二の三 裏切りの向こう
それから半月が過ぎ英会話教室の日がやってきた。今日は大倉が教室に来る日だ。
二日前電話があって
「日本に帰ってきたんだ。水曜日に予約したからって会えるね」
そう言ってた。
仕事が終わり急いで駅に向かう。今日は由子はなにも言わない。
電車の扉の開くのが遅く感じる。いつもは早歩きで教室に行くのだが、今日は走って行った。教室の家の前で息を整えていると
「そんなに走ってきたの?」
後ろから大倉が声をかけてきた。
「遅れるかなって思って」
咄嗟に嘘をついたが、大倉は気づかないのか
「じゃあ、早く入ろう」
と、久美子の背中に触れながら扉を開けた。
大倉がお土産だと言ってウイスキーをロバートに渡したので、今日はアルコールを飲みながらのレッスンとなった。
アルコールが入るとみんな気が大きくなるのか、普段言わないような話題も出てきて盛り上がった。みんなで大笑いしながらのレッスン会も時間になったので解散となった。
「久美子さん,酔ってない?大分飲んでたみたいだけど」
「少しだけですよ。大丈夫です。大倉さん,電車の時間ですよ」
「じゃあ大丈夫だね。また,連絡するね」
「はい,待ってます」
ちょっぴり呂律が回っていなかったが、大倉の背中を押して駅へ行かせた。
この間は、しばらく大倉の後ろ姿を見ていたが,今日はすぐにマンションへ戻っていった。大倉が駅の方へ歩き出してしばらくすると、一台の車が横に止まり大倉を乗せて走り出した。
「今のが手に入れたいお嬢様?」
「手に入れたいのはお嬢様と社長の椅子」
「そうしたら私はお払い箱ね」
「お妾さんでもよければ、構わないけど」
そんな会話が車の中で交わされた。
週末の土曜日、久美子の携帯が鳴った。
「ハイ、榊原です」
「久美子さん、米原です。おはようございます」
「あら、おはようございます」
「今、話していて大丈夫?」
「いいですよ、どうしました?」
「この間、話ができなかったので時間があったらどうかなと思って、急で悪いんだけど、これから時間ある?」
「これから?えっと、一時間後なら大丈夫だけど」
「本当?急でごめんね。一時間後迎えに行くよ。吉祥寺駅でいい?」
「こっちまで来てくれるの?私も途中まで出ていくわよ」
「僕の家、小岩だから電車ならちょうどいい時間じゃない?」
「わかった。吉祥寺駅中央口で待ってるわ」
「じゃあ、あとでね」
一時間後、吉祥寺駅に現れた米原は、この間の疲れた顔はみじんもなく爽やかだった。
一瞬、彼の顔を見たときドキンとした。大倉にドキッとしたのとは違うドキン。
「無理に時間取らせちゃったね」
「そんなこと気にしないで、わざわざこっちまでありがとう」
「井の頭公園が近くにあるんだよね」
「そう、良く知ってるわね」
「歩いていけるでしょう?行こうよ」
米原が久美子の手をとり、歩いていく。何の抵抗もなく手を握っている。
ほどなく井の頭公園につくと
「へぇー結構広いんだね。ボートまであるんだ、自然文化園か、一日遊べるね」
「そうなの、ここに本をもって一日ぼうっとしていることもあるわ」
「とりあえず中に行こう」
井の頭池周辺を歩きながら、食べ物の好き嫌いや映画など他愛のない話をした。
「あそこのベンチで座ろうか」
「疲れちゃったの?」
「立ってたら話ししずらいでしょ」
「フフフ、そうね」
駅からこのベンチに座るまで、米原はずっと久美子の手を離さなかった。
「この間、あのふたりと車置いてきちゃったでしょう、何か言ってた?」
「そう、それがね、あのおしゃべり由子が何も言わないのよ。話題にも触れようとしないの。精也くん、何か言ってた?」
「べつに、電話でゴメンって謝ってきたけど」
「ふ~ん、ねぇ、あの晩の宿泊代ってだれが払ったの?」
「僕と精也、精也が7割払ってた」
「そうなんだ、カラオケボックス代は米原さんが払ってくれたのよね」
「そうだったけ?覚えてないけど」
「え~」
「冗談だよ、ちゃんと払いました。ねぇ、のど乾かない?ジュース買ってこようか」
「うん、あっちに自販機あったわね」
「買って来るよ、何飲む?」
「やっぱり、一緒に行く」
結局自販機の前を通り過ぎて、公園わきの喫茶店に入った。2時間ばかりおしゃべりをして駅に戻ることにした。せっかく、自分のところまで出てきてくれた米原と、このまま別れるのが 寂しくなった久美子は、
