第4話 月白色の幻聴
序
リノ、ドウシテ ニゲタ リノガニゲタカラ・・・・・・
また始まった。今年もあの夢・・・・・いや夢じゃない。現実、
4:14、まだ朝は遠い。額にうっすら汗をかいていた。
そっとベッドから降り、キッチンへ向かう。静かに冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。
また今日も眠りが浅い。
「りの、眠れないの?」母が眠そうな顔を覗かせる。起こしてしまった。
「薬、飲む?」
首を振り、要らない意思表示をして、逃げるように自室に戻った。
デスクのライトをつけて座る。朝まで長い。教科書とノートを広げて勉強を始めた。勉強は嫌いじゃない。勉強していれば、余計な事を思い出さなくて済む。数学の公式とか、歴史の年表、何でもよかった。
とにかく頭の中に隙間が出来ないようにしていれば、忘れられる。眠れない日の時間つぶし。それが勉強だった。
今日も、眠れないから勉強をする。忘れたいから勉強をする。
何もかも忘れて、
いつかは、ぐっすりと長く眠りたいから。
10月11日(月)
学生本分の成果が如実に表される日。
校舎の玄関脇ロッカーから2階の教室に向かう階段を上がった正面の壁の掲示板に、中間テストの順位表が貼り出されている。
常翔学園は成績に関して、ノープライバシー。恥ずかしければ、恥ずかしくない成績を取ればよいという、結構、乱暴な教育方針、それこそが、常翔学園の学力地位を保持し続けてきたと。柴崎は言う。創設以来、誇りある伝統なんだそう。
「あの点数は、わざとか?」
「わざとであんな点数、取るか。」
「ほんと、狙っているとしか思えないよな。」
「狙える余裕があるなら、苦労はせん。」
成績表に群がる生徒たち。成績の上がったものは喜び、努力むなしく下がったものは、肩を落とし、はたまた、予想通りの結果に、大した思い入れのない者。ここには、さまざまな感情が渦巻いている。そんな生徒を挟んで私達3人は、少し離れた窓側の壁に背を預け、群がる生徒と合間に見える順位表を眺めていた。
「苦労?テスト前日に爆睡している事が?」
「お前っ!まさか、部屋に入ったのか?」
「ノックした。 返事がないから、生存確認の為に入った。」
「あはは。確かに、お前にとって英語は殺人兵器だよな。」
「入るか?普通、男の部屋に。」
「今、気にするところは、そこじゃない。」
「わかってる!」
慎一は、現国、数学、社会、理科、の4教科はかなり良い点数を取っている。社会なんかは、科目別で3位。だけど英語だけは、200点満点中108点、追試こそまぬがれてぃるものの、毎回毎回、補習を受ける点数で、それが、総合順位に足を引っ張り、50位よりも上に上がれないでいる。クラブで、忙しい慎一や藤木たちは、普段から勉強をコツコツする暇がない。朝練で朝も早いから1時間目から、授業でいきなり寝ている事もある。テスト1週間前、クラブが休みになってから、一気にやる短期集中型の勉強法。本当は、英語のヒヤリングは毎日コツコツやった方が良い、だけど時間のない慎一には無理。登校のバスや、少しの時間でもCDを聞けば?とアドバイスするのだけど、バスで聞いたら車酔いすると言ってやらない。かといって文法英訳もアレルギーだとか、魔法陣だとか言って、まともに教科書も広げない。他の教科は間違い直しとかマメにするのに、英語だけは何故か、この毛嫌い。何がどうしてそうなったのか、不思議に思う。
英語なんて日本語より簡単なのに。
私達4人はこの1週間、毎日、図書館でテスト勉強をした。その時の二人の集中力は、すぐに雑談してしまう私と柴崎とは違って、確かに目を見張る物があって、と柴崎と感心していた。
藤木は数学が苦手と言う割には、30番より下の成績を見たことがなく、オールマイティに常に上位をキープ、学年20番以内に入っていた。
「おっはよー。遅くなっちゃった。信号トラブルで電車、止まってさー最悪~」
柴崎がいつもより少し遅れて登校してきた。 柴崎は電車通学。この常翔学園経営者の一人娘、父親と同じ場所に登校するのに、父親の車に乗って来ると言う事はしない。流石にそこはわきまえて、一般学生と合わせているが、時々遅れそうだからとタクシーで学園に登校する事があって、そのチグハグな行動は、お嬢様特有の価値観で私には理解不能。
柴崎と同じ電車に乗っていた他の生徒も足早に駆けつけ、成績表に群がる。
「なにあれ・・・・ホント好きね、英語。補習を受けるほど。」
柴崎が、慎一に睨みつつ洒落た嫌味を言う。
「はい・・・・好きです。補習。」
柴崎は、私に負けたくないと意地はって上げた一学期の成績を、私と仲良くなったから、もういいのと言って、テスト勉強に力を入れず。まぁ、学園の経営者の娘だから、どんな結果であろうと進級はできる。何とでもなる。
そんな柴崎は、自分の成績よりも先に、慎一と藤木の成績を確認して、慎一にきつい言葉でお灸を添える。
新田慎一872点 52位
藤木 亮928点 18位
柴崎麗香902点 25位
真辺りの982点 1位
私が、この学園に居るためには、学年トツプの成績を維持し続けなければならない。学業、生活態度、クラブにおいて、他の生徒の模範であるようにと。特待制度を受ける時に、校長室で聞いた言葉。それは、思いのほか重圧となって襲う。私の成績がトップで、特待を受けている事に、妬みや嫉妬をぶつけてくる人たちの視線。
柴崎と仲良くなってから、随分とそれは減った。それでも、こうして成績発表の日は、ささやく声が聞こえる。遠巻きにぶつけてくる視線がきつい。
「ニコちゃん、教室、戻ろっか。」
藤木が、私を気にかけて、この場から離れるよう促してくれた。こういう時、さりげなく状況を変えてくれるのは、いつも藤木。
「あんたね~。変な意地張って、ニコに教えてもらわないから、こうなるのよ。」
「い、意地でも、それだけは嫌だ。」
「英語以外は私より点数いいのに。馬鹿じゃないの~」
柴崎の説教は続く。二人を残して、藤木と教室に戻った。
10月12日(火)
昼休み、柴崎と私、慎一と藤木は、食堂で給食を取った後、雑談をしていた。海外研修旅行の後から、4人で食べるのが当たり前になっていた。
「ねぇ、なにか、いいアイデアない?」
「アイデアって、突然言われてもなぁ。」
「いいじゃんか別に、今更、変えなくても。表彰式やって終わりで。」
柴崎は、クラスの代表委員で、学園最大のイベント常翔祭の実行委員でもある。おまけに生徒会にも入っている。
私も、去年、慎一と一緒にやった実行委員。書類の提出など地味にやる事が沢山あって大変だったけど、夜の暇つぶしにはちょうどよかった。
今年の文化祭は何か趣を変えて、一つ目玉になる事が出来ないかという話になっているという。毎年、文化祭の最終日の3時から体育館で体育際の表彰式で幕を閉じる常翔祭。一応、表彰式は盛り上がる。でもそれは、優勝と準優勝したクラスだけ。入賞できなかったクラスは白けている。というか、参加しないで文化祭の後片付けをして体育館に来ない生徒が多い。それをどうにかしたいとのこと。
「大学とかだったら、芸能人呼んだりして、盛り上がるんだろうけど、そんな予算はないんだろ?」
「ないない、あるわけない。」
「うーん。」
「ねぇ、ニコ、海外じゃ、どんなことやってるの?文化祭とかないの?」
「ある。ハイスクールは大規模にやってた。何やってたかなぁ。合唱に、演奏会、劇に」
「海外でも変わらないんだね。」
「最後はダンスパーティをして終了だった。」
「へぇ~海外ぽいなぁ。」
「それよっ!それならお金かけずに、全員が盛り上がる事が出来る!」
目を輝かせて、立ち上がる柴崎。さっそく、企画書を作るわ。と空になったトレーを小走りに返却口に持って行く。そして、私達がいるテーブルにお先と声をかけ、立ち去った。呆然とする私達。
「だ、ダンスパーティ!?」
「だよな、柴崎が食いついたの」
慎一と藤木が顔を見合わせてから、何やら不安げな顔を、私に向ける。
「何?。まずい事、言った?」
「いや、そうじゃなくて・・・。」
「何だか、めんどくさい事になりそうな予感で・・・」
海外生活は楽しかった。皆が笑顔で寄って来てくれた。
当時フィンランドでは日本のアニメが子供に人気で、大人にも和食ブームとかで、国全体が日本に関心を持っていた。
父の転勤で移住した町は、ロシアとの国境がある自然豊かな田舎町だったけど、日本に関心があるのは田舎でも変わりはなく、
教育に力を入れ、優秀な人材を世界に売り込む政府戦略で、学校では英語が公用語として徹底されていた。フィンランドの首都ヘルシンキの街は、ほぼ英語が通じていて、フィンランド語と英語の2つの言語が当たり前の様に飛び交っていた。だけど父の転勤で移住したキルギスと言う町は、元はロシア領だった為にフィンランド語ではなくロシア語を話す人がほとんどで、看板も英語とロシア語の両方が書かれてあった。
冬が長いフィンランドのキルギスの町は、その冷たい気候とは反対に、言葉のまったくわからない私達家族に対して、優しく迎え入れてくれる暖かい田舎町だった。
学校でも、不自由を感じる事は全くなかった。初日から、みんなが、言葉のわからない私に、身振り手振りで生活のルールを教えてくれて、手伝ってくれた。一生懸命なキラキラした瞳を見ていれば、何を言っているのか、すぐにわかった。
一週間も経てば英語とロシア語は、聞き分けられるようになっていた。
10月19日(火)
慎一と藤木が言った「めんどくさい事」の企画は通った。
文化祭、最後のプログラム、体育館で行われる表彰式のあと、薄暗くして、ダンスパーティを最後のメインイベントにすると言うもの。
ディスコ調のハードな曲からJポップ、そして、チークタイムまであるという。
「チークは男女ペアでって、なんだよ、この注意書き!」
慎一が、文化祭本部から配られたチラシを見て素っ頓狂な声を出す。
「なんだよって、書いてある通りよ。チークは男女で踊るもんでしょう。」
「それは、わかってるけど。」
「この時期どうせ、カップルが多くなるんだから、生徒会本部もそれに花を添えてやろうって話よ。」
「良く通ったな、この企画。」
「まぁね。風紀の田中先生は、猛反対だったけどね。それは学園の特色を反対に利用して、押したわよ。」
と柴崎は腰に手をやり、得意げに胸を張る。
この学園は、英語教育に力を入れている。一学期に行った海外語学研修を代表するように、海外に多数ある提携校との交流も濃く行われている。柴崎は、その海外研修旅行でお世話になった、マノアグラマースクールの生徒会と連絡を取り、向うの文化祭でダンスパーティをしている写真をメールで送ってもらい、海外提携学校の実績を掲載した企画書を作り上げた。英語教育に力を入れている学園だからこそ、教師陣達は反対が言えない。見事な押し方。こういう大胆かつ迅速に行動する時の柴崎を、誰も止める事はできない。流石だなと私は、胸をはっている柴崎の顔を見つめる。
私の視線を感じて、柴崎が何?と聞いてくる。
「楽しそうだな。と思って。」
「そうでしょ。絶対楽しいわよ。ダンスパーティ。」
「そっちじゃなくて、柴崎が。」
そう、柴崎は、いつも何に対しても、全力で立ち向かっていく。常翔祭が近い今、柴崎は忙しいと愚痴をこぼしながらも楽しそうだった。
私には無理。1年前、1年1組で推薦投票で実行委員になった時、私はこんな風に立ち回る事はできなかった。
クラスメートと話すこともできなくて、慎一に迷惑ばかりかけていた。
押し寄せる提出書類は、私には、ちょうど良い夜の暇つぶしで、みんなの為を思って、やっていたわけじゃなかった。
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ。リノ ・・・・・・
10月20日(水)
3:58夜は長い。窓を少し開けて、外の空気を入れた。遠くの268号線から、車の走る音が聞こえてくる。
ひんやりした風が部屋の空気を換える。風で靡いたカーテンが机の端に置いてあった卓上カレンダーに当たり下に落ちる。
秋は冬を知らせるあいまいな季節。このあいまいさが私は嫌いだ。フィンランドのように、雪のふる冷たい冬が秋を待たずして来ればいいのに。日本は秋が長い。眠れない秋がまた来る。私は、落ちたカレンダーを拾い、机に伏せておいた。
窓を閉めて、キッチンへと向かう、コップに水道の水を注いだ。
キッチンに置いてある薬の袋に手を伸ばす。薬に頼るのは良くないとわかっている。でも明日、いやもう今日か、は体育もある。ちゃんと寝てないと、身体が持たない・・・・・迷って、やっぱり飲むのはやめた。まだ、この先もっと眠れなくなる。薬を常習すると効かなくなってくる。もう、これは強い目の薬。これ以上の薬は、もうないよと言われていた。
「その3者懇談の日時決定の手紙、忘れずに保護者の方に渡しておくように。以上、これで、終わりの会は終了。日直。」
日直の号令の後、クラスメートたちはクラブへいく準備を始める。今、皆の興味は、体育祭と文化祭のダンスパーティと、今、配られた3者懇談の事。教室のあちこちで話題になっている。
クラスの喧騒が頭に響いて、頭痛がする。身体もだるい。流石に睡眠時間3時間は辛い。やっと授業が終わったと肩で息を吐いた。
「なぁ、柴崎、単純な疑問、していいか?」
「何?」
「お前は、三者懇談すんの?」
「するわよ。ほら、3時~ってなってんでしょう。」
私のななめ前の机で柴崎と藤木が話し始めた、その会話を聞くのも怠い。会話に加わる気力がない。
「理事長が先生と話しすんのか?やりにくそー。」
「違うわよ。母が来るに決まってんでしょう。」
「ふーん、そーなんだ。」
「ちょっと考えればわかるでしょう。そこは、ちゃんと切り離して、やってるわよ。」
柴崎は、この学園の経営者、柴崎信夫理事長の一人娘。この大胆かつ迅速に突き進む性格は、経営者に向いていると思う。
きっと、跡を継いでも上手く経営できるだろうなと思う。
「あんたこそ、大臣来ないの?」
「大きな声で言うなよ。来るわけないないだろ。}
藤木は、文部科学省、藤木守大臣の息子。人に知られたくないらしく、口外するなと念を押されている。
藤木が、この先、政治家を目指すのかどうかは知らないけど、藤木の幅広い人脈と、うまく立ち回る戦略的頭脳を持っていれば、簡単になれそうな気がする。
「ニコちゃんはいつ?3者懇談」
藤木が笑顔で振り向き、話を振ってくる。
「最終日の五時。」
「待ってよ、俺。」
「何でよ。」
「ニコちゃんのお母さん、見てみたい。さぞかし美人なんだろなぁと思って。」
「ストーカーか!ニコのお母様、さぞかし心配なさるわ。」
「何でだよ。」
「うちのかわいい、りのに変な虫がついてる~て」
「何,言ってんだよ。俺みたいな」
「心配なんてない。」
「えっ?」
しまった、何も考えずにイライラを吐いてしまった。しかも吐き捨てるように。二人が、私のつぶやきに驚いて、会話を止める
「いっ・・・・忙しいから。や夜勤が多いし。」
無理やり笑って取り繕う。が、聡い二人には効き目ないだろうなと、二人から顔をそむけた。
「看護師だもんねぇ、白衣の天使、いいね~。」
藤木のわざとらしい明るさに、イラッとした。
母は、看護学校を出て、若い頃からずっと看護師をやっている。スキーで足を骨折した父の看護をやったのが出会いの始まり、父が退院時に食事に誘って交際して、結婚まで発展したと聞いていた。
慎一のお母さんである啓子おばさんとは,中学時代からの親友で、結婚後、同じ団地に住み、私と慎一は双子のように一緒に育てられた。小さいころは本当に、どっちが自分の家かわからないほどで、啓子おばさんも母も結婚前から勤務している仕事を辞めずに、お互い助け合って、私達二人を育てた。今、母は、関東医科大学付属病院の救命救急外科の看護師、結婚前よりハードな勤務をしている。わざわざ、なり手の少ないハード勤務をしているのは、お金の為。父が死んで何もかも失ったから。「昔から救命救急看護師を目指していたの、だから資格を取れて、勤める事が出来て、やりがいがあるわ」と母は言うけど、絶対に嘘。私に対する建前。
本来なら、私は、こんな授業料の高い私立の学校には入れない身分。特待を受けることで辛うじて可能となった。
特待と言えども、何もかもが免除になるわけじゃなく、制服や、給食費、クラブ費、授業カリキュラムに含まれないその他もろもろは援助の対象外。その費用を捻出する為のハードな救命救急看護師、そこそこのお給料を貰っていても、家計は苦しい。
私は母に顔を合わす事が出来ない。ここに入りたいと、私が我儘を言ったから。
リノ ドウシテ ニゲタ リノ、ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ
10月21日(木)
早く雪降る冬が来ればいいのに。冬が来るには、あの日が来なければならない。
あの日を飛び越えて冬が来たら。眠る事ができるのに。あの日を超えるには、まだ沢山の夜を耐えなければならない。
そんな事を思う私は酷い人間だ。薬を飲んで寝たのに、いつもより早く眠る事が出来ただけで、朝早く起きてしまった。
時計を見ると5:12、睡眠時間4時間ちょっと。
まぁ、この時期にしては、眠れた方だ。カーテンをあける。薄明るく朝が来る気配。
することがないから、制服に着替えた。食パンを半分に切ってトーストする。時間つぶしにテレビをつける、消音で。
冷蔵庫からミルクを取り出す。無音で行動することは無理だった。私の生活音に気づいた母が起きてくる。
「おはよう。りの・・・・・ちゃんと眠れた?」
うなづきの返事。
「そう、良かったわ。」
嘘をついた。心配をかけたくない、じゃなくて、私に関心を持たないでという、バリア。
母といる時間を少しでも少なくしたくて、早めに家を出た。
学校は、7時半に家を出たら十分に間に合う。いつもより45分も早く家を出たのに、バスに乗っている最中で気分が悪くなり、いつもの降りる学園前停留所より2つ手前のバス停で降りた。吐きそうだった。だけと吐くものなんて胃に入っていない。
焼いた半分のトーストもミルクもほとんど食べずに残してきた。
母の前では食べ物がのどを通らない。それに昨夜は薬も飲んだから薬の副作用。だから薬を飲むのをなるべく避けていた。
だけどあの日が迫まるにつれて眠れない日が増えてくる。今日は、木曜日、えりちゃんの家庭教師もある。ぼやけた頭で教えたくない。いい加減な事は出来ない。そう思って昨晩は早いうちに薬を飲んでベッドに潜り込んだ。その判断に後悔する。
もう、飲んだ方がいいのか、飲まない方がいいのか、どっちが体にいいのかわからない。結局は、あの日を超えない限り、私は眠れないのだ。
私は大きく息を吐き、吐きそうな胸の中に新しい空気を入れた。授業開始まで、まだ十分に時間はある。
私は学園までバス停2つ分を歩いて登校することにした。
学園はなだらかな低い丘を切り開いて建てられている。だから、学園付近は坂道が多い。私の住む自宅も深見山展望公園のある山のふもとにあって、子供の頃、慎ちゃんとまだ当時、開発されていなかった田んぼや空き地、野山を走り回って遊んでいた。
フィンランドでも緑の多い田舎町だったらから、夏はもちろん、冬でも雪の中を走り回って遊んだし、夏は父と山登りやキャンプに出かけた。
足には自信がある。バス停2つ分ぐらい歩くのは全然平気。だけど、やっぱりここ数日の睡眠不足と食欲低下は、体力を落としている。早めに学園に到着するかと思った予想は、大きくはずれて、いつもと変わらない時間についた。少し息切れもする。
学園の門でIDカードを機械に通した。おはようと声をかけて来てくるクラスメートにドキドキしながら、おはようと答えつつ校舎の下駄箱ロビーに向かう。昔は、私におはようなんて声をかけてくる同級生はいなかった。皆、遠巻きに私を同じ人間ではないような異質の目で見られていた。それはある意味、私にとってはありがたいことだった。人と話せなかった私にとっては。
「おっはよ!ニコちゃん!」
軽快なハイテンションの声。振り向かずとも誰かは、わかる。
「おはよう。」
毎日声をかけてくれる藤木。彼だけは昔も今も変わりない、いつも目じりを細めて、私の顔をちゃんと見ながらおはようと言ってくれる。呼び名は真辺さんからニコちゃんと変わった。
学校でニコと呼ぶなと慎一には言っていた。だけど去年の文化祭終了後、もう、めんどくさい!とキレれらて、好きに呼ばせてもらうと宣言された。いつの間にか、私達が幼馴染である事がクラスメートには知れ渡っていて。だから慎一が私を昔のあだ名で呼ぶことに誰も不思議がることもなくて、そして、いつしかそのまま、藤木も柴崎も「ニコ」と呼ぶようになった。そして、私も。昔は慎ちゃんと呼んでいたけれど、今更ちゃんづけも恥ずかしいなと名前で呼ぶことにした。
藤木の後から朝練を終えたサッカー部が続々と校舎内へと入ってくる。
「うっす。」慎一は、ラップに包んだおにぎりを食べながら、入ってきた。
「おはよう。」
慎一は良く食べる。啓子おばさんが、米を炊いても炊いても追いつかない!と叫んでいる。
食べ物をみたら、おさまっていた胸の気持ち悪さがまた込み上げてきて、顔をそむけた。
「ニコ?」
いくら、宣言されたとはいえ、あまり学校では呼んでほしくないあだ名。私は昔のような、ニコニコのニコでは、なくなったから。
「・・・・何?」気分の悪さも相まって、かなり、イラついた声で返事をした。
バサと慎一のロッカーから何かが落ちてきた。可愛い絵のついた封筒、丸っこい字で、新田君へと書かれている。
慎一も私も、私の横に居る藤木もその封筒をしばらく無言で見つめた。
「モテ自慢、か?」
「え?いやいや、違う違う、呼んだのは」
「良かったな。」
「えっ?ちょっとニコ、違うってば!」
慎一はどう思っただろうか。私が昔のように笑えなくなったことを。
慎ちゃんにつけてもらったあだ名に似合わなくなってしまった私を。
慎一の前から逃げるように教室へ行く。
理事長が呼んでいると柴崎から聞いて、私達は給食を取った後、雑談はせずに、理事長室に来た。
満面の笑顔で私を迎える柴崎の父親、柴崎信夫理事長は、分厚い唇が似ていた。そして、この熱い視線も、それに私はたじろぐ。
理事長は要らなくなった小学校の教科書や絵本などを沢山、集めてくれていた。大き目の紙袋に4つ分、
ちょうどいいわ、あんたたちも来てと、一緒に給食を食べていた慎一と藤木を誘うから、なんだろうと思っていたのが、荷物持ちとは・・・流石は柴崎、人を使うのがうまい。
「こんなに沢山の教科書どうすんだ?」
「英語に訳してフィンランドに送るんだ。」
「へぇー。」
「授業に使いたいと友達に言われて。」
「今まで、古本の絵本を送ったりしていた。教科書の方が良いかなと思いついて・・・」
「初等科の頃の教科書ない?って言われても、もう捨てちゃっててね。その話を父にしたら、早速こんなにも集めてくれたのよ。」
「すごい量だな。」
「おっ懐かしー、俺もこれ習った。」
「父はニコのファンだからね。張り切っちゃって、あっ、送る費用を出そうかって言ってたよ。」
「そこまでしてくれなくていい。大丈夫。」
「理事長がニコのファン?」
「そう、ニコを特待に押したのは父よ。私も最近、知ったんだけど。」
特待入学試験の面接で、全くしゃべれなかった私は、教科主任や教頭からは不評で、テストの点数と海外生活の経験でかろうじて最終選考まで残っていたらしい。今期の特待をなしとするか、私を採用するかは理事長の最後の押しが決め手となったようだ。
「確かに私は、面接で日本語を全く話せなかったからな。」
「日本語をって・・・・まさか英語で?」
「見かねた、英語主任が、日本語が無理なら英語でもいいですよと笑った。ムカッと来て、そのあと、すべて英語でアピールした。英語ならいくらでもしゃべれる。」
「驚いたな。」
「でしょう!父も驚いたって、今まで、何百人の特待生の面接を見てきたけど、こんなに、きれいな英語を話す子はいなかったし、その話の内容も素晴らしかったって。だれど、いくら英語が堪能でも、日本語がろくに出来ない子を特待生にするのは、どうかっていう意見も出てね。父が、この学園にこそ彼女が必要だと押したのよ。」
そうだったんだ、柴崎理事長が、私を必要だと言ってくれてたのかぁ。感謝だな、柴崎親子に。
あの時から全く声が出なくなった。不思議と、英語、ロシア語、フランス語は声になるのに、日本語を話そうとすると声がでない。
母と一緒に病院に行った。精神科へ。
『やはり、同級生からの日本語の発音がおかしいと苛められた経験と、お父様が亡くなられたショックで、日本語が出なくなってしまったんでしょう。このまま無理せず、英語だけでも大丈夫です。日本語が聞き取れないってわけじゃないんですから 日本語を忘れてしまうって事はないですよ。りのちゃん、ゆっくり、無理しなくていいからね。』
母はフィンランド移住で日常会話程度の英語は聞き取る事が出来るようになっていたけど話すのは堪能ではなかった。ロシア語は聞き取りも全く駄目で、買い物に行く時は、いつも私が通訳をしていた。慣れない海外生活、子供の私より、母の方が何かと大変だったはず、だけど、日本に帰りたいなんて愚痴を母から聞いたことがなかった。私達家族は、フィンランドの生活をとても気に入っていたし、毎日が楽しく、仲が良かった。日本に帰ってくるまで。
精神科を後にした私達の生活は、英語しかしゃべれない私と、つられて英語が混じるおかしな日本語の母と、おかしな生活が始まった。
私は、全く学校に行けなくなってしまった。
慎一が、沢山の教科書の入った教科書を、学校から私の家まで運んでくれる事となった。これも柴崎の指示。柴崎の言う事に、誰も歯向かう事が出来ない。結構、強引な柴崎の指図もあったりするのだけど、誰もその指図に後腐れなく従ってしまうのは、柴崎の持つ才能かもしれない。
4つの紙袋を2日に分けて持って帰る事にした。慎一もサッカーの道具があって、荷物が多い。
放課後それぞれのクラブが終わるのを待って、一緒に帰る事になった。
今日は、えりちゃんの家庭教師の日だ。折り返しで慎一の家まで行かなければならない。
「そっちも、持とうか?」
「大丈夫。」
「嬉しそうだな。」
「フィンランドの友達が喜ぶだろうし、それに・・・・今晩から暇が潰せる。」
「はい?」
「あっ、いや・・・私の知らない教科書だから。」
「あぁそうか。しかし、向うの友達って、これで勉強するの?日本語を?」
「上級生が下級生に教える時間がある。教える科目は何でもいい。教えると言うのが目的のカリキュラムだから。」
「へぇ~」
「小1の子は、幼稚園の3歳の子に、少3の子は小1の子に3年齢差で。同級生の友達は今小5の子に教えている。日本語を教えると受けがいいそうだ。」
「面白いカリキュラムだな。流石フィンランド。」
「フィンランドは資源の乏しい国、世界に負けないようにと考え出されたのが、人を育てる事。国を挙げて教育に力を入れ、頭脳を世界に売り込むという方針。大学まで授業料は無料。」
「ほぉーそうなんだ。」
「冬が長くて室内にこもりがちになるフィンランドの風土も、教育に力を入れやすい環境だ。」
学校に行けなくなった私は、家の自室に閉じこもり、そのうち時間の感覚がわからなくなった。眠れない夜と薬による倦怠感、今が昼なのか夜なのか、眠りたいのに眠れない。薬を飲んでも夢で起こさられる。冬が来ても話せない日本語。通院以外はカーテンを閉め切った暗い部屋から出ない閉じこもりの生活。
父が死んだというのに涙一つ出ない。自分の非道さを非難する事さえ気怠く落ち込む日々。
その落ち込みも当たり前に、自責をする事に私は逃げ続けた。
泣く資格は私にはない。眠れないのは、私が逃げた罪の受刑。
「何してる」
「いや、その・・・・よその家で・・・・男だし」
「今更、何言ってる、目の前で着替えたりするくせに」
慎一の家に通い出して一年が経つ、啓子おばさんも、秀晴おじさんも、昔と変わらず本当の親のように接してくれている。
慎一も最初こそ居心地悪そうにしていたが、すぐに私の存在はえりちゃんと同じように兄妹になった。目の前で着替えも平気でするし、ソファーで腹を出し、よだれまで出して寝ていたりする。
「それとこれとは・・・・。」
慎一の基準が良くわからない。紙袋をもったまま、玄関に突っ立ている慎一に入れと背を押す。
「初めてだっけ?家に入るのは。」
家庭教師をした日の夜は、いつも送ってきてくれてたけど、マンション下までだった。それも自転車を買ってから送りは止めてもらった。
「いや、二度目。」
「ん?いつ、来た?」
「去年の今頃、熱出して学校を休んだ時、母さんと一緒に来て、おかゆ作ってやっただろう。」
「そう・・・・だったか・・・な?」
覚えていない。この時期はいつも記憶が、あいまいになる。過去なのか、現在なのか。確かに学校を休んだ記憶はある。
啓子おばさんが看病に来てくれて・・・・・。慎一がおかゆを作った?覚えてない。
「そこに、置いて。」
「あぁ、重かった。」
「ありがとう」
「うわっ、これ何、英語ばっか。」
慎一が、私の机に置いてあった、フィンランドから送ってもらった現地の教科書とノートのコピーを見て、英語アレルギーを発症した。
「それ、フィンランドの教科書、向うの方が進みも早く、わかりやすいから送ってもらってる。」
「へえー、早いってどれくらい?」
「んー。数学が一番早くて二年ぐらいかな?その公式は、こっちでは高校で習うらしいから。」
「げっ、これ、数学のノートだったのか?」
慎一の英語アレルギーはよっぽどの重症らしい。英語で書かれているとはいえ、数学か、どうかもわからないなんて。英語さえできれば、15番までは入るはずなのに。もったいない奴。
「いつまで、そこにいる。」
「えっ?」
「着替えるんだけど。」
「わっ。ごめん。」
慌てて、部屋を出る慎一に、冷蔵庫の飲み物を好きに飲んでいいと声をかける。
昔は、双子のように一緒くたに育てられて、お風呂も一緒に入っていたのに・・・・面倒になったな。
「ニコ?」
「何?お茶の在庫ない?」
「いや・・・・・具合、悪いのか?」
「何の話?」
「朝も顔色が悪かった。・・・と、トランキライザー?」
「!!」
薬の袋を、キッチンに置きっぱなしにしていた事を思い出した。部屋の引き戸を、おもっいきり開けて、慌ててキッチンに駆ける。薬の袋を手に取って見ているのを奪った。
「か、風邪気味・・・の、喉の薬。」
苦しい言い訳、袋には、精神科と小さく書いてある。バレただろうか?
これが、精神安定剤兼睡眠導入剤だという事を。
薬の袋を引き出しに押し込み、誤魔化すために、まだ空のコップを手に持ったまま突っ立っている慎一から、コップを取り上げ、冷蔵庫からお茶をだし、注いでテーブルに置く。
「はいっ。お茶、飲め!」
「ちょっニコっ!ちゃんと服着て。目のやり場に困る。」
慎一が大げさに顔を背ける。
デニムのシャツワンピの前ボタンはまだ途中だった。
あぁもう!ほんと、面倒!
