楠《くすのき》ジュリア

 みんな仲良く。それが一番大切だと思う。みんなが仲良しだったら、争いも起きないし平和だ。

 でも人間は同じ種族であるはずなのに、互いにいがみ合う。髪の色や肌の色が違ったり、生まれや境遇が違ったり。そんな些細なことで、人を憎む。

 私的に、そうやって人同士が憎み合うのは、お互い「怖い」と思っているからだと思う。

 相手が自分の理解を超えている――そんなときに人は憎しみを抱く。理解できる許容範囲が設定されているからこそ、争いが絶えないのだ。

 これは他の生物には見られない、人独特の性質だ。

「楠ジュリアです。今日は、よろしくお願いします」

「へえ、日本語上手いね」

「まあ……日本に来て結構経つので」

「そっかそっか。じゃあ今日はよろしくね。本番までまだ時間あるから、ゆっくりしていていいよ」

 女性スタッフはそう言って、その場を離れた。

 ここは、あるイベント会場だ。野外特設ステージの横にある、小さいテントの中に私はいた。今日は曇り空なので、外にいるのがそれほど苦ではなかった。

 十二月というのに、今日はなんだか暑く感じる。それは緊張しているからだろうか、それかマスクをしているせいだろうか。それとも今日は、本当に気温が高い日なのだろうか。今の私にはわからなかった。

 簡易に設置された長机に置いてある冊子を手に取り、それをじっくり読む。そこには今日の一連の流れが書いてあった。

「なんか……変なの」

 冊子を見ながら、そう呟いた。

 これから私は、トークショーにゲストとして出演する。私の他に、あと三人。みんな、私のように外国人と日本人の間に産まれた人だ。

 私たち四人は今日のトークショーで、「差別について」話し合う。見知らぬ四人が集まって、あのステージで議論を交わすのだ。私はそこに、妙な気持ち悪さを感じていた。

 なんだか今から、見世物にされるような気分だ。みんなが普段するような会話をするだけなのに、いちいち大袈裟な反応をされるのだから。「なるほど、外国の方はそのように感じてらっしゃるんですね」、とか、「日本人はもっと、外国人への差別について考えなければなりませんね」とか、いちいち「日本人」とか「外国人」といった言葉を使って、私たちを境界線の向こうに追いやる。

 この人たちは、自分たちとは違うんだ――そんな心理が無意識に行う線引きは、果たして差別に当たらないだろうか。そもそも、このトークショー自体が差別の象徴ではないのか。

 私たちは、あの人たちにとって、異質で怖い存在なのだろうか。

「馬鹿みたい」

 あの先生だったら、このトークショーを見てなんて言うだろう。



 高校三年生のとき、私はその先生と出会った。その人は私の担任の先生で、みんなから好かれる高齢の先生だった。

 代田進一しろたしんいち。あだ名はしろたん。いつもみんなを和ませて笑わせてくれる、クラスのムードメーカーみたいな存在だった。小太りで少しおっちょこちょいなところも、愛嬌でかわいい感じがした。笑うと目元に深いシワが刻まれる、もうすぐ定年を迎えるその先生が、私は好きだった。

