第6話 鉄色の海



『また、その絵本、読んでいるの?』

『うん、この絵本、好き。ねぇ凱ちゃん、虹、見たことある?』

『あるよ』

『こんなのだよ。こんなに丸くて大きいの』

『こんなのは無いなあ。見たのは薄くて短いの』

『里香も、こんなに大きいのはないの。見てみたいなぁ。おっきな虹。』

『東京では無理だよ』

『虹にお願いするのになぁ』

『虹にお願いじゃなくて、虹の玉を探さなくちゃダメでしょ。』

『大丈夫だよ、虹にも願いが叶う力はあるよ、きっと』

『そうかなぁ・・・』

『凱ちゃん、今度、虹が出たら一緒にお願いしよう』














生ぬるい風がベランダを吹き抜けた。手から落ちたチャームのかすかな音で目を覚ます。

夢・・・・、見る余裕がある事に、苦笑した。

(ぬるくなったもんだ。)

落ちたチャームを拾い、テーブルに置く。チャランと音が鳴り転がった。


今日は東京の文部省に用があって、昼から外出していた。文部から依頼された防災計画書の提出は、嫌がせかと思う程に締切がタイトで、おまけに書式を決められていて、学園にある防災マニュアルをコピーすれば済むと言う代物ではなかった。書式様式も堅物で、おまけに何度も同じ文面を記入しなければならない。本気でこの書類を元に防災意識を高めようとしているのか?と頭を何度も傾けた。お役所仕事が一番、面倒で厄介。その仕事のほとんどが、意味をなすとは思えない書類の提出ばかりなのが、学校法人の理事という肩書の主だった仕事だった。

信夫理事長と苦労して仕上げた書類を文部省に届け際、素っ気なく「預かります」で済ませられたのも、これまた嫌がらせだろうかと思うほどで、そして学園に戻るのも中途半端な時間に終わってしまった。電話で信夫理事長に直帰すると伝えて、6時には横浜の自分のマンションに到着し、さっさと堅苦しいスーツを脱いで、馴染みの黒いジーンズに履き替えた。そしてベランダに酒を用意して、ベンチシートに座った。ほぼ徹夜の書類書きが意外にも疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

何日も寝ないでジャングルを歩いた事もある自分が、書類書き程度で疲れて眠るとは、やっぱり、ぬるくなったもんだと呆れる。テーブルにあるグラスに手を伸ばす。もう氷がすべて溶けてしまった酒を一気に飲み干した。柴崎邸から盗って来た高価であろうと思われるジンは、当然ながらほぼ水に近い味しかしなかった。ただ喉の渇きを潤すなら別に酒でなくてもいいのだ。どれだけアルコール度が高くても、自分は酔う事の出来ない体なのだから。しかし、こうして高層マンションのベランダで洒落たデザインの瓶に入った高級の酒を飲む、というステータスをしてみたくなるのが、自分に対する労いでもあったりする。

心地よい風が吹きあがってきた。風に促されるように椅子から立ち上がり、横浜の夜景を見下ろした。

静かだ。階下の喧騒は遠く25階まで届いてこない。む所にこだわりはなく野宿でも平気だ。安物アパートでも良かったのだが、寝に帰るだけの空間に、億の金を払える身分を与えられた柴崎家の体裁を考え、自分を装った。

自分の周りにある物は、自分で手に入れたサクセスではなく、すべて柴崎家の肩書があってこその物だ。

階下には東静電鉄の電車が行きかう。車が小さく蟻のように連なりうごめく。それを眺めながら、また治まらない喉の渇きを無意味に耐える。

いつも誰かが自分の生き場所を決めてきた。おざなりに、それに抗い、死に場所を求めた戦場が、皮肉な事に一番の生き場所となった。

ぬるま湯のこの場所が、死に場所なんだと思えば、願った幸せのはず。だけど、何故にその叶った幸せは、こんなにも乾いているだろう。わかっている、この渇きを潤す為には高価な酒、高価な物では駄目である事を。ぬるま湯から出なければ、渇きは無くならない事を。だけど、それは出来ない。この体に文香さんの血が含まれている限り。

誓った自分に渇き死に逝くまで、ひたすら待とう。

「ここは俺の生き場所であり、死に場所。」

そのつぶやきも即座に風に飛ばされ消される。溜息すらも残せず乾いていく。空はすっかり夜のとばりを降ろし、陽の名残が雲間に薄くあるだけとなっていた。踵を返し、闇に包まれた部屋へ戻る。オーディ機器やファックスの待機ランプなどの光が異様に主張している。その光点の存在にもやっと慣れ、全てを消し壊したくなる衝動はなくなったが、ただ、やっぱり、何もない暗闇の方が良い。何もない事が当たり前の世界に長くいた。自身の周りに何かがある事の方が不自由を感じる。明かりもその一つ、ジャングルの闇に比べれば、ここは明るすぎる。この部屋に住み始めて、照明のスイッチを入れた事は一度もない。付き合った女が、部屋に来ると決まって別れを言い出すのは、こういう事を含めた性癖に耐えられないのも理由の一つだろう。

携帯電話がワンコールで切れた。

着信ナンバーを確認して、固定電話の受話器を取る。頭の中にある電話帳から一つの番号を表示して押す。携帯電話という便利な代物が出てきても、盗聴防止の為にはアナログな手法が最も効果的だという皮肉な話。約束の5回コールで相手が出る。

英「用意が出来た。新宿Bロッカーだ。」

英「早かったな、助かるよ。」

英「鍵はバイク便が向かってる。」

英「金は、いつもの通りでいいな。」

英「ごひいきに。」

電話を切った途端に、ロビーからのチャイムが鳴った。どこかで見ていたのかと思うようなタイミングだ。インターホンで下まで行く事を告げ、バイクの鍵と革ジャンを取り部屋を出る。エレベーターの中で酒帯になるなと思ったが、ほぼ水の味しかしなかったジンでアルコール検知が出来たなら、日本の技術は凄いと、警察に感嘆の拍手を送ろう。

玄関ロビーで待っていたバイク便のライダーから、小さな封筒を受け取る。開封して、コインロッカーの鍵を取り出す。封筒を丸めて、エレベータ脇のゴミ箱に捨て、そのまま非常階段を使い地下の駐車場へと駆け降りた。地下も明るく眩しくて不快だ。

車も柴崎家から与えられていたがは、ほとんど使わない。バイクの方が渋滞に巻き込まれなくて機動がスムーズだ。しかし、雨でもバイクで移動することに柴崎家の人々は嫌がる。びしょ濡れでウロウロとしないで頂戴と。

そういう事も無頓着に平気だった。





僕の家は児童養護施設。

「凱斗」の名前は、施設の前で捨てられていた時に、包まれていたタオルメーカーからとって施設長が付けた。

その由来を聞いた時、いい加減な名前の付け方だと思った。

だけど施設長は、『産みの親が、凱斗に唯一残したプレゼントだよ。』と言う。

苦し紛れの言い訳?

本気で僕を納得させようとした言葉?

どっちかわからないけど、そういう事を作文に書いたら、賞を貰った。だから、きっとお涙ちょうだいの良い話なんだね。

大野姓は、施設があった場所の市の名、大野市にある児童養護施設の玄関前に、カイト株式会社というメーカーのタオルに包まれ

て、生後間もなく捨てられていたのが、僕、大野凱斗。

生みの親に要らないと捨てられた僕は、1枚の綿素材のタオルで命を救われた安上がりな存在。

一応、場所を選んで捨ててくれたから、命が助かったと感謝すべきなのかなぁ?





新宿の雑踏な隅の電信柱にバイクをチェーンで繋ぎ、ヘルメットを取る。指定された新宿駅構内Bロッカーの場所へと足早に向かった。受け取った鍵のナンバーのコインロッカーの扉を開け、中から品物を取り出す。クッション材の包装に包まれた長方形の精密機械。落とさないようにクッション材の包装を開けて一瞥する。製品ナンバーを確認して、間違いなく依頼したノートパソコンであることを確認。ロッカー内に残された補助バッテリーと充電器を掴み革ジャンのポケットへと突っ込んだ。ノートパソコンはクッション材に包みなおし、バイクを止めた場所へと戻る。バイクのキーを差し込んで、しまったと思う。どう向きを変えてもノートパソコンがシート下の収納スペースに入らない。そもそも荷物を取りに来るのに、車ではなく、バイクを選択するという事が間違いだった。思いのほか早くこれが手に入り逸った気持ちで、何も考えずバイクを選択してしまった。仕方なく、パソコンを革ジャンの胸の中へ無理やり押し込み、落ちないようにファスナーを上げる。まさしく胸板、下手なロボット仮装のようだ。腕は相撲取りのように脇を閉じられない。

通りかかった仕事帰りであろう綺麗な女性と目が合うも、慌てて目をそらされた。ため息もパソコンが胸を圧迫して吐くに苦しい。バイクに跨り、昼間以上に明るく煌びやかな新宿を後に、秋葉原へと向けた。





  親に捨てられ、児童養護施設に住んでいると言えば、大抵は憐みの目を向け、おざなりの同情の言葉をかけてくる。でも僕には「可哀そうね、大変ね」の憐れみがわからなかった。それが当たり前で日常だから。「親の愛情を知らないのね」という人ほど、愛情とは何かを明確に説明の出来る人はいなくて、僕が辞書に載っている文節を、一字一句、間違いなく言えば、「辞書でしか愛情を知る事が出来ないなんて」と悲しそうな顔をして去っていく。

僕のこの記憶力が、他人とは違うと気づいたのは小学3年生の時だった。それまで教科書の内容はすべて覚えているのに、なぜ重

い教科書を毎日、学校に運ばないといけないのかと疑問に思って、2年生の途中から教科書はすべて学校に置いていた。宿題のノートだけを持ち帰りし、教科書は頭の中の記憶を引き出してやっていた。それが三年生になって、教科書を学校の机の中に置きっぱなしにしている事が先生にバレた。家である児童養護施設に、僕と同じ学年の子はいなくて、先生は僕が3つ年上の手塚汐里ちゃんが以前に使っていた教科書を用いて宿題を済ませていると思ったらしく、それは古い教科書だし、汐里ちゃんに支給された物だから駄目だと言われた。僕は、汐里ちゃんの物を使っているわけじゃなくて、全部、覚えているから、教科書は持ち帰らなくても大丈夫だと訴えたけれど、信じてもらえなかった。それから仕方なく教科書はランドセルに入れて、毎日学校へ運んだのだけど、なぜ、必要のない重い物を運ばなければならないのか? 皆、どうして授業時間、教科書のページを指定されて開くのか、不思議で仕方がなかった。他の子供達も、全部覚えているのが当たり前だと僕は思っていたから。

その数か月後、辞書の引き方を教えられる授業になって、国語辞書をもってくるようにと先生に言われた。施設にある辞書は何十年も前の物で、何十人もの子供が使い古してきた物だったから、表紙も破れてボロボロだった。もうその頃には、その辞書を含めた施設の中にある本類は、全部のページを記憶していたし、これこそ重いから、僕は辞書を学校へ持って行かなかった。先生は施設で買ってもらえなかったのだと勝手に解釈して、先生自身の辞書を机にそっと置いてくれた。だけど僕は、それを使うことなく、出された問題を一時一句間違わずに書き記した。それを見た担任の先生は、眉間に皺を寄せて言った。

『大野君、もしかして、本当に覚えているの?辞書を全部?』

『はい。』

『じゃぁ、252ページ初めに出てくる言葉は?』

『騎士①馬に乗った武士②ヨーロッパ中世における武士の一階級。ナイト。』

先生が辞書と僕を交互に見つめて唖然とした。クラスメートも辞書をめくり確認した後、「すげぇ」とか、「たまたまじゃない?」とか言う。さらに先生は続けた。

『じゃぁ、【矛盾】は何ページに載っている?』

『1105ページの真ん中の段一番左端、①前に言ったことと、後に言ったことが食い違う事。つじつまの合わない事。んー、なんて読む漢字がわからない字が二文字あって・・・・それから、②一方を立てようとすれば、他の一方がたたないというくいちがった関係におかれる・・・・またわからない文字と念、または判断が対立して、』

『も、もういいわ。ありがとう。本当だったのね。覚えているって・・・・驚いたわ。』

クラスメイト全員が僕の方を見て、ざわついていた。なぜ自分が注目を浴びているのかわからない。

『皆も、そうじゃないんですか?』と言ったら、先生は、それこそつじつまの合わない顔をして、

『違うのよ、あまりそういう事は言わない方がいいわ。』と言われた。

その時、はじめて、皆は覚えていないのだとわかったけれど、それがどういう事がわからなかった。

僕は、見た活字は、すべて頭の中にあるのが普通だったから。





秋葉原の一角のテナントビル、小さな縦長の店へ入る、所せましとパソコンや、部品や、何に使うのかさっぱりわからない器機の部品が積まれている。それらを蹴り崩さないようにしながら、奥まった所にあるレジカウンターへ進む。もうすぐ9時になろうとしていた。アルバイト店員は、レジのお金を集計していて、店を閉めようとしている所だった。顔を上げたアルバイトに、店長を呼んでくれと普通に言ったつもりだったが、クレーム客だと勘違いしたらしく、嫌な表情を素直に出して、数えていたレジの金を無造作にレジへと押し戻した。そして段ボールが積みあがっているレジ奥の倉庫へと「店長~」と叫んだ声は不機嫌極まりない。わかりやすいアルバイト店員の態度に苦笑しながら店長が来るのを待つ。

「なんだぁ~。レジの金あわなかったかぁ~」と腑抜けた言葉を発しながら出てきたのは、明らかに不健康な小太りの男。会うのは2度目だ。店長は、一瞥するとアルバイト店員に、「レジの集計はいいから帰っていい」と帰宅を促す。アルバイト店員はクレームの対応をしなくてよかったと思ったのか、ほっとした顔をして、つけていたエプロンを外すと、さっさと店を出て行った。小太りの男は、店長と呼ばれているが、このパソコンショップのオーナーである。名前は知らない。紹介してくれた康汰は、ここの住所と「バラテン」という呼び名の店長を訪ねろとだけ教えてくれた。個人の詳細はどうでもいい。逆に知らない方がこちらとしては、都合がいい。

「バラテン」の名は、その腹が出ているからなのか、その歯並びの悪さで隙間が空いているからのかは、わからない。風貌にぴったりな呼び名を持つこの男は、情報システムやパソコン機器類に関しては、締まりのない顔に似合わず、知識と腕と人脈を持っているのは確かで、以前にバラテンを通じてハッカーを一人、紹介してもらっている。

バラテンは表の看板の電気を消して、シャッターを半分閉めた。

「電話で話したの、これで頼むよ。」

コインロッカーから取り出してきたノートパソコンをクッション材に包まれたままカウンターへと置いた。

「あぁ~、性能Maxにあげてほしいとか言ってたな。わざわざ他所から持ち込まなくったって、うちのある奴で十分事足りるだろによ。」

バラテンはクッション材を無造作にはがすと、それまで眠そうだった目に生気が戻った風に見張った。

「嘘だろ。お前、これ・・・。」

「届いたばかり。」

「こんなもんどこでって、質問は野暮か。」

「まぁな。」

「ちっ、いやんなるね。お前みたいなやつが裏を徘徊してるってのが。」

「と言いながら、楽しそうだ。」

「当たり前だ、世に出回るはずのないPAB を触れるんだからな。」

そう言って、バラテンはノートパソコンを閉じたまま持ち上げ、両手でひっくり返しながらくまなく眺めてから、大事そうにカウンターへと置き、愛おしそうにノートパソコンを開く。そして、すり合わせた手で、電源ボタンを押すと、ヒュイーンと鳴る起動音に、肩と目を細め、「いいねぇ」とつぶやく。何が良いのかわからない。任せるしかないから、とりあえず黙って成り行きを待つ。バラテンは手慣れた手つきでカチャカチャと打ち込み、細かい英数字が並ぶ意味不明なページを沢山開いては閉じを繰り返し、「ほぉー」と感嘆の声を上げる。

「Maxに性能をあげろって言ってもなぁ、こいつは、これで十分の速さと性能を持ち合わせている。いいバランスでセッティング済み、これは、それこそ凄腕のハッカーに渡せば、アメリカ軍事機密を軽く盗んでこれるだけの性能がある。」

「そうなのか?じゃ、使う奴の腕さえあれば、どこでも侵入可能なんだな。」

「あぁ、まぁ、あと強化するとしたら、逆侵入対策の強化かな。ここで入れてやってもいいが、 それは使うやつの好きなタイプってのがあるからな・・・・おい!お前、まさかこいつを、この間、紹介した奴に使わせるんじゃないだろうな!あいつは駄目だぞ。あいつは。」

「別の人間だ。」

「誰だ?」

パソコンを使わせるランクもしくは、資質なんてものがあるのだろうか?この世界の事は良く知らないが、用意したこのノートパソコンPAB2800SCは通常では手に入らない貴重な物だというのは理解している。この世界に通じているバラテンでさえ、触れる事を喜々とするぐらいの物なのだから、使い手を選ぶのかもしれない。

「バラテンの知らない人間だよ。」

「信用できるのか?出来なければ、俺はこれを潰すぞ。」バラテンは、締まりのなかった顔を醜く閉じ、それまで動かしていた右手の中指をエンターキーの上で、制止し説明を続ける。「システムを完全破壊させるプログラム画面だ。今、エンターを押せば、このPABのシステムは崩壊し、二度と使えなくなる。再構築できないようになっているのが、米軍と共同開発したパブリシャー社のこのPAB2800シリーズの特徴の一つ。復元は不可能。」

「せっかく手に入れたPABを数分足らずで、壊されるか。」

「俺は満足さ、一瞬でも触れて、内部を見れた。そして壊すんだ。」

「信用って何だよ。察庁捜査官から紹介された秋葉原の店長、あんたは、どうなんだ?。」

束の間、睨み合いの駆け引きとなる。がこちらに分があるのは明らかだった。バラテンはため息一つ吐いた。

「ちっ、あいつも嫌な奴をよこしたもんだよ。」台詞的にその言葉を吐き、PABから手を放すと、奥の部屋へ戻り、直ぐに一台のノートパソコンを手にして出て来た。

「俺は、この成りでもな、平和な世の中を望んでいる。馬鹿な野郎が後先考えずにした事が、国の滅亡を招いたどこかの国のような末路はごめんだ。」バラテンはPABと新たに持って来たPCとをケーブルでつないだ。そしてガチャガチャと二つのパソコンのキーボードを交互に打ち込み始めた。

「俺がテロリストに見えるか?」

「お前がテロリストじゃなくても、こいつの存在を巡る危険を言っている。どうやって手に入れたか聞かないが、米軍の管理下から外れたこれを、喉から手を出すほど手に入れたいテロリストはいくらでもいる。」

「使うのは、誰よりも正義感の強い子だよ」バラテンは動かしていた手を止めて、顔を上げた。

「子だと!?何をするつもりだ?」

「それは、最初から聞かない条件だったはずだ。」

バラテンはうなだれ、大きなため息を吐いた。

「こいつは、使い方を間違えれば、お前が予想しない事が急速展開する。こいつは、そういう危険を孕んだ代物だ。」

「安心しろ、一人の少女を守る為だけにしか、これは使わない。」

「恐ろしいね。一人の少女を守る為だけに、こんな物を手に入れ、子に与えるとは、若気の至りにしちゃ過ぎちゃいないか?」

「他に方法がない。」バラテンは大きなため息をつき、そして再びパソコンを操作する。

「セーフティバリア、最高の奴をつけといてやる。その子が使えないと泣いても知らんぞ。俺がしてやれるのはここまでだ。」

「いい。」

「指紋認証どうする?セットするならここでやるが、それともその子のを登録するなら、やり方をレクチャーするが?」

「俺の指紋で登録してくれ。」

「んじゃ、ここに手の指をのせろ。あとは暗証番号。オッケーだ。気休めだが、無いよりマシなセキュリティシステム。」

「ありがとう。いくら振り込めばいい?」

「いらねぇ。お前に貸しを作っておく、それが俺なりの保険だ。」

そう言って、繋いでいたケーブルを引っこ抜き、電源を落としたPABをパタンと閉じて、寄こす。

「わかった。」

PAB手にバラテンから背を向け、また商品を蹴り倒さないように注意しながら店を縦断した。半分降ろされたシャッターに頭をぶつけないように、屈みこんで店から出ると、秋葉原の商店街の雑多な賑わいの音が耳を貫く。家電量販店の店頭に置かれた大型テレビから、バラエティ番組の白々しい笑声と歓声が流れてくる。

街は平和に、光も音も過度に飽和状態だ。

これが望んだ平和か?





『君が、大野凱斗君?』

突然、施設に来た男の人は、東京のテレビ局のプロデューサーをしていると紹介された。何がどうなって、そんな話になったのかわからないけど、その男の人が言うには、テレビのバラエティ番組に出て、僕の記憶力を披露してくれたら、好きなおもちゃを買ってくれると言うことだった。何も欲しい物はないけれど、施設の兄弟達が、もうすでにその話を聞きつけ、自分の事のように「やったー」と喜んでいたから断る理由もなくて、番組に出る事になった。

テレビの収録日は、学校が休みの日ではなく、そんなの関係なしで、施設長が車を運転してテレビ局まで行った。常日頃、「病気以外で学校は休むもんじゃない」とうるさく言っている施設長が、「学校は休みなさい」と、いつもと違う態度が理解できなくて、反論はしなかったけれど嫌な気分だった。

収録スタジオの控室では、同じように子供達が母親と同伴で来ていた。全国から特技を持つ子供達が集まり、順番に披露するのだと説明された。僕の記憶力以外に、けん玉日本一だとか、暗算日本一だとか、身体が極端に柔らかいだとか、特技を持つ子供たちがいて、それぞれが皆、収録前に練習をしていた。施設長がそれを見て、「凱斗も練習しなくていいのか?」と焦った感じで聞いてくる。練習などない。僕のこの記憶は練習して出来たものじゃなくて、気づいたら出来ていた。というか、ついこの間まで、周りの子も大人も僕と同じように、すべて記憶しているんだと思っていたのだから、施設長の言っている意味が分からない。僕は施設長の焦りを無視して、けん玉の技に見とれた。


『では、次のキッズは、驚異の記憶力を持つ小学3年生、大野凱斗君、どうぞ~』

拍手と共にカーテンが開けられ、物陰にいるスタッフから「前に出て」と小声で促される。僕は少し戸惑いながら事前に説明されていた司会者の側まで進み出る。右手にパネラーと呼ばれる席には、いつもテレビで見ている芸能人が沢山座っていて、それを見て、やっと、ここはテレビ局なんだという実感がわいた。

『大野凱斗君は、なんと、辞書を丸ごと覚えてしまっているという記憶力の持ち主なんですよ。』

えーっと言う歓声が観客席から湧く。

『では、早速、その記憶力を披露してもらいましょうか。いいかな?』

『はい』と僕は学校で返事する時と同じ感じで答えた。

『では、パネラーの皆さまに、好きな単語を凱斗君におっしゃってもらえますか?凱斗君は1字一句間違うことなくその説明を、記憶の辞書から引き出しますから。では、平松彩さん。』アヤリンと呼ばれる人気アイドルが、きれいな衣装を着て笑っていた。

『えー、私ですか?何にしようかな~。じゃアヤリンは苺が好きなんで、いちご!』

『そんなの辞書で調べなくてもわかるでしょ~。』とアヤリンの横に座っているお笑い芸能人から、突っ込みが入る。

『まぁ、まぁ、苺がどういうものか、我々は知ってますが、辞書で引いたらどんな文面で書かれているかは、皆さん知らないでしょう。また違った説明文があるかもしれませんからね、凱斗君に聞いて見ましょう。』

『凱斗君、苺は、辞書のどこのページに、何と書いてあるのかな?』

『苺、63ページの上の段、左から2番目、植物、バラ科の小低木、または、多年草。きいちごへびいちごなどの種類があるが、普通オランダいちごをさす。実は赤くて甘く、食用。』

僕から離れて見えない位置に、苺のページを開いた辞書本体を、カメラが映したモニターが表示されている。それを見た観客やパネラーから、おぉと言う歓声が上がり、アヤリンの凄ーいと言う高い声が混じった。

何が凄いのかわからない。ただ、頭にある文字を読んでいるだけなのに。

けん玉日本一のあの子の方が、ずっと凄いし、あの子は控室でも、ずっと練習をしていた。

『凱斗君は逆のバージョンでも出来るのですよね。えーと、ではパッション田中さん、この辞書から適当にページ数を言ってみてください。何ページのどこのどの段にどんな言葉が載っているかを凱斗君が答えます。』

さっき、アヤリンに突っ込みを入れていたお笑い芸能人が、司会者の所へと駆け寄り、辞書をパラバラとめくる。

『放送用語オッケーの範囲でお願いしますよ。』

『えー下ネタ駄目なん?』

『子供向け番組ですからね~。』

『何しようかな~、じゃ、これね。ここ。』

『では、凱斗君、918ページの真ん中の段、左から2番目の語句は?』

『パッションです。①激しい感情、情熱、②キリストの受難③キリストの受難劇、受難曲。』

また、おぉと言う歓声が上がる。

『凄いですね。テレビの前にいる方には疑っている人がいるかも知れませんねぇ、次は目隠しをして、披露してもらいましょうか』

そのあと、目隠して、観客席から単語を言われて、僕が頭の中の文字を読む。を何度か繰り返して、収録は終わった。

その日、施設長はご機嫌で、番組プロデューサーから貰ったテレビゲームなどのおもちゃを、沢山車に積んで帰って来た。





またもや、パソコンを革ジャンの胸の中に押し込み、閉じない腕で腹をさすった。ヘルメットをかぶろうとした時、携帯電話の着信バイブがGパンの尻ポケットから振動する。動きづらい体を駆使して携帯電話を引っ張り出し、着信番号を見て溜息を吐いた。

(あの野郎、チクッたな。)

無視するわけにもいかず応答ボタンを押した。

「凱斗、俺がわざわざ電話している意味、わかっているだろうな。」唐突に向こうから責め立てられる。

「・・・嫌な奴はどっちだよ。」

「あぁ?なんだ?」

「何でもない。」

「フン、ちょうどいいって事もないが、例のやつ出来たから、今から付き合え。」

「俺バイクだぜ。」

「いいねぇ、やっと、お前を檻にぶち込む事が出来る。」

「それ言うなら、康汰も、酒気帯び運転ほう助罪の適用、俺より問題視されるぞ、察庁の刑事がって、マスコミも大喜びだ。」

「ちっ、くだらない法律用語並べやがって、お前が弁護士なんて目指すんじゃねぇーよ。」

(あれ?康汰に弁護士試験に受かったって事、まだ言ってなかったか?)

「ったく・・・とにかく、エンドレス・シンな。」

返事を待たず、康太は電話を切った。行かない選択はない。出来た例の奴は、こちらから頼んだ事だ。

しかし、今日はタイミングが良すぎる。頼んであったものが、今日1日で、すべて揃うとは。

こういう良い事が続く場合、大抵はその後反動がありロクな事がない。

「嫌な感じ・・・。」

胸につかえるその嫌な感じを吐き出したくて、肺の中の空気を吐き出そうとしたが、胸板になっているパソコンが邪魔してため息も吐けなかった。

ヘルメットをかぶる。秋葉原の雑踏が途端に遮られて静かになった。車の切れ間を見計らい強引にUターンを切って、官公庁がひしめく、日本の中枢、千代田区方向へとバイクを向ける。今日2度目の千代田区、こんな事になるなら帰宅せず、文部省周辺で時間をつぶしておくんだった。そうすれば胸にパソコンを抱かなくても済んだ。今日の一番のタイミングの悪さに、少しだけホッとする。これで反動のロクな事も少しは半減するだろう。







僕が出演したテレビが放映されると、たちまち学校中の注目を浴びた。廊下ですれ違う生徒、特に高学年からは、「辞書の287ページ言ってみろよ」だとか、「ミカンは何ページに載っている」なんて、すれ違いざまに突然問われる。最初は丁寧に答えていたけど、そのうち面倒になって無視したら、生意気だとか言われて、揚句に殴られたりした。殴られるのは避ければいいけれど、避けられないのは、施設の悪口を言われる事。

『凱斗!お前のせいだからな。』

『そうよ、あんたのせいで、施設の子は辞書を覚えさせられているんだろうって言われて、出来なかったら笑われるのよ。』

『僕たち、タダでさえ、施設から通ってるって、白い目で見られているのに、変に目立って。』

『辞めなさい孝則、汐里も、凱斗のおかげて、お前たちは欲しかったゲームを貰えただろ。それぐらいの悪口は我慢しなさい。』

『でも・・・・施設長、僕たち』

『さぁ、皆、部屋に戻りなさい。凱斗は話がある、こっちに来なさい。』

促されて施設長の部屋に僕は入った。

『凱斗、またテレビ局から依頼が来てな、火曜日は朝からテレビ局へ出かけるから準備しておきなさい。』

と言った施設長は、とてもご機嫌で、「学校は?」と言った僕にニコニコ顔で「休みだよ、良かったな」と頭をなでられた。それまで施設長に頭をなでられた事なんてなくて、気持ち悪かった。施設長の気持ち悪いご機嫌の理由が、テレビ局からかなりのお金をもらっていたからだと知るのは、随分後だった。

2回目のテレビ番組は朝の情報番組、今話題の驚異の記憶力君と称して、僕は、またもや同じように辞書の披露をさせられた。

前の番組と違うのは、披露する記憶は辞書ではなく、番組が用意した5×20の100升の中に、漢字やひらがながランダムに埋まった用紙を、その場で記憶し披露するというもの。升の中の文字列には一切、意味のある単語にならないように工夫して羅列されていた。

『凱斗君は、この用紙を瞬時に覚える事が出来るそうです。』

『では、どうぞ、目隠しを取って、見てください。覚えられたら教えてくださいね』

『はい、覚えました。』

『えーもう?嘘でしょう。』

『10秒も経ってないじゃん。』

だから、覚えるとかじゃないんだってば、頭が勝手に記憶するんだってば・・・という心の訴えも無視されて番組は進む。

『まぁ、凱斗君が覚えたと言っているんだから、答え合わせしましょうよ。』

『そうですね。では指定した場所の文字をボードに書いてもらいましょう。では3列目15段の文字は?』

僕は渡されたホワイトボードに「地」を書いた。これは、しゃべらなくて良いから楽だ。

『正解!次は2列7段』「覧」を書く。

『正解!5列7段は?』数字の7を書く。

 『正解!』

すべて間違うことなく100升の文字の記憶を披露した僕を、「天才現る」「驚異の記憶力」と、別のテレビ局がこぞって特集を組み、また次々と出演依頼が施設に来た。記憶する文字の種類も、どんどん難しく多くなっていったけれど、特に問題なく記憶できた事は、自分でもびっくりだった。

そして、ついには、僕の出生を暴露し、テレビ局は親探しまで始めた。だけどテレビ局の呼びかけと捜査力でも親は見つからず。現れたのは、学校を経営しているという車いすに乗った老人と、側に付き添う綺麗な女性。

その時、僕は小学4年生10才になっていた。





永田町の文部科学省と警察庁にほど近い、外国の大使館が軒を連ねる通りの一角の細長いビルの地下、アメリカンテイストのバーの扉を開ける。途端に店内の喧騒が耳を覆った。この上なく邪魔になっていたパソコンは、永田町駅の地下駐車場にバイクを止めたついでに、近くにあったコインロッカーに預けてある。

康汰はもう既にカウンターで酒を飲んでいて、場所に似合わない黒いスーツ姿で陰気くさい雰囲気を出していた。

英「カイ!久しぶり、寂しかったわよ。」

英「そうかい?そうは見えない尻してるけど。」出迎えたブロンド美人のジェシファーとハグしながら軽くお尻を触る。

おなじみの挨拶代りにペシッと手を叩かれ、

英「もう!いつもので、いいわね」とジェシファー体をよじり、カウンターの中へと戻っていく。

この店は、アルベール・テラの紛争地へ派遣された時のナショナルチーム時代のチームリーダーだった上官が退役後に開業した店。当時もマスターというコードネームだったスキンヘッドの黒人マスターは、康太を指さし、あからさまに嫌な顔する。

英「カイ、頼むよ、この陰気くさい男、店の雰囲気が台無しだ。」

「店のマスターの言葉とは思えん。ヒアリングはできるんだと言え。」康太は振り返りもせず、飲んでいたグラスをわざと音を鳴らして置いた。機嫌が悪いのは電話の時から感じていたが、予想以上だ。マスターへ目配せして肩をすくめた。

「今日は、俺が、ここを指定したわけじゃないぞ。」とため息を吐きながら康太の隣に腰かける。

「こんなもんな、危なくて普通の場所で渡せるか!」

康汰は茶色い封筒をカウンターへ叩きつけるように置いた。依頼した書類は、コピーと言えども警察庁の内情が書かれた機密資料だ。外部に持ち出す事はもちろんコピーなんて絶対にしてはならない代物。それをること自体、人の目を盗んでやるに、慎重にかつ骨が折れる作業だとわかっていたから、もっと時間を要すると思っていた。が、予想よりかなり早く用意できた事に、逆に不審に思う。

「早かったな。」

「俺も・・・当事者だからな」

その言葉の意味するもの、ただ同じ警察内部の人間であると言う意味でとらえた。

英「ハイ、カイお待たせ。」

英「今日は、ソルティードッグか。」

英「そうよ。カイは甲板員のように忙しくて来れなかった。犬は塩を舐めなさい。」

英「それを言うなら辛酸を舐めるだよ。」

ジェシファーは肩をすくめて魅力的な微笑みをして立ち去る。

頼む《いつもの》酒は決まっていない。ジェシファーが勝手に作ってくる物が〈いつもの〉の駆け付け一杯目だ。そして2杯目以降が、マスターの作る酒とこの店では決まっていた。酒の種類や味は無意味だ。どんなにアルコール度数が強くても酔えない体であることをマスターは知っていた。マスターより付き合いの長い康太の方が、それを知らない。

康汰がグラスを弾いて、おかわりを要求する。康太が二杯目も強い酒を頼んだ事が珍しい。

警察庁刑事局特殊捜査課に所属する康汰は、いつも一杯だけしか酒を飲まない。飲めない口ではなく、仕事柄飲まないようにしている。緊急の呼び出しに対応するためだ。

「明日、公休日か?」

「あぁ。明日、付き合って、やってもいいぜ。」

「はぁ?何言ってんだ?慣れない強い酒で、もう酔っぱらったか?」

「それ、和樹に見せるんだろ。」

「何だってお前、知っているんだ?」

「なめんなよ、本職を。」

英「バーボンロック」

置かれた新たなグラスに口をつける康太。俺もジェシファーの作ったソルティドッグを煽る。塩が口の周りに付く。

康汰に依頼したのは、黒川広樹が死んだ事件の概要だ。マズイ所は黒塗りしてもいい、とにかく本物のコピーが必要だと頼んだ。それを誰に見せるかは言ってない。当然ながら不審に嫌がった康太に、卑怯ながらも華族である柴崎家が経営する常翔学園の為だと、権威をふるった。康太もまた、柴崎家には恩義があり、逆らえない。

「黒川広樹は、俺のバディだった。」

「な!」

現実は小説より奇なり。どこまで奇妙な繋がりは絡まるのだろうか。

常翔学園中等部の一年生、黒川和樹、10歳離れた警察官の兄を2年前に亡くし、その死んだ理由を聞かされないまま今日に至った。親である警察庁警視監の黒川繁雄、祖父である元警視正の黒川泰三が身内にいるにもかかわらず、いや、いるからこそ、事件の真相及び兄の死は新聞記事にもならずに隠された。ただ純粋に、兄の死の真相を知りたい一心で、弟、和樹はハッカーの道へと突き進んだ。まるで兄の仇を打つかのごとく、最終目標は警察庁管内のデーターベースにアクセスするために、ハッカーとしてのスキルを磨いた。そして、高度な性能を要するパソコンを購入する資金を必要とした。和樹は、高性能なパソコンを購入する資金集めの為に、学園の名簿をハッキングし、入手した名簿を他人に売った。学園の名簿が流出したことは、常翔学園に通うお子様へと書かれたダイレクトメールや勧誘の電話があったという保護者から問い合わせで発覚していた。バラテンから紹介されたハッカーに、犯人探しと、どこの業者が、我が常翔学園の名簿を買ったのかを探し出し、また流出した名簿データーの完全消去を依頼した。購入業者はすぐに見つかり、名簿データーの消去も簡単に成功したが、肝心の犯人は掴めなかった。ハッキングの奇跡を皆無に残さない驚異的な手口に、バラテンから紹介されたハッカーも驚きのお手上げ状態だった。そんな中で、新田えりちゃんを誘拐し身代金を要求するという事件が起きる。しかし誘拐自体は、ただの悪戯で、ほっと一安心に笑い終えたのだったが、それに関わった黒川和樹が、その驚異的なハッカーであり、名簿を盗み売った張本人だと、奇しくも発覚したばかり。

それが、まさか康太と共に黒川兄弟と繋がるとは。

カウンターに置かれた封筒を手に取り開けて取り出す。

「記憶したら、さっさとしまえ。」

「あぁ・・」

警察庁の紋が薄っすらとコピーされている。間違いなく警察庁の正式の捜査書類であることを確認。ただ用紙はたった4枚。黒川広樹の死亡診断書と、黒墨に塗られて読める文章が一部しかない捜査書類を抜粋した用紙3枚。これだけじゃ、事件の真相なんて全く分からない。

「この事件だけは、脅されても、これ以上のものを出すわけにはいかない。」

「なんでだよ。黒川和樹は家族として知る権利がある」

「ない。」

「何なんだ?この黒川広樹が死んだ事件って、一切、世間に公表されていない、こんなことってありか?」

「ある。」

「これじゃ、結局、弟和樹は何も納得できないままだ。」

「だから、俺が付き合っても良いと言っている」

(適当に、誤魔化すつもりか。)

「当事者だと言ったな、康汰。お前・・・」

康汰はスツールから降り、いきなり胸倉をつかんできた。

「適当な事言うなよ!凱斗!俺はなっ・・・」

今日、初めて康汰と目が合った。どこまでも冷たく人を信じる事のない怒りの目。昔からこの目は変わらない。

飛び交っていた英会話が康汰の叫び声で静まった。康汰は舌打ちをして、掴んだ手を放しスツールに座りなおす。

合図のように、ざわざわと雑多な話し声がまた店内を包む。

康太はバーボンロックを一気に飲み干した。マスターが空になったコップを下げる。

「広樹は、俺の前で死んだ。」

驚きに言葉を失う。

「間に合わなかったんだ」

嫌な言葉。

何度目だろうか、間に合わずに人を亡くすのは。

ソルティドッグを一気に飲み干した。塩が舌に残る。

一体、どれだけ早く手や足や頭や目を動かせば、間に合うんだろうか。

マスターが空いたカクテルグラスを下げる。

すぐに康汰が飲み干した酒と同じバーボンロックが置かれた。アルコール度数58のバーボン系オンザロック。

いくらアルコール度数が高くても、酔う事などできない。

乾いた喉は、砂漠の様に潤わない。

忘れられない記憶が、無限の罪となって心身を押しつぶす。



児童養護施設は来客が多い、どこの誰かは知らない大人が訪れては、施設長と話をして帰って行く。

そして、たまに、新しい子供が大人に連れられて、来る。

康汰は僕が6才の時に施設に来た。僕の4つ年上で康汰が10歳の時、6つ離れた当時まだ4才だった妹の里香の手を繋いで玄関に立つ篠原兄妹を、靴が散らばる汚い玄関で僕は迎えた。

施設に来る子供の事情は様々。両親と死別して引き取る身内のない子。引き取る身内はあっても拒否され、たらい回しにされてから来る子。両親もしくは片親が生きているのに経済的困窮の理由、もしくは身体的、精神的理由で育児不可となり、ここに来る子。親が犯罪を犯し刑務所入り、子供の保護する身内が居なくて施設に来る子。そして、僕のように産まれた直後に捨てられ、親の存在が不明の子。は、親の所在が判明するまで個人の仮戸籍が与えられて施設に住む。

施設に来る子供たちは大抵、元気がなくて、不安げで、疲れていた。

篠原康汰、里香兄妹は、父親からの酷い虐待を受けて施設に来た。その事情は珍しくもない。ただ一つ他の誰よりも違っていたのは、世のすべてを憎む強い怒りの目を康汰がしていた事。どこまでも冷たく人を信じる事のない怒りの目は、隣で弱弱しく俯いていた里香とは正反対だった。





酔いつぶれた康汰を横浜のマンションまで連れて来た。

「康汰、俺は明日も学園の仕事があるんだ。お前の事なんか知らないからな。」

「凱斗は偉いねぇ、いつまでも勉強するんだねぇ」くぐもって呂律の回らない声。

「ったく、酒に飲まれてんじゃねぇよ。」

と悪態ついたが、酔える康汰が羨ましい。記憶がなくなるような酔い方をしてみたい。

「明日、セッティングして、いいんだな。」

「ぁぁ・・・」

「ちゃんと酒の匂い落としてから来いよ!」

康汰の耳元で叫んだが、わかったのか、わかってないのか、またくぐもった返事をして、そのままベッドで眠り込んでしまった。

「ちっ、俺のベッド、取りやがって。」

ベッドはダブルサイズだか、男と寝る趣味はない。どうせ今日は神経が高ぶって寝むれないだろう。

バスルームに行き、着ていた服を全部脱いで、ハタと気づく。手に入れたノートパソコンを永田町のコインロッカーに入れたままで帰って来てしまった。

「あ~くそ~。」

あの後も、マスターは酒の銘柄を変えることなく、ずっとバーボンのオンザロックが出続けた。4杯目で康汰が酔いつぶれたから肩を担ぎ、店を出た。上手く空車のタクシーを見つけられたから、すっかりノートパソコンの事は忘れてしまっていた。  

結局、日の出まで色の変わりゆく横浜の空をベランダで眺めていた。身体は完全に冷え切って、死人のような冷めたさ。朝日を肉眼で確認できる位置に来て、やっとベンチから立ち上がり部屋へと入る。康汰が寝ているベッドルームへ行き、クローゼットを開けた。そんな生活音ですらも康汰は起きない。

「ちっ、幸せな奴。」

蹴り起こそうかと思ったけど、やめた。また愚痴られたら面倒だ。今日、黒川和樹と引き合わせると言っても、授業終了後の3時以降になるのだから、どんなに眠り込んでも十分、間に合うだろう。大体30歳を迎えたいいおっさんだ。なんだって酔っぱらいおっさんの面倒を見なくちゃなんねぇんだ。と、やっぱり腹が立ったからベッドのマットレスの側面に蹴りを入れた。その振動で康汰は、うーんと、うなりを上げて寝返りを打つ。

(げーっ、女だったら可愛いんだけど、おっさんのは見たくねぇ。)マットレスごと窓から投げ捨てたい。)

おっさんの事より、今日、着ていく服だ。記憶しているスケジュール表を脳内に広げる。夜7時から翔柴会の文字。

(あーまずいな。黒川和樹と康汰を引き合わせて、どれぐらいかかるだろう。4時から始まったとして、2時間で6時、それから黒川和樹を自宅まで送ったりして、翔柴会にギリ間に合う感じか。嫌だなぁ会議・・サボったら怒られるだろうなぁ。で勘当だっ!て追い出してくれたら万歳なんだけど・・・。)

無理な希望は、ため息と共に諦める。地の果てまで、単身迎えに来た文香さんを裏切るわけにはいかない。

翔柴会とは、柴崎家が経営する常翔学園幼稚舎から常翔大学までの一連教育機関を称して【学校法人翔柴会】という。月に一度、各学園の理事長、いわゆる柴崎家の一族が集まり、報告や教育方針などの統一会議をし、そして食事会をする。それを翔柴会理事長会議と正式には言うのだが、通称翔柴会で通っている。

溜息を吐いて、ジーンズに白のシャツというラフな恰好の選択にする。一族は皆スーツで集まるが、スーツを着ろと言われたら、柴崎邸に何着か置いてあるし。着替える時間、僅かでもサボれる。

康汰をそのままに玄関を出る。オートロックだから康汰に鍵を渡さなくても勝手に鍵は閉まる。便利な世の中になった。





かすかに階下から聞こえる音で僕は目を覚ました。他の子供を起こさないようになるべく音を出さないようにして扉を開け、部屋を出る。トイレを済ませてから1階に降りて、そっとプレイルームの扉を開けた。一番隅っこのクッション材の囲まれた場所に薄汚れた毛布にくるまり、うずくまる里香の隣に座る。咳が止まらず苦しむ里香の背中をさすりながら、小声で聞く。

『水飲む?』

『ケン、コン、コン、いらッ、コン、ない。ハーハァ、コン。』

里香は酷い喘息だった。喘息は、季節の変わり目の夜に症状が悪化する。だから里香が部屋にいると眠れないと、同じ部屋の子から嫌われていた。里香も他の子達に気遣い、喘息の症状が出ると部屋から抜け出し、この一階のプレイルームの隅っこで、朝まで続く咳に耐えるのが日常となっていた。

康汰は、そんな里香を心配して施設に来た当初から、つきっきりで世話をしていたけど、中学生になって早朝の新聞配達のアルバイトを始めて、里香の世話をする時間が無くなった。施設の保育士も最初の頃こそ、里香に優しい言葉をかけていたけど、毎晩の事で、しかも施設は常に人手不足だったから、そのうち心配もしなくなり、夜中、部屋から抜け出しプレイルームで耐えるのを当たり前の光景として放置されていた。僕が夜中に目覚めた時は、こうして様子を見に来る。康汰のアルバイトは里香の医療費を稼ぐため、学校から特別に許可されていた。

