第5話 橙色の嫉妬、黒い追究
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(きれいなキーホルダー、何故、こんなものが慎にぃの机の中にあるのだろう?誰かからのプレゼントかな?何故か、モテるからなぁ・・・・ん?中に何かが入っている・・・・ビー玉? )
キーホルダーを部屋のライトにかざすと網状に装飾された隙間から、淡い虹色の光が優しく動く。
えりはしばらくそのきれいなキーホルダーから漏れる虹色の光に見とれた。
(はっ、こんなことしている場合じゃない。コンパスを探しているんだった。)
えりは我に返り再び兄の机の引き出しを漁る。
憧れの常翔学園に入学できたものの、流石に宿題や提出課題が多い。クラブも必須だし、今日も、数学に現国の宿題があって、休日明けには、英語の作文も提出しなければならない。学校から帰ってきて、すぐに宿題に取り掛かった。とりあえず、現国の宿題は終えた。英語作文は、ニコちゃんが来てから手伝ってもらうとして、その前に、嫌だけど数学を終えなくちゃと取り掛かったものの、コンパスを学校に置いて来てしまったことに気がついた。
(やばい、これじゃ、数学の宿題が全くできない・・・)
慎にぃに借りようと、1階に降りたんだけと、どこにも居なかった。慎にぃの部屋に勝手に入り机を漁る。見つかれば「勝手に入るな」と怒られるだろうけど、慎にぃなんて怒っても全然怖くないし、コンパスもなくなったって気づかないだろう。全然勉強してないし。
慎にぃの汚い引き出しを漁って、引き出しの奥にコンパスを見つける。引っ張りだすと、何か白い紙までくっついてきた。
(もぉ~汚い!紙がくっつくって、一体このコンパスは、いつから使ってないんだよぉ~。)
えりはその紙をペリッとはがした。
「これは・・・」
「ただいまぁ。」気の抜けた慎にぃの声が階下から聞こえてくる。
怒っても怖くないけど、言い争いは面倒だ。見つからない事に越したことはない。えりは慌てて手に持っていた紙を引き出しの奥にしまい込み、テーブルの上に出しておいていたコンパスとキーホルダーをわしづかみにして部屋から出る。
自室に戻って、ふーと一息ついて、しまったと思う。
何気に女もんだから自分のだと勘違いして持って来ちゃったキーホルダー。
(まっ、いっか。)
慎にぃだって使ってないのだから、机の中にあったのだ。そして女がもつような物、この先も使わないだろう。
(もらっちゃえ。へへ。)
「えり、お母さん、そろそろ行くから」
「うん。遅くなるの?」
「多分、ご自宅で通夜から葬式までするらしいから。今どき珍しいけど、あのお家なら、仕方ないわね。夜中までかかりそう。」
喪服姿のお母さんが、首に真珠のネックレスをつけながら答える。昨日の晩、この辺一番の地主さんで、自治会長のお宅のおじいさんが亡くなった。今から、その人のお通夜に出かけるお母さんは、店をやっている関係で、顔が広い。婦人会にも入っているから、地域で誰かが亡くなったら、いつも手伝いに行く。
「晩御飯は慎一に頼んであるし、ニコちゃんも来る予定だから」
ニコちゃんは、慎にぃと同級生の幼馴染。えりが生まれる前から、二人は、お互いの家を行き来して、双子のように育てられた。えりも、子供の頃は、本当にニコちゃんが血のつながったお姉ちゃんだと思っていた。えりたちは3人で、幼稚園に行き、帰ってきても家で遊び、晩御飯も一緒に食べて、お風呂も一緒に入り、一緒に寝て。
ちなみにニコちゃんは家族間で浸透しているあだ名、本名は、真辺りの。
「じゃ、慎一、晩御飯、頼んだわよ。」
「ふぁぁ~い。」
慎にいが、ソファであくびしながら答える。
(だらしねぇー。)
慎にぃがいつも3人掛けのソファで寝ころぶから、あたしの座る場所がない。邪魔!
(こんなのに、何故、皆がかっこいいとか言うんだろう?)とえりは首をひねる。
常翔学園に入学して間もなく、『新田さんって、あのサッカー部の新田先輩の妹さん?』なんて言われて取り囲まれた。
彼女たちは慎にぃのファンだと言う。その時は吹き出すぐらい驚いた。学園生活に慣れてくると、1年生のみならず、2年生や慎にぃの同級生にも、モテていると見知って、驚きを通り越して唖然としたというか、不思議に思った。同級のファンの子たちに、どこがいいのかと聞いたら、サッカーする姿とその顔だという。
えりは、サッカーに興味がない。慎にぃがJリーグの試合を見る時、いつもチャンネル権争いで喧嘩になる。自分の部屋にテレビがあるのにリビングで見るから腹が立って、「自分の部屋で見たらいいじゃん」って言ったら、デカイ画面で見たいと、ほんとに迷惑。えりの部屋にはテレビが無いのに。
こんなだらしないサッカー馬鹿のどこがいいんだか。何やら?サッカー推薦の時にハットり・・・なんだっけ?忍者みたいな名前の記録を出したとか、で、天才だとか?言われ聞くのだけど。しかし、家では食うか寝てるかしてるだけで、カッコいいと思える姿を見た事がない。顔は、お母さんに似て二重瞼の、きりっとした作りはしているとは思うけど、その顔も、家ではいつも寝ぼけていて、寝癖もそのままで出かけたりするし。今もリモコン持ったまま、寝てるし!
「慎にぃ!ご飯作れ!」えりは慎にいの寝ているソファを足で蹴った。
「あぁ・・・まだ後で、・・・いいじゃん。」とくぐもった声で答える。
料理人の息子という事もないけれど、慎にぃは小学生の時に料理にはまった。家の横にある、お父さんがやっているフランス料理店がドラマの撮影に使われて人気となり、ものすごく店が忙しくなった。お母さんも朝から晩まで働き詰めで、その頃にはニコちゃん達家族も海外に移住した後だったから、えり達兄妹は、毎晩夜遅くまで、ほったらかしにされていた。しびれを切らした慎にぃが、台所で料理を作り始めたのがきっかけで、今では慎にぃは家庭料理全般を普通に作れようになっていた。だからこうして、お母さんが忙しいときや出かけなればならない時は、作り置きせず慎にぃに任せてしまう。
「こんにちは~。」
「あっ、ニコちゃん来たわ。」
ニコちゃんは、えりが3歳の時にお父さんの転勤でフィンランドに移住、3年前に帰国して、去年からまた、えり達家族と交流するようになった。えりが常翔学園に入学できたのは、ニコちゃんのおかげである。ニコちゃんは、常翔学園の初の女性特待生で、とっても頭が良くて、英語、ロシア語、フランス語が話せる。だから、去年まであたしの家庭教師として家に来てもらっていた。もともとニコちゃんを自分の娘のように育てていた事もあって、お母さんは二階の空き部屋をニコちゃんの部屋にして、いつでも泊まれるようにした。入試間近の4日ほどニコちゃんは泊まって、えりの勉強を見てくれた。家庭教師が終わった今も、看護師をやってるニコちゃんのお母さんが夜勤の時は、うちに夕ご飯を食べにくる。
「えーと数珠と、エプロンと・・・」
お母さんがいそいそと部屋を行ったきり来たりしながら荷物をまとめる。第二の我が家であるニコちゃんは、勝手に上がってきて、リビングに姿を現した。
「ニコちゃん、おばさん、今からお通夜に行かないといけないの。晩御飯は慎一が作るから、留守番お願いね。」
慎にぃも、ニコちゃんが来たからと言って態度を正したりしない。ソファに寝たまんま起きようともしない。ニコちゃんを含むえり達3人は、本当に兄妹のよう。
急に、ドサッという音に、えりは振り返る。お母さんも音がしたリビングの入り口の方へ見やる。
ニコちゃんが、持っていたカバンを床に落とし、ドアにもたれかかるように、胸を押さえている。ニコちゃんの目は見開いて
ものすごく苦しそうに、息を切らしていた。
「ぁぁ・・・いや・・・」
「ニコちゃん!」
お母さんの叫びで、慎にいが飛び起きた。お母さんがニコちゃんに駆け寄るけど、ニコちゃんは、ひぃっと声にならない悲鳴を吐き、廊下の端まで後ずさりして、座り込んでしまった。
「ニコ!・・・・・かぁさん!喪服だ。喪服でニコに近寄ったら駄目だ!」
慎にいがニコちゃんに駆け寄り、お母さんを制する。
「ニコ!大丈夫か!」
「・・・や、・・・・、あ、ああ蟻・・・・・・血が・・・・」
ニコちゃんは、息苦しそうに、意味不明な言葉を発して、目を見開いたまま震えている。
慎にぃが、ニコちゃんの手をつかもうとすると、暴れて逃げた。
「ニコ!違う。大丈夫。おじさんの葬式じゃない。落ち着け!」
そうやって慎にぃが宥めても、ニコちゃんは、どこを見ているかわからない青い顔して、手を振り回して暴れる。
「慎一、ニコちゃん抑えて!」
「ひぃ・・・・いやぁ」
「かぁさん駄目だって、喪服で近寄っちゃ!」
「注射、打つから!えり!あんたも抑えて!」
そんなことを言われても、えりはどうしていいかわからず、呆然と立ち尽くしていた。お母さんがリビングの薬箱に駆け戻り何かを漁っている。
「えり!早く、そっち押さえろ。」
慎にぃの言われたとおりに、振り回すニコちゃんの左手を掴もうとしたら、顎にニコちゃんの手が当たった。
(痛い・・・。)
慎にぃがその手を掴んで、えりへと渡してくる。えりは両手でニコちゃんの左腕を壁に押さえつけたけれど、すごい力で押し戻されそうになる。慎にぃが肩と右手を抑えて、戻って来たお母さんが足を掴んだ。お母さんは制服のスカートをまくり上げて、ニコちゃんの太ももにプラスチック製の筒を突き刺した。
「いいわよ。放してあげて。」お母さんがそう言うから、エリは手を放す。
解放されたニコちゃんは、えり達から逃げるように廊下を這い、そして、トイレの前で力尽きたように動きを止めた。
「お母さん・・・ニコちゃん、どうしたの?」
えりは震える声で聞いた。もしかして死んだんじゃないだろうかと思う。
「大丈夫よ。眠っただけだから。えり、ありがとう。」
流石のお母さんも、顔が引きつっていた。
慎にぃが、俯せて倒れているニコちゃんを仰向けにして、頭を膝に乗せた。
ニコちゃんの髪は乱れて、目に涙のあとがある。白い顔は廊下の照明の暗さがより一層の具合の悪さを際立たせていた。
初めて見た、ニコちゃんの発作。
お母さんが、さつきおばさんが働いている病院へ電話し、ニコちゃんの主治医、精神科医の先生を連れて来て、気を失ったように眠るニコちゃんを病院へと連れていく。そして、そのまま入院となった。
ニコちゃんは、学校帰りの制服のまま家に来ていたので、えりは、土曜日の今日、クラブが終わった後、ニコちゃんのお見舞いも兼ねて鞄を病院まで届けに行った。
ニコちゃんは薬の副作用か、ぼぉーっとしてえりの事も見ようとしない。学園1の美人と言われているニコちゃんの横顔を見ながら、こんな時も綺麗だなと思った。話しかけても無反応で何をすることもなく暇だから、早々に帰る決断をして部屋を出ると、聞き覚えのある声に呼びとめられた。えりが所属するテニス部の3年、柴崎麗香先輩である。そして慎にぃ並んで同じサッカー部の藤木亮さん。慎にぃは、えりに目もくれずニコちゃんの病室へとさっさと入って行った。
「えりもお見舞い?」と柴崎先輩
「うん、それとニコちゃんの鞄を届けに。」
「そっか、えりりん偉いね。」と藤木さん。
藤木さんは、えりが小学校の頃から何度も家に遊びに来ていて、えりりんとあだ名をつけて呼んでくれている。いつも笑顔で優しい目じりのしわが特徴。藤木さんの方が慎にぃより、よっぽど優しくて女性にマメだし、知識は豊富で魅力あると思う。こうして褒めるなんて絶対に慎にぃはしない。
「えり、帰るのなら、もう少し待ってて、一緒にタクシーで新田家まで送ってあげるから。」と柴崎先輩が言ってくれたけど、自転車で来ていると断った。
柴崎先輩は常翔学園の経営者、柴崎一族の一人娘で、中等部の理事長がお父さん。学園では無敵のお嬢様で、ニコちゃんの親友。ニコちゃんを含めてこの4人はいつも一緒に居て仲がいい。学園内で存在感に目を引く4人だった。
「じゃ、失礼します。」慎にぃの友達とはいえ、クラブの先輩だから、ちゃんと敬語で頭を下げて挨拶をする。
「うん、また明日ね。」
「えりりん、気をつけて、おかえり。」
ほら、藤木さんはこんな優しい言葉までかけてくれる。
ニコちゃんは精神病を患っている。海外から帰国後、東京に住んでいた頃に言葉がおかしいと笑われ、イジメられて、同時にニコちゃんのお父さんがうつ病でニコちゃんの誕生日の翌日に自殺。そのショックで日本語が話せなくなってしまった。常翔学園の特待を受ける為に、声を出す練習を猛特訓して何とか受かったと。ニコちゃんに家庭教師をしてもらう時に、お母さんから聞いた。だから絶対に、ニコちゃんの話し方を笑ったり、急かしたり、吃音を指摘したら駄目だよと、しつこく言われていた。
ニコちゃんの口数は少なかったけど、教え方は抜群にうまくて、話し方が気になる事はなかった。英語ならすごく流暢で、丁寧に発音の仕方を教えてくれた。英語だと、饒舌になるそのギャップが面白い。慎にぃは英語がものすごく苦手だから、ニコちゃんはわざと英語で会話をしたりする。慎にぃの反応を見て面白がっている。そのおかげでえりは、最近ヒアリングが得意になって来た。話すのはまだまだだけど、簡単な会話なら、ニコちゃんの言葉、(慎にぃに対する悪口がほとんどだけど)がわかるようになってきた。ネイティブ悪口は完璧だ。
我が家に初めて来た頃は、無表情で小さい声でつぶやくだけのニコちゃんだったけど、それは随分と改善されて、吃音もなくなってきていた。それなのに、去年の秋に貧血で倒れた時に頭に怪我して、その影響で昨日みたいなフラッシュバック的な発作が起きてしまうらしい。昨日は、こういう時の為にと、さつきおばさんから預かっていた注射を打って何とかなったけど、あのパニックのままだとニコちゃんの心は壊れてしまって、症状が悪化してしまう可能性があるという。
病院から出て、えりは振り返る。
(羨ましい・・・・)なんとなく、そう思った。
柴崎先輩達や、うちの家族みんなが、ニコちゃんの心配をして、あぁやってニコちゃんの元に集まる。
また、病弱っていうのが、似合う顔している。美人薄命ってやつ?いやいや、死んじゃ駄目だし。
不謹慎な事を呟いちゃったと反省。
(でも・・・)えりが倒れても誰も心配なんてしないんだろうなぁ。と思う。
閉まったガラス製の自動扉に映る自分の姿、色黒で見た目も十分に健康体のあたし。見た目じゃなく本当に健康体で、去年のインフルエンザ流行中のクラス内でも、えりだけはビンピンしていた。
えりは大きなため息をつき、くだらない妄想はやめよっと、自転車置き場へと足を向ける。
自転車の鍵を差し込んでふと気づく。
ニコちゃんが入院って事は・・・・あたしの英作文の宿題はどうなるの?!
