今井光介《いまいこうすけ》
長い間放置されていたクラスLINEに、奇妙な文章が届いた。
このクラスLINEは、高校三年生のときのものだ。柴崎の「俺の体育館履き知りませんか」というLINEを最後に、長らく放置されていた。だがあれから六年経った今日、いきなりこんな文章が届いたのだ。
グループの人数を見てみると、もう既に結構な人数が退会していた。俺を含め、残っているのは数人ほどだ。こんなに経っているのに、まだ数人も残っているのは奇跡だった。
(俺、なんで退会しなかったんだろう)
今の今まで存在を忘れていたにせよ、普通なら卒業した時点で退会するものではないか。
六年前の自分の行動に不思議さを覚えながらも、俺は柏木から来たLINEをじっと見ていた。
「今井、これもよろしくな」
そう言ってぶっきらぼうに、書類の束をデスクに置いた上司。
俺はスマホをデスクに置き、マスクの下で仏頂面をしているだろう上司を見た。
「あの今、別の仕事をやってまして……」
「スマホ見てる余裕はあるんだろ? なら、こっちもついでにやってくれよ。どっちもそんなに手間はかからねえだろ」
「でも、これだけの量を一人でやるのは効率が悪すぎます。他の人に頼んでください」
「はあ? 生意気な口叩くんじゃねえよ。みんなやってるんだ。つべこべ言わず、とっとと片付けろ。全く、スマホなんかいじってんなよな」
上司はそう言って、俺の元から去っていった。
(クソが。いっつも俺に雑用押し付けやがって。データの入力なんて、誰でもできる仕事じゃねえか。なんでわざわざ俺に頼むんだ)
書類に書かれた数字を、新しくパソコンに入力するだけの簡単な仕事。会社に行かずとも、自宅でできそうな単調な作業。毎日毎日こんな感じの仕事ばかりで、息が詰まりそうだ。
こんなの、俺がやりたかったことじゃない。
デスクには山積みの書類、すっかり熱を持ったパソコン、そしてわけのわからない付箋がベタベタ貼ってある。その光景を見ると、うんざりしてしまう。
(俺は、こんな所で燻ってていい人間じゃない。優秀な俺は、もっと実のある仕事をするべき人間なんだ。それなのに……このザマはなんだ)
一体俺は、何処で道を間違えてしまったのだろう。
「え? マジで? 間違ってる?」
江田が素っ頓狂な声を上げた。自身の坊主頭を撫で、首を傾げる。
その様子を見て、同じ野球部の佐藤と小野寺が横から江田をつついた。
「あー、江田ちゃんその式間違えてる」
「凡ミスすぎて笑うんだけど」
「え? 何処?」
「ほら、ここだって。なんでお前足し算もできねえんだよ」
三人は机を並べ、右から佐藤、江田、小野寺が教科書やらノートを広げ、議論をしていた。この坊主頭にタレをかけたら、とてもまずそうな団子三兄弟のでき上がりだ。
教室には俺たちの他に、誰もいない。みんな、期末テスト前なので帰ってしまった。十二月に行われる期末テストは、二学期の成績に大きく関わるので、今頃みんなは必死になって勉強していることだろう。
計算を直した江田が、二人にノートを見せながらドヤ顔をする。
「でもさ、俺すごくね? 普通にここまで合ってんの。これは天才じゃない?」
「ばーか。天才なのはお前じゃなくて、今井の方だろ」
佐藤がそう言って、教壇に立つ俺を見た。
「今井ってほんとすげえよな。どういう頭してんだよ。何食ってたらそんなに頭よくなるん?」
「いやあ……まあ、普段めっちゃ勉強してるし」
「あー、そういや今井っていつ見ても勉強してるよな。何処目指してんだっけ?」
「一応、国立狙ってる」
「うわぁー……俺たちとは住む世界が違うわー……」
情けない声を出して、佐藤は机に突っ伏した。
そう、俺は国立大志望だった。そのため高校時代は、いつでも何処でも勉強するようなガリ勉だったのだ。
