク化が進んでいたりする。そのJRTモコスもその影響だろう。

「でも、昨日よりは簡単に盗んでこれそうです。」と黒川君は滑らかにキーボードを打ちながら答える。

「本当か?」

「ええ、録画された映像はモコスの本プログラムとは切り離された場所に保存しているようです。」

「まさか、もうハッキングしている?」

「いいえ、モコスを開発したシステム会社のホームページでプログラミング図を見ています。」

「行けそうか?黒川君自身の体調も含めて。」

「はい。ただ、ここからやっちゃってもいいのですか?」

「うん。いい。後のもろもろの事は気にするな。黒川君に責任は取らせない。皆にも。」と引き締めた顔を慎一たちに向けた凱さん。

「わかりました。では、少し、時間をください。モコス本プログラムから切り離されているとはいえ、機関内のセキュリティは突破しないと行けませんから。」そう言って、黒川君は制服のジャケットを脱ぎ、座りなおした。

慎一は、栄治おじさんの自殺じゃない証拠をつかむ為、警察のデーターベースにハッキングをした経緯を昨日に聞いていた。しかし、それらの話に、慎一は実感なく、犯罪行為であることもさほど重厚な問題とも思えなかった。しかし、こういった会話を聞いている内に、慎一はやっと実感する。

黒川君は、手をグーパーと握り開きを繰り返すをして、誰ともなしにうなづきの合図すると、驚く速さでキーボードをたたき始めた。





『りの、ダメ。そこは。』    

顔が半分崩れて肉片が見える頭、どす黒く変色した血の中に骨が異様白い。見たことない怖い顔。だけど、あれはパパ。 

   

 リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ


『さつきさん、あなたのせいよ。貴方が、栄治を殺したのよ!』

『違う。違うの・・・・殺したのは私。おじいちゃん、おばあちゃん、私なの。ママじゃない!ごめんなさい。私がパパを、だからママを責めないで。』


私が殺した?

違う、私じゃない

殺したのはりの。

私じゃない!

   ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

  

違う、この記憶は私のじゃない。

違う。

違う違う。私は殺してない!逃げてない、

手を振り払い殺したのは、

りのだ。

胸にどす黒い物がたまる。

我慢が出来なくなって、蟻の巣の上に吐いてしまった。

『大丈夫?』

小さい慎ちゃんと小さい私が心配そうに顔をのぞき込んでいる。

『慎ちゃん・・・』

小さな私が背中をさすってくれる。

こんなに小さいのに、その存在が、そばに居てくれる事が

心強い。

『大丈夫、母さんと父さん、もうすぐ迎えに来るから。』

『泣かないで・・・ ちゃん』





「な、なに・・・黒川君は何を。」

「しっ!高度な集中力が必要だから。」

驚愕の声を発した新田を亮は退かせた。柴崎やえりりんも心得て、静かに黒川君の側から離れた。昨日に続いて、今日もまた黒川君のVID脳に頼らなければならない。やるせない気持ちに嫉妬が混ざる。

瞬き一つしないで画面を凝視する黒川君、豹変した様子に新田は、目を見張り続ける。

黒川君は、20分ほどで国土交通省と警察庁の合同機関によって設立したJRTモコスへの侵入を成功させる。

合図とともにとキーボードを打つ手を緩め、顔を上げた黒川君の黒目は、異常なスピードで上下に揺れていた。それを見て尚更に驚愕する新田に、首を振り、何も言うなと目で訴えた。

「どうだ?」と凱さんを筆頭に亮たちは黒川君の側へと集まる。

囲まれた状況に困惑した黒川君が、「えーと、それらのパソコンに転送しますから、それぞれで画面を見てください。」と前に並ぶ学園のパソコンを指さす。

「あぁ、そうだな。」

「じゃ、それらのパソコン5台に、電源を入れてください。」

黒川君の指示通り、亮たちは並んだパソコンの前にそれぞれ立ち、電源を入れた。

「あとは、どうすればいいの?」と待ちきれない麗華。

「こちらから遠隔で操作しますから、少々お待ちを。」そうして黒川君はまた、驚異の速さでキーボードを打つ。のち、亮の前にあるパソコンは触ってもいないのに、ビデオ再生アプリケーションが表示される。

「うわー、なんだか心霊現象みたい。」とえりりん。

「やめてよっ。」とえりりんを睨む柴崎、心霊という単語も禁句だ。

「時間は8時52分だったから・・・」

画面に映像が映り始めた。彩都市駅の南ロータリー中央に設置された時計の柱からの高所映像だ。病院方向に向けた主にバス乗り場に向けた映像と静線沿線の脇から入ってくる道路を映した映像が二分割で再生されている。

はっきり言って画像は良くない。一応はカラー映像だが褪せた色をしているし、バス停の行先看板の文字は、かろうじて読める程度の輪郭だ。システム自体が莫大なメモリを必要とするから、録画映像の画素数を上げるわけにはいかないのだろう。このシステムの目的は交通システムの監視だ。渋滞の有無、事故現場の監視さえできればいい、犯罪者の追跡は副産物的システムで、個人情報の保護観点から公にはされていない。

「あっ居たっ」新田が声をあげた。

ロータリー病院から駅方向へ歩くりのちゃん姿は、停車しているバスの車体に隠れて見えなくなった。その先、バスの前頭からいくら待ってもりのちゃんの姿は表れない。

「やっぱり、バスに乗り込んだんだね。」

「この二台のうちのどっちか。」

「学園方向へ行く路線は後ろの3番乗り場です。」と流石に新田は詳しい。

監視カメラの映像からは、バスの中までは判明しない。黒川君がバスの車体をクローズアップして見ても、画像が極度にあらくなっただけで、何もわからない。

映像を進めて、バスは9時10分に出発した。東静線の高架下へと走り出して後部が見えたところで、黒川君は映像を止めて、ナンバープレートをクローズアップする。

「このバスの、学園前停留所に到着する時間は?」

黒川君は忙しそうにキーボードをたたく。

「9時33分です。映像、切り替えます。」

5台のパソコン画面が一旦黒く染まってから、新たな映像が映し出される。

学園前の交差点、県道168を香里市内方面行に向いた映像と反対車線、彩都市へと向いた映像の二分割。交差点の信号に設置された映像で、病院からの進行方向の画像では、バス停はカメラより後ろにあるため、乗り降りする瞬間は見られない。反対車線を映している方からは、バス停の距離までは遠く、しかもバスの車体に隠れている為に望めない。

「もう、これじゃわからないじゃないのよ!」

と怒る柴崎先に、条件反射のように「すみません」と謝る黒川君。

「バス停を監視してるわけじゃないからな。あくまで交差点の状況を監視するのがこのカメラの使命だから。」

「でも、バス停を降りたら、この交差点を渡るから。」と新田言葉で皆が、バスが過ぎ去った後の映像を見守る。しかし、いくら待ってもりのちゃんは表れない。

「降りていない・・・」

「降りずにどこに行くんだ・・・」

「か、もう既にどこかで降りてしまったか・・・」

「このバスが通った道路のJRTモコスの映像を、皆で手分けして探していこう。黒川君こっちの画面にそれぞれ順番に映して」

「はい。」黒川君が亮の指示で操作し始めたのを満足して待つ。

この場を取り仕切る事でやるせない嫉妬は消え、自尊心は満たされる。





小さい慎ちゃんと小さい私は、手を繋いで坂道を駆け上がっていく。

走る事が楽しい、元気いっぱいの笑みで走る子供たち。

私も置いて行かれないように追う。

金網の向う東静線の伏線、深見山線下りの電車が通ると、子供達は足を止めて金網越しに電車を見送り、

そして逆方向からの電車が近づいてくると、電車と競争しよう!と、また走りだす。

轟音を伴った風が背後から抜けていく。

車輪の焼け付く鉄のにおい。

誰だかわからない声が、遠ざかる電車の音に混じる。

『さっき家を出る前に、娘にこれを渡そうとしましたら、要らないと言われまして。そのまま持って出てきてしまいました。とおっしゃって』

  リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ。

『ええ、首になってでも早く帰ります。と』

帰ってきたら駄目、りのが戻ってきたらママが行ってしまう。あの扉の向うに。だから駄目。

『いつものように人の流れが落ち着くのを階段の降り口側で待っていた時、長瀬を通過する特急スカイライナーがキキーと凄い音がして・・・・急停車したんです。』

『駆け付けた沢山の駅員さんが人だかりを整理しだして・・・見えたんです。車両の下隙間に、線路の上にある・・・・プレゼントを握っている左手が・・・』

『見間違いかと・・・だけどさっき、芹沢さんが娘さんに渡しそびれたプレゼントだと私に見せてくれた物だったから・・・』

  リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ  シンダンダヨ。

そう、りのが殺した。パパは、怒っている。

だから、りのを連れていく。

私じゃない。

ニコはパパを殺してない、

だからニコは笑えるこんなにも。

子供たちと同じ笑顔でニコは笑う。

小さい慎ちゃんと小さい私が、

先で振り返り、早くとせかす。





りの、どこに行った?

制服に着替えてバスに乗り込んだのなら、なぜ学園に来ない?

途中で、5歳児に戻ってしまったとか?

慎一は考えをめぐらす。

意識が切り替わるときは、必ず意識を失うように眠りにつく。短い時で5分弱の眠りがあった。

もし、バスに乗り込んだ後に座席で眠りに入り5歳児に切り替ったとしたら・・・

それを想像すると、血の気が引く思いで、慎一は映し出された映像を見つめる。

りのが乗ったバスが通った道の交差点に設置されたJRTモコスの監視カメラは、全部で28か所。

それを黒川君を含めて6人で手分けして4つないしは5つの場所の映像を見ていく。しかし、道路に焦点を合わせているJRTモコスの映像はアングルが悪く、うまくバス停が映っていない。まともにバス停をとらえているのは、先程の出発点と終点のロータリーだけで、終点の馬場園車庫でもりのの姿はなかった。

「ニコちゃんどこで降りちゃったんだよぉ~」とえりが嘆いたのを、

「ニコじゃないでしょ」と柴崎が注意する。

「この路線上のどこかのバス停で降りている事は間違いないのだから、バス停の近くの店や会社の防犯カメラをピックアップして出せる?」と藤木が新たな提案をする。

「少し、待ってください。飛んで集めてみます。」

飛んで集める?専門用語だろうか?慎一は首を傾げて黒川君へと顔を向けると、また驚異のスピードでキーボードを打ち込み、画面を見る目の黒目も高速に上下に刻んでいる。

(何だ、これは・・・ハッカーってこんなのか?)

疑問をすぐに口にする柴崎が何も言わず、好意を寄せているえりすらも、何も言わずに協力的だ。

「この路線のバス停は全部で22、うち19か所でしか防犯カメラを見つけられません。」

「十分だよ。」

「また彩都市駅前から順番に映していきます。」

慎一の前のパソコンにまた画像が動き始める。一人3か所の映像を見ればいい。

「中には遠くて判明できるかどうかっていうのもあります。ご了承ください。」さっき柴崎に文句言われたからか、黒川君は委縮してつぶやく。

慎一は黒川君からえりを挟んで三番目のパソコンを見ている。最初の彩都市駅前ロータリーから二番めの商店街にある自転車屋さんの防犯カメラだ。外に並んでいる自転車の盗難防止の為だから、側を通るバスは大きく鮮明に映っている。バスの窓から車内も見えた。

「りのだ。」

「えっ!」

思わず叫んだのを黒川君以外が慎一のパソコンを覗きに来る。

「車内に座っていた。」

「巻き戻して。」は、各自のパソコンで操作できる。

「新田さんのその映像は末広町3丁目停留所です。」

二人掛けの椅子の奥に座っているりのは頭だけが窓から見えていた。

「降りない・・・」

「降りるのを見つけるのよ!」苛立った口調の柴崎に叱られる。今までで一番鮮明にりのの姿を確認できる映像だった。

映像から何歳のりのかはわからない。

「ん?んんんん?」えりが唸り画面に顔を近づける。

「どうした?」

「これ・・・」

えりの指さす画面を覗いた。

「この頭がニコちゃんでしょう。」

「あぁ。」さっき慎一が声をあげた映像の車内の位置と同じ場所に頭だけが見えている。ただ、その映像はコンビニからの防犯映像であるため、アングルはずれて画像は悪い。

「ほら、ここ、立ち上がってない?」

画面の上部ギリギリにりのの頭が見えている。コンビニを出て左手の先にバス停がある為、画面では本当に左隅にわずかに見えていて、そのバスが停車してしばらく経ってから、その黒い頭が動いたように見えなくはない。そして、すぐにバスは発車してしまう。

えりは、何度も巻き戻しては再生して、スロー再生でも確認してみる。

「このコンビニって・・・」

「えりの二番目の画像は深見山公園入口です。」

見覚えがあると思ったら、いつも登校で使うバス停で、そのコンビニは慎一の家から一番近い店だ。

「慎にぃ!ニコちゃん、家に帰っているんじゃ」

「真辺さんが学園に電話をしてきた時、家に一度戻って確認すると言っていた。もし戻っていたら、学園に連絡があるはずだ。」

凱さんが腕時計を見ながら冷静な判断をする。

「違う。家じゃない・・・展望。」

「展望?」

「ニコはあそこに居る!絶対!」

そこに居るとは限らない。だけど、絶対そこにいるという変な確信。

幼き頃、虹玉を探しに手を取り合い探しに行った山の展望公園。

ニコが、真辺りのとして、この街に戻って来て再会したあの場所。

慎一は駆けだした。

「どこ行くんだ!」藤木の呼び声で我に返る。そうだ、ここから走っていくには遠すぎる。

「国定公園の展望にニコはいる。絶対に。」

「展望って、このバス停から、随分あるわよ!歩いて上まで?」と柴崎。

「俺たちは子供のころから歩いて行っている。」

なぜニコがそこに居る理由はわからない、だけど絶対にいるという確信は、あの時のように消えない。

「居るんだ、絶対に、あそこに。」

「わかった、バイク出すから後ろ乗れ。」凱さんは強くうなづき、テーブルを回り出てくる。「みんな、僕たちが出たら鍵を閉めて、見つからないようにね。」

「わかったわ。」

「新田!」藤木の呼び声に慎一は足を止めて振り返る。「必ず、りのちゃんを見つけろよ。」

「あぁ。必ず。」

慎一は力強く手を握り締めた。






『ママ、笑って・・・・』

『りの・・・・そうね、うれしい時は、笑うのね。』

違う、笑うのはニコ、りのじゃない。

小さい慎ちゃんと小さい私は早くとせかし、私の手を引っ張る。緩やかに続く坂道は、じんわりと疲労が蓄積されていく。

身体が重い。これぐらいの坂を登るのに、肩で息をしなくてはならないなんて。

吐いたから、あれで結構、体力を取られた。

「待って、少し休憩。」足を止めて、膝に手をつく。

『ここまで頑張ったね。えらいえらい。』

小さい私が背伸びをして頭を撫でてくれる。

『引っ張ってあげる。ほら、ちょっとは楽でしょう。』

小さい子供たちが元気いっぱいだというのに、情けない。

『ほら、慎ちゃんも後ろから押して』

『えー僕も疲れてるんだ。』

『男のくせにぃ。よわっちぃ。』

『弱っちくない!』

小さい慎ちゃんは、ほっぺを膨らまして不貞腐れる。

それでも、行くよと言って、その小さい手で私の背中を押してくれた。

『あと少し、頑張って・・・ちゃん。』

小さい私は、どこまでも元気な笑顔で私の手を引っ張り、先を進む。





新田の確信に、ここに居る誰もが、その根拠は?と言えない。

それが新田のカリスマだ。天才的ドリブルの技術があるだけじゃない。その情熱が誰にもない特別だった。

その新田のカリスマが凱さんをも動かす。

新田と凱さんがPCルームを飛び出した後、呆然とする黒川君に次の指示を出した。

「黒川君、この展望までの道にある防犯カメラを探して。」

「あ、はい。」

新田の確信を確定する為、と言えば聞こえは良いが、もしかしたら亮自身の自尊心を保つ為の自衛本能なのかもしれない。

「東静線深見山線の運行監視カメラと、展望公園駅の一番二番ホームのカメラしかありません。このあたりはコンビニもありませんから。」

黒川君は残った三人の前のパソコン画面に、その場所のカメラ映像を表示させた。

「これは?何時の映像?」

「リアルタイムです。」

りのちゃんが公園入口で降りた時間は9時半頃だった。

「えりりん、この公園入り口から歩いて行ったら、このホームの監視カメラに映る場所を通る?」

亮はこの展望公園に行った事がない。学園の裏山から続いて深見山とするこの山、彩都市全体が一望できて、月がきれいに見えるとちょっとしたハイキングコースになっている。寮に住み始めて一度は行こうと思いながら結局、卒業間際になりつつの今も、まだ行けていない。近すぎて今一つ行こうとならない。柴崎も同じだと、いつかの話題になった。

「うーん。通るけど・・・微妙。この屋根と屋根の間にうつる・って感じかなぁ」

「じゃ、このバス停からこの駅まで何分かかる?」

「うちの家から10分ちょっとだから、15分ぐらいだよ。」

「ありがとう」

新田の確信どおりに、りのちゃんがこの展望に行ったとしたら、9時45分頃にはりのちゃんの姿が映っているはずだ。

そう考えて、黒川君に指示を出そうと思ったら、黒川君は悟り早く、カチャカチャと手を動かしていた。

「録画映像、9時40分から映します。」

線路の運行監視映像は、モノクロで画面垂直に上下線の線路が映っている。並行する道路の半分が金網の向こうに視認できるが、人が映るとしたら、かなりの小ささだろう。やがて、モニター画面を上から下へ走ってくる電車と、下から上へ遠ざかる電車が走り抜けて、金網の向こうの道路に人影が走り行く。

「あ・・・。」全員が同時に視認する。

「りの?」

人影はかろうじてスカートをはいている人、ぐらいにしか判別ができない。わずか数センチの大きさだ。黒川君が、画像を巻き戻して停止し、その人影をクローズアップする。も、やっぱり更に画像が荒くなっただけで余計に見づらい。

「これじゃわからないな。展望公園駅のホームの映像を確認してみよう。」

当たり前だが、東静線深見山線の展望公園駅ホームの監視カメラ映像も、ほぼ画面垂直に、線路とホームにアングルを合わせている。

画面右端に、展望へ向かう階段入り口が見えていて、それも駅建物の屋根にさえぎられている。

下り電車がホームに入って来て、降りる人も居なくて電車は発進する。数分の間をおいて、上り電車がホームに入ってきて、やっぱり誰も降りる人は居ず、そして電車は発進する。

その10分後に人が表れる。

「ニコちゃんだっ」えりりんが叫ぶ。

ホーム向こうの展望公園への上り階段前の広場に現れたりのちゃんは、歩きながら後ろを振り返った。そしてしゃがみ込む。

黒川君が映像を巻き戻し、りのちゃんの姿をクローズアップして、もう一度再生する。

歩きながら後ろを振り返ったりのちゃんは、何かをしゃべっている。そして、しゃがみ込んだ。

右手が、何もない空をなでなでする。

「な、何?」息をのむ柴崎。

まるで、そこに小さい子がいるかのような動作。りのちゃんは立ち上がると両の手を広げて、左右に顔を向けてから歩み、階段へと向かう。小さい子に話しかけ、手を繋いで歩いて行った。そんな動作に見えるが、その小さい子の姿は映像には映っていない。

「誰もいないよね。ニコちゃん誰に話しかけてるの?幽霊?」とつぶやいたえりりんに

「やめてっ」と悲鳴に近い声で怒った柴崎。

「黒川君、録画映像に何か不具合とかは?」

「ありません。」

亮は唇を噛む。

りのちゃんは、何かの幻想を見ている。何かに導かれて展望へと向かい、その先を超える。昨年の事を思い出す。

りのちゃんは、あの時も柵の向こうへ超えたがっていた。

「柴崎!俺たちも行こう!」

「え、えっ?」

「俺たちは、りのちゃんを置いて行かない。手を繋ぎ、約束した。」

亮たちは何度も危機にあい、乗り越えてきた。危機が4人の結束を固め、乗り越えた経験が成長となった。

それが自信となった。頷きあうと同時に走り出した。

「えっ、えっ、先輩、えりたちは?」

「留守番よっ。」

「黒川君、新田達にりのちゃんの姿を確認したことを連絡してやってくれ。」

「わかりました。お気をつけて。」

亮たちはパソコンルームを飛び出した。

     

     



子供達の「よいしょ、よいしょ」という掛け声で、私は重い身体を押され、

やっと展望を登る階段の入り口まで来た。

4つの小さい手は背中に、小さいながらも暖かい。その手に元気が出る。

私は後ろを振り返り、押してくれた小さい慎ちゃんと小さい私に、声をかける。

「慎ちゃんありがとね。私も頑張ったね。」

後ろに居る小さい慎ちゃんと小さい私に、

しゃがんで頭をなでる。

二人は、えへへと笑って。

『・・・ちゃんも頑張ったよ』

と私の頭をなでてくれる。

展望まで、まだ少し頑張ろう。

「あの上に、あるんだね。虹玉。」

『うん。あるね。願いが叶う虹玉。』

「行こう!皆で手を繋いで。」

小さい慎ちゃんと小さい私、

3人で手を繋いで、階段を上る。


 

    


凱さんの運転するバイクにしがみつく、バイクの後ろに乗るなんて初めての経験だ。1個しかないヘルメットを慎一に渡したから、凱さんはノーヘルだ。警察に見つかれば即免停だろう。だから、ほらと渡された時、慎一は断った。けれど凱さんは、「生徒を守れない過ちをこれ以上増やさせないでくれ。」と言ってヘルメットを頭にかぶせられた。

凱さんも、1年前のりのが頭を殴られた事件を悔やんでいる。常に「生徒を守るのが俺の仕事」と口癖である凱さんが、おそらく初めて守れなかった事なのかもしれない。事件の翌日、凱さんは、理事長室に慎一を呼び、突然、土下座をした。突然の事で慎一はびっくりして慌てた。26歳の大人が14歳の子供に土下座をする事などありえない。慎一がいくらやめてくださいと言っても、凱さんは頭を上げない。学園を悪事に利用されるなんてあってはならない事だ。それを知らなかったでは済まされない。新田君の大事な人を守れないで傷を負わせてしまうなど、僕の落ち度だ。と言って再度頭を下げた。普通の大人では中々できないだろう。それをする凱さんを慎一は、心から凄いなと思った。

学園の横を通る裏山へと続く道の脇の山道へと入る。彩都市が一望できる展望公園からは反対側になる。中腹に数台の車が止められる駐車場があるが、展望までに行くには蛇行した緩やかな坂道を1キロほど歩かなければならない。

バイクを降りた瞬間、凱さんの携帯が鳴った。

ヘルメットをとる間に、凱さんは携帯をつなげる。

「黒川くんからだ。はい・・・・。」聞きながら慎一に顔を向けて、目を見張る。「りのちゃんの姿が展望公園駅の監視カメラに映っていて、やっぱり、ここに居ることは間違いないそうだ。」

慎一は、その言葉を聞くやいなや、すぐに走りだした。

りのはあそこに居る。

走れ俺の足、

もっと速く。





展望広場に着いた。

子供たちは、きゃははと走り回り、思い出したように、草をかき分けて、無いねと言う。

でも、その無いねも楽しそうで、常に笑顔だ。

私も虹玉探しを手伝う。

木の根元、草の間、

ゴミ箱の裏・・・ないね。

『ないね。』

『ないね。』

二人の声がこだまのように響く。

皆で居ると、

見つからなくても楽しい。

その笑顔につられて

私も笑う。

ほら、やっぱり私はニコ、

こんなに笑えるもの。

りのじゃない。

『皆が、見つけてくれたのよ。りのを助ける為に、皆が待ってるわ、帰ってきなさい。りの。』

ママの声が聞こえる。

違うの、りのは帰れない、ママと引き換えたから。

りのが帰ったら、ママが居なくなる。

だから、りのは要らないの。

『りのは要らないって。お願いした。それは私の願いを邪魔する物・・・・』

そう、りのは要らない。

私は、ニコ。

りのの代わりに虹玉を見つけてお願いするの。

何を?

私の心の声が聞こえたように、小さい慎ちゃんと小さい私は、

言葉を繰り返す。

『お願いするのぉ!』

『お願いするんだぁ。』

『何を?』

『何にしよう?』

言葉と追いかけっこ。

広場を走り回る。

『虹玉、あるよ』

『虹玉、あるね』

『・・・・ちゃん、こっちだよ!』

『・・・・ちゃん、あっちだよ!』

子供たちが私を呼ぶ名前は、いつも良く聞こえない。

小さい慎ちゃんと小さい私が手招きする。

目の前に広がるそこは、彩都市の街並みが白く輝いてまぶしい。

目を閉じたら、瞼の裏に虹の光が広がる。





3年前の残像が残っている気がした。

展望公園駅から上がってくる階段の場所まで来て、慎一は足を止めて膝に手をついた。

息を整えすぐに歩きだす。歩きながら息を整えた。

もうトレンディドラマも懐かしの域に入って、公園と言っても何もなく、ただ彩都市が一望できるだけの小さな山、いや丘といった方がいいかもしれない。紅葉の季節でもあるけれど、展望に秋を感じられる木々はなく、平日の午前に展望を訪れる人は皆無だった。

もう一度駆け出し、樹々の合間に住宅街の屋根が見えはじめる。

やっぱり、りのはそこに居た。

いや、ニコか?

