第5話 南方に配されし荼枳尼の法

 屈強な男性の身体に、馬の頭が乗っている。

 これが〈鬼影おにかげ〉と呼ばれる、小栗判官おぐりはんがんが使役した式神だった。

「ぶもー! 怒ったぶもー! 死ぬぶもー!」

 インテリジェンスに若干欠けた声を発しながら、鼻息を鳴らす鬼影。

 鬼影は黒いブーメランパンツを一枚はいているだけの格好をしていた。

 筋肉をそんなに見せつけたいのだろうか。

 僕は装備している特殊警棒を握りしめた。汗混じりの手で。

 特殊警棒とは、収納された状態から振り出しその長さを二、三倍に伸長させて戦う護身用品だ。

 僕のは鋼鉄製。

 一振りすると、収納されてある筒が三段になって伸び、長さが携帯時の三倍になった。

「かかってこいよ」

 安い挑発をしてみる。

 だいたい、普通に考えたらこんな武器で勝てる相手じゃない。

 挑発して相手の心を乱せ。勝機はそこにある。


 僕、萩月山茶花は、小栗判官という怪人を追い、そしてその小栗判官が使役した馬の頭に人間の身体という、逆ケンタウロスのような奴を相手にしている。

 場所は夜の緑地帯だ。常陸市の、小木津町上合団地おぎつちょうかみあいだんちの真ん中にある、緑地帯である。そして、日付が変わった、真夜中というシチュエーションだ。

「許さないぶもー!」

 なにを許さないのか、理解に苦しんだが、この鬼影にも戦う理由というのがあるのだ。

 使役されているから戦う、という単純さではないのだろう。

「僕もおまえを許さない」

 黒いパーカーのフードを目深にかぶっている僕は、特殊警棒を横向きに構える。

 あちら側も、動かない。鼻息を荒くして、こちらが動くのを待っている。

「殺す、殺す、ぶもーっころす!」

 相手はヒートアップしている。体力をこれで削れるような気がする。

 飛び出すのは、まだ先だ。

 相手が興奮して疲れるのを、待つ。

「怪人が使役した式神か……。胸が躍るよ、ったく」

「なんか言ったかああああああああぁぁぁぶもぉおおぉぉぉおおおおおおおお!」

 なにが他人の琴線に触れるのかなんてわからないものだ。

 鬼影は僕の言葉にキレて、突進してきた。

 背をかがめて、頭を前方に突き出して、鬼影は頭突きをすべく走ってくる。


「しめたぜ!」


 僕は鬼影の顔の眉間へ、思い切り特殊警棒を叩き込んだ。

 屠殺と同じ方法だ。

「ぶ、ぶもっ!」

 そこへ尽かさず第二打! 今度は振り落とすように、縦に。

 もちろん、眉間を狙って。

「ぶもおおおおおぉぉぉぉおおお」

 相手が血を流しフラついたところで、こいつの股間をブーツで蹴り上げる。

「オオオオオオオオオォォォォンンンン!」

 さらにもう一度、眉間に思い切り特殊警棒を叩き込む。


「ぶもーんッ!」

 鬼影の身体が発光し、そして爆ぜた。

 吹き飛ぶ両手、両足。四肢はあらぬ方向へと飛んでいった。

 同時に赤いシャワーが降り注ぐ。

 飛び散る内臓と体液。

 僕も大量の返り血と肉片を浴びる。

 鬼影が爆ぜたのち、その場に、紙で出来た依り代が落ちた。

 僕はそれを拾って、警棒を持っていない左手で握りつぶす。


「小栗は……逃したか」


 今日は人手が足りなくなって一人で行動していたから、追い詰めることが出来なかった。

 小栗判官を、逃してしまった。

 常陸国小栗城・城主だったという、その怪人を。


 服も汚れてしまったし、僕は百瀬探偵結社の事務所ビルへまっすぐに戻ることにした。

「僕は雑用係なんだけどなぁ……。珠総長の命令とあらば、逆らえません、……だね」







 まっすぐ事務所ビルの中にある自室に戻ると、僕はシャワーを浴びた。

 頭からシャワーのお湯を浴びて、僕は考える。

 小栗判官を倒すには、どうすればいいか。

 頭の中に〈あいつ〉の顔が浮かぶ。

 探偵・破魔矢式猫魔。あいつならば、良い案を出してくれそうだ。

 だが、頼ってばかりもいられない。

 なんと言っても、今は雑用係の僕までが探偵として駆り出されているほどの忙しさなのだ。あいつも、忙しいだろう。

 それに、頼りっぱなしじゃ、ダメだ。

 絶対に、ダメだ。

 シャンプーをつけた頭を洗って泡だらけになりつつ、僕はダメだダメだと、何回も呟く。

 身体を洗い流す。

 考えすぎたせいか、シャワーからあがると、立ちくらみがした。

 のぼせたのだろう。


 パジャマを着てソファにその身を埋めていると、硝子戸がこんこん、と叩かれる。

 なにかと思って見てみると、隣室の住人、更科美弥子さんがニタニタ笑んで、ベランダにいた。

 ああ、非常用の〈壊せる壁〉を破壊してこっちに来たのだな、と理解した僕は、美弥子さんを招き入れようと硝子戸を開けた。

「どうしたんです、美弥子さん」

「まあ、一緒にベランダで煙草でも吸おうと思ってね」

「はぁ」

「ソファにうずくまってないで、こっち来いよ、少年」

「いつも強引なんですから、……もう」

 僕はジッポライターとセブンスターのソフトパックを持って、ベランダへ出た。

 風が心地よかった。



「山茶花少年、きみは仕事、順調に進んでいるか」

「い、いえ、あまり」

「そう言うだろうと思ってたよ」

「ですよね」

「シケたツラしてんじゃないわよ、少年。おっと、悪りぃ、煙草の火貸してくんない?」

「いいですよ」

