世界一嫌われている食べ物

拓郎

第1話

ドラえもんの声優が変わった年だった。皿洗いのバイトをしていた。正確に言うと和食屋の厨房なのだが、僕は料理を触るアビリティが皆無なので、食器洗いのエキスパートだった。

濡れてしまうということで、制服は半袖。絶え間なく注がれる冷たい水に手は腫れ上がった。清冽な水は肘から先を何時間も濡らし続け、毎日何かの洗礼を受けている気がした。コンクリート剥き出しのバックヤードは、極寒の外気にさらされてので、よく風邪をひかなかったと思う。

あの冬はレミオロメンの『粉雪』が一日に何度も流れ、聴いているうちに心まで白く染まっていくようだった。思えば大変な仕事であったが、苦しくはなかった。


店は小さく、バックヤードは三人で回っていた。

まず皿洗いの僕。そして十九歳のお姉さん。彼女は料理の盛り付けが担当。最後に三十五歳のおっさん。揚げものやら何やらを作るコック、料理長だ。広末涼子似のお姉さんは太陽のようにやさしい人で、食器洗い機である僕に「いつもありがとうね」と声をかけてくれた。その声を聞くと、氷点下に凍てついていた体と心がほぐれていった。ロボットが人間の情に触れ合って、心が通っていく話みたいだった。

おっさんは、きっぷの良さが売りの威勢良しだ。声も態度も大きいが、困ったときは頼りになるアニキだった。むかしヤンチャしていたらしく「若い頃、露出狂やっていたことがあんねん!」などとよく武勇伝まじりに話していた。しかし嫌味もなく、粋な男だった。

「最近やってないけど、今もたまにうずく」とか言っていたので、きっと何かの病気だったのだろう。でも人間なんてどこか病んでいるものだ。性犯罪者ではあるが、悪いひとではなかった。紳士的だったし、仕事も早く、キモチワルイけれど。何より気持ちのいい男だった。


ある日、おっさんが「嫌い食べ物がない女はモテるぞう!」とお姉さんに意味の分からないアドバイスを送った。

「そうなんですね」

白くて長い指で料理を盛り付けながら、お姉さんはにこやかに相づちを打っていた。綺麗な首が少し動く。

僕も口を挟んだ。僕は「世界一嫌いな食べ物に挙げられているものはチーズだと思います」と素っ頓狂、かつロボっぽい見解を示した。一瞬、バックヤードから僕たち三人の声が消えた。

水道が陶器を叩く音と油が衣を結晶化する炸裂音。時給数百円の中空にレミオロメンの『ララライ、ララライ、ララライ』というフレーズが鳴り響いた。

「いや、違うな」

おっさんが沈黙を切り裂いた。真剣な眼差しだった。

「チーズじゃないんすか?」となぜか僕は半ギレで返した。

「ナスや」

「「ナス?」」

僕とお姉さんの声が重なった。粉雪はサビに入った。

「知らんやろ? 俺のツレが集まると二人に一人はナスが嫌いなやつがおる。まぁ俺はナス好きやけどな」

おっさんが顔を傾けて、まっすぐ僕の目を睨んだ。目線が串になって、後頭部まで抜けていきそうだった。

「俺はナス食えます」

「私もナス好きですよ」

なぜかお姉さんも微妙にキレていた。意味不明だった。お姉さんの目はリング上のボクサーみたいだった。

「ここに三人おってナスが嫌いなやつが誰もおらん……そうじゃないすか? さっき二人に一人はナスが嫌いって言いましたよね?」

僕はここを逃してたまるものか、とコーナーに追い詰めるかのごとく語気を強めた。

「何言ってんねん…ここは和食屋やぞ……ナスが嫌いで勤まるかい。俺はあくまで一般的な話をしとるんや」

おっさんは体制を崩されながらも返してきた。

「元々この話は『嫌いな食べ物がない女はモテる』だったはずじゃないすか。一般的って何なんすか?」

僕は声の切っ先を向けた。

「そうですよ。しかもナスが嫌いだと和食屋で働けないのも意味が分かりません」

お姉さんもロボットのような冷たさだった。もう太陽でも何でもなくなっていた。

全然皿を洗っていないせいでシンクに食器は山盛りだった。おっさんの揚げ物は衣がガリガリに痩せこけて、お姉さんのエリアの料理も冷めきっていた。

「まぁええわ……チーズが世界一嫌われてる理由は分からんけど、俺もチーズは嫌いやしな……ナス好きやし」

おっさんはそう言って、時間が経ちすぎて駄目になった料理をゴミ箱に捨て、作り直しはじめた。

「そうですね、私もチーズは好きじゃないです……」

お姉さんも料理をゴミ箱に捨てまくり、一度盛りつけた食器をこちらに回した。

僕はその皿を受け取って「ほら……チーズ嫌いなひと多いんすよ…俺は好きですけど」とこぼした。

滝行さながらの水圧を皿に当てる。油分がムンクの叫びのような跡を作ってすぐ消えた。

おっさんとお姉さんがフロアから文句を言われている。オーダーが通っていないことになりバイトが客に怒られている。

外気が全身に突き刺さり冷水が爪から侵入してくる。寒さを通り越して痛かった。それでもたまった皿をどんどん洗う。いつの間にかすっかり昼になり、忙しさもピークを迎えていた。

怒涛の勢いで、フロアから食器と残飯がやってくる。僕は残された食事をゴミ箱に捨てて、すべてを洗浄していった。ふと気がつくと、なんだか残飯にはナスが多い気がした。気のせいだろうか。ナスの話をしていたからかナスばかりに見える。

もしかしておっさんは、自分の作ったナスが不人気なのを密かに知っていたのかもしれない。

僕は箸の付けられていないナスをそっと口に運んでみた。

「食うな!」

背後から鋭い声がした。おもわずビクッと震えた。

「そんなもん、食うな……!」

おっさんはこちらを向かずに小さくこぼした。胸いっぱいに灰が詰まっているような声だった。

「はぁ……わかりました……」

僕は「こいつ後ろにも目が付いているのか」と驚きながらもナスを食べるのをやめた。

「なに……?拓郎くん、残ったナスを食べようとしたの?」

お姉さんが言った。

「はい……もしかしたらこのナスが不味いんかなと思って……」

「とにかく、やめとけ……」

低くて小さな、うら悲しいやるせなさを帯びた声だった。

「わかりました……」

僕はナスを思いきりゴミ箱に叩き込んで、もう一度食器をバシャバシャやり始めた。また皿が来る。ナスが乗ってる。ナスをゴミ箱に叩きつける。磨く。ナスをダンク。洗う。

明らかにナスは嫌われていた。もう残飯がナスばかりに見えた。気付かなかった。ナスがこんなに残されているとは思わなかった。ゴミ箱を覗くと、ナスの塊が気味の悪い怪物になって襲いかかってきそうだった。


「すみません。一番嫌われてる、食べ物はナスです。はい……ナスだと思います……」

僕はナス箱を見ながら、言った。お姉さんもナス箱を見て、目を見開いていた。

「なんか、私もごめんなさい……」

「ほらな、言ったやろ……」

おっさんは細い声でナスを調理していた。炒めたり、揚げたり、焼いたりとナスに多様なアレンジを施していた。

お姉さんが出来上がったばかりの不味そうなナスを丁寧に盛り付けていた。やがて捨てられるナスを見る目は、慈しんでいるようにも憐んでいるようにも映った。 

「あの……私ナス好きですよ…… 本当に……」

こちらまで静かに溶けてしまいそうな声だった。おっさんは翌年逮捕された。

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