樫山杏理

 私は果たして、胸を張れる人間だろうか。

「はい、みんな席について。授業始めるよ。号令係の人ー?」

「きりーつ」

 号令係の女の子がそう言うと、みんなだるそうに立ち上がった。

「気を付け、礼」

 お願いします、と言ってみんな座る。中には礼をしない子もいた。マスク越しでもみんなが眠そうなのが窺える。午後の授業は、私だってだるい。

 午後の授業は、授業をする側も受ける側も辛いのだ。どうしても睡魔が襲ってくる。ちゃんとしなきゃと思っているのに、どうして無意識に瞼が下がってくるのだろうか。

「みんな、すごく眠そうだね。私もすっごい眠い。でも頑張ろう。今日は大事なところをやるからね」

 そう言っても、反応する子はあまりいない。返事をするのも面倒らしい。

 教壇と生徒の席には、大きな仕切りがある。新型のウイルスの感染予防対策として、透明な壁で教壇と生徒たちの席を隔てたのだ。それが当初と比べ感染が収まった今になっても、設置されたままになっている。

 この予防対策のせいで、なんだか生徒との心の距離までも開いてしまった気がする。未だ習慣化されているマスクも、私とのコミュニケーションを遮断しているみたいだ。私と生徒たちに立ちはだかる壁は、とてつもなく厚かった。

「教科書、百二十ページ。昨日は五段落まで進んだね。今日はその続きからいこうか。はい、みんなペン持って。今から線引いていくよ」

 無言でみんな、筆箱からペンを取り出す。中には何もしないでぼーっとしている子もいた。

 小学校高学年というのは、どうしてこうも扱いづらいんだろう。反抗期に入るからだろうか。とにかく授業がやりづらい。反応がないから、聞いているのか聞いていないのか判断がつかない。

 難しい年頃だから、あまり刺激するようなことはしたくない。面倒事になるのはごめんだ。今時の子供はシビアだから、ちょっとしたことでもすぐ大事になる。

 だから、私は当たり障りのない接し方を心がけている――でもそれって、教師としてはいいことなのだろうか?

(また、周りの目を気にしてる)

 ずっとずっと、私はそうだった。周りの顔色を窺いながら過ごしていた。それは、大人になってからもそうだ。私はこんな小さい子たちにさえ、心の何処かで怯えている。

 私は、いつからこんなに臆病になったのだろうか。



 明るい性格だったと、自分でも思う。小学校や中学校までは、いつもみんなの中心にいた。でも高校に入った途端、その地位をあっさり失った。

 何故だか、「あ、これは違うな」と思った。高校の雰囲気に気圧されたのかもしれない。私はクラスで一番目立つ女子たちのグループに入っていたが、その中で私は割と下っ端に属していたと思う。

 コバンザメのように、人にくっついて回るしかできなかった。それはやっぱり、グループの人たちの目を気にしていたからだと思う。

 高三のとき、幼稚園が一緒だった幼馴染みと再会した。同じクラスになるまで、同じ学校にいるとは思わなかった。それほどまでに人に合わせるのに必死で、周りのことが全然見えていなかったのかもしれない。