 僕はジッポを渡そうとしたが、美弥子さんは、首を横に振った。

「違う違う。わかってないねぇ。煙草の火の移し方はこうやるんだよ」

 美弥子さんの顔が僕の顔の正面を見て、近づいてきた。

 美弥子さんは、僕の顔を真っ正面になるよう、両手を伸ばして僕の頭を掴み、ホールドする。

 そして、僕がくわえているセブンスターの紙巻きの先端に、美弥子さんは自分のラッキーストライクを押しつけた。

 押しつけてから、美弥子さんは息を吸い込む。

 すると、美弥子さんの煙草にも火がついた。

 美弥子さんは煙草を一口吸う。

 煙草を指で持ってから空中に紫煙を吐き出すと、煙草を持ってない左手で僕の煙草ひょい、と取り上げる。

 僕がなにか言うその前に、すばやく美弥子さんは僕のくちびるに自分のくちびるを重ねた。

 それから舌で上唇と下唇を舐める。

 舌で僕のくちびるをこじ開けて、口内に美弥子さんの舌が侵入してくる。

 美弥子さんの舌が、僕の舌を求めるようにするので、僕はそれに応え、舌同士を絡み合わせ、深いキスをした。

 長い長い、キスをした。真夜中の、星空の中で。


 どれくらい経っただろう。そんなに時間は経ってないと思う。

 でも、短いとは言え、体感時間は長い、ディープな瞬間だった。

 美弥子さんは、

「はい、おしまい」

 と言いながら顔のホールドを解き、僕から離れた。


 ベランダのコンクリートに落ちたセブンスターとラッキーストライクは、火が消えていた。

 火の消えた二本の煙草を、スリッパをはいた足でもみ消して、美弥子さんは、うっしっし、と笑った。

「くだらないことでは死ぬなよ、少年。帰ってきたらいつでもちゅーしてやるから、さ」

「か、からかわないでくださいよぉ」

「リップサービス、だよ。これが本当の」

「そういう問題じゃないし、リップサービスって洒落、それを今、この余韻のなかで言いますか!」

「言うねぇ、わたしは」

「もう。美弥子さんはこれだから」

「山茶花少年の生存率が上がったぞ。『乙女のキッス』でカエル化が治った気分だろう?」

「意味がわかりません!」

「まあまあ。そう怒るなって。女性とキスするのも、たまにはいいもんだろ」

「たまにはっていうか……いえ、なんでもありません!」

「今度は照れていやがる。ダメだねぇ、山茶花少年。まー、そんなとこが、わたしは好きなんだけどね。君の煮え切らないとこが」

「煮え切らない?」

「押し倒せばよかったじゃねーか、キスしてるときに、さ」

「え、えぇ……。んん? あ、いや、そんな」

「わたしのこと、嫌いか、山茶花少年」

「好きですけど……いや、でも…………」

「あー、あー、もういいから、その優柔不断は。それよりさ」

「なんです、美弥子さん?」

「萩月山茶花が童貞だってうわさ、本当なのかな?」

 思わず硝子戸に頭をぶつけてしまう僕。

 そんなうわさがたっているのか……。いや、知ってはいたけど。

「試して確かめる、なんて言わないでくださいよね」

「あっは。わたしだってそんなにまでは男日照りじゃない、さ」

「…………ですよね」

 ちょっと期待していた自分が嫌になった僕なのだった。







 一応、珠総長に小栗判官を逃したことを告げに行かないと、と思い、僕は自室で腰を上げた。

 更科美弥子さんは好き勝手言ったのち、自分の部屋に戻っていってしまっていた。

「美弥子さんもフリーダムなひとだよなぁ」

「そんなこと、ないんじゃないか、山茶花」

 振り向くと、部屋の玄関に破魔矢式猫魔がいた。

 背中を壁に預けて立っている。

 いつからここにいたんだ、こいつ。僕は全く気づかなかった。キーを解錠したのかな。

 僕はたしなめるように言った。

「猫魔。勝手にピッキングで解錠しちゃダメだろ、一応さ。常識を持とうよ」

 ため息を吐く僕。猫魔はケラケラ笑う。

 最近、長くなってきている破魔矢式猫魔のアッシュグレイの髪はさらりと揺れた。

「鍵、開いてたぜ。チェーンもしてなかったし」

「え。マジで」

「大真面目さ。更科美弥子さんとの情事を枢木くるるあたりの人物に見られなくて良かったな」

「情事なんてしてないし、くるるちゃんは関係ない。ていうか、くるるちゃんが人様の部屋に勝手に入ってくる人間だとは思えないけど?」

「それもそうだな」

 また、ケラケラと破魔矢式猫魔は笑う。

「山茶花、部屋に上がらせてもらうぜ」

「もう上がってるじゃないか」

「靴を脱いでない」

「そーですかー。仕方ないなぁ」

「そう言うなって」

 玄関で靴を脱ぐとスリッパをはいて、ずかずかと六畳間に上がり込んでくる破魔矢式猫魔なのだった。

「で。なんのようなんだ、猫魔」

「おれは酒が好きでね」

「はいはい。出しますよーっと。ったく。普通に酒が飲みたいって言えよな」

 キッチンの冷蔵庫から、冷えたズブロッカのボトルを僕は取り出す。

「フレイバーウォッカか。気が利くじゃないか、山茶花。ストレートで飲もうぜ」

「言われなくとも」

 二人でテーブルを囲んで座る。

 僕はテレビを観ない人間なので、オーディオコンポの電源を入れる。

 流すのはアルバート・アイラーだ。

「ビバップでも流すのかと思ったぜ」

「ビバップねぇ。チャーリー・パーカーなんかも好きだけど、ズブロッカにはフリージャズのアイラーが合うかな、って」

