第4話 夜刀神が刀は煙る雨を斬るか

 その日はずっと、大雨だった。

 正確に言うと、その日だけではなく、一週間、雨の日が続いている。

 いよいよ異常気象だ。

 僕、萩月山茶花は透明なビニール傘を差して、百瀬探偵結社のビルへと戻る。

 事務所の事務室に戻った頃はもう、夜の十時を越えていた。


「お帰りぃ、山茶花ぁ。みんな、自室へ戻っとるよぉ」

 事務椅子をくるりと回してシャギーボブの髪を揺らしながら振り向いたのは枢木くるるちゃん。

 事務椅子にちょこんと人形のように座っていて、湯気が立っている湯飲みから茶をすすっている。

「くるるちゃんも夜遅いし、もう眠りなよ。明日も学校でしょ?」

 僕なりに気遣ったつもりなのだけれども、

「いつまでもうちを子供扱いしたらあかんでぇ」

 と、頬を膨らませるくるるちゃんである。

 コミュ障気味の僕にはどうしていいか、わからない。

「山茶花、びしょ濡れやなぁ。ほら、服脱いで。うちが洗濯機で洗うておくわぁ」

「い、いいよ、自分で出来るさ。それよりも、仕事は終わりにして自室に戻りなよ」

「邪険にすることないやろ。これだから山茶花は猫魔お兄ちゃんの助手が務まらんのよぉ」

「助手じゃないんだけどね、一応」

 棚からカップを取って電気ポットでインスタント珈琲をつくって飲む僕。

「暖まるね」

「そんだけびしょ濡れなら当たり前やよぉ。山茶花こそ、部屋に戻りぃな?」

 深呼吸をしてから僕は、

「そうするよ。くるるちゃん、根詰めて仕事、しないようにね」

「わかっとるわぁ。おやすみ、山茶花」

「おやすみなさい、くるるちゃん」

 枢木くるるちゃんにおやすみを言った僕は、事務室を出る。

 廊下を歩く。靴の中も水でぐっしょりだ。

 外にいる間は気づかなかったが、こりゃ、ちゃんとしないと風邪を引くぞ、と思った。

 閉めた事務室の扉に向けて、

「心配ありがとね、くるるちゃん」

 と言い残し、僕はエレベータへ向かう。


 角を曲がってエレベータの前に出ると、そこには、右手で酒瓶の口の部分を握って持っている、百瀬探偵結社の総長・百瀬珠がニヤリと笑みながら仁王立ちしていた。

 エスニック風味の服装で幼児体型の珠総長が酒瓶を持っている図は、それはそれでその手の団体に訴えられそうな構図だ。

「遅いぞ、山茶花! 我が輩が待っていた、ということは、どういうことか、わかるな?」

 酒瓶のラベルを見る。

 ワイルドターキーだ。

 ワイルドターキー、つまり、バーボンウィスキーだ。

 製造は、オースティン・ニコルズ社。

 言わずと知れたアメリカ合衆国はケンタッキー州のバーボンである。

 ちなみに、カンパリオレンジなどのカクテルをつくるためのカンパリを製造しているイタリアのカンパリ・グループが、ワイルドターキーブランド及びその蒸留所を買収したので、販売元はカンパリ・グループで、製造元がニコルズ社になっているそうだ。