 ある日の放課後。私はその幼馴染みと話す機会を得た。

「杏理」

「あ、祥弥君」

 薄暗い駐輪場で、私は祥弥君を見かけた。そのまま素通りしようとしたら、なんと向こうから声をかけたのだ。

 半年以上このクラスにいるけど、祥弥君が私に話しかけたことは一度もなかった。だからこの出来事は、私にとってあまりにも意外なことだったのだ。

「今帰り? バトン部って今日、部活あったっけ?」

「いや、ちょっと居残り勉強。先生、放課後しか空いてなかったみたいで」

「へえ、偉いな。もしかして杏理って、一般受験?」

「うん。もう今から勉強しないとあれだから、すっごい大変だよ。祥弥君は推薦だっけ?」

「そうそう……なあ、杏理って家、まだあの辺にある? もしそうなら、途中まで一緒に帰ろうぜ」

 この提案には、さすがの私も一歩引いた。

 祥弥君は、彩愛ちゃんと付き合ってるはずだ。それなのにどうしてそんなことを。もしも誰かが私たちの姿を見たら、浮気と見紛うのではないか。

 様々な不安が頭を駆け巡る私に対して、祥弥君は随分と呑気だった。

「ほら、もう暗いし。一人で帰るのは危ないって」

「いや……でも、彩愛ちゃんに悪いし」

「彩愛のこと気にしてんの? 大丈夫だって。あいつ、今日さっさと帰ってたしさ」

 そういう問題ではない。体裁の問題だ。男女二人が並んで歩く姿を、周りの人はどう思うか? 間違いなく恋人だと思うだろう。複数の男女がいるならまだしも、いるのは私たち二人だけ。これを恋人同士と言わずに、なんと言う。

「うーん……でも私は……」

「いいだろ? 色々話したいこともあるしさ」

 グイグイくる祥弥君に押され、私は了承してしまっていた。まあ、ちょっとだけなら大丈夫だよね。それに暗いし、私たちだってわからないよね。そう自分に言い聞かせた。

 祥弥君は自転車を出し、自転車を押して進み始める。私はその横に並んで歩いた。校門を抜けて道路に出ると、祥弥君は車道側に移動した。

「久しぶりだよな。こうやって話すの」

「そうだね。幼稚園のとき以来?」

「だな。同じクラスなのにさ、全然話す機会なかったな」

「席遠いもんね。しょうがないよ」

「てかさ、うちのクラスって男女に壁ある感じしねえ? 仲悪いってわけじゃないけどさ」

「あー、確かに。男子は男子。女子は女子で固まってるよね」

「サッカー部と軽音部くらいじゃね? そういうのないの」

「わかる。でも、何処も結構そうなんじゃないかな」

 こんなとりとめのない会話をしていると、祥弥君は不意に溜め息をついた。

「なんか、男女って難しいよな」

「難しい?」

「なんかさ。男と女で考え方って全然違うじゃん? 俺と彩愛もさ、考え方の違いでよく衝突してるんだよ」

「え? そうなの? 彩愛ちゃんのインスタ見ると、いつも二人いい感じなのに? ちょっと前に彩愛ちゃん、インスタで『彼氏に体調の心配された~うちの彼氏優しすぎる』みたいな投稿してたけど」

「あれは彩愛がだいぶ盛ってる。彩愛ってさ、夜中にもLINEしてくるんだよ。うんざりして『早く寝ろよ』って言っただけなのに、『心配してくれるんだ~嬉しい~』とかいう返信来てさ。多分そのことだと思う。俺はそんなつもりないのに、都合のいい解釈しやがって。マジであいつ、話通じねえんだよな」

「へ、へえ……そうなんだ」

 そういえばあの投稿は、深夜にされたものだった気がする。彩愛ちゃんは、一体いつ寝てるんだろうか。

 それにしても、二人の関係の触れちゃいけない部分に触れた気がする。私が深入りしていい話ではないはずだ。

 何か別の話題に切り替えたいが、祥弥君にその気はないらしい。

「彩愛って人の話を聞かねえんだよ。自分にとって、都合のいいことしか耳に入らないっていうか。おめでたい頭だと思うよ。前はそんなでもなかったのにな」

「まあ言われてみれば、最近の彩愛ちゃんは様子がおかしい感じがするなあ」

「杏理もそう思う?」

「あ……そういえば彩愛ちゃん、AO受験落ちたんだって。もしかしたら、落ちたショックで気が動転してるのかも」

「え? AO落ちたの?」

「うん。そう先生と話してるのが聞こえた」

「マジか。俺にはそんなこと、一言も言ってなかったぞ?」

「みんなには話してないみたい。これ知ってるの、実は私だけなんだよね」

「そっかー……あいつも色々大変なんだな」

 祥弥君の言う通り、最近の彩愛ちゃんはおかしい。一緒にご飯を食べてるときも上の空だし、ちょっとした言動に過剰に反応することだってある。情緒不安定ぎみで、なんだかすぐに壊れてしまいそうな感じがした。