「なるほどね。おれもその意見には同意だ。今流れている曲は『スピリッツ・リジョイス』か。スピリッツであるズブロッカを飲むのにスピリッツ・リジョイスを聴くなんて、洒落を理解してきたんじゃないか。アイラーは天才だとおれは思う。アイラーも、夭折の天才に含まれるのかな、山茶花。どうだい、一九六〇年代のフリージャズムーブメントの中心人物だった、三四歳で亡くなった前衛ジャズ・サックス奏者は、早死にだと思うかい? それとも、天才故に、早世したと考えるのかな?」

「なんだよ、やけに挑発的な発言じゃないか、猫魔。どうしたんだい。死亡フラグって奴か?」

 鼻で笑う猫魔。

「ははは、死亡フラグ。いいな。笑える〈この台詞を言う奴はお約束的に死んでしまう、その伏線の台詞〉と言った言葉を、死亡フラグと言うのだとおれは理解しているが。調べてないから本当の意味は知らないが、な。それに、この俗語の語源にある、テレビゲームって奴も、おれはプレイしたことがないからなぁ。まあ、いいさ。どう思う、山茶花」

「スピリッツ・リジョイスと酒のスピリッツで対比するなら、アルバム『ニュー・グラス』と、ズブロッカに入っている薬草『バイソン・グラス』でも、洒落としてか、または韻を踏めるんじゃないか」

「と言っても『ニューグラス』は、セールスはふるわなかったらしいが、な。ファンからひんしゅくを買ったと聞いてるぜ。マニアックにすぎるかな」

「確かにひんしゅくを買ったらしいね。あるとき、アイラーは悩んで、自殺するのを止めるよう説得しようとすると、テレビの上に置いてあったサキソフォンを1本取り上げて、粉々に打ち砕いたことがあったらしい。ついには、自由の女神像のフェリーに乗って、船がリバティ・アイランドに近づいたところで川に飛び込んだ、って証言がある。バカな話さ。天才は、特に神様に気に入られて、みんなより早く天国に連れていかれてしまうことが多くてさ。アイラーもまた、その一人だったんだろう」

 冷えたズブロッカを自分のグラスに注ぐと、猫魔はストレートでその〈桜餅味〉とも形容される透明な液体を一気にあおった。

「天才は、神様に気に入られてみんなより早く連れていかれてしまう、か。山茶花らしい解釈だな」

 僕もグラスに注ぎ、ズブロッカを飲む。

「そう思わなくちゃ、やりきれないよ。もっと活躍すべき人物だったけど、往々にして、そういうひとは早死にしやすい。でも、それは無駄死にではなかっただろ。後続のジョン・コルトレーンは、アルバート・アイラーに影響を受けたし、そういう意味でアイラーは、生き続けている、その意志が、ね」

「綺麗にまとめやがって。今、飲んでる酒は、さ。ポーランドで聖牛とされるジュブルが好んで食べ、ビアウォヴィエジャの森にしか自生しないとされる貴重なイネ科の植物であるところの『バイソングラス』が入っているわけだが。ヨーロッパバイソン、別名〈ジュブル〉という聖牛に捧げるためのバイソングラスだ。バイソングラスもまた、神の使いに捧げられている。神への捧げものだ。アイラーなんかの天才もまた、神に捧げられている〈供犠〉である、というのも見当外れではなさそうだな」

「供犠……。特定の宗教的目的と共同体の結束のため、神に捧げる犠牲、か」

「まあ、与太話はこれくらいにして飲もうぜ」

「これ、僕のお酒だけどね。猫魔に捧げるかたちになっちゃったよ」

「はふぅ。良い酒だぜ。つまみはないのか、山茶花」

「いや、それよりもさ、猫魔」

「なんだ?」

「なにか用があって来たんじゃないのか、ここに」

「あー、あー、そうだった、そうだった。実は、さ。また怪盗野中もやいから予告状が届いているんだ」

「怪盗の野中もやいから予告状? 今度はなにを盗む気なんだ、あの怪盗は」

「ああ。なんでも、常陸松岡にある〈本町銀行〉の奥の大金庫に収蔵してある指定文化財〈胎蔵界曼荼羅〉の掛け軸を盗むんだってさ」

「指定文化財を盗む予告状……。それ、予告日はいつなんだ、猫魔」

「明日の深夜、午前零時だ」

 僕は小栗判官との決着がついていない。

 同様に、猫魔も野中もやいとの決着はついていないのだ。

「忙しさが増すね」

 と、僕。

「今度こそ、お宝の死守だけでなく、あいつを捕まえてやるぜ」

 破魔矢式猫魔はそう言うと、またそのウォッカを注いで、飲んだ。

「おれたちは、いつだって忙しいさ」

「酒飲みながら言う台詞じゃないよ、猫魔」

「それもそうだ」

 僕らは笑い合ったのだった。







 次の日は晴れだった。

 小栗判官の手がかりがなくなって、僕も夜、本町銀行にある指定文化財〈胎蔵界曼荼羅〉の掛け軸を守るのを手伝うことになった。

 僕の部屋で昨日、たらふくズブロッカを飲んだ破魔矢式猫魔だったが、飲み終えると自室に戻り身支度をととのえ、さっそくその夜のうちに常陸松岡の本町銀行へと向かった。

 あの〈怪盗・野中もやい〉だったら予告状通りの時間に来ると思われるが、それでも現地入りはしておくに越したことはない、というのが、猫魔の意見だった。

 そういうことで警察に紛れて、探偵・破魔矢式猫魔は、今も見張りをしているはずだ。


 百瀬探偵結社のメンバーは、捜査班に加わるときには『特別司法警察職員』に準じて扱われる。だから、本当は色々な権限がある。

『特別司法警察職員』とは、特定の法律違反について刑事訴訟法に基づく犯罪捜査を行う権限が特別に与えられた、国からお金をもらっているタイプのひとたちを指す職業を指す。