生まれた時から親のいない僕は、僕個人の仮戸籍がある為、医療保険などは全額免除で受けられたけれど、親が生きている子は、病気をすれば、親の扶養保険証で医療施設に掛る事になっていて、医療費は、親が支払わなければならないのだが、一端肩代わりする施設から請求書を送っても払わない親が多かった。康太たち兄妹たちも、その支払わない親であったために、病院に行って薬を貰えば楽になる喘息も、まともにその権利を受けられないで苦しんでいた。

国からの助成金があっても児童養護施設は常に金銭的に困窮していて、簡単に病院に連れて行く事が出来ないのが現状だった。


『凱ちゃん、コン、もう、いいよ。リガぁ、一人で、ケン、コン、大丈夫、だから。』

熱帯夜も過ぎて涼しくなった。気温の寒暖差が里香の喘息を発症させ悪化させる。康汰のアルバイトのお金で、病院に連れて行く事が出来て、今日も夕ご飯の後と寝る前に薬を飲んだはずだけど、その効果はすぐに切れたらしい。もう一度、薬を飲むわけにも行かないから、朝食後の薬の時間まで耐えるしかない。

食堂の時計が午前3時を告げた。あと30分ほどしたら康汰が起きて来て、里香の様子を見てから、アルバイトへと向かう。

『大丈夫、明日は・・・もう今日か、僕は学校に行かないんだ。この間、車いすのお爺さんが来てたの、里香は見た?』

『う、コン、コン』咳が邪魔して返事もできない。里香は苦しさの中、うなづきで答える。

『あの人達、なんか有名な学校の人らしくて、僕の脳を調べるんだってさ。明日はそこに車で行くから、眠くなったら車の中で寝られるよ。』

『ケン、コン、頭、切るの?コホ』

『えっ!・・・さ、さぁ?どうするのかなぁ。そこまで聞いてなかったなぁ。』

本当に、そこまで聞いていなかった。里香の指摘で怖くなった。でも里香の前でそんな不安を出すわけにもいかなくて。

『調べさせてくれたら、施設に、たくさんのお金を寄付してくれるって。』

『ゲホっコホ、凱ちゃん凄いね。』

『凄くないよ、別に努力して、やっているわけじゃないし。』

里香は実の父親から、やっぱり夜中にうるさいとベランダに出されたりして虐待されていた。康汰はそれを庇おうとして歯向かい、里香の分まで殴られていた。母親はそんな夫の暴力に耐えられずとっくに家を出て行っていた。団地内の住民から通報を受けて、やっと保護された二人。康汰は言う。「親を知らないお前の方がずっと良い」と。確かに僕は親と言うものが、どんな感じか知らない。小さかった頃は泣けば保育士さんがやってきて「どうしたの?」とハグしてくれたけど、その保育士さんは夜と昼とでは違う人で、居て欲しい夜は居ない方が多かった。

また里香が酷く咳き込み、身体を折って固くする。

『大丈夫?』

里香はぐったりと薄汚れたクッションに顔をうずめて、咳の音を響かせないようにする。僕は里香の背中をさすってあげる。

喘息は、特にこれと言った治療方法がない。手術すればとか、薬を飲めばで、完全に治るというのじゃなくて。とにかく咳が出ないような環境を整えるしかないという事を、図書館にある「家庭の医学」を記憶して読み、僕は知った。

極度にストレスを与えない。咳の原因になるハウスダストは排除する。布団は毎日掃除機でダニを吸い取る。家庭の医学に書いてある文字のどれもが一般家庭でやるには簡単な事だろうけど、共同生活のここ、児童養護施設ではなかなか無理な対処療法だった。

『里香、もう少し待って、里香の病気は、僕が医者になって治すから。』

里香が大好きな虹の描かれた絵本を眺めては、空に大きな虹がかかるのを楽しみにして、喘息が治るようにお願いするんだ、とか、お母さんが迎えに来るようにお願いするんだと言っているそばで、僕は、日々迎えて過ぎる一日が長いと感じていた。絵本に描かれているような大きな虹がかかるのを待つより、僕が大人になって里香の病気を治したい。この記憶力があれば簡単になれると、明確に将来を見通した夢となった。






始発の電車で東京の永田町へ行き、コインロッカー内のノートパソコンを持ち出してから、バイクもピックアップして学園に向かった。学園のグランドでサッカー部が朝練をしているの横目に、黒川和樹に、携帯メールを送った。【調査書類が用意できた。今日の授業終了後、良いかな?香里駅ロータリーのタクシー乗り場で待つ。】と。すぐさま、【大丈夫です。向います】と返事が返ってくる。

学園から直接タクシーに乗せるわけには行かなかった。他の生徒に見られ、要らぬ噂を立てられを避ける為だ。それにまだ、理事長や校長には黒川和樹の起こした事を報告していない。名簿の流出は、まだ調査中としてある。確かに黒川和樹のしたことは退学処分に値するというか、完全に犯罪だ。常翔学園の名誉を守る為にも、警察に通報するのは避けたく、慎重にしたい。さらに、黒川和樹の家は代々警察官一家ということもある。警察官の子が犯罪したとなれば、黒川家は崩壊するだろう。そんな危惧よりも、もっと深刻な危惧が迫っていた。それを教えてくれたのは奇しくも黒川和樹だった。

偽りの誘拐事件を起こした先週の土曜日、麗香たちの怒りから離すように黒川和樹だけを応接室に連れて行き、聞き取り調査をした。


『さて、聞きたいことが沢山あるのだけど、何から聞けば一番スムーズかな?』まだ幼い表情の残る黒川和樹は、うつむき加減で応接室のソファーに浅く座る。

『5月15日iダイレクトサービス株式会社から、黒川和樹名義の銀行口座へ20万円が振り込まれている。』黒川和樹は、目を見開いて顔を上げた。悪戯誘拐の事から質問されると思っていたのだろう、単刀直入に状況証拠を突きつけられて、まだ幼き中学生の黒川和樹は平静を保てなくなったようだ。

『君だね、我が常翔学園のパソコンをハッキングして、iダイレクトサービス株式会社に名簿を売ったのは。』

黒川和樹は唇を噛み俯いた。

『半年前にも、小学部の名簿を別の情報サービス会社に売って利益を得ている。ハッキングで常翔学園の名簿を盗み売った利益は35万円。ただ遊ぶ金欲しさってわけじゃないね。使っていないようだし。』

黒川和樹は驚愕交じりに睨みつけてくる。

『君の銀行口座の照会をさせてもらったよ。』

『そんなこと・・・』

『できるんだよ。僕はこう見えて、弁護士の資格を持っているからね』

ポケットからキーケースを取り出した。弁護士バッチをつけてある。

『弁護士には、警察並みの調査権限がある。』

嘘をついた。弁護士に警察並みの調査権限などない。個人の銀行口座の照会などできない。黒川和樹が名簿を売って利益を得ていた事実は、名簿業者の特定が出来て、そこから帳簿データーのハッキングで得た情報だ。ハッキング返しをしたこちらも犯罪行為だ。黒川和樹が弁護士の調査権限の範疇を知っているのか、知らずがはわからないが、たとえ知っていて嘘ついていると反論しようとも、こちらは更なる権限を出し抑え込める。要は、こちらには警察権力よりも絶大な権限があり、反発刃向えないという姿勢で、黒川和樹の本音を聞き出したかった。

『名簿をハッキングして盗み売る事は、犯罪だ。知らなかったわけじゃないよね。』黒川和樹は俯いて、返事をしない。

『そこまでして、お金を欲しがる理由は何かな?』

『・・・・』

言わないのは当然、この年頃の子供は難しい。理由があるなしに関わらず、大人や社会に対して反発するのも正常だ。

『僕はね、これでも教育学を学んできた人間だ。理由も聞かずに、規則だと君を抑え込むつもりはないんだけどね。』

『理由などありません。ただお金が欲しくてやりました。退学処分するなら、してください。』

陽動作戦は長くは続かなかったようだ。怯えた様子見なくはっきりと答える。

バレたら退学は、きっとハッキングをし始めた時から覚悟はしていたのだろう。

『退学ねぇ。確かにそれは簡単な排除方法、だけど根本的な解決方法じゃない。退学しても、君は同じ事を繰り返すだろう。』図星に、黒川和樹は拗ねたようにそっぽを向く。

『それに、君が退学になったとなれば、新田えりちゃんは、どうするだろうね。』

ここでえりちゃんの名前を出すのは反則だ。だけど、それが一番早くて効果的、大人の都合で言いくるめられるのはさぞかし悔しいだろう。自分自身が嫌と言うほど経験してきたはずなのに、それを使う自分に嫌気がさす。

『君を慕って美術部に入部した新田えりちゃん、君を追いかけて学園をやめると言うかもしれないね。』

『新田さんは、関係ありません。』

黒川和樹は顔を真っ赤にして怒りに声を高めた。

『そう、関係ない。新田えりちゃんに、心配をかけたくなければ、全てを話してくれないかな。』

『・・・・話した所で、それこそ解決方法なんてない。』そう呟き俯いた。

黒川和樹がお金を欲しがる理由に、実は検討がついている。バラテンから紹介された雇いのハッカーに、黒川和樹の家庭で使っているパソコンの検索履歴を調査してもらった。黒川和樹は、中学生としては身の丈に合わない超高性能なパソコンの検索と見積もりまで行っていた。そして、ハッキングのノウハウを情報交換する闇サイトへのアクセス。闇サイトの通り名は「ブラック」である事が判明。それらの情報から、黒川和樹は超高性能パソコンを購入する資金欲しさに、常翔学園の名簿を盗み売っていたと推測した。そこまでして、金を得て超高性能パソコンを購入しなければならない理由。それはきっと約2年前の黒川家で起きた不幸にあるだろうと簡単にたどり着く。黒川和樹が情報交換していたハッキングのノウハウには偏りがあったからだ。

『お兄さんの事だね。』

身じろぎしないで俯いたままの黒川和樹には、12歳年の離れた兄がいた。その兄、黒川広樹も常翔学園中等部からの生徒であった為、その訃報は学園にも届く。兄が死亡した頃から、弟、黒川和樹は学校を休みがちになった。当初は事情が事情だからと学園側も強く、登校するようにとは強要せず見守っていた。が、そのうち、ネツトカフェに出入りしているだとか、あまりよくない噂が立ち、学園側も要注意生徒としていたのだったが、黒川家が警察関係者であることから、さほどの警戒はしていなかった。

『黒川広樹、君のお兄さんも常翔学園の生徒だった。僕の一つ下の学年だった。』

顔を上げた黒川和樹は目を見開いて、言葉にならない口を開けては噤んだ。

『学生だった頃の君のお兄さんとの面識は、僕はない。2年前、学園にも訃報が届いてから僕は存在を知った。一時でも同じ学園生活を過ごしていたのだなと。』

黒川広樹は中等部、高等部、そして常翔大学の法学部へと内部進学し、卒業の年に警察官採用試験を受け合格、警察学校へ入校、キャリア組と言われる道筋を歩み始めたばかりだった。葬儀には、柴崎文香会長が常翔学園の代表名で献花に訪れている。

しばらく黙ったままにしておいた。色んな思いが巡るだろう。そして沈黙に耐えられなくなる。本来、子供は思いを話したい、聞いて欲しい気持ちでいっぱいだ。

『僕は・・・ただ、知りたいだけです。』消え入るような声で話し始める。

『兄さんが死んだ理由を・・・僕に、教えてくれない理由を。』

黒川和樹は、警察データーベースをハッキングするノウハウを闇サイトで検索、情報交換していた。警察のデーターベースのセキュリティは最高クラスに厳重だ。そうそう簡単にハッキングできるような所じゃないのは、素人でもわかる。

黒川和樹はダムが決壊したように思いを吐き出す。兄が死んだ理由を誰も教えてくれない事、父親に対する不審な噂が自分をハッカーに駆り立てた事、自宅や周囲で使えるパソコンでは、警察のデーターベースをハッキングする性能に劣る事、パソコンを購入する必要性にかられ、資金を得る為に、常翔学園の名簿を盗み売った事。そして、吉崎元教師を利用し、上手く金を騙し取ろうとしていた事までを話した。そして、新田君の妹、えりちゃんは、気まぐれに巻き込んだだけだから、無関係であることを強調した。

しかしながら、吉崎元社会科教師を利用して金をだまし取ろうとした策略には、正直驚いた。

きっかけが吉崎のアクションだったとはいえ、それをヒントに練られた計画は、中々の策略だった。吉崎元社会科教師は、一年前、麗香に対して起こした暴行事件で解雇されている。吉崎は腹いせで数日前、学園に爆破予告の悪戯メールを学園に送り付けていた。それを見つけた黒川和樹は、吉崎に、もっと良いアイデアがあると持ち掛けたのだ。それは、前科のある吉崎が、常翔学園の生徒を誘拐した犯人として、わざと疑わせさせ、その誘拐事件に関しては全くの潔白である吉崎が常翔学園に対して名誉棄損を訴えて脅すというもの。その計画が成功していたら、世間体を気にする常翔学園は、要求額を払う事になっていただろう。

『学園が隠ぺいしている数々の真実を公開する。か・・・それらの真実もハッキングで知った?』

『はい・・・』

『まいったね・・・』

健気な子供の一心さは、ある意味恐ろしい。黒川和樹は悪びれた風もなく、それをさせる大人、周りが悪いのだと言うように、机の一点を見つめたままだ。かつての自分を思い出す。自分もこんな風に、拗ねた目や態度で大人からの見守りから背き、いつか反撃する時を耐え忍んでいたのだ。どんなに正論で人情味に揺さぶる言葉を掛けても、一度背いた心の子を向き直させるは難しい。あの時の自分たちがそうであったように。

『君がハッキングする目的は、お金その物じゃなく、お兄さんが死んだ理由が知りたいだよね。じゃ、それを知ればハッキングはしない?』

『えっ?』顔を上げる黒川和樹。

『さっきも言った通り、僕は君を排除したくてここに呼んだわけじゃない。僕の仕事はね、学園を守る事。常翔学園の地位名声維持をする役割を担っているけれど、学園よりも、生徒を守る事が第一だと考えている。学園より生徒を守りたい、なんてね、青臭くて笑えるだろ。まぁ裏を返せば、生徒を守る事は学園を守る事につながるから、建前だって言われても仕方ないけどね。』

できるだけ、表情も声も和らげたつもりが功を奏したのか、黒川和樹は冷たく固まっていた表情をたどたどしく緩めた。

『君が抱えた問題を根本的に解決しよう。』

次は返す番だ。文香さんへの忠義の為に。

『君のお兄さんの死因に関する調査書類を用意する。』

『調査書類って、警察の?』

『それを閲覧したかったんだろう。』

『はい・・・でも、それは機密で。』

『ハッキング以外に警察の内部資料を得る方法は、いくらでもあるんだよ。』

『弁護士の・・・調査権限?』黒川和樹が訝し気に見つめてくる。

『あ・・・いや・・それ以外にも色々と伝手があってね。それができるのが常翔学園の良い所さ。その代わり、二度とハッキングはしないと約束してくれないと、ダメだよ。』

『・・・・』黒川和樹は黙ったまま、こちらに真意を探るように見つめてくる。

『信用できない?』

『いえ・・・』

『調査書類は少し時間がかかるけれど、本物を用意するよ。だから、今後一切、ハッキングはしない。約束できるね。』

『はい・・・あっ、でも・・・』返事をしたもののまだ納得がいかないのか、眉間に皺を寄せて、困った顔をした。

『でも?』他にも何かあるのか?何をそんなに、ハッキングから手を引く事をためらう?兄の死の調査書類さえ閲覧できればハッキングはもう必要ないはずだ。

『他に抱えている問題があるなら、すべて吐きだしてしまえ。それも解決してしまおう。』

『いえ、僕が抱えているのではなくて・・・その・・・』

『ん?』

『常翔学園が・・・』

『学園?』

『僕以外にも学園から情報を盗んだハッカーが居て・・・今、蜘蛛達に探らせている途中で。』

『は?・・・くも?』

『僕が作った偵察プログラムの事です。最初のプログラムは途中で壊されちゃって。それで次は透明にして、沢山の蜘蛛を作って探らせていて』

『ちょっ、ちょっと待て。今、君以外にも常翔学園から情報を盗んだ奴がいるって?』そんな話は、雇いのハッカーから報告を受けていない。

『はい。』

『新たな名簿流出問題が発覚ってわけか。』

『いえ、名簿ではなくて・・・』

『ん?』

『その、もっと深い情報まで辿って盗まれていて・・・』

『嘘だろ・・・』

『嘘じゃありません。』

『あっいや、君の言葉を疑ってるんじゃなくて、そこまで広範囲の情報が流出したとなれば、とんでもない被害だから驚いて。あー最悪だ。』

この時、黒川和樹が言った深い情報と言うのは、卒業生にまでに及んだ範囲の名簿が流出していると勘違いをしていた。個人情報を金で買う奴らは、多ければ多いほど良いのだから。

『ではなくて・・・そのぉ』黒川和樹は奇妙にモゴモゴと首を傾げて困った顔をする。

『なんだ?』

『5人だけです。』

『5人?』

『はい、5人だけ常翔学園から個人情報を盗み、そこから戸籍や銀行口座、病院の通院履歴、カルテまで探っていたハッカーが要るんです。』

『その5人の生徒って、誰?』

『真辺りのさん、柴崎麗香さん、新田慎一さん、藤木亮さん。』

あまりにも身近な生徒ばかりで、黒川和樹がまた何かを企み嘘をついているのかと思ってしまった。その思いが顔に出てしまっていたようで、黒川和樹は怒り交じりの表情で訴えてくる。

『本当なんです!一番多くの情報を探られているのは柴崎理事長補佐なんですっ』

『俺?』思わず素の呼称が出た。

黒川和樹がそのハッキングの軌跡を見つける至った経緯と、そのハッキングをした犯人を見つけようと軌跡を辿るプログラム(そのプログラムの事を蜘蛛と命名している)を実行している最中だから、まだハッキングを止めるわけにはいかないとの訴えを聞きながら、ありえた最悪の危惧を考察していた。

(とうとうバレた。覚悟は元よりできているから死ぬことなど恐れはしない。それよりも、何故、米軍は4人の生徒を含めて、俺の情報を盗みに来ている?4人はダミー?察知して俺が逃げてしまわないように?しっくりこない。ダミーにするには、何もこんなピンポイントに近しい4人の生徒じゃなくてもいいはずだ。それこそ学園関係者全部の個人情報を盗み、俺のだけを深く探る方が効果的だ。何故、こんな回りくどい事をしてくる?わざと俺に気づかせて陽動作戦か?そうか、米軍も俺がオオノカイ当人である事に、まだ確証を持てないでいるのかもしれない。きっとそうだ。陽動に焦り俺が動いたら、更なる情報が手に入り、オオノカイが生きていると確証に至れば、確実に抹消できる。)

『あのー、理事長補佐?』

『あ、うん、ごめん、聞いてる。で?』

『うまく行っていれば、蜘蛛達の一つぐらいは、犯人に繋がる軌跡を掴んでいるかもしれません。』

『駄目だ。これ以上のハッキングはさせない。』

『どうしてですかっ、他に抱えている問題も解決してしまおうって言ったの理事長補佐ですよっ』

『相手が悪い。』米軍相手だと言えるはずもなく、

『確かに、レニーのデスウォールを利用しているハッカーですけど。でもだからこそ、真辺さん達を守らないといけないんじゃないですかっ』

『レニー?』

『そうです。あの世界最強のハッカー殺しの異名のデスウォールを隠れ蓑にして、皆の情報を盗んでいくようなハッカーだからこそ、何するかわかりません。』

『米軍じゃないのか?』

『米軍?』きょとんとする黒川和樹。

『いや、何でもない。』

『アメリカはレニーのサーバーを使うことはないです。自国の物がありますし、レニーの情報システム拠点が香港ですから。』

『あぁ、そうか・・・レニーって、やっぱりあの、世界のレニーか?』

『はい。世界流通企業レニー・ライン・カンパニー、物流業界世界シェアナンバーワンで、世界最長の創業歴史をも持つ、あのレニーです。』

『参ったな・・・』米軍が自分を抹消してきていると危惧した予想は、完全に覆されたが、レニーと聞けば、それはそれで、また新たな危惧が膨らむ。

『でしょう。だから、止めるわけにはいかないんですよ。』

『いや、そうじゃなくて・・・うーん。』

黒川和樹が犯人捜しの必要性と自分がそれを担いたい為に、まだしばらくハッキングを容認してほしい事を訴えてくる中、俺は約半年前の事を思い出していた。常翔祭が催された秋の夜、校長室のソファで座っていたレニー・グランド・佐竹は、優美に微笑んでいた。ロシア大使館の職員であり、その素性は、流通できない物は世に存在しないとまで言われる世界流通企業レニー・ライン・カンパニー・アジアの日本統括マネージャーである。レニー・グランド・佐竹の名は本名じゃない事が、調べてわかっているが、いくら調べても本名を知る事は出来なかった。あの男の趣味の一環、盗難美術品を世界から集めてオークションを開催していた現場に、教頭を交えてこの常翔学園が使われていた。そして、その事に気づいた、りのちゃんが彼の指示により殺されかけた。懐から銃を突き付けながら、奴は言った。

露「私にも調べられるルートがある。面白いものが拾えそうだな。」「柴崎凱斗、覚えておこう」

その言葉がただの捨て台詞ではないと、警戒はしていたが、まさかりのちゃんや麗香、新田君や藤木君まで及ぶとは。

『君の欲しがった高性能パソコンがあれば犯人捜しは容易か?』

『それは、もちろん!』


放課後、指示した駅のロータリーで黒川和樹を車に乗せて、ここ横浜のシティホテル一階にある喫茶店に連れて来た。車の後部座席でずっと緊張の面持ちだった黒川和樹は、席に座りながらキョロキョロと周りを見渡す。

「学園では誰が聞いているかわからない、ここは半分個室になっているから周りに聞かれづらいし、人と待ち合わせをしていてね。」

黒川和樹はメニューを一通りめくり、オレンジジュースをと遠慮気味に言う。

水とお絞りを運んで来た店員にオーダーをして、昨日、康汰から受け取った封筒を黒川和樹の前に置いた。

「君が欲しがった情報、これを渡す代わりと言っては何だけど・・・・」

まだ迷う。言葉を止めた間合いに、不思議そうに向けてくる黒川和樹。レニーの組織名まで知った子は、おそらく、どんなに危険だと止めても、その好奇心に蓋をすることはできないだろう。だったら、自身がその危機の真意を知って防御に加える方が安全だ。だけど、それは言い訳である事も事実であり、重々にわかっている。

「理事補?」

意を決し、鞄からPAB2800SCを出し黒川和樹の前に置く。黒川和樹はバラテンがした表情と同じ、目を見開いてこのパソコンの存在に驚く。やはり黒川和樹も知っていた、これが世に出回るはずのないパソコンであることを。

「助けてくれ、4人を。」

もう後には引けない。俺は黒川和樹を【聖なる犠牲】にする罪を一生背負う。










屋敷内のアプローチに無造作にBMWとアウデイーが停まっている。建物横に設置された駐車場にはベンツが3台並んで、宛ら、外車販売店のように。その光景を一瞥して、一族全員が既に揃っている事に溜息をつきながら、ステンドグラスのはめ込まれた重厚な玄関扉を開けた。

何もかも規模のデカイ屋敷、文香さんは「ゆくは凱斗と麗香にすべてを譲り渡すから覚悟するのね。」と笑う。他人は「うまく柴崎家に取り入ったな」とか言う奴がいる。柴崎家の財が欲しくて、差し伸べられた文香さんの手をつかんだわけじゃない。いつだって自分の生き場所は他人が決めて来た。恩義ある文香さんが生きる場所をここに作ってくれたから、成り行き上、ここに居るだけである。

ここは、あの戦場とは天と地ほどもある、生きやすくて暖かい場所のはず。だけど、その暖かさが良くわからない。

暖かさは身体から水分を奪い渇かし、冷やすからか?

屋敷に来た時は、まずは文香さんの部屋をノックするのだが、今日は別に後でもいいだろう、一族はもうすでに会議室に揃っていて、人の声が廊下にまで響いていた。翔柴会が始まるまであと30分ある。文香さんの部屋をノックする代わりに、テレビのある部屋をのぞいてみる。麗香がソファに座りテレビを見ながらおやつのマカロンを食べていた。

「よぉっ、遅いおやつだな。太るぞ。」

「今日は和食だもの、平気よ。」

麗香は好き嫌いなく出されたものは、残さず食べる。そう言うテーブルマナーを小さいころから叩き込まれていて、もし調子が悪いのなら事前に量の調節を、住み込みの料理人に言う。食べる姿勢がきれいなのは、流石だといつも感心する。

「またぁ?先月も和食だったぞ。」

「和江おば様が、もう、こってりしたもの駄目なんだって。」と麗香が苦笑する。

柴崎家一族はもう皆、健康に気を付けなればならない年だ。常翔学園幼稚舎の理事をしている一ノ瀬和江は、前会長の総一郎の17歳離れた妹で、それでももう70歳だ。和江以外にも総一郎前会長には弟が居たそうだが、戦後の流行病で死んでいる。

柴崎家の養子に入った時、まっ先に見せられたのが一族の家系図と一族と関わる人脈の関係図だった。秀でた記憶力があるのだから、それを活かして麗香を助けて欲しいと。それが俺の与えられた生きる場所と目的である。

「そのうち、流動食になるんじゃないだろうなぁ」

「ははは、酷い言い草ね。」


麗香と初めて会ったのは、小6の終わりのまだ肌寒い三月だった。中学からは常翔学園の寮に住むことになって、準備を含め、児童養護施設を出て、寮の入所日まで屋敷に住むことになった。連れてこられた屋敷の大きさにびっくりして言葉を失い、見るものすべてが異世界で、触れるのも恐ろしいほどだった。何度か施設に来ていた柴崎総一郎会長共に施設に来ていた文香さんが、萎縮している俺を気にかけてくれていたが、その文香さんには、まだ一才にならない赤ちゃんが居た。それが麗香である。応接室に通され、これからの生活に関する説明をされていた時、麗香はハイハイがしたくてぐずり、文香さんを困らせた。仕方なく床に降ろされると、麗香は元気よくハイハイで部屋を這いり周る。麗香の可愛さが、これからの成すべき説明を一旦中断させた。

『柴崎家は子供に恵まれず跡取りに困っていた所、君がテレビに出ているのを見てね。言葉は悪いが、君のその頭脳を柴崎家は貰い受けたい。柴崎家の直系養子に入ってもらうつもりでいたが、君の脳を調べているうちに麗香が生まれた。女ではあるが柴崎家の第一継承は麗香だ。麗香が、この翔柴会をすべて統括出来るようになるまでには時間もまだかかる上に、補佐する人間も必要だ。大野凱斗、君が20歳になるまで柴崎家が身元保証人になる。それまでの8年間を見させてもらおう、君が麗香の補佐人として、柴崎家の養子としてふさわしいかどうか。』

麗香を見守る目とは違って、見据えてくる総一郎会長の眼力は、竦み上がるほどに強く圧倒された。立場を曖昧にしない総一郎会長の姿勢は、勘違いの希望を持つことなく、逆に住みよかったと言える。そんな総一郎会長は、8年間を待たずして死んでしまった。


部屋から出ようとすると、麗香が慌てた様子で呼び止めた。

「あっそうだ、凱兄さん、タブレットの話はどうなったの?」

「うーん、その話は最近しないねぇ。一時の流行り話に乗っただけだろう。メンテナンスや壊れた時のデーター消滅と言うリスクを考えたら、紙のノートの方が断然いいよ。ハッカーにも狙われないしね。」答えながら戻り、麗香の食べていたマカロンを一つ奪って、口に入れた。上品な甘さが物足りない。

「あっ!黒川君はどうなったの?」

「別に、どうもしないよ。」

「えーどうして?あの子、良くない噂もあって、あんな、いたずらもしたのに?」

「高度のいたずらだね。いたずらで退学や停学の処分はできないよ。」

「じゃー、噂は?」

「噂だよ。調べたけどね。何一つ問題のある事実は出なかったよ。よく似た子と間違われているんじゃないかな。それに、あの子は、警察庁、警視監黒川繁雄の息子だよ。」

「うそーっ」

そう、嘘だ。問題は満載にある。黒川和樹に見せた捜査書類は、確かに本物のコピーであるが、見せられない箇所が多すぎて、黒塗りばかりの真実に黒川和樹は納得できたかどうか・・・。待ち合わせに登場した康太を、お兄さんのバディだったと紹介することによって、納得できない捜査書類の穴埋めにしたようなものだ。黒川和樹は、「何から聞いていいのか、わからない」と戸惑っていた。康汰は、「広樹から年の離れた弟の君の事は、よく話題になっていたから知っている」と切り出し、広樹の署内での生活ぶりや、捜査で起こしたドジった話など、康太自身も懐かしむように話をして、黒川和樹も、涙ながらに時折笑ったりもしていた。話は尽きず、時間切れで席を立つ時、黒川和樹は『理事長補佐、ありがとうございました。』と頭を丁寧に下げた。その顔は約一週間前、解決などしないと拗ねて口を噤んでいた時とは一転して、すっきりとしていた。そんな黒川和樹を、巻き込み【聖なる犠牲】にしなければならない、自分の無力さに反吐が出る。

部屋を出ると、会議室から出てきた柴崎洋子小学部理事とばったり会う。柴崎敏夫の妻であり、戸籍上の母である。

「凱斗!なんです。その頭は。」一か月ぶりに会う義理の息子に、開口一番の金切り怒声。

言われて髪を触り、思い出した。金髪になっていた事を。

「あっ、えーと、これは、美容師の手違いで。」

「はぁ?そんな、ミスをする美容師がいますか!」、

「いや、本当に、寝てしまっていたら、こんな色になっていまして・・・・」

2週間ほど前、久々に知り合いの美容師のいる店に髪を切りに行った。特に付き合うとか言った覚えのない美容師の女は、数回寝ただけで、勝手に自分が恋人だと思いこんだ。その思い込みが重く、こちらから連絡を取る気には一度もなれず。その音沙汰なしの態度に、勝手に腹を立てていたとはつゆ知らず。椅子に座った途端、鏡越しに「動いたら殺すわよ」と首筋にハサミを当てられ、ささやかれた。仕方なく任せていたら金髪にされていた。坊主にされなかっただけでも、女の未練な愛情に感謝するとしよう。

「言い訳は、要りません。生徒に示しがつかないでしょう!全く、これだから、施設育ちは。」

気持ちの良いぐらい洋子理事長の施設育ちに対する嫌悪。柴崎敏夫夫妻も子供に恵まれなかった。前会長柴崎総一郎が、長男の信夫の養子ではなく、敏夫の養子にしろと遺書を残して死んだ。その総一郎会長は、戦後に国が変遷した学校制度に基づき、常翔学園の幼稚舎から高等部までの一貫校を築きあげた人だから、その遺書の威力は絶大で、どんなにその内容に不満があろうとも、それを拒否できる一族は居なかった。夫妻は、どこの馬の骨かわからない施設育ちの子を父親から押しつけられた形だ。

「おぉ、凱斗」柴崎敏夫、高等部理事も会議室から出てくる。

「あなた、見てくださいよ、凱斗の頭!何です。」

「あぁ、この間、見た時びっくりしたな。」

「あなた、知っていたんですか!どうして、こんな、みっともない髪を、ほっとくのですか!。」

「まぁまぁ、いいじゃないか、まだ学生なんだし、」

口うるさい洋子理事に対して、敏夫はおおざっぱな性格をしている。金髪を見ても凄い色だなと笑っただけで、特に責めはしなかった。文香さんも、事情を説明したら大笑いして「女の子は大事にしなさいよ」と言われただけで、染め直せとは言わなかった。信夫理事は眉間に皺を寄せて困った顔をしただけで、ノーコメントだった。

洋子理事の小言が続く。

(あーだから、今日の出席は嫌だったんだ。)






帝都大学 医学部 脳科学研究所という所で、僕の脳は調べられた。それは約2年続いた。里香が心配した、頭を切り開いてというのはやらない。血を抜かれたりしたけど。頭に電極やらコードみたいなの、機械とか色々つけられて、テレビ番組でやったような事を繰り返しやると言うのがほとんどで、どいう感じで頭の中で思い浮かべるのかとか?とか色々聞かれた。

そうして2年間を費やして調べた結果、僕のこの記憶力は活字のみに発揮されるもので、絵や写真、動画には全く発揮されない物だという事がわかった。静止した活字であれば、その用紙を瞬時に写真のように頭にインプットして脳にある記憶媒体に保管しているらしい。思い出す時は、その用紙を瞬時に引っ張り出して来るからページまで覚えられているという。この能力を持った人が僕の他に世界に数人いるらしい、と言う事も教えてくれた。その数人の人は、読んだ新聞をすべて覚えているらしくて、30年前の4月1日の新聞の記事を読み上げる事が出来るらしい。

この記憶力があれば、何でもできると思われがちだけど、読めない漢字もそのままに記憶しているだけで、理解はしていない。

辞書は買って家にあるけど、使わなければ語彙はわからないまま、であるのと同じで、何かを理解するには普通の人と同じだけの「勉強」は必要だった。それに写真や絵や動画、日々の景色は覚えられないから、1週間前の晩御飯は何を食べたかなんて聞かれても答えられない。文字も、どうやらカラーよりも白黒である方が覚えやすいのは、随分前から僕自身が気づいていた。他の人にはない記憶力、役に立つのは、重い教科書を持ち歩かなくて済む事と、テストの時だけ。テストはカンニングしているのと同じだから、間違った事は一度もなかった。





平均年齢54歳の理事長会議は、代名詞が飛び交う。

「あれはなんだったかな。」「それはいつだ。」「あれの手配は済んだか。」「あーあの人、あの役所の新しく就任した・・・名前は何だ、凱斗。」

英語の通訳より難しい。康汰の言う通り、跡取りという価値よりも、コンピューター代りの【物】として、柴崎会長は買い入れたんじゃないかと思う瞬間だ。「あれとは?」なんて聞き返そうものなら、俺を毛嫌いしている洋子理事は、「あれはあれよ、ちゃんと聞いておきなさいよ、」と叱られる。【物】は口答えせず、聞かれた質問だけを答えていればいいのよって言われている様なものだ。いくら秀でた記憶力があっても、人の度忘れした名詞を的確に回答する技なんて持ち合わせていない。コンピューターの暴走でも起こしたい気分を、文香さんの苦笑顔を鎮静薬に耐え忍び、頭の記憶をフル回転し、すべての代名詞を名詞に変換していく。

「中等部の寮生の新入生は何人だ。」

「5名です。」

「えらく、減ったなぁ。そろそろ本格的に封鎖を考えた方がいいじゃないか。」

「確かに、今は一人一部屋になっていて、寮部門でこれだけの負債となると、来年はなぁ。」

「そうよね、今後、寮希望者が増える見込みはないものね、特に中等部は。」

今年の入学者で寮生活を希望する者は5名しかいなかった。元々、中学生から寮を希望する家庭は少ない。昭和の時代であれば、寮に入れてでも常翔学園に通わせろと、言われた時代があり、全国から生徒が集まってきていたが、現代っ子は、12.3の年齢で親元を離れてまで、常翔に入りたいとなる者や、親自身もそう言った覚悟の出来ている大人が少なくなってきている。わざわざ寮に入れなくても、全国各地に、常翔学園に引けを取らない高学力、高施設の学校は沢山ある。

「来年度の寮生は受け入れを中止して、今の3年生が卒業したら全部で何人になる?」

「13人です。」

「13人ぐらいなら、高等部の寮に入るんじゃない?統合して中高男子寮としたら、この負債は無くなるわ」

常翔は創設以来ずっと共学ではあったが、女子寮は元から完備していない。寮の開設は、サッカー部が全国優勝をするようになり、サッカー推薦枠を施行した時に、全国から集めやすいようにと作られた。だから寮開設当初は、寮生全員がサッカー部だったという歴史がある。

「今の3年の寮生がそのまま内部進学して寮生になったとして、高等部の3年の卒業生とうまい具合に同じ人数だな。」

「入る事は入るがが、外部入試組の枠がなくなる。どれだけ希望してくるか、わからないけど。0ではないだろう。」

「元々一部屋4人の設定よ。それに昔は3人の時代もあったじゃない。」

「まぁ、それは昭和の団塊世代だからなぁ、今の子は二人部屋でも嫌だと言う子がいるぐらいだ。しかも、中等部は一人部屋だったのが急に3人に増えたら絶対に問題が起きるぞ。」

「今の子は我慢が足りないわ。」

会の始まりに挨拶して以降、一言も発していなかった文香さんが静かに口を開いた。

「ここ5年ほど、この負債はずっと計上しています。1年や2年、寮の封鎖を速めたところで、中等部の経営に影響はしません。それよりも大人の都合で、生徒を物のように詰め込むような考えは、常翔の質から遺脱していると思います。」

「・・・・・」

文香さんの鶴の一声、それは決して、会長としての立場を振りかざし圧力で制するのではなく、事の本質をさりげなく提示し、相手に考え方を改めさせるように持って行く。先代の総一郎会長が認めた文香さんの能力だ。

「そうだな、急ぐ必要はないが、とりあえず封鎖を検討中と公表して、徐々に浸透させていく方がいいな。」

「周年式典でも言った方がいいわね。」

「凱斗、そういう事だから、60周年の経営報告文書にも、そう織り込んでくれ。」

「はい」

今年、常翔学園の中等部、高等部は揃って、開校60周年を迎える。





柴崎家が僕の身元保証人となって、常翔学園の特待生となり、僕は寮生活を送る事になった。

施設を出て、里香を置いていく事が心残りだったけど、里香との約束、医者になって里香の喘息を治す為には仕方のない、大きな転機だ。常翔学園の質の高い教育と施設、そして僕の記憶力があれば、その夢は確実に叶う。僕はこれまでの人生で一番、自分の存在に未来に確信を見いだせた。

常翔学園の入学式、祝辞を読むという栄光に酔いしれていた僕は、出て来た児童養護施設が、とんでもない事になっていると知らず、心浮かれていた。

『施設を封鎖?』

『お前には絶対に言うなって、保育士長に言われたけど。』

『僕が出てから何が?』

『凱斗、何を聞いても、里香との約束を守る為に、あそこに居ると約束しろ。そしたら教えてやる。』

そう言った康汰の目は、いつもよりも増して、どこまでも冷たく怒りに満ちていた。康太のその目に気おくれしたけれど、里香との約束は、そんなに簡単にあきらめるつもりはない。

『里香との約束は、何があっても守るよ。』

僕が頻繁にテレビに出ていた時に、施設長は、かなりの額のお金をテレビ局から貰っていた。そのお金は本来なら、僕自身の出演料であったもの。だけど、僕は貰っていない。視聴者からテレビ局経由で集められた施設宛ての寄付金までも、施設長が着服していた。

僕や他の職員は、どれだけの金額がテレビ局から提示されて出演依頼が来ていたかなんて知らなかった。テレビの収録の度に、おもちゃやスポンサーから提供された食品、赤ちゃんのミルクなどの物品を貰って帰って来ていたし、夕飯のおかずも少し増えていたから、報酬の程度は、そういうものなんだと疑問にも思わず、僕は施設の役に立っているとさえ思っていた。

僕が施設を出る事になると、施設長はそれらのお金を持って逃げてしまった。

『やってくれたよ。あいつ。』

『施設長がお金を持って逃げたって言っても、今は、翔柴会の支援があるから、封鎖までしなくても。』

『翔柴会は怒って支援を打ち切ると言ってきた。』

『うそっ!』

『こんな事、言いたくないけどな、翔柴会はお前の頭脳が欲しいだけだったんだよ。』

と、康汰は僕の頭を指さす。

『施設の支援は、世間の目をごまかす為だ。学園を経営している人間が、人を選んで引き取ったなんてイメージが悪いからな。常翔学園は、かわいそうな児童養護施設の支援をしていますっていえば、良い宣伝にもなるだろ。翔柴会は、世界的にも珍しい脳を持つ凱斗を独占研究が出来て、跡取り問題も解決し、おまけに学園の宣伝にもなるんだ。一石三鳥さ。さっき翔柴会は怒ってと言ったけど、それも建前だ。よくぞ施設長は不祥事を起こしてくれました。と、喜んでいるぜ。』

『そんなっ、どうして、喜ぶんだよ。』

『凱斗は、やっぱり、まだ子供だな。』と言って鼻で笑う康太。

僕はムッと腹が立ったけど、起こっている事があまりにも突飛で、康汰に歯向かう気力が無かった。

『もう既に凱斗を手に入れたんだ。お前の手前、本来ならずっと支援と称して高額な金を施設に寄付し続けなくてはならなかったのが、数か月でやめる事が出来る。施設長の不祥事は翔柴会にとって、支援を打ち切る良い口実になったんだよ。』

僕は唇を噛んだ。

『僕は、恩返しが出来て、施設を出る事が出来たと思っていたのに。』

康太も唇を噛む。

『俺たちは、大人の都合で生まれ、大人の都合で捨てられ、大人の都合で保護され、大人の都合で利用される。それに刃向う事すらできない。』

『僕が、会長に、支援を続けてもらうよう言うよ。』

『辞めとけ!無理に決まっている。』

『どうして!言ってみなくちゃ、わかんない。』

『いいか、凱斗は買われた!物に耳を傾ける大人がどこにいる!』

『物って・・・・』

康汰の心が、とんでもなく冷たく凍り付いている事を実感した。

『凱斗、早く大人になれ。』

(君のその頭脳を柴崎家は貰い受けたい。麗香が生まれた。第一継承は麗香だ。

見させてもらおう、君が、柴崎家の養子としてふさわしいかどうか。)

柴崎会長の言葉が頭をよぎる。

『大人の都合でしか生きる方法がないなら、その都合とやらを逆に利用しろ。里香の為に。』

ほどなく、施設は封鎖された。元々、他の児童養護施設より小規模の施設であったから、封鎖後の児童の受け入れ先は、特に問題もなく他の施設へと振り分けられ、数年後、僕の本籍地である大野市の児童養護施設は、建物ごと解体された。

まだ小学5年だった里香は、出ていっていた母親が引き取る事になり、お母さんと一緒に居られると喜んでいた。康汰は自分を捨てた母親を許す事が出来ず、母親の引き取りを拒否し、他施設への移動も拒否した。通っていた高校の近くにある大学生向けの下宿をやっている老夫婦に頼み込み、家賃の2/3は卒業後に警察官になってから支払うという、少々強引な約束を取りつけて独り暮らしを始めた。

『ちゃんと薬を飲んで、無理しちゃ駄目だよ。』

『うん。里香は、凱ちゃんがお医者さんになるまで頑張る。』

僕が新しく買ってあげた虹の描かれた絵本を渡すと、里香は胸に抱きしめて喜んだ。

そうして、笑顔で手を振り遠く仙台に行く里香を、僕は見送った。





「お疲れ様」

「会長もお疲れ様でした。」

一族を玄関で見送った後は、文香さんのいる会長室で、議事録作成の為の確認などをする。俺は翔柴会会長の秘書と言う立場が本来の立場であり、中等部の理事長補佐は、りのちゃんに対する緊急対応だ。

「今日は、バイクを学園に置いてきてしまっているので、泊まらせてもらいます。」

「自分の部屋を使うのに、その断りは必要?」

柴崎家が保護者になってから、二階の一室を自室としてあてがわれていたが、ここに泊まる時は、必ず断りを入れていた。自分なりに一線を引いた遠慮である。

「・・・・律儀ですこと。」文香さんは右の眉だけを上げて呆れたようにつぶやく。

その視線から逃れるように、窓際に置かれたマッサージチェアに座った。これは、昨年文香さんの誕生日に麗香と一緒にプレゼントした物だ。

文香さんはデスクの椅子に座ったまま振り返り、別の話題に変える。

「麗香が、随分と落ち込んでいるの。原因は知って?」

「落ち込む?知らないですけど、それは今日の話ですか?」

「えぇ、朝は普通だった、帰宅後の落ち込みが酷いから、学園で何かあったと。」

会議前、テレビの部屋でおやつのマカロンを食べていた麗香は、落ち込んでいる様には見えなかった。と言っても、文香さんは人の隠された感情を知る事が出来るから、麗香の落ち込みは本当なのだろう。

「今日は成績発表の日だから、成績が落ちて落ち込んでいるとか?」

仕事が暇なら、成績表を見に行ったりするのだけど、今日は何かと忙しかったから見ていない。だから麗香の成績が落ちたかどうかなんて知らない。

「いいえ、あの落ち込み様は成績関係じゃないわ。詳しく読み取る前に部屋に引き込まれてしまったし、私も洋子さん達の相手で忙しかったから。」

文香さんが目を瞑り目頭をマッサージするように揉む。

「最近は真辺さんに、べったりだから、また真辺さんに何かあったのかしらと思って心配したのだけど、凱斗が知らないって事は違うのかしらね。」

「りのちゃんに、何かあれば、どう回っても僕に連絡が来るはずで、その心配はないはずですが。」

りのちゃんが去年の秋に学園の裏側ともいうべき不祥事に巻き込まれて怪我を負った事は、当然、学園内ではトップシークレット。信夫理事と文香さんと麗香や新田君、藤木君と俺しか知らない。その事件のせいで、りのちゃんが患っていた精神障害は悪化してしまった。柴崎家は、りのちゃんの体を第一にサポートする事を真辺さん親子に約束をして、学園でもそのサポート体制を整えた。りのちゃんの通院している神奈川県医科大精神科の主治医と学園は連携をとり、精神科の知識を持つ保健師を紹介してもらい学園に常勤させた。麗香と新田君、藤木君をりのちゃんと同じクラスにして、日常生活に困る事がないようにもした。りのちゃんに何かあれば、保健師や麗香達経由で、必ず連絡が来る体制である。

「下手に聞き出すのも、嫌がるしね。難しいわ。」

大きくため息を吐く文香さん。先代の総一郎会長が次の学校法人翔柴会の会長に、息子の信夫ではなく、嫁である文香さんを指名した。それは更に次の世代が女である麗香の事を考えての処遇であったが、そういった事を説明なく亡くなった為に、麗香は会長に抜擢された母親を純粋に尊敬した。だがその尊敬は、それまでの母親にべったりだった親子関係を変化させるものになった。

「学園の様子は見ておきます。」

「いいえ、辞めておきましょう。麗香が助けを求めてくるまで待ちましょう。大人の都合で監視されるのも口出しされるのも嫌でしょうから。」

「あっ、さっきの・・・寮の話。」

文香さんは寂しげな顔で微笑んだ後、体の向きを元に戻してテーブルに肘をつく。

「あの時、私は何もできなかった。だからって訳じゃない。常翔の寮が封鎖されて、本当に明日の寝床に困る生徒なんて、ここ常翔ではいないから、洋子さんの案をわざわざ止める必要は無かったのだけど。・・・凱斗には私の言葉が飾りの様に聞こえたでしょう。」

「そんな事は、ありません。流石だと思いました。あの後、会長の言葉に異をする者はいませんでした。」

ゆっくり首を振る後姿が小さい。

「先代から与えられた物の中でしか私は動けない・・・・いいえ、それは言い訳ね。動こうと思ったら動けるもの。この会長という立場を利用すれば、どんなことでも出来る。でもそれをする勇気がない、臆病なだけ.この目が見せる心に怯えて動けない・・・・。ごめんなさいね凱斗。あの時、私がもっと強く会長に訴えてれば、施設は無くならずに、里香さんも・・・」

「やめてください。文香会長が責任を感じる事ではありません。会長がそんな風に思ったら、俺はもっと・・・・」

マッサージチェアから立ち上がった。この椅子に座って癒されるべきなのは文香さんだ。

「そうね、ごめんなさい。」

「大丈夫ですか?お疲れの様です。」

「疲れたというより、飲みたい気分ね、ちょうどいいわ凱斗、今日は泊まるのでしょう、付き合いなさい。」

「えっ?」

「あら、母と飲むのは嫌?」

「嫌じゃないですけど・・・・」

そうだった、文香さんとは他人じゃなかった。体の中には文香さんの血が入っている。戸籍上は伯母にあたるが、柴崎家との唯一、物理的に繋がった人だ。危険を顧みず、世界の終わりのような場所まで迎えに来て、俺に輸血をしてくれた命の恩人だ。

「じゃ、覚悟しなさい、今日はとことん飲むわよ。」

そう言うと文香さんはデスクの電話をとり、住み込みのお手伝い木村さんに、「ワインを持って来て頂戴」と言う。

血で繋がった母と飲む酒が、体の渇きを潤す。喉から胃へ潤っていくのを感じた。

初めてだった。これがほろ酔いというものなのだろうか?

