3

 上を下への大騒ぎの中、王宮の調理人の一人が大きなごみ箱を抱えて運んでいた。王宮の庭の片隅にあるごみ置き場へ向かっているのだ。その足元に一匹の猫が近づく。


 見慣れない猫だ。猫とはいえ勝手に庭に、王宮に入り込んではいけないのだぞ。それとも女中の誰かが連れ込んだのだろうか? ごみ箱の中の食べ物の匂いに釣られたのだろう、ごみ置き場まで着いてきた。


 どうせ廃棄する物、猫に与えたとてとがめられもすまい ―― ひもじさには身に覚えのある調理人である、いくらか傷みの少ない食材の切れ端を選んで猫に投げてやった。飛びつくように食材に近寄るとクンクンと匂いを嗅いでから猫は食べ始めた。それを眺めながら調理人は懐から杯を取り出すと、すぐそばの泉水を汲んだ。王宮にあるどの泉より旨い水が涌く。


 咽喉も乾いていたのだろう、猫が水を欲しがった。調理人の腕によじ登って杯を奪おうとする。


「これこれ……」

苦笑しながら杯の水をてのひらに受け止めて与えようとするが猫は杯から飲みたがる。


「おい、この杯はだめだ。貸せないぞ」

笑いながら調理人は猫を地におろし、掌の水を口元に差し出した。諦めたのか猫はおとなしく小さな舌をチラチラさせた。


 王宮で一番旨い水 ―― そう思っているのは俺だけかもしれぬ、こんなごみ置き場の近くの泉など、好んで飲みに来る者はいない。調理人は飲み干した杯を見つめた。


 あれからどれほどの時が過ぎたことか。まだ幼さの残るころから王宮に出仕した。初めてここにごみを捨てに来た時は辿り着けずに庭で迷い、あげく倒れてしまった。


 大した量のごみではなかった。非力な者を無茶に使う調理長ではない。身の丈にあう、しかも甘やかさない仕事量を与える、そんな親方だったから、俺も、俺の兄弟子も弟弟子も調理人として勤まるようになったのだ。あの時は道に迷った俺だけが悪い。


 どこからか聞こえた歌声を考えもせずに追いかけ、相手に気づかれそうになって慌てて逃げだした。捕らえられたらきっと酷い仕置きを受ける。出仕前に両親や世話役から何度も言い含められていた。


 真面目にひたすら働いて、決まりを守り言われたことを守り、決して逆らってはいけない。そうでなければ痛い目を見るのはお前だし、我が家に塁が及ぶんだよ。己はともかく、親や小さな弟妹たちが仕置きされては死んでも死にきれない、そんな思いでいたのに、なぜあの歌声に誘われてフラフラと庭に迷い出てしまったのか。


 自責の念と追われる恐怖、どこに逃げても隠れても、いずれ見つかるとの諦念、苦しい息と激しい動悸でとうとう躓いて倒れると身動ぎできず声なく泣いた。そしていつしか気を失してしまった。


「しっかりしなさいな」

 励ます声に気が付くと誰かが抱き起してくれている。お飲みなさい、と杯を手渡してくる。あの歌声の主だ。がぶがぶと半ば零しながら杯を煽るのが面白いのか、くすくす笑いが止まらないらしい。


「迷いましたか? 無駄に広いのです、この庭は」

言いながらあたりを見渡した。


「あなたが運んでいたものは、そこに運んでおきました。ここに運べと命じられたのでしょう? 置いて行ってしまうのだもの、探したけれどあなた、足が速いのね。見つからないのでここで待てば来るだろうと、ついでに運んでおいたのですよ」


 優し気な物言いが落ち着かせてくれる。誰だろう、少なくとも調理部屋に出入りする人ではない。自分と同じくらいの年の少女、女官として行儀見習いの貴族の姫君か? 体感したことのない佳い匂いが漂ってくる。


「さて、もうお行きなさい。時間がかかりすぎだと言われたら、素直に道に迷ったと言えばいいのです。それほど過ごしてもいないから大丈夫でしょうけれど ―― 調理長は穏やかなかただから叱られはしなくてよ」


 見とれていたものの、手に持ったままの杯に気が付いて返そうとすると、

「それはあなたに差し上げましょう」

じゃあね、とニコリと笑みを投げ、手を振る。呼び止めることなどできるはずもなく、残り香の中で杯を見つめるしかなかった。


 調理部屋に帰ると「遅かったな、迷子にでもなったか?」と笑われただけだった。

「王宮は広いからな。用のある場所だけボチボチ覚えていけばよいさ」


 あの少女が国王の姫君と知るまで幾ばくかの時間がかかったが、それからも、それ以前より更にその杯を大切にしている調理人だ。


「こりゃあ銀だな」

使っているところを親方に見咎められたことが一度ある。


「売ればお前の親に楽させてやれるぞ。だがな、大人になっていっぱしの料理人になるまで大事に持っとけ。売った金は店を出す資金にすればいい」

どこで手に入れたかを聞く親方ではなかった。


「お前はまじめで筋もいい。俺の跡を継いで次の料理長になるのはお前かもしれないと俺は思っていた。でも資金があるなら店を出すのも悪くない。料理長の給金ほどではないにしろ、同じくらい稼げるはずだ。自分の好きな料理を作って、客の喜ぶ顔を見て」


料理長は遠くを見つめた。

「国王陛下は良いおかただ。俺らのような下々にもちゃんと声を掛けてくださる、気にかけてくださる」


 お前、王宮はなぜ下遣いに子供しか雇い入れないか知っているか。街場で仕事を探せば子供にはきつい仕事しかない。しかも給金も安い。陛下は、それを知って王宮では子供を雇い入れ、優秀なものはそのまま出仕させるが、多くは手に職をつけさせて街場に戻す。すべての子にそれを施せないことをお嘆きだがな。


 だから王宮に雇い入れられた子供たちにつらく当たる大人はいない。みな、国王から預かった子供たちだと、街に戻されたとき困らないようにするのが己の仕事だと、国王に託された仕事だと知っているからだ。


 だからな、ちゃんと励むんだぞ、と親方は微笑んだ。親方もそんな一人なのか、その質問に応えはない。


「陛下にお仕えしてもう何年経つかなぁ。若いころには自分の腕がどれほどのものか、王宮以外でも役に立つのか、冒険したいと思ったこともあったもんさ」


 俺には資金がなかったし、勇気もなかった。メイドの中から見つけた嫁が大事だったし、すぐ子もできた。王宮の料理長なんて俺には過ぎた役職にも就いた。幸せだとつくづく思うよ。


 お前にはお前の幸せがある。それを見極めるのは難しいことだ。若いうちはまずわからない。だが選択肢は多いほうがいい。その銀杯は選択肢を増やしてくれる。大事に持っておくんだよ。


 人の妬みは怖いものだ、誰にも見せるなと最後に言うと二度と杯の話が親方から出たことはない。


 すでに掌にも杯にも水はない。物欲しげに猫が見上げている。


「どれほどの価値があるかは知らないけどさ、ネコちゃんよ。この杯は俺にとっちゃあ宝物、値が張ると言われて売れるもんじゃないんだ。子ができたら家宝にして子孫に代々伝えたいくらいだ」

名残惜しいのか、もう一度調理人の手をなめるとニャンと一声鳴いて猫は草むらに隠れてしまった。

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