 文化祭一日目。私はどうしても先生と話をしたくて、一人職員室に向かった。

「失礼します。代田先生いらっしゃいますか」

 少しすると、「おや楠さん」と、湯飲みを持って笑みを浮かべた先生が、ひょっこり姿を現した。

「ちょっとお話ししたいことがあって……今、よろしいですか」

「ああ、大丈夫だよ。でもこのあとホームルームがあるから、手短にね。あっ、もしかして大切な話? そしたら、ホームルームのあとに聞くよ?」

「いえ、今お願いします。むしろ、今だから話したいんです」

「何やらただ事じゃなさそうだね」

 おっとりしていた先生は、私の様子を見て何かを感じ取ったようだ。少し警戒した表情をした。そして近くの机に湯飲みを置いて、職員室を出る。

「あ、場所移動した方がいいかな」

「いえ、ここで大丈夫です」

「そう? じゃあ、話を聞こうかな」

 私と先生は職員室の前で、向かい合った。

「今、教室では大変なことになっています。深川君があんなことになって、樫山さんもあんな目に……」

「ん? 深川君のことは知ってるけど、樫山さんのことは初耳だな。樫山さんに何があったの?」

「樫山さんの荷物が、ズタズタにされてたんです」

「それは……確かに大変なことだ」

 先生は悲しそうな顔をした。

「それで、みんな気が立っていて……今、古河君と長瀬さんが揉めてるんです」

「あらら、それはいけないね。よくない。こういうときこそ、手を取り合わなくちゃいけないのに。二人はどうして揉めてるの?」

「犯人は誰だ……って」

「そうか……」

 難しい顔をして、先生は口元に手を当てた。

 私は教室での口論を見ていたたまれなくなり、先生に助けを求めに来ていた。先生なら、なんとかしてあの場を収めてくれそうだと思ったからだ。

「先生、なんとかしてください。このままじゃ明日、どうなるか……」

「うーん。なんとかしたいのは山々だけどね、僕は何もしないよ。するのはみんな自身だ」

「え? どういうことですか?」

 きょとんとした私に、先生は諭すようにこう言った。

「これは、クラスの中で起きた問題だ。僕が出る幕じゃないよ。それに僕は、みんななら自分たちの手でなんとかできるって信じているんだ。だから、今回のことはみんなの判断に任せるよ」

「えっ……で、でも、教室ではほんと、大変なことになってて……もう手に負えないというか……このままじゃ、クラスが空中分解しそうなんです。先生、どうにかできませんか」

「はは、楠さんは僕を買い被りすぎだよ。僕は魔法使いじゃないんだ。なんでもできるわけじゃない」

 困ったように笑う先生。私はなんだか混乱した。どうして先生はそんなことを言うのだろう。こういうときの先生じゃないのか。クラスを導くのが、先生の仕事ではないのか。

 こんなの、職務怠慢だ。私が俯いていると、先生は私の肩を叩いた。

「今、クラスのみんなは誰もが思っているだろうね。犯人は誰だ、あいつか、それともそいつか……実に悪い雰囲気だ。みんながみんな、互いを犯人だと思い込んで罵り合っているかもしれないね。僕はね、クラスがそんな状況であるからこそ、みんなのことを信じたいんだ。だって、僕はみんなの担任だ。担任が自分のクラスの生徒を信じなかったら、もう先生として終わりだよ。僕は今回起きたこと、みんななら乗り越えられるって信じているよ。だから、僕は何も手を出さない」

「先生……」

 先生は私の肩から手を離した。

「僕はクラスのみんな、一人ひとりが心の中で何を考えているか、それはわからない。でも僕は、みんなが優しい人たちだって知っている。楠さんだって、今こうして僕の元へ来てくれたでしょう? 楠さんがクラス思いで、心優しい証拠だよ。僕はそんな人たちを突き放すような、疑うことはしたくないんだ」

「そんなの……そんなの、通用するんですか。クラスのみんなは、多分……それじゃ納得しないと思います」

「だろうね。でも、どんな危機的状況にあっても、『信じる』というのを忘れちゃいけないよ。今回起きたことだって、僕は何か理由があると思うんだ」

「その理由ってなんですか」

「それはわからない。それは僕じゃなくて、みんなが考えることじゃないかな」

 私は内心、落胆していた。先生なら、あの空気をなんとかしてくれると思ったのに。期待外れだった。上手く論点をすり替えられたような気さえする。

 先生は私に向かって、にっこり笑って見せた。

「そろそろホームルームの時間だ。教室に戻ろうか」

 場違いなほど、それは優しい笑みだった。



「文化祭の予算が?」

 教室に戻った私と先生を待っていたのは、さらなる事件だった。

 文化祭副実行委員長の武田君によれば、どうやら文化祭の余った予算が一万円ほど足りないらしい。

 教室は、さらに居心地の悪いものになっていた。

「そうか……わかった。それについては、あとで話そうか」

 先生は神妙な顔付きをしながら、教壇に立ってみんなを見渡した。

「今日一日、大変なことが続いたね。色々なことが立て続けに起こって、みんな混乱していると思う。でも、僕から一つ言いたいのは……みんなには、このクラスの人たちを疑って欲しくないんだ」

 俯いている人、目を丸くする人、みんなの反応は様々だった。

「今回のことをなかったことにはできないし、『まあいっか』で済ませられるような問題じゃないことはわかってる。それは、みんなも十分わかっているよね。起きたことから目を逸らしてはいけない。それはそうなんだけど、僕はクラスが疑心暗鬼になるんじゃなくて、クラスを信じることが大切だと思う。こんな状況だからこそ、ね」

