第3話 気韻生動の法術士

 わたし、舞鶴めるとは、女子大生だ。茨城県の常陸市にある常陸十王大学に通っている。

 茨城に生まれ、茨城で暮らしてきた。

 常陸十王大学は茨城県の常陸市にある公立大学で、わたしはほぼ人生のすべてを茨城で過ごしてきた、ということになる。

 わたしは正真正銘、茨城の〈イモ娘〉だ。

 茨城では、ダサいことを「イモ」と呼ぶ。その意味で、わたしはイモい。

 しかし、うちの大学に通う者たちからは、わたしはイモではなく、〈天狗少女〉と呼ばれているのであった。まあ、イモな上で天狗だ、ということなんだけども。


 わたしは、高校三年生の頃、〈おのぼりさん〉になって東京に行ったときに、上野駅の上野公園口から徒歩3分のところにある医薬祖神である五條天神社にお参りに寄った。

 メインの用事を済ませてから、だ。そのときは、ついでのつもりだった。

 病弱だったわたしは、五條天神社で、形代かたしろを神前にお供えして、無病健康の祈願をしたのだ、受験勉強に向けて。

 病弱じゃ受験を乗り切れない、と考えて。

 ついでだから寄っておこうかなぁ、という軽い気持ちで。


 しかし、いずれ天狗と呼ばれるようになる、わたしの〈天狗少女〉人生はここから始まるのである。




 五條天神社で。

 わたしは、形代に息を三回、吹きかけた。


 形代とは人形ひとがた……つまり〈にんぎょう〉のことで、身を撫で息を吹きかけるのは、心のけがれを追い出してしまう事を意味し、自分の穢を人形に移し、人形をわが身の代わりにして清めてもらうことを意味するらしい。

 一ヶ月に一回開かれている病気平癒のための祈祷らしいのだけれども、評判が良い。

 寄らなくちゃ、と、なんとなくわたしは用事の帰り、山手線を上野駅で降りると、五条天神社に向かい、社務所で相談をして、この祈祷に参加出来るようにしてもらった。

 ちなみに形代は撫物なでものとも呼ぶ。紙を人の形に切り抜いたもののことなのだ。

 だから、普通に想像する「お人形」とは、異なる。



 五條天神社での病気平癒のための祈祷の帰り道、問題が生じた。

 上野公園が。

 迷宮に様変わりしていたのだ。

 わたしの目の前に広がるのは、うっそうと生い茂った森で、あきらかにそこは上野公園ではなかった。

「迷宮……。ここは森のダンジョンだ……ッ! どうしてこんなことに?」

 ダンジョンロールプレイングゲームが好きなわたしだが、これにはちょっと辟易した。

 世の中はたまにおかしなことも起こるから、公園が森林に変わったって、焦るけど、抜け出せれば「なかったことにして」日常に戻ることが出来る。

 わたしは考えた。目の前に広がる公園の森林化という超常現象も、やりすごせば問題ない。脱出することのみを考え、歩くことにした。

 さっきの五条天神社も、同じく上野公園内にある天台のお寺も、なくなっていた。

 わたしは、あきらめずに歩く、歩く、歩く。

 と、前方から歩いてくる、大きな〈桐箱〉を担いだ、江戸かどっかの時代の薬売りスタイルのおじいさんを発見する。

 おじいさんとエンカウントしたわたしは、

「あのー、道に迷ってるんですけどー」

 と、桐箱のおじいさんに声をかける。

「道に迷うのは、人間誰しも同じ……」

「いや、人生相談とか、そういう意味じゃなくてね?」

 おじいさん、ぼけているのか?

「ふむ。わたしについてきなさい」

 なーにが、ついてきなさい、だ。

 ためらうわたし。

 高校三年生の女子が一人で、怪しさ抜群のじいさんについていく?