それとも、母の愛に酔っただけなのか、わからない。










《次はスポーツコーナーです。イングランド、セリアユナイテッドFC所属の大久保啓介選手が大活躍です。》

(・・・・・・えぇ、そうですね、ゴールは、狙っていました。はい。・・・・えぇ、身体はいい感じに仕上がってきています。ワールドカップを標準に調整してきたんで・・・・、えぇ動けていますね。良いアピールになりました。あとは監督の采配に、はい。日本代表に選ばれる事を信じて、頑張ります。はい、ありがとございました。)

《と、ワールドカップ日本代表の選考に意欲満々のコメントを頂きました。頼もしいですね。大久保選手は一週間後に帰国予定で、選考の日は日本でその朗報待つとおっしゃっていました。次は野球の話題・・・・》



柴崎邸のバスルームでシャワーを借り、部屋に置いてあったスーツのズボンとシャツだけを着て、ロビーの隣にある食堂に向かうと、もう学園の制服をきちんと着て、テレビを見ながら朝食が用意されるのを待つ麗香に、「おはよう」と声をかけられる。

「一体、昨日は何時まで飲んでいたの?」

「あぁー何時だったかなぁ。」

文香さんと飲み始めたのは、確か10時過ぎぐらいだった。驚いた事に、文香さんは酔うと笑い上戸になるらしく、けらけらと笑う声が廊下まで響き、それを聞きつけた信夫理事も「楽しそうだな」と新たにブランデーやらウィスキーなんかを追加して加わったから、ひどい騒ぎとなった。信夫理事とは何度か外で飲む機会があったけど、羽目を外す飲み方はしない人。夕べは自宅だという事がリミッターを外したのだろうか、それとも久々の妻との晩酌がよほど楽しかったのか、酒の進みも早く、すぐに信夫理事も酔っぱらって、普段は見る事の出来ない姿を見せていた。麗香もその騒ぎを何だと覗きに来ていたけど、酔っぱらいの相手は嫌とすぐに部屋に引き上げた。

「2時に近かったかなぁ。」

「えー!そんなに遅くまで?」

「おはよう」

「おはよう麗香、凱斗。」

「おはようございます」

文香さんと信夫理事が揃って起きて来て、食堂の横にある厨房の方に向かって、住み込みの料理人、源田さんに悪いけどお茶漬けにしてもらえるかしらと頼んでいる。

「大丈夫ですか?」

「えぇ、昔はあれぐらい平気だったのに。」

「あぁー凱斗、今日は、何か重要な予定が入っていたか?」

「えーと、1時から日本サッカー連盟の理事会があります。」

「あぁ、ワールドカップ前の説明だなぁ。凱斗、代理で行ってくれないか?」

「えっ?連盟理事の代理を、僕でいいのですか?」

「あぁ、どうせ大した説明はしない、4年置きの毎回同じ説明だよ。」

柴崎信夫理事は日本サッカー連盟の理事会員だ。若かりし頃、この学園で弟の敏夫理事と共にサッカー部に所属していた事もあるが、常翔学園サッカー部が、中高共に強豪校として全国大会に常連している事の方が経歴的には重視されている。言ってみれば、全国の中学校サッカー部の学級委員長みたいなもの。

「悪いが、今日はとても外出できそうにない。」

「何なの!お父様、二日酔いで仕事をほおり出すなんて!」

「麗香、大きな声、出さないで頂戴。」

「えー、お母様までぇ?」

文香さんと信夫理事が二日酔いで痛む頭に手をやり、うなだれる。その同じ姿に、どこまでも仲がいいんだなと苦笑する。



信夫理事のベンツで学園に向かう。麗香は、電車通学だ。いくら常翔がお金持ち学校と言われていても、車による生徒の送り迎えは、よほどの事が無い限り近隣の迷惑を考慮し禁止されている。まだ登校時間には早い麗香に見送られて屋敷を出た。二日酔いで気分がすぐれない理事長は、後部座席でうなだれていた。

「理事長、僕がサッカー連盟に行っている間に、旅行会社の人が来るのですが、リストを渡して頂けますか?」

「あぁ、修学旅行のだな、わかった。・・・凱斗、また、昨日みたいに文香の晩酌に付き合ってやってくれ、な。」

「あんな飲み方を、またしろとおっしゃるのですか?」

「あぁ、文香には思いのほか苦労をかけてしまっている。父があんなにも文香の事を気に入るとは思わなかった。会長なんて座を与えられたばかりに文香は・・・・あの時、遺言なんて破棄すればよかったんだ。長男である私なら、それが可能だったのに。それをしなかったのは、私の意気地のなさゆえだ。」

「理事長、僕は、あの遺言の采配は正解だったと思っています。総一郎会長の考察は尊敬いたします。」

「凱斗、その言葉は、遠回しに私を無能だと言っているのと同じだぞ。」

「あっいえ、そんな気持ちは、全く・・・・すみません。」

「ははは、悪いな、久々に陽気な文香を呼び戻してくれた凱斗に、嫉妬したんだ。意地悪の一つでも言わせてもらうよ。」

まだ酒が残っているのだろう。饒舌に大人げなく気持ちをぶつけてくる理事長に、怒りよりも親しみがわいた。大雑把な弟の敏夫理事長より、几帳面な性格の信夫理事長は、仕事を教えてもらうには最適の人だけど、そのきっちりさが時に面倒になる時があり、今一つ気を許せないでいた。

「まぁ、酒の量は程々に、凱斗と飲む酒は、文香には良薬みたいだからな。」

「仰せの通り、いくらでも付き合いますが・・・理事長、また嫉妬しません?」

「あぁー、する、ふははは、それも付き合え!」

「えー、それは、特別手当として計上してくださいよ。」

「おう!いくらでもやるぞ。それぐらいの金で凱斗を、いじめられるなら安いもんだ!」

「理事長、一応教育関係者なのですから、そう言う言葉は慎んでください。」

「教育者なんて、偽善者ばかりだよ。」

そう言って、後部座席で見えるはずのない空を仰ぐ信夫理事長。この人も文香さんと同様、先代の力が強すぎて、その亡霊に囚われている。

「理事長、そろそろ酔いから覚めてください。学園に到着します」

単純だな。少しだけ、理事長の素を知って、気を許せられるようになっている自分に苦笑する。






2


『大野、あんなこと言われて何で黙ってねん。』

『何でって・・・、』

『お前を見てたらイラつくねん。』

『大久保がイラついてどうすんだよ、お前の悪口じゃないだろ。』

『だぁー何でやねん!もっと怒れや。』

『怒るってたって、皆は嘘は言ってない、本当の事だよ。』

『ぅぎゃー!!!嘘じゃなかったら、何でもかんでも言っていいんか!良いか悪いか、小学校で習わへんかったんか!関東では!』

『その小学生を、いちいち相手してるほど、僕は暇じゃないから。』

『がーっ!お前のそれ、イラつく~。』

『僕は大久保の、その濁点の擬音がイラつくよ。』

『お、お前はぁ~死ね!』

『ギャーやめろ。その技は、うげー』

『あはは。大野も言ってるやん、濁点の擬音。もっと言え。』

『やめっ、ギブキブっ』

寮で同室になった大久保啓介。サッカー推薦に合格して大阪から上京してきていた。大阪にもサッカーに強い学校は沢山あるのに、わざわざ親元を離れて遠い常翔学園に来たのは、確実にプロのサッカー選手になるためだと、関西弁で話す大久保は、ウザイぐらいに夢にまっすぐな奴だった。

柴崎家が身元保証人になってからは、テレビの出演は無くなった。柴崎家がすべて断っていた。それでも、僕が生まれてすぐに養護施設の玄関前に捨てられていたことや、タオルメーカーの企業名からつけた名前であるとかのお涙ちょうだい話は、テレビ局が散々放送していたから、学園の皆がそれを知っていて、柴崎家が僕のプライバシーを守り図っても、学園内の生徒の口を塞ぐことは出来ずにいた。テストの点数が、記憶力によってオール満点の成績になる事は、他の生徒の妬みになり、酷い悪口は常態化していた。わざと答えを間違えて点数を落とすという事は絶対にできなかった。酷い悪口より怖い柴崎総一郎会長が、それを許さないのはわかっていたし、どんなに大久保が「何故、黙ったまま耐えてねん、怒れや」と言われても僕は気にしなかった。里香との約束を守る為に、康汰に誓ったから。

『俺は、下宿の大家の信頼を得る為に、高校を卒業したら警察官になると言った。嘘じゃない警察官になれば、

俺らを殴ったあいつらも捕まえてやることができる。後2年、我慢すれば大人の都合から解放される。』

『康汰・・・。』

『凱斗は、まだ長いな。』

『うん、でも頑張るよ、僕は柴崎家の都合を利用し医者になる。そしたら里香の病気を治す事もできるし、

お金も沢山稼げるから柴崎家の保護を受けなくても生きていけるようになる。』

『俺たちは、大人の都合に反撃が出来る日を楽しみに生きていくんだ。』

僕は、康汰の冷たい目に誓い、学園や寮で起きるあらゆる嫌がらせに目や耳や口を無視していた。






日本サッカー連盟が入る都内のオフィスビルの5F、一番大きな会議室の入り口で受付を済ませて、レジメを見て溜息をついた。今日の内容は理事長が言っていた通り、大したものではなく、ワールドカップに向けての心構えや、連盟の動き、およびスケジュールなど、書類にある一目瞭然の物ばかり。わざわざ呼びつけてまで読み上げる物じゃない。それでも一応、常翔学園柴崎信夫の代理として来ているから、スーツを着て、廊下にたむろっている連盟のジジィどもに名刺を渡して挨拶をしていく。対面上はにこやかでも、直ぐに離れて陰口になる。何歳になっても、そういうものは絶えることはないんだなと心の中で苦笑する。そうやって、こそこそと陰口を言うジジィに限って連盟の中でも大した立場ではない人間だったりする。まぁ、こんな金髪で来れば陰口も言いたくなるも当然か。これでは仕事がしにくい、染め直そうかと考えたが、美容院を探す手間を考えたら、どうでもいいかと投げやる。

しかし、理事長もよく、この金髪頭の人間を代理に寄こしたものだ。いや、待てよ、もしかして、これも嫉妬のイジメの内になんじゃないか?

ため息を吐き肩を落としたら、後ろから声をかけられた。

「今日は、柴崎君は休みかね。」

「あっ、はい。申し訳ありません、体調を崩しまして、私が急遽、代理いたしました、で、こんな頭ですみません。」

もうめんどいから先に金髪頭は謝っておく。って誰だ?この体格の良い爺は。

「いい宣伝になっているじゃないか、常翔学園の若僧。」

「はぁ・・・」

それまで雑多に五月蠅かったフロアが急に静かになって、微妙な距離が周囲にできていた。慌てて体格の良い爺に名詞を渡そうとすると爺は鼻先であしらった。

「知っとる、いらん、名刺なんぞ。」

(何故知っている?)

「大久保啓介と同級だってな。代表選考は間違いないから、ますます常翔は有名になるな。」

(あぁ、なるほど、そういう関係で俺の事知っているのか?って、その大久保と同級だって事を何故知っているんだ?)

増々?が増える。

「ありがとうございます。」

「滑稽だ。そんな頭で堅苦しい挨拶なんざ、するんじゃない。若者は若者らしく不作法で居る方が頼もしいぞ。」

「はぁ・・・」

肩をポンと叩かれ、爺は会議室へ入っていった。

公益財団法人なんて堅苦しい役人の天下りの集まりかと思っていたけれど、中々の豪快ぷりだ。

と、その爺は上座にあるサッカー連盟会長沼田雄三と書かれた椅子に座った。

(うわ!あの爺、連盟の会長だ。)

どおりで、周囲の空気にピリッとしたわけである。雑談に勤しんでいた下っ端の理事達が慌て各々の席へと座り、今日の無意味な会議が始まった。

その光景は学園でよく見る、「先生が来たぞ~」と言って慌てて席に着く中学生と同じで、苦笑した。





『お前、ほんと凄いな。ずっと満点でさぁ』

『同室だからって、気を使って言わなくていいよ。』

『はぁ?』

『皆と同じように言えば。カンニングと一緒だ、ずるいと。』

『あほか。同室やから、お前の努力を知って、ほんまにすごいなって思って言うてんのに、お前、ほんま、むかつくなぁ。』

『どうでもいいよ。』

『なっ!立てっ大野!』

『はぁ?』

『立てって!』

『なんだよっ、めんどいなぁ。』

『お前がどうでも良くても、俺は良くないんじゃぁ!』

寮の建物が振動で揺れた。柔道の投げ技で一本取られ、僕は部屋のど真ん中で受け身の体勢で顔を見上げると、大久保は顔を真っ赤にして怒っていた。

『こっちは本音を言うてんねん。お前が世間の悪口に傷付いて、心、閉ざすのは勝手やけどな、本音をどうでもいいって言われた俺も傷付くって事ぐらい、わかれやっ!』

大久保の怒声で他の寮生が部屋に飛びこんで来て、寮管理長を呼びつけた。

大久保が柔道の練習をしてましたと言い訳したが、部屋で柔道の練習をするのも当然の禁止事項で言い訳にはならず、罰として俺たち二人は1週間のトイレ掃除と風呂掃除を課せられた。

『大久保のせいだからな。』

『大野が俺を怒らせるような事、言うからや。』

『ったく、査定のレポートで忙しいのに。』

『そのレポート手伝ったろかぁ?』

『お前に手伝って貰うぐらいなら、査定で落とされた方がマシ。』

『おー、落ちろ、落ちろ。そしたら部屋が広なるわ』

『ほぉー良く言えたねぇ大久保君、英語の宿題はどうするのかなぁ。』

『うがぁーお前のそういうところが、むかつくぅ~。』

『だから、僕はお前の濁点擬音がむかつくって。』

『がーぎーぐーげーごー』

『子供かっ!』

『こらっ!しゃべってないで手を動かせ!サボったらもう一週間延ばすぞ。』

『・・・・はい』

夢を熱く語る子供のような目も、関西弁の乗り突っ込みも、うざくて暑苦しくて大嫌いなのに、この大久保啓介のノリに、いつの間にか乗せられてしまっている。僕は柴崎家を利用する為にここに居るだけ。学園で、青春ごっこなんてやっている暇は無いのに。





来週、あの暑苦しい大久保が帰国するってニュースでやっていたな。

サッカー連盟の入る商業ビルの玄関ロビーには、大久保を筆頭にJリーグのプロ選手が腕組のポーズをして並ぶ大きなポスターが貼ってある。ワールドカップの日本代表に選抜された選手を取材や表敬訪問の依頼をする場合は、連盟を通してくださいとの説明があった。

(表敬訪問か・・・)

大久保を常翔に呼べば、新田君や藤木君は喜ぶだろう。胸にドキリと熱い物が走った。


『はい、5人だけ常翔学園から個人情報を盗み、そこから戸籍や銀行口座、病院の通院履歴、カルテまで探っていたハッカーが要るんです。』

『その5人の生徒って、誰。』

『真辺りのさん、柴崎麗香さん、新田慎一さん、藤木亮さん。』


守れないかもしれない。せめて、最後に喜ぶ事を残してあげたい

精悍に恰好つけている大久保の顔をグーで殴った。

(馬鹿かっ俺は!何が最後だ!変な事を考えてんじゃねぇ!)

だが、黒川和樹は言った。学園のサーバーから盗まれていた日は、りのちゃんが殺されかけた半年前の常翔祭の翌日だと。あの男、レニー・グランド佐竹が、学園から個人情報を盗んだ事は間違いないだろう。ただ、あれから半年もたっている。それまで自身に不穏な何かがあったわけじゃない。時が経ちすぎて、逆に不気味だった。

ため息を吐き、もう一度、大久保の顔を殴る。大久保を学園に呼ぶことにマイナスな事は何もない。スーツの内ポケットから携帯を取り出し、大久保の携帯へかけた。コールは長く出る気配がない。諦めた頃に不機嫌に返事をする懐かしい声が聞こえた。

英「はい・・・大久保啓介です。」

英「随分うまくなったじゃないか、英語。」

英「あーどぢら様?」

しまったな、向うはまだ朝の6時過ぎだ。寝ていたんだろう、携帯の表示を確認せずに出たとみて、着信相手が誰かがわかっていない様子。

「お前の濁点の擬音がイラつくぞ!」

「・・・大野・・・何時や思てる~」

「15時23分」

「あほかっ!イングランドは朝や、朝の6時!」

プロのサッカー選手になっても、関西弁を標準語に治そうとせず、お笑い芸人顔負けの笑いを取る大久保が面白いと、サッカーの実力とは別に人気があったりしている。

「おはよう、大久保啓介君。」

「切るぞ」

「悪い、悪い、時差をすっかり忘れてたんだ。」

「ったく、もうちょっと寝れたのによぉ」

「いいモーニングコールになっただろ。」

「ケっ!男のモーニングコールなんていらん!・・・んで、なんだよ、モーニングコールの為に、かけてきたわけちゃうやろ。珍しくお前から」

「あぁ、来週、帰国するだろう。」

「あぁあ~フぅ。」返事の中にあくびが混じる。

「帰国したら、常翔学園中等部に表敬訪問してくれないか?」

「表敬訪問?」

「あぁ、連盟の手続きは、こっちで全部やるからさ、愛する母校に来てくんないかなぁと思ってね。帰国後のスケジュールを知りたいんだ。」

「帰国後のスケジュールっても、代表の選考がまだやから、わからねぇ」

「連盟の沼田会長は、大久保は代表入り間違いなしって言ってたぞ。」

「あぁ?あのじじいは、関係ないやろ、選考に。」

「そうだけど、お前だって自分は間違いないって思っているから、帰国の予定してるんだろう。」

「っち、頭の良い奴は、これだから嫌や。」

「サッカー馬鹿は、考えが浅いから嫌だ。」

「うがぁーお前のそういうところが、昔からムカつくぅ~」

昔と変わらない、大久保の濁点擬音に苦笑する。

「まぁ、とりあえず頼むよ、表敬訪問。今年の中等部は、お前らの時代以上に期待できるぞ。」






『キモっ、キモ過ぎ』

はぁ~もう帰って来た。朝から静かで快適だったのに。

『なんやねん、クリスマスやっちゅうのに、一人寂しくこの引きこもり。』

相手するのも面倒だから無視。僕は、柴崎家が用意してくれた高校の問題集に集中する。

『何でクリスマスに、勉強やねん。』

『・・・・・・』

『世間はクリスマスやぞ、ジングルベルやぞ。彼女おらんくっても、楽しい事しようと思わへんかぁ。』

『クリスマスにボール追いかけて泥だらけになってるサッカー馬鹿とは違って、僕は勉強が楽しいよ。』

(あぁ、無視しようと思ったのに、相手をしてしまった。)

『んがぁー、クリスマスに、サッカーを馬鹿にすんなっ!』

(さっきから何だよ。クリスマス、クリスマスって、馬鹿みたいに浮かれて。)

『うぉ、お前なんかに構ってる暇ないんやった。急がんと。』

『泥ついたジャージ、ここで脱ぐなよ!』

『わりぃ、急いでんだ、これから遊びに行くから。あっそうだ、お前も来る?』

大久保はその持ち前の明るさと、ノリの良い関西弁で男女共に人気はあったけど、特定の彼女は未だいない。

この関西弁が暑苦しいのは僕だけじゃないのだろう、常翔はお金持ち学校でお嬢様が多い。今まで何人かの女の子に告白してはフラれたぁと寮で泣く、そのうっとしい夜を約1年9か月の間に3回、僕は耐えていた。

今日、大久保はサッカー部の練習を終えた午後2時から、サッカー部の奴ら数人とクラスで仲の良い女子数人とで遊びに行く約束をしたらしい。

『たく、何だって浮かれたクリスマス馬鹿の後始末を、僕がしなきゃならないんだ。』

大久保がユニフォームを脱いで落とした砂を掃除する為に、掃除機を取りに行こうとして部屋を出たけれど、ちょうど喉も乾いていたから、お茶を飲むべく食堂に寄った。

食堂のテレビの前には、3人の一年生がヒマを持て余して雑談している。



【では全国のニュースです。24日未明、宮城県仙台市のアパートのベランダで、子供が倒れている様だと、向かいのマンションの住民からの通報を受け、救急隊が駆け付けたところ、アパートに住む篠原頼子の長女、小学6年生の篠原里香さんが意識なく倒れており、病院へと搬送されましたが、搬送先の病院で死亡と診断されました。死因は肺炎で、里香さんの体重は平均より下回っていること、体中に痣がある事で、虐待の可能性があると警察は母親の篠原頼子32歳と、内縁の夫、鈴木孝雄36歳から事情を聞いています。里香さんは喘息を患っており、近所の住人は、夜中に咳がうるさいと、怒鳴られている声を何度か聞いていて、児童相談所に通報した事があると証言しており、関係機関の対応が適切であったかどうか、警察は捜査しております。また、里香さんは4歳の頃より父親からの虐待で、児童養護施設に6年間預けられていた経緯があり、2年前に母親の篠原頼子に引き取られ同アパートで住むようになり、2年前まで預けられていた児童養護施設の当時の引き渡しが適切だったかどうかも問題に・・・】


頭が真っ白になった。周りの景色がすべて絵画のように止まった。手に持っていたガラスのコップを、落として割っていたことも気が付かないぐらいに。

『何してんねん!大野!さっさと拾えや、アブねぇな。・・・・ったく』

『里香・・・』

『大野?』

『里香が・・・死んだ?』

『おいっ!大野!どこ行くねん!』

駆け出した時に割れたコップのかけらを踏んで足の裏から血が出ている事、廊下を血で汚しているのを見て大久保が叫んでいる事など、何もかもの景色と音は停止して、夢の中で走っているように、自分の意識だけが籠っていた。

部屋にある財布をつかみ寮を飛び出す。

『うわっ、大野!血がっ』

外出時はロビーにある名簿に、外出時間と帰宅予定時間を記入しなければならなかったけど、そんなものも無視して走った。

電車とバスを乗り継いで、康汰の住んでいる東京のはずれの下宿アパートに行った。古く時代に取り残されたような錆びたアパート。

呼び鈴の所に故障中と書かれたガムテープが貼ってある部屋のドアを叩いた。

『康汰!康汰!』

いくら叫んでも康汰は出て来ない。里香が死んだ事を知っているのか知らないのか、わからないけど、冬休みに入っている今は寝る間も惜しんでアルバイトしているはずだから留守なのは当然。どこでバイトしているか、知らなかった。

仙台に飛んで行きたかった。だけど僕には仙台に行くお金がない。柴崎家から毎月5000円のお小遣いは貰っていて、寮に住んでいると衣食住に関しては困らないようにはなっていたから、そのお小遣いは使う事がなくて、月に一度、この康汰のアパートに来て食料の差し入れをしていた。こんな事になるなら、使わずに貯めておくんだったと心底後悔した。今は千円足らずの小銭しかなかった。日が暮れるまで待っても、康汰はアパートに戻ってこなかった。

僕がアパートの前に到着した頃には、康汰はもう仙台に行っていた事や、割れたコップの破片を踏み、寮の床を血で汚したまま飛び出した僕を、大久保が心配してあちこちを探し回り、友達と約束していたクリスマスの遊びをキャンセルした事は、後で知った。





大久保との通話を終えて、胸に溜まった不穏な靄が少し晴れた。

「相変わらず、あいつのノリには乗せられる。」

連盟のビル内へと引き返し、大久保が表敬訪問をしてくれる前提で、早速、動いておく事にする。しかし、大久保選手を常翔学園に呼びたい。それだけを言いたいだけなのに。担当の下っ端じじいは電話中で、俺が待ってることを知ってもチラッとこちらを見ただけで、話を早めに切り上げようともせず、ウダウダとくだらない話をする事20分、やっと話をする事が出来た。丁寧に、下げたくもない頭を下げて、こちらの意向を伝えるが、待った時間に対して、割の合わない応対にムッと来るが、我慢した。

こいつらなんか、大久保の活躍で飯食わせてもらっているようなもんなのに、何でこんなに偉そうなんだ?

大久保を育てたのは常翔だぞ。よくぞ世界に通用する選手を育ててくれましたと頭を下げるのは連盟の方じゃないのかぁ?

別に連盟のバックアップなんか無くたって、母校でという絆があれば、大久保を呼ぶ事は簡単なのに、ったく、何だって、この無能集団に頭を下げなくてはいけないのか、馬鹿馬鹿しくてやってらんない。という不満をスーツの下にしまい込んで事務所の部屋を出る。ビルを出て速攻でスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、溜息と共に、腹にたまったストレスを吐き出した。

時計を見たら、4時07分、また中途半端な時間になった。とりあえず、理事長に終わった旨を報告するべく携帯を取り出す。表敬訪問、勝手に決めてしまい、先走り過ぎたかと不安になったが、「私も考えていた事だから進めてくれて大丈夫だ。」と言ってくれた。学園に戻っても大した仕事もなく、また中途半端な時間だったから、これで仕事を終え帝都大に行くと理事長には告げた。

2年前、アフリカの戦地より帰国した年明けの4月から理事の補佐として働く予定だったが、弁護士試験を受けてはどうかと文香さんの提案で、その資格を得る為に帝都大学の法学部に入り、もう一度大学生をやり始めた。帝大の法学部に入って初めにした事は、とりあえず六法全書をめくる事、一瞬でそのページの活字を写真のように記憶できる能力をフルに使う。とは言え、分厚い六法全書をめくるだけでも数日かかった。それから2年間は真面目に講義を受けて勉強した。六法全書をすべて記憶しているとは言え、どういう状況の時に、どの法律が当てはまるのかは、前例を元に学んでおかなくてはならない。去年の夏にものは試しに弁護士試験を受けた。一度で合格するとは思ってなくて、雰囲気だけでも味わっておくか程度の心構えで受けたら、思いのほか合格した。弁護士になるためだけに帝都大に入ったのだから、合格すれば中退しても良かったのだけど、文香さんに「常翔じゃなく帝大に行った経緯に、中退すれば、下手な言い訳は出来なくなるから卒業しなさい」と言われた。常翔じゃなく帝大にした意味は、アフリカから戻ってきてすぐに常翔に入ったとなれば、裏口入学の噂が立つ事を避けるためだ。常翔のイメージを守る仕事をしている者が、そのイメージを崩すわけには行かない。

タクシーを降りて帝大の門を抜けようとすると、警備員に止められる。営業のサラリーマンに間違われたらしい。慌てて学生書を見せると、驚かれた。無理もない、畏まったスーツでこんな中途半端な時間に講義を受けるような学生なんて居ない。ってもこの金髪でサラリーマンもないが。ネクタイを完全に外して、スーツの上着を脱ぎ、ホワイトシャツのボタンも2つ外して着崩した。

法学部のある講堂の玄関ロビーにて講義のスケジュールを確認する。特に休講になっている事もなく、年度初めに貰っている講義時間割り通りに開講される模様。次の講義の開始まで時間があるので図書館に足を運ぶ。ここ1週間ほど新聞を記憶するのをサボっていた。だから、この時間を利用してそれをする。

記憶力が証明されてから、本は極力、見開かないようにしていた。必要なのはフィクションではなく実情報だ。

5月20日から7日分の朝刊、夕刊、経済新聞と一般紙を積み上げて、1枚1枚めくっていく。めくり終わると、すべての新聞を棚に戻して、座り心地の良さそうな椅子を探して図書館内を歩く。

流石、帝大だ。あちこちで何やらレポートに勤しむ学生が見受けられ、館内も静かだ。これが常翔大なら、もう少し騒がしいし、学生の気質も華やかだ。

背の高い書棚が邪魔して暗がりになっている場所のソファの空きを見つけ、座り目をつぶる。

さっき記憶した新聞を若い日から紙面を呼び出し、頭の中で読み始める。この記憶力が便利なのは、記憶した物はいつでも呼び出せて、どんな場所でも読める事、重たい本や書類を持ち歩かなくていい事ぐらい。中学生の時にカンニングだと言われた通り、テストは記憶を頼りに写しているだけだから、ひらめきや推理とかは苦手で、パズルなども苦手。りのちゃんが、藤木君の週刊誌事件時とえりちゃんのいたずら誘拐事件とを、見事に推理して解決したような事はできない。

ここ1週間の新聞記事は、国内総生産1-3月期が3.8パーセント上がり、原発事故後の復興経済が着実に上向いている事に、日本経済が力を取り戻しつつあるとの明るいニュース。それに伴い株価も上昇、一時の暗いニュースばかりだった経済紙も広告が多くなり、企業の新しい新商品やら開発の話なども増えている。常翔学園に通う生徒は、華族会由縁と上流階級の子供が大半で、5年前の津波による原発事故が起きた直後は、株価下落に伴って倒産する企業が増え、常翔学園内でも学費を払えずに退学していく子どもが少なからず居て、それは大変だったと理事長から聞いていた。その頃自分は、アフリカにて特務訓練の試練で死にかけていたから、日本が津波による原発事故に遭い経済が混乱しているなんてニュースも知る事も出来ず、それを知ったのはそれから2年後、たまたまチームの誰かがその話題をした事がきっかけだった。日本の惨事を知っても、その時には、日本よりも悲惨な状況にある紛争地のアルベールテラを目の前にしていれば、何の感情もわかなかった。

目をつぶったまま身動ぎして座りなおす。一般紙の新聞に移る。事故、事件、広告、は大きな文字だけを読んで興味のあるものだけを細かく読み、必要のなさそうなものは端折っていく。経済覧もさっきの経済新聞と重複するからパス。

政治、国際欄は念入りに読んでいく。党の派閥問題、沖縄のアメリカ軍基地問題、中国船籍の日本海域侵入問題、脱原発派の集会記事など。

藤木君のお父さんである藤木守外務大臣がロシア訪問から帰国した記事もある。藤木外務大臣は特に脱原発派に傾いているわけではないが、事故を起こした以上は、エネルギー代替の模索はしていくべきと中立の立場を貫いている。中立と言えば聞こえはいいが、どちらの派に属さない位置は、何かあれば、どちらからの支援も断ち切られる危うさを含む。結局の所は孤立を意味し、それでも内閣総理大臣を目指す上で、必ず通らなければならないとまで言われている外務大臣のポストに就いているのは、流石、藤木家の名ともいうべきか。息子である藤木亮君からしてみれば、周りの議員、さらには国民にすらも良い顔を振りまいているだけじゃないかと、嫌悪でしかないのだろうけど。

藤木外務大臣のロシア訪問は、代替エネルギーの一つ、ロシア北部で産出する液化ガスを日本まで直接パイプラインを結び、買い付けを行う事業の本格的推進の話をする為、ロシアのサムエル・マレンコフ外相との会談は大きな進展になったと書かれてある。液化ガスパイプライン、これが確立されれば、輸送コストが削減されて、原発より安くエネルギーを確保することが出来る。すべてガスにする事は出来ないというか、しない方が安全だが、今一つ威力と安定に欠ける太陽光エネルギーよりは安定した供給となるだろう。

はっと目を開けた。輸送・・・確か、レニー・ライン・カンパニーは、中東やアフリカから産出するガスの流通輸送を手掛けていなかったか?

もう一度目を閉じ、記憶にあるレニー・ライン・カンパニーの企業組織図を頭に表示し探す。中東、アジア、ロシア、アメリカ、ヨーロッパ、世界各地、何枚にもなる各大陸の組織図、1枚1枚、確認していく。

あった。やっぱり・・・

石油や、商品輸送に比べて規模は小さいが、輸送項目リストに載っている。もし藤木大臣が進めているロシアの液化ガスパイプラインが成功すれば、レニー・ラインの儲けはなくなる?いや、それはないか。今現在、日本が買い付けているガスは他国に比べて大した量ではない。

おまけにレニー・ラインの流通網に日本は乗っかっていないはず。日本は確か、エネルギー産業省と御田造船が作った半国営流通企業の、えーと、なんて名前だったかな・・・・くそっ、パソコンみたいに検索でも出来れば簡単に必要なニュースを取り出す事が出来るのに、記憶は完璧でも、検索機能がお粗末では何の役にも立たない。

まぁいい、とにかく日本は元々レニー・ライン・カンパニーとの繋がりはあまり強くはない。レニー・ライン・カンパニー・アジアでマーケットが大きいのはやっぱり中国で、アジア大陸の統括本部も香港にある。また嫌な不穏が胸を熱くする。

りのちゃんたちは、来月の末に香港に修学旅行に行く。

「駄目だな・・・。」目頭をつまんでマッサージをする。

怯えすぎているのだろうか、何もかもレニーに行きつくような思考回路になっている。

あいつは、ロシア大使の職員という肩書がある。何故、レニー・ライン・カンパニー・アジアの人間が、ロシア大使館の職員であるか?いくら調べても、わからなかった。

校内のチャイムが微かに聞こえてきた。時間切れだ。頭に表示させていたガス関係の紙面をすべて消す。次は六法全書を頭に表示しなければならない。っても、教授の声を子守唄にして寝るのは必至。昨日は文香さん達の晩酌で4時間ぐらいしか寝ていない。その前日は康汰にベッドを取られて一睡もしてないし。

(あっ、そうだ康汰にも連絡取らなくては、黒川和樹はあの後どうなったかな。)







康汰の通う高校に行ってみた。康汰は警察官になるために、柔道部に入部しているが、アルバイトが忙しく中々練習に行けないと言っていたから、学校にいる可能性は薄いけれど、念のため。クリスマスの今日、各クラブは早々に終わったのか、元から休みだったのかは知らないが、3時半の現在は門も閉まっていて、覗いた校庭に人の姿はなく校舎もひっそりとしていた。

どこにアルバイトに行っているのか、ちゃんと聞いておけば良かったと後悔。暇さえあれば日雇いのバイトや、深夜のバイトも入れているとは聞いていたけれど、様々に変わる勤務場所を康太がマメに報告してくることもなく、僕も聞かなかった。月に1度、差し入れを持って来ても居なかったりして、たまに居たと思ったら深夜のバイトまで寝かせてくれとまともに、話す事も遊ぶこともなかった。僕と康汰は、ボロいアパートの一室で、大人の都合に反撃が出来る日を、ひたすら待ち望んで身を寄せていた。

康汰の部屋に何かアルバイト先の手がかりがなかったか、目をつぶり、アパートの部屋で記憶した活字を頭の中に次々と表示して確認していく。お菓子の袋の成分表、弁当屋のチラシ、高校でもらってくる手紙、警察官採用試験の案内、アルバイト情報誌、警察官採用試験問題集、ポケットティッシュの裏のチラシ・・・・・このポケットティッシュ、何個も同じ物が部屋にあった。もしかして、バイト先でもらってきてイる物かも。

僕はポケットティッシュの裏の居酒屋の住所を記憶上で確認して、その場所に足を向けた。

さっき降りた駅前にある居酒屋で、まだ準備中となっていたけど、中で店長らしき人がテーブルを拭いていたから聞いて見る。やっぱり康汰はここでアルバイトしていた。だけど、今日から数日休むと連絡が、ついさっきあったところだと言う。

『今、どこにいるか、言ってませんでしたか?』

『言ってないよ、とにかくしばらく休むってだけ言って、切られた。』

『そうですか。』

『困るんだよね~。年末の忙しい時に休まれると、君、知り合いなら言っといてよ、早くバイトに来いって』

『すみません。』

康汰が、数日休むと連絡があったという事は、里香の事を知って仙台に向かったと考えるべきか。それならば・・・何だか、康汰に置いてきぼりされたようで悲しくなった。僕も一刻も早く仙台に行きたいのに、無駄に時間だけが過ぎていく。とりあえず、康太のアパートに戻った。康太が仙台に行った確証はなく、アパートに戻ってきているかもしれないという僅かな期待をして、でも、やっぱり康太は帰ってきていない。どうするか?時間が経てば経つほど、康太は仙台に行ってしまったという確証が確立されていく。僕の所持金は1000円足らず、これで、どうやって仙台に行くか。アパート周りを意味もなく歩く。

そうしているうちにアパート前の細い道に一台のタクシーが止まった。タクシーから降りてきたのは、学校法人翔柴会の総一郎会長の秘書であり、会長の長男、信夫理事長の妻、柴崎文香さん。

は、僕を見つけると、眉間を寄せて渋い表情をした。

怒られる。勝手に寮を飛び出した。割れたコップもそのままに、外出許可もとってない。僕を連れ戻しに来た。もう仙台には行けない。俯いて、叱られる言葉を待った。

女の人特有の柔らかい感触が顔に当たる。抱きしめられていた。

『ふ、文香さん?あ、あの・・・』

『良かった。』そう、小さくつぶやいた文香さんは、さらに強く僕を抱きしめた。

『あの、す、すみません僕、』

僕は抱きしめられている状況が恥ずかしくなって、文香さんの腕からもがいて離れた。文香さんは目を細めて僕を見つめた後、うなづいて『行きましょう。』と踵を返す。

寮や学園には帰りたくなかった。だからと言って、どこにも行くところはなくて、行きたいのは仙台だけ。

『僕は・・・』

『仙台に行きたいのでしょう。タクシーに乗りなさい。』

『!』

文香さんが国内線の搭乗チケットを買っている姿を見て、やっぱりお金の力は凄いなと思った。僕が小銭しか入っていない財布を握りしめて仙台に行く方法に悩んでいるのを、あのクレジットカードは、スキャンするだけで叶えてしまった。この空港に来るのだってタクシーで30分しかかからなかった。お金は時間をも買う事が出来る。

『4時50分発の仙台行きが取れたわ、少し時間があるから・・・お腹は空いていない?』

『大丈夫です。』

『そう・・・足、割れたガラスコップを踏んだと聞いたわ。どうしたの?処置は?』

『あっえーと、そのままに。』

痛みもなかった。寮は冷暖房完備されていて、冬は変に暑かったりするから、今日は朝から靴下も履かずに過ごしていた。寮内ではスリッパを履くようにと言われていけど、皆、歩きにくいから履いてない者が多かった。僕も皆と同じで、裸足のまま食堂にお茶を入れに来て、落としてコップを割り、そして破片を踏んだ。そのままスニーカーを履いて飛び出して来ていたから、靴の中が血で汚れてしまっていた。もう血は乾いていたけれど、文香さんが空港内の救護施設へと連れて行ってくれて、処置をされた。買ってくれた新しい靴下を履く。

搭乗口前にて温かいココアのカップを渡される。飲む気になれなかったけれど、好意を無視するわけにいかず、一口、口に含むと止まらなくなって、一気に飲み干した。体内をココアが通るのが分かるほどに、僕の体は冷えていたんだと気づく。

『あ、あの、麗香ちゃんは』

屋敷に行けば、母親である文香さんの周りをチヨロチヨロと縋り付き、泣き、笑い、怒りの表現を力づくでしていた麗香ちゃんは、どんな時も必ず文香さんや総一郎会長、そしてお手伝いさんや世話人がそばに居て、施設で放置されていた里香や僕らとは違う命の存在が、あからさまにそこにあった。甘えん坊の麗香ちゃんは三才、母親が居なくて大丈夫なんだろうかと思った。

『凱斗、こんな時ぐらい、会長の言葉は忘れなさい。』

僕は、今、人生の査定の真っ最中。《柴崎家の養子として、麗香の補佐人として、ふさわしいかどうか、見させてもらおう》と総一郎会長から命を受けた。月に一度、寮に車が止まり、何の予告もなく柴崎家の屋敷に連れていかれる。そして会長と文香さんと麗香ちゃんとで夕食を頂く。メニューは和食であったり、フランス料理のフルコースであったり、イタリア料理であったり、さまざまだった。作法なんて知らないから、戸惑っていたら、文香さんが教えてくれる。その様子を会長は黙って見ていた。食事が終われば、麗香ちゃんのお相手をする。それら一連の中での僕の行動が、査定なんだという事は、早い段階で気づいていた。

今回の事で、僕はきっと、柴崎家の査定に落ちる事になるだろう。寮を勝手に抜け出した悪い子であるのだから。もう、そんな事はどうでも良かった。

『仙台に行くなんて勝手なことをしたら、会長に叱られるのでは?』

『心配しなくても大丈夫よ。』

『僕は、叱られてもいいです。だけど、文香さんが叱られるのは。』

『ありがとう。凱斗は優しいわね。』

僕は優しくなんかない。これを言えば査定に響かない、柴崎家が求めている言葉を選んで口にしているだけ。

もうどうでもいいと思いながら、癖のようになった繕った言葉選びをしているだけだった。

『私も叱られてもいいの。それよりも自分の子供が悲痛の思いをしているのを、ほっとけないわ。』

『いえ、僕は、まだ柴崎家の子では・・・』

『そう、ね。ごめんなさい、私の独りよがり。』

そう言って、文香さんは僕から目をそらした。





48時間ぶりに横浜の自身のマンションに戻った。取られて困る物は何もないけど、一瞬、警察を呼ぼうかと思った。

「康汰!お前、何だ!このありさまは!」

「あぁ?何の事だ?」

「部屋だよ!部屋、好き勝手やりやがって、ごみぐらい捨てていけよ!」

部屋は、とんでもない有様になっていた。酒の瓶は床に転がっているし、食べ終わった弁当のプラスチックゴミはそのまんま置いてあるし、つまみの菓子くずも床に散らばっている。新聞と雑誌は広げっぱなし、ベッドの布団も引きずって、リビングまで伸びている。シャワーを使ったであろう脱衣所には、バスタオルが無造作に床に落ちて。洗面所の床も水浸し。

康汰が起きてから、部屋を出るまでの時間、どう時間をつぶしていたか、ありありと想像できる光景だった。

「あぁ、その家、居心地いいな。」

「俺は居心地が悪い!」

「まぁ、そう怒るなよ、もう少ししたら帰るから。」

「はぁ?」

と、携帯を耳に顔をしかめていると、玄関の鍵がガチャとロック解除されて扉が開いた。

「なっ、何で鍵・・・」

康汰にここの鍵を渡した覚えはない。家はホテルのドアのように自動で鍵が閉まる。だから、外に行く時は絶対にカードキーを持って出なくてはならない。この弁当やらつまみは下のコンビニで買ってきた物、康汰が外に出てしまったら、2度とこの部屋には入れないはず。なのに・・・

「刑事の俺に何でって聞くか?あほ。」

予備のカードキーをヒラヒラさせて見せてニヤつく康太。見れば鍵を保管していたテレビの引き出しは、5ミリほど閉まりきっていない。

「まさかっ、昨日も、ここに泊まり込んだんじゃないだろうな。」

「なんかまずい事でもあんのかぁ?」わが物顔で靴を脱ぎ入ってくる。

「俺は寂しかったぞ、可愛い弟が帰ってこなくてな。」

手に力を籠めて握り一歩右足をひく。左足に重心をかけて一気に康汰のこめかみをめがけて蹴りあげた。が、それはガードされた。すぐに左右の突き、それも腕でブロックされる。隙を与えず、右足を軸に左足回し蹴り、も決まらず、その足を取られて、ひっくり返され、柔道の寝技で一本取られた。

「けっ、俺に勝とうなんて10年早いわ」と服装を正す康汰。

「そのスーツも俺のじゃねーかっ」

「あぁ、流石だな、柴崎家のお坊ちゃんは、良い物を着ていらっしゃる。着心地いいねぇ。」

「出てけっ!」

って叫んでも、康汰は聞く耳持たず、我が物顔で冷蔵庫から缶ビールを出し、ベランダのベンチで「ぶはー」と息を吐いた。

「俺は、おっさんと同居するつもりは、ないからなっ!帰れよ。」

「凱斗、お前、鈍ってんぞ~」

「話、逸らすなっ!それに康汰こそ、んだよっ、その腹、出てきてんぞ。」

との忠告も無視して、つまみのチーズまでも食うありさま。

康汰が散らかしたゴミをかき集めて、きれいにした。軍時代のサバイバル経験から、傘をささずに濡れたまま過ごせたり、何日も風呂も入らず、明かりのない暗闇で生活することも、眠らない夜を過ごすこともなどの無頓着に生きれるが、この食べ残しのゴミだけは許されない。ここがジャングルだったら、動物や敵に、ここで休憩しましたと言っているようなものだ。やっと部屋を綺麗にして、康太と同じく冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して、康太の隣に座る。

「あの後、どうだった?」

「あの後、飯を食いに行った。」

「へぇー、親しくなったじゃないか。」

「そこの安い店だけどな。」と中華街の方角をビール缶の持った手で刺し示す。

「やっぱ広樹に似ている、笑い方とか。だけど・・・和樹はちょっと何するか、わからんやんちゃさがあるな、広樹は生真面目で気弱なとこがあったが。」

「やっぱ康汰も、そう思うか?」

「何をやらかしたんだ?万引きか?タバコか?」

おざなりの不良少年がやらかす罪なら、まだ可愛げがある。

「違うよ。」

「お前が動いているって事は何か問題を起こしたと、そこは、あえて話題にしなかったが。」

「ハッキングだよ。常翔学園の名簿を盗んで売った。」

「和樹が?」

「あぁ、売った金を貯めて、もっと性能のいいパソコンを買いたかったと、兄の死を調べる為に。」

「兄の死を調べるって・・・まさか警察のデーターベースに?」

「あぁ、それが最終目標だった。それを知れば、ハッキングはもうしないと約束したから、お前にあれを依頼した。」

「和樹は、そこまで・・・・ん?お前、バラテンが言っていたパソコン・・・まさか和樹に使わせるつもりじゃ。」

「・・・・・・」

「凱斗!お前、何を考えてる!和樹に何させるつもりだ!」

英「聖なる犠牲」

「あぁ?」

「去年、学園の教頭が起こした件、覚えているか?」

「あぁ、覚えているが?」

「俺は、学園の平穏を優先して事件をもみ消した。真辺さんにも頭を下げて、柴崎家が責任を持ってサポートするからと約束して、黙っていてもらうように・・・母子家庭で立場的にも経済的にも弱者でいる真辺親子を、柴崎家の財と権力で脅したようなもんだ。」

康太は訝し気な表情をしながらも黙ったまま、缶ビールも飲まずに聞く。

「あの時、俺は間違った選択をしたのかもしれない。学園の平穏なんて無視して事件を公にし、世間の目を常翔に向けて、あいつの行動を制限する方が最大の防御だったのかもしれない。」

「あいつ?谷村教頭のことか?」

「違う・・・・谷村はエサに過ぎない、あの盗品売買の後ろにはデカイクジラが泳いでいる。」

「面倒くせぇな、はっきり言え!」

「レニー・グランド・佐竹が、あの盗品売買の黒幕だ。」

「レニーって、あの世界の?」

「あぁ、佐竹は、世界流通企業レニー・ライン・カンパニーのアジア統括本部のジャパンマネージャー。」

常翔学園の学園祭が行われた夜、怪我を負ったりのちゃんを救急車に乗せて見送ったあと、警察組織には連絡せず、康汰個人に来てもらっていた。その時、康太にはレニー・グランド・佐竹の事は伏せて、教頭が盗難美術品を個人的に売買収集していた事実を、真辺りのという生徒に見つかり、教頭は焦って生徒を殴るという暴行をした。と説明していた。康太に佐竹の存在を隠したのは、「警察には言わない」を切り札にしようと考えての事だったが、りのちゃんや麗香までも狙われているとなれば、もうそんな浅はかな切り札ではダメだ。

これまで、バラテンから紹介されたハッカーが集めたレニー・グランド・佐竹の情報をすべて康太に話した。

「厄介な奴に目をつけられたな。」聞き終えた康太は、そう言って缶ビールを飲み干した。

「だから困っている。」

「んで、和樹に手伝わすってか?」

「それしか、方法がない。」

「はあ~」

大きなため息をついた康汰は、ベンチから立ち上がると、部屋に戻り、さっきまで着ていた俺のスーツをまた着始めた。

「康汰?」

「公安国際部に警察学校時代の同期がいる。」

「今から?」

「人の少ない夜の方が頼みやすい。」

「ありがとう」

「知って俺だけが無視できない。お前はそれを見込んで俺に話したのだろ。」

「ごめん。」

「しばらく、ここの鍵、借りとくぞ。」

「あぁ、好きに使ってくれ。」

康太は振り返りもせず、部屋から出て行った。

さて、康汰が動くのに自分だけ、ここで寝てるわけには行かない。時計を見る。10時26分、良い時間だ。

あまり、あそこには行きたくないけど仕方ない。一瞬、着替えるか?と考えたけれど、スーツ姿のサラリーマンも沢山いる場所だから逆にいいかもしれないと、ソファーの上に投げおいていた上着をひっつかみ外へ出る。






運命って何だろう。誰が、その運命の采配をしているのだろう。神さま?それとも、人間?

