小野寺隼道《おのでらはやみち》

「いらっしゃいませ」

「ちょっと、この商品について聞きたいんだけど。広告と値段違うのよ。どういうことなの?」

「あっ……えっと、すみません。確認しますね」

 勘弁してくれよ。こんなに人が並んでるのに。このババア、ちょっとは空気読めよ。

 俺は心の中で毒づきながら、店長を呼ぶアナウンスをする。その間にもどんどん人がレジに来て、俺は内心パニックになっていた。俺に洗剤の値段を聞いてきたババアは、涼しい顔だ。

 早くしろよ、何やってるんだよ――お客さんのそんな声が、聞こえてくるような気がした。マスクをしていてもわかる。あれは機嫌が悪いときの顔だ。

 ただでさえ、人手が足りない。今は店長と俺、二人きり。二人きりなんて信じられない。ここは一応大型店だ。とても二人で回せる規模じゃない。だが仕方ないのだ。もう一人は休憩に入ってしまっている。あと十分。なんとか二人で回さないと。

 俺はこの歳になってもちゃんとした職に就けず、バイトを掛け持ちする日々を送っていた。全ては俺の頭の悪さが招いたことだが、どうしても納得できない。どうして俺は、こんな毎日を送っているのだろう。

(今井辺りだったら、きっと満ち足りた生活してるんだろうな。あいつ国立行ったって聞くし、多分給料のいい仕事に就いて……)

 秀才今井。俺たちの代の、希望の星。放課後俺や佐藤、江田に勉強を教えてくれた、面倒見のいい奴だった。あいつは今頃、どうしているだろうか。

「小野寺、向こうのレジ行って」

 店長が俺の元いたレジに入り、さっきのお客さんの相手をする。俺は向こうのレジに入り、お客さんをさばいていった。

「遅い」

 不意に、お客さんからそんな文句が飛んできた。一言謝り、お客さんから手渡されたカードをレジに通す。

(俺、前はもっと『速い奴』だったのにな)

 レジ打ちをしながら、ぼんやりと学生時代のことを思い出した。



 俺の本名は、小野寺隼道という。はやみち。まるで親から足が速くなるよう、嘱望されているかのような名前だ。

 その名前の通り、俺は主に陸上で活躍する選手になった。高二の夏まで、陸上部のエースといえば俺だった。短距離走で賞を獲ったことは、何回もある。

 けど、ある理由があって俺は、高二の秋に陸上部を辞めてしまった。

「小野寺、ちょっと話があるんだけど」

 体育のとき、そう深川に話しかけられた。深川の隣には古河もいる。今日の体育はバスケで、隣のクラスと試合をやっていた。バスケ部の松本と吉永が凄まじいコンビネーションで周りを圧倒させる中、俺たちは得点板の前でじっと互いの顔を睨み合っていた。

 深川と古河は陸上部だ。つまり、俺の元部活仲間。陸上部を辞めてから、二人とは気まずい関係にあった。元々そんなに仲がいい方ではなかったが、さらに悪化している。

 辞めてから一度も話しかけられたことはなかったのに、なんの用だろうか。

「なんだよ」

「お前さ、なんで陸上辞めたんだよ」

 核心に迫る一言だった。深川の鋭い一言を聞いた瞬間、意識が遠くなるような、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。

「俺と正喜まさきはさ、ずっとお前を倒すために陸上やってたようなもんなんだよ。いつか絶対、お前の最速記録を塗り替えてやるってな。でも、お前はあっさり辞めた……なあ、お前人一倍努力してただろ? なんで辞めたんだよ」

「別に……どうだっていいだろ」

「よくねえよ。ちゃんと説明しろよ」

卓人たくと、もうやめようぜ。だから言っただろ。小野寺に何聞いても多分答えないって」

「正喜……」

 深川が俺に距離を詰めたところを、古河が制止した。深川は悔しそうに、俺から目を背けた。

 古河が鋭い目付きをしながら、こう言い放った。

「俺は別に、お前が陸上やっていようがやってなかろうが、どうでもいいんだよ。ただ、その態度が気に食わねえ。澄ました顔でいるのが、どうしようもなく癇に障る。陸上から逃げて、今度は野球か? はっ、その坊主頭、全然似合ってねえよ。むしろダセえ」