「あいつが大変なのもわかるけどさ、それにしてもやってることは非常識じゃねえ? あいつが中心に世界回ってんじゃねえんだ。彩愛の事情ばっか優先はできない」

「祥弥君の気持ちもわかるけど……多分彩愛ちゃん、誰かに寄りかかっていないと駄目なんだよ。だから、夜中とかめちゃくちゃLINEしてくるんじゃない? 彩愛ちゃん、祥弥君に側にいて欲しいんだよ」

「なんか理解できねえな。俺が彩愛の立場だったら、そっとしといて欲しいって思うけど」

「そこが男女の難しいとこなんじゃない?」

「なるほどなー……」

 交差点に入ると、途端に目がチカチカした。何処のお店も明かりの主張が激しく、思わず目が眩む。横断歩道の信号が青になると、祥弥君は自転車に跨がった。

「じゃ、杏理。また明日な」

「うん、ばいばーい」

 私は祥弥君と別れたあと、色々なことを思い出していた。

 彩愛ちゃんとは、実はあんまり話したことがない。同じグループだけど、なんというか彩愛ちゃんは私の苦手なタイプだった。というより、そもそもあの四人が苦手だった。

 それならどうして一緒にいるのか、と聞かれると、同じ部活だから仕方なく、という結論に達する。うちのクラスの大体の人は、部活単位で固まっている。だからあのグループを抜けたら、行く当てがないのだ。完全に孤立してしまう。

 中には楠さんや富山君のように、好んで一匹狼を貫いている人たちもいる。でも、私にはそれができない。怖いのだ。枠からはみ出すことが、とてつもなく恐ろしいのだ。

 気が重いけど、あの四人と一緒にいるしかない。そう結論付けた私は、制服のポケットからスマホを取り出した。

 歩きスマホがいけないのはわかっている。でも、学校にいるときは人目があるので、ログインできる機会がないのだ。

 私は、あるアプリを起動させる――イケメンアイドル学園。私の癒しだ。

 イケメンアイドル学園は、いわゆる乙女ゲームというやつだ。アイドル養成学校に、教師として入ったプレイヤー。そのプレイヤー、つまり私が、様々なアイドルからアプローチをされるというものだ。

 ストーリーにはいくつもの分岐があり、全員攻略するためには相当な日数を必要とするゲームだ。その重厚さから、女性に高い人気を集めている。教師と生徒の恋愛なんてご法度だが、このゲームでは何故か罷り通っているところがある。まあ、そこはゲームの世界だ。多少の非現実らしさも、一種の持ち味だろう。

 基本的に自分とアイドルの恋愛を楽しむものだが、中にはアイドル同士をカップルに見立てる人たちもいるらしい。私はそういうのが好きな腐女子ではないので、その考えにはついていけなかった。

「はあ……今度のイベント、文化祭ともろ被りしてるなあ……」

 イベント予告を見ると、開催期間が文化祭と重なっていた。私の推しであるルイ君のイベントなので、できればずっとスマホにかじりついていたい。

 でも、それも無理なようだ。学校にいる間は、ゲームにログインしないと決めている。もしも私がこんなオタク丸出しのゲームをやっていたら、あの四人はドン引きするに違いない。

 だから私の立場を守るためにも、二日間は日中のイベントを諦めるしかないのだが――いかんせん、推しのイベントだ。無下にはしたくない。

 クラスでの立ち位置を取るか、イベントを取るか。二者の選択が天秤にかけられた。私は立ち止まって、頭を悩ませる。

「友達……イベント……二つに一つ……」

 ホーム画面では、愛しのルイ君が微笑んでいる。どうするべきか。どちらの選択が正しいのか。私はしばらくそこで、考え唸っていた。



 ゲームには親愛度というものがある。一定の親愛度があると、アイドルたちが自分に好意的な態度を取るのだ。

 ついこの間、私はルイ君の親愛度をMAXにした。恋人パート突入だった。先生と生徒なので、周囲には秘密の関係だ。

 しかし、ルイ君は朝こうして私の家まで出迎えに来てくれるのだ。ゲーム内の演出とはいえ、さすがにいいのだろうか。ちなみに出迎えてくれたあとは、恋人パート限定のミニゲームが始まる。