記憶にある辞書や本を、片っ端しからめくっていく。国語辞典、広辞苑、和英辞典、ことわざ辞典、哲学書、数学公式書、まだ途中の医学書、科学書、歴史書・・・・どこにも目的の答えが載っていない。

里香が死ななければならなかった理由。

里香が12歳で死ぬ運命は、誰が決めた?

僕と文香さんは、警察の施設、宮城県警監察医局という場所で康汰と会った。

康汰は里香の遺族として、容疑者の息子として、警察から事情を聞かれていた。

『辞書に答えはあった?』文香さんは悲痛な微笑みで僕を見る。

どうして、僕が頭の中で辞書をめくっていた事が、わかったのだろう。そう言えば、この人は、いつも僕が疲れている事を言い出せない時に、タイミング良く休憩をと脳検査の人の調査を止めていた。

『私には、わかるの・・・』

わかる?わかるって何?この人に何がわかる?

『僕の記憶力は、何の為にあるんですか?欲しい答えはどこにもない。こんなに沢山の辞書や本が文字が、頭の中にあるのに、どこにも、里香が死ななければならない理由が載っていない。』

『凱斗・・・』

急に怒りが堰を切ったように出て来た。

『テストを満点にする為の能力なんて要らない!僕は里香の病気を医者になって治すと約束した。だから柴崎家に買われた!あなたに何がわかる。物に耳を傾けない大人に、何がわかる!』

『そうね、わかっていても何もしなければ、わかっていないのと同じね。』

『僕は・・・』

『ごめんなさい、力のない私を許して、凱斗。』

僕よりも先に泣いてしまった文香さん。僕は冷酷にも、何故、里香の事を知らないあんたが泣くんだと、心の中で責めた。

文香さんが康汰に変わって、すべての法的手続きをやった。

葬儀は行わず、僧侶が焼却炉の前でお経を読むだけ。死んでも里香は、質素に満足の行く施しが与えられない。

里香は、大きな虹を見られないまま死んだ。

ずっと無表情で黙っていた康汰が、焼却炉を見つめて口を開いた。

『間に合わなかった・・・・あと3か月、警察官になったら里香を、あいつらから取り戻すつもりでいた。あと少しだったのに。いや、高校なんて行かずに働いて、里香をあいつになんかに渡さず、俺のそばにおいておけば、里香は死なずに済んだ。』

『それを言うなら、僕だって・・・一体どれだけ悠長な約束をしたんだ。』

『時間さえも、大人の都合かよ!』

康汰が、シミのついた火葬場のコンクリートの壁を殴った。康汰が泣く姿を見て、やっと僕も涙が出て来た。

僕と康汰は里香の体が焼かれる火葬炉からの熱を感じながら、うずくまり泣いた。

『凱ちゃん、今度、虹が出たら一緒にお願いしよう。』

『里香、もう少し待って、里香の病気は、僕が医者になって治すから。』

里香ごめん。間に合わなくて。





「あら~いいわぁ、タイプよ、おにぃさん。」

「若いのにぃ、一人でここに来るなんて、中々の好きものねぇ。」

「やだ、私が最初に声かけたのよ、盗らないでちょうだい。」

「なぁによぉ、後先なんて関係ないのよこの世界は、魅力よ、魅力。」

(おわー、だから、ここには来たくなかったんだ。)

新宿歌舞伎町、いわゆるオカマ街と呼ばれる一角の店に入った途端、きつい香水の匂いのする女、いや男に取り囲まれた。

「ごめんねぇ、おねぇ様方、僕は、ママに用があってねぇ。」

「きゃー可愛い、僕だってぇ。」

「お子様はまだママのおっぱいを求めるのね。」

(あー言葉の選択を間違えたぁ)前に進めない。

「いや・・・・だからねぇ」

お姉さま方が、尻やら胸を撫でまくってくる。背中に鳥肌が立った。

最近のニューハーフは本当に男だとわからないぐらい綺麗な子が多いけれど、ここの店は、お世辞にもきれいとは言えない女、じゃなくて男が揃っている。それでも店は繁盛していて、今日は金曜日だから尚更、テーブル席は満席だった。

「いや、ほんと、ごめん、ちょっと先に進ませて。」

しつこいオカマをかわして、やっとカウンター席に手をつく。

「ふふふ、もう少し相手してあげてよぉ。カイちゃんみたいな上玉、中々居ないんだから。」

「見てねーで、助けろよ。」

これ以上の濃い顔の人間を見たことがないママは、ポルトガル人のおかまである。このママも紛争地アルベール・テラのナショナルチームで仲間だった一人。胸元を大きく開けた赤いサテンのブラウスから、軍で鍛えた筋肉と胸毛が覗く。

カウンター席でママと喋っていたら、なぜか他のオカマは寄ってこない。そういうのが店のルールなのか、詳しくは知らないし、知りたくもない。

「どっちをぉ。」

「俺だよ。ったく、もっとかわいい子、雇えよ。」

「はぁー、カイちゃんはわかってないわねぇ、やっぱりあの時、犯しとくんだったわぁ。いいチャンスだったのにぃ。あのミッション唯一のミス。」

と人差し指を顎に持って行き、少し上を向いてかわいらしさアピールしているのだけど、今年度、最大の鳥肌が全身を巡る。

「あのミッションはノーミスだ!それにあん時、犯られてたら、ラストとは絶縁してる。」

「カイ、ここで、その名前はやめて頂戴。」

「あぁ悪い。」

ラストはママの兵士時代のコードネーム。

動物は常に自分の生きた証である遺伝子を残す事を定とし、生涯の行動に無駄がない。人間も同じだ。銃弾飛び交う戦場、死が当たり前の世界では、本能は野生化し思考は単純化される。米軍にいた時代、内部で周知の噂があった。ナショナルチーム内は、必ず一人は同性愛者がいるという。エンドレス・シンのマスターが率いたチームに配属された時、その噂は本当だったと嘆いた。その同性愛者がこのオカマバーのラストだ。ラストのコードネームは、関係を持てば、いろんな意味で最後だという意味でつけられたとか、ないとか。ラストは「色欲」と言う意味もあり誰が名付けたかは知らないが、中々センスある。ラストは新人の俺をとても気にかけて可愛がってくれた。いや、言葉の選択を間違った。誤解なく、ラストと関係を持ったことは神に誓って一度もない。

ラストは日本人であり新人と言うだけで、他の隊員からの誹謗中傷や暴力などによるストレスのはけ口から守ってくれたのだ。ラストは後に言った。異質なほどにカイは若かった。前線のチームに来るはずのない年齢だったと。

そんな恩義があったから、チームを解散し軍を脱退する時、ラストを日本に呼び寄せた。それから5年、日本語もうまくなった

「なんにする?」

「テキーラと・・・・蘭の花を、用意して欲しい。」

ラストの表情が固まった。


ラン科の種はラン(蘭)と総称される。英語では「Orchid(オーキッド)」で、ギリシャ語の睾丸を意味する「ορχις (orchis)」が語源であるが、これはランの塊茎(バルブ)が睾丸に似ていることに由来する。


「最上級の花を頼む。」

「やっぱり、あんたを物にしとけばよかったわ。私はカイとやれなかった後悔を一生背負って生きていかなくちゃいけないのね。」ラストは首を振り、ため息を吐いた。

「縁起でもない事、言うなよ。」

「せっかく守ってあげたのに。」

「感謝している。」

ラストは無言で責めた眼で見つめてくる

「方法がないんだ。」耐えきれず、こちらから視線を外した。ラストはテキーラの入ったグラスを置くと、奥に引っ込む。

味のわからない酒を一気飲みした。しばらくしてラストが戻ってきて口を開く。

「蘭の花は12:00に届くわ、最高のを用意したわよ」

「助かるよ。」





康汰が小さな白い箱を持って火葬場から出てきた。どこかわからない一点を見つめ生気がない。その康汰を文香さんが腕をつかみ歩みを止めた。康太はわずかに文香さんの方へと顔を向けはしたけれど、その声は耳に入っていないよう。目に怒りがない康太を僕は初めて見た。

『駄目よ。』

『・・・・』

『篠原君!』

『・・・・』

『篠原君、私を、憎みなさい!恨みなさい!里香さんを殺したのは、私よ。』

『文香さん、何を言って・・・』僕は文香さんの言葉の意味が分からず戸惑う。

『児童養護施設の支援金の打ち切りを、私は止める事が出来なかった。力がなかった。そんな言い訳をしても、里香さんの命は帰らない。』

『・・・・』

『篠原康汰、私を恨んで生きなさい。里香さんの分まで憎んで生きなさい!』

康太はゆっくりと文香さんへと顔を向ける。ゆっくりと目に怒りが戻る。康太の怒りは生気の源だ。

文香さんが掴んでいた手を、康太は大きく振り払った。

『俺を生かすのか?』

『えぇ・・・・』

『それも、大人の都合か。』

『そう思われても構わない。あなたが生きるのなら。』

唇を噛んで文香さんを睨みつける康太。

『私を恨み、憎んで、いつか、どうしようもなくなった時は、いつでも私を殺しに来なさい。』

『酷いな、あんた。今までに一番辛い、縛りを俺にかけた。』

『そうよ、私は酷い人間、だから憎みなさい。生きる為に私を恨むのよ、篠原康汰。』

そう言って、文香さんは康汰を包み込むように抱きしめた。康汰は里香の遺骨をもったまま、動かない。

こんな時なのに、僕は文香さんを康汰に取られた気がして・・・嫉妬した。






「趣味わりぃ・・・・」

そこにあるものすべてが赤い。ラストの店の二階の一室、ダブルベッドのベッドカバーが、ラストの着ていたブラウスと同じ、テロンテロンの赤い生地だった。せめて、近くのホテルに呼んで貰うんだったと後悔するも後の祭りである。

仕方なく諦める。ここなら盗聴や盗撮類の心配はない、その点は軍で培ったラストの警戒心は信頼がある。

ノックなしで扉が開いた。時間ぴったり、それで依頼する相手の半分を信用する。

「あら?・・・まさか後からおじさまが来るなんて話じゃないわよね。」

「おじさまじゃないとダメかな?」

「いいえ。今日は良い日になりそうだわ。」

(俺は、最悪の日になりそうだけどなぁ。)との思いは、早々に封印する。

ラストが最高のを用意したって言うだけあって、戸籍上が男と知らなければ、見た目もボディも最高の女だ。

「若いけど、私は高いわよ。」女が艶めかしく頬を触る。

「ママが繋いだ時点で、その心配がないのはわかってるんじゃないのか?」

「じゃぁ、本当に最高ランクで受けてもいいのね。」

「かまわないよ。」

「ふふふ、本当にわかってる?」

女が肩から小さなバッグをおろし、俺のシャツのボタンを外していく。

「こっちの方も最高ランクじゃないと、私は仕事を受けないって言っているのよ。」

「それは、それは、どうも、プレッシャーをかけていただいて。」

「可愛いわね。」

世の中には売春防止法と言う法律がある。女がセックスで金を稼ぐ事を禁止する法律。だが、そんなのは先進国だけ、死なないために身体を売る手段を当たり前に武器とする女は、世界にいくらでもいる。

それを駄目だというのは決まって死なない場所を確保している奴。彼女らは、そのバカげた法律にこう言うだろう。駄目なら、私達の明日の安全と生活を保証してよ。と。まっ、そんな現実を嘆いても、今日相手する女はオカマで、売春防止法は適用しない?か?

記憶の六法全書をめくる余裕がない・・・。

依頼は受けてもらわないと困るのはこっちで、受けるか受けないかは・・・・相手次第、いや自分次第か?

「合、格・・・よ。」

「そ、りゃ・・・・どう・・も。」

きつい・・・・やっと女に合格を貰えた。

セックスでここまで息を切らしたのは初めてだ。何だかなぁ弁護士試験に合格した時よりうれしいって・・・

「で、誰がターゲット?」

「ロシア大使館の職員。レニー・グランド・佐竹。情報は何でも欲しいが、一番欲しいのは、彼の本名。」

「その男、いい男?」

「あぁ、それこそ、いいおじさまだよ。」

「問題ないわ。おじさま得意なの。」

と上目づかいで首をかしげる仕草に可愛いと思ってしまった。

(駄目だ、馬鹿、自身がトラップにかかってどうする。)

紛れもなく、最高ランクのハニートラップだ。
























部屋は静かだった。大久保が居心地悪そうにしているのはわかっていたけど、無視していた。

冬休みの宿題はとっくに、全部終わらせていた。理事長から提供されていた高校の教科書の記憶も済ませてあったし、理解の為の予習もやってしまった。やる事がないから、記憶にある英和辞典を最初のページからノートに丸写しをしていった。すぐにノートは無くなって、買いに行くのも面倒だから、一階の廃品回収の中から、広告の裏が白い紙や、管理人室のコピー用紙の裏紙など貰ってきて書き続けていた。

何かしていないと、里香の事を思い出してしまう。だから無駄な事をしていた。普通の人だったら、英単語を覚える為の勉強という状況だろうけれど、辞書を丸ごと覚えている僕は、シャーペンの芯と紙を無駄に減らしてゴミを作っているだけの作業だ。それを大久保は知っているから、たまるゴミを見て顔をしかめる。

『大野、明後日からの封鎖期間はどうすんねん?』

『・・・・・』

寮は、冬休みの正月前後の一週間は封鎖される。夏休みのお盆の季節も同じで、その間は、何が何でも親元に帰れという学園の配慮である。でも僕は帰る家なんて無いから、いつも柴崎家に滞在する。そこで会長の監視の元、麗香ちゃんの遊び相手をしたりする。

そのことは大久保だって知っている。答える必要のない質問だから無視した。

『大野・・・・俺ん家、けぇへんか?』

書き綴っていた手を止めて、振り返った。

久しぶりに大久保とまともに目を合わす。単純馬鹿にそれを喜んで、テンションを上げた大久保。

『たこ焼き!うまいの食べたことないやろ!関東のたこ焼きは、まだまだや、大阪のと、ぜんせん違うからな。な、奢ったるから、俺ん家来いよ。』

大野の実家は大阪、新幹線で往復3万はかかる。

『金ない。』バカげた提案も、これを言えば黙るだろうと、突き放すように言ってやった。

『れなら、大丈夫や、青春切符ってのがあるねん。冬休みの間、全国乗り降り自由でな、学生証見せたら、6千円で買えるんや。俺の帰省の新幹線代で大野の分も買える。帰りの分の金は、向うでおかんに貰ったらいいしな。』

こいつは、本当に馬鹿なんじゃないだろうか。たこ焼きを奢る為だけに、自分の新幹線代を在来線の切符に変えてまで、僕を大阪に連れて行こうとする。一体何だって、僕の事に、気にかけるんだと不思議でならない。だから僕は、この苦労知らずの馬鹿を困らす為に、大阪行きの提案を受けた。





文香さんへの定時連絡を終えて部屋を出ようとした時、呼び止められる。

「凱斗・・・・何か困っている事があるんじゃなくて?」

「え?」

「この間のお酒の席で言ってくれるかと思っていたんだけど・・・理事長も参加しちゃったしね。」

「いえ、何も、ありません。」

「・・・・・」文香さんは目を細めて真意を探る。隠し事は出来ないとわかっていても、話す事は出来ない。嘘だとバレバレでも突き通す。

「困ったことがあれば、一番に相談しますよ。」

「そう・・・。」文香さんが寂しそうな表情をする。

「失礼します。」

視線から逃げるように部屋を出た。廊下玄関ロビーで、二階から降りて来た麗香と鉢合わせになる。

「凱兄さん、もう帰るの?」

「あぁ。」

「あのね、今度の土曜日、弓道の試合結果の情報が入り次第、私の携帯に連絡くれない?」

「りのちゃんに、ついていくんじゃなかったのか?」

「そのつもりだったけど・・・、美月にテニス部の試合に出ろと言われちゃって。」

「ふーん。」

麗香は微妙な顔をして視線をそらした。

(何かあったな、これは。文香さんが前に落ち込んでいたと言うのは、これかもしれない。)

「いいよ、枝島先生に、速報を知らせてもらうよう頼む。」

「ありがとう。お願いね。」と麗香が言ったと同時に、携帯の着信音が鳴る。相手は康汰から。

「凱斗!あいつ、死んでいたんだ。」

「あいつって誰?」

「教頭だよ。谷村教頭!あの事件の一週間後、交通事故で死んでいる。」

「一週間後?嘘だろ。学園には何も知らせは無かったぞ。」

「解雇された学園に言うのは気が引けたんじゃないか?遺族も。」

「うーん。」

「しかし、交通事故といっても、消された可能性が高い。」

「消された?」

「あぁ、谷村が死んだのは朝の6時半、神奈川に居る時から毎朝6時15分に家を出て散歩するのが日課だったそうだ。で、いつものごとく家を出で、いつもの散歩コースの途中で事故にあった。だが目撃情報が一切ない、それに手がかりになる車の衝撃痕も恐ろしく少ない。長野県警の担当刑事は、珍しいケースだと頭抱えていたが、プロの仕業だ。あるんだ、足がつかないように交通事故に見せかける殺し方が。」

「佐竹が・・・こ」言いかけて、慌てて口を噤んだ。

麗香がまだそばに居て不審に見上げている。

「康汰、悪い、かけなおす。」電話を切る。

「どうしたの?」

「施設時代の知り合いが交通事故に合って、轢いたやつが逃げているらしくて、まだ捕まってないんだ。」

「やだぁ、本当?」

「あぁ、幸い命に別状はなかったからな。今から見舞いに行ってくるよ。麗香も気を付けろよ。」麗香の頭をわしづかみにして撫でる。

「もう!小学生じゃないだから。」ヘアースタイルを乱されて怒る麗香、見上げる麗しい黒目は、はいはいして足にしがみついて来た昔と変わらない。あの時、思った。(こんなにかわいい子の補佐が僕の仕事だなんて、頑張らなくちゃ。)と。

「まだまだ子供だよ、麗香は。じゃな。」

「もう!」麗香の怒りの声を背に受け、玄関を出る。

教頭が、あの事件の一週間後に消されている。盗品売買の口封じである事は簡単に予測がつく。この日本で、日常的に銃を持ち歩いている佐竹なら、やりかねない。まして、あの世界のレニーの後ろ盾もあるのだ。人一人この世から消す事など簡単。しかし、谷村教頭が口封じに消されたのに、何故、りのちゃんは消されない?記憶喪失だからか?でも顔は見られている。

あの事件の夜、康汰が来るまで、教頭に尋問した。

レニー・グランド・佐竹が学園に到着し、殴られて意識を失っていたりのちゃんを、美術準備室から校長室へと移動させた。校長室で意識を戻したりのちゃんに、佐竹はロシア語を確認する為に話しかけたという。

露「ロシア語は得意か?」との質問に、りのちゃんは

露「日本語よりは」と答えたらしい。

露「何故あれが盗品だとわかった?」の問いには

露「調べたから」と答えた。

りのちゃんが、谷村教頭との電話を聞いていた事、昨年、夜の学園に忍び込み、オークション会場にしていた現場を見た事を知った佐竹は、りのちゃんの首を絞めて再度、気を失わせ、手下に屋上から落とすよう指示した。

病院のカルテまで盗んで、りのちゃんの身辺情報を手に入れている佐竹はなぜ、目撃者のりのちゃんを生かしている?りのちゃんがまだ子供だからか?記憶を取り戻し、警察へ告発した所で誰も信用しないと踏んでいるからか?いや、そんな甘い考えをするような人間とは思えない。銃所持に厳しい日本で、ごく普通に懐に銃を忍ばせて、平然と引き金を引こうとしたレニー・グランド・佐竹は。



露『騒がしいのは嫌いでね。帰るとしよう。』

『待て!』

落ち着きを払ったレニー・グランド・佐竹は、ソファーから立ち上がり、

スーツの襟を正して俺の前を平然と目の前を通り過ぎようとした。

逃がしはしない、佐竹の肩を掴んだ。瞬間、肌に刺すような危機を察知した。

それは、思考よりも早く腕へ伝わり、佐竹の肩から手を放させた。

銃のセーフティを解除する無音の振動に、降参のポーズをせざるえない。唾を飲み込んだ。

佐竹は、微笑んだまま目を見張る。

『ほぉ・・・心得があるとは珍しいな。その若さ、日本人で。』

俺を、ゆっくりと全身を見定めていく佐竹。おそらく10秒あるかないか、それが何分にも感じられた。

いつ、その引き金を引かれるかわからない恐怖。佐竹の微笑みは崩れない。


露『私にも調べられるルートがある。面白いものが拾えそうだな。」

銃のセーフティをかけなおす音を聞き分けた。

『柴崎凱斗、覚えておこう』

俺の肩をポンと叩き、優雅に部屋を出て行く佐竹。

息を大きく吐き出した反動でやっと息が据えて、止めていたんだとわかった。





大阪までの道中、大久保は無計画に、気になる場所を見つけては下車していて。僕はそんな大久保に、一切の口は出さないと決めていた。

『何で言ってくれへんのや。お前の記憶力は何の為にあんねん。ったくもう、電車あらへんやん。うわーマジかよ。ここで野宿かぁ?』

大久保のバカが、小さな無人駅の色あせた時刻表と掲示板をみて騒いでいる。

ダムがあると知った久保が、見たいとこの駅に降りた時、僕は汚れの染みついた掲示板に貼ってあった臨時運休を知らせる小さな張り紙と時刻表を見て記憶していた。今日は17:55以降の電車が臨時運休で無い事を、馬鹿みたいにはしゃいでいる大久保には、あえて教えなかった。

『無計画に行動するからだ。』

『なんやねん。その無計画を知ってて、黙ってついてくるお前は、どうやっちゅうねん。大体なぁ、いい加減にしろよな、その辛気臭い顔、世の中で一番の不幸を背負ってます、みたいな。うざいわ~』

『世の中、何でもお笑いで乗り越えられると思っているお前よりマシ。』

『あほ言え、笑いはな、世界を救うねん。お前、嘘でもいいから、笑ってみ。』

と言うと、大久保は俺のほっぺたをつまんで上に上げる。

『ゃべぼぉ!』

『ヒャハハハハ、ヤベボォやって~。』

大久保のバカがお腹を抱えて笑う。

『ちっ!』

大久保に空手の突きを食らわす。がそらされた。流石に動きは俊敏だ。

『お前の空手なんかなぁ、当たらへんわ。』

大久保のおどけ様がうざい。無視して足元に置いてある荷物を持って駅から出た。

『おい!どこ行くねん。』

『・・・・・』

『待てって、どこ行くんや。』

『こんな、吹き曝しの所で凍死したいか?』

『いや、死にとうはないけど。だからって・・』

『ダムに行くまでに古い家があった、そこで、朝まで暖を取るしかないだろ。お前のせいで電車を逃したんだから。』

『俺のせいちゃうし、お前が一言、言ってくれたらこんな事にはならへんかったんやろ!』

『・・・・』

『おいっ!聞いてるか?』

『今、必要か?どっちが悪いかって。』冷たく言い放った。大久保が流石にシュンとうなだれる。

『そ、そうやな、ごめん。』

『謝ったから、お前のせいな。』

『えっ?いや、違うわ!・・・って、ほんま、お前のそういうところがむかつく!』

『どうでもいいから早く歩け、陽が落ちる。』






「彼女を迎え入れて正解だったよ。」

「ええ、常翔学園、弓道部発足以来の快挙ですね。」

「あぁ、ちょうど私が中2だったかな、海外からの留学生や提携校との交流が増えて、日本の伝統文化を紹介する目的で弓道部が作られたんだよ、だけど顧問すらも未経験という状態だった。」

「僕の時も運動部の文化部と言われていましたよ。」

「ははは、部長の滝沢さんが市内の弓道クラブに、小学校の頃から通っていた実力も大きな功績になったようだね」

「ええ、滝沢さんのお婆様が学生の頃からやっていらっしゃって、連れて通っていたようです。」

「その滝沢さんを抜いて、真辺りのさんが個人で優勝するとはねぇ。」

「りのちゃんの集中力は、すごいですからね。図書館で本を読んでいる時や、査定の調べものをしている時は、何度呼びかけても気づいてくれませんから。」

「ほほぉ~。麗香も、それぐらい集中して本を読んでくれたらいいのだけど。」

「麗香も、それなりに努力していますよ。りのちゃんの親友として恥ずかしくないようにと。成績も上がってきていますし。」

「うん、彼女が常翔に来てくれてほんとに良かったよ。」

常翔学園弓道部が個人と団体で神奈川県代表になり、全国大会の出場権を獲得した翌日の朝、その快挙で上機嫌になっている信夫理事長の話し相手をしながら、今日1日の仕事に必要な書類などのファイルを出したりしていると、廊下側のドアがノックされた。こんな朝早くに来客の予定はない。事務方や教職員なら、朝は隣の会議室を素通りしてくる南側のドアを使う事が多い。理事長と顔を合わせて、「はい、どおぞ」と声をかける。ゆっくりとドアを開けたのは、話題の主、りのちゃんだった。

「し、失礼、し、します。」絞り出すように言ってペコリと頭を下げるりのちゃん。

「おや、ちょうど話題にしていた所だったんだよ。おめでとう、個人優勝。」信夫理事長の目じりが下がる。

「おはよう、りのちゃん、ほら中へどうぞ。」

「あ、あの・・・・お、お、おはよう、ご、ごさいます。」

入り口に突っ立ったままの、りのちゃんを応接セットの椅子へと促す。

「いい、い、い椅子は、いいいです。」馴染みのない理事長の前では緊張して、吃音の度合いがひどい。

英「英語でいいよ。」理事長もにっこりと頷く。

「あ・・・あ、す、す、すみま、せん。」と唇を噛んで俯いた。緊張しているとはいえ、昨日の試合で優勝しているにしては、りのちゃんの表情が暗い。元より表情の変化は薄いが、大体、自分からここに来るって事が珍しい。

英「どうしたの?」

りのちゃんは少し小さく息を吐き、意を決したように顔を上げた。

英「お願いに来ました。修学旅行をキャンセルしてください。」

「キャンセル?」

理事長と顔を合わせる。

英「修学旅行は学業カリキュラムには入っていません。言い変えれば遊びに行くようなものです。キャンセルして欠席しても特待の査定に影響はないはずです。だからキャンセルしてください。」

「え?ちょっと・・・、りのちゃん?」

流暢な英語。英語で話していいとなると姿勢も表情も変わる。

「確かに、修学旅行は学業カリキュラムに入っていない。教育単位に入らないから、行く、行かないは自由だけども・・・・そのキャンセルの理由を教えてもらえないかな?」

理事長の落ち着いた質問に、りのちゃんは、少し顔を顰めてから、また流暢な英語で答える。

英「弓道の全国大会は山口県です。大会に向けて合宿も組まれました。修学旅行の費用を合宿と全国大会に使いたいです。」

「そんな事をしなくても・・・」

英「これ以上、母に負担をかけたくありません。」

「お金なら心配しないで、学園が」

英「やめてください。修学旅行の代金は特待制度枠に入っていません。規定に外れます。」

「それは気にしなくてもいいよ。私の采配でいくらでも。」

英「駄目です。私が規定外の実績を作るわけには行きません。」

「いや、でもね」

英「もしここで私が実績を作れば、今後ずっと学園は、貧困家庭に負担を強いられる事になります。今、たいした事例ではないと考え、安易に対処した事が将来、学園の難題になりかねません。私はそんな事例を作りたくはありません。」

「んー。でも、真辺さんだけ修学旅行に行かないって、それでは、あまりにも・・・・」

「では、合宿と全国大会に行く費用を学園が出したらどうですか?理事長。」

「おお、そうだな、」

英「それも駄目です。さっき言った事と同じ、皆がちゃんと払っているのに、私だけ払わないと言うわけには行きません。クラブ活動も特待制度外です。」

「弓道部全部でもいいですよね。弓道部発足以来の快挙ですし。」

りのちゃんが大きく首を振る。

英「弓道部だけが擁護されるわけには行きません。他のクラブも出してと言ってきたらどうしますか?クラブ間の諍いが起き、学園の規律は失ってしまう事になりませんか?」

毅然としたりのちゃんの態度に、理事長は、それ以上何も言えなくなってしまった

15歳に満たない子が、学園の未来までも見据えて、我々大人を説き伏せる。

「では、学園負担ではなくて、柴崎家が真辺さんを支援するよ。」

りのちゃんの顔がゆがんだ。

「ど、どうして、し、しし、柴崎家が、り、理由が、あ、ありません。」

「理由はあるよ、真辺さんには大変な怪我を」

「理事長!」

去年の強打事件の事を言いそうになった信夫理事長を止める。

記憶のないりのちゃんには、事件の真実を隠していた。頭の傷は階段で転んで負ったと嘘を言っている。

「あっ・・・いや、ほら、大変な怪我をしそうになった麗香を助けてもらった恩返し。」

誤魔化し下手な理事長に、りのちゃんは増々の不審を抱き眉を寄せた。

「りのちゃん、甘えていいんだよ。りのちゃんが行かないって言ったら、麗香は寂しがるよ。」

英「甘える事は、できません。修学旅行のキャンセルをお願いします。」

揺るぐことのない決意。りのちゃんは頭を深々と下げて、理事長室を出ていった。






ダムに行くまでにあった小さい家は、木製の雨戸も朽ちて、人の侵入を拒絶するように枯れた草葉にうずもれるように建っていた。

たいして大きくないダムだったが、もしかしたらこの貯水の中に集落の家々が沈んでいるのかもしれない。この小屋はその貯水の沈水から免れた家か?

古民家にあるような木枠に柄入りの曇りガラスがはめ込まれた引き戸は、鍵が施錠されていて動かなかった。僕は、泥棒がするように鍵の横のガラスを空手の拳で殴って割って腕を差し込み、鍵を開けた。大久保はその行為に戸惑っていたけど、言いたげな文句は押し黙ったようだ。この家に入らなければ、駅舎のないホームのベンチで一夜を過ごすしかないのだ。それはあまりにも無謀すぎて、下手すれば凍死してしまうかもしれない。二人とも野宿できるほどの服装じゃなかった。

かび臭い匂いが鼻をつく。家主を失った家は時が止まったように、家具や道具が僕たちを拒否するように鎮座する。

『電気つけへんなぁ。』と何度もスイッチをパチパチと付けたり消したりしている。

当たり前だ、こんな忘れられた場所に電気なんて通っているはずがない、ダムと言ってもここにあるのは水力発電用のダムではなくて、河川氾濫防止の為に建設された物だ。そんな当たり前の事がわからず、つぶやく馬鹿な大久保にイラつく。

太陽が山の陰に隠れ、空を夕焼け色に染めると、気温は下がり始めた。

『寒みぃ。』大久保が腕をさすり地団駄踏む。

部屋の中には時代錯誤の囲炉裏があった。

『ここで焚火したらええな。いい宿、見つけたやん。』

大久保が引き出しやら押入れやら開けて、埃をまき散らす。

『あったあった、マッチ。』

でもそのマッチは湿気て、何度やっても火がつかなかった。

『くそーあかんかぁ、そや!この間テレビでやってた、火おこし、棒をぐるぐる回して摩擦で火をおこすやつ、あれやろう。』

大久保が鼻歌交じりに、土間の片隅に落ちていた木の板を拾って、台所の引き出しにあった何に使うかわからない木の棒も見つけていた。早速、原始時代の火おこしを始める。

当然に、そんなに簡単に火は起こせないで、楽観な大久保もイらつき始めた。

何度となく手のひらで棒を回しても出来なくて、大久保の手の平は赤く腫れ始めた。

『痛て~』

完全に日暮れ、室内は急激に暗闇と寒気に包まれていく。

僕は頭にあるあらゆる辞書と本の記憶を呼び起こし、火おこしの仕方を読み漁った。

鴨居に掛けてあった、居住者のいない家主のシャツを取り、引き裂いた。その音に大久保がびっくりして、「何してんねん!」と叫ぶ。

大久保の受け答えをしている暇なんてない、もう一度シャツを引き裂き細い紐を作った。ハンガーの端と端を結び、弓のような形状の物を作った。

『貸せ!』

大久保の手から、木の棒を奪い、ヒモに絡ませた。鞄の中に入れてあった筆箱からシャーペンを取り出し、マッチの火薬部をそぎ落とし、木の板の上にまぶして、火起こしを試みた。手で回すより、弓を絡ませた棒の方が、回転は速く、手も痛くならない。

手づくりの火起こしキッドは、思いの他うまくいって、火がつく。

『おおぉ、やったぁ!火ぃついた!』

大野の馬鹿が手を叩いて喜んでいるのを、早く燃えやすい物持って来いと叱咤する。

大野は慌てて、束ねてあった新聞紙を持ってきて、囲炉裏の所に置く。新聞紙だけじゃ、火はすぐに燃え尽きてしまう。

適当に、その辺の物を燃やしつつ、外に積み上がっていた薪を持ってくる。炎は大きくなり安定して、部屋はほんのりと暖かくなってほっと息をついた。囲炉裏の火が廃墟の家に命を吹き込んだようだ。

『あぁ腹減ったなぁ。ガムしかあらへん。ガム噛むと余計に腹減るしなぁ。』大久保が囲炉裏の前で胡坐をかき、腹をさすりながら天井を仰ぐ。当然のことながら、食材はこの家にはない。僕は鞄の中から、昼に駅の売店で買ったものの、食べなかったおにぎりを大久保の腹めがけて投げて渡した。

『おっ!おにぎり・・・・お前は?』

『いらん。』

『じゃ、俺もいらん。』

大久保がおにぎりを投げて返して来る。

(何んだって、こいつは僕に構うのだ?僕の事は、ほっといて、さっさと食べればいいのに。)

無言でおにぎりを投げ渡した。

『お前が食えや。』

おにぎりがまた飛んで帰ってくる。

『腹は空いていないから、このおにぎりは、今、ここにあるんだ。馬鹿か、お前は。』

おにぎりをまた投げ渡した。

『俺も、減ってないわ!』

帰ってくる。

『さっき腹減ったって言ったのは何だよ。』

投げた。

『わかってへんなぁ~、あれは、ボケや、関西人のサービス精神、こんな時でもボケて笑いを提供する、ちゅうなっ!』

帰ってくるおにぎりは、何度となく囲炉裏の上を飛び、形は三角ではなくなってきていた。

『はぁ~。めんどくさ。』

おにぎりの包装を破り半分だけかかじって、また投げ渡した。大久保はそれを頬張り照れ臭そうに言った。

『ありがとう。旨いわ』






信夫理事長が特待生規約の書かれた原本をめくり溜息をつく。りのちゃんが、修学旅行のキャンセルを願い出て来た事を、どうにかならないかと二人して頭を悩ませた。修学旅行も特待制度に組み込む改定案を、この場ですぐ理事長が勝手に施行の判を押すことは可能。建前上は翔柴会会議で審議する案件だが、誰も反対は・・・・洋子理事は、ちょっとうるさく言いそうだけど、文香さんと信夫理事、敏夫理事もきっと反対はしないから自分も含めて4/7で可決するから問題ない。ただ、やっぱり、りのちゃんが言うように、この先の常翔学園を考慮すると、一時の思い入れのある生徒の為だけに簡単に動いてはならない。それをやってしまうと常翔の信頼は崩れていく。そのような事を、まだ14歳の子供が考えつくと言う時点で、改めてりのちゃんの賢明さに感嘆する。

理事長につられてため息を吐くと、携帯の着信が鳴った。軽く頭を下げて着信相手を確認すると大久保からだった。

「大野、11日の表敬訪問のスケジュールどうなってんねん!」

「は?」

「は?ちゃうわ!お前んとこが全部、手続きするっちゅうから、俺、お前の連絡待ってんのに、全然、連絡こーへんし。」

「あれ?ちょっと待って。」

連盟への手続きは信夫理事に任せていて、だけど連盟はいつまでたっても何も言ってこないから、大久保とのスケジュールが合わなくて頓挫したのかと思っていた。

「理事長、大久保が11日の表敬訪問どうなっていると言っていますが。11日に決まったのですか?」

「ん?いや聞いてないが・・・このあいだ言ったとおり、大久保選手の帰国後の練習や取材などの連盟主権のイベントが過密だから11日は難しいと言われていて・・・・ちょっと待て、聞いてみる。」

と理事長が言った瞬間、内線が入り、理事がオンフックで返事する。

「理事長宛てに日本サッカー連盟からお電話です。」

「おっ、来た、これだなきっと。はい。」

「大久保、このまま待って、今ちょうど連盟から電話が入っている。」

「なんやねん!連絡、行ってないんか!」

大久保の叫び声を、携帯電話を耳から外して遠ざける。

「はい・・・・はい。今ちょうど大久保選手から連絡がありまして、ええ、はい。では11日に、お時間を頂いていいんですね。はい。では常翔学園が受け賜ります。はい、テレビ?はい・・・・・はい。」

(テレビ?取材入るのかぁ、また、ややこしいなぁ。)

「あぁ、大久保、悪い、表敬訪問の話、連盟でスケジュールが合わなくて頓挫気味だったんだ。だから無くなったと思っていたんだ。だけど、今、連盟から正式の許可の連絡が来た。」

「たくぅ、あの、じじぃ共、ちゃんと仕事しろって言っとけや!」

「お前が言えよ、世界の大久保の言葉の方が効き目あるだろう」

「けっ、ジジィの相手してる暇あったらな、蹴鞠してる方がマシや。」

「凱斗、11日に正式に許可が下りた。テレビ取材も入るらしいから、そのつもりで動いてくれ。あぁ、その電話ちょっと変わってくれ。」

「はい。大久保、柴崎理事長と代わるな。」

「えっ!あっちょっと!うわーマジかよ。俺、苦手なんだよなぁ・・・・」

という大久保の慌てたつぶやきを無視して信夫理事長に電話を渡す。

「あー大久保君、ワールドカップ代表決定おめでとう。」

携帯電話は理事長に渡す前、大久保の声が聞こえるようにオンフックのボタンを押して渡していた。スピーカーから大久保の声が聞こえてくる。

「あっ、柴崎理事長、お久しぶりです、あ、ありがとうございます。」打って変わって、馬鹿丁寧な口調の大久保。

「済まないねぇ、忙しい時に」

「いえ、あ、愛する母校ですから。」

可笑しい。大久保がどんな顔して理事長と話しているのか想像がつく。

「世界の大久保君に愛された常翔学園は幸せだねぇ。」

理事長も人が悪い、ニヤついて楽しんでいる。

「あの・・・・11日、お世話になります。」

「あぁ、久しぶりに君の世話が出来ると思うと楽しみだねぇ。」

「いえ、そんな、ご大層な事はして頂かなくても・・・・。」

「あははは、理事長、もう、それぐらいにしてやってください。」

「ははは、そうだな、いやー懐かしくてね。ほんと、大久保君はガラスの割った枚数分、大きく成長したなと思ってね。」

大久保は在学中、校舎の廊下や寮でボールを蹴っては、ガラスや学園の備品を壊して、何度も理事長室で信夫理事に叱られていた。それも懐かしい思い出。

「それと今年は常翔学園60周年記念の年でね、期待してるよ寄付金、世界の大久保啓介君。」

「はぁ~。」

里香が死んだ年の冬、大久保と二人で大久保の実家、大阪へと行く事になった。途中、馬鹿をやらかして野宿となり、予定の時刻になっても到着しない大久保の母親が心配して、学園に連絡を入れ、柴崎理事長に心配と迷惑をかけてしまった。その当時はまだ携帯電話なんてなかった時代。野宿せざる得なくなった降りた駅は、氾濫防止用のダムがあるだけの無人駅で、公衆電話もない、忘れ去られたような場所だった。

柴崎理事長にとって、俺達は、世話のかかる問題児だったのだろう。





囲炉裏の中で燃える木がパチパチと弾いた。部屋の外で風が家に当たりミシミシとしなり震える。どこからともなく聞こえてくる何かの動物の泣き声。山奥の夜は、意外にも五月蠅い。

炎越しに見られている大久保の視線は、会話をしたがっている雰囲気がありありで、僕はずっと無視し続けていた。

『お前・・・・』そう言ったまま口を噤み、次に言葉をつなげたのはそれから3分以上も経った後。大久保はこれ見よがしに息を吸い込んでから、無駄に大きい声を吐き出した。馬鹿は声の調節もできないらしい。

『俺の夢、お前が作ったんや!』

(気合を入れて言う言葉か?お腹が減り過ぎて、腹の虫が頭にまで這いあがったか?)