どっちでもいい。

りのは、どうやって超えたのか、展望の柵の向こうで、大きな楠の木に手をかけて立っている。

「りの!」慎一が叫んでも、りのは身動ぎせずに無反応。

りのじゃわからないのか?

ニコと呼ばなくていけないのか?

その名前を呼ぶには躊躇いがある。もうその名を呼ばないと決めたから。りのがりのであるために。

良く見ると、りのは目を閉じて微笑んでいる。両手がゆっくりと上がり、空に浮かぶ何かを受けようとするかのように手のひらを差し出す。そうしてりのの身体も前へ、崖へと進む。

「駄目だ!りの!行くな!」



   

   

『虹玉、あったね。』

『虹玉、見つかったね。』

「うん、見つけたね。」

子供たちの歓喜。

私の心も弾む。

うれしい。見つけた。

虹色に輝く玉が、こんなに沢山。

ふわふわと浮いて、暖かい。

たくさんの虹玉。

「駄目だ!りの!行くな!」

突然の大きな声、

びっくりして目を開けてしまった。

虹玉がすっと消える。


 

 

 

夏のキャンプを思い出した、あの時もふらりと崖へとりのは行こうとしていた。

あの時から、りのは死にたかったのだと、慎一は今更ながらにそれを気付いてやれなかった後悔に心を痛める。

りのは、慎一の声にゆっくりと振り向いた。

「りの、じっとして、動くなよ!」

どっちだ?

りのか?ニコか?

5歳か14歳か?

慎一は、ゆっくりと歩みを進める。

「りのじゃない。」

その言葉で14歳のニコだと判断する。まだ話の分かる14歳の意識で良かったと息を吐く。

「ほら、危ないから、こっちにオイデ。」

「りのじゃない!」慎一の差し出した手をパシっと振り払った。「りのは消えた!どうして邪魔するの!せっかく見つけたのに!」

何を?

見つけた?





上靴のまま校舎を飛び出した。

正門へと向かおうとしたら、藤木が「こっち、図書館を抜けよう」と叫ぶ。

正門で守衛さんに捕まって説明する時間がもったいない。図書館内のゲートを通り抜けた方が距離的にも近道だ。

IDカードをタッチするのも時間が惜しい。ゲートのバーを軽々と乗り越えていく藤木を真似て、麗華もジャンプしたかったが、無理そうなので、強引に隙間から足を抜ける。

警告音が図書館内に鳴り響いて、図書館職員が叫び咎めるのを、麗華は「お咎めは凱兄さんに言って!」と叫びながら、一般人出入口のゲートも同じように駆け抜けた。再び館内に警告音が鳴り響くのを背後に、麗華たちは学園の外へと駆け出る。

学園前の交差点で地団駄を踏んで赤信号を待つ。青信号でダッシュ、藤木は流石に早い。麗華たちは駅前で客待ちをしているタクシーに乗り込んで、行先を告げた。

タクシーの運転手は、こんな時間に制服姿の学生が乗り込んで来たことに不審の顔を向けて、発進しようとしない。

「楢園2丁目の柴崎よ。急いで!」

地元のタクシー会社は、柴崎の名前でサインすれば後で屋敷に請求が行くようになっている。柴崎家並びに常翔学園の贔屓がなくなれば死活問題になる故に、麗華の学生IDを視認すると、態度を変え言いなりになる。

「どうされたんです。連絡くだされば学園までお迎えに上がりましたものを。」とバックミラー越しに聞いてくる運転手

「とにかく急いで、支払いはサインで」厳しい口調で牽制をして、やっと、運転手は肩をすくめて運転に集中した。

学園前を通り過ぎて裏山を超える道へ、山を抜ける道から左に外れて車は蛇行する。

数台の車が駐車できる砂利の駐車場の隅に、凱兄さんの黒いバイクが置かれてある。

タクシーをその場に待たせておいて、麗華たちは駆けだした。

樹々に囲まれた小道は、木の根が張って走りにくい。まして麗華たちは上靴のまま。躓いて、麗華は地面に手を突いた。

「大丈夫か?」先を行っていた藤木が戻りつつ手を差し伸べる。

「ええ、大丈夫。」藤木の手を掴み、麗華はうなづく。

誓った夏と同じ、私達はこうして手を取り合って、

越えていく。

下り階段のある場所にたどり着く、そこが、彩都市側の東静電鉄深見山線の展望公園口から登ってくる階段。

そばの案内板を見て、麗華達のいる場所、地形の全体像を把握する。麗華はここに登ったのは初めて。近所の公立小学校や幼稚園は絶好の遠足のコースだと聞いているけれど、常翔の幼稚舎や小学部は横浜市にあるため、麗華はずっとそちらに車で登校していた。

かつて、ドラマの撮影場所になったとかで、新田家が営むフランス料理店と共に、デートコースとして人気の場所になりもしたらしいけれど、そのドラマもひと昔、麗華が幼い頃で良く知らない。

ただ彩都市の住宅街が見えるだけの、展望広場は、紅葉や桜に彩られるわけでもない。おかけで、誰一人とすれ違うこともない。

駆け足で進むと、次第に樹々の合間が空いて、住宅街が見え始める。

凱兄さんが展望公園の真ん中で立ち尽くしている。麗華たちの気配に気づいて振り返る。そして指さした。

展望広場と言われる場所は、麗華の屋敷の庭よりも狭い。その奥どまりに大きな樹が崖に枝葉をせり出すようにして生えている。

樹を挟んで柵がめぐらされ、その柵の向こうにりのはいる。

「りの?」

「りのじゃない!ニコが見つけた!慎ちゃんと一緒に見つけたのに。どうして邪魔する!」

叫ぶりの・・・じゃない主張はわかるけれど、何を見つけたといってるのか、麗華にはわからない。

麗華が歩みよろうとすると、つないだ手を引っ張られ、藤木に首を横に振られる。

新田に任せろと。と意味に捕らえた。

「どうして慎一は、いつも邪魔をする!」

「・・・ごめん。」うな垂れて謝る新田。「そう・・・俺はいつも、りのの邪魔をしてきた。・・・ニコと呼んで、りのの意識を邪魔してしまった。ずっとニコって呼ぶなって言ってたのにな。ごめん。りの。」

俯いた新田の目から光る物が落ちた。それは砂に吸い込まれてすぐに消えてなくなる。

「もう、ニコとは呼ばない、りのの意識を邪魔しない。だから、戻ってこい。りの。」

りのの顔が険しく歪んだ。





慎一が泣いてる。

何?

私、何か悪いことした?

わからない。わからない事が怖い。

悪いのはりの、

パパを殺して、ママを泣かせて・・

慎一も泣かせている。

「わ、私は、りのじゃない。私はニコ。・・・ニコは悪くない。」

声が震える。

「悪いのは、りのだ。」

手も震える。

「りのがパパを殺した。ママを泣かせた。りのは、悪い子だから、パパがつれて行った。りのはもういない。帰ってこない。帰ってきたら駄目。」

そう帰ってきたら駄目、

りのはママと引き換えたから、

帰ってきたらママが逝ってしまう。

「りのは悪くない、聞いてただろう。栄治おじさんは自殺じゃない、事故だって。りののせいじゃない。不運の事故だったんだ。」

頭の奥で聞こえる。

見知らぬ女性の声。

『とても自殺を考えているようなお顔ではありませんでした。』

自殺じゃない?

りののせいじゃない?

じゃどうして、りのはパパの所へ行った?

りのが悪い子だから、

りのが笑えないから、

ニコが居てニコが笑うのに、

「さつきおばさんが倒れたのだって、りののせいじゃない。もう大丈夫って退院しただろう。どこも悪いところはないって。」

「ママ・・・」

ママの声が聞こえる。

『りの・・・そうね、うれしい時は笑うのね。・・・りの、パパは自殺じゃない、あなたに罪はないのよ。だから、りの、帰ってきて。りの。帰ってくるのよ、りの、皆が待っている。』

ママが何度もりのを呼ぶ。

皆が、りのを待っている。

どうして、りの?

りのは悪い子なのに、どうして?

ニコは?

私は要らないの?

「りの、オイデ、こっちに。」

どうして?

皆、どうして、りのばかり・・・

ニコは?

ニコを呼んでよ。

皆、ニコのニコニコを求めていたじゃないか。

   




偽りでもニコと呼んで柵のこちら側に来させるべぎなのか?

いや、駄目だ。

違う名前で呼んだら、またりのは混乱する。二度の過ちは許されない。

ニコと呼んで、りのの意識を分裂させてしまったのは俺の責任だから。

もう一度、ここからやり直す。今度はちゃんと、〈りの〉と呼んで。

呆然とするりのの動きが止まった。今のうちに捕まえようと慎一は踏み出す。

「りの、オイデ、こっちに」りのの腕を掴んだけれど、すぐにまた振り払われてしまった。

「嫌だ!皆、ニコニコのニコを呼んだじゃないか!どうして、りのを呼ぶ!りのじゃ笑えない、りのじゃ皆と仲良くできない。りのは悪い子だ、要らないんだ!」ニコは叫ぶ。沢山の不満を責めて。

「そうだよな。ニコと呼んで笑えと要求してきて、今度はニコがおかしいからと、りのに戻れだなんて、酷いよな。ごめん。ごめんな。」

そう、ニコは何も悪くない。ニコは俺達の要求に必死で答えようと努力しただけ。

笑えなくなったりのが、少しでも楽に生きれるようにと、りのの気持ちに応えようとして頑張ってただけ。

ニコは何も悪くない。

だけど、ニコは・・・

りのが作りだした偽りの意識。

りのが本物の意識。





何度も謝る慎一の目から、虹色に輝く涙がとめどなく溢れてくる。

『見つけたね。』

『見つけた。』

子供たちの声。

そういえば、さっきから子供たちの姿が見えない。

どこにいる?

周りを探した。

小さい慎ちゃんと小さい私は、振り返った先に。

並んで、にっこり笑っている。

『良かったね。りのちゃん。』

小さい慎ちゃんが私を、りのと呼ぶ。

「そんな・・・慎ちゃんまで・・・」

『良かったね。りのちゃん、迎えに来てくれたよ。』

小さい私も、りのと呼ぶ。

『ニコは行くの、遠い所、ふぃんらんどってところ。』

この小さい私がニコ?

私の疑問に答えるように、小さい私はこくりと頷き、スカートを華麗に翻して走り行く。

「待って!」

慎一が腕を掴み私は追いかけられない。

小さい私は輝く光に溶けるように消え行く。

「りのは、ニコだ。ニコはりの。」

慎一が耳元でささやく。記憶がよみがえる。


  『りのに似てるこれ。わかった。りのはニコだ。』

  『うん、ニコニコのニコ! 慎ちゃんが、つけてくれたぁ。』

 

見上げている小さい慎ちゃんと目が合う。

『偽物なんだ、駄菓子屋で見つけたビー玉。探したんだけど見つからなくて。』

「慎ちゃん?」

『それで、何をお願いする?』そう言う小さい慎ちゃんが指さす、

私の目の前には、虹玉が入ったチャームがあった。





不意に後ろを向いたりのを、慎一は後ろから抱きしめてその動きを止める。

りのが「待って!」と崖の向こうに行こうとするのを、慎一は強く強く抱き止めた。

何故か、頭に昔の記憶が読みがってくる。

それはまるで、りのじゃないと主張するニコの意識が伝え訴えてくるようだ。

『またニコちゃんマークばっか書いてるぅ。』

『だって好きだもんニコちゃん。へへへ簡単だし。ほら、○とこれ3つで、顔になるんだよ。』

『りのに似てる、これ。わかった。りのはニコだ。』

『 りのは、いつも笑ってるからニコニコのニコ!これからニコって呼ぶ!』

幼き自分を責めはしない。りのは満面の笑みでその名をとても喜んでいたから。

幼き過去を後悔すれば、大事な記憶を否定する事になる。

慎一がりのの意識を分かれさせた責任は、忘れず覚えておく。

「りのは、ニコだ。ニコはりの。」

そう、どっちもりのだ。

ポケットから、虹玉の入ったチャームを取り出し、りのの目の前に出した。

「虹玉・・・・」

りのがチャームに手を伸ばす。取られる寸前で慎一は隠すようにチャームを握った。

「これは偽物。駄菓子屋で見つけたビー玉。りのは、要らないと捨てようとした。りのは、わかっていた。これに奇跡の力はない事を、願いは叶わない事を。」

そう、りのが一番わかっていた。この世に奇跡の力などない事を。

奇跡は自分で作り出すものだと。

自分で何とかしようとして、りのはもう一人の意識を創って笑った。

慎一は、握った虹玉を一望する彩都市の街並みに向かって投げた。

「いやーーーーー!」

孤を描いて光の中に落ちていくチャームを追いかけようとニコが踏み出すのを、更に強く抱き止める。

「いやー私の。慎ちゃんがくれた虹玉!ニコの大事な。ニコのぉー」

ニコは泣き叫び、腕の中で暴れる。





キラキラと光るチャームが、虹の孤を描き、

落ちていく。

あれは私の大事な宝物、りのは要らないと捨てようとしていた。

だから私が、ニコが受け取った。

『りのちゃんの大事な宝物はあれじゃないよ。』

見上げた小さな慎ちゃんは、指さして微笑み言う。

『思い出して、もっと大事なもの、いっぱいあるから。』

そう言うと、小さい慎ちゃんは虹玉が落ちていった光の中に消える。

「いゃー、慎ちゃん、待って、行かないでー」追いかけないと!

慎一が、また邪魔をする。

「置いてかないで!慎ちゃん!ニコも一緒にいく!待って!慎ちゃん!」

そう、慎ちゃんとニコはいつも一緒。

慎一の力が強くて行けない。

「はなせ!慎一!邪魔するなっ!」

「うっ・・・・そ、そうだ。ずっとっ・・・一緒にいる。りのと一緒に。りのを置いていかない。」

いや、置いて行かないで、

慎ちゃん待って!

慎ちゃんとニコは

ずっと一緒なのに・・・





無意識に亮たちは二人の側へ歩んでいた。

新田と共に、崖の向こうに行こうとするニコの腕を掴み引き寄せる。

生まれた時から双子のように育った二人。

約15年の歴史と重み、いや愛か、文字にすれば陳腐な新田のそれが、りのちゃんの意識に届く。

亮は、暴れるニコの意識の中に、りのの存在を読みとった。

不思議な現象、感覚。一人の人間の中に二人の人間の本質がある。

安心と、喜びにめざめつつある、りのの意識と

寂しさと、絶望に怒りつつある。ニコの意識。

それは、どっちも、本物で本質。

りのであり、ニコである。

ふいに、頭に記憶がよみがえる。それはさながら、ニコからの訴え、忘れないでの切望。

『ニコちゃんおはよ。』

『なぁにかなぁ?おとといって。ニコって、何んだろねぇ』

『ニコちゃん。久しぶり、調子どう?』

『・・・・それは私のセリフ。』

『渡す物が、あってきた。』

『えっ、何、何、プレゼント?うれしいなぁ。や、やっだなぁ、こんな大事な物くれるって。期待しちゃうよ。いいのぉ?』

『それはない。今の藤木では。』

『ちゃんと見えた?虹。』

『うん、見えたよ。大きな虹が。』

りのちゃんが忘れても、俺は覚えておく、

それは、ニコちゃんとの大切な約束だから。





行かないでと崖向こうに手を伸ばすニコの目には、何が映っているのだろう。

ニコにとって、新田は大好きな「慎ちゃん」じゃなくて、邪魔をする「慎一」。

ニコは新田への気持ちを、わからないと言っていた。

すれ違い。

新田は無意識に、笑えるニコを求め、それに応じたニコを大事にしていた。

りのに、わからないはずだ。新田が求めていたのは、りのの半分、ニコの存在だったから。

近くて遠い、究極のすれ違い。

切なすぎる。

何時からニコだったのか、何時の時がリノだったのか麗華には判別できない。

麗華もニコの腕をつかむ。

ふいに、出会った頃の記憶が頭に浮かぶ。

『ねぇ、今日、新田が、ニコって呼んでいたけど、あだ名?』

『えっ?う、うん子供の頃の、呼ぶなって言ってる・・・・』

『可愛いあだ名ね。でもどうして、ニコなの?』

『・・・、本人に聞いて。』

それはニコからの疑問、せつない記憶。

「ニコを置いていったりしない。私達はずっと一緒、そう約束したでしょ。」麗華は優しくりのに語りかけた。

「りのも、ニコも置いていかない。何があってもこの手は離さない。」と新田も語り掛ける。

「消えても、消されても、ニコちゃんの未来はなくならない。」と藤木

「俺たち、皆で描いただろ。大きなニコちゃんマーク。」

諦めたのか、ニコがやっと身体の力を抜いた。

「りのはニコ、ニコはりの。何があっても俺達はずっと一緒。」

新田は、涙を落としながらニコの耳元でささやく。

「りのもニコも置いて行かない。ずっと一緒。りのはニコ、ニコはりの。何があっても・・・」

「慎ちゃん・・・・ニコは・・・・」そう呟いて、ニコは力なく崩れる。

私と藤木に腕を掴まれたままのりのは、新田の腕からずり落ちて、イエスキリストのような恰好になって眠った。

新田が柵を乗り越え、眠るりのの頬を触る。

「ごめんな、ニコ。今度は本物の虹玉を探そうな。りのとイッシヨニ。」

りのの目から虹色に輝く涙がこぼれ落ちた。

それは砂に吸い込まれて

なくなった。





慎ちゃんが行ってしまった。虹玉もない。ニコは笑えない。

「りのはニコ、ニコはりの。」

笑えないニコはニコニコのニコじゃない。

「りのはニコ、ニコはりの。何があっても俺達はずっと一緒。」

笑えないニコはりのと同じ。

「ニコはりの・・・」慎一の声が段々遠くなる。

「慎ちゃん・・・・ニコは・・・・・」

消えても、いつも一緒?

「ごめんな、ニコ。今度は本物の虹玉を探そうな。りのとイッシヨニ。」

じゃぁニコは、あの偽物の虹玉にお願いする。

本物の虹玉が見つかりますようにって。

『見つかるよ。きっと。』

『皆と一緒だから、見つかるね。』

小さい慎ちゃんと小さい私の声。

姿は見えない。

『寂しくないね。怖くないね。手を繋いでいるから。』

そうだね。うん。寂しくない。

怖くない。

りのはニコ、

ニコはりのだから。






凱さんが戻って来た。えりたちは、展望公園で何があったかを聞く。

全てを聞いて、やっぱりニコちゃんには慎にぃがいないとダメであること。そして慎にぃも、ニコちゃんが居ないとダメなのは、わかりきっている。この間、慎にぃの机でコンパスを探した時に見つけたあれは、慎にぃの弱い心を表したものだった。

コンパスにくっ付いてきた色あせたニコちゃんと慎にぃの子供の頃の写真。何度も握りしめたとわかる指の形の皺と汚れがあって、えりは、慎にぃの弱さと、ずっと変わらないニコちゃんへの思いを知った。その後、えりはニコちゃんに対して、イライラして嫉妬した。慎にぃが大事にしているのは、血のつながった本当の兄妹より、他人のニコちゃんだったと知って悔しかった、寂しかった。

「目を覚ましてから、催眠療法を施すそうだ。新田君が、りのちゃんを引き出しているから、無理なくりのちゃんとニコちゃんを合わせることが出来るだろうって。新田君に、仕事取られたなと村西先生が嘆いていたよ。」

そう、慎にぃは、ニコちゃんの専属の心のお医者さん。

無茶して怪我をするニコちゃんを治療するよう説得するのは、いつも慎にぃの役目、昔から。

「良かった・・・ニコちゃん治るんだ。」ほっとしたら、涙が出てきた。

もう、嫉妬なんてしない。慎にぃとニコちゃんは二人であたしのお兄ちゃんとお姉ちゃんだから。

「もう、最後だよ、ニコちゃんと呼ぶのは。」と凱さんは、えりの頭を優しくポンとなでた。

「うん。もう呼ばない。ちゃんと新しい呼び名、考えたから。」

ふいにニコちゃんと再会した時の記憶がよみがえった。

『ニコちゃんよ。ほらあんたが3歳の時に、フィンランドに引っ越した。』

『えっ!ニコちゃん?うそー。マジ?あの?うわーびっくり、美人。』

『えり・・・・ちゃん?』

『そうそう、えり、うわー会いたかった!』

もうニコちゃんと呼べない、何だか寂しいなと思う。でも、覚えておく。それがニコちゃんとの大切な思い出。

慎にぃと柴崎先輩と藤木さんは早退扱いにして、ニコちゃんじゃなくて、りのりのに付き添っているという。

「さぁ、えりちゃん、涙を拭いて。午後からの授業はちゃんと出るんだよ。」

もう、給食の時間になっていた。

「いいなぁ慎にぃ達。えりも、ついていけばよかったぁ。そしたら授業サボれたのにぃ。」

「クラブが終わったらタクシーで病院に連れていってあげるから。」

「えークラブは休もうと思ってたのにぃ!」えりは頬を膨らませる。

「クラブ休んだらタクシーに乗せてあげないよ。」

えり達は凱さんに促されて、二時限分引きこもっていたパソコンルームを出る。





和樹は、pab2000のパソコンを持って理事長室に帰ろうとする理事補を、踵を返して追いかけて問うた。

「理事補!」

「ん?」

「あの・・・僕の処分は?」

「して欲しいの?」

「え?いえ、して欲しくは、ないですけど。でも、学園に迷惑が・・・。」

「あっ、そういや、まだ言ってなかったっけ?そうか、昨日真辺さん達の事を優先していたから、忘れてたな。」

そう言って、理事補は首の後ろを掻く。

「ハッキングの件は黒川警視監と話しをつけて、犯人捜しをしない方向に持って行くとしてくれたよ。だから、もう大丈夫なんだ。」

そりゃそうだ、自分の息子が警察のデーターベースをハッキングした犯人だと分かったら、自分の出世に関わる。何が何でも隠すだろう。やっぱり、自分の事しか考えてない、あのお父さんは。

「だけど、僕は凱さんとの約束を破って、」

「僕との約束より、大事なもの得たんじゃないのか?」

理事補は、PCを脇に抱えると、空いた手をあげる。反射的に、体に力を入れて、身構えた。

格闘技を習っている僕は、人の動きに身体が勝手に反応してしまう。が、その手は頭にポンと優しく乗せられた。

「ありがとう。黒川君のおかけだ。身体的にも精神的にも辛い思いさせちまったな。」

そう言うと僕の髪をくしゃくしゃと乱した。

「黒川君、お兄さんの真相は、もうしばらく待たないか?君が大人になるまで。」

僕が大人になるまで?やっぱり子供には知られたくないほどのヘドロにまみれた中で兄さんは死んだんだ。

「大人の都合で、勝手な事だと反発する気持ちはわかる。だけど、その大人ですらも、世間や国家の都合に身動きできない事がある。」

国家の都合・・・お父さんはそれで、兄さんの事を家族には言えなくて、だんまりを続けている?

お母さんが壊れて、家が崩壊しても?

理事補が悲しそうな顔でうなづく。

ネットの世界で出会った兄さんの顔と重なった。過去に篠原さんと共に言われた言葉を思いだす。

『康汰も僕も和樹を弟だと思っている、和樹には、お兄さんの事よりも、もっと大事な事に目を向けて大人になって欲しいと思っている。』

兄さんの事よりも、もっと大事な事・・・

えりが心配そうに和樹と理事補と顔を見比べて、うつむいた。

ふいに、真辺さんとの記憶がよみがえる。

『あっ、あり・・・・がとう・・・・』

『く、ろかわ、君?』

『・・・・・英語でもいいですよ。』

『余計なことはするな。』

余計な事か・・・

真辺さんのその言葉は、的を得ているのかもしれない。

兄さんの事件を知っても兄さんが生き返るわけじゃない。それを頑なにこれ以上追い求めたら、きっと多くの物を失う。そんな予感がする。

手に入れられるチャンスが何度もあったのに、それが悉く出来なかった。しかも出来なかった代償は失望じゃない。沢山の絆を和樹は得た。そうやって得る方向を示してくれたのは、兄さんだったような気がする。

「大人になるって、めんどくさいですね。」

「だよ~、君たちが羨ましいもんねぇ~。僕も、もっと青春やっとくんだったなぁて思うよ。さあ、心入れ替えて、学生は学生らしく、沢山食べて、勉強勉強。」

「えー、凱さんがそれ言います?説得力ないんですけど。」とえり

「えりちゃーん。僕は一応、学園側の人間だからねぇ。嘘でも、そこは、〔はいっ〕て言ってくれないと。」   

「いきなり黒川君を〔来い!〕って引っ張りこんで授業サボらしたの、凱さんですよぉ。そりゃないですよ。」

「しっ、大きな声で言わないの。」

と理事補は慌てて、周りを見渡す。そして、「じゃね。僕はいろいろと忙しいからね。」と理事長室に逃げ入った。

和樹はえりと声を潜めて笑った。























また長い長い夢を見た。

それは大好きな慎ちゃんと一緒に成長してきた、ニコとりのの虹色の記憶。



   ニコは笑う。りのも笑う。

   ニコは怒る。りのも怒る。

   ニコは困る。りのも困る。

   ニコは戸惑う。りのも戸惑う。

   ニコは楽しい。りのも楽しい。  

   ニコは痛い、りのも痛い。

   ニコはむくれる、りのもむくれる。

   ニコは夢を描く。りのも夢を描く。

   ニコは思い出す。りのも思い出す。

   ニコが、りのである事を。

   りのがニコである事を。

   


気が付いたら、皆が勢ぞろいに部屋にいる。

慎一とママと、柴崎と藤木と、えりちゃん。凱さんまで・・・私の隣には村西先生。

病院?また私、何をした?

