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 夕餉ゆうげの支度を言いつけようと、女将が台所に出向いてみれば、何やら女中たちが騒いでいる。何事だい、と尋ねると、数日前に迷い込み、お嬢さんが可愛がっている子猫が水甕みずがめの陰に隠れてしまって昨日から出てこない、と困り顔の女中が言う。


「なんだ、そんなことなら造作ない。お慌てなさんな」

炒り子を二つ三つ持ってこさせ、水瓶の前においてやると、思った通り、恐る恐る猫が姿を見せた。

「ほうらね」

にっこり笑うと女中たちが『さすが女将さんだわ』とお世辞を使ってくれた。


 今日の八百屋は何を持ってきた? そうかい、それならお汁は大根だね、小松菜はお浸しにして……


 言われるとすぐに動き始める女中たちを眺めて満足すると、炒り子三つで懐いたのか、足元に絡みついている子猫を抱き上げる。懐かれれば可愛いもんだ。


「うちはね、米屋なんだよ、蔵にいる鼠を捕ってくれたなら、炒り子より、もっといい物を上げようじゃないか。もっともこんなオチビじゃまだ無理かね」

猫相手に冗談を言いながら、思い出すのはうちの人と若い手代のことばかり、自然と笑みがこぼれ出る。

(さっきのあの人の顔ったら。さっきの手代の顔ったら)

笑わずにはいられない。


 ほんとにね、娘があの手代に惚れるのは、もっともって言えば尤もな話だよ。


 頭の固い父親に、これまた頭の硬い手代ときてる。どうやらあたしの娘、頭の硬い男がお好きなようだ。


 思い起こしてみれば、幼いころ、お菓子をいただこうかねって時には、丁稚はいないのか、とよく聞いてきたもんだ。わざわざ呼んで菓子を分ければ、丁稚にお菓子をやるなんて、あぁ、勿体ない、と大きな声で言う。わざわざ丁稚が気にすることを平気で言う。


 でもね、あたしの目は節穴じゃあない。縮こまりながらも菓子を口に入れた途端、丁稚の顔がほんの少し笑顔になる。それを見るのがおまえの楽しみだってことに、気が付かないあたしじゃない。


 まったく、あたしは育て方をどこか間違えたのかねぇ。もう少し素直なら、少しくらい手代の気を引けたかもしれない。子供のころとはいえ、そんな意地悪言われていたんだ、手代が今でも娘を苦手に思ったって無理のない話。それを自分でもわかっているから『嫌われている』って思うんだろうね。


 言ってみたってせんない事、今となっちゃ子供の悪戯と、手代だって根に持っちゃいないだろうさ。だけど、好かれているとは思っちゃいないだろうから、うん、あの顔だ。鳩が豆鉄砲食らったって、あそこまで驚きはしないだろうよ。


 でもさ、考えてみると娘が意地っ張りで良かったのかもしれないね。手代があの子の気持ちに気が付いていて、もしもそれに応えていたら、こうはいかない話だよ。主人筋の娘に手を出したとあっちゃ、許すなんざ、とんでもない。飼い犬に手を噛まれたようなもんだ。