『お前、小4の頃、テレビに出まくってたやん。お前が記憶力披露して、皆から拍手喝采のすごーいって言われてさぁ。こいつ凄いなぁと思って見てた。』

『・・・・・・』

『覚えてへんかなぁ。お前の両親を探すって言う番組、あんとき、ゲストで俺の好きなサッカー選手の金本謙治も、初恋の相手を探すって事で一緒に出演してたの。』

両親を探す番組は覚えている。捨てられていた児童養護施設の場所や包まれていたタオルなどをVTRで映して、番組で呼びかけた。しかし、名乗り出てくるのは、嘘を言って、僕の将来性に賭けた思惑見え見えの大人ばかりで、DNA鑑定の0%の書類ばかり多数ふえただけ。その番組で一緒だったゲストにサッカー選手がいた事など、全く記憶になかった。

『お前がさぁ、そん時、金本選手と握手して、サイン入りのボールとユニフォーム貰ってんの見てさぁ、くそーとか思ってんなぁ。』

確かに、サッカーボールと青いユニフォームを土産に持って帰った記憶はある。ユニフォームは確か、施設の保育士さんが、息子がファンだからって持って帰って行った。僕はサッカーなんて興味がなかったからボールも施設の誰かにあげたと思う。あの頃は、テレビの出演収録を終えて帰ると、施設の皆が局から貰ったおもちゃなどを奪って行くのが通例となっていた。

『俺も絶対有名になって、テレビに出るって、そん時、決めたんや。』

だったらサッカーじゃなくて、お笑い系の事務所でも入れはいいじゃん、と思ったことを口にするのも面倒だった。

里香が死んでから何をするのも面倒でおっくうなのに、何かしていないと頭の中の辞書を引っ張り出して、死ぬ方法を模索してしまっている。

暇つぶしに囲炉裏の薪を動かして炎に空気を入れた。炎が怒ったように勢いを増しては、落ち着く。

『・・・お前、俺の事ウザイとか思ってるやろ。俺な、寮でお前とはじめて会った時、びっくりしたっていうか、うれしかったんや。』

『・・・・・・』

『夢、決めて誓った相手が傍にいる。絶対、俺の夢は叶うってな。』

こいつは、何を子供みたいな事を言っているのだろう。僕に同情して、おざなりに嘘を言っているのだとしても、これはあまりにも粗末な話しだ。

『陳腐な夢だな。』

『・・・・そうや、俺の夢は陳腐や。』

パチっと炎が揺れる。

『だけど、無いよりマシやろ。』

正解。ないよりマシ。康汰は両親のいないお前の方がずっと良いと、言うけど、やっぱりいないより居る方がいい。

どんなに憎んだ親でも、その顔が、その声が、その感触が、どういったものか記憶としてあるだろう。僕はそれが無い。無いよりマシな物が、生まれた時から無いままなのが僕だ。

『柴崎理事長の奥さんから聞いた。お前、里香ちゃんの病気を治そうと思て、医者になろうと頑張ってたんやって。』

『・・・・・・』

『続けたらいいやん。病気で苦しんでるのは里香ちゃんだけやない。』

里香以外の子供が苦しんでいるなんて、僕の知ったことじゃない。里香以外の子を助けようと思うほど、僕の心はやさしくない。

そう、里香が夜、咳が止まらなくて施設の部屋の隅っこで耐えていた事を、こいつが知らないように、僕が里香以外の子の苦しみを知らないし、知らなきゃならない理由がない。

『なぜ、里香以外の子の為に医者に、ならなくちゃならない。』

『なぜって・・・可哀想やろ、大野は医者になれる賢い頭があるんやし。』

『可哀想?』

『あぁ、病気で苦しんでいる可哀想な子供を、大野が医者になって助ける。俺の夢より立派でかっこいいやんか。』

『馬鹿馬鹿しい。』

『馬鹿馬鹿しいって!お前!』

『お前のその可哀想は、偽善だ。自分が医者にならないくせに、人に成って助けろだ?どこまで、お前は馬鹿で傲慢なんだ。』

大久保が目を見開いて驚く。

『僕は、里香以外の子供の命なんて知らない。苦しんでいようが、いつ死のうが知るもんか、僕が助けてやる義理もない。お前が施設に来る子の生活が、どんなだったかを知らないようにな。』

止まらない。馬鹿に言ったって何も変わりはしないのに。

『僕らは、大人の都合で物のように要らないと捨てられた陳腐な命だ。こんな陳腐な命を、お前らはまだ利用しようとするのか!』

大久保がこの世を作っているわけじゃない、大久保が俺を捨てたわけじゃない、だからこんな事を大久保に言ったってどうしようもないのに。止まらなかった。

『勝手な事、言うな!捨てた物は、ほおっておけよ!その差し伸べる手は偽善だ!差し伸べた立派な自分に酔いしれているだけだ!』

大久保は俺の勢いに唖然とし、身動きできないでいた。

遠くから駆け抜ける風が家を揺らし、軋む音を大きく鳴らす。

それがスイッチであったように、大久保が俯いた。

『あぁ、俺は馬鹿で傲慢やから、わからへんよ。だけど、俺は思たんや、テレビに映るお前を見て、才能があって良いなぁって。』

大久保の顔は囲炉裏の炎越しに、赤く揺れていた。













4




陽の落ちた街は、人口灯が陽の代わり以上の働きをする。

駅から歌舞伎町への道は、派手な看板と証明を背に、客寄せの黒服があちらこちらで愛想を振舞い立っている。

捕まらないコツは、呼び込みに追い付けないほど早く歩き、目を合わすことなく、寄せ付けない気を放つ事。

ラストの店まであと数メートルの所で、路地から怒号と共にオッサンが飛びだしてきて、衝突を回避すべく進行方向を急変させた。店とトラブルになったのだろう、この町では日常の光景だ。だか、それに意識を取られて、放っていた気を緩めてしまった。とたんに黒服に捕まり馴れ馴れしく肩を組まれる。

「お兄さん、いい娘いるよ。このチラシ持って行けば五千円で飲み放題、一人でも十分楽しめるからさぁ。どう?」

二週間前のようにスーツ姿ならともかく、今日は全身黒で統一した革ジャンに皮パンだ。そう、捕まらないコツに服装も大事。数えきれないくらいこのスタイルでこの通りを歩いているが、麻薬の売人に声をかけられる事はあっても、客引きに声をかけられたことは今までになかった。まして、肩を組まれて、こんな安い店に誘われるなんて、康汰が言うように鈍ってきているのかもしれない。溜息を吐き、馴れ馴れしい黒服へと顔を向けた。若い、肌が女の子のように艶やかだ。この世界に入りたての新人か、もしくは残念な事に大馬鹿野郎か。

「お前、人を視て肩を組まないと怪我するぞ。」

馴れ馴れしい肩の手をつまみひねり上げた。

「いてて。何する!」

たいして力を入れていないのに、大げさに肩を抑えて痛がる青年。溜息しか出ない。掴んだ腕も女のように細い。無視してラストの店のある方向へ足を向けた。だけど、馬鹿は身の程をわきまえない。俺の肩をつかみ追い打ち。

「おいっ!ふざけんなよ。」出る言葉も、ありきたりの馬鹿さが浮彫り。

「キラ、やめろっ。」あぁ、源氏名も馬鹿さが浮き彫り。この青年の先輩らしき男が駆けつけて、止めに入る。まだ、こっちは視る目があるらしい。

「この人の言う通り、やめた方がいい。」

自分の緩んだ気に喝を入れるように、容赦ない殺気を入れて睨んだ。

先輩の方が目を見開き驚く。

「ここで成功したかったら、この人に人の視方を教えてもらうんだな。」

肩に乗っていた青年の手を払いのけて踵を返した。

「なっ何だよ!」

「や、やめとけって・・・・」

馬鹿はどこまでも馬鹿でドン感らしい、まだ意気込んだ言葉を背に、キラと言う源氏名の青年の行く末に同情する。

危険を察知できないあの青年は、そのうち要らぬ怪我するだろうと、何度目かの溜息を出した。

タイミング良く、救急車の音が遠くから聞こえてくる。

「もう怪我したか?」

自分のつぶやいた言葉に苦笑した時、尻のポケットに入っている携帯がバイブの振動と共にコール音が鳴った。

非通知だった。

(誰だ?)

雇いの探偵やハッカー、元軍兵仲間が警戒時に非通知でかけてくる事は多々ある。だがそれぞれ、非通知でもコールの回数は決めていて、わかる掛け方をしてくる。長く続くコールは誰でもない。不思議な事に、いつまで経っても携帯電話は不在着信に切り替わらず、ずっと鳴り続いた。これは、出てはいけない。警戒が肌をピリリと縮ませた。

コール音が鳴り続いているのに出ようとせず、眺め続けている俺を、すれ違う人が皆、不審に振り返りつつ注目していく。

仕方なくボタンを押して、相手が名乗るまで無言を突き通した。

「・・・・・久しぶりだな、柴崎凱斗」

この声は、忘れもしないレニー・グランド・佐竹!

「くくく、久しぶり過ぎて、わからないか?」

「・・・・・何の用だ。」

自分の声が震えていない事に、かろうじて胸をなでおろす。さっきよりも近づいた救急車の音。

「やっぱり、まだ若いな。そう逸るなよ。」

完全に、相手の間合いに引き込まれている。そうだ、焦るな、これはレニー・グランド・佐竹の真意を引き出すいいチャンスだ。携帯に拾われないように、音のない深呼吸を短くした。

「逸いのを、好む女もいるんでね。」

「はははは、そうだな、だが届いたハニーは長めが好みだったようだが?」

「!」

遠かった救急車が雑路の喧騒をかき消し、追い越していく。

「柴崎凱斗、愚か者なのか、頭が切れるのか どっちだ?」

ハッと気づいた。携帯からも聞こえてくる救急車のサイレン。背筋が何かに逆撫でられたようにぞわっとした。

ラストの店の前に一台の黒いスポーツクーペのベンツが止まっていた。

フロントガラス越しにレニー・グランド・佐竹と目が合う。

「今宵の酒は、最高の味であると期待するよ、柴崎凱斗。」

携帯を持つ手は汗をかき、体はしびれた様に動くことが出来なかった。






遠く山々を抜けて吹く風の悲鳴を聞きながら、朝を待った。囲炉裏の火を絶やすことなく時々薪をくべて、あいまいな火の輪郭を目で追っていた。大久保は、囲炉裏に背を向けて寝転がっているけど、ずっと眠れない様子でいた。朝方になって軽い寝息と共に体の力が抜けたような背中を見て、僕は、ほっと肩で息を吐いた。

この吐いた息の安堵が何であるかわからない。約2年、寝食を共にした同級生の体を案じたものなのか、それとも他人の意識が向けられなくなった、孤独に対する安堵か。

玄関のすりガラスが白くなりつつあるのを確認して、残っていた薪を全部、囲炉裏の周りにずらしてべた。音をたてないように時間をかけて玄関扉を開け、外に出る。寒いというより、冷たい。凍った空気が足から這い上がってくる。吸った空気が肺へと到達して体の芯から凍らしていく。

ダムの方へと足を向けた。こんなに寒い朝なのに、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。

どんなに生きづらい季節でも、命の音は絶えない。

ダムの上、橋のようなコンクリートの道を歩く、右側は並々と水が貯水されているが、左側のダムの下は全く水がなくて、岩や石があらわに、夏は草や木が覆い茂っていた命の痕跡が、ゴミのようにソコにある。

『こっちだな。』

水のない方を選んだ。陳腐な命はごみ捨て場のような場所がふさわしい。

コンクリートに手を置く。ビルの10階ぐらいの高さはあるだろうか。

ざらついた冷たい感触、山々の隙間から届く風の悲鳴、

背後の波動く水の匂い、肺を刺す凍てついた空気、

頭の中は無が広がる。

足をコンクリートの塀にかけて、腕に力を入れる。体が重い。中々うまくよじ登れない。

体温を奪われた指をコンクリートに掛かけて、体を浮かす。爪が割れて間から血がにじむ。

『大野!』

上手く登れそうだったのに、大久保のせいで、また足は地面にずり落ちてしまった。

大久保は口から白い息をたなびかせて、走り込んでくる。足だけは速い。

死ぬ間際まで、馬鹿の相手をしなくちゃならない。気まぐれに、大久保の帰省に付き合った自分が馬鹿だった。

『大野、俺が拾う!捨てられた物は誰が拾ってもいいんや、だから俺が拾う!』

駆けつけた大久保に左肩を掴まれて、振り向かせられた。

『文句は、言わさへんで!拾った物は俺の物やからな!その捨てた命、俺が拾った!』

馬鹿だ・・・究極の。

『・・・・・お前は、やっぱり馬鹿だな。』

『いいよ、馬鹿でも何でも、その馬鹿に拾われたお前は、もっと馬鹿やろ!』

あぁ、そう、僕は、もっと馬鹿。無視すればいいのに、いっつも、この馬鹿の言葉に乗せられてしまうんだ。

『まだ捨ててない、捨てる前に拾う馬鹿がどこにいる。』

『もう、何でもいいやんけ!とにかくお前はな、俺の夢を見届けなあかん人間やねん。』

『はぁ?』

『お前の存在が俺の夢を作った。だからお前はこの先、俺が世界で活躍するサッカー選手になった姿をテレビで見て、悔しがらなあかんねん。』

『何故、お前の姿を見て悔しがらなきゃなんないんだよ。』

『それが俺の夢やからや!文句は言わさへんで、お前の命は俺が拾ったんやからな。』

『だから、まだ捨てる前だって。』

『うっさい!それは捨てたんと一緒や!』

僕をまっすぐみつめる大久保の目が暑苦しい。

『頼むわぁ、俺の夢、壊さんといてくれ。』

大久保の目から涙が溢れて、落ちていく。

『なぜ、お前が泣く。』

『陳腐やけど、俺の大切なものやねん、夢も、お前も。』

(どうして、すごく泣きたい時に、いつも僕より先に泣く人がいるんだよ。)

涙の出ない目に太陽の光がまぶしく刺さってくる。

これじゃ、陳腐な青春ドラマの様だ。

僕は青春ごっこなんてしたくないのに。

だけど、いつも大久保に乗せられてしまう。

『馬鹿馬鹿しい。』

『あぁ、馬鹿でええ。』

そう、寮生活は、馬鹿馬鹿しいほど楽しかった、施設に居た頃よりも。

『拾われた僕は・・・』もっと馬鹿。

頬に一筋、凍てついて落ちていく涙も、大久保に乗せられてしまった。







車は首都高速の環状線に入る。

こいつの真意は何だ?機密を特質として世界中から認可されているレニー・ライン・カンパニーの人間が、機密を知った者を殺さず、助手席に乗せる真意は?いや、これから殺そうとしているのか?

「そう、逸るな。逸るのも騒がしいのも好きではない。」

楽しそうに笑うレニー・グランド・佐竹。

荒くれ者が集まる戦地で、自身より大きな体格の強面な男どもに囲まれて脅されたこともある。死を覚悟した状況であっても、恐怖を感じた事はなかったのに。ただ隣で車を運転する佐竹の横顔に恐怖を覚える。

「昔から、死に急ぐ警戒が身を守ってきた。」

「昔から、時を余す野心が身を磨いて来た。」

「時が余り過ぎて、暇つぶしに俺を生かしておいたって事か?」

「余す時を、裕福に使ってこそ余裕と言う。」

「その余裕が命取りになっても、そう言えるか?」

殺れる前に殺る。真意などわからなくても、共倒れで十分、手の指に力を籠めた。

中等部より入学した常翔学園より、習った空手、のちに軍仕込みの殺傷術へと培った技は、運転に意識が向いている佐竹のクビを掴み、ひとひねりで殺れる。このスピードなら車は制御を失い大破するだろう。他の自動車を巻き込むのは不本意だが、他者の強運を願う。

「時の使い時と、命の使い時を過まる者を愚者と言う。」

「それが賢人の教えか?」

佐竹の首まで1メートルも満たない距離。

一瞬で終われるはずなのに、手は伸ばせずに、言葉だけが超える。

「愚者が、賢人に盾向かっても、勝てはしない。」

「勝とうなどと鼻から思っていない。」

「愚者の捨て身程、無意味な愚行はない。私が無策に愚者を横に座らせると思うか?」

わかっていた。こいつを殺せばすべてが解決するような簡素な問題でも、単純な存在でもない。捨て身に死んだのち、りのちゃんや麗香、新田君や藤木君は誰が守る?だからレニー・グランド・佐竹は、余裕で笑うのだ。

「くくく。私は多趣味でね、美術鑑賞だけじゃない、美しい夜のドライブも嗜む。しばらく付き合ってもらうぞ。」

そう言うと佐竹は、シフトを一段下げて、アクセルを踏み込む。加速重を背中のシートに感じて、黒のベンツは並走する車の間の白線を跨ぎ追い抜いた。車内はクラッシックジャズが奏でていて、レニー・グランド・佐竹から笑みが無くなることはなかった。

車は湾岸線を走り、浮島の埠頭に着いた。レニーの大型タンカー専用の港である。車を降りると湿気を含んだ海風が肌にまとわりつく。横浜のマンションに吹き込む匂いと同じ潮の香りが、幾分心を落ち着かせた。

月を背にして黒く佇む巨大な鉄の塊を見上げて、まるで軍事要塞の様だと思う。自身より数メートルも高い位置に、傾けられた流体文字で「レニーライン」と白色の英字で書かれてあるのを目で追いながら船体の長さを図る。首を動かさないと船尾は見えなかった。対象物になる陸の倉庫や、コンテナを移動するクレーンも大きくて、自分がまるで小人にでもなった気分だ。辺りには人影が一切なく、タンカーの荷室が空なのか、それとも満杯で出航待ちなのかはわからない。

「デカイな・・・・」思わずつぶやいた。

遅れて車内から出て来たレニー・グランド・佐竹が隣に立ち、口を開いた。

「世界の7割は海だ。その1/3を占める太平洋を統括するのが、レニー・ライン・カンパニー・アジア。陸と空の流通量はアメリカ支部、ヨーロッパ支部に負けるが、海の流通量は一つ桁を抜いている。そして対人口シェアも、アジアが世界の60パーセントを占める。アメリカやヨーロッパの流通量の推移が横ばいに対して、アジアはまだ大きく右へと伸ばしている。

レニー・ライン・カンパニーの世界統括本部は、オランダのロッテルダム。ヨーロッパ支部の幹部は、歴史の威厳に胡坐をかき、アジアを見下して来たが、昨今の流通量の上昇に、内心穏やかじゃなくなりつつある。アジアが自分らの代で追い抜く時が来なければいいと願いつつ、何も出来ないでいる。」

レニー・グランド佐竹は、そこで一旦、話をやめると、車の後部に周り、トランクを開けた。一つ一つの動作が優雅だ。素性に疑惑がなければ、普通の、いや上質な紳士だ。一般的なサラリーマンじゃこんな優美な雰囲気は出せない。男性雑誌の表紙撮影かと思わせる。推定40歳前後、佐竹のプロフィールは、雇のハッカーではまともな情報を得られる事が出来なかった。出てくるのは非情、無情の信憑性のない、あやふやな情報ばかり。何が本当で何が嘘であるかも判断できなかった。

レニー・グランド・佐竹は、トランクの中から小ぶりのワイン瓶を出してポン、ポンと2本、オープナーで開けた。

「だが、その時は目前。レニー・ライン・カンパニーの内の勢力図が変わるという事は、世界の国家勢力図をも変わるという事。国が民を動かしているんじゃない、民が国を動かす。民より強い世界戦力はない。」

二本のワインを片手に、ベンツのトランクを閉め、上にトンと置いた。そして、こちらに向いて勧めてくる。

手に取ろうとしない俺を鼻で笑うと、佐竹は一つのボトルを手に取り、口に含む。

「世界が変わる瞬間の音や色を想像した事があるか?」

頭の中にある、レニー・ライン・カンパニーの資料を記憶の書庫から引っ張り出し、頭に表示する。

15世紀後半の大航海時代、ポルトガルやスペインに遅れを取っていたオランダの航海力。国家の威信をかけ、王の命を受けた外洋航海船キャラベルの船長レニー・ラインが、アメリカ航路開拓に成功した。それが世界のレニー・ライン・カンパニーの始まりである。アメリカ大陸に眠っていた豊富な金銀はレニー・ライン独占し、インカやアステカの原住民を牛馬のように酷使して、略奪の限りを尽くし富を得た。その巨大な財を元に、更に大きな船を作り、すでに確立されていた他国の航路を略取しつつ、新たな航路を開拓し、世界各地へと勢力を伸ばした。

産業革命の時代には、大陸の流通網を確立し。世界大戦時代に空路を開拓し、レニー・ライン・カンパニーは、陸、海、空すべての流通の制覇を完成させた。届けられない物と場所はないと宣言する世界最大の流通企業レニー・ライン・カンパニー、「世界のレニー」との愛称で誰もが知る。

「世界大戦後に大陸別に分割したカンパニーは、各大陸のトップの人間にレニーの名を与えることにより、礎を作った船長レニー・ラインに敬意を払う。ミドルネームは大陸別制度発足の初代着任者の名前を受け継ぐ。ヨーロッパは世界統括本部の威厳として、カンパニーそのものの名レニー・ラインを受け継ぎ、北アメリカはレニー・ローガン。中東、レニー・サルマン。南アメリカ、レニー・ジョゼ。オーストラリアはレニー・ルーク。アフリカ、レニー・マンデラ。そして、香港を拠点とするアジアはレニー・コートの名を受け継ぐ。時が流れてもレニーと各大陸の代表ミドルネームは変わることなく未来永劫、その力と支配権を世界に知らしめる。」

レニー・グランド・佐竹が、何故こんな話をしてくるのかわからない。口付けたワインの銘柄も知らない物だった。

「各大陸の代表になるには、各大陸のシニアマネージャー以上の者達による推薦により決められ、オランダの世界統括本部の承認を得てはじめて就任する。実力、名声、手腕、どれが欠けても代表になる事は出来ない。世界を支配するレニーの合理的かつシビヤなシステムだ。だが、アジアだけはその流れに沿わない。それは焦りに愚行した愚策によるもの。アジアは既に、中国を中心とした流通網が展開されていた。アジアを見下し略取制覇など安易だと後回しにされていた。レニーがアジアに目を向けたのは世界大戦後だ。イギリスの統治下になったのを機に、やっとレニーはアジアに拠点を置く。そして、元々中国を中心に周辺諸国に流通網を展開していた大連の流通網を奪いにかかる。簡単だ結束力が強靭だった。表向きは、統括本部より交渉人として送り込まれたコート・シュバルツが大連流通の流通網、組織運営権の買収に成功し、レニー・ライン・カンパニーの世界制覇は完成したとなっているが、内部は大連流通のままだ。4世紀をかけて目指した世界制覇に焦った愚弄な戦略は、後世に大きな代償を残すと気づく賢人が、当時の世界統括本部には居なかったようだ。」

すっかり、レニー・グランド・佐竹の話に引き込まれていた。長く語られるレニーの歴史の中に真意が隠れていたとしても、その壮大過ぎる世界のレニーの中ではちっぽけで見つけられない。この巨大なタンカーと人間の対象大きさの関係ぐらいに。

「結果レニー・ライン・カンパニーのアジア支部は、世界のレニーでありながら、本部の介入を受けない独自の力を持つことになった。これが何を意味するか分かるか?」

「その独自の力で世界を替えようというのか?それがあなたの野心・・・」

イエスともノーともわからない微笑みを返してくる。

話の流れから、レニー・グランド・佐竹がアジアを世界のトップに君臨させたいのだとわかる。だが、今一つ佐竹自身がその野心に剥き出しという気配がしない。佐竹は巨大なタンカーへと顔を向けて話を続ける。

「レニー・コートからその名を受け継いだアジア大陸代表レニー・コート大連の次に就任した男、現在の代表レニー・コート・綜王(そうわん)は、心臓をわずらい、もう長くはない、随分前から、片腕としてそばに置いていた副代の楊 喬狼(ヨ・キョウラン)を次の後継者とする事を発表している」

飲み切っていないボトルを、トンとトランクの上に置いた。

「つまらなさそうな顔をしているな。」

「いや、そう言うわけでは・・・」

「ここからが面白くなる。」

佐竹は、手に取らなかった、もう一つの方のワインを手に取り、一口煽る。

「まだ、オランダの世界統括本部にも、アジア本部内にも報告はされていないが、その喬狼は1年前に謎の死を遂げた。」

「!」

「綜王は焦っている。まさか自分より先に後継者が死ぬとは思ってもいなかっただろうな。くくく。」

笑う佐竹がやはり恐ろしい。また背筋がぞわっとする。

「もしかして、あ、あなたが?」

「あぁ、私が殺したと浅はかな考えをする奴もいる」

どっちだ?いや、どっちでも変わりない、人の死を笑うのだから。

「陳腐な野心ほど醜い物はない。」

「・・・・裏をかくという事もある。」

「なるほど、それも面白い。だが美しくはないな。私は一流の美しさが好きでね。美しくない物はいらない。」

レニー・グランド・佐竹は、広大な海の方へと視線を送ったまま黙る。いつまで待っても話の続きがされず、佐竹はワインのボトルの口から香り嗅ぎ楽しんでいる。この間合の真意がわからない。それが佐竹の戦略なのか、罠だと思えても、耐える事は出来なかった。

「消したのか?谷村を。」

「谷村?」

「盗品オークションを開催する事が出来なくなった失態と口封じの為に。」

「その質問をすることが、まだ、お前が、一流ではない証だ。」

「俺?・・・何の話だ」

「届いたハニーは綺麗であったが、一流の美しさではなかったな。残念だったよ。」

「な!・・・・殺したのか?」

佐竹はその質問に答えず、ワインの瓶を持ったまま、岸壁へと向かう。そしてボトルを逆さまにして、中身を捨てた。

空になった瓶をそのまま海へと落とす。

「2流品は要らない。」

レニー・ラインの文字をバッグに振り向くレニー・グランド・佐竹。

「お前のその頭脳は一流の価値がある。お前は分かっていて、その価値を使おうとしていない。」

まっすぐ、見据えた佐竹の顔から笑みが消えた。笑みがない方が恐怖を感じない。

「柴崎凱斗、お前の野心はどこにある?私なら、その頭脳を世界の一流の場で使う事ができよう」

遠くで、汽笛が鳴る。

やっとわかった。佐竹の真意。それは俺を仲間に引き入れる事。

「俺は・・・・捨てられた物だ。」

「確かに、一流を生み出すためには二流三流の犠牲と破棄はつきもの。世の中には見る目のない奴が多すぎる。」

「初めから、見る目がある奴なんていない。あなたもそうなんじゃないのか?」

佐竹がまた微笑む。そうか、佐竹は笑みの中に怒り、殺気を入れているのだ。なんて芸当。だから恐ろしい。

「あぁ忘れていた、礼を言おう。あの娘を生かせてくれた事に感謝する。」

「何?」ころころと変わる話の筋に頭が追い付かない。

「日本語よりロシア語が得意な、今はまだ子供でも、あれは一流の女にになる。」

りのちゃん!

「お前の言う通り、私の見る目はまだまだのようだ。教養も優れているとあの時、知っていたら、殺せと命じはしなかった。」ポケットに手を入れ、ゆっくりと近寄ってくる佐竹。

「一流品の為の二流三流の犠牲。お前が今の生活の為に、また「子ら」を犠牲にするのなら、それはそれで一流の生き方だといえよう?」数メートルの位置、手はフリーだ。殺るには最適の位置。だが、どうしてもできない。背中を汗が伝った。

「強制も美しくはない。さぁ、お前は、どちらの犠牲を選ぶだろうか?」

喉に詰まった唾をのみ込む事でしか、答えは出せなかった。


乗った時と同じ場所で解放された。

「柴崎凱斗、次は祝杯のワインであることを期待している。」

上質な笑みを残し、まだまだ眠らない街、東京の闇へとベンツは走り去る。

大きく息を吐いた。およそ一時間のドライブ。それが何十時間もかけたような疲労を感じた。

何も考えたくない。キャパオーバーだ。

ラストの店に足を運ぶ。歌舞伎町の雑多な騒音が遠くに感じられた。

「あら~、この間のお兄さん。うれしいわ~また来てくれたのね。」

お姉さま方の誘いを断らず、案内されるがままにボックス席に着く。

両横に3流のオカマが寄り添い、頼んだ酒を作る。

レニー・グランド・佐竹の言葉がよみがえる。

『一流を生み出すためには二流三流の犠牲はつきもの・・・・』

俺は一流なんかじゃない。一流であっては駄目なんだ。

作られた酒を一気に飲みあけた。

「おにぃさん、いい飲みっぷりね。」

「ねぇ、私も飲んでいいかしら。」

「いいよ、皆、好きな物を飲むと良いよ。」

「本当?」

「お兄さん、いい事あった?賭け事で勝ったの?」

見た目からあまり高い物はねだれないと見積もられたか、安い酒をボーイに頼むお姉さま方。

「遠慮は要らないよ、最高の物を。」最後の贅沢になるかもしれない夜が、こんな安いオカマ店なら、二流の俺にふさわしい。

「ええ、本当?!」

「パーっと行こう!」

「キャー。お兄さん最高!」

訝し気に見つめてくるラストの視線を合わさないようにした。暇を持て余している他のおかまのホステスが席に集まり、一層の盛り上がりを見せ、最高ランクのシャンパンがテーブルに届く。こんな店でも、一流品は用意してあるらしい。だけど5本を開けたところで、もう在庫がないと言われた。5本以上のストックがない所が、この店のランクが3流だという証拠。

『その質問をすることが、まだ、お前が、一流ではない証明だ。』

『一流を生み出すためには二流三流の犠牲はつきもの・・・・』

「最高の夜にかんばーい。」オカマたちの低い声が店に響く。


俺は生き残った。児童養護施設の前、1枚のタオルのおかげで。

里香は死んだ。施設に保護されたのに、陳腐な命の俺のよりも先に。

俺は生き残った。銃弾飛び交う戦場の中、仲間の犠牲のおかげで。

俺は生き残った。運び込まれた質素な医療施設のベッドの上、文香さんの血のおかげで。

紛争に巻き込まれた民間人は死んだ。死を望んで軍に入隊した俺よりも簡単に。

何度となく、生かされた俺の陳腐な命は、その数知れない犠牲の上に一流となるのか?

そんなものは要らない

俺は・・・・・・

勝手に頭の中で辞書が開く。


   いちりゅう【一流】①その集団・社会での第一等の地位。②独特な流儀。③技能・学問・武芸などの一つの流派・流儀。一派。


この日本において、第一等の地位は華族をさす。神皇はその上の神の域にあるから一流なんて地位そのものが失礼。その神皇の耳と声となりを民に伝え、この日本の礎を密かに築いてきたのが卑弥呼の血を引く祈宗を唱えて来た華族の祖。

一流の華族の称を持つ柴崎家を守る為に買われた二流の命。こんな俺が、数知れない犠牲の命と引き換えに一流となるなんて、ありえない。

本当か?本当は試したいんじゃないのか?

『大人の都合でしか生きる方法がないなら、その都合とやらを逆に利用しろ。』

   『あぁ、大人の都合に反撃が出来る日を楽しみに生きていくんだ。』

柴崎家を守る?物のようにお前を買った柴崎家、本当に守りたいと思っているか?

   『僕の仕事はね、学園を守る事。学園よりも、生徒を守る事が第一だと考えている。学園より生徒を守りたい、

なんてね、青臭くて笑えるだろ。まぁ裏を返せば、生徒を守る事は学園を守る事につながるから、

建前だって言われても仕方ないけどね。』

何言ってんだ、ほんと、青臭い。

この世は、死が充満していると言うのに。守ったところで、死の影は至る所にある。

ほっとけよ。柴崎家なんて。あの差し出されたワインを飲めば、お前は柴崎家をあの総一郎を超える力を得られるぞ。

総一郎を超える力・・・・

華族会、東の宗代表であった総一郎をも超える力、

世界のレニー・ライン・カンパニー。

   『余す時を裕福に使ってこそ余裕と言う。』

   『時の使い時と命の使い時を過まる者を愚者と言う。』

   『だだの愚者が賢人に盾向かっても勝てはしない。』

   『愚者の捨て身程、無意味な愚行はない。私が無策に愚者を横に乗せると思う  か?』

欲しい物は・・・

   『君のその頭脳を柴崎家は貰い受ける。見させてもらおう、君が麗香の補佐人として、柴崎家の養子としてふさわしいかどうか。』

望む物は・・・

   『柴崎凱斗、私なら、その頭脳を世界の一流の場で使う事ができよう』

趣味の悪いラストの赤い部屋で、人生2度目の戸籍上の男を抱いて朝を迎えた。

三流のオカマと寝る二流の人間。仲間の死を弔い、一流への道を断つ、陳腐な儀式。






僕が大阪に行っている間、文香さんが康太を屋敷に呼び寄せ、柴崎邸で年を越した。そして、卒業までの2か月間、柴崎邸に居候する事になって、柴崎邸から高校に通うことになった。一人暮らしをしていたアパートの残っていた家賃は、柴崎家が全額支払い、昨日荷物をすべて引き上げてきた。

『あの、柴崎総一郎会長ってすごいな。』

横浜の埠頭に僕と康太は、白い布に包まれた箱を持って来ていた。

寒空にアホウドリが飛び交う。

『俺も柴崎家に買われた。大学に行けだとよ。』

『大学?』

『高卒じゃ、交番勤務で終わる。それでいいのか?と総一郎会長に言われた。』

康太は白い箱を地面において、その結び目を説いていく。

『確かに高卒じゃ、捜査官にはなれない。里香を殺したような奴らを捕まえるには、高卒じゃでき駄目だ。』

『でも、大学に行く費用なんて。』

『柴崎家が出してくれるそうだ。と言うより、行くのは常翔大学、経営者なんだからどうとでもなるってやつさ。』

木箱から骨壺を取り出す。

『あの文香さんの思惑通りに、俺は生きるしかなくなった。』

骨壺の蓋を開け、里香の白くて小さな頭蓋骨を取り出した。

『里香、ごめんな。兄ちゃんは、まだ里香の所へ行く事が出来ない。』

いつもやっていたように、康汰は里香の頭をなでた。

『捜査官になるまで面倒を見てやるから、なった曙には、都合のよい働きをしろってことだ。』

『会長が、そんなこと、言ったの?』

『言ってないけど、そう言う事だろう。アパート代も大学費用も柴崎家が出すってことは。』

『・・・・』

『取引さ。』

何も言えなかった。康太は、その取引に対して、嫌がっている風ではなかった。

『里香、寂しくないからな。海には咳が出る悪い空気もないし、里香と遊んでくれる魚たちが沢山いる。どこまでも広くて、どこまでも自由だ。』

僕も里香の頭を触る。ざらついた感触、それでも暖かい感じがした。

『里香、海には、沢山の願いが叶う虹玉が沈んでいるから。待っていて、僕が逝く時まで。』

康汰は里香の骨をすべて海へと沈めた。

沈んでいく里香の骨を、僕たちは無言で眺めた。

里香、待っていて、僕が死ぬまで、今度はきっと間に合う。

里香の時は止まったままだから。






5


大久保の表敬訪問は、タイトなスケジュールにも関わらず、麗香たちの頑張りで滞りなく開催し終えた。テレビの取材はニュース番組のスポーツコーナーで紹介されるという事で、常翔学園内は、ちょっとしたお祭騒ぎの浮かれた状態になった。見学に来ていたサッカー連盟の役員達の接待には、信夫理事長と校長、サッカー部顧問の石田先生までもが付き合わされて、夕方の早い時間から始まったのにも関わらず、中々終わる気配がない。しびれを切らした大久保が、練習に影響が出るとの言い訳に便乗して抜け出しに成功して、大久保が日本滞在中に利用している帝国ホテルへと送る流れで、27階にある洒落たバーに入った。大久保と酒を飲む機会は意外にも数回しかく、しかも、こんな洒落た場所は初めてだった。

「男と来る場所ちゃうな。ここは。」

「気取れよ。大阪弁は合わない。」

「フン、じゃ成功に乾杯とでも言うか?」

大久保が置かれたシャンパングラスを目の高さに上げて俺の方にニヤけた顔を向けた。

「お前だけだろ、成功したの。」大久保の乾杯を無視して、シャンパンを一気に飲み干し、ボーイに次の酒をオーダーする。

「何言ってねん、お前もやろ。常翔学園の理事長様。」

大久保がチビリとシャンパンを口にする。接待の席でも、大久保は乾杯の一杯だけを口に含ませただけで飲みはしなかった。飲めない口ではない、大阪の実家は酒屋で、子供の頃から利き酒をさせられていたと、誰よりも酒の種類と味は知っている。だが、プロサッカー選手として、身体管理に対しては誰よりも厳しくプロフェッショナルに守る姿勢は、世界の大久保のあだ名に恥じない。夢に向かう姿勢は、昔から暑苦しいほど厳しい。

「流石、帝国ホテルやな、良い物を置いてる。」

もしかしたら、これで最後になるかもしれない。大久保との最後の思い出が、こんな洒落た場所なんて似合わないが、それもある意味、笑えるシチューションなのかもしれないと思ったら、本当に可笑しくて、にやけてしまった。

「なんやねん。キモイな。」

「あの、サッカー馬鹿が、本当に夢叶えたんだなぁと思って。」

「やったか?テレビの前でハンカチ噛みしめて悔しがるの。」

世界で活躍する大久保の姿を見せつけられた俺が悔しがる、というのが、大久保のもう一つの夢。

「そうだな。今度のワールドカップでお前がゴール決めたらやるよ。」

「お前・・・・なんか変やな。」

「接待は悪い酒だった。」

「違うわ。」

「大阪弁はやめろって。世界の大久保啓介のファンが幻滅する。」

大久保が訝し気に見つめてくる。こういう時だけ敏い。

「・・・・お前の悪い癖は怖いねん。簡単に人生を捨てようとする。」

「・・・・お前の悪い癖は暑苦しい。簡単に人の覚悟を止めようとする。」

「大野!」

大久保が俺の腕をつかみ大久保の方へ向けさせられる。

ボーイが注文したカクテルを持ってくると同時に、声の大きさを注意された。

「すみません。」苦い顔をしてスツールに座りなおした大久保。「俺が拾った命、俺の物やからな。勝手な事すんなよ。」

「だから、まだ捨ててないって。」

「たくぅ屁理屈ばっかり。俺がずっと、どんな思いして待ってたか、知らんやろ。」

「あぁ、知らん。頼んでもないしな。」

「ちっ、やっぱ、お前はむかつく。」大久保も残っているシャンパンを煽って、ボーイに次の酒を頼んだ。

「良いのかよ、練習に響くんじゃなかったのか?」

「フン、俺は世界の大久保啓介だ。舐めんなよ。」

「頼もしいねぇ。」

東京の雑多な夜景の中に映る大久保の少し怒った顔が、大きく溜息をついた。

「麗香ちゃんの泣く姿なんか、見たくないからな。」

「相変わらず馬鹿だな、お前は。」

(麗香を守る為の命だと言うのに。)

「あぁ、馬鹿でいいよ。馬鹿でも夢は叶えられる。」

「馬鹿に拾われた俺は、もっと馬鹿か・・・」

「あぁ、お前は自分で夢を見つけられない馬鹿だからな、俺が次の夢を見つけてやる。」

「まだ、お前の夢につき合わされんのかよ。」

「当たり前だ、俺の物やからな。」

「ウザっ。」

「あぁ、この先の夢はもっとウザイで、今までより。」

帝国ホテルの上を超えて行く飛行機の常夜灯の点滅を目で追った。

「お前は、俺の葬式で、俺の人生の功績を涙しながら称えるねん。」

「なんだよ、それ。」

「俺は百まで生きるつもりやからな。覚悟しろ。」

「ほんとお前、馬鹿で傲慢で、ウザイな。」

大久保の元に注文したカクテルが届いた。

「あぁ、どこまでも馬鹿で傲慢で、夢に貪欲なんが、世界の大久保啓介や。」

グラスを手にした大久保は、飲みかけの俺のグラスにカチンと音を鳴らしてから、一気に飲み干した。

「陳腐な夢でも掴んだ勝利の美酒は、うまい。」

笑った大久保の顔は、昔と変わらないサッカーボールを追いかけていた少年の顔。

そうだ、いつも俺は、ウザいと言いながらも、大久保に乗せられてしまっていた。

それは、ずっと憧れて欲しいものだった。








黒川和樹をどこに呼んで、このPCを使ってもらうか、散々悩んだ挙句、自分のマンションに招いた。

学園は当然、駄目、柴崎邸も駄目、ネットカフェはカムフラージュには良いが、何かあった時に逃げにくい。

どこかのホテルに一室借りるという考えも浮かんだが、これも逃げやすいホテルを探すのが面倒だ。

このマンションは、周りにここ以上の高いビルはなく、海に面していて、斜め下階層の部屋はベランダが広く人工芝が敷いてある。何かあれば隣の部屋からそこまで飛び移る事が出来る。

黒川和樹を担いでそこに飛び移る事は可能。その人工芝のベランダからぐると回れば、隣のビルの屋上の角がちょうど足場になって飛び移れる距離にある。逃げ道を事前に確認しておくのは特務兵の基本姿勢だ。

「凄いですね。」

マンションの高層の事を言っているのか、部屋の広さを言っているのか、それとも金額の事を予測したのか、目を丸くしてそう呟いた黒川和樹。どれぐらいの時間がかかるかわからない、とりあえず朝の9時に黒川家の近くの東静線の彩都駅前ロータリーで待ち合わせをして車に乗せて来た。

「僕の物じゃない、すべて柴崎家の金さ。」

「それでも凄いです。」

「今日は、家の人には何て言って出て来た?」

「特に何も言ってないですけど。」

「そっか、じゃ、あんまり遅くなったら駄目だな。」

「大丈夫です。」

「ん?」

「僕に感心のある人はいませんから。」

そう言って、黒川和樹は、背負っていたカバンを降ろす。

「一応、これでも僕は教育関係者なんだ。子供を夜更かしさせるわけには行かないね。」

黒川和樹の頭に手をのせ、髪をクシャっと撫でた。ムッとした顔を顰めて視線を外す姿はまだあどけない。

「あっ、しまったな、ミネラルウォーターぐらいしかない。」

冷蔵庫の中には缶ビールと柴崎家から取って来たワインぐらいしか入っていなかった。

「下のコンビニで何か買ってくるか?」

「かまいません。ミネラルウォーターで。」

「そうかぁ・・・・まぁ、後でも」

呼び鈴が鳴った。玄関ロビーからの呼び出しではない、モニターは真っ黒のまま。すぐそこ、ドアの向こうに、誰かが来ているという事だ。

黒川和樹を寝室の方へ誘導しようとした間も無く、ピーとカードキーのロックが解除される音がして、ガチャと解錠される音がした。

「なっ!」

間に合わない。黒川和樹を自身の背中へとまわして、手と足に力を入れた。

英「ハイ!カイ、お待たせ、お祝いに来たわよ!」

英「やっと念願の腹違いの弟に会えるんだ。今日は皆でパーティだ!」

入って来たのはラストとマスター。

【黙れ・待て・調べる・周囲】

マスターの戦略手話が、そう指示をしていた。

黒川和樹が驚きの声を上げようとしたのを慌てて押えて防いだ。

ラストとマスターはピザの箱とケーキの箱など、いかにもパーティの為に食べ物を持ち寄ったような荷物をテーブルに置く。

英「おぉ、嬉しいねぇ、皆が祝ってくれるなんて。」ラスト達の演技に参加する。抑えていた黒川和樹の口からそっと手を放して、人差し指でしーとっ静かにするように念を押す。目を真ん丸にしたまま、黒川和樹は黙ってうなづいたのを確認したら、デスクの上に置いてあるメモにボールペンで走り書いた。

【大丈夫、二人は知り合い。良いと言うまで黙って。】

黒川和樹はメモを見て、大きく頭を上下にうなづいた。

ラストは手に持っていたカードキーを解除する小型の機械を置くと、ケーキの箱を開けて中から盗聴器発見機を出してセットする。ピザの箱を開けてみた、こちらは本物のピザが入っている。

英「おお、俺の好きなサラミピザ!」

英「カイの好物を忘れるもんですかぁ。あっこら、駄目よ、つまみ食いは。」

英「なんだよ少しぐらいいいじゃないか。」

英「まだ、ケンが来ていないだろ。」

マスターも会話に加わりながら、ラストから受け取った発見器のセンサーを部屋の端から、くまなくかざしていく。

ラストが部屋の隅々に視線を這わす。ラストは盗撮のカメラを探している。

英「良い部屋ね、ここ。」

そう言いながらベッドルームへ

英「いいベッドがあるじゃない、決めたわ、私、今日は泊まるわ。」

英「やめろ!」ここは演技じゃなく本気で阻止!

