第7話 緑色の推移



 1



 いつもなら朝には掲示板に貼りだされている成績順位表が、2時間目の終わりの休憩時間になった。テストの○つけと集計が遅れたらしい。珍しい事ではない。相変わらずニコは成績発表に興味がなく、混み合う掲示板を無理に見ようとはせず、トイレから出た後、足早に教室に帰っていく。麗香は苦笑し、思い出した。

ちょうど一年前、麗香は、あの無表情さを勝手に腹を立て、ニコに八つ当たりをした。どんなに麗香が酷い事を言っても、ニコは絶対にその無表情を崩すことなく、麗香を責める意思を表す事はなかった。麗香に対してだけじゃなく、ニコの事を悪く言う子に、反発も責めもしない。嘘は言っていないと、逆に言わせてしまう自分が悪いのだと、存在を消す努力する。こんな考え方をする子を麗香は、今までに見た事がなかった。いや、世間では居るのかもしれない、だけど麗香の狭い世界の中ではいなかった。


幼稚舎から内部進学してきた生徒は、経済的に恵まれている子ばかりで、教育的道徳意識が高く、比較的に仲が良かった。だけどそれは表面的で、内情はイジメとまでは行かないものの、軽い嫌味などの悪口はある。階級意識が高く、親の地位、経済力が子供にも影響して人を見下した感のそれは、普通のイジメよりは厄介なのかもしれない。それに耐えられない子は、早々にこの学園を退学してしまうか、先生とカウンセラーの介入で終わる為に長期化はしない。退学してしまうのは、私立の学校ゆえに高いお金を出してまでひたすら耐えて学園にいる必要はないと考える家庭がほとんどだからだ。後者のカウンセラーの介入は、世間体を気にする親がカウンセラーから注意を受けたなんて情報が外に漏れる事を恐れ、イジメの加害者、被害者共に早期に子供に徹底した封じ込めを行う。だから、学園でいじめが深刻に問題視されたことは、麗香の知る限りではほとんどない。

そんな、表面的でまぁまぁな平和な学園の中等部で現れたニコの存在は、異質の存在だった。

学園の歴史上、初の女性特待生という誰よりも抜きん出た頭脳と、能面のように動かない美しい顔、英語をはじめロシア語とフランス語を操る語学力、どれをとってもニコに勝てる要素がないゆえに生じた妬み羨みは、学園と言う狭い世界で生きる者たちが当然の権利であるがのごとく、排除の攻撃に変わった。

ニコは、どんな攻撃の言葉にも、反応しない、反発しない、常に無表情でいた。その無表情を壊したら、どんな素顔が出てくるのだろうと、麗香も壊してやりたい衝動になり、実際に攻撃した。でも麗香の好奇の期待とは裏腹にニコは動じなかった。醜く壊れていく変化を見れなかったのは、ニコはすでに壊れていたからだった。

英語スピーチ大会の時、後ろに映写されていたニコの家族写真の中では、ニコは満面の笑顔だった。麗香はまだ、あの写真のような満面の笑顔のニコを、生で見たことがない。ニコの帰国を心待ちにしていた幼馴染の新田ですらも、昔のあの笑顔を、まだ見れていないと言う。

ニコの成績は、群がる生徒をかき分けることなく確認することが出来る。生徒達の頭の上、トップに名前がある。点数も毎度おなじみ数学、英語、理科は200点満点、社会全般と国語の漢字が苦手と言う割には、麗香よりも良い点数を取ってしまうあたり、流石だと溜息が出る。麗香はニコと友達になってから、勉強をする意識が変わった。ニコがその恵まれた才に奢ることなく努力している姿を見たら、つられるというか、親友でいるには、その高い意識を同じように持たなければ、ニコのそばに居てはいけないような気になってしまう。そのおかげで、麗香の成績も随分と上がった、今までは最高でも30位止まり、それ以上はあげる事が出来なかったのだけど、今は最低でも20位以上をキープして、上位に居続ける事が出来ていた。それは藤木も同じのようで、ニコちゃんとならテスト勉強も楽しいと、麗香の成績の前後に必ずいる。新田は、ニコと正反対、社会と国語で点数を稼ぎ、相変わらず英語が足を引っ張り続けて57番、その他の教科は、麗香達と同じぐらいの点数なのに、一体なんだって英語だけが出来ないのか理解に苦しむ。


「真辺さん、あなたに話があるの。こっちへ来てくれるかしら。」

馴染の声に振り向いた。幼稚舎から一番の仲良しだった美月が冷たい表情でニコを見下ろしている。美月の後ろには同じく幼稚舎から一緒のテニス部の七海、友里がそばに居た。

3人に取り囲まれて連れていかれるニコを追いかけて、麗香は呼び止めた。

「ちょっと、美月、ニコに何を。」

「あなたの事で、真辺さんにお願いしようと思って。」

「私の事?何?」

「麗香から離れてもらえないかしら?」

無表情のニコの顔が、僅かにゆがむ。動きの少ないニコの表情を、流石に1年も一緒に居るとわかるようになって来た。

「どういう事よ!」

「どういう事って聞きたいのはこっちよ。麗香、どうして県予選の試合を辞退するの?」

「それは・・・。」

美月はニコを睨むように向き直る。

「真辺さん、もう麗香を縛るの、辞めてもらえない?貴方のせいで、麗香はテニス部の部長も辞退したし、試合にも出ないのよ。」

「ちがうわっ!やめて!ニコは関係ない。」

ニコは怪訝に麗香に顔を向ける。美月は決してニコから視線を外さない。

「あなた、それで、麗香の友達のつもり?」

「ど、どういう?」ニコは、苦しそうに言葉を発する。

「辞めてよ美月。部長の件はちゃんと説明したでしょう。生徒会が忙しいから無理だって。それに私、それほどテニスに興味がなくなったの。試合辞退もそれが理由よ。どうにも気力がなくなって、そんな気持ちで出場しても勝てないから。」

美月はニコへの睨みを名残り惜しそうに、ゆっくりと視線を外して麗香へと向けた。

「同じ日の弓道部の試合に応援しに行くのは、どうして?」

「そ、それは・・・・かまわないでしょう。私がどこへ行こうと。」

「よ、良くない!」

珍しく大きな声を出したニコに、美月たち3人か怪訝に振り向く。

「な、なぜ」

「だから、テニスに興味がなくなったって、それに、ほら、ニコについて行くのは・・・。」   

「た頼んで、ない。」

「でも、私がついていかないと・・・」

ニコはきれいな顔に皺を寄せて息を吸い込む。そしてやっと絞り出すように言葉を発する。

「は離れて。」

「ニコ!」

ニコは踵を返して教室へと駆け戻る。追いかけようとした麗香を、美月の大げさなため息が止めた。

「良かった。真辺さん、意外に物わかりが良くて。」

「なんて事を言うのよ!美月!ニコはねっ、病っ。」麗香は慌てて口を押える。危ない、トツプシークレットを言うところだった。

「なに?真辺さんがなんなの?」

「いえ・・・何でもないわ。」

「麗香、私、心配していたのよ。去年から、ずっとあんな子たちと仲良くして、どうしちゃったのかなって。また私達の所に戻ってこられるわよね。試合にも行くわよね。」  

にっこりと白々しい微笑みで麗香を見据える美月。その高圧的な気高さに麗香は、ただ口を噤むしかできなかった。



中学受験組が入学してきて、小学部からの内部進学組との生徒の割合は半々になった。凝り固まった階級意識はここで融和されるが、それでも、特に女子の内部進学組の固執が強く、外部の者を受け入れようとしないのが現状。それは麗香自身も、美月と共にその固執した内部進学組の中心だった。

美月と同じクラスになった1年時、麗香はクラスの代表となり、クラスを率いた。いや、今振り返れば、率いたというより内部進学組の麗香達に歯向かえない他の者は、仕方なく麗香について来ていたという方が正しかったのかもしれない。

美月は、日本を代表する帝国ホテルを経営する白鳥家の長女、帝国ホテルは東京の新宿に本店があり、大阪、福岡、名古屋と仙台、札幌と全国の主要都市に展開し、外国の要人の迎賓館的役割も果たす。その白鳥家は麗香と同じ華族の称号を持つ家柄であり、幼いころから、華族関連のパーティーに一緒に出席したり、同じピアノの先生の元でレッスンをしたりと、学園外でもずっと一緒に過ごしてきた親友である。

麗香が学園の経営者の娘という事もあって、美月は小学部に入ったあたりから、何かと麗香を優先して前面に押し出すようになった。性格的には美月の方が勝ち気で、リーダーシップを取れる素質があるにも関わらず、それをするのは美月なりの考えで立場を意識しての事なのだろう。麗香もそれでよかったし、現に、一年時のクラスでは、体育祭で学年優勝を果たした。麗香は美月と3年でも二人で生徒会も取り仕切り、この学園を取り仕切って作り上げていく。なんて話もしていた。


生徒会は1年と2年は男女3名ずつの6名で、選挙管理とクラブ委員、学年代表を選任仕事として構成され。3年が、会長、副会長、書記、会計、学級代表2名、保健風紀、クラブ代表2名の7つの選任を1名ずつ受け持ち、全15名で組織される。

生徒会は3年連続で就任することが出来ない、美月は1年で生徒会に入り、麗香が2年で生徒会に入り、3年で二人一緒に入る事を事前約束していた。だけど、3年になって麗香は、気配りが上手く人の本心を察する能力を持つ藤木に立候補しろと声をかけた。

麗香が藤木を誘った事を知った美月は、外部入試組の人間が生徒会に入る事を嫌って、立候補を辞めてしまった。


教室に入るとニコは自分の席に座り、机の中から教科書を出して次の授業の準備をしている。少し離れた場所で、新田と藤木がいつものこどくサッカーの話で盛り上がっていた。麗香はニコの席に駆け寄る。

「ニコ、ごめんね、黙ってて。でも私、本当にもうテニスはやりたくないの。退部してもいいと思っているぐらい。だから、私、ニコの大会のほうに応援に行こうと。」

ニコは教科書をバンと机に叩き置いた。その音が教室に響き渡り、ざわめいていた教室が静まりかえった。

「来たら、絶交する。」ニコの静かな言葉が通り渡る。時が止まったように皆が注目して動かない。麗香も動けなくなった。

チャイムがなり、3時限目の現国の先生が入ってきて注意されるまで、麗香はその場を動けなかった。

とても授業なんて受けられる状態じゃなかった。麗香は4時限目を保健室で過ごした。

給食の時間になり、藤木が麗香の様子を見に保健室を訪れる。

情報収集の得意な藤木でも、麗香とニコの間に何が起きたのかわからなかったのだろう、ベッド脇の丸椅子に腰かけながら「何があった?」と聞いてくる。麗香は横になったまま枕に顔をうずめ説明した。そうしないと、泣き顔も心もさらけ出すことになってしまう。藤木は麗香の話を、相槌もなく最後まで黙って聞いた。そして、

「悪かったな。」

「どうして、藤木が謝んのよ。」

「注意しようと思っていた。最近、忙しくてタイミングを逃していた。」麗香は顔を上げて、藤木の顔を見る。いつものお調子者の顔じゃない。麗香につられたように深刻な表情で目を伏せた。

藤木は、副会長に立候補しなさいと言った麗香の提案に、「俺は表に出るタイプじゃないから、書記の方が向いている」と言って、皆がやりたがらない書記に立候補した。書記は、すべての委員会の議事を記録したり、生徒や先生に提案や提示する書類の作成や、生徒会活動のスケジュールなどの管理、その手配までも受け持つ。会長補佐役の副会長よりもずっと仕事量は多く、重要ポストと言っても過言ではない。忙しいと言ったのは、その仕事があるせいで、おまけに寮でも寮生徒長を任されている。藤木は、最近、学校の宿題や課題は休み時間や昼休みに済ませて、意識的に時間を作るようにしていた。そうしないと様々な事が滞るぐらい藤木は忙しかった。

麗香は、そんな藤木の貴重な昼休みをつぶしてしまう事になって悪いなと思う反面、純粋に心配して来てくれた事が嬉しかった。

「注意って、何を?どうして?」

「お前と新田はよく似ている。」藤木は、大きなため息をついた。「心配しすぎるんだよ。お前達は。」

「しすぎるって、でもニコは、しすぎないと、いつ、どこで発作が起きるか、わからない。」

「そうやって、いつまで籠の中に閉じ込めておくんだ?ニコちゃんを。」

「いつまでって、ニコの病気が無くならない限り・・・ニコが居なくなったら、困るもの。」

「それも、新田と同じ。昔、給食の時間にニコちゃんが英語で叫んだ事、覚えてないか?ニコちゃん、新田に お前の心配は私の迷惑だ。いい加減、気づけって、言ったの。」

「覚えてる。」

「あの頃、新田はしょっちゅう、ニコちゃんの顔色を見ては、早退しろだの、保健室行けだの言って、ニコちゃんはものすごく嫌がっていた。」

「私の、心配が迷惑だって言うの?」

「そこまでは言ってないけど。」

「あの頃と状況が違うわ。あの頃は、2度目の過去をなぞっていない。あの夜からニコは、いつ発作を起こすかわからない危険な状態になったのよ。その原因を作ったのは、うちの学園のせいでもあるし。」

「柴崎は、学園の為にニコちゃんと友達になっているのか?」

「違うわ!私は、親友として!」麗香は身体を起こして、藤木をまっすぐ見た。そこは絶対に誤解されたくない。「何がいけないのよ。心配なのよ、私。・・・ニコを失いたくない。」

藤木はベッドから落ちた毛布を拾って、座りなおした麗香の膝にかけてくれる。

「藤木は、心配じゃないの?」

わかりきっている言葉を投げかけた。心配じゃない筈がない。いつもふざけた言い方をしていて、傍から見れば一種のファンであるように見えるが、藤木はニコの事を本気で好きだと麗香は見ていた。そんな偽りを装うのは、新田に対して遠慮しているのと、自分に対する戒め的行動制限だと踏んでいる。

しばらく無言の間。藤木は沈んだ空気を入れ替えるかのように、大きく深呼吸をすると、目じりのしわを寄せて笑う。

「お前達がいつも先走るからな。俺の心配はいつも無用なんだよ。さぁ、お腹空いたなぁ。給食、食べに行こうぜ。」



 







 2



先輩たちが卒業する3月に引継ぎをして、4月から正式に稼働した生徒会は、年間行事予定を含めた各役員の役割分担などの確認等を終え、いよいよ本格的な議題に入っていた。一学期は、引き継いだ情報を整理して、学園生活における生徒からの要望を元に、学園施設の改善案や校則などの改定などを含めた生活向上を目指した案を、学園側に要求することが生徒会としての主な仕事となる。 

去年は、図書館前のウッドテーブルのペンキの塗り替えと、台数の追加補充の要望を学園側に申し入れ、承認された。夏休みに花壇の整備も含めて図書館へ向かう小道は華やかに改装され、いい天気が続く今、給食をそこで食べる生徒が増えている。

既に、前任の生徒会が年度の終わりに、全生徒へのアンケートを求めて、学校生活における改善案の要望は束になって集約されていた。それを元に、今年度の生徒会がどの要望を採用し学園側に要求するか決めていかなくてはならない。ここ数年、毎回上がっている要望が、携帯を使用可能にしてほしいというもの。

今、放課後に集まった生徒会15名の話し合いの本議題になっていた。

校則では、携帯は持ち込んではいけない事になっている。だが、実際の所、遠い場所から通っている生徒が多いこの学園では、登下校の防犯の為に保護者が生徒に持たせているのが大半で、教師もそれには黙認している。校内で使用している所を見つけると、流石に教師も注意し、没収となるが、下校時の安全を優先せざる得ない世の中になっているのは理解できるゆえ、持参自体は暗黙の了解になっている。しかし、違反生徒に対する教師の対応に統一性がなく、まちまちな罰則の不公正が生徒の不満を増長させていた。そんな中途半端な状況を規則で定義しようという議案は、去年も話し合われていて、今年も同様に生徒会内部は、頭を悩ませていた。

