第13話 戸田競艇

「おばさんこんにちは」


 タワーマンションのエントランスで、エレベーターから降りたばかりの紗季と隆の母子は、同じ階に住む元子とばったり会った。元子の顔を見てペコリと丁寧に頭を下げる隆は、額から汗が噴き出ていて、顔は青白い。


「まあ。お姉さんって何度言ったら分かるの。どうもすみません」


 紗季が慌てて無礼を詫びる。元子は意にも介すことなく笑顔をみせた。


「いいの、いいの、50をとうに過ぎているんだから。これからお買い物?」


 元子は隆が小学校受験の塾に通っているのを知人から聞いていたが、紗季と隆の前では知らないふりをしていた。隆が試験に失敗し、地元の公立小学校に通うことになった時、紗季と隆が気まずい想いをしないで済むからだ。


「ええ。雨が降るといけないので」

「最近変な天気だもんね。タカボウ。おねだりしてお母さん困らせたらだめよ」


 隆は首を縦に振る。


「あと、ご飯はお母さんが困るほどたくさん食べるのよ」


 隆はもう一度、首を縦に振る。


「じゃあね」


 元子は隆に手を振り、紗季のほうを向いて首を横に傾けた。紗季は一礼した。


 上昇するエレベーターのなかで元子は一人、扉の鏡面に映る自分の老いた顔を眺めた。ジム帰りのはずなのに皺が至る所に刻まれた乾いた顔が、普段よりも陰気臭くみえる。


 夫の建夫たておは在宅勤務を続けている。いつも通り家にいるのだが、この日は有給休暇を取得していた。冷蔵庫にいっぱい詰め込んだ銀色のビール缶を1本ずつ取り出しては空にし、ネットテレビで競艇を観戦している。オッズの変化を逐一確認して、レース展開を予想したうえで、ネットバンクに入金したわずかな小遣いを原資に船券を購入している。


 厳格なカトリックの家で育った元子には、結婚する前から競艇という学生時代からの夫の趣味が理解できなかった。趣味が悪いと思っていた。しかし建夫は聞く耳を持たず、モーター音に包まれることが仕事に向きがちな頭をまっさらにするうえで有益なのだと言って憚らない。元子は船券を一度も購入したことがない。馬券であれ、車券であれ、パチンコであれ、それは変わらなかった。


 元子は夫に声を掛けることもなく、洗面室に入り、トレーニングウエアを洗濯機のなかに放り込む。備え付けのシャンプードレッサーの鏡に再び老女に差し掛かった自分の顔が映る。普段と変わらぬ一日なのに、泣きそうなのをこらえているようにも見えなくはなく、そう気づいた瞬間に現実に意識が引き戻される感覚がした。


「なんだ帰っていたのか」


 建夫は頬を赤らめている。トイレに立つために廊下に出ると、元子の姿があった。


「なんだとは失礼ね」

「帰ったら『ただいま』と言いましょうって、幼稚園で習わなかったか」

「残念ながら私は保育園卒です」

 

 元子は建夫の背中に向けて舌先を出した。建夫はわざと、様式便所の水たまりに直接着水するように用を足した。元子の嫌がる音である。元子は夫のちょっかいに負けじと、プラスチックのコップに水を入れ、イソジンを垂らして、故意に大きな喉音を立ててうがいをした。


 タカボウにおばさんと呼ばれるのはよくても、建夫になんだ、と呼ばれると癪に障る。


 建夫が不機嫌なのは、レースの負けが重なっているからだと自分に言い聞かせて、元子はキッチンに入り夕食の支度を始めた。建夫はソファに寝そべって、スマートフォンをいじっている。次のレースが、戸田競艇の最終レースのようだ。コース幅が狭く、最も有利とされる1号艇の勝率が低いことで有名なのだと、何度も建夫から聞かされた。


 ボートレーサーの険しいまなざしがテレビに映し出される。みな勝負師の顔だ。経営者や大地主のような、財力を持った人間の顔付きとは明らかに違う。キャッシュフローの見通しの立たないなかで、常に緊張を強いられてきた人間の顔だ。


 「しかし、水は汚そうね」

 「泳ぐわけではないからな」


 競艇場は波が穏やかで、西日で所々水面が黄色く光っている


 レースは始まった。建夫は1着1号艇、2着3号艇、3着4号艇と予想し、3連単に5000円を投じた。1号艇が1番人気で3号艇は4番人気、4号艇は単勝での倍率は最も高い。予想通りになれば5000円が50万円になる。


 最初のターンでレースの大勢がほぼ決まる。1号艇は出遅れた。すぐ横の2号艇が抜け出し、第1ターンマークを中心点として滑らかな円弧を描いていく。2号艇が発する波動で1号艇は失速し、下位に沈んでいく。建夫は、なんでだよう、と悲鳴を上げた。スタートは正常です、とアナウンサーの声が空しく響く。


