野口絵梨花《のぐちえりか》
「嘘でしょ? まだこのページ終わってなかったの?」
「それ後回しにしてたとこじゃなかったっけ?」
「え? 私記憶にないんだけど」
「現実を見ろ……どんな言い訳をしたってないものはないんだよ……」
「えええええ……間に合う気しない……」
ついに気力が限界を迎えてしまった。私はそのまま机に突っ伏してしまう。あと数秒で夢の中へ旅立っていた私を、現実に引き戻したのは
「寝るな! 起きろ! 死ぬぞ!」
「雪山かよ……」
「いいか! ここは氷山の一角なんだ! 寝たら死ぬ! 睡眠はすなわち死! 目を覚ませ! 目を開けろ! お前はここで終わる奴じゃないだろ!」
「氷山の一角って言葉、使い方間違えてない……?」
「いいんだよそんなことどうでも! ツッコめるんなら、まだ平気だな? さあ起きるんだ、起きて描け! お前が描かないとこっちも描けないんだよ!」
「ちょっと、元気すぎじゃない……? 本当に二徹目ですか……?」
激しく揺さぶってきた美紅に悪態をつきながら、私はタブレットに視線を戻した。
締切前は、人生の修羅場だと思う。
どんなに焦っても時間は秒で過ぎていくし、こっちが体力の限界を振り絞っても終わらないものは終わらない。睡眠を削って描いても、次々と現れる白紙のページ。立ちはだかる空白に、描き手は気勢を削がれてしまう。
こういうのは、モチベーションが一番大事なのだ。描きたい欲がないと、同人作家は務まらない。今こうしてギリギリのところで頑張っていられるのも、気持ちの部分に頼っているところが大きい。作品への熱意や愛、それが同人作家の原動力となる。
「ねえ、印刷所っていつまでだっけ?」
私がそう尋ねると、後ろで作業をしていた美紅が振り返った。
「ごめん、記憶が抜け落ちてる。明後日、だったかな?」
「明後日であと十ページは無理ゲーじゃない?」
「でも仕上げないと、今度のイベントには間に合わないよ」
「わかってるけどさあ……」
私と美紅は、ずっと限界体制で漫画を描いていた。部屋は栄養ドリンクの残骸と、ゼリー飲料とカップ麺の空き容器が散乱している。髪はボサボサ、化粧はなし、上下の揃ってないジャージ。私も美紅も、とても人に見せられない格好をしていた。女子力の全てを捨ててまで没頭しているのには、ある理由がある。
今度の同人誌即売会で、私と美紅の合作同人誌を出す予定なのだ。その同人誌即売会は大きなもので、色んな界隈から注目されているイベントだった。
高校生のときから、ずっと二人で同人誌を出そうと言っていた。それが、ついに叶うのだ。だから、この原稿を落とすわけにはいかない。何がなんでも完成させなければならないのだ。ずり落ちかけた眼鏡をかけ直し、私はまた自分の作業に戻った。
ペンタブを動かしながら、美紅が呟くように私に言った。
「遥がさ、イベントに差し入れ持ってきてくれるらしいよ」
「え? 何持ってくるの?」
「当日のお楽しみだってさ。まあ多分、お菓子とかだと思うけど」
「そう……でもわざわざこっちまで来てくれるのは、すごくありがたいね。私たちが描いてるやつって、遥の地雷なのに」
「遥は逆だっけ?」
「そうそう。私たちの漫画なんか見たくもないだろうに。遥は優しいね。私だったら絶対行かないよ」
「それは絵梨花の心が狭いだけでしょ」
私と美紅と遥は、ずっと「イケメンアイドル学園」の熱心なオタクだった。オタクというより、信者に近い熱狂ぶりで、高校生のときからずっとそのソーシャルゲームをやっていた。そのゲームは、私たちの人生をそれはそれは豊かに潤してくれた。
そのゲームに出てくる、「美島ルイ」というキャラが三共通の人の推しだった。ここまでは平和だ。たまたま好きなキャラが被った。それだけのことだ。
しかし私たち腐女子の戦いは、ここから始まった。私と美紅はルイとその幼馴染みのBL(ボーイズラブ)を好んだが、遥は違う。あろうことか、ルイとそのライバルのBLを好んだのだ。
いわゆる、解釈違いというものだ。遥にとって、ルイとその幼馴染みがくっつくというのは耐え難い仕打ちだろう。ましてや二人がラブラブなところなんて、見たくないはずだ。