「どうして、毎年、このように要望が多いのに、一度も学園側に要望してみようとしないんですか?」

2年生の素直な疑問が上がる。やってみなくちゃわからない的な気持ちはわかるけれど、ただやみくもに要望するわけにはいかない。提案要求要望は可能な限り、学園側が承認できるまで理詰めてからでないといけない。その理詰めするまでの作業をするのが生徒会の役割である。携帯が毎年要望案として上がってくるのに、生徒会が学園に提案要求せずに見送っているのは、携帯の必要性よりも、実害要素が大きく、それを取り除く案を明記できないからだった。

麗香は軽く息を吸ってから、2年生の疑問に答える。

「学園に定義するからには、携帯が授業妨害にならない絶対的な案を掲載しなければ、要望は通らない。その案が見つからないから毎年、見送られているの。生徒会は、全生徒から集めた要望の精査是非を行い、学園が承認できる改善要求書を作り上げるのが役割。生徒からの要望を集めて提出するだけなら、目安箱設置で事は足りるわ。御大層に、生徒会なんて組織を発足する必要はないの。」

麗香の息つく間のない答えに2年生は口を噤んで俯く。麗香は、生徒会の基本的な役目も理解していないで生徒会に入ったのかと、意識の低さにイラついた。

隣に座っている藤木が、テーブルに肘ついている麗香の腕を小突き、議事の進行をメモっているレポート用紙を寄こして見せられた。そこには走り書きで、【話し方に気をつけろ】と書かれてあった。

麗香は姿勢を正して、大きく深呼吸した。 

「ごめんなさい。私、去年から引き続き2年目の生徒会だから、また同じ議題で頭を悩ますのかと思ったら、イラついちゃって。つい、きつい言い方になっちゃったわ。本当にごめんなさい。」麗香は頭を下げた。

「そう、何でもいいから話して。話し合う事が生徒会の役割ね。疑問でも何でも、もちろん案も。携帯の事だけじゃなくてもいいわ。そうね、一度、携帯から離れましょう。ん~、給食のメニューはどうかしら?一年生は中等部に来て、どう?量とか味とか不満な点はない?」

麗香は、出来るだけ柔らかい口調になるように、意識して話した。それを確認した藤木は、口に笑みを含ませ、こっそりと走り書きを消しゴムで消した。こういう事まで藤木は気が回る。だから麗香は藤木を生徒会に誘った。自分の至らない所を的確に指摘してくれる。内部進学組の友人達が絶対にしない事だった。藤木をはじめ、ニコと新田と出会い友達になれた事で、麗香の価値観と世界観は確実に広くなった。


生徒会が終われば、すぐにクラブ活動に行けるように、トレーニングウェアに着替えて参加していた藤木に、今日の議事録の入力は私がやっておくとパソコンを預かり、行くよう勧めた。麗香自身、朝の事があるので、テニス部に行きたくない為の時間つぶし及び、今日のお礼のつもりである。藤木は助かるよと言って生徒会室から駆け出ていった。

サッカーの全国大会で優勝をするのが藤木と新田の夢、去年の冬、3年の先輩たちが引退後、新田がサッカー部の部長として決まり、藤木が副部長に就任した。今はサッカーを優先したい時期だろう、なのに麗香が生徒会に誘ってしまったばかりに、練習時間は少なくなってしまった。そのことを言ったら、藤木は、

『まぁ、忙しいっちゃ忙しいけど、逆に生活にメリハリがついて良い感じになって来たな。それに、新田がすぐ、俺にはできないとか言って、俺に仕事を振ってくる。生徒会で忙しくしてたら、流石に自分でやろうとするだろう。あいつ、自分の能力を過小評価し過ぎるんだ。成績も英語以外なら結構な実力あんのによ。サッカーのスキルも同じでさ、自分がどれぐらいすごいか全くわかってなくて。さらに努力をするんだ。俺たちは元々あいつのスキルについていけてないってのに、さらに高みを目指すんだぜ。まぁそれがあいつのカリスマ性ってやつなんだけどな。自信を持てばいいのに、持つだけの心が強くない。メンタルが弱すぎる。まぁそんなところが憎めないから、サッカー部の奴らは、あいつが部長として頼りなくても、技術に惚れこんでついていくし、女にモテる要因でもあるんだけどなぁ。』と言った。

麗香は、気配りのうまい藤木がサッカー部の部長になると思っていた。そのことについても、藤木は、新田以外に考えられない、俺にはカリスマ性がないからと言う。

『全国優勝を目指すなら、新田のカリスマ性は絶対に必要だ。部長としての能力が今一つだったとしても、天才の域にいる新田のスキルに部員は納得でついて行けるんだ。でも、そんな心配なく、時間は掛かるかもしれないけど、新田は俺無しでもサッカー部をまとめられるようになるよ、俺よりも上手くな。今は余裕ないみたいだけど。まぁ見てろよ、あいつは確実に常翔サッカー部を全国に率いて持ち帰るぜ、優勝旗。』

藤木、新田、ニコ。

麗香は時に、とんでもない人と友達になったと気おくれすることがある。自分は彼らに見合った人間なのだろうか。

(いいえ、見合ってなかったからニコは、私に離れてと言って怒ったのよ。)

議事録をパソコンに打ち込む手が止まる。朝の事を思い出し、じわっと涙が出てきた。ニコを失いたくないと思ったが故の行動が、失う事になるなんて。

誰もいない生徒会室、麗香は遠慮なく泣いた。

(初めてだわ、学校で泣いたの。)


    

屋敷に帰ると、普段は一人しかいないお手伝いさんがもう一人増えていた。住み込みの手伝いの木村さんが呼んだ雇の家政婦である。今日は月に一度の翔柴会の日だった。

常翔学園の幼稚舎から大学まで全組織を称して学校法人翔柴会と呼ぶ。その各学園経営陣と言っても柴崎家の親戚一同ばかりなのだけど、のメンバーが屋敷に集まり、夕食会を兼ねた報告会議が行われる。今日がその日で、厨房では住み込みの料理人である源田さんが、忙しく準備をしていた。

今日は、麗香だけ一人で夕食をとることになる。と言っても、忙しい両親が共に揃う日はあまりないから、いつもと大差はない。

木村さんに、おやつをテレビの部屋に運んでもらうよう頼んだ。

柴崎家は華族の称号を持つ一族。江戸時代の終わりに行われた、大政奉還により神皇による新政府発足の国づくりの先駆家として拝命されたものである。称号には、拝命時の選定要素および役割に大きく関係したのが家業である。例えば、麗香の幼馴染である美月の家、白鳥家は古くから質の高い宿を開いていて、明治の文明開化の折にホテルを開業。そのことから国内外の迎賓を担う家として、称号を賜っている。その流れから、柴崎家は、新政府発足時に関わった優秀な人物のほとんどが、常翔大学の前身となった翔學館から育った人物であった故に、その後も統率者を育てる役割を担う目的で称号を賜り、学校法人となったのである。


同級生たちを、この屋敷に連れてくると一様に驚く、本当のお嬢様なのねと。だけど、ここでドレスを着て過ごしているわけでもなく、普通に靴も玄関で脱いで、ホームウエア姿で過ごしている。屋敷と庭が無駄に広いが、家族が使う場所は限られていて使っていない部屋は、こうした会合の日や、来客の方に使ってもらっている。

昨年のクリスマスに、麗香はニコと新田、藤木の三人を呼んでクリスマスパーティを開いた。彼らも同様に口をあんぐり開けて、屋敷の大きさに驚いていた。本当にお嬢様なんだ。とニコはつぶやいていた。

ニコの事を考えると、麗香はまた涙が出そうになって目頭を押さえて深呼吸をする。

クリスマスパーティは招いたり招かれたりして毎年どこかで参加していた。去年は美月の家に呼ばれていたけど断って、ニコ達を屋敷に招いたのだった。美月達と過ごすパーティーとは全く違う、気取らない時間を本当に心から楽しいと感じた。麗香の中で一番楽しく最高の思い出となったクリスマスパーティー。だけど、これから私達はどうなるんだろう。

(もう、ニコとクリスマスを過ごせないのかな?)

運ばれてきたマカロンと紅茶をつまみながらテレビを見ていると、凱兄さんが「よぉっ」と言って顔を覗かす。凱兄さんも今日の会議の参加メンバーだった。

「遅いおやつだな。太るぞ。」凱兄さんは麗香の側に寄ってきて、マカロンを一つひょいと取って口に入れる。

「今日は和食だもの、平気よ。」

「またぁ?先月も和食だったぞ。」

「和江おば様が、もう、こってりしたもの駄目なんだって。」

「そのうち、流動食になるんじゃないだろうなぁ。」

「ははは、酷い言い草ね。」

凱兄さんとは血の繋がりはない。麗香だけじゃなく柴崎家の誰とも血の繋がりはなく、麗香の父信夫の弟、敏夫夫妻の養子である。麗香がまだ生まれていない頃、麗香の祖父総一郎が、凱兄さんの頭脳を見初めて児童養護施設から連れて来た。本来なら、麗香の父信夫夫妻の養子の予定であったものが、麗香が生まれた事により、弟夫妻の養子となった。

「あっそうだ、凱兄さん、タブレットの話はどうなったの?」

麗香は、以前に聞いていた生徒全員へノート代わりのタブレットの導入の話が、その後にどうなったかを聞いた。導入されれば個々の携帯は必要なくなる。使いにくい欠点はあるものの、電話機能、メール、インターネット機能はあり、十分に個々の携帯の代わりになる。それが近々導入という話が進んでいれば、生徒会による携帯所持可の要望はしなくて済む。麗香は、そう考えて情報が欲しかったのに、タブレットは、ただメーカーから売り込みが来ていただけで、昔気質の経営陣は全く乗り気ではないらしい。

「うーん、その話は最近しないねぇ。一時の流行り話を話題にしただけだろう。メンテナンスや壊れた時のデータ消滅と言うリスクを考えたら、紙媒体の方が断然いいよ。ハッカーにも狙われないしね。」

凱兄さんは、もう一つマカロンを口にほおり入れると、にやりと笑う。そうだ、うちには黒川君という凄腕のハッカーがいた。

「あっ!黒川君はどうなったの?」

「別に、どうもしないよ。」

「えーどうして?あの子、良くない噂もあって、あんな、いたずらもしたのに?」

「高度のいたずらね。いたずらで退学や停学の処分はできないよ。」

「じゃぁ噂は?」

「噂だよ。調べたけどね。何一つ問題のある事実は出てこなかったよ。よく似た子と間違われているんじゃないかな。それに、あの子は、警察庁、警察監、黒川繁雄の息子だよ。」

「うそ!本当に?」

「黒川君の家は、おじいちゃんの代から、警察官一家でね。黒川君は警察管内の柔道場でおじいちゃんから幼いころから鍛えられて、初段の試験待ちだという実力の持ち主だよ。」

(うそ!そんなふうには見えなかった。)

藤木から聞いたあまり良くない噂ありきで見ていたから印象が悪く、えりが何かと一緒に居ようとするから、麗香は露骨に離そうとした。そんな麗香を見る目もまるで、不良から脅しをかけられているような感じがしたのだった。

「そんな子が、噂のような事するわけがないよ。」

「驚いた・・・・人は見かけによらないのね。」

「ははは、麗香の悪い癖だよ。肩書やイメージで勝手に人を枠にはめてしまう。麗香はもう少し視野を広くして、世間を見てから物事を判断した方がいいねぇ。」

その言葉は、普段から藤木にもよく言われている。麗香は痛いところを突かれて、顔をしかめた。




ニコが麗香に絶交宣言をしたという話は、たちまち学年中に広がり、麗香は学園全体の噂の的になっていた。

テニスの試合を辞退してまでニコの試合についていく麗香に、絶交すると宣言したニコが酷いと言う者が大半を占めている。がそれは、単なる学園の理事長の娘と言う肩書に媚を売っているだけだと予想がつく。反対に、自分の試合を放棄してまでついていくのはどうかと、真辺さんが怒るのも無理ないという言う少数の意見もあり、その者は、外部入試の子達の一部だった。ここでも内部進学組と外部入試組との思考の違いがはっきりと出ている事に麗香は驚いた。

麗香は初めて、陰でコソコソと噂されるというものを経験する。麗香が通りかかれば誰もが黙り込み視線を背けるくせに、その視線は背中にどこまでも追いかけてくる。ニコは、いつもこんな刺々しい視線を浴びて生活していたのかと麗香は実感した。

慣れていると口癖のように言うニコ。こんなことに慣れるなんて尋常じゃない。

(あぁ、尋常じゃないから心を壊してしまったのね。)

今も大丈夫だろうか?と麗香は心配をする。麗香よりニコの方が悪いという生徒が多い、麗香以上に影口の視線を浴びているはず。せっかく少しづづでも良くなってきていたのに、またニコが壊れてしまったら、どうしよう。

 麗香は、テニスコートに向いながら、ニコが弓道の練習をしている北棟校舎の屋上の方を見上げる。空はこれ以上ないぐらいの快晴に澄み渡っていた。

麗香の事を遠巻きにして集まっているテニス部一年生から少し間を置いて、所在なく微妙な顔をしているえりを可愛いなと思う。新田の妹えりは、サッカー部の保護者会の役員をやっているお母様に似て、明るく誰とでもすぐに仲良くなれる人懐っこさがある半面、女子によくありがちな、友達と一緒じゃないと何もできないという事がなく、一人でテニス部に入部してきた。そんな男勝りな一面も持ち合わせている。持ち前の明るさで内部進学組の同級生ともすぐに仲良くなり、えりが居るおかけで、テニス部一年は早い段階でいい感じでまとまっていた。個人競技が主体となるスポーツは部内のグループ間抗争でもめることが多い。そのいざこざで頭を悩ます部長は沢山いて、それが結構なストレスになる。後輩のみならず自分の学年ですらそのグループ間のいざこざを取り除くことが出来ずに右往左往すれば、自身の練習どころじゃなくなる。

部長の美月が練習開始の号令をかけ、部員たちが動き始める。いつも麗香とストレッチを組んでいた美月が、同じ3年の七海を名指して始めてしまった。露骨に麗香を排除する行為が、部員たちを増々動揺させる中、えりが麗香へと駆け寄ってくる。

「あぶれてしまいました。柴崎先輩、ストレッチの相手をお願いします。」

えりのバレバレの嘘に麗香は苦笑しながらも、内心ほっとする。内部進学組には絶対できない事、えりだからこそだ。

昨日の昼から、ニコは私を避けるように休み時間は教室から出ていく。それを追いかけるように新田も出ていく。藤木は必ず私のそばにいるが、保健室以降、ニコとの事は話に出さない。毎日4人で食べていた給食も、昨日からバラバラになった。麗香が食堂にいる時に、二人を見かけない。あの新田が給食を食べないという事は考えられないから、時間をずらしているか、外で食べているかだと思う。

えりとストレッチを組みながら聞く。

「新田は、なんて言ってる?」

「何も・・・・あたしが知ったのは、今日の昼。昨日、慎にぃ、珍しく携帯で長々と話していて、まさか、ニコちゃんと先輩がトラブっているなんて、あたし知らなかったですから。」

