7

 隣国の王子が到着したと国王の許に告が来たのはとうとう陽が山の端に隠れた時刻だった。少しばかり前に王宮に入ったが、庭の散策を所望され、今、王宮の控室に入ったとのことだった。


(私の庭を散策か)

どうせいずれ己が物にするのなら、それからゆっくり散策でも何でもすればよいものを。だがそうは言えない。どうぞお好きなように、と案内するほかはない。


 どうやら供を一人だけ連れての散策だったようだ。帰ってくると従者は目を泣き腫らしていたらしい。失策をしでかした従者を叱りつけるためにでもわが庭を使ったのか。


 これから暮らすであろう敵対しているともとれる隣国の家臣たちが大勢見ている前で己が従者を叱責しないところを見れば、聡明との噂は事実かもしれぬ。しかしそれは我が国にとっては明暗つかぬことである。


(后よ、私たちの庭が汚された。許せよ)

庭で何があったのか露とも知らぬ王である。


 だから正式な謁見の前に内密にお話ししたい、と言ってきた王子に返事をしないつもりでいる。互いの友好を望むなら、内密にと言われた対談にすぐに応の返事をするべきだろう。分かっている、が素直に応じすぎるのもいかがなものか、と無理やりな理由を己に聞かせている。ここで軽いと思われれば、姫が軽いと思われるかもしれない、とも己に言い聞かせた。


(婚儀は既成事実だ。いまさら取りやめはない。ならばそのあとが少しでも有利になるよう立ち回ることだ)

それが我国のためであり、姫のためでもある。


 心配でならなかった。国の行く末も姫の将来も。国の利になることは姫にとっても利になると、これしかないと決めたはずなのに、いまさらながら泣き言一つ言ってこない娘が哀れでならなかった。


 朝の挨拶にこの部屋を訪れた。本日もよろしくお願いしますと、頭を下げてすぐに退出してしまった。いつもなら正午と、夕刻日の沈む前にも顔を見せるのに、今日はそれきりこの部屋に来ない。


 先ほど扉の陰に気配を感じないでもなかったが中に入って来る事はなかった。


 父を恨んでいるのかもしれぬ。国のためと言われれば王家の姫として生まれた以上、王位継承権一位である以上、否は言えない。


 幼子の頃よりこの国を愛していると公言してはばからぬ姫である。みなが、臣下も民人も、幼い愛国者の成長を見守り、その幸せをきっとこの父同様願っていてくれた事だろう。それを手放さねば国が危ういとなった今、己の力量のなさを詫びるしかない父である。


 言い訳をするならば手を拱いていたわけではない、私は私なりに我が国の繁栄を図り、民人の暮らしが立つよう尽力し、それはそれなりに成果があった。ただ隣国に遠く及ばなかったのである。


 言い訳を続けるならば、時には恥を忍び、差し伸べられた隣国の手に、恐る恐る縋ったこともある。あの屈辱に耐えたのはすべて国のため姫のためなのだ。


 それなのに……姫を差し出さなくてはならない日が来た。姫の幸せと引き換えに国を保たねばならぬ日が来た。それもそう長く持つことはあるまい。


 国王には後悔しかなかった。どこで間違えてしまったのだろう。細々でもいいから我が国の民人と国土と姫を守りたかっただけなのに。


(そんな力も私にはなかった。それだけの事だ)

何度考えても辿り着く答えは同じだ。


 遠い日を思い出す。后と出会った日、心を告げた日、子ができたと告げられた日、后がもう永くないと悟ったあの日……


 一時姿を消した猫が舞い戻ってきて再度あの書簡を引掻いている。なんとか噛みついて持ち上げようとしているようだが上手くいかずにいらついているように見える。


「猫には手がないのだ。持ち上げるのはさぞ難しいであろうな」

価値のない書簡だ。拾って猫に咥えさせてやる。粉々にしてくれるならそれはそれで小気味よいことだろう。


 猫は書簡を咥えるとウンウンと頷くように頭を上下に動かした。いや頷いたのだ、そして笑った……と王には見えた。


 咥えたまま膝に飛び乗ってきた猫は王の手元に書簡を落とした。

「これは意味のない手紙なのだよ」

うんざりしながら王は書簡を手に取った。


 ニャンと猫が一鳴きする。ついて来いとばかりに王の袖を引掻くと足元に降りてまた引掻く。呆気に取られていると扉まで行ってニャオニャオと鳴き続ける。


(王子に会えと言うのか)

いまさら話すことなどなかろうに……そう思いながら

(いや一つ、聡明と評判の王子に聞いてみようか。答え次第ではやはり姫はやれぬと突っぱねよう。義務ではなく使命を取ってみよう)


 王座を降り、娘ともどもこの国を去ると言えば王子にも損はない。臣下・民人はそのまま国に留まり、貴国に従わせる。だからなにとぞ許し庇護してくれ、と恥を忍んで頼んでみよう。なに、幾度も忍んだ恥だ。さらに増えようとかまうものか。


 ニャオニャオとさらに泣き続け先導する猫の後を追いながら、勝手知ったる我が宮殿、猫の案内はいらぬのだが、と思わず笑みが漏れる。どうやら私は開き直ってしまったようだ。