 先生はさっき職員室で私に話したことを、みんなに話した。

 古河君は、納得がいっていないような顔をして先生に質問した。

「しろたんは、こんな状態でクラスを信じろって言うのかよ」

「みんなにとって、それは難しいことかもしれないね。特に古河君は深川君と仲がいいから、なおさら納得できないだろうね。でも、疑うのも疑われるのも、いい気持ちはしないでしょう?」

「犯人は絶対この中にいるんだ。クラスを信じるってのは無理があるだろ」

「疑いは、人を縛る鎖のようなものだ。がんじがらめにして、その人の思考を固定させてしまう。それじゃあ、物事の本質が見えてこなくなるんだ。もしも本当に古河君が深川君に何が起きたのかを知りたいのなら、一旦疑うのをやめて立ち止まる必要があるよ」

「は……? わけわかんねえ……信じるってなんだよ。何を信じればいいんだよ」

「『信じる』というのは、とても強い力なんだよ。無条件の信頼は、どんな武器よりも強いんだ。だから……」

「意味わかんねえよ。見損なったよ、しろたん。こんな状況で、よくそんなことが言えたよな」

 きっと、誰もがみんなそう思っている。この先生は、一体何を言っているのだろう。みんなの不満が、顔を見なくても伝わった。

 先生は最後に一言、こう言って教室を出て行った。

「明日の文化祭、どうかみんなと協力することを諦めないで欲しい。あと、教室の掃除もして欲しいな。これじゃあ明日、片付けのときが大変になるからね。それと……樫山さん。ちょっと来てもらっていいかな」

 樫山さんは無言で先生のあとをついていった。



 文化祭二日目。私は客席で、体育館のステージに釘付けになっていた。

 我が校誇りの、演劇部の発表だ。衣装、そして大道具や小道具は手作りらしい。手元にある文化祭のパンフレットに書かれてある。袖が広がる青いロングドレスや、白と金の両開きのドアなど、学生が作ったものとは思えないほど豪華で、その完成度の高さに観客は私を含め感嘆の息を漏らしていた。

 王宮で起きた殺人事件。執事である主人公は、様々な証言を集めながら犯人へ辿り着く。話はミステリー仕立てになっており、映画のように観客を引き込むわくわくした展開になっていた。予想外のラストに観客は度肝を抜かれ、拍手喝采はカーテンコールが終わったあとも続いていた。賞を獲ったのも頷ける出来だ。

 私は舞台が終わったあとも余韻がしばらく抜けず、客席でぼうっとしていた。

「事件、か」

 私はまた昨日のことを思い出していた。クラスにあの舞台のような敏腕な探偵がいれば、昨日の時点で全ての謎は解決していただろう。

 いけない。仮定の話はやめよう。私が考えたって、どうにもならない。

 そう思って席から立ち上がる。客席にもう人はなく、どうやら私はずっと一人でいたようだ。

 時間を見るために、ズボンからスマホを取り出した。見ると、まだお昼前だ。そして私は、クラスLINEに新しいメッセージが来ているのに気付いた。

『卓人の意識が戻ったらしいです。少し記憶の混乱があるらしいですが、大丈夫みたいとのことです』

 送信者は古河君だ。そうか、深川君、大丈夫だったんだ。

「よかった……」

 安心して溜め息をつく。胸を撫で下ろし、私はスマホをズボンのポケットにしまった。

 体育館を出ようと出口に向かおうとすると、ステージの横にある扉から何やら声が聞こえてきた。

「……は? お前、とんでもないことをやらかしてくれたな」

 男子の声だ。あの声は、同じクラスの富山とみやま君だろうか。

「ああもう! なんであのとき殺しておかなかったんだよ! もういい、今からやる。殴りだ、殴り!」

 富山君の怒声に、私はすっかり震え上がってしまっていた。

 心臓の音が、さっきよりやけにうるさく聞こえてくるのがわかる。殺す。殴り。その言葉が、頭の中で反芻する。富山君は、どうしてあんなことを言っていたのだろう。

 私の中で、一つの仮説が立った。嫌な妄想で、そうであって欲しくない推理だ。

 深川君があんなことになったのは、富山君のせいではないか?