新田が携帯で話していた相手は藤木だろう。今日の午前には、その是非を噂する声が聞こえていた。クラス内の生徒が、ニコの絶交宣言を聞いたからと言って、事の真相が学園中に知れ渡る速度があまりにも早いと麗香は感じた。おそらく、美月達が言いふらしているのだろうと麗香は考える。全生徒を巻き込んで是非を問う、これは公開審議だ。麗香は美月の方へ視線を送り、大きなため息をついた。

「先輩、もうニコちゃんと仲良くなれないんですか?」   

「えりは、ストレートね。」

「あっ、すみません。」

「いいよ。えりのそう言うところに、ほっとする。」

ニコ達と一緒に居ることが多くなってから、内部進学組の友達とは距離が開いたけれど、喧嘩をしているわけでもないから普通に話しもするしテニス部でも普通に仲良くしていた。それなのに、今回の件で急に内部進学組の友達は、美月にべったり取り巻くようになった。わかりやすい下心。どっちに就いたら自分は安泰の学園生活を送れるのだろうかと目論んだに違いない。美月の機嫌伺いに必死で、美月も一手に引き受けた取り巻き層の厚さに満足している風だ。そんな美月に、それが駄目だとは麗香は言えない。美月の意識感覚が悪いんじゃない、取り巻くあの子達が悪いんじゃない。高い水準の階級意識は、この学園ではある意味、必要の事。この学園はそれがブランドとして世間に名が通っている。今、麗香が美月達の姿に嫌悪を感じてしまうのは、麗香の見る世界観が変わりつつあるから。長い付き合いの友達より、まだ付き合って数か月の後輩のえりといる方が、今はほっとする。

「ニコちゃん、一度、怒ったら、誰も手が付けられないから・・・・。」えりは麗香の背中を押しながら、幼少の頃の話を持ち出す。

えり達が幼稚園の頃、隣町のガキ大将にイジメられたのを、ニコが怒って抗議し、つかみ合いの喧嘩に発展したらしい。3人対一人の喧嘩は、ニコが血まみれになってもやめようとはせず、先生が強制的に引き離してやっと収まった。

「で、痛いのはえりちゃんの心だ!って、ニコちゃん傷の手当をさせなくて先生を困らせて。先生がちゃんと怒らないからだって怒って。」

無表情で特待生として物静かに教室で座るニコからは、誰も想像がつかないニコの本来の姿。でも麗香達は知っている。そのクールな出で立ちから、世の中の理不尽を受け止めているように見えるが、その内には、計り知れない怒りがある。時々それを抑え込むことが出来ずに噴出するのを麗香は見てきた。

「えりはどう思う?」

「うーん。」体制を変えて、今度は麗香がえりの背中を押す。えりは前屈の苦しさを交えて、唸ったまましばらく黙った。

その質問はえりを困らせるとわかっていた。でも聞かずにはいられない。私が悪いのか?ニコが悪いのか?えりの素直な意見が聞きたい。誰も麗香に意見を言う者がいないから。

「えりは、どっちの気持ちもわかる。あたしは先輩がニコちゃんの事を心配する理由を知っているから。この間まではわからなかったけれど。」とてへっと舌を出すえり。

誰もがニコの病気を心配するあまり、えりは新田家での居場所を見失った。その怒りで黒川君と起こしたのが、高度ないたずら。兄である新田を試した誘拐メール。

「慎にぃやお母さんが、必要以上にニコちゃんを心配するのをウザイと思っていた。だけど、この間ニコちゃんの発作を間近で見て、先輩が心配して、自分の試合よりもニコちゃんについていきたい気持ちになったの、わかります。テニスよりも生徒会の方に力入れているのも知ってるし。・・・ニコちゃんって頑固者というか、実はすごい意地張りで、病気の事をずっと慎にぃに隠していたし、慎にぃの心配を、いっつも嫌がって。ギリギリまで誰にも助けを求めない。」

「うん。」

「柴崎先輩の心配をニコちゃんが必要としないで、それがニコちゃんの怒りの原因になった、てのも、わかります。」

ニコのぎりぎりは、普通の人間の尺度ではない事を知っているから、だから麗香は心配だった。籠の中に閉じ込めておくぐらいが、ちょうどいい。

「ニコちゃん、決めたことだと言って、未だに、うちに晩御飯を食べに来ないまま。慎にぃでも手こずるニコちゃん。修学旅行もあるのに、どうするんだろうと思ったら、あたし・・・。」

そうだった。6月に入れば麗香達3年は順次、修学旅行に行く。香港は毎年人気がなく、5組で行くのは麗香達4人だけだった。だから、行動班もこのまま4人になり、楽しみにしていたのだった。

「あっ、先輩、ごめんなさい。あたし余計な事を。」

「ううん。こっちこそ、ごめん、心配かけて。ありがとう、えり。」

えりの意見を聞いても、何も答えは出ない。麗香の心は不安に曇るばかり。

麗香の心配が迷惑だというニコを籠から出したら、やっぱりニコは無理をする。

そしたら麗香は、また心配して、堂々巡り。


        

    

「私達、どうなるんだろう。」

「ん?」

私の前で給食を食べる藤木に、たまらず聞いて見た。

「修学旅行。」

「行くしかないだろう。どんな状況であっても、香港行は、クラスで俺たちしかいないんだから。グループ替えなんて出来ない。」

「そうだけど・・・。」

「らしくないな。」

と言われたって、私らしい私って自分ではわからない。

「お前は、もっと」

「ちょっと藤木、私達、麗香と試合の打ち合わせをしたいの。席、開けてくれない?」

美月と七海、友里、松原芽衣のテニス部4人が、給食のトレイをもって、ずらっと藤木の後ろに立っていた。

振り返った藤木は、美月達の迫力に驚いてのけぞる。

「あっ、そうなんだ。いいよ。」

「ごめんね。藤木君。」美月以外の子が口々に言う。

「いえいえ、どうぞ、どうぞ、お嬢様方。ごゆっくり。」

さつきの深刻な顔とは打って変わり、目じりに皺を寄せた藤木は、調子よく低姿勢で席を立つ。

「やだ、藤木君、執事みたい。きゃはは。」

皆にいじられながらも、藤木は嫌な顔をせず給食のトレイを持って、サッカー部の仲間がいる席へと移動した。そうまでして、麗香を取り囲むようにして、座ったのにも関わらず、美月達は、試合の話などしない。ただ、私から藤木を離したかっただけ。

それからは、美月たちが教室に麗香を誘いに来るようになって、麗香は断る事も出来ず、美月たちと給食を共にする毎日。最近では授業の合間の休み時間にまで、美月達のグルーブが乗り込んで来て他愛もない話をしに来るようになった。藤木も新田も、そしてニコも、そんな麗香を咎めない。ニコは、美月達が来ると、すっと静かに教室から出ていく。まるで麗香達の邪魔をしないようにという感じで。昔のように、沢山の友達に囲まれて同じレベルの話をしているにも関わらず、麗香は全然楽しくなかった。寂しさだけが募っていく。



放課後、生徒会一同は、去年から引き継いだ要望アンケートの集計されたプリントをめくり、また頭を悩ませていた。

携帯使用許可の要望以外に、大した要望がない。学園は歴史があり、建物も古い物と新しい物が混在しているが、生徒の安全を一番に考慮している学園は、生徒会が動かなくても、それなりの修復や改築、セキュリティーの強化などを率先して施行している。

毎年、何らかの要望を出して承認されて行われれば、生活に不便なところが皆無になってくるのは当たり前。かといって、今年は何もありませんじゃ、生徒会の存続の異議を問われかねず、サマにならない。

携帯の要望案も、去年の議題と同じく、授業妨害にならない対策案が出てこないと学園に出せない。

「授業中は妨害電波を出して、使えないようにするとか?」

「面白い発想だけど、そんな莫大な予算を学園に出させてまで携帯を許可するメリットがないわよね。」

「そうですよね~。」

考えが煮詰まってくると本質がわからなくなる。携帯を許可してもらう案を考えなくてならないのに、授業中に携帯を使用してしまう生徒をどうやって封じこめるかという方向に考えが移行する。結局、どんな案を出しても、学園がそこまでして許可しないだろうという話に行きついてしまう。

「携帯電話以外で、何かないかしら。」麗香は切り替えた。

「うーん。」皆が、パラパラと生徒の要望のリストをめくる。

「何だか、どれも、大雑把な意見ばかりなんですよね。」

「学園側のクラブの力の入れようにばらつきがあるとか、サッカー部が幅きかせ過ぎとか、」

「去年みたく、ベンチを増やしてほしいとか具体的な要望があれば、すぐに採用なんだけどなぁ。」

「運動部が文化部を見下している。って、なんだこれ。」

「要望っていうより、愚痴みたいなのが多いわね。」

クラブ関係の不満が一番多い。常翔学園は、サッカー部にスポーツ推薦がある為、強豪校として全国でも有名で、学園の宣伝部ともいわれている。そのサッカー部を筆頭に、女子バレーと男子テニス部もそこそこ強く、両クラブは全国大会に出場して、全国中学生選抜に選ばれたりする生徒もいるから、それを目指して入学してくる生徒もいるけれど、スポーツ推薦枠もない上にサッカー部ほどクラブの組織力も大きくない。学園側は、どうしても実績のある強いクラブに力を入れて予算も多く出す。サッカー部は高等部を経て、プロ選手を何人も輩出し、全国ランクを基準とした連盟からも補助金が出ているから、設備費や遠征費にしても他のクラブより優遇されている。サッカー部だけが、スポーツ推薦枠を有し、保護者会という後ろ盾もあり、学園の中で別格の存在となってしまっていて、それを妬み愚痴が生じるのは当然だ。サッカー部は練習の時もグランド一面を使い、私達テニス部がトレーニングの走り込みをする時は、サッカー部の邪魔にならないように走らなければならない。陸上部はもっとシビアだろう。サッカー部が試合などで居ない時しか、フィールドを全面に使えることが出来ない。私達テニス部と同じくサッカー部の邪魔にならない運動場の端で走り込みをする陸上部の姿は、けなげだとさえ思える。テストの成績順位表を発表する常翔学園らしく、優遇されたければ、強くなり実績を残せという方針なのだろう。

藤木が要望のリストをめくりながら、ボソッとつぶやいた。

「こんなの読んだら、練習しにくくなるなぁ。」今日も藤木はサッカー部のユニフォーム姿。

「そうだぞ、お前らサッカー部の功績は、他のクラブの犠牲の上に成り立ってんだからな。」

と言ったのは、陸上部で生徒会副会長の森山連太郎。怒り心頭の言い方ではない。

「すみませんねぇ。」藤木がおどけて、笑いが起こる。

サッカー部が幅を利かせているのは、その実力と組織の大きさから仕方がない事で、本気で常翔学園宣伝部のサッカー部を、つぶしたいとまで思う者はいないだろう。サッカー部の功績は学園の名声を上げ、全生徒に還元されている物なのだから。ただ、こういうアンケートをとれば、どうしても出てくる愚痴だ。

小さい愚痴、大雑把な不満、こういうのを集めて一気に解決できる方法はないものだろうかと、麗香は考えたが、そんな魔法のような都合のいい方法は簡単には思いつかない。

今日も結局、何も進まないまま、生徒会を終える。



夜遅くに帰って来た父が、麗香を部屋に来るように呼んだ。父の書斎に入ると、鞄の中から書類を出して整理する父が麗香に辛辣な表情を見せた。

「小高円佳さん、学園を去るそうだ。」

「えっ?うそ!どうしてっ」と麗香は叫んだ。

けれど、どうしては察しがついていた。円佳の家は、ジュエリー貴金属店を経営している。事業を広く展開しすぎて経営が危ないと噂で聞いていた。円佳は小学部からの入学組だ。おとなしい性格の円佳と正反対に、円佳のお母様は派手で幼稚舎組からの保護者からは浮いて、成金と揶揄され敬遠されがちだった。そんな大人の価値観が子供にも伝わり、円佳は皆から何かと見下さられていた。

「昨日付で、破産管財人が入った。今日、親御さんが退学手続きに来たよ。」

「そんな・・・。」

「今月いっぱいでお別れだ。」

円佳が初めてじゃない、麗香はこれまでにこうして何人かの転校していく子を見送って来ていた。私立ゆえに、お金が払えなければ学園にはいられない。公立の学校であれば、こういう場合の救済制度は整っていて、書類さえ出せば、学業に関わる一切のお金がすべて免除となる。学園の特待生制度に似ているが、常翔学園の特待制度は言ってみれば、その頭脳を他校に取られたくないという、学園のしたたかさの上に成り立っている。公立の救済制度のように貧困家庭全般に手を差し伸べるような公平さはない。私立学校は、慈善事業ではないのだ。学園を経営する柴崎家の跡取り娘である麗香は、幼き頃に、祖父からそう言われて育った。父、信夫も、こうしたプライバシー的な理由を含めて麗香に話すのは、きれいごとで経営はやっていけない事を早い段階から学ばせるためなのだろう。

麗香は一人っ子であり、一族全体にとっても唯一の子供。凱兄さんが叔父夫婦の養子になり、年齢的にも頭脳的にも麗香より優り適していても、柴崎の血が全く入らない凱兄さんを、学校法人翔柴会の会長にさせる事は絶対にない。それも祖父が常に言っていた事。『凱斗は麗香の補佐だ。麗香が翔柴会を継ぐ、しっかり励みなさい』と。

そんな先がわかりきった運命を嫌だと麗香は思ったことはなかった。逃げたいとか他の夢を目指したいとかも考えたことがなかった。このままエスカレーターに乗るように大学まで常翔学園で過ごし、そして学園の経営者として、あの理事長室に居る事になるのだろうと。今までも、これからも、何も不自由ない優美で安泰した生活が、麗香には保証されている。それが麗香の存在価値なのだと。

現在、美月と同じクラスの円佳は、常に美月の後ろでおどおどしている。昨年は松原芽衣と同じクラスで、松原芽衣は円佳を嫌っているくせに仲間から外れる事を許さない。円佳自身も他に友達を作ればいいのに、それをせずに私たちにご機嫌を伺いながら、オドオドと後ろをついてきていた。

美月とその取り巻きは、円佳が学園を辞める事を知っていて、当然のことながら、次の日の昼休みにはその話題で持ち切りになる。

円佳にどこに転校するのとか聞いている。合唱部の円佳はきれいなソプラノの声で、母親の実家の関西の公立中学に転入するのだと答える。

「ふーん。円佳には、ちょうどいいんじゃない。今まで、背伸びしすぎてたのよ、やっぱり成金が無理するから。そうなるのよ。」

と容赦ない言葉を言い放つ美月。

「そっそうだね。みんなありがとう。今まで仲良くしてくれて。」円佳はたじろぎ苦笑する。

「別に、仲良くしてたつもりはないけど。」

「美月ちゃん・・・」泣きそうになった円佳は、うつむいて必死に耐えている。

麗香はうんざりだった。こういう階級意識に我慢がならない。

「仲良くしてたつもりないって、あんまりよ、美月。」異論した麗香に、美月がじろりと睨む。

「つまらないわね。」

「何が?」

「貴方のその俗世的な思考が。」

美月のどこまでも気高い視線が、麗香をまっすぐ貫く。

「私達は円佳たちのような普通の家庭の子供達とは違う。貴方は、この巨大な教育一連の常翔学園、経営跡取りとして生まれた。私は日本を代表するホテルグループを率いる者として生まれ、進む未来と運命は、円佳のような一般成金とは違う。小さな頃から私達はその志を意識して育てられてきている。何を今さら、きれいごとを言っているの?大人になれば嫌でも頂点に立ちグループ傘下を率いていかなくてはならないのよ。俗世に流され、麗香がきれいごとを言っても、それはのちに偽りに変わる。私達の率いる下には、何百人、何千人の従業人がいるの。私達の甘い考えや判断で失敗すれば、その下々の者は困り、その人生をも崩壊させる事にもなるわ。」

