6

 父上の部屋を覗くと、はなはだくお疲れのように見えた。足元にあの猫がいる。窓から飛び降りて、どうやってここにたどり着いたのだろう。わたくしに気が付くと迷いもせずに寄ってきて足にすり寄ってきた。


「お父様はお疲れなのです。放っておいて差し上げましょうね」


 ではどこに行こう。わたくしが甘えられるのは父だけ、その父上にも今は甘えるどころではない。それに ―― 甘えたら泣いてしまうかもしれない。婚儀が嫌だとわがままを言って困らせてしまうかもしれない。それはできない。それだけは、してはいけない。


 庭に出よう。侍女たちが支度を言いに来るにはまだ時がある。すっかり日が暮れるにもまだ寸時ある。ひょっとしたら小鳥たちが慰めてくれるかもしれない。


 猫が先導するように前をするすると進んでいる。庭に出ると「こっちだよ」とでも言うように時折立ち止まりわたくしを待つ。


「お父様とお母さまが出会ったのもこの庭だったそうよ」

猫を相手にわたくしは語り始めた。


 この話、以前も誰かにしたような……あぁ、お母様の葬儀の日、頭を撫でてくれたあの男の子、彼に話したんだった。


「この庭にはわたくしの『いっぱい』が詰まっているの」

わけのわからないことを言うわたくしに「そうかそうか」と男の子は答えてくれた。


「いろんな思い出があるこの庭から、わたくし一生離れたくないわ」

「姫はご自分のお国が大好きなのですね。お庭もそうですけれど」


「そうね、一生ここで過ごしたいわ。きっと幸せよ」

くすくす笑うと、

「笑ってくださった。うん、笑顔は他者を幸せにします。姫の笑顔はこの国の象徴ですね」


象徴ってなぁに、尋ねると、

「内緒です。いつか私の国にもいらしてください。その時お教えしますよ」

と、にっこり笑った。


「確かに素敵なお庭。美しいお国。でも、私の国も負けてはいませんよ。あなたに見せてあげたいなぁ」

 必ずいつかお連れします、そう約束してくれた。そう、自分の国に連れて行ってくれるといったのもあの男の子だった。ずっと忘れていたけれど。あの男の子はどこの子だったのだろうか。


 あの時、唄った場所はここだった。今見ると花壇に囲まれた小さな円形の広場は、ちょっとした舞台に見えた。もう、恥ずかしくてこんなところで唄えない。杯をあげた男の子はその茂みの隙間から覗いていたのだったわ。あの時と同じ銀梅花が今を盛りと咲いている。


(驚いたわたくしが悲鳴を上げたから、あの子は驚いて逃げ出したのだわ。きっと、王宮に来てから日も浅く、心細かったことでしょうね)

思い出の尽きぬ庭でも一番印象に残るのはあの時のことである。


 驚いて逃げ出した子に怒っているのかと思ったら「あんな小さな子を働かせるとは」怒りではなく憤りだった。自分も同じような年なのに「小さな子」という表現に内心笑ったものだ。


 ごみ箱を運ぶと言うと、自分が運ぶ、と有無を言わさずごみ箱をとって持ち上げる。と、二、三歩歩んでから「どこに運べばよいのだ?」と聞いてきたから、今度は声に出して笑ってしまった。


「はいはい、笑いなさい。笑っている方がいい。あなたには笑っていて欲しい」

その言葉に嘘はないだろうけど、少しばかり拗ねているのが分かった。笑われたから、男の子が働かされていたから、それともその両方。今となっては問うこともできない。


(姫の笑顔はこの国の象徴。その言葉の意味をまだ教えてもらっていないわ)

 勿論「象徴」という言葉の意味はすでに知っている。あの時のわたくしは言葉の意味を知りたかったが、今は違う。『この国の象徴』と言った男の子の本意を知りたいと思う。わたくしなりに考えても、いまひとつ腑に落ちない。


 国に連れて行ってくれると言う約束も、教えてくれる約束も、すべて子供の戯言と、きっとあなたは忘れてしまっているでしょう。


(わたくしにとってもそんなもの ―― 戯言でしかなかったのに。なぜなのでしょう。今、ここに立つと捨てがたき事柄となって、次々に思い出されてくるのです。ここに今あなたが来て『笑っていてください』と言ってくれたなら。あなたが『笑っていて欲しい』と言ってくれたなら、心で泣いても顔では笑って婚儀に望めるものを)

恋を知らぬ乙女は己の初恋にさえ気づくことはなかった。


 そしてその『初恋』に勇気を求め、縋りつこうとしてはいたが、諦め、覚悟を決めるときがすぐに来ることだけは知っていた。そんな乙女の足元に猫が優しく絡みつく。


 さぁ、行こうとばかりに姫君の顔を覗き込むように見つめ、頷くような素振りの後、庭の奥へと歩き出した。名残惜しい場所に歩き出せずに佇んでいると足元に戻ってきてまた乙女を見上げる。