 わたしは爺専ではない。

 加齢臭も嫌いだ。

 なにをされるか、わかったものじゃない。

 だが、この森林を抜け出せないと日常に戻れない。

 なので、決断をした。

「わかったわ。でも、わたしにナンパするのはなし、でどうかしら?」

「いや、困ってるのあんたさんじゃろが。なのに注文をつけてくるとはのぉ。……良い良い。ついてきなさい」

 老人と歩くこと数分。

 あきらかにわたしとおじいさんはテレポーテーションしていた。

 今までと植物の種類が変わっている、どこかの山道に出た。


 ここは、深い深い山の中だ。感覚的にわかる。

 鳥や虫の鳴き声があたりを埋め尽くしている。

 蒸し暑い。植物の匂いに、むせそうになる。


「ここが常陸国ひたちのくに南台山なんだいさんじゃ!」

 おじいさんは親指を立て、サムズアップのジェスチャーをして、キメ顔でそう言った。

「えー。わたし、常陸から来たんですけどぉ。こんな場所知らないし、東京からこんなすぐに常陸につくわけないじゃん。その南台山って、なに?」

仙境せんきょうじゃ!」

「仙境?」

「仙人が住む世界へようこそ。ちょうどお嬢ちゃんも仙人になる資格である〈仙人骨〉の持ち主じゃからな。自分の〈骨格〉に感謝せよ!」


「ダメだ、こりゃ…………」

 桐箱担いだじいさんは、ひとの話をまるで聞く気がなく、話から察するにわたしを仙人にしたいらしい、というのがかろうじてわかる。

 こいつがそれを装った変質者でなければ、の話だが。


 そして。

 ……結果から言うとおじいさんは変質者ではなかった。

 仙人だった。

 法術っていうのを、たくさん見せてもらい、疑いようがない風にも思えた。

 だが、問題として。

 わたしはこの日から半ば強引に、仙境である常陸国の南台山で、仙術の修行をするはめに陥ったのだ。

 そこから〈天狗少女〉が生まれるまで、そう時間はかからなかった。







 あとで知ったことだが、常陸にある実家に戻ったわたしは、一ヶ月くらい仙人の修行したはずなのに、浮世では三日しか経っていなかったそうだ。

 しかし、三日とはいえども、それは浮世では長く、捜索願が出されていた。



 帰ってきた時間は夜だった。

 実家の表札の前に立つ。

 ひょこひょこと家のインターフォンを鳴らすと、夜だっていうのにうるさく泣きながら、母親が出てきてわたしを抱きしめた。

「ただいま」

「バカ! 今までどこにいたの、めるとちゃん」

 母親はわたしをちゃん付けで呼ぶ。

 恥ずかしいからやめてほしいのに。

「えーっと。仙人の修行をすることになっちゃってね。でも、〈法術〉とか、少しできるようになったよ」

 バッと母親はわたしから離れて、

「ああ、疲れているのね。それでおかしなことを口走るようになって……。さ、家の中に入りなさい」

 と、わたしを受け入れた。

 家の中に入ると、父親がいた。

 仕事から帰ってきたのだろう。

「めると。まさか悪い男に騙されて……」

「うーん。それはないわよ。それよりお父さん」

 わたしには〈見えた〉。

「明日、仕事で大けがするわよ。気をつけて。……そうね、倉庫のフォークリフトに気をつけて」

 そこに母が、

「縁起でもないことを言うんじゃありません!」

と、わたしを叱った。

「うーん、でも見えるんだけどなぁ、背中にね、背負っているものが〈見える〉みたいなの」

「今日はもう暖かいものを飲んで寝なさい。ホットミルクをつくってあげるから」

「はーい」

 お風呂に入ってホットミルクを飲んで、眠る。

「あー、いろいろあったなぁ。これからもお師匠は定期的に仙境へ来いって言うし、さ。終わったわけじゃないのよね、この一件は。面白いから良いけどねー」


 勢いよく、わたしは布団にダイブする。

 久々の、実家の布団はふかふかしていた。




 次の日、高校に行くと、みんな、痛々しそうな目でわたしを見ていた。

 だが、わたしにはラッキーなことに話し相手になるような友達は皆無だったので、ぼえーっとして過ごす。

 午後の授業中。眠たい目をこすって黒板を見ていると、スピーカーで職員室に呼ばれた。

「やっぱりね」

 呟いて職員室へ行くと聞かされたのは、わたしの父親が、不注意で仕事場の倉庫のフォークリフトにひかれた話。

 一命は取り留めたが、ということだった。

「なるほどねー」

 わたしは頷くと、自動車で迎えに来た母親と一緒に、父親が入院している病院へ行くことになった。