美月は一旦言葉を切り、息を吸い込む。

「それに、この常翔学園は、質の高い教育と施設を売りに、全国からそれに見合った上流階級の子が通ってきている。それだけじゃない、更にその上、私達と同じ称号を持つ子の居場所だという事は、麗香が一番よく知っているわよね。私達が、ここに通う事がプライドでありブランドなのよ。ここの経営者の娘のあなたが、その質を落としてどうするの。あなたは生まれた時から、それが身についていたはずよ。そして私達、お互いその運命を認めて、その品位を落とさずしっかりやっていこうと言っていたじゃないの。あの頃の貴高い麗香は、どこに行ったの?」

美月の言う事は正しい。麗香がどんなにきれいごとを言っても、円佳の家が払ってきた高い授業料の儲けで、麗香は広い家に住んで贅沢が出来ている。美月のその格差意識は、学生の現在においては、きつい悪口にしか聞こえないが、のちにグルーブ傘下の数百人、数千人の従業員を率いる頂点に立つ者と決まっているなら、有望の極みだ。どこまでも気高く麗香を見据える美月に、麗香は反論が出来ない。

美月達が食堂から立ち去り、残った円佳が、きれいなソプラノの声で麗香にペコリと頭を下げた。

「麗香ちゃん、ありがとう。」

「私は円佳にお礼を言われるような事は、何もしてない。何もしてこなかったわ。」

「ううん。麗香ちゃんは私の憧れだった。お母さんから、いつもしっかりしなさいって言われてて、でも私できなくて、麗香ちゃんの真似したらできるようになるのかなって、ごめんね、勝手にお手本にしていたの。」

「ううん」麗香は首を振って円佳の事を見つめた。その声からも姿からも小鳥の様な様子が時に、うっとおしいと思った時期がある。

「麗香ちゃんをお手本にしみたら、少しだけだけど、出来ない事が出来たの。麗香ちゃん、5年生の時の合唱コンクールの時の事、覚えている?」

「合唱コンクール?」

「そう、ソロパートのある合唱曲で、麗香ちゃんが私を推薦してくれたのよ。」

「そう?だったかな?ごめん、覚えてないわ。」

「麗香ちゃんが、声がきれいだからって推薦してくれて、私、最初、緊張して声も震えて中々歌えなかったけど、麗香ちゃんが推薦してくれたから、麗香ちゃんみたいに堂々としようって、それで、私達のクラス優勝したのよ。」

優勝した合唱コンクールは覚えている。円佳のきれいな歌声が体育館に響き渡るのも覚えている。自分が推薦した?それだけが、麗香は覚えていない。

「円佳、ごめんね。私がもっとしっかりしていれば、美月達にあんな言い方をさせないで、もしかしたら昔の私は、あんなふうに円佳を傷つけていたのかしら?」

「ううん。麗香ちゃんと美月ちゃんは、いつだって、まぶしかったよ。」

居なくなると知って惜しく感じる。そんな自分勝手な思いに、麗香はため息が出た。





今日も、生徒会室では堂々巡りの話し合いが続く。

「それで要望をかけたら、きっと携帯を持っていない子の立場をどうするか聞いてくると思うわ。」

「今どき、携帯を持っていない生徒なんているんですか?」

「いるわよ。」

「うそでしょう。誰ですか?それ?」

「それは・・・プライバシーだから言えないわ。」

二年生以下は、どうも携帯許可の承認を得たいみたいで、麗香が他の話題に切り替えても、すぐに携帯の話に戻す。タブレットの売込みにも興味を示さなかった経営陣なのに、携帯なんて絶対に無理だと麗香は見切りをつけていた。この場でタブレットの話をすれば、二年生もあきらめがつくだろうと思うのだけれど、その話を出すわけにはいかない。

今どき携帯を持っていない人間を珍獣のように驚く内部進学組の後輩に麗香はため息をつく。

ニコは携帯を持っていない。ファックスも持っていない。パソコンは海外の友達と連絡を取り合うから必須だと言っていたけれど、その機種も父親が使っていたもので古い物だった。この間、調子が悪いと藤木に相談し、藤木がニコの家にパソコンの調子を見に行くと言うので、麗香もついて行った。ニコのマンションに初めて訪れた麗香は、質素で狭いリビングに、少しばかりショックを受けた。海外生活が長いという経歴から、北欧の暖かいインテリアを勝手に想像していた。ニコのお父様が通勤ラッシュの電車に投身自殺をした賠償責任で無一文になり、逃げるようにこの街に戻って来たと聞いてはいたけれど、ここまで何もない家で生活できるのかと、麗香は驚いて息をのんだ。

円佳もこの先、関西で質素な生活をすることになると想像がつく。麗香は内部進学組が大半を占める生徒会のメンバ―を見渡して、この子たちは、簡素な生活する人間が、どういう気持ちでいるかを知らない。無知とは恐ろしいと心に中で嘆いた。そして、ついこの間まで、この子たちと同じ価値観を持ち、見下していた自分に恥じる。


「お疲れ様、お先に。」

と口々に生徒会室を後にするのを麗香は見送り、藤木と二人だけになった。室内に藤木が打ち込むキーボードのカチカチと言う音だけが響く。最近、麗香が美月達とずっと一緒に居る事を、藤木は嫌悪に思っているはず。だけど何も言わない。言いたいことを胸に仕舞っている、それがこの無言の時を表していた。麗香は所在なく窓へと歩み、外を見下ろした。生徒会室は中棟の2階にある。階下の中庭の花壇の紫陽花が大きく葉を広げて、雨を待っているかのよう。

会長は、他の委員の仕事が終わるまで帰ってはいけないなんてルールもない。書記の藤木を置いて帰っても何の問題もないけれど、なんとなく部屋から出て行きづらいというか、行きたくないのが心境だった。

「試合、どうするんだ?」藤木がキーボードを打ち込む手を休めずに話しかけてくる。

「行かないわよ。」

「どっちに?」

ニコの弓道部の県内代表選抜試合。そして、麗香のテニス部の市内試合でもある。

「弓道へは、行けるわけがないでしょう。来たら絶交とまで言われたんだから。」

「そうだよな。それが普通だ。だけど、その普通の選択が、お前らしくない。」

(この間も言われた、私らしくないってどういう事?)

「私らしくないって、じゃ、絶交されてもニコの所に行けって言うの?」麗香は振り返る。

「俺に答えを求めるなよ。俺はあくまで、感想を述べただけだ。」藤木は打ち込む手を止めて、書き留めていたレポート用紙を指でなぞり、画面と確認をする。

「まぁ、俺の中にある、お前らしさってのは、もしかしたら本来のお前じゃなかったって、見誤っている可能性もありだけどな。」

「一体、なんなの?遠回しな言い方しないでよ。」

思わず、麗香はイラついた口調を藤木の背中に投げかける。藤木は椅子から立ち上がると振り向き、麗香を見据えた。

「お前は、いつから、そんなに臆病になったんだ?」

(臆病?)

藤木の言っている意味が分からない。試合に行かない選択が臆病?

藤木は、それ以上何も言わず、体の向きを戻すと、ノートパソコンの電源を落とし、パタンと閉じた。

(仮に麗香が臆病になったとして、それの何がいけないの?)

麗香は生徒会室から出ていく藤木の後ろ姿に、心の中で答えを求める。




 弓道部の県内代表選抜試合と同じ日の、私のテニスの試合結果は散々だった。いつもなら、取れるストロークも取りに行こうという気持ちが起きない。1回戦で大敗した。元々出る気のなかった試合だから当たり前。麗香の気持ちは試合中でも、ニコが気がかりだった。ニコの病気の事を知っている人間が、誰もそばについていない。何かの拍子に発作を起こらさない事を願い、そして試合の検討も祈る。

「麗香、いい加減にして、あなたのそのやる気の無さ、皆の迷惑よ。」

部長である美月が麗香を責める。こういう事を直に言えるのは美月だけ、他の同級生は美月の後ろで状況を傍観しているだけ。

「だから、私は最初から出ないと、言ったじゃない。」

「なに、その言い訳、嫌だわ。もっと早く真辺さん達から離せば良かったわ。」

「何よそれ!ニコは関係ないでしょう!」

「そうかしら?麗香、真辺さん達と付き合い出してからよ。テニス部をサボるようになったの。何をするにも、いい加減な事をするような麗香じゃなかった。低俗な人間と付き合っているから、そうなるのよ。」

「低俗って!酷いわ!ニコ達は低俗なんかじゃないわ!」

「あら?麗華も2年ほど前は言ってたじゃないの?学園のお金をむさぼる特待生って。」

「・・・・。」

麗香は反論できない。美月と一緒になって特待生のニコを蔑んでいたのは事実。中等部から入ってくる外部入試の人間を疎ましく思っていた。だけど麗香は、それが間違いだったと、蔑んでいたニコに気づかせてもらえた。そんな最低な言動をしていた麗香と友達になって、視野を広げさせてくれた。決して彼らは低俗な人間なんかじゃない。

えりが唇を噛み、顔をしかめて俯いたのを目の端でとらえた。

「昔の私は愚かだったと、今心底、自分に嫌気がさしたわ。だけどこうやって、昔の自分が愚かだったと気付ける人間になったのは、ニコ、新田、藤木のおかげよ。美月が今の私を変わって嫌だと言うのなら、嫌ってくれてもかまわない。だけどニコ達を悪く言うのだけは、絶対に許さない!」

美月を強く見据える。目をそらすわけにはいかない。小さい抵抗だけど絶対に負けない。テニス部内で自分の立場がどうなってもかまわない。宣言したようにテニス部を辞めてもいい。

美月は鼻で貶し踵を返す。お互いプライドの高い者同士、幼いころからずっと一緒に過ごしてきた美月、もう二度と口をきかなくなるかもしれない。それでも麗香は、ニコ達を低俗だという美月に本当に腹が立った。それは過去の自分を美月に合わせた鏡、何より今の美月の固執した狭い価値観が、この自分の姿であった事が許せなかった。

こんな固執した価値観が蔓延る学園に、ニコは血反吐を吐く努力をして入りたいと願ったのかと思うと、どうしようなく虚しくなる。やっと手に入れた学園生活の現実に、ニコはどんなに絶望をしただろうか。それが、ゆくは自身が継ぐ常翔学園の本質なのだと思うと、情けなくて、麗香は唇を噛んで涙を抑え込む事しかできない。     


「良かったの?皆と一緒に帰らなくて。」

「ん?現地解散ですよね。」

試合終了後、ミーティングをして現地解散したものの、会場からの帰宅方向は、ほとんどの部員が一緒なので、常翔学園テニス部は全体行動になっていた。麗香は美月のとの言い争い後、気まずく、わざと皆とはぐれた。そんな麗香にえりはついてきた。麗香は通りかかったファストフード店にえりを誘い入った。道路に向いた硝子窓に並ぶハイスタンドの椅子に腰かけ、ポテトをつまみながらジュースを飲む。

「そうじゃなくて、私と一緒で、明日からテニス部に居づらくなるんじゃないの?って言ってるの。」

「そう?いいですよ、別にテニス部を辞めても、あたしには美術部があるもん。しししし。」

えりの明るさが心に染みる。

「美術部って、あの絵で~。」

「もう!笑わないで下さいよ!」

「ごめん。ごめん。」

えりは、黒川君の描く絵に惚れ込んで、絵を描くことを辞めていた黒川君を復活させる為だけに、美術部を掛け持ち入部したのだけど、失礼ながらも上手ではない。黒川君の描く姿を見たい、と言う異色の入部動機も含めて、えりはまっすぐ自分の心に素直だ。新田の妹だからと気にかけた後輩だったけど、今では本当の妹のようにかわいいと思えていた。

「先輩こそ大丈夫ですか?」

「あんたに心配されたら終わりだわ。」

「もう!でも先輩、あたし嬉しかった。慎にぃ達の事を、かばってくれて。」

美月の言葉は、麗香を傷つけるだけでなく、えりの心も傷つけた。それなのに、えりの存在とえりの言葉に麗香は励まされている。改めてえりの存在にありがたく思う。

「えりは、この学園に入ってどう思った?内部進学組と外部入学組の格差を。」

(ああ、またえりに難しい事を聞いてしまう。)

でも麗香には、こうして何でも聞ける外部入試組の友達は、えりとニコ、藤木と新田ぐらいしかいない。

「格差?そんなのあります?えり、馬鹿だから、良くわからないっす。」本気でそう思っているのか、自分の立場を守る為にそうおどけているかはわからない。だけと、これがえりと麗香の思考の差なのだと実感する。格差意識を変えられたと言っても、こうした質問を誰かに聞きたいと思っている時点で、麗香自身の意識はまだまだ固執している。

「そうよね。えりに聞いたのが間違いだったわ。」

「もう!」

「あははは。」

えりの底なしの明るさに麗香の心が落ち着いた時、テーブルに置いた携帯がメールの着信を知らせる。凱兄さんからのメール、弓道部の顧問から試合の結果が学園に入ったら、知らせてと麗香はお願いしていた。

弓道部がある中学校は県内でも少ない。今日の試合は、県内の弓道部が一堂に集まり、県代表の個人と団体校を決める。結果は、ニコが個人の部で優勝し、団体としてもエントリーしていた常翔学園が優勝した。常翔学園の弓道部発足以来の快挙だった。

「ニコが個人で優勝したって!」

「うそ!本当!凄い!ニコちゃん!」

「全国よ!次は全国大会!」

「うん!ニコちゃんなら全国も優勝するよ。」

麗香は、他の客の迷惑を顧みず、えりの手を取りはしゃいで喜んだ。

だけど、自分の事のように喜んだ優勝も、当事者であるニコは喜べない事態になっているとは知らずに。





ニコに、一番におめでとうを言いたくて、週明けの朝、麗香は学園に早めに到着した。教室にニコはいないが、鞄はすでに机の横にかけられていたから、トイレか、どこかに居るのだろうと探しに廊下へと出た。教室から一番近いトイレを覗いてみたがいない。弓道部が朝練をしているなんて聞いたことがないけれど、もしかしたら何かの用で弓道場に居るのかもと北棟の屋上へと向かった。渡り廊下の途中、窓越しで理事長室前に、藤木と新田がいるのを見つける。そして、ニコが理事長室から出て来る。父がニコに激励の言葉でもかけたのだろう、付き添いに新田と藤木がついて行ったと予想が付いた。麗香は渡り廊下を小走りに角を曲がろうとした。そこで耳に飛び込んできた会話に足を止める。

「修学旅行に行かないって、どういう事?」

「そのまんま。行けないから、理事長にキャンセルを頼んだ。」

「ニコちゃん、またどうして!」藤木が叫びに近い声を上げる

「私に合わせて香港に決定したのに、ごめん。」

「謝る前に、訳をちゃんと話せよ、ニコ。」

「全国大会と修学旅行、どっちかと考えたら、弓道を取るしかない。」

「全国はもっと後でしょう?日程はかぶってないよね。」

「今年の全国大会の会場は山口県。夏には合宿もある。修学旅行に合宿、山口の大会、すべてに参加はできない。」

「どうして。」

「手を抜くつもりだった。いつもの癖でつい的に集中してしまった。優勝するなんて、ミスった。」

「ミスったって・・・ニコちゃん。」

「こうなったら、修学旅行より、全国に挑みたい。」

「費用の問題ならうちが出すじゃん。母さんニコの為なら、喜んで」

「やめて。」

「遠慮すんなよ。家族だろ。」

「違う!」

「お前もスピーチで言ってただろ。二つの大事な家族だと。」

「あれとこれとは違う!」

「ニコちゃん・・・」

「約束しただろ。高等部に進学したら、もう俺たち4人は一緒のクラスになれないから今年1年、楽しもうって。」

「約束は、お金がなければ守れない。」

「だから、甘えたら、いいじゃないか。」

「嫌だ。」

「ニコの、そのしょうもない意地が、柴崎や藤木を困らせているとわからないか?」

「新田、言い過ぎだ。」

「素直に甘えて」

「しょうもない意地でもっ、私には必要だ。慎一の柴崎の、その特別扱いが私を、どれだけ」

「ニコ・・・・。」麗香は踏みとどまった足を動かし、ニコの前に歩み出る。

ニコが、修学旅行に行かないという。優勝をミスったと喜ばない。

(どうして?)