  特別司法警察職員は犯罪捜査ができるため、捜査に係る刑事手続きや逮捕や捜索差押、送検等を行う権限があるのである。

 とはいえ、〈表の警察〉に犯人を渡すときは警察官の方を呼んで、逮捕してもらうのが、暗黙のルールだ。

 僕らが犯人を独自に捕まえるとき、それは〈桜田門〉に引き渡すときである。


 僕らの世界では、〈市ヶ谷〉、〈赤坂〉、〈桜田門〉と土地の名で呼ばれる隠語が存在している。〈市ヶ谷〉は防衛省情報本部、〈赤坂〉は在日CIA及びアメリカ大使館、そして〈桜田門〉は公安警察のことだ。

 もちろん、僕らに用事があるのは、〈市ヶ谷〉、〈赤坂〉、〈桜田門〉という場所でも、その〈暗部〉の仕事をしているセクションを指している。

 それらの存在は〈地下に住む彼女〉と呼ばれている人物のお気に召すままに動いている、というウワサもあるが、百瀬探偵結社の中で〈地下に住む彼女〉の謁見を許されているのは百瀬珠総長ただひとりである。珠総長の飼い猫である破魔矢式猫魔だって、そこまではお供できない。

 僕なんかにとっては、その〈地下に住む彼女〉の名前を口に出すことでさえ、ためらいがあるほどだ。



 みんなとは夕方に合流することにして、僕は常陸松岡の北方という集落にある、花貫川の流れるそばの公園で、ぽつんと置いてあるベンチに座って最近、出来ていなかった読書をすることにした。

 読んでいるのは『ヴァリス』。フィリップ・K・ディックの代表作のひとつにして、最大の問題作だ。


 ぽかぽか暖かい日だ。

 蝉の声に耳を澄まし。

 しばし、目を閉じる。

 うとうとしていたので、眠りが訪れた。

 ベンチに座ったまま昼寝してしまった僕が肩に人のぬくもりを感じて起きる。

 すると、僕の横に座って頭を僕の左肩に預けて眠っている少女の寝顔が間近に。

 すーすー寝息を立てて眠る彼女は、グリーン色の、蛇の着ぐるみパジャマを着ている。

 無邪気な寝顔。

 だが、僕はこの少女に見覚えがあった。

 野犬や鳥を食い散らかした、背丈の大きなその〈犯人〉の、首を刎ねて殺して、刎ねた首をぺろりと平らげた女の子であり、〈政府のエージェント〉であり、この少女はカミサマでもあった。

 彼女が刎ねた首なしの胴体から大量の血液が噴き出し、僕はそのシャワーを浴びたことがあった。

 正義の味方だ、というその、着ぐるみパジャマを着ている政府のエージェントこそが、小鳥遊ふゆりのライバル、〈夜刀神うわばみ姫〉だった。


「どうしよう……」

 自分の肩に頭を乗せて眠っている残酷で正義の味方の少女を、僕は起こせない。

 僕はしばらくそのままで、『ヴァリス』の続きを読むことにした。

「恥ずかしさと怖さが同居してるよ、今の僕は」

 独り言をして、それから読書に戻る。

 気にしない、気にしない。この非論理的な事態は気にしないに限る。







 昨日の夜、酒の席で破魔矢式猫魔は僕、萩月山茶花に、ニーチェからの引用をそらんじてみせた。



「非論理的なものが人間には必要であり、また非論理的なものから多くの善きものが出てくるという認識は、ひとりの思想家を絶望させるに足るもののひとつである。非論理的なものは、情念や言語や芸術や宗教や、そして一般に生に価値を与えるすべてのなかのもののなかに、極めて密着して潜んでいるので、ひとは、これらの美しいものを致命的に傷つけてしまうことなしには、それを取り出すことは出来ない。人間の性質が、ある純粋に論理的な性質に変えられ得る、と信じることが出来るのは、ただあまりに素朴な人々だけである。しかしもしこの目標に近づく程度の多少というものがあるとすれば、この道をゆけば一切はかならず破滅する、とは限らぬではないか。最も理性的なひとにとってもまた、時には、自然が、すなわちすべてのものに対する非論理的な根本態度が、必要である。【ニーチェ『あまりに人間的』第一部・三十三】」


「どういう意味だい?」

 と、僕。

「つまり、〈世界〉はでたらめである、ってことさ」

 猫魔が言う。

理性ロゴス中心主義が世界を覆ったことは、本当は一度だってないってことを、考えた方がいいよな、っておれは思っていてね。ニーチェの超人の理論は結果として理性的国家を標榜した民族主義に利用されてしまったのは事実だが、〈社会〉の外側に広がる〈世界〉っていう理不尽さに触れたときこそ、ひとは変わるって話への評価はそれで下がることはないな」

