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 その夜の内に祝儀は国の隅々に配られた。甘く柔らかなその菓子は姫と王子にお似合いだと、誰にも言えないまま調理人は思っていた。


 晩餐は終始和やかに進んだと料理長や給仕係が話してくれた。普段の給仕なら兎も角、賓客が多い今宵は料理人に王家の食堂に入る許しはなかった。


「姫様、王子さんに一目惚れかもしれないね」

料理長が私見を語る。


「いちいち料理の説明を王子にしていらっしゃる。俺が説明済みなのに、だ。そして王子も姫様をお気に召されたご様子だ。そんな姫様をニコニコと眺めていらっしゃる」

良かった、良かった、と一同が頷く中で、それに追従しながらも(ちょっと違うけどね)と料理人は心の中でほくそ笑む。ひそかな調理人の自慢だった。ここでは己だけが真実を知っている。


 夜もふけるころ、あの猫がまた現れた。ニャアンと悲しげな声でなく。ひもじいのかと慌てて残り物から選んで与えても、見向きもしない。料理人に身を摺り寄せ、切なげに見上げてくる。


(まさか、ね)

不意に思いついた自分の考えに料理人は苦笑した。


「あの王子に懐いていたっけね。猫さん、王子に失恋ですか」

睨み付けてくる猫にさらに調理人は苦笑した。


「そうだよ、俺は完全に失恋さ。でもさ、最初から叶えようとは思っちゃいない。遠くから見つめるだけでよかったんだ」

言葉通り遠くを見つめる。


「それはね、今もこれからも叶えられる願いで思いだ。俺の思いは忠義となり、いつか俺にもできるだろう嫁や子供らに受け継がれる」

猫が調理人を正面から見つめてくる。


「嫁の来手があるように俺も男を磨かなくちゃね」

猫はもう一度身を摺り寄せると調理人がくれた餌に少し口を付け、夜の闇に消えてしまった。


「また明日おいで。毎日何かおいしいものがあるよ」

調理人の声は果たして猫に届いただろうか。




 今日の出来事を思い返してなかなか眠れないのは姫である。婚儀の本番は明日、朝が早いのだから早く眠らなくては、と思えば思うほど興奮が冷めてくれない。


 しばらくは女官が話し相手をしてくれたが、女官たちの『お羨ましい』『お幸せでありますこと』などの言葉が最初は本気であったものの次第に疲れた色を載せ、心ここに非ずとなっていくと流石に気の毒に思えてきて退出を許すしかなくなった。


 だから窓辺にあの猫を見つければ、迷うことなく窓を開け部屋に誘って話し相手にしたのだった。


「今朝は婚礼が嫌だということを周囲に悟られように気を付けて目を覚ましたのよ」

 笑顔で語る姫である。女官たちにはこの話はできなかった。明日の婚儀に水を差す話だし、なによりそんなに嫌がっていたなどと、あのかたに知られたくない姫なのだ。


「なのに、今はどう。婚礼が嬉しくて仕方ない」

 わたくしはなんて幸せなのかしら、と猫を相手に惚気のろけてみせる。自分が惚気ているとは知らぬ姫だった。


 猫もしばらく大人しく姫の話を聞いているようだったが、一つ伸びをすると窓辺に戻った。


「あ、危ないって」

心配して小さく叫ぶ姫の声は果たして猫に届いたろうか。窓の外を覗いても、やはりもう猫の姿はなかった。




 国王は仕事を終えた料理長にさらなる仕事を与えていた。花嫁の父にいずれは己もなるであろう料理長である。


 祝儀の菓子、王宮に仕える者のみに特別に下された料理 ―― 有り体に言えば見栄えよく拵えた残り物の詰め合わせ ―― を家で待つ家族に早く持って帰りたい。が、国王の愚痴に付き合えるのも己だけだと帰るに帰れない。


「姫の幸せは望むまい、と一度は心に決めたのだよ」

 国王の愚痴に

「子の幸せを望まぬ親はおりません」

国王が望みそうな答えを選んで口にする。


「それがな、あの糞生意気な男がな、姫が幸せに過ごせるよう努める、と約束すると言うのだよ。命にかけてお守りします、と。父としてこんなに嬉しいことはない。だがな、料理長 ――」

