加藤奈々
「さー、おいでおいで。あー、上手上手! すごーい、もうこんなに歩けるようになったんだね!」
しゃがんでいるあたしは、腕の中にいる最愛の娘をぎゅっと抱きしめた。ピンクのオーバーオールを着た娘は、少し茶色がかった髪をしている。夫似だ。あたしは娘の薄毛を撫でて、感慨深い気持ちになった。
まだよちよち歩きだけど、随分と歩けるようになっている。子どもの成長は、瞬く間だ。だから、この一瞬一瞬大切にしないと。
腕の中できゃっきゃと笑うこの子は、あたしたち夫婦の宝物だ。こんなに眩しい笑顔を向けられると、思わず顔が綻んでしまう。
「ねえねえ、やっぱりあたしたちの子って天才じゃない? もう今から将来が楽しみなんだけど!」
あたしはソファで雑誌を読んでいる夫に声をかけた。夫は呆れ笑いをしながら、雑誌から目を離す。
「喜びすぎだって。そんな歩いたくらいで」
「もー、冷たいなあ。子どもの成長は親にとって、めちゃくちゃ嬉しいことでしょ?」
「まあ、気持ちはわからないでもないけどね」
夫はふっと笑った。あたしはいつもテンションが高いが、夫はその逆でいつもクールだった。よくこんな二人が結婚したなあ、と子どもができた今でも思う。
「そういえば奈々。携帯鳴ってたよ」
「え? ほんと? 誰からだろ」
あたしは娘から離れて、机の上に置いてあるスマホを取りに行った。娘はよちよち歩きで、あたしの後ろをついてこようとする。ああ、とってもかわいい。
スマホには、真優佳からメッセージが届いていた。
内容は今度行われる、「卒業式」についてだった。
「ねえ、あたし今度卒業式に出るんだけど」
「え? 卒業式? 誰の?」
「あたしの」
「奈々の? え、何それ?」
「なんか高校の卒業式、もっかいやるみたい」
そう答えたあたしに、夫は頭にいくつものはてなマークを浮かべた。
「今さらなんでそんなこと……」
「ほら、あたしの代ってちゃんと卒業式できなかったじゃん? だから、もう一回ちゃんとやろうって企画」
「変な企画を考える奴もいるもんだな。まあ要するに、同窓会みたいなやつか」
「多分そんな感じ」
「でも、随分と仰々しいな。卒業式だなんて。これは、企画した人のセンスの問題なんだろうけど」
「うーん、多分考えた人なりの思いがあるんだと思うよ。あたしらの代、結構色んなことあったしさ」
「色んなこと?」
「そうそう。高三のときの文化祭の話なんだけど……」
あたしは娘を抱いて、夫のソファに座った。あたしの長い長い思い出話は、ここから始まる。
文化祭はとても楽しみにしていた。元々お祭りが好きだし、何より最後の文化祭だ。あたしの胸は、期待に高鳴っていた。
そんなとき、クラスで事件が起きた。深川殺人未遂事件と、樫山ちゃんの荷物ズタズタ事件だ。あたしのテンションは、一気に落ちた――かに見えた。
教室で大事件。しかも警察が来そうな、結構やばめの事件。あたしのテンションは下がるどころか、むしろ上昇していった。
こんなの不謹慎かもしれないが、未知との遭遇は楽しいものだ。深川と樫山ちゃんを心配に思う気持ちと、事件への探求心が交錯した。あたしの場合、面白がる気持ちの方が強かったかもしれない。
だから、古河と長瀬ちゃんが衝突したときも、物怖じせずこう言えたのだ。
「ねえ二人とも、一回落ち着きなよ。樫山ちゃんと深川君の件、どうして別々に考えようとするの? これ、もしかしたら繋がっているかもしれないよ?」
あたしの意見に、古河と長瀬ちゃんが食って掛かる。
「なんだよ加藤。加藤はこれが繋がってると思ってんのかよ」
「どうして繋がってる、って思うの? 杏理と深川の件、全然違うじゃん」
「あたしはさ、犯人は樫山ちゃん狙いだったと思うんだ。樫山ちゃんの荷物をズタズタにしていた犯人は、運悪くその現場を深川君に目撃されてしまった。そこで犯人は、口封じのために深川君に手をかけた……どう、筋は通ってない?」
気分はまるで、名推理を披露する探偵だった。あたしの発言に、みんなが注目している。これまでにない快感だった。手汗が酷いのは、緊張のせいだけではないだろう。
あたしは嬉しくなって、近くにいた真優佳に鼻を高くしてこう言った。
「どう? 結構な名推理じゃない? あたし、探偵とか向いてるかも?」
「奈々。今そういうふざけるとこじゃないから。まあ、その推理は筋が通ってると思う……けど、どうして犯人は樫山さんの荷物を?」
「そう! うちらが聞きたいのはそこなんだけど! てか、じゃあ犯人は誰なの?」
長瀬ちゃんがすかさずツッコミを入れる。う、痛いとこを突かれた。
あたしなりに色々考えたけど、肝心の犯人まではわからない。あたしの仮説通りだとして、じゃあ一体誰がそんなことを? 樫山ちゃんを恨んでいる人って、例えば誰?