それなのに、わざわざ自分と解釈違いの漫画を描く人のところに差し入れを持ってきてくれる。これはとんでもないことだ。端から見れば、敵に塩を送っているのと等しい。
「でも考えてみればさ、私たちってよくずっと同じジャンルにハマってるよね」
「確かに。高校生のときからだっけ? 驚いたなあ、もうそんなに経つのか」
「そうそう、高校生のときといえばさ……」
私たちは原稿に取りかかりながら、思い出話に花を咲かせた。締切二日前、二徹目。朦朧としながら喋っていると、なんだかあの頃に戻ったような感覚がした。
最終下校時刻、三十分前。もう外はすっかり暗くなり、ほとんどの生徒が帰った時間帯だ。
文化祭を明日に控え、みんな慌ただしく準備に追われていた。私たちは外で焼き鳥屋をするから、今日準備できることには限りがある。でも屋台の装飾や看板の設置など、やることは山のようにあった。
陽キャの人たちが外で色々やってる頃、私たち三人は教室でだらだらしていた。決してサボっているわけではない。ただ、仕事を言われていないだけだ。
一つの机に、私たち三人は群がっていた。美紅も遥もスマホで何かをやっている。恐らくTwitterを開いているのだろう。手元を見ればわかる。そんな二人を尻目に、私は溜め息をついた。
「はあー……文化祭とイベント被ってるとかどうかしてるでしょ……」
「それな。シフトのときとかどうするの? って話。イベント走れないじゃん……って、まだ絵梨花はいい方でしょ! こっちは明日、軽音のライブあるんだから!」
「そうだよ! こっちだって吹部の発表あるんだよ! 絵梨花は恵まれてるってことに気付くべき」
「でもさあ……てか、二人はこんな所でこんなことしてていいの? 練習とか」
「今ステージで、別のバンドがリハーサルしてるからさ。やりたくてもできないんだよねえ」
「吹部も今日の練習はもう終わってるし。明日、朝早くリハーサルやるから」
美紅は軽音部、遥は吹奏楽部だった。
二人とも地味な見た目だが、所属している部活はキラキラしたものだった。よくもまあ陽キャの巣窟に所属しているなあ、と眼鏡の奥で思う。
私は何処の部活にも属していなかった。自由といえば自由だが、他者との交流は少なくなる。本来あるはずだった人とのやり取りの時間を、全てゲームに昇華させた。これが私の高校生活だった。だからこの二人と同じクラスになって話すようになったのは、ある意味奇跡に近かった。
しかし私はそんな奇跡で結び付いた二人を、裏切ろうとしていた。
「ねえ二人とも」
「どうした陰キャ」
「陰キャはそっちもだろうが」
「絵梨花と違って、私と遥は部活やってるしい? 割と陽キャの人たちと交流あるしい? 一緒にしないでくれますう?」
「純粋に腹立つ」
「で? なんなの?」
「これからガチャ引くわ」
「は?」
美紅が血走った目をこちらに向けた。遥も私の発言を敵意として受け取ったらしく、スマホから顔を上げて目を見開く。
私は立ち上がり、二人に宣言した。
「今から私はルイを出す。抜け駆けはなしって話だったけど、ごめんやっぱ無理。ガチャ引きたい欲には勝てない」
「え、絵梨花! お主は我らの友情に、自らヒビを入れると申すか!」
「ガチャ引くって……石は足りるの? この前、足りないって言ってなかった?」
美紅が勢いで立ち上がった中、遥はクールに私を見つめていた。
石というのは、ガチャを引くための通貨みたいなものだ。その通貨はゲーム内で時々もらえるが、そんなのは雀の涙程度だった。全然足りないので、熱狂するオタクは課金をする。よくできた運営システムだ。
そう、私は課金をした。先月のバイト代を、ほぼ全て溶かしてしまったのだ。
「はっ! まさか、課金を……?」
「ふっふふふ……そう、そうだよ課金だよ! 部活で忙しい美紅や遥と違って、こっちはバイトできる時間があるからね! 惜しみなく課金に使わせてもらったよ……」
「げ、外道だ……課金なんて外道のやることだ!」
