第8話 夏色の恋夢



常翔学園の夏休みは少ない。8月1日~30日までの1か月間だけ。全館クーラー完備されている私立のお金持ち学校は、寒暖のし身体労りで休む理由がない。とは言っても、職員の休暇は必要だから、それなりに夏休み、冬休み、春休みはある。

修学旅行を6月末で終え、個々の思い出話しが尽きた頃、クラスの学級委員、男子の今野くんと、女子の佐々木さんが、ある企画を提示してきた。

「キャンプ?」 

「そう、修学旅行は、バラバラの行き先だったじゃない。なんかね、中等部最後の学年なのに、寂しいなぁと思って。クラス全員で、どっか行きたいねって私達の中で盛り上がって。その話を今野に言ったらね、実家の方に話をつけてくれて。で、これになったの。」

と指さしたのは、パソコンのワープロで作った企画書。3年5組親睦キャンプと書かれてある。

「で、正式に、クラスの皆に配る前に、行けるかどうかを聞きたくて。この日程の都合もそうなんだけど、その・・・・。」とクラスの女子で一番背の高い佐々木さんは、言いよどんだ。継いで話を続けた今野くんは、佐々木さんより10㎝近く低くて、クラスの男子で一番背が低い。

「場所は、俺の実家がやっている施設だから、宿泊費は子供料金でと話つけて、食事は自炊でって、費用は抑えたんだけど、交通費だけはどうにもならなくて。なんせ離島なもんで、海を渡んなきゃいけないから。」

今野くんの実家は、相模湾沖の島全土をリゾート開発したホテル経営をしているという。

ホテルを開業したのは10年前。それ以前は熱海で旅館を経営していた。大手ゼネコンから、今野家が持っていた無人島をリゾート開発の為に売却話が持ち込まれた。今野家は、熱海の飽和状態にある旅館業に見切りをつけ、大手ゼネコンとの共同開発へと乗り出し、旅館を完全廃業し、住まいも島へ移したが、当然、島に学校はなく、今野は島から本土の小学校へ船で通学していた。船通学に嫌気がさし、中等部から寮のあるこの学園に入学してきたと聞いている。ちなみに3つ年上の兄も、別の学校で寮生活をしている。

「言いにくいんだけど・・・」今野くんも、言いよどんで、困った顔を私に向ける。

その視線が辛い。見ないで欲しい。だから視線を外して仕方なく言い放った。

「わ私が、こ、この費用を、だ出せるか、か?」

「ごめん。」

(その謝り、要る?余計に傷つく。)

「あ、謝るひ必要、ない。い家が、び貧乏なのは、じ事実。」

「ニコ、その言い方は・・・。」慎一が、私を咎るように苦い顔をするから、失敗に気づく。

「ご、ごめん。」とりあえず、謝っておく。

「ううん、ごめんね。新田君は行ける?この日程なら、サッカー部の練習もないって聞いたから。」

「あぁ、大丈夫だけど。」

企画書には2泊3日の日程で、費用は交通費込み3万円の予定と書かれてあった。

3万円は、大金だ。私にとっては。

弓道部の合宿も予定されている。秋にも全国大会に出場する為、山口まで遠征に行かなければならない。

「誰か一人でも行けない子がいたら、この企画はやめようと思っているの。」

(私次第ってこと⁉そりゃないよ~。)

「えっ、あ、あの、そ、それは・・・・」

「無理ならいいのよ、キャンプじゃなくて別のイベントを考えるから。」

「だから、真辺さんの返事がまず欲しいんだ。悪いけど、今週中に行けるかどうか、返事もらえるかな。」

ありがた迷惑な心遣い、どうして、皆、そうやって私に構うの。ほっといてくれたらいいのに。



 お金がないって、こんなにもしんどい事だと改めて痛感する。

この学園は経済的レベルが高すぎる。どっかの社長の息子だとか、医者の娘だとか、弁護士やら、ホテル経営、学園のお嬢様に大臣の息子までいる。あまりにも違いすぎる。こういう事を知らずに、特待生の文字に飛びついた自分が馬鹿だった。

「あぁ~。」PCが並ぶ机の合間に、私は大きくうつ伏して胸に詰まった重苦しい息を吐いた。

「大丈夫?ニコちゃん。」外務大臣の息子、藤木亮が、PC前の椅子に座り、自分のIDカードを私の脇にあるセキュリティボックスに差し込んだ。パソコンが立ち上がるヒューンという音がする。

「大丈夫じゃない。」

「ニコ、ちゃんと座って。」学園最強のお嬢様、柴崎麗香は堂々の腕くみでパソコンが立ち上がるのを待ち、その横では、テレビの取材が何度も来る人気フランス料理店の息子、新田慎一が、佐々木さんから貰ったチラシを片手に、同じくパソコンの立ち上がり待ち。

私たちは、今野のリゾートホテルのホームページを閲覧しにパソコンルームに来ていた。

「グンゼのパンツ見えてるぞ。」幼馴染のデリカシーのない言葉。

身体をひねって机に寝ながら、慎一にキックを入れる。が、かわされた。

「へん!」と、得意げに笑う慎一。あの顔がむかつく!更にキックのお見舞い。   

「当たるか、短い脚。」

(何だとぉー、くそー。)

「ちょっと、二人共、暴れなさんな。」

「ニコ、やめなさい。」

皆して、私の気持ちなんて、わからないんだ。生まれてお金に困ったことがない人達には、この惨めさを。

こんな風に卑屈になる自分が嫌。何もかもが窮屈、どうにかしたい!

テーブルから飛び降りようとしたら、パソコンのディスプレイ後ろにある数本のケーブルに手が絡まり、引き抜いてしまった。と同時に、やっと立ち上がった画面が黒く落ちる。

「あっ!」

「ニコちゃん・・・。」藤木が頬を引きつらせて怒りを押さえている。

やばい・・・。

「お行儀が悪い!」

女にマメで優しい藤木を怒らせる私、真辺りのは、母子家庭で、特待生として学費免除を受けて、やっと学校に通える身分。

(惨めだ。)その肩身の狭い立場を更に小さく縮める。

「ご、ごめん・・・」

 藤木が手際よくケーブルを接続し直し、パソコンを再始動する。藤木はこの中で一番パソコンに詳しい。

フィンランドの友達から動画通信をしようと誘われたのだけど出来なくて、藤木に相談すると家まで来てくれて、パソコンの設定を見てくれた。だけど、私が使っているパソコンはパパが生きていた時に使っていた古いノートパソコンだったから、これじゃ性能的に無理だと藤木に言われて、がっかりしていたら、最近、新しいのを買ったから、古い方をあげるとノートPCを持ってきてくれた。

だから、私が今、家で使っているパソコンは、プロサッカーチームのステッカーの貼ってある藤木のお古。

藤木は新しいもの好き。携帯も新型が出たらすぐに買い換えている。PCもそうで、お古と言っても私には新品にしか見えない綺麗さだった。柴崎に下々の生活を知った方が良いぞと言う藤木だって、そういうところが、やっぱり名家のお金持ちの息子だなと思う。

「こ、壊れてない?」壊れてたら、弁償しなくちゃなんない。キャンプなんて、とんでもない話になる。

「大丈夫。」

「よかった・・・」安堵の溜息をつく。

「さっきの画面、出して。」

「ほいよ。」柴崎の指示にカチャカチャとなれた手つきでキーボードを打つ藤木。

「良い所ね。」

「凄いな、コテージで泊まってキャンプっていうから、もっとこう、田舎くさいの想像していた。」

「2泊3日の交通費込みで3万円って本当に格安にしてくれたのね。」

「み、見なきゃ、よかった。」

今野君の実家、今野リゾートホテルは、海に面した白い建物で、地中海風のおしゃれな様相をしていた。

プライベートビーチあり、プールあり、テニスコートあり、海と反して緑豊かな丘の山頂には、大きな星を見る望遠鏡施設もあると言うから驚きだ。そのメインのホテルには泊まらず、バーベキュー施設のあるコテージが宿泊場で、これが、とてもおしゃれでかわいい。

映し出される写真は、リゾートの魅力あふれる物ばかり。ここでキャンプをしたら、それは、それは、楽しいだろう。見る前までは、費用のことを思って行く気にはなれなかった、けど、見てしまったら行きたい。でも・・・3万円なんてお金、絶対にむり。

「はあぁ~。」

「溜息ついているって事は、行きたいのね。」

「私が行かないと、この企画は無くなるんでしょ。」

それも、凄い重圧。皆に提案する前にって配慮は、結構きつい物がある・・・

「まぁ、そこは、あんまり考えなくて、いいんじゃないかな。今野と佐々木は、だから先に聞いてきたんだから、行けないって言っても責めはしないよ。」

「うん。でも・・・。」

「気にするなって言っても、気にしゃうわよね、ニコは。」

「あぁ柴崎とは違うからな。」

「何よ!」  

まさか、自分がこんなにも困窮する家庭環境になるとは思わなかった。4年前までは。

欲しい物、やりたい事は、パパに言えば何でも買ってくれて、やらせてくれた。次の休日は、何をする?どこへ行こうか?パパとそれを考えるのも楽しかった。何かをするには、どこかに行くには、まずお金が必要だなんて考えもしなかった。

「ねぇ、今更だけど、ニコん家って、そんなに苦しいの?」

「こら、柴崎。」と藤木が叱る

「いいよ、遠慮はいらない。」

「ごめん、ニコ・・・。」

「そう、パパが死んで、全財産は鉄道会社に持っていかれた。パパの生命保険も賠償保障に取られて。残ったのはママ名義と私名義の少しの貯金。それも、こっちに引っ越して来る費用に使って、ほぼ無一文になった。芹沢家のおじいちゃんやおばあちゃんは、パパを死なせたとママを責めて絶縁状態。ママは一人っ子で兄妹はいない。真辺家はおじいちゃんが、私が生まれる前に亡くなっていて、親族はおばあちゃんだけで、そのおばあちゃんも私達がフランスに居た頃に亡くなって。帰国後はおばあちゃんと一緒に住む約束で購入していた東京のマンションもパパ名義だったから、その家も賠償保障の対象で取られた。」

   

『さつきさん、あなた一体何していたの!、栄治が自殺だなんて!栄治はうつ病になんて、なるような子じゃなかったわ。あなたと結婚したから・・・・。さつきさん、あなたのせいよ。貴方が、栄治を殺したのよ!』

英『違う。違うの。殺したのは私。おじいちゃん、おばあちゃん、私なの。ママじゃない!ママを責めないで。』

そう言いたかったのに、日本語が出なかった。だから、英語で叫んだら。おじいちゃんとおばぁちゃんは、私を異国の子を見るような目で、「りのちゃんまで、こんな風になってしまって。」と眉間に皺を寄せて首を横に振られた。



「特待や、母子家庭支援のなどで、それなりに優遇はされているけど、やっぱり・・・・」学園にかかる費用が高いと、柴崎の前では言えなかった。ママは夜も昼も休みなく働いている。パパを死なせたのが私のせいなら、ママを休みなく働かせているのも、家が貧乏なのも、すべて私のせい。それなのに遊ぶ費用を出してなんて絶対に言えない。溜息をついたら、皆がしんみりしていることに気づいた。慎一まで、うつむいて困り顔。

あーもう、こんなの、うんざり!何も考えたくない!っていうか、考えてもどうにもならないのは明白。お金は湧いてこない。今野君と佐々木さんには、行けないって言うしかない。そうしたら、きっと佐々木さんは残念そうに、仕方ないわね。って優しく微笑む。せっかくクラス全員でと考えてくれているのに、私のせいでそれを台無しにする。

「あーもう!走ってくる!」

「ええー!?」

「何故!?」

どうして、今年はお金の事ばかりで悩まなければいけないの?もう、このモヤモヤでいっぱいな頭を吹き飛ばしたい。

「どこ行くのぉ!」

開けっ放しだった教室のドアへ駆け出し飛び出したら、誰かとぶつかる。

「おっと、りのちゃん!」

「 ご、ご、ごめん、なさい・・・・あっ、かか凱さ」


 凱さんが、今野リゾートホテルのホームページを見て、「良い所だねぇ」と目を細める。

佐々木さんが作ったチラシとホームページと私の顔を準に見て、「それでまた、りのちゃんは困っているってわけだね」と言う。

またって・・・・他人に改めて言われると、グサッとくる。私だって、こんな悩み抱えたくて抱えているわけじゃない。

「りのちゃん、アルバイトする?」

「!」

「凱兄さん、アルバイトは校則で禁止されているのよ。」

「そうだね、常翔学園中等部、校則第4章 風紀、第2項、アルバイトは原則禁止。と明記しているね。」

何だ、そのフル暗記。改めて凱さんの能力に驚く。

アルバイト、出来たらいいのにと何度、思ったことか。

えりちゃんの家庭教師をしていたのは、あれは単なるボランティア的なもの、代償に晩御飯をごちそうになっていたけど、新田家は今や親せきみたいな関係になっているし、金銭は稼いでいないから校則には反しない。

「原則だからねぇ。」そう言って、凱さんは緩ーい顔を益々緩める。「原則って意味、辞書で調べてごらん。」

藤木が手早く、ネットで辞書機能を呼び出す。けど、あんた辞書を丸ごと覚えている人じゃん、って心の中で突っ込む。

「【原則】 多くの場合に適用できる根本的な法則。」

「りのちゃんは、「多く」じゃないからねぇ。原則の反対語は例外でしょう。」と、しれっと言う凱さん。本当か?

時として、大胆に無茶苦茶な事を言う時があって、これで学園の理事長補佐をしていて、大丈夫か?と心配するのだけど、そんな無茶苦茶な解釈でも、アルバイトできれば悩みは解消する!





期末テストが終わり、夏休みに入るまでの2週間は短縮授業となって4時間目までしかないが、クラブはある為、帰宅時間は早まることなく同じ時間。一分一秒でもサッカーをやりたい慎一にとっては、長く練習のできる最高の日々である。なのに今日は、顧問の石田先生が研修とかで午後から出かけていて、大学からのボランティアコーチも来ない日だったから、基礎練習だけで終えた。こういう時ぐらいは、陸上部にフィールドを開けてやらないと、陸上部や野球部からのクレームが酷くなる。

変に時間の余ってしまった放課後、早々に下校するのも惜しく、最終下校まで時間をつぶそうという話になった。着替えを済ませ荷物を持ってクーラーの効いた食堂へと入ると、窓際の決められた3年生のテーブルに、ニコと柴崎が向い合せで座っている。

近づくと、テーブルの上に折り紙や鋏、のりなどを広げて何かの工作をしていた。

「慎一、ちょうど良い所に来た。」

(うっ・・・)

女のちょうど良いはろくなことがない。それは慎一の15年間生きて来た実感的教訓だった。

「これ、どうやって折る?」

「ん?」幼稚園児向けの折り紙の本を開いて、ニコは指さす。テーブルにはくしゃくしゃになった折り紙があちこちに散乱していた。

「何これ?」

「明日のスターリンで使おうと思って。」

ニコが、アルバイトをする事になった。と言っても、ファーストフードで、いらっしゃいませ~と0円のスマイルを振りまくようなものではなく、学園が特別に用意した、ニコの英会話力を存分に使うものだった。

去年、英会話クラブでお世話になった、スターリンインターナショナルスクールのキンダークラスのお手伝いが、アルバイト先である。キンダークラスは、こっちで言う幼稚園にあたる。スピーチ大会の為に、英会話クラブの人と訪問した時、学長が偉くニコの事を気に入ったらしく、また来てくれないかと打診されていたらしい。しかし、あの強打事件が起こり、その後の体調不良が続いたため、理事長は断り続けていたという。今年の6月になり、スターリン学園の子供たちの世話役として働いていた職員が産休をとり、人手が本格的に足りなくなった。スターリンの学長は、旧友の柴崎信夫理事長に、常翔大学の学生にボランティアの要請をしていた。本来は大学生の要請だったのを、凱さんの機転でニコへと話を持ち替えた。

常翔学園では、高等部でもアルバイトは禁止だ。そもそも、アルバイトしなければならない金銭的に困るような家庭の子が通う学校ではない。校則を無茶苦茶な解釈でニコのアルバイトを持ち替えた凱さんに対して、自分が特例になることに躊躇したニコだったが「じゃ、特待生規約に特別な理由があるときは、特例として、アルバイトを許可する。と改定するよ。」と凱さんは事も無げに笑い、本当に特待生規約書原本を持ってきて、ボールペンで追記して理事長の判子まで勝手に取り出し、ポンと押した。あげく「誰か何か言ってきても、これを見せればいいでしょう」と言って笑った凱さん。慎一達は、唖然と口を開けるしかなかった。

ニコが、今、苦戦しているのは、折り紙の手裏剣の折り方。明日、そのアルバイト先、スターリン学園の5歳児クラスで、これで忍者ごっこをするという。

「ふーん。楽しそうだな。」

「うん。楽しい。」高揚なく無表情に折り紙の本に視線を落とすニコ。他人が見たら、とても楽しそうには見えず、虚偽で他人を排除したがっているかのよう。だけど慎一にはわかった。今、ニコは心から楽しんでいるのだと。

「慎一、昔よく作っていた。」

「あぁ、作ったなぁ。」

戦隊ものの忍者ヒーローが幼稚園の頃に流行った。慎一とニコは折り紙の手裏剣を武器に戦いごっこをした。二人はどっちも負けるのが嫌で、どっちもヒーロー役だから、結局喧嘩になって、二人の母さんに、いい加減にしなさいと怒られるのが定番だった。

「違う違う、ここは谷折で、こっちにこれを持ってきて」

「え~」

「そこは、きれいにビシッと合わさないと。ほら~、きれいにハマらないじゃないかぁ。」

ニコは、昔から、こういう手先のいる仕事は苦手で、昔、戦いごっこをした時の手裏剣は、当然慎一が作った物。慎一が作った手裏剣を作ったそばからニコが取るので、それも喧嘩の原因になった。

折り紙手裏剣は、2枚の折り紙を左右別に折り方を変えたパーツを、最終的に組み合わせて仕上げる。細部を丁寧に折り合わせないときれいな手裏剣にならない。苦戦して作ったニコの手裏剣は雑で、投げてもすぐに2つのパーツが外れてしまった。

「ニコは、見かけによらず不器用なのよねぇ。」失敗作を見て柴崎が笑い、ニコが不貞腐れる。

「柴崎、明日も行くのか?」

「そう、ボランティアとしてね。」

柴崎もニコと一緒にスターリンへ行っている。所属していたテニス部は、部長の白鳥美月と言い争ってから、柴崎はほとんど行っていない。生徒会が忙しいのもあるが、同じテニス部の慎一の妹、えりが柴崎に懐ついていて、美月との確執に巻き込まれるのを防ぐ配慮が大きい。生徒会が発案した、クラブバックアップ支援のプロジェクトも学園側に移行し、テニス部の幽霊部員となった柴崎は、暇を持て余し、ニコのアルバイトにボランティア兼英会話の勉強と称して、ついて行くのは当然の事だ。

その柴崎は、画用紙を丸く切って、厚めの台紙に貼り、手裏剣の的を作っていた。

「新田、うまいわねぇ。」

新しい折り紙で、ニコの手が加えられない手裏剣を一つ作り、窓ガラスに向けて投げたらきれいに飛んでぶつかり落ちた。そこへ、藤木と、1年の時同じクラスだったサッカー部の杉本が合流する。

ニコのアルバイトの事は、他の生徒には内緒、柴崎と同じくボランティアを学園から頼まれたと話している。

「おっ懐かしいな。俺も良く作った。」

「昔さ、流行ったよなぁ、忍者戦隊。」

「あぁ、やったやった。バンダナ頭に巻いてさぁ。」

懐かしい話をしながら、藤木も杉本も折り紙を手にとり折っていく。はたと気づくと、ニコは折り紙などそっちのけで静かに本を読んでいた。

「ニコ・・・・」

「で出来た?」

「できた?じゃねぇ!」

「が頑張れ。」

「涼しい顔して、頑張れじゃねぇ。ニコが作らなくてどうする!」

「 あはははは、ニコちゃん人を使うのうまいねぇ。」女に甘い藤木が目じりに皺を作って微笑む。「一体いくつ要るの?」

「20。」

「やってらんねぇ。」慎一は作りかけの手裏剣を投げ置いた。

「ひ、ひどい慎一!」英「子供たちの楽しみを台無しにする最低野郎!」

杉本が居る為、日本語がうまく出ない。そんな時英語に切りかえるのは、英語の苦手な慎一に対する最大の嫌みなのだが、それをされても理解できない慎一には効き目がない事をニコは気づいていない。この場では、英語の得意な藤木だけが、ニコの罵倒に苦笑いで頬を引き攣らせている。

「ひどいってなぁ、ニコの仕事だろう。大体、不器用なくせに、こんな物、発案するなよ。」

「ぶ、不器用、言うな!」

「不器用じゃなかったら、このぐちゃぐちゃになった折り損ないのゴミはなんだ!」

「ひ、人には、向き不向きがある!わわ私は、向いている人に頼んでいる!」

「人に頼む態度とは思えん。」

「もう、辞めなさい。そうやって、すぐ喧嘩するの。」柴崎がいつものごとく止めに入る。

「わかった・・・・。英語の宿題、やってやるから、手裏剣作れ。」

「おっ、お前~」

「あははは、ニコちゃん良い所ついてきたねぇ。」どんな時もニコに甘く、味方をする藤木。

「いいなぁ。真辺さんに、やってもらうなんて、」

「き、岸本君も、い、いいよ、しゅ、宿題するから、手裏剣、つ作って。」

「ほんとぉ。」喜ぶ岸本。

「お前、それ、買収行為だぞ!」

「ひ、一人10個、あ、明日の、あ朝までに、い家に届けて慎一。」

「はぁ?」

「えっ?俺も?いや、俺は、自分で宿題やれるんだけど・・・。」とばっちりの藤木は目をぱちくりさせる。

手裏剣を一つ作るのに2つのパーツがいるから実質の所20枚の折り紙を折らなくてはいない。

「やるとは言ってねぇ!って、どこ行く!」

「図書館!さ、査定のレポートしなくちゃ。」

「逃げ足、早っ!」

「やられたな。新田。」

「ったくぅ・・・・。」

「まぁまぁ、手伝ってあげなさいよ。ニコ、子供たちと遊ぶの、すっごく楽しみにしてるんだから。」

慎一は、大きなため息をついた。もうすぐ一学期が終わる。学期ごとに、ニコは特待生としての資質を問われる面接を受けなければならない。その面接に必要なのがレポートの提出。内容は何でも良い。

学期中に研究した事とか、図書館で調べたこととか、作文でも、論文でも何でもよいが、しかし、何でもよいと制約がないものほど、人は集約できずに頭を悩ませる。

「査定のレポートって、締切、木曜日って言ってなかったか?」

「そうよ。」

「あと2日しかないじゃん。」

「私も、こんな事してる場合ないんじゃないって言ったんだけとねぇ、子供達と遊ぶ方が楽しいとか言って。」

「んで、ギリになって慌てているって訳か。」

「意外~。真辺さんも俺達みたいな事するんだぁ、きっちりやっていくイメージなのになぁ。」

「まぁ、そう思われても仕方ないねぇニコちゃんなら。」

「沢田もあの顔に騙されている口ね。」

「ニコは、猫かぶり過ぎた虎だからな。」

慎一達三人は、仕方なく折り紙を折り始める。

で、やっぱり、女のちょうどいいはろくなことがない。と慎一は心の中で大きな溜息をついた。





スターリンインターナショナルスクールへのアルバイトは、7月半ばの期末テストが終わって短縮授業になってから行く事となった。全国大会に向けて、弓道部の練習と合宿もおろそかにできないから、凱さんがスターリンに行く日を調整してくれて、私が何もしなくても、カレンダーに記入された日に行けばいいだけに、してくれていた。

カレンダーにかかれた12日間に1日5時間のお手伝い。終了日に4万円の給料を頂けるという契約。キャンプ代も払えて、お小遣いもある。お金の問題が解決した事が純粋にうれしいが、それよりも、スターリンの子供たちが可愛くてとても楽しい。こんなに楽しくてお金を貰えていいのかなぁと思うほど。

今日でアルバイト4回目、昨日の終了式で学園は夏休みに入った。出かける準備をしていると、家の電話が鳴る。柴崎は辛そうな声を出していた。

「ごめんね、風邪ひいたみたい。」

「大丈夫?」

「ズビっ、熱はないんだけど、頭痛と鼻水がひどくて、ズズッ、それに生理痛も酷い。子供たちにうつすとダメだから、今日はついていくの、やめるね。」  

「ゆっくり休んで、お大事に。」

柴崎がいないとなると、大がかりな遊びはできないなと考える。私達が毎回遊びを考えなくても、本職の外国人スタッフがいるから、特に問題はないのだけど、子供たちのキラキラと期待する目を見たら、何かやってあげたいなと思う。それで考えたのが、この間の忍者ごっこだった。テニス部の幽霊部員になった柴崎は、毎日暇をしていて、時に土日に私や慎一、藤木としゃべる為に学園に来たりしていた。だから私がアルバイトすることになると、当然のごとくついてくる事になった。娘に甘い理事長は、英語の勉強になると、スターリンに話をつけていて、無償のボランティアスタッフとして、行く事になった。

柴崎の、子供を子供扱いしない対等の態度が5才児、特に男の子に受け入れられて、忍者ごっこで子供達に「れいか」と呼び捨てにされて慕われた。帰りの電車で、「あいつら調子に乗って」と怒った口調の柴崎だったけど、顔は笑っていて、嬉しそうだった。

