楠《くすのき》ジュリア
みんな仲良く。それが一番大切だと思う。みんなが仲良しだったら、争いも起きないし平和だ。
でも人間は同じ種族であるはずなのに、互いにいがみ合う。髪の色や肌の色が違ったり、生まれや境遇が違ったり。そんな些細なことで、人を憎む。
私的に、そうやって人同士が憎み合うのは、お互い「怖い」と思っているからだと思う。
相手が自分の理解を超えている――そんなときに人は憎しみを抱く。理解できる許容範囲が設定されているからこそ、争いが絶えないのだ。
これは他の生物には見られない、人独特の性質だ。
「楠ジュリアです。今日は、よろしくお願いします」
「へえ、日本語上手いね」
「まあ……日本に来て結構経つので」
「そっかそっか。じゃあ今日はよろしくね。本番までまだ時間あるから、ゆっくりしていていいよ」
女性スタッフはそう言って、その場を離れた。
ここは、あるイベント会場だ。野外特設ステージの横にある、小さいテントの中に私はいた。今日は曇り空なので、外にいるのがそれほど苦ではなかった。
十二月というのに、今日はなんだか暑く感じる。それは緊張しているからだろうか、それかマスクをしているせいだろうか。それとも今日は、本当に気温が高い日なのだろうか。今の私にはわからなかった。
簡易に設置された長机に置いてある冊子を手に取り、それをじっくり読む。そこには今日の一連の流れが書いてあった。
「なんか……変なの」
冊子を見ながら、そう呟いた。
これから私は、トークショーにゲストとして出演する。私の他に、あと三人。みんな、私のように外国人と日本人の間に産まれた人だ。
私たち四人は今日のトークショーで、「差別について」話し合う。見知らぬ四人が集まって、あのステージで議論を交わすのだ。私はそこに、妙な気持ち悪さを感じていた。
なんだか今から、見世物にされるような気分だ。みんなが普段するような会話をするだけなのに、いちいち大袈裟な反応をされるのだから。「なるほど、外国の方はそのように感じてらっしゃるんですね」、とか、「日本人はもっと、外国人への差別について考えなければなりませんね」とか、いちいち「日本人」とか「外国人」といった言葉を使って、私たちを境界線の向こうに追いやる。
この人たちは、自分たちとは違うんだ――そんな心理が無意識に行う線引きは、果たして差別に当たらないだろうか。そもそも、このトークショー自体が差別の象徴ではないのか。
私たちは、あの人たちにとって、異質で怖い存在なのだろうか。
「馬鹿みたい」
あの先生だったら、このトークショーを見てなんて言うだろう。
高校三年生のとき、私はその先生と出会った。その人は私の担任の先生で、みんなから好かれる高齢の先生だった。
文化祭一日目。私はどうしても先生と話をしたくて、一人職員室に向かった。
「失礼します。代田先生いらっしゃいますか」
少しすると、「おや楠さん」と、湯飲みを持って笑みを浮かべた先生が、ひょっこり姿を現した。
「ちょっとお話ししたいことがあって……今、よろしいですか」
「ああ、大丈夫だよ。でもこのあとホームルームがあるから、手短にね。あっ、もしかして大切な話? そしたら、ホームルームのあとに聞くよ?」
「いえ、今お願いします。むしろ、今だから話したいんです」
「何やらただ事じゃなさそうだね」
おっとりしていた先生は、私の様子を見て何かを感じ取ったようだ。少し警戒した表情をした。そして近くの机に湯飲みを置いて、職員室を出る。
「あ、場所移動した方がいいかな」
「いえ、ここで大丈夫です」
「そう? じゃあ、話を聞こうかな」
私と先生は職員室の前で、向かい合った。
「今、教室では大変なことになっています。深川君があんなことになって、樫山さんもあんな目に……」
「ん? 深川君のことは知ってるけど、樫山さんのことは初耳だな。樫山さんに何があったの?」
「樫山さんの荷物が、ズタズタにされてたんです」
「それは……確かに大変なことだ」
先生は悲しそうな顔をした。
「それで、みんな気が立っていて……今、古河君と長瀬さんが揉めてるんです」