「え、うーん……犯人まではわかんないけどさ、少なくともこれは悪戯とかそういう類いのものじゃないのは確かだよ。悪戯にしては手が込んでいる。犯人は相当樫山ちゃんのことを恨んでいた、としか推測できないな……」
そう言うと長瀬ちゃんは、呆れた顔でそっぽを向いてしまった。
今のあたしには、ああ言うしかできなかった。自分の思い込みで、誰かを犯人に仕立て上げたくはない。もっと調査が必要だ。
外部犯、幽霊、様々な憶測が飛び交う中、あたしはずっと考え込んでいた。
樫山ちゃんを恨む人間は、このクラスにいるのか。それとも他のクラスにいるのか。他のクラスの誰かの仕業なら、その原因は恐らく部活だ。他のクラスとの交流が、体育やイベントしかないからだ。この二つは部活と比べて頻度が少ない。それに、恨まれるような出来事が起こりにくいのだ。あくまでもあたしの意見だけど。
でも部活の関係で樫山ちゃんを恨んでいるのなら、教室にある荷物ではなく、部室にある荷物を狙うはず。よって、この仮説はなし。
繁盛する焼き鳥屋に嫉妬し、妨害工作として他のクラスの人がやったという仮説も立ったが、もしそうなら焼き鳥屋そのものを狙うはずだ。よって、この仮説もなし。
となると、やはりこのクラスの誰かが犯人か。
そこへ何やら書類を持った、血の気のない柏木と武田が教室に入ってきた。
口を開いたのは武田だ。
「……あのさ、文化祭の余った予算が一万くらい足りなくて。誰か盗った奴いる?」
その言葉に、またもや教室に緊張が走った。
文化祭の予算がなくなった。もしかして、これも同じ人物の仕業? それにしても、あちこちで事件が起きすぎだ。もしかして、他にもあたしたちの知らない所で事件が起きているのだろうか。
しん、と静まり返った教室へ、しろたんとジュリアが入ってきた。
「おや、どうしたのかな。こんなに静まり返って」
「先生、文化祭の予算が盗まれました。確認してみたら、一万円ほど足りませんでした」
「文化祭の予算が? そうか……わかった。それについては、あとで話そうか」
しろたんはそう言って、教壇の前に立った。
それからしろたんは、たくさん話をした。信じることが大切だと説き、怒る古河を宥めた。
あたしはしろたんの話を、半分くらいしか聞いていなかった。いや、半分も聞いていなかったかもしれない。ずっと事件のことについて考えていた。しろたんはああ言うけど、犯人はこのクラスの人で間違いないのだ。この状況でクラスを信じろと言うのは無理がある。恐らく、この場にいる全員がそう思っているところだろう。
先生が樫山ちゃんを連れて何処かへ行ってしまったあと、教室には不穏な沈黙が流れた。一人、また一人と、荷物を持って教室を出ていく。最後に残ったのは、あたしと真優佳だった。
「……奈々? 帰らないの?」
「ねえ真優佳。一連の事件の犯人、なんとかして捕まえられないかな?」
「はあ? 捕まえるって……本気で考えてる?」
「うん、本気」
「奈々。いい加減にしなって。さっきも思ったけど、今絶対楽しんでるよね? 楽しんじゃ駄目だから。軽率だよ。探偵ごっこなんかやめなって」
「じゃあ、誰が事件を解決するのさ!」
厳しく突き放してくる真優佳。でも、あたしは引き下がらなかった。このままじゃ、納得できない。それはクラスのみんなが思ってることのはず。
なら、あたしが一肌脱いで、謎を解決しようとしてもいいじゃないか。あたしはいつになく真剣な眼差しをして、真優佳に訴えた。