 病室には、父親がいた。

 わたしの顔を見た途端、悲鳴を上げた。

 悲鳴が病室に響く。

 看護師が悲鳴に気づき、病室に入ってくる。

「悪魔だ! 悪魔だ! この子は悪魔になっちまった! あっちへ行け! こっちに来るな! こっち見るなぁー! ひぃー!」

 暴れる父。

 看護師が呼んだ看護スタッフたちが続々駆けつけ、押さえつける。

 鎮静剤を打たれ、父は眠り、騒動が収まる。

「どういうことなんですか」

 看護師が母に問う。

 母は答える。

 わたしが父に話したことと、昨日までわたしが行方不明だったことを。

 看護師が、

「あはは。大げさだなぁ。じゃあ、めるとちゃん、僕の背中に、なにか見えるかい?」

 と、尋ねてくる。

 言いたくなかったのだが、言われたから、答えるしかなかった。

「二日後、あなたが住んでいるアパートは火事で燃えるわ」

 その場が凍り付く。

 母はわたしの頬をはたいた。

 痛い。

「そ、そんな縁起でもないことを言うもんじゃありません!」

「あはは。気をつけておくよ」

 看護師さんは、そう言って、その場はそれで過ぎた。

 二日後の夜、その看護師さんの住んでいるアパートは火事で焼けて、笑っていたその看護師さんは、帰らぬひととなった。


 舞鶴めるとは、頭がおかしい。

 狐憑きか、天狗にでもなったのだ。

 学校ではそう言われ、近所でも話は広まり、精神科へ連れていかれ、なぜだかわからないが、三日間の行方不明が生んだであろう誇大妄想の気があるので入院治療が必要だ、との理由で、精神病院へ入院することになってしまった。



 ピンチ。

 大学受験まで、あと少ししか時間がないのに。

 仙境の次は精神病院?

 舞鶴めるとの人生は、意外と波瀾万丈になってきていた。







 精神科病院には、閉鎖病棟と開放病棟がある。隔離病棟というのも、ある。

 わたしは開放病棟に入れられた。

 解放病棟の患者は、病院の庭を歩くことができる。

 わたしはその病院の大きい庭を散歩するのが日課になった。

 散歩が終わったら、持ってきた教科書を眺めたり、庭にある売店で買った雑記帳に日記やポエムを書くようになった。



 ある日、庭に〈特異点〉を見つけた。これは〈仙境〉と似たタイプの、入り口だ。

 異界に通じているのはあきらかだった。

 一瞬、ためらったが、わたしはその建物の吹きだまりにある、ぼやぁ、っとした空間へ、足を踏み入れた。

 空間内に入ると、古ぼけた木造平屋建ての小屋の目の前に着いた。

 怖さより好奇心が勝る。


 わたしがその建物の引き戸を開けると、鍵はついておらず、立て付けの悪さかなにかでガタガタガラガラ音を立てて、室内に入れた。

 そこはアトリエになっていた。

 風変わりな墨画がところ狭しと置いてあり、部屋の中央では、椅子に腰掛け、筆で墨画を軽快なタッチで描いている青年がいた。

 青年はこちらに気づいていないのか無視しているのか、さらさらと絵を描いていく。

「素敵ですね」

 わたしは、椅子の背後から、彼に声をかけた。

 彼は振り向く。


「やぁ。こんにちは、お嬢さん。話はここの院長先生から聞いているよ。舞鶴めるとさん、だね?」

 わたしのことを知っている?

 少し恐怖する。

 おびえたわたしに微笑む彼は、

「おれは破魔矢式猫魔。ここをアトリエにして『南画』を描いている、酔狂な人物だよ。ここに来た君も、酔狂な人間だとは思うけどね」

 と、わたしへの皮肉と、自己紹介をした。


「破魔矢式……猫魔」

 わたしは〈お師匠〉と同じ空気を、破魔矢式猫魔に感じた。

 これが、破魔矢式猫魔、及び〈百瀬探偵結社〉との出会いだったのだから、世の中、不思議だらけだ、と今になっては思うしかない。







 埃でむせそうな古ぼけた平屋建てで、猫魔さんは墨画を描いている。

 なにをするでもなく、わたしは猫魔さんのアトリエに毎日、お邪魔するようになった。

 ほとんど会話もなく、絵を描く猫魔さんの姿を見るだけの日々。



 ある日、さすがになにか会話をしなくちゃ、と思い、わたしは口を開いた。

「そのさらさらと描いた墨画、まるで仙境の山水を描いているみたいですね」

 猫魔は筆を置いて、わたしとの会話モードに入る。

「〈境〉というより、その先の〈冥幽会めいゆうかい〉だね、おれが描いているのは。そう、舞鶴めるとさんは仙境で修行をした、天狗少女なんだってね。ここの院長が言っていたよ」