「柴崎、大丈夫かな・・・・。」

東静線の横浜行きの特急電車に乗り込んだ私は、扉の横で立って外の景色を眺める。

熱は、ないって言っていたけど、凄い鼻声だった。そう言えば、柴崎が学校を休んだことは知っている限りない。いつもパワフルで、病気知らずってイメージがある。何かと休みがちなのは私の方で、いつも柴崎に心配かけてしまっている。生理痛も酷いって言ってけれど・・・。その痛みがどんなものか、私にはわからない。私はまだ初潮を迎えていなかった。

秋で15歳になる。さすがにママは心配して、精神科の先生と婦人科の先生に相談した。パパが死んで、ずっと薬づけの生活。

『薬と、精神的な心の影響が、成長を妨げるのは、よくある事です。りのちゃんが、人より遅れているのは当たり前だと考えて、焦らず気長に待ちましょう。』と言われた。

フランスから日本に帰国する前に、お気に入りのブランドショップで、ママと買い物をした。日本にないブランドだから、沢山買っておきなさいと、これから伸びるであろうサイズの服までも買って帰国した。だけど、大きなサイズはまだ袖を通せないで、タンスの奥にしまってある。

帰国後、再会した時は同じぐらいの身長だった慎一は、どんどん大きくなって、今は頭一つ分高い。見上げないと目線が合わない。

慎一には、いつも食べないから伸びないんだと、私の食生活を監視しているけど、問題は、そこじゃない。私の成長が止まっているのは、私が犯した罪のせい。パパは私に大人になっては駄目だと、あの時のままの私を連れて行こうとしている。

電車のガラスに暗い顔の私が見え隠れする。

駄目だ。こんな顔では、子供たちが近寄ってこない。笑うんだニコ。お前は、ニコニコのニコだろう。

子供たちは柴崎がニコと呼ぶから、まねて私をニコと呼び始めた。英語なら、私は誰とでも話せる。笑える。

電車の窓を鏡にして口角を上げる。

英「さぁニコ、今日は何して遊ぶ?」





夏風邪と生理痛で苦しんだ3日後、麗香はやっとニコのアルバイトについていく事が出来た。

教室に入ると、5歳児が麗香の姿を見つけるなり、「レイカ!待ってたぞ!」と画用紙で作った刀で切りつけてくる。

子供は加減と言うものを知らない。画用紙であっても痛い。この間の忍者ごっこで、堪忍袋の尾が切れて本気で怒ったら、それも遊びだと勘違いされて更に懐かれてしまった。麗香は一人っ子、兄妹とじゃれ合って遊んだことがない。ニコも一人っ子だけど、新田家と一緒くたに育てられているし、フィンランドで下級生に教えるというカリキュラムがあったと言うから、子供を注目させる仕方や教え方、注意の仕方が上手だ。悪い事をする子供たちに対して麗香のように憤慨せず、注意にとどまり、うまく悪事から注意をそらすのは、もう教師顔負けの技と言える。

英会語の勉強を兼ねて、と、父が手まわしてしてくれたボランティアだったが、容赦ない子供のパワーに気が回らなくなり、子供達との会話は日本語が8割を占め、麗香は落ち込んだ。ニコは、「柴崎はそれでいい、十分、子供達の心をつかんでいるよ。」と励ましてくれたけれど・・・・刀で、スカートをめくりあげる子供は、心をつかんでいるというより完全に馬鹿にされている。

刀を取り上げお仕置きをしていたら、教室に一人の青年が入って来た。

仏「りの!今日も楽しそうだね。」

仏「グレン!」

日本人じゃない青年に呼ばれて、ニコは駆け寄りそしてハグ。

フランス語である事と、その青年の顔立ちに麗香は唖然とする。

「柴崎、紹介する。グレン・ユーグ佐藤、同じ年よ。」

「ハイ、君の事、りのから、聞いている。よろしく。」

求められた握手に答えて、ハグをされる。ハグに慣れない麗香は接近した青年の顔立ちのカッコよさに照れてしまった。

「グレンは、フランスに住んでいた時の友達なの。」

金髪とはいかないまでの薄い茶色の髪、目の色も薄い茶色の、肌の色も白いグレンと言う名の青年は、父が日本人で母がフランス人のハーフ。母親に似たと一目瞭然の顔は、芸能プロダクションからスカウトに来るんじゃないかと思うほど整った顔をしていた。

グレンは、父親の海外赴任でフランスに住んでいた時、同じマンションの住人だったという。フランス滞在期間が約1年半と決まっていたニコは、日本人学校に通っていた。グレンは、国籍も居住拠点もフランスで、現地の学校に通っていてニコとは違う学校だったけれど、住んでいたマンションの近くの公園にバスケットゴールがあり、バスケを通じて仲良くなったという。グレンは基本フランス語で、父親が中途半端に教えた日本語が少し出来る程度、英語は学校で習っている途中で私達日本の中学生と同じレベルぐらいだと言う。自分がフランス語を難なく話せるようになったのは、グレンのおかけだと、ニコは笑った。

「グレンは父親の仕事の関係で、4月から日本に滞在していて、今はスターリンのジュニアスクールに通っているの。」

「キンダークラスに、日本人、スタッフ、名前、りのと聞いた、りのかもと思った、そしたら、本当にりの、びっくり。りの、会えてうれしい。」そう言ってニコの髪に触るグレン。それが同じ年と思えない色気があった。

仏「わたしもよ。」

そんなグレン色気に動じることなく、どちらかと言うとそれを好んで受け入れているニコ。フランス語の独特な音程がそうさせるのか、ニコがとても大人びて見えた。

「柴崎、グレンは、夏休みの間、上の階のフランス語クラスの手伝いをしているのよ。」

「あぁ、そうなの。へぇー。」

「よろしく。レイカ。」

会って、5分でもう下の名前を呼び捨て、この顔だから許せる、これが外国人の魅力?

照れずに普通にハグして挨拶できるニコは、あぁ、やっぱり外国の、本物の帰国子女なんだと、複雑な思いでニコを眺めた。





こんな形で、グレンと再会するとは思わなかった。スターリンの廊下で『RINO!』と声をかけられた時、誰だかわからなかった。

私を見つけるなりハグをしてきたグレンは、約4年前、私が日本に帰国する時の姿とは見違えて、身長も高く肩幅も大きくなり、その振る舞いも、あのバスケットボールを追いかけていた子供じゃなくなっていた。

アルバイトを終えて、グレンと話をしてから帰るのが3回ほど続いた頃から、柴崎は私と一緒に帰るのを止めて先に帰るようになった。グレンは日本語を一応に聞き取れるが、話すとなるとまだまだで、私との会話はフランス語、柴崎とは英語と日本語の混じった変な言語になり、私が二人の言葉を仲介して通訳するという手間のかかる会話に、柴崎は疲れたのかもしれない。

フランス語は日本に来てからあまり使う機会がなかったから私も忘れかけていて、最初、英語とごちゃ混ぜになったりしていたけど、グレンが優しく指摘してくれて、感覚が戻って来た。

パパの海外転勤は、当初フィンランドが5年の約束だった。それが、フランス支社にいた社員が病気で倒れ、パパがフランスに移動赴任しなければならなくなり。日本に帰国するのが1年半伸びた。フランスでは日本人学校に通い、フィンランドとは違って都会だったから、英語さえできれば生活できる環境だったけれど、引っ越し直後に仲良くなったグレン達ともっと現地の言葉で楽しみたいとグレンに教えて欲しいと頼んだ。グレンは丁寧に一つ一つ単語を教えてくれて、数週間後には、母の買い物時の通訳が出来る程度になった。

仏『日本に来ているなら教えてくれれば良かったのに。』

仏『電話したんだよ。別れる前に教えられた東京の番号を、繋がらなかったよ。』

そうだった。神奈川に引っ越してからの連絡先はフランスの友達には知らせていなかった。というか、それどころじゃなかった。フィンランドの友達は教材やノートを送ってもらう為に、恩師に頻繁に連絡を取っていたから、引っ越し後、すぐに知らせていたけど。フランスは落ち着いたらと後回しにして忘れていた。落ち着く暇など、今までなかった。

仏『ごめん、連絡するの忘れてたわ。引っ越したの。』

仏『僕の事なんて忘れてしまっていたんだね。』

仏『そんな事ない!忘れないわ、ただ・・・・忙しかっただけ。』

仏『嫉妬するなぁ。忙しく、大好きな慎ちゃんと仲良くやっていたのかと思うと。』

フランスを発つ時、グレンに寂しくないのかと聞かれた。私はその時、皆とわかれるのは寂しいけど、帰国は、幼馴染の慎ちゃんに久しぶり会えるのが楽しみだと答えていた。だからグレンは慎一の名前を知っている。

仏『やぁね、違うわよ。』

仏『りの、バスケは?』

仏『・・・・やってない。』

仏『どうして?』

とても、人とコミュニケーションを取る事が出来ないからとは言えない。日本の文化に興味が出で、弓道をやっていると答えた。それなりの言い訳には十分。

仏『弓道!へぇー見てみたいな、りのの弓道姿。可愛いんだろうねぇ。』

仏『可愛いって・・・可愛いって年じゃないでしょう。』

仏『りのは、昔と全然変わらないよ。昔も今も変わらず可愛いよ。』

フランス語でよかったと思う。日本語だと赤面もののフレーズをさらっと言うところは、グレンはフランスの血が濃いんだなと思う。

グレンは、再会時からずっと、変わってないと言って私の髪を触る。変わらない事にうれしそうに笑って見つめられると、成長が止まったこんな私でもいいのだと言ってくれているようで、私は胸が熱くなった。弓道部の合宿を終えた後から、スターリン以外でもグレンと会うようになった。映画を見たり、ウィンドウショッピングを楽しんだり、ラウンドAで久々にバスケを楽しんだりもした。私が、芹沢じゃなくて真辺になったことを、グレンは何も質問はしてこなかったけど、お金のかかる遊園地などに行こうとは誘ってこなかったから、学長から何か聞いて知っているのだろうと推測する。

私とグレンは贅沢な場所にデートをしなくても、公園で話をするだけで楽しかった。グレンと居れば時間の感覚が短く、一日がすぐに終わった。







柴崎にちょっと話があると裏門の方へ呼び出された。サッカー部の練習を終えてスパイクシューズの裏の土を洗っている時だった。

「なんだよ。」

「ニコの事なんだけど・・・。」

「何?」

「その・・・。」

珍しく、物言いに歯切れがない。その柴崎の伏し目がちで言いにくそうにしている姿に、慎一は態度に出さないまでも少々苛立つ。さっさとシューズを洗って帰りたい。

「また喧嘩でもしたのか?」苛立ちの収めどころを、あえて柴崎が振り返りたくない過去を出す事で収める。柴崎は反撃の言葉を返してくるかと思いきや、慎一の言葉を普通に捉えて、まだ言いにくそうに口ごもる。

「違うの。そんなんじゃなくて・・・あのね、ニコ、今デートしてるの、ハーフの男の子と。」

「・・・は?」

デート・・・・・・男と女が日時を決めて、会って、遊園地に行ったり、カラオケしたり、ショッピングをしたりする。あの?

ニコが最近、頻繁に会ってデートしているという男は、スターリンで再会したフランス在住時の友人。日本人とフランス人のハーフの、モデル並の容姿をしていると柴崎は言う。二人はフランス語で会話をしていて、柴崎も入れない良い雰囲気だという。

ニコが海外在住時に、どんな友達と居て、どんな生活をしていたか、慎一は聞いたことがなかった。フィンランドの文化的な話は聞くけれど、ニコ自身の生活がどんな風だったか聞いたことがなかった。そもそも、ニコは自分の事を語りたがらないし、語らない原因は、帰国後の東京でのイジメから始まった栄治おじさんが死んだ最悪の1年半が、そうさせているのは間違いがなかったから、慎一は意識的に聞かないでいた。

慎一の知らないフランスでのニコを知っている「グレン」とか言うまだ顔も見たこともない男に、慎一は嫉妬する。

「大丈夫?」

「うん?あぁ。」

「黙っておこうとも思ったんだけど。」

「いや・・・まあ。」

「覚悟するなら早い方がいいと思って。」

「覚悟?」

「そう、ニコがあんたを必要としなくなる時の、覚悟よ。」

ニコが俺を必要としなくなる?



『新田君の事が好きです。』

そう告白してくる女子達、彼女たちが、「好き」と言う言葉を口にするたび、慎一の中で、「好き」と言う言葉がチープな感覚になっていった。告白してくる女子とは、誰とも付き合うつもりはなく、サッカーの事しか頭にないと断り続けていた。

ニコとの関係に納得のいかない子も中には居て、ダイレクトに真辺さんと付き合っているから?と聞いてくる女子や、聞かないまでにも、その顔が疑いの表情であるのはありありの、そういう女子達に誤魔化し口を濁すと、面倒なことが長引くだけだとわかってきてからは、最初から正直な気持ちを言って断っていた。

『付き合ってはいないけど、俺にとっては子供の頃からの大事な人なんだ。』

これを言えば、彼女たちは、たいてい何も言わなくなった。

ニコが慎一の事をどう思っているかは、慎一自身全くもってわからない。二コの気持ちを必死で知ろうと思った時期もあった。だけど、去年の文化祭以降、ニコが自分をどう思うかなんて、どうでもよくなった。

ニコは言った。

『りのと呼ぶ声は死のうと、ニコと呼ぶ声は生きろと、ずっと聞こえていて、自分はどっちなんだろうかと。』

死のうとする意識と、生きようとする意識とでさまよい続けているニコ。

好きかどうかの意識の問題じゃない。

「生きてほしい」とあの時、切に願った。それ以上は何も望まないから。

素直にそう思った気持ちを言った直後に、慎一は後悔した。

「生きる」事は辛い事。生きづらいこの世界に、慎一は自分のエゴでニコを引き留めてしまったのではないかと。

「新田、あんたが、ちゃんと言ってあげないからよ。」

「何を。」

「何をって!自分の気持ちをよ!ニコを好きな気持ちを、ちゃんと言葉にしないから。」

「俺は・・・これ以上、そんな言葉でニコを縛りたくない。」

「そんな言葉って!」

彼女たちと同じ『好き』なんてチープな言葉でニコを縛りたくない。もう既に、「生きて」なんて言葉で、エゴで縛ってしまっているから。

「好きの言葉以外に何があるのよ!」

「・・・・・・」

どんなに探しても慎一のニコに対する想いの言葉は見つからない。「好き」という感情を飛び越えて、「愛」とも違う、当てはまる言葉を探せば、やっぱり「幼馴染」に巡り戻る。

幼き頃に馴れ染みた仲に、それ以上に染まることなく。いや、それ以上に染まれない、染まってしまってはもう後には戻れない。

「グレンは、言葉多彩よ。ニコもそれを望んで耳を傾けているわ。」

ニコが、慎一の言葉ではなくグレンの言葉を望み、耳を傾ける。

それはニコが、慎一が「生きて」と縛った世界ではなく、また別の世界。

それは、それでニコにはいい世界だろうと慎一は思う反面、辛い世界に寂しく佇む残された感を、強く感じだ。

ニコが慎一を必要としなくなる時と、

自分がニコを必要としなくなる時は、同時じゃない。

それを今、痛烈に実感した。

そう、慎一は、ニコが生まれてから、ニコを必要としない時なんて一時もない。





新田とニコちゃんの態度が対照的だった。ニコちゃんはアルバイトが楽しいと満面の笑みで居るのに対し、新田は、そんな満面の笑みのニコちゃんから視線を外し、グレンと言う存在を意識的に考えないようにしている。新田はメンタルが弱い。何か悩み事があると、それがすぐサッカーに影響する。一年の時は、それでレギュラーを落とされたぐらいだ。

部長となった今では、流石にクラブ内に私情を持ち込むことをしなくなったが、それでも細かいミスをして、亮がフォローをする。

柴崎は、最初、新田には黙っておこうと思ったらしい。柴崎もメンタルが弱い新田が、グレンの事を知ればサッカーに影響する事を知っている。全国大会が迫る時期悪いタイミングで知られるより、そして、柴崎自身の精神がもたなそうだと判断した。ニコちゃんに了解を得ず新田に話してしまって、わずかな罪悪感に悩んだ柴崎が、半ば助けを求めて亮に電話してきたのは、その日の夜。次の日から、柴崎はスターリンに行かず、学園に新田の様子を見に来る方が多くなる。

「今度ね、スターリンのジュニアスクールで夏祭りをするの。キンダークラスの子供たちも、そこに遊びに行くの。あんた達も来る?」

「行けるのか?」

「ええ、うちの学園祭みたいにね、近所の方々にもオープンにしているんだって。園長から、ぜひフレンド連れて遊びに来てと言われてるから、見たくない?グレンを。」

見たいと言えば見たい。モデル並の容姿だというグレン。ニコちゃんが選んだ男。

見たくないと言えば見たくない。新田以外の男といい感じで寄り添うニコちゃんを。

グレンは、柴崎すら入れない程に密着して、その振る舞いは日本人には真似できない紳士ぶりだと言う。

夏休みは陸上部とフィールドを分け合う。スターリンの夏祭りは、タイミングよく午前だけの練習日だった。渋る新田を柴崎は強引に誘う。柴崎の考えでは、さっさと現実を見せて見切りをつけ、サッカーへと意識を向けさせたがっていた。亮もその考えに同感だ。心に深い傷を負うが、諦めは回復を早める。

その夏祭り当日、柴崎とニコちゃんは朝からスターリンへ行っていて、子供たちの世話をした後、午後からジュニアスクールのある場所へ同行するという。

亮と新田は練習を終えた足でスターリンへ向かう。道中、特に話すこともなく静かだった。

スマホの地図を頼りについた場所は、スターリンしかテナントが入っていない貸しビルだった。インターナショナルスクールであるスターリンは、日本の文部省の管轄ではない為、運動場もなく、学校というよりカルチャースクールの様だった。

ビルの外の入り口に、手作りのサマーフェスタと書かれた看板が置かれてあって、〈一般の方もご自由にお入りください〉と書かれてある。ロビーに入ると当然の事だが、外国人の親子連れが多数いて、飛び交う英語に新田の顔が固まった。

ピンクのアフロヘアのかつらをつけ、ピエロのメイクをしたスターリンのスタッフらしき人が、ピンクウェルカムとハイテンションで、3階にまず上がり下へ降りるよう勧められる。エレベーターに乗り込むと新田が一時間ぶりに口を開く。

「ふ、藤木、ここでの会話は、お前に任せた。」

「何、言ってんだよ、お前ちゃんと聞き取れていただろう。ニコちゃんのおかけで全く、わからないって事もなくなったじゃん。」

「まぁ、さっきのぐらいなら聞き取れたけど、しゃべれない。」

「英会話なんて気合いだよ気合い。文法なんて考えずに、単語を並べれば相手が組み合わせて理解してくれる。」

「それは、いつもニコに言われてるから、わかってるけど・・・」

ニコちゃんの名前が出た途端、表情を曇らせた新田に、亮は溜息をつくしかなかった。

新田の中でいろんな思いが渦巻いている。だからと言って気の利いた言葉も思いつかないし、言ったところで新田の心に届かない。

エレベーターの扉が開くと、柴崎の「やめなさい!」と言う、甲高い声が聞こえ来た。

夏祭りにふさわしく浴衣に着替えている柴崎は、男の子数人に取り囲まれて、子供たちのヨーヨー襲撃にあっていた。

子供たちを叱って追いかける柴崎は、もう英語なんて使っていない。

「あぁ、藤木、新田、お疲れ。迷わなかった?」

「大丈夫、スマホのナビを使ってきたから。」

英「だれだ?」

柴崎は、群がる子供たち無視をして新田の顔を覗き込む。

「新田、大丈夫?」

英「れいかの男か?」

「こいつ、ロビーでもう、アウトだぜ。」

英「ボーイフレンド?どっちが?」

「ここは踏み込んでは、いけない領域だ。」

英「二人ともじゃないか?」

「ニコちゃんは?」

英「やるな、れいか。」

「あっちの部屋の、さっきは子供たちとポップコーンの所にいたけれど・・・どこに行ったかなぁ。」

英「なぁ、なぁ、れいか」

「例のグレンといるのか。」

英「れいかってばぁ・・・どっちとキスした?」

「えぇ。ずっと。・・・・・ってあんた達!うるさい!大人の話に割り込んでくんじゃないわよ!」

柴崎がキレて子供たちを蹴散らす。

英「ギャー、れいかが怒った!にげろ!」

「・・・・お前、完全に遊ばれてるな。」

「英語は、どこにいったんだ?」

「あんたに言われたくないわ!」




柴崎は、今流行りの、レースが帯や襟に誂えている浴衣に、足元は子供たちの世話するのに歩きにくいからと下駄じゃなくてサンダルを履いていた。外国人の家族にキモノ、ビューティフル! と頻繁に声をかけられていて、時折、写真も一緒にとカメラを向けられていた。この日の為に浴衣を新調して良かったと言った柴崎に対して、たった一日の為だけに買うとはありえんと、新田に突っ込まれ、ちょっとした言い争いになるのを亮が止める。完全に新田の八つ当たり、ニコちゃんの姿をまだ見ずしてこの状況に、亮はため息を吐く。

ニコちゃんがいるであろう、ポップコーン売り場のある部屋に行ったが、居なかった。どうやら下の階に移動したみたいだ。

エレベーターを使わずに階段を降り、にぎやかな廊下へと歩み出る。

ニコちゃんは降りた階の廊下で、外国人の家族連れと会話を楽しんでいた。ニコちゃんも柴崎と同じく浴衣を着ている。柴崎のように流行の浴衣ではなく、昔ながらのシックな紺色で花火柄。もう解決したが、曰くつきのえりりんのお古だ。その後、えりりんは、ちゃっかり新しい浴衣を親に買ってもらったらしい。ニコちゃんは、弓道で和装を着慣れているせいか、背が低いながらも、凛として目を見張るものがある。足もちゃんと下駄を履いて、大和撫子という言葉がぴったりくる。おそらく柴崎と同様、朝から外国人に何度も声をかけられたり、写真を取られたりしているだろう。

「ニコ、新田と藤木が来たわよ。」

柴崎の呼びかけにニコちゃんは振り向き、相手していた外国人家族との会話を終わらせ、しとやかに歩み向かってくる。そして新田の姿を見るなり、「帰った方が良くない?慎一。」と言う。その意味は、英語が飛び交うこの場所に英語アレルギーもどきの新田を心配しての意味なんだろうけれど、別の意味も含まれるそうだ。

「まぁまぁ、これでも新田は上達してるよ、さっきも案内係の言ってた英語、聞き取れてたし。」

「そう?まぁ、無理しない程度に、ごゆっくり。」

そう、微笑するニコちゃんを、呼ぶ声。

仏「飲み物、買って来たよ、向うで休もう。疲れただろ。」とにこやかに現れた金髪の青年。こいつがグレン。柴崎の言う通り雑誌から出て来たような美少年だった。外人の鼻の高さ、色の白さ、薄茶色の目、日本人が憧れてコンプレックスを抱くすべての物をグレンは持っている。辛うじて身長だけは、亮も新田も負けていなかった。

仏「あれ?友達?」

仏「ええ、学校の同級生、紹介するわ。新田慎一と藤木亮、二人共サッカーをやってる。」

「彼は、グレン・ユーグ・佐藤。同じ年で、私がフランスに居た頃、同じマンションに住んでいた友達。」

「ハイ、慎一、亮、よろしく。」

とその整った顔をほころばせたグレン・ユーグ佐藤は、ニコちゃんにジュースの入った紙コップを預けて握手を要求。新田が、その顔立ちに圧倒され、握手の手出せないでいるのも遠慮なく、人懐っこく手を取り握ってくる。

グレンを含めた亮達は、休憩室へと向かい、部屋中央の空いたテーブルに座った。グレンは気前よく、各教室で売っている軽食やジュースを亮たちの分も買って来て並べてくる。そして、グレンから繰り出された話題も、亮達を気遣いサッカーの話をし、自分が応援しているチームはどこかとか、フランスのチームには、スター性のある選手が居ないだとか、外国人によくある身振り手振りを大きく、表情豊かに話す。グレンは父親が日本人である為、日本語のヒアリングはできるが、話すとなるとたどたどしく、日本と同様に学校で習う英語も、二歳の頃から習わされた亮より下手だった。ニコちゃんは英語の苦手な新田の為に逐一、グレンの言葉を日本語に訳し、グレンの日本語と英語フランス語の混じる言語を、器用にそれぞれの言語で正して、笑う。

亮は初めて見て驚く、ニコちゃんの満面の笑みを。そして、亮は確信した。ニコちゃんは完全にグレンに恋をしている。新田も気づき嫉妬の本心を心に宿す。が、グレンとサッカーの話題で盛り上がるにつれ、次第にそれは消えていき、負けを認め諦めた。認めざる得ない程に、グレンは好青年だ。

30分ほど、そうして休憩室で話をしていたら、一人の女児がニコちゃんの名を呼び腕を引っ張る。

英「キャシー、あっちで、雲のお菓子食べたいの、ニコ、ついてきて。」

英「いいよ。一緒に行こう。」ニコちゃんは笑顔でキャシーと言う女の子に答えて席を立つ。

「皆、私、行くから。」

「あぁ。」

「ニコちゃん、アルバイト頑張ってね。」

「うん、ありがと。」

仏「りの、僕も行くよ。」 

「慎一、亮、また、話ししよう。じゃ。」たどたどしい日本語を言ってグレンも席を立つ。

そしてニコちゃんを追いかけて腰に手を回した。二人の姿は完全な恋人同士。




   