 しばらくやると飽きてくるが、最初の頃はルイ君が朝出迎えてくれることに大歓喜していた。嬉しくて、Twitterの公開アカウントに書き込んだぐらいだ。さすがにぼかして書いたけども。

 こんな風に、私は二次元のルイ君にゾッコンだった。だから、三次元の男子には興味が湧かなかった。三次元より、二次元の男子の方がかっこいい。これは、人類共通認識事項だと思う。

 祥弥君も恐らくかっこいい方の部類に入るのだろうが、全く心惹かれなかった。そもそも私が祥弥君とだなんて、おこがましいにも程がある。彩愛ちゃんになんて言われるかわからない。

「でさあ、そろそろ俺も別れようかなって思ってるわけ」

「そ、そうなんだ……」

「距離置こうって言ったけど、やっぱあのとき別れとけばよかったな」

 こうして祥弥君と帰るようになって、結構経つ。私はそんなつもりないが、放課後勉強して帰ろうとすると、時々祥弥君と出会うのだ。

 私は、祥弥君の悩み相談に乗っていた。祥弥君は、いつも彩愛ちゃんの愚痴ばかり零す。いい加減聞く方もうんざりするが、話を遮る勇気はない。

「俺はさ、自分の時間を拘束されたくねえんだよ。なんかさ、彩愛と一緒にいると、四六時中監視されているような感じするんだよな」

「愛されてる……って、ことなのかな?」

「俺はさ、正直彩愛より杏理の方がタイプなんだよね」

「え……」

「だからさ、杏理……」

 この展開。まさか。

 私は嫌な予感を察知して、すかさず祥弥君と距離を取った。

「あ、ああああ! ごめん! 祥弥君! 私、今日急用あるんだった! ご、ごめんね! それじゃ!」

「あ、杏理!」

 私はその場から、一目散に逃げ出した。

 暗がりをダッシュで駆け抜ける。あれはまずい。雰囲気でわかる。多分あの展開だと、数秒後に告白されていた。それだけは避けなければならない。

 あんな展開になっていたら、私はきっと大混乱していた。告白の上手いフリ方なんて知らないし、付き合うのは論外だ。面倒なことになる前に、退散するのが賢明だ。

 それから、私はなるべく祥弥君と鉢合わせないよう、細心の注意を払って下校する日々が続いた。



 文化祭は、いつもの四人と回ることになっていた。店番も一緒で、息つく間もない。ずっと集団行動だ。クラスTシャツの他に、頭につける装飾品までお揃いだ。頭に乗っているリボンや花が、歩いているときに煩わしく感じた。