はい、と相槌を打ちながら(この話はこれで何度聞かされているだろう)と欠伸を噛み殺す料理長である。


「なぜ、こんなに悔しいのだろうね。姫の嬉しそうな顔まで小憎たらしく見える」

 父親などそんなものでしょうよ……やっと酔いつぶれていびきを掻き始めた国王に答えることなく、廊下に出ると、そこに控えた女官たちに小声で囁く。


「王はお疲れだ。だが、明日の朝は決して寝過ごさせるわけにはいかぬ。よろしくお頼のみ申す」

 料理長の退出を見送った女官たちが王の自室に入っていくと、王はしっかりと椅子に腰かけ、まっすぐ前を見つめている。どうやら王は寝たふりをして料理長を帰したようだ。どこで切り上げたものか、自分でも決められなかったのだろう。


 下がってよい、と言われ退出する女官たちの足元をすり抜けてあの猫が入ってきた。

「お前か……今日はご苦労であったな。まさか己が王宮を猫に案内されるとは想像すらしたことがない」

がははと大声で笑う。暫くぶりに本気で笑ったような気がする。


「お前が拾わせてくれたあの手紙、大事に仕舞っておくことにした。国としてより、父として宝物にしようと思う」

懐に納めていた書簡を取り出して眺め、再び読み返してまた懐に入れる。


「お前にも、何か褒美をやらねばならぬな」

と猫に視線を戻すが今いた場所に猫はいない。


「あれ、猫よ、どこに行った」

部屋の中を探し回ったが見つけられない。国王が探す声は果たして猫に届いただろうか。




 次に猫が訪ねたのは王子のところだった。従者は(またお前か)といった顔をしただけで猫に話しかけることはなかった。


 王子は旅の疲れとその他の疲れ……あれでも緊張していたのだ、神経をすり減らしていたのだ。


 終始にこやかに穏やかに、確かにもとよりそんな性質ではあるものの、思いを遂げるために必要と、緊張の中で抜かりなく、ことが進むようにそうしてきた。特にあの時、国王が憤怒の形相で部屋に乗り込み詰問してきたとき、予想外のあの出来事、猫を撫でる手が人知れず震えていたことにちゃんと猫は気付いていた。


 答えを間違えればすべてが無に帰すと感じていたに違いない ―― 疲れるのも無理はない。王子は疲れ切って眠っている。


 一か八かの冒険だった。下手をすればすべてを失う。生まれた国もこれから住もうという国も、恋しい姫も、父も母も兄たちも。よく頑張ったと、猫はほめてあげたいと思っていた。


(あんた、疲れた相手にはまず水、なんだね)

 王子の国の森で少しばかり傷を負ったとき、助けてくれたのが王子だった。あんたは怪我の手当てをし、水を飲ませてくれたよね。だけどどこか浮かない様子で、だからあたしはあんたの様子を見守ることにしたんだよ。


 猫が王子の顔を見詰める。ずっと心を隠してきたんだね。ジュリエットみたいな相手だものね。誰にも言えやしないよね。


 あんたがとうとう決心したとき、お母さんに「親元を離れる不孝を許してほしい」と涙ながらに許しを請い、あんたのお母さんが、やっぱり涙を流しながら「幸せにおなりなさい」と微笑んだとき、あたしはあんたを応援しよう、手助けしようと決めたんだ。


 あたしはあんたの役に少しは立ったかい? ここの王様を連れて行って、あんたは困らなかったかい?


 やるせない猫が王子の寝顔を覗き込んでいると従順な従者は気が付いて

「王子の睡眠の邪魔をしてはならぬ。明日は早いのだ」

静かな声で猫に命じた。


(手荒な真似はいけない、と王子が言ったから。それとも王子が眠っているからか)

初めて自分に優しい従者に猫は問きたかったが叶わぬことだ。猫が語ることはない。


(あんたの泣きっ面は可愛かったよ)

従者が猫を見ていたら、猫の笑顔を見ることができたかもしれない。


 大人しく従者に従って王子の部屋を後にする。せめて明日の結婚式、窓からでもいいから見たかった。でも、もう行かなくてはならない。猫は猫の住む場所へ、帰るべき時が来ていた。


 人目の届かぬ夜に紛れると猫の背から翼が伸び始める。そして一振り羽ばたくと猫の姿を包んで、そして闇に消えた。

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幸せな王子 寄賀あける @akeru_yoga

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