「バイト代をどう使おうと、こっちの勝手! ふふふ……恨むなら財力のない自分を恨むんだな!」
得意気になる私を、遥は鋭い目付きで睨んだ。
遥は無課金勢だった。だから、こんなに課金に対して刺々しい態度を取るのだ。私は時間に余裕があるので、バイトで稼ぐことができるが、美紅と遥はそうもいかなかった。それに関しては、ドンマイとしか言いようがない。
今回のガチャはルイがピックアップキャラになっており、通常よりも出てくる確率が高くなっている。さらにこのルイは期間限定でしか手に入らないので、この機会を逃すわけにはいかないのだ。
私はゲームを起動させた。辺りに軽快な音楽が鳴り響く。そしてガチャ画面まで進むと、スマホを机の上に置いた。二人に見せびらかすようにして、ガチャを引く。
「さあさあさあ、来い来い来い……!」
「爆死しろ」
「ばっくし! ばっくし!」
美紅が手を叩いて煽る。それに若干苛立ちながらも、ガチャの行く末を見守った。目当てのキャラが全く出なかったという爆死なんてオチは、絶対に避けたい。
専用の音楽が流れ、フラッシュ音とともにキャラが表示される。今回は十連続で引いたので、十人のアイドルたちが飛び出てきた。
しかしその十人の何処にも、お目当てのルイはいない。外れだ。
「ま、まあまあ、まだ十連だし? あと九十連できるから? きっと大丈夫……」
「冷や汗タラタラですよ、パイセン」
「爆死待ったなし、ウケるわ」
「うるさい! まだこれからだっての! 絶対、限定ルイを手に入れるんだから……!」
「だからさ、物欲センサーに引っかかってるんだから無理だって」
「遥の言う通りだよ、諦めな」
「私は絶対諦めないから! 諦めたらそこで試合終了なんでしょ!?」
「懐かしい漫画引用してくるなよ……」
物欲センサーとは、我々オタクの物欲を感知して、目当てのキャラの排出率を下げるセンサーのことだ。無論、このセンサーは架空のものだが、結構私たちの中では浸透しているものだった。
欲しい欲しいと思っている人には手が届かず、どうでもいいと思っている人にはあっさりと手が届き、自分の欲しいものを手に入れていく――それは、日常生活でもよくあることだ。
「次こそ!」
二十連目、爆死。
「三度目の正直!」
三十連目、爆死。
「なんで!」
四十連目、爆死。
「神よ!」
五十連目、爆死。
そしてとうとう百連目にまで到達したが、ルイは一枚も出てこなかった。
「どうして……どうして……? 限定ルイ……なんで来ないの……?」
「ざまあ」
「めちゃくちゃイキってた割に爆死で草」
机に項垂れる私に対して、美紅と遥は散々なことを言う。
今回引こうとしていたルイは、期間限定だ。つまり、このチャンスを逃せば限定のルイは手に入らない。私はチャンスをことごとく無駄にしてしまった。
私が項垂れていると、美紅は嬉々とした表情でスマホを見た。
「絵梨花も爆死したところだし、私もルイ様ガチャ引こっかな」
「えっ? 美紅引くの?」
「引くよそりゃ。推しだし」
「ひ、酷い! 抜け駆けはなしって言ったのに!」
「あんたが最初に裏切ったんでしょうが!」
「私も引こうっと」
「えっ! 遥まで!」
美紅も遥も、続々とゲームを開いてガチャ画面に移動している。
私は何もできず、ただその様子を見て呪うことしかできなかった。
「ルイは来ないよ、来ない、絶対来ない」
「あー、邪念こっちに送らないでもらえますかね」
「絵梨花の前で引くと来なさそう……」
二人は悪態をつきながら、ガチャを引く。ガチャ画面は見せてくれなかった。
そして、美紅のスマホから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『俺の歌は、世界に響くんだ』
ルイの声だ。
「ええええええええ! えっ、え! えええええ!?」
「ルイ様来たあああ!」
「待って! こっちにも来た!」
そう声を上げた遥のスマホからも、ルイの声が聞こえてくる。
「はああ!? ちょ、二人ともなんで一発目で引いてるの!? こっちは百連しても来なかったんですけど!」
「ふっふっふ! 絵梨花とは徳が違うんだよ徳が!」