「これは誰かがやらなきゃいけないことなんだよ! 確かに、あたしの場合好奇心が強いかもだけど……でも、みんなが気になることじゃん? 誰かがこうやって動くことで、何かが一歩前進することだってある。空振りに終わるかもしれないけど、あたしは一連の事件、ちゃんと調べたい。だって、あたしはこのクラスの一員なんだから!」
はあ、と息をつく真優佳。そして観念したかのように、薄ら笑いを浮かべてこう言った。
「わかったよ。奈々の気持ちはわかった。だったら、もう奈々の好きなように調べればいいよ。とことん自分の気が済むまで、突き詰めていけばいいよ」
「さすが真優佳! 話がわかるね!」
「いや、別にそういうわけじゃないんだけど……」
「じゃあ、真優佳も捜査に協力してよ!」
「え? なんでそうなるの?」
「一人よりも二人の方がいいでしょ? いやー、真優佳がいれば百人力だよ! 頼もしいなあ」
「ちょ、私はまだやるなんて一言も……」
「じゃ、明日よろしくね! そうだ、二人でやるんならさ、どうせならコンビ名みたいなの決めない? その方がなんか、かっこよくない?」
「……もう好きにしなよ」
真優佳は頭を抱えながらそう言った。
次の日から、あたしたちの調査は本格的にスタートした。
調査といっても、大それたことはしていない。せいぜい人に話を聞きに回った程度だ。
クラスの中に犯人がいるのだから、クラスの人の証言は正直当てにならないところがある。誰が信頼できて誰が信頼できないのかわからない以上、クラスのみんなから話を聞くのは早計だ。
まずは他のクラスの人から話を聞いて、誰が信用できる人間か見極めないと。
あたしと真優佳は、文化祭を回りながら色々な人に話を聞いた。昨日、うちのクラスの人たちは何時頃、何をしていたのか。話を聞いたことと、焼き鳥屋のシフトを照らし合わせて考える。
あたしと真優佳は唸りながら、体育館に通じる廊下を歩いていた。演劇部の公演を観るためだ。どうやら探偵執事が活躍する話らしい。今後の参考になるかもしれないと期待を寄せ、真由佳が持つパンフレットを覗き込む。なかなか面白そうなストーリーだ。
敏腕探偵執事を見習い、あたしも今回の出来事について考えを巡らせる。しかし、断片的なピースが記憶の中でしっちゃかめっちゃかしており、あたしの頭は混乱してしまった。
「うーん、やってみると案外難しいなあ……」
「じゃあやめる? 私は賛成だけど」
「駄目だって! 途中で放り出すのはよくない!」
「私はそろそろ疲れたんだけど……」
「まあまあ。とりあえず、一旦昨日のことを整理しよう」
あたしはスマホのメモ帳を起動させ、昨日の店番の人と、聞き込みでわかったことを打っていった。
文化祭開始九時から、渡辺と森久保と今井、そして宮沢ちゃんが店番。
十一時頃、深川と古河、長瀬ちゃんと大嶋ちゃんと西山ちゃんと矢野ちゃん、そして樫山ちゃんが店番。この時間帯、江田と佐藤と小野寺がお化け屋敷の列に並んでいるのが目撃されている。
一時頃、相澤と須藤と柴崎、畑澤ちゃんと日ノ浦ちゃんと野口ちゃんが店番。この時間帯に深川は倒れた。
「……こうなると、樫山ちゃんの荷物も一時以降に被害にあったってことになるね。この時間、店番に行っていた人たちはシロだけど、候補が多すぎて犯人を絞り込めないな」
「ねえ、そもそも奈々の推理って正しいの? 昨日大っぴらに話してたけど、あれ合ってるの? 私はそこから疑問なんだけど」
「えっ……だって、そうとしか考えられなくない?」
「そう? 奈々は昨日起きたことは繋がってるって推理してたけど、あれ、バラバラにして考えることもできるよね? それに、予算のことは? あれも繋がってるの?」
「あ、いや、それは……」