私は・・・・

「りの、気分は?」ママが、顔をなでる。

気分は悪くないけど、この状況をどう理解していいかわからない。

わからない事が不安で。

それを言っていいのかも、わからない。

だから黙っていた。

「りの、お腹すかないか?喉かわかないか?」

慎一のまた食べ物の心配。

それを心配する前に、この状況を説明しろと思う。

柴崎と藤木に目を向ける。やっぱり藤木は私の気持ちをわかってくれて、知りたいことを教えてくれる。

「りのちゃん、学校で手に怪我したの覚えてる?」

怪我?あぁ、段ボールが固くて、カッターで手を切った。藤木が手当てしてくれたっけ。

左手を確認する。もう傷は塞がりつつあって、皮膚がこんもりと固く白くなっていて、みたら痒くなって来た。傷は治りかけが痒い。

「覚えてる。」

「あの後、りのちゃん意識を無くして、もう4日、経つんだよ。」

「今日は月曜日よ。」

意識をなくした?4日も?月曜日?

今日は日曜日、練習はないと言う慎一の記憶がうっすらとある。

意識無くしたって事は、また私、発作を起こしたの?

だから、また入院して、みんなが病院に集まって来ている。

またママに負担をかけたのだと思うと胸が痛い。

「ママ、私、また・・・」

「りの、大丈夫。りのは何も考えなくていいの。りののせいじゃない。」

ママがハグしてくれる。ママのいつもの匂い。ちょっと消毒液の匂いが混じる、それでも甘くて暖かい。大好きな匂い。

あれ?つい最近も、こうやってハグしてくれた記憶・・・

『りの、パパは自殺じゃない、あなたに罪はないのよ。りのの、せいじゃない。帰ってくるのよ、りの、皆が待っている。』   

ママの力が強くて痛かった記憶、何だろう。

この薄い、薄い記憶は。

「真辺さん、すみません。最後の確認をさせてください。」と村西先生がベッドに近づいて、私と目線を合わせる為に丸椅子を引き寄せ座った。

英「りのちゃん、今から使う言語を真似て答えてね。」

急に英語で話しかけられる。何故と疑問に思うも、意識せずとも英語はすらすらと出てくる。

英「はい」

英「りのちゃんが日本に帰国したのはいつ?」

英「11才の6月」

英「今は何歳?」

英「14才」

英「もうすぐ誕生日だね。いつ?」

英「11月5日」

英「その次の日は?何の日?」

何の質問だ?みんなは、黙って私の様子を、固唾を吞み見届けているそういう感じだ。

英「・・・・パパの、命日。」

英「パパは、どうして亡くなったの?」

英「パパは事故で、長瀬駅のホームから転落して。パパはりのにプレゼントを用意してくれていた。」

英「そうだね。パパはりのちゃんが大好きだったね。」

英「私もパパが大好き。」

心からそう思い、パパの笑顔を思い出す。

胸が暖かくなる。

もうすぐ、パパの命日だ。

私の誕生日の翌日、できなかった誕生日会を心の中でパパの記憶と共に開催しよう。





りのが帰って来た。大好きな英語を流暢に話すりのは、あの人が生きてた頃と変わらず、パパを大好きと言って私達を幸せにする。

りの、大事な娘。りのの笑顔は私の力、りのが笑うためなら、私はいくらでも頑張れた。

村西先生に続いて、凱さんがりのと会話をする。

露「りのちゃん、もうすく学園祭、楽しみだね。りのちゃんのクラスは何をするんだっけ?」

露「お化け屋敷、皆お化けの姿に変身して。お客さんを脅かす。」

露「そっか、楽しそうだね。体育祭ではりのちゃんは何に出場するの?」

露「私はバスケと、100メートル走に出る。」

露「バスケは、どこかでやってた?」

露「フィンランドで、ジュニア3年からクラブに通いはじめた。フランスでも、友達とずっとやってた。」

りのと凱さんのロシア語を聞きながら、私は懐かしい雪景色のフィンランドに住んでいた頃を思い出していた。刺すほどに寒いフインランドでもりのは笑顔で外を駆けまわっていた。そして、いつもりのの通訳に助けられて、異国の地でも私はさほど不自由を感じることなく過ごせていた。

あの頃のりのの笑顔がまた戻ってくるだろうか?治療はまだまだこれから。

露「フランスには何年間住んでいた?」

露「1年半」

わが子ながらりのの語学力にはいつも驚かされたけれど、理事長補佐の凱さんにもびっくりだ。ロシア語なんてマイナーな言語をどこで覚えるのか、ロシアに留学でもしていたのかしら、柴崎家ならそれも可能だろう。流石、常翔学園と言うべきなのかしら。

それにしても、この間は弁護士免許取得しているとも聞いた。まだ若い、どう見ても、26、7ってとこ・・・たった二十数年で沢山の勉学ができるって、脳の構造がそもそもに違うのかもしれない。理解を超えた天才って世の中にいるものなのね。目の前に。と見つめていたら、その理事長補佐の凱さんが、私へと顔を向けて笑いかけてくるので慌てる。

「真辺さん、大丈夫です。ロシア語もりのちゃんは流暢ですよ。」

「はっはい。ありがとうございます。」

「一体・・・・何の確認?」

皆が、ほっと笑顔になる中、りのだけが、訝しげに、周りを見渡す。村西先生が簡単に説明をする

「りのちゃんの記憶、ちょっときれいに正したんだよ。それがうまく行ったかどうかの確認。経緯は、また明日お話しするから、今日は身体を休めて、明後日から学校行けるように準備してね。」

「りの!学校に行けるのね!良かった!待ってたのよ!」

柴崎さんや、えりちゃん、慎ちゃん、藤木君が喜ぶ光景に、改めて親の力なんて微力だなと思った。

あの人が自殺じゃなかった証拠を見つけてくれたのも、りのが居なくなって見つけてくれたのも、りのが深く精神世界に落ちたのを引っ張り出してくれたのも、大人の力じゃなくてこの子達。

こうやって親の手から離れて大きく育つのだと、少し寂しく思う。

「良かったわね、りの。皆、待っていてくれて。」 





精神科医の村西先生が、退出するのをきっかけに、凱兄さんも一旦失礼するよ、と言って出ていく。

りののお母様が見送りで部屋の外に出た。りのが新田が繋いで放さない手を上にあげて、顔をしかめる。

「慎一、いい加減に放せ、暑苦しい。」

「あぁ、ごめん。」

りのの新田に対する毒舌も復活、新田は顔を赤くして手を離した。

その毒舌で、なんとなく、ニコは消えていない気がした。

りのとニコが合わさったら、どんな風になるのだろうかと、ちょっと不安だったけど、変わらない。

麗華達が知っているニコが、りのとしてここに居る。

りのはニコ、ニコはりの。新田が呪文のように言った事だ。

英語、ロシア語、フランス語を流暢に操る姿は学園の誇り。才色兼備の真辺りのの復活。

明日から、また変わらない、いいえ、もっと楽しい学園生活を新たに、りのと記憶を作っていく。

「その包帯、どうした?」

腕まくりしていた新田の腕に、包帯が巻かれているのを、りもが気づいた。

看護師であるりののお母様に、さっき処置してもらっていたのだ。

「え、あ、いやこれは・・・・動物に噛まれて・・・」

「動物?」

「ぷっーくくくく。」麗華はえりたちと吹き出して、お腹を抱えて笑いをこらえるのに身もだえした。

「何の動物?」

「えーと。あれは・・・・博識の藤木に聞け。なっ。」

「ばか、俺に振るな!」

「何?」

りのが興味深々の顔で藤木に向ける。

笑いをこらえるのに必死の藤木が苦し紛れで答える。

「小さくて、かわいい動物、だよ。」

「何、その抽象的な表現は、名称を言って。」

小さくてかわいい動物、確かに間違いじゃない。嘘は言ってない。

麗華達は、りのに嘘や隠し事はしないと誓った。あの満月の夜の事件、麗華たちはニコの為にと事件じゃなくて事故だと嘘をついて誤魔化してきた。ニコは私達が嘘を言って何かを隠していると悟って怖がっていた。催眠療法で嫌な記憶も楽しい記憶もすべてを真実にきれいに正した後は、もう嘘は付かずに、正しい情報を教える。その情報が辛い物だとしても、りのはちゃんとそれを乗り越えられる。

「んー、猫っぽいかなぁ~。」

ニコが新田の腕に捕まり、崖向こうへと行きたがって暴れた時、新田の腕に噛みついた。りのに噛まれても、新田はその腕を離さなかった。病院で噛まれた箇所を見ると、歯型に内出血がひどく、一部分、血もにじんでいた。

「猫?猫に噛まれるって、イジメたなぁ。可愛そう、猫。」

りのが、顔をしかめて新田を睨む。

「えー?1文字違い、なんだけどなぁ。」

「くー、もうダメ。やめて。」

「ひーっ えりも・・・これ以上は、耐えられない。」

「俺も、くくくくく。」

「はぁ?何?皆、一体。」

そう、嘘はついていない。1文字違いのニコを新田がイジメたから噛みつかれた。

小さくてかわいい動物、ニコの容赦ない決死の反撃。

りのに、それを教えるのは新田の包帯が取れてからにしよう。 





















「さぁ、できた。早くりの返ってこないかなぁ。」白いドレスを満足げに広げ眺める柴崎。

わが5組の文化祭の出し物はお化け屋敷で、女子たちはもっぱら、持ち寄ったドレスに血のりを模した赤いペンキで汚した物を着ている。昨日の衣装合わせの時、柴崎がりのちゃん用に用意したドレスは、丈や身幅が大きすぎて、ドレスの裾を踏んで廊下でスっ転んだりのちゃん。着ないとふてくされたりのちゃんに、柴崎は徹夜で手直しをして、文化祭が開会した今までかかって、間に合わせた。

「お前、去年といい今年といい、良くやるよな。」

「りのは、学園のアイドルなのよ。変な衣装なんて着せられないわ!」

「中島に引けを取らないマニアになってきてないか?」

「やめてよ!あいつの考える衣装、何のアニメか知らないけど、とんでもないのよ。任しておけないわ!」

中島が考えた衣装がどんなものか知らないけど、中島の持ち物を見れば容易に想像がつく。確かに、柴崎が担当した方が断然いいだろう。だけど、ほんと、これに関しては、柴崎も毎年マメによくやる。生徒会の仕事もかなりの量で忙しいと言うのに。柴崎は髪につけるコサージュを取り出し、まだつけられたままの値札を取って形を整える。準備万端過ぎて、寝不足の目が充血している柴崎に飽きれ、亮は苦笑する。自分を着飾る事に一生懸命になるなら気持ちはわかるが、人を着飾る事に、ここまで力を入れる気持ちはよくわからない。女心を読み取り、よく理解しているつもりでも、まだわからない事の方が多いと、亮は身に染みて思う事である。

「それより、森山と三浦さんに土曜日からの事、ちゃんと頼んだか?」

「ええ、頼んだわよ。藤木もお願いね。」

「俺はいいから、前日にも、ちゃんと念押ししろよ。」

「はいはい、わかってますって。」

 今週の土曜日と日曜日、りのちゃんは全国大会に出場する為に山口県まで遠征に行く。柴崎はクラブバックアップ支援の考案者、生徒会代表の視察者として遠征についていく。というのは建前で、実情は、単なるりのちゃんの付き添い。本来なら学園祭の後の土曜日は、そんな所に行っている暇は、柴崎を含めた生徒会全メンバーにはない。学園祭の報告まとめと反省会があるのだが、それを欠席して弓道部の試合についていく事に、他の生徒会メンバーは、誰も文句を言わず承諾してくれていた。が、それに甘えて言い訳じゃない。だから亮は念を押して頭を下げておけと言ったのだけど、柴崎は亮の言葉半分に、衣装の準備に夢中だ。

亮はため息をついて、何気に柴崎が外した値札を手に取りびっくりする。

「4800円!こんなもんに4800円って!」

「こんなもんって言わないでくれる!するわよ。これ、安い方よ。」

「はぁ?似たような100均で見たぞ!」

「やめてよ!100均なんて、ダサイの。」

「ダサイって。そんな問題じゃないだろ!こんな高い物を、しかも個人で使うのに、予算を使うなよ!」

「使うわけないでしょう! これは個人出費よ。」

さらに呆れて物が言えない。

「りのちゃんがこれを知ったら怒るぞぉ。」

ただでさえ、柴崎の着せ替え人形にされて、昨日から機嫌が悪いというのに、4千円の無駄遣いを柴崎がしたと知ったら・・・想像つくから怖い。

「言わないでよ、それこそ100均って言ってよね。」

「お前、もう約束を破るのか?」

「もう!うっさいわね。お金に細かい男は嫌われるわよ。」 

「細かいとかじゃなくてだな。」

「あっ、帰って来た! おかえり、あれ?一人?新田は?」

りのちゃんと新田は、朝一番で他のクラスの店を見に行っていた。柴崎は生徒会本部に頻繁に顔を出さないといけないから、クラスの当番は免除、他の店を回るのも空いた時間を見計らっていくしかない。亮も生徒会本部に顔出さないといけないけれど、柴崎ほど忙しくない、学園祭終了後からの報告書作成が大変だから、それを見越して、書記は常翔祭当日の本部当番が免除されている。

そうはいっても、知らぬ顔はできないし、状況把握をしておかないと、報告書を作る時に手間取ってしまう。

「ファンクラブに捕まってる。」りのちゃんは涼しい顔でそう言うと、小さな手提げかばんを机の上にひっくり返して中身を出し、各クラスのチラシを取り出して眺めはじめた。

学際期間中、廊下を歩けば、クラスの出し物の宣伝と客寄せのチラシを手渡される。中には飴玉を配っているクラスもあったりして、りのちゃんは、沢山、貰ったと嬉しそうに飴を一つ、包装を破ってぱくっと口に入れた。

「はぁ~、あいつも観念して、つき合って回ればさ、女の子達も満足するのに。まじめーに全員に断るから、いつまでも付きまとわれるんだよ。そういう不器用に、ほんと呆れるっつうか・・・」

「それ、りのの前で言う?」

「私?私も藤木と同じ意見だけど、女の子の思いをなんだって、無下に断れるのか?非道極まりない。」

(あ~)と亮はうなだれる。

りのちゃんの意見と、亮のとは、根本的なところが違う。

「えーどうして?りのは、ニ、痛った・・・」亮は、柴崎の足を机の下で蹴った。

「ん、何?」

「あぁまぁ新田の事より、ほら!これ、できたわよ。着替えて。」

「えーまたそれ着るの?」

「大丈夫、ちゃんと長さ調節したし、ほらコサージュも用意したわよ。」

「柴崎が着ればいいじゃん。自分で作ったんだし。」

「りのは入り口で案内役でしょ。これ着るのがお仕事。さぁ文句言わずに更衣室行くわよ!」

「えー、まだ私の仕事時間じゃないよ。」

「いいから、私この後、本部に行かなくちゃいけないんだから。」

「何故、柴崎の都合に合わせなくちゃいけない~」

「細かい事、気にすんじゃないの!」

「いやだぁ~藤木ぃ助けて~。」

「ごめんね~無理だから。」

嫌がるりのちゃんの腕をがっしりとつかんで無理やり更衣室へと引っ張っていく柴崎。

あの状態の柴崎を止められる奴なんてこの学園には居ない。亮は手を振りつつ、元に戻ったこの状況を心から喜ぶ。  

りのちゃんは、自分が解離性同一障害、いわゆる二重人格を発症して、催眠療法を受けて元に戻った。というすべての経緯を退院前に村西先生から説明を受けた。

亮が柴崎の足を蹴って遮った言葉は、『だって、りのはニコと合わさったから、新田の事を好きという気持ちも合わさったんじゃないの?』的な事を言いそうだったから止めた。

ニコと言う名称も禁句だけど、それよりも、りのとニコが合わさったから、新田の事を好きという感情が素直に出るかというほど、りのちゃんの心は単純じゃない。そこは単純な柴崎には理解しがたいものがある。

村西先生の説明後、りのちゃんの表情は、よく変化するようになり、読み取りやすくもなった。今まであいまいだった記憶と過去の不安、沢山の不透明がクリアになったので、すっきりしたんだろう。だけど依然、亮が出会った人の中で一番読み取りにくいのは変わらない。特に新田への気持ちが読めない。りのちゃん自身が新田の事を本当に何とも思っていないのか、それとも亮に理解できないような女心があるのか。

「藤木、りの帰って来なかった?」新田が帰って来た。

「あぁ一人で帰ってきて、柴崎に捕まって更に連れられて行った。」

「はぁ~、良かった。」

「お前さぁ。もっと器用になれよなぁ。りのちゃんも言ってたぞ。」

「はぁ?手先なら、りのより器用だぞ。」

「違う!女子の扱いに関してだ!」

「はぁ?」




藤木の前のテーブルを見たら、りのの鞄が無造作に置かれていた。常翔祭の始まった校舎を一周する間に、たんまりと貰ったチラシと飴玉が散乱していて、柴崎が無理にりのを更衣室に連れいった有様が目に浮かぶ。藤木の前にすわり、飴玉を一つ口に入れた。

「ファンの女の子に1日だけでも付き合ってあげたら、2日目はりのちゃんと思う存分、回れるのに。中途半端に期待させるような余韻があるから、お前、捕まるんだろ。りのちゃん一人にされて、可愛そうに。」

「んな事、お前みたいに器用に、いい加減な事できるか!」

藤木も何人かの女子に告白されている。全員後輩で、藤木曰く、『サッカー部の副部長と生徒会の肩書が、格好良く見えんだろうよ。彼女たち本気で俺の事が好きじゃなくて、肩書に憧れるタイプだよ。』と言うくせに、時間をずらして全員と店を回るという。慎一には理解しがたいプレイボーイぶり。そういえば、ダンスの相手は誰かと聞いてなかった。ま、明日になればわかるだろう、チークダンスの相手が本命という事だろうし。

「その、下手な真面目が、りのちゃんを泣かすことになるっての、まだわかんないかね、新田君。」

「泣かす?」 

藤木は、大きなため息をついて、肘をテーブルについて顎を手に乗せた。

「あのさ、たかがファンのテンションに、まじめーに断ってどうすんの?相手は本気でお前と、どうにかなろうって考えてなくて、単に学祭を一緒に回りたいってだけ。祭りの時ぐらいは一緒にはしゃぎたいとか、話したいとか、その程度の事。それぐらいの事も駄目って断ってさ、ファンが納得するわけないだろ。だから、いくら断っても当日の今日になってまで追いかけられるんだよ。だったら30分でも一時間でも付き合ってやったらさ、満足して、追っかけも収まるって、俺、確か、去年も言ったはずだけど。」

確かに去年もそんな事を言われたような・・・でも去年は、あの強打事件が1日目の夜にあって、次の日、りのは頭に包帯を巻いて学祭を過ごした。その痛々しい姿のりのに、慎一はずっと付き添って、流石にファン達は近寄ってこなかった。だから去年は不幸中の幸い的にファンの追っかけに応えなくて済んだけれど、今年は、最後の年と言うだけあって、同級も後輩も人数が増えて、2週間ぐらい前から呼び出しが酷かった。藤木と口を利かなくなっていたから、藤木に相談なしで、すべて断っていたのだった。

「いや、だからって。俺が他の女子と一緒にいるのを、りのが見たら、それこそ。」

りのは、良い気がしないんじゃないか?あの時の言葉は嘘だったのか?となりはしないか

慎一は、りのの選ぶすべてを受け入れ、変わらずお前だけの心配をすると言った。あの時、りのかニコかどっちであったのか、わからないけれど、そんな事はどっちでも良くて、どっちであっても慎一の気持ちは変わらない。

そして、りのがその慎一の言葉を覚えているかどうか、わからない。

精神科医の村西先生は催眠療法で父親の死を事故と修正して、りのとニコを合わしたら、自然と、りのの記憶の時系列は整うだろうと言っていた。だけど人間には忘れるという都合のいい処理能力があるから、膨大な記憶の中で、どれを覚えておくか、どれを忘れるかは、本人次第だと。精神科医は記憶の操作をそこまでしようもないこともないけれど、しない方がいい。と、りのにとって都合の悪い記憶を消す作業は行っていないという。

「りのちゃんが、その程度の事を気にするわけないだろう!逆に何度も何度も目の前で一人ぼっちにされる方がきついだろ!」

「そうかなぁ?」

「はぁ~。」藤木は、大きなため息をついて天を仰いだ。

「お、りのちゃん帰って来たぞ。お前ちゃんと謝れよな。」

「あぁ、ごめん。」

「俺じゃない!りのちゃんにだ!」

丸めたチラシの束で頭を殴られる。藤木先生は厳しい。





毎年、毎年、柴崎は何に拘って私にコスプレをさせるのだ?

しかも自前の衣装なのに、自分は散々着てるからいいんだとか言って、本人は着ない。

私だって柴崎のドレス姿を見たいのに。私なんかより絶対に似合う。やっぱり育ちが違う。着物もそうだけど、こういうドレスだって、着慣れているかいないかでは全然違う。立ち振る舞いに差が出る。昨日なんか私、ドレスの裾を踏んづけて派手に転んだし。こんな高いヒールの靴だって履いた事がないから歩きにくくて、変な姿勢になる。つま先でドレスを少し蹴り上げる感じで前に出すのよと、柴崎がアドバイスしてくれるのだけど、うまくできない。大体、生まれてからスニーカーと学園指定靴のローファーぐらいしか履いたことない。無理だって言ったら、「じゃ、いい機会じゃない、練習しておいて、そのうち、りのも社交界に連れ行くから。」と、恐ろしい事を言う。「楽しみだわ。その時は何を着せようかしら。」と、さらに目をキラキラさせて言うもんだから、その時は5歳児に戻ってやると言ったら、おでこをバシと叩かれて、

『私達がどんな思いで心配したと思ってんのよ!冗談でも2度とそういう事言わないで頂戴!』

と、お説教を食らった。

私が5歳児であった時と14歳のニコであった時の記憶は、おぼろげにある。そして消えたと思っていた去年の学園祭の記憶や他の物がある程度に戻ってきていた。今まであやふやだった記憶の時系列もちゃんと正しく並んでいて、これはいつの記憶かと不安にならない。

ただ、戻って来た記憶にはフィルターがかかったようになっているものがあり、今一つ自分の記憶であって自分のじゃないような感覚がする。おそらくそれはニコが作った思い出の数々だろう。グレンとの思い出は、はっきりしているのに、キャンプの多くはフィルターがかかっていて、皆と輪になって手を繋いだ記憶が、まるで撮影したビデオを再生してみているようで、今一つ実感がない。

それを昨日の診察で村西先生に言ったら、「記憶なんてそんなものだよ。逆にはっきりしてる方が稀なんだけとねぇ」と言われた。

先生がそう言うのだからそうなのかぁと納得するしかない。時系列的に最近の記憶なのに靄がかかっていたり、逆に昔の記憶なのに鮮明だったり、同じ記憶の中でも鮮明度が混在しているから気持ちが悪い。催眠療法直後であり、時がたてば、自然とならされていくはずだから、慣れるまでの辛抱だよ、とも言われた。結局、私は、ずっと精神科に通わなければ行けないのかぁと溜息をついたら。

『先生は、りのちゃんに会えるのを楽しみだから、ゆっくり治そうねぇ~』なんて、ふざけた事を言われて、本気でむかついた。誰が、精神科に楽しんで何年も通いたいか!さっさと治して、顔黒ともおさらばしたい。

「うーん、やっぱ歩き方が残念だよねぇ、りのちゃん。」藤木が私の歩き方を見て苦笑する。

「運動神経が良いのに、どうしてちゃんと歩けないのよ!」半切れの柴崎。

歩き方って運動神経?大体、着たくないって言ってるのに無理やり着せて笑う、文句を言うってどういう見解?

むかついたから、ヒールを両足とも蹴り脱ぐと、ヒールの一つが勢い余って慎一の顔の方に飛んで行く

「うわ!あぶね。」

反射神経よく、当たると思った顔をよけて手でヒールをパシっと受けた慎一。

「おぉ。ゴールキーパーも出来るな、慎一。」謝りたくない意地で褒めて誤魔化す。

「りの~」慎一の頬が引きつる。怒る寸前。

「りのちゃん、お行儀悪いっ!」

(えー!怒るの藤木?)

