3

 米問屋のお嬢さんが、久しぶりに手代さんをお供に連れてきた。


 丁稚のころにはよく来ていたが、手代に格上げされてからというもの、滅多に顔を見せなくなったあの人が今日は来た。


「今日のお供は手代さんかい」

お師匠さんも笑顔であの人を迎え、以前とは数段ご立派になられた様子に目を細められている。


「ご無沙汰しております、お師匠様。主より、娘がいつもお世話になり有難いことと、よろしくお伝えするよう言い使ってまいりました――こちらはほんのお口汚しではありますが、お召し上がりいただけると嬉しゅうございます。当家でこしらえました、立春大福でございます」

お師匠さんが大福を喜ばないはずがない。


「旦那さんも女将さんも息災かい? そうかいそうかい、今日は立春だったね。では有難く。お稽古の後にでもみなでいただくとするかね」

どうやらお稽古が終わったら、手代さん相手にゆっくりお茶でも飲みながら、しばらくぶりのお話しをしようとお師匠さんは決めたようだ。


 それじゃあ、さっさとお稽古を終わらせちまおうとお嬢さんを連れて稽古場へ姿を消した。丁稚のころはお庭で待たされていた手代さん。今は、客間でお茶を出されて待たされている。そっと様子を窺うと、居住まいを正したまま、静かに瞳を閉じていなさる。


 こうして庭掃除のふりをしながら、あの人を盗み見るようになってから、どれほどの時が過ぎたことだろう。最初の頃は『待っているだけで暇だから』と掃除を手伝ってくれたっけ。冬の寒さでひび割れた手を擦って暖めてくれたこともある。『しょっちゅう手を擦り合わせているといいよ』すると少しはましになるから。


 だけどいつの間にか、庭で待つ間もまっすぐ前を向いたまま、あたしのことなんか見向きもしなくなってしまった。なぜだろうと考えても思い当たる節はなかった。きっと、お琴の師匠の下働きと仲がいいなんて噂になったら迷惑なんだと、あたしからも話しかけるなんざできなくなった。


 そして丁稚さんは手代になり、ここに来ることさえなくなった。寂しかったが仕方ないこと。忘れようと思ったもんさ。


 あぁ、でも、今日、あの人はまたここに来た。あたしに顔を見せてくれた。恋しい人、しみじみと感じずにはいられない――あたしはあの人を慕っている。


 そうともあたしはあの人が好きだ。あの人が丁稚のころからずっと好き。つれなくなって、声を掛けてくれなくなっても変わることなく、ずっと好き。


 あの人が手代となりここに来なくなってからは、ひと目だけでも顔が見たいと、あわよくば声をかけ、挨拶だけでもできたらいいと、何度あの人が出てくるのを米問屋の前で、隠れて待ったことだろう。いつも番頭さんや丁稚さん、ほかの誰かと一緒、一人で出てくることはなかった。偶然を装って話しかけることなどできなかった。


 そして今、あの人は「ひとり」でお嬢さんを待っていなさる。どうしよう、今日を逃したら二度とこんな巡り合わせはないかもしれない。早くしなければお稽古が終わってしまう。お師匠さんは立春大福を楽しみに、早めにお稽古を切り上げてしまうかもしれない。


 にゃあん……近くで急に猫が鳴き、驚いて振り向くと狗尾柳えのころやなぎの木の上で子猫が一匹鳴いている。にゃおにゃおと、枝の上を行ったり来たり、どうも登った木から降りられず困っているように見える。