普段俺はクラスで目立たない立ち位置にいるが、テスト前とテスト後ではここぞとばかりに活躍する。テスト前は全教科オールラウンダーの先生になり、テスト後は全教科ほぼ満点のヒーローになる。
学校生活で唯一、俺が脚光を浴びるときだ。
「はい! 今井先生、質問でっす! モル質量ってなんですか!」
江田がビシッと手を上げると、佐藤と小野寺が呆れた顔で嘲笑する。
「は? お前そっからかよ。それ化学基礎の範囲じゃん」
「それは雑魚すぎる、マジで一回留年した方がいいんじゃねえの」
「はー? 言っとくけど、俺は小野寺より先輩なんだからな? 先輩に向かってなんだよ、その口の利き方は」
「野球歴は、な。でも少なくとも俺は、お前より格上だっての!」
小野寺が江田の頭をグリグリする。江田は痛そうにしているが、本気で嫌がっているわけではなさそうだ。続けて佐藤も江田をいじりにかかる。野球部トリオはこうなると、しばらく周りが見えなくなる。
正直俺は自分の勉強をしたい。こんな奴等に構っている場合ではないのだ。しかし俺の溜め息に気付くことなく、三人は勝手に話を進める。
「格上といえばさ、なんか最近、クラスの雰囲気悪くね? みんなすげえ上下関係気にしてるっていうか」
「クラスに上下関係とかないだろ」
「江田ちゃん鈍感すぎ。推薦組と受験組で、上下関係はっきりわかれてんだろ」
「そうなの?」
「俺と佐藤とか、推薦組はもう進路が決まってるから、あとは適当に授業出て卒業を待つだけだろ? でも受験組は違う。休み時間もめっちゃ勉強してるし、あそこだけ雰囲気がピリピリしてるっつうか……推薦組のこと、下に見てる感じしてさ」
「そうそう。推薦組も推薦組で、わざわざ受験組のこといじる奴とかいるんだぜ。ほら、松本とか渡辺とか」
「あー、そういや『おまえらまだ進路決まってねえのかよ』って言ってるとこ見たなあ」
推薦組である佐藤と小野寺、就職組の江田は俺を前にしてそんなことを平然と話している。
俺は「まだ進路が決まっていない」受験組だ。よくもまあ、俺がいるところでそんな話ができるものだ。
やっぱり、馬鹿といるのは気分が悪い。
「でもさ、やっぱそういうギスギスした雰囲気になったのは、『あれ』が原因だよな」
「結局犯人は誰なんだよ。つーか、目的がわかんねえ。目的がはっきりしてるやつもあるけど、それ以外はいまいちよくわかんなくね?」
「確かに。けどやってることはやべえよな。普通に犯罪だし」
「あんなことがなかったら、こんな感じにはならなかったのかな……」
三人は、俺たちのクラスを引き裂いた「あの事件」のことを話している。
俺には全然関係ないことだが、やはり自分のクラスの騒動に目を背けることはできなかった。
「なあ、今井は『あれ』どう思う? 犯人は誰とか、今井なら見当ついてんじゃねえの?」
佐藤が俺の方を向いてそう言うと、二人も俺の顔をじっと見た。
犯人なんて、知らねえよ。なんで俺に聞くんだ。
けど、そんなことを言って三人の反感を買うことになるのは明らかだ。
「……さあ。もしかしたら、本当に幽霊の仕業だったんじゃない?」
だから俺は本心を隠し、そうはぐらかすことしかできなかった。
あれは、文化祭のことだった。
俺たちのクラスは野外で焼き鳥を売っていた。十月だというのに肌が焼けるほど暑く、テントの下で俺たち男子はひいひい言いながら焼き鳥を焼いていた。揃いのクラスTシャツは汗とすすで汚れ、使い物にならなくなっている。
その一方で女子が主に受付や接客をしていたので、俺は密かに男女差別を感じていた。女子の方が圧倒的に仕事量が少ない。女子は受付の前で、座っていればいいのだから。この差は一体なんなんだ。
「やっべーな。これマジで足りなくなるぞ」
「早くね? てか、客多すぎだろ」
一緒に焼き鳥を焼いていた、森久保と渡辺がそう愚痴を零した。確かに客足が多く、長蛇の列ができていた。それを見て二人は、溜め息を漏らす。