と同時にぼやけた記憶が瞬時によみがえってきた。

パソコンルームで慎一と蹴り合いしてたら、手が配線に引っかかって、抜いてしまった。藤木に今と同じように怒られて、初めて藤木を怒こらせたと焦った。この記憶はニコの物。

【りのはニコ、ニコはりの】

それを思い出すと涙が出そうになる。

小さい慎ちゃんを追いかけようと暴れる私、

輝く彩都市の街並みを冷静に見つめる私、

同じ瞬間に2つの視点がある不思議な記憶。

ニコはあの時、消えなければならない現実を知って、絶望に涙を流していた。

その感情が私の中にある。ニコが綴った記憶も私の中に。

「ちゃんと靴履いて、ほら。ヒールの高さに合わせてドレスの長さを決めてんるんだから。」

「・・・・・・」

「りの?」

「りのちゃん?」

「りの・・・・」

「あぁ、ごめん、ボーとしていた。」

慎一が、険しい顔で椅子から立ち上がり、手をあげた。怒って叩かれると首をすぼめて構えた。

「熱は、なさそうだな。」

「え?」

慎一の手は頭じゃなくて、額にあてられていた。またフィルターのかかった記憶がよみがえる。

『病院に行ってたのか?大丈夫か?熱は?』

『もうない。』

『嘘じゃないな。良かった。』

『柴崎が授業のノートのコピーを持っていけと。あと、これ。好きだろ、プリン。店から取ってきたんだ。』

『・・・・何個入っている?』

『4個だけど。さつきおばさんの分と。』

『食べていくか?母は夜勤だ。』

『さつきおばさん、急に夜勤になったらお前、晩御飯どうすんだ?』

『・・・・・プリンを。』

『馬鹿か。プリンはおやつだ!それに、俺がプリン持って来なかったら、どうするつもりだったんだよ。』

『・・・・・別に、食べなくても。』

『はぁーそんな事してるから、熱、出るんだろう。』

『何が食べたい?』

『???』

『俺がつくるよ。』

駄目だニコ、出てくるな。りのはニコ、ニコはりのだろう。一緒に楽しむなら笑うんだ。ニコは得意だったじゃないか、ニコニコのニコ。

「ちがう、違うの。」

慎一が置いたハイヒールを拾って履く。でも、うつむいた拍子にポタポタと涙が床に落ちてしまった。

まずい、皆に涙を見られる。慌てて、置いたままの手提げカバンからミニタオルを取って顔を拭いた。

「りの!」

「どうしたの?」

三人が慌てて、私の顔をのぞき込むように見る。

「違う、違う。私じゃない。ニコが勝手に・・・」

三人の動きが止まった。

「ニコの記憶が勝手に蘇って、勝手に泣く・・・私じゃない、大丈夫。」

大丈夫って言ったのに、まだ心配そうに、というか固まって動けないでいる三人に、笑ってアピール。   

「えーと、まだ暴れ足りないみたい。」

「りの、病院いくぞ。」

慎一が、真顔で手をつかんで私を出口へ連れて行こうとする。

「違う、行かない、ごめんって、ジョークだ!」

「りのちゃん、新田にその手のジョークは厳禁だよぉ~。」

「はぁ~びっくりさせないでよ。焦ったじゃない。」

「ごめん。」

「真辺さんいる?」

今野君と佐々木さんが、私達がいる個別教科室に顔をのぞかせた。

私達のクラスの出し物は理科実験室をダンボールで区切って迷路にしてお化け屋敷にしている。やっぱりお化け屋敷と言えば理科室でしょうという話になって、理科実験室を割り当てしてもらうように申請したらしい。その理科室の奥にある空き教室、この教室は教科によって、少人数にクラスを分けたりする時に使う教室で、テストの成績が悪ければここで補習をしたりする教室。慎一がよく英語の補習でお世話になっている教室だ。ここが今は3年5組の荷物置き場兼、控室になっている。

そして、私達の5組の教室は4組が喫茶店として使っている。

「は、はい。」返事をしながら慎一の手を振りほどく。

ジョークもわからないなんて、ほんと面倒なやつ。

「ちよっと頼まれて欲しい事あるんだけど。」

嫌な予感。人が私に頼むって、頼む側は大した事ないと簡単に頼んでくるんだけど、私にとっては一大事な事が多い。

1年前のスピーチ大会がそうだ。あれは、ほんとに、大変な目にあった。

「お化け役の脅し効果音がさ、明らかに生きてる人って感じで、笑われてたりするのよね。人の声を録音したやつを、流したらどうかって案が出てさ。」

「生で言うより、録音した声を、聞き取れるか聞き取れないぐらいに絞って流した方がいいんじゃないかって話になってね。」

「真辺さんに、しゃべってもらおうかと。思って。」

「なっなぜ?わ、私?」

「洋館だもの、うちのお化け屋敷。」

「英語だとねぇ、皆ヒアリングが出来るじゃない。フランス語の方が雰囲気あるんじゃないかって話になって。」

「真辺さんに、お願いできないかなぁて・・・駄目?」

「・・・・・・」

皆が私に注目する。

今野君と佐々木さんは、だいぶ慣れたとは言え、それでも柴崎や藤木との付き合いと比べたら日が浅い、こんな風に注目されると緊張する。

催眠療法では苛められた記憶は触っていないと村西先生が言っていた。もし辛かったら、消すことはできないけれど、気にならないレベルにまでフィルターをかけて楽にすることはできるよと言っていた。これ以上フィルターのかかった記憶が増えるのは嫌だ。それに辛い記憶だけと、私にとっては大切な記憶だ。あのいじめと父の死があったから、私はこの常翔学園の特待生になろうと、あの暗い部屋から出られたから。

イジメる側にも言い分がある、私に全く非がなかったわけじゃない。非がない所からはイジメは発生しないというのが、昔からの私の持論だったが、まさか自分がそのいじめられる側になると思わなかった。いじめられる側になって、その持論が覆えったりはしない。私がいじめられる要素を持っていたのは事実だから。持論に身をもって証明したようなものだ。

「何でもいいの、適当にしゃべってくれれば、どうせ誰もフランス語なんてわかる人いないんだし。」

「そうそう、声のトーンだけ落としてもらえれば。」

「・・・・・」

今野君と佐々木さんにはお世話になりっぱなしだから、断りづらい。

「な何でも、い、いいのね。」

「やってくれる。ありがとう。」

  


 


りのがぎこちない足取りで窓際の隅に行く。幽霊というよりはゾンビの足取り。まぁこのお化け屋敷ならオッケーだけど、今年中にはハイヒールに慣れてももらわなくちゃ。次の華族会の社交パーティに、りのも連れ行こうと思っているのに、あの歩き方じゃ困る。りのなら確実に皆の人気の的よ。常翔の特待だけで素質ありと認められる上に英仏露の3ヶ国を話せる語学力は、もう華選の称号を得られる基準を満たしたはず。今から華族会に顔を出しておけば、16歳の華冠式に一緒に出席できるかもしれない。

あんな薄汚れた血のついたドレスじゃなくて、もっと素敵なものを準備して。

「こ、こっち来ないでよ。」

「行かない、行かない。」

今野から預かったmポットを口元に持って始めるかと思ったら、りのはまた降ろして、こっち向く。

「耳、塞いでて。」

「何言ってんのよ、フランス語わかるわけないでしょう。」

「は、恥ずかしいから。」

「良く言うよ、スピーチは得意だと、去年、特別賞を貰ったのに。」

「あれとこれは別だ。だったら慎一お前がやれ!」

相変わらず、新田と会話すると、すぐに喧嘩になるのは、一体何なの?

「新田がやったらコントになっちゃうからねぇ、りのちゃん。」

「わかった、私達しばらく外に出てるから、ちゃちゃとやっちゃいなさい。」

窓から差し込む光を浴びて立つりのの姿に、麗華は展望の柵の向こうで立っていたニコの姿を思い出した。

ニコはりのの中にいる。

りのはニコ、ニコはりの、

新田が繰り返し言った魔法の呪文。さっきもニコが勝手に記憶を掘り出して泣いていると言った。

ニコ、泣かないで、ニコは笑うのが得意なんでしょう。

ニコニコのニコちゃん。

私達は置いていかない。ずっと一緒に夢の自由帳にニコちゃんマークを描くから、消しても消されても、何度でも。

「雰囲気あるなぁ~。」

「うん、流石ね~絵になるわ~。」

今野と佐々木さんもりのの姿にうっとりと見つめる。りのは白のドレスに白い髪飾り、白いハイールで左胸には絵の具で血糊を表現している。夢半ばで死んだ花嫁さんという設定。本当は血糊なんてつけたくなかったんだけど、仕方がない。窓の外を向いて、入ってくる秋の澄んだそよ風に髪をなびかせた。

カシャ、カシャ。カシャと突然カメラのシャッター音が鳴り、麗華は振りむいた。

一眼レフのカメラを持った中島がりのの姿を撮影している。

「ちょっと!何やってんのよ!」

「いいの撮れた。」

「どれ?あら、ほんときれいね。これなんか絵画ぽっくて・・・・って!勝手に撮ってんじゃないわよ!盗撮よ盗撮!」

「しっ、柴崎さん、声、入っちゃうじゃない。」

「ごめん。」

録音を始めたりのは、集中しているのか、中島の登場で騒ぐ麗華達には目もくれず、mポットのマイクに向かって異国の言葉を発している。

「ちょっと中島、写真取るなら、りのに断ってからにしなさいよ!」小声で牽制。

「柴崎、あの髪飾り、どこで買ったんだ。」

「えーと、東京の青山通りのウィルって店だけど。」

「お前、良く見つけたよなぁ。俺たちマニアで探してたんだ。」

「はぁ?」

相変わらず、人の話を聞かない中島、勝手に話を進めていく。麗華はこの中島の勝手気ままの話の流れについつられてしまう。

「あのドレスも真似たんだろ、流石だなぁ。真辺さんは二次元界の神だね。」

「全く話が見えないんだけど・・・。」藤木に助けを求めたら、流石の藤木もわからないらしく、肩をすくめてお手上げの仕草。

「そんな、ごついカメラ持て来ていいのかよ。」新田が根本的な疑問で牽制。

中等部の校則では学業に関係のない物は持ってこないという規則がある、本来なら携帯も駄目だけど、それは暗黙の了解になりつつあり、しかしながら先生陣に見つかれば没収だ。写真を取りたければ写真部を捕まえて取ってもらうか、先生に見つからないように携帯のカメラ機能で撮るしかない。りのが使っているmポットだって、常翔祭期間中の特別使用備品として生徒会本部に申請してからの使用で、申請が通った物に申請済みのシールを機器に貼ってやっとの使用が可能となる。自前の備品を持ち込んで紛失、盗難などのトラブルを防ぐためのルールである。この申請の審議と許可が生徒会本部の仕事であり、それは大変だった。

「俺、写真部だから、ほら。」

中島が右腕の腕章を見せて指さす。

「中島って美術部じゃなかった?」しかも入学以来一度も活動した事のない幽霊部員だったはず。

「掛け持ち。」

「いつの間に⁉」情報網に入ってなかったのか、驚愕に叫ぶ藤木。

写真部はこの学園祭のシーズン準備段階から、腕に腕章をつけていれば自由に写真を取っていい事になっている。その写真は学祭後に廊下に貼り出され、格安で購入することが出来る。 

「だから、いちいち真辺さんに断らなくても自由に撮れるんだよねぇ。」

カシャ、カシャ。とまた、りのを被写体に撮りはじめた。

「それは・・・っていうか、写真部なら、公平に撮りなさいよ!りのばっかり撮らないで。」

中島がカメラを顔から下ろすと麗華をぎろりと睨む。そしてまた腕の腕章を指さす。

見ると、黄色い腕章の写真部と書かれた上に、小さくマジックで真辺りの専属と記入されていた。

「真辺りの専属?」 3人で叫んだ。

「ちよっと、皆、声大きいわよ。」と佐々木さんは冷静に窘める。

「そんなの、聞いてないわ!認めないわよ。生徒会は。」

「あぁ、大体、写真部からの名簿リスト及び活動申請にお前の名前は、なかったぞ。」書記としてビシッと指摘する藤木。

「あれ?2週間前に入部した時、すぐに追加の申請書を出したよ。ちゃんと生徒会から許可の判子も押されて返却されてきたけど。」

2週間前って・・・・麗華は記憶を巻き戻す。りのが手に怪我した時期、病院に駆け込んだあの時、藤木の報告を元に病院から生徒会役員に指示を出していた。いつもは全部の書類に目を通す麗華だったが、あの日だけはそれをできていない。副会長の森山に、特に問題なさそうだったら許可しといてと丸投げしたのだった。

藤木と顔を見合わせた。藤木もあの日の事を思い出して、しまった、という表情をする。

藤木は麗華の代わりに生徒会に残り仕事をこなした。自分だってりの事が心配で病院に来たかっただろに麗華にそれを譲ってくれた。残って仕事をこなした藤木のミスじゃない、これは生徒会の仕事を一時でもおろそかにした麗華のミスだ。

と言っても、写真部に入った中島を、学祭活動メンバーに登録することに何の問題はない。個人的に嫌だからと未許可にするわけにはいかないから、ミスと断言できない事案である。

「2週間前って・・・・お前、まさか、この日の為に入部したんじゃ。」

新田が、誰もが思っていても口にしなかった事を言った。

「そうだけど。」涼しい顔で答える中島に、新田は何も言えなくなった。

「入部はいいとして、活動申請に、りのの専属なんて書いたの?」書いていれば流石の森山も見逃しはせずに麗華に報告するはずだ。

「記入しろとは書かれてなかったもんね~。写真部全体の活動申請はちゃんと書いて許可を貰ってるし、学祭注意事項には専属撮影は駄目とも書かれてないもんね~。」

各クラスやクラブから届く学祭の活動に不備、違反がないか、何度もチェックした。歴代の役員がその都度改定をして引き継いできた注意事項、もう何度も読み覚えてしまっている文面を頭の中で必死に呼び起こす。写真撮影、写真販売に関しての項目に、確かに、そんな注意記載はない。

「だけど、そんなの書いてなくても、倫理上駄目でしょう。」

「去年、写真部が撮った真辺さんのメイド姿の売り上げが凄かったの知ってるよね。俺が手掛けた喫茶の売り上げも1位だったし。」

「・・・藤木、援護は?」

「・・・無理、完敗。」

生徒会はオタクの情熱に負けた。

「売上うんぬんの前に、りのが嫌がるだろ!」と最後の砦、新田の必死の攻防。

運動部最高峰サッカー部、部長VS文化部弱小写真部、新人部員の戦い。

新田の威厳に中島は怯むことなく、持っているカメラをいじって、新田に見せた。

「昨日の準備の時も、いい顔が撮れたんだよねぇ。新田は要らないんだね。」

りのが、しゃがんで段ボールに色を塗っている所、誰かに呼ばれたか満面の笑みで振り返ったシーン。本当に楽しそうな顔の写真。

「うっ・・・いや・・・あの。」

「これも、最高だよね。藤木も買わないんだねぇ。」

と次に見せたのは、体育祭で出場したバスケでボールを持って躍動感あふれる姿。

中島の写真の腕はいい。あっいや、認めちゃ駄目よ

「要ります。買います。」

新田と藤木が声を揃えて中島に完敗する。

常翔学園クラブ最高峰サッカー部、部長、副部長は、オタクに負けた。





不思議な感覚だった。そっか・・・・皆にお礼を言いたかったんだね、ニコ。

ニコが日本語で考え、りのがロシア語とフランス語を混ぜて話す。私の口から出てくる言葉は私の物であって、私の物でないような感覚でmポットに声を入れ終えた。完全にりのとニコの意識が一つになるには時間がかかりそう。村西先生がゆっくり治そうねぇと言って笑ったのも納得。

慣れないヒールで皆のいる廊下まで行くと、何やら騒がしい。

「ありがとう、真辺さん。助かるわ。」

佐々木さんにmポットを渡して、お仕事終了。

フランス語でしゃべってと言われたけど、ロシア語も混ぜた。不気味さを出すには、リズムを狂わすのが効果的だろう。

お化け屋敷と言いながら、私を含めてドレスを着ている子が多いから、洋館的な様相になっている。

たまに、落ち武者みたいな恰好をしている男子もいて笑えるけれど。

慎一は、ドラキュラだとかで昨日、演劇部の衣装を借りていた。

藤木は、ナイトメアの死神だとか言って、顔に傷を描いて燕尾服を着ている。その燕尾服は、東京の実家から送ってもらったと言って、その自前の燕尾服に容赦なく血糊に見立てたペンキで塗りたくった。

柴崎もそうだけど、家にドレスや燕尾服が普通にあることも驚きなのに、平気で汚す価値観についていけない。

実家を嫌がって、特に父親の事をいつも酷く言う藤木に一度、意見をぶつけた事がある。

『ここの授業料とか、親に世話になってる事は棚上げするんだ。』と言ったら、

『こっちは、それ以上の迷惑を被っている。俺が贅沢して藤木家がつぶれるなら本望だ。世の為人の為に、藤木家はつぶれた方がいい、俺はそれを手伝っている。』とまくし立てられた。それ以降、藤木には実家の話は禁句とマイルールになった。

そして、私は思う。そんな風に親に感謝できないのは、寂しいの裏返しだと。自分がそうだったからわかる。

「真辺さん!やっぱり神だよ、まさかファンタシアのメリルの花嫁のコスプレをするとは、目の付け所がいいねぇ。」

「なっ何の、はっ話?。」

「まじめに聞くな!」

「コスプレじゃないわよ!」

「皆、知らないの?これだよ、これ、俺たちの中ではこの髪飾りのデザインの元になった本物あるらしいと探して、ネットでも高値で取引されてたんだよ。柴崎、良く見つけたよな。」

中島君は、自分のスマホをポケットから取り出して裏を見せる。

スマホカバーにはショートカットで頭に大きな白い花の髪飾りをつけた女の子のアニメキャラ。深夜のアニメ枠で見た事ある。

毎週見てたわけじゃなくて、眠れない時の暇つぶし的に知っているだけである。去年もアニメの何とかに似てるとか言われて、アニメ同好会と称するグループに取り囲まれて写真を取られた。

今度は、何。柴崎は中島と手を組んで、一体、私に何やらせてるの!

「しっ、知らないわよ。そんなアニメ。私、贔屓にしてる青山のブティクで買ったのよ。」

ブッティクで買った?家にある奴を持ってきたと言ってたのに?

「しーばーさーきぃ!」

「あっ・・・・違う、ブティク100均っていう青山の100均の店よ。」

青山に100均の店なんかあるわけがない。

カシャ、中島君に写真を撮られた。

「怒った顔も、いいねぇ。」

「・・・・。」  

この学園は、どうなっているんだ!普通の感覚の者がいないのか!

「やってるねぇ。おっ、今年のりのちゃんは、白いドレスかぁ。ん?身長、伸びた?」

「やーね。凱兄さん、ヒールで高くしてんのよ。それでもこのドレス引きずるから腰の所で身上げて、縫い目をリボンで誤魔化してるのよ。」

普通ではない感覚の人間が更に増えた。

「そうだよねぇ、いくら伸び盛りと言っても、そんなに急には伸びないよね~。びっくりした。うんうん、やっぱりこれぐらいの身長は要るよね、ドレス着るなら。」

穏やかに言っているけど、私にとっては、それは完全なるいじめコメントだ。

「な、殴っていいか?」

「我慢するんだ。柴崎家には世話になってる。」慎一が、震える私の拳を抑え込む。

くっそー格差社会の日本なんて大嫌いだ!

「ん?」凱さんは急に黙り込んで、お化け屋敷の方に顔を向け耳を澄ませる。

「あれは・・・」

はっ、しまった。凱さんの存在を忘れていた!

入り口を塞ぐ柴崎と中島君の間をかき分け、走った。

「だっ駄目!さっ佐々木さん!それ消して、や、やりな直し!」

「ちょっと何!?」

「りの?」

フランス語とロシア語が理解できる生徒はいない、見学に来る保護者や一般人もそうだろうと高を括った。だけど凱さんはロシア語を理解する。もしかしたらフランス語も理解できるかもしれない。何せ辞書を記憶すればどんな言語だって理解できるのだから。

慣れないハイヒールで駆けだしたらまたドレスの裾を踏んづけた。

「りの!」

「あちゃー。またこけたよ。」

痛い・・・いや、こんな打ち身は痛くない。あのmポットの声の方が痛い・・・

「とっ、止めて~。あ、あれを。」

「青春だね~。」

凱さんがどんな顔してそのコメントを言っているのか、見ずしてわかる。もう立ち上がる気力も失せた。

「大丈夫か?」慎一が私の手を引っ張る。

「熱が出てきた。保健室に行く。早退する。病院に行く。」

「はぁ?」

「重症。もう治らない。余命なし。私はもう死んでいる。」

「何だ、新しいジョークか?」

ジョークにしたいよ~。

お化け屋敷から私の声がささやく。

ニコの心。



露「皆、ありがとう。」

仏「可愛いあだ名ねと言ってくれた事がうれしかった。」

露「いつも、まっすぐなあなたがまぶしくて羨ましかった。」

仏「友達になってくれてから、毎日が楽しくて。」

露「時にお母さんのように厳しく、姉のように優しく、友としてライバルで、」

仏「私は友達として、ふさわしい人間だったかな?」


露「毎日おはようの挨拶をありがとう。」

仏「最初から変わらず、声をかけてくれて、いつも状況を変えてくれたね。」

露「いつも、私はそれに甘えて、お礼も言えず。」

仏「優しくて厳しい目が、私を導いてくれた。時にその目が怖いと思った。」

露「そんな私の本心も咎めることなく、変わらない目で私を見ていてくれた。」

仏「感謝しています。」


露「そして、・・・・何から、言っていいか。」

仏「言葉にすれば・・・・・嘘っぽくなるような気がする。」

露「まだ、完全じゃないから・・・・」

仏「ただ、もう心配をさせてはいけない、これが共通の思い。」

露「今度は私に誓わせて、心配はかけない。強くなると。」 

仏「あの頃のように、いつだって手を繋いで競った、私達は・・・」

露「待っていて。完全になるときを、その時はきっと見つかるはずだから本物の虹玉。」


仏「皆に心から、感謝の想いを送ります」

露「皆、ありがとう」

  

仏「可愛いあだ名ねと言ってくれた事がうれしかった。」

露「いつもまっすぐ。

    


お化け屋敷の効果音、フランス語とロシア語が交わる、恐ろしいささやき。

お客様が鳥肌をたてて帰っていく。

繰り返されるニコから皆へのメッセージ。

血に汚れた白いドレスを着て、無表情に接客をする。

仏「ようこそ、恐怖の館へ、お代は頂きません。どうぞ足元にお気をつけて、行ってらっしゃいませ。」   








柴崎先輩の声が校舎に響き渡る。

『本日はご多忙の中、常翔学園、常翔祭にお越しいただき、ありがとうございました。体育祭と文化祭を合わせた3日間、学園最大のイベント、常翔祭はいかかでしたでしょうか?全生徒一丸となって、日ごろの感謝と成長をお見せするべく、がんばってまいりました。それも保護者の皆様、地域の皆様、並びに教職員の皆様の暖かいご支援の賜物です。稚拙ではありますが、生徒代表として生徒会本部より心よりお礼申し上げます。

我々常翔学園は、その名に恥じない常に羽ばたく努力を惜しまない生徒である事を胸に、さらなる飛躍を目指します。

ありがとうございました。』


『引き続き構内の案内を、させていただきます。

この3時15分を持ちまして、各ブースは終了とさせていただきます。正門と駐車場側の裏門は4時に締めさせていただきます。防犯対策の為、申し訳ございませんが、学園生徒と職員関係者以外の方々は4時までに、速やかに退校して頂きますよう、ご協力をお願い致します。なお4時以降の退校となりました方は図書館経由の出口をご利用ください。その際は記名退出とさせていただきますので、ご了承ください。』


「この絵、市内の展覧会にも出すんでしょう。」

「うん。そのつもり。」

「絶対、賞を取れるよ。」

「無理だよ。あの展覧会の趣には合ってないからね。」

「そんな事ないよ。だってこの絵は・・・」

りのりのが涙したぐらい心を動かす絵なんだから。

黒川君が、夏前から描いていた油絵。慎にぃの机から盗って来た虹玉の入ったチャームをモチーフに、黒川君は40号の大きさのキャンパスに抽象画を描いた。美術部として文化祭の2日間、展示していたのを外して、後片付けをする。

私達1年2組のブースは、日本の遊びを再現したお店。射的や、輪投げ、駒回し、ヨーヨー釣り、面子など、店当番は半被を着て、教室には提灯を飾り付けて純和風のお店、懐かしいと評判だった。

今日の午前に、りのりのは柴崎先輩と一緒に来て一通り遊んだあと、黒川君は?と聞かれる。美術部の当番で美術室にいると言ったら、りのりのがちゃんとお礼を言いたいと美術室に向かうのに、えりはついて行った。

りのりのは黒川君にお礼を言う前に、この絵を見て動けなくなった。

『ニコの虹玉・・・』

そう呟いたあと、ポロポロと涙を流して、まるで絵の中の虹玉を取りに行こうと触ろうとするから、えり達は慌てて止めた。油絵は乾くのに時間がかかる。5日前に完成した絵は完全には乾ききっていないから、触れば崩れる。