「ひ、人のことは放って置けよ。俺はもう、お前たちとは関係ないんだからさ」

 どうしてここまでコケにされなくてはならないのか。俺はただ、部活を辞めただけだ。それはこんなに責められることなのだろうか。

 そもそも、どうして二人は俺のことを目の敵にするのだろうか。

「なんで俺は、お前たち二人にそんなに言われなくちゃなんねえんだよ。別にいいだろ。俺の勝手だ。お前たちこそ、何熱くなってんだよ。陸上が全てじゃねえだろ。大体、ただ走るだけの行為になんの意味を見出してるんだよ……」

「は……? お前、それ本気で言ってんのか? 俺と卓人が頑張ってることは、無駄だって言いたいのか?」

「そうだよ、無駄だ。決められたコースを走って、タイムを競う。こんな不毛なことあるかよ。何が楽しいんだよ、どうせ一番にはなれないのに」

「お前……!」

 古河が俺に掴みかかってきた。今にも殴ってきそうな勢いだ。

 だが古河は俺の胸ぐらから手を離し、舌打ちをして俺の元を去った。古河に続いて深川もその場を立ち去ろうとしたとき、ぼそっと俺にしか聞こえない声でこう言った。

「裏切り者」

 その言葉が、いつまでも頭にこびりついて離れなかった。



 いよいよ、高校生活最後の文化祭だ。俺のシフトは明日なので、今日は一日気楽だった。俺と佐藤と江田は、校舎の中で回る店について話し合っていた。

「なあ、何処行く?」

「二年のお化け屋敷とか面白そうじゃね?」

「お化け屋敷といえばさ、昨日俺教室で幽霊見てさ……」

 佐藤と江田ははしゃいでいたが、俺は数日前に深川と古河に言われたことを思い出していた。

 俺だって、続けられるものなら続けたかったさ。

「小野寺はどうする? 行きたいとことかある?」

「え? うーん、ぱっと思い付かないな」

「じゃあお化け屋敷行こう! 今の時間、後輩がお化け役やってるらしくてさ。ちょっと冷やかしに行こうぜ!」

 江田は先陣を切って、俺たちの前を進む。本当に調子のいい奴だ。

 徐にジャージのポケットからスマホを取り出すと、クラスLINEが大変なことになっていた。

「クラスLINE、面倒なことになってるな」

「面倒なこと?」

「そう。焼き鳥もうなくなるってよ」

「え? もう?」

「なんか騒いでる」

 俺がそう言うと、佐藤と江田もスマホを取り出してLINEを開いた。

 難しい顔をしながら、江田が唸り声を上げる。

「『運動部の男子、誰か買ってきてください!』って言われてもなあ」

「ったく、こういうところは男子任せかよ」

「とっしー口悪。そんなんだから、女子にモテないんだよ」

「お前に言われたかねーよ! お前、女子から嫌われてるの知ってるか? 裏でめっちゃ言われてたぞ」

「マジで? うわー、ショックだわ……言ってたのって、もしかして長瀬たち?」

「そうそう」

「えっ……そこに西山さんも入ってたりする?」

「入ってんじゃねえの? 知らねえけど」

「辛! 俺の青春は終わった!」

「え? まさか江田ちゃん、西山柚乃にしやまゆずののこと好きだったの?」

「ち、違っ! そんなんじゃ……! 変なこと言うなよ、とっしー!」

 とっしーとは佐藤のことだ。佐藤寿一さとうとしかず。だからとっしーらしい。

 俺は、スマホを見ながら二人に声をかけた。

「手が空いてる男子、誰かに買ってきて欲しいって書いてあるけど……佐藤と江田はどうする?」

「行かねえって、そんなん。めっちゃだるいもん。もしかして、小野寺は行こうとしてた?」

「いや……別にそんなんじゃないけど」

「でも小野寺なら、ちゃっと行ってちゃっと戻ってくることできるんじゃ? 元陸上部で、足速いしさ」

 江田が俺の地雷を踏み抜いた。

 けど俺は、不快感を顔に出さないよう、必死に愛想笑いを繕った。

「あー……江田、俺を買い被りすぎだって。俺、そんなに速く走れねえよ。ははは、陸上部なら深川と古河がいるだろ? 特に深川は陸上部のエースだし、あいつらが行けばいいんだよ」