二人はサッカー部の、揃いのタオルを頭に巻いていた。無論、このときにマスクをしている者は誰もいない。食べ物を取り扱う店にマスク着用が義務付けられたのは、もっと先の話だ。このときマスクなんてしていたら、俺たちは一人残らず熱中症になっていたに違いない。
「タレ五本、塩四本おねがーい」
受付にいた宮沢が、甲高い声で俺たちにそう言った。いつもより派手なメイクをしているので、とても痛々しく感じる。
それを聞いた渡辺は、不満そうな顔を露にした。
「どんだけ食うんだよ……なあ宮沢ー、焼き鳥もう足りねーんだけど」
「は!? もうないの? 校舎にまだある?」
「多分、クーラーボックス一個分は残ってる。なあ、ちょっと校舎まで取りに行ってくんね? 俺たち今、ここ離れらんねえから」
「こっちだって受付やってんの! お客さんすごい並んでるし!」
「宮沢も同じサッカー部だから、足には自信あるだろ? パッと行ってパッと戻ってこいよ。お前の足なら三分もかかんねえんじゃね?」
渡辺がそう茶化すと、宮沢はむっと膨れた。
それを見かねて、森久保が俺にそっと手招きをして耳打ちする。
「今井、悪いんだけどさ。ちょっとお前がひとっ走りしてきてくれねえかな」
「えっ、俺?」
「俺と渡辺でここは足りるし、な? 頼むよ」
顔の前で手を合わせる森久保。手についたタレの匂いが、俺の鼻を擽った。
それならお前が行けばいいだろう。俺より足が速いんだし、効率を考えれば渡辺か森久保が取りに行った方が絶対早い。
なのに、どうして俺に頼むんだよ。
その言葉を飲み込み、俺は渋々その申し出を引き受けた。
「……わかった。確か、調理室の冷蔵庫の中だっけ?」
「そうそう。あとさ、ついでに教室寄って俺のスマホ取ってきてくれね? 俺の机にあるからさ」
「あー、うん。わかった」
「サンキュ。なー、渡辺と宮沢。今井が取ってきてくれるってよ」
「あ、マジ? ありがとな、今井」
「今井君、ありがとう」
俺は適当に笑ってその場をやりすごし、使い捨ての手袋をゴミ袋に入れる。そして足早にその場を去った。昇降口で上履きに履き替え、まず教室に向かう。
これじゃあまるで、ただのパシリだ。そう思いながら、賑わう校舎から階段を駆け上がり、閑散とした教室まで辿り着く。
物が散乱し、机も椅子もごちゃごちゃになっていたので、どれが森久保の机なのかわからない。
「たっくよお……ちょっとは片付けろよな……」
誰もいないからこんなことが口から飛び出た。きっと誰かいたら、俺はまた愛想笑いを浮かべていただろう。
イライラした俺は、側にあった絵の具の水入れを蹴ってしまった。
こんな所に放置したのは、恐らくテントの飾りつけをした女子たちだろう。床は濡れてしまい、教室の状態はさらに悪化した。
それを無視し、ようやく森久保のスマホを見つけ出す。赤と黒の、趣味の悪いスマホだ。それを手に取り下ジャージのポケットに入れて、そのまま教室を出た。
調理室から持ち出したクーラーボックスを肩に担いだ俺は、持ち場に戻る。サッカー部の三人は、仲良く談笑していた。相変わらず客は、ずらっと並んでいる。
俺が必死になっている間、あの三人はだらだら何をしていたのだ。ちきしょう、俺をこき使いやがって。
クーラーボックスを担いだ俺を見て、渡辺が声を上げた。
「いーまーいー、遅えよー」
「っ、ごめんごめん。ちょっと重くて」
「おー、ご苦労ご苦労。今井、ありがとな」
そう言う森久保に、まずスマホを渡した。そして大きな音を立てて、担いでいたクーラーボックスを机に下ろす。
怒りが汗とともに噴き出る感覚がしたが、ぐっと堪えた。大丈夫だ、怒りは汗と違って我慢できる。
クーラーボックスを開けた渡辺は、気の抜けた声を出した。
「あー、これ午後持たねえかもなあ」
「え、何? そんなに足りないの? 今、受付した分だけで三十本ぐらいあるけど、大丈夫?」