『眠れないのなら、お薬を出しましょう。あまり常用するのはお勧めしませんが、子供の成長に睡眠は必要ですから、状況を見極めて、うまく利用してください。お母様が看護師さんですから、私も安心してお出しできます。』
父の死の後始末と、私の看病と通院、母は二か月で限界に来た。その時に母の漏らした言葉。
『戻ろうか、あの街に。』
あの街?あの街ってどこ?フィンランド?フランス?
『慎ちゃん合格したんですって、常翔学園のサッカー推薦。』
慎ちゃん?慎ちゃんって誰だっけ・・・・・日本人の友達いたっけ?私。
朦朧としながら自室に戻りベッドに寝転がった。
何か固い物が手に当たった。
虹玉・・・・慎ちゃん。
涙が不思議とこぼれた。
なにこれ、涙?
おかしい、私は泣いたら駄目なのに・・・・。
バス通りに出て信号を渡る。ここから緩やかな上り坂が続く。右手に東静線本線から延びる伏線の深見山線。
事故防止に設置されたフェンスに雑草が絡まってる。
慎一は、薬の事を聞いてこない。新田家の事だから、何かしら知っていてもおかしくない。
昔からプライバシーの全くない明るいオープンな家。
「無理すんなよ。朝、顔色悪かったぞ。家庭教師、しんどかったら、やめても・・・。」
今朝の調子の悪さに気づいていたのか。
そういえば昔から、私の具合の悪さを一番に気づくのは、母よりも慎ちゃんだった。
「餓死させる気?」
「はぁ?」
「やめたら、夕飯、食べられなくなるだろう。」
常翔学園を中学受験するという慎一の妹のえりちゃん。女子には特に人気の学校ゆえに、受験倍率が高くて、小学3年から受験勉強を始める子もいると聞く。えりちゃんも塾に通っていた。ひょんなことから、週に2回、私が家庭教師をして、その代償として夕ご飯をごちそうになるという約束になった。新田家の食卓は明るくて楽しい。いつも誰かがしゃべっていて、それを聞いているだけでも楽しい。
家で母と一緒に食事を取りたくない。おいしくないわけじゃない。母の作る料理は好きだ。
だけど、二人きりの食事に息が詰まる。食べ物が呑み込めない。いつも残してしまうおかずを寂しそうに見られるのも辛い。
新田家では不思議とそんなこともなく、少量でも食べることが出来た。おそらく、母は啓子おばさんから聞いているはずだ。
新田家ではちゃんと食べられている事を。だから、私は、ますます母の顔をまともに見ることが出来ない。
「家庭教師なくても、いつでも食べに来たらいいじゃん。」慎一が笑う。
「まぁ、そうだけど・・・・一応、家族じゃないし」
「今更、言う?自分の部屋まであって。」
啓子おばさんが、2階の一番奥の空き部屋を私の部屋として作ってくれた。家庭教師で帰りが遅くなったら泊まっていきなさいと。
その部屋を使ったのは、藤木の件で心配していた時、一度きり。
「そう・・・だね。」
新田家の家族だったら、そう思った事もある。
それより、5才の時、海外に行ってなければ・・・・私達2つの家族は昔と変わらず笑顔で居ただろうか?
くだらないな。と現実に戻す。そんな事を考えても父は戻ってこない。
私は罪を背負うしかないのだ。一生。
常翔学園のホームページを見た。きれいで豪華に施設の整った広い学校、こんなところに慎ちゃんは入学するのか。私には無理、父が死んだ今、こんな高い授業料を払えるはずがない。と諦めかけた時、目に付いたのが特待生制度の文字だった。
母に、この特待生制度を受けたいと言った。母は、にっこり笑って、わかったと答えた。母の笑顔を見たのは、久しぶりだなと思った。
啓子おばさんが入学案内の書類や、過去問題を手に入れて送ってくれた。一般入試より数段難しいと言われる特待生の入試テストは、英数理はフィンランドで既に勉強したものばかりで簡単だった。社会が全く分からなかったので、社会の勉強のみを重点的にする。国語もフィンランドではやってなかったけど、フランスの日本人学校で一年半の間に、みっちりやらされていたから受験用の問題に強化勉強すればいいだけだった。眠れない夜を利用して、ひたすら社会と国語の勉強をした。勉強していれば、何も考えなくて済む。問題なのは、面接。英語強化している学校とはいえ、さすがに日本語が話せなくて受かるはずもない。
私は声を出す練習を始めた。「あいうえお」から。
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ
10月22日(金)
給食を終えて、次の授業が始まるまで、教室の窓から柴崎と外を眺めながら雑談していた。
運動場では、慎一と藤木を含む同級生達がサッカーをしている。
「朝練もやって、この後クラブで嫌ほどやるっつうのに、まだやるのね、サッカー。」
「サッカー馬鹿。」
「ほんと。馬鹿だわ。」
柴崎が呆れた顔で肘をつく。
下の方から、一年生の女子グループの黄色い声援が上がる。
「新田せんぱーい頑張って!」
頑張るほど、真剣じゃないけどなぁ。あれ。
慎一の本気のサッカーはもっと凄い。徒競走並みに、ドリブルをしてもスピードが落ちない。
私も運動は得意な方、小さいころから慎ちゃんと野山を駆け回って遊んでいた。日本でもフィンランドでも運動会の徒競走は誰にも負けないで、いつも一番で、幼稚園までは慎ちゃんに勝っていた。それなのに、今は、負ける。去年の体育祭で私と慎一はブロック対抗リレーに出る事になって、その練習の時に、一度徒競走をしてみた。完敗。
もう昔とは走り方が違う。全力を出し切って肩で息をしている私の傍で、余裕の顔でいる慎一にものすごく腹が立った。
おまけに、見下げるその身長差にも。
「新田ファンクラブの人数が増えつつあるわね。」
慎一はモテる。サッカー推薦で将来プロとして有望視されている慎一は、去年の全国大会でも出場して、ケーブルテレビに映った。その頃から急激に増えた新田ファンクラブの女子。まるでアイドルを追っかけるような感じで。
「楽しそう。」
慎一は、その黄色い声援を、聞こえているのか、聞こえていないのか、何のリアクションもなしで、ボールをひたすら追いかけている。
「おっ、何その余裕。」
「余裕?どういう意味?」
慎一は昔から、ボール遊びが好きだった。どこに行くにもボールを持っていたような記憶がある。
『ニコ!キーパーやれ』と言われて、無理やりやらされた。
で、顔に思いっきりぶつけられて鼻血が出た。それをげらげら笑って・・・・・思い出した!あいつ、謝りもせず、ずっと笑い転げていた。むかつく!
昔の記憶に本気でむかつくなんて、やっぱり過去と現実があいまいになっている。
「一度、聞こうと思っていたんだけど・・・・ニコは新田のこと、どう思っているわけ?」
「どう?とは?」
柴崎の質問の意図がわからず、首を傾げた時、教室のスピーカーから呼び出し合図音が流れる。
(生徒の呼び出しを致します。2年3組真辺りのさん、至急、職員室まで来てください。繰り返します・・・・
「私?」
思わず柴崎の顔を見たが、当たり前に柴崎は何のことかわからないと、首をすぼめる。
学園の事なら、柴崎は何でも知っていると思ってしまっている自分に、心で苦笑する。
椅子から立ち上がった。目の端で運動場で走りまわっていた慎一と藤木が、ぴたりと止まって、こちらを見上げているのが見えた。
「おーい、新田、早くボール回せ!」
「きゃー、新田せんぱい、こっち見た~」
職員室へは、興味深々の柴崎が付いてきた。入ると、事務方の人に隣の会議室に行くよう言われる。一度、外に出ようとすると柴崎にあっちと指さされて、窓際の方のドアへと背中を押される。その扉は教職員しか使っちゃいけないと思っていた。
ノックして入る。柴崎は中途半端な遠慮をして顔だけをのぞかせている。
会議室には、女生徒4人、教頭先生と英語教師主任と、外国人教師のエミリー先生。そして、柴崎のお父さん柴崎理事長と、凱さんの姿があった。人の多さにたじろいで、後ろにバックしたら柴崎は相撲の張り手のように押し返す。つんのめるように私は中に入った。それをきっかけに、柴崎は会議室にちゃっかり入り込む。
「やー、りのちゃん、久しぶり。」凱さんが笑顔で私に歩みよる。
「こっ・・・・こん・・・にち」
一体、何だ、このメンバーは。私、何か呼び出されるような悪い事した?。
理事長と凱さんは、ニコニコ顔だけど、教頭先生と教師陣は真剣な面持ち。理事長は、もう少し中へと私を促す。
見慣れない女子生4人が、私との一定の間隔をあけて奥に移動する。
「りのちゃん悪いね、休憩中に、ちょっとね折り入って頼みがあってね。りのちゃん11月6日って空いてるかな?って言っても土曜日だから学校出席日なんだけどねぇ。」。
土曜日は通常授業はなくて自習日。とは言え出席しないと欠席扱いになる。だけど、クラブの試合が土曜日にある場合はクラブ優先しても欠席扱いにはならない。だから空いてる?なんてデートの誘いじゃあるまいし・・・・。一体何をそんなに楽しそうな顔を私に向けるんだ?この人は。それに他の生徒の前で、りのちゃんなんて馴れ馴れしく呼ばないでほしい。
「え?は、はい。あ、あの?」
「真辺さんの語学力を見込んで、一つ頼みたい。」理事長が1枚のリーフレットと案内書を私の前の机に置いた。
「スピーチ大会に出てくれないかな。」
呼び出されたのは、11月6日に東京で行われる英会話のスピーチ大会に出場してくれないかという話だった。
毎年その時期に開催されるスピーチ大会は、関東近郊の中学生が日ごろの英語力を試すべく、披露し、審査するという大会。
別名英語オリンピックと、リーフレットには書かれてある。その催しは、英語力に力を入れているこの常翔学園の大学部が協賛として名を挙げていて、我が学園の担当職員が、帝都大の学生でありながら学園の経営補佐する凱さんだと言う。
この英語オリンピックは毎年、英会話クラブの生徒が出場してきた。今年もそのつもりでいたのだけど、出場予定5名のうち、3年生の一人が虫垂炎で入院してしまったという。
スピーチ大会まであと15日、困った英会話クラブの生徒と顧問の先生は、担当の凱さんを交えて話し合い、私を代役で出場させようと言う話になったらしい。
「むっ無理、ででです。」辛うじて、これだけは出にくい声を絞り出す。
「英語だよ。りのちゃん。英語ならすらすら話せるでしょう。」
「そっ、そじゃ・・・・ななく・・て」
生徒4人の目が驚いて、そして私のこの日本語にぷっと吹き出す。この4人は、その出場する予定の生徒。
心でどう思っているのか、わかりやい程わかる。
(何、あれ・・・・英語ペラペラでも日本語、ボロボロじゃない。)
(スピーチ大会を棄権するのは嫌だけど、こんな日本語もままならない子にだけは頼みたくない。)
「帰国子女は出ても、いいんですか?」
ほら、やっぱり、私は彼女たちに歓迎されない。
「うん、問題ないよ。去年の聖心女学園は5人のうち一人が見かけ完全に外国人だった。5人全員が帰国子女もしくは、外国人国籍ってなると、ちょーと問題かなと思うけど、規定は、日本の学校に在籍の生徒ってなってるからね。りのちゃんの出場は、全くの問題なし!。」
クラブの生徒たちは顔を見合わせて微妙な顔をする。
「わ、私、でななくても・・・ほ、他の・え、英会話クラブ。の」
「あぁ一年生って事?大舞台で話せるほどまだ実力がね・・・。うちは、ほら、協賛として名前が挙がっているでしょう。出場枠があるのに棄権なんて出来ないしねぇ。それなりの実力のある子が参加してもらわないと恰好がつかないというか、示しがつかないんでね。りのちゃんなら、バッチし」
って満面の笑みの凱さん。
「ばばばばっち、じゃななななくて・・・・」
そう呟いたら、後ろから柴崎の溜息が聞こえた。そうだっ!
「し、柴崎・・・・さん、いいます。」
「えっ私ぃ?」
急に振られて、慌てる柴崎、ごめん。柴崎だったらできる。大舞台で話すの得意だろ。
「無理無理、常翔祭のすぐあとでしょう。私、忙しいもん。スピーチの練習してる暇ないわ。」
「そうなんだ、他にも英語の成績の良い生徒を候補に出したけど、みな、常翔祭の実行委員や、クラブの試合が重なっている子ばかりでね。」
学園祭の実行委員はクラスの学級委員でもあるから、柴崎のように、機転のよさを考慮して成績の良い子が選出されることが多い。英語の実力を持っている子は皆、学園祭の準備で忙しい。私も忙しいって言いたいのに、冒頭で凱さんの暇?にハイって言っちゃってる・・・・。まんまと凱さんに嵌められた気がする。
英会話クラブは、元々人数が少ない。皆が何かしら他のクラブの掛け持ち組だ。本当に英語が好きじゃないと、授業でうんざりするほどやっている英会話を、さらにクラブに入ってまでやろうという生徒は少ない。そんな少数クラブなのに、消滅しないのは、学園の特色、世界に通じる英語力を養うと言う方針のせい。そして、毎年行われるこの英語オリンピック出場権も、英会話クラブが消滅しない理由。
英語ならいくらでも喋れる、だけど9人の人を前にして固まる声を絞り出して、断り続ける理由は他にある。
自由スピーチテーマ《家族》
私に家族を語る資格はない。
柴崎と一緒に会議室を出る。
中から、大丈夫でしょうか?という3年の生徒の声が聞こえる。それに対する凱さんの軽い声。
「大丈夫だよ。真辺さんなら。」
全く大丈夫じゃない。めまいがして、かろうじて壁に手をつき、しゃがみ込むのを防いだ。
「ちょっと、大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃない。」
緊張で息がしにくかった。やっと深く息を吸う。
「そんなに嫌なの?出場するの。」
「出場じゃない。」
「何?クラブの人?」
「そ、それもあるけど、テーマがありえない」
「は?」
そこで昼休み終了のチャイムが鳴った。慎一と藤木が駆け寄って来た。運動場から戻るついでに、職員室に様子を見に来たらしい。
状況のつかめない二人は顔を見合せて突っ立っている。
「へぇー、そんな話で呼ばれたの」
「俺、聞いただけで、頭が痛い。」慎一の頭を押さえるしぐさに腹が立った。
「頭が痛いのは私だ。」
5時間目後の休み時間、気になって仕方なかったのだろう慎一は、詳細を知るためにわざわざ隣のクラスから来て、私達の話に加わった。
「どうしてこのテーマが嫌なのよ。」
「・・・・・母子・・・だから。」
「母子家庭だからこそ、あるんじゃないの?」
柴崎のまっすぐさは時として、人の心をえぐる。普通であれば確かに、この原稿用紙に何か書くこともあるだろう。母と子、手を取り合い生きていくみたいな、お涙ちょうだいの話が。でも私のは、大衆に披露できるような親子関係ではない。
「ほら、こう固い絆みたいな物?」
慎一が、軽く首を振り柴崎の先の言葉を止める。慎一は、やっぱり知っている。どこまで知っているかはわからないけど、どこまでかと聞く気力が私にはなかった。どこまでにしろ、新田家の底なしの明るさの前には、プライバシーなんて、ないのだから。
今はそこを気にする場合ではない。逆に柴崎を止めてくれた慎一の気遣いに、たまには役に立つじゃんと、心で褒めた。
慎一のしぐさに気づいた藤木が、気を利かせる。
「で、いつだって?スピーチ大会。」
「11月の6日」
この日にちも、なんて因果なのだろう。よりによって・・・・絶対無理だ。
「俺たちの試合は、多分、午前中で終わるからプログラムの順番によっては、行けるかもしんない。何番?」
「うちの大学が協賛として名が挙がっているから、最後の順番だったはずよ。常翔は」
「えーと試合会場から、一時間ぐらいで行けるかなぁ」
「お前、行くのかぁ。」
「あったりまえじゃん。ニコちゃんが出るんだせ。応援しに行くに決まってんじゃん。お前、行かないの?」
「応援したいのは、やまやまだけど・・・・・英語オリンピックって」
「あははは、そうだな地雷踏みに行くようなもんだよなぁ」
「藤木が出て。英会話、得意だろう」
「ごめんねーニコちゃん。大好きなニコちゃんの頼みでもぉ、それだけは、無理。」藤木の軽い笑みが憎い。
「はぁー。」
本当に、頭が痛い。
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ
10月23日(土)
声を出さずに叫んでいた。のどがひりひりと痛い。息切れもする。時計は3:13
ベッドに入ったのが12:00、それから一時半ほど眠れなかった。
2時間か・・・・夢のあとは、どんなに寝ようと試みても、いつも無理。
起きてしまった以上、朝まで、どうにか暇をつぶすしかない。
こんなに短い睡眠時間は初めてだった。おそらく、あれのせい。
スピーチの自由テーマ文を作成の為に渡された白紙の原稿用紙が、机の上に置いてある。
スピーチ大会は、課題文と、自由テーマの二回、ステージ上で発表する。午前が課題文、午後から自由テーマ、
一人二分の持ち時間、5人で10分が出場校の配分、課題テーマは各学校共通の文章を当日に渡される。突然渡された文章をどれだけ正確に、発音良く話せるかを競う。出場順で練習量の差が出ではいけないから、練習するのは30分、それが終われば全員、出場する順番が来るまで、用紙はお預けという徹底ぶり。壇上で用紙を見ながらスピーチしても構わない。ただやはり、前を向いていないと印象が悪く審査のマイナス要素になる。この課題文は問題ない。問題なのは、この家族と言うテーマの自由スピーチ。これは、各学校、好きなテーマでいい。これも一人2分の持ち分で話す。朗読劇にしてもいいし、とにかく一人二分間を英語で話していれば何でもいい。
英会話クラブ部の人達が、テーマを家族にしようと決めて、エントリーを済ませてしまっていた。
プログラムに載ってしまっている以上、テーマは替えられない。
「はぁーよりによって家族だなんて。しかも11月の6日に。」
溜息しかでない。机に座って、原稿用紙に書こうと試みたけど無理だった。シャーペンを持つと、頭が痛くなって、吐き気も少し出てきた。
薬を飲んでいないのに。吐き気がするなんて、もう限界かも。
そうだっ!私も入院して。こんなの無視しちゃえばいいんだ。
私は英会話クラブじゃないし、ちゃんと出るとは言いきっていない。
凱さんが、頼むねと言った時、うつむいただけ、ちゃんとはいと声に出して約束はしていない。
そうだ逃げたら、いいんだ!
そう考えた時、
リノ ドウシテ ニゲタ・・・・・・ドウシテ、ニゲタ・・・・・・リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。
リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・
夢のフレーズが頭に響く。
嫌だ!なぜ?!
今は起きてる。
いや寝てるのか?
トイレに駆け込んだ。少ししか食べていない夕飯をすべて吐いた。
「りの!大丈夫?」
母が驚いて起きてきた。背中をさする母の手が疎ましい。
「救急車、呼ぶ?」
英「やめて、私をほっといて!」
母の手を払ってしまった。驚いた母の顔が父の顔と重なる。
「りの・・・・・。」
私は、また、罪を重ねてしまった。母があの時と同じ、謝れと悲しげな眼で責める。
どんなに声に出そうとしても出なかった。
ごめんなさいの言葉。
「ごめんね・・・・・水、持ってくるわね」
最低だ。
もう何も出る物はないのに胃液ばかり出て、
それでも吐き気は治まらない。
「うわっ!何よ、その顔。」
柴崎が私の顔みて言う。失礼だ。確かに、酷い顔をしているとは思うけど、どうしようもない。2時間しか眠れていない上に、朝までトイレにいた。
「眠れなかった。」
「何故!って聞くまでもなく、あれかぁ。眠れないぐらい嫌って・・・断る?父に言おうか?」
「ううん。逃げられない。」
そう、逃げられない。逃げようとしたら、あの夢が現実にまで出てきた。
「でも・・・・そんな顔になってまで。」
「そんな顔って、失礼だな。」
「ニっコちゃーん、おはっ・・・・どうしたの!その顔!」
「叫ぶな、頭、痛い」
藤木の声で、皆の注目を浴びる。ひそひそと私の顔をみて話すクラスメート。その光景が目に入った途端、また吐き気が襲ってきた。
「保健室、行く。」
「えっ!ニコちゃん、大丈夫?」
「ついてくんな!」
ごめん藤木、今、言葉を選ぶ余裕がないんだ。柴崎が、うろたえ落ち込む藤木を、宥める。
結局、2時間目まで保健室で寝かせてもらった。今日は土曜日、教科授業がないから保健室の先生も大目に見てくれて、ゆっくり休ませてもらった。すこし眠れて頭もすっきりした。昼の方が眠れるのは何故だろう。夢も見ない。
柴崎と藤木は、その後の3・4時間目は、そっとしておいてくれた。今日の午後から早速、英会話クラブに顔を出さなくてはならない。
弓道部の顧問に、しばらく英会話クラブを優先させてもらう事を頼むために、昼食前に職員室にいく。理事長から話は行っているとは思うけど、やっぱり私からも言っておくのが礼儀だろう。弓道は礼儀を重んじる競技だ。弓道部の顧問の先生は、話は聞いていると頑張りなさいと言ってくれた。職員室を出る。
職員室の前で、慎一が壁にもたれて待っていた。
肩で溜息を吐く。
慎一は待っている、私が話すのを。
薬の事を。父の事を。
今日の体調不良の原因を。
無言で、裏門の前まで歩いた。このあたりは、職員の駐車場があるだけで、この門は登下校には使われない上に、山側の陰になっていて、日当たりも悪い、昼休みの入ったばかりのこの時間、大体の生徒は食堂に居て、誰もこんな場所には来ない。その慎一の配慮が、話せと要求している証拠だった。
「眠れないのか?」
「・・・・・・。」
「気になって薬の名前を調べた。」
「やっぱり、新田家はノープライバシーだな。」
「俺たちは、双子だからな。」
そう、私達は双子のように育った幼馴染。
「いつから?」
まるで、自分が頭が痛いように眉間に皺を寄せて心配する慎一
「冬が来れば治る。」
「冬?」
「この時期だけ、一過性の物。」
「この時期って・・・・命日?」
慎一は父の死んだ日を知っている。
「栄治おじさんって・・・」
「どこまで踏み込む」
「ごっごめん。」
「怒ってるわけじゃない。言える余裕が、まだない。」
嘘ばっかりだ。言える余裕?そんなものが出来たとしたら、私は悪魔だ。慎一に言えるわけがない。
「俺に、できることはないのか?」
何もない、慎一がどんなに心配しようと、どんな世話をしてくれようとも、これは治せない。
私は一生この罪と付き合って行かなくてはいけないのだから。
「・・・・絶対に言わないで。誰にも。父と薬の事が、学園に知られたら、私は、ここに居られなくなる」
睡眠薬を飲み精神科に通っているなんて、学園に知られたら、特待を外される。
そんなおかしな生徒が常翔の特待生であってはならない。
生徒の模範であるようにと特待生規約に書かれてある。
英会話クラブに顔を出すの、一緒に行こうか?と柴崎が言ってくれたが、もちろん断った。
何をしても反感を買うだけ。それなら、普通にしていた方がいい。
校舎中棟の視聴覚教室に行く。あの大きな視聴覚教室じゃなくて、普通の教室の大きさのがもう一つある。英会話クラブはそこで活動している。扉をそっと開けて、中をのぞくと、外国人講師エミリー先生が明るく、ハローと声をかけてくる。
その英語のノリに乗って、いいものかどうかもわからない。あの4人とその他一年生、同級生数人、全員で10名あまりいる。
一緒に出場する4人の視線が、突き刺さるように厳しい。
英「入って」
えっと、こういう時、日本語でなんて言うんだ?緊張で日本語が出ない、かといっていきなり英語は・・・・いくらなんでも生意気だろう。
「おっお世話に・・・な、なり」
英「ここでは、一歩クラブに入ったら、英語しか話したらダメっていう、クラブのルールなの。ミスりのなら問題ないね。」
あっそうなんだ。良かった、ちょっとは楽かも。
それなら・・・と、yesと答える。
英「真辺さん、自由テーマの文は作った?」
スピーチのチームリーダーでもありクラブの部長、3年の北島さんが、英語で質問してくる。
英「ごめんなさい、まだです。必ず、間に合わせますから、私に時間をください。」
と英語で答えたら、皆にはぁーと溜息をつかれた。
この溜息は、作文がまだである事の溜息じゃなく、私の英語の発声にプライドをくじかれた時の声。
おぼつかない日本語とのキャップがあり過ぎたのだろう。特に1年生の声が大きかった。私の日本語に笑いを必死でこらえていたから。
しまったな、も少し、たどたどしい発音にするんだった。でもエミリー先生には、そんな演技はバレてしまう。と余計な事ばかり考える。
英「自己紹介から、お願いできるかしら?ミスりの真辺。」
こういうのが嫌だった。私は歓迎されない。後から入って来た人間が、自分より流暢に話すとなれば嫌に決まっている。
だから、英会話クラブに入部するのは嫌だったんだ。
人がどういう時に、嫌悪を抱くか、3年前、東京に戻って来てからうんざりするほど学んだ。どんなに努力しても、一度抱いた嫌悪は覆らない。
『わははは。変な言い方!発音おかしいぞ。』
『芹沢さんのあの話し方イラッと来ない?』
『そううそう、私は外国にいたのよって、ひけかしているみたいでさ。わざとらしいのよね。』
『そうそう、頭良いくせに、そこはできないっておかしいよね。』
『何言っているかわかりませーん。ちゃんと日本語、話してくださーい。きゃははは』
過去のスピーチ大会のビデオを見たり、過去の課題文を朗読するのがメイン練習となった。過去10回分の課題文のコピーを渡された。
絵本の一部を抜粋していたり。教科書に出て来るような、哲学めいた文であったり、当時の時事ニュースであったり、ジャンルはさまざま。
今年は、何が出るのだろうという話題で盛り上がっている。私はとりあえず、話には加わらず、大人しくしていた。
一人二分の持ち時間、短いようで結構、長い。400字づめ原稿用紙二枚で2分。私の場合は、英語だと早口になる恐れがあるので、二枚半、もしくは三枚は必要だろう、そして、ゆっくり話す事を意識しなければならない。
スピーチは、フィンランドで、散々やって来た。得意だ。話す事自体は問題ない。
問題なのは、やっぱりこれ・・・・・自由スピーチのテーマ、家族。
駄目だ、やっぱりちょっと考えるだけで、吐き気がする。
最悪な事態は、更なる最悪を呼ぶ。
エミリー先生がしばらく、緊急でアメリカに帰国するという。スピーチ大会にまでは、帰ってこれないと。
で、私に、発音の指導をお願いと言い残して。笑顔で学園を去って行った。
神は私を見捨てた。神も見放すほど悪い子。
逃げた罪に慈悲もない。
私は心の中で泣いた。
リノ ドウシテ ニゲタ・・・・・・ドウシテ、ニゲタ・・・・・・リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ・・・・・パパと・・・・・
10月25日(月曜日)
体育祭まであと7日、スピーチ大会まで12日
眠れない日は続く、あの日が近づく。
いくらエミリー先生が私に指導をよろしくと言ったからと、先生のように指導できるわけなく・・・・
とりあえず、今日も視聴覚室の隅でおとなしくする。私は歓迎されていない、単なる人数合わせ。彼女たちは、私から離れた位置に固まって雑談。今日は一年生の子もいない。この距離が私にはありがたい。
「真辺さん、私達のスピーチ、ちゃんと聞いてる?」
突然、北島先輩に日本語で声をかけられる。皆の目が怒っている。
「真辺さん、エミリー先生に言われたでしょう。私達の発音指導をと。ちゃんと聞いて、アドバイスしてくれないと、困るじゃない。」
だから、無理なんだってば。それにアドバイスを言って聞くような雰囲気じゃぁないだろ。完全に。
「は、はい。」
仕方なく、私は教壇の正面に席を移動し、彼女たちが一人ずづ過去の課題文や自由テーマの文を読み上げるのを聞く。
「どう?」
どうって聞かれても・・・上手です。としか答えられない。
北島さんが私に大きなため息をつき、日本語で文句を言ってきた。
「あのさー。さっきから上手しか言わないけど、馬鹿にしてるの?」
「・・・・・。」
「真辺さんの語学力だったら、私達なんて幼稚なスピーチしているって事ぐらい自覚してるわよ。いくら、出たくないからって、そんなに適当にされたら私達、困るし。エミリー先生がいないからって、サボらないでほしいわ。」
「!」
エミリー先生がいないからって、ルールを破って、クラブ活動開始から日本語で雑談しているのは、北島さん達だ。
おまけに、私以外の人が良かったとか、私に教えてもらうぐらいなら、棄権したいまで言っていたのを、私は知っている。食堂で聞こえていた。そんなに私が嫌なら、会議室の時に、真辺さんだけは絶対に嫌ですと、はっきり言ってくれてた方が良かったんだ。
このテーマのおかけで私は、不眠、頭痛、吐き気が悪化している。
こんなになってまで、彼女たちに文句を言われる筋合いはない!・・・・限界だ、キレた。
英「じゃぁ遠慮なく言わせてもらいます。口の開け方が小さい。口先だけでしゃべらない。lとrの違いをしっかり、口角をあげる。原稿にばかり目を向けないで発音する時は、前を向く。立つ姿勢が悪い!手振りをつける!それでスピーチとは言えない!
