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 米問屋の女将は障子屋の娘だったが、若いころから気丈で賢い娘だと、界隈でも評判だった。その上器量も良かったから米問屋の若旦那が見染めたと、噂になったときもそりゃそうだろう、と誰も不思議に思わなかった。


 ほかにも思いを寄せる男はいただろうが、当の本人がすぐに承諾したとあっては、とんとん拍子で話は進み、どこから横やりが入る暇もなく、あっという間に米問屋の女将に納まった。

「おまんまに困ることがなければ、あたしはそれでいい」

そう言って嫁入り前に笑っていた。


「それにあの人、奥の事だけしてくれりゃあいいって言うのさ。お店はしっかり自分が守るからってね」

そんな楽な話はないと、二つ返事で頷いたのさ。


 そう言って嫁いで行って何年経つか。最初の子は可哀想なことになったけれど、それがなきゃ大方幸せに暮らしているはずだ。


 米問屋の旦那は仕事一筋、今でも女将にぞっこんで、ほかに女を囲っているとか、道楽にうつつを抜かすとか、そんな悪い噂は冗談でも聞いたことがない。お店はもちろん順調で、そりゃあ外からはわからない浮き沈みはあっただろうけど、女将が愚痴や悩みをあたしに打ち明けるなんてことはこれが初めてだった。


目端めはしが利きすぎるのも、時には厄介なものだねぇ……)

気が付かなきゃいいことさえ、気が付いちまうんだね――


 米問屋に手土産にしたうぐいす餅はことのほか美味しかった。


 あたしが、自分が食べたいものを手土産にすることをあの女将はちゃんと心得ていて、お持たせで恐縮と、必ずお茶うけに並べてくれる。あんな話を聞きながら、それでも餅は旨かった。


 女将に己の胸の内を悟られはしないかと、心の臓の音を聞かれはしないかと、びくびくしながら食べていたけど、これは旨い、と思わず口にするほど鶯餅は美味かった。


 帰りにも買い求め、己の家でまた食べようと思ったが、あいにくの売り切れ。仕方なく買い求めた菜の花をあしらった浮舟を、お茶をすすりながら味わっている。これはこれで悪くない。面倒ごとを考えるには甘いものが欠かせない。


 稽古場からは幼い弟子たちが奏でるつたない琴の音が聞こえてくる。その音が途絶える隙間に澄んだ音が時折聞こえるのはあたしの大事な弟子が妹弟子たちに教える琴だ。あたしの耳に ―― 目に間違いはない。あの子はいい琴の師匠になる。


(そうとも、これで良かったんだ)

 あの子は琴で身を立て、あの手代さんは米問屋の若旦那に納まる。これで良くないはずがない。


 女将の話を聞いて、あたしは肺に冷や水が入っていくような気がした。あの子の気持ちにはすぐに気が付いたけれど、手代さんの気持ちにまで思いが及ばなかった。


 丁稚だったころ、あの子を気に掛けていたのは待つ間の暇つぶしとしか、あたしは思わなかった。でも違っていたら? もしあの子を好ましく思っての事だったら?


 あたしが苦情を言ってから、まったくあの子にかまわなくなったのは、子供ながらに思う相手のためを思っての事とも取れない話じゃない。


 手代さんの浮いた話は、この界隈じゃ顔広のあたしのところにも届かない。そう言った話が大好物の若い娘たちが大勢集まるあたしの稽古場で、米屋の手代は、

「いい男なんだけどあのかたはダメ、とんでもない朴念仁ぼくねんじん

と笑い話にされるだけだ。きっと、誰か悪戯いたずらな娘が付文つけぶみでもして、まったく相手にされなかったのだろう。


 だとしたら、女将の心配が的を射たものだとして、その相手はあたしの愛弟子以外にいるだろうか。いやまて、女将の杞憂かもしれないじゃないか。


 いや違う、思い違いじゃないとして、の話なのだから、いると前提して、ここは考えなくちゃならないよ。あぁ、まだるっこしい。さっと血の気が引いたのは、手代さんの思い人に気が付いたからだって、認めなよ、あたし。


 でもさ、だからって今さらどうにもならない話だよ。いやいや、もとよりどうにかなる話じゃない。だから手代さんだって承知したんだ。自分の思いを断ち切ると決めた。そうだよ、そりゃあ、そう簡単にできるもんじゃない。ちっと時間がかかってる、それだけの事。時を過ごせば、あの可憐なお嬢さんに心も動く……だろうか?