結局、りのりのは黒川君にお礼が言えず、えりと柴崎先輩とで、りのりのを3年5組の控室まで連れ戻した。

慎にぃが、あの虹玉が入ったチャームを投げ捨てていた事、後から彼女らしき人と一緒に美術室に来た藤木さんから聞いて知った。

「改めて、お礼に来るって言ってたよ。」

「いいのに。どんな大きな展覧会の賞より、あの涙の方が価値があるよ。絵を描く者にとって最高の賛辞。お礼は十分に貰ったよ。」

照れながら言う黒川君の態度に、えりは内心、不愉快。そして、やっぱり、りのりのには敵わないと諦めのため息。





『全生徒に連絡いたします。第58回常翔祭を終了いたします。金券を扱うブースの会計係は、速やかに集計を行い、会計係本人が本部に持参してください。その際はIDカードを忘れずに、代理での持参は認めません。この後4時より体育祭の表彰式及び生徒会主催のダンスパーティを予定しておりますので、金券の集計の受理やその他の生徒会本部の業務は本日4時までです。遅れないようにしてください。』


柴崎の大人顔負けの、堂々たる礼賛の声をBGMに、亮は学園祭本部となっている生徒会室で、次々と届けられる各クラス、クラブからの報告書や、三浦さんの元に集まってくる金券と計算書の整理に追われていた。

柴崎は、今の放送を原稿なんて作らずにしゃべっている。りのちゃんが外国語でのスピーチが得意と賞を取るに至ることの、柴崎は日本語版だ。日本語のスピーチならばプロを顔負けに、どんなシチュエーションの場でも堂々と取り仕切る。

学園を継がないなら、アナウンサーもいいなと言う通りに、目指せば人気アナウンサーになるだろう。

「藤木君、いいわよ、あとは私がやっておくわ。」と三浦さんが手元から顔を上げる。

クラスやクラブの会計係や代表委員が提出してくる列が、やっとひと段落した所だ。

「まだ4時まで時間あるし。」と亮は時計を確認してから答える。

「私、体育館には行かないから、それもやっておくわ。」と亮の前にある書類の束を引き寄せる三浦さん。

「駄目だよ。逆に三浦さんの分を手伝うから、二人でやれば4時までに間に合うでしょ。」

「違う違う、間に合わないとかじゃなくて、元から行くつもりないから私。」

「えっ、出ないの?」

三浦さんはこの2日間、ずっとこの生徒会室に滞在している。クラスは劇が出し物で、その上演時間帯だけ席をはずしたぐらいで、いつ覗いてもここに居て、迷子の子供の相手までしていた。店を回らないのかと聞いたら、準備段階で、どのクラスが何をするかわかっちゃてるから、いかなくても大丈夫と言う。三浦さんがクラスで浮いているという事はない。店を回る友達がいないわけじゃなくて、

「えぇ、興味ないから。」

嘘ではなく、本当に興味がない。亮と三浦さんは、ダンスパーティの準備もこの会計集計が大変だとわかっているから免除になっていて、確かに体育館に行かなくても問題はない。もし、義務感だけで、ここに残ろうとしているのなら、ダンスの一曲ぐらい誘って体育館に行くよう誘おうと思ったが、気持ちの良いぐらい、そういう事には興味がない本心をしていた。逆に亮が誘えば、この涼しい顔がゆがむと判断。

特定のグループに所属しない、小学部からの内部進学組にしては珍しいタイプだった。だからこそ、亮は柴崎に三浦さんを生徒会に誘えと助言した。森山と同じく陸上部で専門競技は高跳び。この一匹狼的なところは、りのちゃんと似ている。しかし根本的に違うのは、三浦さんは根っからの一匹狼で、一人であっても、誰かと一緒であっても問題はなく過ごせる性質を持ち、誰も三浦さんを悪く言う人がいない。対して、りのちゃんの今の一匹狼状態は、苛められた経験から編み出した、りのちゃん自身の自衛的なもので、本来なら皆の輪の中心にいる子だ。苛めにより自分に自信がなくなったから、中心より外れようとした。だが本来持っている人を引き付ける要素は何をしても消せないし、皆は視線を外せない。駒の中心がズレる違和感が、周囲に嫌悪を抱かせる。だからこそ、りのちゃんへの苛めは執拗に追い続いた。

「早く行ってあげたら、女の子たち待っているんじゃないの?」

「いやぁ・・・達と言うほど、いないんだけど。」

「またぁ~、ご謙遜を。噂は色々と聞いてるわよ。」

「えー、なんか嫌な噂っぽいなぁ。」

「という事は、心あたり、あるって事よね。」

「うーん。」

「とりあえず、柴崎さんの手伝いには、行ってあげたら?」

三浦さんの言う通り、体育館では柴崎だけじゃなくほかのメンバーも表彰式の準備で忙しいだろう。三浦さんの言葉に甘えて亮は生徒会室を出る。直後、女の子から声をかけられた。1年生の女子で、名前は・・・なんだったか。

この後のダンスパーティのお誘い、意を決して声をかけてくれたのは間違いない。勇気が要っただろう。だけどダンスの相手は既に決めていた。

「あの~もし、まだ、ダンスのお相手・・・」色白で、まだあどけない表情の残るかわいらしい1年生、思い出した、白井さんって名前だった。運動場と校舎の間にある側溝で鍵を落とし困っていたところを、鉄柵を開けて取ってあげたんだった。翌日、お礼だと言ってスポーツタオルをもらった。あの時、そばに居た柴崎に、重い鉄柵の反対側を持てと手伝わしたら、「私だって女なのよ、非力なのよ、一人で女の子を助けられないんだったら、むやみやたら声かけんじゃないわよ!」と怒られた。

「ごめんね。決まってるんだ。」

「あっ、あ、そう、ですよね。」落胆の心。

「今、携帯持ってる?」

「えっ、はい、ありますけど・・・」

「カメラ貸してくれる?」

白井さんから携帯を受け取り、カメラ機能を呼びだして、白井さんの肩を寄せて並んだ。

「はい、笑って。にぃ。」

カシャ。突然、亮に肩を抱き寄せられて驚いたおかけで、大きな目の表情のかわいいツーショット写真が撮れた。亮はダンスを踊りたいと言って来る女の子には、断ったあと、こうして写真を撮って返している。

新田みたいに中途半端は良くない。彼女たちは断わられる代償がこの写真なんだと納得する。白井さんは顔を赤くして頭を下げて嬉しいドキドキ感を胸に抱いて去っていった。

後輩からの告白が多い。亮が生徒会をやっている事とサッカー部の副部長として新田と一緒に居るから、目立ったのが要因だ。亮に告白をしてくる女子の本心は、肩書に憧れる傾向の子たちばかりだ。

そこが新田との違い。

新田は今年も本気モードの告白を二人ほど断っている。学園1の才色兼備の真辺りのと幼馴染であることが周知されもして、新田の行動が誰にでもわかるほどに、りのちゃんに向いているというのに、諦めきれない女子が最後のチャンスとして告白する。そのどれもが本気の恋心だった。その恋心を育ててしまうのが新田のカリスマである。

廊下で会う同級生や後輩たちに、お疲れと声をかけながら、体育館の方に向かう。同じ方向にお化け屋敷の理科実験室があるから、覗いてから向かおうと、迂回する。

北校舎から中校舎への渡り廊下を歩いていると、ゴミ袋を2つを引きずるように歩くりのちゃんにばったり会う。

「りのちゃん、その恰好・・・」

りのちゃんは、長いドレスの裾を腰のリボンにひっかけて、ミニスカートにして、ヒールの靴は脱いで上靴をはいていた。

「柴崎が絶対脱ぐなって。ダンスパーティ終わるまで、ドレスを脱いだら絶交だって脅すんだもん。」

あいつ、何を、しょうもない所で仕返しやってんだ。と呆れて天を仰ぐ。

「柴崎が、その恰好を見たら怒るぞぉ。」

「だって・・・裾、邪魔で歩きにくい。」

「俺が運ぶよ。」ゴミ二つを取り上げると、白い太ももがきわどい所まで見えた。「ごめん、やっぱり一個持って。」ゴミ袋を一つ返す。目のやり場に困る亮に対して、首をかしげるりのちゃん。顔に似合わず、素行が荒く羞恥心が薄いのは、長らく精神的な病気で成長が止まってしまった影響かもしれない。体もまだ小学生並みと言えども、きわどい太ももを大衆に晒せられない。

「お疲れ、だったね。」

「今年は高等部の店に行けなかった。」

「あれ?新田と行ったんじゃなかったの?」

「行ってない。柴崎も忙しくて、中等部しか回れなかった。」

クラスのお化け屋敷は、そこそこの人気で終わった。段ボールの迷路仕立ては、やはり作りに限度があるから、本格的なお化け屋敷と比べると稚拙だ。ただ、それをカバーした生徒のお化けの役作りが凝っていると評価をもらっていた。準備途中から、女子の選ぶ衣装がドレスばかりだからと洋館のお化け屋敷にしようと路線を明確にして飾り付けをしたのが成功した。効果音の中に、何語かもわからない声が漂うのも雰囲気あると絶賛され、おまけにロシア語、フランス語オンリーの案内役であるりのちゃんの、その無表情が役にはまった。中島が率いるオタク集団が繰り返し訪れたのが、他の客の呼び込みになった。

新田は、結局、りのちゃんの為に時間を作れなかったようだ。亮が初日の朝に注意したことを聞き入れて、その後ファンと一緒に店を回っていたのは知っている。しかし、器用には立ち振る舞えなかったようだ。女に逆らうなの新田家の教訓が仇となり、女の子の要求に最後まで付き合ったのだろう。りのちゃんの事は新田と柴崎に任せとけばいいと、亮はいつもの計略的遠慮をした。こんなに残念そうにしているのなら、一緒に廻ってあげればよかった。

「そっか、残念だったね。」

ゴミ集積所は裏門の側にある。そこは扉が締められないぐらいに、ごみ袋で溢れていた。段ボールもしかり。

「すごい量。向こうではありえない。」

「フィンランド?」

「うん、フランスも。」

「あぁ、ヨーロッパ方面はエコに厳しいもんね。」

「うん、ママが困ってた。」

「そうかぁ。そういった面では、海外生活って、女の人の方が大変だよね。」

年々増え続ける常翔祭のゴミの量に対して、学園側から生徒会本部に注意喚起されていた。それには、議論する前に柴崎が無視を独裁した。ごみを制限されたら楽しめなくなる。自分がこの学園に居る間は、くだらない学園側からの言及を聞きはしないと豪語した。その独裁は、亮たちにとって強い鉾であるが、それでは会として面目が立たない。表面的対処として、各実行委員にはクラスで出すゴミの量を抑えるようにと会議書類に書き添えただけに止め、読み上げもしなかった。だから、こうしてゴミが集積場にあふれ出るのは当然のことである。柴崎がここを去る卒業後に、その反動が後輩たちに行くと思うとかわいそうであるけれど、学園経営者の娘が同級生であるという恩恵は、捨てがたい特権だ。

「ありがとう、助かった。」

「お安い御用です。お嬢様。」

「また、執事?」と苦笑に顔をほころばせるりのちゃん。

本当に見違えるほどよく表情が動くようになった。

「まぁまぁ藤木は、りのお嬢様と二人っきりになる時間が欲しかったのでございます。」

「へ?」

「りのお嬢様、チークのお相手を、この藤木にご任命ください。」

「あっ、えっ?ダ、ダンすぅ?」

腰を落とした姿勢のついでに、りのちゃんのスカートを元に戻してあげた。りのちゃんはそれでも恥じることなく別の事で焦りの言葉を発する。

「私、踊ったことない。」

「大丈夫、誘導するからついてくればいいだけ。」

「でも・・・」

「綺麗な花嫁が死神とダンスを踊る、お化け屋敷、最後の演出として最高の締めくくりに、ね。」

断れないはずと見込んだ亮の戦略通りに、りのちゃんは困った表情をしながらもコクリと頷いた。





去年、麗華が立案したダンスパーティは、初めての試みで様子見や照れもあり、一部の生徒しか踊らなかった。しかし今年は、参加者が爆増している。ほぼ全生徒の参加になっているだろう。曲も3曲から5曲に増やして予定時間も長くとってある。

11月はハロウィンという事もあり、生徒会側からは何も告知していないが、仮装パーティ化していて、もう常翔学園の恒例行事と言ってもいいぐらいの反響だ。

去年同様、麗華は司会進行役として、体育祭の表彰式から次いで始まったダンスパーティを舞台上から観察して、企画の成功に酔いしれていた。

私の学園であり、私が作り上げた学園生活にあふれる笑顔。この成功が至福の時。

これが、学園を経営していく醍醐味だと、麗香は実感する。

理事長の仕事なんて退屈だろうと思っていた。だけどそうじゃない。退屈は自身で壊していけばいい。

麗華はもう一度フロア全域を見渡す。

藤木がりの手を引き、体育館中央へと連れていくのに目を見張った。

(うそ!?あいつのチークのパートナーってりの?)

後輩の誘いに、もう決まっているからと断るのを見て、麗香は「誰?」と聞いた。藤木は「内緒。」と言って教えてくれなかった。

りのも、藤木と踊るなんて言わなかった。新田も驚いている。

踊る相手を二人に隠されていた事に、麗香は怒りと寂しさがシェイクされた複雑な嫉妬に顔を歪ませた。

燕尾服姿の藤木と花嫁姿のりの。結婚式さながらに絵になっていた。

藤木のダンスが上手い。そんなことまで卒なくこなす藤木に、麗香は改めて藤木の多才さに感嘆のため息を吐いた。りのは、藤木の誘導に必死にしがみついていた。綺麗さの中の可愛さ。敵わない。りのと藤木は、文句なくお似合いだ。

策士・・・麗香の藤木に対する最初の印象だ。その印象は今でも変わらないし、藤木がりのをダンスのパートナーに選んだ事は無きにしも非ずな事でもあるのに、何故か胸が苦しい。麗香は恍惚な舞台から降りた。





フィンランドで、ハイスクールのお姉さんお兄さんが楽しそうに踊っているのを見て、大人になったらあぁいう事が楽しくなるのだろうかと見ていた。子供だった私は、テーブルの下に潜り込んだり、カーテンの裏に隠れたりして、そっちの方が楽しかった。

来年は、そのダンスパーティを楽しんでいたお兄さんお姉さんと同じ年齢になる。ダンスの楽しさはまだわからない。成長が遅れている私は、そんな楽しさも遅れているのかもしれない。

体育館は当然ながらヒールの靴はダメで、やっと歩きにくい靴から解放されたけれど、社交ダンスのステップなんて知らないから、足は左右で絡まり躓いて何度も倒れそうになる。何度も藤木の足を踏んづけ謝る始末。藤木は「大丈夫」と笑い支えてくれる。自分から誘うだけあって藤木の誘導は上手だ・・・と思う。それすらもわからない。社交ダンスなんて始めて踊るのだから。

「りのちゃん、足ばかり見てないで顔を上げて、力抜いて、その方が誘導しやすいから。」

「は、はい。」何故に畏まった返事をする私。

顔を上げたら藤木は、目じりの皺を作って微笑んでいる。この余裕の笑みが女子を悩殺する。恋心のない私でも照れる。

言われた通り力を抜いて、藤木に促されるままにした。躓く事が無くなる。そう、今までずっとそうだった、藤木の誘導で辛い視線や圧力から逃げることが出来た。

「慎一から聞いた。私が、おかしいと真っ先に気づいたのは藤木だと。あの約束を守ってくれていたのに、私は自分で否定して、藤木を恐れた。・・・ごめんなさい。」

藤木は私の為に泣いてくれた。それさえも、泣くほど私はおかしいのかとショックを受けた。

もしあの時、藤木が病院に行けと言ってくれなかったら、私は今頃どうなっていただろう。幼児退行した奇行や、英語が全くできないなんて、特待生規約から外れすぎている。非難を浴び、退学しても、きっと後世にまでにその奇行伝説は語られたことだろう。

「謝られることをされたと思ってないよ。」その言葉が気遣いの嘘だったとしても、私の心はすっと軽くなった。

「ありがとう。でもね、またおかしくなりはしないかと怖いの。だから、また・・・」

「約束は出来ないよ。」

「えっ?」

「約束する相手を間違っている。俺じゃなく、りのちゃんには昔から専属がいるだろ。」

そう言って藤木が向けた視線の先には慎一がいる。慎一はぎこちない足取りで、後輩の女の子と踊っていた。

「俺より、ずっと理解できるはず、双子のように育った二人なんだから。ただ、あいつは、りのちゃんの事が大切過ぎて、躊躇しすぎた。今回で新田は反省もしたし、成長した。次からは・・」

「躊躇なくついてくる。」

「えっ?」

「慎一は私が選ぶ物をすべて認めると言った。それが間違った方向でも・・・」死へ向かっていても「慎一は躊躇なくついてくる。だから、ダメなの慎一では。」

藤木は目を細めて私を見る。

「そんな慎一の優しさが・・・怖い。」

「怖い?」

頷きの答えのままに俯いた。

藤木はしばらく黙って私を誘導する。藤木の視線がずっと私の顔に向けられているを感じる。しばらくして、藤木は静かに語る。

「りのちゃん、俺、りのちゃんの事、本気で好きだよ。」

「えっ?」思わず顔をあげた。

藤木は真顔で私を見つめている。

「新田よりもちゃんと言葉にしてきた。りのちゃんは本気にしてなかったみたいだけど。新田に負けないぐらいマジだよ。」

(そんな、どうして今、こんな告白を?)

「本気じゃないのが俺だと思っていたでしょう?酷いねぇ。でも、そう、それが真辺りのの本質。」

(本質?)

藤木は急にステップを止めて、私の腰に添えていたのを強く引き寄せた。逃れず顔がすぐそばに。

「俺もついて行く。地獄の果てまで。」

囁きが、いつになく本気だと思わせる。

「さぁ、どっちと契約をする?」

密着する身体、そして唇。

周りのどよめき。

「や、やめて・・・」

キスされる、皆の前で・・・覚悟して目を瞑ったらふいに離された。

「嘘だよ。 吸血鬼に狙われた花嫁の魂を、死神は刈り取る事が出来ない。」

(嘘?)

「これが最後の演出。」といつもの目じりに皺を作って微笑む藤木。

「ダンスのパートナーも間違っている。」と藤木は私をくるっと回転させる。「さあ、行っておいで、本当のパートナーの所へ。」

藤木の手が背中を押す。その反動で私はつんのめる。





藤木がりのの手を取り踊り始めたのを見て、そうだよなと納得した。

りのが選ぶものに、慎一は認めると誓った。りのが藤木を選んだのなら、誰であれその誓いは心に認めなければならない。他ならぬ藤木なら問題なく納得、のはずだ。

入学当初より藤木は、はっきりとりの本人にも、そして慎一に対しても、ためらいなく「真辺さんが好きだ。」と言っていた。それが冗談ではなく本心だったのだ。

大丈夫、グレンの時ほどショックじゃない。二人は体育館の中央へ、他の生徒たちに紛れてしまってから、慎一は視線を足元に落とした。暗くした体育館で良かったと思う。おそらく自分は嫉妬の顔をしている。ため息を何度かついた時、誰かが声をかけてくる。

顔を上げると、少し前、慎一に告白してきた後輩の女子が自信満々に「踊ってください。」と言って来る。

告白した時の態度といい、付き合いを断ってもこうして堂々と誘って来ることといい、強気な気質の女子。苦手なタイプだ。

しかし、自分にはそんな相手の方が相応しいのかもしれない。自棄になった心も相まって、慎一は「いいよ。ダンスなんて踊ったことないけど。」と誘いに応じた。

「大丈夫です。」という言葉は、無様でも大丈夫という意味ではなかった。踊ったことがない慎一を上手に誘導する。

名前は「水野成美」その名前が戦国武将の「水野勝成」と似て、気性の強さに変に納得した。水野勝成は一万の敵に一人で戦いを挑み300の首をとった強者である。それは体育館のフロアに所狭しと踊る生徒たち敵の軍勢を、割って向かっていく様と重なる。

「どうして、一度、断られているのに、もう一度誘おうと思えるの?」慎一の突然の質問に水野さんはわずかに驚くものの、その気の強さは乱れず、まっすぐ慎一を見る。

「どうしてって、誘わなければ、そこで終わってしまう。負けだわ。」

「負けか・・・まるで戦いみたいだね。」

「そうですね。恋愛は戦いです。特に新田さんみたいにモテる人へのアプローチは争奪戦ですよね。」

この子にとって慎一は戦利品なのかもしれない。

「嫌いですよね。私みたいな気の強い女は。」

「そんな事・・・」ないよと言いかけて、口を噤んだ。嘘は何の効果ももたらさない。

クスッと水野さんは笑う。

「もう一度誘ったから、私は新田さんと踊れた。そこがライバル達とは違うところ。」

水野さんが本当に水野勝成の子孫かどうかは知らないけれど、この勝気さはある意味尊敬に値する。

「うらやましいよ。その強さが。」

「新田さんも強いじゃないですか。」サッカーの事を言っているのだと思った。「子供のころからずっと変わらず好きだなんて、なかなかの忍耐力。凄いです。」

「そうかな。」

「はい。なのに、ひどいですよね。それをわかっていて、あぁやって他の男と踊るなんて。」

「えっ?」

水野さんの視線の先はりのが居た。藤木の誘導で優雅に踊るりの。藤木のダンスの上手さは素人の慎一でもわかる。どこで覚えたのか、女にモテる為には何でもやる奴だなと半ばあきれた。

「私の最大のライバルは真辺りのさんです。」強い語気で言った水野さんは、りのを睨むように見つめる。

藤木がふいに、りのを強く引き寄せた。

「えっ・・・」慎一はあまりの事で足を止めた。水野さんも同じくダンスを止めた。

藤木はのけぞるりのの顔に迫り、キスをするかのように・・・

気付いた周りの何組かのペアが注目して、どよめき。

藤木はキスの寸前でりのを放す。そして、くるっとりのを回すと背中を押した。押された勢いにりのはつんのめる。

「あっ・・・」慎一は無意識に身体が反応して、りのを受け止めようと動いたものの、水野さんと繋いでいた手が離れず、助けられなかった。りのは床に手をつく。

「ごめん。」慎一は自棄で踊ってしまった事に後悔して、心から水野さんに謝り、つないでいた手を放す。

水野さんの顔に怒りが表れ始めるるのから、背を向けた時、

「それが、真辺さんの違うところ。」とつぶやいた。

水野さんがどんな気持ちでその言葉を慎一に投げかけたのかわからない。ただ慎一にとっては、この全校生徒の中で、りのだけは皆と存在が「違う」のは間違いない。

「大丈夫か?」

りのは乱れた髪の間から慎一をみやる。りのが今、どんな気持ちで慎一を見上げたのかもわからない。

「やっぱり心配?」

「それしか、できないからな。」

りのは、差し出した慎一の手を素直に掴んだ。





りのを開放して体育館の隅に戻って来た藤木に対峙する。

「何てことしたのよ。」自分の声がいつになく尖っているのを自覚する。

「あぁでもしないと、二人は踊ろうとしないだろう。」藤木はりの達の方を見やるふりをして、麗華の視線から逃げた。

自分はきっと怒った顔をしている。そんなことを思考できるほどに麗華は冷静だ。

「二人の為の演技ってわけ?」

「何怒ってんの?」と藤木は目じりを細めて麗華に視線を戻した。

「怒るわよ。あんなこと、先生に見られたりしたら、来年からのダンスパーティはできなくなるじゃない。」

「あんなことって、何もしてない。」

「しようとしてたじゃない。」

「何を?」

こいつはわざと挑発している。麗華はカッと怒りが沸騰するのを、息を吐いて抑えた。

「もういいわ。」時として藤木は、策士的に麗華の考えを逸脱した行動をとられる。それに賛同できない時がある。

まただと麗華は呆れ半分に踵を返した。

「ごめん。悪かったよ。」と腕を掴まれる。

「やめてよね。また新田と不仲になりかねないような言動するの。」

「俺に、りのちゃんを諦めろってか?」と寂しげな表情をした。

「えっ・・・そんなに本気なの?」

藤木は、掴んだ腕を離して意味深に黙る。言い知れない焦りに麗華は困惑する。

「本気だったら、キスのチャンスを逃したりしないさ~」と急におどけて、とがらせた唇に人差し指をあてる。

本当だろうか?本気だからこそ、こんな皆が見てる前でキスはできないのでは?と麗華は思った。

「全く、あんたって嘘か本気か、わからないわ。」

「ふんっ、他人の本心を読む俺が、他人に読まれてどうする。」と片方の口角を上げて挑戦的な視線を麗華によこす。

嫌な奴・・・

りの達の様子を見ると、二人はぎこちなく踊り始めた。

「さて、俺たちも踊りますか?」

「えっ・・・私?」

「そうでございます。お嬢様、私と踊ってください。」と、片足を一歩後ろに引いて、手のひらを私に向け頭を下げてくる。それは社交界の紳士マナー。燕尾服を着た藤木の振る舞いは、堂に入ってスマートだ。

「それをされたら、断れないじゃない。」

断らず、嫌な相手でも一曲だけは踊るのが女の礼儀。

麗華は差し出された手に手を添えて、右足を後ろに右手でスカートをつまみ膝を折る。ドレスを着ていない自分が悔しい。

藤木は麗華が持っていたマイクを取り上げて、燕尾服のズボンの後ろポケットにしまい込む。

卒ない奴。

藤木のリードは、見た目以上に上手かった。踊りやすい。

それまでの、尖ったり焦ったりして荒れていた心が、ほっと落ち着いて満足しているのを感じる。

そして、ふと、懐かしい記憶を思い出す。

幼き頃、誰かと踊った記憶。顔も名前も覚えていない。大人の見よう見まねで踊ったら、周りの大人たちが、可愛いわね。上手よと褒めてくれて、今のように麗華は満足した気持ちになった。

何のパーティだっかしら?