 私たちはあちこちで写真を撮った。同じ場所で何枚も撮ったので、最後の方は笑顔が引きつってしまっていた。

 店番の時間が目前に迫っている頃、私たちは校舎内をうろうろしていた。

「ねえ、次何処回る?」

「食べ物系って、絶対午後混むよね? 今のうちに行っとかない?」

「じゃあ何処にしようか? あ、あたしフランクフルト食べたーい」

 莉歩ちゃんがそう言うと、みんなその言葉に頷いた。

 私たちは下駄箱で外履きに履き替える。フランクフルトは外にあるのだ。

 外にはたくさんの食べ物屋があった。私たちの焼き鳥屋の他に、フランクフルトやポテト、ホットケーキやチュロスまでもある。

 柚乃ちゃんと瑞季ちゃんは、色んな店を覗きながら楽しそうに物色している。

「全部食べたいよねー、あ、あれめっちゃインスタ映えするんじゃない?」

「かわいい! でも混んでるなあ、並んでたらシフトの時間きちゃうかも」

「あ、それならさ。ちょっと一回、全員バラバラになろうよ。そしたら色々買えるんじゃない?」

 瑞季ちゃんがそう言うと、莉歩ちゃんは頷いた。

「いいんじゃない? じゃああたしはフランクフルト買ってくるよ」

「あ、でも金券どうしよ。確か、物によって値段違うんじゃなかったっけ?」

「計算面倒だから、あとにしよ」

「もー、瑞季は適当すぎ!」

「柚乃が気にしすぎなんだよ」

 話し合った結果、私は昇降口の近くにあるホットケーキを買いにいくことになった。持つのが大変だが仕方ない。随分と並んでいるけど、店番に間に合うだろうか。

 私は最後列に並び、じっと自分の番になるのを待った。

「あ、杏理じゃん」

「しょ、祥弥君……」

 並んでいると、チュロスを持った祥弥君と吉永君がこっちに来た。

「今一人? 俺たちと一緒に回らねえ?」

「いや……今一旦バラバラになっているだけで、彩愛ちゃんたちと一緒だから……」

「もしかして、パシられてたり?」

 吉永君が意地悪な顔をしてそう言った。横で祥弥君が、不穏な表情を見せた。

「マジで?」

「そうじゃないの。色々食べたいものがあるから、みんなでバラバラになって買ってこようって話になって……そういえば、彩愛ちゃんはチュロスを買いに行ったよ。途中で会わなかった?」

「いや? 会ってねえな」

「そうなの? まあ、人も多いしね」

 私はそう言いながら、少し違和感を覚えた。彩愛ちゃんはチュロスを買いに行ったが、祥弥君は会わなかったと言っている。でもおかしい。二人はチュロス屋の方から来たのだ。何処かで彩愛ちゃんと鉢合わせるだろう。いくら混んでいるとはいえ、同じクラスTシャツを着ているのだ。識別できないことはない。

 それに、彩愛ちゃんが祥弥君を見かけたら、真っ先に声をかけるはずだ。それなのに、二人は彩愛ちゃんに会っていない。もしかして、彩愛ちゃんは別の場所にいるのだろうか。

「あ、もう十一時になるな」

 吉永君の声に、私は我に返った。まずい。もう店番の時間だ。でもホットケーキ屋の列はまだ動きそうにない。

 少し迷ったが、私は店番を優先することにした。前の人に迷惑はかけられない。ホットケーキは午後にしよう。

「ごめんね。私もう店番行かなきゃ」

「ああ、十一時からだっけ?」

「そう、じゃあ私行くね」

「おう」

 祥弥君たちと別れて、私は急いで焼き鳥屋に向かった。



 深川君が、救急車で運ばれたらしい。その知らせは、私たちをざわつかせた。

 怖いね。やばくない? 誰かにやられたんだって。もうそれ殺人じゃん――教室に続く廊下を歩きながら、四人は様々なことを言い合っている。

 まさか、クラスであんなことが起きるなんて思ってもいなかった。私はなんだか恐ろしくなる。つまり、深川君はめちゃくちゃ誰かに恨まれていたのだ。このクラスの人間か、もしくは他のクラスの人に。どちらにせよ、恐ろしいことに変わりはない。

 人の悪意というのは、それはそれは恐ろしいものだ。いつだって世の中で起きる事件は、誰かの悪意が暴走した結果なのだ。今回も、誰かの悪意によって引き起こされた。その人の悪意がどんなものか、私には理解できない。でも、きっとどろどろのぐちゃぐちゃで、思わず吐き気を催すような、そんな汚い感情なのだろう。

