74話ハイ・バックドア
どうやってその部屋へ来たのか、フルークはよく覚えていない。
途中からの記憶が酷く曖昧なのだ。
初めから全て夢なのかもしれないとも思った。
だが、絶え間なく全身を襲う痛みが、これが夢ではないと思い知らされる。
これだけの痛みがあって、何故まだ死んでいない?いっそ直ぐに殺して欲しいとすら考えが過る。
思い出されるのは、あの女の恐ろしい顔だ。
作り物の様に整った顔で、感情の無い目でコチラを覗き込む。
エメラルドグリーンの目は、想像もつかない程深い所に繋がっているようで、それに見詰められているだけで、何処かとんでもない所へ落とされしまうんじゃないかと感じられた。目を奪われる程美しいのに、あんなにも恐ろしく感じる瞳があると言う事をはじめて知った。
――――アイツは俺の顔を覗き込みながら「次に顔を見せたら命の保証はない」とハッキリ言った――――
フルークはその時、心底震え上がった。
魂の奥底からの畏れを感じたのだ。
そして、その先の記憶が殆ど無い。
その後に、何人もの男共に囲まれていた気がする。
あれは、荷受け組の連中だっただろうか。
何かを喚き立てフルークを蹴り上げていた様だったが、その時には感覚は殆ど無くなっていたし、直ぐに意識も途切れた。
連中の悲鳴が聞こえた気がした。
白い影のような物を見た気がした。
だが、殆ど物が見えなくなっていたのでよく分からない。
どちらにしても、次に気が付いた時、そこは窓の無いオフィスの中だった。
そして、何かを無理やり飲まされた後、声をかけられたのだ。
「よう、意識はあるか?」
トロリとしたものが喉を通った後、あれだけ激痛でのたうち回っていた身体の何処にも、痛みを感じなくなっていた。
それどころか、身体中から力が溢れてくる様だ。
「ど、何処も痛くねぇ……。ど、どうなってンですか?!」
「そりゃ良かった。なんと言っても、そりゃ特製だからな」
「特製……ですか?」
「薄っぺらな安物じゃない。正真正銘特製の
「た、確かにあの怪我がもう何ともねぇ……。それに、力が湧いてくる感じがハンパねぇですよ!」
身体から湧き上がる力が尋常じゃなかった。
時間が経つほど気分が上がって行く。
全身に漲る全能感が、今なら何でも出来ると思わせた。
昼間コケにしてくれた騎士見習いのガキも、今なら容易に叩き潰せると確信出来る。
この手でぶちのめしてやる事を想像するだけで、暴力的な喜びで頭が一杯になり、口の端じが自然と吊り上がって行く。
「調子は良さそうじゃないか。これなら問題無さそうだ」
「はい!おかげさまで!」
「なら、ひと仕事やって貰うぞ」
「何でも仰って下さい!今なら何だって出来ますよ!」
「そう言ってくれると思っていたさ」
此処はステアパイクのオフィスだ。
もう夜明けが近づき空が白み始める直前だったが、窓の無いこの部屋には外の気配は伝わらない。
床に座り込み、自分の手を何度も握り直しているフルークに、ステアパイクは膝を付き、その肩に手を置いて優し気に言葉をかけた。
見た目には恐ろしい様相のステアパイクが、柔らかな表情で静かに語りかける。
それは、必要以上に優しさを醸し出そうとしているようで、彼をよく知るものであれば、その違和感に寒気すら感じるものだ。
「最近、お前がちょっかいをかけている娘が居たろ?」
「……へ?は、はい」
「確か……、カレ……何だったか?」
「カ、カレン・マーリン……ですか?」
「そうだ!マーリンだ!ソイツだ間違いない」
ステアパイクが「ソイツだ」と膝を叩く。
フルークには、何故ステアパイクがカレンを気にするのかが分からない。
だが、碌でも無い事への前振りである事だけは理解していた。
「そいつが身に付けている赤い石を、持って来て欲しい」
「……石、ですか?」
「そうだ。こう、胸元に着けている……のか?だ、そうだ」
「は、はあ」
ステアパイクが、誰かに話を確認するように、視線をフルークから外しては言葉を紡いで行く。