麗香にはニコの言動がわからない。新田が言うように、どうしてそんな意地を張るのか。

(特別扱いとはどういう事?特待の事?ニコは、堂々とその特別を受けていいのよ。ニコは特別、それを受ける権利がある。ニコは学園が認めた特別な人間なの。)

「どうして?ニコは特別よ。私の、学園の。その権利がニコにはある。誰よりも。」

きれいな顔をゆがませたニコは麗香を睨む。そして、

「要らない!それが私を弱くするんだ。」ニコは叫んだ。「いつまで私を、弱いままにさせるんだ!」

「ニコ・・・・」

「もう決めたこと。理事長も了解してくれた。」

そう言って、ギュッと手を握り、うつむいて、麗香の横を足早に通り過ぎて行く。

麗香達3人はしばらく何も言えずに立ち尽くした。

「父に、言うわ。修学旅行を特待制度の中に組み込ませてもらう。」

(そう、それが良い。ハワイの代金は出ていた。香港だって、英語圏、英会話研修として組み込んだら問題ない。)

理事長室へと駆けだしたら、藤木に腕をつかまれ、止められた。

「柴崎やめろ!」

「どうして!」

「お前は、まだわからないのか?ニコちゃんは、そんなの望んでない。」

「ニコが望んでなくても、私が望むわ!誰より特別なニコが、どうして、いろんな事に我慢しなくちゃいけないのよ。それに学園は、ニコを全力でサポートするって約束した。これぐらい、やって当然の事よ。」

麗香の頬を藤木が手の甲で、軽く叩いた。藤木の顔にはいつもの笑みがない。

「お前の過剰なそれが、ニコちゃんを阻害してるんだ。どうしてわからない!」

「阻害って、何よ、私はニコの」

「お前は誰よりもニコちゃんの気持ちをわかっていた。新田よりも。だから、ニコちゃんもお前と親友になった。違うか?」

藤木は目を細めて、わずかに息を吐く。

「いつから、お前はニコちゃんの保護者になった?ニコちゃんの保護者気取りは新田で十分。」

―そう、私は、ニコの親友。―

美月とは違ったニコとの付き合いは、麗香の意識を変えて視野を広げさせてくれた。

あの事件の夜、ニコのお母様が語ったニコの生い立ちに、麗香は震えた。あの細く小さい体で、麗香の想像を超えた辛さを経験してきたのかと思うと、胸が千切れそうに傷んだ。麗香は、ニコの辛さを少しでも取り除いてやりたい。学園理事長の娘という立場は、ニコのその苦しみを取り除くため、守るために使うべきであり、ニコを失いたくない私の為に使うべき、その為にニコと出会ったのだと、麗香は思った。

「私は・・・私の立場はニコを守る為に使うべきで、それが、私がニコと出会った運命なのだと。あの事件の夜に思った。」

「そうだ。あの時からお前は、想い違いをしたんだ。無理もない、俺でも同じ気持ちに陥った。それぐらいニコちゃんは、あの時から危なげだったから。 ニコちゃんは、柴崎に保護者を求めてはいない。あの夜より前と変わらない対等な友達関係を望んで、努力をしていた。それを新田と柴崎の過ぎる心配が、ニコちゃんの壁になった。俺たち4人が同じクラスになった進級式の日、ニコちゃん俺に、こう言ったんだ。『私のせいかな?』と」






進級式を終えて、3時前には新しい教室でサヨナラの解散となった。全生徒、クラブがない貴重な時間、この後、どこかに遊びに行こうという話になった。

『カラオケやりたい。』と柴崎

『俺 バスケ』と新田

『ニコちゃんは?』

『卓球』

『見事にバッラバラだな。』

『やっぱりラウンドAしかないな。全部できるとこって言ったら。』

『制服のまま行けないしなぁ』

「でも、帰ってたら時間がもったいない。』

『じゃぁ、全部、家で出来るから家に来る?』と柴崎。去年のクリスマス、パーティするから家に来てと言われて、初めて柴崎家に遊びに行った。そのとんでもない規模の屋敷に、亮たちは唖然とし、間違って迎賓館に着いたんじゃないのかと思った。聞けば、その屋敷が建てられた当初は本当に、外国要人を招いて迎賓館としても使っていたと言う。裏庭にテニスコートがあるのはクリスマスパーティの時に窓から見て驚き済み。バスケットのコートまであったかどうかは覚えていない。

『全部できるって、バスケだぜ。』と新田も亮と同じ疑問を柴崎に向ける。

『テニスコートの脇にバスケットのゴールを置いてあったの、見たでしょう。』

『いや、知らない、覚えてない。』

『あるのよ。』

『卓球は?』

『それは屋敷内に。クリスマスの時に出せばよかったわね。忘れてたわ。』

全員が絶句。

『決定ね。えーとじゃ、木村さんにケーキの用意をお願いしなくちゃ。』と言って、柴崎は携帯をとりだした。

木村さんっていうのは柴崎家の住み込みのお手伝いさん。お手伝いさんだけじゃなく、食事の用意をする料理人も住み込みで居ると知った新田は、もう開いた口がふさがらずに引き攣っていた。

『ケーキなんて用意してもらわなくていいよ。』甘い物嫌いだしと心の中で亮はつぶやく。

『ああ、お菓子はスーパーに寄って買って行こうぜ。』

『何故、そんな面倒な事するの?』と首をかしげて柴崎が言う。

『お嬢様だな。』とつぶやくニコちゃん。

『どうして?ケーキは普通でしょ』

『お前さぁ。もうちょっと、世間の下々の生活を理解した方が良いと思うぞ。』

『あぁ、俺もそう思う。』

『何?ニコまでうなづいて・・・・どこが、おかしいのよ。』

『誕生日やクリスマスでもないんだし、ケーキなんて、普段の日にごちそうになんてなってられるか!』と新田が半ギレ

『ごちそうじゃないわよ。訪問客に茶菓子出すのは当たり前だし。』

『ああ・・・』新田がうなだれる『あのな、誰かの家に遊びに行くって言ったら、皆で小遣い出し合って、スーパーでスナック菓子とか買って行く、それが普通なの。』

『スナック菓子が食べたいの?じゃ、木村さんにスナック菓子も用意してと。』

『違う!』 3人の突込みが。きれいに重なった。

『恐ろしい。格差社会。』とつぶやくニコちゃんの言葉も柴崎は聞く耳持たずで、木村さんにメールを打つのに必死だ。

『ニコは、お決まりのプリンアラモードね。何個?』

『2つ♪』

『こらー!手のひら返し過ぎだ!しかも2つって!』新田の突っ込みに、亮は吹き出す。

『ニコちゃん、プリンをあげるからって、知らない人に、ついて行っちゃだめだよ~。』 

『小学生か!』

そんなやり取りも楽しい。帰りがけ、サッカー部の顧問に新田は呼ばれて、柴崎も生徒会に用があると待たされることになり、校舎玄関横の花壇の縁に座った。鞄を膝に置き座ったニコちゃんの視線の先は、クラス替え発表の横長のロール紙。それを相変わらずの無表情で見つめながら、ボソッとつぶやいた。

『私のせいかな・・・』

『何が?』

『柴崎の仕業だろう?このクラス替え。』

進級式前、貼りだされたクラス発表の掲示を見て、一緒のクラスでよかったと喜んでいる亮達に反して、ニコちゃんは無表情に一度もそのきれいな顔を崩さなかった。聡いニコちゃんが気づかない筈がない。それでも、そうだとは言えない。          

『4人共同じクラスになるなんて、ありえない。』

『そんな事無いよ。たまたま、偶然だよ。』

『都合のいい偶然。』亮は何も言えない。

『柴崎を曲げさせてしまった。』

本当に柴崎がクラス替えを裏で操作したのかどうかは聞いていない。だけど、亮も新田も、【ニコを守れ】という柴崎からの心の指示を受け取った。柴崎の行為は、学園経営者一族として決してしてはいけない行き過ぎた行為だ。だけど、その込められた思いは柴崎らしく気持ちいいぐらいにまっすぐだと亮は思った。       

『藤木は、私をどう見る?』

『どうって?』

『そうまでして、皆がそばに居ないと、私は駄目か?』

無表情に亮を見つめるニコちゃんに、すぐに答えられなかった。




つかんでいた麗香の腕を、そっと離す藤木。      

「ニコちゃんは、私のせいかなと、4人が一緒になったクラス替えを素直に喜べないでいた。」

「そんな。」

「4人が一緒のクラスは、俺たち全員が望んでいたことだ。ニコちゃんも最初は納得できないでいたけれど、結果は良かったと、この一年を楽しむと、気持ちを切り替えて努力をしていた。俺たちと対等の友達で居られるように。」

ニコを想うと頭に浮かぶのは、いつも何かに取り組んでいる真剣な顔だった。特待を受け続けるために、人よりも多く勉強し頼まれた課題をこなして、何をするにも手を抜かずやり遂げる。

『真辺さんは特別、成績がトップなのは、世界一位の学力を誇るフィンランドで育った帰国子女なのだから、当然。』

ニコが何の努力もせずに、その成果を得ていると過去の自分を含めて皆がそう思っている。それは違う。誰よりも、ニコは絶えず努力をして得ている。その美しく涼しい顔が、その頑張りを周囲に気づけさせない仮面となってしまっているけれど、麗香は知った。だからニコの負担を少しでも軽くしたいと思う麗香の気持ちは過剰に、親友という立場を超えてしまった?

涙がこぼれた。

(ニコはもう私を友としてそばに居させてくれないのだろうか?)

「泣くな、柴崎。お前らしくない。」

(何よ。この間から、お前らしくないばっかり。私だって泣くのよ。自分の愚かさに悔しくて。)

「悔しいなら、考えろ。対等の友のまま、自分が出来ることを。」

藤木に顔を向ける。藤木は人の本心を読み取る。嘘ほどよくわかると言う。その偽る人とその内容に、藤木が批難する言葉を聞いたことがない。その点はニコがどんなに悪口を言われようとも相手を責めないのと似ていた。

「柴崎、お前が泣いていたら、俺たちは動けない。」新田が重い口を開ける。

あの事件の夜も似たような事を言われた。うろたえた麗香は、その言葉で心をしゃんとすることが出来た。あの時と同様に、麗香は息を吸って吐く。

(何ができる?私に。経済的理由で修学旅行に行けない、全国大会出場を素直に喜べないニコが、笑顔で参加できる方法。)

「対等の友のまま、私ができる事・・・・」

「柴崎しか、できない事。」藤木が強い目で麗香に訴える。

「・・・・そんなの、私、わからない。」

麗香は唇を噛んで、俯いた。


ニコと対等の友のまま、私にできる事、私にしかできない事。麗香はその言葉を繰り返し頭の中で繰り返し、考え続けた。授業もそっちのけで考えても何も思い浮かばない。休み時間に、ニコに声をかけようとした。でもなんて言えばいいのか、わからない。

特別扱いした事ごめんね?

もうしないからまた親友でいて?

どれも違う。陳腐な言葉でニコの笑顔が戻るとは思えなかった。

昨日、試合会場で美月と言い争いをした為に、私を食堂に誘う友達はいなくなった。4人掛けのテーブルに麗香は一人で座る。人生初めての経験だった。麗香の周りには常に誰かがいてご機嫌を伺う、それが当たり前でずっと続くと思っていた。

一人で食事をしている麗香をひそひそと噂をする気配に、麗香は顔を上げられない。まだニコと友達になっていなかった頃、いつも一人で座っていた真辺りのを、あの子は特待生だからその心も特別。私達とは違う。だから一人で給食を食べる事も平気なのだと思っていた。麗香は痛感する。ニコは特別じゃない。ニコも辛かったはずだと。麗香は今、もっと早くニコと友達になりたかったと悔やむ。食事がのどを通らない。集団の中の一人が、こんなにも辛いなんて。

「悪りぃ、遅くなった。」その声に麗香は顔を上げて驚く。麗香の向かいに給食のトレイを置き座った藤木。

「どうしてっ。」

「一人で物思いに耽りたいのなら、移動するけど?」目じりに皺を寄せてニヤリと笑う。麗香は、泣きそうになった心を慌てて抑え込む。

「あー腹減った。」続いて新田が、藤木の横に大盛りに盛り付けた給食のトレイを置いて座る。

「新田!」

「ありがとな。えりから昨日の事、聞いた。」

「あっ、のおしゃべり!」

また、えりに救われた。新田の大盛りの給食を見るのは約2週間ぶり。麗香はうれしくて顔をほころばせる。が思い出す。新田が麗香の所に来たら、ニコは?焦って聞く。

「ニコは?ニコのそばに居なくていいの?」

新田と藤木の視線は、麗香を超えて後ろへ。振り向くと、ニコがトレイを持って立っていた。無表情に、麗香の隣に静かに座りつぶやく。

「一人は、おいしくない。」

「ニコ・・・・」

「そうだよね。皆で食べた方がおいしいよね。」藤木がそう言って、にっこりと微笑む。

楽しい時間が戻って来た。

私たちは楽しい事、辛い事を共有してきた。

楽しい事は4倍に、辛い事は、1/4に。

麗香は改めて、いただきますと言って大根の煮物を口に運んだ。出汁が良く染み込んで、とてもおいしい。

失いたくない大事な友。麗香は心からこの三人に出会えたことを感謝する。

麗香の半分しか盛り付けていない給食を、麗香の倍の時間をかけて、やっとニコが食べ終わった時、校内放送が食堂に響き渡る。

「全生徒会メンバー及びサッカー部部長、新田慎一君、至急、第一会議室まで来てください。繰り返します、全生徒会メンバー及びサッカー部部長新田慎一君・・・」

「俺も!?」新田が驚いて自分を指さす。

昼休みや休み時間に、校内放送で生徒が呼ばれることは多々ある。だけど、大体は生徒会の会長である麗香や、各クラブの部長の単体である事が多い中、生徒会のメンバー全員とおまけにサッカー部の部長が合わせて呼ばれるなんてことは珍しい。一体何事かと、麗香達は顔を見合わせた。

「凱さんの声だったな。」と藤木。

凱兄さんが直々に放送をかけるのも、今までにない事。麗香たちは、慌てて立ち上がる。

「あっ、ニコ、一人になるけど・・・。」ニコだけが、呼び出しのメンバーに入っていない。

「教室に、戻ってる。」

「ちょうど食べ終わったから大丈夫だな。」

と新田がニコのトレイをチェックして言う。ニコがムッとする光景に麗香は苦笑する。こんな何でもない事が、この上なく楽しい事だったんだと、一度なくして良くわかる。

「早く行って、凱さん待ってる。」




職員室の隣にある第一会議室に、生徒会メンバーが続々と集まる。麗香が会議室に入ると、麗香の父と校長が椅子に座り、凱兄さんとサッカー部顧問の石田先生が脇に立って待っていた。呼び出されたメンバー全員がそろったところで、話し始めたのは凱兄さん。