グレンと話すニコは、本来のニコの姿、おしゃべり好きで人気者だった、昔のニコニコのニコ。

ニコが満面で笑う姿を、慎一は9年ぶりに見た。

グレンは本来のニコと友達になり、この日本で再会後、すぐにニコの笑顔を取り戻した。

慎一に出来なかった事をグレンは、あっさりとやってしまう。完敗だ。

言葉を探す自分が滑稽に感じた。

好きとか、特別だとか、幼馴染とか、目に見えない括りに拘った躊躇が、結果を出せない無力な自分へ言い訳だったと思い知らされた。ニコの笑顔にさせるのに必要なのは、拘りじゃない。沢山おしゃべりが出来る環境、現実。

慎一はそんな普通の事を存分にしてあげられなかった。日本語にコンプレックスがあるニコと、英語にコンプレックスを持つ慎一。

再会した時からずっと、すれ違っていた。

「新田、どうするつもりなの?」

「どうって・・・何もするつもりは・・・。」

「柴崎、その質問は無意味だろう。ニコちゃんが、他の男と仲良くしているからって、そいつから引き離すわけにいかない。」

「そうだけど・・・・今からでも遅くないと思う、新田がちゃんと言えば、ニコだって。」

「柴崎、ありがとな。でも、もういいんだ。ニコが必要なのは俺じゃない、グレンだ。」

そう言ったものの、もしかしたら、柴崎の言う通り、ちゃんと言えばニコは・・・と、

まだ悪あがきをしてしまいそうになる自分の心に嫌気がさした。





「ご飯要らないの?そう、わかった。遅くならないうちに帰ってらっしゃい、何だったら、駅まで迎えに行くわよ。・・・・・ そう。わかった。はい。」

母さんの話し方で、ニコからの電話だとわかった。

「ニコちゃん、今日は来ないって、お友達と外で食べてくるって。柴崎さんかしら。」

スターリンの夏祭りから3日経った今日は、さつきおばさんが夜勤の日で、ニコはアルバイトが終わったら新田家に帰ってくる日だった。柴崎は、最近スターリンには行っていない。今日も学園に来ていたから、ニコが晩御飯を食べる相手というのは柴崎ではなく、グレンだろうと憶測する。母さんたちはニコが男とデートをしている事を知らない。

夕飯の後、サッカーボールを手に慎一は家を出た。暇な夜はこうしてジョギングをしたり、公園でリフティングをしたりしている。妹のえりは、そんな慎一に「ほんとサッカー馬鹿、まだやるか」と呆れて貶すが、ソファとテレビのチャンネルを一人占めできるのだから、文句よりも感謝されていいはずだと慎一は思うのだけど、新田家で女に歯向かうのはご法度だ。

ジョギングするなら国立公園の丘へ向かって走る、リフティングメインの時は、近くの公園がトレーニング場所だった。しかし今日はどっちの方向にも向かわず、県道168号線を超えてニコのマンションをさらに過ぎた先の公園に足を運んだ。

この公園は、東静線東彩都駅とニコのマンションの間にある。大きなどんぐりの木や銀杏の木が生い茂り、その枝葉が影を作り夏は周辺住民のちょっとした避暑地となっている。だけど夜は外灯が木にさえぎられて暗く、人通りもなくなる為に痴漢が出るなどの物騒な話が耐えない。母さんが、いくら近道だからって夜はこの公園を通らないのよと、ニコやえりに頻繁に注意していた。

慎一は、その公園でリフティングをして時間をつぶした。人が通る度に、ニコがここを抜け道にして通る危険性を危惧しながらも、会える期待もしている自分が居る。

そんな慎一に、きっとニコは怒るだろう、要らぬお世話だと言って。でも慎一には心配しかできない。





グレンのフランス語が耳に心地よい。グレンが、RINOと呼ぶ度に、私はフランスに居た頃の「りの」に戻れる気がする。

あの、何の罪もなかった芹沢りのに。

仏「りの!久しぶり!元気にしてた?」

仏「マリーおばさん、お久しぶりです。」

仏「りの、変わらないわね。」

スターリンのアルバイトを終えて帰ろうとしたとき、グレンから、グレンのママ、マリーおばさんが会いたがっているから、家で晩御飯を食べようと誘ってくれた。今日は、ママが夜勤の日、新田家で晩御飯を食べる日だったけれど、電話して要らないと断った。

食べることに興味はないけど、やっぱり一人のご飯は寂しいし、おいしくない。私はグレンの誘いに喜んでオーケーした。

マリーおばさんは私を笑顔でギュッとハグをする。久しぶりに会うマリーおばさんも変わっていない。 

雨の日は、近所の子たちの家を行き来して遊んでいた。マリーおばさんはお菓子作りが上手で、部屋はいつもバニラの香りがしていて、よく手作りのクッキーやケーキを私達にふるまってくれていた。

お邪魔したグレンの日本の家は、スターリンから3駅離れた徒歩5分ほどの場所にあるマンションだった。扉を開けると部屋の奥から、やっぱりバニラの香りが漂って来た。

マリーおばさんのフランス料理は、秀治おじさんの繊細で豪華な味とは違う、一般的な家庭料理、とても懐かしい優しい味。

懐かしい人と懐かしい味と懐かしい言葉、

フランスで過ごした日々の思い出話が、食事を更においしくする。

あっという間に楽しい時間は過ぎていった。

また、いらっしゃいとマリーおばさんは、私を包み込んで別れの笑顔をくれ、グレンが駅まで送ってくれる。

通りすがる人たちは、私たちが会話する異国の言葉に驚いて、振り返り、奇異の視線がどこまでも追って来る。普段なら嫌な気持ちになる所だけど、何も気にならなかった。あれほど、他人の眼を恐れ、自分の存在を消す事で回避してきた私だったのに、グレンと居れば、そんな視線も跳ね返す力になる。逆にフランス語を話せる高揚と自尊心に胸を張れる。

ずっと、ずっと、したかった。躊躇いなく言葉がスムーズに出てくる会話。

怯えず、笑って話せる、その当たり前の幸せが、グレンと居れば存分に出来る。

仏「りののキモノ姿、可愛かった、もう一度みたいね。」

仏「あれは着物じゃないって、あれは・・・昔の寝巻になるのかぁ?」

仏「ねまき?」

仏「あっいえ、私も良くわからないけど、本当の着物じゃない事は確かよ。それに、私は着物を持っていない。」

仏「そうなの?」

仏「そうよ、着物は特別の日しか着ないから、持っている日本人は少ないわよ。」

仏「どうして。」

仏「どうしてって・・・じゃ、フランス人は皆マリーアントワネットみたいなドレスを皆が持っているの?と、私が言うのと同じよ、それ。」

仏「あぁ、そうか。」

仏「フフフ」

仏「りのは、変わらない。ずっと昔から可愛い。」

短くなった私の髪をつまんでくるっと回すグレン。そして、その甘い言葉に私は素直に受け止める。

仏「グレン・・・・。」

駅まで数メートル、終業した企業ビルのシャッターの前で、交差点の信号待ち。私たちは見つめ合った。

髪を触っていたグレンの手が頬にうつる。

仏「好きだった、りの、ずっと。今も、これからも。」

グレンの手に誘導されるように私はグレンに寄り添った。

グレンの白い肌はマシュマロのように滑らか。

淡いブラウンの瞳は、メープルシロップを固めたように美しい。

唇は・・・

  リノ、ドウシテ、ソノテヲ、フリハラウ

ふいにあの声が、頭に響く。

昔から、変わらない?本当に?

グレンは、昔の私を求めている。罪のない、変わらないりのを。

父を殺した私は、もう昔のりのと同じじゃない、成長が止まって見かけは4年前と同じでも、私のこの手は、この口は、父を死に追いやった。もう、グレンが好きでいた、「りの」じゃない!。

顔を落とした私に、グレンが心配そうに顔をのぞきこむ。

仏「りの?」

仏「ごめんなさい。グレン。私・・・・。」

グレンの目を見られなくなった。手が震える。

グレンは、私を強く抱きよせた。

その強さに、ごめんなさいと何度もつぶやいた。






遠くから救急車のサイレン音が聞こえてくる。子供の頃から何十回と聞く馴染みのあるはずの音なのに、聞くたびに不安になるのは何故だろう。そのサイレンが決心させてくれたように、慎一は帰ろうと決めた。もう9時半を過ぎた。ニコはちゃんと言いつけを守って、ここを通らず、家に帰ったのだろう。

一度大きく天にあげたボールを手に受け止めた時、公園に入ってくる人影を目の端でとらえた。

ワンピース姿のニコ、ずっとうつむいて、慎一が居ることにまだ気づかず、トボトボと歩いてくる。

落ち込むような何かが、あったのだろうか?

スターリンのバイトを始めてから、いや、グレンと再会してから楽しそうに、俯く姿なんてなかった。

どう声をかけるか、慎一は言葉を探す。気の利いた言葉なんて思い浮かばない。

10メートルの近さまで来て、自分の感性に任せて口を開いた。

「夜は、ここを通るの駄目だと言われているだろ。」感性のなさに落ち込む。

慎一の声でびっくりしたように顔を上げたニコだが、その顔はすぐに渋い表情に変わった。

「待ち伏せか。お前が不審者だろ。」

「俺は心配して。」

「ほっといて!頼んでない!」

怒らせる事しかできない自分が、ほんと嫌になる。

「ニコ・・・」

「ニコって呼ぶな!」

グレンは一瞬でニコを笑顔にさせたと言うのに。

「グレンと、何かあったのか?」

「慎一には関係ない!」

そう言って、走り過ぎようとするのを、思わず腕を掴んで止めた。

「だから、危ないから迂回しろって。」

「はなせ!触るな!」

慎一が掴んだ腕を、力いっぱい振り払うニコ。予想以上に強い力に慎一は驚いて、慌てる。

「ニコっ!」声が、公園の木々を抜けて、立ち並ぶマンションの壁に反響した。

「聞いてくれ!俺は、お前の事、す・・・」

やっぱり言えない。「好き」はあまりにも軽い。そうじゃないんだ、好きよりも、もっと・・・

言葉に出来ない想いがある。

足を止めたニコは、言葉探しきれずに口を噤んだ慎一を睨む。

慎一は深く息を吐いてから、思いを吐きだした

「俺は、心配する事しかできない。グレンのように、ニコを笑顔にしてやることが出来ないから・・・決めたんだ。」

「・・・・・」

「ニコが選ぶ物すべてを認めて。俺はずっと変わらずニコの心配をする。」

それが俺が出来る、唯一の事。

「・・・・きらいだ・・・・。」

えっ?

ニコの体がわずかに震え、頬が引き攣っている。 

「ニコを求める慎一が、きらいだ!ニコじゃない自分がきらいだ!日本語がきらいだ!みんな、みんなきらいだ!こんな、もどかしい自分が嫌い!全部、全部、大きらいだッ!」     

ニコの涙の叫び、

は、湿った風がさらって、マンションの壁に反響した。




   

    

あの声は、どこまでも追いかけてくる。

あの声は、私に幸せになってはいけないのだと警告を発する。

ほら、遠くから聞こえてくる救急車のサイレン。

グレンと居れば、何もかも怖くないと思ったのに・・・何もかもの中に私は含まれない。

自分が怖い。

家までの最短距離となる公園を、いつものように突っ切る。ブランコの前で突然の声に顔を上げた。

「夜は、ここを通るの駄目だと言われてるだろ。」

慎一・・・

「待ち伏せか。お前が不審者だろ。」

(どうして、ここにいる?)

「俺は心配して。」

「ほっといて!頼んでない!」

お節介の慎一に、ほんと嫌になる。

「ニコ・・・」

「ニコって呼ぶな!」その名は、私ではない。

「グレンと、何かあったのか?」

グレンの名を親しげに使うな!グレンは私だけのもの。

「慎一には関係ない!」

慎一に腕を掴まれる。

「だから、危ないから迂回しろって。」

「はなせ!触るな!」

強い嫌悪が体を走る。そこはさっきまで、グレンが抱きしめてくれた場所。

「ニコっ!」予想以上に大きな声を出した慎一に驚いて足を止めてしまった。

「聞いてくれ!俺は、お前の事、す・・・」そう言って顔をしかめる慎一。

先の言葉を、不愉快に湿った風が遮る。

慎一は深く息を吐き出した。

そんな顔で息を吐くほど苦しいのなら、私の事なんて構わなければいいのに。

「俺は・・・心配する事しかできない。グレンのように、ニコを笑顔にしてやることが出来ないから・・・決めたんだ。」

「・・・・・」

「ニコが選ぶ物すべてを認めて。俺はずっと変わらずニコの心配をする。」

慎一の心配は、忘れかけた罪を意識させる。

慎一の、もっと食べろという言葉が、成長の止まった私を責め立てる。 

「・・・・きらいだ・・・・。」

慎一が呼ぶその名は、笑えない私を責める。

慎一が求めているのはニコニコのニコで、笑わない成長の止まった私じゃない。

「ニコを求める慎一が、きらいだ!ニコじゃない自分がきらいだ!日本語がきらいだ!みんな、みんなきらいだ!こんな、もどかしい自分が嫌い!全部、全部、大きらいだッ!」     

私の叫び、は、公園の木々を抜けて、立ち並ぶマンションの壁に反響した。

たまらなく駆けだした。

慎一は追ってこない。

ほっとしながらも、わずかに寂しく思う身勝手な自分が居る。

無垢に笑えたニコニコのニコ、

毎日が楽しくて仕方がなかったりの、

どっちの私にも、戻れない。

誰も今の私を認めないくせに、ほっといてくれない日本は、

生きにくくて、大嫌い!





弓道の練習日だというのに、ニコは学園に来ない。麗香はスターリンのアルバイトについていくのを、夏祭り以降やめていた。

グレンといい雰囲気なニコを見たくないってのが理由だけど、新田の事も心配だった。メンタルの弱い、特にニコの事になると覿面に弱くなる新田は、サッカー部の部長。早くも遅くも、私情がサッカーに影響するのを避けられないのなら、全国大会の予選も始まらない今のうちに、覚悟をしておいた方が良いと判断した麗香のお節介だったけれど、意外にも新田は冷静だった。

そんな取り越し苦労な結果が、麗香特有の身勝手さが露呈した様で落ち込んだ。新田個人の気持ちより、学園のサッカー部の成果を心配したのだ。学園の繁栄を常に考えてしまう。

麗香はこの学園の生徒でありながら、この学園の所有者。

そうした思考で出てしまう言動に、麗香は最近、自信が持てなくなっていた。

学園最強のお嬢様、この学園のすべては自分の物で、何をしても許される特権は日常の当然だった日々の方が、麗香自身は楽だった。楽だったけど、楽しくなかった。

麗香は携帯を取り出して、ニコの家に電話をする。出たのは、今日は仕事が休みなのか、それともまだ出勤時間じゃないのか、りののお母さま。

「朝から練習に行くと学校に出かけたけれど?」

あれ?

「あっ、すみません、私、勘違いしていました。今日は練習のない日だと思って。」

「あらら、そう。柴崎さん、いつもありがとうね。りのと仲良くしてくれて。」

「いえ、そんな。」

ニコのお母さまは、いつもそう言って私に頭を下げる。きっと今も電話の向こうで頭を下げている事だろう。お母さまもずっと心配して苦しんでこられた。娘に友達が出来た事がよほどうれしいのだろう。

「失礼しました。学校に行ってみます。」

「わざわざ、ごめんなさいね。」

電話を切った。朝から練習・・・間違いじゃない。でも弓道場には居なかった。麗香は、更衣室へと向かい覗く。居ない。ニコの荷物らしき物もない。ニコの弓道着を入れる袋には麗香があげたテデイベアのマスコットキーホルダーがついているから見ればわかる。

近くのトイレも覗き、もう一度屋上の弓道場を覗く。やっぱり来てない。麗香はカバンからアルバイトの日程表を出してみる。やっぱり今日はアルバイトは無い日で、弓道の練習日。

スターリンから特別に来てくれと言われたのかしら?と麗香は首をかしげる。

それは考えにくい事だった。ニコが弓道部の練習もやらなくちゃいけない事はスターリン側も知っていて、凱兄さんは、抜かりなくスターリン側と話し合ってシフトを組んでいる。

麗香は、駆け足で階段を降りた。嫌な予感がする。

玄関ロビーの靴箱ロッカーを駆け抜け外に出たら、藤木が図書館の小径から歩いてくる。

「藤木!」

「柴崎!」

「ニコ(ちゃん)知らない?」

声が重なった。藤木もニコを探していた。

意外に冷静だった新田が、今日、急に落ち込んで練習にならないと藤木は言う。

「夏祭りの後でも、新田は気丈に部長業をやっていた。だけど急に、今日は駄目駄目だ。あいつ、俺を避けるように顔を向けないから、装ってもバレバレだっつうのによ。そもそも沢田たちすらも、どうしたんだって聞いてくるぐらいだってのに。」

昨日、新田家にニコが晩御飯を食べに行く日だと知っていた藤木は、ニコに何があったか聞こうと、麗香と同じく弓道場に行ったけれど居なくて、その後図書館を見に行ったらしい。図書館にもニコは居なかった。

「私、ニコの家に電話したの。朝から練習に行くと家を出たっておば様に言われたわ。」

「それって・・・」

「今日はスターリンの日じゃない。もしかして、スータリンが緊急に来てくれって言われたのかもって考えたのだけど・・・」

「それだったら、正直に言うだろう。嘘つく必要がない。」

「そうね。」

「柴崎、グレンの携帯番号とかメール、知らないのか?」

「知らないわよ。番号交換するほど仲良くなってないし。」

「スターリンに確認とれ、居れは何も問題はない。」

「ええ。」

「だけど、居なかった場合は・・・」

藤木は運動場で一人ドリブルをしている新田へと顔を向けた。目を細めてしばらく考え事をする。

「グレンの連絡先を教えてもらえ。」

麗香は携帯電話のアドレス帳からスターリンの番号を探し出す。

「うまく誤魔化せよ。ニコちゃんの所在を探してるなんて、悟られるなよ。」

「わかってるわ。」

コール5回で出たのは、学長だった。スクールの規模を考えたら、学長も事務を兼務しなければならないのだろう。麗香が挨拶に言った学長室は、応接セットの上にも書類やファイルが積み上がっていた。

麗香は先に、グレンが学園に来ているかどうかを聞いた。上手くすれはこちらから聞くまでもなく、ニコの所在が分かるかもしれないと思ったからだ。案の定、話し好きの学長は「今日はあなた達が居なくて寂しいわ」と言ってニコがスターリンに居ない事を知らせてくれる。グレンもスターリンに来ていない。麗香は、グレンともう一度話がしたいと望んでいる友達がいると言って、グレンの家の電話番号を聞き出した。

「やっぱり、スターリンにも行ってなかったか・・・」

藤木は顔を包み込むように両の眉間を指で押さえてうなだれる。

考えた事は藤木と同じ、おそらくニコはグレンの所へ行っている。

「ニコちゃんと新田の間で何かあった。ニコちゃんは嫌気がさして、弓道の練習をサボって、おそらくグレン所に。」

「ええ・・・」

「何があったか、新田に聞くしかないか・・・」

「でも、新田にこれ以上、グレン絡みの話をしていいの?。」

「仕方ないだろう。あの後悔は、完全に新田のせいなんだから。」

「後悔?」

「あぁ・・それ以上は、落ち込みと後悔が酷過ぎて、濃く重なりあって読み取れない。」

藤木の本心を読み取る世界って、一体どんな物なんだろうと、麗香は思う。




 

あんなに、望んだ慎ちゃんとの学園生活、血を吐きながら声を出す練習した日本語。やっと一緒に居られる。そう思った現実は、想像以上にきつい。吃音交じりの無様な日本語を話す私を見る奇異の目、常にトップの成績でないと学園に居る事は許されない気の抜けない日々。他生徒の見本になれとの学園側の期待、それに反して、特待制度に嫌悪する皆の態度。度々思い知らされる恵まれた生徒達との経済力格差。それらは、東京で経験したイジメとはまた違った重圧だった。

どんなに辛くても、慎ちゃんと同じ場所にいれば、昔のようにニコニコのニコに戻れると、そう思っていた。

だけど、戻ったのはパパを殺したりのの過去。

罪をもう一度重ねた。あれから慎一は変わった。

私を心配だという目は、罪を重ねた私を責める。

慎一だけじゃない、柴崎も藤木も。

皆との差は身長の差だけじゃなく、精神的にも広がる。

バスに乗ったものの、学園に行く気になれなかった。慎一や藤木に会いたくない。柴崎にも。

学園前でバスを降りずに、先の香里市の駅前で降りる。電車に乗ってグレンの家へと足が向いた。

私の罪を知らないグレンは、昔の私を求めている。もういない過去の私を。

それでもニコニコのニコを求めて、変わる事を要求されるよりは、ずっといい。

グレンの声は、その罪を消してくれるような気がした。

仏「RINO!」

仏「グレン・・・・」

仏「おいで、中で話そう。」

ほら、この心地いいフランス語が、私の罪を浄化してくれる。






ニコは、グレンの家に居た。夕方、柴崎に促されてニコを迎えに行く。それをしなければならない意味が慎一にはわからなかった。だけど、しない、行きたくないと柴崎に抵抗する気力が慎一にはなかった。

迎えに行けば、きっとニコは顔を歪ませて睨むに違いない。もうどうでもよくなった。もう既に、はっきり嫌いだと叫ばれているのだから。

柴崎が呼んだタクシーでグレンの家に向かう。

やっと傾いた太陽が夕日に変わりつつある。

タクシーを待たせたまま、グレンのマンションに入る。エレベーターが最上部で止まっていたので、慎一は階段を駆け上がった。グレンの家は2階だったからエレベーターを待つより早い。柴崎も黙ってついてくる。

207の呼鈴を押したのは柴崎で、事前に行く時間も伝えてあったから、問題なくグレンが扉を開けて出てくる。

グレンに促されて、ニコも出てきた。

仏「RINO、皆が迎えに来てくれた。今日は、もうお帰り。」

「ニコ、帰ろう。」柴崎が、ニコに手を差し出し促す。慎一の予想とは違い、ニコは睨みもせず、帰らないとも言わず、素直に応じた。

ただ、慎一に一切顔を向けない。

待たせてあったタクシーにニコと柴崎が乗り込むのを見届けて、自分は助手席に乗ろうとドアに手をかけようとしたとき、グレンが慎一の名を呼ぶ。

「慎一、君に、聞く、もの、ある。」

「俺に?」

「少し、いい?」

一緒に帰らなければ困るような場所でもない。タクシーに乗るほどの金は無いけれど、電車代ぐらいは持て来ている。

悟った柴崎が「先に帰ってるわ」と言って、運転手に行先を告げた。ドアが閉まり、走り去るタクシーを見送り、グレンが口を開く。

英「歩こう。」

グレンの誘導で、マンション前の大通りから外れて歩く。途中で、グレンは自販機で缶のミルクティーを買う。「これは、面白い。フランスに、欲しい。」と言って、慎一の分も買って寄こす。グレンはミルクティー代を受取らなかった。

数メートル歩くと、両サイドをマンション挟まれた小さな鳥居が現われた。社には稲荷神社と書かれてある。石の鳥居の柱にグレンは背を預けて、ミルクティーのプルトップを開けた。神社に来て、まずもって拝まずに何かをし始める事に慎一は抵抗を感じたが、グレンが鳥居の中へと入って行く気配がなかったので、仕方なく付き合う事にする。慎一も背を預けてミルクティーを開けた。

「RINO、日本、楽しみだと、言った、シンチャンは、君。」

グレンの日本語はたどたどしい。意味を詳しく聞き返していたら話は進まない。適度に頷いておく。

「慎一、RINO、なぜ? 変化ない?」

変化?ニコの容姿の事を言っているか。

確かにニコの成長は止まっている。だけど、慎一の記憶からは、ニコは変わり過ぎるほど変わってしまった。もう昔のニコニコのニコではない。それを嫌いだとニコは泣き叫んだほどに。

「グレン、逆に聞きたい。ニコ」じゃないな。ニコと言っても通じないだろう。

「りのはフランスで、どんな生活をしていた?」

質問に質問で返す慎一に頭をかしげるグレン。日本語のヒアリングは完璧のはず、意味が分からないって事もないだろう。

「可愛いかった。たくさん笑う、長い髪、バウンドして、走る、とても元気。」



フランスの家に到着した日の夕方、私はすぐに家を飛び出したの。

次に自分の住む街がどんな所か、どんな人が居るのか知りたくて。

フィンランドとは違った、高いビルが所狭しと並んでいた。

道路は石畳で、もちろん雪もなかった。外を歩いているのは大人ばかりで子供は見かけなかった。こんな走りにくい道だから、子供は遊んでいないのかと、残念に思ったの。パン屋の角を曲がった先で、公園を見つけた。公園と言ってもやっぱりフィンランドとは違う。フェンスに囲まれた・・・なんていうのかな、テニスコートにあるような緑色の素材が敷かれたコート。錆びついたベンチとバスケットゴールがあった。フィンランドでバスケットクラブに入っていたから、私、嬉しくなって駆け出した。

フェンスの入り口は鍵などなく、入ったらダメそうな看板や雰囲気もなさそう。怒られたら謝れば済む事だし、今日フランスに来たばかりだと言えば、許してくれるだろう。無知な子供の特権だと、私は躊躇いなく入った。ベンチの下におあつらえ向きにバスケットボールまである。私は一人でバスケットを楽しんだ。5分ほどした時、誰かがフェンスの向こうで叫んでいた。自分とおなじ年ぐらいの金髪の男の子、は駆けて中に入ってくる。怒っているのは雰囲気でわかったけれど、言葉が分からない。