「米原さん、家、寄ってく?」
「えっ・・・いや、男心の米原は行きたがっているけど、奥手の米原はまだ早いって思ってる」
「で、結局はどっちの米原さんなの?」
「本当にいいの?」
「いいわよ、せっかく出てきてくれたのに」
「やった」
15分後久美子の部屋についたが、入口で躊躇している米原がおかしかった。
「奥手の米原さん、大丈夫よ。襲ったりしないから」
「いや、逆でしょ。言い方が・・じゃあ、お邪魔します」
「あまり飾り気のない部屋でびっくりしたんじゃない?ちっとも女の子っぽくないから」
「そこで肯定をすると、いかにも女性の部屋に行ってますってことになるよね。でも、落ち着いていていいんじゃない?それにしても本が多いね。好きなんだ」
「あまり出歩かないので、本とDVDが多いかな。珈琲とビールどっちがいい?」
「珈琲で、ビール飲んじゃうとまた寝ちゃうかも」
「それは大変だ。珈琲にしましょう」
「海外勤務希望なんだって?」
「ああ、由子が言ったの?そう、出来ればね」
「どこがいいの?海外って言っても広いよ」
「東南アジアかアメリカかな」
「へぇーそれで英会話か」
「なに?そこまで由子が話しているの?ふたり怪しいな」
「残念ながら、いつも横に精也がいるよ。人の彼女に手を出すほど困ってない」
「何それ、彼女いるんだ」
「あ~そう取られる言い方だったよね。彼女がいたら女性の部屋に入らないでしょ、普通」
「男性の気持ちはわからないから、何とも言えないわね。さて、話しをしましょうか?それとも何か映画見ますか?ネットフリックス繋がっているけど?」
「そうだね,映画を一本観たらちょうど食事にいい時間だね。久美子さんは,洋画だよね」
「米原さん,呼び捨てでいいわよ。年上だし」
「じゃあ、その米原さんもやめない?でも、くっきーは砕けすぎちゃうから、久美ちやん?」
「私は・・、こうちやん?」
「ははは、なんか小学生になった感じ、苗字のさん付けじゃなきゃいいよ」
「そうか、えっとね、この映画観たかったんだけどいい?」
久美子が浩二の横に座って言う。
「へぇ、こういったハードボイルド系も見るんだ?」
「普通の会話より楽しいの。乱暴な英語は使わないしね。字幕はこっちのボタン」
「いいよ、字幕は無しで。英語の勉強したいでしょう?」
あまりにも二人の顔が近かったので、
「ちょっとドキドキするわね」
笑いで誤魔化して少しだけ場所をずらした。
映画を観ている間は、あまり会話もなく画面を見続け、約二時間ほど時間が過ぎた。
「久しぶりに観たけど面白いな。今度はスクリーンで観たいね」
「音も違うものね」
「さて,飯でも食べに行こうか?」
「そうね、なんのお構いもできなかったけど」
ふたりで夕暮れの街に出かけ、駅近くのフレンチレストランに入った。
ほどなく久美子から話し始めた。
「仕事何しているか聞いてもいい?」
「今は、知り合いの人の会社で働いている。忙しいみたいで頼まれたから」
「実家は手伝わないの?」
「兄貴と親父がやってるから、たまに配達に行くぐらいかな」
「そうなんだ、この間すごく疲れていたのは仕事が忙しかったのね」
「あの時な、二日ほどあまり寝てなかった。迷惑かけたね」
「無理して来てくれたんだ。それなのにあの結末!」
「それはそれでいい思い出だったよ」
デザートを食べると浩二が
「今日は無理に引っ張り出してごめんね。すごく楽しかった」
と言って
「こちらこそ、ありがとう。楽しかった」
久美子が答えた。
(なんでこんなに時間が経つのが早いんだろう。ここだけかな)
久美子の心の中では、時間が止まってくれることを望んでいた。
駅の改札口で
「じゃあまたね、連絡するよ」
浩二が繋いでいた手を離そうとすると、久美子が浩二に抱きついた。
「久美ちゃん?」
「ゴメン、じゃあまたね」
そう言いながら体を離した。
何かを振り切るように浩二が改札の中に消えていった。しばらく見送っていた久美子だが、振り返って自宅まで走って行った。
久美子が家に戻ったのを車の中から見ている男女がいた。
「邪魔者が現れたか。早めに勝負に出るか」
男の声が言ったすぐあと車は走り去った。
仕事に行っても何となくぼうっとしていることが多くなった久美子を、由子が心配して声をかけてきた。
「どうしたの?恋煩い?聞くよ、話しなよ」