(あぁ・・・さっきの羨ましいは撤回するから、早く元気になって、あたしの英作文、手伝ってぇ~。)
と、えりは病院の建物を見上げて手を合わした。
タクシー乗りたかったなぁと思いながら、えりは自転車を駅前に走らせた。えりの住む彩都市は、昔は野山が広がる何にもなかった田舎町、静岡県の方が近い神奈川県、家の近くには深見山(?)丘に近い山があって頂上からは彩都市が一望できる展望公園がある。その山を添うようにぐるっと向う帝都電鉄に乗り入れる支線が通っていた。この深見山を境に西側が彩都市、常翔学園がある場所の深見山の東側向うを、香里市と言う。
ここ、帝都医科大学付属病院が真ん前にある駅が、彩都市の中心となっていて、病院とは沿線反対側には商業施設が立ち並ぶ。家周辺には無いスポーツ用品店にも寄りたくて、えりは20分をかけて病院まで自転車で来たのだった。
彩都駅は急行停車駅でもあり、えりの家がある支線駅周辺とは違って賑わっていてずっと都会感がある。大型ショッピングセンターや、テナントビル、ファストフード店、飲み屋街もあり、カラオケボックス、24時間営業のインターネットカフェもある。当然、学校からは、インターネットカフェに出入りしてはいけないと指導されている。が、その24時間営業のインターネットカフェから、出てきた男の子を見つけて、えりはびっくりした。
同じクラスの黒川和樹君だった。
『触っちゃだめだよ。怒られる。』
自分が、その絵に手を伸ばして触ろうとしている事に、その指摘で初めて気が付いた。驚いて振り返ると、同じ年齢ぐらいの男の子が立っていた。
『ごめんなさい。』
『随分、長い間、その絵を見ていたけど、好きなの?』
そう、何だか、この絵に吸い込まれていきそうだった。
近所の幼いころからの友達、葵ちゃんが市内の美術展覧会に、彩都市立第3小学校4年生代表として出展しているので、見に来ていた。会場の市役所別館2階の市民交流フォールは、日曜日とあって、子供連れの親子、おじいちゃん、おばぁちゃんなどなど、結構な人で混雑していた。
この展覧会は、彩都市内の公立私立の幼稚園から中学校までのすべての学校から、各学年で1人推薦されて展示され、入賞、優秀賞や市長賞などを決める。もう優秀な作品の前には賞の札がつけられてあった。
1か月程前にえり達は、この美術展覧会用の絵を学校で描かされていた。えりは絵が苦手で、描く前から代表なんて無理だと、適当に描いて終わらせていたけど、昔からお絵かきが上手な葵ちゃんは、とても時間をかけて描いていて、そして代表に選ばれた。
葵ちゃんのお母さんとお父さんが、えりちゃんも一緒に見に行く?と誘ってくれたので、葵ちゃん家の車に乗って見に来ていた。葵ちゃんの絵は、佳作の札がかけられていて、家族でものすごく盛り上がって、絵の前で家族写真を撮ったりしていた。
そのうち、葵ちゃんのおじいちゃんおばぁちゃんも会場に来て、さらに盛り上がるので、えりは、何だか邪魔者だなと思って、葵ちゃんの家族とは離れて、他の人の絵を一人で見て回っていた。自画像や風景画、草花や、学校の校舎、様々に個性のある絵。えりには、とてもこんなダイナミックに迫力のある絵は描けない。流石、学校代表として出展しているだけあって、みんな上手だった。
(葵ちゃんはいいなぁ、特技があって・・・)
おとなしいけれど、皆に優しくて、癒し系の葵ちゃんは、クラスの人気者と言うわけじゃないけど、嫌いだとか、葵ちゃんの悪口を言う子に出会った事がない。えりはというと、何もかもが中途半端だ。ものすごく頭がいいわけじゃないし、慎にぃみたいに、何か一つのスポーツにのめり込んでいるわけじゃない、顔も特別かわいいわけじゃないし、クラスですごく人気があるわけでもない。絵も下手。こういう展覧会に同じ年の子が出展されているのをみると、あぁ、あたしも絵の才能、うぅん、絵じゃなくても、何か一つ秀でた才能が欲しかったなぁとか思う。
常翔学園の絵が飾られている場所に来た。常翔学園は慎にぃが今度、サッカー推薦で受験する予定の学校である。家から南へ、バスで15分ほどの距離にある私立の学校。丘を切り開いた広大な土地に、中等部と高等部が併設されていて、私立ならではの豪華な施設で、お金持ち学校と言われている。中学受験でそこに入れば、常翔大学までエスカレーター式に行けると、親が子供に必死で受験させたりするが、そうそう簡単には入れない。制服が可愛いから憧れはあるけれど、ただそれだけの憧れで受験勉強をする勇気というか、気合いがえりにはない。慎にぃが受かったら、兄妹特典というのが無いかなぁなんて思っているぐらい。ちょっとだけ気になる常翔学園の展示ブースを、小学部の1年生から順番に見ていく。それらの絵は公立も私立も関係なく、同じようなモチーフの絵、自画像、景色で特に違いはなかったが、その中で一つ、異彩を放っている絵に、えりは足を止めた。その絵は抽象的で、草原?海?わからないけど、暖かな光が放つ水辺のような・・・・光輝く空のようでもあり、ボキャブラリーに乏しいえりにはそれ以上の、その絵にピッタリと合う言葉を見つけられない。
とにかく、他の生徒の作品とは、全く違った雰囲気があった。
名前を見れば自分と同じ4年生、の子がこんなきれいな絵を描くのだと驚いた。どれぐらい、そこで佇んでいたかわからない。その絵の中に入っていけば、きっと、そこは優しい世界が広がっていて、心地よいのだろうなぁなんてうっとりとしていた時だった。
『触っちゃだめだよ。怒られる。』
自分が、その絵に手を伸ばして触ろうとしている事に、その指摘で初めて気が付いた。
驚いて振り返ると、同じ年齢ぐらいの男の子が立っていた。
黒い髪の短髪で、一重だけど切れ長の黒目の印象が強い男の子。
『ごめんなさい。』
『随分長い間、その絵を見ていたけど、好きなの?』
ずっと見られていたことに気が付かなかった、そのことが恥ずかしい。
『う、うん。同じ4年生の子が、こんなに、すごい絵を描くんだと思って。』えりは素直に感想を述べた。
『凄い?そんな事を言ったの、君が始めてだよ。』男の子は鼻で笑った。
なんだが感じが悪い。
『手抜きだとか、子供らしくないとか、不評だよ。それ。』
『そんな!手抜きだなんて!』えりは自分が気に入った物を貶された事に腹が立った。
『あたし、絵は詳しくないけど、これは凄いと思う。あたしは絵が下手だから、あたしには書けなくて、ここに出展している誰も、こんな絵を描いてないからすごいって思う。』
確かに、遠くから見たら数色の絵の具しか使っていないように見える。でも近くで見たら、たくさんの色が細かく使われていて、手なんか抜いてないのはわかる。絵の事はよくわからないけど、自分ではこんな色を出せないし、こんなに繊細には描けないから、わかる。
感じの悪い男の子から、その絵を守るような気持ちで、えりは必至に反論した。
『あははは。ありがとう。』突然男の子が笑う。
『えっ?』
『それ、僕の絵なんだ。』
常翔学園の小学部の4年生だという黒川和樹くん。絵を描く事が好きで、幼稚園の頃から何度もこの展覧会に出展されて、去年は最優秀賞を貰ったという。賞を貰った去年の作品は、大きな木を下からのアングルでダイナミックに描いた、今日の展覧会の案内ポスターやチラシに載っているのが、自分の作品だという。
『えー、あのポスターの木の絵、黒川君の絵なの?』
『そう、去年は見た通りで描いて、最優秀だったから、今回は見た景色じゃなくて、気持ちを優先して描いてみたんだ。そしたら、手抜きだとか、子供らしくないとか言われて。前年の優秀入賞者は次年度の作品展に自動的に出展されることになっているから、展示されたけど、先生たちには不評でさ、自動枠じゃなかったら、この作品はここに展示されていないと思うよ。』
『えーあたしは好き!あのポスターの絵なんかよりも!』
『・・・。』
『あっ、ごめん、あの絵も黒川君のだった。』
『あははは、いいよ。僕もあの木よりも、こっちの方が好きなんだ。』
それがきっかけで二人は、帰るまでお互いの学校の話とか、家族構成とか、えりの家はフランス料理店であるとか、沢山の話しをして、今日、初めて会った子なのに、お互い帰る頃にはすっかり意気投合していた。電話番号を交換したけれど、お互いにかけることはなくて。1年後の5年生の展覧会に、えりは、再会を期待して観覧に行った。黒川君は小学5年の代表として出展していて、佳作の札がかけられてあった。その絵は、去年の抽象画とは違う、年齢相応の絵だった。黒川君はえりと会えるのを楽しみにしていて、先生受けのする絵を描いたと笑った。そしてえり達は、展覧会の会期二日共に会場に来て、また沢山の話をした。そこで、えりは常翔学園の中等部試験を受ける事を決め、合格に向けて勉強することを黒川君に宣言した。
『中学で一緒に過ごせることを、楽しみにしているよ。』
と黒川君は言ってくれて、また1年後の6年生のこの場で会おうと約束した。
だけど・・・
黒川君は6年生では出展していなくて、ずっと待っていても黒川君は姿を現さなかった。
黒いフード付きパーカーにジーパン姿、黒縁のめがねの黒川君。普段めがねなんてかけていないけど、あれは間違いなく黒川君だと、見間違える事のない自信がえりにはある。ジーパンのポケットに両手を入れて、少し前かがみ気味でインターネットカフェから出てきた。通りを線路に沿って少し歩いた先、居酒屋などが立ち並ぶ細い路地へと入って行った。
えりは、交差点の信号が青になるのをイライラして待った。青になると同時に、黒川君が曲がっていた雑居ビルの横の細い道へと追いかけた。
常翔学園に入学する為、ニコちゃんに家庭教師までしてもらって、約2年の受験勉強を耐えられたのは、常翔のかわいい制服を着たかった事も理由だけど、黒川君ともっと話がしたい、黒川君の描く絵をもう一度見たいと思ったから。
入学して、クラス分けの表を見た時、黒川君と同じクラスになった自分の運の良さにガッツポーズをし、神様に感謝した。
『なんて言って声掛けよう、えりから声をかけなくても、黒川君から声をかけてくれるかな?』なんて思いながら、急いで教室に向かった。見渡した教室で、すぐに黒川君は見つけられた。2年ぶり、制服姿も初めて見るのに間違う事はない自信、教室の真ん中で座っている黒川君は、肩肘に頬をついたまま目をつぶって寝ていた。
胸高鳴るのを抑えながらえりが近づくと、気配を感じたのか目を開けて、黒川君は上目遣いでえりを見る。
「黒川君、あたし・・・」えりはその先の言葉を失った。
黒川君がえりを見る目は、あの綺麗な絵の前で、ありがとうと言った時の黒川君とは全く別の、睨むような目。
そして、黒川君はえりを無視して、片肘に頬を乗せ直して目をつぶった。
『黒川君、あたし、頑張ったんだよ。合格したんだよ。これからは毎日、話ができるね。』
そんな、えりが想像した再会のシーンを拒否された。えりはショックで、その場で唾を飲み込んで息をするのが精いっぱいだった。
とても中学生が通るような道ではない。居酒屋のビールケースなどが道の脇に積まれ、電気の看板は倒れた時に割れたであろう破損したプラスチックは、セロハンテープで貼って修理されていた。唇のイラストのピンクの看板、ウィンクする女の人の絵の看板。えりは気分が悪くなる。通りの先には、彩都線の駅高架下、薄暗いコンクリート壁のトンネルが口を開けている。その薄暗い闇に黒川君が吸い込まれていく直前で、えりは叫び呼び止めた。
この気持ち悪い場所も嫌だけど、その先の暗い高架下を、一人で通る勇気がえりにはなかったから。
何度か、黒川君に話しかけようとした。同じクラスだから、いくらでもチャンスはあった。だけど黒川君は、えりが近づくと睨み、近寄る事すらさせてもらえない。えりは何か自分が悪い事をしただろうかと悩んだ。2年前の会話を何度も思い出して、黒川君を怒らせるような事をえりは言っただろうかと反芻したけれど、気にかかる事など何もない。じゃぁ、常翔を受験して、合格したこと自体がダメだったのだろうかとも思い悩んだ。しかし、えりが受験すると勉強を頑張ると言った時、間違いなく黒川君は笑顔で頑張れと言ってくれていた。えり自身に覚えがないなら本人に聞くしかない。だけど近寄ることすらさせてもらえず、お手上げ状態だった。なら、少しでも情報を得ようと、えりは小学部から内部進学してきたクラスメイトに、黒川君の事を聞いてみた。その聞いた情報によると、黒川君は、小学部5年の三学期頃から学校を休みがちになった事。登校しても寝てる事が多くなって、先生もそれを叱る事がなく見て見ぬふり。クラスメートとの会話や、交流を全くしなくなり、急に感じが悪くなった。と聞く。そして夜に繁華街で見かけたとか、悪い連中とつるんでいるとかまで聞き入れ、あまり近づかない方がいいよと警告されもする。
こんな場所で黒川君を見つけたえりは、やっぱり噂は本当だったのか、と悲しい気持ちになった。
「黒川君!」
えりの声で立ち止まった黒川君は振り返ると驚いて、やっぱり睨みつけてきた。すぐに踵を返してトンネルの中に入って行こうとする。しかし、トンネルの向こうからはしゃいだ3人の男の人が出てきて、黒川君とぶつかってしまった。男の人たちは高校生ぐらいで、見るからに不良ぽい服を着ていた。
ぶつかった拍子に「ちっ!」と言った黒川君の態度に、真ん中の人が「あぁ?喧嘩、売ってんのか!」と黒川君の胸倉をつかみ上げた。
「放せよっ!」と黒川君が叫んだ瞬間、胸倉をつかんだ相手が、くるっと1回転して床に投げ倒された。
何が起きたのかわからない。不思議な事に胸倉を掴まれた黒川君ではなくて、相手が地面に仰向けに倒れている。倒された人の仲間二人もえりと同じに、きょとんとして動きが止まった。けれど、すぐに「何しやがる」と、一気に興奮状態になって、倒れた男も立ち上がり、3人で同時に黒川君に体当たりをしていく。
黒川君は、自分より体格の大きな人につかまれて、殴られて身体を折る。
えりは、どうしていいかわからず、声も出ずに動けない。
黒川君のめがねが落ちて、踏まれてレンズが割れる。その上に黒川君が倒されて手をついた。レンズの破片の上にある黒川君の右手に、その上から男が足で踏みつけた。えりは声にならない悲鳴を上げた。黒川君は左腕をねじりあげられ、苦痛に顔を歪ませる。
「やめてー!」
えりはやっと声が出る。と同時に、鞄につけてあった防犯ブザーの紐を引っ張った。周囲に不快な音が鳴り響く。男の人たちは、えりの方を一斉に向く。一人がえりへと向かって踏み出してきた。
背後から通行人が「何ごと?」と覗き込み、店からも人が出てくる。3人組の男の人らは舌打ちをして、黒川君から手を放し高架下の闇へと走り去った。
えりは、震える手でやっと、防犯ブザーのスイッチを元に戻し、起き上がる黒川君に駆け寄った。
「だっ大丈夫?黒川君!」
「痛っつぅ」と言って、ねじ上げられた左肩を右手で抑える黒川君。けれど、えりは右手の方が心配だった。肩を抑えた右手を無理やり外して手のひらを見る。心配した通り、黒川君の右の手のひらは、割れたレンズの破片で切れて血が出ていた。
「血が!病院に。」
「何すんだ、やめろっ」えりの手を振り払われてしまった。
「駄目だよ!」
「ほっとけよ!」怖い顔で睨まれ、プイっと視線を外して立ち去ろうとするのを、えりは先回りして進行を防いだ。
「駄目っ、ちゃんと手当てしないと、絵が描けなくなるっ!」
黒川君は、目を見開いて、えりの顔をじっと見ると突然、笑い出した。
「ぷっはははは、 変わらないな。その思い込み激しいの。」
「なっなに?」
黒川君はお腹を押さえて笑いつづける。そして・・・
「僕は、左ききだよ。」
「えっ?」
病院は行かないと言い張る黒川君の為に、近くのドラッグストアで、消毒液とガーゼ、包帯などを買って、公園のベンチで手当てをする。
「本当に、大丈夫?病院に行かなくても。」
「大丈夫。それより、さっきはありがとう、防犯ブザー鳴らしてくれて。」
「あ、うん、でも、もうちょっと早く鳴らしておけば怪我しなかったのに、あたし怖くて、動けなかった。」
「普通だよ、それが。これは僕の不注意が招いたことだから、遅い早いは関係ないよ。」
えりは黒川君が普通に話してくれている事に、心の中で喜ぶ。
消毒液を使うと浸みたのか、黒川君は顔をゆがませ歯を食いしばった。破片や黴菌が入っていたら怖いので、何度も病院に行こうよと言っているのに、黒川君は行かないと言いはる。
「他は?体は、大丈夫なの?」
「うん、それも大丈夫、急所は守っていたから。」
「何か、やってるの?最初の技、すごかった。こう、くるんと。」
「うんまぁ、柔道を・・・」
黒川君には、まだまだえりの知らない事がたくさんあった。黒川君の家は、おじいさんの代から警察官で、そのおじいさんに3歳の頃から柔道を叩き込まれたと、でも本当は体を動かす事より絵を描いている方が好きで、
「で、左利きで、さっきのめがねは伊達メガネ・・・。」
「うん。ぷっくくく・・・」と、黒川君は思い出して笑っている。
馬鹿にされたみたいで、えりはムッと来た。
「えーでも授業では右でノートを書いているじゃない。」
「小1の頃、文字を書くのは右に矯正させられてさ、どっちでも書けるのだけど、絵を描くときは左の方が、しっくり来るんだ。」
「へぇー。知らなかった。」
「そうだろうね、僕が絵を描くところ、見た事がないもんね。」
「うん。どうして、去年の展覧会に来なかったの?」
「・・・・・・」黒川君はえりの視線から外して俯いた。
「あたし、ずっと待っていたんだよ。」えりは言葉に責める気持ちを含めた。黒川君はしばらく黙ったまま。うつむいた顔を揚げずに言う。
「ごめん、ちょっと、やる事があって・・・今は、絵も描いていないんだ。」
えりが家に着いたのは7時を少し過ぎていた。お母さんもいなくて、冷蔵庫のお茶を飲んでいる時に慎にぃが帰って来た。
クラブで使ったジャージなどを洗濯機に投げ入れる慎にぃに、「お母さん知らない?」と聞くと、「病院」とぶっきらぼうな答えが返ってくる。お母さんは、夕方までお葬式の手伝いをして、すぐにニコちゃんの所へ行ったらしい。えりとはすれ違いになったようだ。
慎にぃは、昨日から不機嫌というか、落ちこみが激しい。洗濯物を出し終わると、すぐに2階の自室に行こうとするので、「ご飯は?」と聞いたら、食べてきたから要らないと言う。
「じゃなくて、えりの晩御飯なんだけど・・・」のつぶやきも虚しく、取り残されるえり。
昨日も、慎にぃは病院について行って、おかあさんは遅れながらもお通夜に顔を出して、えりは店の厨房に行き、お父さんが作った賄いを食べた。
冷蔵庫を開けても何にもない。いや食材はたんまりあるのだけど、えりは料理をしたことがない。いつも慎にぃが作ってくれて、普通においしいので、えりもお母さんもそれで事足りて、今まで作ろうと思ったことがない。
えりはテレビを見て時間をつぶす。お母さんが帰って来たのは、8時過ぎだった。
「ごめんね。遅くなっちゃった。」
「お母さん、ご飯は?」
「さつきと病院の食堂で軽く済ませてきた。慎一は?」
「帰って来てから、ずっと自分の部屋。」
「そう。あれ?もしかして、えり、ご飯、食べてないの?」
「うん。お腹へったぁ。」
結局、今日も店の厨房に行って、お父さんに賄料理を作ってもらう。賄料理はおいしいから、文句はないのだけど。なんだがなぁ。とえりは気持ちがすっきりしない。
新田家には、子供は店の出入りが禁止というルールがある。
お父さんをはじめ、雇いのシェフやフロアスタッフが忙しく働いている時に、仕事じゃない事をしてもらうのは気が引ける。まして今日は土曜日。店は混雑していて、お父さんもフロア従業員も動きが忙しない。えりは、厨房の片隅の調理台をテーブルにして、昨日と同じく立ったまま、作ってもらった賄料理に橋をつけた。お父さんがメイン料理にソースをかけながら、「ニコちゃんの様子はどうだ?」と聞いてくる。
「えりが行ったときは、ぼぉーとして話しかけても無反応。そのあと慎にぃと柴崎先輩達が、ニコちゃんの病室に入って行ったけど、ニコちゃんがあのままだったのかは知らない。慎にぃも家に帰ってきたら、すぐ部屋に引き込んじゃったし。」
「そうか、それはちょっと心配だな。いつまで入院だって?」
「んー、それも知らない。あの注射、きつい奴で、薬が抜けきるのに時間がかかるとは聞いたけど。」
「そうかぁ、うちで発作を起こさせてしまって、申し訳なかったなぁ。」
「さつきおばさん、気にしないでって言ってたよ。どこで何に反応するか、さつきおばさんもニコちゃん本人すらもわかんないだって。誰のせいでもないって。えりにも、ごめんねって、さつきおばさん、ずっと謝っていて。」
「あした、お父さんもお見舞いに行くかなぁ。」
みんなが、ニコちゃんの心配をする。当たり前なのだけど。
だけど・・・・
(なんだよ、ニコちゃんの病気って新田家とは関係なくない?)
ニコちゃんが苛められていたとか、 栄治おじさんが死んだのが、ニコちゃんの誕生日の翌日とか、
ショックで日本語が出なくなったとか、全部、東京での出来事じゃん。うちには全く関係ないし
みんなして、ニコちゃん、ニコちゃんって。あたしの事は無関心で。
(えりだって今日、怖い思いしたんだぞ!)