仏「ここは、俺たちの場所だ!場所取りなんかしてもだめだ!」

英『えーと、フランス語は、わからない。私、今日引っ越してきたの。』

フランスは、英語も公用語として通じると聞いていた。私は怒っている男の子に弁解した。

英『ここ、入ったらダメだった?私、知らなくて。そう、そう言う事を教えてくれる友達が欲しいの。私、芹沢りの。』

友達を作るのは得意だった私、積極的に求めれば、相手は答えてくれる。怖いものなんてなかった。

『日本人?』

『そう、日本人よ。えっ?』

その男の子が日本語を使って、つられて自分も日本語を話している事に一瞬の間をおいて気づいた。

グレン・ユーグ・佐藤、父親が日本大使館で働いている日本人で、母親が専業主婦のフランス人。

奇遇な事に、同じマンションに住んでいた。まさか、フランスの街中で日本語を話す子に出会えるとは。

グレンは、私が別の地区から来たグループの人間だと思ったらしい。

フランスの市内では、子供が遊べる公園は少ない。ボール遊びができる場所となるとすごく少なくなる。

バスケットゴールがあるその場所は、とても貴重な公園だったようで。グレン達は他の地区から来る子達が許せなかったらしくて、学校が終わったらすぐに公園に駆け付け、場所取りをする。それが彼らの日課となっていた。グレンは、たどたどしい日本語と英語を駆使して、そう説明してくれた。そのうち、グレンの仲間が公園に集まって来る。英語が堪能でグルーブのリーダー的存在のデヴィット、そばかすがチャーミングでパン屋の娘のオルガ、ちょっと肥満気味だけどリズム感は抜群だったサミュエル、口数が少なくて一見おとなしそうに見えるけれど、怒ったら一番手の付けられなくなるレオ、男勝りに勝ちにこだわるスポーツ大好きのカトリーヌ。皆、その公園の周囲に住むバスケ好きの子たちだった。フランスでは、日本人学校に通う事が決まっていたから、私はグレン達とは違う学校だったけれど、そんな出会いからすぐに、バスケ仲間になった。

私を入れて7人の仲間と過ごす毎日は、とても楽しかった。

フランス語は、グレンが・・・ううん皆が教えてくれた。

公園に行くのを心待ちにして、学校では時計ばかり見て過ごしていた。

  



「RINO、とても早く、フランス語、話す、なった」

グレンのミルクティーを飲む姿を見て、CMみたいだなと慎一は思った。

「僕たち、楽しい、りのと友達グループ、ずっと、ずっと笑うグループだ。」

自分の知らないニコの生活、知りたかったくせに、今のニコからは想像がつかないほどに楽しい生活だったと聞くと、耳を塞ぎたくなる慎一。




愉しいフランスの滞在期間はすぐに減っていき、仲間との別れが迫る。

別れたくない、悲しい、寂しい、は笑顔の下に隠した。

仲間は、私の沈んだ顔なんて求めてない。私も泣きたくなかった。思い出は楽しい笑顔だけで良いから。

グレンに聞かれた。

仏『りの、どうして笑っていられるんだ。寂しくないのかい。』

仏『皆と遊べなくなるのは残念だと思うけど、世界から居なくなるわけじゃない、再会の楽しみが出来るわ。』

仏『いつ会えるんだよ。』

仏『それは、わからない。いつかよ。』

仏『僕も日本に行きたいよ。』

仏『ええそう、来て、日本に。そしたら、私の一番目の友達の慎ちゃんを紹介するわ。』

仏『シンチャン?』

仏『そう、慎ちゃん。日本には慎ちゃんがいる。生まれてからずっと一緒だった大好きな慎ちゃん、もうすぐ会えるの。』

  私は、フランスの仲間たちと笑顔でハグをして別れた。

  グレンは、私が笑えなくなっているのを知らない。


そう言ってニコは、苦しそうな息を吐いた。

麗香は何も言えず、握ったニコの手を上から包み握るしか、出来なかった。






「大好きなシンチャン、会えるの、楽しみと笑った。RINOスマイル、キラキラだった」

楽しみだと思ってくれていたニコに、最低な再会しかできなかった昔の自分が悔しい。グレンの話は思いのほか重く責められる。慎一はたまらなく、足元に視線を落とした。ビルの隙間から、赤く色づいた夕日の光が足元を照らしていた。

グレンはミルクティーを飲み干し、手で缶を押しつぶそうと握った。だけど、半分ぐらいしかへこまない。

「僕、ギャンブルした」

カタコトの日本語に聞き疲れて耳がおかしくなったのかと慎一はびっくりする。

「ギャンブルって?」

「今日、慎一、来る時は、RINOのパートナーに、えーと、オッケーする。」

グレンは、俺がりのを迎えに来るか、どうかを賭けていたのか・・・迎えに来たら、パートナーとして認める?

パートナーってなんだ?

「慎一、来た。RINOを好き、わかる。」

「いや、俺は・・・・その言葉を・・・」

そんなことをグレンに言っても仕方がない。

グレンは、外国人特有の仕草で慎一の先の言葉を待つ。

「りのに、嫌いだと言われた。昨日の事だ。」

「聞いたよ、りの、謝っている。」

「ニコは俺よりグレンを選んだ。ニコが大好きなのは、子供の頃の慎ちゃんであって、今じゃない。」

「それでも慎一は、来た。」

「それしかできない。俺は無力だ。」

「慎一、RINOはどうして、4年前と同じ?顔、身長、身体、同じ、髪は短くなった・・・日本人、小さいけど、もっと大きくなる。」

あぁ、グレンはそっちの事を疑問に思っていたのか。でも、どう説明していいのかわからない。柴崎や藤木にすらも、絶対言うなと言われていた事、グレンに言って良いはずがない。だから、しばらく口ごもって黙っていた。

「病気?」

「身体的なものじゃない。心の病気で、大きくなれないでいる。」

グレンが顔をしかめて、責めるような目で慎一を見てくる。

「名前が変わった、理由?」

「まぁ、そんなところ。 これ以上は言えない。りのはグレンに知られるのを嫌がるはずだから。」

「・・・・。」グレンは整った顔をゆがませた。

「グレン、あいつの事を頼む、りのはお前と一緒なら笑顔で居られる。そうなったら身体も大きくなれる。」

「慎一、それ、駄目。」

「え?」

「僕、帰る。フランスに。」




グレンを学園に招待した。どうしても私が通っている学園を、弓道をする私の姿を見たいと。グレンの要望を叶える為、私は凱さんに頭を下げてお願いをした。学園は、英語教育に力を入れていることもあり、提携海外のスクールから留学生を受け入れることがある。中等部ではあまりないけど、高等部になるとそれは盛んで、学園内に見知らぬ外国人生徒がウロウロしているのは珍しい事ではない。理事長の知り合いの海外在住のファミリーが視察して見学していることもある。

夏休みという事もあり、そんなに頭を下げなくてもかまわないよ。連れて来てあげなさい。と凱さんはオッケーをくれた。

学園に近い駅でグレンと待ち合わせをして、学園内を案内する。

スターリンのアルバイトは残りあと4回、グレンとアルバイト後に話が出来るのも後4回だけ、でも、グレンの携帯番号を知っているから、連絡を取り会える。私も携帯が欲しいと思った。アルバイトのお金で、携帯を買うのはどうかと一瞬ひらめくが、アルバイトの目的はキャンプに行くためのお金。今更、行かないなんて言えない。グレンと会ってから、もうキャンプに行きたいとは思わなくなっていたけれど、私が行かないとキャンプ自体がなくなる。そんな優しいようで優しくない気遣いも、嫌いだ。本当のやさしさは、私をほっといてくれる事なのに。


「ようこそ、常翔学園へ。僕は理事長の補佐をやっている柴崎凱斗、麗香のいとこにあたる。スターリンでは麗香がお世話になったね。ありがとう。」

「ありがとうごさいます。」グレンとお礼の言葉が重なり、顔を見合わせて笑った。

「ニコ、頼まれた通り、茶道部に話を通してあるから。先に茶道部へ行きましょう。」と柴崎はいつも通りにリーダーシップをとる。

「うん。」

ハーフとは言え、フランス在住を基本として日本の事をあまり知らないグレンの為に、日本文化を紹介するべく、茶道部も見学したらどうかと提案してくれて、生徒会を通じてくれたのは柴崎である。生徒会を通じて茶道部と弓道部の見学の許可を取ってくれていた。

柴崎が、茶道部の案内をしている間に、私は弓道の袴に着替えて準備をした。

グレンがどうしても見たいと言った弓道の袴姿。ずっとやっていたバスケを辞めてまで興味を持った弓道だと思っているグレンに、乱れた姿は見せられない。いつもより入念に服装のチェックをする。鏡の前で姿勢を正し、よしと声をかける。

屋上の弓道場に入る扉の前で一例をして入り、顧問の先生に遅れた事と、事前に話していた今日の事を改めてお願いする。

グレンを先生に紹介し、皆にも紹介をして今日は、よろしくお願いしますと頭を下げる。

時々、理事長が外国人を連れて日本の文化を見たいと弓道を見学する事があるから、外国人見学自体は珍しい事ではない。

ただ、皆がグレンの顔立ちにざわつくのが今までにない反応だった。

私はフランス語で、グレンに弓道の所作やルールを説明する。学園では、ほとんどフランス語を話す事がなかったから、私がフランス語を話す事を知ると、皆はやっぱりざわついて、フランス語まで出来るの?とか囁き、そして嫉妬の目。

人と違う事を認めない日本人のこういう気質が、大嫌い。

仏「RINO、良かったよ、RINOの弓道、素晴らしかった。」

仏「ありがとう。」

一通り、私が弓道をする姿をグレンに見せた後、私は袴姿で校舎を案内して、グランドに出た。フィールドでは慎一が率いるサッカー部が練習をしている。慎一と藤木のサッカーをする姿にも、グレンは感嘆の声を上げて掛け声を出し、慎一と亮はプロになるのか?と聞いてくる。

仏「慎一、亮、麗香、いい友達を持ったね。」

仏「うん。」

仏「これで僕は安心してフランスに帰国することが出来る。」

(え?今なんて?聞き間違い?帰国?)

仏「僕は1週間後、日本を発つんだ。また、お別れだよ、RINO。」

グレンは何を言っている?

日本を発つ?

お別れ?

グレンの笑顔が遠い景色のように見えた。

     

   


東京国際空港展望デッキで、グレンと向き合う。

来なくていいのに、ついてくる三人。皆の視線なんかどうでもよかった。とにかく離れたくない。どうして神様はこんな悪戯をするの?

こんな短い時間しか一緒に居られないのなら、再会なんてしたくなかった。

嫌だ、辛い。グレンと別れたくない。

仏「グレン、お願い、私もフランスへ連れていって。」

仏「RINOそれはできないよ。」

仏「日本は嫌い。」

仏「どうして、RINOは言ってたじゃないか、日本が楽しみだと。」

仏「ここに、もう、楽しみはない。」

仏「RINOには大好きなシンチャンがいるだろう。」

仏「グレンが、いないと私は笑えない。」

仏「そんなことないよ、素敵な仲間と笑っているだろ。」

仏「私はグレンがいないと・・・」

仏「RINO笑って・・・・・RINOが笑ってフランスを発ったときのように。」

仏「笑えない、日本では。」

グレンが、私の短い髪をつまんでくるっと回す。その顔は困っている表情。

わかっている、できない我儘を言っている事は。それでも、言わずにはいられない。

仏「髪も伸ばす、あの頃のように、私はずっと、このまま変わらない。」

グレンが首を強く振る。

仏「ごめんRINO。勘違いをさせてしまった。懐かしくてつい、変わらないRINOを捕まえようとしていた。駄目だよRINOちゃんと前を見て、日本にも楽しみは、いっぱいある。」

仏「日本は・・・・前を見たくても、未来を見たくても、人の壁が遮る。どんなに頑張っても日本は私を・・・」認めない。

涙があふれ、最後までその言葉を言えなかった。

仏「RINO笑って、RINOの笑顔は最強。僕とRINOが、はじめて出会った時のように。RINOの笑顔が人を繋ぐ。大丈夫。RINOは一人じゃない。良い友達がいる。」 

仏「・・・・。」    

仏「RINO・・・・。RINOが、ちゃんと大きくなれたら、大人のキスをしよう。」

そう言ってグレンは、私のおでこにキスをした。


グレンの乗った飛行機が、空へ高く小さく、見えなくなる。

展望デッキの柵の前で、私はしゃがみ込んで泣いた。

ここから出られない、この柵はまるで監獄のよう。罪を重ねた私は、監獄から出してもらえない。

目の前に、世界に飛び立つ飛行機が沢山あるのに、あれのどれにも私は乗れない。

    『りのは世界が遊び場』

パパは私を狭い、狭い、日本に閉じ込める。悪い子は世界を遊び場にしては駄目なんだと。

その言葉すらも檻に閉じ込める。





ニコは、展望デッキの柵の間から手を伸ばし、飛んでいく飛行機を捕まえようとしているようだった。

伸ばした手は空を握り、ゆっくりその手を胸に戻す。そうやって目をつぶって座り込んだまま動かなくなった。

ニコに近寄ろうとしたら、柴崎に止められた。

「もう少し・・・そっと、しておいてあげなさい。」

「・・・・・」

「初めての失恋なんだから・・・・。」

俺だけの特別ではなくなったニコの恋が終わる。
















「ニコ、あんまり乗り出したら落ちるぞ。」

「すごい。面白い。波が泡に、なって」

全く聞こえていない。っていっても慎一も聞こえるようには言えてない。

ニコは、船から身体を乗り出しては、波が船体にぶつかって白く泡状になびく波の線を眺めて、船内の前や後ろ、右や左に走り回って海面を覗く。

「元気ねぇニコは。」

「どんな身体してんだ。」

「良かったじゃないか。楽しそうで。」

慎一は連絡船のベンチでぐったりと身体横にして起こせないでいた。船酔い。

慎一だけじゃなく柴崎と藤木も、そしてニコと今野以外のクラスの全員が、あちらこちらでぐったりして甲板に座り込んでいた。

「すごーい、面白い。」

「真辺さん、船、初めて?」 唯一元気なニコを捕まえた今野が声をかける。

「ううん、は、初めて、じゃない。こ、こんな小さい、ふ船が、は初めて。」

「すみませんね。小さくて。」今野は頬を引きつらせて苦笑する

ニコは、グレンと別れた後、その落ち込みを心配したけど、残っていたスターリンのアルバイト先で、子供たちと一緒に過ごして元気が出たみたいで、最後のアルバイト料をもらう時は、笑顔だったという。

グレンを空港で見送ってから、ちょうど2週間後、慎一たち3年5組全員は、学級委員の今野の実家が経営するリゾートホテルの一角のコテージを格安で提供してもらい、2泊3日のキャンプに来ていた。

今野の実家が経営する今野リゾートへ行くにはまず、島へ渡る船が出ている静岡県の熱海まで行く。東静線は熱海に乗り入れていない為、一旦横浜に出て、JRに乗り換えていく必要があった。クラスの全員と横浜で合流することなる。東彩都駅の次の駅で、寮生の藤木と今野が乗ってきて、さらに二駅向こうで柴崎が乗ってきて、横浜に着くころには12人の集団になっていた。横浜駅でクラス全員と合流する。そして特急列車で熱海まで二時間、そして、船に乗り換えて20分で島に着く。その船の20分が、二人を除く全員を船酔いの症状に苦しめていた。船内はゾンビのように、うーと言う唸り声が漂う。

「今野、あと、どれぐらい?」たまらず慎一は聞く、

「さっき聞いたばっかだろ、あれからまだ5分も経てないから、まだ後15分と思っとけ。」

「うー」

「柴崎、後ろに行こう!波の筋が面白いよ。」

弱っている柴崎の腕を取り、引っ張るニコ。

「私、無理。」

「えー。皆、楽しもうって言ってたじゃん。」

「言ったけどな・・・うっ・・」

「あぁ、ニコちゃん・・・・船を降りるまで待ってもらえる?ヴっぐ」

ニコは不貞腐れて、また一人で船内をウロウロする。  

「今野・・帰りも、ごれ?うっ」

「そうだけど。」

「何だって、こんなショボイ船にすっ ヴんのよ!」

今にも吐きそうに、それでも文句を言わずにはいられない模様の柴崎。

「仕方ないだろう、ジェット汽船はホテルの大口客で満員なんだ。それに、おやじのコネで安く出航してもらってんだから、ショボイとか言うなよ。」

「帰りも、ごれなんて絶対いや、帰りは私、ヘリを呼ぶわ!ホテルの屋上にヘリポートあったでしょう。」

「はぁ?あれは、緊急のドクターヘリ用だよ、一般人は使えない。」

「緊急よ、緊急、急患、ごんな・・・・ヴっボっ」

「うわー柴崎、ここで吐くな!海に吐け!」

限界に来た柴崎が慌てて船の縁へと行き顔を出す。

「柴崎ぃ~、後ろは、もっと面白いよ~、早く~。」

船尾の方向から柴崎を呼ぶニコ。はしゃぐニコをクラスメート達が、驚いて振り返るが、船酔いで気力がなく首を回すだけ。

「いや、違うのよ、波を見てるんじゃなくて・・・・私、吐いて・・・・うっ。げほ」


ニコと今野以外の全員がフラフラになりながら、船を降りる。

ホテルの裏側、テニスコートとバスケットゴールがある施設の脇をゾンビのようによろよろと歩き、ホテルの東側のコテージのあるキャンプ施設に到着する。

今野のお父さんが笑顔で出迎えてくれて、慎一たちは引きつったあいさつをする。今野のお父さんは4つの部屋の鍵を息子に手渡すと、「お昼ご飯はおにぎりをコテージ内に置いてあるから、ごゆっくり」と言って、笑顔で去っていった。

「皆、適当に男女別で2つの部屋に分かれてくれ、それから前に言った通り、このキャンプは、クラス全員の親睦と思い出作りが目的だからな、基本、全員で同じ遊びをする。個別で、勝手な行動しないように。」

5組は男女ともに仲がいい、際立ってきつい奴がいない、今までで一番平和なクラスだと言っていい。だからこそ、夏休みに全員でキャンプしようという企画が持ち上がった。そして、誰一人欠けることなく、全員参加で決行できた。ニコもこのクラスのメンバーだからこそ、アルバイトをしてでも行く気持ちになった。

グレンと別れた後、キャンプなんて行かないと言い出すかとヒヤヒヤしたけど、そんな言葉もなく、1週間後には、無表情ながらも普通のニコに戻っていた。柴崎に、結構立ち直り早いなと言ったら、「日本に居ない男をいつまでも引きずって、どうすんのよ。そういうところは男の方が女々しいわよね。ダラダラと気持ちを、はっきり言わない、めんどくさい男もいるしね。」と脇腹を小突かれた。

自分では、はっきりと言ったつもりだった。あれ以上、どう言ったらいいのか?慎一にはわからない。

「それじゃ、今から、部屋に荷物を運んで、落ち着いたら、適当におにぎり食ってくれ。海は、明日な。今日は、晩御飯の準備も兼ねて、このキャンプ施設周辺で、テニスコートとバスケコート使っていいから。風呂はホテルの大浴場も使っていいと言われてるけれど、客室階には絶対に行くなよ。他の客に迷惑だからな。あとは、渡してあるしおりを見て、やってくれ。」

「はぁーい。」

学級委員である今野は、うまくこのクラスをまとめている。3年になって初めて同じクラスになった今野は、バスケット部の部長もやっていて、生徒会召集のクラブ部長会議で一緒になるから、3年になってから話す機会の多くなった生徒だ。 

この仕切具合を見て、自分が1年の時にやった学級委員の駄目っぷりが改めて自覚され、情けなくなった。

今野が、このリゾート施設を継ぐなら安泰だ。



「柴崎、テニスに行かないのか?」

「何故、リゾートに来て、テニスやんなくちゃいけないのよ。合宿じゃあるまいし。」

幽霊部員となった柴崎は、夏休みは一度もテニス部に顔を出すことなく、合宿も行かなかった。9歳からやっているから、もう飽きたと全くやる気はないらしい。

「それより、ニコは?」

「お前と一緒だったんじゃないのか?」

「先に外に行くって飛び出して行ったの。合わなかった?」

「んにゃ?俺ら、今野に頼まれて、夕飯の食材運んでいたからなぁ。」

「コートの方に行っちゃったのかしら。」

とあたりを見渡していたら、上から見覚えのある帽子が落ちてきた。3人で上を見上げる。

「ちょっ、ニコ!どこ登ってんのよ!」

「・・・あぁ。逃げちゃった。」

ニコは、枝に足をかけて、更に上へ登ろうとしている所だった。

「ニコちゃん!危ないよ。」

「もう!大きい声出すから、逃げた。」

「はぁ~。」慎一は大きなため息吐いた。

ニコと慎一は今の慎一の家がある周辺の野原や田んぼを駆け回って遊んでいた。

それこそ木登りや、夏はセミやトンボ、カエルを捕まえ、蟻の巣を見つけて観察したり。毎日泥だらけになって遊んだ。

その整った顔と無表情さから、皆はあまり想像がつかないらしいけど、ニコは野生児だ。

木登りなんてお手の物、海外に住んでいた時は、栄治おじさんと休みの度に山や川へ出かけてキャンプしたり、サバイバル的な事もしていたと、ここに来る電車の中で聞いた。ニコがまだ日本に居た頃、慎一も栄治おじさんに何度かキャンプに連れて行ってもらった記憶がある。

ニコは、セミを捕まえようとして木に登って、皆の声で逃げられたと木の上で怒っている。

ショートパンツにポロシャツのラフな恰好でいるニコは、ショートの髪とその身体の小ささで、こんな風に木に登っていたら、まるで小学生の男の子のようだ。慎一は足元に落ちたニコのキャップを拾い、声をかける。

「皆、コートの方に行ったぞ。」

「こっちの方が面白いのに。」

「団体行動だからね。ニコちゃん。」

「ん~仕方ない。どいて、そこ。」

と言うと、2メートルの高さぐらいから、スタッとジャンプで降りてきた。

「うわっ!危ないじゃないの!」と怒る柴崎。

「だから、どいてって言った。」

「違うわよ、あんたの怪我を心配してんのよ!」

あぁ、何言っても無駄だ。育った環境が違い過ぎる。野生児とお嬢様、危機意識のレベルが違い過ぎる。

首をかしげるニコに、拾った帽子を被せた。

「柴崎、野生児に何を言っても無駄だ。ニコは怪我をするまで、やるからな。」

「フン!」ニコは、ムッとして、テニスコートの方へ歩き出す。

駅前の公園で気持ちをぶつけて以来、ニコはまともに慎一と目を合わそうとしない。いつも通り4人で一緒に居るのだけど、会話やその距離は微妙に開いていた。



『グレン、あいつの事を頼む、りのはお前と一緒なら笑顔で居られるんだ。』

『慎一、それ、無理。』

『え?』

『僕、フランス帰る。』

『そんなっ・・・・じゃ、ニっ、りのはどうなる!あいつは、グレンが好きで。グレンを失えば、また・・・・」

『また?』

『りのは大好きな父を亡くして、それで・・それだけが原因ではないけど、心が壊れて笑えなくなった。俺では、あの笑顔を取り戻す事は出来なかった。』

『慎一、試合終了か?』

グレンが、整った顔で見つめてくる。

『RINOの心に、ずっと大好きなシンチャン居る。フランスでもずっと、いた。 慎一が、試合終了すると、RINOはどうなる?』

『りのは・・・、俺をきらいだと。』

『慎一の好き、小さいか?』

『グレン。』

『RINO、一番に思う慎一、僕、好き。安心。』

小さな神社前の階段で、グレンと、携帯電話のメール交換をした。時々、りのの様子を教えてくれと。 

グレンは、早速一枚の写真を送ってきてくれた。その写真は、おそらくいつも遊んでいたメンバーだろう。バスケットゴールの前で、ニコは7人の仲間と一緒に笑っていた。

(言葉のわからない土地でもすぐに友達が出来るのに、どうして、帰国後の日本ではできなかった?)