英「いやーね、カイ、あたし達、昔は」

マスターが指を鳴らす合図で俺とラストは振り返る。マスターが指さすのは、この間ポストに入っていたダイレクトメールに同封されていた、ポケットティッシュ。

英「甘くいけない夜を過ごしたじゃないの。」

ラストが演技を続けながら、ポケットティッシュをそっと持ち上げ、裏返す。

良く見ると、チラシの紙が一部分、一ミリほど分厚い。マスターが持っている発見器のセンサーをもう一度あてる。手にしていた四角い機械のランプが、Maxを示す赤い色に表示された。

ラストが椅子をガタガタと揺らして音を鳴らし

英「やだっ!こぼしちゃった。カイ、そこのティッシュ取ってくれない。」

英「何やってんだよ、ほら。」

英「ありがとう。」

そう言うと、ラストはティッシュの台紙の盗聴器を取り出し、テーブルに置くと肘で打ちつけ、壊した。

「凄い。」

黒川和樹が驚愕の歓喜をつぶやくのを、マスターが口の前に人差し指を立てて、制する。

黒川和樹は慌てて口に抑えて、しまったと言う顔をする。盗聴器は一個だけじゃないかもしれない。

マスターは続けてセンサーを部屋のあらゆる所にかざして探したが、他に盗聴器は無かった。

いや、もう一つ、ラストが仕掛けた物があった。

「なんだよ、俺につけていたのかよ!」

「そうよ、だから、こうしてタイミング良く来れたんじゃない。」

「はぁ~。」

盗聴器は携帯電話の電池の隙間にカード型の物が入れられていた。

「もういいよ、しゃべっても」マスターが黒川和樹に笑顔の顔を向ける。

「あっ、はい・・・」

「ったく。何だって、マスターまで。」

「カイ、このあたしが、カイの顔色見抜けないで、恋人だと言えないでしょう。」

「えっ!理事補って・・・・」黒川和樹が驚愕の驚きを示す。

「馬鹿!違う。絶対違う!」

「いやぁね、カイ、生徒の前だからって照れなくても。」

ラストが腕を組んでくるのを全力で阻止!

「やめろ!」

「和樹ちゃんって言ったっけ、君も気をつけた方がいいわよ~。カイはオールマイティだから。」

「やめろ!違う、絶対違うからな、黒川君。」

「・・・・・・」黒川和樹が引きつった顔で後ずさりする。

「こいつの言う事、信じるんじゃない!」

「ラスト、それぐらいにしとけ、子供を怯えさせてどうする。」

「楽しいじゃない。今日はパーティなんですから。」

「楽しくない!」

大久保と洒落た乾杯をした翌日は、オカマとスキンヘッドの黒人と13歳の子供が混じったパーティだ。

ミッション開始。

指令は世の裏側にバーチャルダイビング、どこまでも深く、警戒心の強い鮫の巣穴を見つける事。

「本当、何も入ってないわね。」ラストが冷蔵庫を開けてつぶやく。「じゃ、まずは買い出し、下のコンビニに行きましょうか、和樹ちゃん。」

「えっ、僕?」

「そっ、一緒に来てくれなきゃ、若者の好みがわからないもの。」

黒川和樹はたじろいだ目で助けを求めてくる。

「大丈夫、見た目はちょっと一緒に居たくない系だけど、ラストは紳士だから。」

「もう、淑女と言ってよね。」

「はいはい。」

「さぁー行きましょ。パーティ、パーティ、沢山買っていいわよ。」

「あっ、えー?」

ラストに背中を押されて玄関に押し出されていく黒川和樹。

そして、マスターと二人だけとなった部屋。低い声で名前を呼ばれた。声のトーンでマスターが怒っているのがわかる。

胸倉をつかまれ、そして腹に一発、構えていたとはいえ、マスターの重い突きは腹の芯に響く、丸めた背中を落とすようにもう一発、床に手をついた。容赦なく仰向けにさせられマスターが覆いかぶさってくる。

英「何考えてる!あんな子供を巻き込んで!」

首に腕をクロスで抑え込まれ、身動きは出来ない。

英「・・・・方法がない。」

英「まだ、毛の生えていない子供を使う以外の方法が無いだと?怠慢じゃないのか!」

英「考えたさ!ずっと!この記憶の書庫にある、何千万、何奥万の文字を引っ張りだして!この俺が、好んで大事な生徒を犠牲にするもんか!」

英「・・・・・」

英「あの子は、すでに鮫のしっぽに触れてしまっているんだ。聖なる犠牲・・・・罪は背負う。」

英「ちっ!」

マスターは、どすっと俺の顔の横の床を殴ってから立ち上がった。





隣のベッドルームの脇にある、デスクの鍵付きの引き出しから、米軍仕様のパソコンPAB2800SCを取り出す。

英「こんな物まで用意して」

ポ「あいつは言ったんだ。また子らを犠牲にするのも、それはそれで一流だと。」

マスターもラストも俺よりもずっと長く雇われ兵としてアフリカの戦場に身を置いてきた。英語はもちろん、現地のポルトガル語は必須で話せる。

突然変えたポルトガル語に、黒川和樹が不審な顔を向けた。明らかに自分には知られたくない事をしゃべっていると感じて、居心地悪そうにうつむく。

「黒川君、ごめん、こいつらが来てしまった以上、子供に聞かせられない話がどうしても出てしまう。その時は君のわからないポルトガル語が飛び交う。耳障りかもしれないけど、我慢してくれな。」

「あっはい。お構いなく。でも理事補、凄いですね、ポルトガル語も出来るんですね。」

「記憶力は得意分野なんでね。」

「でもね、カイの会話力はお堅い辞書から引き出した文節でね。よく皆に笑われていたわよね。」

「当たり前だ、まず辞書を丸暗記してから、文の構成のコツを理解し発音練習して、初めて話せるようになるんだから。」

「あぁ、だけどそのお堅いポルトガル語が役に立った時もあったじゃないか。」

「ええ、イラクの内地に潜入した時ね。敵に包囲されちゃって、アメリカの犬だってバレそうになって、カイの馬鹿丁寧なポルトガル語が相手にジャーナリストだと信用されたのよね、あの時は笑えたわ、カイのポルトガル語、小学生の教科書みたいでね。相手も笑って、それで身元調査をおろそかにさせたのよね。」

「あの時は、借りたポルトガル語の辞書を記憶して2日しか、経ってなかったんだぞ。あれでも必死に発音練習したんだ。」

「懐かしいな。まだカイがチームに入って半年の頃だったか?」

「それまで英語があれば済んでいたミッションばかりだった。急にポルトガル語が居るミッションだと知って慌てたよ。」

「あの時は驚いたな、そこで、はじめてカイの特殊能力を知ったんだ。」

マスターが頭を指さす。黒川和樹にマスターが知ってるか?と聞く。

「知っています。世界で数人しかいない特殊な脳なんでしょう?」

「マスター、怒っていたのよ。カイがチームに派遣されてきた時、【何だってこんなお子様の面倒を見なくちゃなんないだ!米軍は子をも戦場に送るぐらい堕落したか!】ってね。」

「書類には一切そんな記述がなかった、カイが来てから、やたらスパイ的なミッションが舞い込むと不審に思っていたんだ。こいつも本部から直接受けていた別ミッションがある事は、俺たちには内緒にしていたからな。」

「当たり前だよ、身内に内緒なのは特務の基本だ。」

「私が夜に襲ってね、吐かしたの。」

「へぇー」

黒川和樹が納得顔でうなづく。

「納得するな!嘘だ。黒川君!絶対にラストとは何もないから!」

「あははは、冗談よ。私達、ポルトガル語の辞書を1枚1枚めくっているカイの様子に、頭がおかしくなったんじゃないかって思って見てたのよね。こーんな分厚い辞書をすべて1枚1枚めくって眺めたところで、しゃべられるはずがないって笑ったわ。」

「めくり終わった辞書を閉じて、ポルトガル語の会話を聞かせてくださいって言うからさ。増々頭がおかしくなったと思ったな。」

「私達は、アフリカや中東で生活する事が多かったから、日常会話のポルトガル語は当然に出来ていた。だけどカイは英語と日本語しか話せないと言っていたのに。私達が数分間、話している会話を眼をつぶって聞いていただけで、突然ポツポツとしゃべり始めたからチーム全員の驚きようったら、無かったわね。」

「どんなマジックを使ったんだって俺は聞いたよ。」

「ほんと、カイの頭はどんな風になっているのかしらねぇ。」

「別に特殊でも何でもないさ、重い辞書を持ちあるかなくて済むぐらいのものさ、日本語と英語以外の言語は、まだ頭の中の辞書をめくりながらでしか話せない。」

「はぁ~、それが良くわからん、英語すらも俺には頭に辞書なんて入ってないからな」

お手上げのポーズのマスター。

「先輩方、もう、戦場の話はやめましょう。黒川君が変に興味持って突っ走してしまったら困る。」

「男の子は少々、やんちゃぐらいで世界を見た方が良いぞ。」

「ここは日本。普通一般の子供が、わざわざ戦争や内紛に目を向ける必要はありません。」

ポ「生まれた場所が違うだけで、ここまで命の価値が違うなんてな。「選ぶ命に聖なんてあるか」と叫んでいたお前の牙も折れたもんだな」マスターの皮肉を無視して、テーブルのミネラルウォーターを飲んだ。そうは言っても、マスターも戦地から逃げて、この平和ボケした日本の快適さに馴染んでしまっている人間だ。

何を言われたかわからない黒川和樹はきょとんとした目で見つめてくる。

「マスターはね、世の中の矛盾に苛立ちを抑え込んでいるのよ。大人になれば、怒りも抑え込まなきゃなんないストレスが、その野心を蝕んでね。昔はマスターもいい男だったのにねぇ。今はショボショボで立たないのよ。」

「バッか!かぁ!」顔を真っ赤にしてラストの言葉を否定するマスター

「やぁね、私達も甘ーい夜を」

英「ふざけるな!」

「まったぁ。ラストはすぐそっちの話になる。」

「理事補、ぼ僕、帰っていいですか」

「大丈夫よ、私は、カイと違って、子供には興味ないの。あと10年、男を磨くことね。和樹ちゃん、楽しみにしているわよ。」

「どこが大丈夫なんだよ。」

そんな話をしながら、黒川和樹と二人の外国人は交流を深め、いよいよ本格的にハッキングの話になっていく。

マスターとラストに、自分たちがしようとしている事を含め、何故それをしなければならなくなったのかを説明した。

「レニー・グランド・佐竹の秘密を知ったりのちゃんって子を、殺さずに生かしているってのが怖いわね。」

「あぁ、りのちゃんは、ロシア語だけじゃなく、英語フランス語も堪能、頭もいい、長期戦略を考えるなら、価値ある人質は確保しときたいって事だろう。りのちゃんだけじゃなく、あいつは、「子ら」と言った。新田慎一は世界に通用するサッカーの才がある。藤木亮は現外務大臣の息子だ。藤木外務大臣は、ロシアからのガスパイプライン輸送を国家計画推進のトップだ。そして、俺のいとこである麗香は、常翔学園経営者の唯一の後継者。簡単に谷村教頭は消したのに、4人の子らは消さずに、今まで来ている。」

「カイが良い返事をしなければ、一人ずつ消すと言う算段か。」

「ちよっ、と、和樹ちゃんの前でこんな話をしていいの?」

「あ、僕は・・・・」

「すでにそういう事は知っている。黒川君はある事情と興味本位で、学園のPCにハッキングをした。レニーが去年、学園を盗品売買の場所にしようとした事や、教頭が、りのちゃんを殴った事実、そして、その後、レニー・グランド・佐竹が、俺を含めた5人の身元情報を学園サーバーから盗んでいる軌跡を見つけて教えてくれたのは黒川君だ。それだけじゃない、ハッキングの軌跡をたどり、レニーのしっぽまで掴むまでしていたから、ほっとくわけにはいかなくなった。」

「驚いたわね。こんな子供が、レニーのしっぽをつかむなんて。」

「大丈夫なのか?」

「あの世界のレニー・ライン・カンパニーですからね、エンジニアが本気で僕の軌跡を逆探査すれば、身元を把握するのは簡単です。」

「身元がバレたらどうなるの?」ラストが基本的な質問をする。

俺達、元軍人は様々なミッションに対応する為、そこそこの機械には詳しい。さっきの盗聴発見器などもその一つ。だけど結局の所、最後は原始的なサバイバル力が命を守って来た。機械には詳しくてもバーチャル的なソフト面は疎い。

「身元がバレたら、消されるとか・・・」

「消される!?」

「あ、いえ、噂です。実際の所がどうなのかわかりませんが。」

黒川和樹の言葉の補足を二人に説明をする。

「レニー・ライン・カンパニーってのは、その会社の性質上、物流情報の方が物流そのものよりも価値が高いと言われている。人の命より価値高いとまで言う奴がいるほどだ。その情報を集約しているデーターベースはブラックボックスと言われていて、そのブラックボックスを守る高次元のセキュリティはデスウォールの異名を持つ。」

「人の命より価値高い情報って事は。そのデーターを巡って命を落とした人間がいるから、死の名がついたって訳?」

「嫌な名だな。」マスターが厳つい顔をゆがませる。

「異名はそう言う経緯でついたわけじゃありません。レニーのデスウォールは世界最強で、ハッキング界では自分のスキルを試すゲーム場になっています。世界中からハッカーがデスウォールを狙って来るのを、レニー・ライン・カンパニーはあえて待っているんです。」

「待っている?」

「はい、躍起になってハッカーを追わなくても、腕の立つハッカーをそこで待っていれば来ます。そのゲームのようになったハッキング攻撃を逆手に取って、ウォールに侵入出来たハッカーをレニーは囲い入れるという噂もあって。」

「なるほど、腕の立つエンジニアは探さなくても向うからやってくる。そうすればデスウォールは更に強くなり、それを破るハッカーは更に腕が立つ者が現れ、の繰り返し」

「はい。囲い入れられたハッカーは当然、2度とレニーのウォールに挑戦することは出来ません。」

「まぁ、そりゃそうだな。」

「これ以上ない最強のウォールを破る事は、ハッカーにとって名誉ある事だけど、それ以上の高難度のないウォールがなくなれば、ハッカーとしては終わりなんです。」

「なるほど。」

「レニーのデスウォールはエンドのゴールなんだ。」

「はい。ハッカーとして名誉ある死を意味する事で、デスウォールの名前が浸透したのですが、それよりも、デスウォールに挑むと宣言して後にネット界に戻ってこないハッカーがほとんどで、あっ、でも一度使った名前では戻ってこないという意味で、実際には何度となく戻ってきているかもしれません。それだとしても、ウォールを破ったと自慢するハッカーが全く居なくて、それで死んだと言われる。」

「ゲームのようになっている世界最強のウォールを侵入出来たなら、名前を変えても、普通、自慢したくなるわな。」

「えぇ、それが、全くないから、消されたと言う噂が流れるのだと思います。」

いい年をしたオッサン3人は、まだ毛の生えていないような子供の言葉に眉をひそめて、うーんと唸り顔を見合わせる。







女の子のような細く艶やかな指が、軽やかにリズム打つ。華麗にキーボードを操る黒川和樹がピアニストのように見えた。だが、そんな華麗なキーボード操作でしても、レニー・グランド・佐竹の本名はわからない。佐竹だけじゃない。レニー・コート・大連、レニー・コート・綜王、レニーの名前を名乗る前の情報が、故意で消されたと思える様にヒットしてこなかった。

「ここまで、徹底しているとはねぇ。流石、レニー・ライン・カンパニーと言うべきかしら。」

「これじゃ、佐竹の弱みを掴み、切り札として持っておくという、お前のミッションはアウトだな。」

「うーん。このPCをもってしても駄目か。」

「・・・すみません。僕のスキルが貧弱で。」

「黒川君を責めているわけじゃないよ。」

「そうよ、和樹ちゃんはよくやったわ。ウォールを一つ破ったじゃないのよ。」

「うーん・・・・」

「褒美のキスをプレゼントしたいぐらいよ。」

「要りません!」

「いやーね。和樹ちゃんまで。」

「カズキのスキルの問題じゃないな、ここまでくれば。探り方の問題だな。」

「あぁ、故意に消されているとはいえ、完璧に消す事は出来ないはず。」

「どこかに消し忘れは絶対あると思います。プログラミンで巧に消しても、そのプログラムを作るのは人間の手作業ですから。」

「その手作業の抜け落ちを探すしかない。」

「中々、難しいですね。このプログラミング、一人で作られた物じゃないですから。」

「そんな事もわかるのか?」

「はい、プログラミングには人の癖があります。この第一ウォールの突破したセキュリティも、ワンパターンじゃなくて・・・・えーと、3・・・4、5、6・・・・7パターン、単純に一人一癖と考えて最大で7人がカバーして、プログラムしています。」

「流石はレニー、人使いも半端ないな。」

「7人の本職のエンジニア、かつては腕の立つハッカーと対峙しなければ、この先にある更に分厚いウォールを破れないって事か。」

「この先なら、消し残しがありそうなんですけど。すみません。」

「謝ることないよ。ちょっと休憩を入れよう。というか、もう日が暮れてしまったな。えーと、続きは・・・。」

「一旦、落としましたら、ウォールの壁を再構築してきますね。かといって、このまま自動回避モードのままと言うわけにもいきません。こうして、時々・・・」

黒川君は、画面を睨み、カチャカチャとキーを押す。

「すみません。こうして、時々、パターンを変えてやらないと、向うの自動監視プログラムにパターンを読み取られてしまいます。それに、本物のエンジニアが登場すれば、逆探査でこのPCはつぶされます。いくら米軍仕様でも簡単に。今の所、まだ本物は登場していませんから、のんびりして居られますが。」

「でも、時間切れだ。」

「あぁ、探り方を考える時間を作ろう。ありがとう黒川君。」

「あっ、いえ・・・でも本当に、もうストップしていいんですか?僕、今日は上手く行きましたけど、次の時は破れるかどうか自信はありません。僕の家の事なら、別に帰らなくても大丈夫です。」

「駄目だよ。明日は学校だしね。」

残念そうに渋る黒川和樹の頭をなでた。黒川和樹は画面を見つめたまま、悔し気だ。

ミッション開始2時間ほどで黒川和樹はウォールを一つ破った。いい大人3人と中学生の4人はガッツポーズで喜び、その成功の先に、りのちゃん達を守れる何かを見つけられると期待したが、結局のところ、切り札になるような情報は何もつかめなかった。

「・・・・わかりました。止めます。」

キーボートをカチャカチャと操作して、最後にエンターを押す。それまで、滝のように英数字が流れていた画面が徐々に少なくなっていき、黒一色の画面になった。そして、鷹と星がデザインされた米軍のマークが中央に現れる。

「終わりました。」

「よく頑張ったわね。」

ラストが黒川和樹の頭をなでようとしたとき、大人三人は同時に玄関扉へと振り向き警戒モード状態で構える。わかっていない黒川和樹だけがポカンとして、ラストが黒川和樹を立たせ、抱えながらベランダへ誘導。マスターは玄関ドアの死角になるキッチンの壁へ身を潜ませ、自分はリビングの照明を落とし、マスターと対角になるリビングの壁際に背を預けて玄関ドアへ注視する。人の気配はまだある。ピーとカードキーが認証される音がして、ドアが開けられた。

「ただいまーって、今日も可愛い弟は帰ってこないかぁ。」

康汰の声。マスターが肩で息を吐き、警戒を解いて笑う。

靴を脱ぎ自分の家のように入ってきた康太が廊下の照明をつけた。

「おわーっ!」

「ごふっ」

誰もいないと思って入って来た康汰は、人の存在に驚いてマスターの腹に蹴りを入れた。警戒を解いていたマスターの腹に見事な左蹴りが入る。

「やめろ!康汰!」

「は?」

「カイ、この子誰よ、私と言うものがありながら。親しげな名前で呼び捨て。」

ラストがベランダから腕くみをして、怒った口調で出てくる。

「何?オカマ?」ラストとは初対面の康太が、おぞましいものを見るように、柔道の構えを崩さず後ずさりする。

「違う!ラスト変な事を言うな!」

「うぅ・・・・」腹を抱えてうずくまり唸るマスター。

「あはははは、ひー。もうダメ。おかしすぎる。」部屋に戻ってきた黒川和樹は、お腹を抱えて笑う。

「和樹!」

マスターの唸りと、ラストの怒り、康汰の不審な嫌悪。そして黒川和樹の止まらない笑い。

このややこしい状況が、きれいに収まるのに、30分の時間がかかった。そして、やっと状況を把握した康太は、「節操のないお前と和樹を二人っきりにはさせん。」と言って、黒川和樹を家まで送って行った。

英「ごめん。ラスト。蘭の花を枯らしてしまった。」

英「仕方ないわ。裏の世界で生きている子よ。それなりの覚悟はしていたはず。」

英「だけど、俺がレニーの事を頼まなければ、死なずに済んだ。」

英「カイ、あなたはどうだった?」

英「何?」

英「ミッションの指令が来るたび、死は常に覚悟して戦場に向かっていたわね。私達。」

英「・・・。」

英「それと一緒よ。あの子は仕事に誇りを持って、覚悟していた。だから最高の花を咲かせていたのよ。」

英「ラスト。」

英「カイ、あなたは、やっぱりまだ子供ね。優しすぎる。」

ラストに体を抱きしめられる。戦場では兄であり、姉であり、母であったラスト。

生まれた時から無い物を、このオカマから感じるのは、愛のぬくもりか?

本物を知らない自分は、それが何であるかも、わからない。





もう指が覚えてしまっている長い暗証番号を屋敷の門の横にあるセキュリティーボックスに打ち込み、カードキーをスライドさせる。ピーと音の後、ゆっくりと通用門が自動で開く。バイクを通すのに三分の一までの開きで十分なのに、一旦全開まで扉が開いてからじゃないと閉まらない柴崎家の通用門。車なら運転席から降りることなく、リモコンキーで開閉ができて便利だが、バイク乗りには不便この上ない。

重い曇がのしかかったままの朝、雀の鳴き声が木々生い茂る頭上からして見上げたが、姿は見つけられなかった。閉まった門扉とセキュリティーボックスが施錠完了の音と緑色のランプに変わったのを確認して、エンジンを切ったままバイクを押して玄関前まで歩く。

溜息が出るくらい広い屋敷、いずれ麗香と共に継がなくてはならない柴崎家の資産、下手な投資でもしない限り減りはせず、年間億単位で増えていく。しかし、そんな財も世界に比べればちっぽけだ。世の中には上には上がいる。

そして財より力を持つもの、位。

どんなに財を積み上げ献上しても位だけは手に入れる事が出来ない。

それを持っているのが華族の称号を持つ柴崎家。

皇より授かりし華族の称は、日本の政を行う内閣府より、上を行く地位である。

内閣府で手に負えなくなった有事の際、神皇の勅命により発足される皇制政務。それは、華族主要の12頭家を筆頭にして、他の華族、華准、華選すべての称号を持つ者が財と権力、知力を集結させて有事にあたる。そうして、この日本を幾度となく危機から救ってきた。神皇を守り、神皇の代わりとなって実務を遂行することが、華族の使命。その功績は世間に明かされる事なく、内閣府の後ろで秘密裏に行われる。

華族の次籍である華選は、その華族の実務遂行を補う役目。一般人が自身の功績だけで登りつめられるのはここまで。これより上の位、華族に上がる事は絶対にできない。華族は、華族の祖となる神巫族の血筋であることと認められた一族の証しでもあるからだ。


『大野凱斗、私なら、その頭脳を世界の一流の場で使う事ができよう』


柴崎総一郎が差し出した手を掴み、俺は華選になった。物のように捨てられ、世の底辺であった児童養護施設で育った運命は大きく上昇し、いつのまにか民の頂点に立っていた。

レニー・グランド・佐竹が差し伸べた手を掴めば、この狭い日本の位を遙かにしのぐ力、世界の地位が手に入る。


大正の好景気に贅を尽くして作られた柴崎家の屋敷、ステンドグラスがはめ込まれた重い玄関ドアを引き開ける。

住み込みのお手伝いである林さんが、ワゴンを押して、食堂へと運び入れようとしていた。林さんはワゴンの手を放し「おはようごさいます。」と丁寧に頭を下げてくる。昔、世話をした施設育ちの子が、急に雇い主側に入り込んだ。頭を下げる心境はさぞ、複雑でやりにくい事だろう。いつも、頭を下げる必要はないと言っているのに、そうはいきません。と林さんはぎこちなく微笑する。林さんの為に、食堂の扉を開けてあげた。

「本当!」麗香の喜々とした声が飛び出してくる。

「あぁ、いい案だよ。生徒会から正式に上がってきたら、迅速に対応しよう。」

「ありがとう!お父様。」

「その代り、企画書は、完璧に抜かりなくやってもらわないと、時間がかかってしまうよ。」

「わかってるわ。」

「おはようございます。」

「あぁ、おはよう凱斗。朝早くに済まないな。」

「おはよう。」

文香さんの落ち着いた、いつもの声。あまり顔を視られたくない。文香さんの眼から逃れるように信夫理事長に話しかけた。

「荷物は書斎ですか?」

「あぁ、まだ書斎だ。」

「運んでおきます。」

今日は、信夫理事が修学旅行の付き添いでカナダへ出発する。学園からバスに乗り込んで空港まで行くので、車で学園までの荷物運び兼、運転手の為に、朝早く屋敷に立ち寄ったのだった。

「凱兄さん、おはよう。」

「おはよう、麗香。」

「凱斗、今日の午後、空いているかしら。」

参ったな、顔を向けないわけにはいかない。

「はい、特に何も。」目を細めて視られる。隠し事は出来ない。きっとすべてを読まれている。

「あなた、今日の午後から凱斗の時間を、私が頂いてもよろしいかしら。」

「かまわないよ。今日は校長もずっと滞在だと言っているし。隣には敏夫もいる。お好きにどうぞ。」

「じゃ、悪いけど、凱斗、一時に屋敷まで戻ってきてくれるかしら。」

「かしこまりました」

説教でも食らうかもしれない。最近、文香さんに報告していない事が沢山ある。

食堂を出て信夫理事長の書斎へ向かう。溜息一つ、憂鬱な気分は晴れない。


午後、文香さんに言われるがまま車を出した。途中で花屋に寄った所で、今日は総一郎会長の月命日だったと思い出す。

卑弥呼の時代より紡がれてきた祈宗の流れを組む精華神社。華族の称を持つ者と、華族の祈宗信仰に添う一族しか入信できない特別の神社である。神の子である神皇に仕える華族は、一般とは違い、生も死も神社で祈祭を行い身を捧げる。

社殿に祀られているのは「降神の宝珠」と言われる水晶で、祈りを捧げた後、社司でもある守都家の当主と共に社殿横から裏へと抜ける廊下へ向かった。社殿裏、一般人の眼を憚り佇む奥に、高い生垣に囲まれた墓がある。社司が墓の入り口の門扉の鍵を開けて、「ごゆっくり」と微笑して社殿へと戻られた。大きな墓ばかりが並ぶ合間を歩き、柴崎家の墓へと向かう。守都家の人が常に墓の管理をしてくれているのだろう。どの墓の前にも花が添えられていて、道には落ち葉一つ落ちていない。

ここに来ればいつも考えてしまう。命の違いについて。里香の墓はない。里香の遺骨を沈めた場所が見えるところだったから、あのマンションを買う気になったのも理由の一つだ。康汰もそれに気づいて、酔いつぶれた夜からずっと家に入り浸りだ。

「凱斗・・・・お義父様の最後のお言葉を覚えている?」

「はい。麗香を頼むと。」

墓前に、手を合わせ終えた文香さんが、立ち上がり振りかえる。

「本当に、そうだった?」

「え?」

「凱斗の名前を呼んだお義父様、もう聞き取れないほど力なく、かすれた声だったわね。」

柴崎家一族が総一郎会長を取り囲む病院のベッド。酸素マスクが曇り消えする呼吸音がやけに大きかった。

文香さんは泣いて、「しっかりしてください。」と叫んでいた。

筋張った大きな手で、酸素マスクをはぎ取った総一郎会長が、一族、皆の名前を呼び、その遺言を継げていく様を、冷めた気持ちで眺めていたのを覚えている。

麗香が「お爺様ぁ」と泣いて縋り付く。

震える手で頭を撫でた総一郎会長は、「麗香、その名に恥じない麗しい華であれ。」と麗香に遺言を残した。


死の間際でも総一郎会長の眼は力強く、その声は掠れていても一族を導く力が、そこに居る者の身に染みわたると思った。

「麗香の頭をなでた後、僕を呼んでくださいまして、手を握っていただきました。」

『凱斗・・・・麗香・と』その先は、口の動きだけとなった。

「もう言葉にはなっていなかったわね。あなたへのお言葉は。」

「はい、だけど僕にはわかりました。麗香を頼む。と言っていると。」

「違うのよ。お義父様、麗香と仲良くと言ったのよ。」

仲良く?頼むじゃなかった?

「そう、仲良くよ。私のこの目は本心を視知る。」

文香さんがバッグの中から、一つの封筒を取り出した。

柴崎家の家紋が入った和紙で出来た封筒、特別な時にしか使用しない。

だからこの中に入っている物が重要な書類である事は一目瞭然。

「開けてごらんなさい。」

封筒の中に入っていたのは3枚の紙、行政がよく使っている手続き書類用の。

「これは・・・」大野凱斗の名前が記載された柴崎家の戸籍、除籍手続きの用紙と、柴崎家一族全員のその同意の押印された証書。

「お義父様、凱斗が柴崎家に価値を見いだせなくなった時は、いつでも出られるようにと。養子手続きと同時に、除籍手続きの書類も用意されていたの。」

「総一郎会長が?」

「会長の言葉は忘れなさい。」

「いえ、それは・・・」

「私には、わかるのよ。」文香さんは、悲しみを隠しきれない微笑みで頷く。

「凱斗、迷うことなく出なさい、家から。」

やっぱり文香さんには、すべてを見抜かれてしまっている。縛られない世界へ向かう気持ちを。

「凱斗、あなたは血を分けた私の息子。」そう言って、文香さんは大きく手を広げて抱きしめてくる。「息子が大きく羽ばたくのを止めない親がいるものですか。」

もう文香さんを包めるほどにデカくなってしまったのに、背中の手は大きく広い。

触れたやわらかさは甘く暖かい。

これが本当の母の愛?

だとしたら、とっくに知っていた。

康汰のアパートの前で、涙が出そうになったあの時に。

「・・・・文香さん」

「戸籍を外れても、私とあなたは血で繋がっている。あなたの母で居させて頂戴。」

あぁ・・・文香さんは変わらなく、ずっと手を差し伸べてくれていたのに、その手がある事を見ないようにしてきた。

自分の過去や総一郎の会長の遺言を鎧のようにまとい、寂しさの涙を隠してきた。

そう、赤子の頃から一番欲しかったものは、おもちゃやゲーム機なんかじゃなく、一流の世界でもない。

すぐ、そばにあるはずの母の愛だった。

「・・・・お母さん。」




6


部屋の盗聴チェックを再度行う。黒川和樹は盗聴発見器の仕組みを目を輝かせてマスターから聞き、アシスタントをしている。

「驚いたな、全うな場所に住まう奴とは思っていなかったが・・・。」バラテンが部屋を見渡し、訝しい顔を向けてくる。

「至極、全うだろう。」

「あぁ、住まう場所は全うだか、集う奴が全うじゃない。」

「今日は、オカマが居ないだけ、まだマシだ。」康汰が、鼻を鳴らして答える。

レニーのデスウォールにハッキングをした経緯を知った康汰が、今日は、バラテンを伴って参加して来た。いくら性能セキュリティ共に最強のパソコンを使うとは言え、心配したのだろう。レニーに目をつけられる人間をこれ以上増やしたくなかったのだか、仕方がない。今日はラストはいない。再度、侵入を試みる事を伝えると、忙しいのよって電話を切られた。

「OKだ。」

マスターの盗聴チェックが終わる。

「かず坊、PABとこいつの連動の具合を見てくれ。」

「はい。」

ダイニングテーブルにアメリカ軍採用のPAB2800SCを中心に3台並列したノートパソコンを前にして、バラテンは黒川和樹を呼び寄せた。バラテンは黒川和樹の姿を見ても、驚きもせず、「あの、強化セキュリティ使いやすかったか?」などと話して、すぐに打ち解けている。以前にPAB2800SCを使うのは『子』だと言っていたし、康太も話していたのだろう。

黒川和樹はPAB2800SCのパソコンを、手慣れた手つきで確認していく。

「OKです。モニターが増えて、見やすくなりました。」

「いくら、最新鋭のPABを使ったからと言って、よく、あのレニーウォールを一枚破ったもんだよ。こんな子供が、末恐ろしい。」

「たまたまです。隙間を見つけられたから・・・。」

「その、たまたまが見つからないから、皆、撃沈するんだけどな。」

ボサボサの頭を掻いて、溜息をつくバラテン。

バラテンは、黒川和樹のバックアップをする為に自分のPCを3台、持ってきた。黒川和樹が米軍採用のPAB2800をメインで侵入を行い、バラテンが監視と軌跡消しを分業する。今日こそは、レニーウォールの2枚目の先へと目指すミッションだ。

黒川和樹は、椅子に座り直し、手をグーパーと準備運動。

「黒川君、また、頼むよ。」

「この間よりは、自信があります。バラテンさんがバックについてくれていますから。どうにか、レニーの壁3枚目ぐらい突破して、レニー・グランド・佐竹の素性に繋がる物を拾いたいですね。」

「悪いな。もう時間がない、今日が最後だ。」

「はい、では、行きます。」

黒川和樹は前回と同じように、プログラム画面を表示させて、キーボードをカチャカチャと打ち込み始めた。高速で送られていく英数字。単語一つをじっくり見れば何を意味しているのかわかるが、これだけ早く送られていれば、知っている単語すらも見つけられない。

「おいおい、嘘だろ。このスピード、ちよっと待ってくれ!ストップだ。」バラテンは慌て驚き、制止する。

「何だ、今更、怖気づいたか?」

「違う。レニーウォール1枚破ったと、聞いてはいたから、もしやと思ったが、半信半疑だったんだ。ましてや子供だと聞いていたからな。」

「黒川君のスピードについていけなくて、サポート出来ないとか言うんじゃないだろうな。」

「あぁついていけない。と言うか、あぁぁ・・・」バラテンはボサボサ頭を掻き、更にボサボサにする。「カズ坊!お前さん、VIDブレインか?」

「はい?」黒川和樹はきょとんとして顔を上げる。「ビッドブレイン?」

「はぁ~。」バラテンは手で顔を覆い、大きなため息をついた。顔から髪へとかき上げた手で、髪のボサボサを治すが、もちろんきれいにはならない。

「お前さん、VIDブレインが何か知らずに、それをやってるって事か・・・・参ったな。」

「どういう事だ?バラテン。俺らにもわかる様に説明しろ。」康汰が、バラテンに詰め寄る。

「バーチャル・ダイブ・イメージ・ブレイン。頭文字とって並び替えて通称VIDブレインと呼ばれる。」

「そのなんだ、バーチャルダイブ何とかってのは。」

「一言で言えば、VIDブレインを持つ脳は、ワシらとは次元の違うレベルで、ハッキングしているって事だよ。」

その一言すらもわからない俺たち。

「カズ坊、お前さんがハッキングしている時、頭の中はどんなイメージでやっている?」

「えーと今回は、海を潜っているイメージ、遺跡の瓦礫が沈んでいる海底の感じですけど・・・・」

「今回はって、毎回、違うのか!」

「はい・・・ハッキングする場所によって違います。」

「例えば?」

「官公庁は沢山のドアの鍵を開けて突破していくイメージですし、警察は監獄のような冷たい迷路をくぐりぬける感じで・・・」

「驚いたな・・・。」

「何の話をしているんだ。さっぱりわからんぞ。」

「ワシら一般のハッカーはな。この裏画面、」とバラテンが指さすのはネットのホーム画面をプログラムコマンド表示された文字だらけの画面だ。

「この画面で、あらゆる命令、指示を出して、目的の場所のセキュリティを解除、もしくは破壊して、侵入するわけだ。俺ら一般レベルのハッカーが見ている画面は、この画面その物で、頭ン中も、特に海に潜っているイメージとかは無いわけ。単なる2次元のプログラム画面。この文字列から、目的の場所のファイルを見つけてコピー、もしくは消去、ウィルスなどを仕込ませるのが基本操作だ。だけどもカズ坊は、本人が言うように、この画面を見て、海に潜っているような感覚で、そこは3次元の、この世とは別世界があるようなイメーシを頭の中に作り出し、実際に自分がその世界で泳いでいるかのような感覚でハッキングしていく。かず坊が、世界最強のレニーウォールの壁を打ち破られたのは、次元が違うからだ。カズ坊の頭ン中はハッキングの時3D映画でも見ているように、やっているんだろ?」

「そうです。そうです。」

と説明されてもまだ理解できない俺達の顔色を一瞥し、バラテンは小さく溜息ついて説明を続ける。

「二次元のこの画面を脳内で三次元に置き換えハッキングできる脳をVIDブレインと言う。この脳を持つハッカーは、超一流だ。侵入出来ない場所はないと言われて恐れられている。アメリカの国防総省やCIAなんかは、逆にVIDブレインをもつ人間を見つけ、引き抜いて、防衛に当たらせているぐらい貴重な脳。今の所わかっているので世界に10人いるかいないかぐらい。お前さん、どうやって、VIDブレインが出来るような特訓をしたんだ?」

「特訓?なんか、してませんけど?」

「はぁ~そりゃそうだな、VIDブレインが何かすら、知らなかったんだからな、馬鹿な質問しちまったぜ。」

黒川君は、康汰に一度目を向けてから、うつむき話し始めた。

「僕は・・・兄さんが死んだ理由が知りたくて・・・誰も教えてくれないから、警察のデーターベースに侵入すれば、簡単にそれを知る事ができると・・・・初めは家にある父さんのパソコンを探って、それじゃ、何もわからなくて、ハッキングじゃないと駄目だなと、パソコン雑誌とか読み漁って、初めて、ハッキングした時には、もう、螺旋階段を登って行くイメージが頭に浮かんでいて・・・あとは、手法もわからないまま適当に手が動いていたという感じで・・・・。」

「初めからか!・・・・お前さん右脳を使う事を、何かやってなかったか?」

「右脳ですか?僕は小さいころから絵を描くことが好きで・・・」

「それだな。そのイメージ構成能力が優れているからVIDブレインが開花したのかもしれんな。」

「その、世界に10人いるかいないかの貴重な脳を持っているのが黒川君だって事?」

「そう。貴重な存在だ。」

「嘘でしょう。皆、イメージで潜っているのが普通だと。」

「ワシは、この画面をみて、海に潜るようなイメージは作れんし、作れんからこそ、お前さんの速さに、監視が追いつかない。」

「す、すみません。」

「謝ることないさ、こっちのサポートのやり方を変えなくちゃならん。というか、俺の目と脳では追いつかないから、監視と軌跡消しは自動モードの最速設定で追尾していくしかない。」

「おいバラテン、その辺の専門的な事はわからんが、大丈夫なのか?」

「大丈夫だと断言はできないが、カズ坊のVIDブレインがあるからこそ、デスウォールを破る事が出来る。カズ坊に防御態勢が整ってないからやめろって言ったら、何も進まない。攻撃は最大の防御と思うしかない。」

バラテンがお手上げのポーズをとる。

「バラテンさんがプログラムしてくれた監視と軌跡消しプログラムがあるから、僕は攻撃に専従する事が出来ます。前回よりは、うまく行くと思います。」

「くぅ~。こんなガキんちょにフォローされるとはねぇ。」悔しがるバラテン。

康汰曰く、バラテンはその昔、裏のハッカー界では知れた人だったらしい。

「すみません。」

「やるしかないんだろ?」バラテンが意思を求めてくる。

「あぁ・・・悪いな、何かあれば俺が全てを負う。」

「全てねぇ~・・・・ちょっと待て、設定を変える・・・よし。いいぞ。お前さん、さっきのスピードよりもっと速くなるんだろ。自動モードでも追いつかなくなるはずだから、そのこぼれた奴を俺が手動で拾って行く。危険度は高くなるが、仕方ない・・・このブロググラムは捨てる覚悟で。」

「すみません・・・せっかくのプログラミング。」

今日、レニーウォールを突破できずに何も得る物がなければ、佐竹に命を差し出してでも、子供達だけは守らなければならない。その手筈はすでに頼んである。

バラテンがごつい手を黒川和樹と同じように準備運動をし始めた。それが今からやる事が、難関極まりない事だと意識させられる。

この一見さえないサラリーマン風の親父と、まだ表情にあどけなさが残る13歳の子供が挑むのは、世界最強のセキュリティウオールで守られた、レニー・ライン・カンパニーの情報データーベースのハッキング。

世界で運べない物はないと称されるレニー・ライン・カンパニーは、各国の武器輸送など、軍事情報にも直結する物を運び、それに関連する重要情報をも持つ。レニーのデーターベースの情報は人の命よりも価値高いとされる重要機密の宝庫だ。

「よし、良いぞ、準備オッケーだ。」

黒川和樹とバラテンの前に並べられた合計4台のノートパソコン。二人は4台のモニターを睨み、バーチャルの世界へ潜って行く。

「じゃ、仕切り直しで、行きます!」





僕は、深海の海をもぐる。静かな、静かな、一人だけの海。肌に海の重み、まとわりつく波の抵抗を感じる。まるでとろみのあるローションのドレスを身に纏っている感覚。今まで感じたことがないほど肌優しい。最強のスペックを持つPAB2800SCが成せる業か。それとも、これが、プレッシャーによる刺激だと言うのであれば、これほどの心地よい感覚はない。

人の役に立つ重みとは、こういう事なのか?お爺ちゃんの代から続く警察一家の黒川家の血が、僕の中でざわめく?

「困っている人の役に立つのが警察の仕事、黒川家は人の役に立つ仕事をする立派な家だ」と教えられてきた。

兄さんが死んだ後、立派な仕事をする家、黒川家は崩壊した。母さんは家事が出来なくなり、いつもボーとして兄さんの仏壇の前に座っている。お爺ちゃんも僕に警察官になれと言わなくなり、柔道の練習場に無理に連れていこうとしなくなった。父さんは相変わらず仕事ばかりで、崩壊した家に帰っても来ない。そして誰もが兄さんの死の真相に口を噤む。

真辺さんを守ってくれと言った理事長補佐は、「僕では守れないんだ」と言って困っていた。

あのシンメトリーの美しい顔をした真辺さんが、世界流通企業のレニー・ライン・カンパニーのアジアのジャパンマネージャーのレニー・グランド・佐竹に目をつけられて、命の危険があるという。何故、狙われているのかという理由の詳しくは、教えてくれなかった。だけど僕は知っていた。

去年の文化祭の日、夜の9時08分に学園のセキュリティが解除されて、朝まで施錠する事がなかった。理事補の携帯電話の通話先とメールの内容から、レニー・グランド・佐竹の名前を知る。翌日付で、教頭が解雇されている事実と教頭とレニー・グランド・佐竹の共通の趣味、盗品売買の情報などが合わさり、僕の頭の中で映像化された。

これがVIDブレインという能力だろうか?