「…………」

「なぁに、法術が使えるなら、それはそれで便利だろう。迫害が怖い?」

「は、迫害は怖いです。ここにだって、入院させられてしまったし」

「理解が及ばないことがあると、ひとは〈異常〉だと感じて〈隔離〉するものさ」

「猫魔さんも、迫害を?」

「ああ。でも、おれは〈魔女〉に拾われて〈飼い猫〉になったからね。運が良かったよ」

「魔女……ですか。それで、猫魔さんは、なにを描いてらっしゃるのか、知りたいと思って。今日はそれを聞こうと伺ったのです」

 破魔矢式猫魔は、ケラケラと乾いた笑い声を出してから、

「おれが描いているのは『南画』と呼ばれるものだ。フェノロサが非難した美術、と言った方が、ここ茨城ではしっくりくる表現での説明になるな」

「フェノロサ。どこかで聞いたような」

「岡倉天心に美術を教えた東洋美術史家が、フェノロサで、岡倉天心といえば、北茨城市に六角堂をつくったから、今はその近くに記念の美術館があるじゃないか」

「ああ、そういえば」

「明治38年に茨城県・五浦海岸へ別荘である六角堂を建設した岡倉は、翌明治39年に〈日本美術院〉の第一部である〈絵画〉をそこへ移転させたんだ。洋画と日本画をわけたのは、なにを隠そうこのひと、岡倉天心さ。フェノロサの講義を受けたのが岡倉天心で、つまりフェノロサは岡倉天心の師匠にあたる人物でね。フェノロサは狩野派絵画に心酔していて、江戸時代に狩野派絵画に飽き飽きした画家たちが始めたとされる南画を非難したのさ」

「そんなものをどうしてまた猫魔さんは描いてらっしゃるのですか」

「南画には、伝統的に〈気韻生動きいんせいどう〉と呼ばれる考えがあって、その具現が南画であるといわれているんだ。その思想に触れてみたくてね」

「気韻生動?」

「大自然の生命力を自己の精神に取り入れて活き活きと描写すること、となるかな。気韻生動を一言で説明すると。北宋ほくそう南宋なんそうという分け方があって、職人画家の描いたごっつい墨画を北宗画ほくしゅうがと呼び、やわらかな筆遣いで山水を主な対象に描いたのを、南宗画なんしゅうがと呼ぶようになった。それが中国の話で、日本に渡ってきて、流行ったときは狩野派のアンチとして始まったとされる。一部の画家たちの間では、狩野派の保守的な傾向じゃ飽き足らなくなっていったんだね。それで描き出されるようになって、南画は江戸時代に流行っていったんだ。上手い具合に、読書人口が著しく拡大して、南画は知識人の教養のひとつとして愛好されたんだ。与謝蕪村も、俳人であるだけでなく、南画家としても有名だよ」

「へぇ……そうなんですか。与謝蕪村なら、教科書で見たこと、あります」

「おれが南画を描くのはささやかな、この土地の歴史に対する反抗さ。言い換えればフェノロサ、強いては岡倉天心に対しての反抗だ。違うか……、そうだなぁ、そう、皮肉みたいなものさ。茨城にいるからね、おれも、舞鶴めるとさん、あなたも。この土地に特有の息苦しさだって、あるのはわかるだろう。おれは、そのことへの批判の実践をしているんだよ。……でも」

「でも? なんです?」

「君はここにいながらにして、ここにはいない。〈冥幽会〉こそが、君が入り込んでしまった道なんだ」

 ああ、わたしは、なんてひとと出会ってしまったのだろう、と思った。

 仙境や冥幽会は、目の前にいるこのひと、破魔矢式さんにも、お馴染みの場所なのだ。

 そうじゃなきゃ、こんなにわたしが見てきた風景と同じものを、このひとが描けるわけがないのだ。

 それ以前に〈この空間〉を現出させられるわけがない。

 これは猫魔さんの法術だ。

 今、わたしがいるのは猫魔さんの結界の中だ。

「舞鶴めるとさん。あなたはおれが人払いの結界を張った中に入ってきた。入ってこれたのは〈仙術〉とか〈法術〉って呼ばれる類いのものを、君が〈背負ってしまった〉からだろう。君は……病気じゃないよ」