「恋煩いなんかじゃないわよ。大丈夫なんでもない」
「ふーん、何かあったらいつでも言ってよ。友達なんだから」
「ありがとう」
金曜日の夜、久美子に大倉から連絡があった。
「今週末、忙しい?」
「いえ、大丈夫です」
「ならさ、映画見ながら勉強しない?自分も珍しく連休になったんだ」
「本当ですか。うれしいです、どこへ行ったらいいですか?」
「君の部屋、っていうと厚かましいから、僕の事務所においでよ。部屋だと緊張するでしょ」
「事務所があるんですか?どこでも行きますよ私」
「じゃあ、明日2時ごろ渋谷に来てくれる?スタンダードにハチ公前で待ち合わせ」
「わかりました。ハチ公前ですね」
電話を切ってから久美子は嬉しさ半分、心配半分の気持ちになっていた。
「事務所だとしても男性と二人きり?」
ハチ公前は相変わらず人で混み合っていた。
「こんな中で大倉さんに会えるかな・・・」
ハチ公前より少し駅側に立っていると、後から肩をキュッとされて振り返ると大倉がニコニコしながら立っていた。
「待たせた?」
「いえ、すごい人なので会えるか心配でした」
「大丈夫だよ、どんなに人が溢れていても、久美子さんを見つける自信はあるよ」
女子ならいちころの口説き文句だ、特に恋愛経験のない久美子にとっては魔法以上の言葉に聞こえた。
「少し事務所まで歩くけど、大丈夫?」
「大丈夫ですよ。こう見えても運動は得意ですから」
お嬢様で育てられていたが、反抗期の時にかなりおてんばをしてさえをよく心配させた。
大倉は久美子の肩に手を置いて、自分のそばに寄せながら歩くのが好きなようだ。
最初、久美子は歩きづらかったが、歩調を合わせて歩けるようになっていた。
宮益坂から青山通りに向かって歩いて行く。青山学院の近くのマンションの前で大倉が言った。
「ここが事務所。マンションの一室だからそんなに広くないんだ。でも、生活用品は一応揃ってる」
エレベーターを8階で降りて、真ん中の部屋の扉を大倉が開けた。
「どうぞ入って」
「お邪魔します」
入ってすぐ応接セットがあり、左奥にデスクとパソコン・電話などがある。
小さなキッチンやバスルームもある。さらに奥に扉があるので部屋があるのだろう。
「素敵な事務所ですね」
「ありがとう、そこのソファに座ってて。プロジェクター用意するから」
ブラインドが閉まり、奥の扉の前にスクリーンが降りて来る。
「本格的ですね」
用意ができてから、キッチンへ行きグラスとワインを持ってきた。
「さて、映画にはポップコーンがお決まりだけど、今日はワインを飲みながらレッスン映画を観ようか」
「良いですね」
グラスにワインを注ぎ、ライトのスイッチを切るとスクリーンに映像が映り出された。
音声も部屋の四方にあるスピーカーから聞こえて来る。久美子はその雰囲気にのめり込んでいった。
大倉が久美子の右横に座り、左手は久美子の肩に置いた。一瞬体をすくめたが、すぐに映画の世界に入り込んでいった。何口かワインを飲んでいると大倉が、
「久美子、今日君が来てくれたこと嬉しかったよ。僕の願いの一つが叶った」
「願い?」
「そう、君とこうして二人っきりになれること。ただ,もう一つお願いがあるんだ。聞いてくれる?」
「な,なんですか?」
少しうわずった声で久美子が聞く。
「久美子のことが初めてあった時から、好きになってしまったんだ。お願いは僕のものになってほしい」
「え・・・」
大倉は立ち上がるとスクリーンのところに行き、
「この向こうに扉がある。久美子を迎えられるところさ。もし,願いが叶わなければ,もう,久美子には合わないよ」
背を向けたまま,久美子に言った。
久美子は黙って聞いている。
「叶わないなら辛くなるからこのまま帰っていいよ。もし,叶うならこの扉まで来てほしい」
大倉が久美子に向き直り言った。
久美子はしばらくそのまま大倉の顔を見ていたが、ソファから立ち上がり大倉のところへ歩いて行った。米原浩二のことが心から消えてしまったかのように、虚な目をした久美子は大倉の胸に顔を埋めた。
「久美子ありがとう,願いを叶えてくれるんだね」
久美子の背中を押すように扉を開けて中に入って行った。
そこにはダブルベッド、テーブル、ソファ、柔らかい灯りのランプがおかれ、どこからか流れてくる音楽が心地よく聞こえた。そして、ほのかなアロマの香りが漂い久美子を包んだ。