「ほら。まだ仮説もしっかりしてない。そんな段階でいくら犯人を突き止めようとしても、無駄だと思うけどね」
「真優佳、乗り気じゃなかった割に、めっちゃ考えてるじゃん」
「う、うっさいな! てか、私が乗り気じゃないのわかってるなら巻き込まないでよ!」
真優佳は顔を背けてしまった。あれはきっと、照れているのだろう。そう思うことにした。
でも真優佳の言う通り、予算がどのタイミングでなくなったのかはわからない。そもそも、あのお金は誰が持っていただろうか? 管理は実行委員の柏木と武田がしていたが、予算は一旦買い出しに行く人に預けられる。
最後に買い出しをした人が、一番疑わしく感じる。でも昨日のクラスLINEを見る限り、買い出しに行った人は武田一人だ。もしも武田が犯人だとして、あんな風にみんなの前で予算が盗まれたと言えるだろうか。
そうなると、あのお金は文化祭が始まる以前に盗まれたことになる。
けど予算に関しては、わからないことがあまりにも多い。今のままじゃ、なんとも言えない。
体育館のドアを開いて真っ先に見えたのは、幕が下りているステージだった。
「あれ? 今もう何もやってない感じか」
「演劇部の発表、もう終わっちゃったみたいだね。次は十二時半に、吹奏楽部の発表か」
文化祭のパンフレットを見ながら、真優佳はそう言った。
ふと客席の近くに、見覚えのあるクラスTシャツが見えた。あのウェーブがかかった黒髪は、ジュリアだ。
あたしはジュリアに向かって手を振った。
「あ、ジュリアじゃん。やっほー、演劇部の公演観てきた感じ?」
「うん。とっても面白かったよ」
「あたしも観たかったなあ。なんかミステリーもの? なんでしょ? 今後の推理に役立ちそうだと思ったのに」
「奈々。もういい加減犯人探しはやめなって。そうやってでしゃばるの、奈々の悪い癖だよ」
「えー、だってさ! 深川君と樫山ちゃんがあんなことになって……てか、樫山ちゃん今日学校来てないんだよ? 犯人、絶対許せないじゃん!」
「いや、気持ちはわかるけどさあ……」
うんざりしたような顔で真優佳はそう言うが、真優佳も事件は気がかりなはずだ。色々文句を言いながらも、あたしについてくるのがその証拠だ。
いわゆる、ツンデレってやつなんだと思う。
「ま、いいや。演劇部ってまだ片付けしてるのかな?」
「まだしてると思うよ」
ジュリアの返答を聞いて、あたしの頭にあるアイデアが閃いた。
「じゃ、富山でも冷やかしに行くか」
確かうちのクラスの富山は、演劇部だったはずだ。富山は芸術的な人というか、とにかく変わった男子だ。
推理も行き詰まったことだし、ここらでちょっと気分転換でもしよう。
あたしの提案を聞いて、真優佳は怪訝な顔をした。
「今公演終わったばっかでしょ? 忙しいんじゃない?」
「ちょっとくらい平気っしょ。真優佳は心配しすぎなんだって。あいつ、いきなり来たらなんて言うかな。またわけわかんないこと言って怒るかな」
「茶化すのはよしなって。私、知らないからね」
「いいよ。じゃあ真優佳はここで待ってて。そうだ、ドッキリ企画で動画撮ってインスタに上げようかな」
「ちょ、奈々!」
あたしがスマホを構えて走ると、真優佳も走り出した。
「とっみやまー!」
ステージ横にあるドアを開けると、演劇部の生徒たちが一斉にこっちを見た。後ろにいる真優佳はみんなの視線に耐えられなかったのか、踵を返してしまう。
驚いてみんながあたしを見る中、唯一顔を上げなかったのは、富山だった。富山は直立したベニヤ板の横で、しゃがみこんで考えごとをしているようだった。
あたしのスマホには、振り返った演劇部一同の顔がばっちり録画されていた。