思い出せたのは、着ていたドレスの色と新しい靴、広い会場に沢山の大人たちの朧気な記憶。

踊ったあの子は、誰だったかしら?





やっぱり覚えてないか。柴崎と踊るのは二度目、

亮がまだ福岡に住んでいて、あいつの政治活動に家族が振り回されていた時だ。亮は両親と共に東京と福岡を行ったり来たりを繰り返していた。帝都ホテル開業100周年の大きなパーティで出会った女の子は、とても可愛かった。漆黒の目が大きく潤んでいて、フワフワカールの髪に、ドレスの色と合わせたリボンに靴。父も母も人との挨拶で忙しくて、亮たち子供は、会場の隅で子供用に用意されたテーブルでジュースや軽食を取っていた。子供たちは暇を持て余し、広い廊下やロビーを使ってかくれんぼが始まった。大人達に走らないのよなんて注意を受けたりしたけど、そんなのは聞く耳持たずの子供たち。サイズの合わないヒールのある靴を嬉しそうに履いたその女の子は、かくれんぼの時に転んで靴が脱げた。シンデレラさながら、亮はその靴を拾って、『大丈夫?』と声をかけた。それをきっかけに仲良くなった女の子。パーティがダンスタイムになった時、亮は大人のまねして、その女の子をダンスに誘った。

大人たちが、可愛い、上手と褒めてくれたのを誇らしく自尊心はとても満足した。

2年後の小2の時、文部省の教育推進なんとかという良くわからないフォーラムに参加する父に付き合わされた時、またその女の子と出会う。でもその女の子は2年前のダンスの事は覚えていなくて、しかも、亮が福岡から来ていると知ると、鼻で笑った。田舎者だと中傷する薄汚い心を読んだ。人は、変わるものだと思い知らされた。それから亮は地元のサッカークラブに入部して、父と共に東京を言ったり来たりすることもなくなり、その女の子との淡い思い出を思い返すこともなく。

常翔学園のサッカー推薦に合格して、春休みに寮に入寮した際、理事長が寮に様子を見に来た。その理事長に付き添って来ていた女子が、三度目の出会いとなる、かつてのかわいらしい女の子。常翔学園経営者の娘であるその女子は、更なるお嬢様ぶりに発車がかかり暴君的嫌厭な変貌ぶりになっていた。理事長が、同じ学年だからとよろしくと紹介しても、高飛車な目で寮生を眺めるだけで一言も口を開かなかった柴崎。その時亮は、こいつがこの学園を継ぐなら、終わったなと思った。

「藤木、ダンス上手いわね、習ってたの?」と柴崎は亮の懐旧の世界から戻す。

「いや、習うというか、慣らされたと言うべきだな。お前もそうだろう。」

「まぁね、私はお嬢様ですから。」

はじめてのダンスの時より、亮たちは上手くなっている。柴崎も数々のパーティで場数踏み、亮も藤木家の長男として、どこに出ても恥ずかしくないようにと、あらゆる事を教授されている。その成果がこんな所で役に立つ。

りのちゃんと違って、慣れたステップを踏む柴崎。ドレスを着てないのが残念だ。

柴崎のお母さんが言うように、柴崎は変わった。あれだけの横暴君主ぶりだったのを変えたのは、亮ではなくりのちゃんだ。

りのちゃんとの関りが柴崎の思考を変えた。亮は二人の関係に少しだけ助言、手を貸しただけ。

柴崎は亮達の指針となって突き進む。

学園最強のお嬢様は全生徒の指針。

曲が、終焉へとフェードアウトしていく。

「麗香お嬢様、残念ながら、もうそろそろ、魔法が解けるお時間です。司会進行役にお戻りください。」

片膝をついて、柴崎にマイクをささげた。

「馬鹿。」





周囲の見よう見まねで踊り始めたが、どうしていいかわからず、りのの足を踏んで転倒しそうになって動きを止めた。

「ごめん。ダンスなんて無理だ。」

「私も。」とりのも苦笑する。

ふと、周りのざわつきに見やると、藤木と柴崎が踊っている。めちゃくちゃうまい。

「流石、上流階級ペア。次元が違う。」

「うん。あそこまで、完璧だと逆にすがすがしい。」

柴崎と同じく上流階級の子供が多く通う常翔学園。柴崎の幼稚舎からの友達、白鳥美月も彼氏と踊り始めたら、そこはもう体育館じゃない。本物のパーティ会場の様だ。他にも上手い奴らが、フロアの中央に集まりだして、慎一たちは当然に体育館の隅へと追いやられて眺める事になった。

場つなぎ的に、聞こうと思って中々話題にできなかった事を問う。

「りの、明日の誕生日、何が欲しい?」

「誕生日プレゼント?」

「うん。好きなもの言っていいよ。」

「いいよ、別に、要らない。」

「去年も一昨年も、まともな物をプレゼントできていないから、今年こそはと思ってるから、遠慮すんなよ。まぁ、あんまり高いのは無理だけど。」

「私は慎一にプレゼントしたことない・・・っていうか、慎一の誕生日っていつ?」

「ぶっ!あははは。」

「何?」

「だよな。俺も一昨年、同じ事を母さんに聞いた。俺も、それまでりのの誕生日を知らなくてさ。俺たち、買ってきたホールケーキと晩御飯に並ぶごちそうを見て、初めて、今日は誰かの誕生日かを知るだけで、日付なんか見てなかったよな。」

「うん、で、いつ?慎一の誕生日。」

「8月10日。」

「暑苦し。」

「聞き出しといて、なんだよ、そのコメント。」

本当に嫌そうに顔を背けるりの。暑い夏が苦手なりのの、誕生日すらも、りのの嫌いな物にハマってる自分に苦笑するしかない。

「夏休みだったから、話題にならなかったのか・・・」

「まぁな、家でも、えりの誕生日は、ちゃんとホールケーキのローソク消しやって夕飯も豪華だけど、俺のとなると、普通の夕飯にデザートでカットケーキ食べるぐらいだからな。」

「新田家の男は肩身が狭い。」

「そう。それが新田家だから。」

今年はりの誕生日会はやらない。さつきおばさんが、けじめをつけたいからと、次の日の栄治おじさん命日に、墓の刻印式を予定している。さつきおばさんは栄治おじさんを死なせたと責められて、芹沢家とは絶縁して離婚した。だから栄治おじさんの仏壇もなければ墓も無い。自殺したと思っていた二人にとって、今まではそれでよかったけど、自殺じゃないとわかって、さつきおばさんは、真辺家の墓に名前だけでも刻むことにした。

「で、何が欲しい?女の子の欲しい物なんて全くわかんないし。はっきりこれが欲しいと言ってくれた方が楽。」

「うーん。」りのはしばらく考えてから慎一に顔を向ける。「明日じゃなくてもいい?」

「ん?」

「きんぴかのメダルが欲しい。」

「きんぴかのメダル?」

「うん、全国大会で優勝したら、もらえるんだろう。」

昔の記憶がよみがえる。

『ニコ、何番だった?俺一番っ!』

『あたしも一番だよっ。ほら』

『僕も持ってるもん、ほらっきんぴかのやつ。』

『えー私、ピンクのぉーいいな慎ちゃんのきんぴかで、』


「全国大会まで待つ、きんぴかのやつ。」

「わかった。約束する。必ず優勝すると。でも、その前にりのが先にメダル貰わないといけないんじゃない。」

俺たちはいつだって競ってきた。手を繋いで一緒に。

「そうだね。ピンクのメダルを取ってくるよ。」

いつだって、りのが先に何でもできた。そうして慎一は悔しくて練習する。負けたくないって、りのに勝とうと必死で。







10




誕生日ケーキの代わりに大好きなプリンを夕食後に食べた翌朝、早起きして私とママは始発電車に乗り込む。

東京の、昔、住んでいた町で一旦降りて、住んでいたマンションを見上げる。昔、私が引きこもっていたあの部屋は、今は見知らぬ人が使っているだろう。まだ薄暗い街の中、ママと二人で、マンションの壁をそっと触って、また駅へと向かう。

心の中で「パパ、おはよう。」と囁く。もう一度、電車に乗ってパパが事故死した長瀬駅へ向かう。

ラッシュ前の人の少ない時間なら、とお坊さんを呼んで法要してもらう事に鉄道会社の人は了解してくれた。日曜日とは言え、パパが死んだ8時台のホームは混むからやめて、今は朝の6時、まだ、夜の冷やかさが残る。

ホームの一番端っこでお坊さんのお経を聞いて、手を合わす。ここで、パパが死んだという実感はない。私がパパを最後に見たのは、お葬式の棺の中にいる血にまみれた顔だったから。お経が終わり、お坊さんにお礼を言って啓子おばさんと帰っていくのを見送る。啓子おばさんは朝早く、真辺家のお墓のあるお寺まで車で行ってお坊さんを駅まで連れてきてくれていて、一緒に法要につきあってくれていた。  

啓子おばさんと一緒に来た慎一は、今日から東京で全国試合が始まると言うのに、私とママと一緒にパパが死んだ8時12分まで付き合ってから行くという。試合は午後からで本人が大丈夫だというのだから、来るなとは言えない。慎一も、パパのお葬式に行けなかったから、本人なりにも思いがあるようだ。

この後、8時12分の特急スカイライナーを迎えたら、真辺家のお墓のあるお寺に行ってまた法要をし、刻印したお墓に手を合わす事になっている。

朝が早かったからか、朝から結構な距離の電車に乗ったからか、身体が少々だるい。慣れないヒールを履いた文化祭の疲れも残っているのかもしれない。相変わらず、私の微妙な疲れを読むのだけは得意な慎一が、大丈夫かと顔をのぞき込む。

「大丈夫。」

これぐらいの事で大丈夫じゃないと言っていたら、医療費はとんでもない額になる。

3人でホームを北上して階段を下りる。駅員さんが、駅舎内の応接室を時間が来るまで貸してくれた。駅員さんが部屋を出ると、ママが私の前に紫色の風呂敷にくるまれた物を置いた。

「りの、これを。あなたに。」

手に持っていたパパの写真が入った小さな額を脇に置いて、風呂敷を開けた。

「これは・・・!」

細長い、白地にピンクの水玉の包装紙に赤いリボン。


『これ・・・・誕生日のプレゼント・・・・遅れたけど。』

『芹沢りのちゃん?』

『これ、お父さんが握っていたの。誕生日プレゼントかな?』  

   

私がいらないって突き返した。あの時のパパからのプレゼントだ。

「パパのお葬式のあと、芹沢のおじいちゃんおばあちゃんがパパの遺品を全部持って行ってしまって、何も残らなかったけれど、これだけは、不思議と残っていた。何度も捨てようと思ったけど、捨てられなかった。」

「ママ・・・。」

「パパ、どうしても、りのに渡したかったのね。」

プレゼントの包装紙はパパが握ってつぶれたのか、歪に曲がって包装紙も角は汚れて破れて、リボンもずっとこの風呂敷に包まれていたからか、変な方向に曲がってへばりついていた。

強くなるって、もう泣かないと決めたのに、どんなに歯を食いしばっても、無理だった。

「パパ・・・ご、ごめんなさい。」

「りの、あなたのせいじゃないのよ。パパは。」

「わかってる。パパは自殺じゃない。でも、あの日パパは、私にお誕生日おめでとうって、これをくれたのに、要らないって、私は要らない、触らないでってパパの手を振り払って、パパを、部屋から追い出した。パパは・・・・・パパのあの、悲しそうな顔が最後になるなんて思わなかった。私は、虹玉にお願いしてたの。ずっと、パパとママが仲良くできますようにって。願いが叶うなら、誕生日は要らないって。だから、プレゼントを貰らったら。虹玉のお願いが叶わなくなる。だから、プレゼントもパパと一緒に追い出した。」

「りの・・・ママとパパの為に、ありがとう。りの。」

慎一が背中をさすってくれる。

息ができないぐらい泣いた。何が起きたかと駅員さんも様子を見に来るぐらい。

ママが出したタオルが涙で重くなり落ち着いたところで、プレゼントに手を伸ばした。

「ママも中は何か知らないの。」

開けるのに手が震えた。箱はつぶれてしまっていたけど、中はきれいなままだった。

出てきたのは、地球に羽根が着いた銀細工の綺麗なキーホルダー。

   

『りのは、世界が遊び場』


「パパらしいね。【りのは世界が遊び場】パパの口癖だった。」

「うん。うん。」


ホームに人があふれている。ママの喪服姿が異様で、皆、不審な目つきで振り返って見ていく。

ママの手を握った。ママは、私の手を両の手でさするように握り、私の肩を引き寄せた。ママもずっと苦しんでいた。

おじいちゃん、おばぁちゃんに責められて、私に責められて、私なんかより、ずっと辛かったはず。私の事も心配して。

ママ、ごめんなさい。りのは強くなる。もう心配はかけない。

8時12分、東京行き、特急スカイライナーがパーンと汽笛を鳴らして通り過ぎた。風が髪を巻き上げて吹き抜けていく。

風の音にまぎれてパパの声が聞こえた気がした。

『怪我する前にやめないと、りの、また見誤ったね。』

パパ、りのはまだわからないよ。怪我をする前の限界点。

いつだって、うまく行かない。





「あの・・・芹沢さんの奥さまですか?」

特急スカイライナーを見送って駅を後にしようとしたとき、黒のワンピースを着た若い女性が声をかけてきた。

小さな女の子と手を繋いだ女性は妊婦さんだった。

「私、戸倉と申します。」その声に聞き覚えがあった。

「あっ、あのボイスレコーダーの。」

「はい。申し訳ございません、こんなところにまで押しかけてしまって。」

「真辺さん、私がお連れしました。」

戸倉さんの後ろから、柴崎会長も黒のスーツの出で立ちでゆっくりと現れる。

慌てて頭を下げると、落ち着いた声でおやめください。と窘められる。

「私が無理をお願いしたんです。今日、法要をされるとお聞きして。先ほど、私も手を合わさせていただきました。」

戸倉さんの手にはご丁寧に、ピンクの数珠が下がっていた。

「ありがとうございます。それから、レコーダーの声を頂いて、私もりのも救われました。こちらこそお礼に伺わなければいけませんのに。」

戸倉さんがまさか妊婦さんだったとは、こんなところまで申し訳ない。真っ先にお礼に行かなければいけなかったのに、りのの退院やら、墓の事やらで、仕事も詰まっていて行けなかった。

「やめてください。私は何もできなかったんですから。お嬢さん、予想以上にお綺麗でびっくりしました。芹沢さんの面影ありますね。」

女性が微笑むのを、りのは、ピクリと固まって、私の後ろに隠れようとする。

「これ、りの、ご挨拶。すみません、無作法で。」

「こ、こんに、ちは。あ、あ、りが」

まだ、初対面の人としゃべる時は吃音が出る。パパが自殺じゃないとわかって、だいぶ表情も昔のりのに戻ってきているけど、言葉がおかしいと苛められたシコリは残っている。あんまり辛いなら、村西先生に治療してもらう?と聞いたら、

『これはパパとは関係ない、自分に原因があったから苛められた。悪い記憶だからと消してばかりいたら、私は成長しない。』と言った。相変わらず、どこまでも自分に厳しいりの。もしかして、あの人がいつも言っていた、りのは限界点を探っているのかもと思う。

「りのさんの事はお聞きしてます。無理しないで。ごめんなさいね、私がちゃんと警察の人に言っていれば。」

「ち、ちがい、ます。わ、私が」りのは急に言葉を止めて足元に顔を向ける。戸倉さんのお子さんが見上げるようにして、りののスカートを引っ張っていた。

「ねぇね。プレぜんと。」

こどもが持っているカードをみたら、クレヨンで描いた歪なニコちゃんマークが描いてあった。

「あら、ごめんなさい。この間、柴崎さんのお嬢様に一緒にお絵かきして頂いて、今日、柴崎さんのお嬢様に会えると勘違いしてるみたいなんです。すみません。」

りのが、子供の目線に合わせてしゃがむ。

「お名前は?」

「ナナぁ。」

「七海っていうんですけど、皆がななちゃんッて言うもんですから。」

「ナナちゃん。ありがとう。柴崎のねぇねに渡すね。」子供相手ではスムーズに言葉が出ている。

りのに頭に撫でられたナナちゃんは、ニッカっと笑って、お母さんの所へ戻っていった。かわいい。

ナナちゃんの笑顔が小さい頃のりのと重なった。満面の笑みで駆け回るりの、世界のどこに行ってもその笑顔は変わらなかった。幸せをもたらすピースマークに負けないりのの笑顔。りのが居たから私は異国の地でも頑張れた。

「何か月ですか?」

戸倉さんのお腹を気遣ってベンチに誘導した。ホームに人も多くなって来ている。

「8か月です。ずっと、つわりがひどかったんですけど、柴崎さんがいらっしゃって、事故のお話した後、不思議とぴったりとなくなりまして。芹沢さんが助けてくれたのかなと。私も救われました。」

戸倉さんも、ずっと辛かったんだと思った。目の前で、自分と関わった人の事故死を目撃、しかも妊婦の精神的にも体力的にも辛い時期に。よくぞ無事で元気なお子さんを産んでくれたと思う。もしこれで何かあったら、私もあの人も浮かばれなかった。

『さつきは座ってて、僕が全部やるよ。』あの人が身重の私を気遣って良く言ってくれた言葉。

「触ってもいい?」

「どうぞ。是非。」

暖かい。あの人も良く私のお腹を触って、「まだかなぁ。」とりのが生まれるのを心待ちにしていた。

女の子だとわかって、まだ生まれてもいないのに、嫁にはやらんと言って。

「りのちゃんもどうぞ。」戸倉さんのお誘いに、りのは固まって首を振る。

「えっ、あ、う・・・。」

「沢山の人にお腹を触ってもらったら丈夫な子が生まれるって言われがあるのよ。」

柴崎会長がそう言ってりのを諭す。それでもりのは断る手を振って後ずさりする。

「だっ、だっだめ、わ、私がさわったら、う、移る、びょ、病気。」

「そんなんで移ったら、ナナちゃんどうなるんだ。」

「あっ・・・」

慎ちゃんが、りのの言葉に反応して突っ込む。

「新田慎一君、私の親友の子供で、りのと同じ年に生まれてから双子のように一緒に育てたの。」

「そうですか、慎一君も良かったら触って、男の子みたいだから。」

「えっ!いや、俺は・・・・俺が触れば、英語が出来なくなる。りのが触れよ、賢い子になるぞ。」

「男の子だぞ。将来有望のサッカーを伝授してあげたら。」

「もう、やめなさい二人共。」

「フフフ、二人同時で触らせてもらったらどうですか?どの才能を貰うかは赤ちゃんが決めますよ。」

柴崎の奥さまが教育者らしい言葉をかけて、二人を促す。

りのと慎ちゃんは顔を見合わせ、恐る恐る戸倉さんのお腹に触った。何も言わなくても同時に触るタイミングはぴったりで、

ほんとに双子みたいと思う。ほどなくして慎ちゃんが、びっくりしたように手を離した。

「動いたわね。」

「・・・・思い出した。えりちゃんの時も私、こうしてずっと触ってた。」

「えー、えりの時って俺達、二歳だろ。」

「うん。早く出できて、いっしょにあそぼって私言って。」

「早く出て来ちゃダメだろ。」

そう、さつきが良く言っていた、「ニコちゃんね、私のお腹をずっと触って離れないって、早く出て来ちゃダメなんだけとなぁ」と笑って。催眠療法で記憶をいじっているから、記憶が鮮明になっているのかもしれない。

「ナナもぉ。」ナナちゃんが戸倉さんのお腹に顔をつける。

「ナナちゃん、ねえねになるんだね。」

「うん。ナナ、ねぇね。」

子供の笑顔がりのの心を癒す。スターリンへバイトに行っていた時も、毎日が楽しいと生き生きしていた。

「いい、経験させてもらったわね。」

そばに立っている慎ちゃんに言葉をかけた。慎ちゃんは照れたように頭を描いて苦笑する。

私より身長が高くなったもう一人の息子、もう「慎ちゃん」の呼び名も限界かな。

















11





身体が、だるい、重い。熱ぽい。でも朝、何度、体温を測っても平熱だった。

食欲もあんまりない。退院後はちゃんと食べれていたのに、久々に給食を残して慎一に怒られた。

相変わらず、うるさいし、しつこいから、残したおかずを慎一のお椀に全部入れて、食堂を出て来た。

「りの、新田、カンカンだったわよ。」私の後を追いかけて来た柴崎が隣に来て言う。

「うるさいんだ、あんな奴。」

「はぁ~。あんた達って一体いつになったら大人の付き合いできるの。」

「付き合ってない!私は好きじゃない!あんなうっさいの!」

「ふーん、じゃ誰かに取られてもいいの?」

「いい。熨斗つけて、リボンかけて、プレゼントする。」

「そこまで言う?新田の気持ちを知ってて。」

「慎一の気持ちと私の気持ちは別だ!何故合わせなくちゃいけない!」

「いや、まぁそうだけど・・・。でも、ギリの所でいつも助け求めんのは、好きな証拠じゃないの?」

柴崎は、時としても遠慮なくダイレクトに指摘する。まぁ、そのまっすぐさが私は好きで友達でいるんだけど。

「求めているわけじゃ・・・私達は双子だから。」

柴崎と並んでトイレへに向った。トイレで歯磨きして柴崎が髪を整えるのを眺めるのが、給食後の毎日の習慣。

個室が一個しか空いてなかった。こういう時は、髪のセットに時間がかかる柴崎に先に譲るのもいつもの事。

「いつまで兄妹気分でいるんだか・・・」柴崎が、捨て台詞気味に放ちながら個室に入る。

そんな事を言われても、本当にわからない。

私は慎一に助けを求めたつもりもない。

いつかこの世から消える、消えた方がいいと、消そうとした意識の中で、小さな手が目の前にあった。

その手は大好きな慎ちゃんの手、いつも通りに手を繋いで逝こうとしただけなのに、つないだ慎ちゃんは消えてしまって、うるさい慎一が残った。大好きだった慎ちゃんが成長したのが慎一、なのはわかっている。

けれど、わからないっていうか・・・あぁ、もう、考えんのもイライラする。頭を掻いたら、ボサボサになった。柴崎みたいに櫛は持ってきてない。手櫛で治す。

ショートは楽でいい。シャンプー後のドライヤーも短時間で済む。ショートにして二年が経った。

グレンはこの短くなった髪を残念そうにクルクル回して、『りのがちゃんと大きくなれたら、大人のキスをしよう。』と言っておでこにキスをくれた。

思い出したら、照れた。

結構、グレンは照れるフレーズを平気で囁いた。あの声に私は癒されて、うっとりして・・・

「お先、何?顔赤いわよ。」

「なっ、なんでもない。」

柴崎が空けた個室に慌てて入る。

慎一といるより、グレンと一緒に居る方がドキドキした。

好きとかの気持ちって、そんなドキドキのことだろう。

 

 




どうしたのかしら、急に顔を赤くして、あれは病気とかじゃなくて、照れて赤くしてたみたいだけど、

新田の事、やっと好きだと自分でわかって赤くなってんのかしら。へぇ~可愛いとこあるじゃない。出てきたら、問い詰めよぉと。

「ぎゃっ!」

え?何?今の声。

個室の方に顔を向けた。りの以外の閉まっていた扉から同級生が出てきて、無言で、私じゃないわよと首を振る。

りのが入った個室から、ドンと壁に当たる音。

「りの?」

「し、しばっ・・・・・あっ。どっ・・・・・た、たす。」

「何?どうしたの!」

りのの、尋常じゃない焦りの声。吃音も酷く何を言ってるかわからない。

「ち・・・・」

「りの!何!」

「どうしたの?」

佐々木さんが同級生と入れ替わりにトイレに入ってきて、麗華の様子に顔を顰める。  

「りのが・・・・ねぇ、ここ開けてりの。」

「真辺さん?」

「だっだめ・・・・・もう、しっ、ぬ。」

「りの!」


 

   

「びっくりしたわ。」

「もう、ほんとよ。大げさなんだから、死ぬなんて。」

「ご、ごめん。」りのは保健室のベッドに座り、俯いた。

「まぁ、まぁ、真辺さんもびっくりしたのよね、突然の事で。この後どうする?授業休む?」

「・・・・・。」

「まあ、退院して間もないし、無理せず、ゆっくりするといいわ。5時間目の先生は誰?」

「数学の伊藤先生です。」と麗香が代わりに答えた。

「そう、数学は、りのちゃん得意だから、休んでも問題ないわね。伊藤先生に言ってくるわ。」

そう言って、保健師の菅先生が保健室から出ていこうとするのを、りのが慌てて止める。

「あっ!、わ、わ、も、も、もしかして、こ、この事、む、むら西せんせ、に?」

動揺がまだ収まらないのか、吃音が酷い。

菅先生は一度行きかけた身体を戻して、りのの前にしゃがみ目線を合わせた。

「うん、ごめんね。りのちゃん、こういう事も治療に必要な情報なの。村西先生と連携が取れるように、私はここに来てるから。大丈夫、これはいい傾向なのよ。村西先生も喜ぶわ。」