「なんでそんなに注文取ったんだよ」
「受付はそれが仕事だから! 男子と違って、こっちは真面目にやってるからね!」
「はー? 俺たちだってちゃんとやってるっつの!」
渡辺と宮沢がまた痴話喧嘩を始める。二人は付き合っていないが、端からはそうにしか見えない。森久保はその様子を見て、二人を茶化す。
本当にもううんざりだ。どうして俺は、こんな低レベルの人間と同じ環境にいるのだろう。
絶対に国立に受かって、こんな馬鹿共とはおさらばしてやる――俺は、そう固く決心した。
「おーい、そろそろ交代の時間」
俺の後ろから、そんな声が聞こえてくる。いたのは陸上部の深川と
「もう休憩? 時間経つの早くね?」
「あーでも、やっと文化祭回れるわー」
渡辺と森久保は、来たばかりの二人にハイタッチをしてその場を去っていく。
宮沢は不服そうな顔をして、深川に声をかける。
「ねえ、女子は?」
「え? 知らんけど」
「ちょっとー、彩愛たち何やってんの? もしかして忘れてる……?」
スマホを取り出し、宮沢は何処かに電話をかけた。若干怒った声で会話しているのが聞こえる。
「今井もお疲れ」
「……あ、ありがとう」
深川にそう言われ、俺は少しどぎまぎしながらそう返した。
なんにせよ、俺の店番は終わった。これでやっと勉強ができる。騒がしい文化祭を背に、俺は一人、唯一勉強できる図書室へ向かった。
図書室には、今朝俺が置いてきた勉強道具が机の上にそのまま置いてあった。いつもの席に座り、改めて問題集とノートを開く。
外と比べ、ここは快適だ。ここは教室と少し離れた場所にあるので、文化祭の喧騒も気にならない。聞こえてきたのはシャーペンを走らせる音と校内放送、救急車のサイレンくらいだ。悠々自適に図書室で過ごしていた俺は、夢中で文化祭終了時刻まで国立の過去問を解いていた。それこそ、周りが気にならなくなるくらいに、だ。
蛍の光が放送で流れ始めた頃、俺はようやく自分が極度の空腹状態にあることに気が付いた。そういえば、今日は昼ご飯を食べていない。それに気付いたとき、今までの集中力がぷつりと切れ、机に突っ伏してしまった。
そろそろ頃合いだと思い、勉強道具を片付けて教室に向かった。スマホを見ると、クラスLINEが結構荒れている。案の定焼き鳥は足りなくなり、男子が買い出しに行くはめになったそうだ。そんなやり取りが残されている。
あまりにも馬鹿馬鹿しいやり取りに、少し笑いが込み上げてくる。本当に、どうして俺はこんなクラスにいるんだろう。
教室に戻ると、他のクラスの爽やかな雰囲気とは異なり、険悪な空気が漂っていた。俺が一人遅れて後ろのドアから戻ってきたことを、誰も気に留めないほど空気が張り詰めていて、そして無秩序だった。
椅子や机がごちゃごちゃに置かれ、さらにゴミが散乱する教室に、古河の声が響く。
「誰が深川を殺ったんだよ」
ドスのきいた、地獄から轟くような唸り声に、長瀬が反論する。
「待ってよ。深川が誰かにやられた、って決まったわけじゃないでしょ? もしかしたら、事故かもしれないんだからさ。それよりも、杏理にこんなことした犯人を探すのが先じゃない?」
「は? そっちはただ、荷物が引き裂かれてたってだけだろ? 深川は重症を負ってるんだぞ? こっちの犯人突き止める方が先だろ。こっちは殺人未遂だ、殺人未遂」
俺がいない間に、何があったんだ。
中央には引き裂かれた荷物を抱えて蹲る
前のドアには、俺が蹴飛ばした水入れがそのままになっていた。その近くには、血の痕が見える。
深川が誰かに殺されそうになって、重症を負った――そんなストーリーが頭の中に浮かび上がった。
「ねえ二人とも、一回落ち着きなよ。樫山ちゃんと深川君の件、どうして別々に考えようとするの? これ、もしかしたら繋がっているかもしれないよ?」