「こういう時もあるよな」

「こういう時ばかりじゃないの」


 建夫は至って前向きな人間だった。


「夕食は作るの?」

「うん」

「何を作るの?」

「何にしよう。少しずつ冷えてきたから、そろそろお鍋にするのもいいかもね」

「鍋か。ビール飲みすぎたから、そんなに入らないよ」

「そういえば、駅前のスーパーで蟹の特売をやっているんだって」

「蟹の特売? 珍しいね」

「ズワイガニではなくて渡り蟹なんだけど、今年は豊漁だったみたいだからね」

「上海だったら、もう蟹のシーズンだもんな。蟹を蒸して、簡単なサラダとご飯とみそ汁があれば、それでいいや」

「わかった。じゃあ、買ってきてもらっていい?」

「はいよ」


 建夫がスマートフォンを手にして外に出た。その間、元子は米を研いだり、みそ汁の材料を切り分けたりしていた。15分ほどして建夫が帰ってきた。渡り蟹2杯と、頼みもしないのに松茸を購入している。


「馬鹿」


 いつものことで予想はできたとはいえ、競艇で負けたのに2本で4000円の箱入りの国産松茸を買う神経の図太さには、口を挟まずにはいられない。建夫は確信犯とはいえとりあえず申し訳なさそうに頭を掻いている。


 西日が地平線の下に沈み、一気に夜空が広がった。元子は渡り蟹を蒸し器に掛けて、残り物のサラダを冷蔵庫から取り出して、適当に食器に盛り付けた。蟹酢は手持ちの調味料で創作し、松茸はオーブントースターに入れて焼くことにする。時計は午後7時を回り、建夫はテレビのチャンネルをNHKに合わせた。報道現場から遠ざかったとはいえ、記者だった夫は定時的なニュースチェックを疎かにしない。


 ニュースが終わる頃に配膳を終えるよう元子は段取りを付けていたが、建夫は、念のため渡り蟹のさばき方を確認したいといい、テレビ画面をYouTubeに切り替えている。


 和食レストランチェーンの職員が投稿した5分ほどの動画を見てから、二人は夕食に手を付けた。


「やっぱり甘いねえ、渡り蟹の白身って」

「ほんとうね」

「こんな日がずっと続いたらいいなあ」

「なにあなた。明日にでも死ぬの?」

「毎日の仕事が地獄だからなあ。われわれの世代は、こんな感じでいい加減に生きていても『好い加減』なんだと言って、胸を張れるからいいけど、これから社会に出る子はそういう風に育っていないからな。SNSで誰かと繋がっていないと、たちまち不安になるのなら、もはや依存症だよな」


 建夫はすぐに世代論に持っていきたがる。われわれの世代といっても、元子は肩の力を抜くのが下手で、苦労もした。何事も十把一絡げにする夫に対する反発心も芽生えてくる。


「みんながみんな、という訳ではないんじゃないの?」

「そういう細かいところを気にしだしたら、数字が取れなくなるだろう」


 数字を追求することで、捨象される現実もある。そんなことを元子は思っているうちに、目の前にいる無神経な夫が腹立たしく感じ始めた。建夫は、不満げな妻の顔をみて、無神経に無神経を重ねるように言う。


「なんだ。職場のことを思い出して嫌な気分になったのか」

「その上から目線の言い方、すごく腹が立つ」

「なんだよ、もう」


 元子の反応に建夫も気を悪くした。二人は無言で渡り蟹にしゃぶりつき、身を食べ終えた殻をボウルのなかに、淡々と投げていく。沈黙を破ったのは元子のほうだった。


「松茸も買ってくるしさ。何なの一体。早く私が働けるようになれば、色々と気にしないで済むのにと、あたしだって色々思うわよ」


 文句を言える元子よりも、言えなくなる元子を見る方が、建夫は苦しい。


 神宅建夫・元子夫妻には大切にしているルールがある。それは喧嘩をしたら、最後に声を出した側が、24時間以内に相手に声を掛け、話し合いをするというものだ。相手がそこにいなければ電話をする。できるだけ建設的な話し合いにするという紳士協定も付いている。それまでの間は、頭を冷やすために外に出たり、気分転換に風呂に浸かったりするなど、相手の行動を束縛してはならない。


 今回、最後に声を出したのは元子の方である。24時間以内に、元子は建夫に声を掛けなければならない。一方で、頭を冷やすのを目的とした自らの行動を建夫に束縛される言われはない。


 食事を終えると元子は散歩に出ることに決めた。玄関でサンダルを履く時、建夫は洗い物をしていた。


 1階のエレベーターホールに降りて、エントランスを通って外に出る。すると、ちょうど紗季と隆の母子が歩いているのが目にとまった。隆は首を地面のほうに垂らしている。


「あら、きょうは偶然が続くのね」


 元子が声を掛けた時だった。隆はふらつきながらその場にうずくまり、両手と両膝を地面に付けると、無色透明の液体を吐き散らした。紗季は隆の背中をさすり、元子を一瞥すると、すみません、と言う。紗季は動揺していた。


 元子は胸騒ぎがした。エレベーターホールやエントランスで目にするたびに、本来は成長期であるはずの隆が、日に日に細くなっていたのである。その場で元子はしゃがんで、ポーチに入れたティッシュを隆の口にあてがった。馬なりの姿になった隆のシャツの奥に覗く小さなお腹を見た時、元子は何も言えなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る