「あらら、それはいけないね。よくない。こういうときこそ、手を取り合わなくちゃいけないのに。二人はどうして揉めてるの?」
「犯人は誰だ……って」
「そうか……」
難しい顔をして、先生は口元に手を当てた。
私は教室での口論を見ていたたまれなくなり、先生に助けを求めに来ていた。先生なら、なんとかしてあの場を収めてくれそうだと思ったからだ。
「先生、なんとかしてください。このままじゃ明日、どうなるか……」
「うーん。なんとかしたいのは山々だけどね、僕は何もしないよ。するのはみんな自身だ」
「え? どういうことですか?」
きょとんとした私に、先生は諭すようにこう言った。
「これは、クラスの中で起きた問題だ。僕が出る幕じゃないよ。それに僕は、みんななら自分たちの手でなんとかできるって信じているんだ。だから、今回のことはみんなの判断に任せるよ」
「えっ……で、でも、教室ではほんと、大変なことになってて……もう手に負えないというか……このままじゃ、クラスが空中分解しそうなんです。先生、どうにかできませんか」
「はは、楠さんは僕を買い被りすぎだよ。僕は魔法使いじゃないんだ。なんでもできるわけじゃない」
困ったように笑う先生。私はなんだか混乱した。どうして先生はそんなことを言うのだろう。こういうときの先生じゃないのか。クラスを導くのが、先生の仕事ではないのか。
こんなの、職務怠慢だ。私が俯いていると、先生は私の肩を叩いた。
「今、クラスのみんなは誰もが思っているだろうね。犯人は誰だ、あいつか、それともそいつか……実に悪い雰囲気だ。みんながみんな、互いを犯人だと思い込んで罵り合っているかもしれないね。僕はね、クラスがそんな状況であるからこそ、みんなのことを信じたいんだ。だって、僕はみんなの担任だ。担任が自分のクラスの生徒を信じなかったら、もう先生として終わりだよ。僕は今回起きたこと、みんななら乗り越えられるって信じているよ。だから、僕は何も手を出さない」
「先生……」
先生は私の肩から手を離した。
「僕はクラスのみんな、一人ひとりが心の中で何を考えているか、それはわからない。でも僕は、みんなが優しい人たちだって知っている。楠さんだって、今こうして僕の元へ来てくれたでしょう? 楠さんがクラス思いで、心優しい証拠だよ。僕はそんな人たちを突き放すような、疑うことはしたくないんだ」
「そんなの……そんなの、通用するんですか。クラスのみんなは、多分……それじゃ納得しないと思います」
「だろうね。でも、どんな危機的状況にあっても、『信じる』というのを忘れちゃいけないよ。今回起きたことだって、僕は何か理由があると思うんだ」
「その理由ってなんですか」
「それはわからない。それは僕じゃなくて、みんなが考えることじゃないかな」
私は内心、落胆していた。先生なら、あの空気をなんとかしてくれると思ったのに。期待外れだった。上手く論点をすり替えられたような気さえする。
先生は私に向かって、にっこり笑って見せた。
「そろそろホームルームの時間だ。教室に戻ろうか」
場違いなほど、それは優しい笑みだった。
「文化祭の予算が?」
教室に戻った私と先生を待っていたのは、さらなる事件だった。
文化祭副実行委員長の武田君によれば、どうやら文化祭の余った予算が一万円ほど足りないらしい。
教室は、さらに居心地の悪いものになっていた。
「そうか……わかった。それについては、あとで話そうか」
先生は神妙な顔付きをしながら、教壇に立ってみんなを見渡した。
「今日一日、大変なことが続いたね。色々なことが立て続けに起こって、みんな混乱していると思う。でも、僕から一つ言いたいのは……みんなには、このクラスの人たちを疑って欲しくないんだ」
俯いている人、目を丸くする人、みんなの反応は様々だった。
「今回のことをなかったことにはできないし、『まあいっか』で済ませられるような問題じゃないことはわかってる。それは、みんなも十分わかっているよね。起きたことから目を逸らしてはいけない。それはそうなんだけど、僕はクラスが疑心暗鬼になるんじゃなくて、クラスを信じることが大切だと思う。こんな状況だからこそ、ね」