「課金が全てじゃないんだよ!」
「ふっざけんなああ! 死ねえええ!」
私はこの日、一生分の声量を使い果たしたと思う。
文化祭当日、午後のこと。
バトン部と陸上部の人たちと交代し、私と美紅と遥は受付を担当していた。受付は座って接客していればいいので、とても楽だった。いかんせん屋台なので快適とは言えないが、ずっと立ちっぱなしよりはマシだ。
後ろでは軽音部の男子たちが、焼き鳥を焼きながら談笑している。正直、私は後ろの男子の名前をわかっていなかった。でも業務に差し障りはない。美紅が後ろの男子たちに取り次いでくれるからだ。
黙々と金券の整理をしていると、美紅が後ろの眼鏡の男子に話しかけた。
「須藤、軽音の打ち上げって何時からだっけ?」
「えーっと、五時だったかな?」
「終わるの何時くらいかわかる?」
「どうだろう。僕は一時間くらいで解散かなって読んでるけど」
「一時間で終わる? いやー、絶対終わんないね。あのメンバーだもん」
「まあ、自由解散ってことでいいんじゃない? 何か用事でも?」
「ただ単にだるいだけ。だってライブ終わったあと、カラオケで打ち上げするんでしょ? どうかしてるよ」
「それは会場のセッティングをした、星に言って欲しいな」
「え? 相澤発案なの? てか、今地味にダジャレ言ったね?」
「あ、ほんとだ。無意識だったんだけどな」
「おい……勝手に人の名前で遊ぶなよ」
呆れた声を出す、少し髪の長い男子。へえ、あの人相澤って言うんだ。初めて知った。
それにしても、「星」だなんて。すごいキラキラネームだな。
「なんでカラオケで打ち上げするの? ライブやったあとってきつくない? 声的に」
「声? 腹から声出してりゃ、別にどうってことないだろ」
「相澤と一緒にしないでよ! こちとら、毎日日陰で生きてる陰キャだからね? 普段、声を張り上げることなんてないんだからね? そんな人間にさ、あんまり喉使わせないでよ」
「陰キャとか言う割に、めちゃくちゃ喋るじゃねえか」
「私、打ち上げ行かなくてもいい? ライブで喉潰す自信しかないんだけど」
「好きにしろよ……」
美紅の剣幕に圧倒され、相澤は頭を抱えた。美紅の喋りは独特の早口で、ずっと一緒に喋っていると頭が痛くなるタイプだ。私はもう慣れてしまったが、相澤はどうやらそうじゃないらしい。
隣にいた遥は客から注文を取り、後ろの男子に注文を伝える。
「塩二本でーす」
「えっ、待ってもう焼き鳥ないんだけど……」
「嘘? もう? 早くない?」
「一本しかない」
「マジか……あのー、すみませんお客様。もう一本しかなくて……」
遥は目の前の客に事情を説明しながら、私に目で合図した。
私は店の看板に、「売り切れ」と書かれた札を貼る。遥が後ろに並んでいた客に向かって売り切れを伝えると、どよめきの声が上がった。
美紅は須藤たちを見る。
「とりあえず、一本だけ焼いちゃって」
「わかった……でも、これからどうしようか? 明日もあるし、今日この時間で全部売り切れちゃうのはまずいよね?」
「相澤、ちょっとひとっ走りして焼き鳥買ってきてよ」
「なんで俺に言うんだよ」
「元気があり余ってるのかと思って」
「俺、そんな体力ねえよ。誰か運動部の奴に……あ、柴崎、お前確か卓球部だよな? 体力ありそうだし、焼き鳥の調達頼むよ」
隅の方にいた柴崎と呼ばれた男子は、その言葉に酷く狼狽えた。
「えっ、ええ? お、俺? 俺、そんな体力ないし……」
「卓球ってめっちゃ体動かすだろ」
「む、無理無理無理……! クーラーボックス抱えながらチャリ漕ぐのはきついって! 卓球部を過大評価しすぎ……俺、ひょろいしそんな体力ないから……」
確かに貧弱そうな体をしているから、それは無理そうだ。
柴崎が全力で相澤の申し出を断っている間に、須藤は焼き鳥を黙々と焼いていた。味付けをし、紙コップの中に入れて美紅に渡す。隣で柴崎と相澤が漫才をやっている間、須藤はずっとマイペースに仕事をしていた。
