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子猫をお届けするついでに、米問屋の女将さんに渡すよう一通の
「帰りにはあの手代さんに送ってもらえるよう書いてある。昼間、
だから、弟子を送るついでに取りに来て欲しい、と文に書いた。
「いいかい、おまえの思いを手代さんに伝えるのはこの時をおいて他にはない」
でも、お師匠さん……戸惑うあたしにお師匠さんはこう言った。
「お前の思いは叶わない。だけどさ、せめて手代さんに伝えられれば少しはすっきりするんじゃないかい。諦めも付くってもんじゃないのかい」
そうして米問屋さんの店先で、文を渡し、子猫が帰ったと喜んで出てきたお嬢さんを眺め、お嬢さんに抱き上げられてニャアニャア鳴きながらその顔をなめる子猫を眺め、それから女将さんに言いつけられた手代さんとともに、今、夜道を歩いている。
手代さんが持つ
「あの……」
意を決したのはもう、じきにお師匠さんの家につく橋の上だった。これを渡り切ってしまえばお師匠さんの家、お師匠さんのせっかくの心遣いを無駄にしてしまう。
「近頃、よく昔のことを思い出すのです。覚えておられますか? 手は擦るとひび割れしにくくなると教えてくれました」
「……」
手代さんは欄干の際に立ち止まり、流れる川面を眺めているようだ。
「そうですね、時の流れは川の流れと同じように常に移りゆくものですね」
静かな声が聞こえてくる。
「幼い子供の頃は何も考えず思った通りにあんたに声をかけることができた。何の責任もしがらみもなく。そしてほんの思い付きを、さも本当のことのように教えることさえ恥ずかしげもなくできた」
「思い付きだったのですか? ひびができにくくなったと喜んでいたのに」
「そうだとしたら、信じる心でひびができにくくなったのなら、手代さん……あの頃は丁稚さんだったけど――が言ったから信じたんだわ」
「あたしのことを信じてくれていたとは、嬉しいことです。そして少しでもあんたが楽になったのなら……その、ひび割れが少しはよくなったのなら」
「えぇ、今でも信じて冬になると手を擦ってばかりいます。お師匠さんに『うちには冬になると
少しだけ、手代さんが笑った。
「ハエと呼ばれてしまうとは。申し訳ないことになったね」
「そうよ、申し訳ないと思うなら、どうぞ責任をとってくださいな」
「責任って……」
呆れたようにそう言ったが、続いて出た手代さんの声は微かに揺れている。
「責任って?」
立ち止まっていたのに提灯が大きく揺れた。米問屋の屋号が描かれた提灯だ。
「こないだ、お嬢さんのお稽古に付き添っていらしたとき、『幸せになっておくれ』とおっしゃった。ならば手代さん、自分であたしを幸せにしてはくれないの?」
闇があたしを大胆にしたんだろうか。こんな言葉を口にするつもりはなかったのに、一度出てしまえば次から次へと涌くようだ。
「手代さんだって、あたしを好いておいででしょう? あれから何度考えても、そう思っていない
なのに、なんでお嬢さんとのお話しを承けてしまったの? お嬢さんがお相手じゃ、あたしに勝ち目はないじゃないの。
「あんたのお師匠さんに言われたのだよ、あんたに構ってくれるなと」
あたしに詰られながら、絞り出すように手代さんが言う。
「それならお師匠さんから聞きました。子供の頃の話でしょう」
「そうか……それであんたを見もしなくなったあたしを冷たい奴だと思ったことだろうね」
そう言いながら手代さんは川面を見続けているようだ。
「今も見てはくれないのですね。この闇の中で川ばかり眺めていなさる。なにが見えているのです?」
「何も見えません……そこには大きな流れがあるはずなのに、目の前に広がる闇に塞がれて、どこに流れていくのか、とんと見当付きません。そして今、あんたを見てしまったら、この川は荒れ狂い、あたしとあんたを飲み込んでどこかへ連れて行ってしまう。だからあんたを見ることができないのです」
それは? それはどういうこと?
「あたしだって、ずっとあんたを好いていた。でなければ、あんな出任せ言うものか。擦ればひび割れが良くなるなんて、そんな出まかせ言うものか。いや、あんたの気を引こうと思って言ったわけじゃない」
だけど、気持ちを引き立ててやりたいと、はっきり思った。
初めは親元を離れているという似た境遇、同じような年ごろ、そこに親しみを持っただけかもしれない。だが、気が付けば、そう、あんたのお師匠さんに近づくなと言われたあの時から、あんたのそばに行けないことが苦痛になった。
そして手代となり、とうとう一目顔を見るのも難しくなると、苦痛は、いつかきっと、という思いに変わった。いつかきっと町住の番頭になり、旦那様のお許しを得ようと。そしてあんたを女房に貰おうと。あんたは「うん」と言ってくれるだろうか、そんなことばかり夢想するようになった。
「だけど、それは夢物語、許されることではない」
今となっては決して叶わぬ思い。旦那様を裏切るなんぞとんでもない。お嬢さんを悲しませるわけにもいきません。
絞り出すような手代さんの声に、あぁ、やはりそうなのだ、とあたしは思っていた。
「結局あたしら貧しい家の子は幸せになんぞなれないって決まりだ」
「何を言う。あんたは幸せにならなきゃいけない」
「手代さんはいいよ、あのお金持ちのきれいなお嬢さんの横で幸せになるといいよ」
「あんただってお師匠さんが身の立つように考えていてくださる。幸せに暮らせるとも」
「そうね、暮らしは立つでしょう。でも、それが幸せ? 思う相手の顔を見ることさえままならない、そんな暮らしが幸せって言える?」
「それを言うならあたしだって同じこと」
とうとう手代さんがあたしを見た。
提灯は放り出され、中のろうそくが倒れ火袋を燃やし、手代さんとあたしを明るく照らした。
「たとえお嬢さんがどんなにお綺麗で、あたしを思ってくれたって、旦那様や女将さんがどんなに大事にしてくださっても、あたしもあんたに会うことはできやしない」
それを幸せとあんたは言うのか ――
「ああ、そんなことなら……」
荒れ狂う流れに飲まれ、手代さんと二人、どこかに消えてしまいたい。
「本気でそれを?」
手代さんがあたしを見つめる。頷くあたしが手代さんの瞳に映った。
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