それに、先生がいないからとサボっているのは、貴方達だ。ここは英会話クラブではなかったのか?クラブ内は英語オンリーだったはず!日本語オッケーはいつから変更になった?私は、聞いていない。連絡ミスか?それとも臨時部員には知らせなくてもいいルールでもあるのか?棄権したいぐらい、私の事が嫌なら最初に、真辺だけは絶対に嫌ですと、はっきり言えばよかったんだ。その不満を言わずして、成り行きに任せたなら、それなりの我慢は必要だろう。私を嫌って悪口を言うのはかまわない、私は慣れている。そんな私からアドバイスを聞きたいか?聞く意思がないその態度で、私のアドバイスがあなたたちに効き目があるとは思えない!」
10月26日火曜日
「・・・・・・って、言ってしまった事を後悔してるってわけ?」
北島さん達に頭に来て、英語で一気にまくしたてた翌日の昼休み、教室の窓際で事の経緯を柴崎に話していた。
窓の外、グラウンドでは、また慎一達がサッカーをしている。
「いや。言ってすっきりした。」
「あははは。ニコは英語だと、別人のように変わるもんね。びっくりしてたでしょう。クラブの人達。」
「んー一気にまくしたてから早口になった・・・・ヒアリングできてないだろうなぁ。ぽかんとしてたから。」
「ふふふ、で、頼みって?その事と、どういう関係が?」
「柴崎にって言うより、理事長に頼みたいって言った方がいいかな。」
「父に?」
「うん、どこか、外国人学校を紹介してくれないかと。」
「はぁ?」
「小さい子・・・幼稚園児ぐらいの子が通う外国人ばかりの施設。」
「増々ハテナだわ。」
「英語はFとOとU、wの4つしか口を閉じない、いわゆる笑ったまま話すことが出来るのが、英語。反面、日本語は、口角をあげなくても話せる。まぁ、イ行とエ行はかろうじて口角をあげるけど、それでも英語のそれとは上がり具合が違う。これが日本人の発音がどうしても口先だけになって、ぼそぼそとなってしまう原因、にっと笑ってABCを言ってみて」
「ホントだ。FとOとUとWしか、口、閉じないわ。」
柴崎は、ABCを順番に口角を横に広げたままの口を意識して発音していく。そして、今度はあいうえおと順番に。
「へぇー初めて聞いたわ。笑って話す事が出来るって」
「学園では幼稚舎から英会話を取り入れてただろう、言われたことなかった?」
『英語は笑って話すことが出来る言語よ』
フィンランドに移住して、すぐの頃に先生に言われた言葉だ。私はそれ以来、英語が大好きになって、家でも母と父の前でも英語で過ごした。
特待生受験の為に、声を出す練習をした時、改めて日本語と英語ではあまりにも、口の開け方が違うと気が付いた。
だけど、私がしゃべれないのは口の開け方が原因ではなく、精神的なものだったから、それを知ったところで、どうにもならない事だったけど。
「うーん。どうだったかな?幼稚舎までは、歌や踊りで英語に親しむような事しか、やらなかったし、本格的に英語の授業が始まったのは小学部だけど、舌の動きをやたら注意されて」
「舌の動きも大事。日本語にはない舌の動きをする。でも、柴崎は人と会話する時、相手の舌を見る?」
「見ないわね。」
「目か、口元、もしくは顔全体を見るはず。」
「そうね。」
彼女たちの朗読は、英語の授業で学ぶ日本人の発音だった。だか、スピーチ大会でそれなりの成績を出したいと本気で思うのなら、それではダメだ。舌の動き、発音をいくら部分的に練習しても、上手になるのは、やはり一部分だけ。全体の流れとして、スムーズじゃない。
エミリー先生に単語単位で一つずつ強化指導されていたのだろう、部分的な単語はきれいな発音だったけど。全体のスピーチとしては、凸凹していた。エミリー先生はこの先、それを修正していく予定だったのかもしれないけれど、もうそんな時間も指導する先生もいない。
「もう部分的な発音の特訓は捨てちゃって、口角をあげて話す方が見栄えもいいし、それなりに聞こえる。」
「なるほど。」
「それで、その口角をあげることが大事だと気が付かせる為に、日本語の話せない外国人学校、それも幼稚園児のいるところで、1日過ごしたい。」
「その外国人学校を父に紹介してもらいたいというわけね。」
「そう。」
日本語でかなり長くしゃべったので、ものすごく疲れた。肩で息したら、大丈夫?と心配される。
聡い柴崎と藤木の事だ、いくら、スピーチ大会が嫌でストレスがあると言っても、今の私の状態が、それだけではない事は、もう気が付いている。昨日も、給食のあと、気持ち悪くなって、保健室で、寝かせてもらっていた。二人は何も聞いてこない。慎一が約束を破って二人に行ってしまって考慮してくれているのかもとも考えるけれど、もうそんな事すら、どうでも良くなってきていた。
「そんな事しなくても、今、言ったこと言えばいいんじゃない?」
「昨日の後で、私のアドバイスを素直に聞くと思う?」
「まぁ無理だわね。元々嫌われているんだし。」
「はっきり言うな・・・結構、傷つく。」
「それにしても、あんなに嫌がっていたスピーチ大会なのに、どうしたのよ。急に、彼女たちの事まで考えちゃって。やる気満々じゃない。」
「出来ることなら、放棄したい・・・・でも、逃げられない。私には査定もあるし。」
「あーニコぉ・・・・。 わかったわ。父に話してくる。」
と言って、席を立とうとする。今じゃなくてもいいと言ったが、善は急げよと、教室を出ていく。私も理事長室に行くと立ち上がりかけたら、「どうせ緊張して話せないでしょうと。」と痛い所を突かれた。「ゆっくりしてて」と言うので苦笑して甘えた。
運動場の外では、この間と同じく、ファンクラブの黄色い声援が上がる。
藤木曰く、青春の大イベント常翔祭に向けて、告白シーズンが到来。恋の季節だと言う。
特に今年は、ダンスパーティがあるからチークの相手探しに必死なんだそう。ダンスパーティの事なんて、すっかり忘れていた。
慎一は、もう誰かに決めたんだろうか?そういえば、手紙も貰っていたな。あんなに、たくさんの女子の中から、誰を選んだんだろう。
と、柴崎が戻って来た。
「早い。もう行って来たの?」
「まだ行ってなくて、そこで、河村先輩につかまっちゃって・・・その・・・」
珍しく、柴崎が言いにくそうにしている。
「ニコに話があるから呼んでくれって。断れきれなくて・・・ごめんね。」
「???」
中学受験をするのを精神科の先生は反対した。受験まで約二か月しかない。そんな無茶をして、別の症状が出たり、悪化する恐れがある、どうしても、そこを受けたいのなら一年留年するとか、もっと長期に構えなさい、と言われた。だけど、私は引かなかった。
先生は毎回、反対と言いながらも、私の発声練習に付き合ってくれた。諦めか、もしくは、私の前向きな姿勢に望みをかけたのかは、わからない。
あいうえおから始まった私の発声練習は、やはり、かなりきつい物になった。、日本語を話そうとするとパニックになり、薬を飲めば倦怠感に襲われ、やる気をなくしてしまう。それの繰り返し。ほどなく、日本語を話そうとすると、吐き気に悩まされる事になった。胃液で喉がただれ、血が出た。それでも諦めなかった。慎ちゃんともう一度一緒に過ごしたい。とりあえず合格さえすれば、慎ちゃんと同じ学校で一緒の空間に居ることができる。その気持ちだけを頼りに・・・・・。
どうにか、人の顔を見なければ、絵本などを朗読するまで、日本語が出るようにはなった。
だけど、人の顔を見て話すとか、誰かに話しかけられるとか、会話となると、からっきし駄目だった。
私達親子は年開けてから、病院の紹介状を手に引っ越した。ほぼ無一文で、東京から逃げるように。
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ。。。。。パパと。。イッシヨニ
10月27日(水)
放課後、私は、弓道部に行く事にした。英会話クラブには行きにくい。それに柴崎理事長に外国人学校を紹介してもらえるまで、私が顔を出しても、ぎくしゃくするだけ。彼女たちも、私のアドバイスを聞く気になったら、向うからアプローチをかけてくるはず、という、ちょっとした意地悪心もあった。それと、もう一つ、一瞬でもいい、何もかも忘れて、無心になる時間が欲しかった。
弓道は、無心になれる。少しでも邪念があると、的に当たらない。そこが面白かった。そういえば、去年の今頃は、眠れない事はあったが、吐き気は治っていた。弓道を始めて精神的に強くなれたと思っていた。精神科の先生も、弓道部に入ったことを良い事だと、喜んでいた。
今年は、やはりスピーチ大会のせいで・・・と思うと、今こそ弓道をしなくてはいけないと思った。
袴に着替えると、自然と背筋が伸び、顔を上げることが出来た、胸の気持ち悪さもすこし楽になった気がする。更衣室の鏡の前で、ゆっくり深呼吸をして、更に背筋を伸ばす。目の下のクマは張り付いたまま取れないけど。病は気から、しゃんとしようと自分に言い聞かせて、更衣室を出た。
「ニコ、なに、袴に着替えてるんだ」
「何って、私は弓道部だから」
「そうじゃなくて、どうして休まないんだ!」
弓道場へ行く途中で、英語の補習に行く慎一とばったり会った。
最近、頻繁に5組の教室に来ては、私の顔を見て、保健室に行けだの。早退しろだの。やたらうるさい。
慎一は何もわかっていない。その言葉すらも私にとっては、ストレスになるというのに。
「なぜ、休まなければならない。」
「無茶しすぎだ」
「無茶じゃない。」
「自分の顔、鏡で見てみろよ。そんな顔して、部活なんて無茶だ。素直に帰って寝ろよ。」
「さっき見た。何故お前が決める。」
帰って寝れるもんなら、とっくにしてる。寝れないからこんな顔になってんだ!ほんと、わかってない!
「何故って、ニコが無茶をするから。」
「ほっといて。」
あぁ、もう、ウザイ。心配の押し売りはうんざりだ。それに最近こいつと一緒にいると、こっちまで注目を浴びる。ファンクラブや
ラブレターの女子たちの視線がきつい。ほら今も、教室の前でこちらを見て、こそこそと話す女子たち。
「あのなぁ、ニコっ、俺はお前の事を心配して。」
「大きなお世話」
いい加減、慎一の前から離れないと、いつまでも、きつい視線が突き刺さる。
「あっ、まて、ニコ!」
英「ニコって、呼ぶな!私の心配より、自分の心配しろ!」
意地悪で、英語で言ってやった。
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。。。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ。。。。パパと。。イッシヨニ。。
10月28日(木)
チャイムと同時に教室を出ていく生徒達、廊下は一方通行のように食堂へと人の流れが出来ている。混雑をさけ、少し時間をおいてから向かえばいいのだけど、食事後に一分でも長くサッカーをしたい慎一達の為に、混雑を承知で人の流れに任せて、廊下を歩く。
「それで、英会話クラブの人たちは、ニコちゃんに、不満をぶつけていたというわけか・・・。」
「そうなの。酷いでしょう。ニコは、ちゃんと考えてやってるってのに。」
「仕方ない、不満もわかる。切羽詰まった時期に、子供と遊ぶ企画なんて。」
二時限目の終わりの休み時間に、スピーチ大会に出るメンバーは、会議室に呼ばれていた。理事長が、早速、私の企画を聞いてくれて、横浜にあるインターナショナルスクールのキンダークラスに体験学習をさせてくれるよう取り次いでくれた。そのことを、理事長とクラブ顧問の野中教師から知らされた。
私が企画したという事は一応、伏せた形で話してくれたが、北島さん達は、内容が私の指摘した事と同じだったので気づいたのだろう。あからさまに、私にきつい視線を向けて会議室を出たとたんに、不満をぶちまけた。
『特待生だから特別扱いされているのよ』という、毎度おなじみの悪口を含めて。
そんな彼女たちと、藤木はすれ違ったらしい。驚いて私に事情を聴いてきた。
「だからって・・・・特待とか関係ないじゃない。」
「柴崎、お前も昔、散々言ってたじゃん」
「あっ・・・。ごめん。ニコ」
「大丈夫。慣れてる。」
インターナショナルスクールに行くのは、今週の土曜日の朝から。体育祭は11月の1日、体育祭の準備が土曜日の午後から始まる。今年は間に日曜日が挟むので、時間的に余裕があるのだけど。その、体育祭と文化祭の準備が出来ない事も、彼女たちの不満が爆発する最大の原因でもある。
「柴崎、体育祭の準備に参加できない。」
「いいわよ。それより、体育祭の種目、本当に変えなくていいの?そんな体調で大丈夫?バスケと、100メートル走だっけ?」
「大丈夫。去年の事を思えは、楽。」
「ははは。そうだよね、去年は、ブロック別リレーを含む4種目出場と、人の分サッカー審判までやったもんね~。」
「えーなにそれ、どういう事?」
そう去年は、実行委員としての至らなさゆえ、クラスの女子をまとめる事が出来なかった。体育祭を面倒だと参加しないクラスメートの分をやらざる得なくなった。元々運動は好きだから問題はなかったけど、睡眠不足だったために、あまり、いい成績を残すことはできなかった。
やっと食堂の入り口まで来た時、真辺さんと声をかけられる。顔を上げると、テニス部の河村先輩、この間、話があると呼び出された人。思わず、柴崎の後ろに隠れた。
「ちょっと、痛い、ニコ。」
「ごっごめん・・。」
無意識に、柴崎の腕をつかみ強く握っていた。その様子を見て、河村先輩が、偉く嫌われちゃったかな、とさわやかな笑みで言う。
「だから先輩、言ったでしょう。嫌われるとか以前の問題で、この子は、究極の人見知りなんです。」
「という事は、慣れれば、大丈夫って事だよね。文化祭まで、まだ日があるし、昨日は断られちゃったけど、まだ、期待はできるって事だよね。」
期待しないでください。絶対に無理です。これ以上、私の悩みの種を増やさないでください。
「んー。どう・・・ですかねぇ。」と柴崎
「まっ、僕は真辺さん以外は考えていないから、待つよ。それじゃあね。」
とさわやかに去っていく。
「まさか。ニコちゃん、あの河村先輩から告られた?」
「もう、消えてしまいたい。」
河村先輩は、男子テニス部の部長で、柴崎と同じ、幼稚舎からずっとこの学園の生徒で、成績優秀、生徒会会長。おまけにテニスの腕もよく、県内大会でベスト8に入る成績を残しているとか何とか・・・・。その、さわやかな笑顔と経歴で同級生及び下級生からも人気のある先輩だと言う。
春ごろまでは、同級生に彼女がいたらしい。だが、3年になってから別れたという情報は柴崎から、私には全く興味のない情報。
「驚いた。というか・・・・・まぁ、あの河村先輩なら納得かな。」
「知ってるの?」
「河村先輩の事?もちろんだよ。河村先輩が彼女と別れてから、誰が河村先輩をケットするかって、女子の中で話題必死だったからね。そうかぁニコちゃんを選んだかぁ・・・・・って!俺のニコちゃんがぁ~。」と藤木がうなだれる。
「いつから、ニコは、あんたの物になったのよ。」
「私は物じゃない。」
「ちょっと前から、色々聞かれてたのよね。河村先輩にニコの事を。だから、河村先輩がニコの事を好きなんだってのは、すぐわかったんだけど・・・。この通りの究極の人見知り、おまけに、今は、それどころじゃないじゃない。だから私、待ってくださいって止めてたのよね。でも、河村先輩がダンスのパートナーにどうしてもって、この間、言われて。引退したとは言えクラブの先輩だし・・・・強く断れなくて・・・・ごめんね~。ニコ。」
「柴崎のせいじゃない」
悩み事がまた一つ増えた。おかげで私は昨日、全く眠れなかった。こんな目の下にクマが張り付いている人間の、どこをどう見て好意を持つのか理解できない。
人気のある河村先輩が私に告白したという事は、一瞬で女子たちの間に広まり・・・・・、私は、また針のむしろに立たされる。
「食べないの?ニコちゃん。」
「食欲ない・・・・。」
給食は、少しづづでも比較的に食べることが出来ていた。藤木や柴崎と話しながら食べる食事は、家で母と食べるよりも楽しい。
慎一が、遅くなったーと大盛りに盛り付けた給食トレーを藤木の隣に置いて座り早速ほおばる。
「おぅ、遅かったなぁ。」
「あぁ、面倒なのに捕まって・・・・。」
「あはは、お前もか。」
「あ? お前もかって・・・・何?」
と、やっとトレイから顔を上げて、藤木の顔見る慎一。藤木が何も言わないので、ついで柴崎と私に顔を向ける。
なんとなく、目を逸らし横を向くと、私を見てひそひそと話すきつい視線。
(河村先輩に告白されたって、新田君を縛り付けておいて、河村先輩まで?新田君が断っているのって、あの人が付き合うなって言ってんじゃないの?新田君、付き合いたいのに真辺さんが幼馴染で監視してるからできないとか。)
藤木の能力じゃないけど、彼女たちのひそひそが何を言っているのかわかる。
最近、特に酷い。本当は慎一と一緒に給食を食べたくない。
「ん?ニコ!全然食べてないじゃないか!ちゃんと食べろ。」
食べられるか!こんなきつい視線の中で! そして、また始まった、慎一の心配の押し売り、
おまけに、こいつは彼女たちの気持ちを面倒だという。そんないい加減な気持ちで対応するから、私は、彼女たちの妬みの対象になる。そのことに気が付かない慎一に、もう限界が来た。
「他、行って。」
「はぁ?」
「お前のせいで・・・・た、食べられない。」
「俺のせい?何、言ってんの?」
「め迷惑だと、い言ってる。」
「なにが?」
「お、お前が、い、いるのが。」
「ちょっとニコ、どうしたの?」柴崎が私の腕を掴む。
「ニコ、前も言ったけどさぁ。俺はお前の事を心配して・・・」
「め面倒と。ひ人の気持ち。いいい加減、なななやや奴は」
「ちよっとまて、何言っているか、さっぱりわからん。」
「新田やめろ!」藤木が慎一の肩を押さえる
「ちゃんと、わかるように話せ。」
悔しい。ちゃんと話そうと思えば思うほど、日本語が出ない・・・・。英語なら喋れるのに。
英「お前は、彼女たちの気持ちをなんだと思っている!人の思いを面倒だと?人の気持ちを馬鹿にするやつは嫌いだ。お前が、そんな態度だから私は要らぬ誤解を招き、きつい視線にさらされる。お前の心配は、私のストレスになるという事、いい加減、気づけ!」
いきなり、英語でまくしたてた私に、周りの生徒が、食事の手を止め、注目をした。
「勘弁してくれよ英語は。ゆっくりでいいから日本語で話せよ。」
「新田!」柴崎と藤木が同時に叫ぶ。
英「それが、出来たら苦労はしない!。お前もいい加減、これぐらいの英語、聞き取れるようになれ!」
露「それに、私の心配とか今更なんだ!お前は、人の顔にボールぶつけといて、謝っていないじゃないか!鼻血の出た私の顔を散々笑い飛ばして!心配するなら、あの時心配しろ!」
席を立った。みんなの視線とざわめきが追いかけてくる。
(なにあれ、語学自慢?新田君に何言ったの?可愛そう新田君。ほら、やっぱり新田君を縛って・・・)
「なんだよ。都合悪くなったら、いっつも英語で。」
「新田!いい加減にしろ!」
藤木が追いかけて来ようとしたのを、ついてくるなと制して食堂を飛び出した。
怒りに任せて、給食のトレーもそのままで外に出てきちゃった。
私の言いたいことは慎一に伝わらない。日本語がスムーズに出ない事に、改めて不自由を感じた。
日本語が出ないのは、慎一のせいじゃない。わかっている。だけど・・・・
あんないい方しなくても・・・・。
図書館前の小道まで来たとき。ふと、胸の気持ち悪さがなくなっている事に気づく。
そういえば、英会話クラブの人たちにに言いたいことをぶちまけた時も、すっきりした。
向こう先のベンチでは一年生の女子生徒が、おしゃべりをして、楽しそうにしている。
フィンランドとフランスに居た時の記憶がよみがえる。
うれしい事、楽しい事、怒り、不満、悲しい事、すべて友達と語り合って、楽しい事は友達の分と掛け合わせて増し、怒り、悲しみ、不満は、話すことで、消滅させていた。おしゃべりが止まらなくて、良く先生に怒られた。
どうして日本では、そんな普通の生活が出来ないんだろう。努力が足りないのかな?
お腹がぐぅーとなった。
わたしは・・・話したかったのか。
その気持ちすらも仕舞い込まなければならなかった。いくら常翔学園が英語教育に力を入れていても、会話がすべて英語なんて異質だ。さっきの視線がそれを物語っている。
『日本語おかしいぞ』東京での嫌な記憶がよみがえる。
帰りたい。フィンランドに。フランスに。
日本に帰国して、初めてそう思った。東京の生活は辛かったけど、フィンランドに帰りたいとは思ったことはなかった。当時はそれを思う余裕すら私にはなかったから。皮肉なものだ、少しの友達が出来て、周りを見る余裕が出来ると、あの楽しかったフィンランドとフランスの生活を思い出させ、帰りたい気持ちが沸き起こる。
慎ちゃんと一緒に居たいと、血を吐いてまで願った生活が、今ここに、あると言うのに、私はこの生活に満足できないで、慎ちゃんが居ない異国に帰りたいと願う。
間違いだったのかな?彩都市に戻ってきた事、慎ちゃんの傍に居たい願った事。
彼女達が言うように、私と幼馴染という事が、慎一の足かせになっている。
日本語の不自由な私が幼馴染で、慎一はきっと迷惑している。
食堂に戻る。柴崎と、藤木が顔を突き合せて深刻に何やら話すそばに、私は座った。
「ニコちゃん!」
「びっくりした!戻ってくるとは思わなかったわ。」
「お腹空いた。」
席を立つ前の私のトレーがそのまま置かれてあった。慎一は、もう食べ終わったのか、トレーも片付けられていて、本人も居ない。
「ぷはははは、あんたのそういう所、好きよ。」
「食べないと持たない。」
「うんうん、それは、いいことだよ。」藤木が目を細めて微笑む
冷めたおかずを食べる。
「ねぇ、さっきの最後の方は、ロシア語だったでしょう?なんて言ったの?」
「私の心配とか今更なんだ、お前は、人の顔にボールぶつけといて、謝っていないじゃないか、鼻血の出た私の顔を散々笑い飛ばして、心配するなら、あの時心配しろ」棒読み。
「ニコ・・・・もしかして根に持つタイプ?」
「思い出しただけ。」
「誤解を解いておくわ。」
食事を終えて、北棟と中棟の間の中庭に出て来た。花壇には季節の花が植えられている。何の花かは知らない。
「新田は、いい加減な対応をしてないわよ。告白された子に一人ひとり、ちゃんと会って説明して、相手を傷つけないように慎重に。好きになってくれた気持ちを決して、馬鹿にした対応はしていない。私が保証するわ。」
「・・・・・・」
「結構大変だと思うわよ。中には、あんた達の関係に納得しない子もいるしね。そういう子にも納得してもらうまで、時間をかけている。ニコだって、それがどれだけ大変か、わかったでしょう。河村先輩の事で。」
「私と慎一は違う。慎一は誰とでも付き合える。」
「それでいいの?前に聞きかけて、そのままになっていたけど、ニコは新田の事どう思っているの?」
「どうって・・・。」
柴崎のまっすぐな目が私を貫く。答えないと、きっとこの場所から返してもらえない。柴崎は黙って私の言葉を待っている。柴崎が持つ独特のオーラ、誰も逆らえないけど、何故か嫌な気持ちにならない。
「私達は双子の兄妹のように育った、海外に居る時は、さほど会いたいとも思わなかった。忘れていたわけじゃない。自分が毎日、楽しかったから、慎ちゃんも同じだと。慎ちゃんが常翔のサッカー推薦に受かったと聞いて、私もって特待受験して。一緒の生活は昔と同じで、そばいるのが、当たり前の・・・・」
「違うわよ。そういう事を聞きたいんじゃない。ニコは新田が彼女を作ったら、嫉妬しないわけ?」
「嫉妬?」
「そう、取られたとか思わないの?」
「取られる?慎一は、私の物じゃない・・・・」
「はぁ~。」柴崎は大きなため息を吐き、肩を落とす。
「慎一は、モテるのだから、彼女が出来て当たり前だと思うし、逆に彼女を作らない事が不思議だと思うし、作らないのも慎一らしいかなって思う。」
「ふー。近すぎるのかなぁ、あんた達。」
近くて、遠い。兄妹ってそんなもんだろう。
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。。。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ。。。。パパと。。イッシヨニ シノウ
10月29日(金)
「りの、一人で帰れる?」
大丈夫を頷いて意思表示
「ごめんね・・・。ママ、りのの事」
「早く行って。」
母の言葉の先を言わせないように被せて言う。母は困った顔で小さく息を吐く。
「・・・・・啓子の所に行くなら、連絡しようか?」
今度は首を横に振って意思表示
「そう。ちゃんとお弁当を買って、夕飯、食べるのよ」
学校を休んだ。休むほどの熱ではなかったけど、行くのが嫌になった。どうせクラブを休んで精神科に受診する予定をしていたから、学校に、休むと連絡した。母の勤務先でもある関東医科大学付属病院は、東京の病院で紹介状を書いてもらって通院しだした病院。同時に、母もここで働きだした。もう二年になる母は、同僚や、医師、患者さんからも人気者で、特に患者さんからは、さつきちゃんがいないと寂しいと声をかけられたりしている。今日も、私の付き添いで来たが、同僚の看護師が一人、緊急で休むことになったから、今から出勤してほしいと頼まれていた。
母もおそらく、私といるより、働いていた方が気が楽だろう。あの時から、私達は仲の良い親子ではなくなった。母は、私を許さない。
病院の最寄り駅である彩都市から出ている路線バスに乗り込む。後ろからちゃんと鍵をかけるのよと声。顔を向けずに真ん中の席に座る。バスのロータリーの時計が6時の時報を告げた。今日は、内科も受診したから、遅くなった。
国立公園の木々が夕日に赤く染まっていく変化を呆然と眺めているうちに家に着く。バス停を降りてすぐの所にコンビニがあるけど、母の忠告を無視して晩御飯の弁当は買わない。どうせ買っても半分も食べられない。食べても吐くなら、食べない方がマシ。もったいないし。それに疲れた。レジの店員すらも人と接したくない。
バス停から歩くこと5分、マンション前に慎一が立っていた。
「病院に行ってたのか?」
私の持っている薬の入った袋を見て、慎一が言う。
「大丈夫か?熱は?」
「もう、ない。」
近寄った慎一は、顔を見上げないと、目が合わない。去年は、同じぐらいだった。肩幅も大きくなった気がする。昔は身長も競い合っていた。幼稚園の身体測定で1センチ伸びて勝ったとか。こうやって、いろんなことに負けていく。私が躓いている間に慎一は、どんどん私を超えて先にいく。
「柴崎が授業のノートのコピーを持って行けと。あと、これ。好きだろプリン。」
白い小さなケーキの箱を突き出す。覚えていたんだ。私がプリンが大好きだった事。
「店から盗って来た。」
「何個入ってる?」
「4個だけど、さつきおばさんの分と。」
「母は夜勤になった」
3度目の訪問の慎一。暗い部屋に明かりをともす。フィンランドやフランス、東京で住んでいた頃とは、がらりと変わったインテリア。必要な物だけを選択し、すべて処分して、こっちに引っ越してきた。母もハードな勤務に疲れて寝に帰るだけのような生活。
がらんとして、寒々とした部屋は私達親子にふさわしい。
「さつきおばさん、急に夜勤になったって、晩御飯はどうするんだ?」
先週から私は、えりちゃんの家庭教師を休ませてもらっている。啓子おばさんは、いつでも食べにいらっしゃいと言ってくれているけれど、いつ体調が崩れて吐くことになるかわからないので行かなかった。
「・・・・・プリンを。」
「馬鹿か。プリンはおやつだ!それに、俺がプリン持って来なかったら、どうするつもりだったんだよ。」
「別に、食べなくても・・・・。」
「もぉーそんな事してるから、熱が出るんだろう。何が食べたい?」
「???」
「俺が作るよ。」
母もまさか今日、勤務になると思っていなかったのだろう。冷蔵庫には常備野菜ぐらいしか入っていなかった。病院帰りにスーパーによって帰ろうとしていたのかもしれない。冷蔵庫を見た慎一が、肉じゃがなら出来そう、と言って手際よく作り始める。
「流石、料理人の息子。」
慎一の包丁さばきは普通に母レベルだった。
「あそこに店をオープンしてすぐの頃、ドラマの撮影でうちの店が使われてから急に忙しくなってさ、今でこそ人を雇う余裕もできて母さんも夜は家にいるけど、昔は俺たちをほったらかしで。帰りの遅い母さんを待っていられなくて。勝手に作り始めたんだ。それが面白くてハマった。宿題そっちのけで今日は何を作って食べようかと考えていたなぁ。」
「ふーん。」
私の知らない間の新田家。どんな時も楽しそうな笑顔だけは想像が出来た。
「座って待ってろ。プリン先に食べてていいから」
「うん。そうする。」
病院の行き帰りと待ち時間で結構疲れていた。薬をもらってきているけど、最近は全く効き目がなかった。
毎日数時間しか眠れない。起きている時は、頭痛もし始めていた。
テレビをつける。どこのチャンネルもニュース番組ばかり、面白いニュースもやってなかったから、テレビを消して、ソファーを背もたれにして床に座り込む。慎一が持ってきてくれた店のプリン。昔から秀おじさんの作るプリンが一番好きだった。
懐かしい味。慎一が肉じゃがを作る背中を見ながらプリンを味わう。
私達は双子の兄妹。喧嘩しても、いつの間にかまた一緒に遊んで笑って、ごめんの言葉はなくても私達は仲直り出来ていた。
そこに居る事が当たりの存在。
あんなに、食べ物が喉を通らなかったのに、プリンなら、すんなりと喉を通過していく。おいしい。
甘さでお腹が膨れる。胃が小さくなってしまっているのだろう。少量で満腹感を感じる。それと共に眠気が襲ってきた。
「あのさぁニコ・・・俺・・・・」遠くなる慎一の声。
肉じゃが・・・・・食べないと・・・・せっかく作ってくれて・・・・
話しかけても返事がないのを、おかしいなと振り返ると、ニコはプリンの容器とスプーンを持ったまま寝ていた。
起こさないように、ニコの手からプリンの容器とスプーンを外す。ニコの部屋から掛布団と枕を取ってきて、ソファを背もたれに床座りしているニコの体の横にクッションと枕を積み上げて、起こさないように、ゆっくり少しだけ横に倒してあげた。上から掛布団をかける。ベッドに寝かしてやりたいけど、やっと眠れているのを起こすのはもったいない。
風邪をひかないだろうか、身体が痛くならなければいいけどと、心配は尽きないが、やっぱり貴重な睡眠時間の方が優先だな。と慎一は思い到る。ニコが新田家に泊まれても、流石に慎一がここに泊まるわけにはいかない。仕方なくニコがテーブルの上に置きっぱなしにしていた鍵を手に取り、部屋を出る事にした。母さんからさつきおばさんへ、メールでも入れてもらって、病院の帰りにでもカギを取りに来てもらうしかない。肉じゃがは、このまま放置でも大丈夫だろう、明日の方が味が良く浸みておいしいし。
食べかけのプリンに蓋をして冷蔵庫にしまう。そういえば、去年もパンを持ったまま、学校の食堂で寝ていた事があったと慎一は思い出す。体育祭の時、一人で4種目を出て疲れたんだと思っていたけど、もしかして去年もずっと眠れなくて、苦しんでいたのかもしれないと、今更ながら気づく。自分はニコを怒らせる事しかできない。自分の無能さに嫌気がさした。
ニコは、やつれた。目の下にクマを作って、細い腕はちょっとつかめば折れそうだ。こんなになってまで嫌なスピーチテーマ、家族って・・・・。まだ話せる余裕がないとニコは言った。当たり前だ、栄治おじさんが死んで、まだ3年も経たない。命日まで、まだ1週間もある。薬を飲む日々がまだ続くのか・・・・しかもスピーチ大会はおじさんの命日。
ニコは栄治おじさんの事が大好きだった。慎一も栄治おじさんの事が大好きで、あの頃は自分の父さんより好きだった。
自分の父さんは、日曜日は休みが取れなくて、遊んでもらった記憶がない。たまの休暇日に、家でゴロゴロしている父さんより、毎週、日曜日に遊んでくれる栄治おじさんの方が馴染みがあった。サッカーや釣り、木登りなどの外遊びは全部、栄治おじさんに教えてもらった。何でも知っていて、いつも慎一達が遊ぶ姿を、笑顔で見てくれていた。あの栄治おじさんが、自殺だなんて、何かの間違いだと思いたい。ニコに、スピーチ大会の出場は、やめてもらうよう俺から言おうかと言ったら、それを言えば、理由を聞かれる。私が精神科に通っている事が学園に知れたら、特待を外されると言う。
病気を理由に特待を外すなんてことを、しないのではないかと言えば、
『特待制度規約に《特待生は全生徒の模範である事を常に意識し、心身共に清賢な生活を送る事を務める。》とあるらしく、精神を患っている人間が特待生で許されるわけがないと。そうでなくても、学園から依頼された課題を断る事は特待査定に響くのだと言う。
「常翔学園に通う為には、逃げることは許されないんだ」とニコは言った。ニコの寝顔を見つめる。寝息もなく、寝顔も無表情な顔。
慎一は自分が代わってあげれたらと思う、そして、もっと英語を頑張っておくんだった。と。
「ごめんなぁ。ニコ」
『見て、慎ちゃん、こっちまで続いてる!』
『うわぁすげー。これ、蝶の羽、運んでる』
『どこまで行くのかなぁ。行ってみよぉ・・・・・アテっ』
『ばかっでー木にぶつけてやんの!あははは。』
『笑うな!むぅ』
『あっ。あの蝶の羽持った蟻、あっち行った・・・』
『うわーこんな小さな穴に入って行った。』
『出て来るのもいる。』
『りの!どうしたの!そんなずぶ濡れで、まさかこんな雨の中、外に行ったの?やだ、おしり泥だらけじゃない。何してたの!』
『蟻さん探してた。』
『蟻さん?』
『うん、蟻さん、雨の日どうしてるのかなぁって思って・・・・。』
働きものの蟻さんだから。。家の中でもお仕事してるんだよね、きっと・・・・どんなお仕事かな?見てみたいなぁ・・・・
『りの、最後よ。パパの顔、見てあげて』
パパ、寝てるの?起きて・・・・パパお仕事に行かなくちゃ。蟻さん達はもう働いているよ。
この花、邪魔・・・・・こんなんじゃお仕事いけない。取ってあげよう。
『りの、ダメ!』
血がついて・・・・・怖い顔・・・・・あの怖い顔の人は、パパ!
