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迷いはどんな時も、どんな人にもあるものだ。今こうして明日の支度を声高に指揮していても消えはしない。むしろその迷いを気付かれまいと、必要以上に高揚しているように見せかけている己を自覚せずにはいられない。
王子のお世話役を言い使ってからというもの、全身全霊で王子に仕えてきた。幸いどの王子よりも利発と言われ心根もまっすぐ、世話役として自慢できる王子だ。一生を捧げても惜しくないと思っている。何の心配もなかった。
国王の覚えもよく兄王子を差し置いて跡継ぎにしたいくらいだ、と冗談を言われる。あくまで冗談であり、本人の王子もちゃんとわきまえている。兄王子もわかっていて、我が右腕になる男と位置を明確にしている。
「たとえ、どこぞの国王が一人娘の婿として跡継ぎに欲しいと言ってきても、おまえを他国になどやらん」
年の離れた末弟を愛し、頼りにする王太子だった。本当に、何の心配もなかったのだ。
あえて言うならば心配なのはお妃選びだけだった。縁談は数え切れぬほど舞い込み、兄王子が心配した婿入りの話もあるにはあったが、それは別としても、どこの姫君でも望めば否はなかったのではなかろうか。母君に似たお顔立ちは多くの女人に好かれそうだ。
なのに、なのにだ。
どんな良縁も鼻先で笑って断ってしまう。
わが身にはまだ尚早にございます、に始まり、勿体なさすぎるお相手、お国が遠すぎては寂しい思いをさせてしまいましょう、その姫はまだ親御が恋しいお年頃。果ては、見目麗しすぎて共に過ごすのは荷が重すぎる、とまで言い出した。
嘘である。嘘に決まっている。
嘘をついてまで断ってきたのに、兄王子が隣国を併合したいと言い出した途端、
「いや併合より連合を ―― 私が姫を妻とし揺るぎなき連合を結びましょう」
と言い出した。
併合は隣国にとっては苦痛なだけでございます。いくら民草のためとわかっていても、承服するのは難しい。民草も王家への忠誠がある。王家が交代したからと言ってあっちからこっち、とは行かぬものです。
「だが婚姻であれば両者にとって祝い事。婚姻による連合であれば抵抗も多少は少なくなりましょう」
と自ら婚儀を提案した。国王、王太子、そして王子の三者による内輪の話だ。
隣国のことで父と王太子である長兄にだけ聞いてもらいたい話がある、と言い出したのは王子からだ。場所は国王の自室、三人以外に同席したのは王子の側近の私のみ、たぶん間続きの居室には王妃様がいらしただろうが、こちらの話を聞いていたかどうかまではわからない。
隣国をどうするつもりかと問う弟に併合したいと言ったものの、兄王子とて元より戦がしたいわけではない。隣国の苦境を大国の端くれとして手を差し伸べるつもりだが、援助にも限界がある。国を豊かにするには併合するのが近道、との判断からだ。
なかなか嫁取りをしない王子を案じていた父と兄、つまるところ隣国の話とは縁組か、なるほど、隣国の姫は見目麗しいとの評判だが、国としての旨みには欠ける。今まで候補に上らなかったのはそのためだが、本人が望むなら、あえて反対することもない。
それにしても回りくどいことを、しかも、何をわざわざ王と王太子を呼び出して、密談めいたことをする? 戸惑いながらも父と兄は同意した。それはよい、それはよいのだ。だが次がいけない。
「だが兄上、将来的にも隣国は隣国のままで、果てることなき同盟を。もし私が隣国王になることがあっても合併は致しませぬよ」
にっこり笑って言い放った。
「それに私は隣国で暮らします。己が妻に人質暮らしなどさせません。それくらいならば私が人質になりましょう」
何を言い出すのだ、おまえがこの国を出る話に賛成できるはずがない、思わず怒鳴る王太子、少し待て、と話が呑み込めぬ父王は目を白黒させている。
「どれほどの時がかかるか、確とは約束でき兼ねますが、必ずや我が国の援助がなくても立ち行くような国に、隣国を立て直しましょう」
更に王子は畳みかける。実はもう何年も前からいろいろな策を考えているのです 。
その幾つかの提案は、なるほどと父や兄を頷かせずにいかないものもあった。