 私たちは教室に入った。どうやら私たちが一番に教室に戻ったようで、他には誰もいない。一番最後に入った私は、電気を点けた。

「え、何これ」

 一番最初に声を上げたのは、莉歩ちゃんだった。そして瑞季ちゃん、柚乃ちゃんも、動きを止める。

 なんだろう。そう思って三人が見ている方向を見ると――そこには、私のリュックが転がっていた。

 言葉を失ってしまう。緑色のリュックも、みんなでお揃いにしたディズニーのキーホルダーも、全部切り刻まれていた。

「あ、杏理……」

「だ、大丈夫?」

 瑞季ちゃんと柚乃ちゃんは、なんて声をかけたらいいのかわからないのだろう。きっと、私が同じ立場だったらそうなってた。うん、その気持ちわかるよ。こういうとき、どうしたらいいのかわからないよね。

「これ……やったのうちのクラスの人かな?」

 莉歩ちゃんが私のリュックを見つめたまま、呟くように言った。そんなの知らないよ。私が聞きたいよ。

 私は、何も声を発することができなくなっていた。

 自分のリュックを拾い上げる。ああ、中身もめちゃくちゃだ。その場に蹲る私に対して、三人はそれ以上何も言わなかった。というより、三人が何かアクションを起こす前に、他のみんなが戻ってきたのだ。

「あー、だりーな。今日一日疲れたわ」

「松本は今日店番やってなかっただろ? なんで疲れるんだよ」

「そうそう。俺たち午前中、ずっと焼き鳥焼いてたんだぜ? あの暑い中」

「うちらめっちゃ働いたからね?」

 こんな風に話している人たちも、私たちの様子を見てぴたりと会話を止めた。誰かが何か尋ねると、莉歩ちゃんは私の代わりに説明してくれた。

 その間にも続々とみんな戻ってきた。私の様子や莉歩ちゃんの話で、みんな察したようだ。先程までの明るい雰囲気は、何処かへ消し飛んでしまっていた。

 極め付きは、古河君のこの一言だった。

「誰が深川を殺ったんだよ」

 その一言で、教室の空気が凍り付いた。それからのやり取りは、あまり耳に入らなかった。深川君のことと、私のことで揉めている。そんな認識しかなかった。

 瑞季ちゃんや柚乃ちゃんの励ましの言葉も、全く耳に入らなかった。きっと私は曖昧に返事をしていたのだろうけど、相手が何を言っているのか、また自分が何を言っているのかもわからなかった。

 ただ一人、彩愛ちゃんだけ澄ました顔をしていた。

 私には、犯人の見当がついていた――恐らく、彩愛ちゃんだ。私たちが外で一旦別れたあと、教室に行ってやったんだ。

 そういえば、彩愛ちゃんは店に来るのが一番遅かった。チュロスも持っていなかったし、多分私の読みは正しいのだろう。

 でも、彩愛ちゃんにそれを言う勇気はなかった。

 というより、そんな気力も起きなかった。ただただショックで、呆然とするしかなかった。

 ――どうしてこんなことしたの、彩愛ちゃん。

 私は何か、彩愛ちゃんの気に障るようなことをしてしまったのだろうか。心当たりはないが、もしかしたら知らず知らずのうちに嫌な思いをさせていたのかもしれない。

 話は進む。当事者の私を置き去りにして。しろたんが来るまで、私の沈黙は続いた。



「大変なことに……なったね」

 しろたんは私を、生徒指導室まで連れていった。ここは向かい合う机と椅子しかなく、まるで取調室のような造りになっている。

 なんだか尋問をされているような感じがするが、相手はしろたんだ。刑事ドラマでよく見る刑事のような、変な威圧感はない。むしろ穏やかな感じだ。

「僕もこういうとき、なんて言ったらいいのかわからないんだけどね。ほら、僕って話が下手だからさ。さっきも古河君に呆れられちゃったよ。もう、僕って本当に駄目だなあ」

 ――そんなことないと思いますよ。

「駄目といえばさ、昼にポテト屋さん行ったんだけどね。熱くて落としちゃったの。あーあって感じだよね。これはもう、受付やってた子も失笑。でもあの子優しかったよ。取り替えてくれたんだ。お金払うよって言っても、いいって言ってさ。いやあ、嬉しかったけど、店の経営が心配になっちゃったね」