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。。。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ パパと イッシヨニ シノウ
10月30日(土)
朝練の前に慎ちゃんが家に鍵を返しに来てくれた。健康的に日焼けた顔を見上げる。大きくなったなぁとさつきは実感する。
「肉じゃが、作ってくれてありがとね。」
「勝手に上がり込んで、ごめん。」
「いいのよ、助かったわ。味もおいしかった。」
「おばさん、ニコは?」
「私が帰宅した時には、もう起きていて、宿題をやっていたけど。」
「そっか・・・・・。」
昔から、心優しい子だった慎ちゃん、りのが病気やケガをすると、ずっと「大丈夫?」と自分が病気したみたいに辛そうな顔をする。今も昔の面影を残して。
「慎ちゃん、りのは・・・・学校では・・・。」
それは、さつきがずっと聞きたかったことだ。
「ニコは、この学園に入れてよかったって言ってるよ。友達もできて。」
「そう。あの子、学校の事、何も話さないから。」
「ごめんね。慎ちゃん、いつもありがとう。」
さつきは、りののカギを受け取り、大きくなった慎ちゃんを見送る。啓子はうまく育てている。私は母親失格。りのが苦しんでいることに気付けなかった。今も、りのの苦しみを取り除いてやることが出来ない。
自分の娘を助けられないのに、看護師をやる資格があるのかと、さつきは常に思っていた。
海外の生活は大変だった。言葉の壁、生活ルールの違い。ごみ出しの仕方一つ日本と全く違う。毎日が気の抜けない日々。何度、日本に帰りたいと願ったことか。
幸いにも、りのがすぐに言葉を覚え海外生活に溶け込んだ事が唯一の救いだった。いつも買い物についてきてくれて、「ママ、私が聞いてきてあげる。」と通訳をしてくれた。大変だったけれど、私達家族は幸せだった。りのは良く笑い、どこに住んでも、りのの笑顔は変わらなかった。それなのに、あの子は今じゃ、ママと呼ばない。目を合わさない。あの時から。
さつきは、傷んだ胸をわし掴んた。
りのに取り返しのつかない事を言ってしまった。
りのは私を許しはしないだろう。
もう、二度と、ママと呼んでもらえない。
どうして・・・
あなたは、さぞかし気持ちよく笑っている事でしょうね。
私が苦しむ姿を望んで、死んで。
家に入ると、りのはキッチンで食べ終わった食器を水桶に沈めていた。
「少しは食べられた?」
無言でうなずくりの。啓子の家では、もう少し食べていると聞く。食べた後も、吐いたりはしない。
さつきは思う。(私の存在が、この子のストレスになっているのなら、私は、もう母親として要らない存在。いっそう、啓子の家で育だててもらった方が、この子は苦しまなくていい。)
それを啓子に言ったら、叱られた。
『何、言ってるの!。確かに私は、昔も今も変わらず、ニコちゃんを娘だと思って接している。さつきに何かあったら喜んで引き取るわよ。だけど、違うでしょ。さつきは、お腹を痛めて産んだ子、簡単に手放せる?今だからこそ、ニコちゃんと一緒に乗り越えないといけないんでしょう!さつきの夜勤の時の面倒を見たり、病気の時、様子を見に行ったり、それぐらいは、いくらでもするわよ。でも血のつながった親しかできない事があるでしょう。私じゃダメなのよ。さつきしかできないの。しっかりしなさい!』
「慎ちゃんが、鍵を届けに来てくれたわよ。」
私の言葉に無反応のりの。鍵には見覚えのないキーホルダーがついている。
「これ、きれいなキーホルダーね。あれ?中に何か入っているのね」
りのが、突然、勢いよく鍵を奪った。キーホルダーのわっかに小指が引っかかり、鍵だけが下に落ちた。
りのは、それを拾うと部屋に駆け込む。さつきは、ひっかけた小指の痛みをさする。
『血のつながった親しかできない事あるでしょう』
母親失格の私に出来ることって何?
りのは、私を必要としないのに。
インターナショナルスクールの体験に行くのに、理事長は、マイクロバスを用意してくれていた。今日は土曜日、教科授業はなくて、クラブのイベントを優先しても良い日となっている。スピーチ大会に出るメンバーと理事長、クラブ顧問の野中先生がバスに乗り込む。
「柴崎。ごめん。準備、手伝えなくて。約束してたのに。」
「いいの、いいの、気にしない、文化祭の当日には、手伝ってもらうから。その時は頼むわよ。」
「わかった。」
「頑張ってね。」
そういって、柴崎は笑顔で手を振る。
向うで子供たちとお昼も食べる予定になっているから、今日は、ほぼ終日の予定。
学園では明後日に迫った体育祭の準備が、午後から本格的に始まる。理事長も、明日から出張だと言っていて、忙しい時期に私の計画に賛同してくれて申し訳ないなと思った。
北島先輩たちは、相変わらず、あからさまな嫌悪の態度でいる。未だに、この研修に納得がいっていない様子。
私は彼女たちとは離れた入口付近の一人椅子に座って、窓の外の景色を眺めた。
一時間ほどで、インターナショナルスクールにつく。
案内された部屋は3才~4歳の子供たちがいる部屋。突然の訪問に、子供たちは各々で遊んでいた手を止め、私達に注目する。
英「今日は、このお姉さんたちが遊びに来てくれました。皆でご挨拶しましょう。ようこそ、スターリンインターナショナルスクールへ。」
英「では、一人づつお名前をお聞きしましょう。」
みんな可愛い。フィンランドを思い出す。授業のカリキュラムで、上の子は下の子を教えなければならないのがあった。移住してまだ2週間も経っていない頃、私にもそれは例外なく、しなければならなくて。英語の聞き取りは何とかできても、話すとなったら、まだ、たどたどしい英語しかできなかった頃。
英「りのです。みんなと遊ぶのを楽しみにしてました。よろしくね。」
突然の訪問で、不信感のある子供たちを解きほぐそうと、明るく大きな声でいう。英語なら、すらすらと言葉が出る。自然と笑う事もできる。そんなギャップの激しい私に、やっぱり北島さん達は驚き、さらに嫌な顔をする。
だから、ダメなんだって。そんな顔してたら。私に注目するんじゃなくて、子供達に顔を向けなきゃ。
午前中は、保育士さん達の指導の下、私達は子供たちの仲間に入れてもらう形で、一緒に歌を歌ったり、かるたをしたり、楽しく過ごす。北島さん達もそれなりに楽しんでいる。だけど、午後からが問題。北島さん達は子供たちの素直な態度に、気が付く事が出来るだろうか?もし、この状態のままなら、この企画は失敗。理事長がマイクロバスを借りてまで準備してくれたものは、すべて無駄に終わる。
子供たちと一緒にお弁当を食べる。みんな小さな、かわいらしいお弁当。私と慎一は、いつも同じお弁当だった。母と啓子おばさんが交代で作ってくれていたから。園のお友達に、何で慎ちゃんとりのちゃんはいつも一緒のお弁当なの?なんて聞かれたっけ。
昨日、慎一が作ってくれた晩御飯の肉じゃが。朝、慌てて詰めて持ってきた。今日は、お弁当がいるという事を直前まで忘れていた。慎一が肉じゃがを作ってくれてなかったら、どうなっていた事か・・・・。コンビニのおにぎりとかじゃ、ちょっと寂しいものがあるしな。危なかった。
子供たちが、昼食後の歯磨きをしている間、私は北島先輩たちに、持ってきた折り紙を渡す。
「こ、子供たちに、お折り紙を、お教えてください。お、折るものは、なななんでも良いです。た、ただし、ぜ、絶対に、こ、子供たちのおお折り紙には、てて手を出さず、お、お、折り方の、せ、説明は、え、英語のみで。」
いい加減、この企画にイライラした北島さんが、私に文句をぶちまける。
「折り紙なんて、スピーチに関係ないでしょう!こんな事してる暇あったら、スピーチの練習した方がいいのよ。貴重な時間をなんだって、こんなところで使わなくちゃいけないのよ。」
ごもっとも、言い分は良くわかる。だけど、そのイライラのままスピーチしたって、良い顔にはならない。それをいくら私の口から説明しようとも、先生から言ってもらったとしても、綺麗な口角はあげられない。無理やりあげた口角なんて、審査員に違和感を与えるだけ。
「す、すみません。こ、この折り紙だけ、お、お願いします。こ、これが、お終われば、も、もう、な何も、い言いません。」深々と頭を下げた私に、4人は憮然として黙った。
(どうして、ここまでするの?)と別の私が、頭の中で言う。
(臨時で頼まれただけ、人数合わせの為だけにりのを利用するこいつらに、何をそんなに律儀に付き合う?ほっとけ、無理だって。
やればやるほど反感を買うだけ。、りのは、どんなに努力しても、皆と仲良くはできないのだから。)
私の黒い本心。
(この企画は皆の為ではないだろう。私は知っている。自分自身の為。この企画を提案して一生懸命やっている私を、学園側に見せつけるアピール。ここまでやれば、スピーチ大会が失敗しても、私のせいじゃない。と学園に言える。姑息な退路確保だよね。
北村さん達に頭を下げて、それでも、いつまでも反感の態度を改めないのは、もう誰が見ても、北島さん達の方が酷いシチュエーション。)
おぞましい自分の腹黒さに胸が気持ち悪くなった。
この企画は、彼女達に絶対必要な物と思って提案した事が、自分の姑息な戦術だったなんて、
何が笑って話す事が出来るだ?
何が子供達の素直な態度に気づけだ?
偉そうに。
子供たちに顔を向けられないのは、私。
「真辺さん、ちよっと来て、もらえるかな。」
柴崎理事長に手招きされて応接室へと案内された。
「この、企画を進めた経緯をスターリンの校長に話したら、真辺さんと話がしたいとおっしゃられてね。」
英「あなたが、真辺りのさん。素晴らしいわ。あなたの言った、英語は笑って話せる言語。感動しました。」
英「いえ、私の言葉ではありません。恩師の言葉です。」
英「フィンランドに住んでいたと、聞きました。流石フィンランドですね、学力世界一を誇る。素晴らしい先生に出会ったのね。」
英「はい。フィンランドは寒い国ですが、人の心は温かい良い国です。」
英「私も、いろんな国の子供を預かってきましたけど、フィンランド国籍の子とはまだ接した事がないの。私は子供達からその国の話を聞くのが好きでね、良かったらフィンランドの学校の話、聞かせてもらえないかしら?」
英「あ、えーと・・・・」
話したいのはやまやまだけど、あと少しで午後からの折り紙タイムが始まるのを心配して戸惑っていたら、すべての企画の流れを知っている柴崎理事長が、私が代わりをするから校長とお話しして差し上げなさいと言う。
少し不安だったけど、私もフィンランドの話をしたいから甘えた。
スターリンの校長と一時間近く話をした。フィンランドの教育制度が主で社会情勢や日本の英語教育の遅れや問題点など、次から次へと話が膨らんで、流石に私が時計を気にした事で、校長はごめんなさいねと終えてくれた。
スターリン校長は、『とても中学生の子供と話している気がしない、有意義な時間だったわ』と言って、ハグをして部屋を出た。
こんなに沢山、英語で会話したのも久しぶり、さっきのモヤモヤした黒い気持ちはすっかりなくなっていた。
大丈夫、スターリンの校長も柴崎理事長も、この企画に賛同してくれている。
軽くなった足取りで子供たちのいる部屋へと入った。
教室では、想像通り、英会話クラブのメンバーは苦心していた。
手出しはしないで、口頭のみの説明は難しい。まして、彼女たちは母国語ではない言語を使わなければならない。
折り紙の説明で頭がいっぱいになり、笑顔は消える。その顔に子供たちは敏感に反応する。
私はフィンランドでの生活2週間目の事を思い出した。突然3歳の子に何かを教えなくてはいけないとなって、私は自分のお絵かき用紙を飛行機の形に折ることを教えた。まだおぼつかない英語で必死に。3歳の子たちは、飛行機に感動して喜んではいたが、作り終えるとすぐに私から離れ、同級生や、先生たちの所に見せに行く。飛行機がどれだけ飛んだよと言う報告も私の所ではなく、笑顔の先生たちの所へ。
『りの、笑って!英語は笑って話す事が出来る言語よ。』
そう言って、サリー先生は口角を指で押し上げ、にぃっと笑った。
柴崎理事長も、折り紙に参加している。理事長の英語は昔ながらの、堅苦しい発音だけど、それでも子供たちは理事長のテーブルに群がり楽しそう。それは理事長が子供たちの顔をしっかり見てニコニコしているから。
やっぱり柴崎と口元が似ている。と吹き出しそうになるのを、こらえた。
北島さん達は、説明に必死で、子供達に顔を向ける余裕がない。口角どころか発音すらも怪しく。無言になりがちで、
つまらなくなった子供たちは、テーブルから離れ違う遊びをし始める。自分の担当するテーブルから、子供がひとり、また一人と、離れるのを、英会話クラブのメンバーは焦り始めた。そろそろ、いいかな。と、私は4人の英会話クラブのメンバーを集めて、恩師の言葉を伝える。
「わ、笑って、ください。」
何を言っているの。と疲れも溜まって、睨まれる。
「し柴崎理事長を見て下さい。り理事長は、ずっと笑顔です。」
北島さん達が理事長の方に顔を向ける。自分たちより沢山の子が群がるテーブル。子供達の顔は生き生きしていて、目はキラキラと輝いている。
「こ、子供達は、ざ残酷なほど、しょ正直。え、英語は、わ笑って、は、話す事が出来る、言語です。」
それでも眉間にしわを寄せて、理事長と自分たちの何が違うのか、私達は一生懸命やっているのにと言う顔をする彼女たち。。
「こ口角を、あ、あげたまま、わ笑いながらA~Zまで、い、言ってみて、く下さい。」
私が指で口角をにぃとあげて見せた方法を真似て、北島さん達もAから順に発声していく、
それを見た一人の男の子が足元で同じように見上げて真似る。
子供と一緒に笑って、ABCの発音練習。
笑って話せる言語の意味を理解した北島さん達は、
「ほとんど、このまま発音できるわ」
「そ、それが、に日本語との、ち、違い。」
「真辺さん、これを私達に教え為に?」
英「教えてくれるのは私じゃありません、子供達です。笑って話すを意識して、もう一度、子供たちと接してください。」
英語のスキルは必要ない、笑顔は世界共通の言語だから。
それぞれ、持ち場に戻ってまた折り紙を折り始めた北島さん達は、最初はぎこちない笑顔の英語を話していたけど、そのうち、自然と子供たちに、ちゃんと顔を向けて笑顔で話せるようになっていた。
笑顔が大事な事を、身をもって体験し理解した北島さん達は、最後に企画した、紙飛行機の飛ばし大会を大いに盛り上げ、
別れを惜しむ子供たちに、また来てねと言われて喜んでいた。
学園に到着したマイクロバスを降りると、北島さん達に呼び止められる。
「真辺さん!あの・・・・ごめんね。私達、今まで貴方に酷い事を言って、今日は、ありがとう、この企画、考えてくれて。私達、もっと練習するから、また指導してくれないかな。それと・・・スピーチ大会も改めて、出場お願いします。」
頭を深々と下げられた。
「あっ、あ、ややめ、あの、わ、私は、に、にに日本語、でで、できな」
「いいの。英語で話してくれても。私達、英会話クラブなんだから。ね、みんな。」
「うん。」
4人の顔は私を嫌っていない笑顔。
「・・・・・あ、ありが、とう。」
そう、彼女たちは、英語が好きな人達、慎一よりも伝わりやすい、仲良くなれるはず。
英会話クラブのメンバーと分かれて、一旦、校舎へと向かう。時計を見ると3時45分だった。運動場には、第47回常翔学園中等部、大運動会と書かれたパネルが設置され、教室の窓には点数表示板も設置済み。校舎の窓には3学年分の各クラスの手作り応団旗が下がり、すっかり体育祭の準備が終わっていた。
去年、あの看板で、ロングだった髪の毛をバッサリ切る事になった。あれ以来、気に入って、ずっとショートにしている。
あれから、もう1年、一人ぼっちだった入学式当初と比べたら、私の環境は大きく変わった。
柴崎や藤木、そして慎一、弓道部のみんな、英会話クラブの人達とも、これからは仲良くなれそう、みんなのおかげで一つ一つ乗り越えて行けている。
「ニコ~おかえり!」
教室の窓から顔を出して手を振る柴崎の姿に、ほっとして肩の力が抜けた。
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。。。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ パパと イッシヨニ シノウ
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。。。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ パパと イッシヨニ シノウ
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。。。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ パパと イッシヨニ シノウ
11月3日(水)
人間の順応性というものに驚かされる。睡眠時間1~2時間の生活を毎日繰り返していると、それが当たり前のようになって、最近ではそれほど辛くなくなってきている。父の夢で目を覚めるのは相変わらずの事だが、それも当たり前のこととなりつつあり、うなされて起きるという事が無くなってきた。まだ、スピーチテーマ文を書こうとすると、吐き気に襲われるけれど、そのことを考えないようにしていれば、日常もさほど辛くない。足りない睡眠時間は、昼休みや休憩時間に、仮眠をすることで目の下のクマも薄れてきていた。私が、ウトウトしている時は、柴崎も藤木もそっとしておいてくれて話しかけてこない。
一昨日に終わった体育祭は、柴崎の士気の下、女子は学年でトップの点数を稼いだが。男子は慎一のクラスに点数を稼がれ、僅差で準優勝で終わった。柴崎は、昨年在籍した4組が断トツで学年優勝を導いている分、凄く悔しがっていたけど、私は去年の事を思えば、入賞できて、うれしかった。
柴崎が、昨日の帰りがけ、明日のからの手伝い、頼むわよ~と言っていた。スピーチ大会に出場が決まってから、体調を壊し、休みがちになって、忙しい柴崎を手伝ってあげることができなかった。3組は喫茶店をすることになっている。前準備はそれほどすることがない分、当日が忙しくなる。ドリンクとホットケーキを焼いて出す。裏方で、それさえやっていれば大丈夫そう。
何とか、乗り越えられそうだなと、手の中の虹玉が入ったチャームに目をやる。
慎一がカギを持ってきてくれた朝、母がチャームの中の虹玉をのぞこうとした。
ものすごい嫌悪感に襲われた。自分でも良くわからない。母に触らせたくない、そう思った時、私は奪うようにチャームをひったくていた。母の手にホルダーのリングが引っかかって、本体が引きちぎられた様に壊れた。鍵のキーホルダーとして使えなくなってしまった。母の手も痛かったはずだ。指をさすっていた母に、私の口から、ごめんなさいが出てこなかった。
母の驚いた眼に逃げるように部屋に入った。母は私を許さない。父を殺した私を。
「柴崎に謝らなくちゃ」
(柴崎に?母に先に謝らないといけないんじゃないのか?)
別の私が頭の中で問う。わかっている。でも謝っても許してくれない。もう謝って許してもらえるレベルをとっくに超えている。
いくつもの罪を重ねて。
「おっす、どうした?しんどいか?」
「おはよう。」
慎一がバス停に到着。常翔祭中は朝練がない。ここ数日、同じ時間のバスに乗って登校している。慎一は毎朝、私の顔色チェックするのが日常となった。俯いているだけで、しんどいのかと聞くのは、いい加減やめてほしい。
「熱は、なさそうだな。よし。」
「やめてっ。」
心配の押し売り、言えば喧嘩になるから、ほっといたら、熱まで測ってくる。これも人間の適応性、慣れて来た、と言いたいところだが限度がある!恥ずかしい!このバス停から乗る人が他に居なくてよかった。
バスが到着して乗り込む。この道路は、少し向うに東静線の線路が並走する形のバス沿線なので、通勤時間帯は、みな電車を利用する人が多く、それほど込み合わない。それでもこのバス路線が無くならないのは、進路方向反対の終点にある、母の勤務する大学病院前の駅が終着となっているからだ。昼間の診察時間帯の方が込み合う。後ろのあいている席に並んで座る。
慎一が手に持ったチャームに気が付き、どうしたと聞いてくる。
「壊れた。」
「見せて。」
ニコから手渡されたチャームは、リングとチャーム本体の所が引きちぎられた様に細い金細工が伸び切れていた。
元々、アンティークで香料入れか何かの装飾品、手の込んだ網装飾に無理やりキーホルダーのリングをつけてあったから、本体のデザインにも損傷が出ていた。かなりの力で引っ張ったと予想できる。
「何して、こんなに、なったんだ?」
「・・・・・ひっかけた。」
視線を外すニコの仕草で、慎一は嘘だとわかった。この間、さつきおばさんに渡した時は壊れていなかった。そのあと壊したと推測できるが、この雰囲気だと、聞いてもニコは話さないだろう。
双子の兄妹のように育った・・・は、本当の双子ではない。
『一応家族じゃないし』とニコが言った通りに、互いに遠慮の意識はある。子供の頃のような無邪気に何もかもが無遠慮にとはいかない。近いようで、遠い、それが慎一たちの距離。
「ペンチで曲げて、治すしかないな。」
「治る?」
「まぁ、完璧に元通りとまでは行かないけど、何とかキーホルダーとして使えるようにはできると思う。」
「ほんと?」
「しばらく借りとくよ。」
「うん、よかった。」ニコは、ほっとしたように顔を緩めた。もうすぐ、栄治おじさんの命日。その前にニコの誕生日が来る。慎一は、去年は知らなくて、プレゼントを用意できなかった。虹玉を渡すと、ニコは泣いた。あれからニコは少しづづ話せるようになり、柴崎と友達になってからは、笑えるようにもなってきた。だけど、最近の体調不良は酷い、眠れないとか、給食が食べられないとか、吐き気とか、去年より酷い。いや、どうだっかなと慎一は遠い記憶を呼び起こす。
去年は慣れない実行為員で、慎一はいっぱいいっぱいだったから気づけなかった事が沢山あるだろう
『一過性もの、冬が来れば直る。』ニコはそう言うけれど、これからずっと大人になっても秋に、苦しむのだろうか?自分の誕生日を心から楽しめないなんて、栄治おじさん、なぜこんな日に死んだんだよ。と慎一は子供の頃の記憶にある栄治おじさんの笑顔を責めた。虹玉の入った壊れたチャームをズボンのポケットにしまい込む。
「慎一の所は、ビデオ上映だろう?ずっと視聴覚室に?」
「いや、当番制だよ。1日3回の上映の内、一回だけ視聴覚室に居ればいいだけ。」
「ふーん。」
「今日は最後の当番で、3時ごろ行って、上映後に片付けしたら終わり。3時まで暇だから店を一緒に回ろうか」
「何故?」ニコはすました顔で首をかしげる。
何故って・・・・理由居る?友達だから、仲間だからって言葉を今更使わなければ理解してくれないのだろうかと、慎一は一瞬言葉を失う。
「私は、お前に告っていない」
「はぁ?」
「男女で店を回るには、告白をしてからじゃないとダメだと」
「はい?」
「それがあの学園の・・・・うーん、なんて言ったかな。な、な、不思議?」
「ぷははははは」ニコが真剣な顔でいうもんだから、慎一は思わず吹き出してしまった。
「何?」
「誰に聞いたの、それ。」
「藤木。」
慎一は苦笑した。完全に茶化されてる。
「それを言うなら習わし。だけど、そんな習わしないから。」
「ない?」
「ないない。藤木に茶化されたんだよ」
「でも、たくさん貰っていたラブレター。彼女たちとは?」
慎一は、ニコのある意味無邪気な視線から顔をそらして、前を向いた。
「全部、断ったよ。誰かを選ぶなんて無理だし、誰かを選んだら、角が生じるのは目に見えてる。」
「私を角に立たせるってことだな」
「えっ?いや。そういうつもりじゃ・・・・。」
「沢山の女の子を捕まえて選べられないって、相当の面食いだな。」
ニコはそう言って、慎一から少しでも離れようと窓の方へと体を寄せる。
「そうじゃないって」
慎一は大きくため息を吐き、意思疎通のすれ違いに嘆く。
校内放送で、文化祭開始の合図がかかる。それと同時に校門が開かれ、一般のお客さんも入ってくる。視聴覚教室で今日の上映スケジュールの打ち合わせをしてから、慎一はニコ達のクラスへ足を向けた。ニコと藤木、柴崎のいる3組は喫茶店で、時間をつぶすには、ちょうどいい。その喫茶店に行くまでに、慎一はファンクラブと称する女子たちに捕まりそうになる。誰とも回らないと宣言しているのに、何かと手を組まれて、連れて行かれそうになるのを走って逃げる。からかっているのか、それすらも鬼ごっこのように楽しむ彼女たちに、慎一は本当に困った。
藤木も慎一の知る限りでは、二人の女の子から告白されていた。日と時間をずらして、告白してくれた女の子全員と回るけれど、「本命はニコちゃんだよ」とか調子のいいことを言っていた。藤木のいい加減な器用さには、飽きれるほどに尊敬する。藤木の女子に対するマメさを考えたら、もっとモテてもよさそうと思うのだけど、本人は「お前みたくカリスマ性はないから、マメに生きなきゃなんないんだよ」という。慎一は自分にカリスマがあるのかどうかはわからない。けれど自分が女だったら、断然、藤木の方が良いだろうと思う。そういえば、ニコも河村先輩とかいう人に告白されたと聞いた。ニコがその先輩の告白にどう対応するのかは知らないし、そんな話題をニコとするチャンスがなかった。してもきっと、お前に関係ないだろうとか言われてしまうのは目に見えていた。ただ、慎一は、完全無敵な川村先輩の存在にもやっとする。
【2年5組、喫茶モエモエ】
変なネーミングのニコ達の店となっている教室に入る。
「ニコちゃん、可愛い!すっごく可愛いよぉ!ニコちゃんの、こんな姿を見れるなんて、俺、チョー幸せ!」
藤木のハイテンションな声が響き渡る。何事かと思って慎一は顔を上げた。手に持っていた金券を落としそうになる。
「似合ってるわよニコ、そのままアイドルにも成れるわよ。」
「何故。私は裏方だった。」
「ニコ、任せてって言ってたじゃない。」
「そっそれは・・・・ホットケーキ焼く人って。」
「あーダメダメ、飲食を作る人は検便して、本部に登録しなくちゃだめだからね。ニコ出してないでしょう。」
「聞いてない!」
「だって、ニコ休みがちだったし・・・・」にぃと不敵に笑う柴崎。
「柴崎ナイスっ、俺一生恩に着るぞぉ」柴崎と藤木がガッツポーズを合わせる。
ニコは、メイド喫茶風の超フリフリの黒い衣装を着ていた。頭にレースのカチューシャをつけて。
だけど柴崎にしてやられたニコは完全に怒り顔。眉間にしわを寄せ、力いっぱい拳を握りしめて震えている。
「皆より短い!スカート!」
「あら?寸法間違えたかしたら?」しれっと答える柴崎。
「それもナイス!」
何に置いても柴崎の策略にハイテンションの藤木が賛同する。
「大丈夫、ニコ細いんだから。」
「大丈夫じゃない!」
ニコが困っているのは慎一には痛いほどわかる。が、しかし、この二人に勝てる術が慎一にはない。
「お前ら、策士だな。」
慎一は、同情をニコに、嫌みを柴崎へ言葉に込めた。
「いいのよ。ニコは。これぐらい弾けないと。今日1日、働いたら、眠れるでしょう。」
「どうして!」
ニコの怒りの視線が、慎一に飛んでくる。慌てて手振りで否定した。
「あのねーニコ、あたしたちを誰だと思ってんの?毎日、毎日、目の下クマ作ってフラフラしてたら、ずっと眠れてないんだなって事ぐらいわかるわよ。」
「柴崎・・・・。」
「ニコちゃんさぁ、この間、言いたいこと言ったらすっきりしたって、給食もちゃんと食べられたでしょう。ニコちゃんは、日本語がスムーズに出ない分、どうしても貯めちゃうんだよね。いろんなこと考えすぎて。真の悩みは、俺たちにはわからないけど。何も考えないで楽しんだら、眠れるんじゃないかな?今日と明日ぐらいは、何も考えないで楽しもうよ。」
「藤木・・・・。」
ニコが、二人の言葉に驚いた表情でうつむく。
「ほらっニコ、中島が呼んでる。メイドさん集まってだって。行っといで。」
ニコはイヤイヤながら、中島率いるクラスメートのメイドさん仲間へと加わる。確かに、皆より5センチほどスカートが短い。すらっと細い足が引き立つ。実行委員として、やる気のない中島が、このメイドの衣装を倉庫で見つけるや否いなや、突然やる気を出して、喫茶モエモエを提案して全部取り仕切ったという。あいつ、こんな趣味あったんだと感心っつうか、こんな衣装が倉庫にあるって、どんな学校だ。と慎一は苦笑する。聞けば、昔、演劇部で使った衣装だと柴崎が教えてくれた。どんな劇だよという突っ込みは置いておき、それを少し今風にアレンジするのも、中島が指導してやったという。
「惚れ直した?顔赤いわよ。」柴崎が意地の悪い顔を向けてくる。
「なっ何、言ってんだっ!」と焦る慎一の横で、目じりを下げた興奮覚めない藤木。
「もう俺、いつ死んでも思い残すことないねー。あ、そうだ写真部のやつを呼んで撮ってもらうぉと。」
「今すぐ死ね!」
「さて、私は本部に行かなくちゃ。じゃね。」
「俺も、そろそろ着替えかっなぁ。」
結局、ニコは、ずっと喫茶店でメイドさんをやっていて、一緒に回る暇はなさそうで、そのうちに慎一もファンクラブの女子5人に喫茶店に居ることがバレて取り囲まれるように店を回った。
昼になって、やっと女子達から解放された。今日は祝日なので食堂はあいていない。必要ならお弁当持参だが、高等部の方に行けば、サンドイッチやおにぎりを出すお店もあるので、特に弁当を持参しなくても事は足りる。慎一は一応、おにぎりを握って持ってきていて、それを喫茶店のキッチン兼準備室となっている隣の部屋でこっそり食べた。ニコ達はホットケーキをつまみ食いしてお腹いっぱいだと言う。