その様子を見ながら、私は自分の仕事が終わったことに対して、解放感を抱いていた。もうこの時間、私は何もしなくていいのだ。これで心置きなくイベントに専念できる。
机の中にしまってあるスマホを取り出そうとしたとき、遥が私を牽制した。
「ちょっと。まだ仕事は終わってないでしょ」
「終……て……もん」
「声やばすぎ。何言ってんのかわかんなくてウケる」
遥は笑うが、こっちはたまったもんじゃない。朝からずっと喉が痛いのだ。
そう、私は喉を潰してしまった。昨日大騒ぎしたせいで、声が全く出なくなってしまったのだ。しかし元々人と喋らないので、そんなに差し障りはなかった。
「金券貼る台紙、もうない感じ? 残りって確か教室にあったよね?」
「ん……」
「だったら今、取ってきて貼っちゃいなよ。金券失くすのが一番やばいんだから。失くさないようにさ」
面倒だ。これから校舎に入って階段を上って教室へ? なるべく肉体労働をしたくない私にとって、それは苦行以外の何物でもない。
渋る私に対して、遥は早く行くよう急かす。そんなんだったら、自分が取ってくればいいのに。全く、昨日ルイを引き当てたから調子に乗ってるな?
小言を言ってやりたかったが、生憎声が出ない。私は嫌々了承し、校舎に向かった。
昇降口で上履きに履き替え、雑踏を掻きわけながら教室まで歩く。周りには、浮かれて楽しそうにしている人たちばかりだ。その全員を無視して、やっと静かな場所まで辿り着いた。
三年生はみんな屋台をやっているので、今三年生フロアの教室は全て空き教室になっている。つまり、ここ一帯は無人なのだ。やかましい声も、ここまで来れば蚊の鳴くような声になる。私は喧騒から解放されて、ほっとした。陽キャ共の甲高い声は嫌いだ。
やっとの思いで教室に辿り着いた。ドアは開いている。さて、目当てのものを取ってさっさと戻ろう――そう思いながら教室に入ろうとした瞬間。
宙に浮いている男子が見えた。
ガンッと大きな音がして、その人は倒れる。頭から着地したのだ。どうやら、濡れた床で滑って転んだらしい。側には水入れが転がっていた。
単純な話だが、事態は深刻だ。その男子は、頭から血を流して倒れたまま動かない。
「……!」
声にならない声を上げ、その人におそるおそる近付く。肩を叩いたり揺さぶったりしたが、目を覚ます気配はなかった。
震えながら、ジャージのポケットをまさぐる。誰か助けを呼ばないと。というより、これは救急車を呼ばないといけない事態だ。頭から血を流しているし、何より返事がないのはどう考えても異常事態だ。
しかし私は、スマホを持っていなかった。そうだ、あのとき机の中に入れたままだったんだ。
私はとにかく誰かに知らせようと、その場を離れた。走って人がたくさんいる廊下まで出るが、声をかけられそうな人はいない。
私は生粋のコミュ障だ。見ず知らずの人間にいきなり声をかけるのは、ハードルが高すぎる。さらに私は喉を潰しているのだ。こんな状態で誰かに声をかけたら、間違いなく不審者扱いされるだろう。
美紅や遥の所に戻らないと、何もアクションができない。これじゃあ例えスマホを持っていたとしても、電話で喋ることができなかっただろう。つくづく私は無力だ。ルイを引き当てられないし、自力で助けを呼ぶこともできない。
急いで昇降口まで降り、靴に履き替えて焼き鳥屋まで走った。売り切れでやることがなくなったため、みんなすっかり寛いでしまっている。そんな中、血相変えた私が飛び込んできたため、美紅と遥はギョッとしていた。
「絵梨花? どうしたの?」
「あ……! 教……! 人……!」
「え? ちょっと声ガサガサで、何言ってんのかよくわかんないんだけど」
「もー、昨日あんなに叫ぶから」
美紅も遥も呑気に笑う。それどころじゃないのに、一刻も早く助けを呼ばないといけないのに。
息をすっかり切らしていたので、一旦深呼吸して平静さを取り戻そうとした。美紅も遥も私の様子がおかしいことに気付き、二人とも怪訝な顔をする。
本題に入ろうと息を吸い込んだそのとき、二人の後ろからあっと声が上がった。
「ねえ、なんか深川君がやばいことになってるって」
「え?」