「ふーん。よくわからないや」

「現実が理性で動いていると思ったら大間違いだ。オトナって奴はどうも自分は理性的で、社会は理性で回る、組み合わせると〈俺様の理性的な思考で社会は回るべき〉ってなってしまいがちだ、ってことさ。でも、そんなわけがないんだ。喧嘩のもとのひとつに、自分は正義だ、って両方が思っている、っていうのがあるだろ。それはこのニーチェの言葉で言えば、理性的な論理で世界は回るって考える、素朴な人々だ、ってことさ。ただし、その場合、自分と論理的がイコールで結ばれて考えてしまっているわけだけれども」

「なるほどねぇ」



 非論理的。

 ロゴス中心主義に対する、脱中心化。または……脱構築、か。


 で、だ。今のベンチに座っている僕の状況下は、ちょっとヤバい。

 夜刀神うわばみ姫。

 蛇の着ぐるみパジャマを着た少女が、僕の肩に頭を乗せて眠っている。

 不条理感が半端じゃない。非論理的だ、と言い換えられる。

「う、うーん、むにゃむにゃ」

 肩に頭を乗せたままであくびをして、目をこする夜刀神。

「おはようごぜぇます?」

 と、夜刀神。

「お、……おはよう」

 返事する僕。

「今日は暖かいでごぜぇますね」

「そうだね」

「ぐーぐー」

「うぉい! また眠るなって」

「うるさいでごぜぇますねぇ、人間。神の枕になれるのを光栄に思え、でごぜぇますよ?」

「えー」

「ぐーぐー」

「いや、だから眠らないで、ってば」

「人間よ、わたしは今、眠いんでごぜぇますゆえ」

「それはわかるけどさ」

「まんざらでもないクセに」

「そう言われるとちょっぴりツラい」

「ぐーぐー」

 夜刀神、また眠ってしまった。

 僕はどうすりゃいいんだ……。

 もう一度考える。

 猫魔が引用したニーチェじゃないが、非論理的だ、この状態こそが。

 不条理、とも言う。

 サミュエル・ベケットっぽさもあるな。









 僕が『ヴァリス』を読んでいると、僕の肩に頭を乗せている夜刀神が不意に、

「ダキニはひとを選ばない」

 と呟いた。

「ダキニはひとを選ばない?」

 オウム返しする僕。

 夜刀神は身体を動かし、そっと自分のくちびるを僕の耳元に寄せて、囁く。

「平清盛も後醍醐天皇も、ダキニ法を修法し、使った。ダキニ法はひとを選ばないが、それ故に外法であり……永続しない」

 凍るような冷たい声で、夜刀神は僕に囁き続ける。

「その外法の最たるは房中術」

「房中術?」

「性交を使った法。それが房中術。わたしと房中術をしてみないか、萩月山茶花?」

 僕はぎょっとして自分の肩を見た。

 直後、夜刀神うわばみ姫の姿は消えた。

 そこに最初からいなかったかのように。

「ダキニ? ダキニ法? どういうことだ、そりゃ」

 でも、肩にぬくもりが残っている。

「消えた……」

 でも、やっぱりここにいたのだ、夜刀神は。

 僕は『ヴァリス』にしおりを挟んで閉じ、ベンチから起き上がる。

 汗だくになっていた。蝉が鳴いている。

 公園には、野良猫たちと鳩とカラスがうろうろしている。

 腕時計を見る。〈本町銀行〉に向かう時間は近づいていた。

「やべっ、遅れる」

 ナップザックに文庫本を入れ、鍵を取り出した僕は、公園の駐輪所に置いたスクーターへと向かう。

 川沿いだってのに気づかなかった。

 今頃、川の流れの音が聞こえるようになる。

 虫除けスプレーとコールドスプレーを身体にかけてから、スクーターに、僕はまたがった。







「オンナの匂いがする」

 開口一番、小鳥遊ふゆりが僕にそう言った。

 陽が落ちる頃で、湿度が高くてじめじめした夜を迎えそうだった。

 常陸松岡、本町通りにある、〈本町銀行〉。

 さっきいた公園から、スクーターで十五分くらいの位置にある。

 その建物の前に、小鳥遊ふゆりはいらつきながら僕を待っていた。

 遅い、と怒られるかな、と思ったら、「オンナの匂いがする」だもんな。

 勘が鋭いというか、なんというか。

 駐車場から出てきた僕を睨むと、ふゆりは、

「あんたねー。やる気あんの? この時間までどこかのオンナと遊んでたわけ? しっかりしない奴は捜査に加わる必要はないわ。邪魔よ。出て行け、このえろげオタク」

「えろげは関係ないだろ」

「山茶花がえろげと現実の区別がつかないのが問題なのよ。夏だから白いワンピース着て麦わら帽子の女の子とキャッキャウフフ、みたいな展開になりたいと思ってるんでしょ?」

「すごいな、その偏見は……」

「じゃあ、今までなにしてたのよ」

「蛇の着ぐるみパジャマ着た女の子と一緒にいた」

「あーんーたーねぇー! 夏をエンジョイしてんじゃないわよッ! って、んん? 蛇の着ぐるみパジャマ? それってまさか……」

「そうだよ、いきなり現れたんだ、夜刀神うわばみ姫が、ね」

「夜刀神うわばみ姫……。あのクッソ語呂が悪い名前を持った〈正義の味方〉サマが、萩月山茶花の前に現れたですって? あたしを舐めてんのかしら、夜刀神も、そして山茶花も! ウキー!」