先生はさっき職員室で私に話したことを、みんなに話した。
古河君は、納得がいっていないような顔をして先生に質問した。
「しろたんは、こんな状態でクラスを信じろって言うのかよ」
「みんなにとって、それは難しいことかもしれないね。特に古河君は深川君と仲がいいから、なおさら納得できないだろうね。でも、疑うのも疑われるのも、いい気持ちはしないでしょう?」
「犯人は絶対この中にいるんだ。クラスを信じるってのは無理があるだろ」
「疑いは、人を縛る鎖のようなものだ。がんじがらめにして、その人の思考を固定させてしまう。それじゃあ、物事の本質が見えてこなくなるんだ。もしも本当に古河君が深川君に何が起きたのかを知りたいのなら、一旦疑うのをやめて立ち止まる必要があるよ」
「は……? わけわかんねえ……信じるってなんだよ。何を信じればいいんだよ」
「『信じる』というのは、とても強い力なんだよ。無条件の信頼は、どんな武器よりも強いんだ。だから……」
「意味わかんねえよ。見損なったよ、しろたん。こんな状況で、よくそんなことが言えたよな」
きっと、誰もがみんなそう思っている。この先生は、一体何を言っているのだろう。みんなの不満が、顔を見なくても伝わった。
先生は最後に一言、こう言って教室を出て行った。
「明日の文化祭、どうかみんなと協力することを諦めないで欲しい。あと、教室の掃除もして欲しいな。これじゃあ明日、片付けのときが大変になるからね。それと……樫山さん。ちょっと来てもらっていいかな」
樫山さんは無言で先生のあとをついていった。
文化祭二日目。私は客席で、体育館のステージに釘付けになっていた。
我が校誇りの、演劇部の発表だ。衣装、そして大道具や小道具は手作りらしい。手元にある文化祭のパンフレットに書かれてある。袖が広がる青いロングドレスや、白と金の両開きのドアなど、学生が作ったものとは思えないほど豪華で、その完成度の高さに観客は私を含め感嘆の息を漏らしていた。
王宮で起きた殺人事件。執事である主人公は、様々な証言を集めながら犯人へ辿り着く。話はミステリー仕立てになっており、映画のように観客を引き込むわくわくした展開になっていた。予想外のラストに観客は度肝を抜かれ、拍手喝采はカーテンコールが終わったあとも続いていた。賞を獲ったのも頷ける出来だ。
私は舞台が終わったあとも余韻がしばらく抜けず、客席でぼうっとしていた。
「事件、か」
私はまた昨日のことを思い出していた。クラスにあの舞台のような敏腕な探偵がいれば、昨日の時点で全ての謎は解決していただろう。
いけない。仮定の話はやめよう。私が考えたって、どうにもならない。
そう思って席から立ち上がる。客席にもう人はなく、どうやら私はずっと一人でいたようだ。
時間を見るために、ズボンからスマホを取り出した。見ると、まだお昼前だ。そして私は、クラスLINEに新しいメッセージが来ているのに気付いた。
『卓人の意識が戻ったらしいです。少し記憶の混乱があるらしいですが、大丈夫みたいとのことです』
送信者は古河君だ。そうか、深川君、大丈夫だったんだ。
「よかった……」
安心して溜め息をつく。胸を撫で下ろし、私はスマホをズボンのポケットにしまった。
体育館を出ようと出口に向かおうとすると、ステージの横にある扉から何やら声が聞こえてきた。
「……は? お前、とんでもないことをやらかしてくれたな」
男子の声だ。あの声は、同じクラスの
「ああもう! なんであのとき殺しておかなかったんだよ! もういい、今からやる。殴りだ、殴り!」
富山君の怒声に、私はすっかり震え上がってしまっていた。
心臓の音が、さっきよりやけにうるさく聞こえてくるのがわかる。殺す。殴り。その言葉が、頭の中で反芻する。富山君は、どうしてあんなことを言っていたのだろう。
私の中で、一つの仮説が立った。嫌な妄想で、そうであって欲しくない推理だ。
深川君があんなことになったのは、富山君のせいではないか?