言い争う古河と長瀬に割って入ったのは、加藤だ。ボーイッシュな女子で、長瀬たちに比べると比較的装飾が少ない髪型をしている。
そんな加藤に、古河と長瀬は真っ向から反論した。
「なんだよ加藤。加藤はこれが繋がってると思ってんのかよ」
「どうして繋がってる、って思うの? 杏理と深川の件、全然違うじゃん」
「あたしはさ、犯人は樫山ちゃん狙いだったと思うんだ。樫山ちゃんの荷物をズタズタにしていた犯人は、運悪くその現場を深川君に目撃されてしまった。そこで犯人は、口封じのために深川君に手をかけた……どう、筋は通ってない?」
明るいけどしっかりとした声が、教室中に響き渡る。その話を聞いて、みんな納得の表情を浮かべていた。
加藤が近くにいた木村の方を向いて、胸を張る。
「どう? 結構な名推理じゃない? あたし、探偵とか向いてるかも?」
「奈々。今そういうふざけるとこじゃないから。まあ、その推理は筋が通ってると思う……けど、どうして犯人は樫山さんの荷物を?」
「そう! うちらが聞きたいのはそこなんだけど! てか、じゃあ犯人は誰なの?」
木村のツッコミに、長瀬が反応した。加藤はその問いに、言葉を詰まらせる。
「え、うーん……犯人まではわかんないけどさ、少なくともこれは悪戯とかそういう類いのものじゃないのは確かだよ。悪戯にしては手が込んでいる。犯人は相当樫山ちゃんのことを恨んでいた、としか推測できないな……」
その言葉に、樫山の肩が反応した。
加藤の推理披露が一通り終わると、渡辺が手を挙げた。
「なあ、思ったんだけどさ、犯人って本当にこのクラスの奴なわけ?」
「このクラスで起きたんだから、犯人はこのクラスの奴に決まってんだろ」
反論する古河に、渡辺が言葉を続ける。
「なんかさ、最初からクラスの奴を疑う風潮? っていうの、よくないと思う。そりゃ確かに、同じクラスの奴が怪しいって思うのはわかるけど……でも、教室って施錠されてなかっただろ? 外部犯もあり得るんじゃね?」
「はいはいはい! もしかして、幽霊の仕業とか!」
クラスの雰囲気とはうってかわって、江田が明るい声を出して手を挙げる。江田にみんなの視線が集まった。
「俺さ、昨日聞いたんだよ。放課後教室から、女子の『死ね』って叫ぶ声が。一瞬長瀬たちかな? って思ったけど、なんか声の雰囲気違うし。あれ、今思えば幽霊だったと思うんだよね。今回のこともさ、幽霊がやったことなんじゃ……」
そこまで言って、古河と長瀬が揃って反論に出た。
「は? ふざけてんじゃねえよ、江田。幽霊だ? お前、こんなときに何考えてんだよ。そんな冗談言ってる場合じゃねえだろ」
「大体さ、幽霊がどうしてそんなことするわけ? そもそも幽霊ってそういうことするの? それにさ、うちらの声かと思ったってどういうこと?」
「えっ、あっ、それはその……ああいうキンキン声って、長瀬たちのイメージあるから……」
「はあ!?」
長瀬に詰め寄られ、たじたじになる江田。さらに、長瀬といつも一緒にいる女子たちの怒りも買ったようだ。
言い争いがヒートアップする中、俺は後ろの隅にいた、軽音部の須藤たちの所に寄った。
眼鏡の須藤は、クラスでも比較的話しやすい男子だった。
「あのさ……深川って何があったの?」
「え? ああ、僕もよくわからないんだけどさ、教室のドアの辺りで倒れてたらしい。頭から血を流していたとかなんとか……だったよね、
「ん? あ、ああ。俺が聞いた話だと、そんな感じだった」
「鈍器か何かで殴られた……ってこと?」
「さあ、そこまでは……でも、そう考えるのが自然じゃないかな」
だが、一つ引っかかる点があった。それは凶器だ。犯人は何を凶器にし、何処へ持ち去ったのか――加藤の推理通りなら、深川の件は想定外の出来事だ。咄嗟に近くにあったものを凶器にしたんだろうが、果たして教室に凶器になるような鈍器はあっただろうか。