2
ロッカーで、黒川君に「おはよう」と声をかけられた。入学して初めての事。今まで何度も「おはよう」と声をかけても、ちらっと見るだけで何も言わずに立ち去られる、を繰り返していた。黒川君は、上靴に履き替えながら「ありがとな」とでも言うように、右手の包帯を上にあげて、合図を送ってくる。えりはもう心も体もスキップするぐらいに嬉しくなって、ずっと迷っていた事を実行する事に決めた。
黒川君は包帯が巻いてある右手は使わず、器用に左手でノートを取っていた。元々、左ききだと言っていたから、器用って言葉もおかしいのだろうけれど。便利だなと、真似して左手で文字を書いてみたら、力が入らず字には見えない象形文字になった。黒川君は絵の才能があって、柔道も初段取得の為に年齢待ちをしていると言っていた。こういう他人の才能を見聞きすると、えりは自分には何もないと落ち込む。
ホームルームが終わり、みんなが鞄に荷物を詰め込みクラブへ向かう。黒川君は美術部に所属しているけれど、入部してから数回しか行っていなくて、早速、幽霊部員になっていた。
えりは、教室を出て帰ろうとする黒川君を廊下で呼び止めた。
「そっちじゃないの!」
「はぁ?」
「行くの、美術室!」
強引に黒川君の腕をとり引っ張った。
「何だよ、放せよ。」と言う黒川君の顔を見ずに、顔を見れば絶対に怖い顔で睨んでいるに違いなかったから、美術室へと引っ張った。
「僕は帰って、やることがあるんだ。」
えりはそこで黒川君を振り返り、周りに聞こえないように顔を近づけて言ってやった。
「ネットカフェに行く事がやる事?」
黒川君は顔をしかめる。
「えりは、黒川君の絵を描くところ見た事がない、だから、あたしも入部するの、美術部に。」
えりの決意に驚いて、「テニス部はどうするんだ」とか、「僕は今、絵を描く暇がないんだ」とか、ごちゃごちゃ言ってくるから、「ネットカフェに出入りしている事、喧嘩して怪我した事、学校に言ってやるから。」と半ば脅して美術室へと押し込んだ。
美術室にはもう、数人の部員が絵を描く準備をしていたり、書き始めている人もいたり、入って来たえりと黒川君に一斉に注目されはしたけれど、誰も何も言わず、直ぐに自分の作業を始める。
美術部は、ほとんどが掛け持ち入部員。活動も、特に何かしなければならないという事もなくて、個人が自由に美術室を使い、作品を仕上げれば良い。一応、学園祭と、えりと黒川君の出会いのきっかけになった市民展に出展する事が、全員に課せられた年間課題で、あとは自由だという。
そんなだから、長らく、美術部に顔を出さなかった黒川君を誰も咎めはしないし、えりが「入部しまーす。」と挨拶しても、「そう、よろしく。」と先輩らしい人が答えただけで、どの人が部長だとか自己紹介もなく、お好きにどうぞという感じだった。
黒川君は、呆れたように大きなため息をついて、棚からスケッチブックを出してきた。
「入部しますって、道具は何も用意してないでしょう。」
「あ、うん。っていうか、何が居るの?」
黒川君はまた大きなため息をついて、スケッチブックから一枚紙を引きちぎった。そしてまた別の棚へと何かを取りに行く。えりは何をしていいかわからず、ただ黙って黒川君のすることを眺めて待つしかない。
黒川君は棚から大きな画板を持ってくると、一緒に持って来た幼稚園の時に使っていたようなお道具箱の中から大きな目玉クリップを取り出し、さっきの引きちぎったスケッチブックを画板に止めた。
「はい」とお道具箱の中から鉛筆をとってえりに渡してくれる。黒川君がスケッチブックを机のヘリにもたれさせて椅子に座った。えりもそれに倣って椅子に座る。
黒川君もお道具箱から鉛筆を一本取ると、変わった持ち方でスケッチブックに縦線をいっぱい書いていく。
「何してるの?」
「しばらく描いてなかったから、ウォーミングアップ、まっすぐ線を引く練習。」
(ほうほう・・・)えりはわかったようでわからずに、黒川君のすることをただ見る。上下に動く黒川君の腕のスピードが速い、スケッチブックは定規で引いたみたいに、まっすぐな線で埋め尽くされていく。えりも真似して渡された鉛筆で縦線を書いてみた。すると波打って黒川君みたいにまっすぐな線は描けない。
「マネしなくてもいいよ、これは僕が勝手にやっていることだから。」
「う、うん」
黒川君は縦線で埋め尽くされた上に、今度は横線を描いていく。その横線も定規を使ったみたいにまっすぐ。
えりは初めて知った。フリーハンドで、まっすぐの線を書く事がとても難しい事を。
スケッチブックが真っ黒に染まったところで黒川君は、鉛筆を置き、スケッチブックの次のページをめくった。
「意外にまっすぐ引けた。」
「どれぐらい描いてなかったの?」
「一年。」
「どうして?何かあったの?」
黒川君はえりの質問には何も答えず、鉛筆を持ち直し、スケッチブックに、今度は直線じゃなく普通に何かを描いていく。時々窓の方へと顔を向ける。スケッチブックに描かれた線が輪郭を現したところで、えりはやっと何を描いているのか分かった。窓際で、油絵を描いている先輩の姿。制服のスカートのヒダ、束ねた髪の毛、キャンパスの影が、鉛筆一本で描かれていく。白く何もなかった白い紙に「絵を描く人」が表れた。
「すごい!」
えりは思わず大きな声を出した。「絵を描く人」のモデルが怪訝に振り返る。
「しっ。」
「ごめん。すみません。」周囲に平謝りをして、縮こまった。
「新田さんも描かないと、全然、描いてないじゃん。」
「だって、何を描いていいか・・・。」
「好きに描いていいんだよ。」
と言われても、何を描いていいかえりにはわからない。学校の授業では、あれを描きましょう。これを描きましょうと指示があるから、その通りにやればいいだけ。こだわりもなく適当に終わらせていた。
そもそもえりは絵を描く事は好きじゃない。美術部に入部したのは、黒川君の絵を描く所が見たかったから。
(そうか、美術部に入部したって事は、自分で描かなきゃならないんだった・・しまったな。)
黒川君は、さらに「絵を描く人」を細部に至る所まで濃密に仕上げていく。
えりは仕方なく、黒川君のまねして、同じモデルを描く事にした。
「ぶっ!くくくくく。」
黒川君はえりの描いた絵を見るなり吹き出して、肩を震わせる。
「気持ち、わかるけどさぁ。涙まで流して笑わなくて、いいんじゃないかな。」こんなあたしでも傷つく。
「ごめん。くくくく」
黒川君は一度笑い出したら止まらない。この間も、結構長い時間、思い出し笑いをしていた。
「新田さん、入部しちゃって、今、後悔しているでしょう。」
「そんなこと・・・ないよ。」
やっと笑いが収まった黒川君にズバリ、当てられてしまう。
「デッサンするなら、鉛筆の持ち方が違う。」
そう言って、黒川君は左で持っていた鉛筆を右利きのあたしに合わせて鉛筆の持ち方を見せてくれる。
「で、用紙に目安の線を描くと書きやすいよ。」
「目安の線?」
黒川君は、立ち上がると、あたしの後ろに回り、あたしの右手を握って画用紙を縦、横に数本の直線を素早くさっと描く、
「で、鉛筆を寝かし気味で、一旦、画用紙に鉛筆を置いたら、離さず、一気に描く。」
幼稚園児でも、もう少し上手く描くだろうというあたしのデッサンは、黒川君の手が添えられただけで、それらしく変わっていく。
「何度も行ったり来たりして、必要な線を決めていく。余分な線は、ねり消しで消せばいいから。」
「ねり消し?」
振り向いたら、予想以上に近い横に黒川君の顔があって、ドキリとする。
「あっ、ごめん。」黒川君は慌てて手を離し、自分の席に戻った。
えりは遅れて気づく、手を握られていた事に。そして顔を赤らめた。
(どうしよう。黒川君の顔を見れない。)
それから黒川君は部活終了のチャイムが鳴るまで、無言で絵を描き続けた。
えりは横目で魔法のように完成していく黒川君の絵と手だけを眺めた。
「えり!美術部に入部したって?」
「げっ、柴崎先輩。」
「げっ、とは何よ!」
4時間目が終わって、クラスの友達と食堂に行こうと廊下を出たところで、仁王立ちする柴崎先輩に呼び止められた。横には昨日の昼には退院して今日から登校しているニコちゃんと、後ろに藤木さんと慎にぃまでいる。
「いえ、あの~どうして知っているんですか?」
昨日、入部したばかりで、まだ24時間も経っていない。クラスの友達にも、ましてテニス部の同級生にも、誰にも言ってないし、まだ入部届も先生に提出してない、そんな状況を、柴崎先輩はどこで聞きつけてきたのか?
「私の諜報力を侮ってはいけない。」と手を腰に胸をはる柴崎先輩。
「お前の諜報力じゃないだろう。」
「うっさい!」と慎にぃの指摘に柴崎先輩は逆切れ。
おとといまで落ち込んで暗い顔していた慎にぃは、ニコちゃんが復活した途端に機嫌がいいなんて、現金な奴と鼻白んだが、クラスの友達たちに、先に行くからと置いてきぼりにされ、通りすがっていく一年生たちにもジロジロと注目を浴び、コソコソと耳打ちされて焦るえり。
一年の教室棟に上級生が来ること自体、「何をしたのか?」と騒がれるのは致し方ないことだけど、今えりを捕まえている上級生は、あまりにも特異過ぎる。学園最強のお嬢様と言われる柴崎先輩を筆頭に、学園初の女性特待生であるニコちゃんに加え、学園の広告塔サッカー部の部長と副部長と言う肩書の4人は、一年の中でも話題になっている4人だったからである。
「寮に美術部のやつがいるからね。えりりんが入部してきたって聞いたんだよ。」と藤木さん。
藤木さんの情報網なら、泣く泣く納得。
「ところで、えり、」急に柴崎先輩は、あたしの肩に腕をかけて頬を寄せてくる。
「その美術室で、男と仲良くしていたそうね。」
「なっ!」昨日の手を握られた事を思い出して、顔が赤くなる。「ちがっ!黒川くんはっ」
「ほぉー黒川君っていうのかぁ。テニス部をほったらかして、一緒に居たと言うのは。」
ニヤついて、わざと大きな声で言う柴崎先輩。
「わわわわ。」
「えりちゃん、困ってる。」無表情に制するニコちゃん。こういう時のニコちゃんの無表情は助かる。
「何、言ってるの、皆だって、どんな子か気になって見に来たくせに。」
「まぁ、そうだけどぉ。柴崎の言い方は、意地が悪いんだよ。」と、苦笑気味の藤木さん。
食堂の混雑を回避する為に、時間をずらす生徒もいて、まだ教室には数名が残っている。黒川君がまだ教室に残っているかどうかはわらないけれど、このまま、柴崎先輩の襲撃を許すわけに行かない。えりは必至で柴崎先輩の腕を引っ張り止めようとしたけれど、柴崎先輩はえりの手からするりと抜けて、開けっ放しになっている一年五組の教室へと容赦なく入って行く。も、出てこようとする男子とぶつかりそうになった。
「黒川君ってどの子かしら。」
(最悪だ・・・)とえりは頭を抱える。
「は、はい、僕ですが・・・」柴崎先輩の迫力にたじろぐ黒川君。
「あ、あなたが黒川・・・くん?」柴崎先輩は黒川君を上から下へと一通り眺めて、
「うちの、えりがお世話になっております。」とあいさつ。
(あんたは、お母さんか!)
「ふーん、それで?」
「それでって、それだけです。」
えりと黒川君は柴崎先輩のパワーに押されて、給食を一緒に食べる事になった。
食堂は学年によって座る場所が決まっているので、トレーを外に持ち出し、図書館に向かう小径のガーデンウッドデッキで食べる。6人掛けのテーブルにえりの左が黒川君、右が藤木さん。えりの前がニコちゃんでニコちゃんのとなりで藤木さんの前に慎にぃ、そして怖い事に、柴崎先輩は黒川君の真ん前に座った。じっくり見ようという見え見えの魂胆が恐ろしい。
「それだけねぇ~。」嫌らしくニヤつく柴崎先輩。
えりは、黒川君との出会った時の展覧会の話、それから絵を描く姿を見たことがないから見てみたくて美術部に入った事を話した。もちろん昨日のネットカフェの事や喧嘩の事は言ってない。黒川君は、目の前の柴崎先輩よりも、ニコちゃんの方をちらちらと見て、気になるようだった。
誰もが同じ反応をする。ニコちゃんの綺麗さに誰もが目を外せない。女のえりでさえも、時々ニコちゃんの顔にほれぼれする時がある。
しかぁーし、えりは気に入らない!
「黒川君は、掛け持ち?」と、藤木さんが聞く。
「いいえ、美術部だけです。」
「へぇ~珍しいね。しばらく部に来ていなくて、昨日は久しぶりだったって寮のやつに聞いたから、掛け持ちだとてっきり思った。」
黒川君はそれ以上の事は話さず、やっぱりまた、ニコちゃんの方を見る。こんな先輩に囲まれていたら緊張するのは当たり前。えりは柴崎先輩以外は、ほとんど身内って言っていいほどの関係だから、何も緊張しないけれど、黒川君にとっては全員が今日初めて会った先輩。
「昨日は、えりが、無理やり連れて行ったんです。」
「ふーん。」
「じゃ、美術部に行ってなかった時は、何してたの?」柴崎先輩が、さっきのニヤついた顔ではない顔で聞く。
黒川君は少したじろいで、
「・・・・・家に居ましたけど。」
「ふーん、その手はどうしたの?」
皆が、黒川君の手に注目する。えりは急に怖くなってきた。もしかして、土曜の喧嘩の事、バレているのだろうかと、それで何か探りを入れられているのだろうか?と。これはまるで取り調べみたいだ。
「転んで・・・・手をついたところにガラスの破片があって・・」
「やだっ!痛そう!大丈夫なの?そんな手だと、鉛筆も持てないんじゃない?」
「・・・左きき、ですから」黒川君は遠慮気味に答える。
数日前に展開された同じオチ。
「テニス部に行かなくていいの?」
「いいの、いいの、雨降って来たから、どうせ筋トレだけだし。」
今日もホームルームが終わった後、帰ろうとする黒川君を引っぱって美術室に来た。抵抗しない所をみたら、やっぱり絵を描くことは嫌にはなっていないんだとほっとする。
今日はスケッチブックじゃなくて、大きな画用紙、黒川君曰くケント紙と言うらしい、を画板に、これもカルトンと言うらしい、昨日と同じに目玉クリップで画用紙を止めた物を、えりの分まで用意してくれた。
美術室に来れば素直に描き始めるのに、毎回、帰ってやることがあるって一体、何だろうとえりは首をかしげる。
「新田さんのお兄さん達、凄いね。なんか雰囲気があるっていうか・・・」
「そう?」
「全員、同じクラスなんだっけ?」
「うん。」
3年になって、慎にぃ達は4人共、同じクラスになった。いつ発作が起きるかわからないニコちゃんの為に、柴崎先輩がクラス替えを裏で操作したとかなんとか。何故そこまでしてニコちゃんばっかり、みんなが贔屓するのか?えりはわからなかったけれど、この間の発作を見て少し納得したというか・・・・でも何だか、釈然としない。
「真辺さんとお兄さんって付き合っているの?」
「さぁー?」
これは、黒川君以外でも最近頻繁に聞かれる質問である。
慎にぃが、ニコちゃんの事を大事に思っているのは確かだけど、ニコちゃんの気持ちは全くわからない。慎にぃがニコちゃんの心配をして、あれこれ世話を焼くのをニコちゃんは不機嫌になる。そんな状況を見ると、嫌なら家に来なければいいのにとえりは思う。お母さんが半ば強制的に来るよう約束しているから仕方ないとは言え、でも、本気で嫌なら、普通、同級生の男の家に入り浸らないよなぁ。とか考えると、やっぱりニコちゃんも慎にぃの事が好きで・・・とか思ったもして。
「ニコちゃんと慎にいは、付き合うとか宣言しなくても、昔からずっと一緒だから。 」
「ニコちゃん?」
「あぁ、あたしたち子供頃からのあだ名。昔はすっごいニコニコして明るかったんだ。だからニコニコのニコでニコちゃん、慎にぃがつけてさ。」
「へぇー」
「想像つかないでしょう。」
「うん、まぁ。 」
「気になる?ニコちゃんの事。」
「えっ、いや、その。気になるというか、綺麗だなぁって、あれで特待生ときたら、無敵だなと思って。」
黒川君の動揺にえりは、ムッと来る。
「無敵ねぇ~。まぁ、ある意味そうかもしれない。」えりは棘のある言い方をした。黒川君が怪訝な顔を向けてくる。
頭が良くて美人で、か弱いと来たら世の男はほっとかない。あたしとニコちゃんが同時に倒れていたら、おそらく誰もがニコちゃんの方を先に助けるはず。心身が弱くても最強の防具を持っていれば無敵なんだ。
えりは、ニコちゃんの事を考えると、どうしようもなく脱力感に襲われる。負け犬の遠吠え。最近ではニコちゃんが夕飯を食べに来るのも正直、嫌だなとまで思ってしまっていた。
「あぁぁぁぁ~」
「なっ、なに?」
えりは、負け犬の遠吠えを発しながら美術室のテーブルにのびをして伏せる。その拍子に置いてあった自分の鞄を落としてひっくり返してしまった。鞄の口が開いたままだったから、教科書やら、ノートが床にばらまかれて、おまけに筆箱まで開いたままだったらしくシャーペンやら消しゴムまでもが、あちこちに飛び散る。
「新田さん・・・・美術、本気でやる気ある?」黒川君に呆れられた。
「す、すいません。」
結構、派手な音をさせてしまい、他の部員に謝りながら、えりは散らばった床の私物を拾い集める。
「新田さん、それ何?」
見上げると黒川君が、えりの右手を指していた。慎にいの机から取って来たキーホルダー。
「これ?慎にぃの机の引き出しにあったから取って来たんだ。綺麗でしょう。」
「お兄さんの?勝手に取ってきて怒られない?」
「大丈夫、無くなったことすら気づいてないし、ぐっちゃぐちゃの机の中から出てきたもん、この存在すら忘れてんじゃない?」
「へぇーきれいだね。見せて。」
えりは、黒川君の手に逆雫型の網装飾キーホルダーをのせた。
新田さんから受け取ったキーホルダーは、アンティーク調の銀の綺麗な網装飾が施されている逆雫型のキーホルダーだった。少し膨らんだ網装飾の空間に何か入っている。蛍光灯の電気にかざすと、虹色の玉が中で淡く彩光していた。
無性に、これをモチーフに何か描きたくなった。
「新田さん、これ、使ってる?」ホルダーの輪には何もついていない。
「え?別に使ってないよ。キーホルダーとして、今一つ使い勝手悪いから、盗って来たものの、どうしようかなって思っていたの。」
「少しの間、借りていてもいいかな?」
「いいけど。」新田さんは不思議そうに首をかしげる。「あのさ、えりでいいよ。みんなそう呼ぶし、新田さんって呼ばれるの、慣れてないんだ。」
何するの?って聞かれると思っていたら、予想外の言葉に和樹は苦笑する
「わかった。」
3
噂には聞いていたけれど、間近で見たらもっと綺麗だった。色が透き通るように白くて、顔のパーツが左右対称の完璧な配置。その無表情が顔全体を引き締めていて。あれで学園初の女性特待生、頭が良いと来たら無敵。と和樹は感服した。
まるで美術彫刻のよう。和樹は、学園で名高く、一度はその姿をわざわざ見に行く男子がいるほど注目される真辺さんと、給食を食べる機会に恵まれた。無言で食べるその時も、美しさは崩れない。和樹は気になって、何度も見てしまった。
真辺さんは帰国子女で英語はペラペラ、フランス語も話せるらしい。和樹は、どこに居ても視線を吸い寄せられるように引き寄せる存在という人に、初めて出会った。こういう人がアイドルや女優となって成功するんだろうとも思った。
そして、その真辺さんの親友、柴崎先輩は、この常翔学園の経営者、柴崎理事長の娘さんで、ここでは最強のお嬢様。