ニコのせいじゃない、出る杭は打たれる。日本は平均より秀でものは嫌われる。

ニコに日本は狭い。







ニコちゃんは、体いっぱい動かして遊んでいる。テニスやバスケットにクラス全員が楽しんだ。「合宿じゃあるまいし、何でテニスしないといけないのよ」とやる気のなかった柴崎も、ニコちゃんが無理やりコートに誘い出すと、その勝気な性格に火が付き、しまいには、二人で真剣に勝負をしていた。これで素人のニコちゃんに負けたら柴崎の立つ瀬がなかったけれど、一応、威厳は保たれた。

「お前、いっ時、焦っただろ。素人のニコちゃんに負けそうになって。」

「そんなことないよわよ。遊びなんだから。」

「ぷっ・・・・わかりやす。」

「もう、やめてよね。読むの。」

そう言いながらも、柴崎は、亮が本心を読むことに不思議と嫌悪は抱かない。どちらかと言うと、亮の特殊なこの能力は、自分の自己啓発には必要だと思っている。

「突っ立ってないで、そっちの段ボール、持って。」

日が暮れかけの頃から、晩御飯の準備を始める。今野と佐々木さんが作ったしおりには、丁寧に晩御飯の当番も振り分けられていて、本当に学校行事みたいだ。クラス36名の団体で行動するのだから、こういう事は、ちゃんとやっておかないと、不満や不公平が出ては、せっかくの親睦会と言う名目が意味をなくす。でもこのクラスは、誰かかがサボったからと言って、声高に指摘し争う姿勢を見せる者はいない。柴崎が、亮達4人を同じクラスになるように、学園経営者の娘と言う立場を利用して、不正と言うべき事をやったことは間違いない。こうした穏やかな者達までも意識して集めたのかと、亮は柴崎に聞いたことがある。流石に、そこまで出来ないわよ!と怒られた。4人以外は偶然の縁で同じになった中等部最後のクラスは、今まで経験してきた中で一番、亮にとっても居心地のいいクラスだった。

今日の晩御飯、キャンプの定番カレーを作る当番になっている柴崎に使われて、コテージからキッチン道具の入った食材を外に運ぶ。お嬢様は人を使うのがうまい。

「何これ。」

「ジャガイモ。」 

「ジャガイモはわかっている。なんだよ、この皮の向き方、もったいな過ぎるだろ。」

「仕方ないじゃない。ピーラーないんだから。包丁で皮をむくの難しいのよ。」

柴崎とニコちゃんを含む女性陣は、ピーラーがなくて、食材の皮を向くのに苦労していた。

うちの学園はお嬢様が多い、柴崎は屋敷に住み込みのお手伝いさんと料理人がいるぐらいだ。皆、家庭で料理なんてしたことない子が多いのだろう。家庭実習でも、苦心している姿を見るが、ピーラーは家庭科室にあるし、班ごとの食材なんて量はしれている。

今日は一つの大鍋でカレーを36名分作るのだから、皮をむく食材も多い。

「ピーラーないだけで、これかよ・・・うわ、ニコっ危ないっ、そんな持ち方。」

やめておけばいいのに、新田がニコちゃんのやる事に口を出す。また始まるな、兄妹喧嘩が。

「・・・・。」

「ちょっと貸してみ。」

そう言ってニコちゃんから取り上げた包丁を使い、新田は鮮やかな手つきで、ジャガイモの皮をむいていく。

「わー、新田君、凄い。」 

「凄かないでしょう。これぐらいできないで将来みんな、どうすんの?」

「どうもしないわよ。お手伝いさんが作るんだから。」

「はぁー。柴崎は、それでいいかもしれないけどさぁ。一般人はそうはいかないだろ。ニコも、もうちょっと練習・・・・あれ?どこ行った?」

新田の言葉にかみつくかと思ったが、ニコちゃんは包丁を取られた時点で、すーとコテージの方に行ってしまっていた。

「拗ねて、あっちに。」

「はぁ~。」

「お前さ、自分が出来るからってもどかしいのわかるけどさ。もっと、こう、見守れない?」

ニコちゃんが、微妙に新田を避けている。原因はグレンだろう。新田もそのことに気づいているが、普段通りを貫いている。

新田はグレンと連絡を取り合っている。ライバルともいうべき相手と、どんなやり取りをしてそうなったのかは知らないけど、新田が今、亮でも判断しにくいニコちゃんの行動や気持ちに、動揺せず普段通りで居られるのは、グレンのバックアップがあっての事かもしれない。





慎一が、家庭科部の仁科さんと、大鍋の前で料理話に盛り上がっている。

慎一は、フランス料理店の息子、私がフィンランドに行ってから、店が忙しくて晩御飯の作れない啓子おばさんの代わりに晩御飯を作るようになったと言っていた。慎一の手料理は、啓子おばさんが作る料理と変わらずおいしい。手つきも鮮やかで、それを見たママは、「慎ちゃんモテるでしょう。料理が出来る男の子って人気あるからね」。と言った。

確かにモテてる。さっきも私の包丁を奪った後は、クラスの女子が群がって、凄いとか、カッコいいとか言われて鼻の下伸ばしていた。別に嫉妬しているわけじゃない。あの得意げな顔に腹が立つだけ。昔から手先のいる事は、慎一に勝てなかった。折り紙も、お絵かきも、粘土も、工作も、楽器のピアニカも、それでいつも、私の不器用を笑うんだ。

「ニコちゃん、何やってるの?」藤木が寄ってくる。

「焼きマシュマロ、おいしいよ。」

私は、さっきコテージに置いてある自分の荷物の中から、マシュマロを取ってきて、その辺に落ちている枝にさして、飯盒の火にあぶっていた。

キャンプと言えば、これ♪。パパとキャンプする時は定番のおやつだった。

焼くと香ばしくておいしい。鞄の空いた場所にいっぱい詰めて持ってきた。明日のバーベキューでしようかなと思っていたけど、鼻の下を伸ばした慎一にカレー当番を押しつけたから、暇になって出してきた。

「はい、食べて。」

藤木は、ちょっと躊躇しながら、マシュマロを口にし、顔をほころばせる。

「おいしい!へぇ~マシュマロ焼くと、こんなにおいしの?」

「うん。パパとよくやった。」    

「ニコちゃんのお父さんって、何でも出来る人だったんだね。」

英「パパは、何でも知っていた。教えてくれた。何でも自由にさせてくれた。」

パパは私が疑問に思ったことは必ず答えてくれた。答えられない事は、一緒に調べようと言って、図書館に連れていってくれたり、ネットで調べたりして、そうして私は知識を増やした。木に登ったり、崖からジャンプして川に飛び込んだりする危険な遊びも、私が飽きるか怪我するまでやらせてくれて、絶対に怒ることはなかった。りのは女の子でしょ!と怒るのは決まってママで、パパはいつも私の味方でいて「りのは世界が遊び場だもんね。」と口癖のように言っていた。

それなのに、私は、大好きなパパの手をふりはらった。大好きなパパを死に追いやった。

「ニコちゃん?」

「皆に配って来よっと。」

読まれたくない。私は焼けたマシュマロを数本持って、藤木のそばから離れた。

藤木がどこまで、人の本心を読み取るのか、わからない。パパが自殺したことは三人とも知っている。

だけどその自殺に追いやったのは私だという事を、慎一は、藤木は、柴崎は知っているのだろうか?

怖くて聞けなかった。

もし、知ったら、皆は・・・

もう、一人は怖い。


 


ニコは拗ねたまま、カレー作りに戻ってこない。マシュマロを飯盒の火であぶって皆に配っている。ニコから包丁を奪った新田が結局、最後までカレーを作って、クラスの女子に囲まれて人気者になっていた。元々モテる容姿の新田がさらに料理が得意となれば、女子はもうメロメロ。包丁さばきと手際の良さは、贔屓目なしで恰好よい。クラスの女子は目がハート。

新田はそれを狙うとかじゃなくて、素でやっちゃうもんだから厄介。新田は、一年の頃から頻繁に告白されている。その相手とは一度も誰とも付き合うことなく断り続けていて。それを面倒だと言っているけど、そうやって誰とも一度も付き合わないからこそ、皆が我こそはと闘争心に火が付き、そのめ面倒さを引き寄せていると、新田は気づかない。

「こ、今野君、あ網ない?」

「あみ?」

「む虫取り網。」

「ちょっと、用意してないなぁ。」

今野がニコの要望に困惑している。ニコはここに来てから、少年の様だった。木に登ったり、虫を捕まえたり、野草を香辛料と言ってカレーに入れようとして、新田に阻止された。その新田曰く、小さいころから山を駆け回って遊んでいたから不思議ではないと言う。おまけに海外生活では、父親と山や川に休日の度に遊びに出かけて、サバイバルな遊びをしていたと、ニコ自身も懐かしんでいた。

グレンとの恋が終わってから、ニコはキャンプに行かないと言い出すんじゃないかと、ヒヤヒヤした麗香だったけど、そんな心配はなく、楽しみだと言った言葉に麗香は安堵した。ここへ来てからのはしゃぎぶりを見ていたらわかる。本当はあれが本来のニコなんだなぁと。4年前に父親を無くしてからいろんなことに我慢をしなくてはならなくなった生活。どんなに辛い事だっただろうかと想像するのは簡単だけど、それを親身に感じることは麗香には難しかった。

「ざ、残念・・・・かカブトの木、み見つけたのに。」

「真辺さんって、こんなキャラだった?」と今野

英「届くとこに居たらいいのになぁ」

今野のつぶやきも聞く耳持たずで、また林の中に入っていくニコ。

「あっ、ちょっとニコ!もう、暗くなるから一人で行かないのよ!」

「いいよ、俺ついていくから。」藤木が後を追った。

新田は、ここに来てからはニコを野放しにしている。

普段、学園に居る時の心配性の新田とは思えない。木に登っても怒らないし、虫を捕まえて振り回しても何も言わない。

その目は幼き昔を懐かしんでいるようだった。

グレンの登場は、新田にとっても失恋だった。麗香がちゃんと気持ちを伝えなさいと言ったからか、新田はニコに自分の気持ちをぶつけた。その言葉は、麗香からしてみれば、回りくどい微妙な言葉だと思ったのだけど、新田にとっては精いっぱいの表現だったらしい。グレンの物言いは、はっきりしていた。可愛い、好きを明確に言葉で伝え、ニコもそれに、うっとり耳を傾けていた。だから、はっきり言うグレンに取られちゃうのよ。と新田に言いかけたけど、ニコに、嫌いだと言われて、落ち込んでいる新田に何も言えなかった。

ニコが何を思い何を心に溜め、何を吐き出せないでいるか麗香はわからない。藤木ですら、ニコの本心を読むのは難しいという。ニコに何度か、新田の事をどう思っているのか?って聞いたことがある。

ニコはいつも首をかしげて、わからないと言う。そこに居るのが当たり前だった子供の頃と、同じようで、違う気もする。と。

海外に居た頃は会いたいとも思わなくて、日本に帰る時期が迫って、日本には慎ちゃんがいたと懐かしく思い出したという。

その後の帰国からこっちに来るまでの事は、絶対に話さない。私が知っているのは、ニコのお母様から聞いた事のみ。

ニコがひどいいじめを受け、大好きなパパを失い、日本語を話す声を失った。絶望の中、新田のサッカー推薦合格がニコのわずかに生きる希望になったのは間違いない。そこは簡単に想像できるのだけど、ニコの口からは聞いたことがない上に、あまりにも無表情すぎて、今一つ身の上話だと結びつかなかったりする。

特待生になってまで新田を追いかけてきたのなら、もっとこう、新田を好きだという感情がにじみ出てもよさそうなのに、

と、いつも麗香は不思議に思う。

   

        

     

「それから、夜な夜なあの崖から女の人の泣く声が聞こえて。着物姿の女の人が手をこっちこっちと手招き・・・・・」

「私は、きぃかぁなぁ~い~。すいへーりぃーべーぼくのふね。3.14153・・・」

「柴崎、うるさいよ。」

合宿や修学旅行と違って、引率の大人がいない今回の旅行。夜更かしをしても怒られない。

船酔いで昼ご飯を食べられなかった皆が、夕方4時ごろにはお腹が空いたと言い出して、早めにカレーを作り始めた。残っていた昼ご飯のおにぎりも、飯盒の火に鉄板を引いて焼きおにぎりにして食べた。7時には後片付けも終わり、皆、コテージ前でグループを作っておしゃべりを楽しんでいた。今野が、ダラダラしていても仕方ない、肝試しをしようと言い出し、今その前準備ともいうべき、怖い話をしていた所だ。

柴崎は、この手の話が大嫌いだと手で耳を塞ぎ、自分の声で怖い話を聞こえないように、思いついたフレーズを適当に言っている。

「ニコちゃんは大丈夫なの?怖い話。」

「平気。もっと怖いのあるから。」

「へぇー何?もっと怖いのって。」

「言わない。」

だろうな。言うわけがない。藤木も苦笑してそれ以上は追及しない。

でもなんだろうと慎一は首を傾げる。ニコのお化けより怖い物は?慎一は幼き頃の記憶をたどったけど、お化けも、宇宙人も皆と友達になりたいと笑っていた5才頃の記憶がよみがえっただけで、何も思いつかなかった。えりにはよく夜中に、「怖いからお兄ちゃんトイレついてきて」と起こされたけど、ニコは、夜中のトイレには一人で行っていた。慎一を踏みつけて。

男女ペアで、コテージ裏の小高い丘の上にある展望広場まで行く、というのが肝試しのコース。

文句なしのくじ引きでペアを決めると言って、作ったクジを、今野はビニール袋に入れて回る。

慎一は女子の学級委員、佐々木さんとペアになった。良かった。佐々木さんなら、変に気を遣わなくて済む。佐々木さんは女子バスケの部長。クラブ部長会議でハキハキと意見を言う佐々木さんは、さわやかな印象だ。今野と付き合っていると聞いていた。学級委員もバスケも一緒で、これだけ共通の話題があったら、そりゃ付き会うとか言う話になってもおかしくないが、残念なことに、今野の方が佐々木さんより背が低い。

「ちょっと、中島、あんたお化けとか幽霊とか妖怪を呼び寄せるとか、変な体質を持っていないでしょうね。」

「はぁー?そんなの知るかよ。」

何の因果か、去年の学級委員中島とペアになった柴崎は、お化け話の恐怖のあまり、変な逆切れをしている。が。中島も気の毒に、眉間に皺を寄せて柴崎を敬遠。

藤木とペアになったのは小島さん、どこかの流派の茶道の家元の子だと聞いていて、その肩書きにあった日本的なおとなしい子。あまり大きな声を発しているのを見たことがない。ニコも学校では物静かだが、今日でその化けの皮がはがれた。夕方、ご飯前にセミとカマキリを素手で捕まえて喜んでいるニコの姿を、皆、唖然として、「真辺さんって、あんな子だったの?」と、ほぼクラス全員に聞かれた。小島さんの大和撫子は本物。ニコの学園でのおとなしさは、帰国後に被った防衛本能の生きる術だ。

聞かれたクラスメートには「そう、やっとかぶってた猫を脱いだみたいだ」と答えておいた。

そのニコは、今野とペアになったらしい。ちよっと安心する。さっきも二人で話をしていた。カブトムシの話題ってとこが、笑えるけど。

佐々木さんが、この旅行の実行委員であるから、肝試しの順番一番で展望へ向かわなければならない。先に行って、皆が来るの待ち、到着後の取りまとめ役をする。で今野とニコのペアが肝試し最後の順番、皆のスタートを取り仕切るのをやってから、最後に登る。今野と佐々木の二人の実行委員は、気づかいも行動力もあって頼もしい。

「悪いな、今野とペアじゃなくて。」

歩き出してすぐに、沈黙に耐えられなくて、佐々木さんにそう切り出した。

「そんなことないわよ。皆の憧れの新田君とペアで私、うれしいわよ。」

「佐々木さん、今野と付き合ってるでしょう?」

「ダイレクトに言われると照れるわね。」

「ああ、ごめん。」

「新田君の方こそ、真辺さんと一緒じゃなくて、がっかりしてるんじゃないの?」

「いや別に。がっかりなんて、しないけど。」

「ふふ、あたしも同じ。こういうのって、また違うっていうのかな。今野とは何かと一緒に行動することが多くなって、付き合い始めたけど、何から何まで一緒に居たいとは思わないし、それやったら息が詰まるわ。彼氏と憧れの人とは別っていうのかな。今野に憧れも駄目って束縛されたら私、速攻で別れるわね。」

「ははは、」

いや、今野は言わないと思う。そういう事を言う性格なら、こんな肝試しなんての、やろうって言わないだろうし。

「だからっ、こうして、腕組んでもオッケーなのよ。新田君は憧れの人だから。」

と佐々木さんは腕を回してきた。うそっ!?佐々木さんって大胆。びっくりしてドキリとする。

「ええーっ!ちょっと!」

「新田君ってホント、モテる要素、満載よね。」

「えーいや、俺・・・・どこがモテる要素、満載なんだ?」

「そういう、自分で自分の魅力、わからない所がよ。」

からかわれてる?腕を組まれて並んで歩く佐々木さんは、目線が真横だ。やっぱ背が高い。いつも長い髪をポニーテールで結んでいて首が長い。さわやかな佐々木さんの横顔に照れ、俯く。足元の懐中電灯に薄く照らされた地面に注意をしながら、しばらく無言で歩いた。

「ねぇ、新田君・・・・・真辺さんって・・・・。」

しばらくの沈黙を破ったのは佐々木さん、その先は言いにくそうに黙ってしまった。

「なに?」

「ごめん、こんなこと聞いたら失礼だとわかっているんだけど、ずっと、気になってて。」

「?」

「真辺さんって何かの病気なの?」

慎一は、驚いて真横にある佐々木んさんに顔を向けてしまった。これじゃ答えを言ってるようなもんだ。

藤木にまた怒られる、お前は顔にすぐ出るから気を付けろと。

「どうして、そう思う?」

「身体小さいし、学校も休みの日が多いし。この間は長期で休んでいたし。」

長期で休んだのは、この間の発作の入院時。

「それに・・・・。新田君をはじめ、柴崎さんと藤木君、いつも真辺さんを守るように居るから。」

そうか、佐々木さんの目にはそんな風に見えていたのか。

「もしかして、このキャンプも無理させるんじゃないかなって心配もあったの。」

そう言うと、慎一の腕から手を離した佐々木さん。

「いや・・・ありがとう。気遣ってくれて。」

佐々木さんに、こういう指摘されたら、誤魔化しは逆効果だろうなと思った。

「詳しくは言えないけど、まぁ、ちょっと目を離せないというか・・・・。」

「そんなに悪いの?」

「いや、悪くない悪くない、そう言う目を離せないじゃなくて、んー、普通なんだけど・・・、ごめん、ちょっと言えない。でも大丈夫なんだ、本当に。」

「そう・・・・。」

腑に落ちないような表情をする佐々木さん、詳しく話せない事が三度かしく、誤魔化されたと思われても仕方ない状況になった。

「俺は生まれた時から幼馴染で、今も真辺家とは家族ぐるみの付き合いをしてるから、無茶するあいつをほっとけなくて。柴崎と藤木は、去年同じクラスで、たまたま事情を知ってしまったからそれで、どうしても俺たちは、ニコに構ってしまうと言うか・・・」

「そっかぁ。」

「あー佐々木さん、この事は。」

「わかってるわよ、誰にも言わない。それでかぁ、新田君が真辺さんを見る目が普通じゃないの。」

「普通じゃないって、そんなに?」

「うん、違うわよ。なんて言うか・・・・好きとか愛してるを超えて、うーん言葉がないのよね。しいて言うなら【愛おしい】が近いかな。」

(愛おしい。)

どうだろう?言葉にできないニコに対する気持ちをずっと探して来た。

確かに、「好き」や「愛している」よりは「愛おしい」が一番近いが、ぴったりと合わない。








「ちょっと、先に行かないでよ、私、懐中電灯、持ってないんだから。」

「後ろついて来たら、特に要らないだろ。」

「だったら、もうちょっと私の事、気遣って、ゆっくり歩きなさいよ!」

「めんどくせぇな。」

「めんどくさいって!あんたね!」

「はぁ~。これだから、3次元の女は嫌なんだよ。」

「はぁ?」

麗香のペアの中島は、大きなため息をついて、本当に嫌そうに、やっと足元に懐中電灯の明かりを向けた。

中島は去年、麗香と学級委員をやっている。去年のクラスは男女ともに学級委員の立候補者が出なくて、中島はクジで決まった男子の実行委員だった。麗香は、実行委員を決める時、すでに生徒会に入っていて、他にしたい子がいるなら任せた方が良いと思っていた。だけど女子も誰もやりたがらなくて、松原芽衣の『麗香さんしか、する人いないよね』と言う太鼓持ちの声で、仕方なく兼任することとなった。中島は全くやる気がなく、ほとんど私一人でクラスをまとめた。ただ一回だけ、文化祭の喫茶店はやたら、やる気を見せて自分の趣味のメイド喫茶を成功させている。と言っても、成功の立役者は、はっきり言ってニコなんだけど。  

「あんまり、近寄んなよ。」

「近寄るなって!懐中電灯の明かりが、ここだけなんだから仕方ないでしょう!私だって、あんたに近寄りたくないわ!」

「良かった、俺は二次元の女しか興味ない。」

「はぁ?」

(何なの!こいつ。二次元とか三次元って、こっちだって、あんたみたいな奴、嫌だし興味ないわ!

あぁ、貧乏くじ引いたなぁ。なんだってこんなカリカリしなきゃなんないのよ。こういう時、藤木だったら、何も言わずとも、足元に懐中電灯の光を当ててくれて、ゆっくり歩いてくれるのに、話す話題も困らないしさぁ。)

藤木は、小島さんとペアになっていた。日本の茶道を代表する流派家元の娘さんである。大和撫子と言う敬称がぴったりと、日本人形みたいでおとなしい。

藤木は、何故かおとなしいタイプの子にモテる。女にはマメに優しく接する態度に、自分だけに優しくして貰えていると勘違いしてしまうのかもしれない。

この間も、排水溝の溝に鍵を落として困っていた1年生を見つけて、藤木みずからどうしたの?と声かけたあげく、重い排水溝の網を持てと麗香に手伝わせた。後日その子からお礼としてスポーツタオルもらって鼻の下伸ばし喜んでいる藤木に、「馬鹿じゃないの」って貶した麗香に、「女の子には優しくしろって、子供の頃から親に言われている。」と藤木はニヤついて、麗香は「私だって女なのよ!」と反撃したが、「女にしとくにはもったいないって、周りからよく言われてるだろう。」とはぐらかされた。

あの本心を見抜く能力が、女子に、特に困っている子には感度が良いみたいで、ほっとけないらしい。掃除のおばちゃんを助けて、脚立を支えている姿を見た時は、驚いたというか呆れた。その反面、男には厳しい。あいつの為にならないと言って、ギリまで助けない。藤木が男子を助ける時は、これ以上ほっといたら自分に被害が及ぶと判断した時だけ。藤木は結構なプレイボーイと言える。 

と色んなこと事を考えていたら、中島と距離が開いてしまっていた。

「ちょっと、待ちなさいよ!」

「はぁ~。だから、嫌なんだ。」とまた、ぶつくさ言い始める。

(だから、こっちだって嫌だっつうの!

いいなぁ小島さんは、藤木と一緒で・・・・・・・ん?今、なんて思った?

いやいやいや、ちょっと待って。これは・・・・・あれよ。

ニコとグレンの恋愛を身近で見てしまったから影響されて。

そう、ニコとグレンの恋愛模様はもう日本じゃなかったもの。あそこだけ異国で、まるでフランスの恋愛映画のよう。

結構、衝撃が強かったのよね。

空港でグレンに縋り泣くニコを可愛そうと思う反面、いいなぁ、あんな恋愛してみたいって思った。

だからって・・・・これは、まずい!