久美子をベッドに腰掛けさせると、
「ちょっと待ってて、ワイン持ってくる」
すぐにワインとグラスを持って大倉が戻ってくる。その間、久美子はただ座っていた。
ワインを注ぎ一つを久美子に渡し、
「これからの僕たちにカンパイ」
と言いながら一口飲んだ。久美子も誘われるように口をつけた。
そのグラスを大倉が久美子から受け取ると、テーブルに置き
「もう一度聞くよ。本当にいいんだね」
と,耳元で囁く。
久美子は相変わらず何も言わない。虚な目で大倉を見ていた。
大倉は久美子をそっとベッドに寝かせると、口づけをしながら
「嬉しいよ,久美子」
囁きながら服を脱がせ始めた。久美子は人形のようにされるがままになっている。
「かわいい僕のエンジェル」
やがてお互い何も纏わない姿になると、大倉は久美子に重なってきた。
一瞬久美子は正気になったかに思えたが、大倉のされるがまま身体をあずけていった。
全てが終わった時、久美子に感情はなかった。嬉しさも悲しさも心にはなく、
「本当にこんなことを望んだのか?」
疑問だけが浮かんだ。
それからというもの憑物がついたように,久美子は大倉の元へ通った。由子の言葉にも耳を貸さない。由子が浩二に助けを求めた。が、浩二は何も言わなかった。
ある夜、大倉が久美子に言った。
「結婚しよう」
たったそれだけだった。しかし、久美子はうれしいという気持ちはなく
「何かが違う・・・」
返事は待って欲しいとだけ伝えた。
一ヶ月が過ぎた頃,久美子は風見に会った。
風見が久美子の仕事場のビルにやって来たのだ。黙って風見の後をついて行く。
喫茶店で向かい合った時、久美子は
「自分がしていること分かっています。でもどうしようもないんです」
と言った。
その言葉に風見は
「責めるつもりはないの。あって欲しい人がいるの」
と言い、女性を呼んだ。その女性は大倉の名刺と何枚かの写真を久美子に渡した。
久美子がそれを手にして見た時、顔色が変わった。写真は女性と腕を組みながらマンションから出て来るところや,一緒に買い物をしているところ、そして抱き合っているところなどだった。名刺は久美子の父親の会社のライバル会社のものだった。
自分がもらった名刺の会社とは違っていた。
「どういうこと?」
やっと言葉を発した久美子に,女性は言った。
「あなたと結婚して,お父様の会社を乗っ取るつもりなの」と。
「そんな・・・」
「英会話教室に行き近づいたことが始まりです」
「ロバートさんも?」
「いえ、知り合いに紹介されただけで、知らないことです」
「風見さん,知ってたの?」
「ある時、あなたとその男性が一緒にいるところを見たの。あなたは私に全く気がつかなかった。その後を彼女がついて行ったので、悪いけど占わせてもらった。最悪な結果が出たけど、あなたから私にコンタクトを取らない限り、伝えるのはやめようと思った。でも,そうも言っていられなくなったわ。このまま関係を続けると、あなた妊娠するわよ。あの男は心理面からあなたを落とすことができる、今まで何人もそうやって女をモノにしてきたわ。甘い言葉で誘い、部屋に連れて行きそして聞くの。
僕の願いを聞いてくれるかは、君がきめてと」
「えっ・・・」
「そうやって自分のものにする。終わりにしようとすると、自分からきたんでしょうって最後には笑うわ。子どもが欲しいなら関係を続けたらいいわ。でも、お父様は望んでいないし、あなたもそうでしょう。だけど前にも言ったわね、あくまでも占い,決めるのはあなたよ」
最後の言葉はとても強く胸に刺さった。自分は何を求めていたんだ?何をしていたんだ。
久美子は俯いたまま何も言わない。風見とその女性はじっと久美子を見ている。
「あなたは何故、私たちをつけていたの?」
久美子が女性に聞くと、名刺を差し出して
「依頼者は言えません」
そう言った。名刺には「探偵事務所と弁護士」の文字と女性の名前が書いてあった。
「わかりました。ありがとうございます。自分で結論出します」
久美子は頭を下げた。
三ヶ月後、退職した久美子は実家に戻った。
その間に何度も大倉から連絡があったが、出なかった。そして、退職したその日に
「私はあなたの思い通りにはならない。二度と近寄らないで」
と、言い放った。
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