「どれ」

 座敷からあの人の声がして、履き物を使う気配がする。


「悪いが退いておくれ」

優しい声に狼狽うろたえながら、それを隠してそっとければ、あの人は手を伸ばして子猫に話しかけている。

「こっちにお出で、どうしてそんなところに登っちまったんだい」

子猫は迷う素振りもなくあの人の腕の中に納まっていく。


「おまえ、お嬢さんの猫じゃないか。お嬢さんを慕ってついてきちまったのかい」

 子猫に話しかけると

「お座敷に連れて行ってはまずいかね」

とあたしに尋ねた。

「いいえ、お師匠様も猫好きです。むしろお喜びになるかと」

それは良かった、とそのまま子猫を抱いて上がられた。


 怪我がないか心配なのか、子猫を抱き上げて表よ裏よと見ていたけれど、

「すまないね、猫に水をやってはくれないか」

とあの人が頼んでくる。たったそれだけ、用事を言い使っただけなのに、身震いするほど嬉しいなんて……


 すぐにあり合わせの皿を水で満たすと縁側に置いた。子猫を抱いたあの人がこちらに向かって歩んでいる。


「元気にしていたかい」

 しゃがみ込み、子猫を皿の前に降ろして、猫が水を飲み始めると、囁くような声であの人が問うてきた。何も言えず頷くだけのあたしに


「あんたが元気ならあたしは嬉しいんだ。幸せになっておくれよ」

と、小さな声でそう言うと、子猫をそこに置いたまま自分の席へと戻っていく。今のは? 考える暇もなく、お稽古を終わられたお師匠さんとお嬢さんがお顔を見せた。


「あら、おまえ、なんでここに?」

 お嬢さんは座ることもせず縁側に走りよると子猫が水を飲むのを眺めなさる。

「お水をいただいたのだね、ありがとう」

ニコリと笑顔であたしに礼を言う。


 はっとするほどお嬢さんは美しくなられた。

「これくらい、何のこともありません」

あたしのそっけなさにお嬢さんは気が付いていないようだ。終始笑顔で、子猫が水を飲み終わるのを待って抱いて行ってしまった。


 さぁさ、お大福をいただきましょう、おまえも一緒に上がらせてお貰い。お師匠さんが嬉しそうにおっしゃった。


 新しく淹れたお茶をお出しすると、

「今年は格別おいしいよ、あたしゃぺろりと一つ、食べ終わったところだよ」

と、大福を皿に乗せて寄越してくれた。いただきます、とお嬢さんに会釈をし、縁側まで戻ってお相伴にあずかった。


「そうかい、あの女将さんに白髪がねぇ。そんな歳になったかね」

 お師匠さんの大きな声が楽しそうに響く。子猫はお嬢さんの膝の上で背を撫でられながら温和おとなしい。


 お師匠さんのお相手はもっぱらあの人で、ちょうどよい折に相槌を打ち世辞を使い、少しだけ軽口を言う。お店できっと話術も仕込まれているのだろう。お嬢さんは子猫を撫でる手を止めることなく、そんなおふたりを笑顔で眺めていらっしゃる――あの人を余計に見ているような気がするのは気のせいだろうか?


「そう言えばどこぞのお店の次男坊を婿に迎えるって噂だね」

 お師匠さんがお嬢さんに話を振った。

「いやだわ、お師匠さん、その話はなくなったわ」

おや、その男はお気に召さなかったのかい、それじゃあ、婿はどうするんだい。お師匠さんが畳みかけると、お嬢さんがチラリとあの人を盗み見た。


 肺が動かない、息ができない。まさかお嬢さんは、お嬢さんもあの人を?


「まだ、はっきり決まってないの」

 頬を染めてお師匠さんにそう答える。


 濃桃色の口紅と、同じ紅を目元にさして、輝くように美しい肌が一層際立っている。このお嬢さんにあたしが敵うわけがない。あたしなんて紅一つさえ持ってもいない。あの人を見ると顔色一つ変えず、いや、先ほどの笑顔が消えることなくお師匠さんに向かっている。


「ご縁談はいくらもあるようでして、手前どもの主人、頭を悩ませているようでございます」

 あの人がお嬢さんの言葉を裏付けるように言うと、少しばかりお嬢さんの顔が曇ったようだ。


「ならさ、いっそ手代さん、あんたが婿になったらどうだい?」

お師匠さん! いくらあたしの胸の内を知らないとはいえ、それはないじゃないか。苦しくて大福を吐き出しそうだ。


 お嬢さんを見ると驚いてはいるが瞳を輝かせてあの人を見ている。

「滅相もない話でございます。そんな話が主からあれば考えも致しましょうが」

そんな話になるはずもない、冗談をおっしゃいますな、とあの人は笑った。


 あの人に連れられてお嬢さんがお帰りになると、残ったお大福を食べようと、お師匠さんに誘われた。とてもそんな気分じゃないけれど、断るわけにもいかず、お師匠さんのそばに座れば、

「あの丁稚が、いい男に育ったもんだね」

と寂しげに笑う。


「おまえには申し訳ないことをしたと思っているんだよ」

 何を言い出すのかと思えば

「丁稚だったあの子に『うちの子に近づきなさるな』と言ったのは、このあたしさ」

と続けた。


「うちの子ってのは、っておまえのことだよ、この屋の下使いだ。おまえさんが妙に同情してあの子の仕事を減らしちゃいけない、ってね。仕事をしなきゃあの子はここにいられなくなる、それが判って手伝ったりしてるのかい、ってね」


 そんなやり取りがあったなんて、知らないあたしはなんで冷たい、とあの人のことを恨んだこともあった。

「そんなことしてなきゃ、あの手代さんと思いが通じることもあったかもしれないのにね……お前、あの男に惚れているんだろう?」

驚くあたしにお師匠さんは続けた。


「今日、手代さんの顔を見たときのおまえの嬉しそうな顔ったら。すぐにあたしゃピンときたよ。はい、はい、そういう事ですか、と。まぁね、ほかに優しくしてくれる人もない、おまえがあの男を好くのも、そりゃそうかもって話だ」


 何とかしてやりたい、とそりゃああたしだって最初は思ったよ。でも、お大福をいただいてるうちに、お嬢さんもあの男を好いてることに気が付いちまった。


 おまえも気が付いたんだろう。おまえのお嬢さんを見る目、あれは恋する女が恋敵を見る目に他ならない。いいや、誤魔化そうたってそうはいくもんか。あたしが何年女をやってると思ってるんだい。いったい今まで、何人の娘に琴を教えてきたと思っているんだい。おまえのこともお嬢さんの事もお見通しだよ。


 お嬢さんはお前の気持ちに気づく様子はからきしない。目の前の男を見るのに夢中で周囲のことを気にする余裕もない。それにやっぱりお嬢さん育ち、誰かと争うことになるなんてこれっぽっちも思っちゃいない。


 米問屋の旦那さんは娘にせがまれればいやと言わない。手代さんを見ただろう? いつの間にやら立派になって、涼やかな居住まいに、あたしを相手にあのあしらい。あれは上手にお店を切り盛りしていける。冗談めかせて言ってはいたけど、お嬢さんの婿にって話になれば、手代さんだって立場がある、断れはしない。たとえ恋仲の女がいたとしたって、それを捨てて受けなきゃならない話だ。将来を約束された良縁を主人に勧められて断れるはずないだろう。


 今はこうしてあたしの横に座っているが、さっきお嬢さんがいたとき、あんたは縁側に下がっていたよね。あんたとお嬢さんはそれほど差があるということだよ。わかっているんだろう?


「おまえを泣かせたいわけじゃないけど、おまえに勝ち目は一分もない。諦めるしかないんだよ。諦めて、手代さんの出世を喜んであげるんだよ」

声をこらえて泣くあたしの背を、いつまでもお師匠さんは撫でてくれた。

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