 私はそこで、思わず顔が緩んでしまった。しろたんがポテトを落として慌てている姿、それを見て笑う生徒。簡単に想像できる。

「へへ。それでさ、一人でぶらぶら歩いてたんだけど、もう暑くて暑くて。樫山さん、今日店番だったよね? 暑くなかった? 僕はねえ、もう十月なのに汗をかきそうになったよ。外は暑いしポテトも熱いし。もうさ、どうしたらいいのかわかんなくなっちゃったよ」

 ――しろたんらしい。

「どうしたらいいのかわかんなくなっちゃったときはね、立ち止まることが大事だと思うんだ。実際、僕は今日立ち止まって、しばらくぼんやりしていたよ。空が青いとか、人が多いとか、そんなどうでもいいことを考えて過ごした。するとあるとき、パッとぼんやりした状態から正気に戻るんだ。『あ、もうこんな時間だな』って思ったり、誰かの呼ぶ声で我に返ったりすることもある。だからね、樫山さん。今、樫山さんはすごく混乱していて、どうしたらいいのかわかんない状態だろうけど……こういうときは、焦らないでじっとぼんやりした方がいいと思うよ」

 ――ぼんやり。

「ぼんやり。これってとっても大事なことだからね。だから、ぼんやりしたいときは学校を休んでもいいし、何もしないで寝転んでいたっていい。僕はそう思うよ。ぼんやりすることは、悪いことじゃない。ぼんやりし続けた先で、『あ、自分何やってるんだろう』ってふと気付いて、自分から動けるときがくるから。樫山さん。今回のこと、あなたは何も悪くないんだ。色々混乱していると思うけど、どうか『自分がこんな目に遭ったのは自分のせい』だなんて、思わないで欲しい。自分を責める必要はないからね」

 ――。

「今日はもう帰ろうか。一日疲れただろうしね……一人で帰れる? ……そう、わかった。じゃあ、気を付けてね」

 私は生徒指導室を出た。



 先生を目指したのは、これがきっかけだ。

 あのとき私は、しろたんの言葉に救われた。なんだか全てから許されたような気がして、心が軽くなるような感じがした。

 しろたんの話を聞いて、私はさっそく学校を休んだ。文化祭二日目。そこに私はいない。家で一人ぼんやりしたり、イベントを走ったり、自分のやりたいようにやった。

 彩愛ちゃんのことは、当然忘れることができなかったけど――それでも、しろたんの言葉があったから耐えることができた。

 そうして私の不登校生活が始まった。でも、勉強はしていたので、受験にはあまり影響が出なかった。そして無事大学に行き、教員免許を取って今の私がある。

 振り返れば、こうして私が教鞭を執っているのは奇跡に近い。あんな状態から、よくここまできたなと思う。

 でも、自分の本質的なところは変わっていないのだ。人目を気にしたり、他人に対して異常なほど臆病だったり。それはもう自分の性なのでどうしようもない気がするが。

「うーんと、みんなすごく眠そうだね……でも、今日はテストにも出る大事なところだから、しっかり聞いて頑張って……」

 そこまで言って、私ははっとした。

 私がやっていることは、しろたんとは真逆だ。あのとき、心がボロボロで擦りきれていたとき、しろたんはなんて言ってくれた?

 決して頑張れなんて言わなかった。無理強いなんてしなかった。私を優しく諭し、立ち止まることを勧めてくれた。

 私が途中で言葉をやめたので、みんな顔を見合わせている。私は微笑み、みんなにこう言った。

「ねえ、みんな。今日はちょっと、『ぼんやり』してみようか」

 その一言で、教室の空気はがらっと変わった。みんな目をぱちぱちさせて、顔には疑問の色が現れている。

 疲れたときは、立ち止まっていい。今からそれを、今度は私がみんなに伝えよう。

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