そしてもう一つ。陸上部の深川は、犯人から逃げることはできなかったのだろうか。樫山の荷物を引き裂いているところを目撃されたのなら、犯人は当時かなり焦ったはずだ。口封じをしようとしても、その考えに至るまでの時間や、凶器を見つけ出す時間があったはずだろう。その隙に、深川は逃げるなり人を呼ぶなりしなかったのだろうか。こう考えると、深川は「わざと」犯人に頭を殴られたことになってしまう。
あるいは、俺は何か思い違いをしているのだろうか。
そう考えていると、前のドアから柏木と武田が青い顔をして入ってきた。手には何か書類を持っている。
武田はみんなを見て、酷く冷たい声を出した。
「……あのさ、文化祭の余った予算が一万くらい足りなくて。誰か盗った奴いる?」
さらに文化祭二日目。今度は放火騒ぎがあったらしい。殺人未遂に器物損壊、窃盗にそして放火――あり得ない出来事が立て続けに起こった。
これが、高校生活一番の謎だ。でも何も解決せず、俺たちは卒業してしまった。そして、六年の月日が流れてしまったのだ。
柏木は何故、こんなLINEを今になって送ってきたのだろう。青春に決着をつける――あの文化祭で起きた、一連の出来事を指しているのは間違いない。みんなで集まって、今さら犯人探しでもするのだろうか。
まあ、俺は元より行くつもりはない。あのクラスに大した思い出はないし、会いたいと思えるような人もいない。
卒業式なんて、関係ない――そう思いながら、自分のデスク周りを片付ける。もう夕方だが、これから行かなくてはならない所がある。上司に押し付けられた仕事の中に、一週間以内にある取引先の資料を揃えなくてならないものがあったのだ。デスクに忌まわしい視線を送り、俺は会社を出た。
電車に乗ろうとしていたそのとき、ふと見覚えのある背中を見つけた。
「須藤……?」
その呟きは相手に聞こえていたらしい。既に電車の中にいたその男は、こちらを向いて驚きの声を上げた。
「え? も、もしかして、今井、君?」
眼鏡もあの頃と変わっていない。変わっているのは服装と、マスクをしていることくらいだった。
「うん……そう。今井だよ」
「久しぶりだなあ。それにしても、よく僕のことわかったね? 後ろ姿なのに」
「まあ、背格好に見覚えあったから……」
「そっか。僕が逆の立場だったら、絶対わかんないよ。正面見ても、声聞くまでは今井って気付かないと思う。制服じゃないし、何よりマスクしてるからさ」
俺も須藤と同じく、マスクをしていた。
卒業式を中止にさせた新型のウイルスは、あの頃ほどの猛威を奮っていない。ワクチンの接種も進んでいるので、比較的感染は抑えられている。
しかし、日々の感染者がゼロというわけではない。どんなに予防していても、次から次へと変異株が出てくる。だいぶ前に打ったワクチンの効果も、だんだん薄れていく。人々はまだ、あの忌まわしきウイルスと戦っていた。恐怖心はあの頃と比べて薄れているが、人が混み合う場所でのマスクの着用は未だに呼び掛けられている。すっかりそれが習慣になってしまったのだ。
俺は電車に乗り、須藤と並ぶ。まだ夕方の四時ぐらいなので、電車内は比較的空いていた。
「今井君も、帰りはこっちの方向?」
「いや、帰りは逆方向。仕事でちょっと、こっちに行く用があって……もしかして、須藤はもう帰り?」
「そう。時短だよ時短」
「へえ、羨ましいなあ」
時短とは、「時間短縮」という言葉を縮めたものだ。
ウイルスの影響下でも、日本はなかなか休むことなく仕事を続けていた。テレワークならまだしも、直接仕事場に行って仕事をするという形態が、諸外国と比べて多く取られたのだ。
ウイルスが流行り始めた頃に、ある職場で大規模なクラスター(集団感染)の発生、さらに感染者が多数死亡したことを受け、国は都市に「仕事の時間短縮」を呼びかけたのだ。