「我が輩、待ちくたびれたわい。なんじゃそのコールドターキーな顔つきは?」

「いえ、珠総長……、ギャグとしてそれは酷いのでは」

「アメリカン過ぎたかの! わっはっはっ!」

 呵々大笑してる……。

 コールドターキーとは「冷たい七面鳥」と訳すが、要するにドラッグの禁断症状の出ている様を表現した俗語である。

 ワイルドターキーと駄洒落にしたのだろうけど……総長らしいと言えば、総長らしいギャグだ。

 僕は笑えないけどね。

「さー、飲むぞ! 萩月山茶花、おぬしの部屋で、のぉ!」

「あー、っと、なるとあいつもいるんですよね」

 僕がため息を吐くと、

「あいつじゃないよ、山茶花。おれの名前は破魔矢式猫魔。三歩歩くと記憶は忘却の河に流されるからなぁ、困ったもんだよ、山茶花、おまえって奴は」

 と、これまた洒落たことを言う人物が現れる。

 そいつはネコ科の鋭い目でアッシュグレイの髪をした破魔矢式猫魔。探偵である。

 洒落たことを言う、というのは、『忘却の河』が、知る人ぞ知る、福永武彦の文学作品の名前だからだ。

 忘却の河なんて単語を交えて喋っても、誰もわかりっこないのに……。

「はいはい、わかりましたよ。僕の部屋で飲みましょう……」

 僕が言うと、総長はキャピキャピ喜んだ。

 こういうとこだけ、このひとは女の子なんだよなぁ。

 そして猫魔は、……どこまでも食えない奴だ。







 ロックグラスに氷とバーボンを注ぎ、少しグラスを振ってから、その琥珀色のワイルドターキーを飲む。

 部屋に入ってすぐに僕はびっしょりになった服を洗濯籠に放り込み、着替えてから、二人を部屋に入れたのだった。

「うまい」

 珠総長が持ってきたバーボンはとても美味なのであった。

 これは薄めないで、ロックかストレートで飲むのが良い。僕はそう思う。

 キッチンからクラッカーとチーズを持ってきて出したところ、猫魔は、

「ワインじゃないんだぜ」

 と、不平を言いつつ、クラッカーにチーズを載せて食べている。

「これしかなくて悪かったね、猫魔。僕に出来ることなんて、なにもないよ。今の時間から料理を振る舞う気も起きないしさ」

「役には立ってるさ。場の提供は感謝だぜ」

「猫魔の部屋は書物だらけで足場がないほどだからなぁ」

 猫魔はケラケラ笑い、僕に言う。

「場の提供。それは架け橋のようなものだ」

「架け橋……ねぇ」

 そうなのだろうか。

 僕が首をひねっていると、猫魔は本の一節と思わしきものをそらんじた。



「人間は獣と超人の間に結ばれた一本の綱である。深淵の上の綱である。……その上を渡ることは危険であり、その上を行くことは危険であり、あとを振り返ることは危険であり、たじろぐことも、立ち止まることも、危険である。……人間において偉大なもの、それは、彼がひとつの〈橋〉であって、目的ではないということである。人間において愛されうるところのもの、それは彼が〈過渡〉であり、〈没落〉であるということである――ニーチェ『ツァラトゥストラ・序言』より――」



「……僕は、〈橋〉か。いいね、それ。〈過渡〉と〈没落〉が愛されるって価値観も、退廃的で良いじゃないか、猫魔」

「おれはデカダンスを気取るつもりはないけどな。山茶花はデカダンなのかな」


 バーボンに口をつけながら、話を聞いていた珠総長がクスクスと笑う。

「我が輩の〈飼い猫〉はニーチェがお好きか。ウケるのぉ。〈超人〉とは我が輩のような者のことを指す言葉じゃろうに。〈うい奴〉じゃのぉ、我が輩のことはもっと褒めても良いのじゃぞ、猫魔よ」