「悪いねぇ、みんな。食事はもう済んでいるかな?まだでも、ちょっと緊急に、やってもらわないといけない事が出来たんで、少し我慢してもらえるかな?」

金髪頭の凱兄さんの存在は学園内では異質で、馴染みのない麗香達以外の生徒はたじろいでいる。そんな様子も凱兄さんはお構いなしで続ける。

「んーと、プロサッカー選手の大久保啓介が、うちの学園出身っていうのは知ってるよね。みんな。」

新田と藤木がはいと返事する。麗香は海外で活躍するサッカー選手の事までは、あまり詳しくない。けれど、大久保選手だけは、新田と藤木が憧れていて、何かと話題にしているのを耳にしていたから良く知っていた。

大久保啓介は、中等部からサッカー推薦で常翔に入学し、部長を務めて、中高共に全国大会で優勝した。常翔の歴史に華々しい名を遺す人物。卒業後は川崎のプロサッカーチームと契約した。5年後にその実力を世界に認められて、今は海外のサッカーチームに所属している。

「その大久保選手が表敬訪問をしてくれることが決まった。」

「本当ですか!」新田が、歓喜の声を上げる。そりゃそうだろう、憧れの選手と会えるのだから。

「いつですか?」藤木も目を輝かせて質問する。

「それが、ちょっと急なんだが、今週の土曜日なんだよ。この日しか互いのスケジュールが合わなくてね。」

急すぎる日程に麗香は驚く。歴史ある常翔学園に、有名なOBが表敬訪問し講演会などを行う事はよくある事だった。だけど少なくても一か月前には知らされて準備を行ってきている。生徒会メンバーはその余裕のないスケジュールに引きつり喜べない。対照的に新田と藤木はガッツポーズをしたりして喜んでいる。

「ここに大久保選手のプロフィールと当日の到着時間等の詳細を記しておいたから、生徒会の皆はこれで生徒向けの書類の作成と、当日の午前のイベント構成を考えてくれるかな?僕も手伝うから。」

決まったものは、どんなに時間の余裕がなくてもやらなくちゃいけない。

「はい。」

「午後からは、サッカー部と交流練習をやってもらうにように話をつけてあるから、新田君と藤木君は石田先生と練習構成を考えてもらえるかな。構成とタイムスケジュール等の詳細が出来たら、早急に生徒会と僕の所に持ってきてもらいたいんだが、出来るかな?」

「はい。出来ます。」新田が威勢の良い返事をする。

「あと、藤木君は、生徒会とダブってるけど、大丈夫かな?藤木君はサッカー部の交流会に専念してもらって、生徒会の書記業は森山君にやってもらってはどうかな?」 

「いえ、大丈夫です。サッカー部は新田だけでも十分まとめられます。それに、生徒会とサッカー部、両方をわかっている人間が居る方が、連携が取れると思います。」藤木の意気込みに、凱兄さんが頷いて微笑んだ。

「わかった。じゃ藤木君は生徒会とサッカー部との連携役を頼んだよ。それと、当日はテレビの取材が入るらしい。」

「えぇー!」麗香も叫ぶ。

「テレビっても、ずっとカメラを回しているわけじゃなくて、ニュースの情報映像を取るだけらしい。皆が何かしなくてはいけない事はないよ。テレビ局の対応は僕がやるから、皆に負担はかからないけれど、テレビ取材は来る旨は、各書類に明記しておいてちょうだいね。黙っとくとPTAがうるさいから。」

「はい。」

「じゃみんな、過密スケジュールで申し訳ないけれど、一週間、頑張って貰えるかな。」

全員のはい。が綺麗に揃った。



「それで、あの騒ぎなのか。」怒号に盛り上がる男子達に視線を向けるニコがつぶやく。

新田と藤木は会議室を出るなり、サッカー部のメンバーを集めて、大久保選手の表敬訪問を報告して回った。

「テンション高いな。」

自身の県大会優勝を喜ばなかったのに。新田達の嬉々たる姿を表情を緩めるニコ。麗香は思い出す。まだ、おめでとうを言ってない事を。

「ニコ、私、言うの忘れてたわ。」

「何?」

「優勝おめでとう。」

ちょうどその時、校舎正面に、全国大会出場を称える横断幕が降ろされた。


【弓道部、全国大会出場 個人、神奈川県代表 真辺りの】

【弓道部、全国大会出場、神奈川県代表 団体出場】

 

ニコが、自分の名前を大きく書かれた横断幕を見て、恥ずかしいから、外してくれるように理事長に頼んでと懇願する。

「駄目よ。これは習わしよ。サッカー部だって去年、出場を決めたら、垂れ幕を降ろしていたでしょう。」

「そうだよニコちゃん、凄い事なんだから、喜ばなくちゃ。」

「私だけ名前表示・・・」

「個人競技で優勝したら、個人名を記すのは普通よ。」

「優勝なんか、するんじゃなかった・・・・」

「あのねニコ。それ失礼よ。優勝したくて必死に練習してきた他の選手に。」

ぼそっとつぶやいたニコの言葉に、麗香は思わず、きつく言い放つ。

「柴崎の言う通りだ。その言葉、ニコに負けた奴らが聞いたらどう思う。」

ニコが無表情のままうつむく。ニコが優勝を素直に喜べない気持ちはわかる。だけどこんな腐った感情を抱いたままにさせてはおけない。

「ニコ、あれはね、学園が宣伝の為だけに掲げているんじゃないのよ。学園に関わる皆が、ニコの努力と功績を褒めて喜び、応援するためにあげてるの。」

「ニコちゃん、顔を上げて、周りを見てごらん。」

藤木の言葉で、顔を上げて周りを見渡すニコ。

横断幕を見て、初めてニコの優勝を知った者も多い。指さし感嘆の声を上げている。少し離れた場所からクラスの女子がニコの姿を見つけ、駆け寄って来た。

「真辺さん、おめでとう。」

口々に声がかかる。その声を聞きつけた他の生徒たちも、続々とニコの周り集まり、拍手と共におめでとうの賛辞を述べる。

突然取り囲まれて固まるニコだったけれど、頑張って、応援してるという沢山の言葉に、ぎこちなく緩ませた。そして限りなく小さく「ありがとう。」とつぶやく。



その日の放課後から、生徒会は目の回る忙しさになった。講演会の内容と、タイムスケジュール作成、当日の人員配置、凱兄さんが入って仕切ってくれているとはいえ、決め事、話し合い、イベントで必要な備品のチェックや、写真部、放送部などの手配と、その打ち合わせなど、次から次へとやる事が発生しては一つ一つ消化する、の繰り返し。会長である麗香は、出来上がった書類の確認と決定、学園側と、依頼した写真部と放送部への説明や打ち合わせで、学園中を忙しなく駆けまわっていた。藤木はサッカー部副部長の立場と生徒会の書記という立場が合わさり、とんでもない量の仕事になった。生徒会用のpcを寮に持ち帰って、やるほど。 

「笑い皺が、ない・・」大久保選手との交流練習の内容を、新田と話し合っている藤木を見たニコがつぶやく。

「流石の藤木も余裕ないわね。」

「柴崎は、まだまだ余裕だね。」

「私は当日が忙しいのよ。司会をしなくちゃならないから。」

「柴崎の得意な事だね。」

「まぁね。楽しみだわ。」

充実していた。美月は、麗香が二コ達と一緒に居ても何も言わなくなった。美月だって良く知っている、県内で1位になり全国大会に出場することがどれだけの努力を要し、技量のいることなのかを。何も言わないって事は、ニコのその功績を少なからず美月は認めたという事だと麗香は判断した。

しかし、ニコと麗香の関係が元に戻っても、ニコが修学旅行に行けない事実は変わらない。急に決まったイベントで、麗香はその問題を考える暇がなくて、お預け状態になってしまっている。









学園に到着した大久保選手に、凱兄さんはラフな挨拶を交わしてタメ口で話し始めた。それを見た麗香達生徒会メンバーと新田と藤木は驚き、戸惑う。 

「あれ?言ってなかったっけ?大久保とは同級だって。」

「き、聞いて、ないです。」新田が答える。麗香も聞いていない。

「まあ、そういう関係だから、無理を通せたんだけどね。」

「ほんまやで、急に無茶言いやがって、俺、代表の練習、キャンセルしたんやからな。」

と大久保選手が関西訛りを披露。

「そう言うなよ、可愛い後輩の為だろ。それに、今年のサッカー部は期待できるぞ。数年後には、お前のポジションを奪うかもしれないメンバーだからな、しっかり見定めて帰るんだね。ねぇ、新田君、藤木君。」 

いきなり、名前を振られて慌てふためく二人、ただでさえ、憧れの選手を前にして緊張した面持ちがおかしいのに、さらに焦る姿に麗香は吹き出しそうになった。

「やややや、俺たちなんてそんな。足元にも及ばないです。」

「大野、じゃなくて柴崎から聞いてるよ。ボールコントロールの天才、FWの新田慎一君が、君?で、戦略的なアシストをするMFの藤木亮君?今年は全国優勝、間違いないってね。」

「や、やめてください。ハードル上げるの。」と、以前、麗香に強気の発言をしていた藤木が謙虚に弱音を吐く。

大久保選手の関西訛りのおかげで緊張がほぐれた。凱兄さんが緩んだ場を締める。

「準備はオッケーかな?柴崎さん。」

公の場では凱兄さんは麗香の事を名で呼ばず氏名を使う。柴崎姓ばかりになるのでややこしいが、仕方がない。

凱兄さんは麗香に場を任せて部屋を出で行った。大久保選手と一緒に来ているサッカー連盟のお偉いさんとの挨拶や、テレビ局の取材の対応などで凱兄さんも忙しい。

「改めて、ご挨拶させていただきます。私、常翔学園生徒会、会長の柴崎麗香です。今日1日の進行と司会を致します。どうぞよろしくお願い致します。」

「よろしく。」

「午前の講演会の全体を取り仕切る副会長の森山連太郎と、大久保選手のお世話をいたします三浦祥子です。何か必要なものがあれば三浦もしくは、他の生徒会メンバーへ、腕章をつけていますので、お申し付けください。」

「ありがとう。よろしく。」と言って、大久保選手は一人一人の名前を確認し握手をかわしていく。

「そして、昼食後1時半から予定しております交流練習は、サッカー部部長、新田慎一と副部長の藤木亮が取り仕切ります。」

「よろしくお願いします。」

二人の声は威勢よく重なり、きれいに角度も揃って頭を下げる。

「改めて、よろしく。楽しみにしているよ。」

大久保選手は満面の笑顔で、二人の肩をポンポンと叩きながら握手を交わす。

       


麗香は、体育館ステージに立ち見渡した。続々と生徒が入って来て並べられた席について行く。

生徒席の右手に吹奏楽部を配置し、部長と森山が最終確認をしている。反対に左手は先生たちの席で、こちらも順次埋まってきている。

一年と二年の生徒会は、放送室とステージスクリーンの機械操作などの裏方に回り、藤木を含め三年の三名がフロアで生徒の誘導。会計の三浦さんは、応接室で大久保選手のお世話をしている。麗香以外の生徒会メンバーは、小型のトランシーバで互いに状況を確認しあっている。麗香はマイクを持っているのでハウリング防止の為、トランシーバーは使えない。

マイクを持って人前で話したり、司会のような事をするのは慣れっこだった。小学部から美月と色々なイベントを取り仕切って来た。去年も学園祭の最後のイベントの表彰式とダンスパーティの司会をやった。もし、この学園の経営者の娘じゃなければ、将来アナウンサーになるのもいいかもと麗香は思う。

全生徒が会場に着席し終えた。森山が麗香の立つステージ下で「準備オッケー。大久保選手が控え室を出た。」と報告にくる。

今年、常翔学園、中等部と高等部は創設60周年を迎える。秋に大きな記念行事がある。生徒会はその行事に参加が決まっていて、それだから、皆は嫌がって、今年の立候補者は少なかった。森山と三浦さんは、藤木が声をかけてやっと立候補した二人。二年生の中には先生に説得されて渋々立候補をした者もいる。この、急に決まったイベントに、忙しすぎて、こんなはずじゃなかったなんて思っている者も居るだろう。今の所、麗香の耳にはそういった愚痴は聞えてはこないけれど。

 さぁ、ここからは麗香が能力を発揮する番、失敗は許されない、生徒会メンバーのこの一週間の労をつぶすわけにはいかない。今日1日のタイムスケジュールと、大久保選手の経歴はすべて頭にいれてある。大丈夫、緊張もしていない。これは武者震い。

会場後ろの扉の前にいる藤木が手を振って私に合図を送って来た。私は深呼吸を一つして、マイクのスイッチを入れた。

「お待せ致しました。これより常翔学園卒業生、イングランド、セリアユナイテッドFC所属、そして、1か月後に迫りますワールドカップ日本代表にも決まりました、大久保啓介選手との交流講演会を開催いたします。」

会場がわっと盛り上がり拍手が起きる。

「それでは、大久保選手の登場です。大きな拍手でお迎えください。」

吹奏楽部がワールドカップのテーマ曲を演奏し、会場後方の扉が開け放たれて、大久保選手にスポットが当てられた。

迫力ある吹奏楽の生演奏に嫌でも心躍る。麗香は、吹奏楽の生演奏にしてよかったと微かに頷いた。一週間という短いスケジュールに、放送室からの音楽を流す当初の案に、他クラブも参加要請し、なるべく共同でイベントを作り上げようという森山の提案で、緊急で要請した。練習期間4日という短い時間、おまけに今まで演奏したことないワールドカップのテーマ曲というにもかかわらず、吹奏楽部はちゃんと仕上げて素晴らしい演奏をしてくれている。大久保選手は上機嫌で体育館中央の花道を、生徒達に愛想を振りまいて歩いてくる。そして麗香のいる壇上に上がった。こういうのは最初が肝心だ、最初に観客の気持ちを、どれだけこちらに向けられるかで、後の進行に影響する。麗香が何も言わずとも、大久保選手はスタンドからマイクを自ら取ると話し始める。

「いやーこんな凄い歓迎を受けるとは、思わへんかったなぁ。」

大久保選手の関西訛りが、それだけで場に笑いが起こる。

「どうですか?久しぶりの学園は。」

「だいぶ変わったなぁ。ほら、裏の駐車場の所なんて僕がいた頃は、空き地やったからね、今はちゃんと舗装されて花なんか植えられて、きれいになってるやん。それに吹奏楽の生演奏を聞くのも久しぶりや、良かっでぇ、ありがとうな。」

やりやすい。大久保選手って、こんなに饒舌だったんだと、麗香はほっとする。

「それとな、垂れ幕、見たで。すごいやん。弓道部、個人の部と団体共に全国大会出場やって。僕たちの頃は趣味の一環みたいな、運化部、運動の運と文化の化、合わせて、運化部とか言ってて、ほんま、ごめんやで。えーと弓道部の子って?」

生徒たちを見渡し、手を上げるよう促す。

3年生のエリアからちらほらと手が上がる。麗香はニコへと顔を向けた。ニコは、新田の横でうつむいて、当然に手を上げない。

「弓道部3年の団体チームの生徒です。」と麗香が補足する。

「いやー、おめでとう。全国大会はどこで?山口県!おーフグがおいしい所やん。フグの毒にやられないよう気をつけんとなぁ、あははは。」

麗香が話を振らなくても大久保選手が、話の幅を広げてくれる。麗香の出番がほとんどない。だけど場が白けて、麗香があたふたするより断然いい。麗香自身もこの場をとても楽しんでいた。