えりのお兄さん、新田さんは、真辺さんと幼馴染で、付き合っているとかいないとか、どっちの噂もあって、サッカー部の部長で将来プロ間違いなしと言われ、ファンクラブがあるほどの人気者。副部長の藤木さんは寮生で、学園の事やその他の知識が豊富で「博識の藤木」との異名があり、顔が広く、更に告白したら絶対に断らない女好きと言う噂もある。
そんな4人に取り囲まれての給食。だけどその内容は和樹を問い詰めるような、尋問めいていた。
和樹は、こんな状況になる事を全く予想はしていなかったけれど、藤木さんのネットワークなら自分に対して何かしらの噂や情報を耳にしていてもおかしくはないだろうとは思った。
やめっ!の号令で、和樹は相手の胴着から手を離し、頭を下げて後ろに下がる。
本当は柔道なんてしたくない。家で絵を描いていた方が和樹は好きだった。でも、それは許されない。おじいちゃんが、ここの指導者だから。おじいちゃんは警察を引退後、この警察内の道場で柔道を教えている。青少年の育成として、子供から青年までと、そして本当の警察官にも柔道指導を行っている。和樹は3才の頃から、おじいちゃんに連れられてここに通っている。幾度と嫌がる和樹に、稽古に行けばアイスを買ってあげると、食べ物や物で釣られて仕方なく続けてきた。そして柔道を辞められない理由は、もう一つある。お父さんも警察官だから。
おじいちゃんは警視正まで上り詰めた。誰もがおじてちゃんの警察官としての能力を認め、おじいちゃんより上の階級の人がおじいちゃんに頭を下げるぐらいなのに、学歴社会の警察組織では、ノンキャリアの者を、警視正より上の階級には行かせない。そんなおじいちゃんは、我が子を大学まで行かせ、キャリア組のエリートコースを歩ませた。和樹のお父さんは、おじいちゃんの期待に応えるべく、今では、おじいちゃんの階級を超えて、警視監にまでなっている。
そして和樹には、年の離れた12才上の兄がいる。留守がちの父の代わりのように、和樹を幼いころから可愛がってくれた大好きな優しい兄さん。その兄も今は警察官、大学を卒業してお父さんの後を追うように、キャリアを積み始めた。そう、和樹の家は警察官一家だった。
柔道の稽古を終え、あと30分ほど、おじいちゃんが、上級生の生徒に教えているのを正座して待つ。
和樹は警察官になりたくない。他になりたいものがあるのかと聞かれたら、まだないけれど、警察官だけは嫌だった。柔道だってしたくない。和樹は何度かおじいちゃんと交渉して、5段まで行ったら辞めてもいいと言う約束を取り付けていた。
柔道の黒帯になるには年齢制限がある。和樹は十分に初段を取れる実力はあったけれど、年齢制限のおかげで、昇段試験を受けることが出来ない。昇段試験を受ける年齢まであと2年の我慢だった。
突然、警察の制服を着た二人が道場の扉を開けた。入り口で靴を脱ぐのに手間取って躓いている。ここは、警察署内施設、警察官がウロウロしていてもおかしくない。だけど、制服姿の警察官が道場に入ってくるのは稀で、しかも道場に上がるときに場内に挨拶もせずにズカズカと入ってきた慌てぶりに、和樹は目を丸くして驚いた。和樹だけじゃなく、道場内の誰もが、稽古をやめて、おじいちゃんに駆け寄った緊迫した状況に注目する。二人の制服警官は、おじいちゃんに短い敬礼をした後、顔を寄せて何か早口で話し始めた。和樹の所までは、何の話しをしているのかは聞こえなかったけれど、次第におじいちゃんの顔がこわばり、目を見張っていく。そして、
『広樹が・・・・』
そうおじいちゃんが呟いた。それだけは、はっきり聞こえた。
おじいちゃんの稽古は、そこで終わりになった。おじいちゃんは強張った表情のまま和樹を呼び、あとまだ30分の稽古があるというのに、道場を出されてしまう。そして、柔道着のまま車に乗り込んだ。家には戻らず連れられたのは、警察病院の地下、遺体安置室。
蛍光灯の光が冷たい光を放っている地下は、春だと言うのに寒かった。鉄の扉の前に、さっき道場に来た二人とは違う制服警官が立っていて、おじいちゃんの姿に姿勢よく敬礼をする。廊下も扉も白いはずなのに、どうしてこんなに暗く見えるのだろうと和樹は思った。二人の制服警官が鉄の扉を開けてくれる。中から、女の人の鳴き叫ぶ声が聞こえてきた。おじいちゃんの後ろについて入る。中には、白衣を着た人と、ストレッチャーに横たわる人、そのストレッチャーにうつ伏して泣いているのは、お母さんだった。
今日は美術部に行かずに、放課後、学校のパソコンルームに来ていた。えりは柴崎先輩にテニス部を優先しなさいと釘を刺されているらしく、入部した月曜日と翌日の火曜日の二日、美術室に来た以降は来れないでいる。だから和樹は気兼ねなく美術部をサボる事が出来た。
学園のパソコンルームは最終下校時まで開いていて、使う前にidカードをカードリーダーに差し込めば、自由に使えるようになっている。30台ほど並んでいるパソコンルームは今、二年生の先輩が3人ほど、宿題のレポートぽい物をやっていて、がら空き。和樹は一番後ろの、他人から画面が見えにくい位置の場所にあるパソコンを選び、座ってidカードを差し込んだ。パソコンの画面が青く光り、馴染みのマークが表示される。これで、和樹がこの時間にこのパソコンを使った経歴が学園の情報端末に残るのだけれど、和樹はその情報を後で消すつもりだった。和樹はその消す方法を知っている。
画面が学園の校章がデザインされたスタート画面になるのを待って、ポケットからUSBメモリを取り出し差し込む。いつものごとくヒューンという音がして、メモリ内のプログラムが自動起動する。学園のマークが消えて、プログラム画面に切り替わる。マウスは邪魔なので外した。怪我した右手はもう包帯ではなくなったけど、絆創膏をしているから、ちょっと打ちにくい。でも今日は、そんなに難しい事をするわけじゃないので、特に問題はなかった。
(さて、始めよう。)
和樹は、いわゆるハッカー。兄さんが死んだ理由を調べたくて、小学6年の春から独学でやり始めて、ハッキングが出来るまでになった。ハッカーとしての最終目的は、警視庁管内にある事件データーベースのハッキング。その目的を達するには和樹が持っている家のパソコンの性能では、難しかった。
ここまでインターネットが世間で広がると、あらゆる情報は、すべてがどこかと繋がっている。例えば、この学園の生徒名簿、個人情報の塊ゆえに、何重にもセキュリティをかけられているが、それだけが、単独で保管されていているわけじゃない。保管されているパソコンがインターネット接続可能な状態のパソコンであれば、ハッカーは外部から侵入し、セキュリティをこじ開ける事など簡単。コンビニのレジ、防犯カメラ、ETC、飛行場の渡航履歴、あらゆる物がなんらかな形で、インターネットの世界に繋がっている。インターネット世界は仮想空間上のもう一つの地球とも言える。和樹はその仮想世界に侵入し泳ぎ、必要なものを拾い集めることが出来る。
今、和樹の使っているパソコンの画面は、英語と数字の羅列されているプログラミング画面を表示している。その文字の羅列が和樹の頭の中で映像に変換される。それは絵を描く事と同じ感覚だった。思い描いた頭の中の映像を白いキャンバスに絵の具を置いて具体化していくのと同じ、描く場所が、頭の中の空想世界か、現実の白い画用紙かの違いだけだった。
和樹はここから事務室の全生徒の名簿を管理しているパソコンを遠隔操作して、依頼人から指定されたアドレスに、データーを送った。前金は既に貰ってある。送った事を報告し、相手が確認をして残りのお金が和樹の銀行口座に振り込まれるのを待つ。待つ間の暇つぶしで、ちょっとした好奇心を出した。侵入した学園のパソコン内を和樹は泳ぎ、情報を求める。真辺さんの事が知りたかった。学園内に保存されている真辺さんのデジタル情報を引っ張り出してきて閲覧する。
幼少の頃に住んでいた場所、海外に移住した先の住所、その住所を辿ってインターネット上の地球をひと飛び、ロシアの国境近く、キルギスというまだ雪残る田舎町の青い屋根の一軒家、の写真の前に和樹はいる。煙突がある絵に描いたような北欧の家、そこから、学校へと和樹は空を飛ぶように進む。校舎の規模にしては運動場が狭い。それに反して大きな体育館らしきもの、雪国だから室内設備が整っているのだろうと和樹は考える。こんな素敵な町に真辺さんは4年間を過ごしていたのかと、真辺さんの美しさはこの町が作り上げたのだと和樹は、変な理論を展開する。そして、次にフランスに住んでいた町へと和樹は飛ぶ。一瞬で変わる世界、フィンランドのキルギスの田舎町と違って、今度はフランスの都市部、所狭しに古いビルが立ち並ぶ、真辺さんが通ったという日本人学校は商業ビルが立ち並ぶ一角にあった。もちろん運動場なんてない。日本に舞い戻り、東京のといっても埼玉県に近い場所にあるマンションの屋上に、和樹は降り立った。
インターネット内では、世界旅行はし放題だ。ただ、それは視覚だけの楽しさだけだが。
和樹は次に「真辺りの」と指名して検索した。真辺りの、常翔学園特待生、真辺りの、和樹が当然に知っている情報が上がってくるのを和樹は利き腕の左手を一振りして排除する。母、真辺さつき、神奈川医科大学付属病院救急看護師、離婚歴あり、父、芹沢栄治、2008年11月6日 死亡 自殺。和樹は拾った情報の内容に驚いた。「芹沢りの」と「真辺りの」イコールで結び検索すると、東京の病院の精神科の通院記録が出てくる。失語症の病名。驚いた。通院記録には処方された薬の一覧も添付されていて、その薬の多さにびっくりする。あの真辺さんが失語症・・・信じられない。同時に拾った真辺姓の最近の通院記録も見る。こっちは和樹の家の近所にある関東医科大学付属病院の物、そこには、つい最近緊急搬送されて入院した経歴が書かれてある。更に、去年の文化祭、学園からも救急搬送されている事も判明。和樹は首をかしげる。昨年、和樹はまだ小学部だった、常翔学園の小学部(幼稚部も併設)は横浜市にあり、ここから離れている。だから中等部で起きた事を小学生の和樹が知らないのは当然と言えば当然だが、それでも同じ学園内の事、誰かが救急搬送されたとあれば、大きな話題なり、メールのやり取りなどしないはずがない。和樹は、ここ一年はずっとインターネット世界に入り浸っていて、常翔学園の裏でやり取りしている保護者のネットワークなどものぞき見にしていた。和樹の知らない話題がまだあったなんて、若干悔しい思いで詳細を知ろうと調べに翻弄した。
好奇心のままに「真辺りの」検索で得た物は、柴崎先輩や藤木先輩も含めた、あまりにも衝撃的なストーリーとなって和樹の脳に展開される。思いもよらぬ「真辺りの」を取り巻く過去に不謹慎ながらも和樹は夢中になった。
「だからかぁ、あの雰囲気は。」
和樹は大きなため息をつく。いろんな危機を乗り越えてきた経験が、あの4人の独特の雰囲気を作り出していた。無敵だと思っていた真辺さんの弱さ、彼女を守るべく集まった仲間があの3人。まさか、こんなにすごい情報が入るとは思わなかった。
興奮冷めやらぬ和樹の前に、ピンと高音の音と共に、銀行からのお知らせが立ち上がる。依頼主からの振込が完了した。
入金額20万円、高性能のパソコンを手に入れる為には、まだまだ足りない。正直な所、チマチマと稼がなくても、親の銀行口座の暗証番号をハッキングすれば、簡単にお金を手に入れられる。他人の口座から盗み出すより一番、安全で最速の近道だ。だけど、それだけは和樹にはできなかった。ハッキングという犯罪をしている和樹の最低限の良心、それが母に対するやさしさだった。それに、もし家の口座からごっそりお金が引き出されているとバレたら、和樹の計画が台無しになる。
警視庁のデーターベースをハッキングするには、もっとハッカーとしての腕を磨かなければならないし、これは習練でもあった。
さて、長居は禁物。いくら使用履歴を消せるとは言え、ここに和樹が居たというのは、あの上級生達が見ているのは間違いなのだから。和樹は、インターネット仮想空間から現実に戻ろうとした、その時、自分の足元がきらり光ったように思えた。 「何だろう」と、注視して見ると、それは蜘蛛の糸以上に細く、和樹が今取り出してきた常翔学園の生徒名簿へとつながっている。本当にごくごく微かな軌跡、和樹が盗み出した時には気が付けなかった。気づけたのが奇跡なほどの細く長い筋はまっすぐ、北西へと延びている。
和樹はもう一度、学園名簿を呼び出し、注意深くその軌跡が消えないように辿る。自分のように全部の名簿を盗みだしているのではなかった、だからさっきは気づけなかった。そして、和樹は驚く。
「どうしてこの4人だけ?何故?」
そして、生徒4人だけではなく、生徒より一層に情報を盗まれている人がいた。
「柴崎凱斗理事長補佐」
お金持ち学校と言われる常翔学園、 学園関係者の名簿は高額で売れる。だから和樹はハッキングして売った。同じ目的で、和樹以外のハッカーが常翔学園に侵入して盗む事はおかしくない。だけど、それなら、全生徒の名簿が欲しいはず。なのに、たった5人だけを目指して盗みに来ている。
(このハッカーは誰だ?何の目的があって?)
和樹は蜘蛛の糸が続く先を追って飛んだ。
「今日は、絶対に行く。」えりが決意を宣言し、ガッツポーズをした。
明日から、中間テスト1週間前なので、部活動は無しとなる。
テニス部がメインのえりは、入部後10日たっても、まとも美術部に来られていない。
僕が絵を描くのを見たいだけで入部して来たえりの行動に、和樹は少々たじろいだけれど、正直なところ、またえりと絵の話しができる事がうれしかった。和樹がえりを無視していたのは、やはり自分が犯罪をしている事、これからもっと大きな犯罪をしなければならない事に巻き込みたくなかったから。入学式の時、同じクラスに新田えりの名を見つけて、同名の他人でありますようにと低い可能性に祈った。祈りむなしく当の本人であった事に、がっかりし、無視することでえりを傷つけている事の罪悪感に悩みながらも、えりが諦め離れてくれる事を願っていた。しかし、えりの熱い執拗は和樹の思いとは反対の展開へとなってしまった。不良たちとやり合い怪我して、仕方なく口を聞いてしまった事で、えりがそれである程度の納得をしてくれると思ったが、まさかまた絵を描く事になろうとは。和樹は思い出した。えりが昔も今も自分の絵を「すごい」とキラキラした目で讃えてくれることが、どんな賞よりもうれしい事を。
底なしのえりの明るさと、和樹をまた絵に向かわせた行動が、荒んだ和樹の心を惑わせ迷わせているのはわかっていたが、えりを心から憎む事が出来なかった。
「来ても、えりは何一つ描いてないじゃん。」
「描かなくても行く。今日で最後、明日から、部活動なくなるもん。」
「そうね~。今日で最後だからね~。だから、テニス部に行くのよ!」テニス部のユニフォームであるスコート姿で現れる柴崎先輩。
「ぎゃー柴崎先輩!」
えりの肩と腕をガッツりとつかんで引きずるように、連れ去っていく。
「えりは、美術部にぃ~」
「あんたが、掛け持ちなんて10年早いのよ!掛け持ちしたかったら、私のサーブを打ち返せるようになってからにしなさい!」
「ええー、そんなの一生無理じゃないですかぁ~」
「あんたね、自分で一生無理とか言ってるから、上達しないんでしょう!ふざけたこと言ってんじゃないの!」
もうずいぶんと姿が小さくなっているのに、話の内容がここまではっきり聞こえてくる。
あの柴崎先輩を先輩に持ったことが、えりの不運。
和樹は笑いが止まらなくなった。
えりに、借りているチャームの事を少し調べたくて、パソコンルームに寄ってから美術室に行く事にする。
モチーフの歴史や背景を知ってから、イメージを膨らますのと、適当に描くのではやはり違う。
便利になったもので、図書館で重たい美術書をめくらなくても、ネットで簡単に調べることが出来るようになった。
物のデザインには流行がある。アンティークなら尚更、模様によって、いつの時代に作られた物なのか特定することが出来る。
北棟の4階の渡り廊下を渡ったところで、真辺さんを見かけた。屋上に向かう階段の防火扉の前で弓道部の正装、袴姿で立っていた。流石は真辺さん、凛とした姿はショートカットに良く似合っている。だけど、一向に動こうとしない。不思議に思って足を止め、注目する。防火扉は、生徒がふざけて当たったりすると閉まってしまう。今日も誰かがそうして閉まってしまったのだろう。その鉄製の大きな扉を動かさないと、屋上弓道部の練習場には行けない。けれど、それほど重い物じゃなく、女生徒一人で十分に押して開けられる。だけど、真辺さんは鉄の扉の前で動かない。じっと扉を見つめ、肩で息を吐いた。そして、意を決したように、手を伸ばして防火扉にそっと手を置く。その手は小刻みに震えて、結局押せずに、また大きく息を吐き俯いた。
「どうぞ。」和樹は、防火扉を押し開けて真辺さんに向いた。
真辺さんのシンメトリーの美しい顔が和樹に向けられる。
この鉄製の防火扉は、あの遺体安置室の扉に似ている。
ハッキングして知った真辺さんの弱さ、お父さんの死の原因。おそらく真辺さんも遺体安置室の扉を経験している。あの冷たくて薄暗い地下の冷たい扉。だから怖いのだ。あの扉に似たこの扉が。
「あっ、あ、あり・・がとう。え、えり・・・ちゃん・・・の、と友」
美しい顔とは正反対の美しくない日本語。精神科のカルテ記録にある通り、真辺さんは初対面の人とはスムーズに日本語がでない。
「黒川です。」
「く、くろかわ、く君」
苦しそうだから、思わず、英語でもいいですよと言った。
その言葉に目を見開いて、見つめられる。時間をおいて和樹は自分が失態をした事に気づく。和樹がいきなり英語でも良いと言うのはおかしい。真辺さんの病気は、おそらくトップシークレットなのだから。
「あっ、えっと・・・・新田さんに聞いて。」
和樹は慌てて言い繕うも、真辺さんは無表情のまま彫刻のように固まった表情で和樹を見貫いてくる。いや、和樹を見ていないようにも見え、束の間、美術室の石膏と対面している錯覚に陥る。
階段下から誰かが上がって来る足音が聞こえて、真辺さんはメデゥーサの魔法が解けたように動いた。和樹から背いた瞬間、その言葉は発せられた。
英「プライバシーの侵害、余計なことはするな。」
流暢な英語は、「プライバシー」と「するな」だけは理解できた。それで、咎められたのだと察する。
家が暗い闇に包まれた。
兄さんが何故死んだのか、誰に聞いても教えてくれなかった。知っているはずのおじいちゃんも、お父さんも口を噤んだ。そんな不幸が家を包んでも、おじいちゃんは柔道の稽古をやめて良いよとは言ってくれない。むしろ、和樹の前では何事もなかったように振る舞い、いつも通りに「練習に行くぞ。」と和樹を誘う。
和樹は仕方なく、もしかしたら練習へと向かう車の中で、おじいちゃんが兄さんの事を話してくれるかもしれないと少しの希望をもって、稽古へと向かった。だけどおじいちゃんの口は堅く、聞いたのは、稽古に来ている若い警察官から聞き漏れてくる話だった。
『警視監の指示らしいぜ。』
『自分の子だろう。』
『・・・・・を守るためにな。』
『そりゃ・・・・・・・・方が大事だけどよ。・・・・・・見捨てたんじゃないか?』
和樹が聞き耳を立てていることに気づいた若い警察官は話を止めて、蜘蛛の子を散らすように、どっかへ行ってしまう。
和樹は聞えてきた単語を頭の中で繰り返す。
警視監の指示?お父さんの?見捨てた?