 破魔矢式猫魔は珠総長を横目で見ながらバーボンを一口飲む。

 猫魔は珠総長の方を見ながら、ただ黙っている。

 僕は、そんな総長と猫魔を見て、二人が信頼関係で結ばれているのを確認する。

「この大雨、いつまで続くんでしょうね」

 窓の外を見る。ザーザーと打ち付ける雨が、音を立てている。

 お酒を飲むと、意外に心地の良い音とリズムなのだが。

 一週間雨だったし、ちょっと降りすぎのような気がする。

 珠総長が重そうに口を開く。

「ふむ。……晴れる頃には事件が解決しておる。いや、逆じゃの。事件が解決するから、雨が止むのじゃな」

 僕の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。

「どういうことです、総長?」

「我が輩がプレコグ能力者じゃということを忘れては困るのぉ」

 ……プレコグ。未来予知。珠総長は未来予知能力の保持者だ。故に〈魔女〉なのだ。

「これから、事件が起こる、ということですか」

 僕は素直に訊いてみる。

 総長は答える。即答だった。

「もう事件はどこかで始まっておる。くだらん話じゃよ。勝手に解決するじゃろう。雨はじきに止む」

「事件で雨が降っているって風に聞こえますが、その因果関係は……?」

「愚問じゃよ、山茶花」

「愚問、ですか」

「ああ。愚問じゃのぉ」

 そこに口を挟むのは猫魔だ。

「バカだなぁ、山茶花。総長がくだらないと言ってるってことは、〈金にならない〉ということさ。これは表には出せない超常現象かなにかなんだろう」

「なるほど」

 妙に納得しそうになる僕。

 グラスをテーブルに置いて腕組みする総長が言う。

「常陸。ここは本当に不思議な土地じゃのぉ。『オオカミのサガ』と『フクロウのココロ』持つ国栖くずが住む穴蔵に黒坂命くろさかのみことが茨を入れて滅ぼしたことから、ここに茨城という名前が生まれ、地名になったのじゃったな。西から望むと関東平野が終わって山が始まり蝦夷になる。その最前線が常陸じゃった。超常現象も、そりゃ起こるわい。冥幽界があるのも、常陸じゃしのぉ」

「江戸に住む国学者・平田篤胤ひらたあつたねが拾った少年が、常陸の山奥にある冥幽界から来たのは、有名だしな」

 と、猫魔。

 僕は呟く。

「平田篤胤。復古神道の大成者、か」







 百瀬珠総長がロックグラスの中のワイルドターキーをぐいっと飲み干す。

「常陸は江戸時代に見てすら〈異境〉だったのじゃ。じゃから、平田篤胤が拾った常陸から来た子供が〈冥幽界から来た〉ことに説得力がある。ここは遙か昔、異国、または異国との境界にある最前線基地じゃったのじゃよ。さて。ここは常陸ひたち市なのじゃが。もとはヒタチは『常道』と書いて『ヒタチ』と読んでおったのじゃ。それは『みちのく』である東北地方の『陸奥むつ』と関係しておる。東北もまた『道奥』と書いて『みちのく』と読んだ。それが陸奥国となった。〈道〉の〈奥〉と対応して〈常〉の〈道〉と呼ばれていたのが、〈陸〉の〈奥〉と対応する言葉として〈常〉の〈陸〉となったのじゃよ。茨城と福島の間にある関所の名前は〈勿来の関〉じゃろ。〈勿来なこそ〉とは、〈来ることなかれ〉……すなわち、これ以上先へは進むな、という言葉から出来た地名なのじゃ」

 珠総長は酔っ払いはじめている。

 うぃー、と座った身体をふらふらさせる珠総長の言葉の続きを、破魔矢式猫魔は紡ぐ。

「常陸国にいて朝廷に〈調伏ちょうぶく〉された〈国栖〉とは、この土地の言葉では〈土蜘蛛〉とも呼ばれるな。〈まつろわぬもの〉がいたってことだ。まつろわぬ……すなわち、逆らう者たち。それは〈蝦夷〉と、深い関係がある。つまりここは、さっき総長が言った通り〈異国〉である〈蝦夷〉との境目だったんだ。外国との境目。いや、〈土蜘蛛〉がいる、異国と混じり合った土地というべきかな」

「ふぅん。その〈まつろわぬもの〉を〈調伏〉したのが〈黒坂命〉だった、ということか。それが、〈茨城〉の地名に繋がる、と」

 僕はなんとなく話を聞きながら、バーボンに口をつける。氷は溶け始めていた。

 猫魔は片目を瞑って気取ってみせる。

「江戸に住んでいた国学者である平田篤胤は晩年、道教に接近し、それを自らの学問体系に取り入れることになる。そのきっかけは、常陸から仙境を渡ってきた童子が関係してるんだ。さっき話した子供さ。仙境といや道教だからね。常陸国……茨城のイメージってのは、そんなもんさ。おれたちが調査している平将門だって、常陸らしく〈まつろわぬもの〉の筆頭だろう?」

 僕はある女の子を思い出す。

「仙境? 猫魔、それは確か……」

「ああ。山茶花にしては記憶から引っ張り出すのが速かったね。やはり女性の話だからかな。女に飢えた山茶花は女性の話ならすぐに思い出すからなぁ。……でも、そう、あの〈彼女〉のことだ。珠総長とおれが迎入れた、百瀬探偵結社の東京支部で働いてもらっている、仙境からこっちに戻ってきた天狗少女・舞鶴まいつるめると、のことだ。彼女もまた、仙境から舞い戻ってきた少女だ」