 飼い犬と言えば、

「おまえ、うちの飼い猫になるかい?」

子猫に話しかけても返事なんかするもんか。


 ところが抱かれたまま子猫はあたしを見上げ、ニャン、と答える。おやおや賢い猫だねぇ、今日はなんて愉快な日だろう。


 娘の様子を見に行くと梅を活けているところだった。あけ放たれた部屋に春の風が忍び込んできている。あたしの娘にも春風を吹かせてやりたい。


「おっ母さん、あの話はどうだった?」

不安げな眼差しに、つい笑いそうになったけど、ここはこらえたほうがいい。


「そうくもんじゃないよ。おまえにとっては思い悩んだ話だろうが、あちらに取っちゃ行き成りな話、お天道さんが落っこちてきたって」

と、つい笑い、

「こんな顔はしないだろうって顔で驚いてたよ」

「いやなおっ母さん、笑ったりして」

膝に乗せた子猫を撫でながら、娘がむくれる。


「おまえだっていけないんだよ。子供のころ、意地悪するから。おまえに嫌われていると思うだろうし、おまえを嫌ったって責められることじゃないよ」

「そりゃあそうなんだけど……好いていると知られたくないじゃないか」

剥れ顔が赤く染まる。


「あの手代はね、どんなに意地の悪いことを言っても、『はい、お嬢さん』っていつも聞いてくれたの。子供のころからずっとよ」

それじゃどんどん好きになっちまうじゃないの。


「近頃は流石にそんな子供じみた真似はできなくなったけど、そしたら今度は話しかけることもできなくなってしまって。手代がどんどん遠くに行ってしまうようで寂しくて、どうしようかと思っていたら、今度はそこへ、知らないところから婿を取れってお父っちゃんが言いだして。あたし、泣くしかなかったの」


 まだまだ子どもと思っていたら、いつの間にか一途な恋心に身を焦がす、可憐いじらしい乙女になっちまっている。子育てっていうもんはつくづく予想がつかないもんだ。そしてつくづく面白い。


「どっちにしても、もう泣くのはおよし。めそめそ泣いてばかりの女を、どこの男が好くかいな。女はね、ここぞというときに泣くもんだ」

 そんな芸当ができるほど、おまえは大人になっちゃいないだろうけど。

「ここは一肌脱ごうかね」

明日、お琴のお稽古に手代がお供するように仕組んであげるよ。ちょうど明日は立春。恒例の大福を届けるって持って来いの口実がある。だから思いのたけをお前の言葉で伝えてごらん。


「あの子が迷っているのは見て取れた。だけど何を迷っているのかは分からない」

 自分なんかが、と怖気おじけ付いているのか、おまえの心を気にしているのか、それとももっとほかの何かか。


「おっ母さんが味方ならこれほど心強いことはないわ。でも、思いの丈をぶつけるなんてどうやったらよいものやら」

 恥ずかしい、と顔を伏せ、それでも心内で、娘は明日の言葉を探している。

「正直に話せばいいのさ。お前の思いを分かってもらえば、それでいいのさ」

それで色よい返事がもらえる保証はないが、今はそうとしか、あたしは言えない。


「あたしゃね、男の子を育てることは叶わなんだ。産むには産んだが、病が幼子を取り上げちまった。おまえの兄さんだね」

 あの子が奉公に来たとき、生きていればこんなふうになっていたんだろう、と思わずにいられなかった。あの世に行った息子が帰って来たように思えたんだ。それからというもの、あの子が気になって仕方なかった。


 母と子のようにあの子と過ごしたいと、そう願ってやまなかった。あの子の母親になりたいなんて、馬鹿な思いをずっと持っていたんだよ。


 死んだ子の年を数えるなと言うけれど、どうして、どうして忘れられよう。忘れたふりはできたとしても、本当に忘れることなんか決して出来やしない。


 奉公人と女将じゃなく、子と母のようにあの子と接したい、けれどそれは筋が違う。通る道理がない。ほかの奉公人の手前もある。だいたい、あの子を手放したあの子のおっ母さんに済まなすぎる。


 あの子のことを思い、辛い思いをしてるんじゃないか、腹を減らしていはしないか、あの子のおっ母さんがあの子を案じぬ日はないはずだ。母親なんてそんなもんなんだ、それが判っていながら、あの子の母親のふりをするなんて、いいとこ取りにも虫が良すぎるってもんだ。


 だからさ、おまえがこの話を言い出す前から、できればお前の婿になってくれはしないか、なんて夢を見ることもあったんだよ。そうしたら、堂々と母親を語れるってもんじゃないかい。


「ねぇ、おまえ。そうだろう?」

 娘の膝の上でくつろぐ子猫の背を撫でながらそう尋ねると、にゃおんと子猫はまた応えた。

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