「お前、まだ行かなくていいの?」
「うん、3時に行けば間に合うから、っていうか!お前、こっちに寄るな!キショイ!」
藤木はニコと同じメイドさん服を来て、メイクまでして呼び込みや、客誘導をしている。女子から、きゃー可愛い藤木君なんて言われて、調子に乗っているが、どこが可愛いのかわからない。あれはキモイじゃないのか?女子の可愛い基準がわからない。と慎一は頭を左右に振る。ニコは、喫茶モエモエの一番人気メイドさんになっていた。そのぶっきら棒な話し方が、その衣装とのギャップで萌えるとか、なんとか・・・・・。おまけに、あの特待生の真辺りのが、という一目見たさも相まって、待ち時間が出るほどの人気になっていた。
「もう、脱いでいい?」ニコはひらひらしているメイド服の裾をつまんでめくる。
「ダメよ。うちの看板娘なんだから。」
「もう、喋るの嫌。」
「じゃーちょっとまって、楽にしてあげるから。」
そういうと柴崎は飲み物の準備をしているテーブルから、まるい画用紙のコースターの裏に何やらマジックで書き込み、ニコの胸元に張り付けた。
【英語オンリー、ロシア語フランス語もオッケー】
「はいっ。これでどう?」
「そう・・・じゃなくて・・・・」ニコはムスッとコースターを外そうとするも柴崎に止められる。
「日本語じゃなければ、いくらでもしゃべれるんでしょう?」
「お前、鬼だな。」
「んーじゃなくて・・・・・」英「私だって、他の店回りたいんだ!2組の滝沢さんの劇も慎一の所のビデオも見たいし。美術部の展示も、3年の弓道部の先輩がやってるお店だって行きたいし、高等部のお店にだって行きたいの!」
「英語オンリー、やる気満々じゃない。」と柴崎
「あうっ・・・・・」泣きそうに訴えるニコ。
「わかった。明日ね、明日。午後から時間、作ってあげるから。」
「明日もやらせる気だったのかよっ」
「もちろんよ。ニコのおかげですっごい売上よ、私達のお店。」
「悪魔!」ニコが、怒って店を飛び出した。
「あっどこへ行く!」
英「他の店に行くんだ!」振り返りながら言うニコのスカートの裾が跳ね返り、パンツが見えそうで慎一はハラハラする。
「大丈夫よ、追いかけなくても、すぐ戻ってくるって」
柴崎が言う通り、ほどなくして、ドタドタと息を切らして、ニコは帰って来た。
「ほらね。」
「どうした?」
「・・・・・か、かめ、・・・・と、とり・・・・ま、マンが。・・・。ぽーズ・・・あ、あ・・・・。」
「カメトリマン??ちょっと、落ち着け、ゆっくり、英語でいいから。」
英「廊下で、カメラ持った男子に取り囲まれて、写真いっぱい撮られた!アニメのなんとかって似てるとか、ポーズしてって言われて」
「あはは、高等部の漫画アニメ同好会に捕まったかぁ。」藤木が大笑いして言う。「そりゃ、そうだろうなぁ、彼等にとってニコちゃんは、アイドルだもんね。」
「な、なに?」
「知らない?今はやりのアニメ、魔法戦士マギカってぇの、それに出で来るキャラに似てるって、さっきから噂になってる。」
「藤木、そのアニメ知ってるの?」
「アニメを見たことはないけど、ネットで話題になってる事は知ってる。この衣装が似ているんだ。それにそのキャラの髪もショートで美少女なんだよ。」
「まさか柴崎、お前そこまで狙って?」
「アニメなんて知らないわよ。」
「大丈夫か?こんなに注目浴びたら、また、余計なやっかみとか出ないか?」
「大丈夫よ。ここまで来たら逆に、キャラ化しちゃえばいいのよ。学園のアイドルとして、」
「キャラ化って・・・。」
英「アイドルなんて嫌だ!」
「中途半端に目立たないようにするから逆に目立つのよ。ニコの頭脳明晰、学園一の美人で特待生と言うのは、どんなに隠れても隠し切れない事実。何しても目立つなら、逆手に取ればいいのよ。そうすれば誰も文句は言わない。元々ニコに勝てる女子なんていないんだから。」
「お前も負けたしなぁ。」とにやける藤木に、柴崎がうるさいと肘鉄を食らわす。
慎一は柴崎の言う通りかもしれない、と思う。ニコは海外でも問題なく友達を作っている。今の日本語コンプレックスコは本来のニコじゃないのだ。もし、イジメられていなかったら、おそらくニコは学園1の人気者であったに違いない。幼稚園の頃、そうであったように。
ニコが突然、慎一が座っている椅子の後ろにガタガタと隠れるようにしゃがみ込む。
「なんだ、なんだ、いったい・・・」
「真辺さんいる?」とさわやかに登場したのは、ニコに告白したという河村先輩。
「良い事、思いついたぁ~っと。」と柴崎の企む笑みに慎一と藤木は、顔を見合わせた。
柴崎は楽しそうにスキップで河村先輩の所に寄っていき、
「河村先輩、真辺りのをご使命ですか?ご使命料、別途いただきますが、よろしいですか?」
慎一は、飲みかけたジュースを吹き出しそうになる。ニコは慎一の後ろで悲鳴を上げる。もう誰も柴崎を止められない。
「真辺りのさーん、ご使命入りましたぁ」
「助けて。」
「無理だ。・帰りにプリン買ってやるから我慢しろ」
「プリンは欲しいけど、我慢はできない。」
柴崎に引きずられて、河村先輩の横に座らされるニコ。
「ここは、スナックか!」
「流石に、俺もかわいそうになって来たよ。」と藤木
「良く言うよ、お前も朝、散々写真をとるって追いかけまわしたくせに。」
「だって、可愛いだろう。あんなニコちゃん貴重だぜ。」
「うーん、まぁ・・・な。」
「やっと、素直に認めたな。」
あれが、同学年から後輩、年齢問わずに女子から人気のある河村先輩。常に、5位以内の成績を維持して、テニスも県内ベスト8入り、生徒会会長。確かに男の慎一から見ても、格好いい。おまけに英語でニコと会話が出来ている。
ニコは、さっきまでのぶっきら棒さと違い英語なら笑顔だった。何の話をしているかわからないのが、慎一にはもどかしい。
「おっ俺のニコちゃんが~。」藤木が嘆く。
「いつから、お前の物だよ。」
「俺、入学当初からニコちゃんに話しかけて、やっとだぜ、ニコちゃんと話が出来るようになったの。笑顔を見るのに半年以上もかかってるし、 それなのにぃ、河村先輩は、数時間であの和気あいあいさ。あぁ俺の努力は~。」
「同感だ。藤木。」
ニコと普通に話す事が出来たのは。幼馴染の関係の俺でも、藤木と同じぐらいかかっている。藤木と負け犬同士の傷のなめ合いをしていると更なる訪問者がやって来た。
「おっやってるね~。藤木君、楽しそうだね。」軽い口調で凱さんの登場。
「あっどうも、その節は・・・・。」
メイド服の変なメイクの藤木は、どんなに畏まっても、ふざけてるとしか見えない。
「いいよ、いいよ、そんな挨拶、要らないよ。学園の尻拭いするのが僕の仕事だからねぇ。気にしな~い」
革ジャンに黒い細身のパンツを着こなし、バイクで通勤する凱さんは、とても学園の職員とは思えない。まだ帝都大学の学生で、本職員ではないから、その服装が許されているのか、それとも柴崎一族だからなのかは、わからない。
一見、ちゃらい学生にしか見えない凱さんだけど、英語はもちろん、ロシア語も喋れて、情報を探るネットワークを持っている。藤木の週刊誌事件、退学まで考えていた藤木を助けてくれたのは、この柴崎のいとこである柴崎凱斗理事長補佐。
「あれ、りのちゃん?」凱さんがニコを見つけて言う
「そうっす。」
「かわいらしい、見違えたなぁ。」
そういって、河村先輩たちにいるテーブルに向かった。
「何だか、凄い客層になって来たな。」
「あぁ、常翔学園の生徒会長、河村大輝。帝都大学現役大学生にして学園理事長補佐、柴崎凱斗。常翔学園理事長の一人娘、柴崎麗香。そして常翔学園初の女性特待生、真辺りの。肩書がすごい。」
「お前も入れるじゃないか。外務省藤木守大臣の息子、藤木亮って。」
夏の選挙で、藤木の父親は、あのスキャンダルの影響もなく文部科学省から、外務省大臣に就任した。外務を経験したら、総理大臣に椅子が近づくと言われているから、順調良く政界の階段を登っている。
「でかい声で言うなよ。」
「はいはい、お前、英語得意だろう、行ってこいよ。」
「いけるか!あんな首脳会談級のテーブルに。」
はぁ~。二人同時に、溜息を出した。あのテーブルに集まる人種と飛び交う言語の異質さが神々しい。
フランス料理店息子、新田慎一。安っぽ過ぎて笑えねぇと慎一は心の中で苦笑する。
リビングのテーブルに工具箱を置き、ニコから預かった虹玉の入ったチャームの修理に取り掛かる。
慎一は、手先が器用だった。小学生の頃、夏休みの自由研究は必ず工作で、割りばしで城を作った事もある。
引きちぎれたチャームの輪っかを、ペンチで押し込み、どうにかリングをつけた。歪だけど、これ以上の修復は無理。つけたリングに指を入れて目の前にかざす。虹玉が中でコロコロと動く。ニコは、これに、どんな苦しみを無くしてくださいと願ったんだろうか。
『馬鹿だ・・・私』
2年前に再会した時につぶやいた言葉。ニコは虹玉の奇跡が起きない事に絶望し、捨てようとしていた。慎一に捨てようとしたところを見られたことを気にして。約一年後にこれを返したら、持っていてくれてありがとうと泣いた。
慎一は大きくため息をつく。前でテレビを見ているえりが、怪訝な顔を向けた。
「えり、今、女の子の間で、何が流行ってんだ?」
「何って?」
「んーと、ニコの誕生日プレゼント、何がいいかなぁと思って」
「あぁ、そういうのね。」
「えりはどうすんだ?」
「えりは、もう買ったよ。駅前のバラエティーショップで可愛い水玉のシャーペンとおそろいの消しゴムと、あとメモ帳。」
「そんな系でいいのかぁ。」
「うん、ニコちゃんの筆箱の中、可愛いのなくて、普通のばっかだったし。お母さんとお父さんはデパートでカシミヤのマフラー選んでいたよ。学校でも使えるようにって、紺色の」
「ふーん。」
家の電話が鳴る。キッチンに居た母さんが、カウンターに置いてある子機の電話を取った。
去年は、慎一の実家が営むフランス料理店の休みを利用して、店で父さんがフランス料理の腕を振う誕生日会を開いた。今年は定休日に大口の予約が入ったらしくて休めないらしい。ニコの誕生日11月5日は、我が家で簡単な誕生日会をしようと言う話になっている。慎一は、誕生日プレゼントに何を用意しするか、数日前から悩んでいた。
「来てないわよ。・・・・・えっ帰ってない?うそっ今、何時?」
電話口で叫ぶ母の声に、慎一もえりも振り向く。
「慎一!ニコちゃん知らない?」
「えっ!」
「ニコちゃん、まだ家に帰ってないって!」
「帰ってないって、え?」
時計を見たら、8時30分だった。
「さつき、てっきり、うちに来てるんだと思って、あまり気にしてなかったんだって、だけど、いつもの来てるよメールがないから、流石におかしいなと思って電話してきたって。あんた今日、一緒に帰ってこなかったの?」
「帰ろうと思ってたけど、教室にいないから柴崎と先に帰ったと思って。えー?学校から帰ってないって?」
「聞こえた?うん・・・・うん。」
母さんがまた受話器でさつきおばさんと話をする。
「さつき、今日は午後勤で、帰って来たの7時で、家には鞄も制服もなくて、帰って来た様子がなさそうって」
「母さん、俺、外に探しに行く!さつきおばさんに俺の携帯番号を教えといて。それで、おばさんは家にいてもらって、帰ってくるかもしれないし。柴崎にも聞いて見るから。」
「わかった。」
慎一は携帯を片手に、家を飛び出した。自転車に乗る前に柴崎に電話する。
「もしもし、俺!新田」
「どうしたの?」
「お前、ニコと一緒に帰っただろう、何時ごろ別れた?」
「はぁ?何言ってんの?ニコはあんたと一緒に帰ったんじゃないの?・・・・えっ?ちよっと、まさか!今、何時よ」
柴崎は、滅多にかけない慎一からの電話である事と焦り口調である事で、ニコが帰っていない事を瞬時に悟ったようだ。
「ニコが、まだ家に帰って来ないと、今、さつきおばさんから電話があったんだ。柴崎がニコを最後に見たのは何時だ?。」
「私は、4時に本部に召集されていたから、あんたと一緒に喫茶を出た時から、ニコとは合ってない。」
「俺もだ。最後の上映が終わって片付けて、5時に喫茶に戻ったら、教室は鍵も閉められて終わっていた。てっきり、お前と一緒に帰ったんだと思ってた。」
「私も同じ、本部の召集は明日のダンスパーティのうち合わせで、すぐに体育館に移動したの。5時半に生徒会室に戻った時には全クラスは終了していたから、ニコはあんたと帰ったんだと思って・・・・新田、今どこにいるの?」
「家の周辺を自転車で探そうかと、家を出たところ。」
「いったん切るわ。藤木にも聞いてみるから。」
「わかった。」
慎一はとりあえず、展望公園のあの丘へと自転車をこいで向かった。
ここは、いろんな意味で思い出のある場所。今、このタイミングでこんな時間に、ニコがそこに行く理由は、わからないけど、わずかな居て欲しいという希望で慎一は緩く長く続く坂道をこぐ。2年前も慎一は、こんな風に息を切らしながら走った。自転車ではなかったけど。あの時は、絶対に、ここに居るという変な確信があった。だけど今はそんな予感は全くない。
最初は嫌がっていたメイドさんも、慎一から見れば、いつもより楽しそうに見えた。柴崎と藤木の指摘通り、何も考えないで楽しんだらの言葉に、素直に従ったように見えた。家に帰らないほど嫌だったって事だろうか?違う。英語オンリーにしてから、トップ首脳会談の人だけじゃなく、英会話会話クラブの人たちも遊びに来て、笑顔で話していた。「楽しそうだな。」と声をかけたら、「やっぱり英語は楽だ。」と笑って答えた。
家に帰れない何かが起きた?まさか事故?誘拐?慎一は不安で生じる考えてはいけない事を、頭を振って排除する。
深見山線の展望公園駅につく。慎一は自転車を飛び降り、階段を駆け上がった。外套のない階段、携帯のライトで照らしながら登る。当たり前に夜のこんな寂しい場所に来る奴はいない。ドラマが流行って家の店が繁盛した頃は、夜もカップルでいっぱいだったと聞くけど、そのドラマも今は懐かしの遠い記憶になって、誰もいない。
「やっぱり居ないか。」寂しさ紛れに声に出す。
展望からの煌めいた街のライトの眺めが無意味に綺麗だった。自転車のあるところに戻ろうとしたとき、手に持っている携帯の着信がなる。知らない番号。
「はい。」
「慎ちゃん?」
「さつきおばさん。帰ってきた?」
「まだ・・・・。」
「おばさん・・・・事故ったとか・・・。」
あまり聞きたくない事、でも可能性はある。
「私もそう思って、病院に電話したの。夕方からは誰も運ばれていないって。」
「そう、良かった。おばさん、俺、学校まで行くんで、ニコが帰ってきたら知らせて。」
「ごめんね、慎ちゃん。」
このあたりで救急車を呼ぶと必ずバス路線終点の関東医科大学付属病院の救命救急センターに運ばれる。
さつきおばさんはそこで働いているから、身内の情報として間違いない事に慎一はほっとする。
残るは誘拐の可能性。事故より最悪の事態。慎一たちではどうすることも出来ない事だ。警察へ連絡しなければならない。
自転車をこぐことなく坂道をノーブレーキで降りながら、ニコと昔、遊んだ空き地、公園などを見ていく。どこにもいない。
あの居るという変な確信も生まれてこない。また携帯が鳴る。柴崎から。
「新田、今どこ?」
「まだ家周辺、どこにも居ない。」
「藤木に聞いたら、私達が教室を出た直後、ホットケーキの粉がなくなったから、店を閉めようって話になって、片付けして。4時30分過ぎには、クラスメート全員にお疲れさんの号令をかけて終えたと。藤木はニコに、この後どうするって聞いたら、私の所に行くって、本部の生徒会室の方に向かったって、それから見てないと。藤木も私と帰ったと思っていたって。私は、4時に生徒会室に行った後、ニコを見ていない、5時半まで体育館にいたし。」
「という事は、生徒会室に行ったら、柴崎が居なかったから、一人で帰ったって事か」
「一人で帰っている途中で何かあったって事?」
「事故の可能性はない。おばさんが病院に確認した。」
「じゃ、何?誘拐?」
「もしくは、まだ学校にいる可能性も」
「えーどういう事よ。」
慎一は、誘拐よりもニコが学校で体調を崩して、倒れている可能性を考えた。でも、その可能性を柴崎に言うには、ニコに止められている事を話さなくてはいけない。
「とりあえず、俺、学校に行くから」
「ちょっと!」柴崎の叫びを無視して電話を切る。
ニコの家のマンションと駅前の間にある公園も見に行く。いない。いるのはあまり柄の良くない同じぐらいの年の奴ら4人。滑り台でゴミをまき散らして飲食している。慎一が誰かを探しいてる風の様子に、怪訝な目を向けてくる。変なやつらに絡まれてなければいいけどと心配する。
また電話が鳴る。次は藤木から。
「今どこ?」
「ニコん家周辺を探している。」
「俺、今、学園に向かっているから。凱さんの手配で外に出してもらえた。寮から学園に向かって周辺を探すよ。柴崎も凱さんとこっちに向かって来ているから。」冷静で落ち着いた藤木の声に、慎一は少し安心する。
「判った。」
電話を切った後、慎一も学園へと自転車を向けた。
バス通りの道は、まだ車の往来が頻繁にあるけれど、脇の店舗はコンビニ以外、閉店のシャッターが降りている。もちろん、コンビニの中の様子を覗きながら走る。通り過ぎる車のヘッドライドが眩しく過ぎて行く。
学園前の交差点に来た時、藤木と出合う。
「ニコちゃん、家に一度も戻ってないの?」
「あぁ、おばさん、仕事から戻ったのが7時で、俺ん家に来てると思っていたらしくて、この時間まで気にしてなかったんだ。家に来たら、いつも母さんが来てるよってメールをおばさんに送るんだけど、それがないから、おかしいと感じて電話してきたって。今日は俺、一緒に帰ってきていないし、ニコは家にも来てない」
黒いバイクが右折してきて慎一たちが立ち話している真横に急停車する。凱さんと柴崎だった。柴崎はバイクの後ろから飛び降り、赤いヘルメットを取ると、どうなっているの!と詰め寄る。凱さんもヘルメットを取り、バイクを車道の邪魔にならないように歩道に乗り上げる。慎一は、もう一度、さつきおばさんから電話があったことを話し、藤木はニコと別れた時の事を話す。
「新田、どうして、学園にまだいると思うの?」
「それは・・・・。」
「誘拐なら、警察に頼まないと一刻を争うわ。私の時みたいに。」
「警察に頼むとしても、情報を整理しなければ2度手間だ。まず、この中では、りのちゃんと最後にあったのが藤木君。喫茶の前で生徒会室に行くと言って向かったのが、4時45分頃?」
「はい。」
「その時間、麗香は?」
「生徒会室での打ち合わせが4時半に終えて、メンバー全員が体育館に移動した。その時間帯は生徒会室には誰もいない。鍵は閉めていないから誰でも入れる。体育館での打ち合わせは5時半までやって、それから生徒会室に戻ったけど、ニコが私の所に来てるなんて知らなかったし、戻った時に生徒会室は誰もいなかったわ。そして、すぐに解散となって全員が帰宅した。」
「凱さん、セキュリティーidを!学校を出たかどうか、わかる。」
「今日は、idかざしてないでしょう。」
今日は祝日、それも文化祭、外部のお客さんの出入りがあるのでidは止めて、朝、担任が目視で出席のチェックをしただけだ。
「一応、ここに来る途中で、ニコが寄りそうな店とか、昔二人で入ったファーストフード店とかも、覗いて来たんだけど、いなかったわ。」
「俺も、来る道中見て来たけど居なかった」
「可能性の一つとして、身代金目的で下校途中に誘拐されたとしたら、この時間まで犯人からのアプローチがないのは逆におかしいな。仮に5時ごろに連れ去られたとして、もう4時間が経過している。犯人の心情としたら警察に届けられる前に親と接触し交渉したいだろうからな。」と凱さんが腕を組んで言う。
「じゃ、やっぱり、ニコはまだ、学園にいるってこと?」
「わからないな、身代金目的の誘拐だけが、連れ去りの理由じゃないからな最近のは。」
「そんなっ!」柴崎が青ざめる。
慎一は、連れ去りではない気がしてならない。そうじゃないと思いたいだけか?
この学園と自宅の短い距離で、連れ去りのチャンスがあるとは思えなかった。学園周辺とバス停を降りてからニコの家まで、人通りは結構ある。誰にも見られないように車に押し込むなんて、小さい子ならともかく、中学生がそれをされていたら流石に目立って、今頃騒ぎになっているはず。ニコが連れ去りの犯人に言葉巧みに誘われて、自分から車に乗り込んだという可能性は、絶対にありえない。人を避けるニコが、知らない人の車に、素直に乗るはずがない。
慎一は、唇をかみしめた。
『絶対にいうな、薬と父の事は。学園に知られたら、ここに居られなくなる。』ニコと約束した、でも、今は緊急事態。
「倒れてるかも・・・・」
「なに?」
「ニコ、病院に通っていて、トランキライザーって薬、飲んでる。」
凱さんが目を見はった。薬の性質を知っている顔。反対に何のことかわからない顔の柴崎と藤木。
「とらんき?」
「精神安定剤兼睡眠導入剤。手術前の麻酔薬に使われることもある薬だ。」凱さんが、慎一がネットで調べた時の情報を言い表す。柴崎と藤木は、言葉にならずに息を止め、動けなくなっていた。当たり前、慎一も薬の名前をネットで調べた時、周りの景色が止まった感覚がした。
「どうして、言わないの!」柴崎が叫ぶ。
「お前らには絶対に言うなと。学園に知られたら、ここに居られなくなるって、ニコに口止めされていた。」
「わ、わたし、無茶をさせた・・・・」
「その薬って、昼とかも飲んでいるのか?」藤木が問う
「わからない。多分、寝る前だけだと思うけど。薬の事は、俺もつい最近知ったんだ。」
「じゃぁ、その薬を飲んで、学校で眠り込んでしまっているという可能性が、高いと?だから新田君は学園に居るかもと言ったんだね。」
「はい・・・・」
「私が無茶をさせたから、ニコ、倒れて?」柴崎が、うろたえる。「そんなに、悪いなんて思ってなかった・・・どうしよう・・私、無茶させて。ニコ倒れて・・・・。学校に閉じ込められた?」
「柴崎のせいじゃないよ」
慎一の言葉が聞こえなかったように、柴崎は青い顔をして、うわ言のように「どうしよう、私のせい」を繰り返す。
「柴崎、しっかりしろ。今はニコちゃんを探す事が先決。柴崎の頭と先導力が必要なんだよ。」藤木が柴崎に喝を入れる
「お前がしっかりしてくれなきゃ、俺たちは動けない」慎一も藤木の言葉に賛同した。
「柴崎が一番良くわかっているだろう。今まで乗り越えてきた事を。」
そう、柴崎が命を落としそうになったとき、藤木が退学を覚悟した時、俺たちみんなで乗り越えた。今度も大丈夫。
柴崎にそう言いながら実はまだ、慎一はうろたえている。その言葉で、不安な自分を言い聞かせている。
「そう、そうよ。ニコは大丈夫。今度は私が助ける番。」
慎一たちは、目を合わせ、力強くうなづいた。
「学園の門、開けるよ。」
凱さんがバイクのエンジンをかけて、100メートル先の学園正門前につける。慎一達は駆け足で追いかけ、門のセキュリティー解除用ボックスに番号を入力し終えた凱さんに続いて入る。門から校舎玄関前までの道を奪取で駆け抜ける。慎一達が使う下駄箱ロッカーのあるガラス製の扉を開けようとしたら、凱さんが来客用の玄関扉前で、こっちだと叫ぶ。敷地内の建物には、すべてセキュリティーロックされている。これを解除しないで扉を開けようとすると警備会社に通報されて、警備員が飛んで来る。通用門にあったと同じ小さなボックスに、長い暗証番号を入力するのを待ち、中に入る。
一度、職員室に向かう。生徒会室のカギを取りに行かなくてはならない。皆が一緒の行動をしても仕方ないので、藤木は体育館と更衣室のカギを持ち見に行く、柴崎と凱さんは近くの女子トイレをかたっぱしから探しに行く。慎一は3組の教室の鍵をとり、喫茶へと見に行く。他の教室の可能性もあるが、とりあえず重要カ所のみ。終われば生徒会室に集合と短時間で決めていた。
慎一が向かった5組の喫茶には居なかった。もちろん隣のキッチン兼準備室にもいない。すぐに生徒会室へ向かう、生徒会室の鍵を持っていた柴崎を待って入る。生徒会室は沢山の備品であふれていた。段ボールに文具、看板など。真ん中に長テーブルが向い合せにくっつけてあり、会議ができるようにパイプ椅子が並べてあるけれど、そのテーブルにも、書類やマジックペンが散乱していている。とりあえず、テーブルの下を覗き込む。いない。窓に立てかけられているパネルの隙間を覗き込む。猫を探しいるのではないから、そんな隙間に居るはずがないとわかっていても、慎一はパネルや段ボールの隙間を見ていく。
藤木が生徒会室に息を切らして入ってくる。
「どうだった?」
「いない」
次どこを探すかとなった時、柴崎が叫ぶ
「ニコの鞄よ!」二コの鞄は部屋の隅の畳まれた段ボールがかぶさり、一目では確認できない位置にあった。
「これで、学園にいる事は間違いない」
皆が息を吐く。最悪の連れ去りの可能性が消えた。という事は、ニコが倒れている可能性、それはそれで安心はできない事だけど、ただ薬の影響で眠りこんでいるなら、まだ安心と言う物。だけど、この広い敷地の一体どこに、ニコは居るのだろうか?
一部屋一部屋すべて開けて回って探すしかない。慎一達は、もう一度職員室にカギを取りに行くべく部屋を出ようとする。すると柴崎が、テーブルに置いてある、文化祭の資料を手にして、頭をかしげる
「ちょっとまって・・・・」
「何んだよ。こんな時に生徒会の仕事なんて」慎一は、足止めする柴崎にイラついた声を上げる。
「違うの。この資料のこのメモ。」
「だから、何だよっ。今はニコを探す方が」
目を細めた藤木が、慎一に立ちふさがって柴崎の言葉を促す。
「反省会をした時には、こんな地図の要望なんて誰も言わなかった。だから特に問題はないねって事で。明日の表彰式とダンスパーティの打ち合わせに、皆で体育館に移動した。ここに、ニコのかばんがあるという事は、その誰もいない間にニコが、ここに来たのは間違いない。この手書き。」柴崎が指す手書きには、【校舎案内地図が不足、図書館前にも設置を】と書かれてある。
「体育館に居た時、誰かが、河村先輩に地図がどうのこうのって話しているのが聞こえたんだけど・・・・。話してたの、誰だったかなぁ。体育館に、遅れて来て・・・・思い出せない。」
「麗香、河村君に連絡は取れるか?」
「えーと、直接の番号は知らないけど。テニス部の先輩に聞いたらわかるわ」
「体育館の打ち合わせに遅れて来たって子は、一度、ここに来たんじゃないかな。この資料に記入してから、体育館に向かった。
生徒会室は鍵を開けたまま、皆で移動したと麗香は言ってるから、りのちゃんは誰も居ない生徒会室に来て、ここで麗香が戻ってくるのを待っていた。その時、その遅れて体育館に来た子が、その前にここに来たとしたら、この時点で一番最後に、りのちゃんを見たのは、その子ってなる。」凱さんが不審に思っている慎一に向かって説明する。
柴崎が、携帯を取り出し電話をする。テニス部の女子の先輩を経由して、河村先輩の携帯電話番号を得てかける。
「えっ本当ですか?ニコが言ったんですか?・・・・・はい。・・・・はい。・・・いえ、そんな大したことではなくて。私も、そのパネルの要望を聞いてたのに、忘れちゃっていたから。気になっちゃって、確認の電話です。すみません、遅い時間に、はい、失礼します。」
柴崎が電話切る。さすがにニコが帰らない事を河村先輩には言えない。どうにか誤魔化した模様。
「遅れて来たのは1組の福島さん、ニコが、この要望のパネルを取りに行ってあげるから体育館の打ち合わせに行ったら、って言ってくれたと。その事を体育館で河村先輩に報告していたのよ。」1組の福島さんは去年、慎一たちニコと同じクラスだった女子だ。ニコに実行員に推薦投票し、文化祭以降は比較的、ニコと話をするようになったクラスメートの一人。
「じゃあ、福島さんがニコを最後に見た人で」
「ええ、地図のパネルは、この部屋にはないわ。だから倉庫へ、急ぎましょう」
こういう常翔祭やイベントで使うパネルや道具などは、中棟一階の階段下の倉庫に置いてある。凱さんが職員室にカギを取りに行き、慎一達三人は倉庫に向かう道中のトイレや渡り廊下などを見ながら行く。凱さんがカギを手に到着するのを待って、倉庫を開け電気をつける。階段下のデッドスペースを利用したこの場所は、天井が階段状に斜めになっている。当然窓もなく、空気はよどんで埃っぽい。今、文化祭用の備品が外に出払っているとはいえ、段ボールや、パネルなど、沢山の物が窓を埋め尽くすぐらいにあった。つい一昨日使われた体育祭用の案内板も仕舞われている。慎一はパネルなどをずらし、隙間などを探す。だけとそんな隙間にもニコは居なくて、慎一達は落胆の思いで倉庫を出る。
「ニコ・・・・どこに居る。」
「ニコちゃん。」藤木も溜息をついて、向かいの美術倉庫の扉に背中をもたれて、天を仰ぐ。その藤木が声を上げた。
「開いてる・・・」
慎一達は、顔を見合わせ、美術倉庫に飛び込んだ。そこは、油絵や、水彩画、アクリルデザイン画などのキャンバスが無数に立てかけてあって、美術室独特の油や蝋の匂いが充満していた。ここでもキャンパスの隙間など見たけれど、ニコはいない。
突然、側にいた柴崎が、キャッと叫び、慎一の腕をつかむ。
「何?」
「ごめん。滑った。」
「絵の具でも落ちていたんじゃ・・・・」
皆が、柴崎の足元を見る。床に赤い絵の具が踏まれて延びていた。
皆が顔をしかめる。美術室ならともかく、ここは倉庫だ。美術道具は一切置いてない、仕上がった作品を保管する場所。見たところ、作成途中の作品なんて見当たらない、こんな乾かない絵の具が落ちてしまう事ってあるか?