それだけでは、何もわからない。誰も教えてくれないのなら、自分で調べるしかない。和樹は図書館で過去の新聞を読み漁った。だけど、兄さんの名前一つ出てこない。小さな交通事故でさえも誰が死亡したとか記事になるのに、何故、兄さんのは記事にならないのか?和樹はもう一度、おじいちゃんに問い詰めた。それでもおじいちゃんは兄さんの名前すら口にせず、「警察官には守秘義務がある」と和樹を脅すような力強い声で言って部屋から出て行った。
和樹は反抗するように、おじいちゃんが誘う柔道の稽古に、行かないと抵抗した。それでも無理やり連れて行かされるかと思いきや、予想外に、おじいちゃんはあっさりと諦める。今までずっと、どんなに体調が良くなくても稽古を休めせてはくれなかったのに。それからおじいちゃんは、和樹を稽古に行くぞと誘わなくなった。道場に一人で行くおじいちゃんの後姿に、和樹は少しの罪悪感と寂しさに心痛めた。だけどそれは和樹のせいじゃない。ただ知りたいだけなのに、何も教えてくれないおじいちゃんとお父さんが悪いんだ。と和樹は心の痛みの責任を転嫁した。
家が闇に包まれた。
お母さんは家の事が何もできなくなった。
兄さんの写真を置いた仏壇の前で一日中座っている。和樹はそんなお母さんの状況を見るにつれ、兄さんが死んだ悲しみは怒りへと変化していった。なぜ、こんなことに。兄さんが死んだ原因は何だ?
兄さんの部屋からパソコンを持ち出し、ネツトで調べる。やはり兄さんが死んだ記事は見当たらない。兄さんが事故にしろ、事件にしろ亡くなった情報は、必ず警察にある。警察に忍び込み調書を読みたいと署内へと向かうも、すぐに呼び止められ、おじいちゃんのいる道場に誘導されてしまった。
調べる術がインターネットしか方法がなくなった和樹は、世の中がデジタル情報化へと進む状況に、一塁の望みを見出し、ハッカーとしての知識と腕を磨いていった。おじいちゃんが和樹を柔道に誘わなくなったおかげで、自由な時間が沢山出来た事も幸い。そのうち、学校を休んでまでハッカーにのめり込んだ。それでも、おじいちゃんは何も言わない。お母さんはずっと仏壇の前で座っている。学校を休みがちになった和樹の事を知るか知らないか、週に数日しか家に帰ってこないお父さんも何も言わない。
そうして、ハッカーのスキルは上がり、兄さんのパソコンの性能では物足りなくなった。
警察内部の情報をハッキングするには、兄さんのお古ではダメだ。ネットカフェのpcも駄目、もちろん、常翔学園のも駄目。もっともっと高性能のPCを購入する必要がある。和樹がお年玉やお小遣いを貯めていた口座の金額では、到底購入できなかった。
和樹は思いついた。ハッキングで手に入れた情報を売ればいいお金になるはずだ、と。
えりが、テスト勉強を一緒にしようと、パソコンルームまでついてきた。今日から部活動はなし。先生からは一応、早く家に帰りましょうと言われるが、最終下校までテスト勉強をしてもいいように、自習室や図書館、そして今いるパソコンルームも開放してくれている。自習室では、教科の先生も待機してくれていて、いつでも質問できるようになっている。
和樹は、えりを無下に扱えない自分の甘さに後悔しながら、パソコンを立ち上げ、ハッキングプログラムのUSBを差し込む。えりに「何それ?」と聞かれるかもしれないなと危惧するも、何もわからないだろう。次の作品のアイデアと、ごまかせば何とかなる。傍からみれば、英語と数字の羅列でしかない。ダミー画面を立ち上げて裏で操作することも可能。
そんな危惧も無用にえりは、勉強どころか、パソコンで好きな音楽アーティストの検索をしたり遊びはじめた。
ほどなくして、えりのお兄さん達4人組がパソコンルームに入ってきた。
「あら、えりたちも居たの?」
「居たら悪いんですかぁ。」
何かと、柴崎先輩にしてやられているえりは、口をとがらせて、あからさまの不機嫌顔で柴崎先輩に反発する。敬語は使っているけど、その態度はこっちがハラハラするほどだ
「悪くはないけどねぇ、相変わらず二人で、いちゃついてるのかと思うわね。」
「な!いっいちゃつくって!」
「品ないぞ。柴崎。」と藤木先輩。
「先輩達こそ、何しに来たんですか!」
「何って、パソコンで調べることがあったから来たんじゃない。」
ふと、真辺さんが和樹の使っているパソコン画面を注視しているのに気づく。和樹の画面は、美術の歴史などを一枚目に表示しているが、それはダミーの画面だった。その後ろにある画面では英数字が羅列するハッキングが、少しはみ出して見えていた。それをさりげなく修正して見えなくしたが、何か気づいたんたろうか?と心配になるも、真辺さんは和樹の視線をはずして横をむく。その横顔も美しい。
「修学旅行の場所を、どこにしようかと思ってね。」藤木さんがえりの横のパソコンの前に座り、自分のidカードをリーダに差し込んで起動させた。
常翔学園の修学旅行は、海外の3か所の候補地から選べる。カナダ、オーストラリア、香港、全員が1カ所に一斉に行くのではなく、日程はすでに決まってあって、自分が行きたい場所の日を申し込む。その候補地選びの締切が、もうすぐだと聞く。
「テスト勉強じゃないんですか?」えりが素朴な指摘を口にする。
「お前だって、勉強してないだろ。」えりのpc画面を見てお兄さんが反論。
「これは、英語の勉強だよ。歌詞が英語だもん。慎にぃには、わかんないかもしれないけどねぇ~。」
「それぐらいわかるわ!馬鹿にすんな!お前は、数学勉強しろよ。小テストボロホロじゃないか。よくあれでここに受かったな。」
「慎にぃに言われたくない!万年英語の補習を受けてるくせに。」
兄妹喧嘩勃発。
「万年じゃねーこの間は免れた!」
「うるさい!低レベルな兄妹喧嘩するんじゃないの!」柴崎先輩の鶴の一声で二人の勢いは殺がれる。
「まるで、お母さんだな、柴崎は。」と苦笑する藤木さん
「まったく・・・」柴崎先輩は腰に手をやり、ため息ついた。
和樹は笑いをこらえきれなかった。羨ましいぐらいに仲の良い四人組み。
「どれから見る?」
「オーストラリア。」
「日本と反対だから冬か、オーストラリアは。」
「寒いの嫌だわ。」柴崎先輩は肩をすぼめる。
「じゃ、カナダ?」
「えりも、カナダがいい。メープルシロップかけ放題のパンケーキ食べたい!」
えりはもうテスト勉強をする気はなく、一緒に修学旅行に行くかのごとく話に加わっている。
「あはは、えりりんは留守番だよ。」
「あぁ藤木さーん。お土産、買ってきて~。」
「そういうのは、お兄さんに頼みなさいね。ニコちゃんはどこ行きたい?」藤木さんに振り向かれた真辺さんは、みんなから一歩引いて、あまり乗り気じゃない様子だった。
「私にかまわず、好きなところ決めて。」
「何よ、かまわずって。」柴崎先輩の少しきつくなった咎めの言葉に、真辺さんは俯いた。
「あっ、もしかして、これか?」
とえりのお兄さんが指さしたのは、3か所の修学先の旅行代金の一覧だった。希望者は、入学してから修学旅行のための積立を始めることが出来る。毎月約一万円ずつ、これは、ハワイの語学研修旅行と違って、遊びの要素が大きいので、特待生と言えども学園持ちにはならないらしい。その積み立てられた金額だけで行こうと思ったら、候補地は香港だけだった。カナダ、オーストラリアは、追加の金額を払わなければならない。カナダは三つの候補地の中で一番追加費用が高い。
「費用なら、父に言って特待」
「ストップ!」藤木さんが柴崎先輩の言葉を制止する。
「な、なによ。」
「迂闊な事を言うな。それが出来なかった時どうすんだ。」
「あ、うん・・・でも、できるわよ。私が」と続く柴崎先輩の言葉を藤木さんは制止するように、
「公然に言うのもダメだと言ってるんだ。」と強い口調で言った。
和樹はいま一つ、何故、藤木さんが柴崎先輩に強く止めているのかわからなかった。
しばらく沈黙となり、妙な空気が漂う中、真辺さんが言葉を発する。
「わ、私はいい。み、皆の、す、好きに、決めて。」
藤木さんが、首を振りながら大きなため息を吐いた。そして、真辺さんに体ごと向き直る。
「あのさ、ニコちゃん。俺たちの事を本当に想って、それ言ってる?逆に、ショックだよ。俺達、はいそうですかってニコちゃんと違う場所に行けると思う?」
真辺さんは唇をかみしめ、俯く。その横顔が美しい。和樹の頭の中で瞬時に絵の構図が完成する。今すぐキャンバスに向かい描きたくなった。
「ごめんね、ニコ。私が余計な事を口走ったから。」
「ううん。」
「俺たちは場所より、ニコちゃんと一緒に行きたいが、優先なんだ。」
「ええ。そう。」
「じゃ、香港に決まりだな。」
えりのお兄さんが宣言して、真辺さんの頭をポンポンと叩き励ます。
「よし、じゃぁ、香港のどこを回るか決めよう。」画面に向き直った藤木さんが早速カチャカチャとキーボードを叩く。
「いいなぁ香港、本場の点心、食べたぁい。」
「えりりんは、食べるのばっかりだね。」
そうして、香港の観光地をめぐってワイワイと話し合いが始まると、金髪の髪で黒い皮ズボンを履いた男の人がパソコンルームに入って来た。柴崎凱斗理事長補佐。和樹はこの人の個人情報が盗まれている事を知った時、どんな人物なのか、ネットの仮想空間をくまなく泳ぎ、柴崎凱斗理事長補佐の事を調べた。向こうは和樹の事を知らないけれど、和樹は柴崎凱斗理事長補佐の経歴を良く知っていた。
「にぎやかだねぇ。」にこやかに和樹たちの所までやって来る。
「ちわーす。」えりのお兄さんと藤木さんは軽い感じで挨拶をする。
「あれ?えーと。」と首の後ろを掻きながらえりに顔を向ける柴崎理事長補佐。
「俺の妹のえりです。」
「あぁ、そうだったね、新田君の妹さんが合格したって聞いていた。入学おめでとう。」
「今更?」と柴崎先輩が笑う。
「で、こちらが、黒川和樹君。」と名指しされ、和樹は息が止まるぐらいに驚く。
(何故自分の事を知っている?)
教師でもない、まだ帝都大学の学生の身で、アルバイト的に学園の理事を手伝っている人が。
「えっ?はい。えっと僕の事・・・」
「知ってるよ。絵が上手で、小学部から何度も入賞しているでしょう。」
「そ、そうですか・・・」
和樹は警戒した。和樹が小学部で絵の入賞している時、この柴崎凱斗理事長補佐は日本に居ない。
えりのお兄さんのように、学園の宣伝部ともいうべきサッカー部の経歴とかであったら、帰国後に何らかの形で知ったとしても、おかしくないだろう。しかし和樹のは、たかが県内の美術展の入賞ごときの経歴でしかない。それを知って顔も覚えるなんてことがあるだろうか?
集めた情報から、柴崎凱斗理事長補佐が、探偵みたいな事をしているのを知った。学園の不祥事を消すような事もしている。和樹は思った、ここに来たのは探りなのではないだろうか?と。
「ねぇ、凱兄さん、私達、修学旅行の行き先を香港に決めたの。どこか、おすすめのスポットある?」
柴崎先輩がうまい具合に話をそらせてくれた。
和樹はこっそり、裏画面のハッキングのプログラム画面を閉じた。
4
「えり、これ返すよ。ありがとう。」
「もういいの?」
絵の参考にしたいからと黒川君に貸していたキーホルダーが、えりの手元に戻ってくる。網状涙型の空間で虹色の玉がコロコロと転がる振動が手のひらに心地いい。
「うん、大体の構図は頭の中で完成しているから。」
と黒川君は自身の頭を指さす。えりは、やっぱりすごいなぁ。と素直に感動する。ふと黒川君と出会ったきっかけの絵を思い出した。市内の展覧会の趣旨とは合わず、大人には不評で一つも賞を取れなかった。えりの大好きな黒川君の絵。その絵は、見方によっては草原のようにも見えるし海のようにも見えるし、暖かな光輝く空に向かうようでもある。絵の中の世界が本当にあるとしたら、そこはきっと温かくて心地いい世界。一度しか見ていないけど、えりは今でも、ちゃんと思い出す事が出来る。
「ねぇ、今ふと、昔の事を思い出したんだけどさぁ。あの絵ってどこにあるの?」
「あの絵?」
「黒川君と初めて会った時の、あの綺麗な抽象画。」
「あぁ、あれ、うちにあるよ。どうして?」
「あ、うん、もう一度見てみたいなぁって思って。」
「ちゃんとは飾ってないよ。押入れにある。」
「押入れ?」
「だって場所取るし。入賞作は、母さんが客間にしばらく飾ってくれたりするけど、あれは入賞してないからね。すぐ押入れ行きになったよ。」
「そんなぁ。」
「そういえば、その押入れも、しばらく開けてないからどうなっているかなぁ。」
聞けば、今まで書いた作品はすべて押入れの中にしまい込んであると言う。おじいちゃんの代で建てた和風建築の家に、絵を飾るスペースなんてなくて、でも幼稚園の頃から描いてきた作品の数々を、すべて捨てずに残してくれているのは、お母さんが美術系の学校を出ているお蔭だと言うから、黒川君の才能は母親譲りだ。
「じゃ、今度、家に見に来る?」
「うん!行く!」即答した。
「あの絵、虫食いになってなきゃいいけど。」
黒川君は、空恐ろしい事を言って笑う。
黒川君の「家に見に来る?」という提案は、直ぐの日曜日となった。えりは数学の授業も上の空で、何を着ていこうかな?ケーキを持っていた方がいいよね。おじいちゃんがいるっていうから、5人家族?おばぁちゃんは居ないのかな?まぁいいや6個持って行くとして、店から6個も勝手に持ち出したら怒られるよなぁ。なんて計画を脳内で繰り広げ、嬉しさでにやける顔を教科書で必死に隠していた。授業が終わってもえりの脳内計画は続く。
(こんなに、わくわくするの、いつぶりだろう。いや、ドキドキ感かなぁ。あぁ楽しみ。)
あの絵を、もう一度見られる。他にもまだえりが見た事のない作品を見せてくれるとも言っていた。
「頭に変な虫でも湧いてるんじゃないでしょうね。」
突然、背後から耳元で叫ばれて、えりは心底びっくりした。
振り返ると今や、お母さんより怖い柴崎先輩。隣には無表情のニコちゃん。
「ぎゃ!柴崎先輩!」
「あのね、えり。人の顔、見るたびに、ぎゃとかゲッとか濁音で驚くのやめてくれない?」
「柴崎先輩が、いつも突然なんです!」えりは口をとがらせる。
「あんたねぇ。だから頭に虫が湧いてるんじゃないかって心配するのよ!何度も呼んだのに、変な顔でニヤついて、気持ち悪いったら。」
「えっ嘘!顔に出てた?」えりは頬っぺたに手を添えて、ニコちゃんに確認の視線を向ける。
「可愛いよ。」ニコちゃんの無感情の言葉が、えりには一番グサッとくる。
「んで、何の用なんですか!」
友達の妹だからと可愛がってくれるのはありがたいけれど、最近の柴崎先輩のえりに対する干渉は、それだけじゃないように思える。何かとえりの前に現れては、茶化されて、テスト前のクラブ活動がないのに、何の用があって、1年生教室の廊下に、出現するんだ?とえりは顔をしかめる。
「用って事もないけど。」
「えりちゃん、来る?」
日本語がスムーズに出ないニコちゃんは、究極に日本語を端折ってしまう。主語がなかったりするから時として、何を言いたいのかわからない。それも随分と治ってきていたのに、この間の発作で、また一段とコミュニケーションが取りづらくなってしまった。
「えっ?どこに?」
「私達、図書室でテスト勉強しようと、向かっている最中なの。」
「行く!行きます!」
えりは思い出した。宿題がたんまり出ていたことを。ニコちゃんに手伝ってもらえたら楽勝だと心の中でガッツポーズをする。
「えり、あんたの頭ン中、わかりやすい虫、湧いてるわよ。」柴崎先輩があきれ顔をえりに向けてくるけれど、そんなの無視。二人についていき、下駄箱ロッカーで靴を履き替えて、体育館裏の図書館に向かう小径を歩く。小径の途中ガーデンデッキがある場所で突然、柴崎先輩が足を止めてえりに振り返る。
「えり、あの黒川君って子に、あまり深入りしない方がいいわよ。」
「な、何ですか?急に。」
「あの子、いい噂ないの。えりが小学の頃に出会った時は、普通だったかもしれない。でもここ最近の噂、良くない物ばかりよ。」
えりは黙っていた。
「その顔は、噂を全く知らなかったって、わけじゃないわね。」
「黒川君は、皆が言うような」
「えり、わざわざ、良くない噂のある子に近寄らなくてもいいんじゃない?」えりの言葉の遮る柴崎先輩。
「噂でしょ、真実じゃない!」
「火のない所に煙は立たない。」無表情につぶやくニコちゃん。
どんな時もえりの味方でいたニコちゃんが、今はえりの味方になってくれない事に、少なからずショックを受けた。
「噂は噂でしかないかもしれないけど、彼の周りに噂が流れていること自体が、もう問題なのよ。」
「どうして柴崎先輩に、友達の事にまで、干渉されなくちゃいけないんですか!」
もう、先輩後輩の間柄の話ではなくなってきている。クラブの先輩に友達の付き合い方まで口出しされるなんて、大きなお世話だ。えりは自分の失言に後悔するも、言わせたのは柴崎先輩だと気持ちの転嫁をする。
えりが悪いんじゃない、ここ最近の柴崎先輩の干渉は酷い。テニス部でも、えりばかりに注意をするし。
「そうね。出過ぎたわ。」柴崎先輩が、眉間に皺を寄せて顔をそむけた。
結局、柴崎先輩との気まずい空気に耐えられず、えりは図書館を早々に出て、家に帰って来た。宿題をニコちゃんに手伝ってもらい、楽しようと考えたえりの計画は崩れてしまった。宿題は沢山あるのに全くやる気が出ない。えりは勉強机に向かうのをやめて、日曜日の黒川君の家に行くときの服を考えようと、クローゼットを開けた。重なるように、気持ち重くため息をついた。クローゼットにかかっているのは、見慣れた服ばかりで、子供服の域を出ない物ばかり。ニコちゃんはシンプルだけど、いつも洒落たのを着ている。フランスで買い揃えた物だと聞いていた。そういえば中学生になってから洋服を買ってもらっていない。えりは階段を駆け下りる。一階奥の両親の寝室で、何やら箪笥の中をごそごそと漁っているお母さんを見つけてえりはお願いをする。
「ねぇ、お母さん、えり、新しい服が欲しい。買ってぇ。」
「えー、冬のセールの時、買ったでしょう。それに、いつ着るのよ。学校行ってる間は制服だし、休日もクラブでジャージか制服でしょう、帰ってきたら、すぐ部屋着でいるのに。慎一の時、失敗したのよね。買っておいた私服、着る機会なくて、全部小さくなって・・・あった、あった。」
「慎にぃとは違うもん。えりはちゃんと休日に着る予定あるもん!」
「よいしょっと。」とお母さんは、一番下の引き出しから、大きな紙に包まれた物を出して、ベッドの上に置いた。
「お母さん、これって・・・」
「浴衣よ。ニコちゃんにどうかなと思って。七夕祭りに柴崎さんと行くって聞いたからね。今から出して干しておかないと芳香剤のにおい取れないし、サイズも合わせなきゃ。」
「じゃなくて、これ、あたしのだよ。」
「去年、帰ってくるなり、もうこの浴衣、着ないって言ったでしょう。ちょうど良かったわ、大人っぽいの買っといて。」
「え?あ~っ。」えりは確かに着ないと言った自分の言葉を思い出した。
その浴衣は、一昨年、えりが5年生の時に、デパートでマネキンが着ているのを見て一目ぼれして無理を言って買ってもらったもの。紺地に花火の絵柄がちりばめて、小学生がこんな大人っぽい柄、似合わないわよ、とお母さんとデパートの店員さんのいう事を聞かず。見かねた店員が、長く着れるから逆にいいかもしれません、と言った言葉に、お母さんは溜息をついて折れたのだった。
その年のお祭りで、友達からも大人っぽい、素敵と好評だったけれど、翌年のえりが6年時の浴衣の流行は、がらりと変わって、明るい色合いで帯にはレースがついたかわいい系が流行った。世間の流行に取り残された屈辱を味わったえりは帰宅直後「もう、この浴衣、着ない。」って言ったのだった。
お母さんが浴衣を広げて保存状態をチェックする。
「ただいまぁ。」
「お邪魔します。」
慎にぃ達が帰って来た。今日もニコちゃんはうちに来る日。
「あっ帰って来た。ちょうどいいわ。」
「えっ、お母さん、それ、駄目。」って言ったえりの言葉を聞いていないお母さんは、浴衣を持ってリビングに行ってしまう。
その浴衣が嫌いになったんじゃない。流行じゃなくなっただけで、その浴衣自体は今でも好きで、デパートの店員さんが言うように、大人になったらまた着ようと思っている・・・それなのに、ニコちゃんにあげるって、
(じゃ今年のえりの浴衣は?)