「いらついても仕方ないよ。どこかに消えちゃったし」

「で。あいつはなんか言ってた?」

「うん。言ってたよ」

「なんて言ってたのかしら。参考までに聞いておくわ」

 僕は唾を飲み込んで、呼吸を整えてから、言った。

「ダキニはひとを選ばない。平清盛も後醍醐天皇も、ダキニ法を修法し、使った。ダキニ法はひとを選ばないが、それ故に外法であり、永続しない。……だってさ」

「ダキニ? うーん、どこかで聞いたような……」

 銀行の自動ドアが開いて、スーツを着た男が出てくる。

 そしてその男、破魔矢式猫魔はケラケラ笑う。

「〈胎蔵界曼荼羅〉に、ダキニの姿も描かれているね」

 ハッとして口を開けるふゆり。

「今夜狙われているお宝じゃないの、指定文化財〈胎蔵界曼荼羅〉掛け軸! ちょっとバカ探偵! 箝口令かんこうれい敷かれてるんじゃなかったの、この事件は?」

「箝口令は敷かれているよ。バカだなぁ、ふゆり。壁に耳あり障子に目あり、飲みたいカクテルはブラッディメアリーってね。そういうもんだろう? なぁ、山茶花」

「僕はなにもわからないよ」

「こういうの、わかる奴にはわかっちゃうんだよなぁ。それ以前に夜刀神も僕らとは違うルートで〈政府のエージェント〉だってこと、忘れてないかい。知っているだろうさ、この事件のことも。敵に塩でも送ったのかな」

 ふくれっ面になるふゆり。

「これのどこが〈塩〉になるってのよぉ」

 顎をさすって、考える猫魔。

「今のところ、わからないな、おれにも」

「つまり猫魔も山茶花と同じレベルってことね!」

 僕は大きく息を吐く。

「二人とも。午前零時にはまだ時間があるぜ。ヒートアップしない、特にふゆり」

「あんたにゃ言われたくないわよ! べーっ、だ!」

 舌を出して僕を牽制する小鳥遊ふゆりだった。

 猫魔が、手をポキポキと鳴らす。

「ま。揃ったところで、おれたちも配置につこうぜ。今日こそ捕まえてやる、野中もやいめ!」

 そう。怪盗・野中もやいは、探偵・破魔矢式猫魔のライバルなのだ。

「よし! お宝は死守、もやいを捕まえよう、猫魔、ふゆり!」

 僕たちも警察に交じり配置につき。

 そして、時間が過ぎ去っていく。







 警備配置について、数時間。僕はしばし休憩を取らせてもらい、銀行の外に出た。

 暑い。

 冷房がないところに来た途端、じめじめした暑さが襲ってくる。

 コンビニ行くのもはばかれたので、自動販売機で缶入りのアイスコーヒーを買って、銀行の自動ドアの中にまた入り、冷房の効いた受付のある場所のソファに座る。

 プルタブを開けたとき、猫魔も缶ジュースを持ってこっちにやってきた。

 二人で並んでソファに座って、しばし無言で飲み物を飲む。

 会話がないのも寂しいし、僕は猫魔に気になっていたことを尋ねてみた。



「今日、僕たちが守っている『胎蔵界曼荼羅掛け軸』ってあるよね」

「ああ? ああ、曼荼羅な」

「〈対〉になっている『金剛界曼荼羅』の方は紛失した、って話だけど」

「そうなんだよ、山茶花。この常陸松岡には、〈胎蔵界曼荼羅〉しか現存しない。対になっている〈金剛界曼荼羅〉はないんだ。故に、指定文化財になっているのは〈胎蔵界曼荼羅〉のみ。それがどうしたんだ、山茶花?」

「いやさ、曼荼羅って一体なんなの? 文化財ってことは、文化的に価値があるんだろ。しかも、対になっているもう片方がなくなってしまっていても、それでも価値があるような代物なのかい?」

「おれはそこから説明しなくちゃならないのか。ていうか山茶花。おまえ、なにも知らずに警備にあたっていたのか……。あきれるぜ」

「そう言われると、なにも言えないなぁ」

「曼荼羅ってのは、神仏の集会図しゅうえずのひとつだ。サンスクリット語を漢字表記したものだな。だから、サンスクリット語でも、『マンダラ』と発音する。語源的には〈完成されたもの〉、〈本質を有するもの〉などの意味を持つ。西洋だと、フロイトと並ぶ偉大な精神分析医のユングが注目したことで、曼荼羅は有名だな」

「ユングも注目したのか、曼荼羅を……」

「ユング曰く『曼荼羅こそひとつの個としての人間の完成像であり、すべての道はそこに通じる』と」

「なんかすごいなぁ。言い過ぎじゃないの」

「いや、『ユングは密教をわかっているな』と言う印象だね」

「そういやその密教って、天台宗と真言宗があるじゃないか」

「そうだな。この銀行に保存してあるのは真言宗の寺にあったものだが。そうそう、天台と真言、このふたつは〈純粋密教〉、略して〈純密じゅんみつ〉と呼ばれる。大乗仏教の流れを汲むんだよ。〈純密〉は、もともとごちゃごちゃあった〈雑密ぞうみつ〉が体系的に整備され、成立したものなんだよ」

「ふーん」

「『大日経だいにちきょう』と『金剛頂経こんごうちょうきょう』に集約される〈純密〉は、大日如来をその本尊としていて、〈即身成仏〉のために、〈三密〉っていう名前の全身的行法を確立して、曼荼羅を生み出した」