「富山? お邪魔するよー」
「あとにしてくれ。今は手が離せない」
「何してるのさ?」
「君には関係ないことだ」
「冷たいなー、教えてくれたっていいじゃん」
「そんな義理はない」
「意地悪」
「黙れ」
「わからず屋」
「ああもう! さっきからなんなんだね、君は!」
富山は、勢い余って立ち上がった。
「大体いきなり来て失礼だとは思わないのか? こっちは今、大事な作業をしている真っ最中だ。そんなこともわからないのか、空気を読め空気を! この馬鹿! 単細胞! 貴様なんかもう人間じゃない! 虫けら以下だ!」
「あっははは! 相変わらず面白いこと言うなあ」
早口で捲し立てる富山に、あたしは大笑いしていた。あの言葉のセンスは何処からくるのだろう。大半の人間は富山を嫌な奴だと言うが、あたしはそうは思わなかった。
富山は深い溜め息をつき、苦悩に満ちた表情をした。
「僕にこんなことを言われて、笑っているのは君だけだ。どういう神経してるんだ。一度頭の中を覗いてみたい。いや、覗かなくてもいい。どうせ僕には理解できない領域だ。君という脚本は実に支離滅裂で、読んでてきっと頭が痛くなるだろうからね。舞台にするまでもない、お粗末な脚本だ。そんな脚本を綴る君を、僕は心底軽蔑するよ。ああ、僕はなんでこんなのと話しているのだろう……おい! ナグリはまだか!」
「殴り? え? 今から誰か殴るの?」
「違う。ナグリというのは殺す道具だ」
「殺す!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまう。びっくりしてスマホを落としそうになった。
もしかして、昨日の事件と富山は何か関係が? そういえば深川は、頭を殴られていたんだっけ。まさか、富山が深川を?
慌てふためくあたしに対して、富山はまた溜め息をついた。
「ナグリというのは、金ヅチのことだ。釘を打つための道具……というのは、言わなくてもわかるだろう。そして殺すというのは、大道具などが動かないよう固定することだ。全く、こんな言葉も知らないのかね」
「いや……演劇やってる人ならまだしも、一般の人は全然知らないと思う……!」
「こんなの常識だよ、常識」
女子生徒が持ってきた金ヅチを、富山は無言で受け取った。
「ああ、釘が抜けそうだなんて前代未聞だよ。こんな状態で芝居をやっていたのか。もしも本番中、ベニヤ板が倒れたらどうするつもりだったんだ。ったく、あれほど言ったのに……」
そう言って、富山はベニヤ板を寝かせた。ベニヤ板が直立するよう支えていた部分に、確かに釘が見えた。夢中で釘を打つ富山。もうあたしの話は耳に入らないようだった。
あたしはそっと出て、静かにドアを閉めた。
体育館には一人、真優佳がぽつんと立っていた。
「……富山君めっちゃ怒ってなかった? 大丈夫?」
「大丈夫だって! 楽しく話してただけだからさ!」
あたしたちは体育館を出た。
もうすぐ文化祭も終わってしまう。その頃、あたしたちは教室の近くにある自販機前にいた。そこでペットボトルの水を一本買い、ラベルを剥がしてゴミ箱に捨てた。今年は美化委員がうるさいので、いちいちこんなことをしなきゃならない。
水を飲みながら教室に入る。歩きすぎたので、少し休憩したかった。
教室には誰もおらず、相変わらずゴミが散らかっている。窓からは西日が差していて、教室内を照らしていた。
あたしと真優佳は窓に寄って、外を見ていた。ここからうちの焼き鳥屋が見える。お客さんは並んでいなかった。
「文化祭、終わっちゃうね」
「うん」
「結局、何もわからなかったね」
「うん」