富山君は、誰かに深川君を殺すよう命じた。でも深川君は死ななかった。計画は失敗。富山君はそれに怒り、今度は自分が深川君を殺すことを決意した。昨日と同じで、頭を殴る方法で。
そこまで考えたあと、私は背筋が凍るような思いをした。舞台の話ではなく、現実の世界で殺人事件が起きる。作り話なら楽しめる事件も、現実となると途端に身の毛がよだつ。
私はこれからどうするべきだろう。通報するべきか、それとも富山君に直接話を聞くか。いや、どっちを選んでも富山君の怒りを買いそうだ。最悪、私が殺されてしまうかもしれない。
どうするべきか悩んでいると、昨日の先生の言葉が頭をよぎった。
――どんな危機的状況にあっても、信じるというのを忘れちゃいけないよ。
信じることを、忘れてはいけない。
私は一度深呼吸して、考えるのをやめてみた。徐々に冷静さを取り戻し、さっきのことについてもう一度考えてみる。今度は、「富山君がそんなことするはずがない」というのを念頭に置いて。
富山君は、まるで今から誰かを殺すというようなことを言っていた。その誰かがもしも深川君だったら、それは土台無理な話だ。だって、深川君は今病院にいるのだから。
今から深川君を殺すことは、できないのだ。
それともう一つ。さっきの会話は扉越しから聞こえてきた。もしかしたら、私が何かと聞き間違えた可能性もある。私の知らない日本語が、勝手に物騒な言葉に変換されていただけかもしれない。
そう考えると、なんだか胸が軽くなったような気がした。そうだ、きっとそうに違いない。私の思い込みで殺人犯にしてしまうのは、あまりにも富山君に失礼だ。
体育館の出口に向かって歩き出すと、自分と同じクラスTシャツを着ている女子二人が見えた。
「あれ? 今もう何もやってない感じか」
「演劇部の発表、もう終わっちゃったみたいだね。次は十二時半に、吹奏楽部の発表か」
あれは奈々ちゃんと
奈々ちゃんは私に気付いて手を振った。
「あ、ジュリアじゃん。やっほー、演劇部の公演観てきた感じ?」
「うん。とっても面白かったよ」
「あたしも観たかったなあ。なんかミステリーもの? なんでしょ? 今後の推理に役立ちそうだと思ったのに」
「奈々。もういい加減犯人探しはやめなって。そうやってでしゃばるの、奈々の悪い癖だよ」
「えー、だってさ! 深川君と樫山ちゃんがあんなことになって……てか、樫山ちゃん今日学校来てないんだよ? 犯人、絶対許せないじゃん!」
「いや、気持ちはわかるけどさあ……」
真優佳ちゃんは眉間にシワを寄せ、軽く溜め息をついた。真優佳ちゃんはいつも、暴走する奈々ちゃんを止めるストッパーのような役割をしている。多分、今日もたくさん奈々ちゃんに振り回されているのだろう。
「ま、いいや。演劇部ってまだ片付けしてるのかな?」
「まだしてると思うよ」
私がそう答えると、奈々ちゃんは意地悪な笑みを浮かべた。
「じゃ、富山でも冷やかしに行くか」
「今公演終わったばっかでしょ? 忙しいんじゃない?」
「ちょっとくらい平気っしょ。真優佳は心配しすぎなんだって。あいつ、いきなり来たらなんて言うかな。またわけわかんないこと言って怒るかな」
「茶化すのはよしなって。私、知らないからね」
「いいよ。じゃあ真優佳はここで待ってて。そうだ、ドッキリ企画で動画撮ってインスタに上げようかな」
「ちょ、奈々!」
奈々ちゃんが小走りで行ってしまうと、それに続いて真優佳ちゃんも走り出した。
二人の掛け合いは、まるでコントみたいだなと思いながら体育館をあとにした。
そろそろ文化祭も終わってしまう。私は各店をじっくり見ながら、そんなことを考えていた。
高校生活最後の文化祭が、こんな形になってしまうなんて。良くも悪くも、みんなの記憶に焼き付くことだろう。
私は一人で行動していた。友達がいない、というわけではない。ただ一人を好んだのだ。友達とわいわいやるより、私はその光景を見ている方が好きだった。自分でもちょっと変わっているなと思うが、私は自分の世界を大事にしたかった。
一人だったので行動の制限はなく、ほぼ全ての店を回ることができた。時間を持て余してしまったので、私は片付けをするため教室に向かう。早めに片付けをしておいた方が、あとが楽になるからだ。