「個人優勝の真辺りのさんは、どこかな?」

と大げさに手を目の上にかざして探す振りの大久保選手の声掛けに、増々小さくなるニコ。その姿に、まずいなと私は焦った。

「えーと、申し訳ございません。彼女、真辺りのさんは、その、帰国子女でして、日本語が少し苦手で・・・。」

良い事、思いついちゃった。

「よろしければ、英語で話しかけてもらえないでしょうか?私達も、大久保選手のイングランドで培った英会話力と言うものをお聞きしたいですし。」

ヒューという、口笛と共に、聞きたーい!という女子生徒の黄色い声が上がる。

「えー。僕、英語、苦手で。散々やったで英語のテスト。」

誰かと一緒だなと笑えた。

「まぁーそう、おっしゃらず、ご存知の通り、ここは、英語教育に力を入れた常翔学園です。その卒業生としてぜひ、お手本を。」

大久保選手が参ったなと後頭部を掻きながら、それでもマイクを手に、檀上ギリギリまで前に出て、ニコを探す。

藤木が、サブマイク手にニコの元へ駆けつける。ニコは嫌がったけど、新田と藤木に挟まれて説得され、ようやくゆっくりと立ち上がった。

英「おや、かわいらしいお嬢さん。真辺りのさん優勝おめでとう。」

戸惑っていたニコも英語で話しかけられているから、普通に声が出る。

英「ありがとうございます。」

英「おぉ、さすがに発音が違う、どこに住んでたの?」

英語のテストが散々だったという大久保選手は、結構きれいな発音をしていて、ニコとの会話は、1年生でもわかる内容だったので、日本語の要約は入れずに、麗香はしばらく大久保選手とニコにマイクを任せた。

英「フィンランドに4年とフランスに約2年」

英「フィンランドってサンタクロースの国?」

英「サンタクロースの街と言われているのは北部のラップランドという地域です。私が住んでいたのはもっと南部のロシアとの国境近くです。」

「そうなんやぁ。たしか教育水準が世界トツプやったよね?。やっぱり違うんかな日本とは?」と大久保選手は日本語に戻した。とたん、ニコは戸惑った様子で口を噤んでしまった。その間合いに、「真辺さんは特待生だよ。」と言う、他の生徒からのひやかしのような掛け声が上がる。ニコは英語で話していた時の表情とは打って変わって、表情をなくしてしまった。麗香は、『時間の関係で、これで英会話コーナーは終えます』とでも言って話の筋を変えようとしたら、大久保選手はそのまま、続けていく。

「へえーそうなんだ。そりゃダブルですごい、頑張っているんだね。」とニコへと労いを向けた後、檀上の縁をゆっくりと歩きながらマイクのコードの絡みを直す。

「僕が、常翔の生徒やった時も、同級生に特待生がいてさ。僕、寮生やったんやけど、その特待生と同室やってん。そいつな、やっぱりめちゃめちゃ頭ええねん。こっちはサッカーで入学してきて、勉強なんて大嫌いやのにやで、そんな奴と同室にする?ありえへん。」

生徒達に笑いが起こる。

「そいつな、毎回5教科満点取るねん。あほちゃうかとか思ってな。もう人間の質が違うんやと思ってたけどな、違うねんなぁ。」

毎回5教科満点の特待の同級生ってのは凱兄さんの事だ。麗香は会場の後ろで、テレビ局の人の側にいる凱兄さんの姿を見る。凱兄さんは特に変わらない様子で会場全体を見渡している。

「確かに、人よって覚えが早いとか、飲み込みか早いとか、それぞれの能力の優劣っていうのは、あんねんけど。ここの特待って厳しいの、皆、知ってた?学期ごとに面接はあるわ、レポートも提出せなあかん、学年末には、すんごい難しい審査テストもあるし、当然クラブも必須、サボってたら厳しく注意される。それらの事、そいつと同室になって僕、初めて知ってん。そいつな、僕らとは違う人間やのに、夜遅くまで机に向かって勉強したり、レポートやってるねん。時間ってな、全人類平等に一日は24時間しかあらへんのよ。特待生もあほな僕も、みーんなな。課題をこなす時間や労力は特待生と言えども僕らと同じなんやなって、僕は、その特待生と友達になって、特別な人間なんていーひんって、わかったんや。」

凄い。皆が大久保選手の話に魅了されている。

「スポーツも同じ。僕が世界で活躍できるんは、生まれつき神から授かった能力が、あるからやとかいう人、たまーに居るねんけど。違うねんなぁ。僕はな、人は生まれた時に、みんな神様から何か素質の種を、もらってると思っているねん。それが何なのかはわからへん。真辺さんみたいに特待生に合格できる頭脳の種なんか、僕みたいにサッカーの出来る種なんかはわからへん。だけど、その種は、土を耕して、植えて、水やりをして、手入れと言う努力をしないと絶対に芽は出えへん。手入れをサボったら枯れてしまうしさ。努力と言う手入れを僕は、サッカーにだけは注いで来た。勉強にはせぇへんかったけどね。」

ちょいちょい笑いを入れてくるあたりは、もう芸人レベル。この人、お笑いの世界でも活躍できそうと麗香は思う。

英「おっと、レティを立たせたままは失礼。ごめんね。真辺さん、改めて全国大会出場おめでとう、僕も応援している。」

「彼女の頑張りと全国大会の成果に向けて、皆、拍手!」

わっーと全員がニコに拍手を送る。本当にすごい。大久保選手はニコの頑張りを全生徒へ知らせて認めさせた。

ニコは、うつむいたまま藤木にマイクを返すと、すとんと席に座って、そのまま顔を上げなくなってしまった。麗香は心配したけれど、藤木がこっそり、手振りで大丈夫というサインをしたので、安心して次のコーナーへと勧める。

思いのほか早々に大久保選手からいい話が聞けたので、予定していた進行を変える事にした。

「ちょうど、大久保選手から同級生のお話が出ましたので、大久保選手がここで、どのような生活を送っていたか、皆知りたいと思いまして、少しばかり懐かしい写真を、いくつか手に入れてまいりました。スライドの準備をお願いします。」

「えー!うそやん。」

大久保選手が素っ頓狂な声を発する。中学生の頃の大久保選手の写真が、後ろのスクリーンに映し出される。

卒業アルバムや学園が保管していたものの写真をかき集めたものである。まだあどけなさが残る顔でふざけている写真などに、会場はどっと笑いが起き、さっきとは、また違った和やかな雰囲気でコーナーは進む。

講演会の最後は、大久保選手と写真を取れる権利や、大久保選手から提供してもらった、ユニフォームやボール、サイン色紙の取り合いのじゃんけん大会の大盛り上がり、その後、全員で校歌斉唱をして幕を閉じた。 

          

  

午前の部の講演会が終わり、控室となっている理事長室の横の会議室では、凱兄さんと大久保選手、そして世話係の三浦さんと私が部屋で待機し、雑談となった。

「お前から、あんないい話を聞けるとは思わなかったよ。」凱兄さん。

「ふん!お前の友達やってたらな、嫌でも、悟るっちゅうねん!」

「成長したねぇ。大久保君、サッカー馬鹿って言われてたのにねぇ。」

吹き出しそうになった。サッカー馬鹿まで、新田と同じ。新田もえりやニコにいつも言われている。

「うるせー。あっ、そうだ。さっきの真辺さん大丈夫かな?あの後、ずっとうつむいてたけど。」

「大丈夫です。うれしかったはずです。大久保選手に認められて。」

「ならよかった。」

「柴崎さんもお疲れさん、良かったよ。いろんな講演会に行ったけど、ここまで完成度の高いのは初めてやった。」

「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。」

「柴崎さんは、理事長の娘さんやろ?」

「あっ、はい。」

「流石と言うべきか、頑張ってるね、柴崎さんも。大野、お前は用無しやな。」

「ははは、そうかもな。」

麗香は素直に心から喜んだ。ただ良かったと言われるよりも、頑張ってると言われた方が心にぐっとくる。

「そや、忘れたらあかんから、今、渡しておくわ。」

はいと言って麗香に渡されたのは、ご祝儀袋だった。受け取っていいのかわからないので、凱兄さんに助けを求める。

「おぉ立派になったねぇー大久保君。」

「お前に、やるんとちゃうわ!」

凱兄さんが受け取ろうとした祝儀袋を、大久保選手はさっと振り上げて噛みつく。

「今度、60周年記念式典をやんねんやろ。そん時帰国は出来ひんから、先に渡して置く。理事長に渡そうと思たんやけど。学校に渡したって、他の祝儀と一緒くたにされて、何に使われたかどうか、わからんなる可能性大やからな、今日のお礼も含めて 生徒会の方で使ってよ。」

「いえ、そんな、これは・・・。」

「遠慮なく受け取って、生徒会の会計に寄付として組み入れて、使い道は、また後日に決めたらいいよ。」と凱兄さん。

「わかりました。では遠慮なく頂きます。ありがとうございます。」麗香は丁寧に頭を下げた。

    


今日は、サッカー部以外の部活動は休部。学園としては午前中で学業終了なので、その他の生徒は残ってサッカー部の見学をしても良いことになっていた。サッカー部は午前の講演会を終えた時点で集合して、午後からの練習に備えている。麗香は生徒会メンバーと昼食を取りながらの打ち合わせ等が忙しく、ニコの事をすっかり忘れていた。そのニコとゆっくり話が出来たのは、新田達の交流練習が始まって、1時間を過ぎた2時半近い時間だった。

「もう、いいの?」

「うん。あとは新田と藤木が最後までやってくれるわ。」

「お疲れ様。」

「ありがとう。」

麗香は胸をなでおろす。大久保選手とのやり取りの事を、ニコは怒っていない。嫌だったら麗香の顔を見るなり詰め寄って怒るか、麗香と会話をしないで拗ねていただろう。

「ニコ、ご飯はどうしたの?」

「柴崎まで、慎一みたいな事を言う。」

「だって。今日は新田も藤木も、あの状態だもの。」

「弓道部の皆で食べた。」

「そっか、良かった。一人じゃなかったんだね。」

ニコは、日本語の発音に自信が持てないだけで、人となりは良いし、本来は話し好きの皆に好かれる子なのだ。麗香が常に側にいて保護しなくても、ニコはちゃんと居場所を見つけている。また、しすぎる心配をしちゃった、と麗香は反省し、運動場にて大久保選手と駆けまわっている新田の姿を眺めた。

「部長らしくなった。」

「ほんと、ちゃんと、やってるわね。」

「就任当初はどうなる事かと心配したけど、石田っちの目は確かだったって事ね。」

「藤木の目も。」

年明けに、顧問と引退する3年の先輩から、サッカー部部長に新田が指名された。だけど、新田は自分より藤木の方が適任だと辞退の言葉を繰り返していた。藤木と石田先生は何度も新田を説得し、それでも尚、「藤木の方が」という新田に、石田先生が『いい加減にしろ!決まった事だ!腹くくれ』と激怒されて『そんなに嫌ならサッカー自体やめろ』とまで言われて、しぶしぶ就任した。ぐらいに就任当初の新田の部長ぶりは自信なさげに、藤木に頼りっぱなしだった。それが、今では新田の指示で部員はスムーズに動いて、無駄な時間が一切ない。この大久保選手の表敬訪問が、さらに新田を成長させているかもしれない。単独で突き進み、チームの仲間を時に置いて行ってしまう癖のある新田は、今日はちゃんと意識して、後輩にも目を配っている。

学年の区別なく、部員全員が公平に大久保選手と交流練習ができるように、新田と藤木は綿密に計画を立てていた。

「そうね、藤木は入学時から、新田の才能をべた褒めしてたものね。」

「あれだけの仲間と一緒にやっていたら楽しいだろうな。」ニコがボソッとつぶやく。

ニコは海外でバスケットをしていたという。仲間に囲まれて楽しくやっていたのだろう。弓道部に入っているとはいえ、ほぼ個人競技で集中力が勝敗を決める精神競技。精神的に強くなろうと入ったのか、ただ単に日本文化に興味をもってやってみたかったからなのかは知らない。けれど、隠されている本音がこぼれ落ちるようにつぶやかれると、本当は新田達のように、たくさんの仲間と一緒にバスケットを楽しみたいのだろうなぁと察する。でもニコは、その気持ちに反した他人との関わりを拒絶する病気がある。

「ニコ、私・・・」ニコが修学旅行に行ける方法を、私が考えるから、という言葉を、森山に声をかけられて言えなかった。

「柴崎さん、ちょっといいかな。」

「あっうん、いいわよ。」

「この後、交流練習が終わったら、大久保選手は着替えてから、挨拶してもらう?それともあのジャージのまま?」

「うーん、どうだろう。時間的に余裕があったら、大久保選手に一旦控室に引き上げてもらって、休憩してからの方がいいのかもしれないけど、今、どこまで進んでる?私、見てても、さっぱりわからないの。」

「タイムテーブル通りに進んでるよ。今の練習がこれだから。」

と新田から生徒会へ提出されている書類を指さし、森山が説明してくれる。

「終わった時点で藤木と相談して、大久保選手にも聞いて貰ってから、その場で決めるわ。」

「了解。あと、三浦さんから聞いた?」

「何を?」

「ご祝儀の金額。」

「ううん。聞いてない。」

「いくら入っていたと思う?」

「うーん5万円ぐらい?十万は多すぎよね、生徒会宛だし。」

「開けてびっくり、60万入ってた。」

「うそ!」

そばで聞いていたニコも目を丸くして、びっくりしている。

「三浦さんが、どうしようってビビッて、理事長補佐に預けたよ。」

「そういえば貰った時、60周年記念式典用のご祝儀だって、理事長に渡すのはやめて、生徒会で使ってって言ってたから、本当に式典用のをそのまま頂いたのね。びっくりだわ。」

「はぁ、世界で活躍する人は規模が違うな。」

「使い道に、また頭を悩ます金額だわ。」

私と森山は溜息をついた。祝儀はありがたいけど、公金を使うのって以外に難しい。全員が納得して、公平に恩恵を受けられるような物に使わなければならない。

「サッカー部は羨やましいよ。保護者会もあるし、遠征の費用とかもOBに声をかけたらすぐ集まるだろう。」

森山が、サッカー部の練習試合を見ながら愚痴る。

「まあね。常翔学園の看板クラブだからね。」

「陸上部にも分配してくんないかなぁ。その資金とそのバックアップ体制。」と、森山は笑いながら、出来ない冗談を言う。

(ん?あれ?本当に出来ない?)

