聖水を浴びたい
フョードル・ネフスキー
第1話 耳を塞ぎたくなる、25階
神話に登場するような、人間の格好をした女神が部屋に入ってきた気がなぜかして、
彼女は、黒のロングヘア―は後頭部で結ばれていて、目の細かいふるいで道明寺粉を落としたような白い肌だった。小ぶりな鼻のうえに、量販店で購入した水色のレンズフレームを掛けた妻の
3カ月前に新調した4Kモニターのなかでは、数字が躍り狂っている。タワーマンションの25階で南西に面した部屋のブラインドは少しだけ持ち上げられていて、現一の座る位置からは、秋空が広がっているのが見えた。
株と為替、債券の相場変動をリアルタイムで知らせる金融端末として活用するデスクトップPCのファンが唸る。スピーカーから、アラーム音が鳴る。ちょうど今、ドル円相場が105円を下回る水準までドル安円高が進行したようだ。
現一は我に返って、モニターに目を移す。紗季が口を開いた。
「あの、今入っても、大丈夫だった?」
「ああ、問題はないよ」
「そう」
「なんかあったの?」
「いや」
「そういえば隆が膝を擦りむいていただろ、また風呂場で転んだんだよ」
紗季は現一に背を向け、クローゼットを開いた。
「私に似てぼんやりしているからね」
右手でマウスを掴みながら、現一は所在なげにカーソルを気ままに移動させた。
「何時ごろ迎えに行くんだっけ」
「きょうは遅いわよ。6時ぐらい」
「本番まであと1カ月か。つまづかなければいいけどな」
「縁起でもないこと言わないで」
紗季は口調を荒げた自分を、すぐにいけないと思い、ひと呼吸した。夫がオンライン会議に出席する時に着用するワイシャツのほかに、下着類もある。紗季はリビングに向かい、ついさっき畳んだばかりの、現一のボクサーズブリーフや靴下を両手で抱えて、夫の仕事場に戻ってきた。乾燥機の熱がまだ残っている。現一はモニター画面にくぎ付けになっていた。
「在宅勤務がこうも続くと、靴下が長持ちするわね」
黒の靴下は、足首のゴムが伸びきっている。他人に会わないのであれば問題ない。ただ、昔の現一ならすぐに、他人に会わないからね、と言った。今は違う。
現一の次のタスクは、顧客に電話などでコンタクトをとることなのだが、急いでやる仕事でもない。妻との会話が楽しめるものなら、そうすべき時間なのだろう。しかし現一は、早く妻が仕事部屋を後にしないかと、心の中で願っていた。妻がいると落ち着かなかった。
右手の人差し指と中指が、何かをクリックしたがっているかのように、合板製の机の表面を小刻みに叩いている。
紗季は、自分が口調を荒げたことで、夫が機嫌を少し損ねたのだと解釈することにした。最近はいつもこうなのだ。一人息子の
不妊治療の末、ようやく子どもを授かり、23区内にマンションを購入した頃は、慌ただしくも賑やかな時間が続くのを夢想していた。だが隆の身長に反比例するように、現一の口数は少なくなっていく。二人が互いを空気かなにかのように思えるまで仲が深まったのだと前向きに考えるように努めたとしても、言葉を交わさない日常が続くのはやはり自分の精神を不安定にさせる。
現一の右手の人差し指と中指は、なおも机の上を叩き続けている。紗季は夫のクローゼットの収納ボックスに下着類を詰め終えると、たまらず扉の外に出た。
専有面積80平方メートルほどの3LDKである。玄関近くの紗季の部屋と、バルコニーに面したリビングの間に、現一の仕事部屋が構えている。部屋全体の中央にあたるため、イヤホンをしなければ、現一がキーボードを叩く音、電話をする声、息遣いが耳に入ってくる。
「あ、どうも。ご無沙汰しています」
現一は少しでも時間があれば、勤め先の投資顧問が契約する顧客に電話を掛けることにしている。用事があっても、なくても、だ。新卒で証券会社に入ってから、電話が肉体の一部と化していた。
ああ、すみません。どうですか。また掛け直します――。
汗くさい言葉が日中はたえず、家の中に響いている。
顧客というのは、だいたいはヘッジファンドに勤めるファンドマネージャーで、個人投資家は相手にしていない。どこに根拠があるのか分からない自信に裏付けられた声を耳にするのは日常と化していたのだけれども、紗季は耳をふさぎたかった。
自室に入った紗季は、ミシン台の空いたスペースにエイスースのノートPCを置き、電源を入れた。充電を済ませたブルートゥースイヤホンを両耳に着けて、自宅のWi-Fiを通じて、YouTubeにつなぐ。
チャンネル登録している「池博士の本棚」が、1日前に新しい動画をアップロードしていた。講師の緑川信二が配信するメールマガジンを目にした紗季は、時間があれば視聴しようと思っていたのだった。
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