「そうね、あの泉水のほとりにもいかなくてはね」

あの男の子と歩いた庭の道のり、杯をもらった泉水のほとり、またねと別れたあの場所。

「最後にあそこに行って、心を落ち着かせることとしましょう。時はもう、すぐそこまで迫って来ているのです」


 泉水に近づくと、向かう先から話し声が聞こえてきた。間の悪い、だが引返したくはない。迷いながら歩を進めると、猫はさっさと行ってしまう。


 声の主たちが認められるほど近づいた時、一番近くにいた男、たぶんその傍らにいるのが主人でその従者が

「どこぞの姫君か存じもせぬところをご無礼仕る。なにとぞご遠慮願いたい」

と声を掛けてきた。


 確かに「無礼な」言い様、この庭でこの庭の主とも言えるわたくしに遠慮せよ、とは。


 覗き見ると主らしき男の胸にあの猫が抱かれ、さらに視線の先にはわが王宮に仕えているであろう誰かがひざまずいているのが見える。あれはまだ若い調理人の一人だ。


「遠慮が必要とあらば遠慮致しましょう。が、その遠慮がそこに跪く者に罰を与えるためとあればそうもいきません。どうぞ何故の罰なのかお話しいただき、その者はお引き渡しください」


「罰など与えたりしません。昔話をしていただけですよ」

と答えたのは主と見える男のほうだ。従者が止めようとするのを振り払ってわたくしに近づこうとする。思わず後退りすると、

「お懐かしゅうございます、姫君」

わたくしの様子を見て少し悲しげな顔をして足を止めた。


「あれからの年月が私の見た目を大きく変えてしまいました。背は伸び、声は変わり、ひげも生える。もう子供ではなくなりました」


 姫はあの頃とお変わりなく、まっすぐに見つめる澄んだ瞳、民人を思いやるお優しいお心、涼やかな声色、穏やかな物言い――いや、やはり背は伸び、髪も伸び、そして美しい大人の女性となられた。まぶしいほどです。


 なんと、なんと歯の浮くような台詞を言えたものか、あきれ返るとともに、子供ではなくなったということは子供のころを知っている誰かということに、はたと気が付いた。


 泣きじゃくるわたくしの頭を撫で、歌で気を紛らわさせてくれ、杯をくれた、あの男の子、今、一番会いたい人と心の奥でひそかに思っていたあの男の子だ。婚儀に来賓として招かれたのだろうか。


「確かにお互い変わりましたね。あなたがこんなお世辞の言えるおかたになっていようとは」

 わたくしの声は掠れていなかっただろうか。うろたえた心を見取られはしなかったろうか。皮肉を返すのが精一杯だった。


「おや、やはり成長なさっておられる。あのころはそんな皮肉をおっしゃれる姫ではなかった。素直が取り柄と……」

くすくすと笑っている。


 無礼な。無礼な。なんと無礼な――


「昔話をする仲とは、その調理人ともお馴染みでしたか。わが王宮でなんと顔の広い」

またも皮肉を言ってしまうわが身が忌まわしい。逢いたかったとなぜ言えないのか。幼いころならきっと言えたこの言葉、寸刻前まで思っていたことなのに。『まさか間者か』とは料理人の顔を見ては流石に言えなかった。いつも骨身を惜しまず働いてくれている者が身を小さくして畏まっている。その者までを疑う言葉となる。


「姫もご存じのはずのこの若者、もしや私の杯を下げ渡したこともお忘れか」

 えっ、と思わず声にして、かしこまっている料理人の顔をまじまじと思いだそうとした。俯いているのでよく顔は見えないが、頻繁に見かけるあの調理人に違いない。


 あの調理人の顔はわかっている。ならば、あの時の男の子の顔を思い出せば……重ね合わせれば面影が顔立ちに沿って描かれる。


「お前であったのだね。よく勤めてくれている。日々つらいことも多かろう。国王に代わってわたくしからも礼が言いたい」

若者は畏まってばかりいる。無理もあるまい。


「調理人はあの杯を今も懐に持っているのだそうです」

男が暴露する。


 そうかそうかと調理人に言ってやりたいが男の手前それができないのがもどかしい。

「わたくしが貰った物を誰に下げようと文句を言われる筋ではない」

「これは困った。今日の姫は笑わせるのに一筋縄ではいかないようです。どうぞ笑ってくださいませんか。微笑むだけでもよいのですよ」


 何か楽しい歌を唄ってくだってもいい。ねだってばかりで申し訳ないが、それらを楽しみにしてきたのです。


 ほんの先刻、今こそ「あなたには笑っていて欲しい」と言ってくれたならと望んだ相手が目の前にいて、その言葉を投げかけてくれている。でも今、わたくしは笑えばいいのか怒ればいいのか泣けばいいのか、一向に判断が付かぬままでいる。唄うのは論外だ。