手近の男で手を打とうなんて、絶対だめよ。ありえない。

藤木とは卒業まで生徒会をやらなくちゃいけないんだし。

しっかりしろ麗香。恋に恋してどうする。)





おとなしい小島さんは歩幅小さく亮の後ろを黙ってついてくる。この子もあまり表情を動かないタイプの子だけど、ニコちゃんよりはある。そしておとなしい分、本心は意外にはっきりとした意思を持っている。亮とペアとわかった瞬間の本心は、とても残念がっていた。

「大丈夫?もう少し、ゆっくり歩こうか?」

「ううん、大丈夫。」

そう言った瞬間に小島さんは後悔をし、早く展望に着きたい一心で、自分を励ましていた。

亮は、体力に合わせて速度を落とした方が良いのか、それとも早く着きたい一心の気持ちに答えて、このままの速度で登り続けた方がいいのか迷う。黙っているのも気を遣う。話題を亮は探し考える。最近、柴崎とばかりいて、亮はこの手のコミュニケーションに関して楽をしていた。柴崎とは気を遣うこともなく、話題は向うから次々に出てきて尽きる事がない。

 もう一度、小島さんへと振り返り見る。小島さんは新田の事が本気で好きだ。今回ペアになれなくて残念がっていた。

「新田じゃなくて、残念だったね。」

「ど。どうして?」

あまりにも話題がないから、亮は口走ってしまった。

「あっ、ごめん。そうじゃないかなって思っただけで、気にしないで。」

小島さんは、動揺したのも含めて警戒し、足取り遅くして亮との距離を取る。

新田を本気で好きでいる事を、誰にも言わず、悟られないようにして心に抱いていた小島さん。それなのに、あまり接点のない亮に突然言い当てられては、その警戒も当然だ。

「ほら、さっきも、女子達皆、クジじゃなくて新田と行きたいとか、はしゃいでいたから、皆、新田の方が良いのかなって思って。」と、適当な言い訳。

「そ、そんな事ないよ。藤木君でもいいよ。」

〈でも〉って・・・・・苦笑するしかない。

「ははは、お世辞でも、うれしいよ。」

「・・・・・・」黙ってしまう小島さん

「上では星が、きれいに見えるって言ってたね。」

「うん。」

話が続かない。会話は互いの協力が必要だと亮は思う。

ニコちゃんも言葉は少ないけど、亮に気を許してくれてからは、それほど気まずい雰囲気にはならない。ニコちゃんは知識欲が強い。どんな話にも興味を持つし、自分が納得するまで知り得ないと気が済まない。だから亮が一方的にしゃべっていても、その目は聞きたい、知りたい、次は?その先は?という顔を向けてくる。その要求のしぐさだけはよくわかる。

やっと屋上に到着すると、小島さんは即座に亮から離れて友達の所に走って行ってしまった。

少々凹む。

空を見上げると、今野が言っていたように、神奈川では見られない星の瞬きが輝めいていた。

感傷に浸っている間もなく、続々と別のペアが小径を上がってくる。いい雰囲気になっているペアもいて、企画は成功と言えるだろう。そんな中、明らかに仲が悪くなっている二人が到着する。

「もう、最低よ、中島、先に行くしさぁ。懐中電灯一人占めして、早くしろとか言うし。三次元の女は嫌だとかぁ、わけのわかんない事ぶつくさ言って・・・。」と亮にそば寄る柴崎の口から、愚痴が満載に出て来る。

中島は自他ともに認めるオタクだ。常翔には漫画研究部がない、だから、そっち系等に興味がある生徒は美術部に所属して、その手の絵を描くか、別のクラブに入って幽霊部員をして帰宅部になるかのどっちらかだ。中島も美術部所属だが、一度も活動しないで幽霊部員になっている。中島は幼稚舎からの内部進学組で、柴崎とは学級委員をやったり、ハワイでのグルーブが同じだったりと何かと縁がありながらも犬猿の仲である。

「だけど、お前、あんなに怖がってた怖い話、その中島のおかけで忘れられているじゃないか。」

「あーちよっと!思い出しちゃったじゃないのよ!」と、腕をさする柴崎。お嬢様は幽霊やお化けの話が苦手だ。

とその時、突然、女の子の悲鳴が下の方から木霊した。

声にびっくりした柴崎は、亮の腕をつかみ身体を強張らせる。

「なっ、なに・・・・」

「ちょっと、痛いよ。柴崎。」

亮は柴崎の掴む手をはぎ取り、小径の登り口まで覗きに行く。

柴崎中島ペアの順番が15番だった。あと残り3組のカップルが到着するのを待つという所である。新田と佐佐々木さんも駆けつける中、16番目の二人組が到着。佐々木さんが「今の悲鳴は?」と二人に聞く。

「俺たちじゃないよ。」

「私達もびっくりして、後ろを振り返ったもの。」

あと二組、17番目のペアと最後の今野とニコちゃんペアが登ってくるのを待つのみ。

新田の携帯がなった。

この島は元々、今野の実家が所有していた無人島である。無人島全体をリゾート開発しないかと商社から企画が持ち込まれた時、旅館をやっていた今野の実家が、島の1/3は今野家所有のままでホテルを建設し、経営するという契約で開発を許したという。今野リゾートの反対側、丘の反対側に位置する残りの2/3の土地は会員制のゴルフ場がメインの高級リゾート施設が広がる。そんなだから、都会の利便性は失わない、携帯電話の電波塔も設置されていてクリアにつながっていた。

「今野からだ。」そう言って新田は携帯をつなげる。嫌な予感がした。

「もしもし、・・・・・・・・・・はぁ?へび?・・・・・・うん・・・・・・・じゃ、さっきの悲鳴って。」

新田の顔がこわばるのを見て、ニコちゃん絡みだと亮は悟る。





「ひやぁっ!」

木の根に足を取られて滑った。しりもちをつく前にしゃがみ込んで地面に手をついて留まった。セーフ、転倒は防いだ。

手についた泥をはたいて立ち上がる。

「あれ?えーと、こ、今野、君?」

声に出して呼んでみたけど、虫の音と風が木々を揺らす音にすぐにかき消された。遠くで、ごぉーと耳鳴りのような音がする。耳を澄ませて、どちらから聞こえてくるかを見極めようとしたけれど、よくわからない。自身の身体をその場で360度回転させて、視界と耳を向けると同じ景色が周回し、それが1周なのか半周なのか、わからなくなった。

(しまった・・・)

自分がどっちの方向から来たのかわからなくなった。

嘘でしょう。私、迷った?


フィンランドでパパに連れて行ってもらった川遊び。川の渓谷に滑り台のような傾斜になっている大きな岩があって、そこを川の水と共に滑り下りるのが楽しくて、何度も岩の上まで登っては滑り、登っては滑りをしていた。だけど、子供の私は、その岩の上にたどり着くのに時間もかかるし、水遊びだから体力もすぐに消耗してしまう。それでも岩すべりの楽しさを求めて、頑張って岩に手を伸ばし、上へと登った。パパはこういう時、絶対に手助けをしてくれない。何をしても怒らない代わりに、何をするにも自分の力でしろと言う事。パパは岩の滑り降りる下の場所で、私がこの遊びを終えるまで待っていてくれていた。6回目の岩登り、体力的には限界に近かった。だけど一瞬の楽しさを求めて、気力だけで登っていた。ここにロープがあれば楽に登れるのに、そう思った時、目の前にちょうどいい感じでロープがあった。私の他にも家族連れが居て滑っていた。その人たちがロープを垂らしてくれたんだと、遠慮なくロープを手でつかんだ。しかし、掴んだロープはどこにも繋がっていなくて、引っ張った腕は抵抗なく空を泳いだ。固定されない力の勢いは体のバランスを崩し下に落ちそうになる。強引に体を前倒しして岩にへばりついて、滑落だけは防いだ。セーフ!だけど両腕の肘をしたたかに岩にぶつけて痛い。落ちなかった安堵に息を吐き、ほっとした時、手に握っていたロープが動いた。何?右腕を這いながら登ってくるロープ。違う。それには赤い目があり、先端の割れ目からチョロチョロと出入りする更に細い何か・・・腕に経験したことのない感触が這い上がってくる。叫んだ。

次の日、私は熱を出して寝込んだ。蛇の夢ばかり見て、私は蛇の呪いにかかったのかと思った。

あれ以来、蛇は、図鑑で写真を見るのも怖い物。


今野君は、この旅行の実行委員だから、肝試しの最後の順番になっていて、「やっとだね、お待たせ」と言って、展望に向かう小道に入った。

くじを引いたとき、しゃべったことない男子だったらどうしようとドキドキしていた。今野君はバスケ部の部長で、慎一と同じ部長という事もあって仲がいい、佐々木さんと学級委員でもあるから、二人で私に声をかけてくれたりして、クラスの中でも、話をする頻度のある男子だ。だから今野君とペアとなって、よかったとほっとした。

それでも二人っきりだと緊張する。今野君は「今日で、真辺さんのイメージ変わったよ。」とか、「フィンランドでオーロラ見た事あるの?」とか話しかけてきてくれてはいたけれど、受け答えを満足に出来なくて、申し訳ないなと思っている時だった。

頭上を覆う木の枝葉からがさっと音がして、何かが落ちてきた気配がした。今野君が懐中電灯で地面を照らす。明かりの輪の中に現れたのは、縞模様のアレだった。

足の先から頭まで、超高速のぞわぞわが駆け抜けた。私は無我夢中でその場を逃げた。

怖い、怖い。あれはお化けより幽霊より宇宙人より、人よりずっとずっと、怖い物。

縞模様のにょろっと長いアレ。その名前と姿を想像するだけで、背中や腕がぞわっとする。世界で一番、怖くて嫌いなもの。


もう一度、今野君の名前を呼んでみた。すぐに声は風揺れる木々の雑音に消される。

本当にどうしよう。

遭難!?

パパはなんて言ってたかな?

短いフィンランドの夏、森や川で遊んだ日々、パパは遊びだけじゃなく、薬草の知識や星の知識、地層の知識、サバイバルの仕方、いろんなことを教えてくれた。

「山で遭難した時、どうしたらいいって言ってたっけ?」

記憶をフィンランドの森へとたどる。





今野からの電話は、ニコが蛇に驚いて小道から外れて逃げて、南の方へ走って行ってしまったという。あまりにも突然の悲鳴に、今野は驚いて追いかけられなかった。それでもすぐにニコが走った方向へ追いかけたけれど、見つけられないという連絡だった。あの悲鳴がニコのものだった事を知り、慎一は青ざめた。しかし冷静に考えて走った事実、声が出ているという点で、発作じゃないと安堵した。

ニコの精神障害の発作、今まで入院を伴う大きなもの二回を慎一は見ている。いずれも悲鳴なしで息が出来なくなり、その場でうずくまり焦点が合わなくなる。焦点の合わない目に何が映っているのかはわからない、ただいつもパパとつぶやく。だから走れているのは、意識ははっきりしている証拠だ、大丈夫だと自分に言い聞かせた。

今野は、電話口でしきりに謝り、そして、ニコを捜索する方法を的確に指示してきた。

「今、そばに藤木いるか?」

「あぁ、いる。」

「藤木が携帯を持ってたら、GPS立ち上げて、俺の居場所を検索しろと言って。」

慎一は言われた通り藤木に伝える。藤木は、即座にここの島の地図を表示して見せてくる。そして赤い丸印が今野だと説明した。

地図上ではこの展望から1キロ斜め下に今野がいる表示だ。

「男子でGPS機能が使える携帯を持っている奴に、真辺さんを探す協力を頼め。」

慎一は携帯を藤木に渡した。こういう戦略的な事は藤木に任せておいた方が早い。

今、展望で今野の到着を待っているクラスの男子は17人、その中で携帯を持って、ここに上がってきている者は15人。その中でGPSを起動でき、電池容量の余裕のある携帯を持っているのは、慎一を含めて、10人だった。そういうチェックまでを藤木がやっている間、慎一はオロオロとするばかり。

慎一の携帯は春に買い替えたばかりで最新の物であるのが幸いだ。えりが入学祝いに携帯を買ってもらう事を期に、それまでバラバラだった携帯電話会社を家族全員で同じにしようと新田家で決まったものの、そういうことに詳しくない新田家、どうしていいかわからない事を藤木に相談すると、忙しい父に代わって購入の際に付き添ってくれる事になった。そんな中、藤木は新しくなった慎一の携帯を見て、自分も欲しくなったと言って、まだ1年も使っていない携帯をあっさり買い替えていた。柴崎に、もう少し下々の生活を知った方が良いとか言う藤木だか、柴崎に劣らず藤木も上流階級の子だなと慎一は思う。そう、藤木は博多の大地主及び現外務大臣の息子だ。

「みんな、ごめん、迷惑かけて。」

「気にするな新田、真辺さんの為なら、俺たち朝まででも探すよ。」

「あぁ、あの真辺さんを見捨てたとなったら、クラスの恥だからな。」

「そうよ!あんた達!ニコを見つけるまで、戻ってくるんじゃないわよ!あと、ニコに何かあったら、あんた達全員、退学処分だからね!気合い入れなさいよ!」柴崎は腰に手をやり、仁王立ちで慎一たち10人を叱咤する。退学処分・・・冗談だとわかっていても、こいつならマジでやりかねないと誰もが肩をすぼめる。さっきの悲鳴で怯えていた風体はどこへやら。

ニコを探す作戦と言うのは、ここ展望を頂点として南方向へ放射状にGPSを持った10人の男子が、等間隔で丘を降りて探すという単純なもの、今野の居場所から南方向へ歩けば、島の南端に出る。言うなれば、追い込み漁的にニコを探すというもの。今野のいる場所から、およそ100~200メートル間隔保ちながら、10人が声を出して歩いていけば、ニコは誰かと遭遇するであろうという観測。島の南端は崖になっていて、どこまでも続く森じゃない。崖にたどり着いた後は、海沿いに西へと南下していけば、ホテルのプライベートビーチにたどり着く。捜索的にはそれほど難しくはない、ニコ自身も、崖までたどり着いたとしたら、上へあがらず、コテージ方面へ戻る選択をするだろうという予測も踏まえていての作戦だった。

捜索に参加できない男子と女子は佐々木さんの誘導で、来た小道を降りてコテージに戻る。それもなるべくゆっくり、こちらも等間隔でニコが小道に戻る可能性を考慮して。そして、念のため展望には、野球部の田中と鈴木が残っていてくれる事になった。

「行くぞ。」

「みんな、頼むな。」

藤木が作戦開始のコールをする。こういう時、冷静に頭がまわって、皆を動かす事が出来るのは藤木の方が優れている。慎一は藤木が居てくれてよかったと、心から敬愛する。





     

「えーと、落ち着け。」

まずコンパスと地図で方角を特定・・・って持ってない。ない場合は、時計と太陽の位置で・・・って今は、夜。

えーと、夜は・・・・夜に遭難したら、どうするって言ってた?

蛇も怖いけど、ここに一人ってのも怖い。恐怖で頭が回らない。わざと声に出す。

英「落ち着け」露「落ちつけ」仏「落ち着け」

英「思い出せ~。」露「思い出せ~」仏「思い出せ~」

パパの言葉を思い出せ。夜になったら、どうしろって?

パパはなんて言ってた? 

『日が暮れてきたら、もう動かず、ビバークの準備をするんだよ』

ビバーク!そうだビバーク、体力温存のため、朝まで大きな木の根本や岩の陰、洞窟などで露営する事。

周りを見る。背もたれに出来るような大きな木なんてない。岩もないし、洞窟もない。

「朝までビバークなんて絶対無理、ここにはアレがいる。」

そう思った時、後ろでガサっと草が揺れる音がした。

「ひっ!」

音の正体も確認せずに、とにかくまた走った。

走りながら思い出す。「山で遭難したら下らず、登れ。」そうだ。登らなきゃ。

月明かりだけでは、先が下っているのか登りなのかわからない。だから、足の感触だけで、登りを感じる方へ足を向けた。

だけど、すぐに走れなくなった。体力の限界。

英「疲れた・・・・」

今日は、朝の8時に慎一が家まで迎えに来た。昨日の晩は、久しぶりのキャンプがうれしくて中々寝付けなかったのに、6時の目覚まし時計より早く目が覚めた。まるで遠足前の小学生だなと思った。眠かったら電車の中で寝たらいいやと考えたけど、寝る暇もなく柴崎とおしゃべりして、あんなに小さな船に乗るのも初めてだったから面白くて。

ここに着いてからは柴崎とテニスで勝負して、藤木と慎一とダブルスでも勝負して、1日中走り回っていた。

立ち止って呼吸を整える。

最後にパパとキャンプをしたのは、フランスに移住する少し前、ジュニア4年の夏だから、今から5年も前。フランスでは、パパは仕事が忙しくてキャンプには行けなかった。私もグレンと遊んでいれば楽しかったから、行かなくても特に不満はなかった。

パパにいろんなこと教わったのに思い出せない。あの頃は、小さいテントは一人で張ることが出来たし、火起こしもでき、パパにコーヒーを入れてあげる事ぐらい出来ていた。擦り傷は、薬草を見つけて塗って治療したし。

足が重い。

喉が乾いた。

水もない。

そもそも、パパとキャンプしていた時のような荷物が今は全くない。ナイフもロープも、コンパスもない。時計すらもコテージに置いたリュックにつけたままだった。

足も登山靴じゃない、スニーカーだ。

「パパ、どうしたらいい?」

空を見上げたら木々の合間に、上限の月が小さく見えた。





「ニコー!」!

「真辺さーん。」

同時に、展望を降りていく10人はニコちゃんの名前を呼びながら、道なきところを下っていく。

携帯だけは絶対に落とすな、と、ストラップのついていない者の携帯は、女子のストラップを借りて、つけるよう指示した。ニコちゃんの捜索がどれぐらいかかるかわからないから、10人の携帯をすべて省電力モードに設定して、余計なアプリ機能はストップさせて電池を温存した。

今野曰く、朝まで見つからなくてもこの島は狭いから、日が昇ったら男子全員と、ホテルの従業員を何人か出して、この島の南東側を探せは見つかるだろう。という楽観的に構えていた。もしかして発作が起きているかもしれないと思うと、そんな悠長な事は言ってられないと焦ったが、そのことを軽々しく口にするわけに行かなかった。ニコちゃんの病気は他言無用の秘密だ。

新田が意外にも落ち着いている事に、亮は不思議に思い、皆に聞こえないように理由を聞く。すると、発作ではないと持論を語る。どうにも、新田の落ち着きが心強い。ニコちゃんに関しては、どんなに亮が強がろうとも、赤子の頃からの幼馴染という絆は超えられないのだから。

次第に、並び合っていた捜索隊の声が聞こえなくなって来た。遠くでゴォーと言う風と波が混じる音が聞こえる、それがかなりの騒音となって亮の周囲を取り囲む。亮の呼び声は虚しく押しつぶされていく。

ここまで波と風の音が人の声を消してしまうとは思わなかった。

これじゃニコちゃんに声が届くかどうか怪しい。

懐中電灯の明かりも、闇に包まれて弱弱しい。

しかし、ニコちゃんの怖い物が蛇だったとは、意外だ。昼のニコちゃんの姿を見たら、蛇も捕まえて振り回しそうなのに。

こんな暗い森の中で、一人のニコちゃん、可愛そうに。

さぞかし心細いだろう。







   ・・・・・・ノ。

   ・・・・・リノ・・・イッ。

えっ?地鳴りのような音の合間に、はっきりと名を呼ぶ声が聞こえた。

   ・・・・・リノ・・・・・イッシヨ・・・・ニ。

パパ!

どこ?

周りを見渡しても誰もいない。

   リノ、イッシヨニ    

その声は、地鳴りの音にかき消されるように、小さくなっては大きくなりを繰り返し、次第に遠ざかっていく。

「パパ、待って!置いてかないで!」

声の聞こえる方へ、駆け出した。

パパが呼んでる






「ニコーぉ」

可能な限りの大声で呼んでも、すぐに海からの風や波の地鳴りのようなゴォーと言う音に吸い込まれていく。

懐中電灯を時々振り回し、どうかニコが、この光ら気づいてくれるように願った。その明かりも闇に吸い込まれて頼りない。数メートルしか光の威力は届かないようにみえる。

随分と下った。慎一はGPSで現在の位置を確認する。赤い点が今野の居場所、今野はニコを見失った方向へまっすぐ進んで、海岸線にたどり着いている。この時点でまだ電話連絡がないという事は、海側に出てもニコは見つからなかったという事。

慎一の現在地は、今野より100メートルほど、北西の位置のまだ森の中腹、今野以外の者の場所はわからない、だけど慎一の位置を藤木が確認して動いて、更に橋本が藤木の位置を確認してと連携した追い込み作戦しているから、おおよその範囲は網羅出来ているはず。

ニコは懐中電灯も持たず、携帯もなしの暗闇で大丈夫だろうか?蛇に驚いて逃げた時は発作を起こしてなくても、途中で起こしていると言う可能性はある。何に反応するか、精神科医すらもわからない。

駄目だ、悪い方に考えるのはよそう。

「ニコは大丈夫だ。」わざと声に出して言う。

ニコはいつだって必ず戻ってくる。大丈夫。空を見上げると欠けた月が小さくぼやけて見えた。

携帯の地図をもう一度見る。赤い点がさっきとは違う場所を示している。今野は海岸線を下ってコテージの方へ向かって歩き始めたようだ。

ふと、地図にある、海岸線の窪地が妙に気になった。直線距離でおよそ500メートルだが、慎一が捜索コースとして決められた線よりちょっと外れた地図の上に当たる。そこは、藤木が海岸線に辿りついたら降りてくる場所だから、慎一がわざわざ登らなくても捜索の範囲に漏れはしない。だけど、そこがとても気になる。

そこに行けば、ニコに合える。

2年前、慎一が展望公園の丘へと走った時の感覚に似ていた。

そこに居るとは限らない、だけど必ずそこに居る確信。

慎一は、そばにあった木の枝をよけて駆け出した。島特有なのか、生い茂る木々はどれも細い物ばかり、だから余計に枝葉はしなって、慎一の走りを邪魔をする。そうして次第に地鳴りのゴォーという音が大きくなり、視界が広がったところで波のザッザーという音に変わった。海岸線の崖に到着、崖下は白いしぶきをあげた波が打ち寄せ、その振動は塩の香りを巻き上げていた。

空か海かわからない鈍い紺色が広がっていて、風は波の音と共に生暖かい空気を顔にぶつけてくる。

視界の左端に人の気配に慎一は凝視する。

いた!ニコだ。

だけど、立つその場所に血の気が引いた。

ニコは、崖のぎりぎりの所に立っていた。

慎一は叫んだ。その声は波が打ち寄せてあげる衝撃音でかき消される。

「ニコ!」

ニコは振り向かない。

距離にして、6、7mほど、ニコは、海に向かって手をゆっくり前に伸ばすと、足も一歩、踏み出した。





リノ、イッショニ、オイデ

「パパ、待って、怖い、蛇がいる。足元にいっぱい。これ以上、いけないの。」

リノ、ソノテヲ・・・・・・

「パパ、手が届かない。待って・・・・置いてかないで。」

リノ、イッショニ・・・・・。

「待って、パパ、一緒に行くから」

・・・・・・リ・・・ノ

「・・・・・ニ・・コ・・・・」

・・・・・・リノ・・・・・イッショ・・・ニ

「ニコ!」

・・・・・シノウ

「危ない!」

生ぬるい風が顔を叩くように抜けていく。

目の前には、どんよりと重い灰色が広がっていた。

聞こえるのは海と風の唸り。私は尻もちをついている。

左腕が痛い。誰かが私の腕を引っ張っている。

「何してんだ!危ないだろう!」見上げると怒った慎一の顔。

「え?慎一?」慎一の手に引っ張られて立ち上がる。「パパは?」

「パパ?」

訝しむ慎一に、言ってはいけなかった単語だったと口を噤む。

「ううん、蛇が、蛇がいるの」

「もう大丈夫、蛇は、ここにはいないよ。」一変して優しく微笑んだ慎一の視線から、私はそらした。

海へともう一度視線を戻す。

海と空との境界線はあいまい、そのあいまいさは、私の記憶と同じ。

過去か?現在か?

境界線のはっきりしない記憶。

りのと呼ぶパパの声は、過去からの物であって現在でもある。

確かに聞こえていた。この崖の向うから。

パパは、私を許さない。

その手を振り払い、逃げようした私を。

パパだけが、今の私を求めている。イッショニと。

また、行けなかったのか。

あの手を掴もうとすると聞こえる声、

ニコと呼ぶ、慎一の声。

パパの手をつかもうとするりの。

慎一の声に手を伸ばすニコ。

私は・・・・

どっち?

ちゃんとソノテヲフリハラわず、掴むのは、

過去?現在?


   リノ、イッショニ、オイデ、ソノテヲ・・・・・・








慎一は、今野と藤木に見つけたと電話で報告をした。その電話の合間にも、ニコから目を放さず様子を窺っていた。

特におかしいという事はなく、ニコは海を眺めている。

ニコの捜索は終了し、全員はコテージに帰る。慎一たちはここから海沿いを下ってホテル前のビーチを目指す。

「ニコ、コテージに戻ろう。」

崖の下を覗き込もうとしたニコをその場から引き離し、ニコの手を掴んで歩き出した。だけど握った慎一の手から逃れるようニコはもがいた。  

「離して。歩ける一人で。」

「ごめん。」

手を繋ぐのもイヤなぐらいに、嫌いになったか。と慎一の心はきゅっと痛んだ。

波の音を聞きながら、慎一はずっと考えながら歩いた。

あれからずっと考えている。何がいけなかったのか?

人の為を思うのは簡単、だけどそれを言動にするのは難しい。

考え無しに思いのまま行動してきたわけじゃない。

思考しすぎて何もできなかったから、ニコは怒っている。

「慎一・・・」ニコは立ち止まり、俯いてまごついていた。

「疲れたか?」首を横に振るニコ。慎一は数歩後戻りをして、ニコの顔をのぞきこむ。

「ごめんなさい。」

「いいよ。蛇が上から降ってきたら、誰だってびっくりするよ。」

「違う・・・」

「え?」

「それも謝る事だけど、もっと根本的に謝らなければならない。」

「根本的?」ニコは、肩で息を吸い込むと、意気込む様に話し始める。「慎一を追いかけて、学園に入ってしまった事、慎一に迷惑ばかりかけて」

「そんなこと」慎一の否定も聞こえないように言葉は続く

「慎一は優しいから、私を捨てられない。もう、いいよ。幼馴染はやめて、私の事は捨てて。」

きらいだと言われた事より、ショックだった。柴崎に言われたように慎一は覚悟をした。自分を必要とせず、グレンを選ぶニコを。そしてこの先、ニコが選んだすべての事に納得して許せる自分になろうと心に決めた。ニコが自分だけの特別にはならなくても、その根底には、自分たちが双子のように育った幼馴染という揺るがない特別がある。それは、絶対になくならない。それだけは慎一とニコの共通の納得だと思っていた。

なのに・・・

ニコは、それを捨ててと言う。

「それ本気?」

俯いたままの顔を更に地面へと落とした動きが、うんと返事しているように慎一には見えた。      

「そんなにイヤか、俺が。俺と幼馴染であった事が。」慎一は思わず大きな声で叫んでいた。ニコが顔を上げる。

「ちがっ!違う!嫌じゃない!」ニコが大きく首を振る。「そうじゃない、ちがう!」ニコが唇を噛む。気持ちをうまく日本語に表せられないもどかしさに苦悩しているのを見て、慎一は、しまったと反省する。

「私と幼馴染だった事が、慎一の足かせになっている。それさえなければ、慎一はもっと自由に彼女も作れて、サッカーにも集中できる。慎一の事を考えずに追いかけて、学園に入学した事・・・私、ずっと・・・」

ニコの目から大粒の涙がこぼれた。

「今まで、一度も迷惑なんて思った事ないよ。俺は、ニコが常翔学園の特待に合格したと聞いた時うれしかった。誇らしかったよ。また昔のように一緒に生活できると楽しみにしていた。」

「でも、私は、む昔のニコじゃない。」

「そうだな。違っていた。最初は戸惑ったよ。どう声かけていいかわからないし。ニコは俺と目を合わさなかったし。それでも、ニコが同じ学校に居る事、クラスに居る事が、うれしかった。」

「慎ちゃん。」

入学当初、同じ学校に、クラスにニコがいるという事実がうれしかった。その顔が昔と違って笑わなくても、そこに居る事が慎一の安心だった。ニコが居ないと泣いた幼き頃の絶望より、ずっと幸せな事だったのに、いつしか欲張って、ニコの笑顔が見たいと思うようになった。それが、ニコにとって難しい事だと知らずに。

「ごめんな。俺は、グレンのようにニコを癒す言葉を持っていない。藤木のようにニコの気持ちを悟る目を持っていない。柴崎のようにニコを楽にしてやる力もない。謝らなければならないのは、俺の方だ。何もできないくせに、色んなことに欲張って求めた。窮屈な思いをさせたよな。」





「ちがう・・・・違う・・・・私の方が・・・」

欲張りなのはりのの方だ。慎ちゃんからは、十分すぎるほどの安心を貰っているのに、その安心に満足することなく自分の欲望を抑え込むどころか、慎ちゃんにその不満をぶつけ、グレンを求めた。最低だ。こんな最低なりのを、まだ捨てずにいてくれる慎ちゃんに、りのは嫌いだと言った。

「ごめんなさい。嫌いだと言って。ごめんなさい。」

慎ちゃんを傷つけた罪へのごめんなさいは、何度、言ったら許してもらえる?