 王子の控室が見えるところまで来るとすでに猫は辿り着き、扉を盛んに掻いている。すると誰かが扉を開け、

「また猫来ましたよ、王子。よほど気にいられたのですね」

と若い男が猫を抱きあげようとして、するりと猫にすり抜けられた。猫は勝手に中に入ったようだ。


 若い男、見覚えがあるような……あれは后の葬儀の折、弟王子、つまりは糞生意気なあの王子、姫を欲しいという男、あの男の従者だった子供だ。立派な若者に育ち、そして今でもあの男に仕えているらしい。庭で叱責されたのはこの若者だろうか。そういえば瞼がわずかに腫れぼったく見える。こちらに気づき会釈を寄越した。


「王子、国王陛下のお越しです」

若者が男に来客を告げるより早く国王は部屋の中を見ていた。


 王子の足に纏わり付きながら、なおも猫はニャオニャオと何かを訴えている。

「隣国の王子殿、あなたに問いたい儀がある」

国王は挨拶もせず大きな声で王子に問うた。さぁ、お前ならどう答える。


「義務と使命、どう違うと思われる」

絡みつく猫に悪戦している王子は国王の意に反して笑った。


「姫はお父上によく似てらっしゃる」

嫌みのない笑顔ではある。

「単刀直入がお二人ともお好きだ」

これ、王子、従者がいさめる。


「王子が姫を語るとは心外なり。わが問いに答えよ。意に反する答えならば……」


王子は国王を遮って答えた。いや小言を聞く気はない、といった風だ。

「義務はその地位にあるときのもの。使命は命ある限り努めるものです」

「……」

「私はこの国の繁栄のため全力を注ぎましょう。それは姫の夫となる者の義務だからでもあります。だからで『も』と言うのは国の繁栄は姫の幸せにつながるからです。姫の幸せは夫となった者の使命。万が一、この国を追われることになったとしても姫を生涯お守りするのが私の使命です。帰国するとならば我が国に姫を伴うのはそれ故です」


 なおも王子は続けた。すべて書簡で申し上げた通り、両国の関係を鑑みれば文面通りに受け入れていただけない場合もあると覚悟はしておりました。だから私の本心をわかっていただきたいとお目通りを願い出たのです。それでもお疑いならばこの先の私と姫を見ていただくしかないと申し上げるつもりでおりました……


 聡明とはこの男を言うのか。国王は王子を見つめた。何年来も出せない答えをサラサラと言ってのけた。まるで問われることを予測していたかのように。


 いやそうではないのだろう。何年も考え抜いた末の言葉なのだろう。考え抜いた末に導き出した覚悟が言わせた言葉なのだろう。


 それは次の王子の言葉で知れた。

「姫君には先ほど承諾をいただいております。私たちは幸せです。父上、その点はご心配なく」


『私たち』……いったいいつの間に姫に会った。会って心を通わせた? 男の従者が許しもなく姫と言葉を交わしたことを平伏して謝罪している。


 そうか、従者よ、さてはお前も知っているのだな。我が后の葬儀の時からこの男がわが姫を誘っていたことを。


 そうであろうとも、そうであれば色々と合点がいく。初めてあった男にあの姫が心を許すはずがない。だとしたら妃の葬儀の時しか二人に巡り合う機会はない。


 そして着くなりこの男は庭を散策した。姫に会うためか。示し合わせていたのか。私が知らぬ間に姫とふみのやり取りでもしていたというのか。


 父親の妄想も多分にあるものの、そう信じ込めば国王にはそれが真実に見えてくる。


あぁ后よ、あの庭だ。あの庭でお前の葬儀で……引き合わせたのは妃、お前なのか。


「えぇい、うるさい猫め、ニャアニャア鳴くでない」

従者の怒鳴り声に国王がはっとする。


 手荒な真似をしてはいけない、と王子が従者を窘めている。驚いて逃げてきた猫を王子が抱きあげる。


 国王は深いため息をついた。

「それではじっくりと、これから何年間かわからないが私の命のある限り、あなたを監視させていただこう。私の目の届くこの国で、その言葉に嘘がないことを証明して見せるが良い」

せめてもの意地である。


 そしてこれは愚鈍な父が義務と使命をまっとうできるよう図ってくれた、娘を犠牲にしたわけではないと知らしめてくれた娘婿へのはなむけでもある。


 少なくとも父王が生きている限り、王子が国に帰されることはない。だが娘を取られた父親の嫉妬はジリジリと焼け付くようだ。言葉にどこか棘がある。

「決して義務も使命も怠りなきよう」


 王子が己の従者を見てにっこり笑った。勝利の笑みか、呼応して従者も笑んだ。


 だが、私にとって目障りなあの男は姫にとっては幸せそのものになるのだろう。幼いころからの思い……初恋であろう。それを成就させる王子はたくましくもある。うぅん、執念深い、とは言わぬが花というものか。


 知らずに笑みが国王の顔をほころばせる。その笑みに安堵して男の従者もあんな軽口が言えたのだろう。


 部屋を退出するとき従者にそっと耳打ちしてみた。

「そなたの主、とんでもない女たらしであるな。幼いうちより女人に目を付けるとは」

「畏れ入ります……姫君の見目麗しさ、心根のお美しさは子どもでさえも魅了するゆえでございましょう」


 一本取られた、と笑わずにいられない答えに(従者でさえこの機転)王子が納める国の将来が楽しみだと嬉しくもさみしい父であった。

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