 僕は唸る。

「うちの探偵結社は〈強いカード〉を持っているもんだね」

「まあ、そういうことだ。舞鶴めるとは、法術使いだ」

「しかしさ、猫魔。冥幽界とか仙境とか、本当にあるのかなぁ。世界観設定がめちゃくちゃだよ。だって道教だって日本のいろんなところに取り込まれてはいるけど、外来思想だろ、もとは」

「ああ。だが、おれが知っている限り、冥幽界や仙境なんていう〈ドメイン〉を日本に〈構築〉するようなバカでかい〈術式〉を使った人物はいるには、いるよ。って言っても、思い当たるのは徐福じょふくの爺さんをおいてほかにはいないが、な」

「徐福? って、あの数々の〈徐福伝説〉が残ってる、あの徐福か、猫魔。まさか、知り合いだ、とか言い出すんじゃないだろうなぁ」

「ああ。おれの知り合いだ。日本に渡って住み着いた道教の八仙のひとり。冥幽界なんてもんを日本にも構築させたのはこいつ以外、あり得ないだろう。本人に尋ねたことはないが」

「……………………」

 僕は黙った。話が大きくてついていけないのだ。

 普通だったらこんなのただの与太話だ。

 八仙て、仙人の中でも縁起の良いカミサマみたいなもんだからだ。

 だが、与太話じゃないのを、僕は知っている。

 それを、いつだったか、百瀬探偵結社に所属する女子高生探偵・小鳥遊ふゆりの言葉を借りて説明するのならば。



 ――本当の世界は、超能力もあれば超常現象もある。

 ――凶悪な犯罪を起こすシリアルキラーも聖者のような人間もいれば、怪異だって存在する。

 ――それらを全部取り扱う〈探偵結社〉に入るってことが、百瀬珠総長の下で探偵として働くってこと。



 ……と、なるだろう。


「雨音が弱まってきたようじゃのぉ」

「おっと。酒のつまみがないことに気づいたよ」

 総長と猫魔が、なにか言いたそうにこっちを見ている。

 僕はため息を吐いた。

「わかったよ。雨が弱まっている間に買ってくればいいんでしょ、酒のつまみ。でも、仕方ないから、つくれと言われればつくるけど」

「山茶花よ。我が輩は今夜は油ぎっしりなお菓子が食べたいと思うのじゃよ。購買してきてくれるな? うまい棒もここ茨城の名産品じゃぞ」

「わかりましたよー、もう」

 僕は立ち上がって玄関に向かう。

「じゃあ、行ってきます」

「山茶花が帰ってくる前に、部屋に隠したエロ本を見つけて読んでいるよ。えろげオタクの山茶花のエロ本コレクションだ。さぞかしマニアックなものを取りそろえていることだろう」

「やめろよな、猫魔」

「知ってるって。さ、行ってこいよ、山茶花」

「はいはい」



 僕はビニール傘を持って部屋の外へ出る。







「……人間において偉大なもの、それは、彼がひとつの〈橋〉であって、目的ではないということである。人間において愛されうるところのもの、それは彼が〈過渡〉であり、〈没落〉であるということである――ニーチェ『ツァラトゥストラ・序言』より――……か。よく言ったもんだな、猫魔も。その通りだよ。僕は〈橋〉の役割だし、目的なんていう到達点でもありやしない。僕は〈過渡〉だから。そして、それは退廃的な〈没落〉であるということでもある。僕は獣と超人の橋であることにしよう。それが出来うるのであれば、だけども」


 ビニール傘を差しながらコンビニまでの道を歩く。左手首につけたアナログ腕時計を見ると、日付が変わる頃合いだった。

 腕時計はアナログのチープカシオ。

 腕時計はバンドがすぐに壊れるから、安い方が良い。

 使い捨てに近い使い方を、僕はする。

 高い時計をつけて見栄を張りたいわけでもないし。

 そして、時計はデジタルよりアナログが一番だ。

 時計は針があってこそだ、と僕は思っている。

 だからこその、チープカシオだ。

 僕が手にする条件が揃っている。


 それにしても、空気が湿気でぬめっている。

 弱まったとは言え、雨の一滴一滴は大粒だ。

 奇妙な天気。奇妙な空。奇妙な夜だ。

 今もどこかで事件が起きていて、それが雨が上がるように解決する。

 僕のあずかり知らぬところで?