先生の言葉とは反対に、りのは眉間に皺を寄せて本当に嫌そうに横を向いた。

先生はりのの肩をさすると立ち上がって、ベッドを自由に使っていいと出ていった。

保健師の菅先生は、今年の4月に凱兄さんが、関東大学医科大付属病院の、りのの主治医である精神科の村西先生から紹介をしてもらって、常翔に呼び寄せた保健師の先生。精神医学も学んでいて、りのの為に病院と連携を取れるようにした。それを、りのは知っていて、自分の主治医に知れるのを嫌がっている。可愛そうだけど仕方がない。

「りの、先生の言う通り、いい傾向なのよ。おめでたい事なのよ。」

「わ、わかってるけど、で、でも、なんだって、が顔黒にまで。」

「顔黒って・・・・確かに村西先生、黒いけど。 」

「うわあぁ、嫌だ~。」とりのは、自分の体を縮めるように丸める。

「まぁ、気持ちわかるけどねぇ、私も小4で早かったから嫌だったわ。」

「えー佐々木さん早いわねぇ。私は、ちょうど中学入る前の春休みだった。」

「うん、身長あったからね。」

「あぁ、もう木に登れない、川遊びも出来ない、飛び蹴りも出来ない。」

「一体、どういう認識?」

「普通、子供でもしないわよ。そんなの。」

「真辺さんって、ほんと、知れば知るほど面白いわね。」

佐々木さんには、りのの病歴を話して知ってもらっている。もう麗香一人では対面上を取り繕うのは限界に近かった。クラス委員でもある佐々木さんにりのの病歴を知ってもらい、麗華達が教室を飛び出して授業をさぼった事の説明を誤魔化して貰っていた。

クラスには、りのが風邪をこじらせて入院して肺炎を起こし、やばい状態になって、友達である麗華達の名をうわごとで呼んだから、先生に呼ばれて、授業を抜けて病院に駆け付けたという事にした。苦しい嘘だけど、本当の事をクラスメートには言えない。そこだけは、りのも納得の嘘をついていく。その嘘を佐々木さんの口から広めてもらったおかけで、当事者の麗華達が口にするより信憑性が高くなって、うまくいった。りのが手に怪我をしてから約1週間後に登校した時は、特に問題なく、クラスメートは、よかったね良くなってと迎え入れてくれていた。

「おい、りの!大丈夫か!」

どっから聞きつけてきたのか、バタバタと新田と藤木が保健室に駆け込んでくる。

麗華は大きなため息をつく。面倒なのが来た。

「何があった!?」藤木も引きつった顔で麗華に問う。

新田は、一目散にりのに駆け寄り、どこを怪我した?とか言ってりのの腕を触るから、

「触るな!」思い切りバシッと振り払われて、りのは布団の中に潜ってしまった。

「え?おい、りの・・・・柴崎、そんなに酷いのか?」

「ぷっ。ほんと、新田君って、真辺さんの事になると面白いぐらい必死よね。」

佐々木さんが新田のオロオロさを見て吹き出す。

りのが布団の中で、「きらいだ、慎一なんて大嫌いだ。」とくぐもった声で叫ぶ。

「はぁ~。もう、いいから、男は出て行ってくれる?」

「えーなんだよ。りのちゃんがトイレで怪我したとか聞いたから駆け付けたんだぞ。滑ってどこか打ったのか?」

「はいはい、大丈夫だから。」

保健室から追い出すように二人の背中を麗香は押す。

「なっなんだよ。」しかし、二人は納得できずに中々保健室から出て行こうとしない。

「もう!新田は、家でお赤飯の準備でもしてなさい!」

「はい?・・・・あっ!」新田が顔を赤くして目を見開く。

(やっと、わかったか。)

「そういう事。はい。行った行った!」

「はぁ~?何言ってんだ柴崎。赤飯って何だよ。」

意外にも藤木は、わからないらしい。

「藤木も大嫌いだぁ!」りのは潜った布団の中で叫ぶ。

「行くぞ、藤木。」

「りのちゃんも何?大嫌いって、俺なんにも?」

「いいから、ここに居たら殺されんぞ、お前。」新田が藤木の腕をつかみ慌てて出ていく。

「意外~、あの藤木君が、わからないなんて。」

「ええ、びっくり。」

「妹さん居たわよね、確か二人。やらなかったのかしら初潮のお祝いでお赤飯を頂くの。」

「あー、あいつ、寮に入ってからほとんど実家に帰ってないからなぁ。」

「藤木君の実家嫌いが仇となったわね。博識の藤木君に、こんな無知の落とし穴があったなんて。」

人の本心を読みとる能力と、それを利用し得た幅広い人脈も相まって、何を聞いても答えられる藤木は、今や学園では博識の藤木と呼ばれている。

「柴崎も大嫌いだ、私のプライバシーぃあぁ~。」

「はいはい、りの、5時間目終わったら迎えに来るから。」

「ノートは取っておいてあげるから、ゆっくりして。」

「日本なんて、大嫌いだぁ~。」

「ぷっふふふ、かわいい。」

「遅い反抗期ね。」  

そっか、りのは大人になったんだ。

  『だから、柴崎も藤木も、大きくなれない私を心配するんだろ!』

私達はりのを置いていかない。






「やっぱり、これは避けられないのかぁ・・・」

「あたり前でしょう。」

「前より名前が大きい。柴崎、理事長に頼んで、作り直すように言って。」

「駄目よ。」

「あぁ・・。こんなことなら、手を抜けばよかった。」

「それは無理、無理。りのちゃんの性格からして。」

「ほんと、とても手を抜くような意気込みじゃなかったじゃない。凄かったわよ。りのの気迫。二人に見せてあげたかったわ。」

と柴崎は遠い空を見上げて、一昨日の記憶に陶酔している。

「見せてあげたかったわ~。じゃねえーお前、何のためについていったんだ!あぁ、楽しみにしてたのに~」

弓道部の全国大会へ同行した柴崎は、ビデオの撮影係を自ら買って出ていた。

学園に戻ってきた柴崎は、翌日の給食後に、視聴覚教室の鍵を開けてビデオ上映会を開いた。勝手知ったるわが学園。私物のように使う学園の施設を教職員達は誰も文句を言えない。嫌がるりのちゃんを無視して、弓道の試合上映会するわよ~と柴崎が廊下で叫んだものだから、結構な人数の生徒が見たいと集まった。元々、弓道部は屋上で練習しているから、どういう試合をするのか、練習だってまともに見たことがない生徒たちは皆、興味深々で、おまけにあの真辺りのの勇士なら尚更と、上映会場は満員御礼となった。柴崎は調子に乗って、チケット制にしてお金取るんだったと冗談を言い、マイクを取り出し司会までする有様。

ビデオは新幹線の中の弓道部員のはしゃぐ姿から始まり、降りた駅の街並みを映し出し、視聴生徒たちから、そんなのいらねぇ、試合を映せとクレームがつき、柴崎は渋々早回しで送り飛ばす。団体戦の試合、部長の滝沢さん率いる5人の合計点数で競うそれは、順調良くトーナメントを勝ち進み、結果3位の成績を取った。りのちゃんを含む弓道部のメンバーが喜んでいるのを亮たちも拍手で祝い、そして個人戦のりのちゃんの試合。

神奈川県代表、常翔学園、真辺りのと放送が入ると、一歩前に出たりのちゃんがお辞儀をする全体像が映し出された。

弓道の個人戦は、その所作も点数に影響する。袴姿のりのちゃんは凛として、気品ある出で立ちだ。

遠くからのアングルでもわかる、その顔は静かだが、ものすごい集中をしている。

25メートルの射場に着いたりのちゃん、目を閉じ一つ深呼吸して、ゆっくり目を開ける。そのアップで映し出された横顔、

ゆっくりと弓を弾くその姿の美しさに、視聴覚教室が、いや、画面の向うの会場も、シーンと静まり返った。

りのちゃんの集中が、美しい顔をさらに引き締め、誰もが息をのんだ瞬間、矢は放たれ、画面は矢を追うが、当たり前だけど、追いつかず。そのあと、画面はせわしなく振れたあと地面を写し・・・

映っていたのはここまで、的の結果も映らず、りのちゃんの姿も、その後は映らず、映っていたのは会場のコンクリートの地面ばかり。

おお、と声だけが聞こえて、慌てて、思い出したようにビデオは、りのちゃんの姿に向けられた。けれど、突然、撮影は終わった。

2矢目、3矢目はなくて・・・・・どうやら、柴崎は録画停止ボタンを何かの拍子に押したことに気づかないまま撮影を続けていたらしい。

柴崎は視聴生徒のブーイングの矢を受ける。「あれ~?おかしいなぁ、機械壊れちゃったのかしら、」とかかわいらしい言い訳をしていたけれど、しつこいブーイングにキレた柴崎は、「りのの美しさをあんたたちに見せるのはもったいないのよ!」と、学園無敵の暴君で蹴散らして、上映会は終わった。

「だって・・・・りののあの姿見たら、誰だって、あぁなるわよ!会場全体が、りのの姿に息をのんで見とれたんだから。」

「大げさ。」

「そんなことないわよ。学校に届くファンレターの数、見なさいよ。」

全国大会直後からあの会場でりのの姿を見た他の学校の生徒から、学園にファンレターが届くようになったという。

「はぁ~返事を返さないといけない私の身にもなって。」

「返事なんて書かなくていいわよ。りのは堂々としていていいのよ。日本一なんだから。優勝よ。断トツの全国1位!胸張りなさいよ。」

柴崎がバシっとりのちゃんの背中を叩く。

「痛っ!」

思い切りたたかれて痛がるりのちゃん、当たり前の痛みが戻っている。カッターで手を切っても痛くないと叫んでいたのが昔の事のように感じる。

亮達は、風でなびく、校舎正面に掲げられた垂れ幕を見上げた。


  【祝、優勝、3年真辺りの 第42回全国弓道選手権大会、個人の部】

  

「次は、サッカー部ね。」

二人が亮と新田へと振り返る。





12





私と柴崎は冬の寒空の中、国立競技場の観客席で慎一達の試合が始まるのを待っていた。

吐く息が白い。寒がりな柴崎は、制服の下に何枚も下着を重ね着しカイロを貼りまくって、ベンチコートを2枚も重ねて、ミノムシ状態になって隣に座る。今日は特に寒い、天気予報は今季最大の寒気が訪れていると気象庁は路面の凍結などに注意と促していた。

冬は好きだ。空気が澄み渡り、その冷たい空気は、肺に入ると身体を一周し、汚れを落としてくれる気がする。

フィンランドの冬はもっと冷たい。山も川も木も空も、家も人もすべてが銀色に輝く。長くて厳しい極寒のフィンランド、スクールバスを降りた後、私は家には帰らず、銀色に包まれた通りを寄り道するのが日課だった。

帰りが遅いとママが心配してよく探しに来た。ママは『もう、心配するでしょう、さっさと帰ってきなさい!』と叱った後、決まって、手袋を脱いで冷え切った頬を手で包み込み温めて、「おかえり」と言うのだった。

その暖かさに私は、「ただいまぁ」と笑う。少しの暖かさがとても幸せに感じる瞬間。

「あぁ寒い。ホント、りのは寒さに強いわね。」とミノムシ状態の柴崎。 

「柴崎が寒がりすぎ。そんなんじゃ、やっぱり無理だね。フィンランドは。」

柴崎は、私が住んでいたフィンランドの町に行って見たいと常に言っている。

弓道の全国大会を終えた後、クリスマスに行くと突然、言い出して、冗談だと思っていたら、本気で行く計画を練りはじめ、おまけに私を学園とフィンランドを繋ぐ視察研修員とかなんとか、わけのわからない肩書をつけようとして、要は、私の旅費を柴崎家が出す名目をひねり出したのだけど、もちろん、そんな話はお断りした。理事長と凱さんも、やたら乗り気だったのが驚く。フィンランドまで、一体いくらの費用が掛かると思ってるんだろう。しかもクリスマス休暇の一番高い値段の時期に。まぁ、金額なんて何も気にしていないから、平然とそんな事を言うのだけど、その経済格差についていけない。

サッカー部が全国大会に出場を決めて、トーナメントのコマを順調に進めていなければ、私は本当に変な肩書でフィンランドを案内しなければならなかったと思うと恐ろしい。結局クリスマスは理事長も凱さんも、好調なサッカー部が優勝すれば、なにやら、日本サッカー連盟の用事が入ってくると言って、話は無くなった。

「夏に行くわ。夏に。」

「本気の目が怖い。」

「夏なら、りのも、うれしいでしょう。涼しいから。」

「うっ、まぁ。」

私は日本の夏が苦手だ。昔は夏でも外で遊んでいた。真っ黒になって、肌の黒さも慎ちゃんと競争していた。

フィンランドに住んでいた間に、暑さの耐性が衰えてしまったのかもしれない。日本に帰って来て、湿気を含んだ夏の暑さに、毎年辟易した。真夏の暑い中、フィールドを駆け回る慎一たちが、感心より呆れる。

「決まりね。来年の夏はフィンランドにgo!」

「私は行くとは言ってない!」

「りのが行かなくちゃ、誰が通訳すんのよ。街中はロシア語なんでしょう。」

「凱さんがいる。」

凱さんは、特殊な脳をしている。記憶力が一般人と異なる。その記憶力は、紙面の文字を一瞬にして写真のように覚えてしまう特殊な能力。それは常翔大学の脳科学研究所が検査し証明しているというお墨付き。覚えた文字は、何ページ分でも可能で、例えば辞書ならどのページの何行目に書いてあると、すぐに記憶から取り出して辞書引きできるのだから、想像を超える驚き。私が日本語より英語、ロシア語の方が得意だと聞いた凱さんは、ロシア語の辞書をすべて頭に記憶したという。そして、ロシア語会話のビデオを見て、発音と文法の並びのコツを覚えて、話せるようにしたという。私でも知らない単語を使う時があって、逆に教えてもらう事がある反面、発音は堅苦しく、おかしな所が沢山ある。

「えー嫌よ。家族で行っても楽しくないじゃない。」

「いいじゃん、家族水入らず。」

「もうね、そんな家族水いらずを楽しむような年齢じゃないの!」

「だからって私を巻き込むな。」

「あーもう、めんどくさい!りの!あんた、柴崎家の子供になりなさい!」

「はぁ?」

「そしたら、いちいち、お金の事でうじうじ悩む必要ないのよ!」

恐ろしい、お嬢様の考える事は。

「母一人残して柴崎家の子になれるはずないだろ。」

「おば様も入ればいいのよ柴崎家に。1人も2人も3人も、どうって事ないわよ。」

そりゃ、学校法人の経営している柴崎一族の財力であれば、一人も二人も面倒を見るのは、どうってことないかもしれないけど・・・いやいや、そう言う発想自体が、おかしい。

「私だけなら仮にもありそうな話だけど、母は何の名目で柴崎家の家系図に入るんだ?」

「うーん。そうねぇ、父の・・・愛人?」

「怒るよ!」





もう、どうしてりのは、こう堅物なのかしら。

何でもかんでも、そこまでしてもらう必要はないと、いつも一人で我慢して。

この手の事を言うと、いつも藤木や新田に怒られるから、二人の前では言わないようにしてるけど、今はいないから、普段から思っている事を言っちゃった。

りのが、凱兄さんみたく柴崎家に養子に入れば、お金の事でりのは我慢しなくて済むし。二人で休みの度に、海外旅行ができる。日本語を含む4か国語が出来るりのと一緒なら、言語に苦労する事もなく世界中を回る事ができる。それはすごく楽しい日々だろうと想像するとわくわくして、本気でどうにかならないかしらと思うのだけど。

「あぁ、寒い。」もう麗華の意識外で唇の細胞が自動アウトプットするかのようにその言葉が次いで出る。りのは呆れた表情で麗華をねめつける。

りのはありえないぐらいの薄着。制服の上に、普段、私服時に着ている膝丈のダウンのコートをさらっと着ているだけで、カイロも張っていないと言う。さすがにタイツは履いている。そう言えば、真冬でもタイツをはかずにハイソックスだった。常翔学園の校則では、校章の刺繍が入った指定のハイソックス以外はダメだが、冬は黒であればタイツを履いても良い。大体みんな真冬になれば、女子はタイツを履く。

でもりのは、いつもハイソックスで、ひざから上、スカートまで少しの面積の生足が、寒そうだと思っていた。「寒くないの?」って聞いたら、いつも「全然」と答える顔が、白くて無表情だったから、見ているこっちが寒くなった。

「うー、寒すぎる。」

「35回目。」

「うそ!数えてんの!?」

「ジョーク。」

「もう!信じるじゃない!りのが言ったら真実味あるんだから!」

「ははは、でも、それぐらい言ってる。寒いって。」

りのが笑う。その笑顔は、女の私でも可愛いと思う。スピーチ大会のバックで映し出されていた家族写真の中の笑顔と同じ、やっと生の笑顔を見れた。りのと呼ぶことにやっと慣れてきた今、りのはこの無敵の笑顔で笑うようになり、日本語もスムーズに出るようになってきた。無敵の笑顔は、クラスの人気者となり、学年の人気者となり、今は学園のアイドルとなっている。

藤木の胸を借りて泣いていて良かった。私は、皆のりのになった事を、本心から喜ぶことが出来ていた。

「真辺さん。」後ろの席から、今野がりのに声をかけてくる。私もその声に反応して、振り返る。

「うわっ柴崎。すごいなその防寒。」

「寒いの苦手なんだから仕方ないでしょう。」

「だったら、家でテレビ観戦していればいいのに。」とりのは、呆れ気味につぶやく。

吹奏楽部以外は、応援に来ることは強制じゃなく有志で、現地集合の現地解散だ。

決勝戦はケーブルテレビの生中継がある。家での観戦も時間差なく出来る。麗華は1年の時はそうした。で、選手交代で出場した新田の実力とプレイ中の顔を見初めて、来年のバレンタインは、新田慎一に決まりだと心にとどめた。

それが後に、麗華の大切な仲間となるとは、その時は思いもしなかった。

「その言いぐさは酷いわ。こんなに我慢してんるだから。負けたら、学園に帰れなくしてやる。」

「怖えっ・・・」

「本気でやりかねないから、ジョークに聞こえない」

「二人に同情するよ。」

「今野!何か用があって、りのを呼んだんじゃないの?」

サッカー部の全国大会の決勝戦は、国立競技場で毎年行われる。常翔学園は新田が1年の時3位、去年は選手間同士のいざこざがあり怪我人も多く、全国大会トーナメント2回戦で敗退した。常翔学園にとっては、去年の成績が近年最悪の成績であるけれど、毎年、ベスト4、8には残っていた。しかしながら、ここ9年ほど優勝旗に手が届いていない。10年前に2年連続優勝を果たしたのは、この間、表敬訪問に来てくれた大久保選手がいた時代、あの世代は大久保選手だけじゃなく、ほかにもプロサッカーチームで活躍している選手が5人もいて、常翔学園のサッカー史で黄金世代と言われている。新田も藤木がサッカー推薦の実技試験で、ハットトリックを作った時、二人は黄金コンビとうたわれ、黄金時代の再来と言われてきていた。しかし藤木が巻き込まれた一つ上の世代のおかけで、昨年は不調に終わった。それを覆して、決勝までに勝ち進んだ今年の常翔学園は、決勝相手が関西の学校だけに、関東勢の期待を一身に背負う形となっている。

「ああ、二人の様子がどうだったかなと思って。選手の控室に行ったんだろう?新田と藤木は、緊張してた?」

「まあね。良い顔してたわよ。ねぇ。」

「あぁ、サッカー馬鹿もここまで来たら大したもん。」

「決勝戦まで来て、サッカー馬鹿って言われる新田って・・・。」

「りのぉ、さすがにそれは、かわいそうよ。」

  



 

この冷たいベンチに座る前、柴崎が選手の控室に行こうと言いだした。選手の控室なんて男子ばかり。いくら私と柴崎がサッカー部の部長と副部長の友達だからと言って、軽々しく行くような場所じゃない。そう言ったのに、入れない雰囲気だったら帰ってくればいいと強引に私を連れていく。柴崎は選手たちが気になって仕方がないらしい。夏休みの時も特に学校に用事もないのに、サッカー部の練習を見に行ったりしていて、最近は、ずっとトーナメントの試合を追っかけて見に行って、マネージャのようにマメにビデオ撮影したりしていた。

半地下の選手の控室に向かうと、控室には入れない1年と2年の部員の集団が、部屋の前の廊下でたむろしている。ドアまでたどり着ける余地もない。ベンチに戻ろうと袖を引っ張っても、柴崎はたじろぎもせず。そして私達の姿を見つけた2年生らしき一人の部員が控室をノックして入っていったと思ったら、藤木がドアから顔をだし、手招きした。

「柴崎、りのちゃん、入っていいよ。」

柴崎は藤木の誘いに喜んで、後輩サッカー部員が両脇に道を開ける真ん中を堂々と歩いて行く。その光景は、まるで、モーゼの受戒のように、はたまた城の廊下を歩くお姫さまの、階下の者がひれ伏す様。

流石は常翔学園最強のお嬢様と言いたいところだったけど・・・ベンチコート二枚重ねの着膨れした柴崎に、部員たちは不気味に場所を開けているだけとも言えた。私はその着ぶくれした柴崎の体を盾に、隠れるようにして廊下を進んだ。

部屋に入ると、慎一は大学から来ているボランティアコーチと、バインダー見ながら打ち合わせしていた。

一年の時、同じクラスだった岸本君が、勝利の女神の登場!といって拍手をした。

私が弓道で全国優勝してから、どういう経緯か、勝利の女神だと囃し立てられ、何故か学園全体に浸透してしまった。なんとなくそれを浸透させた裏に柴崎と藤木がいるような気がしてならないけれど、その言葉に抵抗するのも無駄だと諦め、無視していた。

「おぅ、真辺、柴崎、ご苦労だな。」顧問兼元担任の石田先生が、私達に声をかけてくれる。

「あの、め、迷惑なら、た、退出します。」

「いや、迷惑じゃないな。勝利の女神の登場で、見ろよ、こいつら上々の目を。」

(いっ、石田先生まで)

「ほら、石田先生も認めてるのよ、りのの事を。」

「や、やめてください、せ、先生まで。」

「まぁまぁ、りのちゃん、今だけ我慢して。」と藤木の頼みだから仕方なく我慢する。

「真辺さんが来てくれたなら、優勝、間違いなしだよな。」

(いやいや、私なんかが来るだけで、優勝するって、サッカーってそんな簡単な競技なのか?)

「あぁ、なんてたって、女神は俺らのエースの彼女だもんな。勝利を見捨てるわけないよ。」

「へっ?か、彼女?」

私は慎一の彼女じゃない。そこは全力で否定!ってする間もなく、次から次へと変な言葉をかけられる。

「その勝利の弓で俺たちの心も打ちぬいてくれ!」

(いや、殺人者にはなりたくないし。)

「どうぞ、優勝できますように。」

(何、その拝み・・・私は生きてるぞ。)

おかしな方向にテンションが上がっていくサッカー部男子についていけない。

柴崎に助けを求めようとしたら藤木と何やら話していて、その二人のいい雰囲気を、とてもじゃないけど邪魔できない。

(私は、この作り笑顔を、どうしたらいいのだ?)

「真辺さんの微笑みは勝利の微笑み。」

さらに拝まれた。まだ続く・・・この変なテンションのチームを慎一と藤木が作りあげたと思ったら、段々腹が立ってきた。

「りの?。」コーチとの打ち合わせが終わった慎一がそばにくる。

「慎一、顔を貸せ!」

「はい?」

「お前が、笑えっ!」





そう言うと、りのは慎一の頬をつまみ、にぃと上げる。いや、あげるというより引っ張られる。

「痛い、何する。」

「ふん!」と言ってプイと顔を背けるりのが理解不能で混乱する慎一。

最近りのは機嫌が悪い。慎一だけにイライラして突っかかってくるような気がしていた。藤木が慎一と同じことを言っても、怒らず平然といるのに、慎一に対してはいつも全力で怒りをぶつけてくる。そのことを藤木に言うと、

『そりゃ、お前と俺とは関係の密度が違うだろ、りのちゃんは俺とは距離を開けている。お前、そんな事ぐらいで落ち込んでどうするよ。今更なに焦ってんだ。お前ら双子のように育った仲だろ。お前がりのちゃんとの距離をわからないでどうする。』

と言われた。

「痛って~」

「おい~新田、女神を怒らすなよ。勝利が逃げるじゃないか。」

「はい?何のことか、さっぱりなんですけど。」

「目が覚めただろ。眠そうだったから、目を覚ましてやったんだ。」と睨むりの。

「はいはい、ありがとねぇ~。」

何か良くわからないけど、女に逆らわないに限る。新田家の教訓。

りのの手に持っているそれに気づいて慎一は血の気が引く。

「りの、それってまさか。」

慎一の視線に、忘れてたのを思い出したように、りのは表情を一変させ、にぃと不敵に笑った。

「さ、差し入れ、も、持ってきた。み、皆でどうぞ。」

「ウォー!」

「うぉ~」

とサッカー部員の奴らと慎一の雄叫びが重なった。

意味が違う!