「三密……ねぇ」

「密教は神秘主義なんだが、その神秘主義の考え方を簡単にざっくり言うと、〈人間それぞれが小宇宙ミクロコスモスとして大宇宙マクロコスモスに包まれている。同時に自分という小宇宙のなかに大宇宙そのものが含まれている〉……となるな。密教の世界観は、こんな感じだ」

「ユングのさっきの話と繋がるじゃないか。なるほど」

「そこでその〈宇宙〉を描いたのが両曼荼羅さ。つまり、大宇宙である『金剛界曼荼羅』と、小宇宙である『胎蔵界曼荼羅』」


 僕は缶コーヒーを飲み終える。

「文化財にもなるわけだ。大宇宙の方は紛失された、とは言えども」

「ああ。まあ、紛失されたとされる〈金剛界曼荼羅〉掛け軸なんだが、それはこの銀行の会長宅に代々大切にされて保管されている、というウワサもある」

「そうなのか?」

「さぁな。ウワサはウワサだ。それより今は午後十一時を回ったところだ。野中もやいだったら予告通りに神出鬼没に、午前零時にやってくるだろうさ」

 と、猫魔が言ったところで警報器が鳴る。

 警備にあたっていたひとりがソファにいる僕たちに向けて叫ぶ。


「怪盗・野中もやいが現れた! 掛け軸は元の位置から消失した!」


 目を見開くように驚いた僕と猫魔は、ソファから立ち上がる。

「野中もやいが来ただって! 予告時間じゃない時にあいつが現れたっていうのか!」

 猫魔は走る。

 僕も、そのうしろを追った。

 野中もやいは予告通りの時間に現れるのが通例だった。

 なので、予想外だ、と猫魔は驚いたのだ。

 僕も、驚いた。

 だが。

 現れたのなら、仕方ない。捕まえるだけだ。











 常陸松岡にある〈本町銀行〉の奥。

 指定文化財〈胎蔵界曼荼羅〉の掛け軸があったはずの大金庫の前で、僕らは立ち尽くす。

 大金庫の中は空っぽだった。

「情報機器は誤動作してる。半導体、抵抗器、コンデンサなんかが異常発熱してぶっ壊れてる。まるで〈カミナリ〉でも食らったかのようだ」

 と、猫魔。

「カミナリ?」

 と、僕。

「いや、なんでもない」

 猫魔はそう返してから、金庫の中を見る。

 先に入っていた警官が、

「こんな物が落ちていました! 野中もやいからの新たな予告状です!」

 と、猫魔に名刺大のカードを差し出す。

 それを読む猫魔。

「これから本町銀行会長宅に隠されている〈金剛界曼荼羅〉の掛け軸もいただく、……と来たか」

「金剛界の方の曼荼羅が紛失したってのは、やっぱり嘘だったんだ!」

 僕が驚いてそう言うと、その場に来ていた銀行の会長が、はははは、とカラ笑いをした。

「ええ。そうです。文化財として国に取られるのが嫌で、代々うちで保存しておったのです」

「会長宅に行くぞ。山茶花! ふゆり!」

「はいよ」

 と、僕。

「わかってるわよ、大声出すな、三流探偵!」

 いらつくように、ふゆり。




 本町銀行の裏手に、会長宅はある。

 大きな屋敷だ。

 隣にあるので、歩いても行ける距離だ。

 僕らは走って移動する。

 遅れて銀行の会長もやってくる。

 会長は奥座敷の隠し扉を開ける。

 木製の古い棚が隠し扉になっていて、それが動く。


 その中はきちんと整理されていたが、すっぽりと空隙がある。

 その壁の空隙を指さし、

「盗まれた……。盗まれおったわ……」

 と、会長は崩れ落ちた。

「おい、探偵ども! どうしてくれるッ! 罰金だ! これは罰金を支払ってもらわねばなるまいて! おい、聞いているのか、似非探偵結社! 〈魔女〉の飼い猫どもがッ」



「予告状の時間通りでもなかったし、時間指定もせずにここからも、〈ウワサ〉でしか存在しないはずの物を奪い去っていった。……手段を選ばなくなったのか、怪盗・野中もやいの奴はッ」

 舌打ちする猫魔。

 僕は独り言のように言う。

「手段を〈選ばない〉、か。そういえば今日、夜刀神うわばみ姫が〈ダキニ法はひとを選ばない〉って言っていたなぁ。それを思い出しちゃったぜ」

 僕の脇腹を小鳥遊ふゆりが突く。

「ちょっとアンタ、黙りなさいよ」

「わ、わかったよ」

 それに意外な反応をしたのは、破魔矢式猫魔だった。

「なんだって? 今、なんて言った? 山茶花?」

「ん? いや、ダキニ法はひとを選ばない、って」

「ダキニ。ダキニと言ったな」

「そう。僕はダキニって言った」

「わかったぞ」

「なにが?」

 僕は首をかしげる。

「この隠し扉の中の空間。掛け軸はなにか掛けてあったみたいだけど、ちょっと変だな、と思ったんだ。代々保存していた風に思えない。この入り口の仕掛け自体が、年代が新しいんだ。違う場所に隠していたとしても、不都合が多すぎる」

「ん? なにが言いたいんだ、猫魔」

「ダキニはひとを選ばない、のさ」

「どういうことさ」

「この銀行に保存してあるのは真言宗の寺にあったもの、という情報はフェイクだってことさ」








「〈金剛界曼荼羅〉は、ここにはないよ。最初から、なかった。遙か昔に〈散逸〉したんじゃない。最初からこの曼荼羅は、胎蔵界しかなかったのさ」

 猫魔は言った。

「え? どういうことだい、猫魔」

「隠し扉の中の隠し部屋は、何代か前のものだったのは確かだ。だが、それが逆に、胎蔵界曼荼羅しか存在していなかったのを証明している。この隠し部屋にある文献や道具、これらは〈ほう集団〉が使う儀式に関するものばかりだからだ」

