母を読む

@kazusajasmine

第1話 母が嫁いで

母と父は恋愛結婚で、結婚の挨拶に行くまで、母は父が農家の長男である事を聞かされていなかった。

結婚してすぐ、父の転勤で九州へ。

子供2人授かり生活は楽ではなかったが、楽しく充実した日々を送っていたのだろう。

3年程経って、父の故郷である千葉に戻って3世帯7人同居が始まる。


敷地には母屋と納屋があり、曾祖母、父、母、私、妹の5人が母屋で、祖父母2人は納屋の2階で寝ていたが、ご飯やお風呂は母屋で一緒だった。

祖父母は農家で野菜とお米を作っていて、農協におろしたり、月1度は祖母が東京まで行商に行っていた。

父は会社員の傍ら、空いた時間で農家を手伝い、母はパートで働いていた。


祖父母の洗濯物以外の家事は母が担っていて、きれい好きな母は広い家の隅々まで良く掃除していた。

夕食は7人揃ってだったが会話はなく、婿養子だった祖父は曾祖母の席の前に前日などに余ったおかずの皿を差し出す。

それを見た母は、『おばあちゃん、それは古いから』といって下げていて、その光景を私は見ていた。

おじいちゃんって意地悪。なんでいつも同じ事するんだろう…と思っていた。


会話のない食卓で、お通夜の様な感じ。

子供ながらに空気を読んでいて、話をすることも出来なかった。


外で家族の話をする事もなかったので、他の家がどうかは分からなかったが、他の家とは違う気がする…という気持ちはずっとあった。

事あるごとに母の悪口(陰口)をたたく祖父母には憤りを覚えていたし、なつく気もしなかった。


妹は深くあまり考える方ではなく、祖父母にも懐いていたが、私は懐くものか(世話になると又母が悪く言われると思って)と意地をはっていた。


農家の本家、事あるごとに親戚や近所の人が集まってくる家。

玄関も鍵は開いたままで、インターフォンも鳴らさず上がってくる人もいたし、それでも祖父母達は気にせず、食事をふるまったり、野菜やお米を持たせたり。


祖父母は、両親に何か気に入らない事があると直接話し合いするのではなく、母の両親に連絡をして、母の両親、親戚一同集めて家族会議をしたとの事。


嫁なのだから、嫁なのに、これだから最近の若い者は…と重箱の隅をつつく様に1つ1つの行動をチェックして、両親が外出している時は勝手に部屋に入り部屋をチェックする始末。

プライベートが脅かされる日々。

言い返したりも出来ず、家族会議でも一方的に責められて終わり。

相当なストレスだったと思う。


幼い頃ずっと母はおとなしいと思っていたが、今思えば大人しいではなく、元気がなくなっていたのかもしれない。


母は母子家庭で育っていて、母親に負担をかけない様に中学生の時~年齢をごまかしてアルバイトをしていたらしい。

学校のお弁当も自分で作り、高校も公立の志望校へ入学、夢であった銀行員になった。


父と出逢い結婚する事になった為、銀行は1年程しか勤められなかったが、母のもう1つの夢(家庭をもつ事)を叶える為だったので何の未練もなかったと話していた。


19歳で嫁いでそこから19年位、慣れない田舎で嫁姑、親戚問題に悩まされてきて、間に父の転勤があったのが唯一の救い(数年間の家族4人暮らし)だったのかもしれないが、あそこまで辛い思いをしてまで何故あの家に戻ったのか?


そこには長男の嫁、跡取り、本家…という見えない重圧があり、◯◯せねば!という思いがあったに違いない。


私は中学にあがっても夜尿症が治らずだった。

夜尿症に効くという高価な薬をお年玉で購入して飲んだりしていたが効き目も感じず。

妹も小学校高学年まで夜尿症で、妹が治ってほどなくして私も治った。


母は教育に熱心で、テレビの時間を制限されたり、ゲーム機などの遊び道具は目が悪くなると言って買ってもらえず。

塾も沢山通っていたので、友達と遊ぶ時間もあまりなく、遊んでもゲームの話やドラマなどの話にはついていけず。。

モヤモヤ1人落ち込む事も多かったが、帰ってきても両親は共働きでいなかったので、誰に話すこともなく、大好きなリカちゃん人形で一人遊んでいた。

中学2年生位までは遊んでいたと思う。

髪の毛をキレイに整え、洋服を着せ替えさせ、明るく楽しい家族友達ごっこ。

時々、彼のケンくんが登場したり。。

ケンくんは母の両親(東京に住んでいた私の祖父母)がクリスマスに贈ってきてくれた大事な人形。

滅多に会えないが、祖父はとても優しくいつも元気で明るかった。

私は高校生になるまで知らなかったが、母が大人になってから祖母が再婚した為、祖父とは血の繋がりはなかった。


とても優しくて、賢くて、定年退職した後は資格を取ってマンションの管理人をしていた。

背も高くて、オシャレで格好よくて…とにかく自慢の祖父だったので、血が繋がっていないと知った時はとてもショックだった。


でも同時に血が繋がってないとは思えないくらい可愛がってくれた事に尊敬と感謝の気持ちが芽生えた。

高校3年生の時に胃ガンで他界したが、祖父は、夜になると時々電話をくれて…元気な大きな声で、その声は○ちゃん(私)だな!ワッハハと必ず同じやり取りだった。

その一瞬のやりとりで心がパーっと明るくなった事、その時のやりとりを30年近く経った今でも良く覚えている。


私は人形だけは沢山与えられていて、8体は持っていた。

みんな大事にしていて、その時々主役(遊ぶ子)も変えていた。

きっと、人形遊びで心を整え、たまにかかってくる祖父の電話に癒されていたんだと思う。

そして、祖父は母の事を気に掛けて電話をくれていたのもあるんじゃないか?とも思う様になった。


よく本を読んでいた祖父が母に渡した1枚のメモ。

今は額に入れて実家に飾られているが、そこにはこう書かれていた。

『人は信念と共に若く、疑惑とともに老ゆる。 人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる』


元気を失くしていた母に向けられたメッセージ。

大人になってサミュエル・ウルマンの「青春」と知った。

偉大な祖父だった。

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