教室に向かう途中の廊下で、同じクラスTシャツを着ている人を見かけた。向かい合わせで立っており、二人の横顔が見える。あの頭の装飾は、
私はもう一人の顔を見て、思わずぎょっとしてしまった。
「どうすんだよ……」
「だって、こうなるとは思わなかったんだもん……」
「俺、言っただろ。『ほどほど』にしとけって。やりすぎはよくないって。案の定これだ、マジでどうするんだよ」
「それは……今から考えるよ」
「今から? もう文化祭終わるぞ」
「もう! そんなに怒らなくたっていいじゃん!」
燐ちゃんはその人に背を向けてしまった。
恐らくあの声は渡辺君だろう。顔が全然違うので、最初わからなかった。渡辺君の顔は真っ白に塗りたくられていて、まるで歌舞伎役者のようなメイクをしていたのだ。
気になって思わず、二人に声をかけた。
「二人ともどうしたの? その顔は……?」
「あっ、聞いてよジュリア。俊平ったら人にメイク頼んでおいて、めっちゃ文句言うんだよ?」
「え?」
笑顔の燐ちゃんが私に振り返る。
「あのさ、今めちゃくちゃクラスの空気悪いじゃん? ちょっとみんなの雰囲気和ませようと思って、俊平の顔にメイクしたんだけど……ふふ、だってさ! これくらいインパクトなきゃ、みんな笑ってくれなくない? この顔……ふふっ、あっはははは! マジでそれはいけるって!」
渡辺君の方を向いた燐ちゃんは、タガが外れたかのように大笑いし始めた。
なるほど。ああやって顔を覆っていたり、肩を震わせていたのは、笑いをこらえていたからか。てっきり泣いているのかと思った。
爆笑する燐ちゃんを一瞥して、渡辺君は私にこう言った。
「にしてもさ。これは酷くね? 俺の人権何処? って感じ。笑うどころか、これじゃみんな引く気がするんだけど。てかこれ、落ちねえの。宮沢、化粧落とすやつ今持ってないらしくてさ……」
「それはどうにかするって! あ、そうだ。亜里沙辺りに借りようかな。亜里沙なら絶対持ってるでしょ。今日すんごいメイクするらしいし」
「何それ?」
「
そうだったのか。これは後夜祭が楽しみだ。
渡辺君が心配そうな顔をした。
「じゃあ松宮探さねえと。俺、この顔じゃ恥ずかしくて帰れねえよ」
「自信持ちなって! 似合ってるから!」
「なあ楠は、この顔どう思う?」
「インパクト強いと思うよ」
「ほら、面白いって言わないじゃん。やっぱ面白いより、インパクトの方が勝ってるんだって」
私の返答に対し、渡辺君は燐ちゃんに不満の色を示した。あそこは面白いと言った方が、雰囲気的によかっただろうか。
するとそこへ、奈々ちゃんと真優佳ちゃんがやってきた。
「みんなこんなとこで何を……ぶっ、あっははははは! 何それ! 誰? 何があったの?」
「ほら、奈々にウケてんだから大丈夫だって!」
「奈々のツボは浅いから信用できねえよ!」
渡辺君の顔を見て、思いっきり笑う奈々ちゃんに対し、渡辺君は辛辣な意見を述べた。
真優佳ちゃんは落ち着き払った声で、燐ちゃんにわけを尋ねた。
「で? どうしてこんなことになってるの?」
「これうちがやったんだけど、みんな笑ってくれるかなって。ちょっとしたドッキリ? 的な」
「まず誰なのかわかんないって。みんな反応に困ると思うよ」
「そこが面白いんじゃん」
得意気になる燐ちゃんに、真優佳ちゃんは苦笑いを浮かべた。
笑いながらまじまじと渡辺君を見る奈々ちゃんは、腑に落ちた顔をした。
「あっ、もしかして渡辺? 渡辺なの?」
「そうだよ。俺以外いねえだろ」
「ここまでメイク濃いとわかんないって!」
「そうだ。加藤と木村どっちか、化粧落とし持ってねえ? ちょっと、この顔どうにかしたいんだけど」
「えー? 落としちゃうの? もったいなーい」
「恥ずかしいんだって。あんな雰囲気でさ、この顔で教室戻る度胸、俺にはねえよ」
「メイク落とし、教室にあるから教室に……」
こんな風に談笑を楽しんでいると、教室の方から声が上がった。
「火事だー!」
その男子の声に、私たちは一瞬表情が固まった。火事? どうして? 気になる。いや、それよりもまず逃げないと。