「…………」

 言い返す言葉が浮かばなかったわたし。

「君はこれから、〈君〉に会うだろう」

「意味がわかりませんが」

「嫌でもわかるよ」







 夜のお薬を飲み、消灯時間が病棟に訪れた。

 一斉に電気が消される。

 病室も、廊下も。


「う、お手洗い……」

 消灯一時間後くらいの頃。

 わたしはベッドから起き上がり、スリッパを履いて、トイレを目指し、病室の引き戸を開けて、歩いて行く。

 ぺちぺちぺち、とスリッパの音が真っ暗な廊下に反響する。

 女子トイレに着く。

 誰もいない。

 トイレが自動で灯りがついたので洗面所の鏡で自分の姿をチェックする。

「うん。なんともない」

 なんの確認だか自分でもわからないが、鏡を見て安堵したわたしは、個室に入る。

 便座に座った。

 そのときだ。

 天井からわたしの眼前に、見開いて充血した目をした妙齢の女性の〈顔〉が、つり下がって現れた。

「ひぃ!」

 天井から糸を伝って降りてきたその〈顔〉は、おほほほほ、と笑う。

 顔に、直接蜘蛛のような、毛がうじゃうじゃした足が左右に十本はついていて、すべての足が別個にうにゃうにゃ動いていた。

 飛び上がったわたしは、〈顔〉から横に避けて、下着と患者服を着直しながらダッシュで逃げた。

 トイレから出て、廊下で後ろを振り向くと、その左右十本の足で、カサカサ音を響かせ、〈顔〉が追いかけてきていた。

 わたしは〈顔〉の反対方向に向けて走った。

 各病室は静まりかえっていて、わたしが悲鳴を上げているのに、誰も起きない。

 ダッシュしたわたしは、ナースステーションの前に立つ。

 ナースステーションの中は明るい。

 宿直のスタッフがいるはずだ。

 わたしは鍵のかかったナースステーションのドアをノックする。

 誰も出てこない。

 いぶかしんだわたしは、扉についた硝子から、中をのぞいた。

 すると、病棟スタッフが血だまりに倒れていた。

 そして、仰向けに倒れているスタッフ二人の、飛び出た内臓を引きちぎり喰っている、足が左右に十本の〈顔〉が、二匹いた。一匹ずつ、病棟スタッフの内臓を喰っている。

「ひぃー!」

 腰が抜けてその場に倒れ込むわたしに、後ろから〈顔〉が迫ってくる。

 喰われる……。

 わたしがそう思ったときだ。

 ナースステーションから一番近い病室から飛び出てきた男が、〈顔〉の、その顔の眉間へめがけてアイスピックを振り落とした。

「ぴぎゃああああああああぁぁぁぁ!」

 男は黒いドライバーグローブを着けた手で振り落としたそのアイスピックを廊下の床まで貫通させて突き刺した。

 アイスピックが〈顔〉を床に釘付けにする。

 あの〈顔〉は、突き刺されたまましばらく動いていたが、血の泡を吹いて、聴くに耐えない断末魔の声を吐いて絶命した。


 わたしは、男を見る。

 それは、破魔矢式猫魔だった。

「やぁ」

「助けてくれてありがとうございます。でも一体、なにが起こっているのか、さっぱりなのですが」

「ああ。君はひとの背中に映像が浮かんで、それで予言じみたことを言っていた、と聞いたんだけど」

「ええ。そうです。それがなにか」

「自分の背中に背負ったものの映像は、見えないんだね」

「え?」

「舞鶴めるとさん。あんた、呪われてるぜ? こんな境遇なのに、それでもまだ、うらやましがっていたり、妬みから君に復讐したいような奴らがいるんだ。それが取り憑いていて、ちょうど機が熟したから〈呪〉が襲ってきたんだ」