「謝らなくていいよ。俺たちは、いつも、ごめんなさいなくても仲直りできていた。」

幼き頃、ごめんなさいがなくても数時間後には、普通に遊んでいた。あの頃と同じに優しい微笑みの慎ちゃんは、私の頭をポンポンとする。

『ニコ、ちゃんと傷の手当しないと駄目だよ。』

『ニコが痛くなくても、僕が痛いよ。』

幼稚園でガキ大将と喧嘩した時も慎ちゃんは、そう言って頭をポンポンしてくれた。

慎ちゃんの手が、いつも私を安心させてくれた。虹玉を探して迷って不安だった時も、慎ちゃんと手を繋いでいたから、泣かずに歩けた。

「ごめんなさい。」

ソノテヲフリハラったりのは、ごめんなさいを言う言葉を封じられた。

だからパパはりのを許さない。

でも、あの時のように、迎えが来るのを待つ間、誰かの手を握ることを許されるのなら、

私は、慎ちゃんの手を選ぶ。





ニコは、詰まる言葉で、ずっとごめんなさいを繰り返し泣いている。

ごめんなさいを言わなくても仲直りできたあの頃は、喧嘩しても不安じゃなかった。必ず、またその笑顔があるのが当たり前で、失う事がどんな事か知らなかった。

今は、どんなに大丈夫だと言っても、ニコがまたどこかへ行ってしまうのではないかと、不安でたまらない。

こうして腕を回して捕まえていても、その細さと小ささに、空を切って消滅してしまうのではないかと錯覚する。

ニコが泣く時しか、このやわらかい髪を触れることが出来ないさらさらの髪の中に、虚しさが流れ落ちるようだ。

愛おしいと、不安と、虚しいが混じる仲直り。

どんなに喧嘩しても数時間後には笑って、次の遊びをしていたあの頃の単純な心ではなくなった俺達。

それでもやっぱり幼馴染という繋がりは捨てたくない。

きっと、また昔のように心から笑える日が来ると思いたい。

それは欲張りの希望。

次第に落ち着きを取り戻し、ニコは顔を上げる。

「行こう、皆が待ってる。」

差し出した慎一の手をニコは握る。

慎一が出来ることは、この手を離さない事。

迷子になって離さないでいた、あの頃のように。








(かわいい。)

私に妹や弟はいないけど、もし、居たらこんな感じなんだろうなぁと、ニコの寝顔を見ながら麗香は思う。

静かな寝息をたてているニコの寝顔。そこには、特待の苦悩や精神的苦痛は何もない、きれいな素顔。

麗香は音をたてないように、そっと部屋を出る。一階に降りるとクラスメートたちは既に水着に着替えて、海水浴の準備万端だった。「柴崎さん、じゃ私達、先に出るね。」

「うん、行ってらっしゃい。」

「ごめんね。」

「いいの、ニコが起きたら、私達もすぐ行くから。」

同室のクラスメートをそう言って玄関で送り出す。

昨日、ニコが見つかったと連絡があった時、心からほっとし、クラスの皆で手を取り合って喜んだ。

新田と手を繋いで帰って来たニコは、少し疲れた様子だったけど、どこも怪我なく、発作もない事に安堵した。

そして、二人の微妙に開いていた距離が縮まっていたことに藤木と顔を見合わせてほほえんだ。

ニコは、疲れた身体を休むことなく、皆に謝ってくるとコテージを回ろうとするから、「明日にすれば?」という意見は、やっぱり聞き入れることなく、一人一人全員を捕まえて謝った。麗香と新田は、謝るニコに一緒について回ろうとしたら、藤木に止められた。

新田には、「女子に印象悪いからやめとけ」と、そして麗香には、「お前の存在が謝罪じゃなくなるからやめとけ」と。

「どういう意味よ!」と怒った麗香だったけど、藤木の言う事だから不満を残しつつも我慢して従った。

その後、ニコがコテージのシャワーを使って、一息ついたのはもう12時に近かった。

ベッドに横になると、ニコは直ぐに寝息をたてて眠りについた。

「まだ寝てるのか?ニコは。」

新田と藤木が、水着姿で麗香達のコテージに迎えに来た。

今は8時50分。しおりでは、8時に朝食、9時から海で遊ぶという予定になっている。麗香は7時の目覚ましのアラームを鳴らさず止め、ぐっすり寝ているニコを起こさず、今野と佐々木さんにメールを送っていた。【ニコを存分に寝かせてあげて】と。

「うん、よっぽど疲れたみたいね。」

「そりゃそうだよ。昨日のダブルスも全力だったからな。」

「寝れてるのなら、安心。」と新田

ニコは、父親を亡くしてから、精神安定剤兼睡眠薬を飲む生活を続けていた。最近は、なるべく飲まないようにしているらしいけど、まだ時々辛そうにしている時があって、そんな時でも麗香たちは何もできない。

「先に行ってていいわよ。私、ここの鍵も預かってて、ニコが起きるの待ってるし。」

「いや、別に・・・なぁ。」

「あぁ、ニコちゃんほってまで、海で遊びたいってほど子供じゃないしなぁ。」

「プっ、子供じゃないって、昨日、ニコの虫取りに付き合って木に登ってたの誰よ。」

「いや、あれは、ニコちゃんがカブト虫いるかもっていうから。カブトは子供も大人も関係なしの男のロマンだぜ、なぁ新田。」

「野生児のニコと一緒に木に登れるのは、立派に子供だと思うな。」

コテージ内の二階から、ドタドタとバタンという振動が伝わって来た。

「あっ、起きたみたい。・・・・・おはよう、ニコ。」

「何故、起こしてくれない!」

「貴重な睡眠を邪魔しちゃダメかなって思って。」

「海の方が大事だ!」

「こら!ニコ、柴崎はお前の事を思って・・・」

叱った新田の言葉を全く聞いてないニコは、部屋をキョロキョロと見渡して言う

「あれ、皆は?」

「先に行ってもらったわよ。」

「えー、早く。水着、着替えなきゃ。」

「あー駄目よ。ちゃんと朝ご飯食べなきゃ。」

結局、こんな時も新田に食事の監視を強いられて、早く海に行きたくてウズウズしているニコは、ムスッとしながらサンドイッチをチマチマ食べる。目を離すと食事を抜こうとするニコ、プリン以外の食べ物は食べる気にならないというその体は小さく、入学当初から身長も伸びていないようだった。修学旅行の時、珍しく私に語った自分の事は、私を親友だと認めてくれたんだとうれしく思った反面、その悩みがあまりにも衝撃的で、麗香の守らなきゃという過保護心を増幅させた。

『まだ初潮が来てない。パパを亡くしてから、飲み続けていた薬の影響で、味覚もおかしいし、成長も止まってしまった。』

ニコの過去は、睡眠を奪い、味覚を奪い、身体の成長も奪ってしまった。新田じゃないけど、その小さい身体と心を心配して、つい、食べろと言ってしまう。食べる気にならない物を無理やり食べさせるのは可愛そうだけど、海水浴は体力を奪う。今日も1日中遊びは続く。

結局ニコと一緒に海に出られたのは10時近くになっていた。

「やっと眠り姫のお目覚めだね。」

「海!」

ビーチで私達の到着を待っていた今野が出迎えるも、悲しいかなニコには眼中になく、素通りして走っていく。

「あれの、どこが姫だよ。」

「元気そうで良かった。あっ!」

「また、こけた・・・・元気出し過ぎだよニコちゃん。」

こけた砂浜で、ニコは起き上がろうとしない。

「えっ?やだ、起きないわよ。ニコ、どうして。」

焦り駆け寄ろうとしたら、溜息と共に新田に止められた。     

「カニかなんかの穴でも見つけたんだろう。で、なんだ?これは、掘ってみよう。おかしいなぁ。何にもないなぁって、はっと気づく、海!海に行かなきゃ。」

新田のアフレコ通りの行動をニコがして、また海に向かって走って行く。

「お前、凄いな。」

「野生児のニコの行動なら、お前より読めるさ。」

「だけどさぁ・・・ニコちゃんの水着姿、初めて見たけど、ちょっとなんだな。細すぎるっていうか。」

「あぁ、あれじゃ、小学生料金で電車に乗れるな。」と今野までも。

「顔と身体がアンバランスなのよね。」

「そこがいいんだよ!」急に現れた中島の声に、皆は驚く。

「奇跡だ。リアル二次元!」

「はぁ?」

「アニメ界の神が作りたもうた奇跡のアイドルだ!。」

「ちよっと中島、あんた女に興味なかったんじゃないの?」

「真辺さんは別格だ。去年のメイド服も良かったけど、あの水着姿も最高!ここまでリアルに2次元を再現できる子なんてそうそういないよ。写真、写真と。」そう言ってスマホ片手に海へ向かう中島に皆が唖然とする。

そして麗香は「はっ」と、気づく。

「ちょっと!みんなっ!中島に写真取らせたら駄目よ。携帯取り上げて!」

「え?あっ、そうかっ!」藤木が駆けだして中島の手から携帯を取り上げる。

「うわ、何するんだ!やめろ。それには大事な。」

大人になれないニコを、オタクが認めるなんて・・・

(あぁ、どこまでニコは不憫なの。)





ニコちゃんは海で泳ぐのは久しぶりと、ずっと楽しみにしていた通り、クラスの誰よりも楽しそうにビーチと海を駆け回っていた。

そんな楽しそうなニコちゃんをずっと見ていたいのに、寮仲間である亮に今野は雑用を亮に押し付けてくる。今も、当番でもないのに、昼飯のバーベキューの火起こしを頼まれてしまっていた。

「柴崎、お前、ニコちゃんと遊んでやれよ。」

ニコちゃんは今、一人で砂浜の生き物を観察して遊んでいる。

「嫌よ。小学生のニコに付き合っていたら、日焼けで真っ黒になっちゃう。」 

今日の為に買ったという柴崎の水着は、とても海水浴を楽しむような物ではなく、このリゾートをおしゃれ感覚で味わうだけのような、チューブトップと長いパレオ。を優雅に着こなしてパラソルから出ようとしない。ビーチチェアーとトロピカルなジュースでもあれば、ここはお嬢様御用達の海外リゾートと見えなくもないが、残念ながらあるのは小さなパラソルとペットボトルのジュース。パラソルも、食材が痛まないように今野が用意したものを無理やり奪って一人占めしている。

「お前、薄情だなぁ~。」

「藤木だって、ニコの生き物質問にうんざりして逃げてきたくせに。」

「俺らは、バーベキューの準備を頼まれたからだ。なぁ、新田。」

「あぁ。」

新田ですらも、付き合いきれないと嘆いていたのには笑った。新田はバーベキュー用の食材を手際よく5つのコンロ分に振り分けている。

しばらくして生き物観察に飽きたのか、ニコちゃんが亮たちが作業している所に来て何かを探し始めた。    

「ジュースなら、クーラーボックスに冷たいのあるよ。」

「違う。ないかなぁ。」

「何を探してるんだ?」新田も声をかけたが、ニコちゃんは無視して柴崎の所へ行く。

「柴崎、あっち行かない?」

「あっち?」

ニコちゃんが指さす方へ振り向くが、ホテルがあるだけで面白い遊び場があるわけでもなく

「うん、売店行きたい、ついてきて。」

「・・・・・ニコ、プリンは我慢しなさい。それに、ホテルに入ったら駄目だと言われてるでしょう。」

「このくそ暑いのに、プリンって馬鹿か!」また、よせば良いのに、頭ごなしに怒る新田。

「慎一には言ってない!」

「この距離、十分に聞こえる!」

「あー何故、プリン用意してないんだ!」

「用意してる方が、おかしいだろ!」

「真辺さんプリン食べたいの?僕が買ってきてあげるよ。」またもや突然現れる中島。

「ほ、ほんとぉ♪」  

「こらープリンで靡くな!」

「そうよ。中島に釣られるんじゃないわよ。」

「ニコちゃん前にも言ったでしょ、プリンあげるからって、知らない人についていっちゃ駄目だって。」

「な中島君は、し知らない、ひ人じゃない。」

「もっとタチ悪いのよ!目を覚ましなさい!」

「うっせーな、柴崎。だから三次元の女は嫌なんだよ。」

「うっせーって!」

柴崎は目をむいて怒る。その本心に殺意に近い感情が沸き起こる、学園の暴君的な存在だった頃の柴崎。

「柴崎!親睦会だぞ、分かってるな。」柴崎は亮の言葉に、冷静に心を落ち着かせる。柴崎は、ちゃんと自分の悪い所を認めて反省の出来る人間、だから亮は、この人の本心を読み取る力をセーブせずに柴崎をサポートすることが出来ていた。

「柴崎、お前の反省の仕方、面白いな。」

腹を抱えて笑ったら、誰もこの状況を理解できなくて、不思議そうに首を傾けられた。

    





「花火やるぞー」という今野の掛け声のもと、クラス全員が砂浜に集まる。理事長からの差し入れとして、宅配便で大きな段ボールいっぱいの花火が届いていた。流石は柴崎の父親、その量は半端ない。36名が笑顔になるには十分な量だ

夜は昼間のジリジリとした熱さはなく、海風も出て来て肌に心地よい。

「花火、初めて。」とニコは段ボールを興味津々に覗く。

「え?やったとことなかった?」

「うん。花火を見に行った記憶はある。やった事はない」

花火大会の帰りにえりが「もう歩けない」とわがままを言って大変だった。慎一の家は夜が忙しいフランス料理店だから、花火は近所の友達の家族に呼ばれて、させてもらった記憶しかない。

ニコは花火を手にしないで、皆が手に持って火をつける様子をずっと見ている。

「やらないのか?」

「色、変わる。という事は・・・」

「ほら、火をつけてやるから。持ってみ。」

慎一はニコに一本の花火を手渡し、チャッカマンで火をつけてやる。花火の先に火が移ったものの、火薬には着火しないでその火はすぐに消えた。

「ん?出てこない」先端を覗こうとするニコを慌てて、降ろさせる。

「馬鹿っのぞくな!危ない!」

薬草の知識とか、キャンプの知識とか、オーロラを見たとか、普通では中々できない経験をしているのに、花火の遊び方を知らないとか、一般レベルの日本の事を知らないニコは、何しでかすかわからない。

やっと着火した花火に、じっと見入るニコ。

チャッカマンを持っている慎一に、こっちの花火もつけてとクラスメイトに頼まれる。置き型の花火に着火しようとする慎一にニコはついてくる。

「これは?」

「覗くなよ。危ないから離れて。」

火をつけると、勢いよく火薬の花が咲く。赤や青、黄色に変化し、手に持つ花火より大きい。そのきれいさに、女子たちはわぁーと歓声が上がる。ニコは、無表情にそれを見つめ、今一つ楽しんでいるか楽しんでいないのか、わからない。

後ろで、ヒュ~~パンという、打ち上げ花火の音がして、振り返る

男子は、打ち上げ物系の花火で派手に遊んでいる。

ニコが、派手な花火をしている男子の方へと走って行ってしまった。

「今回、このキャンプ企画して正解だったわ。」ニコが走り去る姿を振り返りつつ佐々木さんが慎一に話しかけてきた。「特に真辺さん、昨日の彼女には驚いた。」

「心配かけて悪かったな。」

「ううん、そのことじゃないの。私ね、谷口と小学校が同じの友達だったの。」

谷口・・・・・慎一とニコが1年1組の時に同じクラスだった。ニコを目の敵にしてきつい態度をとり、体育祭をさぼってすべてをニコに押しつけた同級生だ。

「1年の頃、谷口の愚痴を色々聞かされていたわ。真辺さんのあの無表情がむかつくって。馬鹿にされているみたいだって。私は真辺さんと接点がなかったら、谷口程、真辺さんに嫌悪は感じなかったけど、」

慎一は女子達にチャッカマンを要求されるままに火をつけながら、黙って佐々木さんの話に耳を傾けた。

「だけど、人を避けるように廊下を歩く真辺さんを見る度に、特待を受けてまで何が楽しみでこの学園に来たのだろうって不思議に思っていた。やっぱり特別に頭のいい人は、私達普通の人とは思考が違うのかなって。」

「ニコは・・・。」

「後に、新田君が幼馴染だと聞いて、追いかけて来たんだなってわかって納得したけど。谷口はその事にショックを受けててね、あの当時、騙されたとか、酷い言いようだったわ。」

佐々木さんに顔を向けたら、冷やかし半分の微笑みを向けてきた。

「いや、俺はちゃんと。」

「わかっていた。谷口がめちゃくちゃな事を言っていたのは。当時の新田君を責めてるわけじゃないの。言い訳に聞こえるかもしれないけど、数少ない小学校からの友達に意見をいう勇気がなかっただけ。」

下を向き、照れたように心の内を吐き出す佐々木さん。

「3年で初めて真辺さんと同じクラスになった時、正直に言うと嫌だったわ。谷口から聞かされてた先入観もあったし、何より、浮くとわかっている子がいて、クラスがまとまるはずがないって、中学最後のクラスなのに嫌なクラスになりそうって。」

「佐々木さん・・・・」

「だけど、真辺さんって不思議なのよね。あんなに嫌だと思って、先入観も悪いのに、なぜか無視できなくて。気が付いたら真辺さんの姿を追っているの。」

柴崎も昔、同じような事を言っていた。初めは、あの無表情に耐えられなくて、嫌味の一つでも言わなきゃ気が済まないほど嫌だったのに、なぜかニコの姿を探して、いつの間にか無視できない存在になっていた。と

「そんな自分に気づいた時、藤木君が、海外でバスケやってたって教えてくれてね。3人でバスケ話に盛り上がったことがあったの。あ~3人というより、私と藤木君だけがほぼ、しゃべっていたんだけどね、真辺さんは、フィンランドでクラブチームに入ってた事を教えてくれてた時、結構、普通なんだなって思った。」

相変わらず、藤木は抜け目なく手回しをしている。

「でも、私の中の先入観を変えられても、他は全然でしょう。真辺さん自身も今一つクラスに馴染もうとはしていなかったし、柴崎さんさえそばに居ればいいみたいな感じがあったし。修学旅行でどうにかできないかなぁって思ってたんだけど、4人だけ香港だったし。そんな事をね、今野に言ったら、今野が藤木君と相談して、このキャンプの企画を出してきたの。」

「えっ、藤木が?」

「そう、真辺さんがフィンランドに住んでた時、山や川でキャンプしてよく遊んでいたって聞いたことあるから、喜ぶんじゃないかって。」

「じゃ、藤木は、この企画を初めから知って?」

「そうよ、キャンプにしようって言ったの、藤木君だもの。」

(あいつ・・・・。)

「成功だったわ。私達は学園では見られない素の真辺さんを見られたし、真辺さんは、皆一人一人に向き合う事ができたし、アクシデントがそうさせちゃったんだけど。だけど、馴染もうとしてなかった真辺さんが、皆に謝らなきゃって思ってくれた事自体がうれしいじゃない。私達のコテージではあの後、真辺さんの話で持ち切りだったのよ。昼間の真辺さんのはしゃぎぶりも合わせてね。」

「ニコの話題って・・・。」

「悪い事じゃないわよ、焼きマシュマロ配ってくれたり、皆、良い方に印象を変えてるから。それと、昨日の話は言ってないから安心して。」

「あ、あぁ、ありがとう。」

佐々木さんはふーと大きな息を吐いて、「ごめんね。話に付き合ってもらって、ちょっと吐き出したかっただけなの。」と言って、クラスの女子が固まっている方へ去って行った。

女子バスケ部の部長もやっている佐々木さんはいつもさわやかで、部長会議でも堂々と話す。人の事を悪く言わないイメージを慎一は勝手にもち、女子バスケ部を取り仕切る姿に少なからず尊敬していた。それが、あの谷口と友達で、最初はニコの事を嫌だと思っていたとは意外な告白だった。そんな佐々木さんの黒い部分を知っても嫌な感じはしない。逆に人間味が濃くなったというか、親しみがわいた。

パンと一発、空に広がった花火に、歓声。その視界の端に藤木の姿が目に入った。

このキャンプは実質あいつが企画したようなもの。今野と藤木は寮仲間だから、二人が相談しながらやった企画だった事に全く気づかなかった自分も情けないけど、なんだか、こう・・・・いつも気が付けばバックに藤木の業があるという事に、慎一は無性に腹が立ってきた。

このキャンプ、佐々木さんが言うように楽しかったし、ニコと仲直り出来たから成功と言えば成功なんだけど、そもそも、このキャンプの企画がなかったら、ニコはアルバイトをしなくて済み、そうすれば、グレンと再会する事なくニコと喧嘩しなかった・・・元を辿れば、藤木のせいとなる。

ニコの姿を探せば、藤木の後ろでしゃがんで何かをしている。藤木は女子と話をしていて足元にニコが居る事に気づかない。よく見れば、ニコは集めた花火の紙を剥いて、火薬を集めていた。

「藤木、後ろ!ニコを止めろ!」

「えっ!」

慎一の叫びに間に合わず、ニコはチャッカマンで集めた火薬に火をつけた。シュボーンと大きな音と共に炎が上がり、四方八方に飛んでいく火の粉と大きくなる炎は次々と色を変えていく。藤木は驚いて、ニコの腕を引っ張り炎から離す。

「何やったの!ニコちゃんっ」

「実験。」

「はぁ!?」

「危ないなぁ、もう!」

「炎色反応の種類を・・・」

「はぁ~、無茶苦茶だよ。」

慎一はため息を吐いた。



   

お父様からの差し入れ、段ボールいっぱいの花火がすべて終わって片付けはじめた頃、新田が藤木に詰め寄った。

キャンプの企画に藤木が加わっていた事をやっと気が付いた様子。ちょっと考えればわかりそうなものなのにと、麗香は呆れる。

今野と藤木は寮生、企画を進めるにあたって、サッカー部のスケジュールを考慮して日程を組んだりするのに、今野一人で出来るはずない。それに、麗香もこの企画に力を貸していた。大人が付き添わないこのキャンプが、すんなり通るはずもない。ニコのアルバイト以前の話である。クラス全員でどこかに行きたいと麗香が父に話した段階では、ニコの病気のこともあり、賛同してくれなかった。しかし、ニコには辛い記憶を消しとばすぐらい、楽しい記憶を沢山作った方が良いとの医師の指導がある事を踏まえて、麗香は父に懇願した。場所を今野の実家が経営しているリゾート地にして信頼を得て、ホテルの屋上にドクターヘリが着陸出来る緊急対応の万全さで、麗香の父を説得し許可をもらったのだ。さらに麗香の父は、ニコがお金を理由にキャンプに行かないと言い出す事も予想して、アルバイトの手配も事前にしてあった。グレンの登場には、麗香も予想外の事であったけれど。

新田と藤木の言い争いはまだ続いている。新田の八つ当たりたい気持ちはわかる。このキャンプがなければ、ニコはアルバイトをしなくて済んでいて、グレンとの再会もなくて恋に落ちることはなかった。だから行きつく根源は藤木が余計な計画をしたからだとなるわけで、そんな新田の詰め寄りを藤木は軽くかわして、まるでじゃれ合っているようで、麗香はやれやれと首を横に振る。

何はともあれ、新田とニコの仲も元に戻って結果オーライだ。

麗香はとても満足に、花火の残り香を胸に吸い込んだ。

















波の音は揺らぎの音を奏でて、風と共に髪を揺らす。

足元の砂をかき分け、小さな貝殻を見つける。

貝殻は、生き物であった時の証、

一体このビーチにどれぐらいの数の命だった証があるのだろう。


  リノ、イッショニ、オイデ、

    リノ、ソノテヲ・・・・・  


湿気を含んだ生暖かい風の中に、秋の気配含んだ冷たさを拾う。

もうすぐ夏が終わる。

柴崎がのぞき込んで、隣に座る。

「疲れた?大丈夫?」

「ううん、疲れない。」

疲れは無いが、左の手の甲がヒリヒリして痛い。さっきの花火で火傷をした。慎一にバレたら、また頭ごなしに怒られるから黙って我慢。

パパは何しても怒らなかった。

怪我をしても、パパは笑って「また見誤ったね」と言うだけ。

怪我は、楽しいの限界点。

『怪我する前に辞めないと、楽しいは辛いに変わるよ』

パパの言葉。

    

 リノ、イッショニ、オイデ、

    リノ、ソノテヲ・・・・・


『りの、5回目で辞めておけば、楽しいで終えられたんだよ。6回目を登る時、りのは、ちょっとしんどいなって思ったよね。』

『う、うん。』

『りのは限界を見謝った、だから蛇をロープと間違えて握ってしまって両肘を打撲した。これが本当の登山だったら、りのは滑落して命を落としていたね。』

『あなた!りのに、そこまで言わなくても。りのは十分、怖い思いをしたんですよ。』

『さつき、りのは一人っ子だ。りのより先に寿命が来てしまう私達は、いつまでもそばに居て守る事は出来ない。何事にも全力で突き進んでしまうりのに必要な事は、自分で、自分の限界を把握する感覚だ。限界の手前を知り、やめる決断力。それをパパは、りのに教えておきたい。』


 リノ、イッショニ、オイデ、

    リノ、ソノテヲ・・・・・


手の甲のヒリヒリは限界を見誤った、楽しいの限界点を超えて辛いに変わった証。

昨日のダブルスの時も、先の柴崎戦でとっくに疲れていたのに、負けたままなのが嫌で、もう一勝負とやって限界点を超えた。ボールを追いかけて派手に転倒した。右の膝と肘をすりむいて絆創膏を貼っている。おまけに昨日の夜、森をさまよった時にどうやら木々の枝ですり切っていたらしく、両足の膝から足首にかけて3か所ほど絆創膏を貼っている。

(おかしいな。私の限界点、こんなに低かったっけ?)