「そして気が付いたのです。このような策をあれこれ考えることがいかに楽しいかを。気が付いてしまったのです、私の生きる道は隣国にあると。隣国にて国直しをすることが私の幸せなのだと」
だから王座は必ずしも望まない。隣国に別の人物がいるならばその者がなればよい。一諸侯として仕えればよい。それもかなわぬのならその時は諦めて帰国いたします。
「お前がそんな阿呆だったとは」
兄王子が嘆く。
「国直し、国造り、したければ自国でするがよい。なぜ隣国なのだ」
私は弟のそなたを頼りにし、楽しみにしているものを。私を捨てても隣国に行きたいのか。よもや隣国から私を狙おうとでもいうのか。
「滅相もない!」
さすがに王子も慌てて、涙ぐんでさえいる兄に語り掛ける。
「そもそも兄上がいなければ隣国に行く決心などできませんよ。兄上がいるからこの国を離れられるのです。兄上は私などいなくても立派にこの国をお治めになるでしょう」
そして成り行きを見ている父に「ねぇ父上」と急に振る。
「ふぅむ ――」
父はまだ若い息子をじっと見つめた。
「隣国に暮らすがお前の幸せであるのか」
息子は微笑んでいる。
「どうする王太子。そなたの弟は幸せになりたいそうだ」
いまだ涙ぐむ兄王子は顔を背けてしまった。もともと兄王子は子供のころから涙もろい。泣き始めるのは時間の問題だろう。
「王子よ、そこまで言うなら反対しない。隣国に行ってそこの姫と結ばれるがよい」
姫との婚儀がなければ隣国にお前が住む場所はなかろうからの。その辺りは計算済みなのであろう。
そしてやってみるといい。貧困に苦しむ民を多く抱えた隣国の立て直し、どこまでできるか見守っていよう。だがな、自国と己の兄に迷惑をかけるようなことは許さぬ。その時は親子ではないと思え。そしてもし、かの地でどうしても受け入れて貰えなんだら、その時は帰ってくるがいい。お前を愛する者、お前を望む者がこの国にはたくさんいるということを忘れてはならぬ。
「お前の席はいくらでもわが国にはあるのだ。なぁ王太子よ」
黙って俯いたままの兄王子が何度もうなずく。引き止めることはできないと、可愛い弟との別れにとうとう涙が堰を切ってしまったのだ。
「母はもっと泣くぞ」
父王が心持ち弱い声音で言うと、母上はもうご存知です、と王子は言った。
「笑って許してくださいました」
「やれやれ、父より先に母に相談か。思ったより子供なのだな」
国王陛下は微笑み、さらに声を低くして呟いた。
「さて、王太子の幸せはどこにあるのか。早く見つけて欲しいものよ」
が、軽く首を振った。
「いいや、あれはあれで実はもう見つけているのかもしれぬな」
話は翌日には公にされた。王太子以外の兄王子たちにも ―― 一人は遠方の王家、もう一人は重臣の一人娘にそれぞれ婿入りし、将来を約束されていた ―― それぞれ話が伝えられ数日後には祝いが届けられた。婚儀には必ず招くよう隣国王にもよろしく、と口々に言ってよこした。王宮の中にももちろん話は広められ、王子は朝から冷やかされてばかりだ。世話役の私にも祝いの言葉は届く。
公にされた話は、実は王子は以前から美貌と評判の姫に思いを寄せていた、一人娘を取り上げるのは忍びないので王子自らが隣国に赴く、というものになっていた。そうまでしてでも隣国の姫を望む王子に国王が渋々折れた、ことになっている。そして決められた台詞のように「両国の平和のため」の決断でもある、と続いていた。
王子が自国を離れることに難色を示すものも多々存在しただろうが、祝い事に水を差すわけにもいかないと黙るほかなかった。自分の娘を売り込んでいた諸侯はさぞがっかりしたことだろう。それでも決定事項として公にされてしまったならば、たとえまだ、隣国の了承を得る前だとしても、表立って、否を唱えることはできなかった。
だがあの、王と二人の王子の談合を知る私は納得いかぬ。納得いかぬまま婚礼を明日に控え、王子の側近として、隣国に在を構えた後もお仕えするため、こうして隣国の王宮近くまで供として進み出てきた今でさえも納得していない。
王子と二人きりの時、私はその不満を隠すこともしなかった。
なぜ喜んでくれないのだ? 幾度となく王子に問われ、そのたび条件が悪すぎると訴えたが、『わが望みを条件としたまで』と王子は取り合ってはくださらなかった。