スマホを凝視する須藤に、二人は振り向いた。
「教室で頭から血を流してたんだって」
「なんでそんなことに?」
「Twitterで流れてきたから、よくわかんないけど」
「え、Twitter? 誰のアカウント?」
「柏木君。名前伏せてるからわかんないけど、でもこれって深川君のことだと思う」
「どうしてわかるの?」
「『陸上部のエースが頭から血を流してた』って、深川君のことだと思う。ほら深川君って、この前何かの大会で入賞してたじゃん」
そうか。倒れていたのは深川という人だったのか。そういえば、全校集会で賞状をもらっていたような気がする。同じクラスの人なのに、全くわからなかった。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。恐らく柏木という人が通報したのだろう。
その話を聞いて、美紅と遥は顔を見合わせた。
「えー、怖いね。何があったんだろ」
「頭から血を流してたって、何がどうなってそうなるのさ」
「ほんとに……あれ? ねえ絵梨花ってさ、さっき教室に行ったよね……?」
二人の疑わしい視線が私に向けられる。声を潜めた会話だったので、後ろの男子たちには聞こえていないようだ。
私は机の中からスマホを取り、メモ帳を起動させて文章で必死に二人に状況を説明した。
「あー、だからあんな顔して走ってきたのか」
「それはびっくりだねえ」
どうやら納得してくれたようだ。けれどその割に、危機感というものが全く現れていない。何処か他人事だ。
でもまさか二人は、私が深川を殺ったと思っていたのだろうか。それは心外だ。
二人に不満を抱きながらも、私は内心安堵していた。誰かが通報してくれたのなら、それでいい。これで私の杞憂はなくなったのだ。
しかし、この安心は相澤の一言で簡単に弾けてしまった。
「それにしても、誰が深川を殺そうとしたんだ?」
私は大事なことを失念していた。誰かが発見して通報してくれた――ここまではいいのだ。しかし普通の人は頭に重症を負って倒れている人を見つけたら、「何故こうなったのか」と疑問に思う。私の場合一部始終を見ていたため、疑問に思わなかっただけなのだ。もし私が転ぶ瞬間を見ていなかったら、私も同じように疑問を抱いていただろう。
教室には、凶器になりそうなものはなかった。事故にしては不自然すぎる。頭上に危険なものがあった、なんてことはない。床が濡れていた、という点を除いて、あんなことになりそうな要因はなかったのだ。
だが滑って転んだ、なんて間抜けな理由、誰が最初に思い付くだろうか。それに水は、時間が経てば蒸発してしまう。そう、つまり。
あの光景を見た人や、その話を聞いた人は、頭を打って倒れていた人は「誰かに殺されそうになった」と考える。
さらに私は教室の手前しか見ていなかったので失念していたが――どうやらクラスメイトの荷物が、無惨にも引き裂かれていたらしい。
「あたしはさ、犯人は樫山ちゃん狙いだったと思うんだ。樫山ちゃんの荷物をズタズタにしていた犯人は、運悪くその現場を深川君に目撃されてしまった。そこで犯人は、口封じのために深川君に手をかけた……どう、筋は通ってない?」
だから、こう考える人がいてもおかしくないのだ。
文化祭一日目が終了したあと、私たちは一旦教室に戻った。ホームルームがあるので、みんなここで待機しているのだ。しかし先生はなかなか来ず、こうしてギスギスした雰囲気のまま、犯人探しが始まったのだ。
先程まで推理をしていた女子と、その友達らしき女子が何か話している。そこに長瀬が割って入った。
長瀬という女子は、さすがに私でもわかる。このクラスの中心人物の一人で、恐らくこのクラスの中で一番権力を持つだろう女子だからだ。校則無視の茶髪とけばけばしいメイクは、陰キャを怯ませるほどの威力があった。
「怖いね、長瀬さん。いつもより怖い」
「そりゃあ、グループの一人の子があんなことになったらブチ切れるでしょ」
美紅と遥はひそひそ話し合っている。私はずっと、顔を青くさせながら俯くことしかできなかった。
見かねた美紅が、私に目を向ける。