「でも、化け物だなんて、そんな、非現実的な……。わたしが見えるのは、もっと現実的なもので……」

「流派が違うのさ。君に〈呪〉の〈種を蒔いた〉奴の法術の流派が、ね」

「今、ナースステーションにも……」

「ああ。病室も見て回ったけど、遅かったみたいだな」

「え? それじゃぁ、静かなのは」

「君はもう退院だ。狂ってなんかいない。だが、この病棟は、手遅れになってしまった。病棟スタッフを含めて」

「そんな……」

「さて。最後にナースステーションの〈顔〉を、ぶっ殺しに行ってくるよ」

「もしかして、猫魔さんが言っていた、君はこれから、〈君〉に会うだろう、っていうのは」

「もちろん、〈顔〉自体のことじゃないさ。君と同じ、法術使いの存在がいるってこと。具体的にはこの〈顔〉を放った術者だ。術を使う者が自分以外にいないだろうと思っていたわけじゃないだろ? 自分に不思議な力があるんだ。同じく不思議な能力を使う者もほかにたくさんいる、ということさ」

 絶命した〈顔〉からアイスピックを引き抜く猫魔さん。

 アイスピックを抜いた眉間から、血が吹き出る。

「これも、うちの〈魔女〉の命令なんで、ね。一仕事、やってくるぜ。術者も捕まえる。〈赤坂〉に引き渡せば、奴らだって大喜びさ。〈桜田門〉にも、報告が必要、か……。めるとさん、君はそこで見物してなよ。腰が抜けて立てないんだろ?」

 ぺたりとその場にへたり込んでいたわたしは、恥ずかしいことに失禁していた。







 わたし、舞鶴めるとは、女子大生だ。茨城県の常陸市にある常陸十王大学に通っている。

 茨城に生まれ、茨城で暮らしてきた。

 それはほぼ、人生のすべてを茨城で過ごしてきた、ということだ。

 病棟の一件から、一年が経過していた。

 わたしはまだ、茨城にいる。

 わたしには、不思議な能力があって。

 それは、極力使わないようにしている。

 それでも、天狗少女とあだ名をされているけれどもね。


 ある、晴れた日の朝。

 大学への登校中。


「猫魔さん、元気かな……」


 わたしが呟くと、一陣の風が吹いた。

 スカートを押さえ、目を瞑る。

 一秒後、ゆっくり目を開けると。

 わたしの目の前に、小柄で勝ち気そうな女性が腰に手をやり、胸を張ってこっちを見ていた。

 そして、その女性に付き添っている男の姿は、忘れるわけがない。

 破魔矢式猫魔だ。

 ああ、じゃあ、この女性が猫魔さんの〈飼い主〉の、〈魔女〉か……。


「舞鶴めるとじゃの! 我が輩がおぬしに用があることは、もうわかるじゃろ」

 魔女がわたしに開口一番で、そんなことを言う。

 隣で猫魔さんが苦笑している。

「我が輩の『百瀬探偵結社』に、おぬしを受け入れる用意が出来たのじゃ! おぬしは百瀬探偵結社の、〈東京支部〉で働いてもらう。今まで茨城以外に住んだことがない、と聞いておるが。引き受けてくれるじゃろう?」

 下を向いて、少しにやけてから、わたしは顔を上げた。


「もちろん。働きますよ」

 後先考えず、わたしは首肯していた。

 返事をしたわたしは、瞳がキラキラしていたかもしれない。


「ふむ。悪いようにはせんから、ビシバシ我が輩のもとで働くのじゃ!」



 わたしは、声を弾ませる。

「ついに、天狗少女と陰口をたたかれて居場所のなかった大学を辞めて、自分の能力を活かすときが来たのね」

 ニヤリと歯をむき出すようにして、魔女は言う。

「そういうことじゃよ、めると。我が輩が百瀬探偵結社の総長・百瀬珠じゃ。よろしくのぉ」

 わたしは、猫魔さんの方を向く。

「今度、『南画』の描き方、教えてくださいね、破魔矢式猫魔さん」

「お安いご用だよ、舞鶴めるとさん」

 猫魔さんの返事を聞いてから、わたしは総長へ視線を移す。

「こちらこそ、よろしくお願いしますね、珠総長」

「ふむ。これからの己が仕事に、存分に励むが良い」


「じゃあ、さっそく連れて行ってくださいな」


 わたしの人生の第二章が、ここから始まった。

 天狗少女の人生が。

 これはつまり、そういう物語。





〈了〉

 

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