「えー、でもさー、この学校で小野寺より足速い人なんていないって」

「言えてる。去年、なんかの大会で二位とか獲ってたもんな」

 突っ込んでくるなよ、佐藤。これ以上話を広げないでくれ。

 苦し紛れの愛想笑いも、そろそろ限界を迎えそうだ。どうしてみんな、俺が陸上部だったことに言及してくるんだ。

 唇を震わせながら、俺は苦し紛れに提案した。

「……それよりさ、お化け屋敷回ろうぜ。せっかくの文化祭だ。焼き鳥買いに行くなんて、もったいねえよ」

「ま、それもそうだな。江田ちゃん、後輩のお化け屋敷って何階だっけ?」

「うーん、三階だった気がする!」

「気がするってなんだよ、気がするって」

 佐藤と江田は笑いながら、階段に向かった。俺もそのあとに続く。もやもやした気持ちは静まらないままだ。

 あんな話の流れになるなら、クラスLINEの話なんかしなきゃよかったな。

 二人に気付かれないよう溜め息をついていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「ここの文化祭って規模すげーな」

 その声に俺は、思わず足を止めてしまった。ちらりと後ろを見ると、見覚えのある黒い短髪がいた。白いTシャツに黒い長ズボン姿のあいつはどうやら俺のことに気付いていないようで、友達と一緒に俺に背を向けている。

「文化部の数が多いんだと。こっちの学校とはえらい違いだな」

「へえ。文化部に力を入れているって感じか」

「こっちはどうやら、運動部より文化部らしいな。ほら、なんか演劇部がこの前賞を獲ったって」

「はーん。運動部は大したことねえのになあ」

 嫌な声だ。耳障りだ。そう思うなら早く立ち去ればいいのに、俺の足はすくんで全く使い物にならなくなっていた。

 奴の声が、直接頭に響く。

「まー、雑魚の話したってどうにもなんねえよな」

「相変わらずお前酷いな。そのうち誰かに刺されるぞ?」

「雑魚に雑魚って言って何が悪いんだよ。事実だろうが。ったく、雑魚が大会とか出んなよな。特に陸上。俺とやるだけ無駄なのに、一丁前に大会に出てくる。去年めちゃくちゃ速いっていう奴とタイム競ったけど、あれで速いとか馬鹿抜かせって感じだったぜ?」

「ああ、そうか。お前陸上部だったな。この学校の奴と競ったのか?」

「そう。ほんと、相手にもなんなかったわ。あれこそ時間の無駄。ノロすぎて欠伸出たわ。あー、誰だっけあいつの名前。はは、全然覚えてねえわ」

 気持ち悪い笑い声が、周りの騒がしさに混じって消えていく。俺はぎゅっと唇を噛み締めて、怒りを堪えていた。

 佐藤と江田には、どうやら置いていかれたようだ。早く合流しないと。俺は駆け足で、階段を上った。



 あいつは去年、俺を徹底的に叩きのめした奴だ。正直名前も思い出したくない。

 男子百メートルで俺の渾身の記録、十一秒八二を破り、あいつは十一秒七六という記録を出した。コンマ六秒。その差で俺は奴に負けた。今までずっと、この地区では俺が一番速かった。でもあいつの登場によって、俺は二番手に格下げになったのだ。