麗香は森山の「分配」と言う言葉に引っかかった。


生徒会に寄せられた数々の不満。学園の偏ったクラブ贔屓。

円佳の転校。公立の学校の救済制度。格差意識。

弓道部を祝う垂れ幕。

大久保選手のご祝儀。生徒平等に役立つ使い方。

60周年記念行事。OBの資金援助。

バックアップ体制。

      

ここ1か月ほど頭を悩ませていたフレーズと状況が麗香の頭の中を一気に巡り、そして1年前の記憶も加わる。   


《良くできたルールだと思ったわ・・・・・・強くなりたいチームは頑張ったら頑張っただけその成績に応じて予算が入り、また上を目指せる》

   

藤木の父親である当時文部科学省大臣のスキャンダルに巻き込まれて、藤木自身もがあらぬ疑惑をかけられ、週刊誌に匿名とは言え載ってしまった。退学届を出した藤木を助けたくて、麗香はニコと新田に協力を求めた。事の説明の中で、麗香自身が述べた感想。

日本サッカー連盟のスポーツ振興補助金の分配方法は、本当に良くできたルールだと思った。   


「柴崎さん?」

突然黙ってしまった麗香に、森山が不思議そうにのぞき込む。

「出来るかも・・・・陸上部にも、資金のバックアップ体制。」

「はい?」

(そうよ。私はニコが修学旅行に行ける方法ばかりを考えていた。違う、逆でもいいのよ。)

元々、修学旅行は、積立金でニコ自身の家庭が貯めていたお金、それはその名目通り修学旅行に使えばいい。

問題は、弓道部の合宿と全国大会の遠征費用。そっちを何とかすれば、ニコは全部に参加できる。

「ニコ!あるわよ。すべてに参加できる方法が。ニコだけが特別じゃない。他クラブも同じ不満を抱えている。それを一気に解決できるわ!やるわよ!森山、来週からまた、生徒会は忙しくなるから覚悟しておいて!」

麗香は新たな武者震いに、空を見あげた。

梅雨入り間近の6月初旬、暑い日差しに麗香は負けない拳をギュッと握りしめる。

















外は麗香の気持ちを反映した様な、どんよりした雲に覆われて、朝から途切れることない雨が降り続いている。麗香は雫がびっしりとはりついて視界を遮っている窓から離れた。今日の議事録をPCに打ち込んでいる藤木の前の椅子に、大きなため息をついて座る。

藤木は麗香にちらりと目を向け、キーボードを叩く手を止めない。

「はぁー。まさか三浦さんが、足枷になるとは思わなかったわ。」

「足枷って、大げさな。」

「だって。もたもたなんてしてられない。」

麗香は、公立校の救済制度と連盟のスポーツ振興補助金の分配方法を組み合わせた、サッカー部以外のクラブが資金的に困らず活動出来るバックアップ体制の基金の設立を考案した。

サッカー部が大掛かりに合宿や遠征試合を組むとなれば、保護者会と学園が動き、OBに資金援助を頼んだりする。おまけに連盟の補助金もあるから、現役サッカー部員の負担は少なく、施設備などを充実させることができる。冬の練習にナイター照明をつけられるのはサッカー部だけ。だからこそ他クラブから不満が出る。サッカー部だけずるいと。学園側も他クラブにも力を入れたいのはやまやま、だけどやる気のないクラブや実力、実績のないクラブに湯水のようにお金は出せない。ある程度、それこそ全国大会に常連する実績が継続して、やっと学園は資金を出す価値を見出せる。女子バレーと男子テニス部が、そこそこ強くても、サッカー部のように、すべてにおいてバックアップされずにいるのは、全国大会に出場できる年と出来ない年のばらつきがあるから。

文化部はもっと辛辣。吹奏楽においては、すべて自前で楽器を購入する。この学園は、ある程度の経済的余裕のある子供が通っているから見逃しがちだけど、中には、学費までは何とか出せるが、高価な楽器までは買えないから別のクラブへ、という家庭も今までにあったも知れない。それと、円佳のように途中で経済的に困窮する家庭もある。ニコだって弓道部に入るのに、衣装や道具一式にかかる費用を躊躇し、入部を一旦あきらめかけていたという経緯があり、それは新田のお母様の機転で知り合いから中古の道具と衣装を貰い受けて入部できたけれども、全国大会に出場が決まり、ニコは合宿や遠征費用が捻出でずに、修学旅行に行かないという選択をせざる得なかった。

全クラブがサッカー部と同じ待遇を受ければ、個人部員の負担は少なくなり、クラブ間の不満もなくなる。ただ、その理想実現の為には莫大な資金が必要。わが常翔学園が金持ち学校と言われていようとも、学業プログラム以外の事に湯水のように使える資金は無く、必然的に、その莫大な資金はどこから捻出するのかという問題が生じる。麗香は大久保選手が学園にではなくて、生徒全員の為に使ってと頂いた祝儀からヒントを得た。60周年を迎える学園は、たくさんの卒業生がいるではないか。サッカー部だけじゃなくて、他のクラブに所属して卒業していった方々、どんなに月日が経っても学園に思入れはあるはず、その方々に学園のバックアップをお願いし、サッカー部以外のクラブに分配すればいい。女子バレー部やテニス部のように実績にばらつきがあるクラブにも、そして、弓道部のように急に強くなったクラブにも、強化費に頭を悩ませなくて済む。

麗香は、大久保選手が表敬訪問に来られた翌週の生徒会会議で、常翔学園クラブバックアップ体制基金(仮)の設立を提案した。

「間に合わなければ意味がないのに。」

「だからだろ、三浦さんが待ったをかけたのは。」

今年の学園側への要望を基金設立にすると生徒会メンバーに提案したら、三浦さん以外のメンバーは賛同してくれた。森山なんかは特に乗り気で、要望書の作成に時間も労力も惜しまず手伝ってくれた。三浦さんは、そんな私達から一歩引いて、『私は会計という立場を全うするわ。』と、その作成には一切、乗ってこなかった。『基金設立に反対なのか』と聞くと、『そうじゃない、今まで、学園に要望してきた案とは全くの毛色が違う案だから』と言う。

「でも、あそこでニコの名前出さなくても。三浦さんはまだニコの事を誤解していると思わなかったわ。」

「お前はホント、新田と似てるよなぁ。」藤木が大きなため息をついた。 

「何よ、私はあんなサッカー馬鹿じゃないわよ。」

「ニコちゃんの話になったら、周りが見えなくなる事を言ってるんだよ。」

 

  

『おおよそ、このスケジュールで、今後の生徒会は動きたいと思います。』

森山と藤木と麗香の3人で作り上げた基金設立の企画書を、短時間で作った割には、細部まで良く煮詰められたと自信を持って、他の生徒会メンバーに詳細を説明した。その企画に待ったをかけたのは、作成に乗ってこなかった会計の三浦さん。

『これ、あまりにも早急すぎない?』三浦さんは企画書を睨んだまま続ける。『学園の承認も本当に、今学期中に降りるの?』

『あっ、うんまぁ、それは大丈夫。』

麗香は、理事長の娘という立場を利用して、この基金設立を父に相談しながら進めていた。父も凱兄さんも、この案に賛同してくれて、生徒会が正式に学園側へ要望書を提出すれば、迅速に承認を降ろしてくれるという、仮決定ありきで作っていた。それは公には言えない事だった。

ニコが、修学旅行をキャンセルして弓道の全国大会の方に費用を使いたいと願い出た時、当然ながら父は、合宿費用は学園が出すからと説得したそうだ。だけどニコは頑なにそれを拒否した。自分が規則の例外を作るわけにはいかない、自分が作ってしまった例外が今後の学園の困窮事案になる。それはダメだと。誰よりも自分に厳しいニコの説得ある言葉、父も凱兄さんもそれ以上の無理強いはできなかった。ゆえに、麗香の立案した基金の設立の話に、二人は大賛成して承認の約束をしてくれた。

三浦さんは麗香の大丈夫という言葉に何か言いたげに顔を上げたけれど、口を噤み、微妙な表情を残しつつ、企画書に目を戻した。

『じゃ、そこは上手くいったとして、60周年記念行事で正式に発表・・・・まぁこれもいいわ。だけど、発表後2週間足らずの10月から基金の稼動ってどういう事?そんなにすぐに、お金は集まらないでしょう。』

『それは、さっきも言ったとおり、大久保選手から頂いた寄付金を基金に組み入れたら、出来るんじゃないかと。それに、早い方が他クラブの不満も解消できるわ。ただでさえ大久保選手の表敬訪問で、サッカー部の贔屓振りがクローズアップされちゃったんだし。』

『それよ。その大久保選手の寄付金を組み入れること。本当にそれでいいの?』

『じゃ、60万のお金、何に使うの?その使い道を考えるのにまた時間を要するわよ。』

三浦さんは麗香を見据えて、あえて間を置き口を開く。

『大久保選手の寄付金を組み入れるなら、10月稼働に、私は反対するわ。』

『どうして。』

『こういうのって、だいたい、年度初めからの方が都合がいいと言うか、普通じゃない?いくらクラブ間に不満があると言っても、早急に解決しなければならないような危機的問題があるわけじゃない。人のお金を集める事なのに、草案に1週間もかけていない。』

『時間をかけたら、いいってもんじゃないと思うわ。』

『まあね。確かにこの企画書は良くできている。細部にわたり抜け目がない。柴崎さんしかできない事ね。それは感心する。』

『だったら、何も問題はないんじゃ。』

『ううん、だからよ。柴崎さん、あなたが作って発足するからこそ、この10月の稼動に私は反対をするの。』

『私?どういう事?』

『大久保選手の寄付金は、全生徒の為に使うべき、個人的な感情で使うべきではない。』

『だから、基金に組み込んで』

『本当にそう?そこに個人的感情は入っていない?』

『・・・・。』三浦さんの鋭い視線に、麗香はたじろいだ。

『私でも推測出来るわよ。あなたが急ぐ理由。弓道部の真辺さんの為。』

麗香の胸がドキリと熱くなる。

『彼女の為に、生徒会は動いたって言われるの、私はごめんだわ。』




藤木は、入力の手を止めて麗香に顔を向けてくる。

「三浦さんは、ニコちゃんの事が嫌いで言ったんじゃない、逆だよ。心配して待ったをかけたんだよ。お前が急ぎすぎるから。」

麗香は、拗ねたように藤木の視線から顔を背けて口をとがらせた。

「言葉の裏を読み取れよ。私でも気づくことを、皆が気づかないはずがない。生徒会が個人的な感情で物事を決定したと、嘘でも、憶測が流れたら、真辺さんはどうなる?って事を、三浦さんは言ってたんだよ。」

「んー。まあ、そう言われたら納得だけど。でも、いつも冷静なあんたは、私にストップをかけなかったじゃない。だから私、安心してこのスケジュールで進めていたのに。」麗華は自分が作った企画書を指さした。

藤木は、椅子の背もたれに体重を預け、大きく伸びをしながら言う。

「ふー、正解だったなぁ、三浦さんを生徒会に誘って。俺だってさ、ニコちゃんが我慢することなく修学旅行も合宿も遠征も全部、参加できるって言われたら、心、逸るさ。」

そう、藤木はニコの事が大好き、麗香以上にニコが直面した問題を解決してあげたいと思っていたはずだ。

人の嘘を見破り本心までも読み取る能力は、ニコに対しては全く読めないと言う。だからこそ、藤木はニコを気にかけ、好きになった。何故か麗香の胸の中に外と同じどんよりとした思いが詰まる。

「あんたはニコの事、大好きだものね。」それを吐き出すように麗香はつぶやく。

いつもの調子で、「そうさ、俺はニコちゃんの事が大好き」なんておどけた言葉が出ると思いきや、藤木は何も言わず麗香をじっと見つめてくる。

「なっ、なによ。」

「いや、何でも。」と言って、ニヤっと嫌な笑い方する。「っていうか、やっと、お前らしくなったなと思って。」

「あのね。この間から、らしい、らしくないってね、あんたの判断基準で私、自分をやってるんじゃないのよ。全部、私なの!」

「ははは、そうだな。だけど、俺が言うお前らしいって時のお前、楽だろ?」とテーブルに肘をつき手の平に顎を乗せ、麗香の方に乗り出し、何でもお見透しだと自信たっぷり。

「うっ、まぁ・・・そうだけど。」

藤木の言う通り、お前らしくないって言われていた時は、思考が停止して、どうしていいかわからなくて苦しかった。今は、三浦さんの指摘が悩みだけど、苦しくない、充実している。

藤木は、またPCに向かって、キーボードを打ち込み始めた。

「俺さぁ、ここに入学したての頃、お前の事、大嫌いだったんだよなぁ。」

「ちょっ!何よ突然、喧嘩、売ってんの?」

「お前はさ、いつも幼稚舎、小学部からの友達に囲まれて、お嬢様っていうより城から出たことのないお姫様でさ、外の世界を見ようともしない。城の中の景色がすべてで、学園の中の人や物が自分の物だと思っていただろ。おまけに外から入って来た人間を見下してさ。」ズバリ、麗香の悪い部分を指摘されて、藤木を直視できずに俯く。「そんなお前が、この学園を継いだ未来は、最悪だなと俺は思っていた。」

一年前、ハワイの語学研修旅行で、藤木に言われた言葉。

『暴君はいつか崩壊するのがセオリー』

城の中しか知らない世間知らずで、外部の人間を見下すような人間が継ぐ学園の未来に、安泰があるはずがない。今思えば、藤木は一年も前から、それを麗香に忠告していたのだ。麗香は改めて藤木と友達になり、生徒会に誘ってよかったと思う。

「そのままだったらな、俺はお前を助けたりしなかった。」

そう言えば、お前って呼ばれる事にやめてと言ったのも、そのハワイでのバスの中。あの時のお前と、今のお前の意味合いと距離感が違う事は、麗香も十分に理解できている。

「ニコちゃんの事を気にしだして、ニコちゃんと一緒の部屋になると言い出した時、俺はお前の中に変化の兆しを見つけた。」

それはハワイに行くよりも前。麗香がニコへ嫌な悪口を言ったり、ニコの態度が気に食わないって怒っていた頃。松原芽衣の思惑を蹴散らしたいだけに、勢いで言っただけだった。ニコと友達になりたいからとか、自分を変えたいとか、そんな自己啓発的な事を考えていたのではない。

(自分が変われるような兆し?そんなの、あの頃の自分にあっただろうか?)

自分にはわからない何かを、藤木はわかっていた、それが藤木の持つ能力。

「そんなに早くから?」

「要らねぇ能力だよな。本人も気づけない事に気づいてしまう。」

ポンとエンターキーを押して、珍しく張りのない声でつぶやくから、慌てて否定した。

「そんなことないわ。その能力が、私には必要だったから、だから私、生徒会に誘ったのよ。」

「利用価値ありって事?」

「そっ、そういうわけじゃ・・・」なくはない、頼っていたのは事実。だけど、利用とまではいかない。そこで麗香ははっとする。藤木は麗香自身も気づかない、利用していたという本心を読み取った、だから?

「ぷっふふふ。なんて顔してるんだ。」藤木は吹き出して笑う。

「ちょっ、一体なによ?」

「言ったろ、大嫌いなお前のままだったら、助けないって。」

わけがわからず麗香は首を傾げる。

「女で、お前だけなんだよね。この力を知って気持ち悪るがらないの。」

「はあ?」

藤木は、そのマメさで女子に好印象で、何故かおとなしいタイプの子にモテる。新田と違って告白されたら断らず、付き合うくせに、なぜかその交際は長続きせず、相手から別れを言い渡される、のパターンを藤木は何度となく繰り返していた。麗香は、ずっと不思議に思っていた。女に優しくてマメな藤木のどこに、嫌気が出て別れるのか?

「訳わかんない。あんた、そうやって遠回しな難しい事を言ってるから、付き合う子、付き合う子、去っていくんじゃないの?」

痛いところのハズだ。さっきの反撃、でも藤木には効き目がないみたいで。

「はぁー、どこが遠回しの難しいだよ。」ノートPCをパタンと閉じながら、ため息つく藤木。

「ホント、お前と新田は似てるよ。」

「どこがよ、ドン感な新田と一緒にしないでよ。」

「十分ドンだろ。お前と一緒だと能力に気を使わなくていいから、俺も楽だって言ってるの。」

「はぁ?全然、言ってないじゃない!」

あれ?私と一緒だと楽って・・・なんか、凄く特別感のある言葉。

いやいや、藤木はニコが好きで・・・・え?

「ぷっ、くくくく。」藤木は笑いながら、PCのコンセントを片付けはじめる。

笑うって事は、本心を読み取られたって事?

「ほんと、わかりやすい。」

「ちょっと!何よっ!からかわないでよ!」

(なんか悔しい。いつから、私は、藤木に負けるようになったの?そう、利用していたはずよ、私は。)

「その様子だと、まだまだ時間が、かかりそうだな。」

そう言って、藤木はPCを定位置の棚に仕舞い、鞄をもって生徒会室を出ていく。

「ちょっと!一体、何なのよ!」

意味不明。

告白したのに、別れを言い出す女の子の気持ちが、わかった気がした。

「長続きしない訳だわ。」

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