「だめだっ!それはっ!」

「真辺さんの手作り?」

りのは、しれっとスーパーの袋からタッパーを出して開ける。

「食うな!みんな、それは毒だ。」

あぁ、あれは実験と称する漢方薬の入ったまずい食べ物。

「勝利の女神からの差し入れ、皆ありがたく頂け!」

誰も慎一の忠告を聞かない。

「女神じゃなく、悪魔の食べ物だって・・・。」

りのは、満面の笑顔で配っていく。

「あぁ皆、だまされてるぞぉー。」天使の面を被った悪魔に

(終わったな。今日の試合は・・・・)

あれを食べてしまっては、試合どころではなくなる。





新田を含めスターティングメンバーは、やはり、いつもより緊張していた。

試合慣れしているとはいえ、その緊張度はいつもより強い。博多の小学生チームでキャプテンとして、一度全国大会を経験している亮でも流石に緊張しているのだから、ここに居るメンバーはもっとだろう。新田も一年二年と控え選手として全国大会に出場はしているが、キャプテンとしての経験は初めてだ。初めて自分が作り上げたチームで、全国大会の決勝戦、そのプレッシャーは相当の物がある。トーナメントを勝ち進むにつれ、喜びに比例して緊張で顔つきが変わっていくのを亮は見てきた。

どんなに亮がリラックスしろと言っても、無理なのは承知だったけれど、他に打つ手もなく、言い続けるしかなかった。

県内代表のリーグ戦から順調に決勝戦まで進めてきた。しかし最終決戦はどうなるかわからない。

相手は、おととし亮たちが一年の時に優勝していて、毎年必ずベスト4に入ってくる関西の強豪校だ。

願わくはこの学校とは対戦したくないとチーム全員が言っていた学校だけど、勝ち進めば決勝で対戦する事になると誰もが簡単に予想のついた相手だった。

関東周辺の学校なら、練習試合等で3年間調べ貯めたデーターが使え、戦略を練る事が出来たが、関西や地方の学校となると、去年やおととしの全国大会のビデオを見て作戦をとるしかない。しかし、それもたいした戦略は立てられない。どの選手がどこまで成長しているか、癖も治っているかもしれない。亮の本心を読む能力はビデオではわからない。自分でも、どこをどう見て相手の本心を見抜くのかわからないけど、おそらく、相手の視線の先や、微妙な顔の筋肉の動き、そしてその場の全体の空気。それらを総合して読むんだと思う。だからビデオでは全くわからない。柴崎が半ば本気で、スパイに行けばいいのよ。なんて言った。

以前の亮ならやっていたかもしれない。寮の外出許可を取って、関西まで行き、強豪関西勢の試合を見学し、チームの人間関係を読み取るなんて簡単に出来る。だか、亮はサッカー連盟に、誤解だが、いいイメージではなく名前が知れ渡っている。サッカー連盟の誰が試合を見に来ているかわからない。目立つ動きなどできなかった。それに、もう自分達には相手がどれほどの戦力を持っていようとも、勝つ実力がある。戦略は大事だが、それを超える才能の持ち主が居る。

相手チームの隙をついて新田がドリブルで上がり、初得点を入れて、そのまま逃げ切るという勝利パターンが亮たちにはあった。

しかし、そのパターンが通用しなくて、危機に陥ったのは、トーナメント3回戦、後半の30分で相手に先制点を取られてしまった。

だらだらと時間だけが浪費していく試合の中で、誰もが新田が何とかしてくれると、そんな思考に溺れていた選手たち。同じパターンで勝ち進んできた常翔学園ならではの陥る状況は、それも承知の上で、それを回避する別の戦略を新田と共にコーチと戦略を練っていたつもりだったが、どの時点で、戦略を変えるのかまではチーム全体として周知できていなかった。。そうして戦略を変えるには、もう遅すぎる経過時間になった。

どちらの学校も主だった攻撃を仕掛けられない忍耐試合、体力的にも限界に近い残り10分、最後のタイムで監督もコーチも、重いっきた決断が出来ずにありきたりなアドバイスを言うだけだった。

『戦略を変えて、仕掛ける。このままでは、こちらが、いや、俺がミスる。』

新田はマークされ続けていた。隙のない執拗なマークが新田に点を入れさせない。

『Dで行かせてください。』と監督に訴える新田に、全員が驚いた。Dプランは、今まで練習試合でも使ったことない戦略。その戦略は、新田にボールを一切渡さない、言ってみれば、他の選手を強化すための練習用と言ってもいい。

『嘘だろ!何考えてる!』と口々に言うメンバーに新田は一括した。

『何もしなければ負ける!俺達は、負ける為に練習してきたんじゃない!』

『新田の言う通りだな。』監督が新田の言葉を補足する。

『新田だけが特別メニューの練習をしてきたわけじゃないだろう。お前らも新田と同じだけ、辛い練習をしてきた。自分の技量に自信を持て。新田にボールを回さなくても、勝てるだけの力がお前らにはある。』

『俺は、チーム全員で、この試合を終えたい。』

亮は、結果はもうどうでもいいという新田の本心を読んだ。

新田のそのカリスマ性が、皆のやる気に火をつける。亮が、福岡チームのキャプテンで出来なかった事、いや、この先もきっと出来ない事をやる。これが新田の魅力。皆が新田を信頼し、新田が皆を信頼する。

『藤木、任せたぞ。』と、新田が亮の肩に手をのせる。吸い込まれそうな新田の目、初めて出会った時から、このまっすぐな目は変わらず、先へ先へと進んでいる。

プランDは、新田がミッドフィルに下がり、攻撃には一切加わらない、代わりに亮がフォワードに上がり、新田は囮のように相手を攪乱するようにフィールドを駆けまわる。この体力的にもキツイ時間帯で新田は今まで以上に走り回らなければならない。しかし、ボールは新田にまわさないから、新田は思う存分走り回れる。

この戦略は功を制し、その試合は、残り5分で同点ゴールを決め、延長戦で一点を取り勝利した苦戦の一戦。


今、控室にいる常翔学園サッカー部キャプテン新田慎一の緊張が、メンバー全員に、外に居る後輩までにも伝染してしまっていた。

その緊張が、良い方に転べばいいが、一度大きなミスが出ると、それはなし崩しに崩れて、あっという間に、返せない点数差となる。

相手も決勝まで勝ち進んできた強豪だ。一度のミスが命取りになる。それを考えると、どうにかこの緊張をほぐさないと、と考えていた時、ノックして入って来た2年の後輩が、真辺さんと柴崎さんが来てます。と教えてくれた。

いい所に来たと、横に居た監督の石田先生に確認しようと顔を向けると、聞いていたのか、無言でうなずく。石田先生もこの緊張はまずいと思っていたのだろう。亮は廊下に顔をだして、二人を招き入れた。

サッカー部の連中がヒューヒューと囃し立てる中、柴崎は堂々と、その後ろに隠れるように、りのちゃんが困り顔で入ってくる。

りのちゃんは、あの大久保選手に褒められたあたりから、徐々に特待生である事を嫌な目で見る人間が少なくなり、500満点の成績に次いで、決定的になったのが、弓道の全国優勝。

もう誰もがりのちゃんの努力と実力を認め、悪く言う人間はいない。

弓道部が個人優勝と団体3位の成績をもたらした次の週に、女子バスケ部も県大会でベスト4の成績を上げたり、今までバッとしなかったクラブが、垂れ幕を掲げるほどではないにしろ、良い成績を上げた。

それを、中島のやつが、真辺さんは勝利女神だと言い始め、それに柴崎も調子に乗って煽ると一気に学園中の周知となった。

「どう、調子は。」柴崎が聞いてくる。亮だけの調子ではなくて、全体の事だと、読み取る。

「あぁ、まぁまぁってところだったけど、お前らが来て上々に変わったみたいだな。」

「お前ら、じゃなくて、りのが来てくれて、でしょう。」

「嫉妬か?りのちゃんに嫉妬するだけ無駄だ。とても勝てっこない。」

「嫉妬なんかしてないわよ。」と頬を膨らませる柴崎。

「まあ、そうだな、嫉妬してたら、そんな着ぶくれた恰好で来ないわな。」

「もう!その話題は朝から散々なのよ。うんざり、ほっといて。」

今日は一段と寒い。この部屋はマシだが、外の観客席は極寒だろう。

お嬢様は寒がり。無理せず、家でテレビ観戦していればいいのに。と思ったが、実際それをやられたら、きっと亮は気分は下降していただろう。まぁそんな心配もなく、トーナメントが始まった時から柴崎は、マメに観戦に来ていた。

『あんたの能力が私には必要なの!藤木、私と一緒に生徒会をやって。』

2年の3学期に、潤んだ漆黒の目で見つめられ、言われた言葉。

亮の能力を嫌う人間が居ても、必要だと言う人間は今までに居なかった。柴崎の言葉は、亮の存在を認めてくれる大事な言葉となった。むくれた横顔に亮は素直に礼を言う。

「寒いの苦手なのに毎回、ありがとな。それも今日で終わりだ。」

「えっ・・・やっやぁね。藤木、何なの?」照れて顔を赤くする柴崎のわかりやすい本心を可愛いと思う。

突然、新田の痛いという声が聞こえて、亮も柴崎も振り向く。

りのちゃんが、新田の頬を思いっきりつまんで引っ張っている。

「りの!何してっ」

「待て、柴崎・・・」柴崎の腕を掴み、駆け付けようとするのを止める。

「新田の緊張がほぐれた。驚いたな。こうも覿面だとは。」

周りいるメンバーも笑って、緊張がほぐれていくのを確認する。

だけど、りのちゃんが出した差し入れに亮も同じく、青くなって、

「駄目だ、それはっ」と叫んだ。

「ちゃんと見なさいよ。袋とタッパーの文字。」

「新田家からの差し入れか。」

その顔に似合わずりのちゃんはいたずら好きだ。無表情にそれをやるもんだから、亮たちはいつも騙される。

新田は実験と称したいつものまずいりのちゃんの手作りだとまだ思っていて、本気でメンバーの心配をしている。その光景がおかしい。

亮は柴崎ともに吹き出して笑った。

女神からの差し入れを口に入れたチーム全体の空気が、いい感じで和む。

(よし、行ける。)

亮は確信した。





勝手に皆が、私の手作りだと勘違いして、慎一までもが私が作ったと思い込んでいる。

むかつく。

慎一なんかに、このおいしいキャラメルはあげない。

このキャラメルは、新田家からの差し入れ、秀治おじさんが作った塩キャラメルは、プロの味だ。私の漢方薬入りの差し入れとは違う。

糖分は心を落ち着かせ、頭の回転をよくする。サッカー部保護者会の役員をしている啓子おばさんが大きな大会の前には必ず差し入れる。それを忘れて慎一は私のだと勘違いして、おまけに毒だ、悪魔の食べ物だとか言う。

タッパーもビニール袋も、店の名前が入ってるのに、何で気づかないかなぁ。ホントこんなんでよく、サッカー部のキャプテンをやってるよ。

(あぁ慎一がキャプテンだから、こんな変なテンションのメンバーになっちゃんたんだな。皆、可愛そうに。)

まだ、女神の食べ物だとか言ってる。慎一と一緒でしつこい。

何だか、最近、慎一の顔を見るとイライラする。何か嫌味の一つでも言わなきゃ気が済まない。

おかしいなぁ。子供の頃はこんなんじゃなかったのに。

やっぱり慎ちゃんと慎一は違う。

「りのちゃん、俺も頂戴。」

「あぁ、はい。」藤木が居るところまで、にタッパーを持って行った。

「二人にお願いがあるんだけど、皆がここを出る時に、全員とハイタッチしてもらえる?一人一人に。」

「え?私も?」柴崎が驚いた顔で尋ねる。

「そう、柴崎も。」

「どうして?りのは、わかるわよ。勝利の女神から直接、運を頂くみたいな事。でも私は・・・」

「嘘でも何でも儀式的な事って、大事だから。」

「私は女神でも何でもないじゃない。」

「お前は、学園の代表だろ。お前の父親の元に優勝旗を持って帰る。りのちゃんが、精神的な指針になるなら、お前は現実的な目標だ。両方を心に刻めて行ける、俺たちは強いぞ。」

自信たっぷりの藤木が目じりに皺を作って笑う。藤木はメンバーの精神的な所まで考えて動く。何故、藤木が部長じゃないんだろう。石田先生も慎一を部長に押したと言うのだから、見る目ないんじゃないかと思う。その石田先生がそろそろ時間だと声をかけた

「新田、俺からはもう何もない、お前に任せる。」

慎一はハイと返事すると、ドアへ向かう。出て行ってしまうのでは?と一瞬ヒヤリとする

「皆入って。」

こんな狭い部屋に全員は無理だろう。と私と柴崎は、なるべく身を縮めて端に寄り邪魔にならないようにした。

「入れない奴ら、出来るだけ顔の見える位置に」

慎一がそばにあったパイプ椅子に登って立ち、廊下の方まで見渡して言う。

1年生と2年生の選手以外のメンバーが慎一の言葉通りにキビキビと動く。

慎一が部員全員の顔が自分に向けられたことを確認してから、口を開く、顔つきが変わったように思えた。

「今日で最後!俺たちは、あの優勝旗を持って帰る!暑い日も、寒い日も、雨の日も、雪の日も、あの優勝旗を手に入れる為に毎日、練習してきた!ここに居る全員が、皆が同じ量の練習をしてきたんだ。1年も2年も3年もレギュラーも補欠も関係ない!仲間の信頼と練習量の自信と誇りを武器に、俺たちは、全員で勝つ!」

慎一は一度、深呼吸して、更に大きな声で叫ぶ


「盾は要らない!全員で優勝旗を持ち帰る! 勝ちに行くぞ!」


サッカー部員全員のオーと言う叫びが部屋を揺らす。

慎一の言葉に、レギュラーはもちろん、二年生と一年生の顔つきまでもが変わっていく様を見せつけられた。

「円陣!」

慎一がパイプ椅子から降りる、中央にレギュラーの円陣、その周りにベンチ組、そして1、2年のサッカー部全員が、素早く三重の円陣を組んて、常翔学園伝統の掛け声をする。その迫力に、私と柴崎は固まった。これが、慎一と藤木が作ったチーム。

(凄い・・・・。)

レギュラーメンバーだけならまだしも、ベンチにも座れない一年生の闘志を引き出しているのがわかる。

慎一が全員の心を一つにし、全員が慎一を信頼する。これだけの人数を慎一が・・・。

(これが、慎一のカリスマって言うやつ。)

藤木が常に絶賛していた。これがなければ勝てないと。わかる、これがどんなにすごい事か。

(負けたな。)そう、素直に認めた。

すると、慎一に対するイライラが無くなっている事に気づく。

そっか、私は慎一にイライラしてたんじゃなくて、自分にイライラしていた。慎一に負けそうになっている自分を認めたくなくて。

私と慎ちゃんはずっと競争してきた。かけっこはどっちが早いか、縄跳びは何回出来たか、ひらがなもどっちが先に覚えたか、日焼けまでどっちか黒いかなんて、生活全部が競争だった。いつも私が少しだけ先にできた。喜ぶ私を慎ちゃんは、くそーと悔しがって、それから私を超えるまで練習し努力するのがお決まりのパターンだった。慎ちゃんは努力して再度、私に挑戦する。私は負けそうなると「ニコはもうそれやってないもん!」と言い訳して、慎ちゃんの努力と成果を素直に認めることはしなかった。

「廊下に整列!」

藤木の号令でまた、キビキビと動いて、短時間できれいに整列を終える。

「行ってくる。」

「待ってるわよ、優勝旗!」

藤木と柴崎がそう言葉を交わすと、あげた手をパチンとならす。

「頑張って。」

「ありがと、りのちゃん。」

私も手を上げる。力強く藤木がパチンとならして、部屋から駆け出していく、

去年同じクラスだった沢田君、隣のクラスの橋本君、1年の時に同じクラスだった杉本君、

慎一と同じサッカー推薦で入って来て慎一の事を特に慕って、不愛想な私にまで、ちゃんと挨拶をする二年生の永井君、

1年の時の実行委員が一緒だったゴールキーパーの久保君、同じクラスになったことはない鈴木君、渡辺君、長谷川君、田中君。私と直接、縁がない後輩たちも、次々とパチンとハイタッチして駆け出して行く。廊下からも整列した後輩たちの掛け声とハイタッチのパチバチという音が、こだまして聞こえてきた。

(この一体感・・・)。

私は、本当はバスケ部に入りたかった。フィンランドの3年からとフランスでやっていたバスケ、チームが一つとなってボールを繋いでゴールを喜ぶ、そんな楽しさを、もう一度やりたかった。でも声が出なくて、人を避けるようになった私は、無理だと諦めた。慎一と藤木がサッカーでそれをやっているのを見て、羨ましいとずっと思っていた。二人は、そんな一体感までも私に分けてくれる。心が熱くなった。

「新田!約束、破ったら承知しないからね。」

「あぁ、わかってる、任せろ。」

柴崎と慎一がパチンと手を鳴らすと、柴崎は、すっと部屋から出ていく。

あんなに、たくさんのメンバーで埋まっていた部屋が、がらんと、私と慎一だけになった。

「りの・・・」

慎一が、乱れて首元が見えていた私のマフラーに手をかけて、巻きなおしてくれた。

何も言わなくてもわかる。その目が、きんぴかのメダルの約束は守ると言っているのが。

無言でうなずいた。余計な言葉は要らない。

私は手を上げる。慎一の手がパチンとかさなって、強くにぎった。

『慎ちゃん、行こう!虹玉を探しに!』

虹に向かって二人、手を繋いで駆け出した、あの時のように。

見上げるようになった慎ちゃんとの身長の差、これが、私を追い抜いて行った差だ。

身長も、技量も、仲間を作る事も、全部、私が立ち止っている間に、慎一は、とっくに私を超えていた。そのことに気づかず、負けまいと焦って、イライラしていた。素直に負けを認めると不思議と悔しくない。

「慎一、口開けて。」

私は、タッパーに残っている塩キャラメルを慎一の口に入れた。

「力、出るよ。」

「行って来い!」

私は、慎一の背中を押した。

慎一が部屋から出ていく。

パチパチとハイタッチの音に交じって、「頑張ってください」と後輩の掛け声。

私も廊下に出る。

慎一の後ろ姿が、光にまぶしい。





昔、藤木が慎一に問いた、『努力なんて他の強豪校もやってる。それこそ死にもの狂いで、どこの学校も、同じ努力をやってるのに、勝敗は決まる。あの優勝旗を手にする奴らは、俺たちと、どこが違うのだろうかと考えたことあるか?』と。

慎一はずっと考えてきた、答えはすぐには出なかった。

なんとなく、これじゃないかと思いはじめたのは、藤木の週刊誌の事件の経て、しばらく後の頃だ。慎一の一つ上の先輩は、当たりがきつい先輩達だった。挨拶一つ、頭が下がりきっていないと呼び出されたり、サッカーの技術とは関係のない事ばかりを厳しく言う先輩達だった。八つ当たりのような嫌がらせも多々あった。それが行き過ぎて事件に発展したのが藤木の週刊誌事件。慎一たちの2つ上の三年生の先輩は、そんな気質の2年生とそりが合わなかったようで、その反動か、慎一たち1年を入学当初から可愛がってくれた。レギュラーの座も2年生をすっ飛ばして、慎一や藤木と沢田を頻繁に起用するりを応援してくれて。1年も2年も関係なく実力重視でスターティングメンバーを決めるという常翔のサッカー部、何十年と続く伝承の習えだったけれど、2年の先輩たちは良い気分ではなかった。3年生の先輩が全国3位の成績で引退すると、一つ上の先輩たちは、実力重視の伝承を無視して、先輩たちだけでチームを構成するようになった。結果、県内試合でも負けるようになり始めた。藤木の事件をきっかけに、顧問の石田先生が、やっとチームの構成に手入れして、何とか、神奈川県代表にはなったものの、2回戦で敗退していた。

1年の時の全国3位の成績と、2年の時の2回戦敗退の差、ここに答えがあると慎一は考えた。

慎一が、この常翔学園の広告塔クラブともいうべきサッカー部の部長を任命されて、最終学年となった4月、後輩たちが廊下ですれ違うたび、頭を下げてくる姿に辟易していた。後輩たちのあの姿は、慎一たちが2年間やって来た当たり前の姿だ。頭を下げていた時、慎一はどう思っていただろうか?先輩に対する尊敬か?敬意か?それとも目をつけられないための、やり過ごしか?思い出そうとしたが、思い出せなかった。思い出せないほどに心が入っていなかったその挨拶に、意味があるだろうかと思った。まして、自分に部長なんて素質はない。任命された時、ずっとそう言って断り続けていたのに、石田先生は慎一の主張を聞き入れてくれなかった。そんな慎一に廊下で会うたびに頭を下げて挨拶をしてくる後輩たち。頭を下げられる度に、そこに溝が出来るような気がしてきた。自分にこんな気持ちがある限り、とても全国優勝なんてできるはずないと慎一は思った。当然ながら藤木に相談した。慎一の話に藤木は、面白い事に目をつけたなぁ。と少々驚き気味に言った。だからと言って、藤木も何かの策が思いつくわけでもなく、慎一はただただ、後輩に頭を下げて挨拶されることに、違和感を胸にしながら、やり過ごすしかなかった。

打開策のヒントをくれたのは、りのだった。りのは自分が後輩であった時は、日本語がスムーズに出ない事を先生を通じて先輩たちに理解してもらっていたが、やはり、他とは違うその態度に生意気だと何度か呼び出しを受けたりしていたらしい。

吃音の混じる言葉で必死に先輩に挨拶していたのを何度も見かけていた。我慢すればいい事は何とかなったけれども、自分が先輩という立場になって、相手から突然廊下で挨拶されて頭を下げられることに、りのは心底、困っていた。

『遠く離れた場所からでも大きい声で、頭下げられるのは困る。』

『あぁ、俺も嫌だな。会話も中断するしな。』

『日本は頭下げ過ぎだ。向うではハイと声かけあうぐらいで、それがなくても責められない。』

『あぁ、海外ドラマでも良く見るよな、なんか個々の生活を大事にしてるって感じ。』

『それでもちゃんと仲間として団結する時はするんだよな。』

『あぁ、昔、現地で見た青春ドラマでは、ハイタッチが挨拶代りで恰好いいなと思ったな。』

『それって、何かゴールとか決めた時じゃなくて?』

『廊下ですれ違う時。二人で会話をしている上級生のそばを後輩がすれ違う時、目配せのみでハイタッチしていくんだ。上級生同士の会話は途切れない。』

慎一は、それだ!と思った。

朝のおはようと練習終わりのお疲れ様以外は、頭を下げる挨拶を校内外において禁止すると、クラブ内で提案した。

慎一の提案に、それでは規律が乱れると反対意見もでた。慎一は想い考えを訴え、まずは同級生を説得した。同級のサッカー部員は、そもそも一個上の先輩たちのきつい当たりを経験していたから、すぐに納得してくれた。同級サッカー部員たちの協力で挨拶の禁止はすぐに浸透して、先輩後輩の枠がいい感じで無くなったころから、慎一は廊下ですれ違う後輩たちにハイタッチをして仲間意識を強めた。

自分は、藤木のように気配りがうまくない、慎一が後輩たちにしてやれることと言えば、皆を、年令関係なく仲間である事を認識するぐらい。仲間の顔を一人、一人確認しながら、皆の気持ちをもらっていく、

手から伝わる仲間の思い。

俺たちは43名で戦う。りのと柴崎も合わせたら45名だ。

45名の強い絆がこの手にある。

「藤木、今日こそ答えを出すぞ。」

「あぁ。」


『努力なんて他の強豪校もやってる。それこそ死にもの狂いで、どこの学校も、同じ努力をやってるのに、勝敗は決まる。あの優勝旗を手にする奴らは、俺たちとどこが違うのだろうか?』

    

慎一は、藤木と共にあげた手でパチンと鳴らして強く握り、心を一つにする。

向かう柴の緑が目に広がる。

吹奏楽が奏でる常翔学園の応援曲。45名じゃない。応援席にいる常翔学園の応援団は何人になるだろうか。

この国立競技場だけじゃない。テレビで観戦してくれている同級生もいる。

店に来る近所の常連さんだって、家を出る前に、頑張りなさいよと声をかけてくれた。

遠くフランスからもグレンが頑張れよとメールをくれていた。

過去から慎一に関わったすべての人の思いが、

この手や足にある。

俺達は、全員で勝ちに行く!

冷たい冬の空気に挑み、足を踏み出す。

思いを込めて。











校舎から、弓道部の横に垂れ幕が降ろされた。


祝 優勝 サッカー部、第48回、全国中学サッカー競技大会

祝 優勝 3年真辺りの 第32回全国弓道選手権大会 個人の部


風になびく2つの垂れ幕、

優勝旗は9年ぶり常翔学園の理事長室に飾られた。

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