それに、この色は・・・
凱さんが、しゃがみ込んで手で触り、匂いを嗅ぐ。
「血・・・」
慎一は手が震えた。乾いてない血、ニコは家に戻らない。さつきおばさんからの連絡もまだない。嫌な不安が胸の中をかき混ぜる。慎一は美術倉庫を飛び出した。
「新田!どこに行く!」
どこを探せはいいかわからない、だけど、慎一はじっとなんてしてられなかった。やみくもに校舎を走り、トイレを見たり、階段の踊り場などを探す。
「ニコ!」
叫んでも返事はない。慎一は南棟の廊下を突っ走り、外に飛び出した。
冷たい風が顔をかすめる。膝に手を置き、息を整える。苛立ちと焦り、怒りを吐き出す。
「くそっ!」
ふと通用門内側に車が停めてあるのに気づく。去年の同じ日、慎一とニコはここに忍び込んだ。
あの時は、あのスペースにいっぱいに車が止めてあった。外車ばかりが並んで、何があるのだろうと不審に思った。お化け屋敷よりも、恐怖にドキドキしながら校舎に入った北棟の視聴覚室、見上げたら廊下は暗く、去年みたいに使われてはいない。
今日は二台だけ停まっている車。凱さんはバイクで来た。誰か、まだ残っているのか?鍵を取りに行った職員室には誰も残業なんてしていなかった。凱さんを含む3人が校舎から飛び出してくる。
「凱さん、今日って何かあるんですか?学園で。」
「今日?文化祭で、」
「違います。夜に、この時間に。」
「何もないよ。」
「じゃぁ、あの二台の車は誰のです?」
「えっ?」
慎一たちは車に駆け寄った。誰もが知っている高級車が二台並んで止められている。そのうちの一台のナンバープレートが、ニコが頭をかしげて眺めていたのと同じ、赤く縁どられたプレート。番号は、さすがに慎一は覚えていない。まさかニコは、これを見て不審に思って無茶な行動に出たんじゃないだろうかと思い至る。それはありえた。気になったことは、とことん調べないと気が済まないニコ。だからこそ、慎一たちは去年、ここに忍びこむ事になった。
凱さんが、どこかに電話して、二台の車のナンバーを知らせている。
「至急調べて、わかり次第、連絡をくれ。」
凱さんは携帯電話を耳から外して、慎一達に顔を向ける
「一応ナンバーから身元割り出しを頼んでいる。ニコちゃんの捜索に役に立つかどうかわからないけど。」
「凱さん・・・・俺とニコ、去年の今頃、今ぐらいの時間に、ここに忍び込んだ事があるんです。」
「えっ?」
怒られるかもしれない、退学処分になるかもしれない、そんなことは、今はどうでもいい。ニコが見つかるなら、手ががりを披露して、みんなの頭脳を借りなくてはならない。トツプ首脳階段級の頭を。慎一は去年の出来事を話した。
「その車と、この車が同じかもしれないって事?」
「番号は覚えてないけど、あの時もこんな縁取りのナンバープレートの車が一台あった。」
「りのちゃんは、盗品売買かもって?」
「はい。証拠を見つけたわけじゃないです。校長室で聞いた会話の内容から導き出した、ニコの推測です。」
「うちの学園で、そんな事!」柴崎が目を吊り上げて叫ぶ
「ニコ、気になった事は、とことん調べないと気が済まないタイプだから、また無茶な事したんじゃないかと。」
「これって決めたら頑固として曲げないもんね。ニコちゃん。」
「うーん」凱さんが腕を組みなおしたとき携帯が鳴る。
「はい。・・・・・・・・・・・・わかった。ありがとう。」
凱さんは携帯を切ると、すぐに違う所へかける。
「調べてほしい人間がいる。この後すぐメールを送るから、今は、名前は言えないんだ。まずは、概略を知らせてくれ。あとの詳細は後日でいいから、取りこぼすことなくすべて。・・・・・あぁ、それも。それから、もう一つ追加で、1年前、世界で騒がれた、ハリスの受胎告知、あれの情報と、そのほかの美術品盗品売買に関する事を。依頼の人間と繋がる可能性がある。それは時間がかかっても構わない、わかった要望の額を提示してくれ。それも払うよ。じゃあ、頼む。」
話し終わった後、約束通り、メールを打ちながら、俺たちに声をかける。
「この車の持ち主が判明した。だが、君たちには言えない。こっちの普通のナンバー車は、この学園の教頭、谷村の物だと判明した。」
慎一たちは一斉に走り出した。
声が聞こえる・・・・夢?
夢じゃない現実。
だって、あの声はパパとママの声。
リビングから聞こえる。
『どうして、りのに行くって約束したでしょう。』
『仕方ないだろう!仕事なんだ。』
『貴方がりのに言ってくださいよ!』
『俺は疲れてるんだ。それぐらい母親のお前がやれ。』
『あなた!向うではそんな事、言わなかったでしょう!』
『うるさい!』
『大きな声、出さないでください・・・・りのが・・・」
パパは今度の参観に来ないんだ・・・・。別にいい。どうせ私は学校では嫌われ者だから、パパにその事がバレなくて済む。
私は、布団を頭からかぶり、パパとママの声を耳から遠ざける。
『じゃ芹沢さん、皆の見本で、テキスト25ベージの上か発音してみてくれる?』
『本場の発音ですから皆さんよく聞いておくように。』
『apple、banna、orenge lemeon・・・・・』
『流石ですね。先生でも、ここまできれいな発音はできません。皆さん芹沢さんが、うちのクラスに来てくれてよかったですね。』
『・・・・・・』
『何あれ、得意げにアポーとか言っちゃって、』
『ほんと、先生に取り入って贔屓されたいだけじゃない。』
『ここは日本だっつうの、英語なんてきれいに発音できなくても、生活できるしね~。』
『そうよ。それに今は翻訳機もあるよねぇ。』
『そうよ、そうよ。気取ってるわ。』
『晩御飯要らないなら、連絡くださいよ。』
『忙しいんだ、そんな暇はない』
『忙しい、忙しいってあなた、本当に仕事なんですか?』
『何が言いたい。』
『毎晩お酒くさい匂いをして帰ってきて、ワイシャツに』
『遠回しに言わず、はっきり言えばいいだろう。』
『私の口から言わすんですか?あなた自身が一番わかっている事でしょう。』
『お前の、その言い方が!どれだけ・・・・』
また、始まった、パパとママの喧嘩、最近、毎晩、繰り返される。
虹玉、お願いパパとママが喧嘩をしないように仲良くさせて。
『頭良いくせに、そこは、できないっておかしいよね。』
『何、言っているかわかりませーん。ちゃんと日本語を話してくださーい 』
『パパ、今度・・・』
『りの、疲れているんだ。あとでな。』
虹玉、パパの疲れを取ってあげて。
『来た来た、外国かぶれ~。』
『ちゃんと日本語しゃべれよ。ここは日本だぜ!』
『・・・・・』
『芹沢さん大丈夫?酷いよね。あそこまで言うことないよね。』
『あ、ありがとう。大丈夫。本当の事・・・・・だから、わ私、頑張って、治すから。』
『ねぇ聞いて~、吉田達がいつもの通り、海外かぶれーって芹沢をイジメてるの、私、助けてやったのに。なんて言ったと思う?』
『何、何?』
『大丈夫、本当の事だから、私、頑張って治すから~。だって、むかつかない?せっかく同情してやった私、馬鹿みたいじゃん。』
『えーホント馬鹿にしてる。山田かわいそー』
『治す気あるなら、こっちに来る前に治してから来いっつうのよ。』
『ホントだわ。ははははは。』
山田さん、そんなふうに思ってたんだ・・・・
何しても、私は嫌われる。どうしてだろう。フィンランドやフランスではこんな事なかったのに。
『仕事、仕事って日本に帰って来てから、いつもいつも・・・』
『うるさい! 俺に指図するな!』
虹玉、パパとママのイライラを取ってあげて・・・・。
『お前の声、聞きたくないんだよ、だから、ここに入って静かにしてろよ。』
『や、や、めて、だっ出し、て!』
『あぁ、何言ってか、わかんないなぁ。』
『ちゃんと日本語が出来たら、出してやるよ。』
『お、おお、ねがいい。だっだして。』
『えー?わかんないなぁ?』
『何してるんです!』
《うわ、やべっ》
『芹沢さんが掃除道具入れに閉じこもって日本語の練習してるみたいなんです。』
『俺ら、掃除したくても出来なくて、困ってるんですよ。』
『芹沢さん、何をしているのです。出て来なさい。皆が困っているでしょう。』
虹玉、奇跡の力があるなら、私の・・・・ううん、パパとママを仲良くさせて。
『ダメだ・・・・俺は・・・・。』
『あなた。』
『すまない、さつき・・・・』
虹玉、願いをかなえて・・・・。
『りの、先に食べる?ケーキ』
『・・・・・要らない。もう寝る』
『あなた!今日は、早く帰って来てって言ったでしょう。今日ぐらい・・・・今日は、りのの誕生日なんですよ。』
『・・・・・・。』
虹玉、パパとママが喧嘩するなら、ケーキは要らない、誕生日も要らない
『あなたは、りのの事が可愛くないんですか!りのは、貴方をずっと待って』
『わかってる!、仕方ないだろう!帰れるならとっくに帰ってきている!』
『たった1日だけですよ。今まで欠かしたことなかったじゃないですか』
『うるさい!』
『あなた!どうして、日本に戻ってきてから』
突然の大きな音に身体がこわばった。食器が壊れる音。ママの悲鳴。ママの鳴き声。
虹玉、お願い、パパの怒りを、ママの涙を取ってあげて。
私の願いが足りないのかな。
もっと強く、長く願ったら叶うのかな。朝まで、願ってみよう。
大好きなパパとママ、喧嘩しないで仲良くなるように。
『りの、入るよ。おはよう、りの。昨日はごめん。パパ・・・・・。』、
誰?この怖い顔の人・・・・・・パパはもっと優しい顔してて、いつも笑ってて・・・・・。
『仕事が忙しくて・・・・・誕生日会、できなくてごめんな。』
誕生日会?りのは要らないって・・・・
『これ、誕生日のプレゼント・・・・・遅れたけど。』
プレゼント?それも要らない・・・・パパとママが喧嘩するなら、要らないって、虹玉にお願いしたもの。
だから・・・・・。
『・・・・・・らない。要らない!出てって!』
こんな怖い顔の人は、パパなんかじゃない。プレゼントなんて置いていかないで!
『これも要らない!』
『りの・・・・。』
『いや!触らないで・・・・。』
邪魔しないで、虹玉の願いが叶わなくなる。
私は、ずっと願ったんだ。パパとママが仲良くなれますようにと、
そのためなら何も要らないからって。
『学校行かないの?』
『行きたくない・・・・。』
『そう・・・・・ママも疲れた。』。
電話が鳴っている。
『ママ、電話・・・』
『・・・・・・』
ママが出ようとしないから、私が電話を取る
『はい』
『芹沢栄治さんのお宅でしょうか?』
『・・・・・・・』
『警視庁鉄道警備課です。芹沢栄治さんが事故に合われて、お亡くなりになりました。
免許証で確認してお電話を差し上げています。ご家族の身元確認が必要でして、今から言う、場所に来られますか?』
電話がおかしい。いたずら電話?何言ってるかわからない。
『ママ、おかしいよ電話。』
『こちらです。遺体確認をお願いします。お子様はご覧にならない方が』
『こっちで待っていようね。』
ママが冷たいドアの向こうに行ってしまった。ここは何処だろう?寂しい場所。
『ママ?』
2度と会えないような不安が襲ってくる。
『芹沢りのちゃん?』
警察のおねぇさん?私、また迷子になっちゃったんだ。昔も警察のおねぇさんに「大丈夫、お母さんすぐ来るからね」って言われて、飴玉をもらった。だから、また、今も大丈夫だって言ってくれて、飴玉をくれる。そして、すぐにママが迎えに来てくれるんだ。ほら・・・・
『これ、お父さんが握っていたの。誕生日プレゼントかな?』
『・・・・・・』
飴じゃない・・・・何?誕生日プレゼントって?
私は要らないって・・・・お願いした。
『いや・・・・・い、要らない・・・・・・要らない。』
あの怖い人が持っていたプレゼントと同じ。
それは私の願いを邪魔する物・・・・。
『自殺らしいわよ・・・・・・うつ病だったって。』
『奥さんと娘さん、涙一つ出てないわよ。』
景色が、遠いのに。皆の声だけが、はっきり聞こえる。
『あいつの父さん、電車に飛び込んだだって。』
『マジ?』
『本当、俺の父さん、朝、会社行く時、電車止まって、会社に遅れたって怒ってたもん。』
『えー。あいつん家、最低だな。』
黒い服を着た人が、頭を下げて通っていく・・・・・蟻の行列みたい・・・・巣に餌を運んでいるのかな。
雨の日はどうしてるんだろう・・・・蟻さん達・・・・・働きものの蟻さんだから、家の中でもお仕事してるんだよねきっと。
どんなお仕事かなぁ?見てみたいなぁ・・・・。
『りの、最後よ。パパの顔、見てあげて。』
『・・・・・』
パパ・・・・・そう、パパはいつも優しい顔してた。こんな風に。寝てるの?起きて・・・・パパ、お仕事行かなくちゃ。蟻さん達は、もう働いているよ。
この花、邪魔・・・・・こんなんじゃお仕事に行けない。取ってあげよう。
パパの顔半分を隠している白い花をむしり取って捨てた。
『りの!ダメよ!』
『!!」
汚く黒く濁った赤い物がパパの頭に、顔が半分・・・・怖い顔が現れた。手のひらに白い花びらと一緒に赤い絵の具?
もう一度パパの顔を見る。右の半分はいつもの優しいパパ。左は、あの怖い顔、あの怖い顔の人はパパ・・・・。
『りの!』
身体に力が入らない。・・・・沢山の足・・・・お尻に床の冷たい感触。
『りの!』
ママ、泣いてるの?泣いちゃだめだよ。
りのが・・・・りのが虹玉にお願いしたんだから。
ママの涙を取って・・・て。
今、何時だろう。部屋の時計を見る。6時17分,えーと、学校に行かなくちゃいけないんだっけ?
あれ?何、この黒い服・・・・服着たまま、寝ちゃった?
リビングの扉を開けるとママが、テーブルの前でうずくまっている。窓から入ってくる夕焼け色に部屋が染まっている。
夕方の6時か・・・・
テーブルの上には、白い花と黒い額縁・・・・ママも黒い服、お葬式だった?誰の?
『・・・・起きたの・・・・』
『・・・・・・』
『りの・・・・あの朝、パパと何を話してたの?』
あの朝?
『最後に、パパはなんて言ってた?』
最後?
黒い額縁には、パパが笑っている。
あの朝は・・・・怖い顔のパパが入ってきて、私、要らない、出でいってって・・・・触らないでって、私、手を振り払った。
ママが私を見つめる。
私が、手をふりはらったから・・・・パパは死んだ?
『りの?』
ママは怒っている・・・・私が、パパを殺したから。
!
声が出ない!どうして?ママに謝らなくちゃいけないのに・・・・。
『りの?』
ほら、早く謝れってママが怒っている・・・・早く言わなきゃ。ママの目が怒っている。
『・・・・・・』
どんなに叫んでも声は出ない。怖くなって、部屋のベッドへ逃げた。
神様が罰を与えた。
私はパパを殺した悪い子だから、一生しゃべるなと。
ほら、聞こえるパパの声が、
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。。。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ パパと イッシヨニ シノウ
パパも怒っている
怖い顔、血の付いた顔で
悪い子はオイデと。
「ニコ!」
慎一は校長室に飛び込んだ。部屋には教頭先生ともう一人、知らない男の人が、応接セットのソファーに座っている。教頭先生は驚いて立ち上がり叫んだ。
「な、なんだね君は。」
「ニコはどこだ!」
「ニコ?」
部屋の隅々を探す。ソファーの後ろ、大きなデスクの下も、ニコはどこにもいない。
「何している!」
凱さんが駆けこんで来て、教頭先生に問い詰める。藤木、柴崎も順に到着した。
「谷村教頭、こんな夜遅くに学園で何をしているんです。しかも、校長室で。」
「し、柴崎凱斗君・・・・らっ来客中だ、失礼だぞ。君たちは一体。」
教頭先生は見回して、そこに柴崎理事長の娘がいる事に、はじめて気が付く。
「柴崎麗香さんまで!」
「特待生の真辺りのが、まだ帰宅しないと親御さんから連絡がありました。方々探し回って、鞄が生徒会室に残されているのを発見したのですが、本人は見当たらない。この学園にまだ居る事は、間違いはなさそうですが。知りませんか?」
「さ、さぁ、知らないなぁ」明らかに白々しい。
「慌てないのですね、生徒が行方不明になっているのですよ。」
「あ、いや、それは大変だ。警察には連絡したのかね。いや、待て、警察に連絡するのはまだ早いな。ちゃんと探して・・・・」
凱さんは、教頭先生から、もう一人の男に顔を向けて、突然、わからない言語で話し始めた。前に聞いたことがあるロシア語。
露「貴方の身元は、車のナンバーから調べさせてもらいました。」
「き、君も、ロシア語が・・・・」
教頭先生が目を見開いて慌てる。ニコが一年前に校長室で聞いたのは教頭先生が話すロシア語だったって事が確定した。
露「ここで何をしていたか、隠しても、私には調べられるルートがあります。ですが、あなたに対抗はできません。そんな愚かな事をするつもりはありません。私の仕事は、この学園と生徒を守る事です。レニーグランド佐竹さん、ご理解ください。」
当たり前に、全く何を言っているかわからない。ただ、慎一達は、今、口出ししてはいけない空気だけは、ヒシヒシと感じていた。知らない男は教頭先生よりも落ち着いて居て、まるで人ごとのように、この状況の中、微笑んでいる。
「何を言っている。客に対して失礼だぞ!」
「黙れ!ただの客じゃない事ぐらい、わかっているんだ。」
凱さんの迫力あるすごみに、慎一達はびくついた。いつものチャラい大学生とは違う、怖いぐらいに目が鋭い。
突然、知らない男は、声を出して笑い出した。男もロシア語で話し始める。
露「それで、私を脅しているつもりか。」
露「脅しではありません。お願いです。」
露「ただの愚か者か、それとも頭が切れるのか」
露「美術倉庫に乾いていない血が落ちていた。わが生徒に何をした!」
ロシア語で怒鳴る凱さん。慎一達は、所在なく、ハラハラしながら待つしかない。
知らない男は、凱さんの睨みに一切の動揺もなく、ずっと変わらない笑みを崩さない。そんな男を脅しても無駄だと思ったのか、凱さんは怒りの顔を教頭先生に向けた。教頭先生は男の態度とは正反対におどおどとして、後ずさる。
「わ、私は・・・」
知らない男が、微笑みながら急に立ち上がった。
露「騒がしいのは嫌いでね。帰るとしよう。」
「待て!」
前を平然と通り過ぎようとする男を、凱さんは肩を掴んで止めた。
男が乱れたスーツを正したように見えた瞬間、凱さんは急に掴んだ手を放し、両手を上げる。
まるで手を上げろと銃で脅されているように、顔も強張っていた。
「ほぉ、心得があるとは珍しいな。その若さ、日本人で」
知らない男は微笑みをやめた。二人は顔を突き合せたまま動かない。
露「私にも調べられるルートがある。面白いものが拾えそうだな。」
器用に日本語とロシア語を切り替える二人。知らない男は、凱さんの肩をポンと置くと、また笑った。
「柴崎凱斗、覚えておこう」
男は、堂々と部屋を出て行った。
凱さんは、強張った顔のまま、何故か出て行く男を止めようとはしない。
二人の間で何が交わされて、どうなったのか、慎一達にはわからない。男の正体も。だけど男が何者かより、ニコの行方を知ることが先決、凱さんは強張ったまま動かない。
「凱さん!」慎一の叫びで、我に返ったように、凱さんは再び教頭に詰め寄る。
「谷村教頭!真辺りのは!」
「し、知らない」
「谷村!」
凱さんの凄みに、教頭先生はたじろぐ。
「・・・・・・屋上へ、自殺に見せかけて、落とそうと。」
「なっ!」
慎一は校長室を飛び出した。
「新田!待って!場所を聞き出してからじゃないと!」
柴崎の言う通り、だけど、慎一は待ってなんかいられなかった。校長室からそのまま近くの階段から上へ駆け上がる。校長室は北棟にある。屋上への鉄製の扉は、鍵が閉められていて開かなかった。身体を体当たりしても開かない。上を見上げたら、弓道場と書かれたプレートを見る。弓道部が使う屋上には安全対策の為に金網が高く設置されてある。教頭先生は、自殺に見せかけて落とすと言った。金網のあるここでは完全に不可能。北棟じゃない。くそっ!
階段を三段飛ばしで駆け下りて、校長室の前で、藤木と柴崎にぶつかる。
「中棟か南、どっちだ?」
「教頭もわからないって、男が連れて来た手下に任せたと。闇くもに行っても時間のロスだわ。」
「中棟と南棟の屋上は3つに仕切られているから横移動できない。」
「それでも、行かないと!くそ!」
慎一は窓ガラスに額をつけて、向う、中棟の屋上を覗く。何か黒い物が見えた気がした。
「藤木!、あれ見えるか!」
藤木も、窓ガラスに顔を張り付けてみる。
「人だ!急げ!中棟端の屋上!」
「もったいないなぁ。こんなかわいい子、捨てるの。」
もったいない?何が?
いいの、私は悪い子だから、もう何も要らない。
パパ・・・ハ シンダンダヨ・・・・・パパと、イッシヨニ・・・シノウ
わかった。パパと一緒に行く。
「もったいないなぁ。こんなかわいい子、捨てるの。」
そうかな?もう十分だよ・・・・
りのは、もう捨てて、要らないから。
パパ・・・ハ シンダンダヨ・・・・・パパと、イッシヨニ・・・シノウ
ほら、パパが呼んでる。パパの手がそこに。もう今度は逃げないから。
パパと、イッシヨニ・・・シノウ
もう、その手を振り払わないから。一緒に行くから待っていて。
『 ・・・コ。・・・ニコ。』
誰?ニコ?って誰?
『ニコ!雨あがった!行くぞ!』
違う・・・・・私は、りの・・・・・芹沢りの。
ニコ死ぬな!
慎一はそれを呪文のように繰り返し走る
俺達は双子のように育った兄妹。ニコを失ったら。俺は生きていけない。もう嫌だ、離れるのは。
慎一は、全力で走る。
もっと早く走れ!もっと早く駆けろ、俺の脚!
『虹玉あげたくて・・・・』
パパと、イッシヨニ・・・
虹玉?そうだ、願ったんだ。虹玉に。
でも、もういらない。叶ったから。ほら、パパが呼んでる。
「捨てないと怒られるんだな。だから、もったいないけど捨てる。」
そう、捨てて・・・・虹玉はもういらない。
リノ、パパト。
『ニコ・・・・俺は心配で。』
誰?心配って・・・・・私はニコじゃない、りの。
リノ・・・・
『ニコ!死ぬな!ニコ!』
さっきから、うるさい!パパの声が聞こえない
『ニコ死ぬな!ニコ、俺たちは双子だろ』
ニコって呼ぶな。私は、りの・・・・真辺りの。
「ニコ!」
屋上の扉を体当たりで開けた。坊主頭の大男が、ニコをまるで米の袋でも持つように肩に背負って、今まさに、下に落とそうとしている。慎一の声で大男は、ニコを肩にかけたまま振り返る。ニコの頭は男の背中にだらんと下がり、腕が力なく揺れている。
「おっおっおっ、おで・・・・・捨てる。もったいないけど・・・・捨てる。捨てないと怒られる。」
なんだ、この男?言っている事がおかしい。
男が、ニコの身体を肩にかけたまま、塀の向こうへと身体を向けた。
「やめろ!」
慎一の叫びにびくつく男。男の身体は大きくて、慎一たちには胸の高さまであるコンクリート製の塀は、あの大男にとっては腰までしかない。下手に男を刺激させたら、ニコの身体を軽く塀の向こう側に落としてしまう。
「やめてくれ・・・・なっ」
藤木と柴崎が駈け込んで来た。
「ニコちゃん!」
「ひっ!」柴崎が声にならない悲鳴を上げる。
男が、藤木と柴崎に驚き、後ろに下がった。ニコの体は完全に塀の向こう側。
慎一は男に向かって走り、男の肩からニコの身体をつかむ。男が、バランスを崩してニコの体を放す。二コの身体は、コンクリート塀の上に渡るように落ち、向うへずり落ちそうになるのを無理やり押さえつけた。男は壁を背に尻もちをついている。
「ニコちゃん!」
藤木と柴崎が、駆け寄り、ニコの身体を掴む。だけど人間の体は上半身の方が重い、干していた布団がベランダからずり落ちていくように、ニコの体も徐々に落ちていく。藤木と柴崎もニコの体を掴んで抑え、下に落ちていくことは止めだ。だけど上に引き上げられない。
「ニコ!起きろ! 起きて、手をつかめ!」
うるさい。ニコって呼ぶな!パパの声が聞こえないだろう!
「ニコちゃん」
パパが行ってしまう。私はイッシヨニ行くんだ。
「ニコ、起きて。」
あぁパパが行ってしまう
「ニコ!起きろ!」
冷たい風が顔に当たる。起きてる。いや寝ているのか
さっきまでのが現実だから、これは夢。私は寝ているんだ
でも何?痛い。
誰かが背中やわき腹をつかんで、痛い
「手をつかめ!」
つかむ? さっきは捨てるって。
「ニコお願い、手をつかんで」
「ニコちゃん、お願いだ。力を入れて。」
この声、誰?日本語?
私、日本人の友達、いたっけ?
「りのちゃん!」
凱さんが駆け付けてくれて、やっとニコを塀の内側へ引きずり込む事が出来た。
慎一達は、はぁーはぁーと息を切らし、へたり込む。
「ニコ!大丈夫か!」
慎一は倒れ込んでいるニコを覗き込む。ニコは、ゆっくりと四つん這いから身体を起こそうとするので、手を貸してやる。
ニコは立てなくて、力が抜けたようにへたり座った。
よく見ると左の頭に血がべっとりと張り付いて髪が固まってしまっている。血はこめかみあたりま流れ、きれいな顔を汚している。慎一は、その血をどうにか拭こうと、手を添えて気が付いた。
ニコの目はうつろで焦点が合っていない。明らかに不自然な、どこを見ているのかわからない表情。
「ニコ?」
柴崎と藤木も膝をついてニコの顔を覗く。ニコは、ゆっくりと首を傾げ、そして辺りを見回す。
凱さん含む俺たち4人、いや大男も、そのニコの異様な様子に、黙りこんでしまった。
今日は満月、雲が移動して月明かりに照らされたニコの顔は、陰影を明確にし、まるで美術彫刻のように、ぞっとするほど美しい。藤木も柴崎も、同じ感覚を覚えたんだろう、目を見開いて息をのむ。
「行かなくちゃ・・・・」
そう呟いて、ニコは立ち上がった。男の方へ。男はひぃっと悲鳴を上げて、屋上から逃げて行った。ニコは歩みを止めず塀に手をかけた。乗り越えようとするニコ。
「おいっ、何して、やめ!」
慎一は塀に身体を乗り出すニコを再び掴み引き戻す。その拍子にニコは足を絡ませてしまい、すとんと、尻もちをついた。
「パパ・・・ごめんなさい。もうイッショニ そう・・・もう、捨てて・・・要らない」
うつむいたまま、ぶつぶつと言うニコに、慎一は恐怖を感じる。
「ニコ!しっかりしろ!ニコ!」ニコの肩を揺さぶった。
「新田、やめろっ!頭の怪我に響く。」
藤木の指摘で、肩に置いた手を慌てて放した。ニコは力なくつぶやく。
英「誰?私、日本人の友達なんかいない」
「ニコ!」
柴崎が叫ぶ。俺にもわかった簡単な英語、それはものすごく残酷なフレーズ。
慎一は震える手を伸ばし、ニコの顔を胸に抱きしめた。
「ニコ、頼む。帰ってこい。」
暖かい・・・・
ずっと冷たくて固い感触が身体を冷やしていた。冷たい風が顔に当たって、これから行くところは、フィンランドの冬のように寒い所に行くんだと思っていた。寒いのは嫌いじゃない。冷たい空気を吸うと、身体がしゃんとする。はぁと息を吐くと白い綿飴が出来たみたいで楽しい。寒いのは嫌いじゃないのに、暖かい場所にずっと居ると寒い事が辛くなる。
今は顔と胸が暖かい。
あったかいのも、いいな。
遠くで子供の声がする。
『またニコちゃんマークばっか書いてるぅ。』
『だって好きだもんニコちゃん。えへへ、簡単だし。ほら、○とこれ3つで、顔になるんだよ。』
『りのに似てるこれ。わかった。りのはニコだ。』
『?』
『りのは、いつも笑ってるからニコニコのニコ!これからニコって呼ぶ!』
『あら、可愛いあだ名ね。』
『うん、ニコニコのニコ! 慎ちゃんがつけてくれたぁ』
「慎ちゃん・・・・」
口が勝手に動いた。すると、また顔に冷たい風が当たった。
目の前に、ぼんやりと子供の顔。
そう、慎ちゃんがつけてくれた名前、みんなが気に入って、ニコと呼ぶ。
「そうだっ。慎一だ。双子のように育った。ずっと一緒だっただろう。」
「双子・・・・・慎ちゃん、ずっと・・・一緒?」
「そうだよ。ずっと一緒。」
すっと、子供の顔が消えて、目の前の靄が、冷たい風にさらわれていく。
私はニコ?
ニコニコのニコ?
ニコの目の焦点がやっとあう。
「慎一?」
「ニコ!」
凱さんが大きく息を吐き、一安心みたいだなと言うと藤木と柴崎もやっと息を吐いた。
凱さんはすぐに携帯で、救急車を呼ぶ。
「大丈夫?」
「よかった ニコちゃん」
ニコは、そこに藤木と柴崎が居るのをはじめて気が付いたように驚いて、周りを見渡す。頭を傾げたり目を細めたりして、今の状況に把握できないでいるよう。
「立てるか?」
立ち上がるのを俺と柴崎で手伝った。ゆっくり、ようやく立ち上がったと思たったら、すぐにしゃがみ込んで、
ニコは吐いた。
「ニコ!」
立ち上がると、急に頭がずきずきと痛み、ものすごい吐き気が襲ってきた。何も考えられなかった。
トイレに駆け込むとか慎一や藤木の前で恥ずかしいとか、そう言う理性が働かない。
今までに経験した事のない胸の気持ち悪さと頭痛だった。柴崎が叫ぶ。
凱さんが、りのちゃんと叫び駆け寄る。
なぜ?凱さんがここに?
それに、ここは一体どこ?
暗いし、冷たい。
「りのちゃん、我慢せず、全部、吐いた方がいいよ。」
りの?その名前を聞いたら、またあの声が聞こえてきた。
リノ パパと イッシヨニ シノウ
今、私は起きている。
寝てるのか
「どっち?」
また、どうしようもない吐き気が襲う。吐き気があるという事は、私は起きている。
なのに夢の声が追いかけてくる。逃げられない。
誰かが背中をさすってくれるけど、それも気持ち悪い。
リノ イッシヨニ シノウ
『ニコ、死ぬな。』
二つの言葉が頭の中で繰り返しこだまする。
寝ているのか?起きているのか?
夢か?現実か?
りのか?ニコか?
死か?生か?
私はどっち?