頷いてばかりの真優佳。あたしと同じく、ぼーっとして下の屋台を見ている。
「ねえ……あたしって、探偵に向いてると思う?」
「今日の様子を見る限り、そうは思わない」
「あはは、だよねー……」
率直にズバッと言う真優佳に、あたしは苦笑する。
あたしは、持っていたペットボトルの水を少し飲んだ。そして、窓から一番近い机の上に置く。
「今日一日、あたしがやってきたことって無駄だったかな。なんか、わかんなくなっちゃった。考えても考えてもキリがなくて、ずっと同じ疑問がループしてる。駄目だー、閉店ガラガラ。奈々ちゃんの探偵稼業は終了ー……長い間お付き合い頂き、誠にありがとうございましたー……」
「途中で放り出すのはよくないって言ったのは、誰だっけ?」
「もう! ちょっとくらい弱音吐かせてよ!」
意気消沈するあたしに、構わず真優佳は畳み掛ける。真優佳はほんとブレない。こんなときでもクールだ。
「真優佳、なんかあたしに冷たくない? 全然優しくないよ!」
「今日一日、ずっと無茶ばっかする奈々に付き合ったんだよ? 十分優しいと思うけど?」
「そうじゃなくてさ! なんかこう、労りというかさ!」
「労りなら、まず振り回されっぱなしの私に頂戴」
「え! 辛! 厳しすぎる!」
こんな他愛ない会話をして、あたしたちは教室を出た。
廊下に男子が一人、女子が二人見える。ああ、あれはジュリアだ。もう二人は誰だろう? 背を向けているからわかんないな。そう思いながら、あたしは声をかけた。
「みんなこんなとこで何を……ぶっ、あっははははは! 何それ! 誰? 何があったの?」
こちらに振り返った男子は、白粉を塗りたくり、アイラインがこれでもかと誇張されていた。さらに猫のひげのよう赤い線を頬に引いており、まるでお化けのようだ。
でもあたしには、恐ろしいというよりもおかしく見えた。
「ほら、奈々にウケてんだから大丈夫だって!」
「奈々のツボは浅いから信用できねえよ!」
宮沢ちゃんがお化けに話しかける。そこで真優佳は、冷静なツッコミを入れた。
「で? どうしてこんなことになってるの?」
「これうちがやったんだけど、みんな笑ってくれるかなって。ちょっとしたドッキリ? 的な」
「まず誰なのかわかんないって。みんな反応に困ると思うよ」
「そこが面白いんじゃん」
確かにパッと見では、誰だかわからない。笑いながらそのお化けを観察し、クラスの男子の顔を思い浮かべた。
いつも宮沢ちゃんと一緒にいる男子といったら、サッカー部だ。渡辺と森久保、どちらかと聞かれればやはり――。
「あっ、もしかして渡辺? 渡辺なの?」
「そうだよ。俺以外いねえだろ」
「ここまでメイク濃いとわかんないって!」
よかった、当たってた。心の中でガッツポーズを決める。
「そうだ。加藤と木村どっちか、化粧落とし持ってねえ? ちょっと、この顔どうにかしたいんだけど」
「えー? 落としちゃうの? もったいなーい」
「恥ずかしいんだって。あんな雰囲気でさ、この顔で教室戻る度胸、俺にはねえよ」
「メイク落とし、教室にあるから教室に……」
あたしが教室の方へ体を向けると、突然こんな声が飛んできた。
「火事だー!」
その声に、あたしたちは一瞬反応ができなくなった。火事。学校で火事。しかも多分、この近く。
あたしはすっかり、パニックになってしまった。
「なになになになに? これ、マジもんの火事?」
「いや、わかんねえ……」
「だとしたらやばくない?」
気になる。知りたい。見てみたい。いても立ってもいられなくなり、あたしは駆け出そうとした。でも、それを真優佳の手が阻む。
「奈々! そっち行っちゃ危ないって!」