「〈彼の法〉集団? なんだい、それ。そのことが胎蔵界曼荼羅しか存在していなかったのを証明しているって?」

「昔、真言立川流と混同されてついには真言立川流を衰退させる原因にもなった、外法集団があった。それが〈彼の法〉集団と呼ばれる一派さ。その教義の実践は、房中術。西洋風に言うならば〈性魔術〉さ。セックスのときのエネルギーを呪術に変える流派なんだ」

「え? どういうことだい? ダキニは確かに房中術をやっていたようなことを、夜刀神は言っていたけど」

「だいたい、なんで指定文化財の胎蔵界曼荼羅が寺ではなく〈本町銀行〉にあったんだい? それは、ね。元から寺で作られたものじゃないのさ。この会長の一族の所有物だった。でも、〈彼の法〉集団は弾圧されたし、言えなかったのさ、誰も。ここの会長のイエの宗派は曹洞宗だ。一瞬、曼荼羅を使う密教とは関係なさそうだろ? でも、関係あるんだな、これが。その関係とはなにか? その点と点を結ぶものが〈ダキニ〉さ。ダキニ信仰は、真言宗だけでなく、曹洞宗にも多い。そしてダキニの姿は、金剛界曼荼羅にはおらず、胎蔵界曼荼羅にだけ描かれている。胎蔵界曼荼羅外金剛院・南方に配されているのがダキニさ。ダキニ隠れ信仰が、この地にあったんだ。檀家は関係なく、民間信仰のダキニ信仰の曼荼羅だったのさ、指定文化財の〈胎蔵界曼荼羅〉は。だから、もとから金剛界曼荼羅は存在しない。ダキニと関係ないからだ」

「はは。これは大きく出たものだ」

 笑う本町銀行の会長は、しかし泣き出しそうになっている。

 おそらく図星だったのだろう。

「〈彼の法〉とは言うが、〈此岸〉も〈彼岸〉も、区別がないのが曹洞宗、道元の主張する〈諸法実相しょほうじっそう〉の考え方さ。此岸と彼岸の区別がない、ある意味ではリアリストなんだね。それはともかく、曹洞宗にある集会図は金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅とは違う。でも、もしダキニのために曼荼羅をつくるとしたら胎蔵界だけでいい。それこそ、此岸も彼岸もないんだ。小宇宙と大宇宙はそもそもその違いがないし、それに曼荼羅をつくること自体が異端とされただろう。平安末期、密教はきらびやかなだけでそのきらびやかさが社会を立て直す効果を持つことができなかったことの反省から、鎌倉仏教諸数派は生まれているからね」

「つまり、どういうことだい、猫魔?」

「まとめると。つまりこの曼荼羅、仏教のものではなく、土着の民間信仰のダキニ信仰の証だったんだ! 別に、真言だろうが道元だろうが問題ないのさ。民間信仰だから、檀家とは別口さ。そして会長のイエは〈彼の法〉集団のイエだ。ダキニの胎蔵界曼荼羅を受け継いでいたので自分の銀行に保管していたのさ」

 会長は白目をむいて、

「は。はは。ははははは……」

 と、うわずった笑いをしている。

「会長。あなたは影で豪遊していたらしいじゃないですか、女性関係で。警察の方に、会長が〈どんなプレイ〉をしていたか、調べてもらえるよう、言っておきますね。口封じにお金を彼女らに渡していたとしても、さて、全員が〈彼の法〉の房中術について口を閉じていられるでしょうか」

 僕が口を挟む。

「金剛界の方が最初からなかったのはわかったよ。じゃあ、胎蔵界のも、自作自演てことで解決で、良いんだね?」

 一拍置いてから、猫魔は言う。

「ん。ああ、そうだな。自作自演だ。百瀬探偵結社の〈魔女〉から金をふんだくろうとしていたので会長自身が起こした一件なのは間違いないな。でも」

「でも、なんだい、猫魔?」

「情報機器である電子キーがヤラれていただろ。回路内を異常発熱させるアレを〈短絡回路ショートサーキット〉って言うんだが」

「言うんだが?」

「ありゃ、野中もやいの法術だよ。あいつも、そういうのを扱うんだ。常陸にいた〈伊福部岳いふくべだけの雷神〉から、もやいが習得したものだ。どさくさに紛れて火事場泥棒しやがった、あの野郎……」


 ふゆりが、くちびるを噛む。

「また夜刀神かッ、ちっきしょう! 解決に導いたのが、あのオンナの言葉だなんてッ」


 僕が小栗判官と勝負がついていないように、猫魔も、そしてふゆりもまた、勝負がついてない、もしくは負けている、そんな相手がいるのだ。

 猫魔は野中もやい。ふゆりは夜刀神というように。

 これから捜査が行われて、事件は解決に向かうけれども、それでも歯がゆい、そんな事件だったのは、間違いなかった。


「ダキニ法はひとを選ばないが、それ故に外法であり……永続しない、か」


 あとで知ったことだが、本町銀行の会長は借金で火の車だったらしい。

 それで〈魔女〉の金に目をつけ、自作自演で事件を起こして、金をふんだくろうとした。

 だが、見破られ、肝心のダキニの掛け軸は本物の怪盗に盗まれてしまった。

 永続なんて、しなかったのだ。盛者必衰で。


 僕は夜空を見上げる。

 夜は更けていくばかりだ。





〈了〉

  

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