 あいつは一言、入賞が決まったときにこう言った。

「大したことねえな」

 俺の努力を、たったコンマ六秒でふいにしてしまった。コンマ六秒は大きな差だが、俺が今までしてきた努力に比べれば遥かに短い時間だ。

 勉強もできず、他にパッとした特技がない俺にとって、足だけが唯一の武器だった。でもあいつの登場により、その武器はポッキリ折れてしまったのだ。

 どんなに頑張っても、あいつには敵わない。

 それに、上には上がいる。俺なんて、全然歯が立たない。

 あの大会で、それをまざまざと実感させられた。そう思うと、なんだか自分の努力が急に馬鹿らしく思えた。努力は必ず報われる? そんなの嘘っぱちだ。足掻いたって、どうしようもないこともある。

 そして俺は、陸上を辞めたのだ。

「あー、面白かったな!」

「全然怖くなかったよな。もうあれ、普通にネタじゃね?」

「背後から脅かしにきたのはびっくりしたけど、あれはお化け屋敷って言うより、ドッキリ部屋だな」

 江田と佐藤の後ろに続き、真っ暗なお化け屋敷から出る。中と外の明るさのギャップで、ちょっと目がチカチカした。

「小野寺、全然ビビってなかったよな。もしかして、ああいうのに強い系?」

「えっ……ああ、まあな」

「なんかお前、元気なくね? 体調悪い?」

「いや、そうじゃないんだ。なんだろ、腹減ってんのかも」

 佐藤にはそう言ってごまかした。すると今度は、江田が反応する。

「じゃあさ、次は何か食おう? あ、そうだ。焼き鳥屋行ってみようぜ。俺、実は自分とこの食ってないんだよね。どんなもんなのかさ」

「ばーか。さっきのクラスLINE見たろ。もう残り少ないって。多分売ってくれねえよ」

「あ、そっかー。いっけね」

 江田が笑うと、佐藤もつられて笑う。俺はそんな光景を、なんだか画面越しに見ているような感じがした。

 二人の世界は二人で完結していて、そこに俺が入り込む余地などなさそうだった。

 俺たちは当てもなく、賑やかな廊下を歩き出す。自販機の前まで差し掛かると、江田が歩みを止めた。

「ねえ、ちょっと自販機でジュース買っていい?」

「ん? いいけど」

 佐藤がそう答えると、江田はジャージのポケットから財布を取り出した。俺と佐藤は江田がジュースを買い終わるのを、後ろで待っていた。

 ジュースを選びながら、江田は後ろにいる佐藤に声をかけた。

「とっしー、今って店、誰がいるっけ?」

「バトン部と陸上部じゃね?」

「マジ? 俺、西山さんに声かけに行こうかな」

「江田ちゃん諦めろって。相手にしてくれねえよ」

「えー……じゃあワンチャン、矢野さんとかいけねえかな?」

矢野瑞季やのみずき? お前、ああいうのがタイプ?」

「そうじゃないけど、西山さんが駄目なら矢野さんかなって。ほら、矢野さんって男子っぽいとこあるからさ。親しみやすい? っていうか」

「……お前、実は女子なら誰でもいいんじゃねえの」

「そんなことないって! あー、あんな美女たちと一緒のシフトなんて、陸上部が羨ましいわ」

 陸上部。またその名前だ。その名前を聞いた瞬間、いっそう憂鬱な気持ちになった。

 江田がミニボトルのジュースをごくごく飲み干し、側にあったゴミ箱に捨てようとすると、佐藤が制止にかかった。

「江田ちゃん、ちゃんと仕分しなきゃ駄目だって」

「え? 仕分?」

「ペットボトルとラベルとキャップは、それぞれ別に捨てるよう言われてただろ」

「あー、いっけね。忘れてた」

「今年の美化委員ガチだから、気を付けろよな」

 江田は面倒がりながらも、自販機の反対側のゴミ箱にキャップと剥がしたラベルを捨てた。

 そんなときだ、誰かに後ろから突進されたのは。

「いてっ」

「あっ……わ、悪い。大丈夫か?」

 見ると、俺にぶつかってきたのは柏木だった。表情が切羽つまっていて、何やら急いでいるような印象を受けた。

「大丈夫だけど……どうしたんだよ、そんなに慌てて」