 こないだここに来た時の手代さんはどうだったか、思い出してみよう。凛として、惚れ惚れするような若衆っぷり、お嬢さんがうっとりと眺めるのも無理はない。子供のころから慕った相手が頼りがいのある立派な男になったんだ。


 あたしの弟子は怖気おじけ付いて、こっそり盗み見るしかできなかった。お嬢さんのお心にも気が付いていただろうから、そうもなるだろう。で、手代さんは? 手代さんは……話の間はお嬢さんにもあたしの弟子にも目を向けなかった。あたしとばかり話していて、二人のどちらをも見なかった。時々視線を向けることはあったけど、あたしとの話しのために向けただけ。


 にゃん、と庭で猫が鳴いた。

「米屋の子猫じゃないか。また来たのかい?」

声を掛けると勝手に座敷に上がってきて、膝に乗り、あたしが手に持った浮舟の匂いをクンクンと嗅いだ。おいてやるとぺろぺろ舐めてから齧りついている。変わったコだね。こんなものを食べたがる猫なんて。


 つい、微笑んでしまう。この子猫はどうにも変わっている。どだい猫は変わりものばかりだ。でも、そこがまた可愛い。そしてこのコは特に変わり者だ。


 こないだ手代さんが来た時の帰り、お嬢さんが抱こうとしても嫌がって逃げ回り、あたしの弟子が抱けば大人しいけれど、お嬢さんに渡そうとすると逃げる。


 とうとうお嬢さんは涙ぐむし、手代さんも困り顔で、

「試しにここに乗せてみてくださいな」

と弟子に言ったんだった。すると、この子猫ったら。大人しく手代さんが持った琴の上にちょこんと納まった。お嬢さんは剥れるし、うちの弟子はどう取り繕えばいいか困っているし、手代さんは……


 手代さんは、子猫を見ていなかった。子猫を抱いて手代さんに移そうとしているあたしの弟子の顔を見つめていた。そうだよ、今思い出した、間違いない。


 あの時はほんのちょっとの間だったし、子猫に気を取られ、何にも感じなかったけど、あんな時は子猫を見るもんだよ。ちゃんと自分のほうに来るか、子猫を見ているもんだよ。だとしたら、だとしたら、どうする。どうするのが一番だ?


 あの二人はお互いがお互いを思っている。だけどそのことすら気が付いていない。そのまま知らない方がいいか、それとも……


「子猫ちゃん、もう少ししたら弟子におたなまで送らせるからね」

 恋心ってのは不思議なものだ。どんなに諦めようと、忘れようと、当の本人が頑張ったところで、どうにもならない時がある。むしろ、そんな風に強く思えば思うほど離れちゃくれない時がある。


「そんな時はね……思いを遂げるのが一番なんだよ」

 子猫があたしを見上げてにゃあと鳴く。

「なにも一緒になるだけが思いを遂げる形じゃないんだ。なかにはね、お互いがお互いを思っていると知るだけで成就する恋もあるんだよ」


 賭けだと思った。あたしの弟子とあの手代さん、二人はどう思うのだろう。互いに相手の気持ちに触れたとき、あの二人はどうするだろう。


 ただ、このままでは手代さんの取り繕いはお嬢さんにも知れる。そしたら苦しむのは二人だけじゃなくなる。


 真面目で真っ直ぐで、そう米屋の旦那さんが評した手代さん。


 うまく収まるか、それとも、藪を突いて蛇を出すか――

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