決別

 今日は、卒業式の日だった。

 柏木君から卒業式をやるという連絡が届いたが、私はどうも行く気にはなれなかった。あんなことがあったのだ。高校時代は私にとってのトラウマであり、できれば思い出したくない出来事だ。

 しかし、数十分ほど前にSNSに公開された一つの動画で、私は色々なことを思い出してしまった。柏木君が、謝罪動画をアップしたのだ。既にかつてのクラスメイトのコメントがついており、瞬く間に拡散されていた。まさか、柏木君がお金を盗った犯人だったなんて。意外だったので、私は素直に驚いた。

 その動画に触発されたからなのか、私は数年ぶりに高校の前まで来ていた。ここは私にトラウマを植え付けた場所だが、教師になった今、目を逸らしてはいけない建物のように見えた。

 私もそろそろ、前を向いて歩み始めなければならない。

 もう夜も遅く、校舎には明かりなど点いていなかった。侘しい校舎の前に、ぽつんと私が立っている。通報でもされやしないかと不安になり踵を返そうとすると、一人の女性が同じように校舎を見つめているのを見つけた。

 その女性は私に気付くと、思わず後退った。

「あ、杏理……?」

 その声は、忘れもしない因縁の相手のもの。見た目はあの頃より地味になっているが、顔付きはあまり変わっていない。

 私は目の前が真っ白になるような思いがした。

「……彩愛ちゃん、だよね? どうしてここに?」

「いや、それはこっちの台詞なんだけど……」

 視線が合わない。冷たい空気が流れる中、私は意を決して彩愛ちゃんに尋ねた。

「ねえ、あのとき私のリュック引き裂いたの、彩愛ちゃんでしょ」

 彩愛ちゃんが固まった。言葉を探すように、目を泳がせている。

「……証拠とか、ないでしょ」

「そうだけど……だったらどうして、すぐに否定しないの?」

「それ、は……ていうより、そんな昔の話蒸し返さなくても」

「彩愛ちゃんにとってはどうでもいいことかもしれないけど、私にとっては大事なことなの」

 言葉に詰まる彩愛ちゃん。よく見ると、肩を僅かに震わせていた。

「どうでもよくなんか、ない」

「彩愛ちゃん?」

「あんなの、どうでもいいことになんかできない! うちは、あのときのことまだ夢に見るの! あんなことをした自分が恐ろしくて、ああやって人を騙しながら生きてる自分が嫌で嫌でしょうがなくて……!」

「……それだけ?」

「え?」

「自分への後悔だけで、私には何もないの?」

 酷く冷たい声が自分から出るのに、私は内心驚いていた。

 そうだ、彩愛ちゃんはこういう人だった。結局自分のことしか考えてなくて、他人がどうなろうと知ったこっちゃないのだ。

 どうして私は、こんな人にいつまでも頭を悩まされ続けていたのだろう。なんだか自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。

「彩愛ちゃん、自分が何をしたのか全然わかってないみたいだね。あのときの彩愛ちゃんはね、私を殺したの。わかる? 人殺しだよ、人殺し。彩愛ちゃんは私の持ち物と一緒に、私の心まで引き裂いたの。それがどういうことか、わかる?」

「で、でも大体あれは、杏理が祥弥を盗ろうとするから……」

「私、そんなことしてない。彩愛ちゃん、何か誤解してるよ。私、祥弥君のことなんて好きじゃなかった」

「は!? でもそんな噂を聞いて……」

「噂だけで判断したの? そんな根拠のない噂に振り回されて、あんなことを? それは……あまりにも浅はかすぎる。愚かにも程があるよ」

 思わず私は頭を抱えてしまった。ここで激昂するのは、教師として失格だ。もしもしろたんなら、もしもしろたんならこういうときどうするか――私は考えを巡らせ、湧き上がる悔しさを抑えつけた。

「……いや、これ以上何を考えても無駄なのかもしれない」

「は?」

「きっと私が何を言っても、彩愛ちゃんには届かないね」

 顔を上げて見た彩愛ちゃんには、困惑の色が滲み出ていた。

「私の言葉なんて、今の彩愛ちゃんをすり抜けていっちゃうよね。だって……彩愛ちゃんには私の言葉を理解する能力がないんだもの。話は平行線を辿るばかり。だったら、これ以上話を長引かせるのは無駄だね」

「な、何言ってんの杏理」

「でも、これだけは覚えておいて。私は彩愛ちゃんを許さない。あのときのことを忘れることはできないし、きっと私はこれから先も引きずって生きていく。けど、この忘れられない痛みのおかげで今の私がある。痛みを知っているから人に優しくできるし、人に教え諭すことができるの。だから……今の私を作ってくれた彩愛ちゃんには、感謝の気持ちもある。彩愛ちゃんには理解できないところで、私は輝けているの」

 彩愛ちゃんは、すっかり黙ってしまっていた。

「私はもう、過去に怯えたりなんてしない……さよなら、彩愛ちゃん。二度と会いたくないよ」

 今までの私だったら、きっとこんなことは言えなかっただろう。人の顔色を気にして、自分を抑え込んでいた。でも、今の私はもう違う。植え付けられた恐怖はいつの間にか、摘み取られていたのだ。

 明るい街灯に照らされながら、私はかつての友達を置いて歩き始めた。恐らく彼女とは、もう二度と会うことはないだろう。

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やろうぜ、卒業式 小花井こなつ @deepsea

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