奈々ちゃんは落ち着きを失って、酷く動揺していた。
「なになになになに? これ、マジもんの火事?」
「いや、わかんねえ……」
「だとしたらやばくない?」
「奈々! そっち行っちゃ危ないって!」
「ちょっと確認してくる!」
「駄目だって! こういうのは逃げないと!」
教室の方に行こうとする奈々ちゃんの腕を、真優佳ちゃんが掴んで離さない。
そうこうしている間に、シューッと空気が勢いよく漏れ出るような音が聞こえた。消火器の音だろうか。誰かが消火器で、火を消してくれたのだろうか。
奈々ちゃんは真優佳ちゃんを振り切って、白い煙が上がる所へ駆けて行く。
私と燐ちゃんと渡辺君は、その場に取り残された。
「に、逃げた方がいいかな?」
「でも、さっきの音って消火器だよね? 火災警報とか非常ベルとか鳴ってないなら、大丈夫じゃない?」
「ちょっと見に行ってみるか」
私たちは、教室の方へ向かった。白い煙はまだ晴れていない。教室から、奈々ちゃんの声が聞こえてきた。どうやら火の手が上がったのは、私たちの教室だったようだ。
「マジかよ。俺たちの教室か」
「えー……怖いね」
渡辺君と燐ちゃんはそんなことを言いながら、教室に入る。教室には奈々ちゃんと真優佳ちゃん、そして相澤君がいた。
よく見ると、ダンボールが焦げている。火はあそこから上がったのか。
自然発火とは考えにくい。誰かが故意にやったとしか思えない状況だった。
「やべ。俺ステージの準備に行かねえと」
相澤君はそう言って、駆け足で教室を出ていった。
「ちょ、待ってよ相澤! ……って、行っちゃったし。もう、なんなの」
「どうしたの?」
相澤君を引き止めようとした奈々ちゃんに、素朴な疑問を投げかけた。
「今回の放火。相澤は何か知ってるっぽいんだよね。もしかしたら、誰がこんなことしたのか見当がついてるのかも……」
その言葉は、私たちをざわつかせた。
あれから六年。何も解決しないまま、今日に至る。
長い学校生活で、一番印象に残っている出来事は何かと問われたら、私はあの文化祭と答えるだろう。今日、もしかしたらそんな質問をされるかもしれない。
クラスのみんなは焦げたダンボールを見て、唖然としていた。昨日の今日だ。みんな、昨日のことで憔悴しきっていたのだろうか。放火について言及する人は誰もいなかった。
これは恐らく、「被害者」が誰もいなかったからだと思う。深川君や
様々な遺恨を残したまま、文化祭は幕を閉じた。クラスの中で蔓延したあの冷たい空気は、卒業するまで循環し続けた。
仲良くいるためには、信頼関係が不可欠だ。つまり、互いを信じるということ。あのクラスでは、それができなかった。憎悪、鬱憤、その他複雑な感情が混ざり合って、他者を遠ざけた。その根底にあったのは、恐怖だ。得体の知れない事件ばかり続き、臆病になってしまっていたのだ。当事者や、その周辺の人は特に。
差別をされている人というのは、要は信用されていないのだ。信用されないのは、その人が悪いというわけではない。差別する人が持つ、その人への恐怖心がそうさせる。この世のありとあらゆる人間関係の問題は、全て恐れおののく気持ちが引き起こしているのだ。
そう実感したのは、卒業したあとだった。あのクラスの中で私は、異質な目で見られることはなかった。でも一歩高校から出た瞬間、偏見の目に晒されたのだ。
私が何人だって、いいじゃないか。顔付きが違うからって、なんなんだ――その思いにずっと悩まされてきた。
だから私を対等に扱ってくれたあのクラスは、本当に居心地のいいものだったのだ。私を信頼してくれて、私を受け入れてくれた。それがどんなに嬉しいことか、あのときはまだわかっていなかった。
「……そうか」
先生が言っていたことが、なんとなくわかった気がする。あのときは理解しきれなかったけど、今なら先生が言っていたことに頷ける。
なんだか先生に会いたくなってきた。今、先生はどうしているだろうか。そして、みんなはどうしているだろうか。
機会があれば、また会いたいな。あの三年C組のみんなに。
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