「い、いや……ちょっとまあ……トラブルっていうか」

 顔が引きつっている柏木に、佐藤と江田が軽く声をかける。

「トラブル? 文化祭実行委員も大変だな」

「あ、もしかして焼き鳥が足りなくなりそうな件? うちの焼き鳥屋、めっちゃ繁盛してるよな」

 柏木は曖昧な苦笑いを浮かべるだけだった。その表情からは、明らかに焦りが見える。

「悪い、ちょっと急いでて……俺、もう行くわ」

「おう、頑張れよー……あいつ、すげえ足速いな」

「柏木って確か、サッカー部じゃなかったっけ?」

「あー、だからか」

 江田の返答に、納得したように頷く佐藤。

 それにしても、柏木があんなに慌てていたなんて、何があったのだろうか。違和感を覚えながらも、そのときはあまり気にならなかった。



 その違和感が甦ったのは、一日目の文化祭が終わる直前だった。

 教室の中では、ただならぬ緊張感が漂っている。こんな雰囲気になるのも、仕方ない。ここで殺人が行われようとしていたのだから。

「誰が深川を殺ったんだよ」

 古河は顔を紅潮させ、こめかみに青筋が見えそうだった。

 そう、重症を負ったのは深川だった。裏切り者の烙印を俺に押した、あの忌まわしき深川。

 こう言っちゃ悪いが、俺は内心ざまあみろと思っていた。こんなことを思うのは人として最低なことかもしれないが、深川があんなことになってほっとしている自分もいた。

 深川はかつての仲間だ。でも今は違う。仲間だったのは昔の話で、今はむしろ敵対するような関係にあった。俺は争うつもりはなかったが、向こうが俺を敵視してくるのだ。そういう人とは、どうやっても相容れない。

 教室の中央では、古河と長瀬の激しい口論が繰り広げられている。

 江田と佐藤は身を寄せて、こっそり話し合っていた。

「やべーよな、これ。あとで警察とか来るのかな」

「ドラマとか映画の世界だよな。こんなこと起きるなんて、思ってもいなかった」

「そういえばさっきTwitterでさ、柏木のアカウント見てたんだけど……ほら、これ」

「あ、これ完全に深川のことじゃん」

「じゃあ、第一発見者はまさかの柏木?」

「かもな……あれ? そういえば柏木がいねえな」

「実行委員で集まってるんじゃ?」

 二人の会話を聞いていて、合点がいった。そうか、さっき柏木があんなに慌てていたのはこの凄惨な現場を見たからか。

 そういえば、救急車のサイレンが聞こえたのはその直後だったな。

「でも、どうして深川だったんだろう? 樫山さんの荷物もなんで……」

「なあ、小野寺はどう思う? 深川とは陸上部で一緒だったんだろ。深川って誰かに恨まれたりしてたか?」

 佐藤にいきなり話を振られて、心臓が跳ね上がった。

 なんでまたそんなことを、俺に聞くんだ。俺はもう深川とは関係ないのに。もう俺はお前たちと同じ、野球部なのに。

 どうしてそんな、異様な目で俺を見るんだよ。

「……さあ? 俺からはなんとも言えないな」

 拳に力を入れながら、必死に振り絞った声は、果たして変な風に聞こえなかっただろうか。



 文化祭二日目、それはもう思い出したくないほど最悪なものだった。

 あんなことが昨日あったため、みんな疑心暗鬼になっていたのだ。ギスギスした雰囲気がお客さんの前にも出てたのか、一日目ほど店は繁盛しなかった。おかげで店番は比較的楽だったが、喜ぶべきことではない。

 それに、文化祭の予算も行方不明なのだ。一万円。これは、もしものときのために取っておいたものだ。焼き鳥が足りなくなったとき、この一万円を使うことになっていた。

 つまりこの一万円がないと、新たに焼き鳥を仕入れることができない。

 一日目はなんとかなった。大量に余った小銭で、武田がなんとか焼き鳥を仕入れてきたのだ。でも、二日目はさすがにそうはいかなかった。だから二日目の午前に焼き鳥が売り切れた時点で、C組の文化祭は終わったのだ。午後にシフトが入っていた人たちは、一秒も仕事をすることがなかった。

