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春はまだ浅いのだ。桜が咲くにはまだ間があるこの時期、川の水は冷たすぎる。大暴れする子猫をやっとのことで捕まえ、岸に上がれば、お琴のお師匠さんが大笑いしている。
「まったく、変わった子猫だね」
こんな夜中に水浴びなんて、何を考えているのやら。渡された手拭で拭いてやると、ぶるぶると身を震わせて飛沫を飛ばす。
「ひゃあ、冷たい冷たい。あんたにも着替えを出すから、早くうちにお出で」
お師匠さんが灯す
「湯を沸かすよう言ってあるからね、身を清めてから帰るといいよ」
とお師匠さんが言う。
「手代さんにね、差し上げようとお召しを用意していたのさ。それを取りに来て貰ったんだがね、こんなことが起きるとは。まぁ、丁度いいって言えば丁度いい」
祝言のお祝いだよ、あたしの気持だから受け取っておくれ。と言いながら笑いが止まらないようだ。
あの時、何かがあたしの心の中に渦巻いたあの時、どこから来たのか、いや、ひょっとしたらお店から着いてきていたのか、お嬢さんの子猫があたしの肩にひゅっと飛び乗ろうとした。それに驚いて、あたしはとっさに身をかわしてしまった。
するとあろうことか、子猫は川にどぼんと見事に落ちてしまい、
「溺れてしまう、助けてやって」
その声に後先考えず飛び込んだのはいいが、倒れて燃えていた提灯が消え、何も見えなくなってしまった。
ばちゃばちゃ水音がする方へ恐る恐る近づいて行けば、月明りに目が慣れて、ぼんやりと見えないこともない。
「あたし、お師匠さんを呼んでくるから、提灯貰ってくるから」
そうだね、それがいい、お師匠さんの家はすぐそこだ。遠ざかる足音を聞きながら、子猫の居所を探して手を伸ばす。すると小さな、だけど鋭い爪が腕を引掻いてくる。溺れる恐怖に必死になって水を掻くのだろうけれど、却ってそれが邪魔になり、助けるに助けられない。
せめて腕にしがみついてくれれば、痛みをこらえて助けるのに、おとなしくしてくれと子猫に頼み込んでもどうにもならない。
川底に、やっと足が着くか着かないかといったところ、気を抜けば深みにはまって身動き取れなくなるかも知れない。そうなる前に子猫を捕まえて、岸まで泳いでいきたい、子猫とこんなところで死ぬわけにはいかない、本気で思い始めたころ……
ぼんやりと明かりがさして、川面が少し明るくなった。子猫の首のありかが判る。それを捕まえて振り向けば、
「早くこちらに」
と、お師匠さんが提灯を掲げているのが目に入った。
家の裏手に用意されたタライの湯を浴びていると、
「着替えはこちらに」
と植込みの向こうで声がした。
「無事でよかった……」
しみじみと呟いている。
「子猫を助けて、と、思わず言ってしまったけれど、川に飛び込んだ手代さんまで溺れるんじゃないかって気が気じゃなかった」
ここからは隔てられて見えないが、ひょっとしたら泣いているのかもしれない。
「足掻く子猫を見ながら思ったのは、これがあんたじゃなくてよかったってことだよ」
独り言のようにあたしも言った。
「それにね、死にたくない、とも思ったよ」
うんうん、と頷いている気配がする。
「あたしは幸せなのだもの。お師匠さんは大事にしてくれて、暮らしに困ることはない。好いた人に好きだと言われ、その人と一緒になれはしないけど、別のところで元気に幸せに暮らしてくれている。こんなに幸せなことはない」
「幸せならばあたしもあんたに負けはしない。旦那様女将さんに可愛がられ、居所を与えられ、お嬢さんにまで見込まれた。初めて惚れた
あたしの恋は終わったのだ。子猫が川に流してしまった。もとい、子猫が川に流してくれた。そしてそれは新しい流れの始まりを告げている。
「自分の足で生きていく。それこそが幸せというもの。あんたはあんたの足であんたの幸せを掴むため歩き、あたしはあたしの幸せのため己の足で歩く」
決して大きな渦に巻き込まれ、わけのわからぬところに流されてはいけないのだ。
見上げると
座敷では猫を相手にお師匠さんが笑い転げていた。
「本当にこの子猫、変わっているねぇ」
浮舟をくれと、騒いで納まらないのだとお師匠さんが言う。
「さっき来た時も喜んで食べたけど、食べたりなくてまた来たのかね」
にゃおんと答えるように子猫が鳴いて、更にお師匠さんが喜んだ。
「それで……さっぱりしたかい」
急に振られては返答に戸惑う。勘のいいお師匠さんはどこまで気づいていなさるのだろう。
「へい、お陰さまでさっぱりといたしました」
そして慌てて、いただいた着物の礼を述べると、
「うん、顔つきが明るくなった」
と、にこりと笑う。
「そのお召しはね、
うん、よく似合っている、一段男が上がったね。
「さっぱりしたなら、もうお帰り。思いのほか時間が過ぎているはずだ」
そろそろ心配されているよ。
「おまえは暖かいのだね」
呟くあたしににゃおんと子猫が答えていた。
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