「ねえ、深川のことは話した方がいいんじゃない? 絵梨花は一部始終見てたんでしょ?」
「そうだよ。あれは事故だって言った方がいいよ」
無理だ。あの輪の中に入るなんて、私には絶対無理だ。
私が加わることで、さらに話がこじれてしまうかもしれない。荷物があんなことになっている件は、全く知らないのだ。それをどう説明したらいいのかわからない。
それに、上手く説明できる自信がない。果たして、私なんかの証言をあの陽キャたちは信用してくれるだろうか。真に受けてくれないかもしれない。もしかしたら、嘘つき呼ばわりされる可能性もある。
陰キャが陽キャに目を付けられたら終わりだ。今でも肩身が狭いのに、もっと肩身が狭くなる。
その旨をスマホで二人に伝えると、二人は納得したような、でも納得できていないような、複雑な顔をした。
「はいはいはい! もしかして、幽霊の仕業とか!」
あの声のでかい男子は、確か江田という名前だった気がする。雰囲気をぶち壊すようなあっけらかんとした声に、みんなが注目した。
「俺さ、昨日聞いたんだよ。放課後教室から、女子の『死ね』って叫ぶ声が。一瞬長瀬たちかな? って思ったけど、なんか声の雰囲気違うし。あれ、今思えば幽霊だったと思うんだよね。今回のこともさ、幽霊がやったことなんじゃ……」
私たち三人は体を縮こまらせた。江田が言っているのは、間違いなく私のことだ。
まさかあれを聞かれていたなんて。でも不幸中の幸いだったのは、私が陰キャすぎて、声を張り上げるイメージがなかったことだ。
それに、誰も江田の話を相手にしていない。まあ、幽霊の仕業なんて荒唐無稽な話、普通は誰も信じないものだ。
「もういっそのこと、全部幽霊のせいにしちゃえば?」
美紅の気の抜けた提案は、私と遥にしか聞こえなかった。
結局、犯人はわからずじまい。重い空気の中、文化祭二日目を迎えた。
深川と呼ばれた男子は、今病院で治療を受けているらしい。けど命に別状はないらしく、後遺症などの心配もないとのことだ。あくまでも、私が聞いた話だが。
だが当然クラスの雰囲気は悪く、昨日のような盛り上がりはなかった。文化祭の予算が盗まれ、それに追い討ちをかけるように、また教室でとんでもないことが起きたのだ。
今度は放火だった。これはもう事故とは言えない。間違いなく誰かが故意にやったものだ。荷物が引き裂かれたのと同じように。
「えっ、もうこんな時間? バス間に合うかな……」
腕時計を見ると、もう六時を過ぎている。バスの時間はもうすぐだ。
私と遥は、後夜祭で行われた軽音のライブを観に行った。美紅の出番が終わって帰ろうとすると、教室に忘れ物をしていたことに気付いたので、走って教室に向かった。誰もいないので、全速力で駆け抜ける。もしも人がいたら、変な目で見られていただろう。
もう辺りは暗くなっており、廊下には明かりも点いていなかった。
自分の教室の近くまで来ると、何やら複数の話し声が聞こえた。話し声は聞こえるのに、教室の電気は点いていなかった。
「え……じゃあ、放火は……」
「そう……」
男女の話し声らしいが、声を潜めているのか、断片的にしか聞き取れない。
誰だろう。こんな時間に、電気も点けないで――そう思いながら、ドアを開けた直後だった。
三人の幽霊が目に飛び込んできたのは。
ドアを開けた瞬間、三人はぎょろっとした目を私に向けた。窓から外の明かりが入ってきていたので、暗闇の中でも三人の顔をはっきりと認識することができた。
この世の人間とは思えないほど肌が白く、さらに服も真っ白だ。血走った赤い眼は、真っ直ぐに私を射止めている。やばい。これ駄目なやつだ。逃げなきゃ確実に、死ぬ。
「ぎゃああああああ出たああああ!」
恐ろしさのあまり、私は叫びながら駆け出した。せっかく声が治りかけていたのに、これじゃあまた喉を潰してしまうだろう。
あの幽霊たちは放火について話していたが、まさか幽霊が放火をしたのだろうか? いや、そんな馬鹿みたいな話、あるわけない。あれは確かに人為的なものだ。生きている人間の仕業なのだ。