 綺麗なオレンジ色の夕焼けが見えるようになった頃、俺は二人と別れ、人もまばらになった廊下を歩いていた。下を見ながら、だ。こんな挙動不審な人物、生徒じゃなかったら今頃通報されていただろう。

 俺はあろうことか、家の鍵を何処かに落としてしまったようなのだ。数時間前まで、確かにズボンのポケットにあった。だが、今はない。柏木にも聞いてみたが、鍵の落とし物は本部に届いていないという。

 まずいな。どうしよう。やばいことになった――嫌な汗が額を伝いながら、必死になって辺りを見回す。でも、鍵らしきものは見つからなかった。

 自分の教室の近くまで来たとき、向こうに見覚えのあるクラスTシャツが見えた。あれは渡辺と宮沢か。渡辺は俺に背を向けるような形で立っており、見えたのは宮沢の顔だけだった。

 二人は俺の気配に気付いていなかった。

「どうすんだよ……」

「だって、こうなるとは思わなかったんだもん……」

 気が立っている様子の渡辺と、語尾を下げる宮沢。宮沢は、手で顔を覆い隠して声を震わせていた。こうして見ると、痴話喧嘩をしているカップルのように見える。渡辺と宮沢の身長差がちょうどいい。

 本当に二人は付き合っているのだろうか。

「俺、言っただろ。『ほどほど』にしとけって。やりすぎはよくないって。案の定これだ、マジでどうするんだよ」

「それは……今から考えるよ」

「今から? もう文化祭終わるぞ」

「もう! そんなに怒らなくたっていいじゃん!」

 宮沢は俺と渡辺に背を向けてしまった。どうやら邪魔をしてはいけないようだ。あそこを探すのはあとにしよう。

 俺は踵を返し、元来た道を戻る。それにしても、あの二人は何を言い争っていたのだろうか。ほどほど。やりすぎ。人目を忍んで、あんな所で二人は何を――?

 そこまで考えたとき、俺は一つの考えに思い至った。

 確か二人は昨日の朝、一緒に店番をしていたはずだ。ほどほどとやりすぎ。その言葉が示唆しているのは――盗まれた文化祭の予算のことを言っているのではないか。

 渡辺と宮沢、そして同じサッカー部の森久保。三人で共謀して予算をちょろまかすことは、十分可能だ。でも、さすがに盗んだ額が高すぎた。百円、二百円ならまだごまかせるかもしれないが、一万だ。大事になるのは間違いないだろう。

 そう考えると、そうとしか考えられなくなってくるのが不思議だ。一万円を盗んだのは、あの三人。俺の中であの三人は、完全に犯人扱いだった。

 考え込んでいた頭を上げると、向こうから柏木がやってくるのが見えた。

 迷わず俺は、柏木に話しかける。

「柏木」

「ん? 小野寺?」

「あのさ、俺……変な話聞いたんだけど」

「変な話?」

「渡辺と宮沢がさ、あっちで何か言い争っててさ。『ほどほど』とか、『やりすぎ』とか。思ったんだけど、これって予算が盗まれたことを言ってるんじゃないかって。もしかしたら、予算を盗んだのは……」