えりは苦い思いを胸に、リビングに向かう。
「ニコちゃん、ちょっと、これに袖通してもらえない?」
「おばさん、これ・・・」
「えりのなんだけど、もう着ないって言うからね、ニコちゃんにどうかなって、そのまま上から羽織ってみて、丈を合わしたいから。」
「私、浴衣を着るつもりは・・・」
「せっかくあるんだから、着ないともったいないでしょう。柴崎さんも去年、可愛いのを着てたじゃないの。」
「柴崎は、毎年、買ってるとか何とか言ってたぞ。お嬢様の金銭感覚には、ほんとついていけないよ。」慎にぃは早速、キッチンに常備している店で残ったパンを頬張っている。
「ニコちゃん色白だから紺色、似合うわぁ~。素敵、似合ってる。見上げの丈もちょうどよさそうね。」
色白美人のニコちゃんは、普段から弓道で袴を着ているから和装は着慣れていて、袖を通した途端、背筋がピンと張って似合っている。でもその浴衣は、えりの物。
「ちょうどいいって、えりの小6と身長が同じって事?・・・・うわ!その恰好で暴れんな!」
「あんたが、余計な事を言うからでしょう!全く、着物は見上げで丈を調節するのよ、えりが、どうしてもこれがいいって我儘を言ったからね、逆にえりには大き過ぎていたのよ。去年は。」
(じゃ、今年はあたしにちょうどいい大きさだって事じゃん。)と、えりは顔をしかめる。
「じゃ、ニコちゃん、これ、貰ってくれる?」
「駄目!」えりは叫んだ。
「それ、えりの!えりが買ってもらったやつだもん!」
「えり、着ないって言ったじゃないの。」
「着ないって言ったけど、あげていいとは言ってない!それに、着るもん今年!」
半分、嘘、まだ七夕まつりに誰と行くかなんて決めてないし、浴衣を着る予定もない。
お母さんと慎にいが深く溜息をついた。
「また始まったよ、えりの我儘。」
「ごめんねぇ。ニコちゃん。」
「いい。浴衣、着ないから。」
「おばさん、ニコちゃんに、新しいの買ってあげるわ。」
「えっ、そんな・・」
「いいの、いいの、おばさんからのプレゼント、いつも、えりの宿題を見てもらっているからね。それに袖まで通しておいて洋服で行くのは寂しいでしょう。柴崎さんも浴衣なんだし。」
(そんなぁ、あたしの洋服は駄目って買ってくれないのに、ニコちゃんのは買うの?どうして?)
「でも・・・こんな高い物・・。」
「最近の浴衣って、そんなに高くはないわよ。おばさんが買ってあげたいんだから、楽しみ奪わないで。」
「母さんが、いいって言ってるんだから、素直に甘えれば?」
「そうよ。ニコちゃんも娘なのよ、遠慮なんて、するんじゃないのよ。」
(ニコちゃんが娘なら、私は?)
本当の娘には新しい服を買ってくれない。
ニコちゃんばっかり、みんなが擁護する。
えりは居心地の悪さを吐き出せずに、泣きたくなる気持ちを噛んで我慢した。
和樹は、星空きらめく夜の街を飛んでいた。
絵の具をぼかしたような星雲に、流星の軌跡は虹色に尾を引き、星々は個々に主張の明滅を繰り返す。
黒い屋根は山々の尾根のように和樹の足元に鎮座し、動と静の対称がこの世界を安定させていた。
和樹は、学園の屋上のフェンスの縁に降り立つ。月が憎らしいほどきれいだった。和樹は左手を振り上げ、その手に弓を構えた。月に向かって打つ。矢は闇に虹色の線を引き、まっすぐ月へと発射されて刺さる。月は火花となって散る。
この世界では、和樹は何でも出来た。足元の家々の屋根の取り払い、集めて木の葉のように散らすことも。星を一掃して、砂漠の砂に変える事も。他の住人はいない。和樹ただ一人だけの街。和樹の頭の中に広がる無限で夢幻の電脳仮想空間。
和樹は、空の小さな星屑を一つ、手のひらに呼び寄せ、それを蜘蛛に変えた。そして腕を大きく空に向かって振り払い、世界から星をすべて消した。世界は漆黒に包まれる。手のひらの蜘蛛と、足元の細い細い蜘蛛の糸だけがか弱く光っている。和樹は蜘蛛の糸が続く方へと見つめる。
この間、偶然に見つけたハッキングの軌跡、和樹はあの時、その軌跡を辿った。それは海を越え、大陸へとつながっていた。和樹は大陸に足を踏み入れることを躊躇した。その方角、その技を見れば、高度に和樹よりも上手をいくハッカーがそこに居るとわかったから。
和樹は蜘蛛をそっと糸の上に乗せた。蜘蛛はゆっくりと糸の上を歩む。米粒より小さい蜘蛛はすぐに漆黒に包まれてわからなくなった。
小さな蜘蛛は防御機能をもなく、見つかったらすぐに壊されるだろう。だけど、小さすぎるからこそ、見逃しの奇跡が起こるかもしれない。成果があれば儲けものぐらいに和樹は思って放った。
和樹は両手でパンと叩き、漆黒の闇の世界を昼間に変える。好奇心だけで、お金にならない事をしている場合じゃない。和樹には、一刻も早くお金を貯めて、もっと高性能なパソコンを購入するという目的があるのだ。高性能なパソコンが作り出す電脳仮想空間はどんな世界だろうと、和樹の期待は膨らむ。
和樹は検索機能を使って、何かお金になる情報はないか、探索するプログラムを世界へと放ち、すぐに和樹の手元に紙が泳ぎ集まってくる。目を通す。どれもくだらない情報ばかり、和樹はため息をつく。そうそううまくお金儲けに繋がるような情報など転がっていない。いや、見ようによっては、沢山の情報がそこには集まっている。ただ和樹が、その情報を利用して組み合わせれば、金儲けにつながる考えに及ばないだけだった。和樹はまだ中学生、世の中がどんな仕組みで経済が成り立ち、繋がっているかなんてわからない。この間、常翔学園の名簿を20万円で売れたのは、たまたま運良く、単純な思考が実を結んだだけの事だった。和樹は周囲に溜まりつつある白い紙をはじいて粉雪にする。粉雪は和樹の足元にチリつもり、消えた。そして新たな情報の紙が和樹の周囲に続々と泳ぎ集まってくる。その中に色のついた紙を見つけ手に取る。色付きは検索条件に合致率が高いか、和樹が求めるキーワードが含まれているかだ。そのような設定をしていたのだ。その情報は、学園宛てに届いたメールだった。和樹はそれを見て驚いた。
「これは・・・」
和樹はすぐさま、そのメールの送信先へと飛ぶ。
お母さんとニコちゃんは、今週末の日曜日に、横浜にあるデパートに浴衣を買いに行く事になった。
「ランチに何が食べたい?」とお母さんは一人で盛り上がって、服を買ってと強請ったえりをそっちのけ。
えりは、面白くなくて部屋に引き籠った。当然、ニコちゃんに学校の宿題を頼むなんてできない。
翌日の宿題の提出日に間に合わなかった。他にも10人ほど、えりと同じように、宿題が間に合っていない子がいたから良かったものの、えりはそれもこれも全部ニコちゃんのせいだと、勝手な責任転嫁をする。そうでもしなければえりは、新田家における疎外感に納得がいかない。お母さんお父さんが、昔と同じにニコちゃんを我が子のように接したいと思う気持ちはわからなくもない、だけどその好意に当たり前のように新田家にくるニコちゃんが嫌だった。何もわからない子供じゃないんだから、遠慮というものがあるだろう。浴衣を買ってもらう事も、うれしいのか、うれしくないのか、わからない無表情も、えりにはイラついた。うれしくないなら、買ってもらわなきゃいいのに。いくらニコちゃんの家が母子家庭で大変だからって、お母さん、やり過ぎじゃない?そんなに、お金がなくて困っているなら、常翔なんてお金持ち学校を受験しなけりゃよかったのに。とえりの心は悪意にまみれる。
納得のいかない心の不満が募る一方で、ニコちゃんは平然と週に2、3回は新田家に晩御飯を食べに来る。もう今や、新田家と真辺家は親戚以上の付き合い。
テストまで、クラブがないからニコちゃんは、毎日図書館で最終下校まで勉強してから、慎にぃと一緒に帰ってくる。えりは、黒川君の事を咎められてから、柴崎先輩とは会いたくなくて、授業が終われば大人しく帰ってきて家で勉強、はしないでリビングでテレビを見ていた。すると「ただいま」もなく慎にいだけが駆けこむように帰ってきて、いきなり怒鳴られる。
「えり!一体ニコに何を言ったんだ!」
「えっ?なに、何のこと?」
「しばらっくれんな!」
「わけ、わかんないことでいきなり怒鳴らないでよ!」
「じゃ、何故ニコは、うちに来るの、もう、やめるって言うんだ。」
「はぁ?」
「お前が、なんか余計な事、言ったんだろ。」
「はぁ?わけわかんない、えり何も言ってないし。」
「お前、最近ニコに対して、いい感じじゃなかったよな。浴衣の事だって。」
(浴衣で文句があるのはえりの方だ!勝手に人の物、奪おうとしてるはニコちゃんだ。)
えりはもう、我慢が出来なかった。
「あーうるさい!うるさい!ニコ、ニコって、そんなに心配なら、慎にぃがニコちゃん家に行けばいいじゃん!ここはえりの家!ニコちゃんの家じゃない!」
「お前!まさか、そんな事をニコに言ったんじゃないだろうな!」
「言えるもんなら言ってる!病気を盾にされたら言えるもんも言えない!えりは我慢してるんだっ。」
パチンッ!
「痛っ!」ビンタをされたことに驚く。
「お前、最低だな。」
今まで兄妹喧嘩は数えきれないぐらいしたけど、殴られたなんて一度もない。えりは頬っぺたの痛みよりも、心に受けた衝撃の方が痛かった。
いつも明るいえりが珍しく暗い顔で辛そうにしていた。二人が出会ったきっかけの絵を、えりがもう一度みたいと言うから、テスト勉強も一緒にするという目的で、日曜日に家へと呼んだ。「体調でも悪いのなら、別の日にする?」と聞いたら、えりは堰を切ったように、家であった事を話し始めた。お兄さんと大喧嘩をしてビンタされたと聞く。
「皆して、ニコちゃんの事ばっか。そりゃニコちゃんは、色々あって、母子だし、大変なのはわかる。でも、それは新田家とは関係ないことで、いくら幼馴染とはいえ、そこまで新田家がすることないじゃん。それに、ニコちゃんと柴崎先輩、黒川君に近づくのやめろって、人の友達の事まで口出ししてきて、浴衣も勝手に奪おうとするし、えりだって新しい服、欲しいのに。誰も心配しないし。ニコちゃんは色が白くて、可愛いいからーーー」えりは目に涙をためて、不満の胸の内をぶちまける。
和樹は時折相槌をしつつ、えりのこの不満は利用できると、頭の中で計画を組み立てる。
「えりなんか、居なくなっても誰も心配なんかしないんだ。」
「じゃぁ、試してみる?」
えりの思いかげない不満の告白に、和樹はとんでもない提案を口にしていた。
「面白そう!」さっきまで半泣きだったえりは、反転して目を輝かせた。
「本当に、そんな事できるの?」
「まぁね。」
えりとパソコンルームに向い、和樹の定位置となった教室の奥の端っこのパソコンを立ち上げ、いつものメモリーを差し込む。
ヒュンと自動起動し、英語と数字の羅列が下から上へ流れる。
「さっき携帯で取った写真を。」えりの携帯電話に入っている写真をpcに取り込む。
「じゃ、始めるよ。いい?」
「うん。」
そして、和樹はえりに見つからないように裏画画面で、昨日、調べつくして連絡を取った吉崎宛に、再びメールで連絡を取る。
【準備が整いました。計画通り、出来るだけ人目がつき、確実にアリバイの証明できる場所に居てください。」
【了解、今から髪を切ってもらう為に美容室に入ります。混雑していて最低でも2時間はここに居る事になり、
アリバイは確実、その後、向かいのカフェにて時間をつぶす予定です。そちらの成功の連絡を待ちます。】
表画面で、えりの写真を送信する。
ほどなくして和樹の予想通り、えりのお兄さんが、慌てた様子でパソコンルームに駆け込んできた。
「黒川君!えりはっ、えりを知らないか?」
息を切らしながら、パソコンを挟んで向かいに立つお兄さんは、こわばった顔で和樹に詰め寄る。すぐさま真辺さんも駆けつけた。和樹は大げさに驚いたふりをする。
「今日は、一緒じゃないですけど。」
「授業終わった後、どこに行ったか知らないか?」
「どこって・・・・何かあったんですか?」和樹は、美しい真辺さんの顔を見て言った。
「あっ、いや、ちょっとな。」
「新田さんは、最近、僕を避けているみたいですけど?」
「えっ?」和樹が真辺さんの美しい顔から視線を外せないのを、別の意味に悟ったえりのお兄さんは、真辺さんへと問うように首をかしげる。真辺さんは、そのきれいな顔をゆがませて、お兄さんからの視線を外した。
「HRが終わった後、クラスメートと教室を出ていく所を見ましたけど。そのあとの事は、僕は知りません。」
「そう。ありがとう。悪いけど、えりを見かけたら、俺の携帯に電話くれないかな。」
そう言って、えりのお兄さんは、書くもの探したけれど何もなく、仕方なく黒板に携帯番号を書き残し、真辺さんを促しパソコンルームを出て行く。ちょうど出た廊下で柴崎先輩と藤木先輩と合流したようで、話声が聞こえてくる。
「だめ、美術室は、今日はあいてない。教室も居なかった。」
「中に黒川君が、だけど彼も知らないらしい。」
「idで、下校時間調べてもらったら。」
「凱兄さんを呼ぶわ。」
そう言って、4人は駆け出していく。
(危ない、和樹は正門のIDカードの事を忘れていた。)
「えり!IDカードの番号を教えて。」
廊下側のテーブルの下に隠れていたえりが這い出し、和樹にカードを手渡す。和樹は急いで学園の登下校を管理しているシステムをハッキングしてデーターを引っ張り出し、えりがまだ学園に居るというデーターに修正をかける。授業が終わって、すぐに下校した頃合いの時間帯の数字に書き加えた。
「間に合ったかな。」
「すごい。」
えりは、和樹のキーボードを打つ速さに、目を見張り驚いている。
和樹は、えりを誘拐し身代金を学園に要求するメールを、えりのお兄さんの携帯アドレスに送った。同時に柴崎凱斗理事長補佐あてには、身代金を肩代わりしなければ、学園が隠ぺいしている数々の真実を公開するという脅迫メールを送っておいた。身代金は500万円。小切手ですぐに用意できる額を考えての設定だ。だから少なくていいし、そしてこの500万は、ダミーだ。本当の目的は別にある。
「さて、次の指示を出すかな。えり、部屋の鍵を閉めて、誰か入って来たら厄介だから。」
「わかった。」
和樹はパソコンの画面を切り替えて、学園の通用門の防犯カメラの映像を繋ぐ。今年から、セキュリティ強化という事で、学園の通用門、裏門には、防犯カメラが設置されることとなった。ちょうど、えりのお兄さん達4人と、柴崎凱斗さんが門の受付ブースに待機している警備員さんと話をしている姿が映し出される。
「こんなのまで見れるの?」えりがパソコンの画面を覗き込む。
「世の中、繋がらない場所なんて、もう無いよ。」
和樹は、えりのお兄さんの携帯に、身代金の小切手を用意出来たら、駅前のファーストフード店へ向かえと言うメールを送る。送ったメールは逆探知できないように、世界何十か国と経由して送っているが、最初の柴崎凱斗理事長補佐宛てのメールにはあえて逆探知できるように、国の経由はしていない。
パソコンの画面では、えりのお兄さんが新たに着信したメールの内容に驚いて、柴崎凱斗理事長補達に携帯を見せている。この防犯カメラからは、声を収拾できない。場所によっては、声まで入る防犯カメラがあるのだけど、一般的にそれは稀だ。
しばらく、5人は何かを話し合い、柴崎凱斗理事長補佐から、柴崎先輩は封筒を受け取り、4人は学園の外に駆け出していく。
柴崎凱斗理事長補佐だけ学園に残ったようだ。柴崎凱斗理事長補佐はすぐに携帯電話を操作し、誰かに電話する。
和樹はポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、耳につけて、柴崎凱斗理事長補佐が繋げた携帯電話の回線を傍受する。えりが不審な目で和樹を見たが、和樹が忙しくキーボードを打つ手に、邪魔しちゃしけないとでも思ったのか、何も聞いてこなかった。和樹は、えりのそういう空気を読む気遣いにホッとする。「何をしているの?」とか、「えりも聞きたい。」とか言われたら、どう誤魔化すかは、考えていなかった。そもそも、えりを巻き込むつもりはなかった。誘拐ではなく、常翔学園の不祥事を公表するという強迫で、お金を得ようと考えていたのだった。えりを誘拐を偽装し合わせて学園を脅迫しようと思い付いたのは、えりが不満をぶちまけたからだ。
柴崎凱斗理事長補佐は、和樹の予想通り送られてきた脅迫メールの逆探知を誰かに依頼している。頼んだ相手がだれであるか、和樹はすぐにでも飛んで調べに行きたかったが、えりのお兄さん達の動向を見張らなければならない。和樹は柴崎理事長補佐の方は諦めて、画面を切り替える。
えりのお兄さんの携帯電話のGPSを追跡し、撮影可能範囲に入る防犯カメラを自動的にピックアップできるように設定した。えりのお兄さん達4人は、ちょうど、和樹が指示をしたファストフード店に入った所で、天井からのアングルの映像がクローズアップされる。ファストフード店で右往左往する姿を見ると、神にでもなった気分になる。和樹は頃合いを見て、次の指示を出す。今度は、川向うの市にある大型ショッピングセンター内の銀行ATM前。ここから10㌔の先へ、えりのお兄さん達4人は、タクシーを使う。うまく、最新型のドライブレコーダー搭載のタクシーに乗ったよう。和樹はタクシーに搭載されているナビゲーションシステムをキャッチし追跡しながら、ドライブレコーダーを繋げて4人の声を聞く。
『なんだよ、一体、くそっ!』えりのお兄さんのイラついた声が入ってくる。
『えりの携帯、ずっと繋がんない。』と柴崎先輩
『えりりん、どこに行くとか、誰かと約束してるとか、昨日、話してなかった?』と藤木先輩だけは落ち着いて後部座席を振り向く。真ん中に座った真辺さんは終始無言。
『昨日・・・・俺たち、喧嘩したんだ。』えりのお兄さんは、うなだれて神妙な口調になる。『俺、あいつの顔ぶって・・・。』
『殴ったの!?』柴崎先輩が叫びに近い声で驚く。
『あいつが、あんまりひどい事を言うもんだから・・・・』
『えりちゃん、何を言った?』真辺さんの声は小さく、ドライブレコーダーのマイクに拾いにくい。
『何って、ニコに言ったことだよ。』
『私に?私は、何も言われてない。』
『だって。ニコは、えりに何か言われたから、家に来るのを止めるって言い出したんだろう。』