できることならば、寸でのところでもいい、王子に恥をかかせてもよい、だが、無事に自国に帰れるよう、その上でこの婚儀、破談にしたい。せめて条件を王子に有利なものに変えさせたい。
私がお仕えするこの王子はお優しく賢く非の打ちどころがないおかた、あんな条件、およそ似つかわしくないおかたなのだ。それを先方に認めさせずにおくものか。王の器にあらずば一諸侯に、それもならぬなら自国に帰る。なんて条件はどこから来たのだ。
王子なら、王子ならば、姫に王位継承権を付けてよこせ、と言ったって隣国に否はなかったはずだ。そりゃあ、こんな好戦的な言い方はどうかと思うが、否はなかったはずだ。
あきれ顔の国王陛下もお怒りの兄王子も結局最後は王子のわがままを許してしまい、いくら私がお諌めしても「矢は放たれた、諦めよ」と笑うばかり。
「あれは幼いころより言い出したら聞かなかったからなぁ」
と兄王子が苦笑する。
「隣国の王妃の葬儀にもついてゆくと聞かなかった。お前が来ても役に立たぬ、と一括しても
その約束を果たすと言うのだよ、両国に和平を築くことで、とな。
別のことでもっともっと役に立つ男のはず、惜しいと言っても聞く耳を持たない。だが弟のわがままはあの時と今回のみだ。何かをねだったり、願ったりなんて、あれ以来なかった事だ。いつも周囲のいうことを聞いて、よく励んでいた。ならばその褒美として、今回の我儘、許しても罰は当たるまい。
あぁ、確かに。あの時もお供をしたのだった。
お世話係に抜擢されたばかりのころ、私もまだ子供と言っていい年頃のあの日、なんて我儘な王子なのだ、とあきれたけれど、そんなことは二度となかった。自慢の王子なのだ。わがままなものか。
あの葬儀の日もこの門をくぐり、あそこに見える王宮に向かっていた。挨拶が終わり、私と二人、王宮を案内する女官に連れられて巡るうち、どこでどうしたものか
心配で心配で、何しろ国を出るとき国王陛下直々に「王子を頼むぞ、守ってくれ」と言われたのに、逸れてしまうとは何たる失態。死んで詫びるしかないと子供心に決意するころ、当の本人はにこにこしながら戻ってきた。腰が抜けたのはあれが最初で最後だ。
「美しい庭で美しい花に見とれていたのです。よくよく見ようと寝っ転がりました。おかげで服が泥だらけに」
と、くすくす笑う。
「可愛い小鳥が悲しい歌をこれ以上もなく優しく歌っていました。いつか今度は楽しい歌を歌ってもらいたいものです」
わけのわからぬことを言って、怒るお守り役を煙に巻き、ちらりと舌を出して私にささやいた。迷惑かけてごめんね ――
きっと隣国では我が国の一番下の王子はどうしようもない阿呆だと噂されていることだろう。その時のあの王宮がすぐそこに迫っている。
「止まれ」
王子が静かに御者に命じた。
見ると、街を眺めようと開けたばかりの窓の枠に何かがしがみ付いている。猫だ。
「急に飛び乗るとは……危ない事をする猫だね」
優しく叱りながら王子が猫に微笑みかける。揺れが収まった馬車の籠に、まして猫が、窓枠から乗り込むのは造作もない。
尻尾をピンと立てて我が物顔で王子の膝に乗ると自分の体を摺り寄せる。
「無礼な猫め」
抱き取って籠の外に出そうとするのを王子に止められた。
「よい、ほっておけ。飽きればどこかに去るだろうし、案外街を案内してくれるやも知れぬぞ」
ニコニコしながら猫の背を撫でる王子、満更でもないのか。
「そんなこと、あるはずは」
ないと言いかけたがやめた。
「真面目なところはそなたの良いところ。これでもう少し物覚えが良ければ申し分ないのにな」
と笑われた。
「物覚え、悪くはないと自負しておりますが」
王子は猫から目を離し、じっと私を見つめた。
「そうかな。肝心なこと、失念しているように私には見えるぞ。王宮についたら二人だけで少し庭を回るとしよう」
先方のお許しがあれば、という私の言葉に応えず、王子は猫を撫でながら街並みを眺めるばかり。
以前の訪問で私は庭には立ち入っていない。そこで何を思い出せと言うのだろう。それとも単に庭を散策したいだけだろうか。美しい花、可愛い小鳥、そんなことを言っていたが今回はそれどころではないはずだし、そこまで子供でもない。
王宮はもうそこだ。私は王子を止められるだろうか。
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