 判断付かぬまま、頬が濡れるのを感じ、心が叫ぶのが聞こえる。きっとわが瞳は目の前の男を睨み付けていたことだろう。


 そうじゃない、そうじゃない。その言葉があれば婚儀に望む決心がつくと思っていた。が、それは違った、間違っていた。わたくしが望んだのは言葉ではなく、あなた、そのものだったのだ。だが、それを悟ったところで何になると言う。いまさらどうなると言うのだ。


「なぜ今なのですか。なぜもっと早くに来てくれなかったのですか」

 もうすべてが決まってしまいました。明日はわたくしの結婚の儀、隣国の王子と結ばれると定められています。遅いのです。遅すぎるのです。泣きながら詰るわたくしにあなたはなおも微笑むのですね。


「何が遅すぎましょう」

と困り顔の男の耳元で従者が何か耳打ちした。


 従者は……少し前から様子がおかしかった。嗚咽を上げているかと思えるほど体を引き吊らせるようなことがあった。確かに、耳打ちのあとチラリとわたくしを見た瞳には光るものがあった。


「ふむ……私の友人であり第一の臣下であるこの男が『話がややこしい』と泣き始めてしまった。姫と言い、我が友と言い、何故泣くのかわからないが、どうやら原因は私にあるらしい。身分を明かせば話はまとまるはずだと友が言っている。やっと『応援する約束』を思い出したと言っている」

ニコニコそう言うと一転、男が姿勢と表情を改める。


「姫君、私は貴国の隣国第四王子である。あなたを妻に迎えるためこの国に赴いた」


私はあなたの微笑みを日毎眺めて暮らしたい。あなたを微笑ませるこの国を、この王宮とこの庭を、あなたと眺めて暮らしたい。あなたの微笑みはこの国が幸せである証。


 幼き頃の口約束ではあるが ―― 姫はお忘れのようではあるが ―― この国を、姫の愛するこの国を他に例のないほど幸せに満ちた国へと二人で力を合わせて導いていきませんか。


 王子の後ろでは調理人が王子の従者に、遠慮がちにこの場を離れる許しは出るかと尋ねている。聞いてはいけない話を聞いてしまったと、もしや牢に捕らわれはしないかと気に病んでいるようだ。従者は嗚咽が止まらずなかなか答えられない。


「泣いてなどおらぬぞ、ただ私は王子の本心を見抜けなかった不甲斐なさに恥じ入っているのだ。泣いているのではない、己を責めているのだ」

聞きもしないのにそう言い募る従者に


(高貴なかたがたがご主人を思う気持ちは、俺ら下々が主人を思う気持ちと変わらぬのだな)

と落ち着くのを待つしかなかった。


「以前この王宮を訪れたとき、帰国の途で王子は私に言った。ここの姫を将来、后にすると決めた。あの子を見ていると幸せな気分になる。だから姫の国のためになることをこれから大いに学びたい」


 あの国が幸せに満ちた国になれば姫は笑って暮らせるだろう。だが父や兄には内緒だ。子供が何を言うかと一笑されるだけ。信用できるお前だけに言うのだから、絶対ほかに話してはダメだよ。時が来たら私から二人には言おう。そのときは応援を頼むよ ――


 それを忘れて、この私が反対し破談を望むとは……愚かなのは自分。王子よ、物覚えがよくなるようこれからは励みます。最後はわけがわからなくなっている従者の独白に調理人はじっと耐えるだけだ。


 なにやらひそひそ声に変った姫と婚約者の話はもう聞き取れない。ただ姫は微笑んでいる。婚約者も微笑んでいるだけなのかもしれない。


 そういえばあの猫は消えている。二人のお邪魔はしないとどこかへ行ってしまったのか。


 すべてが佳き方向に動き出していると調理人は感じた。婚儀は佳き事、ご祝儀の菓子もこれで作り甲斐が出てくる。料理の品々も一品一品が更に華やぐことだろう。


 従者の嗚咽がふとやむと、「お前、まだいるのか」と叱責された。

「もう行ってよい。ただ……ここで見た事聞いた事、決して口外するなよ」

もちろんです、と退こうとして呼び止められた。


「いや、婚儀が済んで人々が落ち着いたころを見計らって噂を流せ。わが王子は初恋を成就させた、いとも珍しき王子だと、幸せな王子だと。きっとそれが王子のためでもあり、そちらの姫のためでもある」


 祝いの熱が冷めてから流れる噂は、消しても消せない政略結婚というもう一つの事実を中傷せずにはいないだろう。それを止めよと従者は言っているんだと、調理人は瞬時に悟った。


(王宮に仕える俺には打って付けの仕事。噂の出どころが王宮ならば民人たちもすぐに信じる。信じるも信じないも真の話。今見た事聞いた事をそのまま流せばよいだけの話)

大きく頷いてその場を去る調理人の胸中には噂好きでおしゃべりで善良な数人のメイドの顔が浮かんでいた。

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