 そうだろう。僕ごときが観測できることなんて、限られている。

 限られたところで、限られたことをするしかない。

 そんな消極的な気概で百瀬探偵結社にいても良いものなのかは、はなはだ不安だが。


 五分ほど歩いたところで、コンビニが見えてくる。

 硝子越し、フードコートの椅子に座り、酢イカを囓りながら漫画を読んでいる、見知った人物の姿がある。

 金髪ポニーテイルに白い眼帯、ゴシックロリータ。

 間違いない、あのバカ娘はうちの探偵結社の女子高生探偵・小鳥遊ふゆりだ。

「あいつ、酢イカ食いながらなに油売ってるんだ、こんな時間に……。補導されるぞ」

 傘をたたんで傘入れに突っ込むと、僕はコンビニ店内に入ってフードコートで漫画を読んでゲラゲラ笑って酢イカを囓るふゆりに、後ろからチョップを浴びせた。

「ふぎゃあぁぁぁ! 痛っ!」

 こっちを向く小鳥遊ふゆり。

「あー、痛かった。……誰かと思えば山茶花じゃん。なにやってんの?」

 痛くなさそうなふゆりは叩かれた頭頂部を押さえふくれっ面をする。

「それはこっちの台詞だ、ふゆり。補導されるぞ」

「補導した〈表〉の警察官が今度は〈桜田門〉に呼び出し食らうだけだわ」

「口数の減らない奴だな。……ん? 事件って意味か、その言い方は」

「当たり前でしょ! 張り込みよ。まだ時間に余裕はあるけどね。待ち伏せしてんのよ、バカ山茶花。あの阿呆は一緒じゃないの?」

「あの阿呆、とは?」

「猫魔に決まってるでしょ!」

「ああ。破魔矢式猫魔ならば百瀬珠総長とバーボン飲んでるよ。僕はつまみの買い出しだ」

「ムキーーーー! あの阿呆探偵はこのあたしが探偵してるっていうのに、お酒を、しかも総長と飲んでるですって! あの二人に万が一〈間違い〉でも起こったらどうするつもりよ!」

「知らないよ、そんなの」

「そーいうところが童貞だ、っていうのよ、この山茶花のバカ! あの探偵はなに考えてるかわかったもんじゃないわよ!」

「ああ、もう。ひどい言われようだなぁ」

「天才のあたしだって、見れることは限られているのよ。社会はブラックボックスなんだからね!」

「ブラックボックス?」

「いや、そこで首をかしげるな、バカね、あんたは。……ふぅ。まあ、いいわ。時間もまだあることだし、酢イカわけてあげるからそこに座りなさい」

「酢イカ何本買ったんだ? ……って、それこそ〈ボックス買い〉じゃないか。バカはどっちだよ、ふゆり」

「うっさいわね! 座れ!」

「ソーシャルディスタンス!」

「黙れ! 黙って座れ、えろげオタク!」

「はいはい」







「社会の全体像を掴むことは出来ない。機能分化してるのだから、〈理解〉が出来ない、と言い換えた方がいいかしら。その〈社会の見えなさ〉が〈ブラックボックス化〉ってわけ。でもさ、根本的な問題として、人間が関知し得ないところにも〈世界〉は存在しているのかしら。どう思う?」

「うーん、具体的には?」

「例えばこの宇宙。星々がきらめいているわ。その一個一個の星には、自然現象がある。その中の、知性体のいない星。その星でも、雲に覆われていれば、雷が鳴るし、雨は降る。火山のある星は、火山は噴火を繰り返す。……でも、〈観測者〉がいない。果たして、観測者のいないところでは大スペクタクルな自然の現象は起きているのか。誰もいないのに、そんなことをしているのかしら。だって、なんのために。言い換えるわね、〈誰のために〉そんな現象が起きているのよ。創造主がいると確信できれば、その問題は解決される。神に捧げるために、観測者のいないところでも自然現象は起きるでしょう。でも、あたしにはわからないの。〈人間中心主義〉なのよ。観測出来ないところでなにかが起きる。それが信じられない。宇宙があって地球があるというより、地球に人間という観測者がいるから、地球は回って宇宙の星々はきらめいている。そういう価値観。ほら、シュレーディンガーの猫の話だって、観測者がいるときに〈決まる〉。それと同じ風に考えてしまう」