僕はハッキングで得た情報を僕の頭の中で映像化することが出来た。映画を見ているように。

潜る海へと集中する。今、大事なのは、この静かな深海の海に沈む軌跡の隙間。遺跡の瓦礫の合間を縫い、迷路のように入り組んだ先へと繋がる道筋を見つける事。

纏わりついた波のドレスがはだける違和感を察知。

来た来た、海底の静けさを壊すサメが僕に向かって泳いでくる。僕を見つけ捕えようとするレニーウォールの監視偵察プログラム。その泳ぎ方、進み方、すべて見えている。1週間前と変更されているパターンだけど、癖は同じ。簡単にかわせた。先へ進む。前回突破した場所は、やっぱり塞がれていた。ここが駄目なのはわかっている。

大丈夫、プログラミングの癖は中々治せない。この間と同じような場所が他にも絶対にある。

ほらね。見つけた。海流の流れが、僕にそれを教えてくれる、先へと続く道。

「は~。やりよった・・・・1枚目、突破。」

バラテンさんが、僕の隣で、キーボードを忙しく動かしながら、首を振る。

「バラテンさんが後ろを守ってくれていますから、集中できます。」

「ワシは余裕がないぐらい、必死だ。」

バラテンさんの額に汗がにじんでいる。そんなに早かったかな?防御や軌跡消しに意識しないでいいハッキングは楽しい。

潜る世界の先だけを見つめて進む世界が、こんなにも美しくて、楽しい世界だとは。これだから、ハッキングはやめられない。

VIDブレインが作り出す美しい世界は、宇宙よりも広く無限に広がる僕だけの特別な空間。





1枚目のレニーウオールを、1週間前の5分の1ほどの時間で突破する黒川和樹。確実にスキルを上げている事が素人目でもわかる。画面の文字が高速に送られていく画面をずっと見続けているその眼、いや脳はバーチャルな世界を潜水している。

大学でお墨付きをもらった特殊な記憶力を持つ俺が言うのも変だが、人の脳には、とんでもない能力が隠されているのだと驚かされる。黒川和樹の脳はVIDブレインという、ハッカーの世界では貴重な能力が備わっているという。バラテンが説明されても理解不能な世界。わからなくて当然か、自分の脳は2次元の世界しか好まないのだから。

黒川和樹が一枚目を破って喜ぶ姿を見て、居たたまれなくなりベランダへと出る。

「聖なる犠牲」それは大人都合の言い訳だ。

湿った空気を吸う。昨日から続く雨は、朝方に一旦止みはしたが、どんよりとした雨雲は晴れることなく、いつまた雨を降らそうかと待ち構えているように滞空している。

康太もベランダに出てきて、たばこに火をつけた。

「良いんだな。お前にもしもの事があった時、あれを使って。」

「あぁ、構わない。」

「偉くなったもんだな。タオル一枚に包まれて捨てられた命は、今や日本を代表する教育機関、翔柴会グループの命運を握るか。」

去年、教頭が残した盗品「ベンミストへ続く道 」の絵画を押収していた。もし、自身に何かあった時は、あの絵画を証拠に去年の学園で行われていた盗品売買の事実を公にする事を康汰に頼んである。それは、翔柴会グループが崩壊する自爆的な捨て身の手段だ。学園は、盗品売買を行った人間を教頭として雇っていた事と、現場提供していたとして責任を追及され、混乱に陥り、学校法人としての存続は出来なくなるだろう。そして柴崎家も崩壊する。その代りに、世間の注目が、柴崎家の命を守り、レニー・グランド・佐竹の狙いを阻む事が出来る。損失の規模の割には小さい防御だが、それぐらいしか今の所、手の打ちようがなかった。

「命運なんかじゃない。崩壊させるんだ。」

「文香さんはこの事を知っているのか?」

「知らない。」

「4人の生徒を守る為にしちゃ、デカイ損失だな。大人の都合に反撃する時か?」

「そんなんじゃない。もう、間に合わなかったなんて、言い訳で死なせたくないんだ。」

「・・・・・・。」康汰が不審な目で見つめてくる。

「俺達は、アフリカの戦地で子を犠牲にして命を拾った。死を求めて戦場に向かい、いつだって死ねる気でいた人間が、本当の死を前にして、誰よりも生きたいと切に願うんだ。勝手なものだよ。」

「初めてだな、お前が軍時代の話をするの。」

「・・・・・・・。」

「俺も、お前も、大人の勝手な都合で生かされて来た。この世は己の勝手ばかりが蔓延る。」

「康汰、まだ文香さんを恨んでいるのか?」

「生かされた命に意味を求めた事もあった。だが、幾度と他人の死を見ていると、意味なんて何もないと思うようになった。意味がない事に恨みも何もないだろ。」

「・・・・・。」

「人生、長いな、まだ30だ。まだ、平均寿命の半分も来てない、あと、何人の死体を拝んだら、世の都合から解放されるんだろうな。」

空と同じ色の鈍い海が怠そうなうねりを作っている。里香の骨が沈んだ海を長い間、眺めた。

(いつか里香のもとへ逝けた時に、唯一誇れる話が出来るように、間に合わせて。里香と同じ本が好きな女の子の命を、どうか守って。)

「見つけた!」

黒川君の高い声が吉報を告げる。リビングに駆け戻った。

手の動きが一段と早く、画面を見つめる眼球も高速に動く。

「行ける!・・・・・・抜ける!」

バラテンも額に汗を掻き、黒川君の動きに遅れを取られないよう、必死にキーボードを打ち込む。

「行けた!」

「やったな!坊!二つ目!」

「はいっ!」

レニー・ライン・カンパニーのデーターベースの前に構築されている、レニーウォールの壁が、何枚あるのかはわからない、誰もそこに辿り着いた者はいなくて、バラテン曰く、3枚破ったという噂は聞くが、4枚を破った奴はいなんじゃないかと言う。

喜びを顔全体で表しながら、画面から目を離さず、キーボードの上の手は暇なく動いている。

「バラテンさん!後ろっ!」黒川君が叫ぶ。

バラテンはすぐに反応したが、突破した一瞬の気の緩みが遅れを取った。キーボードを壊す勢いで激しく対応するが、虚しく、画面は急に黒くなり、画面上いっぱいの大きな髑髏が笑う。

「ちっ!やられたっ!すまん。」

と言いながら、もう一つのパソコンの方に素早く移動。黒川君もメインのPABのPCだけではなく、モニター対応していただけのPCのキーボードも操作し始めた。

「何が、どうなっている。」マスターが叫ぶ。

「軌跡消しプログラムがやられた。こうなったら、軌跡消しなんてやってられない。」

「バラテンさん、左っ!」

「左とか右とか言われても、ワシはわからないんだっ!今は、お前さんの後から壁を作って防御プログラムのフォローをするので精いっぱいだ!」

「ここまで来たのに・・・・僕も・・・逃げるのが精いっぱい。」





深海の遺跡の隙間をぬって光の刺す方へ向かう。僕の脳内に広がる美しいバーチャル世界、二枚目の壁、一つ目と同じような場所にあって、それも簡単に破壊して潜り抜けられた。だけど、抜けた先で突然、鮫の集団に出くわした。鮫の集団の合間を抜けきったけれど、バラテンさんの組み立てた、ハッキングの軌跡消しプログラミングが鮫の餌食になった。

鮫の動きは早く、隠れても目ざとく見つけてくる。

ハッキング界ではここに挑む事が、命がけのゲームとなっているレニー・ライン・カンパニーのデスウォール。ブラックボックスと呼ばれるデーターベースの前に、何枚の壁が構築されているのかもわからない。ブラックボックスに到達したと報告するハッカーが居ないし、ブラックボックスその物を誰も見たことが無い。

噂では7枚まであるとか。よくある噂は、あるハッカーは3枚破った所で、実世界で殺されたとの話。またはレニーのセキュリティ本部に引き抜きにあったとか。その噂自体も、レニーが故意に流している情報だとか。

(まだ2枚しか破っていないのに。こんなところで、断念してたまるか!。)

このミッションを失敗すれば、真辺さんを守る事が出来なかったと、一生悔やんで生きていかなくてはならなくなる。そんな人生が待っているぐらいなら、僕の情報が向うにバレてもいい。僕の素性が知られて消されてもいい。何としてでも4枚目の壁の先に行く、殺されようとも消されようとも。

両サイドから現れた鮫、後ろかも、前からも、囲まれた!

逃げ道は・・・・くそっ!逃げてばかりじゃいずれ捕まる。

咄嗟の行動だった。頭に浮かんだ行動を手が勝手に、キーボードへと打ち込んでいく。手の動きが自分の物じゃないような不思議な感覚になった。

周りの海流が渦を巻き、一匹の鮫に襲い掛かると、鮫は渦に巻き込まれ、無数の小さい泡となって消滅した。

「なっにぃ~!坊、お前・・・・・」

「話しかけないで下さいっ!次々、向かって来る!」

一匹の鮫が消滅して、他の鮫が怒ったように動きが早くなった。消滅して出来た空間の先へ進む。が、当然追ってくる。反転してさっきと同じ攻撃のプログラムを続け。7匹いた鮫を3匹まで減らした。

3匹は執拗に追いかけてくるが、自動監視の範疇である鮫の動きのパターンはもう読めた。軽くかわせる。

「ふぅ~。」

いつの間にか息を殺していたらしい。胸いっぱいに、新しい空気を入れる。ジワリとおでこに汗がにじみ出ていた。

「…どう、なった?」遠慮気味に理事長補佐が聞いてくる。

「8個あった自動監視プログラムを5つ破壊しよった。驚いたよ。そんなプログラムを隠し玉に忍ばせていたなんて。」

「持っていた訳じゃ・・・勝手に手が動いたんです。自分でもびっくりしました。」

バラテンさんが、あんぐり口を開けたまま固まる。鮫が3個に減って、バラテンさんも余裕が出来て画面から目を話す事が出来ている。

「今、作ったってか!あの状況で!?」

「あの状況だから、だと思います。今までにない不思議な感覚がありましたから。」

「・・・・・・。」皆が、理解不能に顔を見合わせていた。

大人達の呆れ顔に付き合っている暇はない。早く3枚目の壁の弱い所を見つけなければ。





1週間前の時より、だけじゃない、この数時間の間にも黒川和樹はスキルを格段に上げている。

ハッキング界の何がどう凄いのか、はっきり言ってわからない。だけど、バラテンがこんな顔して驚いている所をみれば、とんでもない事を黒川和樹はやってのけたのだと知る。

「今、忙しくないのなら、食える時に食っとけ。」

朝の9時過ぎから始まって、12時を過ぎていた。

康汰が、合間に、コンビニでサンドイッチやら飲み物、片手で食べられる物を買ってきていた。マスターがデリバリで頼んでいたピザもさっき届いた。黒川和樹とバラテンが、画面から目を離さず、食べ物に手を伸ばすのをサポートする。こんな事しか二人を手伝えなかった。

携帯が一定の回数のコールで鳴り、切れる。当然、非通知。

再度の着信音を数えながらベランダに出る。その数、数え間違いか?と驚く。三度のコールの着信音、約束の5回目で着信する。

生きていたのか?それとも、約束のコール方法をも相手にばれてしまっているのか?警戒は怠らない、相手がしゃべるまで待った。

「ミルトニア生花店です。ご依頼頂きました花束の件につきまして、お電話を差し上げています。今、お時間よろしいでしょうか。」

「あぁ・・・大丈夫。」懐かしい声。よく生きて。

最上級の蘭の花の名前はミルトニア。依頼の為に一度体を重ねた。佐竹は二流だと言ったハニートラップのニューハーフ。だが、こうして生きて依頼を完了させるその気力は一流のハニーだ。

「ご依頼いただきました、シュガーバンブーの花が手に入れる事が出来ませんでした。」

佐竹を直訳するなんてバレバレの隠語。もう少しマシな隠語を使えよ。という文句は、生きていたという安堵の溜息に、言わずに口を噤む。

「つきましては、別の花で代用させて頂き、花束をお作り致します。お勧めはサンダーウォルフという手に入りにくい花から交配させました、弟ともいうべき新種の花、ホワイトドラゴンと言う花でございます」

「ほぉ~そりゃ手の込んだ物が手に入ったね。」

「それは、もう。ミルトニア生花店の命にかけて。」

「助かるよ。それで頼むよ。」

「はい、では、ご依頼の花は、台湾より624便の船12:50横浜港入港便にて届きますので。今しばらくお待ちください。」

「ありがとう。代金は花の到着を待ってから、指定の口座に振り込むよ。」

「いえ。お代は頂きません。今回はご要望の添う花束をお作りする事が出来ませんでしたから。」

「一流の生花店だな。」

「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております。」

(ミルトニア、最高だよ。君は。)

リビングに置いてあるメモにミルトニアの言葉をメモする。それを一見したら、キッチンのコンロで燃やし灰にする。これで脳に一生消えないメモが残る。ミルトニアの言うナンバーや単語が後に意味を成す物となるはずだ。時計を見る。ミルトニアが話していた12:50にあと30分。横浜港に行った方がいいのか?だが、今ここを離れるわけにはいかない。それに横浜港って言っても広い。624の番号の埠頭か?迷っている間に、ハッキングの状況が変わる。





3匹の鮫は一見、何の法則性もないような周回をして、こちらを監視している。けれど僕には、その複雑な決まりコースが見えていた。ほら、あの黄色い眼の鮫はあの小さな遺跡の瓦礫に触れると左に曲がる癖がある。

赤い眼の奴は、海流の早さが遅くなる瞬間に反転してこちらに攻撃を仕掛けてくる。海流の流れが一定ではないから法則性が無いように見えるけど、海流が見えている僕には、わかりやすい法則になった。その赤い眼の鮫の攻撃をかわして、遺跡の隙間をくぐる。この隙間は何度となく通っている場所、古代文字が彫り込まれた大きな瓦礫が重なりあうように散乱していた。その重なった二つの瓦礫の合間のごく狭い砂地に違和感を得る。波打つ砂文様がそこだけ微妙に不自然だ。瓦礫が防波堤のような役割になって、砂文様の法則に変化が起きたのかもしれない。だけど、それならば自然の中の不自然さとして、脳は組み込み違和感を感じないはず?わからない。自分の脳がどのように捉えるかなんて、自分がVID脳だった事もついさっき知ったばかりなんだから。

気になれば、気になるほど、そこばかりに目につく。

僕は、鮫がこちらに向かっていない事を確認して瓦礫の間に体を滑り込ませた。

砂をかき分けてみる。ぽっかりと空いた穴、かき分けた砂がさらさらと下と落ちて行き、穴が次第に大きくなる。

そして、崩れた。

「うあっ!」

「どうした?」

「落ちた」

「へ?」

遺跡の瓦礫から下へと落ちた。一段と暗い場所に落ちた空間にスポットライトで当てられたように突然現れた、宝箱。

「バラテンさん、これって・・・・」

「あぁ?・・・・・うわっ触んなよっ!それ、罠だからな。」

軌跡消しのプログラムを壊された後、バラテンさんは、僕の進路の後ろを追尾して、後ろから攻撃に防御の壁を作り続けている。だから後ろを振り返れば、とんでもない壁の枚数と、破壊されたゴミが積みあがっていた。というのは僕の頭の中のイメージだけで、バラテンさんの2Dの画面では、それほど複雑さはない。その追尾の防御を専門にしてくれているから、現状と遅れて状況を把握している。

「やっぱり・・・ですよね。でも気になるんですよね~。宝箱は罠だとわかっていても、開けたくなるじゃないですか~RPGゲームでもおなじみの、あるある体験。」

「ばかっ!ゲームと一緒にすんな!」

「でもですよ。もし本当にお宝だったらどうします?ここは2枚目のウぉール世界なんだし、何か報酬が合ってもいいんじゃないかなって。」

「おい若僧。これが終わったら、こいつに2度とPCを触らせんな。ハッキングをゲームだとのたまう。」

バラテンさんは篠原さん以外の人間を、まともに名前で呼ばない。理事長補佐を若僧と呼び、黒人のマスターは…マスター自身が愛称でいいと言ったから、そのままマスターで、僕にも本名は紹介されていない。

「えぇ~。そんなぁ~。理事長補佐、この宝箱、鍵がついているんです。本当にレアアイテムだったら、捨てるのはもったいないですよ。」

「レアアイテムって・・・悪いが、ゲームの話を振らないでくれ。全くやってない。」

「ええ~嘘でしょう。ゲームをやったことないって、人生を損していますよ。」

「人生って・・・」理事補と篠原さんは苦笑して顔を見合わせた。

(あっ、そうかぁ、理事補と篠原さんって児童擁護施設育ちだった。施設って、そうか、ゲームとか無かったんだ。酷い事、言っちゃったな。)

ちらっと理事補と篠原さんを再度、見たら、何かを言い合って笑っている。いいか、謝らなくても、

「黒川君、状況がよくわからないけど、その宝箱に、何か隠されていると?」

「はい、宝箱は第一ウォールの世界にもありました。それらは絶対に罠だとわかっていたので、触れもしませんでした。それらに鍵穴はありませんでした。けれど今回のは鍵穴付、見つけた場所に自然の中の不自然さに違和感を感じました。バラテンさん、僕が砂の穴に落ちる前の、プログラムにわずかでもおかしな所はなかったですよね。」

「落ちる前ってのが、どこを指すのかわからないけれど、現時点より、50行前のプログラムまでに問題のある物はない。今が異常なプログラムを検知して止まっている状態だ。」

「二次元ではわからないようにプログラムされていた場所。三次元での僕のVIDだけが捉えた場所こそ、突破口だと僕は思います。」「だからこそ、罠だという可能性もある。」

「罠ならもっと早くに見つけられやすい場所に置くと思うし、鍵はつけないと思うのですが。」

「それも、あえての罠。」わからずやのバラテンさん。

「鍵はあるのか?」

「いいえ、ありません、無理に、こじ開けるしか。」

「ほら、無理にこじ開ける、その手法を探る為の罠だとも言える。」

バラテンさんの言う通り。ここは第二ウォール世界。この先の壁を突破したものは世界に数人しかいないと言われる所だからこそ、その巧みな心理作戦をも勝ち取らなければならないのだろう。

玄関のチャイムが、突然鳴った。

マスターが、この間もやっていた手話伝達で、理事長補佐達に合図を送って、リビングと玄関の間にあるキッチンへと足音無く入った。理事長補佐は僕を立ち上がらせて、隣のベッドルームへと入る。篠原さんも、リビングの扉の裏へと身を隠し玄関への警戒をしている。残されたバラテンさんだけが、何事かとキョトンとしたまま座り続けていた。マスターが理事長補佐に向かってまた手話で何かを知らせて、理事長補佐が頷く。マスターがそっとキッチンから出で、玄関へと向かう。そんな些細な動作がカッコいい。

理事長補佐は、映画やゲームに出てくるような戦場の世界を実際に経験している。銃を持ち紛争地域を駆け巡った命がけの戦場を、なんとなく羨ましいと思うのは、本当にその戦地がどういう物か知らないからかな。きっとカッコいいなんて言ったら、マスターや理事長補佐は怒るだろう。

マスターが警戒をしながらドアを開ける。

「ミルトニア生花店です。花束のお届けに上がりました。」

玄関ドアの外に立っていたのは、満面の笑みで大きな花束を持っているラストさんだった。

また派手な色のシャツを着ている。でも、その派手なシャツ以外は似合わない気がする。それこそ、迷彩服を着て戦場にラストさんもいたなんて想像がつかない。それにしても凄いチームだ、黒人のスキンヘッドのマスター、濃い顔のオカマのラストさん、日本人ですごい記憶力を持つ理事長補佐。でも・・・理事補は何故、アメリカ軍に入ったんだろう。ハングラード大学を飛び級で入学し主席で卒業したエリートなのに。頭の良い人は、僕にはわからない思考回路があるんだろうなぁ。





13歳の子供に人生を語られる。俺と康汰は思わず顔を見合わせて苦笑した。

普通の家庭環境で育てば、児童擁護施設育ちの現状なんて知らないのが当たり前。テレビなどでお涙ちょうだいのドキュメント番組が放送されたりするが、可哀想だとか、自分は恵まれているだとかなどの愁いなど一過性のもの。その恵まれない可哀想な子に、何かしてあげようと実際に行動に起こす人間はごくわずかだ。

そんな可愛そうな当事者であってもそれは同じだ。紛争地域で明日の食事も命もない子供の現状をテレビで見て知っても、俺は「遠い国の事、僕には関係ない。」と思っていた。

ハングラード大学を飛び級で卒業する年、柴崎総一郎会長は死んだ。「20歳まで柴崎家にふさわしいかどうか見させて貰おう」と言った会長は、その強い意志を全う出来ずに逝ってしまった。里香も含めて、この世に留めた物が皆無になって戸惑った。悲しみは生まれることなく、途方に暮れた。総一郎会長の遺言通り、柴崎家の養子として個人の仮戸籍から柴崎家へと移され、正式に柴崎家の人間になり、そこで初めて、自分が欲しかったものが何であるか分かった。欲しかったのは戸籍じゃない、総一郎会長の認めが欲しかったのだと。だから飛び級もして、世界で一番だと言う大学にも入り頑張った。死んだから仕方なしに養子に入れられるなんて事じゃなく、ちゃんと、お前は柴崎家にふさわしい人間だ。と言って欲しかった。終結させられない総一郎会長の言葉と新たに敷かれた曖昧なレールに逃げるように、同級生が卒業後、米軍に入ると言う意志に、流されるように自身も入隊した。

米軍に入隊した理由を、生死の理由を見つける為にと言えば、適度に格好がつくが、ただ自分では死にきれないだけで、誰かが殺してくれる事を期待していただけ、遠い子供の事なんか関係ない、戦地なら死に近いだろうと思っただけの入隊だった。

玄関のチャイムが鳴る、時計を見るとちょうど、12:50。花束か?だけど、警戒は怠らない。ハッキングの軌跡消しが壊されたから、ここを突き止められて、レニーが消しにくるという事は大いに考えられる。マスターが、自分が扉を開けると戦略手話で伝えながらキッチンに体を隠した。

黒川和樹を立ち上がらせて、隣の寝室へと押し込む。マスターが、行動開始のサインを出して、扉へと向かう。レンズから外の様子を伺い、振り向いて警戒解除を伝えてくる。ほっと息を吐くが、開けた扉から姿を現した人物は、警戒したくなる気持ち悪さ。

「ミルトニア生花店です。花束のお届けに上がりました。」

大きな花束を抱えて満面の笑みで立つラストは、いつものテロンテロンの生地に幾何学模様の派手なシャツに黒いエプロン、二丁目のオカマ街には居そうな花屋の店員を装っていた。けれど、そんな店で花束を買いたくない。

ポ「ラスト、ミルトニアは、生きて・・・今どこに?」

ポ「私の知り合いの所に、しばらく身を潜めるわ。大丈夫よ。」

ラストから花束を受け取る。花束の中に差し込まれている封筒を取り出した。

封筒の中には一枚のカード。

「黒川君、鍵をこれで作れないか?」

カードに書かれた文字、【李 剥】リ・ハク

「レニー・ライン・カンパニー・アジアの代表、レニー・コート綜王の右腕だった男、楊 喬狼(ヨ・キョウラン)の弟、白龍(パイロン)の本名だ。」

ラストは自慢げに笑顔を振りまく。

「ハッキングだけが、万能な手法じゃないのよ。」

「やってみます。」




鍵の作成なんて初めて。僕が今までにやって来たのは、監視プログラムを避けて逃げて、侵入した形跡を残さないように消したり。怪しいと感じた物には一切触れずにやって来た。

危険だとわかっているけど、何故かこの宝箱だけは気になる。レニーウォールを2枚破った興奮とビットブレインだと褒められた高揚が、慎重さを欠かしている自覚はある。だけど、このPAB2800SCはそれをカバーする性能を持つ。なんてすごいCPU、僕の思い通りに、「もっと早く、もっと深くと」とパソコンが僕を掻き立てるようだ。

「坊、どうやって作る?」

「んーそうですねぇ。さっきの攻撃のように集中の中で、勝手に手が動くようになれば何とかなると思うのですが・・・」

バラテンさんが、何度目かの呆れた溜息を出す。

「なぁ・・・若僧、弟の本名が分かったんなら、もう探る必要もないじゃないか?もっと別の方法があるだろう。」

「それは、もう手配済みだ。康汰が公安に知らせている。マスターとラストもすでに人を動かしている。が、時間がかかり過ぎる。もう、本当に時間がないんだ。」

「ふんっ・・・・」バラテンさんが鼻を鳴らす。

「バラテンさん。後ろを頼みます。しばらく、自由に泳がさせてください。」

「出来る所までな。どうせ、あのスピードにはついていけないんだ。その時は勝手に離脱させてもらう。」

「わかりました。」

瓦礫の下へと落ちた場所に、何故か3匹の鮫は追って来ない。だから、良い休憩時間になっていた。康汰さんがコンビニで買ってきたサンドイッチやら、ジュースを飲んだりして、昼食も済ませた。目薬や栄養ドリンクまで用意してある。確かに、眼球が乾いている感じがあるから、ありがたく使わせてもらう。

さぁ、ここからは僕の集中力に期待する。自分の不確かな可能性を期待するなんておかしな話だけど、手法のわからないやった事のないプログラミングを作成するには、それしか方法がない。僕は椅子に座りなおして、今は停止している文字だけの画面を見つめる。

「潜ります。」

バラテンさんに声を掛け、キーボードに指示を出していく。画面の文字が徐々にぼやけて海底の景色に変化する。一旦、宝箱のある穴から出た。

無機質な遺跡の装飾、波打つ砂浜の紋様、波の合間に立つ光る泡。周回する3匹の鮫のなまめかしい肉質。

(あぁ、なんて美しい、この世界。)

いつかこんな絵を描くことが出来たら・・・・音なき世界の深海を奏でるリズムと光で表現したい。

そういえば、ここは深海なのに、この天より降り注ぐ光はどこから来るのだろう。

見上げた。

今まで、自分の目線より上にはあまり意識を向けていなかった。海の底から見上げる海面は、

(蒼い・・・・なんて蒼だ。)

重なり合う瓦礫の隙間から降り注ぐ光が周りの水の存在を示す。蒼く波打つリズムから、どこまでも透明な光が揺らめいて、僕の顔に触れる。それはシルクのように優しい優美な柔さ。

(あぁ…心地よい。)

完璧な無音、完璧な肌ざり、完璧な蒼が、澄み渡る。

僕を創るすべての細胞の記憶が、降り注ぐ光と水を求める。

(いや・・・・戻るんだ。細胞が元始の姿へ。)

「消えた!?・・・・やられたのかっ!」

バラテンさんの叫ぶ声が別の次元から聞こえてくる。

僕自身が海流であり、光。波のゆらぎは僕の意思でもあり、自然。

「なにっ、どうなっている。」

「消えたはずなのに・・・・何だ?この動きは?何が起こっている?」

バラテンさんの慌てぶりが皆に伝染する。

「大丈夫です。説明は、言葉にできません。が、全てを可能に・・・行けます。」

美しいこの世界の一部となれた僕は、鮫よりも早く世界を巡り、周囲の景色を体に浸透させる。

(さぁ、さっきの場所へ。宝の箱を今なら開けられる。)

僕自身が鍵、この世界の水と光に同化した僕は、鍵穴の小さな隙間へも入り込める。

「こんなプログラミングは見たことない。もう、ついていけないよ。」

バラテンさんが横で万歳のポーズでお手上げの意思を皆に告げる。

大丈夫、バラテンさんがバックアップしなくても、この世界と同調している僕は無敵。

遺跡の下の穴へ飛び込む、宝箱の鍵穴へ、か細い隙間を進んだ先はーーー

無数の文字と数字が泡のように漂う空間。何かのデーターか?

「開けた!お宝発見だ。何かのデーター様だが・・・・このデーター自身にもパスワードがかかっている。解除しない事には内容は拝めない。」

パスワード・・・・それも今なら簡単に解除できる・・・・と思った瞬間。

文字と数字の泡が一斉に竜巻のように渦巻いた。

「うわっ!」

僕の身体も渦巻に飲み込まれる。身体が散らされないように意識を集中する。

鮫がこちらに向かってくるのが見えた。

自動プログラムの鮫。違うーーーこの動きは

「出て来た!」本物のエンジニアが。

「逃げろ!そのデーターは捨てるんだ。重すぎる。」

せっかく手に入れたお宝なのに、捨てるなんて嫌だ。周りに浮遊している無数の数字と文字の泡を引き寄せるように海流を掻き引き寄せ、まとめて、衣服のように体にまとわりつけた。そのおかけで、僕の姿は人形に造られた。

これじゃ、エンジニアから僕の姿は丸見え、鮫が向かってくる。体当たりしてくるのを寸前でかわす。

まとわりついていた文字と数字の衣服が一部、鮫にかすめ取られた。

重くて、機敏な動きが出来ない。

「くっ・・・・」

このままではデーターごと消滅させられる。鮫は尾を翻してまた向かって来る。

このデーターだけでも転送が出来たら・・・・思いついた考えに手が勝手に動く。

まとわりついていた数字と文字を大きく腕を振って投げ込むようにバラテンさんのPCへ送った。

僕から、剥ぎ取られるように流れていくデーターは、頭上の光の元へ消え行く。

「バラテンさん、転送終了後、切り離してください!」

「わわわ。」

バラテンさんが慌てて、操作をする。

鮫の攻撃を寸前でかわして、逃げる。もう、バラテンさんのバックアップはない。

海流と同化した身軽な身体に戻ったけれど、鮫は確実に僕の姿を捕えている。

相手もVIDブレイン!?




「今、どうなっている?」

バラテンのキーボード操作が止まった所で、聞く。

「本物のエンジニアが登場した。宝に警戒シグナルでもつけていたんだろう。これに触れた者は自動監視じゃなく、対峙せよという。」

「じゃ、やっぱり宝箱は罠で、大した情報じゃないって事か?」

「いや、そうでもなさそうだぜ。これには表向きのダミーデーターに覆われていた。だか、坊は弟の本名をキーワードに本質のデーターを引き出しながら、こちらに転送してきた。とんでもない技だぜ・・・・ちょっと欠けている部分があるが。」

黒川和樹は、今、周囲の話が聞こえないぐらいの集中でPCを操っている。

画面は、ただの棒線が高速で上へとスクロールされているように見えるだけ。文字の形すら見つけられない。

「見ても俺には何のデーターかわからん。」

「ちよっと、貸してくれ。」バラテンが見ているパソゴン画面を覗き込む。

それは、レニー・ライン・カンパニー貨物商船リストの一部・・・・しかも過去の物ではなく、先1か月のリスト。

(なぜこんなものが拾えた?)

ミルトニアが電話口で言った数字が頭に浮かんだ。

検索コードの624【6月24日】の検索をかけてみる。開いたデーターは台湾から日本へ運ばれる荷物のリスト。

莫大な量の荷物が台湾から日本に品が運ばれているが、鍵をつけるほどの物とは思えない普通の荷物リストだった。

「何かわかったのか?」

「このデーター、本当にダミーの後ろにあった本質のデーターか?」

「坊が苦労している傍で、その言いぐさは無いだろ。」

「ごめん。あまりにも普通の荷物リストだから。隠していた意図がわからない。」

「ダミーのデーターと重ねて、違いのあるところを見つけられるか?」マスターが口を挟む。

「出来るが、あまりにも莫大な量のリストだから少々時間はかかる。」

バラテンが早速キーボードに向かいキーボードに打ち込む。時間がかかると言われたから一時間ないしは二時間以上の時間を要すると思っていたのが、5分ほどしてその検索は終わった。ハッカーには独特の体内時間が存在するらしい。

「検索完了した。これが、ダミーとは違うカ所のデーターだ。」

「これだけ?」

「あぁ・・・これだけ。」

さっきのミルトニアの教えてくれた日付のページしか違うカ所はなく、しかも数行の荷物のみ。

隠さなければならない荷物といえば、と簡単に思いつくのは、麻薬とかの世界共通の違法薬物だが、このリストを見る限り邪、薬物表記はされていない。

「マスター、台湾のレニーの貨物荷船の倉庫に潜れる奴、手配出来ないか?」

「台湾で、使える奴は何人かいるが・・・レニーカンパニーに潜らせるとなると…やっぱり今さっき「李 剥」の探りを入れるよう頼んだ奴しか無理だな。」

「李 剥の探りは後にして、この荷物の確認を先にしてもらってくれ。」

「なんだ、それは。」康汰が画面を覗き込み言う。

「わからない、これだけ品名もないし、これがどこから来て、日本に持ち込まれるのか書かれていない。そして日本のどこへ行くのかも、別のリストがあるのかもしれないけど・・・今の所、この荷物は、隠されて台湾から日本に移送される物だという事だけは確定している。」

「胡散臭いな・・・・かなりヤバイ物じゃないのか、この荷物は。」

「ヤバイ物を運ぶのはレニーの得意技だ。何も不思議ではない。」マスターが冷静に言い放つ。

「そうよね。それで財と地位を築いてきたのがレニー・ライン・カンパニーですもの。」

大人しくしていたラストも口をはさむ。

敵味方関係なく世界各国の軍事貨物をも運ぶレニー・ライン・カンパニー。金さえ払えば、世界情勢に関係なく、物を運ぶ。

どこの国や権力に屈せず、ただ運ぶことだけに専従するレニー・ライン・カンパニーは、ある意味、最強の中立国家以上の力を持つ。国連が施行しようとした国家間武器輸送禁止条約は、レニー・ライン・カンパニーの異議反論を受けて、成立しなかったのは世界的に有名な話だ。

「ああ、レニー・ライン・カンパニーは顧客のプライバシーは徹底して守り、物を運ぶ事で 独自の力で国連をも制圧している。世界が戦争をする、その加担追及される言われはないと、ただの荷物の運び屋を宣言する企業姿勢は、流石、4世紀も前から制圧してきた海賊由縁だな。戦争の根源を断絶できない国連に、レニー・ライン・カンパニーは責められる権限はないと、逆に国連を責追した。」

  『国が民を動かしているんじゃない、民が国を動かす。民より強い世界戦略はない。』

佐竹の言う通り、レニー・ライン・カンパニーと言う民衆企業は、国や世界を動かしている。

「確かに・・・レニー・ライン・カンパニーの企業としての考えは一流だ。戦争孤児に毎年多額の寄付をしているし、その莫大な利益を一族だけの利益にはしていない。一見矛盾しているように見えるが、荷物と荷主の運搬と機密保証はするが、中身の存在保証を取らない姿勢は、見事な企業姿勢の一貫だ。」思考に集中する時の癖で顎を触るマスター。

「レニーの物流リスト自体が貴重なものだ、その中でも行き先、物の種類がわからないとなると貴重さも増す。黒川君がお宝だと拘ったように。かなりレアアイテム的な情報なのかもしれない、だから確認する必要がある。この荷物が本当に存在するのか否か、その荷物の中身は、何なのか?日本に持ち込まれる前に。」

「わかった。潜らせて、確認させよう。」マスターがごつい手で、携帯を操作する。




さっきからずっと鬼ごっこ。鬼である鮫は、あらゆる手段で僕を執拗に追いかけてくる。

このままじゃ、そのうち捕まる。さっきの時のように攻撃に転じればいいのだけど、どうやっていいのかわからない。さっきの攻撃は手が勝手に動いただけで、どんなプログラムを打込んだのか覚えていない。今までの行動軌跡を確認すれば、どうやったのかわかるだろうけど、逃げるのが精いっぱいで、今はその余裕はない。自動監視よりもずっと速い動きと予測不可能な構成プログラム。あまりにも早くてキーボードを打ち込む手も絡みそうになる。

バラテンさんや理事補、篠原さん達が横でごちゃごちゃ戦略会議みたいなことをしている。それを聞く余裕すらない。

僕一人だけが除け者のような孤独の戦い。

瞬きすらできなくなって来た。相手も必死だ。今はセキュリティエンジニアが一人だけで僕を追跡してきている。あのエンジニアは絶対に僕と同じVIDブレインだ。あのデスウォールを作った人は、沢山居るはず。それらの誰かが応援に駆け付ければ、確実に僕は負ける。時間との勝負。早くこの先の第3の壁へと抜ける場所をみつけなければ。

追って来た鮫が不意に姿を消す。そして、眼の前に突然現れた。大きな口を開けて。

まずい。鮫の鼻先を蹴り、バク天をして上へ逃げた。

そのまま、逆光を利用して、影を作る。僕の影をそのまま泳がせて、僕自身は泡の渦に紛れて、その場を離れる。

影をそのまま追っている鮫の背後に回った。手に海流で作った銛で突いた。

やった!

鮫が粉々に泡となって散り行く。それもまた美し・・・

「えっ?」

後ろ!?散り行く泡がなくなる前に、もう一匹の鮫が、僕のすぐ後ろに現れた。

仲間が来たのか?違う、銛で突いて消滅させたのは、僕と同じ手法を使った影だった、

振り向き様の逃げの体勢は、間に合わないっ

「ぐっ」食われた。横腹を。

バーチャルの世界、痛みは無いはずなのに、現実世界の横腹に激痛が走った。

そうか・・・痛みも細胞レベルで言えば、患部から伝えられる電気信号。VIDブレインは、脳のシナプスがバーチャル電気信号と同化するから、この世界で負った傷も脳に痛みとして伝わるんだ。という事は・・・

この鮫に食われて死ねば、現実世界の僕の脳も死ぬ。

「おいっ!坊、大丈夫か。」遠くでバラテンさんの声が聞こえる。

「話し・・・かけるな・・・・」今はそれどころじゃない。

生死を賭けた戦い。相手もVIDブレイン、命をかけて挑んできている。

恐怖は感じない。こんな美しい世界の一部となって死ねるのなら、ハッカーとして、いや絵を描く者として幸せな運命。

そう、命を賭けた世界だからこそ、この世界は、こんなにも美しい。

美しい理由がわかると、痛みが和らいだ。

追われて泳ぐ景色が後ろへ飛ぶように消え行く。

砂の砂塵の紋様が、僕の泳ぐ力で様変わりしていく動の芸術。

遺跡の古代文字と織りなす装飾は動かない静の芸術。

あの鮫のなまめかしい肉質は、動の芸術。

光と影が揺らめくリズムは無音の芸術。

体から湧き上がる無数の泡は体感の芸術。

僕の脳内の電気信号が変換されて映像化されていく。

悔しいなぁ・・・この世界の美しさを二次元のキャンパスに表現する事が出来ないなんて。

この美しい世界は、僕の脳にある神経細胞という名の絵の具でしか描けない。

そうか!

僕は、この世界を描く神!

現実世界の地球を創ったのが神なら、このバーチャルの世界を創ったのは僕。

鬼ごっこは終わりだ。今なら止められる。お前の攻撃プログラムは、僕の世界にふさわしくない。だから描き換えるんだ。

この世界の美しさに見合う物に。

僕はこの世界の神。

決めるのは僕。

僕がすべてを描く!

相手のVIDブレインを持つエンジニアも、僕の覚悟を感じ取ったように動きを停止し、こちらを見据る。

「さぁ・・・来いっ!」

僕の意識が海流を震わせて、サメに伝わる。鮫はヒレで鋭く海流を切った。

迫まってくるそのスピード、迫力すら美しい。

開けられた口、肉々しいピンクの肉質が艶めかしい。

歯に裂かれる海流の流れも、僕には見える。

鰓から上がる無数の空気の玉、虹色に輝き天からの光へと吸い込まれていく。

鮫の口が更に大きく開いた。僕を丸のみにする大きな顎、おぞましいほどの赤い肉質の内部が見え・・・

不意に、何もない黒に覆われた。前も後ろも上下もなく、重さ軽さもない、だたの黒。

「終わりだ、黒川君。」凱さんの声。現実の世界の景色が徐々にはっきりしてくる。

バラテンさんが主電源のボタンを押してパソコンを切っていた。

「何故だっ!どうしてっ!あと少しだったのにっ!」

「坊、これ以上は危険。」

「危険なんかじゃない!あいつの動きを止める!僕はあの世界そのものだったんだ!何故、電源を落としたっ!」

バラテンさんの手を払いのけ、電源のボタンを押す。PCはシュイーンと高音の音を発し、指紋認証画面の始まりを表す。

「駄目だ、黒川君。もういいんだ。さっき送ってくれたデーターから、駆け引きに使える情報を得る事が出来た。」

理事長補佐が僕の手を掴みあげ、PABを閉じる。

「良くないっ!これは僕とあいつとの勝負なんだ!」

立ち上がり、凱さんが掴む手を思いっきり振り切る。

ぐわんと、世界が回った。天と地の感覚が掴めなくて、気持ち悪い。

「命を・・・賭けた世界・・・」

「和樹っ!」

凱さんとバラテンさんの顔がゆがみ、部屋の壁が波打つ。康汰さんの顔がダリの絵のように歪んで・・・面白い。

「だから、あの世界は・・・美し・・・・い。」

マスターの黒い顔と対照的なラストさんの派手なシャツが、おぼろげに霞んでいく。

「もう・・・一度・・・」

行かせて、あの世界に・・・・死んでもいい。

きっと3枚目の壁の向こうは、更なる美しさが、あるはず・・・

だから。





黒川和樹が大きく体を揺らして倒れるのを受け止めた。

「どけっ!」傍に居たバラテンをマスターが吹き飛ばし黒川和樹に駆け寄る。

「マスターは元軍医よ、安心して。」驚いたバラテンと康汰に、ラストが説明をする。

そう、マスターは、元軍医をしていた。どう転んで、特務のチームリーダーとして戦場の最前線に身を置くことになったかは知らない。気を失った黒川和樹の脈や息の強さ、首筋などを触り、無理やり瞼まで開けて瞳孔までも確認している。

「脈はしっかりしている。」ほっと、なでおろす。床に寝かせていた黒川和樹を抱き上げる。軽い。男の子とは言え、まだ13歳、成人女性を抱き上げるより簡単に担ぐことが出来た。隣の寝室のベッドへと運び寝かしてやる。

康汰が黒川和樹の顔をのぞき込んだり、毛布を丁寧に治したりして、普段では考えられないような態度でオロオロしている。「病院に連れて行かなくていいのか?」

「フル稼働していた脳がオーバーヒートした。しばらく休ませれば大丈夫だと思うが・・・脳神経の事は、俺は専門外だ。」

康汰が更に心配な顔つきになる。

「この子を病院に連れて行って、なんて言うの?ハッキングして、神経がやられた可能性があるから見て欲しいって医師に言うの?」

「くっ。」康太が悔しそうに唇を噛む。

「目を覚ましてから、マスターの判断に任せましょ。とりあえず脈はしっかりしてるんでしょ。」

「あぁ。」

康汰の視線が痛い。

黒川和樹の怖いぐらいの気迫、13歳の子が宿す目じゃなかった。黒川和樹が見ていたバーチャルの世界は、どんな世界だったのだろうか。

「ごめん・・・・皆、黒川君に何かあったら俺が、すべてを負う。」

「カイだけの責任ではない。ここに居る誰もが、5人もの大人が居て、このミッション以外の方法を思いつく事が出来なかった。」マスターが静かにつぶやく。

「休息の邪魔をしたら駄目よ。さぁ、皆向うへ。」

ラストが寝室からの移動を促す。デカイ体の大人5人、成す術なく肩を落としてリビングに移動する。

バラテンが4台のパソコンの電源を落とし、配線を外していく。

ミッション終了、約6時間かけて、手に入れた情報は、黒川和樹の心身をそぎ落として手に入れた価値あるもの。絶対に無駄には出来ない。

この情報を元に、次は自分が命をかけて、挑む。






目を覚ますと、見覚えのないベッドに寝かされていた。毛並みのいい毛布が頬に触れている。

「目覚めたか?カズキ。」マスターの黒い顔がのぞき込むように視界に入ってくる。

「気分は?」

あぁ、そうか。僕はハッキングの為に、理事補のマンションに来ていたんだった。

起き上がろうとしてマスターに止められた。

「そのままで、ちょっと体を触るよ。」

脈やら、首筋やら、喉やら、目を重点的に、身体のあちこちを触られる。

「いいよ。ゆっくり体を起こして。」介助されながら体を起こす。

「大丈夫かな?気分は。」

大人達全員が寝室に入ってきて、僕に注目している。そうだ、ハッキングを途中で止められて、悔しくて、抗議の為に立ちあがったら、急に目の前が歪んで、倒れたんだ、僕。

「・・・・悪いです。」

「どこがっ!頭か?胸か?」

康汰さんが大きな声を出して、駆け寄ってくる。びっくりしてたじろいだ。

「気持ちが・・・・あいつと最後まで戦えなかった・・・。」

「黒川君・・・・。」

悔しい。命を賭けた戦いに、最後まで挑めなかった。これじゃ、敵前逃亡だ。

「坊、悔しい気持ちはわかる。だけどな。あれ以上、あの世界に脳を浸せていたら、戻れなくなっていた。」

「それでも良かった。」

あの勝負に強制終了されずに挑んでいたら・・・・負けていた。今ならわかる。勝負を最後まで挑めないで倒れたと言う事実が僕の限界値であった事を。相手のエンジニアハッカーVIDブレインがどういう状態だったのかは、知らない。だけど、あの最後の動きは、ぞっとするほど切れの良い動きだった。それすらも判断できずに勝てると思った僕は、自身で作り出した世界に酔い溺れ、相手の力を侮った。こんな負けを実感させられるぐらいなら、あの美しい世界の一部となって死んだ方が幸せだったんじゃないかと思う。

僕に注目している大人が5人もいるのに、目から涙が溢れ落ちた。

「戻らなくて、心配する人間は家には居ない・・・・あの美しい世界にいる方が、ずっと心地いい。」

あの世界は、家と同じ無音の世界だけど、家にはない、明るい光と暖かさがあった。

兄さんが死んだあの日から、失った物があの世界にあったんだ。





13歳の子が歯を食いしばり、あふれる涙を抑えきれないで泣く。

お兄さんの死をきっかけに崩壊してしまった黒川家の内情、昔がどんなに暖かな幸せだった家かは想像がつかない。暖かな家と言うものを知らないから。皆が何も言えずに立ち尽くす。

黒川和樹の気持ちに寄り添ったのは、ラスト。ラストは黒川和樹の横に座り背中をさする。

まともな大人4人が出来ない事を、オカマのラストがする不思議な光景。いや、半分女の意識があるからこそ、出来るのかもしれない。

「そんな事ないわ。現実の世界は、バーチャルの世界より美しくて暖かい。ほら感じて、この人肌のぬくもり。ちゃんと見て、生きた世界の美しさを。」ラストはぎゅっと黒川和樹を抱きよせた。

「辛い時があるから、この暖かさを感じる事が出来るのよ、醜い景色があるから、美しさが際立つの。心地よい世界だけしかない世界ではその差は感じられない。」

黒川和樹は止められない涙を腕で拭った。

「和樹ちゃんが戻らなくて心配する人が家には居なくても、ここに居るわ。」

「和樹・・・・広樹の代わりには程遠いが、俺は和樹を弟のように思っている。」

康汰が黒川君を覗き込むようにしゃがみ込んで、頭に手を乗せた。

「康汰と僕は、同じ擁護施設で育った兄弟だ。どういう運命か、君と縁が繋がり集った大人がここに5人。皆の思いはそれぞれ違えども、君が危険な状態だと知って無視できるような人間は、ここにはいない。」黒川和樹の右隣に俺は座った。