 富山君は、誰かに深川君を殺すよう命じた。でも深川君は死ななかった。計画は失敗。富山君はそれに怒り、今度は自分が深川君を殺すことを決意した。昨日と同じで、頭を殴る方法で。

 そこまで考えたあと、私は背筋が凍るような思いをした。舞台の話ではなく、現実の世界で殺人事件が起きる。作り話なら楽しめる事件も、現実となると途端に身の毛がよだつ。

 私はこれからどうするべきだろう。通報するべきか、それとも富山君に直接話を聞くか。いや、どっちを選んでも富山君の怒りを買いそうだ。最悪、私が殺されてしまうかもしれない。

 どうするべきか悩んでいると、昨日の先生の言葉が頭をよぎった。

 ――どんな危機的状況にあっても、信じるというのを忘れちゃいけないよ。

 信じることを、忘れてはいけない。

 私は一度深呼吸して、考えるのをやめてみた。徐々に冷静さを取り戻し、さっきのことについてもう一度考えてみる。今度は、「富山君がそんなことするはずがない」というのを念頭に置いて。

 富山君は、まるで今から誰かを殺すというようなことを言っていた。その誰かがもしも深川君だったら、それは土台無理な話だ。だって、深川君は今病院にいるのだから。

 今から深川君を殺すことは、できないのだ。

 それともう一つ。さっきの会話は扉越しから聞こえてきた。もしかしたら、私が何かと聞き間違えた可能性もある。私の知らない日本語が、勝手に物騒な言葉に変換されていただけかもしれない。

 そう考えると、なんだか胸が軽くなったような気がした。そうだ、きっとそうに違いない。私の思い込みで殺人犯にしてしまうのは、あまりにも富山君に失礼だ。

 体育館の出口に向かって歩き出すと、自分と同じクラスTシャツを着ている女子二人が見えた。

「あれ? 今もう何もやってない感じか」

「演劇部の発表、もう終わっちゃったみたいだね。次は十二時半に、吹奏楽部の発表か」

 あれは奈々ちゃんと真優佳まゆかちゃんだ。

 奈々ちゃんは私に気付いて手を振った。

「あ、ジュリアじゃん。やっほー、演劇部の公演観てきた感じ?」

「うん。とっても面白かったよ」

「あたしも観たかったなあ。なんかミステリーもの? なんでしょ? 今後の推理に役立ちそうだと思ったのに」

「奈々。もういい加減犯人探しはやめなって。そうやってでしゃばるの、奈々の悪い癖だよ」

「えー、だってさ! 深川君と樫山ちゃんがあんなことになって……てか、樫山ちゃん今日学校来てないんだよ? 犯人、絶対許せないじゃん!」

「いや、気持ちはわかるけどさあ……」

 真優佳ちゃんは眉間にシワを寄せ、軽く溜め息をついた。真優佳ちゃんはいつも、暴走する奈々ちゃんを止めるストッパーのような役割をしている。多分、今日もたくさん奈々ちゃんに振り回されているのだろう。

「ま、いいや。演劇部ってまだ片付けしてるのかな?」

「まだしてると思うよ」

 私がそう答えると、奈々ちゃんは意地悪な笑みを浮かべた。

「じゃ、富山でも冷やかしに行くか」

「今公演終わったばっかでしょ? 忙しいんじゃない?」

「ちょっとくらい平気っしょ。真優佳は心配しすぎなんだって。あいつ、いきなり来たらなんて言うかな。またわけわかんないこと言って怒るかな」

「茶化すのはよしなって。私、知らないからね」

「いいよ。じゃあ真優佳はここで待ってて。そうだ、ドッキリ企画で動画撮ってインスタに上げようかな」

「ちょ、奈々!」

 奈々ちゃんが小走りで行ってしまうと、それに続いて真優佳ちゃんも走り出した。

 二人の掛け合いは、まるでコントみたいだなと思いながら体育館をあとにした。



 そろそろ文化祭も終わってしまう。私は各店をじっくり見ながら、そんなことを考えていた。

 高校生活最後の文化祭が、こんな形になってしまうなんて。良くも悪くも、みんなの記憶に焼き付くことだろう。

 私は一人で行動していた。友達がいない、というわけではない。ただ一人を好んだのだ。友達とわいわいやるより、私はその光景を見ている方が好きだった。自分でもちょっと変わっているなと思うが、私は自分の世界を大事にしたかった。

 一人だったので行動の制限はなく、ほぼ全ての店を回ることができた。時間を持て余してしまったので、私は片付けをするため教室に向かう。早めに片付けをしておいた方が、あとが楽になるからだ。

 教室に向かう途中の廊下で、同じクラスTシャツを着ている人を見かけた。向かい合わせで立っており、二人の横顔が見える。あの頭の装飾は、りんちゃんだろうか。顔を覆って肩を震わせているようだ。