 僕はふゆりの隣の椅子に座りながら考えつつ、ゆっくり自分の意見を述べる。


「〈絶対的〉と〈相対的〉って対になる言葉があるけど、それで言うとふゆりは〈絶対的〉なものの考え方なんだね。人間ていう中心点があって、世界が回る。いや、それがずっと普通の、スタンダードな考え方だったんじゃないかな。アインシュタインの〈相対性理論〉の重要なところのひとつは、〈中心点がない〉ところなんだ。だから、すべてが〈相対的〉に、時空が変化する。時間ですら相対的なものでしかない、という考え方だね。だから、時空は伸び縮みする」


「そうね。あたしはそれが受け入れられないだけなのかもしれない。そこが弱点でもある。『世界五分前仮説』ってあるじゃない」

「ああ。この世界は五分前に生まれたんだとしても、誰もそれに気づかない」

「そう。五分以前の記憶を植え付けられて、ね。そうすると、〈観測〉しているという偽の記憶によって、それは成り立つし、あたしはそれにあらがえない。だって偽物だとしても〈経験〉してるように感じてしまうから」

 ふゆりは酢イカをもしゃもしゃ食いちぎりながら、そんなことを言う。

「で。これはどういう話なんだい」

「現実を信じるって言葉。好きじゃないのよ、あたしは、本当は。奇術を目の前で見せられたら、奇跡かなんかと勘違いしてカルトに入信するって話、よくあるじゃない」

「あるねぇ」

「なのに、この世界にはやっぱり超常現象もあれば怪異もいる」

「そうだね」

「だから、このあたしの〈観測〉が正しいかどうかを確かめる手段がないの」

「じゃあ、どうする?」

「自分を信じるしかないわね。だってあたしはあたし以外の誰でもないんだから」

「自分を盲信しちゃうのも問題だけどね」

「知ってるわよ、バカ山茶花! ふぅ。ごちそうさまでした」

 ダストシュートに酢イカの棒とパックを捨てるふゆり。

「日付が変わった。始まるわね」

「なにが?」

「見ればわかるわよ」

「誰か、歩いてくるね」

「追うわよ」

「お、おう」







 背丈の異様に大きい男の背後をふゆりと追うことになった。

 男が路地裏に入る。

「どういうことだい? あの男、こんな時間に、どこへ向かっているんだい」

 男が振り向いたので、僕とふゆりはサッと身を潜める。

「バカ山茶花。バレるでしょうが」

「いや、よくわかんないんだけど」

「もうこの事件は解決したようなものなの」

「余計と意味がわからない」

「あいつが犯人よ」

「はっ? なんのだい」

「最近、野犬や鳥を食い散らかした跡が市内にたくさん見つかっている話、知ってるかしら」

「ああ。知ってる」

「犯人は、あいつよ」

「え……。人間が、鳥や獣を食べている、と」

「そうよ」

「ヤバいね」

「ヤバいわよ。あたしたちの仕事にヤバくない件なんてないわよ」

「そりゃそうだ」

「じゃ、事件を目撃するために、追うのを続けるわよ」

「おう」


 そして、潜んでいたところから出てみると。

 背丈の大きなその〈犯人〉は、首を切断され、胴体から大量の血液が噴き出しているところだった。


「ふゆり。殺人事件になっちゃったけど」


 胴体がどさりと崩れ落ちた。

 血だまりに、大粒の雨が混じる。


 ふゆりは顔を青ざめさせている。

「ど、どういうことなの……」

「こっちが聞きたいよ」

「うっさいわね!」


 血だまりの向こうに、生首の髪の毛を掴んで持っている少女がいた。

 少女は蛇の着ぐるみパジャマを着て、こっちを見ている。

「見たでごぜぇますね?」

 見てない、と言ってもダメだろうな、と僕は思ったので、

「見たよ。君は誰だい」

 と、尋ねてみる。

 少女は笑う。

「わたしはうわばみ姫でごぜぇますよ。通りすがりの正義の味方、でごぜぇます」