でも心の何処かで、一連の不可解な出来事を幽霊のせいにしている自分もいた。
「そういえばそんなことあったねえ」
美紅がカラカラと笑う。あのときのことは完全に黒歴史だ。私の馬鹿騒ぎした声が幽霊と間違われた話なんて、記憶から消し去りたいほど悲しい出来事だ。
「あー、もう。ほんとに恥ずかしい。バレたらどうしようって、あのときはひやひやしたよ」
「バレても別にいいじゃん。事件とは関係ないんだし」
「よくないって。放課後『死ね』って絶叫していたなんて知られたら、私ずっと変人扱いされるんだよ?」
「変人なのは事実でしょ?」
「私は普通の陰キャだから! 変じゃないし!」
「普通の陰キャはあんな暴言吐きませーん」
「陰キャの定義とは!」
作業の手が止まったまま、話は続く。
私も美紅も昔を懐かしみ、感慨に耽っていた。これが歳を取ったということなのだろうか。
「あ、そういえばさ。私あのあと本当に幽霊見たんだよ」
「え? あのあとって?」
「文化祭二日目。美紅が後夜祭で盛大に音を外してた、あれだよ」
「ちょ、それは今も懺悔案件だから言わないでよ!」
美紅はむくれて、全力で抗議した。
文化祭二日目の後夜祭。トップバッターが美紅のバンドで、それはそれは大いに盛り上がったのだが――緊張のせいか、ボーカルの美紅はサビで盛大に音を外したのだ。
美紅はああ言うが、私と遥にとっては今でも笑い話だ。
「でさ、美紅のバンド見終わって帰ろうとしたらさ、教室に幽霊がいたんだよ。しかも二、三体」
「え? それ絶対何かの見間違いだって」
「見間違いなんかじゃないよ。顔は青白くて、めちゃくちゃ目がつり上がっていて、唇も紫色で……服も真っ白くてさ」
「ん……? なんかわかるような気がする……? なんで見たことないのに、ぱっとイメージが思い浮かぶんだろ?」
美紅は考え込むような素振りをした。
「その幽霊、美紅も実は見たことあるんじゃないの?」
「いやいや、幽霊なんているわけないって。絵梨花の妄想だよ、妄想」
あれは妄想だったのだろうか。あのときは暗かったし、もしかしたら何かと見間違えたのかもしれない。でも、あの顔と服装はどう説明すればいいのだろうか。
美紅がスマホを手に取り、ふと私に声をかけた。
「あ、ねえそれよりさ。Twitterで見たんだけど、今度同窓会やるるしいよ」
「同窓会? なんの?」
「高三の」
「ええ……よく同窓会やろうとか言い出したよね、あんなことがあったのに……」
「あんなことがあったから、じゃない? ほら、ここに『青春に決着つけよう』って書いてある」
「中二病感が否めないんだが……まあどうでもいいけど。私は行かないし」
「あれ? 絵梨花行かないの?」
「行くわけないじゃん。あんな陽キャの集まり。行ってどうするのって話。会いたい人もいないしさ」
「悲しいこと言うねえ。私は行くよ? なんか須藤たちも来るみたいだからさ」
「須藤……って軽音の?」
「そうそう。一応有名人だし? サインくらいもらっとこうかなって」
「え? 有名人なの?」
「知らない? 須藤と相澤。二人で組んでさ、YouTubeで音楽活動してるの。結構人気だから絵梨花も知ってると思うんだけど……ほら、『StarGazer』だよ」
「あー……聞いたことあるなあ」
流行りに疎い私でも知っているなら、相当人気なのだろう。でもまさか、同級生がそんな有名人になっていたなんて。人生、本当に何が起こるかわからない。
「だからさ、遥も誘って一緒に行こうよ。StarGazerなんて、滅多にお目にかかれないよ?」
「えー……私はパスしたい」
「なんでさ! 須藤と相澤だよ? そこそこ顔がよくて声もいい、あの二人だよ? 高校生のときからずっと今までやってきた二人だよ? 萌えない?」
「ちょっと、なんでもかんでもそっちに持っていかないでよ……」
でも、StarGazerか。
今までスルーしていたものだったけど、美紅の話を聞いて少し興味が湧いてきた。
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