 私はもう一人の顔を見て、思わずぎょっとしてしまった。

「どうすんだよ……」

「だって、こうなるとは思わなかったんだもん……」

「俺、言っただろ。『ほどほど』にしとけって。やりすぎはよくないって。案の定これだ、マジでどうするんだよ」

「それは……今から考えるよ」

「今から? もう文化祭終わるぞ」

「もう! そんなに怒らなくたっていいじゃん!」

 燐ちゃんはその人に背を向けてしまった。

 恐らくあの声は渡辺君だろう。顔が全然違うので、最初わからなかった。渡辺君の顔は真っ白に塗りたくられていて、まるで歌舞伎役者のようなメイクをしていたのだ。

 気になって思わず、二人に声をかけた。

「二人ともどうしたの? その顔は……?」

「あっ、聞いてよジュリア。俊平ったら人にメイク頼んでおいて、めっちゃ文句言うんだよ?」

「え?」

 笑顔の燐ちゃんが私に振り返る。

「あのさ、今めちゃくちゃクラスの空気悪いじゃん? ちょっとみんなの雰囲気和ませようと思って、俊平の顔にメイクしたんだけど……ふふ、だってさ! これくらいインパクトなきゃ、みんな笑ってくれなくない? この顔……ふふっ、あっはははは! マジでそれはいけるって!」

 渡辺君の方を向いた燐ちゃんは、タガが外れたかのように大笑いし始めた。

 なるほど。ああやって顔を覆っていたり、肩を震わせていたのは、笑いをこらえていたからか。てっきり泣いているのかと思った。

 爆笑する燐ちゃんを一瞥して、渡辺君は私にこう言った。

「にしてもさ。これは酷くね? 俺の人権何処? って感じ。笑うどころか、これじゃみんな引く気がするんだけど。てかこれ、落ちねえの。宮沢、化粧落とすやつ今持ってないらしくてさ……」