『えりちゃんに?何のこと?私は私の判断で、いつまでも新田家に甘えるわけにはいかないと考えた。』
『え?・・・・くそっ、俺は勘違いでえりを。』
えりのお兄さんは、悔しそうに拳を自分の太ももにぶつけている。
『えり、無事でいてくれ。』えりが、バツの悪そうな顔で、画面から目をそらした。
「どうする?もうやめる?お兄さん、心配しているよ。」
「やめない。どうせ今だけ。慎にぃの反省は昨日の勘違いの事だけだもん。慎にぃは、あたしよりニコちゃんなんだ。」
えりは、口をとがらせて不貞腐れる。無理もない。そんな簡単に不満が解消されるなら、もとより大きな喧嘩にはならなかったはずだ。和樹とえりは4人が乗ったタクシーの映像を黙って見続けた。タクシーは大きなショッピングセンターの入り口に乗り付け、柴崎先輩がカードで支払いを済ませて降りていく。和樹は指定したショッピングセンター内のATMの防犯カメラに切り替えた。このショッピングセンタ―は、和樹が小学一年の時にオープンした。オープンしてすぐの時、忙しく家にいない事の多いお父さんも一緒に行く事ができた稀な一日だった。
子供だけに配られるオープン記念の風船を、高校生の兄さんも和樹と一緒に並び、まだ成人していないから僕も子供だよと言って貰う兄さんに、家族全員が笑った。笑われながら手に入れた風船を、和樹へくれた時の兄さんの笑顔を、和樹は忘れない。和樹の大切な思い出となった。もう二度と手に入らない過去になってしまった。
防犯カメラに四人が現われる。天井からとATMの機械に取り付けられた正面からの二方向からの映像で、このエリアに死角はない。流石にATM正面からの映像はクリアで、ここで何かしらの犯罪をしようものなら、直ぐに身元はバレてしまうレベルだった。四人は周囲をキョロキョロと見渡し、ATMの機械に近寄り、何かを話しこんでいる。柴崎先輩が預かった小切手の入った封筒をバッグから取り出して、ATMを指さしている。藤木先輩が首をふり、おそらくATMでは小切手の取り扱いはできない事を説明しているのだろう。
和樹が、次にどんな指示をだそうかと思案している時、真辺さんと防犯カメラ越しに目が合った。ATM正面の防犯カメラをまっすぐ見据える真辺さん。どんな時も、真辺さんはきれいだ。和樹はカメラ越しに見つめあうこの状況を、不思議な感覚に陥る。窓越しに別れを惜しむ、まるで昔のフィルム映画のストーリーのようだと思った瞬間、世界はセピア色に染まる。和樹の脳内は電脳世界を創造し、現実世界と重なっていた。
ふいに窓越しの真辺さんは和樹から背を向けた。しかし、すぐに天井からのアングルで和樹の方へと向く。見上げる真辺さんは、まるで和樹に縋り別れを惜しむ恋人のようだ。さながら、自分が映画俳優になった気分で、和樹は真辺さんを見つめる。真辺さんはまた和樹から背を向け、周囲をぐるりと歩きながら、キョロキョロと探している。和樹は心の中で呼びかけた。
(ここだよ。ここにいる。僕はずっと美しいあなたを見つめているから。)
突然、耳につけたイヤホンに電話の呼び出し音が入ってきて、和樹は体をびくつかせた。電脳が作り出した幻想の世界が薄れ、視界がクリアになる。隣でえりが不思議そうに和樹を見ていた。和樹は咳ばらいをして、パソコンを操作した。柴崎凱斗理事長補佐の携帯電話に着信した内容を和樹は傍受する。
脅迫メールの逆探知が成功し、送った犯人が判明したとの会話。犯人の名は吉崎勉、元常翔学園中等部社会科教師。あえて、犯人にたどり着くように経由は少なくしているとは言え、和樹の予想よりはるかに速い時間で犯人を突き止められてしまった事に、柴崎凱斗理事長補佐が犯人捜しを依頼した人物が、この手の捜査のプロであるか、もしくは、和樹と同じハッカーであると思考する。和樹はしまったなと、さっき理事長補佐が電話していた相手の探知をしなかった事を後悔した。
柴崎凱斗理事長補佐は電話を切ると、直ぐに別の誰かに電話をして、吉崎元教師の自宅へ向かわせ動向を探らせた。これは和樹の予想通り。吉崎元教師にはアリバイを作ってもらっている。柴崎凱斗理事長補佐は焦るだろう。犯人と思った相手は、えりを誘拐していないし匿ってもいない。だけど脅迫メールは確実に吉崎元教師から送られている。じゃ共犯者がえりを匿っているのか?となるだろう。その疑いの前に、えりはただ偶然に連絡が取れなかっただけ、で終わらせなければならない。えりの事はただのおまけ、本来なら、えりの役は自分がするはずだった。自分だけなら何とでもなると緻密な計画は元より立てていない。吉崎元教師に対する疑いだけを残すのが最終目的だったから。
えりのお兄さん達をこのままほっとくわけにはいかない。とりあえずの時間稼ぎに、次の指令をえりのお兄さんの携帯に出した。次の場所は彩都市駅舎。防犯カメラの映像は、着信したえりのお兄さんの携帯に全員が覗き込んでいる。すぐに4人はショッピングセンターの出入口へと駆け出し、またタクシーを拾って乗り込んだ。
「えり、お兄さん達の心配した姿をこれだけ見たら、もう十分じゃない?えりの事をどうでもいいと思っていたら、こんなふうには動かないよ。」
正直なところ、えりの存在は邪魔になりつつある。おまけの誘拐事件を終わらせないと計画は複雑になりすぎてしまい。和樹が収拾つかなくなってしまっては、身もふたもない。えりの不満をどうにかして解消し、えりをこの場から追い出したかったけれど、えりはまだ納得できないようで、口をとがらせて、お兄さん達を追跡している地図上の赤い点を見続けている。4人が乗ったタクシーはドライブレコーダーのないタクシーだった。ショッピングセンターから彩都市駅までは、車なら橋を渡り直線的に行けるので10分ほどで行ける。
和樹の思考とえりの不満がどうにもならないまま、4人は彩都市駅のロータリーに着いてしまった。タクシーを降りて駅舎の中へと入って行く。この駅は高架になっていて、高架下は広いオープンスペースになっている。防犯カメラは四方から死角なくあり、また駅舎外にもバスロータリー内を監視するカメラや、コンビニ前のカメラ、交差点の道路交通監視カメラなど多数ある。
和樹は駅舎内にある4人が映る4台のカメラ映像を画面に同時表示させた。そしてまた、真辺さんとカメラ越しに目があう。真辺さんはすぐに周囲を見渡し、次のカメラを的確にとらえ、また和樹と目があう。同じ動作繰り返し、三台目のカメラで和樹と目があった時、和樹はひやりと確信する。真辺さんは確実にカメラ探して確認しているのだ。駅舎オープンスペースに設置された4台全ての防犯カメラを真辺さんは捕らえ、カメラ越しに和樹を射抜いた。
真辺さんは、カメラのこちら側から和樹が見ている事をわかっている?そうだ、頭脳明晰な真辺さんなら、和樹の計画を察知するのは簡単だろう。真辺さんの美しい射貫くようなカメラ目線、あれは警告だ。「私はわかっているのだ」と。
計画が破綻してしまう。焦りは不思議とない。真辺さんによって計画が破綻するのを、むしろ望ましい気持ちで迎える自分がいる。
真辺さんは柴崎先輩と何かを話している。柴崎先輩はカバンの中から携帯を取り出し操作しはじめた。和樹のイヤホンに着信音が鳴る。柴崎先輩から柴崎凱斗理事長補佐への通話だ。しかし柴崎先輩は携帯を真辺さんへ渡した。
露『真辺です。ロシア語でお願いします。絶対に名前は伏せて。』
露『わかった。どうしたの?』
露『凱さんは、彼の情報、どこまで持っていますか?』
「ロシア語!?」思わず叫んだ和樹にえりが、びっくりして顔を覗き込むので、イヤホンの機能を停止し、えりにも聞こえるようにした。真辺さんと柴崎凱斗理事長補佐との通話を聞いたえりは、
「そう、ニコちゃん、ロシア語もペらぺらだよ。」と得意げに言う。
「英語とフィンランド語とフランス語じゃなかったの?」
「ううん。ニコちゃんが移住したフィンランドって、ロシアとの国境近くで、町中はロシア語が流通していたんだって。だから英語とロシア語とフランス語がペラペラなの。」
「そうなんだ。」
「これじゃ、何を話しているかわかんないね。」
翻訳ソフトもあるにはある。だが、このパソコンの性能じゃ追いつかないだろう。まして、今からダウンロードしていたら間に合わない。和樹は二人の会話の内容を知るのはあきらめた。
露『彼?』
露『はい、美術部の小学校から何度も入賞している彼です。』
露『何故、彼の情報を?』
露『推測です。何一つ確証はありません、だから、凱さんの持っている情報と会わせたいのです。』
露『今、彼の事を聞きたいという事は、今起きている事に彼が関係していると?』
露『おそらく。』
露『その推測を先に聞かせてもらっていいかな。彼の情報を、りのちゃんに教えるわけにはいかないんだ。』
露『わかりました。彼は、私の病気を知っていました。』
露『りのちゃんの病気を?』
露『はい、廊下で、彼に会った時、私は日本語で喋れないでいたら、彼は、英語でもいいですよと言った。私の病気は一部の人しか知らない。日本語がスムーズじゃないのは、究極の人見知りだからと思っているのがほとんど。日本語が出ないのに英語なら話せるという考えに到るのは、私の病気の性質を理解している人のみ。ほぼ初対面の彼が、それをどこで知ったのか?』
露『妹さんが言ったんじゃないのかな?』
露『その可能性はあります。ですが、彼女はそういうこと言う子ではありません。私は彼がハッカーなのではと考えます。』
露『どうして、そう思う?』
露『彼が、パソコンルームで操作している所を、今日を含めて2回見ました。1回目の時、彼が立ち上げていた美術関係のページの裏で、英語と数字の羅列しているページを僅かですが見えました。あまり詳しくありませんが、裏画面ともいえるページを使っていること自体、彼はPCにかなり詳しい。それと、彼はマウスを外して使用していました。ハッカーはマウスを使わないと聞いたことがあります。彼がハッカーだと仮定すれば、私の病歴を病院から盗んで知ることなんて簡単。それに、犯人から指示された場所、すべてに防犯カメラがある所で、到着後すぐに連絡が来る。どこかで見ているとしか思えないタイミングです。』
真辺さんとまた、カメラ越しに目が合う。ロシア語を奏でる優美な真辺さんは、映画の中の大女優だ。また世界がセピア色に染まりかける。和樹は一度瞬きをして、現実世界に戻す。
露『おそらく、この電話も盗聴されているはずです。』
露『だから、ロシア語なんだね。』
露『はい。今、指示された場所に到着していますが、まだ次の指示はありません。この話を聞いているのだろうと思われます。』
露『だか、ロシア語なんて、わからない。』
露『はい、ロシア語の翻訳ソフトなんてメジャーではありませんから、話の内容はわからない。話が終わるのを待っていると思われます。』
露『うん。』
露『身代金額の低さもおかしいです。新田家ではなくて慎一の所に送られてきた事も。それと彼女が口を縛られている写真、あのハンカチは私が去年、彼女の誕生日にプレゼントしたものです。もし、本当に人質として縛るのなら、携帯しているかどうかわからないハンカチを、人質本人のポケットから取り出し使用するなんておかしい。そして彼女は昨日、酷い兄妹喧嘩をしている。それらを考え合わせたら、自作自演のいたずらではないかと。』
露「なるほど。実はね、僕の所に送られてきた脅迫メールの犯人が分かったんだよ。」
露「本当ですか?」
露「うん。ただ。それが、おかしいんだ。」
露「どういうことですか?誰です。犯人は。」
露「それは言えなくてね、今、捜査中なんだけど。」
露「じゃ、私の推測はハズレという事ですね。」
露「いや、そうでもないかもしれない。判明した犯人の動向に不穏な動きがない。りのちゃんの推測を聞いて、思いついた事だけど、判明した犯人を利用した、彼による悪戯かなと。」
露「判明した犯人を利用した悪戯?意味が分かりません。」
露「身代金の低さは僕も気になっていた。犯人の名前を言えない事がもどかしいが、とにかく判明した犯人が犯人であるには身代金があまりにも低すぎると思っていたしね。これまでの彼の情報を合わせると、それが一番しっくりくる。まぁ、とりあえず、えりちゃんの身柄を探し出すことが先だ。りのちゃんの推測を優先して探すとなると。」
露「学園にいると思います。彼のそばに。」
露「わかった。」
露「もしえりちゃんが見つかったら、第一に私に報告してください。この携帯の持ち主ににも言わないで。」
露「ん?どうして?」
露「お願いします。」
露「わかったよ。誰にも言わず、まず、りのちゃんにだね。」
長くロシア語で会話されていた電話が終わる。英語だったら少しはわかっただろうけれど、ロシア語をこんなに長く聞いたのも和樹は初めてだった。真辺さんと柴崎凱斗理事長補佐が、盗聴されてもわからないようにロシア語を使ったという時点で、真辺さんは身近の人間が犯人だと見抜いている。そして、盗聴されている事も見抜かれているのだろう。
和樹は計画の破綻を、完全に受け入れる。
「もう終わりにしよう」
えりは顔の表情だけで、まだ納得いかない意思表示する。
「えりは、まだ喧嘩できるだけ、幸せだよ。」
えりは首をかしげた。その仕草に和樹は突然に懐かしさが沸き起こるも、すくに消える。
「僕には年の離れた兄さんがいるって前に話したよね。」
「うん。」
「兄さん、死んだんだ。」
「えっ」えりが目を見開く
「警察官だった兄さんは、おそらく事件に巻き込まれて殉職した。でもどうして死んだのか、おじいちゃんも、お父さんも、誰も詳しい事を僕に教えてくれない。だから僕は自分で調べようと、パソコンを駆使するようになった。去年からずっと絵を描いていなくて、やる事があると言っていたのは、兄さんの死因を調べる為だったんだよ。」
「・・・・。」
「えりは、喧嘩できるお兄さんがまだちゃんといる。僕は、もう兄さんとは喧嘩も出来ないし、話す事も出来ない。」
えりは、今にも泣きそうに顔をしかめて、俯いた。
えりは慎にぃに叩かれた頬を無意識にさすっていた。黒川君の言う通り、もう十分わかっていた。慎にぃの「無事でいてくれ。」の言葉は嘘偽りない心からの言葉だと。生まれて初めて叩かれたという事実が、えりの心に傷を作りはしたが、その傷はもう、治癒している。残っているのは意地になっている瘡蓋みたいなものだ。その瘡蓋が取れるのもいじらしく残していたら、まさか、黒川君の身内の不幸を聞くはめになるとは思いもしなかった。出会った時、年の離れたお兄さんがいて、絵を描く自分をいつも褒めてくれると言っていた。えりの想像ではあの絵のように優しいイメージのお兄さんだ。会った事のない友達のお兄さんが死んでしまっていた事は、えりには実感がなく、さほど心を重くするものではないけれど、クラスメートに聞いた黒川君のこれまでの話を組み合わせて、黒川君はお兄さんが死んだ2年前から、苦しい思いをしてしていたと思うと板溜めれなく思う。知らなかったとはいえ、展覧会に来なかった黒川君を責めた自分をどうしようもなく馬鹿だと叱咤する
「もう、お終い。いいね。」黒川君が、感情のない声で、そう宣言する。
「うん・・・。」
「じゃぁ、えりは、このまま帰って、何も知らないを通して。今までどこにいたと聞かれたら、適当に寄り道してたって答えて。」
「うん、わかった。」
えりは、さっきIDカードを黒川君に渡すために散らかせた鞄の中身を入れながら、どこに行っていた事にしようかなぁと考える。黒川君はまた、忙しそうにパソコンのキーボードすごい速さで打ちはじめた。
「黒川君はどうするの?」
「このまま、ほっとくわけにいかないからね。悪戯でしたって暴露メール送るのも変だし、うまくお兄さん達を誘導して御終いにさせる方向にもっていかないと、まだしばらくはここにいるよ。」
「じゃ、えりも残る。」
「えりが帰らないと、お終いにできないよ。」
「でも・・・」えりが言い出した事なのに、黒川君にばかり負担をかけさせて、自分は何知らない顔で帰るなんて、いいのだろうか。えりは、この時初めて、黒川君に犯罪めいた、とんでもない事をさせてしまったのだと悟った。
(黒川君の手は、こんな事をする手じゃないのに。慎にぃが言うように、私は最低だ。)
鍵をかけてあったパソコンルームの引き戸が勢いよく開けられ、えり達二人は飛び上がるぐらいにびっくりする。姿を現したのは、この間、遅い入学おめでとうの言葉をくれた柴崎理事補。
「やっぱり、ここに居たか。」
えりは青ざめた。バレてしまった。
「誘拐なんて、嘘だったんだね。」理事補は大股でこちらに来ながら、首を振る。「黒川和樹君、事情を聞かせてもらおうかな。」
「黒川君は、何も悪くないんです!あたしがっ、えりが全部悪いんです。えりが黒川君に頼んで。」
「りのちゃんの推測通りって事か。」
理事補は、黒川君が捜査しているパソコンの向きを強引に反対に向け、確認すると黒川君を見据えるように睨みつける。
「理事補、本当に黒川君は、何も・・・」
「えりちゃん、心配したよ。嘘でよかった。お兄さん達に知らせないとね。」
えりのせいで黒川くんが罰せられたりしたら、どうしよう。恐怖がえりの心を支配し固まってしまった。
理事補は携帯を操作する。その通話音がパソコンから流れてきて、黒川君は慌てて、音声を切った。理事補が大きなため息をする。
「麗香、りのちゃんに変わってくれ。―――りのちゃん、正解だよ。えりちゃんは無事保護。彼の側にいたよ。もう盗聴の心配もない。で、どうするのかな?」
露「次は、私が騙します。」
「えっ?」
露「いたずらを咎めたところで、根本的な事は解決しない。これは私が原因で招いたこと。」
「りのちゃんが招いた?」
露「そのまま、彼に、次の指令を出すように言ってもらえますか?どこでもいいです。二手に分かれて、私は学園に戻りますから、戻ってから説明します。」
「わかったよ。」理事補は携帯電話切ってから、しばらく「うーん」と唸りながら首の後ろを掻いた。「黒川君、そのまま、継続して次の指令を送ってほしいとのことだ。」
「えっ?」えりと黒川君は同時に驚きの声を出す。
「僕もよくわからないんだけど、りのちゃんからの依頼だ。」
理事補と黒川君に、どこにしようかと聞かれて、えりはなんとなく深見山展望公園を口にした。黒川君が慎にぃの携帯へ指示を送る。
