ザッハトルテを食べるとき

加賀山かがり

ザッハトルテを食べるとき

 丸くて黒くて光沢のあるモノが何かを知っている?


 私はそれが大好きで大好きで堪らなくて、大体月に一度は買ってしまう。


 それをどれほど愛しているかというと、普段は鮮魚売り場のアジの開きのような目で歩く帰り道でも、それを買った日だけは、夏休み一日目の小学生みたいな表情になってしまうくらいに愛している。


 月に一回だけとはいえ、それでも毎月のこれがあればこそ、私は今生きていけるのだ。とそう確信出来るほどに心惹かれている。何なら私はコレをキメていると言っても良いのかもしれない。


 そう、ザッハトルテだ。

 私はザッハトルテを愛してやまない。


 毎月、これを食べるためだけに生きていると言っても過言ではない。依存していると言い換えられるかもしれない。


 大げさか?

 大げさかも……。


 でも、ザッハトルテをキメなくては生きていけない。そういうことにしておいて欲しい。


 この、チョコレートケーキとアンズの織りなすマリアージュが、口の中で転がる芳醇さが、私の燃料だ。車にエンジンを入れないと動かないように、パソコンに電気がないと立ち上がらないように、私にザッハトルテがないとダメなのだ。


 でも、ザッハトルテが合ってもダメなときはダメ。


 それはエンジンが足りていてもバッテリーがあがってたら車が動かないように、電気の供給が出来ていてもサーマルスロットリングが発生していたらパソコンが立ち上がらないように……。


 じゃあ私にはザッハトルテの他には一体何が足らないのだろうか?


 それは、一つだけだ。

 そう、平和な日常が足りていない。


 この状態で何にも考えずにザッハトルテをおいしくいただくことは私には、出来ない。


 どうしてかって言うと……、まず私が七階建てのマンションの六階に住んでいるというところから話を始めなければならない。


 そう、ここはマンションの六階だ。


 大体一階層に付き三メートル程度なので、私のいるこの六階は大体地上一五メートル程度ということになる。


 一五メートル……、それは大体ザトウクジラが垂直に立ったくらいの大きさ。あるいは五〇メートルの大体三分の一くらい。もしくは平均的なはしご車の高さが三〇から四〇メートル程度なので、おおよそその半分くらい。成人男性が肩車で垂直に積み上げられた場合で考えると、多分一二から一三人程度必要になるくらいの高さで、仮にヒグマだったらその半分くらいの数で済むかもしれない程度だ。


 とにかく、マンションの六階は結構高い。飛び降り自殺を図ったら大体死ねるけれど、死に損なって大変な目に合う可能性も、まぁあるよねくらいの高さ。


 私がなんでそんなに高さにこだわるのか、と言えば、それはその地上一五メートルはある高さの窓から巨大な目がこちらを覗き込んでいるからだ。


 目と言っても普通の目ではない。


 目だけで私の身長(一センチほどのサバ読み込みで)と同じくらいの大きさがある。よく考えると、地上一五メートルのベランダから普通の人が普通に目で私を見ていたとしてもそれはそれで同じくらいの恐怖感を感じる可能性があるけれど……。


 とかく、とかくだ。部屋干しした、紫色のセクシーランジェリーを取り込む余裕もない。


 だっておかしいじゃないか。


 なんだ、なんで私はこんな巨大な目に見つめられなきゃならんのかね……。


 もう硬直してしまって動けない。というか声も出ない。森でクマとか、オオスズメバチとかと遭遇した場合はどうすればいいんだったっけ……? 確か、目線をそっと外して、大声を出さずに、ゆっくりと後退りで距離を取るのが正解なのだっけ……?


 私、今自分の家にいるんですけれど、これもやっぱりちょっと目を逸らしながら後退りで距離を取るのが正解なのかな……?


 でも、眼球だけで私の身長とお同じくらいの大きさがある、なんだかよく分からない生物だよ? 距離を取るって言ったって、どこからが遠く判定でどこからが近い判定になるのか、さっぱり分かりゃしないのだけれども……。だけれども……!!


 いや、待てよ? じぃっとこちらを見てくるだけだし、意外と温厚な生き物なのかもしれない。温厚だったとしてもこの大きさは怖いけれども、だけれども……!!


「ハァイ、私メアリー!! あなたのお名前を教えて下さいませんでしょうか?」


 さっさと逃げればいいものを、何故かその巨大生物の目玉に対して軽く手を振って、引きつった笑顔を作り、声をかけてしまった。


 とち狂ったような気がする。重ねて言えば私はメアリーではない。


 しかし返事はなかった。当たり前だ、そもそもこの生き物が日本語を理解できるかどうかがまずもって分からないのだから。


「そんなに熱視線を送られると、私人見知りだからちょっと照れちゃうのよ……。きゃっ……!!」


 何故か、私のお口は勝手に頭が茹ったようなことを言い始めた。


 もう、分からない。自分が全然分からない。


 ダメでしょ、この全長何メートルあるのかもよく分からない、そもそも本当に生き物なのかも確証が全くない相手に対して、そんなことを口走ったら。なんかそういう変な拗らせた性癖の人と間違われるじゃないのさ……。(注※誰に?)


 しかし、私のなけなしの友好的接触は悉く無視されるのだった。


 なんだか段々腹が立ってきた。


 なんだ!!


 なんで私はこんなギョロギョロ目におびえて、ひるんで、半べそになって、メソメソしなけりゃならんのだ?