その影響で、「仕事場に行って仕事をするのは八時間まで」という原則が広まった。俺の職場ではあまりそういったことがされていないが、須藤の職場はきちんとしているらしい。
「でも時短と言っても、朝めちゃくちゃ早いから大変だよ。朝七時に出社とか、どうかしてるでしょ」
「それ、出勤時間をずらしただけじゃあ……?」
「八時間は八時間だからね。こうして四時頃に帰れるけど……でもこうやって三時に帰るなんて珍しいことなんだ。いつもはやっぱり残業させられて……」
今の須藤は恐らく、マスクの下で頼りない笑顔を浮かべているのであろう。
扉が閉まり、電車が動き始めた。
「今井君の職場って何処? ここから割と近かったりする?」
「あー、T企業に勤めてるんだ」
「えっ、あのT企業! すごいなあ、一流企業じゃん。じゃあ、給料もいいんだ」
「いやあ……俺なんて、まだまだ下っ端だから、そんなに給料もらってないよ」
「でも羨ましいよ。確か今井君って、国立大行ったんだっけ? やっぱ学歴がいいと、そういう立派な企業に勤められるんだな……」
立派な企業だと? あんな、誰でもできる仕事を俺に回すような会社が?
羨望の眼差しで見られても、俺は何一つ誇れることをしていない。端から見れば、俺は順風満帆に見えるのかもしれない。でも実際は違う。仕事に満足なんかしてないし、会社の底辺で燻っている。
須藤、お前に俺の何がわかるんだよ。
俺はこれ以上仕事の話をしたくなくて、強引に話題を変えた。
「ねえそういえばさ、柏木から変なLINE来てなかった?」
「え? LINE?」
少々面食らった目をする須藤。そして、合点がいったように頷いた。
「ああ、あの卒業式のやつか」
「そうそう、なんでいきなりあんなの来たんだろう」
「柏木君の考えることは、よくわからないね。高校生のときもあんまり関わりなかったし。多分、久々にみんなで集まってわいわいやりたいんじゃないの?」
「あれ、須藤は行く?」
「僕は行くよ」
その返答に、今度は俺が面食らってしまった。
「え……行く、の?」
「うん。星と一緒に行くつもり。久しぶりにみんなと会いたいからね。ほら、なかなかこういう機会ないからさ」
意味がわからない。どうして須藤は行く気になったのだろう。
表情にはおくびにも出さなかったが、内心俺は動揺していた。
「今井君は?」
「う、うーん……まだ、未定かな」
「そっか。みんな、どれくらい集まるかなあ。六年も経ってるからね。きっと、見違えるほどの別人になってるかもなあ」
「か、かもしれないね……」
「でもやっぱあのクラスの中で、今井君以上にいい会社に勤めてる人はいないと思うな。国立大行ったのも、今井君だけだと思う」
「そうかな?」
「そうだよ。今井君はクラスで一番頭がよかったし」
目付きしか見えなかったが、須藤は今、マスクの下で柔らかい表情を浮かべているのだろう。
須藤の言葉を聞いて、クラスの奴等を思い出す。確かに、あの中で一番頭がいいのは俺だ。それに、大企業に勤めているのも俺だけだろう。きっとみんな、俺より偏差値の低い大学を出て、俺よりレベルの低い会社に勤めている。
それと比べれば、俺はまだいい方なんだ。
「僕は今から楽しみだよ。みんなとまた会えるのが」
「そっか……」
須藤から目を離し、流れる景色に目を移す。
俺はあのクラスの中で、一番だ。あそこで俺以上の奴はいない――そう思うと、急に心が軽くなった。そうだ、まだ俺は落ちぶれちゃいない。下には下がいる。だから今の不遇に、そんなに嘆くことはないんだ。
きっと須藤と同じように、みんな社会の底辺で藻掻く雑魚なんだ。どうせなら、底辺の奴等をせせら笑ってやろう。
クラスの奴等の馬鹿さ加減を、確かめるにはいい機会だ。
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