「ちょっと確認してくる!」
「駄目だって! こういうのは逃げないと!」
あたしの腕を、真優佳が引っ張る。あたしは真優佳を引きずってでも、火事の現場を確認したかった。
そんなことをしてると、空気を噴射するような、大きい音が聞こえた。多分、消火器の音だ。誰かが消火器で、火と戦っている。
あたしは真優佳を振り切り、白い煙が立ち込める所へ走った。そして、真優佳もあたしに続いて走る。
見ると、煙が上がっているのはあたしたちの教室のようだった。
教室の中には、相澤が消火器を持って立っている。火はもう消えていた。
「火事ってここ? 相澤が火を消してくれたの?」
「まあな」
「あっ、ダンボール……! ここが燃えたのか」
ダンボールが焦げて真っ黒になっていた。どう考えても誰かがやったとしか思えない。でもそうなると放火犯は、あたしたちが教室を出て行った直後に火をつけたことになる。この短時間の間に、一体何が起こったのだろうか。
考え込んでいると、周りを見渡していた相澤がふと声を上げた。
「……そうか。そういうことか」
何かわかったの。そう問いかけようとすると、渡辺と宮沢ちゃんが教室に入ってきた。
「マジかよ。俺たちの教室か」
「えー……怖いね」
「やべ。俺ステージの準備に行かねえと」
教室の時計を見た相澤はそう言って、突然教室を飛び出していった。
「ちょ、待ってよ相澤! ……って、行っちゃったし。もう、なんなの」
「どうしたの?」
渡辺と宮沢ちゃんの後ろにいた、ジュリアがあたしに声をかける。
「今回の放火。相澤は何か知ってるっぽいんだよね。もしかしたら、誰がこんなことしたのか見当がついてるのかも……」
あたしがそう言うと、三人は顔を強張らせた。
「へえ、そんなことがあったんだ」
「そう! すごく変な話でしょ?」
「奈々は高校のときも暴走してたんだな」
「もー、そういう話じゃないでしょ!」
むくれるあたしに、夫は微笑んだ。
暴走だなんて、人聞きの悪い。確かにあたしは無鉄砲で突っ走るところがあるが、暴走は言いすぎだろう。
「で、今までのことは結局、誰がやったんだ?」
「それがわかんないままなんだよね。だから、卒業までクラスの雰囲気悪くてさ」
「へえ。案外今度の卒業式とやらで、今までの謎が解けるかもしれないな」
「え? なんで?」
「雰囲気が悪いまま終わったなら、またみんなで集まろうだなんて誰も考えないだろ? それなのにそんなこと言い出した奴がいるなんて、何かの意図を感じないか?」
「言われてみれば……そうかも」
「もしかしたら、今回の企画は犯人を炙り出すためのものかもしれないな」
「ええっ」
よくある二時間ドラマの始まりではないか。なんだか楽しそうだ。あたしはわくわくした。
「それか、企画した奴が犯人とかな」
「えー、それは多分ないよ。柏木はそんなことするような奴じゃないもん」
「それはわからない。人が良さそうに見えて、実は……ってのはよくあるだろ」
「うーん、言われてみれば確かに。『え、この人が犯人だったの?』って展開は、二時間ドラマあるあるかも……」
「だからこの柏木って奴、よく注意したほうがいいぞ」
「でも、本当に優しい人もいるでしょ。例えばあたしとか」
「え、奈々が優しい……?」
「ちょ、なんで頷いてくれないの!」
夫が笑う。娘も笑う。そしてあたしも笑う。あたしたちは、いつもこんなやり取りをしている。今、とても幸せだ。みんなは今頃どうしているだろう。
今から、みんなと会う日が楽しみだな。
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