「俺は息子のように思ってるよ。」とマスター。

「私は母親ね。」とラスト。

「ワシは・・・。」とバラテンがボサボサの頭を掻く。

「隣の家のおっちゃんで、いいんじゃない。」とラスト。

「ワシだけ他人かよっ!」

「そりゃいい、ハッカーなんて得体のしれん奴は家族には要らん。」とマスターまでもが。

「お前らよりマシだっ!鏡を見てから言えっ!」

確かに、黒人スキンヘッドのマスターに、テロンテロンの派手なシャツの胸元から筋肉質の胸毛がちらつくオカマのラスト。

苦虫をつぶしたような陰気くさい表情しか出来ない康汰に、レニー・ライン・カンパニーの佐竹に狙われて身動きできないでいる金髪頭のこれでも学生の俺。

ボサボサ頭の一見、冴えないサラリーマンにしか見えないバラテンが、この中では一番、まともな判断力を持つ。

これ以上は危険だと緊急停止の判断をしたのはバラテンだった。

「ぷっ・・・ふふふふ、」

黒川和樹が、涙でくぢゃくぢゃのままの顔で笑う。

子供の笑い声は、どんな音楽よりも、世界の平和を奏でる音。

朽ち果てそうな診療所の外から聞こえてきた子供の笑い声に、犠牲になった子の悔やみに押しつぶされそうになりながらも、いつしか、それが安らぎの子守歌になったのも確か。

「皆、変な人達ばかりだ・・・僕も含めて。あはは。」

「変人でも家族は作れるのよ。」

黒川和樹の笑いは、やっぱりしばらく止まらなくて、その声は重苦しくなった部屋に明るさを取り戻す。

ラストの言う通り、現実の世界は醜い物があるからこそ、美しさが際立つ。

醜い大人の雑音があるからこそ、子供の声は美しくどこまでも澄み渡らせ、平和を主張する。

部屋に夕日の光が差し込みはじめた。








7



ミルトニアが得た、【李 剥】の名を元に、次々と情報が集まった。

黒川和樹を家に帰した後、バラテンがその名を元に中国のあらゆるデーターベースから情報を拾い、ソフトを使って日本語に翻訳していく。

マスターの知り合いと、康汰の公安の知り合いからも情報は集まり、それらを擦り合わせて情報の精査をする。そしてやっとレニー・ライン・カンパニーの内情が露呈する。

レニー・ライン・カンパニー・アジア大陸代表、レニー・コート綜王の右腕だった男、楊 喬狼(ヨ・キョウラン)は、綜王の実の息子である事が判明した。

佐竹が言っていた、アジアはオランダにある世界統括本部の流れに添わないと。

レニーが頭を下げて大連流通を傘下にする代わりに、大連流通の財閥一族が代々継いでいる。それはレニー・ライン・カンパニーの人事理念では異例の事だった。

アジアの初代代表を務めたレニー・コート・シュバルツが約5年、本部と大連の仲介をして大連の流通網がレニー・ラインの流通網と精通できるまでになると、大連流通の財閥一族、李叙連にその代表の座を明け渡した。李 叙連はレニー・ライン・カンパニーの組織に入る忠義を、レニー・コートを名乗る事で示し、過去の情報を闇に隠して、世界各大陸との面子を保ったようだ。大連の次に就任したのが現在の代表である綜王、本名李 喬寛(リ・キョウカン)もやっぱり李 叙連の息子である。李家は世界をだまして、レニー・ライン・カンパニー・アジアの一族相続を行い支配している。

レニー・ライン・カンパニー・アジアの中で、重要ポストに就いている人間の就任前の情報が全くない者は、李家の一族の人間だと考えて良い。そう考えて辿ると、次々にその隠されていた情報が明らかになっていった。だが・・・・そうして、アジアの中心が李家の一族の人間で構成されている事が明らかになっても、肝心のレニー・グランド・佐竹の情報は、公式に発表されている物以外、手に入らなかった。レニー・ライン・カンパニー・アジアのジャパンマネージャーであり乍ら、7年前に突然ロシア大使館の職員に就任したレニー・グランド・佐竹。ロシアの国がどういう意図をもって佐竹を日本のロシア大使館の職員にしたのかもわからない上に、治外法権であるロシア大使館に、その人事に何故だと問い合わせる訳にもいかず、佐竹の情報に関しては、完全にお手上げ状態だった。





文部科学省がある通りを南に下った場所にロシア大使館はある。大きな白いビルの門扉に続くブロック塀もが白い。ロシア大使館と書かれたゴールドの表札が上質な舶来さを出していた。

敷地のわりに狭い門扉である。何台ものカメラが、長く続いた封建国家の気質を表し、訪れる者を拒むようだった。塀で囲われカメラが何台もあるのは、アメリカ大使館も同じだが、醸し出す解放感が全く違っていた。

門前に立つ警備員の人に対する対応感も違った。固い表情を崩さない警備員にレニー・グランド・佐竹に呼ばれていると、ロシア語で話す。訝しげに上から下まで眺めた警備員は、一応の確認を館内へ内線で取り次ぐ。日本語や英語であったら門前払いだったかもしれない。佐竹が出かけていて、館内には居ない可能性も危惧したが、自身の運の良さに掛けた。

しばらくして電話を置いた警備員は、一転して満面の笑みで、「ようこそ、ロシア連邦へ」と俺を迎え入れる。

足を踏み入れる前に、深呼吸をした。

この先は日本ではなくロシア領。この中で事を起こせば日本の法律で裁かれるのではなく、ロシアの法律が適用され、下手すれば国家紛争に発展する可能性を含む。

警備員に先導され案内された建物に一歩入り、目に付いたのは、とても大きな一面張りされたステンドグラスの窓。

それを鑑賞用する為に作られたかと思われる向かって左右に別れる階段を登る。そのステンドガラス以外にも、館内はそこかしらに調度品が置かれてあった。黒川和樹なら、この芸術のすばらしさをわかるのだろうけれど、残念ながら自分はこの手の物はさっぱりだった。

目線が同じ長身の夫人が、俺を奥へと案内してくれる。奥行きのある敷地を活かして建てられている為、階段を登った後、ずっと廊下を向い合せで部屋のドアが並ぶ。建物の真ん中まで来て、長身の夫人は足を止めて一室の部屋をノックした。

中からロシア語でどうぞと言う声を聞き、そこが佐竹の部屋だと判明する。

露「お連れしました。」

露「ありがとう。ナターシャ。紅茶を頼む。」

露「承知いたしました。」

ナターシャと呼ばれた夫人が頭を下げて部屋を出ていく。

露「ようこそ、ロシア連邦大使館に。」

レニー・グランド・佐竹は、奇襲的に訪問したにもかかわらず、上機嫌で俺を迎え入れる。

柴崎邸の応接室にあるよりデカイ応接のソファー、佐竹に促されるまま身を沈めた。

椅子の座り心地がとてもいい。沈み込む腰が機動力を欠けさせるのは、佐竹ならではの仕掛けか?

レニー・グランド・佐竹は余裕で微笑み、こちらから切り出す前に、まるで旧友でももてなすように語りかけてくる。

「ロビー正面のステンドグラスを見たかね。」

「あ、あぁ・・・・。」

「素晴らしいだろう!私が、ロシアより彫刻家を呼んで作らせた。7年前、ここに来た時は殺風景な大きな窓があるだけで、館内の調度品も一流とはほど遠い、貧祖な有様だった。」

このロシア大使館のトップ、ロシア連邦特命全権大使でもない、ただの外交特務官でしかない佐竹が、なぜ、館内のインテリアを変える権限がある?やはりレニーの力か?

「俺は一流ではないから、芸術の良さはわからない。」

「くくくく、そうだな、お前の脳は活字の美しさを好むのだったな。」

やっぱり、すべてを知られているか・・・・常翔大学で調べられた俺の特殊な脳のデーターもこいつは持っている。

扉がノックされて、ナターシャが紅茶セットを乗せたワゴンを押して入る。そして品よく紅茶を入れ始めた。

露「ロシアに訪れた経歴は無いようだが?ロシア語はどこで?」

露「あなたが気に入った少女がロシア語を話すと聞いて、辞書を丸ごと記憶した。文法と発音はCDを聞いてなぞっているだけだ。」

露「ほほぉ、どおりで、堅苦しいロシア語だと思ったよ。」

露「でも、お上手ですわね。CDを聞いただけで、ここまでお話し出来るなんて。」

ナターシャが微笑みを俺に向けて、ティーカップを置く。

露「ありがとうございます。」

露「いいえ。ごゆっくりどうぞ。」

ナターシャは、上品な笑みと匂いを残して部屋を出ていく。テーブルに色の違うジャムの入った小鉢が2つ置かれている事に気づいた。

「ロシアではジャムを舐めながら紅茶を楽しむ。アップルとオレンジ好きな方を入れるといい。」佐竹が日本語に変える。

ジャムを紅茶に入れる?ロシアではそうなのか?知らない。頭にある記憶の活字を思いつくまま、引っ張りだしてめくるが、記載された活字を見つけられなかった。佐竹が、オレンジの小鉢を引き寄せて、小さなスプーンでジャムを一さじ口に含んだ後、紅茶も口に含み、こうするんだという表情を向けてくる。

残った方のアップルジャムを引き寄せ、それに習った。甘い味が口の中に広がるのをダージリンティーが融和し喉の奥へと流れていく。

「どうだ?」佐竹が味の感想を求めてくる。

「味覚も俺は一流じゃない。」

「ふはははは、ジョークか?お前は柴崎家で何を会得してきた?それとも柴崎家は、施設育ちのお前に十分な食事も与えず飼っていたのか?」挑発だとわかっているが、それでも怒りが沸き上がる。

「あなたが知らない戦場に3年、身を置いた。あの場所は人間の五感を狂わせる。」

佐竹の経歴はわからない。だけど、その体つきと手の綺麗さから見て、おそらく荒場を経験した事が無いだろうと推測した。戦場を知らない奴に、その経験を突きつけるのは、卑怯に近い特攻だ。大抵の人間は「戦地」の単語だけで、他人事に目を伏せる負い目が心理にある。

「あぁ、私は知らない。だが、それがどうした?地球上で戦地と呼ばれる場所は、数パーセントしかない。大多数の者が戦地を知らずに生活をしている。知らずの経験を特別の経験をとした傲慢な皮肉に、私が動揺すると思うか?」

くっ・・・これが格の違いというものか?心理の駆け引き戦略、人生観をも見透かされている。

「お前がすがる戦地の経歴や、生まれた経緯もすべて、私の元に来れば、一流に替えてやる事ができる。この大使館のようにな。さぁ選ぶがいい柴崎凱斗。私の元で一流となるか、それとも、また子を機犠牲にして、まやかしの二流のままでいるか。」

目の前に、総一郎会長を超えるものがある。

   『迷うことなく出なさい家から。』文香さんの言葉がよみがえる。

駄目だ!違う。

魔力を帯びた佐竹の言葉に手を伸ばそうとするのを抑え込む。

「選ぶ前に、聞きたいことがある。」

「どうぞ。」

「なぜ、あなたがレニーの名を使っている?」

レニーの名はカンパニーの大陸代表のみが使える物。その名を使う事は、大陸の頂点に立つ者の栄誉ある証。佐竹は日本のトップでしかない。日本が経済大国ランキング世界2位だとしても、レニーのアジア内では中国の物流量に劣り、立場的には弱いはずだ。そんな佐竹が名乗っていい名前ではないはずだ。それとも、それさえも、レニーの本部が介入できない、アジア独自の力だというのだろうか。

「はははは、そうか、調べがつかなかったか。」腹を抱えて笑う佐竹。

馬鹿にされている。

「そうだな、雇い主の事を知らなければ、その身を預けられないな。良いだろう、面白い話をしてやる。」

そう言うと、佐竹はジャムを紅茶に全部入れ、かき回し、飲み干した。

「香港に拠点を置き、アジアを占拠していた大連流通は、迫るレニー・ライン・カンパニーに震撼した。このままでは、すべてをレニーに吸い取られてしまうと。大連流通を築き上げた李 叙連」

苦労して、手に入れたレニー・コート大連の本名を簡単に口にしたことに驚く。その俺の表情を見て、佐竹がまた笑う。

「くくく、ミルトニアは楊 白龍の居場所のメモを見落とすことなく拾った様だな。」

「なっ!あ、あなたは・・・・」

「私は二流のハニーを、ふさわしい場所に誘導しただけだ。」

震撼する。未来行動も見透かされている。

背中に汗が滴り落ちた。手に入れた切り札も、もしかして、佐竹の想定内の戦略だとしたら・・・

「話を続けよう。お前から、ここに来た勇気の褒美だ。」

笑みの余裕に負けそうになる。

「李 叙連は、大連流通の名を捨てる代わりに、流通網、運営組織はそのままに、世界統括本部の介入をさせない力をもった事は前に話したな。李 叙連は、もう一つ、交渉人コート・シュバルツ自身にも条件を提示した。シュバルツの娘まだ7歳であったアリーナ・コート・シュバルツを差し出せと。」

「7歳の子を?!人質じゃないか。」

「そうだ、人質・・・・徐連は必死だった。世界のレニーが頭を下げているとは言え、自分の出した条件なんて簡単に破棄され、ゆくは大連流通の流通網や組織を全て乗っ取られるのは簡単に予測がついた。条件を飲むにはあまりにも軟弱だ。頭を下げてきている今だからこそ、もっと強靭な手札を掴み取っておくべきだと。なりふり構わず出したのは非人道的な条件。一族の血筋を重きに置く人種だからこそ、それが最適な手札だと信じてやまない。対して、レニー・コート・シュバルツも必死だ。世界制覇が目前のレニー・ライン・カンパニーは、残すはアジアだけ。娘一人を差し出す事でレニーの世界制覇が完成し、自身の名がアジア大陸の名誉ある呼称となり、未来永劫、世界に誇示できるのなら、と、その条件を苦悩することなく受け入れた。」

佐竹は、そこで一旦話を切り、立ち上がった。壁際のキャビネットの扉を開けると、ブランデーの瓶を取り出す。ゆっくりとソファーに戻ると、空になったティーカップにブランデーを注ぎ入れた。

「これは紅茶に入れても、いけるぞ、要るか?」

と進めてくるのを断った。佐竹は苦笑し話を続ける。

「レニーの世界制覇の完成と同時に初代アジア大陸代表に就いたレニー・コート・シュバルツは、その後5年をかけてアジア流通網と世界の流通網をうまく精通させたと表向きにはなっているが、実際の所は、そう簡単には大連の組織網を吸い上げる事は出来なかった。ロシアから呼び寄せたシュバルツ派の人材と大連派の人材が対立し、運営はうまくいかない。大幅に流通量を下げ、ひどい経営状況に陥った。徐連は経営悪化の責任をシュバルツに押し付け、レニーの世界統括本部に退陣を直訴する。世界統括本部はそれを認めざるえない。どのような人事でも、本部は一切介入しないというのが、世界制覇の条件だったのだから。」

ここまでしゃべると初めて、佐竹はブランデーを煽った。

「非人道的ではあったが、李 叙連の手腕は見事だ。名前こそ失ったが、組織そのものは手に戻した。レニー・コート大連と名乗り、翌年にはV字回復を果たす。その後、世界のレニーの名を利用し飛躍的に流通量、売り上げを伸ばしていく。この先のレニーアジアの歴史は、さすがに調べがついているだろう。」

「あぁ・・・レニー・コート大連の子供が現代表の綜王、李家の血統が代々継いでいる。そして次の後継者になるはずだった男、李 秀劉(シュウケイ)は1年前に謎の死を遂げている。その弟、李 剥は、あなたが殺したと思っている。」

レニー・グランド・佐竹は、黙ったまま、上質な微笑みを向けてくる。

「あなたは、レニーの世界統括本部の流れを組まないアジアの、李家の独裁を止めようとして、後継者である秀劉を殺した。」

「言ったはずだ、むき出しの野心ほど醜い物はないと。」

「じゃ何故、俺の野心を剥き出そうとする。」

「まだ最初の質問に答えていない。私がレニーの名を使う理由を知らなくていいのか?そう逸るな。」

ティーカップのブランデーをゆっくり口にする佐竹。すべてが佐竹のペース。落ちつけ。無駄には出来ない。皆が今動いてくれている。佐竹のペースに合わせて、残っていた紅茶を口にした。紅茶は温くなっている。

「私の真の名はアレクセイ・李・シュバルツ。」

(なっ!)突然暴露される名前に驚きを隠せなかった。

「レニー・コート・シュバルツの娘アリーナが、5年の人質から解放され、ロシアに帰国した翌年に産んだ子が私だ。」

「あ、あなたは・・・・叙連の子?!」

「ロシアに帰国したレニー・コート、真の名はグランド・コート・シュバルツは、李家にその事実を知られないように、身重のアリーナを日本へ移住させ、私の存在をひた隠しにした。李家の一族は、叙連の血を引く人間が、一族外にいる事を知らず、そして初代の真の名も忘れて、私が祖父の名を使っても気づかない。レニーの名の下で、アジア勢力の上に驕っている。」

「・・・・。」驚きに、息をするのも忘れる。

「分かりやすいヒントを与えてやっているのに、愚かな奴らよ。」

叙連の子供、すなわち、現在のアジア代表の綜王と佐竹は異母兄弟。

予想しなかった事実に、何をしていいかわからない。落ち着け、ティーカップを口に持っていき、さっき飲み干して何も残っていなことに気づく。佐竹はそんな俺の動揺を楽しそうに笑い、ティーカップにブランデーを注いでくる。

一つ息を深く吸い、胸に新しい空気を送る。

「では、あなたは、レニーのアジアを李家から取り戻そうと?」

「そこまでしか考えが及ばないか?柴崎家に囲われて、世界に向けていた視野を塞がれたか?」

「俺は・・・。」

反論できない。文香さんの手を掴み、戦場からも逃げ帰ってからだ、世界に目を向けなくなったのは。助けられた恩を隠れ蓑にした。

『帰ってきなさい凱斗。あなたの居場所は私が作ります。』

生き延びてしまった罪ごと、文香さんは俺を抱きしめた。輸血もしてくれた事を知って、この人の為に生きようと誓った。そう、だから、ここで佐竹の手を掴むわけにはいかない。

「反論はしない。俺は、柴崎家に買われた者だ。」

「それが、お前の答え、選択か?」

「いや?答えは別にある。」

(そう、まだ答えは出せない。連絡がまだ来ない。駄目だったか? )

佐竹が訝しげに、じっと見つめてくる。沈黙が場を支配する。場繋ぎに注がれたブランデーを口にした。

味は全くわからなかった。

「何を切り札に持ち込んだか知らないが・・・・まぁいい。その切り札がお前の真の価値を示すだろう。」

そう言って、座り心地の良いソファーに背を預けて、体を斜に構えて見据える。

「李家の独裁は落とさなければならないが、大連流通が築いてきた網を、ただ恨み言だけで取り返しても、それは私の力にはなりはしない。そんな腐った物は、踏み台で十分だ。言っただろ、陳腐な野心ほど醜い物はないと。世界が変わる瞬間の音や色は一流の美しさがある。一流には二流、三流の犠牲が付き物。」

レニー・ライン・アジア大陸を二流と称し簡単に踏み台と犠牲にする、佐竹の広すぎる戦略にたじろぐ、この時点で一流になどなれないと理解する

「あなたが、世界を手に入れたい事はわかる。その力があり、実現可能である事も。その壮大な戦略をこんな俺に話し引き入れようとするあなたの真意がわからない。俺の記憶力に価値を見出し、欲しいと言う心情は理解できるが、あなたは、こんな能力を手に入れなくても世界を手にできるはずだ。だから、わからない。何故あなたが、ロシアの外交特務官を兼務しているのかが。」

そう、すべてが不思議だ。手に入れた情報が操作された嘘であっても、語られる野心に対して、レニー・ライン・カンパニー・アジアのジャパンマネージャーは、隠れ蓑にしては小さすぎる。そして、ロシア連邦大使館の外交特務官の兼務も。

真の名を知り得て、更にその疑問は大きくなった。

「お前には見えないか?世界が民の思惑で動くその軌跡を。」

「民の思惑?」

「私がこの大使館に就任した7年前以前に、何が起きた?」

頭の中にある新聞記事が、高速にめくられ、その見出しだけを浚えていく。

「原発事故・・・」

「そう、日本は太平洋沖で起きたプレート境界地震による発生した津波により、茨城の原子力発電所は壊滅した。日本の安全神話は崩れ、その衝撃のニュースは世界の意識を変えた。原子力依存のエネルギー確保は危険だと、原子力産業で国力を維持するフランスを筆頭に、ヨーロッパ各地で反原子力エネルギー運動が盛んになった。」

7年前、太平洋沖で起きた地震の揺れは、津波となり茨城県の半島にあった原子力発電所に直撃した。津波は想定外の威力を持って建物を破壊し、周囲に放射能被害レベル4という被害をもたらした。

それをきっかけに世界各地で脱原発の意識が高まり、この日本も原子力だけに頼らないエネルギー政策を模索しなければならなくなった。

その1プロジェクトが、藤木外務大臣が進めているロシアからガスの安定提供を目指す、ガス輸送パイプラインの建設、日本とロシアを繋ぐロシアの窓口として動いているのが、このレニー・グランド・佐竹。

「その原発事故が起る前と後、世界の闇を這うように思惑がうごめいている。それは何か?お前の記憶力なら、今、その違いを見出せるはずだ。」

まるで、謎解きクイズを出すかのように、ソファーの肘かけに手を置き、軽く握った手に顎を載せて終始笑顔でいる佐竹を見ながら、記憶にある新聞を頭の中で高速にめくっていく。見出しだけを注目して、前後数年の世界情勢を掴んで行く。

世界各地で起きるテロ・・・・

「テロ・・・・が、多くなった。」

「やっと世界を巡る流れを、読める脳になったようだな。」

佐竹は預けてあった背をソファーから起こし、空になっているティーカップにまたブランデーを注ぐ。

「フランスで抗議デモをする程度の民間活動家達の集まりCERPAは、日本の原発事故後、エコリズム思想に宗教的要素を組み入れ、会員を増やし、世界各地で活動を展開する団体に成長した。それがワールドCERPA、通称Wセルパ。名ぐらいは聞いたことがあるだろう。」

「あぁ。」

「Wセルパがフランス周辺だけにとどまらず、世界に活動の場を広げるまでに大きくなったのは、Wセルパの地道な活動だけではない。Wセルパに陰で支援をした巨大な力がある。中東の石油産業国OPECの後ろに隠れる民間組織、世界の石油エネルギーを真に統括するその組織は、裏で舵を取ると意味で名づけられたアンダーグラウンドヘルムスマン、AGH。が日本の原発事故をきっかけに大きく動き出した。Wセルパは、エコリズム思想の裏で資金を手に入れ大きくなった。」

「世界で多くなったテロは、Wセルパの仕業?」

佐竹は黙って頷き、先を続ける。

「反原発に世界が傾けば、石油の需要が伸びる。各地でテロが起きれば各国は自衛の為に軍事力の強化を図る。軍事に使われるエネルギーはやはり石油系統でしか担えない。AGHはそうした思惑の元、世界を裏から牛耳る。」

「じゃ・・・あなたが仲介するロシアからのガスパイプラインは・・・・」

「原子力が危険だからと言って、石油回帰への流れを推し進めるには、もう弱い。新たなエネルギーを求める人々の求心力はは底知ず侮れない。ロシアの地下に莫大なシェールガスが埋まっている事を知った世界はどうだ?ロシアを中心に、各国の関連企業の株価は上昇した。日本ではパイプラインを引く構想があると発表しただけで、建設会社の株価は上昇した。どこの建設会社かも決まっていないのにだ。」

ただただ、戸惑う。レニー・グランド・佐竹の思惑を引き出すつもりが、世界の裏真意を聞かされる。壮大な世界のどこに佐竹の真意が隠されているのか全く分からない。

「私はいずれ、アジアから世界へと動く、アジアの李家は生かさず殺さず、監視し動かす力が要る。それが出来るのが日本。だから、お前が必要なのだ。世界で数人しかいない記憶力を持つお前の頭脳と、捨てられた命の果てにあがいてきた世界観、そして華族の保護を受けた柴崎凱斗、お前が。」














8




流石と言うべきか、世界に正式公表はされていない華族の存在を知るレニー・グランド・佐竹。だが、あなたは知らない、華族の真の力を。卑弥呼の時代より神に仕えて、この日本を守り続けて来た祈宗の力を。

スーツの内ポケットに入れてある携帯が、バイブ振動を告げてくる。1、2、3、4、5。約束の回数。それは文香さんからの華族の力を証明する吉報の知らせ。

「あなたは、華族の力を軽視している。」

「そうでもないさ、神皇を隠れ蓑にした日本のAGHである華族の力に敬服するからこそ、私はお前を欲しいと言っている。」

「AGH(舵取り)・・・あなたに日本人の血が流れていなくて良かったと思う。」

佐竹の顔から笑みが消えた。

「この国には、古より染みついた神仰心がある。神を国の皇として崇めきた神格は、世界に類を見ない。華族が神皇を崇めるのは、敬服ではなく心服だ。神皇を隠れ蓑など畏れ多い。」

佐竹はプッと吹き出し、笑う。やはり笑っている時の方が恐ろしい。その笑みに怒りを含めて殺気を放っているのだ。

「これは失言をした。」

「失言ではなく、失策だ。俺が欲しいが為に、子を人質に取った事、いや、それ以前に、華族の柴崎家が経営する常翔学園を盗品売買の場に使った事が。当時、既に何かの思惑があったのか、ただの偶然だったのかは知らないが。」

佐竹が何かを言うのを待った。だが、佐竹はただ黙ったまま、表情も変えない。仕方なくこちらから切り出した。

「1年前にフランスのボルドー美術館から盗まれた名画、ミューズ・ハリスの受胎告知、盗難の指示をあなたがしたのかどうかはわからないが、その名画は3日前、香港からロシアへと密輸される途中で行方不明となった。あなたはその行方を探している。」

「・・・・。」わずかに首を傾けただけの佐竹。

「あなたはその名画の行方を大がかりには捜せない。あまりにも、その名画が有名過ぎて、その盗難の事実が世界的に注目を浴びてしまったである為に。あなたは、今、イライラしながら、その名画の行方の知らせを待っているはずだ。」

「それが、私の失策だと?高々盗品の絵画の存在ぐらいで。」

言葉を遮るように携帯の着信が部屋に響く。俺のではない、佐竹の携帯だ。

訝しげに俺を見つめた後、佐竹は携帯に出る。

中「何だ。」

中国語。佐竹から笑みが消え、険しくなっていく。

中「・・・分かった。」

中国語で話しているという事は、台湾から情報が入ったという事。台湾のレニーに捜査が入ったという知らせの電話だろう。佐竹は電話を切ると、まっすぐ睨みつけてきた。

「柴崎凱斗、貴さま・・・・」

「俺には調べられるルートがある。」

何かわからなかった荷物が、世界を賑わせた盗品、受胎告知であると調べがついた。その情報を元に華族会は日本の国際警察機関を動かして、捜査を行わせた。

しばらく無言のにらみ合い。剥き出しの怒りは恐ろしくない。

今度は部屋の電話が内線の音を奏でる。佐竹は立ち上がり、デスクへの電話を取る。

露「はい。・・・・繋いでくれ。」

「はい、これは・・・・藤木外務大臣から直接のお電話とは一体・・・。」

ロシア語から日本語に変えた佐竹は、それまで見た事のない険しい表情。

「いえ、そのような事実は・・・・・・・CNN?・世界に?何かの間違いでは?・・・・・はい、確認して連絡差し上げます、お待ちください。」

佐竹が静かに電話を置く。佐竹が堅苦しいと言うロシア語で言い放ってやった。

露「民が国を動かすのは、この日本でも同じ。それが出来るのが華族会。」








佐竹の所に次々と入る電話、中国語、ロシア語、日本語を駆使した冷静な対応は、運転しながらも崩れることなく余裕の様で、車の操作技術も安定していた。

港区のレニー・ライン・カンパニー・アジア、ジャパンの事務所ビルに入ることなく、道を挟んだ路上に停めたベンツ。

電話を終えた佐竹が、その車窓を開けた。レニー・ライン・カンパニー・アジア、ジャパンの正面玄関前の道路はパトカー数台と、警察車両のワゴン車、そして各局のテレビ取材の車と人で混雑していた。



『現在、レニー・ライン・カンパニー・アジア・ジャパン支社の事務所前に警察車両が多数到着しています。1年前にフランスのボルドー美術館から盗まれた、ミューズ・ハリスの受胎告知が同社のジャパン流通網を経由して、台湾へと持ち込まれたという情報が入り、警察庁国際公安部は全国にあるレニー・ライン・カンパニー・アジア・ジャパン支社の支店へ一斉捜査に踏み切りました。ですが、いかなる国、世界機関の関与を許諾しないとの経営理念でありますレニー・ライン・カンパニーは、警察の侵入を拒み、ご覧ください、ビルの入り口ではレニー側の警備員との小競り合いになっております。同社の台湾支社でも同時に当局による捜査が入っています事を考えますと、情報は信憑性の高い物と思われます。全世界が注目するミューズ・ハリスの受胎告知の行方が判明する糸口となるのでしょうか。レニー・ライン・カンパニーは、現在・・・』

佐竹が車内のテレビを消した。

誰がミューズ・ハリスの「受胎告知」を盗んだのかわからないが、李剥はレニー・グランド・佐竹の美術品収集の嗜みを利用して、陥れる計画を立てていた。李 剥は香港からロシアへと運ばれる予定だった名画を横取りに成功。タイミングを見計らい絵画を日本へと送り込む算段になっていた。黒川和樹がレニーのデスウォールより手に入れたお宝が、巧みに隠されて送ろうとしていた才のリストだったのだ。李剥は、ジャパン事務所に名画を送りつけた後、佐竹が盗難の首謀者だと密告して、日本の警察に佐竹を逮捕させようとしていた。そんな李 剥の計画を佐竹は知らない。それらの計画を掴んだ俺たちは、密告の時期を早めた、それによりレニー・ライン・カンパニー・アジア・ジャパン支社の家宅捜査も早くなった。当然、ミューズ・ハリスの「受胎告知」はまだ日本国内に到着してはない。李剥が名画を奪った後、速やかにその計画を実行できなかったのは、日本の警察を動かせる力がなかったためだ。日本の警察は信憑性のない密告では動かない。今、全国のレニー・ライン・カンパニー・アジアジャパンの全国の支店に一斉家宅捜査を行えているのは、華族会から指示を出したからだ。

「真辺りの、柴崎麗香、藤木亮、新田慎一、今後一切、子供達に関わらない事を約束してくれるのなら、名画の場所を教える。」

「ふ、ふはははは、貴重な切り札を子らに使うか。」

「それが俺の選択。後は、あなたが俺の価値を見定め、決めるといい。だけど俺は柴崎家と縁を切り、華選の位を棄て華族との繋がりを断つ、古よりこの国を守り抜いてきた華族の力を、あなたに利用されるわけにはいかない。」

窓を閉めた佐竹が、笑みで答える。

「いいだろう、子らに一切手出しはしない。元々、それは、お前の野心を引き出す一策でしかない。・・・その顔、信用ならないか?」

見透かされている佐竹に、無言の答えをした。

「アレクセイ・李・シュバルツの名に掛けて誓う、子らに一切手出しはしない。真の名の下では不服か?」

「いえ、十分。」

名を大事にするレニーの人間だからこそ、その約束は絶対に守られると確信した。


















9


「立ちなさい。」

土下座を崩して、ゆっくりと立ちあがった。目の前には怒った表情の文香さんと、華族会東の宗代表代理、白鳥博通 様が並んで立つ。

パシッと頬に痛みが走った。

「これは、黒川和樹君を巻き込んだ罪。」

そして、もう一度頬に痛みが走る。

「これは、あなたが、私に黙って事を進めようと、そして、」

もう一度叩こうとした文香さんの手を白鳥様が抑える。

「文香様、もういいでしょう。」

「良くはありません。白鳥様、申し訳ございません。華族会を個人の為に動かしてしまいました。」

「仕方ありません、凱斗君も、それをしてはいけないとわかっていたから、ギリギリまで自分で何とかしようとした。その結果ですから。」

「ですが・・・・。」

「もう済んだことです。ここは喜ばなければならない場面ですよ。麗香さん達、子供たちを守れたのですから。」

「・・・・はい。」

「申し訳ございませんでした。」

再度、頭を下げた俺に、白鳥様は肩を叩いてほほ笑む。

レニー・グランド・佐竹を抑止する為、華族会は家宅捜査の情報を全国のみならず、海外メディアにも知らせ、ライブ中継をさせるように手配した。レニー・ライン・カンパニー・ジャパンの責任者である佐竹が、ロシアの大使館職員を兼務している事も、外務省へと伝えられた。ミューズ・ハリスの「受胎告知」の盗難にレニーのジャパン支社が関わっていたとなれば、外務省は世界の批判を考慮して、ガスパイプラインの建設の見直しをせざる得なくならなくなる。事の真相を問う電話だったのが、大使館に届いた藤木外務大臣からの電話だった。

李剥の計画を横取りして、子供らに関わらない事を約束させるための貢物ぐらいに考えていた。だが、世界戦略の拠点としていた日本の、パイプライン建設の見直しは、佐竹にとってかなりの楔となったようだ。真の名の元に誓ったレニー・グランド・佐竹には、自宅代わりにしているホテルへと絵画が届くことを知らせ、李剥の企みを明かした。

一方、台湾の支社の最高責任者であった李 剥は、家宅捜査を行われている最中に、ミューズ・ハリスの「受胎告知」ではない別の盗難美術品が送られてきたことにより、ミューズ・ハリスの「受胎告知」の盗難関与の疑惑を持たれ、拘束された。

レニー・グランド・佐竹は、欲した者とは異なったが、探していた受胎告知の絵画を手に入れ、そして長らく派閥争いをしていた李家の人間の動きを封じたことになる。









『二日前に家宅捜査されたレニー・ライン・カンパニー・ジャパン支社の代表が記者会見を行い、次のようなコメントを残しております。

(レニー・ライン・カンパニーは、元来より、全世界において、如何なる国や世界の機関からの、物流品及び関係するすべての顧客情報の協力要請は、確固たる経営理念の元、一切の許諾をしない事を守り続けてきております。この度のフランスのボルドー美術館から盗まれたミューズ・ハリスの名画、受胎告知が、同社のジャパン流通網を経由して、台湾へと持ち込まれたという虚偽の情報により、捜査機関から疑惑を持たれた事は、遺憾でありますが、類のないわが社の特殊な経営理念が、誤解を招く一旦となった事は承知いたしております。また、当名画の行方はフランス国のみならず、全世界が注目し、懸念されているものであり、それは世界の大きな損失になると危惧いたします。我々レニー・ライン・カンパニー・ジャパン支社は、家宅捜査時の機関との衝突による不手際をお詫びすると共に、特例として、当該する日の流通網の一部を特定捜査員にのみ開示いたしました。これにより、レニー・ライン・カンパニー・ジャパン支社の無関与が証明されました事をご報告いたします。しかしながら、台湾支社の代表が盗難美術品に深くかかわっていた事は、事実であり、各国の支社の経営は独立しているとはいえ、同じアジア大陸内の不祥事である事を、深く陳謝いたします。今後の対応は、香港にありますアジア大陸統括本社と協力し対応し、一刻も早く、ミューズ・ハリスの名画、受胎告知の行方が判明する事を願います。)

このように、如何なる国や世界の機関からの関与、協力要請を許諾しないレニー・ライン・カンパニー・ジャパン支社が異例の対応した事で、世界は・・・・』


後部座席に乗っている信夫理事長が、リモコンで車内に流れるニュースの音を消した。

「凱斗、一人で抱え込み過ぎたな。早くに相談してくれていたら、華族会はもっとスムーズに事を解決しただろう。」

「申し訳ありません。」

「まぁ、仕方ないか、凱斗はまだ、華族会の真の力を、知らない。」

華選に上籍したのは、総一郎会長が死んだ翌年の二十歳の時。俺はハングラード大学を卒業しても日本には帰らなかった。総一郎会長のいない柴崎家に迎えられる意味を見いだせなかった。自分を見失い米軍に入隊した。紛争地に送り込まれた後、日本の茨城県沖に発生した津波によって原発事故が起き、全土が混乱に陥った。日本が災害に見舞われ混乱の静定に皇制政務会が発足していたことなど、まったく知らなかった。その頃、特務兵の養成プログラムによる訓練で死に掛けていたから。

皇生政務会は有事の際、内閣府に変わり対処するもので、神皇主権の政務は華族会が実働するもの。クリーンエネルギー推奨団体CERPAがWセルパに成長したきっかけの原発事故による混乱を華麗に均したのは、日本各地で力と財を持つ華族の称号を持つ一族の集まり華族会だった。

「だが・・・・ありがとう。麗香を守ってくれて。」

「理事長、礼は頂けません。それが、総一郎会長より託された、僕の使命ですから。」

「そう、だったな」

バックミラー越しに見る信夫理事長は、年を取り、総一郎会長に似てくる顔を窓の景色へと向けた。

そう、俺は、柴崎家に買われた。麗香を補佐し守る為に。だが、柴崎家の人達は買った物以上の施しをくれた。

位、財、衣、食、住、人、車、時、そして、血と愛をくれた。

華族としてじゃなく、家族として。

返せる物は、柴崎家に仕える働きと、

この陳腐な命しかない。












英「母に怒られました。そんな事まで考えなくていいと。」

英「そうだろうね。」

英「でも、うちは、本当に。お金なくて。母にこれ以上・・・・」

英「りのちゃん、お母さんは誰の為に頑張っているのかな?」

英「・・・・私の・・・・ため」

英「そうだよね。それはりのちゃんが一番わかっているよね。この間、大久保選手に褒められたよね。よく頑張ったねって。どう思った?

英「うれしかったです。認められて。」

英「うん。成果を褒められるより、努力を認められる方がうれしいよね。お母さんも同じじゃないかな。お母さんはりのちゃんの為に仕事を頑張っている。りのちゃんが楽しく学園で生活できるように。りのちゃんの笑顔を見る為に頑張っているんだよ。りのちゃんがお母さんの身体を心配して、我慢する気持ちもわかるよ。だけどそんな我慢するりのちゃんを、お母さんは見たくないはずだよ。」

「・・・・・。」

英「りのちゃんが、我慢するという事は、お母さんの努力を拒否するって事になるんじゃないのかな?」

表情の動きが少ないりのちゃんは、うつむいていた顔を上げて、見つめてくる。

見れば見るほど整った顔のりのちゃん、佐竹が『あれは一流のハニーになる』と言っていた通り、大人になれば、明晰な頭脳も合わせ持つ、最強のハニーになるだろう。恐ろしい未来の危惧を止める事が出来ただろうか?

英「今ね、麗香率いる生徒会が、すごいプロジェクトを進めている。りのちゃん個人だけの為じゃなく、全クラブ対象に、サッカー部のようなバックアップ体制を整えようとね。弓道部の全国大会に合うように頑張っている。だから、まずは修学旅行を楽しんで、合宿と遠征の費用の事は、あとで考えよう。」

まだ、気持ちを固められないでいるのか、はいと言う返事は無く、りのちゃんは机をじっと見つめたままだ。

英「それに、香港行きは、キャンセルしてないんだよね。忘れてたなぁ~キャンセルするの。りのちゃんに行ってもらわないと困るんだよね~。キャンセル料、取られちゃうんだなぁ・・・・理事長はお前のミスだから、自分でキャンセル料を出せと厳しくてさぁ。僕のポケットマネーから出さなくちゃならないんだよねぇ。僕は、まだ学生なのに酷いと思わない?」

驚いた顔で見上げたりのちゃんは、わずかに苦笑した。

英「大丈夫、香港行の修学旅行には僕も引率するからね、何があってもサポート出来るから、何の心配なく楽しんで!」

英「楽しむ?・・・日本を出て?」

英「そうだよ。修学旅行は学業プログラムには入っていない。遊びに行くようなもの。りのちゃんが言ったんだよ。」

「・・・・遊び・・・・世界が・・・・遊び場・・・・・」

小さくつぶやいた言葉はあまり聞き取れなかった。

英「皆と一緒に、修学旅行で楽しい思い出を作ろう。」

「はい。」

うるんだ眼がキラキラと輝いた。あぁ、やっぱり行きたかったんだ。やっと説得できたと、ほっとする。

会議室を出ていく、りのちゃんの後ろについて、廊下に出た。

外では、麗香達がりのちゃんを待っていた。

「話は終わった?」

「うん。」

「行けるわよね。修学旅行。」

「うん・・・・」恥じらったように頷いた、りのちゃん。

「良かった。りのちゃんが行かない修学旅行なんて、収容所に強制収監されにいくようなもんだよ。」

と藤木君は目尻に皺を作った笑顔。

「ほんとよ、私だって、サッカー馬鹿二人とずっと一緒だなんて、ぞっとするわ。」麗香の溜息交じりの愚痴。

「俺を含めんな、サッカー馬鹿は新田だけだ。」

「ええ?」困り顔で優しい溜息をつく新田君。

仲の良い4人のいつもの掛け合いの会話が、普通の日常を示す。これが真の平和。

尻のポケットで携帯のバイブ振動が伝わる。携帯を取り出すと、一緒に入れてあった逆涙型のゴールドのチャームが落ちた。

チャームはチャランと高い音を奏でて、蓋が開いてしまい、中に入っていた玉が転がり出た。

携帯の画面は非通知を知らせている。学園内ではマナーモードに設定している携帯は、長くバイブの振動を続けて、切れる気配がない。

嫌な予感に、普通ではない日常の危機の知らせ。

「これ・・・・虹玉?」

虹色に輝く玉、オパールの宝石を拾ったりのちゃんが、その玉を目の高さに持って行き、しげしげと眺める。

「チャーム・・・ゴールドだわ。」

チャームを拾った麗香が、チャームをパチンと閉めて、その複雑の装飾を眺める。

止まらない非通知のコールに着信ボタンを押す。相手からの言葉を待つ

「柴崎凱斗、礼はいずれ、させてもらう。」

一言だけそう告げると、レニー・グランド・佐竹は電話を切った。

冷汗が背中を這い落ちた。恐ろしいほどの存在感に感服だ。

「凱兄さん、これ私のと、お揃いだったの?」

携帯を尻ポケットにしまい込み、麗香の方へとごまかしの微笑みを向ける。

「そうだよ。あれ?言ってなかったっけ?ゴールドとシルバーの二種類あるって。」

「知らないわ。聞いてない。」

「こ、これは?ほ、本物の虹玉?」

りのちゃんが手のひらにオパールの玉を載せて見せる。

「それは、オパール。オーストラリアが世界一の産出の宝石で。昔付き合っていた女とオーストラリアに旅行に言った時に、このチャームに入れたいから買ってくれと強請られて、買ったんだけどねぇ。帰りの空港で、何だか機嫌を損ねてね。投げ返されちゃったんだ。」

「・・・・・・。」

「そのオパール。欲しかったらあげるよ。」

「もしかして、このチャーム、本当は2つセットで、これも一緒に返されて、処分に困って私に?」

麗香がゴールドのチャームチャラチャラとつまんで振る。

「えっ!あっ・・・・いや、違うよ違う。土産だと言っただろ。」

「わかりやす。」飽きれ顔の藤木君。

(あぁ・・・ここにも嘘のつけない人間が居たんだった。)

「え、縁起、わ、悪いから、い、要らない。」まるで、汚い物でも触るような手つきで、オパールを返して来るりのちゃん。

「縁起悪いって・・・。」

「おかしいと思ったのよね。凱兄さんが、こんな洒落た物を土産に買ってくるから。」

「違うって。」

「凱さんって、女の人と、どういう付き合い方をしているんですか」新田君が、苦い表情でつぶやく。

「どうって、普通に・・・僕からは別れ話を言ったことないよ。いつも勝手に相手が怒って出ていくんだ。」

「・・・・・・。」なぜか絶句する4人。

「一番タチが悪いわ。行きましょ、女心のわからない凱兄さんと一緒にいたら、恋愛運、無くしちゃうわ。」

麗香はゴールドのチャームを俺に突き返して、皆を先導するように去って行く。

「えっ、ちょっと、麗香、りのちゃん、あぁ、藤木君、新田君!」

理事長室の前で、4人の中学生に恋愛遍歴を駄目出しされる。

「はぁ~。」大きなため息は、平和の象徴だと気づく。




わからない、愛と言うものが、

生まれた時から知らない実母の愛、

知らないからこそ、その愛を強く求める。

知らないからこそ、それが最も美しいと感じる。

知らないからこそ、それが最も尊いのだと信じる。

ここは、子供の声が澄み渡る楽園。

常翔学園という名の平和を主張する檻の中。

この学園を守るのが俺の仕事。

もう、誰も犠牲にはしない。

命に代えてでも、俺が守る。

手のひらの玉は、虹色の優しい光を放ち、コロコロとその存在を語る。

里香、間に合ったよ。里香と同じ虹の描かれた絵本が好きな子を。


いつか里香の元に逝った時、話すよ。

僕が守れた子供達の楽しい物語を。

だから、待っていて・・・・

僕が逝く時まで。

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