ニコが肩で息をしながら吐く姿を、慎一は呆然と見つめた。頭に怪我して吐くって、これって良くない事なのでは、
自分がニコを揺さぶったから、そう思うともうニコに手が出せない。
ニコが、大きく頭を振る。
「ニコちゃん頭、振ったら駄目だ。じっとして。」
と言う藤木の声も届いていないみたいに、また込み上げてきた胸を抑えながら口をふさいだ。
「ニコ・・・」
「慎一・・・」
声も、手も震える。ニコがすがるように俺の腕をつかんできた。でもその手の力は、ほとんどなくて、ずり落ちていく。
「私は、どっち?」
今までに見たこともない不安げな表情のニコに、
慎一は、どうすることも出来ないで、佇んだ。
凱さんを学園に残し、慎一はニコの付き添いで救急車に乗り込む。柴崎と藤木はタクシーで追ってくる。ニコは屋上から下の階へ降りる時、何度もふらつき、途中でうずくまる事を繰り返した。凱さんがおんぶをしてあげようと言うのを、頑なに拒んだ。慎一が自分がと言ったけれど、藤木に階段が危ないからやめとけと言われて断念する。そうするうちに、救急車が到着して隊員が、ストレッチゃーを階段踊り場まで持ってきてくれたけれど、これもニコは物凄く嫌がった。何かにおびえて、うずくまって嫌だと首を振る。仕方なく、ふらつくニコを支えながら、一階まで自力で降ろして、救急車に乗り込んだ。
さつきおばさんの勤務先の大学付属病院の救命救急センターに着き、ニコはすぐに処置室へと運ばれた。
柴崎と藤木もすぐに到着し。そのすぐ後に、学園を出る前に携帯から知らせていた、さつきおばさんと母さんが到着。
「慎一!怪我してるってどういう事?」
「それが・・・・殴られて。」
「なっ殴られたって!何!何があったの!」
おばさんが悲鳴に近い息をのむ。
「えっと・・・・」
慎一は、柴崎の顔を見る。すべてをどう話していいかわからない。柴崎はうなづいて、私がと慎一の前に出る。
「私、常翔学園理事の柴崎信夫の娘、柴崎麗香と申します。」
「貴方が、柴崎さん。」と母さん。何度か家で柴崎の話はしている。
「はい。真辺りのさんの怪我は、学園の不祥事に巻き込まれて負った傷です。本当に、申し訳ございません。」柴崎が深々と頭を下げる。
「不祥事?って何?」
「りのさんのお母様、詳細を話しますと、すごく長くなります。私、りのさんとは一学期の研修旅行で同じ部屋になり、それからずっと仲良くさせてもらっています。詳細を隠したり、逃げたりは絶対に致しません。」
柴崎が、泣きそうになるのをぐっとこらえ、しっかりした丁寧な言葉で話す。
「りのさんを、親友だと宣言する私が誓って保証します。だから今はどうか、りのさんの為に時間を使ってください。詳細は後日、ちゃんと話せる者から致しますので。」
「・・・・わかりました。柴崎さん、りのと、友達になってくれてありがとう。」
「いえ、私の方が、ニコに感謝しなくちゃいけないんです。本当にすみません。怪我をさせてしまって。」
しっかりしていた柴崎が崩れてポロポロと泣き始めた。藤木が肩を寄せて慰める。
ニコの処置は、長くかかった。頭を強打し、おまけに吐いたとなれば、脳の精密検査に時間がかかっているのだろう。
途中で一人の医師が処置室から出て来て、さつきおばさんと話をしだした。医師の名札を見ると、精神科医と書いてある。
おばさんが俺たちに、もう少し時間がかかるみたいと振り返った時、俺たちは、よっぽど辛辣な顔をしていたのだろう。おばさんは、その理由をポツポツと話し始めた。
「どうも、気を失っている間、東京に居た頃の辛い時期の経験を、もう一度体験したみたいなの、夢の中で。さっきの先生は、りのの主治医でね。今、一つ一つ聞きだしている状態で、それをしないと。酷くなるからって・・・・だから時間がかかるの。もう遅いから、柴崎さん達は帰った方が良いわ。」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私達、帰れません。ニコの顔を見るまでは。」
「柴崎さん。」
そうつぶやいて、さつきおばさんは泣き崩れた。母さんがおばさんをベンチに座らせる。俺も、もらい泣きしてしまいそうで目頭が熱い。
「ねぇ、さつき、この子たち、ニコちゃんを本当に心から心配している。ニコちゃんは、これからも助けがいる。話してみない?ニコちゃんのためにも、そして、さつき、あなたのためにも。」
さつきおばさんは顔を上げて、母さんの顔を見てから俺たちの顔を見わたす。
「慎一は大きくなった。もう子供じゃない。一人の男として、頼ってあげてもらえないかしら。」
「慎ちゃん・・・・。」
「おばさん、俺、ニコに何もしてあげられないといつも思ってた、頭も悪いし、ニコが英語しか話せなくて苦労しているのに、俺は英語が、からっきし駄目で・・・・ニコのストレスを取り除いてやることが出来ない。でも藤木と柴崎は違う。英語も話せるし俺よりもいつも助けてあげて・・・」
何が言いたいのか自分でも良くわからなくなった。俺よりも藤木や柴崎を信頼して頼って欲しいと言いたいのに。
「何言ってんだよ。ニコちゃんの、具合の悪さに気が付くのは、いつもお前だろう。」
「そうよ。ニコが本当にそばに居てほしいと思ってるのは、新田あんたよ。」
「俺は・・・・。それだけだ。ニコの具合が悪い事だけに気が付くだけで、取り除いてやる事は出来ない。」
俺は、グッと手に力入れた。
「ありがとう、慎ちゃん、藤木君も柴崎さんも、本当にありがとう。そうね。大きくなったのね・・・・・重い話になるけど聞いてもらえるかしら?」
「もちろんです。」
帰国後の話は、ある程度、母さんから聞いて知っていたけど、さつきおばさんから聞くのとはあまりにも重みが違って聞こえた。慎一の知らない帰国後の東京での生活、おじさんが死んだ日の事。藤木は目を見開いたまま一点を見つめて動かない。柴崎は、途中から嗚咽を漏らして泣いている。
「私は、母親失格、あの子を追い込んでしまった。」
「りのは、私に怒っている、恨んでいる。あれから、ママと呼ばないし。目を合わそうとしない。私はもう一生、りのの笑顔を見る事はないのかもしれない。」
そう言っておばさんは、涙で泣きはらした目をまたタオルで覆う。
栄治おじさんが死ぬ前に、最後に言葉を交わしたのがニコだった。
さつきおばさんは、二人がどんな会話をしていたのか、栄治おじさんの最後の様子がどうであったか、単純に知りたかっただけだった。そんなさつきおばさんの言葉にニコは責められていると感じ取り、声を失った。
「おばさん。ニコは、俺たちが大好きだった絵本の虹玉の奇跡を信じていた。ニコが海外に行く前に俺があげた虹色のビー玉をニコはずっと持っていて、彩都市に帰って来た時に捨てようとしていた。ニコはきっと願いが叶わなくて、絶望したんだ。おばさんを恨んでいたら、虹玉に願ったりはしない。」
虹の駆け行く先に虹玉が生まれて、虹玉の持つ奇跡の力は願い事をかなえてくれる。ニコと頭をくっつけて眺めた、とてもきれいな絵本が大好きだった事を、二人の母さん達は、もちろん知っている。
さつきおばさんは、あぁーと大きな声で泣き始めた。母さんも、横で鼻をすすり、もらい泣く。
ほどなくして、救命救急外科の先生が、処置室から出て来る 。
「真辺さん、脳波もMRIも見ましたが脳に異常はありませんでした 。頭の傷は、縫いましたよ。」
「ありがとうございます。」
さつきおばさんは看護師、どういう処置が一番いいのか心得ている。
「嘔吐は、精神的なものからだと。今、村西医師が、りのちゃんのケアをやっているんで、もう少し。待ってください。」
「は、はい。」
「じゃ、私はこれで、」
「すみません、お世話をおかけしました。」
さつきおばさんが深々と頭をさげて、医師を見送る。
「おばさん、頭、縫ったって、傷が残るんじゃ」
「仕方ないわね。でも塗った方が治りが早いし、髪の毛で隠れるから大丈夫よ。」
そう言って慎一に説明するさつきおばさんは、看護師の顔になっていた。もう涙を流していない。
一人の看護師さんが、さつきおばさんを呼ぶ。
この看護師さんも同僚なのだろう。患者の家族に話す感じではなくて、慣れ親しんだ感じで声をかけて、さつきおばさんも、うんうん、とうなづいている。振り返り慎一達に声をかける。
「裏から、病室に移動されているから、そちらに行きましょう。」
病室は2階、上半身を起こしたベッドの上でニコは、うつろな目をしている。そばには、さっき処置室で見た精神科医の先生が立っていた。
「りの!」
さつきおばさんが、ニコの傍に駆け寄り、頭から顔をなでるように触って、身体の状態を確認した後、ニコの身体を抱きしめる。
「よかった。無事で、りのがいなくなったらママは。」
ニコはいつも以上に無表情で
「りの。ママの顔を見て。」
「ママ?」
「そうよ。ママよ。」
うつろな目のニコが、少し驚いて一筋の涙をこぼした。
「ママ。」
それをきっかけに、ニコの目から次々と涙がこぼれていく。
「ママ!・・・・ごめん、なさい。」
「どうして謝るの?りのは何も悪い事してないのよ。ママこそあなたに、ごめんね。抱きしめてあげられなくて。」
さつきおばさんは、ニコを抱きしめたまま放さなかった。
「やっと、親子で泣くことが出来たのね。二人は、栄治さんの葬式でも泣かずに今まで来てしまった。すれ違いの気持ちのまま。」
母さんが鼻をぐすっと鳴らしながら言う。
ニコは、顔をくしゃくしゃにして泣いている。その顔は幼き頃の顔と同じだった。
ニコに今、必要なのは、母親の手が包む暖かい安心。
慎一は藤木らと柴崎を伴って、そっと病室から外に出た。
11月4日(木曜日)
「ニコはおそらく、パネルの収納場所を間違ったんだわ。で、美術倉庫で地図パネルを探しているうちに教頭の私物を見つけてしまった。ニコとあんたは、去年、学園では盗品売買が行われているんじゃないかと気になり、学園に侵入した。でも何も得る物は無くて、疑問だけが残った。ニコ、あの後、自分で調べていたんじゃないかしら。ニコが図書館で新しく入った美術史や美術図鑑を見ているのを、私、美術に興味あるの?って聞いたことがあるもの。」
「あぁ、ニコならやりかねない。気になることは解決するまで止めないから。」
慎一と柴崎は、朝の通勤ラッシュよりも早い時間にタクシーに乗って、ニコがいる病院へと向かっていた。朝、柴崎がタクシーで慎一の家まで迎えに来てくれていた。柴崎は、昨日、教頭を取り調べて、わかった事実を、運転手に聞こえないように声を落として話す。
昨日、病院を出た後、柴崎は学園に戻り、凱さんと一緒に後処理に追われて寝ていないらしい。柴崎理事長が海外出張で居ないため、凱さんが率先して後始末をしている。
「そうして調べているうちに、美術の事も詳しくなって、美術倉庫にあったものが、学生の作品ではなく、行方不明になっている物である事に気が付いた。教頭は、美術倉庫にニコが居ることに気が付いて、様子を見ていたらしいの。そのまま何事もなく出ていくようなら、殴らなかったって。だけど、ニコは、教頭の私物に手をかけて、(これは、行方不明の「ベンミストへ続く道」、やっぱり。盗品売買)とロシア語でつぶやいた事に驚いて、倉庫に入り、部屋にあった額縁でニコを殴ってしまったと。気を失って倒れたニコを、そのまま放置して美術倉庫の鍵をかけた、夜まで。」
「あのやろう!」
俺は、膝横の後部座席のシートを殴る。運転手がバックミラー越しに眉をひそめるのを、すみませんと謝って、柴崎との話を聞く。
「校長室に居たロシア語の男に相談した教頭は、ニコを自殺に見せかけて、屋上から落せと命令されたと。ニコを運んでいた大男は、そのロシア語の男が連れて来た人で、教頭は名前も知らないと。」
「あいつ何者なんだ?」
「凱兄さんが、好奇心で知る事ではないと、教えてくれないの。ごめん、隠し事はしないと言ったのに。」
「まぁ、あの凱さんが、そう言うなら仕方ないよ。」
子供にはわからない裏の事情ってもんがあるんだろう。と慎一は納得する。ニコは偶然にも裏の世界に少し足を踏み込んでしまった。だから命の危険にさらされた。凱さんが、好奇心で知ることじゃないと言うなら、それはヤバイ事なんだろう。
「ニコが推測した通り、うちの学園で盗品売買が行われていた。教頭が言うには、6年前と去年の二回、視聴覚教室で行ったそうよ。学園祭で大きな荷物が搬入されたりするのに、不審がられないからちょうどいいと言う理由でね。」
「じゃ、去年、俺達が見たのは。」
「まさしく、そのオークション会場になっていた現場だったって事。」
「教頭は社会科教師から教頭になった人で、美術史を研究していた人なの。その趣味が高じて、盗品売買のオークションに出入りするようになって、主催者の裏の事にまで関わるようになった。今年は、ロシア語の男の所有物を、オークション開催日まで預かる予定だったらしい。今日、教頭自身がオークション会場に移送するつもりで、その打ち合わせに二人は夜遅くに密会をしていた。凱兄さんが教えてくれたのは、ここまで。あなた達は既に首を突っ込んだ形だから話すけど、他には絶対に口外するなって。」
「うん、分かっている。」
「ニコのお母様には、凱兄さんと母が、今日にでも伺って説明すると言っている。」
「柴崎のお母さん?」
「ええ、母は翔柴会の会長だから。」柴崎のお母さんは学園の事には関わっていない、専業主婦だと、慎一は思っていた
「翔柴会?」
「常翔学園幼稚舎から大学まですべてを称して翔柴会っていうの。学園のパンフレットにも載っているでしょう。学校法人翔柴会って。」
「え~知らん。」
「はぁ~。自分の通っている学校の正式名称ぐらい知っておきなさいよね。まぁいいけど。」
「という事は、柴崎のお母さんって、常翔学園全部を取り仕切っているって事?」
「んー取り仕切るって言うほど、何もかもやっているわけじゃなくて、基本は学部ごと独立しているから、各学部に母が口出す事はあまりないんだけどね、常翔学園の代表となれば、すべて翔柴会を通す事になるから。まぁ、母がすべての代表って事になるわね。今、父が出張中で居ないから母が頭を下げに行くって。」
「ふーん。」
教頭は昨日づけで解雇されて、凱さんの知り合いの刑事に取り調べを受けたが、立件するのは難しいという。
「なぜ?あいつはニコを酷い目にあわせたのだから」
「立件するには、ニコの被害届がいる。あの状態のニコに昨日の事を話させること、出来る?」
「あぁ、無理だな。」
「学園を擁護するわけじゃないのだけど・・・ここで、事を公にしたら、学園は混乱に陥る。マスコミも騒ぐわ。そうすると私達は、あそこで普通の生活が出来なくなる。ニコもきっと、ただじゃすまなくなる。藤木の時が、そうであったように。」
藤木が退学届を出したのは、マスコミが良く調べもしない、いい加減な記事を掲載した三流雑誌が追い込んだせいだ。藤木は、すぐに何事もなく学園に戻ってこられた。だがニコの今の状態は普通以下だ。そんな状態で マスコミの軽易な攻撃にあったら、壊れてしまう。
「悔しい気持ちはわかる、だけど、ニコの事を一番に考えたら、このまま何事も無かったように、また4人で笑って、馬鹿言って、普通の生活をしていく方がいいと。母も、真辺親子には、柴崎家が責任もってサポートするからって。」
「そうだよな。ニコもそれを望んでいる。この学園に入って良かったって、言っていたんだ。」
タクシーを降りた慎一は、さつきおばさんが病院の外に出て来るのを待った。病院の診察時間開始までは2時間あまりある。
本来なら面会なんて許されない時間だけど、ニコを学校に連れ行くのに、手伝って欲しいとおばさんから頼まれていた。それと、ニコの主治医の精神科医の先生が慎一に話があると、学校に行く前に来てほしいと呼ばれてもいた。
「慎ちゃん、柴崎さん、ごめんなさいね、朝早くに。」
「おはようございます。おば様。」
「おはよう。昨日は遅くまでごめんなさいね。」
「いえ、こちらこそ、申し訳ありませんでした。」柴崎が丁寧にまた頭を深々と下げる。
「おばさん、ニコは?」
「大丈夫、昨日はぐっすり眠れたみたい。今は起きて朝食を食べているわ。」
慎一は心からほっとした。やっと、さつきおばさんをママと呼べるようになったとは言え、栄治おじさんの命日まで、まだ2日ある。
おばさんは、正面玄関ではなくて、従業員通用口へと慎一たちを案内する。おばさんは昨日の服のままだったけど、胸には看護師のidカードをぶら下げていて、それをカードリーダーに通し、扉を開けて俺たちを中へ入れてくれた。そばにあったバインダーに現在の時刻と俺たちの名前を記入しサインをして、行きましょうかと声をかけた。
「おばさん、ニコを学校に連れて行ってもいいの?」
「ええ、先生が、頭の傷は全く問題ないから、逆に行った方がいいって。休むと行きにくくなるからって、」
「わかります。」
柴崎は、自分がハワイで命の危険にさらされた時、何もする気が起きなくて、1週間休んだ。休めば休むほど、行きづらくなった経験をしている。
「今、文化際でしょう。楽しんだ方が良いって。」
昨日、柴崎と藤木が言ったのと同じ事を、精神科医の先生が言っている。
おばさんは、ニコがいる個室の部屋の扉を開ける前に、俺たちにささやく。
「りの、昨日の事、何も覚えていないみたいなの。何故、頭に傷を負って病院にいるのかがわからないらしくて、薬のせいもあると先生が。どの記憶がなくなっているのか、私には、わからなくて。」としかめた。慎一は何も覚えていない方がいいと思った。辛い記憶なんてなくていい。
扉を開けると、ベッドに身体起こしたニコが無表情に小鉢のヨーグルトを食べていた。と言うより、ただ手に持っているだけで幾分も減ってない。慎一達の訪問に不思議そうな表情をする。柴崎がつとめて明るくふるまう。
「ニコっおはよっ」
「おは、よう。?」
「迎えに来たのよ。一緒に学校に行こうと思って」
「学校?」
「そう、今日は文化祭の最終日、ダンスパーティがあるでしょう。ニコが教えてくれたのだから、楽しまなくちゃ。」
「ダンス、パーティ・・・・・あぁ。」
また無表情に感情の動きが薄くなっている。柴崎と友達になってから、随分と笑顔も見せるようになってきていたのに、慎一は心で残念に思いながら、見つめていたら、ニコは、やっぱり無表情のまま「なんだ」と聞いてくる。
「ほら、ちゃんと食べないと、ご飯とおかずに手を付けてないよ。」
ニコは、病院食のトレーを見つめ、溜息をついてから、すっと慎一の方へトレーを動かす
「あげる。」
「はぁ?」
「お腹は空いてない。慎一が食べろ。」
「俺が食べて、どうすんだ。これはニコの朝ごはんだろう。」
「点滴したから、大丈夫。」
「ばか!そういう問題じゃない」
「新田、やめなさい。」と柴崎
さつきおばさんが、フフフと笑って、慎ちゃんの言う通りよ、ちゃんと食べないと、点滴は栄養なんて無いのよ、という。
「ほらーさつきおばさんが言うだから、ちゃんと食べろ。」
ぷいと顔を背けるニコの頭には包帯が巻かれていて、痛々しそうだった。
「ニコ、ヨーグルトは食べるんでしょう。ほら、これだけは全部食べよう。教室にホットケーキもあるし、他のお店も行くって言っていたじゃない。高等部のクレープがおいしいって評判だから、食べに行こう!ね。」
「まったく・・・・全部おやつじゃないか。」慎一はため息を吐く。
ニコが着替えて学校に行く準備をしている間、慎一は精神科の診察室を伺う。
「君が、慎ちゃん、だね。悪いね。朝早く。」
「あっいえ。」
「りのちゃんの精神科担当医、村西だ、よろしく。」と握手を求められた
「よろしくお願いします。」
精神科医のイメージは、色が白くてひょろっとした感じで、銀色縁のめがねをかけていて、髪の毛がぽさっと寝癖なんかついていて・・・ってな、ものすごく勝手なイメージ作りをしていた慎一だったけど、慎一の手を取り笑顔で椅子を勧められた医師は、色が黒くて、健康的で、白衣じゃなかったらサーファーかと言うような雰囲気で、本当に、この人が精神科医?と疑ってしまう雰囲気だった。進められるがまま、椅子に座るとデスクの上の壁に掛けられた経歴書が目につく。帝都医科大学卒業後の海外での経歴や勤務地の経歴が並んでいた。慎一は、人は見かけによらない、を実感する。
「あの~ニコ、じゃなくてりのは?」
「あぁ、君とりのちゃんの関係は、真辺さんから、すべてを聞いている。ニコニコのニコちゃんの事もね。いつも通りの呼び名で構わないよ。さて、りのちゃんの様態を説明するその前に、昨日の状況を教えて欲しいんだ。いいかな。」
「えーと。殴られた原因は、俺からは言えなくて」
「違う、違う、事件の事を聞きたいんじゃなくて、りのちゃんが、どんな様子だったかを知りたいんだ。事件の詳細を知ったところで、警察に言うとか、どうこうしようなんて全く思ってないから安心して。」
「あぁ、それなら・・・」
俺は、屋上で見たニコの様子を詳しく説明した。
「・・・・・って、やっと救急車に乗って。」
「なるほど・・・・。」
そう言って、慎一の言ったことを、ノートに書き記していた手を止めて、村西先生はしばらく黙ってしまう。ノートは、英語?ドイツ語?で書かれてあって慎一には何を書いてあるのか、わからない。そのノートの前のページをめくり、村西先生は一つ溜息をつく。ニコの状態は、ため息が出るほど悪いんだろうかと慎一は不安になる。
そんな慎一の顔を見てから、ノートを閉じた先生は、体を慎一の方に向き直り話し始めた。
「りのちゃんは、東京の病院の紹介状を持って、この病院にやってきた。日本語を話せるようにしてくださいと。中学受験をしたいから、面接で受け答え出来るようにしてくださいとね。紹介状と、取り寄せた診察カルテと訓練内容を見た時は、驚いたね。その内容に。」
「驚く内容って・・」
「うん、かなりの無茶な、言ってみれば荒療治的で、向うの担当医にも会って聞いたのだけど、どうしてもって聞かないと、もしここで断れば、逆に生きる希望を奪ってしまうからと。その医師に、転院してもらって正直ほっとしている、とまで言われたねぇ。」
「ニコ・・・。」
「頑固だからね、りのちゃん。その頑固さが精神的に追い詰めてしまう原因でもあるのだけど、そういう性格みたいなのは、はい、そうですかって変われるもんじゃないからねぇ。まっ、そんなに簡単に変われるなら僕たち精神科医なんて必要ない職業だけどねぇ。」と、はははと軽く笑う先生に、同調して笑うべきなのかどうか、迷う。
「僕も説得したんだよ。やっぱり聞かなくてね。頑張るから、何とか面接に受かるようにしてください。ってね。こういうのは、頑張ってどうにかなるもんじゃない、しかも、1か月後に面接をするって言うのだから、無理はダメだよって反対したんだけど、りのちゃんは、合格さえすれば、後はどうなってもいいってね。どうして、そこまで合格にこだわるのかって聞いたら、慎ちゃんともう一度一緒に居たいからってボソッと答えた。彼女から慎ちゃんという名前が出たのは、その時一度だけだった。彼女は英語でも自分の事を話そうとはしないからね。僕たち精神科医は言いたくない事を無理やり聞き出すことはしない。患者が言いたいことを言いやすく誘導し、言えるまで待つ、ぐらいでね、精神科医ができる事っていうのは少ない。だけど、昨日の彼女は危険な状態だった。そのセオリーを破って、彼女から半ば無理やり吐き出させた。」
「危険って・・・」
「うん、彼女がこの時期、眠れない事は知っているかな。」
「あっはい。薬を飲んでいる事も、知っています。」
「じゃ、りのちゃんのお父さんの事は?」
「知っています。ニコの誕生日の翌日に自殺して、昨日さつきおばさんから詳しくを聞きました。」
「うん。眠ると父親の夢を見て起きてしまう。彼女の言う父親の夢は、りのちゃんにとって思い出したくない記憶。だけど、夢っていうのは、見ないといけない物でね。まだ医学的に解明されていないけど、夢というのは、起きていた時に得た、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、すべての器官の情報を、脳が一旦保管して、その情報整理を眠っている間にしている、それが夢だと考えられている。りのちゃんは、お父さんの命日が近づくと、どうしても過去を思い出してしまう。彼女に取って辛い情報である過去の記憶は夢で処理しなければ、通常の生活に支障が出る。そうやって、脳が人の精神を守るために脳の中で整理整頓を行うわけだ。見たくない過去を何度も見るのは脳と心が、起きている時の自分を守るため。夢を見させて、情報整理をして、同時に見せないように拒否もする。それを繰り返していたのが、少し前のりのちゃんだった。」
慎一は黙ってうなずく。
「父親の命日が来るたびに見る夢は、悪い事じゃないんだよ。夢で見ることによって嫌な過去を掃き出し、少しづづ薄れさせていく。現に、去年は良くなってきていた。常翔に合格した直後から、夢がなくなりつつあって、去年の命日はそれほど辛くはないと言っていたからね。だけど最近、薬を取りに来る回数が急に多くなった。」
「もしかして・・・・スピーチ大会?」
「そう、本当なら、ドクターストップなのだけど。彼女は逃げられないと。逃げようとしたら、起きているのに、夢の幻聴が聞こえると。それに絶対に学園には、ここに通っている事は言わないでくれってね。知られたら特待を外されて転校しなくちゃいけなくなるからって。」
「ニコ・・・・」
「僕はね、一度、会いたかったんだよ、そうまでして、りのちゃんが一緒に居たいと言った慎ちゃんって、どんな子なのかと思ってね。」
そう言って、にっこりとほほ笑む村西先生、誰かに似ていると慎一は思ったけれど、誰に似ているかは思い出せなかった。
村西先生が言うには、昨日殴られて長い眠りに強制的に入ってしまったニコは、帰国後のイジメられた時から、栄治おじさんが死んで声が出なくなった辛い時までの過去をもう一度、夢の中で体験してしまったという。それは、せっかく雪解け間近だった野原に雪崩が押し寄せてきたようなもの。
「君は、雪崩に埋まっている彼女を見つけ、引きあげたんだよ。」
「俺が?」
「そう、危なかったんだ、そのまま雪崩に埋まったままだったら、彼女の心は氷ついたままだったかもしれない。そういう患者さんは沢山いるからね。奇跡だったよ。」
慎一は、昨日の、ぞっとするニコの姿を思い出した。あの焦点の合わない目をしたニコのまま治らないって思うと、慎一の胸はぎゅっと掴まれたように苦るしくなった。
「ただ、まだ予断は許さない。りのちゃんに覆いかぶさっていた雪崩の雪を、無理やり除けただけ。あまり、こういう事もしないのだけどね。本当なら、雪解けをじっくり待つのが、処置的にはいいのだけど。りのちゃんが頭に怪我をして運ばれたと聞いてね。仕方なく、応急処置的に、催眠術でりのちゃんに夢を語らせた。正直、十代の子に昨日のような強制的排除をするのは初めてでね。それが良かったのかどうか、わからない。一応、今は落ち着いているが、今後どんな症状が出るか予想がつかないんだ。まだお父さんの命日まで2日あるしね。」
「俺は、これからどうしたらいいんですか。」
「何も。特別な事は何もしなくていい。今まで通り、君と同じ学校に通い、同じ空間に居ると言う安心が、りのちゃんには必要。」
何もしなくていいけど、昨日ストレッチャーに乗る事におびえたように、どこで何にニコが反応して、発作を起こすかわからないという。その時に、誰もニコの事を知らないよりは、理解している人間が傍にいる方がいいと。
「本当なら、患者さんの病状を家族以外の人に話すことは厳禁だ。だか、君たちは生まれた頃から双子のように育った特別な関係。それまで一度しか聞かなかった慎ちゃんの名前を、昨日、りのちゃんから何度も聞いたよ。彼女に今必要なのは、君の存在そのものかなと僕は思う。」
『慎ちゃん、ずっと一緒。』
そう呟いたニコの声が慎一の頭に呼び起きた。
「じゃ、よろしくお願いね、柴崎さん、慎ちゃん、りの、行ってらっしゃい。」
「はい。」
「行って、きます。」
慎一たちは、タクシーに乗り込み学園へ。普段と違う登校スタイルに金持ちになったみたいだと、変な優越感に浸る。
今日は、さつきおばさんが夜勤の日なので、ニコは家に泊まる事になっている。精神科の先生も母子二人でいるよりは、昔の双子のように育った楽しい生活をするも良い事だと、了解を得ていた。
学園の正門前にタクシーを乗り付ける。学園ではもう文化祭が始まっていて、一般のお客さんも入っていく。柴崎は、タクシーの運転手に、病院に着いた時と同じく柴崎でつけといてくださいと言い、書類にサインした。
「慣れてんなぁー。」こういう時に、格の違いに慎一は驚く。
「まぁね。お嬢様ですから」
慎一たちが学校に遅れて行く事は、すでに連絡済みで、ニコは昨日の夜、マンションの階段から落ちたという事になっていて、記憶のないニコ自身にもそう言って誤魔化しているけれど、どこまで信じているのかわからない。どの部分の記憶が抜け落ちているか、わからないから。
校舎の下駄箱前で藤木が待っていた。今日は昨日のメイドさんの恰好ではなく、黒いベストに蝶ネクタイと執事のような格好。
「ニコお嬢様、おはようございます。」
言葉使いも、振る舞いも、すっかり執事になりきっている。
「どこから探してきたんだ、その衣装」
「おっ、は、・・・・よう。」
「お嬢様、お体の調子はいかがですか?」ニコは、引き気味で言葉が出ない様子。
「わたくしが上靴の準備を、」
そう言って、藤木はニコの下駄箱を開けて上靴を取り出し、足元に揃えた。
慎一は、なるほど、うまい事を考える。と感心した。執事の格好してたら、周りの目を気にすることなく、ニコの世話ができる。
ニコにあまり頭を下げさせない為に、上靴をそろえてあげることも。
「藤木・・・・気持ち悪い。」そんな気配りも、ニコの毒舌で台無しにされる藤木に同情する。
「お嬢様、鞄をお持ちしましょう。」負けずに執事を続ける藤木。
「お嬢様は、柴崎だ。」
「あははは、そうよ。私よ藤木。」
「はい?」
さっきのタクシーでの会話から、うまいオチがついた。慎一は、ほっとする。そうだ、普通に、いつも通りの生活を楽しめばいい。
だけど、頭に包帯を巻いたニコの姿を、通りがかりに生徒達がひそひそと話し始める。ニコは相変わらずの無表情で、一見何事もない素振りだが、やっぱり心では傷ついているはず。感情ない無表情はニコの防護服だ。
藤木が柴崎に、「クラスは大丈夫だから。」と耳打ちする。慎一は何のことかわからなかったけれど、ニコを教室に届けた時に、それが何を意味するのか分かった。
「真辺さん!大丈夫?」
「階段から落ちたって?」
二年五組のクラスメイトが、口々にニコを心配して寄ってくる。
なるほど、藤木は事前に、ニコが階段から落ちたことを振れまわっていた。もし誰も知らないまま、ニコがクラスに入って行ってたら、さっきの様にヒソヒソ話と奇異の目がニコを襲うだろう。こいつらは、そういう根回しを自然とやってのける。慎一は溜息をついて感服した。
「ほらほら、りのお嬢様は、お怪我されてお疲れです。座らせておあげ下さい。それに、お客さまが、もうすぐおいでですから、メイドの皆さま、配置におつきください。」
慎一は二人に頼んだぞと言い安心して、自分のクラスに行く。今日は11時からの当番になっている。
体育館には、喫茶の衣装のままの者や、劇で使った衣装のままの者、客寄せの為に着た着ぐるみのままの者など、ちょっとした仮装大会になっていた。表彰式の後のダンスパーティをその恰好で参加しようと考えた生徒が大半。わざわざ、ダンスパーティの為にコスプレまでしている奴までいる。
体育祭の表彰式は、絶対参加ではなく、例年、入賞したクラスしか集まらない寂しい感じだったのが、今年は、多数の生徒が体育祭の表彰式に揃っていて、全生徒が、この後のダンスパーティを楽しみにしている雰囲気が会場を包んでいた。クラスごとに並ばないといけない事もなく、各々自由な場所で体育館に居るので、慎一は藤木とニコのそばに居た。
柴崎は、ダンスパーティの司会として、生徒会長と舞台にいる。
「レディ&ジェントルマン。ウエルカム・・・・」
柴崎のノリのいい司会と同時に照明が薄暗く落とされ、ポップな音楽が流れる。劇で使う三色照明がくるくると回る。
ニコは、今日はフリフリのメイド服は着ていない。にわか真辺りのファンが、今日も見たさに喫茶に来ていたが、事情を知り。残念がって帰っていった。ニコのメイド姿は、一日限りの伝説と化し、喫茶の売り上げが、中等部の中で一位だったと柴崎が喜んでいた。
ニコは、慎一が当番の間に、藤木と柴崎とで学園内の店を回り、高等部のクレープも食べたと聞く。朝は、表情も硬く口数の少なかったニコだけど、少しずつ戻って来ていた。体育館の端、周囲に並べられている椅子に慎一たち三人は座り、皆が踊るのを眺めていた。ダンスを踊らないやつらは椅子に座るか、真ん中を避けて周りに立ち雑談しているかだ。
「藤木、踊らないのか?誰かと踊るって言ってなかった?」と慎一はニコの向こうに座る藤木に言う
「あぁ。断った。俺は今日一日、ニコちゃんの執事だから。」
「頼んでない。」
「お嬢様、そんな冷たい事おっしゃらないで、私を執事とお認め、何でもご命令ください。」
懲りずに、まだ執事の服を着たままの藤木は、さっとニコの座っている前で片膝つく。どっちかと言うと、それは執事ではなく、女王様に仕える家臣のような・・・
「何でもいいの?」
「はい。喜んでお受けいたします。」目じりの皺を作って満面の笑み。
「慎一と二人で踊れ。」
「はい?」
「へ!」
「何でもと言った。」と言ったニコは、無表情のまま顔を向ける。本気か嘘か、わからないから怖い。
「なんでお前と踊らなくちゃいけないんだ!」
「仕方ないだろう、お嬢様の命令は絶対だ。」
「おれは、執事やってねー。」
「お前は、生まれた時からニコちゃんの執事だろうが。」
「そんな運命あるか!」
「命令だ、行って来い」と、背中を押され、椅子から立ち上がらされた。曲が更に、乗りの良いディスコ調の曲に代わる。
渋々前に出た慎一は、ファンクラブの女子とサッカー部につかまって、藤木も、クラスメートに捕まり、もみくちゃに踊らされる。慎一は踊りながらニコの様子を見やる。一人になったニコに英会話クラブの人と、弓道部の人たちがニコの側に寄って何かを話している。ニコは、表情を緩ませて笑った。慎一は気づく。自分が、がっちりそばについていたら、ニコに声を掛けたい奴が近寄りにくいのだと。ニコにはニコの友達付き合いがある。
そう、ニコには河村先輩との付き合いも・・・ってそれは近寄らなくていい!