パパと山や森で遊ばなくなって5年が経つ、感覚が鈍ってしまったのかもしれない。

「楽しめた?キャンプ。って聞くまでもないか。」柴崎が私の足の絆創膏を見て吹き出す。「ニコは、絆創膏の数が楽しさのバロメーターね。」

「絆創膏の数は・・・」ダメの証なんだってば。

後ろで、砂浜を踏みしめる気配がして二人で振り返る。

「ゴミ捨て終わった?」

「あぁ、疲れたぁ。」そう言って慎一が私の隣に座る。

花火の後片付けをさほって藤木とふざけ合っていた罰で、集めた花火のごみをホテル裏のゴミ集積場に持って行く役目を今野くんに言いつけられていた。

「全く、新田のおかけで、えらい目に合ったぜ。」と、藤木も柴崎の隣に座る。

「俺のせいじゃないだろ!お前がだなっ」

「おっ、新田君、状況把握してから発言しなさいよ。」

「うっ、あ、あの、だからだな。」急に、しどろもどろになる慎一「くそっ、明後日からの練習、覚えてろよ!」捨て台詞に対して全く効き目なしの藤木は、ニヤついておどけた調子。

「何の喧嘩?」

「男の喧嘩なんて、大した理由じゃないだから、聞くだけ馬鹿馬鹿しいわよ。」と柴崎。

「ごくろう、ご苦労。」

「ありがとうね新田君、藤木君。」

そう言って寄って来たのは、今野君と佐々木さんと野球部の田中君と家庭科部の仁科さんも加わる。田中君と仁科さんは昨日の肝試しでペアになってから、仲がいい。

私を含め8人のクラスメートの輪になった。

少し向うでも、4人や、6人、それぞれ仲の良い友達同士で、キャンプ最後の夜を惜しんで雑談をしている。


 リノ、イッショニ、オイデ、

    リノ、ソノテヲ・・・・・・

それは、パパが生きていた証の声、

風の音の合間に、繰り返し聞こえてくる。







「へぇー仁科さんは将来、お店を開きたいの?」

「えぇ、高校卒業したら、どこかフランス料理のお店に修行に入りたいとか考えてもいるんだけど、親がねぇ、大学は行けって、せっかく常翔に入ったんだから、大学を卒業してから行きなさいって、許して貰えそうになくて・・・・」

「フランス料理って言ったら、新田のとこに行ったらいいじゃん。」

「ははは、皆、同じ事を言うのよね。昨日もね、カレー作ってる時に、そんな話で盛り上がったのよね。」

「あぁ、その話は、もうお腹いっぱい。」

昨日、カレー鍋の前で女子に取り囲まれている新田に、少なからず嫉妬していた亮。「何の話?」って割り込む事も考えたけれど、それをすれば、新田の腰巾着的なイメージになりそうでやめた。そんな話になっていたとは。

「でも、なんか、いいよな。親に反対されてもやりたい目標があるっての。」と今野。

「今野君はないの?将来の夢って。」

「あぁ、うーん。あるっていえばあるし、無いって言えば無いのかな。」

「何それ。」

「うーん、なんて言うかなぁ。柴崎ならわかるだろ。」

「ええ、そうね、将来の夢、あるようでないのよね、私達。」

皆が不思議に二人を見る、二人の共通点と言えば、継ぐ稼業が決まっている。それも大きな稼業経営。

「俺達はさぁ、生まれた時から人生のレールが既にあってさ、それからはみ出た夢を見つけたとしても、はみ出た後悔っていうのかな、そう言うのに悩まされるんだよ。親もさ、別に継ぎたくなかったら継がなくていいって言うけど、でも・・・」

柴崎がその先を繋げた。

「そう言う親の愛情がわかるからこそ、はみ出ることに躊躇するのよね。別にね、嫌じゃないのよ、継ぐことは。私が継いだら、こうしようとか、こうすればいいかなとか、それなりにやりたい事は、まぁあったりするんだけど、それを夢って言うにはねぇ、仁科さんみたいに1から叶えるってものじゃないから。だから時々ね、継がない別の夢を見る時があるのだけど、物心ついた時から、継ぐって事を意識してきた私達は、まず継ぐべき将来の意識を脱ぎ捨てる事をしないと、新しい夢にも向かえない。」

今野が頷いて話の先を続ける。

「脱ぎ捨てるのも簡単じゃないよな。結構時間かかるっていうか、脱いでる間に、その夢に心、冷めちゃったりしてさ。」

「そうそう、脱ぐこと自体、めんどくさいって、思っちゃったり。」

意外だ。柴崎は「学園を継ぐのが、私の使命的」に、その心は強いものと亮は読み取っていた。いつも学園の事を考えていて、特にニコちゃんの事に関しては、自分の立場や使える武器は何でも使って守ろうとして、そして、それらの経験は自分が学園を継いだ将来に絶対に役に立つと、心に刻んでいた。

誰よりも分かりやすい柴崎の本心に、亮の読み取れない本心があった。その驚きと、その本心が今野と同じだったことに、言い難い不快感を覚える。

「へぇ~、継ぐ稼業があるってのも大変なのね。」と佐々木さん。

「柴崎の継がない別の夢って何だ?」と新田。

「えーいっぱいあるわよ、この間は、女子アナもいいなって思った。」

「この間の大久保選手の司会の時だな、それ思ったの。」

「良くわかったわね。」

「うんうん、あの司会、良かったもの。」

「そう?じゃ本気で目指そうかしら?」

「柴崎さんなら、バラエティ番組でもお笑い芸人を、ビシッと突っ込んでいそうよね。」

「えー、私、そんなイメージ!?」

「そのイメージ以外、何があるってんだ。」思わず、いつもの通りに柴崎の言葉に突っ込んだら、ムッとされて反撃に出られた。

「そう言う藤木の夢は何なのよ!」

「おっ、聞きたい。藤木って、なんか何にでも成れそうで、でも、どれもしっくりこないんだよな。」と、今野が余計なことを言う。

皆の目が亮に注目する。ニコちゃんまでも、好奇心満載の欲求の目。

「いやいや、俺の夢なんて聞いても面白くないっしょ。新田の夢を聞いてやれよ。」

「何故に、俺にスライドする。」

「そうよ、新田の夢なんてね、私でも言えるぐらい、単純すぎても面白くも、なんともないのよ。」

「それ酷くないか?人の将来の夢を面白くないって。」

「じゃ、言ってあげましょうか?新田の夢は、プロのサッカー選手になる事。まずはjリーグで活躍した後、大久保選手みたいに世界のサッカーチームに入ってプレイしたい。違う?」

「あたり。」

「ねっ、誰も面白いって言わないでしょ。」

「おいっ新田、こんなこと言われてんぞ!反論しないのかよ!」

「しない。【女に歯向かうな】は新田家の教訓だ。」

「あははは、新田の夢はさ、俺たちみたいな凡人が言えばさ、夢だけデカイなって面白がれるんだけど、新田なら出来るだろうなって思えるから面白くもなんともない。っていうか、夢じゃなくてもう現実目標なんだよな。」と、野球部の田中が言う。田中の野球部は夏の大会に予選落ちして、もう3年は引退してしまっている。だから、サッカー部の遅い引退を恨ましいと言っていた。

「そうよね、それに新田君にそれ以外の夢を語られると、失望ちゃうわよね逆に。」

「その夢、ありきの新田だよな。」

「そう、憧れの新田君は、サッカーを含めてブランド化してるのよ。」

「で、あんたの夢は何なの!」と改めて、柴崎が話を振ってくる。

亮が発言するのを待つ期待の目が、幼き頃の一族のそれと重なった。新田がプロサッカーになる夢がブランド化しているように、亮は生まれた時から、政治家になり最終は内閣総理大臣になる事がブランド化していた。自由に夢を思考する隙などなく、それは現実目標であり、それから外れることは許されない。常翔学園のサッカー推薦を受けるのを許してくれたのは、ちょうど両親が東京に拠点を移そうとしていたことと、受かるはずがないと思っていた誤算が、亮の常翔学園の入学を助けたのだった。

父親の思考に嫌悪を抱き、藤木家から逃げたい一心で常翔学園のサッカー推薦入学を受けた亮は、将来の夢を語る思考を持たないまま入学した。新田と出会い、新田が語る夢を聞くたびに、亮は自分の夢も自由に思い描いて良いのだと考えられるようになったが、やっぱり藤木家が邪魔をする。この間の週刊誌騒動で亮は強く悟った。




藤木の将来の夢って何だろうって興味がわく。

藤木は外務大臣の息子、お爺ちゃんも内閣総理大臣を務めた政治家一家。藤木からは口外するなと言われていた。

確か、妹が二人いると聞いていた、という事は、長男の藤木が後を継いでって事が当たり前に期待されているはず。だけど、藤木は、父親を嫌い、絶対に政治家にはならないと言っている。今野君が言うように、藤木なら何でも卒なく成れそうでもあるけれど、政治家以外は、しっくりこない感じもする。

「いや、俺は・・・思案中だ。」いつもの目じり皺を作って応える藤木に、柴崎は許さなかった。

「はぁ?ここまで引っ張っといて!それはないわ!」

「なんだよ、15歳までに将来の夢を決めないと駄目とか法律あんのか!」

「ないわよ!だけど皆、順番に言ってんのよ、それを何、あんただけ、はぐらかして!」

「ホントに、まだ何も決めてないんだ!なんか文句あんのか!」

「まぁ、まぁ、思案中ってのも、藤木君らしいっていえば、らしいじゃない。」

と佐々木さんのフォローも、柴崎の不満に上乗せされるだけ。  

「どこが!」

「うっせー、人の気持ちにケチつけんな!」

「良く言うわ!いつも私の気持ちにケチつける癖に!」

「柴崎、藤木やめろ。」慎一が止めに入る。これも珍しい。いつも止めに入るのは藤木か柴崎の役目で、喧嘩するのは私と慎一なのに。

だから、慎一の止めは効き目がない。まだ続く二人の喧嘩。

「俺のはケチじゃねぇ。注意だ。アドバイスだ。」

「そんなの頼んでないわよ。いつも勝手にズカズカと!」

「お前が、必要だと言ったんだろ!」

「必要だと言ったのは、私のじゃないわよ!」

隣同士で座る二人は、つかみ合いの喧嘩になる勢いになって来た。慎一が立ち上がって二人の間に割り込み止める。

「やめろって!親睦会が名目のキャンプで喧嘩して、どうすんだよ。」

やっと黙る二人。

「はじめてみた、藤木が女に突っかかる姿。」と今野君。

「ええ、凄い貴重。」佐々木さんも目を丸くしている。

藤木はフンと不貞腐れて柴崎とは反対の方向を向いた。

「じゃ、藤木の貴重な姿を夢の代わりとして・・・」

「別に貴重でもないわよ」とつぶやいた柴崎に対して、藤木は「ちっ」と舌を鳴らした。藤木の怒りが本気モードで皆が驚愕に固まる。慎一が、「やめとけって」と肩を掴んで制する。

「じゃぁ最後、真辺さん。」今野くんがパチンと手を叩いて、嫌な空気を一新するように声色も変える。

「えっ・・・あっ」しまった。嫌な予感はしていた。このままだと順番に夢を語らなくちゃなんないって、だから頃合いをみて席をはずそうと思っていたのに、柴崎と藤木のレアな言い争いにタイミングを逃してしまった。

「あ・・・うっ」皆の注目が、怖い。こういう時、いつも藤木が助けてくれていた・・・って、とてもそれを期待できる状態じゃない。柴崎もまだ怒って鼻息荒い。慎一は、当てにならない。

期待した目が私に集まる。

ど、どうしよう。手が震えてきた。吐きそう。吐き気が込みあげてくる前に、とりあえず何か言って逃げなきゃ。って、将来の夢なんてないのに言える事は何もない。

「な、ない・・・ゆ夢。」出ない声を絞り出す。皆がポカンとするのを見て、膝に顔をうずめた。

「ないって?真辺さんが?」田中君が驚いた声で言う。

「真辺さんほど将来、いろんなこと、できそうなのにねぇ。」と仁科さんも言う。

私は、私ほど将来、何でもできない。と言うか、夢なんて考えたことがなかった。

「ほんと、ないなんて、もったいないよな。」と今野君も。

(やめて、やめて、私の話をするのは。)

喉まで込み上げてきた吐き気を無理やり押し込む。

(誰か、助けて。)

「だったら、僕が真辺さんの将来をプロデュースしてあげるよ。」と、私の隣、慎一がさっきまで座っていたスペースに座ったのは、中島君だった。

「中島!お前、俺の場所を取るな!」そんな慎一の言葉に聞く耳持たずで、中島君は続ける。

「真辺さんはね、アニメマニアートの読者モデルに応募してグランプリを取るんだ。それで二次元界のアイドルとして人気者に。もう応募する写真はあるんだよね~。」と言って、手にしていた携帯を操作する。

「ちょっと!中島!それニコの夢じゃなくて、あんたの夢でしょう!」

「写真あるって、うわっ、お前、それ全部ニコの写真か!」慎一は中島君の携帯を覗き見て叫ぶ。ちらりと見えた写真、それは黒い服の白いレースを縁どったメイド服を着た私。

「そうだよ。ほら、これなんか最高だよね。これにしようと思ってるんだ。絶対にグランプリ間違いないよ。」

と鼻高々に言う中島君の携帯に、皆がどれどれとのぞき込みにいく。

今なら逃げられる。

「ほんと、これ、かわいい。これって、去年の文化祭の時のよね。」

と佐々木さんの声を後ろに、そーと、皆に気づかれないように・・・・脱出成功!

波打ち際へと早歩く。

去年の文化祭・・・・何故か記憶がない。思い出そうとすると、頭痛と吐き気が起きる。

(うっ・・・)ほら。拒絶反応、何に拒絶しているのかわからなくて怖い。

寄せる波がスニーカーを濡らしていく。

微かな記憶は、三人が私を見つめる薄暗い場所、遠くぼやけた満月。それ以外は思い出せない。そして頭にある傷。何故、左の側頭に傷痕があるのか?皆は階段から落ちて頭を打ち、救急車で運ばれたと言うけれど、落ちた記憶が私にはない。

時々、皆の思い出話がわからない。ぽっかりなくなってしまっている記憶が私の中にある。それがどれぐらいの規模であるのかもわからない。皆から聞いて初めて知る記憶喪失の存在。それが判明すると、とんでもない不安が襲ってくる。

失くしたいあの記憶は、はっきりとあるのに。

あの記憶よりも無くなった記憶って、いったいどんなに酷い記憶なんだろう。

怖い。

皆には、覚えていないと言えなかった。心配をさせてしまうから。

「夢か・・・。」

口から出たつぶやきは、波にさらわれていく。

将来の夢なんて、私にあると思うこと自体が罪だ。

秋が来るたびに見るパパの夢、あの夢は、私に罪を忘れさせない為の警告。

いつかパパが連れて行くその場所こそが、私の未来。

押し寄せてくる波に手を浸す。左の甲の火傷がしみて痛い。

『限界を見誤ったね。』

パパの声が波音の間に聞こえる。

パパの限界を超えさせたのは私。

だから、パパは私を許さない。

顔を抜ける風の中に秋の気配、

そうまた秋が来る。





中島が携帯で映したニコちゃんの写真は、去年の文化祭の時のメイドさんの時の物。確かにこの笑顔ならグランプリ間違いないだろう、中々の写真の腕前だと亮は思う。笑っているという事は、英語オンリーにしてからのメイドさんだろう。いつの間にか、中島が円の中心となっていた。当のニコちゃんがその輪の中にいない。新田が輪から外れて海の方へと歩で行く。その向かう方へ視線を移すと、蹲った小さいニコちゃんの姿。

4か国語を操る語学力と、学年トップの頭脳をもつ、その未来は輝かしいと誰もが思うだろう。

夢がないとつぶやいたニコちゃんに、他の者は不思議に首をかしげていたが、その理由を知る亮は、その心情に心が詰まる思いだ。

成り行きとは言え、大人気なく柴崎の言いがかりに食って掛かった自分が腹ただしい。

未だ、中島の携帯写真に食って掛かっている柴崎の肩を叩き、ニコちゃんの方へ指さす。ニコちゃんの姿を見やった柴崎は、眉間に皺を寄せて心配の色を出した。

無言でうなづきあい歩き出す。

一人にさせない。

何にもできなくても、ただ側に居てあげたい。

その気持ちが友の証。

「ごめん、言い過ぎた。」

「私こそ、つっかかって、ごめんなさい。」

柴崎の良い所、ちゃんと悪い所を認めて謝れる事、女子はこれが出来ない子が多い。自分が悪いとわかっていても、「だって」「誰々が」とか言い訳をしてしまう。柴崎にはそれがない。だから亮は、柴崎からの生徒会への誘いを受け入れた。

サンダルに砂が入って歩きにくそうにしている柴崎の手を掴み、引っ張ってやる。

驚いて丸くした目に、照れた喜びの本心を読み取る。読み取る環境に視界の悪さ暗さは関係ない。亮の意志とは関係なく脳が勝手に解析してしまうのがこの能力の特徴。

要らない能力と言いながら、この能力に依存している自分を自覚している。







 リノ、イッショニ、オイデ、

    リノ、ソノテヲ・・・・・・


大好きなニコちゃんマーク、丸を書いて、点を2つと孤を描くように大きな口を引けば、これだけで笑顔になれる世界共通のピースマーク。不器用な私でも簡単に描ける。砂浜に書いたニコちゃんマークは、波にさらわれて消えてしまった。

幼稚園のお絵かき帳、雨の日の室内遊びは、ニコちゃんマークばっかり書いていて、慎ちゃんにニコのお絵かき帳はつまらないと言われた。手先の器用な慎ちゃんのお絵描き帳は、車や、動物、昆虫、いろんな絵が描いてあって楽しい。

慎一の描く夢は、誰もが応援したくなる現実目標。だからこそ、私が足かせになってはいけないのに、慎ちゃんを追い求めるニコは、決別の心をかき消した。

もう、どっちが自分の本心かわからない。

「大丈夫か?」

ほっといてくれない慎一の優しさに、嬉しさと呆れた嫌悪が同時に湧き起こる。

「慎一の夢は、夢らしくていい。」

「成長してない面白くない夢だよ。」

成長していない面白くないのは私自身。

砂浜にもう一度、ニコちゃんマークを描く。それはまた波にさらわれて消えてしまった。

「お絵描き帳に描いていた。」

「うん」

「慎ちゃんのお絵かき帳は、夢が詰まって楽しかった。私のお絵かき帳は昔からつまらない。」

「ニコのお絵描き帳は、笑顔が詰まっていただろ。」

「いろんなものが消えた。パパも記憶も、夢も・・・成長も」

「ニコ・・・・」

「去年の秋、私は何をしていた?あの写真を私は知らない。」

「あれは、中島が隠し撮りしていたんだから、知らなくて当然だよ。心配しなくても、中島には応募するなって言っといたから。」

立ち上がり、慎一へ向いた。

「そうじゃない、そんなのはどうでもいい!」

 

  リノ、イッショニ、オイデ、

冷たい風が声を運んでくる。

「怖い。消えた記憶が、順番のわからない記憶が、止まった成長が、怖い。」


       リノ、ソノテヲ・・・・・・


海の波の音に混じって聞こえる声。    

「あの声が、すべてを消していく。」

「ニコ?」

「未来も消える。」

両の手のひらを見つめた、左は大きく開いているけど、右は開ききらないで小刻みに震えていた。自分の物であって自分の物でない不快な感覚。

「そんな事ないよ。ニコだって、ちゃんとつかめる、俺より世界を知っているだろ。」

「その言葉は気休めだ。つかめないのを皆わかっている。だから!慎一も柴崎も藤木も、私を心配するんだろ!成長の止まった私を!」

追いかけて来た柴崎と藤木が慎一の後ろで足を止めた。

八つ当たり、最低だと思っていても、止められない。私はまた慎一を困らせる。    

   




ニコが嘆く。

消えた記憶が、順番のわからない記憶が、止まった成長が、

怖い。と。

新田がニコの視線につられて振り返る。その顔は助けてくれと求めていた。

消えたものに怖がるニコは、新田の差し伸べる手をつかめない。

藤木と繋がる左手にグッと力が入るのがわかった。

ニコの思いにつられて目頭が熱くなる。麗香は泣かないように唇をかみ耐える。

(私が泣いてどうする。私は泣くために、ニコのそばに来たんじゃない。)

藤木は私の本心を読んだのかように、踏み出す足は同時だった。揃って二人に駆け寄る。藤木はニコの右手をつかみ前に出す。

「ニコちゃんが、未来をつかめなくても、俺たちは一緒にいる。」

続いて新田も、ニコの左手をつかみ前に出した。これで4人の手が輪となりつながった。

「何があっても、この手は離さいわ。ニコを置いていったりしない。」 

「ニコ、見ろ、この輪はニコの好きな、ニコちゃんマークだ。」

新田がそう言って前に出した手を横に伸ばし広げた。麗香たちもそれに倣うと大きな輪になった。

     




「夢のお絵かき帳・・・」そう言って、唇をかみしめたまま、黙ってしまったニコ。

「ニコの分の夢も描くよ。消えないように。」

慎一は絵を描くことが楽しかったんじゃない。ニコと頭をつき合わせて一緒にいることが楽しかった。

いつも一緒だったニコが居なくなった絶望から目を逸らす為に無理やり作った夢。

そんな夢でいいのならいくらでも描いてあげる。

ページいっぱいに大きなニコちゃんマークを、

消えない虹色のマジックで。

「私達も、いっぱい描くわ、消えても、消されても、何度でも、」

「ニコちゃんの未来はないんじゃない。俺と同じ、思案中だよね。」

慎一達は、頷きあう。





「新田の子供のような夢。」

「柴崎のあるようで、ないような夢。」

「藤木とニコの思案中の夢。」

「私達はこの手で、つかむわ!」

作ったニコちゃんマークの手の輪は、勢いよく空へとあげられた。

高さについて行けず、必死につま先で高くすると、それをみんなが笑う。

「もう!笑うな!」

波間にずっと聞こえていたパパの声は、皆の笑い声で消されていく。

皆が手を繋いでいてくれる未来は、楽しそう。

冷たい風が繋いだ輪の中を通り抜けていく。

夏が終わって、秋が来る。

いいのかな?

皆から少しづつ貰う未来を、

楽しみだと思って。








「飛ぶ鳥、後を濁さずだ!」

朝早く、今野の叫び声と共に、慎一達はコテージからビーチまで、ゴミ拾いの清掃をさせられる。

砂浜と水色の海がキラキラとまぶしい。

昨晩の花火のゴミは、全部拾い集めたと思っていたのに、結構な量のゴミがまだ落ちていた。

帰る日の朝の一時間を清掃時間として、ちゃっかりしおりにも記入されている抜かりない企画力に脱帽する。格安に施設を使わせてもらっているので、誰も文句を言わず、あの柴崎も従ってゴミ拾いをしている。

下を向いてごみを拾っていると、佐々木さんとぶつかりそうになった。

「あっごめん。」

「新田君、真辺さんから目が離せないって、こういう事だったのね。」

「はい?」

呆然と立ち尽くす佐々木さんの前に、見上げるニコが立っていた。

ニコは無表情に佐々木さんと慎一を見比べ、首を傾げてから、興味なさそうにゴミ袋を引きずって、去っていく。

「あの絆創膏の多さ・・・目が離せなくて当然ね。」

(あぁ、それも正解、どっちかと言うと、それが一番目が離せない。)

昨日、握ったニコの左手の甲に違和感があり、確認してみると火傷で水ぶくれになっていた。火薬を集めた実験の時やったらしい、それを汚い海水で浸していた。

「何故、黙って我慢してるんだ!」と慎一が怒ると、ニコはやっぱり拗ねて、それから慎一と言葉を交わさない。


テニスのダブルスで派手にこけて作った擦り傷、右ひざと右ひじの2か所、

花火で作った左手の甲の火傷1か所、

遭難時に木の枝でひっかけて作った足の傷、両足3か所、

2泊3日のキャンプで作った傷の合計6か所。


ニコの傷だらけの夏が終わる。

 

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