「へ……へぇ」

 僕は相づちを打つしかない。

 ぬるい雨が僕らに降り注ぐ。

 僕もふゆりも傘はもう手放している。

 少女も傘を差していない。

 少女は人間とは思えない大きな口を開けて、生首をぺろりと平らげる。

 がりがりと頭蓋骨をかみ砕く音が路地裏に響く。

 大きな咀嚼音を出して、少女は生首を食べ終える。

 僕とふゆりはそれを見ている。

 少女が男の生首を食べ終えた途端、雨が止む。

夜刀神やとのかみ……と言えば、〈魔女〉にはわかるでごぜぇますよ?」

 立ちすくむ。蛇に睨まれるネズミは、こんな気分だろうか。

 少女は路地裏から消えた。

 僕らはそれをずっと見ていた。

 動けなかった。

 僕らが動けるようになって事務所のあるビルに戻ったのは、三十分後のことだった。







「獣と超人の〈橋〉……つまりは仲介役、にはなれなかったようだね、山茶花」

 自室に戻った途端、破魔矢式猫魔は、僕にそう言ってケラケラ笑った。

 僕の隣で、ふゆりは泣きじゃくっている。

 そして〈魔女〉である珠総長は、

「な。雨は止んだし事件は解決したし、我が輩の金には変換出来なかったじゃろ。世間的にはこの事件は迷宮入りじゃし」

 と、ぶっきらぼうに言う。

「酷いですよ、総長! ふゆり、こんなに泣いちゃってるじゃないですか!」

 と、僕。

「経験値が足りなかったんじゃ」

 と、総長。

「そんなッ! じゃあ、ダメだったっていう経験をふゆりにさせるために、こんなことしたんですか!」

「そうじゃよ」

「酷い!」

 僕が怒ると、

「まあ、夜刀神うわばみ姫と面識を持っておいた方がいいんじゃないかなー、と思ってのぉ」

 と、総長。

「誰なんです、その夜刀神うわばみ姫って!」

「見た通りの、〈正義の味方〉じゃよ。要するに、我が輩らの邪魔をする、あっちはあっちで〈まつろわぬもの〉を〈調伏〉する者。正義の味方じゃろ?」

「調伏って!」

「無頼者の首を切断したのは妖刀〈蜘蛛切〉じゃ。あんなんで斬られたらひとたまりもないのー」

「刀なんて持っていなかったです!」

「バカには見えないかものー」

「『裸の王様』じゃないんだから! 総長! ちゃんと説明してください!」

「じゃからアレは、政府のエージェントなんじゃよ。でも、政府にも派閥があっての。もちろん〈裏〉の方の政府のことじゃが」

「はぁ」

「夜刀神は『常陸国風土記』に登場する蛇のカミサマじゃ。あやつ、なんと、カミサマなんじゃよー。カミサマさえ利用するんじゃな、〈政府〉の連中は」

 僕は話についていけなくなってきた。

 泣きじゃくっていたふゆりが大きな声を出す。

「絶対に、許さない、あのうわばみ姫って奴! 許さない! あたしをバカにした! 許さない! なにが夜刀神よ!」



 ……小鳥遊ふゆりと夜刀神うわばみ姫。

 出会うべくして出会った、これが小鳥遊ふゆりと夜刀神うわばみ姫の二人の、初めての出会いだった。

 ふゆりの前に、大きな敵が現れたのだ。

 正義の味方、という敵が。

 異境の神で、政府のエージェントである、という敵に。

 そしてそれは、僕の敵にもなるということなのだろうか。


 とにもかくにも。

 未解決事件は、こうやって迷宮入りになった。

 闇に葬られるというかたちで。

 でも、知っている者は知っているのだ、真相という奴を。

 ふゆり風に言うのならば。

 こうやって、ブラックボックスである社会は回る、ということだ。

 それでも僕らは、立ち向かうことになる。これからも、〈異境〉の事件に。





〈了〉

  

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