川村先輩がニコの隣に座って話しかけている。多分あれは英会話、ニコの口が沢山動いている。慎一は、悔しい気持ちを踊りに込めた。
「嫉妬?」いつの間にか舞台から降りて来た柴崎が、慎一の耳元でささやいた
「わっ!突然、現れんな。」
「ふふふ。」
「なんだよ~。」
「昨日の夜、河村先輩に電話したでしょう。河村先輩に聞かれてね、昨日の夜の電話と頭の怪我、何か関係があるんじゃないのかって。ニコの怪我は、家のマンションの階段から落ちたとクラスメートには言ってあるけど、河村先輩には、パネル取りに行った時に貧血起こして、パネルの角にぶつけて気を失って、そのまま学校に閉じ込められてたって事にしといたの。だけど、それじゃ、学園の管理が問われるから、マンションでこけたって事にして貰っているって。」
慎一の隣で踊りながら話す柴崎。音がうるさいので、周りの生徒には内容は聞こえない。
「大丈夫なのかよ。そんなんで。」
「苦しいけどね。仕方ないじゃない。」
「今、ニコにそのこと聞いてるんじゃないのか?」
慎一は、慌ててニコのそばに行こうとした。のを腕をつかまれ止められる。
「大丈夫、ニコは記憶がないから。」そうだった。
「だけど、思い出すようなきっかけを与えるんじゃぁ」
「思い出したところでしゃべんないでしょう。いくら英語でも、自分の事を言わない子だもの。」
「まぁ、そうだな。」
「あれは、単なる雑談。まぁ、あの英会話に入れるなら止めないけど。」
柴崎が嫌な笑みの顔を向けられた。
「あ~。俺のニコちゃんが・・・・。」
藤木がどんよりして肩を落とす。
「さぁ、誰がニコとチークを踊るのかしら。」
思わず、藤木と目が合った。完全に柴崎の手のひらで遊ばれている慎一達。
体育館の会場は、真っ暗闇になり、ほの暗い明かりが灯り、静かな音楽に代わった。チークタイム。ペアになった生徒が、周囲の冷やかしの中、踊り始めた。見えないけれど柴崎はきっとしたり顔だろう。演出がにくい。企画は大成功。
この薄暗さを利用して、私は立ち上がり、そっと体育館の外に出た。
太陽の陰り始めた空、風が茶色くなった葉を散らして飛ばす。
まだ秋・・・・冬が待ち遠しい。
鉄製の手すりを触るとひんやりして気持ちがいい。
額を手すりにくっつけた。
疲れたな。包帯が手に触れる。どうしてこんな怪我を?みんなはマンションの階段を踏み外して落ちて怪我をしたというけれど、何も思い出せない。それに何だが、嘘っぽい。
急に体育館の中の喧騒が漏れる。慎一が外に出てきた。
「大丈夫か?疲れたんじゃないか?」また心配の言葉。首を振りながら顔を上げた。
「火照った顔を冷やしていただけ」
「ほんとだ、冷たくて気持ちいいな。」
「声が・・・聞こえていた。」
「ん?」慎一は優しい表情で私を覗き込む。
「ずっと、りのと呼ぶ声と、ニコと呼ぶ声。」
『ニコ、死ぬな』は慎一の声だった。
『リノ、イッショニシノウ』の声はパパ。
「私は、どっちなのだろう。」
「どっち?」
「りのか、ニコか」
慎一は困った顔をして首をかしげる。
「嫌か?ずっとニコって呼ぶなって言ってたもんな。嫌ならもう呼ばないようにするよ。」
「嫌じゃない。だけどもう、名前のように私は笑えない。」
「いいよ。それでもニコはニコだから。」
慎一は遠く、風の吹いてくる方へ顔を向け、目を細めた。
「俺、ニコの帰国をずっと心待ちにしていた。ニコって呼べる今って、うれしいことなんだよな。」
何故か、寂しさと嬉しさが同時に沸き起こる。
これは、悲しみの涙?それともうれし涙?
「えっ、なっ何!?どうして、俺、何か泣かすような事言った?」
「ううん」首を振ると、濡れた頬が風にさらされて冷たい。慎一は焦って、自分の身体を漁る。
「えっと、えっと、ごめん、ハンカチ持ってない。」
名前を呼ぶことをうれしいと言ってくれるほどに、私の帰国を待ってくれていた慎ちゃん。それに対して私は自分のことしか考えてなかった。私が、パパの声に耳を傾け、死を選んでいたら、慎一は私と同じ苦しみを味わう。そのことに全く気が付かなかった。自分の愚かさに改めて後悔する。
「私は、最低だ。自分勝手にまた道を間違えて・・・」
「じゃ、また手をつないで歩こう。」そう言って、慎一は手を差し出す。
山に虹を探しに行こうと言ったのは私。帰り路がわからなくなった時も、慎一は私を責めないで、手を差し伸べてきた。
「うん。」握った慎一の手は暖かくて、力強い。
冷たい風が、もうすぐ冬が来るのを知らせる。あの日を超えて。
暖かさを知ると冷たい冬が辛くなる。
だから暖かさを求めてはいけない。
わかっているのに、
私は、慎ちゃんの暖かい手を振り払う事が出来ない。
最低だ。
11月5日(金曜日)
「遅かったわね。」
「うん、ちよっと。」
「えー慎にぃ、なんでケーキあるのにまたケーキ買ってくるの!ばっかじゃないの」
「じゃーえりは食うなよ。」
結局、慎一は、ニコの誕生日プレゼントを買いに行く暇がなかった。と言うより、何を買っていいかも思いつかなくて、クラブを終えて家に帰る前に家とは反対の方向の一つ駅向うのケーキ屋さんに向かった。柴崎からここの店がおいしいと聞いていたから。
慎一は、ニコが座っているテーブルの前に、白いケーキ箱を置き開いて見せた。
「プリンアラモード。」ニコの顔が、ふぁっとほころんだ。
「昨日、約束しただろう。」
「何を?」
「え?ほら、河村先輩から、逃げて、俺の椅子の後ろに隠れた時に・・・・」
「???」ニコは、不思議そうな顔で首をかしげる。
「柴崎が河村先輩の相手をさせようとするのをニコは嫌がって、助けてって言うから、プリン買ってやるから我慢しろって」
「ん・・・・ん?」
「あっいい、いい、無理に思い出さなくて。」
これが、記憶が剥がれ落ちているかもしれないという症状?つい二日前の事なのに覚えていない?
「プレゼント用意できなかったから、これで。」
聞いているのか聞いてないのか、ニコは、ずっとプリンを見つめている。
「じゃー始めましょうか?」
ローソク消しは、晩御飯の後で、父さんが店が落ち着いて家に来てからという事になっている。
さつきおばさんと母さんとえりとニコも手伝ったというパーティ料理は、新田家の誰の誕生日よりも豪勢な料理が並んでいた。
「ニコちゃん、14才の誕生日おめでとう!」
クラッカーを鳴らして始まった。
「あ、ありが、とう。」
周りの明るい笑顔とは対照的なニコ、主役のニコが無表情。やっぱり元の笑顔に戻るのは、時間が、かかりそうだった。
さつきおばさんが、夜勤の為に、りのをよろしくと言って新田家を後にする。明日のスピーチ大会の観覧の為に休みを取ったから、今日はどうしても勤務しなければならないらしい。だからニコは、この後、新田家に泊まる事になっている。
ふと、ニコを見たら、どの料理よりも先にプリンに手を付けようとしていたから、思わず口が出た。
「あっ!こら!プリンは後。」
「何故?」
「先に、ちゃんと、ご飯を食べてから。」
スプーンを口に入れたまま、少しムッとして、プリンを見つめている。
「プリンは卵で作るから、おかず・・・・。」
「馬鹿か!プリンはおやつだ」
「あははははは、そうだった。ニコちゃん、プリン大好きだったのよね。」
母さんが、お腹を抱えて笑い出した。
「私も昔、よく、叱ったわ。三時のおやつにと買っておいたプリンを朝ごはんに食べちゃって。(それは、三時のおやつでしょう!)って、それでね、三時には、もうないよって言っても、ちゃっかり、慎一の分を取って食べてたのよねぇ。思い出した~。あははは。」
慎一は思い出す。母さんがニコに怒っている情景。二人を本当に自分の子供のように育てていた。
慎一も家の中で、サッカーボール蹴って、さつきおばさんに、ものすごく怒られた。
でも、ニコは、首をかしげて、覚えていないようだった。それよりも、ずっとスプーンを持ったままプリンを見つめている。
プリン買ってきたの、失敗だったな。と慎一は反省する
「いいんじゃない、今日ぐらいは、ニコちゃんの誕生日なんだし。」とえり
「プリンのあと、ちゃんとご飯も食べるんだぞ。」
「うん。」
ニコは少し表情を緩めてプリンを食べ始めた。けれど、結局、プリンの後は、から揚げひとつとサラダとピザを一切れ食べただけで、食事を終えてしまった。食に興味がないのは昔から。何かに夢中になっていたら、いくら母さんたちが、ご飯よと呼んでも来なかった。プリンなら飛んでくるのに。
自分の誕生日でもないのに、はしゃぐえりに、少し顔がほころんだニコ。昔からニコは、えりの事を溺愛していた。
ニコを笑顔にするのは、いつも自分じゃない、自分は無能に何もできないと溜息がでる。
コック服のまま父さんがリビングに顔を出して。ケーキのローソク消しと写真を撮って、誕生日会は終えた。
また、夢を見た。今日のは短くて静かな夢。
パパは立っていた。
ただ、それだけ、何も言わない。
何も聞こえない。
11月6日(土曜日)
慎一は、先輩たちの今日の試合の反省点や注意点を、時計ばかり気にして真面に聞いていなかった。早く終われ。そればかり心の中で叫んで。藤木も同じらしく、ちらちらと時計を気にして、足踏みしている。
今日はニコのスピーチ大会、慎一たちサッカー部は来月から始まる、地区予選大会の市内予選が市内スポーツ施設であり、土曜の授業を免除で来ていた。1時に終わる予定が、30分を過ぎてしまっていた。この後、スピーチ大会の会場へと向かう事にしているのだけれど、間に合うかどうか、慎一は頭の中で、ここから、スピーチ大会までの道順をシュミレーションしていた。バスで20分、東浜駅について、そこから特急で40分、乗り換えてさらに15分、ロスタイムを含んで、3時にはつく予定だけれど・・・・常翔学園が一番最後の順番とはいえ、進行が早まっていたら、間に合わないかもしれない。それにバスがうまく来ればいいけど、この間みたいに、満杯で乗れないって事にでもなれば・・・・
「じゃ、今日はこれで解散!」
「お疲れっした!」
の号令で、慎一と藤木は鞄をわしづかみにして、スポーツ施設のサッカー場の出口へと猛ダッシュした。
走りながら、駅までタクシー使うか?と藤木が叫ぶ。
「おう!」
出口を出た正面のタクシー乗り場で、新田君、藤木君!と手を振っている人がいた。凱さんだった。
「助かりました。」
「いいよ。いいよ。麗香に頼まれていたからね。」
慎一達は、凱さんの運転する高級車の後部座席で息を整える。
「凱さんは、朝から行ってなくて良かったんですか?」
「理事長が朝から行ってるからね。僕はあくまでも助手だから。それに、この間の後始末もまだ、いっぱいあったしね。」
理事長が出張から帰って来たとはいえ、裏の仕事はあくまでも凱さんの担当らしい。常翔学園の経営者一族の柴崎の父、柴崎信夫の助手として、頻繁に学園に顔を出し、教師陣も一目置いているのは確かだった。でもまだ若くて、帝都大の学生。いつも緩い感じで、細身の黒のパンツを着ていたら、本当にちゃらい大学生にしか見えないのだけど、今日はスーツ姿だ。
「次の教頭先生は決まったんですか?」と藤木。
「めぼしい人に打診はしているのだけどね。あまりにも急だからね~。もしかしたら4月まで決まらないかもなぁ。まっ、教頭ぐらい、いなくっても、君たち困んないっしょ?」
「えっ、あっ、まぁ、そうですけど。」
凱さんの軽いノリについつい、慎一達自身も調子に乗って、そうですなんて問題発言をしてヤバイ、と口をすぼめること遅し。
「しかし、りのちゃんが通院してるってわかっていたら、りのちゃんに頼まなかったのに、悪い事しちゃったよ。」
あの後、事情も事情だから、スピーチ大会は欠場してもいい。学園の面子とか、特待を外されるとかは考えなくていいとニコを説得したんだけど、ニコは、せっかく英会話クラブの人と仲良くなったし、母も楽しみにしているから。と出ると言って聞かなかった。
「大丈夫かなぁ?今日は、命日なんだよね」
「朝は、普通でした。特にそれを意識している風には見えなかったですけど。あれ以来、感情の動きが薄いから、ますます何を
考えているかわからなくて・・・・。」
「うーん、申し訳ないねぇ」
凱さんは学園の不祥事が原因で、ニコを心身共に傷つけた事を、自分責任だと言って、慎一にまで頭を下げていた。
「藤木君なら、わかるんじゃないの?りのちゃんの感情」
「え?俺?いや・・・・あの・・・」
藤木は、自分の能力を他人には悟られないようにしている。突然、凱さんから、それを言われたから、たじろぎ、そして慎一を睨んでくる。週刊誌事件が解決した後、慎一達は藤木の人を見る能力について聞き出していた。藤木は、その事を慎一達にも知られる事をとても渋ったけれど、柴崎の強引な聞き出しに、誰にも言わない事を約束に、「人の本心や嘘が読み取れる」と告白してくれた。
(なんで、知ってるんだよ凱さんが)
口パクで慎一を責める藤木。
(知らないよ、俺は言わない)
と慎一も口パクで弁解。
「ん?どうしたの?」
凱さんがバックミラー越しに慎一達を覗く。
「いや、どうして、俺のその・・・」
「あぁ、麗香から聞いたよ。」
「あいつ・・・べらべらとぉ」藤木がしかめる。
「君たちと仲良くなった時から、麗香は、藤木君の人を見る観察眼はすごいって、ずっと言ってたからね。もしかしてって僕から聞いたんだよ。許してやって。で、りのちゃんは、どんな感じなの?」
「こういうのは、他人に、言う事じゃありませんから」藤木は憮然として顔をそむけた。
「そうだよね、悪かったねぇ、聞いちゃって。」
凱さんは、苦笑いをして首の後ろを掻いた。変な沈黙になって、車に乗せてもらっている手前、慎一は気を遣う。
「凱さんって、帝都大学の何学部ですか?」
凱さんは、常翔学園の経営者一族なのに常翔大学に入学していない。自分の親が経営している大学に入らないって、どういう事なんだろうと思っていた。確かに、帝都大学は日本を代表する国立大学で、常翔大学の方が格下だけど、だけど常翔大学だって、全国の私立大学ランキングではトップ3に入るから、恥ずかしくないレベルの学校だ。
「法学部だよ。」
やっぱり超、頭良いじゃんと、慎一は素直に驚く、
「やっぱり、弁護士とか目指すんですか?」
「うん?もう、なったよ。」
やっと興味を示してこっちを向いた藤木と顔を見合わせた。
「夏の試験に合格したんだ。」
「在学中に、弁護士試験合格、凄いっすね。」
「そう?帝大は、弁護士試験を受ける為に入っただけだから。やっと、これで退学して、仕事に専念できるよ。」
「えー、帝大、辞めちゃうんですか?もったいない。」
「うん。腰掛だったからね。帝大は。」
ますますハテナだ。腰かけってどういう事?
「あれ?麗香から聞いてなかった?」バックミラー越しの凱さんは鼻をこする。「僕は帝大の前に、ハングラード大学を卒業しているからね。」
「ハングラード!?」
藤木と声を重ねる。
詳しく聞けば、凱さんは、常翔学園中等部を卒業後、高校をすっ飛ばし、世界のトップクラスと言われて有名なアメリカのハングラード大学、教育経営学部を卒業しているという。飛び級の経歴もびっくり。そりゃ、帝大を腰掛と言うはずだ。
常翔学園の経営を手伝うに当たって、弁護士免許があった方が、何かと便利だろうという事で、法律を学ぶ為だけに帝大に入ったと言う。みんな入りたくても入れなくて苦労するっていうのに、レベルが違い過ぎて、慎一には理解不能。
「はっ!まさか!凱さんって、あの神童と言われた伝説の、大野凱斗ぉ!」
藤木が、素っ頓狂な声で叫ぶ。
「僕、伝説になってんの?」
「なにそれ。」
「常翔学園中等部に彗星のごとく現れた秀才、卒業までのテストは、一つも取りこぼすことなく、すべて1000点満点で卒業し、寮にあるトロフィーは全部大野凱斗の名前で、そう、アメリカのハングラード大学を飛び級で現役合格したと寮で語り継がれている伝説の人だよ。」
「トロフィーは、僕のだけじゃないはずだよ。」
慎一は、もう笑うしかない。
「柴崎一族、恐るべし・・・あれ?今、大野って言わなかった?」
「あぁ、それは僕の旧姓。僕は、柴崎敏夫の養子で、麗香とは血の繋がりは、ないからね~。」
「・・・・・・。」藤木と顔を見合わせた。
「さぁ、世間話は、これぐらいにして、飛ばすよ。」
と言って、高速道路の入り口を抜けると軽快にスピードを上げる。
スピーチ大会の会場には、電車より、やっぱり車の方が早く到着した。慎一は柴崎の手配に感謝する。その柴崎は、英会話クラブの人間でもないのに、ニコの付き添いとして柴崎一族の特権をちゃっかり利用し、午前の授業は免除で参加している。凱さんは、会場に到着するなり、観客席に座っているさつきおばさんの所へ、挨拶に行き、そして、主催者席にいる柴崎理事長の方へ向かう。慎一たちは、ニコに会いたいのだけど見つけられなくて、観客席の入り口で佇み、きょろきょろしていた。
「新田ぁ、藤木ぃ、こっちこっち。」
柴崎が会場入り口から横の奥、控室の部屋の入り口から俺たちを見つけて手を振った。
会場横のロビースペースの隣に並ぶ、いくつかの控室は、参加学校の生徒が、直前練習の為にあふれかえっていた。
飛び交う言葉が英語だらけで、慎一は、めまいに襲われる。
ニコ達、英会話クラブのメンバー一年生も含む13名が、部屋の一角に陣取り、練習していた。
「柴崎、ありがとうな。凱さんに頼んでくれて。」
「どういたしましてぇ。電車だったら間に合わなかったでしょう。」
「あぁ助かった。」
「どうなの?ニコちゃんは。」
「うん。いいわよ。午前の課題文は問題なし。ニコが一番に良かったわよ。」
課題文は心配していない。問題はこれからの自由テーマのスピーチ、ニコが夜も眠れなくなるほど嫌がった家族がテーマの。
なんてタイミングか今日は、栄治おじさんの命日。大丈夫なんだろうか。昨日は、早く眠りについたみたいで、母さんはニコの部屋の隣、えりの部屋で寝て夜中に時々様子を見に行っていたらしい。朝、慎一の方が早く家を出なくては行けなくて、ちょうどニコが起きて来た時に、慎一は家を出てきた。その時は特に変わった様子もなくて、相変わらずの無表情で『おはよ』と、つぶやかれた。
ここからじゃ、良くわからないけど、体調は崩していなさそう。まぁ今日は、看護師のさつきおばさんも会場に来ているから大丈夫だろうと胸をなでおろす。
ニコは、大会出場メンバーと最終確認のため、英語教師主任の野中先生のそばで、他の4人の前に立ち、何かしゃべっている。ニコのそばに行きたいけれど、この野中先生が、慎一は苦手だった。補習の時にこっぴどく絞られていた。今、行けば何を言われるか、想像はつくので、行けない。
「あと、どれぐらいで出番?」
「えーとね。あと40分ぐらいかな。」
「えーもうそんだけしかないのか、やっぱり電車で来ていたら間に合ってなかったな。」
ニコの頭の傷はまだ治っていない。流石に包帯のままで出るのは見栄えが悪いから目立たない絆創膏のみにしていて、うまく髪の毛で隠している。慎一に気が付いたニコが、英会話クラブから離れて、こっちに来た。
「大丈夫か?顔色悪いよ。」
そう言って、すまし顔のニコ。こいつー、人の気も知らないで。大丈夫かと言いたいのはこっちだっつうの。と慎一は心の中で苦笑する。ニコの顔色は良さそうだった。
「あははは、いつもと逆だな。」
「うっせー。」
「ニコちゃん、どう?この後のテーマ文は。」
「んー、あと何分ぐらいあるかな?」
「出番まで?40分あるか、ないかぐらい。」
「そろそろ、しなくちゃ。」
ニコは、そういうと、軽く握った手を口元に当てて、何やら考え事をする。
「えーと、二分だから・・・・4つに分けて一つ60フレーズ程度・・・・」
と俺にはわからない事を、ぶつぶつ言っている。
「だれか、二分を計って。」とニコ
「練習するのね。いいわよ。携帯のストップウォッチでやってあげる。」
と柴崎がごそごそと鞄から携帯を取り出し、準備する。
「いい?」
「うん。」
「じゃースタート!」
他の生徒たちが皆やっているように、手に持っている原稿を見ながら、本番さながらの練習をするのだと思っていた。
だけど、ニコは、壁の方、1点を見つめたまま、何も話さない
「えっ?何?」
壁の方に何かあるのかとニコの視線の先を見たが、何もない。この顔って、まさか・・・・・あの屋上での月明かりで見た奇異な顔のニコに似ていた。柴崎も、藤木も、同じ不安を感じたらしく、二人も目を見開いて顔を見合わす。
「ちょっ、ニコ?おい!」
「話しかけるな!」
えっ?しばらくして、ニコが壁から視線を外し、今、何分?と柴崎に問う。慌てた柴崎が携帯に目をやり、
「1分45秒」
「ちょっと、少ないかぁ。もう少し足して、スピードを落とす。」
とまた、ニコはぶつぶつと考えるしぐさに戻った。
「いっ、イメージトレーニングかぁ。びっくりさせないでよ、ニコちゃん。」
「ホントよ。びっくりしたじゃない。」
「何が?」
ふーと息を吐いて胸をなでおろした三人とは裏腹に当のニコは、しれっと慎一達の様子に首をかしげる。
さらに二回ほど、柴崎に2分を計ってもらって、ニコは練習をした。と言っても終始、二分の感覚を体に覚え込ますように、壁を向いたまま一度も声を発することはなく終える。本当に、こんな練習でいいのか?と慎一は不安になる
「真辺さーん、そろそろ、行くわよ。」
英会話クラブの部長、北島さんがニコを呼ぶ。嫌がっていたテーマだけに、頑張れと言っていいものか迷う。ニコにとっては今日は一番つらい日のはず。精神科医の村西先生は、雪かきのせいでどんな症状がでるかわからないという。テーマ文は家族・・・・
「なんて顔をしている。」
「どう、応援していいか・・・。」
「心配ない。スピーチは得意だ。」
「得意って、でも・・・」
「英語、頑張るんだろ。ちゃんと聞いて、勉強しろ。」
そう言って、ニコは手に持っていた、丸めた原稿用紙を慎一の胸に無理やり押しつけ、北島さん達の方へ行ってしまった。
あれだけ、いざこざのあった英会話クラブの人たちとも、今は仲良くなっているよう。英語が飛び交う場だからか、表情がいつもより柔らいでいる。飛び交う英会話に楽しそうに耳を傾けているような姿を見ると、慎一は、ほんとに英会話の勉強を頑張らないといけないなぁと思う、けれど、やっぱり無理かも、と頭痛がしてきた頭を抑える。
「あんた達の席、取ってあるわよ。」
柴崎を先頭に慎一達は観客席へと足を向ける。
取っておいてくれた席は、正面、真ん中、ステージマイクのあるテーブルから一番、目線が会いやすい位置、前には俺の母さんとさつきおばさんが座っている。
「間に合ってよかったわね、慎一。藤木君、こんにちは。」と振り返る母さん。
「こんにちは。」
「この間は、ありがとね藤木君。」とさつきおばさん
「いえ」
舞台では、最後から3番目の出場校のスピーチが行われている。自由テーマでは、後ろのスライドに映像を映しても良いので、会場は少し薄暗くしている。慎一はニコから預かった、スピーチの原稿用紙を手に持ったまま、座る。
「原稿要らないのかよ。」
確かに手に持たない方が、顔が前に向いたままだから、審査員に印象がよい。今やっている学校の生徒は、原稿をテーブルに置き、ちらちらと見ながらスピーチをしていた。
「覚えているんじゃない?。課題文もすぐ覚えていたし。」
どんなこと書いたのだろうと、原稿を広げてみた。
「うげー!、うそだろ。」
「しっ!変な声、出さないの、慎一。」と母さんに怒られた。でも、叫ばずにはいられない。
「だって、これ見て。何も書いてないんだ、この原稿!」
「えっ?」
「ふふふ、りのは、スピーチ得意でね、向うで入賞しているの。」
とさつきおばさんが振り返り、小声で話し始めた。
「フィンランドでは、年に1回、学校全体のスピーチ大会があってね。一年生は1分、二年生は1分半、上級生になればなるほど長くなるの。りのはたしか2分半の大会で優勝してたわ。」
「2分半って事は、小4の時?ニコにとっては朝飯前って事ね。」
「まさか、ニコちゃん、さっき内容を作っていたんじゃ。」
「話しかけるなって怒ったわよね」
「マジかよ。どんな頭脳しているんだ。」
「私達が移住して2か月も満たない頃にね、大会があって。りのも当然、参加しなくちゃいけなくてね、でも、まだとてもスピーチが出来るような英語力じゃなかったの。でも担任の先生がね、英語は笑って話せる言語だよって教えてくれたって。りのは笑うの得意だから、誰よりも笑って、誰よりも大きな声で話すんだって、だけど、自分で作った文はめちゃくちゃで、だけど誰よりも笑顔で、誰よりも楽しそうに発表して、特別賞をもらって、ものすごく喜んでね。それから、英語が増々大好きになって、家でも英語で話すぐらいでね、・・・・今、思えば、家では日本語にしておくんだったと思うわ。そしたら、帰国後に日本語が変だって苛められずに済んだかもしれない。」
「さつき、もう過去を後悔するのはやめなさい。ニコちゃんは、英語が堪能だから常翔学園に入れたのよ。それに、英語が好きになって家でも話すニコちゃんを、さつきは止められた?」
「あぁ、無理だわね・・・・・」
「ははは、そうでしょう。あのニコちゃんだもの。」
慎一も苦笑した。気になる事をやり始めたニコを、親でも止められない。二人の親は良くわかっている。
常翔学園の名前が呼ばれて、ニコ達5人が舞台に現れた。
北島さん達がそれぞれ2分の持ち分のスピーチを終える。柴崎と藤木は、誰々がうまいなぁとか、躓いた所が惜しいなぁとか話しているけれど、慎一には皆、ものすごく上手に聞こえる。どこが躓いているのかすら、わからない。でも、それをこの二人に言ったら、絶対に小言に発展するはず。前の席には母さんもいるから、もう黙って静観。
いよいよ、ニコの番、グループ最後でもあり、全出場者の最後のトリでもある。
後ろのスライド写真が切り替わる。
「あっ、あの写真・・・・・」
「あれが、ニコのお父様?」
2つの家族写真が並べて映写された。
一つは昨日、新田家で撮った誕生日会の写真、真ん中で無表情のニコ。
もう一つは、写真集に出て来そうな山をバックに、栄治おじさんがニコの後ろから肩に手を載せて顔を寄せている。その前で満面の笑みのニコ、二人の横でさつきおばさんも笑っている。まだ芹沢姓だった頃の家族写真。
前に座るさつきおばさんは、その写真を見るなり、すすり泣き始めた。
凛とした中にも口角が上がり、目を落とさず、会場を見渡しながら手振りも加えて話すニコ。
英語の苦手な慎一でも、他の出場者とは群を抜いて上手いとわかり、内容も理解できた。
英「・・・・私の大事な2つの家族です。私を育ててくれた 二人の父と二人の母に、心を込めて感謝を述べます。ありがとう。」
そう言って、ニコは、さつきおばさんと母さんに顔を向け、にっこりと笑ってスピーチを締めくくった。
会場は拍手で包まれ、二人の母さんは、声を殺して泣いた。
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