 違うだろっ!!

 ここは私のお家なんだぞ!!


 私が平静平和にザッハトルテを食べる場所なんだ!!


 えぇい!! こんな訳の分からないものに、私の至福のひと時を邪魔されてなるモノですか!?


 私は激怒した。必ず、かの邪知暴虐の目を除かなければならぬと決意した。


 私に生き物の巨大さは分からぬ。


 けれども、やらねばならぬ時がある!!


「ちくしょう!! 見ていろよ!! 私が今からここで、至福のザッハトルテを食す様を!! ようく目に焼きつけろよ!!」


 部屋の真ん中に出しっぱなしになっている丸机の上に、買ってきたザッハトルテの箱をそっと置いて、片付け忘れていた期間限定イチゴヌードルの空のカップを片づける。どうでもいいけれど、これはおいしくなかった。


 手に持ったカバンを適当にその辺に転がして、巨大な目に背を向けて電気ケトルに水を入れて湯を沸かす。


 それからわざわざザッハトルテをおいしく食べるためだけに揃えた紅茶の茶器を洗いなおして、戸棚から茶葉を取り出す。フレーバーの名前は忘れてしまったけれども、それでもこのフレーバーティーが五〇グラムで一七〇〇円くらいしたのは憶えている。


 わざわざ振り返ってこのハーブティのパッケージを巨大生物に見せびらかしてドヤ顔を決めてみた。


 お前はこんないいお茶飲んだことないだろう!! という気持ちを込めたならば私史上今世紀最大のドヤ顔が炸裂した。


 ははっ、このドヤ顔に対しても何にも言ってこないとは、さてはお前中々器が大きいな?


 お湯が沸いたので、まずは茶器にお湯を流し込んで温める。温めている間に、もう一回電気ケトルでお湯を沸かす。


 その間、私はベランダから覗いてくる巨大な目玉とにらめっことしゃれこもうじゃないか。


 なんならいっそ、とっておきのセクシーな下着を使ってストリップショーをしてやってもいいぞ!!


 ……、それはやっぱりなしの方向で……。


 お湯が沸いたので、ティーポットに茶こしを落として、茶こしの中に茶葉を入れて、それからお湯を打点高めで流し込む。


 私はなんで打点高めからお湯を注ぐのかはいまいち分かっていないけれど、でもなんとなくカッコいいような気がするから、そうしている。確かどこぞの有名な紅茶ショップの店員さんがそんな風に湯を注ぐのを動画サイトか何かで見たし!! だから多分、正しい!! 分からない!!


 もちろん一連の作業中もドヤ顔は欠かさなかった。


 これは私なりの示威行為なのだ。

 こんな訳の分からぬ大目玉に負けてなるモノかよ!!


 それから抽出することおおよそ二分。


 買ってきたザッハトルテを箱から取り出して、抽出の終わったお茶をカップへと注ぐ。


 辺りに華やぐフレーバーティの良い香りが広がった。


「フフフ、さぁどうよ!? うらやましかろ? うらやましかろぉ?」


 ほんのりと香る、さっぱりとしたリモネン系のフレーバーを全身で感じながらこれ見よがしにティーカップを持ち上げて、一口つける。


 部屋に充満したニオイと同じリモネン系の爽やかな香りが真っ先に口内に充満する。そのあとで、強めの苦みが舌の上に広がる。


 この爽やかさと渋みの絶妙なハーモニーがザッハトルテとよく合うのだ。


 ふ、フフフ……。


 カップを置いて、箱から取り出したホールのザッハトルテにナイフを入れて、食べやすい大きさにカットする。


 一つを小皿に乗せて、フォークを入れ、そのまま口へと運ぶ。


「ふふぉ、ふぉぉぉ」


 口の中に幸せの小宇宙が乗り込んできた。


 云い知れない酩酊感が口から鼻腔を経由して全身へ広がっていく。


 チョコレート味のスポンジケーキと、とろける生チョコとコーティング用のチョコレートとアプリコットジャムとが絶妙のバランスで口の中に香りを広げて、全身を包み込むようなグラデーションを生み起こす。


 現代の天の川ミルキーウェイはここにあった!!


 一口食べただけでもうダメだった。


 穏やかで満ち足りた感情に全身が支配されて、そのほかのことなんて、もう全部、飛んでいってしまった。


 夢中でフォークを動かして、夢中でティーカップに口を付ける。


 紅茶を飲みつつ、ザッハトルテを食べて、ザッハトルテを食べつつ、紅茶を飲む。


 それだけ、それだけが良かった。


 もう他のことなんて眼中になくなってしまって、ただただ無心でザッハトルテを食してしまう。


 そして満足いくまでザッハトルテを食べたころにふと気が付けば、窓の外からこちらを覗く巨大な目は煙のようにどこかに消え失せてしまっていた。


 不思議に思いながらも何にもないならばそれでいいかと思って、その日は普通に歯を磨いてお風呂に入って、お肌のスキンケアをしてからさっさと眠った。


 次の日のニュースを色々チェックしてみたけれど、この辺りに巨大な生き物が現れたという記事は一つもなかった。


 もしかすると、私は幻覚を見ていたのかもしれない。



 後になって、二七才の喪女が魔法少女に勧誘されるという過酷すぎる仕打ちが待ち受けていたのだけれど、それはまた別のお話だ。


 了

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ザッハトルテを食べるとき 加賀山かがり @kagayamakagari

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