その事に気付いたフルークは、部屋には2人しかいない筈だと辺りを一瞬見渡すが、やはり居るのは自分達2人だけだ。
「石を奪ったら、娘はお前の好きにして良い」
「は、はい!」
「薬はタップリ持たせてやる。それと、ウチで飼育している『狗』も何頭か付けてやる。上手く使え」
「い、いぬ……ですか?」
「そうだ『
「…………」
「だが、1人だけお前の事務所の地下で回収出来た。コイツは他の連中よりも軽症だったらしいぞ。そいつにもクスリを使ってやったから、一緒に連れて行って使ってやれ」
「……は、はい」
「なに、やる事は難しい事じゃ無い。娘を攫って石を回収する。それだけだ。簡単だろ?」
「はい……」
「そうだな……昼だ。昼迄で良い。此処へ持って来い」
言葉を切ったステアパイクを、フルークは下から見上げる。
空気が僅かに緊張感を帯びた様な気がした。
「それが出来なけりゃ……」
ステアパイクの目に、冷ややかな光が灯るのをフルークは感じた。同時に、自分の喉がゴクリと鳴る音を聞く。
「マグアラットの魚の餌だ」
冷たく言い放つステアパイクに、フルークは全身の毛穴が開くような感覚を覚える。
そこには間違いなく、この国での彼等の絶対者が居た。
逆らう事など許される筈もない。
ステアパイクがどんな人間なのかを、瞬時に思い出す。
「お、お任せ下さい!か、必ずや、ご希望通りの品をお持ち致します!!」
フルークは一瞬で背筋を伸ばし、腹の底から声を上げていた。
「そう言ってくれると思っていたよ」
「はっ!」
そう言ってステアパイクは一瞬だけ口元を綻ばせて見せたが、直ぐに冷ややかな視線をフルークに落とす。
「行け」
「はっっ!!」
静かに告げるステアパイクの命令に、フルークは脇目も振らずにそのオフィスを後にした。
「あらあら、あんなに慌てて」
フルークが慌ただしくドアを閉めるのと同時に、部屋の隅の影がゆらりと動き、人の形を取り始める。
「いいの?此処はもう引き払うのでしょう?あの子が戻っても、誰も居ないのではなくて?」
「戻れればな。奴には自分自身で己のツケを払って貰う。『石』はあわよくばだ。どちらにしても、監視と連絡係は置いて行く」
「そうなのね」
クスクスと人の姿をした影が笑う。
「どうせ
「それでこの置き土産?うふふ、酷い人」
「どうせお前は、アレの確認はするのだろう?」
「そうね、回収は必要だもの。お礼を言うわ。良いサンプルをありがとう」
「モノのついでに使わせて貰うだけだ」
ステアパイクは、寄り添う褐色の女の顎に指を当て、それを持ち上げ、その美貌の顔を自分の方へと寄せ向けた。
「人ならざる者と愉しむのも悪くは無い。また、いずれな」
「あら?アナタ人だったわね。忘れていたわ」
影の様な褐色の肌の女が、ステアパイクに身体を預け、顔を更に近付け、さも楽しそうに笑いを零す。
「あたしは何時でも十分愉しんでいるわよ?」
ひとしきり名残を愉しみ、貪るような時間を過ごした後、男は無言でその部屋を後にする。
「さて、あたしもあの子にご褒美を上げないと」
肌も露わな姿でソファーに横になりながら、褐色の女が気怠そうに呟く。
「そろそろ、こちら側に寄せても良い頃合いかしらね」
ゆっくりとソファーから立ち上がると、辛うじて纏っていた衣装が、流れる様に滑り落ちる。
女は美しく均等の取れた肢体を晒すように、その細い脚を前へと運んだ。
「ああ……。でも、彼のおかげで芽吹きが早まりそう」
そして自らの身体を撫で回す様、細い手指を這わせ上げ、悩まし気に唇を押し広げると、その先に舌を絡ませた。
「アナタが咲かせてくれる華が楽しみよ?うふ、うふふふ、ふふふふふふふふふ……」
薄い笑いを響かせて、褐色の女が影に溶ける様に消えて行く。
誰も居なくなったオフィスの中、その反響だけが残り香のように後を引いていた。
それはその日の
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