【深見山展望公園、4:00きっかりに姿を現さない場合、人質の命はない。】
画面の中の4人は二手に分かれて、ニコちゃんと藤木さんはタクシーを使い学園に戻ってくる。
慎にぃは柴崎先輩と一緒に、そのまま東静線に乗り込み深見山展望公園駅へと向かった。
誰も意図が分からず、パソコンの地図上を移動する慎にぃの赤い点の動きを黙って見続ける。詳細はニコちゃんがここに戻ってきてから説明すると言う。その間、理事補はかかってくる電話と掛ける電話でパソコン室を出たり入ったり、ほどなくして廊下が騒がしくなり、ニコちゃんと藤木さんがパソコンルームに入って来る。
ニコちゃんは相変わらずの無表情でえりを視認し駆け寄ってくる。無表情が、いまのえりには怒っているように見えた。流石にこのいたずらはやり過ぎた。えりと対峙したニコちゃんは手をあげた。えりは叩かれると思って、防御反応に目をつぶる。だけどその手は、私をギュッと包み込んだ。
「よかった。無事で。」
ニコちゃんからシャンプーの良い香りがした。
「ごめんね。えりちゃん。」
「なっなんで、ニコちゃんが謝るの?」
「私が、新田家に甘えてばかりした。気づいていたのに。」
ニコちゃんは、いつもえりの味方だった。どんな時も、えりの一番の理解者であった、親よりも。えりは幼き頃もこうして抱きしめられた事を思い出した。
「ニコちゃん・・・」
ニコちゃんをずっと、本当のお姉ちゃんだとえりは思っていた。
『もう、歩けない!』
『歩かなかったら家まで帰れないでしょう。』
『いや、おんぶして。』
『また、始まったよ。えりのわがまま。』
『この金魚とか風船、全部えりのでしょ。お母さん荷物いっぱいでおんぶなんて無理なのわからない?文句言わないの、歩く!』
『イヤー、おんぶ。』、
『じゃ、この金魚と風船、捨ててもいいのね。』
『だめー。』
『えりちゃん偉いよ。頑張って歩いたよ。ニコが、駅まで手を引っ張ってあげる。』
『ニコちゃんだって、疲れてるでしょう。わがまま言わないのよ、えり。』
『そうだよ。ニコはいっつも、えりを甘やかす。』
『えりちゃん可愛いもん。ほら、慎ちゃんも後ろから押して!』
『えー!僕も疲れてるんだ。』
『男のくせにぃ。よわっちぃ。』
『弱わっちい言うな!えり、ちゃんと歩けよ!』
花火大会の帰り、もう歩かないとわがまま言うえりを、お母さんが責め立てる中、ここまで頑張って歩いたねと頭をなでて褒めてくれたのはニコちゃんだった。自分も疲れているはずなのに、駅まで引っ張ってくれた。
幼稚園で隣町のガキ大将に苛められた時も、立ち向かって取っ組み合いのけんかをしたのは、慎にぃじゃなくてニコちゃんだった。アパートのふすまにクレヨンで落書きしたのをみて、ニコもやろおうっと、一緒にやって怒られてくれたのはニコちゃんで、いつもえりの味方だった。それなのにえりは、ニコちゃんが助けを必要としている時に、疎ましく邪険にした。今度は、えりがニコちゃんの味方になってあげなくては、いけなかったのに。
「ちがう、私、酷い事を思って。」
「我慢させて、ごめん。」
「やめて、ニコちゃん、えりに謝らせてよ。そうじゃないと、えりは、いつまでたっても我儘な子のまんま!」
「我儘じゃないよ、えりちゃんは。私のかわいい妹。」
そう言って、もう一度、強くハグしてくる。もう親にもハグされた事なんて無いのに、やっぱりニコちゃんは帰国子女なんだと変な感心をする。
「感動の再会はそれぐらいに、りのちゃん、説明してもらえないかな。」
理事補が苦笑して先を促す。
「し慎一に、ば罰を、う受けてもらう。」
改めて、そばにまだ親しくない人が居る事を認識しちゃったのだろう、それまで流暢だった日本語が途端に吃音で乱れる。
「罰!?」
英「慎一には、えりちゃんの大切さを。そして、えりちゃんには、慎一の真意を知ってもらう。」
(あー、英語だと分かんないよ。)
一度だって、えりちゃんの事を我儘だと思ったことはない。慎一が「またえりの我儘が始まった。」と言うのを、一体どこが我儘なのかわからなくて、いつも不思議に思っていた。自分より小さい子が「出来ない、嫌だ、歩けない」というのは、当たり前で、こんなにかわいい妹なのに、どうして、そんなに、きつく言うのだろうかと思っていた。
えりちゃんが生まれた日の事をよく覚えている。小さくて、ふわふわしたほっぺが赤くて、手の指も足も、自分の指より、ずっと小さい。小さいのに爪もちゃんと生えていて、ギュッと私の指を握ったあの時、なんとも言えない気持ちが沸き起こった。守るべき者。それは芽生えた母性だったのかもしれない。真っ赤にした顔で泣く声も、あくびをする小さな口も、全てが可愛くて、私にこんなにかわいい妹が出来たと、うれしくてずっと見ていた。
大好きなえりちゃんを泣かす人間は、誰であろうとも許せない気持ちだったのに。事もあろうか、私がえりちゃんを泣かす存在になってしまっていた。
「新田!大変だ!ニコちゃんが、発作を。救急車を呼んだんだ!」
『何だって!』
「すまん。俺が付いていながら。」
『何があった!』
「それが、あれから学園に戻る途中で、急に、発作起こして倒れた。救急隊に心臓マッサージしてもらって、今、医科大病院に向かって・・・・・えっ!はい。病院には主治医が、えーと名前はちょっと、精神科の・・・・・・あぁ新田、悪い、ちょっと一旦切るな。」
『えっちょっと、おい!藤』」
パソコンのスピーカーから聞こえてくる慎一の慌てた声が途切れる。画面は画像の悪い深見山登山口駅の切符売り場前の防犯カメラ。慎一と柴崎は、登り口の階段前で、向かい合って立っている。
「っと、こんな感じで良い?」藤木が、にやついた顔で振り向く。
「十分。ありがとう。」
「迫真の演技だったね。」と凱さんも笑いをこらえて褒める。
「すごい。藤木さん、俳優になれるよ!」と、えりちゃんは、目を輝かせて飛び跳ねる。
「そんなに褒められたら、調子に乗っちゃうよ。」と藤木は照れなく自信満々だ。
「さあ、新田君と麗香はどうするかな?」
凱さんの言葉に、皆が、パソコンの画面に注目した。今どき古い白黒画像の防犯カメラ映像の中で、柴崎が手振り、身振りを大きく慎一に何かを訴えている。
私が倒れて、病院に運ばれたという設定で、藤木に演技をしてもらい、慎一の携帯に掛けた。状況からして慎一達は完全にその状況を信じている。現在3時45分、あと十五分で脅迫メールの指示時間が来てしまう。慎一のいる登山口から展望台へは歩いて20分かかる。時間に間に合わせようとするなら駆け足で登って行かなくてはならない。
えりちゃんは、いい場所を選んでくれたと、私は笑む。えりちゃんを殴った罰は、駆け登山で償ってもらおう。付き合わなくちゃならない柴崎には申し訳ないけれど。慎一は、すぐに決断できないようで、動かない。
(何をしている慎一、考える必要などない。ただその本能に動けばいいだけ。)
私が、いくらえりちゃんに謝ったところで、傷ついたえりちゃんの本心は納得ができない。私の存在が、えりちゃんに我慢をさせ、慎一や啓子おばさん、おじさんの事までも信じられなくさせてしまった。私は、芹沢家だけでは足りず、新田家までつぶしてしまうところだった。私は疫病神。パパが呼ぶ方へ行ってしまった方が良かったのかもしれない。
まぶしいくらい明るい新田家だけは、壊してはいけない、曇らせてはいけない。だから私は、えりちゃんの不安を取り除く為に、慎一の真意をちゃんと表に出させ、えりちゃんに理解してもらおうと考えた。
絶対に慎一は私ではなく、えりちゃんを選ぶ。それが家族と言うもの。
慎一は体を翻して階段を駆け上って行った。柴崎も後を追う。
それが血のつながった家族の証。真意の絆。
「慎にぃ・・・。」
「慎一とえりちゃんは、本当の兄妹だから。」そう呟いてえりに微笑んだニコちゃん。
昔ほどのニコニコさに程遠いけれど、間違いなくこの笑顔は、えりが大好きだったニコちゃんの顔だ。
こんなこと試さなくたって、わかっていた。えりを心配するのは、当たり前な事。私達は血のつながった本当の兄弟なんだから。だらしなくてカッコ悪い兄だけど、忙しい両親の代わりにご飯を作ってくれるのは慎にぃで、小さいころ夜中に怖くてトイレに行けない時、一緒についてきてくれたのも慎にぃで、私が交通事故で1か月ほど入院した時は、毎日、病院に来てくれたのも慎にぃだった。病室でサッカーボールを蹴って看護師さんに、こっぴどく怒られても懲りずに毎日来てくれた。学校であったこと、サッカーの話ばかりは、えりにはつまんなかったけれど、慎にぃの毎日の見舞いは、退屈な入院生活の唯一の楽しみだった。
「ごめんなさい。みんな。迷惑かけて。」
「えりちゃんは悪くない。痛かったね。」そう言って、ニコちゃんは慎にぃに叩かれたほっぺたをさすってくれる。
「そうだね。そもそも、えりりんを殴った新田が悪いんだよ。あいつ、人の話をちゃんと聞かねーし、周り見えてないくせに、突っ走るから。」
「うん、慎一、最低。」
何だか慎にぃが、かわいそうになってきた。
「もう、いいかな?新田君と麗香をこのまま頂上に行かせるのは、かわいそうだし。真相を知ったら麗香は怒るだろうからね。早めに教えてやらないと。」
あーそうだ。親より怖い柴崎先輩。これまでの誘拐事件が、えり達の悪戯だと知ったら、どんなに恐ろしい叱咤を受けるか・・・想像するに恐ろしい。
「あー柴崎先輩には黙っててぇ。」
みんながお腹を抱えて笑う。
5
「ねぇ、慎にぃ、どうしてニコちゃんの所に行かなかったの?」
「ああ?行って欲しかったのか?」ソファを独り占めし、横になってテレビを見ている慎にぃが、面倒くさそうに答える。
種明かしをされて学園に戻って来た慎にぃと柴崎先輩に、えりは、こっぴどく叱られた。テニス部を辞めたいと思うぐらいに、覚悟しなさいよとの脅しも入る。しかし柴崎先輩はすぐに沸騰した怒りを静ませ、無事で良かったと大きな息を吐いて、椅子に座った。えりは心底、自分の浅はかな思考を反省し落ち込む。それを見通したニコちゃんが、またハグしてくれて、えりの心は癒された。
「そうじゃなくて、どうしてかなぁって、思ったから。」
「・・・・・・」慎にぃは答えない。
「ニコちゃんの方がえりより弱くて、あの時、藤木さんは、心臓マッサージをしてって、まさしく危篤状態を演じてたじゃん。柴崎先輩に深見山に行かせて、自分は病院っていう選択もできたよ。」
慎にぃは身体を起こし、ソファに座りなおした。
「じゃ、えりだったらどうした?ニコが人質に取られて、俺が別の場所で交通事故にでもあって、危篤だって言われたら、どっちに向かう?」
「えーそんなの、わからないよ。その時になってみないと。」
慎にぃは無意味に鼻を触ってから、語る。
「昨日の、藤木からの電話の時、聞こえた救急車のサイレン音で、思い出したのは、えりが交通事故で救急車で運ばれた時の光景だった。」
ご丁寧に、黒川君は救急車のサイレンを効果音までつけていた。あの電話を嘘だと誰もわからないリアリティだったろう。現に種明かしの電話を藤木さんがしても、慎にぃはすぐには信じなくて、ニコちゃんが電話を代わって、やっと信じたぐらいだった。
「えりが目の前で自動車と接触した時、俺は震えた。えりが死んでしまうと怖くて。ニコは、頭の怪我以来、発作を起こして入院したりと心配は尽きない。でも、俺の助けはいつも役立たずで、ニコは俺の助けなしでも復活する。だから、今回も俺の助けは要らないと思えた。藤木も一緒だったし、俺よりもずっと頼りになる。柴崎は、私が頂上に行くから、俺に病院に行けと言ってくれたけれど、その選択は頭になかった。俺の携帯に送られてきたメールに、4:00きっかりに姿を現さない場合、人質を殺す。と書かれてあったんだから。怖かったよ。」と神妙な面持ちで俯いた慎にぃに、えりは自分のしたことを改めて反省した。えりを殴った罪を償ってもらう目的でやった事だけど、慎にぃには殴った以上に身に染みた罰になっているよう。
自分の助けは役に立たないと慎にぃは言ったが、ニコちゃんは慎にぃの助けを待っているとえりは思う。他の誰の手も必要なく、慎にぃを待っているから、いつもギリギリなのだ。
昔の記憶がよみがえる。
幼稚園でえりを苛めていた悪ガキグループとニコちゃんが、つかみ合いの喧嘩をした。3対1で囲まれてもニコちゃんはひるむことなく向かって行ったニコちゃんは、あちこち怪我して血まみれなのにやめなくて、やっと騒ぎに気づいた先生が駆けつけて喧嘩は止まった。先生が怪我の手当をしようとするのを、ニコちゃんは突っぱねて叫んだ。「あいつらがえりちゃんを泣かすから悪いんだ、先生が、ちゃんとあいつらを叱らないから、ニコがやるんだ。」と興奮してニコちゃんの怒りは、収まらなかった。「こんなのは痛くない、痛いのはえりちゃんの心だ!」と叫んで傷の手当は難航した。先生達は困り果てていた。喧嘩の途中からただ、おどおどとなすすべなくしていただけの慎にぃが、傷だらけのニコちゃんに寄り添い、何か言って頭を撫でたら、ニコちゃんはやっとおとなしくなって傷の手当を受けた。突っ走るニコちゃんを止めたり、宥める光景をえりは幼稚園だけではなく家でも、幾度となく見てきた。ニコちゃんの勢いを止められるのは親でもなく、先生でもなく、慎にぃである事を、えりは体感して認識している。
そっか、栄治おじさんが死んだとき、慎にぃが傍に居なかったから、ニコちゃんは突っ走ってしまったんだ。だから声を失い、病気になった。ふいに納得の理解が、えりのわだかまりを取り除く。
本当にギリギリで戻って来たんだニコちゃん。慎にぃと同じ学校に行きたいと願って。
湿っぽくなってしまった。空気を換える為、えりはちょっと明るめに話題と声を変えた。
「慎にぃ大袈裟。あれ、自転車と車に挟まれて骨折しただけだよ。全然、命に別状ないし。」
「あのなー、目の前で、足が変な方向に曲がっていて、血まみれの光景見てみろ!幼心にトラウマ作る理由、十分だろ!」
「あの事故、えりが小2の時じゃん。あれから何年たってんの、メンタル弱すぎ。」
「何年たっても、衝撃すぎんだよ!大体、あの時、えりが坂道でブレーキかけずに交差点に突っ込んで行くから。自動車の運転手も哀れだよ。」
「止まれって言ってくれればいいじゃん。」
「言った!叫んだぞ、俺は!」
「えーそんなの、聞こえなかった。」
お母さんがリビングに戻ってきて、喧嘩しないのよ~と気の抜けた注意をする。お母さんは、今日の出来事を知らない。
特に咎められる事もなくえりは帰されたけれど、黒川君は、その後、話があると理事補に連れていかれてしまった。私は黒川君について行こうとしたんだけど、柴崎先輩にきつく「新田と帰りなさい!」と怒られて、後ろ髪引かれる思いで帰って来た。
30前、黒川君にメールを送ったら【大丈夫、えりが心配する事は何もないよ。】と返信がきたけど・・・本当かな?
「そうだ、慎にぃ、ごめん、これ返す。」
そう言って、えりが手渡してきたのは、あの虹玉が入っているチャームだった。
「えっ?」
「この間、コンパス借りようとして、机を漁ってたら見つけて、きれいだったから、ちょっーと、借りていたんだ。」
えりは肩をすくめて舌を出す。
「えり、ずっと持っていたのか?これ。」
「うん、あっ、でもここ1周間ほど、黒川君に貸してたけど。」
「黒川君に?」
「うん、きれいだから、絵の参考にしたいって。」
(嘘だろう・・・)言い知れない不穏が慎一の胸に湧き起こる。
「あれ?駄目だった?」
「いや、駄目じゃない。かまわない。けど・・・。」
何だろう、これは、人を繋ぐ役目を果たしてきた。自分とニコ、ニコと柴崎、そして藤木。これに慎一たちは助けられて、それなりに過酷な経験もした。しかし、その過酷な経験が、これがもたらしたと考えられないだろうか?いや、これがあったから、乗り越えられた?これが無い場合がどうなっていたのかと比べられないだけに、どう解釈していいのかわからない。
ただ何か大きな事が起こる時に、これが常に誰かのそばにある。今回のえり誘拐事件、えりと黒川君が仕組んだいたずらだったとはいえ、慎一は本気で心配したし、最悪の事態を想像して震えもした。その起こる出来事がいつも半端ない。そしてまたこれが絡んでいたのかと思うと、慎一は背筋がぞわっとした。
慎一は、あえて馬鹿馬鹿しいと、首を振ってオカルトじみた考えを払拭する。そんな慎一の仕草を見たえりが、顔をしかめる。
「それ、どうしたの?女子からのプレゼント?」
「これは、柴崎がニコにあげて、ニコが大事にしているもの。つなぎ目が千切れたから治してやると言って、預かっていたんだ。けど、返すの忘れてた。」
「えー、ニコちゃんの大事なものを、返すの忘れてたって…いい加減~」
「あぁ、返さないとなぁ。」と言ったものの。本当に返していいのかどうか迷う。
ニコにとって、この虹玉は願いが叶わなかった、辛い思い出が入り込んでいるはず。これを見れば、必ず栄治おじさんの自殺を思い出すだろう。今の所、返せと行って来ないニコは、これに関しての記憶がなくなっているのかもしれない。だったら、あえて返さない方が良いだろう。
人の大事なもの預かっておいて、忘れてたってありえない!
藤木さんだったら、絶対そんな事しないよ。
それにメンタル弱すぎ、えりの交通事故の事、あれから5年も経ているのに、まだトラウマ引きずってるって?ありえない。それと、あのコンパスに引っ付いていた古い写真、あんなのずっと持って握りしめていたなんて。
慎にぃが、そのきれいなキーホルダーを手にソファから立ち上がる、よれよれのジャージを上げながら大あくびをして、2階へと上がっていく。ボサボサ頭で、だらしない兄、カッコいい所なんて、どこにもない。
(どこがいいんだか?)
そうだっ、今度よだれ垂らして寝てる姿を写メ撮って、ファンクラブの子に流してやったら、どうだろう。皆、幻滅するよね絶対に。
(うひひひ、面白そう。)えりは、ほくそ笑む。
恋人にするなら、あんなだらしない兄のような人じゃなく、もっとしゃきとした人にする!
とえりは心に誓った。
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