「それはどうにかするって! あ、そうだ。亜里沙辺りに借りようかな。亜里沙なら絶対持ってるでしょ。今日すんごいメイクするらしいし」

「何それ?」

亜里沙ありさたちのバンド、後夜祭でハロウィンライブするらしいよ。それに合わせて仮装するんだって」

 そうだったのか。これは後夜祭が楽しみだ。

 渡辺君が心配そうな顔をした。

「じゃあ松宮探さねえと。俺、この顔じゃ恥ずかしくて帰れねえよ」

「自信持ちなって! 似合ってるから!」

「なあ楠は、この顔どう思う?」

「インパクト強いと思うよ」

「ほら、面白いって言わないじゃん。やっぱ面白いより、インパクトの方が勝ってるんだって」

 私の返答に対し、渡辺君は燐ちゃんに不満の色を示した。あそこは面白いと言った方が、雰囲気的によかっただろうか。

 するとそこへ、奈々ちゃんと真優佳ちゃんがやってきた。

「みんなこんなとこで何を……ぶっ、あっははははは! 何それ! 誰? 何があったの?」

「ほら、奈々にウケてんだから大丈夫だって!」

「奈々のツボは浅いから信用できねえよ!」

 渡辺君の顔を見て、思いっきり笑う奈々ちゃんに対し、渡辺君は辛辣な意見を述べた。

 真優佳ちゃんは落ち着き払った声で、燐ちゃんにわけを尋ねた。

「で? どうしてこんなことになってるの?」

「これうちがやったんだけど、みんな笑ってくれるかなって。ちょっとしたドッキリ? 的な」

「まず誰なのかわかんないって。みんな反応に困ると思うよ」

「そこが面白いんじゃん」

 得意気になる燐ちゃんに、真優佳ちゃんは苦笑いを浮かべた。

 笑いながらまじまじと渡辺君を見る奈々ちゃんは、腑に落ちた顔をした。

「あっ、もしかして渡辺? 渡辺なの?」

「そうだよ。俺以外いねえだろ」

「ここまでメイク濃いとわかんないって!」

「そうだ。加藤と木村どっちか、化粧落とし持ってねえ? ちょっと、この顔どうにかしたいんだけど」

「えー? 落としちゃうの? もったいなーい」

「恥ずかしいんだって。あんな雰囲気でさ、この顔で教室戻る度胸、俺にはねえよ」

「メイク落とし、教室にあるから教室に……」

 こんな風に談笑を楽しんでいると、教室の方から声が上がった。

「火事だー!」

 その男子の声に、私たちは一瞬表情が固まった。火事? どうして? 気になる。いや、それよりもまず逃げないと。

 奈々ちゃんは落ち着きを失って、酷く動揺していた。

「なになになになに? これ、マジもんの火事?」

「いや、わかんねえ……」

「だとしたらやばくない?」

「奈々! そっち行っちゃ危ないって!」

「ちょっと確認してくる!」

「駄目だって! こういうのは逃げないと!」

 教室の方に行こうとする奈々ちゃんの腕を、真優佳ちゃんが掴んで離さない。

 そうこうしている間に、シューッと空気が勢いよく漏れ出るような音が聞こえた。消火器の音だろうか。誰かが消火器で、火を消してくれたのだろうか。

 奈々ちゃんは真優佳ちゃんを振り切って、白い煙が上がる所へ駆けて行く。

 私と燐ちゃんと渡辺君は、その場に取り残された。

「に、逃げた方がいいかな?」

「でも、さっきの音って消火器だよね? 火災警報とか非常ベルとか鳴ってないなら、大丈夫じゃない?」

「ちょっと見に行ってみるか」

 私たちは、教室の方へ向かった。白い煙はまだ晴れていない。教室から、奈々ちゃんの声が聞こえてきた。どうやら火の手が上がったのは、私たちの教室だったようだ。

「マジかよ。俺たちの教室か」

「えー……怖いね」

 渡辺君と燐ちゃんはそんなことを言いながら、教室に入る。教室には奈々ちゃんと真優佳ちゃん、そして相澤君がいた。

 よく見ると、ダンボールが焦げている。火はあそこから上がったのか。

 自然発火とは考えにくい。誰かが故意にやったとしか思えない状況だった。

「やべ。俺ステージの準備に行かねえと」

 相澤君はそう言って、駆け足で教室を出ていった。

「ちょ、待ってよ相澤! ……って、行っちゃったし。もう、なんなの」

「どうしたの?」

 相澤君を引き止めようとした奈々ちゃんに、素朴な疑問を投げかけた。

「今回の放火。相澤は何か知ってるっぽいんだよね。もしかしたら、誰がこんなことしたのか見当がついてるのかも……」

 その言葉は、私たちをざわつかせた。



 あれから六年。何も解決しないまま、今日に至る。

 長い学校生活で、一番印象に残っている出来事は何かと問われたら、私はあの文化祭と答えるだろう。今日、もしかしたらそんな質問をされるかもしれない。

 クラスのみんなは焦げたダンボールを見て、唖然としていた。昨日の今日だ。みんな、昨日のことで憔悴しきっていたのだろうか。放火について言及する人は誰もいなかった。

 これは恐らく、「被害者」が誰もいなかったからだと思う。深川君や莉歩りほちゃんも、何も言わなかった。

 様々な遺恨を残したまま、文化祭は幕を閉じた。クラスの中で蔓延したあの冷たい空気は、卒業するまで循環し続けた。

 仲良くいるためには、信頼関係が不可欠だ。つまり、互いを信じるということ。あのクラスでは、それができなかった。憎悪、鬱憤、その他複雑な感情が混ざり合って、他者を遠ざけた。その根底にあったのは、恐怖だ。得体の知れない事件ばかり続き、臆病になってしまっていたのだ。当事者や、その周辺の人は特に。

 差別をされている人というのは、要は信用されていないのだ。信用されないのは、その人が悪いというわけではない。差別する人が持つ、その人への恐怖心がそうさせる。この世のありとあらゆる人間関係の問題は、全て恐れおののく気持ちが引き起こしているのだ。

 そう実感したのは、卒業したあとだった。あのクラスの中で私は、異質な目で見られることはなかった。でも一歩高校から出た瞬間、偏見の目に晒されたのだ。

 私が何人だって、いいじゃないか。顔付きが違うからって、なんなんだ――その思いにずっと悩まされてきた。

 だから私を対等に扱ってくれたあのクラスは、本当に居心地のいいものだったのだ。私を信頼してくれて、私を受け入れてくれた。それがどんなに嬉しいことか、あのときはまだわかっていなかった。

「……そうか」

 先生が言っていたことが、なんとなくわかった気がする。あのときは理解しきれなかったけど、今なら先生が言っていたことに頷ける。

 なんだか先生に会いたくなってきた。今、先生はどうしているだろうか。そして、みんなはどうしているだろうか。

 機会があれば、また会いたいな。あの三年C組のみんなに。

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