 そこまで言った俺に、柏木は青い顔をしながら制止にかかる。

「待てって。それだけで犯人扱いするのは、ちょっと早急っていうか……何より、証拠がない」

「でも、盗んだのは絶対このクラスの誰かじゃん? こういうのは、全員を疑ってかからないと」

「そう言われてもな……」

 腕を組む柏木。ばつが悪そうに下を向いて、何やら考えを巡らせている。

 そんな柏木に畳み掛けるように、俺は言い放った。

「盗まれた金だけじゃない。深川とか樫山とか、昨日だけで信じられないことが立て続けに起きてる。このクラスには、悪意を持った人物が確実にいるんだよ」

「そう……かもしれないけど、ほら、しろたんも言ってたじゃん。クラスのみんなを信じることが大事だって」

「あんなの綺麗事だろ。現実を見ないと」

 現実を見る、で思い出した。俺も早く鍵探しに戻らないと。

「じゃ、俺鍵探しに戻るわ」

「まだ見つかってないのか?」

「そうなんだよ……ほんと、何処に行ったんだか……ん?」

 柏木の後ろから、誰か走ってくるのが見えた。あれは、江田と佐藤だろうか。

「小野寺ー! 鍵! あったー!」

「は? 何処にあったんだよ!」

「……俺のポケットの中」

「は、はあ!? おま、江田ああ! なんで持ってんだよ!」

「い、いやー、自分の家の鍵と間違えちゃって」

「普通間違えねえだろ!」

 軽く江田の頭を引っ叩く。人騒がせな奴だ。無駄に体力を消費してしまったじゃないか。

 なんだか気が抜けてしまい、どっと疲れが襲ってくる。本当に疲れた。江田に文句を言ってやろうと口を開いた瞬間。

「火事だー!」

 教室の方から、そんな声が聞こえてきた。



 文化祭はたったの二日だったが、その間に色んなことが起きた。

 深川のこと、樫山のこと、盗まれた予算のこと、さらに放火ときた。俺たちのクラスは呪われていたのだろうか。

 結局どれも犯人はわからないままだった。深川は前後の記憶が抜け落ちていたし、樫山は不登校ぎみになり、予算と放火の件はうやむやになった。

 でも、これほどのことが起きていたのにも関わらず、警察が一度も登場しなかったのは、変な話だ。もしかしたら俺の知らないところで、一連の事件は解決していたのかもしれない。

(青春に決着、ねえ……)

 バイト先の事務室で、俺は一人休憩を取っていた。丸椅子に座ってスマホをいじっていると、クラスLINEに新しい動きがあったのに気付いた。

 送り主は柏木で、そういえば柏木はこういうことを好んで企画とかしていたな、と思い出す。文化祭の実行委員長も、自分から立候補していた。

 鍵探しをしていたとき、俺は柏木に変なことを言ってしまった。今だからわかるが、あのときの俺は陸上のことや鍵のことで、随分と苛立っていた。だから、人に攻撃的な態度を取っていたのだ。

 誰かのせいにしていないと、気が済まなかった――つくづく自分は小さい男だな、と思う。

 あれを柏木はどう受け止めただろう。柏木だって、クラスの奴等を疑いたくはなかったはずだ。柏木は人一倍クラス思いな奴だったから、あの一連の出来事に一番ショックを受けていただろう。

「卒業式、か」

 俺は、果たして本当に卒業したと言えるのだろうか。

 たとえきちんとした卒業式をやっていても、俺はこう思っていただろう。いまいち卒業した気になれないのだ。それは高校時代に、心残りがあるからだろうか。

 Twitterを見ていると、かつての同級生たちが卒業式について話しているのを見つけた。行く気でいる人、行かないつもりの人。バラバラだった。意外だったのは比較的こういうことが好きそうな、サッカー部やバスケ部の人たちがみんな欠席の意志を表明していたことだ。どうやら仕事の都合で行けないらしい。

「あいつら……」

 そんな中、佐藤と江田は行く気でいるらしかった。旧友を懐かしむ話や、当日の話など、高校時代の話で盛り上がっているようだ。

 でも、俺には声がかからなかった。

 結局俺は、陸上部にも野球部にも属せなかったのだ。

 深川と古河は下の名前で互いを呼び合い、佐藤と江田はあだ名で互いを呼び合っている。

 でも俺には、あだ名や下の名前で呼び合うような友人はいない。

 だからどうした、という話だが、なんとなく孤独感があった。佐藤や江田は友人だが、真の友人じゃない。

「小野寺、レジ頼む」

「は、はい」

 店長が事務室に入ってきた。もう休憩は終わりの時間だ。俺は立ち上がり、スマホをロッカーの中にしまう。

(別に、俺が行かなくてもいいんだ。俺と会いたがる人なんて、誰もいないんだから)

 妙に納得して、事務室を出た。

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